野菊のかんざし 目次
野菊のかんざし 解説
客馬車
一
爽やかな秋空の下、刈り取りが終わった田んぼに、かっぽんかっぽんと馬の蹄の音が響く。音の主は一台の客馬車で、田んぼに囲まれた今治街道を北へ向かってのんびり走っている。
昨日はこの日と違って大雨だったので、まだ道の所々に少しぬかるみがある。しかし、そんなぬかるみなど気にすることもなく客馬車は進んで行く。
六人乗りの客車には真ん中の狭い通路を挟んで、三人掛けの長椅子が左右に設置されている。通路の後端は板の扉でふさがれているが、そこが乗降口だ。
この日の客馬車は満員で、それぞれの長椅子には乗客が三人ずつ肩を寄せ合って座っていた。がたがたという車輪の振動がお尻から頭のてっぺんまで伝わるが、みんな黙って揺られている。その揺れる客車の左の一番後ろの席に、千鶴は座っていた。
緊張の糸に縛られながら、千鶴はできるだけ目立たないように小さくなっていた。客馬車に駆け乗った時の息がなかなか整わないが、息が荒くなると目立つので呼吸も小さく抑えている。
座席の背もたれは背中までで、肩の辺りから上方は窓のように大きく開いている。屋根には日よけの青い布が垂れ下がっているだけで風通しはいい。乗降口の部分も同様だ。
誰かが匂い袋を身に着けているらしく、少しきつい香りが時折鼻を突く。けれど、吹き込む風が香りを取り去ってくれるので、何とか息苦しさは凌げている。
千鶴の隣にも若い娘が座っている。親友の村上春子だ。二人は女子師範学校の四年生で、来春卒業する予定になっている。一緒に客馬車に駆け乗ったので、春子も息を弾ませているが、嬉しさを隠せず大はしゃぎだ。
二人が向かおうとしているのは、風寄の名波村にある春子の実家だ。今日から行われる村祭りを見に行くのである。
土曜日のこの日、授業は午前だけだったので、二人とも授業が終わると大急ぎで客馬車乗り場へやって来た。着物を着替える暇などない。袴こそ着けていないが、手作りの伊予絣の着物も、三つ編みを後ろで丸く束ねた髪も、学校にいた時のままだ。
いつもは風寄の祭りは金曜日から始まるので、女子師範学校に入学して以来、春子は地元の祭りには戻れていない。授業を休んでまで見にいくことは許されないからだ。
代わりに千鶴は毎年春子を家の近くにある阿沼美神社の祭りへ誘っていた。この神社の祭りは神輿をぶつけ合う盛大なもので迫力があった。
といっても、祭りが平日であれば昼間は見られない。そんな時は授業が終わった夕方に、先生に特別許可をもらって見に来ていた。
春子は阿沼美神社の祭りを見るたびに、いつか自分の村の祭りを千鶴に見せたいと言った。だけど学校にいる間は日程的に無理だし、卒業したあともできそうになかった。
卒業後は二人とも小学校教師となるのだが、どこの小学校に赴任することになるかは、その時にならないとわからない。二人が同じ小学校に赴任するとは限らないし、恐らく離ればなれになるだろうと千鶴も春子も思っていた。
春子が千鶴を村の祭りへ連れて行くのであれば、今年しかない。それでも事情は例年と変わらず、春子の望みは叶わないと思われた。
ところが今年は奇跡が起きた。急に状況が変わって行けることになったのだ。春子がはしゃぐのは当然だった。
春子は体を捻って後ろを向くと、青い布を持ち上げて外の景色を眺め、弾む声で千鶴に話しかけた。
「ほれにしても、うまい具合に馬車に乗られてよかったわい。もちっと遅かったら出てしまうとこやったで。まっこと危ないとこじゃった」
客馬車は出発時間が決まっていない。いつ出るかは乗客の乗り具合で決まる。二人が客馬車乗り場に着いた時、ちょうど客馬車は出ようとしていたところだった。
「ほんまじゃねぇ」
遠慮がちに微笑んだあと、千鶴はすぐに笑みを消した。
千鶴の正面に座っている鼠色の呉服を着た老婆が、千鶴の一挙一動を見逃すまいとするかのごとくに、じっと見据えている。眉をひそめたその顔は、いかにも汚らわしいものを見ているかのようだ。
目の遣り場がなく、千鶴が老婆から目を逸らすと、老婆の隣に座っていた若い男と目が合った。着流し姿に鳥打帽をかぶったその男も、どうやら千鶴を眺めていたらしい。男は慌てて横を向くと、知らんぷりを装った。だが、うろたえているのか目がきょときょとと動いている。
鳥打帽の男の向こうには、髪を二百三高地に結った伊予縞の着物の女がいる。歳は若くないが、きれいな顔立ちだ。
前髪が山みたいに大きく盛り上がり、頭頂部の髷が高く突き出たこの庇髪は、明治の頃からの流行ではあるが、千鶴はこの髪型が好きではない。
二百三高地とは日露戦争の激戦地だ。そんな名前の髪型があることが嫌だし、その名前を好む人がいるのも嫌だった。
この女は千鶴と目が合うと、にっこり微笑んだ。しかし、その笑顔の裏には何か冷たいものが感じられ、千鶴はできるだけこの女とも目を合わせないようにした。
千鶴たちが馬車に乗り込もうとした時、座席は左右の一番後ろしか空いていなかった。千鶴をにらみ続ける老婆は、その時には春子が今座っている所にいた。
春子が鳥打帽の男の隣に座り、続いて千鶴が乗り込もうとすると、老婆は春子に自分と席を替わらせた。千鶴と隣り合わせになるのを嫌ったのだろう。だけど、こうして向かい合うのも気に入らないらしく、ずっと千鶴をにらみ続けている。
千鶴は他の者とは見た目が異なっていた。老婆が千鶴を嫌うのは、千鶴の容姿のせいに違いなかった。
老婆の態度には春子も気づいたはずだ。けれども、春子は千鶴の隣に座れたのが嬉しかったのか、老婆を気に留める様子はなかった。だから、千鶴も老婆のことは気にしないように努めていた。だけど胸の内では、やはり来るのではなかったかと、淡い後悔が浮かんでいる。
二
「おい、君。もう一度聞くが、今日は北城町で間違いなく宿が取れるんだろうな」
春子の左、つまり一番前に座っていた男が御者に声をかけた。
男は洋服姿で丸眼鏡をかけ、山高帽をかぶっている。足の間に立てたステッキに両手を乗せて揺られる姿や、その喋り方が少し威張っているみたいだ。
御者は馬を操りながら、ちらりと男を振り返った。
「へぇ、宿屋は宿屋ですけん。お祭りでも泊まれるぞなもし」
「それならよかった。せっかく祭りを見に行っても、泊まる所がなかったら洒落にならないからな」
男は風寄の祭りを見に来たらしい。男がどこの村の祭りを見るのか知らないが、名波村は北城町のすぐ北だ。もしかしたら名波村の祭りを見るのかなと千鶴が考えていると、御者が男に声をかけた。
「ほれにしても、旦那はついとらい」
「ついてる? どういうことだね?」
怪訝そうな男に御者は言った。
「ほんまは祭りは昨日からじゃったんよなもし。けんど、昨日は朝から大雨じゃったけん、予定が一日延びたんよ。ほんでなかったらこの馬車には乗れんかったぞな」
「どうしてだね?」
「あしらは風寄の人間じゃけんな。祭りの日は祭りに行かにゃなるまい」
「だったら、今日はどうしてこの馬車は動いとるんだね? 祭りは今日からなんだろ?」
「始まるんは今日の晩方からよ。まぁ、準備しよる者らは朝から動きよるけんど、あしらはぎりぎりまで商売しよるけんな。ほんでも、今日はこの馬車でおしまいぞな」
春子は見開いた目を千鶴に向けた。これを逃せば、あとの馬車はなかったわけだ。自分たちは何とついていたのかと、春子はこぼれんばかりの笑みを浮かべた。
そうなのかねと、山高帽の男が意外そうに言いながら安堵のいろを見せると、御者は楽しげに男に話しかけた。
「旦那はどっからおいでたんかな?」
「東京だ」
男は素っ気なく答えた。田舎者相手に気を張っているようだ。すると、東京かなと御者は驚いた声を出した。
「東京いうたら、先月、がいな地震に襲われたろ?」
「がいな?」
「物凄でっかい地震ぞな」
男はうなずくと、顔をしかめて言った。
「あぁ、あれは最悪だ。まるで地獄みたいな有様だったよ」
「新聞にもそげなことが書いとったぞな。まぁ、ほんでも旦那はご無事でよかったわい」
優しい言葉をかけられたからか、男の表情から先ほどまでの尖った感じが消えた。
「ありがとう。自分でも運がよかったと思ってるんだよ」
「ほんで、今はどがぁしんさっとるんかな?」
「僕はね、東京で教鞭を執ってたんだ。だけど東京は壊滅してしまったから、どうしたもんかと思ってたら高松に教職の空きがあるって聞いてね。それでこっちへ来たんだよ」
高松といえば、お隣の香川県だ。なのに愛媛の祭りを見物するとは、職を失った者には見えないと千鶴は思った。
「せんせ、実はね、あたしもあん時、東京におりましたんですよ」
二百三高地の女が男たちの話に交ざった。
先生と声をかけるところだけを見ると、女は男の知り合いに思えるが、どうやらそうではないらしい。
男は驚いた顔で女を見たが、すぐに照れ笑いをしながら話しかけた。
「あなたもあすこにいらしたんですか?」
女がうなずくと、男は同情するような顔になった。
「それは大変だったでしょうな。地震で建物は壊れるし、火事は起こるし、人が人ではおられぬ所でしたからな」
「確かに仰るとおりですわ。あたしもいっぺんはほとんど死によりましたけん。ほんでもお陰さまで、こがぁな元気な体にしていただきました」
「ほぉ、それはよかったですな。公然と人殺しが行われる所でしたから、そんな話を聞かせていただくとほっとしますよ」
当時を思い出したのか、女は顔を曇らせて言った。
「人というものは、あげな時にこそ、ほんとの姿を見せるものなんですねぇ。あたし、ほれを身を以て知りました」
「まことに仰せのとおりですな」
男は何度もうなずいた。
千鶴は東京を知らないが、二人のやり取りが聞いていると、大地震と大火事で廃墟と化した街が目に浮かぶ。
がれきの前で佇む人や、狂ったように泣き叫ぶ人。誰かを必死に捜しまわる人。所々から昇り続ける黒い煙。再び起こる地面の揺れに言葉を失う人々。些細なことで始まる諍い。
千鶴の家は山﨑機織という小さな伊予絣問屋を営んでいる。
絣は普段着の着物生地として人気がある反物だ。中でも伊予絣は安くて丈夫だと全国でも評判だった。
仕入れた伊予絣は松山市内の太物屋に届けられるが、東京や大阪にも出荷されており、遠くは東北の方まで送られているという。
そんな伊予絣問屋にとって、先月関東を襲った大地震は他人事ではなかった。東京へ送った絣のうち二十万反以上が灰になり、東京の取引先も甚大な被害を受けた。そのため多くの絣問屋が廃業に追い込まれていた。
また、東京へ絣を売り込みに出ていて地震に巻き込まれた者もいる。山﨑機織でも東京で店廻りをしていた手代が亡くなった。
今のところ山﨑機織は何とか廃業は避けられたものの、東京への出荷再開は目途が立っておらず、この先、商いがどうなるかはわからない。
春子は東京の話を聞いても、今ひとつぴんとこないらしい。しかし向こうの悲惨な状況や、山﨑機織にも及んだ被害を知っている千鶴は、地震の話に敏感になっている。
「姉やんは向こうの言葉と伊予言葉が混ざりよるな。姉やんはどこの生まれかな」
御者が二百三高地の女に訊ねると、さあねぇと女は惚けた顔で言った。
「生まれた所なんぞ忘れてしもたぞな。ほんでも昔、風寄におったことはあるんよ」
「ほぉ、どこぞに嫁入りしよったんかな」
女はくすくす笑いながら言った。
「あたしみたいな者、お嫁に欲しいて言うてくれるお人なんて、誰っちゃおらんわね」
「そんなことはないでしょう。あなたみたいにおきれいな方なら、嫁に望む者は掃いて捨てるほどいるはずだ」
山高帽の男が思わずという感じで言った。
女は驚いた様子で男を見ると、恥ずかしそうに微笑んだ。男も我に返ったのか、うろたえたように下を向いた。
春子は黙ったまま意味ありげな目を千鶴に向けた。その顔は今にも噴き出しそうだ。
しかし、千鶴は笑う気分にはなれなかった。老婆がずっと千鶴をにらみ続けている。せっかくの楽しい名波村行きが台無しだ。
千鶴は老婆から気持ちを逸らそうと、これまでのことを思い返した。
三
千鶴の家は松山だが、女子師範学校は松山から西へ一里と少し離れた三津ヶ浜という海の近くにある。その行き帰りを千鶴は毎日歩いていた。
千鶴が入学した時の女子師範学校は全寮制だった。そのため千鶴も寮に入っていた。
ところが千鶴が二年生の時に規則が変わり、実家が遠方でない者は、三年生からは自宅から通学することになった。だから千鶴は今は家から学校に通っているが、春子は実家が遠いので、四年生の現在も寮にいることが許されていた。
寮生活をしていると、毎日長い距離を通学しなくてもいいのは利点だ。逆にいえば、簡単には外へは出られない。それだけ寮の規則は厳しかった。
今回、春子が実家へ戻ることが許されたのは、故郷の村で秋祭りが行われるという特別な理由があるからだ。ただ、それでも平日であれば許可は出なかった。
当初の予定であれば、祭りは昨日が始まりだった。それが先ほど御者が言ったように、大雨のために開催が今日に延びた。それで授業がない今日の午後に寮を出て、明日の日曜日には戻って来るという約束で許可がもらえたのである。
日曜日に戻る時刻も初めは門限の五時と言われたが、遠方の祭りなので無理な話だ。春子は先生と交渉し、戻りの時間を消灯時間までにしてもらった。阿沼美神社の祭りの時も同じ条件で許可をもらっていたので、この交渉はむずかしくなかったようだ。
祭りの開催が土曜日に延期された話を春子が知ったのは、名波村の実家から学校にかかってきた電話だ。
電話などどこの家にもあるものではなく、千鶴の家にも電話はない。春子の父親は名波村の村長なので、村で唯一の電話を持っていた。
職員室へ呼び出された春子は、実家の電話に出ながら先生と祭りに行く交渉をした。それが昨日の夕方で、千鶴が大喜びの春子に誘われたのは今朝である。
祭りに招待されたのは嬉しいことだ。しかし、あまりにも急な話だった。授業が終わったら一緒に名波村へ行こうと言われても、よし行こうと返事ができるわけがなかった。何の準備もしていないし銭もない。何より家族の許可がなければ無理な話だ。
そもそも女は気軽に遠出などできないし、ましてや自分は働いてもいない女学生の身分だ。家族の許可をもらうのは、学生寮の許可をもらうよりもむずかしかった。
千鶴はこの話を断ろうとしたが、先に春子から千鶴を連れて帰ることを実家に伝えたと言われた。銭がないと話すと、千鶴の客馬車の分も自分が何とかすると春子は言った。
ここまで言われては簡単には断れない。仕方なく、千鶴は春子に家の許可がもらえない可能性が高いことを説明した。その上で万が一にも許可がもらえたら、客馬車の駅で待ち合わせるという約束をした。
けれども客馬車がいつ出発するのかはわからない。それで家の許可の如何に関わらず、客馬車の出発までに自分が現れなければ一人で行ってもらうと、春子には了承してもらった。とはいっても、そうなることは確実だと千鶴は考えていた。
午前の授業が終わると、千鶴は持参していた弁当も食べず、大急ぎで家路に就いた。いつもは歩く道をずっと小走りし続けた。
実は、千鶴は名波村には縁があった。
母が千鶴を身籠もった時、祖父と喧嘩をして家を飛び出し、しばらく名波村の寺で世話になったと聞いていた。とてもよくしてもらったと母が言っていたので、いつか機会があれば訪ねたいと密かに思っていた。
家が近づくにつれ、その望みは次第に期待へと変わっていった。だけど家に着いた頃には、やはりだめだろうと、膨らんでいた気持ちは再び小さくしぼんでいた。
山﨑機織の主は祖父だ。家の中でも祖父に一番の権限がある。その祖父は孫娘である千鶴を快く思っていなかった。
それに東京の大地震が起こったのは、つい一月前のことだ。向こうで多くの人が亡くなり、千鶴が知る手代も死んだ。店の被害もかなりのもので、店を潰すまいとみんなが懸命にがんばっている。そんな中で、他の土地の祭りに行きたいなど、自分で考えても不謹慎極まりないことだ。祖父の承諾を得るのは不可能に決まっていた。
絶対にだめだと思いながらも、祖父の前へ進み出た千鶴は、春子からの誘いと、こんな時期ではあるけれど、名波村へ行ってみたいという自分の気持ちを必死に伝えた。銭も春子が出してくれるということを説明し、家には迷惑をかけないと訴えた。
喋るだけ喋ると、千鶴は仏頂面の祖父の視線から逃れるべく下を向いた。自分が無茶なことを言っているのはわかっており、すぐに雷のごとき怒鳴り声が落ちるはずだった。
ところが、千鶴の心配は杞憂に終わった。どういうわけか、祖父はあっさりと千鶴の名波村行きを認めてくれた。しかも小遣いまで持たせてくれたのだ。一応小遣いの名目は、向こうへの土産代と客馬車の運賃ということだが、渡された銭はそれ以上あった。
千鶴は信じられない気持ちで頭を下げると、祖父から名波村行きの承諾とお金をもらったことを祖母に伝えた。
祖父同様に千鶴が気に入らない祖母は、驚きと困惑が入り交じった不機嫌な顔を見せた。しかし、夫が決めたことだから文句は言わなかった。
母は外で働いているので、母には急いで置き手紙を書き残してきた。
食べなかった弁当はこっそり丁稚たちにやった。食べ終わったあとの弁当箱は、祖母に見つからないように片づけといてと頼んでおいた。
途中で手土産の饅頭を買うと、千鶴は空きっ腹のまま小走りで、半里ほどある客馬車乗り場へ向かった。正直なところ、空腹と疲れでへとへとになっていた。それでも三津ヶ浜から電車で来た春子と合流した時には、嬉しさで最高の気分だった。
けれど今はその気分も鎮まった。じっとにらみ続ける老婆を見ていると、本当に自分は春子の家族に歓迎してもらえるのだろうかと、不安が募っている。
四
「兄やん、兄やん。ここで降ろしておくんなもし」
老婆が大声で御者に声をかけた。
馬車が止まり、御者席から御者が降りて来た。
客馬車には乗り場の駅がある。千鶴たちが乗ったのは、北の町外れにある木屋町口という駅だ。降りるのは終着駅の北城町だが、中間辺りにある堀江という村にも駅がある。ところが、老婆が降りようとしているのは堀江の駅に着く前だった。どうやら降りる時は好きな所で降ろしてもらえるらしい。
御者が乗降口を開けると、老婆は立ち上がって前に出た。その時に老婆がよろけたので、千鶴は思わず手を伸ばして老婆を支えた。すると老婆はその手を振り払い、嫌な目つきで千鶴をにらみつけると、ゆっくりと客車から降りた。
老婆から乗車賃を受け取ると、御者は持ち場に戻り、客馬車は再び動きだそうとした。その時、いつの間にか後ろから来た乗合自動車が、道を空けよと催促した。御者は舌打ちをすると、客馬車を左端に寄せた。
道幅が狭いので、乗合自動車はゆっくりと馬車の横を、いかにも邪魔そうに通って行った。乗合自動車の後ろの座席には、客が三人乗っていた。その姿はちらりとしか見えなかったが、三人とも裕福そうに見えた。
再び客馬車が、がたがたかっぽんかっぽんと動きだすと、後方を歩く老婆はすぐに小さくなっていった。一方で、前方を行く乗合自動車も次第に小さくなっていく。
もう千鶴の前に老婆はいない。しかし千鶴の胸には、老婆から向けられた憎悪が突き刺さったままだ。そんな千鶴の気持ちを知らないのか、あるいはわかっていながら気づかないふりをしているのか、春子は鼻息荒く喋った。
「何や感じ悪いな、あの乗合自動車。ほら確かに乗合自動車の方が速かろ。けんど、乗り心地が悪いんは対よ。ほれやのに運賃が一円十銭もするんで。ほれに比べて、馬車の方は三十六銭じゃろ? ほら絶対馬車の方がええわいね」
じゃろげ?――と同意を求められ、千鶴は少しだけ微笑んでみせた。
千鶴は乗合自動車どころか、客馬車も生まれて初めて乗ったのである。だから客馬車はお尻が痛くなるのがわかったけれど、乗合自動車の乗り心地なんてわからない。春子の話にはどうにも返事のしようがないし、どうでもいいことだった。
堀江の駅に着くと、客馬車はしばらく停まっていた。
近くには四国遍路の札所があるので、お遍路の姿がちらほら見える。それでも新たに客馬車に乗り込む客はいなかった。
風が止まると、きつい香りが漂ってくる。どうも匂い袋を忍ばせているのは二百三高地の女のようだ。千鶴は気になったが、春子や他の乗客たちは何とも感じていないみたいだ。千鶴は匂いを避けて顔を馬車の後ろへ向けた。
客馬車が再び動き始めると、千鶴はそのまま後ろへゆっくり遠ざかる景色を眺めた。匂いも嫌だが、他の乗客たちと目を合わせたくなかった。しかし後ろにも青い布が垂れ下がっており、体をかがめなければ見えるのは低い所にある道や田んぼばかりだ。
春子も最初のはしゃぎぶりは落ち着いて、今は静かに揺られている。鳥打帽の男は黙ったまま腕を組んでいるが、ちらりちらりと千鶴を盗み見するのは変わらない。
山高帽の男と二百三高地の女は、相変わらずお喋りを続けていた。そこへ御者が話に交じるので、客車は賑やかだった。
千鶴は聞くつもりはなかったが、勝手に耳に入ってくる話によれば、山高帽の男には気にかけている甥っ子がいるようだ。
昔、その甥っ子は東京で暮らしていたが、訳あって精神を病んでしまい、ずっと引き籠もっていたと男は言った。その甥っ子が気分を変えるために、何年か前にこちらへ移り住んだらしい。山高帽の男はその甥っ子の親代わりで、高松へ赴任となったのを幸いに、その甥っ子に会いに来たそうだ。
けれど昨夜は三津ヶ浜の宿に泊まったと男が言うので、どうして松山まで来て三津ヶ浜で宿を取るのかと、千鶴はぼんやり考えていた。
「もうじき海が見えるけん」
不意に春子の声が聞こえた。見ると、春子は青い布を持ち上げ、千鶴に海を見せようとしている。
千鶴も青い布を持ち上げて景色を眺めてみたが、なるほど左手の先の方に海が見えてきた。それだけでずいぶん遠くへ来た感じがする。
やがて馬車は海のすぐ脇を走り始めたが、海は穏やかで大きな波は見えない。時折、優しげな潮風が千鶴たちの脇を通って、客車の中をくぐり抜けて行く。日はかなり西に傾いているものの、空が赤く染まるにはまだ時間がありそうだ。
右手に山の崖が迫ってくると、御者が前を向きながら大きな声で喋った。話しかけている相手は乗客全員というより、山高帽の男と二百三高地の女の二人だろう。
「ここいらはな、粟井坂いうて、昔はこの右手の山を越える道しかなかったんよなもし。ほれが四、五十年前じゃったかの。あしが生まれるより前のことなけんど、この新しい道がでけたけん、こがいして馬車が走れるようになったんよ」
「へぇ、そうなのかね。この道を造るのは大変だったろうに」
山高帽の男が崖沿いに造られた道を眺めて感心すると、山道の方がよかったのにと二百三高地の女が言った。
「昔の道には昔の道のよさというか、味わいがあるじゃござんせんか。せんせは、ほうは思われませんか」
男はうろたえながらうなずいた。
「そ、そう言われてみれば、確かにそうですな。古いものには味わいがありますな」
「けんど、前の道のままじゃったら、この馬車は走れまい」
御者が反論すると、山高帽の男は女をかばった。
「だけど、眺めは高い所の方がいいんじゃないかな」
すると、女は手で口を隠しながらくすくす笑った。
「嫌だわ、せんせ。山道は周りが木だらけなんですよ。眺めなんかちっともよくありませんよ」
「あ、いや、それは……」
山高帽の男が顔を赤らめて口を噤むと、女はまた笑いながら言った。
「でもね、せんせ。ここの峠から見える景色は、今よりずっと見晴らしがいいんですよ」
「そ、そうなのかね。じゃあ、やっぱり山道の方がいいのかな」
「ほんでも馬車で走るんなら、やっぱしこっちの道の方がええぞなもし」
天邪鬼みたいな女だった。ああ言えばこう言うで山高帽の男は少し気落ちしていたが、女に微笑みかけられると子供のように笑みをこぼした。男は完全に遊ばれていた。
鳥打帽の男は下を向きながらくっくっと笑い、春子もまた噴き出しそうな顔を千鶴に向けて、必死に笑いを堪えている。けれど千鶴は山高帽の男が気の毒で、何も見聞きしていないふりをして海を眺めた。
五
粟井坂の山を過ぎると、広々とした平野に出た。ここからが風寄だと春子は言った。名波村はまだ先だが、春子はもう故郷へ戻ったみたいな顔をしている。
過ぎた山の麓には小さなお堂があって、杖と菅笠を持ったお遍路が手を合わせていた。春子が言うには、あれは大師堂で弘法大師を祀ったものらしい。
しばらく行くと街道沿いに町並みが現れた。ここが北城町かと訊ねると、北城町ではなく柳原だと春子は言った。
柳原には客馬車の駅はない。ところが鳥打帽の男は、ここで降りると言った。
男は客馬車を降りる時、ちらりと二百三高地の女を一瞥した。すると、女の方もじろりと男を見返した。千鶴には二人が目で何かを言い交わしたように見えたが、すぐに男がこちらへ目を向けたので、慌てて下を向いた。
男は御者に金を払うと、もう客馬車には目もくれないで、辺りをきょろきょろと見まわしている。その様子を千鶴が眺めていると、もうしと呼びかける声が聞こえた。
「もうし、そこにおいでる姉やん」
声の方に顔を向けると、二百三高地の女がにこにこしながら、こちらを見ている。春子も顔を上げたが、女の視線は千鶴に向けられていた。
また馬車が動き始めた。女は揺れながら千鶴に話しかけた。
「姉やんは、お国はどこぞなもし」
「松山です」
千鶴は小さな声で申し訳程度に返事をした。馬車の車輪の音が大きいので、女に聞こえたかどうかはわからない。
二百三高地の女は興味深げな目を向けながら、さらに話しかけてきた。
「こがい言うたら失礼なけんど、姉やんは異国の血ぃが入っておいでるん?」
千鶴は下を向いて答えなかった。見かねた春子が女に噛みつくように言った。
「ほれが何ぞあんたに関係あるんかなもし?」
春子ににらまれても、女はまったく動じずに答えた。
「別に関係はないけんど、昔、ほの姉やんによう似ぃたお人を見たことがあるもんで、ちいと聞いてみとなったぎりぞなもし。気ぃ悪したんなら謝ろわい」
「うちと似ぃた人がおいでるんですか?」
千鶴が思わず顔を上げると、女は機嫌よく言った。
「昔の話ぞな。ずうっと昔のね」
「ほのお人は、今はどこで何をしておいでるんですか?」
「さあねぇ。とんと昔のことじゃけん。ほんでも、まっこと白うてきれいなお人やったぞな。今の姉やんみたいにねぇ」
女は千鶴を見つめながら微笑んだ。
人からきれいだなんて言われたのは初めてだ。千鶴はちょっぴり嬉しい気がした。しかしこの女が天邪鬼であることを思い出し、嬉しく思ったのが悔しくなった。それに千鶴を眺める女の笑顔が、何だか品定めをしているようにも見えたので、また緊張が戻ってきた。
千鶴が黙り込むと、女は千鶴に飽きたのか、今度は御者に何かを話しかけた。
一方で山高帽の男は千鶴に興味を持ったようで、千鶴に何か言いたげに口をもごもごさせた。だが間に春子が座っているからか、結局は千鶴に話しかけることはなかった。
「そろそろ着くで」
少し体をかがめた春子が、御者の前方に見える景色を眺めながら言った。客馬車は海沿いの松並木の道を走っている。前方に町並みが近づいているが、あれが北城町らしい。
春子は青い布を持ち上げて、町の左手に見える島を指差した。
「ほら、あそこにお椀みたいな、まーるい島が見えろ? あれは鹿島いうてな、鹿が棲んどる島なんよ。あがぁな島に何十匹も鹿がおるんで」
へぇと言いながら千鶴は鹿島を眺めた。陸からすぐ近くに浮かぶその小さな島は、何だか妙に存在感があった。そのせいかはわからないが、千鶴は小さな胸騒ぎを覚えた。
「もうし、姉やん」
また二百三高地の女が、千鶴に声をかけてきた。
千鶴が黙って女を見ると、両手で何かを持ち上げる仕草をしながら女は言った。
「申し訳ないけんど、そっちの日よけ、もちぃと持たげておくれんかなもし」
怪訝に思いながらも、千鶴は言われたとおり自分の後ろの青い布を持ち上げてやった。すると、そこには赤く染まった夕日が浮かんでいた。
「うわぁ、きれいやわぁ」
女が歓声を上げた。女の声で春子は後ろを振り返り、山高帽の男も後ろの青い布を持ち上げた。二人は感嘆の声を上げると、夕日に見とれた。
夕日は見事に美しかった。茜色の空の中、横に棚引く雲の層が金色に輝き、海の上をこちらへ延びる光の帯が、きらきらと揺らめいている。これまでに千鶴が見た夕日の中で、一番美しい夕日かもしれなかった。
だが夕日を見ているうちに、何故か胸の底から深い悲しみが湧き出して来た。その悲しみが夕日の美しさに代わって、千鶴の目を夕日に釘づけにした。
客馬車が北城町に入ると、夕日が町並みに遮られ、千鶴はようやく前を向くことができた。胸の中では、まだ理由のない悲しみが暴れている。
こんな訳のわからない動揺を春子に気づかれたくはない。千鶴はちらりと春子を横目で見たが、春子は故郷に戻って来た感激でいっぱいらしい。前方に見える町の景色を嬉しそうに眺めている。
ほっとして春子から目を外すと、二百三高地の女と目が合った。女はにこにこと楽しげに千鶴を見ていた。
女に心の内をのぞかれたみたいな気がして、千鶴は下を向いた。
鹿島を通り過ぎて少し行くと、道が枡形になっている。客馬車はそこで止まった。ここが終点の北城町の駅だと春子が言った。
客車を降りた春子は背伸びをしながら、着いた!――と叫んだ。千鶴も腰を伸ばして辺りを見まわした。奇妙な悲しみはやっと落ち着いたが、代わりに見知らぬ土地への不安が顔を出している。祭りの準備をしているせいか、御幣が飾られた町は閑散として寂しげだ。
御者に運賃を支払うと、春子は喜び勇んで千鶴を名波村へ誘った。二百三高地の女は山高帽の男とまだ喋っていたが、千鶴が顔を向けると小さく手を振って何かを言った。声は聞こえなかったが、口の動きを見ると、またねと言ったみたいだ。また会いたいと思わない千鶴は、小さく会釈をしただけで、春子のあとについて行った。
春子の家は十町ほど歩いた所にあるそうだ。北城町を北へ抜けると川があった。川の向こうが名波村だと春子は言った。
夕闇が迫る橋の途中で、ほらと春子が海を指差した。千鶴が振り返ると、黒々とした鹿島の右手に、今にも沈みそうな真っ赤な夕日があった。その夕日の前を大きな船が黒々とした影となって横切って行く。
思わず息を呑んだ千鶴の中で、あの悲しみがさっきよりも強く湧き起こった。涙が勝手にあふれ出し、胸の中で誰かが泣き叫んでいる。
千鶴の様子に気づいていない春子が先を促した。しかし、千鶴はそこからしばらく動くことができなかった。
がんごめ
一
「ほうかな。おとっつぁんはロシアのお人なんかな」
割烹着を着た春子の祖母マツは、千鶴の話に大きくうなずいた。
薄暗くなった空間を、土間の竈と囲炉裏の火が暖かく照らしている。その囲炉裏を囲んで千鶴たちは喋っていた。
昼間はまだ暖かいが、日が翳るとすぐにひんやりした感じが染み出してくる。夕暮れ時の今、囲炉裏の火は本当に有り難かった。
土間にある台所では春子の母イネが、春子の兄嫁の信子と竈で飯を作りながら、千鶴たちの話を聞いている。二人とも忙しそうだし、マツも千鶴が来た時には土間で二人を手伝っていた。そんな春子の家族に千鶴の緊張は続いていた。
春子は女子師範学校に入学した時に、同級生にロシア人の親を持つ生徒がいることを家族に話していた。ところがこの日訪ねて来るのがその生徒だとは、うっかり伝えていなかったらしい。春子に家の中へ招き入れられた千鶴を見ると、マツたちはとても驚いた顔を見せた。その様子に千鶴は血の気が引いた。
けれどもマツもイネも驚いただけで嫌悪のいろは見せなかった。土産の饅頭を喜んで受け取り、千鶴を歓迎してくれた。
一方、信子は無口な嫁で、義母たちに遠慮しているのか、千鶴が挨拶をした時も黙って会釈をしただけだった。
本当のところ、千鶴にはマツたちの心の内がわからなかった。千鶴に嫌な顔を見せないのは、千鶴を親友だと言う春子を気遣ってのことかもしれないのだ。それで囲炉裏端へ上げられても、千鶴はずっと気を張り続けていた。
夕日を見た時の意味不明な感情も、いつまた込み上げてくるかわからない。さっきは何とか春子をごまかしたが、マツたちを前にしてあんなことになったら、絶対に気づかれてしまう。そのことも千鶴を緊張させた。
いずれにせよ、とにかくいい印象を持ってもらおうと、千鶴はできる限り丁寧な姿勢で喋ることを心掛けた。今のところはマツもイネも好意的に見える。二人とも村長の家族なのに、少しも威張った感じがなく温かい人柄のようだ。
ただ、信子は千鶴の話に交ざろうとせず、台所で黙々と手を動かしていた。その雰囲気が千鶴には少し冷たく感じられた。
「山﨑さんのおとっつぁんはロシアの兵隊さんでな。おっかさんはおとっつぁんが入院しよった病院の看護婦さんやったんよ」
周囲の様子に無頓着な春子が、千鶴について得意顔で説明した。
父親がロシア人だと言えば、日露戦争の捕虜兵だと誰でもわかるはずだ。だから春子の母も祖母もそのことに敢えて触れなかったのだと、千鶴は受け止めていた。
二人が父のことを訊かなかったのは千鶴への思いやりに見えるが、ただの当惑にも思える。いずれにしても、千鶴にすればあまり触れてほしくないところだ。それをわざわざ父親はロシアの兵隊だと、春子にはっきり告げられたので千鶴は戸惑った。
また、春子が喋った時に信子の動きが一瞬止まったのを、千鶴は見逃さなかった。やはり信子は千鶴がロシア兵の娘であることに、何らかのわだかまりがあるのだろう。
マツは春子の説明に、ほうかねともう一度うなずいたが、特別な変化は見せなかった。イネも何も言わなかった。無関心を装っているみたいな妙な雰囲気だ。
空気が読めないのか、春子は尚も千鶴の両親の話をしようとした。するとイネが振り返り、春子――とたしなめるように声をかけて首を横に振った。それでようやく春子は口を閉じたが、続く沈黙が重くのしかかる。千鶴の中で不安がぐるぐる回りだした。
「千鶴ちゃんも苦労したんじゃろね」
マツがぽつりと言った。
マツの言葉は千鶴の胸を打った。そんな言葉をかけてもらえるとは思いもしていなかった。返事をしようとすると涙が出そうになって、千鶴は言葉を返せなかった。
春子は千鶴の沈んだ様子にうろたえて、大丈夫かと千鶴に声をかけた。しかし、どうして千鶴が暗い顔になったのかは思い当たらないようだ。
マツは黙って囲炉裏に吊した土瓶を外すと、千鶴たちにお茶を淹れてくれた。
台所のイネは千鶴たちを振り返ると、部屋の隅にある棚に、昼に食べた残りのおはぎがあると言った。
「千鶴ちゃん、おはぎ食べるじゃろ?」
イネのにっこりした笑顔に、千鶴も何とか笑顔を返して、いただきますと言った。イネやマツに余計な気遣いをさせたくなかった。
千鶴の機嫌がよくなったと思ったのか、あるいはおはぎが嬉しかったのか。春子は元気よく立ち上がって、棚からおはぎの皿を運んで来た。
「信子さんも食べん?」
春子が声をかけると、信子は微笑みながら首を横に振った。
「お昼にたんといただきましたけん、ほれは春ちゃんたちで食べてつかぁさい」
ちらりと千鶴に目を向けた信子の顔から、すぐに笑みが消えた。
ほんじゃあと言って千鶴の隣に腰を下ろした春子は、二人の間に皿を置いた。皿の上には大きなおはぎが四つ載っている。あんこがたっぷりでとても美味しそうだ。
さっき千鶴がいただきますと言ったのは、礼儀として応じただけだ。しかし現物のおはぎを目の前に置かれると、昼を食べずに来たことを思い出して、急に空腹感に襲われた。
「今日はばたばたしよったけん、お昼もちょこちょこっと食べたぎりなんよ。ほじゃけん、ちょうどお腹が空きよったとこやし」
春子の言い草が千鶴を刺激した。自分は何も食べずに来たのに、村上さんはお昼を食べて来たんかと、千鶴は少しむっとした気分になった。
それでもお陰で不安な気持ちを忘れることができた。それにイネやマツの人柄で不安自体がだいぶ落ち着いたようだ。
二
「ほら、山﨑さん、遠慮せんで、お食べな」
春子に促され、千鶴はおはぎを手に取った。
これをいただけるのだからもう昼飯のことは忘れねばと思って、千鶴はおはぎを口元へ運んだ。すると、春子がおはぎを手に持ったまま言った。
「山﨑さんは、おとっつぁんの方の血ぃが濃いんよね」
おはぎを食べようと口を開けていた千鶴はぎくりとなった。
懲りない春子はまだ千鶴のことを説明したいらしい。千鶴に話しかけながら、その目はマツとイネに交互に向けられていた。
自分の容貌を話題にされるのは、千鶴は好きではなかった。どちらの親の血が濃いのかは、説明しなくても見ればわかるものである。マツもイネも困惑顔だ。
千鶴はちらりと春子を見たあと、口元に運んだ手を膝の上に降ろして言った。
「うちの肌が白いんとか、目ぇの辺りなんかは、父に似ぃとるそうです。けんど、鼻とか口元は母似です。髪の毛ぇとか目ぇの色が薄いんは、父親の血ぃでしょうけんど、色が茶色っぽいんは、母親の血ぃやと思とります」
千鶴は自分が少しでも日本人である母と似ていることを強調したかった。だが、それは肌が雪のように白く、ほとんどロシア人みたいな顔つきへの劣等感の裏返しだった。
マツもイネもうんうんとうなずくだけで、千鶴の顔についていろいろ言わなかった。千鶴は少しほっとしたが、また春子は楽しげに喋った。
「山﨑さんの背ぇが高いんは、おとっつぁんの血ぃやな」
確かに千鶴は他の生徒から比べても背は高い方だ。しかし、背が高いことは女子にとって自慢できることではない。
それでも春子は千鶴を援護しているつもりのようで、今度は千鶴の成績を褒め立てた。
「ばあやん、山﨑さんはな、成績優秀なんで。やけん、先生からの評判もええんよ」
「ちぃと村上さん。そげな嘘は言うたらいけん」
自分では成績が優秀だなどとは思ったことがない。もっと成績がいい生徒はいくらだっている。だが千鶴が文句を言っても、嘘やないでと春子は取り合わない。
「山﨑さん、試験ではいっつもかっつもおらよりええ点取るやんか」
「ほやけど、うちの点なんか大したことないし」
千鶴が言い返すと、イネが笑いながら口を挟んだ。
「問題は春子の点がなんぼかいうことじゃろな」
ほれはほうじゃとマツも笑った。千鶴も春子も釣られて笑った。背中を向けている信子の顔はわからない。
「ほれで、千鶴ちゃんのおとっつぁんは松山においでるんかな?」
笑いが収まると、マツが千鶴に訊たずねた。
「いえ、父はロシアにおります。あ、今はロシアやのうて、ソビエトれんぽうとかいう名前になったらしいですけんど」
「そべと?」
「ソビエトれんぽうです」
その国名をイネは言えたが、マツには言いにくいようだ。
「むずかしい名前じゃねぇ。けんど、お国が変わるいうたら大事ぞな。千鶴ちゃん、おとっつぁんとは手紙のやりとりしよるんかな?」
千鶴は、いいえと首を振った。
「母は父に家を教えんかったそうですし、父の住所も聞かんかったみたいです」
「へぇ、ほれはまた何でぞな?」
「ロシアの兵隊さんと一緒になれるわけないですけん。母は父とのことは思い出として、大切に胸に仕舞とこと思たそうです」
「ほんじゃあ、おとっつぁんは千鶴ちゃんが産まれたことも知らんままなんじゃねぇ」
イネが気の毒そうな顔をすると、マツは励ますように言った。
「ほんでも千鶴ちゃんにはおっかさんもおいでるし、お家の方もおいでるけん」
千鶴はうなずいた。だが胸の中は複雑だった。
「さてと、もちぃとゆっくり話を聞かせてもらいたいとこなけんど……」
マツは台所の二人を見ると、申し訳なさげに両膝をさすりながら言った。
「もうまぁ男衆が、だんじりの屋台こさえ終わる頃なけんな。戻んて来て食べるご飯をこさえとかにゃいけんのよ。いつもじゃったらあの二人に任せとくんやけんど、今日はおらもただ座っとるぎりにゃいかんけん」
続いてイネが、竈の火加減を確かめながら言った。
「ほん時に千鶴ちゃんも、みんなとご飯食べたらええよ。七時頃になったら神社の参道にここらの屋台が集まるけん、一緒に見に行こわいね。屋台の提灯に火ぃ灯すけん、きれいなで」
春子も母の言葉に合わせて言った。
「半鐘や太鼓をジャンジャンドンドン鳴らすけん、火事で騒ぎよるみたいに聞こえるんよ。ほれに屋台にいっぱい飾った笹が、提灯の明かりで照らされてな、遠目に見よったら、ほんまに火ぃ燃えよるみたいなで」
「千鶴ちゃんと春子はゆっくりしよったらええけん」
二人に声をかけると、マツは立ち上がって腰を伸ばした。すると春子が、自分たちも何か手伝おうかと申し出た。
千鶴はちょっとどきりとしたが、みんなが忙しい中でのんびり座ってはいられない。それに、自分に優しくしてくれたマツたちを手伝いたい気持ちはあった。
イネは土間の隅にあった菜っ葉を拾い上げると、千鶴たちに笑顔を見せて言った。
「近所の女子衆も家でこさえた物を持て来るけん、まぁ大丈夫いうたら大丈夫なけんど、手ぇ空いとんなら手伝てもらおかいね」
喜んでお手伝いします、と千鶴が言うと、イネとマツの顔に笑みが広がった。しかし、信子は背中を向けたままだ。
春子は家の奥に目を遣ると、ところでなと言った。
「ヨネばあやんはどがいしよるん?」
「部屋におるよ」
「たぶん寝とるな」
イネとマツは代わる代わる答えた。
春子は少しがっかりした声で言った。
「寝とるんか。山﨑さん紹介しよて思いよったのに」
「まぁ、声かけてみとうみ。起きとるかもしらんけん」
マツが言うと、春子はうなずいた。
「一応声かけてみよわい。手伝いはほのあとでも構ん?」
構ん構んとマツは言った。
「ほやけど、その前におはぎを食べておしまいや」
イネに言われると、春子はうなずき大きな口を開けた。その口におはぎが入る前に、千鶴は小声で訊ねた。
「村上さん、おばあちゃんが二人おるん?」
「ひぃばあやんよ」
口早に言うと、春子はおはぎにかぶりついた。
ひぃばあやんという言葉に千鶴は驚いた。千鶴には祖母はいるが、曾祖母はいない。千鶴の周辺でも曾祖母の話は聞いたことがなかった。祖父母の親の代の人間がまだ生きているなんて驚きで、まるで遠い昔から現代へ抜け出してきたような印象だ。
曾祖母というものに千鶴が感服している間に、春子は一つ目のおはぎを全部口の中に詰め込んでいた。
春子が甘い物に目がないのは、これまでの付き合いで千鶴も知っていた。それにしても、その勢いには困惑させられる。
春子は早く食べ終えて、母親たちの手伝いをするつもりなのだろう。だけど、まさかお客の自分がそんな食べ方をするわけにはいかない。とにかく急いで食べねばと千鶴が思っていると、マツが春子を注意した。
「ほらほら、そげな食い方しよったら喉に詰めてしまうぞな」
春子は大丈夫と言おうとしたようだが、突然動きを止めて目を白黒させた。心配したとおり喉に詰めたらしい。
千鶴は急いでお茶を春子に持たせた。ところがお茶はまだ熱かったので、春子は飲もうとしたが飲めなかった。そこへ信子が湯飲みに水を汲んでくれた。春子は急いで受け取ると、苦しげにしながら飲んだ。
「あぁ、助かった。ほんまに死ぬるかと思いよったで」
一息ついた春子が、お礼を述べながら湯飲みを信子に戻すと、信子はにっこりと笑顔を見せた。だが千鶴と目が合うと、すぐにその笑みを引っ込めた。
「気ぃつけなさいや。死んでしもたら、何のために学校へ行きよるんかわからんなるで」
イネに叱られ、春子は気まずそうに頭を掻いた。
台所に戻った信子は、何事もなかったように作業を再開した。しかし、その背中が千鶴に何かを言わんとしているみたいだ。
千鶴は何も気づかないふりをして、おはぎを小さくった。そうするよりほかなかった。
三
おはぎを食べ終わると、春子は千鶴を家の奥へ案内した。さすが村長の家だけあってとても広く、部屋をいくつか通り抜けると渡り廊下に出た。離れの部屋はその先らしい。
外はすっぽりと夕闇に包まれている。夕日はとっくに沈んだが、西の空は夕日の名残で茜色に染まっている。そのわずかな光で何とか周囲の様子は見て取れた。
塀に囲まれた敷地の中には大きな蔵がある。山﨑機織にも反物を仕舞っておく蔵があるが、こちらの蔵の方が遥かに大きい。中には何が入っているのだろう、と千鶴が考えているうちに離れの部屋に着いた。
「ヨネばあやん、山﨑さん見たら喜ぶで」
春子が千鶴を振り返って言った。
「なして喜ぶん?」
「山﨑さんは、おらが初めて家に連れて来た女子師範学校の友だちじゃけんな」
ロシア兵の娘だということで、千鶴は人から顔をしかめられることが多かった。
イネとマツは優しい応対をしてくれたが、信子は千鶴を快く思っていないように見える。だから春子の曾祖母がどんな顔を見せるのか千鶴は心配だった。しかし春子が絶対に大丈夫だと言うので、その言葉を信じることにした。本当に喜んでくれるなら、とても嬉しいことだ。
離れの部屋は障子が閉まっていた。これでは中の様子はわからない。
春子は廊下に膝を突いて座ると、中にいる曾祖母に障子越しに声をかけた。
「ヨネばあやん、春子やで。起きとる?」
声が聞こえないのか、中から返事はなかった。それでも春子が何度か大きめの声をかけると、ようやく嗄れた声が聞こえた。
「おぉ、春子か。音遠しぃのぉ。ほれ、そこ開けて中へお入り」
笑顔で千鶴を振り返った春子は、起きとる起きとると潜めた声で言った。
春子が障子を開けると、饐えた匂いが鼻を突いた。中はほとんど真っ暗でよく見えない。
「ヨネばあやん、今まで寝よったん?」
「ちぃと、うとうとしよったぎりなけんど、もう夜になってしもたかい」
闇の中から老婆が答えた。
「明かりつけたげるけんね」
春子は部屋の中へ入ると、ごそごそと何かを始めた。しばらくすると、ぼぉっと明るくなった。マッチに火を灯したらしい。
春子がつけた行灯の光で、部屋の中はほの明るく照らされた。部屋の真ん中には布団が一つ敷かれており、そこに老婆が横になっていた。この老婆がヨネという春子の曾祖母なのだろう。
部屋の隅には箪笥が一つぽつりと置かれているが、他には特にこれというものはない。
ヨネが藻掻くようにして体を起こそうとすると、春子は傍へ行ってヨネの体を支えてやった。
枯れ枝みたいなヨネは半身を起こすと、春子の手を取って嬉しそうに笑った。
「まっこと音遠しぃわいなぁ。もう、何年になるかいね。久し会えんけん、お前にゃ二度と会えまいかて思いよった」
「何言うんね。こないだのお盆にも戻んて来たろがね。忘れたん?」
「お盆? はて、ほうじゃったかいな」
「おら、盆と正月には必ず戻んて来とるんよ。もちぃとしたら、また正月やけん、ほん時にも戻んて来るんで」
ほうかほうかとヨネはにこにこしながら春子の手を撫でた。
その時、人の気配を感じたのか、ヨネはふと廊下の方へ顔を向けた。
「誰ぞがそこにおるな」
廊下で座って待っていた千鶴を、ヨネは震える手で指差した。
「おらの学校の友だちじゃ。お祭り見せよ思て誘たんよ」
春子は明るい声で説明した。ヨネは表情を緩めると笑顔を見せた。
「ほうかほうか。春子のお友だちか。ほれはええわいな。おら、もう目がよう見えんけん、失礼してしもたわい」
ヨネは千鶴に手招きすると、枕元をごそごそ探り始めた。
何を探しているのかと春子に訊かれたが、ヨネは黙ったまま枕元の布団の下に手を入れた。そこからヨネが取り出したのは、じゃらじゃら音がする巾着袋だった。音の正体は小銭だ。
ヨネは袋の小銭を全部布団の上に広げると、数を数え始めた。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……」
千鶴が傍へ来ても、ヨネは気がつかない様子で熱心に勘定し続けた。そうして一銭玉を十枚ずつ二列に並べたヨネは、その一方を集めて春子の手に持たせた。
「だんだん、ヨネばあやん!」
春子が大喜びすると、ヨネは楽しそうにひゃっひゃっと笑った。それから残りの十枚を両手で集めると、こっちのはお友だちにと言いながらヨネは顔を上げた。
目も口も小さく皺だらけの顔は、人懐こそうな笑みを浮かべていた。その笑顔は千鶴を見た途端に凍りつき、小さな目と口は大きく開かれた。
「が、がんごめ! がんごめじゃ!」
ヨネは悲鳴を上げ、千鶴から逃げ出した。その拍子に手に載せられていた小銭が、ばらばらっと辺りに散らばった。
「ヨネばあやん。何言いよん? この子はおらの友だちで」
驚き慌てた春子はヨネをなだめながら、改めて千鶴の説明をしようとした。だが、もはやヨネの耳には春子の言葉は届かなかった。
ヨネは春子の手を振り払い、狂ったかのごとく這い逃げた。しかし足腰が弱っているのか、あまり動けないらしい。少し這った所で千鶴を振り返ると、興奮した声で叫んだ。
「誰ぞ! 誰ぞ、おらんのか! マツ! マツはどこじゃ! がんごめじゃ! がんごめが来とるぞ!」
千鶴は困惑していた。
がんごめという言葉の意味は、千鶴にはわからない。それでもヨネが千鶴を拒絶しているのは明らかだ。理由は千鶴の顔が他の日本人とは異なるからに違いない。
「ヨネばあやん、好ぇ加減にしぃや! おらの友だちに失礼じゃろがね!」
さすがの春子も口調が荒くなった。対してヨネも負けじと言い返した。
「何が友だちじゃ! 春子、お前は騙されとるんじゃ。こいつは、がんごめぞ。化け物なんぞ! 誰ぞ! 誰ぞ、おらんか!」
――化け物……。
その言葉はこれまで千鶴に向けられたどんな悪い言葉より、千鶴の心を深く傷つけた。それは千鶴の人間としての尊厳を完全に否定するものだった。
ヨネは近くに転がった枕をつかむと、千鶴に投げつけた。枕は千鶴の体に当たってぽとりと落ちた。続けて空っぽの巾着袋さえも投げつけると、ヨネはさらに這って逃げ、箪笥の陰でがたがた震えた。
「ごめんよ、山﨑さん。ヨネばあやん、惚けとるんよ」
春子はおろおろしながら千鶴を振り返った。
そこへ騒ぎを聞きつけたイネがやって来た。どしたんね?――と言うイネの声が耳に入ると、千鶴は反射的に逃げ出した。
「山﨑さん!」
後ろで春子が叫んだ。しかし千鶴は立ち止まらず、渡り廊下を来たイネの脇をすり抜けて土間へ向かった。台所にいたマツと信子が驚いた顔で見ていたが、千鶴は二人を振り返りもせず、そのまま外へ飛び出した。
大きな提灯が飾られた長屋門から表に出ると、薄闇の中を大勢の人影がやって来るのが見えた。顔や姿はまったくわからないが、その雰囲気と喋り声は戻って来た男衆に違いなかった。
千鶴は男衆を避けて別の道を走った。向かう方角なんてわからない。とにかく、この場から誰もいない所へ逃げたかった。
四
どのくらい走ったのだろう。千鶴は息が切れるのも忘れ、消えてしまいたい一心で走っていた。気がつけば、右手に山裾が迫る道にいた。左手に生い茂る樹木の向こうから、川のせせらぐ音が聞こえてくる。その川音に合わせるかのごとく、あちこちで秋の虫が鳴いている。
頭上に広がる天のほとんどは星空に埋め尽くされているが、空の下方にはわずかに明るさが残っている所があった。その少し上に細い月が申し訳なさげに浮かんでいる。あちらが西だとすると、どうやら東へ向いて走って来たらしい。
西空の明かりを頼りに、辺りの様子が何とかわかる。けれども川の岸辺に茂る木々がその微かな光を遮るので、千鶴がいる道はほとんど真っ暗だ。勢いで入り込んだものの、さすがにそのまま走ることはできなかった。
木々の間から川の向こうを見てみると、狭い所に田畑があり、その奥には丘陵がある。そこは光が届かず、黒々とした闇が塗りつけられている。
辺りに民家は一軒もなく、人気もまったくない。誰もいない所を求めたはずだったが、千鶴は次第に心細くなってきた。それでも化け物と罵るヨネの声が頭の中で繰り返されると、悲しさが込み上げる。
千鶴はその場にうずくまって泣いた、だが、すぐに後ろの方に何かの気配を感じて泣くのをやめた。
しゃがんだまま後ろを振り返った千鶴は、気配を感じた辺りをじっと見つめた。しかし闇に埋もれた道はよく見えない。目を凝らしても何も動く物はなさそうだし、川音と虫の音以外は何も聞こえない。
闇は濃さが増したみたいで、千鶴は今度こそ本当に不安になってきた。こんな所にいつまでもいるわけにはいかないが、さりとて行く当てなどどこにもなかった。
もう春子の家には戻れない。きっと他の者たちも、本当は春子の曾祖母と同じ目で見ていたのだろう。そう思うと、風寄だけでなく世の中のすべての人から、化け物と見られている気がして、千鶴はまた泣きたくなった。
突然頭上で、がぁと大きな声が聞こえた。驚いて見上げると、道の上に大きく突き出した木の枝に、カラスが一羽留まっていた。
腹が立って思わず立ち上がると、カラスはバサバサと羽音を立てて飛んで行った。
「どがいしよう?」
不安な気持ちに戻った千鶴が小さくつぶやいた時、ガサガサと音が聞こえた。近くに何かがいる。びくりとしたあと、千鶴はじっとしたまま音が聞こえた方に目を凝らした。それはさっき気配を感じたのとは真逆の方角、つまり道の前方だ。けれども、やはり暗闇でよくわからない。
しばらくじっと闇を見ていると、動物の荒い鼻息らしき音が聞こえた。闇の中を、闇よりも黒い大きな影が動いている。千鶴の全身の毛が逆立った。
影の大きさから見ると、相手はかなり大きな獣だ。何の獣かはわからないが、これは明らかに危険な状態である。
千鶴は気づかれないように、そろりそろりと後ずさりした。ところが気をつけていたつもりなのに、草履が踏んだ小石がじゃりっと鳴った。
もぞもぞ動いていた影がぴくりと動きを止めた。気づかれたらしい。万事休すだ。
千鶴は迷った。このまま後ずさりで逃げるか、相手に背中を向けて駆け出すか。ただ、駆け出したところで向こうの方が速いだろう。どうしたところで逃げられないに決まっている。
ここはじっとしながら様子を見るしかなさそうだと千鶴は思った。こちらに敵意がないのがわかれば、興味を失って向こうへ行ってくれるかもしれない。
黒い塊にしか見えない相手とにらめっこをしていると、カッカッという音が聞こえてきた。何だろう。不気味な音だ。
続けて、ザッザッという音。脚で土をかいている音のように聞こえる。
――これはイノシシ?
何だか、イノシシみたいな気がしてきた。しかし、千鶴は本物のイノシシは見たことがない。
千鶴の祖父は絣問屋仲間と山へイノシシを撃ちに行くことがある。仕留めた時には、祖父は家族の前で両腕を広げて獲物の大きさを自慢したものだ。だが目の前にいる黒い影はそんなものではない。これがイノシシだとすれば尋常ではない大きさだ。これこそ本当の化け物だ。
暗闇の中なので、相手の状態はよくわからない。ただ人を憎悪する気のようなものが、ひしひしと伝わってくる。相手には千鶴を見逃す気はないらしい。
――来る!
