終わりのない悲しみ
一
法生寺に運ばれた忠之は奇跡的に息を吹き返した。だが、ほとんど仮死状態で呼吸も脈も著しく遅かった。
まだ外は暗かったが、寺男の伝蔵はすぐに北城町まで医者を呼びに走った。
知念和尚は意識がない忠之に声をかけ、安子に清潔な木綿布を持って来させた。安子が戻ると、和尚は木綿布を忠之の傷に当てて、上からしっかりと押さえ込んだ。これ以上の出血を防ぐためだ。
医者が来るまでの間、千鶴は忠之が進之丞であったことや、その進之丞が鬼で今まで自分たちを助けてくれたこと、すべての事件の犯人が天邪鬼だったこと、天邪鬼を成敗した進之丞が甚右衛門に猟銃で撃たれたことなどを、泣きながら和尚夫婦に説明した。
殺人犯として追われていた忠之が、こんな形で見つかったのは和尚夫婦には驚きだったが、千鶴の話はさらに驚きで、俄には信じられない様子だった。
それでも二人は千鶴の話を疑わなかった。現に瀕死の状態の忠之が、松山にいたはずの千鶴と一緒にここにいるからだ。
和尚と安子は動揺して泣き続ける千鶴を慰めて、忠之はきっと大丈夫だからと言った。
間もなくして到着した医者は、眠そうな顔で忠之の状態を確かめながら、どうしてこの男はこのような怪我をしたのかと訊ねた。
千鶴が説明できずにいると、山でイノシシに襲われたらしいと知念和尚が言った。
何でまたこんな時刻に山にいるのかと訝しんだ医者は、診察している男が警察に追われている身ではないかと悟ったようだった。
すると、和尚も安子も即座に忠之は無実だと訴えた。
和尚は忠之が家族殺しの犯人にされるのを恐れて、ずっと山に隠れていたところを、イノシシに襲われてここまで逃げて来たのだと説明した。
安子も忠之が山陰の者でなければ、こんなことはしなかったはずだと強い口調で言った。
まるで自分が責められているように思ったのか、医者はそれ以上は何も言わなかった。ただ、傷の状態をじっと眺めていたので、その傷が本当にイノシシの牙によるものなのか、疑っていたのかもしれなかった。
もし銃弾が残っていたなら、医者はそのことに気づいただろう。しかし、銃弾はすべて外へ出ていたようで、医者は黙って傷の消毒をした。
知念和尚が傷を押さえてくれていたからか、出血はほとんど止まっていた。だが、電灯の下で見る忠之の顔も体も血の気が失せたように白っぽく、血が止まったのは出る血がなくなったためのようにも思われた。
診察を終えた医者は、幸い右腰の傷は内蔵までは届いていないようだと言った。その言葉は少し千鶴を安堵させたが、続けて医者が告げた言葉は千鶴を打ちのめした。
それはかなり出血しているようなので、どのみち助からないだろうというものだった。
嗚咽する千鶴を横目で見た医者は、気の毒だがしてやれることは何もないと言った。
伝蔵に提灯持ちを頼み、医者を送り出した知念和尚と安子は、できるだけのことをしてみようと千鶴を励ました。
和尚たちの言葉に千鶴はうなずくと、口移しで忠之に水を飲ませてやった。すると、それを忠之はごくりと飲み込んだ。忠之はまだ生きようとしていた。
忠之の体は死人のように冷たかった。
知念和尚は忠之を温めようと布団を重ねた。それから千鶴に忠之の傍にいてやるように頼み、自分は湯たんぽを用意しに行った。
安子は千鶴の濡れた着物を着替えさせると、忠之に食べさせるお粥を作ろうと台所へ向かった。
二人がいなくなると、千鶴は着替えたばかりの着物を脱いで布団に入り、忠之を抱いて自らの肌で温めた。千鶴も雨で冷えてはいたが、それでも忠之の体はひんやり冷たかった。
忠之を抱きしめても、いつもであれば感じられるあの温もりが感じられない。それは忠之が死にかけているからかもしれないが、千鶴には忠之が進之丞ではない証のようにも思われた。
姿形は進之丞と同じでも、もはやこの人は別人なのだと思うと、千鶴は悲しくなった。
それでも一縷の望みとして、忠之が無事に生き延びて目を覚ました時に、そこに進之丞がいることを千鶴は期待していた。そのわずかな期待が、今の千鶴を何とか支えてくれていた。そのためにも忠之を死なせるわけにはいかなかった。
知念和尚が湯たんぽを持って来ると、千鶴は忠之から離れた。布団に千鶴の温もりは残ったが、忠之の体は冷たいままだった。
布団から出た千鶴が裸だったので、和尚は慌てて湯たんぽを落としそうになった。
顔を横に背けたままの和尚に言われて千鶴が着物を着ると、和尚はようやく千鶴の方を向いた。湯たんぽは二つあった。一つは忠之ので、もう一つは千鶴用とのことだった。
「千鶴ちゃんも体が冷えとるけん、これを抱いとりんさいや」
布でくるんだ湯たんぽを千鶴に渡すと、和尚はお茶を淹れて来ると言って再びいなくなった。
湯たんぽから伝わる温もりは、和尚夫妻の温もりのようだ。今の千鶴にはこの温もりは何物にも代えがたい。
忠之の布団に一つを入れたあと、千鶴はしばらく湯たんぽを抱いていた。でもすぐにそれも忠之の布団に入れてやった。それから、もう一度忠之に口移しで水を飲ませた。気持ちは進之丞を介抱しているつもりだった。
しばらくすると知念和尚が戻って来た。手には急須と湯飲みを載せたお盆を持っている。
忠之の枕元に座る千鶴の傍で、和尚は急須のお茶を湯飲みに注いだ。それを千鶴に手渡すと、残ったお茶を自分の湯飲みに注いだ。
振り返れば、畑山の死を確かめるために病院を出て以来、千鶴は何も口にしていなかった。一口飲んだ熱いお茶は、千鶴に日常の香りを思い出させてくれた。それは懐かしく悲しい香りだった。
この二年、進之丞とともに過ごした時が思い出される。進之丞が本当に幸せだったと言ってくれた、他愛のない日々が思い起こされるたびに、千鶴の頬は涙に濡れた。
進之丞は己が鬼であることを理由に、初めは千鶴と夫婦になることを躊躇し続けていた。いずれ千鶴の前から姿を消そうと考えてもいた。
その進之丞が祖父たちに頭を下げ、千鶴をもらいたいと言ってくれたのは、つい四日前のことである。それなのに進之丞は死んでしまい、今はもういない。本当であれば今頃は、千鶴は進之丞の嫁として風寄を訪れていたはずだったのである。
