野菊のかんざし 目次
野菊のかんざし 解説
客馬車
一
爽やかな秋空の下、刈り取りが終わった田んぼに、かっぽんかっぽんと馬の蹄の音が響いている。音の主は一台の客馬車で、田んぼに囲まれた今治街道を北へ向かってのんびり走っている。
昨日はこの日と違って大雨だった。それでまだ道の所々に少しぬかるみが残っている。しかし、そんなぬかるみなど気にする様子もなく客馬車は進んで行く。
六人乗りの客車には真ん中の狭い通路を挟んで、三人掛けの長椅子が左右に設置されている。客車の後ろの部分が乗降口になっているが、今は板の扉でふさがれている。
それぞれの長椅子には乗客が三人ずつ肩を寄せ合って座っており、がたがたという車輪の振動がお尻から頭のてっぺんまで伝わるが、みんな黙って揺られている。
その客車の左側の一番後ろの席に、千鶴は座っていた。
緊張の糸に縛られながら、千鶴はできるだけ目立たないように小さくなっている。それでも馬車に駆け乗った時の息がなかなか整わない。
息が荒くなると目立つので、千鶴は苦しさをこらえながら小刻みに呼吸を繰り返した。しかし、誰かが匂い袋を身に着けているらしく、少しきつい香りが鼻を突いて息苦しさをさらにひどくする。
客車の背もたれの壁は背中までで、肩の辺りから上方は大きく開いている。屋根には青い布が垂れ下がり、それが日よけや雨よけの役目を果たしている。
千鶴の隣にいるのは女子師範学校の同級生で親友の村上春子だ。二人は四年生で来春卒業する予定になっている。一緒に客馬車に駆け乗ったので、春子も息を弾ませているが、嬉しさを隠せず大はしゃぎだ。
二人はこれから風寄の名波村にある、春子の実家へ向かおうとしていた。村の祭りを見るためだ。
土曜日のこの日、授業は午前だけだったので、二人とも授業のあと、大急ぎで客馬車乗り場へやって来た。
着物を着替える暇などない。袴こそ着けていないが、手作りの伊予絣の着物も、三つ編みを後ろで丸く束ねた髪も、学校にいた時のままだ。
いつもは風寄の祭りは金曜日から始まるので、女子師範学校に入学して以来、春子は地元の祭りには戻れていない。授業を休んでまで祭りを見にいくことは許されないからだ。
それで千鶴は毎年春子を家の近くにある阿沼美神社の祭りへ誘っていた。この神社の祭りは神輿をぶつけ合う盛大なもので迫力があった。
と言っても、祭りが平日であれば昼間は見られない。それで夕方に授業が終わったあと、先生に特別許可をもらって見に来るのだ。それでも今年はちょうど先週の土曜日が祭りの日だったので、いつもよりはゆっくり過ごすことができた。
春子は千鶴に感謝しながら、いつか千鶴に自分の村の祭りを見せたいと、毎年のように言い続けていた。しかし、学校にいる間は日程的に無理だし、卒業したあともそれはできそうになかった。
卒業後は二人とも小学校教師となるのだが、それぞれがどこの小学校に赴任することになるかは、その時にならないとわからない。
二人が同じ小学校に赴任するとは限らないし、恐らく離ればなれになるだろうと、千鶴も春子も思っていた。
春子が千鶴を村の祭りへ連れて行くのであれば、今年が最後の機会だった。だが事情は例年と変わらず、春子の望みは叶わないと思われた。
ところが今年は奇跡が起きた。急に状況が変わって行けることになったのである。春子がはしゃぐのは当然だった。
春子は体を捻って後ろを向くと、青い布を持ち上げて外の景色を眺め、嬉しそうに千鶴に話しかけた。
「ほれにしても、上手い具合に馬車に乗られてよかったわい。もちっと遅かったら出てしまうとこやったで。まっこと危ないとこじゃった」
客馬車は出発時間が決まっていない。乗客の乗り具合でいつ出発するかが決まる。二人が客馬車乗り場に着いた時、客馬車はまさに出発しようとしていたところだった。
「ほんまじゃねぇ」
遠慮がちに微笑んだあと、千鶴はすぐに笑みを消した。
千鶴の正面に座っている白木綿の着物の老婆が、千鶴の一挙一動を見逃すまいとするかのように、じっと見据えている。眉をひそめたその顔は、いかにも汚らわしいものを見ているかのようだ。
目の遣り場がなく、千鶴が老婆から目を逸らすと、老婆の隣に座っていた若い男と目が合った。着流し姿に鳥打帽をかぶったその男も、どうやら千鶴を眺めていたらしい。男は慌てて横を向くと、知らんぷりを装った。だが困惑したような目がきょときょとと動いている。
鳥打帽の男の向こうには、髪を二百三高地に結った伊予縞の着物の女がいる。歳は若くないが、きれいな顔立ちをしている。
前髪が山のように大きく盛り上がり、頭頂部の髷が高く突き出たこの庇髪は、明治の頃からの流行ではあるが、千鶴はこの髪型が好きではない。
二百三高地というのは日露戦争の激戦地だ。そんな名前の髪型があることが嫌だったし、その名前を好む人がいるのも嫌だった。
この女は千鶴と目が合うと、にっこり微笑んだ。しかし、その笑顔の裏には何か冷たいものが感じられ、千鶴はできるだけこの女とも目を合わせないようにした。
千鶴をにらみ続ける老婆は、千鶴たちが馬車に乗り込もうとした時には、春子が座っている所にいた。その時に空いていた席は左右の一番後ろだったので、本当ならば千鶴と春子は、後ろの端に向かい合って座るはずだった。
春子が先に今の老婆がいる席に座ったのだが、続いて千鶴が乗り込もうとすると、老婆は春子に自分と席を替わらせた。千鶴と隣り合わせになるのが嫌だったのだろう。それでも、こうして向かい合うのも気に入らないらしく、ずっと千鶴のことをにらみ続けている。
千鶴は他の者とは見た目が違っていた。老婆が千鶴を嫌うのは、千鶴の容姿のせいに違いなかった。
老婆の態度には春子も気づいたはずだ。しかし、春子は千鶴の隣に座れたことが嬉しかったようで、老婆のことを気に留める様子はなかった。
だから、千鶴も老婆のことは気にしないように努めていた。それでも胸の内では、やはり来るのではなかったかと、淡い後悔が浮かんでいる。
二
「おい、君。もう一度聞くが、今日は北城町で間違いなく宿が取れるんだろうな」
春子の左、つまり一番前に座っていた男が御者に声をかけた。
男は洋服姿で丸眼鏡をかけ、山高帽をかぶっている。足の間に立てたステッキに両手を乗せて揺られる姿や、その喋り方が少し威張っているようだ。
御者は馬を操りながら、ちらりと男を振り返った。
「へぇ、宿屋は宿屋ですけん。お祭りでも泊まれるぞなもし」
「それならよかった。せっかく祭りを見に行っても、泊まる所がなかったら洒落にならないからな」
どうやら男は風寄の祭りを見に来たらしい。男がどこの村の祭りを見るのか知らないが、名波村は北城町のすぐ北だ。もしかしたら名波村の祭りを見るのだろうかと千鶴が考えていると、御者が男に声をかけた。
「ほれにしても、旦那はついとるぞなもし」
「ついてる? どういうことだね?」
怪訝そうな男に御者は言った。
「ほんまじゃったら、祭りは昨日からじゃったんよなもし。ほんでも昨日は朝から大雨じゃったけん、予定が一日延びたんよ。ほんでなかったらこの馬車には乗れんかったぞな」
「どうしてだね?」
「あしらは風寄の人間じゃけんな。祭りの日は祭りに行かにゃなるまい」
「だったら、今日はどうしてこの馬車は動いとるんだね? 祭りは今日からなんだろ?」
「始まるんは今日の晩方からよ。まぁ、準備しよる者らは朝から動きよるけんど、あしらはぎりぎりまで商売しよるけんな。ほんでも今日はこの馬車でおしまいぞな」
春子は驚いたように千鶴を見た。まさにぎりぎりだったわけだ。自分たちは何とついていたのかと、春子はこぼれんばかりの笑みを見せた。
山高帽の男も、そうだったのかと驚きと安堵のいろを浮かべた。その様子を見て、御者は楽しげに男に話しかけた。
「旦那はどっからおいでたんかな?」
「東京だ」
男は素っ気なく答えた。田舎者相手に気を張っているようだ。すると、東京かな――と御者は驚いた声を出した。
「東京いうたら、先月、がいな地震に襲われたろ?」
「がい?」
「物凄てでっかい地震ぞな」
男はうなずくと、顔をしかめて言った。
「あぁ、そうだ。あれは最悪だった。まるで地獄みたいな有様だったよ」
「新聞にもそげなことが書いとったぞな。まぁ、ほんでも旦那はご無事でよかったわい」
優しい言葉をかけられたからだろう。男の表情から先ほどまでの尖った感じが消えた。
「ありがとう。自分でも運がよかったと思ってるんだよ」
「ほんで、今はどがぁしんさっとるんかな?」
「僕はね、東京で教鞭を執ってたんだ。だけど、東京は壊滅してしまったからね。それで職探しをしてたんだが、高松に教職の仕事があると教えてもらってね。それでこっちへ来たんだよ」
高松と言えば、お隣の香川県だ。それなのに愛媛の祭りを見物するとは、職を失った者には見えないと千鶴は思った。
「せんせ、実はね、あたしもあん時、東京におりましたんですよ」
二百三高地の女が男たちの話に加わった。
先生と声をかけるところだけを見ると、女は男の知り合いのように思える。だが、どうやらそうではないらしい。
男は驚いたように女を見ると、すぐに照れたような顔になった。
「あなたもあすこにいらしたんですか?」
女がうなずくと、男は顔を曇らせた。
「それは大変だったでしょうな。地震で建物は壊れるし、火事は起こるし、人が人ではおられぬ所でしたからな」
「確かに仰るとおりですわ。あたしもいっぺんはほとんど死によりましたけん。ほんでもお陰さまで、こがぁな元気な体にしていただきました」
「ほぉ、それはよかったですな。公然と人殺しが行われるような所でしたから、そんな話を聞かせていただくとほっとしますよ」
「人と言うものは、あげな時にこそ、ほんとの姿を見せるものなんですねぇ。あたし、ほれを身を以て知りました」
「まことに仰せのとおりですな」
男は何度もうなずいた。
千鶴は東京を知らない。しかし二人のやり取りが聞いていると、大地震と大火事で廃墟と化した町が目に浮かぶ。
がれきの前で佇む人や、狂ったように泣き叫ぶ人。誰かを必死に捜し回る人。所々から昇り続ける黒い煙。再び起こる地面の揺れに言葉を失う人々。些細なことで始まる争い。
千鶴の家は山﨑機織という小さな伊予絣問屋を営んでいる。
絣は普段着の着物生地として人気がある反物だ。中でも伊予絣は安くて丈夫ということで全国でも評判だった。
仕入れた伊予絣は松山市内の太物屋に届けられるが、東京や大阪にも出荷されており、遠くは東北の方まで送られていると言う。
そんな伊予絣問屋にとって、先月東京を襲った大地震は他人事ではなかった。東京へ送った絣のうち二十万反以上が灰になり、東京の取引先も甚大な被害を受けた。そのため多くの絣問屋が廃業に追い込まれていた。
また、東京へ絣を売り込みに出ていて地震に巻き込まれた者もある。山﨑機織でも東京で店廻りをしていた手代が亡くなった。
今のところ山﨑機織は何とか廃業は避けられたものの、東京への出荷再開は目途が立っておらず、この先、商いがどうなるかはわからない。
春子は東京の地震の話を聞いても、今ひとつぴんと来ない様子だ。しかし向こうの悲惨な状況や、山﨑機織にも及んだ被害を知っている千鶴は、東京の話に敏感になっている。
「姉やんは向こうの言葉と伊予言葉が混ざりよるな。姉やんはどこの生まれかな」
御者が二百三高地の女に訊ねると、さあねぇ――と女は惚けた様子で言った。
「生まれた所なんぞ忘れてしもたぞな。ほんでも昔、風寄におったことはあるんよ」
「ほぉ、どこぞに嫁入りしよったんかな」
女はくすくす笑いながら言った。
「あたしみたいな者、お嫁に欲しいて言うてくれるお人なんて、誰っちゃおらんわね」
「そんなことはないでしょう。あなたみたいにおきれいな方だったら、嫁に欲しいという者は掃いて捨てるほどいるはずだ」
山高帽の男が思わずという感じで言った。
女は驚いた様子で男を見ると、恥ずかしそうに微笑んだ。男も我に返ったのか、うろたえたように下を向いた。
春子は黙ったまま、意味ありげな目を千鶴に向けた。その顔は今にも噴き出しそうだ。
しかし、千鶴は笑う気分にはなれなかった。白木綿の老婆がずっと千鶴のことをにらみ続けている。
せっかくの楽しい名波村行きのはずだった。だが千鶴は沈んだ気持ちで、これまでのことを思い返していた。
三
千鶴の家は松山だが、女子師範学校は松山から西へ一里と少し離れた三津ヶ浜という海の近くにある。その行き帰りを千鶴は毎日歩いていた。
千鶴が入学した時には、女子師範学校は全寮制だった。そのため千鶴も寮に入っていた。
ところが千鶴が二年生の時に規則が変わり、実家が遠方でない者は、三年生からは自宅から通学することになった。それで千鶴は今は家から学校に通っている。しかし春子は実家が遠いので、四年生の現在も寮にいることが許されていた。
寮生活をしていると、毎日長い距離を通学しなくてもいいのは利点だ。だが逆に言えば、簡単には外へは出られないのである。それだけ寮の規則は厳しかった。
今回、春子が実家へ戻ることが許されたのは、故郷の村で秋祭りが行われるという特別な理由があるからだ。それも授業がない土曜日の午後に寮を出て、日曜日には戻って来るという約束で許可がもらえたのである。
本当は門限の五時には戻らなければならないが、それは無理な話である。それで先生と交渉の結果、日曜日の消灯時間までに戻る、ということにしてもらった。阿沼美神社の祭りの時も同じ条件で許可をもらっていたので、この交渉はむずかしくなかった。
当初の予定であれば、祭りは昨日始まるはずだった。だが先ほど御者が言ったように、大雨のために祭りの予定が変わり、開催が今日に延びたのである。
祭りの開催が土曜日に延期されたという話は、名波村の春子の実家から学校の電話を通じて春子に知らされた。
電話などどこの家にもあるというものではなく、千鶴の家にも電話はない。だが春子の父親は名波村の村長だった。それで、村で唯一の電話を持っていた。
その電話で春子に連絡が来たのは、昨日の夕方だった。そして、千鶴が大喜びの春子に誘われたのは今朝である。
祭りに招待されたことは、千鶴には嬉しいことだ。しかし、あまりにも急な話だった。授業が終わったら一緒に名波村へ行こうと言われても、よし行こうと返事ができるわけがなかった。何の準備もしていないし、何より家族の許可がなければ無理な話である。
そもそも女が気軽に遠出するなどできることではない。ましてや自分は働いてもいない女学生の身分だ。家族の許可をもらうのは、学生寮の許可をもらうよりもむずかしいことだった。
春子には申し訳ないが、千鶴はこの話を断ろうとした。しかし、春子は千鶴を連れて帰ると実家に伝えていた。
村長一家が千鶴が来るのを楽しみにしていると言われては、簡単に断るわけにもいかない。仕方なく、千鶴は春子に家の許可がもらえない可能性が高いことを説明した。その上で万が一にも許可がもらえたら、客馬車の駅で待ち合わせるという約束をした。
だが、客馬車がいつ出発するのかはわからない。そのため家の許可の如何に関わらず、客馬車の出発までに自分が現れなければ、一人で行ってもらうということで春子に了解させた。
とは言っても、そうなることは確実だと千鶴は考えていた。
午前の授業が終わると、千鶴は持参していた弁当も食べず、大急ぎで家路に就いた。いつもは歩く道をずっと小走りし続けた。
実は、千鶴は名波村には縁があった。
母が千鶴を身籠もった時、祖父と喧嘩をして家を飛び出し、しばらく名波村の寺で世話になったと聞いていた。
とてもよくしてもらったと母が言っていたので、いつか機会があれば訪ねてみたいという想いを、千鶴は抱いていたのである。
しかし家に着いた頃には、やはりだめだろうと、膨らんでいた千鶴の気持ちは再び小さくしぼんでいた。
山﨑機織の主は祖父だ。家の中でも祖父に一番の権限がある。その祖父は孫娘である千鶴を快く思っていなかった。
それに東京の大地震が起こったのは、つい一月前のことだ。向こうで多くの人が亡くなり、千鶴が知る手代も死んだ。店の被害もかなりのもので、店を潰さないようにとみんなが懸命にがんばっている。
そんな中で、他の土地の祭りに行きたいなど、自分で考えても不謹慎極まりないことだ。祖父の承諾を得るのは不可能に決まっていた。
それでも家に戻って祖父の前へ進み出た千鶴は、春子からの誘いと、こんな時期ではあるけれど、名波村へ行ってみたいという自分の気持ちを必死に伝えた。
喋るだけ喋ると、千鶴は仏頂面の祖父の視線から逃れようと下を向いた。
自分が無茶なことを言っているのはわかっている。すぐに雷のような怒鳴り声が落ちるはずだった。
しかし、千鶴の心配は杞憂に終わった。
どういうわけか、祖父はあっさりと千鶴の名波村行きを認めてくれた。しかも、小遣いまで持たせてくれたのである。
一応小遣いの名目は、向こうへの土産代と客馬車の運賃ということだった。だが、渡された銭はそれ以上あった。
千鶴は信じられない気持ちで頭を下げると、祖父から名波村へ行きの承諾とお金をもらったことを祖母に伝えた。
祖母も千鶴が気に入らない。祖母は驚きと困惑が入り交じった少し怒ったような顔を見せた。だが、夫が決めたことだから文句を言うことはなかった。
母は外で働いていて不在だったので、母には急いで置き手紙を書いて残して来た。
食べなかった弁当はこっそり丁稚たちにやった。食べ終わったあとの弁当箱は、祖母に見つからないように片づけといてと頼んでおいた。
途中で手土産の饅頭を買うと、千鶴は空きっ腹のまま小走りで、半里ほどある客馬車乗り場へ向かった。正直なところ、空腹と疲れでへとへとだった。
それでも三津ヶ浜から電車で来た春子と合流すると、嬉しさで最高の気分だった。しかし今はその気分も鎮まり、本当に自分は春子の家族に歓迎してもらえるのだろうかと、不安が募っていた。
四
「兄やん、兄やん。ここで降ろしておくんなもし」
白木綿の老婆が大声で御者に声をかけた。
馬車が止まり、御者席から御者が降りて来た。
客馬車には乗り場の駅がある。千鶴たちが乗ったのは、北の町外れにある木屋町口という駅だ。降りるのは終着駅の北城町だが、その中間辺りにある堀江村という所にも駅があった。
ところが、老婆が降りようとしているのは堀江の駅に着く前だった。どうやら降りる時は好きな所で降ろしてもらえるらしい。
御者が千鶴と老婆の間にある乗降口を開けると、老婆はそこから降りようとした。その時に老婆がよろけたので、千鶴は思わず手を伸ばして老婆を支えようとした。
しかし老婆は千鶴の手を振り払うと、嫌な目つきで千鶴をにらみ、それからゆっくりと客車から降りた。
老婆から乗車賃を受け取ると、御者は持ち場に戻り、客馬車は再び動き出そうとした。
その時、いつの間にか後ろから来た乗合自動車が、道を空けるよう催促した。御者は舌打ちをすると、客馬車を左端に寄せた。
道幅が狭いので、乗合自動車はゆっくりと馬車の横を、いかにも邪魔そうな感じで通って行った。
乗合自動車の後ろの座席には、客が三人乗っていた。その姿はちらりとしか見えなかったが、三人とも裕福そうな姿に見えた。
再び客馬車が、がたがたかっぽんかっぽんと動き出すと、後方を歩く老婆の姿はすぐに小さくなって行った。
一方で、前方を行く乗合自動車も次第に小さくなって行く。
千鶴の正面に、もう老婆はいない。しかし千鶴の胸には、老婆から向けられた憎悪が突き刺さったままだった。
千鶴の気持ちを知らないのか、春子は鼻息荒く言った。
「何や感じ悪いな、あの乗合自動車。ほら確かに乗合自動車の方が速かろ。けんど、乗り心地が悪いんは対よ。ほれやのに運賃が一円十銭もするんで。ほれに比べて、馬車の方は三十六銭じゃろ? ほら絶対馬車の方がええわいね」
じゃろげ?――と同意を求められ、千鶴は少しだけ微笑んでみせた。
千鶴は乗合自動車どころか、客馬車も生まれて初めて乗ったのである。それで客馬車はお尻が痛くなるのがわかったけれど、乗合自動車の乗り心地なんてわからない。だから春子の話には、どうにも返事のしようがないし、千鶴にはどうでもいいことだった。
堀江の駅に着くと、客馬車はしばらく停まっていた。
近くには四国遍路の札所があるので、お遍路の姿がちらほら見える。しかし、新たに客馬車に乗り込む客はいなかった。
匂い袋のきつい香りはまだ漂っている。どうやら匂い袋を忍ばせているのは二百三高地の女らしい。千鶴はこの匂いが気になったが、春子や他の乗客たちは何とも感じていないようだ。千鶴は匂いを避けて顔を馬車の後ろへ向けた。
客馬車が再び動き始めると、千鶴はそのまま後ろへゆっくり遠ざかる景色を眺めた。匂いだけでなく、他の乗客たちと目が合わせるのも嫌だった。しかし、後ろにも青い布が垂れ下がっている。それが邪魔で、見えるのは低い所にある道や田んぼばかりだ。
春子も最初のはしゃぎぶりは落ち着いたようで、今は静かに揺られている。鳥打帽の男は黙ったまま腕を組んでいるが、ちらりちらりと千鶴を盗み見するのは変わらない。
山高帽の男と二百三高地の女は、相変わらずお喋りを続けている。そこへ御者が話に交じるので、客車は賑やかだった。
聞くつもりはないけれど、勝手に耳に入って来る話によれば、山高帽の男には気にかけている甥っ子がいるらしい。
昔、その甥っ子は東京で暮らしていたそうだが、訳あって精神を病んでしまい引き籠もっていたと男は話した。
しかし甥っ子は気分を変えるために、何年か前にこちらへ移り住んだようだ。それで山高帽の男は高松へ赴任となったのを幸いに、その甥っ子に会いに来たと言う。
それなのに昨夜は三津ヶ浜の宿に泊まったと男が言うので、どうして松山まで来て三津ヶ浜で宿を取るのかと、千鶴はぼんやり考えていた。
「もうじき海が見えるけん」
不意に春子の声が聞こえた。見ると、春子は青い布を持ち上げ、千鶴に海を見せようとしている。春子は外の景色に気を取られていたのか、山高帽の男が言った三津ヶ浜という言葉には気がついていないようだ。
千鶴も青い布を持ち上げて景色を眺めてみたが、なるほど左手の先の方に海が見えて来た。それだけでずいぶん遠くへ来た感じがする。
やがて馬車が海のすぐ近くを走り始めると、右手に山の崖が迫って来た。この先の道はその崖沿いを走るらしい。
海は穏やかで大きな波は見えない。時折、優しげな潮風が千鶴たちの脇を通って、客車の中をくぐり抜けて行く。日はかなり西に傾いているものの、空が赤く染まるにはまだ時間がありそうだ。
御者が前を向きながら大きな声で喋った。話しかけている相手は乗客全員と言うより、山高帽の男と二百三高地の女の二人だろう。
「ここいらはな、粟井坂言うて、昔はこの右手の山を越える道しかなかったんよなもし。ほれが四、五十年前じゃったかの。あしが生まれるより前のことなけんど、この新しい道がでけたけん、こがいして馬車が走れるようになったんよ」
「へぇ、そうなのかね。この道を造るのは大変だったろうに」
山高帽の男が崖に造られた道を眺めて感心すると、山道の方がよかったのにと二百三高地の女が言った。
「昔の道には昔の道のよさと言うか、味わいがあるじゃござんせんか。せんせは、ほうは思われませんか」
男はうろたえた様子でうなずいた。
「そ、そう言われてみれば、確かにそうですな。古いものには味わいというものがある」
「けんど、前の道のままじゃったら、この馬車は走れまい」
御者が反論すると、山高帽の男は女をかばった。
「でも、やはり眺めは高い所の方がいいんじゃないかな」
すると、女は手で口を隠しながらくすくす笑った。
「嫌だわ、せんせ。山道は周りがが木だらけなんですよ。眺めなんかちっともよくありませんよ」
「あ、いや、それは……」
山高帽の男が顔を赤らめて口を噤むと、女はまた笑いながら言った。
「でもね、せんせ。ここの峠から見える景色は、今よりずっと見晴らしがいいんですよ」
「そ、そうなのかね。じゃあ、やっぱり山道の方がいいのかな」
「だけど馬車で走るんなら、やっぱしこっちの道の方がええぞなもし」
天邪鬼のような女だった。山高帽の男は完全に遊ばれている。千鶴は山高帽の男を気の毒に思った。
だが鳥打帽の男は下を向きながら、くっくっと笑っている。春子も笑いをこらえるのに必死なようだ。
五
粟井坂の山を過ぎると、広々とした平野に出た。ここからが風寄だと春子は言った。名波村はまだ先だが、春子はもう故郷へ戻ったような顔をしている。
過ぎた山の麓には小さなお堂があって、杖と菅笠を持ったお遍路が手を合わせていた。春子が言うには、あれは大師堂で弘法大師を祀ったものらしい。
しばらく行くと、街道沿いに町並みが現れた。ここが北城町かと訊ねると、ここは柳原だと春子は言った。
柳原には客馬車の駅はない。だが鳥打帽の男は、ここで降りると言った。
男は客馬車を降りる時、ちらりと二百三高地の女を一瞥した。それに対して、女の方もじろりと男を見返した。
千鶴には二人が目で何かを言い交わしたように見えた。しかし、すぐに男がこちらへ目を向けたので、慌てて下を向いた。
男は御者に金を払うと、もう客馬車には目もくれないで、辺りをきょろきょろと見回している。その様子を千鶴が眺めていると、もうし――と呼びかける声が聞こえた。
「もうし、そこにおいでる姉やん」
二百三高地の女がにこにこしながら、こちらを見ている。
春子は自分が声をかけられたのかと思ったみたいだった。だが、女の視線は千鶴に向けられていた。
また馬車が動き始めた。千鶴は当惑しながら女に顔を向けた。
「姉やんは、お国はどこぞなもし」
「松山です」
千鶴は小さな声で申し訳程度に返事をした。馬車の車輪の音が大きいので、女に聞こえたかどうかはわからない。
二百三高地の女は興味深げな目を向けながら、さらに話しかけて来た。
「こがい言うたら失礼なけんど、姉やんは異国の血ぃが入っておいでるん?」
千鶴は下を向いて答えなかった。見かねた春子が女に噛みつくように言った。
「ほれが何ぞあんたに関係あるんかなもし?」
女は平気な様子で微笑みながら答えた。
「別に関係はないけんど、昔、ほの姉やんによう似ぃたお人を見たことがあるもんで、ちいと聞いてみとなったぎりぞなもし。気ぃ悪したんなら謝ろわい」
「うちと似ぃた人がおいでるんですか?」
千鶴が思わず顔を上げると、女は機嫌よく言った。
「昔の話ぞな。ずうっと昔のね」
「ほのお人は、今はどこで何をしておいでるんですか?」
「さあねぇ。とんと昔のことじゃけん。ほんでもな、まっこと白うてきれいなお人やったぞな。今の姉やんみたいにねぇ」
女は千鶴を見つめながら微笑んだ。
人からきれいだなんて言われたのは初めてだ。千鶴はちょっぴり嬉しい気がした。しかし、この女が天邪鬼であることを思い出し、嬉しく思ったのが悔しくなった。
それに千鶴を眺める女の笑顔が、何だか品定めをしているようにも見えたので、また緊張が戻って来た。
千鶴が黙り込むと、女は千鶴に飽きたように、今度は御者に何かを話しかけた。
一方で、山高帽の男は千鶴に興味を持ったようだった。男は何か言いたげに口をもごもごさせた。だが間に春子が座っているからか、結局は千鶴に話しかけることはなかった。
「そろそろ着くで」
少し体をかがめた春子が、御者の前方に見える景色を眺めながら言った。客馬車は海沿いの松並木の道を走っている。前方に町並みが近づいているが、あれが北城町らしい。
春子は青い布を持ち上げて、町の左手に見える島を指差した。
「ほら、あそこにお椀みたいな、まーるい島が見えろ? あれは鹿島言うてな、鹿が棲んどる島なんよ」
陸からすぐ近くに浮かぶその小さな島は、何だか妙に存在感があった。鹿島を見た千鶴は、何故か胸の奥の方に小さな胸騒ぎを覚えた。
「もうし、姉やん」
また二百三高地の女が、千鶴に声をかけて来た。
千鶴が黙って女を見ると、両手で何かを持ち上げる仕草をしながら女は言った。
「申し訳ないけんど、そっちの日よけもちぃと持たげておくれんかなもし」
怪訝に思いながらも、千鶴は言われたとおり自分の後ろの青い布を持ち上げてやった。すると、そこには赤く染まった夕日が浮かんでいた。
「うわぁ、きれいやわぁ」
女が歓声を上げた。女の声で春子は後ろを振り返り、山高帽の男も後ろの青い布を持ち上げた。二人は感嘆の声を上げると、夕日に見とれた。
夕日は見事に美しかった。茜色の空の中、横に棚引く雲の層が金色に輝いている。また海の上にも、こちらへ延びる金色の帯がきらきらと揺らめいている。それはこれまでに千鶴が見た夕日の中で、一番美しい夕日かもしれなかった。
千鶴の目は夕日に釘づけになった。しかし、それは夕日の美しさに見とれたからではない。何故だかわからないが、夕日を眺めているうちに、胸の底から深い悲しみが湧き出して来た。その悲しみが千鶴の目を夕日から離さなかった。
前方の鹿島が近づいて来て、夕日と鹿島が同じ視野に入ると、千鶴は胸を掻きむしって泣き叫びたくなるような衝動に襲われた。
これは明らかにおかしい。理由もなくこれほど悲しくなるのは異常と言える。
暴走しそうな感情に動揺した千鶴は、夕日から自分を引き剥がすようにして前を向いた。右手で押さえた胸の中では、まだ悲しみが暴れている。
青い布が再び垂れ下がったからだろう。あら?――と二百三高地の女が声を出した。
申し訳なく思った千鶴がちらりと目を遣ると、女は意外にもにこにこ微笑んでいた。
泣きそうにゆがんだ顔を面白がっているのだろうと、千鶴は女から顔を背けて後方の景色を見た。
悲しみは少し落ち着いた。それでもまだ消えたわけではなく、胸の中でぐるぐると蠢いている。ただでも不安がいっぱいなところに、こんな理由のわからない悲しみに襲われるなんて尋常じゃない。自分はおかしくなったのではないかと、千鶴はうろたえていた。
「到着じゃ」
春子が嬉しそうに千鶴を見た。千鶴は笑顔を繕い、ようやっと着いたねと言った。動揺が収まったわけではないが、春子に悟られるわけにはいかない。頭がおかしくなったと思われるのは嫌だった。
このあとは名波村まで歩いて行くけど、途中でもう一度夕日が見られると春子が嬉しそうに言った。しかし、千鶴は微笑むしかできなかった。
がんごめ
一
「ほうかな。おとっつぁんはロシアのお人なんかな」
割烹着を着た春子の祖母マツは、千鶴の話に大きくうなずいた。
薄暗くなった空間を、土間の竈と囲炉裏の火が暖かく照らしている。その囲炉裏を囲んで千鶴たちは喋っていた。
昼間はまだ暖かいが、日が翳るとすぐにひんやりした感じが染み出して来る。夕暮れ時の今、囲炉裏の火はとても有り難かった。
土間にある台所では春子の母イネが、春子の兄嫁の信子と竈で飯を作りながら、千鶴たちの話を聞いている。
そんな春子の家族に千鶴の緊張は続いていた。
春子は女子師範学校に入学した時に、同級生にロシア人の親を持つ生徒がいることを家族に話していた。しかし、この日訪ねて来るのがその生徒であることは、うっかり伝えていなかったらしい。
春子に家の中へ招き入れられた千鶴を見ると、マツたちはとても驚いた顔を見せた。その様子に千鶴は血の気が引いた。
それでもマツもイネも驚いただけで嫌悪のいろは見せなかった。土産の饅頭を喜んで受け取り、千鶴を歓迎してくれた。
一方、信子は無口な嫁で、義母たちに遠慮しているのか、千鶴が挨拶をした時も黙って会釈をしただけだった。
本当のところ、千鶴にはマツたちの心の内がわからなかった。千鶴に嫌な顔を見せないのは、千鶴を親友だと言う春子を気遣ってのことかもしれないのである。それで囲炉裏端へ上げられても、千鶴はずっと気を張ったままだった。
それに夕日を見た時のような感情が、いつ込み上げて来るかもわからない。マツたちを前にして同じようになったなら、絶対に気づかれてしまうだろう。そのことも千鶴を緊張させていた。
いずれにせよ、とにかくいい印象を持ってもらおうと、千鶴はできる限り丁寧な姿勢で喋ることを心掛けた。
今のところはマツもイネも好意的に見える。二人とも村長の家族なのに、少しも威張った感じがなく温かい人柄のようだ。
ただ、信子は千鶴の話に交ざろうとせず、台所で黙々と手を動かしていた。その様子が千鶴には少し冷たい感じに見えた。
しかし春子はそんなことにはまったく無頓着で、千鶴について得意顔で説明した。
「山﨑さんのおとっつぁんはロシアの兵隊さんでな。おっかさんはおとっつぁんが入院しよった病院の看護婦さんやったんよ」
父親がロシア人だと言えば、それだけで日露戦争の捕虜兵だったとわかるに決まっている。だから春子の母も祖母もそのことを敢えて確かめようとはしなかったのだと、千鶴は受け止めていた。
それは千鶴への思いやりかもしれないが、ただの当惑かもしれなかった。それをわざわざロシアの兵隊だと、春子にはっきり告げられて千鶴は戸惑った。
それに、信子の動きが一瞬止まったのを千鶴は見逃さなかった。やはり信子は千鶴がロシア兵の娘であることに、何らかのわだかまりがあるのだろう。
マツは春子の説明に、ほうかね――ともう一度うなずいたが、特別な変化は見せなかった。イネも何も言わなかった。無関心を装っているような妙な雰囲気だ。
千鶴の中で不安がぐるぐる回り出した。その時、マツがぽつりと言った。
「千鶴ちゃんも苦労したんじゃろね」
マツの言葉は千鶴の胸を打った。そんな言葉をかけてもらえるとは思いもしていなかった。返事をしようとすると涙が出そうになって、千鶴は言葉を返せなかった。
マツは黙って囲炉裏に吊した土瓶を外すと、千鶴たちにお茶を淹れてくれた。
台所のイネは千鶴たちを振り返ると、部屋の隅にある棚に、昼に食べた残りのおはぎがあると言った。
「千鶴ちゃん、おはぎ食べるじゃろ?」
イネのにっこりした笑顔を見ると、涙がぽろりと千鶴の目からこぼれ落ちた。
千鶴は慌てて涙を拭うと、いただきます――と笑顔で言った。
千鶴の涙には春子も少しうろたえたようだった。しかし、千鶴がおはぎを食べると言ったので、元気よく立ち上がると、棚からおはぎが載った皿を運んで来た。
「信子さんも食べん?」
春子が声をかけると、信子は微笑みながら首を横に振った。
「お昼にたんといただきましたけん、ほれは春ちゃんたちで食べてつかぁさい」
ほんじゃあ――と言って、春子は千鶴の隣に腰を下ろし、二人の間に皿を置いた。皿の上には大きなおはぎが四つ載っている。あんこがたっぷりでとても美味しそうだ。
千鶴の心の中は、心配と安心がぶつかり合っていた。
しかし、おはぎを目の前に置かれると、昼を食べずに来たことを思い出し、急に空腹に襲われた。
「今日はばたばたしよったけん、お昼もちょこちょこっと食べたぎりなんよ。ほじゃけん、ちょうどお腹が空きよったとこやし」
春子はマツたちに嬉しそうに言った。
村上さんはお昼を食べて来たんかと、千鶴は少しむっとした気分になった。
でも、春子に罪はない。千鶴が松山の自宅まで歩いて戻らねばならなかったのは、春子の責任ではない。学校の規則である。三津ヶ浜から松山まで春子が電車に乗られたのも、自分と春子とでは家の事情が違うのだ。
それでも千鶴は、いろいろと恵まれている春子が羨ましかった。
二
「ほら、山﨑さん、遠慮せんで、お食べな」
春子に促され、千鶴はおはぎを手に取った。
これをいただけるのだから、もう昼飯のことは忘れよう。そう思って、千鶴はおはぎを口元へ運んだ。
その時、春子がおはぎを手に持ちながら言った。
「山﨑さんは、おとっつぁんの方の血ぃが濃いんよね」
おはぎを食べようと、口を開けていた千鶴はぎくりとなった。
春子はまだ千鶴のことを説明したいらしい。千鶴に話しかけながら、その目はマツとイネに交互に向けられていた。
しかし、自分の容貌のことを話題にされるのは、千鶴は好きではなかった。それにどちらの親の血が濃いのかは、説明しなくても見ればわかるものである。
千鶴はちらりと春子を見たあと、口元に運んだ手を膝の上に降ろして言った。
「うちの肌が白いんとか、目ぇの辺りなんかは、父に似ぃとるそうです。けんど、鼻とか口元は母似やそうです。髪の毛とか目ぇの色が薄いんは、父親の血ぃでしょうけんど、色が茶色っぽいんは、母親の血ぃやと思とります」
千鶴は少しでも自分が、日本人である母と似ていることを強調したかった。だが、それは肌が雪のように白く、ほとんどロシア人のような顔つきであることへの劣等感の裏返しだった。
マツもイネもうんうんとうなずくだけで、千鶴の顔についていろいろ言わなかった。それで千鶴が少しほっとしたところで、また春子が楽しげに喋った。
「山﨑さんの背ぇが高いんは、おとっつぁんの血ぃやな」
確かに、千鶴は他の生徒から比べても背は高い方だ。しかし、それは女子にとって自慢できることではない。
それでも、春子は千鶴を援護しているつもりなのだろう。今度は千鶴の成績を褒め立てた。
「ばあちゃん、山﨑さんはな、学校でも成績優秀なんで。やけん、先生からの評判もええんよ」
「ちぃと村上さん。そげな嘘は言うたらいかんぞな」
自分では成績が優秀だなどとは思ったことがない。もっと成績がいい生徒はいくらでもいる。
だが千鶴が文句を言っても、嘘やないで――と春子は取り合わない。
「山﨑さん、試験ではいっつもおらよりええ点取るやんか」
「ほやけど、うちの点なんか大したことないぞな」
千鶴が言い返すと、イネが笑いながら口を挟んだ。
「問題は春子の点がなんぼか言うことじゃろな」
ほれは、ほうじゃ――とマツも笑った。千鶴も春子も釣られて笑った。しかし、背中を向けている信子の顔はわからない。
笑いが収まると、マツは千鶴に訊ねた。
「ほれで、千鶴ちゃんのおとっつぁんは松山においでるんかね?」
「いえ、父はロシアにおります。あ、今はロシアやのうて、ソビエトれんぽうとかいう名前になったみたいですけんど」
「ソビ?」
「ソビエトれんぽうです」
その国名をイネは言えたが、マツには言いにくそうだった。
「むずかしい名前じゃねぇ。けんど、お国が変わる言うたら大事ぞな。千鶴ちゃん、おとっつぁんとは手紙のやりとりしよるんかな?」
千鶴は、いいえと首を振った。
「母は父に住所を教えんで、父の住所も聞かんかったそうです」
「へぇ、ほれはまた何でぞな?」
「ロシアの兵隊さんと一緒になれるわけないですけん。母は父とのことは思い出として、大切に胸に仕舞とこと思たそうです」
「ほんじゃあ、おとっつぁんは千鶴ちゃんが産まれたことも知らんままなんじゃねぇ」
イネが気の毒そうな顔をすると、マツは励ますように言った。
「ほんでも、千鶴ちゃんにはおっかさんもおいでるし、お家の方もおいでるけん心強いわな」
千鶴はうなずいた。だが、胸の中は複雑だった。
「さてと、もちぃとゆっくり話を聞かせてもらいたいとこなけんど……」
マツは台所の二人を見ると、申し訳なさそうに両膝をさすりながら言った。
「もうまぁ男衆が、だんじりの屋台こさえ終わる頃なけんな。戻んて来て食べるご飯をこさえとかにゃいけんのよ。いつもじゃったらあの二人に任せとくんやけんど、今日はおらもただ座っとるぎりにゃいかんけん」
続いてイネが、竈の火加減を確かめながら言った。
「ほん時に千鶴ちゃんも、みんなとご飯食べたらええよ。七時頃になったら神社の参道に、ここらの屋台が集まるけん、一緒に見に行こわいね。屋台の提灯に火ぃ灯すけん、きれいなで」
春子も母の言葉に合わせて言った。
「半鐘や太鼓をジャンジャンドンドン鳴らすけん、火事で騒ぎよるみたいに聞こえるんよ。ほれに屋台にいっぱい飾った笹が、提灯の明かりで照らされてな、遠目に見よったら、ほんまに火ぃ燃えよるみたいなで」
「千鶴ちゃんと春子はゆっくりしよったらええけん」
二人に声をかけると、マツは立ち上がって腰を伸ばした。すると春子が、自分たちも何か手伝おうかと申し出た。
千鶴はちょっとどきりとしたが、みんなが忙しい中でのんびり座っているわけにもいかない。それに、自分に優しくしてくれたマツたちを手伝いたい気持ちはあった。
イネは土間の隅に置いてあった菜っ葉を拾い上げると、千鶴たちに笑顔を見せながら言った。
「近所の女衆も家でこさえた物を持て来るけん、まぁ大丈夫言うたら大丈夫なけんど、手ぇ空いとんなら手伝てもらおかいね」
喜んでお手伝いします、と千鶴が言うと、イネもマツも嬉しそうに笑った。しかし、信子は背中を向けたままだった。
春子は家の奥に目を遣ると、ところでな――と言った。
「ヨネばあちゃんはどがいしよるん?」
「部屋におるよ」
「たぶん寝とるな」
イネとマツは代わる代わる答えた。
春子は少しがっかりしたように言った。
「寝とるんか。山﨑さん紹介しよて思いよったのに」
「まぁ、声かけてみとうみ。起きとるかもしらんけん」
マツが言うと、春子はうなずいた。
「一応声かけてみよわい。手伝いはほのあとでも構ん?」
構ん構ん――とマツは言った。
「ほんでも、その前におはぎを食べておしまいや」
イネに言われると、春子はうなずき大きな口を開けた。その口におはぎが入る前に、千鶴は小声で訊ねた。
「村上さん、おばあちゃんが二人おるん?」
「ひぃばあちゃんぞな」
それだけ言うと、春子はおはぎにかぶりついた。
ひぃばあちゃんという言葉に千鶴は驚いた。千鶴には祖母はいるが、曾祖母はいない。千鶴の周辺でも曾祖母の話は聞いたことがなかった。
祖父母の親の代の人間が、まだ生きているということは、千鶴にとって驚きだった。まるで遠い昔から現代へ抜け出して来たような印象だ。
曾祖母というものに千鶴が感服している間に、春子は一つ目のおはぎを全部口の中に詰め込んでいた。
春子が甘い物に目がないことは、これまでの付き合いで千鶴も知っていた。それでも、その勢いに千鶴は困惑した。
春子は早く食べ終えて、母親たちの手伝いをするつもりなのだろう。でもまさかお客の自分が、同じような食べ方をするわけにはいかない。とにかく急いで食べねばと思っていると、マツが春子を注意した。
「ほらほら、そげな食い方しよったら喉に詰めてしまうぞな」
春子は大丈夫と言おうとしたようだった。ところが、急に動きを止めて目を白黒させた。心配したとおり喉に詰めたらしい。
千鶴は急いでお茶を飲ませようとした。しかし、お茶はまだ熱かったので、春子は飲もうとしたが飲めなかった。
そこへ信子が湯飲みに水を汲んでくれた。春子はそれを受け取ると、苦しそうにしながら飲んだ。
「あぁ、助かった。ほんまに死ぬるかと思いよったで」
一息ついた春子が、お礼を述べながら湯飲みを信子に戻すと、信子はようやく笑顔を見せた。だが千鶴と目が合うと、すぐにその笑みを引っ込めた。
「気ぃつけなさいや。死んでしもたら、何のために学校へ行きよるんかわからんなるで」
イネに叱られ、春子は気まずそうに頭を掻いた。
台所に戻った信子は、何事もなかったように作業を再開した。しかし、その背中が千鶴に何かを言わんとしているようだ。
千鶴はそれに気づかないふりをして、おはぎを小さくった。そうするよりほかなかった。
三
おはぎを食べ終わると、春子は千鶴を家の奥へ案内した。
いくつかの部屋を横切ったあと、千鶴たちは渡り廊下に出た。その先には離れの部屋があった。
外はすっぽりと夕闇に包まれている。夕日はとっくに沈んだが、西の空は夕日の名残で茜色に染まっている。そのわずかな光で何とか周囲の様子は見て取れた。
塀に囲まれた敷地の中には大きな蔵がある。山﨑機織にも反物を仕舞っておく蔵があるが、こちらの蔵の方が遥かに大きい。中には何が入っているのだろう、と千鶴が考えているうちに離れの部屋に着いた。
「ヨネばあちゃん、山﨑さん見たら喜ぶで」
春子が千鶴を振り返って言った。
「なして喜ぶん?」
「山﨑さんは、おらが初めて家に連れて来た女子師範学校の友だちじゃけんな」
ロシア兵の娘だということで、千鶴は人から顔をしかめられることが多かった。
イネとマツは優しい応対をしてくれたが、信子は千鶴を快く思っていないように見える。
春子の曾祖母がどんな顔を見せるのか千鶴は心配だった。しかし春子が絶対に大丈夫だと言うので、その言葉を信じることにした。本当に喜んでくれるなら、それはとても嬉しいことだ。
離れの部屋は障子が閉まっていた。これでは中の様子はわからない。
春子は廊下に膝を突いて座ると、中にいる曾祖母に障子越しに声をかけた。
「ヨネばあちゃん、春子やで。起きとる?」
声が聞こえないのか、中から返事はなかった。それでも春子が何度か大きめの声をかけると、ようやく嗄れた声が聞こえた。
「おぉ、春子か。音遠しぃのぉ。ほれ、そこ開けて中へお入り」
春子は嬉しそうに千鶴を振り返り、起きとる起きとる――と潜めた声で言った。
春子が障子を開けると、饐えたような匂いが鼻を突いた。中はほとんど真っ暗でよく見えない。
「ヨネばあちゃん、今まで寝よったん?」
「ちぃと、うとうとしよったぎりなけんど、もう夜になってしもたかい」
闇の中から老婆が答えた。
「明かりつけたげるけんね」
春子は部屋の中へ入ると、ごそごそと何かを始めた。しばらくすると、ぼぉっと明るくなった。マッチに火を灯したらしい。
春子がつけた行灯の光で、部屋の中はほの明るく照らされ、千鶴にもようやく中の様子がわかった。
部屋の真ん中には布団が一つ敷かれており、そこに老婆が横になっていた。この老婆がヨネという春子の曾祖母らしい。
部屋の隅には箪笥が一つぽつりと置かれているが、他には特にこれと言うものはない。
ヨネが藻掻くようにして体を起こそうとすると、春子は傍へ行って、ヨネの体を支えてやった。
枯れ枝のようなヨネは半身を起こすと、春子の手を取って嬉しそうに笑った。
「まっこと音遠しぃわいなぁ。もう、何年になるかいね。久し会えんけん、お前にゃ二度と会えまいかて思いよった」
「何言うんね。お盆にも戻んて来たろがね。忘れたん?」
「お盆? はて、ほうじゃったかいな」
「おら、盆と正月には必ず戻んて来とるんよ。もちぃとしたら、また正月やけん、ほん時にも戻んて来るんで」
ほうかほうか――とヨネはまた嬉しそうに春子の手を撫でた。
その時、人の気配を感じたのか、ヨネはふと廊下の方へ顔を向けた。
「誰ぞがそこにおるな」
廊下で座って待っていた千鶴を、ヨネは震える手で指差した。
「おらの学校の友だちじゃ。お祭り見せよ思て誘たんよ」
春子は明るい声で説明した。ヨネは表情を緩めると笑顔を見せた。
「ほうかほうか。春子のお友だちか。ほれはええわいな。おら、もう目がよう見えんけん、失礼してしもたわい」
ヨネは千鶴に手招きすると、枕元をごそごそ探り始めた。
何を探しているのかと春子に訊かれたが、ヨネは黙ったまま枕元の布団の下に手を入れた。そこからヨネが取り出したのは、じゃらじゃら音がする巾着袋だった。音の正体は小銭だ。
ヨネは袋の小銭を全部布団の上に広げると、数を数え始めた。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……」
千鶴が傍へ来ても、ヨネは気がつかない様子で熱心に勘定し続けている。そうして一銭玉を十枚ずつ二列に並べたヨネは、その一方を集めて春子の手に持たせた。
「だんだん、ヨネばあちゃん!」
春子が大喜びすると、ヨネは嬉しそうにひゃっひゃっと笑った。それから残りの十枚を両手で集めると、こっちのはお友だちに――と言いながらヨネは顔を上げた。
目も口も小さく皺だらけの顔は、人懐こそうな笑みを浮かべていた。しかし千鶴を見た途端、その小さな目と口は大きく開かれた。
「が、がんごめ! がんごめじゃ!」
ヨネは悲鳴を上げ、千鶴から逃げようとした。その拍子に手に載せられていた小銭が、ばらばらっと辺りに散らばった。
「ヨネばあちゃん。何言いよん? この子はおらの友だちで」
驚き慌てた春子はヨネをなだめながら、改めて千鶴の説明をしようとした。だが、もはやヨネの耳には春子の言葉は届かないようだった。
ヨネは春子の手を振り払うと、狂ったように逃げようとした。しかし足腰が弱っているのか、思ったようには動けないみたいだ。少し這った所で千鶴を振り返ると、興奮した声で叫んだ。
「誰ぞ! 誰ぞ、おらんのか! マツ! マツはどこじゃ! がんごめじゃ! がんごめが来とるぞ!」
千鶴は困惑していた。
がんごめという言葉の意味は、千鶴にはわからない。だが、ヨネは明らかに千鶴を拒絶していた。それは、千鶴が他の日本人と違う顔をしているからに違いなかった。
「ヨネばあちゃん、好ぇ加減にしぃや! おらの友だちに失礼じゃろがね!」
さすがの春子も口調が荒くなった。それに対して、ヨネは負けじと言い返した。
「何が友だちじゃ! 春子、お前は騙されとるんじゃ。こいつは、がんごめぞ。化け物なんぞ! 誰ぞ! 誰ぞ、おらんか!」
――化け物……。
その言葉はこれまで千鶴に向けられたどんな悪い言葉より、千鶴の心を深く傷つけた。それは千鶴の人間としての存在を完全に否定するものだった。
ヨネは近くに転がった枕をつかむと、千鶴に投げつけた。枕は千鶴の体に当たってぽとりと落ちた。続けて空っぽの巾着袋さえも投げつけると、ヨネはさらに這って逃げ、箪笥の陰でがたがた震えた。
「ごめんよ、山﨑さん。ヨネばあちゃん、惚けとるんよ」
春子はおろおろしながら千鶴を振り返った。
そこへ騒ぎを聞きつけたイネがやって来た。イネの声が聞こえると、千鶴は反射的に逃げ出した。
山﨑さん!――後ろで春子の声が聞こえた。しかし、千鶴は渡り廊下でイネの脇をすり抜けて土間へ向かった。
台所にいたマツと信子が驚いた顔で見ていたが、千鶴は二人を振り返りもせず、そのまま外へ飛び出した。
長屋門から表に出ると、薄闇の中を大勢の人影がやって来るのが見えた。顔や姿はまったくわからないが、その雰囲気と喋り声は戻って来た男衆に違いなかった。
千鶴は男衆を避けようと別の道を走った。向かう方角なんてわからない。とにかく、この場から誰もいない所へ逃げたかった。
四
どのくらい走ったのだろう。千鶴は息が切れるのも忘れ、消えてしまいたい一心で走っていた。
気がつけば、千鶴は右手に山裾が迫る道にいた。左手に生い茂る樹木の向こうから、川のせせらぐ音が聞こえている。その川音に合わせるかのように、あちこちで秋の虫が鳴いている。
頭上に広がる天のほとんどは、星空に埋め尽くされている。しかし空の下方には、わずかに明るさが残っている所があった。その少し上に細い月が申し訳なさそうに浮かんでいる。あの少しだけ明るい方角が西だとすると、どうやら東へ向いて走って来たようだ。
西空に残されたわずかな明かりを頼りに、辺りの様子が何とかわかる。それでも岸辺に茂る木々が、その微かな光を遮るので道の先はよく見えない。
木々の間から川の向こうを見てみると、狭い所に田畑があり、その奥には丘陵がある。そこは光が届かず真っ暗だ。
辺りに民家は一軒もなく、人気もまったくない。誰もいない所を求めたはずだったが、千鶴は次第に心細くなって来た。それでも、化け物と罵るヨネの声が頭の中で繰り返されると、また悲しさが込み上げる。
千鶴はその場にうずくまって泣いた、だが、後ろの方に何かの気配を感じて泣くのをやめた。
しゃがんだまま後ろを振り返った千鶴は、気配を感じた辺りをじっと見つめた。しかし闇に埋まった道はよく見えない。目を凝らしても何も動く物はなさそうだし、川音と虫の音以外は何も聞こえない。
闇は濃さが増したようで、千鶴は今度こそ本当に不安になって来た。こんな所にいつまでもいるわけにはいかないが、さりとて行く当てなどどこにもない。
もう春子の家には戻れない。きっと他の者たちも、春子の曾祖母と同じ目で見ているに違いない。そう思うと、風寄だけでなく世の中のすべての人から、同じように見られている気がして、千鶴はまた泣きたくなった。
その時、突然頭上でがぁと大きな声が聞こえた。驚いて見上げると、道の上に大きく突き出した木の枝に、カラスが一羽留まっていた。
腹が立って思わず立ち上がると、カラスはバサバサと羽音を立てて飛んで行った。
「どがいしよう?」
不安な気持ちに戻った千鶴が小さくつぶやいた時、ガサガサっと音が聞こえた。近くに何かがいる。
びくりとしたあと、千鶴はじっとしたまま音が聞こえた方に目を凝らした。だが、やはり暗闇でよくわからない。
音が聞こえたのは、さっき気配を感じたのとは真逆の方角、つまり道の前方だった。
しばらくじっと闇を見ていると、動物の荒い鼻息のような音が聞こえた。闇の中を、闇よりも黒い大きな影が動くのが見えた。
千鶴は全身の毛が逆立ったように感じた。
影の大きさから見る、相手はかなり大きな獣のようだ。これは明らかに危険な状態である。
千鶴は気づかれないように、そろりそろりと後ずさりした。しかし、気をつけていたつもりなのに、草履が踏んだ小石がじゃりっと鳴った。
もぞもぞ動いていた影がぴくりと動きを止めた。気づかれたらしい。万事休すだ。
千鶴は迷った。このまま後ずさりで逃げるか、相手に背中を向けて駆け出すか。
ただ、駆け出したところで向こうの方が速いだろう。どうしたところで逃げられないに違いない。
ここはじっとしながら相手の様子を見るしかなさそうだと千鶴は思った。こちらに敵意がないのがわかれば、興味を失って向こうへ行ってくれるかもしれない。
黒い塊にしか見えない相手とにらめっこをしていると、カッカッという音が聞こえて来た。何だろう。不気味な音だ。
続けて、ざっざっという音。脚で土をかいているのだろうか。
――これはイノシシ?
何だか、イノシシのような気がして来た。しかし、千鶴は本物のイノシシは見たことがない。
千鶴の祖父は絣問屋仲間と山へイノシシを撃ちに行くことがある。仕留めた時には、祖父は家族の前で両腕を広げて獲物の大きさを自慢したものだ。だが目の前にいる黒い影はそんなものではない。これがイノシシだとすれば尋常ではないだろう。これこそ本当の化け物だ。
暗闇の中なので、相手の様子はよくわからない。しかし人を憎悪する気のようなものが、ひしひしと伝わって来る。相手には千鶴を見逃す気はなさそうだ。
――来る!
そう思った刹那、黒い影は勢いよく千鶴の方に突進して来た。
あっという間に、黒い影は千鶴の近くまで迫った。恐怖にすくんだ千鶴は頭の中が真っ白になり、ふっと意識が遠のいた。
消えゆく意識が感じていたのは、ゆっくりと体が倒れて行く感覚だ。ぼんやりと考えたのは、もうだめだというあきらめだった。
次の瞬間、衝撃が千鶴を襲うはずだった。だが、千鶴の体は宙に浮かんだまま、何の衝撃も伝わって来ない。ちらりと獣の臭いがしたが、痛みは少しもない。代わりに、何だか懐かしいような温もりが千鶴を包んでいた。
もう自分は死んだのだろうかと、安らぎを感じながら千鶴はふと思った。しかし、そのあとすぐに何もわからなくなった。
飾られた花
一
愛らしい野菊の花が一面に咲いている。
後ろに束ねた千鶴の髪が、時折そよぐ風に揺れる。すると、花たちも嬉しそうに左右に首を振る。まるで千鶴に話しかけているようだ。
千鶴はこの花が好きだった。しゃがんで花を眺めていると、背後で千鶴を呼ぶ声が聞こえた。
振り向こうとすると、後ろから伸びて来た手が、そっと優しく千鶴の頭を押さえた。その手は摘んだ野菊の花を千鶴の髪に挿してくれた。
立ち上がって振り返ると、そこに若い侍が立っていた。
逆光になっているせいか、侍の顔はよくわからない。それでも若侍が自分と親しい仲なのはわかっている。若侍から漂う懐かしく温かい雰囲気が、千鶴を抱くように包み込む。
若侍は千鶴を眺めながら嬉しそうに言った。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
千鶴はとても幸せだった。このまま時が止まればいいと思っていた。
だがその時、誰かが千鶴の体を強く揺らした。
「山﨑さん、しっかりしぃや! 山﨑さん!」
千鶴は肩を揺らされていた。目を開けると、若い娘が泣きそうな顔で、千鶴の顔をのぞき込んでいる。
「気ぃついたんじゃね。よかった! 山﨑さんにもしものことがあったら、おら、どがいしよかて思いよった」
千鶴が体を起こすと、若い娘は千鶴に抱きついて泣いた。
意識が急速に現実に焦点を合わせ、泣いている若い娘が春子であることを、千鶴は思い出した。どうやら、さっき見ていたのは夢だったようだ。しかし、あの夢の方が現実だったような気がしている。
千鶴は夢から引き戻されたことに、腹立たしさを覚えていた。自分とあの若侍は本当に惚れ合っていたのである。あのまま若侍と一緒にいられた幸せの中に、ずっと浸っていたかった。
しかし、目覚めてしまったものは仕方がない。どんなに幸せでも夢の話だ。あきらめるしかない。
辺りを見回すと、そこは部屋の中で、千鶴がいるのは布団の上だった。
春子の後ろには、年老いた坊さまと老婦人が座っている。
「ここは……どこぞなもし?」
訊ねる千鶴に、坊さまは微笑みながら言った。
「ここは法生寺という寺でな。わしは知念じゃ。隣におるんは、わしの女房の安子ぞな」
「法生寺?」
聞いたことがある名前だと思ったあと、千鶴ははっとなった。
「法生寺て、うちのお母さんがお世話になったお寺?」
そう言ってから、千鶴は慌てて自分と母の名を告げた。母が世話になった寺の名を、法生寺だと千鶴は聞いていた。
知念和尚は、わかっとるぞな――とうなずいた。
「千鶴ちゃんが幸子さんの娘さんじゃいうんは、春ちゃんから話を聞いてわかったぞな。お母さんは元気にしておいでるかな?」
安堵した千鶴は、母は今でも和尚夫婦に感謝していると伝えた。
和尚たちは嬉しそうにうなずき合い、安子は感慨深げに言った。
「あん時、幸子さんのお腹ん中おった子が、こげなきれいで立派な娘さんに育ったやなんてなぁ……。ほれにしても、千鶴ちゃんが目ぇ覚ましてくれてよかった。今な、お医者呼ぼかて言いよったとこなんよ」
安子に褒めてもらった千鶴は、気恥ずかしくて下を向いた。しかし、すぐに我に返ると顔を上げた。
「うち、いったい――」
自分に何があったのかと、千鶴は訊ねようとした。だが、その前に春子が待ちかねたように言った。
「おら、山﨑さんのこと探しよったんよ。けんど、どこ探してもおらんけん、もしや思てここ来てみたら、表で倒れよった言われてな……。ほっとしたけんど、ほんまに心配したんで」
春子の言葉に千鶴は当惑した。
「ちぃと待ってや。うちがどこで倒れよったて?」
倒れるようなことがあった覚えはない。うろたえる千鶴に、山﨑さんはここで倒れよったんよと、春子はもう一度言った。
千鶴が驚いていると、知念和尚が説明した。
「ちょうどわしと安子が、幸子さんは今頃どがぁしておいでようか、お腹におった子も大きなっとらいなぁ、と話しよった時のことぞな。いきなしどんどんどんと玄関の戸を叩く奴がおってな。誰じゃろ思て出てみたら、千鶴ちゃんがそこに倒れよったんよ」
「倒れよった言うよりは、寝かされよった言うんが正しいぞな」
安子が和尚の言葉を訂正した。
安子によれば、千鶴は髪も着物も乱れないまま、真っ直ぐ仰向けに寝かされていたらしい。履いていたはずの草履は、千鶴の脇にきちんと並べられてあったそうだ。
「じゃあ、誰ぞがうちをここまで運んだいうこと?」
千鶴は三人の顔を順番に見た。だが千鶴の様子に、みんな困惑しているようだ。
安子が和尚に目を向けると、和尚は少し戸惑いながら言った。
「千鶴ちゃんが自分でここへ来たんやないんなら、ほういうことになるんかの。ほんでも、誰が千鶴ちゃんをここへ運んだんかは、わしらにもわからんぞな」
安子も和尚に続けて言った。
「千鶴ちゃんに何があったんかも、うちらにはわからんのよ」
「山﨑さん、おらの家飛び出したあと、何があったん?」
春子が焦ったように訊いたが、千鶴は春子の言っていることがわからない。
「うち、村上さんの家におったん?」
春子の顔が引きつった。
「山﨑さん、大丈夫なん? どっかで頭ぶつけたんやないん?」
「千鶴ちゃん、春ちゃんに誘われて、名波村のお祭り見においでたんじゃろ?」
安子に言われると、千鶴はそうだったような気がした。しかし、今一つはっきりと思い出せない。何だか頭の中に靄がかかったような感じだ。
何とか思い出そうと、何気なく右手で頭を押さえると、指先に何か柔らかい物が触れた。何だろうと手に取って見ると、それは野菊の花だった。
二
「あれ? 何これ? なして、こげな物がうちの頭にあるん?」
頭にあった野菊の花を見て千鶴は驚いた。だが、すぐにさっき見た夢を思い出し、これは夢の続きなのかと訝った。
「そのお花、千鶴ちゃん、自分で飾ったんやないん?」
訊ねる安子に首を振りながら、千鶴はみんなの顔を見回した。これはまだ夢の中で、自分は本当は目を覚ましていないのかもしれないと疑っていた。
「あん時は、山﨑さん、花なんぞ飾っとる状態やなかったけん、おら、和尚さんらが挿してやったんかて思いよった」
春子は千鶴が持つ花を見ながら不思議そうに言った。
「気ぃ失うて倒れよる千鶴ちゃんに、花飾ったりするかいな。その花は初めから千鶴ちゃんの頭に飾ってあったんよ」
知念和尚が言うと、安子もうなずいた。
結局、誰が千鶴の頭に花を飾ったのかはわからない。玄関を叩いて千鶴がいることを知らせた者に違いないが、それが誰で、どういうつもりでこんなことをしたのかと、謎は深まるばかりだった。
「村上さん、あん時て?」
千鶴が訊ねると、春子は少し困ったような顔になった。
「あのな、言いにくいことなけんど、おらん所のひぃばあちゃんがな、山﨑さんを傷つけるようなこと言うてしもたんよ」
「ほうなん?」
「ほんでな、山﨑さん、おらの家飛び出して行方知れずになっとったんよ」
千鶴には春子が言うような記憶がない。訳のわからないこの状況は、やはり夢なのかと考えていると、知念和尚が心配そうに千鶴の顔をのぞきこんだ。
「千鶴ちゃん、何も思い出せんか」
妙な気分のまま、千鶴は何でもいいから思い出そうとしてみた。すると、春子と一緒に客馬車に乗っていたような気がした。
「何か、客馬車に乗りよったんは思い出したんですけんど、そのあとのことは何も……」
「どがいしましょ。やっぱしお医者を呼んだ方が――」
心配する安子の言葉を遮って和尚は言った。
「いや、医者を呼んだとこで、千鶴ちゃんの記憶が戻るとは思えんぞな。別に具合が悪ないんなら、このまま様子を見よっても構んじゃろ」
そうは言っても、春子は不安げだ。千鶴の頭を触りながら傷がないかを確かめた。
「山﨑さん、どっか痛い所ないん?」
千鶴は大丈夫ぞなと言って笑ってみせた。
「どこっちゃ具合悪い所はないんよ。ただ、頭の中がすっきりせんぎりぞな」
「ほれを具合悪い言うんやないん?」
「ほうなんか」
千鶴は苦笑した。
確かに頭がすっきりしないのは、尋常とは言えないのかもしれない。しかしこれが夢であるのなら、すっきりしなくても不思議ではない。
「ほれにしても、千鶴ちゃんの頭にあったそのお花、誰が飾りんさったんじゃろねぇ」
安子が思い出したように言うと、知念和尚もうなずいた。
「ほうじゃほうじゃ。その花は千鶴ちゃんに何があったんかいうんと絶対関係あるぞな」
「ほれに、千鶴ちゃんをここまで運んだんが、誰かいうんも問題ぞなもし。このお花もそのお人が飾ったに違いないわね」
「まったくじゃ。さらに言うたら、なしてその人物が千鶴ちゃんをここへ運んだんかやな」
「ほれと、千鶴ちゃんを運んでおきながら、何も言わいで去ぬる言うんも気になりますわいねぇ」
和尚夫婦のやり取りを聞いていた春子が、自信なさげに言った。
「何とのうやけんど、おら、その花が山﨑さんを慰めるための物のような気がする」
「うちを慰める?」
千鶴は春子を見た。
「ほれはどがぁなことかな?」
知念和尚が訊ねると、春子はしょんぼりした様子で説明した。
「山﨑さんが何も思い出せんのは、ほれが山﨑さんにとって嫌なことやけんと思うんよ」
「嫌なことじゃったら、今までも何べんもあったけんど、忘れたことはないで。逆に忘れとうても忘れられんもん」
千鶴の言葉に、ほれはほうなんやけんど――と春子は言った。
「確かに、嫌なことは忘れるもんやないよ。ほやけんな、誰ぞがほれを忘れさすために、山﨑さんの記憶を失さしたんやないかて、何とのう思たんよ」
「誰ぞて、誰?」
「ほれはわからん。けんど、たぶんその誰かが山﨑さんをここまで連れて来て、山﨑さんを慰めるために花を飾ってくれたんよ」
なるほどなるほどと和尚はうなずいた。
「春ちゃんの言うことには一理あるな。ただ、そげなことができるんは人間やないな」
「人間やないんなら、狸じゃろか?」
ふざけているようにも聞こえるが、春子は大真面目だ。それに対して、知念和尚も真面目に応じた。
「狸には千鶴ちゃんをこの寺へ運ぶ理由がなかろ? つまり、これは狐狸妖怪の類いの仕業やないな」
「じゃったら、誰が……」
春子は真剣な様子で考え込んでいる。
一方で、千鶴の頭には若侍の姿が浮かんでいた。
さっきの夢の中で、あの若侍は千鶴に野菊の花を飾ってくれた。そして目覚めた時に、同じ花が同じ場所に飾られていたのである。素直に考えれば、千鶴に花を飾ってくれたのはあの若侍のはずだ。
だが若侍は夢の中の人物だ。夢の人物が現実に出て来るなど有り得ない。それでも、まだ自分が夢の中にいるのなら、若侍が飾ってくれた花が頭に残っていても妙ではない。和尚たちが事情を知らないだけのことである。
わかったぞな!――突然、安子が叫んだ。
「何がわかったんぞな?」
怪訝そうな和尚に、お不動さまぞなもし――と安子は言った。
「お不動さまはうちの御本尊さまやし、幸子さんがここで暮らしよった時、幸子さんのお腹には千鶴ちゃんがおったじゃろ? ほじゃけん、お不動さまは千鶴ちゃんのこともご存知のはずぞな」
なるほど!――和尚は興奮したように膝を叩いた。
「お不動さまなら姿消したんも説明つこう! 安子、さすがはわしの女房じゃ。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまに違いない!」
和尚は手を合わせると、目を閉じて念仏を唱えた。
春子もこの意見には納得したらしい。安子と一緒に目を瞑って手を合わせた。
しかし、千鶴は花を飾ってくれたのはあの若侍だと思っている。思っていると言うより、知っていると言う方が正しい。
「あのぅ……」
花は若侍が挿してくれたものだと千鶴は話そうとした。しかし、和尚たちの視線が集まると、何だか気恥ずかしくなった。
「これは、まだ夢の続きなんかなもし?」
遠慮がちな千鶴の言葉に、みんなはきょとんとしている。
千鶴が少しうろたえると、夢の続きて?――と春子が言った。
「いや、ほやけんな、うちはまだ夢ん中におるんじゃろかて訊いとるんよ」
春子は千鶴に自分の頬を抓ってみるように言った。千鶴は右手で自分の頬を抓り、痛っ!――と声を上げた。
「どがいね? まだ夢見よるみたいな感じする?」
心配そうに訊ねる春子に、千鶴は首を振った。
「千鶴ちゃん、大丈夫か? まだ頭が妙な感じがするんか?」
「お医者を呼ぶ?」
和尚夫婦が戸惑い気味に言った。千鶴は大丈夫ぞなもしと言いながら、そっと右手で左手を抓ってみた。やはり痛い。
と言うことは、これは夢ではなく現実か。だとすると、この頭に飾られた花は何なのかと、少し怖いような驚きが千鶴の中で膨らんだ。そこへ春子が不意打ちのように問いかけた。
「山﨑さん、何の夢見よったん?」
「え?」
「さっき、夢の続きかて言うたじゃろ?」
「いや、ほやけん、何か夢見よったような気がしたけんな、ほれで訊いてみたぎりぞな」
千鶴は笑ってごまかした。
若侍の夢の話はできなかった。そんな話をすれば、またみんなが不思議がり、話がややこしくなるような気がした。
そうは言っても、お不動さまがやったことだという話には、千鶴は合点が行かなかった。
どこかで倒れていた自分を、ここまで運んで来てくれたというだけであれば納得できる。だが、お不動さまが花を飾るというのは妙である。それは怖い姿のお不動さまに似つかわしくない。
今が夢ではなく現実だとしても、やはり花を飾ってくれたのは、あの若侍に違いないと千鶴は思っていた。ただ、夢の中の人物がどうやって現実に花を飾るのかということまでは、さっぱりわからなかった。
「まぁ、お不動さまが千鶴ちゃんを助けてくんさったにしても、千鶴ちゃんに何があったんじゃろな?」
知念和尚が腕組みをしながら言うと、安子もうなずいた。
「ほうですわいねぇ。お不動さまが助けんといけんようなことが、千鶴ちゃんに起こったいうことですけんねぇ」
千鶴が無事であったことはともかく、何か危険な目に遭ったのだとすれば、それは千鶴を傷つけた春子の曾祖母の責任だ。それは言い換えれば、千鶴を風寄に招いて曾祖母に引き合わせた、春子の責任ということになる。
春子がしょんぼりしているのに気づいた和尚夫婦は、互いに目を見交わして言った。
「ほうは言うても、千鶴ちゃんが無事じゃったんやけん、何があったんかはええことにしよわい」
「ほうよほうよ。何があったやなんて、考えたとこでわかるはずないけんね。ほれより、千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるてわかったことの方が肝心ぞなもし」
なぁと安子が春子に微笑みかけると、春子は慌てたように顔を上げて笑みを返した。
「ところで千鶴ちゃんは、今晩は春ちゃん所でお世話になるん?」
安子が思い出したように訊ねると、千鶴は少しうろたえた。
何も覚えていないのだが、自分が春子の家を飛び出した経緯を考えると、春子の家に泊めてもらうことには気が引ける。
かと言って、ここに泊めてもらいたいとは言えない。そんなことを言えば、春子が悲しむのは目に見えている。
千鶴が言葉を濁していると、ここに泊めてもらいや――と春子が言った。
「よう考えたら、今日はお祭りじゃろげ? うちには酔うた男衆がようけ集まるけん、うちに泊まるんはやめといた方がええ。泊まったら、山﨑さん、絶対夜這いかけられるで」
「夜這い? うちに?」
自分のような醜い女に手を出そうとする男がいるなど、千鶴には考えられなかった。だが春子は真顔だ。
「山﨑さんは美人じゃけんな。色目で見る男はなんぼでもおるで。ほやけん、今晩はここで泊めてもろた方がええぞな」
「何言いよんよ。うちなんぞ、ちっとも美人やないし」
千鶴は春子の言い草が面白くなかった。お世辞にしたって、もう少し気の利いたことを言うべきだ。
千鶴が口を尖らせると、安子と和尚が言った。
「うちも千鶴ちゃんは別嬪さんや思うぞな」
「わしもそがぁ思う。ほじゃけん、酔っ払うたトラがうじゃうじゃおる所にはおらん方がええ」
ここへ泊まって行かんかな――と和尚は言った。
千鶴は嬉しかった。だが、そうしますとは簡単には言えない。千鶴が遠慮して黙っていると、今度は安子が言った。
「ね、ここにお泊まんなさいな。そがぁしてもらえたら、うちらも嬉しいけん」
千鶴はようやく素直にうなずいた。和尚夫婦は顔を見交わして喜んだ。
春子も喜んでいたが、ちょっぴり寂しげでもあった。すると、安子が春子に言った。
「春ちゃん。あんたもここに泊まるじゃろ?」
「え? おらも?」
和尚が当然という顔で言った。
「千鶴ちゃんぎり、ここに泊まるわけにもいくまい。春ちゃんも一緒に泊まるんが筋じゃろがな。ほれに酔うたトラが危ないんは、春ちゃんかて対ぞな」
春子は驚いたように千鶴を見た。千鶴は春子の手を取ると、一緒に泊まって欲しいと言った。
「ほやけど、おら――」
春子は少しだけ躊躇したあと、わかったわい――と嬉しそうにうなずいた。
「ほんじゃあ、おらもお世話になるぞなもし。和尚さん、安子さん、どんぞ、よろしゅう頼んます」
春子はぺこりと頭を下げた。千鶴も春子に倣い、和尚夫婦に改めて、よろしゅうお願いします――と頭を下げた。
嬉しそうに安子とうなずき合うと、和尚は千鶴たちに言った。
「もうちぃとしたら神社の前にだんじりが集まるけん、二人で見ておいでたらええぞな」
千鶴たちがうなずくと、安子が言った。
「春ちゃん、ここへ泊まることお母さんに言うて来んとね。お夕飯は向こうで食べておいでる?」
春子は千鶴を見た。
千鶴は迷ったが、このまま顔を出さねばイネやマツに失礼だ。
「そがぁさせてもらいますぞなもし」
千鶴が答えると、春子は嬉しそうに笑った。
三
外へ出ると真っ暗だった。安子が提灯を貸してくれた。
「お不動さまにお礼言うてから行こか」
春子がそう言うと、和尚も安子も、ほれがええぞなと言った。
千鶴は法生寺は初めてなので、どこにお不動さまが祀られているのかわからない。
提灯を持った春子の後ろについて行くと、暗闇の中に大きな建物があった。本堂だ。
本堂の脇には一本の巨木がそびえ立っている。その大きさから見ると、かなり古い木のようだ。
和尚は得意げに言った。
「でかかろ。聞いた話じゃ樹齢二百年らしいぞな」
「へぇ、そがぁに古い木なんですか。ほんじゃあ、ずっと昔から、この辺りのことを見よったんじゃろなぁ」
千鶴は巨木を見上げながら近づいて行った。夜空を背景にそびえるその巨木は、まるで大入道だ。
突然、はっとなった千鶴は胸が締めつけられた。
どうしてなのかはわからない。しかし、大入道のような巨木を見上げていると、何かを思い出しそうになって切なくなった。
「山﨑さん、お不動さまにお礼言わんと」
春子に声をかけられて我に返った千鶴は、巨木を離れて本堂へ移動した。すると、本堂は扉が開かれたままで、知念和尚はありゃりゃと言った。
「妙じゃなぁ。ちゃんと閉めたはずなんやが」
首を傾げる知念和尚に、ほじゃけんね――と安子が言った。
「千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまじゃて言うたじゃろ? ここが開いとるんが何よりの証ぞな」
和尚は驚いたように安子を見て、同じ顔のまま本堂を見た。
「なるほど、確かにお前の言うとおりぞな。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、間違いのうお不動さまぞな」
知念和尚は本堂の不動明王に向かって、改めて手を合わせた。隣で安子も同じように拝んでいる。
二人の話を聞いていた春子も、ここのお不動さまは本物だと、感激したように千鶴を振り返った。
お不動さまが生きていると思っているのだろうか。失礼しますぞなもしと言いながら、春子は怖々の様子で本堂に足を踏み入れた。
本堂の中は真っ暗で何も見えない。春子が提灯を掲げると、闇の中に不動明王の姿が浮かび上がり、うわっと春子は声を上げた。
千鶴たちをにらむような不動明王の恐ろしげな顔に、千鶴も一瞬ぎょっとした。だが何故か、すぐに懐かしい気持ちになった。初めて見るお不動さまなのに妙なことだった。
不動明王は右手に剣、左手に羂索を持ち、厳めしい顔で鎮座している。その背後には炎となった明王の気迫がめらめらと立ち上っている。
春子は気を取り直したように姿勢を正すと、近くに来た安子に提灯を預け、不動明王に手を合わせた。
「お不動さま、今日は山﨑さんを助けていただき、だんだんありがとうございました」
千鶴も春子の隣で手を合わせると、ありがとうございましたと不動明王にお礼を述べた。しかし頭の中では、あの若侍のことを考えていた。
お礼を述べ終えた春子は、しげしげと暗がりの中の不動明王を眺めながら言った。
「ほれにしたかて、お不動さまは、なしてこげな恐ろしい顔をしておいでようか?」
千鶴は何となく思ったことを口にした。
「道を踏み外した人らを、力尽くでも本来の道に戻そと考えておいでるけんよ。ほれはな、誰のことも見捨てたりせんいうお不動さまのお気持ちぞな。親が子供を見捨てんのと対なんよ。ほじゃけん、お不動さまは見かけは恐ろしいても、心の優しいお方なんよ」
千鶴の説明に、春子はもちろん、知念和尚と安子も感心したようだった。
「さすがは千鶴ちゃんぞな。まっこと、よう知っとる」
「そげなこと、どこで教えてもらいんさったん? 学校で教えてくれるん?」
「いえ、別に誰にも教わっとりません。ただ思たことを口にしたぎりぞなもし」
千鶴は困惑気味に答えたが、その答えは却ってみんなを驚かせたようだった。
「やっぱし千鶴ちゃんは、お不動さまとつながっておいでるんじゃねぇ」
「まっこと、千鶴ちゃんはお不動さまの申し子ぞな」
和尚夫婦に続いて、春子も興奮した様子で言った。
「山﨑さんて、ほんま頭がええ! やっぱしおらが言うたとおり、山﨑さんはおらより勉強できらい」
「いや、ほやけん、違うんやて」
「違うことあるかいな。物知りやけん、勉強もできるんやんか」
「もうやめてや。物知りやないけん」
春子は笑いながら安子から提灯を受け取ると、和尚たちに挨拶をして山門へ向かった。
千鶴も和尚夫婦に頭を下げ、春子の後を追いかけた。
四
「石段、急なけん、足下気ぃつけてな」
春子は山門の先にある石段を、提灯で照らしながら言った。
提灯を持つ春子が先に立ち、提灯の明かりからはぐれないよう、すぐ後ろに千鶴が続いた。しかし少し石段を降りたところで、千鶴は立ち止まって辺りを見渡した。
西の空には細い月が今にも沈みそうに浮かんでいる。その下にある海は恐ろしいほど真っ黒だ。左手に見える、丸く黒い影は鹿島だろう。
海から顔を戻すと、石段の正面には北城町がある。そこから東には田んぼが広がるが、どこもほとんど真っ暗で、何がどこにあるのかはよく見えない。
そのさらに向こうには、山が風寄を取り囲むようにして並んでいる。
千鶴は夜の風寄を眺めながら、いったい自分はどこにいたのだろうと考えた。だが、春子の家にいたことすら忘れているのである。どこにいたのかなど思い出せるはずがなかった。
ここへ来たのは春子に祭りに誘われたからだ、ということは思い出していた。それがこんな奇妙なことになったのには、少なからぬ不安を感じている。ただ、何だか自分はこの土地に引き寄せられたような気もしていた。
千鶴はそっと胸に手を当てた。懐には頭に飾られていた野菊の花が入っている。
どこからこの寺へ運ばれたのかはわからない。しかし、運んでくれたのはこの花を飾ってくれた人に違いない。お不動さまではないと絶対に言い切ることはできないが、やはり違うと千鶴は思った。
お不動さまは優しい方ではあるけれど、女子の頭に花を飾るというのはお不動さまらしくない。
助けてくれたのが人間であるならば、自分に好意を抱いてくれている人だろう。そうでなければ花など飾るはずがない。そんな人が本当にいたのなら、それは嬉しいことだ。
でも、それがこの村の誰かだとしても、姿を消す理由がわからない。花を飾ったことが恥ずかしかったのだろうか。
「山﨑さん、何しよんよ。一緒に下りんと足下見えんけん危なかろ?」
千鶴に気づかず一人で先に下りてしまった春子が、提灯を掲げて叫んでいた。
「ごめんごめん。ちぃと考え事しよったけん」
もう一度上がって来た春子は、不安げに言った。
「考え事て何? おらの家のこと思い出したん?」
「まだ何も思い出せとらん。ほやのうて、うちをここまで運んでくれたお人のことを考えよったんよ」
「お不動さまやのうて?」
「お不動さまが花飾ったりせん思うんよ」
「じゃったら、誰やて思うん?」
千鶴の頭に浮かぶのは、あの若侍だ。姿を見せないことを考えても、やはり若侍しかいないと思えてしまう。
だが、その話は他人に聞かせたくはなかった。ややこしいことになるからだけでなく、あの若侍との幸せは自分だけのものにしておきたいと思っていた。
「誰やなんてわからんわね。この村の人らは、みんな知らん人ぎりじゃけん」
「ほら、ほうじゃな。ほんでも村の誰かやとしたら、山﨑さん一人残しておらんなる言うんは妙な話ぞな」
「うちに花飾ったんが恥ずかしかったんかもしらんね。けんど、うちがどこぞに倒れよったとして、そのうちを見つけて頭に花飾るんも、やっぱし妙な話ぞな」
「ほうじゃなぁ。確かに妙な話よなぁ。そげなことしよる暇あったら、誰ぞを呼びに行くもんなぁ」
「じゃろ? ほじゃけん、こげなことしたんは――」
千鶴はそこで口を噤んだ。
こんなことをしたのはあの若侍だと言いたくてたまらなかった。でも、やはりそのことは秘密にしていたかった。
「どしたんね。こげなことしたんは誰なんよ?」
「さぁねぇ。誰じゃろかねぇ」
千鶴の声は自然と明るくなった。それが春子を刺激した。
「なぁ、誰なんよ。誰ぞ心当たりがあるんじゃろ?」
「そげなもん、あるわけなかろがね。うちはここでは余所者で。知っとるお人なんぞ一人もおらんぞな」
「ほやけど、何ぞ知っとるみたいな口ぶりやったで」
「ほんなことないて。気のせいやし」
「ほの物言いが怪しいんよ」
「もう、この話はおしまい。ほれより早よ戻らんと、村上さんのお家の人らが気ぃ揉んどらい」
ほうじゃったと言い、春子はまた先に立って石段を下り始めた。千鶴もそのあとに続いたが、少し下りた所でまた立ち止まった。
「どがぁしたん? 今度は何?」
山門を見上げる千鶴に、下から春子が声をかけた。
千鶴は春子に顔を戻すと、何でもないと言った。でも本当は誰かに上から見られていたような気がしていた。
もし誰かがいるのだとすれば、きっと自分を助けてくれた人だろう。千鶴は誰もいない山門に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「誰に頭下げよるん?」
怪訝そうな春子に、お不動さまだと千鶴は言った。そういうことにしておいた。
「ほな、行こ」
千鶴は春子を促し石段を下りた。後ろが気になってはいたが、石段を登ったところで、誰もいないのはわかっていた。
その何者かは、千鶴の前に姿を見せないと決めているのに違いない。そうである以上、相手を探しても無駄なことだった。
祭りの晩
一
千鶴たちが春子の家に戻ると、中では男衆が飯を食いながら酒盛りを始めていた。
春子は千鶴を待たせて家の中に入った。すると、すぐにマツが飛び出して来て、よう戻んたね――と泣きながら千鶴を抱きしめた。
千鶴が驚いているとイネも出て来て、やはり泣きながら千鶴の手を握り、悪かったねぇと詫びた。
「春子は戻らんし、真っ暗なってしもたけん、今おらたちも千鶴ちゃん探しに出よとしよったとこじゃった」
「すんません。お祭りで忙しいとこやのに、ご迷惑かけてしまいました」
千鶴が謝ると、マツもイネも首を振り、悪いのは大ばあさまぞなと言った。
「近頃、妙なことぎり言うんで、おらたちも困りよったんよ」
イネの言葉にマツがうなずいていると、恰幅のよい年配の男が春子と一緒に出て来た。その後ろから幼い男女の子供がついて来る。
「あんたが山﨑千鶴さんかな。遠い所をせっかくおいでてくれたのに、うちの耄碌ばあさんが失礼なことしてしもたそうで、誠に申し訳ない」
春子が紹介する前に、男は千鶴に頭を下げた。提灯の明かりではよくわからないが、だいぶ酒が入っているようだ。酒の臭いが漂っている。
「おらのおとっつぁんぞな」
春子が説明すると、男は名を名乗っていないことに気がつき、春子の父の村上修造ぞなもしと言った。つまり、名波村の村長である。
千鶴は恐縮しながら、もう何とも思っとりませんと言った。でも自分が何をされたのかは、何も思い出せていない。
「いや、そがぁ言うてもろたら助からい」
にっこり笑った修造の左右から、さっきの子供たちが顔をのぞかせた。
二人はじっと千鶴を見ていたが、千鶴が顔を近づけて声をかけると、うわぁ、がんごめじゃ!――と声を揃えて逃げ出した。
「こら、勘吉! 花子!」
イネが子供たちを叱ったが、二人は家の中に逃げ込んだ。
春子はため息をつくと、千鶴に詫びた。
「堪忍な。あの子ら、おらの甥っ子と姪っ子なんよ」
「村上さん、がんごめて何のこと?」
「え? いや、ほれは……」
春子が言いにくそうにすると、修造がもう一度千鶴に謝った。
「いやぁ、重ね重ね申し訳ない。子供らにはわしがきつぅに言うとくけん、勘弁してやんなはらんか」
「ほれは構んのですけんど、がんごめて――」
「おい、春子。おらを紹介してくれや」
よたよたと現れた大柄の若い男が、にやけた顔で千鶴を見ながら春子に言った。
「こら、源次! お客さまに失礼じゃろが!」
修造が怒鳴ると、源次は修造にだらしなく頭を下げ、それから千鶴にも同じように頭を下げた。にやけた顔はそのままだ。
暗いので源次の顔の色はわからない。だが、修造以上に酒の臭いがぷんぷんする。きっと顔は真っ赤に違いない。
「春子、おらをこの人に紹介してくれや」
源次がもう一度言うと、春子は千鶴に従兄の源次だと言った。
続けて春子が千鶴のことを源次に説明すると、千鶴は源次に挨拶をした。
「千鶴さんか。ええ名前じゃの。ほやけど、日本人みたいな名前じゃな」
やはりこうなのかと千鶴が悲しくなると、マツが源次を叱りつけた。
「何失礼なこと言うんね! 千鶴ちゃんは日本人ぞな!」
「千鶴ちゃん、ごめんよ。ここは頭の悪い者ぎりでな、何が失礼なんかわからんのよ」
イネも千鶴に言い訳をしながら源次を叱った。源次は少し面白くなさそうだったが、渋々千鶴に謝った。
「申し訳ございません。おらが悪うございました」
源次がふらつきながらだらりと頭を下げたところに、源次を突き飛ばすようにして、次々に若い男が現れた。頭を下げていた源次はそのまま素っ転んだが、男たちは構わず千鶴に自己紹介を始めた。
起き上がった源次は声を荒らげて男たちに食ってかかった。そこへ修造の雷が落ちた。
「大概にせんかや! お前ら、わしに恥かかせるつもりか」
驚いたように静かになった男たちを、さっさと去ね!――と怒鳴りつけて追い払った修造は、千鶴に愛想を振り撒きながら、誠に申し訳ないともう一度頭を下げた。
「ほな、山﨑さん。中へ入ろや」
春子に促されたが、千鶴は家の中に入るのが怖かった。今の源次のような者たちが多く集まっているのかと思うと、法生寺へ戻りたくなった。それでもイネとマツが気遣ってくれるので、辛抱して入ることにした。
千鶴は気持ちを落ち着けながら、イネたちの後について行った。
すると、まだ土間にいた源次が再び千鶴の所へやって来て、こっちぞな――と千鶴の手を引っ張った。源次の後ろでは、他の男たちが千鶴を見ながらはしゃいでいる。
千鶴の顔が強張ると、イネがぴしりと源次の手を叩いた。
「何をしよんかな! さっきも叱られたとこじゃろがね!」
手を引っ込めた源次は、当惑した様子で言い訳をした。
「おら、この人にみんなと一緒に、楽しゅう過ごしてもらおと思たぎりぞなもし」
「源ちゃん、悪いけんど、今日はそっちには行かれんけん」
春子が言うと、何でぞ――と源次はむくれ顔で春子をにらんだ。
「ほやかて源ちゃん、酔うとろ? 話がしたいんなら、酔いを覚ましてからにしてや」
「春子の言うとおりぞな。初めて会う女子に失礼じゃろがね」
マツにまで説教されて、源次はようやく引き下がった。後ろの男たちも残念そうに源次に続いた。
男衆が集まっている所にいた勘吉と花子は、男たちの世話をしていた女の一人を呼んだ。
「お母ちゃん、こっち来とうみ! 早よ、来とうみて!」
「姉やんがおいでとるんよ! 早よ来てや!」
呼ばれた女は顔を上げると子供たちを見て、それから千鶴の方に目を向けた。しかしそれだけで、何の関心もないように女は男たちに酒を注いで廻った。無視された子供たちはぶうぶう文句を言ったが、それでも女は知らんぷりを決め込んでいた。
その女が春子の兄嫁の信子であることを、千鶴は思い出した。初めて顔を合わせた時もよそよそしい感じがしていたが、やはり信子は千鶴を嫌っているようだ。千鶴は気持ちが沈んだ。
しかし落ち込んでいる間もなく、千鶴はイネたちに誘われた。どうやら男衆が集まる部屋とは、別の部屋へ行くようだ。
その時、男衆の中から男が一人立ち上がって土間へ降り、千鶴の傍へやって来た。男の後ろには勘吉と花子がついて来た。
「春子の兄の孝義言います。春子がいっつもお世話になっとるそうで」
初めて見るが、孝義は勘吉たちの父親であり信子の夫だそうだ。そして村長の息子でもある。やはり酒が入っているようだが、さすがに源次たちとは違い、村長の息子としての品位と風格があった。
春子は兄が自慢のようだ。誇らしげな顔を千鶴に向けている。
「ちぃとごたごたしたみたいなけんど、年寄りの戯言なんぞ気にせいで、楽しんでやっておくんなもし」
にっこり笑った顔が千鶴を安心させた。信子の夫とは思えないほど好意的な応対ぶりだ。
千鶴は嬉しくなったがどぎまぎしてしまい、言葉を出せないまま頭を下げるのが精いっぱいだった。
二
千鶴が案内されたのは、少しこじんまりした部屋だった。
台所や男衆が集まった座敷には電灯があったが、ここは行灯だ。ただ、行灯一つだけでは薄暗いからだろうが、二つの行灯が置かれていた。
部屋に入ると、イネたちは春子に千鶴をどこで見つけたのかと訊ねた。春子は千鶴を見ながら、法生寺にいたと言った。
法生寺と聞いただけで、イネもマツも安心したような笑みを浮かべた。和尚夫婦が信頼されているということなのだろう。
千鶴は自分が倒れていたことを、春子が喋るのではないかと心配していた。ここへ来るまでに、余計なことは言わないで欲しいと頼むのをうっかり忘れていた。しかし、それについて春子は何も言わなかった。
千鶴が知らない間に寺へ運ばれていたことは不思議だが、その前にどこで気を失ったのかもわからない。迂闊なことを言えば、また千鶴が気味悪がられると春子も思ったのかもしれない。いずれにしても、春子が黙っていてくれたことは千鶴には有り難かった。
千鶴と春子を座らせると、イネたちはすぐに料理を載せた箱膳を運んで来た。二人の後ろには男衆の所にいた女たちが続き、別の料理の皿を箱膳の脇に置いてくれた。
部屋はあっと言う間に、女たちと女たちが連れている子供でいっぱいになり、千鶴を歓迎する場となった。
イネは一通りみんなを千鶴に紹介すると、じきに男衆が出かける頃合いになるから、急いで食べて欲しいと千鶴たちに言った。
千鶴と春子がうなずいて箸を持つと、女たちは争うようにして千鶴に話しかけた。やはり女たちには千鶴が珍しいようで、いろいろ話が聞きたいらしい。それでも千鶴を傷つけてはいけないと思っているのか、みんな言葉を選んで慎重に喋っているように見えた。
風寄にも日露戦争で負傷した者や、命を奪われた者がいるはずである。しかし、戦争のことで千鶴を責める者はいなかった。また、みんなと違う容姿のことで千鶴を蔑む者もいなかった。
女たちの多くは百姓仕事の副業として、伊予絣の織子になっていた。
絣は織る前に文様に合わせて、先に織り糸を染め分けておく。その糸を織り上げることで、絣の語源となる輪郭がかすれた文様ができるのである。
この織り糸を作るのは手間がかかるので、近頃の織子は織元が準備してくれている織り糸を使って、指定された絵柄の絣を織り上げている。
織元の下で働くようになる前は、女たちは自分たちの裁量で絣を織っていた。大変ではあったが、いい物を作ればそれだけ高く売れたので、結構な収入が得られたと言う。
ところが、いつの間にか織元の指示で織るという形態が広がり、今ではみんなが織元の織子になっている。
織子は一反いくらと賃金が決まっており、出来の善し悪しにかかわらず一定の収入を得ることができる。その分、いい物を作るための工夫や努力をしなくてもいいが、それで手抜きをしてしまう者も出て来るのが問題だった。
それでも名波村の女たちは自分たちの仕事に誇りを持っており、やるからにはきちんとした物を作るという気概があった。
だが景気が悪くなると伊予絣の売れ行きが悪くなり、織元への注文が来なくなる。それでどんなにいい絣を織っても、絣の生産が中止になって織子が解雇されたり、織子の賃金が一方的に下げられたりすることがあったそうだ。
今回も東京の大地震で、東京への伊予絣の出荷が止まったままになっており、織元への注文も激減しているらしい。
この辺りの絣を仕入れている仲買人の取引先も、この大地震の煽りで多くが潰れたのだと言う。それは東京が復興したとしても、伊予絣を買ってくれる先がないということだ。
織った伊予絣が売れるかどうかは、それで銭を稼ぐ女たちにとっては大問題だ。残っている伊予絣問屋にはもっとがんばって欲しいし、仲買人にも新たな絣問屋を見つけてもらわねばと、女たちは半分真顔で愚痴を言い合った。
ところが、春子に言われて千鶴の家が山﨑機織だと知れると、女たちは慌てて床に手を突き、お世話になっておりますと千鶴に頭を下げた。ここの女たちの織物は山﨑機織でも仕入れているらしい。
千鶴が慌てて頭を下げ返し、お世話になっているのは自分たちの方ですと感謝すると、女たちは仲買人から話を聞いたと言った。女たちによれば、ここの絣を仕入れる絣問屋の多くが潰れた分、こんな時こそ助け合いだと、山﨑機織はいつもより多めに仕入れているのだと言う。
自分は家の仕事には関わりがないと考えていた千鶴は、祖父の心意気に感心した。また、山﨑機織に感謝してくれる女たちに対して親近感を抱いた。そして、女たちの苦労があるからこそ山﨑機織は成り立っており、そのお陰で自分は暮らして来られたのだと知った。
女たちは、その後の東京の具合はどうなったのかと恐る恐る訊いて来た。
店のことは千鶴が知るところではないが、まだ東京が復興していないことはわかっている。それを話すと、女たちはがっかりしたようだった。
それでも山﨑機織も大変であることは女たちは理解していて、千鶴たちの暮らし向きを心配してくれたり、東京が復興さえすれば、自分たちも山﨑機織も上向きになるからと励ましてくれた。
初めの緊張も解れ、千鶴はずいぶんと気持ちが安らいでいた。千鶴の様子を見てか、春子も安堵しているようだ。そこへ勘吉や花子、それに他の子供たちが来て、一緒に遊ぼうとねだった。
女たちは二人に迷惑だと子供たちを叱ったが、千鶴と春子にしてみれば、女子師範学校で学んだ腕の見せ所である。構ん構んと言って子供たちの相手をしてやると、千鶴たちの周りは子供たちの黒だかりとなった。
しばらく子供たちの相手をしていると、男たちが出かける時間になったらしい。イネや女たちが動き出したので、子供たちもそれぞれの父親を送り出しに行った。
部屋には、千鶴と春子とマツだけが残された。マツは千鶴が十分食べたことを確かめると、もう少ししたら自分たちも出かけると言った。
「男衆が屋台を持て来るけんね。ほん時に合わせて、千鶴ちゃんらも一緒においでたらええよ」
千鶴たちの予定をマツは知らない。祭りを見たあとのことを言わねばと千鶴が気を揉むと、春子がマツに申し訳なさそうに言った。
「ばあちゃん、あのな、おらと山﨑さんは今晩法生寺に泊めてもらうことにしたんよ」
「法生寺に? ほうなんか」
案の定、マツはがっかりした様子だった。しかし、夜這いが心配だからと春子が説明すると、納得したように大笑いをした。
「確かに、男衆は酒が入ると何しでかすかわからんけんな。特に千鶴ちゃんみたいな別嬪さんがおいでたんじゃ、抑えが利くまい」
また別嬪と言われ、千鶴は下を向いた。
春子は笑いながら、ほらな――と言った。
三
イネたちに連れられて神社の参道へ行ってみると、多くの村人たちと一緒に、何台ものだんじりが集まっていた。
夜の帳が下りた村は、だんじりの提灯と村人が手に持つ提灯で美しく彩られていた。
だんじりの屋台はドンドンカンカンと、太鼓や半鐘の音を鳴り響かせている。上に立てられた笹の束が下に飾られた提灯に照らされて、まるで屋台が燃えているようだ。
近づいて見てみると、笹には小さな日の丸がびっしりと貼りつけられていた。何とも賑やかで盛大な印象だ。
燃えるような多くの屋台が闇の中を行き交う様子は、実に幻想的な光景だ。これは松山ではお目にかかれないものだった。
「うわぁ、きれいじゃねぇ」
思わず千鶴がつぶやくと、じゃろげ?――と春子は得意げだ。
「春子、千鶴ちゃんをしっかりつかまえとくんで。暗いけん、迷子なったら大事ぞな」
マツが春子に言うと、春子は提灯を持っていない方の手で千鶴の手をつかんでみせて、ほら大丈夫と答えた。
「千鶴ちゃん、暗いし人が多いけん、おらたちからはぐれても、春子からははぐれたらいけんよ」
大声で喋るイネに、千鶴も大声で、わかりましたと言った。
夜の闇が深くなるにつれ、村の中はいっそう賑やかになった。
次々にやって来るだんじりに見とれていると、いつの間にか、イネやマツの姿が見えなくなっていた。千鶴は慌てて横を見たが、そこに春子がいたのでほっとした。
春子はだんじりの向こう側にいる人たちを指差し、あそこ――と言った。だが春子が何を見せようとしているのか、千鶴にはわからなかった。すると春子は、帽子と言った。
「帽子?」
「客馬車におったろ?」
それで千鶴はようやくわかった。春子が指差す辺りにあの山高帽の男の姿があった。その隣にいるのはあの二百三高地の女だ。
楽しげな二人は、千鶴たちには気がついていないようだ。
「あの二人、でけとるかもしれんで」
千鶴に顔を寄せた春子は面白そうに言った。
聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、千鶴は下を向いた。春子は笑いながら、二人から離れた場所へ千鶴を誘った。
しばらくすると、参道の突き当たりにある神社の鳥居をくぐり、一体の神輿が現れた。すると、それまで賑やかだっただんじりが、声や音を鳴り止ませて静まり返った。
辺りは静寂に包まれ、その中を神輿は掛け声もなく静かに滑るようにやって来る。実に不思議な光景で、静けさが神々しさを醸し出している。
春子の説明によれば、村々の平和を願う神さまのお忍びの渡御らしい。屋台の明かりに見守られながら千鶴たちの近くへ来た神輿は、かつての庄屋の屋敷へ入って行った。
中でどんなことが行われているのかはわからないが、やがて屋敷から出て来た神輿は、再び音もなく滑るようにして神社へ戻って行った。
神輿が見えなくなると、止まっていた時が再び動き出したかのように、太鼓と半鐘が鳴り始めた。参道は賑やかな音と掛け声で新たに埋め尽くされ、人々の喜びが広がった。
十分に祭りを堪能して法生寺へ戻る途中、風寄の祭りはとても優雅で素敵だと、千鶴は絶賛した。ほうじゃろほうじゃろと、春子は嬉しくてたまらない様子だ。
しばらく二人は祭りの話で盛り上がったが、話が一息ついたところで、あのな――と千鶴は言った。
「さっき聞きそびれてしもたけんど、がんごめって何ぞな?」
「がんごめ? おら、わからん」
暗いので春子の表情はわからない。しかし、春子の声は惚けているように聞こえる。さっき家に戻った時には、明らかにわかっている感じだった。
「子供らが、うちを見た時に言うたじゃろ? がんごめじゃて」
「そげなこと言いよったね。ほじゃけど、おら、知らんのよ」
「ほんまに知らんの?」
「うん、知らん」
「言うたら、うちが傷つく思て、知らんふりしよんやないん?」
「違う違う。ほんまに知らんのよ」
春子の声は何だか妙に明るかった。恐らく春子はがんごめが何かを知っているに違いない。だが喋ってくれそうにないので、千鶴は訊くのをあきらめた。
寺に戻ったあと、千鶴たちは和尚夫婦としばらく話をした。
千鶴は和尚たちにがんごめの話を訊ねてみたかった。だが、何だか訊くのが怖い気がした。それに春子の前では、春子が気を悪くするように思えたので、訊くことができなかった。
また和尚たちとは、それほど長く喋ってはいられなかった。
翌朝には、日の出とともに神輿の宮出しが行われる。そのため未明からだんじりの屋台が再び集結するらしい。その時は、先ほどよりも多くの屋台が集まると言う。
それを見るには、朝の暗いうちから起きて出発しなくてはならない。そのため早く寝る必要があった。
結局、千鶴が和尚たちと喋ったのは祭りの話だけで、がんごめの意味を確かめることはできなかった。
千鶴たちは安子が用意をしてくれた部屋で床に就いた。だが、千鶴はなかなか寝つけなかった。
早く眠らねばならないのだが、そう思えば思うほど却って目が冴えてしまい、眠気は遠のいてしまう。隣で春子の寝息が聞こえ出しても、千鶴は長い間、闇の中で眠るために奮闘し、何度も寝返りを打った。
頭の中では、今日のことが幾度も思い返された。
不可解な出来事や夢に見た若侍。いったいあれは何だったのだろう。自分に何が起こったのか。若侍にはもう一度会いたいが、自分をここへ運んでくれたのは、本当のところは誰なのだろう。
それに村人たちの態度も気になった。見下すような者もいれば、頭を下げてくれる者もいた。だが親しくしてくれたようでも、実際は蔑んでいたのかもしれない。
それでも春子の母や祖母が詫びてくれたのは、偽りのない気持ちだったように思える。がんごめとからかった子供たちも、一緒に遊んでもらったことを喜んでいた。
何が本当で、何が本当でないのかがわからない。そのことが居心地を悪くさせている。
それにしても、がんごめとは何だろう。何か悪い意味の言葉に思えるけれど、少なくともいい意味ではないはずだ。そうでなければ、子供たちがこの言葉でからかうわけがない。
だけど初対面の子供たちが、いきなりそんなことをするのも不自然だ。恐らく、これには春子の曾祖母が関係していると思われる。きっと曾祖母ががんごめという言葉を使ったのだろう。そして、それは自分が春子の家を飛び出した時に違いない。
そんなことを考えていると、いつまで経っても眠れない。このままではいけないと焦った千鶴は、考えるのをやめて眠ることにした。
それでも、どうしてもいろんなことが勝手に頭に浮かんで来てしまう。だったら、あの若侍のことを考えようと千鶴は思った。そうすれば余計なことは考えずに済む。
千鶴は目を閉じたまま、若侍のことを考えた。
だが、若侍の顔はよくわからない。顔がわからない者を思い浮かべるのはむずかしかった。それに時々思い出したように子供たちが現れて、がんごめと言って千鶴をからかった。
子供たちを頭の中から追い払い、また若侍を思い浮かべるが、いつの間にか子供たちは戻って来て、また千鶴をからかう。
そうするうちに、気がつけば千鶴は一人で闇の中に立っていた。
四
そこは漆黒と呼ぶべき暗闇だった。周りに生き物の気配はない。闇は凍えるほどに冷たく、千鶴は体を抱くようにしながら震えた。
一方、素足が触れる地面は生温かく、ぬるぬるした泥のようだ。辺りには血の臭いと、何かが腐ったような臭いが漂っている。
この暗闇はいるだけで気分が悪くなって来る。だけど、どうやってここに来たのかはわからない。
千鶴には探している者がいた。しかし、その相手がここにいるという確信などない。それでもその相手を探しているうちに、ここへ来てしまったのだ。
一寸先も見えない。誰かに鼻を摘まれたとしても、絶対にわからないような暗さだ。
恐る恐る手を伸ばしてみても、指先は何にも触れなかった。そのままの姿勢でゆっくりと二、三歩踏み出してみたが、やはり周囲には何もない。
足下がぬるぬるしているので、下手に動くと転ぶかも知れず、千鶴は身動きが取れなかった。仕方がないので、千鶴は鼻と口を手で押さえたまま一所にじっとしていた。
すると、少し闇に目が慣れたのだろうか。周囲が二間ほど先の辺りまで、月明かりに照らされたように、ぼんやりと闇の中に浮かび上がって来た。
極めて狭い範囲しか見えないが、見える限りにおいて、そこには何もなかった。
色と呼べるものはどこにもない。闇とは異なる黒さの地面があるばかりだ。他に見えるものと言えば、自分の白い手足だけである。
再び何歩か足を踏み出してみたが、目に映る光景に変化はない。
微かに風が吹いて、後ろに束ねた髪が少し揺れた。その時、どこからか憎悪と殺気が押し寄せて来た。
慌てて振り返ったが、淡い光の中に見える景色は変わらない。しかし、その向こうに広がる闇の中では、明らかに何かが蠢く気配がする。
やがて聞こえて来たのは、ずるりずるりと何かを引きずる音だ。また、ぴちゃりぴちゃりと泥を歩くような音も聞こえる。
苦しみと憎しみが入り交ざったような不気味な呻き声。それも一つや二つではない。その気味の悪い声や音は近くからも遠くからも聞こえ、その数もどんどん増えて来る。
突然、結界を破るように淡い光の下に何かが這い出て来た。それは片方の目玉が腐ってこぼれ出た屍だった。
ざんばら髪で骨と皮だけになった屍は、動きを止めると千鶴を見上げてにたりと笑った。
――見つけた。がんごめ、見つけたぞな。
乾いたような舌を動かして、屍はかさかさ声でつぶやいた。舌が動くたびに、口の中から蛆がこぼれ落ちた。
千鶴は驚きのあまり声も出ず、体が動かなくなった。だが、屍が千鶴の方へ這って来ると、喉から悲鳴が飛び出した。
呪縛が解けた千鶴は闇の中を走って逃げた。しかし音や声は後ろからばかりではなく、周囲の至る所から聞こえて来る。
とうとう呻き声と不気味な音に取り囲まれ、千鶴は行き場を失った。
ぴちゃりぴちゃりと前から音が近づいて来た。
後ずさりをすると、後ろから誰かが肩をつかんだ。驚いて振り返ると、裸同然の髪の長い女が、焦点の合わない目でにらんでいた。その目玉の上を、やはり蛆がもそもそと動いている。
――子供を返せ! お前が喰ろうた、おらの子供を返せ!