そう思った刹那、黒い影は勢いよく千鶴の方に突進して来た。
あっという間に、黒い影は千鶴の近くまで迫った。恐怖にすくんだ千鶴は頭の中が真っ白になり、ふっと意識が遠のいた。ゆっくりと体が倒れていくのを感じながら、頭にぼんやり浮かんだのは、もうだめだというあきらめだ。
次の瞬間、衝撃が千鶴を襲うはずだった。それなのに千鶴の体は宙に浮かんだまま、何の衝撃も伝わってこない。
ちらりと獣の臭いがして少し体が揺れたが痛みはない。代わりに何だか懐かしい温もりに包まれて、とても心地がよい。もう自分は死んだのだろうかと、安らぎを覚えながら千鶴は思った。しかし、そのあとすぐに何もわからなくなった。
飾られた花
一
愛らしい野菊の花が一面に咲いている。
後ろに束ねた千鶴の髪が、時折そよぐ風に揺れる。すると、花たちも嬉しそうに左右に首を振る。まるで千鶴に話しかけているみたいだ。
千鶴はこの花が好きだった。しゃがんで花を眺めていると、背後で千鶴を呼ぶ声が聞こえた。振り向こうとすると、後ろから伸びて来た手が、そっと優しく千鶴の頭を押さえた。その手は摘んだ野菊の花を千鶴の髪に挿してくれた。
立ち上がって振り返ると、そこに若い侍が立っていた。
逆光になっているせいか顔はよくわからない。それでも若侍が自分と親しい仲なのはわかっている。若侍から漂う懐かしく温かい雰囲気が、千鶴を抱くように包み込む。
若侍は千鶴を眺めながら満足げに言った。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
この上なく幸せな気持ちで胸はいっぱいだ。このまま時が止まることを千鶴は願った。だが次の瞬間、誰かが千鶴の体を強く揺らした。
「山﨑さん、しっかりしぃや! 山﨑さん!」
千鶴は肩を揺らされていた。目を開けると、若い娘が泣きそうな顔で、千鶴の顔をのぞき込んでいる。
「気ぃついたんじゃね。よかった! 山﨑さんにもしものことがあったら、おら、どがいしよかて思いよった」
千鶴が体を起こすと、若い娘は千鶴に抱きついて泣いた。
意識が急速に現実に焦点を合わせ、千鶴は泣いている若い娘が春子だと思い出した。どうやら、さっき見ていたのは夢らしい。夢ではなかったみたいな気がしているけれど、やっぱり夢なのか。
それでも千鶴は夢から引き戻されたことに、腹立たしさを覚えていた。自分とあの若侍は本当に惚れ合っていたのだ。あのまま若侍とずっと一緒にいたかったのに、それを起こされたのである。せっかくの幸せな気分が台無しだ。
けれど目覚めてしまったものは仕方がない。どんなに幸せでも夢の話だ。あきらめるしかない。
辺りを見まわすと、そこは部屋の中で、千鶴がいるのは布団の上だった。春子の後ろには、年老いた坊さまと老婦人が座っている。
「ここは……どこぞなもし?」
訊ねる千鶴に、坊さまは微笑みながら言った。
「ここは法生寺という寺でな。わしは知念じゃ。隣におるんは、わしの女房の安子ぞな」
「ほうしょうじ?」
聞いたことがある名前だと思ったあと、千鶴ははっとなった。
「法生寺て、うちのお母さんがお世話になったお寺?」
そう言ってから、千鶴は慌てて自分と母の名を告げた。母が世話になった寺の名を、法生寺だと聞いていた。
知念和尚は、わかっとるぞなとうなずいた。
「千鶴ちゃんが幸子さんの娘さんじゃいうんは、春ちゃんから話を聞いてすぐにわかった。お母さんは元気にしておいでるかな?」
安堵した千鶴は、母は今でも和尚夫婦に感謝していると伝えた。
和尚たちは嬉しそうにうなずき合い、安子は感慨深げに言った。
「あん時、幸子さんのお腹ん中におった子が、こげなきれいで立派な娘さんに育ったやなんてなぁ……。ほれにしても、千鶴ちゃんが目ぇ覚ましてくれてよかった。今な、お医者呼ぼかて言いよったとこなんよ」
安子に褒めてもらった千鶴は、気恥ずかしくて下を向いた。しかし、すぐに我に返ると顔を上げた。
「うち、いったい――」
自分に何があったのかと、千鶴は訊ねようとした。だが、その前に春子が待ちかねた様子で言った。
「おら、山﨑さんのこと探しよったんよ。けんど、どこ探してもおらんけん、もしや思てここ来てみたら、表で倒れよった言われてな……。ほっとしたけんど、ほんまに心配したんで」
春子の言葉に千鶴は当惑した。
「ちぃと待ってや。うちがどこで倒れよったて?」
倒れた覚えなどないし、この寺がどこにあるのかも知らないのだ。うろたえる千鶴に、山﨑さんはここで倒れよったんよと、春子はもう一度言った。
千鶴が驚いていると、知念和尚が説明した。
「ちょうどわしと安子が、幸子さんは今頃どがぁしておいでようか、お腹におった子も大きなっとらいなぁ、と話しよった時のことぞな。いきなしどんどんどんと玄関の戸を叩く奴がおってな。誰じゃろ思て出てみたら、千鶴ちゃんがそこに倒れよったんよ」
「倒れよったいうよりは、寝かされよったいうんが正しいぞな」
安子が和尚の言葉を訂正した。
安子によれば、千鶴は髪も着物も乱れないまま、真っ直ぐ仰向けに寝かされていたらしい。履いていたはずの草履は、千鶴の脇にきちんと並べられてあったそうだ。
「じゃあ、誰ぞがうちをここまで運んだいうこと?」
千鶴が三人の顔を順番に見ると、みんな困惑のいろを浮かべた。
和尚と安子は顔を見交わすと、少し戸惑いながら言った。
「千鶴ちゃんが自分でここへ来たんやないんなら、ほういうことになるんかの。ほんでも、誰が千鶴ちゃんをここへ運んだんかは、わしらにもわからんぞな」
「千鶴ちゃんに何があったんかも、うちらにはわからんのよ」
春子は焦った顔で千鶴に訊ねた。
「山﨑さん、おらの家飛び出したあと、何があったん?」
千鶴はきょとんとなった。春子が何を言っているのか、千鶴にはわからなかった。
「うち、村上さんの家におったん?」
春子の顔が引きつった。
「山﨑さん、大丈夫なん? どっかで頭ぶつけたんやないん?」
「千鶴ちゃん、春ちゃんに誘われて、名波村のお祭り見においでたんじゃろ?」
安子に言われると、そんな気がしたが、今一つはっきりと思い出せない。何だか頭の中に靄がかかったみたいな感じだ。
何とか思い出そうと、何気なく右手で頭を押さえると、指先に何か柔らかい物が触れた。何だろうと手に取って見ると、それは野菊の花だった。
二
「あれ? 何これ? なして、こげな物がうちの頭にあるん?」
頭にあった野菊の花を見て千鶴は驚いた。でもすぐにさっき見た夢を思い出し、これは夢の続きなのかと訝った。
「そのお花、千鶴ちゃん、自分で飾ったんやないん?」
訊ねる安子に首を振りながら、千鶴はみんなの顔を見まわした。これはまだ夢の中で、自分は本当は目を覚ましていないのかもしれないと疑っていた。
「あん時は、山﨑さん、花なんぞ飾っとる場合やなかったけん、おら、和尚さんらが挿してやったんかて思いよった」
春子は千鶴が持つ花を見ながら不思議そうに言った。
「気ぃ失うて倒れよる千鶴ちゃんに、花飾ったりするかいな。その花は初めから千鶴ちゃんの頭に飾ってあったんよ」
知念和尚が言うと、安子もうなずいた。
結局、誰が千鶴の頭に花を飾ったのかはわからない。恐らく玄関を叩いて千鶴がいることを知らせた者に違いないが、それが誰で、どういうつもりでこんなことをしたのかと、謎は深まるばかりだ。
「村上さん、あん時て?」
千鶴が訊ねると、春子は少し困った顔で言った。
「あのな、言いにくいことなけんど、おらん所のひぃばあやんがな、山﨑さんを傷つけること言うてしもたんよ」
「ほうなん?」
「ほんでな、山﨑さん、おらの家飛び出して行方知れずになっとったんよ」
千鶴には春子が言うような記憶がない。訳のわからないこの状況は、やはり夢なのかと考えていると、知念和尚が心配そうに千鶴の顔をのぞきこんだ。
「千鶴ちゃん、何も思い出せんか」
妙な気分のまま、千鶴は何でもいいから思い出そうとしてみた。すると、春子と一緒に客馬車に乗っていたみたいな気がした。
「何か、客馬車に乗りよったんは思い出したんですけんど、そのあとのことは何も……」
「どがいしましょ。やっぱしお医者を呼んだ方が――」
心配する安子の言葉を遮って和尚は言った。
「いや、医者を呼んだとこで、千鶴ちゃんの記憶が戻るとは思えんな。別に具合が悪ないんなら、このまま様子を見よっても構んかろ」
そうはいっても、春子は不安げだ。千鶴の頭を触りながら傷がないかを確かめた。
「山﨑さん、どっか痛い所ないん?」
千鶴は大丈夫ぞなと言って笑ってみせた。
「どこっちゃ具合悪い所はないんよ。ただ、頭ん中がすっきりせんぎりぞな」
「ほれを具合悪いいうんやないん?」
「ほうなんか」
千鶴は苦笑した。
確かに頭がすっきりしないのは、尋常とはいえないのかもしれない。しかしこれが夢なら、すっきりしなくても不思議ではない。
「ほれにしても、千鶴ちゃんの頭にあったそのお花、誰が飾りんさったんじゃろねぇ」
安子が思い出したように言うと、知念和尚もうなずいた。
「ほうじゃほうじゃ。その花は千鶴ちゃんに起こったことと絶対関係あらい」
「ほれに、千鶴ちゃんをここまで運んだんが、誰かいうんも問題ぞなもし。このお花もそのお人が飾ったに違いないわね」
「さらにいうたら、なしてその人物が千鶴ちゃんをここへ運んだんかやな」
「ほれと、千鶴ちゃんを運んでおきながら、何も言わいで去ぬるいうんも気になりますわいねぇ」
和尚夫婦のやり取りを聞いていた春子が、自信なさげに言った。
「何とのうやけんど、おら、誰かが山﨑さんを慰めるためにその花飾った気ぃがする」
「うちを慰める?」
千鶴は春子を見た。
「ほれはどがぁなことかな?」
知念和尚が訊ねると、春子はしょんぼりしながら説明した。
「山﨑さんが何も思い出せんのは、ほれが山﨑さんにとって嫌なことやけんと思うんよ」
「嫌なことじゃったら、これまで何べんもあったけんど、忘れたことはないで。逆に忘れとうても忘れられんもん」
千鶴の言葉に、ほれはほうなんやけんど――と春子は言った。
「確かに嫌なことは忘れるもんやないよ。ほやけんな、誰ぞがほれを忘れさすために、山﨑さんの記憶を失さしたんやないかて、何とのう思たんよ」
「誰ぞて、誰?」
「ほれはわからん。けんど、たぶんその誰かが山﨑さんをここまで連れて来て、山﨑さんを慰めるために花を飾ってくれたんよ」
なるほどなるほどと和尚はうなずいた。
「春ちゃんの言うことには一理あるな。ただ、そげなことができるんは人間やないな」
「人間やないんなら、狸じゃろか?」
ふざけているみたいにも聞こえるが、春子は大真面目だ。それに対して、知念和尚も真顔で応じた。
「狸には千鶴ちゃんをこの寺へ運ぶ理由がなかろ? つまり、これは狐狸妖怪の類いの仕業やないな」
「じゃったら、誰が……」
春子は真剣な顔で考え込んでいる。一方で、千鶴の頭には若侍の姿が浮かんでいた。
さっきの夢の中で、あの若侍は千鶴に野菊の花を飾ってくれた。そして目覚めた時に、同じ花が同じ場所に飾られていたのである。素直に考えれば、千鶴に花を飾ってくれたのはあの若侍だ。
だが若侍は夢の中の人物だ。夢の人物が現実に出て来るなど有り得ない。しかし、まだ自分が夢の中にいるのなら、若侍が飾ってくれた花が頭に残っていても妙ではない。和尚たちが事情を知らないだけだ。
「わかったぞな!」
突然、安子が叫んだ。
「何がわかったんぞ?」
訝しげな和尚に、お不動さまぞなもしと安子は言った。
「お不動さまはうちの御本尊さまやし、幸子さんがここで暮らしよった時、幸子さんのお腹には千鶴ちゃんがおったじゃろ? ほじゃけん、お不動さまは千鶴ちゃんのこともご存知のはずぞな」
なるほど!――和尚は興奮した様子で膝を叩いた。
「お不動さまなら姿消したんも説明つこう! 安子、さすがはわしの女房じゃ。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまに違いない!」
和尚は手を合わせると、目を閉じて念仏を唱えた。
春子もこの意見には納得したらしい。安子と一緒に目を瞑って手を合わせている。
三
「あのぅ……」
花は若侍が挿してくれたものだと千鶴は話そうとした。しかし和尚たちの視線が集まると、何だか気恥ずかしくなった。
「これは、まだ夢の続きなんかなもし?」
遠慮がちな千鶴の言葉に、みんなはきょとんとしている。
「夢の続きて?」
春子に訊かれて、千鶴は少しうろたえた。
「いや、ほやけんな、うちはまだ夢ん中におるんじゃろかて訊いとるんよ」
春子は千鶴に自分の頬を抓ってみるように言った。頬を抓った千鶴は、痛っ!――と声を上げた。
「どがいね? まだ夢見よるみたいな感じする?」
心配そうに訊ねる春子に、千鶴は首を振った。
「千鶴ちゃん、大丈夫か? まだ頭が妙な感じがするんか?」
「お医者を呼ぶ?」
和尚夫婦が戸惑い気味に言った。千鶴は大丈夫ぞなもしと言いながら、そっと右手で左手を抓ってみた。やはり痛い。ということは、これは夢ではなく現実か。だとすると、この頭に飾られた花は何なのかと、少し怖いような驚きが千鶴の中で膨らんだ。
「ところで山﨑さん、何の夢見よったん?」
春子に唐突に訊ねられ、千鶴はうろたえた。
「何の夢て?」
「さっき、夢の続きかて言うたじゃろ?」
「あれは、夢見よった気ぃがしたぎりで、何ちゃ覚えとらんけん」
千鶴は笑ってごまかした。
若侍の夢の話はできなかった。そんな話をすれば、またみんなが不思議がり、話がややこしくなる気がした。とはいえ、お不動さまがやったという話には、千鶴は合点がいかなかった。
どこかで倒れていた自分を、ここまで運んで来てくれただけなら納得できる。だけど、お不動さまが花を飾るなんて妙な話だ。怖い姿のお不動さまに似つかわしくない。
今が夢ではなく現実だとしても、花を飾ってくれたのはあの若侍だと千鶴は思っていた。ただ、夢の中の人物がどうやって現実に花を飾るのかはさっぱりわからなかった。
「まぁ、お不動さまが千鶴ちゃんを助けてくんさったにしても、千鶴ちゃんに何があったんじゃろな?」
知念和尚が腕組みをしながら言うと、安子もうなずいた。
「ほうですわいねぇ。お不動さまが助けんといけんようなことが、千鶴ちゃんに起こったんやけんねぇ」
千鶴が無事であったことはともかく、何か危険な目に遭ったのだとすれば、それは千鶴を傷つけた春子の曾祖母の責任だ。言い換えれば、千鶴を風寄に招いて曾祖母に引き合わせた春子の責任になる。
春子がしょんぼりしているのに気づいた和尚夫婦は、互いに目を見交わして言った。
「ほうはいうても、千鶴ちゃんが無事じゃったんやけん、何があったんかはええことにしよわい」
「ほうよほうよ。何があったやなんて、考えたとこでわかるはずないけんね。ほれより、千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるてわかったことの方が肝心ぞなもし」
なぁと安子が春子に微笑みかけると、顔を上げた春子は寂しげな笑みを返した。
「ところで千鶴ちゃんは、今晩は春ちゃん所でお世話になるん?」
突然安子に訊ねられ、千鶴は少しうろたえた。
何も覚えていないのだが、自分が春子の家を飛び出した経緯を考えると、春子の家に泊めてもらうことには気が引ける。かといって、ここに泊めてもらいたいとは言えない。そんなことを言えば、春子が悲しむのは目に見えている。
千鶴が言葉を濁していると、ここに泊めてもらいやと春子が言った。
「よう考えたら、今日はお祭りやけんな。うちには酔うた男衆がようけ集まるけん、うちに泊まるんはやめといた方がええ。泊まったら、山﨑さん、絶対夜這いかけられるで」
「夜這い? うちに?」
自分みたいな醜い女に手を出そうとする男がいるなど、千鶴には考えられなかった。だけど春子は真顔だ。
「山﨑さんは美人じゃけんな。色目で見る男はなんぼでもおらい。ほやけん、今晩はここで泊めてもろた方がええぞな」
「何言いよんよ。うちなんぞ、ちっとも美人やないし」
千鶴は春子の言い草が面白くなかった。お世辞にしたって、もう少し気の利いたことを言うべきだ。千鶴が口を尖らせると、安子と和尚が言った。
「うちも千鶴ちゃんは別嬪さんや思うぞな」
「わしもそがぁ思う。ほじゃけん、酔っ払うたトラがうじゃうじゃおる所にはおらん方がええ」
ここへ泊まっていかんかなと和尚は言った。
千鶴は嬉しかった。けれども、そうしますとは簡単には言えない。千鶴が遠慮して黙っていると安子が言った。
「ね、ここにお泊まんなさいな。そがぁしてもらえたら、うちらも嬉しいけん」
千鶴がようやく素直にうなずくと、和尚夫婦は喜んだ。春子は黙って微笑んでいたが、ちょっぴり寂しげでもあった。すると、安子が春子に言った。
「春ちゃん。あんたもここに泊まるじゃろ?」
「え? おらも?」
和尚が当然という顔で言った。
「千鶴ちゃんぎり、ここに泊まるわけにもいくまい。春ちゃんも一緒に泊まるんが筋じゃろがな。ほれに酔うたトラが危ないんは、春ちゃんかて対ぞな」
和尚たちの思いがけない言葉に、春子は戸惑いを見せた。千鶴は春子の手を取ると、一緒に泊まってほしいと言った。
「ほやけど、おら……」
春子は少しだけ躊躇したあと、わかったわいと笑顔でうなずいた。
「ほんじゃあ、おらもお世話になるぞなもし。和尚さん、安子さん、どんぞ、よろしゅう頼んます」
春子がぺこりと頭を下げると、千鶴も春子に倣い、よろしゅうお願いしますと和尚夫婦に改めて頭を下げた。
安子とにっこりうなずき合うと、和尚は千鶴たちに言った。
「もうちぃとしたら神社の前にだんじりが集まるけん、二人で見ておいでたらええぞな」
千鶴たちがうなずくと、安子が言った。
「春ちゃん、ここへ泊まることお母さんに言うて来んとね。お夕飯は向こうで食べておいでる?」
春子は千鶴を見た。千鶴は迷ったが、春子の家を訪ねたのであれば、このまま顔を出さないのは失礼になる。
「そがぁさせてもらいますぞなもし」
千鶴が答えると、春子は嬉しそうに笑った。
四
外へ出ると真っ暗だった。安子は提灯に火を灯すと、千鶴たちに持たせた。
「お不動さまにお礼言うてから行こか」
春子が千鶴に声をかけると、和尚も安子も、ほれがええぞなと言った。
千鶴は法生寺は初めてなので、どこにお不動さまが祀られているのかわからない。春子の後ろについて行くと、暗闇の中に大きな建物があった。本堂だ。その脇には一本の巨木がそびえ立っている。その大きさから見ると、かなり古い木のようだ。
知念和尚はその木を見ながら得意げに言った。
「この楠はでかかろ。聞いた話じゃ樹齢二百年以上になるらしいぞな」
「へぇ、そがぁに古い木なんですか。ほんじゃあ、ずっと昔からこの辺りのことを見よったんじゃろなぁ」
千鶴は巨木を見上げながら近づいて行った。夜空を背景にそびえるその巨木は、まるで大入道だ。
巨木を見上げているうちに、千鶴は突然はっとなった。以前にこんな風に目の前に本物の大入道がいたような気がしたのだが、胸が締めつけられてとても切ない。
もちろん大入道なんか見たことはないし、大入道に切なさを感じる理由がわからない。知らない間に法正寺に寝かされていたり、夢の若侍が頭に飾ってくれた花が本当にあったりと、奇妙なことが続くので千鶴は気味が悪くなった。
「山﨑さん、お不動さまにお礼言わんと」
春子に声をかけられて我に返った千鶴は、巨木を離れて本堂へ移動した。すると、本堂は扉が開かれたままで、知念和尚はありゃりゃと言った。
「妙じゃなぁ。ちゃんと閉めたはずなんやが」
首を傾げる知念和尚に、ほじゃけんねと安子が言った。
「千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまじゃて言うたじゃろ? ここが開いとるんが何よりの証ぞな」
和尚は見開いた目で安子を見て、同じ顔のまま本堂を見た。
「なるほど、確かにお前の言うとおりぞな。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、間違いのうお不動さまぞな」
知念和尚は本堂の不動明王に向かって、改めて手を合わせた。隣で安子も明王を拝んでいる。二人の話を聞いていた春子も、ここのお不動さまは本物だと、感激した声で千鶴に言った。
春子はお不動さまが生きていると思っているのか、失礼しますぞなもしと言いながら、怖々本堂に足を踏み入れた。
本堂の中は真っ暗で何も見えない。春子が提灯を掲げると、闇の中に不動明王の姿が浮かび上がり、うわっと春子は声を上げた。
千鶴たちをにらむような不動明王の恐ろしげな顔に、千鶴も一瞬ぎょっとした。だが何故かすぐに懐かしい気持ちになった。初めて見るお不動さまなのに妙なことだった。
不動明王は右手に剣、左手に羂索を持ち、厳めしい顔で鎮座している。その背後には炎となった明王の気迫がめらめらと立ち上っている。
春子は気を取り直して姿勢を正すと、近くに来た安子に提灯を預け、不動明王に手を合わせた。
「お不動さま、今日は山﨑さんを助けていただき、だんだんありがとうございました」
千鶴も安子に提灯を預けて手を合わせると、ありがとうございましたと不動明王にお礼を述べた。しかし頭の中では、あの若侍のことを考えていた。
お礼を述べ終えた春子は、しげしげと暗がりの中の不動明王を眺めながら言った。
「ほれにしたかて、お不動さまは、なしてこげな恐ろしいお顔をしておいでようか?」
千鶴は何となく思ったことを口にした。
「道を踏み外した人らを、力尽くでも本来の道に戻そと考えておいでるけんよ。ほれはな、誰のことも見捨てたりせんいうお不動さまのお気持ちぞな。親が子供を見捨てんのと対なんよ。ほじゃけん、お不動さまは見かけは恐ろしいても、心の優しいお方なんよ」
千鶴の説明に、春子はもちろん、知念和尚と安子も感心した。
「さすがは千鶴ちゃんぞな。まっこと、よう知っとる」
「そげなこと、どこで教えてもらいんさったん? 学校で教えてくれるん?」
「いえ、別に誰にも教わっとりません。ただ思たことを口にしたぎりぞなもし」
千鶴は困惑気味に答えたが、その答えは却って和尚たちを驚かせた。
「やっぱし千鶴ちゃんは、お不動さまとつながっておいでるんじゃねぇ」
「まっこと、千鶴ちゃんはお不動さまの申し子ぞな」
和尚夫婦に続いて、春子も興奮を隠さない。
「山﨑さんて、ほんま頭がええ! やっぱしおらが言うたとおり、山﨑さんはおらより勉強できらい」
「いや、ほやけん、違うんやて」
「違うことあるかいな。物知りやけん、勉強もできるんやんか」
「もうやめてや。物知りやないけん」
春子は笑いながら安子から提灯を受け取ると、和尚たちに挨拶をして山門へ向かった。千鶴も提灯を受け取り和尚夫婦に頭を下げると、春子の後を追いかけた。
五
「石段、急なけん、足下気ぃつけてな」
春子は山門の先にある石段を、提灯で照らしながら言った。
春子が先に立ち、千鶴はその後ろに続いたが、少し石段を下りたところで、千鶴は立ち止まって辺りを見渡した。
西の空には細い月が今にも沈みそうに浮かんでいる。その下にある海は恐ろしいほど真っ黒だ。左手に見える丸く黒い影は鹿島だろう。
海から顔を戻すと、石段の正面には北城町がある。道の両脇に並ぶ商店の軒先を電灯が照らしているので、そこだけが闇の中に浮かび上がって幻想的だ。
そこから東には田んぼが広がるが、どこもほとんど真っ暗で、何がどこにあるのかはよく見えない。集落のある辺りだけに、祭礼用と思われる提灯の明かりが集まっている。そのさらに向こうには黒々とした山が、風寄を取り囲みながら並びそびえている。
千鶴は夜の風寄を眺めながら、いったい自分はどこにいたのだろうと考えた。だが、春子の家にいたことすら忘れているのだ。どこにいたのかなど思い出せるはずがない。
ここへは春子に祭りに誘われて来た、ということは思い出していた。それがこんな奇妙なことになったのには、少なからぬ不安を感じている。ただ、何だか自分はこの土地に引き寄せられたみたいな気もしていた。
千鶴はそっと胸に手を当てた。懐には頭に飾られていた野菊の花が入っている。
どこからこの寺へ運ばれたのかはわからない。でも、運んでくれたのはこの花を飾ってくれた人に違いない。お不動さまではないと絶対に言い切ることはできないが、やはりそうではないと思う。お不動さまは優しい方ではあるけれど、女子の頭に花を飾るのはお不動さまらしくない。
助けてくれたのが人間であるならば、その人は自分に好意を抱いてくれたのか。そんな人が本当にいたなら嬉しいけれど、それにしてもやはり不自然だ。それに姿を消す理由もわからない。花を飾ったのが恥ずかしかったのだろうか。
「山﨑さん、何しよんよ。早よ下りといでや」
千鶴に気づかず一人で先に下りてしまった春子が、提灯を掲げて叫んだ。
「ごめんごめん。ちぃと考え事しよったけん」
もう一度上がって来た春子は、不安げに言った。
「考え事て何? おらの家のこと思い出したん?」
「まだ何も思い出せとらん。ほやのうて、うちをここまで運んでくれたお人のことを考えよったんよ」
「お不動さまやのうて?」
「お不動さまが花飾ったりせん思うんよ」
「じゃったら、誰やて思うん?」
千鶴の頭に浮かぶのは、あの若侍だ。姿を見せないことを考えても、やっぱり若侍しかいないと思えてしまう。
だけど、その話は他人に聞かせたくはなかった。ややこしいことになるからだけでなく、あの若侍との幸せは自分だけのものにしておきたかった。
「誰やなんてわからんわね。この村の人らは、みんな知らん人ぎりじゃけん」
「ほら、ほうじゃな。ほんでも村の誰かやとしたら、山﨑さん一人残しておらんなるいうんは妙な話じゃね」
「うちに花飾ったんが恥ずかしかったんかもしらんね。けんど、うちがどこぞに倒れよったとして、うちを見つけて頭に花飾るんも、やっぱし妙な話ぞな」
「ほうじゃなぁ。確かに妙な話よなぁ。そげなことしよる暇あったら、誰ぞを呼びに行くもんなぁ」
「じゃろ? ほじゃけん、こげなことしたんは――」
千鶴はそこで口を噤んだ。
こんなことをしたのはあの若侍だと言いたくてたまらなかった。でも、それは自分だけの秘密である。
「どしたんね。こげなことしたんは誰なんよ?」
「さぁねぇ。誰じゃろかねぇ」
自然と明るくなった千鶴の声が春子を刺激した。
「なぁ、誰なんよ。誰ぞ心当たりがあるんじゃろ?」
「そげなもん、あるわけなかろがね。うちはここでは余所者で。誰っちゃ知っとるお人なんぞおらんけん」
「ほやけど、何ぞ知っとるみたいな口ぶりやったで」
「ほんなことないて。気のせいやし」
「ほの物言いが怪しいんよ」
「もう、この話はおしまい。ほれより早よ戻らんと、村上さんのお家の人らが気ぃ揉んどらい」
ほうじゃったと言い、春子はまた先に立って石段を下り始めた。千鶴もそのあとに続いたが、少し下りた所でもう一度立ち止まった。
「どがぁしたん? 今度は何?」
山門を見上げる千鶴に、下から春子が声をかけた。
春子に顔を戻した千鶴は、何でもないと言った。だけど本当は誰かに上から見られていたような気がしていた。もし誰かがいるのだとすれば、きっと自分を助けてくれた人に違いない。
千鶴は誰もいない山門を振り返ると、ぺこりと頭を下げた。
「誰に頭下げよるん?」
訝しげな春子に、お不動さまだと千鶴は言った。そういうことにしておいた。
「ほな、行こ」
千鶴は春子を促し石段を下りた。後ろが気になってはいたが、石段を上ったところで誰もいないのはわかっていた。その何者かは、千鶴の前に姿を見せないと決めているのだろう。そうであるなら、相手を探しても無駄なことだった。
祭りの晩
一
千鶴たちが春子の家に戻ると、中では男衆が酒盛りを始めていた。提灯が吊された戸口の奥から、賑やかな声が聞こえてくる。酒に酔った大勢の見知らぬ者たちの気配は、千鶴を尻込みさせた。
春子が千鶴を待たせて家の中へ入ると、千鶴は逃げ出したくなった。すると、すぐにイネが飛び出して来て、よう戻んたねと泣きながら千鶴を抱きしめた。
千鶴が驚いていると、今後はマツが出て来た。マツも涙ぐんで千鶴の手を握り、悪かったねぇと詫びた。
「春子は戻らんし、真っ暗なってしもたけん、今おらたちも千鶴ちゃん探しに出よとしよったとこじゃった」
「すんません。お祭りで忙しいとこやのに、ご迷惑かけてしまいました」
二人が誰なのかわからないまま千鶴が謝ると、イネもマツも首を振った。
「悪いのは大ばあさまぞな。近頃、妙なことぎり言うんで、おらたちも困りよったんよ」
マツの言葉にイネがうなずいていると、春子が恰幅のよい年配の男を連れて出て来た。その後ろから幼い男女の子供がついて来る。
「あんたが山﨑千鶴さんかな。遠い所をせっかくおいでてくれたのに、うちの耄碌ばあさんがえらい失礼なことしてしもたそうで、まことに申し訳ない」
春子が紹介する前に、男は千鶴に頭を下げた。提灯の明かりではよくわからないが、だいぶ酒が入っているらしい。酒の臭いが漂っている。
「おらのおとっつぁんぞな」
春子が説明すると、男は名を名乗っていないことに気がつき、春子の父の村上修造ぞなもしと言った。つまり、名波村の村長だ。
千鶴は恐縮しながら、もう何とも思っとりませんと言った。でも自分が何をされたのかは、何も思い出せていない。
「いや、そがぁ言うてもろたら助からい」
安心したように笑った修造は、先に出ていたマツとイネを春子の祖母と母親だと千鶴に紹介した。お陰で千鶴は二人が誰かを理解したが、本当にはわかっていない。
「何言うとるんね。そげなことは千鶴ちゃんはわかっとるがね」
マツが文句を言うと、ほんまよとイネも修造を一にらみして、千鶴に愛想笑いをした。千鶴が当惑しながら笑みを返すと、修造の左右からさっきの子供たちが顔をのぞかせた。
二人はじっと千鶴を見ていたが、千鶴が顔を近づけて声をかけると、うわぁ、がんごめじゃ!――と声を揃えて逃げ出した。
「こら、勘吉! 花子!」
春子が子供たちを叱ると、二人は家の中に逃げ込んだ。春子はため息をつくと、千鶴に詫びた。
「堪忍な。あの子ら、おらの甥っ子と姪っ子なんよ」
「村上さん、がんごめて何のこと?」
「え? いや、ほれは……」
春子が言葉を濁すと、修造がもう一度千鶴に謝った。
「いやぁ、重ね重ね申し訳ない。子供らにはわしがきつぅに言うとくけん、勘弁してやんなはらんか」
「ほれは構んのですけんど、がんごめて――」
「おい、春子。おらを紹介してくれや」
よたよたと現れた大柄の若い男が、にやけた顔で千鶴を見ながら春子に言った。
「こら、源次! お客さまに失礼じゃろが!」
修造が怒鳴ると、源次は修造にだらしなく頭を下げ、千鶴にも同じように頭を下げた。にやけた顔はそのままだ。暗いので源次の顔の色はわからないが、修造以上に酒の臭いがぷんぷんする。きっと顔は真っ赤に違いない。
「春子、おらをこの人に紹介してくれや」
源次がもう一度言うと、春子は千鶴に従兄の源次だと言った。
続けて春子が千鶴のことを源次に説明すると、千鶴も挨拶をした。
「千鶴さんか。ええ名前じゃの。ほやけど、日本人みたいな名前じゃな」
やはりこうなのかと千鶴が悲しくなると、マツが源次を叱りつけた。
「何失礼なこと言うんね! 千鶴ちゃんは日本人ぞな!」
「千鶴ちゃん、ごめんよ。ここは頭の悪い者ぎりでな、何が失礼なんかわからんのよ」
イネが千鶴に言い訳をすると、ばあやんとおっかさんの言うとおりだと春子も怒った。
源次は少し面白くなさげだったが、渋々千鶴に謝った。
「申し訳ございません。おらが悪うございました」
源次がふらつきながらだらりと頭を下げたところに、次々に若い男が現れて源次を突き飛ばした。源次は頭を下げたまま素っ転んだが、男たちは構わず千鶴に自己紹介を始めた。
起き上がった源次は声を荒らげて男たちに食ってかかった。そこへ修造の雷が落ちた。
「大概にせんかや! お前ら、わしに恥かかせるつもりか」
驚き顔で静かになった男たちを、さっさと去ね!――と怒鳴りつけて追い払った修造は、千鶴に愛想を振り撒きながら、まことに申し訳ないともう一度頭を下げた。
「ほな、山﨑さん。中へ入ろや」
春子に促されたが、千鶴は家の中に入るのが怖かった。今の源次みたいな者たちが多く集まっているのかと思うと、法生寺へ戻りたくなった。それでもイネとマツが気遣ってくれるので、辛抱して春子に従った。
家の中では、電灯が灯された座敷で大勢の男たちが飲み食いをし、女たちが世話をしていた。そこに交じって何人もの子供たちが食べたり騒いだりしている。その多くの視線が、土間に入った千鶴に向けられた。
千鶴がうろたえながら頭を下げると、まだ土間にいた源次が再び千鶴の所へやって来て、こっちぞなと千鶴の手を引っ張った。源次の後ろでは、さっきの男たちが千鶴を見ながらはしゃいでいる。千鶴が顔を強張らせると、イネがぴしりと源次の手を叩いた。
「何をしよんかな! さっきも叱られたとこじゃろがね!」
手を引っ込めた源次は、当惑しながら言い訳をした。
「おら、この人にみんなと一緒に、楽しゅう過ごしてもらおと思たぎりぞなもし」
「源ちゃん、悪いけんど、今日はそっちには行かれんけん」
春子が言うと、何でぞと源次はむくれ顔で春子をにらんだ。
「ほやかて源ちゃん、酔うとろ? 話がしたいんなら、酔いを覚ましてからにしてや」
「春子の言うとおりぞな。初めて会う女子に失礼じゃろがね」
マツにまで説教されて、源次がようやく引き下がると、後ろの男たちも残念そうに源次に続いた。自分を護ろうとしてくれるイネとマツを見ているうちに、千鶴は二人のことを何となく思い出してきた。
男衆の所にいた勘吉と花子は、男たちの世話をしていた女の一人を呼んだ。
「かっか、こっち来とうみ! 早よ、来とうみて!」
「姉やんがおいでとるんよ! 早よ来てや!」
呼ばれた女は顔を上げて子供たちを見たあと、千鶴の方に目を向けた。だが、すぐに無関心を装って男たちに酒を注いで廻った。無視された子供たちはぶうぶう文句を言ったが、女は知らんぷりを決め込んでいた。
その女が春子の兄嫁の信子であることも、千鶴は思い出した。
信子は初めて顔を合わせた時もよそよそしかった。今も同じ態度を見せるのは、千鶴を嫌っているのだろう。せっかく記憶が戻ったが、千鶴は気持ちが沈んだ。
けれど落ち込んでいる間もなく、千鶴はイネたちに誘われた。どうやら男衆が集まる部屋とは、別の部屋へ行くらしい。
その時、男衆の中から男が一人立ち上がって土間へ降り、千鶴の傍へやって来た。男の後ろには勘吉と花子がついて来た。
「春子の兄の孝義いいます。春子がいっつもお世話になっとるそうで」
孝義はぺこりと頭を下げた。春子の説明によれば、勘吉たちの父親であり信子の夫だという。そして村長の息子でもある。やはり酒が入っているようだが、さすがに源次たちとは違い、村長の息子としての品位と風格があった。
春子は兄が自慢なのだろう。誇らしげな顔を千鶴に向けている。
「ちぃとごたごたしたみたいなけんど、年寄りの戯言なんぞ気にせいで、楽しんでやっておくんなもし」
にっこり笑った顔が千鶴を安心させた。信子の夫とは思えないほど好意的な応対ぶりだ。千鶴はどぎまぎしてしまい、言葉を出せないまま頭を下げた。顔を上げると、孝義の肩の向こうから信子がじろりとにらんでいた。
二
千鶴が案内されたのは、少しこじんまりした部屋だった。
台所や男衆が集まった座敷には電灯があったが、ここは行灯だ。ただ、行灯一つだけでは薄暗いからだろうが、二つの行灯が置かれていた。
部屋に入ると、イネたちは春子に千鶴をどこで見つけたのかと訊ねた。春子は千鶴を見ながら、法生寺にいたと言った。法生寺と聞いただけで、イネもマツも安堵の笑みを浮かべた。和尚夫婦はイネたちから信頼されているのだろう。
千鶴は自分が倒れていたことを、春子が喋るのではないかと心配していた。ここへ来るまでに、余計なことは言わないでほしいと頼むのをうっかり忘れていた。だけど、春子は妙な話は何もしなかった。言わずともわかってくれていたようだ。
千鶴が知らない間に寺へ運ばれていた話など迂闊なことを言えば、また千鶴が気味悪がられると思ったのかもしれない。いずれにしても、春子が黙っていてくれたのは千鶴には有り難かった。
千鶴と春子を座らせると、イネたちはすぐに料理を載せた箱膳を運んで来た。二人の後ろには男衆の所にいた女たちが続き、別の料理の皿を箱膳の脇に置いてくれた。
子供たちも次々に集まって来た。部屋はあっという間に女と子供でいっぱいになり、千鶴を歓迎する場となった。
イネは一通りみんなを千鶴に紹介すると、じきに男衆が出かける頃合いになるから、急いで食べてほしいと千鶴たちに言った。
千鶴と春子がうなずいて箸を持つと、女たちは争うようにして千鶴に話しかけた。やはり女たちには千鶴が珍しいみたいで、いろいろ話が聞きたいらしい。それでも千鶴を傷つけてはいけないと思っているのか、みんな言葉を選んで慎重に喋っている様子だ。
風寄にも日露戦争で負傷した者や、命を奪われた者がいるはずだ。しかし、そのことで千鶴を責める者はいなかった。また、みんなと違う容姿のことで千鶴を蔑む者もいなかった。
女たちの多くはは百姓仕事の傍ら、伊予絣の織子として働いていた。
絣は織る前に文様に合わせて、先に織り糸を染め分けておく。その糸を織り上げることで、絣の語源となる輪郭がかすれた文様ができるのだ。
この織り糸を作るのは手間がかかるので、近頃の織子は織元が準備してくれている織り糸を使って、指定された絵柄の絣を織り上げている。
かつての風寄では、女たちは自分たちの裁量で絣を織っていた。大変ではあったが、いい物を作ればそれだけ高く売れたので、結構な収入が得られたそうだ。ところが、いつの間にか織元の指示で織る形態が広がり、今ではみんなが織元の織子になっている。
織子は一反いくらと賃金が決まっており、出来の善し悪しに拘わらず一定の収入を得ることができる。その分、いい物を作るための工夫や努力をしなくてもいいが、逆に手抜きをしてしまう者も出て来るのが問題だった。
しかし名波村の女たちは自分たちの仕事に誇りを持っており、やるからにはきちんとした物を作るという気概があった。だが景気が悪くなると伊予絣の売れ行きが悪くなり、織元への注文が来なくなる。そんな時にはどんなにいい絣を織っても、絣の生産が中止になって織子が解雇されたり、織子の賃金が一方的に下げられたことがあったそうだ。
今回も関東の大地震で東京への伊予絣の出荷が止まったままになっており、織元への注文も激減しているらしい。
この辺りの絣を仕入れている仲買人の取引先も、この大地震の煽りで多くが潰れたのだという。つまり東京が復興したとしても、伊予絣を買ってくれる先がないのだ。
織った伊予絣が売れるかどうかは、絣で銭を稼ぐ女たちにとっては大問題だ。残っている伊予絣問屋にはもっとがんばってほしいし、仲買人にも新たな絣問屋を見つけてもらわねばと、女たちは半分真顔で愚痴を言い合った。
ところが春子に言われて千鶴の家が山﨑機織だと知れると、女たちは慌てて畳に手を突き、お世話になっておりますと千鶴に頭を下げた。聞けば、ここの女たちの織物は山﨑機織でも仕入れているそうだ。
千鶴が慌てて頭を下げ返し、お世話になっているのは自分たちの方ですと感謝すると、女たちは仲買人から話を聞いたと言った。女たちによれば、ここの絣を仕入れる絣問屋の多くが潰れた分、こんな時こそ助け合いだと、山﨑機織はいつもより多めに仕入れているとのことだ。
自分は家の仕事には関わりがないと考えていた千鶴は、祖父の心意気に感心した。また、山﨑機織に感謝してくれる女たちに対して親近感を抱いた。そして、女たちの苦労があるからこそ山﨑機織は成り立っており、そのお陰で自分は暮らしてこられたのだと知った。
女たちは、その後の東京の具合はどうなったのかと恐る恐る訊いてきた。
店のことは千鶴が知るところではないが、まだ東京が復興していないのはわかっている。その話をすると女たちは落胆したが、山﨑機織も大変なのは理解してくれていた。
女たちは逆に千鶴たちの暮らし向きを心配してくれたり、東京が復興さえすれば、自分たちも山﨑機織も上向きになるからと励ましてくれた。
初めの緊張も解れ、千鶴はずいぶんと気持ちが安らいでいた。それもあってか、春子もほっとした様子で食事を楽しんでいる。
勘吉たちや他の子供たちが来て、一緒に遊ぼうとねだった。
女たちは二人に迷惑だと子供たちを叱ったが、千鶴と春子にしてみれば、女子師範学校で学んだ腕の見せ所だ。構ん構んと言って子供たちの相手をしてやると、千鶴たちの周りは子供たちの黒だかりとなった。
しばらく子供たちの相手をしていると、男たちが出かける時間になったらしい。イネや女たちが動きだしたので、子供たちも自分たちの父親を送り出しに行った。
部屋には千鶴と春子とマツだけが残された。マツは千鶴が十分食べたことを確かめると、もう少ししたら自分たちも出かけると言った。
「男衆が屋台を持て来るけんね。ほん時に合わせて、千鶴ちゃんらも一緒においでたらええよ」
千鶴たちの予定をマツは知らない。祭りを見たあとのことを言わねばと千鶴が気を揉むと、春子がマツに申し訳なさそうに言った。
「ばあやん、あのな、おらと山﨑さんは、今晩は法生寺に泊めてもらうことにしたんよ」
「法生寺に? ほうなんか」
案の定、マツはがっかりした。しかし、夜這いが心配だからと春子が説明すると、ほらほうじゃと大笑いをした。
「確かに男衆は酒が入ると何しでかすかわからんけんな。特に千鶴ちゃんみたいな別嬪さんがおいでたんじゃ、押さえが利くまい」
また別嬪と言われ、千鶴は下を向いた。春子は笑いながら、ほらなと言った。
三
イネたちに連れられて神社の参道へ行ってみると、多くの村人たちと一緒に、何台ものだんじりが集まっていた。
夜の帳が下りた村は、だんじりの提灯と村人が手に持つ提灯で美しく彩られていた。
だんじりの屋台はドンドンジャンジャンと、太鼓や半鐘の音を鳴り響かせている。上に立てられた笹の束が下に飾られた提灯に照らされ、まるで屋台が燃えているみたいだ。
近づいて見てみると、笹には小さな日の丸がびっしりと貼りつけられていた。何とも賑やかで盛大な印象だ。
燃えるような多くの屋台が闇の中を行き交う様子は、実に幻想的な光景だ。これは松山ではお目にかかれないものだった。
「うわぁ、きれいじゃねぇ」
思わず千鶴がつぶやくと、じゃろげ?――と春子は得意げだ。
「春子、千鶴ちゃんをしっかりつかまえとくんで。暗いけん、迷子なったら大事ぞな」
マツが春子に言うと、春子は提灯を持っていない方の手で千鶴の手をつかんでみせて、ほら大丈夫と答えた。
「千鶴ちゃん、暗いし人が多いけん、おらたちからはぐれても、春子からははぐれたらいけんよ」
大声で喋るイネに、千鶴は提灯を掲げながら、わかりましたとやはり大声で言った。
夜の闇が深くなるにつれ、村の中はいっそう賑やかになった。次々にやって来るだんじりに見とれていると、いつの間にかイネやマツの姿が見えなくなっていた。千鶴は慌てて横を見たが、そこに春子がいたのでほっとした。
春子はだんじりの向こう側にいる人たちの方を、あそこと指差した。だが春子が何を見せたいのか、千鶴にはわからなかった。すると春子は、帽子と言った。
「帽子?」
「客馬車におったろ? 客馬車のことは覚えとらいね?」
そう言われて、千鶴はやっとわかった。春子が指差す辺りにあの山高帽の男の姿があった。その隣にいるのはあの二百三高地の女だ。楽しげな二人は、千鶴たちには気がついていないらしい。
「あの二人、でけとるかもしれんで」
千鶴に顔を寄せた春子は面白そうに言った。
聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、千鶴は下を向いた。春子は笑いながら、二人から離れた場所へ千鶴を誘った。
しばらくすると、参道の突き当たりにある神社の鳥居をくぐり、一体の神輿が現れた。すると、それまで賑やかだっただんじりが、声や音を鳴り止ませて静まり返った。
辺りは静寂に包まれ、その中を神輿は掛け声もなく静かに滑るがごとくにやって来る。実に不思議な光景で、静けさが神々しさを醸し出している。
春子の説明によれば、村々の平和を願う神さまのお忍びの渡御だそうだ。屋台の明かりに見守られながら千鶴たちの近くへ来た神輿は、かつての庄屋の屋敷へ入って行った。
中でどんなことが行われているのかはわからないが、やがて屋敷から出て来た神輿は、再び音もなくすっと神社へ戻って行った。
神輿が見えなくなると、止まっていた時が再び動きだしたかのように、太鼓と半鐘が鳴り始めた。参道は賑やかな音と掛け声で新たに埋め尽くされ、人々の喜びが広がった。
十分に祭りを堪能して法生寺へ戻る途中、風寄の祭りはとても優雅で素敵だと、千鶴は絶賛した。ほうじゃろほうじゃろと、春子は嬉しくてたまらない様子だ。
しばらく二人は祭りの話で盛り上がったが、話が一息ついたところで、あのなと千鶴は言った。
「さっき聞きそびれてしもたけんど、がんごめって何ぞな?」
「がんごめ? おら、わからん」
暗いので春子の表情はわからない。しかし、春子の声は惚けているみたいに聞こえる。さっき家に戻った時には、明らかにわかっている感じだった。
「子供らが、うちを見て言うたろ? がんごめじゃて」
「そげなこと言いよったね。ほじゃけど、おら、知らんのよ」
「ほんまに知らんの?」
「うん、知らん」
「言うたら、うちが傷つく思て、知らんふりしよんやないん?」
「違う違う。ほんまに知らんのよ」
春子の声は何だか妙に明るかった。恐らく春子はがんごめが何かを知っているはずだ。けれども喋ってくれそうにないので、千鶴は訊くのをあきらめた。
寺に戻ったあと、千鶴たちは和尚夫婦としばらく話をした。
千鶴は和尚たちにがんごめの話を訊ねてみたかった。だけど何だか訊くのが怖い気がするし、春子が気を悪くすると思えたので訊けなかった。また和尚たちとは、それほど長く喋ってはいられなかった。
翌朝には、日の出とともに神輿の宮出しが行われる。そのため未明からだんじりの屋台が再び集結するらしい。その時は、先ほどよりも多くの屋台が集まるそうだ。それを見るには、朝の暗いうちから起きる必要があり、そのため早く寝なくてはならなかった。
結局、千鶴が和尚たちと喋ったのは祭りの話だけで、がんごめの意味を確かめることはできなかった。
千鶴たちは安子が用意をしてくれた部屋で床に就いた。行灯の火を消すと、春子はさっさと眠ったようだ。すぐに寝息が聞こえてきたが、千鶴はなかなか寝つけなかった。
早く眠らねばすぐに起きる時刻になってしまう。けれど、そう思えば思うほど却って目が冴えてしまい、眠気は遠のいてしまう。千鶴は長い間、闇の中で眠るために奮闘し、何度も寝返りを打った。
頭の中では、今日のことが幾度も思い返された。
不可解な出来事や夢に見た若侍。目が覚めたあとも残っていた、若侍が飾ってくれた野菊の花。いったい自分に何が起こったのか。若侍にはもう一度会いたいけれど、自分をここへ運んでくれたのは、本当のところは誰なのだろう。
村人たちの態度も気になった。見下すような者もいれば、頭を下げてくれる者もいた。親しくしてくれたみたいでも、実際は蔑んでいた人たちもいたのではないか。
それでも春子の母や祖母が詫びてくれたのは、偽りのない気持ちだと思う。がんごめとからかった子供たちも、千鶴と一緒に遊んで喜んでいた。
何が本当で、何が本当でないのかがわからない。そのことが居心地を悪くさせている。
それにしても、がんごめとは何なのか。少なくともいい言葉ではないだろう。そうでなければ、子供たちがこの言葉でからかうわけがない。
とはいえ、初対面の子供たちが、いきなりがんごめというのも不自然だ。恐らく、これには春子の曾祖母が関係していると思われる。きっと曾祖母ががんごめと言い、それで自分は春子の家を飛び出したのだ。
いろいろ考えていると、いつまで経っても眠れない。このままではいけないと焦った千鶴は、考えるのをやめて眠ることにした。しかし真っ暗闇なので、目を閉じても開けているのと変わらない。やっぱり、いろんなことが勝手に頭に浮かんできてしまう。
困った千鶴は若侍のことを考えることにした。これで余計なことは考えずに済むはずだ。けれど、顔がわからない者を思い浮かべるのはむずかしい。そこへ時々思い出したみたいに子供たちが現れて、がんごめと言って千鶴をからかった。
子供たちを追い払って若侍を思い浮かべ直しても、いつの間にか子供たちは戻って来て、また千鶴をからかう。そのうちに、気がつけば千鶴は一人で闇の中に立っていた。
四
そこは漆黒と呼ぶべき暗闇だった。周りに生き物の気配はない。闇は凍えるほどに冷たく、千鶴は自分の体を抱きながら震えていた。
一方、素足が触れる地面は生温かく、ぬるぬるした泥みたいだ。辺りには血の臭いと、何かが腐ったような臭いが漂っている。
この暗闇はいるだけで気分が悪くなってくる。だけど、どうやってここに来たのかはわからない。千鶴には探している者がいたのだが、その相手を探しているうちに、ここへ来てしまったのだ。
一寸先も見えない。誰かに鼻を摘まれたとしても、絶対にわからない暗さだ。恐る恐る手を伸ばしてみても、指先には何も触れない。そのままの姿勢でゆっくりと二、三歩踏み出してみたが、やはり触れる物は何もない。
足下がぬるぬるしているので、下手に動くと転ぶかも知れず、千鶴は身動きが取れなかった。仕方がないので、千鶴は鼻と口を手で押さえたまま一所にじっとしていた。
すると、少し闇に目が慣れたのだろうか。周囲が二間ほど先の辺りまで、月明かりに照らされたかのごとくに、ぼんやりと闇の中に浮かび上がってきた。
極めて狭い範囲しか見えないが、見える限りにおいて、そこには何もなかった。
色と呼べる物はどこにもない。闇とは異なる黒さの地面があるばかりだ。他に見える物といえば、自分の白い手足だけである。
再び何歩か足を踏み出してみたが、目に映る光景に変化はない。
微かに風が吹いて、後ろに束ねた髪が少し揺れた。その時、どこからか憎悪と殺気が押し寄せてきた。慌てて振り返ったが、淡い光の中に見える景色は変わらない。しかし、その向こうに広がる闇の中では、明らかに何かが蠢く気配がする。
やがて聞こえてきたのは、ずるりずるりと何かを引きずる音だ。ぴちゃりぴちゃりと泥の上を歩くみたいな音も聞こえる。
苦しみと憎しみが入り混ざった不気味な呻き声も聞こえだした。一つや二つではない。その気味悪い声や音は近くからも遠くからも聞こえ、その数もどんどん増えてくる。
突然、結界を破るように淡い光の下に何かが這い出て来た。それは片方の目玉が腐ってこぼれ出た屍だった。ざんばら髪で骨と皮だけになった屍は、動きを止めると千鶴を見上げてにたりと笑った。
――見つけた。がんごめ、見つけたぞな。
乾いた舌を動かして、屍はかさかさ声でつぶやいた。舌が動くたびに、口の中から蛆がこぼれ落ちた。
千鶴は驚きのあまり声も出ず、体が動かなくなった。けれども屍が千鶴の方へ這って来ると、喉から悲鳴が飛び出した。
呪縛が解けた千鶴は闇の中を走って逃げた。しかし、おぞましい音や声は後ろからばかりではなく、周囲の至る所から聞こえてくる。
とうとう呻き声と不気味な音に取り囲まれ、千鶴は行き場を失った。
ぴちゃりぴちゃりと前から音が近づいて来た。後ずさりをすると、後ろから誰かが肩をつかんだ。驚いて振り返ると、裸同然の髪の長い女が焦点の合わない目でにらんでいた。その目玉の上を、やはり蛆がもそもそと動いている。
――子供を返せ! お前が喰ろうた、おらの子供を返せ!
女は干物みたいな手で、千鶴の首を絞めようとした。千鶴は女の手を払いのけて逃げ出した。だが何かに足首をつかまれ、勢いよく転んでしまった。
顔や体中にべちゃりと泥がついた。その泥は胸悪くなる血の臭いがする。泥だと思っていたのは、どうやら血糊らしい。
千鶴の足をつかんでいる骸骨の屍が、歯をカチカチ鳴らしながらケタケタ笑った。
――捕まえた。がんごめを捕まえたぞな!
先ほどの女が再び千鶴に近づいて来た。さらに周囲からも次々と屍たちが姿を見せた。
ある者はこぼれた腸を引きずり、ある者は顔が崩れ、また、ある者は片手に千切れた頭をぶら下げている。
――殺せ! 八つ裂きにせぇ!
逃げ場を失った千鶴に、屍たちは腕を伸ばし歯を剥き出した。
その時、耳をつんざく凄まじい咆哮が辺りに響き渡った。その猛り狂った何かの声は、怒りで闇をびりびりと震わせた。
屍たちは一斉に動きを止め、怯えた様子で周囲の闇を見まわした。刹那、何か大きな物がぶんと音を立てながら現れた。それは屍たちを薙ぎ払い、闇の中へ引きずり込んだ。
他の屍たちは慌てふためき、闇の中へ姿を消した。その直後、ずんという地響きと、屍たちの苦しげな呻き声が聞こえた。
近くの闇に何かがぼとぼと落ちて来る音がした。と思ったら、淡い光の中に屍の頭や手足が転がり出て来た。
千鶴は驚いて立ち上がったが、何かから逃れようとする屍が、闇から千鶴の方へ這って来た。そこへ上の闇から巨大な足が落ちて来た。
毛むくじゃらのその足は、千鶴に這い寄ろうとした屍を、ずんと踏み潰した。振動は地面を伝って千鶴の足に届き、踏み潰された屍の一部が千鶴の足にぶつかった。
千鶴は震えながら、巨大な足の上に目を遣った。毛むくじゃらの足に続く、胴の部分がちらりと見えた。その上は闇の中に消えている。
その化け物が闇の中からぬっと顔を出した。千鶴を見下ろしたのは、頭に二本の角を生やし口から牙をのぞかせた、形容しがたいほど醜悪な顔だった。
五
はっとなった瞬間、鬼は姿を消していた。千鶴を取り巻いていた淡い光もなく、千鶴は真っ暗闇の中にいた。
しばらくの間、千鶴は自分がどこにいるのかわからなかった。しかし隣から聞こえる春子の寝息で、ここは法生寺なのだと知ってようやく安堵した。
闇の中で千鶴は体を起こした。胸はまだどきどきしている。
冷たく血生臭い空気や、ぬるぬるした生温かい血溜まり。亡者につかまれた感触や、八つ裂きにされそうになった恐怖。それらは目が覚めた今でも心と体に実感として残っている。夢だったとは信じられないほどだ。もし目が覚めなかったら、自分はどうなっていたのかと思うと千鶴は体が震えた。
一方で、千鶴は鬼を見た時の自分の気持ちに混乱し、うろたえていた。
千鶴は夢の中で誰かを探していた。だが、それが誰なのかはよくわかっていなかった。ところがあの恐ろしい鬼を見た時、千鶴の胸は喜びでいっぱいになった。千鶴が探し求めていたのは、あの鬼だったのだ。
いくら夢とはいえ、鬼に心惹かれるなんて信じられなかった。しかも鬼を慕う気持ちは、目覚めた今もまだ残っていた。本当に逢いたかったのはあの若侍なのに、あろうことか地獄にいる鬼を探し求め、愛しく思うなど有り得ない話である。
千鶴は鬼を慕う自分に怯えながら、ふと屍が口にした言葉を思い出した。屍は千鶴をがんごめと呼んでいたのだ。
伊予では鬼のことをがんごという。その鬼を愛おしく思った自分ががんごめなのだとすると、がんごめとは鬼の女という意味かもしれないと千鶴は思った。
もし春子の曾祖母が千鶴を見てがんごめと言ったのならば、千鶴を化け物と見なしたわけだ。それが事実なら、とんでもない侮辱である。そんなことを言われて平気でいられるはずがない。春子の家を飛び出したのも納得がいく。
だがそうであったとしても、今の千鶴はそのことに反論ができなかった。
鬼を愛しく思うなんて、がんごめと言われても仕方がない。もしかしたら本当にがんごめではないのかと、自分でも疑いたくなるほどだ。とはいえ、地獄の夢を見たのはただの偶然で、鬼を愛しく想ったことは何かの間違いだと思いたかった。
しかしあの若侍の夢と同じで、夢で見た地獄はあまりにも現実感があった。夢というより、本当にそこにいた感じだ。目覚めているのに、まだ完全には地獄から抜け切れていない気がしている。また鬼を恐れているのに心の奥で鬼を慕っているのは、まるで心の中に自分とは別の何かが入り込んだかのようだ。
名波村に着いた時、夕日を見て理由もなく悲しくなったが、今思えばあれも別の自分が泣き叫んでいたみたいだった。
あのことと今見た夢は無関係とは思えない。どちらも明らかに妙であり尋常ではない。自分の中で何か恐ろしいことが起こっているのは疑う余地がない。
ひょっとしてあの夕日を見た時に、がんごめに取り憑かれたのかと、千鶴は震えながら考えた。けれども、がんごめが取り憑く理由がわからない。特別何かをしたわけではないし、何かがあったのでもない。だけどがんごめが取り憑いたと考えるしか、鬼を慕う自分を説明できなかった。
春子の曾祖母にがんごめと罵られたのであれば、曾祖母には取り憑いたがんごめが見えたのだろう。もしがんごめが取り憑いているのなら、自分はどうなってしまうのか。がんごめになって子供を喰らうようになるのか。
震えが強くなった千鶴は、懸命に両手で体を押さえた。それでも震えは止まらない。
隣から春子の平穏な寝息が聞こえてくる。何も悩む必要がなく安眠している春子が羨ましく腹立たしい。
千鶴は知念和尚に相談しようかと考えた。でも結局はただの夢かもしれないし、こんな夢を見たことを知られたくない気持ちもあった。特に春子にはこんな話は聞かせたくなかった。
いずれにしても、知らない間に法生寺の前で倒れていたことを考えると、やはり何かが起こっていると言わざるを得ない。
和尚夫婦は千鶴や春子が気にすると思ってか、このことに深く立ち入ろうとしなかった。しかしあの時の自分に何かがあったのは確かだし、それはとても重大なことに違いない。
恐怖を感じながらもあの若侍が思い浮かぶと、千鶴はわけがわからなくなった。
若侍の夢も現実と区別がつかなかったが、決して怖いものではなく、逆に幸せいっぱいだった。どちらの夢も我が身に起こった奇妙な出来事とつながりがあると思えるが、片方の夢は恐ろしくて、もう片方は幸せというのは妙な感じだ。
それにしても、若侍が飾ってくれた野菊の花は実際に頭に飾られていたのである。ということは、夢の鬼が現実に姿を見せることも有り得るわけだ。
もし鬼が本当にいて、目の前に現れたらどうしようと千鶴は焦った。一方で、もう一人の自分が鬼のことを考えて切なくなっている。鬼が現れれば、この鬼を慕う自分はもっとはっきり表に顔を出すだろう。
そうなった時のことを想像すると、千鶴は恐ろしくなって布団の中に頭を突っ込んだ。それでも嫌な妄想は終わらない。がんごめになった自分が鬼の子供を産み増やし、夫の鬼とともに人肉を喰らっている。
嫌じゃ!――と千鶴は布団の中で叫んだ。
ロシア人だと差別をされても人間がいい。本当に慕っているのは鬼ではなくあの若侍だ。千鶴は必死に自分に訴えたが、そんなことをしたところで何も変わらない。やがてあきらめて布団から頭を出すと、もう食えん、腹いっぱい――と隣で春子が寝言を言った。
千鶴は春子がいる辺りの闇を一にらみしたが、すぐに力なくため息をついた。春子には関係がないことであり、春子に怒りをぶつけている暇があるなら、これからどうすればいいのかを考えねばならない。けれど夜明け前に神社へ行くから、少しでも眠って体を休めておく必要がある。
眠れる自信はないし、もう地獄の夢なんか見たくないが、千鶴は頭から布団をかぶって目を瞑った。怖くても、今はとにかく眠らねばならなかった。
死んだイノシシ
一
夜明けの神輿の宮出しを見たあと、千鶴たちが法生寺に戻って来ると、安子が朝飯を用意してくれていた。箱膳に並べられているのは粥と味噌汁、漬物とかぼちゃの煮物、それに温かい湯豆腐だ。
千鶴の家では朝飯といえば、麦飯と味噌汁と漬物だけだ。おかずにかぼちゃの煮物と湯豆腐が添えられているのは、驚くほど豪華な朝飯である。お寺なので普段は質素な食事のはずだが、この日は千鶴たちのためにご馳走を出してくれたのだろう。
朝飯の事情は春子も似たようなものらしく、用意された箱膳を見るなり、おごっそうじゃ!――と大きな声を上げた。
この季節、昼間はまだ温かいが、夜明け前は結構冷える。温かい食事は本当に有り難いし、それを用意してくれた者の温かさも有り難い。
千鶴たちが箱膳の前に座ると、知念和尚と安子はにこにこしながら、祭りはどうだったかと訊ねた。二人とも先に食事を済ませており、食べるのは千鶴と春子だけだ。
「やっぱし地元の祭りはええぞな。女子師範学校に入ってから、ずっと見られんかったけん、今日はまっこと感動したぞなもし」
春子は興奮しながら喋ると、その勢いのまま味噌汁を飲もうとした。しかし味噌汁が熱かったので、慌てて椀から口を離した。
春子の様子に笑った和尚と安子は、今度は千鶴に感想を訊いた。
「昨夕のだんじりもよかったですけんど、今朝のはさらに賑やかで楽しかったぞなもし」
千鶴は喋っている間、できるだけ笑顔を繕ったつもりでいた。それでも、やはり表情が硬いのは否めない。地獄の夢や、がんごめに取り憑かれたのかもしれないという不安、そこに加えてほとんど眠れなかったことが、千鶴から元気を奪っていた。
確かに今朝の宮出しでは、昨夜より多くの屋台が見られた。その光景が素晴らしかったのは事実だ。だけど、千鶴には感動している余裕はなかった。頭の中は、自分はどうなるのだろうかという怯えでいっぱいだった
千鶴の気持ちに気づいていないのか、知念和尚は千鶴の感想にうなずいて言った。
「昔は、わしらも宮出しを見に行きよった。ほんでも、やっぱし寺の仕事があるけんな。ほれで、見に行くんはやめたんよ」
「ほの頃の仕事いうたら、寝ることじゃろがね」
安子に笑われると、和尚も恥ずかしそうに笑った。千鶴たちも一緒に笑ったが、千鶴の笑いは形だけのものだった。
「松山のお祭りにはおらんけん、大魔は珍しかろ?」
口の中のかぼちゃをもごもごさせながら、春子が得意げに言った。大魔とは露払い役として神輿の先を歩く二匹の鬼のことだ。
ぎこちなくうなずいた千鶴に、春子は笑いながら言った。
「山﨑さん。大魔出て来たら顔引きつらせよったね。あれ、そがぁに怖かった?」
「ほやかて、初めて見たけん」
千鶴が小さな声で言葉を濁すと、春子は楽しげに粥を口の中に流し込んだ。
初めて大魔を見た時、千鶴はぎょっとした。まるで自分の正体を突きつけられているみたいで、その場から逃げだしたくなった。しかしそうもいかないので、必死に恐ろしさを堪えていたのだ。
粥を食べ終わった春子は、大魔の役目は誰でもできるわけではないと言った。この役目は特別な地域の者だけに与えられた栄誉なのだそうだ。
春子の話によれば、その昔、風寄がひどい大水に襲われたことがあり、その時に神社のご神体が海に流されたのだという。
夢のお告げでご神体が沈んだ場所を知った村人は、舟で海に出たもののご神体の引き揚げ作業は難航した。ところが、そこへ釣りに出ていた山の若者二人が力を貸すと、見事ご神体は引き揚げられた。大いに喜ばれた神は若者たちに神輿の露払い役を与え、それが大魔の始まりとなったということだ。
大魔が鬼の姿をしているのは、大いなる力の化身の意味だ。姿は恐ろしくても、神に従う鬼ほど心強いものはない。
「ほやけんな、大魔は地獄の鬼とは違うんよ」
春子は得意げに言った。その言葉は千鶴の胸にぐさりと刺さった。地獄の鬼は神とは真逆の存在であり、がんごめも同じだ。
ますます追い詰められた気分になった千鶴は、箸と茶碗を持ったまま目を伏せた。
「千鶴ちゃん、何や元気ないみたいなけんど、また何ぞ嫌なことがあったんやないん?」
火鉢で沸かしたお湯でお茶を淹れていた安子が、心配そうに言った。
千鶴は慌てて顔を上げると、首を横に振った。
「別に何もないですけん」
「何か怪しいねぇ。ほら、正直に言うとうみ。何でも一人で抱え込むんはようないけん」
安子には見透かされていたようだ。千鶴が下を向くと、やっぱしほうなんかと知念和尚も言った。
「何や元気ないなとは思いよったんやが、やっぱし何ぞあったんやな。安子の言うとおり、一人で悩みよっても仕方ないぞな。わしらでよかったら話聞いてあげるけん、言うとみんさいや」
春子が食べるのも忘れて顔を曇らせている。千鶴は覚悟を決めた。
「あの、もし知っておいでたら、教えてほしいんですけんど」
「知っとることなら、何でも話してあげよわい」
知念和尚は身構えたように腕を組んだ。
「がんごめて……何のことでしょうか」
がんごめが鬼でなければ安心だ。千鶴の問いかけに春子は驚いた顔を見せ、しょんぼりと下を向いた。
「がんごめ? その言葉がどがいしたんぞな?」
和尚は初めて聞いた言葉だという顔を見せた。一方、安子は少し不安げに見える。
「村上さんのお家で子供らがうちを見て、がんごめじゃて言うたんぞなもし。でも意味がわからんけん、村上さんに訊いたんですけんど、村上さんも知らんみたいなけん」
ふむと和尚はうなずきながら、横目でちらりと春子を見た。春子は目を伏せたままだ。
「子供がふざけて言うたことじゃろけん、そがいに気にせいでもええんやない?」
安子が慰めるように言った。千鶴は首を振ると、ほやない思うんですと言った。
「がんごめやなんて、子供が勝手に考えた言葉とは思えんぞなもし。子供は誰ぞの真似するもんですけん、きっと大人が使た言葉や思うんです」
「ほらまぁ、ほうかもしらんけんど……」
言葉を引っ込めた安子と、黙っている和尚を見比べて、千鶴は自分の考えを述べた。
「鬼のこと『がんご』いいますし、醜女の『め』は『女』て書きますけん、『がんごめ』いうんは……」
「鬼女やて思いんさったんか?」
安子の言葉に千鶴はこくりとうなずいた。春子はますます項垂れて泣きそうな顔になっている。
「うち、思たんです。うちが村上さんの家飛び出したんは、村上さんのひぃおばあちゃんに、がんごめて言われたんやないかて。ほうやとしたら、他の人にもうちが鬼の娘に見えるんやないかて……」
「そげなことない!」
春子が涙ぐんだ顔を上げて叫んだ。
「山﨑さん、絶対そげなことないけん! ヨネばあやん、惚けてしもとるんよ。他の者は誰っちゃそがぁなこと思とらんけん!」
やはり思ったとおり、春子の曾祖母は千鶴をがんごめ、すなわち鬼の娘と見たようだ。春子の否定の言葉は、却って千鶴を落ち込ませた。
知念和尚は微笑みながら千鶴に優しく言った。
「春ちゃんの言うとおりぞな。千鶴ちゃんみたいな別嬪さん、誰が鬼娘やなんて言うんぞ。そげな者、どこっちゃおるまい」
安子も笑顔を見せて明るく言った。
「な、わかったじゃろ? ほやけんな、もう、そげなことは気にせんの。そもそも千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるんじゃけんね」
代わる代わる慰められ、千鶴はわかりましたと言った。
「もう言いません。けんど、もう一つぎり知りたいことがあるんぞなもし」
「何ぞな。何でも言うとうみ」
知念和尚が応じたが、千鶴は春子に訊ねた。
「村上さん。ひぃおばあちゃん、なしてうち見て、鬼娘言うたんかわかる?」
「な、なしてて……」
「みんながうちのことを鬼娘じゃて思わんのなら、なしてひぃおばあちゃんぎり、うちを鬼娘言うたんじゃろか? ひぃおばあちゃんにはうちの頭に角が見えたろうか?」
「ヨネばあやん、惚けとるぎりじゃけん。そげなこと、そがぁに真面目に考えんでもええやんか」
春子は答えたくなさそうだった。ということは、春子は理由を知っているのだろう。
「和尚さんたちはわかりますか?」
千鶴は知念和尚と安子に顔を向けた。
安子が当惑顔で和尚を見ると、和尚は春子に声をかけた。
「春ちゃん、もう千鶴ちゃんに話してやっても構んかろ? 千鶴ちゃんは頭のええ子ぞな。隠したかて疑いはますます膨らもう。ほんで、いずれは春ちゃんに不信感を持つようになろ。ほんでも春ちゃんはええんか?」
春子が首を横に振ると、ほうじゃろ?――と和尚は言った。
「ほんなら、わしから千鶴ちゃんに話そわい。ええな?」
春子がうなずくと知念和尚は千鶴に向き直り、今から二月ほど前の話ぞなと言った。
「台風が来よった時があったろ? あん時にな、そこの浜辺にあったこんまい祠がめげてしもたんよ。ほれからなんじゃな、おヨネさんが妙なこと言いだしたんは」
二
法生寺の近くの浜辺には、村人たちに忘れ去られた小さな祠があった。その祠はヨネが一人で世話をしていたのだという。けれどヨネは足腰が弱ってきたので、数年前からはイネやマツが祠の世話役になった。しかし、そこにどんな神さまが祀られているのかを、ヨネは誰にも教えていなかった。
今年の八月、この時期には珍しい台風が愛媛を襲ったが、この時に風寄は激しい風雨に曝された。その翌日、イネが祠を見に行くと、祠はばらばらに壊れていた。長年の風雨でかなり傷んでいたので、壊れてもおかしくはなかったらしい。周囲の木々も折れていたので、傷んだ祠が壊れるのは当然でもあった。
ところが、その話を耳にしたヨネは狂ったように騒ぎ始めた。鬼が来て村が滅びると言うのだ。何の話かと家族が問い詰めると、ようやくヨネはあの祠は鬼から村を護る鬼よけの祠だと話した。ヨネが言うには、鬼を見たというヨネの父親が造った祠らしい。
「鬼を見た? ほんまにそのお人は鬼を見んさったんですか?」
動揺を隠せない千鶴に、知念和尚は事実かどうかはわからないとしながら、そこの浜辺で大勢の侍と鬼が戦っていたらしいと言った。
「お侍と?」
「理由はわからんが、鬼が次々に侍を殺しよったそうな。沖には見たこともない真っ黒なでっかい船が浮かんどってな、鬼はその船に向かって海に入って行ったんじゃと」
ヨネの父親は急いで他の村人を呼びに行った。しかし浜辺に戻った時には鬼の姿はなく、黒い船が沖の方へ去って行くのが見えたという。それで鬼が二度と村に戻って来ないように、浜辺に鬼よけの祠を造ったのだそうだ。
祠ができた時、これは鬼よけの祠ではあるけれど、人前では絶対に鬼の話はするなと、ヨネは父親からきつく命じられた。鬼のことを口にすればひどい目に遭わされるというのだが、それをヨネは祠の秘密が知れると鬼に狙われるのだと解釈した。それがヨネがこれまで誰にも祠のことを話さなかった理由だった。
これはかなり具体的な話だ。それにわざわざ鬼よけの祠まで造ったのだから、ヨネの父親が法螺を吹いたわけではなさそうだ。
不安が募る千鶴に知念和尚は言った。
「こげな話をしても、おヨネさんが鬼を見たわけやないけん誰も信じまい? ほしたらな、自分は子供の頃に何べんも鬼娘を見たて、おヨネさんは言うたんよ」
ヨネによれば、鬼娘はこの法生寺に棲んでいたらしいと和尚は言った。ヨネの家は法生寺の近くだったので、鬼娘を見る機会はあったようだ。ヨネが見た鬼娘は雪のように白い若い娘の姿をしていて、見つめられると動けなくなったという。
鬼ばかりか鬼娘も実在したという話に、千鶴はますます動揺した。しかも鬼娘はこの寺にいたというのである。それだけで信憑性は高く感じられる。
「ほんまにこのお寺に鬼娘がおったんですか?」
千鶴がうろたえを隠して訊ねると、知念和尚は困惑気味に答えた。
「村長からもそげなこと訊かれたんやがな。わしらは途中からこの寺に来たけん、そげな昔の話は何も知らんのよ」
続いて安子が説明した。
「昔、この寺で火事があってな。本堂は無事じゃったけんど、庫裏が焼けてしもて、ほん時に書き物が全部焼けてしもたんよ。ここのご住職もほん時に亡くなってしもたけん、昔のことはようわからんのよ」
それは明治が始まるより前に起こった事件で、当時の風寄の代官とその息子までもが亡くなったらしい。残された代官の妻は髪を下ろして尼となり、庫裏の焼け跡に小さな庵を建てて、夫と息子、そして亡くなった住職を弔い続けたそうだ。
ヨネの父親が鬼を見たというのもこの頃の話で、いったいここで何があったのかと、千鶴は恐怖を抑えながら和尚たちの話に聞き入った。春子も隣で真剣に聞いている。
尼が亡くなると、法生寺は遠く離れた別の寺の住職が、掛け持ちで管理をすることになった。知念和尚がこの寺へ来たのは、掛け持ちの住職二人を経たあと、明治の半ば過ぎになってようやく庫裏が再建されてからだった。
先の住職は二人ともこの土地の者ではなく、普段はほとんどこちらにいなかった。そのため庫裏が焼ける前のことは、まったくといっていいほど何も知らず、鬼や鬼娘の話が住職たちの口から出ることはなかったそうだ。
ただ、その住職たちが伝え聞いた話によれば、庫裏が焼ける少し前に、この寺に不埒な侍たちが集まって狼藉を企てていたらしい。代官はその侍たちに殺され、当時の住職も命を落としたのだという。その時の争いで庫裏は焼け、寺へ押し寄せた村人も多くが命を失った。また、同じ時に北城町辺りにあった代官屋敷も焼けたということだ。
法生寺の庫裏と代官屋敷が燃えたことは、村長の修造も知っていた。その事件に悪い侍たちが関わっていたことも、修造はわかっていた。
一方、ヨネも燃える庫裏と代官屋敷を自分の目で見ていた。その上で鬼や鬼娘の話をするので、修造はとても困惑したようだ。だが、鬼と侍たちが戦っていたということを考えれば、その侍たちというのはこの不埒者たちだったのではないかと思えてしまう。
「そがぁなわけでな。侍の話はともかく、鬼や鬼娘の話がほんまかどうかはわからんのよ。おヨネさんほど長生きしておいでる者は、この村にはおらんけんな。今となっては確かめようがないんぞな」
知念和尚が申し訳なさそうに言った。だが、これだけの事件があって、そこに鬼が関わっていたならば、何等かの話が残っていてもよさそうだ。
それについて和尚は、ほうなんやがなと言った。
「村長ですら知らんのじゃけん、期待はできまい。ほれでこの話はな、村上家とわしらぎりの話いうことになったんよ。おヨネさんが妙なこと言いだしたて、噂が広まったら村長も困るけんな」
千鶴は春子に改めて訊ねた。
「村上さんはひぃおばあちゃんの話、知っとったんじゃね?」
春子は小さくうなずき、千鶴の言葉を認めた。
「こないだのお盆に戻んて来た時、そげなことがあったて聞いたんよ。ほやけど、まさかヨネばあやんが山﨑さん見て、鬼娘言うとは思わなんだんよ」
「ほれは、ほうじゃな。そげなこと誰も思うまい」
知念和尚が春子を慰めるように言った。けれど、鬼娘を知るヨネが千鶴を見て鬼娘だと言ったのだ。和尚ははっきり言わないが、それは千鶴が鬼娘に似ていたということだ。
夕刻は家の中は薄暗いから、肌の色はよくわからないはずだ。であれば、ヨネは千鶴の顔立ちを鬼娘と見間違えたのだろう。千鶴は気持ちが沈んだ。
それでも寺に鬼娘がいたというのは、少々違和感がある。千鶴は少しでも鬼や鬼娘がいたという話の矛盾を見つけたかった。
「ほれで、鬼娘はここで何をしよったんですか?」
千鶴の問いかけに春子は黙ったままだ。代わりに知念和尚がまた口を開いた。
「おヨネさんが言うにはな、村に禍呼んで、村の者の命を奪たんじゃと」
「禍?」
「たとえば、大雨降らして大水を引き起こしたり、悪い病を流行らせたりするんよ。ほんで亡くなった人の墓をな、あとで掘り返して屍肉を喰ろうたそうな。特に子供の屍肉を好んだんじゃと」
千鶴はぞくっとした。頭には、あの恐ろしい地獄の光景が浮かんでいる。
三
――子供を返せ! お前が喰ろうた、おらの子供を返せ!