湯飲みを持ったまますすり泣く千鶴を、知念和尚は黙ったまま見守っていた。初めの千鶴の説明だけでは、本当のところは状況がよくわからなかっただろう。だが今は和尚は何も訊かず、千鶴が泣くに任せていた。
やがて安子がお粥を運んで来ると、千鶴はそれを口移しで忠之に食べさせてみた。すると、忠之はそれも飲み込んだ。
ただ、意識がない者に大量に食べさせることはできない。間違って喉を詰めたり、胸に入ってしまうと大事になる。
和尚夫婦が千鶴にもお粥を食べるよう促、千鶴は根気よく忠之にお粥を与えながら、自分も同じお粥を口にした。
時折忠之がむせると、千鶴は慌てて背中をさすってやりながら、ごめんなさいと詫びた。
忠之が進之丞でないのであれば、忠之は進之丞によって一時的にすべてを奪われた気の毒な人物だ。進之丞はそれを申し訳なく思っていたし、千鶴もまたそれを詫びる気持ちがあった。ごめんなさいという言葉には、そんな想いも含まれていた。
今はこれぐらいにしておきましょうと安子に言われると、千鶴は忠之にお粥を食べさせるのをやめた。
食べさせることができたのは、わずかのお粥だった。だが、それでも忠之はそれを食べてくれた。それは千鶴にとって、かすかな希望の光となっていた。
二
千鶴は知念和尚と安子に向き直ると、これまでのことを改めて洗いざらい語った。
和尚たちは二人とも驚きの連続だったが、初めの説明の時とは違って、千鶴の話のすべてを素直に信じてくれているようだった。
知念和尚と安子が知る忠之は、二年の間、進之丞に心身ともに乗っ取られた状態にあった。それなのに和尚も安子も進之丞を不憫に思い、知念和尚は進之丞のためにお経を上げてくれた。
お経を上げ終わった和尚は、昨日為蔵とタネの葬儀を終えたと言った。二人は山陰の者たちの墓地に埋葬されたそうだ。
その同じ日に、進之丞が天邪鬼を倒して二人の仇を取ってくれたのだなと、和尚は着物の袖で目頭を押さえた。安子も黙ったまま涙ぐんでいる。
千鶴にとって為蔵とタネの死は悲しいものだが、忠之にとっても重大な出来事である。二年の記憶を失った忠之が運よく生き延びることができたとしても、そこに待っているのは最悪の悲劇なのだ。
そのことを思うと、千鶴は罪の意識でいっぱいになり、自分が悲しむことにも後ろめたさを感じてしまう。
もし天邪鬼のことがなかったなら、千鶴は進之丞と夫婦になり、為蔵夫婦とともに暮らしていたはずだ。しかし、それは忠之が心も体も進之丞に奪われ続けるということである。今思えばそれはとても罪深いことに違いなかった。
だから、こうなってしまったのは自分たちへの罰なもしれないと、千鶴は項垂れた。
夜が明けると、知念和尚は春子の実家へ電話を借りに行ってくれた。
松山では、千鶴が鬼に攫われたと甚右衛門たちが打ちひしがれているはずだった。そのため、千鶴が無事で法生寺にいるということを、急いで伝えてやる必要があった。
電話の先は伊予絣の同業組合事務所だ。甚右衛門たちは組合長の世話になるという話だったので、組合長に話をすれば甚右衛門たちに話が伝わると知念和尚は考えていた。
和尚は忠之については触れず、千鶴が忠之に会うために、夜の間に雨の中を一人で風寄まで歩いて来たということにした。とにかく千鶴が法生寺にいるということだけ伝わればいいのである。
春子の実家は寺からそれほど遠くはないのだが、電話をかけに行った知念和尚が戻って来たのは思ったよりも遅かった。疲れた顔の和尚は、修造たちからいろいろ訊かれて往生したと言った。
知念和尚が電話で喋っている間、その横で修造たちはずっと話を聞いていたらしい。当然ながら、千鶴が昨夜の雨の中を歩いて来たという話に修造たちは驚いた。それで、みんなで千鶴を慰めに来ると言うので、それをなだめるのに時間がかかったそうだ。
一方、組合事務所に組合長は出て来ておらず、代わりの者が応対したと言う。それでも、甚右衛門に千鶴が法生寺にいることを伝えるよう頼んだと、知念和尚は言った。
果たしてそれで甚右衛門に話が伝わったかどうかは定かではなかった。だがこの日の昼前に、甚右衛門は乗合自動車で風寄へやって来た。トミと幸子も一緒である。
法生寺を訪れた甚右衛門たちは、何が起こったのかをまったく知らなかった。唯一わかっていたのは、千鶴が鬼に連れ去られたということだけだった。そのため千鶴が法生寺にいると聞かされても、みんな半信半疑の様子だった。
甚右衛門たちは不安げな顔のまま、安子に案内されて部屋に入って来た。そこで千鶴を見つけると、三人は驚きを隠さずに千鶴に駆け寄り、本物の千鶴なのかと確かめた。
そのあと、近くの布団で寝ているのが忠七だとわかると、これはどういうことかと、三人とも不審のいろを浮かべた。
何故忠七がここにいるのかと訊ねられても、千鶴は涙が出て返事ができなかった。それで知念和尚が千鶴に代わって、実はな――と忠七が鬼だったことを三人に説明した。
だが、いきなりそんなことを言われても、甚右衛門たちが信じられるわけがない。甚右衛門たちにとって、鬼は千鶴を攫った魔物だった。それに対して、忠七はずっと千鶴や山﨑機織を護り続け、千鶴を嫁にするはずだった男なのだ。
知念和尚は忠之の右腰の傷を見せると、これはあなたが猟銃で撃ちんさった傷ぞな――と甚右衛門に言った。そして、忠之の体から出て来た銃弾も見せた。
甚右衛門は和尚から手渡された銃弾を確かめ、もう一度忠之の傷を見た。
甚右衛門は城山での話を、まだ知念和尚たちには話していなかった。それなのに和尚から猟銃の話をされて愕然としていた。それでもまだ甚右衛門は和尚の話を信じ切れていないようだ。それはトミも幸子も同じだった。
知念和尚は話せば長くなるがと前置きをしてから、千鶴が前世で鬼に狙われていたことや、進之丞が千鶴を救おうとして鬼になったこと、前世で鬼として死んだ進之丞が今世で忠之の体に乗り移り、これまで佐伯忠之として生きていたことを説明した。
それから和尚は、前世で千鶴が鬼に襲われて、進之丞が鬼になったことの背景には、天邪鬼の存在があったと告げた。山﨑機織を襲った数々の出来事も、すべて同じ天邪鬼が仕組んだことだったと和尚が話すと、甚右衛門たちは怒りに顔をゆがめた。
