見まがわれた道
一
忠之は黙って千鶴の話に耳を傾けた。前世の話と言われても妙な顔をすることなく、静かに千鶴の話を聞き続けた。
その話が自分にどう関係があるのか、何故千鶴がそんな話をするのか。そんなことは一切訊かずに、忠之は千鶴の話を聞いていた。
そんな忠之の姿勢に、少なからず驚きながら千鶴は喋り続けた。
千鶴が初めに語ったのは、物心がついた頃から母と二人で遍路旅を続け、その道中で初めて鬼に出くわしたことや、自分を護ってくれた母が鬼に殺され、自分は法生寺の慈命和尚に救ってもらったことだ。
話を聞く忠之は言葉は発しなかったが、その顔は驚きと同情を隠さなかった。
千鶴が村人たちからがんごめと呼ばれて、差別をされていたことには忠之は顔を曇らせた。だが、代官の一人息子だった進之丞と出逢った話には、安堵の表情を見せた。
進之丞が身分を越えて、どれほど優しく自分を大切に想ってくれたかを、千鶴は切々と語った。
千鶴と進之丞の関係に、忠之は大きな関心を抱いたようで、二人がどのように過ごしていたのかと訊いて来た。
全部を覚えているわけではないけれどと前置きをして、千鶴は思い出せる限りのことを忠之に話した。
慈命和尚は千鶴に読み書きを教えたり、いろんな説話を聞かせてくれたが、代官からも敬われていた。
それで和尚から教えを受けるという名目で、まだ子供だった進之丞が法生寺を一人で出入りすることを、代官は認めてくれていた。
実際、慈命和尚は千鶴と一緒に進之丞にも習字を教え、有り難い話を聞かせてくれた。
和尚は村の子供たちも集めて学ばせ、千鶴がみんなと同じ人間であることをわからせようとしていた。だが、それでも和尚が見ていないところで、千鶴に意地悪をする者はいた。
しかし進之丞が加わってからは、そのような者はいなくなった。
進之丞は村の子供たちとも仲よくし、千鶴と村の子供たちが一緒に遊べる仲立ちもしてくれた。
進之丞は千鶴を喜ばせるためには、何でもやってくれた。千鶴が喜ぶと、進之丞は笑顔でいっぱいになった。
そんな話をしながら、千鶴は自分が幸せだったことを思い出していた。それが表情に出たのだろう。話を聞いていた忠之も嬉しそうな顔になって、二人の関係はとても不思議だと言った。
千鶴はそれについて、自分にもよくわからないけれど、二人はずっと昔からつながりがあったように感じていたと話した。
進之丞も同じように感じていたのだろうかと忠之が訊ねると、千鶴はうなずき、改めて自分と進之丞との関係に神秘を感じた。
その進之丞が元服し、いよいよ千鶴を嫁にすることになった話をすると、忠之は目を見開いて喜びを見せた。お伽話であれば、めでたしめでたしというところだ。
しかし千鶴は気持ちが沈んだ。そのあと鬼が現れて二人を引き裂いたのである。あの時に自分が進之丞を信じ切れなかったことが、あの悲劇につながったと考えると、この話をするのはつらかった。
代官を八つ裂きにして殺した鬼は、村人たちを操って寺男の仁助の命を奪い、慈命和尚を死に追いやった。また、進之丞に村人たちを殺めさせ、千鶴を喰らおうとした。
鬼が喰らうというのが、どういうことなのかを千鶴は忠之に説明した。忠之は驚きながら話を聞いていたが、忠之自身が進之丞に喰らわれていたとは知る由もない。喋る千鶴の目は自然と伏せがちになった。
進之丞が鬼と戦い、千鶴を護るために自ら鬼に喰らわれた話をした時、千鶴は何度も涙をこぼした。
その時に己自身が進之丞の命を奪ったという事実は、実はまだ誰にも話せていなかった。あまりの罪深さに言えなかったのだが、そのことは未だに千鶴を苦しめていた。
それでも千鶴は忠之にその話をした。泣きながら自分の罪深さを告白した。誰にでも話せることではないが、忠之であれば聞いてもらえそうな気がしたのだ。
忠之は千鶴を慰めながら涙ぐんでいた。少しも疑うことなく話を聞いていた忠之は、進之丞の無念さと千鶴の悲しみに涙していた。
「千鶴さん、つらかったな。おら、その進さんいうお人の気持ちがわかるような気がすらい。そのお人は、きっと千鶴さんがそがぁして苦しむんが、自分が死ぬよりつらかったろ。そがぁな記憶、消せるもんなら消してやりたかったろうにな」
千鶴は忠之を見た。忠之には話していないが、進之丞は千鶴を苦しませないために、あの時の記憶を消したのだ。
「ほんでも、そのお人のこと大事に思うんなら、千鶴さん、元気出さんとな」
忠之は千鶴を励ましてくれた。しかし千鶴の表情が変わらないので、余計なことを言ったと思ったのだろう。ごめんよと言って、あとは何も言わなかった。
慌てて千鶴は、話を聞いてもらったことや、励ましてくれたことを感謝した。忠之にこの話を聞いてもらえたことが、本当に嬉しかった。
黒船に乗った父が会いに来て、そこへ攘夷侍が襲いかかって来た時の話をしたあと、自分は鬼になって死んだ進之丞の後を追ったと語った。そして、思わず息を呑む忠之に、たどり着いたのは地獄だったと言った。
千鶴が地獄の話を始めると、忠之は目を瞠って話に聞き入り、地獄の様子には身震いをした。だが、千鶴が鬼と出逢った場面になると忠之は安堵を見せ、自分はその鬼の気持ちがわかると言った。
その言葉は千鶴をどきりとさせた。それは鬼であることを明かしていなかった頃の進之丞の言葉だった。
「鬼はまっこと嬉しかったろうな。千鶴さんが地獄にまで逢いに来てくれるやなんて、思いもせんかったじゃろけんな。ほんでも、鬼はまっこと悲しかったと思わい」
またもやどきっとした千鶴は、動揺を隠して訊ねた。
「なして、悲しかったて思いんさるん?」
「ほやかて、おらが鬼じゃったら、自分のせいで千鶴さんを地獄へ呼んでしもたて思うけん。そがぁなとこ、絶対に千鶴さんに来させとうはなかったろ」
千鶴は言葉が出なかった。そのあと鬼は困ったのではないかと忠之が訊ねると、千鶴は我に返り、そのとおりだったと言った。