屍の女が焦点の合わない目でにらんでいる。
子供の屍肉を喰ったような気がして、千鶴は手で口を押さえた。腹の中の物が込み上げて来そうだ。必死で堪えていると、春子が心配そうに大丈夫かと声をかけた。
「人が飯食うとる時に、そげなこと言うたらいけんでしょうが」
安子が知念和尚を叱りつけると、和尚は頭を掻いて千鶴に詫びた。
「悪かったぞな。もう、この話はおしまいにしよわい」
いえと千鶴は口を押さえながら言ったが、胃がなかなか落ち着いてくれない。しばらく息を大きく吸ったり吐いたりして気持ちを鎮め、それからお茶を一口飲むと、もう大丈夫ですと千鶴は言った。本当はまだ少し気分が悪いが、話を続けねばならない。
「今の話ですけんど……、鬼娘がそげな悪さするんがわかっとるんなら、なして村の人らは黙っとったんですか? ほれに、ここにおいでたご住職も、なして鬼娘がお寺に棲むんを許しんさったんでしょうか?」
千鶴の問いかけに、今度は春子が答えた。
「鬼娘はな、人の心を操ることがでけたんじゃと。ほれで、ここのお坊さまやお代官を味方につけて、我が身を護ったんやて」
何だか話がややこしい。千鶴は話を確かめながら喋った。
「じゃったら、ここにおった悪いお侍は、ここで鬼娘と争うたんじゃろか? ほのお侍らがお代官やご住職を殺めたんなら、鬼娘の敵いうことになろ?」
確かにほうならいねぇと春子はうなずいた。
「普段はおらんのがいきなし来たんなら、鬼娘もたまげた思うで。ほれも相手は刀持ったお侍やけんな」
そう言ったあと、春子は少し考えて、ほうかと一人うなずいた。
「そげなことで鬼娘とお侍が争うことになって、そこの浜辺で鬼とお侍が戦うたんよ。ほれをおらのひぃひぃじいやんが見んさったんじゃな。絶対にほうやで」
興奮気味に喋った春子は、千鶴を見ると慌てて自分の言葉を否定した。
「言うとくけんど、これはヨネばあやんの話がほんまのことと仮定しての憶測なで。ほじゃけん、山﨑さん、本気で聞いたらいけんよ」
うなずきはしたものの、春子の言うとおりかもしれないと千鶴は思った。
「結局、鬼娘はどがぁなったんぞなもし?」
千鶴が力なく訊ねると、ほんまのとこはわからんがと、知念和尚は前置きして言った。
「庫裏が焼けてからは、鬼娘はぱったり姿を消したそうな。ほじゃけん、鬼と一緒に黒い船に乗って海に逃げたんやないかと、おヨネさんの父親は思たみたいじゃな」
鬼と鬼娘の話に矛盾はない。話の辻褄は合っている。千鶴は暗い気持ちになった。
千鶴の顔色を見た安子が明るい声で言った。
「二人ともお箸が止まっとるよ。この話はおしまいにして早よ食べてしまわんと、すぐにお昼になってしまうぞな」
春子は急いで箸を動かし始めた。しかし、千鶴は箸を持つ手が震えてしまう。再び箸を止めた千鶴は、あと一つぎりと言った。少しでも鬼の話を否定する証が欲しかった。
「鬼がお侍と戦うた話がほんまなら、浜辺にその跡が残っとったんでしょうか? たとえば大けな足跡があったとか」
「足跡のことはわからんが、浜辺には侍連中の死骸が――」
知念和尚はそこで言葉を切ると、安子の顔を見た。安子は自分で考えなさいと言いたげな惚けた顔をしている。
「大丈夫ですけん。続けてつかぁさい」
千鶴が言うと、和尚はもう一度ちらりと安子を見てから続きを喋った。
「実際、浜辺に侍連中の死骸がごろごろあったらしいぞな」
「じゃあ、ほんまに鬼とお侍が?」
「ほれが前のご住職の話では、侍連中と戦うたんは代官の息子なんじゃと」
「お代官の息子? 鬼やのうて?」
うなずく和尚に、戦ったのは代官の息子だけなのかと春子が訊ねた。
ほうらしいと和尚が言うと、春子はヨネの言い分も忘れたかのように目を丸くした。
「こげな田舎におったにしては、相当な剣の腕前やったみたいぞな。浜辺の死骸は、どれも一刀のもとに斬り殺されとってな。そこに代官の息子の刀が落ちとったそうな。ほれで誰ぞが見たわけやないんやが、たぶん代官の息子がやったんじゃろいう話ぞな」
「そのお人にとっては憎き父の仇やけん、命を懸けて戦いんさったんじゃろねぇ」
安子がうなずきながら言った。
侍たちと戦ったのは鬼ではなかった。その話が真実なのかはわからないが、千鶴はそう信じたかった。
それにしても一人で大勢の侍を相手に戦うのは、勇ましいが切なくもある。千鶴は代官の息子を気の毒に思いながら、その姿を思い浮かべようとした。すると、何故かそれらしき場面がはっきりと見えた。というより、千鶴はそこにいた。
刀を抜いた一人の若い侍が、千鶴に背を向けて立っている。向こうを向いてはいるが、あの若侍だと千鶴は直感した。場所は浜辺で、千鶴は小舟に乗っていた。
刀を抜いて身構える若侍の姿は満身創痍に見えた。その向こうの松原から大勢の侍たちが刀を抜いて走って来る。千鶴は侍たちの狙いが若侍ではなく自分だと思った。若侍は千鶴を護るために、ただ一人侍たちの前に立ちはだかっていた。
「たった一人で戦うやなんて活動写真の主人公みたいぞな。そがぁながいなお人がおったやなんて信じられん」
興奮した春子の声で、千鶴は現実に引き戻された。今のはいったい何だったのか。ほんのわずかな合間のことではあったが、千鶴は本当に海辺にいた。そして、あの若侍は襲って来る侍たちから千鶴を護ろうとしていたのだ。
春子の言葉に、まったくぞなと知念和尚がうなずいた。
「恐らく父親の代官がかなりの腕前やったんじゃろなぁ。ほうでなかったら、こがぁな田舎で剣術の達人にはなれまい」
「けんど、おとっつぁんの方は悪いお侍らに殺されてしもたんでしょ?」
「たぶん不意を突かれたんやなかろか。屋敷を出たとこで殺されたそうなけん」
春子と和尚の会話は、動揺する千鶴の耳には聞こえていない。
今の白昼夢は妄想ではない。勝手に現れたのだ。本当にそこにいた感じは、若侍や鬼の夢と似ている。今とは別の自分がいて、その自分の世界を見せられたみたいだ。これはいったいどういうことだろう。
千鶴は和尚に怖々訊ねた。
「ほのお代官の息子さんのことは、何もわからんのですか?」
ほうなんよと和尚は言った。
「ずっと行方知れずでな。代官の息子がどがぁなったんかは誰にもわからなんだ。ほんでも、浜辺には刀の他にずたずたにされた血だらけの着物が残されとったそうなけん、最後には力尽きて海に流されてしもたんじゃろ」
千鶴は泣きそうになった。自分を護ろうとしてあの若侍が死んだと思えてならなかった。和尚の話と今の幻影が同じものである証拠はない。けれど、千鶴は若侍が代官の息子であるような気がしていた。
だがそうだとしたら、若侍が護っていた自分は、ヨネが見たという鬼娘だったのだろうか。前世の自分は鬼娘で、今のはその時の記憶だったのか。
思いもしなかった考えに千鶴はうろたえた。でも若侍と想い合っていた実感があまりにも強くて、その考えを否定できなかった。今のが前世の記憶であるならば、若侍や鬼の夢も実際にあったことに違いない。つまり、鬼はいたのだ。
千鶴の手が小さく震えた。これまで別の自分だと受け止めていたものは、蘇りつつある鬼娘の本性なのか。もしそうであるなら、いずれ自分は鬼娘になるのだろう。
四
「千鶴ちゃん、大丈夫?」
千鶴の暗い顔を、安子がのぞきこんだ。大丈夫ですと微笑んでみせたが、少しも大丈夫ではない。
千鶴を気にしているのか、春子が遠慮がちに言った。
「ほれにしたかて、お侍らと戦うたんが鬼にしてもお代官の息子にしても、もうちぃと見た者がおってもよさそうやのにね」
ほうなんやがなと知念和尚がうなずいて言った。
「代官屋敷が燃えたけん、みんなそっちの方に気ぃ取られよったんじゃろな。ほれに代官が殺されたんじゃけん、浜辺の様子見よる暇なんぞなかったんやなかろか」
目撃者がほとんどいないのは、知念和尚の推察どおりだろう。では浜辺で侍たちと戦ったのは鬼なのか、代官の息子なのか。きっとその両方だと千鶴は思った。
もしかしたら襲って来た侍たちは風寄に鬼がいるという噂を耳にして、鬼を退治しに来たのかもしれない。だから鬼娘の自分は狙われ、鬼に操られていた代官も和尚も殺されたのだ。あの若侍も千鶴を護ろうとして死に、そして鬼が現れた。そう考えれば全部の説明がつく。
気持ちが沈んだままの千鶴を見ながら、知念和尚は言った。
「代官は殺され、その息子も死んだと見なされたんじゃろな。ほれで代官の妻は髪を下ろして尼になり、ここで生涯、夫と息子を弔い続けたんよ」
「ここは元々お代官の家の菩提寺やったんかなもし?」
春子が訊ねると、ほうやないと知念和尚は言った。
「たぶん代官の菩提寺は松山にあろうが、代官の妻はこっちに墓を建てたんよ」
「なしてぞな?」
それは恐らく息子のためだろうと思うと和尚は言った。
「ここには代官の墓と代官の妻の墓はあるんやが、息子の墓はどこにもないんよ」
なしてないんぞな?――と千鶴は思わず声を上げた。千鶴にとっては、あの若侍の墓がないと言われたも同然だった。
知念和尚は、どうしてなのかはわからないと言った。代官の妻が暮らした庵は、この庫裏が新たに建てられる時に取り壊された。そこに記録が残っていたのかどうかは定かではないらしい。
「喧嘩両成敗ていうてな。相手がふっかけてきた争い事でも、斬り合いになってしもたら双方が咎めを食うんよ。ほれも、代官の息子が斬り殺したんは一人や二人やないけんな」
知念和尚が話すと、安子が補足して言った。
「ほんまかどうかは知らんけんど、死んだお侍の中には、外から来たお人もおったそうでな。ほれが立派なお家柄の所のお身内やったいう話もあるみたいなけん、ほれがいけんかったんかもしらんね」
「ほんなん無茶苦茶ぞな。あのお人はたった一人で、うちを――」
護ろうとしてくれたのにと言いそうになった千鶴は、慌てて口を噤んだ。
「あのお人?」
「うち?」
怪訝な顔の和尚たちに、千鶴はうろたえながら言い直した。
「すんません。あのお人やのうて、そのお人ぞなもし」
「うちを、ていうんは?」
安子が訊ねると、ほれはと千鶴は困惑した。
「あの……、お家を背負ってと言うつもりでした」
安子はうなずき、和尚もなるほどと言った。
「確かにほうよな。父親亡きあとは、息子がすべてを背負て戦うたわけよな。ほれじゃのにその息子の墓がないんは、まことに理不尽なことぞな」
「ほやけど、千鶴ちゃん。さっきのは自分が知っておいでるお人のこと、言うとるみたいじゃったね」
安子が笑うと、和尚も春子も笑った。鬼娘は自分の前世だと言えない千鶴は、下を向きながら恥じ入っていた。
「まぁ何にしてもそがぁな理由で、代官の息子にまともな墓を建てることは許されんかったんやと思わい。ほれで代官の妻は墓を建ててやれん息子のために、ここに残って夫と一緒に息子を弔うたんやなかろか」
和尚が話し終わると、ひょっとしてと春子が言った。
「そのお代官の息子も鬼娘に操られよったんかもしれんで」
すぐにはっとして千鶴を見た春子は、今のは嘘だと慌てて弁解をした。しかし、春子の言葉は千鶴には衝撃だった。
あの若侍を操って自分を命懸けで護らせたのだとすると、それは最悪だ。だけど自分とあの若侍は恋仲にあったのだ。その若侍をむざむざ死なせるはずがない。
千鶴は反論しそうになったが、できなかった。それでも胸の中は悶々としている。
動揺する千鶴を見て、この話はこれでおしまいにしましょわいと安子が言った。知念和尚もうなずくと千鶴を慰めた。
「とにかくな、事実は誰にもわからんのよ。いずれにしても祠がめげたあとも何ちゃ起こっとらんし、おヨネさんが千鶴ちゃん見て鬼娘て言うたんは、ただの勘違いぞな」
「ほじゃけんな、ヨネばあやんが言うたことは気にせんで」
春子が必死に頼むので、千鶴は黙ってうなずいた。頭の中は若侍のことを考えている。
もし鬼娘が前世の自分だとしたら、若侍はそのことを知った上で自分を好きになってくれたし、命懸けで護ろうとしてくれたに違いない。
その愛しい人を鬼娘のくせに助けられなかったのかと、千鶴は鬼娘の恐怖も忘れて自分を責めた。一方で、若者を助けなかったのは春子が言ったように、若侍がただの操り人形だったからなのかとも思えてうろたえた。
五
「和尚さま」
境内に面した障子の向こうから、誰かの声が聞こえた。
知念和尚は腰を上げると、障子を開けた。
そこは縁側になっていて、外に白髪頭の男が立っていた。伝蔵という寺男だ。
伝蔵は法生寺に住み込みで働いているが、昨夜は祭りでずっと村の者たちと一緒に過ごしていた。そのため千鶴は伝蔵とは初対面だった。目が合った時に千鶴は会釈をしたが、伝蔵は千鶴を見てぎょっとした。しかし、千鶴が春子の女子師範学校の友だちだと知念和尚から説明を受けると、ぎこちなく頭を下げた。
「ほれで、どがいしたんぞな?」
用事を訊ねる知念和尚に伝蔵は言った。
「権八が和尚さまに話があると言うとるぞなもし」
権八は近くに住む百姓で、毎朝寺に野菜を届けてくれる信心深い男である。さっきまで他の者と一緒にだんじりを動かしていただろうに、手が空いた隙に野菜を持って来てくれたようだ。
知念和尚が権八を呼ぶように言うと、伝蔵は横を向いて手招きした。すると、小柄な男がひょこひょこと現れた。
「権八さん、お祭りじゃのに、お野菜届けてくんさったんじゃね。だんだんありがとうございます」
安子が和尚の傍へ行って丁寧に礼を述べた。知念和尚も感謝をしたが、権八は嬉しそうに、とんでもないと手を振った。
その時、部屋の中にいる千鶴に気がつくと、権八は驚いて固まった。それで知念和尚が再び千鶴のことを説明しようとすると、先に伝蔵が口を開いた。伝蔵は千鶴が春子の学校の友だちだと権八に伝え、千鶴さんに対して失礼だと権八を叱った。
慌てて頭を深々と下げた権八は、頭を上げるとしげしげと千鶴を眺めた。
「こら、権八。ぼーっとしよらんで、和尚さまにお訊ねしたいことがあるんじゃろが」
伝蔵に言われてはっとなった権八は、ほうじゃったほうじゃったと和尚に顔を戻した。
「あんな、和尚さま。ちぃと教えていただきたいことがあるんぞなもし」
「ほぉ、どがいなことかな?」
「あんな、和尚さま。昨夜のことなけんど、辰輪村の入り口ら辺で、でっかいイノシシの死骸が見つかったんぞなもし」
春子の目がきらりと輝いた。春子はこんな話が大好きだ。
「昨夜? 昨夜いうたら、参道に屋台が集まりよった頃かな?」
知念和尚が訊ねると、権八はうなずいて言った。
「ほうですほうです。ほん頃ぞなもし」
「そげな頃に、でっかいイノシシの死骸が、辰輪村の入り口で見つかった言うんかな」
「ほうですほうです。辰輪村の連中は、道が通れんで往生した言うとりましたぞなもし」
権八の話を聞きながら、千鶴は小声で辰輪村とはどこのことかと春子に訊いた。
話に聞き入っていた春子は、山の方の村だと口早に説明した。
「道が通れんほど、でっかいイノシシなんか」
驚く和尚に、権八は両腕を目いっぱい広げて見せた。
「あんな、和尚さま。これよりもっとでかかったぞなもし」
安子も春子も驚いている。千鶴は権八の仕草を見て、狩りで仕留めたイノシシの自慢話をする祖父を思い出した。しかしそれ以外の何かが、記憶の中から這い出て来ようとしている。
「権八、お前、その目で見たんか?」
伝蔵が疑わしげに言った。権八は大きくうなずくと、確かに見たと言った。
「山陰の者が呼ばれるんを耳にしたけん、何があったんか訊いたらな、岩みたいなイノシシの死骸じゃ言うけん、見に行ったんよ」
「岩みたいて、こげな感じか?」
権八より体が大きい伝蔵が両腕を広げてみせたが、もっとよと権八は首を振った。
「真っ暗い中、行きよったら、道の上にでっかい何かがどーんとあったんよ。おら、大けな岩が転がっとんかと思いよったかい」
伝蔵は知念和尚を見た。権八の話が信じられないようだ。安子と春子も顔を見交わしている。だが千鶴は何かを思い出しそうな気がして、話に集中できずにいた。
知念和尚は驚きながらも落ち着きを見せて言った。
「そがぁにでっかいんかな。ほら、まっことがいなイノシシぞな。ほれは間違いのう山の主ぞ。ほんなんが祭りしよる所へ現れとったら大事じゃったな」
確かにと、みんながうなずき合ったあと、ほれにしてもと和尚は権八に言った。
「なしてそげな所でイノシシが死んどったんぞな? 誰ぞが鉄砲で撃ったんかな?」
「ほれがな、和尚さま。ほうやないんぞなもし」
「鉄砲やないんなら、病気かな?」
権八は首を大きく横に振った。
「あんな、和尚さま。鉄砲でも病気でもないんぞなもし」
「ほんなら何ぞな? なして死んだんぞ?」
「あんな、和尚さま。おら、ほれを和尚さまにお訊ねしたかったんぞなもし」
知念和尚は苦笑すると、権八さんやと言った。
「わしは、ほのイノシシをまだ見とらんのよ。今初めて権八さんから聞いたとこやのに、なしてわしがイノシシが死んだ理由を知っとると思うんかな?」
権八はまた首を横に振った。
「あんな、和尚さま。ほうやないんぞなもし。死んだ理由はわかっとるぞなもし」
「わかっとんなら、わしに訊くまでもないやないか」
「あんな、和尚さま。わかっとんやけんど、わからんのですわい」
「こら、権八。そげな言い方じゃったら、和尚さまがお困りになろうが」
伝蔵が叱りつけると、権八は小さくなった。
「まぁまぁ、伝蔵さん。そがぁに言わんの」
安子が面白そうに言った。
知念和尚は少し困った様子で、権八に言った。
「申し訳ないが、権八さんが何を言いたいんか、わしにはわからんぞな。権八さんがわかっとる、イノシシが死んだ理由を先に言うてくれんかな」
わかりましたぞなもしと、権八は横目で伝蔵を見ながら言った。
「そのイノシシの死骸はな、頭ぁぺしゃんと潰されとったんぞなもし」
「何やて? 頭を潰されとった?」
知念和尚の顔に一気に緊張が走った。安子の顔から笑みが消え、春子は口を開けたまま千鶴を見た。
「権八さん。ほれはまことの話かな?」
不安げな和尚に、権八は大きくうなずいた。
「おら、この目でちゃんと見たぞなもし。こんまいイノシシでも、あげに頭ぁ潰すんは並大抵のことやないぞなもし。ほやのに、あの岩みたいなでっかいイノシシの頭がな、ほんまにぺしゃんこに潰されとったんぞなもし」
「嘘じゃろ?」
疑う伝蔵に、権八は不満げな目を向けた。
「おら、嘘なんぞつかん。嘘じゃ思うんなら、辰輪村の者でも山陰の者でも訊いてみたらええ」
伝蔵が言い返せずに口籠もると、権八は和尚に言った。
「ほじゃけんな、和尚さま。イノシシが死んだんは頭ぁ潰されたけんじゃと、おらは思うんぞなもし」
「ほれは、わしもそがぁ思わい」
和尚がうなずくと、権八は続けて言った。
「ほんでな、和尚さま。おらが和尚さまにお訊ねしたいんは、何がイノシシの頭ぁ潰したんかいうことなんぞなもし」
もう一人のロシアの娘
一
権八によれば、奇妙な死に様にも拘わらず、イノシシの死骸は昨夜のうちにさばかれて、多くの者の腹を満たしたらしい。権八もそのうちの一人だ。
イノシシの死骸を見たばかりか、その肉を食べられた権八を春子は羨ましがった。せめて残った骨や毛皮を見たいと春子が言うと、山陰の者の所にあると権八は話した。それを聞くと、春子は残念そうにしながらあきらめた。
千鶴は山陰の者が何者なのかがわからない。なのにその説明をしないまま、春子はイノシシの死骸があった場所を確かめたいと言いだした。神輿は夕方神社に戻るまで、周辺の村々を練り歩く。その間、自分たちには暇があるので見に行くと言うのだ。
わざわざそんな所へ行くのはよしなさいと、和尚夫婦は口を揃えて忠告した。しかし、春子は余程イノシシに未練があるみたいで、千鶴に無理やり賛同させた。
何がイノシシの頭を潰したのかという権八の素朴な問いに、知念和尚は答えることができなかった。好い加減なことは言えないのだろうが、まともに答えるのはとても恐ろしいことだったに違いない。ただでも怖い思いをしているのに、そんな不穏な死に方をしたイノシシの死骸があった場所になど、当然ながら千鶴は行きたくなかった。
またイノシシの話を聞いてから、千鶴は何かを思い出しそうな気がしていた。だけど、それを思い出してはいけないように感じていたし、思い出すかもしれないのが怖かった。
でも、世話になっている春子がどうしても見たいと言えば断ることはできない。それで嫌だと言わずに黙っていたのを、春子は千鶴が賛同したと強引に見なしたのだ。
千鶴が拒まなかったからか、和尚たちも無理には引き留めなかった。それで千鶴は渋々ながら春子と一緒にイノシシの死に場所を見に行くことになった。
道すがら千鶴は山陰の者について訊ねてみた。するとご機嫌だったはずの春子は、むすっとした顔になって話を始めた。
山陰の者とは、文字通り山陰になった所に暮らす人たちのことで、血生臭い仕事を生業としていたらしい。そのため村人たちは山陰の者を嫌うのだが、村人たちと諍いを起こす乱暴者もいるので、余計に嫌われていると春子は言った。
喋っている時の表情から、春子が山陰の者を毛嫌いしていると千鶴は理解した。山陰の者の所にあるというイノシシの骨や毛皮を、春子が見に行かないのはそのためだろう。
けれども、春子の態度は明らかに差別だ。相手が誰であれ、差別をする親友を見るのはつらかった。またその差別の矛先が、いつ自分にも向けられるかと思うと落ち着かない。今は親友として扱ってくれているが、春子の機嫌を損ねたら、山陰の者と同じ待遇を受けるのではないかと心配になる。
そう思うのは千鶴がロシア兵の娘だからだが、実は鬼娘だとなれば、それこそただでは済まないだろう。みんなで恐れ戦いて逃げ出すか、あるいは徹底的に千鶴を排除するに決まっている。
そんなことを心配する千鶴の傍らで、春子はため息をつきながら、山陰の者への悪態をついた。その様子は千鶴をさらに不安にさせた。
千鶴たちは辰輪村へ向かう川辺の道を進んで行った。途中にやたら木の枝が落ちている所があったが、そのすぐ先に死骸があったと思われる血溜まりの跡が見つかった。そこにはイノシシの頭がめりこんだと思われる大きな窪みがあり、どす黒くなった血が固まっている。
周辺には肉片や骨片の一部が血と一緒に飛び散り、胸悪くなる血の臭いと獣の臭いが漂っている。ここでイノシシが死んだのは間違いない。道をふさぐほどの大きさだったと権八は言ったが、ここに立ってみると、どれほどイノシシが大きかったかがわかる。まさに岩のごとき大きさだ。
血糊と血の臭いは、夢で見た地獄を千鶴に思い出させた。あの生温かくぬるりとした感触が足の裏に蘇り、千鶴は小さく身震いをした。
「イノシシはこっち向いてうずくまっとったていうけん、この奥から来たんじゃね」
春子が鼻を押さえながら道の奥を指差した。同じく鼻を押さえながらそちらを見遣った千鶴は、何だか胸騒ぎを覚えて戸惑った。もう去ぬろうと春子に声をかけたが、辺りを調べ始めた春子が、うんというわけがない。生返事をするばかりで一向に戻るつもりはなさそうだ。仕方がないので、千鶴は辛抱して左手を流れる川を眺めた。
ことこと流れる川のせせらぎは、嫌な気持ちを洗い流してくれる。しばらくせせらぎに耳を傾けていると、千鶴は以前にもここにいたことがあるような気がした。
千鶴が川音を聞いている間、春子はイノシシの頭を潰した物の痕跡を探した。しかし、辺りには大きな岩も太い巨木も落ちておらず、春子は両手で鼻をふさぎながら、うーんと唸っている。
「何もほれらしい物はないで。山﨑さん、どがぁ思う?」
何がイノシシの頭を潰したかなど考えたくもない。早く戻りたい千鶴は、わからんと素っ気なく答えると、川の向こうへ目を遣った。すると、そこにある丘陵と手前の畑の縁に一部崩れた所があった。一昨日の大雨で崩れたのだろうか。
その時、頭上の木の枝でカラスが鳴いた。驚いた春子がカラスに怒鳴ると、カラスはばさばさと飛び去った。
千鶴は妙な気分になった。前にも今見たのと同じ場面に出くわした気がしたのだ。落ち着かない気持ちで近くの木々の枝先を見上げた千鶴は、おやと思った。
道の上には、横の山から突き出すように生えた木と、川の岸辺に生える木が、軒みたいに枝を伸ばして隧道のようになっている。それがちょうど千鶴たちがいる所から、来た道を少し戻った辺りまで、枝先の多くが折れているのだ。折れてなくなった枝もあれば、折れたままぶら下がっている枝もある。
下に目を落とすと、同じ場所の道端に先ほど見た小枝が落ちている。これはどういうことなのか。
「ちぃと奥の方も見てみよわい」
春子は血溜まりの向こうへ千鶴を誘った。でも、血だらけの道を行くなどとんでもない。自分はここにいると千鶴が言うと、春子は血を避けながら一人で奥へ向かった。
一人残った千鶴は川音が気になった。さっきのカラスも引っかかっている。
もし自分がこの場所にいたとすれば、それは昨夕しかない。ヨネに鬼娘と言われたあとだ。だが、そうだとしても今は昼間だ。夕方なら思い出せるかもしれないが、日暮れ時とは様子が違うので何もわからない。虫たちも今は比較的静かだが、だんじりを眺めた時には、多くの虫の音が聞こえていた。きっとここも夕方は賑やかだったはずだ。
千鶴は目を閉じて川音に耳を澄ませた。そして昨夜聞こえた虫の音を思い出し、それを頭の中で川音と重ねてみた。
そうしてしばらく川音を聞いていたら、次第に頭がぼーっとしてきた。何だか川のせせらぎが、どこかへ誘おうとしているようだ。そのまま川音の囁きに耳を傾け続けると、目蓋の闇はいつの間にか本物の闇になった。
二
千鶴は濃い夕闇に包まれた道に立っていた。人気はなく、川音と虫の音だけが聞こえている。春子と一緒にここへ来たことは忘れ、頭の中はヨネに鬼娘だの化け物だのと言われた悲しみでいっぱいだ。でも近くに何かが潜んでいるようで怖い気持ちでもあった。
闇に埋もれた道の先に、大きな岩のような黒い影が現れた。その影は千鶴に気づくと突進して来た。恐怖に呑み込まれた千鶴は、あの時みたいに気を失いかけた。戻っていた春子が咄嗟に支えてくれなければ、血溜まりの中に倒れているところだった。
正気に戻った千鶴はがくがく震えた。その様子に春子は大いにうろたえた。
どうしたのかと春子に訊かれたが、本当のことなど言えるわけがない。何でもないとごまかすしかなかったが、声も体も震えが止まらない。
昨夕、自分はここにいた。春子の家を飛び出してここまで来たのだ。そして、あの化け物イノシシに襲われたのである。にも拘わらず、自分は無傷のまま法生寺で和尚夫婦に見つけられ、イノシシは何かに頭を潰されて死んだ。そのことは何を意味しているのか。わかっているのは恐ろしい何かが起こったということだ。
安子が言ったように、お不動さまが護ってくれたのだとすれば、イノシシの命を奪ったりはしないはずだ。頭を潰して殺すなど、御仏のすることではない。
思い出した恐怖と新たな恐怖で、千鶴は思考も体も強張って動けない。闇から落ちて来た巨大な毛むくじゃらの足が、脳裏に浮かんでいる。
「ごめん、こがぁな所に連れて来たおらが悪かった。もうイノシシはええけん去ぬろう」
春子はうろたえながら平謝りだ。
震えながらふと視線を落とした千鶴は、血溜まりの手前にも大きな窪みがあることに気がついた。道には牛車などの轍があるが、その轍が窪みの所で潰れている。さっき通った時には気にならなかったが、今は窪みがとても大きな足跡に見える。
小枝が落ちているのは窪みの両脇だ。上を見ると、そこに伸びている枝の先がいくつも折れて、ぽっかりと空が見えている。何か巨大なものの姿がそこに見えるようだ。
恐ろしさを堪えながら横を見ると、川向こうの丘陵と畑の崩れた所が視界に入った。これも今は大きな生き物が通った跡みたいに思えてしまう。これが足跡だとすると、どこへ向かったのか。
はっとなった千鶴は愕然となった。ここへ来るのに、丘陵に沿った道を歩いて来たからわかる。丘陵の先にあるのは法生寺だ。恐怖が絶望となり、千鶴の目から涙がこぼれた。
慌てた春子は千鶴を抱えるようにして血溜まりを後にした。千鶴に自慢の村祭りを見せるつもりが、昨日から大失態の連続で、春子は気の毒なくらいおろおろしている。しかし、千鶴には春子を気遣う余裕がない。
何がイノシシの命を奪ったのか。千鶴はイノシシに襲われた記憶は取り戻したが、イノシシが殺されるところは見ていない。だけど答えは明らかだ。鬼が現れたのである。
イノシシが殺されたのは、千鶴を襲ったからだろう。つまり、鬼娘を襲ったがためにイノシシは悲惨な殺され方をしたのだ。
鬼が千鶴を法生寺まで運んだのも、そこが鬼娘の棲家だったからだ。きっと前世と同じようにやれというのだろう。その時に鬼は千鶴が鬼娘の本性を取り戻すべく、何らかの働きかけをしたに違いない。若侍のことを思い出したり、地獄の夢を見たりしたのはそのせいだ。どんな思惑かは知らないが、千鶴の記憶を奪ったのも恐らく鬼の仕業だ。
夢や幻影で千鶴は自分は鬼娘ではないかと疑った。だけど、絶対にそうだと断定はできなかった。だが襲って来たイノシシの無残な死を突きつけられては、もう否定ができない。自分は鬼娘なのだ。
思いがけず風寄へ来ることになったのは、鬼に呼び寄せられたからだ。祭りが大雨でずれたのも、千鶴を呼ぶために鬼がやったのだろう。
あまりの恐怖に鬼を慕う気持ちは隠れてしまった。黙って歩いていても、涙が勝手にあふれ出す。
泣きそうな顔で何度も詫びる春子に、もう大丈夫だからと千鶴は涙を拭いて何とか笑みを作ってみせた。それでも自分は鬼娘だったという衝撃が、ずっと胸を貫いたままだ。
春子は千鶴を元気づけるために、このあと神輿が戻るまでどうするかを懸命に喋った。しかし、その声は千鶴の耳を空しく通り抜けるばかりだった。
三
「詣てこい!」
人で埋め尽くされた境内の中、そこにいる者たちに向かって、神輿に乗った男二人が挑発するように声を上げる。それに応じて周りの男たちも、詣てこい!――と声を返す。さらに二人が叫ぶと、周りも叫び返す。
声の掛け合いを続ける男たちの周りは、野良着姿の見物人で固められている。見えるのは頭ばかりで、誰が舁夫で誰が見物人なのか、よく見なければ区別がつかない。
神輿の近くには男たちが集まり、女たちは遠慮がちにその外側から神輿を眺めている。それでも気の強そうな女たちは男に交じって人垣の中で叫んでいるし、中に入れず外から叫ぶ男たちもいる。
境内にうねりとなって広がる熱気と興奮。そこにいるすべての者がこれから行われることを、今か今かと目を輝かせて待っている。
このあと神輿は三十九段ある神社の石段の上まで運ばれ、そこから下を目がけて投げ落とされる。投げ落としは、神輿が壊れて中の御神体が出て来るまで、何度でも繰り返される。神輿は全部で四体あり、一体が壊されると次の神輿が運ばれて来る。そうして四体全部が壊されるまで投げ落としは続く。
千鶴たちは松山へ戻らねばならないので、すべての投げ落としは見られない。それでも暇が許す限り見たいと春子は言った。春子にすれば、幼い頃からお馴染みの祭りである。しかも四年ぶりの祭りだ。興奮するのが当然だ。
千鶴にしても、この祭りの醍醐味を見られるのだ。本当であれば、もっと浮かれた気分になっていただろう。だけど今は祭りどころではない。イノシシに襲われた記憶を取り戻してから、ずっと恐怖と不安が頭に張りついたままだ。
世話になった和尚夫婦に感謝を告げて別れの挨拶をした時も、春子の家に立ち寄ってイネやマツと談笑した時も、何も考えられなかった。とにかく必死に笑顔を作ったが、何を喋ったのかは覚えていない。
これから自分に起こるであろう恐ろしいことを考えると、千鶴は泣き崩れてしまいそうになった。けれど春子を心配させるわけにはいかないので、懸命に涙を堪えて平静を装っていた。
一方、春子は千鶴が動揺を隠しているのはわかっている。動揺の本当の理由は知らなくても、自分が千鶴をイノシシが死んだ場所へ連れて行ったせいだと、責任を感じているに違いない。
千鶴は人垣から少し離れた所から神輿を眺めていた。春子は人垣の中に入って騒ぎたいようだが、辛抱強く千鶴に付き合っている。
「村上さん、うちのことは構んでええけん、もうちぃと傍で見ておいでや」
千鶴が声をかけても、春子は微笑み、ええんよと言った。しかし、そわそわしているところを見ると、やはり行きたいらしい。
鬼のことはともかく、千鶴は見知らぬ人ばかりの人混みが好きではない。夜であれば暗がりに紛れることができるが、明るいうちは千鶴の姿は人から丸見えだ。ロシア兵の娘がいるぞといわれるのが嫌だった。
春子は落ち着きなく神輿を見ていたが、いよいよ神輿が階段の上へ動き始めると、ついに我慢ができなくなったようだ。
「山﨑さん、やっぱし、もうちぃと前に行こや! 向こうの階段の傍へ行こ!」
春子は千鶴の手をつかむと、人垣へ突っ込んだ。千鶴は抗う間もなく人垣の中へ引っ張り込まれ、誰かにぶつかるたびに、すんませんと詫び続けた。
千鶴を初めて見た者たちは、一様にぎょっとした顔になった。中には悲鳴を上げる者までいて、千鶴は自分の顔が鬼になっているのではないかと不安になった。
春子は人をかき分けながら、どんどん奥へ進んだ。途中で千鶴の手が離れたが、春子はまったく気づかないまま行ってしまった。
一人取り残された千鶴は、周囲の人々に四方から押されて身動きが取れない。周りにいる者たちの目は、神輿ではなく千鶴に向けられている。好奇と侮蔑の目に囲まれた千鶴は、下を向くしかできなかった。
「こら、さっさと出てかんかい! 祭りが穢れようが!」
近くで怒鳴り声が聞こえた。千鶴は驚いて顔を上げたが、誰が怒鳴ったのかはわからない。みんなが千鶴をにらんでいるみたいだ。
すんませんと言ってまた下を向くと、千鶴は外へ向かおうとした。その時、再び怒鳴り声が聞こえた。
顔を上げると、少し前の方で若い男が他の男たちに人垣の外へ押し出されようとしている。自分ではなかったのかと安堵したが、千鶴は罵られている若者が気の毒で悲しくなった。若者は春子のように、ただ神輿を近くで見たかっただけなのだろう。
同じ村の者であるなら、こんなことを言われたりはしないはずだ。きっと若者は山陰の者に違いない。ちらりと見えた継ぎはぎだらけの着物が、若者の貧しさを物語っており、それも千鶴の悲しみを深くした。
しかし、そんなことを考えている暇はなかった。次こそ自分が怒鳴られる番だ。その前に外へ出なくてはならない。
人垣は鳥居の外にまであふれていた。その中を若者はどんどん押し出されて行く。
この場から逃げたい気持ちと、追い出された若者への共感から、千鶴は若者の後を追って人垣の外を目指した。人を押し分けながら、やっとの思いで鳥居の外へ出てみると、先に押し出されたはずの若者の姿はどこにも見当たらなかった。
神社はこんもりした丘の上にある。その丘に沿って南へ向かう道があるが、その道には人の姿がない。
気疲れした千鶴は南へ向かう道を少し歩いた。春子のことは気になったが、村人の集団から離れたかった。すると、不意に後ろから呼び止められた。
「千鶴さん……やったかの?」
驚いて振り返ると、春子の従兄源次がいた。後ろには連れの仲間三人が立っている。
四
「こげな所で、何しよんかい?」
源次が訝しげに言った。突然声をかけられたことで、千鶴は動揺していた。
「あ、あの……、人を探しよったもんですけん」
「人て、誰ぞな?」
「名前は知らんのですけんど、継ぎはぎの着物を着た男の人ぞなもし。どこへ行てしもたんか……」
源次と目を合わせたくないので、千鶴はさっきの若者を探すふりをして横を向いた。それでもさっきの若者が気になっていたのは事実だ。それに若者が見つかれば源次たちから離れられるという期待もあって、千鶴は本気で若者を探した。だけどやはり若者はいない。
源次たちは、千鶴が口にした男が誰なのか見当がついたらしい。あいつかとうなずきながら、互いに目を見交わした。
千鶴に顔を戻した源次はにこやかに言った。
「そいつとは知り合いなんかの?」
「ほういうわけやないですけんど、ちぃと気になったけん」
「ほうかな。ほれじゃったら、おらたち、そいつがおる所知っとるけん、連れてってあげよわい」
「いえ、そがぁなこと無理にせいでも構んですけん」
「そげに気ぃ遣わいでも構ん構ん。すぐそこじゃけん、ついて来とうみや」
源次はにこやかに先頭に立つと、千鶴がいた道をさらに先へ進んだ。しかし、千鶴はその若者をちらりと見かけただけで、顔も合わせていない。そんな相手の所へ連れて行かれても、お互いに困るだけだ。何の用かと聞かれても返事のしようがない。さっきは若者が現れてくれればと思ったが、今は困惑するばかりだ。
後ろの男たちに促されて、千鶴も仕方なく歩き始めたが、強引というか、何だか異様な雰囲気だ。
「あの、ほんまに、もう構んですけん」
「もう、そこぞな。そこをな、左に曲がった先におるけん」
もうちぃとじゃけんと、後ろの男たちも笑みを浮かべながら言った。その笑みは何だか薄気味悪かった。
道なりに左へ曲がると、神社や参道が丘の陰になって見えなくなった。人々が叫ぶ声は聞こえるが、遠くで騒いでいるみたいだ。
千鶴は辺りを見まわしたが、そこには建物もなければ人気もない。刈り取りが終わった田んぼがある他は、何もない道が丘沿いに続いているだけだ。
「あの……、あのお人はどこに――」
「千鶴さん」
立ち止まった源次は振り返ると、千鶴の言葉を遮って言った。
「昨夜は春子の家やのうて、法生寺に泊まったんやて?」
「え? は、はい」
怪訝に思いながら、千鶴はうなずいた。
「春子に言われたけん、昨夜はな、千鶴さんに会お思て、必死に酔いを覚ましよったんよ。ほれやのに、聞いたら法生寺におる言われてな。おらたち、法生寺まで押しかけよかて思いよったかい」
「ほ、ほうなんですか」
源次が何を言いたいのか、千鶴には理解ができなかった。あとの言葉が続かず黙っていると、源次は千鶴の両手首をぎゅっとつかんだ。
「千鶴さん、昨夜果たせなんだ想いを、今ここで果たさせておくんなもし」
「え? な、何のこと――」
源次はぐいっと千鶴を引き寄せると、抱きついてきた。
「ち、ちぃとやめてつかぁさい。人を呼びますよ!」
「呼んでみぃや。誰っちゃ来んで。みぃんな神社に集まっとるけんな」
源次は暴れる千鶴に口を突き出して接吻を迫った。他の三人は千鶴の周囲を取り囲みながら、異人の女子はどがぁな味じゃろかと笑い合っている。
千鶴は源次から顔を背けながら、何とか右手で源次の顔を押し戻した。
「あんた、村上さんの従兄なんじゃろ? こげなことして許されるて思とるん?」
「別に許してもらうつもりはないけん。ほれに、ロシア兵の娘を手籠めにしたとこで、誰っちゃ文句は言うまい」
源次はもう一度千鶴の両手を押さえると、勝ち誇った顔で言った。
「昨日はみんなに歓迎されたて思たろが、そげなことあるかい。どこの村にもロシア兵に殺された者や、片輪にされた者がおらい。みんな春子に合わせて歓迎するふりしよったぎりじゃい」
「そげなこと――」
「あの家に信子いう女子がおったろ? あいつの父親は村長の弟でな、おらたちは従兄妹同士よ。あいつの父親はな、ロシア兵に殺されたんじゃい。あいつがまだ三つの頃よ。その仇を取ってやるんじゃけん、信子も孝義も村長もみんな喜んでくれらい」
源次の言葉は千鶴の胸を深く抉った。鬼娘である以前に、村の者たちがロシア兵の娘なんかを、快く受け入れるはずがなかったのだ。
それでも春子の家族に敵の娘という目で見られていたとは、やはり信じられない。みんな家を飛び出した自分を心配してくれたし、春子の兄は励ましの声をかけてくれた。
「村上さんはそがぁなこと言わん! あんたは村上さんも対じゃて言うん?」
千鶴が言い返すと、源次はふんと鼻で笑った。
「あいつが生まれたんは戦争が終わってからやけんな。叔父いうても、ぴんとこんじゃろし、戦争のこともわかっとらん。ほんでも、あいつ以外はみーんなロシアは敵よ」
確かに身内をロシア兵に殺されたのなら、ロシアは憎い敵だ。千鶴の家でも伯父が戦争で死んだ。だから千鶴の祖父母は未だにロシアを憎んでいるし、ロシアの血を引く千鶴を疎んでいる。春子の家族にしてもロシアを憎む気持ちは同じだろう。歓迎してくれたように見えたのは、源次が言うとおり、春子の顔を立てただけなのかもしれない。
言葉を返せない千鶴は、源次に抗う力を失った。千鶴がおとなしくなったので、源次は得意げに仲間たちを見た。
「言うとくけんど」
千鶴は力なく源次たちに言った。もうすべてがどうでもよく思われた。どうせ自分はロシア兵の娘であり、鬼娘なのだ。
「これ以上、うちに手ぇ出したら、どがぁなっても知らんけんね」
「ほぉ、やくざの姉やんみたいなこと言うんじゃな。面白いやないか。おらたちをどがぁするんぞ? ほれ、やっとうみや」
源次が千鶴を小馬鹿にすると、仲間の男たちもへらへら笑った。
千鶴は鬼娘の気分になっていた。鬼娘がこんな人間の屑の玩具になってたまるものかと思った時、千鶴は源次の左腕に噛みついていた。
「痛っ!」
思いがけない千鶴の反撃に、源次は反射的に右手を振り上げた。だが、千鶴は避けるつもりはなかった。自分に手を出せば、この男たちは鬼の餌食にされるだろうと考えていた。そして、そうなっても構わないとさえ思っていた。
ところが、現れたのは鬼ではなかった。
五
源次が振り上げた右手は、後ろから伸びて来た別の手につかまれた。驚いた源次が振り向くと、そこに若い男が一人立っていた。
「祭りの日に女子を襲うとはの。神をも恐れぬ不届き者とは、お前らのことぞな」
それは千鶴が探していた、あの若者だった。継ぎはぎだらけの着物がその証だ。
若者は切れ長の目に、鼻筋の通ったきれいな顔立ちをしていた。着ている物は貧しくとも、若者の顔や雰囲気には気品があった。
一方の源次と仲間の男たちは、いかにも祭りが似合っている荒くれ男だ。体も若者より大きい。助けてくれるのは嬉しいが、一対一でも若者には分が悪そうだ。なのに相手は四人もいる。と思ったら、源次の仲間の一人はすでに地面に倒れ、腹を押さえながら声も出せずに苦しんでいた。他の二人はあまりの驚きに固まっている。
「おどれ!」
叫んだ源次は千鶴を離して若者につかみかかろうとしたが、若者はつかんだ源次の腕を、素早く後ろへ捻り上げた。
「痛てて!」
源次が苦痛に顔をゆがめると、我に返った仲間の二人が若者に襲いかかった。
若者はすかさず近くの男に向かって源次を蹴り飛ばすと、飛びかかって来た別の男を、見事な一本背負いで地面に叩きつけた。その勢いは凄まじく、叩きつけられた男は息ができないのか声も出せず、強張った顔のまま地面に張りついたみたいに動かない。
仲間の一人と一緒に田んぼに落ちた源次は、捻られた腕を押さえながら起き上がると、若者をにらみつけた。その後ろで遅れて立ち上がった仲間の男は、若者の一本背負いが見えたのだろう。驚き怯えた様子で喚いた。
「お、お前、そげな技、いつの間に身に着けたんじゃい!」
「生まれつきぞな」
若者は涼しい顔で答えると、田んぼに降りて源次たちの方へ近づいた。
源次は若者に殴りかかったが、若者は源次の拳を難なく受け止めると、そのまま源次の懐に入り込んだ。その一瞬で源次は足を払われ、為す術もなくひっくり返った。あまりの見事さに千鶴は思わず感嘆の声を上げた。
若者は呻く源次を軽々と担ぎ上げると、うろたえるもう一人の男に向けて投げつけた。石を投げたがごとくに飛んだ源次を、男は避けることも受け止めることもできず、一緒になって後ろへ吹っ飛んだ。見た目には力持ちに見えないが、若者は相当な怪力の持ち主のようだ。
仲間を下敷きにした源次は、動くこともできずに苦悶の声を上げている。その下で同じように仲間の男が呻いている。
若者は源次を見下ろしながら嘲るように言った。
「無様よの。己一人じゃあ何もできぬくせに、村長の甥であることを鼻にかけ、腐った仲間の頭を気取る屑め。今の貴様の惨めな姿こそが、真の己と知るがええ」
若者の物言いは、差別をされて小さくなっている者には思えない。まるで源次よりも上に立つ者の言葉みたいだ。
源次はよろめきながら立ち上がったが、その顔は屈辱にゆがんでいる。源次が立つまでの間、若者は何もせずに腕組みをしながら源次を眺めていた。それは若者の余裕を示すものであり、源次は完全に圧倒されていた。
「お前、なしてこの女子の肩を持つんぞ。こいつはロシア兵の娘ぞ」
若者を見くびっていたであろう源次は、驚きと焦りの顔で若者を詰りながら、若者の横へ回り込もうとした。
「ほれが、どがぁした?」
体の向きを変えた若者は前に歩み出た。源次は慌てて後ろへ下がりながら、空威張りの笑みを見せた。
「ははぁん、わかったわい。お前、おらたちを追わいやってから、一人でこの女子をいただこ思とんじゃろげ。違うんか?」
源次にすれば精いっぱいの反撃なのだろう。若者は源次の侮辱に応じなかったが、怒りが滲み出ていたようだ。若者が黙って足を踏み出すと、源次は笑みを消してさらに下がった。だが、そこにある稲の切り株に足を取られて尻餅をついた。
一方、源次が若者を挑発している間に、初めに倒された男が腹を押さえながらよろよろと立ち上がり、後ろから若者に飛びかかろうとした。
「危ない! 後ろ!」
千鶴が思わず叫ぶと、若者は前を向いたまま、すっと体を脇に避けた。まるで背中に目がついているみたいだ。
目標を見失った男がよたよたと前に出ると、若者は男の背中を蹴り飛ばした。男は勢いよく源次の上まで飛び、源次は男の下敷きになった。
若者は千鶴を振り返ると、礼を述べるように会釈をした。千鶴はどきりとしたが、若者はすぐに源次たちに顔を戻した。
源次は腹を立てながら仲間の男を押しのけると、何とか立ち上がったがふらふらだ。若者を見るその顔は明らかに狼狽しているが、まだ強気を装って源次は言った。
「お前、みんなから除者にされよるんが面白ないんじゃろが。ほじゃけん、おらたちがすることに逆らいとうなるんじゃろ?」
先ほど源次の下敷きにされた男は、ほういうことかと言いながら体を起こした。男は若者の機嫌を取ろうとしているのか、にやけた顔で立ち上がりながら若者に話しかけた。
「今日からお前をおらたちの仲間にしちゃろわい。お前かて、ほんまはその女子が欲しいんじゃろが? 格好つけたりせんで、おらたちと一緒に楽しもや」
な?――と男が媚びるような笑みを見せると、若者の顔は怒りにゆがんだ。
「この下司どもが!」
若者は吐き捨てるように言うと、にやけた男を捕まえてその股間を蹴り上げた。一瞬宙に浮いた男はそのまま地面に倒れ、股を押さえながら悶え苦しんだ。
「ほれで二度と女子を抱くことは敵うまい」
若者が倒れた男を冷たく一瞥すると、蹴り飛ばされた男が起き上がって、若者に飛びかかった。しかし、この男も一本背負いで地面に叩きつけられ動かなくなった。
「次は貴様の番ぞ」
若者が源次に向き直ると、源次はびくりとなった。源次の方が体が大きいのに、怯える源次は若者よりも小さく見えた。しかし逃げられないと観念したのか、源次はいきなり若者につかみかかった。
若者は源次と両手を組み合った。千鶴からは二人が力比べをしているみたいに見えたが、どちらが強いのかは一目瞭然だ。
源次は必死の形相だが、若者の表情は変わらない。源次の両手は甲の側に折り曲げられ、両膝を突いた源次は悲鳴を上げた。源次の両手首は折れる寸前だった。
「いけん!」
千鶴が叫ぶと、若者は千鶴を見た。
「ほれ以上はいけんぞな」
千鶴はもう一度叫んだ。
「助かったな」
若者は少し不満げに源次に言うと、源次を後ろへ蹴り倒した。
源次は握った形の両手を合わせ、地面に倒れたまま苦しそうに唸った。折れるのは免れたが、両方の手首と指はかなり痛めたと思われる。
源次は両手をかばいながら立ち上がると、まだ虚勢を張って若者に悪態をついた。
「お、おどれ、おらたちにこげな真似しよってからに。あとでどがぁなるか覚えとけよ」
「お前らの方こそ気ぃつけぇよ。今日はこのお人に免じて、こんで勘弁してやるがな、今度このお人に手ぇ出したら、ほん時は手首やのうて、その首へし折るけんな」
若者は気負うことなく静かに言った。だがその分、凄みがあった。脅しではなく、本気で言っているみたいに聞こえる。
源次は恐れをなしたのか何も言い返さず、倒れている仲間に何度も声をかけたり蹴飛ばしたりして無理やり立ち上がらせた。それから千鶴と若者をにらみつけると、よろめく仲間たちを急き立てながら逃げて行った。
六
源次たちが姿を消した曲がり道の向こうからは、相変わらず神輿を壊す騒ぎ声が聞こえてくる。
源次たちを見送った若者が千鶴に向き直ると、千鶴は深々と頭を下げた。
「このたびは危ないとこを助けていただき、まことにありがとうございました」
やめてつかぁさいと若者は人懐こそうな笑顔になった。先ほどの鬼神のごとき人物と同じ人間とは思えない。
「大したことしとらんのに、そがぁに頭下げられたらこそばゆいわい。ほれに女子の前であげな荒っぽいとこ見せて、却って怖がらせてしもたわいな。堪忍してつかぁさいや」
頭を掻く若者に、千鶴は遠慮がちに言った。
「あの、さっき境内から追わい出されましたよね?」
ありゃと若者は恥ずかしそうに頭の後ろに手を当てた。
「見られてしもたんか。こりゃ、しもうた」
「うち、あなたを探しよったんぞなもし。けんど、どこ行てしもたんかわからんで……。ほしたらあの人らに、あなたの所に連れてったるて言われて……」
千鶴の話に若者は驚いたみたいだった。
「ほうじゃったんか。ほんでも、なしておらを?」
千鶴は言うべきかどうか迷った。だけど若者が返事を待っているので、意を決して言うことにした。
「初めてお会いした人にこげなこと言うんは失礼なけんど、あなたがみんなから除者にされよるん見て、他人事には思えなんだんぞなもし。うち、日露戦争ん時のロシア兵の娘じゃけん、似ぃたようなことがしょっちゅうあるんぞな」
ほうなんかと若者は暗い顔を見せたが、すぐに明るく微笑んだ。
「ほんでも大丈夫ぞな。千鶴さんにも、いつか必ず幸せが訪れるけん」
若者の言葉に、千鶴は目を瞬かせた。
「あの、なしてうちの名前を知っておいでるんぞな?」
「え? いや、ほれはじゃな、あの……」
慌てる若者を見て、千鶴はしょんぼりした。
「ロシア兵の娘が来とるて、村中で噂になっとるんじゃね」
「いや、ほやないほやない」
若者は焦った様子で、胸の前で手を振った。
「じゃったら、なして知っておいでるん?」
「あのな、おら、千鶴さんと対の娘を知っとるんよ」
「うちと対?」
「ほうなんよ。その娘は千鶴さんにそっくりなけんど、その娘の名前がな、千に鶴て書いて、千鶴ていうんよ」
千鶴は目を丸くした。
「ほれ、うちと対じゃ」
「ほんでな、父親がロシア人で、母親が日本人なんよ」
千鶴は丸くした目を、さらに大きく見開いた。
「ほんまですか?」
「ほんまほんま。その娘はな、顔も姿も千鶴さんと真っ対じゃったけん、ほんで、つい千鶴さんて呼んでしもたんよ。ほやけど、ほうなんか。名前まで同しじゃったかい。こら、まっこと驚きぞな」
千鶴は驚き興奮した。
ロシア人の娘なんて自分だけだと思っていたのに、他にもいたのだ。しかもその娘は千鶴と名前が同じで、顔も姿もそっくりだという。
「その娘さんは、今どこにおいでるんぞな?」
「昔、ここにおったんよ。けんど、今は――」
若者は唇を噛んで千鶴をじっと見つめたが、ふっと目を逸らして言った。
「生き別れになっとったおとっつぁんがな、船に乗って迎えにおいでたんよ」
「ほんじゃあ、ロシアへ去んでしもたんですか?」
若者は黙ったまま返事をしない。けれど、それが答えなのだろう。悲しげな目がそう告げている。
「その娘さんとは親しかったんですね?」
「おらたち、夫婦約束しよったんよ」
若者は横を向いたままぽつりと言った。千鶴は胸が疼いたが、平気な顔を装って訊ねた。
「ほれじゃのに、その娘さん、ロシアへ去んでしもたんですか?」
「いろいろあってな。おら、その娘を嫁にすることができんなったんよ。そこへおとっつぁんが迎えにおいでてくれたけん」
「ほれで、その娘さんをロシアへ行かせてしもたんですか」
若者は押し黙ったまま海の方を向いた。これ以上は訊いてほしくないのだろうが、千鶴は自分を抑えることができなかった。
「その娘さん、ロシアへなんぞ行きとなかったろうに」
千鶴にはその娘の気持ちがわかる気がした。差別と偏見の中にいて、心から自分を受け入れてくれた人がいたならば、絶対にその人から離れたいとは思わない。
「ずっとずーっと、あなたと一緒におりたかったはずやし」
つい若者を責める口調を、千鶴は止めることができなかった。しかし若者は腹を立てたりせず、海の方を見つめたまま小さな声で言った。
「できることなら、おらもずっとその娘と一緒におりたかった」
「じゃったら、なして?」
「仕方なかったんよ」
若者は項垂れながら言った。
「おらはな、どがぁに望んでも、その娘と一緒にはなれんなってしもたんよ」
「ほんなん、その娘さんが納得するとは思えんぞな」
執拗に咎める千鶴に顔を向けた若者は、寂しげに微笑んだ。
「もう、済んでしもたことぞな」
「言うてつかぁさい。なして、あきらめんさったん?」
若者は千鶴にとって初対面の赤の他人だ。しかも危ないところを助けてくれた恩人であり、誰にも喋らないような話を打ち明けてくれている。なのに、千鶴は興奮が収まらなかった。
自分の態度が失礼なのはわかっていた。いつもの千鶴なら決してこんな言動は見せたりしない。けれど、自分が鬼娘であると悟った今、千鶴は若者が幸せをあきらめてしまうことが許せなかった。自分を助けてくれた素敵な人だからこそ、許せなかったのだ。
また若者を心から好いていたであろう、その娘にも幸せになってほしかった。自分とそっくりだというその娘には、自分の代わりに幸せをつかんでもらいたかった。
それでも千鶴が責めたところで、どうにかなるものではない。若者が言うとおり、もう終わったことなのだ。若者だってつらいし悲しいはずである。それを責めるのは、古い傷口を広げて塩をすり込むのと同じだ。