女は干物のような手で、千鶴の首を絞めようとした。
千鶴は女の手を払いのけて逃げ出した。だが何かに足首をつかまれ、勢いよく転んでしまった。
顔や体中にべちゃりと泥がついた。その泥は胸悪くなるような血の臭いがする。どうやら泥だと思っていたのは血糊らしい。
千鶴の足をつかんでいる骸骨のような屍が、歯をカチカチ鳴らしながらケタケタ笑った。
――捕まえた。がんごめを捕まえたぞな!
先ほどの女が再び千鶴に近づいて来た。さらに周囲からも次々と屍たちが姿を見せた。
ある者はこぼれた腸を引きずり、ある者は顔が崩れ、また、ある者は片手に千切れた頭をぶら下げている。
――殺せ! 八つ裂きにせぇ!
必死に逃げようとする千鶴に屍たちは腕を伸ばし、歯を剥き出した。
その時、耳をつんざくような凄まじい咆哮が辺りに響き渡った。怒りに満ちたその猛獣のような声は、びりびりと闇を震わせた。
屍たちは一斉に動きを止め、怯えたように周囲の闇を見回した。
その刹那、何か大きな物がぶんと音を立てながら現れた。それは屍たちを薙ぎ払い、一部の屍たちを闇の中へ引きずり込んだ。
他の屍たちは慌てふためき、闇の中へ姿を消した。その直後、ずんという地響きと、屍たちの呻くような悲鳴が聞こえた。
近くの闇に何かがぼとぼと落ちて来る音がした。と思ったら、淡い光の中に屍の頭や手足が転がり出て来た。
千鶴は慌てて立ち上がったが、何かから逃れようとする屍が、闇から千鶴の方へ這って来た。そこへ上の闇から巨大な足が落ちて来た。
毛むくじゃらのその足は、千鶴に這い寄ろうとした屍を、ずんと踏み潰した。振動は地面を伝って千鶴の足に届き、踏み潰された屍の一部が千鶴の足にぶつかった。
千鶴は震えながら、巨大な足の上に目を遣った。
毛むくじゃらの足に続く、胴の部分がちらりと見えた。しかし、その上は闇の中に消えている。それはこの化け物がいかに巨大であるかを物語っていた。
その化け物が千鶴を見下ろすように、闇の中からぬっと顔を見せた。それは頭に二本の角を生やし口から牙を剥いた、形容しがたいほど醜悪な顔だった。
五
はっとなった瞬間、鬼は姿を消していた。千鶴を取り巻いていた淡い光もなく、千鶴は真っ暗闇の中にいた。
しばらくの間、千鶴は自分がどこにいるのかわからなかった。しかし隣から聞こえる春子の寝息で、ここは法生寺なのだと知ってようやく安堵した。
闇の中で千鶴は体を起こした。胸はまだどきどきしている。
冷たく血生臭い空気や、ぬるぬるした生温かい血溜まり。亡者につかまれた感触や、八つ裂きにされそうになった恐怖。それらは目が覚めた今でも心と体に実感として残っている。あれが夢だったとは信じられないほどだ。もし目が覚めなかったら、自分はどうなっていたのかと思うと千鶴は体が震えた。
一方で、千鶴は鬼を見た時の自分の気持ちに混乱し、うろたえていた。
千鶴は夢の中で誰かを探していた。だが、それが誰なのかは自分でもよくわかっていなかった。ところが、あの恐ろしい鬼を見た時、千鶴の胸は喜びでいっぱいになった。
そう、千鶴が探し求めていたのは、あの鬼だったのである。
千鶴は何度も頭を振って、鬼を慕う気持ちを頭の中から追い払おうとした。いくら夢とは言え、鬼に心惹かれるなんて信じられなかった。
本当に逢いたかったのは鬼ではない。あの若侍だったはずだ。それなのに、あろうことか地獄にいる鬼を探し求め、愛しく思うなど有り得ない話である。
自分がおかしくなったのではないかと疑った千鶴は、ふと屍が口にした言葉を思い出した。屍は千鶴をがんごめと呼んでいたのだ。
伊予では鬼のことをがんごと言う。その鬼を愛おしく思った自分ががんごめなのだとすると、がんごめというのは鬼の女という意味なのかもしれないと千鶴は思った。
もし春子の曾祖母が千鶴を見てがんごめと言ったのであれば、それは千鶴を化け物と見なしたわけである。そうであるなら、とんでもない侮辱だ。そんなことを言われて平気でいられるはずがない。春子の家を飛び出したのも納得が行く。
だがそうであったとしても、今の千鶴はそのことに反論ができなかった。
鬼を愛しく思うなんて、がんごめと言われても仕方がない。もしかしたら本当に自分はがんごめなのかもしれないと、自分でも疑いたくなるほどだ。
それでも地獄の夢を見たのはただの偶然で、鬼を愛しく想ったことは何かの間違いだと思いたかった。
しかしあの若侍の夢と同じように、夢で見た地獄はあまりにも本物のようだった。夢を見たというよりは、本当にそこにいたという感じで、目覚めて時間が経った今もその感触が残っている。まだ完全には地獄から抜け切れていないみたいだ。
また鬼を慕う想いも消えていない。あの醜く恐ろしい鬼を愛しく想う気持ちが、それを否定する自分とは別にあるのだ。それは、まるで自分の中に別の何かが入り込んだかのようだ。
これは明らかに妙であり、尋常ではない。自分の中で何か恐ろしいことが起こっているのではないかと思ったが、そんなことは怖くて考えたくない。なのに、頭は勝手にいろいろ考えてしまう。
鬼を慕う気持ちがあるというのは、自分の本性が鬼であることに他ならない。認めたくはないが、鬼以外に鬼を慕う者はいないだろう。自分の想いが本物であるならば、それは自分の中に鬼の本性が潜んでいたということだ。
だけど、どうしてそんなものが潜んでいたのだろう。ロシア人の血が流れてはいるが、自分は人間だ。とは言っても、父親のことは何も知らない。もしかしたら父も鬼だったのだろうか。
そうだとすれば、父親の血が濃いために、鬼の本性も受け継いだのかもしれない。それが子供たちにがんごめと言われたり、春子の曾祖母にがんごめと罵られたことで刺激を受け、表に顔を出そうとし始めたのか。
震えが強くなった千鶴は、懸命に両手で体を抱くように押さえた。しかし、それでも震えは止まらない。
隣から春子の平穏な寝息が聞こえて来る。何も悩む必要がなく安眠している春子が羨ましく腹立たしい。
千鶴は必死に自分を落ち着かせ、夢はただの夢であって結局は何もないかもしれないと、自分に言い聞かせた。それで幾分気持ちが鎮まったが、知らない間に法生寺の前で倒れていたことを思い出すと、また恐怖に固まった。
和尚夫婦は千鶴や春子が気にしないように、このことに深く立ち入ろうとしなかった。しかし、あの時の自分に何かがあったのは確かだし、それは何か重大なことに違いないのだ。
あの不可思議な出来事は、絶対に今の夢と関係があると千鶴は考えた。どちらも尋常なことではないし、同じ時に同じ場所で起こっている。それは両者が関連しているということだろう。またそれは、あの若侍の夢にも言えることだ。
夢の中の若侍が飾ってくれた野菊の花が、実際に頭に飾られていたという事実は、何を意味しているのか。それは夢と現実の境がなくなった、ということなのかもしれなかった。だとすれば、夢の鬼が現実に現れることもあるわけだ。
いや、ひょっとしたらすでに鬼は現れたのかもと考えると、千鶴は背筋が寒くなった。春子の家を飛び出したあと、鬼と出くわしたのかもしれないのだ。
出くわしたのだとすれば、どうして無事だったのか。それは鬼が千鶴に潜んだ鬼の本性を見抜いたのか、あるいは千鶴に鬼を慕うような呪いをかけたからだろう。
いずれにしても、鬼は千鶴を妻にしようと考えたに違いない。そして、千鶴をがんごめに変えようとしているのだ。鬼の妻となった千鶴は、鬼の子供を産み増やし、夫の鬼とともに殺した人間の肉を喰らうようになるのだろう。
千鶴は頭を抱え、嫌じゃ!――と叫びそうになった。
ロシア人だと差別をされても人間がいい。それに本当に慕っているのはあの若侍だと、千鶴は自分に訴えた。だが野菊の花のことを思い出すと、そうだったと少し落ち着きを取り戻した。
女子の頭に花を飾るなど、お不動さま同様、鬼には似つかわしくない。花を飾ってくれたのは、あの若侍に違いないのだ。
春子の家を飛び出したあとに出会ったのは、鬼ではなく若侍なのだと、千鶴は自分の考えを確かめた。それでようやく安堵はしたが、本当のところは自分に何があったのかはわからない。それに、あの時に鬼と出会っていなければ、きっとこれから姿を見せることになるのだ。
もう食えん、腹いっぱい――と春子が寝言を言った。
千鶴は腹立ちを覚えながら声の方をにらむと、布団の中に潜り込んだ。
死んだイノシシ
一
夜明けの神輿の宮出しを見たあと、千鶴たちが法生寺に戻って来ると、安子が朝飯を用意してくれていた。
箱膳に並べられているのは粥と味噌汁、漬物とかぼちゃの煮物、それに温かい湯豆腐だ。
千鶴の家では朝飯と言えば、麦飯と味噌汁と漬物だけだ。おかずにかぼちゃの煮物と湯豆腐が添えられているのは、驚くほど豪華な朝飯である。お寺なので普段は質素な食事のはずだが、この日は千鶴たちのためにご馳走を出してくれたのだろう。
朝飯の事情は春子も似たようなものらしく、用意された箱膳を見るなり、おごっそうじゃ!――と大きな声を上げた。
この季節、昼間はまだ温かいが、夜明け前は結構冷える。温かい食事は本当に有り難いし、それを用意してくれた者の温かさも有り難い。
千鶴たちが箱膳の前に座ると、知念和尚と安子はにこにこしながら、祭りはどうだったかと訊ねた。二人とも先に食事を済ませており、食べるのは千鶴と春子だけだ。
「やっぱし地元の祭りはええぞな。女子師範学校に入ってから、ずっと見られんかったけん、今日はまっこと感動したぞなもし」
春子は興奮しながら喋ると、その勢いのまま味噌汁を飲もうとした。しかし味噌汁が熱かったので、慌てて椀から口を離した。
春子の様子に笑った和尚と安子は、今度は千鶴に感想を訊いた。
千鶴は、昨夕のだんじりもよかったけれど、今朝のはさらに賑やかで楽しかったと言った。
喋っている間、千鶴はできるだけ笑顔を繕ったつもりだった。それでも、やはり表情が硬くなったかもしれなかった。
地獄の夢を見たことや、自分は鬼に魅入られたのかもしれないという不安、それにほとんど眠れなかったことが、千鶴から元気を奪っていた。
確かに今朝の宮出しでは、昨夜より多くの屋台が見られた。それが素晴らしいのは事実である。しかし、千鶴にはそれに感動している余裕はなかった。頭の中は、自分は鬼なのだろうかという想いでいっぱいだった。
千鶴の気持ちに気づいていないのか、知念和尚は千鶴の感想にうなずいて言った。
「昔は、わしらも宮出しを見に行きよった。ほんでも、やっぱし寺の仕事があるけんな。ほれで、見に行くんはやめたんよ」
「ほの頃の仕事言うたら、寝ることじゃろがね」
安子に笑われると、和尚も恥ずかしそうに笑った。それに合わせて千鶴たちも笑ったが、千鶴の笑いは形だけのものだった。
「松山のお祭りにはおらんけん、大魔は珍しかろ?」
口の中のかぼちゃをもごもごさせながら、春子が得意げに言った。大魔とは露払い役として神輿の先を歩く二匹の鬼のことだ。
あれは初めてと千鶴がうなずくと、ほうじゃろほうじゃろと春子は嬉しそうに笑った。
「ほんでも、山﨑さん。大魔見よる時に顔引きつらせよったね。あれ、そがぁに怖かった?」
「ほやかて、初めて見たけん」
千鶴は小さな声で言葉を濁した。春子は笑いながら、粥を口の中に流し込んだ。
初めて大魔を見た時、千鶴はぎょっとした。まるで自分の正体を突きつけられているようで、その場から逃げ出したくなった。しかし逃げるわけにもいかず、必死に恐ろしさをこらえていたのだ。
粥を食べ終わった春子は、大魔の役目は誰でもできるわけではないと言った。この役目は特別な地域の者だけに与えられた栄誉だそうだ。
春子の話によれば、その昔、風寄がひどい大水に襲われたことがあり、その時に神社のご神体が海に流されたのだと言う。
夢のお告げでご神体が沈んだ場所を知った村人は、舟で海に出たもののご神体の引き揚げ作業は難航したらしい。そこへ釣りに出ていた山の若者二人が力を貸すと、見事ご神体は引き揚げられたそうだ。
大いに喜ばれた神は、若者たちに神輿の露払い役を与えられた。それが大魔の始まりということだ。
大魔が鬼の姿をしているのは、大いなる力の化身という意味らしい。姿は恐ろしくても、神に従う鬼ほど心強いものはないだろう。
一方、地獄の鬼は神とは真逆の存在だ。その鬼に心が惹かれる自分は、同じく神とは真逆のがんごめなのだ。今は人間として暮らしていても、今世に生まれ出る前には、地獄へ堕ちるようなことをしていたのに違いない。
自分ががんごめだという証拠はないけれど、春子の大魔の説明を聞いていると、千鶴はますます追い詰められた気分になった。
火鉢で沸かしたお湯で自分たちのお茶を淹れた安子は、食事を続ける千鶴の様子を見ながら言った。
「千鶴ちゃん、何や元気ないみたいなけんど、また何ぞ嫌なことでもあったんやないん?」
安子に訊かれ、千鶴は慌てて首を横に振った。
「別に何もないですけん」
「何か怪しいねぇ。ほら、正直に言うとうみ。何でも一人で抱え込むんはようないけん」
安子には見透かされていたようだ。千鶴が下を向くと知念和尚も、やっぱしほうなんか――と言った。
「何や元気ないなとは思いよったんやが、やっぱし何ぞあったんやな。安子の言うとおり、一人で悩みよっても仕方ないぞな。わしらでよかったら話聞いてあげるけん、何でも言うとみんさいや」
春子が食べるのも忘れて心配そうな顔をしている。
千鶴は覚悟を決めた。
「あの、もし知っておいでたら、教えて欲しいんですけんど」
「知っとることなら、何でも話してあげよわい」
知念和尚は身構えたように腕を組んだ。
「がんごめて……何のことでしょうか」
春子は驚いたような顔をしたあと、しょんぼり目を伏せた。
「がんごめ? その言葉がどがいしたんぞな?」
和尚は初めて聞いた言葉だと言うような顔を見せた。だが、安子は少し不安げに見える。
「村上さんのお家で子供らがうちを見て、がんごめじゃて言うたんぞなもし。でも意味がわからんけん、村上さんに訊いたんですけんど、村上さんも知らんみたいなけん」
ふむと和尚はうなずきながら、横目でちらりと春子を見た。春子は下を向いたままだ。
「子供がふざけて言うたことじゃろけん、そがいに気にせいでもええんやない?」
安子が慰めるように言った。千鶴は首を振ると、ほやない思うんですと言った。
「がんごめやなんて、子供が勝手に考えた言葉とは思えんぞなもし。子供は誰ぞの真似するもんですけん、きっと大人が使た言葉や思うんです」
「ほらまぁ、ほうかもしらんけんど……」
言葉を引っ込めた安子と、黙っている和尚を見比べながら、千鶴は自分の考えを述べた。
「鬼のこと『がんご』言いますし、醜女の『め』は『女』て書きますけん、『がんごめ』いうんは……」
「鬼女やて思いんさったんか?」
千鶴はこくりとうなずいた。春子はますます項垂れて泣きそうな顔になっている。
「うち、思たんです。うちが村上さんの家飛び出したんは、村上さんのひぃおばあちゃんに、がんごめて言われたんやないかて。ほれで、ほんまは他の人らも同し目でうちのこと見よるんやないかて……」
「そげなことない!」
春子が涙ぐんだ顔を上げて叫んだ。
「山﨑さん、絶対そげなことないけん! ヨネばあちゃん、惚けてしもとるんよ。他の者は誰っちゃそがぁなこと思とらんけん!」
やはり思ったとおり、春子の曾祖母は千鶴をがんごめだと見たようだ。春子の否定の言葉は、却って千鶴を落ち込ませた。
知念和尚は微笑みながら千鶴に優しく言った。
「春ちゃんの言うとおりぞな。千鶴ちゃんみたいな別嬪さん、誰ががんごめやなんて言うんぞ。そげな者、どこっちゃおらんぞな」
安子も笑顔を見せて明るく言った。
「な、わかったじゃろ? ほやけんな、千鶴ちゃん、もう、そげなことは気にせんの。そもそも千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるんじゃけんね」
代わる代わる慰められ、千鶴はわかりましたと言った。
「もう言いません。ほんでも、もう一つぎり知りたいことがあるんぞなもし」
「何ぞな。何でも言うとうみ」
知念和尚が応じたが、千鶴は春子に訊ねた。
「村上さん。ひぃおばあちゃん、なしてうち見て、がんごめ言うたんかわかる?」
「な、なしてて……」
「みんながうちのことをがんごめじゃて思わんのなら、なしてひぃおばあちゃんぎり、うちをがんごめ言うたんじゃろか? うちにがんごめの何かを感じたんかな?」
「ヨネばあちゃん、惚けとるぎりじゃけん。そげなこと、そがぁに真面目に考えんでもええやんか」
春子は答えたくないようだった。と言うことは、春子は理由を知っているのだろう。
「和尚さんたちはわかりますか?」
千鶴は知念和尚と安子に顔を向けた。
安子が当惑したように和尚を見ると、和尚は春子に声をかけた。
「春ちゃん、もう千鶴ちゃんに話してやっても構んかろ? 千鶴ちゃんは頭のええ子ぞな。隠したかて疑いはますます膨らもう。ほんで、いずれ春ちゃんに不信感を持つようになろ。ほんでも春ちゃんはええんか?」
春子が首を横に振ると、ほうじゃろ?――と和尚は言った。
「ほんなら、わしから千鶴ちゃんに話そわい。ええな?」
春子は黙ってうなずいた。
知念和尚は千鶴に向き直ると、今から二月ほど前の話ぞな――と言った。
「台風が来よった時があったじゃろ? あん時にな、そこの浜辺にあったこんまい祠がめげてしもたんよ。ほれからなんじゃな、おヨネさんが妙なこと言い出したんは」
二
法生寺の近くの浜辺には、村人たちに忘れ去られた小さな祠があった。その祠はヨネが一人で世話をしていたのだと言う。
そのヨネが足腰が弱くなったため、数年前からはイネやマツが祠の世話をしていたそうだ。しかし、そこにどんな神さまが祀られているのか、ヨネは誰にも教えていなかった。
知念和尚が話した台風が来たのは、今年の八月のことだ。この時期に台風が襲って来るのは珍しいのだが、その時に松山はかなり荒れた。また、風寄も激しい風雨に曝された。
台風が去った翌日、イネが祠を見に行くと、祠はばらばらに壊れていた。長年の風雨でかなり傷んでいたので、とうとう壊れてしまったかという感じだった。周囲の木々も折れていたので、傷んだ祠が壊れるのは当然でもあった。
ところが、その話を耳にしたヨネは狂ったように騒ぎ始めた。鬼が来て村が滅びると言うのである。
何を言っているのかと家族に問い詰められ、ようやくヨネは、あの祠が鬼から村を護る鬼よけの祠だったと話した。
ヨネが言うには、ヨネの父親が鬼を見たそうで、それでこの鬼よけの祠を造ったらしい。
この祠ができた時、これは鬼よけの祠ではあるけれど、人前では絶対に鬼の話はするなと、ヨネは父親からきつく命じられたそうだ。何故鬼の話をしてはいけないのかと訊ねると、鬼のことを口にすればひどい目に遭わされるからだと言われたらしい。
誰がひどい目に遭わすのかと問われると、鬼に決まっているとヨネは答えたそうだ。
祠がなくなれば、鬼は再び現れて好き勝手ができる。だから祠の秘密が知れると、祠の世話をする者が鬼に狙われるという理屈だ。それでヨネは祠のことをこれまで誰にも話さなかったようだ。
しかし、いくら父親が鬼を見たからと言って、そこまで鬼の話を信じるものかと、修造たちは疑問に思ったようだ。するとヨネは自分もがんごめを見たと言ったそうだ。
ヨネがまだ幼かった頃、がんごめは法正寺に棲んでいたと言う。ヨネの家は法生寺の近くにあったので、ヨネは時々がんごめを見ることがあったようだ。がんごめは雪のように白い若い娘の姿をしていて、見つめられると動けなくなったらしい。
鬼もがんごめも実在した。千鶴は動揺を隠せないまま和尚夫婦に訊ねた。
「このお寺に、がんごめがおったんですか?」
知念和尚は安子と顔を見交わしたあと、困ったように言った。
「村長からもそげなこと訊かれたんやがな。わしらは途中からこの寺に来たけん、そげな昔のことは何も知らんのよ」
和尚に続いて、安子が言った。
「昔、この寺で火事があってな。本堂は無事じゃったけんど、庫裏が焼けてしもて、ほん時に書き物が全部焼けてしもたんよ。ここのご住職も、ほん時に亡くなってしもたけん、昔のことはようわからんのよ」
それは明治が始まるより前に起こった事件だった。その事件絡みで、当時の風寄の代官とその息子までもが亡くなったのだと言う。
それで残された代官の妻は尼となり、庫裏の焼け跡に小さな庵を建てて、夫と息子、そして亡くなった住職を弔い続けたそうだ。
その後、その尼が亡くなると、法生寺は遠く離れた別の寺の住職が、掛け持ちで管理をすることになった。
知念和尚がこの寺へ来たのは、掛け持ちの住職二人を経たあと、明治の半ば過ぎになってようやく庫裏が再建されてからだった。
掛け持ちをしていた住職は二人ともこの土地の者ではなく、普段はほとんどこちらにいなかったそうだ。また、初めの掛け持ち住職が風寄を訪れたのは、代官の妻であった尼が亡くなってからのことらしい。
そんな状況なので、掛け持ちの住職たちは庫裏が焼ける前のことはまったくと言っていいほど何も知らず、二人のあとを引き継いだ知念和尚も、昔のことはわからないということだった。
鬼やがんごめの話も、その住職たちの口から聞かされることはなかったと知念和尚は言った。ただ、その住職たちが伝え聞いた話によれば、庫裏が焼ける少し前に、この寺に不埒な侍たちが集まって狼藉を企てていたらしい。
代官を殺したのはその侍たちのようで、寺へ押し寄せた村人たちとも争い、多くの村人が命を失ったそうだ。
その時の争いで庫裏は焼け、当時の住職も命を落としたのだと言う。また、同じ時に今の北城町辺りにあった代官屋敷も焼けたということだった。
法生寺の庫裏と代官屋敷が燃えたことは、村長も知っていた。また、その事件に悪い侍の集団が関わっていたことも、村長はわかっていた。
一方、ヨネも燃える庫裏と代官屋敷を自分の目で見たらしい。その上で鬼やがんごめのことを言うので、村長はとても困惑したようだった。
「おヨネさんほど長生きしておいでる者は、この村にはおらんけんな。がんごめの話がほんまなんかは確かめようがないんよ」
知念和尚が当惑気味に言った。
「ほんでも、ほんまにがんごめがおったんなら、どっかにそげらしい話が伝わっとってもええ思うんですけんど」
千鶴の言葉に和尚は、ほうなんやがな――と言った。
「村長ですら知らんのじゃけん、期待はできまい。ほれでこの話はな、村上家とわしらぎりの話いうことになったんよ。おヨネさんが妙なこと言い出したて、噂が広まったら村長も困るけんな」
千鶴は春子に改めて訊ねた。
「村上さんはひぃおばあちゃんの話、知っとったんじゃね?」
春子は小さくうなずき、千鶴の言葉を認めた。
「こないだのお盆に戻んて来た時、そげなことがあったて聞いたんよ。ほやけど、まさかヨネばあちゃんが山﨑さん見て、がんごめ言うとは思わなんだんよ」
「ほれはほうじゃな。そげなこと誰も思うまい」
知念和尚が春子を慰めるように言った。
がんごめは千鶴と同じような白い肌らしい。しかし暗い部屋の行灯の明かりでは、肌の色はよくわからないはずだ。それでもヨネが千鶴をがんごめだと信じたのは、それだけ千鶴の顔立ちががんごめと似ているということだろう。それは千鶴をひどく当惑させた。
それでも話の真偽を整理する必要はある。ヨネの父親は本当に鬼を見たのだろうか。
千鶴がそのことを訊ねると、知念和尚が説明した。
「鬼はそこの浜辺でようけの侍を殺しよったそうな。ほんで、沖には見たこともないような、真っ黒ででっかい船が浮かんどったんじゃと」
単に鬼を見たというだけでなく、かなり具体的な話である。その上、わざわざ鬼よけの祠まで造ったのであるから、ヨネの父親が法螺を吹いたわけではなさそうだ。
千鶴はうろたえながら、がんごめについても訊いた。
「ところで、がんごめはここで何をしよったんですか?」
春子は黙っている。それで知念和尚がまた口を開いた。
「おヨネさんが言うにはな、村に禍呼んで、村の者の命を奪たらしいぞな」
「禍?」
「たとえば、大雨降らして川の水あふれさせたり、悪い病を流行らせたりするんよ。ほんで、亡くなった人の墓をな、あとで掘り返して屍肉を喰ろうたそうな。特に子供の屍肉を好んだらしいわい」
千鶴は目を伏せた。頭には、あの恐ろしい地獄の風景が浮かんでいる。
三
――子供を返せ! お前が喰ろうた、おらの子供を返せ!
屍の女が焦点の合わない目でにらんでいる。
子供の屍肉を喰ったような気がして、千鶴は手で口を押さえた。
腹の中の物が込み上げそうになるのを必死でこらえていると、春子が心配そうに大丈夫かと声をかけた。
安子は和尚をにらんで叱りつけた。
「人が飯食うとる時に、そげなこと言うたらいけんでしょうが」
知念和尚は頭を掻くと、千鶴に詫びた。
「悪かったぞな。もう、この話はおしまいにしよわい」
いえ――と千鶴は口を押さえながら言うと、大きく息を吸ったり吐いたりした。それからお茶を一口飲むと、ふうと息を吐いた。
「もう、大丈夫ですけん。今の話ですけんど、がんごめがそげな悪さするんがわかっとるんなら、なして村の人らは黙っとったんですか? ほれに、ここにおいでたご住職も、なしてがんごめがお寺に棲むんを許しんさったんでしょうか?」
今度は春子が答えた。
「がんごめはな、人の心を操ることがでけたんじゃと。ほれで、ここのお坊さまやお代官を味方につけて、我が身を護ったそうな」
何だか話がややこしい。千鶴は話を確かめながら喋った。
「じゃったら、ここにおったいう悪いお侍は、ここでがんごめと争うたんじゃろか? ほのお侍らがお代官やご住職を殺めたいうことは、がんごめの敵いうことになろ?」
ほうならいねぇと春子はうなずいた。
「普段はおらんのがいきなし来たんなら、がんごめもたまげた思うで。しかも相手は刀持ったお侍やけんな。ほんで、そこの浜辺で悪者同士で争うことになって、ほれをおらのひぃひぃじいちゃんが見んさったんよ。絶対にほうやで」
そう言ってから、春子は慌てて自分の言葉を否定した。
「言うとくけんど、これはヨネばあちゃんの話がほんまのことと仮定しての憶測なで。ほじゃけん、山﨑さん、本気で聞いたらいけんよ」
うなずきはしたものの、春子の説明で千鶴は話の整理がついたように思えた。
やはり、がんごめや鬼は実在したのである。そして、それは前世の自分だと千鶴は思った。自分はここにいたがんごめの生まれ変わりなのだ。
昨夜の夢は、そのがんごめの本性が再び出て来ようとしているのに違いない。千鶴は顔から血の気が引く感じがした。
千鶴の表情を見たのか、安子が明るい声で言った。
「二人ともお箸が止まっとるよ。この話はおしまいにして早よ食べてしまわんと、すぐにお昼になってしまうぞな」
春子は急いで箸を動かし始めた。しかし、千鶴は箸を持つ手が震えてしまう。再び箸を止めた千鶴は、あと一つぎり――と言った。
「結局、がんごめと鬼はどがぁなったんぞなもし?」
ほんまのとこはわからんが――と知念和尚は前置きして言った。
「庫裏が焼けてからは、がんごめはぱったり姿を消したそうな」
「鬼の方は?」
「おヨネさんの父親が他の者を呼んで戻んた時には、もう鬼はおらんかったそうな。ほん時に沖へ去った黒い船が見えたそうで、鬼もがんごめもその船で逃げたと、おヨネさんの父親は思たらしい」
「ほれで浜辺に鬼よけの祠をこさえんさったんですね?」
「ほういうことらしいわい」
話の辻褄は合っている。それでも千鶴は自分ががんごめであるとは思いたくなかった。少しでも鬼の話を否定する証が欲しかった。
「鬼がお侍と戦うた話がほんまなら、浜辺に争いの跡が残っとったんでしょうか? たとえば大けな足跡があったとか」
「足跡のことはわからんけんど、浜辺には侍連中の死骸が――」
知念和尚はそこで言葉を切ると、安子の顔を見た。安子は自分で考えなさいと言いたげな惚けた顔をしている。
「大丈夫ですけん。続けてつかぁさい」
千鶴が言うと、和尚はもう一度ちらりと安子を見てから話を続けた。
「実際、浜辺に侍連中の死骸がごろごろあったらしいぞな」
「じゃあ、ほんまに鬼とお侍が?」
「ただな、前のご住職から聞いた話では、侍連中と戦うたんは、恐らく代官の息子やいうことぞな」
「お代官の息子? 鬼やのうて?」
うなずく和尚に、たった一人でかと春子が訊ねた。
ほうよと和尚が言うと、春子はヨネの言い分も忘れたように目を丸くした。
「こがぁな田舎におったにしては、相当な剣の腕前やったみたいぞな。浜辺にあった死骸は、どれも一刀のもとに斬り殺されとったそうな。ほれと、浜辺に代官の息子の刀が落ちとったそうでな。ほれで、誰ぞが見たいうんやないんやが、たぶん代官の息子がやったんじゃろいう話ぞな」
「そのお人にとって、相手は憎き父の仇やけんね。命を懸けて戦いんさったんじゃろねぇ」
安子がうなずきながら言った。
たった一人で何人もの侍を相手に戦う代官の息子。その様子を思い浮かべようとした千鶴の目に、何故かそれらしき場面がはっきりと見えた。
刀を抜いた一人の若い侍が、千鶴に背を向けて立っている。向こうを向いてはいるが、あの若侍だと千鶴は直感した。
場所は浜辺で、刀を抜いて身構えるその姿は満身創痍のように見えた。その向こうの松原から大勢の侍たちが刀を抜いて走って来る。
千鶴には侍たちの狙いが若侍ではなく自分であるように思えた。若侍は千鶴を護るために、ただ一人侍たちの前に立ちはだかっていた。
「たった一人で戦うやなんて活動写真の主人公みたいぞな。そがぁながいなお人がおったやなんて信じられん」
興奮した春子の声で、千鶴は現実に引き戻された。
春子の言葉に、まったくぞなと知念和尚がうなずいた。
「恐らく、父親の代官がかなりの腕前やったんじゃろなぁ。ほうでなかったら、こがぁな田舎で剣術の達人にはなれまい」
「ほんでも、おとっつぁんの方は悪いお侍らに殺されてしもたんでしょ?」
「たぶん不意を突かれたんやなかろか。でなければ、そがぁ簡単には殺されまいに」
和尚の話に納得する春子を横目に見ながら、千鶴は和尚に怖々訊ねた。
「ほのお代官の息子さんのことは、何もわからんのですか?」
ほうなんよ――と和尚は言った。
「ずっと行方知れずでな。代官の息子がどがぁなったんか、誰もわからんかったそうな。ほんでも浜辺には刀の他に、ずたずたにされた血だらけの着物が残されとったそうでな。最後には力尽きて海に流されてしもたんじゃろという話ぞな」
千鶴は泣きそうになった。自分を護ろうとして、あの若侍が死んだと思えてならなかった。
だが、もしそうだとしたら自分はその時、その場にいたことになる。であれば、やはり自分は法生寺にいたというがんごめだったのか。ならば、あの若侍は自分をがんごめだと知った上で、命を捨ててまでして護ろうとしてくれたのか。
「千鶴ちゃん、大丈夫?」
涙ぐむ千鶴に気づいた安子が、心配そうに声をかけた。
「大丈夫です。ただ、ほのお代官の息子さんがお気の毒で……」
千鶴は懐紙を取り出して涙を拭いた。
「まこと千鶴ちゃんは優しいわいねぇ」
安子は千鶴を見ながら微笑んだ。
春子ははしゃぐのをやめて、ほんでも――と遠慮がちに言った。
「お侍らと戦うたんが鬼にしてもお代官の息子にしても、もうちぃと見た者がおってもよさそうやのにね」
「恐らく代官屋敷が燃えたけん、みんなそっちの方に気ぃを取られよったんじゃろな。ほれに、代官が殺されたいう話もあったけん、浜辺の様子見よる暇なんぞなかったんやなかろか」
目撃者がほとんどいないというのは、知念和尚の推察どおりなのだろう。それでも浜辺で侍たちと戦ったのは鬼なのか、代官の息子なのか。
鬼がいたから鬼よけの祠があるし、代官の息子がいた証として刀と着物が落ちていた。
いったいどっちが本当なのかはわからない。だが戦いの幻影を見た千鶴には、少なくとも代官の息子が侍たちと戦ったことは、間違いないように思えていた。
気持ちが沈んだままの千鶴に、知念和尚は言った。
「とにかく代官は殺され、その息子も死んだと見なされたんじゃろな。ほれで代官の妻は髪を下ろして尼になり、ここで生涯、夫と息子を弔い続けたんよ」
「ここは元々お代官の家の菩提寺やったんかなもし?」
春子が訊ねると、そうではないと知念和尚は言った。
「たぶん代官の菩提寺は松山にあろ。けんど、そっちでは弔わんでこっちに墓を建てたんよ」
「なしてぞな?」
それは恐らく息子のためだろうと思うと和尚は言った。
「ここには代官の墓と尼になった代官の妻の墓はあるんやが、息子の墓はどこにもないんよ」
春子は意外そうに千鶴を見た。なしてないんぞな?――と千鶴は思わず声を上げた。千鶴にとっては、あの若侍の墓がないと言われたようなものだった。
それについて和尚は、どうしてなのかはわからないと言った。
代官の妻が暮らしたという庵は、この庫裏が新たに建てられる時に取り壊されたと言う。そこに記録が残っていたのかどうかは定かではないらしい。
「喧嘩両成敗て言うけんな。相手がふっかけて来た争い事でも、斬り合いになってしもたら双方が咎めを食うんよ。しかも、代官の息子が斬り殺したんは一人や二人やないけんな」
知念和尚が話すと、安子も和尚の話を補足するように言った。
「ほんまかどうか知らんけんど、死んだお侍の中には、外から来たお人もおったらしいぞな。ほれが立派なお家柄の所のお身内やったいう話もあるみたいなけん、ほれがいけんかったんかもしらんね」
「ほんなん無茶苦茶ぞな。あのお人はたった一人で、うちを――」
護ろうとしてくれたのにと言いそうになった千鶴は、慌てて口を噤んだ。
「あのお人?」
「うち?」
怪訝そうにする和尚たちに、千鶴はうろたえながら言い直した。
「すんません。あのお人やのうて、そのお人ぞなもし」
「うちを、て言うんは?」
安子が訊ねると、ほれは――と千鶴は困惑した。
「あの……、お家を背負ってと言うつもりでした」
安子はうなずき、和尚もなるほどと言った。
「確かにほうよな。父親亡きあとは、息子がすべてを背負て戦うたわけよな。ほれじゃのにその息子の墓がないいうんは、まことに理不尽なことぞな」
「ほやけど、千鶴ちゃん。さっきのは自分が知っておいでるお人のこと、言うとるみたいじゃったね」
安子が笑うと、和尚も春子も笑った。ただ千鶴だけは下を向きながら恥じ入っていた。
「まぁ何にしてもそがぁな理由で、代官の息子にまともな墓を建てることは、許されんかったんやと思わい。ほれで代官の妻は墓を建ててやれん息子のために、ここに残って夫と一緒に息子を弔うたんやなかろか」
和尚が話し終わると、はっとしたように春子が言った。
「ひょっとして、そのお代官の息子もがんごめに操られよったんかもしれんで」
そう言ってから春子は再びはっとした顔で千鶴を見て、今のは嘘だと慌てたように弁解をした。
しかし、春子の言葉は千鶴には衝撃だった。がんごめがやったということは、自分がやったということだ。
あの若侍を操って自分を命懸けで護らせたのだとすると、それは最悪のことである。そんなことは有り得ないと思うのだが、若侍が死んだあと、今度は仲間の鬼が現れて侍たちと戦ったとすれば、すべてが説明できてしまう。
だが、自分があの若侍をそんな風に利用したとは信じられない。自分はあの若侍と恋仲にあったのである。そんな人物をむざむざ死なせるはずがない。それでも所詮は自分は鬼だったということなのか。だから、仲間の鬼とともに地獄へ堕ちてしまったのか。
千鶴が暗い顔になったので、春子は余計なことを言ってしまったと、うろたえながら詫び続けた。
そこで安子が、この話はこれでおしまいにしましょわいと言った。
知念和尚もうなずくと、とにかく何もわからないが、祠が壊れたあとも、特に何も起こっていないと話した。
「ほじゃけんな、ヨネばあちゃんが言うたことは気にせんで」
春子が必死に頼むので、千鶴は黙ってうなずいた。それでも心の中には、自分が犯したかもしれない罪の意識が広がっていた。
四
「和尚さま」
境内に面した障子の向こうから、誰かの声が聞こえた。
知念和尚は腰を上げると、障子を開けた。
そこは縁側になっていて、外に白髪頭の男が立っていた。伝蔵という寺男だ。
千鶴は伝蔵とは初対面だった。目が合った時に会釈をしたが、伝蔵は千鶴を見てぎょっとしたようだった。
しかし、千鶴が春子の女子師範学校の友だちだと知念和尚から説明を受けると、伝蔵はぎこちなく頭を下げた。
「どがいしたんぞな?」
用事を訊ねる知念和尚に伝蔵は言った。
「権八が和尚さまに話があると言うとるぞなもし」
権八というのは近くに住む百姓で、毎朝寺に野菜を届けてくれる信心深い男である。
さっきまで他の者と一緒にだんじりを動かしていただろうに、手が空いたのだろう。今朝も野菜を持って来てくれたようだ。
知念和尚が権八を呼ぶように言うと、伝蔵は横を向いて手招きした。すると、小柄な男がひょこひょこと現れた。
「権八さん、お祭りじゃのに、お野菜届けてくんさったんじゃね。だんだんありがとうございます」
安子が和尚の傍へ行って丁寧に礼を述べた。知念和尚も感謝をすると権八は嬉しそうに、とんでもないと手を振った。
しかし部屋の中にいる千鶴に気がつくと、権八は驚いたように固まった。
知念和尚は再び千鶴のことを説明しようとした。だが、その前に伝蔵が説明をし、千鶴に対して失礼だと権八を叱った。
慌てたように頭を深々と下げた権八は、頭を上げると、しげしげと千鶴を眺めた。
「こら、権八。ぼーっとしよらんで、和尚さまにお訊ねしたいことがあるんじゃろが」
伝蔵に言われてはっとなった権八は、ほうじゃったほうじゃったと和尚に顔を戻した。
「あんな、和尚さま。ちぃと教えていただきたいことがあるんぞなもし」
「ほぉ、どがいなことかな?」
「あんな、和尚さま。昨夜のことなけんど、辰輪村の入り口ら辺で、でっかいイノシシの死骸が見つかったんぞなもし」
春子の目がきらりと輝いた。春子はこんな話が大好きだ。
「昨夜? 昨夜いうたら、参道に屋台が集まりよった頃かな?」
「ほうですほうです。ほん頃ぞなもし」
「そげな頃に、でっかいイノシシの死骸が、辰輪村の入り口で見つかった言うんかな」
「ほうですほうです。辰輪村の連中は、道が通れんで往生した言うとりましたぞなもし」
権八の話を聞きながら、千鶴は小声で辰輪村とはどこのことかと春子に訊いた。
話に聞き入っていた春子は、山の方の村だと口早に説明した。
「道が通れんほど、でっかいイノシシなんか」
「あんな、和尚さま。これより、もっとでかかったぞなもし」
権八は両腕を目いっぱい広げて見せた。その仕草を見た千鶴は、祖父がイノシシを狩りで仕留めた時の様子を思い出した。しかし、それ以外の何かが、記憶の中から這い出て来ようとしているようにも感じた。
「権八、お前、その目で見たんか?」
伝蔵が疑わしそうに言った。権八は大きくうなずくと、確かに見たと言った。
「山陰の者が呼ばれるんを耳にしたけん、何があったんか訊いたらな、岩みたいなイノシシの死骸じゃ言うけん、見に行ったんよ」
「岩みたいて、こげな感じか?」
権八より体が大きい伝蔵が両手を広げてみせたが、権八は首を振り、もっとよと言った。
「真っ暗い中、行きよったら、道の上に大けな岩が転がっとるみたいじゃった」
伝蔵は信じられないという顔を知念和尚に向けた。しかし、信じられないのはみんな同じである。誰もが伝蔵と同じような顔をしていた。ただ、千鶴だけが何かを思い出しそうな気がして、話に集中できずにいた。
和尚は驚いた顔のまま権八に言った。
「そがぁにでっかいんかな。ほら、まっことがいなイノシシぞな。ほれは間違いのう山の主ぞ。ほんなんが祭りしよる所へ現れとったら大事じゃったな」
和尚はみんなとうなずき合ったあと、権八に顔を戻した。
「ほれにしても、ほのイノシシは、なしてそげな所で死んどったんぞな? 誰ぞが鉄砲で撃ったんかな?」
「ほれがな、和尚さま。ほうやないんぞなもし」
「鉄砲やないんなら、病気かな?」
権八は首を大きく横に振った。
「あんな、和尚さま。鉄砲でも病気でもないんぞなもし」
「ほんなら何ぞな? なして死んだんぞな?」
「あんな、和尚さま。おら、ほれを和尚さまにお訊ねしたかったんぞなもし」
知念和尚は苦笑すると、権八さんや――と言った。
「わしは、ほのイノシシをまだ見とらんのよ。見とらんどころか、今初めて権八さんから聞いたとこぞな。ほれやのに、なしてわしがイノシシが死んだ理由を知っとると思うんかな?」
権八はまた首を横に振った。
「あんな、和尚さま。ほうやないんぞなもし。死んだ理由はわかっとるぞなもし」
「わかっとんなら、わしに訊くまでもないやないか」
「あんな、和尚さま。わかっとんやけんど、わからんのですわい」
「こら、権八。そげな言い方じゃったら、和尚さまはわからんじゃろがな」
伝蔵が叱りつけると、権八は小さくなった。
「まぁまぁ、伝蔵さん。そがぁに言わんの」
安子が面白そうに言った。
知念和尚は少し困った様子で、権八に言った。
「申し訳ないが、権八さんが何を言いたいんか、わしにはわからんぞな。権八さんがわかっとる、イノシシが死んだ理由を先に言うてくれんかな」
わかりましたぞなもし――と権八は、横目で伝蔵を見ながら言った。
「そのイノシシの死骸はな、頭ぁぺしゃんと潰されとったんぞなもし」
「何やて? 頭を潰されとった?」
知念和尚の顔に一気に緊張が走った。安子の顔から笑みが消え、春子は口を開けたまま千鶴を見た。
「権八さん。ほれはまことの話かな?」
不安げな和尚に、権八は大きくうなずいた。
「おら、この目でちゃんと見たぞなもし。こんまいイノシシでも、あげに頭ぁ潰すんは並大抵のことやないぞなもし。ほれやのに、あの岩みたいなでっかいイノシシの頭がな、ほんまにぺしゃんこに潰されとったんぞなもし」
「嘘じゃろ?」
疑う伝蔵に、権八は不満げな目を向けた。
「おら、嘘なんぞつかん。嘘じゃ思うんなら、辰輪村の者でも山陰の者でも訊いてみたらええ」
伝蔵が言い返せずに口籠もると、権八は和尚に言った。
「ほじゃけんな、和尚さま。イノシシが死んだんは頭ぁ潰されたんが理由じゃと、おらは思うんぞなもし」
「ほれは、わしもそがぁ思わい」
和尚がうなずくと、権八は続けて言った。
「ほんでな、和尚さま。おらが和尚さまにお訊ねしたいんは、何がイノシシの頭ぁ潰したんかいうことなんぞなもし」
もう一人のロシアの娘
一
権八によれば、奇妙な死に様にもかかわらず、イノシシの死骸は昨夜のうちにさばかれて、多くの者の腹を満たしたらしい。権八もそのうちの一人だった。
イノシシの死骸を見たばかりか、その肉まで食べることができた権八を、春子は羨ましがった。
せめて残った骨や毛皮を見たいと春子が言うと、それは山陰の者の所にあると権八は話した。それを聞くと、春子は残念そうにしながらあきらめた。
千鶴は山陰の者という人たちが誰なのかを知らないが、春子はそれを説明することなく、イノシシの死骸があった場所を確かめたいと言った。神輿は夕方神社に戻るまで、周辺の村々を練り歩く。その間、自分たちには暇があるので見に行くと言うのだ。
わざわざそんな所へ行くのはよしなさいと、和尚夫婦は口を揃えて忠告した。しかし、春子は余程イノシシに未練があるようで、千鶴に無理やり賛同させた。
何がイノシシの頭を潰したのかという権八の素朴な問いに、知念和尚は答えることができなかった。好い加減なことは言えないのだろうが、まともに答えるのはとても恐ろしいことだったに違いない。
そんな不穏な死に方をしたイノシシの死骸があった場所になど、当然ながら千鶴は行きたくなかった。
またイノシシの話を聞いてから、千鶴は何かを思い出しそうな気がしていた。しかし、それを思い出してはいけないように感じていたし、思い出すかもしれないのが怖かった。
それでも世話になっている春子がどうしても見たいと言えば、断ることはできない。それで嫌だと言わないのを、春子は千鶴が賛同したことにしたのである。
結局は和尚たちも無理には引き留めることはしなかった。それで千鶴は渋々ながら春子と一緒にイノシシの死に場所を見に行くことになった。
道すがら山陰の者について千鶴が訊ねると、春子はむすっとした顔で説明した。
それによると山陰の者とは、山陰になった所に暮らす人たちのことで、昔から血生臭い仕事を生業としていたらしい。そのため村人たちから嫌われているそうだが、村人たちと諍いを起こす乱暴者もいて、それで余計に嫌われていると春子は言った。
説明をする春子の表情から、春子が山陰の者を毛嫌いしていると千鶴は理解した。また、山陰の者の所にあるというイノシシの骨や毛皮を、春子が見に行かないのもこのためなのだと悟った。
しかし、それは明らかに山陰の者に対する差別だ。相手が誰であれ、差別をする親友を見るのは、千鶴にはつらいことだった。
またその差別の矛先が、いつ自分にも向けられるかもしれないと思うと落ち着かない。今は親友のように扱ってもらっていても、春子の機嫌を損ねたら、自分も山陰の者と同じ待遇を受けるかもと、不安な気持ちになってしまう。
それは千鶴がロシア兵の娘だからだが、実はがんごめだったとなれば、山陰の者どころではない態度を見せられるだろう。その時は他の者たちも一緒になって恐れ戦き、みんなで千鶴から逃げるか、あるいは千鶴を排除しようとするに違いない。
そんなことを心配する千鶴の横で、春子はため息をつきながら、山陰の者への悪態をついた。イノシシの骨や毛皮が山陰の者たちの所にあるからだろうが、その様子は千鶴をさらに刺激した。
千鶴たちは辰輪村へ向かう川辺の道を進んで行った。すると、死骸があったと思われる血溜まりの跡が、すぐに見つかった。
辺りには肉片や骨片の一部と思われる物が、血と一緒に飛び散っていた。そこでイノシシが死んだのは間違いないと思われた。
血溜まりや、その周りに漂う血の臭いは、夢で見た地獄を千鶴に思い出させた。あの生温かくぬるりとした感触が足の裏に蘇り、千鶴は小さく身震いをした。
血の臭いには獣の臭いも混じっている。その臭いは千鶴の記憶から何かを引き出そうとしているようだ。
春子もこの臭いには顔をゆがめ、手で鼻をふさいだ。それでも春子はこの場所の探索をやめようとはしなかった。
その時、頭上の木の枝でカラスが鳴いた。驚いた春子がカラスに怒鳴ると、カラスはばさばさと飛び去った。
千鶴は妙な気分になった。今見たのと同じ場面に出くわしたことがあるような気がしたのだ。
権八から死骸の向きを確かめていた春子は、道の奥を指差して、イノシシはあちらから来たようだと言った。
道の奥へ目を向けた千鶴は、そこにイノシシの姿を思い浮かべようとした。すると、胸騒ぎを覚えて困惑した。何だか、以前にもここにいたような気持ちがするのだ。
春子の家を飛び出したあとの記憶がない千鶴にとって、これは一つの手掛かりだ。しかし、まさかである。もし本当にここにいたのだとしたら、それはとても恐ろしいことだ。そんな記憶は思い出さない方がいいかもしれない。
それでも千鶴はもう一度頭上の木の枝を見上げ、それからまた道の奥を見た。何かを思い出しそうな気持ちがそうさせていた。
目の前に広がる眺めにはまったく覚えがない。だが、すぐ横を流れる川のせせらぎが、千鶴がここにいたと証言しているように聞こえる。
胸がどきどきしている。本当に自分はここにいたのだろうか。いたのだとしたら、いったいここで何があったのか。死んだイノシシと自分は関わりがあったのだろうか。
失われた記憶に近づいているのか、動悸が強まって行く。頭では何も覚えていなくても、身体が覚えているかのようだ。
春子はイノシシの頭を潰すような、大きな岩か何かが落ちていないか辺りを調べている。しかし、そのような痕跡はどこにも見当たらないようで、手で鼻をふさぎながら、うーんと唸っている。
川向こうにある丘陵には一部崩れた所があった。だが、そこは離れ過ぎている所なので、イノシシとは関係ないようだ。
謎に首を捻る春子を横目に、きっと自分は昨夕ここにいたに違いないと千鶴は感じていた。その時のことなど覚えていないし、思い出すのは怖い気がする。それでも思い出さねばと、千鶴はここが日が暮れた時の様子を想像してみた。
だが陽射しに満ちた今の場所が、夕闇に沈んでいる情景を想像するのは容易なことではない。
千鶴は目を閉じた。そうして目蓋が作った闇の中で川音を聞き、獣の臭いを嗅いだ。
しかし、何も思い出せなかった。それで一度目開けて、目の前にある道や樹木を目に焼きつけたあと、再び目を閉じた。目蓋が作った闇の中に、焼きつけた風景の輪郭がぼんやりと重なっている。
その風景を見つめながら川音を聞いていると、いつの間にか千鶴は濃い夕闇に包まれた道に立っていた。春子と一緒にいるという意識はあるが、夕闇の中の道にいるという感覚が強まると、元の意識は遠のいた。
今や千鶴は闇でほとんど先が見えない道に立っていた。川音は聞こえているが、春子の声は聞こえない。鼻をふさぎたくなるような臭いも、今は千鶴の感覚に入って来ない。千鶴の意識をとらえているのは、前方の闇の中にある黒い岩のような影だった。
幻影の中で千鶴は突然すべてを思い出した。同時に、黒い影が千鶴に向かって突進して来た。
あの時と同じように、恐怖に襲われた千鶴は気を失いかけた。春子が咄嗟に支えてくれなければ、血溜まりの中に倒れているところだった。
正気に戻った千鶴はがくがく震えた。その様子に春子は大いにうろたえた。
どうしたのかと春子に訊かれたが、本当のことなど言えるわけがない。何でもないとごまかすしかなかったが、声も体も震えが止まらない。頭の中は、蘇った恐怖と新たな恐怖でいっぱいだった。
本来ならば、ここで死んでいたのは千鶴のはずだった。ところが死んだのはイノシシの方で、千鶴は何者かに法生寺まで運ばれていたのである。しかもイノシシは無残にも頭を潰されたのだ。
安子が言ったように、お不動さまが護ってくれたのだとすれば、イノシシを殺す必要はない。千鶴を助ければいいことである。だがイノシシは殺された。しかも、その殺し方が残虐だ。頭を潰して殺すなど、御仏のすることとは思えない。
イノシシの頭を潰したのが、人でもなく仏でもなければ、何がやったというのか。千鶴の頭に浮かんだのは、闇の中から落ちて来た巨大な毛むくじゃらの足だった。
体の震えが止まらない。恐れていたことが現実に起こったのだ。鬼はいる。自分と一緒に地獄から出て来た鬼が、イノシシから自分を護ったのだ。それは自分ががんごめだということなのである。
川向こうの丘陵が崩れた所は、鬼が通った跡のように見える。自分を抱えた鬼が人目を避けながら、あの丘陵を越えて法生寺へ向かう姿が目に浮かぶ。
鬼が法生寺へ向かったのは、そこががんごめの棲家だからだ。前世と同じようにやれということだろう。
春子が千鶴を落ち着けようと必死に話しかけてきた。しかし春子の声は、千鶴の耳を素通りするばかりだった。
ロシア兵の娘ということで差別は受けても、風寄へ来るまでの自分は人間だった。しかし、今の自分は人間ではない。がんごめという鬼の娘なのである。
地獄の夢やヨネの話で不安になってはいたが、それらは不確かなものであり、自分ががんごめだと断定できるものではなかった。だが悲惨なイノシシの死を突きつけられては、もう否定ができない。自分はがんごめで、自分の傍には鬼がいる。
恐らく鬼よけの祠が壊れたために、鬼は再び風寄へ現れたのだろう。そして自分を風寄へ引き寄せたのだ。そうでなければ、自分が風寄の祭りを見るなど許されるはずがない。
あまりの恐怖に、鬼を慕う気持ちは隠れてしまったようだ。涙ぐんで怯え続ける千鶴に動転したのか、こんな所へ連れて来て悪かったと、春子は千鶴に平謝りした。
大丈夫と言いながら、千鶴は涙を拭いて気持ちを落ち着けようとした。何があったのかを春子に悟られるわけにはいかなかった。それでも自分はがんごめだったという衝撃は、千鶴の胸を貫いたままだった。
二
「詣て来い!」
人で埋め尽くされた境内の中、そこにいる者たちに向かって、神輿に乗った男二人が挑発するように叫ぶ。それに応じて周りの男たちも、詣て来い!――と叫び返す。さらに二人が叫ぶと、周りも再び叫び返す。
声の掛け合いを続ける男たちのさらに周りは、野良着姿の見物人で固められている。両者の間に距離はなく、見えるのは頭ばかりだ。誰が舁夫で誰が見物人なのか、よく見なければ区別がつかない。
境内にうねりとなって広がる熱気と興奮。そこにいるすべての者がこれから行われることを、今か今かと目を輝かせて待っている。
このあと神輿は三十九段ある神社の石段の上まで運ばれ、そこから下を目がけて投げ落とされるのだ。
投げ落としは、神輿が壊れて中の御神体が出て来るまで、何度でも繰り返される。
神輿は全部で四体あり、一体が壊されると次の神輿が運ばれて来る。そうして四体全部が壊されるまで投げ落としは続く。
千鶴たちは松山へ戻らねばならないので、四体の投げ落としすべては見られない。しかし、暇が許す限り見たいと春子は言った。
春子にすれば、幼い頃からお馴染みの祭りである。しかも四年ぶりの祭りなのだ。興奮するのが当然だ。
千鶴にしても、この祭りの醍醐味を見られるわけである。本当であれば、もっと浮かれた気分になっていただろう。だが今は祭りどころではない。イノシシに襲われた時のことを思い出してから、ずっと恐怖と不安が頭に張りついたままだ。
世話になった和尚夫婦に感謝を告げ、別れの挨拶をした時も、春子の家に立ち寄ってイネやマツと談笑した時も、何も考えることができなかった。とにかく必死に笑顔を作ったが、何を喋ったのかは覚えていない。
自分ががんごめだったなど誰にも言えるわけがなく、胸に膨らむ不安や恐怖を聞いてもらえる相手もいない。
これから自分に起こるであろう恐ろしいことに、千鶴は一人で耐えなければならなかった。また実際にそれが起こった時の、家族や周囲の者たちの様子が思い浮かぶと、涙が出そうになった。
女子師範学校に通っているのは、自分の将来のためだった。しかし今の千鶴には将来などなかった。この先待ち受けているのは鬼なのだ。
恐怖と絶望で今にも泣き崩れてしまいそうだったが、春子を心配させないように、千鶴は必死に涙をこらえて平静を装っていた。
それでも春子は、千鶴が動揺を隠しているのはわかっている。動揺の本当の理由は知らなくても、自分が千鶴をイノシシの死骸があった場所へ連れて行ったからだと、責任を感じているに違いない。
それが証拠に、人混みには入らず境内の隅から神輿を眺める千鶴に、春子は辛抱強く付き合っている。久しぶりの地元の祭りなのだから、本当は人垣の中に入って、みんなと一緒に楽しみたいはずである。
「村上さん、うちのことは構んでええけん、もうちぃと傍で見ておいでや」
千鶴が声をかけても、春子は微笑み、ええんよ――と言った。しかし、そわそわしている様子を見ると、やはり行きたいらしい。
鬼のことはともかく、千鶴は見知らぬ人ばかりの人混みが好きではない。夜であれば暗がりに紛れることができるが、明るいうちは千鶴の姿は人から丸見えだ。ロシア兵の娘がいるぞと言われるのが嫌だった。
しかし千鶴たちがいる所からでは、幾重にもなった人垣で舁夫たちの様子はよくわからない。持ち上げられた神輿と、神輿の上に乗った男たちの姿が見えるばかりである。
背が低い春子は千鶴の隣でしきりに背伸びをして、神輿の様子を窺っていた。だが、ついに我慢ができなくなったようだ。
「山﨑さん、やっぱし、もうちぃと前に行こや!」
春子は千鶴の手をつかむと、人垣へ突っ込んだ。何も心配する必要はないと示したい気持ちもあったのだろう。あるいはイノシシの死骸で動揺した千鶴を元気づけたかったのかもしれない。
千鶴は抗う間もなく人垣の中へ引っ張り込まれ、誰かにぶつかるたびに、すんませんと詫び続けた。
千鶴を初めて見た者たちは、一様にぎょっとした顔になった。中には悲鳴を上げる者までいて、千鶴は自分の顔が鬼になっているのではないかと不安になった。
春子は人をかき分けながら、どんどん奥へ進んだ。途中で千鶴の手が離れたが、春子はまったく気づかないまま行ってしまった。
千鶴は周囲の人々に四方から押され、身動きが取れない状態で一人取り残された。
周りにいる者たちの目は、神輿ではなく千鶴に向けられている。好奇と侮蔑の目に囲まれた千鶴は、下を向くしかできなかった。
「こら、さっさと出てかんかい! 祭りが穢れようが!」
近くで怒鳴り声が聞こえた。千鶴は驚いて顔を上げたが、誰が怒鳴ったのかはわからない。みんなが千鶴をにらんでいるようだ。
すんませんと言ってまた下を向くと、千鶴は外へ出ようとした。すると、再び怒鳴り声が聞こえた。
見ると、すぐ近くで若い男が、他の男たちに人垣の外へ押し出されようとしている。
自分ではなかったのかと千鶴は安堵した。だが、罵られている若者が気の毒で悲しくなった。
同じ村の者であるなら、このようなことは言われるはずがない。きっと若者は山陰の者に違いないと千鶴は思った。
ちらりと見えた継ぎはぎだらけの着物が、若者の貧しさを物語っているようで、それもまた千鶴の悲しみを深くした。
しかし、そんなことを考えている暇はなかった。次こそ自分が怒鳴られる番である。その前に外へ出なくてはならない。
人垣は鳥居の外にまであふれていた。
この場から逃げたい気持ちと、追い出された若者への共感から、千鶴は人を押し分けながら人垣の外を目指した。そうして、やっとの思いで鳥居の外へ出たものの、先に押し出されたはずの若者の姿はどこにも見当たらなかった。
神社はこんもりした丘の上にある。その丘に沿って南へ向かう道があるが、その道には人の姿がない。
気疲れした千鶴は南へ向かう道を少し歩いた。村人の集団から離れたかった。すると、不意に後ろから呼び止められた。
「千鶴さん……やったかの?」
驚いて振り返ると、春子の従兄源次がいた。後ろには連れの仲間三人が立っている。四人は嬉しそうに笑っているが、素面なのかはわからない。
三
「こげな所で、何しよんかい?」
源次が訝しげに言った。突然声をかけられたことで、千鶴は動揺していた。
「あ、あの……、人を探しよったもんですけん」
「人て、誰ぞな?」
「名前は知らんのですけんど、継ぎはぎの着物を着た男の人ぞなもし。どこへ行てしもたんか……」
源次と目を合わせたくない千鶴は、さっきの若者を探すふりをして横を向いた。それでもさっきの若者が気になっていたのは事実である。また若者が見つかれば、源次たちから離れられるという思いもあって、千鶴は若者の姿を探した。だがやはり若者はいない。
源次たちは、千鶴が口にした男が誰なのか見当がついたようだった。あいつかと言うように互いに目を見交わした。
千鶴に顔を戻した源次はにこやかに言った。
「そいつとは知り合いなんかの?」
「ほういうわけやないですけんど、ちぃと気になったけん」
「ほうかな。ほれじゃったら、おらたち、そいつがおる所知っとるけん、連れてってあげよわい」
「いえ、そがぁなこと無理にせいでも構んですけん」
「まぁ、ええがな。そげに気ぃ遣わいでも構ん構ん。すぐそこじゃけん、ついて来とうみや」
源次はにこやかに先頭に立つと、千鶴がいた道をさらに先へ進んだ。しかし、千鶴はその若者をちらりと見かけただけで、顔も合わせていないのである。そんな相手の所へ連れて行かれても、お互いに困るだけだ。何をしに来たと聞かれても返事のしようがない。さっきは若者が現れてくれればと思ったが、今度は困惑するばかりだ。
それでも後ろの男たちに促されて、千鶴も仕方なく歩き始めた。それにしても強引と言うか、何だか異様な雰囲気である。
「あの、ほんまに、もう構んですけん」
「もう、そこぞな。そこをな、左に曲がった先におるけん」
もうちぃとじゃけん――と後ろの男たちも笑みを浮かべながら言った。だが、その笑みが千鶴には薄気味悪く思えた。
道なりに左へ曲がると、神社や参道が丘の陰になって見えなくなった。人々が騒ぐ声は聞こえるが、遠くで聞こえているようだ。
千鶴は辺りを見回したが、そこには建物もなければ人気もない。刈り取りが終わった田んぼがある他は、何もない道が丘沿いに続いているだけだった。
「あの……、あのお人はどこに――」
「千鶴さん」
立ち止まった源次は振り返ると、千鶴の言葉を遮って言った。
「昨夜は春子の家やのうて、法生寺に泊まったそうじゃな」
「え? は、はい」
怪訝に思いながら、千鶴はうなずいた。
「春子に言われたけん、昨夜はな、千鶴さんに会お思て、必死に酔いを覚ましよったんよ。ほれやのに、聞いたら法生寺におる言われてな。おらたち、法生寺まで押しかけよかて思いよったかい」
「ほ、ほうなんですか」
源次が何を言いたいのか、千鶴には理解ができなかった。あとの言葉が続かず黙っていると、源次は千鶴の両手首をぎゅっとつかんだ。
「千鶴さん、昨夜果たせなんだ想いを、今ここで果たさせておくんなもし」
「え? な、何のこと――」
源次はぐいっと千鶴を引き寄せると、抱きついて来た。
「ち、ちぃとやめてつかぁさい。人を呼びますよ!」
「呼んでみ。誰っちゃ来んで。みぃんな神社に集まっとるけんな」
源次は暴れる千鶴に、口を突き出して接吻をしようとした。
他の三人は千鶴が逃げられないように周囲を取り囲み、異人の女子はどがぁな味じゃろか――と笑い合っている。
抱きつかれて両腕の自由が利かないが、千鶴は何とか右手で源次の顔を押し戻した。
「あんた、村上さんの従兄なんじゃろ? こげなことして許されるて思とるん?」
「別に許してもらうつもりはないけん。ほれに、ロシア兵の娘を手籠めにしたとこで、誰っちゃ文句言うまい」
源次はもう一度千鶴の両手を押さえると、勝ち誇ったように言った。
「昨日はみんなに歓迎されたて思たろが、そげなことあるかい。どこの村にもロシア兵に殺された者や、片輪にされた者がおらい。みんな春子に合わせて歓迎するふりしよったぎりじゃい」
「そげなこと――」
「あの家に信子いう女子がおったろ? あいつの父親は村長の弟でな、おらたちは従兄妹同士よ。その信子の父親はな、ロシア兵に殺されたんじゃい。その仇を取ってやるんじゃけん、信子も信子の亭主も村長もみんな喜んでくれらい」
源次の言葉は、千鶴の胸を深く抉った。がんごめである以前に、村の者たちがロシア兵の娘なんかを、快く受け入れるはずがなかったのだ。
それでも春子の家族に敵の娘という目で見られていたとは、やはり信じられない。みんな、家を飛び出した自分を心配してくれたし、春子の兄はわざわざ励ましの声をかけてくれた。それが全部偽りだったなら、もはや誰のことも信用できなくなる。
しかし身内をロシア兵に殺されたのであれば、ロシア兵は憎い敵だ。その恨みと憎しみが消えているはずがない。歓迎してくれたように見えたのは、源次が言ったように、春子の顔を立てただけのことなのだろう。
言葉を返せない千鶴は、源次に抗う力を失った。千鶴がおとなしくなったので、源次は得意げに仲間たちを見た。
「言うとくけんど」
千鶴は力なく源次たちに言った。もう何もかもがどうでもよく思われた。どうせ自分はロシア兵の娘であり、がんごめなのだ。
「これ以上、うちに手ぇ出したら、どがぁなっても知らんけんね」
「ほぉ、やくざの姉やんみたいなこと言うんじゃな。面白いやないか。おらたちをどがぁするんぞ? ほれ、やっとうみや」
源次が嘲るように言うと、仲間の男たちもへらへら笑った。
千鶴はがんごめの気分になっていた。がんごめがこんな人間の屑の玩具になってたまるものかと思った時、千鶴は源次の左腕に噛みついていた。
「痛っ!」
思いがけない千鶴の反撃に、源次は反射的に右手を振り上げた。
だが、千鶴は避けるつもりはなかった。自分に手を出せば、この男たちは鬼の餌食にされるだろうと考えていた。そして、そうなっても構わないとさえ思っていた。
ところが、現れたのは鬼ではなかった。
四
源次が振り上げた右手は、後ろから伸びて来た別の手につかまれた。驚いた源次が振り向くと、そこに若い男が一人立っていた。
「祭りの日に女子を襲うとはの。神をも恐れぬ不届き者とは、お前らのことぞな」
それは千鶴が探していた、あの若者に違いなかった。継ぎはぎだらけの着物がそう語ってくれている。
若者は切れ長の目に、鼻筋の通ったきれいな顔立ちをしていた。着ている物は貧しそうでも、若者の顔や雰囲気には気品があった。
