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差別問題

他人より優位でありたいという欲は、他人を見下したり、あるいは直接的に他人を虐げようとします。

身分制度で人間の順位を公に決めてしまうと、このような意識を持った人たちは、大手を振って下位の身分の者たちを、差別することができます。

江戸時代は武士が、実質的な身分の頂点にいました。

その一方、最下層と見なされる人々もいました。

そして、この人々が差別の対象となったのです。

明治4年に身分解放令が出され、身分制度は廃止されました。
これによって最下層だった人たちも、他の身分だった者たちと同じ、平民という位置づけがなされました。

それでも、それは形ばかりの平等であり、実際には最下層だった人々を、差別する傾向は残り続けたのです。

戸籍上も平民ではなく、新平民や元穢多えたとされ、本当の平民とは見なされていませんでした。

明治になると小学校が開設されましたが、初めの頃はそれまでの寺子屋の延長でした。

そのため、子供たちは寺の本堂や神社の拝殿、あるいは旧庄屋屋敷などを借り受けて学んだそうです。

しかし同じ小学校でも、穢多と呼ばれていた人たちの子供は、本堂や拝殿の中には入れてもらえませんでした。

本堂や拝殿の縁側にござを敷いて、そこで学ばせられたと言います。

あるいは、表向きには経済的な理由ということで、こういう子供たちだけを集めて、分校を作ったりもしていたそうです。

また祭りについても、参加させてもらえない状況が続いていました。

愛媛県では大正9年に愛媛県警察部長が、地域の反対を押し切って、被差別部落の者たちも祭りに参加させるように指示をしました。

これによって大正10年10月から、差別をされていた人たちも、地域の神社の氏子に加入できるようになり、被差別部落への神輿渡御や、被差別民が神輿を担ぐという事が、実現したと言います。

それでも各地域の住民が納得してのことではなく、上から無理やり決めたことです。
実際には、差別意識が残っていたことと思われます。