千鶴は戸惑いながらも話を進めた。そして鬼が千鶴の幸せを願って、千鶴への想いを断ち切ろうとする場面になると、忠之は胸を押さえて目を閉じた。
驚いた千鶴がどうしたのかと訊ねたが、忠之は閉じたまま、お不動さま――とつぶやいた。
「佐伯さん、大丈夫かなもし?」
千鶴は忠之を心配しながらも、忠之のつぶやきが鬼のつぶやきのように思えてうろたえていた。
忠之は目を開けると涙を拭き、切ないなと言った。
「佐伯さん、胸がどがぁかしんさったん?」
「あんまし切ない話で、ちぃと胸が疼いたぎりぞな。ほんでも、もう収まったけん大丈夫」
「ほれじゃったらええけんど……。ところで佐伯さん、さっきお不動さまて言いんさった?」
千鶴が訊ねると、聞こえてしもたかな――と忠之は恥ずかしそうに笑った。
「おら、こんまい頃からここの和尚さんや安子さんには、いろいろお世話になっとるけんな。この寺のご本尊のお不動さまともすっかり顔馴染みなんよ。ほじゃけんな、何ぞあったら、すぐにお不動さまて言うてしまうんよ」
「ほうなんですか」
千鶴は気持ちが落ち着かなかった。
鬼は千鶴への想いを断ち切り、不動明王に千鶴を託そうとした。そこまでは喋っていないのに、忠之がお不動さまと口にしたのは、あの時の鬼を彷彿させるものだった。
それは忠之があの時の進之丞であるかのように見えたし、忠之自身が千鶴への想いを断ち切ろうとしたかのようにも思えた。
忠之が千鶴に想いを寄せているのは明らかだった。それでも忠之は決してそのことを口にも態度にも示そうとしない。
自分が千鶴に大きな負担となっていることを理解しているからだろうし、自分なんかは千鶴とは不釣り合いだと思っているのかもしれなかった。
千鶴はどうして忠之が家に戻ると言って譲らないのかが、わかったような気がした。忠之は千鶴のために自分の想いを断ち、千鶴の前から姿を消そうとしているのに違いなかった。それは鬼であった進之丞の姿であり、忠之自身の優しさでもあった。
千鶴は泣きそうになった。忠之への想いを告げたい気持ちと、そんな想いを抱くことへの反発で、千鶴は話を続けられなくなった。
逆に忠之から大丈夫かと気遣われ、また話を始めた千鶴は、光にこの世へ戻された自分は、山﨑千鶴として生まれて来たと言った。しかし、そこで再び口籠もった。
千鶴が黙っているので、忠之は怪訝そうにしながら、鬼になった進之丞はどうなったのかと訊ねた。
胸の中で音が聞こえそうなほど、心臓がどきどきしている。今から話すことで忠之がどんな反応を示すのかと考えると、覚悟をしていたつもりだったのにやはり怖い。
それでもこのまま黙り続けるわけにもいかない。懸命に気持ちを落ち着けたあと、千鶴は言った。
「進さんは、うちみたいには生まれ変わらんかったんぞな」
「じゃあ、ずっと地獄に?」
千鶴は首を横に振ると、この世には出て来たと話した。どがぁしてと忠之が訊ねると、佐伯さんぞな――と千鶴は言った。
「二年前、佐伯さんが鬼よけの祠の前に立ちんさった時に、進さんは佐伯さんに取り憑きんさったんぞな」
え?――忠之は千鶴の言葉の意味がわからない様子だった。
「進さんは鬼に喰らわれて、鬼になりました。佐伯さんもあん時の進さんのように、鬼になった進さんに喰らわれんさったんぞな」
「おらが? 喰らわれた?」
千鶴はうなずき、忠之が進之丞の心の一部になっていたため、この二年間の記憶がないと説明した。
「そがぁして進さんは、佐伯さんの体と記憶を自分の物にして、佐伯さんとしてこの二年を生きて来んさったんです」
忠之は理解ができないようだった。自分の手のひらを見たり、自分の体に触れたりしながら、自分というものを確かめ、それから千鶴に顔を戻した。
「なして、おらが進さんに?」
千鶴は鬼が心の穢れた者にしか取り憑けないとは言わず、自分と似たような者に取り憑くようだと説明した。
「進さんが言うには、進さんと佐伯さんは心が対じゃったそうなんです。やけん、進さんは佐伯さんに取り憑けたそうなんです。ほんでも、進さんはわざに佐伯さんを喰ろたわけやのうて、気ぃついたら喰ろてしもとったらしいんです。進さん、そのことずっと気にしておいでて、佐伯さんに申し訳ないことしてしもたて言い続けんさったんです」
忠之は驚いた顔のまま、独り言のように言った。
「ほうやったんか。ほれで、おら、この二年の間のことが何もわからんのか」
「お詫びして許されることやないですけんど、うちには詫びることしかできません。この度はまことに申し訳ありませんでした」
千鶴は両手を突いて詫び、忠之が怒り出すのを待った。ところが忠之は一向に怒りを見せず、そんなことはしなくていいと千鶴に頭を上げさせた。
「ほれで、進さんはどがぁなったんぞな? おらが意識を取り戻したいうことは、進さんはおらから離れたいうことなんじゃろ?」
「進さんは……」
涙があふれ出して、千鶴は喋れなくなった。忠之は慌てて千鶴を慰めようとした。
「おら、余計なこと訊いてしもたんじゃな。ごめんよ。おら、千鶴さんに泣かれたら困るけん。お願いじゃけん、泣きやんでおくんなもし」
忠之の慌てようが進之丞みたいだったので、千鶴はますます泣いた。それで忠之がおろおろしていると、近くで様子を窺っていたのだろう。スタニスラフが素っ飛んで来て千鶴を抱き、千鶴に何をしたのかと、えらい剣幕で忠之をにらんだ。
千鶴はスタニスラフに誤解だと言い、自分が勝手に泣いただけだと説明した。
それでもスタニスラフは忠之をにらみ続けた。二人の話を邪魔するなら神戸へ帰るようにと、千鶴はきつく言ったが、スタニスラフはまだ離れようとしなかった。
騒ぎを耳にしたのだろう。安子と幸子がやって来て、どうしたのかと言った。