一方の源次と仲間の男たちは、いかにも祭りが似合いそうな荒くれ男だ。体も若者よりも大きい。助けてくれるのは嬉しいが、一対一でも若者には分が悪そうだった。それなのに相手は四人もいる。
と思ったら、源次の仲間の一人はすでに地面に倒れ、腹を押さえながら声も出せずに苦しんでいた。他の二人はあまりの驚きに動けないようだ。
おどれ!――と叫んだ源次は、千鶴を離して若者につかみかかろうとした。しかし若者はつかんだ源次の腕を、素早く後ろへ捻り上げた。
「痛てて!」
源次が苦痛に顔をゆがめると、仲間の二人が我に返ったように若者に襲いかかった。
若者は近くの一人に向かって源次を蹴り飛ばし、飛びかかって来た別の男を、見事な一本背負いで地面に叩きつけた。その勢いは凄まじく、叩きつけられた男は呻くばかりで、地面に張りついたように動かない。
仲間の一人と一緒に田んぼに落ちた源次は、捻られた腕を押さえながら起き上がると、若者をにらみつけた。
その後ろで遅れて立ち上がった仲間の男は、若者の一本背負いが見えたのだろう。驚き怯えた様子で喚いた。
「お前、そげな技、いつの間に身に着けたんじゃい!」
「生まれつきぞな」
若者は涼しい顔で答えると、田んぼに降りて源次たちの方へ近づいた。
源次は若者に殴りかかったが、若者は源次の拳を避ける素振りもない。源次をにらみながら、向かって来た源次の右の拳を難なく左手で受け止めた。同時にその手で源次の右拳を外へ捻ると、源次はそれに合わせてひっくり返った。源次を倒しながらも、若者の顔はもう一人の男に向けられている。
男はうろたえながら若者につかみかかった。
若者は男の両手をつかむと、腹に蹴りを入れた。男が体をくの字に曲げると、若者は男を軽々と担ぎ上げ、ちょうど立ち上がった源次に向かって投げつけた。
無理に重い物を持ち上げた場合、それを投げつけることはむずかしい。投げ落とすのがせいぜいで、投げつけるだけの力などないはずである。
ところが、見た目はそれほど力持ちに見えないこの若者は相当の怪力らしく、投げられた男は勢いよく源次にぶつかった。源次は仲間の下敷きになって再びひっくり返った。
源次は呻きながら仲間の下から這い出ようと藻掻いた。若者は源次を見下ろすと、嘲るように言った。
「無様よの。己一人じゃあ何もできぬくせに、村長の甥であることを鼻にかけ、腐った仲間の頭を気取る屑め。今の貴様の無様な姿こそが、真の己と知るがええ」
若者の物言いは、差別をされて小さくなっている者のようには思えない。まるで源次よりも上にいる者の言葉のようだ。
源次は上の仲間を必死に押しのけると、何とか立ち上がった。その間、若者は何もせずに源次を眺めていた。それは若者の余裕を示すものであり、源次は完全に圧倒されていた。
「お前、なしてこの女子の味方をするんぞ。こいつはロシア兵の娘ぞ」
若者を見くびっていたであろう源次は、驚きと焦りの顔で若者を詰りながら、若者の横へ回り込んだ。
「ほれが、どがぁした?」
体の向きを変えた若者は、怒りの顔で前に歩み出た。源次は慌てたように後ろへ下がったが、空威張りの笑みを見せて言った。
「ははぁん、わかったわい。お前、おらたちを追わいやってから、一人でこの女子をいただこ思とんじゃろげ。違うんか?」
源次にすれば精いっぱいの反撃なのだろう。だが、若者は源次の侮辱に応じることなく、黙ってさらに足を踏み出した。源次は笑みを消してさらに下がったが、足を稲の切り株に取られて尻餅をついた。
一方、源次が若者を挑発している間に、若者に投げ飛ばされた男がよろよろと立ち上がり、後ろから若者に飛びかかろうとした。
「後ろ! 危ない!」
千鶴が思わず叫ぶと、若者は前を向いたまま、すっと体を脇に避けた。まるで背中に目がついているようだ。
その際、足を横に伸ばしたので、飛びかかった男は若者の足につまづいて、勢いよく源次の上まで飛んだ。
若者は千鶴を振り返ると、礼を述べるかのように会釈をした。千鶴はどきりとしたが、若者はすぐに源次たちに顔を戻した。
二度まで仲間の下敷きにされた源次は、腹を立てながら上にかぶさった男を押しのけた。
よろめきながら立ち上がると、源次は言った。
「お前、みんなから除者にされよるんが面白ないんじゃろが。ほじゃけん、おらたちがすることに逆らいとうなるんじゃろ?」
力なく立ち上がった仲間の男は、ほういうことかとうなずいた。
「そがぁなことじゃったら話は早い。今日からお前をおらたちの仲間にしちゃろわい。お前かて、ほんまはその女子が欲しいんじゃろが? 格好つけたりせんで、おらたちと一緒に楽しもや」
この下司どもが!――若者は吐き捨てるように言うと、源次の仲間の男に飛びかかり、その股間を蹴り上げた。一瞬、宙に浮いた男はそのまま地面に倒れ、股を押さえながら悶え苦しんだ。
「ほれで二度と女子を抱くことは敵うまい」
倒れた男を冷たく一瞥したあと、若者は源次に向き直った。
「次は貴様の番ぞ」
源次の方が若者より体が大きい。だが、怯える源次は若者よりも小さく見えた。それでも逃げられないと観念したのか、源次はいきなり若者に飛びかかった。
若者は源次と両手を組み合った。千鶴からは二人が力比べをしているように見えた。だが、どちらが強いのかは一目瞭然だった。
源次は必死の形相だが、若者の表情は変わらない。源次の両手は甲の側に折り曲げられ、両膝を突いた源次は悲鳴を上げた。源次の両手首は折れる寸前だった。
「いけんぞな!」
千鶴が叫ぶと、若者は千鶴を見た。
「ほれ以上はいけんぞな」
千鶴はもう一度叫んだ。
「助かったな」
若者は源次にそう言うと、源次を蹴り倒した。
源次は握った形のままの両手を合わせ、地面で苦しそうに呻いている。折れることは免れたようだが、両手首はかなり傷めたに違いない。
それでも源次は両手をかばうようにしながら立ち上がると、まだ虚勢を張って若者に悪態をついた。
「お、おどれ、おらたちにこげな真似しよってからに。あとでどがぁなるか覚えとけよ」
「お前らの方こそ気ぃつけぇよ。今日はこのお人に免じて、こんで勘弁してやるがな、今度このお人に手ぇ出したら、ほん時は手首やのうて、その首へし折るけんな」
若者は静かに言った。だがその分、凄みがあった。その言葉は脅しではなく、本気で言っているように聞こえた。
若者の言葉に恐れをなしたのか、源次は何も言い返さなかった。代わりに倒れている仲間の傍へ行くと、何度も声をかけたり、足で蹴飛ばしたりして無理やり立ち上がらせた。
それから千鶴と若者をにらみつけると、よろめく仲間たちを急き立てながら逃げて行った。
五
源次たちが姿を消した曲がり道の向こうからは、相変わらず神輿を壊す騒ぎ声が聞こえて来る。
源次たちを見送った若者が千鶴に向き直ると、千鶴は深々と頭を下げた。
「このたびは危ないとこを助けていただき、まことにありがとうございました」
やめてつかぁさい――と若者は人懐こそうな笑顔になった。先ほどの鬼神のような人物と同じ人間とは思えない。
「大したことしとらんのに、そがぁに頭下げられたらこそばゆいぞな。ほれに、女子の前であげな荒っぽいとこ見せてしもたけん、却って怖がらせてしもて悪かったぞな」
頭を掻く若者に、千鶴は遠慮がちに言った。
「あの、さっき境内から追わい出されましたよね?」
ありゃ――と若者は恥ずかしそうに頭の後ろに手を当てた。
「あれを見られてしもたんか。こりゃ、しもうた」
「うち、あなたを探しよったんぞなもし。ほやけど、どこ行てしもたんかわからんで……。ほしたらあの人らに、あなたの所に連れてったるて言われて……」
千鶴の話に若者は驚いたようだった。
「ほうじゃったんか。ほんでも、なしておらを?」
千鶴は言うべきかどうか迷った。だが若者が返事を待っているので、意を決して言うことにした。
「初めてお会いした人にこげなこと言うんは失礼なけんど、あなたがみんなから除者にされよるん見て、他人事には思えなんだんぞなもし。うち、日露戦争ん時のロシア兵の娘じゃけん、似ぃたようなことしょっちゅうあるんぞな」
ほうなんか――と若者は暗い顔を見せたが、すぐに微笑んだ。
「ほんでも大丈夫ぞな。千鶴さんにも、いつか必ず幸せが訪れるけん」
若者の言葉に、千鶴は目を瞬かせた。
「あの、なしてうちの名前を知っておいでるんぞな?」
「え? いや、ほれはじゃな、あの……」
慌てる若者を見て、千鶴はしょんぼりした。
「ロシア兵の娘が来とるて、村中で噂になっとるんじゃね」
「いや、ほやないほやない」
若者は焦ったように、胸の前で手を振った。
「じゃったら、なして知っておいでるん?」
「あのな、おら、千鶴さんと対の娘を知っとるんよ」
「うちと対?」
「ほうなんよ。その娘は千鶴さんにそっくりなけんど、その娘の名前がな、千に鶴て書いて、千鶴て読むんぞな」
千鶴は目を丸くした。
「ほれ、うちと対じゃ」
「ほんでな、父親がロシア人で、母親が日本人なんよ」
千鶴は丸くした目を、さらに大きく見開いた。
「ほんまですか?」
「ほんまほんま。その娘はな、顔も姿も千鶴さんと真っ対じゃったけん、ほんで、つい千鶴さんて呼んでしもたんよ。ほやけど、ほうなんか。名前まで同しじゃったかい。こら、まっこと驚きぞな」
千鶴は驚き興奮した。
ロシア人の娘なんて自分だけだと思っていたのに、他にもいたのだ。しかもその娘は千鶴と名前が同じで、顔も姿もそっくりだと言う。
「その娘さんは、今どこにおいでるんぞな?」
「昔、ここにおったんよ。けんど、今は――」
若者は唇を噛んで千鶴をじっと見つめたが、ふっと目を逸らして言った。
「生き別れになっとった父親がな、船に乗って迎えに来たんよ」
「ほんじゃあ、ロシアへ去んでしもたんですか?」
若者は黙ったまま返事をしない。だが、それが答えなのだろう。悲しげな目がそう伝えている。
「その娘さんとは親しかったんですね?」
「おらたち、夫婦約束しよったんよ」
若者は横を向いたままぽつりと言った。
その言葉に千鶴の胸が疼いた。しかし平気な顔を装って、千鶴は若者に訊ねた。
「ほれじゃのに、その娘さん、ロシアへ去んでしもたん?」
「いろいろあってな。おら、その娘を嫁にすることができんなったんよ。そこへ父親が迎えにおいでてくれたけん」
「ほれで、その娘さんをロシアへ行かせてしもたんですか?」
若者は押し黙ったまま海の方を向いた。答えることができない若者に、千鶴は憤りを抑えられなかった。
「その人、ロシアへなんぞ行きとなかったろうに」
千鶴にはその娘の気持ちがわかるような気がした。差別と偏見の中にいて、心から自分を受け入れてくれた人がいたならば、絶対にその人から離れたくないはずだ。
「その人、ずっとあなたと一緒におりたかったんやないん?」
つい荒くなる口調を、千鶴は止めることができなかった。
しかし若者は怒らなかった。海の方を見つめたまま小さな声で言った。
「できることなら、おらもずっとその娘と一緒におりたかった」
「じゃったら、なして?」
「仕方なかったんよ」
若者は項垂れながら言った。
「おらはな、どがぁに望んでも、その娘と一緒にはなれんなってしもたんよ」
「ほんなん、その人が納得するとは思えんぞな」
執拗に責める千鶴に、若者は寂しげに微笑んだ。
「もう、済んでしもたことぞな」
「言うてつかぁさい。なして、あきらめんさったん?」
若者は千鶴にとって初対面の赤の他人だ。しかも危ないところを助けてくれた恩人であり、誰にも喋らないような話を打ち明けてくれている。それなのに、千鶴は興奮を抑えることができなかった。
それが失礼な態度であるのはわかっていた。いつもの千鶴であれば、決してこのような言動は見せたりしない。
しかし、自分ががんごめであると悟った今、千鶴は若者が幸せをあきらめてしまうことが許せなかった。自分を助けてくれた素敵な人だからこそ、許せなかったのである。
それに若者を心から好いていたであろう、その娘にも幸せになって欲しかった。自分とそっくりだというその娘には、自分の代わりに幸せをつかんでもらいたかった。
だが千鶴が責めたところで、どうにかなるものではない。若者が言うように、もう終わったことなのだ。若者だってつらいし、悲しいに違いない。それを責めるのは、古い傷口を広げて塩をすり込むようなものだろう。
本当なら怒ってもいいのに、若者は黙ったまま千鶴に言いたいようにさせている。それが余計に悲しくて、千鶴は泣き出した。
「ごめんなさい……。うち……、助けてもろたお人に、こげなひどいことぎり言うてしもて……、どうか堪忍してつかぁさい」
「ええんよ。千鶴さんは、おらのこと心配してくれたぎりぞな。おら、ちゃんとわかっとるよ」
若者の優しい慰めは、千鶴をさらに泣かせた。わぁわぁ泣く千鶴に、若者は困惑したようだ。
「千鶴さん、勘弁してつかぁさい。おら、千鶴さん、泣かそ思て喋ったわけやないんよ。お願いやけん、どうか、泣きやんでおくんなもし」
千鶴はしゃくり上げながら言った。
「うちね……、幸せになんぞなれんのよ……。やけん、あなたにも、あなたが好いた娘さんにも……、幸せになって欲しかった……」
「何を――」
「うちね……、誰のことも好いてはいけんの……。誰から好かれてもいけんのよ……」
「なしてぞな? なして千鶴さんが誰かを好いたり、好かれたりしたらいけんのぞ? どこっちゃそげな法はなかろに」
「ほやかて、うち……、うち……」
がんごめなんよ――と言いそうになった。だが、言えなかった。他の者に喋っても、この若者にだけは自分の正体を知られたくなかった。
「なして千鶴さんがそげなことを言いんさるんか、おらにはわからんけんど、大丈夫ぞな。千鶴さんが誰を好こうが、誰に好かれようが、神さまも仏さまも文句なんぞ言わんけん」
若者は千鶴の両手を握ると、にっこり笑った。
「あのな、教えてあげよわい。千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人とめぐり逢うて幸せになるんよ。絶対にそがぁなるけん。おらが請け合おわい」
「なして、そげなことが言えるんぞなもし?」
千鶴は下を向きながら言った。
下を向いていたのは、若者の顔がまともに見られないからだ。だが、理由はそれだけではない。
千鶴の目は自分の手を優しく握る若者の手に釘づけになっていた。こんな風に男の人に手を握ってもらうなど、生まれて初めてのことだった。
それに初めて会った人なのに、その手から伝わる温もりは、何だか懐かしい感じがする。それはただ体温が伝わっているのではない。若者の心の温もりが包んでくれているようだ。
もし自分ががんごめでなかったならば、きっとこの人を好いていたに違いない。いや、すでに好いているのかもしれない。だが、それは許されないことなのだ。
悔しい想いを噛みしめる千鶴に、若者は明るく言った。
「おら、お不動さまにお願いしたんよ」
千鶴は思わず涙に濡れた顔を上げた。
「お不動さま?」
「ほうよほうよ、お不動さまよ。千鶴さんもお不動さまは知っておいでよう? おらな、お不動さまにお願いしたんよ。千鶴さんが幸せになれますようにて。ほじゃけん、千鶴さん、絶対に幸せになれるぞな」
「うちの幸せを? あなたがお不動さまに? なして?」
若者の顔に、はっとしたような困惑のいろが浮かんだ。また余計なことを喋ってしまったと思ったのかもしれない。
「いや、あの、ほじゃけんな、えっと……」
「あなた、ひょっとして――」
その時、千鶴を探す春子の声が聞こえた。
千鶴がこっちと叫ぶと、曲がり道の向こうから肩で息をした春子が現れた。
「山﨑さん! こがぁな所におったん? ずっと探しよったんで。急がんと松山に戻れんようなるけん、早よ行こ!」
言われて初めて、千鶴は日が沈みかけていることに気がついた。確かに急がなければ、今日中に松山へ戻れなくなってしまう。
「ごめんなさい。うち――」
千鶴は若者を振り返った。
だが、そこにはもう若者の姿はなかった。慌てて辺りを見回したが、どこにも若者はいなかった。
山陰の車夫
一
結局、千鶴たちは松山へ戻る客馬車には乗れなかった。
客馬車乗り場へ行った時に、二人は初めて客馬車の御者が言っていたことを思い出した。祭りの間は御者も祭りに出ていて、客馬車は動かないのだ。
春子の家族も和尚夫婦も千鶴たちにこの話をしてくれなかった。そのことに春子は愚痴をこぼしたが、祭りの日に客馬車が走るかどうかなど、誰も考えたことがなかったに違いない。
春子は大いに焦っていた。どうしても今日中に戻らなければ、先生との約束を破ったことになってしまう。
だが千鶴はもう一晩、法生寺に泊めてもらってもいいと考えていた。あとで家族や学校から大目玉を喰らう覚悟はできていた。
千鶴は自分を助けてくれたあの若者に、もう一度会いたかった。会ってゆっくり話がしたかった。
あの若者は千鶴の幸せを願って、お不動さまに願掛けをしたと言った。しかし初めて出逢ったはずなのに、千鶴のために願掛けをしたというのは矛盾している。それは、あの若者が千鶴のことを知っていたということだ。
名波村に来たばかりの千鶴を、若者が知る機会は限られている。だが、千鶴は助けてもらう以前に若者に出逢った覚えがない。出逢うとすれば、イノシシに襲われてから法生寺まで運ばれた間しかなく、きっとその時に若者は自分を知ったのだと千鶴は思った。
若者には夫婦約束を交わした娘がいた。その娘にそっくりな千鶴が倒れているのを見つけたならば、絶対に驚いたはずだ。夕暮れ時の薄暗さの中では、尚更見間違えやすかったと思われる。
しかし、若者はすぐに他人の空似だと気づいただろう。ロシアへ去った娘がいるわけがないからだ。
それでもロシア人の風貌をした千鶴の境遇を、若者は思いやってくれたのに違いない。あるいは好き合っていた娘の姿を、千鶴に重ね合わせたのかもしれない。
それで若者は法生寺の不動明王に、千鶴の幸せを願ってくれたのだ。そこには千鶴とロシアへ去った娘の両方への想いが込められていたのだろう。
野菊の花を飾ってくれたのも、きっとあの若者だ。若者がどんな想いで花を飾ったのか、それを考えると千鶴は涙が出てしまう。
若者ともう一度会ったところで、してあげられることは何もない。それでも千鶴はあの若者に会いたかった。せめて、名前を聞かせて欲しかった。もし、もう一泊できたなら、明日は必ずあの若者に会いに行こうと腹をくくっていた。
一方、春子は松山へ戻ることをあきらめなかった。少し離れた所にある乗合自動車の乗り場へ向かい、松山へ向かう自動車があるかを確かめた。
乗合自動車は松山と今治の間を行き来しているので、客馬車と違って運行はしていた。しかし、最終便はさっき通過したばかりらしい。
千鶴は心の内で喜んだが、春子は大いに落胆したようだった。
「どがぁしよう。戻れなんだら退学やし」
春子は泣きそうな顔で千鶴を見た。
まさか退学にはなるまいと、千鶴は思っていた。しかし、そう断言できるだけの自信はない。それに寮の規則が厳しいことは、千鶴も身を以て知っている。よく考えれば退学は有り得ることで、春子が退学になれば、春子に同伴していた自分も退学になるだろう。
項垂れる春子を見ているうちに、千鶴もだんだん不安になって来た。がんごめの自分には将来などないと考えていたことは、頭からすっかり抜け落ちている。
尋常小学校でさえ行かせてもらえない者がいる世の中だ。女が高等小学校を卒業させてもらうだけでも大変なことである。それを女子師範学校にまで行かせてもらえたというのは、相当恵まれていると言っていい。
祖父母は千鶴に冷たい態度を見せるが、学校に関して言えば、よくしてもらっている。祖父母なりの思惑があるのだろうが、千鶴にとっては有り難いことだった。それなのに、こんなことで退学になったならどうなるのか。
突然の名波村行きをすんなり認めてもらった上に、小遣いまで渡してくれた祖父が怒り狂うのは必至である。
とうとう春子はめそめそと泣き出した。それに釣られて千鶴まで泣きそうになった時、誰かが声をかけて来た。
「もうし、ひょっとして姉やんらは松山にでもお行きんさるおつもりかな?」
千鶴たちが振り返ると、そこに菅笠をかぶった法被と股引姿の男が立っていた。
春子はぎょっとしたように身を引いた。しかし男の後ろに二人掛けの人力車があるのに気がつくと、すぐに笑みを浮かべた。どうやら男は車夫のようだ。
「その俥ぁでおらたちを松山まで運んでもらえるん?」
俥というのは、この辺りでの人力車の呼び方だ。
「お望みとあらば、松山でも今治でもお運びしましょわい」
軽妙な男の話しぶりに、春子は嬉しそうに千鶴を見た。だが千鶴は芝居がかった喋り方をする男を怪しんだ。
祭りでみんなが出払っている中、一人だけ人力車を出すのは妙である。男が菅笠を深くかぶったまま、顔を見せようとしないのも何だか疑わしい。
源次たちに襲われたことで、千鶴は近づいて来る男に慎重になっていた。春子がいそいそと人力車に乗り込もうとすると、ちぃと待ちや――と千鶴は言った。
「村上さん、こっから松山まで力車で戻んたら、銭をようけ取られるぞな。うち、そげな大金は持っとらんよ」
人力車に乗っておきながら、銭が払えなければ体で払ってもらおうと、源次のような男なら言うだろう。しかも、人が来ないような所へ連れ込まれてから、脅されるのに決まっている。
人力車に手をかけていた春子は、千鶴の言葉にはっとした様子だった。春子にしても、乗合自動車に乗るぐらいの銭は持っていても、人力車に乗るほどの銭までは持たせてもらっていないはずだ。
春子は困った顔で言った。
「けんど、今日中に戻れなんだら退学で」
「ほら、ほうやけんど、銭がないのに乗ったら――」
途中で何をされるかわからないと、千鶴は言いたかった。だが車夫本人を前にして、そんなことは言えなかった。
すると、男は気さくな感じで話しかけてきた。
「姉やんらはどこぞの学生さんかなもし」
春子が三津ヶ浜にある女子師範学校だと言うと、男は顔は見せないまま大きくうなずいた。
「二人とも女子じゃというのに、まっこと大したもんぞな」
「ほやけど、このまま松山に戻れんかったら、おらたち退学になってしまうんよ」
春子がしょんぼり話すと、男は大丈夫だと言った。
「銭のことじゃったら、心配せいでも構んぞな。姉やんは名波村の村長さん所のお嬢じゃろ?」
「え? おらのこと知っておいでるん?」
春子は目をぱちくりさせた。
「ほら、誰かてわからい。名波村、いや風寄で女子師範学校へ入れた女子言うたら、姉やんを置いてはおるまい」
「え? おら、そがぁに有名なん? いや、困った。山﨑さん、どがぁしよう?」
すっかり気をよくした春子は照れ笑いをした。しかし、千鶴はまだ警戒を解いていない。口の上手い男など信用できなかった。
だが、男は千鶴の様子など気にせず言った。
「ほじゃけんな、お代の方はあとから村長さんにもらうけん、姉やんらは何も気にせいで構んぞなもし」
男の優しい言葉を信用して、春子は人力車に乗り込んだ。それから千鶴にも手招きをして、早く乗るよう促した。
「兄やんは、なしてお祭りに行かんの?」
人力車に乗り込まないまま、千鶴は男に訊ねた。
男は少しうつむき加減で千鶴の方を向いた。やはり顔は隠したままだ。
「おらな、祭りより銭がええんよ」
ぽそっと喋った男の口調からは、先ほどまでの軽い感じが消えていた。また、言葉どおりに本気で銭を欲しがっているようには聞こえない。それに、この声には聞き覚えがある。
「あなたは――」
男は黙って千鶴の手を取ると、春子の隣に座らせた。
男に手を握られている間、千鶴は菅笠に顔を隠した男をぼーっと見ていた。
手に伝わって来る男の手の温もり。千鶴は胸が詰まって、涙が出そうになった。
二
「ほんじゃ、動かすぞな。後ろに傾くけん、気ぃつけておくんなもし」
男が千鶴たちの前に着いて、人力車の持ち手を持ち上げると、座席が後ろへ傾いた。きゃあと叫び声を上げた春子はとても楽しそうだ。
千鶴はもちろんだが、春子も人力車に乗ったのは初めてだったようだ。松山へ戻れるという安心と、ただで人力車に乗られた嬉しさで、春子は大はしゃぎだった。
「兄やん、松山まで俥ぁ引いたことあるん?」
「いんや、これが初めてぞなもし。ほじゃけん、道に迷わなんだらええんじゃけんど」
「大丈夫ぞな。堀江の辺りまでは一本道じゃし、そのあとは、おらが教えるけん」
「ほうかな。ほれは心強いぞなもし。さすが師範になる女子ぞな」
「もう恥ずかしいけん、あんまし言わんでや。師範になるんは、この子も対なんじゃけん」
春子が千鶴のことを言うと、男は千鶴に話しかけた。
「そちらの姉やんは、どがぁな師範になるんかなもし」
男の後ろ姿をぼんやり眺めていた千鶴は、話しかけられたのに気がつかなかった。春子は肘で千鶴を突くと、ほら――と言った。
「え? 何?」
「何ぼーっとしよるんね。兄やんが聞いておいでるよ」
「え? な、何を?」
「山﨑さんはどがぁな師範になるんかて」
千鶴はうろたえながら、優しい師範になりたいと言った。
「うちが知っとる先生は、みんな厳しい人ぎりじゃったけん、自分はどがぁな子に対しても、優しい先生になりたいて思いよります」
へぇと男は感心したような声を出した。
「ほら立派なもんぞな。姉やんじゃったら、きっと願たとおりの師範になれらい。ところで、風寄のお嬢はどげな師範になるんかな」
「おら? おらはほうじゃなぁ。みんなに尊敬されるような師範になりたいな」
「尊敬される師範かな。さすが村長さん自慢の娘じゃな。言うことが違わい。恐らく将来は校長先生じゃな」
「校長先生? おらが?」
もう、やめてや――と言いながら、春子は嬉しさを隠せない。
「山﨑さん、おらが校長先生になったら、どげな学校になろうか」
「たぶん、おやつの時間を設けて、毎日おはぎやお饅頭を食べるんやない?」
「まっこと、ほうよほうよ。そげな学校にならい」
大笑いする春子を笑わせておきながら、千鶴は男に訊ねた。
「あの、いつもこのお仕事をされておいでるんですか?」
「おらのことかな?」
はいと千鶴が言うと、いつもというわけではないと男は答えた。
「乗ってくれるお客がおらんと、でけんぞな」
「そげな時は、何をしておいでるんですか?」
「そげな時は……、ほうじゃな。何をしとろうか」
男の答え方に、春子はまた笑った。
「兄やんて面白いお人じゃね。兄やんは俥ぁはいつから引いておいでるん?」
「ほうよな。今日からぞなもし」
え?――と千鶴たちは顔を見交わしたが、春子はすぐに笑って言った。
「また、よもだぎり言うてからに。おらたち二人も乗せて、こがぁに上手いこと走るんじゃけん、今日が初めてなわけなかろ」
「ほら、大切な姉やんらを乗せとんじゃけん、気ぃつけて走りよるぎりぞな」
「ほやけど、二人も乗せとるんよ? 素人には無理じゃろに」
「おら、何も他人様に自慢でけるものはないけんど、ほんでも力ぎりは人一倍強いけん」
やはりこの人はあの人だと千鶴は思った。どこで知ったのかはわからないが、松山へ戻れず困る自分たちを、わざわざ助けに来てくれたのに違いない。
しかし、どうしてそこまでしてくれるのか。それは別れた娘の姿を自分に見ているからだろう。ロシアへ去った娘にしてやれなかったことを、自分にしてくれているのだ。
それは若者の目が自分ではなく、別れた娘に向けられているということだ。そこが少し寂しいところだが、どのみちがんごめである自分が、この若者の心を求めることは許されない。
自分はがんごめだったと思い出した千鶴は唇を噛んだ。しかし、自分の心が若者に惹かれていることは否定できなかった。
自分のために戦ってくれる者など、夢で見たあの若侍ぐらいなものだ。この若者は夢から出て来た若侍のようだった。恐らく花を飾ってくれたのはこの若者に違いなく、それを無意識に感じていたことが、あの若侍の夢になったのだろう。
――この人の心が他を向いていようと、自分ががんごめであろうと、うちはこの人を好いとる。この人にずっと逢いたかった。そげな気ぃがしとる。この世に生まれる前から、そがぁ願いよったような気ぃがする。うちががんごめと呼ばれよった娘の生まれ変わりじゃったら、恐らくこの人は……。
若者から伝わった温もりは、今も千鶴の胸の中に残っている。この温もりは、二人の間に特別な絆があるという証に違いない。
若者は手を伸ばせば届く所にいるのに、千鶴は手が伸ばせない。あんなに逢いたいと願っていた若者が、目の前にいるというのに何も話せない。
自分をもどかしく思うばかりの千鶴は、何も知らずに楽しそうに若者と喋る春子が恨めしかった。それでもいろいろ考えた末に、千鶴は若者に訊ねた。
「あの、あなたは松山へ出ておいでるおつもりは、おありなんかなもし」
もし若者が松山で働く気があるのなら、これからも会える機会があるだろう。そんな期待を込めての問いかけだった。
「今から姉やんらをお連れするつもりじゃけんど」
ふざけているのか、真面目に答えているのかはわからない。若者の返事に、春子はくすくす笑った。
千鶴は気を取り直して、今度ははっきりと訊ねた。
「ほやのうて、松山で働くおつもりはおありかなもし?」
「おら、風寄から外には出たことがないんよ。ほじゃけん、松山がどがぁな所か興味はあるけんど、誰っちゃ知っとるお人もおらんけん」
だから松山で働くことはない、というのが返事なのだろう。
千鶴ががっかりすると、すかさず春子が訊ねた。
「兄やんはどこにお住まい? おらのことを知っておいでるいうことは、名波村のお人なん?」
いんや――と若者は言った。
「おらん家は名波村やないんよ。まあ、傍言うたら傍なけんど」
山陰が名波村に含まれているのかは、千鶴にはわからない。だが含まれていたとしても、あのような仕打ちを受けるのであれば、同じ村の者とは言えないだろう。
「傍言うたら、どこじゃろか?」
春子は名波村の近隣の村の名を片っ端から挙げた。だが、どの村も若者の村ではなかった。それでも、春子が山陰という言葉を出すことはなかった。
「ところで兄やんは、お名前は何て言うんぞな?」
若者の家を当てるのはあきらめたのか、春子は話題を変えた。
「おらの名かな。おらの名は、ふうたぞな」
「ふうた?」
「風が太いと書いて、風太ぞな」
違うなと千鶴は思った。名前と印象が合わないし、若者の喋り方が適当に聞こえる。
しかし、春子は若者の返事を素直に受け止めたようだった。
「ふうん。風太さんか。じゃあ、上の名前は何て言うんぞな?」
「何じゃったかの。忘れてしもた」
「忘れた? 自分の苗字を忘れるん?」
「ほうなんよ」
下手に苗字を言うと、どこに住んでいるかが知れてしまう。逆にまったく嘘の苗字を言うと、すぐに出鱈目だとばれるだろう。だから若者は苗字を忘れたと言ったに違いない。
素直な春子は笑うと、わけありってことじゃね――と言った。
「ほういうことぞな。おらが怪しい思うんなら、ここで降りてもろても構んぞなもし」
「とんでもないぞな。わけありなんは仕方ないことじゃけん。ほれより、兄やんは信頼できるお人じゃけん、おら、途中で降ろせやなんて言わんよなもし。降りろ言われたら、こっちが困るし」
「ほら、だんだんありがとさんでございますぞなもし」
人力車はいくつかの町を通り抜けながら、がらがらと海沿いの道を走り続けた。もっとゆっくり行くものだと千鶴は思っていたが、二人のために急いでくれているようだ。
太陽は水平線に浮かぶ島々の向こうへ沈みそうだ。松山に着く頃には完全に沈んでいるだろう。
昨日、客馬車の中で夕日を見た時に、千鶴は理由のわからない悲しみに襲われた。しかし、今は夕日を見ても悲しみは湧き上がって来ない。
あれはいったい何だったのかと、千鶴は自分を訝しんだが、きっとこの人がいるから平気でいられるのだろうと思った。それほど千鶴は若者との間に、深いつながりを感じていた。しかし自分はがんごめだと思うと、胸の中につらさが広がった。
三
「風太さん、辰輪村の入り口で大けなイノシシが死んどった話、知っておいでる?」
突然、春子が若者に訊ねた。
千鶴はどきりとした。イノシシの話は鬼につながる。そんな話はして欲しくなかった。
それにイノシシの死骸があった場所を見に行って、自分が具合悪くなったのを春子は知っている。それなのにその話をするのかと、興味を抑えられない春子に千鶴は呆れもした。
「そげなことがあったんかな。今、初めて聞いたぞな」
驚いたように答える若者に、春子はがっかりしたようだった。
「何じゃ、知らんの。何ぞ知っておいでるんやないかて思いよったのに」
「ほれは申し訳ございませんでしたぞなもし」
若者はからから笑い、春子はそれ以上訊くのをあきらめた。
千鶴は若者の返答にほっとした。だが、あのイノシシの死骸は山陰の者がさばいたはずだ。それをこの若者が知らないわけがない。
恐らく余計なことを喋ると、自分が山陰の者だと春子に知れると考えたのかもしれない。だが、千鶴はそんなことより若者と野菊の花の関係を確かめたかった。
「あなたは法生寺のご住職をご存知?」
千鶴が訊ねると、若者は一瞬沈黙して、知っていると答えた。その一瞬のためらいは、千鶴が法生寺の境内で倒れていた時に、自分もそこにいたと語っているようだった。
「あそこの和尚さまには、こんまい頃にようお世話になったんよ」
「へぇ、ほしたら、おらも風太さんのことを知っとるかもしれんのじゃね」
春子が嬉しそうに言った。
千鶴はしまったと思った。もしかしたら、春子は若者が山陰の者であると感づくかもしれなかった。
そんな千鶴の心配をよそに、若者は焦った様子もなく、ほうかもしれまい――と言った。
春子は昔の思い出をいろいろ話しながら、それについて知っているかと、いちいち若者に訊ねた。それで若者が知っていると答えると、そのたびにそこから若者の正体を探ろうとした。
しかし、春子はどうしても若者のことが思い出せなかった。と言うより、そもそも風太という名前自体が春子の記憶にはないみたいだった。
堀江を過ぎた頃には、辺りはすっかり夕闇に包まれて薄暗くなっていた。
道を教えると言った春子だったが、道がよく見えないので教えようがなかった。しかし若者は夜目が利くみたいで、速度を落とすことなく走り続けた。
分かれ道で春子が案内ができずにいても、若者は構わず適当に進んで行った。そうやってとうとう木屋町まで来ると、二人をどこで降ろせばいいのかと若者は訊ねた。
その時、古町から道後へ向かう電車が目の前を横切った。
すぐ左手に木屋町停車場があり、電車はしばしの間、そこに留まった。若者は電車を初めて見たらしく、立ち止まったまま興奮したように喜んだ。それで千鶴は春子の話をした。
「村上さんは、このあと電車で三津ヶ浜へ戻るんですよ」
「へぇ、ほれはええわいな。おらもいっぺんでええけん、電車いう物に乗ってみたいぞな」
若者が羨ましがると、春子は不服そうに言った。
「おらは電車より、この俥ぁで戻りたいな。風太さん、山﨑さんを降ろしたら、そのまま三津ヶ浜まで走ってもらえまいか?」
慌てた千鶴は若者が答えるより先に春子に言った。
「村上さん、ほれはいけんぞな。風太さんは松山もようわからんのに、三津ヶ浜まで行きよったら、風寄に戻れんなってしまわい。ほれに風太さん、ずっと走り詰めでくたくたじゃろし、早よ戻らんと寮の消灯時間に間に合わんぞな」
春子が降りたあと、若者と二人きりになれると千鶴は見込んでいた。だから、自分の方が先に降りることになっては困るのだ。
春子は消灯時間なら大丈夫だと言ったが、若者のことは気になったようで、残念そうに言った。
「電車がないならともかく、電車が走っとるもんな。仕方ない。電車で去ぬろうわい」
千鶴がほっとすると、停車場の電車が動き出し、若者も人力車を再び引いた。
「あれはお城じゃな」
木屋町停車場を過ぎた所で、若者は左前方にある山を眺めて言った。山の上には城が黒い影となってそびえている。
「ほうよほうよ。あれが松山城ぞなもし」
春子が得意げに言った。堀江から先の道を若者に教えられなかった分、城山の西にある札ノ辻が自分たちの終点だと、春子は饒舌に喋った。
札ノ辻とは、まだ侍が闊歩していた頃に、城下の民衆へのお達しが書かれた高札が掲げられていた場所である。城山の南西の麓にはお堀に囲まれた三之丸があったが、その西堀の北端に札ノ辻はあった。
「山﨑さんのお家は札ノ辻のすぐ傍やし、おらが乗る電車の停車場もあるけん」
「ほぉ、ほらちょうどええ場所じゃな」
じゃろげ?――と楽しげな春子に、千鶴は言った。
「村上さん、札ノ辻より本町から乗る方が早いんやない?」
「本町? 本町も札ノ辻も大して変わらんけん、大丈夫大丈夫」
本町停車場は札ノ辻停車場より少し木屋町寄りの所にある。つまり札ノ辻停車場の次の停車場だ。
春子が言うように、両者の距離に大した差はなく、電車も頻繁に来るので、札ノ辻から電車に乗っても問題はない。それは千鶴もわかっているが、とにかくわずかでも若者と二人きりになれる時間が欲しかった。
だが結局、春子は札ノ辻から電車に乗ることになった。千鶴は笑顔を見せながら、胸の中で落胆していた。しかし若者に実家のことを訊かれると、やにわに元気を取り戻した。
「うちは山﨑機織という伊予絣問屋をしとります」
「ほぉ、伊予絣問屋かな。風寄にも絣を織りよる家がなんぼでもあらい」
「うちも風寄のみなさんのお世話になっとるんぞなもし」
へぇと感心の声を出した若者は、千鶴の家は札ノ辻のどの辺りにあるのかと訊いた。
紙屋町ぞなもしと答えてから、千鶴は若者が松山の地名がわからないことに気がついた。それで札ノ辻から西に向かって延びる通りですと言い換えた。
紙屋町は名前から考えると、昔は紙問屋の町だったと思われる。しかし今では絣問屋の町になっている。山﨑機織の東隣には古くからの紙屋があるが、昔の紙屋町の名残を留めているのは、この店ぐらいなものだ。
千鶴が紙屋町の町筋の話をすると、札ノ辻には大丸百貨店があると春子が言った。
若者が百貨店を知らないのを確かめた春子は、風寄はおろか四国の他の地域にもない、四階建ての立派なお店だと、松山の人間でもないのに得意げに説明した。
それから春子による松山の説明が始まり、千鶴はそれを補足する程度しか出番がなくなった。
若者と喋る機会を奪われた千鶴は、春子が苦々しかった。しかし春子にはいろいろ世話になったし、若者も興味深く春子の話を聞いている。ここは黙って我慢をするしかなかった。
町の中は所々にある街灯が灯り始めていた。その明かりの下を、二人の娘を乗せた人力車が走って行く。
千鶴たちのような若い娘が、人力車に乗ることは滅多にない。乗るとすれば芸子ぐらいなものである。それも大抵は一人掛けの人力車であり、二人掛けに乗る娘は珍しい。
それだけに道行く者や家から顔を出した者が、何だ何だという顔で、千鶴たちを乗せた人力車を振り返った。そのたびに千鶴は気恥ずかしくなって下を向き、春子は大はしゃぎをした。
城山の西の麓に小学校が二つ南北に並んでいるが、道を挟んでそのすぐ西隣に師範学校がある。小学校と師範学校の間にあるこの道を進むと三ノ丸に突き当たり、そこを右へ曲がると、正面に札ノ辻がある。電車の札ノ辻停車場もそこだ。
人力車は札ノ辻の手前で停まった。千鶴が降りる時、若者は千鶴の手を取って降りるのを助けてくれた。手に伝わるその温もりは、若者が手を離しても余韻として残っている。
若者は春子の手も取って降りるのを手伝った。しかし、春子は若者に手を握られても何とも感じていないようだ。
山﨑機織はすぐそこなので、このまま歩いてもいいのだが、そのわずかな距離を若者に運んでもらおうと千鶴は考えていた。
ほんの少しの間でも、若者と二人きりになりたかったし、少しでも若者との別れを遅らせたかった。また、自分の家を若者に教えておきたかった。
千鶴は春子の見送りをする間、一緒に待っていて欲しいと若者に頼んだ。その提案に春子は喜んだが、電車が気に入った様子の若者も、千鶴の頼みを快く聞き入れてくれた。
札ノ辻にも街灯がある。その明かりの下で、ようやくまともに見せてもらえたその顔は、紛れもなくあの若者だった。
先に春子を停車場へ向かわせて、千鶴は若者に本当の名前を訊ねた。
若者はにっこり笑うと、佐伯――と言い、千鶴の顔を見つめた。それからすぐに、忠之と言うんぞな、と言い足した。
何だか千鶴の表情を確かめながら喋る様子に、千鶴は戸惑いを覚えた。
「さえき、ただゆき……さんですか」
「佐伯はわかろ? 忠之は、忠義の忠に之と書くんよ」
千鶴はどきどきしながら、若者の名前を決して忘れまいと、頭の中で何度もその名前を繰り返した。
「千鶴さん」
声をかけられた千鶴は慌てて返事をした。
「はい、何ぞなもし?」
「風寄では、あいつら以外にも嫌なことはあったんかな?」
いいえ――と千鶴は言った。がんごめと言われたことや、本当にがんごめだったことなど言えるはずがなかった。
「他には何もなかったぞなもし」
「ほうかな。ほれはよかった」
忠之は安心したように微笑んだ。千鶴は訊くのは今だと思った。
「あの、うちに花を――」
「二人で何喋りよるんよ。おらも仲間に入れてや」
停車場まで行ったものの、千鶴たちがついて来ていないことに気づいた春子が戻って来た。
「何喋りよったん?」
春子が無邪気に話に交ざろうとした。げんなりした千鶴に代わって忠之が言った。
「お嬢の学校での評判を聞かせてもらいよりました」
「お嬢て、おらのこと?」
「他に誰がおるんぞな?」
春子は照れながら、何を喋ったのかと千鶴に訊ねた。千鶴は答える気分ではなかったが、黙っているわけにもいかない。
「いっつも明るうて楽しいお人ぞなて言いよったんよ」
「おらが? いや、そがぁに言うてもらえるやなんて、おら、嬉しい。風太さん、この人はおらより頭がようてな。いっつもかっつもおらより試験の点数がええんよ」
「へぇ、ほうなんか。ほれは大したもんぞな」
驚いたふりなのか、本当に驚いたのかわからないが、忠之は目を丸くして千鶴を見た。
「もう、またそげなことを言う。ほら、電車がこっちへ来よるよ」
千鶴はお堀の南の方を指差した。南堀端から回って来た電車が、そこにある停車場に停まったところだ。
千鶴は春子に停車場へ戻るように促した。しかし春子は一人が嫌なようで、二人にも停車場まで来るように言った。
「風太さんも電車が間近で見られる方がええじゃろ?」
ほうじゃなと言って、忠之が春子について行くので、千鶴は大きく息を吐いてから、二人のあとに続いた。
間もなくすると、鉄の線路を軋ませながら電車がやって来た。もう暗いので運転席の上には電灯が点いている。
電車は札ノ辻停車場に停まると乗車口の扉を開けた。木屋町停車場でも見たはずだが、勝手に開く扉を見ると、おぉと忠之は声を上げた。
春子は千鶴たちに声をかけると、電車に乗り込んだ。周囲が暗い中、電灯に照らされた車内は幻想的に見える。
再び動き出した電車の窓越しに、春子が二人に手を振った。千鶴たちも手を振りながら見送ったが、電車が行ってしまうと、忠之は千鶴を振り返った。
「いや、ええ物を拝ませてもろたわい。世の中がこがぁになるとは思いもせんかった」
もう電車が走り始めて何年にもなるが、未だにそれを知らなかったという忠之を、千鶴は気の毒に思った。
「佐伯さん、松山においでませんか? うち、もっと佐伯さんとお話がしたいんです」
忠之は少し思案するような仕草を見せ、にこりと笑った。
「おらには決められんことぞな。おら、定めに従うぎりじゃけん」
「定め?」
忠之はそれ以上は何も言わず、千鶴を人力車に乗せた。
四
「えっと、札ノ辻がここじゃけん、紙屋町いうんはこの筋かな」
忠之は千鶴に教えてもらった紙屋町を確かめるように、その町筋を眺めた。
「ほうです。この筋が紙屋町ぞなもし」
千鶴が答えると、忠之は紙屋町の通りに入って行った。
この通りはそれほど長くはない。大して喋る暇もないままに、千鶴の実家である山﨑機織にすぐに着いた。
「山﨑機織。ここが千鶴さんの家なんか」
もう閉まった店の看板を見上げて、忠之は言った。
紙屋町通りにも街灯はあるが、街灯から離れると薄暗い。山﨑機織の看板は読みづらいと思うのだが、それが見えるというのは、やはり夜目が利くのだろう。
千鶴は降りたくなかったが、降りるしかない。
「だんだんありがとうございました」
千鶴は礼を述べると、人力車を降りようとした。すると、忠之は千鶴が降りるのを手伝って、また手を握ってくれた。その手の温もりは千鶴の体に伝わり、千鶴は忠之に抱きしめられているような錯覚を覚えた。
「今日は千鶴さんにお会いできて、ほの上、話までできて、おら、まっこと嬉しかった。千鶴さん、これからもいろいろあるじゃろけんど、めげたりせんで、しっかりと前を向いて生きるんで」
千鶴の手を握りながら忠之は言った。千鶴を諭すようなその話し方は、千鶴を想っての言葉に違いない。だが、これでお別れなのだと告げられているようでもあった。
千鶴の胸の中で悲しみが膨らんで来る。それは風寄へ向かう客馬車から、夕日を見た時の悲しみと同じだった。
――嫌じゃ! 行かんといて!
千鶴は心の中で叫んだ。声こそ出ていないが、その叫びは千鶴の目に表れていただろう。
しかし忠之は千鶴から手を離すと、戸が閉まった店を眺めた。その様子は、千鶴の心の叫びが聞こえないふりをしているようだ。
「もう閉まっとるみたいなけんど、千鶴さんはどっから中へ入りんさるんかな?」
忠之の空々しい問いかけに、千鶴は悲しみをこらえながら店の脇を指差した。
「そっちに裏木戸があるんぞなもし」
山﨑機織は四つ辻の角にあり、角を北へ曲がった所に裏木戸がある。裏木戸を確かめた忠之はにこやかに言った。
「ほんじゃあ、おらは去ぬろうわい」
人力車を引きながら、千鶴と一緒に裏木戸の前まで来ると、忠之は改めて千鶴に別れを告げた。
何とか忠之を引き留めたい千鶴は、忠之を呼び止めながら、急いで何を喋るか考えた。
「あの、お代はどがぁしましょう? うち、これしか払えんぞなもし」
千鶴は祖父に持たされた銭の残っていた全部を忠之に渡そうとした。しかし、忠之は千鶴の手をそっと押し戻した。
「お代なんぞいらんぞな。お友だちの方のも、もらうつもりはないけん」
「村上さんの分も?」
「言うたじゃろ? おら、俥ぁ引いたんは今日が初めてなんよ。俥ぁも衣装も全部借り物ぞな」
「え? どげなこと?」
「みぃんな祭りに出ておらなんだけんな。悪いとは思たけんど、ちぃと拝借させてもろたんよ。ほじゃけん、急いで戻んて元通りにしとかんと、あとで厄介なことになるんよ」
忠之は笑っているが、それは忠之が自分で言うようにまずいことである。
「なして、そげなこと」
「ほやかて千鶴さんは松山へ戻るおつもりじゃったろ? ほんでも、祭りん時は馬車は動かんし、自動車も出てしもたろけん」
「やけん言うて、こがぁなことをうちのために……」
「おらにでけるんは、これぎりのことじゃけん。ほんでも、千鶴さんのお役に立てたんなら、おら、なーんも言うことないぞな」
千鶴の目から涙があふれた。自分なんかのためにここまでしてくれる人が、どこにいるだろう。別れたロシアの娘と自分を重ねて見ていたとしても、あまりの優しさだ。
千鶴の涙を見て慌てる忠之に、千鶴は涙を拭いてもう一度感謝した。
「もう一つぎり教えておくんなもし。昨日の日暮らめに奇妙なことがあったんですけんど――」
そこに誰ぞおるんか?――と、裏木戸の向こうから怒ったような声が聞こえた。
「ほんじゃあ、おら、去ぬるけん」
忠之は潜めた声で言うと、がらがらと人力車を引いて行った。入れ替わるように裏木戸が開くと、中から祖父の甚右衛門が仏頂面をのぞかせた。
「何じゃい、千鶴か。今、戻んたんか。がいに遅かったやないか」
うろたえた千鶴はしどろもどろに返答した。それから遠ざかる人力車を気にしつつ、遅くなったことを祖父に詫びた。
千鶴の言葉を聞きながら、甚右衛門は去って行く人力車を訝しげに眺めた。
「ひょっとして、あれに乗って戻んたんか?」
「は、はい」
千鶴は下を向きながら答えた。
「銭はどがぁしたんぞ? あげな物に乗るほどは持たせなんだはずやが」
少しだけ顔を上げた千鶴は恐る恐る言った。
「あの、ただぞなもし」
「ただ? あれに、どっから乗って来たんぞな?」
「北城町ぞなもし」
「北城町? 風寄のか?」
千鶴はうなずいた。暗くてよく見えないが、祖父は眉をひそめたようだ。
「あがぁな所から力車に乗って、ただ言うことはなかろがな」
「ほれが、ただなんぞなもし。あの車夫のお人はまっこと親切なお方で、松山へ戻る馬車も自動車ものうて、うちらが困りよる時に力車を出してくんさったんぞなもし。あげなお人は、どこっちゃおりません」
祖父に忠之のことをよく見てもらいたい一心で、千鶴の舌はよく回った。いつもであれば、祖父を相手にこんなには喋らない。
千鶴の喋る勢いに少々押されながら、甚右衛門は怪訝そうに言った。
「ほれが、なしてただなんぞ?」
「うち、男の人らに襲われて、ほん時――」
何ぃ?――と甚右衛門は凄い声を出した。
「襲われたて、誰に襲われたんぞ?」
「誰て……、そげなことはわからんぞなもし」
まさか春子の従兄だとは、口が裂けても言えなかった。もちろん春子にも内緒である。だが、男に襲われるのはお前が油断したからだと、怒鳴られるに決まっていた。だから千鶴は先に頭を下げて、すんませんと謝った。
「うち、お祭りん時、居場所がのうて、ほんで、人がおらん所へ行ったら――」
「そこで襲われた言うんかな」
千鶴は黙ってこくりとうなずいた。
不思議なことに祖父は怒鳴らなかった。ただ黙って沈黙しているが、それは何だか妙な感じだった。
暗がりの中、甚右衛門は右手で顔を撫でると、馬鹿にしくさってと悪態をついた。恐らく風寄の人たちに対してのものだろう。
千鶴は慌てて、他の人たちはいい人たちだったと説明した。すると、そこへ番頭の辰蔵が顔を出した。
「旦那さん、どがいしんさったんぞなもし?」
辰蔵は千鶴に気がつくと、おやと言った。
「何や、千鶴さんかなもし。今、お戻りたかな」
千鶴が辰蔵に挨拶をすると、甚右衛門は辰蔵に先に戻るよう言った。辰蔵がいなくなると、甚右衛門は千鶴に訊ねた。
「言いぬくいなら言わいでもええけんど、お前、連中に、その……」
自分の方が言いにくそうな祖父に、千鶴はさらりと答えた。
「何もされとらんぞなもし」
「何も? ほやけど、襲われたんじゃろがな?」
「ほなけんど、ほん時にさっきのお人が現れて、うちを助けてくんさったんぞなもし」
「相手は何人ぞ?」
千鶴は右手の指を四本立てて言った。
「四人ぞなもし。ほれも体の大けな人ぎりじゃった」
「四人! そげな四人を相手に一人で立ち回った言うんかな」
「あのお人はまっこと強いお人でね。あっと言う間に、四人ともやっつけてしもたんよ。ほれで、うちらのことをここまで運んでくんさったんよ」
忠之の話になると千鶴は興奮して、祖父への口調がつい馴れ馴れしくなってしまった。
喋り終わってから、そのことに気づいた千鶴は、すぐにぺこりを頭を下げて、すんませんでしたと言った。
甚右衛門は千鶴の喋り方などまったく気にしていない様子で、ほうじゃったか、無事じゃったか――とつぶやいた。
甚右衛門は忠之が去った方へ体を向けると、両手を合わせて頭を下げた。その姿に千鶴は驚いた。まるで千鶴が助かったことを、心から喜んでくれているみたいだからだ。
祖父は昔から千鶴のことを邪険に扱っていた。
千鶴が小学校でいじめられて泣いて戻っても知らん顔だった。千鶴が町に出かけて嫌な思いをさせられても、やはり他人事のような態度を見せていた。
それなのに今回の祖父は、千鶴の名波村行きを認めてくれたし、千鶴の無事を喜んでくれたようだ。それは千鶴にとって有り難いことではあるが、とても違和感を覚えるものでもあった。
名波村で体験したことや、忠之との出逢いはとても不可思議なことだ。まるで異界に迷い込んでしまったみたいで、今でもすべてのことが信じられない気持ちだ。
松山へ戻って来ると、その異界から日常に抜け出せたような気になったが、いつもと違う祖父の様子を見ると、自分はまだ非日常の中にいるみたいに思えてしまう。夢が覚めたと思ったら、まだ夢の中だったという感じだ。
それは自分ががんごめだという事実を、改めて突きつけられたようでもあった。忠之と一緒にいられたことで和らいでいた不安な気持ちが、再び膨らんで来た。
千鶴がじっと見ていることに気づいた甚右衛門は、世話になった者に感謝するんは当たり前ぞ――と少しうろたえ気味に言った。
それは確かにそうなのだが、やはり何だか妙な感じだ。
今の話はするなと付け足すと、甚右衛門はさっさと裏木戸の中へ入った。
千鶴は見えなくなった忠之の姿を闇の中に追い求めた。しかし早く中へ入るよう促され、あきらめて裏木戸をくぐった。
甚右衛門の思惑
一
甚右衛門が勝手口から家の中に入ると、千鶴もその後ろに続いた。
そこは表に構える店から続く通り土間だ。その名のとおり、通路を兼ねた土間である。
土間の右手には台所があるが、そこには母の幸子と女中の花江がいた。二人は丁稚の亀吉と新吉が抱える箱膳に、飯やら汁やらを載せてやっているところだ。
丁稚たちの脇には辰蔵が立ち、甚右衛門と千鶴が入って来るのを待っている。
千鶴が今戻んた――と甚右衛門が言うと、その後ろから顔を出した千鶴も、みんなに恐る恐る声をかけた。
「ただいま戻んたぞなもし」
途端に、振り返った幸子たちの顔に笑みが浮かんだ。
「お戻りたか。遅かったやないの。心配しよったんよ」
幸子が安心したように言った。
続けて花江も、お帰んなさい――と言い、亀吉と新吉も嬉しそうに千鶴に挨拶をした。
台所の向かいには小さな板の間の部屋がある。いろいろ作業をするのに使っているが、今は使用人の食事場所だ。
板の間には手代の茂七と弥七がいたが、二人とも顔を出して千鶴に声をかけた。
「まあ、ご無事でお戻りんさって、よかったよかった」
辰蔵はほっとした様子でつぶやくと、板の間に上がって自分の箱膳が置かれた場所に腰を下ろした。
辰蔵は三十を過ぎているが独り身だ。強面でがっしりした体つきをしているけれど、情の厚い男で千鶴にも優しい。今回も千鶴の戻りが遅いのを心配してくれていたようだ。
板の間の手前には茶の間がある。そこは家族の食事場所だ。上座に甚右衛門の箱膳が置かれ、その右斜めに祖母のトミが座っている。千鶴と幸子の箱膳は祖母と向かい合うように、上座の左側に並べられている。
「あんたな、今、何時やと思とるんね?」
使用人たちと違い、祖母は千鶴をいきなり叱った。
すんません――と千鶴は小さくなりながら頭を下げた。
「今日は男衆が先に銭湯に行ったけん、こがぁしてまだ食べよるけんど、ほんまなら疾うに食べ終わっとる時刻じゃけんね!」
千鶴がもう一度頭を下げると、先に部屋に上がった甚右衛門が、もうええ――と言って腰を下ろした。
「ほら、何しよんぞ。早よ上がって飯にせんかな。ほんで、向こうの祭りがどがいじゃったか報告せぇ」
祖父に急かされた千鶴は、また頭を下げると母と花江を見た。
「すぐに行くけん、先におあがり」
幸子に促され、千鶴は二人にも頭を下げた。
「あたしもここで土産話を聞かせてもらうよ」
花江は楽しげに千鶴に声をかけたあと、千鶴と一緒に食事をするよう幸子に言った。
「ここはあたし一人で大丈夫だからさ。幸子さんは千鶴ちゃんの隣にいてやんなよ」
ほんでも――と幸子は遠慮したが、花江はいいからいいからと言って、幸子を千鶴と一緒に茶の間へ上がらせた。
箱膳の前に座ると、千鶴はまず祖父母に向かって手を突き、こんな時期に一泊の旅に行かせてもらった礼を述べた。
「取り敢えず食え。話はほれからで構ん」
甚右衛門が素っ気なく言うと、千鶴は母と一緒に、いただきますと手を合わせた。箱膳に載せられているのは、麦飯に味噌汁、焼いたイワシに漬物だ。
一通り箸をつけたあと、千鶴は箸を置いて祭りの話を始めた。
まず話したのは、火事騒ぎのように賑やかで、かつ優雅なだんじりについてだ。それから、静かで不思議な神輿の渡御や、神社の石段から神輿を投げ落として壊す話などを喋った。
いつもであれば隣の板の間からぼそぼそと声が聞こえるのだが、今はしんと静まり返っている。使用人たちも千鶴の話に耳を傾けているらしい。
片づけが終わった花江も板の間には上がらないで、台所に立ったまま千鶴の話を聞いている。
甚右衛門は表情を変えずに聞いているので、自分は祖父にどう思われているのかと、千鶴は喋りながら不安な気持ちがあった。
一方、初めは不機嫌そうな顔をしていたトミは、箸の手を止めて千鶴の話に聞き入っていた。
神輿を壊す話を聞くと、どうして神輿を壊すのかと、トミは訝しげに訊ねた。
神さまには一度使った物は使えないため、古い物を壊して新しい物を作るという、向こうで聞かされた理由を千鶴は説明した。
甚右衛門はなるほどとうなずいた。だがトミは顔をしかめ、もったいないことをすると、納得が行かない様子だった。
千鶴は隣に座る母に顔を向けると、昨夜は法生寺に泊めてもらったと話し、和尚夫婦の想いを伝えた。
驚いた幸子は一瞬嬉しそうな顔になった。だが、すぐに笑みを消し、ちらりと甚右衛門やトミを見遣ってから、どうして法生寺に泊まったのかと、その理由を訊ねた。
夜這いを避けるためと千鶴が話すと、ほうなんかと幸子はうなずいた。だが、目は甚右衛門とトミを気にしているようだった。
法生寺は身籠もった母が家を飛び出して世話になった所である。本当のところはそんな寺の話など、祖父母は聞きたくなかっただろう。
甚右衛門は何も言わなかったが、トミは眉間に皺を寄せ、ほじゃけんな――と言った。
「うちはこの子を向こうへ行かせることに反対やったんよ。だいたいな、女子が一人で他所の祭り見に行くやなんて有り得んで。しかも、こがぁな時期に思いつきでそげなことをするけん、ほんな危ない目に遭うんぞな」
トミの言葉は千鶴を責めながら、許可を出した甚右衛門に文句を言っているようにも聞こえた。
甚右衛門は平然とした顔で、いずれにせよ――と言った。
「夜這いはかけられなんだわけよ。無事に戻んて来たんじゃけん、よしとしよわい。ほれより、千鶴。向こうでは絣の話はなかったんか? うちは風寄からも絣を仕入れとるんぞ」
千鶴は名波村の女たちから伊予絣を作る苦労話を聞かされたことや、自分の家が山﨑機織であるとわかった時に頭を下げられたことなどを話した。
甚右衛門はようやく笑みを見せると、ほうかほうかと満足げにうなずいた。
「ほれで、お前はどがぁしたんぞ?」
「うちもみなさんに頭下げました。あの方たちの日頃のご苦労を聞かせてもろて、ずっと心の中で頭を下げよりました」
うむと甚右衛門は大きくうなずいた。
「お前もこの家の者である以上、商いの品がどげな風にこさえられとるんかを、己で確かめておく必要があるけんな。ほじゃけん、名波村行きは急な話じゃったが、ちょうどええと思たわけよ」
え?――と千鶴は祖父を見返した。トミも幸子も驚いたように、甚右衛門の顔を見つめている。
祖父にそんな思惑があったとは、千鶴は思いもしなかった。
「ほうやったんですか。そがぁな気ぃを遣ていただき、ありがとうございます」
千鶴は箸を置くと、甚右衛門に向かって手を突いた。そうして頭を下げながら、師範になる自分に絣が作られる所を確かめさせるというのは、どういうことだろうと考えていた。
二
「千鶴さん、ほうしょうじて、お寺?」
板の間と茶の間は襖で仕切られている。その襖の端がある土間側の柱の陰から、新吉がひょっこり顔を出していた。
新吉は声を潜めたつもりのようだが、離れた千鶴に聞こえるのだから、当然甚右衛門やトミにも聞こえている。
新吉はこの春に尋常小学校を出て丁稚になったばかりだ。ここでの仕事にもだいぶ慣れては来たようだが、まだまだ幼い感じが抜けきれず、つい子供っぽいことをしてしまう。
甚右衛門がじろりと見たが、新吉は気がつかない。
甚右衛門が何も言わないので、これ――とトミが叱った。だがそれと同時に、新吉の後ろから伸びた手が、ぽかりと新吉の頭を叩いた。
「痛っ! 何するんぞ」
新吉が頭を引っ込めて文句を言うと、襖の向こうから亀吉の声が聞こえた。
「何やなかろが。千鶴さんの話に勝手に交ざんな。お前は黙って聞きよったらええんじゃ」
亀吉は新吉より二つ年上で、店のことをよく知っている。そのため、まだ幼さが残る新吉の世話係を任されていた。
「新吉、亀吉の言うとおりぞな。己の立場をわきまえんかな」
これは辰蔵の声だ。
しょんぼり項垂れる新吉の姿が、千鶴の目に浮かんだ。
新吉さん――と千鶴が声をかけると、トミが千鶴をにらんだ。しかし甚右衛門が黙っているので、千鶴はもう一度新吉を呼んだ。すると悲しそうな顔の新吉が、またひょっこりと現れた。
「新吉さん、法生寺いうんはな、名波村にあるお寺なんよ。うちのお友だちが子供の頃によう遊んだお寺でね。うちらはそこへ泊めてもろたんよ」
千鶴が丁寧に説明してやると、新吉は少し機嫌がよくなったみたいだった。
後ろから亀吉が、さっさとこっちへ来いと言ったようだが、新吉はそれを無視して千鶴に訊ねた。
「お寺、怖なかったん?」
「全然、怖なかったぞな」
千鶴が微笑んで答えると、新吉は調子が出たらしい。声が明るくなった。
「お化けは出なんだん?」
千鶴は笑いながら、出んかった――と言った。
「じゃあ、鬼は? 鬼も出なんだん?」
千鶴は返事ができなかった。自分はがんごめだったことを思い出したのだ。
「どがいした?」
甚右衛門が怪訝そうに声をかけた。隣の幸子も心配そうに大丈夫かと言った。
千鶴は慌てて笑みを繕うと、新吉に言った。
「鬼は出たぞな」
「ほんま? ほんまに出たん?」
新吉は興奮したように目を丸くした。その顔の上に、もう一つの顔が現れた。亀吉だ。
「千鶴さん、ほんまに鬼出たん?」
やはり興奮した様子の亀吉に千鶴はうなずいて、神輿の先を歩く大魔の話をしてやった。ただ、それが鬼に扮した人間であることは黙っていた。
亀吉と新吉は驚いた拍子にどたどたっと土間に落ちた。
トミは呆れて声も出ない様子だったが、甚右衛門は笑い出した。怖いはずの甚右衛門が笑ったので、トミも苦笑した。
「まったく、あんたたちはまだまだ子供だねぇ」
花江が笑いながら、二人を助け起こした。
千鶴も母と一緒に笑ったが、心の中では笑っていなかった。自分ががんごめであることがみんなに知れたらと思って、不安でいっぱいになっていた。
花江を手伝うようにして、辰蔵が新吉たちを板の間に引っ張り上げた。それから辰蔵は襖の柱越しに千鶴に顔を向けた。
「千鶴さん、だいば言うんは、御神輿の露払い役かなもし?」
はいと千鶴がうなずくと、自分の生まれ故郷の祭りでも、大魔と呼ばれる鬼が神輿の露払いをすると、辰蔵は話してくれた。
「えぇ? 番頭さん、ほれはほんまなん?」
新吉の声だ。
辰蔵は甚右衛門や千鶴たちに頭を下げると、襖の向こうに引っ込んだ。しかし襖越しに辰蔵の話が聞こえて来る。
「あたしん所はな、大魔の他にも、神輿と一緒に大勢が行列を組んで練り歩くんよ。神楽の舞姫もおるし、相撲の力士もおるし、槍持ちもおってな、宮司さんは馬に乗っておいでるんよ」
へぇと驚く声には新吉たちだけでなく、手代たちも入っている。
花江は甚右衛門たちに頭を下げると、板の間に姿を消して話に加わった。板の間は祭りの話で大盛り上がりだ。
いつもならば喋るにしても、声を潜めて甚右衛門やトミに気を遣うところだ。しかし、今はみんなが話に夢中になっているようで、遠慮のない話し声が聞こえて来る。
それをトミは苦虫を噛み潰したような顔で聞いていたが、甚右衛門は怒る様子もない。ここのところずっとみんなが暗い雰囲気だったので、久しぶりに耳にした楽しげな声が心地いいようだ。また、板の間が賑やかなのが好都合とばかりに、甚右衛門は小声で千鶴に言った。
「千鶴、ほんまは寺で何ぞあったんやないんか?」
「え? な、何もないぞなもし」
千鶴がうろたえると、何かを隠しているのではないかと、トミも疑いの目を向けた。
「あんた、向こうで嫌な目に遭うたんやなかろね?」
母にも訊かれて追い詰められた千鶴は、とにかく笑顔でごまかした。それにしても、今日の祖父母は妙である。
普段は祖父も祖母もこんなに話しかけたりはしない。それが今日はよく喋るし、気遣ってくれているような気さえする。
――ひょっとして……鬼?