天邪鬼は男にも女にもなれるが今は女に化けていて、東京では横嶋つや子を名乗っていたと和尚は言った。その天邪鬼が松山では坂本三津子という名前も使っていたようだと聞かされると、何やて?――と甚右衛門とトミは叫び、幸子は息が止まるほど驚いた。
幸子は大いにうろたえ、三津子が天邪鬼だったという事実を、なかなか受け入れられないようだった。しかし、三津子が天邪鬼になった経緯を聞かされると、幸子は言葉を失い肩を落とした。
天邪鬼が三津子となって山﨑機織に入り込み、千鶴たちの情報を得ていたということに、甚右衛門もトミも怒りに体を震わせた。
それでも、何故天邪鬼がここまで千鶴にこだわるのかが、甚右衛門たちには理解ができなかった。
それについては安子が話を引き取り、天邪鬼は人の幸せを妬む鬼らしいと言った。そして、ただでも人の幸せに腹を立てる天邪鬼には、異国の血を引く千鶴や鬼となった進之丞が、幸せになることが許せなかったようだと言った。
知念和尚は千鶴が進之丞を人間に戻したくて、井上教諭に催眠術で前世の状況を調べてもらっていたそうだと話した。
いつそんなことをしていたのかと、甚右衛門たちは千鶴を見た。千鶴は教諭に挨拶に行った時と、正清伯父の月命日に一人で墓参りに行った時、そして畑山の死について警察で事情聴取をうけたあとだと説明した。
その最後の催眠術を受けた時、井上教諭の傍に天邪鬼がいたようだと和尚は言った。
千鶴が鬼に誑かされていると、教諭は天邪鬼に騙されて、催眠術で千鶴に進之丞を殺させるように仕向けたようだと、和尚は話を続けた。甚右衛門たちは目を見開いて、何ぞほれは!――と叫んだ。
「先生が教え子に、そがぁなことをさせるんかな」
トミが憤ったように言った。井上教諭に面識がある幸子は絶句している。
「いくら天邪鬼がおった言うても、どがぁしたらそげなことを思いつくんぞ」
甚右衛門が噛みつくように言うと、千鶴は教諭も天邪鬼の被害者だったと話した。
千鶴は東京で天邪鬼が教諭にしたことや、松山に来た教諭にどのようにして近づいたのかを説明し、天邪鬼は教諭の信頼を得ていたと言った。
だが、それだけでは教諭が千鶴に鬼を殺させようとしたことに、甚右衛門たちは納得しなかった。
千鶴はそもそも悪いのは自分であって、井上教諭は自分が巻き込んでしまったと言った。
また、天邪鬼が自分を殺そうとした時に、井上教諭が身を挺して護ってくれたことや、その結果、教諭が自分の身代わりとなって死んだことを、千鶴は涙ながらに話した。
「天邪鬼はすばしっこくて、進さんもなかなか捕まえれんかった。ほんでも、先生が自分を犠牲にして天邪鬼を押さえてくれたけん、進さんは天邪鬼を捕まえることができたんよ。進さんが天邪鬼を退治できたんは、先生のお陰なんよ」
千鶴の話にトミも幸子も黙り、ほうじゃったんかと井上教諭の死を悼んだ。
「お前らが城へ登ったんも、天邪鬼が仕組んだことなんかな」
甚右衛門の問いに、千鶴はうなずいた。
「天邪鬼はね、井上先生をうちの誘拐犯に仕立てて、お城に警察が来るよう企てとったんよ。お巡りさんが来たら、そこには鬼になった進さんもおるけん、大事になるとこやったんよ」
「天邪鬼はそがぁなことを考えよったんか……」
「先生に助けてもろて、進さんが天邪鬼を何とか捕まえたすぐあとにね、お巡りさんらが来たんよ。ほれで、もう逃げられんて思いよったら、進さんがうちを抱いてお城の北側に飛び降りたんよ。ほしたらね、そこに……、そこにおじいちゃんがおったんよ」
千鶴は絞るような声を出して涙ぐんだ。
甚右衛門は言葉を失ったようだった。恐らく頭の中には、あの時の光景が浮かんでいるに違いない。ほんなとつぶやきながら、うろたえている。
知念和尚は甚右衛門に向かって言った。
「鬼はな、あなたが誰なんかがわかっておったそうですわい。ほれで、鬼はあなたに千鶴ちゃんを差し出そうとしたそうな。鬼はな、千鶴ちゃん助けることぎり考えて、あなたに千鶴ちゃんを託そうとしたんじゃが、悲しいかな、鬼は人の言葉が話せんかったんよ」
ここまで聞いて、甚右衛門はようやく己が犯してしまった罪の重さを知ったようだった。
みるみる涙ぐんだ甚右衛門は、ほうなんかと千鶴を振り返った。
千鶴が黙って小さくうなずくと、甚右衛門は忠之の手を握り、すまなかったと言って泣き崩れた。
特高警察が現れた時、鬼が自分たちには手を出さずに男たちだけを連れ去った理由が、幸子ははっきりわかったようだった。トミと一緒に忠之の傍へ座り、忠之の手を握ったり体をさすったりしながら泣いた。
「最後にこの子が千鶴ちゃんをここへ連れて来たんは、鬼になってしもた自分が頼れるんは、ここぎりじゃて思たんじゃろね」
安子が着物の裾で目を押さえて言った。
「和尚、忠七を……、何とか忠七を助けてやってつかぁさい」
甚右衛門は泣きながら知念和尚に頼んだ。しかし和尚は、ほれは無理ぞなと悲しげに首を振った。
甚右衛門が目は見開いて、どうして無理なのかと言った。和尚は困ったように千鶴を見た。
「おじいちゃん……」
千鶴が声をかけると、甚右衛門は千鶴に顔を向けた。トミと幸子も千鶴を見ている。
「忠七さんはな、もう戻らんのよ」
「戻らん? ほれは、どがぁなことぞ? 忠七はまだ生きとるやないか」
当惑する甚右衛門に安子が言った。
「この子がこのまま助かるかどうかは、まだわからんのです。この子を診んさったお医者さまのお見立てでは、血があまりにも出過ぎてしもとるけん、恐らく助からんじゃろいう話でした」
「そがぁなやぶ医者、当てになるかい。もっとええ医者呼んだらええんよ。この辺りに、もっと上等の医者はおらんのかな?」
和尚と安子の顔を代わる代わる見ながら、甚右衛門は必死に訴えた。そんな祖父に千鶴は言った。
「おじいちゃん……、たとえこのお人が助かってもな、忠七さんは戻らんのよ」
意味がわからない様子の甚右衛門に、千鶴は続けて言った。
「このお人はな、まだこがぁして息があるけんど、鬼はな……、鬼は死んだんよ」
「何? 鬼が死んだ? ほれはどがぁな――」