千鶴が事情を説明すると、安子はスタニスラフに注意をし、言うことを聞かないのなら今すぐ出て行ってもらうと告げた。それでスタニスラフは渋々千鶴たちから離れ、どこかへ行ってしまった。
安子と幸子はやれやれという感じで顔を見交わした。また、千鶴が重要な役目を果たそうとしていることを理解してくれた。もう誰にも邪魔はさせないからと言い置いて、二人はその場を離れた。母と安子の言葉は、千鶴への励みとなった。
改めて忠之と二人きりになった千鶴は、スタニスラフの非礼を忠之に詫びた。忠之は気にしていないと言った。
「この二年のこと、怒らんのですか?」
「そげなこと……。ほれよりな、自分がこの二年をどがぁしよったんか、おら、ほれを教えて欲しいんよ」
忠之の怒りを覚悟していた千鶴は、肩透かしを食らったようだった。それでも忠之がそれを望むのならば、話さないわけにはいかない。ただそれは忠之というより進之丞のことである。
忘れたくはないし忘れるはずもないことではあるが、前世の記憶以上に思い出すのがつらいことでもあった。
二
鬼であることを隠しながら懸命に働いた進之丞が、みんなに信頼され頼られていたこと、進之丞が休日に洗濯や掃除などを手伝ってくれたこと、二人で祭りや花見を見物したこと、困った時には必ず助けてくれたことなど、千鶴は一つ一つを思い出しながら喋った。
どうでもいいようなことや取るに足らないことまで、思い返せばすべてが幸せなことばかりだった。進之丞と言い争いになったようなことまでもが、今に思えば愛おしかった。
喋っているうちに、千鶴は涙が止まらなくなった。忠之はまたうろたえて、もう十分と話を中断させた。
千鶴は涙を拭きながら、またスタニスラフが素っ飛んで来るのではないかと心配した。すると忠之は、そのスタニスラフのことを訊いても構わないかと言った。
千鶴はどきりとした。忠之からすれば、これほど進之丞を愛しく想っているはずの千鶴が、スタニスラフと仲よくしているのが不思議なのだろう。
近頃は少し距離を置いているつもりではあるが、さっきもスタニスラフと一緒に寄り添っていたのを、忠之に見られている。
スタニスラフは千鶴を迎えに来たと公言した。千鶴はそれを否定はしたがスタニスラフをかばい、何かとスタニスラフの所へ足を運んだ。祖父たちは千鶴が心変わりをしたと見ているようだが、忠之にも好い加減な女だと思われたのだろうかと千鶴は不安になった。
千鶴が返事に困っていると、忠之は千鶴がスタニスラフと仲よくなった経緯を訊ねた。
千鶴は仕方なく萬翠荘に招かれた時の話をした。忠之は目を輝かせて、自分もその時の千鶴を見てみたかったと言った。
「千鶴さん、きれいじゃったんじゃろなぁ」
「そがぁなこと……」
下を向く千鶴に、楽しかったろ?――と忠之は訊ねた。
千鶴は困惑しながらうなずいた。だが頭の中には、千鶴とスタニスラフが踊るのを陰から見ていた、進之丞の悲しげな顔が浮かんでいる。
「そがぁなことで、あのロシアのお人は千鶴さんのことを、よっぽど好いておいでるんじゃな。ほれで遠い所から、わざに千鶴さんを迎えにおいでたわけなんか」
忠之は納得したようにうなずいた。だが、それはスタニスラフのことである。忠之は千鶴については触れようとしなかった。千鶴が誰に心を動かされようと、それは千鶴の自由だと思っているのだろうか。だが、それは忠之の本音ではないだろうし誤解である。
「言うときますけんど、うちがスタニスラフさんのお相手をしよるんは、あのお人が遠い所からわざにおいでてくれたけんです。ほれ以外の理由はないですけん」
少し向きになって言い訳をしたあと、千鶴は天邪鬼の話に話題を変えた。
前世に起こったことは、すべて天邪鬼が引き起こしたことで、今世でも自分や進之丞に気づいた天邪鬼が、またもや自分たちを苦しめたと千鶴は話した。忠之は眉をひそめながら言った。
「前世で千鶴さんが鬼に襲われたことも、進さんが鬼になってしもたんも、全部裏で天邪鬼が糸を引いとったってことかな?」
千鶴がうなずくと、忠之は顔をしかめて、そいつは悪いやつだと言った。
「その天邪鬼が今世でも千鶴さんらを苦しめたいうんは、どがぁなことぞな?」
忠之が訊ねると、自分たちがどんな目に遭わされたのかを、千鶴は話して聞かせた。喋りながらその時のことが思い出され、千鶴は込み上げる怒りを抑えながらも、涙に目を濡らした。
天邪鬼のせいで山﨑機織は倒産し、みんなは散り散りになったと話したあと、千鶴は口を噤んだ。胸の中でまたもや心臓が暴れ出している。それでも、そのあとのことを話さなければならない。
千鶴は少しためらってから、為蔵とタネが天邪鬼に殺されたと忠之に告げた。
驚く忠之に、天邪鬼が為蔵夫婦を殺したのは、進之丞を怒らせて人前で鬼に変化させるのが目的だったと、千鶴は説明した。
「進さんは佐伯さんでした。ほじゃけん、進さんにとっても為蔵さんとおタネさんは大切な家族やったんです。ほれで天邪鬼はお二人の命を奪ったんぞなもし」
二人がどのように殺されたのかを、千鶴は言わなかった。忠之も聞かなかった。ただ、忠之は言葉を失ったように呆然としたまま、静かに涙をぽろぽろとこぼした。
千鶴は忠之が泣くのを、やはり涙ぐみながら見つめていた。忠之が顔を怒りにゆがませて叫び出すのを待っていた。ところが忠之は怒らなかった。
「ほうなんか。じいさまもばあさまも、もうおらんなってしもたんか。おら、二人に何もしてやれんかったけんど、代わりに進さんが二人のこと大事にしてくれたんじゃな」
忠之は涙を拭いながら穏やかに話すと、顔を上げて懐かしむような笑みを見せた。
「じいさまもばあさまも、おらにまっこと優しかったんよ……。じいさまはちぃと頑固なとこがあるけんど、ばあさまには頭が上がらんかったな……。二人ともおらのことを、ように可愛がってくれた……。もし二人が千鶴さんに会うとったら、きっと二人とも千鶴さんのこと気に入ってくれたと思わい」