千鶴は全身がざわついた。
風寄へ行くことになったのは鬼に呼ばれたからだとすれば、祖父が風寄行きの許可を出したのは、鬼に操られていたと考えられる。
きっとそうだと千鶴は思った。そうでなければ師範になるはずの自分に、絣が作られている所を確かめさせたかったなどと、取って付けたようなことを祖父が言うはずがない。
「ほんまに、何もないぞなもし」
千鶴は強張りそうな顔に笑みを見せ、漬物を口に放り込んだ。口を動かしていないと顔が固まりそうだ。
幸子が場を取り繕うように、甚右衛門に言った。
「ところで、お父さん。さっき裏で大けな声を出しんさったんは、何ぞあったんですか?」
甚右衛門は少しうろたえた様子で、何でもないと言った。
何でもないのに大きな声を出すわけがない。しかし家長が何でもないと言うのを、他の家族が追求することはできない。
甚右衛門が説明しないのは、千鶴が風寄で男に襲われたという話をすると、またトミに文句を言われると思ったからだろう。今もトミは疑わしげな顔で甚右衛門を見ている。
幸子が代わりの答えを求めて千鶴に目を向けた。しかし、余計なことは言うなと千鶴は甚右衛門から釘を刺されている。忠之の活躍を喋りたい気持ちはあるが、やはり祖父には逆らえない。それで千鶴は話を変えようと祖父に訊ねた。
「話違うけんど、なしておじいちゃんはご飯時やったのに、さっきはあげな所においでたんぞなもし?」
祖父が裏木戸まで様子を見に来たことを、千鶴は今になって不思議に思った。
声が聞こえて様子を見るのであれば、手代の誰かを来させただろう。食事が始まったばかりなのに、手水へ出て来るというのも妙である。
返答に困っているのか、甚右衛門は無視したように黙っている。すると、トミが怒ったように言った。
「あんたの戻りが遅いけん、心配しよったんじゃろがね」
「え? うちを心配してくれたん……ですか?」
千鶴が驚くと、今度はトミがうろたえたように口籠もった。甚右衛門は黙ったまま味噌汁をすすっている。
千鶴は母を見たが、母も祖父たちの様子を妙だと感じていたようだ。
それでも、これまで千鶴に無頓着だった二人が、千鶴を心配してくれたというのがよかったのだろう。もう余計なことは言うなと、幸子は嬉しげな目で伝えて来た。
だが、やはり千鶴は気になった。祖父母が自分を心配してくれるなど、これまで一度もなかったことだ。
これは絶対に鬼の仕業に違いない。そう思った千鶴は気分が悪くなった。
三
「何か、おじいちゃんもおばあちゃんも妙な感じぞな」
銭湯へ向かいながら千鶴は言った。一緒に歩いているのは幸子と花江だ。トミが銭湯へ行くのはいつも千鶴たちとは別の日なので、ここにはトミはいない。
「確かに、ちぃといつもとは違うみたいじゃね」
幸子がうなずくと、もしかしたら――と花江が言った。
「旦那さん、千鶴ちゃんにお婿さんをもらって、お店を継がせるおつもりなのかもしれないよ」
「え? うちにお婿さん?」
千鶴が思わず花江を見ると、そうさと花江は大きくうなずいた。
「千鶴ちゃんにお店を継がせようと思ったから、商いのことを千鶴ちゃんに教えようとしたんだよ」
「ほやかて、うちは女子師範学校に通いよるんよ? あの学校かておじいちゃんが行け言うたけん行きよるんやし。ほれやのに、うちに店継がせるておかしない?」
「きっと気が変わったんだよ。二人とも千鶴ちゃんを大事に思ってるみたいだからさ。師範になるより、お店を継がせる方がいいと思ったんだよ」
そんなことはあるはずがない。穢れた孫娘に大切な店を譲るわけがないのである。それでも、もしそうなのだとしたら、やはり鬼が祖父母を操っているに違いない。
「お母さん、どがぁ思う?」
千鶴は母を振り返った。幸子も花江の話は信じられないようだ。
「ほんまじゃったら千鶴やのうて、うちが婿取りせんといかんとこなけんど、うちはもう若ないし、千鶴じゃったら子供産めるて考えんさったんかもしれんねぇ」
単に若さや子供を産むことだけを考えるなら、そういうこともあるだろう。しかし、祖父母はロシアを憎んでいた。そのロシアの血が流れる孫娘を店の跡継ぎにするはずがないのだ。
母の幸子には正清という兄がいた。千鶴にとっては伯父だ。
山﨑機織はこの正清が継ぐことになっていた。だが正清は日露戦争で兵隊に召集され、戦場で命を落とした。これが甚右衛門やトミが未だにロシアを憎む理由だ。
幸子には孝平という弟もいた。
当時、孝平は他の伊予絣問屋で丁稚として働いていたが、正清亡きあと、甚右衛門は孝平を跡継ぎにと考えた。しかし、孝平は手代に昇格する前に、奉公先を逃げ出して姿を眩ましてしまった。
仕方なく甚右衛門は幸子に婿を取ろうとしたが、いい相手が見つからなかった。それで今日に至るまで、山﨑機織は跡継ぎが決まらないままになっていた。
幸子の婿が見つからなかったのは、千鶴が原因だった。つまり、ロシア兵の子供を産んだということが問題だったのである。
敵国の兵士の子供を産むなど、世間からすればとんでもないことだ。
千鶴を身籠もったことが知れた時、幸子は世間から白い目で見られ、警察からも事情聴取を受けることになった。また、山﨑機織の評判も落ちたと言う。
甚右衛門は子供を堕ろすよう幸子に迫ったが、幸子はそれを拒んで家を飛び出した。そこで偶然知念和尚に出会ったのだが、それが幸子が法生寺で世話になった経緯だ。
風寄で家の恥が広まることを恐れた甚右衛門は、子供を産むことを許して幸子を家に呼び戻した。そうして千鶴が生まれたのだが、やはり幸子や千鶴に向けられた世間の目は冷たかった。
今でこそ千鶴たちを受け入れてくれる人は増えて来たものの、未だに見下している者も少なくない。そんな中で、千鶴の新たな父親となることを望む者など、現れるはずがなかった。
だからと言って、問題の原因である千鶴に跡継ぎの話が出るわけがない。祖父母は幸子に千鶴を産むことは許しても、千鶴に心を許さなかった。
千鶴は祖父母に抱いてもらったり、遊んでもらったりした記憶がない。覚えているのは、いつも二人が不機嫌そうで、ちょっとしたことですぐに怒られたことだけだ。
普段、千鶴は気にしないようにしているが、自分が望まれて産まれたのではないという想いが、いつも心のどこかにある。これまで耐えて来られたのは、母ががんばっていたのと、辰蔵たち使用人が優しく接してくれていたからだ。
女子師範学校へ行かせてもらっていることも、小学校教師として自立して暮らすことが、期待されているのだと受け止めていた。そうすれば、実質的に山﨑機織との縁が切れるからである。そんな自分に祖父母が店を継がせるわけがない。
百歩譲って、仮に祖父母が自分に婿を取るつもりがあったとしても、自分なんかを望む者などいない。それは祖父母だってわかっているはずだ。
花江が言うこともわからなくはないが、やはり今日の祖父母は妙である。いや、名波村行きを許してくれた昨日からおかしいのだ。
祖父母は鬼に操られており、鬼の指示で自分に婿を取らせようとしている。そう考えれば、祖父母の矛盾は合点が行く。だが、それは千鶴を絶望的な気持ちにさせた。
その婿は鬼に決まっており、千鶴は鬼の妻となって、鬼の子供を産むのである。そうして鬼はこっそり人の世に紛れて暮らし、自分たちの子孫を増やして行くつもりなのだ。
地獄の夢を見た時に、千鶴には鬼を愛しく想う気持ちがあった。それは事実ではあるが、今はそんな気持ちはまったくない。いくら自分ががんごめで鬼と夫婦になるのが定めであったとしても、それは受け入れ難いことである。それでも、きっとそうなるのだろう。
千鶴は目の前が真っ暗になった。
四
「どがいした? 大丈夫か?」
黙り込んでいる千鶴の顔を、幸子がのぞき込んだ。
「ん? 何でもない」
千鶴は笑顔を装ったが、幸子は心配そうだ。
「おじいちゃんが決めんさったことに、うちらは逆らえんけんな。ほんでも、ほうは言うてもなぁ……」
幸子は最後までははっきり言わなかった。
仮に祖父が千鶴に婿を見つけようとしても、見つかるはずがないと言いたかったのだろう。しかし、そう言ってしまうと千鶴が傷つくと思ったのに違いない。
だが、これは鬼が祖父母を陰で操っての話である。婿はきっと見つかるはずだ。
「心配なんかいらないよ。きっといい人が千鶴ちゃんのお婿さんになってくれるよ」
何も知らない花江が能天気に言った。
「そげなこと……」
千鶴が顔を曇らせると、花江は励ますように明るい声で言った。
「だって千鶴ちゃん、可愛いからさ。そりゃあ、偏見を持ってる人たちは、千鶴ちゃんのこと悪く見るだろうけど、そんなのはこっちから願い下げだよ。偏見を持たないで、千鶴ちゃんのこと真っ直ぐ見てくれる人だったらね、絶対に千鶴ちゃんのこと大事にしてくれるし、お店だって上手くやってくれるよ」
千鶴が黙っていると、花江は立ち止まって千鶴をじっと見た。
「千鶴ちゃん、自分に自信がないって言うより、お婿さんの話に乗り気じゃないみたいだね」
心の中を見通されているようで、千鶴は慌てて答えた。
「ほやかて、うち、小学校の先生になるつもりでおったけん、急にそげなこと言われたかて困るぞな」
「まぁ、それはそうだよね。でもさ、悪い話じゃないとあたしは思うよ。あとで、ゆっくり考えてみたらいいよ」
花江に言われると、千鶴は言い返せなかった。
花江は千鶴より五つ年上で、元は東京の太物問屋の娘だった。その太物問屋は山﨑機織とも取引があった。
花江は一人娘だったので、婿をもらって店を引き継ぐことになっていたと言う。ところが先月初めに東京を襲った大地震で、花江は家も店も家族もすべてを失った。
東京に営業に出ていた山﨑機織の手代も、この地震で命を落とした。それで辰蔵が苦労して東京を訪ねたのだが、その時に花江を見つけて甚右衛門に連絡し、先に松山へ来させたのである。それは今から一月ほど前のことだ。
天涯孤独の身になった花江を、甚右衛門は女中として雇った。
この話が出た時、取引先の跡取り娘を女中として雇うことに、甚右衛門は気が引けたようだった。だが、花江自身が女中になると言うので話は決まった。
とは言え、元取引先の娘である。甚右衛門もトミも花江に対して気遣いを見せた。しかし、花江はただの女中として扱われることを望み、とにかく懸命に働いた。千鶴に対しても、初めて会った時から明るく優しく接してくれた。千鶴にとって花江は姉のように思える人だった。
山﨑機織で働くようになってから、それほど経っていないのに、今では花江は昔からいるみたいに、ここでの暮らしにすっかり馴染んでいる。それでも一人でいる時に花江が陰で泣いているのを、千鶴は知っている。
花江にすれば、親が取りなしてくれる婿取りの話は、とても有り難いことだと受け止めているに違いなかった。そんな花江が悪い話じゃないと言うのを、千鶴が否定できるはずがなかった。
銭湯の脱衣場で着物を脱いだ時、千鶴の胸元からしおれた花がぽとりと落ちた。千鶴は慌てて拾ったが、花江は見逃さなかった。
「それは花だね? 何でそんな物を胸に仕舞ってるんだい?」
「これはね、えっと……、きれいじゃったけん、摘んで来たんよ」
動揺を隠したつもりだが、花江は目を細めて千鶴を見つめた。
「本当に自分で摘んだのかい?」
「ほ、ほんまやし」
口をすぼめながら花を胸に抱くと、花江は笑った。
「千鶴ちゃんって、ほんと、わかりやすい娘だね。嘘ついたって、すぐにわかっちまうよ」
「ほんまは誰ぞにもろたんか?」
幸子が少し嬉しそうに訊ねた。千鶴は答えずに下を向いた。
風寄で男に襲われたことは黙っているようにと、祖父から言われている。それが言えなければ、忠之との出逢いを説明できない。
だが千鶴が黙っていたのは、本当は気恥ずかしかったからだ。誰かに心が惹かれていることを知られたくなかったのである。忠之のことを喋りたかったはずなのだが、今は喋るのが恥ずかしい気がしている。
それに、がんごめが人間の男と一緒になれるはずがない。だめなのがわかっている人のことを口にするのは空しかった。
それでも花江も幸子も、千鶴の心に何があったのかを理解したようだった。
「そうか。なるほどね。そういうことなんだね」
花江がにやにやしながら言うと、幸子も楽しげに言った。
「その人とはお祭りで知り合うたん?」
千鶴は返事をしなかった。しかし、返事をしないのは肯定しているのと同じ意味になるらしい。
どんな人なのかと交互に問われ、優しくて強い人だと千鶴は喋ってしまった。
幸子と花江は顔を見交わすと、自分のことのように喜んだ。
二人はもっと詳しい話を求めたが、どうせ一緒にはなれないからと千鶴は話を拒んだ。それで幸子たちもそれ以上訊くのをやめた。二人とも千鶴が話さない理由を、婿取りの話と考えたようだった。
五
千鶴たちが銭湯から戻ると、トミが台所の板の間で亀吉と新吉に漢字を教えていた。
板の間の奥には、甚右衛門とトミの寝間がある。閉められた襖の向こうから、甚右衛門の鼾が聞こえて来る。
辰蔵や手代たちは二階の部屋へ引き上げたようだが、まだ眠ってはいないらしい。板の間と帳場の間にある階段の上から、ひそひそ喋る声が聞こえている。
亀吉と新吉はあくびを噛み殺しながら、トミに言われた漢字を何度も繰り返して半紙に書いている。本当はさっさと寝たいだろうが、これも丁稚たちの仕事である。
トミは丁稚たちに生きて行くのに必要なことを、昔からこんな風に教えて来た。指導する言葉はきついが、その姿は孫に読み書き算盤を教える優しい祖母のようにも見える。
そのようなことをしてもらったことがない千鶴は、トミが丁稚たちに何かを教える姿を見るたびに悲しい気持ちになった。今もまたそんな気持ちが湧き上がって来るようだ。
千鶴たちが声をかけると、トミは亀吉たちに二階へ上がるように言った。二人は千鶴たちに頭を下げると、習字道具を片づけて階段を上がって行った。
「さぁ、ほしたら繕い物をしようかね」
着物の破れを縫ったり、新しい着物を作ったりするのは女の仕事だ。特に育ち盛りの亀吉や新吉は、次の年には前の年の着物が合わなくなる。
また木綿の太物と違って絹の呉服は、洗う時に一度糸を解いてばらばらにする。洗ったあとは、乾かしてからまた縫い直して元に戻すという手間がいる。
男たちが床に就いたあとでも、女たちはちくちくと針仕事をしたり、洗った着物にアイロン掛けをしたりと忙しい。
幸子は板の間と茶の間を仕切る襖を開けた。
茶の間の隅には縫い物が置かれてある。千鶴と幸子は縫い物を取ると、自分たちの場所に座って縫い始めた。
トミも板の間から茶の間に移り、同じように縫い物を始めた。
花江は七輪に残っていた炭火をアイロンに入れると、板の間の隅に畳まれていた洗濯物に、アイロンをかけ始めた。
誰も一言も喋らないで、黙々と手を動かしている。こうしていると、風寄の祭りを見に行ったことが嘘のようだ。
だが懐にはあの花がある。花はすべてが事実である証だ。風寄へ行ったのは本当のことで、あの人と出逢ったのも夢じゃないよと、花が胸の中で囁いている。
縫い物をする時には、針に集中しなければならない。だが、千鶴はつい忠之のことを考えてしまう。
忠之が自分に親切にしてくれるのは、忠之が好きだったロシアの娘を自分に重ねているからだと、千鶴は受け止めていた。
それでもあそこまで親切にしてくれたのは、単に自分があの人の知る娘に似ているからではないと、今はそう思っていた。それは忠之の心が夫婦約束をした娘ではなく、自分に向けられているということだ。
一方で、愚かなことを考えるなと戒める自分がいた。
あの人は別れた娘を重ねて見ているに過ぎず、山﨑千鶴を見ているわけではないと、戒める自分が主張する。
それに対して忠之に惹かれる自分は、たとえそうだとしても別れた娘はもういないのであり、あの人の気持ちは自分だけのものだと反論した。
あの人の着物だって、新しいのを自分がこうしてこさえてあげるんだと気負うと、がんごめのくせに!――と戒める自分が言った。
「痛っ!」
指先を針でちくりと突いてしまい、千鶴は思わず声を上げた。涙で視野が滲んでしまい、針先がよく見えなくなっていた。
いつもであれば、何をやっているのかと祖母に冷たい視線を向けられるところだ。ところが、今日の祖母は違っていた。
手の甲で涙を拭った千鶴に、トミは言った。
「千鶴、今日はもうええ。あんたは疲れとろけん、もう寝なさいや。明日は学校じゃろ?」
思いがけない祖母の言葉に、千鶴は戸惑った。
これまでは疲れていようと翌日学校があろうと、そんなことには関係なく、祖母は仕事をさせていた。
ましてや、今回は一人だけ特別に風寄の祭り見物へ行かせてもらったのである。その分、しっかり仕事をしろと言うのが当たり前だった。それなのに疲れているから寝ろというのは、普段の祖母では考えられないことだ。これは絶対におかしい。
やはり祖母も鬼に操られている。千鶴はそう確信した。
「ほんじゃあ、お先に上がらせてもらいます」
千鶴は自分の縫い物を片づけると、トミや母たちに頭を下げた。それから手燭に火をもらうと、茶の間から離れの部屋へ向かう渡り廊下に出た。
廊下の脇の奥庭は真っ暗だ。塀の向こうには街灯の光が届いているが、塀のこちら側には届かない。手燭を差し出すと、暗い奥庭がぼんやり照らされる。蔵の脇にある裏木戸も仄かに見える。
千鶴は闇の中の裏木戸を眺めながら、その向こうに忠之がいたことを思い出していた。
あれから一刻近くになると思うが、今も裏木戸の向こうに忠之がいるような気がする。あの扉の向こうで、人力車を引く忠之がこちらを見つめているようだ。
忠之の少し寂しげな優しい笑顔が思い浮かぶと、千鶴は胸が潰れそうになるほど切なくなった。
今日出逢ったばかりなのに、ここまで心が惹かれるのは、やはり自分とあの人の間に深い縁があるからだと千鶴は思った。そうでなければ、あの温もりは説明ができない。また、ここまで優しくしてくれるのは、あの人も同じ温もりを感じていたからだろう。
あの人は代官の息子の生まれ変わりに違いない。そう、あの若侍こそがあの人の前世だ。だから法正寺で倒れていた時、無意識にあの人を感じて、若侍の夢を見たのだ。
興奮を覚えた千鶴は、あの人が自分にそっくりな娘に心惹かれたのは、自分を捜し求めていたからだと考えた。つまり、千鶴がその娘に似ていたのではなく、その娘の方が千鶴に似ていたということだ。
しかし、千鶴の興奮はすぐに冷めた。どんなに惹かれ合っていても、がんごめが人間の男と一緒になることはできないのである。
千鶴が見た前世と思われる光景では、攘夷侍たちと戦う若侍の姿があったが、そこには鬼はいなかった。ヨネの父親が見たという鬼は、若侍が死んだあとに現れたのだろう。
きっと千鶴と若侍を引き離すため、鬼は若侍が死ぬのを待っていたのだ。千鶴が人間の男と一緒になることを、鬼は許さなかったのに違いない。
がんごめの相手は鬼に決まっており、それを邪魔立てする者は死ぬのである。前世では攘夷侍が利用されたが、次は鬼が直接手を下すかもしれない。あのイノシシのように。
仮に鬼の手を逃れて二人が夫婦になれたとしても、千鶴には鬼の本性がある。その本性が現れたなら、そこには絶望的な悲劇しかない。
結局、どれほど惹かれ合ったとしても、二人が結ばれることはないし、結ばれてはいけないのである。
千鶴は肩を落として涙ぐんだ。
黙って拝借した人力車で千鶴を松山まで運んでくれるほど、忠之は千鶴のことを想ってくれている。だがそれ以上は、敢えて千鶴と関わりを持たないようにしているみたいだ。夫婦約束までした娘を手放さざるを得なくなったという経験が、そうさせているのかもしれない。けれども、それが二人のためなのだと千鶴は自分に言い聞かせた。
空の人力車を引きながら、風寄へ戻る忠之の姿が目に浮かぶ。その姿はどんどん遠く、どんどん小さくなって行く。呼んでも声は届かない。これが二人の運命だと言わんばかりに、忠之が寂しげに去って行く。
実際、千鶴が風寄へ行くことはもうないだろう。忠之が松山へ出て来ることもない。二人が再び出逢うことはないのである。しかし、これでいい。これでいいのだ。
千鶴は項垂れてしゃがむと、声を殺して泣いた。
休み明けの学校
一
通学用の袴を着けると、千鶴は茶の間へ挨拶に行った。茶の間では甚右衛門が新聞を読んでいる。
どの家でも新聞を取っているわけではないが、新聞を取っているからと言って、朝刊が朝に届くとは限らない。場所によれば、朝刊なのに届くのは夕方近くになってからという所もある。ここは幸い新聞社が近いので、朝早くに朝刊を届けてもらっている。
店のことは使用人たちがしてくれるので、甚右衛門はこの時間はゆっくりしている。その隣では、トミが甚右衛門が飲むお茶を淹れていた。
大地震で東京が壊滅したことで、東京へ多くの伊予絣を送っていた伊予絣問屋は大打撃を受けた。ここ山﨑機織もその一つである。
そのため、甚右衛門は東京の復興も含めた日々の情報に目を光らせて、今後の伊予絣業界の行く末を毎日占っていた。
ところが悪い話はあっても、いい情報など出て来ない。この日もよくない記事が出ていたのか、甚右衛門の表情は曇っている。
こんな時には迂闊に声をかけない方がいいのだが、黙って行くわけにも行かない。それで千鶴は恐る恐る声をかけた。
「あの……、行てまいります」
千鶴の声が聞こえなかったのか、記事に集中しているのか、新聞に釘づけになったまま甚右衛門は返事をしない。
代わりにトミが、行てお戻り――と言った。
トミは千鶴が呼びかけても、あぁとか、はいとか、気のない返事をすることが多い。今のような時には、しっかり学べとか、遅刻するから早く行けとか、寄り道をするななど、一言文句を言うのが常だった。ところがこの日は、行てお戻りと言った。
他の家では当たり前のことかもしれないが、千鶴にとっては当たり前ではない。しかもトミは今朝起きた時にも、千鶴にちゃんと挨拶を返してくれたのだ。これはやはり家の中に異変が起きていると言わざるを得ない。
千鶴が祖母に頭を下げてその場を離れようとすると、甚右衛門はようやく千鶴に気づいたようだ。新聞を下ろすと、よい――と呼びかけた。ところが、そのあとは何かを言いたげにしながら、じっと千鶴を見るばかりで黙っている。
「どがぁしんさった?」
見かねたようにトミが声をかけると、甚右衛門は千鶴から目を逸らし、何でもないと言った。
千鶴はもう一度甚右衛門に、行てまいりますと声をかけた。甚右衛門はちらりと千鶴を見て、あぁとだけ言った。
千鶴は不審に思いながらも二人に頭を下げ、台所の花江にも声をかけた。花江は明るく、行ってらっしゃいと言い、千鶴に弁当を持たせてくれた。
花江が女中になってから、それまで家事をこなしていた幸子は、再び看護婦として働くようになった。今日は早めに来て欲しいと病院から言われたそうで、幸子は千鶴より先に家を出ている。
幸子は自分が働くことを家計を助けるためだと言うが、それは甚右衛門が幸子への婿取りをあきらめたということでもある。そう考えると、やはり祖父は自分に婿を取るつもりなのかと千鶴には思えてしまう。
丁稚や手代たちが千鶴たちの脇を通り抜けて、大阪へ送り出す品を蔵から運び出している。その邪魔にならないようにしながら、千鶴は通り土間を抜け、暖簾をくぐって帳場に出た。
帳場には辰蔵が座り、行てお戻りなと千鶴に言った。
表には積み荷を載せる大八車が用意されていて、蔵から運んで来た反物の木箱が、すでにいくつか積まれていた。そこへ手代の茂七と弥七が新たな木箱を運んで来て、千鶴に声をかけた。
東隣の紙屋の者たちに千鶴が朝の挨拶をしていると、今度は反物の木箱を大八車に載せた亀吉が、元気に声をかけてくれた。
「千鶴さん、行てお戻り」
続けて出て来た新吉も、同じように千鶴に挨拶をした。
朝に店を通り抜けながら、みんなから声をかけて送り出してもらうのは、小学校に通い始めた頃からの習慣だ。
女子師範学校の寮に入っていた間は途切れていたが、寮を出て通学するようになってから再開した、お馴染みの朝の光景である。
亀吉たちに手を振りながら、行て来るけんねと声をかけ返すと、千鶴は紙屋町の通りを西へ進んだ。
通常、家人は裏木戸から出入りする。しかし千鶴が小学校に入った時、祖父は千鶴に店から表に出るよう命じた。
千鶴が通った尋常小学校は城山の西の麓にあり、高等小学校は城山の南にあった。だから裏木戸を出たところで、店の前を通ることには変わりない。それでも店から出て来ると、どうしても目立ってしまうので、千鶴は裏木戸からこっそり出たかった。
だが、祖父はそれを許さなかった。堂々と店から表に出て、通学路とは反対側の店の人たちにも、大きな声で挨拶をするようにというのが祖父の命令だった。
それ以来、千鶴は学校へ行く時には店から表に出ている。
初めの頃は、みんなに見られるのが嫌で仕方がなかった。孫娘を晒し者にしようとする祖父を恨めしく思ったものだ。
でも今となっては慣れっこになったので、紙屋町の人々と顔を合わせることは気にならなくなった。向こうの方も最初はぎこちなかった挨拶が、今では当たり前のようになっている。
小学校に通っていた頃は、紙屋町の西の端の方の人たちとは、あまり顔を合わせることがなかった。しかし女子師範学校へ歩いて通い始めると、そこの人たちとも毎日顔を合わせるようになった。
初めは少し緊張したが、向こうも千鶴のことを知らないわけではない。声をかければ、ちゃんと返事をしてくれるので、もう緊張することはなくなった。
それでも今は、自分はがんごめだという想いがある。それが千鶴の気持ちを後ろ暗くさせていた。
おはようござんしたとか、行てまいりますなどと、顔を合わせる人たちに挨拶をしながら紙屋町の通りを歩いて行くと、やがて大きな寺に突き当たる。かつて松山を治めていた久松松平家の菩提寺である大林寺だ。
祖父は事あるたびに、紙屋町のこの道は殿さまたちが通った道なのだと、誇らしげに言ったものだ。
だが大林寺に対して、千鶴は別な想いを抱いている。
日露戦争が始まると、捕虜になったロシア兵が大勢日本へ連れて来られた。その捕虜兵たちを収容することになったのが松山で、その一番初めの捕虜収容所となったのが、この大林寺なのである。
母の話では、千鶴の父も最初はここへ入れられていたらしい。
普段は千鶴は父のことなど考えないが、この寺の前を通ると、どうしても考えてしまう。だから、いつも足早に通り過ぎていた。
ロシア人の血を引いているがために、千鶴は幼い頃から嫌な想いを強いられて来た。そのため、それは全部ロシア人である父のせいだという気持ちが、千鶴の中にはあった。もし父が日本人だったら、こんな苦労などしなかったのにと思うと、顔も知らない父を恨みたくなった。
だが一方で、父に会ってみたい気持ちもあった。
日本でなくロシアで暮らせば差別されないかもしれないと考える時、千鶴は父と暮らしている自分を想像してしまう。
父がどんな顔をしているのかはまったくわからない。それで自分に似た顔を想像し、父と暮らすことを願ったりもした。
しかし、この日に頭に浮かんだ父はロシア人ではなかった。髪の中に角を隠した鬼である。
がんごめが生まれ変わる時、その両親がどちらも人間であったとしても、がんごめには鬼の本性が残るのか。それが千鶴にはわからなかった。
もし顔や姿のように、鬼の本性も親から受け継がれるのであれば、少なくとも両親の片方には鬼の血が流れているはずだ。それで、父親はロシア兵に化けた鬼だったのではないかと、千鶴は疑っていた。
そうであるなら、今の苦しみは父のせいということになる。ロシア人ということでも苦労させられた上に、今度は鬼だ。もしここに父がいたなら、大喧嘩をしていただろう。
しかし父はいないし、喧嘩をしたところで何の解決にもならない。いずれ鬼になって、鬼として生きることになるのは避けられないのである。
――千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人とめぐり逢うて、幸せになるんぞな。
頭の中で忠之が話しかけている。しかしめぐり逢うのは鬼なのだ。
千鶴は胸に手を当てた。懐にはまだあの花が入っている。
一緒になりたいのはあの人だと、千鶴は忠之への想いを確かめた。だが確かめたところで、どうとなるものではない。むしろ空しい気持ちになるばかりだった。
二
大林寺の前を右に曲がると、左手に阿沼美神社が見えて来る。毎年春子に見せていた祭りの舞台だ。
この神社の北端を西へ曲がった所に、伊予鉄道の古町停車場がある。
松山からは多くの伊予絣が県外へ発送されているが、その多くは三津ヶ浜の向こうにある高浜港から、瀬戸内海を渡って本州へ届けられる。
その高浜港まで荷を運ぶのは陸蒸気と呼ばれる蒸気機関車で、古町停車場には紙屋町で扱う伊予絣が集まって来る。
これまで県外発送の中心は東京と大阪だった。しかし今は東京は大地震で壊滅状態なので、送られる先は大阪が大半と思われる。
もう少しすれば高浜港へ向かう陸蒸気がやって来るだろう。それに荷物を載せようと、近くの店々から大八車が集まって来ている。山﨑機織からも直に亀吉たちが荷物を運んで来るはずだ。
千鶴が古町停車場を眺めながら、さらに北へ進もうとすると、フワンと音が鳴った。
我に返って前を見ると、通りの少し先を電車が横切って行った。松山から三津ヶ浜へ向かう電車で、昨日、春子が札ノ辻から乗ったのと同じ電車だ。
大雨の時には、千鶴もこの電車に乗せてもらえる。風寄の祭りの前日も朝から大雨だったので、電車で通学させてもらった。しかし普段は歩いて通学だ。少々の雨では電車には乗せてもらえない。
電車の終点は三津ヶ浜だが、陸蒸気も高浜へ行く途中に三津ヶ浜で停まる。どうして三津ヶ浜へ向かう路線が二つもあるのかと言うと、元は二つは別々の会社が運営していたからである。
春子が乗った電車の方は、千鶴が尋常小学校に入学した年にできたものだ。陸蒸気の方は母が生まれた頃にできたらしい。
詳しい話は知らないが、かつては三津ヶ浜が海の玄関口だったそうだ。だが、大型の船も利用できる高浜港が新たに建設され、伊予鉄道がそこまで路線を延長した。
それに対して猛反発をした三津ヶ浜の人たちが、伊予鉄道に対抗してもう一方の電車を作ったのだと言う。
松山から東へ三十六町ほどの所に有名な道後温泉があるが、三津ヶ浜の人たちは、そこまでの鉄道を作った。両鉄道の道後温泉を利用する客の奪い合いは、かなり熾烈なものだったと聞いている。
伊予鉄道は三津ヶ浜と高浜の間に海水浴場を作っていたが、三津ヶ浜の人たちは自分たちの砂浜に海水浴場を作り、それとは別に遊園地まで作ったそうだ。
客引き争いでは三津ヶ浜の方に分があったようだが、それは損得を度外視した値引き合戦の結果であり、結局は伊予鉄道との争いに負けたのだった。
それでせっかく作った三津ヶ浜の電車も線路も、伊予鉄道に召し上げられてしまった。千鶴が女子師範学校本科の二年生になった年のことだ。
当時は千鶴は寮にいたので、休みの日などに三津ヶ浜の町に出ることがあった。その時の町の人たちが意気消沈していたのを千鶴は覚えている。自分の家が松山にあるとは、とても言い出せない雰囲気だった。
鉄道会社の争いと同じで、強い者が勝つのが世の常である。そして、自分は弱い者だと千鶴は思った。
世の中は男を中心に動いている。女はそれに従うだけだ。ましてや自分は異国の血を引いており、物を言う権利など他の若い娘以上にない。
だが男でも立場が弱ければ、思い通りにはいかないようだ。
忠之が惚れ合った娘との夫婦約束を果たせなかったのは、山陰の者だったからに違いない。本人が悪いわけではなくても、生まれが悪いとどうすることもできないのは、男も女も変わらない。
こんな理不尽なんかなくなればいいのにと思いながら、千鶴は広い松並木の道へ出た。三津ヶ浜へ向かう三津街道だ。
かつて、お城の殿さまが参勤交代をしていた頃、殿さま一行は三津ヶ浜から船で出入りしていた。その時に使われた道が、この三津街道である。
街道と名のつく道はいくつもあるが、殿さまの通り道だった三津街道は、他の街道よりも広くて立派な造りをしている。
千鶴がいる所は三津口と呼ばれるが、三津口から三津ヶ浜までの間には、千三百ほどの松や杉が日よけ目的に植えられている。
殿さまがいなくなった今も、千鶴たちのように街道を歩く者たちに、松や杉は木陰を与えてくれる。この並木がなかったなら、暑い夏場は歩くのが嫌になっていただろう。
街道の周辺は田畑ばかりでとても長閑だ。いつもと同じ長閑さを感じていると、風寄での体験や家の中の異変などが、本当のことだとは思えなくなりそうだ。
少し歩くと、二本の線路が道を横切る。どちらも古町停車場から出たものだ。手前は道後温泉へ向かう線路で、もう一方は陸蒸気が高浜へ向かう線路だ。港へ運ぶ貨物を引いた陸蒸気が、もうそろそろやって来るだろう。
二本の線路の近くに立って左手に顔を向けると、二つの線路が土手の下をくぐって来ているのが見える。この土手は三津ヶ浜へ向かう電車が通るもので、古町停車場から出た線路の上を乗り越えるために作られた。土手の向こうが古町停車場だ。
陸蒸気は街道の右を走り、三津ヶ浜へ向かう電車は左を走る。この先、両者は街道に絡み合うようにして走るが、その様子は未だに三津ヶ浜の人たちの怨念が生きているかのようだ。
ただ、街道自体は鉄道会社の争いごとなど関係ないかのように、のんびりした雰囲気だ。
所々で牛車が荷物を運び、千鶴と同じような着物に袴を着けた若い娘たちが三々五々歩いている。いずれも女子師範学校の生徒だ。二年生までは寮なので、歩いているのは三年生か四年生である。
千鶴たち四年生は四十名弱であり、そのうち松山から通う者は二十五名ほどだ。三年生と合わせると五十名近くになる。
互いに家が近いわけでもなく、家を出る時間もまちまちなので、千鶴は大概一人でだ。本当は別の理由があるのかもしれないが、いずれにしても学校の行き帰りは、千鶴は一人のことが多かった。春子のように仲のいい友だちもいるが、そうではない生徒の方がほとんどだ。
一人で歩く千鶴の頭に浮かぶのは、忠之のことばかりだった。
切ない気持ちで歩いていると、前方から電車がやって来るのが見えた。ぼんやりその電車を眺めていると、ピーッと甲高い汽笛が聞こえた。
振り返ると、後ろからやって来た陸蒸気が、白い煙をもくもくと吐きながら千鶴を追い抜いて行った。
陸蒸気の後ろには客車と貨物車がつながれている。貨物車の中には山﨑機織の品も載せられているのだろう。
すれ違う電車と陸蒸気を見ながら、佐伯さんがこの光景を目にしたなら、きっと喜ぶだろうなと千鶴は思った。
そして、どんどん遠ざかる陸蒸気を見つめながら、佐伯さんと二人であの客車に乗って港へ行き、そこから一緒に遠くへ逃げられたらと考えていた。
三
女子師範学校の校舎はモダンな洋風の二階建てだ。
玄関の庇は見晴らし台になっており、その玄関を中心に両翼を広げた形に造られている。両翼の端はどちらも手前に突き出した別棟の建物のようで、とてもお洒落な外観だ。
毎週月曜日にこの校舎を目にすると、今週もがんばろうと引き締まった気持ちになったものだ。しかし、今日はそんな気持ちにはなれなかった。
目に見える光景は同じなのに、千鶴は先週と今週で違う世界にいるような気がしていた。
他の生徒たちと顔を合わせると、いつもどおりに挨拶を交わす。だが千鶴には、他の生徒たちが自分とは別の生き物のように思えてしまう。そんな違和感を覚えながら教室の前まで来ると、中から大きな声が聞こえた。
そっと中へ入ってみると、教室の真ん中で高橋静子が級友たちを集めて喋っている。
春子と同じく、静子は千鶴が寮にいた時の同部屋仲間だ。三津ヶ浜の菓子屋の娘で、少しぷっくらした明るい性格の娘だ。千鶴とも仲がいい。
本当は静子も名波村の祭りに誘われていた。だが静子は親の許可が下りず、一緒に行くことは敵わなかった。
しかしそれが普通であり、どの級友たちにしても許されることではない。千鶴だけが特別に認められただけのことである。
それでも静子は落胆していないようで、身振りを交えながら元気に喋っている。
「ほれがな、これよりもっと大けなイノシシやったそうな。こらもう絶対、山の主で。その山の主がな、いきなり襲て来たんよ」
イノシシと聞いて、千鶴はぎくりとした。
春子を探すと、春子は静子の近くに座っていた。それで、静子は春子から話を聞いたのだなと千鶴は思った。春子が喋ったのであれば、千鶴が春子の家を訪ねたことは、みんなが知っているに違いない。
千鶴に気がついた静子が、嬉しそうに千鶴に手招きをした。すると、春子の近くに座っていた級友が、千鶴のために席を空けてくれた。仕方なく千鶴はそこに座ったが、本当はイノシシの話などには交じりたくなかった。
「お戻りたか、山﨑さん。名波村のお祭りは楽しかった?」
静子がにこやかに言った。やはり話が伝わっているようだ。
「お陰さんで楽しませてもろたぞな。だんだんな、村上さん」
千鶴が声をかけると、春子は小さくうなずいて微笑んだ。だが、何だかその笑みがぎこちない。何かあったのだろうかと思ったが、それには構わず静子は言った。
「今な、化け物イノシシの話をしよったんやけんど、山﨑さん、村上さんと一緒にイノシシの死骸見に行ったんやて?」
「死骸? そげなもん見とらんよ。うちらが見たんは、イノシシが死んどった場所ぎりぞな」
そんなことまで春子は喋ったのかと思いながら答えると、そがい言うたやんか――と、春子は静子に口を尖らせた。
何だか春子は不機嫌そうだ。それでも静子は気に留める様子はないようだ。ほうじゃったかね――と言って笑うと、さっきの話の続きを喋り出した。
「今の話やけんど、ほら、もうびっくりじゃろ? イノシシはあっちじゃ思て待ち構えよんのに、でっかいのが横から出て来よったんじゃけん。しかも、そんじょそこらのイノシシやないで。伯父さんが両腕いっぱい広げても、まだ足りんぐらい大けなイノシシぞな」
「なぁ、高橋さんは何の話しよるん?」
千鶴は小声で春子に訊ねた。すると春子が答える前に、静子が自慢げに言った。
「あんな、風寄で見つかった化け物イノシシはな、うちの伯父さんが高縄山で仕留め損のうたイノシシなんよ」
四
高縄山は風寄の南東にそびえる山だ。
聞けば、静子の伯父たちは木曜日から風寄の柳原にいたそうだ。高縄山へは翌日の金曜日に入るつもりだったらしい。ところが大雨になったために予定を一日ずらし、土曜日に高縄山へ入ったのだと言う。
春子は静子に何か言いたげだったが、千鶴が先に喋った。
「雨でお祭りが後ろにずれはしたけんど、ほんまなら金曜日はお祭りやったんやないん?」
静子は他人事のような顔で、ほうよなぁ――と言った。
「自分とこの祭りじゃったら別やろけんど、他所の祭りのことは、あんまし神聖なもんじゃとは思わんのじゃろね」
「ほやけど、村の人らがよう許したもんじゃね」
「たぶん、銭をつかませたんじゃろなぁ」
「銭?」
嫌な言葉だ。
確かに、世の中は銭で動いている。銭がなければ飯も食えない。だからと言って、銭に物を言わせて自分の思いどおりにするようなやり方は、千鶴は好きじゃなかった。
「お祭りは夕方から始まるんじゃろ?」
静子は春子に訊ねた。春子は面倒臭そうに、ほうよと言った。静子は春子の不機嫌など気にする様子もなく、千鶴に顔を戻して言った。
「ほじゃけん、そこの村の人は夕方の祭りに間に合う形で、猟の手伝いを引き受けたんやなかろか」
なるほどと千鶴が一応納得すると、通学組の他の生徒が二人、教室へ入って来た。静子は彼女たちに声をかけ、今がいな話をしよるんよ――と手招きして呼んだ。
二人が来ると静子は話を戻し、伯父が仕留め損なったイノシシが風寄の里へ逃げ、死骸となって見つかったのだと主張した。その理由は、イノシシの大きさだと言う。
山の主とおぼしきイノシシなど、そうざらにいるものではない。だから両者は同じイノシシに違いないというのが静子の考えだ。
千鶴は静子の言うとおりかもしれないと思った。
あの時のイノシシからは殺気が感じられた。あれは自分に向けられたと言うより、人間を憎む殺気だったのだろう。
イノシシ狩りについては、千鶴は祖父の話でどんなものかをだいたい知っている。
数名の勢子と呼ばれる人夫を雇い、イノシシの居場所を調べさせて、射手がいる所まで追い込ませるのだ。
静子の伯父たちも、同様の狩りをしていたらしい。それで村の誰かに銭を支払って、この勢子の役目を引き受けてもらったのだろう。
元々射手は四人だったが、予定がずれたことで一人が抜けたため、今回は静子の伯父を含めた三人だけで狩りを行ったそうだ。
三人はそれぞれ離れた持ち場に潜んで、勢子が追い込んで来るイノシシを待っていた。そこへ突然別のイノシシが現れて、伯父たちを襲ったのだと静子は言った。
静子の伯父は三カ所の持ち場のうち、端を担当していたそうだ。
初めに襲われたのは、静子の伯父とは反対側のもう一方の端にいた射手だった。
三人とも追われたイノシシがいつ現れるかと、前方に意識を集中していた。それで、横から巨大なイノシシが近づいて来ていたことに、誰も気づかなかったらしい。
初めに襲われた仲間は、銃を撃つ暇もなくやられてしまった。また、仲間がやられたことが残りの二人はわからなかった。
二人目が襲われた時、その悲鳴で静子の伯父は何が起こっているのかを初めて知った。その仲間もすぐにはイノシシに気づかなかったようで、銃を発砲する間もなくイノシシの犠牲になった。
静子の伯父はイノシシに銃を向けたが、仲間に当たると思って引き金を引けなかったらしい。しかしイノシシが凄い速さで迫って来ると、慌てて引き金を引いた。するとイノシシは向きを変えて、山の麓の方へ逃げたと言う。
「伯父さんは弾が当たったかどうかわからんて言うておいでたけんど、今朝の新聞では、イノシシは何かに頭やられて死んどったて書いとったけん、恐らく伯父さんの弾が頭に当たったんよ」
朝の暗いうちから三津ヶ浜への電車は動いている。そのお陰で松山で印刷された新聞は、三津ヶ浜にも朝のうちに届くようだ。
「新聞にそげな記事があったん?」
千鶴が驚くと、ほうよほうよと静子は楽しげに言った。自分の伯父が誇らしいのだろう。
一方で千鶴は、それでなのかと思った。
今朝、祖父が自分を呼び止めた時、同じ記事を読んでいたと思われる。それで祖父は事実を確かめようとしたのだろうが、気味の悪い話だからやめたに違いない。
記事に「頭を潰された」ではなく「頭をやられて」とあるのは、記者が村人たちの話に半信半疑だったのかもしれない。何しろ証拠は残されていないのである。
神輿が投げ落とされる時に春子が村人から聞いた話では、イノシシの骨と毛皮は山陰の者たちが河原で燃やしたということだった。燃やしたのは、やはり気味が悪いかららしい。そのことを春子は相当残念がったが、事実を知った新聞記者も口惜しがったに違いない。
静子の話をうんざりした様子で聞いていた春子は、静子の隙を突いたように口を開いた。
「高橋さん、新聞にはイノシシが猟銃で頭撃たれて死んだてあったん?」
静子はきょとんとしたあと首を振った。
「ほやけど、イノシシは伯父さんに向かって来たんで。そこへ鉄砲向けて撃ったんじゃけん、当たるとしたら頭じゃろ?」
「もし、高橋さんが言うたとおりやとしてな、頭撃たれたイノシシが、高縄山から辰輪村まで来られる思う?」
「辰輪村てどこ?」
春子はため息をつくと、高縄山と辰輪村の場所、それに双方の距離を説明した。
「高橋さんの伯父さんが高縄山のどこらにおったか知らんけんど、風寄側におったんなら、辰輪村まで半里から一里はあらい。その距離を頭撃たれたイノシシが移動でけるとは思えんで」
「大した傷やなかったんやない?」
「ほれじゃったら、死んだりせんじゃろに」
「じゃあ、何で死ぬるんよ?」
いらだった口調の静子に、春子は疲れたように言った。
「ほれをさっきから説明しよ思いよったのに、高橋さんがずっと喋りよるけん、何も言えんかったんやんか」
「じゃあ、村上さんはイノシシが死んだ理由を知っとるん?」
春子はにやっと笑ってうなずいた。
「もちろん知っとらい。少なくとも猟銃で撃たれて死んだんやないで」
五
何だ、そういうことかと千鶴は納得した。
春子が不機嫌そうだったのは、いろいろ喋りたいのに静子ばかりが喋って、自分は喋らせてもらえなかったからだ。
早く理由を知りたい級友たちが、声を揃えて説明を求めると、春子はいかにも嬉しそうな顔をした。
まぁまぁと春子はみんなを落ち着かせると、聞いて驚かないようにと、級友たちの顔をゆっくりと見回した。主役を奪われた静子は面白くなさそうだったが、春子と目が合うと、どきりとしたような顔になった。
春子は静子の目をのぞくようにしながら言った。
「イノシシはな、頭潰されて死んだんよ」
「頭を? 潰された?」
「ほうよ。潰されたんよ。ぺしゃんこにな」
級友たちの顔が引きつった。静子も顔が強張っている。
「村上さん、イノシシの死骸、見とらんのじゃろ?」
静子が精いっぱい抗うように言った。
「見とらんよ。ほんでも、見た人がそがぁ言いんさったけん」
「その死骸はどがぁなったん?」
級友の一人が訊ねた。
春子は残念そうに、村のみんなが食べてしまったし、骨と毛皮も燃やされてしまったと言った。
静子は春子の話を信じていないようだったが、また別の級友が春子に訊ねた。
「そのイノシシ、何に頭潰されたん?」
「ほれがな、わからんのよ。傍には大けな岩も落ちとらんし、大けな木が返っとったわけでもないんよ。おらと山﨑さんが見に行った時には、血溜まりがあったぎりぞな」
みんな言葉を失ったように押し黙ってしまった。誰もが蒼い顔になっている。
やはり蒼い顔になった静子が、千鶴に声をかけた。
「山﨑さんも見たんじゃろ? 何ぞ気ぃつかんかったん?」
「村上さんが言うたとおりぞな。うちには何もわからん。そげなことより、伯父さんと一緒やったお人らはご無事じゃったん?」
話を逸らそうとして、千鶴は静子に訊ねた。
静子は少し元気を取り戻したように、ほれがな――と言った。
「二人とも、亡くなったんよ」
「亡くなった?」
静子はうなずくと、二人とも牙でずたずただったらしいと、さらりと言った。
「顔なんか見られんぐらいやったそうな。ほんでも一番ひどいんは喉の傷らしいで。相当抉られて、血ぃが止まらんかったんやて。イノシシもどこが急所なんか、わかっとったんじゃろかね」
千鶴はざわっとなった。鬼に助けてもらわなければ、それは自分の姿だったのだ。話を逸らしたつもりが、余計なことを聞いてしまったと千鶴は後悔した。
この話はみんなの恐怖心をさらに煽ったようだ。春子も二人が死んだとは思っていなかったらしく、驚いたように眉を寄せている。
もうやめてと言う者が出て来たので、静子は伯父の話に切り替えた。
イノシシに襲われたあと、静子の伯父は勢子が戻って来るのを待って、里に助けを求めたと言う。だが、その里は祭りの準備で大忙しだった。
祭りは村人たちにとって神聖な行事である。そこへ助けを求めたので、静子の伯父も勢子となった者たちも、村人たちから散々罵られたそうだ。こんな日に何をしていたのかという話である。
そもそもこの時期は、まだ狩猟が解禁されていなかったらしい。そんな時期にイノシシ狩りを行ったから、山の神の怒りに触れたのだと叱責され、静子の伯父は何も言えずに小さくなっていたそうだ。
それでも死人をそのままにしておくわけにはいかない。村では死人を三津ヶ浜まで運ぶのに、大八車とそれを引く者数名を用意してくれた。
それで、まずは山から遺体を運び出し、駐在所にもそのことを届け出たあと、日が暮れた道を提灯を掲げて遺体を運んだそうだ。遺体が山から運ばれたのは、千鶴たちが名波村に着いてからのことだったようだ。
年に一度の祭りを楽しみにしていた者たちにとっては、とんだ迷惑な話だっただろう。死人を運ぶ者たちは、相当な不機嫌だったに違いない。
その中で、静子の伯父も交代で大八車を引いたり押したりしながら、疲れた体で三津ヶ浜まで歩いたそうだ。そうして三津ヶ浜に着いたのは真夜中だった。だが、それで終わりではない。
静子の伯父は三津ヶ浜で宿を営んでいると言う。亡くなった二人もそれぞれ旅館の主人だった。
順番にそれぞれの旅館を訪ねた静子の伯父は、出て来た家人たちに事情を説明し、主の命を救えなかったお詫びをした。
突然の主の死に家人たちが慌てふためき、嘆き悲しむ様子は想像に難くない。静子の話では、泊まり客までもが起きて来る騒ぎになったらしい。
イノシシ猟は静子の伯父が一人で決めたことではない。それでも生きているのは静子の伯父だけだったので、どうして大雨になったところで中止にしなかったのかと、みんなから責められたそうだ。
苦労して暇を作っての猟だったので、あきらめるわけにはいかなかったと弁解したらしいが、そんな言い訳にみんなが納得するはずもない。現に仲間の一人は予定が変わったことで猟をあきらめ、一足先に三津ヶ浜へ戻ったのである。
怒りのすべてを向けられ、静子の伯父は土下座をするしかなかったと言う。そうして何とか二つの旅館を廻って、それぞれの遺体を引き渡してもまだ終わらない。死人を運んでくれた風寄の村の者たちにも、お礼と泊まる部屋の用意をしなければならなかった。
翌日は亡くなった者たちの通夜の準備を手伝い、こちらの警察にも改めて事情を説明した。その警察では禁猟時期の狩猟ということで、静子の伯父はかなり絞られた上に罰金を支払うことになったらしい。
疲労と混乱と悲しみでいっぱいのところを、家に戻った静子の伯父は、今度は家族から責められて、二度と狩猟はしないと誓わされたそうだ。
静子の伯父は寝込んでしまうほど、ぼろぼろのくたくただったはずである。しかし、誰も味方になってくれないからか、日曜日の夜に弟である静子の父を訪ね、何があったのかを涙ながらに語ったと言う。
そんな感じで、一昨日の夜から三津ヶ浜は大騒ぎだったらしい。
女子師範学校は町外れにあるので、昨日の夕方に寮へ戻った春子は、町の騒ぎを知らなかった。しかし、静子のように三津ヶ浜に暮らす級友たちは、二つの旅館で同時に通夜が行われるのを訝しんでいたそうだ。
静子の話が終わると、春子は呆れた様子で言った。
「高橋さん、伯父さんがそがぁなことになっとったのに、ようあがぁに楽しげに喋ったもんじゃねぇ」
ほやかて――と静子は頬を膨らませた。
「うちは風寄のお祭りに行かせてもらえんかったんじゃもん。ちぃとでもお祭りに関係した話がしたいやんか」
やっぱり静子も風寄の祭りに行きたかったのだ。
静子があれほどはしゃいだように見えたのは、伯父を誇りにしていると言うより、祭りに行けなかった寂しさをごまかしていただけのようだ。
六
廊下で始業の鐘が、からんからんと鳴り響いた。
みんなが急いで自分たちの席に戻ると、先生が入って来た。縮れ髪に丸眼鏡の井上辰眞教諭である。専門は博物学で、蒼白く痩せた姿はいかにも学者だ。
「おはようございます」
井上教諭が挨拶をすると、みんな立ち上がって挨拶を返した。
教諭はみんなを座らせると、丸眼鏡を指で押し上げて言った。
「さて、今日は動物の分類についてお話しましょう。動物には背骨があるものと、背骨がないものがありますが、前者を脊椎動物、後者を無脊椎動物と言います」
教諭は黒板にカッカッと音を立てながら、チョークで「脊椎動物」「無脊椎動物」と書いた。それから順番に生徒に動物の名前を挙げさせ、その名前を脊椎動物と無脊椎動物に分けて、黒板に書き加えて言った。
「では、次は山﨑さん。他にどんな動物がいますか?」
人間――と千鶴が答えると、教諭はにっこり笑ってうなずいた。
「そうですね。人間も動物ですね。では、脊椎動物ですか? 無脊椎動物ですか?」
「脊椎動物ぞなもし」
そのとおりと言って、教諭は脊椎動物の所に「人間」と書き加えた。
教諭は書き並べた動物の名前を、色違いのチョークで書き分けていた。
「赤で書いたのは哺乳類、青で書いたのは爬虫類です。それから、黄色は両生類で、緑は魚類、橙色は鳥類です」
そう言って、教諭は黒板にそれぞれの色で「哺乳類」「爬虫類」「両生類」「魚類」「鳥類」と書いた。
すると、先生――と静子が手を挙げた。
「はい、高橋さん」
教諭が顔を向けると、静子は立ち上がって言った。
「えんこは何色になるんぞなもし?」
えんこ?――井上教諭は苦笑したが丁寧に説明した。
「えんこと言うのは、俗に言う河童のことだね? ここで分類してるのは、実際に存在が確かめられている動物だけが対象です。残念ながらえんこは存在が不確かだから、対象にはなりません」
「ほやけど、うちの叔母さん、こんまい頃にえんこ見たて言うとりましたよ?」
静子が言うと、他の生徒たちも口々に似たようなことを言った。
井上教諭は両手を挙げて、生徒たちを静かにさせた。
「それはわかりますけど、実際に誰かが捕まえてみせない限り、存在していたとしても、存在していないのと同じ扱いになるんです」
「じゃあ、もし存在しよったら、どこに分類されるんぞなもし?」
食い下がる静子にいらだつこともせず、井上教諭は顎に手を当てながら真面目に応じた。
「うーん、それはむずかしい質問だな。えんこか……。哺乳類のようでもあり、両生類のようでもあるけれど、恐らく新たな項目に分類されるだろうな」
井上教諭が茶色のチョークで「えんこ」と書くと、喜んだ生徒たちは争うように魔物や化け物の名前を挙げた。ついさっきイノシシの死に様に怯えていたのに、そんなことなど忘れたかのようだ。
井上教諭は優しい人で、真面目に化け物たちの名前を黒板に書き並べた。
「これは次の試験に出すかもしれませんからね」
教諭が冗談を言うと、みんなが笑った。
「もう、ありませんか? 締め切りますよ」
誰かが、がんご――と言った。
「がんご?」
教諭が首を傾げると、春子が鬼のことだと教諭に教えた。
井上教諭はなるほどと言いながら、黒板に「がんご」と書き加えた。それから同じチョークで「異界生物」と書いた。
みんなは井上教諭の分類に満足した様子だった。しかし、千鶴は黒板から目を逸らして下を向いた。何だか自分が異界生物に分類されたような気分だった。
実際、千鶴ががんごめであることが知れたなら、また千鶴に鬼が憑いていることがわかったなら、千鶴はみんなから異界生物として恐れられるに違いなかった。
そうなれば今以上に世間の目に曝されることになり、どこにも居場所はなくなるだろう。下手をすれば、家族までもが今いる所を追われることになる。
そんな千鶴の気持ちなど誰も知る由がない。級友たちは楽しげな声を上げ、井上教諭はそれを制しながら授業を進めて行った。
奇妙な老婆
一
名波村を訪ねてから一週間が経った日曜日、千鶴は母と二人で奥庭にしゃがんで洗濯をしていた。
幸子が働いているのは個人経営の小さな病院だが、入院部屋があるため看護婦には夜勤がある。しかし、幸子は若くない上に家事を手伝うこともあり、仕事は日勤だけにしてもらっていた。
また日曜日は病院は休診なので、入院患者の看護などは住み込みで働く若い看護婦が担い、幸子は休みとなっていた。それで、この日は千鶴と一緒に洗濯をしている。
いろいろと鬼のことを心配していた千鶴だったが、この一週間は祖父母が妙に優しくなった以外は、特に変わったこともなかった。そのせいか、まだ不安がなくなったわけではないが、少し落ち着きを取り戻していた。
そうなると忠之のことが無性に気になってしまうわけで、あのあと無事に風寄に戻れたのだろうかとか、あれから何をしているのだろうと、洗濯の手を動かしながら忠之のことばかりを考えていた。
母から話しかけられても上の空で、返事も頓珍漢なものばかりだ。それでも母親だけあって、幸子は娘の心の内がわかるようだ。怒りもせずに呆れたように笑っている。
「千鶴さん、お友だちがおいでたぞなもし」
勝手口で新吉の声がした。千鶴が振り向くと、新吉は珍しいお客に興奮している様子だ。そわそわした感じで落ち着きがない。
「だんだん。今行くけん」
残りの洗濯物を母に頼むと、千鶴は急いで店へ向かった。
訪ねて来たのは春子だろう。この日、千鶴は祖父に許しをもらって、春子と遊ぶ約束をしていた。
本当は静子も呼びたかったが、実家が菓子屋の静子は、学校が休みの日は店番を手伝わねばならなかった。それに今回は、名波村の祭りへ招いてもらったお返しの意味もある。それでこの日は春子一人だけの招待となった。
千鶴が帳場へ行くと、春子は辰蔵と談笑していた。千鶴に気がつくと、春子は嬉しそうに手を振った。
学校は日曜日が休みだが、商家に日曜日は関係ない。使用人が仕事を休めるのは盆と正月の藪入りと、給金がもらえる毎月の一日だけである。
とは言っても丁稚には給与は出ず、一日であっても雑用などの仕事がある。給与と休みがもらえる身分になるには、がんばって手代に昇格するしかない。
春子が喋っていた辰蔵の向こうで、弥七が町の太物屋からの注文書を確かめている。これから大八車で品を届けるのだ。
茂七は先に亀吉を連れて、得意先へ注文の品を届けに出ている。大八車は一台しかないので、午前中に茂七と弥七で交代で、それぞれの受け持つ太物屋へ品を運ぶことになっていた。
茂七が戻れば、今度は弥七が新吉と二人で外へ出る。そのため、あらかじめ大八車に載せる品を用意しておくのだが、仕入れの品も運ばれて来るので、それの確認や蔵への仕舞い込みもしなければならない。ぼんやりしている暇はないのである。
千鶴が来たのがわかっても、弥七はちらりと見ただけで声もかけようとしない。これが茂七だったら忙しい中であっても、千鶴が来れば愛想よく声をかけてくれる。
弥七は昔から千鶴に対して素っ気ない。嫌な態度を見せるわけではないが、できれば関わりたくないような雰囲気がある。
しかし、弥七を責めるわけにはいかない。弥七は千鶴と歳が同じで、今年手代に昇格したばかりだ。それに対して、茂七は弥七よりも四つ年上で、手代の経験年数も長い。仕事に余裕があるのは当たり前だった。
いずれ東京の仕事が再開すれば、茂七は東京へ出されるだろう。そうなると松山の手代は弥七一人になってしまう。新たに手代を増やす必要があるのは千鶴でもわかるが、祖父がどうするつもりなのかはわからない。
何にしても、まだ半人前の弥七は早く一人前にならねばならず、必死のはずである。千鶴に構ってなどいられないのだ。
千鶴は春子を家の中へ誘うと、茶の間にいる祖父母に会わせた。
二人は角を突き合わせるようにしながら、算盤を弾いていた。関東の大地震で受けた打撃の穴埋めをどうするかで、甚右衛門とトミはよく言い争いをしていた。
この時も言い争いが始まりそうだったが、春子が来たことで二人は慌てたように笑顔を見せた。そして、祭りの時に千鶴が世話になったことを春子に感謝した。
トミは千鶴を招き寄せると素早く銭を持たせ、あとで二人で何か食べるように言った。
祖母が小遣いをくれるなど、千鶴には生まれて初めてのことだ。有り難くいただきはしたものの、少し薄気味悪い気持ちもあった。
上がり框を拭いていた花江は、その様子をにこにこしながら見ている。千鶴がトミに優しくしてもらったのが嬉しいようだ。
帳場から新吉が走って来ると、そのまま奥庭の蔵の方へ行った。弥七に言われて、太物屋へ納める品を取りに行ったのだろう。
新吉を見送ったあと、千鶴は花江にも春子を紹介した。花江は手を休めると、笑顔で春子に話しかけた。
「こないだ千鶴ちゃんをお祭りに誘ってくれた人だね。あたしもさぁ、ほんとはお祭りに行きたかったんだよ」
「あの、花江さんはどこからおいでたんですか?」
花江の言葉が気になったのだろう。春子が訊ねると、東京から来たと花江は答えた。
「先月初めの大地震でさ。家もお店も壊れるし、そのあと大火事になっちゃって、きれいさっぱりなくなっちまった」
花江は笑ったが涙ぐんでしまい、悲しみをこらえるように唇を噛みしめた。しかし、すぐに笑顔に戻ると話を続けた。
「うちはここと取引があった太物問屋だったんだよ。去年まで今の番頭さんが東京のお店廻りをしてたんだけどさ。あたしが地震と火事で路頭に迷っているところに、あの番頭さんが来てくれたんだよ」
「さっき、おらが喋っとった番頭さん?」
「そうだよ。今年から東京を廻ってた人と連絡が取れなくなったからって、様子を見に来たんだけどさ。あたしらみたいな取引先のこともね、一軒一軒廻ってくれたんだ。そうは言っても、すべての人を助けるなんてできないからね。だから、ここで暮らすよう言ってもらえた、あたしは恵まれてたのさ」
花江が甚右衛門とトミを見ると、春子も二人に顔を向けた。甚右衛門は困ったように笑い、事情を聞いたら放っておけなかったと言った。トミも横でうなずいている。
そんな祖父母を見ると、千鶴は少し胸が疼いた。
本当は二人とも情が深いのだろうと千鶴は考えている。それだけに、自分が冷たくされて来たことは悲しかった。
しかし、花江に嫉妬しているわけではない。千鶴にしても花江は本当に気の毒だと思っている。それに鬼の仕業ではあるだろうが、ここのところの祖父母は比較的優しく見える。だから、祖父母が他人に優しい様子を見ても、今日はそれほど悲しくはならなかった。
そこへ反物の箱を重そうに抱えた新吉が、奥庭から戻って来た。
毎日のことではあるけれど、まだ子供の丁稚が一人で荷物を運ぶのは難儀なことだ。せめて、もう一人丁稚がいればいいのにと千鶴は思うのだが、今はどうにもならない。
新吉が帳場へ行くのを見送ったあと、その時に東京廻りをしていた人はどうなったのかと、春子が訊ねた。
千鶴は甚右衛門たちを気にしながら小声で言った。
「亡くなったんよ。ほじゃけん、あっちで荼毘に付してお骨になって戻んて来たんよ。そげなことも全部番頭さんがやってくんさったんよ」
「ほうなん。遠い所のことやけんど、大事やったんじゃね。ほんでも番頭さん、今年こっちへ戻んておいでんかったら、番頭さんが亡くなっとったかもしれんのじゃね」
それは春子の言うとおりだった。
以前は手代が四人いた。一人は東京を廻り、三人が松山にいた。
ところが七年前、藪入りで故郷に戻った手代が、そこでコレラに罹って死んだ。また翌年には、東京を廻っていた手代が結核に罹患しているのがわかり、静養するために仕事を離れて田舎へ戻った。
そこで当時手代だった辰蔵が東京へ送られ、松山は勇七という手代一人だけになった。仕方がないので、甚右衛門はまだ丁稚だった茂七を使って、何とか手代不足を補った。
その次の年には、少し早めに茂七を手代に昇格させたのだが、今度はスペイン風邪で番頭が死んだ。古くからいる番頭だったので、その死はかなりの痛手となった。
度重なる不幸に心折れそうになりながら、甚右衛門は番頭になれる者が出て来るまでと再び帳場に座った。
そうして今年、甚右衛門は弥七を手代に昇格させ、東京から辰蔵を呼び戻して番頭に据えた。代わりに勇七を東京へ送り込んだのだが、勇七は大地震の犠牲となった。
今年、弥七が手代になっていなければ、辰蔵はそのまま東京に残っていたはずだった。そうなっていたら、地震の犠牲になったのは辰蔵だったかもしれなかったのだ。
また新吉が奥庭へ走って行った。運ぶ箱はいくつもあるから大変である。
「人の運命なんてわかんないもんさね。番頭さん、亡くなった人は自分の身代わりになって死んだんだって、大泣きしてたよ」
花江がしんみり言った。しかしすぐに、ごめんよ――と笑顔を見せた。
「せっかく遊びに来てもらったのにさ。暗い話になっちまったね。あとでお茶を淹れてあげるからさ。もうちょっと待ってておくんなね」
だんだん、花江さん――と言い、千鶴は春子を奥庭へ連れて行った。すると、新吉が蔵から反物の箱を抱えて出て来た。
基本的に蔵の荷物の出し入れは丁稚の仕事だが、茂七は手が空いていれば、自分も一緒に荷物を運ぶ。しかし、弥七はまだそんな余裕がないのか、急ぎでなければ丁稚を手伝うことはしない。自分もそうやって来たという想いがあるのかもしれないが、人手が足らないのだから少しぐらい手伝ってやればいいのにと千鶴は思う。
それでも新吉にしても亀吉にしても、文句を言わずに働いてくれる。その健気な姿がいじらしい。
「偉いねぇ」
春子に褒められると、新吉は嬉しそうにしながら走って行った。
千鶴たちに気がついた幸子は洗濯の手を止め、春子をにこやかに迎えてくれた。
「先日は千鶴がえらいお世話になりました。狭い所なけんど、今日はゆっくりしておいでなさいね」
恥ずかしそうにうなずく春子を、千鶴は蔵へ案内した。
蔵の中には反物の木箱がたくさん積まれてある。どれが名波村から届いた絣だろうかと、春子は楽しげにそれらの箱を眺めた。
そこへ新吉がやって来たのだが、木箱を抱えている。
「あれ? 箱間違えたん?」
千鶴が訊ねると、新吉は箱を棚の上に載せて口早に言った。
「仕入れの品が届いたんよ。ほじゃけん、届けの品はあとやし」
それだけ言うと、新吉は急いだ様子で蔵を出て行った。本当に忙しくて大変そうだ。邪魔になるので千鶴たちも蔵から出た。
ゆっくりできるのは離れの部屋だけなので、千鶴は春子と一緒に再び母屋に戻った。それから甚右衛門たちに声をかけ、茶の間に上がろうとすると、帳場から箱を抱えて来た新吉が奥庭へ行った。
千鶴がひょいと帳場の方を見ると、店と中を仕切る暖簾の下から表の通りが見えた。店の前には牛車があり、牛の尻尾がゆらゆら揺れている。
暖簾で顔は見えないが、仲買人と思われる男が牛車から木箱を帳場へ運び込んでいる。その中身を弥七が確かめ、確かめ終わった木箱を新吉がせっせと蔵へ運ぶのだ。
忙しい新吉の姿は、千鶴に後ろめたさを感じさせた。しかし、この日は特別だと自分に言い聞かせ、千鶴は春子を離れの部屋へ案内した。
二
「へぇ、こげな自分らの部屋があるんや」
春子は珍しそうに部屋の中を見回した。
風寄の実家には、春子だけが使える部屋はない。寝る時も家族みんなが同じ部屋で寝る。千鶴が泊めてもらっていたならば、やはり春子たちと同じ部屋で寝ることになっていた。
だから千鶴と幸子に自分たちの部屋があることが、春子には羨ましく見えるのだろう。だが実態はロシア人の娘である千鶴と、千鶴を産んだ幸子が穢らわしいということで、母屋とは離れたこの部屋に置かれているのである。
ただ、離れ自体は千鶴たちのために建てたものではない。祖父の甚右衛門は元は山﨑家の者ではなく、外から婿入りしていた。離れは甚右衛門がこの家を継いだ時に、トミの両親の隠居部屋として使われていたものだ。つまり、千鶴の曾祖父母の部屋である。
曾祖父母が亡くなってからは、この部屋は幸子の兄正清が使っていた。
その頃の幸子は病院の看護婦寮で暮らしていた。休みにこの家へ戻った時には、幸子はトミの隣に寝ていたらしい。
これまで千鶴は春子を祭りに誘ったり、たまに春子と町へ出かけることはあった。だが自分の部屋へ入れたのは、これが初めてだった。
家と店は一体となっているので、すべては商いが中心である。気軽に誰かを家に呼び入れることなど許されない。それに、千鶴も家の中の様子を他人に見せたくなかった。今回春子を家の中へ招いたのは特別なことだった。
「番頭さんらは、どこに寝泊まりするん?」
「お店の上に部屋が三つあるけん、番頭さん、花江さん、ほれから手代と丁稚の人らで使とるんよ」
「ええなぁ。おらん所は平屋じゃけん、二階には憧れとるんよ。自分の部屋はあるし、二階はあるし、やっぱし町の暮らしは違わいねぇ」
いくら羨ましがられても、千鶴は一つも嬉しくない。適当に愛想を振り撒きながら、井上教諭の話に話題を変えた。
と言うのは、井上教諭に思いがけないことが起こったからだ。
「ほれにしても、井上先生、お気の毒じゃったね」
千鶴の言葉に、春子は大きくうなずいた。
「ほんまじゃねぇ。まっことお気の毒じゃった」
先週の水曜日、警察から井上教諭に連絡が来た。風寄で宿代を踏み倒そうとした男の、身元保証人として呼ばれたのである。
警察に捕まった男は井上教諭の叔父ということだった。それで教諭はその日の午後の授業を休ませてもらって、急遽風寄へ向かうことになった。
もちろんそんな内輪の、しかも恥になるような話を、井上教諭が生徒たちに喋ったりはしない。この話は寮の食事を作ってくれる食堂のおばさんたちから春子が聞いたものだ。
その話によれば、井上教諭の叔父だと言うその男は、風寄の祭りを夫婦で見に行っていたらしい。その間、二人は北城町の宿屋に泊まっていたが、祭りが終わった翌朝に、まず女房が姿を消した。そのあと亭主の方が逃げ遅れたところを捕まったのだと言う。
しかし亭主と思われたこの男は、自分は女に騙されたのだと訴えたそうだ。
仕事で東京から高松に移って来たので、三津ヶ浜にいる甥に面会に行った帰りだ、というのが男の主張だった。
この話を聞いた春子は、もしやと思った。それは客馬車で一緒になった、あの山高帽の男の話によく似ていたからだ。祭りの夜にも、あの男が二百三高地の女と一緒にいるところを、千鶴と二人で目撃している。
話を聞いた千鶴も、恐らく山高帽の男に違いないと思った。
食堂のおばさんたちによれば、この二人は夫婦として宿に泊まっていたらしい。
あの時、千鶴たちは月曜日の授業があるので、日曜日のうちに松山へ戻って来た。だが風寄の祭りは、神輿の投げ落としが終わりではなかった。
翌日には鹿島から海を渡って来た二体の神輿が、だんじりとともに北城町や浜辺の村を練り歩くことになっていた。
そのあと禊ぎと言って穢れを落とすために、神輿は川や海に何度も投げ入れられる。それから神輿は船に乗せられて鹿島へ帰って行くのだが、神輿の船を先導する船の上では、男たちが勇壮な舞を披露するのだ。それで風寄の祭りは終了となる。
この二人はこの鹿島の神輿までも見たようだ。そして翌朝、女は姿を眩まし、残された男が捕まったのである。その時、男は持っていたはずの財布がなかったそうだ。
警察が呼ばれると男は無実を訴えた。だが結局は宿代の踏み倒しということで、警察の世話になったようだ。
井上教諭は風寄へ向かう前に、叔父が泊まった宿代や、叔父が高松へ戻る費用などを工面するのに、給料を前借りしたみたいだと、調理のおばさんたちは言っていたそうだ。
井上教諭にしてみれば、自分にはまったく関係のないことで、とんだ身内の恥を曝すことになったわけである。しかも、警察や宿屋の主人に下げなくていいはずの頭を下げ、学校にも迷惑をかけたことを詫び、給料の前借りまでしたのだ。
千鶴たちは木曜日に井上教諭の姿を見かけたが、教諭はげんなりした様子で覇気がなかった。給料を前借りしたら、来月はどうやって暮らすのだろうと、千鶴も春子も教諭の暮らしを心配していた。
だが女に騙された教諭の叔父のことは、少しも気の毒だとは思わなかった。あんな見るからに怪しい女に騙されるのは、男の方が悪いというのが二人の出した結論だ。
千鶴たちはこの話を知らないことになっているので、井上教諭に慰めの言葉もかけられない。こうして二人で気の毒がるのがせめてものことだった。
三
「ずいぶん盛り上がってるじゃないの」
お茶とお菓子を運んで来てくれた、花江が楽しげに言った。
花江は千鶴たちの分だけでなく、自分の分まで持って来ていた。自分も千鶴たちの話に交ざって少し一服しようと言うのだろう。
春子はここだけの話と言いながら、花江に井上教諭と山高帽の男の話をした。すると、やはり花江は井上教諭を気の毒がり、教諭の叔父には毒づいた。
「ほんっと男って馬鹿なんだから。そんなのを自業自得って言うんだよ。だけどさ、その先生もほんとにお気の毒だねぇ」
花江は千鶴たちがお菓子を食べていないことに気づくと、早く食べるよう促し、話は違うけどさ――と言った。
「風寄じゃあ、お祭りの最中にあっちこっちで空き巣が入ったらしいね。新聞に書いてあったよ」
「へぇ、花江さん、新聞を読みんさるんじゃね。おらなんか全然読まんけん、尊敬するぞなもし」
春子に褒められて、花江は照れた。
「そんな大層なものじゃないよ。旦那さんが読み終わったのを、あとでこっそり読ませてもらってるんだ」
花江に感心しながら、春子は千鶴に言った。
「覚えとる? あの二百三高地の女の隣に、鳥打帽かぶった若い男がおったろ? あれ、何か怪しいことない?」
「怪しいて?」
「ほやけん、花江さんが言いんさったじゃろ? 祭りん時にあちこち空き巣が入ったて」
千鶴は鳥打ち帽の男の様子を思い出そうとした。男のことで覚えているのは、ちらちらと自分を盗み見していたことぐらいだ。しかし、男が客馬車を降りる時のことを思い出すと、あ――と言った。
「あの人、あの女の人と目で合図しよったみたいに見えたで」
「じゃろげ? あいつら絶対にぐるぞな」
花江が千鶴と春子の顔を見比べながら言った。
「何だい何だい、二人とも空き巣を見たって言うのかい?」
ほういうわけやないけんど――と千鶴は言った。
「ほうかもしれんような人と、同し馬車に乗り合わせたんよ」
「そいつが鳥打帽をかぶった若い男なんだね? 二人とも凄いじゃないか。警察に教えてあげなよ」
「ほやけど、鳥打帽かぶった人なんか、なんぼでもおるけん」
千鶴が自信なく言うと、花江は素直にうなずいた。
「まぁ、それもそうだねぇ。でも、あたしは鳥打帽の男には気をつけておくよ。それと二百三高地の女だね」
さてと――と花江は腰を上げようとした。
「そろそろ仕事に戻んなきゃね。千鶴ちゃんたちは、このあとはどうすんだい?」
「ちぃと町に出てみよかて思いよるんよ」
「そりゃいいや。ゆっくり楽しんでおいでよ」
花江はお盆を持つと部屋から出ようとした。ところが障子を開けたところで、千鶴たちを振り返った。
「そうそう。いい機会だから教えとくれよ。風寄の祭りの晩にでっかいイノシシの死骸が見つかったって、新聞に出てたんだけどさ。あれ、本当かい?」
千鶴はぎくりとしたが、春子は嬉しそうに、ほんまぞなもし――と声を弾ませた。
花江は目を輝かせると、千鶴たちの所へ戻って来た。
「見たのかい?」
「おらたちは見とらんけんど、男の人が両腕広げても、まだ足らんぐらい大けなイノシシじゃったらしいぞなもし」
花江は自分で両手を広げながら、へぇと言った。
春子は静子の伯父の話も、花江に聞かせてやった。その話も新聞に載っていたようで、あの話かいと花江は驚いていた。
同じ話でも、記事で読むのと関係者から聞かされるのとでは、やはり迫力が違うようだ。花江はずっと眉をひそめながら、春子の話を聞いていた。
静子の伯父の仲間が殺された様子には、花江は小さく身震いをしながら、くわばらくわばら――と言った。
「二人とも、そのイノシシに出くわさなくてよかったねぇ。もし出くわしてたらさ、今頃あの世行きだよ」
ほんまほんまと春子がうなずいた。その横で千鶴が黙っていると、だけどさ――と花江は再び眉を寄せた。
「そのイノシシは死んでたんだろ? 新聞には何かに頭をやられたってあったけどさ。あれ、どういうことなんだい?」
千鶴はそんな話はしたくなかったが、春子は得意げにイノシシの死に様などを説明した。
花江は信じられないという顔で、本当にそんなことがあるのかい?――と言った。
「そんな大きなイノシシの頭を潰したのが、岩でも木でもないとしたら、そりゃ、とんでもない化け物じゃないか! 風寄には昔からそんな化け物が棲んでるのかい?」
「いや、そげな話は聞いたことが――」
春子はそこで言葉を切ると、口を半分開いたまま千鶴を見た。それで花江も千鶴に目を向けた。
「何だい? 千鶴ちゃんが何か知ってるのかい?」
「うち、何も――」
千鶴は惚けようとしたが、がんごかも――と春子が言った。
「がんご? がんごって新ちゃんが言ってたね。確か、鬼のことだろ?」
花江に訊かれて千鶴は渋々うなずいた。すると花江は、風寄には鬼がいるのかと訊ねた。
千鶴が答えられず黙っていると、春子がひぃばあちゃんから聞いた話だと言って説明した。
「だいぶ昔のことなけんど、おらのひぃばあちゃんのおとっつぁんが……、えっと、ほじゃけん、おらのひぃひぃじいちゃんがな、浜辺で大けな鬼を見たらしいんぞなもし」
その鬼は人間よりもずっと大きかったようだと春子は言った。
花江は驚いたように口を開けたが、すぐには言葉が出なかった。
「そ、それはほんとかい? 風寄にはそんな鬼が今もいるってことかい?」
春子は千鶴を気にしながら、浜辺で鬼が侍たちと戦っていたという話をした。ただ、がんごめについては千鶴を気遣ってだろうが、一言も触れなかった。
知念和尚の話では、鬼ではなく代官の息子が侍たちと戦ったということだったが、それについても春子は喋らなかった。鬼がいたという話を花江に信じさせたいらしい。
曾々祖父が村人を連れて浜辺に戻った時には鬼の姿はなく、多くの侍の死骸だけが残されていたと、春子がまことしやかに話すと、花江は心底怯えたようだった。
どうして侍たちが鬼と戦うことになったのかと訊かれると、春子は困ったように千鶴を見た。がんごめの話はしたくなかったのだろう。
千鶴も何も言えないので、そこのところはよくわからないと春子は言った。それで花江は鬼を見つけた侍たちが、鬼を退治しようとしたのだろうと勝手に解釈をした。そして、その勝負は鬼の勝ちだったと花江は見たようだ。
花江が一人で納得すると、それから鬼が戻って来ないように浜辺に鬼よけの祠が造られたと春子は言った。
「ほれから鬼は現れんなったそうなけんど、こないだの八月に台風が来てな。ほれでその祠がめげてしもたんぞなもし」
「めげたって、壊れたってことかい?」
ほうですと春子が言うと、花江はうろたえた。
「それは一大事じゃないか。イノシシを殺したのは絶対に封じられてた鬼さ。早く祠を造り直さないと大変なことになるよ!」
「ほやけど、鬼の話するんはひぃばあちゃんぎりじゃけん」
自信なさげな春子に、花江は言った。
「イノシシの話がなかったら、鬼の話はひいおばあちゃんの妄想って言えるかもしんないけどさ。実際、イノシシが頭潰されて死んだんだろ? 鬼でなかったら、他に何がイノシシの頭を潰せるって言うんだい?」
「そがぁ言われたかて……」
春子は助けを求めるように千鶴を見た。
千鶴は花江を落ち着かせようと、春子に代わって言った。
「今の風寄では、鬼のことも鬼よけの祠のことも、村上さんのひぃおばあちゃんぎり覚えておいでて、他の人は誰っちゃ知らんのよ。ほじゃけん、イノシシのことも向こうの人らは、こっちで思うほどは気にしとらんみたいなんよ」
「だって、大変なことじゃないか」
「ほんでも、向こうの人が何とも思とらんうちは、どがぁもしようがないけん」
「そりゃ、そうだけどさ」
花江さん――奥庭で花江を呼ぶ声が聞こえた。亀吉のようだ。太物屋に品を納め終わって戻ったようだ。
「また誰かが来たみたいだね。今日は忙しいよ」
花江はお盆を持って部屋を出て行った。
ようやく鬼の話が終わり、千鶴がほっとしていると春子が言った。
「花江さんて元気なお方じゃねぇ。先月、家族やお店を失さした人とは思えんぞな」
「あがぁしとらんと、悲しいてめげそうになるんよ。まっことつらい思いをしたお人じゃけん、うちなんかのこともよう励ましてくれるんよ」
へぇと春子は感心した様子で、母屋の方へ顔を向けた。
「ええお人なんじゃねぇ」
「ほうよほうよ。花江さんはまっことええお人ぞな」
「ええお人言うたら、あの風太さんはどがいしよるんじゃろねぇ」
突然忠之の話が出たので、千鶴は鬼のことも忘れるほどうろたえた。
「さぁ、どがいしとろうか」
確かにどうしているのかは知らないし、気にはなっている。しかし春子と一緒に考えることではない。
話を終わらせたいので、千鶴は町に出かけようと言った。春子は喜んで賛成し、いそいそと腰を上げた。
四
離れを出て渡り廊下から奥庭を眺めると、物干しに洗濯物が掛けられていた。洗濯を母一人に押しつけてしまったことを、申し訳ないと思いながら千鶴は母屋へ入った。
幸子は台所にいて、昼飯の準備を始めていた。
甚右衛門はどこかへ出かけたようだ。茶の間ではトミが一人で新聞を眺めている。その傍では、花江が火鉢で沸かしたお湯でお茶を淹れていた。やはり表に誰かが来ているらしい。
「おばあちゃん、村上さんと町に出かけて来ます」
千鶴が声をかけるとトミは顔を上げ、ゆっくりしておいでと笑顔で言った。その笑顔にどきりとし千鶴に、振り返った幸子が言った。
「お昼はどがぁするんね? お友だちの分もこさえよ思いよったけんど」
千鶴はちらりとトミを見て言った。
「おばあちゃんからお小遣いもろたんよ。ほじゃけん、何ぞ食べて来るけん」
「おばあちゃんがお小遣い?」
幸子は怪訝そうにトミを見たが、トミは何も聞こえていないように新聞を読んでいる。
幸子はふっと笑うと、行ておいで――と言った。
千鶴は花江にも声をかけて土間へ降りた。春子もみんなに挨拶をしながら千鶴に続いた。
何気なくちらりと店の方に目を遣った千鶴は、あれ?――と思った。
暖簾の下に見える表の道に荷車が置かれている。しかし、それを引く牛の姿がない。と言うことは、荷車は大八車のようだ。
遠方から反物を運ぶには牛車を用いる。大八車は人が引くので、近場でしか使わない。
松山の町中でも伊予絣を作っている所はある。そういう所であれば、牛車ではなく大八車を使うだろう。しかし山﨑機織が契約している所は、遠方の百姓や漁師の女たちが作った絣ばかりだ。だから仕入れの品を運んで来るのは牛車に決まっていた。
弥七と新吉が注文の品を届けに行くのかと眺めていると、亀吉が木箱を抱えて入って来た。箱を積み間違えたのかと思ったが、帳場へ箱を置いて再び外へ出た亀吉は、別の木箱を運んで来た。外でもう一人から荷物を受け取っているようだが、茂七だろうか。
それにしても新吉の姿が見えないし、弥七もいない。亀吉が運び入れた木箱を確かめているのは辰蔵のようだ。
「どがぁしたんね? お友だちが待ちよるよ」
帳場を眺めている千鶴に、幸子が声をかけた。
千鶴は店の前にある大八車のことを話そうとしたが、勝手口の前に立つ春子を見て話すのをやめた。
「お待たせ。ほんじゃ、行こか」
春子に声をかけると、千鶴は春子と奥庭に出た。学校へ行くわけではないし、今は帳場は混み合っている。だから今日は裏木戸から出ることにした。
来た時に入った所と出る所が違うので、春子は面白がりながら千鶴に従った。
裏木戸をくぐって脇の道に出ると、春子は辺りを見回して、自分がどこにいるのかを確かめた。それから千鶴の家を見上げ、二階に上がってみたかったと言った。
春子は余程二階に憧れているらしく、いつか自分が嫁入りする時は、二階のある家が条件だと言った。
「師範を続けることが条件やないん?」
千鶴が訊ねると、あははと春子は笑った。
「言うてみたぎりぞな。師範になるんも嫁入りするんも、全部おとっつぁんが決めるけんな。おらはただほれに従うぎりやし。山﨑さんとこかてほうじゃろげ?」
「ほうじゃね。うちは何でもおじいちゃんが決めんさるけん、おじいちゃんが決めたとおりになるんよ」
まだ具体的には何も言われていない。だが、千鶴は祖父母が本気で自分の婿取りを考えていると思っていた。たとえそれが鬼であろうと、祖父に命じられれば拒むことができない。千鶴は己の無力さを感じずにはいられなかった。
「ほんでも、こないだの風太さんはええ男やったわいねぇ」
またもや春子が忠之のことを言い出したので、千鶴は慌てた。どうやら春子は忠之のことが気に入った様子である。
がんごめである自分は、忠之に気持ちを伝えることはできない。それでも春子に忠之を取られるのは嫌だった。
「そがぁにええ男やったかいねぇ」
千鶴は無関心を装いながら、春子の忠之への興味を削ごうと思った。しかし、そんなことは春子には通じない。
「風太さんは山﨑さんの好みやなかったみたいなね。山﨑さん、あんましおらみたいには風太さんと喋らんかったし」
ほれはあなたがおったけんじゃろがねと、言葉が喉元まで出かかったが言えなかった。
何も知らない春子は、あんな男は他にはいないと、忠之のいい所を並べ立ててべた褒めした。それは、いかにも忠之に惚れてしまったと言わんばかりに見える。
このままではまずいと思った千鶴が、何か言わねばと考えていると、裏木戸の向こうから辰蔵の声が聞こえた。
「いや、こげなことまでしてもろて、まっこと申し訳ない」
いやいやと応じる男の遠慮がちな声もしたが、声が小さくてよく聞こえない。
「兄やん、こっちぞな」
亀吉の元気な声がした。どうやら男は反物を蔵へ運ぶのを手伝ってくれているようだ。
恐らく表の大八車は近場の織元からのもので、男は絣を運んで来た仲買人だ。売り上げを伸ばすために、祖父が新たな品を仕入れることに決めたのだろうと千鶴は思った。茂七がどうしていないのかはわからないが、思いがけない助っ人に、亀吉も嬉しそうだ。
今はどこの織元や仲買人も新たな商売相手を求めている。この仲買人は新たな顧客を得たことが余程嬉しかったのだろう。それで亀吉を手伝ってくれたのだろうが、それにしても人が好い。ここまでしてくれる仲買人の話は聞いたことがない。
春子の気持ちを忠之から逸らすため、どこの誰かは知らないけれど、ここまでしてくれる人はなかなかいないと、千鶴はこの仲買人を褒め上げた。すると、風太さんみたいなお人じゃねと春子は笑った。
がっくりしながら千鶴が尚も話を変えようとすると、突然後ろから嗄れた声が叫んだ。
「そこのお前!」
驚いて振り返ると、杖を突いた老婆が立っていた。真っ白な髪を束ねることもせず、ぼぉぼぉと伸ばしたままの不気味な老婆だ。
「お前はこの家の者か?」
唐突で不躾な物言いに、千鶴はむっとした。しかし、見知らぬ者から侮蔑の眼差しを向けられるのは珍しいことではない。言い争うのも嫌なので、ほうですと千鶴は答えた。それに対して老婆は何も言わず、千鶴の後ろにある裏木戸をじっとにらんだ。
「何ぞな? いきなり失礼じゃろがね!」
春子が文句を言ったが、老婆の耳に春子の声は少しも届いていないみたいだった。
老婆は千鶴に顔を戻したが、その顔は何だか緊張で強張っているように見える。
「お前には鬼が憑いておるの。この家には鬼が入り込んでおるぞ」
老婆の言葉に、千鶴は固まってしまった。それが図星であったことと、春子の前で告げられたことで、声も出て来なかった。
「何言うんね! あんた、頭おかしいんやないん?」
春子が声を荒らげても、老婆は一向に平気だった。千鶴をじっと見つめながら目を細めた老婆は、おや?――と言った。
「どうやら、お前にも原因があるようじゃな。鬼はお前が呼び寄せたとも言えるの。ふーむ。元々、お前と鬼は――」
喋りながら裏木戸に目を遣った老婆は、急に血相を変えた。そして、そのまま黙って立ち去ろうとした。
千鶴は反射的に老婆を呼び止めた。
「あなたは誰ぞなもし?」
老婆は立ち止まると、千鶴を振り返った。
「わしはな、お祓いの婆ぞな。この先に用があって行くとこなけんど、鬼が見えた故、お前に声をかけたまでよ」
「じゃあ、うちはどがぁしたらええんぞなもし?」
「気の毒やがな、わしはお前の力になってやれん。お前に憑いとる鬼は一筋縄で行くような鬼やないでな。わしごときの力じゃ、どがぁもできまい。ほれに、鬼はお前を――」
老婆はふと千鶴の後ろに視線を向けると、ぎょっとした顔になって慌てたように口を噤んだ。それはまるで余計なことを言うなと、何者かに脅しをかけられたように見えた。
老婆はそれ以上は何も言わず、千鶴に背を向けると逃げるように行ってしまった。
千鶴はもう一度声をかけたが、老婆は振り返りも立ち止まりもしなかった。
婿になる男
一
春子が風太すなわち忠之に自慢したとおり、紙屋町の入口である札ノ辻の北側の角には、木造四階建ての大丸百貨店がある。千鶴が高等小学校に入った大正六年に建てられたものだ。