「鬼は死んだんよ。ほじゃけん進さんじゃった忠七さんも一緒に死んでしもた……。このお人はな、鬼が死んで離れたあとに、息を吹き返しんさったぎりなんよ。顔も体も忠七さんのままやけんど、このお人は忠七さんやないんよ。おじいちゃん……、忠七さんはな、もうこの世にはおらんのよ」
「もう、この世におらん? ほんな……」
甚右衛門は狼狽した。千鶴は涙をこらえながら、鬼が死んだ時の様子を甚右衛門たちに説明した。
甚右衛門は両手で顔を覆うと、泣き叫びながら頭を何度も畳に打ちつけた。トミと幸子は甚右衛門を押さえたが、やはり同じように声を上げて泣いた。
甚右衛門は千鶴の方に体を向けると、土下座をして己がしてしまったことを千鶴に詫びた。
千鶴は首を横に振ると、ええんよと言った。
「おじいちゃんは、うちを助けよとしんさったぎりやけん。悪いんは天邪鬼で、おじいちゃんは何も悪ないんよ……。ほれにな、進さんも鬼さんも、ようやっと人間に戻ることができたんよ。もう人間には戻れんて思いよったのに、ようやっと人間に戻れたんよ。ほやけんな……、もうご自分を責めるんはやめておくんなもし。おじいちゃんがそがぁに泣きよったら、きっと忠七さんも困るぞなもし」
甚右衛門は畳に伏せたまま泣き続けた。千鶴も泣いた。
千鶴は祖父に喋りながら、そうなのだと思っていた。
進之丞は確かに死んで成仏したのである。たとえ忠之が助かったとしても、忠之は進之丞のはずがないのだ。
わずかに期待をかけはしたが、それは空しい願いであると認めざるを得ない。新たな涙が千鶴の頬を流れ落ちた。
三
千鶴が予想したとおり、あの日、甚右衛門は警察へ行ったあと、雲祥寺へ正清の墓参りに行き、組合長の所を訪ねていた。
一方で畑山とお祓いの婆の検死に引っ張り出された院長は、病院へ戻ってもすぐには千鶴のことを、トミや幸子には知らせてくれなかったそうだ。待合所にあふれかえった多くの患者を診ることが優先されて、トミたちへの連絡は後回しにされたようである。
それに、千鶴はすぐに戻されると院長は考えていたらしい。
あとで病室へ千鶴のことを話に来た院長は、千鶴がいないことに首を傾げながら、畑山が殺されたことや千鶴が警察で事情聴取を受けていることを、ようやく幸子たちに話したそうだ。
千鶴が警察へ連れて行かれたことは二人を驚かせたが、それ以上に衝撃だったのは、畑山が殺されたことだった。
よくなっていたはずのトミは再び具合が悪くなり、幸子はトミの傍を離れられなくなってしまった。
千鶴を一人にするのは危険なので、幸子は警察へ千鶴を迎えに行きたかった。だが、トミを放ってはおけないため、甚右衛門が戻るのを待ったそうだ。
その甚右衛門が病院に戻ったのは夕方になってからであり、事情を知った甚右衛門は大急ぎで警察へ向かった。
しかし、その時はすでに千鶴が警察を出たあとで、警察でも千鶴の行方はわからなかった。甚右衛門は千鶴に危険が迫っていると訴えたが、そのうち戻って来るでしょうと、警察は相手にしてくれなかったそうだ。
千鶴がつや子の手に落ちたと思った甚右衛門は、トミが見た正清の夢を思い出した。それで千鶴が月夜の城に現れると考え、城へ登ることにしたと言う。
だが、つや子の後ろに鬼がいて、鬼が千鶴を連れ去ろうとしていると思い込んでいた甚右衛門は、猟銃を用意して行こうと思った。
甚右衛門は急いで組合長の所へ行き、預けていた猟銃を戻して欲しいと頼んだ。しかし、いきなりそんなことを言われて、組合長が納得するはずがない。
理由を問われた甚右衛門は、千鶴が鬼に連れて行かれるからだと説明した。だが、それは組合長を訝しめるだけだった。
組合長は甚右衛門が狂ったと思ったようで、のらりくらりと話をはぐらかしながら、猟銃を渡すまいとしたらしい。
すでに日が沈んで満月が顔を出すと、焦った甚右衛門はここだけの話にして欲しいと組合長に頼んだ上で、千鶴と鬼との関係や、鬼が実際に現れて特高警察の男たちの命を奪った話をした。
それでも組合長は疑っていたようだが、城山で見つかった男たちの事件の話が効いたらしい。組合長は自分が一緒に行くことを条件に、甚右衛門に猟銃を持たせることを了承してくれた。
甚右衛門は組合長同伴で城山に登った。しかし、夜分で足下が悪かったため、乾櫓の手前の所で組合長は足をくじいてしまい動けなくなったと言う。ただ、そこで恐ろしい咆哮を耳にしたので、組合長はようやく甚右衛門の話を信じてくれたそうだ。
甚右衛門は組合長をそこに残したまま、一人で本丸へ向かった。
初め甚右衛門は本壇へ入るつもりだった。しかし紫竹門まで行くと、城へ向かって来る数名の巡査らしき者たちの姿が見えた。それで戻って本壇の北側に回って様子を見ることにしたと言う。
すると、いきなり上から鬼が落ちて来て、鬼の腕に千鶴が抱かれているのが見えたと甚右衛門は言った。
あの時、甚右衛門は銃を構えたものの、千鶴に弾が当たる恐れがあったため、引き金を引く心構えはできていなかったと言う。
ところが稲光が光った時、すぐ目の前に鬼がいたので、驚いて引き金を引いてしまったそうだ。
その話をしながら甚右衛門は泣き、千鶴も泣いた。
甚右衛門は何度も涙を拭いながら、あの時、確かに鬼は千鶴を差し出そうとしていたと悔やんだように言った。
猟銃を撃ったあとで再び稲光が光った時、そこにはもう鬼の姿はなく、千鶴の行方もわからなくなった。
鬼に千鶴を連れ去られたと思った甚右衛門は、急いであとを追おうとしたが、鬼がどこへ向かったのかがわからない。それに乾櫓のすぐ下で動けなくなっている組合長を、放っておくわけにもいかなかった。
組合長の所へ戻った甚右衛門は、今の話を伝えたあと、組合長に肩を貸しながら城山を下りた。
そのあと一人で城山の北へ回ったが、土砂降りの真っ暗闇の中なので、鬼が逃げた痕跡を見つけることはできなかった。落胆した甚右衛門は、ずぶ濡れの組合長と一緒に組合長の家に戻った。
組合長の家人たちには、猟銃を持って主を連れ回す甚右衛門は狂っていると思われたようだった。だが甚右衛門は自分が狂ったことにしておいて、鬼のことは黙っておいて欲しいと組合長に頼んだ。
言ったところで誰も信じるわけがなく、騒ぎが妙な形で大きくなるのを甚右衛門は嫌った。