今度は千鶴が泣いた。為蔵とタネは千鶴に会えることを楽しみにし、千鶴を嫁にもらって来るようにと、進之丞に命じていたのだ。
「千鶴さん、おらのじいさまとばあさまを知っとるんか?」
千鶴がうなずくと、ほうかと忠之は言った。
「じいさまとばあさまのために泣いてくれてありがとな」
自分が関わってしまったために、為蔵もタネも死ぬことになったのである。それなのにありがとうと言われて千鶴は困惑した。
そんな千鶴に忠之は言った。
「今は村のみんなが声かけてくれるけんど、おらたち山陰の者て言われてな。何もせんでも白い目で見られよったんよ。ほじゃけん、そがぁなじいさまやばあさまのために泣いてもらえたんが、おらは嬉しかったんよ」
「ほやけど……」
「ええんよ。もう済んだことぞな。ほれに悪いんは天邪鬼ぞな。ほれで、その天邪鬼はどがぁなったんぞな?」
千鶴は鬼に変化した進之丞が天邪鬼を退治したと話した。忠之は進さんが殺された二人の仇を取ってくれたのだなとうなずいた。
そのあと、進之丞は鬼の姿のまま祖父に猟銃で撃たれてしまったと、千鶴は涙ぐんだ。そして、鬼の姿の進之丞はここまで自分を運んだあと、力尽きて死んだと千鶴は項垂れた。
死んだんか――と忠之は目を見開いた。しかし、すぐに目を伏せると、ほういうことかと力なく言った。
「佐伯さんの右の腰にある傷は、おじいちゃんの猟銃で撃たれた傷ぞなもし。鬼が死んだ時、佐伯さんも死んだはずじゃった。ほんでも、そのあとで佐伯さんは息を吹き返しんさって、生き返ることができたんぞな。そがぁなわけで、おじいちゃんも佐伯さんに申し訳ないことしたて、ずっと悔やみ続けとりんさるんよ」
忠之は自分が死にかけたことには触れないまま、悪かったなと千鶴に謝った。
「おらばっかし息を吹き返してしもて。ほんまじゃったら、進さんも一緒じゃったらよかったのにな」
どきりとしながらも、千鶴は忠之の言葉に腹が立った。
「なしてそがぁなことを言いんさるん? うちらは佐伯さんに取り返しがつかんご迷惑をおかけしてしもたんぞな。謝るんはこっちの方であって、佐伯さんが謝りんさるんは間違とります。佐伯さんは怒りんさってええんです。うちのことを怒ってどやしつけて殴り飛ばしてつかぁさい。うちはその覚悟でこの話をしたんぞなもし」
忠之は微笑みながら言った。
「そげなこと、できるわけなかろがな。千鶴さんはおらの命の恩人ぞな。千鶴さんは懸命におらを助けてくんさった。おらな、身内以外でこがぁに親切にされたんは生まれて初めてなんよ。おら、千鶴さんには感謝の気持ちしかないけん」
千鶴は忠之の言葉が信じられなかった。だが、この言葉は正体を明かす前の進之丞が言っていた言葉でもあった。それが千鶴には悲しかった。
「うちはともかく、進さんのことも怒っておいでんのですか?」
「進さんにしたかて、わざにしたことやなかろに」
「ほやかて……」
「ほれにな、おらは千鶴さんがこの二年、幸せに過ごしんさったんが嬉しいんよ」
「え?」
思いも寄らない言葉に、千鶴は驚きを隠せなかった。
「おら、ずっと千鶴さんの傍におったろうに、その間のことは何も覚えとらん。ほんでも今の話聞いたら、千鶴さん、幸せにしよったみたいやし、こがぁなおらでも、そのことにちぃとでも役に立てたんじゃなて思たら、ほれが嬉しいんよ」
「なして、うちなんかのことを……」
「言うたじゃろ? 千鶴さんはおらの命の恩人やし、おらに優しいにしてくれたお人やけん。その千鶴さんが喜んでくれよった言うんが、おらには何よりなんよ」
どうすればこんな風に考えられるのだろう。自分に好意を持ってくれていたとしても、こんな事実を知らされれば怒るはずだ。
本当はとてもつらいはずだろうに、それでも千鶴のことを気遣ってくれるその姿は、進之丞にそっくりだった。
だが、忠之は進之丞ではない。それがわかっていながら、千鶴は忠之に心が引き込まれそうになっていた。
うろたえて目を伏せた千鶴に、ごめんなと忠之は申し訳なさそうに謝った。
「千鶴さん、おらと一緒におったら、ほんまはつらかろ?」
「そがぁなこと……」
ぎくりとしながら千鶴は下を向いていた。
「進さんはおらと真っ対なんよな? と言うか、おらの体を使いよったんじゃけん、おらが進さんじゃったいうことよな。ほんでも、今のおらは進さんとは違うけんな。おらと一緒におったら、千鶴さん、混乱してしまわい」
まったくの図星である。忠之は千鶴の心の内を見抜いていた。恥じ入る千鶴に、忠之は悲しそうに言った。
「さっきも言うたけんど、おらぎり生き返るんやのうて、進さんも生き返ったらよかったのにな」
「そがぁなことは言わんでつかぁさい! こんでもうちは佐伯さんが助かるようにがんばったつもりぞなもし」
忠之の言葉は、聞きようによっては皮肉に聞こえる。千鶴の剣幕に忠之は、ほやかて――と言って口を噤んだ。
千鶴は自分に腹が立った。忠之にこんなことを言わせたのは自分なのだ。せっかく生き返った忠之が、自分に生きる価値がないと思ったのであれば、それは自分の責任だった。
これまでの自分の態度について千鶴が詫びると、ほれはええんよと忠之は言った。
「ただな、おら、千鶴さんの悲しむ顔、見とないんよ。おらのせいで千鶴さんを悲しませとないし、いつまでも千鶴さんをおらに縛りつけとないんよ。おら、千鶴さんには自由でおって欲しいし、好きなようにして欲しいんよ」
千鶴は切なくなった。やはり忠之は自分の気持ちを殺して、千鶴のために姿を消そうとしていたのだ。それは鬼であった進之丞にそっくりだった。
もし忠之が進之丞と同じ姿でなかったなら、あるいは千鶴が進之丞と出逢っていなければ、千鶴は間違いなく忠之に心を奪われていたに違いない。
それでも、自分の心は進之丞のものだと千鶴は思っていた。その心を他の男に奪われてはならないと、胸の内で必死に抗い続けていた。