紙屋町を含む城山の西側の区域は古町三十町と呼ばれている。明治になるまでこの区域は松山の商いの中心地で、租税も免除される特別地域だった。ところが明治になると租税免除の特権がなくなり、古町三十町の勢いは衰えた。
一方で、城山の南に位置する外側と呼ばれる地域にも、商人が暮らす町があった。こちらは伊予鉄道の起点となる松山駅ができたため、大いに活気づくこととなった。
古町の商人たちは、このまま商いの中心が外側へ移ることを恐れた。それで古町の呉服屋が逆転を狙って建てたのが、この大丸百貨店だった。
当時、とても珍しくハイカラな大丸百貨店は、たちまち松山名所として人気を博した。東京の三越百貨店を知る花江も、地方の町にこんな百貨店があることに驚いたと言う。
当然、春子もここに憧れており、大丸百貨店へ行きたいと千鶴にせがんだ。だがそれは半分が本当の気持ちで、あとの半分は千鶴を元気づけるためのものに違いない。
見知らぬ老婆からいきなり鬼が憑いていると言われた時、千鶴はあまりのことに呆然とするほかなかった。
春子は老婆に悪態をつき、何も気にすることはないと千鶴を慰めた。だが、そんなことで千鶴が平穏な気持ちになれるはずがない。そんな千鶴の気持ちを察して、春子は百貨店行きを明るくはしゃいでいるように見えた。
表に回ると、店の前に空になった大八車が置かれていた。帳場には辰蔵と亀吉しかいない。これを運んで来た人物は、奥でお茶を出してもらっているようだ。甚右衛門の代わりにトミが話し相手になっているのだろう。だが、千鶴は何かを考えられる状況にない。亀吉が声をかけてくれなければ、辰蔵たちへの挨拶すら忘れて通り過ぎるところだった。
「電車降りた時にな、おら、今日は絶対ここに来よて思いよったんよ」
百貨店の前に立った春子は、嬉しそうに千鶴を振り返った。
千鶴も春子が訪ねて来たら、ここへ連れて来ようと考えていた。
学校の寮は門限が厳しいし、生徒たちはそれほどお金を持っていない。そのため、休みに外へ出るにしても三津ヶ浜ばかりで、松山まで遊びに出ることはほとんどない。
寮生活はそんな感じなので、これまで春子が大丸百貨店を訪れたのは、去年の一度だけだった。とは言っても、百貨店のすぐ近くに暮らす千鶴でさえも、ここへ来ることは滅多になかった。
基本的に百貨店で取り扱っているのは高級品ばかりである。山﨑機織の誰もが一度はこの百貨店を訪れたが、そのあとは本当に用事がない限り、ここへ来ることはなかった。
仕事が忙しくて暇がないこともあったが、不要な高級品を買うだけの余裕などないのが一番の理由だった。
建物の中に入ると、まずそこで履物を脱いでスリッパに履き替える。脱いだ履物は下足番が預かって、裏口に回される仕組みになっている。もうこれだけで春子は大興奮の様子だ。
通常の店では番頭が帳場に座り、客の注文に応じていちいち品を出して来る。だが、百貨店ではすでに商品が陳列されている。
つまり、客は自分の頭になかった品を見られるのである。それは思いがけない品との出会いであり、商品を眺めているだけでも愉快で楽しいことだった。
また、百貨店の店員は全員が着物姿の女性だ。女性が客に商品の説明をして販売するのである。そのことも千鶴や春子には新鮮だった。
通常の店の番頭や手代は男の仕事と決まっていた。女には女中の仕事ぐらいしかない。とにかく女が働ける場所は限られており、千鶴たちが師範を目指している背景には、そういった事情もあった。そのため百貨店で働く女性店員の姿は、千鶴には輝いて見えた。
だが、それは以前にここを訪れた時のことであり、今の千鶴は老婆に言われたことで、何かに感動することもできなくなっていた。それに、じろじろと千鶴に目を向ける他の客たちの視線が、さらに憂鬱な気分にさせた。
それでもせっかく来てくれた春子に、嫌な想いをさせるわけにはいかない。千鶴は心の内は隠したまま楽しいふりをするようにしていた。
百貨店の一階は、ハンカチや靴下などの洋品が置かれている。二階は呉服売り場で、三階には文具・化粧品がある。
各売り場に陳列された商品はいずれも高級で、春子は眺めるしかないことを残念がった。しかし、百貨店には商品以外にも目玉になるものがあった。それは、えれべぇたぁだ。
えれべぇたぁとは、案内の女性がいる小部屋だ。この小部屋はとても面白い。案内の女性が扉を閉め、次に開けた時には、外は違う売り場になっているのだ。
去年来た時にも使ったことがあるはずなのに、春子は初めてみたいに大はしゃぎだった。
三階までは商品売り場だが、最上階の四階は食堂になっている。
ここでの食事には憧れがあるが、祖母からもらった小遣いでは少し足が出る金額だ。それに年配の女性ばかりで埋まっていることに気後れしたので、二人は食堂はやめて外へ出ることにした。
百貨店を出ると、すぐそこに師範学校がある。
師範学校は西堀の北端にあり、その向こう側を札ノ辻を起点とした今治街道が通っている。
先日、忠之に人力車で運んで来てもらったのはこの道で、春子が人力車を降りたのが師範学校の前だった。あの時は街灯ぐらいしか明かりがなかったので、師範学校はよく見えなかった。だが今は太陽の下で、その華麗な姿を見ることができる。
遥か昔、中国の秦の始皇帝が建てた宮殿を阿房宮と呼ぶが、それにちなんで愛媛県師範学校は伊予の阿房宮と呼ばれている。
「こっちが女子師範学校で、三津ヶ浜にあるんが師範学校やったらよかったのになぁ」
伊予の阿房宮を眺めながら、春子が残念そうに言った。
「ほれじゃったら、学校が休みん時は松山で遊べるし、この百貨店もちょくちょくのぞけるのに」
千鶴が女子師範学校に入った頃は寮生活だったので、松山から離れられることを千鶴は喜んだ。しかし寮を出て自宅から通うようになってからは、春子と同じように、こっちが女子師範学校であればよかったのにと思うことは何度もあった。
女はいつも後回しで、何かのついででなければ目を向けてもらえないと、二人は文句を言いながら札ノ辻を南へ進んだ。
少し行くと、右手に勧商場がある。
勧商場というのは、一つの建物の中にいくつもの小売店が集まったもので、ここには化粧品や衣類、日用雑貨などの店が並んでいる。
春子はここも初めてのぞいたわけではない。なのに北城町の勧商場よりこちらの方が規模が大きいと、初めて訪れたみたいなことを言いながら、並べられた商品を見て回った。
こちらも百貨店同様に品物が陳列されている。百貨店のような高級品ではないので、高くて手が出せないというものではないが、二人は女学生の身分なので、やはり見るだけだった。
それでも春子は十分楽しんでいる様子だった。千鶴を気遣うことも忘れているようなので、それが却って千鶴の気分を和らげてくれていた。
二
伊予鉄道の松山停車場の北向かいに善勝寺というお寺がある。
ご本尊は日切地蔵と呼ばれ、何日にとか、何日までにという感じで、期日を決めて願掛けをすると願いが叶うと言われている。
この善勝寺へ千鶴は春子を連れて来た。だが目的は日切地蔵ではない。境内で売られている饅頭だ。その名も日切饅頭と言うが、饅頭と言うより柔らかい焼菓子だ。中には熱々のあんこがたっぷりと入っていて三個五銭である。
千鶴と春子は買った饅頭を一つずつ手に取った。残りはあとで半分こだ。
「熱いけん、気ぃつけや」
春子の食べっぷりを知っている千鶴は、春子に忠告をした。春子は笑うと、わかっとるけんと言って、がぶりと饅頭にかぶりついた。途端に熱い熱いと大慌てだ。
千鶴は急いで春子を手水舎へ連れて行き、柄杓で水を口に含ませた。
「ああ、熱かった。口に入れた物は出せんし、さりとて呑み込めんけん、どがぁなるかと思いよった」
「ほじゃけん、気ぃつけやて言うたのに。村上さん、前来た時も対のことしよったよ」
ほうじゃったかねと春子は苦笑した。
「今度から気ぃつけるけん。ほれにしても、これ、まっこと美味いで。名波村のみんなにも食べさせてやりたいなぁ」
「ほれも前に言いよったね」
そう言いながら、千鶴もこれをあの人に食べさせてあげたいと思った。もちろん、あの人とは忠之のことである。
春子は照れ笑いをすると、今度は慎重に少しずつ食べながら言った。
「おらな、こっち戻んてから家に手紙書いたんよ」
「何の手紙?」
「おらたちを運んでくれた風太さんのことぞな」
千鶴は胸がどきんとした。
老婆に鬼のことを言われてすっかり忘れていたが、春子は忠之に気があるようだったのだ。もしかしたら村長である父親に、風太と一緒になりたいという手紙を書いたのだろうかと、千鶴は大いに焦った。
もう勘弁して欲しいと願う千鶴に、春子は話を続けた。
「風太さん、おらたちを運んだ銭を、あとで家に請求するて言うておいでたろ? ほじゃけん、ほんことをおとっつぁんに謝っとかないけん思て手紙書いたんやけんど、その返事が昨日届いたんよ」
何じゃ、その話かな――と千鶴は胸を撫で下ろした。また、春子が知らないことを自分は知っている、という気持ちの余裕も出た。
「おとっつぁんからの手紙、何て書いとった思う? そげな請求なんぞ来とらんし、俥ぁ引く者に風太いう奴なんぞおらん言うんで。山﨑さん、どがぁ思う?」
春子は予想どおりのことを喋った。千鶴は笑いそうになるのをこらえながら惚けて言った。
「また、お不動さまが助けてくんさったんやないん?」
やっぱし?――と春子は真顔で言った。
「おらもな、ほうやないかて思いよったんよ。ほやなかったら他に説明できまい? 今更なけんど、よう考えたら初めて俥ぁ引く者が二人も乗せて、北城町から松山まで走るやなんてでけるわけないもんな。ほれに風太さんがお不動さまじゃったら、おらが子供ん頃に法正寺で顔合わせとるいうんも説明つこう?」
噴き出しそうになった千鶴は、横を向いてごまかした。
風太の正体がお不動さまなら、風太と一緒になりたいとは春子も考えないはずだ。そのことも千鶴に笑みをこぼさせた。
「どがぁしたん?」
千鶴の様子に春子が怪訝そうにした。千鶴は慌てて笑みを消してごまかした。
「ちぃと小バエが顔に寄って来よるんよ」
いない小バエを手で追ってから千鶴が顔を戻すと、春子はため息交じりに言った。
「知らん男が引く俥ぁで松山に戻んたいうんで、おら、おとっつぁんにがいに叱られてしもた」
「ほんでも、こがぁして無事に戻んて来られたんじゃけん、よかったやんか。お不動さまに感謝せんと」
笑いをこらえながら千鶴が励ますと、ほんまよ――と春子は少し元気を取り戻した。
「まっことお不動さまの俥ぁに乗せてもらえなんだら、おらたち、今頃退学になっとったで。おとっつぁんには叱られてしもたけんど、お不動さまには感謝ぞな」
本当に春子の言うとおりだった。あの時、佐伯さんがいなかったらどうなっていたかと思うと、佐伯さんには感謝しきれない。
「今頃、どがぁしんさっておいでようか」
千鶴が忠之を思い浮かべながら、つい独り言をつぶやくと、春子はけらけらと笑った。
「ほら、決まっとらい。法生寺の本堂でこがぁして座っておいでらい」
春子は不動明王の真似をしてみせた。その様子があまりに面白かったのと、不動明王が助けてくれたと春子が真剣に信じていることで、千鶴は不安も忘れて笑い転げた。
善勝寺を出た千鶴たちは、そこから東へ延びる湊町商店街を歩いた。
湊町商店街の長さは約五町で、そこから今度は大街道商店街が北へ延びる。これがまた五町ほどの長さであり、全部合わせると十町になる商店街だ。
春子にすれば歩くだけでも楽しい所だが、千鶴にしても滅多に出歩く所ではない。春子のお陰で鬼への不安が和らいだ今、とても楽しみな散策だ。
湊町商店街は呉服屋や洋品店、履物屋、眼鏡屋、仏具屋など、日常の暮らしに関係する店が多い。
日露戦争で松山へ連れてこられたロシア捕虜兵は、街へ出歩くことが許されていた。そのため、この商店街はロシア人たちの買い物で大いに賑わい、当時は露西亜町とも呼ばれていた。それで洋菓子や洋食を出す店が未だに残っている。
また大丸百貨店や勧商場の影響を受けたのか、呉服屋にも自慢の品が表から眺められるように、あらかじめ展示している所もあり、春子を喜ばせた。
湊町商店街と大街道商店街の接点になる辺りは、魚の棚と呼ばれている。名前のとおりかつては多くの魚屋が集まっていた所だ。今は魚屋の他に天麩羅屋や菓子屋、八百屋、蒲鉾屋、乾物屋など、庶民の食料を扱う店が並んでいる。
ここから大街道へ向かうと、すぐ右手に木造三階建ての立派なうどん屋がある。亀屋という有名な店で、松山を訪れた者は必ず立ち寄ると言われている所だ。千鶴はここで春子にうどんをご馳走することにした。
店の中は客で賑わっており、多くの視線が千鶴に集まった。しかし、千鶴は気にしないことにしていた。いずれ鬼になる自分がこんなことができるのも今しかないと思うと、人の目など気にしていられなかった。
春子はうどんを食べながら、大丸百貨店に始まるここまでの楽しかったことを、ずっと喋り続けた。早く食べないとうどんが伸びると千鶴に言われると、慌ててうどんをすするのだが、すぐに箸を止めて喋った。今回の町歩きが余程楽しかったようだ。
しかし、その分だけ千鶴は切なさを感じていた。もしかしたら人間としての楽しさは、これが最後になるかもしれないのである。
春子に合わせて笑っていても、つい悲しみが込み上げると、千鶴は下を向いてうどんを一本だけすすった。
うどんを食べ終わると、二人は大街道商店街を見て歩いた。
大街道商店街にも呉服屋や履物屋、菓子屋などはあるが、湊町商店街との大きな違いは活動写真館が三つもあることだろう。
活動写真とは、舞台に用意された大きな幕に、無数の写真を物凄い速さで映し出すものだ。すると幕の上で写真の人間や動物や景色が動き出し、物語が展開されるのである。
幕の横には活動弁士と呼ばれる人が声を張り上げながら、物語を面白おかしく語ってくれる。活動写真の作品の善し悪しは、この活動弁士の腕にかかっていると言っても過言でない。
また大街道商店街には、亀屋の他にもおふくという、やはり三階建ての大きなうどん屋があるし、新栄座という芝居小屋まである。湊町商店街と比べると、こちらは娯楽向けという雰囲気だ。
芝居も見てみたいが、お金も時間もかかる。春子が門限までに戻れないと困るので、千鶴たちは活動写真館の一つ、世界館に入った。
千鶴は子供の頃、辰蔵に何度か活動写真に連れて来てもらったことがあった。自分ではお金がないので入ったことがない。三津ヶ浜にも活動写真館はあるのだが、そんなお金は持たせてもらえなかったし、以前に春子が松山へ遊びに来た時も事情は同じだった。
だが、今日は祖母にもらったお金がある。自分で活動写真を観ることに、千鶴は少し興奮を覚えたが、初めて千鶴と一緒に活動写真を観られることで春子は大はしゃぎだ。
ちょうど上演していたのは喜劇作品で、千鶴も春子も大いに笑った。それでもこの日のお楽しみはこれが最後であり、もしかしたら千鶴にとっての最後の楽しさであるかもしれなかった。そんなことを考えると悲しみが込み上げて、笑いの半分は見せかけとなった。
活動写真を見終わって外へ出ると、そろそろ春子が帰らねばならない時間になった。門限である五時までには、春子は寮に戻っていなければならないが、札ノ辻まで歩いて戻ると間に合いそうにない。
大街道を北に抜け出た所に、三津ヶ浜へ向かう電車の一番町停車場がある。春子はそこから電車に乗ることにした。
「今日はだんだんありがとう。おら、まっこと楽しかった」
「うちも楽しかった。ほんじゃあ、また明日学校でな」
春子は喜びいっぱいの顔で電車に乗った。
千鶴は手を振りながら春子を乗せた電車を見送り、自分はその線路に沿って電車の後を追うようにお堀に向かって歩いた。
春子は電車の後部の窓越しに、ずっと千鶴に手を振り続けた。千鶴もそれに応えて、何度も手を振り返した。やがて電車はお堀に突き当たると、南へ曲がって行ってしまった。
電車を見送ったあと、千鶴は立ち止まって右手を見た。すぐそこは城山だが、その麓に萬翠荘と呼ばれる美しい洋館が佇んでいる。殿さまの血筋である久松定謨伯爵が、去年の十一月に別邸として建てられたものだ。
千鶴はこの洋館に憧れていた。だが、萬翠荘の手前には裁判所がある。電車の通りからでは、萬翠荘は裁判所の建物が邪魔になって見えづらかった。
千鶴は裁判所から南へ向かう道に入り、離れた所から城山を振り返った。すると、裁判所の上から顔を出すように、樹木に囲まれた萬翠荘が見えた。
その美しさに千鶴はため息をついた。暇が許せば、春子にも見せてやりたかった。
ここは各界の名士と呼ばれる人々の集う場であり、皇族が来松した時に立ち寄る所である。その記念すべき一番初めの宿泊客となったのは、体調が優れぬ大正天皇の摂政宮として、松山を訪れた裕仁親王だった。
親王は愛媛各地を視察されたが、女子師範学校もその一つとなった。
千鶴たち生徒は親王の前で薙刀の演武を披露し、また合唱曲を歌った。そんなことは一生のうちに一度あるかないかというものであり、あの時ばかりは千鶴が女子師範学校に通っていることを、祖父母は知人たちに自慢して廻ったそうだ。
そんなこともあって、千鶴は裕仁親王に親しみを感じていた。その親王が泊まられた屋敷が目の前にある。
いずれ人として暮らせなくなる日が訪れるのだとしたら、その時までに一度でいいから屋敷の中を見てみたい。洋館を眺めながら千鶴はそう思った。
頭の中では、再びあのお祓いの婆の言葉が繰り返されている。
三
紙屋町へ戻ると、山﨑機織の前には牛車も大八車もなかった。お客も来ている様子がないので、千鶴は店に入った。
「戻んたぞな、辰蔵さん」
千鶴は帳場にいる辰蔵に声をかけた。
午後は茂七と弥七は注文取りに廻っている。丁稚の二人はいるはずだが、奥にいるのか、ここには姿がない。代わりに貧相な男が辰蔵の横で胡座をかいて座っている。
ぎょっとした千鶴を、男はじろりとにらんだ。
「お前、千鶴か」
「え? は、はい」
不躾に名前を呼ばれ、千鶴は当惑しながら返事をした。
「わしが誰かわかるか? わかるまい」
いきなり訊かれても知らない相手である。千鶴が返事に困っていると、男は山﨑孝平と名乗り、お前の叔父よ――と言った。
「叔父さん? すんません、うち、初めて聞く話ですけん」
「ほら、ほうじゃろ。お前がまだこんまい頃に、わしは松山を出たんじゃけんな」
何だか喧嘩を売っているような喋り方に、千鶴は困惑して辰蔵を見た。辰蔵も少し困った様子で千鶴に言った。
「あたしもこのお方に直接お会いするんは、今日が初めてなんぞなもし。ほんでもこのお方のことは、あたしが丁稚じゃった頃に耳にしたことはあるんです」
「ほんじゃあ、ほんまにうちの叔父さん?」
孝平は顔をしかめると、へっと息を吐いた。
「わしの言うことが信用でけんのかい。人に散々迷惑かけくさっといて、何じゃい。まっこと異人の娘は礼儀知らずやの!」
千鶴はむっとする気持ちを抑えながら、孝平に訊ねた。
「うちがどげな迷惑をおかけしたんぞなもし?」
孝平は嫌な顔のまま居丈高に言った。
「わしはな、ここと同業の店の丁稚をしよったんよ。もうちぃとで手代になれたのに、お前のせいで馬鹿にされて、わしよりあとから入った奴が手代になったんぞ。やけん、阿呆らしなって松山から出たんぞな」
何かをしたことで文句を言われるのであれば、素直に謝ることができる。しかし、何もしていないのにお前のせいでと言われては、どうにもしようがない。それは存在そのものが迷惑だということであり、困惑と狼狽をするばかりだ。
「ほれは……申し訳ございませんでした」
悲しみと屈辱に耐えながら千鶴は頭を下げた。すると、辰蔵が言った。
「千鶴さんが悪いんやありません。何も謝ることないぞなもし」
何やと?――といきり立つ孝平に、辰蔵は堂々と言った。
「千鶴さんは旦那さんとおかみさんの大切なお孫さんぞなもし。お前さまに何があったんかは存じませんけんど、ほれと千鶴さんは何の関係もございません」
「関係ないことあるかい! わしが手代になれなんだんはな――」
孝平は声を荒らげたが、その声を遮って辰蔵は言葉を続けた。
「お前さまが手代になれなんだんはご自身の実力でしょう。商いと関係のない理由で手代に昇格させんのなら、そこの主は初めからお前さまを丁稚に取ったりしません。ほれを千鶴さんのせいにしんさるんは、とんだお門違い言うもんぞなもし。いくら旦那さんのご子息や言うても、これ以上、千鶴さんを侮辱しんさるんは、このあたしが許しません」
千鶴は嬉しかった。しかし、当然面白くない孝平は辰蔵をにらみつけた。
「お前、使用人のくせに偉そなこと言うてからに。わしはここの跡取り息子やぞ? わしがこの店継いだら、お前なんぞ、こいつと一緒に真っ先に放り出してやるけんな!」
「お前さまが旦那さんの後を継ぐいう話は、あたしはこれぽっちも耳にしとりません。万が一、お前さまが後を継がれるのでしたら、こちらの方から出て行かせてもらいまさい!」
「ほぉ、よう言うた。その言葉、忘れんなや!」
孝平が片膝を立てて息巻いたところに、花江がお茶を運んで来た。孝平も辰蔵も口を噤んだが、辰蔵は興奮冷めやらぬ様子だ。
一方の孝平は花江をじろりと見たあと、驚いたような顔になった。口を半分開いたまま呆けたように、目が花江に釘づけになっている。
「お茶なんぞ出さいでもよかったのに」
淡々と二人の前にお茶を置く花江に辰蔵は言った。どうやら花江は頼まれてお茶を淹れたのではないらしい。恐らく帳場の様子に気を利かせたのか、あるいは孝平の顔を一目見てやろうという気持ちだったのかもしれない。
辰蔵の言葉に、何を!――と孝平は逆上した。だが、にらむような目を花江に向けられると、うろたえたみたいに口籠もった。
花江はすぐに千鶴に顔を向け、にっこり微笑んだ。
「お帰んなさい。楽しかったかい?」
「え? えぇ、お陰さまで十分楽しませてもらいました。いろいろ気ぃ遣ていただいて、だんだんありがとうございました」
まるで孝平などいないかのように振る舞う花江に、千鶴は戸惑いながら返事をした。
花江は孝平を横目で見ながら明るく言った。
「千鶴ちゃんはここの跡取り娘、じゃない、跡取り孫娘だもんね。町で楽しむぐらい当然だよ」
何やて?――と孝平がまた憤った。
「何じゃい、今の話は。なしてこいつが跡取りなんぞ。この店の跡取りは――」
真っ直ぐ顔を向けた花江ににらまれると、またもや孝平は勢いを失った。
「跡取りは……、このわし……、なんやが……」
孝平の言葉は次第にもごもごとなり、後の方はよく聞こえない。孝平の様子がおかしいことには構わず、花江は腰に手を当てながら孝平に強い口調で言った。
「あんたさ、いきなり来といて何言ってんのさ。ここの跡取りは千鶴ちゃんだよ。どこの誰だか知んないけどさ。勝手なことを言うもんじゃないよ!」
「いや、ほじゃけん、わしはやな、その……」
花江が女中なのは見てわかるだろうに、孝平は花江に言われ放題でしどろもどろになっている。そこへ、さっきから何を言っているのかと幸子が顔を出した。
孝平を見た幸子は眉間に皺を寄せた。それからしばらく孝平を見つめたあと、驚いたように目を見開いた。
「あんた、孝ちゃん? 孝ちゃんなん?」
「な、何じゃい。馴れ馴れしいにすんな」
うろたえた孝平が横を向くと、幸子は駆け寄って孝平の手を取った。
「孝ちゃん、あんた、今までどこ行きよったんね。お父さんもお母さんも心配しよったんよ!」
「穢らわしい。わしに触るな!」
孝平が幸子の手を振り払うと、花江が当惑顔で幸子に訊ねた。
「幸子さん、この人、幸子さんの何なの?」
「この子はね、うちの弟なんよ。正兄が亡くなったあと、ほんまじゃったら、この子がここの跡取りになるはずやったんよ。ほれやのに、この子はみんなに黙って奉公先逃げ出して、行方知れずになっとったんよ」
「そういうわけだったんだ」
花江がうなずくと、わかったかと言わんばかりに孝平は胸を張った。
「聞いてのとおり、わしがここの正式な跡取りぞな。わかったら、みんな、ほれなりの礼儀いうもんを見せるんやな」
「孝ちゃん。あんた、お父さんには会うたんか?」
幸子が訊ねても、孝平は無視をした。怒った花江が、どうして無視をするのかと質すと、穢れた者とは話をしないと孝平は言った。それは千鶴を身籠もり産んだという意味である。
花江は孝平に軽蔑の眼差しを向けると、きっぱりと言った。
「それじゃあ、あたしもあんたとは喋らない。あたしゃ心の穢れた人間が大っ嫌いなのさ」
「何やと? わしはここの跡取りぞ?」
孝平が威張っても花江には通じない。花江は早速無視して、孝平に出したお茶をお盆に戻した。
「おい、ほれはわしの茶ぁぞ。勝手なことすんな」
孝平は文句を言ったが、まったく迫力がない。花江は聞こえないふりをして奥へ引っ込んだ。
気まずそうな孝平を、辰蔵がふっと笑った。それで孝平が辰蔵に手を出そうとしたので、幸子がきつく叱った。姉に貫禄負けした孝平は不機嫌そうに横を向いた。
こんな男が自分の叔父なのかと、千鶴は呆れた。
万が一にも、この叔父が店を継ぐようなことがあれば、大事になるのは必至である。それは有り得ないことだろうが、この叔父がこのままここに居座ることになると、それも問題に違いない。
千鶴は不安になったが、幸子も困惑のいろを浮かべている。
四
「親父は中か?」
穢れた者とは話をしないと言ったくせに、話せる相手がいないからか、孝平は幸子に訊ねた。
偉そうな態度を見せ続ける弟に、幸子は憮然としながら言った。
「やっぱし、まだ会うとらんのじゃね。お父さんはどこ行きんさったんか知らんけんど、昼から出かけておいでるんよ。お母さんも雲祥寺へ出かけておらんぞな」
雲祥寺とは山﨑家の菩提寺で、大林寺の近くにある。
「何じゃい、どっちもおらんのか。こがぁな腐れ番頭一人置いておらんなるとは、二人とも無責任やの」
孝平が吐き捨てるように言うと、すぐさま幸子が叱った。
「あんた、何失礼なこと言うんね。辰蔵さんは立派な番頭さんで。辰蔵さんがおらなんだら、この店は疾うに潰えとるがね。無責任言うんなら、勝手に姿眩ましよったあんたこそ無責任じゃろが!」
「勝手に敵兵の子供産んだお前が言うな!」
孝平が噛みつくように言って千鶴に目を向けると、幸子も険しい顔で言い返した。
「あんた、そげなこと言うために戻んて来たんね? そげじゃったら戻んて来ることないけん、さっさとどこまり去になさいや!」
「つかましいわ。わしが用があるんは親父じゃ。お前やないわい」
「自分の姉に向かって、お前いう言い方はないんやないですか?」
辰蔵が参戦して幸子をかばった。孝平は辰蔵をにらむと、使用人は黙ってろと言った。
「さっきから使用人の分際で偉そうに。親父に会うて話つけたら、すぐにでも辞めさすけん覚悟しとれよ」
「偉そうなんはお前さまの方ぞなもし。いくら旦那さんの血ぃをお引きでも、いきなし戻んて来て、姉をお前呼ばわり、父親を親父呼ばわりするんは、偉そやないと言いんさるんか?」
「父親やけん親父やろが。ほれに、わしはこの女を姉やとは思とらん」
辰蔵は怒りを抑えるように、大きく息をしてから言った。
「お前さまが幸子さんを姉と認めんにしても、お前いう言い方は失礼極まりないぞなもし。父親をどがぁ呼ぶかも、そこがどげな家かによりましょうが、この家では親父という言葉を使う者はおりません。本来の跡取りでありんさった正清さんも、旦那さんのことを親父と呼びんさったことは、一度もありませんでした」
「死んだ人間のことなんぞ知るかい」
孝平のあまりの言い草に、幸子は声を荒らげた。
「何てひどいこと言うんね! あんたのお兄さんじゃろがね」
「人間、死んだらおしまいぞな。人間の価値は生きてこそよ」
孝平は少しも悪びれる様子がない。ついに腹に据えかねたのか、辰蔵は怒りを露わにした。
「その言葉、旦那さんの前で言いんさい」
「何やと?」
「今言いんさったこと、もういっぺん旦那さんの前で言うてみぃと言うとるんぞなもし」
「お前は阿呆か。親父の前でこがぁなこと言うわけなかろがな」
「つまりは旦那さんを騙くらかすおつもりか」
「騙くらかすんやないわ。余計なことを言わんぎりじゃい」
辰蔵はため息をつくと、孝平を哀れむ目で見た。
「お前さまは、ほんまに情けないお方ぞなもし。旦那さんやおかみさんの血ぃを引いておいでるとは信じられんぞなもし」
「何? この腐れ使用人が何偉そうにほざくか!」
「あたしは山﨑機織の使用人であって、お前さまの使用人ではございません。ほじゃけん、この店を守るためには、言うべきことは言わせてもらいまさい。お前さまは山﨑家の屑ぞなもし」
何を!――と孝平が辰蔵につかみかかったので、千鶴と幸子は孝平を押さえようとした。しかし孝平に突き飛ばされた幸子は、土間に転んで腰を打った。
「お母さん!」
千鶴が叫ぶと、怒った辰蔵が立ち上がり、孝平と揉み合いになった。帳場机は蹴飛ばされ、帳場格子はひっくり返った。花江が置いて行った辰蔵のお茶が床にこぼれ、湯飲みは土間へ落ちて割れた。
いつの間にか表には、近所の者たちが面白そうに集まっている。
「ほれ、辰さん、しっかりせんかい!」
「辰蔵さん、あたしがついとるぞな!」
みんなは辰蔵の味方をするが、誰も手を貸そうとも喧嘩を止めようともしない。わいわいと楽しそうに眺めているだけだ。
騒ぎを聞いて飛び出して来た花江は、倒れている幸子を千鶴と一緒に介抱した。
帳場では孝平と辰蔵が互いの襟をつかんで、相手を引きずり倒そうとしている。力では明らかに辰蔵の方が上だが、やはり店の主の息子に対して遠慮があるようだ。
対して孝平は手加減などする気はなさそうで、全力で辰蔵をねじ伏せようとしている。
そこへ店の前の人だかりをかき分けて甚右衛門が現れた。その後ろには新吉がいる。新吉は甚右衛門が連れて出ていたようだ。
新吉は争いに驚いて立ちすくんだ。しかし、さすがに甚右衛門は主である。店に入ると、やめんか!――と二人を一喝した。
その声で動きを止めた辰蔵に、孝平はびんたを食らわした。
すると、花江がすっくと立ち上って帳場に上がり、孝平の頬をぴしゃりと叩いた。表から、おぉっ!――と歓声が上がる。
孝平は叩かれた頬を手で押さえ、驚いたように花江を見た。花江は黙ったまま顎をしゃくって、横の土間を見るよう孝平に伝えた。
顔を横に向けた孝平は、そこに甚右衛門の姿を見つけてうろたえた。だが、すぐに笑顔になって土間へ降りた。
「親父、わしぞな。孝平ぞな」
甚右衛門は孝平に背を向けると表に出た。孝平もそのあとについて行く。
甚右衛門は野次馬たちに手を振りながら、見世物ではないから自分の店に戻れと言った。
もうおしまいかと、野次馬が残念がりながらぞろぞろといなくなると、甚右衛門は孝平を振り返った。孝平は笑顔を見せながら甚右衛門の傍へ歩み寄った。
「親父、わしな、戻んて来たんよ。店の跡継ぎがおらんで困っとんじゃろ? ほじゃけんな、わし、戻んて来たんよ」
孝平は誇らしげに言った。すると、甚右衛門はいきなり孝平の胸ぐらをつかんで、力いっぱい張り倒した。
無様に地面に転げた孝平を見下ろしながら、甚右衛門は言った。
「今更、何言うとんぞ? あん時、お前はわしにどんだけ恥かかせたんか、わかっとらんのか! その上、今日はこげな騒ぎを起こして、また恥かかせよってからに!」
体を起こした孝平は、道の上に正座して甚右衛門に言った。
「ほのことじゃったら、このとおり謝るけん。ほれより店の跡継ぎで困っとんじゃろ? わし、親父には迷惑ぎりかけてしもたけん、今度こそ親父の力になりたい思て戻んて来たんよ」
甚右衛門は孝平をじっと見据えながら言った。
「ほうか、お前もようやっと心を入れ替えたんか」
孝平は嬉しそうにうなずくと、いそいそと甚右衛門の傍へ行こうとした。だが甚右衛門は素っ気なく、遅いわ――と言った。
「遅いて、跡継ぎはまだ決まっとらんのじゃろ?」
「いいや、決まった」
「決まった? 決まったて、誰に?」
甚右衛門は横を向くと、離れた所に立っていた男を呼んだ。
男が近くに来ると、甚右衛門は孝平に言った。
「この男が千鶴の婿になる。千鶴と夫婦になって、二人でこの店を継ぐんぞな」
え?――と思って、千鶴はその男を見た。
小さな目に大きな口。お世辞にも素敵な顔とは言えない。だが風貌は堂々としており、少し威張っているようにも見える。歳は二十四、五だろうか。
「ほら、あたしの言ったとおりだろ? 旦那さんは千鶴ちゃんを跡継ぎにって考えてたんだよ」
幸子に肩を貸しながら、花江が得意げに言った。しかし、花江の言葉は千鶴の耳には入っていない。
千鶴はじっと男の頭を見つめた。角が生えていないかを確かめるためだ。だが、いくら見ても角らしきものは見えない。
男は孝平をちらりと見たが、その目には嘲りのいろが浮かんでいるようだ。
孝平も男をにらんだが、その顔は焦りでゆがんでいる。
「親父、わしいう者がおるのに、なしてこがぁな男を連れて来るんぞ?」
「黙っとれ! これまで行方眩ましよったくせに、今頃何言うとんぞ。お前なんぞ何も言う資格はないわ!」
親父――と泣きそうな顔の孝平を無視して、甚右衛門は男を店の中へ誘った。そこで千鶴に笑顔を見せると嬉しそうに言った。
「千鶴、聞こえとったろ。お前の見合い相手を連れて来たぞ」
店の入り口に立った男は、千鶴に軽く会釈をした。わずかに微笑みながら千鶴を見る目は、商品を見定めているようだ。
「おじいちゃん、うち、お見合いするん?」
千鶴がうろたえながら訊ねると、ほうよと甚右衛門はうなずいた。
「いろいろ考えた末、そがぁすることにした。ほういうことじゃけん、奥の座敷へ行け。花江さん、すまんけんど、お茶を淹れてくれんかな。ん? 幸子はどがぁしたんぞな?」
幸子は花江に付き添われながら、腰に手を当てて帳場の端に座っていた。その顔はかなり腰が痛そうだ。
花江から事情を聞いた甚右衛門は、外に立ったままの孝平をじろりと見た。それから花江に、幸子を離れで休ませてからお茶を淹れるよう頼み直した。
「親父ぃ」
店に入れない孝平が、表から情けない声で甚右衛門を呼んだ。そこへ茂七が外の仕事から戻った。その後ろについて新吉がこそこそと店に入って来た。
甚右衛門は辰蔵と茂七に、孝平を店の中へ入れないよう命じた。だが、茂七は何のことかわからない。甚右衛門と孝平を見比べたが、辰蔵はうなずき、お任せを――と言った。
五
障子を閉めた茶の間で、千鶴と向かい合わせに座った男は名前を名乗った。
「鬼山喜兵衛と申します」
「鬼山?」
「喜兵衛ぞなもし」
微笑む男の顔を見つめながら、やっぱし――と千鶴は思った。
「こら、お前も挨拶をせんか」
甚右衛門に言われて我に返った千鶴は、山﨑千鶴と申しますと言って頭を下げた。
「鬼山くんの家は元武家でな。わしの家とは知り合い同士よ」
「おじいちゃんの家?」
甚右衛門は意外そうな顔をしたあと、照れたように笑った。
「お母さんから聞いとらんか。わしの実家は武家でな。子供の頃は歩行町におったんよ。ほんでも明治になると、武士じゃあ暮らして行けんなってな。ほれで、この家の跡取りとして婿入りさせてもろたいうわけよ」
祖父が武家の生まれだったなんて、千鶴は初めて聞いた話である。そもそも祖父がこんなにいろいろ喋ってくれること自体が、これまでなかったことだ。
「ほういうわけで、似たような形で鬼山くんをうちへ迎え入れようと、こがぁなことぞな」
千鶴が黙っていると、甚右衛門は少し焦ったように付け加えた。
「鬼山くんは剣道四段の腕前でな。道場でも、さすが武家の血筋とうなずかされる猛者やそうな」
どうやら甚右衛門は武家の出であることに、かなりの重きを置いているようだ。元々は自分も武士の家柄であったことを誇りに思っているのだろう。
「剣道四段て、がいなことなんですか?」
千鶴は剣道のことなどわからない。喜兵衛が苦笑するのを見て、甚右衛門は少し機嫌を悪くしたようだ。いつもの仏頂面に戻って言った。
「がいなことに決まっとろが。四段いうんは、この若さでそうそう取れるもんやないんぞ」
千鶴は慌てて喜兵衛に頭を下げると、何も知りませんもんで失礼致しました――と詫びた。
いやいやと喜兵衛は貫禄を見せるように笑い、女子にはわからんことですけん――と言った。喜兵衛は千鶴を下に見ているようだ。しかし、これ以上祖父に恥をかかせるわけにはいかないと、千鶴は我慢しながら話しかけた。
「鬼山さんは、昔から歩行町に住まわれておいでたんですか?」
「あしが住みよるんは湊町ぞなもし。歩行町におるんはあしの祖父母と伯父貴の家族で、あしの親は歩行町から湊町へ移ったんぞなもし」
歩行町というのは、城山の南東に位置する下級武士が暮らした町で、春子が電車に乗った一番町の電停の北にある。
千鶴と春子が歩いた湊町商店街は魚の棚までだが、湊町自体は魚の棚からさらに東へ延びている。魚の棚より東側には伊予絣を作る家が数多く並んでおり、喜兵衛の家はその中の一軒ということだ。
鬼山という家が昔からあるのであれば、鬼山という名は鬼とは関係がないのかもしれない。それでも喜兵衛という人物が、本当に鬼山家の一員であるかは定かでない。
「あの、おじいちゃんはこの方を、いつからご存知やったんぞなもし?」
「今日知ったんよ」
「今日?」
「隣の組合事務所で鬼山くんの話を耳にしたんで、早速会いに行ったんよ」
伊予絣を織る者は数え切れないほどいる。中には伊予絣の品位を汚すような品を、伊予絣として出す者も少なからずいた。それを防ぐために、織元に対して織物の検品や指導を行う伊予織物同業組合が設けられている。
そのため組合事務所には伊予絣に関する話が、いろいろと集まって来る。その組合事務所は山﨑機織のすぐ隣にあった。
山﨑機織があるのは四つ辻の北東の一角だが、組合事務所は同じ辻の北西の一角だ。山﨑機織の裏木戸を出ると、目の前に組合事務所があるわけだ。この近さもあって、組合長と甚右衛門は長く親しい間柄だった。
千鶴が部屋で春子と喋っている間、甚右衛門は組合事務所に仕事の話をしに行き、そこで喜兵衛の話を耳にしたと言う。それで善は急げと、午後から喜兵衛に会いに行ったそうだ。
それにしても、今日知ったばかりというのはやはり怪しい。何だか話が仕組まれているように思える。
千鶴は喜兵衛の様子を観察しながら訊ねてみた。
「鬼山さんは普段は何をされておいでるんぞなもし?」
「普段かな? 普段はほうじゃなぁ。家の仕事を手伝うたりもしよりますが、三男坊ですけん、比較的自由にさせてもろとります」
「ご次男の方はどがぁされておいでるんぞなもし?」
「二番目の兄貴は陸軍の士官になりました。あしも士官学校に入るよう勧められたんですが、あしの性に合わんので断りました」
「性に合わんとは?」
甚右衛門が訊ねると、自分は人に使われるのが嫌なのだと喜兵衛は言った。
「将校は兵士に指示を出すけんど、上の指示には従わにゃなりません。あしは何もかんも己の意思を貫いて生きたいんぞなもし。ほじゃけん、陸軍より商いの方が自分には向いとると思とるんです」
「なるほど。確かに己の道は己で切り開かんとな」
「そげです。その点、旦那さんはご自身の判断で山﨑機織を切り盛りし、先だっての東京の大地震のあとも乗り切っておいでる。いけんなった店も多い中、さすがは旦那さんじゃと思いよりました」
いやいやと甚右衛門は謙遜したが、悪い気はしないようだ。口元に隠し切れない笑みがこぼれている。
「そげなことで、旦那さんの所じゃったら思い切った商いができるんやなかろかと、こがぁ思たわけです」
喜兵衛の言葉に甚右衛門は何度もうなずいている。だが千鶴にはその様子が、鬼に祖父が操られているようにしか見えない。
甚右衛門と喜兵衛だけで話は弾み、いつしか千鶴は蚊帳の外になっていた。
お待たせしましたと、障子の向こうで花江の声がした。甚右衛門が声をかけると、花江は障子を開けてお茶を出してくれた。
祖父から言われたわけではないが、茶菓子までついている。千鶴の見合いだと思って、気を遣ってくれたのだろう。
千鶴は花江にお礼を言い、甚右衛門も花江をねぎらった。だが、喜兵衛はちろりと配られたお茶と茶菓子を見ただけで、花江には声をかけるどころか目もくれなかった。
それで千鶴がむっとしていると、甚右衛門は千鶴の気を引かせようと話題を変えた。
「鬼山くんは剣道の他にもな、ええとこがようけあるんぞ。まず、三年の徴兵義務は終わっとるけん、兵隊に取られることはない。ほれに頭もようて弁が立つ。ほんまなら政治家にでもなれるぐらいの人物ぞな。しかもこのとおりの男前よ。鬼山くんに憧れる女子は数え切れんそうな。鬼山くんが独り身いうんが信じられまい」
喜兵衛は少し恥ずかしそうな笑みを浮かべながらも、甚右衛門の言葉を否定はしない。そのとおりですと言っているようで嫌みったらしい。それに喜兵衛の笑みはわざとらしく見える。すべて思惑どおりと考えているのだろう。
喜兵衛を男前と褒め称えたことで、祖父は間違いなく喜兵衛に操られていると、千鶴は確信した。結局、喜兵衛は山﨑機織を利用して鬼の仲間を増やすつもりに違いない。
「千鶴さんはお父さんのことは、何ぞご存知かなもし?」
喜兵衛に問いかけられた千鶴は、はっとなった。
「いえ、うちが産まれた時には、もう、おりませんでしたけん」
「お父さんに会うたことはないんかなもし?」
はい――と千鶴がうなずくと、父親に会ってみたいかと喜兵衛は訊ねた。
千鶴はちらりと甚右衛門を見てから、いいえと言った。
「ほやけど、いっぺん会うてみたいて思うことはあろに」
次第に体が前のめりになる喜兵衛の言葉は、少し決めつけたと言うか強引さがある。そこまで父に関心があるというのは、やはり父もこの男と同じ鬼だということなのか。
「なして鬼山さんは、そがぁに父のことぎり訊ねられるんぞなもし?」
怪しんだ千鶴が問いかけると、喜兵衛は姿勢を戻し、頭の後ろに手を当てて笑った。その仕草は伸びて来た角を隠そうとしたように見える。
「いや、申し訳ない。実は、いずれ伊予絣をソ連にも売り込んだろと思いよったんぞな。やけん、千鶴さんのお父さんと連絡が取れるんなら、これは行けると思たぎりぞなもし」
甚右衛門は喜兵衛の発想に大きくうなずいている。
「さすがじゃな、鬼山くん。まだ若いのに大したもんぞな。ソ連に伊予絣を売り込むやなんて、わしには思いつくまい」
「いやいや、今んとこソ連とはまだ国交がありませんけん、捕らぬ狸の皮算用ぞなもし」
喜兵衛は照れたように笑った。甚右衛門も喜兵衛もすっかり意気投合している様子だ。また、二人とも千鶴が婿取りを了承するものと決め込んでいるようだ。
がんごめである以上、鬼と夫婦になるのは定めかもしれない。だが喜兵衛を見ていて、千鶴は定めに抗うことに決めた。
おじいちゃん、鬼山さん――と千鶴は二人に声をかけた。
「うちはこれまでずっと小学校教師になるために、女子師範学校で勉学に励んで参りました。ほれやのに、今日いきなしお見合いさせられても、うちとしては困るんぞなもし。ここのお店の事情はわかっとりますけんど、ほれにしたかて困るんぞなもし」
千鶴はきっぱり言った。これだけのことが言えたのは、忠之への想いがあったからだ。
これまでは、忠之ことはあきらめねばならないと考えていた。しかし、己の定めを突きつけられた今、千鶴は自分の本当の気持ちに気づかされた。
自分の夫になるのはあの人以外いない。あの人と夫婦になれないのであれば、一生独り身でいよう。千鶴はそう心に決めていた。
毅然とした千鶴の言葉に、甚右衛門も喜兵衛も少なからず動揺したようだった。甚右衛門は千鶴の言い分を聞き、確かに性急過ぎたと反省の姿勢を見せた。
喜兵衛も同様に、もう少し個人的な話をするべきだったと述べ、千鶴に自分の無神経さを詫びた。その上で、千鶴とは結婚を前提としたお付き合いがしたいと申し出た。もちろん、それは千鶴の婿になるということだ。
甚右衛門は千鶴をなだめるように言った。
「結婚については、今すぐ返事はせんでええ。どがぁでも師範になりたい言うんなら、ほれも構ん。その上でいっぺん鬼山くんと付き合うてみてはもらえまいか。付き合うてみて、やっぱしいけんと言うんなら、ほれは仕方ないことよ。どがぁぞな?」
祖父にここまで言われたら、千鶴も拒絶ができなかった。
「結婚を前提とせんのであれば」
これが千鶴としては精いっぱいの返事だった。
甚右衛門は笑みを見せると、これでいいかと喜兵衛に訊ねた。喜兵衛は千鶴と一緒になる自信があるのか、結構ぞなもしとうなずき千鶴を見た。
喜兵衛を一瞥したあと、千鶴は目を伏せた。それは目を逸らしたのではなく無視したつもりだ。祖父の顔を立てて付き合いはしても、絶対に結婚はしない。答えは決まっていた。
「あんた」
トミの声がした。甚右衛門が障子を開けると、土間にトミが立っている。その横で、新吉が不安げな顔で千鶴たちを見ていた。新吉の後ろには、やはり不安げな亀吉がいる。亀吉はトミと一緒にいたらしい。
トミは何か言おうとしたようだが、喜兵衛に気づいて訝しげな顔をした。
「このお人は?」
「千鶴の婿になる男ぞな」
まだ婿になるとは決まっていないはずなのにと、千鶴は腹が立った。しかし、これが祖父の本音と言うか、鬼の本音なのである。
鬼山喜兵衛と申します――と喜兵衛はトミに頭を下げた。
トミも喜兵衛に挨拶を返すと、すぐに甚右衛門に顔を戻した。
「あんた、表に孝平がおるぞな」
「わかっとらい」
甚右衛門は不機嫌そうに返事をした。
「わかっとるんなら、なしてあげな所に立たせとるんね? 早よ中へ入れてやらんね」
「ずっと行方眩ましよったくせに、いきなし戻んて来て跡継ぎ面する奴なんぞ勘当ぞ」
「勘当て……。血ぃのつながった息子やないの。やっと戻んて来たのに勘当はなかろがね」
「つかましいわ! あいつがわしのこと、何て言うた思う? 親父やぞ。己を何様や思とるんじゃい、偉そうに」
甚右衛門は怒り心頭だったが、トミは怯まなかった。
「ほやけど、勘当することなかろ? そげなことは言うて聞かせたらええことぞな」
「ここにあいつの居場所はない」
「何でもさせたらええじゃろがね」
「そげなわけに行くかい」
二人のやり取りを聞いている喜兵衛は、素知らぬ顔をしているが目が笑っている。甚右衛門の馬鹿息子を嘲笑っているのかもしれないが、山﨑機織の実情を見てほくそ笑んでいるようでもある。
千鶴にはますます喜兵衛の正体が鬼であるように見えた。この店に入り込む余地があるとわかって喜んでいるに違いない。
「とにかく、客人の前でそげな話はすんな。客人に失礼なろが」
甚右衛門に叱られ、トミが横目で喜兵衛を見ながら口を噤むと、急に店の方が騒がしくなった。と思うと、孝平が飛び込んで来た。慌てて追いかけて来たのは茂七と辰蔵だ。
孝平は土間に這いつくばって甚右衛門に詫びた。
「親父、いや、父さん。わしが悪かった。こがぁしてお詫びするけん、どうか、わしをここへ置いてつかぁさい」
甚右衛門はトミを気にしながら孝平を叱りつけた。
「千鶴が見合いしよるんがわかった上で、そげな芝居がかったことをするんは、己のことしか考えとらん証じゃろがな。母親が味方してくれるて思とんじゃろが、とんでもないわ。お前なんぞ、もう息子でも何でもないけん、どこまり行くがええ」
甚右衛門が辰蔵と茂七に顎をしゃくると、二人は暴れる孝平を抱えるようにして表へ連れて行った。
トミは憤慨した様子だったが、黙って孝平を追った。
亀吉はトミの後に続いたが、新吉はぼーっと突っ立っていた。すると戻って来た亀吉が、新吉を店の方へ引っ張って行った。
甚右衛門は喜兵衛に詫びると、また別の日に千鶴と会ってやって欲しいと頼んだ。千鶴にすれば余計なお世話だったが、祖父には逆らえない。
喜兵衛はにこやかにうなずき、またご連絡しますぞなもし――と言った。千鶴はそれを黙って聞くしかなかった。
鬼と福の神
一
山﨑機織ではこれまで東京に手代の一人を送り込み、安宿に住まわせながら店廻りをさせていた。
一方、東京よりも近い大阪には月に一度、別の手代に得意先廻りをさせて注文を取っていた。しかし松山から通いの注文取りでは、廻る先が限られてしまう。そのため大阪の取引先は、東京ほど増やすことができなかった。
そんな折、明治末に大阪で大火が起こり、山﨑機織の取引先だった太物問屋にも、焼けて廃業に追い込まれた所があった。
行き場を失ったそこの使用人たちの中に、もう若くなく身寄りもないが、太物をよく知る仕事熱心な男がいた。作五郎というその男に、甚右衛門は自分たちの力になって欲しいと頼み込んだ。そして、大阪の仕事を一手に引き受けてもらうことになった。
作五郎が動いてくれるようになると、松山にいる手代が大阪へ通い詰める必要がなくなった。また手代が廻っていた以上の店を作五郎が廻ってくれたので、大阪での売り上げは以前よりも倍増した。
東京の大地震で多くの伊予絣問屋が潰れる中、山﨑機織が何とか持ちこたえているのは、作五郎の力によるところが大きい。
たまたまではあるが東京で地震が起きる前に、作五郎は大阪で大口の契約をいくつか取ってくれた。そのお陰で山﨑機織は東京の被害を和らげることができたのだ。
少し気むずかしいところがある男だが、商いに対する作五郎の姿勢を甚右衛門は深く信頼していた。その作五郎の元に孝平を送るという話が、甚右衛門とトミの間で持ち上がっていた。
甚右衛門は孝平をいったんは家から追い出した。しかし、トミが孝平を呼び戻せと言って聞かないため、仕方なく作五郎に孝平を試してもらおうと考えたのである。
店の跡継ぎの話はともかくとして、山﨑機織に使用人が足らないのは事実だった。
もっと丁稚を取っていればよかったのだが、景気が悪くて毎年のようには丁稚を取ることはできなかった。入っても続かずに辞めさせられる者もいた。それに山﨑機織の丁稚になりたがる者が、他の店ほどはいなかった。
それは千鶴のせいかもしれなかったが、甚右衛門もトミもそこには触れていない。ただ二人とも後継者問題だけでなく、丁稚が少ないことにも頭を悩ませていた。
東京もいずれは復興する。その時には、誰かを店廻りにやらねばならない。だが、今の状態では東京へ送れる者がいなかった。
そんな苦しい状況の中で、甚右衛門が千鶴と鬼山喜兵衛を夫婦にしようと考えたのは無理もないことだった。
喜兵衛が来れば後継者としての修行も兼ねて、手代の仕事を務めてもらう手筈らしい。そうすれば茂七を東京へ送り出すことができる。
手代の不足を埋めるだけならば、必ずしも千鶴の婿である必要はない。しかし、いきなり手代として雇い入れるには、それなりの信頼と力量が求められる。それに千鶴を受け入れられる者でなければならない。そう考えると、千鶴の婿となる者が見つかれば、後継者も手代不足も解決できる一石二鳥となるわけだ。
店を継げる者ならば、仕事も熱心にするだろうし信頼もおける。取り敢えずはそれで急場をしのぎながら、どんどん丁稚を育てて行くというのが、甚右衛門が思い描いている構想だった。
また千鶴と喜兵衛のことは別にしても、万が一にも作五郎が孝平を認めるのであれば、孝平を松山へ戻して茂七を東京へ行かせることができる。期待はできないが、可能性がないわけではない。
いずれにしても東京の復興がすぐに始まるようならば、まずは東京の勝手がわかっている辰蔵を送り込むつもりだと、千鶴は甚右衛門から聞かされている。
その間の帳場は甚右衛門が守り、時期を見て茂七と辰蔵を交代させる寸法なのだそうだ。
ただ孝平を手代にするのは、当てにできる話ではなかった。
松山を飛び出したあと、どこでどうしていたのかと甚右衛門から質されても、孝平からは曖昧な返答しか戻って来なかったと言う。
要するに孝平は松山を出たあとは、あちこちを転々と渡り歩きながら、その日暮らしのようなことをして、何とか食いつないでいたということらしかった。
そもそも伊予絣問屋の丁稚だった頃から、孝平は仕事ができなかった。物覚えが悪く、動きも鈍い上に、愚痴をこぼしてばかりという話を、当時、そこの主から聞かされた甚右衛門は大いに恥じ入った。それでも甚右衛門の顔を立てて孝平の面倒を見続けくれたその店を、孝平は黙って逃げ出したのである。甚右衛門の顔は丸潰れだった。
それについて孝平は、兵役が嫌で逃げたと言ったらしい。
男子は二十歳になると徴兵検査を受けなければならない。そこで健康に問題がなければ、三年間の兵役義務を負うことになっている。とは言っても、検査の合格者全員が徴兵されるわけではなく、実際に徴兵されるのは全体の二割ほどだけだった。
それでも兄を日露戦争で失った孝平は、徴兵を恐れていた。それで二十歳になる直前に消息を絶ったというのが、事の真相だったようだ。
それでも近頃はその日暮らしも大変になり、郷里が恋しくなった孝平は、松山へ戻ることを決めたと言う。そこには、もう自分が逃げ出したことも、ほとぼりが冷めているだろうという打算もあったようだ。
実際、松山へ戻ってみると、自分が丁稚をしていた店は潰れてなくなっていた。また、山﨑機織では未だに跡継ぎが決まっていなかった。それで自分にも運が向いて来たと考えた孝平は、意気揚々と店に乗り込んで来たのだが、その結果があの騒ぎである。
すっかり店の主気取りだった孝平は、辰蔵の代わりの番頭は簡単に雇い入れられると本気で信じていたようだ。また店の主は仕事をしなくてもいいとも考えていたらしい。
店の采配を振るったり、使用人を育て上げる主の苦労など、孝平は一つも理解しておらず、甚右衛門もトミも開いた口がふさがらなかったと言う。
そんな孝平には跡継ぎどころか、まともな仕事すら任せられるはずもない。本来ならば甚右衛門がやろうとしたように、さっさと店から追い出しているところである。
それでもトミが孝平に最後の情けをかけてやって欲しいと言うので、甚右衛門は渋々ながら孝平を呼び戻し、大阪へ送り出すことにしたのだ。
もちろん、これは作五郎の了承を取ってからの話だ。嫌だと言われればそれまでである。孝平に居場所はない。
作五郎が引き受けてくれたとしても、途中で放り出されれば、やはりおしまいだ。そして、そうなるであろうことは甚右衛門もトミも覚悟しているようだった。
そんな感じなので、甚右衛門が孝平よりも千鶴に期待をかけているのは間違いなかった。もはやロシア兵の子供などとは言っていられない状況らしい。
千鶴に婿を迎えて後を継がせるという甚右衛門の考えは、トミも以前から聞かされており、そのことには賛成していたと言う。
それでも喜兵衛を婿にする話は、甚右衛門のまったくの思いつきであり、何も聞かされていなかったトミは懐疑的だった。また、正清の命を奪った国との取引についても、トミは声を荒らげて反対した。
しかし孝平は役に立ちそうにないし、正清を奪ったのはソ連ではなくロシアだと甚右衛門から諭されると、トミも気が変わったようだった。それで、喜兵衛にソ連との取引を任せることで山﨑機織は勢いを取り戻せると、トミも期待を寄せるようになった。
だがそれは、それだけ店の経営が逼迫しているということだ。そうでなければ、トミがソ連との取引など受け入れるわけがない。
千鶴は断ったつもりの婿話を、祖父に上手く言いくるめられたことが面白くなかった。それでもこのような店の状況を見せつけられると、自分ばかりが我が儘は言えないとあきらめ気分になった。
また、違うことでも千鶴は気持ちが沈んでいた。
喜兵衛と付き合っても、絶対に結婚はしないと心に決めたつもりだった。しかしよくよく考えてみれば、いずれ自分はがんごめの本性を出すようになる。そうなれば忠之と一緒になれるはずもない。それに独り身を貫けば、山﨑機織は立ち行かなくなるだろう。
そんなことを考えると、結局は定めから逃れることはできないのだと、千鶴の心は失意でいっぱいになった。
二
翌週の日曜日、喜兵衛は再び千鶴に会いにやって来た。
千鶴は喜兵衛に会うことに気乗りがしなかった。しかし、甚右衛門が喜兵衛に千鶴を連れ出す許可を出したので、喜兵衛の誘いを拒むことはできなかった。
渋々喜兵衛について外へ出たものの、一つも楽しいことはない。
喜兵衛は歩きながら喋るばかりで、どこかの店に入るとか、芝居や活動写真を楽しむということはしなかった。喜兵衛の話も面白さはなく、その話しぶりから、喜兵衛は芝居などの庶民の楽しみを軽蔑しているようにも思われた。
一方で前回とは打って変わり、喜兵衛は千鶴の父親のことには一切触れなかった。代わりにこれまでの千鶴の暮らしを聞きたがった。中でも、千鶴がどんなつらい想いをして来たのか、という点に興味があるようだった。
千鶴は過去の嫌なことなど思い出したくなかったし、それを他人に喋ることもできればしたくなかった。それでもしつこく訊かれるので、仕方なくぽつりぽつりと話した。
喜兵衛は千鶴の話に憤慨したりうなずいたりした。だが、どこか他人事みたいに聞いているようでもあった。
千鶴に楽しい思い出はあまり多くないが、それでもまったくないわけではない。嫌な話よりも楽しい話の方がいいので、千鶴はその話もした。すると喜兵衛はそれを軽く聞き流して、すぐに別の話題に変えた。
喜兵衛は千鶴を気の毒な娘と見たがっているようだった。また、その気の毒な娘に同情することで、自分をよく見せたがっているようにも思われた。
千鶴が何を望み、どうしたいのかということについては、喜兵衛は関心を示さなかった。弱い女は強い男に従うことが幸せだと思っているようで、自分はその強い男なのだと、喜兵衛がしきりに示そうとしているように千鶴には見えた。
喜兵衛から出る話題は政治の話が多かった。
弱い者が虐げられる今の世の中を変えねばならないとか、もっと女性が活躍できる場を増やさなくてはいけないなどと、喜兵衛は喋り続けた。だが、そのために活動している女性のことは、何もわかっていない目立ちたがり屋だと決めつけた。
そんな喜兵衛から世の中の女性の立場をどう思うかと問われ、千鶴は返事に困った。
世の中が弱い者にとって理不尽であるとは思っている。喜兵衛が言うように、もっと女が働ける場所があればいいとも思う。しかし、どんな仕事が女にも与えられるべきかというと、なかなか思いつかない。それに女が強くなることを、喜兵衛は本当には望んでいないように見える。
喜兵衛が千鶴の答えを待っている。千鶴は困惑しながら口を開いた。
「男とか女とか、そがぁなことには関係なく、みんなが仲よく楽しいに過ごせたらええなて思とります」
それは自分のことだけでなく、山陰の者として差別を受けている忠之のことも考えての言葉だった。しかし、千鶴の答えに喜兵衛は顔をゆがめた。
「あしが訊いとるんは女子の立場ぞな。男のことは聞いとらん」
「男も女もいろいろぞなもし。強いお人もおれば、弱いお人もおるんは男も女も対ぞなもし」
「ほれはほうやが、今あしが訊いとるんは女子の話ぞな。わからんかな?」
喜兵衛の顔に明らかな侮蔑のいろが浮かんでいる。千鶴を頭の悪い女だと見たに違いない。
千鶴が返事をしなくなると、喜兵衛は慌てたように微笑んだ。しかし、千鶴は喜兵衛の本当の顔を忘れなかった。
この男は口では女子のためにと言っているが、自分の評価を高めるために、弱い女子を利用としているだけに過ぎない。心の内では女子を見下している。
鬼に選ばれた男はこんなものなのかと千鶴は落胆した。だが、そもそも鬼に人間らしさを求める方が間違いなのだろう。それが鬼というものなのだ。それなりに納得をした千鶴は単刀直入に言った。
「いろいろ言いんさっておいでるけんど、うちにはちゃんとわかっとりますけん。鬼山さんの正体は、お名前どおりの鬼でしょ?」
喜兵衛はきょとんとしたあと、声を出して笑った。
「千鶴さんは面白いことを言う女子じゃな」
「違うと言いんさるんか?」
真顔の千鶴を見て、喜兵衛は笑うのを止めた。
「こがい言うたら失礼なけんど、千鶴さんは見た目よりも、ずっと頭がええお人じゃな。いや、頭が切れる言うんがええかいの」
「はぐらかさんで答えておくんなもし。鬼山さんのほんまの狙いは弱い者を助けることやのうて、ご自分と対のお仲間を増やすことやないんですか?」
喜兵衛は千鶴を感心したように見たあと、ふっと笑った。
「さすがじゃな。千鶴さんがご指摘のとおり、あしはただの男やない。情け知らずの鬼の喜兵衛とはあしのことぞな」
「やっぱし……」
千鶴は覚悟ができていたので驚きはしなかった。ただ、悲しみが込み上げて来て横を向いた。そんな千鶴を見ながら、喜兵衛は話を続けた。
「世の中に虐げられる者がおるんは、はっきし言うたら、そいつが弱いけんよ。言い換えたら、頭が悪いわけぞな。そがぁな連中は利用されるぎりで、世の中ひっくり返す力にはならん。あしが求めよるんは、あしと対の力を持つ者ぞな」
「ほれと、銭じゃろ?」
千鶴の吐き捨てるような言い方に、喜兵衛はくっくっと笑った。
「千鶴さんは、まこと頭がええ。ほれに、ほの気ぃの強さも気に入ったで。ほのとおりぞな。やっぱし世の中は銭よ。何でかんで力尽くいうんは下作やけんな。なんぼ鬼でも頭は使わんといけん」
千鶴が返事をしないでいると、喜兵衛は続けて言った。
「さっきも言うたように、あしは今の世の中ぁひっくり返したいんよ。千鶴さんがあしと組んでくれたら、ほれがでける。どがいぞな、千鶴さん、あしと一緒に世の中ぁひっくり返さんか? 二人で仲間増やして、あしらの世界をこさえるんじゃ」
千鶴は喜兵衛に顔を向けると、濡れた目でにらみつけた。
「あなたはご自分のご野望のために、うちや、うちの店を利用するおつもり?」
「まぁ、野望いうたら野望なけんど、ほれは千鶴さんのためにもなることぞな。今の世の中、千鶴さんには住みにくかろ? もちろん商いはちゃんとするけん、甚右衛門さんに損はさせんつもりぞな」
「うちは今の世の中でええですけん。鬼山さんをお手伝いする気はありません」
千鶴がまた横を向くと、喜兵衛は困惑のいろを見せた。
「まだ話を全部聞いたわけやないのに、そがぁなことは言わんでくれんかなもし。あしがどがぁな世界を思い描きよるんか、聞いてからにしてつかぁさいや。きっと千鶴さんも、ほれはええて思うけん」
「全部を聞く必要はありません。うちは自分を見下すお人と一緒になるつもりはないですけん」
喜兵衛は慌てた様子で、千鶴の前に回った。
「ちぃと待ってくれんかな。いつ、あしが千鶴さんを見下したと言うんぞな?」
「最初からずっとぞなもし。ご自分やなかったら、うちみたいな者の婿になる男子なんぞおるわけないて、高くくっておいでるんじゃろけんど、うちは一生独りでも平気ですけん」
「ほれじゃったら、甚右衛門さんが困ろ?」
この言葉に鬼山の本音が表れている。男尊女卑は鬼も人間と同じということだろう。
「おじいちゃんは――」
千鶴はそこで口を噤んだ。今の祖父は鬼に操られている。それは祖母も同じであり、自分に見せる今の優しさも鬼に操られているからだ。
それでも辰蔵たちが仕事をする様子を見ると、辰蔵たちがどんな気持ちで働いているかがよくわかる。それを教え込んだのは祖父母であり、祖父母がそうしているのは鬼が現れるより前からだ。
千鶴は口を開くと、自分なりに理解した祖父母の姿を語った。
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、伊予絣を誇りに思とるんよ。ほじゃけん、お店で働く人らも、みんなそがぁ思て仕事をしとりんさる。遠くにおいでる顔見ることもないようなお人らが、うちらが売った絣を喜んでくんさるんを思い浮かべて商いしよるんよ。銭儲けのためぎりで商いしよるんやないですけん」
喜兵衛は、ほぉと感心したような声を出した。
「千鶴さん、店の仕事しとらんのに、よう店のことをわかっておいでるんじゃの。千鶴さんには物事を的確に見る力があるいうことよ。やっぱし、あしには千鶴さんがぴったしじゃ。千鶴さんにはあしと対の匂いがすらい」
千鶴はぎくりとなった。やはりお前も鬼の仲間だと、喜兵衛は言っているに違いない。しかし、千鶴の決意は変わらなかった。
「うち、あなたとは一緒になりません。あなたとのお付き合いもこれぎりぞなもし」
千鶴が背を向けて歩き出すと、喜兵衛は焦ったようだ。千鶴を呼び止め、自分の何がいけないのかと訊ねた。
千鶴は喜兵衛を振り返ると、きっぱりと言った。
「たとえあなたと一緒になるのが定めじゃったとしても、うちはその定めに従うつもりはありません。あなたが望む世の中は、うちが望むもんとは違います。うちが願とるんは、誰にも優しい世の中ぞな。鬼が考えるような世の中とは違うんぞなもし」
言うだけ言うと、千鶴は再び喜兵衛に背中を向けて歩き出した。後ろで喜兵衛が千鶴を呼び、誤解だと叫んでいたが、千鶴は耳を貸さずに歩き続けた。
やがて喜兵衛の声が聞こえなくなったが、こんなはずではと喜兵衛は途方に暮れているに違いない。
しかし、鬼の喜兵衛がこのままおとなしく引き下がるとは思えない。千鶴が鬼の定めに逆らったことを、力尽くで後悔させようとするはずだ。
それがどのようなものかはわからない。だが、どんな目に遭わされても構わないという覚悟はあった。それでも家族や使用人たちにも禍が降りかかるのではと思うと、千鶴の心は大きく動揺した。
家に戻ると、千鶴は待ち構えていた甚右衛門に、どうだったかと訊かれた。その隣でトミも千鶴の言葉を待っている。
台所にいる花江も、仕事をしながら話を聞いている。だが母の姿は見えない。
一週間前に腰を痛めた幸子は、勤務する病院に無理を言って翌日だけ休みをもらった。その連絡は前日のうちに、亀吉が事情を書いた手紙を病院へ届けてくれた。しかし休めたのは一日だけで、その次の日からは腰の痛みを抱えながら、病院の仕事に復帰した。
それでも病院では湿布をしてくれたので、大変ではあったが幸子の腰は少しずつ回復していた。それで病院が休みの今日も家事を手伝っていたのだが、今はどこへ行ったのか、台所にも奥庭にもいなかった。
喜兵衛のことは、本当なら母にも聞いてもらいたかった。しかし、いないものは仕方がない。また花江に聞かせることではないので、千鶴は祖父母がいる茶の間に上がると、部屋の障子を閉めた。それから驚いた様子の二人の前に座り、両手を突いて頭を下げた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、申し訳ありません。やっぱし、うちはあのお人とは一緒になれんぞなもし」
何?――と甚右衛門が叫ぶような声を出した。
「な、何がいかんのぞ?」
千鶴は頭を伏せたまま答えた。
「あのお方はご自分のご野望のために、うちやこの店を利用しんさるおつもりぞなもし。あのお方にはおじいちゃんやおばあちゃん、辰蔵さんらのお気持ちなんぞ、これっぽっちもわかっとりません。ほじゃけん、うちはあの人と一緒になるんは絶対に嫌ぞなもし」
「わしらの気持ちて、何ぞな?」
千鶴は頭を上げると、喜兵衛に伝えたことや、喜兵衛が山﨑機織を利用して世の中をひっくり返すつもりであることを二人に説明した。
甚右衛門は唸ったまま黙り込んでしまったが、トミは千鶴の言うとおりだと言った。
「この子はうちらのことを、ようわかっとる。ほれに比べて何ぞな、あの鬼山いう男は。ここの仕事を真剣に受け継いでくれるて思たけん、千鶴の婿にと言いよんのに、世の中ひっくり返すてどがぁなことね。そがぁな男をこの子の婿になんぞできんがね」
甚右衛門は黙り続けているが、その顔はいかにも苦しげだ。千鶴の言い分を否定はできないが、ならば店はどうなるのかという想いで困りきっているようである。
「あの男は誰にも指図されとないて言いよったんじゃろ? ほれはあとからうちらが文句言うたとこで、聞く耳持たんいうことやないの。冷静に考えたら、どんだけ危ない男かいうんがわかろうに、あんたがどんどん話を進めてしまうけん。だいたいな、正清殺したロシアと商売する言う時点で、おかしいて気ぃつかんといけんかったんよ」
つかましいわ――と甚右衛門はトミをにらんだ。だが千鶴を叱りはしなかった。
「話はわかった。嫌がる者に無理なことはできんけんな」
「申し訳ありません」
千鶴が項垂れると、甚右衛門は感情を押し殺したような顔で、部屋へ戻れと言った。本来は家事をさせるところだが、千鶴の気分を少し落ち着かせる必要があると見たのだろう。
千鶴が離れの部屋へ行くと、幸子が横になっていた。どうしたのかと訊ねると、さっきから腰が痛くなって動けないと言う。ずっとよくなっていたはずなのに、急にずきんと痛くなってどうしようもなくなったので、花江に仕事を任せて休んでいるそうだ。
千鶴はざわっとなった。これは鬼の仕業に違いなかった。
しかし、鬼の怒りがこんなものであるはずがない。喜兵衛との結婚を千鶴が受け入れるまで、さらなる禍が続くのだ。
三
翌日、作五郎からの手紙が届いた。甚右衛門の希望どおり、孝平の世話を引き受けるという内容だった。ただ、その分の手当を甚右衛門が提示した額よりも、もう少し上げて欲しいという要望も書かれてあった。
甚右衛門は直ちに孝平に大阪行きを申しつけた。
もし作五郎を怒らせたなら、そのままどこにでも行って二度と松山には戻って来るなと、甚右衛門は厳しく言い添えた。
孝平はすっかりおとなしくなり、素直に頭を下げた。
店に呼び戻されて以来、辰蔵たち使用人に対しても、孝平は偉そうな態度は見せず、何でも言われたとおりに動いていた。花江にも口を利いてもらえるようになり、拍子抜けした様子の辰蔵とも、揉めることなくにこやかに過ごしていた。
孝平のそんな姿は、トミに期待を抱かせたようだ。トミは孝平を優しく励まし、必ず作五郎さんに認めてもらうようにと言った。孝平は嬉しそうに大きくうなずいた。
大阪へ向かう日の朝、店先で孝平は甚右衛門とトミに挨拶をした。
「父さん、母さん。これまで心配ぎりかけよったけんど、絶対に大阪で一人前になって戻んて来るけんな」
どこまで本気で聞いていたのかはわからないが、甚右衛門は黙ってうなずいた。千鶴の縁談が壊れた以上、孝平に望みを託す以外になくなったのだが、甚右衛門の表情を見ると、やはり期待は薄いと見ているようだ。
しかしトミは涙ぐみながら、しっかりがんばるようにと言った。
孝平は見送りに出ていた千鶴にも幸子にも挨拶はしなかったし、辰蔵たちにも声をかけなかった。おとなしくなったとは言っても、そうそう本音は変わらないというわけだ。
それでも孝平は花江にだけは声をかけて、いきなり手を握った。
「ちょっと何を――」
「わしが一人前になって戻んて来たら、ほん時は、わしの嫁になってくれ」
えぇ?――花江は驚いたが、他の者たちも驚いた。
「こら、孝平! こがぁな時に、何言いよんぞ」
甚右衛門に怒られると、孝平は慌てて花江から手を離して姿勢を正した。
「ほんじゃあ、行て来るぞな」
孝平は甚右衛門とトミに声をかけると、ちらりと花江を見た。
「花江さん。約束ぞな」
「ちょっと待って。あたし、約束なんか――」
花江の返事を聞かず、孝平はそのまま古町停車場へ足早に向かった。花江は困ったように顔を伏せると、店の中へ逃げた。
「あんた、この手があったぞな」
トミが嬉しそうに甚右衛門に言った。それは、孝平と花江に店を継がせるというものだろう。
「そげなことは、あいつが一人前になれたら考えようわい」
甚右衛門は素っ気なく答えると、使用人たちに仕事に戻るよう命じた。
数日後の日曜日、またもや喜兵衛が訪ねて来た。
甚右衛門は千鶴に離れで控えているよう命じると、喜兵衛を座敷に招き入れた。
その時の様子を、千鶴はあとでトミに聞かせてもらったが、喜兵衛は終始居丈高な態度を見せていたと言う。頭を下げ続ける甚右衛門に対し、喜兵衛はずっと不機嫌な顔でふんぞり返っていたらしい。そこには年上の者に対する敬意など一欠片もなかったようだ。
見合いの話はそちらから持ちかけて来たものであり、恥をかかされた責任はどう取るつもりなのかと、喜兵衛は平謝りの甚右衛門を責め続けたそうだ。
しかし、見合いを断るにはそれなりの理由がある。喜兵衛が商い以外に怪しげな企てを持っていたことについて、甚右衛門にも文句を言う権利はあったはずだ。ところが甚右衛門はそのことには触れようとしなかったらしい。
それについて千鶴が訊ねると、我が夫ながら情けないと、トミは首を振った。
トミが言うには、甚右衛門の実家の重見家と喜兵衛の実家の鬼山家では、どちらも元下級武士ながら鬼山家の方がわずかに格上だったそうだ。それで甚右衛門は相手の非を咎めることができなかったらしい。
「商家に婿入りして何十年にもなるのに、何が侍ぞな。だいたい今時、侍やなんてどこにもおるまい? 相手に非があるのに、なしてこっちが頭を下げるんね。こがぁなおかしな理屈があるもんかな」
千鶴を相手に夫への愚痴をこぼしたトミは、今回のことが余程腹に据えかねたようだ。夫が喜兵衛から言われっ放しなので、代わりに言ってやったとトミは鼻息荒く喋った。
「千鶴の婿になれるんは、ほれにふさわしい男ぎりであって、今度のことは、あんたが千鶴にはふさわしなかったいうぎりのことじゃろがねて言うたったんよ。ほしたら、あの男、何も言い返せんで、顔を真っ赤にして去によったわい」
千鶴は祖母に女の強さを見た。しかし、すぐに訝しんだ。
祖父母は鬼に操られていたはずだ。それなのに祖母が喜兵衛を撃退するような態度を見せたのは矛盾している。もしかしたら鬼が操っていたのは祖父だけだったのだろうか。
だが祖父にしても、考えてみればおかしいのである。
喜兵衛に頭が上がらないのは、鬼である喜兵衛の方が立場が上だからのように見える。しかし、祖父が本当に喜兵衛に操られているのであれば、自分が何と言おうと無理やり喜兵衛と夫婦にすればいいことだ。祖父にはその権限がある。それなのに頭を下げてこの縁談をなかったことにするというのは、やはり妙である。
考えられるのは、祖父母を操る鬼の力が弱かったということだろう。祖父母はそれなりには操られたものの、完全に鬼の手に落ちていたわけではなかったのに違いない。
今の祖父母を支配しているのは、山﨑機織が置かれたこの苦境を、どうすれば乗り越えられるかという想いなのだろう。実際、山﨑機織には危機が迫っていた。
この日、喜兵衛が出て行くのと入れ替わりに、いよいよ東京の問屋が商いを再開したという情報が届いた。しかし、山﨑機織と取引のある所がどうなったのかまではわからない。
大地震のあと、辰蔵が東京の様子を確かめに行った時には、多くの取引先は店が潰れたり人が亡くなったりで、商いの再開など考えられない状態だった。
それでも、商いを始める時には電報で知らせて欲しいと、辰蔵は無事が確かめられた相手に頼んでおいた。ところが東京からの連絡は入って来なかった。
それから何日か経つと、他の店は東京向けの仕事を再開した。だが、山﨑機織には取引先からの連絡が届かないままだった。
ある日、伊予織物同業組合の組合長が、ひょっこりと訪ねて来た。もうずいぶん涼しくなったのに、太めの組合長は暑そうに扇子で顔を扇いでいる。
組合長は甚右衛門を見つけるなり大丈夫なのかと訊ねた。
何が大丈夫なのかと甚右衛門が訊き返すと、山﨑機織がもうすぐ潰れるという噂を耳にしたと組合長は言った。
驚いた甚右衛門は、すぐに噂の出所を確かめに行った。しかし戻って来た時には、左手で右腕を押さえながら左足をひきずるという姿だった。着物は土に汚れ、右手の甲からは出血もしていた。
何があったのかとみんなから問われた甚右衛門は、噂の元を辿って行くと、噂を広めていたのが鬼山喜兵衛だとわかったと言った。
恐らく千鶴の婿になる話が流れた腹いせに違いなく、喜兵衛を捕まえてとっちめてやろうと、甚右衛門は湊町へ向かったそうだ。だが頭に血が昇っていて、左から来た自転車に気がつかず、ぶつかられて転倒したと言う。
トミは病院へ行くよう促したが、この程度のことでは病院へは行かないと、甚右衛門は言い張った。
それでも自転車がぶつかった所は赤黒い痣ができているし、転んで打ちつけた右肘と右肩は腫れていて、トミが触れると痛がった。
これではとても喜兵衛をとっちめるどころではない。こんな姿で行ったところで迫力もなく、白を切られて終わるに違いなかった。
トミが代わりに喜兵衛の所へ行くと言ったが、甚右衛門はそれをやめさせた。女が行っても相手にされないだろうし、トミが行くことで自分の今の状態が向こうに知れるのを甚右衛門は嫌がった。
トミは悔しがったが、それは山﨑機織全員の気持ちでもあった。
甚右衛門自身、己が情けないようで、痛みというより腹立たしさで顔をゆがめているようだ。
いよいよ鬼の呪いが始まったと、千鶴は考えていた。東京からの連絡が来ないのも、祖父が怪我をしたのも、鬼がやったことに違いない。喜兵衛が自ら山﨑機織の悪い評判を広めているのがその証である。
千鶴は喜兵衛との縁談を拒んだことを、甚右衛門に詫びた。
だが、甚右衛門は千鶴を責めなかった。あんな男を婿にしなくてよかったと言い、今回のことも自分に人を見る目がなかっただけだと、己の責任を認めた。
また、喜兵衛が山﨑機織を悪く触れ回ったところで、しっかりとした商いができていれば、誰も喜兵衛を相手にしないと甚右衛門は言った。問題は山﨑機織の人員不足と、東京の状況がわからないことだった。
祖父の姿勢を千鶴は立派だと思った。また有り難いとも思った。しかし不思議でもあった。
今の祖父は鬼の支配が及んでいるように見えない。それなのに祖父が自分をいたわってくれるのは妙なことだ。祖父はロシア人の血を引く自分が疎ましいはずなのだ。
これはどういうことなのかと、ついに始まった禍に恐れを抱きながら千鶴は当惑した。
東京からの連絡が入らないことで、甚右衛門は東京の取引先の様子を、すぐにでも辰蔵に見に行かせるつもりだった。だが、こんな状態では辰蔵に代わって帳場の仕事はできない。正座などできないし、帳簿をつけることも無理である。
甚右衛門は辰蔵の代わりに茂七を遣ることも考えた。しかし東京に不慣れな茂七では、行ったところでどうにもならないのは目に見えていた。
そんな状態のところに、銀行の行員が山﨑機織の経営状況を確かめに来た。山﨑機織は銀行に借金があるので、店が潰れるという噂を耳にした銀行が、真偽を確かめに来たのである。
甚右衛門は噂はでっち上げで、経営は順調だと訴えた。しかし怪我だらけの甚右衛門の姿は、説得力がなかったに違いない。
東京の大地震のあと、山﨑機織がぎりぎりの所で踏ん張っていることは行員も知っている。それでも、このまま東京への出荷が再開できなければ、いずれは経営は破綻する。それは甚右衛門もわかっていることだが、行員がそこを見逃すはずがない。
甚右衛門たちが不安のいろを浮かべる中、行員は帳簿を調べて仕入れや出荷の状況を確かめた。それで東京への出荷が止まったままなのを知ると、噂は本当だと判断したらしい。
これにどう対処するつもりかと行員は問うたが、それに甚右衛門は上手く答えられなかった。自分の傷が治ったら辰蔵を東京へ送るつもりだというのが、甚右衛門にできる精いっぱいの答えだった。
だが、その答えに行員は満足しなかった。甚右衛門に十日だけの猶予を与え、十日以内に出荷が再開できなければ、借金を取り立てると言った。そうなると山﨑機織は本当に潰れてしまう。
トミは行員に縋るようにしながら、もう少し待って欲しいと懇願した。それでも行員が無視して帰ろうとすると、トミは胸を押さえて苦悶の表情で倒れた。
甚右衛門は急いで亀吉を医者を呼びに走らせた。行員はうろたえながらも、自分は関係ないと言いながら帰って行った。
駆けつけた医者の見立てでは、トミは心臓が弱っているとのことだった。
医者は入院を勧めたが、トミは頑として拒んだ。どうせ死ぬのであれば、家で死にたいとトミは言った。
そうなると、誰がトミの世話をするかという問題が出て来た。
幸子は病院の仕事に復帰していたが、腰を傷めた時に急な休みを取って、これまで二度病院に迷惑をかけている。再び休みを取ると言えば首にされてしまうだろうし、完全に腰が治ったわけではないので、トミに十分な看護ができる状態ではなかった。
花江は家事で手がいっぱいだ。となると、千鶴しかいない。
千鶴にしても簡単に学校を休むわけにはいかないが、甚右衛門は千鶴に婿をもらって店を継がせるつもりだった。それは学校を退学になっても構わないということでもあるので、学校を理由に祖母の世話ができないとは言えなかった。
それに千鶴自身、学校よりも祖母のことが心配だった。ずっと冷たくされていた祖母ではあったが、やはり肉親であるわけだし、鬼に操られていたとは言え、最近の祖母は千鶴に優しかった。
ばあさんの世話をしてもらえないかと甚右衛門に頼まれると、千鶴は素直にうなずいた。
千鶴は自分の布団を離れの部屋から茶の間に運び、夜でもすぐに祖母の世話ができるよう、茶の間で寝ることになった。
千鶴の仕事は祖母の世話だけでない。手が空いていれば花江の手伝いをし、祖母に代わって、丁稚たちに読み書き算盤を教えたりもした。それは忙しく大変ではあったが、自分の役割があることで、千鶴は居心地のよさを感じてもいた。
これまで千鶴は自分のことを、祖父母にとって単なるお荷物に過ぎないと受け止めていた。しかしこうして頼られていると、家族の一員として扱われているように思えるのだ。
学校のことは気になったが、このまま学校をやめて家の仕事をするのも、悪くないかもしれないと考えるようにもなった。
ただ、鬼の計画に従わなかった以上、この先に安定した暮らしが待っているはずがなかった。
十日以内に東京との取引が再開できなければ、山﨑機織は倒産に追い込まれるのである。それなのに東京からの連絡は来ないし、甚右衛門もトミも身動きが取れない。誰が見ても山﨑機織は瀕死の状態だった。
これが鬼の仕組んだことである以上、千鶴が喜兵衛との結婚を承諾しない限り、東京からの連絡は来ないに違いない。日を追う毎に、千鶴は責任を深く感じた。
銀行との約束の期限まであと三日に迫った日の朝、祖母の食事の世話をしながら千鶴は涙をこぼした。
何を泣くのかとトミに問われた千鶴は、畳に両手を突いた。
「うちのせいで、お店が傾いてしまいました。うちが鬼山さんとの縁談を断らんかったら、こがぁなことにはならんかったし、おばあちゃんかてこげな病気にならんかったのに……」
トミは弱々しく微笑むと、ええんよ――と言った。
「これで店が潰れるんなら、ほれがこの店の定めじゃったぎりのことぞな。前も言うたけんど、あがぁな男のことは気にせいでええ。もういつ死ぬるかわからんけん、言うとこわいね。うちらにとってはこの店よりも、お前の方が大事なんよ。ほじゃけん、お前は何も気にすることないけんな」
千鶴は祖母の言葉が信じられなかった。祖父と同じく自分を疎む祖母が、こんなことを言うわけがない。鬼に言わされているのかと思ったが、そうであるなら喜兵衛と一緒になって欲しかったと言うはずだ。
トミは食事をやめると横になって目を閉じた。千鶴は何も言えないまま呆然としていたが、目には涙が勝手にあふれていた。
四
千鶴がトミに寝間で朝食を摂らせている間、先に食べ終わった使用人たちは、それぞれが自分の仕事を始めていた。
隣の茶の間では、仏頂面の甚右衛門が一人で新聞を読んでいる。しかし右手がまだ上手く使えず、左手で紙面をめくっている。食事をするにも不自由しており、そのいらだたしげな様子を見ると、記事の内容などほとんど頭に入っていないようだ。
いつもであればトミが甚右衛門にお茶を淹れるところだ。だがトミが動けないので、代わりに花江が甚右衛門の傍に湯飲みをそっと置いた。そこへ帳場から困惑顔の弥七がやって来た。
「旦那さん、大八車がめげてしもたぞなもし」
何ぃ?――と唸るような甚右衛門の叫びに、トミは目を開けて体を起こした。
甚右衛門は急いで立ち上がろうとしたが、足の痛みに動きを止めた。それでも大八車が壊れたのが本当であれば一大事である。甚右衛門は苦痛をこらえながら立ち上がると、ゆっくりと土間に降りた。
弥七は主の様子を窺いながら、また帳場の方へ戻った。その後ろを甚右衛門が足を引きずりながら続いた。
しばらくすると、何をしとるんじゃい!――と甚右衛門の怒鳴り声が聞こえた。
千鶴と顔を見交わしたトミは、様子を見て来るようにと言った。
台所にいた花江は、すぐさま帳場の方へ向かった。それに続くように千鶴が土間へ降りると、仕事へ行く身支度を終えた幸子が離れから出て来た。
異様な雰囲気に気づいた幸子は、どうしたのかと千鶴に訊ねた。千鶴が説明しようとすると、怒りで興奮した様子の甚右衛門が足を引きずりながら戻って来た。
何も言わずに茶の間へ這い上がった甚右衛門は、肩で大きく息をしながら呆けたように黙っている。
祖父を刺激しないために、千鶴は説明をやめて母と帳場へ向かった。だが帳場には誰もおらず、みんなが店の外に出ていた。
千鶴たちも外へ出ると、辰蔵と茂七、弥七の三人が大八車を押さえながら何かをしている。その傍では亀吉と新吉が立ったまま泣いていた。
近所の者たちが朝の忙しい中、仕事の手を止めて様子を見に来ている。
花江が辰蔵たちの後ろに立っていたので、千鶴は花江に声をかけて、どうしたのかと訊ねた。花江は振り返ると、車輪が外れてしまったみたいだと言った。
見ると、確かに左の車輪が外れており、それを何とか本体に引っつけようと、辰蔵たちが苦闘していた。しかし、いくら押さえつけたところで壊れた物が直るはずもない。
無理ぞな無理ぞな――と野次馬たちは無慈悲に口を揃えるが、誰も代わりの大八車を貸してやろうとは言わない。
どうして壊れたのかと幸子が訊ねると、わからないと花江は言った。
修理をあきらめた辰蔵が立ち上がると、千鶴たちの所へ来て、もう古い物なのでここのところ調子がよくなかったと言った。
夜の間、大八車は店の土間に仕舞われている。朝になると丁稚たちが表に出して荷物を運ぶ準備をするのだが、今回外へ出す時に車輪が店の敷居を超えたところで、がくんと外れてしまったらしい。
予備の物はないので修理に出そうにも出せずにいたのだが、それがとうとう壊れてしまったというのが真相のようだ。
それは甚右衛門もわかっていたはずだが、今の追い詰められた状況の中、大八車が壊れたことは店にとどめを刺されたのと同じ意味だった。
思わず甚右衛門が丁稚たちを怒鳴りつけたのも無理ないことではあったが、気の毒なのは丁稚たちである。何も悪いことをしていないのに頭から怒鳴りつけられ、弁明さえも許されなかったのだ。
困惑した辰蔵に目を向けられると、野次馬たちはこそこそと自分たちの仕事に戻った。どこも遠方へ送る品を古町停車場まで運ぶ準備をしているところだ。大八車を貸してくれと言われても困るのだろう。
辰蔵の話では、この日は作五郎からの指示に合わせて、絣を大阪へ送り出すことになっており、その品を大八車に積み込もうとしていたところだったそうだ。
しかし、大八車が使えないとなると約束の品を送れない。陸蒸気の時刻は決まっているので、あとから運んだのでは期日に間に合わなくなってしまう。
それに町中の太物屋へ注文の品を納めることもできなくなる。そうなると客からの信用をなくすばかりか、銀行からも厳しく咎められるに違いない。
辰蔵はさっきの野次馬たちに、大八車を貸してもらえないかと掛け合ってみた。だが予想したとおり、どこの店もいい返事をしてくれず、途方に暮れるしかなかった。
いよいよ山﨑機織はおしまいだと、千鶴は自分の責任を感じていた。泣いている亀吉と新吉を抱き寄せて慰めながら一緒に泣いた。
その時、札ノ辻の方から、がらがらという音が聞こえて来た。
音の方を見ると、札ノ辻から男が一人、大八車を引いてやって来る。後ろの荷台には、どっさりと荷物が縛りつけられてある。近づいて来る男の着物は継ぎはぎだらけだ。
――まさか?