組合長と一緒に濡れた体を拭き、新しい着物に着替えたあとも、甚右衛門はトミと幸子に事実を告げに戻ることができなかった。告げれば二人が絶望に泣き崩れるのが目に見えていた。それでトミがどうにかなるかもしれないのが怖かった。
夜が明けても病院へ向かうことができず、甚右衛門が組合長の家にいると、法生寺からの伝言を組合事務所の事務員が伝えに来た。それは千鶴が法生寺にいるという知念和尚からの言伝だった。
組合長はすぐに三人が乗合自動車に乗るお金と、乗合自動車乗り場までの人力車のお金を用意してくれた。
甚右衛門は急いで病院へ向かった。
その頃にはトミの容態は落ち着いていたものの、千鶴のことが心配で、いつまた具合が悪くなるかわからない状態だった。
病院としては、少なくとももう二日は入院していた方がいいとの見解だった。しかし、鬼に連れ去られた千鶴が法生寺にいると聞いては、トミがじっとしていられるはずがなかった。すぐに退院させてもらい、三人で急いで風寄へ来た。
これが千鶴がいなくなったあとの、甚右衛門たちの動きだった。
甚右衛門は法生寺に千鶴がいることが確認できたら、その旨を組合長に連絡することになっていた。それで知念和尚が甚右衛門を連れて再び春子の家を訪ね、電話を貸してもらうことになった。
甚右衛門が現れたことで、村長の修造はいよいよ大事になったと思ったようだ。
知念和尚は千鶴を見舞うと言う修造たちを、再びなだめることになった。だが結局は翌日に、修造とイネとマツが寺を訪ねて来た。
応対に出た知念和尚と安子は、三人を玄関近くの部屋へ招き入れると、そこで千鶴と引き合わせた。忠之のことは内緒である。
本当に千鶴がいたので、修造たちは驚いていた。
安子がお茶の用意をしに部屋を出ると、知念和尚が千鶴の隣に座ってくれた。
修造たちは新聞などで伝わっている話を元に、千鶴を慰めようとした。また、忠之についても信じられないと言いつつ、やはり山陰の者だからなのかとうなずき合った。それは三人が他の者たちと同じように、山陰の者を差別しているということだ。
ただ、それは山陰の者を雇ったために、千鶴たちが被害を被ることになったと、修造たちなりの千鶴への同情だったのだろう。
それでもあまりの言い草に千鶴が言い返そうとした時、知念和尚がそれは違うと修造たちに言った。
和尚は忠之が山﨑機織のために懸命に働き、みんなに認められていたと話した。為蔵やタネのことについても、忠之は被害者あって加害者ではないと和尚は語気を強めた。
しかし加害者でないのなら、何故忠之は姿を見せないのかと、修造たちは巡査と同じことを言った。
和尚はそれに反論しようとしたが、口を半分開けたまま言葉を出すことができなかった。今は忠之のことを話せない。千鶴も唇を噛んで耐えるしかなかった。
その時、玄関で安子を呼ぶ伝蔵の声が聞こえた。すぐに安子が出て来たようで、伝蔵は言った。
「下の知り合いに言うて、今朝獲れたウナギをな、分けてもろたんですわい。これを忠之に食わせてやったら、元気になるんやなかろか思うんやけんど」
安子はうろたえているようだ。うろたえたのは伝蔵が忠之の名前を口にしたからだろう。それに気づかない伝蔵は続けて言った。
「やっぱし、お寺で生臭物はいくまいか。ほんでも、うなぎは精がつくけん、忠之に食わせてやったらええと思うんやが。何じゃったらわしが外で焼いて来うわい。ほれじゃったら構んじゃろか? ほれとも、ほれもいけんかな?」
修造たちは忠之とは誰のことかと訊ねた。和尚はもう隠しきれないと思ったようだ。ちらりと千鶴を見ると、ここぎりの話にしてつかぁさいや――と言い、忠之がここにいることを三人に話した。
修造たちはとても驚いた。殺人犯とされている忠之を、和尚がかくまっていたわけである。
言葉も出せずに動揺する三人に、忠之の顔を見てやってもらえないかと和尚は言った。修造たちは不安げにうなずくと、案内する和尚と千鶴のあとについて行った。
三人が連れて行かれた部屋には布団が敷かれ、甚右衛門たちに見守られながら忠之が寝かされていた。その忠之の姿は、誰が見ても死にかけているように見える。
「和尚、これはどがぁな?」
修造が振り返って訊ねると、知念和尚は医者に説明したとおりのことを三人に話した。
忠之に対して、修造たちは差別心を持っていた。だが、忠之が村人たちから殺人犯と決めつけられるのを恐れ、一人で山に籠もっていた挙げ句に、イノシシに襲われて死にかけているという話に、三人とも涙ぐんだ。
そんな修造たちに、本当であれば千鶴は忠之の嫁になり、為蔵やタネと一緒に暮らすことになっていたと、安子が言った。
驚く三人に、為蔵とタネが殺された日、忠之は千鶴を嫁に迎える報告と準備のために、風寄に戻って来たと安子は話を続けた。
為蔵とタネは千鶴が来るのをとても楽しみにしていたと、和尚も話すと、そうなのかと修造たちは千鶴を見た。
千鶴がうなずいて涙をこぼすと、修造たちは自分たちの態度が、どれほど千鶴を傷つけていたのかを悟ったようだった。
イネとマツは涙をぼろぼろこぼして、自分たちが言ったことを詫びながら千鶴を慰めた。
修造も深く頭を下げて自分の非礼を千鶴に詫び、これからはできる限り忠之の力になると約束してくれた。
自分たちが誤解させられた怒りもあるのだろう。三人は本当の人殺しは誰なのかと憤り、このまま犯人を放置しておくのは村の恥だと言った。
そこへ北城町から今朝の朝刊が届いた。もう昼は過ぎていたが、風寄は松山から遠いので、朝刊が届くのはこれぐらいの時間になるようだ。
新聞を受け取った安子は、大きく書かれた一面の記事を見て、急いで和尚の所へ戻って来た。
知念和尚は渡された新聞を広げると、険しい顔になった。
そこには「ついに城山に鬼現る!」という見出しがあり、一昨日の夜の城山の事件についての記事が、大きく載せられていた。
修造の家でも新聞を取っているが、配達される時間は法生寺よりも遅いようだった。
和尚が広げた新聞に、三人は頭を寄せ合うように集まった。
記事には、城での犯罪情報を耳にした巡査三人が、夜中の城山を捜索したところ、本壇入口において鬼を発見したと書かれていた。