本当なら怒ってもいいのに、若者は黙ったまま千鶴に言いたいように言わせている。そのことが余計に悲しくて、千鶴は泣きだした。
「ごめんなさい……。うち……、助けてもろたお人に、こげなひどいことぎり言うてしもて……、どうか堪忍してつかぁさい」
「ええんよ。千鶴さんは、おらのこと心配してくれたぎりぞな。おら、ちゃんとわかっとるよ」
若者の優しい慰めは、千鶴をさらに泣かせた。わぁわぁ泣く千鶴に若者はうろたえた。
「千鶴さん、勘弁してつかぁさい。おら、千鶴さん、泣かそ思て喋ったわけやないんよ。お願いやけん、どうか、泣きやんでおくんなもし」
おろおろする若者に、千鶴はしゃくり上げながら言った。
「うちね……、幸せになんぞなれんのよ……。やけん、あなたにも、あなたが好いた娘さんにも……、幸せになってほしかった……」
「何を――」
「うちね……、誰のことも好いてはいけんの……。誰から好かれてもいけんのよ……」
「なしてぞな? なして千鶴さんが誰かを好いたり、好かれたりしたらいけんのぞ? どこっちゃそげな法はなかろに」
「ほやかて、うち……、うち……」
鬼娘なんですと言いそうになった。でも言えなかった。他の者に喋っても、この若者にだけは自分の正体を知られたくなかった。
「なして千鶴さんがそげなことを言いんさるんか、おらにはわからんけんど、大丈夫ぞな。千鶴さんが誰を好こうが、誰に好かれようが、神さまも仏さまも文句なんぞ言わんけん」
若者は千鶴の両手を握ると、にっこり笑った。
「あのな、教えてあげよわい。千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人とめぐり逢うて幸せになるんよ。絶対にそがぁなるけん。おらが請け合おわい」
「なして、そげなことが言えるんぞなもし?」
千鶴は下を向きながら言った。下を向いていたのは、若者の顔がまともに見られないからだ。しかし、他にも理由があった。
千鶴の目は自分の手を優しく握る若者の手に釘づけになっていた。こんな風に男の人に手を握ってもらうなど、生まれて初めてのことだ。
それに初めて会った人なのに、その手から伝わる温もりは、何だか懐かしい感じがする。ただ体温が伝わっているのではない。若者の心の温もりが包んでくれているようだ。
もし自分が鬼娘でなかったならば、きっとこの人を好いていたに違いない。いや、すでに好いているのかもしれない。だが、それは許されないことだった。
悔しい想いを噛みしめる千鶴に、若者は明るく言った。
「おら、お不動さまにお願いしたんよ」
千鶴は思わず涙に濡れた顔を上げた。
「お不動さま?」
「ほうよほうよ、お不動さまよ。千鶴さんもお不動さまは知っておいでよう? おらな、お不動さまにお願いしたんよ。千鶴さんが幸せになれますようにて。ほじゃけん、千鶴さん、絶対に幸せになれるぞな」
「うちの幸せを? あなたがお不動さまに? なして?」
若者の顔に、はっと困惑のいろが浮かんだ。また余計なことを喋ってしまったと思ったようだ。
「いや、あの、ほじゃけんな、えっと……」
「あなた、ひょっとして――」
その時、千鶴を探す春子の声が聞こえた。
千鶴がこっちと叫ぶと、曲がり道の向こうから肩で息をした春子が現れた。
「山﨑さん! こがぁな所におったん? ずっと探しよったんで。急がんと松山に戻れんなるけん、早よ行こ!」
言われて初めて、千鶴は日が沈みかけていることに気がついた。確かに急がなければ、今日中に松山へ戻れなくなってしまう。
「ごめんなさい。うち――」
千鶴は若者を振り返った。
だが、そこにはもう若者の姿はなかった。慌てて辺りを見まわしたが、どこにも若者はいなかった。
山陰の車夫
一
結局、千鶴たちは松山へ戻る客馬車には乗れなかった。
客馬車乗り場へ行った時に、二人は初めて客馬車の御者が言っていたことを思い出した。祭りの間は御者も祭りに出ていて、客馬車は動かないのだ。
春子の家族も和尚夫婦も千鶴たちにこの話をしてくれなかった。そのことに春子は愚痴をこぼしたが、祭りの日に客馬車が走るかどうかなど、誰も考えたことがなかっただろう。
文句を言ったところで仕方がないが、どうしても今日中に戻らなければ、先生との約束を破ることになる。春子は大いに焦っていた。その傍らで、千鶴はもう一晩法生寺に泊めてもらってもいいと考えていた。
千鶴は自分を助けてくれたあの若者に、もう一度逢いたかった。逢ってゆっくり話がしたかった。そのためには、あとで家族や学校から大目玉を喰らう覚悟はできていた。
あの若者は千鶴の幸せを願って、お不動さまに願掛けをしたと言った。けれども初めて出逢ったのに、千鶴のために願掛けをしたというのは矛盾している。あの若者は千鶴のことを知っていたのだ。
名波村に来たばかりの千鶴を、若者が知る機会は限られている。だが、千鶴は助けてもらう以前に若者に出逢った覚えがない。あるとすれば、鬼に法生寺へ運ばれて知念和尚たちに見つけられるまでの間だけだ。であれば花を飾ってくれたのは、きっとあの若者だろう。不動明王と同じく鬼が花を飾るというのは妙だが、あの若者なら納得だ。
若者には夫婦約束を交わした娘がいた。その娘にそっくりな千鶴が倒れているのを見つけたならば、絶対に驚いたはずだ。夕暮れ時の薄暗さの中では、尚更見間違えやすかったと思われる。しかし、若者はすぐに他人の空似だと気づいただろう。ロシアへ去った娘がいるわけがないからだ。
それでも若者が不動明王に千鶴の幸せを願ってくれたのは、ロシア人の風貌をした千鶴の境遇を思いやってくれたのだ。本堂の扉が開いたままになっていたのは、若者が不動明王に祈ったからだろう。
若者の願いには、ロシアへ去った娘への想いも込められいたのかもしれない。若者は千鶴に野菊の花を飾りながら、二度と会えない娘の姿を見ていたに違いない。その時の若者の気持ちを考えると、千鶴は涙が出てしまう。
若者ともう一度逢ったところで、してあげられることは何もない。けれど千鶴はあの若者に逢いたかった。せめて名前を聞かせてほしかった。もし、もう一泊できたなら、明日は必ずあの若者に逢いに行こうと腹に決めていた。
一方、春子は松山へ戻るのをあきらめなかった。少し離れた所にある乗合自動車の乗り場へ向かうと、松山へ行く自動車があるかを確かめた。
乗合自動車は今治と松山の間を行き来しているので、客馬車と違って運行はしていた。ところが最終便はさっき通過したばかりらしい。千鶴は心の内で喜んだが、春子は動揺を隠せない。
「どがぁしよう。戻れなんだら退学やし」
春子が落胆の顔を向けたが、まさか退学にはなるまいと、千鶴は高を括っていた。だけど、そう断言できるだけの自信はない。泣きそうな顔の春子を見ているうちに、千鶴もだんだん不安になってきた。
寮の規則が厳しいことは、千鶴も身を以て知っている。よく考えれば退学は有り得る話で、春子が退学になれば、春子に同伴していた千鶴も同罪で退学になるだろう。
尋常小学校でさえ行かせてもらえない者がいる世の中だ。女が高等小学校を卒業させてもらうだけでも凄いことである。それを女子師範学校にまで行かせてもらえたのは、相当恵まれていると言っていい。
祖父母は千鶴に冷たい態度を見せるが、学校に関していえば、よくしてもらっている。祖父母なりの思惑があるのだろうが、千鶴にとっては有り難いことだった。
しかも今回は店が大変な状況にある中で、突然の名波村行きをすんなり認めてもらった上に、小遣いまでもらったのである。なのに、こんなことで退学になったら祖父の面目は丸潰れだ。やっぱり異人の娘はこんなものかと世間の目は見るだろうし、山﨑機織にとっても恥になる。今更ながら、どうしようと千鶴はうろたえた。
とうとう春子がめそめそと泣きだすと、釣られて千鶴まで泣きそうになった。
二
「もうし、ひょっとして姉やんらは松山にでもお行きんさるおつもりかな?」
後ろから誰かが声をかけてきた。千鶴たちが振り返ると、そこに菅笠をかぶった法被と股引姿の男が立っていた。
春子はぎょっとして身を引いた。ところが男の後ろに二人掛けの人力車があるのに気がつくと、すぐに笑みを浮かべて涙を拭いた。どうやら男は車夫らしい。
「その俥ぁでおらたちを松山まで運んでもらえるん?」
春子は期待を込めて訊ねた。俥というのは、この辺りでの人力車の呼び方だ。
「お望みとあらば、松山でも今治でも、おらがお運びしましょわい」
軽妙な男の話しぶりに、春子は嬉しそうに千鶴を見た。だが、千鶴は芝居がかった喋り方をする男を怪しんだ。
祭りでみんなが出払っている中、一人だけ人力車を出すのは妙である。男が菅笠を深くかぶったまま顔を見せないのも何だか疑わしい。
源次たちに襲われたことで、千鶴は近づいて来る男に慎重になっていた。春子がいそいそと人力車に乗り込もうとすると、ちぃと待ちや――と千鶴は言った。
「村上さん、こっから松山まで力車で戻んたら、銭をようけ取られるぞな。うち、そげな大金は持っとらんよ」
力車に乗っておきながら、銭が払えないなら体で払ってもらおうと、源次みたいな男なら言うだろう。しかも人が来ない場所へ連れ込まれてから脅されるのだ。
人力車に手をかけていた春子は、千鶴の言葉にはっとした様子だった。春子にしても、乗合自動車に乗るぐらいの銭は持っていても、人力車に乗るほどの銭までは持たせてもらっていないはずだ。
「けんど、今日中に戻れなんだら退学で」
「ほら、ほうやけんど、銭がないのに乗ったら――」
途中で何をされるかわからないと、千鶴は言いたかった。けれど車夫本人を前にして、そんなことは言えなかった。すると、男は気さくな感じで話しかけてきた。
「姉やんらはどこぞの学生さんかなもし」
春子が三津ヶ浜にある女子師範学校だと言うと、男は顔を見せないまま、ほぉと大きくうなずいた。
「二人とも女子じゃというのに、まっこと大したもんぞな」
「ほやけど、このまま松山に戻れんかったら、おらたち退学になってしまうんよ」
春子がしょんぼり話すと、男は大丈夫だと言った。
「銭じゃったら心配せいでも構ん構ん。姉やんは名波村の村長さん所のお嬢じゃろ?」
「え? おらのこと知っておいでるん?」
春子は目をぱちくりさせた。
「ほら、誰かてわからい。名波村、いや風寄で女子師範学校へ入れた女子いうたら、姉やんを置いてはおるまい」
「え? おら、そがぁに有名なん? いや、困った。山﨑さん、どがぁしよう?」
すっかり気をよくした春子は照れ笑いをした。しかし、千鶴はまだ警戒を解いていない。口のうまい男など信用できなかった。
男は用心する千鶴を気にすることなく喋った。
「ほじゃけんな、お代の方はあとから村長さんにもらうけん、姉やんらは何も気にせいで構んぞなもし」
男の優しい言葉を信用して、春子は人力車に乗り込んだ。それから千鶴にも手招きをして、早よ乗りやと促した。
「兄やんは、なしてお祭りに行かんの?」
人力車に乗り込まないまま、千鶴は男に訊ねた。
男は少しうつむき加減で千鶴の方を向いた。やはり顔は隠したままだ。
「おらな、祭りより銭がええんよ」
ぽそっと喋った男の口調からは、先ほどまでの軽い感じが消えていた。本気で銭を欲しがっているようにも聞こえないし、この声には聞き覚えがある。
「あなたは――」
男は黙って千鶴の手を取ると、春子の隣に座らせた。男に手を握られている間、千鶴は菅笠に顔を隠した男をぼーっと見ていた。
手に伝わって来る男の手の温もり。千鶴は胸が詰まって涙が出そうになった。
三
「ほんじゃ、動かすぞな。後ろに傾くけん、気ぃつけておくんなもし」
男が千鶴たちの前に着いて、人力車の持ち手を持ち上げると、座席が後ろへ傾いた。きゃあと叫び声を上げた春子はとても楽しそうだ。
千鶴はもちろんだが、春子も人力車は初めてらしい。松山へ戻れるという安心と、ただで人力車に乗られた嬉しさでいっぱいの様子だ。しかも座席には座布団が敷かれていて、客馬車よりも乗り心地がいい。千鶴に二度までも嫌な想いをさせた上に、人垣の中に置き去りにしたことなど忘れたみたいに、春子は大はしゃぎで男に声をかけた。
「兄やん、松山まで俥ぁ引いたことあるん?」
「いんや、これが初めてぞなもし。ほじゃけん、道に迷わなんだらええんじゃけんど」
「大丈夫ぞな。堀江の辺りまでは一本道じゃし、そのあとは、おらが教えるけん」
「ほうかな。ほれは心強いぞなもし。さすが師範になる女子ぞな」
「もう恥ずかしいけん、あんまし言わんでや。師範になるんは、この子も対じゃけん」
春子が千鶴のことを言うと、男は千鶴に話しかけた。
「そちらの姉やんは、どがぁな師範になるんかなもし」
男の後ろ姿をぼんやり眺めていた千鶴は、話しかけられたのに気がつかなかった。春子は肘で千鶴を突くと、ほらと言った。
「え? 何?」
「何ぼーっとしよるんね。兄やんが聞いておいでるよ」
「え? な、何を?」
「山﨑さんはどがぁな師範になるんかて」
千鶴はうろたえながら、優しい師範になりたいと言った。
「うちが知っとる先生は、みんな厳しいお人ぎりじゃったけん、うちはどがぁな子に対しても、優しい先生になりたいて思いよります」
へぇと男は感心した声を出した。
「ほら立派なもんぞな。姉やんじゃったら、きっと願たとおりの師範になれらい。ところで、風寄のお嬢はどげな師範になるんかな」
「おら? おらはほうじゃなぁ。みんなに尊敬される師範になりたいな」
「尊敬される師範かな。さすが村長さん自慢の娘じゃな。言うことが違わい。恐らく行く末は校長先生じゃな」
「校長先生? おらが?」
もう、やめてや――と言いながら、春子は嬉しさを隠せない。
「山﨑さん、おらが校長先生になったら、どげな学校になろうか」
「たぶん、おやつの時間をこさえて、毎日おはぎやお饅頭を食べるんやない?」
「まっこと、ほうよほうよ。そげな学校にならい」
大笑いする春子を笑わせておきながら、千鶴は男に訊ねた。
「あの、いつもこのお仕事をされておいでるんですか?」
「おらのことかな?」
はいと千鶴が言うと、いつもというわけではないと男は答えた。
「乗ってくれるお客がおらんと、でけんぞな」
「そげな時は、何をしておいでるんですか?」
「そげな時は……、ほうじゃな。何をしとろうか」
男の答え方に、春子はまた笑った。
「兄やんて面白いお人じゃね。兄やんは俥ぁはいつから引いておいでるん?」
「ほうよな。今日からぞなもし」
え?――と千鶴たちは顔を見交わしたが、春子はすぐに笑って言った。
「もう、よもだぎり言うてからに。おらたち二人も乗せて、こがぁにうまいこと走るんじゃけん、今日が初めてなわけなかろ」
「ほら、大切な姉やんらを乗せとんじゃけん、気ぃつけて走りよるぎりぞな」
「ほやけど、二人も乗せとるんよ? 素人には無理じゃろに」
「おら、何も他人様に自慢でけるものはないけんど、ほんでも力ぎりは人一倍強いけん」
やはりこの人はあの人だと千鶴は思った。
どこで知ったのかはわからないが、松山へ戻れず困る千鶴たちを、あの若者はわざわざ助けに来てくれたのだ。けれども、どうしてそこまでしてくれるのか。きっと別れた娘の姿を千鶴に見て、その娘にしてやれなかったことをしてくれているのだろう。
若者の目に映っているのが自分でないのが、千鶴は少し寂しかった。しかし、自分のために戦ってくれる者などどこにもいない。花を飾ってくれたのだってそうだし、誰が人力車で風寄から松山まで運んでくれるというのか。
この若者はまるで夢から抜け出た若侍だ。きっと若者が花を飾ってくれたのを無意識に感じ取って、あの若侍の夢を見たのに違いない。
千鶴は若侍に似たこの若者に心が惹かれた。若者の心が他へ向いていようと、自分が鬼娘であろうと、そんなことは関係なかった。
若者は手を伸ばせば届く所にいるのに手が伸ばせない。あんなに逢いたいと願っていた若者が、目の前にいるというのに何も話せない。
自分をもどかしく思うばかりの千鶴は、何も知らずに楽しげに若者と喋る春子が恨めしかった。だけど、いくら不満を抱いたところで、若者と話ができるわけではない。いろいろ考えた末に、千鶴は若者に訊ねた。
「あの、あなたは松山へ出ておいでるおつもりは、おありなんかなもし」
もし若者が松山で働く気があるのなら、これからも逢える機会があるだろう。そんな期待を込めての問いかけだった。
「今から姉やんらをお連れするつもりじゃけんど」
ふざけているのか、真面目に答えているのかはわからない。若者の返事に、春子はくすくす笑った。
千鶴は気を取り直して、今度ははっきりと訊ねた。
「ほやのうて、松山で働くおつもりはおありかなもし?」
「おら、風寄から外には出たことがないんよ。ほじゃけん、松山がどがぁな所か興味はあるけんど、誰っちゃ知っとるお人もおらんけん」
だから松山で働くことはない、というのが返事なのだ。千鶴ががっかりすると、すかさず春子が訊ねた。
「兄やんはどこにお住まい? おらのことを知っておいでるいうことは、名波村のお人なん?」
いんやと若者は言った。
「おらん家は名波村やないんよ。まあ、傍いうたら傍なけんど」
山陰が名波村に含まれているのかは、千鶴にはわからない。もし含まれていたとしても、あんな仕打ちを受けるのであれば、同じ村の者とはいえないだろう。
「傍いうたら、どこじゃろか?」
春子は名波村の近隣の村の名を片っ端から挙げたが、どれも若者の村ではなかった。それでも、春子が山陰という言葉を出すことはなかった。
「ところで兄やんは、お名前は何ていうんぞな?」
若者の家を当てるのはあきらめたのか、春子は話題を変えた。
「おらの名かな。おらは、ふうたていうんよ」
「ふうた?」
「風が太いと書いて、風太ぞな」
違うなと千鶴は思った。若者の喋り方が適当に聞こえる。だけど、春子は若者の返事を素直に受け止めていた。
「ふうん。風太さんか。じゃあ、上の名前は何ていうんぞな?」
「何じゃったかの。忘れてしもた」
「忘れた? 自分の苗字を忘れるん?」
「ほうなんよ」
下手に苗字をいうと、どこに住んでいるかが知れてしまう。逆にまったく嘘の苗字をいうと、すぐに出鱈目だとばれるだろう。だから若者は苗字を忘れたと言ったのだ。
素直な春子は笑うと、わけありってことじゃねと言った。
「ほういうことぞな。おらが怪しい思うんなら、ここで降りてもろても構んぞなもし」
「とんでもないぞな。わけありなんは仕方ないことじゃけん。ほれより、兄やんは信頼できるお人じゃけん、おら、途中で降ろせやなんて言わんよなもし。降りろ言われたら、こっちが困るし」
「ほら、だんだんありがとさんでございますぞなもし」
名前の話が終わっても春子のお喋りは止まらない。千鶴は悶々(もんもん)としながら、時折若者が話を振ってくれるのを待つだけだ。そうしながら人力車はいくつかの町を通り抜け、がらがらと海沿いの道を走り続けた。もっとゆっくり行くものだと千鶴は思っていたが、二人のために急いでくれているようだ。
太陽は水平線に浮かぶ島々の向こうへ沈みそうだ。松山に着く頃には完全に沈んでいるだろう。
昨日、客馬車の中で夕日を見た時に、千鶴は深い悲しみに襲われた。あの時は何が悲しいのかがわからなかったが、今では自分を護ろうとしてくれた若侍の死を悲しんでいたのではないかと思っている。だけど、今は夕日を見ても悲しくならない。きっとこの若者がいるからだ。若者の存在は千鶴にとって慰めでもあった。
しかし、若者とは松山でお別れである。そんなのは絶対に嫌だ。何とかまたこの若者と逢いたいし、二人だけで話がしたい。けれど、いい方法が思いつかない。
松山が近づいて来るにつれ、千鶴は焦りが募った。
四
「風太さん、辰輪村の入り口で大けなイノシシが死んどった話、知っておいでる?」
突然、春子が若者に訊ねた。
千鶴はどきりとした。イノシシの話は鬼につながる。そんな話はしてほしくなかった。
それにイノシシの死骸があった場所を見に行って、自分が具合悪くなったのを春子は知っている。なのにその話をするのかと、興味を抑えられない春子に千鶴は呆れもした。
「そげなことがあったんかな。今、初めて聞いたぞな」
驚いたように答える若者に、春子はがっかりを隠せない。
「何じゃ、知らんの。何ぞ知っておいでるんやないかて思いよったのに」
「ほれは申し訳ございませんでしたぞなもし」
若者はからから笑い、イノシシへ関心を示さなかったので、これでイノシシの話題は終わりになった。千鶴は若者の返答にほっとした。
あのイノシシの死骸は山陰の者がさばいたはずだ。だからこの若者が知らないわけがない。恐らく余計なことを喋ると、自分が山陰の者だと春子に知れると考えたのだろう。だけどそんなことよりも、千鶴は若者と野菊の花の関係を確かめたかった。
「あなたは法生寺のご住職をご存知?」
千鶴は胸をどきどきさせながら訊ねた。若者は少しの沈黙のあと、知っていると答えた。その一瞬のためらいは、千鶴が法生寺の境内で倒れていた時に、自分もそこにいたと告げているみたいだ。
「あそこの和尚さまには、こんまい頃にようお世話になったんよ」
「へぇ、ほしたら、おらも風太さんのことを知っとるかもしれんのじゃね」
春子が嬉しそうに言った。
千鶴はしまったと思った。下手をすれば、春子は若者が山陰の者だと感づいてしまう。そうなると、どんなことになってしまうのか。
そんな千鶴の心配をよそに、若者は焦った様子もなく、ほうかもしれまいと言った。
春子は昔の思い出をいろいろ話しながら、それについて知っているかと、いちいち若者に訊ねた。若者が知っていると答えると、春子はそこから若者の正体を探ろうとした。
しかし、春子はどうしても若者のことが思い出せなかった。というより、そもそも風太という名前自体が春子の記憶にはないらしい。
堀江を過ぎた頃には、辺りはすっかり夕闇に包まれて薄暗くなっていた。
道を教えると言った春子だったが、道がよく見えないので教えようがなかった。ところが若者は夜目が利くらしく、速度を落とすことなく走り続けた。
分かれ道で春子が案内ができずにいても、若者は構わず適当に進んで行った。そうやってとうとう木屋町まで来ると、二人をどこで降ろせばいいのかと若者は訊ねた。
その時、古町から道後へ向かう電車が目の前を横切った。すぐ左手に木屋町停車場があり、電車はしばしの間、そこに留まった。
若者は電車を初めて見たらしく、立ち止まったまま興奮した顔で見入っていた。それで千鶴は春子の話をしてやった。
「村上さんは、このあとこの電車で三津ヶ浜へ戻るんですよ」
「へぇ、ほれはええわいな。おらもいっぺんでええけん、電車いう物に乗ってみたいな」
若者が羨ましがると、春子は不服げに言った。
「おらは電車より、この俥ぁで戻りたいな。風太さん、山﨑さんを降ろしたら、そのまま三津ヶ浜まで走ってもらえまいか?」
慌てた千鶴は若者が答えるより先に春子に言った。
「村上さん、ほれはいけん。風太さんは松山もようわからんので。三津ヶ浜まで行きよったら、風寄に戻れんなってしまわい。ほれに風太さん、ずっと走り詰めでくたくたじゃろし、電車で戻らんと寮の消灯時間に間に合わんで」
春子が降りたあと、若者と二人きりになれると千鶴は見込んでいた。だから、自分の方が先に降りることになっては困るのだ。
春子は消灯時間なら大丈夫だと言ったが、若者のことは気になったようだ。
「電車がないならともかく、まだ走っとるもんな。仕方ない。電車で去ぬろうわい」
春子が残念そうに言うと、停車場の電車が動きだした。千鶴はほっとしながら、ほれがええぞなと言った。
「あれはお城じゃな」
木屋町停車場を過ぎた所で、若者は左前方にある山を眺めて言った。山の上には松山城が黒い影となってそびえている。
「ほうよほうよ。あれが松山城ぞなもし」
春子が得意げに言った。堀江から先の道を若者に教えられなかった分、城山の西にある札ノ辻が自分たちの終点だと、春子は饒舌に喋った。
札ノ辻とは、まだ侍が闊歩していた頃に、城下の民衆へのお達しが書かれた高札が掲げられていた場所である。城山の南西の麓にはお堀に囲まれた三之丸があるが、その西堀の北端に札ノ辻はあった。
「山﨑さんのお家は札ノ辻のすぐ傍やし、おらが乗る電車の停車場もあるけん」
「ほぉ、ほらちょうどええ場所じゃな」
じゃろげ?――と楽しげな春子に、千鶴は言った。
「村上さん、札ノ辻より本町から乗る方が早いんやない?」
「本町? 本町も札ノ辻も大して変わらんけん、大丈夫大丈夫」
本町停車場は札ノ辻停車場より少し木屋町寄りの所にある。つまり札ノ辻停車場の次の停車場だ。
春子が言うように、両者の距離に大した差はなく、電車も頻繁に来るので、札ノ辻から電車に乗っても問題はない。ただ、千鶴はわずかでも若者と二人きりになれる時間が欲しかった。しかし春子が札ノ辻から電車に乗ると言うので、千鶴は笑顔を見せながらも、胸の中で落胆した。
「姉やんのご実家は何をしておいでるんかな?」
若者に声をかけられた千鶴は、やにわに元気を取り戻した。
「うちは山﨑機織という伊予絣問屋をしとります」
「ほぉ、伊予絣問屋かな。風寄にも絣を織りよる家がなんぼでもあらい」
「うちも風寄のみなさんのお世話になっとるんぞなもし」
へぇと感心の声を出した若者は、千鶴の家は札ノ辻のどの辺りにあるのかと訊いた。
紙屋町ぞなもしと答えてから、千鶴は若者が松山の地名がわからないことに気がついた。それで札ノ辻から西に向かって延びる筋だと説明した。
紙屋町は絣問屋の町ではあるが、町名から考えると昔は紙問屋の町だったと思われる。山﨑機織の東隣には古くからの紙屋があるが、昔の紙屋町の名残を留めているのは、この店ぐらいなものだ。そんな紙屋町の町筋の話を千鶴が若者に教えていると、札ノ辻には大丸百貨店があると春子が話に交ざった。
若者が百貨店を知らないのを確かめた春子は、風寄はおろか四国の他の地域にもない四階建ての立派なお店だと、松山の人間でもないのに得意げに喋った。
春子による松山の説明が始まると、千鶴はそれを補足する程度しか出番がなくなった。
若者と話す機会を奪われた千鶴は春子が苦々しかった。でも春子にはいろいろ世話になったし、若者も興味深く春子の話を聞いている。黙って我慢をするしかなかった。
五
街の中は所々にある街灯が灯り始めていた。その明かりの下を、二人の娘を乗せた人力車が走って行く。
千鶴たちみたいな若い娘が、人力車に乗ることは滅多にない。乗るとすれば芸子ぐらいなものだ。それも大抵は一人掛けの人力車であり、二人掛けに乗る娘は珍しい。
道行く者や家から顔を出した者が、何だ何だという顔で千鶴たちを乗せた人力車を振り返る。そのたびに千鶴は気恥ずかしくなって下を向き、春子は大はしゃぎをした。
城山の西の麓に小学校が二つ南北に並んでいるが、道を挟んでそのすぐ西隣に師範学校がある。小学校と師範学校の間にあるこの道を進むと三ノ丸に突き当たり、そこを右へ曲がると、正面に札ノ辻がある。電車の札ノ辻停車場もそこだ。
人力車は札ノ辻の手前で停まった。千鶴が降りる時、若者は千鶴の手を取って降りるのを助けてくれた。手に伝わるその温もりは、若者が手を離しても余韻として残っている。
若者は春子の手も取って降りるのを手伝った。しかし、春子は若者に手を握られても何とも感じていないらしい。目の前にある建物を指差し、これが大丸百貨店だと得意げに喋っている。へぇと建物を見上げる若者と春子を眺めながら、千鶴はこのあとのことを考えた。
山﨑機織はすぐそこなのだが、ほんの少しの間でも、千鶴は若者と二人きりになりたかった。春子がいなくなったあと、家まで若者の人力車で運んでもらい、自分の家を若者に教えておきたかった。少しでも若者との別れを遅らせたかった。
千鶴は春子の見送りをする間、一緒に待っていてほしいと若者に頼んだ。その提案に春子は喜んだが、電車が気に入った様子の若者も、千鶴の頼みを快く聞き入れてくれた。
札ノ辻にも街灯がある。その明かりの下で、ようやくまともに見せてもらえたその顔は、紛れもなくあの若者だった。
先に春子を停車場へ向かわせて、千鶴は若者に本当の名前を訊ねた。
若者はにっこり笑うと、佐伯――と言って千鶴を見つめ、忠之というんぞな、と言い足した。何だか若者が千鶴の表情を確かめながら喋っているみたいで、千鶴は戸惑いを覚えた。
「さえき、ただゆき……さんですか」
「佐伯はわかろ? 忠之は、忠義の忠に之と書くんよ」
千鶴はどきどきしながら、若者の名前を決して忘れまいと、頭の中で何度もその名前を繰り返した。
「千鶴さん」
声をかけられた千鶴は慌てて返事をした。
「はい、何ぞなもし?」
「風寄では、あいつら以外にも嫌なことはあったんかな?」
いいえと千鶴は言った。鬼娘と言われたことや、本当に鬼娘だったことなど言えるはずがなかった。
「他には何もなかったぞなもし」
「ほうかな。ほれはよかった」
忠之は安心したように微笑んだ。千鶴は訊くのは今だと思った。
「あの、うちに花を――」
「二人で何喋りよるんよ。おらも仲間に入れてや」
停車場まで行ったものの、千鶴たちがいないことに気づいた春子が戻って来た。
「何喋りよったん?」
春子が無邪気に話に加わると、げんなりした千鶴に代わって忠之が言った。
「お嬢の学校での評判を聞かせてもらいよりました」
「お嬢て、おらのこと?」
「他に誰がおるんぞな?」
春子は照れながら、何を喋ったのかと千鶴に訊ねた。千鶴は答える気分ではなかったが、黙っているわけにもいかない。
「いっつも明るうて楽しいお人ぞなて言いよったんよ」
「おらが? いや、そがぁに言うてもらえるやなんて、おら、嬉しい。風太さん、この人はおらより頭がようてな。いっつもかっつもおらより試験の点数がええんよ」
「へぇ、ほうなんか。ほれは大したもんぞな」
驚いたふりなのか、本当に驚いたのかわからないが、忠之は目を丸くして千鶴を見た。
「もう、またそげなことを言う。ほら、電車がこっちへ来よるよ」
千鶴はお堀の南の方を指差した。南堀端から回って来た電車が、西堀の停車場に停まったところだ。電車を見た春子は、まだ大丈夫ぞなと言い、忠之に礼を述べた。
「風太さん。今日はほんまにありがとうございました。お陰さんで退学にならんで済みそうじゃ。おら、風太さんにはまっこと感謝しよるんよ」
「いやいや、こっちこそおらの拙い俥ぁに乗っていただき、ありがとさんでした」
千鶴の気も知らずに春子はしばらく忠之と話を続けたが、いよいよ電車が近づくと、千鶴は春子に停車場へ戻るように促した。一人を嫌う春子は、二人も一緒にと千鶴たちを停車場へ誘った。
「風太さんも電車が間近で見られる方がええじゃろ?」
ほうじゃなと言って、忠之が春子について行くので、千鶴は大きく息を吐いてから二人のあとに続いた。
間もなくすると、鉄の線路を軋ませながら電車がやって来た。もう暗いので運転席の上には電灯が点いている。札ノ辻停車場に電車が停まると、車掌が乗車口の扉を開けた。
春子は千鶴たちに声をかけると、電車に乗り込んだ。周囲が暗い中、電灯に照らされた車内は幻想的に見える。
春子が車掌から切符を買うと、扉が閉められ電車は再び動き始めた。春子は電車の窓越しに二人に手を振り、千鶴たちも手を振り返しながら電車を見送った。
電車が行ってしまうと、忠之は嬉しそうに千鶴を振り返った。
「いや、ええ物を拝ませてもろたわい。世の中がこがぁになるとは思いもせんかった」
もう電車が走り始めて何年にもなる。なのに、未だに電車を知らなかった忠之を、千鶴は気の毒に思った。
「佐伯さん、松山においでませんか? うち、もっと佐伯さんとお話がしたいんです」
千鶴は想いを込めて忠之を見つめた。忠之は少し当惑した様子だったが、すぐに笑顔を見せて言った。
「おらには決められんことぞな。おら、定めに従うぎりじゃけん」
「定め?」
忠之はそれ以上は何も言わず、千鶴を人力車に乗せた。
六
「えっと、札ノ辻がここじゃけん、紙屋町いうんはこの筋かな」
忠之は千鶴に教えてもらった紙屋町を確かめるように、その町筋を眺めた。
「ほうです。この筋が紙屋町ぞなもし」
千鶴が答えると、忠之は紙屋町の通りに入って行った。だが山﨑機織はさほど奥ではない。大して喋る暇もないままに、千鶴たちはすぐに店の前に着いた。
「山﨑機織。ここが千鶴さんの家なんか」
もう閉まった店の看板を見上げて、忠之は言った。
紙屋町にも街灯はあるが、街灯から離れると薄暗い。山﨑機織の看板は読みづらかろうに、それが見えるのは、やはり夜目が利くのだろう。
千鶴は降りたくなかったが、降りるしかない。
「だんだんありがとうございました」
礼を述べると、千鶴は人力車を降りようとした。すると、忠之は千鶴が降りるのを手伝って、また手を握ってくれた。その手の温もりは千鶴の体に伝わり、千鶴は忠之に抱きしめられているみたいな錯覚を覚えた。
「今日は千鶴さんにお会いできて、話までできて、おら、まっこと嬉しかった。千鶴さん、これからもいろいろあろうけんど、めげたりせんでしっかり前向いて生きるんで」
千鶴の手を握りながら忠之は言った。諭すようなその話し方は、千鶴を想っての言葉に違いない。でも、これでお別れなのだと告げられているようでもあった。
千鶴の胸の中に悲しみが膨らんで来る。風寄へ向かう客馬車から夕日を見た時に込み上げたあの悲しみだ。
――嫌じゃ! 行かんといて!
千鶴は心の中で叫んだ。声こそ出ていないが、その叫びは千鶴の目に表れていたはずだ。だが忠之は千鶴から手を離すと、戸が閉まった店を眺めた。まるで千鶴の心の叫びが聞こえないふりをしているようだ。
「もう閉まっとるみたいなけんど、千鶴さんはどっから中へ入りんさるんかな?」
忠之の空々しい問いかけに、千鶴は悲しみを堪えながら店の脇を指差した。
「そっちに裏木戸があるんぞなもし」
山﨑機織は四つ辻の角にあり、角を北へ曲がった所に裏木戸がある。裏木戸を確かめた忠之はにこやかに言った。
「ほんじゃあ、おらは去ぬろうわい」
人力車を引きながら裏木戸の前まで来ると、忠之は改めて千鶴に別れを告げた。
何とか忠之を引き留めたい千鶴は、忠之を呼び止めながら、急いで何を喋るか考えた。
「あの、お代はどがぁしましょう? うち、これしか払えんぞなもし」
千鶴は祖父に持たされた銭の残っていた全部を忠之に渡そうとした。忠之は千鶴のその手をそっと押し戻した。
「お代なんぞいらんぞな。お友だちの方のも、もらうつもりはないけん」
「村上さんの分も?」
「言うたじゃろ? おら、俥ぁ引いたんは今日が初めてなんよ。俥ぁも衣装も全部借り物ぞな」
「え? どげなこと?」
「みぃんな祭りに出ておらなんだけんな。悪いとは思たけんど、ちぃと拝借させてもろたんよ。ほじゃけん、急いで戻んて元通りにしとかんと、あとで厄介なことになるんよ」
忠之は笑っているが、それは忠之が自分で言うようにまずいことだ。
「なして、そげなこと」
「ほやかて千鶴さんは松山へ戻るおつもりじゃったろ? ほんでも祭りん時は馬車は動かんし、自動車も出てしもたろけん」
「やけんいうて、こがぁなことをうちのために……」
「おらにでけるんは、これぎりのことじゃけん。ほんでも、千鶴さんのお役に立てたんなら、おら、なーんも言うことないぞな」
千鶴の目から涙があふれた。自分なんかのためにここまでしてくれる人が、どこにいるだろう。別れたロシアの娘と自分を重ねて見ていたとしても、あまりの優しさだ。
千鶴の涙を見て慌てる忠之に、千鶴は涙を拭いてもう一度感謝した。
「最後にもう一つぎり教えておくんなもし。うち、昨日の日暮らめに――」
そこに誰ぞおるんか?――と、裏木戸の向こうから不機嫌な声が聞こえた。
「ほんじゃあ、おら、去ぬるけん」
忠之は潜めた声で言うと、がらがらと人力車を引いて行った。入れ替わるように裏木戸が開くと、中から祖父の甚右衛門が仏頂面をのぞかせた。
「何じゃい、千鶴か。今、戻んたんか。がいに遅かったやないか」
うろたえた千鶴はしどろもどろに返答した。遠ざかる人力車が気になるがどうすることもできず、遅くなったことを祖父に詫びた。
千鶴の言葉を聞きながら、甚右衛門は去って行く人力車を訝しげに眺めた。
「ひょっとして、あれに乗って戻んたんか?」
「は、はい」
千鶴は下を向きながら答えた。
「銭はどがぁしたんぞ? あげな物に乗るほどは持たせなんだはずやが」
少しだけ顔を上げた千鶴は恐る恐る言った。
「あの、ただぞなもし」
「ただ? あれに、どっから乗って来たんぞな?」
「北城町ぞなもし」
「北城町? 風寄のか?」
千鶴はうなずいた。暗くてよく見えないが、祖父は眉をひそめているようだ。
「あがぁな所から力車に乗って、ただいうことはなかろがな」
「ほれが、ただなんぞなもし。あの車夫のお人はまっこと親切なお方で、松山へ戻る馬車も自動車ものうて、うちらが困りよる時に力車を出してくんさったんぞなもし。あげなお人は、どこっちゃおりません」
祖父に忠之のことをよく見てもらいたい一心で、千鶴の舌はよく回った。いつもであれば、祖父を相手にこんなには喋らない。
千鶴の勢いに少々押されながら、甚右衛門は怪訝そうに言った。
「ほれが、なしてただなんぞ?」
「うち、男の人らに襲われて、ほん時――」
何ぃ?――と甚右衛門は凄い声を出した。
「襲われたて、誰に襲われたんぞ?」
「誰て……、そげなことはわからんぞなもし」
まさか春子の従兄だとは、口が裂けても言えなかった。もちろん春子にも内緒である。だが、男に襲われるのはお前が油断したからだと、怒鳴られるに決まっていた。だから千鶴は先に頭を下げて、すんませんと謝った。
「うち、お祭りん時、居場所がのうて、ほんで、人がおらん所へ行ったら――」
「そこで襲われたいうんかな」
千鶴は黙ってこくりとうなずいた。
不思議なことに甚右衛門は怒鳴らなかった。黙って沈黙しているが、何だか妙な感じだ。暗がりの中、甚右衛門は右手で顔を撫でると、馬鹿にしくさってと悪態をついた。恐らく風寄の人たちに対してのものだろう。
千鶴は慌てて、他の人たちはいい人たちだったと言い足した。
「旦那さん、どがいしんさったんぞなもし?」
番頭の辰蔵が顔を出した。辰蔵は千鶴に気がつくと、おやと言った。
「何や、千鶴さんかなもし。今、お戻りたかな」
辰蔵が笑みを見せたので、千鶴は少しほっとして辰蔵に挨拶をした。甚右衛門は辰蔵を先に戻らせると、千鶴に訊ねた。
「言いぬくいなら言わいでもええけんど、お前、連中に、その……」
自分の方が言いにくそうな祖父に、千鶴はさらりと答えた。
「何もされとらんぞなもし」
「何も? ほやけど、襲われたんじゃろがな?」
「ほなけんど、ほん時にさっきのお人が現れて、うちを助けてくんさったんぞなもし」
「相手は何人ぞ?」
千鶴は右手の指を四本立てて言った。
「四人ぞなもし。ほれも体の大けな人ぎりじゃった」
「四人! そげな四人を相手に一人で立ちまわったいうんかな」
「あのお人はまっこと強いお人でね。あっという間に、四人ともやっつけてしもたんよ。ほれで、うちらのことをここまで運んでくんさったんよ」
忠之の話になると千鶴は興奮して、祖父への口調がつい馴れ馴れしくなってしまった。喋り終わってから、そのことに気づいた千鶴はすぐにぺこりを頭を下げて、すんませんでしたと言った。だが、甚右衛門は千鶴の喋り方などまったく気にしておらず、ほうじゃったか、無事じゃったかい――とつぶやいた。
裏木戸から出て来た甚右衛門は、忠之が去った方へ体を向けると、両手を合わせて頭を下げた。その姿に千鶴は驚いた。千鶴が助かったことで祖父が感謝を示すなど、考えられないことだった。
祖父は昔から千鶴のことを邪険に扱っていた。
千鶴が小学校でいじめられて泣いて戻っても知らん顔をしていた。千鶴が街に出かけて嫌な思いをさせられても、やはり他人事みたいな態度を見せていた。
ところが今回の祖父は千鶴の名波村行きを認めてくれたし、千鶴の無事を喜んでくれている。それはとても有り難いことではあるが、違和感を覚えるものでもあった。
名波村で体験したことや、忠之との出逢いはすべて不可思議で、異界に迷い込んでしまったかのようだった。松山へ戻って来ると、その異界から日常に抜け出した感じがしたのだが、いつもと違う祖父の様子は千鶴を非日常に引き戻した。夢が覚めたと思ったら、まだ夢の中にいたという感じだ
「世話になった者に感謝するんは当たり前ぞ」
千鶴に見つめられた甚右衛門は、少しうろたえ気味に言った。それから、今の話は家の中ではするなと付け足すと、さっさと裏木戸の中へ入ってしまった。
千鶴は見えなくなった忠之の姿を闇の中に追い求めた。暗がりの中を一人で風寄まで戻る忠之を思い浮かべると、その背中がとても寂しげに見えた。すぐにでも追いかけたい衝動に駆られたが、祖父に早く中へ入るよう促され、あきらめて裏木戸をくぐった。
甚右衛門の思惑
一
甚右衛門が勝手口から家の中に入ると、千鶴もその後ろに続いた。そこは表に構える店から続く通り土間だ。その名のとおり、通路を兼ねた土間である。
土間の右手にある台所に、母の幸子と女中の花江がいた。二人は丁稚の亀吉と新吉が抱える箱膳に、飯やら汁やらを載せてやっているところだ。丁稚たちの脇には辰蔵が立ち、甚右衛門と千鶴を待っている。
「千鶴が今戻んた」
甚右衛門が声をかけたあと、後ろから顔を出した千鶴も恐る恐るみんなに挨拶をした。
「ただいま戻んたぞなもし」
辰蔵から話は聞いていただろうに、千鶴の顔を見るとみんなの顔に笑みが広がった。
「お戻りたか。遅かったやないの。心配しよったんよ」
幸子が安堵した様子で言った。
続けて花江も、お帰んなさいと言い、亀吉と新吉も嬉しそうに千鶴に挨拶をした。
台所の向かいには小さな板の間の部屋がある。いろいろ作業をするのに使っているが、今は使用人の食事場所だ。
板の間には手代の茂七と弥七がいたが、二人とも顔を出して千鶴に声をかけた。
「まあ、ご無事でお戻りんさって、よかったよかった」
辰蔵はほっとしたようにつぶやくと、板の間に上がって自分の箱膳が置かれた場所に腰を下ろした。
辰蔵は三十を過ぎているが独り身だ。強面でがっしりした体つきをしているけれど、情の厚い男で千鶴にも優しい。今回も千鶴の戻りが遅いのを心配してくれたようだ。
板の間の手前には茶の間がある。そこは家族の食事場所だ。上座に甚右衛門の箱膳が置かれ、その右斜めに祖母のトミが座っている。千鶴と幸子の箱膳は祖母と向かい合った上座の左側に並べられている。
「あんたな、今、何時やと思とるんね?」
使用人たちと違い、祖母は千鶴をいきなり叱った。すんませんと千鶴は小さくなりながら頭を下げた。
「今日は男衆が先に銭湯に行ったけん、こがぁしてまだ食べよるけんど、ほんまなら疾うに食べ終わっとる時刻じゃけんね!」
千鶴がもう一度頭を下げると、先に部屋に上がった甚右衛門が、もうええと言って上座に座った。
「ほら、何しよんぞ。早よ上がって飯にせんかな。ほんで、向こうの祭りがどがいじゃったか報告せぇ」
祖父に急かされた千鶴は、また頭を下げると母と花江を見た。
「すぐに行くけん、先におあがり」
幸子に促され、千鶴は二人にも頭を下げた。
「あたしもここで土産話を聞かせてもらうよ」
花江は楽しげに千鶴に声をかけたあと、幸子に言った。
「ここはあたし一人で大丈夫だからさ。幸子さんは千鶴ちゃんの隣にいてやんなよ」
ほんでもと幸子は遠慮したが、花江はいいからいいからと言って、幸子を千鶴と一緒に茶の間へ上がらせた。
箱膳の前に座ると、千鶴はまず祖父母に向かって手を突き、こんな時期に一泊の旅に行かせてもらった礼を述べた。
「取り敢えず食え。話はほれからで構ん」
甚右衛門が素っ気なく言うと、千鶴は母と一緒に、いただきますと手を合わせた。箱膳に載せられているのは、麦飯に味噌汁、焼いたイワシに漬物だ。
いつもと同じ食事の風景だが、千鶴は自分一人がこの部屋の中で浮いているような気がしている。自分だけがここのすべてと異質みたいな感じだ。
一通り箸をつけたあと、千鶴は箸を置いて祭りの話を始めた。
まず話したのは、火事騒ぎみたいに賑やかで、かつ優雅なだんじりについてだ。幸子はへぇと感心したが、甚右衛門とトミは黙って食事を続けた。しかし、静かで不思議な神輿の渡御の話には関心を持ったのか、二人は箸の手を止めて話を聞いていた。
そのあとは神輿の投げ落としの話だ。千鶴は神輿の投げ落としを見ることができなかったが、見たことにして説明をした。
「こっちのお神輿みたいにぶつけ合ったりせんし、夜の静かなお神輿の渡御を見とるけん、ここのお祭りは荒っぽいことはせんのやて思いよったんよ。ほしたら最後にお神輿を投げ落として壊すんじゃけん、まっことびっくりしたぞなもし」
「お神輿を投げ落とす? ほんまにそがぁなことするんかな?」
甚右衛門が話に応じてくれたので、千鶴は驚いた。普段の甚右衛門は千鶴が何かを喋っても聞いていない素振りを見せるか、気のない言葉を投げかけるだけだ。
壊れるまで何度も投げ落とすと千鶴が話すと、トミも話に食いついた。
「お神輿て神さまの乗り物じゃろ? ほれを投げ落として壊すやなんて信じられん。なして風寄の人らは、そがぁな罰当たりなことをするんね?」
トミも千鶴といろいろ喋ることなど滅多にしない。それがこんな風に言葉を返されたので、千鶴は驚きつつも少し嬉しい気がした。
「向こうの人は、神さまにはいっぺん使た物は使えんて思ておいでるんぞなもし。ほやけん、使い終わった物は壊して、翌年にまた新しい物をこさえんさるんぞなもし」
千鶴の話に甚右衛門はなるほどとうなずいた。しかしトミは顔をしかめ、もったいないことをすると納得がいかない様子だった。
いつもであれば隣の板の間からぼそぼそと声が聞こえるのだが、今はしんと静まり返っている。使用人たちも千鶴の話に耳を傾けているらしい。片づけが終わった花江も板の間には上がらないで、台所に立ったまま千鶴の話を聞いていた。
千鶴は隣に座る母に顔を向けると、昨夜は法生寺に泊めてもらったと話し、和尚夫婦の想いを伝えた。
驚いた幸子は一瞬喜んだ。でも、すぐに笑みを消し、ちらりと甚右衛門やトミを見遣ってから、どうして法生寺に泊まったのかと、その理由を訊ねた。
夜這いを避けるためと千鶴が話すと、ほうなんかと幸子はうなずいた。だが、目は甚右衛門とトミを気にしていた。
法生寺は身籠もった母が家を飛び出して世話になった所だ。本当のところはそんな寺の話など、祖父母は聞きたくなかっただろう。
甚右衛門は何も言わなかったが、トミは眉間に皺を寄せ、ほじゃけんなと言った。
「うちはこの子を向こうへ行かせるんは反対やったんよ。知らん男がうじゃうじゃおる所に、外から女子が入ったら、ほら夜這いをかけられてしまわい。そげなことは考えたらわかろうがな。だいたいな、女子が一人で他所の祭り見に行くやなんて有り得んで。しかも、こがぁな時期に思いつきでそげなことをするけん、ほんな危ない目に遭うんぞな」
トミの言葉は千鶴を責めながらも、聞きようによっては心配していたとも取れる。千鶴は少し違和感を覚えたが、トミの目が甚右衛門に向けられているところを見ると、トミは風寄行きの許可を出した甚右衛門に文句を言っているみたいでもあった。
甚右衛門は平然とした顔で、いずれにせよと言った。
「夜這いをかけられず無事に戻んて来たんじゃけん、よしとしよわい。ほれより、千鶴。向こうでは絣の話はなかったんか? うちは風寄からも絣を仕入れとるんぞ」
ありましたと答えた千鶴は、名波村の女たちから伊予絣を作る苦労話を聞かされたことや、自分の家が山﨑機織だとわかった時に頭を下げられたことなどを話した。
甚右衛門はようやく笑みを見せると、ほうかほうかと満足げにうなずいた。
「ほれで、お前はどがぁしたんぞ?」
「うちもみなさんに頭下げました。あの方たちの日頃のご苦労を聞かせてもろて、ずっと心の中で頭を下げよりました」
うむと甚右衛門は大きくうなずいた。
「お前もこの家の者である以上、商いの品がどげな風にこさえられとるんかを、己で確かめておく必要があるけんな。ほじゃけん、名波村行きは急な話じゃったが、ちょうどええと思たわけよ」
え?――と千鶴は祖父を見返した。祖父にそんな思惑があったとは思いもしなかった。トミも幸子も驚いた顔で甚右衛門を見つめている。
「ほうやったんですか。そがぁな気ぃを遣ていただき、ありがとうございます」
千鶴は箸を置くと、甚右衛門に向かって手を突いた。そうして頭を下げながら、師範になる自分に絣が作られる所を確かめさせるとは、どういうことだろうと考えていた。
二
板の間と茶の間は障子で仕切られている。その障子が少し動いて、土間側の柱と障子の間に隙間ができた。その隙間から新吉が茶の間をのぞいて千鶴に声をかけた。
「千鶴さん、ほうしょうじて、お寺?」
新吉はこの春に尋常小学校を出て丁稚になったばかりだ。ここでの仕事にもだいぶ慣れたみたいだが、まだまだ幼い感じが抜けきれず、つい子供っぽいことをしてしまう。
新吉は声を潜めたつもりらしいが、離れた千鶴に聞こえるのだから、当然甚右衛門やトミにも聞こえている。甚右衛門がじろりと見たが、新吉は気がつかない。
辰蔵に注意された新吉は、痛っ!――と叫んで引っ込んだ。
「痛いやないか。何するんぞ!」
「何やなかろが。千鶴さんの話に勝手に交ざんな。お前は黙って聞きよったらええんじゃ。勝手に障子開けたら失礼なろが!」
新吉を叱る亀吉の声が聞こえた。新吉は亀吉に頭を叩かれたようだ。
亀吉は新吉より二つ年上で、店のことをよく知っている。そのため、まだ幼さが残る新吉の世話係を任されていた。
「新吉、亀吉の言うとおりぞな。己の立場をわきまえんかな」
辰蔵にも叱られ、新吉はしょんぼり項垂れているに違いない。
「新吉さん」
千鶴が声をかけると、トミが千鶴をにらんだ。しかし甚右衛門が黙っているので、千鶴はもう一度新吉を呼んだ。すると悲しげな顔の新吉が、また障子の隙間から現れた。
「新吉さん、法生寺いうんはな、名波村にあるお寺なんよ。うちのお友だちが子供の頃によう遊んだお寺でね。うちらはそこへ泊めてもろたんよ」
千鶴が丁寧に説明してやると、新吉は少し機嫌がよくなった。後ろから亀吉が、さっさとこっちへ来いと言ったが、新吉は無視して千鶴に訊ねた。
「お寺、怖なかったん?」
「全然、怖なかったぞな」
千鶴が微笑んで答えると、新吉は調子が出たらしい。声が明るくなった。
「お化けは出なんだん?」
千鶴は笑いながら、出んかったと言った。
「じゃあ、鬼は? 鬼も出なんだん?」
千鶴は返事ができなかった。自分は鬼娘だったと思い出したのだ。
「どがいした?」
甚右衛門が怪訝な顔をした。隣の幸子も心配そうに大丈夫かと言った。
千鶴は慌てて笑みを繕うと、鬼は出たんよと真面目な顔で新吉に言った。
「ほんま? ほんまに出たん?」
興奮して目を丸くした新吉の顔が消えると、代わりに違う顔が現れた。亀吉だ。新吉は亀吉に押しのけられたらしい。
「千鶴さん、ほんまに鬼出たん?」
やはり興奮している亀吉に千鶴はうなずいた。新吉が自分の場所を取り戻そうと、無理やり亀吉の下に入って千鶴に顔を見せた。押し合う二人の体が柱の外側にはみ出している。
「これ、亀吉、新吉! 障子が破れる!」
辰蔵が叱っても、亀吉たちは障子の隙間から離れない。二人の様子は千鶴を和ませ笑わせた。
甚右衛門は怒らないし、トミも呆れるばかりだったので、千鶴は大魔の話をしてやった。大魔が鬼に扮した人間だとは言わず、神に仕える鬼が山から下りて来て、神輿の通り道を清めていたと話すと、亀吉たちはとても驚いた。
亀吉たちの近くにいた花江が鬼の真似をして、うぉーと声を出すと二人はびっくりしてどたどたっと土間に落ちた。花江は思わず笑ったあとで、甚右衛門たちに気まずそうに頭を下げた。トミは呆れた様子だったが、甚右衛門は笑った。それでトミも苦笑し、千鶴も母と一緒に笑った。
「まったく、あんたたちはまだまだ子供だねぇ」
花江がまた笑いながら亀吉を助け起こすと、茂七と弥七が二人を板の間に引き上げた。
亀吉たちが開けた障子を閉めに来た辰蔵は、逆に少し障子を開けて千鶴に声をかけた。
「千鶴さん、だいばいうんは御神輿の露払い役かなもし?」
はいと千鶴がうなずくと、自分の生まれ故郷の祭りでも、大魔と呼ばれる鬼が神輿の露払いをすると、辰蔵は話してくれた。
「えぇ? 番頭さん、ほれはほんまなん?」
新吉の声だ。辰蔵は甚右衛門や千鶴たちに頭を下げると障子を閉めた。しかし障子越しに辰蔵の話が聞こえてくる。
「あたしん所はな、大魔の他にも、神輿と一緒に大勢が行列を組んで練り歩くんよ。神楽の舞姫もおるし、相撲の力士もおるし、槍持ちもおってな、宮司さんは馬に乗っておいでるんよ」
へぇと驚く声には新吉たちだけでなく、手代たちも入っている。
花江は甚右衛門たちに頭を下げると、板の間に姿を消して話に加わった。板の間は祭りの話で大盛り上がりだ。
いつもならば喋るにしても、声を潜めて甚右衛門やトミに気を遣うところだ。でも、今はみんなが話に夢中になっていて、遠慮のない話し声が聞こえてくる。
その声をトミは苦虫を噛み潰したみたいな顔で聞いていたが、甚右衛門は怒る様子もない。ここのところずっとみんなが暗い雰囲気だったので、久しぶりに耳にした楽しげな声が心地いいようだ。
「千鶴、ほんまは寺で何ぞあったんやないんか?」
板の間が賑やかなのが好都合とばかりに、甚右衛門は小声で千鶴に言った。先ほどの千鶴の様子を見て訊いているのだろう。
「え? な、何もないぞなもし」
千鶴がうろたえると、何かを隠しているのではないかと、トミも疑いの目を向けた。
「何か怪しいねぇ。あんた、嘘言うとるんやないんか?」
「ほ、ほんまに何もありませんけん」
千鶴の慌てぶりを見て、幸子までもが眉根を寄せた。
「あんた、向こうで嫌な目に遭うたんやなかろね?」
追い詰められた千鶴は、とにかく笑顔でごまかした。それにしても、今日の祖父母は妙である。普段は祖父も祖母もこんなに話しかけたりはしない。なのに今日はよく喋るし、気遣ってくれているような気さえする。
――ひょっとして……鬼?