男も千鶴に気づいたらしい。目を見開くと嬉しそうに笑った。
「これはこれは、千鶴さんやないですか。おはようござんした」
嬉しさでいっぱいになった千鶴は、何も言葉を出すことができなかった。体が勝手に駆け寄ると、千鶴は忠之に抱きつき泣いた。
優しい温もりが、体ばかりか心までも包んでくれる。
「おっと、どがぁしんさった? 何ぞ、あったんかなもし?」
亀吉と新吉が泣くのも忘れ、驚いたように見ている。辰蔵たちも同じように千鶴たちに顔を向けている。
忠之は優しく千鶴の背中を叩きながら、子供らが見よるぞな――と千鶴の耳元で言った。
我に返った千鶴は慌てて忠之から離れ、後ろを振り返った。
亀吉と新吉はぽかんとしたまま千鶴たちを見ているし、辰蔵たちも何が起こったのかわからない様子だ。
近くの店の者たちも、思いがけないことに目が釘づけになっていたようだ。千鶴と目が合うと慌てたように動き出した。
忠之は亀吉たちの所へ大八車を引いて行くと、どがいしたんぞ?――と訊ねた。しかし二人とも、どう言えばいいのか困惑したようにもじもじしている。見てはいけないものを見てしまったという気持ちが、そうさせたのかもしれない。
「これぞな」
辰蔵が壊れた大八車を指で差すと、ははぁと忠之はうなずき事情を察したようだ。
「ほんじゃあ、この荷物を急いで降ろして、ほれから、こいつでこっちの荷物を運びましょうわい」
「え? そがぁしてもらえるんかな?」
驚く辰蔵に忠之は笑顔で言った。
「大したことやないぞなもし。困った時はお互いさまですけん。ほれに、おらは人さまのお役に立てるんが嬉しいんぞなもし」
「そがぁしてもらえたら、まっこと助かるぞなもし。お前さまには先日も親切にしてもろて、ほんまに恩に着るぞなもし」
辰蔵は頭を下げると、茂七と弥七に命じて急いで積み荷を中へ運ばせた。
忠之は亀吉たちにも声をかけ、自分と一緒に荷物運びを手伝わせた。亀吉たちに笑顔が戻り、二人は張り切って荷物を運び入れた。
荷物は中身を確認してからでないと蔵へは運べない。それで帳場は運ばれて来た木箱が山積みされた。
荷物が全部降ろされると、今度は大阪へ送る荷物を載せる番だ。
手代と丁稚の四人が急いで蔵から木箱を運んで来て、辰蔵がその中身を確かめた。確かめ終わった木箱は忠之が大八車に積んだが、蔵から品を運び終えた手代たちもそれを手伝った。
花江から聞いたのだろう。荷物を運べると知った甚右衛門が表に出て来て、大八車に荷物が積まれる様子を眺めている。その後ろには、花江が嬉しそうに立っている。
忠之たちが忙しく動き回るのを、自分も手伝いたいと思いながら千鶴が見ていると、知り合いなのかと幸子が声をかけて来た。
千鶴は少しうろたえたが、黙ってこくりとうなずいた。幸子は千鶴と忠之の顔を見比べると、そういうことかと言う感じで、微笑みながらうなずいた。
荷物を全部積み終わると、甚右衛門は忠之に感謝した。
忠之は照れ笑いをしながら、まだ終わっていないと言い、大八車を引いて行こうとした。千鶴は忠之を呼び止め、運ぶ先がわかっているのか確かめた。
忠之は頭を掻いて笑うと、どこじゃろか?――と言った。みんなが笑い、いい雰囲気が広がった。
辰蔵は茂七に後ろから押しながら道案内をするよう言った。
茂七は大八車の後ろにつくと、正面の突き当たりを右へ曲がるのだと忠之に教えた。
「すまんね、茂七さん」
忠之は大八車を引きながら言った。
「何言うんぞな。ほれはこっちが言うことぞな。こないだもあしの戻りが遅なった時に、荷物運びを手伝てもろたみたいなし。お前さんはあしらの福の神ぞな」
「おらが福の神? そげなこと言われたんは初めてぞなもし」
「ほれにしても、今日はずいぶん早いんやな。お陰さんで助かったけんど、びっくりしたぞな」
「何、朝早うに目が覚めてしもたぎりぞなもし」
二人が喋りながら大八車を動かして行くのを、千鶴はみんなと一緒に見送っていた。
どんどん離れて行くので、二人が喋っていることはよく聞き取れない。それでも、こないだも忠之がここの仕事を手伝ったようなことを、茂七が言っていたのは聞こえた。
それはどういうことなのかと千鶴は考えたが、何故忠之が大八車で荷物を運んで来たのかもわからない。どういうわけか忠之は知らぬ間に山﨑機織と関係を持っていたようだ。
何が起こっているのかわからず、歯痒く思う千鶴の袖を新吉が引っ張った。
「なぁなぁ、千鶴さん。あの兄やんと千鶴さんて、どがぁな仲なんぞなもし?」
「こら、新吉。余計なこと言うな!」
亀吉が慌てたように新吉を叱ると、何の話ぞな?――と甚右衛門が二人を見た。
「いや、あの、えっと……」
亀吉が口籠もると、新吉が言った。
「あの、さっき千鶴さんがあの兄やんに抱きつきんさって、泣いておいでたんぞなもし。ほれで、あの兄やんが千鶴さんのこと、こがぁして慰めよったけん」
新吉は亀吉を抱き寄せると、背中をぽんぽんと叩いた。
「何しよんぞ!」
亀吉が真っ赤になって新吉を突き放した。だが新吉も負けていない。旦那さんに説明しよんじゃが!――と怒って言い返した。
「千鶴、今の話はまことか?」
甚右衛門が千鶴を質すと、みんなの目が千鶴に集まった。
千鶴は下を向くと、蚊の鳴くような声で、はい――と言った。顔が熱く火照っている。きっと真っ赤になっているに違いない。
そがぁ言うたらと、辰蔵が思い出したように言った。
「二人とも互いの名前を知っておいでましたな。つまり、お二人は元々知り合いじゃったいうことかなもし」
千鶴が黙っていると、あの兄やんは誰かと、新吉が千鶴の顔をのぞき込んだ。
千鶴は顔を上げると、甚右衛門に言った。
「名波村の祭りを見に行った時に、うちを助けてくんさったお人のことを、おじいちゃんにお話しましたけんど、あのお方がそのお人なんぞなもし」
何?――と甚右衛門が大きな声を出した。
幸子と花江は顔を見交わしてうなずき合った。
「旦那さん、これはどがぁな話ぞなもし?」
辰蔵が訊ねると、甚右衛門は言葉を濁しながら、千鶴が村の男に絡まれたが、それをあの男が助けてくれたらしいと言った。
祭りの報告の時、千鶴は楽しい話しかしなかったので、辰蔵たちは意外そうに驚いた。この話が初耳の幸子と花江の顔にも、少し不安が走ったようだ。
「ほれで千鶴さんは、ひどいことはされんかったんですか?」
「あの男に助けてもろたけん、無事じゃったそうな」
辰蔵は安堵したように千鶴を見た。幸子と花江もほっとしたようだ。
旦那さん――と、また新吉が甚右衛門に声をかけた。
甚右衛門に叱られて泣いていたくせに、新吉は甚右衛門がそれほど怖くはないらしい。亀吉が泡食ったような顔をしているのに、新吉は平気な顔で甚右衛門に訊ねた。
「千鶴さんに絡んだ奴らて、どがぁな奴やったんぞなもし?」
甚右衛門は新吉の馴れ馴れしさを叱りもせずに、楽しげな顔で言った。
「でかい男が四人じゃったと」
「でかいのが四人?」
新吉は目を丸くして亀吉を見た。亀吉も驚いた顔をしている。幸子と花江の顔にも、再び不安のいろが浮かんだ。
「なぁなぁ、千鶴さん。旦那さんが言うたんはほんまなん?」
今度は新吉は、千鶴に訊ねた。
もう隠しておけないと悟った千鶴は、うん――とうなずいた。新吉はまた目を丸くして、亀吉と顔を見交わした。
「ほれにしても奇遇な話ぞな。千鶴さんを助けた男が、ここでこがぁな形で千鶴さんと再会するとは、まっこと人生とはわからんもんぞなもし」
辰蔵が感慨深げにうなずくと、新吉がまた千鶴に言った。
「千鶴さん、あの兄やんのこと好いとるん?」
阿呆!――と亀吉が新吉の頭を叩いた。
「何するんぞ! 痛いやないか」
「余計なこと言うなて、言うとろうが」
これ!――と辰蔵が叱ると、二人はおとなしくなった。
千鶴は恥ずかしくて、何も聞こえていないふりをした。幸子と花江がくすくす笑っている。
「なるほどな」
甚右衛門はにやりと笑うと、あの男が戻って来たら奥へ通すようにと辰蔵に言った。
辰蔵はわかりましたと言い、黙って突っ立ったままの弥七を振り返った。辰蔵に声をかけられた弥七は驚いたように返事をした。
辰蔵は弥七に忠之が運んで来た品の確認と、蔵への移動を命じて帳場へ戻った。
「茂七が言うたように、あの男は福の神かもしれんな」
甚右衛門は独り言のようにつぶやきながら、ちらりと千鶴を見ると店の中へ入った。
千鶴――と幸子が千鶴に声をかけた。その隣で花江がにやにやしている。
「あんた、あの花、あの人からもろたんじゃろ?」
銭湯で見られた野菊の花のことだ。
もう隠しても仕方がない。本人に確かめてはいないが、あの人が飾ってくれたのは間違いないだろう。
千鶴が素直にうなずくと、花江の笑顔がさらに明るさを増した。
「あの人は喧嘩も強いんだね?」
黙っていられない様子で花江が訊ねた。
恐ろしいくらいに強いと千鶴が言うと、信じられないねと花江は幸子を見た。自分の目で見た忠之の人柄や様子と、喧嘩の強さが結びつかないようだ。
傍で話を聞いていた亀吉と新吉が、どうやって四人も倒せるのかと話に交ざった。千鶴が説明しようとすると、仕事を手伝えと言う弥七の怒鳴り声が飛んで来た。
亀吉たちは慌てて店に戻り、花江もいそいそとお茶の用意をしに行った。
「あんたが鬼山さんとのお見合い断ったんは、あの人がおるけんじゃね?」
幸子が訊ねると、千鶴はこくりとうなずいた。
「さっき、おじいちゃん、何ぞ考えておいでたみたいなね」
幸子は微笑むと、家の中に弁当を取りに戻った。もう行かねばならない時刻だ。
一人残った千鶴は大林寺の方を眺めていた。古町停車場で荷物を降ろした忠之たちが、そこに姿を現すはずだ。
本当はそこまで迎えに行きたいが、それははしたないことだ。もどかしいが、ここで待っているしかない。
近くの店の者たちが興味深げに顔をのぞかせていた。しかし、千鶴はそんなことは少しも気にならない。二度と逢えないと思っていたあの人が来てくれたのだ。他のことなどどうでもよかった。
この奇跡のような再会で、胸の中は感激でいっぱいだ。話したいことはいくらでもあるが、どうして山﨑機織へ大八車で反物を運んで来たのかも訊かねばならない。
大林寺の方へ多くの大八車が向かって行く。それらを見送りながら、千鶴は戻って来る忠之の姿を待ち続けた。
鬼の真実
一
「此度はお前さんにはまことに世話になった。お前さんがおらなんだら、どがぁなっとったかと思うと感謝の言葉もないぞな。このとおり、改めて礼を言わせてもらうぞなもし」
茶の間に通されて正座をする忠之に、甚右衛門は手を突いて頭を下げた。足も手も痛いだろうが、甚右衛門は顔をゆがめたりはしなかった。
トミは茶の間とは隔てられた寝間にいたが、そこの襖を開けて甚右衛門同様に頭を下げていた。
着物が寝巻である上に、後ろには敷いたままの布団が見える。トミの体調がよくないことは、忠之には一目でわかっただろう。怪我をしている甚右衛門ばかりか、トミまでもが布団から出て来て頭を下げたことに、忠之は大いにうろたえた様子だった。
「やめておくんなもし、旦那さんもおかみさんも、どうか頭を上げてつかぁさい。おら、そがぁにされるような者やないですけん」
甚右衛門は頭を下げたまま言った。
「お前さんには、千鶴がえらい世話になったとも聞いとるぞな。ほんことも含め、お前さんにはなんぼ感謝しても感謝しきれまい」
「ほれにしたかて、そこまでしてもらわいでも構んですけん。どうぞ、お二人とも頭をお上げになっておくんなもし」
ようやく甚右衛門たちが体を起こすと、忠之は居心地が悪そうにそわそわした。
「どがぁしんさった?」
「おら、体汚れとるけん、こがぁな所に通してもらうんは気が引けるぞなもし。こないだみたいに上がり框で十分ですけん」
こないだという言葉が千鶴は歯痒かった。自分が知らない間に忠之がこの家を訪れ、ここの上がり框に座っていたのである。
それがいつのことかと訊こうとしたら、先に甚右衛門が言った。
「お前さんはまっこと謙虚な御仁じゃな。そがぁな心配はせいでも構んけん、膝を崩してゆっくりしたらええ」
はぁとうなずきながらも、忠之は正座の姿勢を崩さなかった。そわそわしてはいても背筋が伸びたその姿勢は、田舎の男とは思えないような品のよさがある。その姿に千鶴は改めて心が惹かれたが、甚右衛門とトミも感ずるところがあるようだった。
その甚右衛門は足を痛めているため、長く正座はできない。申し訳ないがと言うと、ようやく顔をゆがめて左足を伸ばすように足を崩した。忠之は慌てた様子で両手を振りながら、どうぞどうぞと言った。
「足を痛めんさったんですか?」
「ちぃと左の太腿と右腕をな。郵便屋の自転車にぶつかられてしもたんよ」
ほれはお気の毒に――と忠之が甚右衛門を案じていると、お茶を淹れた花江が、どうぞと言って忠之の前に湯飲みと茶菓子を配った。忠之は両手を太腿の上に置いたまま、これはどうもと、背筋を伸ばして軽く会釈した。花江は思わずという感じで、ほんとにいい男だねぇ――と言った。
それから花江は慌てたように手で口を押さえると、甚右衛門とトミに頭を下げた。だが千鶴を見た花江の顔には、何か言いたげな笑みが浮かんでいた。
千鶴が恥ずかしくて下を向くと、甚右衛門は忠之に茶菓子を食べるよう促した。
忠之は静かに茶菓子を食べ、それからお茶を飲んだ。その一つ一つの所作は、やはり気品を感じさせるものだった。
忠之の様子を観察しながら自分も茶菓子を食べ、お茶を飲んだ甚右衛門は、湯飲みを置いて忠之に話しかけた。
「ほれにしても、今日はえらい早ように着いたんじゃな。お陰でわしらは助かったけんど、どがぁしたらこがぁに早ように来れるんぞな? 昨夜はどこぞに泊めてもろたんかな?」
「前ので慣れましたけん、お天道さんが顔出すちぃと前から走って来たんぞなもし」
千鶴は驚いて忠之を見た。甚右衛門もトミも目を丸くしている。
「お天道さんが顔出す前から走って来た? 風寄からかな?」
忠之がうなずくと、甚右衛門とトミは顔を見交わした。台所の土間にいる花江までもが、口を半分開けたまま忠之を見ていた。
「あんた、ほんまにそげなことしんさったんか?」
トミが驚いた顔のまま訊ねると、忠之は少し当惑気味にうなずいた。
「じゃあ佐伯さんは、まだ朝ご飯を食べてないのかい?」
びっくりした様子の花江を振り返り、忠之は笑って言った。
「朝飯前て言うやないですか」
「それはそうだけどさ。何も食べずに遠い所から一人であんな荷物を運んで来るなんて、普通じゃできないよ」
みんなが驚くばかりなので、忠之は少し困ったようだった。
甚右衛門は唖然としたまま言った。
「ほれにしても、そがぁに早くじゃったら兵頭がうるさかったろうに」
「まぁ、ほうですね。ほんでも前の日から言うときましたけん、荷物の準備はしてくれよりました」
千鶴は兵頭というのが誰のことかわからなかった。だがそれよりも、忠之がいつここを訪れたのかだ。
「あの、前ん時ていつのことぞな?」
ようやく千鶴が遠慮がちに訊ねると、トミが言った。
「あんたのお友だちが遊びにおいでたじゃろがね。あん時ぞな」
「え、ほんまに? そげなこと、うち、聞いとらんぞなもし。あの日、佐伯さん、ここにおいでてたん?」
千鶴が顔を向けると、忠之は戸惑いを見せた。それで甚右衛門が代わりに言った。
「風寄の仲買人で兵頭いう男がおるんやが、その男の牛が病気になってしもてな。絣を運べんなったんよ。ほれをこの佐伯くんが一人で大八車で運んでくんさって、兵頭もわしらも大助かりじゃった」
風寄には何人かの仲買人がいて、農作業の傍ら織元から買い求めた伊予絣を絣問屋へ売りに来る。兵頭はその中の一人で、馬酒村と名波村で作られた伊予絣を運んで来る。馬酒村は川を挟んで名波村と隣り合った村だ。
しかし、ここのところ牛の調子が悪かったらしい。それにもかかわらず、兵頭は牛を酷使した。そのためにとうとう牛が動かなくなってしまい、兵頭は困り切っていたそうだ。
そんな兵頭にたまたま出くわした忠之が、牛代わりの手伝いを申し出たのだと言う。
忠之は兵頭と一緒に織元を訪ね、大八車で絣を運んだ。坂道でも忠之は平気な顔で大八車を引いたので、兵頭は忠之の働きぶりを認めたそうだ。それで、こうして山﨑機織までの絣の運搬を任せてもらえたというのが忠之の説明だった。
その期待に応えて、忠之は仕事をきっちりこなし、お金も一銭の間違いもなく受け取って戻った。それで兵頭はすっかり忠之を信頼したらしい。
それにしても兵頭も一緒に来るべきだろうにと千鶴は思った。それを言うと、最初に忠之が松山まで絣を運んで来た時、兵頭は腹を壊して長い道が歩けなかったと忠之は言った。それで荷物の運搬から代金の受け取りまで、忠之一人に任せられたのだそうだ。
今回は兵頭は体調が悪かったわけではないが、再び忠之一人に絣を運ばせた。それは忠之を信用しているからだろうが、要するに兵頭は楽をしたわけだ。
とは言っても、朝早くに風寄から松山まで走る忠之に、兵頭はついて来ることができなかったに違いない。
「ほうは言うても、松山に不慣れな佐伯さん一人で、荷物の届け先が全部わかるんぞな?」
千鶴の問いに忠之は頭を掻きながら答えた。
「兵頭さんが荷物を届ける先の半分が、東京の大地震の煽りで潰えてしもたんよ。ほんでもう半分は仕入れをやめてしもとったけん、届けるんは山﨑機織さんぎりじゃったいうわけぞな。ここじゃったらわかりやすい所にあるし、おらも知っとる所じゃったけんな」
「知っとる所じゃった言うんは、どがぁなことね?」
トミが訊ねると、忠之ははっとしたような顔で千鶴を見た。余計なことを言ってしまったと思ったようだ。
ほれはな――と甚右衛門は笑いながら、千鶴が風寄の祭りから戻った時に、忠之が人力車で千鶴と春子の二人をここまで運んで来たという話をした。
トミは呆れた顔で忠之を見たが、台所の花江もまたもや開いた口がふさがらないようだ。
「そがぁなことまでしてもろたんかな。もう何言うたらええんかわからんけんど、とにかくだんだんありがとうございました」
トミが改めて両手を突いて頭を下げると、忠之はトミを拝むようにして、頭を上げるよう頼んだ。
「おらには風寄からここへ来ることは、全然大したことないですけん、そがぁに言わいでつかぁさい」
「ほやかて、あんたがおらなんだら、千鶴もこの店もどがぁなっとったかわからんぞな」
涙ぐんで喋る祖母を見て、千鶴はまた混乱した。
店よりも千鶴が大事だと祖母は言ってくれた。その理由はわからないが、それはこれまでの祖母が見せて来た態度とは、まったく真逆なものだった。それをまたこんな様子を見せられては、嬉しくはあるものの混乱するしかなかった。
うろたえを隠したい千鶴は、話を戻す形で忠之に話しかけた。
「ほんでも、ほんな上手い具合に、うちぎりが届け先になったやなんて」
「兵頭さん所ぎりやのうて、他の仲買人らもみんな仕入れが止まってしもとったけんな。言うたらここぎりが仕入れを注文してくれたいうことぞな。しかもな、旦那さんは他が仕入れを止めとる分、いつもの倍仕入れてくれたて、兵頭さん、感激しよったかい」
山﨑機織だって東京の大地震による被害は少なくない。それなのに仕入れを増やせたのは、大阪の作五郎のお陰だと甚右衛門は言った。
「ちょうど大阪で大口の契約がようけ取れたんやが、みんな風寄の絣がええ言うてくれたんで、ほれで仕入れを増やすことがでけたんよ。言うたら、風寄の織子の腕がよかったお陰でもあるわいな」
兵頭にすれば、山﨑機織の仕入れはこの時期に貴重な仕事のはずだった。それなのに荷車を運ぶ牛が使えなくなったのには、大いに慌てたことだろう。それを忠之が運んでくれたのだから、兵頭にとっても忠之はまさに福の神に見えたに違いない。
「ほれにしても、こないだ佐伯さんがおいでてたてわかっとったら、うち……」
事情はわかったものの、やはり千鶴は悔しくて仕方がない。
「どちゃみち友だちがおったんじゃけん、どがぁもなるまい」
甚右衛門は笑うと、佐伯くんににぎり飯を作ってやってくれと花江に頼んだ。花江は明るく返事をすると、お櫃の所へ行った。
忠之に向き直った甚右衛門は、ほれで――と言った。
「兵頭ん所の牛は、もういけんみたいかな?」
「いけんみたいぞなもし。もう、だいぶ歳ですけん寿命やなかろか思とります」
「ほうかな。ほれで、お前さん、牛の代わりはいつまで続けるつもりぞな?」
祖父が何を考えているのか、ぴんと来た千鶴は期待を込めて忠之を見た。
忠之は頭を掻きながら、ほれが――と言った。
「おらが絣を運んで来るんは、これが最後ぞなもし」
「これが最後? 兵頭は新しい牛を手に入れた言うんかな?」
忠之はうなずくと、ほういうわけぞなもし――と言った。
千鶴は半分喜び、半分不安になった。あとは祖父と忠之のやり取りを見守るだけだ。
「この仕事辞めたら、あとはどがぁするつもりぞな?」
探るような口調で甚右衛門が訊ねると、忠之の方はさらりと答えた。
「これは別に仕事やないんぞなもし」
「仕事やない? 風寄からここまで大八車を引いて来て、また向こうへ戻るんぞ? ほれが仕事やないて言うんかな?」
「これは、おらの好意でしよるぎりのことですけん」
忠之は笑みを見せたが、甚右衛門は眉間に皺を寄せた。
「お前さん、ひょっとして兵頭から銭をもろとらんのか?」
忠之がうなずくと、甚右衛門は憤ったように横を向いた。トミも信じられないという顔だ。
どうして兵頭が山陰の者である忠之に、この仕事を任せたのか。
それは忠之がただで牛の代わりをしてくれたからのようである。しかも、代金をごまかしたりしないお人好しだ。利用しない手はないと兵頭は考えたのだろう。だが、こんな人を馬鹿にした話があるだろうか。
千鶴は思わず忠之に言った。
「佐伯さん、なしてぞな? なして、ただでこがぁなことを?」
忠之は少し迷ったあと言った。
「正直言おわい。おらな、松山へ来る口実が欲しかったんよ」
「松山へ来る口実?」
「千鶴さんがおる松山に来てみたかったんよ。別に千鶴さんに会うつもりはなかったけんど、千鶴さんが暮らしておいでる松山に来てみとうて、この役目を引き受けたんよ」
千鶴が暮らす松山へ来てみたい。その言葉は間違いなく千鶴への好意の表れである。千鶴に会いたかったとは言わない忠之にもどかしさを覚えながらも、千鶴は喜びに胸が詰まった。
二
お待たせ――と言って、花江が大きめのにぎり飯二つと、漬け物の小皿を忠之の前に置いた。
おぉと感激する忠之に、花江は小声で言った。
「朝飯も食べずに風寄から走って来たのは、本当は千鶴ちゃんに会いたかったんだろ?」
「いや、そがぁなことは……」
惚けようとする忠之に、花江はにっこり笑って言った。
「別にいいけどさ。千鶴ちゃん、あの花、今も大事に持ってるんだよ」
忠之は驚いたように千鶴を見た。それは、千鶴に花を飾ったのは自分だと白状したようなものだ。
何となくうろたえた感じの忠之に、甚右衛門は先に飯を食うように言った。
まるでにぎり飯の匂いに引かれたように、帳場から新吉がそっと顔を出した。新吉はにぎり飯を羨ましそうに眺めていたが、すぐに亀吉に引っ張って行かれた。
その様子に花江は笑っていたが、誰かに呼ばれたのか、花江も帳場の方へ行ってしまった。
忠之は両手を合わせると、がつがつとにぎり飯に食らいついた。やはり腹が空いていたようだ。
途中で忠之が喉を詰まらせると、千鶴が背中を叩いてお茶を飲ませてやった。その光景を甚右衛門もトミも微笑ましく眺めていた。
忠之がにぎり飯も漬け物も平らげると、甚右衛門は言った。
「さっきの話やが、お前さんがただで絣を運んでくれるんなら、兵頭は新しい牛を手に入れるより、お前さんに運んでもらい続けた方が得やし、楽なんやないんか? お前さんのことを信頼しとるようじゃし」
ほうなんですけんど――と、また忠之は頭を掻いた。
「おらのおとっつぁんが、おらが銭もろとらんのを知って怒ったんぞなもし。ほれでまぁ、こがぁなことになってしもたわけでして」
忠之は千鶴の方に体を向けて言った。
「ほんでも、最後にこがぁして千鶴さんに会えたんは、お不動さまのお導きぞな。ここまで大八車引くんも楽しかったし、みなさんのお役にも立てたし、おら、十分満足できたぞなもし」
千鶴は何とかするよう祖父に目で訴えた。甚右衛門は咳払いをすると、実はな――と言った。
「うちは今、人手が足らんで困っとるんよ。ほやけど、誰でもええ言うわけにもいかんけん、どがぁしたもんじゃろかと思いよったとこに、お前さんが現れたわけよ。わしが言いたいこと、わかろ?」
甚右衛門はのぞきこむように忠之を見た。しかし忠之は小首を傾げている。焦れったくなった千鶴は忠之に言った。
「佐伯さん、うちで働きませんか?」
千鶴の言葉を後押しするように甚右衛門も言った。
「本来なら、もっとこんまいうちに丁稚で入れて、じっくり育ててから手代にするんぞな。けんど、お前さんは子供やないけん、すぐに手代になれるようなら、きちんと給金を出そうわい」
「ほやけど、おら、こがぁな所で働いたことないですけん」
「お前さん、読み書き算盤はできるんかな?」
「はぁ、一応は」
「ほれじゃったら、すぐに手代になろ。この仕事で一番大事なんはお客からの信頼ぞな。そのためには知識はもちろんなけんど、何より人柄が大切ぞな。その人柄がお前さんは言うことなしよ。うちとしては是が非でもお前さんに来てもらいたいと思とるが、どがいじゃ? ちぃと考えてみてはもらえまいか?」
忠之は腕組みをして思案した。千鶴はなりふり構わず、忠之の着物の袖を引っ張った。
「佐伯さん、お願いじゃけん、うんて言うておくんなもし! うんて言うてくれんのなら、うち、佐伯さんを帰さんぞな」
「どがぁする? 千鶴もこがぁ言うとるぞな」
甚右衛門がにやにやしながら言った。トミも楽しげに眺めている。
忠之は目を閉じたまま、腕組みをして考え続けていた。やがてぱちりと目を開けると、わかりましたぞなもし――と忠之は言った。
「おらの気持ちとしては、お言葉に甘えさせてもらう方に傾いとります。けんど、おらの家族が反対したら、この話はなかったことにさせてつかぁさい」
「お前さんは一人息子なんかな?」
「はい。ほじゃけん、おら、勝手なことはできんのです」
甚右衛門は少し顔をゆがめて言った。
「ほら、確かにほうじゃな。ところで、お前さんの家では、何をしておいでるんかな?」
「履物をこさえとります」
「履物か。お前さんが後を継がんと、だめんなるわけじゃな」
忠之がうなずくと、甚右衛門の勢いがなくなった。自分と同じ境遇を忠之の親に見たのだろう。無理なことは言えないと悟ったようだ。
千鶴もがっかりしたが、それでもあきらめきれない。せっかくまた会えたのに、このまま別れてしまうなんて、あまりに酷な話だ。
その時、帳場から困惑した様子の花江が戻って来た。ちらちらと帳場を振り返りながら、こちらに何かを言いたいみたいだが、甚右衛門の話に割り込めずにいるようだ。
「もう一つぎり聞かせてもろても構んかな?」
甚右衛門が遠慮がちに言った。
「お前さん、なして千鶴にいろいろ親切にしてくんさった? 見てのとおり、この子には異人の血ぃが混じっとる。邪険にする者が多いのに、なしてお前さんは千鶴を大事にしてくんさるんぞな?」
忠之は姿勢を正すと、きっぱり言った。
「千鶴さんは素敵な娘さんぞなもし。ほれに、まっこと優しいお方ぞなもし」
「優しい? 千鶴の方がお前さんの世話になったんじゃろ?」
「おら、力ぎり自慢の何の取り柄もない男ぞなもし。誰っちゃ見向いてくれん男ぞな。けんど、千鶴さんはこげなおらに優しい言葉をかけてくんさったんです。ほじゃけん、おら、千鶴さんの力になりたい思たんぞなもし」
自分が山陰の者であることを、忠之は暗に話しているのだと千鶴は思った。だが、そんなことで自分を卑下するのは間違いだ。千鶴は黙っていられなくなった。
「佐伯さんこそ素敵なお人ぞな。取り柄がないやなんて、そげなことありません。うちみたいな者のために、ここまでしてくれるお人なんて、佐伯さん以外にはおらんぞなもし」
千鶴が忠之を持ち上げると、忠之は甚右衛門やトミがいるのを忘れたかのように言葉を返した。
「千鶴さんこそ、千鶴さんほどええ人はどこっちゃおらんのじゃけん、自分のことをそがぁに言うもんやないぞな」
「ほれは佐伯さんのことぞなもし。佐伯さんこそ、まっことええお人なんじゃけん、もっと胸張ってええと思います」
台所で困惑顔だった花江が、くすくす笑っている。トミも笑いながら、まぁまぁと声をかけた。
甚右衛門もにやりと笑い、どっちもどっちじゃの――と言った。
あの――とようやく花江が甚右衛門に声をかけた。
何ぞなと機嫌よく顔を向けた甚右衛門に、花江は辰蔵が呼んでいることだけ伝えた。
ちぃと席を外すと言い置いて、甚右衛門は土間へ降りて帳場へ向かった。
まだ体が痛々しげな甚右衛門を見た忠之は、懐から油紙の包みを取り出して、これをあとで旦那さんにと言ってトミに手渡した。それは忠之が自分で薬草から作った膏薬で、万が一のためにと持っていたものらしい。
これは傷によく効くと請け合ったあと、忠之は失礼ながらと前置きをして、おかみさんはどこの具合が悪いのかとトミに訊ねた。
トミは笑ってごまかそうとしたが、心臓が弱っていると医者に言われたと、千鶴が話した。
忠之はうなずくとトミに胸の病に効くツボを教え、そこにお灸を据えるといいと言った。また、自分の本当の想いを隠さないのが、胸には一番いいと言った。
トミがはっとしたような顔になって涙ぐむと、医者でもないのに余計なことを言ったと、忠之はすぐに詫びた。だがトミは首を振ると、そのとおりだと思うと言った。
よければ少し指圧をしましょうと、忠之は遠慮するトミのツボを指で押した。それが気持ちよかったようで、トミは遠慮をやめて忠之に身を任せた。
「あぁ、気持ちがええ。胸に詰まっとった物が、すっと抜けて行くみたいぞな」
トミが心地よさそうに喋っていると、甚右衛門が顔を曇らせて戻って来た。
「どがぁしんさった?」
忠之に指圧をしてもらいながらトミが訊ねたが、甚右衛門は何でもないとしか言わなかった。だが、何か問題があるに違いなく、千鶴と忠之は顔を見交わした。
台所にいる花江が忠之を見ながら、何かを言いたそうなのだが、やはり口を半分開くばかりで何も言わない。
すると、そこへ新吉がやって来て、兄やん――と忠之に声をかけた。
「兄やんは、すぐ向こうに戻んてしまうんかなもし?」
「ほうじゃな。用が終われば戻らんとな」
「じゃあ、用事があったら戻らんでもええん?」
すんませんとトミに声をかけると、忠之は新吉の傍へ行った。
「何ぞあったんかな?」
「あのな、兄やんの大八車――」
こら!――と甚右衛門が新吉を叱った。
「余計なこと言わんで、あっちへ行っとれ!」
「ほやけど……」
新吉は口を尖らせたが、甚右衛門はもう一度、向こうへ行ってろと言った。すると亀吉が走って来て、新吉を帳場へ連れて行った。
「旦那さん、ひょっとして大八車のことでお困りなんかなもし」
忠之が訊ねると、甚右衛門は言いにくそうに、ちぃとな――とうなずいた。
「あのね、お店の大八車が壊れちまったから、町の太物屋に注文の品を運べないんだよ」
甚右衛門に代わって花江が言った。それは、できれば大八車を貸してもらえないかという、甚右衛門たちの頼みでもあった。
忠之は大きくうなずくと、気がつかずに申し訳ないと言った。
「おら、あの大八車はここへ置いて行きますけん、どうぞ好きなように使てやっておくんなもし」
「何? そがぁなことしたら兵頭が文句を言おう?」
「大丈夫ぞなもし。兵頭さんには、ここに着いた時にめげてしもたて言うときますけん」
「いや、ほやけど、ほれじゃったら兵頭が困ろ?」
「もう新しい牛が来ますけん、今度は牛車で運べばええんぞな。ほじゃけん、ご心配には及ばんぞなもし」
「いや、しかし……」
甚右衛門は当惑しているが、大八車が欲しいのは欲しいのだ。ただ、それをはっきり言えずにいるだけなのだが、忠之はそれがわかっているようだった。
「こちらのんがめげとるんを目にした時から、おらの大八車は置いて行くつもりでおりました。ほれをもっと早よに言うたらよかったんですけんど、言うのが遅なってしもて申し訳ありません」
甚右衛門は感激したように涙ぐみ、忠之の両手を握ると黙って頭を下げた。トミも両手を合わせて、忠之を拝むようにして頭を下げている。
花江は嬉しそうに帳場へ走って行った。そして、すぐに辰蔵たちと一緒に戻って来ると、みんなで忠之に感謝した。
忠之はうろたえながら、そろそろお暇しますと甚右衛門とトミに言った。それから千鶴にも挨拶をすると土間へ降りた。
その時、帳場の方で人の声がした。辰蔵が見に行ったが、すぐに興奮した様子で戻って来た。その手には何枚かの紙がある。
「旦那さん、来た! 来たぞなもし!」
「何が来たんぞな?」
訝しげな甚右衛門に、辰蔵は弾んだ声で言った。
「電報ぞなもし! 東京からの注文の電報が来たんぞなもし!」
何?――と言うなり、甚右衛門は辰蔵の手から電報を奪うように取った。そして、それを確かめると他の者たちにも見せてやった。
何のことかわからない様子の忠之に、大地震で壊滅した東京から待ち望んでいた絣の注文が入ったようだと、千鶴が教えてやった。
それはよかったと忠之が喜ぶと、あんたのお陰だよと花江が嬉しそうに忠之に言った。とんでもないと忠之が手を振ると、甚右衛門が言った。
「花江さんの言うとおりぞな。お前さんは、まさにわしらの福の神ぞな」
呆然としたように忠之を見つめる甚右衛門に、忠之はうろたえを見せた。
「やめてつかぁさい。電報とおらは関係ないですけん」
「いいや、お前さんは間違いのうわしらの福の神ぞな。まこと、お前さんは……」
感極まった様子の甚右衛門は、言葉に詰まって涙ぐんだ。トミも両手で口を押さえながら泣き出した。
忠之はますますうろたえ、ほんじゃあと逃げるように表に出た。
千鶴は慌てて忠之について外へ出たが、すぐに甚右衛門も追いかけて出て来た。
甚右衛門は千鶴に銭を持たせると、二人で団子でも食べるようにと言った。それから忠之に改めて礼を述べると、待っとるぞなと言った。
忠之は当惑気味に頭を下げると、山﨑機織を後にした。その横には嬉しさいっぱいの千鶴がいる。このあと忠之がどうなるかはわからないが、二度と会えないはずの人と奇跡の再会を果たしたのだ。千鶴の胸は期待に膨らんでいる。
三
「何から何まで、ほんまにありがとうございます」
千鶴は改めて忠之に礼を述べた。忠之は笑いながら、もうやめてつかぁさい――と言った。
「そげなことより、千鶴さんのご家族も、お店の人らもええ人ぎりじゃな。おら、まっこと安心した」
「まぁ、番頭さんらも花江さんもええ人なけんど……」
千鶴が言葉を濁すと、他は違うのかと忠之は眉根を寄せた。しかし、身内の陰口になるようなことは言いにくい。それに最近の祖父母は千鶴に優しい。それでも忠之が待っているから、何かを言わねばならない。千鶴は戸惑いながら口を尖らせてみせた。
「おじいちゃん、お店を継げる者がおらんけん、うちに無理やりお見合いさせたんぞなもし」
今の祖父につける悪態と言えばこれぐらいなのだが、そこまで言ってから、千鶴ははっとして口を押さえた。しかしすでに遅く、忠之はへぇと言う顔で千鶴を見ている。
「千鶴さん、お見合いしたんかな」
「いえ、お見合い言うか、おじいちゃんがいきなし男の人連れて来て、顔合わせさせられたぎりぞな。ほやけど、うち、ちゃんとお断りしたんです。何や偉そな感じのお人で、絶対嫌じゃ思たけん断ったんぞなもし」
喋っているうちに千鶴は喜兵衛のことを思い出して腹が立って来た。
「ほしたら、ひどいんぞなもし。ほの人、山﨑機織が潰えるて、嘘の噂を広めよったんぞな。お陰で銀行の人が来て、借金取り立てられそうになったし、おじいちゃんやおばあちゃんがあがぁになったんも、あの人のせいなんぞな」
憤る千鶴をなだめると、忠之はにっこりしながら言った。
「自分でこれはいけん思たら、その心に従うたらええ。お不動さまは千鶴さんの心の中においでてな、どがぁしたらええんか、千鶴さんの心を通して教えてくんさるんよ。そがぁしよったら、きっとええ人にめぐり逢えるけん」
「ほれじゃったら、うちはもうすでに、ええ人にめぐり逢うとりますけん」
「へぇ、ほうなんか。ほれは、どがぁなお人ぞな?」
何て焦れったい人なんだろうと千鶴は思った。だが、やはり心の内を打ち明けるのは気が引けた。
「前にも言うたけんど、うち、誰かを好いたり好かれたりできんのです」
「前にも言うたけんど、そげなことは絶対ないけん。千鶴さんは幸せになれるけん」
道を行き交う人たちが訝しげに二人を振り返った。それで、千鶴たちはしばらく黙ったまま歩いた。途中に寺が現れると、千鶴は寺の境内に忠之を引き込んだ。
誰もいない境内で、千鶴は忠之を見つめた。その目に忠之への想いを込めたのだが、忠之はどこまで鈍いのか、あるいはわかって無視しているのか、辺りをきょろきょろと見回している。
「千鶴さん、ここは何の寺ぞな?」
「そげなことは、どがぁでもええんです。うち、佐伯さんにどがぁしても訊きたいことがあるんぞなもし」
ようやく覚悟を決めたような顔になった忠之に、千鶴は言った。
「佐伯さん、風寄でお祭りの夜、大けなイノシシの死骸が見つかった話、ほんまは知っておいでるでしょ?」
「ほの話かな。確かに知っとるよ。ほれが、どがぁしたんぞな」
「うち、あのイノシシに襲われたんぞな」
忠之の顔が一瞬ゆがんだ。
「ど、どこで襲われたんぞな? あげなイノシシに襲われたら無事では済まんじゃろに」
「あのイノシシの死骸が見つかった所ぞなもし。死骸があったあの場所で、うちは襲われたんぞな」
「じゃったら、どがぁして無事でおれたんかな?」
落ち着かない様子の忠之に、千鶴は話を続けた。
「うち、気ぃ失うてしもたけん、何も覚えとらんのです。目ぇ覚めたら、何でか法生寺におったんぞなもし。和尚さんに訊いたら、誰ぞが庫裏の玄関叩くんで外へ出てみたら、そこにうちが寝かされよったて言いんさったんです」
「ほれは、いったいどがぁなことぞな?」
「ほれを、佐伯さんに訊いとるんぞなもし」
「おらに?」
「ほやかて、佐伯さんでしょ? うちの頭に野菊の花飾りんさったんは」
「いや、おらは何のことやら……」
忠之は惚けようとしたが、明らかにうろたえている。
千鶴は畳みかけるように言った。
「うちが佐伯さんに助けてもろた時、佐伯さん、言いんさったでしょ? お不動さまにうちの幸せを願てくれたて。初めて会うたはずやのに、どがぁしてそげなことができるんぞなもし?」
「ほれは……」
「あん時以外佐伯さんがうちを見んさったとしたら、うちが気ぃ失いよった時しかないぞなもし。ほれに法生寺のご本尊さまはお不動さまやし、佐伯さんがうちの幸せを、お不動さまにお願いしんさったとしたら、あん時しかないですけん」
忠之は罰が悪そうに、頭を掻いた。
「千鶴さんは、まっこと頭のええお人ぞな」
「なして黙っておいでたんです?」
「ほやかて、気ぃ失うとる女子の頭に勝手に花飾ったら、何て思われるかわかるまい? ほじゃけん、黙っとったんよ」
「庫裏の戸叩いたんも、佐伯さんでしょ?」
忠之は素直に認めた。
「なして姿消しんさったん?」
「おらが千鶴さんに何ぞ悪さした思われたら困るけん。ほれに頭に花飾ったんも、和尚さんらに知られとないじゃろ?」
「まぁ、ほれはほうじゃね」
うなずく千鶴に、忠之は付け足して言った。
「ほれにな、あん時、おら、ほとんど素っ裸やったんよ」
「素っ裸?」
思わず顔が熱くなった千鶴に、忠之は慌てたように繰り返した。
「素っ裸やのうて、ほとんど素っ裸ぞな。一応、腰には破れた着物巻きよったけん」
「なして、そげな格好やったんぞな?」
「ちぃと村の連中と喧嘩したんで、着物破かれてしもたんよ。お陰さんで、おっかさんにしこたま怒られたぞな。縫い直すんはいっつもおっかさんじゃけんな」
忠之はわざとらしく、ははと笑った。
「佐伯さんて喧嘩好きなんですか?」
「別に好きいうわけやない。おら、争い事は好まんけん」
恐らく山陰の者というだけで、一方的に喧嘩を売られたに違いない。それでも普段の忠之は、あの鬼神のような強さを隠しているのだろう。あの強さを知った上で喧嘩を売る者などいるはずがない。
千鶴は喧嘩のことには触れるのをやめた。
「あの晩、佐伯さんはうちをどこで見つけんさったん?」
「法生寺の石段下りた所の傍にな、花がようけ咲きよる所があるんよ。そこにな、千鶴さんが倒れよったんぞな」
「ほうなんですか。ほんでも佐伯さん、うちをロシアへ行かせた娘さんと、見間違えたんやないんですか?」
忠之は恥ずかしそうにうなずいた。
「あんまし似よるけん、本人か思いよったぞな」
その娘は野菊の花が大好きで、また野菊の花がよく似合ったと言う。それで、つい千鶴に花を飾ってしまったと忠之は弁解した。
やはり千鶴が思ったとおりのようだ。忠之の心の中には、今も別れた娘が住んでいる。照れ笑いをしているが、花を飾った時の忠之は泣きたい気持ちだったに違いない。
千鶴は切ない気持ちになった。しかし気を取り直して、佐伯さん――と言った。
「うちを見つけた時、妙なもん目にせんかったですか?」
忠之は眉をひそめると怪訝そうに言った。
「妙なもんとは何ぞな?」
千鶴は少し迷ってから思い切って言った。
「鬼ぞなもし」
忠之の顔が明らかにゆがんだ。それは、忠之が鬼のことを知っているという証に見える。だが、何を言うのかと不審に思ったのかもしれなかった。
忠之は動揺した様子で言った。
「なして、そげなこと言うんぞな?」
「佐伯さん、イノシシの死骸がどがぁなっとったか、ご存知ですよね?」
忠之は黙ったままだったが、千鶴は言葉を続けた。
「あのイノシシの頭をぺしゃんこに潰せる生き物はおりません。ほやけん、イノシシ殺めたんは鬼やと、うちは思とるんです」
「化け物は他にもおろうに、なして鬼や思んぞな?」
「ほれは――」
千鶴は唇を噛んで目を伏せた。
この人にだけは知られたくない。しかし、言わねばならないと千鶴は思った。言わねば、この人を不幸に巻き込んでしまう。それだけは死んでも避けたいことだった。
「佐伯さん」
千鶴は顔を上げた。頬を涙がぽろりと流れ落ちた。
「うち、がんごめなんぞな」
四
泣きじゃくる千鶴を、忠之は黙って抱きしめてくれた。
がんごめという言葉の意味を確かめようとしないのは、その意味を知っているということだ。それなのに逃げないで抱きしめてくれる忠之の優しさが、千鶴の涙をさらに誘った。
気持ちが少し落ち着くと、千鶴は忠之から離れ、夢で見た地獄のことや、おヨネの話、それにお祓いの婆のことを話した。
また、鬼にイノシシから救ってもらったのも、自分ががんごめだからだし、法生寺へ運ばれたのも、法生寺がかつてがんごめが暮らした所だからだと言った。
忠之は千鶴の話を否定せず、また嫌な顔を見せたりもせず最後まで聞いてくれた。本当は困惑しているのかもしれなかったが、忠之はそんな様子は少しも見せなかった。それより千鶴の苦しみや悲しみを受け止めてくれていたのだろう。話を聞く忠之はずっと悲しげだった。
そんな忠之の姿に安心しながらも、自分が忠之と同じ人間ではないことが千鶴を悲しくさせた。千鶴は忠之と目を合わせることができず、目を伏せて言った。
「うちは法生寺におったがんごめの生まれ変わりぞな。ほじゃけん、鬼はうちを見つけて、うちが風寄へ行くよう仕向けたんです」
「千鶴さんがここにおるんがわかっとんのに、なして鬼はわざに千鶴さんを風寄へ呼び寄せる必要があるんぞな?」
「うちのことをよう確かめるためぞな。ほれで、やっぱしがんごめじゃてわかったけん、うちに取り憑いて松山まで来たんよ」
実際に鬼に何か悪さをされたのかと忠之は訊ねた。千鶴の話を聞いてはくれたが、千鶴に鬼が憑いているということには、忠之は懐疑的のように見えた。
千鶴は忠之に顔を向けると、仲間の鬼と夫婦にさせられそうになったと訴えた。
「ほれが、さっき言うたお見合いなんか」
千鶴はうなずき、見合い相手の名前が鬼山で、本人が自分のことを鬼だと言ったと説明した。
「うちがお見合い断ったら、その人、えらい怒りんさって、ほれから、次から次に悪いことが起こったんぞな」
千鶴は具体的に何があったのかを忠之に話し、そのうち、みんな鬼に殺されると言って涙ぐんだ。
ほうじゃったかと、忠之は悲しそうに下を向いた。
千鶴は鬼の報復も怖いが、自分のことも怖いと言った。
「お見合い断ったとこで、うちはがんごめじゃけん。そのうち鬼の本性出して、みんなとは一緒にはおられんようになるんぞな」
「そげなこと――」
顔を上げた忠之の言葉を遮るように、千鶴は首を振った。
「うち、今はまだ人の心持ちよりますけんど、今に恐ろしいがんごめになって、人を殺して食べるようになるんぞな。ほれが怖ぁて怖ぁて……、ほやけど誰にも相談できんけん、うち……、うち……」
項垂れる千鶴に、忠之は静かだが力の籠もった声で言った。
「大丈夫。千鶴さんはがんごめなんぞになったりせんけん」
「そげなことない。うち、いつかきっとがんごめになって、佐伯さんのことも平気で命を奪うようになるんよ」
千鶴がまた泣き出したので、忠之はもう一度千鶴を抱きしめた。
「ほん時は、おら、こがぁして千鶴さんのこと、ぎゅっと抱いて言うてあげようわい。千鶴さんはがんごめやない、千鶴さんは人間の娘ぞな、千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞな――て言うてあげるけん」
千鶴は涙に濡れた顔を上げた。
「ほやけど、うち、佐伯さんを傷つけるかも知れんのに?」
「ほんでも言うてあげるぞな。おら、この命が尽きようと、死ぬるまでずっと言い続けてあげるけん」
こんなことを言ってもらえるとは思いもしなかった。
千鶴はまた泣いた。忠之は黙って千鶴を抱き続けてくれた。
忠之から伝わる温もりが、千鶴の心と体を優しく抱いてくれる。その優しさに包まれていると、不安も恐怖も悲しみもすべてが癒やされていくようだ。
しばらくして千鶴がようやく泣き止むと、忠之は手拭いで千鶴の涙を拭いてくれた。その忠之の目も泣いたように赤くなっている。
「おら、千鶴さんがどがぁに苦しんでおいでたんか、ようにわかった。今の千鶴さんの気持ち、おらにはようわかる。ほやけどな、千鶴さんは勘違いしとらい。ほじゃけん、ほんまの話をおらが教えてあげよわい」
「ほんまの話?」
「あぁ、まことのほんまの話ぞな」
忠之は微笑みながらうなずいた。だが、その目は何だか哀しげだった。
五
明治が始まるより前の話だと、忠之は言った。
「おヨネさんが言うたとおり、ほん頃の法生寺には、がんごめて呼ばれた娘がおったんよ。ほやけどな、ほれはそがぁ呼ばれよったぎりのことで、ほんまにがんごめやったわけやないんよ」
「ほれは、どがぁなこと?」
「ほの娘はな、異国の血ぃ引いとったんよ。ちょうど千鶴さんみたいにな。今でも異人は珍しがられるけんど、ほん頃は誰も異人なんぞ見たことないけんな。これは人やない、がんごめに違いないとなったんぞな」
その話を誰から聞いたと訊ねると、法生寺にいた和尚から聞いたと忠之は言った。ただ、それは知念和尚より前の和尚らしい。
知念和尚は前の和尚からの引き継ぎで、がんごめについて何も教えてもらえなかったが、忠之は上手く話を聞き出したようだ。
「ほじゃけんな、仮に千鶴さんがその娘の生まれ変わりじゃったとしても、千鶴さんががんごめとは言えんのよ。ほうじゃろげ?」
千鶴は素直にうなずいた。忠之の言葉は千鶴の不安を和らげてくれていた。
これも前の和尚から聞いたと、前置きをしてから忠之は言った。
「みんな、鬼は恐ろしいもん、穢らわしいもんやて思いよる。ほじゃけん、誰も鬼に優しい言葉なんぞかけたりせん。けんど、鬼かてな、好きで鬼しよるわけやないし、みんなが思とるように、いっつもかっつも悪いことぎりしよるんやないんよ」
ほんでもな――と言うと、忠之は横を向いた。
「所詮、鬼は嫌われ者ぞな。ほれは鬼かてわかっとる。もう、あきらめとるんよ。そげな鬼がな、もし誰ぞに優しゅうされたら、どげな気持ちになる思う?」
顔を戻した忠之は、千鶴をじっと見つめた。答えることができずに、千鶴が首を小さく振ると、忠之は話を続けた。
「まずは、たまげるんよ。ほれから、何かの間違いやないかて思うんよ。ほんでも間違いやないてわかるとな、ほれまでなかったほっこりしたもんが、胸ん中に湧いて来るんよ。ほれがまた鬼には嬉しい言うか、涙出るほど感激するんぞな」
和尚から聞いた話だと言うのに、忠之は自分が鬼であるかのように喋っていた。その話しぶりは、千鶴が抱いていた鬼の印象を変えて行くようだった。千鶴の心にあった鬼への恐怖はほとんど消えかけていた。
「和尚の話では、がんごめと呼ばれよった娘は、まっこと心の優しい娘でな。鬼にも優しゅうしてやったらしいんよ」
千鶴は驚いた。それはまさに自分と鬼の関係を示す話である。
「じゃあ、おヨネさんのお父さんが見た鬼ていうんは――」
「たぶん、その鬼を見たんじゃろな」
「あの鬼はがんごめて呼ばれよった娘を護ろとしたん?」
「恐らく」
「そのあと、その娘と鬼がどがぁなったんかは、わからんのですか?」
「……おらには、わからんな」
忠之は千鶴から顔を逸らすと、境内の釣り鐘に目を遣った。もちろんがんごめと鬼がどうなったかなど、忠之がわかるはずもないのだが、何だか喋りたくないようにも見える。
「じゃったら地獄の夢も、ほんまにあったことなんじゃろか?」
話題を変えた千鶴に、忠之は微笑みを見せて言った。
「千鶴さんがその娘の生まれ変わりやったとしたら、ほうなんじゃろな」
「うちがほんまのがんごめやのうても、結局は地獄に堕ちてしもたてこと?」
「千鶴さんが地獄へなんぞ堕ちるかいな。千鶴さんは地獄へ堕ちたんやのうて、わざに地獄を訪ねたんよ」
「その鬼に逢うために?」
「千鶴さん、まっこと優しいけんな。他の者じゃったら、絶対そがぁなことはせんのに、千鶴さんは鬼のことを心配しんさったんよ。生きとる間にも優しゅうしてもろたのに、地獄へ堕ちたあとにも逢いに来てもらえるやなんて、鬼はどんだけ感激したことか」
しんみり話す忠之は、まるで鬼の気持ちがわかるようだ。
それにしても、鬼に逢うためにわざわざ地獄を訪れるなんて、そんなことを本当に自分はしたのだろうかと千鶴は思った。自分がそこまで鬼に優しかったなんて、我ながら信じられない話だ。
それでも地獄で鬼を見つけた時に嬉しくなったのは事実である。地獄へ堕ちたのでないのなら、忠之が言うように、きっと自分から鬼に逢いに行ったということなのだろう。
「うちをイノシシから護ってくれたんが対の鬼じゃとしたら、鬼は地獄からこの世へ抜け出せたいうことよね?」
「ほうじゃな。そがぁなるな」
「ほれは、風寄にあった鬼よけの祠がめげてしもたけん?」
「いや、ほうやないな」
「なして、そがぁ思いんさるん?」
「鬼は千鶴さんを助けたぎりで、村の者に何も悪さはしとらんじゃろ?」
祠がなくなったので出て来たのであれば、鬼は村に禍をもたらしたはずだと忠之は言った。確かに、祠で地獄へ封じられていたのなら、鬼はその恨みを晴らそうとするだろう。
「じゃあ、鬼はどがぁして地獄から出て来られたんじゃろか?」
「お不動さまのご慈悲ぞな」
「お不動さまのご慈悲?」
忠之はうなずき、地獄へ堕ちる前の鬼にとって、前世の千鶴が世話になっていた法生寺の不動明王は、特別だったはずだと言った。
「千鶴さんを法生寺まで運んだんが、その証ぞな。鬼は自分が助けた千鶴さんを、お不動さまに託そとしたんよ」
「ほういうことやったんか……。ほんでも、なしてお不動さまが地獄の鬼に、ご慈悲をかけんさったんじゃろか?」
「ほれは――」
千鶴の疑問にすらすら答えていた忠之は、ここに来て一瞬口籠もった。しかし、すぐにまた喋り始めた。
「お不動さまがご慈悲をかけんさるには、ほれなりの理由があるんよ」
「ほれは、どがぁな?」
「鬼はな、ずっと神仏に背中を向けて来たんよ。その鬼がお不動さまに何ぞ願たんじゃろな。鬼が神仏に願うんじゃけん、ほれは余程のことで、お不動さまもご納得しんさるようなものやったんよ」
「ほじゃけん、ほれは、どがぁな願いぞなもし?」
忠之が答えを知るはずがない。だが忠之は少し間を置くと、自分が鬼だったらと言った。
「おらがその鬼じゃったら、まずは千鶴さんを地獄から出すことを願うな。ほれと千鶴さんの幸せじゃな。うん、たぶんほうなんよ。ほれで、ほの願いが聞き届けられたんで、千鶴さんはこの世に生まれ変わり、鬼は千鶴さんの幸せを見届ける許しがもらえたんよ」
誰がこんな説明を思いつくだろう。千鶴は泣きそうになった。それでも、まだ訊いていないことがある。
「お祓いの婆さまに、鬼が取り憑いとるて言われたんは?」
「千鶴さんの後ろには、鬼がおるやもしれん。ほやけど、ほれは悪い意味で取り憑いとるんやないぞな。取り憑く言うより、見守っとる言う方がええんやないかな。鬼は己と似たような者にしか取り憑けんのよ。ほじゃけん、優しい千鶴さんには取り憑けまい」
「けんど、お見合い断ってから、悪いことぎり起こりよるんよ?」
「不安な気持ちは悪い気を呼ぶもんぞな。悪いことがあったにしても、ほれが鬼のせいとは限らんのよ。そもそも鬼が本気で千鶴さんに悪さしよて思たんなら、今言うたようなもんじゃ済まんぞな」
「じゃあ、お見合いの人は? 名前は鬼山言うて、自分のこと、鬼やて言うたんよ?」
「名前に鬼がついとるんはたまたまじゃろ。ほれに、そいつがまことの鬼じゃったら、がんごめやない千鶴さんに己の正体明かすような真似はすまい。さらに言うたら、千鶴さんの店の悪口言いふらすような姑息な真似もせんけん。恐らく、そいつは己が鬼になったつもりでおるぎりなんよ」
「じゃったら、鬼のことは――」
「なぁんも心配いらんぞな。千鶴さんはがんごめやないし、鬼が悪さすることもないけん。鬼は千鶴さんの幸せ願とるぎりぞな」
忠之が優しく微笑むと、千鶴の目から涙がこぼれ落ちた。
千鶴はしゃがみ込むと、両手で顔を覆って泣いた。
「うちはひどい女子ぞな……。鬼は何も悪いことしとらんのに……、うちの命、助けてくれたのに……、うちは、鬼じゃ言うぎりで感謝もせんで、勝手に怖がりよった……」
「仕方ないぞな。相手は鬼なんじゃけん」
忠之は横にしゃがんで慰めたが、千鶴は首を振った。
「うちな、何もしとらんのに、悪いことあったら、何でもうちのせいにされたりな……、助けたつもりが、この顔見られて悲鳴上げられたりしたんよ……。ほれが、どんだけつらいことかわかっとんのに、うち、対のこと鬼にしてしもた……。うちは最低の女子ぞな」
「千鶴さんのその言葉、鬼はちゃんと聞いとるけん。姿見せられんけんど、きっと、千鶴さん拝んで泣きよるぞな」
千鶴を慰める忠之の声は、今にも泣きそうだった。
千鶴は涙を拭いて立ち上がると、両手を合わせて目を閉じた。
「鬼さん、うちを助けてくんさり、だんだんありがとうございました。今まで鬼さんのこと悪思たこと、どうか堪忍してつかぁさい。うちは自分勝手な女子じゃった。もう怖がったりせんけん、どこにも行ったりせんで、いつまでも傍におってつかぁさい」
頭を下げてから千鶴が目を開けると、忠之は背中を向けて空を仰いでいた。その肩は何故か震えている。
千鶴が声をかけると、忠之は両手で顔をこすってから笑顔で振り向いた。
「まこと、千鶴さんは優しいお人じゃな。鬼は感激しよるぞな」
「じゃあ、うちが誰ぞ好いても、鬼は怒ったりせん?」
「せんせん。千鶴さんが幸せじゃったら、鬼も嬉しいけん」
「ほな、うち、佐伯さんを好いても構んのですか?」
「構ん構ん」
言ってから、え?――と忠之は驚いた。千鶴は大喜びをしたが、忠之が慌てていたので、千鶴は上目遣いで忠之を見た。
「鬼が一緒の女子は、お嫌かなもし?」
「いや、そげなことは……」
うろたえる忠之に、よかった――と千鶴は笑顔で言った。
「これで、うち、幸せになれるけん。鬼さんも安心じゃね!」
千鶴ははしゃいだが、忠之は当惑顔で北の方を向き、お不動さま――とつぶやいている。
「佐伯さん、お不動さまに何言うておいでるん?」
「いや、ほやけん、お礼を――」
千鶴に抱きつかれ、忠之は大いにうろたえたようだった。
自分が好意を寄せている人を、祖父が気に入って山﨑機織で雇うのは、いずれは自分の婿にと考えているのに違いない。
夫婦になった自分たちの姿が思い浮かび、千鶴は嬉しくて叫びたくなった。
一方、忠之の方はと言うと、千鶴と目を合わせると微笑むが、横を向いた顔は何だか困っているようにも見える。
忠之も自分に好意を抱いてくれていると、千鶴は確信していた。しかし忠之の心には、まだ夫婦約束をした娘への想いが残っているに違いなかった。
だが、その娘はもういない。この人を笑顔にできるのは自分しかいないのだと、千鶴は自分に言い聞かせた。そして、絶対にこの人の心を、真っ直ぐ自分の方に向かせてみせると強く思った。
これまでずっと恐れていた鬼が、自分を後ろから支えてくれているような気がしている。敵に回せば怖い鬼も、味方になってくれれば百人力だ。
きっとうまく行く。困ったように微笑む忠之を見ながら、千鶴はそう思っていた。
立ちはだかる壁
一
千鶴は忠之を客馬車乗り場の辺りまで送って行った。本当はもっと一緒に行きたかったが、忠之がここまででいいと言うので、渋々そこで別れることにした。
別れ際、何とか山﨑機織へ来てくれるようにと、千鶴は念を押してお願いした。忠之はわかったと応じたものの、今ひとつ自信がない様子だった。
一人息子の忠之が外へ出ることを、家族に了承してもらうのは、確かに容易なことではないだろう。だが忠之がはっきりしないのは、自分が山陰の者であるということへの不安もあるに違いない。
それについては千鶴は敢えて触れなかった。忠之が自分から話してもいないのに、それを口にするのは失礼であると思っていた。
それでも、ここまで親しい仲になれた忠之と離れてしまうのは、絶対に嫌だった。そのためにも、忠之にはもっと自信を持ってもらいたかった。
もし松山に来られないなら、自分の方が風寄へ行くと千鶴が言うと、何とかやってみると忠之は約束した。忠之にしても、千鶴を山﨑機織から離れさせるようなことはしたくないのだろう。それでもやはり自信はなさそうだった。
姿が見えなくなるまで忠之を見送ったあと、千鶴はとぼとぼと家路に就いた。
絶対に忠之が来てくれるという保証はなく、何とも心許ない気持ちだった。
どうなるかはわからない。それでも忠之と心を通わせることができたのである。そのことは千鶴にとって何よりだった。それがあるから、どんな形であれ自分はあの人とともに生きるのだと思うことができた。
また自分ががんごめではないことや、鬼を恐れる必要がないとわかったことは収穫である。
鬼から事実を確かめたわけではない。それでも忠之を絶対的に信じていることで、千鶴の不安は一掃されていた。
それにしても、忠之と二人きりでこんなにゆっくりできるとは思っていなかった。本来ならば、今頃は学校にいるはずである。それを家にいるのは、祖母の世話をするためだ。
それなのに祖母の世話をせず、家の手伝いもしないで忠之と二人で過ごさせてもらえたのである。それは天の恵みのようでもあったが、やはり後ろめたさはあった。
それでも祖父母が忠之を見送れと言ってくれたのだ。山﨑機織だけでなく、自分にも運が向いて来たような気がして、千鶴の足取りは次第に軽やかになった。
千鶴が家に戻ると、花江が台所で昼飯の準備を始めていた。
茶の間には甚右衛門がいたが、その表情は明るかった。新たな大八車を手に入れたことや、注文電報が東京から届いたからだろうが、しかし理由はそれだけではなかった。
甚右衛門は忠之からもらった膏薬を体の傷にすり込んだようだが、それが早くも効き目があったらしい。痛みががずいぶん和らいだ気がすると上機嫌だ。
トミも忠之に教えてもらったツボにお灸を据えたそうだが、体がとても楽になり、病が治ったようだと言った。
「千鶴ちゃんのいい人は、ほんとに福を運んで来てくれたみたいだねぇ」
花江がにこにこしながら言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。だが、千鶴はあからさまにいい人と言われて返事ができなかった。
「団子は食うたんか?」
味噌汁を作る花江を手伝おうとした千鶴に、甚右衛門が声をかけた。千鶴は慌てて姿勢を正し、お陰さまで美味しいお団子をいただきましたと報告をした。
「どこまで見送って来たんね?」
今度はトミが訊ねた。山越までと千鶴が答えると、ほうじゃろと思いよった――とトミはにやりと笑った。
「ように時間がかかっとるけん、遠い所まで見送りに行ったんじゃなて思いよった」
「一緒に風寄まで行ったんやないかて心配したぞな」
甚右衛門にも言われて、千鶴は二人に頭を下げて詫びた。しかし忠之がここまででいいと言わなければ、本当に風寄までついて行っていたかもしれなかった。
それにしても、祖父母からこんな言葉をかけてもらえるのは、やはり違和感があった。鬼が祖父母を操っていたのでなければ、この変わり様は何なのかと千鶴は訝しんだ。
ただ、厳しく冷たい祖父母よりも、今のように温かく優しい祖父母の方がいい。跡継ぎの問題がそうさせているのかもしれないが、忠之と一緒になれるのであれば、千鶴としても不満はない。
「傷の痛みがだいぶ楽になったけん、これじゃったらじきに帳場に座ることができよう。そがぁなったら辰蔵を東京へ遣れらい」
とんとんと菜っ葉を刻む花江の手が止まった。何か考え事をしているように見えたが、すぐに元のように動き始めた。やはり東京という言葉は、花江には刺激が強いに違いない。
当初の甚右衛門の予定では、鬼山喜兵衛を婿に迎えて手代を補強したのち、辰蔵を東京へ送り出し、そのあとで茂七を辰蔵と入れ替えるという話だったはずだ。しかし喜兵衛の話は潰えてしまった。
あと残されるのは孝平だが、その孝平だって大阪へ出たばかりだし期待はできそうにない。一人前になって戻るどころか、作五郎に見捨てられる可能性が高いと言えよう。それなのにこのまま辰蔵を東京へ送り出したのでは、辰蔵を呼び戻すことができなくなる。
「番頭さん、東京行ったら、もうこっちへは戻らんのかなもし?」
千鶴が訊ねると、甚右衛門は、いんや――と言った。花江がまた包丁の手を止めて話を聞いているようだ。
「今ぎりぞな。今は向こうもごたごたしよるけん、行き慣れた者やないと仕事にならん。ほじゃけん辰蔵を行かせるんやが、落ち着いた頃に茂七をやるつもりぞな」
「茂七さんを? でも、そがぁなったら、こっちの人が足らんなるんや――」
「そがぁ思うか?」
甚右衛門に訊き返され、そうかと千鶴は思った。
「佐伯さんがおいでるんじゃね?」
「ほういうことぞな。あの男は必ず来るとわしは踏んどる」
「おじいちゃん、ほんまにそがぁ思いんさるん?」
「間違いない。絶対に来るな」
祖父がそこまで確信しているのであれば、きっとあの人は来るだろうと千鶴は思った。それに、祖父がそこまで忠之を認めてくれていることが、何より嬉しかった。
それでも千鶴は祖父の確信の根拠が知りたかった。忠之は一人息子であり、簡単に家を出ることはできないはずだ。
「なして絶対て言えるんぞなもし?」
自分の期待とは別に、千鶴は祖父に問うた。甚右衛門はじろりと千鶴を見ると、わからんのかと言った。
千鶴がうなずくと、トミが笑いながら言った。
「あんたがおるけんじゃろがね」
かぁっと顔が熱くなった千鶴は、思わず下を向いた。
「ほやけど、家族が反対したら来られんて言うておいでたぞな」
小さな声で千鶴が反論すると、甚右衛門は自信ありげに言った。
「確かに家族が反対したままじゃったら来られんじゃろ。けんど、あの男は何とか家族を説得すらい」
「あんたがおるけんな」
トミがもう一度同じ言葉を付け足すと、甚右衛門と二人で大笑いをした。
千鶴が恥ずかしくて横を向くと、花江と目が合った。花江はにこにこと微笑むと、また前を向いて菜っ葉を刻み始めた。
「わしの目に狂いがなかったら、あの男はぐんぐん伸びるぞな。茂七の代わりぐらい、直にでけるようになろ」
「そがぁなってもらわんと困らい。このお店の将来がかかっとるんじゃけんね」
祖父母の言葉に千鶴は胸が弾んだ。忠之を婿にすると言ってくれたわけではないが、祖父母の頭の中には、そんな景色が見えているのに違いない。そして、それは千鶴の目に浮かんだ景色でもある。
二
「甚さん、おるかな」
店の方で声がした。
奥においでます――と辰蔵の声。すぐに茂七に案内されて組合長が入って来た。
「甚さん、傷の具合はどがぁかな?」
そう言いながらトミの姿を認めた組合長は、おぉと声を上げた。
「おトミさん、もうええんかな?」
「お陰さんで、このとおりぞなもし」
トミは両腕を曲げ伸ばししてみせた。
「ほうかな。ほれは、よかったよかった。次から次にようないことが起こるけん、心配しよったんぞな」
「ほれはどうも、ありがとさんでございます」
トミが少し戯けたように言うと、えらい上機嫌じゃなぁと組合長は笑った。
「甚さんの方はどがいぞな? ちぃとはようなったかな?」
組合長が改めて甚右衛門に訊ねると、甚右衛門はだいぶええぞなと笑顔で言った。
「ほれにな、ようやっと東京から注文が入ったんよ」
「ほんまかな。ほれはほれは。向こうの様子はさっぱりわからんけん、ほんまに心配しよったんで」
千鶴は花江と一緒に台所仕事をしていたが、組合長は今度は千鶴に声をかけた。
「千鶴ちゃんも学校休んで大事やったな。ほんでも、これでまた学校へ行けらい」
組合長は千鶴が子供の頃から、よく声をかけてくれた。千鶴には数少ない理解者である。
だが今の千鶴は学校と言われても、ぴんと来なかった。この店で忠之と二人で働く姿が、ずっと頭の中に浮かんでいる。組合長に学校と言われて、ああそうだったと思ったほどだ。
何とか笑顔で体裁を整えたが、本当のところ学校はどうなるのだろうと千鶴は思った。
基本的に休みは認められない。今回、祖母の看病で休むことになったことは、千鶴と同じように松山から通う同級生に頼んで、学校へ伝えてもらってはいる。
だが、何日休むのかという細かな話は伝えられないままだ。学校からの連絡はないが、もう一週間は休んでいるはずなので、もしかしたら退学にされるかもしれなかった。
「ほんでも婿さんもろてこの店継ぐんじゃったら、学校なんぞ行かんでもええか」
千鶴が喜兵衛と見合いをしたのは組合長も知っている。もちろんその話が壊れたことも知っているはずだが、千鶴が婿を取って店を継ぐというのは変わらないと考えているようだ。
こんなことを言われると、千鶴はすぐに忠之と夫婦になっているところを想像してしまう。
「何、にやにやしてるのさ」
隣にいた花江が小声でからかったが、それがまた今の千鶴には心地よい。すると、ほれがな――と甚右衛門が言った。
「千鶴に婿取ろかて思いよったけんど、本人がどがぁしても学校の教師になるんじゃて言うて聞かんのよ」
千鶴は驚いて甚右衛門を振り返った。ふざけているのかとも思ったが、祖父は真顔だ。
「ほうなんか。さすがは千鶴ちゃんぞな。今どきの女子と違わい。わしは千鶴ちゃんが婿もろて、この店継ぐんは面白いなて思いよったんやが、学校の先生もええか」
「いや、あの……」
うろたえる千鶴に甚右衛門が言った。
「どがぁした?」
「あの、学校だいぶ休んでしもたけんね。ほやけん、たぶん退学やないかて……」
いつもの調子に戻ったトミが即座に言った。
「そげなことあるかいね。まだ今じゃったら大丈夫ぞな。万が一、校長が何ぞ言いよったら、うちが捻込みに行こわい」
「いやぁ、おトミさん、まっこと元気になったなぁ。ほんだけ元気じゃったら、もう心配いらんな」
感心する組合長に、トミはまた元気よく腕を曲げ伸ばししてみせた。
花江は千鶴が何を慌てているのかわかっているようで、笑いをこらえながら仕事をしている。
「ほやけど跡継ぎの方はどがぁするんぞ? 千鶴ちゃんに婿さんもらわんのなら、やっぱし幸ちゃんかいな」
「あんまし期待はできんけんど、孝平もおるけんね」
トミがため息交じりに言うと、組合長は顎に手を当て、孝平かとつぶやいた。
「まぁ、いろいろやってみたらええわい。ところでな、今日は甚さんに知らせることがあったんよ」
「わしに知らせること? 何ぞな」
「鬼山喜兵衛ぞな」
「鬼山喜兵衛?」
目をぱちくりさせる甚右衛門に、組合長は言った。
「千鶴ちゃんの見合い相手ぞな」
「そげなこと、わかっとらい。あの男がどがぁしたんぞ?」
結局とっちめることができずにいた喜兵衛の名前に、甚右衛門は仏頂面になった。
「警察に引っ張って行かれよったぞな」
「警察に?」
甚右衛門は目を見開いた。トミも驚き、千鶴と花江も組合長を振り返った。
「なして、捕まったんぞ?」
「何でも社会運動に関わっとったみたいでな。前から警察に目ぇつけられとったらしいんよ。ほれで、こないだ集会しよるとこを捕まったそうな」
「集会したぎりで捕まるんですか?」
千鶴が訊ねると、組合長は首を振った。
「集会の中身ぞな。民衆をたぶらかし世を乱そうとした不埒者として捕まったんよ。ほんまにええ話するならともかく、見合い断られた相手の悪口言い触らす奴の話なんぞ、誰が信用でけるかい」
喜兵衛がやったことには、組合長も憤っているようだ。それに調子を合わせるように、トミは甚右衛門を見ながら嫌味を言った。
「この人も、元お武家言うぎりで信用するんじゃけん」
甚右衛門はむっとした顔で言い返した。
「つかましいわ。どこの家にもろくでもない者はおるもんぞ」
「孝平のことを言うておいでるん? あの子じゃったら大阪でがんばりよろがね」
「そげなこと、わかるかい」
「作五郎さんが何も言うておいでんのは、あの子が上手いことやっとる証ぞな」
二人が言い争うので、まぁまぁと組合長が止めた。
「そげなことしよったら、おトミさん、またぶっ倒れてしまわい。ほれより、甚さん。東京へは誰を遣るんぞ?」
「取り敢えずは辰蔵を遣るつもりよ。ほれで時期見て、茂七と交代させようわい」
「茂七かな。ほやけど茂七を遣ってしもたら、こっちはどがいするんぞ? 辰さんが番頭しながら、外廻りするわけにはいかまい。かと言うて、弥七一人じゃ心許ないぞなぞな」
「そげなことは言われいでも、わかっとらい」
「当てはあるんかな?」
「何とかならい」
甚右衛門は千鶴を見て、にやりと笑った。
さっきは婿の話はなくなったようなことを言ってたくせに、祖父はどういうつもりなのだろうと千鶴は訝しんだ。
まさかあの人を使用人として雇いながら、自分のことは小学校教師として外へ出そうとしているのだろうか。
そんな考えが頭を過って、千鶴がぷいっと横を向くと、また花江が笑っていた。
三
久しぶりに学校へ行くと、千鶴は校長室へ呼び出された。
校長は千鶴が休んでいた事情を知っている。それでも決まりだからと前置きをし、今度欠席になるようであれば、卒業間近であっても退学になるから気をつけるようにと忠告した。
また、このあと欠席がなくても成績が悪ければ、やはり退学になるから、遅れた勉学を死に物狂いで取り戻すようにとも言った。
わかりましたと神妙な顔で答えたものの、千鶴は退学になっても構わない気持ちになっていた。
ただ、祖父母が組合長に話したことが、祖父母の本当の考えであるなら、簡単に退学になるわけにはいかなかった。
だが、忠之が山﨑機織に来るのであれば、毎日学校に通ってなんかいられないという気持ちもあった。
だいたいあの人を雇うことにしたのに、自分には学校へ行けと言うのは矛盾していると、千鶴は少し腹立ちを覚えていた。
とは言うものの、確かに喜兵衛との縁談を断るのに、自分は教師になるつもりだったと見得を切ったのは事実である。他に断りようがあったろうにと、今更ながら悔やんだところで仕方がない。
とにかく今は、まだ忠之は来ていない。それで、あの人が来るまでの間だけでもがんばろうと千鶴は思った。
それに自分からやめるならともかく、退学させられたとなるとやはり体裁が悪い。そんな恥ずかしいところを、忠之に見せるわけにはいかなかった。
結局がんばると決めた千鶴は、休憩時間も惜しんで必死に勉強した。春子たちがお喋りに誘っても、今はだめだと断って勉強を続けた。
しかし、時折幸せな夢想に手が止まってしまう。忠之と二人で店を切り盛りしているところや、二人の間に生まれた赤ん坊をあやしているところなど、次から次に思い浮かんで気持ちの集中が切れてしまうのだ。
気がつけばぼんやりしている千鶴に、春子たちは何を嬉しそうにしているのかと訊ねるのだが、忠之のことは内緒である。
何でもないと言うと、何を隠しているのかと問い詰められるが、それがまた嬉しい。それでも勉強は続けねばならず、とにかく千鶴は忙しい日々を送り続けた。
千鶴が再び学校へ行き出してから一週間が過ぎた。その間に辰蔵は東京へ発った。だが、忠之はやって来なかったし、何の連絡もなかった。
家族が反対しているのかもしれないが、だめならだめだったと、手紙ぐらいよこすはずである。手紙が来ないのは、忠之が家族の説得をしてくれているのに違いないと千鶴は考えた。
とは言え、さらに数日が経っても全然音沙汰がないと、さすがに不安になって来る。
土曜日の午前の授業が終わると、千鶴は昼飯も食べずに大急ぎで家に向かった。もしかしたら、忠之が来ているかもしれないという期待があった。
山﨑機織へ戻ると、帳場に座る祖父の姿が見えた。
茂七と弥七は外廻りに出たのだろう。帳場にいるのは祖父一人のようだ。
「佐伯さんは? 佐伯さんはおいでた?」
店に入るなり、千鶴は開口一番に祖父に訊ねた。
「いいや、来とらん」
甚右衛門は煙管を吹かしながら素っ気なく言った。何故か千鶴の方を向こうとしない甚右衛門は、膝をそわそわと動かしている。
千鶴ががっかりしながら、あれから風寄の絣が届いたのかと訊くと、甚右衛門はやはり千鶴と目を合わせないまま、来た――とだけ言った。
牛車で来たのかと問うと、甚右衛門は同じ姿勢で、ほうよと言った。何だか様子がおかしい。忠之が連絡をよこさないので腹を立てているのだろうか。
いつ牛車が来たのかと質すと、昨日だと言う。しかし、昨夜はそのことを千鶴は何も聞かされていない。千鶴は祖父に不信感を抱いたが、何だか嫌な予感もしていた。
牛車で絣を運んで来たのは、忠之に大八車で荷物を運ばせていた仲買人の兵頭という男だ。
「兵頭さんは佐伯さんから手紙を預かっとらんの?」
千鶴が訊ねると、やはり甚右衛門は他を向いたまま、あぁとだけ言った。どういうわけか、甚右衛門は忠之への関心を失ってしまったようだった。もしかしたら兵頭は絣と一緒に、悪い知らせも届けたのかもしれない。千鶴は焦る気持ちで言った。
「兵頭さん、佐伯さんのこと、何ぞ言いんさった?」
千鶴を横目に見た甚右衛門は、煙草盆にぽんと煙管の灰を落とすと、ほうじゃなと言った。
千鶴は愕然となった。話を聞いたのであれば、それがどんな話であったにしても、昨日のうちに教えてくれるべきである。話しにくかったのかもしれないが、こちらはずっと待っているのだ。
千鶴は腹立ちを抑えながら、兵頭さんは何と言いんさったのかと祖父を問い詰めた。すると甚右衛門はようやく千鶴に顔を向け、そこに座れと言った。
何だか怖い気がしながら、千鶴は帳場の端に腰を下ろした。
甚右衛門は煙草盆を脇へ寄せると、千鶴の方に向き直った。
「千鶴、実はお前に話がある」
「話?」
千鶴の心はざわついた。甚右衛門はため息を一つついて言った。
「こがぁな話、ほんまはしとないけんど、ずっと黙っとるわけにもいかんけんな」
千鶴の胸の中で心臓が暴れ始めた。甚右衛門は悲しげに千鶴を見つめ、千鶴――と言った。
「すまんが、あの男のことは忘れるんぞ。お前にはまっこと気の毒じゃと思うが、あの男とうちとは縁がなかったわい」
何の説明もないまま、いきなり乱暴なことを言われ、千鶴は思わず言い返した。
「おじいちゃん、何を言いんさるん? ほれは、佐伯さんがここへはおいでんてこと?」
「ほういうことよ。わしとしてもまっこと残念やが仕方ないわい。あの男のことはあきらめて他を当たることにした。急がんと辰蔵をこっちへ戻せんなってしまうけんな」
話はそれだけだと言って、甚右衛門は体を元の向きに戻した。だが、それで千鶴が納得できるはずがない。
「ちぃと待っておくんなもし。何がほういうことなんぞな? 何があったんか、きちんと説明しておくんなもし」
甚右衛門はすぐには返事をしなかった。しかし、千鶴が強く説明を求めると、仕方なさげに千鶴に顔を戻した。
「ここでは働けんて、佐伯さんが言うておいでるん? ほれとも、何ぞおいでになれん事情ができんさったんかなもし?」
甚右衛門は再び千鶴の方に体を向けた。
「産まれぞな。あの男とうちとでは、あまりにも身分が違とらい。お前があの男に心を寄せとるんはわかっとる。わしにしたかて、あの男にはまっこと惚れ込んどった。ほんでも、あの男をうちへ入れることはできん。申し訳ないけんど、こらえてくれ」
わかりましたと言えるわけがない。千鶴が猛抗議をすると、かつて忠之の家が生臭物を扱っていたことや、忠之が尋常小学校も出ていないこと、忠之が乱暴者として村で嫌われていることなどを、甚右衛門は挙げ連ねた。
「あの男は読み書き算盤ができると、わしに言うた。ほやけど、尋常小学校も出とらん者が、読み書き算盤ができるとは思えん。つまり、あの男はわしに嘘を言うたことになろ」
「佐伯さんは嘘なんぞつかん!」
「ほれじゃったら、どがぁして読み書き算盤ができるんぞ? あの男の家族も字が読めんそうやないか」
断りの話は兵頭が伝えることになっていると言い、甚右衛門は体を前に向けた。
千鶴は立ち上がると、声を荒らげて言った。
「こないだは佐伯さんのこと、福の神じゃて言いんさったのに! 佐伯さんがおいでてくれんかったら、今頃この店を畳むことになっとったのに! 佐伯さんにここで働いて欲しいて言うたんは、おじいちゃんやんか!」
甚右衛門は無表情のまま何も言わない。千鶴は体を震わせると、店の奥へ駆け込んだ。
中では花江が乾いた洗濯物を抱えて、板の間へ運んでいるところで、茶の間ではトミが亀吉と新吉に算盤を教えていた。
「おじいちゃんが、佐伯さんを雇わんて言うとる」
千鶴はトミたちに向かって訴えた。しかしトミは以前の冷たい顔で、家の主に逆らうなと言った。
一緒にいる亀吉と新吉は、事情がわからず動揺している様子だ。
花江は同情の眼差しを向けたものの、何も言ってくれなかった。
千鶴は持っていた荷物を土間へ落とすと、裏木戸から外へ飛び出した。足は風寄の方を向いていた。
このまま忠之の所まで行くつもりだった。だが風寄は遠く、行く手を阻むような北風は冷たかった。
兵頭が来たのは昨日の話だ。兵頭はすでに甚右衛門の言葉を忠之に伝えたに違いない。忠之の気持ちを想うと、千鶴は涙が止まらなかった。
忠之と一緒に歩いた道を一人でとぼとぼ歩き、山越の客馬車乗り場までやって来ると、別れ際の忠之の顔が思い出された。
忠之は自分が山陰の者であることを不安に思っていたはずだ。それでも山﨑機織へ来るようがんばってみると言ってくれたのは、千鶴のためではあったが、甚右衛門を信じてのことに違いなかった。それなのにその甚右衛門に裏切られたのである。
千鶴は悔しくて悲しくて申し訳なくて、拭っても拭っても涙がこぼれた。
客馬車乗り場を越えてさらに歩き続けると、やがて家並みが見えなくなり、周囲は田畑ばかりになった。それでも、まだ一里も歩いていないだろう。風寄までは、まだ三里以上ある。
西を見ると、どんよりした雲が広がって、まだ明るい空を呑み込もうとしている。風寄に着くまでに日は沈んで雨が降るだろう。
項垂れて歩いていると、ラッパの音が聞こえた。
顔を上げると、前方から客馬車がやって来る。道の脇に避けると、客車から坊主頭の男が顔を出した。
「千鶴ちゃんやないか! どがいしたんな、こがぁな所で?」
それは法生寺の知念和尚だった。
知念和尚はここで降りると大声で御者に告げた。馬車が停まり、御者が和尚を降ろすと、和尚は急いで御者に銭を払い、千鶴の傍へ駆け寄って来た。
張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、千鶴はへなへなと倒れそうになった。間一髪、和尚は千鶴を抱き留め、何があったのかと声をかけた。しかし千鶴は和尚に身を任せながら、あふれる悲しみで泣くしかできなかった。
四
「話はわかったが……、困ったの」
千鶴から事情を聞いた知念和尚は、顔を曇らせた。
和尚は忠之のことを知っていた。子供の頃からよく寺へ遊びに来ていたそうで、とても優しく頭のいい子だったと和尚は言った。
辺りは次第に薄暗くなり、冷たい北風が絶え間なく吹きつける。
千鶴が小さく体を震わせると、和尚は自分の襟巻きを外し、冷え切った千鶴の首元に巻いてくれた。
「歩きながら話そうかの。真っ暗になったら動けんなるぞな」
千鶴が黙っていると、和尚は諭すように言った。
「家を飛び出すんは簡単ぞな。ほやけど、問題はそのあとぞな。二人でどこぞで暮らして行けるんならええが、銭が稼げんかったら悲惨ぞな。幸せ夢見て一緒になったはずが、些細なことで喧嘩になったり、銭のために嫌なことをせんといけんようになったりで、何のために一緒になったんかわからんなるけんの」
和尚の言うことは尤もだった。だが、納得が行くわけではない。
促されて歩き出した千鶴は、和尚に言った。
「和尚さん。なして、みんな生まれや育ちで人を差別したりするんぞな? そのお人には、何の罪もないのに……」
「ほれが人の弱さいうもんぞな」
和尚はため息混じりに言った。
「あの子にはな、わしと安子とで読み書き算盤を教えたんよ。ほじゃけん、あの子が言うたんは嘘やない。しかもな、あの子はまっことできのええ子じゃった。何をやらせても、すらすらでけた。学校へ入れてもろとったら、もっといろいろでけたじゃろに、しょうもないことで差別しよってからに……」
和尚は袖で目を押さえた。
「こげなことになるんなら、あの子を為蔵さんにやるんやなかったかて思てしまうけんど、そげなこと言うんも、これまた差別になるけんな」
知念和尚は昔を思い出すように遠くを眺めた。
「為蔵さんにやるんやなかったて、何の話ぞなもし?」
千鶴に問われた和尚は、はっとしたような顔で、余計なこと言うてしもたわい――とうろたえた。だが、千鶴が説明を求めると、観念したように喋った。
「忠之の家族は為蔵さんとおタネさんという年寄り二人なんじゃ。この二人はあの子の育ての親なんやが、産みの親やないんよ」
「お父さんとお母さんは亡くなったんですか?」
「いや、ほうやない。と言うか、わからんのよ」
「わからんて……」
和尚は立ち止まると、悲しそうな目でじっと千鶴を見つめた。
「あの子はな、捨て子なんよ」
千鶴は心臓が止まったような気がした。
知念和尚は忠之が産まれて間もない頃に、法生寺の本堂に捨てられていたと語った。
近くの村の者たちには、子供を腹に宿していながら、その子供がいなくなったという女はいなかった。それで遍路旅をしながら身籠もった女が、産み落とした赤子を寺に託したのだろうと、和尚夫婦は考えたそうだ。
和尚夫婦は子宝には恵まれなかった。そこで二人はその女の願いどおり、寺でその赤ん坊を育てることにしたと言う。
ところがそこへ赤ん坊の話を耳にした為蔵夫婦が訪れて、大切に育てるからその子が欲しいと願い出たそうだ。為蔵夫婦は日露戦争で一人息子を失っており、その息子の代わりにと思ったらしい。
結局、和尚たちは為蔵の遠い親戚の子供ということにして、忠之を二人に預けることにしたそうだ。
ところが何でわかったのか、忠之は本当のことを知っているのだと言う。ただ、為蔵夫婦の前では何も知らないふりをしているらしい。それがあの子の優しさだと和尚は言った。
千鶴の目はみるみる涙でいっぱいになった。和尚は着物の袖で涙を拭いてくれたが、涙は次から次にこぼれ落ちた。
これまで数え切れないぐらい、千鶴もつらい思いをして来た。
それでも千鶴には母がいた。母が千鶴を慰め力になってくれた。だが忠之はその母親に捨てられたのだ。
そのことを知った時、忠之はどんな気持ちだっただろう。それだけでもつらいことなのに、周りから差別され、甚右衛門からも見捨てられたのである。
しばらく黙って歩いたあと、千鶴は知念和尚に言った。
「うち、自分はがんごめやないんかて、ずっと悩みよったんぞなもし」
和尚は驚いたように千鶴を見た。
「うち、風寄に行ってから、鬼に取り憑かれたて思いよりました。ほれで、自分は法生寺におったがんごめの生まれ変わりに違いないて、そがぁ思いよったんです。ほじゃけん、いつか鬼の本性が出て来るて、ずっと悩んどりました」
「がんごめの話は終わったと思いよったが……、ほうやったんか。ほれは気の毒じゃったな。ちぃとも気がつかんで申し訳ない。ほれにしても、なして鬼に取り憑かれたて思たんぞな?」
千鶴は自分が法生寺で見つかる前に、イノシシに襲われた話をした。初めて聞く話に、知念和尚は驚きを隠せない様子だった。
「ほんまなら、あそこで死んどったんはうちぞなもし。ほれやのにうちは助かって法生寺まで運ばれて、イノシシはあげな風に殺されました。和尚さんはうちを助けたんはお不動さまじゃて仰ったけんど、お不動さまじゃったらイノシシを殺めたりせんと思うんぞなもし」
「ほら確かに千鶴ちゃんの言うとおりぞな。ほんでも、なして鬼なんぞ?」
千鶴は地獄の夢の話をし、自分には鬼を慕う気持ちがあったと言った。それは夢の話だと、知念和尚は取り合おうとしなかったが、それだけではないと千鶴は続けて言った。
「松山に戻んてから、今度はお祓いの婆さまに、鬼に取り憑かれとるて言われました。ほれから次から次に悪いことが起こって……。うち、自分のせいでみんなに迷惑かけとるて思とりました」
ほうじゃったかと知念和尚は当惑気味に言った。
「うち、がんごめやけん、いずれは鬼の本性出して、人を殺して食べるようになるんじゃて……。そがぁなこと考えたら、怖ぁて怖ぁてたまらんかったんです。ほんでも誰にも相談できんけん、ずっと一人で悩んどりました」