何故か鬼は女物の着物を着ており瀕死の状態だったが、巡査の一人がサーベルでとどめを刺したと言う。すると、突然雷鳴が轟いて豪雨になり、巡査たちは大いに難儀をしたそうだ。
それから巡査たちが本壇の中へ突入したところ、外曲輪にある天神櫓の近くで若い男が死んでいたとあった。
それは井上教諭なのだが、記事が書かれた時点では、まだ身元が判明していないようだった。
若い男の近くには小刀が落ちており、男はその小刀で胸を刺されて死んだらしいという説明のあと、奇妙なことにその男の遺骸は、体が真っ直ぐにされた上、両手を腹の上で組まされていたと書いてあった。
その様子から、これはただの殺人ではなく、何かの儀式の生贄だったのかもしれないと、警察では考えているらしい。
他に見つかったものと言えば、二ノ門と三ノ門の間の板塀の損傷と、本壇に植えられた樹木の太い枝が何本も折られていたこと、それに外曲輪の地面のあちこちが抉れるように大きく窪んでいたことだった。
また城山の北側の森が一部崩れたようになっており、それが事件と関係するものか、大雨によるものなのかはこれから調べられるらしいとあった。
さらに驚いたことには、巡査たちが本壇から出ようとした時に鬼の死骸を確かめると、それがいつの間にか女の死骸に変わっていたと言う。
女には巡査が刺したサーベルの跡が残っており、巡査が鬼だと誤認して女を刺し殺した可能性があると、記事は指摘していた。一方で記事は、この女は全身の骨が折れていて、すでに瀕死状態だったとも伝えていた。
それは以前に城山で瀕死の男たちが見つかった事件を彷彿させるものだった。巡査たちが聞いた獣のような咆哮も前の事件と共通していることから、前回も城で何らかの怪しい儀式が執り行われていたのかもしれないと記事は締めくくっていた。
修造たちは驚き、これは大事になったとうろたえた。やはり鬼よけの祠を燃やしたのは、封じられることを嫌った鬼の仕業だと思ったようで、どうすればいいかと知念和尚に相談した。
事情を知っている知念和尚は返事に困った様子だった。それでも何かを言わねばならず、記事によれば鬼を呼び出そうとした者たちは失敗をしたようなので、ここは様子を見ればいいと言った。
修造たちは不安げだったが、和尚がそう言うので、それに従うことにしたようだった。
四
この日の夕方、今度は巡査が二人訪ねて来た。若い方の巡査は何故か風呂敷包みを三つ抱えている。
年配の巡査は、村長から忠之の話を聞いたので確かめに来たと言った。そう言われては、ごまかすこともできない。
忠之のことはしばらく黙っていて欲しいと、修造たちには口止めをしていたはずだった。それでも修造は忠之の無罪を信じていたのだろう。また、村長としては警察が捜している人物の行方を知っているのに、黙ったままというわけにはいかなかったようだ。
知念和尚は仕方なく二人を中へ入れた。
部屋へ巡査たちが通されると、千鶴は忠之の上に覆いかぶさり、忠之をかばおうとした。
甚右衛門たちも忠之は殺人犯ではないと訴え、忠之が連行されるのを阻止しようとした。
しかし、年配の巡査はみんなに落ち着くようにと言い、佐伯を捕まえに来たのではありません――と話した。
新聞記事には書かれていなかったが、警察ではすでに本壇で見つけた小刀の指紋鑑定を行っており、それが本壇入口で死んだ女の指紋と一致したことを確かめたらしい。
一方、千鶴から畑山の無実を訴えられた警察は、すぐにお祓いの婆の殺害に使われた包丁と、為蔵夫婦を殺した凶器の包丁の指紋を照合し、それが同一であることを確認していた。
そして、その指紋が今回の小刀から見つかったものとも同じであると確認ができたので、すべての殺人事件の犯人は死んだあの女であると断定したと言う。
つまり、忠之が家族を殺した疑いは冤罪であり、忠之が無実であると警察が認めたということだった。
その忠之が山に隠れて瀕死の重傷を負い、法生寺で手当を受けていると聞いたので、その確認とお詫びで訪れたと巡査は説明した。
その言葉は千鶴を安堵させた。だが、同時に悔しさが込み上げて来て、涙が目からあふれ出た。
甚右衛門は男泣きし、トミと幸子も抱き合って泣いた。知念和尚と安子もほっとした様子で涙ぐんでいる。
巡査の話では、忠之の手荷物と判断された三つの風呂敷包みが、証拠品として事件現場である忠之の家から押収されていたらしい。
しかし忠之の無実がわかったので、その品を本人に戻しに来たと巡査は言った。
若い巡査は持っていた風呂敷包みを知念和尚に預けた。和尚がそれを千鶴たちに手渡すと、四人はすぐに包みを開いて中身を確かめた。
中に入っていたのは、甚右衛門が持たせた上等の絣の反物と、あの継ぎはぎだらけの着物だった。
千鶴は継ぎはぎの着物を手に取ると、抱きしめて泣いた。その着物は進之丞そのものだった。
巡査たちはみんなに敬礼をして引き揚げて行ったが、女が鬼だったのかどうかについては、何も触れないままだった。恐らく警察では今も女の死骸を調べているのだろうが、余計なことは一切喋るなという指示が出ていたと思われた。
忠之の無実の罪が晴れたことで、多くの村人たちが忠之の見舞いに訪れた。山陰の者もそうでない者も、みんなが入り交じって忠之を哀れみ気の毒がった。
山﨑機織の織子だった女たちや仲買人の兵頭は、忠之のことだけでなく、山﨑機織がつや子に潰されたことを残念がった。
城山の事件のことはみんなが知っており、兵頭は自分が鬼を松山へ連れて行ったのかもしれないと、しょんぼりしていた。
お前は関係ないと甚右衛門が慰めると、兵頭は鬼よけの祠をもう一度こさえてもらうと言った。
つや子が城山で鬼を呼び出せたのは、鬼よけの祠が壊れたためだろうと兵頭は考えていた。それで祠を造り直すまでは、鬼はどこかに潜み続けて、いつまた恐ろしいことをするかわからないと不安になっていた。
村人たちは兵頭の意見に賛同し、できるだけ早く祠を造り直そうとうなずき合った。
千鶴は悲しかったが、黙って聞くしかなかった。それは甚右衛門たちも同じで、鬼よけの祠の話など聞きたくない様子だった。
毎日の忠之の世話の合間に、千鶴は丘の麓にある野菊の群生地を訪れていた。そこは進之丞や鬼と最後の別れをした所だ。