千鶴は全身がざわついた。
風寄へ行くことになったのは、大雨で祭りの予定が一日ずれたからだが、その大雨を降らせたのは鬼だと千鶴は考えていた。
だけど、日程がずれただけでは祭りへは行けなかった。行けたのは祖父の許しがあったからだ。本来は絶対にないはずの許しが得られたのは、やはり鬼の力が働いたと思われる。きっと祖父は鬼に操られているのだ。
女子師範学校に通っている自分に、絣が作られている所を確かめさせたかったなどと、祖父は取って付けたみたいなことを言った。それは鬼の意向で無理に許可を出したからだろう。祖母も何だかいつもと違うのは、祖母も鬼に支配されているということか。
「ほんまに、何もないぞなもし」
千鶴は執拗に質してくる祖父母に強張りそうな笑みを見せて、漬物を口に放り込んだ。口を動かしていないと顔が固まってしまいそうだった。
幸子は息を一つ吐くと、場を取り繕うように甚右衛門に言った。
「ところで、お父さん。さっき裏で大けな声を出しんさったんは、何ぞあったんですか?」
甚右衛門は少しうろたえ気味に、何でもないと言った。だが、何でもないのに大きな声を出すわけがない。甚右衛門が説明しないのは、千鶴が風寄で男に襲われた話をすれば、またトミに文句を言われるからだろう。今もトミは疑わしげな顔を向けている。
幸子が代わりの答えを求めて千鶴を見た。けれど、余計なことは言うなと千鶴は甚右衛門から釘を刺されている。忠之の活躍を喋りたい気持ちはあるが、祖父には逆らえない。
千鶴は話を変えようと祖父に訊ねた。
「話違うけんど、なしておじいちゃんはご飯時やったのに、さっきはあげな所においでたんぞなもし?」
祖父が裏木戸まで来たことを、千鶴は今になって不思議に思った。
声が聞こえたから確かめるのであれば、手代の誰かを来させただろう。手水へ出て来たにしても、食事が始まるところだったのだ。行くならもっと早く行っている。
返答に困っているのか、甚右衛門は無視するがごとくに黙っている。すると、トミが顔をしかめて言った。
「あんたの戻りが遅いけん、心配しよったんじゃろがね」
「え? うちを心配してくれたん……ですか?」
千鶴が驚くと、今度はトミがうろたえて口籠もった。甚右衛門は黙ったまま味噌汁をすすっている。千鶴は母を見たが、母も祖父たちの様子を妙だと感じていたらしい。
それでも、これまで千鶴に無頓着だった二人が、千鶴を心配してくれたのがよかったみたいだ。もう黙っていなさいと、幸子は嬉しげな目で伝えてきた。だが千鶴は気になった。祖父母が自分を心配してくれるなど、これまで一度もなかったことだ。
これは絶対に鬼の仕業に違いない。千鶴は気分が悪くなった。
三
「何か、おじいちゃんもおばあちゃんも妙な感じぞな」
銭湯へ向かいながら千鶴は言った。一緒に歩いているのは幸子と花江だ。トミが銭湯へ行くのはいつも千鶴たちとは別の日なので、ここにはトミはいない。
「確かに、ちぃといつもとは違うみたいじゃね」
幸子がうなずくと、もしかしたらと花江が言った。
「旦那さん、千鶴ちゃんにお婿さんをもらって、お店を継がせるおつもりかも」
「え? うちにお婿さん?」
千鶴が思わず花江を見ると、そうさと花江は大きくうなずいた。
「千鶴ちゃんに継がせたくなったから、商いを教えようとしたんだよ」
「ほやかて、うちは女子師範学校に通いよるんよ? あの学校かておじいちゃんが行けいうたけん行きよるんやし。ほれやのに、うちに店継がせるておかしない?」
「きっと気が変わったんだよ。二人とも千鶴ちゃんを大事に思ってるみたいだからさ。師範になるより、お店を継がせる方がいいと思ったんだよ」
そんなことは有り得ない。だけど花江の言うとおりなら、やはり祖父母は鬼に操られているのだろう。
「お母さん、どがぁ思う?」
千鶴は母を振り返った。幸子も花江の話は信じられないようだが否定はしなかった
「ほんまじゃったら千鶴やのうて、うちが婿取りせんといかんとこなけんど、うちはもう若ないし、千鶴じゃったら子供産めるて考えんさったんかもしれんねぇ」
若さや子供を産むことだけをいうのなら、そうかもしれないが、祖父母はロシアを憎んでいる。そのロシアの血が流れる孫娘を店の跡継ぎにするはずがないのだ。
幸子には正清という兄がいた。千鶴にとっては伯父だ。
山﨑機織はこの正清が継ぐことになっていた。だが正清は日露戦争で兵隊に召集され、戦場で命を落とした。これが甚右衛門やトミが未だにロシアを憎む理由だ。
幸子は孝平という弟もいた。
当時、孝平は他の伊予絣問屋で丁稚として働いていた。正清亡きあと、甚右衛門は孝平が一人前の手代になったら跡継ぎにしようと考えた。ところが孝平は手代に昇格する前に、奉公先を逃げ出して姿を眩ましてしまった。
仕方なく甚右衛門は幸子に婿を取ろうとしたが、いい相手が見つからなかった。それは千鶴が原因だ。つまり、ロシア兵の子供を産んだことが問題だった。
敵兵の子供を産むなど、世間からすればとんでもない話だ。千鶴を身籠もったことが知れた時、幸子は周囲から白い目で見られ、警察からも事情聴取を受けた。また、山﨑機織の評判も落ちたという。
甚右衛門は子供を堕ろせと幸子に迫った。幸子はそれを拒んで家を飛び出し、偶然知念和尚と出会った。これが幸子が法生寺で世話になった経緯だ。
風寄で家の恥が広まるのを恐れた甚右衛門は、子供を産むことを許して幸子を家に呼び戻した。そうして千鶴が生まれたのだが、やはり幸子や千鶴に向けられた世間の目は冷たかった。
今でこそ千鶴たちを受け入れてくれる人は増えてきたものの、未だに見下している者も少なくない。そんな中で、千鶴の新たな父親になろうとする者などいない。だからといって、問題の原因である千鶴に婿の話が出るわけがない。跡継ぎなど有り得ないのだ。
祖父母は幸子が千鶴を産むのは許しても、千鶴に心を許さなかった。
千鶴は祖父母に抱いてもらったり、遊んでもらったりした記憶がない。覚えているのは、いつも二人が不機嫌そうで、ちょっとしたことですぐに怒られたことだけだ。
普段、千鶴は気にしないようにしているが、自分は望まれて産まれたのではないという想いが、いつも心のどこかにある。これまで耐えてこられたのは、母ががんばっていたのと、辰蔵たち使用人が優しく接してくれていたからだ。
女子師範学校へ行かせてもらっているのも、小学校教師として自立して暮らすことが、期待されているのだと受け止めていた。そうすれば、実質的に山﨑機織との縁が切れる。それが祖父母の望みなのだ。そんな二人が疎ましい孫娘に店を譲るなど、どう考えたってあるはずがない。
百歩譲って、仮に祖父母が婿を取るつもりがあったとしても、自分なんかを望む者などいない。花江が言うこともわからなくはないが、やはり跡継ぎの話は無理がある。
ただ、今の祖父母は鬼に操られている。鬼が千鶴を妻にするつもりであれば、祖父母が千鶴に婿を取ろうとしても矛盾はない。婿取りは二人の考えではなく、鬼の意志なのだ。そう考えると、千鶴は花江の言葉が本当であるような気がしてきた。
当然、その婿は鬼に決まっている。だから千鶴が相手であっても、婿はすぐに見つかるだろう。千鶴は表向きは店を継ぎながら、鬼の妻として生きるのだ。鬼は山﨑機織を隠れ蓑にして、仲間を増やしていくのである。
地獄の夢を見た時に、千鶴には鬼を愛しく想う気持ちがあった。だが今はそんな気持ちはまったくない。いくら自分が鬼娘で鬼と夫婦になるのが定めであったとしても、そんなことは受け入れられない。それでもきっと定めどおりになり、やがて鬼の本性が出て来て本物の鬼娘になるのだろう。
千鶴は目の前が真っ暗になった。
四
「どがいした? 大丈夫か?」
黙り込んでいる千鶴の顔を、幸子がのぞき込んだ。
「ん? 何でもない」
千鶴は笑顔を装ったが、幸子は心配そうだ。
「おじいちゃんが決めんさったことに、うちらは逆らえんけんな。ほんでも、ほうはいうてもなぁ……」
幸子は最後までははっきり言わなかった。千鶴に婿が見つかるわけがないと言いたかったのだろうか。でも、それでは千鶴が傷つくと思ったに違いない。
「心配なんかいらないよ。きっといい人が千鶴ちゃんのお婿さんになってくれるよ」
何も知らない花江が能天気に言った。
「そげなこと……」
千鶴が顔を曇らせると、花江は励ますような明るい声で言った。
「だって千鶴ちゃん、可愛いからさ。そりゃあ、偏見を持ってる人たちは、千鶴ちゃんのこと悪く見るだろうけど、そんなのはこっちから願い下げだよ。偏見を持たないで、千鶴ちゃんを真っ直ぐ見てくれる人だったら、絶対に千鶴ちゃんを大事にしてくれるし、お店だってうまくやってくれるよ」
千鶴が黙っていると、花江は立ち止まって千鶴をじっと見た。
「千鶴ちゃん、自分に自信がないっていうより、お婿さんの話に乗り気じゃないみたいだね」
心の中を見通されているようで、千鶴は慌てて答えた。
「ほやかて、うち、小学校の先生になるつもりでおったけん、急にそげなこと言われたかて困らい」
「まぁ、そりゃそうだよね。でもさ、悪い話じゃないとあたしは思うよ。あとで、ゆっくり考えてみたらいいよ」
花江に言われると、千鶴は言い返せなかった。
花江は千鶴より五つ年上で、元は東京の太物問屋の娘だ。その太物問屋は山﨑機織とも取引があった。
花江は一人娘だったので、婿をもらって店を引き継ぐことになっていたという。ところが先月初めに東京を襲った大地震で、花江は家も店も家族もすべてを失った。
東京に営業に出ていた山﨑機織の手代も、この地震で命を落とした。それで辰蔵が苦労して東京を訪ねたのだが、その時に花江を見つけて甚右衛門に連絡し、先に松山へ来させたのである。今から一月ほど前のことだ。
天涯孤独の身になった花江を、甚右衛門は女中として雇った。とはいえ、花江は元取引先の娘だ。甚右衛門もトミも花江に対して気遣いを見せた。しかし、花江はただの女中として扱われることを望み、とにかく懸命に働いた。
山﨑機織で働き始めてからさほど経っていないのに、今では花江は昔からいるみたいに、ここでの暮らしにすっかり馴染んでいる。千鶴に対しても、初めて会った時から明るく優しく接してくれた。千鶴にとって花江は姉のように慕える人だ。けれど、一人でいる時に花江が陰で泣いているのを、千鶴は知っている。
花江にすれば、親が取りなしてくれる婿取りの話は、とても有り難いことなのだ。そんな花江が悪い話じゃないと言うのを、千鶴が否定できるはずがなかった。
銭湯の脱衣場で着物を脱いだ時、千鶴の胸元からしおれた花がぽとりと落ちた。千鶴は慌てて拾ったが、花江は見逃さなかった。
「それは花だね? 何でそんな物を胸に仕舞ってるんだい?」
「これはね、えっと……、きれいじゃったけん、摘んで来たんよ」
動揺を隠したつもりだったが、花江は目を細めて千鶴を見つめた。
「本当に自分で摘んだのかい?」
「ほ、ほんまやし」
口をすぼめながら花を胸に抱くと、花江は笑った。
「千鶴ちゃんって、ほんとわかりやすい娘だね。嘘ついたって、すぐにわかっちまう」
「ほんまは誰ぞにもろたんか?」
幸子が少し嬉しそうに訊ねた。千鶴は答えずに下を向いた。
風寄で男に襲われたことは黙っているようにと、祖父から言われている。だから、忠之との出逢いを説明できない。
だけど千鶴が話さなかったのは、本当は気恥ずかしかったからだ。誰かに心が惹かれていると知られたくなかった。あれほど忠之の話がしたかったのに、今は喋るのが何だか恥ずかしい。それに、鬼娘が人間の男と一緒になれるわけがない。だめなのがわかっている人の話をするのは空しかった。
それでも花江も幸子も千鶴の心に何があったのかを理解したらしい。
「ふーん。なるほどね。そういうことか」
花江がにやにやしながら言うと、幸子も楽しげに言った。
「その人とはお祭りで知り合うたん?」
千鶴は返事をしなかった。しかし黙っているのは、肯定しているのと同じ意味になる。どんな人なのかと交互に問われ、優しくて強い人だと千鶴は喋ってしまった。
幸子と花江は顔を見交わすと、我が事のように喜んだ。
二人はもっと詳しい話を求めたが、どうせ一緒にはなれないからと千鶴は話を拒んだ。幸子も花江も千鶴が話さない理由を、婿取りの話だと考えたに違いない。それでも、二人はずっとにこにこしたままだった。
五
千鶴たちが銭湯から戻ると、トミが台所の板の間で亀吉と新吉に漢字を教えていた。
板の間の奥には、甚右衛門とトミの寝間がある。閉められた襖の向こうから、甚右衛門の鼾が聞こえてくる。
辰蔵や手代たちは二階の部屋へ引き上げたみたいだが、まだ眠ってはいないらしい。板の間と帳場の間にある階段の上から、ひそひそ喋る声が聞こえている。
亀吉と新吉はあくびを噛み殺しながら、トミに言われた漢字を何度も繰り返して半紙に書いている。本当はさっさと寝たいだろうが、これも丁稚たちの仕事だ。
トミは丁稚たちに生きて行くのに必要なことを、昔からこんな風に教えてきた。
千鶴も子供の頃に、当時の丁稚に交じっていろいろ教え込まれたが、祖母はきちんとできるまで絶対に許してくれなかった。特に千鶴は丁稚たちよりも厳しくされて、ちゃんとできていても褒めてもらえず、何度もやり直しをさせられた。
でも、お陰で高等小学校にも上がれたし、女子師範学校にも入ることができた。それを考えれば有難いことだったのだろうが、もう少し優しくしてほしかった想いがある。父親がロシア人でなければ、また違った扱いをしてもらえただろうにと、祖母に教えを受ける丁稚を見るたびに切なくなってしまう。
千鶴たちが声をかけると、トミは亀吉たちに今日はここまでと言った。二人は千鶴たちに頭を下げると、習字道具を片づけて階段を上がって行った。
「さぁ、ほしたら繕い物をしようかね」
トミが疲れた様子で言った。
着物の破れを縫ったり、新しい着物を作ったりするのは女の仕事だ。特に育ち盛りの亀吉や新吉は、次の年には前の年の着物が合わなくなる。また絹の呉服は木綿の太物と違って手間がかかる。洗う時に一度糸を解いてばらばらにして、あとで乾かしてからもう一度縫い直して元に戻すのだ。
男たちが床に就いたあとも、女たちはちくちくと針仕事をしたり、洗った着物にアイロン掛けをしたりと忙しい。
幸子は板の間と茶の間を仕切る障子を開けた。
茶の間の隅には縫い物が置かれてある。千鶴と幸子は自分の縫い物を取り上げると、それぞれの場所に座って縫い始めた。トミも板の間から茶の間に移り、同じように縫い物を始めた。
花江は七輪に残っていた炭火をアイロンに入れて、板の間の隅に畳まれていた洗濯物にアイロンをかけた。
誰も一言も喋らないで、黙々と手を動かしている。こうしていると、千鶴には風寄の祭りを見に行ったことが嘘みたいに思える。だけど懐にはあの花がある。花はすべてが事実である証だ。風寄へ行ったのは本当で、あの人と出逢ったのも夢じゃないよと、花が胸の中で囁いている。
縫い物をする時には、針に集中しなければならない。でも、千鶴はつい忠之のことを考えてしまう。
忠之が親切にしてくれるのは、忠之が惚れていたロシアの娘を自分に重ねているからだと、千鶴は受け止めていた。けれどあそこまで親切にしてくれたのは、単に自分があの人の知る娘に似ているからではないと、今はそう思っていた。あの人の心は夫婦約束をした娘ではなく、自分に向けられていると信じていた。
一方で、愚かなことを考えるなと戒める自分がいた。あの人は別れた娘を見ているのであって、山﨑千鶴を見ているわけではないと戒める自分は主張した。
忠之に惹かれる自分は、別れた娘はもういないのであり、あの人の気持ちは自分だけのものだと反論した。あの人の着物だって、新しいのを自分がこうしてこさえてあげるんだと気負うと、鬼娘のくせに!――と戒める自分が言った。
「痛っ!」
指先を針でちくりと突いてしまい、千鶴は思わず声を上げた。涙で視野が滲んでしまい、針先がよく見えなくなっていた。
いつもであれば、何をやっているのかと祖母に冷たい視線を向けられるところだ。ところが、今日の祖母は違っていた。
手の甲で涙を拭った千鶴に、トミは言った。
「千鶴、今日はもうええ。あんたは疲れとろけん、もう寝なさいや。明日は学校じゃろ?」
思いがけない祖母の言葉に、千鶴は戸惑った。
これまでは疲れていようと翌日学校があろうと、そんなことには関係なく、祖母は仕事をさせていた。ましてや、今回は一人だけ特別に風寄の祭り見物へ行かせてもらったのである。その分、しっかり仕事をしろというのが当たり前だった。なのに疲れているから寝なさいというのは、普段の祖母では考えられないことだ。これは絶対におかしい。
やはり祖母も鬼に操られている。千鶴はそう確信した。
「ほんじゃあ、お先に上がらせてもらいます」
落ち着かない気持ちのまま自分の縫い物を片づけると、千鶴はトミや母たちに頭を下げた。それから手燭に火をもらい、茶の間から離れの部屋へ向かう渡り廊下に出た。
廊下の脇の奥庭は真っ暗だ。塀の向こうには街灯の光が届いているが、塀のこちら側には届かない。千鶴が手燭を差し出すと、暗い奥庭がぼんやりと照らされた。蔵の脇にある裏木戸も仄かに見える。
千鶴は闇の中の裏木戸を眺めながら、その向こうに忠之がいたことを思い出していた。
あれから一刻近くになると思うが、今も裏木戸の向こうに忠之がいるみたいな気がする。あの扉の向こうで、人力車を引く忠之がこちらを見つめているようだ。
忠之の少し寂しげな優しい笑顔が思い浮かぶと、千鶴は胸が潰れそうになるほど切なくなった。今日出逢ったばかりなのに、ここまで心が惹かれるのは、自分とあの人の間に深い縁があるからだと千鶴は思った。そうでなければ、あの温もりは説明ができない。
だけど、鬼娘の相手は鬼に決まっている。邪魔立てする者は殺されるだろう。あのイノシシのように。
もしかしたらあの若侍も、悪い侍たちではなく鬼に殺されたのかもしれないと思うと、千鶴は恐ろしくなった。あの人を若侍の二の舞にはしたくなかった。
それでもあきらめきれない千鶴は、何とかあの人と逃げられないかと考えた。でも、仮に鬼の手を逃れて二人が夫婦になれたとしても、鬼娘はいずれは鬼の本性を見せるのだ。そこには絶望的な悲劇しかない。結局、どれほど惹かれ合ったとしても、二人が結ばれることはないし、結ばれてはいけないのだ。
千鶴は肩を落として涙ぐんだ。
黙って拝借した人力車で松山まで運んでくれるほど、忠之は千鶴のことを想ってくれている。けれどもそれ以上は、千鶴との関わりを避けているみたいだ。
夫婦約束までした娘を手放さざるを得なくなった経験が、恐らくそうさせているに違いない。それは千鶴には歯痒いけれど、あの人は今のままでいるのが二人のためなのだと、自分に言い聞かせた。忠之が千鶴を望むようになってはいけないのである。
空の人力車を引きながら、風寄へ戻る忠之の姿が目に浮かぶ。その姿はどんどん遠く、どんどん小さくなって行く。呼んでも声は届かない。これが二人の定めだと言わんばかりに、忠之が寂しげに去って行く。
客馬車で夕日を見た時の悲しみが蘇り、胸が締めつけられた千鶴は、大声で叫びたくなった。千鶴には忠之にあの若侍が重なって見えていた。若侍と同じように野菊の花を飾ってくれた忠之を失いたくなかった。
けれど、千鶴が風寄へ行くことはもうないだろう。忠之が松山へ出て来ることもない。今後二人が再び出逢うことはないのである。そして、それが鬼娘の定めであり、忠之のためでもあるのだ。
これでいいんだと、千鶴は涙をこぼしながら自分を納得させようとした。それでも堪えきれず項垂れてしゃがむと、声を殺して泣いた。
休み明けの学校
一
通学用の袴を着けると、千鶴は茶の間へ挨拶に行った。茶の間では甚右衛門が新聞を読んでいる。
どの家でも新聞を取っているわけではないが、新聞を取っているからといって、朝刊が朝に届くとは限らない。場所によれば、朝刊なのに届くのは夕方近くになってからという所もある。ここは幸い新聞社が近いので、朝早くに朝刊を届けてもらっている。
店のことは使用人たちがしてくれるので、甚右衛門はこの時間はゆっくりしている。その隣では、トミが甚右衛門が飲むお茶を淹れていた。
大地震で東京が壊滅したことで、東京へ多くの伊予絣を送っていた伊予絣問屋は大打撃を受けた。ここ山﨑機織もその一つである。そのため、甚右衛門は東京の復興も含めた日々の記事に目を光らせて、今後の伊予絣業界の行く末を毎日占っていた。
ところが悪い話はあっても、いい話など出て来ない。この日もよくない記事が出ていたのか、甚右衛門の表情は曇っている。こんな時には迂闊に声をかけない方がいいのだが、黙って行くわけにもいかない。
「あの……、行てまいります」
千鶴は恐る恐る声をかけたが、記事に集中しているのか、甚右衛門は新聞に釘づけになったまま返事をしない。代わりにトミが甚右衛門の脇に湯飲みを置きながら、ちらりと千鶴を見て言った。
「行てお戻り。気ぃつけてお行きなさいや」
千鶴はぎょっとした。他の家では当たり前の言葉かもしれないが、祖母の口からこんな気遣いの言葉が出るとは思っていなかった。いつもであれば、しっかり学んで来いとか、遅刻するから早く行けとか、寄り道をするなと一言文句を添えるところだ。
千鶴の視線に気づいたトミは、ややうろたえながら、何ぞな?――と言った。
「いいえ、何も」
千鶴がトミに頭を下げて行こうとすると、甚右衛門はやっと千鶴に気がついた。新聞を下ろすと、よいと呼びかけたが、あとは何かを言いたげにしながら黙っている。
「どがぁしんさった?」
見かねたトミが声をかけると、甚右衛門は千鶴から目を逸らし、何でもないと言った。
千鶴はもう一度甚右衛門に、行てまいりますと声をかけた。あぁと顔を向けた甚右衛門は、やはり何かを気にしているようだ。
不審に思いながらも千鶴は二人に頭を下げ、台所の花江にも声をかけた。花江は明るく、行ってらっしゃいと言い、千鶴に弁当を持たせてくれた。
花江が女中になってから、それまで家事をこなしていた幸子は再び看護婦として働き始めた。今日は早めに来てほしいと病院から言われたので、千鶴より先に家を出ている。
幸子は自分が働くことを家計を助けるためだと言うが、それは甚右衛門が幸子への婿取りをあきらめたということだ。そう考えると、やはり祖父は自分に婿を取るつもりなのかと千鶴には思えてしまう。
丁稚や手代たちが千鶴たちの脇を通り抜けて、大阪へ送り出す品を蔵から運び出している。その邪魔にならないようにしながら、千鶴は通り土間を抜け、暖簾をくぐって帳場に出た。
帳場には辰蔵が座り、行てお戻りなと千鶴に言った。
表には積み荷を載せる大八車が用意されていて、蔵から運んで来た反物の木箱が、すでにいくつか積まれていた。そこへ手代の茂七と弥七が新たな木箱を運んで来て、千鶴に声をかけた。年上の茂七は明るく大きな声だが、弥七はおとなしいので声は控えめだ。
東隣の紙屋の者たちに千鶴が朝の挨拶をしていると、今度は反物の木箱を大八車に載せた亀吉が、元気に声をかけてくれた。
「千鶴さん、行てお戻り」
続けて出て来た新吉も千鶴に挨拶をした。
朝に店を通り抜けながら、みんなから声をかけて送り出してもらうのは、小学校に通い始めた頃からの習慣だ。女子師範学校の寮に入っていた間は途切れていたが、寮を出てから再開したお馴染みの朝の光景である。
亀吉たちに手を振りながら、行てくるけんねと声をかけ返すと、千鶴は紙屋町の通りを西へ進んだ。
通常、家人は裏木戸から出入りする。しかし千鶴が小学校に入った時、祖父は千鶴に店から表に出るよう命じた。
千鶴が通った尋常小学校は城山の西の麓、師範学校の脇にある。だから裏木戸を出たところで、店の前を通ることには変わりない。けれども店から出て来ると、どうしても目立ってしまうので、千鶴は裏木戸からこっそり出たかった。
だが、祖父は許してくれなかった。堂々と店から表に出て、通学路とは反対側の店の人たちにも、大きな声で挨拶をせよというのが祖父の命令だった。それ以来、千鶴は学校へ行く時には店から表に出ている。
初めの頃は、みんなに見られるのが嫌で仕方がなかった。孫娘を晒し者にする祖父を恨めしく思ったものだ。しかし今となっては慣れっこになったので、紙屋町の人々と顔を合わせることは気にならなくなった。向こうの方も最初はぎこちなかった挨拶が、今では当たり前になっている。
小学校に通っていた頃は、紙屋町の西側の人たちとはあまり顔を合わせることがなかった。だけど女子師範学校へ歩いて通い始めると、そこの人たちとも毎日顔を合わせるようになった。初めは少し緊張したが、向こうも千鶴のことを知らないわけではない。声をかければ、ちゃんと返事をしてくれるので、もう緊張することはなくなった。
でも今は自分は鬼娘だという想いがある。それが千鶴の気持ちを後ろ暗くさせていた。
おはようござんしたとか、行てまいりますなどと、顔を合わせる人たちに挨拶をしながら紙屋町の通りを歩いて行くと、やがて大きな寺に突き当たる。かつて松山を治めていた久松松平家の菩提寺である大林寺だ。
祖父は事あるたびに、紙屋町のこの道は殿さまたちが通った道なのだと、誇らしげに言ったものだ。しかし、千鶴は大林寺に対して別な想いを抱いている。
日露戦争が始まると、捕虜になったロシア兵が大勢日本へ連れて来られた。その捕虜兵たちを収容することになったのが松山で、その一番初めの捕虜収容所となったのが、この大林寺だ。母の話では、父も最初はここへ入れられていたらしい。
普段は千鶴は父のことなど考えないが、この寺の前を通ると、どうしても考えてしまう。だから、いつも足早に通り過ぎていた。
ロシア人の血を引いているがために、千鶴は幼い頃から嫌な想いを強いられてきた。そのため、つらいことばかりなのは全部ロシア人である父のせいだという気持ちが、千鶴の中にはあった。もし父が日本人だったら、こんな苦労などしなかったのにと思うと、顔も知らない父を恨みたくなった。
だが一方で、父に会ってみたい気持ちもあった。
日本でなくロシアで暮らせば差別されないかもしれないと考える時、千鶴は父と暮らしている自分を想像してしまう。
父がどんな顔をしているのかはまったくわからない。それで自分に似た顔を想像し、父と暮らすことを願ったりもした。でも、この日に頭に浮かんだ父はロシア人ではなく、髪の中に角を隠した鬼だ。
顔や姿のように、鬼の本性も親から受け継がれるのであれば、少なくとも両親の片方には鬼の血が流れているはずだ。ならば、父親はロシア兵に化けた鬼なのかもしれないのだ。
千鶴は大林寺の山門の前で立ち止まった。
大林寺を眺めながら、千鶴はかつてここにいた父を思い浮かべ、あなたは鬼なのかと心の中で父に問いかけた。もし父が鬼であったなら、今の苦しみは父のせいである。ロシア人ということでも苦労させられた上に、今度は鬼だ。もしここに父がいたなら、大喧嘩をしていただろう。
父に腹を立てそうになった千鶴の心に、忠之が話しかけてくる。
――千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人とめぐり逢うて、幸せになるんぞな。
忠之を思い出すだけで、怒りは鎮まり切なくなる。けれどめぐり逢うのは鬼なのだ。
千鶴の懐にはまだあの花が入っている。千鶴は胸に手を当てながら、一緒になりたいのはあの人だと、忠之への想いを確かめた。だが確かめたところで、その願いは叶わない。忠之を想えば想うほど、却って空しい気持ちになるばかりだった。
二
大林寺の前を右に曲がると、左手に阿沼美神社が見えてくる。毎年春子に見せていた祭りの舞台だ。この神社の北端を西へ曲がった所に、伊予鉄道の古町停車場がある。
松山からは多くの伊予絣が県外へ発送されているが、その多くは三津ヶ浜の向こうにある高浜港から、瀬戸内海を渡って本州へ届けられる。
その高浜港まで荷を運ぶのは陸蒸気と呼ばれる蒸気機関車で、古町停車場には紙屋町で扱う伊予絣が集まって来る。これまで県外発送の中心は東京と大阪だった。しかし今は東京は大地震で壊滅状態なので、送られる先は大阪が大半と思われる。
もう少しすれば高浜港へ向かう陸蒸気がやって来る。貨物車に荷物を載せるため、近くの店々から大八車が集まって来ている。山﨑機織からも直に亀吉たちが荷物を運んで来るだろう。
千鶴が古町停車場に顔を向けながらさらに北へ進もうとすると、フワンと音が鳴った。我に返って前を見ると、通りの少し先を電車が左へ横切って行った。松山から三津ヶ浜へ向かう電車で、昨日、春子が札ノ辻から乗ったのと同じ電車だ。
家が裕福な級友は通学に電車を利用しているが、千鶴は歩いての通学だ。ただ、大雨の時には、千鶴も電車に乗せてもらえる。風寄の祭りの前日も朝からかなりの雨が降ったので、電車で通学させてもらった。だけど少々の雨では乗せてもらえない。
電車の終点は三津ヶ浜だが、陸蒸気も高浜へ行く途中に三津ヶ浜で停まる。どうして三津ヶ浜へ向かう路線が二つもあるのかというと、元は二つは別々の会社が運営していたからだ。
春子が乗った電車の方は、千鶴が尋常小学校に入学した年にできたものだ。陸蒸気の方は母が生まれた頃にできたと聞いている。
詳しい話は知らないが、かつては三津ヶ浜が海の玄関口で、陸蒸気は三津ヶ浜が終点になっていた。ところが、大型の船も利用できる高浜港が三津ヶ浜の向こうに新たに建設され、伊予鉄道がそこまで路線を延長した。これが三津ヶ浜の人たちを怒らせた。
海の玄関口を自認する三津ヶ浜にとって、高浜港に船を取られるのは死活問題だ。猛反発をした三津ヶ浜の人たちは、伊予鉄道に対抗してもう一方の電車を作った。それが春子が乗ったあの電車だ。
松山から東へ三十六町ほどの所に有名な道後温泉があるが、三津ヶ浜の人たちは、そこまでの鉄道を作った。伊予鉄道との客の奪い合いは、かなり熾烈なものだったと聞いている。
伊予鉄道は三津ヶ浜と高浜の間に海水浴場を作っていた。これに対抗して、三津ヶ浜の人たちも海水浴場を作り、伊予鉄道にはない遊園地まで作った。
客引き争いでは三津ヶ浜の方に分があったらしいが、それは損得を度外視した値引き合戦の結果だった。結局は無理が祟って伊予鉄道との争いに負けてしまい、せっかく作った三津ヶ浜の電車も線路も、すべて伊予鉄道に召し上げられてしまった。千鶴が女子師範学校本科の二年生になった年のことだ。
当時は千鶴は寮にいたので、休みの日などに三津ヶ浜の町に出ることがあった。その時の町の人たちが意気消沈していたのを千鶴は覚えている。自分の家が松山にあるとは、とても言い出せない雰囲気が町中に広がっていた。
鉄道会社の争いと同じで、強い者が勝つのが世の常である。そして、自分は弱い者だと千鶴は思った。
世の中は男を中心に動いている。女は男に従うだけだ。ましてや自分は異国の血を引いており、物を言う権利など他の若い娘以上にない。けれど男でも立場が弱ければ、思いどおりにいかないのは同じだ。
忠之が惚れ合った娘との夫婦約束を果たせなかったのは、山陰の者であることが理由と思われる。恐らく娘の家は山陰ではない村にあったのだ。また娘の方も異国の血を引いているがために家族から疎まれて、迎えに来た父親に押しつけられたに違いない。
本人が悪いわけではなくても、生まれが悪いとどうすることもできないのは、男も女も変わらない。こんな理不尽なんかなくなればいいのにと思いながら、千鶴は広い松並木の道へ出た。三津ヶ浜へ向かう三津街道だ。
かつてお城の殿さまが参勤交代をしていた頃、殿さま一行は三津ヶ浜から船で出入りしていた。その時に使われた道がこの三津街道だ。街道と名のつく道はいくつもあるが、殿さまが通った三津街道は、他の街道よりも広くて立派な造りをしている。
千鶴がいる所は三津口と呼ばれるが、三津口から三津ヶ浜までの間には、千三百ほどの松や杉が日よけ目的に植えられている。殿さまがいなくなった今も、千鶴たちみたいに街道を歩く者たちに、松や杉は木陰を与えてくれる。この並木がなかったなら、暑い夏場は歩くのが嫌になっていただろう。
街道の周辺は田畑ばかりでとても長閑だ。いつもと同じ穏やかな景色を眺めていると、風寄での体験や家の中の異変などが、本当のことだとは思えなくなりそうだ。
少し歩くと、二本の線路が道を横切る。どちらも古町停車場から出たものだ。手前は道後温泉へ向かう電車の線路で、もう一方は陸蒸気が高浜へ向かう線路だ。荷物と乗客を港へ運ぶ陸蒸気が、もうそろそろやって来るはずだ。
二本の線路の近くに立って左手に顔を向けると、二つの線路が土手の下をくぐって来ているのが見える。この土手は三津ヶ浜へ向かう電車が通るもので、古町停車場から出た線路の上を乗り越えるために作られた。土手の向こうが古町停車場だ。
陸蒸気は街道の右を走り、三津ヶ浜へ向かう電車は左を走る。この先、両者は街道に絡み合って走るが、その様子は未だに三津ヶ浜の人たちの怨念が生きているかのようだ。
ただ街道自体は、鉄道会社の争いごとなど関係ないかのごとくのんびりした雰囲気だ。所々で牛車が荷物を運び、千鶴と同じ絣の着物に袴を着けた若い娘たちが三々五々歩いている。いずれも女子師範学校の生徒だが、二年生までは寮なので、歩いているのは三年生か四年生だ。
千鶴たち四年生は四十名弱であり、そのうち松山から通う者は二十五名ほどだ。三年生と合わせると五十名近くになる。みんな千鶴とは家が近いわけでもなく、家を出る時間もまちまちだ。それに四年生の級友たちも春子ほどは親しくない生徒がほとんどだ。だから、学校の行き帰りは千鶴は大概一人だった。
一人で歩く千鶴の頭に浮かぶのは忠之のことばかりだ。切ない気持ちで歩いていると、前方から電車がやって来るのが見えた。ぼんやりその電車を眺めていたら、ピーッと甲高い汽笛が聞こえた。振り返ると、後ろから来た陸蒸気が白い煙をもくもくと吐きながら、千鶴を追い抜いて行った。
陸蒸気の後ろには客車と貨物車がつながれている。山﨑機織の絣が港へ運ばれて行くのだ。やがて電車と陸蒸気はすれ違ったが、その光景はきっと忠之を喜ばせただろう。
そのあと電車は千鶴の脇を通り抜け、陸蒸気はどんどん前方へ遠ざかる。千鶴は陸蒸気を見送りながら、客車に乗る自分と忠之を思い浮かべた。二人で港へ行って、そこから船でどこか遠くへ向かうのだ。そうすれば、鬼からも差別からも逃げられるかもしれない。
だけど千鶴はすぐにため息をついた。逃げたところで自分は鬼娘なのだ。
三
女子師範学校の校舎はモダンな洋風の二階建てだ。
玄関の庇は見晴らし台になっており、その玄関を中心に両翼を広げた形に造られている。両翼の端はどちらも手前に突き出した別棟の建物みたいで、とてもお洒落な外観だ。
毎週月曜日にこの校舎を目にすると、千鶴は今週もがんばろうと引き締まった気持ちになった。しかし、今日はそんな気持ちにはなれなかった。
目に見える光景は同じなのに、先週とは異なる世界にいるような気がする。
他の生徒たちと顔を合わせると、いつもどおりに挨拶を交わす。でも、千鶴には他の生徒たちが自分とは別の生き物に思えてしまう。そんな違和感を覚えながら教室の前まで来ると、中から大きな声が聞こえた。
そっと中へ入ってみると、教室の真ん中で高橋静子が級友たちを集めて喋っている。
春子と同じく、静子は千鶴が寮にいた時の同部屋仲間だ。三津ヶ浜の菓子屋の娘で、少しぷっくらした明るい性格の娘だ。千鶴とも仲がいい。
本当は静子も名波村の祭りに誘われていた。けれど静子は親の許可が下りず、一緒に行くことは敵わなかった。だけどそれが普通であり、どの級友たちにしても許されることではない。千鶴だけが特別に認められたのだ。それがわかっているからか、静子は気落ちの様子もなく、両腕を広げながら元気に喋っている。
「ほれがな、これよりもっと大けなイノシシやったそうな。こらもう絶対、山の主で。その山の主がな、いきなし襲て来たんよ」
イノシシと聞いてぎくりとした千鶴は、春子を探した。
春子は静子の近くに座っていた。きっと静子は春子から話を聞いたのだ。ならば、千鶴が春子の家を訪ねたことは、みんな知っているだろう。
千鶴に気がついた静子が、嬉しそうに千鶴に手招きをした。すると春子の近くにいた級友が、千鶴のために席を空けてくれた。仕方なく千鶴はそこに座ったが、本当はイノシシの話などには交じりたくなかった。
「お戻りたか、山﨑さん。名波村のお祭りは楽しかった?」
静子がにこやかに言った。やはり話が伝わっているらしい。
「お陰さんで楽しませてもろたぞな。だんだんな、村上さん」
千鶴が声をかけると、春子は小さくうなずいて微笑んだ。だが、何だかその笑みがぎこちない。千鶴は気になったが、静子は構わず言った。
「今な、化け物イノシシの話をしよったんやけんど、山﨑さん、村上さんと一緒にイノシシの死骸見に行ったんやて?」
「そげなもん見とらんよ。うちらが見たんは、イノシシが死んどった場所ぎりぞな」
そんなことまで春子は喋ったのかと思いながら答えると、そがい言うたやんかと春子は静子に口を尖らせた。
何だか春子は不機嫌そうだ。それでも静子はちっとも気に留めていない。ほうじゃったかねと笑うと、さっきの話の続きを喋りだした。
「今の話やけんど、ほら、もうびっくりじゃろ? イノシシはあっちじゃ思て待ち構えよんのに、でっかいのが横から出て来よったんじゃけん。しかも、そんじょそこらのイノシシやないで。男の人が両腕いっぱい広げてもまだ足りん大けなイノシシぞな」
「なぁ、高橋さんは何の話しよるん?」
千鶴は小声で春子に訊ねた。すると春子が答える前に、静子が自慢げに言った。
「あんな、風寄で見つかった化け物イノシシはな、うちの伯父さんが高縄山で仕留め損のうたイノシシなんよ」
四
高縄山は風寄の南東にそびえる山だ。
聞けば、静子の伯父たちは木曜日から風寄の柳原にいたそうだ。高縄山へは翌日の金曜日に入るつもりだったらしい。ところが大雨になったために予定を一日ずらし、土曜日に高縄山へ入ったのだという。
春子は静子に何か言いたそうだったが、千鶴が先に喋った。
「雨でお祭りが後ろにずれはしたけんど、ほんまなら金曜日はお祭りやったんやないん?」
静子は他人事みたいな顔で、ほうよなぁと言った。
「自分とこの祭りじゃったら別やろけんど、他所の祭りのことは、あんまし神聖なもんじゃとは思わんのじゃろね」
「ほやけど、村の人らがよう許したもんじゃね」
「たぶん、銭をつかませたんやと思うで」
「銭?」
嫌な言葉だ。
確かに世の中は銭で動いている。銭がなければ飯も食えない。だからといって、銭に物を言わせて自分の思いどおりにするやり方は、千鶴は好きじゃなかった。
「お祭りは夕方から始まるんじゃろ?」
静子が訊ねると春子は面倒臭げに、ほうよと言った。静子が喋る間、春子はずっと面白くなさそうにしていたが、静子は無視して千鶴に言った。
「ほじゃけん、銭もろた人らは夕方の祭りに間に合う形で、猟の手伝いを引き受けたんやなかろか」
なるほどと千鶴が一応納得すると、通学組の他の生徒が二人、教室へ入って来た。静子は彼女たちに声をかけ、今がいな話をしよるんよと手招きして呼んだ。
二人が来ると静子は話を戻し、伯父が仕留め損なったイノシシが風寄の里へ逃げ、死骸となって見つかったのだと主張した。その理由はイノシシの大きさだ。
山の主とおぼしきイノシシなど、そうざらにいるものではない。だから両者は同じイノシシであり、結局は伯父が仕留めたことになるというのが静子の言い分だ。
あのイノシシが高縄山から逃げて来たという話に、千鶴は納得した。あの時のイノシシからは殺気が感じられた。あれは自分ではなく人間を憎む殺気だったに違いない。
イノシシ狩りについては、千鶴は祖父の話でどんなものかをだいたい知っている。数名の勢子と呼ばれる人夫を雇い、イノシシの居場所を調べさせて、射手がいる所まで追い込ませるのだ。
静子の伯父たちも、同様の狩りをしていたようだ。静子が言うように、村の誰かに銭を支払って、この勢子の役目を引き受けてもらったのだろう。
元々射手は四人いたという。それが予定がずれたことで一人が抜けたため、今回は静子の伯父を含めた三人だけで狩りを行ったそうだ。
三人はそれぞれ離れた持ち場に潜んで、勢子が追い込んで来るイノシシを待っていた。そこへ突然別のイノシシが現れて、伯父たちを襲ったのだと静子は言った。
静子の伯父は三カ所の持ち場のうち、端を担当していた。初めに襲われたのは、静子の伯父とは反対側のもう一方の端にいた射手だった。三人とも追われたイノシシがいつ現れるかと、前方に意識を集中していた。そのため、横から巨大なイノシシが近づいて来ていたことに、誰も気づかなかったらしい。
最初の犠牲者は銃を撃つ暇もなくやられてしまった。また、仲間がやられたことが残りの二人はわからなかった。
二人目が襲われた時、その悲鳴で静子の伯父は何が起こっているのかを初めて知った。その仲間もすぐにはイノシシに気づかなかったらしく、銃を発砲できないままやられてしまった。
静子の伯父はイノシシに銃を向けたが、仲間に当たると思って引き金を引けなかった。しかしイノシシが凄い速さで迫って来ると、慌てて引き金を引いた。するとイノシシは向きを変えて、山の麓の方へ逃げたそうだ。
「伯父さんは弾が当たったかどうかわからんて言うておいでたけんど、今朝の新聞では、イノシシは何かに頭やられて死んどったて書いとったけん、恐らく伯父さんの弾が頭に当たったんよ」
静子は新聞記事を根拠に喋った。三津ヶ浜は松山から離れているが、まだ暗いうちから電車が動いているため、新聞は朝に届くみたいだ。
「新聞にそげな記事があったん?」
千鶴が驚くと、ほうよほうよと静子は楽しげに言った。伯父が誇らしいのだろう。
千鶴は祖父の様子を思い出し、そういうわけかと納得した。今朝、祖父は同じ記事を読んでいたのだろう。それで事実を確かめようとして千鶴を呼び止めたが、気味の悪い話だからやめたのだ。
記事に「頭を潰された」ではなく「頭をやられて」とあるのは、記者が村人たちの話に半信半疑だったのかもしれない。何しろ証拠は残されていないのである。
神輿が投げ落とされる時に春子が村人から聞いた話では、イノシシの骨と毛皮は山陰の者たちに燃やされ埋められたらしい。理由は、やはり気味が悪いからだ。そのことを春子は相当残念がったが、事実を知った新聞記者も口惜しがったに違いない。
静子の話をうんざりした様子で聞いていた春子は、静子の隙を突いて口を開いた。
「高橋さん、新聞にはイノシシが猟銃で頭撃たれて死んだてあったん?」
静子はきょとんとしたあと首を振った。
「ほやけど、イノシシは伯父さんに向かって来たんで。そこへ鉄砲向けて撃ったんじゃけん、当たるとしたら頭じゃろ?」
「もし、高橋さんが言うたとおりやとしてな、頭撃たれたイノシシが、高縄山から辰輪村まで来られる思う?」
「辰輪村てどこ?」
春子はため息をつくと、高縄山と辰輪村の場所、それに双方の距離を説明した。
「高橋さんの伯父さんが高縄山のどこらにおったか知らんけんど、風寄側におったんなら、辰輪村まで半里から一里はあらい。その距離を頭撃たれたイノシシが移動でけるとは思えんで」
「大した傷やなかったんやない?」
「ほれじゃったら、死んだりせんじゃろに」
「じゃあ、何で死ぬるんよ?」
いらだった口調の静子に、春子は疲れたように言った。
「ほれをさっきから説明しよ思いよったのに、高橋さんがずっと喋りよるけん、何も言えんかったんやんか」
「じゃあ、村上さんはイノシシが死んだ理由を知っとるん?」
春子はにやっと笑ってうなずいた。
「もちろん知っとらい。少なくとも猟銃で撃たれて死んだんやないで」
五
何だ、そういうことかと千鶴は思った。
春子が不機嫌に見えたのは、いろいろ喋りたいのに静子ばかりが喋って、自分は口を開く間がなかったからだ。
早く理由を知りたい級友たちが、声を揃えて説明を求めると、春子はいかにも嬉しげな顔をした。あの場で千鶴が具合が悪くなったことなど忘れているみたいだ。
まぁまぁと春子はみんなを落ち着かせると、聞いて驚かないようにと、級友たちの顔をゆっくりと見まわした。主役を奪われた静子は憮然としていたが、春子と目が合うとどきりとした顔になった。
春子は静子の目をのぞきながら言った。
「イノシシはな、頭潰されて死んだんよ」
「頭を? 潰された?」
「ほうよ。潰されたんよ。ぺしゃんこにな」
級友たちの顔が引きつった。静子も顔が強張っている。
「村上さん、イノシシの死骸、見とらんのじゃろ?」
静子が精いっぱい抗うように言った。
「見とらんよ。ほんでも、見た人がそがぁ言いんさったけん」
「ほんなん、嘘かもしれんやんか」
「何人も見とるし、お寺の和尚さんに何がイノシシの頭潰したんかて、訊きにおいでた人もおったけん」
「和尚さんは何て言うたん?」
「わからんて言いんさった。ほんでも、これは大事じゃて思いんさったみたいで、がいに怖い顔をしておいでたぞな」
静子が黙ると、他の級友の一人が訊ねた。
「その死骸はどがぁなったん?」
「肉はな、村のみんなが食べてしもたんよ。ほれで骨と毛皮も燃やされてしもたけん、残念なけんど証拠になるもんは何ちゃ残っとらんのよ」
春子ががっかりした顔で話すと、別の級友が怯えた様子で訊ねた。
「そのイノシシ、何に頭潰されたん?」
「ほれがな、わからんのよ。傍には大けな岩も落ちとらんし、大けな木が返っとったわけでもないんよ。おらと山﨑さんが見に行った時には、血溜まりがあったぎりぞな」
みんなが顔を強張らせて押し黙ると、蒼い顔の静子が千鶴に声をかけた。
「山﨑さんも見たんじゃろ? 何ぞ気ぃつかんかったん?」
大きな足跡らしきものを見つけたとは言えない。千鶴は何も知らないことにした。
「村上さんが言うたとおりぞな。うちには何もわからん。そげなことより、伯父さんと一緒やったお人らはご無事じゃったん?」
静子は少し元気を取り戻し、ほれがなと言った。
「二人とも、亡くなったんよ」
「亡くなった?」
静子はうなずくと、二人とも牙でずたずたにされたらしいと、さらりと言った。
「顔なんか見られんかったそうな。ほんでも一番ひどいんは喉の傷やったて。相当抉られて、血ぃが止まらんかったらしいんよ。イノシシもどこが急所なんか、わかっとったんじゃろかね」
千鶴はざわっとなった。鬼に助けてもらわなければ、自分がそうなっていたのだ。話を逸らしたつもりが、余計なことを聞いてしまったと千鶴は後悔した。
級友たちはさらに恐怖心を煽られたようだ。みんな声を失い、泣きそうな顔になっている。春子も二人が死んだのは意外だったみたいで、当惑した顔を千鶴に向けた。
「そげな恐ろしいイノシシが、何かに頭を潰されたんじゃね」
別の一人が震えながら言った。それは化け物イノシシ以上の何かがいるという意味だ。
もうやめてと言う者が出て来たので、静子は伯父の話に切り替えた。
イノシシに襲われたあと、静子の伯父は勢子が戻って来るのを待って、里に助けを求めたという。だが、その里は祭りの準備で大忙しだった。
祭りは村人たちにとって神聖な行事だ。そこへ助けを求めたので、静子の伯父も勢子となった者たちも、村人たちから散々罵られたそうだ。こんな日に何をしていたのかという話である。
そもそもこの時期は、まだ狩猟が解禁されていなかったらしい。そんな時期にイノシシ狩りを行なったから、山の神の怒りに触れたのだと叱責され、静子の伯父は何も言えずに小さくなるしかなかったようだ。
だけど死人をそのままにしておくわけにはいかない。結局、村では死人を三津ヶ浜まで運ぶのに、大八車とそれを引く者数名を用意してくれた。
手伝いを頼まれた村人たちは、まずは山から遺体を運び出し、駐在所にもそのことを届け出たあと、日が暮れた道を提灯を掲げて三津ヶ浜まで遺体を運んだそうだ。遺体が山から運ばれたのは、千鶴たちが名波村に着いてからのことらしい。あの時にそんな恐ろしいことがあったのかと思うと、今更ながら千鶴は背筋が寒くなった。
遺体の運搬を頼まれた者たちには、とんだ迷惑な話だったことだろう。年に一度の祭りの楽しみを台なしにされたのである。死人を運ぶ時にも、相当な不機嫌だったに違いない。その中で、静子の伯父も大八車を引いたり押したりしながら、疲れた体で三津ヶ浜まで歩いたそうだ。三津ヶ浜に着いたのは真夜中だが、まだ終わりではない。
静子の伯父は三津ヶ浜で宿を営んでいるが、亡くなった二人も旅館の主人だった。
順番にそれぞれの旅館を訪ねた静子の伯父は、出て来た家人たちに事情を説明し、主の命を救えなかったお詫びをした。
突然の主の死に家人たちが慌てふためき、嘆き悲しむ様子は想像に難くない。静子の話では、泊まり客までもが起きて来る騒ぎになったらしい。
イノシシ猟は静子の伯父が一人で決めたことではない。しかし生きているのは静子の伯父だけなので、どうして大雨になったところで中止にしなかったのかと、みんなから責められたそうだ。
苦労して暇を作っての猟だったので、あきらめるわけにはいかなかったと弁解したらしいが、そんな言い訳は通用しなかった。仲間の一人は予定が変わったことで猟をあきらめて、一足先に三津ヶ浜へ戻ったのである。
怒りのすべてを向けられ、静子の伯父は土下座をするしかなかった。そうして何とか二つの旅館を廻って、主の遺体を引き渡してもまだ終わらない。死人を運んでくれた風寄の村の者たちにも、お礼と泊まる部屋の用意をしなければならなかった。
翌日は亡くなった者たちの通夜の準備を手伝い、こちらの警察にも改めて事情を説明した。その警察では禁猟時期の狩猟ということで、静子の伯父はかなり絞られた上に罰金を支払うことになった。そのあと疲労と混乱と悲しみでいっぱいの状態で家に戻ると、今度は家族から責められて、二度と狩猟はしないと誓わされたという。
柳原村にも日を改めてお詫びに行かねばならず、静子の伯父は寝込んでしまうほど、身も心もぼろぼろのくたくただったはずだ。しかし誰も味方になってくれないからか、日曜日の夜に弟である静子の父を訪ね、何があったのかを涙ながらに語ったと静子は言った。
そんな感じで一昨日の夜から三津ヶ浜は大騒ぎになっていたらしい。
女子師範学校は町外れにあるので、昨日の夕方に寮へ戻った春子は、町の騒ぎを知らなかった。だが静子みたいに三津ヶ浜に暮らす級友たちは、二つの旅館で同時に通夜が行われるのを訝しんでいたそうだ。
静子の話が終わると、春子は呆れた顔で言った。
「高橋さん、伯父さんがそげなことになっとったのに、ようあがぁに楽しげに喋ったもんじゃねぇ」
ほやかてと静子は頬を膨らませた。
「うちは風寄のお祭りに行かせてもらえんかったんじゃもん。ちぃとでもお祭りに関係した話がしたいやんか」
やっぱり静子も風寄の祭りに行きたかったのだ。
静子があれほどはしゃいで見えたのは、伯父を誇りにしているというより、祭りに行けなかった寂しさをごまかしていただけのようだ。
六
廊下で始業の鐘が、からんからんと鳴り響いた。
みんなが急いで自分たちの席に戻ると、先生が入って来た。縮れ髪に丸眼鏡の井上辰眞教諭だ。専門は博物学で蒼白く痩せた姿はいかにも学者である。
「おはようございます」
井上教諭が挨拶をすると、みんな立ち上がって挨拶を返した。
教諭はみんなを座らせると、丸眼鏡を指で押し上げて言った。
「さて、今日は動物の分類についてお話しましょう。動物には背骨があるものと、背骨がないものがありますが、前者を脊椎動物、後者を無脊椎動物といいます」
教諭は黒板にカッカッと音を立てながら、チョークで「脊椎動物」「無脊椎動物」と書いた。そのあと順番に生徒に動物の名前を挙げさせると、その名前を脊椎動物と無脊椎動物に分けて、黒板に書き加えて言った。
「では、次は山﨑さん。他にどんな動物がいますか?」
人間と千鶴が答えると、教諭はにっこり笑ってうなずいた。
「そうですね。人間も動物ですね。では、脊椎動物ですか? 無脊椎動物ですか?」
「脊椎動物ぞなもし」
そのとおりと言って、教諭は脊椎動物の所に「人間」と書き加えた。
教諭は書き並べた脊椎動物の名前を、色違いのチョークで書き分けていた。
「赤で書いたのは哺乳類、青で書いたのは爬虫類です。それから、黄色は両生類で、緑は魚類、橙色は鳥類です」
そう言って、教諭は黒板にそれぞれの色で「哺乳類」「爬虫類」「両生類」「魚類」「鳥類」と書いた。すると、先生――と静子が手を挙げた。
「はい、高橋さん」
教諭が顔を向けると、静子は立ち上がって言った。
「えんこは何色になるんぞなもし?」
「えんこ? えんこって何だい?」
「先生、えんこを知らんのかなもし。えんこいうんは川におって、子供を水に引きずり込んだり、お尻の穴を抜き取ったりするんよなもし」
「そいつは頭にお皿が載ってるのかな?」
「ほうです。体はぬめっとしとって、相撲が好きなんぞなもし」
何だ、河童のことか――と井上教諭は苦笑した。
「ここで分類してるのは、実際に存在が確かめられている動物だけが対象です。残念ながらえんこは存在が不確かだから、対象にはなりません」
「ほやけど、うちの叔母さん、こんまい頃にえんこ見たて言うとりましたよ?」
静子が食い下がると、他の生徒たちも口々に似たようなことを言った。
井上教諭は両手を挙げて、生徒たちを静かにさせた。
「それはわかりますけど、誰かが捕まえてみせない限り、存在していたとしても、存在していないのと同じ扱いになるんです」
「じゃあ、もし存在しよったら、どこに分類されるんぞなもし?」
執拗な静子にいらだつこともせず、井上教諭は顎に手を当てながら真面目に応じた。
「うーん、むずかしい質問だな。えんこか……。哺乳類のようでもあり、両生類みたいでもあるけれど、恐らく新たな項目に分類されるだろうな」
井上教諭が茶色のチョークで「えんこ」と書くと、みんな、ついさっきイノシシの死に様に怯えていたことなど忘れ、争って魔物や化け物の名前を挙げた。中には背骨がなさそうなものもあったが、教諭はそれらを一まとめにして書き並べた。
井上教諭は優しい人で、千鶴が知る中では珍しく生徒の話に耳を傾けてくれる先生だ。
生徒たちが口にした化け物たちの名前を、教諭は真面目に黒板に書き並べて言った。
「これは次の試験に出すかもしれませんからね。もう、ありませんか? 締め切りますよ」
誰かが、がんごと言った。
「がんご?」
教諭が首を傾げると、鬼のことぞなもしと春子が教諭に教えた。
井上教諭はなるほどと言いながら、黒板に「がんご」と書き加えた。それから同じチョークで「異界生物」と書いた。
みんなは井上教諭の分類に満足したようだ。だけど、千鶴は黒板から目を逸らして下を向いた。何だか自分が異界生物に分類されたみたいな気分だった。
実際、千鶴が鬼娘だと知れたなら、また千鶴に鬼が憑いているとわかったなら、千鶴はみんなから異界生物として恐れられるに違いなかった。そうなれば今以上に世間の目に曝されて、どこにも居場所はなくなるだろう。下手をすれば、家族までもが今いる所を追われることになる。
そんな千鶴の気持ちなど誰も知る由がない。級友たちは楽しげな声を上げ、井上教諭はそれを制しながら授業を進めていった。
奇妙な老婆
一
名波村を訪ねてから一週間が経った日曜日、千鶴は母と二人で奥庭にしゃがんで洗濯をしていた。
幸子が働いているのは個人経営の小さな病院だが、入院部屋があるため看護婦には夜勤がある。しかし、幸子は若くない上に家事を手伝うこともあり、仕事は日勤だけにしてもらっていた。また日曜日は病院は休診なので、入院患者の看護などは住み込みで働く若い看護婦が担い、幸子は休みとなっていた。
千鶴はいろいろ鬼のことを心配したが、この一週間は祖父母が妙に優しくなった以外は、特に変わりはなかった。まだ不安がなくなったわけではないが、今は少し落ち着きを取り戻していた。
そうなると忠之のことが無性に気になってしまい、あのあと無事に風寄に戻れたのだろうかとか、あれから何をしているのかなと、洗濯の手を動かしながら忠之のことばかりを考えていた。
母から話しかけられても上の空で、返事も頓珍漢なものばかりだ。それでも母親だけあって、幸子は娘の心の内がわかるらしい。怒りもせずに呆れたように笑っている。
「千鶴さん、お友だちがおいでたぞなもし」
勝手口で新吉の声がした。千鶴が振り向くと、新吉は珍しいお客に興奮している様子だ。そわそわした感じで落ち着きがない。
訪ねて来たのは春子だろう。この日、千鶴は祖父に許しをもらって、春子と遊ぶ約束をしていた。名波村の祭りへ招いてもらったお返しだ。
「だんだん。今行くけん」
千鶴が声をかけると、新吉は蔵へ行った。残りの洗濯物を母に頼んで、千鶴が急いで店へ向かうと、帳場で辰蔵と談笑している春子がいた。
「お待たせ。ようおいでたね」
千鶴が声をかけると、春子は嬉しそうに手を振った。
「ここは初めてやけん、どきどきしよったけんど、番頭さんが優しいけんよかった」
いえいえと辰蔵は照れ笑いをしたが、この番頭さんはほんまに優しいんよと、千鶴は辰蔵を持ち上げた。辰蔵は当惑の笑みを見せながら、あとは奥でごゆっくりと言った。
辰蔵の向こうでは弥七が街の太物屋からの注文書を確かめている。千鶴が来ても顔も上げないし声もかけない。これが茂七であれば、忙しい中であっても愛想よく声をかけてくれる。
「ほれじゃあ、お邪魔します」
春子は辰蔵に頭を下げ、弥七にも声をかけた。辰蔵は笑顔で応じたが、弥七は注文書をにらんだまま返事もしない。辰蔵に注意されて、ようやく申し訳程度に頭を下げたが、すぐにまた注文書へ目を戻した。
弥七は昔から素っ気ないのだが、千鶴は面白くなかった。春に手代に昇格したばかりで、周囲に気配りをする余裕がないのだろうが、手代だからこそ気配りは必要だ。
とはいえ、いずれ東京の仕事が再開して茂七が向こうへ出されれば、松山の手代は弥七一人になる。新たな手代を祖父がどうするつもりかはわからないが、まだ半人前の弥七はとにかく一人前になるのに必死だった。千鶴たちに構ってなどいられないのである。
蔵から戻った新吉が、抱えていた木箱を弥七の傍に置いた。これから町の太物屋へ届ける品だ。大八車は一台しかないので、午前中に茂七と弥七が交代で、それぞれが受け持つ太物屋へ注文の品を届ける。今は茂七が先に亀吉を連れて出ているところだ。
弥七に次の品を命じられた新吉は、またぱたぱたと蔵へ走って行った。
学校は日曜日が休みだが、商家に日曜日は関係ない。使用人が仕事を休めるのは盆と正月の藪入りと、給金がもらえる毎月の一日だけだ。といっても新吉たち丁稚には給与は出ず、一日であっても雑用などの仕事がある。その話を千鶴から聞かされていた春子は、まだ幼さの残る新吉の働きぶりに感心しきりだった。
二
千鶴は春子を家の中へ誘うと、茶の間にいる祖父母に会わせた。
甚右衛門とトミは頭を寄せ合いながら算盤を弾いていた。関東の大地震で受けた打撃の穴埋めをどうするかで、二人はよく言い争いをした。この時も口論が始まりそうだったが、春子に気づくと慌てて笑顔を見せ、祭りで千鶴が世話になったことを感謝した。
実際は風寄でいろいろあったわけで、春子は甚右衛門たちの応対に少し戸惑っていた。それでも千鶴に祭りへ出向く許しを出してもらえた礼はきちんと述べた。
トミは千鶴を招き寄せると素早く銭を持たせ、あとで二人で何か食べるように言った。
祖母が小遣いをくれるなど滅多にないことだ有り難くいただきはしたものの、千鶴は少し薄気味悪い気がした。
上がり框を拭いていた花江が微笑んでいる。千鶴がトミに優しくしてもらったのが嬉しいみたいだ。
新たな木箱を抱えた新吉が蔵から戻って来て、そのまま帳場へ行った。新吉がいなくなると、千鶴は花江に春子を紹介した。花江は手を休め、笑顔で春子に話しかけた。
「千鶴ちゃんから風寄のお祭りの話、聞かせてもらったよ。あたしもさぁ、風寄のお祭りにいつか行ってみたいて思ってんだ」
「ぜひおいでてつかぁさい。ところで、花江さんはどこからおいでたんですか?」
春子は花江の言葉が気になったようだ。花江はにこやかに、東京だよと言った。
「先月初めの大地震でさ。家もお店も壊れるし、そのあと大火事になっちゃって、きれいさっぱりなくなっちまった」
花江は笑ったが涙ぐんでしまい、悲しみを堪えるように唇を噛みしめた。けれど、すぐに笑顔に戻ると話を続けた。
「うちはここと取引があった太物問屋だったんだ。番頭さんは去年まで東京にいたんだけどさ。今年から交代で東京を廻ってた人と連絡が取れなくなったから、東京まで様子を見に来たんだよ。それで、あたしらみたいな取引先の所も一軒一軒廻ってくれたんだ」
「さっき、おらが喋っとった番頭さん?」
帳場を振り返った春子に、そうだよと花江は言った。
「番頭さん、路頭に迷ってたあたしを見つけてくれてさ。松山においでって言ってくれたんだ。他にも困った人はいっぱいいたのに、そんなこと言ってもらえたあたしは恵まれてたんだよ。あたしを働かせてくれた旦那さんやおかみさんにも感謝しかないよ」
花江が甚右衛門とトミを見ると、春子も二人に顔を向けた。甚右衛門は当惑しながら、事情を聞いたら放っておけなかったと言った。トミも横でうなずいている。
そんな祖父母を見ると、千鶴は少し胸が疼いた。本当は二人とも情が深いのだろう。それだけに、自分が冷たくされてきたことが千鶴は悲しかった。
しかし、花江に嫉妬しているわけではない。千鶴にしても花江は本当に気の毒だと思っている。それに鬼の仕業ではあっても、ここのところの祖父母は比較的優しく見える。そのせいか祖父母が他人に優しくするのを見ても、さほど悲しくはならなかった。
千鶴たちが喋っている間、新吉は帳場と蔵の間を行ったり来たりしていた。それで少し疲れたのか、蔵から戻って来た新吉は抱えた木箱が重そうだ。
毎日のことではあるけれど、まだ子供の丁稚が一人で荷物を運ぶのは難儀なことだ。せめて、もう一人丁稚がいればいいのにと千鶴は思うのだが、今はどうにもならない。
新吉が帳場へ姿を消すと、その時に東京廻りをしていた人はどうなったのかと、春子が訊ねた。
千鶴は甚右衛門たちを気にしながら小声で言った。
「亡くなったんよ。ほじゃけん、あっちで荼毘に付してお骨になって戻んて来たんよ。そげなことも全部番頭さんがやってくんさったんよ」
「ほうなん。遠い所のことやけんど、大事やったんじゃね。ほんでも番頭さん、今年こっちへ戻んておいでんかったら、番頭さんが亡くなっとったかもしれんのじゃね」
それは春子の言うとおりで、誰が助かって誰が死ぬかは運としか言いようがない。
以前は手代が四人いた。一人は東京を廻り、三人が松山にいた。ところが七年前、手代の一人が藪入りに戻った故郷でコレラに罹って死んだ。翌年には、東京廻りの手代が結核に罹患しているのがわかり、静養するために仕事を離れて松山の病院に入院した。