そんな千鶴の気持ちを知らぬまま、忠之は笑顔を見せて言った。
「おら、もう何でも一人でできるぞな。和尚さんもおるし、安子さんもおる。千鶴さんがおらいでも、おら何ちゃ困ることないけん、ほじゃけん、千鶴さんは好きなようにしておくんなもし」
「そがぁなこと言われても……」
「ええんよ。おらに遠慮することなんぞないけん。おらじゃったら大丈夫なけん。千鶴さんは自分が楽しいに思えることをしよったらええ。ほれがおらの望みぞな」
「ほやかて……」
「あのロシアのお人が初めておいでた時、一緒に戻んておいでた千鶴さん、まっこと幸せそうに笑いよった。おら、あがぁな千鶴さんでおって欲しいんよ」
千鶴は体中の血が顔に集まったように感じた。
思いがけないスタニスラフの訪問に、すっかり舞い上がっていて気づかなかったが、あの時、庫裏の縁側にいた忠之に二人の様子を見られていたのだ。
それは萬翠荘での舞踏会を進之丞に見られたとわかった時のような、焦りと動揺を千鶴にもたらした。進之丞はスタニスラフと踊る千鶴の笑顔こそが、お不動さまが見せようとした笑顔なのだと思いながら泣いていたのだ。
きっと忠之も同じように泣いていたに違いない。その悲しみを隠しながら忠之は千鶴の幸せを願い、千鶴を自由にさせようとしてくれている。
千鶴は恥じ入りながらうろたえた。自分のことばかり考えて忠之を悲しませてしまったことが、大きな悔やみとなって千鶴の胸を締めつけた。それは進之丞を傷つけてしまった時の悔やみと同じであり、進之丞ではない忠之に心が奪われてしまった証だった。
それでも千鶴は自分の想いに抵抗した。こんな気持ちを認めるわけにいかなかった。進之丞ではない男を好きになるなんて、決して許されないことである。この心は進之丞だけのものなのだ。
千鶴の動揺に気づかない忠之は、尚も喋り続けた。
「おら、あのお人が千鶴さんにどがぁなんかはわからんけんど、千鶴さんがあのお人のことを好いておいでるんなら――」
やめて!――と千鶴は叫んだ。忠之は口を閉じて驚いたような顔をしている。
進さんでもないのに、進さんと対のことを言うなと、千鶴は怒鳴りたかった。腹を立てねば、このまま忠之に心が呑み込まれるのに抗えなかった。本当は忠之にそんな悲しい言葉を口にして欲しくなかった。
「何も知らんくせに、知ったかぶりして余計なこと言わんで!」
声を荒げながら、千鶴は忠之に怒鳴る自分に泣きたかった。
怒鳴られた忠之は呆気に取られた顔をしていた。しかし、すぐにしゅんとなって、悪かった――と謝った。
「つい言わいでええことを言うてしもた。堪忍してやってつかぁさい。おらな、千鶴さんの笑た顔が見たかったぎりなんよ」
千鶴はうろたえ取り乱した。忠之は進之丞そのものだ。最後の抗いが力をなくしそうだった。
また、詫びていたはずなのに怒鳴ってしまい、忠之を深く傷つけたことも千鶴を混乱させた。これは絶対にしてはいけないことだった。忠之は千鶴が笑顔の仮面を取って、本当の素顔を見せたと受け止めたに違いない。
千鶴に好意を寄せながら、自分の存在が千鶴を不快にさせていると思う忠之が、どれほど傷ついたのかが、千鶴には痛いほどにわかっていた。
千鶴は思わず忠之を抱きしめて、本当の気持ちを伝えそうになった。どうして自分がいらだつのか、その本当の理由を説明したかった。それでもそれを踏みとどまったのは、進之丞への想いだった。進之丞ではない者を好きになるのは許されないことなのだ。
しかし、それでは忠之を傷つけたままになってしまう。千鶴は狼狽し、言い訳しようと口を動かしたが、言葉が出て来ない。何とか出たのは、ごめんなさい――という言葉だけだった。
忠之は微笑んだが、その目には悲しみのいろが浮かんでいた。
三
忠之を傷つけてしまったこと、そして、忠之にほとんど心が奪われているいう事実に、千鶴は激しく動揺していた。
もう、ここにはいられないと千鶴は思っていた。これ以上、忠之と一緒にいれば、必ず心を忠之のものにされるのがわかっていた。それに抗うには、ここから離れるしかなかった。
それに罪を償うべき忠之に対して怒鳴るような者に、忠之の世話をする資格はない。自分を嫌っていると思えるような相手に世話をされるなど、忠之だって望んだりはしないだろう。
本当であれば、自分の気持ちを抑えつつ、忠之が一人で暮らせるようになるまで、励まして支えてやるはずだった。それが忠之への償いであり、進之丞の気持ちの代弁でもあった。それなのに自分はそれを台無しにしてしまったのである。
幸い、忠之は千鶴の世話はいらないと言ってくれた。それが忠之の真の本心かと言えば、そうではないと千鶴は思っている。だが今はその言葉に縋って忠之から離れるしかなかった。
それにしても、どうして忠之はあそこまで進之丞に似ているのだろう。元々の性格なのか、それとも進之丞に心を喰われた影響なのか。
もしかしたら忠之は進之丞の一部になっていたことで、進之丞の性格を写し取ってしまったのかもしれない。そう考えると、今の忠之は進之丞の偽物であり、あの優しさも紛い物ということになる。
本当のところはわからない。それでも千鶴はそう考えることにした。忠之は進之丞の偽物で、あの優しさに騙されてはいけない。そう思うしか、忠之の心から逃れることはできなかった。
千鶴は庫裏の外へ出ると、楠爺の陰に隠れた。前世から千鶴を見守って来た楠爺だけが、自分をわかってくれるような気がした。
「楠爺、おら、もうここにはおれん。どがぁしたらええん?」
千鶴は楠爺に抱きつきながら、泣きそうな声で話しかけた。しかし、楠爺は何も答えてくれなかった。その時、本堂の裏手からスタニスラフの悲鳴のような声が聞こえた。
千鶴が楠爺から離れて本堂の裏に回ってみると、スタニスラフが手紙らしき物を両手に持って、怒ったような叫び声を上げていた。