「ほれは、まっこと気の毒なことじゃったな。ほれで、千鶴ちゃんは今もそのことで悩んどるんかな?」
千鶴が首を振ると、ほうかなと知念和尚は安堵の笑みを見せた。
「こないだ佐伯さんがおいでてくれた時に、佐伯さん、うちの話を聞いてくんさったんです」
「ほうなんか。ほんで、あの子は何と言うたんぞな?」
「佐伯さん、うちはがんごめやないて言うてくんさりました」
「ほうかほうか。あの子は喧嘩もするけんど、根は優しい子じゃけんな」
知念和尚は嬉しそうにうなずいた。
「鬼のことも、鬼は前世でうちに優しゅうされたけん、そのお返しに今もうちのことを護ってくれとんじゃて言うてくんさったんです。ほれに佐伯さん、鬼の気持ちを教えてくんさりました」
「鬼の気持ち?」
千鶴はうなずき、忠之に聞かされた鬼の話をした。和尚は感心すると、あの子もなかなか大したもんぞな――と言った。
「ほれにしても、そがぁなことを誰から教わったんじゃろな」
「和尚さんの前に、法生寺においでた和尚さんらしいぞなもし」
知念和尚は、はて――と首を傾げた。
「わしがあの寺を引き継いでからは、そのご住職は風寄へは来とらんがな。用事がある時は手紙を書くか、こっちから向こうへ出向くけん、あちらからこっちへ来ることはないぞな」
「ほやけど、佐伯さんはそがぁ言うておいでました」
「ほれは妙じゃの。最前も言うたように、あの子はわしらがあの寺に来てから置いて行かれたんぞな。ほじゃけん、あの子が前のご住職に顔合わすことは有り得んがな」
和尚の言葉に困惑しながら、千鶴は話を続けた。
「法生寺におったがんごめも、うちみたいな異国の血ぃ引いとるぎりの娘さんで、ほんまのがんごめやないんじゃて言うておいでました。ほじゃけん、うちがその娘さんの生まれ変わりじゃったとしても、うちががんごめいうんは有り得んのじゃて」
「ほれも前のご住職から聞いたと言うんかな」
千鶴がうなずくと、知念和尚はまた首を傾げた。
「がんごめの話は、わしらかておヨネさんから聞かされて初めて知ったんやけんな。ましてや、その娘が異国の血ぃ引いとるやなんて全然知らんことぞな。ほれをなしてあの子が知っとるんじゃろか?」
「どっかで前の和尚さんに会いんさったんやないんでしょうか?」
「言うたように、わしがあの寺を引き継いでから、前のご住職が風寄へおいでたことはないんよ。ほじゃけん、あの子がそのご住職に会うことはないはずやが……。仮にどこぞで会うたにしても、前の和尚はがんごめの話は知らんじゃろに」
「じゃあ、誰から――」
言いかけて千鶴は、はっとなった。
忠之が夫婦約束をしていたのも、異国の血を引く娘だった。千鶴と同じロシア人の娘だと忠之は言っていた。
しかし、風寄にそんな娘がいたとしたら、誰も千鶴を見て珍しがったりはしないだろう。それに春子がそのことを知らないわけがない。
「あの子はまっこと優しいし頭がええ。やけん、千鶴ちゃんの悩みを聞いた時に、何とか千鶴ちゃんを慰めよ思て、即興で考えたんじゃろな」
知念和尚は忠之についての自分の考えを述べた。しかし、それは千鶴の耳を通り過ぎて行った。
千鶴は和尚に顔を向けた。
「和尚さん、お訊ねしたいことがあるぞなもし」
「何かな?」
「和尚さんは佐伯さんが産まれるより前から、法生寺においでるんですよね?」
「ほうじゃが、ほれがどうかしたかな?」
「和尚さんが法生寺においでてから今日までの間に、ロシア人の血ぃを引いた娘さんが風寄におったいう話を、耳にしんさったことはおありですか?」
知念和尚は怪訝そうに言った。
「いいや、そげな話は聞いたことがないぞな」
「うちとそっくりで、うちと対の名前の娘さんは、ご存知ないんかなもし?」
「ロシア人の血ぃ引く娘言うたら、わしら、千鶴ちゃんしか知らんぞな」
千鶴は愕然とした。
忠之が出任せを言ったとは思えない。別れた娘の話をした時、忠之は涙ぐんでいた。
「和尚さん、もう一つ教えてつかぁさい。和尚さんがこちらへおいでてから、ロシアの船が風寄に来たことはあったんかなもし?」
「ロシアの船? そがぁなもん見たことないぞな。日露戦争が終わったあと、捕虜兵を引き取りに来た船はあろうが、ほれが風寄へ来ることもなかったわい。ここには捕虜収容所はなかったけんな」
日露戦争は明治の話で、自分も忠之もまだ生まれていない。忠之が夫婦約束をした娘と別れたのは、年齢的にもつい最近のはずだ。しかし知念和尚が知る限り、風寄に千鶴という名のロシアの娘はいないし、ロシアの船も来ていない。これはどういうことなのか。
普通に考えれば、忠之が作り話をしたということだろう。しかし、千鶴の頭には一つの可能性が浮かんでいた。それはとても有り得ないことだが、千鶴にはそれが真実であるような気がしていた。
「ほれじゃったら、昔は来たことがあるんかなもし?」
「ロシアの船かな?」
千鶴がうなずくと、さぁなぁと和尚は言った。
「わしらは土地の者やないけんな。ここの昔のことはよう知らんのよ。ほんでも瀬戸内海は黒船の航路やったけんな。徳川の時代が終わる頃に、ここら辺をロシアの船が通ったかも知れまい」
「確か、おヨネさんのお父さんが鬼を見た時に、沖の方に見たこともない大けな黒い船があったて言うとりんさったんや……」
「ほうよほうよ。そがぁなこと言うとったな。おヨネさんが子供の頃言うたら、ちょうど徳川の終わり頃になるけんな。あれも、ひょっとしたら西洋の黒船やったんかもしれまい」
「ロシアの船かもしれませんよね?」
「ほやないとは言えんけんど、ほれがどがぁかしたんかな?」
千鶴は興奮で体が震えていた。もしやの想いが確信へと近づいている。それでも、まだ信じられない気持ちではあった。
「学校で習いましたけんど、黒船が日本に来よった頃は、異国人を殺そとするお侍もおったんですよね?」
「攘夷いうてな、異国人は日本を利用するぎりの悪い連中じゃて考える輩がおったようじゃな」
「がんごめて呼ばれよった娘が異国の娘じゃて知れたら、狙われるんやありませんか?」
知念和尚は、ふーむとうなずいた。
「ほれはまぁ考えられるわな。なるほど、法生寺に集まっとった侍連中いうんは、そげな目的があったんかもしれんな。ほんでも娘一人を殺めるんに大勢は必要なかろに」
「ここにロシアの船が来るてわかっとったら?」
知念和尚は驚いたような顔で千鶴を見た。
「どがぁしたんぞな、千鶴ちゃん。何考えとるんぞな?」
浜辺で大勢の侍たちを迎え撃つ若侍の姿が、千鶴の目に浮かぶ。侍たちの狙いは千鶴だ。若侍は千鶴を海に逃がそうとしていた。後ろの海にはロシアの黒船が浮かんでいたはずだ。
――おらはな、どがぁに望んでも、その娘と一緒にはなれんなったんよ。
海を見つめる悲しげな忠之の顔が目に浮かぶ。
涙があふれそうになりながら千鶴は考えた。
あの若侍が護ろうとしていたのが前世の自分であるならば、あの人は恐らく……。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
千鶴の髪に花を飾ってくれた若侍が微笑んでいる。その顔は、今でははっきり見えている。
千鶴は胸が苦しくなった。自分が見たものはただの夢ではないし、ただの幻ではなかった。あれは前世の記憶に違いない。
胸の中で感情が爆発しそうだ。涙で目がよく見えない。
千鶴は立ち止まって泣いた。
知念和尚はうろたえたように千鶴を慰めながら、何を泣くのかと訊ねた。しかし、千鶴は答えられなかった。
説明してわかってもらえるものではない。考えていることが事実だという証拠もない。それでも千鶴には、それが真実だった。
何故忠之の温もりを感じるのか。そのことを千鶴は不思議に思っていた。だが、今ならその理由がわかる。それは二人が時を超えて結ばれているからなのだ。
蘇った記憶
一
「ほんじゃあ、こっから先は一人で行けるかな?」
知念和尚は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。
千鶴はうなずき、襟巻きを和尚に返そうとした。だが和尚はそれを制し、もう一度その襟巻きを千鶴の首に巻き直してくれた。
「ほれは千鶴ちゃんがしよりなさい。ほうじゃ、ちぃと待っとりなさいや。傘を借りて来てあげようわい」
ここは木屋町の電停を過ぎた辺りで、お寺が多い所だ。
知念和尚はここの近くのお寺に用があって来たそうで、そこへ傘を借りに行こうとした。いよいよ雨が降り出しそうな黒い雲が広がっている。
しかし千鶴は大丈夫ぞなもしと言って、それを断った。それから和尚に世話になった礼を述べると、一人歩き始めた。
本当は傘を借りればよかったのかもしれない。だが、千鶴は忠之のこと以外、何も考えられなくなっていた。
この道を歩いていると、忠之に風寄から人力車で運んでもらったことを思い出す。それに風寄へ帰る忠之を見送りがてら、二人で歩いたのもこの道だ。
あの時、千鶴には希望が見えていた。きっと同じ希望を忠之も見ていたに違いない。千鶴と同じ屋根の下で暮らすことができると、忠之は喜びを噛みしめていたはずなのだ。
そんなことを考えると、千鶴はまた泣きたくなった。あの時には知らなかった忠之の正体がわかっているから、余計に悲しい気持ちになる。
千鶴は悲しみをこらえながら、自分と忠之のつながりを考えた。
まず前世の自分は法生寺で暮らした娘だったと思われる。そして前世の忠之は風寄の代官の一人息子だったのだろう。
二人は夫婦約束を交わしていた。ところが襲って来た攘夷侍たちによって、二人の間は引き裂かれた。
襲いかかる侍たちを迎え撃つ忠之の姿が、千鶴の目に浮かぶ。あの時、忠之は千鶴をロシアの黒船に託して攘夷侍たちと戦い、その命を散らしたのに違いない。
そうして死に別れたはずの二人が今ここに生まれ変わり、奇跡の再会を果たしたのだ。
それが真実だという証拠はない。だが、千鶴はそれを紛れもない真実だと確信していた。そう考えなければ頭に浮かんだ幻影や、忠之の言葉を説明することはできなかった。
千鶴の考えが正しければ、忠之は明らかに前世の記憶を持っている。それだけでなく、千鶴が法生寺にいた娘の生まれ変わりだと、忠之はわかっていると思われる。だからこそ他の者なら絶対に見せないような親切を、忠之は千鶴のために示してくれたのである。
生まれ変わった自分を見つけた時、あの人はどれだけ驚き、どれだけ喜んだことだろうと千鶴は思った。
しかし、忠之は本当のことを千鶴に伝えることはできなかった。代わりにしたせめてものことが、あの野菊の花なのだ。あの花は前世での二人の関係と、忠之の千鶴へ想いを示したものだったに違いない。
そのあとも忠之は正体を明かさずに千鶴を見守ってくれていた。
拒まれるのがわかっているのに、祭りの人垣に入ろうとしたのも、春子に人垣の中へ引っ張り込まれた千鶴を心配してのことだろう。源次たちに襲われた時に、すぐに助けに現れたのも、ずっと千鶴の様子を見てくれていたからだ。松山まで人力車で運んでくれたのもそうである。
だが、忠之は千鶴を助けたあとはすっと離れ、それ以上は千鶴に関わらないようにしているようだった。それは忠之が山陰の者だからに違いないと千鶴は考えている。あるいは親に捨てられた孤児だということも理由かもしれない。いずれにしても、忠之の中には自分なんかがという想いがあるのだろう。
そのため千鶴が山﨑機織の主の孫娘だとわかると、尚更今の自分は千鶴には近づけないと、忠之はあきらめの気持ちになっていたようにも思われる。
それでも千鶴に逢いたくて、忠之は松山ヘやって来た。そして、甚右衛門から働かないかと声をかけられた。それはまさに奇跡であり、思いがけない幸運のはずだった。
あの日の忠之の様子を、千鶴は今でもまざまざと思い出せる。
あの時、あの人はどれほど胸を弾ませたことか。そして、あの人が山陰の者だと知った祖父が、手のひらを返したように拒んだ時、あの人はどれほど傷ついたことだろう。
悔しさに涙ぐむ千鶴の頬に、ぽつりぽつりと雨粒が当たった。
雨は次第に強くなり、あっと言う間に土砂降りになった。
辺りは真っ暗になり、足下がよく見えない。所々に洩れ見える家の明かりや、街灯だけが頼りだった。
ずぶ濡れになって歩きながら、千鶴は頭の中で仲買人の兵頭を恨んだ。
あの男が祖父に余計なことさえ言わなければ、あの人が山﨑機織へ来る話が、ふいになることはなかった。
――あの男がおじいちゃんに余計なことさえ言わんかったら、あの人がうちで働く話がふいになることはなかったんよ。あの男は牛が動かんなった時、あの人に絣を松山までただで運んでもろた。絣の代金かてきちんと届けてもろた。ほやのに、あの人にこんな仇を返すやなんて、人間のすることやない。あの男は人でなしじゃ。
兵頭は忠之を牛代わりにただ働きさせ続けたかったに違いない。ところがそれができなくなり、忠之が山﨑機織で働くことになったのが面白くなかったのだと千鶴は思った。
――ほんまじゃったら、世話になったあの人を祝福してあげるとこやのに、あの男はあの人の希望を打ち砕いたんじゃ。あの男のせいで……、あの男のせいで……。
考えれば考えるほど怒りは膨らみ、濡れた体は怒りに震えた。鬼になったような気分の千鶴は、自分が兵頭を罰するところを想像した。しかし、すぐに忠之の顔が思い浮かび、そんなことを考えるのをやめた。
――千鶴さんはがんごめやない。千鶴さんは人間の娘ぞな。千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞな。
心の中の忠之が千鶴に語りかけて来る。忠之の言葉を聞けば、悪いことなど考えられるはずがない。
それに忠之から受けた恩を仇で返したことでは、祖父だって同罪なのだ。兵頭を呪うということは、祖父を呪うということでもある。それは千鶴にはできなかった。それで何とか怒りは鎮めることができたが、悲しみだけはどうしても消すことができない。
自分の無力さに涙を流しながら、千鶴は雨の中を歩き続けた。
裏木戸から家に入ると、幸子と花江が手拭いを持って駆け寄って来た。
幸子は仕事から戻った時に、初めて千鶴のことを聞かされたのだろう。唇を噛みしめながら泣きそうな顔をしていた。
びしょ濡れになった千鶴の体を二人は懸命に拭いた。
首に巻いていた襟巻きはどうしたのかと訊かれ、山越の向こうで出会った知念和尚に貸してもらったことを、千鶴は力なく話した。
それで幸子たちは、千鶴が何をしようとしていたのかを理解したようだった。二人はそれ以上は何も訊かず、黙って千鶴を拭き続けた。だが、水がしたたり落ちるほど濡れた着物はどうしようもない。
幸子は千鶴に離れで着物を着替えるようにと言った。
座敷にいた甚右衛門とトミは、千鶴の様子を見て戸惑っている様子だった。それでも千鶴に声をかけたり傍へ来ることはなく、黙って千鶴を眺めていた。
板の間にいる手代や丁稚たちも、やはり千鶴を眺めるばかりで黙ったままだ。
幸子は千鶴を離れの部屋へ連れて行くと、着物を着替えさせながら、改めて体を拭こうとした。その時、千鶴の体に触れた幸子は驚きの声を上げた。
「千鶴、あんた、えらい熱があるぞな」
確かに悪寒がしていた。立っているのもつらい。
幸子は急いで千鶴に寝巻を着せると、布団を敷いて寝かせた。
「今、お薬持て来るけんな」
母が部屋を出て行ったあと、悲しみと疲れでぼーっとしていた千鶴は、すぐに夢の世界へ入った。
だが夢の中でも、千鶴は熱を出して寝ていた。
千鶴の枕元には、前髪が残る男の子が座っている。前世の子供の頃の忠之だ。名前は柊吉と言う。
柊吉は千鶴の額に手を当てながら、苦しいかと訊ねた。
千鶴がうなずくと、柊吉は自分の額を千鶴の額に重ねて祈った。
――千鶴の病があしに移りますように。千鶴が笑顔になれますように。
そげなことは願わんといてと、千鶴は柊吉に言った。
だが柊吉は祈り続け、これで大丈夫ぞな――と言った。柊吉が顔を上げると、そこには醜い鬼の顔があった。
千鶴――母の声が聞こえると、柊吉はいなくなった。
母が薬の準備をしている横で、千鶴は声を出して泣いた。泣きながら、自分にも前世の記憶があるのだと知った。
幸子は千鶴に薬を飲ませても、部屋を出て行かなかった。千鶴の隣で自分も横になると、余計なことは何も言わず、千鶴の手を握り続けてくれた。
千鶴は母を感じながら、再び眠りに落ちて行った。
二
千鶴は小さな杖を突きながら、険しい山道を歩いていた。ずいぶん前から歩き続けているが、いつまで歩くのかはわからない。
すぐ前を、母が同じように杖を突きながら歩いている。母は白い衣装を身にまとい、菅笠をかぶっている。千鶴も同じ格好だ。
大人でも大変な道を、子供の千鶴が歩くのはつらいことだ。それでも歩くしかないので、千鶴は懸命に歩いた。
千鶴が遅れると母は立ち止まって、千鶴が来るのを待っている。しかし、千鶴が追いつくと母はまた歩き始めるので、千鶴は休む暇がない。
体が熱く、噴き出る汗は手拭いで何度拭いても止まらない。
「お母ちゃん、暑い。おら、お水、飲みたい」
「えいよ、ちくと休もかね」
母は足を止めて、にっこり笑った。
千鶴は腰に提げた竹筒の水を飲もうとした。ところが水を入れたはずの竹筒は空っぽだった。
「かっか、これ、お水入っとらん」
「じゃったら、かっかんのをお飲みや」
母は自分の竹筒を千鶴に渡そうとした。
その時、母は急に咽せ込んだようにひどい咳をし始めた。
咳は止まらず、母は崩れるようにしゃがみ込んだ。持っていた竹筒は地面に転がり、口を押さえた母の手は、指の間から赤い血が流れていた。
「かっか!」
千鶴は母の背中をさすりながら助けを呼んだ。
「誰か来て! かっかが、かっかが」
ところが周りには誰もいない。千鶴は泣きそうなのをこらえながら、母に声をかけ続けた。
「千鶴、大丈夫か? しっかりせんね。ああ、えらい汗かきよらい」
手拭いで千鶴の寝汗を拭きながら、幸子は千鶴を起こした。
うっすら目を開けた千鶴は、薄暗さの中に母の顔を見つけた。
「かっか!」
千鶴は跳ね起きると、幸子に抱きついた。
「かっか、かっか、かっか……」
「ちょっと、どがぁしたんね? 千鶴、悪い夢でも見たんか?」
千鶴には慌てる母の言葉が聞こえていない。
「かっか、死なんといて。死んだら嫌や。おらを独りぼっちにせんで」
「おら? ちょっと千鶴。あんた、何言うとるんね?」
幸子は千鶴を押し離すと、千鶴!――と強く言った。
千鶴はようやく正気に戻り、周りを見回した。
そこは自分と母が使っている離れの部屋で、行灯の明かりがぼんやりと部屋を照らしている。いつもなら寝る時には消すのだが、母がつけておいたのだろう。
「お母さん? うち、どがぁしたん?」
「どがぁしたんやないぞな。何ぞ悪い夢でも見たみたいで、かっか、かっか言うて、うなされよったんよ。ほじゃけん、大丈夫かて声かけたら、いきなしがばって起き上がって抱きついてな。また、かっか、かっか言うたり、死んだら嫌や、おらを独りぼっちにせんでて言うたんで」
「うちがそげなこと言うたん?」
「言うた言うた。いったい何の夢を見たんやら。ほれより、また着替えんとな。汗で寝巻がびちょびちょやで」
そう言われて、自分が汗をびっしょりかいていることに、千鶴はようやく気がついた。
「こんだけ汗かいたんじゃけん、喉渇いたろ? 今、お水持て来てあげるけん、ちぃと待ちよりや」
千鶴を着替えさせたあと、幸子が部屋を出て障子を閉めると、千鶴は一人きりになった。
さっきは何の夢を見たのだろうと、横になりながらぼんやり考えていると、いつの間にか、千鶴はお坊さまに手を引かれて石段を登っていた。
いつも一緒だった母はいない。母は亡くなったのだ。
石段の上には寺の山門がある。その門をくぐって境内に入ると、男が一人境内の掃除をしていた。男は寺で働く寺男で、千鶴を見ると驚いて腰を抜かしそうになった。
お坊さまは男に驚くことはないと言い、千鶴が異人と日本人の間に産まれた気の毒な娘だと説明をした。
場面が変わり、千鶴は寺男と一緒に寺の仕事を手伝っていた。
仕事が終わると、千鶴はお坊さまに呼ばれて習字を教わった。千鶴が教えてもらったのは「千鶴」という自分の名前の字だった。
村の者たちは千鶴を見ると気味悪がり、鬼の娘と言ったり、がんごめと呼んだりした。
村の子供たちはわざわざ寺まで来て、千鶴に石を投げつけたり、追い回したりしていじめた。
お坊さまや寺男がそれを見つけると、子供たちに雷を落として千鶴を護ってくれた。それでも千鶴は悲しかった。亡くなった母に逢いたくて、ずっと一人で泣いていた。
「千鶴、また寝たんか? お水、持て来たで」
母の声が聞こえ、千鶴は目を覚ました。だが、夢の記憶は残っている。今の自分の中には山﨑千鶴と、がんごめと呼ばれた千鶴という二人の千鶴がいた。
「だんだん」
水を受け取りながら、千鶴は母の顔を見つめた。
がんごめと呼ばれた千鶴が心の中で泣いている。前世で死に別れた母が、今、目の前にいる。
――かっか。
心の中で、前世の千鶴が母を呼ぶ。しかし、その言葉を口に出せば、母が困惑するのは目に見えている。
今の自分は前世の自分ではないし、今の母は前世の母ではない。だが母の顔は前世の母の顔によく似ている。
母は前世のことなど覚えていないが、自分と同じように、母も生まれ変わって来たのに違いない。それも前世と同じ自分の母親として、生まれて来てくれたのだ。
母の有り難さはわかっていたつもりだった。だが、今ほど有り難く思ったことはない。
「お母さん、これからもずっとうちの傍におってな」
母を見上げて千鶴は言った。
幸子は微笑むと、あんたが嫌と言うまでおるぞな――と言った。
三
母と共に再び床に就いた千鶴は、少し気持ちが落ち着いた。母が隣にいると思うだけで心強く感じられる。
一方で、親に捨てられた忠之を想うと、千鶴は胸が締めつけられた。その忠之を、事もあろうに自分の祖父がさらに傷つけたのだ。そのことはさらに千鶴をつらくさせた。
忠之は何も悪くない。しかも、祖父は忠之から多大なる恩を受けていた。それなのに山陰の者というだけで、その恩を裏切るような仕打ちを祖父は見せたのである。
だが、それに対して自分は何もできない。無力感は千鶴から気力ばかりか思考力も奪っていた。
頭はぼんやりしているが、全然眠れない。隣から母の寝息が聞こえて来ても、千鶴はまだ目が覚めていた。
何となく目に浮かぶのは、大きな楠だ。
――あれは確か、法生寺の本堂の脇に生えとる楠爺ぞな。ずっと昔からある立派な楠じゃと、和尚さまが仰っておいでたわい。誰ぞが来ると、おら、よくこの楠爺の後ろに隠れたわいなぁ。
頭の中で独り言をつぶやきながら、千鶴はいつの間にか楠爺の陰から境内を眺めていた。
山門をくぐって境内に入って来たのは、お侍と男の子、それにお付きの者と思われる男の三人だ。男の子はお侍の子供なのだろう。村の子供たちとは違う身なりをしている。見ていると、三人は庫裏の中へ入って行った。
千鶴は楠爺の陰から出ると、小石で地面に絵を描いて遊んだ。すると、間もなくして男の子だけが外へ出て来た。
驚いた千鶴は小石を捨てると、慌てて楠爺の後ろに隠れたが、男の子は千鶴に向かって走って来た。
千鶴は本堂の裏へ逃げたが、男の子は足が速かった。千鶴はすぐに追いつかれ、境内の隅へ追い詰められた。
逃げられなくなって千鶴が泣きそうになると、泣くなと男の子は言った。それから男の子は懐に手を入れ、中から花を取り出した。それは野菊の花だった。
「お前のことは聞いておったけん、下でこの花を摘んで来たんぞ」
千鶴は男の子の言っていることが理解できなかった。
男の子は構わず千鶴に近寄ると、千鶴の頭に花を飾ってくれた。
自分で花を飾っておきながら、男の子は目を丸くした。
「うわぁ、きれいな。花の神さまみたいぞな」
千鶴は頭の花を手で触れると、男の子に言った。
「おらが、花の神さま?」
男の子は嬉しそうにうなずいた。
「花がそがぁ申しておらい」
「お花の言葉がわかるん?」
「わからんけんど、わかるんよ。お前は花の神さまぞな。ほれにお前を見て、あしはわかった」
「わかったて、何がわかったん?」
怪訝に感じる千鶴に、男の子は真面目な顔で言った。
「あしはな、お前に会うためにここへ来たんぞな」
「おらに会うために? なして?」
「わからん。ほやけど、そがぁな気がするんよ」
村の子供たちは千鶴を馬鹿にする。千鶴は男の子の言葉が信じられなかった。
「おらを、からかいよるんじゃろ?」
「からこうたりなんぞするもんかな。あしは嘘は嫌いぞな」
「ほやけど、おら、がんごめぞな。ほんでも構んの?」
「がんごめとは何ぞ?」
「鬼の娘のことぞな」
千鶴は男の子を見返すつもりで、少し胸を張った。だが男の子は顔をしかめて、意外な言葉で応じた。
「鬼の娘? 何言いよんぞ。お前は花の神さまぞな。花の神さまはな、誰より優しいて、誰よりきれいなんぞ」
男の子が大真面目なのがわかると、千鶴は途端に恥ずかしくなった。
困って目を伏せる千鶴に、男の子は自分は柊吉だと名乗った。それから拾った小枝で、地面に名前を漢字で書いて見せた。
男の子に名前を訊ねられた千鶴は自分も名乗った。
字が書けるかと柊吉に訊かれ、千鶴はうなずいた。では書いてみろと、柊吉は持っていた小枝を千鶴に渡そうとした。千鶴はそれを受け取ろうとしたが、緊張していたのか、受け損なってぽろりと落としてしまった。
慌てて拾おうと千鶴がしゃがんで手を伸ばした時、同じように柊吉が伸ばした手と千鶴の手が重なった。
重なった手を通して、とても懐かしい感じがする温もりが伝わって来た。千鶴が驚いて柊吉を見ると、柊吉も同じように驚いた顔で千鶴を見ていたが、すぐににっこり微笑んだ。
千鶴は嬉しいような恥ずかしいような気持ちになって、拾った小枝で地面に名前を書いた。それを見た柊吉は、むずかしい字が書けると感心し、千鶴に尊敬の眼差しを向けた。
千鶴は嬉しかった。また少しだけ誇らしい気持ちになった。それから千鶴は柊吉と友だちになった。
場面が変わり、前髪が残る柊吉が息を切らせてやって来た。さっきよりも大きくなっていたが、全然気にならない。お付きの者はいないので、柊吉は一人で来たようだ。
柊吉は油紙の包みを懐から取り出し、千鶴の前で開けて見せた。包みの中には、とげとげのある色とりどりのきれいな小さな粒が、たくさん入っている。
「これは金平糖というお菓子でな、父上の知人の土産ぞな」
柊吉は得意げに言った。
柊吉に勧められ、千鶴は金平糖を一粒口の中へ入れた。舌の上に甘さが広がり、千鶴は幸せの呻き声を上げた。
柊吉にも食べるよう促すと、柊吉は家で腹いっぱい食ったから、これは全部千鶴の物だと言った。
だが、千鶴が金平糖を食べるたびに、柊吉は横で唾を飲み込むので、千鶴は口の中を見せて欲しいと言った。
柊吉が言われるまま大きく口を開けると、千鶴はその中に金平糖を放り込んだ。
驚いて口を閉じた柊吉は幸せそうな笑顔になって、まこと千鶴は優しいの――と言った。
再び場面が変わると、柊吉は元服して佐伯進之丞となっていた。
晴れ姿を見せに来た進之丞を千鶴が褒めると、進之丞は千鶴の手を取って、自分の嫁になって欲しいと言った。
期待はしていたが、本当に請われて千鶴はうろたえた。
自分は親なし子だし、がんごめだからと遠慮すると、進之丞はそんなことはどうでもいいと言った。
どうしても嫁になって欲しいと繰り返し懇願され、千鶴は嫁になることを承諾した。
進之丞は大喜びで千鶴を抱きしめた。
優しい温もりに包まれた千鶴は、自分のような娘が幸せになれることが信じられなかった。
進之丞は千鶴を抱きながら、千鶴には諱を教えよわいと言った。
諱というのは侍の本当の名前だそうで、滅多に口にしてはいけないし、誰にでも告げる名前ではないらしい。
進之丞というのは呼び名であって、本当の名前ではないのだと進之丞は言ったが、千鶴には少しむずかしい。
「とにかくな、あしのほんまの名前は忠之ぞな。忠義の忠に之と書いて忠之て読むんよ。名前を全部言うなら佐伯進之丞忠之ぞな」
四
朝になると、千鶴の熱は下がっていた。
目が覚めた時、千鶴は今の自分が置かれた状況を理解していた。
その一方で、夢によって蘇った前世の自分が、心の半分を占めているような感じだった。
前世の自分が今世の自分の邪魔をすることはない。今の自分の中心は今世の自分だ。前世の自分は今世の自分の後ろから、そっと今の状況を眺めている。
「目ぇ覚めたか? 具合はどがいなん?」
母が優しく声をかけ、千鶴の額に手を載せた。
つい前世の自分が飛び出しそうになるのを抑えながら、千鶴は言った。
「昨日よりはええけんど、まだちぃと頭がぼーっとする」
「熱は下がったみたいなけんど、今日は一日おとなしいにしとかないかんぞな。あとでご飯を持て来てあげよわいね」
幸子は千鶴を起こすと、用意していた水を飲ませた。
「あんな、かっか」
母に声をかけてから、千鶴はすぐに言い直した。
「間違うた。あんな、お母さん」
幸子は笑いながら、おかしな子じゃねぇと言った。
「どがいした? 何ぞ欲しいもんがあるんか?」
「おらを――やのうて、うちを産んでくれてだんだんな」
「何やのん、そがぁ改まったこと言うて」
幸子は笑っていいものかどうかわからない様子だった。
「お母さん、体大事にしてや。うちより先に死んだら嫌やけんな」
「昨夜も妙なこと言いよったけんど、何ぞ怖い夢でも見たんか?」
「怖い夢なんぞ見とらんよ」
怖い夢ではない。悲しい夢だったのである。だが、千鶴は夢の内容を話すのはやめておいた。
喋ったところで信じてもらえないに違いない。熱のために悪い夢を見たのだろう、と言われるのが目に見えている。
「佐伯さんのこと、あんたにも佐伯さんにも気の毒じゃったね」
幸子は改まった様子で、千鶴に話しかけた。
千鶴が黙っていると、幸子は話を続けた。
「お母さん、仕事から戻んてから、何があったんか聞かされてな。あんたが家飛び出した言うけん、ほんまに心配しよったんよ」
「……ごめんなさい」
幸子は考えるように少し間を置いてから言った。
「みんな、おじいちゃんのお世話になって暮らしよるけん、おじいちゃんには逆らえん。ほやけどな、お母さん、あんたの気持ちはようわかる。ほんでも、今はぐっとこらえんとな。一人前の師範になったら、あんたは自由になれるけん、ほれまでは辛抱するんよ」
「ほやけど、おじいちゃん、うちに別のお婿さんを連れて来るんやないん?」
「そげなもん、あんたが断ればええことじゃろ? あんたが絶対に嫌じゃ言うたら、おじいちゃんも無理なことはできんぞな」
千鶴はうなずいた。確かに母の言うとおりだと思うし、他にどうすることもできそうにない。
母が部屋を出て行くと、前世の千鶴が顔を現した。考えるのは忠之のことだ。
前世の千鶴は忠之を進之丞として認識しており、法生寺に捨てられた孤児とは見ていない。そんなことはどうでもいいことであり、死に別れたはずの二人が再び出逢えたことを喜ぶばかりだ。またすべては定めであり、二人が夫婦になるのも定めだと信じている。
それでも千鶴が思い出した前世の記憶は、全体の一部に過ぎなかった。全部を思い出したわけではないので、前世の千鶴の存在感は希薄でもあった。
千鶴が現在の忠之に思いを馳せると、前世の千鶴はすぐさま後ろへ引っ込んでしまう。
今世の千鶴には、できるだけ物事を客観的に見ようという気持ちがあった。そのため前世の自分の記憶が、果たして本物なのかと疑う気持ちもあった。
もしかしたら自分は頭がおかしくなったのではないかと、不安になったりもした。しかし、忠之が言ったことを信じるならば、やはり忠之は進之丞の生まれ変わりであり、前世の記憶があると考えざるを得ない。
すると、途端に前世の千鶴が顔を出し、何が何でも進之丞の所へ行かねばと主張し始める。
前世の千鶴は、自分の存在を進之丞に示したがっていた。今世の千鶴も、自分が前世を思い出したことを忠之に知らせたかった。そこのところでは、二人の千鶴の考えは一致していた。
きっとそれは忠之の悲しみを癒やすことになるだろうし、今度こそ二人が夫婦になるという決心を忠之に抱かせるはずだと、二人の千鶴はうなずき合った。
とにかく忠之と連絡を取らねばならないと思ったが、今は自由に動ける状態ではない。それに無鉄砲なことをすると、却って状況は悪くなるかもしれなかった。
ここは知念和尚や母の忠告どおり、落ち着いて構える必要があると、千鶴は自分に言い聞かせた。前世の千鶴も黙ってその言葉を聞いている。
まずは手紙を書こうかと思ったが、千鶴は忠之の住所を確かめていなかったことに気がついた。まさか、こんなことになるとは思いもしなかったのだ。
迂闊だったと自分を責めながら、千鶴は再び横になった。
どうしようかと思い悩んだが、いい考えは浮かばない。
知念和尚宛に手紙を出して、忠之に届けてもらおうかとも思ったが、やはり法生寺の住所がわからない。法生寺とだけ書いても届くかもしれないが、届かないかもしれない。手紙を確実に届けるためには、あやふやなことは避けた方がいいだろう。
少し考え、そうだと千鶴は思った。春子に訊けばいいのである。春子が知らなければ、実家に訊ねてもらえばいい。そうすれば法生寺の住所がわかるし、知念和尚なら絶対に二人のために動いてくれるはずだ。
明日は必ず学校へ行き、春子に会おうと千鶴は思った。そのためには、今日中に体調を戻す必要がある。
千鶴がようやく安堵して気持ちを整理できた頃、母が千鶴の箱膳を運んで来てくれた。
再び母が部屋を出て行ったあと、千鶴は一人でしっかり食べた。食欲があるわけではない。それでも明日のために、とにかく食べねばならなかった。
現れた鬼
一
月曜日、千鶴は部屋で食事をしたあと、学校へ行く準備をした。
昨日のうちに体調を戻すつもりだったが、まだ完全とは言えなかった。それでも春子に会って、法生寺の住所を教えてもらわねばならない。それに、また学校を休むと退学になると言われている。
忠之が山﨑機織で働けない以上、忠之と一緒になるためには、師範の資格はどうしても必要だ。たとえ熱があったとしても、休むわけにはいかなかった。
髪を整え、着物の上に袴を着けると、千鶴は茶の間へ挨拶をしに行った。病院の仕事へ向かう母も一緒だ。
祖父は新聞を読んでいる。その横で祖母がお茶を淹れていた。
千鶴と幸子は、まず茶の間にある仏壇の前で手を合わせた。この日は千鶴の伯父正清の命日だった。
本来ならば家族揃って墓参りに行くところだが、千鶴は学校を休めないし、幸子も病院の仕事があった。
「おじいちゃん、おばあちゃん、行てまいります」
祈り終わった千鶴が祖父母に声をかけると、甚右衛門は目だけを向け、あぁ――と素っ気ない返事をした。
辰蔵がいないので早く帳場に行こうとしているのか、甚右衛門は忙しげに新聞をめくっている。
トミは千鶴に待つように言うと、お茶を淹れた湯飲みを甚右衛門に渡し、千鶴の傍へ来た。
「今日は電車でお行き」
トミは懐から財布を出すと、千鶴に銭を持たせた。
昨日は冷たい顔を見せたトミだったが、今朝は優しげな祖母に戻っていた。
幸子は花江から用意していた弁当を受け取ると、一つを千鶴に持たせた。
花江は千鶴に何か言いたげに見えた。しかし、言葉が見つからなかったのか、黙って微笑んだだけだった。
「花江さん、行て来ます」
千鶴が花江に声をかけて表へ出ようとすると、何じゃと?――と甚右衛門が声を上げた。
千鶴と幸子が驚いて振り返ると、甚右衛門は新聞に顔を突っ込むようにしている。
「どがいしたんね? 急にそげな大けな声出しんさって」
トミが怪訝そうに声をかけたが、甚右衛門は返事をしない。記事に釘づけになっているようだ。
トミは甚右衛門の傍へ行き、横から新聞をのぞき込んだ。
恐らく伊予絣の値が暴落したのだろうと思い、千鶴は再び祖父たちに背を向けた。すると、また甚右衛門の声が聞こえた。
「兵頭よ。兵頭のことが出とる。ほれ、ここ見てみぃ」
「誰ぞな、兵頭て?」
訊き返したのは祖母の声だ。
「風寄の仲買人の兵頭よ。金曜日にここへ来たろがな」
「あぁ、あの兵頭さんかな。あのお人が、なして新聞に載っておいでるん?」
千鶴は二人を振り返った。幸子も同じように二人を見ている。
花江は洗濯の準備をしているが、耳は甚右衛門たちの言葉をしっかり聞いているはずだ。
甚右衛門は説明しようとした。だが面倒に思ったのか、自分で読めと、新聞をトミに突きつけるように手渡した。
新聞を受け取ったトミは、どれどれと両腕を真っ直ぐ伸ばすと、新聞を読み始めた。
「豪雨が降る土曜日の真夜中、風寄の馬酒村に住む兵頭勘助さんの家が、突然ばりばりと音を立てて屋根が壊れた。その時に兵頭さんたちは、化け物が吠える恐ろしげな声を聞いたと言う。家人に怪我人はいるものの命に別状はなし。ただし、購入したばかりの牛は驚いて死んだ模様。尚、風寄では先日、山の主のイノシシが何者かに頭を潰されて死ぬという事件が起こっており、村人たちはすっかり怯えている様子である」
トミは新聞を下ろすと、甚右衛門に訊ねた。
「これ、何やと思いんさる?」
「そげなこと、わしがわかるわけなかろ!」
甚右衛門は怒鳴った。
幸子は不安げに千鶴を見た。
花江も動きが止まって、千鶴を見ている。イノシシ事件を千鶴と春子から聞いていたからか、花江の顔は強張っていた。
だが、一番怖い顔になっていたのは千鶴かもしれなかった。
千鶴は直感で、これは鬼の仕業だと思った。自分が兵頭を呪ったために、その願いを叶えようと鬼がお仕置きをしたのに違いない。
前世を知る忠之は、鬼は千鶴の幸せを願い、千鶴を見守ってくれていると言った。あの話は恐らく事実であり、鬼は今世でも千鶴のために動いてくれた。それがイノシシ事件であり、また今回の兵頭の事件だ。
千鶴は兵頭を一つも気の毒だとは思わなかった。兵頭は忠之の恩を仇で返した。鬼に襲われても自業自得である。命が助かっただけでも有り難いと思うべきなのだ。
鬼が味方になってくれていることは、千鶴を安心させ慰めてくれた。しかし、よく考えてみれば、これは怖いことだった。
自分の怒りに鬼が反応したのだとすると、これは自分のせいということになる。
兵頭を恨んで呪った時、忠之の顔を思い出して途中で呪うのをやめた。もしあのまま呪い続けていれば、どうなっていたのかと考えると、千鶴は背筋が寒くなった。
今回は牛が死んだだけで済んだが、この次は人の命が失われるかも知れない。それは避けねばならないことである。
それに、千鶴は鬼の手を血で汚させたくなかった。鬼には優しい鬼のままでいて欲しかった。
今後は無闇に怒りを覚えてはならないと、千鶴は自分を戒めた。
また、祖父に対しても腹を立てないことに決めた。自分のちょっとした怒りが、大変なことにつながりかねないという思いが、千鶴を慎重にさせた。
とにかく何があっても、するべきことを淡々とするだけで、決して腹を立ててはいけないと、千鶴は自分に言い聞かせた。
「ほやけど、どがぁするんぞな? 兵頭さん所の牛が死んでしもたて書いてあるけんど、今度はどがぁして絣を持って来んさるんじゃろか?」
トミは兵頭の家が壊れたことよりも、絣の納入が滞ることを心配していた。甚右衛門はトミを見たが、返事ができないようだった。それはそうだろう。もう、忠之が大八車で絣を運んでくれることはないのである。
兵頭も困るだろうが、祖父も再び頭を抱えねばならなくなったようだ。千鶴は少し鬱憤を晴らした気分になった。
二
札ノ辻から電車に乗った千鶴は、歩かずに済んだことを有り難く思いながら、電車に憧れていた忠之を思い出して悲しくなった。
松山で暮らしたなら、いつかは乗れたであろう電車や陸蒸気に、忠之が乗ることはもうない。その電車に自分が乗っていることが切なかった。
電車は師範学校の脇を通り抜けたあと、西に向きを変えた。しばらくすると電車は傾斜を登り始めて、南北に走る二つの線路の上を越えた。その時、すぐ左に古町停車場が見えた。
そこにはもう何台かの大八車が集まって、遠方へ送る品が降ろされている。その様子を眺めていると、風寄から引いて来た大八車に載せた絣の箱を、茂七と一緒に停車場へ運び込む忠之の姿が目に浮かぶ。
車内には他の乗客もいたが、千鶴の頬は涙に濡れた。
いつも通学で歩く三津街道に沿って、電車は進んで行く。誰も座っていない隣の席で、嬉しそうな忠之がとびきりの笑顔を千鶴に見せている。
千鶴はこらえきれなくなって、両手で顔を覆った。
ゴトンゴトンという電車の揺れ動きを感じながら、千鶴は心の中で忠之に、必ず傍に行くから待っていて欲しいと、ずっと声をかけ続けた。
「新立、新立です」
車掌の声が聞こえ、千鶴は顔を上げて涙を拭いた。そこはもう学校のすぐ近くだ。
電車を降りると、千鶴は女子師範学校へ向かった。
普段よりかなり早い時間の到着になったので、何だかいつもと調子が違う。それでも校門の前に立った千鶴は、とにかく将来のためにがんばろうと、校舎を見上げながら気持ちを新たにした。
校舎に入り教室へ向かうと、騒々しい声が教室から廊下にあふれ出ている。今日も静子が今朝の新聞記事のことで、みんなに喋っているのに違いない。
「おはようござんした」
教室に入った千鶴が声をかけると、級友たちはぴたりを喋るのをやめて千鶴を見た。
一斉に振り返られた様子が異様な感じだった。千鶴は戸惑いを覚えたが、それでも笑顔を見せた。だが千鶴に笑顔を返す者はなく、みんな怖い物でも見るような目を千鶴に向け続けている。
集まりの中心には、やはり静子がいた。その隣には春子がいる。しかし、二人の顔にも笑顔はない。静子は怯えたような顔をし、春子は泣きそうな顔だ。
「山﨑さん、鬼が憑いとるんやて?」
静子が唐突に言った。
え?――一瞬、頭の中が白くなった千鶴は、すぐに春子を見た。
春子は慌てた様子で目を伏せた。静子は続けて言った。
「お祓いの婆さまに、鬼が憑いとるて言われたんじゃろ? その婆さまでも手に負えんような、恐ろしい鬼が憑いとるて聞いたで」
千鶴は返事をしなかった。顔を上げようとしない春子に怒りを覚えたが、怒ってはいけないと必死で自分を抑えていた。
静子は名探偵にでもなったつもりなのだろうか。かつての仲よしだった千鶴を容赦なく責め立てた。
「今朝の新聞に出よったけんど、風寄で化け物に襲われた家があったそうなね。山﨑さんも知っとろ?」
「し、知らんぞな、そげな話」
知っているとは言えなかった。
「風寄で死んだイノシシ、頭潰されて死によったじゃろ? あれかてほの化け物の仕業に違いないで」
「そげなこと、うちに言われたかて困らい」
「山﨑さん、イノシシの死骸が見つかった頃、気ぃ失うてお寺で倒れよったんやて? お寺に行ったはずないのに、お寺で見つかったやなんて尋常なことやないで。山﨑さん、ほん時に鬼に憑かれたんやないん?」
千鶴はもう一度春子を見た。春子は下を向いたまま顔を上げようとしない。
「そのお寺、昔、がんごめいう鬼の娘が棲みよったんじゃろ?」
「村上さん、高橋さんに全部喋ったん?」
千鶴は顔を伏せたままの春子を責めた。だが、それは静子の言い分を認めたのと同じことだった。
級友たちがざわめいた。近くにいる者同士で身を寄せ合い、泣きそうな声で怖いと言う者もいた。
「うち、がんごめやないけん」
千鶴が訴えながら一歩前に出ると、みんなは慌てて立ち上がり、転びそうになりながら後ずさった。静子は下がらなかったが、必死で恐怖に耐えているような顔だ。
「山﨑さんがそがぁ言うても、鬼はそがぁ思とらんのやないん? 山﨑さん、村上さんのひぃばあちゃんに、がんごめて言われたそうやんか。村上さんかて山﨑さんの家遊びに行ってから、ずっと体調悪い言うとるで」
「ほんな……」
春子はあれだけ喜んで帰って行ったのに、あれは全部嘘だったと言うことなのか。その後も春子は千鶴の前では何も言わなかった。言えば鬼を怒らせると思ったのだろうか。
春子は慌てたように静子の袖をつかんで引っ張った。だが、静子はその袖を引き離した。
千鶴と目が合った春子は、泣きそうな顔で首を横に振った。その横にいた級友の一人が、怯えた様子で言った。
「うちがここんとこ頭痛かったんは、鬼のせいじゃったんか」
すると、他の者たちも同じようなことを口にした。中には家族の怪我や病気、遠方の親戚の不幸までも千鶴のせいにする者がいた。それに合わせて静子が言った。
「ひょっとして、うちの伯父さんらが化け物イノシシに襲われたんも、鬼が関わっとったんかも」
完全なる言いがかりだった。鬼がイノシシをけしかけたのなら、何故そのイノシシを殺す必要があったのか。理屈もへったくれもない。無茶苦茶である。
みんな千鶴を恐れるがあまり、すべての不幸の原因に仕立て上げようとしていた。千鶴が何を言おうと誰も聞く耳を持とうとしない。
おはようござんしたと、何も知らない別の級友が入って来た。だが、教室の異様な雰囲気に気づいたようで、入り口近くに立ったまま、どうしたのかとみんなに声をかけた。
「鬼ぞな。鬼がおるんよ」
誰かが言った。
「え? 鬼?」
入って来た級友が顔を強張らせると、千鶴はうろたえる春子を一睨みして教室を飛び出した。すると、すぐに春子も教室を出て追いかけて来た。
外へ出て校舎の裏に回った所で千鶴が立ち止まると、春子もそこで足を止めた。二人は黙って互いを見ながら、肩で大きく息をしている。
「山﨑さん、ごめん」
春子が先に口を開いた。
千鶴が黙っていると、春子はもう一度、ごめんと言った。
何がごめんかと思いながら、千鶴は冷たく言い放った。
「鬼が怖ぁて謝りよるんじゃろ?」
春子は黙っている。図星なのだろう。
「自分ぎり助けてもらお思て謝るやなんてみっともない」
「鬼が怖いんは嘘やないけんど、ほれが理由で謝っとるんやないけん」
「他にどがぁな理由があるん?」
「おら、山﨑さんを傷つけてしもたけん」
どの口が言うのかと言ってやりたかったが、千鶴はこらえた。とにかく腹を立ててはいけないのである。
千鶴は何度も息を大きく吸って、気持ちを落ち着けようとした。しかし、悔し涙が止まらない。
「うち、子供の頃から、ずっと白い目で見られよった……。ほんでもな、ここへ来て初めて友だちできたて思いよったんよ。うちがどんだけ嬉しかったか、村上さんにはわからんじゃろ」
「こげなこと言うても信じてもらえんかもしれんけんど、おら、山﨑さんのこと憧れよったんよ」
「うちみたいな者の何に憧れるんよ?」
「ほやかて、山﨑さん、きれいやし優しいし、立派なお店の娘さんやし、おらたちとは違う人やけん」
春子の言葉には空しい響きしかない。そのことは千鶴を余計にいらだたせた。
「ほうよほうよ。うちはみんなとは違うんよ。ほじゃけん、いっつもかっつも邪険にされて、見下されて来たんよ」
「おら、見下したりしとらん」
「見下しとるけん、うちの知らんとこで、みんなにうちの陰口言いよったんじゃろ?」
「陰口言うたんやない」
「ほな、何やのん?」
「つい、口が滑ってしもたんよ……」
春子の弁解によれば、静子が新聞記事を話の種に、今朝早くに寮まで来たらしい。その時に、春子はうっかりお祓いの婆の話をしてしまい、そこからずるずると他のことも聞き出されたと言う。
だが、そんな言い訳をされたところで納得できるわけがない。すべては風寄を訪れたことで始まったのである。
「風寄には村上さんが誘てくれたけん行ったんで。ほんまじゃったら、うちが風寄へ行くことはなかったんよ」
春子は黙って項垂れている。
「村上さんがうちを誘てくれたこと、うちは嬉しかった。村上さんがうちのこと大事に思てくれとるんじゃて、勝手に思いよった」
「おら、ほんまに村上さんのこと大事に思いよったんよ」
「じゃったら、なしてよ! なして、こがぁなことになるん? いくら高橋さんに言われたにしても、あれこれ喋る必要なかろがね」
春子が何も言わないので、千鶴は続けて言った。
「うち、村上さんに嫌な思いさせとない思て、今までずっと黙っとったけんど、教えてあげよわい。うちな、村上さんの従兄らに手籠めにされそうになったんよ」
え?――と春子は驚いた顔を上げた。
「ほれ、いつのこと?」
「御神輿投げ落とそとしよった時、村上さん、うちを残して一人で人垣ん中へ入ってったろ? あのあとぞな。うちはあの人らにみんなから見えん所へ連れて行かれて、手籠めにされそうになったんよ」
「ほんな……」
「あの人ら、うちを捕まえて、へらへら笑いながら言うたんよ。ロシア兵の娘なんぞ、手籠めにしたとこで誰っちゃ文句は言わん、みんな喜んでくれるて言いよったわいね。村上さんのお父さんもお兄さんも、みんな、うちを歓迎するふりしよったぎりじゃて言いよったんよ!」
喋りながら悔しくなった千鶴の頬を、新たな涙が濡らした。春子は弁解をしようとしたが、千鶴が先に言った。
「ほんでも、あるお人に助けてもろたけん、手籠めにされんで済んだけんど、そのお人がおらなんだら、うちは今頃この世におらんけん」
「おら、何も知らなんだ。ごめん……」
また下を向いた春子に、千鶴は言った。
「ほん時に、うちは思たんよ。みんな、うちの前でにこにこしよるけんど、ほんまはうちのことを見下しよったんやなて」
「ほんなこと――」
顔を上げた春子を遮るように、千鶴は言った。
「ほんでも、うちは村上さんのことは信じとったんよ。一緒に松山の街を廻った時も、村上さん、ほんまに喜んでくれとるて思いよったんよ」
「おら、ほんまに楽しかった」
「ほうよな。あんまし楽し過ぎて体調悪なってしもたんじゃろ?」
「ほれは……」
「村上さん、うちのことみんなに喋りたかったんじゃろ? ほんまはうちのことが気味悪いて、みんなに言いたかったんじゃろ?」
「そがぁなこと思とらん」
「じゃったら、村上さん、さっき一言でもうちをかぼてくれた?」
春子は黙ったまま首を横に振った。
千鶴は目を閉じると、怒ってはいけないと自分を戒め、春子のことは怒っていないからと鬼に訴えた。
それでも、もう学校に残ることはできない。自分を化け物と見なす者たちと過ごすことなどできなかった。だがそれは、忠之と一緒になるための唯一の道を断たれたということでもあった。そのことも悔しくて悲しくて、千鶴は子供のように泣いた。
三
「それは、みんなが間違ってるよ」
千鶴たちと向かい合って座る井上教諭は憤ったように言った。
一時限目は井上教諭の授業のはずだった。しかし教諭は授業を自習にし、千鶴と春子を応接室へ連れて来て話を聞いていた。
「これから小学校の教師になろうという者たちが、そんなことをしていたんじゃ、いくら師範の資格を取ったところで、立派な教師になんかなれないじゃないか」
春子は消え入りそうなほど小さくなっている。その春子に教諭は言った。
「村上さん。君は山﨑さんに悪かったと謝っている。だけど、物事には謝って済むことと、そうじゃないことがあるんだ。あとで謝るぐらいだったら、最初からやるべきじゃない。自分の行動の結果がどうなるのかぐらい、わかってないとだめだろ?」
春子は項垂れて泣いているが、教諭にいつもの優しさはなく容赦なかった。
「たった一人を大勢でいたぶるのは、僕の一番嫌いなことなんだ。相手が抵抗できず逆らえないのがわかった上で、みんなでいたぶるなんて最低だよ」
井上教諭はいらだった様子で懐から煙草を取り出した。煙草に火をつける手が小さく震えている。教諭は本気で怒っているようだ。
また、自分の教え子たちがこのような騒ぎを起こしたことに、教諭は打ちのめされているようでもあった。
ふぅっと煙を吐き出した教諭は、肩を落として言った。
「前に異界生物なんて分類をしたことで、君たちに本気で物の怪の類いを信じさせてしまったのだとしたら、この僕にも責任の一端はある。教師として、僕は自分が情けないよ」
教諭はすぐに顔を上げると、だけどさ――と言った。
「山﨑くんはみんなと同じ人間じゃないか。しかも、ずっとみんなと一緒に過ごして来た仲間だろ? お祓いのお婆さんや、村上さんのひいおばあちゃんが何を言ったとこで、まともに考えたら何が本当なのかわかるはずだよ」
僕は悲しいよと言うと、井上教諭はまた煙草を吸った。
「取り敢えずの話は聞かせてもらったけど、このあと改めて担任の先生や校長先生を交えて、事の経緯を聞かせてもらうことになるからね。いじめは厳禁だから、下手をすれば全員が退学ってことも有り得るよ」
教諭の言葉に、春子は声を上げて泣いた。
「先生、もう、ええんぞなもし」
千鶴は静かに言った。
「うち、もう誰のことも怒っとりません。ほやけん、もう、ええんぞなもし」
「山﨑さん、君は怒っていいんだ。悪いのはみんなの方だから」
「先生、ほんまにええんぞなもし。うち、もう怒るんはやめたんぞなもし」
井上教諭は指で眼鏡を押し上げて千鶴を見た。
「君は強い子だな。これだけのことをされながら、みんなのことを許すと言うのかい?」
千鶴がうなずくと、春子は泣きながら、また千鶴に謝った。千鶴は春子にも、もう怒ってないし、春子のことも許したと言った。
よかったなと教諭は春子に声をかけた。だが、千鶴は間髪入れずに言った。
「ほやけど、学校はやめるぞなもし。うちは、ここにはおれんですけん」
春子は涙で濡れた顔を上げると、慌てたように言った。
「山﨑さん、そげなこと言わんでや。このとおり、おら、何べんでも謝るけん、やめるやなんて言わんで」
春子は千鶴の手を取って頭を下げた。その手をそっと自分の手から離して千鶴は言った。
「村上さん。自分が今のうちの立場やったら、このまま平気な顔して学校へ来られる?」
春子は下を向いたまま黙って首を振った。
千鶴は井上教諭に言った。
「みんなはうちのこと化け物やて思とります。先生に言われて謝ったとしても、みんなの心の内は変わらんですけん。そげな所におるんは、うちには耐えられんぞなもし」
井上教諭は千鶴をなだめるように言った。
「君の気持ちは理解できるよ。だけど、傷つけられた君が学校をやめるなんて、道理に合わないよ」
「先生にはわからんことぞなもし」
困ったなと井上教諭は腕組みをすると、ふーむと唸った。
「先生方には、ほんまにお世話になりました。ほんまじゃったら、先生方お一人お一人にご挨拶せんといかんのじゃろけんど、今日はようしません。ほじゃけん、井上先生の方からよろしゅうお伝えいただけませんか」
「それは、校長先生や担任の先生とも話をしないといけないことだし……。でもね、明日になれば少し気持ちが落ち着くよ。学校をやめるかどうかは、それから考えても遅くはないと思うけど」
「うちは今度学校を休んだら退学になるて、校長先生から言われとります。ほじゃけん、どちゃみち学校にはおられんぞなもし」
井上教諭は春子に教室へ戻るようにと言った。
春子が泣きながら応接室を出て行くと、教諭は千鶴に言った。
「要は、君の気持ちの問題だよ。今回のことを君が気にしないでいられるなら、学校をやめないで済むだろ?」
「ほんなん無理やし」
「僕はね、少し催眠術をかじったことがあるんだ。催眠術では昔の記憶を探ったりできるんだけど、嫌な記憶を消すことだって不可能じゃないんだよ。だからね、これで君の傷ついた――」
「もう、ええんです。構んでつかぁさい」
千鶴は立ち上がると声を荒らげた。
「うちの記憶を消したとこで、みんなの気持ちは変わらんぞな。みんながうちを見下しよんのに、うちはみんなを友だちじゃて思わされるやなんて、ほれは、うちに阿呆になれ言うことぞなもし」
「すまない。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。僕が悪かったよ」
うろたえる教諭に、千鶴は言った。
「すんません。先生が、うちのこと思て言いんさったんはわかっとります。ほやけど、もうどがいもならんぞなもし」
千鶴は頭を下げると、井上教諭を残して応接室を出て行った。
四
千鶴がまだ十一時にもならないうちに戻って来たので、帳場にいた甚右衛門は驚いた。
千鶴の悲壮な顔を見たからでもあるのだろう。一緒にいた茂七と亀吉も、何事があったのかという顔をしていたが、千鶴に声をかけることはなかった。
甚右衛門は茂七に帳場にいるよう命じると、千鶴を奥へ連れて行った。
茶の間ではトミが縫い物をし、台所では花江が昼飯の準備をしていた。トミは正清の墓参りには午後から出かけるようだ。
二人とも千鶴を見ると、やはり驚いたように目を見開いた。
甚右衛門はトミを呼ぶと、離れの部屋へ向かった。千鶴は黙ってその後に続き、さらに後ろをトミがついて来た。
台所に残った花江は、心配そうに千鶴を見送っていた。
部屋に入ると、甚右衛門は千鶴とトミを座らせ、どうしてこんな時刻に戻って来たのかと千鶴に訊ねた。
「具合が悪うて戻んたようには見えんが、なして戻んた?」
千鶴は黙って下を向いていたが、もう一度訊かれると、二人に頭を下げて言った。
「おじいちゃん、おばあちゃん、うち、学校をやめることにしました。もう、学校には行きません」
甚右衛門もトミも目を瞠って互いを見た。
「学校をやめるとは、どがぁな了見ぞな? 理由を言え」
千鶴が黙っていると、トミが心配そうに声をかけた。
「千鶴、何があったんぞな? 怒ったりせんけん、言うとうみ」
「うち……」
千鶴は項垂れると、小さな声で言った。
「うち、化け物じゃけん……」
家に戻って来るまでの間に、千鶴は気持ちが変わっていた。化け物扱いされたことで傷ついた自分を、情けないと思うようになったのだ。
鬼の仲間と思われたことで傷ついたのを、鬼はどう思っただろうかと千鶴は考えた。そして、自分もまた鬼を傷つけてしまったと気がついたのである。
ずっと自分の傍にいて欲しいと言っておきながら、鬼が傍にいることを言われて傷つくのは矛盾している。
そのことを千鶴は家に戻るまで鬼に詫び続け、もう鬼の仲間と言われても傷つかないと約束した。だから、学校をやめる理由を訊かれても、鬼を理由にしたくはなかった。
しかし何も喋らないわけにはいかず、化け物だからと小声で言ったのだが、それでも喋りながら心の中で鬼に詫びていた。
「化け物? 何じゃい、ほれは。そげなことを誰が言うた?」
「……みんな」
甚右衛門は憤りを隠さなかったが、千鶴には静かに話しかけ、どうして化け物と言われたのか、その理由を訊ねた。
千鶴は風寄で我が身に起こったことや、お祓いの婆に言われたことなど、これまで二人に打ち明けていなかった話をした。
また兵頭の家を壊したり、イノシシを殺したのは、自分に憑いている鬼だと級友たちが決めつけ、自分のこともがんごめだと言って怖がったということも喋った。
ただ、イノシシに襲われたことは黙っていた。それを話して、本当に鬼が憑いていると祖父母に思われるのが怖かった。
それでも、実際に鬼が何かをしたわけではないと鬼をかばい、がんごめと呼ばれることも気にしないことにしたと、千鶴は言い足した。また、それでも学校をやめるのは、自分を仲間と認めない級友たちとは一緒にいられないからだと説明した。
がんごめと呼ばれることを気にしないのであれば、何も学校をやめなくてもよかったではないかと、二人から言われると千鶴は思っていた。しかし、それについて祖父母は何も言わなかった。
明らかに顔色が変わった祖父母は、千鶴が学校をやめる理由について考える余裕もないほど、うろたえているみたいだった。
祖父母の態度は、二人もまた千鶴に鬼が憑いていると信じ、それを恐れているように見えた。それは級友たちの姿と同じであり、千鶴を落胆させた。
「やっぱしおじいちゃんもおばあちゃんも、鬼が心配なん?」
千鶴の問いかけに、二人は返事をしなかった。
祖母は祖父を怯えたような目で見るばかりだし、祖父もまた動揺したように目を動かすだけだった。
「旦那さん」
外で亀吉の声がした。
甚右衛門が顔を出すと、亀吉が言った。
「仕入れの荷物が届いたけん、旦那さん呼んで来てくれて、茂七さんが言うとりんさるぞなもし」
わかったと言うと、甚右衛門は千鶴を振り返った。
「今は仕事が忙しい。ばあさんも昼から墓参りに行かにゃならんけんな。話の続きは夕飯を済ませてからにしよわい。ええな?」
千鶴がうなずくと、甚右衛門は急ぎ足で帳場へ向かった。
一方、トミは座ったまま動こうとしなかった。どうしたのだろうと思ったら、トミは泣いていた。トミは何度も涙を拭きながら、可哀想にな――と言った。
千鶴は聞き間違いかと思ったが、可哀想に――とトミは繰り返して言った。
「おばあちゃん……」
「あんたは何もしとらんのにな……。なしてそげなことを言われないけんのぞ。どいつもこいつも人でなしばっかしぞな」
トミは千鶴を想って泣いていた。
「ほんでも、うちらかて人のことは言われん。うちらもまた人でなしぞな」
トミは甚右衛門が忠之を雇わなくなったことに対して腹を立てていた。だが、甚右衛門を止めることができない自分も、同罪だと考えているらしかった。
「あの子はまっことええ子ぞな。今もまだうちの店があるんはあの子のお陰やのに、その恩を忘れて何が身分ね。人でなしに身分も糞もあるまいに」
千鶴は縋る想いで祖母に言った。
「おばあちゃん、今からでも佐伯さんをここへ呼び戻すことはできんの?」
そがぁなこと――とトミは涙を拭きながら言った。
「あの人はいったん言い出したら聞かんけんな。うちが何言うたところで、どがぁにもならんぞな。ほれに今更どがぁ言うて、あの子にお詫びしたらええんね?」
「佐伯さんじゃったら、きっとわかってくれるぞな」
「仮にあの子が勘弁してくれたとこで、あの子の家族が黙っとらんわね。うちが対の立場じゃったら、絶対に勘弁せんけん」
それは確かにそうだ。忠之をただ働きさせていた兵頭も、忠之の家族の怒りを買って、新たな牛を購入せざるを得なかったのである。
今回の祖父がしたことは、兵頭よりも質が悪いと言える。忠之の家族が許してくれるはずがない。
「とにかくな、学校のこともあの子のことも、今は辛抱するしかないぞな。ほんでも、あんたは下を向くんやのうて、前を向いとりんさい。誰が何を言おうと、あんたはうちらの自慢の孫娘ぞな。何があっても胸張っとるんよ。ええな?」
トミは千鶴を励ますと、部屋を出て行った。
思わず祖母と喋ってしまったが、我に返った千鶴は何が起こったのかわからなかった。
何故祖母が自分のために泣いてくれたのか。何故祖母が自分に優しい言葉をかけてくれたのか。前にも思ったことだが、千鶴は自分が異界に迷い込んでいるように感じていた。忠之のことや鬼のことも含め、何もかもが尋常じゃない。
それでも祖母の涙と言葉は千鶴の胸を打った。理由はわからないが、今の祖母は自分の味方だと、千鶴は受け止めていた。
状況がよくないことは同じでも、祖母が味方してくれるのは、とても心強いことだった。また、これまでの寂しさが解消されるほどの嬉しさが、千鶴の胸に広がっていた。
しかし、先ほどの鬼を恐れたような祖母の様子を思い出すと、千鶴は悲しくなった。祖母が自分を励ましてくれただけに、鬼がいるかもしれないと怖がられるのはつらかった。
だが、自分に起こっていることを聞けば、鬼との関わりを疑うのは当たり前なのだろう。そして、その鬼を恐れるのも人間であれば当然のことなのだ。
自分だって忠之からいろいろ話を聞かせてもらうまで、鬼を恐れて悩んでいたわけである。鬼を怖がる者たちに文句を言える立場ではない。
それはともかくとして、師範の道が閉ざされたために、自立して忠之と夫婦になるという望みが断たれてしまった。また、春子とこんなことになってしまったから、忠之へ手紙を出すことも敵わなくなった。
しかし、手紙を出したところで解決にはつながらない。祖母が言ったように、忠之の家族が怒り狂っているはずで、忠之をこちらへ呼ぶことは、祖父が考えを改めたとしてもむずかしいに違いない。
かと言って、自分が家を出て風寄へ行ったとしても、やはり忠之の家族には受け入れてもらえないだろう。
忠之の育ての親は、実の子供を日露戦争で失っている。それだけでもロシア兵の娘である自分が認めてもらうのは困難なのに、そこへ今回のことが重なったのだ。
どう考えても、自分は拒絶されるに決まっている。そんな家族に逆らってまでして、忠之は一緒になってはくれないだろう。
「鬼さん、うちはどがぁしたらええと思いんさる?」
千鶴は自分に憑いている鬼に声をかけた。鬼がどこにいるのかはわからないが、この部屋のどこかにいるはずだ。だが、鬼からの返事はない。
「鬼さん、何とか言うておくんなもし」
いくら訊ねても、部屋の中は物音一つしない。きっと鬼は見守るばかりで、余計なことはしないのだろう。
あきらめた千鶴は、級友たちのことは怒っていないから、何もしないようにと鬼に頼んだ。
病み上がりで学校へ行った上に、とても嫌な想いをさせられたことで、千鶴は疲労を感じていた。ごろりと仰向けになると、目を閉じて不動明王に祈った。
他にも神仏はいるが、前世で法生寺にいた千鶴には、やはり不動明王が一番身近に感じられた。それに忠之が一番信心しているのも不動明王だ。何もできない今、頼れるのは不動明王だけだった。
「お不動さま、おらを進さんと夫婦にしてつかぁさい。どうか、おらたちの力になってつかぁさい」
千鶴は祈った。必死に祈り続けた。祈るしかなかった。
祈りながらいつしか眠りに落ちた千鶴は、進之丞の夢を見た。夢の中で、千鶴は子供になったり大人になったりしながら進之丞と遊んだ。
前に見た時と同じように、嫁にしたいと進之丞から言われた千鶴は幸せを感じていた。しかし、自分たちが死に別れる定めであることを、わかっている自分がいた。幸せに喜ぶ自分を眺めるもう一つの自分は、切なく悲しい気持ちに沈んでいた。
「千鶴ちゃん」
千鶴を呼ぶ声がした。はっと目を覚ました千鶴は体を起こした。
「千鶴ちゃん、寝てるのかい? お昼ができたんだけど、こっちへ持って来ようか?」
障子の向こうで声をかけているのは花江だ。
千鶴が障子を開けると、花江が心配そうな顔で立っている。
「だんだん。ほれじゃあ、こっちへお願いします」
「やっぱり、まだ具合が悪いのかい?」
「ちぃとね。ほんでも、ご飯食べたら家のこと手伝うけん」
いいよいいよと花江は手を振り、今日はゆっくり休むようにと言った。
花江がいなくなると、千鶴は今見た夢を思い返した。
前世の記憶をたどるような夢だったが、前世の結末を自分は知っている。そのために前世で幸せを感じていた自分を切なく思ったのだが、それは今の自分にも言えることだ。
来ると思っていた忠之が、思いがけない形で来なくなった。この先どうなるかを自分は知らないが、今の夢のように、どんな結末が待っているのかは決まっているのだろう。
いい結末なのか、悲しい結末なのか。考えてもわからないが、考えれば考えるほど後者のような気になってしまう。
千鶴は両手を合わせると、改めて不動明王に自分と忠之の幸せを願った。自分たちを引き合わせたのが不動明王であるならば、きっといい結末へ導いてくれるはずである。そう期待を込めて、千鶴は願い続けた。
祖父母の想い
一
夕飯を済ませたあと、男衆は銭湯へ行った。
花江はアイロン掛けをしようとしたが、トミに銭湯へ行くように言われた。
昼前に学校から戻ったのは、病み上がりで具合が悪かったからだと、千鶴は花江に話してある。しかし、本当の理由がそうでないことは、花江はわかっていたはずだ。
千鶴が何も話さないので、花江もそれ以上のことを訊こうとはしなかった。それでも花江は千鶴のことを気にしているようだった。
使用人がみんな外に出されることにも、花江は何かを思ったらしい。素直にトミに返事をしたものの、家を出るまで心配そうな目を千鶴に向けていた。
花江がいなくなると、トミは茶の間の障子を閉め切った。部屋の中にいるのは甚右衛門とトミ、そして幸子と千鶴の四人だけだ。
甚右衛門は腕組みをしながら千鶴に言った。
「改めて訊くが、千鶴、お前は学校をやめるんか?」
千鶴がうなずくと、わかった――と甚右衛門は言った。
「お前がやめる言うんを、無理には行かせられまい。学校の方には、明日にでも連絡を入れようわい」
「すんません」
頭を下げる千鶴に甚右衛門は言った。
「別に気にせいでええ。お前に婿取るんなら、学校はやめさすつもりじゃったけん同しことよ」
穏やかに話す甚右衛門に、横から幸子が口を挟んだ。
「ほんでも婿の話はのうなったし、この子は教師になろ思て、これまでがんばりよったのに、なしてこげな形で学校をやめないけんのよ」
幸子は憤っていた。忠之が山﨑機織に来なくなった今、忠之と一緒になるために一人前の師範になるようにと、千鶴に促したのは幸子である。それがだめになったことへの腹立ちが、幸子の言葉に表れていた。
千鶴に何があったのかを幸子が知ったのは、病院の仕事から戻ったあとだった。つまり、夕飯の少し前に事情を聞かされたばかりで、幸子は食事中からずっと腹を立てていた。
そんな幸子とは対照的に、トミは落ち着いた様子で言った。
「世間はな、いっつもかっつも踏みつける相手を探しよるんよ。どがぁな形であれ、目立つ者は目の敵にされるもんぞな。やけん言うて、踏みつけられたままでおることはない。そげな連中を見返してやるぐらい、立派な人間になったらええんぞな」
「学校ではこの件について、どがぁするつもりなんぞ?」
甚右衛門の問いに、千鶴は首を振った。
「うちにはわからんぞなもし。ただ先生には、うちは誰のことも怒っとらんし、みんなのことは許したて言いました」
「あんた、こがぁな目に遭わされたのに、怒っとらんて先生に言うたんか」
幸子が呆れたように言った。落ち着けと幸子を諫めると、甚右衛門は言った。
「もう済んだことぞな。文句言うても詮ないことよ。ほれより千鶴は立派じゃったな。ほんだけ悔しい思いをしたのに、相手のことを許すやなんて、誰にでもできることやないぞな」
「ほうよほうよ。おじいちゃんの言うとおりぞな。千鶴は立派じゃったと、うちも思わい」
トミも千鶴を褒めた。
何故、祖父母が自分に優しい言葉をかけるのか、千鶴にはわからなかった。特に祖母は千鶴のために泣いてくれた。
千鶴は今こそ理由をはっきり知りたいと思った。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、なして、うちに優しい言葉をかけてくんさるん? うち、お婿さんもらう話も断ったし、せっかく行かせてもろた学校も、こげなことになってしもた。ほんまじゃったら怒鳴られるとこやのに、なしてそがぁな優しい言葉をかけてくんさるんぞな?」
千鶴が訊ねると、甚右衛門とトミはうろたえたように顔を見交わした。
「うち、お父さんがロシアの兵隊じゃけん、みんなから白い目で見られよるし、おじいちゃんらにも嫌われとるて思いよりました。ほれやのに、ここんとこ二人ともうちに優しゅうしてくんさるし、今日かて怒りもせん。なしてぞなもし?」
二人はまだ返事をしない。それでも千鶴が待っていると、トミが甚右衛門に目で何かを促した。それで甚右衛門は覚悟を決めたように口を開いた。
「お前がそがぁ言うんは尤もぞな。わしらはお前にずっと冷たい態度を取って来たけんな」
続けて甚右衛門は、幸子にも目を遣りながら話し始めた。
「正清が戦死したいう知らせが来た時、わしらは目の前が真っ暗になった。これから何を目標に生きて行ったらええんか、わからんなってしもた。戦争に勝ったとしても、息子が死んでしもたら意味ないけんな。ほじゃけん、正直なとこ、日本が捕虜にしたロシア兵に手厚くしよるんを、わしらは腹立たしいに思いよった。そこへ追い打ちをかけるようにな、幸子がロシア兵の子供を孕んだんよ」
当時の話は、千鶴は母からおおよそのことを聞いている。どこにも居場所がなくなった母は、大きく膨らみ出したお腹を抱えて家を飛び出し、当てもなく彷徨っているところを、知念和尚に助けられたのである。
母が暮らすようになった法生寺があるのは風寄だ。家のごたごたが絣の織子たちに知れるのを恐れた祖父は、子供を産むことを許すと言って、母を家に呼び戻したと言う。それは母から聞かされていた話と同じだった。
お前には悪いけんど――と甚右衛門は千鶴に前置きをしてから、あの時は幸子が千鶴を産んだことが恥ずかしく、針の筵に座らされているみたいだったと言った。
実際に陰口を言われたり笑われたりしたし、面と向かって恥知らずと罵られたこともあったらしい。
そんな話を聞かされるのは、千鶴にはつらかった。千鶴がつい下を向くと、ほやけどな――と甚右衛門は言った。
「わしは思い出したんよ。昔、わしの祖父上、つまり、わしのじいさんが話してくんさったことをな」
顔を上げた千鶴に、甚右衛門はにこやかに言った。
「こないだお前にも言うたように、わしはこの家に婿として入ったんやが、元は武家の産まれでな。祖父上はお前からすれば、ひぃひぃじいさんじゃな。ひぃひぃじいさんはお侍じゃったんよ」
二
甚右衛門の父親は、重見甚三郎と言う下級武士だった。
明治になって、苦しい家計がますます苦しくなると、甚右衛門は十二歳の時に山﨑家へ養子に出されたそうだ。
甚右衛門は家を出る前に、寝たきりになっていた祖父善二郎に別れの挨拶をしに行った。
善二郎は上手く喋ることができなかったが、それでも甚右衛門が養子に出されることを惜しみつつ、自分もかつて養女をもらうはずだったという話をした。
明治になる少し前、善二郎は親友から相談を受けたと言う。それは、身分違いの娘を一人息子の嫁にしたいので、その娘を養女にしてもらいたいというものだった。
身分を重んじる侍は、身分の低い者とはそのままでは夫婦になれない。そのため身分の低い娘を嫁に迎える時には、その娘を一旦武家の養女にすることで、身分の体裁を整えていたのである。
「祖父上の親友の名前は、誰じゃったか忘れてしもたけんど、風寄の代官じゃったそうな。その息子が嫁にしたい言うたんは、法生寺におった身寄りのない娘でな。お前と対で、異国の血ぃが流れておったらしいわい」
何ということだろう。前世の自分が法生寺で暮らした証を、祖父が語ってくれている。千鶴は鳥肌が立つ思いだった。
「お前が聞いた話では、法生寺におった娘は鬼じゃったということらしいが、事実はほうではのうて、ほれは異国の血ぃを引く娘じゃったんよ。ほじゃけん、お前がその娘に似ておったとしても、何の不思議もないわけよ」
千鶴を慰めるように喋ったあと、甚右衛門は話を戻した。
「ほれで、ほの娘を養女にすることには、周りはみんな反対したそうじゃが、親友の頼みじゃけんな。祖父上はほれをすんなり引き受けたそうな」
だが実際にその娘を養女に迎えようとしていた矢先、親友である代官とその息子は殺され、その娘も行方知れずになったそうだと甚右衛門は言った。
「親友から娘の話を聞かされておいでた祖父上は、ほの娘を不憫に思いんさってな。せめてその娘の面倒だけでも見てやりたかったと言うとりんさった。その話をわしは思い出したんよ」
甚右衛門が語ったことを、トミはわかっていたらしい。黙って横でうなずいていた。
だが、幸子は初めて聞かされたようで、千鶴と同じように驚いた顔を見せていた。
「祖父上の話を思い出したわしは、お前と祖父上が言いんさった娘に縁があるように感じてな。ほれでお前が産まれたことを、実家に報告しに行ったんよ」
「ほれはいつの話ぞなもし?」
幸子が訊ねると、千鶴が生まれて間もない頃だと甚右衛門は言った。
「わしは向こうの家を出る時に、山﨑家に入ったら重見家のことは忘れて、山﨑家のために生涯を尽くせと言われてな。ほれまで、ほのとおりに生きて来た。ほじゃけん、ほれが家を出てから初めての里帰りじゃった」
甚右衛門が重見家を訪ねると、兄の善兵衛が顔を出した。善兵衛は県庁勤めをしていたが、この日は休みで家にいた。
久しぶりの弟との再会に善兵衛はたいそう喜んだそうだ。ところが甚右衛門の用向きを知ると、態度を豹変させて甚右衛門を追い返そうとした。甚右衛門同様、善兵衛も日露戦争で息子を失っていたのである。
そこへ善兵衛の妻が来て、甚右衛門を奥へ通すようにという、父甚三郎の言葉を善兵衛に伝えた。それで善兵衛は渋々甚右衛門を中へ入れ、甚三郎に会わせた。
祖父の善二郎はすでに亡くなっており、甚右衛門が家を出た時の祖父のように、甚三郎は寝たきりになっていた。
甚三郎は甚右衛門と二人きりにするよう善兵衛に申しつけると、異国の血を引く女の赤ん坊が産まれたという報告を、甚右衛門から聞いた。
甚三郎は善二郎が語った娘のことを知っており、産まれた赤ん坊が女の子で名前が千鶴だとわかると、大変驚いて半身を起こしたと言う。
「父上はの、こがぁ仰った。祖父上が養女にするはずじゃた娘も、千に鶴と書いた千鶴という名じゃったとな」
もう間違いない。自分は法生寺にいた娘の生まれ変わりで、忠之は進之丞の生まれ変わりなのだ。
興奮を抑えきれない千鶴と、驚きを隠せない幸子に甚右衛門は言った。
「これも何かの縁じゃけん、産まれた子供は必ず大切にするようにと、父上は言いんさった。ほれは父上の言葉じゃったが、わしには祖父上が言うておいでるようにも聞こえた。ほれにわし自身、千鶴とその娘に縁があるのは間違いないと思たけん、父上の言葉どおりにしよと決めたんよ」
甚右衛門は千鶴を大切に育てることを約束し、実家を後にした。
家に戻った甚右衛門がその旨をトミに告げると、トミもその指示に従うことに同意したと言う。
「ほれまでのわしらは、お前のことを敵兵の娘じゃいう目で見よった。じゃが、ほん時からお前は敵兵の娘やのうて、祖父上が養女にするはずじゃった娘の生まれ変わりとなった。わしは祖父上の想いを引き継ぎ、お前を大切にすることにしたんぞな」
甚右衛門の言葉を引き取って、今度はトミが言った。
「不思議なもんで、お前を受け入れるて決めたら、憎らしかったはずのお前が何とも愛らしいに思えてなぁ。つい顔が綻びそうになったり、優しい声をかけそうになってしもたもんよ。こげなことじゃったら、最初からお前を認めてやったらよかったて、この人と言うたもんじゃった」
「ほんでも、手のひら返したみたいなことは、わしらにはできなんだ。ほれまで幸子やお前を邪険にしよったけん、同しにするしかなかったんよ」
甚右衛門は悔やんだように言った。
「ほれに、お前が法生寺におった娘の生まれ変わりやなんて言うたら、却って気味悪がられるけんの。表向きにはロシア兵の娘として扱わざるを得んかったんよ」
甚右衛門に負けじと、トミが言った。
「ほんまはお前のことを、どんだけ抱いてやりたいて思たことか。幸子にも冷たい仕打ちをしよったけん、今更ほんまのことも言えんしな。お前にきついこと言うて、お前が悲しそうな顔した時は、胸が張り裂けそうやったぞな。ほんでも今度のことは、あまりにもお前が不憫でな。つい、ほんまの気持ちを隠せなんだんよ」
祖母の涙はそういうことだったのかと千鶴が納得すると、またもや甚右衛門が喋り始めた。
「お前に優しゅうしてやれんでも、お前を立派に育ててみせると、わしらは心に誓た。外へ出る時は表から出るようにと言うたんは、お前はわしらの孫娘なんじゃて、世間に認めさせるためじゃった。お前が学校でいじめられたて聞いた時は、あとで学校へ怒鳴り込んだもんよ」
トミも負けていない。
「お前が買い物先で馬鹿にされた時はな、うちが行って店の主と大喧嘩したもんじゃった。ほれで店の物を壊してしもたこともあってな。あとで弁償させられたりもしたわい」
幸子は笑いながら言った。
「そがぁ言うたら、ほんなことがあったわいねぇ。あん時は、なしてお母さんがお店の物壊しんさったんか、さっぱりわからんかったけんど、そげな理由じゃったんじゃね」
千鶴を女子師範学校へ行かせたのは、千鶴の賢さを伸ばしたかったのと、異国の血を引く娘でもこれだけ立派なことができるということを、世間に見せてやりたかったからだと二人は言った。
使用人たちにも千鶴を大切に扱うように指導し、千鶴を見下すような者たちは追い出したそうだ。そして、それが丁稚が少ない理由の一つになっていたのだと言う。
「ほうは言うても、わしら自身がお前や幸子に、ずっと嫌な態度を見せよったことは、ほんまに悪かった思とる。詫びたとこで今更やが、このとおりぞな。勘弁してやってくれ」
甚右衛門が千鶴たちに向かって両手を突くと、トミもそれに倣った。
千鶴は母と一緒に慌てて二人に頭を上げさせたが、祖父母の気持ちが嬉しかった。また、祖父母もつらかったのだと知って涙がこぼれた。
千鶴と同じ想いなのだろう。幸子も泣きながら笑っている。
三
今度は千鶴が、甚右衛門とトミに向かって両手を突いた。
「おじいちゃんとおばあちゃんのお気持ち、ようわかりました。うち、自分がどんだけ恵まれとったんか、ちっとも知らなんだ。今までのこと、ほんまにありがとうございました」
千鶴が二人に頭を下げると、幸子も娘を認めてもらえた礼を述べた。甚右衛門とトミは嬉しそうにうなずき合っている。
頭を上げた千鶴は、ほんでも――と甚右衛門に言った。
「うち、おじいちゃんに言わないけんことがあるぞなもし」
「あの男のことか?」
甚右衛門は少し当惑した様子だ。
千鶴がうなずくと、言うてみぃと甚右衛門は言った。
「うちは、おじいちゃんが情の厚いお人やと知りました。ほれに、人から受けた恩を忘れんお人やと思とります。ほやけど、佐伯さんに対して見せんさった態度は、おじいちゃんのまことの姿やありません。佐伯さんのこと、福の神やて言うておいでたのに、恩を仇で返すようなことしんさるんは兵頭いうお人と対ぞなもし」
「お前が言うことはわかる。わしかてつらい判断じゃった」
甚右衛門は千鶴に理解を示すようにうなずいた。だが、千鶴は祖父を容赦しなかった。
「失礼なけんど、おじいちゃんは間違とるぞなもし。うちがみんなに白い目で見られてつらい想いしよったん、おじいちゃん、わかっておいでたんでしょ? うちにひどいことした人のこと怒ってくんさったのに、なしてほの人らと対のことを、おじいちゃんがしんさるんぞな?」
甚右衛門は黙っている。幸子は千鶴をたしなめようとしたが、千鶴は構わず続けた。
「おじいちゃん、佐伯さんが山陰の者やて兵頭さんから聞きんさったんでしょ? 山陰の者て呼ばれよる人らが、どがぁな人なんか聞きんさったけん、佐伯さんのことを遠ざけんさったんでしょ?」
「ほうよ。山陰の者を入れたら、この家に傷がつく」
甚右衛門は当然という顔で言った。その様子に千鶴は悲しくなった。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。いくら風寄におった娘の生まれ変わりでも、うちがロシア兵の娘であることには変わらんぞなもし。山陰の者が入ったらこの家に傷がつく言いんさるんなら、うちこそここにはおられんぞなもし」
「ほれは……」
甚右衛門の顔に焦りが見えた。
「ロシア兵の娘であるうちを励ましてくんさるんなら、山陰の者じゃ言うて苦労ぎりしておいでる佐伯さんのことも、励ましてあげるんがほんまやないんですか? おじいちゃん、佐伯さんがどがぁなお人なんか、ご自分の目で見てわかっておいでるでしょ?」
甚右衛門はむぅと呻いたが、まだ忠之を認めるとは言わない。
「佐伯さんが小学校出とらんけん読み書き算盤できんて、おじいちゃんは言いんさったけんど、法生寺の和尚さんが、奥さんと一緒に佐伯さんに読み書き算盤を教えんさったて、うちに言いんさったぞな。和尚さん、佐伯さんは物覚えが早うて、がいに頭のええ子じゃったて言うとりんさった。学校へ行かせてもらえとったら、もっともっといろんなことを学べたはずやのにて、和尚さんは仰りんさったぞな」
甚右衛門はまだ口を開かない。隣のトミはおろおろしている。
「おじいちゃんが佐伯さんを認めてくんさらんのなら、うちが佐伯さん所へ行くしかありません」
甚右衛門はじろりと千鶴を見ると、ようやく口を開いた。
「ほれは、わしを脅しとるんか?」
「脅しとるんやありません。うちのほんまの気持ちを口にしたぎりぞなもし。うちはあのお人と離れたままでは生きて行かれません。あのお人がここへおいでんのなら、こちらから行くしかないですけん」
「あんた……」
トミが不安げに甚右衛門を見た。甚右衛門は落ち着きなく両膝をこすっていたが、やがてトミを一瞥すると千鶴に言った。
「わかった。お前の言うとおりぞな。わしが間違とった」
意外にも甚右衛門は素直に千鶴の言い分を認め、気まずそうに頭を掻いた。
「お前にしてもあの男にしても、何や、わしは自分が試されとるような気がすらい」
「試されとるて?」
トミが訊ねると、甚右衛門は言った。
「何がほんまに大切なんかを見極めるいうことよ。わしは武家じゃった実家を出て、商家であるここの婿になった。自分が侍じゃったことは、ほん時に全部棄てたはずじゃった。じゃが実際は、自分はほんまは侍なんじゃいう未練が残っとったかい。人に上も下もないのにくだらんことよ。あの男には、まっこと悪いことをしてしもたわい」
甚右衛門は千鶴に顔を向けて話を続けた。
「お前がそこまで心惹かれるとこ見ると、ひょっとしてあの男は、風寄の代官の息子の生まれ変わりなんかもしれんな」
千鶴はどきっとした。まるで祖父の言葉は、千鶴の考えに太鼓判を押してくれているようだ。
千鶴は自分が本当に法生寺にいた娘の生まれ変わりなのだと、告白したい想いに駆られていた。だが、それは忠之に会って直接前世のことを確かめてからである。
自分の気持ちを抑える千鶴に、甚右衛門は言った。
「あの男には早速詫びを入れて、ここへ来てもらうよう手紙を書こわい。千鶴、あの男の住所を知っとるか?」
千鶴は首を振った。
それならと、甚右衛門は法生寺の和尚に頼んで、あの男に手紙を届けてもらおうと言った。しかし、それにはトミが反対した。
「手紙で詫びるぎりじゃったら相手に失礼ぞな。こっちで頼んだ話を一方的になしにしたんじゃけんね」
「そがぁなこと言うても、誰が風寄まで行くんぞ? わしはここを離れるわけにはいかんし、わし以外の者が詫びに行ったとこで、詫びになるまい」
眉間に皺を寄せる甚右衛門に、千鶴は言った。
「うちが行くぞなもし」
「お前が?」
甚右衛門は驚いたように千鶴を見た。だが千鶴がうなずくと、甚右衛門は即座にいかんと言った。
「お前を行かせるわけにはいかん」
「なしてぞな? おじいちゃんやなかったら、うち以外にこのお役目を果たせる者はおらんぞなもし」
「ほんでも、いかんもんはいかん」
「なして? おじいちゃん、風寄のお祭りには行かせてくんさったのに、なして今度はいかんの?」
甚右衛門は困ったように、トミと顔を見交わした。
「ねぇ、なしてなん?」