そこで当時手代だった辰蔵が東京へ送られ、松山は勇七という手代一人だけになった。仕方がないので、甚右衛門はまだ丁稚だった茂七を使って、何とか手代不足を補った。
その次の年には、少し早めに茂七を手代に昇格させたが、今度はスペイン風邪で先代の頃からいた番頭が死んだ。山﨑機織の要である番頭の死は、かなりの痛手となった。
度重なる不幸に心折れそうになりながら、甚右衛門は神社で厄払いをしてもらい、番頭になれる者が出て来るまでと帳場に座った。結核で静養となった手代が戻ることが期待されたが、結局はこの手代も亡くなった。
急いで人員を揃える必要に迫られた甚右衛門は、今年弥七を手代に昇格させ、東京から辰蔵を呼び戻して番頭に据えた。代わりに勇七を東京へ送り込んだが、厄払いの甲斐もなく勇七は大地震の犠牲となった。弥七が手代になっていなければ、辰蔵はそのまま東京に残っていたはずで、地震の犠牲になったのは辰蔵だったかもしれなかった。
「人の運命なんてわかんないもんさね。番頭さん、亡くなった人は自分の身代わりになって死んだんだって、大泣きしてたよ」
花江がしんみり言った。でもすぐに、ごめんよと笑顔を見せた。
「せっかく遊びに来てもらったのにさ。暗い話になっちまったね。あとでお茶を淹れてあげるからさ。もうちょっと待ってておくんなね」
だんだん、花江さん――と言い、千鶴は春子を奥庭へ連れて行った。すると、新吉が蔵から反物の箱を抱えて出て来た。
基本的に蔵の品の出し入れは丁稚の仕事だが、茂七は手が空いていれば一緒に運ぶ。けれど、弥七は急ぎでなければ手伝わない。自分もそうやって来たという思いがあるのだろうが、人手が足らないのだから少しぐらい手伝ってやればいいのにと千鶴は思う。
それでも新吉にしても亀吉にしても、文句を言わずに働いてくれる。その健気な姿がいじらしい。偉いねぇと春子に褒められ、新吉は嬉しそうにしながら家の中へ入った。
千鶴たちに気がついた幸子は洗濯の手を止め、春子をにこやかに迎えてくれた。
「先日は千鶴がえらいお世話になりました。狭い所なけんど、今日はゆっくりしておいでなさいね」
恥ずかしげにうなずく春子を、千鶴は蔵へ案内した。中の棚にはずらりと反物の木箱が積み上げられており、仕入れ先と文様ごとに分けられてある。
「うわぁ、がいじゃねぇ。これ、全部絣が入っとるん?」
春子は歓声を上げると、どれが名波村から届いた絣だろうかと楽しげに探し始めた。
少しすると新吉が戻って来た。腕には木箱を抱えている。
「あれ? 箱間違えたん?」
千鶴が訊ねると、新吉は箱を棚の上に載せて口早に言った。
「仕入れの品が届いたんよ。ほじゃけん、届けの品はあとやし」
新吉は急いで蔵を出て行ったが、本当に忙しくて大変そうだ。邪魔になるので千鶴たちも蔵から出た。
ゆっくりできるのは離れの部屋だけなので、千鶴は春子と一緒に再び母屋に戻った。
千鶴が祖父母に声をかけて茶の間に上がろうとすると、帳場から箱を抱えて来た新吉が奥庭へ行った。
千鶴がひょいと帳場の方を見ると、店と中を仕切る暖簾の下から表の通りが見えた。店の前には牛車があり、牛の尻尾がゆらゆら揺れている。
暖簾で顔は見えないが、仲買人と思われる男が牛車から木箱を帳場へ運び込んでいる。その中身を弥七が確かめ、確かめ終わった木箱を新吉がせっせと蔵へ運ぶのだ。
忙しい新吉の姿は、千鶴に後ろめたさを感じさせた。しかし、この日は特別だと自分に言い聞かせて、春子を離れの部屋へ案内した。
三
「へぇ、こげな自分らの部屋があるんや」
春子は珍しげに部屋の中を見まわした。
風寄の実家には、春子だけが使える部屋はない。寝る時は他の者と同じ部屋で寝る。千鶴が泊めてもらっていたならば、やはり春子たちと同じ部屋で寝ることになっていた。
だから千鶴と幸子に自分たちの部屋があることが、春子には羨ましく見えるのだろう。だが実態はロシア人の娘である千鶴と、千鶴を産んだ幸子が穢らわしいということで、母屋とは離れたこの部屋に置かれているのだ。ただ、離れ自体は千鶴たちのために建てたものではない。ずっと昔に建てられたものだ。
甚右衛門は山﨑家には婿入りをしたのだが、離れは甚右衛門がこの家を継いだ時に、トミの両親の隠居部屋として使われた。つまり千鶴の曾祖父母の部屋だったのだが、その前は高祖父母が使い、曾祖父母が亡くなったあとは、幸子の兄正清が使っていた。
これまで千鶴は春子を祭りに誘ったり、春子と街へ出かけることはあった。だけど自分の部屋へ入れたのは、これが初めてだった。
家と店は一体となっているので、すべては商いが中心だ。気軽に誰かを家に呼び入れるなど許されない。それに、千鶴も家の中を他人に見せたくなかった。今回春子を家の中へ招いたのは特別なことだ。
「番頭さんらは、どこに寝泊まりするん?」
「お店の上に部屋が三つあるけん、番頭さん、花江さん、ほれから手代と丁稚の人らで使とるんよ」
「ええなぁ。おらん所は平屋じゃけん、二階には憧れとるんよ。自分の部屋はあるし、二階はあるし、やっぱし町の暮らしは違わいねぇ」
いくら羨ましがられても、千鶴は一つも嬉しくない。それに春子の家の方がここより遥かに広いし、蔵だって大きい。曾祖母が使っている離れもあるし、電話だってある。春子の言葉は半分以上お世辞のように聞こえてしまう。
千鶴は適当に愛想を振り撒きながら、井上教諭の話に話題を変えた。というのは、井上教諭に思いがけないことが起こったからだ。
「ほれにしても、井上先生、お気の毒じゃったね」
千鶴の言葉に、春子は大きくうなずいた。
「ほんまじゃねぇ。まっことお気の毒じゃった」
先週の火曜日、警察から井上教諭に連絡が来た。風寄で宿代を踏み倒そうとした男の身元引受人として呼ばれたのである。
警察に捕まった男は井上教諭の叔父ということだった。それで教諭はその日の午後の授業を休ませてもらって、急遽風寄へ向かった。
もちろんそんな内輪の、しかも恥になる話を、井上教諭が生徒たちに喋ったりはしない。この話は寮の食事を作ってくれる食堂のおばさんたちから春子が聞いたものだ。
その話によれば、井上教諭の叔父だというその男は、風寄の祭りを夫婦で見に行っていたらしい。その間、二人は北城町の宿屋に泊まっていたが、祭りが終わった翌朝に、まず女房が姿を消した。そのあと亭主すなわち教諭の叔父が逃げ遅れたところを捕まったのである。
しかし、教諭の叔父は一緒にいたのは女房などではなく、自分は女に騙されたのだと訴えたそうだ。言い分としては、仕事で東京から高松に移って来たので、三津ヶ浜にいる甥に面会に行ったのだという。女とは松山から乗った客馬車で知り合ったらしい。
この話を聞いた千鶴は、もしやと思った。客馬車で一緒になった山高帽の男の話によく似ていたからだ。祭りの夜にもあの男が二百三高地の女と一緒にいるところを、春子と目撃している。春子も自信を持って、絶対にあの山高帽の男だと断言した。
あの時、千鶴たちは月曜日の授業があるので、日曜日のうちに松山へ戻って来た。だが風寄の祭りは、神輿の投げ落としが終わりではなかった。翌日には鹿島から海を渡って来た二体の神輿が北城町や浜辺の村を練り歩き、港では前夜遅くまでだんじりが集結して賑やかに神輿を迎えていた。
神輿は渡御が終わると、禊ぎといって穢れを落とすために川や海に何度も豪快に投げ入れられる。そのあと神輿は船に乗せられて、迎え火が焚かれた鹿島へ帰って行くのだが、神輿の船を先導する船の上では、男たちが夕日を浴びながら勇壮な舞を披露する。
この二人はこの鹿島の神輿までも楽しんだようだ。そして翌朝、女は教諭の叔父の財布を持って姿を眩ました。教諭の叔父は呼ばれた警官に無実を訴えたが、結局は宿代の踏み倒しということでしょっ引かれ、甥である井上教諭が呼ばれたのだった。
井上教諭は風寄へ向かう前に、叔父が泊まった宿代や、叔父が高松へ戻る費用などを工面する必要があった。それで教諭は給料を前借りしたという話だ。
井上教諭にしてみれば、自分にはまったく関係のないことで、とんだ身内の恥を曝す羽目になったわけだ。しかも、警察や宿屋の主人に下げなくていい頭を下げ、学校にも迷惑をかけたことを詫び、給料の前借りまでしたのである。
千鶴たちは水曜日に井上教諭の姿を見かけたが、教諭はげんなりして覇気がなかった。給料を前借りしたら、来月はどうやって暮らすのだろうと、千鶴たちは教諭の暮らしを心配した。だが女に騙された教諭の叔父のことは、少しも気の毒だとは思わなかった。あんな見るからに怪しい女に騙されるのは、男が悪いというのが二人の出した結論だ。
千鶴たちはこの話を知らないことになっているので、井上教諭に慰めの言葉もかけられない。こうして二人で気の毒がるのがせめてものことだった。
四
「ずいぶん盛り上がってるじゃないの」
お茶とお菓子を運んで来てくれた花江が楽しげに言った。
花江は千鶴たちの分だけでなく、自分の分まで持って来ていた。二人の話に交ざって少し一服しようというのだろう。
春子はここだけの話と言いながら、花江に井上教諭と山高帽の男の話をした。すると、やはり花江は井上教諭を気の毒がり、教諭の叔父には毒づいた。
「ほんっと男って馬鹿なんだから。そんなのを自業自得っていうんだよ。だけどさ、その先生もほんとにお気の毒だねぇ」
花江は千鶴たちがお菓子を食べていないのに気づくと、早く食べるよう促し、話は違うけどさと言った。
「風寄じゃあ、お祭りの最中にあっちこっちで空き巣が入ったらしいね。新聞に書いてあったよ」
「へぇ、花江さん、新聞を読みんさるんじゃね。おらなんか全然読まんけん、尊敬するぞなもし」
春子に褒められて、花江は照れた。
「そんな大層なものじゃないよ。旦那さんが読み終わったのを、あとでこっそり読ませてもらってるんだ」
花江に感心しながら、春子は千鶴に言った。
「覚えとる? あの二百三高地の女の隣に、鳥打帽かぶった若い男がおったろ? あれ、何か怪しいことない?」
「怪しいて?」
「ほやけん、花江さんが言いんさったじゃろ? 祭りん時にあちこち空き巣が入ったて」
千鶴が鳥打ち帽の男のことで覚えているのは、ちらちらと自分を盗み見していたことぐらいだ。しかし、男が客馬車を降りる時のことが頭に浮かぶと、あ――と言った。
「あの人、あの女の人と目で合図しよったみたいに見えたで」
「じゃろげ? あいつら絶対にぐるぞな」
花江が千鶴と春子の顔を見比べながら言った。
「何だい何だい、二人とも空き巣を見たっていうのかい?」
ほういうわけやないけんどと、千鶴は少し口を濁した。
「ほうかもしれん人と、同し馬車に乗り合わせたんよ」
「そいつが鳥打帽をかぶった若い男なんだね? 二人とも凄いじゃないか。警察に教えてあげなよ」
「ほやけど、鳥打帽かぶった人なんか、なんぼでもおるけん」
千鶴が自信なく言うと、花江は素直にうなずいた。
「まぁ、それもそうだけどさ。あたしゃ鳥打帽の男には気をつけとくよ。それと二百三高地の女だね」
花江は自分の茶菓子を食べると、急ぐようにお茶を飲んだ。
さてと――と腰を上げた花江は、気合いの入った顔を見せた。
「そろそろ仕事に戻んなきゃね。千鶴ちゃんたちはこのあとはどうすんだい?」
「ちぃと街に出てみよかて思いよるんよ」
「そりゃいいや。ゆっくり楽しんでおいでよ」
花江はお盆を持つと部屋から出ようとした。ところが障子を開けたところで、千鶴たちを振り返った。
「そうそう。いい機会だから教えとくれよ。風寄の祭りの晩にでっかいイノシシの死骸が見つかったって、新聞に出てたんだけどさ。あれ、本当かい?」
千鶴はぎくりとしたが、春子は満面に笑みを広げ、ほんまぞなもしと声を弾ませた。
花江は目を輝かせると、千鶴たちの所へ戻って来た。
「見たのかい?」
「おらたちは見とらんけんど、男の人が両腕広げても、まだ足らんぐらい大けなイノシシじゃったと」
花江は自分で両手を広げながら、へぇと言った。
春子は静子の伯父の話も、花江に聞かせてやった。その話も新聞に載っていたみたいで、あの話かいと花江は驚いていた。
同じ話でも、記事で読むのと関係者から聞かされるのとでは、やはり迫力が違うらしい。花江はずっと眉をひそめながら、春子の話を聞いていた。静子の伯父の仲間が殺された様子には、花江は小さく身震いをしながら、くわばらくわばらと言った。
「二人とも、そのイノシシに出くわさなくてよかったねぇ。もし出くわしてたらさ、今頃あの世行きだよ」
何も言えない千鶴の横で、ほんまほんまと春子はうなずいた。花江はもう一度眉を寄せると、でもさと言った。
「そのイノシシは死んでたんだろ? 新聞には何かに頭をやられたってあったけどさ。あれ、どういうことなんだい?」
千鶴はそんな話はしたくなかったが、春子は得意げにイノシシの死に様などを説明した。学校でもそうだったが、春子はあそこで千鶴がどうなったかなど忘れているらしい。
「本当にそんなことがあるのかい?」
花江は信じられないという顔で千鶴たちを見た。
「そんな大きなイノシシの頭を潰したのが、岩でも木でもないとしたら、そりゃ、とんでもない化け物じゃないか! 風寄には昔からそんな化け物が棲んでるのかい?」
「いや、そげな話は聞いたことが――」
言葉を切った春子が口を半分開いたまま千鶴を見たので、花江も千鶴に目を向けた。
「何だい? 千鶴ちゃんが何か知ってるのかい?」
「うち、何も――」
千鶴は惚けようとしたが、鬼かもと春子が言った。花江は動転したように目を剥いた。
「がんご? がんごって新ちゃんが言ってたね。確か、鬼のことだろ?」
千鶴が渋々うなずくと、花江は興奮した様子で、風寄には鬼がいるのかと言った。
答えられない千鶴は黙っていたが、春子がひぃばあやんから聞いた話だと喋り始めた。
「だいぶ昔のことなけんど、おらのひぃばあやんのおとっつぁんが……、えっと、ほじゃけん、おらのひぃひぃじいやんがな、浜辺で大けな鬼を見たらしいんぞなもし」
人間よりずっと大きな鬼が、浜辺で大勢の侍と戦って皆殺しにしたあと、大きな黒い船に乗って海へ逃げたと、春子はまことしやかに語った。
知念和尚の話では、侍たちと戦ったのは代官の息子なのだが、春子はそのことには触れなかった。また千鶴を気遣ってか、鬼娘の話もしなかった。
花江は驚きのあまりすぐには言葉が出せず、うろたえながら言った。
「そ、それはほんとかい? 風寄にはそんな鬼が今もいるってことかい?」
「今まではおらんかったんやけんど……」
「いるんだね?」
春子はちらりと千鶴を見てから、今年の八月の台風で鬼よけの祠が壊れたと言った。
「鬼よけの祠?」
「鬼が二度と村に戻んて来んように、おらのひぃひぃじいやんがこさえたんぞなもし」
「その祠が壊れたって言うのかい? それは一大事じゃないか。イノシシを殺したのは絶対に封じられてた鬼さ。早く祠を造り直さないと大変なことになるよ!」
「ほやけど、鬼の話するんはひぃばあやんぎりやし、妙な噂立てられても困るけん、おとっつぁんも祠を直す気ぃはないみたいな」
自信なさげな春子に、花江は言った。
「イノシシの話がなかったら、鬼の話はひいおばあちゃんの妄想っていえるかもしんないけどさ。実際、イノシシが頭潰されて死んだんだろ? 鬼でなかったら、他に何がイノシシの頭を潰せるっていうんだい?」
「そがぁ言われたかて……」
春子は助けを求める目で千鶴を見た。話を打ち切りたい千鶴は、動揺を隠して花江を落ち着かせようとした。
「風寄では鬼のことも鬼よけの祠のことも、村上さんのひぃおばあちゃんの他は誰っちゃ知らんのよ。ほじゃけん、イノシシのこともこっちで思うほどは、みんな気にしとらんみたいなんよ」
「だって、大変なことじゃないか」
「ほんでも向こうの人が何とも思とらんうちは、どがぁもしようがないけん。ほれに鬼がイノシシを殺す理由もわからんし」
本当はわかっているが、それは言えない。
「そりゃ、そうだけどさ」
花江は納得がいかない様子だった。しかし、ここであれこれ騒いだところで仕方がないので話をやめた。
花江さん――奥庭で花江を呼ぶ声が聞こえた。亀吉だ。品納めから戻ったらしい。
「また誰かが来たみたいだね。今日は忙しいよ」
花江はお盆を持って部屋を出て行った。
ようやく鬼の話が終わり、千鶴がほっとしていると春子が言った。
「花江さんて元気なお方じゃねぇ。先月、家族やお店を失さした人とは思えんぞな」
「あがぁしとらんと、悲しいてめげそうになるんよ。東京の話した時に泣きそうな顔しておいでたろ? まっことつらい思いをしたお人じゃけん、うちなんかのこともよう励ましてくれるんよ」
春子は母屋の方へ顔を向けながら言った。
「ええお人なんじゃねぇ」
「ほうよほうよ。花江さんはまっことええお人ぞな」
「ええお人いうたら、あの風太さんはどがいしておいでようか」
突然の忠之の話に、千鶴は鬼のことも忘れるほど慌てた。もちろん忠之がどうしているのかは気にはなっている。しかし春子と一緒に考えることではない。
「さぁ、どがいしとろうか」
千鶴は無関心を装ったが、春子はまた風太さんに会いたいと言い続けた。人力車に乗せてもらっていた時も、春子はずっと忠之と喋っていた。かなり忠之のことが気に入ったようだが、千鶴はそんな話は聞きたくない。
そろそろ街に出かけようかと持ちかけると、行く行くと春子は満面の笑みを浮かべていそいそと腰を上げた。やれやれと思った千鶴は、春子に背を向けて小さくため息をついた。それから笑顔で振り返り、どこ行こかねと言った。
五
離れを出て渡り廊下から奥庭を眺めると、物干しに洗濯物が掛けられていた。洗濯を母一人に押しつけてしまったことを、申し訳ないと思いながら千鶴は母屋へ入った。
幸子は台所にいて、昼飯の準備を始めていた。
甚右衛門はどこかへ出かけたらしい。茶の間ではトミが一人で新聞を眺めている。その傍では、花江が火鉢のお湯でお茶を淹れていた。やはり表に誰かが来ているようだ。
「おばあちゃん、村上さんと街に出かけて来ます」
千鶴が声をかけるとトミは顔を上げ、ゆっくりしておいでと笑顔で言った。その笑顔にどきりとした千鶴に、振り返った幸子が言った。
「お昼はどがぁするんね? お友だちの分もこさえよ思いよったけんど」
千鶴はちらりとトミを見て言った。
「おばあちゃんからお小遣いもろたんよ。ほじゃけん、何ぞ食べて来るけん」
「おばあちゃんがお小遣い?」
幸子は訝しげにトミを見たが、トミは何も聞こえていないふりをして新聞を読んでいる。ふっと笑った幸子は、行ておいでと言った。
千鶴が花江にも声をかけて土間へ降りると、春子もみんなに挨拶をしながら続いた。
何気なくちらりと店の方に目を遣った千鶴は、あれ?――と思った。暖簾の下から表の荷車が見える。しかし荷車を引く牛がいない。ということは、荷車は大八車のようだ。
遠方から反物を運ぶには牛車を用いる。大八車は人が引くので、近場でしか使わない。
松山の町中にも伊予絣を作っている所はある。そんな近い所であれば大八車を使うだろうが、山﨑機織が仕入れているのは、遠方の百姓や漁師の女たちが作った絣ばかりだ。荷物を運んで来るのは牛車に決まっていた。
弥七たちが注文の品を届けに行くのかと思ったら、亀吉が木箱を抱えて入って来た。箱を積み間違えたのか、帳場へ箱を置いた亀吉は、再び外へ出て別の木箱を運んで来た。外でもう一人から荷物を受け取っているみたいだが、茂七だろうか。それにしても新吉の姿が見えないし、弥七もいない。亀吉が運び入れた木箱を確かめているのは辰蔵だ。
「どがぁしたんね? お友だちが待ちよるよ」
帳場を眺めている千鶴に、幸子が声をかけた。
千鶴は店の前にある大八車のことを話そうとしたが、勝手口の前に立つ春子を見て話すのをやめた。
「お待たせ。ほんじゃ、行こか」
春子に声をかけると、千鶴は春子と奥庭に出た。学校へ行くわけではないし、今は帳場は混み合っている。だから今日は裏木戸から出ることにした。
来た時に入った所と出る所が違うので、春子は面白がりながら千鶴に従った。
裏木戸をくぐって脇の道に出ると、春子は辺りを見まわして、自分がどこにいるのかを確かめた。それから千鶴の家を見上げ、二階に上がってみたかったと言った。
春子は余程二階に憧れているらしく、いつか自分が嫁入りする時は、二階のある家が条件だと言った。
「師範を続けるんが条件やないん?」
千鶴が訊ねると、あははと春子は笑った。
「言うてみたぎりぞな。師範になるんも嫁入りするんも、全部おとっつぁんが決めるけんな。おらはただほれに従うぎりやし。山﨑さん所かてほうじゃろげ?」
「ほうじゃね。うちは全部おじいちゃんが決めんさるけん、おじいちゃんが決めたとおりになるんよ」
まだ具体的には何も言われていない。だが、千鶴は祖父母が本気で自分の婿取りを考えていると思っていた。たとえその婿が鬼であろうと、祖父に命じられれば拒めない。千鶴は喋りながら己の無力さを感じていた。
「ほれにしても、こないだの風太さんはええ男やったわいねぇ」
またもや春子が忠之の話をし始めたので、千鶴は慌てた。
忠之の素性を知れば春子も気が変わるかもしれないが、そんなことは忠之を貶めることになるのでできない。けれど、このまま春子が忠之への気持ちを膨らませるのは困る。どうせ鬼娘である自分は忠之に想いを伝えることはできないが、それでも春子に忠之を取られるのは嫌だった。
「そがぁにええ男やったかいねぇ」
千鶴は素っ気なくしながら、春子の忠之への興味を削ごうと思った。しかし、そんなことは春子には通じない。
「風太さんは山﨑さんの好みやなかったみたいなね。山﨑さん、あんましおらみたいには風太さんと喋らんかったし」
ほれはあなたがおったけんじゃろがねと、千鶴は言葉が喉元まで出かかった。
何も知らない春子は、あんな男は他にはいないと、忠之のいい所を並べ立ててべた褒めした。いかにも忠之に惚れてしまったと言わんばかりだ。
このままではまずいと思った千鶴が、何か言わねばと考えていると、裏木戸の向こうから辰蔵の声が聞こえた。
「いや、こげなことまでしてもろて、まっこと申し訳ない」
いやいやと応じる男の遠慮がちな声もしたが、声が小さくてよく聞こえない。
「兄やん、こっちぞな」
亀吉の元気な声がした。どうやら表の大八車は近場の織元からのもので、男は絣を運んで来た仲買人だろう。売り上げを伸ばすため、祖父は新たな品を仕入れることにしたみたいだ。
どうしてだか茂七がいないようだが、代わりにこの仲買人が反物を蔵へ運ぶのを手伝ってくれているらしい。思いがけない助っ人に亀吉がはしゃいでいる。
今はどこの織元や仲買人も新たな商売相手を求めている。この仲買人は新たな顧客を得たことが余程嬉しかったに違いない。だから亀吉を手伝ってくれたのだろうが、ずいぶんと人が好い。ここまでしてくれる仲買人の話は聞いたことがない。
春子の気持ちを忠之から逸らすため、どこの誰かは知らないけれど、ここまでしてくれる人はなかなかいないと、千鶴はこの仲買人を褒め上げた。すると、風太さんみたいなお人じゃねと春子は笑い、千鶴はがっくりした。
「そこのお前!」
突然後ろから嗄れた声が叫んだ。驚いて振り返ると、杖を突いた老婆が立っていた。真っ白な髪を束ねることもせず、ぼぉぼぉと伸ばしたままの不気味な老婆だ。
「お前はこの家の者か?」
唐突で不躾な物言いに、千鶴はむっとした。しかし、見知らぬ者から侮蔑の眼差しを向けられるのは珍しいことではない。言い争うのも嫌なので、ほうですと千鶴は答えた。
何ぞご用ですかと訊ねても、老婆は何も言わずに、千鶴の後ろにある裏木戸をじっとにらんだ。
「何ぞな? いきなり失礼じゃろがね!」
春子が文句を言ったが、老婆の耳に春子の声は少しも届いていない。
老婆は千鶴に顔を戻したが、その顔は何だか緊張で強張っているみたいだ。
「お前には鬼が憑いておるの。この家には鬼が入り込んでおるぞ」
老婆の言葉に千鶴は固まってしまった。それが図星であったことと、春子の前で告げられたことで声も出なかった。
「何言うんね! あんた、頭おかしいんやないん?」
春子が声を荒らげても、老婆は一向に堪える様子がない。千鶴をじっと見つめていた目を細めると、おや?――と言った。
「どうやらお前にも原因があるようじゃな。鬼はお前が呼び寄せたともいえるの……。ふーむ、なるほど。元々、お前と鬼は――」
喋りながら裏木戸に目を遣った老婆は、急に血相を変えた。そして、そのまま黙って立ち去ろうとした。
千鶴は反射的に老婆を呼び止めた。
「あなたは誰ぞなもし?」
老婆は立ち止まると、千鶴を振り返った。
「わしはな、お祓いの婆ぞな。この先に用があって行くとこなけんど、鬼が見えた故、お前に声をかけたまでよ」
「じゃあ、うちはどがぁしたらええんぞなもし?」
「気の毒やがな、わしはお前の力になってやれん。お前に憑いとる鬼は一筋縄でいく鬼やないでな。わしごときの力じゃ、どがぁもできまい。ほれに、鬼はお前を――」
ふと千鶴の後ろに視線を向けた老婆はぎょっとなり、慌てた様子で口を噤んだ。まるで余計なことを言うなと、何者かに脅しをかけられたみたいだ。
老婆は何も言わず、千鶴に背を向けると逃げるように行ってしまった。千鶴はもう一度声をかけたが、老婆は振り返りも立ち止まりもしなかった。
婿になる男
一
春子が風太すなわち忠之に自慢したとおり、紙屋町の入口である札ノ辻の北側の角には、木造四階建ての大丸百貨店がある。千鶴が高等小学校に入った大正六年に建てられたものだ。
紙屋町を含む城山の西側の区域は古町 三十町 と呼ばれている。明治になるまでこの区域は松山の商いの中心地で、租税も免除される特別地域だった。ところが明治になると租税免除の特権がなくなり、古町三十町の勢いは衰えた。
一方で、城山の南に位置する外側と呼ばれる地域にも、商人が暮らす町があった。こちらは伊予鉄道の起点となる松山駅ができたため、大いに活気づいた。
古町の商人たちは、このまま商いの中心が外側へ移ることを恐れた。それで古町の呉服屋が逆転を狙って建てたのがこの大丸百貨店だ。
当時、とても珍しくハイカラな大丸百貨店は、たちまち松山名所として人気を博した。東京の三越百貨店を知る花江も、地方の街にこんな百貨店があることに驚いたという。
当然、春子もここに憧れており、大丸百貨店へ行きたいと千鶴にせがんだ。だけどそれは半分が本当の気持ちで、あとの半分は千鶴を元気づけるためのものに違いない。
見知らぬ老婆からいきなり鬼が憑いていると言われた時、千鶴はあまりのことに呆然とするほかなかった。
春子は老婆に悪態をつき、何も気にすることはないと千鶴を慰めた。しかし、千鶴が平穏な気持ちになれるわけがない。そんな千鶴の気持ちを察して、春子は百貨店行きを明るくはしゃいでいるようだ。
表に回ると、店の前に空になった大八車が置かれていた。山﨑機織のとは別の大八車だ。これを運んで来た仲買人は奥でお茶を出してもらっているのか、帳場には辰蔵と亀吉しかいなかった。茂七はどこにいるのか姿が見えない。
いつもの千鶴であれば、大八車や茂七のことを確かめたところだが、今は何も考えられない。黙って店の前を通り過ぎようとしたところを、亀吉に声をかけられてようやく我に返った。それでもぎこちない笑みを返すしかできず、代わりに春子が、行てくるけんと返事をしてくれた。
「電車降りた時にな、おら、今日は絶対ここに来よて思いよったんよ」
百貨店の前に立った春子は、嬉しそうに千鶴を振り返った。けれど、千鶴を気遣っているからか、その笑顔は少し大袈裟に見える。
千鶴も春子が訪ねて来たら、ここへ連れて来るつもりだった。
学校の寮は門限が厳しいし、生徒たちはそれほどお金を持っていない。そのため、休みに外へ出るにしても三津ヶ浜ばかりで、松山まで遊びに出ることはほとんどなかった。
だから春子が大丸百貨店を訪れたのは去年の一度きりで、今回百貨店をのぞくのは楽しみにしていたはずだ。とはいっても、百貨店のすぐ近くに暮らす千鶴でさえも、ここへ来ることはない。
基本的に百貨店で取り扱っているのは高級品ばかりだ。山﨑機織の誰もが一度はこの百貨店を訪れたが、そのあとは本当に用事がない限り来ていない。仕事が忙しくて来る暇などなかったが、不要な高級品を買うだけの余裕がないのが一番の理由だ。
建物の中に入ると、まずそこで履物を脱いでスリッパに履き替える。脱いだ履物は下足番が預かって、裏口に回される仕組みになっている。もうこれだけで春子は大興奮だ。
通常の店では番頭が帳場に座り、客の注文に応じていちいち品を出して来る。ところが、百貨店ではすでに商品が陳列されているのだ。つまり、客は自分の頭になかった品を見られるのである。それは思いがけない品との出会いであり、商品を眺めているだけでも愉快で楽しかった。
また、百貨店の店員は全員が着物姿の女性だ。女性が客に商品の説明をして販売するのである。それも千鶴や春子には新鮮だった。
番頭や手代は男の仕事と決まっている。女には女中の仕事ぐらいしかない。とにかく女が働ける場所は限られており、千鶴たちが師範を目指している背景には、そんな事情もあった。そのため百貨店で働く女性店員の姿は、千鶴には輝いて見えた。
しかし、それは以前にここを訪れた時のことであり、今の千鶴は老婆に言われたことで、何にも感動できなくなっていた。さらに、じろじろと目を向ける他の客たちの視線も、千鶴を憂鬱な気分にさせた。だけどせっかく来てくれた春子に嫌な想いをさせるわけにはいかないので、千鶴は心の内は隠したまま楽しいふりをしていた。
百貨店の一階は、ハンカチや靴下などの洋品が置かれている。二階は呉服売り場で、三階には文具・化粧品がある。
各売り場に陳列された商品はいずれも高級で、春子は眺めるしかないのを残念がった。けれども、百貨店には商品以外にも目玉になるものがあった。えれべぇたぁだ。
えれべぇたぁとは、案内の女性がいる小部屋だ。この小部屋はとても面白い。案内の女性が扉を閉め、次に開けた時には、外は別の売り場になっているのだ。
去年来た時にも使ったはずなのに、春子は初めてみたいに大はしゃぎだった。
三階までは商品売り場だが、最上階の四階は食堂になっている。ここでの食事には憧れがあるが、祖母からもらった小遣いでは少し足が出る。それに食堂を埋める年配の女性たちに気後れしたので、二人は食堂はやめて外へ出た。
百貨店を出ると、すぐそこに師範学校がある。
師範学校があるのは西堀の北端で、建物の手前を電車が走り、その向こう側を札ノ辻を起点とした今治街道が通る。
先日、忠之に人力車で運んで来てもらったのはこの道で、春子が人力車を降りたのが師範学校の前だ。あの時は街灯ぐらいしか明かりがなかったので、師範学校はよく見えなかった。だが今は太陽の下で、その華麗な姿を見ることができる。
遥か昔、中国の秦の始皇帝が建てた宮殿を阿房宮と呼ぶが、それにちなんで愛媛県師範学校は伊予の阿房宮と呼ばれている。
「こっちが女子師範学校で、三津ヶ浜にあるんが師範学校やったらよかったのになぁ」
伊予の阿房宮を眺めながら、春子が残念そうに言った。
「ほれじゃったら、学校が休みん時は松山で遊べるし、この百貨店もちょくちょくのぞけるのに」
千鶴が女子師範学校に入った頃は寮生活だったので、松山から離れられたと千鶴は喜んだ。しかし寮を出て自宅から通い始めてからは、こちらが女子師範学校でないことを恨めしく思うことがあった。
女はいつも後回しで、何かのついででなければ目を向けてもらえないと、二人は文句を言いながら札ノ辻を南へ進んだ。
少し行くと、右手に勧商場がある。勧商場とは一つの建物の中にいくつもの小売店が集まったもので、ここには化粧品や衣類、日用雑貨などの店が並んでいる。
春子はここも初めてではない。なのに北城町の勧商場よりこちらの方が規模が大きいと、初めて訪れたみたいなことを言いながら、並べられた商品を見てまわった。高級品ではないので、高くて手が出せないわけではないが、二人は女学生の身分なので、やはり見るだけにした。
それでも春子は十分楽しんでいる様子だった。千鶴を気遣うのも忘れているが、それが却って千鶴の気分を和らげてくれていた。
二
伊予鉄道の松山停車場の北向かいに善勝寺というお寺がある。
御本尊は日切地蔵と呼ばれ、何日にとか何日までにと期日を決めて願掛けをすると願いが叶うといわれている。
この善勝寺へ千鶴は春子を連れて来た。けれど目的は日切地蔵ではない。境内で売られている饅頭だ。その名も日切饅頭というが、饅頭というより柔らかい焼菓子だ。中には熱々のあんこがたっぷりと入っていて三個五銭である。
千鶴と春子は買った饅頭を一つずつ手に取った。残りはあとで半分こだ。
「熱いけん、気ぃつけや」
春子の食べっぷりを知っている千鶴は、春子に忠告をした。春子は笑うと、わかっとるけんと言って、がぶりと饅頭にかぶりついた。途端に熱い熱いと大慌てだ。
千鶴は急いで春子を手水舎へ連れて行き、柄杓で水を口に含ませた。
「ああ、熱かった。口に入れた物は出せんし、さりとて呑み込めんけん、どがぁなるかと思いよった」
「ほじゃけん、気ぃつけやて言うたのに。村上さん、前来た時も対のことしよったよ」
ほうじゃったかねと春子は苦笑した。
「今度から気ぃつけるけん。ほれにしても、これ、まっこと美味いで。名波村のみんなにも食べさせてやりたいなぁ」
「ほれも前に言いよったね」
千鶴は笑いながら、自分も日切饅頭をあの人に食べさせてあげたいと思った。もちろん、あの人とは忠之のことだ。
春子は照れ笑いをすると、今度は慎重に少しずつ食べながら言った。
「おらな、こっち戻んてから家に手紙書いたんよ」
「何の手紙?」
「おらたちを運んでくれた風太さんのことぞな」
千鶴は胸がどきんとした。
老婆に鬼のことを言われてすっかり忘れていたが、春子は忠之に気があるらしいのだ。もしかしたら村長である父親に、風太と一緒になりたいと手紙を書いたのだろうかと、千鶴は大いに焦った。
もう勘弁してほしいと願う千鶴に、春子は話を続けた。
「風太さん、おらたちを運んだ銭を、あとで家に請求するて言うておいでたろ? ほじゃけん、ほれをおとっつぁんに謝っとかないけん思て手紙書いたんやけんど、その返事が昨日届いたんよ」
その話かなと千鶴は胸を撫で下ろした。それに、春子が知らないことを自分は知っているという気持ちの余裕も出て来た。
「おとっつぁんからの手紙、何て書いとった思う? そげな請求なんぞ来とらんし、俥ぁ引く者に風太いう奴なんぞおらん言うんで。山﨑さん、どがぁ思う?」
春子は千鶴の予想どおりに喋った。千鶴は笑いを堪えながら惚けて言った。
「また、お不動さまが助けてくんさったんやないん?」
やっぱし?――と春子は真顔で言った。
「おらもな、ほうやないかて思いよったんよ。ほやなかったら他に説明できまい? 今更なけんど、よう考えたら初めて俥ぁ引く者が二人も乗せて、北城町から松山まで走るやなんてでけるわけないもんな。ほれに風太さんがお不動さまじゃったら、おらが子供ん頃に法生寺で顔合わせとるいうんも説明つこう?」
噴き出しそうになった千鶴は、横を向いてごまかした。
風太の正体がお不動さまなら、風太と一緒になりたいとは春子も考えないだろう。そのことも千鶴に笑みをこぼさせた。
「どがぁしたん?」
春子が怪訝な顔で言った。千鶴は慌てて笑みを消してごまかした。
「ちぃと小バエが顔に寄って来よるんよ」
いない小バエを手で追ってから千鶴が顔を戻すと、春子はため息交じりに言った。
「知らん男が引く俥ぁで松山に戻んたいうんで、おら、おとっつぁんにがいに叱られてしもた」
「ほやけど、こがぁして無事に戻んて来られたんじゃけん、よかったやんか。お不動さまに感謝せんと」
笑いを抑えながら千鶴が励ますと、ほんまよと春子は少し元気を取り戻した。
「まっことお不動さまの俥ぁに乗せてもらえなんだら、おらたち、今頃退学になっとったで。おとっつぁんには叱られてしもたけんど、お不動さまには感謝ぞな」
本当に春子の言うとおりだった。あの時、あの人がいなかったらどうなっていたかと思うと、改めて感謝の気持ちでいっぱいになる。
「今頃、どがぁしんさっておいでようか」
千鶴が忠之を思い浮かべながら、つい独り言をつぶやくと、春子はけらけらと笑った。
「ほら、決まっとらい。法生寺の本堂でこがぁして座っておいでらい」
春子は不動明王の真似をしてみせた。その様子があまりに面白かったし、不動明王が助けてくれたと春子が真剣に信じていたので、千鶴は不安も忘れて笑い転げた。
三
善勝寺を出た千鶴たちは、そこから東へ延びる湊町商店街を歩いた。
湊町商店街の長さは約五町で、そこから今度は大街道商店街が北へ延びる。これも五町ほどの長さであり、全部合わせると十町になる商店街だ。春子にすれば歩くだけでも楽しい所だが、千鶴にしても滅多に出歩く所ではない。春子のお陰で鬼への不安が和らいだ今、とても楽しみな散策だ。
湊町商店街は呉服屋や洋品店、履物屋、眼鏡屋、仏具屋など、日常の暮らしに関係する店が多い。
日露戦争で松山へ連れて来られたロシア捕虜兵は、街へ出歩くことが許されていた。そのため、この商店街はロシア人たちの買い物で大いに賑わい、当時は露西亜町とも呼ばれていたらしい。洋菓子や洋食を出す店には、その頃の面影が残っている。
また大丸百貨店や勧商場の影響を受けたのか、呉服屋にも自慢の品が表から眺められるように、あらかじめ展示している所もあり、春子を喜ばせた。
湊町商店街と大街道商店街の接点になる辺りは、魚の棚と呼ばれている。その名のとおりかつては多くの魚屋が集まっていた所だ。今は魚屋の他に天麩羅屋や菓子屋、八百屋、蒲鉾屋、乾物屋など、庶民の食べ物を扱う店が並んでいる。
ここから大街道へ向かうと、すぐ右手に木造三階建ての立派なうどん屋がある。亀屋という有名な店で、松山を訪れた者は必ず立ち寄るといわれている所だ。千鶴はここで春子にうどんをご馳走することにした。
店の中は客で賑わっており、多くの視線が千鶴に集まった。だけど、千鶴は気にしないと決めていた。いずれ鬼になる自分がこんなことができるのも今しかないと思うと、人の目など気にしていられなかった。
春子はうどんを食べながら、大丸百貨店からここまでの楽しかったことを、ずっと喋り続けた。早く食べないとうどんが伸びると千鶴に言われると、慌ててうどんをすするのだが、すぐに箸を止めて喋った。今回の街歩きが余程楽しかったのだろう。
でも、その分だけ千鶴は切なさを感じていた。こんな風に春子と街で遊ぶのは、きっとこれが最後なのだ。もうすぐ卒業だからではない。鬼娘だからだ。
春子に合わせて笑っていても、つい悲しみが込み上げると、千鶴は下を向いてうどんを一本だけすすった。
うどんを食べ終わると、二人は大街道商店街を見て歩いた。
大街道商店街にも呉服屋や履物屋、菓子屋などはあるが、湊町商店街との大きな違いは活動写真館が三つもあることだ。
活動写真とは舞台に用意された大きな幕に、無数の写真を物凄い速さで映し出すものだ。すると幕の上で写真の人物や動物や景色が動きだし、物語が展開されるのである。
幕の横には活動弁士と呼ばれる人が声を張り上げながら、物語を面白おかしく語ってくれる。活動写真の作品の善し悪しは、この活動弁士の腕にかかっているといっても過言でない。
他にも大街道商店街には亀屋の他にもおふくという、同じく三階建ての大きなうどん屋があるし、新栄座という芝居小屋まである。湊町商店街と比べると、こちらは娯楽向けの雰囲気だ。
芝居も見てみたいが、お金も時間もかかる。春子が門限までに戻れないと困るので、千鶴たちは活動写真館の一つ、世界館に入った。
千鶴は子供の頃、辰蔵に何度か活動写真に連れて来てもらった。でも、自分ではお金がないので入ったことはない。三津ヶ浜にも活動写真館はあるが、そんなお金は持たせてもらえなかったし、以前に春子が松山へ遊びに来た時も事情は同じだった。
でも今日は祖母にもらったお金がある。千鶴は自分で活動写真を観ることに、少し興奮を覚えていた。一方、春子も初めて千鶴と一緒に活動写真を観られると大はしゃぎだ。
ちょうど上演していたのは喜劇作品で、千鶴も春子も大いに笑った。この日のお楽しみはこれが最後であり、もしかしたら千鶴にとっての最後の楽しさかもしれなかった。そんなことを考えると悲しくなって、笑いの半分は見せかけとなった。
活動写真を見終わって外へ出ると、そろそろ春子が帰らねばならない時刻になった。門限の五時までには、春子は寮に戻っていなければならないが、札ノ辻まで歩いて戻ると、恐らくは間に合わない。
大街道を北に抜け出た所に、三津ヶ浜へ向かう電車の一番町停車場がある。春子はそこから電車に乗ることにした。
「今日はだんだんありがとう。おら、まっこと楽しかった」
「うちも楽しかった。ほんじゃあ、また明日学校でな」
春子は喜びいっぱいの顔で電車に乗った。千鶴は手を振りながら春子を乗せた電車を見送り、その電車の後を追うようにお堀に向かって歩いた。
春子は電車の後部の窓越しに、ずっと千鶴に手を振り続けた。千鶴も何度も手を振り返した。やがて電車はお堀に突き当たると、南へ曲がって行ってしまった。
電車を見送ったあと、千鶴は立ち止まって右手を見た。そこは裁判所で、そのすぐ向こうは城山だ。城山の麓には萬翠荘と呼ばれる美しい洋館が、裁判所に隠れるようにしてひっそり佇んでいる。殿さまの血筋である久松定謨伯爵が、去年の十一月に別邸として建てられたものだ。
千鶴はこの洋館に憧れていた。だけど電車の通りからでは、萬翠荘は裁判所の建物が邪魔になって見えづらかった。そこから南へ向かう道に入った千鶴は、裁判所から離れた所で城山を振り返った。すると樹木に囲まれた萬翠荘が、裁判所の上から顔を出していた。その美しさに千鶴はため息をついた。
ここは各界の名士と呼ばれる人々の集う場であり、皇族が来松した時に立ち寄る所だ。その記念すべき一番初めの宿泊客となったのは、体調が優れぬ大正天皇の摂政宮として、松山を訪れた裕仁親王だった。
親王は愛媛各地を視察されたが、女子師範学校もその一つとなった。千鶴たち生徒は親王の前で薙刀の演武を披露し、合唱曲を歌った。それは一生のうちに一度あるかないかという栄誉であり、あの時ばかりは千鶴が女子師範学校に通っていることを、祖父母は知人たちに自慢して廻ったそうだ。
そんなこともあって、千鶴は裕仁親王に親しみを感じていた。その親王が泊まられた屋敷が目の前にある。庶民には近づくことさえ敵わない館だ。
いずれ人として暮らせなくなる日が訪れるのだとしたら、その時までに一度でいいから屋敷の中を見てみたい。そんな想いで千鶴は憧れの洋館を眺めた。
頭の中では、再びあのお祓いの婆の言葉が繰り返されている。
四
紙屋町へ戻ると、山﨑機織の前には店で使う大八車が置かれていたが、仲買人が絣を運ぶ牛車や大八車はなかった。お客もいないので千鶴は店に入った。
「戻んたぞな、番頭さん」
千鶴は帳場にいる辰蔵に声をかけた。
午後は茂七と弥七は注文取りに廻っている。丁稚の二人は奥にいるのか、ここには姿がない。代わりに貧相な男が辰蔵の横で胡座をかいて座っている。
ぎょっとした千鶴を、男はじろりとにらんだ。
「お前、千鶴か」
「え? は、はい」
不躾に名前を呼ばれ、千鶴は戸惑いながら返事をした。
「わしが誰かわかるか? わかるまい」
いきなり訊かれても知らない相手である。千鶴が返事に困っていると、男は山﨑孝平と名乗り、お前の叔父よと言った。
「叔父さん? すんません、うち、初めて聞く話ですけん」
「ほら、ほうじゃろ。お前がまだこんまい頃に、わしは松山を出たんじゃけんな」
何だか喧嘩を売っているみたいな喋り方に、千鶴は困惑して辰蔵を見た。辰蔵もこの無礼な男に当惑のいろを隠せないようだ。
「あたしもこのお方に直接お会いするんは、今日が初めてなんぞなもし。ほんでもこのお方の話は、あたしが丁稚じゃった頃に耳にしたことはあるんです」
「ほんじゃあ、ほんまにうちの叔父さん?」
孝平は顔をしかめると、へっと息を吐いた。
「わしの言うことが信用でけんのかい。人に散々迷惑かけくさっといて、何じゃい。まっこと異人の娘は礼儀知らずやの!」
千鶴はむっとする気持ちを抑えながら、孝平に訊ねた。
「うちがどげな迷惑をおかけしたんぞなもし?」
孝平は嫌な顔のまま居丈高に言った。
「わしはな、ここと同業の店の丁稚をしよったんよ。もうちぃとで手代になれたのに、お前のせいで馬鹿にされて、わしよりあとから入った奴が手代になったんぞ。やけん、阿呆らしなって松山から出たんじゃい」
何かをして文句を言われるのであれば、素直に謝ることができる。だけど、何もしていないのにお前のせいでと言われては、どうにもしようがない。それは存在そのものが迷惑だという意味であり、困惑と狼狽をするばかりだ。
「ほれは……申し訳ございませんでした」
屈辱に耐えながら千鶴は頭を下げた。すると辰蔵が言った。
「千鶴さん、謝らいでもええぞなもし。千鶴さんは何も悪ないですけん」
「何やと?」
いきり立つ孝平に、辰蔵は堂々と言った。
「千鶴さんは旦那さんとおかみさんの大切なお孫さんぞなもし。お前さまに何があったんかは存じませんが、ほれと千鶴さんは何の関係もございません」
「関係ないことあるかい! わしが手代になれなんだんはな――」
孝平は声を荒らげたが、その声を遮って辰蔵は言葉を続けた。
「お前さまが手代になれなんだんはご自身の実力でしょう。商いと関係ないことで手代に昇格させんのなら、そこの主は初めからお前さまを丁稚に取ったりしません。ほれを千鶴さんのせいにしんさるんは、とんだお門違いいうもんぞなもし。いくら旦那さんのご子息やいうても、これ以上、千鶴さんを侮辱しんさるんは、このあたしが許しません」
千鶴は嬉しかった。だが、当然面白くない孝平は辰蔵をにらみつけた。
「お前、使用人のくせに偉そなこと言うてからに。わしはここの跡取り息子やぞ? わしがこの店継いだら、お前なんぞ、こいつと一緒に真っ先に放り出してやるけんな!」
辰蔵も負けていない。赤らんだ顔で孝平をにらみ返して言った。
「お前さまが旦那さんの後を継ぐいう話は、あたしはこれぽっちも耳にしとりません。万が一、お前さまが後を継がれるのでしたら、こちらの方から出て行かせてもらいまさい!」
「ほぉ、よう言うた。その言葉、忘れんなや!」
孝平は片膝を立てて息巻いた。辰蔵も怒りを隠さず一触即発の雰囲気だ。
「お茶をどうぞ」
花江がお茶を載せたお盆を運んで来た。孝平も辰蔵も口を噤んだが、二人とも興奮が冷めやらない。
孝平は花江をじろりと見たが、すぐに驚いたように目を瞠った。一度は立てた片膝を急いで元に戻した孝平は、呆けたように口を半分開いたまま花江に目が釘づけになった。
「こげな男に、お茶なんぞ出さいでもよかったのに」
淡々と二人の前にお茶を置く花江に辰蔵は言った。どうやら花江は頼まれてお茶を淹れたのではないらしい。恐らく、孝平の顔を一目見てやろうと思ったのだろう。
辰蔵の言葉に孝平は逆上したが、花江にじろりと見られるとうろたえて口籠もった。
花江はすぐに千鶴に顔を向け、にっこり微笑んだ。
「お帰んなさい。楽しかったかい?」
「え? えぇ、お陰さまで十分楽しませてもらいました。いろいろ気ぃ遣ていただいて、だんだんありがとうございました」
まるで孝平などいないかのごとく振る舞う花江に、千鶴は戸惑いながら返事をした。花江は孝平を横目で見ると明るく言った。
「千鶴ちゃんはここの跡取り娘、じゃない、跡取り孫娘だもんね。街で楽しむぐらい当然だよ」
何やて?――と孝平がまた憤った。
「何じゃい、今の話は。なしてこいつが跡取りなんぞ。この店の跡取りは――」
真っ直ぐ顔を向けた花江ににらまれると、孝平は再び勢いを失った。
「跡取りは……、このわし……、なんやが……」
孝平の言葉は次第にもごもごとなり、後の方はよく聞こえない。孝平の様子がおかしいことには構わず、花江は腰に手を当てながら強い口調で言った。
「あんたさ、いきなり来といて何言ってんのさ。ここの跡取りは千鶴ちゃんだよ。どこの誰だか知んないけどさ。勝手なことを言うもんじゃないよ!」
「いや、ほじゃけん、わしはやな、その……」
花江が女中なのは見てわかるだろうに、何故か孝平は花江に言われ放題でしどろもどろになっている。
「さっきから何を言いよるんね?」
騒ぎが収まらないからだろう。台所から幸子が顔を出した。
幸子は孝平を見ると眉間に皺を寄せ、驚いたように目を見開いた。
「あんた、孝ちゃんか? 孝ちゃんなん?」
「な、何じゃい。馴れ馴れしゅうすんな」
うろたえた孝平が横を向くと、幸子は駆け寄って孝平の手を取った。
「やっぱし孝ちゃんやないの。あんた、今までどこ行きよったんね。お父さんもお母さんも心配しよったんよ!」
「穢らわしい。わしに触るな!」
孝平が幸子の手を振り払うと、花江が訝しそうな顔で幸子に訊ねた。
「幸子さん、この人、幸子さんの何なの?」
「この子はね、うちの弟なんよ。正兄が亡くなったあと、ほんまじゃったら、この子がここの跡取りになるはずやったんよ。ほれやのに、この子はみんなに黙って奉公先逃げ出して、行方知れずになっとったんよ」
「そういうわけだったんだ」
花江がうなずくと、わかったかと言わんばかりに孝平は胸を張った。
「聞いてのとおり、わしがここの正式な跡取りぞな。わかったら、みんな、ほれなりの礼儀いうもんを見せるんやな」
「孝ちゃん。あんた、お父さんには会うたんか?」
幸子が訊ねても、孝平は無視をした。怒った花江がどうして無視をするのかと質すと、穢れた者とは話をしないと孝平は言った。穢れとはロシア兵の子供を身籠もり産んだという意味だ。
花江は孝平に軽蔑の眼差しを向けると、きっぱりと言った。
「じゃあ、あたしもあんたとは喋らない。あたしゃ心の穢れた人間が大っ嫌いなのさ」
「何やと? わしはここの跡取りぞ?」
孝平が威張っても花江には通じない。花江は早速無視して、孝平に出したお茶をお盆に戻した。
「おい、ほれはわしの茶ぁぞ。勝手なことすんな」
孝平は文句を言ったが、まったく迫力がない。花江は聞こえないふりをして奥へ引っ込んだ。
気まずい顔の孝平を、辰蔵がふっと笑った。怒った孝平は辰蔵に手を出そうとしたが、幸子にきつく叱られた。姉に貫禄負けした孝平はむくれて横を向いた。
こんな男が自分の叔父なのかと、千鶴は呆れた。
万が一にも、この叔父が店を継いだりすれば、大事になるのは必至だ。そうはならないだろうが、この叔父がこのままここに居座れば、それも問題に違いない。
千鶴は不安になったが、幸子も困りきっているようだ。
五
「親父は中か?」
穢れた者とは話をしないと言ったくせに、話せる相手がいないからか、孝平は幸子に偉そうに訊ねた。幸子は憮然としながら言った。
「やっぱし、まだ会うとらんのじゃね。お父さんはどこ行きんさったんか知らんけんど、昼から出かけておいでるんよ。お母さんも雲祥寺へ出かけておらんぞな」
雲祥寺とは山﨑家の菩提寺で、大林寺の近くにある。
「何じゃい、どっちもおらんのか。こがぁな腐れ番頭一人置いておらんなるとは、二人とも無責任やの」
孝平が吐き捨てるように言うと、すぐさま幸子が叱った。
「あんた、何失礼なこと言うんね。辰蔵さんは立派な番頭さんで。辰蔵さんがおらなんだら、この店は疾うに潰えとるがね。無責任いうんなら、勝手に姿眩ましよったあんたこそ無責任じゃろが!」
「勝手に敵兵の子供産んだお前が言うな!」
孝平が噛みついて千鶴をにらむと、幸子も険しい顔で言い返した。
「あんた、そげなこと言うために戻んて来たんね? そげじゃったら戻んて来んでええけん、さっさとどこまり去になさいや!」
「つかましいわ。わしが用があるんは親父じゃ。お前やないわい」
どこまでも態度の悪い弟に幸子は閉口した。そこへ辰蔵が参戦して幸子をかばった。
「自分の姉に向かって、お前いう言い方はないんやないですか?」
孝平は辰蔵をにらむと、使用人は黙ってろと言った。
「さっきから使用人の分際で偉そうに。親父に会うて話つけたら、すぐに辞めさすけん覚悟しとれよ」
「偉そうなんはお前さまの方ぞなもし。いくら旦那さんの血ぃをお引きでも、いきなし戻んて来て、姉をお前呼ばわり、父親を親父呼ばわりするんは、偉そやないと言いんさるんか?」
「父親やけん親父やろが。ほれに、わしはこの女を姉やとは思とらん。親父はこげな恥知らずを、なしてここへ置いとるんぞ」
怒りを抑えた様子の辰蔵は、大きく息をしてから言った。
「お前さまが幸子さんを姉と認めんのは勝手でしょうが、ほれにしたかてお前いう言い草は失礼極まりないぞなもし。ほれにお前さまは幸子さんばかりか、旦那さんのことも下に見とるりんさる。本来の跡取りでありんさった正清さんは、旦那さんを親父と呼びんさったことはありませんでしたし、旦那さんに敬意を払っておいでました」
「死んだ人間のことなんぞ知るかい。わしにはわしのやり方いうんがあらい」
孝平のあまりの態度に、幸子は声を荒らげた。
「何てひどいこと言うんね! あんたのお兄さんじゃろがね」
「人間、死んだらおしまいぞな。人間の価値は生きてこそよ」
少しも悪びれない孝平に、ついに腹に据えかねた辰蔵が怒りを露わにした。
「その言葉、旦那さんの前で言いんさい」
「何やと?」
「今言いんさったこと、もういっぺん旦那さんの前で言うてみぃと言うとるんぞなもし」
「お前は阿呆か。親父の前でこがぁなこと言うわけなかろがな」
「つまりは旦那さんを騙くらかすおつもりか」
「騙くらかすんやないわ。余計なことを言わんぎりじゃい」
辰蔵はため息をつくと、孝平を哀れむ目で見た。
「お前さまは、ほんまに情けないお方ぞなもし。旦那さんやおかみさんの血ぃを引いておいでるとは信じられんぞなもし」
「何? この腐れ番頭が何をほざくか!」
「あたしは山﨑機織の使用人であって、お前さまの使用人ではございません。ほじゃけん、この店を守るためには、言うべきことは言わせてもらいまさい。お前さまは山﨑家の屑ぞなもし」
「何を!」
孝平が辰蔵につかみかかったので、千鶴と幸子は孝平を押さえようとした。しかし幸子は孝平に突き飛ばされ、土間に転んで腰を打った。
「お母さん!」
千鶴が叫ぶと、怒った辰蔵が立ち上がり、孝平と揉み合いになった。帳場机は蹴飛ばされ、帳場格子はひっくり返った。花江が置いて行った辰蔵のお茶が床にこぼれ、湯飲みは土間へ落ちて割れた。
いつの間にか表には、近所の者たちが面白そうに集まっていた。
「ほれ、辰さん、しっかりせんかい!」
「辰蔵さん、あたしがついとるぞな!」
みんなは辰蔵の味方をするが、誰も手を貸さないし喧嘩も止めない。わいわいと楽しげに眺めているだけだ。
騒ぎを聞いて飛び出して来た花江は、倒れている幸子を千鶴と一緒に介抱した。花江の後ろには亀吉が呆然と立ち尽くしている。亀吉は奥で家事を手伝っていたようだ。
帳場では孝平と辰蔵が互いの襟をつかんで、相手を引きずり倒そうとしている。孝平は全力で辰蔵をねじ伏せようとするが、力は辰蔵の方が明らかに上だ。それでもやはり主に対する遠慮があるのか、辰蔵は本気で孝平を組み伏せるつもりはないみたいだ。
そこへ店の前の人だかりをかき分けて甚右衛門が現れた。甚右衛門は店に入ると、やめんか!――と二人を一喝した。
その声で動きを止めた辰蔵に、孝平はびんたを食らわした。すると、花江がすっくと立ち上って帳場に上がり、孝平の頬をぴしゃりと叩いた。おぉっと表で歓声が上がる。
孝平は叩かれた頬を手で押さえ、驚いた顔で花江を見た。花江は黙ったまま顎をしゃくって、横の土間を見るよう孝平に伝えた。
顔を横に向けた孝平は、そこに甚右衛門の姿を見つけてうろたえた。だが、すぐに笑顔になって土間へ降りた。
「親父、わしぞな。孝平ぞな」
甚右衛門は孝平に背を向けると表に出た。孝平もそのあとについて行く。
「見世物やないけん、店に戻んて仕事せい!」
不機嫌そうに甚右衛門が手を振ると、もうおしまいかと残念がりながら野次馬たちはいなくなった。甚右衛門が振り返ると、孝平は笑顔を見せながら歩み寄った。
「親父、わしな、戻んて来たんよ。店の跡継ぎがおらんで困っとんじゃろ? ほじゃけんな、わし、戻んて来たんよ」
孝平は誇らしげに言った。甚右衛門はいきなり孝平の胸ぐらをつかむと、力いっぱい張り倒した。
無様に地面に転げた孝平を見下ろしながら、甚右衛門は言った。
「今更、何言うとんぞ? あん時、お前はわしにどんだけ恥かかせたんか、わかっとらんのか! その上、今日はこげな騒ぎを起こして、また恥かかせよってからに!」
体を起こした孝平は、道の上に正座して両手を突きながら甚右衛門に言った。
「ほのことはこのとおり謝るけん。わしな、親父には迷惑ぎりかけてしもたけん、今度こそ親父の力になりたい思て戻んて来たんよ」
甚右衛門は孝平をじっと見据えながら言った。
「ほうか、お前もようやっと心を入れ替えたんか」
孝平は笑顔でうなずくと、いそいそと立ち上がって甚右衛門の傍へ行こうとした。しかし甚右衛門は素っ気なく、遅いわと言った。
「遅いて、跡継ぎはまだ決まっとらんのじゃろ?」
「いいや、決まった」
甚右衛門の言葉に辰蔵は思わず花江と顔を見交わした。千鶴も幸子を見たが、痛みに顔をしかめていた幸子も驚いた様子だ。
蒼ざめた孝平は動揺を隠せない。
「決まった? 決まったて、誰に?」
甚右衛門は横を向くと、離れた所に立っていた男を呼んだ。男が近くに来ると、甚右衛門は孝平に言った。
「この男が千鶴の婿になる。千鶴と夫婦になって二人でこの店を継ぐんぞな」
え?――と思って、千鶴はその男を見た。
小さな目に大きな口。お世辞にも素敵な顔とはいえない。それでも風貌は堂々としており、少し威張っているみたいにも見える。歳は二十四、五だろうか。
「ほら、あたしの言ったとおりだろ? 旦那さんは千鶴ちゃんを跡継ぎにって考えてたんだよ」
帳場から降りた花江は、幸子に肩を貸しながら得意げに言った。けれど、花江の言葉は千鶴の耳には聞こえていない。
千鶴はじっと男の頭を見つめた。角が生えていないかを確かめるためだ。ところが、いくら見ても角らしきものは見えない。
男は孝平をちらりと見たが、その目には嘲りのいろが浮かんでいる。孝平も男をにらんだが、その顔は焦りでゆがんでいる。
「親父、わしいう者がおるのに、なしてこがぁな男を連れて来るんぞ?」
「黙っとれ! これまで行方眩ましよったくせに、今頃何言うとんぞ。お前なんぞ何も言う資格はないわ! だいたい何が親父ぞ、偉そうに。お前は誰に物言うとるんじゃい」
孝平は甚右衛門に泣きついた。甚右衛門は孝平を無視して男を店の中へ誘い、千鶴に笑顔で言った。
「千鶴、聞こえとったろ。お前の見合い相手を連れて来たぞ」
店の入り口に立った男は、千鶴に軽く会釈をした。わずかに微笑みながら千鶴を見る目は、千鶴を値踏みしているようだ。
「おじいちゃん、うち、お見合いするん?」
千鶴がうろたえながら訊ねると、ほうよと甚右衛門はうなずいた。
「いろいろ考えた末、そがぁすることにした。ほういうことじゃけん、奥の座敷へ行け。花江さん、すまんけんど、お茶を淹れてくれんかな。ん? 幸子はどがぁしたんぞな?」
幸子は花江に付き添われながら、腰に手を当てて帳場の端に座っていた。花江から事情を聞いた甚右衛門は、外に立ったままの孝平をじろりと見た。それから花江に、幸子を離れで休ませてからお茶を淹れるよう頼み直した。
「親父ぃ」
孝平が表から情けない声で甚右衛門を呼んだ。そこへ茂七が外の仕事から戻った。甚右衛門は辰蔵と茂七に、孝平を店の中へ入れぬよう命じた。
何のことかわからない茂七は甚右衛門と孝平を見比べた。しかし辰蔵はうなずき、お任せを――と言った。
六
障子を閉めた茶の間で、千鶴と向かい合わせに座った男は名前を名乗った。
「鬼山喜兵衛と申します」
「鬼山?」
「喜兵衛ぞなもし」
微笑む男の顔を見つめながら、やっぱしと千鶴は思った。
「こら、お前も挨拶をせんか」
甚右衛門に叱られて我に返った千鶴は、山﨑千鶴と申しますと言って頭を下げた。千鶴が顔を上げると、甚右衛門は得意げに言った。
「鬼山くんの家は元武家でな。わしの家とは知り合い同士よ」
「おじいちゃんの家?」
甚右衛門は意外そうな顔をしたあと、ほうかと照れた笑みを見せた。
「幸子から聞いとらんか。わしの実家は武家でな。子供の頃は歩行町におったんよ。ほんでも明治になると、武士じゃあ暮らしていけんなってな。ほれで、この家の跡取りとして婿入りさせてもろたんよ」
祖父の婿入り話は千鶴も知っていたが、武家の生まれだったなんて初めて聞いた話である。そもそも祖父がこんなにいろいろ喋ってくれたことは、これまで一度もなかった。
「ほういうわけで、似ぃた形で鬼山くんをうちへ迎え入れようと、こがぁなことぞな」
千鶴が黙っているので、甚右衛門は少し焦ったのか、慌てて説明を付け加えた。
「鬼山くんは剣道四段の腕前でな。道場でも、さすが武家の血筋とうなずかされる猛者やそうな」
どうやら甚右衛門は武家の出であることに、かなりの重きを置いているみたいだ。元々は自分も武士の家柄であったことを誇りに思っているのだろう。
「剣道四段て、がいなことなんですか?」
千鶴は剣道などわからない。喜兵衛が苦笑するのを見て、甚右衛門は少し機嫌を悪くしたらしい。いつもの仏頂面に戻って言った。
「がいに決まっとろが。四段いうんは、この若さでそうそう取れるもんやないんぞ」
千鶴は慌てて頭を下げ己の無知を詫びた。いやいやと喜兵衛は貫禄を見せて笑った。
「気にせんでつかぁさい。女子にはわからんことですけん」
喜兵衛は千鶴を下に見ている。というより、女を下に見ている。だけど、これ以上祖父に恥をかかせるわけにはいかない。千鶴は我慢しながら話しかけた。
「鬼山さんは、昔から歩行町に住まわれておいでたんですか?」
「あしが住みよるんは湊町ぞなもし。歩行町におるんはあしのじいさまばあさまと伯父貴の家族で、あしの親は歩行町から湊町へ移ったんぞなもし」
歩行町は城山の南東に位置する下級武士が暮らした町で、春子が電車に乗った一番町の電停の北にある。
千鶴と春子が歩いた湊町商店街は魚の棚までだが、湊町自体は魚の棚からさらに東へ延びている。魚の棚より東側には伊予絣を作る家が数多く並んでいるが、喜兵衛の家はその中の一軒ということだ。
鬼山家が昔からあるのであれば、鬼山という名は鬼とは関係がないのかもしれない。それでも喜兵衛が本当に鬼山家の一員なのかは定かでない。
「あの、おじいちゃんは鬼山さんを、いつからご存知やったんぞなもし?」
「今日知ったんよ」
「今日?」
「組合事務所で鬼山くんの話を耳にしたんで、早速会いに行ったんよ」
組合事務所とは、織元に対して織物の検品や指導を行う伊予織物同業組合の事務所だ。
山﨑機織は四つ辻の北東の一角にあるが、同じ辻の北西の一角に組合事務所はあった。山﨑機織の裏木戸を出ると、目の前に組合事務所があるわけだ。この近さもあって、組合長と甚右衛門は長く親しい間柄だった。