ここへ来ると、千鶴は鬼が倒れていた所に向かって手を合わせ、進之丞のことを想い、もう一度会いたいと進之丞に訴えた。
また、忠之の世話をしていることも報告し、進之丞を安心させようとした。ただ、忠之が進之丞と同じ姿をしながらも、進之丞ではないということがとてもつらく、その苦しみも聞いてもらった。
進之丞は消え去る前に、今にこそ本当の幸せがあると言った。だが、千鶴にとっては進之丞こそが幸せだった。
その進之丞はもういない。そのつらさを乗り越えようとしても、忠之を見ることで進之丞を思い出し、一時たりとも悲しみが鎮まることはなかった。
それでも千鶴は懸命に忠之の世話をした。進之丞にはできない忠之への罪滅ぼしを、自分がやっているつもりだった。だから、トミや幸子が代わろうと申し出ても、それを断って全部一人でやった。
その甲斐あって、少しずつではあるが忠之は回復した。
一時、かなりの高熱を出し、このまま死んでしまうのではないかと思われたが、やがて熱は下がり、息を吹き返した七日後には意識が戻った。さらに七日後には支えられながらであれば、体を起こせるようになった。
しかし、その体はげっそり痩せ細り、青白いままだった。そこには以前の力自慢だった頃の面影はなかった。甚右衛門に撃たれた傷も、なかなか肉が盛り上がって来ず、右の腰には醜い窪みが残っていた。
忠之が意識を取り戻したことに、一番初めに気がついたのは千鶴である。千鶴は忠之に声をかけ、自分が誰かわかるかと訊ねた。
だが忠之は、やはり進之丞ではなかった。忠之は知念和尚と安子のことはわかったが、千鶴たちのことはわからなかった。
意識を取り戻した頃は、まだかなり朦朧とした状態だった。しかし、それから一週間が経った頃には、結構受け答えができるようになっていた。それでも忠之は千鶴たちのことがわからなかった。また、自分に何があったのかも何一つ覚えていなかった。
どこまでなら覚えているかと知念和尚に訊かれると、忠之はしばらく考え込み、最後に覚えているのは、台風の風が吹き荒れる中、鬼よけの祠の前に立っていたところまでだと言った。
それは忠之が村人たちに激しい怒りを覚え、鬼に変化した時に違いなかった。進之丞が話したように、その時に忠之は進之丞に取り憑かれ、鬼に心を喰われたのだろう。
忠之が進之丞ではないと明らかになり、千鶴は落胆した。進之丞はもういないのだと思いながらも、ほんのわずかな期待を千鶴は抱いていた。だが、その儚い期待さえもが無残に打ち砕かれて、千鶴はこれから生きる望みを完全に失ってしまった。
忠之が進之丞でないとはっきりしたことは、甚右衛門たちをも大きくがっかりさせた。甚右衛門たちもわずかながら、忠之が自分たちのことをわかってくれるのではという想いがあったようだ。
甚右衛門は千鶴に今後どうするつもりなのかと訊ねた。進之丞とは別人である忠之の嫁になるつもりなのかと言う意味である。
同じことをトミも幸子も心配していた。
みんな、忠之に起こったことは気の毒だし、忠之のことを他人だとは思えない。それでも忠之を忠七とまったく同じに見ることはできないし、それは忠之にしても困惑することに違いなかった。
いつまでもこのままでいることは不自然だと、千鶴も理解している。だが、忠之は二年間のすべてを進之丞に奪われたのだ。しかも知らない間に家族が殺されて、天涯孤独の状態になってしまった。その責任を感じている千鶴は、忠之から離れるとは言えなかった。
いくら知念和尚や安子、それに村の人たちが力になると言ったとしても、それはそれである。いつかすべてを知った忠之が、自分を許すと言ってくれない限り、どんなにつらくても千鶴は忠之から離れるわけにはいかなかった。
しかし、千鶴が忠之から離れられない理由がもう一つあった。
それは忠之が進之丞と同じ姿と言うか、進之丞と同じ体だということだ。
忠之は進之丞ではない。その忠之と一緒にいることは、千鶴には苦しみだった。
その一方で、千鶴は忠之の傍にいると、進之丞と一緒にいるような気になれた。忠之の微笑みは、進之丞の微笑みだった。忠之を支えると、進之丞を支えているような気になれた。
忠之の存在は、千鶴にとって苦しみであると同時に慰めだった。
五
二年の記憶がない忠之は、自分が山でイノシシに襲われたと聞かされても、ぴんと来ない様子だった。また、千鶴が自分の看病をしてくれていることも、忠之は不思議がった。
千鶴は忠之がこの二年ほどの間、山﨑機織で手代として働いていたと説明した。甚右衛門たちも自分が誰であるかを説明し、千鶴が話したとおりだと言ってくれた。
イノシシに襲われたのは、自分の代理として風寄の仲買人に会いに来た時のことだと、甚右衛門は上手く話した。それで忠之は自分の状況を、そういうことなのかと一応は納得した様子だった。
しかし風寄にいた頃には、自分が松山で働くことになるとは、忠之は思いもしていなかった。それで自分が松山にいたという話が、忠之は今ひとつ信じられず、甚右衛門たちのことは山﨑さんや、千鶴さんのお母さんなどと呼んだ。
千鶴は二年前の自分たちの出会いを話し、それが縁で佐伯さんは山﨑機織で働くことになったと説明した。
忠之は感心しきりで話を聞いていたが、自分には全然記憶がないので、狸に化かされているような気分だと言った。
一方で、忠之は為蔵とタネが一度も顔を見せに来ないことを訝しんだ。それはそうである。可愛い息子が死ぬ目に遭ったというのに会いに来ないなど、普通では考えられないことだ。
だが知念和尚は、まだ忠之に二人の死を告げられないと考えていた。それは千鶴も同じ気持ちだった。それで千鶴は今は説明できないけれど、二人は訳あってここには来られないと忠之に伝えた。
当然ながら、その説明を忠之は納得しなかった。しかし、千鶴が今は辛抱して欲しいと頼むと、その言葉に素直に従った。
それでもいくら後回しにしたところで、死んだ為蔵とタネが生き返って来るわけではない。いつかは話さなければならないのだが、それは千鶴にも忠之にもつらいことだった。
為蔵とタネのことを考えた時、千鶴はふと畑山の家族のことを思い出した。