「スタニスラフさん? どがぁしたん?」
千鶴が声をかけると、スタニスラフは驚いたように振り返った。手にしているのは、やはり手紙のようだ。
千鶴――悲しげな声を出したスタニスラフは、もう一度手紙を見て、それから目を閉じ天を仰いだ。
「どがぁしんさったん?」
千鶴が近づくと、スタニスラフは絶望的な顔で、母からの手紙が届いたと言った。
法生寺に住み込みで働くことを決めたあと、スタニスラフは家に手紙を書いた。こちらの事情を説明して、ヨーロッパ行きをもう少し待って欲しいという内容だった。今読んでいたのは、それに対する返事だったようだ。
「千鶴、僕ヴァ、帰ラァナァイト、イケナァイ」
え?――と驚く千鶴に、ヨーロッパ行きはこれ以上は引き延ばせないと、母に告げられたとスタニスラフは言った。
「帰るて、いつ?」
「スグゥニデズゥ」
「ほんな……」
さっきはスタニスラフの嫉妬深さにうんざりし、スタニスラフと一緒にいたことを後悔したはずだった。だが混乱して焦っていた千鶴はそのことを忘れ、スタニスラフがいなくなるということに絶望を感じて激しく狼狽した。そして、思わず叫ぶように言った。
「うちも一緒に連れて行っておくんなもし」
エ?――今度はスタニスラフが驚いた。
「千鶴、今、何ト、言イマァシタカ?」
「うちを一緒に連れて行ってて言うたんぞな」
「一緒ニ? 千鶴、サレヴァ、ホントデズゥカ?」
千鶴は強張った顔でうなずいた。スタニスラフの顔にみるみる笑みが広がった。
「ホントニ? ホントデズゥネ?」
千鶴がもう一度うなずくと、スタニスラフは跳び上がらんばかりに喜んだ。そして千鶴を抱きしめ、さらに抱き上げてくるくると回りながら喜びの雄叫びを上げた。それから千鶴に顔を近づけた。
スタニスラフについて行くということが、どういうことなのかはわかっていた。だが、進之丞への想いを守るには、こうするしかないと思っていた。だから、千鶴はスタニスラフが唇を奪うこと拒まなかった。唇は奪われても、心だけは奪わせないと考えていた。
とは言え、スタニスラフと唇を重ねる自分を、心の中の進之丞に見せたくはない。千鶴は涙をこぼしながら進之丞に詫び、進之丞を心の奥深くに仕舞い込んだ。そして、これは進之丞への想いを護るためなのだと、必死で自分に言い聞かせた。
頭の中は空っぽで、悲しげな進之丞の顔も浮かばない。ただ、スタニスラフに愛撫されるのを感じているだけで、喜びも悲しみもない。まるで人形になったみたいで、あるのは空虚な気持ちだけだ。
かすかに心の奥で別の自分が泣き叫んでいた。だが、千鶴はスタニスラフの腕の中で、その泣き声も進之丞と同じように心の奥底へ押し遣った。
四
スタニスラフはみんなに話したいことがあると、知念和尚に告げた。千鶴はスタニスラフの後ろで下を向いている。
スタニスラフは興奮気味だが、千鶴は後ろめたさが隠せない。ずっと目を伏せがちで、スタニスラフに従う姿勢を取っていた。
知念和尚はスタニスラフに手紙が届いたことは知っていた。恐らくそれに関連したことだと思ったようだが、千鶴が一緒なのが気になったらしい。これは何か重大事だと受け止めたようで、すぐにみんなを呼び集めに行った。
集まって来た甚右衛門たちも、千鶴たちの様子を知念和尚から聞いたのだろう。みんな不安のいろを浮かべている。
一方で、和尚は忠之を境内へ連れ出すように伝蔵に頼んでいた。スタニスラフが訪ねて来た時のように、ひょっこり忠之が顔を出してはまずいと判断したようだ。
全員が席に着くと、まずスタニスラフが母から手紙が届いたことを話した。
ヨーロッパへ行く日程を変えられないので、すぐに戻って来るようにという手紙の内容を聞かされると、スタニスラフはどうするつもりなのかと安子が訊ねた。
スタニスラフは手紙の指示どおりに神戸に戻ると言った。甚右衛門たちの間には安堵の笑みが広がった。だが続くスタニスラフの言葉によって、その笑みはすぐに消された。
「神戸ニヴァ、千鶴モ、一緒ニ、行キマズゥ」
スタニスラフの言葉に、場は騒然となった。
初めてスタニスラフが法生寺へ来た時に、スタニスラフは同じことを言ってみんなを怒らせた。その時に、自分は行かないと千鶴は断言していた。しかし今は、千鶴はスタニスラフの隣で下を向いたままスタニスラフの言葉を否定しない。
「スタニスラフ、あんた、またそげな勝手なこと言うとるんね!」
頭に血が昇った様子の幸子が叫ぶように言った。しかし、スタニスラフは涼しい顔で、これは千鶴が言ったことだと答えた。
幸子は千鶴に顔を向けたが、千鶴は下を向いたまま黙っている。
異様な雰囲気が広がる中、ほうなんか――と知念和尚が穏やかに千鶴に訊ねた。
千鶴はうろたえていた。
忠之に心を奪わる寸前にまでなり動揺しているところに、スタニスラフがいなくなると聞かされて、さっきは頭の中が大混乱に陥っていた。とにかくこの場から逃れること以外は何も考えられず、スタニスラフに自分も連れて行って欲しいと言ってしまった。
だが、今は少し落ち着きが戻って来ていて、自分がやってしまったことへの焦りと悔やみが、心の中に滲み出している。
しかし、自分の方から一緒に連れて行ってとスタニスラフに頼んだのだ。しかもその代償として、進之丞にしか許さなかったはずの唇を、スタニスラフに許したのである。もはや後に引ける状況にはなく、今更行かないとは言えなくなっていた。
「どがぁなんや?」
黙ったままの千鶴に、知念和尚は促すように言った。
千鶴は和尚の顔を見ることはできなかった。下を向いたまま、小さくこくりとうなずいた。部屋の中がどよめき、どがぁなことぞ!――と甚右衛門が怒鳴るような声を上げた。
千鶴は顔を上げた。みんなが怒りと不信と悲しみに満ちた目を向けている。胸の中では心臓が破れそうなほど激しく動いている。だが、もう後戻りはできなかった。