組合事務所には伊予絣に関する話が、いろいろと集まって来る。千鶴が部屋で春子と喋っている間、仕事のことで組合事務所を訪ねた甚右衛門は、そこで喜兵衛の話を耳にしたらしい。そこで善は急げと、午後から喜兵衛に会いに行ったのである。
それにしても、今日知ったばかりというのはやはり怪しい。何だか話が仕組まれているみたいに思える。千鶴は喜兵衛の様子を観察しながら訊ねてみた。
「鬼山さんは普段は何をされておいでるんぞなもし?」
「普段かな? 普段はほうじゃなぁ。家の仕事を手伝うたりもしよりますが、三男坊ですけん、比較的自由にさせてもろとります」
「ご次男の方はどがぁされておいでるんぞなもし?」
「二番目の兄貴は陸軍の士官になりました。あしも士官学校に入るよう勧められたんですが、あしの性に合わんので断りました」
「性に合わんとは?」
甚右衛門が訊ねると、自分は人に使われるのが嫌なのだと喜兵衛は言った。
「将校は兵士に指示を出すけんど、上の指示には従わにゃなりません。あしは何もかんも己の意思を貫いて生きたいんぞなもし。ほじゃけん、陸軍より商いの方が自分には向いとると思とるんです」
「なるほど。確かに己の道は己で切り開かんとな」
「そげです。その点、旦那さんはご自身の判断で山﨑機織を切り盛りし、先だっての東京の大地震のあとも乗り切っておいでる。いけんなった店も多い中、さすがは旦那さんじゃと思いよりました」
いやいやと甚右衛門は謙遜したが、悪い気はしないらしい。口元に隠し切れない笑みがこぼれている。
「そげなことで、旦那さんの所じゃったら思い切った商いができるんやなかろかと、こがぁ思たわけぞなもし」
喜兵衛の言葉に甚右衛門は何度もうなずいている。千鶴には祖父の姿が鬼に操られているとしか思えない.。話は甚右衛門と喜兵衛の間ばかりで弾み、いつしか千鶴は蚊帳の外になっていた。
お待たせしましたと、障子の向こうで花江の声がした。甚右衛門が声をかけると、花江は障子を開けてお茶を出してくれた。
甚右衛門から言われたわけではないが、茶菓子までついている。千鶴の見合いだと思って、気を遣ってくれたのだろう。
千鶴は花江にお礼を言い、甚右衛門も花江をねぎらった。だが、喜兵衛はちろりと配られたお茶と茶菓子を見ただけで、花江には声をかけるどころか目もくれなかった。
千鶴がむっとしていると、甚右衛門は千鶴の気を引こうと話題を変えた。
「鬼山くんは剣道の他にもな、ええとこがようけあるんぞ。まず、三年の徴兵義務は終わっとるけん、兵隊に取られることはない。ほれに頭もようて弁が立つ。ほんまなら政治家にでもなれるぐらいの人物ぞな。しかもこのとおりの男前よ。鬼山くんに憧れる女子は数え切れんそうな。鬼山くんが独り身いうんが信じられまい」
喜兵衛は少し恥ずかしげな笑みを浮かべながらも、甚右衛門の言葉を否定はしない。そのとおりですと言っているみたいで嫌味ったらしい。それに喜兵衛の笑みはわざとらしく見える。すべて思惑どおりと考えているに違いない。
喜兵衛を男前と褒め称えたことで、祖父は絶対に喜兵衛に操られていると、千鶴は確信した。やはり喜兵衛は山﨑機織を利用して、鬼の仲間を増やすつもりなのだ。
「千鶴さんはお父さんのことは、何ぞご存知かなもし?」
喜兵衛に問いかけられた千鶴は、はっとなった。
「いえ、うちが産まれた時には、もう、おりませんでしたけん」
「じゃあ、お父さんにはまだ会うとらんのかなもし?」
はいと千鶴がうなずくと、父親に会いたいかと喜兵衛は畳みかけるように訊ねた。
千鶴はちらりと甚右衛門を見てから、いいえと言った。
「ほやけど、いっぺん会うてみたいて思うことはあろに」
次第に体が前のめりになる喜兵衛の言葉は、少し決めつけたというか強引さがある。そこまで父に関心があるのは、やはり父もこの男と同じ鬼なのか。
「なして鬼山さんは、そがぁに父のことぎり訊ねられるんぞなもし?」
怪しんだ千鶴が問いかけると、喜兵衛は姿勢を戻し、頭の後ろに手を当てて笑った。その仕草は伸びて来た角を隠そうとしたみたいだ。
「いや、申し訳ない。実は、いずれ伊予絣をソ連にも売り込んだろと思いよったんぞな。やけん、千鶴さんのお父さんと連絡が取れるんなら、これはいけると思たぎりぞなもし」
甚右衛門は喜兵衛の発想に大きくうなずいている。
「さすがじゃな、鬼山くん。まだ若いのに大したもんぞな。ソ連に伊予絣を売り込むやなんて、わしには思いつくまい」
「いやいや、今んとこソ連とはまだ国交がありませんけん、捕らぬ狸の皮算用ぞなもし」
喜兵衛は照れ笑いをした。甚右衛門も喜兵衛もすっかり意気投合している。二人とも千鶴が婿取りを了承するものと決め込んでいるようだ。
鬼娘が鬼と夫婦になるのは定めかもしれない。けれども喜兵衛を見ていて、千鶴は定めに抗うことに決めた。
おじいちゃん、鬼山さん――と千鶴は二人に声をかけた。
「うちはこれまでずっと小学校教師になるために、女子師範学校で勉学に励んで参りました。ほれやのに、今日いきなしお見合いさせられても、うちとしては困るんぞなもし。ここのお店の事情はわかっとりますけんど、ほれにしたかて困るんぞなもし」
千鶴はきっぱり言った。これだけのことが言えたのは、忠之への想いがあったからだ。
これまでは、忠之ことはあきらめねばならないと考えていた。しかし、己の定めを突きつけられた今、千鶴は自分の本当の気持ちに気づかされた。
自分の夫になるのはあの人以外いない。あの人と夫婦になれないのであれば、一生独り身でいよう。千鶴はそう心に決めていた。
毅然とした千鶴の言葉に、甚右衛門も喜兵衛も少なからず動揺したらしい。甚右衛門は千鶴の言い分を聞き、確かに性急過ぎたと反省の姿勢を見せた。
喜兵衛も神妙な顔で、もうちぃと個人的な話をするべきでしたと、千鶴に自分の無神経さを詫びた。その上で、千鶴とは結婚を前提としたお付き合いがしたいと申し出た。もちろん、千鶴の婿になるという意味だ。
甚右衛門は千鶴をなだめるように言った。
「結婚については、今すぐ返事はせんでええ。どがぁでも師範になりたいいうんなら、ほれも構ん。その上でいっぺん鬼山くんと付き合うてみてはもらえまいか。付き合うてみて、やっぱしいけんかったら、ほれは仕方ないことよ。どがぁぞな?」
祖父にここまで言われたら、千鶴も拒絶ができなかった。
「結婚を前提とせんのであれば」
これが千鶴としては精いっぱいの返事だった。
甚右衛門は笑みを見せると、こんで構んかと喜兵衛に訊ねた。喜兵衛は千鶴と一緒になる自信があるのか、結構ぞなもしとうなずき千鶴を見た。
喜兵衛を一瞥したあと、千鶴は目を伏せた。目を逸らしたのではなく無視したつもりだ。祖父の顔を立てて付き合いはしても、絶対に結婚はしない。答えは決まっていた。
七
「あんた」
トミの声がした。甚右衛門が障子を開けると、土間にトミが立っている。その後ろで新吉が不安げな顔で千鶴たちを見ていた。新吉はトミに連れ出されていたらしい。
トミは何か言おうとしたが、喜兵衛に気づいて訝しげな顔をした。
「このお人は?」
「千鶴の婿になる男ぞな」
まだ婿になるとは決まっていないのにと、千鶴は腹が立った。しかし、これが祖父の本音というか、鬼の本音なのだ。
「鬼山喜兵衛と申します」
喜兵衛はトミに頭を下げた。トミも挨拶を返すと、すぐに甚右衛門に顔を戻した。
「あんた、表に孝平がおるぞな」
「わかっとらい」
甚右衛門は不機嫌そうに返事をした。
「わかっとるんなら、なしてあげな所に立たせとるんね? 早よ中へ入れてやらんね」
「ずっと行方眩ましよったくせに、いきなし戻んて来て跡継ぎ面する奴なんぞ勘当ぞ」
「勘当て……血ぃのつながった息子やないの。やっと戻んて来たのに勘当はなかろがね」
「つかましいわ! あいつがわしのこと、何て言うた思う? 親父ぞ。偉そうに!」
甚右衛門は怒り心頭だったが、トミは怯まなかった。
「ほやけど、勘当せいでもよかろ? そげなことは言うて聞かせたらええことぞな」
「ここにあいつの居場所はない」
「何でもさせたらええじゃろがね」
「そげなわけにいくかい」
二人のやり取りを聞いている喜兵衛は、素知らぬ顔をしているが目が笑っている。甚右衛門の馬鹿息子を嘲笑っているのかもしれないが、山﨑機織の実情を見てほくそ笑んでいるみたいでもある。
千鶴にはますます喜兵衛の正体が鬼に見えた。この店に入り込む余地があるとわかって喜んでいるに違いない。
「とにかく、客人の前でそげな話はすんな。客人に失礼なろが」
甚右衛門に叱られ、トミが横目で喜兵衛を見ながら口を噤むと、急に店の方が騒がしくなった。と思うと、孝平が飛び込んで来た。慌てて追いかけて来たのは茂七と辰蔵だ。
辰蔵たちに押さえられながら、孝平は土間に這いつくばって甚右衛門に詫びた。
「親父、いや、父さん。わしが悪かった。こがぁして謝るけん、どうか、わしをここへ置いてつかぁさい」
甚右衛門はトミを気にしながら孝平を叱りつけた。
「千鶴が見合いしよるんがわかった上で、こげな芝居がかったことをしくさって。お前なんぞ、もう息子でも何でもないけん、どこまり行くがええ」
甚右衛門が顎をしゃくると、辰蔵と茂七は暴れる孝平を抱えながら表へ連れて行った。
トミは憤慨したが、黙って孝平を追った。新吉はぼーっと突っ立っていたが、亀吉が奥庭へ引っ張って行った。勝手口から花江が遠慮がちに中をのぞいている。
甚右衛門は喜兵衛に詫びると、また別の日に千鶴と会ってやってほしいと頼んだ。千鶴にすれば余計なお世話だったが、祖父には逆らえない。とにかく結婚は前提ではないのだからと、心の中で何度も自分に言い聞かせた。
喜兵衛はにこやかにうなずき、承知いたしましたと言った。鬼の思惑どおりにされそうで気分が悪かったが、千鶴は黙って聞くしかなかった。
鬼と福の神
一
山﨑機織ではこれまで東京に手代の一人を送り込み、安宿に住まわせながら店廻りをさせていた。
一方、東京よりも近い大阪には月に一度、松山の手代に得意先廻りをさせて注文を取っていた。しかし松山から通いの注文取りでは廻る先が限られてしまう。そのため大阪の取引先は、東京ほどは増やせなかった。
そんな折、明治末に大阪で大火が起こり、山﨑機織が取引していた太物問屋にも、焼けて廃業に追い込まれた所があった。
行き場を失ったそこの使用人たちの中に、もう若くなく身寄りもないが、太物をよく知る仕事熱心な男がいた。作五郎というその男に、甚右衛門は自分たちの力になってほしいと頼み込んだ。そして、大阪の仕事を一手に引き受けてもらうことになった。
作五郎が動き始めると、松山にいる手代が大阪へ通い詰める必要がなくなった。また、手代が廻っていた時より多くの店を作五郎が廻ってくれたので、大阪での売り上げは以前よりも倍増した。
関東大地震で多くの伊予絣問屋が潰れる中、山﨑機織が何とか持ちこたえているのは、作五郎の力によるところが大きい。たまたまではあるが関東大地震の少し前に、作五郎は大阪で大口の契約をいくつか取ってくれた。そのお陰で山﨑機織は東京の被害を和らげることができたのだ。
少し気むずかしい男ではあるが、商いに対する作五郎の姿勢を甚右衛門は深く信頼していた。その作五郎の元に孝平を送る話が、甚右衛門とトミの間で持ち上がっていた。
甚右衛門は孝平をいったんは家から追い出した。けれども、トミが孝平を呼び戻せと言って聞かないため、仕方なく作五郎に孝平を試してもらおうと考えたのだ。
店の跡継ぎの話はともかくとして、山﨑機織に使用人が足らないのは事実であり、丁稚が少ないことにも甚右衛門たちは頭を悩ませていた。
もっと丁稚を取っていればよかったが、景気が悪くて毎年は丁稚を取れなかった。せっかく入っても続かずに辞めさせられる者もいた。そもそも山﨑機織の丁稚にという話が、他の店ほどは入ってこなかった。
それでも手代や番頭が続けざまに死ぬという不幸がなければ、それなりにやって来られたはずだった。特に東京の手代を大地震で失ったのは大きな痛手であり、東京への足がかりを断たれたも同然だった。
東京もいずれは復興する。その時には、誰かを店廻りにやらねばならないが、今の状態では東京へ送れる者がいない。これまでの手代不足の時には、茂七などのように経験のある丁稚を、少し早めに手代に昇格させて穴埋めをした。しかし亀吉はまだ経験が足らないし、新吉に至っては春に入って来たばかりだ。
そんな苦しい状況の中で、甚右衛門が千鶴と鬼山喜兵衛を夫婦にしようと考えたのは無理もなかった。
喜兵衛が来れば後継者としての修行も兼ねて、手代の仕事を務めてもらう手筈のようで、そうすれば茂七を東京へ送り出せると甚右衛門は考えていた。
手代の不足を埋めるだけならば、必ずしも千鶴の婿である必要はない。けれど、いきなり手代として雇い入れるには、相応の信頼と力量が求められる。それに千鶴を受け入れられる者でなければならない。もし千鶴の婿となる者が見つかれば、後継者も手代不足も解決できる一石二鳥となるのだ。
店を継げる者ならば、仕事も熱心にするだろうし信頼もおける。取り敢えずは婿を取って急場をしのぎながら、どんどん丁稚を育てていくというのが、甚右衛門が思い描いている構想だ。
一方、万が一にも作五郎が孝平を認めるのであれば、孝平を松山へ戻して茂七を東京へ行かせる道もある。期待はできないが、可能性がないわけではない。
いずれにしても東京の復興がすぐにでも始まるならば、まずは東京の勝手がわかっている辰蔵を送り込むつもりだと、千鶴は甚右衛門から聞かされている。その間の帳場は甚右衛門が守り、時期を見て茂七と辰蔵を交代させる寸法なのだそうだ。
ただ孝平を手代にするのは、当てにできる話ではなかった。
幸子が甚右衛門たちから聞いた話によれば、孝平は松山を出たあと、あちこちを転々と渡り歩きながら、その日暮らしをして何とか食いつないでいたようだ。
そもそも伊予絣問屋で丁稚奉公をしていた頃から、孝平は仕事ができなかった。当時、甚右衛門はそこの主から、孝平は物覚えが悪く動きも鈍い上に、愚痴をこぼしてばかりと聞かされて、大いに恥じ入ったらしい。つまり、孝平が手代にしてもらえなかった話に千鶴は関係なく、辰蔵が言ったとおり、孝平自身にその力がなかったのだ。
にも拘わらず、その主は甚右衛門の顔を立てて、孝平の面倒を見続けくれた。その店を孝平は黙って逃げ出したのである。甚右衛門の顔は丸潰れとなった。
その言い訳として孝平は、兵役が嫌で逃げたと言った。
男子は二十歳になると徴兵検査を受けなければならない。そこで健康に問題がなければ、三年間の兵役義務を負わされる。といっても、検査の合格者全員が徴兵されるわけではなく、実際に徴兵されるのは全体の二割ほどだけだ。それでも兄を日露戦争で失った孝平は徴兵を恐れ、二十歳になる直前に消息を絶った。それが事の真相だった。
孝平が松山へ戻って来たのは、近頃はその日暮らしも大変になったからだ。でも、そこには自分が逃げ出したことも、ほとぼりが冷めているだろうとの打算があったようだ。
実際、松山へ戻ってみると、孝平が丁稚をしていた店は潰れてなくなっていた。しかも、山﨑機織では未だに跡継ぎが決まっていなかった。自分にも運が向いてきたと考えた孝平は、意気揚々と店に乗り込んだが、その結果があの騒ぎだ。
店の主を気取っていた孝平は、辰蔵の代わりの番頭は簡単に雇い入れられると本気で信じていたらしい。また店の主は仕事をしなくてもいいとも考えていたようだ。
店の采配を振るったり、使用人を育て上げる主の苦労など、孝平は一つも理解しておらず、甚右衛門もトミも開いた口がふさがらなかったという。
そんな孝平には跡継ぎどころか、店の仕事など任せられない。本来ならば甚右衛門がやろうとしたように、さっさと店から追い出しているところだ。しかし、トミが孝平に最後の情けをかけてやってほしいと懇願するので、甚右衛門は渋々ながら孝平を呼び戻し、大阪へ送り出すことにしたのだ。
もちろん、これは作五郎の了承を取ってからの話だ。嫌だと言われればそれまでである。孝平に居場所はない。作五郎が引き受けてくれたとしても、途中で放り出されればおしまいだ。
そんな感じなので、甚右衛門が孝平よりも千鶴に期待をかけているのは間違いない。鬼の意向には関係なく、もはやロシア兵の子供などとは言っていられない状況なのだ。
千鶴に婿を迎えて後を継がせるという甚右衛門の考えは、トミも以前から聞かされており、そのことには賛成していたそうだ。
ところが喜兵衛を婿にする話は、甚右衛門のまったくの思いつきであり、何も聞かされていなかったトミは懐疑的だった。正清の命を奪った国との取引についても、トミは声を荒らげて反対した。
とはいえ、孝平は役に立ちそうにないし、正清を奪ったのはソ連ではなくロシアだと甚右衛門から諭されると、トミも気が変わった。そして、喜兵衛にソ連との取引を任せれば山﨑機織は勢いを取り戻せるかもしれないと、期待を寄せるようになった。それは裏を返せば、店の経営がかなり逼迫しているということだ。
千鶴にしても、今の店の状況を見せられると当惑する。断ったつもりの婿話を祖父に言いくるめられても、自分ばかりが我が儘は言えないとあきらめ気分になってしまう。
風寄の祭りを見に行くまでは、千鶴は店のことは他人事のように見ていた。しかし店のことを知り、山﨑機織に来る丁稚が少ない理由を考えると、それは自分のせいかもしれないと思うようになった。
我が子をどの店の奉公に出すかは親が決めるが、同じ丁稚にするならば、多くの親がロシア兵の娘がいない店を選ぶに違いない。
祖父母は千鶴を疎んではいるが、これまで丁稚不足で千鶴に嫌みを言うことはなかった。その祖父母の困り切った姿を見ると、千鶴は自分の責任と罪悪感を感じてしまう。
それに、いずれは鬼娘の本性が現れる。そうなれば忠之と一緒になれるはずもないが、だからといって独り身を貫けば、山﨑機織は立ち行かなくなるだろう。
結局は同じ鬼仲間を婿に迎えるしか店を守れないし、自身の居場所もない。やはり定めから逃れる術はないのかと、千鶴は失意でいっぱいになった。
二
翌週の日曜日、喜兵衛は再び千鶴に会いにやって来た。
千鶴は喜兵衛に会うことに気乗りがしなかった。でも甚右衛門が喜兵衛に千鶴を連れ出す許可を出したので、喜兵衛の誘いを拒めなかった。それで渋々喜兵衛について外へ出たものの、一つも楽しくない。
喜兵衛は歩きながら喋るばかりで、どこかの店に入ったり、芝居や活動写真を楽しんだりはしなかった。喜兵衛の話も面白さはなく、その話しぶりから、喜兵衛は芝居などの庶民の楽しみを軽蔑していると千鶴は理解した。
一方で前回とは打って変わり、喜兵衛は千鶴の父親には一切触れなかった。代わりにこれまでの千鶴の暮らしを聞きたがった。特につらい話に興味があるらしい。
千鶴は過去の嫌なことなど思い出したくなかったし、他人に喋ることもしたくない。それでもしつこく訊かれるので、仕方なくぽつりぽつりと話した。喜兵衛は憤慨したりうなずいたりしていたが、どこか他人事みたいに聞いている感じだった。
千鶴に楽しい思い出はあまり多くないが、まったくないわけではない。しかし千鶴が楽しい話をしても、喜兵衛は軽く聞き流して別の話題に変えた。喜兵衛は千鶴の夢や望みにも関心がないようで、千鶴にどんな師範になりたいかなどとは訊かなかった。どうせ自分の妻になれば、そんなことは関係ないと思っているのだろう。
喜兵衛は千鶴を気の毒な娘にしたいようだった。気の毒な千鶴に同情することで、自分をよく見せたいのだろう。弱い女は強い男に従うのが幸せだと思っているらしく、自分はその強い男なのだと、しきりに示そうとした。
「自慢するわけやないけんど、今通いよる剣道の道場で、あしに勝てる者はおりません。恐らくやが、今のあしなら師匠にも勝てると思とります」
明らかに自慢話であり、喜兵衛は己の強さを誇示した。
「段位でいうたらあしより上の者はおるけんど、段位は力量ぎりで決まるもんやないですけん、あしはあんまし興味ないんです。人が注目するんはほんまに強い者ぎりですけん、あしは力こそがすべてやと思とるんぞなもし」
世の中も力がある者が動かし、力がない者は言われたままに動くだけだと喜兵衛は言った。だから、今の世の中を変えるには、強い力が必要だというのが喜兵衛の考えだった。
「女子にはもっと働ける場所をこさえにゃならん。男が偉そなことが言えるんは、家で女子が支えてくれとるけんぞな。ほれと同じで、社会を支えるんは女子の仕事ぞなもし。ほれやなのに女子の働ける場所がないいうんは、お上の連中が抜け作いうことぞな」
喜兵衛は自分が女の味方であることを強調したが、実際に女の権利を訴える婦人たちのことは、何もわかっていない目立ちたがり屋だと決めつけた。
そんな喜兵衛から世の中の女子の立場をどう思うかと問われ、千鶴は返事に困った。
世の中が弱い者にとって理不尽だとは思っている。喜兵衛が言うように、もっと女が働ける場所があればいいとも思う。でも、どんな仕事が女にも与えられるべきなのか思いつかない。それに女が強くなることを、喜兵衛は本当には望んでいないみたいだ。
喜兵衛が千鶴の答えを待っている。千鶴は困惑しながら口を開いた。
「男とか女とか、そがぁなことには関係なく、みんなが仲よく楽しゅう過ごせたらええなて思とります」
自分だけでなく、山陰の者として差別を受けている忠之のことも考えての言葉だった。けれど、千鶴の答えに喜兵衛は顔をゆがめた。
「あしが訊いとるんは女子の立場ぞな。男のことは聞いとらん」
「男も女もいろいろぞなもし。強いお人もおれば、弱いお人もおるんは対ぞなもし」
「ほれはほうやが、今あしが訊いとるんは女子の話ぞな。わからんかな?」
喜兵衛の顔に明らかな侮蔑のいろが浮かんでいる。千鶴を頭の悪い女だと見たようだ。
千鶴が返事をしなくなると、喜兵衛は慌てて微笑んだ。だけど、千鶴は喜兵衛の本当の顔を忘れなかった。
この男は口では女子のためにと言っているけれど、自分の評価を高めるために、弱い女子を利用しようとしているだけに過ぎない。心の内では女子を見下している。
鬼に選ばれた男はこんなものなのかと千鶴は落胆した。だが、そもそも鬼に人間らしさを求める方が間違いなのだ。
「いろいろ言いんさっておいでるけんど、うちにはちゃんとわかっとりますけん。鬼山さんはお名前どおりの鬼でしょ? ご自分の正体隠して、弱い者を喰いものにするおつもりなんはわかっとりますけん」
喜兵衛はきょとんとしたあと、声を出して笑った。
「千鶴さんは面白いことを言う女子じゃな」
「違うと言いんさるんか?」
真顔の千鶴を見て、喜兵衛は笑うのを止めた。
「こがい言うたら失礼なけんど、千鶴さんは見た目よりも、ずっと頭がええお人じゃな。いや、頭が切れるいうんがええかいの。そこらの弱虫連中とは違わい」
「はぐらかさんで答えておくんなもし。鬼山さんのほんまの狙いは弱い者を助けることやのうて、ご自分と対のお仲間を増やすことやないんですか?」
喜兵衛は千鶴に感心した目を向け、ふっと笑った。
「さすがじゃな。お察しのとおりよ。情け知らずの鬼の喜兵衛とはあしのことぞな。弱い奴にかける情けなんぞ持ち合わせとらんし、戦う相手は誰であれ完膚なきまで叩きのめすんが、あしの流儀ぞな。もちろん、普段は穏やかな人物を装っとるがな」
「やっぱし……」
千鶴は覚悟ができていたので驚きはしなかった。ただ悲しみが込み上げ横を向いた。
本性を見せた喜兵衛は、喋り方も馴れ馴れしくなった。
「世の中に虐げられる者がおるんは、はっきし言うたら、そいつが弱いけんよ。言い換えたら、頭が悪いわけぞな。そがぁな連中は利用されるぎりで、何人集まったとこで世の中ひっくり返す力にはならん。あしが求めよるんは、あしと対の力を持つ者ぞな」
「ほれと、銭じゃろ?」
千鶴の吐き捨てるような言い方に、喜兵衛はくっくっと笑った。
「ほのとおりぞな。やっぱし世の中は銭よ。何でかんで力尽くいうんは下作やけんな。なんぼ鬼でも頭は使わんといけん。千鶴さんはまこと頭がええ。ほれに、ほの気ぃの強さも気に入ったで」
千鶴が返事をしないでいると、喜兵衛は続けて言った。
「あしはな、今の世の中ぁひっくり返したいんよ。千鶴さんがあしと組んでくれたら、ほれがでける。どがいぞな、千鶴さん、あしと一緒に世の中ぁひっくり返さんか? 二人で仲間増やして、あしらの世界をこさえるんじゃ」
千鶴は喜兵衛に顔を向けると、濡れた目でにらみつけた。
「あなたはご自分のご野望のために、うちや、うちの店を利用するおつもり?」
「まぁ野望いうたら野望なけんど、ほれは千鶴さんのためにもならい。今の世は千鶴さんには住みにくかろ? もちろん商いはちゃんとするけん、甚右衛門さんに損はさせん」
「うちは今の世の中でええですけん。鬼山さんをお手伝いする気はありません」
千鶴がまた横を向くと、喜兵衛は困惑のいろを見せた。
「まだ話を全部聞いたわけやないのに、そがぁなことは言わんでくれんかなもし。あしがどがぁな世界を思い描きよるんか、聞いてからにしてつかぁさいや。きっと千鶴さんも、ほれはええて思うけん」
「全部を聞く必要はありません。うちは自分を見下すお人とは一緒になりません」
喜兵衛への嫌悪感で、千鶴は鬼娘の定めのことを忘れていた。千鶴の返事が思いがけなかったのだろう。喜兵衛は慌てて千鶴の前に回った。
「ちぃと待ってくれんかな。いつ、あしが千鶴さんを見下したと言うんぞな?」
「最初からずっとぞなもし。ご自分やなかったら、うちみたいな者の婿になる男子なんぞおらんて、高括っておいでるんじゃろけんど、うちは一生独りでも平気ですけん」
「ほれじゃったら、甚右衛門さんが困ろ?」
この言葉に鬼山の本音が表れている。男尊女卑は鬼も人間も同じなのだろう。
「おじいちゃんは――」
千鶴はそこで口を噤んだ。今の祖父母は鬼に操られている。だけど辰蔵たちが仕事をする様子を見ると、辰蔵たちがどんな気持ちで働いているかがよくわかる。それは祖父母が教え込んだものあり、鬼が現れる以前からの祖父母の商いの姿勢だった。
千鶴は口を開くと、自分なりに理解した祖父母の姿を語った。
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、伊予絣を誇りに思とるんよ。ほじゃけん、お店で働く人らも、みんなそがぁ思て仕事をしとりんさる。遠くにおいでる顔も知らんお人らが、うちらが売った絣を喜んでくんさるんを思い浮かべて商いしよるんよ。銭儲けのためぎりで商いしよるんやないですけん」
喜兵衛は、ほぉと感心した声を出した。
「千鶴さん、店の仕事しとらんのに、よう店のことをわかっておいでるんじゃの。千鶴さんには物事を的確に見る力があるいうことよ。やっぱし、あしには千鶴さんがぴったしじゃ。千鶴さんにはあしと対の匂いがすらい」
千鶴はぎくりとなった。やはりお前も鬼の仲間だと、喜兵衛は言っているのだ。しかし、千鶴の決意は変わらなかった。定めのことを思い出したが、口が勝手に動いている。
「うちは、あなたとは一緒になりません。あなたとのお付き合いもこれぎりぞなもし」
千鶴が背を向けて歩き出すと、喜兵衛は焦ったみたいだ。千鶴を呼び止め、自分の何がいけないのかと訊ねた。
千鶴は喜兵衛を振り返ると、きっぱりと言った。
「たとえあなたと一緒になるのが定めじゃったとしても、うちはその定めに従うつもりはありません。あなたが望む世の中は、うちが望むもんとは違います。うちが願とるんは、誰にも優しい世界ぞな。鬼が考える世界やないんぞなもし」
言うだけ言うと、千鶴は再び喜兵衛に背中を向けて歩き出した。後ろで喜兵衛が千鶴を呼び、誤解だと叫んでいたが、千鶴は耳を貸さずに歩き続けた。
やがて喜兵衛の声が聞こえなくなったが、こんなはずではと喜兵衛は途方に暮れているだろう。
千鶴も自分が取った行動に、今更ながら不安になっていた。頭に血が昇って喜兵衛を拒んでしまったが、これは定めに反することだ。鬼の喜兵衛がこのままおとなしく引き下がるわけがなく、千鶴が逆らったことを力尽くで後悔させようとするに違いない。
どうせ進之丞と夫婦になれないのなら、死んでも構わないと千鶴は考えていた。それでも家族や使用人たちに禍が降りかかるかもと思うと、千鶴の心は大きく動揺した。
三
家に戻ると、千鶴は待ち構えていた甚右衛門に、どうだったかと訊かれた。その隣でトミも千鶴の言葉を待っている。
台所で花江が仕事をしながら話を聞いているが、母の姿は見えない。
一週間前に腰を痛めた幸子は、勤務する病院に無理をいって翌日だけ休みをもらった。その連絡は前日のうちに、亀吉が事情を書いた手紙を病院へ届けてくれた。
次の日からは腰の痛みを抱えながら仕事に復帰したが、病院では湿布をしてくれたので、幸子の腰は少しずつ回復していた。それで病院が休みの今日も家事を手伝っていたのだが、今はどこへ行ったのか、台所にも奥庭にもいなかった。喜兵衛のことは母にも聞いてもらいたかったが、厠へでも行っているのだろうか。
千鶴は祖父母がいる茶の間に上がると、花江には悪いが部屋の障子を閉めた。驚いた様子の二人の前に座った千鶴は、両手を突いて頭を下げた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、申し訳ありません。やっぱし、うちはあのお人とは一緒になれんぞなもし」
何ぃ?――と甚右衛門が裏返った声を出した。
「な、何がいかんのぞ?」
動揺する甚右衛門に、千鶴は頭を伏せたまま答えた。
「あのお方はご自分のご野望のために、うちやこの店を利用しんさるおつもりぞなもし。あのお方にはおじいちゃんやおばあちゃん、辰蔵さんらのお気持ちなんぞ、これっぽっちもわかっとりません」
「わしらの気持ちて、何ぞな?」
千鶴は顔を上げると、喜兵衛に伝えたことや、喜兵衛が山﨑機織を利用して世の中をひっくり返すつもりであることを二人に説明した。
甚右衛門は唸ったまま黙り込んでしまったが、トミは千鶴の言うとおりだと言った。
「この子はうちらのことを、ようわかっとる。ほれに比べて何ぞな、あの鬼山いう男は。ここの仕事を真剣に受け継いでくれるて思たけん、千鶴の婿にと言いよんのに、世の中ひっくり返すてどがぁなことね。そがぁな男をこの子の婿になんぞできんがね」
甚右衛門は黙り続けているが、その顔はいかにも苦しげだ。千鶴の言い分を否定はできないが、ならば店はどうなるのかと困りきっているのだろう。
「あの男は誰にも指図されとないて言いよったんじゃろ? ほれはあとからうちらが文句言うたとこで、聞く耳持たんいうことやないの。冷静に考えたら、どんだけ危ない男かがわかろうに、あんたがどんどん話を進めてしまうけん。だいたいな、正清殺したロシアと商売するいう時点で、おかしいて気ぃつかんといけんかったんよ」
つかましいわ――と甚右衛門はトミをにらんだが、千鶴を叱りはしなかった。
「話はわかった。嫌がる者に無理なことはできんけんな」
「申し訳ありません」
千鶴が下を向くと、甚右衛門はむずかしい顔で、部屋へ戻って少し休めと言った。
千鶴が離れの部屋へ行くと、幸子が横になっていた。どうしたのかと訊ねると、さっきから腰が痛くなって動けないという。ずっとよくなっていたのに、急にずきんと痛くなってどうしようもなくなったので、花江に仕事を任せて休んでいるそうだ。
千鶴はざわっとなった。これは鬼の仕業に違いなかった。しかし、鬼の怒りはこんなものではないだろう。喜兵衛との結婚を千鶴が受け入れるまで、さらなる禍が続くのだ。
四
翌日、作五郎からの手紙が届いた。甚右衛門の希望どおり、孝平の世話を引き受ける内容だった。ただ、その分の手当を甚右衛門が提示した額よりも、もう少し上げてほしいという要望も書かれてあった。
甚右衛門は直ちに孝平に大阪行きを申しつけた。また、もし作五郎を怒らせたなら、そのままどこにでも行って二度と松山には戻って来るなと厳しく言い添えた。
孝平はすっかりおとなしくなり、素直に頭を下げた。
店に呼び戻されて以来、孝平は辰蔵たち使用人に対しても偉ぶった態度は見せず、言われたとおりに動いていた。花江にも口を利いてもらえるようになり、拍子抜けした辰蔵とも揉めることなくにこやかに過ごしていた。
孝平のそんな姿は、トミに期待を抱かせたらしい。トミは孝平を優しく励まし、必ず作五郎さんに認めてもらうようにと言った。孝平は嬉しそうに大きくうなずいた。
大阪へ向かう日の朝、店先で孝平は甚右衛門とトミに挨拶をした。
「父さん、母さん。これまで心配ぎりかけよったけんど、絶対に大阪で一人前になって戻んて来るけんな」
どこまで本気で聞いていたのかはわからないが、甚右衛門は黙ってうなずいた。千鶴の縁談が壊れた以上、孝平に望みを託す以外にない。しかし甚右衛門の表情を見ると、やはり期待は薄いと見ているようだ。
トミは涙ぐみながら、しっかりがんばりんさいと言った。
孝平は見送りに出ていた千鶴にも幸子にも挨拶はしなかったし、辰蔵たちにも声をかけなかった。おとなしくなったとはいっても、そうそう本音は変わらないわけだ。
けれども孝平は花江にだけは声をかけて、いきなり手を握った。
「ちょっと何を――」
「わしが一人前になって戻んて来たら、ほん時は、わしの嫁になってくれ」
えぇ?――花江は驚いたが、他の者たちも驚いた。
「こら、孝平! こがぁな時に、何言いよんぞ」
甚右衛門に怒られると、孝平は慌てて花江から手を離して姿勢を正した。
「ほんじゃあ、行てくるぞな」
孝平は甚右衛門とトミに声をかけると、ちらりと花江を見た。
「花江さん。約束ぞな」
「ちょっと待って。あたし、約束なんか――」
花江の返事を聞かず、孝平はそのまま古町停車場へ足早に向かった。花江は困惑して顔を伏せると、店の中へ逃げた。
「あんた、この手があったぞな」
トミが目を輝かせた。孝平と花江に店を継がせればと思ったのだろう。
「そげなことは、あいつが一人前になれたら考えようわい」
甚右衛門は素っ気なく答えると、使用人たちに仕事に戻るよう命じた。
数日後の日曜日、またもや喜兵衛が訪ねて来た。甚右衛門は千鶴を離れで控えさせると、喜兵衛を座敷に招き入れた。
千鶴はその時の様子をあとでトミに聞かせてもらったが、喜兵衛は終始居丈高な態度を見せていたという。頭を下げ続ける甚右衛門に対し、喜兵衛はずっと不機嫌な顔でふんぞり返っていたらしい。そこには目上の者に対する敬意など一欠片もなかったようだ。
見合いの話はそちらから持ちかけてきたものであり、恥をかかされた責任はどう取るつもりなのかと、喜兵衛は平謝りの甚右衛門を責め続けたそうだ。
それでも見合いを断るには理由がある。喜兵衛が商い以外に怪しげな企てを持っていたことについて、甚右衛門にも文句を言う権利はあるのだ。ところが甚右衛門はそのことに触れようとせず、我が夫ながら情けないと、トミは首を振った。
トミが言うには、甚右衛門の実家の重見家と喜兵衛の実家の鬼山家では、どちらも元下級武士ながら鬼山家の方がわずかに格上だったそうだ。それで甚右衛門は相手の非を咎めることができなかったのだという。
「商家に婿入りして何十年にもなるのに、何が侍ぞな。だいたい今時、侍がどこにおるんね。相手に非ぃがあるのに、こっちが頭を下げるやなんて、こがぁなおかしな理屈があるもんかな」
千鶴に夫への愚痴をこぼしたトミは、今回のことが余程腹に据えかねたと見える。甚右衛門が喜兵衛から言われっ放しなので、代わりに言ってやったと鼻息荒く喋った。
「千鶴の婿になれるんは、ほれにふさわしい男ぎりであって、今度のことは、あんたが千鶴にはふさわしなかったぎりの話じゃろがね!――て言うたったんよ。ほしたらな、あの男、何も言い返せんで、顔を真っ赤にして去によったわい」
千鶴は祖母に女の強さを見たが、すぐに訝しんだ。
祖父母は鬼に操られていたはずだ。なのに祖母が喜兵衛を撃退したのは矛盾している。もしかしたら鬼が操っていたのは祖父だけなのだろうか。
だが祖父にしても、考えてみればおかしいのだ。
祖父が喜兵衛に頭が上がらないのは、鬼である喜兵衛の方が立場が上だからだ。だけど、祖父が本当に喜兵衛に操られているのであれば、自分が何と言おうと無理やり喜兵衛と夫婦にすればいいことだ。祖父にはその権限がある。それを祖父は頭を下げてこの縁談をなかったことにした。やはり妙だ。
恐らくは祖父母を操る鬼の力が弱かったのか。祖父母は鬼に操られはしたものの、完全に鬼の手に落ちていたわけではなかったと思われる。
今の祖父母を支配しているのは、山﨑機織が置かれたこの苦境を、何としても乗りきろうとする切実な想いなのだろう。実際、山﨑機織には危機が迫っていた。
五
この日、喜兵衛が出て行くのと入れ替わりに、いよいよ東京の問屋が商いを再開したという話が舞い込んだ。しかし、山﨑機織の取引先がどうなったのかまではわからない。
大地震のあと、辰蔵が東京の状況を確かめに行った時には、取引先はどこも店が潰れたり人が亡くなったりで、商いなど考えられない状態だった。
それでも商いを始める時には電報で知らせてほしいと、辰蔵は無事が確かめられた相手に頼んでおいた。だが東京からの連絡は入って来なかった。
何日か経つと、他の店は東京向けの仕事を再開した。なのに、山﨑機織には取引先からの連絡が届かなかった。
伊予織物同業組合の組合長が、ひょっこりと訪ねて来た。もうずいぶん涼しくなったのに、太めの組合長は暑そうに扇子で顔を扇いでいる。
組合長は甚右衛門を見つけるなり大丈夫なのかと訊ねた。何が大丈夫なのかと甚右衛門が訊き返すと、山﨑機織がもうすぐ潰れるという噂を耳にしたと組合長は言った。
驚いた甚右衛門は、すぐに噂の出所を確かめに行った。それが戻って来た時には、左手で右腕を押さえながら左足をひきずるという姿だった。着物は土に汚れ、右手の甲からは出血もしていた。
何があったのかとみんなから問われた甚右衛門は、噂の元を辿って行くと、噂を広めていたのが鬼山喜兵衛だとわかったと言った。
恐らく千鶴の婿になる話が流れた腹いせで、甚右衛門は喜兵衛を捕まえてとっちめてやろうと、湊町へ向かったそうだ。ところが頭に血が昇っていて、左から来た自転車に気がつかず、ぶつかられて転倒したという。
トミは病院へ行くよう促したが、この程度のことでは行かないと、甚右衛門は言い張った。けれども自転車がぶつかった所は赤黒い痣ができているし、転んで打ちつけた右肘と右肩は腫れていて、トミが触れると痛がった。
これではとても喜兵衛をとっちめるどころではない。こんな姿で行ったところで迫力もなく、白を切られて終わりになる。
代わりに自分が喜兵衛の所へ行くとトミが言ったが、甚右衛門は許さなかった。女が行っても相手にされないだろうし、今の状態が向こうに知れるのを甚右衛門は嫌がった。
トミは悔しがったが、山﨑機織全員がトミと同じ想いを抱いていた。甚右衛門自身、己が情けないらしく、痛みより腹立たしさで顔をゆがめているみたいだ。
いよいよ鬼の呪いが始まったと千鶴は思った。東京から連絡がないのも、祖父が怪我をしたのも鬼の仕業だ。喜兵衛が自ら山﨑機織の悪い評判を広めているのがその証だ。
千鶴は喜兵衛との縁談を拒んだことを、甚右衛門に詫びた。だが、甚右衛門は千鶴を責めなかった。あんな男を婿にしなくてよかったと言い、今回のことも自分に人を見る目がなかっただけだと、己の責任を認めた。
さらに、喜兵衛が山﨑機織を悪く触れまわったところで、しっかりとした商いができていれば、誰も喜兵衛を相手にしないと甚右衛門は言った。問題は山﨑機織の人員不足と、東京の状態がわからないことだった。
祖父の姿勢を千鶴は立派だと思った。また有り難いとも思った。だけど不思議でもあった。今の祖父は鬼の支配が及んでいるように見えない。なのに祖父が自分をいたわってくれるのは妙である。祖父はロシア人の血を引く孫が疎ましいはずなのだ。
ついに始まった禍に恐れを抱きながら、千鶴は当惑した。
東京からの連絡がないので、甚右衛門は東京の取引先の様子を、急いで辰蔵に見に行かせようとしていた。ところがこんな状態では、辰蔵に代わって帳場の仕事はできない。正座などできないし、帳簿をつけるのも無理である。
甚右衛門は辰蔵の代わりに茂七を遣ることも考えた。けれど東京に不慣れな茂七では、行ったところでどうにもならないのは目に見えていた。
そんなところに銀行の行員が訪ねて来た。山﨑機織は銀行に借金があるので、倒産の噂を耳にした銀行が真偽を確かめに来たのだ。
甚右衛門は噂はでっち上げで、経営は順調だと訴えた。しかし怪我だらけの甚右衛門の姿は、説得力がなかっただろう。
関東大地震のあと、山﨑機織がぎりぎりの所で踏ん張っているのは行員も知っている。とはいえ、このまま東京への出荷が再開できなければ、いずれは経営は破綻する。行員がそこを見逃すはずがない。
甚右衛門たちが不安のいろを浮かべる中、行員は帳簿を調べて確かめた。それで東京への出荷が止まったままなのを知ると、噂は本当だと判断したらしい。
これにどう対処するつもりかと行員は問うたが、甚右衛門はうまく答えられなかった。自分の傷が治ったら辰蔵を東京へ送るつもりだというのが、甚右衛門にできる精いっぱいの答えだった。
当然ながら、その答えに行員は満足しなかった。甚右衛門に十日だけの猶予を与え、十日以内に出荷が再開できなければ、借金を取り立てると言った。そうなると山﨑機織は本当に潰れてしまう。
トミは行員に縋りながら、もう少し待ってほしいと懇願した。行員がトミの手を振り払って帰ろうとすると、トミは胸を押さえて苦悶の表情で倒れた。
甚右衛門は急いで亀吉を医者を呼びに走らせた。行員はうろたえながらも、自分は関係ないと言いながら帰って行った。
駆けつけた医者の見立てでは、トミは心臓が弱っているらしい。医者は入院を勧めたが、トミは頑として拒んだ。どうせ死ぬのであれば、家で死にたいとトミは言った。
入院しないのであれば、誰かがトミの世話をしなければならない。
幸子は病院の仕事に復帰していたが、腰を痛めた時に急な休みを取って、これまで二度病院に迷惑をかけている。再び休みを取ると言えばクビにされてしまうし、完全に腰が治ったわけではないので、トミに十分な看護ができる状態ではなかった。
花江は家事で手がいっぱいだ。となると、千鶴しかいない。
千鶴にしても簡単には学校を休めないが、甚右衛門は千鶴に婿をもらって店を継がせるつもりだった。その時は千鶴を退学させたはずなので、甚右衛門に学校は重要ではない。学校を理由に祖母の世話ができないとは言えなかった。
それに千鶴自身、学校より祖母が心配だった。ずっと冷たくされていた祖母ではあったが、やはり肉親だし、鬼に操られていたとはいえ、最近の祖母は千鶴に優しかった。
ばあさんの世話をしてもらえないかと祖父に頼まれると、千鶴は素直にうなずいた。
千鶴は自分の布団を離れの部屋から茶の間に運び、夜でもすぐに祖母の世話ができるよう、茶の間で寝ることになった。
千鶴の仕事は祖母の世話だけでない。手が空いていれば花江の手伝いをし、祖母に代わって、丁稚たちに読み書き算盤を教えたりもした。忙しく大変ではあったが、自分の役割があることで、千鶴は居心地のよさを覚えてもいた。
これまで千鶴は自分を家族のお荷物だと受け止めていた。だけどこうして頼られていると、家族の一員として扱われているみたいに思えるのだ。
学校が気にならなかったわけではない。でもこのまま学校をやめて、家の仕事をするのも悪くないかもしれないと考えることもあった。ただ鬼の計画に従わなかった以上、この先に安定した暮らしなどないだろう。
行員が指定した期日までに東京との取引が再開できなければ、山﨑機織は倒産に追い込まれる。ところが東京からの連絡は来ないし、甚右衛門もトミも身動きが取れない。誰が見ても山﨑機織は瀕死の状態だった。
鬼の仕組んだことである以上、千鶴が喜兵衛との結婚を承諾しない限り、東京からの注文は入らない。日を追う毎に、千鶴に責任が深くのしかかった。
銀行との約束の期限まであと三日に迫った日の朝、祖母の食事の世話をしながら千鶴は涙をこぼした。
何を泣くのかとトミに問われた千鶴は、畳に両手を突いた。
「うちのせいで、お店が傾いてしまいました。うちが鬼山さんとの縁談を断らんかったら、こげなことにはならんかったし、おばあちゃんかて病気にならんかったのに……」
トミは弱々しく微笑むと、ええんよと言った。
「これで店が潰れるんなら、ほれがこの店の定めじゃったぎりのことぞな。前も言うたけんど、あがぁな男のことは気にせいでええ。もういつ死ぬるかわからんけん、言うとこわいね。うちらにとってはこの店よりも、あんたの方が大事なんよ。ほじゃけん、あんたは何も気にすることないけんな」
千鶴は祖母の言葉が信じられなかった。祖父と同じく自分を疎む祖母が、こんなことを言うわけがない。しかし鬼に操られての言葉なら、喜兵衛と一緒になってほしかったと言っただろう。
トミは食事をやめると横になって目を閉じた。千鶴は何も言えないまま呆然とした。その目には涙が勝手にあふれていた。
六
千鶴がトミに寝間で朝食を摂らせている間、先に食べ終わった使用人たちは、自分の仕事を始めていた。
隣の茶の間では、仏頂面の甚右衛門が一人で新聞を読んでいるが、右手がまだうまく使えず、左手で紙面をめくっている。食事をするにも不自由しており、そのいらだたしげな表情を見ると、記事の内容などほとんど頭に入っていないみたいだ。足も腫れは引いてきているものの、まだ正座や胡座もできず、左足を投げ出すようにして座っている。
いつもであればトミが甚右衛門にお茶を淹れるところだ。代わりに花江が湯飲みを甚右衛門の傍にそっと置いた。そこへ帳場から困惑顔の弥七がやって来た。
「旦那さん、大八車がめげてしもたぞなもし」
何ぃ?――と唸るがごとき甚右衛門の叫びに、トミは箸を止めて甚右衛門を見た。
甚右衛門は急いで立ち上がろうとしたが、足の痛みに動きを止めた。けれども大八車が壊れたのが本当であれば一大事だ。甚右衛門は苦痛を堪えながら立ち上がると、土間に降りた。弥七は甚右衛門を誘うがごとくに帳場へ戻り、甚右衛門は足を引きずりながらその後ろに続いた。
しばらくすると、何をしとるんじゃい!――と甚右衛門の怒鳴り声が聞こえた。
千鶴と顔を見交わしたトミは、様子を見て来るようにと言った。
台所にいた花江は、すぐさま帳場の方へ向かった。千鶴も急いで土間へ降りたが、そこへ仕事へ行く身支度を終えた幸子が現れた。
異様な雰囲気に気づいた幸子は、何かあったのかと千鶴に訊ねた。母を振り返った千鶴が口を開くと、怒りで興奮した甚右衛門が足を引きずりながら戻って来た。
何も言わずに茶の間へ這い上がった甚右衛門は、肩で大きく息をしながら呆けたように黙っている。祖父を刺激しないために、千鶴は説明をやめて母と帳場へ向かった。
だが帳場には誰もおらず、みんなが店の外に出ていた。千鶴たちも表へ出ると、辰蔵と茂七、弥七の三人が大八車を押さえながら何かをしている。その傍では亀吉と新吉が突っ立ったまま泣いていた。
近所の者たちが朝の忙しい中、仕事の手を止めて集まっている。
花江が辰蔵たちの後ろに立っていたので、千鶴は花江に声をかけて、どうしたのかと訊ねた。花江は振り返ると、車輪が外れてしまったみたいだと言った。
見ると、確かに左の車輪が外れている。辰蔵たちは車輪を何とか本体に引っつけるべく苦闘していた。だけど、いくら押さえつけたところで壊れた物が直るわけがない。
無理ぞな無理ぞなと野次馬たちは無慈悲に口を揃えるが、誰も代わりの大八車を貸してやろうとは言わない。
何で壊れたのかと幸子が訊いたが、花江にもわからない。
修理をあきらめた辰蔵が立ち上がると、千鶴たちの所へ来て、もう古い物なのでここのところ調子がよくなかったと言った。そろそろ新しい物を買わねばと話していたが、関東の大地震が起こってしまい、買い替えることができなかったと辰蔵は肩を落とした。
夜の間、大八車は店の土間に仕舞われている。朝になると丁稚たちが表に出して荷物を運ぶ準備をするのだが、今回外へ出す時に車輪が店の敷居を超えたところで、がくんと外れてしまったらしい。予備の物はないので修理に出そうにも出せずにいたのが、とうとう壊れてしまったというのが真相だ。
そのことは甚右衛門もわかっていたはずだ。けれど今の追い詰められた状況の中、大八車が壊れたことは店にとどめを刺されたのと同じ意味だった。
思わず甚右衛門が丁稚たちを怒鳴りつけたのも無理ないことではあったが、気の毒なのは丁稚たちだ。何も悪いことをしていないのに頭から怒鳴りつけられ、弁明さえも許されなかったのだ。
困惑した辰蔵に目を向けられると、野次馬たちはこそこそと自分たちの仕事に戻った。どこも遠方へ送る品を古町停車場まで運ぶ準備をしているところだ。大八車を貸してくれと言われても困るのだろう。
辰蔵の話では、この日は作五郎からの指示に合わせて、絣を大阪へ送り出すことになっている。しかし、大八車が使えないとなると約束の品を送れない。陸蒸気の時刻は決まっているので、あとから運んだのでは期日に間に合わなくなってしまう。
また町中の太物屋へ注文の品も納められないと、客からの信用がなくなるし、銀行からも厳しく咎められる。
辰蔵はさっきの野次馬たちに、大八車を貸してもらえないかと掛け合ってみた。だが予想したとおり、どこの店もいい返事をしてくれず途方に暮れるしかなかった。
いよいよ山﨑機織はおしまいだ。自分の責任を感じた千鶴は、泣いている亀吉と新吉を抱き寄せて慰めながら一緒に泣いた。
札ノ辻の方から、がらがらという音が聞こえてきた。音の方を振り返ると、札ノ辻から男が一人、大八車を引いてやって来る。後ろの荷台には、どっさりと荷物が縛りつけられてある。近づいて来る男の着物は継ぎはぎだらけだ。
まさか?――信じられない光景に千鶴は胸が詰まった。千鶴に気づいた男は、目を見開くと嬉しそうに笑った。
「これはこれは、千鶴さんやないですか。おはようござんした」
胸がいっぱいになった千鶴は、言葉が出て来なかった。体が勝手に駆け寄ると、千鶴は忠之に抱きつき泣いた。
優しい温もりが、体ばかりか心までも包んでくれる。
「おっと、どがぁしんさった? 何ぞ、あったんかなもし?」
亀吉と新吉が泣くのも忘れ、驚いた顔で見ている。辰蔵たちも怪訝な顔を千鶴たちに向けている。
忠之は優しく千鶴の背中を叩きながら、子供らが見よるぞなと千鶴の耳元で言った。我に返った千鶴は慌てて忠之から離れ、後ろを振り返った。
亀吉と新吉はぽかんとしたまま千鶴たちを見ているし、辰蔵たちも何が起こったのかわからない様子だ。近所の店の者たちも、思いがけない場面に目が釘づけになっていたが、千鶴と目が合うと慌てて動きだした。
忠之は亀吉たちの所へ大八車を引いて行くと、どがいしたんぞと訊ねた。二人とも困惑しながらもじもじしている。見てはいけないものを見てしまった感じだ。
「これぞな」
辰蔵が壊れた大八車を指で差すと、ははぁと忠之はうなずき事情を察したようだ。
「ほんじゃあ、この荷物を急いで降ろして、ほれから、こいつでこっちの荷物を運びましょうわい」
「え? そがぁしてもらえるんかな?」
驚く辰蔵に忠之は笑顔で言った。
「大したことやないぞなもし。困った時はお互いさまですけん。ほれに、おらは人さまのお役に立てるんが嬉しいんぞなもし」
「そがぁしてもらえたら、まっこと助かるぞなもし。お前さまには先日も親切にしてもろて、ほんまに恩に着るぞなもし」
辰蔵は頭を下げると、茂七と弥七に命じて急いで積み荷を中へ運ばせた。
忠之は亀吉たちにも声をかけ、自分と一緒に荷物運びを手伝わせた。亀吉たちに笑顔が戻り、二人は張り切って荷物を運び入れた。
荷物は中身を確認してからでないと蔵へは運べない。帳場は運ばれて来た木箱が山積みされた。
荷物が全部降ろされると、今度は大阪へ送る荷物を載せる番だ。
手代と丁稚の四人が急いで蔵から木箱を運んで来て、辰蔵がその中身を確かめた。確かめ終わった木箱は忠之が大八車に積み、蔵から品を運び終えた手代たちも手伝った。
花江から聞いたのだろう。荷物を運べると知った甚右衛門が表に出て来て、大八車に荷物が積まれるところを眺めている。その後ろには、花江が笑顔で立っていた。
忠之たちが忙しく動きまわるのを、自分も手伝いたいと思いながら千鶴が見ていると、知り合いなのかと幸子が声をかけてきた。
千鶴は少しうろたえたが、黙ってこくりとうなずいた。千鶴と忠之の顔を見比べた幸子は、納得したように微笑んだ。
七
荷物を全部積み終わると、甚右衛門は忠之に感謝した。
忠之は照れ笑いをしながら、まだ終わっていないと言い、大八車を引いて行こうとした。千鶴は忠之を呼び止め、運ぶ先がわかっているのか確かめた。
忠之は頭を掻いて笑うと、どこじゃろかと言った。みんなが笑い、いい雰囲気が広がった。
辰蔵は茂七に後ろから押しながら道案内をするよう言った。
茂七は大八車の後ろにつくと、正面の寺の山門を右へ曲がるのだと忠之に教えた。
「すまんね、茂七さん」
忠之は大八車を引きながら言った。
「何言うんぞ。ほれはこっちの台詞ぞな。こないだもあしの戻りが遅なった時に、荷物運びを手伝てもろたみたいなし。お前さんはあしらの福の神ぞな」
「おらが福の神? そげなこと言われたんは初めてぞなもし」
「ほれにしても、今日はずいぶん早いんやな。お陰さんで助かったけんど、なしてこがぁに早よにおいでたんぞな?」
「何、朝早ように目が覚めてしもたぎりぞなもし」
二人が喋りながら大八車を動かして行くのを、千鶴はみんなと一緒に見送っていた。
どんどん離れて行くので、二人の話はよく聞き取れない。でも、こないだも忠之がここの仕事を手伝ってくれたと、茂七が言ったのは聞こえた。
それが何の話なのかは知らないし、忠之が大八車で荷物を運んで来た理由もわからない。いずれにせよ、忠之は千鶴が知らぬ間に山﨑機織と関係を持ったらしい。これは興奮すべきことではあるが、事情がわからない千鶴は歯痒い気持ちの方が大きい。
「なぁなぁ、千鶴さん。あの兄やんと千鶴さんて、どがぁな仲なんぞなもし?」
新吉が無邪気に千鶴の袖を引っ張った。
「こら、新吉。余計なこと言うな!」
亀吉が慌てて新吉を叱ると、何の話ぞなと甚右衛門が二人を見た。
「いや、あの、えっと……」
亀吉が口籠もると、新吉が言った。
「あの、さっき千鶴さんがあの兄やんに抱きつきんさって、泣いておいでたんぞなもし。ほれで、あの兄やんが千鶴さんのこと、こがぁして慰めよったけん」
新吉は亀吉を抱き寄せると、背中をぽんぽんと叩いた。
「何しよんぞ!」
亀吉が真っ赤になって新吉を突き放した。だが新吉も負けていない。旦那さんに説明しよんじゃが!――と怒って言い返した。
「千鶴、今の話はまことか?」
甚右衛門が千鶴を質すと、みんなの目が千鶴に集まった。
千鶴は下を向くと、蚊が鳴くみたいな声で、はいと言った。顔が熱く火照っている。きっと真っ赤になっているはずだ。
そがぁいうたらと、辰蔵が思い出したように言った。
「二人とも互いを知っておいでましたな。つまり、お二人は元々知り合いじゃったいうことかなもし」
千鶴は顔を上げると、甚右衛門に言った。
「名波村の祭りを見に行った時に、うちを助けてくんさったお人のことを、おじいちゃんにお話しましたけんど、あのお方がそのお人なんぞなもし」
何?――と甚右衛門が大きな声を出した。
幸子と花江は顔を見交わしてうなずき合った。
「旦那さん、これはどがぁな話ぞなもし?」
辰蔵が訊ねると、甚右衛門は言葉を濁しながら、千鶴が村の男に絡まれたのを、あの男が助けてくれたらしいと言った。
千鶴の祭りの報告は楽しい話ばかりだったので、辰蔵たちは意外そうに驚いた。幸子と花江の顔にも、少し不安のいろが浮かんでいる。
「ほれで千鶴さんは、ひどいことはされんかったんですか?」
「あの男に助けてもろたけん、無事じゃったと」
甚右衛門が笑うと、辰蔵は安堵して千鶴を見た。幸子と花江もほっとしたようだ。
「旦那さん」
新吉が甚右衛門に声をかけた。さっきは甚右衛門に叱られて泣いていたくせに、新吉は甚右衛門がそれほど怖くはないみたいだ。亀吉が泡食った顔をしているのに、新吉は平気な顔で甚右衛門に訊ねた。
「千鶴さんに絡んだ奴らて、どがぁな奴やったんぞなもし?」
甚右衛門は新吉の馴れ馴れしさを気にすることなく、楽しげに右手の指を四本立てた。
「でっかい男が四人じゃったと」
「でっかいのが四人?」
新吉は目を丸くして亀吉を見た。亀吉も驚いた顔をしている。幸子と花江の顔にも、再び不安のいろが浮かんだ。
新吉は千鶴を振り返ると、興奮した様子で訊ねた。
「千鶴さん、旦那さんが言うたんはほんまなん?」
千鶴は素直にうんとうなずいた。新吉は再び目を丸くして、亀吉と顔を見交わした。
「ほれにしても奇遇な話ぞな。風寄で千鶴さんを助けた男が、ここでこがぁな形で千鶴さんと再会するとは、まっこと人生とはわからんもんぞなもし」
辰蔵が感慨深げにうなずくと、新吉がまた千鶴に言った。
「千鶴さん、あの兄やんのこと好いとるん?」
「阿呆!」
亀吉が新吉の頭を叩いた。
「何するんぞ! 痛いやないか」
「余計なこと言うなて、言うとろうが」
これ!――と辰蔵が叱ると、二人はおとなしくなった。千鶴は恥ずかしくて、何も聞こえていないふりをした。幸子と花江がくすくす笑っている。
「なるほどな」
甚右衛門はにやりと笑うと、あの男が戻って来たら奥へ通すようにと辰蔵に言った。
辰蔵はわかりましたとうなずいて、後ろで黙って突っ立っていた弥七に声をかけた。弥七が驚いた声で返事をすると、辰蔵は忠之が運んで来た品の確認と、蔵への移動を命じて帳場へ戻った。
「確かに、あの男は福の神かもしれんな」
忠之たちが見えなくなった大林寺の方を眺めながら、甚右衛門は独り言をつぶやいた。そのあと、思惑ありげな目でちらりと千鶴を見ると、黙って店の中へ入った。
幸子が千鶴に声をかけた。その隣で花江がにやにやしている。
「あんた、あの花、あの人からもろたんじゃろ?」
銭湯で見られた野菊の花のことだ。もう隠しても仕方がない。本人に確かめてはいないが、あの人が飾ってくれたに決まっている。
千鶴がうなずくと、花江の笑顔がさらに明るさを増した。
「あの人は喧嘩も強いんだね?」
黙っていられない様子で花江が訊ねた。
恐ろしいくらいに強いと千鶴が言うと、信じられないねと花江は幸子を見た。自分の目で見た忠之の人柄や雰囲気と、喧嘩の強さが結びつかないらしい。
傍で話を聞いていた亀吉と新吉が、どうやって四人も倒せるのかと話に交ざった。あのねと千鶴が言うと、仕事を手伝え!――と弥七の怒鳴り声が飛んで来た。
亀吉たちは慌てて店に戻り、花江もいそいそとお茶の用意をしに行った。
「あんたが鬼山さんとのお見合い断ったんは、あの人がおるけんじゃね?」
幸子に訊かれて、千鶴はこくりとうなずいた。
「さっき、おじいちゃん、何ぞ考えておいでたみたいなね」
幸子は微笑むと、家の中に弁当を取りに戻った。もう行かねばならない時刻だ。
一人残った千鶴は大林寺の前の辻を眺めていた。古町停車場で荷物を降ろした忠之たちが、もう少しすれば姿を見せるだろう。
本当はそこまで迎えに行きたいが、それははしたないことだ。もどかしいが、ここで待っているしかない。
近くの店の者たちが興味深げに顔をのぞかせたが、千鶴は少しも気にならない。二度と逢えないと思っていたあの人が来てくれたのだ。
この奇跡の再会で胸の中は感激でいっぱいだ。話したいことはたくさんあるが、まずはどうして山﨑機織へ大八車で絣を運んで来たのかを訊かねばならない。
大林寺の方へ多くの大八車が向かって行く。また大林寺の辻から荷物を運び終えた大八車が戻って来る。それらを眺めながら、千鶴の目は忠之が引く大八車を探し続けた。
待ちきれない気持ちを抑えながら、千鶴はじっと店の前に立っていた。しかし気がつけば、千鶴の足は大林寺に向かって歩きだしていた。
歩調は次第に速くなり、ついには小走りになった。誰かが声をかけても、その声は耳に入らない。喜びでいっぱいの千鶴の耳には、忠之が呼びかける優しい声が幾度も繰り返されている。
鬼の真実
一
「此度はお前さんにはまことに世話になった。お前さんがおらなんだら、どがぁなっとったかと思うと感謝の言葉もない。このとおり改めて礼を言わせてもらうぞなもし」
茶の間に通されて正座をする忠之に、甚右衛門も正座の姿勢で手を突いて頭を下げた。足も手も痛いだろうが、甚右衛門は顔をゆがめたりはしなかった。
トミは茶の間とは隔てられた寝間にいたが、そこの襖を開けて甚右衛門同様に頭を下げていた。
トミの着物が寝巻である上に、後ろには敷いたままの布団が見える。トミの体調がよくないのは、忠之には一目でわかったはずだ。怪我をしている甚右衛門ばかりか、トミまで布団から出て来て頭を下げたので、忠之は大いにうろたえた様子だった。
「やめておくんなもし、旦那さんもおかみさんも、どうか頭を上げてつかぁさい。おら、そがぁにされる者やないですけん」
甚右衛門は頭を下げたまま言った。
「お前さんには、千鶴がえらい世話になったとも聞いとるぞな。ほんことも含め、お前さんにはなんぼ感謝しても感謝しきれまい」
「ほれにしたかて、そこまでしてもらわいでも構んですけん。どうぞ、お二人とも頭をお上げになっておくんなもし」
甚右衛門たちが体を起こすと、忠之は居心地が悪そうにそわそわした。
「どがぁしんさった?」
「おら、体汚れとるけん、こがぁな所に通してもらうんは気ぃが引けるんぞなもし。こないだみたいに上がり框で十分ですけん」
こないだという言葉が千鶴は歯痒かった。自分が知らない間に忠之がこの家を訪れ、ここの上がり框に座っていたのだ。
そのことを千鶴が訊こうとしたら、先に甚右衛門が喋った。
「お前さんはまっこと謙虚な御仁じゃな。そがぁな心配はせいでも構んけん、膝を崩してゆっくりしたらええ」
はぁとうなずきながらも、忠之は正座の姿勢を崩さなかった。そわそわしてはいても背筋が伸びたその姿勢は、田舎の男とは思えない品のよさがある。その姿に千鶴は改めて心が惹かれたが、甚右衛門とトミも感ずるところがあるようだ。
その甚右衛門は足を痛めているため、長く正座はできない。申し訳ないがと言うと、顔をゆがめて左足を伸ばした。忠之は両手を振りながら、どうぞどうぞと言った。
「足を痛めんさったんですか?」
「ちぃと左の太腿と右腕をな。郵便屋の自転車にぶつかられてしもたんよ」
ほれはお気の毒にと忠之が甚右衛門を案じていると、お茶を淹れた花江が、どうぞと言って忠之の前に湯飲みと茶菓子を配った。忠之は両手を太腿の上に置いたまま、これはどうもと花江に軽く会釈した。花江は思わずという感じで、ほんとにいい男だねぇと言ったが、すぐに慌てて口を押さえた。うろたえながら甚右衛門とトミに頭を下げた花江は、ちらりと千鶴を見た。その顔には何か言いたげな笑みが浮かんでいる。