千鶴が強い口調で繰り返すと、甚右衛門は言った。
「鬼ぞな」
「鬼? やっぱしおじいちゃんも鬼のこと気にしておいでるん?」
鬼がいるのは事実だが、そのことで悪く見られるのが千鶴は嫌だった。それは鬼が悪者扱いされることへの反発だった。
憤る千鶴にトミが言った。
「落ち着きなさいや。おじいちゃんは何もあんたのことを、悪う思て言うておいでるんやないけん。おじいちゃんが鬼を気にするんには理由があるんよ」
「理由て?」
千鶴はトミと甚右衛門の顔を見比べた。
幸子も知らないことらしく、黙って二人の話を待っている。
「さっき、法生寺の娘を養女にする話をしたろ?」
気乗りしない様子で甚右衛門が言った。千鶴がうなずくと、甚右衛門は話を続けた。
「ほん時に、代官とその息子が殺されたて言うたわいな」
千鶴はもう一度うなずいた。甚右衛門はすぐには続きを話さず、少し間を置いてから言った。
「伝えられとる話では、風寄の代官は異人の娘を息子の嫁にしようとしたことで、攘夷侍に殺されたことになっとる。やが、ほんまはほうやないんよ」
「じゃあ、ほんまは?」
幸子が待ちきれない様子で訊ねた。
甚右衛門は一つ呼吸をしてから言った。
「鬼に殺されたんよ」
四
目を見開いた幸子の顔には、驚きと恐怖が入り混じっている。
もちろん千鶴も驚いた。だが、あの鬼がそんなことをするはずがない。千鶴は反論するように訊ねた。
「なして、そがぁ言えるんぞなもし?」
「祖父上が代官の遺骸をご自分の目で確かめんさって、そがぁ言いんさったんよ。代官と代官に従いよった何名かの者らがな、文字通り八つ裂きにされておったと、祖父上は言うとりんさった。あれは人間にできることやないてな」
人間が八つ裂きにされた姿など想像できないし、したくない。ましてや代官は進之丞の父親である。それに、そんな恐ろしいことを鬼がしたとは信じられない。
千鶴は少し焦って言った。
「じゃあ、なして伝わっとる話では攘夷侍に殺されたことになるんぞな?」
「代官らが鬼に殺されるんを見た者はおらんけんな。いかに尋常やない殺され方でも、目撃した者がおらん以上、鬼が殺したとは言えまい?」
「ほれじゃったら、ひぃひぃじいちゃんは、なして鬼やて言いんさったんぞな?」
「村に鬼を見た言う者がおったけんよ。その鬼は身の丈四丈はあろうかというでかさで、浜辺で侍連中と争うとったそうな」
それはヨネの父親のことに違いない。浜辺の鬼を見た者と言うのは、ヨネの父親だけだ。
忠之の話では、鬼は千鶴を護る存在だ。侍たちが千鶴を襲ったのであれば、鬼と侍が戦ったというのは理解できる。
しかし、千鶴の義理の父親になるはずの代官までもが、鬼に殺されたとなると話が違う。代官は千鶴に敵対したのではなく、千鶴を嫁に迎えるよう動いてくれていたのだ。
「侍連中って?」
初めてこの話を聞く幸子が訊ねた。
「攘夷侍らしいぞな。あの辺りにロシアの黒船が来るいう話があったそうでな。ほれで、ようけ集まって来よったらしいわい」
ロシアの黒船を狙った攘夷侍たち。千鶴が考えていたとおりの話である。それでも鬼の話は受け入れられない。
幸子が怪訝そうな顔で再び訊ねた。
「ほやけど、なして鬼がそげな侍らと争うんぞな?」
「ほれはわからん。鬼を見た言うんは、たった一人ぎりじゃったそうで、他の者は誰っちゃ見とらんかったらしい。ほれでは鬼の話も真実かどうかわからんし、そもそも代官が鬼に殺される理由がないけんな。ほれで、鬼の話は代官殺しをごまかすために、攘夷侍らがこさえた作り話いうことになったそうな」
「ほんでも、ひぃひぃじいちゃんのお見立てでは、お代官を殺めたんは人やないと?」
甚右衛門はうなずいた。
「代官らの死骸を確かめた他の者らも、人間の仕業とは思えんと言うとったそうな。ほんでも、これは攘夷侍の連中がやったことじゃと上から言われたら、誰も何も言えまい。風寄の村でもな、攘夷侍らに加担することになる言うんで、鬼の話は厳禁されたらしいわい」
それでヨネ以外の村人たちが、鬼の話を聞かされていなかったのかと千鶴は納得した。だが、それは鬼が代官を殺したと認めることになってしまう。千鶴の心は大きく動揺していた。
「祖父上は子供をからかうようなお人やなかったけんな。この話を聞かされた時は、わしも心底怖いと思た。ほんでも山﨑家に入ってからは、この話のことは忘れよった。実家へ千鶴の話をしに行った時、鬼に気をつけよと父上に言われたが、ほれからも何事もなかったけんな。ほれでまた、鬼のことは頭から消えとった」
トミが横目で甚右衛門を見ながら、千鶴に言った。
「うちがこの話を聞かされたんは、お前が風寄の祭りから戻んたあとじゃった。あのイノシシの話が新聞に載った時ぞな。ほれまで何も聞かされとらんかったけん、初めに知っとったら、絶対お前を風寄には行かせなんだ」
「そがぁ言うな。わしも忘れよった言いよろが」
むすっとする甚右衛門を、トミはさらに責めた。
「そげな肝心なこと忘れてどがぁするんね。千鶴が連れ去られとったら、忘れよったじゃ済まんかったぞな」
「忘れよったもん仕方なかろが」
「仕方なかろがやないわね」
まぁまぁと幸子になだめられて、二人は言い争いをやめた。
甚右衛門は咳払いをすると、千鶴の方を向いて話を続けた。
「新聞でイノシシの記事見つけた時、わしは嫌な予感がしよった。そこへ今度の兵頭の家の話よ。ほれで、もしや思いよったとこに、お前からさっきの話を聞かされたわけよ」
甚右衛門はちらりとトミを見た。トミが黙ってうなずくと、甚右衛門は話を続けた。
「そがぁなこと全部合わせよったら、鬼よけの祠がめげたために、封じられよった鬼が現れたと見るんが筋じゃろ。しかも、その鬼はお前に目ぇつけたんやもしれんのぞ。ほじゃけん、お前を風寄に行かせるわけにはいくまいが」
鬼はすでに自分の傍にいる。だが、それは自分の幸せを見守ってくれているだけなのだ。
そのことを千鶴は話したかった。しかし、そんなことを喋ったところで、信じてもらえるとは思えなかった。逆に、鬼に取り憑かれていると思われるのに違いない。
「なして、この子が鬼に目ぇつけられないけんのです?」
不安と腹立ちが入り混じったように、幸子が訊ねた。
甚右衛門は片眉を上げると、幸子に言った。
「ほれは法生寺におった娘が、鬼に狙われたけんよ」
「そげなこと、なしてわかるんぞな?」
甚右衛門はちらりと千鶴を見てから言った。
「千鶴の話じゃ、その娘は村の者に鬼の娘じゃと思われとったらしいけんな。事実は異国の血ぃを引く娘であっても、鬼がその娘を仲間と思い込んだ可能性はあろ?」
「ほやない可能性かてあるぞなもし」
反発する幸子に、甚右衛門は続けて言った。
「なして鬼が代官を殺めたんか。鬼が娘を連れ去ろうとしたら、代官はどがぁする? その娘は大切な一人息子の嫁になる女子ぞ?」
幸子は口を開けたが言葉が出せなかった。甚右衛門は構わず話を続けた。
「鬼が攘夷侍らと戦うたんも、その理由はわかろ?」
「じゃあ、その娘が行方知れずになったんは……」
幸子が気を取り直したように言うと、甚右衛門は思案げに顎に手を当てた。
「鬼に連れ去られたんか、鬼から逃れようとして死んでしもたんかもしれんな。いずれにせよ、鬼は祠によって遠ざけられ、娘は今の千鶴として生まれ変わった。そがぁ考えたら全部辻褄が合おう?」
「つまり、その祠がめげたんで鬼がまた風寄に現れて、そこで千鶴のことを見つけたと、こがぁなことなん?」
甚右衛門がうなずくと、幸子は息が止まったような顔をした。
「ほじゃけん、千鶴を風寄へ行かせるわけにはいかん。お祓いの婆さんが言うとおりじゃったら、鬼はすでに千鶴に目ぇをつけ、千鶴を手に入れる隙を狙とるはずぞ。千鶴が学校におられんなったんも、千鶴を一人にするために鬼が仕組んだことかもしれまい」
「鬼はそがぁなことはせんけん!」
こらえきれず千鶴は叫んだ。甚右衛門もトミも幸子も、みんなが驚いたように千鶴を見ている。
千鶴は慌てて声の調子を下げると、もう一度同じことを言った。
「鬼はそがぁなことはせんけん」
「なして、そげなことが言えるんぞ?」
「ほやかて、鬼は何も悪さしとらんぞな。鬼がうちを攫うつもりじゃったら、疾うの昔に攫とるけん」
「前ん時は、まだお前のことが誰なんか、ようわからんかったんかもしれまい」
鬼はすでに自分のことを知っているし、知った上でイノシシから助けてくれたと、喉元まで出かかっていた。だが、千鶴はそれを必死で呑み込んだ。
「何もしよらん鬼を、鬼いうぎりで悪さするて決めつけるんは、ロシア人の娘とか山陰の者が穢れとるて決めつけるんと対ぞな」
甚右衛門が黙り込むと、幸子が甚右衛門をかばった。
「おじいちゃんは、あんたを心配して言うておいでるぎりじゃろがね。そがぁな屁理屈言うたらいかんぞな」
「ほやかて……」
千鶴も黙ってしまうと、トミが助け船を出してくれた。
「この子はほんだけあの子に逢いたいんじゃろ。いずれにせよ、誰ぞが向こうへ行ってお詫びをせにゃいくまい? と言うても、誰でもええわけやない。確かに鬼のことは気になるけんど、あんたが行かれんのなら、この子に行ってもらうしかないぞな」
「そげなこと言うて。お前かて鬼のことがわかっとったら、千鶴を風寄には行かせなんだと言うたろが」
声を荒らげる甚右衛門に、トミは落ち着いた様子で言った。
「ほれはほうじゃけんど、このまんまにはできまい? ほれに、風寄の絣がどがぁなるんか確かめにゃならんし、兵頭さん所かてお見舞いを届けにゃいくまい?」
甚右衛門は返事をしなかった。トミは困ったように千鶴を見て、もう一度甚右衛門に言った。
「あんたが何と言おうと、この子は行く言うたら行くぞな。こないだは法生寺の和尚さんが引き止めてくんさったけんど、今度は誰も止めてくれんで。どうせ行くじゃったら、勝手に行かせるんやのうて、できる限りのことをした上で、行かせてやった方がええとうちは思うけんど、どがぁね?」
「できる限りのこととは何ぞ?」
甚右衛門が不機嫌そうに言うと、トミは用意していたかのように喋った。
「まず阿沼美神社でお祓いしてもろて、御守りもらうんよ。ほれと幸子を同伴させるんよ。この子一人で行かせたら、また誰ぞに襲われるかもしれんけんな。悪い人間は鬼より怖いけん。ほれで向こうに着いたら、法生寺の和尚さんにお願いして、ずっと一緒におってもらおわい。ほれじゃったら、鬼も簡単にはこの子に手出しできまい?」
さらに幸子が言葉を添えた。
「ほれに真っ昼間じゃったら、鬼も出て来にくいんやなかろか。イノシシが殺されたんも、兵頭さんの家が壊されたんも、日が暮れてからの話やけんね」
まだ黙っている甚右衛門に、トミは涙ぐみながら言った。
「まだわからんのかな、この人は。学校に行けんなった千鶴の唯一生きる力になってくれるんが、あの佐伯いう子じゃろがね。あの子をこのまま呼び戻せなんだら、千鶴はほんまに死ぬるぞな」
自分のためにここまで言ってくれる祖母に、千鶴は涙が出た。
「おじいちゃん、お願いぞなもし。うちを行かせておくんなもし」
千鶴が懇願すると、幸子も言った。
「お父さん、うちからもお願いします。うちもこの子をしっかり護ってみせるけん」
甚右衛門はしばらく黙って下を向いていたが、わかったわい――と力なく言った。
「ただし千鶴を行かせるには、他にも条件があるぞな」
「条件とは?」
訝しがるトミに、甚右衛門は千鶴を見ながら言った。
「阿沼美神社ぎりやのうて、雲祥寺でも祈祷してもろて、御守りをもらうこと」
トミは安堵したように千鶴や幸子と微笑み合った。
「まだあるぞな」
甚右衛門の言葉に、千鶴たちは姿勢を正した。
「千鶴。万が一、鬼がお前を連れ去ろうとしたなら、じいさんの許しがないと行かれんと言うんぞ」
「おじいちゃん……」
甚右衛門は優しげに千鶴を見つめて言った。
「そがぁ言うたら、鬼はここへ現れよう。ほん時は、わしが鬼を退治しちゃる」
「あんた……」
甚右衛門の覚悟に、トミは涙ぐんだ。
「大丈夫ぞな。絶対にそげなことにはならんけん」
幸子がうろたえたような笑顔で言った。
「おじいちゃん、だんだん」
鬼と戦われては困るが、千鶴は祖父の気持ちが嬉しかった。
千鶴は立ち上がると、甚右衛門の傍へ行って抱きついた。甚右衛門は慌てたが、すぐに千鶴を抱き返した。
「必ず無事に戻んて来るんぞ」
うんとうなずいた千鶴は、今度はトミに抱きついた。
「おばあちゃんも、だんだん」
初めて千鶴と抱き合ったことに感激したのか、トミはわんわん泣いた。横で幸子も泣いている。
その時、裏木戸の辺りが騒々しくなった。茂七たちが銭湯から戻って来たようだ。
トミは声を殺したが、それでも涙は止まらない。甚右衛門も黙ったまま涙を浮かべている。千鶴も幸子も泣いていた。しかし、ようやく家族が素直に一つになれた喜びで、部屋の中は満たされていた。
再び風寄へ
一
筆無精を詫びる幸子に、事情はわかっているからと知念和尚は言った。
安子は千鶴を褒め、素敵な娘さんだと幸子を祝福した。
久しぶりの再会を喜び合ったあと、笑みを消した幸子は風寄に来た理由を和尚夫婦に伝えた。
千鶴たちが忠之を迎えに来たことには、知念和尚も安子も我が事のように喜び、そのことを二人に感謝した。
しかし、千鶴が鬼に魅入られているかもしれないと幸子が不安がると、和尚たちは心配しないようにと言った。
「千鶴ちゃんはイノシシから助けてくれたんは、鬼じゃて思とるみたいなけんど、鬼を見たわけやないけんな。ほんまに鬼やったかどうかは定かやないぞな」
知念和尚が言うと、安子もそれに続いた。
「兵頭さんの家かてな、ほんまは何が原因であがぁなったんかはわからんのよ。ほんまに鬼が暴れたんなら、他の家も壊されそうなもんやんか。ほれで、あの人も初めは化け物がやったて言いよったけんど、やっぱし突風でめげたんじゃて言い分変えとるみたいなで」
兵頭が言い分を撤回したことに、千鶴は少し安堵した。自分が兵頭を恨んだことで、鬼が兵頭を襲ったという責任を回避できるからだ。しかし事実はわからない。和尚夫婦は母の不安を和らげようとして喋っているだけなのだ。
知念和尚が再び口を開いた。
「実際のとこ、イノシシのことはようわからんが、鬼が千鶴ちゃんを護ったんやとすれば、鬼が千鶴ちゃんに危害を加えることはない言うことにならいな。千鶴ちゃんをここへ運んだんが鬼やったとすれば、鬼は千鶴ちゃんを攫うつもりはなかったいうことになろ?」
「ほれは、ほうですけんど……」
まだ不安げな幸子を、安子が励ました。
「大丈夫ぞな。今日かて何も起こっちゃせんじゃろ? ほれに、うちらも一緒におるんじゃけん。何も心配することないぞな」
「ほれにしても、鬼が千鶴ちゃんをここまで運んだとしてやな、なして千鶴ちゃんの頭に花を飾ったりしたんか、そこが解せんわな。鬼がそがぁなことするかいな」
知念和尚は腕組みをしながら首を傾げた。
「花? 花て、あの花のことなん?」
幸子が千鶴を見た。千鶴は戸惑いながら、あのぅ――と和尚たちに言った。
「ほのことですけんど……、うちに花飾りんさったんは佐伯さんやったんぞなもし」
和尚と安子は驚いた顔を見交わした。
「ほれは、あの子が自分で言うたん?」
安子が驚いた様子のまま言った。
「最初は惚けておいでたけんど、うちが問い詰めたら白状しんさったんです」
「ほんまに?」
大きな笑い声が部屋に広がった。安子と一緒に笑いながら和尚は言った。
「千鶴ちゃんが問い詰めたら白状したんかな。あの子がなんぼ喧嘩が強うても、千鶴ちゃんには勝てんいうわけぞな。ほれで、あの子は千鶴ちゃんをどこで見つけた言うとった?」
「ここの石段を下りた辺りに、野菊の花が咲きよる所があって、そこにうちが倒れよったそうです」
「あぁ、あそこかいな」
知念和尚がうなずくと、安子は言った。
「あそこは昔から野菊が群生しよるとこじゃけんね。ところで、なしてあの子は千鶴ちゃん一人残しておらんなったん?」
「ほれは、ほとんど裸じゃったけんて言うておいでました」
「裸?」
「いえ、裸やのうて、ほとんど裸ぞなもし」
少し顔の火照りを感じながら千鶴は言った。
事情を説明すると和尚も安子も大笑いをし、まったくあの子らしいわいなぁ――と言った。
「何や、楽しいお人のようじゃね。お母さん、あの日は仕事に出てしもてお話もできんかったけん、早よ会うて話がしとなったぞな」
和尚たちと一緒に笑いながら幸子が言った。
「ほんでも、その前にうちが佐伯さんと二人で話したいんよ」
千鶴の言葉に幸子は眉根を寄せた。
「二人ぎり言うんは、ちぃと危ないんやないん?」
「佐伯さんはそがぁなお人やないぞな」
千鶴が憤ると、そういう意味ではないと幸子は言った。
「ほうやのうて、鬼のことぞな。和尚さんらと一緒やないと危なかろ?」
「大丈夫。鬼は襲て来んけん」
幸子が渋っていると、安子が言った。
「幸子さん、さっきも言うたように、鬼は千鶴ちゃんを襲たりせんけん。ほれに千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるけん、何も心配はいらんぞな」
「佐伯さんもな、お不動さまにうちの幸せ願てくんさったんよ。ほじゃけん大丈夫ぞな」
思わず千鶴が喋ると、幸子はきょとんとした顔で千鶴を見た。
「佐伯さん、そげなことしんさったん?」
恥ずかしくなった千鶴は、うろたえながらうなずいた。
知念和尚は安子と一緒に、また大笑いをした。
「これじゃあ、鬼が付け入る隙もないわいな」
「まこと、鬼が何ぞ言うても、二人の耳には聞こえまい」
「ちぃと二人とも笑い過ぎぞなもし」
千鶴が膨れて文句を言うと、和尚たちは笑いながら悪かったと言った。
「とにかくな、千鶴ちゃんらのことは心配せいでもええぞな、幸子さん」
知念和尚が言うと、幸子は仕方なさそうに、わかりましたと言った。
「ほしたら、千鶴が佐伯さんに会うとる間に、うちは兵頭さん所にお見舞いに行きましょわい」
「家の屋根が全部やないけんど、結構剥ぎ取られとるけんな。修理に村の者がようけ集まっとろうが、幸子さんは兵頭さんの顔はわかるんかな?」
いいえと幸子が当惑気味に答えると、わかったと和尚は言った。
「ほれじゃったら、わしが一緒に行こわい。千鶴ちゃんの方は安子が案内したらええ」
「ほうじゃね。そがぁしよわい」
安子も同意し、千鶴と幸子は別々に動くことになった。
二
「昔はな、偉い人ぎりが苗字を持てたんよ。ほやけど、明治になったら法律で誰もが苗字を持つようにて決められたんよ」
寺の石段を下りながら安子は言った。
先に階段を下りて行く知念和尚と母を眺めながら、そう言われればと千鶴は思った。
今の自分は山﨑千鶴だが、前世では千鶴という名前しかなかったようだと、千鶴は前世の記憶を振り返って考えた。
知念和尚と母も何かを喋っている。花の話をしているらしい。だが、二人の話に耳を傾ける暇もなく、安子が苗字の話を続けた。
「佐伯は為蔵さん所の苗字なけんど、ほれに決めたんは為蔵さんのお父さんなんよ。為蔵さんのお父さんは、昔ここにおいでたお代官を尊敬しておいでたそうでな。ほれで、お代官の苗字を頂戴しんさったそうな」
「へぇ。じゃあ、忠之いう名前は誰がつけんさったんぞな?」
「ほれはね、うちの人よ。お代官の名前が忠之助いうたそうじゃけん、そこからつけた名前なんよ」
千鶴は夢で進之丞が諱を教えてくれたことを思い出した。その諱は今と同じ忠之という名だったが、それはきっと父親の名前にちなんでつけてもらったものに違いない。
今の自分が前世と同じ千鶴という名前になったように、忠之もまた前世と同じ名前をもらったのは偶然とは思えない。これは前世と今世のつながりを深く感じさせるものであり、前世で死に別れた二人が、今世でめぐり逢うことが定められていたかのようだ。
抑えきれない興奮で、千鶴の体中を血が駆けめぐった。
千鶴たちが下まで下りると、知念和尚が千鶴に言った。
「忠之に会いに行く前にな、千鶴ちゃんが倒れよった所を見せてあげようわい」
「お母さんも知っとるけんど、きれいな所やで」
幸子がにこやかに言った。母も以前にここのお世話になっていたので、その場所を知っているようだ。
「ほんでも、今はもうお花は終わってしもとるぞな」
安子が言うと、ほうですねと幸子はうなずいた。
知念和尚について海の方へ歩いて行くと、野菊の群生があった。だが、安子が言ったように花は終わっており、葉もしおれて枯れ始めている。
しかし、千鶴はここのことを覚えていた。倒れていた時のことではない。前世でもここには野菊の花がいっぱい咲いていたのだ。
進之丞もこの場所が好きで、よく二人で花を眺めていたものだ。夢で進之丞が花を飾ってくれたのも、ここなのである。きっと忠之も前世のことを思い出しながら、花を飾ってくれたのに違いない。
「佐伯さんはここであんたを見つけて、この花を飾ってくんさったんじゃね」
そう言いながら、幸子は怪訝そうな顔をした。
「ほやけど、普通そげなことしようか? 和尚さん、安子さんはどがぁ思いんさる?」
「普通はせんわな。ほんでも、あんまし千鶴ちゃんがきれいやったけん、つい飾ってみとなったんやないんかな」
「あの子は優しい子じゃけん、千鶴ちゃん見て、千鶴ちゃんが苦労して来たてわかったんよ。ほれで、千鶴ちゃんねぎらうつもりで飾ったんやなかろか」
二人の意見にうなずきはしたが、幸子はまだ納得してはいないようだった。
「千鶴は佐伯さんから理由を訊いとるん?」
母に訊ねられ、千鶴はうろたえた。自分たちが前世からの関係だと説明できればいいのだが、今はその時ではないような気がしていた。
「うちが花の神さまに見えたんやて」
前世で柊吉が言った言葉だ。だから嘘ではない。
「花の神さま?」
きょとんとしたあと、知念和尚はまた大笑いをした。安子も口を押さえて笑ったが、二人とも笑いが止まらない。幸子も釣られたように笑っている。
千鶴がむくれると、和尚は笑いを抑えきれないまま弁解した。
「いや、すまんすまん。別に千鶴ちゃんのことを笑たんやないで。ほやけん、気ぃ悪せんといてや。わしらが笑たんは、あの子の発想が面白い思たけんよ」
「まこと、あの子は他の者とは目線が違う言うか、あの子のそがぁな所がええわいねぇ。ほれにあの子は物事の芯の部分を、真っ直ぐに見る目を持っとるけんね。表現は奇抜かしらんけんど、言うとることは間違とらんぞな」
「安子の言うとおりぞな。あの子は千鶴ちゃんの純粋な心をちゃんと見抜いとらい」
「やめとくんなもし。うちはそがぁな上等の女子やないですけん」
千鶴が当惑すると、幸子はようやく納得したように微笑んだ。
「この子が佐伯さんに心惹かれたんが、わかったような気がするぞなもし」
「もう、お母さんまで」
文句を言いながら千鶴は嬉しかった。忠之とのことをみんなに祝福されているような気分だった。
「そもそも千鶴ちゃんが、ここに倒れよったいう話も怪しいぞな」
知念和尚は笑いながら言った。どういうことかと訊ねると、忠之は他の場所で千鶴を見つけて、ここまで運んで来たのかもしれないということだった。
「花を飾ったんも、玄関の前に千鶴ちゃん寝かせたんも、あの子がしたことじゃったら、ここまで千鶴ちゃんを運んで来たんも、あの子と考えるのが自然じゃろ?」
「ほんでも、佐伯さんがイノシシを殺したわけやないでしょうに」
幸子が疑問を示すと、そこはわからんがと和尚は口を濁した。
「いずれにせよ、鬼が千鶴ちゃんをここまで運んだわけやない言うことぞな」
安子がうなずきながら言った。
「ひょっとしたら鬼はイノシシを殺したぎりで、千鶴ちゃんには構んかったんかもしれんぞな。ほれで、イノシシの傍に倒れよった千鶴ちゃんを、あの子がここまで運んだとも考えられますわいね」
「ほやけど、佐伯さんはほうは言わんかったぞな」
千鶴が言うと、安子は笑った。
「そがぁなこと言うかいな。頭潰されたイノシシの横に倒れよったやなんて言うたら、千鶴ちゃん、嫌じゃろ? ほれに、他の人らの耳にそがぁな話が入ったら、何言われるかわからんけんね。ほじゃけん、千鶴ちゃんはここで倒れとったって言うたんよ」
なるほどと千鶴は思った。
イノシシから助けてくれたのは鬼かもしれないが、法生寺まで運んでくれたのは忠之だという可能性は十分にある。またそれは、忠之が鬼を目撃しているかもしれないということでもあった。
前世での千鶴と鬼との関係を、忠之は知っていると思われる。また、あれほど鬼の気持ちを代弁していた忠之だから、鬼といい関係を結んでいることも考えられる。であるなら、今世でも忠之は恐れることなく、鬼から千鶴を受け取ったのかもしれない。
もちろん本当のことはわからない。しかし、それは本人の口に確かめればわかることである。そして、その時が迫っている。
もう間もなく、すべての真実が明らかになるはずだ。自分と忠之の前世からのつながりだけでなく、鬼のことも知ることになるだろう。
千鶴は自分が異界へ足を踏み入れようとしているみたいに感じていた。それは気分を高揚させたが、少し怖い気もしていた。
三
「ほんじゃあ、わしらはこっちへ行くけん、千鶴ちゃんらはそっちぞな」
分かれ道で知念和尚が言った。
幸子は千鶴に決して一人になるなと言い、松山から持って来た手土産を持たせた。
忠之の家は山裾にあるが、兵頭の家は山から離れた川向こうにある。
千鶴たちは寺から来た道を、そのまま山沿いに進んだ。振り返ると、川の方へ歩いて行く知念和尚と母の姿が見えた。
千鶴は顔を前に戻したが、胸の中では心臓が暴れている。これから忠之に逢うということもあるが、忠之の家族と顔を合わせることに、千鶴は極度に緊張していた。
今からやろうとしていることは、千鶴にとって単なるお詫びではない。自分たちの将来を見極める重大な局面でもあるのだ。
もし謝っても忠之の家族の許しが得られず、自分を受け入れてもらえなければ、それは忠之と夫婦にはなれないということだ。
自分は山﨑機織の娘であり、ロシア人の娘でもある。そのどちらも忠之の家族からすれば、怒りどころか憎しみさえ覚える要因だ。温かく迎え入れてもらえないのは覚悟しているが、完全に拒絶されれば絶望しかない。千鶴の体はがちがちになっていた。
しばらく進むと、左手に上り坂が現れた。
安子に誘われてその坂を上って行くと、やがて掘っ立て小屋のような家の集落が見えて来た。
安子はそこの小屋の一つに千鶴を案内した。建物の裏手から鋸を挽くような音が聞こえて来る。千鶴の胸の中でも、その音に負けないぐらい心臓が激しく鼓動の音を打ち鳴らしている。
家の裏手をのぞいた安子は、もうし、為蔵さん――と言った。すると音が止んだ。千鶴の心臓は爆発しそうだ。
間もなくして背中が少し曲がった小柄な老人が現れた。
「誰か思たら、安子さんかな」
為蔵は相好を崩したが、千鶴に気づくと目を細めた。
「そちらさんは、どなたかな?」
上手く出ない声を何とか出し、舌を噛みそうになりながら千鶴は挨拶をした。
「あの、山﨑千鶴と申します。こちらが佐伯忠之さんのお宅と伺いまして、あの、安子さんに連れて来ていただいたんぞなもし」
「忠之の知り合いかな」
珍しげに千鶴を眺める為蔵に、あの子はおいでる?――と安子は訊ねた。
為蔵は顔をしかめると、兵頭ん所ぞなと言った。
「あの子はお人好しなけん、ええようにされとんよ」
為蔵は悲しそうに安子に訴えた。
「兵頭ん所の牛が動かんなって、あの男がよいよ困りよった時に、あの子は牛の代わりを買うて出たんよ。ほれもな、ただよ。この辺りの織元廻るぎりやないで。こっから松山まで絣の箱を大八車にいくつも載せて運ぶんよ。ほれがどんだけ大事か、安子さんならわかろ?」
わかるぞなと安子がうなずくと、為蔵は話を続けた。
「なんぼあの子がただで構ん言うたとしても、言われたとおり一銭も出さん言うんは、あくどいとしか言いようがなかろ? ほじゃけんな、おら、あの男ん所へ怒鳴り込んだったんよ。ほしたら慌てて牛を持って来よったかい。ほれで、やれやれ思いよったら、今度は忠之が松山で働きたいて言い出したんよ」
安子はちらりと千鶴を見た。その視線を追うように為蔵も千鶴を見ると、姉やんがおるんを忘れよった――と言った。
「今の話やけんど、千鶴ちゃんはな、あの子が松山で働きたいて言いよった山﨑機織さんのご主人に代わって、あの子に会いにおいでたんよ」
安子の説明を聞いた途端、為蔵はたちまち険しい顔になり、何やて?――と大きな声を上げた。
「聞いた話じゃ、そちらの方から忠之にぜひ働いて欲しいて言うたそうじゃな。ほれをあの子は真に受けて、すっかりその気になっとったんぞ。おらたちはな、騙されるけんやめとけ言うたんよ。ほしたら、あの人らはそがぁな人やないて、あの子は言うたんぞ。ほれが何じゃい。今頃んなって、身分が違うけんこの話はなかったことにやと? こがぁなふざけた話がどこにあるんぞ!」
為蔵は顔を真っ赤にしながら体を震わせた。安子は興奮する為蔵をなだめて言った。
「あのな、為蔵さん。ほやけん、ほのことを千鶴ちゃんが、こがぁしてお詫びにおいでてくれたんよ」
「お詫び?」
ふんと言うと、為蔵は千鶴に悪態をついた。
「何がお詫びぞ。あんたらにはあの子がどんだけ傷ついたんか、ちっともわからんじゃろがな。申し訳ありませんでした言うたら、ほれで済む思とるんじゃろ。どいつもこいつも、おらたちのことを見下しおってからに」
千鶴はその場に膝を突くと手土産を脇に置き、為蔵に土下座をして詫びた。
「何と言われようと、うちにはお詫びするしかできんぞなもし。この度は、まことに申し訳ございませんでした」
千鶴の土下座が思いがけなかったのか、為蔵は少し勢いを失くしたようだ。怒りの矛先を千鶴から山﨑機織へ変え、山﨑機織は何でこんな小娘をよこすのかと文句を言った。
千鶴は地面に頭をつけながら、主が店を離れられないことや、主からのお詫びの文を預かってはいるが、手紙だけでは失礼になると考えたことを説明した。
しかし、為蔵の怒りは収まらない。
「主が店を離れられん言う時点で、本気で詫びる気なんぞないいうことじゃろが! ほれとも何か? 今にも潰える店やのに、あの子を雇うやなんて言うたんか!」
店の状態がよくないのは事実である。しかし、店を潰さないために忠之に来てもらおうとしたのだ。それを千鶴は言いたかったが、言い訳になるので黙っていた。
千鶴が弁解をしないので、為蔵は横目で安子を見ながら、さらに言った。
「だいたい何ぞ。山﨑機織いうんは外人さんの店なんか? 責任者が詫びに来る代わりに、こがぁな小娘をよこすんが外人さんのやり方かい!」
異人の顔をしていることを言われるのは、千鶴にはつらかった。しかも為蔵は忠之の育ての親である。覚悟はしていたが、実際にこのような態度を見せられると、悲しみが抑えられなかった。
千鶴が土下座をしながら泣いているので、安子が為蔵に話した。
「山﨑機織は日本人のお店ぞな。今はほんまに人がおらんで、ご主人が動けんそうな。ほれで千鶴ちゃんが動けんご主人の代わりに、お詫びにおいでたんよ。ご主人はほんまに申し訳ないことしたて言うとりんさって、あの子に早よ来て欲しいて、改めてお願いしておいでるんよ」
「やけん言うて、なしてこがぁな外人の小娘をよこすんぞ。いくら人がおらん言うたかて、他にやりようがあろうがな」
為蔵の態度に少しいらだった様子の安子は、一呼吸置いてからきっぱりと言った。
「千鶴ちゃんはご主人のお孫さんぞな」
「孫? この娘がか?」
為蔵は驚いたように千鶴を見下ろした。安子は為蔵を諭すように話を続けた。
「山﨑機織のご主人がしんさったことは、確かに間違とるぞな。ほれを間違とる言うて考え直させたんは、この千鶴ちゃんぞな。千鶴ちゃんはあの子が苦労して来たことをわかってくれとるし、励ましてくれとったんよ。今かて自分が嘘言うたわけやないのに、こがぁして怒鳴られるんを覚悟してお詫びにおいでてくれたんよ」
打ち伏せたまま泣く千鶴を見ながら、少しうろたえた様子の為蔵は話を変えた。
「山﨑機織の主が日本人やのに、なしてその孫娘が外人なんぞ?」
「ほれは、なして言われても……」
安子が言葉を濁すと、千鶴は体を起こして涙を拭いた。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。母は日本人の看護婦で、ロシア兵のお世話をしとりました」
ロシア兵じゃと?――為蔵の顔がみるみる鬼のようになった。
「お前らが……、お前らが……」
為蔵はわなわなと体を震わせた。
「お前らがおらん所の息子を殺したんじゃ! おらたちの一人息子を、お前らが殺したんじゃ!」
「為蔵さん、落ち着きんさい。千鶴ちゃんは戦争と関係ないぞな」
安子が千鶴をが、興奮する為蔵は聞く耳を持たない。その為蔵の言葉に千鶴は返事ができなかった。そこへ追い打ちをかけるように為蔵は言った。
「お前らはおらたちから一人息子奪っといて、今度は忠之まで奪お言うんか。この人でなしめが!」
これだけ罵倒されても、千鶴は言葉を返すことができなかった。
「為蔵さん、ほれは言い過ぎぞな。千鶴ちゃんはあんたにも、あんたの息子さんにも何もしとらんでしょうが!」
安子がきつい口調で言っても、為蔵は千鶴に向かって、何とか言わんかな――と声を荒らげた。
為蔵の怒鳴り声が聞こえたらしく、家の中から為蔵の女房タネが姿を見せた。
「どしたんね? 何叫びよるんな」
為蔵以上に腰が曲がったタネは、安子に気づいて挨拶をした。だが、地面に座って項垂れる千鶴を見ると、怪訝そうな顔をした。
「こいつはロシア兵の娘ぞな!」
為蔵は吐き捨てるように言い残すと、家の裏へ姿を消した。
安子から話を聞いたタネは、千鶴を少し気の毒に思ったようだ。
「遠い所、せっかくおいでててもろたのに悪かったね」
タネは千鶴の手を取って立たせると、着物の裾に着いた土を払ってくれた。それから改めて千鶴を眺めると、別嬪さんじゃなぁ――と言って微笑んだ。
千鶴が涙を拭き頭を下げて詫びると、タネは言った。
「戦争言うたら殺し合いぞな。こっちも殺されるけんど、向こうかて殺されとる。向こうは向こうで日本人に殺された言うとんじゃろな」
「おタネさんの言うとおりぞな」
安子がうなずくと、タネはさらに続けた。
「だいたい戦争やなんて、おらたちにゃ何の関係もないことぞな。ほれやのに戦争に引っ張り出されて殺し合いさせられて、恨まんでええ相手を恨んで一生悲しみを背負て暮らすんよ。おらはむずかしいことはわからんけんど、こげなことは間違とらい。おらたちも姉やんもロシアの兵隊さんも、みんな戦争の被害者ぞな」
タネの優しい言葉は思いがけないものだった。千鶴がぼろぼろ涙をこぼすと、姉やんもいろいろつらかったろうな――とタネは言った。その言葉はさらに千鶴を泣かせた。
タネは千鶴を慰めて言った。
「姉やんは忠之を迎えにおいでてくれたそうなけんど、うちの人は忠之が松山へ行くことは、ロシアに関係なく最初から大反対やったんよ」
「おタネさんも、やっぱし反対なん?」
安子が訊ねると、ほうじゃなぁ――とタネは思案げに言った。
「おら、半分半分じゃな」
「半分半分?」
「おらもな、忠之は可愛いけん、ずっと傍に置いときたい気持ちはあるんよ。ほんでもな、あの子のこと考えたら、ずっとこげな所に閉じ込めるんやのうて、もっとええ思いさえてやりたいなぁて思う気持ちもあるんよ」
「おタネさん、優しいんじゃね」
安子が嬉しそうに言うと、タネは照れながら話を続けた。
「あの子はな、おらたちにまっこと優しいんよ。ほじゃけん、ついその優しさに甘えとなるけんど、優しいけんこそあの子を自由にさせてやりたいて、おら、前々から思いよった」
「おタネさんらしいぞな」
「そこへな、今回の松山の話が出て来たけん、おら、ちょうどええ機会かもしれんて思たんよ。ほんでもな、あの人があげな感じじゃけんな」
タネは自分の家を振り返り、千鶴たちに苦笑した。
「あの子はな、おらたちを捨ててまでやりたいことする子やないけんな。あの人がうんて言わんうちは、どがぁもでけんかったんよ。そがぁしよるうちに、こげなことになってしもたけん、おらもな、何があの子にええんかわからんなっとったんよ」
申し訳ございませんでした――と千鶴は改めて頭を下げた。
タネは微笑むと安子に言った。
「ほんにええ娘さんやないの。うちの人からぼろくそ言われても、まだ頭下げてくれるんじゃけん。本気やなかったらでけることやないぞな」
「千鶴ちゃんは、ほんまにあの子のこと大切に思てくれとるんよ。自分もつらい思いして来た分、あの子のつらさもようわかってくれておいでるんぞな」
「ほうなんかな。ほれは忠之にとっては何よりぞな」
タネは千鶴の方を向くと、千鶴ちゃん――と言い、両手で千鶴の手を握った。
「忠之のことよろしゅうに頼まいね。ほれと、うちの人がひどいこと言うて堪忍な。あげな人やけんど寂しいぎりなんよ。ほんでも、忠之のことを大切に思とるんはおらと対じゃし、今頃、千鶴ちゃんにひどいこと言うてしもたて、一人で反省しとらい」
「確かにほうかもしれんね」
安子が笑いながらうなずいた。
「千鶴ちゃん、おタネさんがこがぁ言うておいでるんじゃけん、もう心配せいでもええんよ」
ありがとうございますと、千鶴はタネに手を握られたまま、もう一度頭を下げた。
「千鶴ちゃんがあの子のお嫁になってくれたら、おら、嬉しいけんど、どがぁじゃろね」
タネは笑いながら言った。千鶴は驚いて顔を上げた。タネの言葉は一瞬で千鶴の悲しみを吹き飛ばした。
「あ、あの……」
信じられない想いの千鶴は、喜ぶのも忘れてうろたえた。顔が熱くなるばかりで言葉が出て来ない。
「おタネさん、ちぃと気ぃが早過ぎるぞな」
千鶴の様子を見た安子が笑いながら言った。
「ほうかな。善は急げ言うじゃろがな」
タネは微笑んではいるが大真面目のようだ。
「あ、ありがとうございます」
ようやく声に出してタネに感謝した千鶴の心に、感激の波が広がった。千鶴が嬉し涙をこぼすと、タネも涙ぐんだ。
「千鶴ちゃん、ほんまにあの子のこと好いてくれとんじゃな。ありがとな」
少ししんみりすると、安子が涙を拭きながら嬉しげに言った。
「まずは千鶴ちゃんをあの子に会わせんとな」
ほれはほうじゃとタネはうなずき、ようやく千鶴の手を離した。
「あの子はな、兵頭ん所の家の修理を手伝いに行きよるんよ」
為蔵も言っていたが、あの兵頭の家の修理を手伝うだなんて、確かにお人好しである。
その兵頭の家を知念和尚と母が訪ねている。千鶴は二人が忠之に会ったのだろうかと思ったが、タネから忠之の嫁にと言われた感激で、それ以上は何も考えられなかった。
タネは呆れた顔で話を続けた。
「あの子はまっことお人好しなけんど、人が好えんも程があらい。あんだけええようにされて馬鹿にされた言うのに、その家直しに行ってやるんじゃけん」
「ほれが、あの子のええ所ぞな」
安子が微笑むと、まぁなとタネも笑みを浮かべた。
ほれじゃあ、行こか――と安子が千鶴に声をかけた。
千鶴は持って来た手土産をタネに渡した。手土産は千鶴のお気に入りの日切饅頭だ。
ずっしり重みのある饅頭の包みに、タネは顔を綻ばせた。
「ほんじゃあ、安子さん。あの子のことよろしゅうに。千鶴ちゃんもよろしゅうにな」
微笑むタネの手を、千鶴は両手でしっかり握ると、ありがとうございました――と言って頭を下げた。
千鶴たちが離れる時も、タネはずっとそこに立ったまま見送ってくれた。そして、千鶴が振り返ると手を振ってくれた。
千鶴は忠之を松山へ呼ぶことが、とても申し訳なく思えた。そのことを安子に話すと、忠之に幸せになって欲しいと願う、おタネさんの気持ちを酌んであげるべきだと安子は言った。
四
兵頭の家は離れた所からでもすぐにわかった。建物の真ん中の部分で屋根がなくなっていたし、大勢の村人たちが集まっていた。
その中に、千鶴は知念和尚と母の姿を見つけた。二人は継ぎはぎの着物を着た若者と喋っている。忠之だ。
幸子は千鶴たちに気づいたようで、手を振ったあと千鶴たちを指差しながら、和尚と忠之の二人に声をかけていた。
和尚は千鶴に手を振ったが、忠之は黙って千鶴を見ているだけだった。もしかして怒っているのだろうかと不安になったが、近づいて行くと忠之は泣いていた。
「千鶴さん、なしてこがぁな所まで……」
あとの言葉が出て来ない忠之に千鶴は言った。
「うちと母は、お店を出られんおじいちゃんに代わって、佐伯さんにお詫びに来ました。ここにおじいちゃんからのお詫びの手紙も預かっとります」
千鶴は甚右衛門の詫び状を懐から取り出すと、涙を流す忠之に手渡した。
「この度はおじいちゃんが佐伯さんを傷つけてしもたこと、まことに申し訳ありませんでした。謝って済むことやないですけんど、このとおりお詫びしますけん、どうか堪忍してやってつかぁさい」
千鶴が頭を下げると、忠之は千鶴の手を握り、そんなことはするなと言った。
「おら、何も怒っとらんけん。ほやけど、まさか千鶴さんがおいでてくれるとは思わんかった……。おらのことなんぞ、忘れたかてよかったのに……」
「忘れるわけないぞなもし。佐伯さんと一緒になれんのなら、うちは死ぬるつもりでおりました」
忠之の温もりに包まれながら千鶴は言った。この温もりに包まれるのなら何もいらなかった。
「そげなこと言うたらいけん。死んでしもたら、何のために産まれて来たんかわからんなるぞな」
「うちが産まれて来たんは、佐伯さんと一緒になるためぞなもし」
こほんと知念和尚が咳払いをした。見ると、近くにいる村の者たちが面白そうに千鶴たちを眺めている。
慌てる千鶴に幸子がにこやかに言った。
「二人で話がしたいんなら、場所を変えた方がええぞな。けんど、その前に兵頭さんにご挨拶しなさいや」
兵頭になんか会いたくないと思ったが、そういうわけにはいかなかった。千鶴が婿を取って山﨑機織の後継者となるならば、取引先である兵頭とは、これからも付き合って行かねばならない。
幸子に案内された千鶴は、壊れた家の前にいた兵頭とその家族に挨拶をした。みんな顔に傷があったり、手や足に包帯を巻いたりしている。命に別状はないとは言え、その姿は痛々しい。
ここは名波村ではないからだろう。祭りの夜に春子の家で食事を呼ばれた時には、兵頭も兵頭の家族もいなかった。兵頭の家族が千鶴と会うのはこれが初めてであり、千鶴が声をかけると、みんなぎょっとしたように固まった。
それでも幸子が自分の娘だと説明すると、兵頭が慌てた様子で、山﨑機織さん所のお孫さんだと、強い口調で家族に言った。それでみんなは動揺しながら、千鶴に頭を下げた。
兵頭自身、千鶴とまともに顔を合わせるのは初めてだろう。千鶴も兵頭とは面識がない。痩せこけた貧相な顔の兵頭は戸惑いを隠せない様子で、小さな目をきょときょと動かしている。
人手が足らないため甚右衛門が店を離れられないことを、兵頭は知っている。だが、甚右衛門の代わりに幸子と千鶴が来るとは、予想していなかったらしい。
幸子と顔を合わせた時にもどぎまぎしたらしいが、千鶴を見た兵頭は完全にうろたえているようだった。それは異人の顔をした千鶴を見て驚いたのかもしれないが、甚右衛門に忠之の陰口を言った後ろめたさがあるようにも見える。
「ほ、ほれにしても、なしてお孫さんまで、わざにおいでてくれたんかなもし?」
兵頭は強張った笑みを浮かべながら言った。千鶴は気持ちを隠して、兵頭に丁寧に応じた。
「こちらには先日のお祭りの時にお招きいただいて、みなさんにはずいぶんお世話になりました。そこで絣の仲買いされておいでるお人のお家が大事になったんですけん、お見舞いは当然ぞなもし」
「ほ、ほうなんかな。そがぁ思てもろとるやなんて、こがぁな時には何よりの慰めぞな」
兵頭は少し安堵したように笑みを浮かべた。それでもまだ千鶴と目を合わせないようにしている。
この人は自分のことを見下しているのだろうかと、千鶴は訝しんだ。忠之のことを見下している男だから、その可能性はある。それでも千鶴は見舞いに来てくれた絣問屋の孫娘だ。失礼な態度を取らないよう、兵頭は緊張しているに違いない。
とにかく兵頭は千鶴を甚右衛門の代理として認めたようで、自分の家を見せると、このとおりひどいものだと恨めしそうに喋った。
兵頭の家は離れた所から見てもひどい有様だったが、近くから改めて眺めると、無残の一言に尽きるほどの壊れ具合だ。茅葺きの屋根が剥ぎ取られただけでなく、その下にある木材や板もへし折られて、家は崩壊寸前のように見える。
とても突風で屋根が飛んだとは思えない。何か巨大な力が加えられたのは間違いないようだ。
「なしておらの家ぎり、こげな目に遭わないけんのじゃて、おら、神さま仏さまを恨みよったかい」
見てみぃと兵頭は周囲の家を指さした。
「どっこも何ともないじゃろげ? じゃのに、おらん所ぎりがやられてしもたんよ。いったい、おらが何した言うんじゃろか」
何を寝惚けたことを言っているのかと、千鶴は腹が立った。鬼が壊したのでなかったとしても、天罰が下ったのは間違いないのだ。
しかし、そんな気持ちを顔に出すわけにはいかない。千鶴は兵頭に同情するふりをしながら、家が壊れた時の様子を訊ねた。
兵頭は辺りを見回し、家を修理してくれている村人たちから千鶴を遠ざけると、ここだけの話だと言った。
「あんたやけん言うけんどよ。化け物が出たんよ」
千鶴はぎくりとなった。やはり鬼だったのかと、少し焦りを感じたが、平静を装って言った。
「新聞にそがぁなことが書いてあったぞなもし」
「ほんまかな?」
千鶴がうなずくと兵頭は額に手を当てて、ほれはまずいな――と言った。
「あん時は何が何やらわからんでよ。腹が立つやら悔しいやらで、会う奴会う奴に化け物のこと言うてしもたんよ。ほん中に新聞記者がおったんやが、ほうか、やっぱし記事になってしもたかい」
兵頭は新聞を読んでいないようで、どんな風に書かれていたのかと訊いた。それで千鶴は、化け物の声が聞こえて牛が死んだと書かれてあったと説明した。
兵頭は困ったように首を横に振り、ほうなんよ――と言った。
「せっかく手に入れた牛が死んでしもたけんな。これから絣をどがぁして松山まで運んだもんかて悩みよらい」
また忠之に頼むと言わないのは、言えないからだろう。今はそんなことは考えなくていいと千鶴が慰めると、有り難いと言って兵頭は千鶴に頭を下げた。
「さすが甚右衛門さんのお孫さんぞな。人を思いやる心を持っておいでらい」
兵頭に言われても一つも嬉しくない。千鶴は話を戻して、化け物のことを訊ねた。
兵頭はまた周囲を見回して声を潜めると、ここだけの話だと再度念を押すように言った。
「初めは化け物が出たて言いよったけんど、今は突風で屋根が飛んだことにしとるんよ」
「なしてぞなもし?」
「今も言うたとおり、やられたんはおらん所ぎりじゃけんな。おらが呪われとるみたいに見えるけんまずかろ? ほじゃけん、化け物言うたんは勘違いで突風じゃったて言うとるんやが、ほんまは化け物なんよ」
千鶴は兵頭の家のことよりも、家を壊した化け物の様子が知りたかった。それで兵頭を気遣うふりをしながら話を続けた。
「兵頭さんは化け物を見んさったん?」
「いんや、夜じゃったし、ちょうど寝よったとこじゃけん見はしとらん。いきなし屋根が壊れて、土砂降りの雨が降って来たけん、真っ暗闇ん中で何が何やらわからんままおったんやが、ほん時に聞いたんよ。がいに恐ろしい化け物の声をな」
その時のことを思い出したように、兵頭は両手で自分を抱くようにして震えた。
「おら、絶対に化け物に喰われるて思いよった。めげた屋根から化け物が来る思てぶるぶる震えよったんやが、結局は化け物は姿見せんままおらんなったんよ」
兵頭の話を聞きながら千鶴は背筋が寒くなった。もしあのまま自分が兵頭を呪い続けていたら、きっと兵頭とその家族は鬼に喰い殺されていたに違いない。いくら自分を護ってくれているとしても、やはり鬼は鬼なのだ。
千鶴は動揺を隠しながら訊ねた。
「化け物の声を聞きんさったんは、兵頭さんぎり?」
「いんや、おらの家族も聞いとるし、近所の者らにもほの声で目ぇ覚ましたんがおるんよ。ほれに近くにでっかい足跡もあったんよ」
「でっかい足跡?」
兵頭は両手をいっぱい広げて、これより大きな足跡だと言った。その足跡が家の近くで見つかったが、他では見つかっていないらしい。そのため、化け物がどこから来てどこへ行ったのかはわからないようだ。
そうなると、やはり化け物は兵頭を襲うために現れたということになる。それが嫌で兵頭は見つけた足跡はすべて埋めたと言った。
「前に辰輪村の近くで、でっかいイノシシが頭潰されて死んだことがあったけんど、あのイノシシ殺したんもこの化け物じゃて、みんなが言うんよ」
千鶴は胸がどきどきしていた。みんなが鬼の存在に気づき始めている。そこに自分が関わっていたと知れたらどうなるのだろう。
千鶴の不安をよそに兵頭は話を続けた。
「みんなよ、その化け物をおらが怒らせるようなことしたて思とるみたいでな。家がこがぁなっとんのをわかっとんのに、怖がってなかなか手伝てくれんかったんよ。一番先に助けてくれたんは山陰の忠之じゃった。あいつが一人で動いてくれて、ほれで他の者も助けてくれ出したんよ」
千鶴は思わず泣きそうになった。あれだけの仕打ちを受けた相手を、いったい誰が助けに行くだろう。
千鶴の表情にまずいと思ったようで、兵頭はすぐに話を変えた。
「とにかくよ、おら、死ぬか思うほど恐ろしい目に遭うたわけなんよ。ほんでも、この話は内緒にしといてくれよ。言うたように、おらの家は突風でめげてしもたんやけんな」
わかりましたと言うと、千鶴は母の元へ戻った。それから母と一緒に兵頭に頭を下げると、知念和尚の傍にいる忠之の所へ行った。
ちらりと振り返ると、まだ兵頭がこちらを見ている。何を言われるのかと心配しているのだろう。しかし、千鶴は兵頭を無視して忠之に言った。
「うち、佐伯さんと二人きりでお話がしたいぞなもし」
「おらと?」
忠之は知念和尚たちの顔を見た。
「行ってやりんさい。千鶴ちゃんはほのためにここまでおいでたんじゃけんな」
和尚が促すと、安子も言った。
「あんた、千鶴ちゃんの頭に花飾ったんじゃけん、きちんとその責任取らんといかんぞな」
「え? え?」
忠之はうろたえたように千鶴を見た。
「ごめんなさい。つい、喋ってしもたんよ」
千鶴が笑いながら謝ると、今度は和尚が言った。
「千鶴ちゃんを寺へ運んだんは、お前やそうじゃな。わしらは何も知らんけん、お不動さまが連れておいでたて思いよったぞな、まったく」
「そげなことまで……」
横目で千鶴を見る忠之に、また安子が言った。
「ほうよほうよ、言い忘れとった。おタネさんがな、千鶴ちゃんにあんたのお嫁になって欲しいて言うておいでたぞな」
「え? おっかさんが?」
「為蔵さんはちぃと機嫌が悪かったけんど、二人ともあんたの思たとおりにさせるつもりみたいぞな」
「ほんまに?」
「ほんまほんま。ほじゃけん、千鶴ちゃんと二人でように話をしておいでんさい」
忠之は黙って頭を下げた。少し戸惑った様子だったが、千鶴と目が合うと、忠之は照れたように微笑んだ。その笑顔が嬉しくて、千鶴も微笑み返した。
だが胸の中では緊張を感じていた。いよいよ前世の記憶を、忠之に確かめる時が来たのである。
時を越えて
一
千鶴と忠之は野菊の群生の前にいた。
ここは若侍が夢に出て来た場所であり、前世の千鶴が覚えている思い出の場所である。
「うちは、ここに倒れよったんですか?」
千鶴が訊ねると、忠之は黙ってうなずいた。それから花が終わった群生の中に入ると、かがんで手を伸ばした。
立ち上がった忠之の手には、一輪の野菊の花があった。
「まだ一つぎり残っとった」
忠之は千鶴の髪にその花を挿してくれた。
「うん、きれいぞな。やっぱし千鶴さんには、この花が一番似合うぞな」
忠之は満足げに微笑んだ。
夢の若侍と同じだ。間違いなく忠之はあの若侍、つまり進之丞だと千鶴は確信した。
今こそこの人に前世の話をしよう。そう思った千鶴の視界に気になる物が入った。
すぐ傍にある松原の中に、木が折れて倒れている所があった。その近くには何かの残骸が散らばっている。
「あれは何ぞなもし?」
千鶴が指差すと、忠之はその残骸を振り返った。
「あぁ、あれは古い祠みたいな物ぞな」
「祠みたいな物? 祠やないいうこと?」
「そがぁにちゃんとこさえた物やないんよ。中には、こんまい石の御神体みたいなんがあったけんど、ほれが何なんかはようわからんぞな」
「ひょっとして台風でめげたいう鬼よけの祠やないんかなもし?」
「さぁな。ほんでも、あげな物が鬼よけになるとは思えんぞな」
千鶴は松原の中へ入り、壊れた祠の傍へ行った。そのあとを忠之がゆっくりとついて来る。
近くで見ると、祠は原型をとどめないほど、ばらばらに壊れていた。だが、忠之が言うように立派な祠というものではなく、御神体の雨よけ程度の物だったようだ。
これが壊れたとされる台風では、松山もかなりの風雨に曝されはした。だが、それほど大きな被害は出ていない。
ここは余程の強風が吹いたのだろうが、それにしても妙な感じがする。
周囲の松には折れた木はない。折れているのはここだけだ。しかし、折れた木が枯れていたというわけでもなさそうだ。それに、すぐそこの丘の上にある法生寺には被害がない。
木が折れるほどの風が吹いたのであれば、丘の上にある寺にも何らかの被害があってもよさそうである。
また、風で吹き飛ばされて壊れたにしては、祠はあまりにもばらばらになり過ぎているように思える。いくら粗末であっても、風でここまで壊れるものだろうかと千鶴は訝しんだ。
倒れた松の木に押し潰されたのだとすれば、潰れた祠は木の下にあるはずだ。しかし、祠の残骸と折れた木は別々の所にある。
それについて忠之は、わからないと言った。
「これをこさえ直したら、鬼さんはどがぁかなるんじゃろか?」
千鶴が訊ねると、まさかと忠之は笑いながら言った。
「こげな物で鬼が封じられるんなら、誰も苦労すまい」
「ほやけど……」
「千鶴さんは鬼のことを心配しよるんかな」
千鶴がうなずくと、心配はいらないと忠之は言った。
「こがぁなもん、いくつこさえたとこで、鬼を封じるなんぞできまい」
「ほんならええけんど……」
千鶴は壊れた祠から離れると、忠之を誘って松原の向こうにある浜辺へ向かった。いよいよである。
ひたひたと静かな波が、砂浜に打ち寄せている。
左手に見える丸い鹿島を見ると、千鶴は切ない気持ちになった。ここで進之丞は千鶴を護るために死んだのだ。
「どがぁしんさった?」
泣きそうになっていた千鶴に、忠之が声をかけた。千鶴は無理に笑顔を見せると、佐伯さん――と言った。
「前に話してくんさった、うちと真っ対のロシアの娘さん、今はどこでどがぁしておいでるんか知っとりんさるん?」
忠之はぎょっとした顔になると、千鶴から顔を逸らすように海を見た。
「さぁなぁ。どこでどがぁしとるんやら」
「そげなこと言うて。ほんまは知っておいでるんでしょ?」
惚ける様子の忠之の顔を、千鶴はのぞき込んだ。忠之は困ったように千鶴を見返すと、どうしてそんなことを訊くのかと言った。
「佐伯さんの心ん中には、今でもその娘さんがおいでるんじゃろなて思たんよ」
忠之は寂しげに微笑むと、ほうじゃなと言った。
「確かに、おらの心ん中にはその娘がおる。忘れろ言われても、忘れられるもんやないんよ。ほれが気ぃに障る言われても、これぎりはどがいもしようがないんぞな」
そこまで自分のことを想い続けてくれているのかと、千鶴は思わず涙を見せた。
千鶴の涙を見た忠之は、慌てた様子で千鶴を慰めた。
「千鶴さん、泣かんでおくんなもし。おら、千鶴さんに泣かれるんが何よりつらいぞな」
その言葉は、胸の中にいるのはお前なのだと、千鶴に伝えているように聞こえた。
佐伯さん――涙を拭いた千鶴は忠之を真っ直ぐ見ながら言った。
「うち、その娘さんのことわかったんよ」
「何がわかったんぞな?」
「その娘さんは法生寺におりんさったんでしょ?」
忠之は驚いたように千鶴を見た。
「なして、そがぁ思うんぞな?」
「和尚さんがな、言うとりんさったよ。和尚さんが知る限り、うちみたいな異国の血ぃ引く娘は風寄にはおらなんだて」
「ほ、ほうなんか」
忠之は明らかにうろたえている。千鶴は続けて言った。
「この辺りでうちと対のロシアの娘言うたら、昔、法生寺で暮らしよった、がんごめて呼ばれよった娘しかおらんぞな。その娘は風寄のお代官の一人息子と夫婦約束をしよったんよ。しかもな、その娘はうちと同し千鶴て言う名なんよ」
忠之は口を開けたが言葉が出て来ない。千鶴は忠之を見つめながら言った。
「この話、どこぞで聞いた話に似ぃとると思いませんか?」
「おら、何のこと言われとるんか……」
尚もわからないふりをする忠之に、千鶴は言った。
「もう惚けんでもええんよ、進さん。おら、思い出したんよ。進さんと同しように、昔のことを思い出したんよ」
見開かれた忠之の目は、千鶴を凝視して動かない。だが、まだ千鶴の言葉に半信半疑の様子だ。
「まだ信じてくんさらんみたいじゃけん、言うてあげましょわい。進さんはおらを護るために、ここでようけのお侍らと斬り合うたんよ。たった一人でおらを護ろとして、おらのためにお命を……」
その先を言えないまま千鶴は嗚咽した。千鶴の心は前世の千鶴が占拠していた。
千鶴の涙に弱いはずなのに、忠之は慰めようともしない。明らかに動揺しているようだが、まだどう反応すべきか測りかねているようだ。
「進さん、黙っとらんで何とか言うておくんなもし」
千鶴が泣きながら必死に促すと、忠之は恐る恐る口を開いた。
「千鶴さんが進さんと呼びんさる男とおらが対じゃと、なしてわかるんぞな? ロシアの娘の話ぎりでそがぁ思とりんさるんなら、ほれは千鶴さんの思い違いぞな」
説得力のない弁解を続ける忠之に、千鶴は言った。
「進さんのまことの名は佐伯進之丞忠之ぞな。進之丞は呼び名で、忠之が諱じゃて、おらに教えてくんさったろ? 諱は誰にでも教えるもんやないけんどて言いながら、おらには教えんさったやんか。ほれに、今の進さんの名が佐伯忠之て言いんさるんは、おらの名が千鶴なんと対で、ほれこそ神さまがお示しくんさった、進さんである証ぞな」
興奮して肩で息をする千鶴に、忠之の顔が綻んだ。
「ほんまに……、ほんまに思い出したんじゃな、千鶴」
「やっぱし進さんなんじゃね!」
千鶴は忠之、いや進之丞に飛びついた。進之丞は千鶴を抱きしめると、逢いたかったぞと言ってむせび泣いた。千鶴は涙で喋ることができず、ただ進之丞の胸の中でうなずくばかりだった。
二
静かな波音が心地よい。
千鶴と進之丞は砂浜に座り、遥か昔のことを思い出している。
「おら、まだ全部思い出したわけやないけんど、こがぁして進さんと喋っとると、どんどんいろんなこと思い出して来るぞな」
「思い出すんは楽しいことぎりにしとかんとな。思い出さいでもええことまで思い出したら、つろならい」
進之丞は微笑みながらも、どこか影があるように見える。
「進さん、おらのことどがぁしてわかったん?」
「どがぁしてて……」
「いくら今のおらが前世のおらと真っ対でも、ほれぎりじゃったら他人の空似かもしれんやんか」
「お前が何も言わいでも、あしにはお前のことがわかるんよ。たとえお前の姿が今と違たとしても、あしにはわかるんぞな」
「ほれは、おらのことを感じとるてこと?」
ほうよと言って進之丞はにっこり笑った。
千鶴は嬉しくなった。自分が進之丞を感じたように、進之丞もまた自分を感じてくれていたのである。まさにこれこそが二人が時を越えてつながっているという証だ。
「おらもな、進さんのことがわからんうちから、進さんのこと感じよったんよ。今感じとるみたいにな」
千鶴は進之丞に体を寄せた。あの温もりに包まれ、進之丞と一つになったようだ。きっと進之丞も同じように感じているのだろう。
「進さんも、今おらを感じておいでる?」
進之丞がうなずくと、千鶴は嬉しさでいっぱいになり、進之丞の肩に頭を載せた。
「おらたち、こがぁしてお互いのこと思い出したけんど、もし思い出さんままじゃったとしても、この感じがあったらお互いに引き合うて一緒になれるんじゃね」
ほうじゃなと微笑む進之丞の顔は、やはりどこか寂しげだ。
たとえ互いの温もりを感じたとしても、生まれ育ちが壁となって一緒になれないこともあると言いたいのだろう。
前世で二人の身分は違い過ぎていたので、進之丞は千鶴を嫁にするのに苦労をした。今世では立場が逆で、千鶴はロシア人の娘ながら伊予絣問屋の跡継ぎ娘だ。一方、進之丞は山陰の者として生きており、それがために一度は甚右衛門に見捨てられそうになった。
千鶴は進之丞を元気づけるために話題を変えた。
「進さん、重見善二郎てお人、知っておいでる?」
「重見善二郎? 知らいでか。そのお方はお前が武家に嫁入りする膳立に、お前を養女に迎えてくんさることになっとったお人ぞな。じゃが、なしてお前があのお方を知っておるんぞ? まだお前には話しておらなんだはずじゃが」
「あのな、今のおらのじいちゃんは、重見善二郎いうお人の孫なんよ」
進之丞は目を丸くすると、何と――と言った。
「ほれは、まことの話か?」
「じいちゃんがそがぁ言うとりんさった。じいちゃんの実家は歩行町にある重見家で、じいちゃんのおとっつぁんは重見甚三郎て言いんさるそうな」
「甚三郎か、覚えておるぞ。一度手合わせをしたことがあるが、剣の腕前はなかなかじゃった。ほうか、千鶴は重見家の血筋の家に産まれて来たんじゃな。やっぱし、これはお不動さまのお導きに相違ない」
法生寺の方を向いた進之丞は、両手を合わせて不動明王に礼を述べた。
進之丞が祈り終えると、ほれにしたかて――と千鶴は言った。
「進さん、おらのことがわかっとったんなら、なしてもっと早ように言うてくんさらんかったん?」
「ほやかて、お前が何も思い出しとらんのに、お前と夫婦約束しよった進之丞ぞな――やなんて言えまい。そげなこと言うたら、こいつ頭おかしいんやないかて思われようが」
「まぁ、ほやないかて思いよった。ほんでも、おら、ずっと昔の自分にやきもち焼きよったんよ?」
千鶴が拗ねたふりをすると、進之丞は笑って言った。
「あしも、うっかり言わいでもええことを喋ってしもたけんな」
「ほやけど、あん時に進さんに助けてもらえなんだら、おら、死んどったかもしれんぞな。ほしたら、進さんと出逢うこともなかったろうに、こがぁなったんは神さまのお引き合わせなんじゃろね」
「確かにほうじゃな。やが、あしらを引き合わせてくんさったんはお不動さまじゃて、あしは思いよる」
「なして、お不動さまなん?」
進之丞は法生寺を振り返りながら言った。
「お不動さまは、昔からあしらを見守ってくんさっとるけんな」
「ほやけど、おらたちは死に別れてしもたぞな」
「ほじゃけん、こがぁして逢わせてくんさったんやないか」
進之丞は千鶴を諭すように言った。
「あしはな、わかったんよ。人は死んでも、ほれでおしまいやないてな。死んでもまた生まれ変わり、大切な者と再び出逢うんよ。お不動さまはそがぁな生き死にの繰り返しの中で、あしらを見守っておいでるんよ」
「進さん、相変わらず頭がええねぇ。おら、そげな深い考えできんぞな」
「ほんでも、今は師範になる学校へ行きよるんじゃろ?」
進之丞の言葉で前世の千鶴は、後ろに隠れていた今世の千鶴に席を譲った。つまり、千鶴は我に返って困惑した。
「いや、あの、学校はな、その……」
「どがぁした?」
「ほやけんな、あの……、やめたんよ」
「やめた?」
進之丞は驚き、眉をひそめた。
「なして、やめたんぞな?」
「なしてて言われても……」
鬼のせいでやめたとは言いたくなかった。だが、適当な説明が思いつかない。
「ひょっとして、あしがお店で働く思てやめたんか?」
弁解を探していた千鶴は、進之丞の言葉に飛びついた。
「ほやかてな、おじいちゃんがおらたちを夫婦にして、お店を継がせるおつもりじゃけん……」
そう言われたわけではない。だが、そうに決まっていると千鶴は考えた。
小さいながらも山﨑機織は立派な絣問屋である。そこの跡継ぎになるというのは、使用人にとっては大出世だ。
千鶴は進之丞が喜んでくれると思った。しかし千鶴の期待に反して、進之丞は笑みを見せなかった。
「そがぁなことはできん話ぞな」
「できんことないし。おじいちゃん、進さんにしんさったこと、ほんまに悪かったて思ておいでるんよ。ほれに、ほんまは進さんに惚れ込んでおいでたんやけん」
山陰の者として生まれ変わったことを、進之丞は気にしているのだろうと千鶴は思った。だとすれば、やはり祖父の仕打ちは、進之丞の心を深く傷つけたのかもしれなかった。
黙ったままの進之丞に千鶴は訊ねた。
「進さん、おじいちゃんのこと怒っておいでるん?」
「いや、怒っとらん」
「じゃったら、なしてそがぁな顔するん?」
「そがぁな顔?」
「何や、むすっとしとるぞな」
進之丞は両手で顔をごしごしこすると、にっこり笑った。
「これでええかな?」
「ほれじゃったらええけんど、進さん、もううちの店にはおいでてくれんの?」
「いや、そげなことはない。あしかてお前と一緒におれるなら、そがぁしたいと思いよる」
「ほれじゃったら、何がいかんの?」
進之丞は千鶴の方に体を向けて言った。
「あしにはな、そがぁにうまく行くとは思えんのよ」
「なして? お不動さまが引き合わせてくんさったんよ? 進さんが自分でそがぁ言うたやんか」
思い悩んだように口を噤んでから、進之丞は言った。
「あしは人殺しぞな」
「人殺し?」
千鶴はぎょっとしながら言った。
「進さん、誰ぞ殺めんさったん?」
「殺めたいうても今の話やない。前の話ぞな」
「ほれじゃったら――」
「人を殺めた者に幸せをつかむことはできん。人殺しのあしがおったら、お前は幸せにはなれまい」
「何言うん?」
馬鹿げた話に千鶴は反論した。
「ほんなん前世の話やんか。ほれに、おらのためにしんさったことやのに、なしてそがぁなこと言うん?」
「ほやかて、人殺しは人殺しぞな」
「ほんでも、ほれは前世の話で、今の進さんには関係ないぞな」
「あしが何も覚えとらんのなら、ほうかもしれん。やがこのとおり、あしは全部覚えとる。己の罪は己が知っとるんじゃけん、ほの罪から逃れることはできまい」
「進さん一人が不幸になって、おらぎり幸せになれるわけないやんか。おらの幸せは進さんと一緒になることなんよ? ほれがでけんのなら、おら、幸せになんぞなれん」
千鶴が泣き出すと、進之丞はうろたえた。何とかなだめて慰めようとしたが、千鶴は泣き止まない。
「わかった。わかったけん、泣かんでくれ。もう余計なことは言わん。何でもお前の言うとおりにするけん、泣かんでくれ」
千鶴は涙の目で進之丞を見た。
「ほんまに?」
「嘘は言わん」
「約束やで?」
「あぁ、約束する」
千鶴は進之丞に抱きついた。進之丞も千鶴を抱き返したが、その胸には過去の苦しみが残ったままだ。
襲って来た方が悪いのに、その相手の命を奪ったことで、生まれ変わってからもその罪に苦しむなんて理不尽な話である。
だが、実際に苦しんでいる者には、そんな理屈は通用しない。千鶴が進之丞にしてやれるのは、黙って抱きしめてやることだけだ。
「人は変わるが、海は昔と変わらんな」
千鶴から体を離した進之丞が言った。千鶴はうなずくと、進之丞と海を眺めた。
二人の傍まで波が静かに打ち寄せている。前世で二人に何が起こったのかを、波は覚えているだろう。だが波は二人に対して何の判断も批判もせず、ただ寄せては引くを繰り返している。
それは無関心のようでもあるが、思いやりのようにも見える。あるいはすべてを知った上で、昔と同じように二人を受け入れてくれているようでもあった。
波は静かに砂を運ぶ。それと同じように、時の流れが進之丞の苦しみを、静かに運び去って行くに違いない。そう願いながら、千鶴は進之丞の肩に頭を載せた。
三
「そろそろ寺へ行くか。みんなが待ちよろ」
立ち上がろうとする進之丞に、一つだけ聞かせて欲しいと千鶴は言った。
「進さん、前に鬼の話をしてくんさったろ? あの話は誰から聞きんさったん?」
「慈命和尚ぞな」
「え? あの和尚さま?」
「ほうよ。お前が世話になっておった慈命和尚ぞな」
慈命和尚は、前世の千鶴が法生寺で暮らしていた時の住職だ。千鶴が異国の血を引く娘だと知った上で寺に引き取り、村人たちにも千鶴を理解させようとしてくれた千鶴の大恩人である。
懐かしい想いに浸りながら千鶴は言った。
「おら、まだ思い出しとらんけんど、やっぱし、おらは前世で鬼と関わりがあったん?」
進之丞は迷ったように少し間を置いてから、うむとうなずいた。
「あしは鬼がお前を護っとると言うたけんど、昔の鬼は今とは違てな、物分かりの悪い乱暴者じゃった」
「ほうなん?」
千鶴は驚いた。優しい鬼が乱暴者だったとは意外な話である。
「お前がまだ風寄に来る前の話やが、鬼は山ん中の寺でお前に優しゅうされたんよ。ほれで、お前の優しさに憧れた鬼はお前が欲しなって、ずっとお前を探しよったんよ」
「ほれは鬼に聞いた話なん?」
進之丞はうなずくと、その鬼がとうとう千鶴の居場所を見つけたのだと言った。
「こげな話をしたら、鬼に対するお前の気持ちが変わるやもしれんが、嘘を申すわけにもいかんけんな。まことの話をしようわい。法生寺の庫裏が焼け、ほん時に慈命和尚が亡くなった話は、お前も知っとろう」
千鶴がうなずくと、和尚は鬼に殺されたのだと進之丞は言った。
千鶴は全身がざわついた。進之丞の話を心が拒絶していた。
「嘘じゃろ?」
「嘘やない。鬼は村の者らを操って、和尚とお前を捕まえたんよ。和尚は法力で鬼と戦うたけんど、村の者には無力じゃった。男らに散々殴られて瀕死の状態になった和尚を、鬼は庫裏ごと焼き殺そうとしたんぞな」
そんな話は聞きたくなかった。村の者たちは慈命和尚を尊敬していたはずだ。その者たちの手で和尚の命を奪おうとするなんて、鬼がやったことは卑劣極まりないと千鶴は心が震えた。
「異変に気づいて駆けつけたあしの前で、鬼は庫裏に火を放ちおった。庫裏はすぐに火の海になったが、あしはお前と和尚を助けようと炎の中へ飛び込んだ。やが、あしが見つけられたんは、虫の息になった和尚ぎりじゃった」
見慣れた庫裏が燃え上がる様子が、千鶴の目に浮かんだ。動揺する千鶴に、鬼はお前を攫って逃げたと進之丞は言った。
もはや千鶴には事実を否定できなかった。体中の毛穴から何かが噴き出すように感じながら、千鶴は話を聞き続けた。
「和尚は死に際にこがぁ言いんさった。鬼は力尽くで言うこと聞かそとしても無理じゃとな。鬼が千鶴を望む理由も和尚は知っておいでての。そこから鬼を説き伏せるしか、千鶴を護ることは敵わぬと言いんさったんよ」
慈命和尚は千鶴の親代わりになってくれた人だった。読み書きも教えてくれたし、お不動さまのことも教えてくれた。厳しさもあったが、とても優しい人だった。その和尚の死に様が目に浮かび、千鶴は涙を抑えることができなかった。
千鶴は鼻をすすりながら言った。
「ほれで……進さん、どがぁしんさったん……? 鬼を説き伏せんさったん……?」
「そがぁするより他に手はなかったぞな。あしは海に逃げた鬼を追いかけ、必死で説得した。千鶴を己の物にしたとこで優しさは手に入らんのじゃと」
「鬼は……進さんの話……わかってくれたん?」
「そがぁに簡単にはいくまい。ほんでも、あしはあきらめなんだ。優しさは奪うもんやのうて与えるもんであり、己の中にあるんじゃと、とにかく説き続けたんよ。ほれでしまいには、鬼もあしの言い分に耳を貸してくれてな。ついにはお前を戻してくれたんよ」
千鶴は肩を落とした。進之丞の話はあまりにもつらかった。いくら自分を手放してくれたとは言え、鬼にいい印象が浮かばない。
「おら、ほん時のこと、何も覚えとらん」
「ほれでええ。さっきも言うたように、余計なことは思い出さん方がええんよ」
「ほれは、ほうじゃけんど……」
慈命和尚を殺した鬼に攫われておきながら、そのことを何一つ覚えていないのは、すっきりしない気分だ。
「あのお侍らが襲て来たんは、そのあとのこと?」
「ほうじゃ。連中は攘夷を掲げた屑どもぞな。鬼は優しさ求めて悪さをしたが、連中はゆがんだ虚栄心のために人を殺めよる。まっこと鬼より始末の悪い奴らぞな」
憤る進之丞に、自分はロシアへ行ったのかと千鶴は訊ねた。
進之丞はしおれたように目を伏せると、黙って首を横に振った。それが何を意味するのかは、千鶴にはすぐにわかった。
「ほれにしても、なして進さんはおらのおとっつぁんのことがわかっておいでたん?」
進之丞は顔を上げると言った。
「ちょうどその頃、三津ヶ浜にな、ロシアの黒船が来よったんよ」
四
黒船が三津ヶ浜に現れたのは、複雑な瀬戸内海の潮流を見極めるためだったと言う。
突然黒船が現れた三津ヶ浜は大騒ぎになったと思われるが、その中で、小舟で黒船に近づいた者がいたそうだ。それは異国人相手に商売ができるかもと考えた三津ヶ浜の商人だった。
ロシア人の中には通訳ができる者がいて、ロシア人の娘を知らないかと、その商人に訊ねたのだと言う。
それに対して商人は、ロシアかどうかはわからないが、異人の娘なら噂を聞いていると答えたらしい。異人の娘とは千鶴のことだ。
「なして、おらのことを三津ヶ浜のお人が知っておいでるん?」
「あしがお前を嫁にするいう話が、松山や三津ヶ浜でも噂になったらしいんよ」
「おらが異人の娘やけん?」
進之丞はうなずいた。進之丞によれば、二人が夫婦になるという話は侍だけでなく庶民にまで聞こえていたようだ。
通訳を介して異人の娘について訊ねたロシア人は、千鶴を自分の娘だと確信したらしい。
黒船には日本の船頭が案内人として乗り込んでいたようだ。千鶴の父親であろうロシア人は、恐らくその案内人に頼んで千鶴宛の手紙を書いてもらったと思われた。
小舟に乗った商人は、その手紙を金子と一緒に持たされ、その娘に届けるように頼まれた。
しかし直接手紙を娘に届けると、あとでお仕置きを受ける恐れがあると商人は考えたらしい。それで商人は手紙を娘ではなく、娘を嫁として迎える進之丞に届けたのだと言う。
黒船が風寄へ向かうことが攘夷侍たちの耳に伝わったのは、たぶんこの商人からだろうと進之丞は言った。
三津ヶ浜には異国船を警戒する砲台が設置されたお台場があった。その真ん前に黒船が現れたので、現地にいた侍たちは大慌てだったはずだ。一触即発の状況に肝を冷やしながらも、何事もないことを願っていただろう。
そんな状況に攘夷侍たちはいらだっていたに違いない。やられる前に先に大砲をぶっ放せばいいと思っていただろう。だが、砲台は船奉行たちが護っているので手が出せない。
しかし、風寄であれば邪魔者はほとんどいない。しかも風寄には武家の嫁になろうとしている異人の娘がいた。攘夷侍たちには動くべき時が来たわけである。
進之丞にすれば迷惑な手紙だった。
異人が勝手に上陸すれば大問題であり、その異人と接触したとなると、お咎めは免れない。千鶴と夫婦になる話も許されなくなるかもしれなかった。
そうは言っても、自分の父親が会いに来ると千鶴が知れば、一目会いたいと思うのが人情である。また、一目会わせてやりたいと進之丞が思うのも人情だった。
それでも、それをするとどうなるかと考えると、進之丞は手紙のことを千鶴に知らせることができなかった。
手紙には一方的かつ簡略に、千鶴に会いに行くという日時と場所が書かれていた。それがちょうど攘夷侍たちが襲って来た、あの時であり、あの場所だったと進之丞は言った。
「あしはその手紙を見んかったことにするつもりじゃった……。じゃが、あげなことが起こり、慈命和尚も父上も亡くなった。そこに加えて、あしもまた生きられぬ身になれば、お前を護れる者はおらんなる。ほれであしはお前を、お前の父上に託そと思たんよ」
「……ほうじゃったん」
過去の話ではあるが、千鶴は暗い気持ちになった。
「おヨネばあちゃんのおとっつぁんが、浜辺でお侍と戦う鬼を見たて聞いたけんど、鬼もお侍と戦うたん?」
「戦うた。心を入れ替えた鬼は、動けんなったあしの代わりにお前を護ってくれた。ほれから行くべき所へ行ったんよ」
「地獄てこと?」
進之丞はうなずいた。
これで千鶴は自分が見た夢に納得が行った。自分を護ってくれた鬼に会いに行ったのだ。
しかしその時の自分は、鬼が慈命和尚の命を奪ったことを知らなかったに違いない。もし知っていたなら、地獄まで鬼に会いに行ったりはしなかっただろう。
また、鬼が慈命和尚を殺めたのだとすれば、祖父が言っていた、風寄の代官が鬼に殺されたという話も事実と思われる。
「鬼が嫌いになったか?」
訊ねる進之丞に千鶴は訊き返した。
「進さんこそ、鬼のことどがぁ思ておいでるん? 鬼のことわかったみたいに喋っとりんさるけんど、おとっつぁん殺されても平気でおられるん?」
進之丞の顔が強張った。はっとなった千鶴は慌てて自分の無神経さを詫びた。
進之丞は硬い表情のまま千鶴に訊ねた。
「父上が鬼に殺められたこと、なして知っておるんぞ?」
「さっき話したじいちゃんのじいちゃんがな……、亡くなった進さんのおとっつぁんのお姿見んさって……、鬼にやられたらしいて言いんさったて……」
ほうか――と進之丞は項垂れた。そして、自分の両方の手のひらを見つめると、その手を握りしめて泣いた。
千鶴は進之丞の肩を抱くと、ごめんと詫びた。
進之丞は尚も体を震わせて泣き続けたが、やがて涙を拭うと、千鶴に向き直った。
「千鶴、お前も鬼が憎かろ。やが、あしからお前に頼む。どうか、鬼を憎まんでやってくれ。許してやれとは言わんが、憎むんはやめてくれ。ほやないと、せっかく新たな命をもろて生まれ変わったのに、これからのお前の暮らしがすべて台無しになってしまわい」
「進さん……」
「本来なら思い出すはずのないことで、苦しみ悲しむのは正しいことやない。お前の幸せのため、どうか、憎しみは捨ててくれ。ほの代わり、鬼はじきにお前から離れよう。鬼が望んどるんはお前の幸せぎりじゃけんな」
千鶴は黙ったまま、進之丞の言葉を噛みしめた。
何とか気持ちの整理がつくと、千鶴は進之丞を見てにっこり笑ってみせた。
「わかったわい。おら、もう忘れた」
「ほうか、ほれがええ。鬼のことも案ずるな」
「案じたりしとらんよ。鬼さんはおらの守り神じゃけん」
驚いたような進之丞に、千鶴は微笑んで言った。
「人それぞれぞな。おらも進さんもこがぁして生まれ変わったんじゃけん、きっと他の人らも生まれ変わっとらい。和尚さまも進さんのおとっつぁんも、みんなどっかに生まれ変わっとると、おらは思うぞな。ほれやのに、昔のこと取り上げて恨みつらみ言うたかて詮ないことやし」
「千鶴……」
「ほれにな、おら、思たんよ。きっと、鬼さんかて昔のこと思い出したらつらかろうなて。人は前の世のことなんぞ、みんな忘れとんのに、鬼さんぎり覚えとるんは気の毒ぞな。ほじゃけんな、おら、鬼さんの力になってあげたいんよ。鬼さんには、この先もずっと傍におってもろて、おらたちと一緒に……、進さん?」
忠之は両手で顔を覆ってすすり泣いていた。
「進さん、何泣きよん?」
「千鶴……、なしてお前は……、そがぁに優しいんぞ?」
「なしてって……、鬼さん、気の毒やし。おらのこと陰で助けてくれとるんじゃけん」
「ほやけど、鬼ぞ?」
「おらな、自分ががんごめや思て悩みよったじゃろ? あん時に、ようわかったんよ。自分が鬼になってしまう恐ろしさを。実際はがんごめやなかったてわかったけん、ほっとはしたけんど、ほんまの鬼さんはどんだけつろうて悲しかろて思たんよ。鬼さん、好きで鬼になっとるわけやないもんね」
忠之はますます泣き出した。
困った千鶴は忠之を抱きしめて慰めようとした。しかし、忠之が何を泣いているのかがよくわからないので、何と慰めればいいのかがわからなかった。
しばらくして涙を拭った進之丞は、すまん――と言った。
「また取り乱して、みっともない所見せてしもた」
「進さん、何をそがぁに泣きよったん?」
「あしはな、鬼の心がわかるんよ」
「鬼の心?」
進之丞はうなずくと、前の世で鬼を説得した時に、鬼と気持ちが通じるようになったと言った。
「鬼はな、千鶴の言葉を聞いて泣きよったんよ。その気持ちがあしにも伝わって、ほれで涙をこぼしてしもたんぞな」
「ほういうことやったん」
何だかとても感動した千鶴は、進之丞と鬼のことを確かめたくなった。
「鬼さんがおらをイノシシから救ってくれた時、ほんまは進さんも傍においでたんじゃろ?」
千鶴が問いかけると、進之丞は少し困った顔を見せ、それから小さくうなずいた。
「あの日、お前が泣きながら走って行くんが見えたんよ。ほん時はお前がおるとは思とらんかったけん、まさかと思いながら後を追わいよったら、あのイノシシが出て来てな……」
「鬼さんが現れて、おらを助けてくれたんじゃね」
千鶴の言葉に、忠之は黙ってうなずいた。
「進さんは鬼さん見ても、驚かなんだん?」
「互いを知った間柄じゃけんな。ほれに、あしはお前のことしか考えよらんかった」
「じゃあ、鬼さんも進さんがわかったん?」
「わかっとる。ほじゃけん、あとはあしが動いたんよ」
そうだったのかと千鶴は納得した。進之丞と鬼が力を合わせる仲であることも理解できた。
かつて鬼と進之丞は争った仲であり、鬼は進之丞の父を八つ裂きにした。それなのに、今は互いに心を通わせているのが、とても不思議であり胸を打つものがあった。
「進さん、鬼さんに言うてくれる?」
「何をぞな?」
「絶対におらから離れんといてなって」
進之丞は困惑気味に、そがぁなことはできん――と即答した。
「なして?」
「ほやかて、鬼が現れたんは、お前が幸せになるんを確かめたいぎりじゃけんな。ほじゃけん、お前が幸せなんがわかったら、鬼はおらんなるんよ」
「ほんなんいかんで。じゃったら、おら、幸せになれんやんか」
「なしてぞ?」
「鬼さんがおらんなったら、おら、悲しなるもん。幸せになれたとしても、幸せやなくなってしまうぞな」
「千鶴、お前はなして……」
進之丞がまた泣き出したので、千鶴は慌てて進之丞をなだめた。
「進さん、泣いてんと、もう一つ鬼さんに伝えてくれん?」
「何を……ぞな?」
鼻をすすり上げる進之丞に千鶴は言った。
「あのな、おらが誰かに腹立てたら、鬼さんが仕返しするかもしれんのよ。ほやけん、そげなことはせいでも構んけんて言うといて欲しいんよ」
「何ぞ、そがぁなことがあったんか?」
近くには誰もいないが、千鶴は声を潜めて言った。
「あのな、実は兵頭さんの家がめげたんは、おらのせいなんよ」
「なして、お前のせいなんぞ?」
「あのな、おら……、あの人のこと恨んでしもたんよ」
「恨んだ?」
「ほやかて、あの人がおじいちゃんに余計なこと言うたけん、おじいちゃんが進さんを雇うのをためろうてしもたじゃろ? おら、進さんがおいでてくれるて楽しみにしよったけん、ほれでつい……、恨んでしもたんよ。ほしたら、ほれが鬼さんに伝わってしもたみたいでな。あげなことになってしもて……」
進之丞はふっと笑った。
「お前は、まっこと正直で可愛い女子よなぁ」
「何言うとるんよ。ほんまじゃったら、おら、兵頭さんにお詫びせんといけんのよ。ほやけど、そげなこと言えんやんか。やけん、こがぁなことが起こらんように気ぃつけんといけんのよ。ほやけどな、鬼さんのこと責めよるんやないんよ。そこん所はちゃんと伝えといてや」
進之丞は声を出して笑うと、相わかった――と言った。
「もうお前の気持ちは伝わっとるけん、何も心配はいらん。鬼もお前に迷惑かけたて謝っとるけん」
「謝らいでもええんよ。おらな、おらのために鬼さんの手ぇ汚すようなことさせとないけん言うとるんよ。せっかく優しい気持ちになったんじゃけんな。鬼さんには、いつまでも優しい鬼さんでおって欲しいんよ。ほれじゃったら鬼さん、もう地獄に行くことないもんな」
進之丞がまた泣き出した。
千鶴は慌てて進之丞をなだめた。そうしながら、これから進之丞に鬼の話をする時には、気をつけねばならないと考えていた。
広がる噂
一
正月になると、茶の間と隣の板の間を仕切る襖は取り払われ、広くなった座敷に山﨑機織の者全員が集まった。
いつもは使用人たちの食事は、家人とは別である。だが祝い事の時には一緒の食事が許されていた。
茶の間に座る甚右衛門を基点として、家人と使用人が向かい合う形で板の間の方へ向かって並ぶ。
甚右衛門のすぐ傍の家人側には、大阪の作五郎の下で修行をしていた孝平が座り、使用人側には東京廻りから戻った辰蔵が座っている。孝平の隣にはトミが座り、さらにその隣に幸子、千鶴と続く。一方で、辰蔵の隣には手代、丁稚が順に並んでいる。
花江は使用人だが、千鶴の隣に座らされた。それは家人側と使用人側の人数を合わせるためでもあるが、花江が特別な使用人ということでもあった。
それぞれの箱膳には白飯と雑煮、黒豆や数の子、昆布に大根やごぼう、里芋などの煮物、赤蕪の酢の物などが所狭しと並べられている。箱膳の脇には、箱膳に載せきれない焼き魚の皿が置かれ、亀吉と新吉はもちろん、無口な弥七さえもが笑みを見せていた。
前年は関東の大地震で手代を亡くし、花江も家族を失った。それはほんの四ヶ月前のことである。本来であれば祝い事などするところではないが、正月は特別だ。それに残った者たちをねぎらい励ます必要もある。今回の正月にはそんな意味も含まれていた。
祝う言葉を用いずに一同に新年の挨拶をした甚右衛門は、昨今の絣業界の情勢について喋り、こうして正月を迎えられたのはみんなのお陰だと述べた。それから甚右衛門は、千鶴が学校をやめて家や店の仕事を手伝うことになったと、さらりと言った。
千鶴は花江にだけは学校をやめたことを話していた。詳しい説明はしなかったが、ひどい差別を受けたからとだけ言った。千鶴が深く傷ついていたことはわかっているので、花江もそれ以上のことは聞かなかった。
また、千鶴のことは辰蔵にも甚右衛門が伝えていた。しかし、それ以外の使用人には何も話していなかったので、千鶴が学校をやめたという話には、少なからぬざわめきがあった。ただ、それは驚きというより、やはりそうかという感じのものだった。
みんな、十二月に入ってから千鶴が学校へ行かずに家にいたことは知っている。また茂七と亀吉は千鶴が学校へ行った最後の日に、悲壮な顔で昼前に戻って来たところを目撃している。それでも事情を聞かされないので、何があったのかはわかっていなかった。
それはちょうど甚右衛門が忠之の雇用をやめた騒ぎと重なった頃なので、それが絡んだことに違いない