「うちは、スタニスラフさんと一緒に、行くことにしました」
震える小声で千鶴は言った。どこを見ればいいかわからない目は左右に泳いでいる。
幸子もトミも言葉が出ない。和尚夫婦も口を半分開いたままの顔を、うろたえたように見交わした。
顔を紅潮させた甚右衛門が怒鳴った。
「お前は行かんて言うたはずぞ。ほの言葉を違えるんは、どがぁなことぞ? やっぱし、最初からほのつもりやったんか!」
千鶴は項垂れて首を横に振り、違いますと言った。
「うちはここで佐伯さんのお世話をするつもりでおりました。スタニスラフさんと一緒には行かんて言うたんは嘘やありません」
「じゃったら、なしてぞ? なして急に考えを変えたんぞ?」
「うちが佐伯さんのお世話をするんは、もう限界ぞなもし。がんばってはみたけんど、もう無理なんぞなもし」
幸子が訝しげに言った。
「あんた、ついさっきまで佐伯さんと話しよったばっかしやのに、あん時に何ぞあったんか?」
あの時に一緒にいた安子も、千鶴の返事を待っている。
だが、佐伯さんに心を奪われてしまうからとは言えなかった。進之丞の死を悼んでいるはずなのに、その心を他の男に奪われるとは言えるはずがなかった。
だからと言って、スタニスラフと一緒になるというのは矛盾している。みんなの目には、千鶴がスタニスラフに心を奪われたように見えるだろう。進之丞が死んでまだ一月なのに、他の男に心変わりしたと思われるのは同じことだった。
この矛盾に千鶴はようやく気づいたが、後の祭りである。スタニスラフと一緒に行くと宣言しながら、進之丞を裏切ってしまったことで、死にたい気持ちでいっぱいになっていた。だが、今は自分の矛盾を言い繕うべく喋らなければならない。
「佐伯さんが自分のことはもう構んでもええて、うちに言うてくんさったんぞなもし」
「あんたから話聞いて、佐伯さんは怒りんさったんか?」
千鶴は首を横に振ると、少しも怒らなかったと言った。
「ほれやのに、もうあんたの世話はいらんて言いんさったんか」
「佐伯さん、うちには好きなようにしてもらいたいて言うてくんさったんです」
「ほれが、これなんか」
幸子は後の言葉が続かなかった。千鶴の言葉に従えば、千鶴は初めからこうすることを望んでいたことになる。安子も千鶴の言うことが理解できない様子だ。
甚右衛門も知念和尚も口をへの字に曲げたまま黙っている。怒っているというより呆れているのかもしれない。
「あんたな――」
幸子は千鶴をにらみつけて言った。
「佐伯さんが、なしてそがぁなこと言いんさったんか、わからんのか? まだ支えがなかったら歩けんのやで? そがぁな体やのに好きなようにて言いんさったんは、あんたがそがぁ言わせたんやないんか?」
千鶴は下を向いた。返す言葉がなかった。
今度はトミが言った。
「幸子から聞いたけんど、お前、あの子とこれまでのこといろいろ話したそうやな。あの子のご両親が亡くなった話もしたんか?」
千鶴は小さな声で、はいと言った。トミはその時の忠之の様子を聞かせろと言った。
千鶴は忠之が黙って泣いたあと怒ったりすることもなく、為蔵たちのために涙を流した千鶴に感謝をしてくれたという話をした。
トミは目に涙を浮かべ、お前は――と言って唇を震わせた。
「お前はそがぁな優しい子を見捨てる言うんか。お前のことを責めもせんで感謝までしてくれる、そがぁな子をお前は見捨てるんか。お前のせいで独りぼっちになってしもたあの子に、こがぁな仕打ちをするんか」
「うちかて、こがぁなことになるとは思わんかった。ほんでも、もう無理なんよ」
項垂れたまま弁解をする千鶴に、幸子が再び言った。
「あんたが佐伯さんのお世話をようせん言うんは、まぁええとしよわいい。嫌々されても、佐伯さんかて迷惑じゃろけんな。ほれはほれとしてもや。なして、あんたがスタニスラフと一緒に行くんね?」
「ほれは……」
「あんた、ほれがどがぁな意味なんかわかっとるんじゃろね?」
千鶴は黙っていた。もちろんスタニスラフと一緒に行くのが、どういうことなのかはわかっている。だからこそ、今は後悔でいっぱいになっていた。
千鶴が責められるのを見ていたスタニスラフは、返事ができない千鶴に代わって言った。
「千鶴ヴァ、僕ト、結婚シマズゥ。コレェヴァ、僕ト、千鶴ガ、決メルゥコトデズゥ。ダカラァ、何モ、問題ナァイネ」
スタニスラフのこの言葉は火に油を注いでしまった。
甚右衛門は真っ赤な顔になって立ち上がり、何を抜かすか!――と怒鳴った。トミも興奮して、何も知らない異人が勝手なことを言うなと喚き、心配した幸子はトミを懸命になだめた。
スタニスラフは甚右衛門たちの怒りように驚いたが、何故みんながそこまで怒るのかが理解できないようだった。
千鶴はスタニスラフに、日本では子供の結婚を決めるのは親の役目で、自分たちだけで勝手に決めることはできないと説明した。
スタニスラフは甚右衛門たちがここまで怒る理由は理解したようだが、子供の結婚を親が決めることには納得できない様子だった。
それはおかしいとスタニスラフが異を唱えると、甚右衛門は怒りを露わにして言った。
「千鶴、お前はこがぁに失礼な男の嫁になる言うんか! 進之丞が死んでまだ四十九日も終わっとらんのに、その進之丞を忘れて、進之丞とは真逆のこがぁな礼儀知らずの男と一緒になるんか!」
トミも怒りを隠さない。落ち着かせようとする幸子を無視して千鶴を責めた。
「そもそも伯爵ご夫妻の御前でこの男と結婚の約束交わしたいうんも、新聞の間違いなんぞやなかったんじゃな。進之丞はお前を護って死んだと言うのに、お前はあん時からこの男に心変わりしよったんか! あれこれ偉そなこと言うておきながら、やっぱし普通の男がよかったいうことじゃろが。この恩知らずの浮気者!」
千鶴は首を横に振り、そうではないと言おうとした。だが自分がやっていることは、こう責められても仕方がないことだった。