畑山はもうすぐ娘が嫁に行くと言っていた。その娘が突然の父親の死を知らされたら、どれだけ衝撃を受けることだろう。しかも父親は本来自分とは関係のないことで殺される羽目に遭ったのだ。
それに対して知らんぷりはできない。事件に畑山を巻き込んでしまったことを詫びねばならないと千鶴は思った。
千鶴はお詫びの手紙を書こうと考えたが、宛先がわからない。それで母に相談すると、もうすでに祖父が詫び状を作五郎に送ったと言う。作五郎は畑山と知り合いなので、甚右衛門は作五郎に手紙を届けてもらうことにしたようだ。
また作五郎からの返事も来ており、向こうに手紙は届けたと報告してくれていた。畑山の家族は、やはりみんな悲しみに暮れていたそうだ。
ただ、畑山が自分で決めて動いたことなので、家族としてはそれに対してどうこう言うつもりはないらしい。また犯人がわかったことが、せめてもの救いだと話していたと言う。
さらに、同じ犯人によって店を潰され、家庭を無茶苦茶にされた千鶴たちには同情してくれており、お詫びなどいらないとまで言ってくれたらしい。
この話は、千鶴にはとても有り難かった。詫びて済むことではないのに、そんな風に言ってもらえるのには感謝しかなかった。
進之丞がいなくなった悲しさの中で、千鶴は少しだけ励ましをもらえたような気がした。
忠之が千鶴に支えられながら、ゆっくりと歩き始めるようになった頃、春子が静子と一緒に訪ねて来てくれた。二人がわざわざ駆けつけてくれたことは、千鶴には嬉しいことだった。
ただ、どちらも進之丞や鬼のことを知らない。二人は忠之を千鶴が夫婦約束をしていた忠七だと思っていた。
春子たちが会いたいと言うので、千鶴は忠之にはこの二年の記憶がないと二人に伝え、それから忠之を連れて来た。
静子は初対面であり、忠之は緊張しながら挨拶をした。
だが、春子のことは忠之はわかっており、春子が自分をどんな目で見ていたのかを覚えていたようだ。静子よりも、さらに緊張した様子で頭を下げたが、その春子から優しい言葉をかけられたので、忠之は困惑したみたいだった。
風太さんと呼びかけられ、早く自分と山﨑さんを人力車で松山まで運んだように元気になってと言われると、何のことかと忠之は千鶴を見た。
千鶴は気にしないでとだけ言うと、まだ長くは起きていられないからと春子たちに伝え、忠之を元の部屋へ連れて行った。
千鶴が戻って来ると、春子も静子も笑顔だったさっきまでとは違って、暗く押し黙っていた。二人は夫婦になるはずだった千鶴と忠之を想って泣いていた。
千鶴は二人に感謝して、あれでもだいぶ元気になって来たんよと明るく言った。
それから話題は自然に、千鶴たちをこんな目に遭わせたつや子に移り、そこから城山で死んだ井上教諭の話になった。
城で遺体で見つかった若い男は、師範学校に勤務ていた井上教諭だったと、すでに新聞が記事に掲載していた。そのことを春子も静子も知っていた。
記事では、井上教諭とつや子のつながりについては未だに不明とされていた。だがそれについて春子たちは、あんな女とつながりがある井上先生には、がっかりさせられたと憤慨していた。
千鶴は教諭がつや子に騙されていたことや、命を捨てて自分を守ってくれたことを、二人に話して聞かせたかった。しかし、それを口にすることはできないので、一度庚申庵を訪ねて井上先生と話をしたことがあると言った。
千鶴は井上教諭が目の前で男たちに暴行される妹を助けられず、その妹が自殺したために生きる道を見失っていたという話をした。そして、つや子という女はそんな苦しむ人間の心の隙に付け入る、魔物のような女なのだと言った。
実際、つや子は魔物だったわけだが、新聞につや子が初めは鬼の姿で発見されたとあったので、春子も静子もあれは絶対に魔物だと断言した。
井上教諭がつや子の被害者だと認めた二人は、きっと教諭はつや子に言葉上手に騙されて、魔物を呼ぶ儀式の生贄にされたのだと言った。
進之丞を呼び出して鬼に変化させるために、天邪鬼は井上教諭を利用した。それを考えると、確かに教諭は生贄だったに違いない。
それでも教諭は最後に天邪鬼と対決し、自分の命と引き換えに千鶴を護ってくれた。天邪鬼の好きにされたままにはならず、本当の強さを天邪鬼に示したのである。
あの時のことを思い出して涙ぐむ千鶴を見て、春子と静子もしんみりとなった。二人は井上教諭を生徒想いのいい先生だったと言って、袖で目頭を押さえた。
教諭の話をやめると、これからどうするのかと春子が千鶴に訊ねた。やはり記憶を失った忠之とのことが気になるようだ。
「二人には気の毒なけんど、やっぱしむずかしいとうちは思うで」
千鶴が答える前に静子が言った。すると即座に春子が反論した。
「そげなこと言うたら、佐伯さんが可哀想じゃろ? 今は思い出せいでも、あとで思い出すかもしれんやんか」
山陰の者を嫌っていたはずなのに、春子は忠之に同情的だった。
「ほら、思い出せたらええけんど、思い出せるかどうかわからんのに、一緒になるんはどうかとうちは思う」
「仮に佐伯さんが山﨑さんのことを思い出せんかったとしてもな、佐伯さん、絶対にもういっぺん山﨑さんのこと好きになると、おらは思う」
「ほうじゃろか?」
「絶対にほうやて。さっき見よった感じでも、佐伯さん、山﨑さんに好意持っとるみたいやったじゃろ?」
「ほら、ほうかもしらんけんど、やっぱし何も覚えとらんいうんはなぁ」
結局は千鶴の気持ち次第ということだろう。二人に顔を向けられた千鶴はうろたえた。
忠之はあからさまには自分の気持ちを見せない。それでも何となく忠之から好意を抱かれているようには千鶴も感じていた。それは恐らく、ずっと千鶴が付きっきりで世話を続けていたからだろう。
忠之が進之丞であるのなら、それは嬉しいことだ。記憶を失っても、まだ千鶴を慕ってくれるのは、二人の心がつながっている証である。しかし、別人である忠之に好意を持たれても困ってしまう。進之丞ではない者に応えることなどできない。
「この先どがぁなるかはわからんけんど、今はとにかくできることをするぎりぞな」
千鶴は当惑しながら言った。でも、本当はわかっている。進之丞はもういないのだ。