スタニスラフは千鶴をかばいながら、シンノジョウとは誰のことなのかと、みんなの顔を見回しながら訊ねた。
「知りたいんなら、千鶴に訊いたらよかろ!」
トミが吐き捨てるように言った。スタニスラフは困惑しながら千鶴に訊ねたが、千鶴には説明できなかった。自分と進之丞の関係を話したところで、スタニスラフが理解できるはずがないし、簡単に他人に喋るようなことではない。
千鶴が泣き出しても、甚右衛門たちは容赦しなかった。スタニスラフが何か言おうとしても、一切聞く耳を持たなかった。
幸子も涙を流しながら、千鶴を叱りつけた。
「千鶴、あんた、自分がやろとしよること、忠さんの前で言うとうみ。もう、あなたのことは忘れたけん、この人と一緒になりますて言うとうみや!」
母にまで厳しいことを言われて、千鶴は泣き崩れた。本当の気持ちなど誰にも言えないし、誰にもわかってもらえない。
今度は忠さんという名前が出て来たので、スタニスラフは尚も混乱したようだった。それで幸子がスタニスラフに言った。
「忠さん言うても、佐伯さんのことやないんよ。ほんまの名前は進之丞言うてな。この子と夫婦になるはずじゃった、まっことええ子じゃった。その子がな、つい一月前に亡くなったんよ」
「ナクゥナタ?」
「死んだんよ。この子の命護って、身代わりになって死んだんよ。ほれでこの子もずっと泣きよったはずやのに、手のひら返したみたいに、あんたと一緒に行く言うけん、みんなが怒りよるんよ」
初めて聞いた話にスタニスラフは驚いた。しかし、自分と結婚すると千鶴が決めたのは、本当は進之丞を好きではなかったということだと、スタニスラフは言った。
それに対して、誰も反論しなかった。事実、千鶴は進之丞を忘れて、スタニスラフの嫁になろうとしているのだ。
それは千鶴が進之丞を偽り続けていたということになる。甚右衛門たちは何も言わず、ただ涙を流していた。
千鶴は居たたまれなくなり、おじいちゃん――と言った。
「うちは今の自分の気持ちを口にしました。ほやけど、うちの相手を決める権利は、おじいちゃんにあります。おじいちゃんがスタニスラフと一緒に行くんは許さんと言いんさるなら、うちはほれに従います」
千鶴の言葉にスタニスラフは慌てたようだった。だが、千鶴は祖父の言葉に救いを求めていた。スタニスラフとの結婚を止められるのは祖父だけだ。絶対に許さんと言って欲しかった。
千鶴の濡れた目に見つめられたまま、甚右衛門は返事をしない。下を向いたまま黙っている。まるで千鶴の言葉が聞こえていなかったかのようだ。
おじいちゃん――千鶴が促すように声をかけると、甚右衛門はようやく顔を上げた。目を真っ赤にした甚右衛門は、疲れ切ったような途方に暮れた表情だ。
「お前が自分の気持ちを言うたように、わしらも自分の気持ちを言うた。ほんでも、わしはお前に命令はできん」
千鶴は驚きうろたえた。祖父が引き留めてくれると思ったのに、何だか祖父の様子がおかしい。
「言うたように、わしはお前を法生寺におった娘の生まれ変わりとして、大切にすることを誓た。そのお前がその男を選ぶと言うんなら、ほれは仕方ないことよ。お前とあの男が夫婦になっておったんならともかく、そうなる前にあの男は死んだけんな。お前があの男の喪に服する義務はない」
甚右衛門の言葉には、トミも幸子も驚いたようだ。目を見開いて甚右衛門を見たが、甚右衛門は力なく話を続けた。
「ほんまじゃったら、あの男こそがお前の夫となるはずじゃったが、わしが死なせてしもたけんな。そがぁなわしにとやかく言う権利はない。お前の好きにしたらええ」
「おじいちゃん……」
呆然とする千鶴の横で、甚右衛門の最後の言葉だけがわかったスタニスラフは大喜びした。みんなの前で千鶴を抱きしめ、その頬に口づけをした。
千鶴は人形のようにスタニスラフに抱かれたまま、祖父を見つめていた。もう自分を止めてくれるものはなくなったと、千鶴の目から涙がこぼれた。だが、みんなはそれを感激の涙と見たようだ。
トミも幸子も悲しげだったが、甚右衛門が認めた以上は何も言えない。それは知念和尚と安子も同じだった。二人は黙ったまま涙ぐんでいる。
和尚夫婦にとっては、忠之も進之丞も我が子と同じである。その二人ともが千鶴から見捨てられようとしているのである。そのことを和尚夫婦が悲しまないわけがなかった。
トミは悔しそうにしながら、二人の仲を認めはするが祝福はできないと言った。それだけが精いっぱいの言葉なのだろう。
憔悴しきった様子のトミは、立ち上がろうとしてふらりと倒れそうになった。幸子が慌てて体を支えて別の部屋へ連れて行き、甚右衛門も心配そうについて行った。
祖母の具合を心配しながらも、千鶴は祖母の傍へ行くことができなかった。
スタニスラフが法生寺へ来て以来、千鶴と家族の間はぎくしゃくしていた。それでも、まだその関係は途絶えてはいなかった。和尚夫婦も何とか千鶴の気持ちをわかろうとしてくれていた。
しかし、今は家族との関係も完全に途絶えてしまったようだ。和尚夫婦との間にも、見えない壁ができたように感じられる。
千鶴は本当の孤独になった。
これまで千鶴は一人で悲しみを背負っているように思っていた。だが、そうではなかったのだと思い知らされていた。
進之丞との想い出や、進之丞を失った悲しみを、本当は家族や和尚夫婦と分かち合っていたのだ。そのことを知ろうとせず、自分の気持ちばかりに目を向けていたために、そのすべてを失う羽目になってしまった。
スタニスラフが来るまでは、自分の苦しみを心の中にいる進之丞に聞いてもらっていた。だが、もうそれもできなくなった。自分は進之丞を裏切り、スタニスラフの嫁になるのだ。
みんながいなくなったので、スタニスラフは千鶴を抱きしめて唇を求めようとした。
千鶴はスタニスラフを押しのけると、背中を向けて泣いた。