千鶴が恥ずかしくて下を向くと、甚右衛門は忠之に茶菓子を食べるよう促した。
忠之は静かに茶菓子を食べ、お茶を飲んだ。その一つ一つの所作は、やはり気品を感じさせる。
「ほれにしても、今日はえらい早かったな。お陰でわしらは助かったけんど、どがぁしたらこがぁに早よう来れるんぞな? 昨夜はどこぞに泊めてもろたんかな?」
改めて驚いた様子で甚右衛門が訊ねると、忠之は笑顔で言った。
「前ので慣れましたけん、お天道さんが顔出すちぃと前から走って来たんぞなもし」
え?――と千鶴は声を出した。甚右衛門もトミも目を丸くしている。
「お天道さんが顔出す前から走って来た? 風寄からかな?」
忠之がうなずくと、甚右衛門とトミは顔を見交わした。台所の土間にいる花江も、口を半分開けたまま忠之を見ている。
「風寄から来るぎりでも大儀ぃじゃのに、なしてそがぁに早よ来んさったんね?」
トミに問われると忠之は頭を掻いて、つい来てしもたんぞなもし――と言った。
「前に運んで来たんが結構楽しかったんで、待ちきれんかったんぞなもし。ほれに、向こうに戻んてからすることがありますけん」
「じゃあ佐伯さんは、まだ朝ご飯を食べてないのかい?」
びっくりしている花江を振り返り、忠之は笑って言った。
「朝飯前ていうやないですか」
「そりゃそうだけどさ。何も食べずに遠い所から一人であんな荷物を運んで来るなんて、普通じゃできないよ。しかも走ってだろ?」
みんなが驚くばかりなので、忠之は少し困ったようだ。甚右衛門はも唖然として言った。
「そがぁに早くじゃったら兵頭がうるさかったろうに」
「ほんでも、前の日から言うときましたけん、荷物の準備はしてくれよりました」
千鶴は兵頭が誰なのかわからなかった。だが、それより忠之がいつここを訪れたかだ。
「あの、前ん時ていつのことぞなもし?」
ようやく千鶴が遠慮がちに訊ねると、トミが言った。
「あんたのお友だちが遊びにおいでたじゃろがね。あん時ぞな」
「え、ほんまに? うち、何も聞いとらんぞなもし。あの日、佐伯さん、ここにおいでてたん?」
千鶴は思わず無念の声を上げて忠之を見た。
春子が遊びに来た時、表で大八車の荷物を亀吉に渡していたのは忠之だったのだ。あの時に裏木戸ではなく店から出ていれば、あるいはもう少し家にいれば忠之に会えたのである。裏木戸を出た所で聞こえた声の主も忠之で、戸板一枚隔てた所にこの人がいたのかと思うと、悔しくて仕方がない。
戸惑う忠之を見て、もう済んだことぞなとトミは笑い、甚右衛門が忠之が絣を運んで来た事情を説明した。
「風寄の仲買人で兵頭いう男がおるんやが、その男の牛が病気になってしもてな。絣を運べんなったんよ。ほれをこの佐伯くんが一人で大八車で運んでくんさって、兵頭もわしらも大助かりじゃった」
風寄には何人かの仲買人がいて、農作業の傍ら織元から買い求めた伊予絣を絣問屋へ売りに来る。兵頭はその中の一人で、馬酒村と名波村で作られた伊予絣を松山まで運んでいた。馬酒村は北城町の東にあり、名波村とは川を挟んで隣り合っている村だ。
しかし、ここのところ兵頭の牛は調子が悪かったらしい。にも拘わらず兵頭は牛を酷使したため、とうとう牛が動かなくなってしまったそうだ。それで兵頭が困り切っているところに忠之がたまたま出くわし、見かねて牛代わりの手伝いを申し出たという。
初め兵頭は本気にしなかったが、試しに忠之に大八車を引かせてみたところ、忠之は空の大八車はもちろんのこと、反物の箱を積んだ大八車を坂道でも一人で平気な顔で引いた。その働きぶりを兵頭は認め、忠之は松山への絣の運搬を任されることになった。これが忠之が山﨑機織へ来ることになった経緯だ。
千鶴は幸運を呼んだ忠之の人の好さを喜び、敬意を抱いた。一方で、大切な品の運搬や集金を、兵頭が忠之一人に任せるものなのかという疑問を持った。
それについては前回忠之の話し相手をしたトミが説明してくれたが、前に忠之が絣を運んで来た時は、本当なら兵頭も同行するはずだったそうだ。ところが、兵頭は腹を壊して長い道が歩けなかったので、忠之が一人で来たらしい。
兵頭に不安がなかったわけではないだろうが、忠之は仕事をきっちりこなし、お金も一銭の狂いもなく受け取って戻った。兵頭はすっかり忠之を信頼したらしく、今回は体調が悪くもないのに、忠之一人に絣を運ばせて自分は楽をしたようだ。
とはいっても、朝早くに風寄から松山まで走る忠之に、兵頭はついて来れなかったに違いない。
「こないだも一人で絣を運んで来んさったけん、えらい驚いたことじゃったけんど、こがぁな早くに大八車を引いて走って来るやなんて、あんたみたいなお人は見たことないぞな」
トミが改めて感心すると、甚右衛門も大きくうなずいた。
「ほうはいうても、松山に不慣れな佐伯さん一人で全部の届け先がわかるんですか?」
千鶴が訊ねると、ほれがなと忠之は照れたような笑みを見せて答えた。
「兵頭さんが荷物を届ける先の半分が、東京の大地震の煽りで潰えてしもたんよ。ほんで、もう半分は仕入れをやめてしもとったけん、届けるんは山﨑機織さんぎりじゃったんよ。ここじゃったらわかりやすい所にあるし、おらも知っとる所じゃったけんな」
忠之の説明に、トミが片眉を上げた。
「知っとる所じゃったいうんは、どがぁなことね?」
忠之ははっとした顔で千鶴を見た。余計なことを喋ったと思ったらしい。
ほれはなと甚右衛門は笑いながら、千鶴が風寄の祭りから戻った時に、忠之が人力車で千鶴と春子の二人をここまで運んで来た話をした。
トミは呆れた顔で忠之を見たが、台所の花江もまたもや開いた口がふさがらない。
「佐伯さん、向こうで千鶴ちゃんを護っただけじゃなかったんだ」
思わず口走った花江に、何のことかとトミが言った。花江が口を押さえて甚右衛門を見ると、甚右衛門は忠之が千鶴を暴漢から護ってくれたという話をトミにしてやった。
トミは驚きと当惑の顔で忠之に言った。
「この子が世話になったとは聞いたけんど、そがぁなことまでしてもろたんかな。もう何言うたらええんかわからんけんど、とにかくだんだんありがとうございました」
もう一度両手を突いて頭を下げたトミに、忠之は頭を上げるよう手を合わせて頼んだ。
「おらには全然大したことないですけん、そがぁに言わいでつかぁさい」
「ほやかて、あんたがおらなんだら、この子もこの店もどがぁなっとったことか」
涙ぐんで喋る祖母を見て、千鶴は混乱した。
店よりも千鶴が大事だと祖母は言ってくれた。理由はわからないが、その言葉はこれまで祖母が見せてきた態度とは、まったく真逆なものだった。それは嬉しくはあるものの、千鶴を戸惑わせた。そして今また祖母は同じ姿を見せている。
うろたえを隠したい千鶴は、話を戻す形で忠之に話しかけた。
「けんど、ほんなうまい具合に、うちぎりが届け先になったやなんて」
「兵頭さん所ぎりやのうて、他の仲買人らもみんな仕入れが止まってしもとったけんな。言うたら、ここぎりが仕入れを注文してくれたんよ。しかもな、旦那さんは他が仕入れを止めとる分、いつもの倍仕入れてくれたて、兵頭さん、えらい感激しよったかい」
忠之は名波村の女たちと同じ話をした。しかし、山﨑機織だって関東大地震の被害は少なくない。なのに仕入れを増やせたのは、大阪の作五郎のお陰だと甚右衛門は言った。
「ちょうど大阪で大口の契約がようけ取れたんやが、みんな風寄の絣がええ言うてくれたけん、仕入れを増やせたんよ。まぁ、風寄の織子の腕がよかったお陰でもあらいな」
忠之が絣を運んで来た背景にはいろんなことが重なっていたようで、そのことを千鶴は有難いと思った。けれど、忠之が訪ねて来たことに気づかなかったのはやはり悔しい。
「ほれにしても、こないだ佐伯さんがおいでてたてわかっとったら、うち……」
「どちゃみち友だちがおったんじゃけん、どがぁもなるまい」
甚右衛門は笑うと、佐伯くんににぎり飯を作ってやってくれと花江に頼んだ。花江は明るく返事をすると、お櫃の所へ行った。
「ほれで兵頭ん所の牛は、もういけんかな?」
忠之に向き直った甚右衛門は、笑みを消して言った。
「いけんみたいぞなもし。もう、だいぶ歳ですけん寿命やなかろか思とります」
「ほうかな。ほれで、お前さん、牛の代わりはいつまで続けるつもりぞな?」
祖父が何を考えているのか、ぴんときた千鶴は期待を込めて忠之を見た。忠之は横目で千鶴を見ながら、ほれが――と言った。
「おらが絣を持て来るんは、これが最後なんぞなもし」
「これが最後? 兵頭は新しい牛を手に入れた言うんかな?」
忠之はうなずくと、ほういうわけぞなもしと言った。千鶴は半分喜び、半分不安になった。あとは祖父と忠之のやり取りを見守るだけだ。
「この仕事辞めたら、あとはどがぁするつもりぞな?」
探るような口調で甚右衛門が訊ねると、忠之の方はさらりと答えた。
「これは別に仕事やないんぞなもし」
「仕事やない? 風寄からここまで大八車を引いて来て、また向こうへ戻るんぞ? ほれが仕事やないんかな」
「これは、おらの好意でしよるぎりですけん」
忠之は笑みを見せたが、甚右衛門は眉間に皺を寄せた。
「お前さん、ひょっとして兵頭から銭をもろとらんのか?」
忠之がうなずくと、甚右衛門は憤って横を向いた。トミも信じられない顔をしている。
どうして兵頭が山陰の者である忠之に、この仕事を任せたのか。それは忠之がただで牛の代わりをしてくれたからだ。しかも、代金をごまかしたりしないお人好しだ。利用しない手はないと考えたのだろう。だけど、これほど人を馬鹿にした話があろうか。
千鶴は思わず忠之に言った。
「佐伯さん、なしてぞな? なして、ただでこがぁなことを?」
忠之は少し迷ったあと言った。
「正直言おわい。おらな、松山へ来る口実が欲しかったんよ」
「松山へ来る口実?」
「千鶴さんがおる松山に来てみたかったんよ。別に千鶴さんに会うつもりはなかったけんど、千鶴さんが暮らしておいでる松山に来てみとうて、この役目を引き受けたんよ」
千鶴が暮らす松山へ来てみたかった。その言葉は間違いなく千鶴への好意の表れだ。忠之は千鶴に会いたかったとは言わなかった。そのことにもどかしさを覚えながらも、千鶴は喜びに胸が詰まった。
二
「お待たせ」
花江が大きめのにぎり飯二つと、漬け物の小皿を忠之の前に置いた。おぉと感激する忠之に、花江は小声で言った。
「朝飯も食べないで風寄から走って来たのは、ほんとは千鶴ちゃんに会いたかったからだろ?」
「いや、そがぁなことは……」
惚ける忠之に、花江はにっこり笑って言った。
「別にいいけどさ。千鶴ちゃん、あの花、今も大事に持ってるんだよ」
忠之は驚いた顔で千鶴を見た。それは、千鶴に花を飾ったのは自分だと白状したようなものだ。
何となくうろたえた感じの忠之に、甚右衛門は先に飯を食えと言った。
にぎり飯の匂いに引かれたように、帳場から新吉がそっと顔を出した。新吉はにぎり飯を羨ましげに眺めていたが、すぐに亀吉に引っ張って行かれた。丁稚たちを見て花江は笑っていたが、誰かに呼ばれたのか、花江も帳場の方へ行ってしまった。
忠之は両手を合わせるとにぎり飯に食らいついた。やはり腹が空いていたらしい。
喉を詰めるといけないので、千鶴は忠之にお茶を飲ませながらにぎり飯を食べさせた。忠之も素直にお茶を飲みながら、美味そうににぎり飯を食べた。そんな二人の様子を、甚右衛門もトミも微笑ましく眺めていた。
忠之がにぎり飯も漬け物も平らげると、甚右衛門は言った。
「さっきの話やが、お前さんがただで絣を届けてくれるんなら、兵頭は新しい牛を手に入れるより、このままお前さんにやってもろた方が得やし楽なんやないんか? お前さんを信頼しとるみたいなし」
ほうなんですけんどと、また忠之は頭を掻いた。
「おらのおとっつぁんが、おらが銭もろとらんのを知ってぶち切れたんぞなもし。ほれでまぁ、こがぁなことになってしもたわけでして」
忠之は千鶴の方に体を向けて言った。
「ほんでも、最後にこがぁして千鶴さんに会えたんは、お不動さまのお導きぞな。ここまで絣運ぶんも楽しかったし、みなさんのお役にも立てたし、おらは満足しとるんよ」
千鶴は何とかするよう祖父に目で訴えた。甚右衛門は咳払いをすると、実はな――と言った。
「うちは今、人手が足らんで困っとるんよ。ほやけど、誰でもええいうわけにもいかんけん、どがぁしたもんじゃろかと思いよったとこに、お前さんが現れたんよ。わしが何が言いたいか、わかろ?」
甚右衛門はのぞきこむように忠之を見た。忠之は小首を傾げている。焦れったくなった千鶴は忠之に言った。
「佐伯さん、うちで働きませんか?」
千鶴の言葉を後押しして甚右衛門も言った。
「本来ならもっとこんまいうちに丁稚で入れて、じっくり育てて手代にするんやが、お前さんは子供やないけん、すぐに手代になれるようなら、きちんと給金を出そうわい」
「ほやけど、おら、こがぁな所で働いたことないですけん」
「お前さん、読み書き算盤はできるんかな?」
「はぁ、一応は」
「ほれじゃったら、すぐに手代になろ。どの仕事でもいえることやが、商いするにはお客から信頼されにゃならん。そのためには知識はもちろんなけんど、何より人柄が大切ぞな。その人柄がお前さんは言うことなしよ。うちとしては是が非でもお前さんに来てもらいたいと思とるが、どがいじゃ? ちぃと考えてみてはもらえまいか?」
忠之は腕組みをして思案した。千鶴はなりふり構わず、忠之の着物の袖を引っ張った。
「佐伯さん、お願いじゃけん、うんて言うておくんなもし! 言うてくれんのなら、うち、佐伯さんを去ぬらせんぞな」
「どがぁする? 千鶴もこがぁ言うとらい」
甚右衛門がにやにやしながら言った。トミも楽しげに眺めている。
忠之は目を閉じたまま、腕組みをして考え続けていた。やがてぱちりと目を開けると、わかりましたぞなもしと忠之は言った。
「おらの気持ちとしては、お言葉に甘えさせてもらう方に傾いとります。けんど、おらの家族が反対したら、この話はなかったことにさせてつかぁさい」
「お前さんは一人息子なんかな?」
「はい。ほじゃけん、おら、勝手はできんのです」
甚右衛門は少し顔をゆがめて言った。
「ほら、確かにほうじゃな。ところで、お前さんの家では何をしておいでるんかな?」
「履物をこさえとります」
「履物か。お前さんが後を継がんと潰えるんじゃな」
忠之がうなずくと、甚右衛門の勢いがなくなった。自分と同じ境遇を忠之の親に見たのだろう。無理は言えないと悟ったようだ。
千鶴もがっかりしたが、あきらめきれない。せっかくまた会えたのに、このまま別れてしまうなんて、あまりに酷な話だ。
帳場から困惑した様子の花江が戻って来た。ちらちらと帳場を振り返りながら、こちらに何かを言いたそうにしているが、甚右衛門の話に割り込めずにいる。
「もう一つぎり聞かせてもろても構んかな?」
甚右衛門が遠慮がちに言った。
「お前さん、なして千鶴にいろいろ親切にしてくんさった? 見てのとおり、この子には異人の血ぃが混じっとる。邪険にする者が多いのに、なしてお前さんは千鶴を大事にしてくんさるんぞな?」
忠之は姿勢を正すと、きっぱり言った。
「千鶴さんは素敵な娘さんぞなもし。ほれに、まっこと優しいお方ぞなもし」
「優しい? 千鶴の方がお前さんの世話になったんじゃろ?」
「おら、力ぎり自慢の何の取り柄もない男ぞなもし。誰っちゃ見向いてくれん男ぞな。けんど、千鶴さんはこげなおらに優しい言葉をかけてくんさったんです。ほじゃけん、おら、千鶴さんの力になりたい思たんぞなもし」
自分は山陰の者なのだと、忠之は暗に話しているのだろう。だからといって、自分を卑下するのは間違いだ。千鶴は黙っていられなくなった。
「佐伯さんこそ素敵なお人ぞな。取り柄がないやなんて、そげなことありません。うちみたいな者のためにここまでしてくんさるお人なんて、佐伯さん以外にはおりません」
千鶴が忠之を持ち上げると、忠之は甚右衛門やトミがいるのも忘れたかのごとくに言葉を返した。
「千鶴さんこそ、千鶴さんほどええお人はどこっちゃおらんのじゃけん、自分のことをそがぁに言うもんやないぞな」
「ほれは佐伯さんぞなもし。佐伯さんこそ、まっことええお人なんじゃけん、もっと胸張ってええと思います」
台所で困惑顔だった花江がくすくす笑っている。トミも笑いながら、まぁまぁと声をかけた。甚右衛門もにやりと笑い、どっちもどっちじゃのと言った。
あの――とようやく花江が甚右衛門に声をかけた。
何ぞなと機嫌よく顔を向けた甚右衛門に、花江は辰蔵が呼んでいるとだけ伝えた。
ちぃと席を外すと言い置いて、甚右衛門は土間へ降りて帳場へ向かった。
まだ体が痛々しげな甚右衛門を見た忠之は、懐から油紙の包みを取り出して、これをあとで旦那さんにと言ってトミに手渡した。それは忠之が自分で薬草から作った膏薬で、万が一のためにと持っていたものらしい。
これは傷によく効くと請け合ったあと、忠之は失礼ながらと前置きをして、おかみさんはどこの具合が悪いのかとトミに訊ねた。
トミは笑ってごまかしたが、心臓が弱っていると医者に言われたと千鶴が話した。
忠之はうなずくとトミに胸の病に効くツボを教え、そこにお灸を据えるといいと言った。また自分の本当の想いを隠さないのが、胸には一番いいと言った。
トミがはっとした顔になって涙ぐむと、医者でもないのに余計なことを言ったと、忠之はすぐに詫びた。けれどトミは首を振ると、そのとおりだと思うと言った。
よろしければ少し指圧をしましょうと、忠之は遠慮するトミのツボを指で押した。それが気持ちよかったのか、トミは素直に忠之に身を任せた。
「あんたは上手じゃなぁ。胸に詰まっとった物が、すっと抜けていくみたいぞな」
トミが心地よさげに喋っていると、甚右衛門が顔を曇らせて戻って来た。
「どがぁしんさった?」
忠之に指圧をしてもらいながらトミが訊ねたが、甚右衛門は何でもないとしか言わなかった。だが何か問題があるに違いなく、千鶴と忠之は顔を見交わした。
台所にいる花江が、忠之を見ながら何かを言いたげだ。だけど、口を半分開くばかりで何も言わない。そこへ新吉がやって来て、兄やん――と忠之に声をかけた。
「兄やんは、すぐ向こうに戻んてしまうんかなもし?」
「ほうじゃな。用が済めば戻らんとな」
「じゃあ、用事があったら戻らいでもええん?」
すんませんとトミに声をかけると、忠之は新吉の傍へ行った。
「何ぞあったんかな?」
「あのな、兄やんの大八車――」
こら!――と甚右衛門が新吉を叱った。
「いらんこと言わんで、あっちへ行っとれ!」
「ほやけど……」
新吉は口を尖らせたが、甚右衛門はもう一度、向こうへ行ってろと言った。すると亀吉が走って来て、新吉を帳場へ連れて行った。
「旦那さん、ひょっとして大八車のことでお困りなんかなもし」
忠之が訊ねると、甚右衛門は言いにくそうに、ちぃとなとうなずいた。
「あのね、お店の大八車が壊れちまったから、町の太物屋に注文の品を運べないんだよ」
甚右衛門に代わって花江が言った。それは、できれば大八車を貸してもらえないかという、甚右衛門たちの頼みだった。
忠之は大きくうなずくと、気がつかずに申し訳ないと言った。
「おら、あの大八車はここへ置いて行きますけん、どうぞ使てやっておくんなもし」
「何? そがぁなことしたら兵頭が文句を言おう?」
「大丈夫ぞなもし。兵頭さんには、ここに着いた時にめげてしもたて言うときますけん」
「いや、ほやけど、ほれじゃったら兵頭が困ろ?」
「もう新しい牛が来ますけん、今度は牛車を使たらええんぞな。ほじゃけん、ご心配には及ばんぞなもし」
「いや、しかし……」
甚右衛門は当惑しているが、大八車が欲しいのは欲しいのだ。それがわかっている忠之は、甚右衛門を気遣って言った。
「こちらのがめげとるんを目にした時から、おらの大八車は置いて行くつもりでおりました。ほれをもっと早よに言うたらよかったんですけんど、言うんが遅なってしもて申し訳ありません」
甚右衛門は感激して涙ぐみ、忠之の両手を握ると黙って頭を下げた。トミも両手を合わせて、忠之を拝みながら頭を下げている。
花江は帳場へ走って行った。そして、すぐに辰蔵たちと一緒に戻って来ると、みんなで忠之に感謝した。
忠之はうろたえながら、そろそろお暇しましょうわいと甚右衛門とトミに言った。それから千鶴にも挨拶をすると土間へ降りた。
帳場の方で人の声がした。辰蔵が見に行ったが、すぐに興奮しながら戻って来た。その手には何枚かの紙がある。
「旦那さん、来た! 来たぞなもし!」
「何が来たんぞな?」
訝しげな甚右衛門に、辰蔵は弾んだ声で言った。
「電報ぞなもし! 東京からの注文の電報が来たんぞなもし!」
何?――と言うなり、甚右衛門は辰蔵の手から電報を奪い取った。そして、その内容を確かめると他の者たちにも見せてやった。
何のことかわからない忠之に、大地震で壊滅した東京から待ち望んでいた絣の注文が入ったことを、千鶴が喜びを隠さず教えてやった。
ほれはよかったと忠之が微笑むと、あんたのお陰だよと花江が嬉しそうに言った。とんでもないと忠之が手を振ると、甚右衛門が言った。
「花江さんの言うとおりぞな。お前さんは、まさにわしらの福の神ぞな」
呆然と見つめる甚右衛門に、忠之はうろたえた。
「やめてつかぁさい。電報とおらは関係ないですけん」
「いいや、お前さんは間違いのうわしらの福の神ぞな。まこと、お前さんは……」
感極まった様子の甚右衛門は、言葉に詰まって涙ぐんだ。トミも両手で口を押さえながら泣きだした。
忠之はますますうろたえ、ほんじゃあと逃げるように表に出た。千鶴は慌てて忠之について外へ出たが、すぐに甚右衛門も追いかけて出て来た。
甚右衛門は千鶴に銭を持たせると、二人で団子でも食ってこいと言った。それから忠之に改めて礼を述べると、待っとるぞなと期待を込めた笑みを見せた。
忠之は当惑気味に頭を下げると、山﨑機織を後にした。その横には喜びいっぱいの千鶴がいる。このあと忠之がどうなるかはわからないが、二度と会えないはずの人と奇跡の再会を果たしたのだ。千鶴の胸は期待に膨らんでいる。
三
「何から何まで、ほんまにありがとうございました」
千鶴は改めて忠之に礼を述べた。忠之は笑いながら、もうやめてつかぁさいと言った。
「そげなことより、千鶴さんのご家族も、お店の人らもええ人ぎりじゃな。おら、まっこと安心した」
「まぁ、番頭さんらも花江さんもええ人なけんど……」
千鶴が言葉を濁すと、他はそうではないのかと忠之は眉根を寄せた。けれど、身内の陰口になる話などしにくいし、最近の祖父母は千鶴に優しい。千鶴は戸惑いながら口を尖らせてみせた。
「おじいちゃん、お店を継げる者がおらんけん、うちに無理こやりこお見合いさせたんぞなもし」
今の祖父につける悪態といえばこれぐらいなのだが、そこまで言ってから、千鶴ははっとして口を押さえた。しかしすでに遅く、忠之はへぇという顔で千鶴を見ている。
「千鶴さん、お見合いしたんかな」
「いえ、お見合いいうか、おじいちゃんがいきなし男の人連れて来て、顔合わせさせられたぎりぞな。ほやけど、うち、ちゃんとお断りしたんです。何や偉そな感じのお人で、絶対嫌じゃ思たけん断ったんぞなもし」
喋っているうちに千鶴は喜兵衛のことを思い出して腹が立ってきた。
「ほしたら、ひどいんぞなもし。ほの人、山﨑機織が潰えるて嘘の噂を広めよったんぞな。お陰で銀行の人が来て借金取り立てられそうになったし、おじいちゃんやおばあちゃんがあがぁになったんも、あの人のせいなんぞな」
憤る千鶴をなだめると、忠之はにっこりしながら言った。
「自分でこれはいけん思たら、その心に従うたらええ。お不動さまは千鶴さんの心の中においでてな、どがぁしたらええんか、千鶴さんの心を通して教えてくんさるんよ。そがぁしよったら、きっとええ人にめぐり逢えるけん」
「ほれじゃったら、うちはもうすでにええ人にめぐり逢うとりますけん」
「へぇ、ほうなんか。ほれは、どがぁなお人ぞな?」
何て焦れったい人なんだろうと千鶴は思った。だけど、心の内を打ち明けるのは気が引けた。
「前にも言うたけんど、うち、誰かを好いたり好かれたりできんのです」
「前にも言うたけんど、そげなことは絶対ないけん。千鶴さんは幸せになれるけん」
道を行き交う人たちが訝しげに二人を振り返った。千鶴たちはしばらく黙ったまま歩いたが、途中に寺が現れると、千鶴は寺の境内に忠之を引き込んだ。
誰もいない境内で、千鶴は忠之を見つめた。その目に忠之への想いを込めたのだが、忠之はどこまで鈍いのか、あるいはわかって無視しているのか、辺りをきょろきょろと見まわしている。
「千鶴さん、ここは何の寺ぞな?」
「お寺はどがぁでもええんです。うち、佐伯さんにどがぁしても訊きたいことがあるんぞなもし」
やっと覚悟を決めた顔になった忠之に、千鶴は言った。
「佐伯さん、風寄でお祭りの晩げに大けなイノシシの死骸が見つかった話、ほんまは知っておいでるでしょ?」
「ほの話かな。確かに知っとるよ。ほれが、どがぁしたんぞな」
「うち、あのイノシシに襲われたんぞな」
忠之の顔が一瞬ゆがんだ。
「どこで襲われたんぞな? あげなイノシシに襲われたら、ただでは済まんじゃろに」
「あのイノシシの死骸が見つかった所ぞなもし。死骸があったあの場所で、うちは襲われたんぞな」
「じゃったら、どがぁして無事でおれたんかな?」
落ち着かない様子の忠之に、千鶴は話を続けた。
「うち、気ぃ失うてしもたけん、何も覚えとらんのです。目ぇ覚めたら、何でか法生寺におったんぞなもし。和尚さんに訊いたら、誰ぞが庫裏の玄関叩くんで外へ出てみたら、そこにうちが寝かされよったて言いんさったんです」
「ほれは、いったいどがぁな話ぞな?」
「ほれを、佐伯さんに訊いとるんぞなもし」
「おらに?」
「ほやかて、佐伯さんでしょ? うちの頭に野菊の花飾りんさったんは」
忠之は口を開けたまま固まった。どこかでジョウビタキが鳴いている。
「佐伯さんでしょ?」
「いや、あの、おらは何のことやら……」
忠之は惚けたが、明らかにうろたえている。千鶴は畳みかけて言った。
「うちが佐伯さんに助けてもろた時、佐伯さん、言いんさったでしょ? お不動さまにうちの幸せを願てくれたて。初めて会うたはずやのに、どがぁしたらそげなことができるんぞなもし?」
「ほれは……」
「あん時以外佐伯さんがうちを見んさったとしたら、うちが気ぃ失いよった時しかありません。ほれに法生寺の御本尊さまはお不動さまやし、佐伯さんがうちの幸せをお不動さまにお願いしんさったとしたら、ほん時しかないですけん」
忠之は惚けるのをやめて、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「千鶴さんは、まっこと頭のええお人ぞな」
「なして黙っておいでたんです?」
「ほやかて気ぃ失うとる女子の頭に勝手に花飾ったら、何て思われるかわかるまい? ほじゃけん、黙っとったんよ」
「庫裏の戸叩いたんも、佐伯さんでしょ?」
忠之は素直に認めた。
「なして姿消しんさったん?」
「おらが千鶴さんに何ぞ悪さした思われたら困るけん。ほれに頭に花飾ったんも、和尚さんらに知られとないじゃろ?」
「まぁ、ほれはほうじゃね」
うなずく千鶴に、忠之は付け足して言った。
「ほれにな、あん時、おら、ほとんど素っ裸やったんよ」
「素っ裸?」
思わず顔が熱くなった千鶴に、忠之は慌てて繰り返した。
「素っ裸やのうて、ほとんど素っ裸ぞな。一応、腰には破れた着物巻きよったけん」
「なして、そげな格好やったんぞな?」
「ちぃと村の連中と喧嘩したんで、着物破かれてしもたんよ。お陰さんで、おっかさんにしこたま怒られたかい。縫い直すんはいっつもおっかさんじゃけんな。ほんでもな、おっかさん、一晩で直してくれた。やけん、おら、おっかさんには頭が上がらんのよ」
忠之はいくつもある大きな継ぎ当てを千鶴に見せて笑った。千鶴は少し呆れて言った。
「佐伯さんて喧嘩好きなんですか?」
「別に好きいうわけやない。おら、争い事は好まんけん」
恐らく山陰の者というだけで、一方的に喧嘩を売られたのだ。けれど普段の忠之は、あの鬼神のごとき強さを隠していると思われる。あの強さを知った上で喧嘩を売る者などいるはずがない。千鶴は喧嘩の話はやめた。
「あの晩、佐伯さんはうちをどこで見つけんさったん?」
「法生寺の石段下りた所の傍にな、花がようけ咲きよる所があるんよ。そこにな、千鶴さんが倒れよったんよ」
「ほうなんですか。ほやけど佐伯さんには、うちがロシアへ行かせんさった娘さんに見えたんやないんですか?」
忠之は恥ずかしそうにうなずいた。
「あんまし似よるけん、本人か思いよった」
その娘は野菊の花が大好きで、野菊の花がよく似合ったという。それで、つい千鶴に花を飾ってしまったと忠之は弁解した。
やっぱり千鶴が思ったとおりだ。忠之の心の中には、今も別れた娘が住んでいる。照れ笑いをしているが、花を飾った時の忠之は泣きたい気持ちだったに違いない。
千鶴は切なくなった。しかし気を取り直して、佐伯さんと言った。
「うちを見つけた時、妙なもん目にせんかったですか?」
「妙なもん? 妙なもんとは何ぞな?」
訝しげな忠之に、千鶴は少し迷ってから思い切って言った。
「鬼ぞなもし」
忠之の顔が明らかにゆがんだ。やはり鬼を見たのかと思えたが、何を言うのかと千鶴を不審に思ったのかもしれなかった。
「なして、そげなこと言うんぞな?」
「佐伯さん、イノシシの死骸がどがぁなっとったか、ご存知ですよね?」
忠之は黙っていたが、千鶴は言葉を続けた。
「あそこには大けな岩も木も落ちとりませんでした。ほれに、あのイノシシの頭をぺしゃんこに潰せる生き物はおりません。ほやけん、イノシシ殺めたんは鬼やと思たんです」
「化け物じゃったら他にもおろうに、なして鬼や思たんぞな?」
「ほれは――」
千鶴は唇を噛んで目を伏せた。
この人にだけは知られたくない。だけど、言わねばならないと千鶴は思った。言わねば、この人を不幸に巻き込んでしまう。それだけは死んでも避けたいことだった。
「佐伯さん」
千鶴は顔を上げた。頬を涙がぽろりと流れ落ちた。
「うち、鬼娘なんぞな」
四
泣きじゃくる千鶴を、忠之は黙って抱きしめてくれた。
鬼娘という言葉の意味を確かめないのは、その意味を知っているからだ。なのに逃げないで抱きしめてくれる忠之の優しさが、千鶴の涙をさらに誘った。
気持ちが少し落ち着くと千鶴は忠之から離れ、夢で見た地獄やおヨネの話、それにお祓いの婆の話をした。
また、イノシシに襲われた時に鬼が助けてくれたのは自分が鬼娘だからだし、そのあと法生寺へ運ばれたのは、法生寺がかつて鬼娘が暮らした所だからだと言った。
忠之は千鶴の話を否定せず、嫌な顔も見せずに最後まで聞いてくれた。本当は困惑しているのかもしれなかったが、そんな様子は少しも見せなかった。それより千鶴の苦しみや悲しみを受け止めてくれていたのだろう。話を聞く忠之はずっと悲しげだった。
そんな忠之の姿に安心しながらも、自分が忠之と同じ人間ではないと思うと、千鶴は悲しくなった。忠之と目を合わせられない千鶴は、目を伏せながら言った。
「うちは法生寺におった鬼娘の生まれ変わりぞな。ほじゃけん、鬼はうちを見つけて、うちが風寄へ行くよう仕向けたんです」
「千鶴さんがここにおるんがわかっとんのに、なして鬼はわざに千鶴さんを風寄へ呼び寄せる必要があるんぞな?」
「うちのことをよう確かめるためぞな。ほれで、やっぱし鬼娘じゃてわかったけん、うちに取り憑いて松山まで来たんよ」
「ほれじゃったら、実際に鬼に何ぞ悪さをされたんかなもし?」
「鬼と夫婦にさせられそうになりました」
「ほれが、さっき言うたお見合いなんか」
千鶴はうなずき、見合い相手の名前が鬼山で、自分のことを鬼だと言ったと説明した。
「うちがお見合い断ったら、その人、えらい怒りんさって、ほれから次から次に悪いことが起こったんぞな」
千鶴は具体的に何があったのかを話し、そのうちみんな殺されると言って涙ぐんだ。
ほうじゃったかと、忠之は悲しそうに下を向いた。千鶴は鬼の報復も怖いが、自分のことも怖いと言った。
「お見合い断ったとこで、うちは鬼娘じゃけん。そのうち本性出して鬼になるんぞな」
「そげなこと――」
顔を上げた忠之の言葉を遮って、千鶴は首を振った。
「うち、今はまだ人の心持ちよりますけんど、今に恐ろしい鬼娘になって人を殺して食べるんよ。ほれが怖ぁて怖ぁて……。ほやけど誰にも相談できんけん、うち……」
項垂れる千鶴に、忠之は静かだが力の籠もった声で言った。
「大丈夫。千鶴さんは鬼娘なんぞになったりせんけん」
「そげなことない。うち、いつかきっと鬼娘になって、佐伯さんのことも平気で命を奪てしまうんよ」
千鶴が泣きだすと、忠之はもう一度千鶴を抱きしめた。
「ほん時は、おら、こがぁして千鶴さんのこと、ぎゅっと抱いて言うてあげよわい。千鶴さんは鬼娘やない、千鶴さんは人間の娘ぞな、千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞなて言うてあげるけん」
千鶴は涙に濡れた顔を上げた。
「ほやけど、うち、佐伯さんを傷つけるかも知れんのに?」
「ほんでも言うてあげらい。おら、この命が尽きようと、死ぬるまでずっと言い続けてあげるけん」
こんなことを言ってもらえるとは思いもしなかった。千鶴はまた泣いた。忠之は黙って千鶴を抱き続けてくれた。
忠之から伝わる温もりが、千鶴の心と体を優しく抱いてくれる。その優しさに包まれていると、不安も恐怖も悲しみもすべてが癒やされていく。
しばらくして千鶴が泣き止むと、忠之は手拭いで千鶴の涙を拭いてくれた。その忠之の目も泣いたみたいに赤くなっている。
「おら、千鶴さんがどがぁに苦しんでおいでたんか、ようにわかった。今の千鶴さんの気持ち、おらにはようわかる。ほやけどな、千鶴さんは勘違いしとらい。ほじゃけん、ほんまの話をおらが教えてあげよわい」
「ほんまの話?」
「あぁ、まことのほんまの話ぞな」
忠之は微笑みながらうなずいた。だが、その目は哀しげだった。
五
明治が始まるより前の話だと、忠之は言った。
「おヨネさんが言うたとおり、ほん頃の法生寺には、鬼娘て呼ばれた娘がおったんよ。けんどな、ほれはそがぁ呼ばれよったぎりの話で、ほんまに鬼娘やったわけやないんよ」
「ほれは、どがぁなこと?」
「ほの娘はな、千鶴さんと対で異国の血ぃ引いとったんよ。今かて異人は珍しがられるけんど、ほん頃は誰も異人なんぞ見たことないけんな。これは人やない、鬼娘じゃとなったんぞな」
その話を誰から聞いたと訊ねると、法生寺にいた和尚から聞いたと忠之は言った。ただ、それは知念和尚より前の和尚だそうだ。知念和尚は前の和尚からの引き継ぎで、鬼娘について何も教えてもらえなかったが、忠之はうまく話を聞き出したらしい。
「ほじゃけんな、仮に千鶴さんがその娘の生まれ変わりじゃったとしても、千鶴さんが鬼娘とは言えんのよ。ほうじゃろげ?」
千鶴は素直にうなずいた。忠之の言葉は千鶴の不安を和らげてくれた。
これも前の和尚から聞いたと、前置きをしてから忠之は言った。
「みんな、鬼は恐ろしいもん、穢らわしいもんやて思いよる。ほじゃけん、誰も鬼に優しい言葉なんぞかけたりせん。けんど、鬼かてな、好きで鬼しよるわけやないし、みんなが思とるみたいに、いっつもかっつも悪いことぎりしよるんやないんよ」
ほんでもなと言うと、忠之は横を向いた。
「所詮、鬼は嫌われ者ぞな。ほれは鬼かてわかっとる。もう、あきらめとるんよ。そげな鬼がな、もし誰ぞに優しゅうされたら、どげな気持ちになる思う?」
忠之に見つめられた千鶴は、首を小さく振った。ほんじゃあ教えてあげよわい、と忠之は話を続けた。
「まずは、たまげるんよ。ほれから、何ぞの間違いやないかて思うんよ。ほれで、ほうやないてわかるとな、ほれまでなかったほっこりしたもんが、胸ん中に湧いてくるんよ。ほれがまた鬼には嬉しいいうか、涙出るほど感激するんぞな」
和尚から聞いた話だというのに、忠之は自分が鬼であるかのごとくに喋っていた。その話しぶりは、千鶴が抱いていた鬼の印象を変えていった。千鶴の心にあった鬼への恐怖はほとんど消えかけていた。
「和尚さんの話では、鬼娘と呼ばれよった娘はまっこと心の優しい娘でな。鬼にも優しゅうしてやったらしいんよ」
千鶴は驚いた。これはまさに自分と鬼の関係を示す話だ。
「じゃあ、おヨネさんのお父さんが見た鬼ていうんは――」
「たぶん、その鬼を見たんじゃろな」
「あの鬼は鬼娘て呼ばれよった娘を護ろとしたん?」
「恐らく」
「そのあと、その娘と鬼がどがぁなったんかはわからんのですか?」
「……おらには、わからんな」
忠之は千鶴から顔を逸らすと、境内の釣り鐘に目を遣った。鬼娘や鬼のことなど、忠之がわかるはずもないが、何だか喋りたくないみたいにも見えた。
「じゃったら地獄の夢も、ほんまにあったことなんじゃろか?」
千鶴が話題を変えると、忠之は振り返って言った。
「千鶴さんがその娘の生まれ変わりやったとしたら、ほうかもしれまい」
「うちがほんまの鬼娘やのうても、結局は地獄に堕ちてしもたてこと?」
「千鶴さんが地獄へなんぞ堕ちるかいな。千鶴さんは地獄へ堕ちたんやのうて、わざに地獄を訪ねたんよ」
「その鬼に逢うために?」
「千鶴さん、まっこと優しいけんな。他の者じゃったら絶対せんのに、千鶴さんは鬼のことを心配しんさったんよ。生きとる間にも優しゅうしてもろたのに、地獄へ堕ちたあとにも逢いに来てもらえた鬼は、どんだけ感激したことか」
しんみり話す忠之は、まるで鬼の気持ちがわかるみたいだ。
それにしても、本当に自分は鬼に逢うために、わざわざ地獄を訪れたのかと千鶴は訝った。自分がそこまで鬼に優しかったなんて、我ながら信じられない話だ。
しかし、地獄で鬼を見つけた時に嬉しくなったのは事実だ。地獄へ堕ちたのでないのなら、忠之が言うように自分から鬼に逢いに行ったのだろう。
「うちをイノシシから護ってくれたんが対の鬼じゃとしたら、鬼は地獄からこの世へ抜け出せたいうことよね?」
「ほうじゃな。そがぁなるな」
「ほれは、風寄にあった鬼よけの祠がめげてしもたけん?」
「いや、ほうやないな」
「なして、そがぁ思いんさるん?」
「鬼は千鶴さんを助けたぎりで、村の者に何も悪さはしとらんじゃろ?」
祠がなくなったことで出て来たのなら、鬼は村に禍をもたらしただろうと忠之は言った。確かに祠が鬼を封じていたなら、鬼はその恨みを晴らそうとするはずだ。
「じゃあ、鬼はどがぁして地獄から出て来られたろうか?」
忠之は少し間を置いて言った。
「お不動さまのご慈悲ぞな」
六
不動明王は前世の千鶴が世話になっていた法生寺の御本尊だ。だから鬼にとっても特別であり、その不動明王の慈悲によって、鬼は地獄から出たと思うと忠之は言った。
「千鶴さんを法生寺まで運んだんが、その証ぞな。鬼は自分が助けた千鶴さんを、お不動さまに託そとしたんよ。千鶴さんが欲しいんなら、そがぁなことすまい?」
なるほどと思いながら、千鶴は不動明王が地獄の鬼に慈悲をかける理由を訊いた。
忠之は千鶴の疑問にすらすら答えていたが、ここに来て一瞬口籠もった。だけど、すぐにまた喋り始めた。
「お不動さまがご慈悲をかけんさるには、ほれなりの理由があるんよ」
「ほれは、どがぁな?」
「鬼はな、ずっと神仏に背中を向けてきたんよ。ほの鬼がお不動さまに何ぞ願たんじゃろな。鬼が神仏に願うんじゃけん、ほれは余程のことで、お不動さまもご納得しんさるもんやったんよ」
「ほじゃけん、ほれは、どがぁな願いぞなもし?」
忠之が答えを知るわけがないのだが、忠之は自分が鬼だったらと言った。
「おらがほの鬼じゃったら、まずは千鶴さんを地獄から出すことを願うな。ほれと千鶴さんの幸せぞな。うん、たぶんほうなんよ。ほれで、ほの願いが聞き届けられたんで、千鶴さんはこの世に生まれ変わり、鬼は千鶴さんの幸せを見届ける許しがもらえたんよ」
誰がこんな説明を思いつくだろう。千鶴は泣きそうになった。それでも、まだ訊いていないことがある。
「お祓いの婆さまに、鬼が取り憑いとるて言われたんは?」
「千鶴さんの後ろには鬼がおるやもしれん。ほやけど、ほれは悪い意味で取り憑いとるんやないで。取り憑くいうより、見守っとるいう方がええんやないかな。鬼は己と似ぃた者にしか取り憑けんのよ。ほじゃけん、優しい千鶴さんには取り憑けまい」
「けんど、お見合い断ってから、悪いことぎり起こりよるんよ?」
「不安な気持ちは悪い気ぃを呼ぶもんぞな。悪いことがあったにしても、ほれが鬼のせいとは限らんのよ。そもそも鬼が本気で千鶴さんに悪さしよて思たんなら、今言うたようなもんじゃ済まんぞな」
「じゃあ、お見合いの人は? 名前は鬼山いうて、自分のこと、鬼やて言うたんよ?」
「名前に鬼がついとるんはたまたまじゃろ。ほれに、もしそいつがまことの鬼じゃったら、鬼娘やない千鶴さんに己の正体を明かしたりはすまい。さらにいうたら、千鶴さんの店の悪口言いふらすような姑息な真似もせんけん。恐らく、そいつは己が鬼になったつもりでおるぎりなんよ」
「じゃったら、鬼のことは――」
「なぁんも心配いらんぞな。千鶴さんは鬼娘やないし、鬼が悪さすることもないけん。鬼は千鶴さんの幸せ願とるぎりぞな」
忠之が優しく微笑むと、千鶴の目から涙がこぼれ落ちた。その場にしゃがみ込んだ千鶴は、両手で顔を覆って泣いた。
「うちはひどい女子ぞな……。鬼は何も悪いことしとらんのに……、うちの命、助けてくれたぎりやのに……、うちは鬼じゃいうぎりで感謝もせんで勝手に怖がりよった……」
「仕方ないぞな。相手は鬼なんじゃけん」
忠之は横にしゃがんで慰めたが、千鶴は首を振った。
「うちな、何もしとらんのに、悪いことあったら、全部うちのせいにされたりな……、助けたつもりが、この顔見られて悲鳴上げられたりしたんよ……。ほれが、どんだけつらいかわかっとんのに、うち、対のこと鬼にしてしもた……。うちは最低の女子ぞな……」
「千鶴さんのその言葉、鬼はちゃんと聞いとるけん。姿見せられんけんど、きっと千鶴さん拝んで泣きよらい」
千鶴を慰める忠之の声は、何故だか震えていた。
千鶴は涙を拭いて立ち上がると、両手を合わせて目を閉じた。
「鬼さん、うちを助けてくんさり、だんだんありがとうございました。今まで鬼さんを悪思たこと、どうか堪忍してつかぁさい。うちは自分勝手な女子じゃった。もう怖がったりせんけん、どこにも行ったりせんで、ずっと傍におってつかぁさい」
頭を下げてから千鶴が目を開けると、忠之は背中を向けて空を仰いでいた。その肩は何故か震えている。
千鶴が声をかけると、忠之は両手で顔をこすってから笑顔で振り向いた。
「まこと……、千鶴さんは優しいお人じゃな。きっと鬼は感激しよらい」
「じゃあ、うちが誰ぞ好いても、鬼は怒ったりせん?」
「せんせん。千鶴さんが幸せじゃったら、鬼も嬉しいけん」
「ほな、うち、佐伯さんを好いても構んのですか?」
「構ん構ん」
言ってから、え?――と忠之は驚いた。千鶴は大喜びをしたが、忠之は慌てている。
千鶴は上目遣いで忠之を見ながら言った。
「佐伯さん、鬼が一緒の女子は、お嫌かなもし?」
「いや、そげなことは……」
忠之がぎこちなく笑うと、よかったと千鶴は笑顔になった。
「これで、うち、幸せになれるけん。鬼さんも安心じゃね!」
千鶴ははしゃいだが、忠之は当惑顔で北の方を向き、お不動さまとつぶやいている。
「佐伯さん、お不動さまに何言うておいでるん?」
「あの、ほやけん、お礼を――」
千鶴は忠之に抱きついた。忠之は大いにうろたえた様子だったが、千鶴はお構いなしに喜びに浸った。
自分が慕っている人を祖父が気に入って山﨑機織で雇うのは、いずれは自分の婿にと考えているのに違いない。夫婦になった自分たちの姿が思い浮かぶと、千鶴は叫びたくなった。
一方、忠之の方はというと、千鶴と目を合わせると微笑むが、横を向いた顔は何だか困っているみたいだ。
忠之の心には夫婦約束をした娘への想いが残っている。そのことが忠之を戸惑わせるのだろう。だけど、その娘はもういない。
この人を笑顔にできるのは自分だけだと、千鶴は自らを励まし、絶対にこの人を真っ直ぐ自分の方に向かせてみせると、強く心に誓った。
これまでずっと恐れていた鬼が、後ろから支えてくれている気がする。敵に回せば怖い鬼も、味方になってくれれば百人力だ。
きっとうまくいく。困惑気味に微笑む忠之を見ながら、千鶴はそう確信していた。
立ちはだかる壁
一
千鶴は忠之を客馬車乗り場の辺りまで送って行った。本当はもっと一緒に行きたかったが、忠之がここまででいいと言うので、渋々そこで別れることにした。
別れ際、何とか山﨑機織へ来てほしいと、千鶴は念を押してお願いした。忠之はわかったと応じたものの、今ひとつ自信がない様子だった。
一人息子の忠之が外へ出ることを家族に了承してもらうのは、確かに容易ではない。だが忠之がはっきりしないのは、自分は山陰の者だという不安もあるに違いない。
そのことについて千鶴は敢えて触れなかった。忠之が自分から話してもいないのに、それを口にするのは失礼になるからだ。だけど、ここまで親しい仲になれた忠之と離れたくない。そのためにも、忠之にはもっと自信を持ってもらいたかった。
もし松山に来られないなら、自分の方が風寄へ行くと千鶴が言うと、何とかやってみると忠之は約束した。忠之にしても、千鶴を山﨑機織から離れさせるような真似はしたくないのだろう。でも、やはり自信はなさそうだった。
姿が見えなくなるまで忠之を見送ると、千鶴はとぼとぼと家路に就いた。さっきまでは幸せいっぱいだったのに、忠之がいなくなると一気に寂しくなった。それに絶対に忠之が来てくれる保証はなく、何とも心許なかった。
けれども、二度と逢えないと思っていた忠之と再会し、心を通わせることができた。それで、どんな形であれ自分はあの人とともに生きるのだと思えるようになった。また自分が鬼娘ではなく、鬼を恐れる必要がないとわかったのは思いがけない収穫だった。
鬼から事実を確かめたわけではない。でも忠之を絶対的に信じているので、千鶴の不安は一掃されていた。
それにしても、あの人と二人きりでこんなにゆっくりできるとは思っていなかった。本来ならば学校にいるところだ。それを家にいたのは、祖母の世話をするためだった。なのに祖母の世話も家の手伝いもしないで、あの人と二人で過ごさせてもらえたのである。忠之を見送らせてくれた祖父母には感謝の気持ちしかなかった。
これはまさに天の恵みであり、自分たちの願いをお不動さまが聞き届けてくれたのだろう。山﨑機織だけでなく、自分にも運が向いてきた気がして、千鶴の足取りは次第に軽やかになった。
千鶴が家に戻ると、花江が亀吉と新吉に昼飯の準備を手伝ってもらっていた。
茶の間には甚右衛門がいたが、その表情は明るかった。新たな大八車を手に入れたり、注文電報が東京から届いたからだろうが、理由は他にもあった。
甚右衛門は忠之からもらった膏薬を体の傷にすり込んでいた。それが早くも効き目があったらしい。痛みががずいぶん和らいだ気がすると上機嫌だ。
トミも忠之に教えてもらったツボにお灸を据えたそうだが、体がとても楽になり、病が治ったみたいだと言った。
「千鶴ちゃんのいい人は、ほんとに福を運んで来てくれたんだねぇ」
花江がにこにこしながら言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。しかし、あからさまにいい人と言われて返事ができず、千鶴は照れ隠しに花江を手伝おうとした。
「団子は食うたんか?」
甚右衛門に声をかけられると、千鶴は慌てて姿勢を正し、お陰さまで美味しいお団子をいただきましたと報告をした。忠之に想いを伝えたあとだったので、二人で食べた団子は格別だった。
「どこまで見送ってきたんね?」
今度はトミが訊ねた。山越までと千鶴が答えると、ほうじゃろと思いよったとトミはにやりと笑った。
「ように時間がかかっとるけん、遠い所まで見送りに行ったんじゃなて思いよった」
「一緒に風寄まで行ったんやないかて心配したぞな」
甚右衛門にも言われて、千鶴は二人に詫びた。だけど、忠之がここまででいいと言わなければ、本当に風寄までついて行ったかもしれなかった。
それはともかく、祖父母からこんな言葉をかけてもらえたことには違和感があった。鬼が祖父母を操っていたのでなければ、この変わり様は何なのかと千鶴は訝しんだ。
恐らく跡継ぎ問題が理由と思われるが、厳しく冷たい祖父母よりも、今の温かく優しい祖父母の方がいい。それに忠之と一緒になれるのであれば、千鶴としても不満はない。
「傷の痛みがだいぶ楽になったけん、これじゃったらじきに帳場に座れよう。そがぁなったら辰蔵を東京へ遣れらい」
花江は亀吉たちが持って来た茶碗にお櫃のご飯を入れていたが、動きを止めて甚右衛門を見た。東京という言葉に過敏になっているのか、花江は少し表情が硬くなったが、すぐにまた次の茶碗にご飯を入れ始めた。
当初の甚右衛門の予定では、鬼山喜兵衛を婿に迎えて手代を補強したのちに辰蔵を東京へ送り出し、そのあとで茂七を辰蔵と入れ替えるはずだった。ところが、喜兵衛の話は潰えてしまった。
あと残されるのは孝平だが、その孝平は大阪へ出たばかりだし期待はできない。一人前になって戻るどころか、作五郎に見捨てられる可能性が高いといえよう。それなのにこのまま辰蔵を東京へ送り出したのでは、辰蔵を呼び戻せなくなる。
「番頭さん、東京行ったら、もうこっちへは戻らんのかなもし?」
千鶴が訊ねると、花江がまた動きを止めた。話に耳を傾けているのだろう。
甚右衛門は、いんやと言って自分の思惑を説明した。
「今ぎりぞな。今は向こうもごたごたしよるけん、行き慣れた者やないと仕事にならん。ほじゃけん辰蔵を行かせるんやが、落ち着いた頃に茂七をやるつもりぞな」
「茂七さんを? ほんでも、そがぁなったら、こっちの人が足らんなるんや――」
「そがぁ思うか?」
甚右衛門に訊き返され、そうかと千鶴は思った。
「佐伯さんがおいでるんじゃね?」
「ほういうことよ。あの男は必ず来るとわしは踏んどる」
「おじいちゃん、ほんまにそがぁ思いんさるん?」
「間違いない。絶対に来るな」
祖父は本気で忠之が来ると確信していた。忠之を認められたのは嬉しいが、千鶴は祖父の確信の根拠が知りたかった。忠之は一人息子であり、簡単には家を出られないのだ。
「なして絶対て言えるんぞなもし?」
千鶴が問いかけると、甚右衛門はじろりと目を向け、わからんのかと言った。
少しうろたえながら千鶴がうなずくと、トミが笑いながら言った。
「あんたがおるけんじゃろがね」
かぁっと顔が熱くなった千鶴は、思わず下を向いた。
「ほやけど、家族が反対したら来られんて言うておいでたぞな」
小さな声で千鶴が反論すると、甚右衛門は自信ありげに言った。
「確かに家族が反対したままじゃったら来られんじゃろ。けんど、あの男は何とか家族を説得すらい」
「あんたがおるけんな」
トミはもう一度同じ言葉を付け足すと、甚右衛門と二人で大笑いをした。
千鶴が恥ずかしくて横を向くと、花江と目が合った。花江はにっこり微笑むと、亀吉たちと一緒に箱膳を座敷に運んだ。
「わしの目に狂いがなかったら、あの男はぐんぐん伸びらい。茂七の代わりぐらい、直にでけるようになろ」
「そがぁなってもらわんと困らい。このお店の将来がかかっとるんじゃけんね」
祖父母の言葉に千鶴は胸が弾んだ。忠之を婿にすると言ってくれたわけではないが、祖父母の頭の中には、そんな景色が見えているのに違いない。千鶴の目には、しっかりとその景色が映っている。
二
「甚さん、おるかな」
店の方で声がした。
奥においでますと辰蔵の声。すぐに茂七に案内されて組合長が入って来た。
「甚さん、傷の具合はどがぁかな?」
そう言いながらトミの姿を認めた組合長は、おぉと声を上げた。
「おトミさん、もうええんかな?」
「お陰さんで、このとおりぞなもし」
トミは両腕を曲げ伸ばししてみせた。
「ほうかな。ほれは、よかったよかった。次から次にようないことが起こるけん、心配しよったんぞな」
「ほれはどうも、ありがとさんでございます」
トミが少し戯けると、えらい上機嫌じゃなぁと組合長は笑った。
「甚さんの方はどがいぞな? ちぃとはようなったかな?」
組合長が改めて訊ねると、だいぶええぞなと甚右衛門は笑顔で言った。
「ほれにな、ようやっと東京から注文が入ったんよ」
「ほんまかな。ほれはほれは。向こうの様子はさっぱりわからんけん、ほんまに心配しよったんで」
千鶴は花江と一緒に台所仕事をしていたが、組合長は今度は千鶴に声をかけた。
「千鶴ちゃんも学校休んで大事やったな。ほんでも、これでまた学校へ行けらい」
組合長は千鶴が子供の頃から、よく声をかけてくれた。千鶴には数少ない理解者だ。だけど学校と言われても、千鶴はぴんとこなかった。学校のことはすっかり忘れて、この店で忠之と二人で働く姿が、ずっと頭の中に浮かんでいる。何とか笑顔で体裁を整えたが、本当のところ学校はどうなるのだろうと千鶴は思った。
祖母の看病で休むことは、松山から通う級友に頼んで学校へ伝えてもらっている。しかし細かな話は伝えられないままだし、基本的に休みは認められない。今のところ学校からの連絡はないが、もう一週間は休んでいるので退学の可能性は十分にあった。
「けんど、婿さんもろてこの店継ぐんじゃったら、学校なんぞ行かいでもええか」
組合長が呑気に言った。
千鶴が喜兵衛と見合いをしたのは組合長も知っている。もちろんその話が壊れたことも知っているはずだが、千鶴が婿を取って店を継ぐのは変わらないと考えているらしい。
婿取りの話をされると、千鶴の頭には忠之と夫婦になって暮らす姿が浮かぶ。ここは神妙な顔を見せたいが、つい嬉しさで顔が綻んでしまう。
「何、にやにやしてんのさ」
隣にいた花江が小声でからかった。花江には心のうちをすっかり見透かされている。すると、ほれがなと甚右衛門が言った。
「千鶴に婿取ろかて思いよったけんど、本人がどがぁしても学校の教師になるんじゃ言うて聞かんのよ」
千鶴は驚いて甚右衛門を振り返った。ふざけているのかとも思ったが、祖父は真顔だ。
「結局、あの男との話は流れてしもたし、流れてよかったんやが、ほれじゃったら本人が望むとおりにしてやるかと、トミと二人で言いよったとこよ」
「ほうなんか。さすがは千鶴ちゃんぞな。今どきの女子と違わい。わしは千鶴ちゃんが婿もろて、この店継ぐんは面白いなて思いよったんやが、学校の先生もええか」
「いや、あの……」
うろたえる千鶴に甚右衛門が言った。
「どがぁした?」
「あの、学校だいぶ休んでしもたけんね。ほやけん、たぶん退学やないかて……」
いつもの調子に戻ったトミが即座に言った。
「そげなことあるかいね。まだ今じゃったら大丈夫ぞな。万が一、校長が何ぞ言いよったら、うちが捻込みに行こわい」
「いやぁ、おトミさん、まっこと元気になったなぁ。ほんだけ元気じゃったら、もう心配いらんな」
感心する組合長に、トミはまた元気よく腕を曲げ伸ばししてみせた。
花江は千鶴が何を慌てているのかわかっているみたいで、笑いを堪えながら仕事をしている。
「ほやけど跡継ぎの方はどがぁするんぞ? 千鶴ちゃんに婿さんもらわんのなら、やっぱし幸ちゃんかいな」
「あんまし期待はできんけんど、孝平もおるけんね」
トミがため息交じりに言うと、組合長は顎に手を当て、孝平かとつぶやいた。
「まぁ、いろいろやってみたらええわい。ところでな、今日は甚さんに知らせることがあったんよ」
「わしに知らせること? 何ぞな」
「鬼山喜兵衛ぞな」
甚右衛門は目をぱちくりさせた。
「鬼山喜兵衛?」
「千鶴ちゃんの見合い相手ぞな」
「そげなこと、わかっとらい。あの男がどがぁしたんぞ?」
仏頂面になった甚右衛門に組合長は言った。
「警察に引っ張って行かれよった」
「警察に?」
甚右衛門は目を見開いた。トミも驚き、千鶴と花江も組合長を振り返った。
「なして、捕まったんぞ?」
「何でも社会運動に関わっとったみたいでな。前から警察に目ぇつけられとったらしいんよ。ほれで、こないだ集会しよるとこを捕まったそうな」
「集会したぎりで捕まるんですか?」
千鶴が訊ねると、組合長は首を振った。
「集会の中身ぞな。民衆を誑かし世を乱そうとした不埒者として捕まったんよ。ほんまにええ話するならともかく、見合い断られた相手の悪口言い触らす奴の話なんぞ、誰が信用でけるかい」
喜兵衛には組合長も憤っていた。それに調子を合わせて、トミは甚右衛門を見ながら嫌味を言った。
「この人も、元お武家いうぎりで信用するんじゃけん」
甚右衛門はむっとした顔で言い返した。
「つかましいわ。どこの家にもろくでもない者はおるもんぞ」
「孝平のことを言うておいでるん? あの子じゃったら大阪でがんばりよろがね」
「そげなこと、わかるかい」
「作五郎さんが何も言うておいでんのは、あの子がうまいことやっとる証ぞな」
二人が言い争うので、まぁまぁと組合長が止めた。
「そげなことしよったら、おトミさん、またぶっ倒れてしまわい。ほれより甚さん。東京へは誰を遣るんぞ?」
「取り敢えずは辰蔵を遣るつもりよ。ほれで時期見て、茂七と交代させようわい」
「茂七かな。ほやけど茂七を遣ってしもたら、こっちはどがいするんぞ? 辰さんが番頭しながら外廻りするわけにはいかまい。かというて、弥七一人じゃ心許ないぞな」
「そげなことは言われいでも、わかっとらい」
「当てはあるんかな?」
「何とかならい」
甚右衛門は千鶴を見て、にやりと笑った。あの男がいると言いたいのだろう。
さっきは婿の話はなくなったようなことを言ってたくせに、おじいちゃんは何を考えているのだろうと千鶴は訝しんだ。
まさかあの人を雇いながら、自分のことは小学校教師として外へ出すつもりなのか。そんな考えが頭を過って千鶴がぷいっと横を向くと、また花江が笑っていた。
三
久しぶりに学校へ行くと、千鶴は校長室へ呼び出された。
校長は千鶴が休んでいた事情を知っている。それでも決まりだからと前置きをし、今度欠席になれば、卒業間近であっても退学になるから気をつけるようにと忠告した。
また、このあと欠席がなくても成績が悪ければ、やはり退学になるから、遅れた勉学を死に物狂いで取り戻すようにとも言った。
わかりましたと神妙な顔で答えたものの、千鶴は退学になっても構わない気持ちになっていた。ただ、祖父母が組合長に話したのが本当の考えならば、簡単に退学になるわけにはいかなかった。
一方で、忠之が山﨑機織に来るのであれば、毎日学校に通ってなんかいられないという気持ちもあった。
だいたい佐伯さんを雇うことにしたのに、自分には学校へ行けと言うのは矛盾していると、千鶴は祖父母に少し腹立ちを覚えていた。
とはいうものの、確かに喜兵衛との縁談を断るのに、自分は教師になるつもりだったと見得を切ったのは事実である。他に断りようがあったろうにと、今更ながら悔やんだところで仕方がない。
とにかく今はまだ忠之は来ていない。だから、あの人が来るまでの間だけでもがんばろうと千鶴は思った。それに自分からやめるならともかく、退学させられたとなると体裁が悪い。そんな恥ずかしいところは、忠之には見せられない。
結局がんばると決めた千鶴は、休憩時間も惜しんで必死に勉強した。春子たちがお喋りに誘っても、今はだめと断って勉強を続けた。
けれど、時折幸せな夢想に手が止まってしまう。忠之と二人で店を切り盛りしているところや、二人の間に生まれた赤ん坊をあやしているところなど、次から次に思い浮かんで気持ちの集中が切れてしまうのだ。
気がつけばぼんやりしている千鶴に、春子たちが何を嬉しそうにしているのかと訊ねてくる。何でもないと言うと、何か隠していると問い詰められるが、それがまた嬉しい。だけど勉強は続けねばならず、とにかく千鶴は忙しい日々を送り続けた。
千鶴が再び学校へ行きだしてから一週間が過ぎた。その間に辰蔵は東京へ発った。だが忠之はやって来なかったし、何の連絡もなかった。
恐らく家族が反対しているのだろうが、だめならだめだったと、手紙ぐらいよこすはずだ。そう思いながら、千鶴は忠之に自分の家の住所を教えてなかったことに気がついた。これでは手紙が届くはずがない。千鶴は急に不安になった。
さらに数日が経っても全然音沙汰はなく、もう師走に入るのも千鶴を焦らせた。
土曜日になり、午前の授業が終わると千鶴は昼飯も食べずに大急ぎで家に向かった。もしかしたらあの人が来ているかもしれないという期待があった。
山﨑機織へ戻ると、帳場に座る祖父の姿が見えた。
茂七と弥七は外廻りに出たみたいだ。来客もなく、帳場にいるのは祖父一人らしい。
「佐伯さんは? 佐伯さんはおいでた?」
店に入るなり、千鶴は開口一番に祖父に訊ねた。
「いいや、来とらん」
甚右衛門は煙管を吹かしながら素っ気なく言った。何故か千鶴の方を向こうとしない甚右衛門は、膝をそわそわと動かしている。
千鶴ががっかりしながら、あれから風寄の絣は届いたのか訊ねると、甚右衛門は千鶴と目を合わせないまま、来た――とだけ言った。
牛車で来たのかと問うと、甚右衛門は同じ姿勢で、ほうよと言った。何だか様子がおかしい。忠之が連絡をよこさないので腹を立てているのだろうか。
いつ牛車が来たのかと質すと、昨日だと言う。しかし、昨夜は千鶴は何も聞かされていない。千鶴は祖父に不信感を抱いたが、何だか嫌な予感もしていた。
牛車で絣を運んで来たのは、忠之に大八車で荷物を運ばせていた仲買人の兵頭だ。
「兵頭さんは佐伯さんから手紙を預かっとらんの?」
千鶴が訊ねると、やはり甚右衛門は他を向いたまま、あぁとだけ言った。どういうわけか、甚右衛門は忠之への関心を失ってしまったみたいだ。兵頭は絣と一緒に悪い知らせも届けたのかと千鶴は焦った。
「兵頭さん、佐伯さんのこと、何ぞ言いんさった?」
甚右衛門は千鶴を横目に、煙管の灰をぽんと煙草盆に落とし、ほうじゃなと言った。
千鶴は愕然となった。話を聞いたのであれば、昨日のうちに教えてくれるべきである。仮に話しにくいことだったにせよ、こちらはずっと待っているのだ。
千鶴は腹立ちを抑えながら、兵頭さんは何と言いんさったのかと祖父を問い詰めた。すると甚右衛門はようやく千鶴に顔を向け、そこに座れと言った。
何だか怖い気がしながら、千鶴は帳場の端に腰を下ろした。甚右衛門は煙草盆を脇へ寄せると、千鶴の方に向き直った。千鶴の心は緊張でざわついている。
「こがぁな話、ほんまはしとないけんど、ずっと黙っとるわけにもいかんけんな」
千鶴の心臓が暴れ始めた。甚右衛門は悲しげに千鶴を見つめながら言った。
「言いぬくいことやが、千鶴……、すまんが、あの男のことは忘れるんぞ。お前にはまっこと気の毒じゃと思うが、あの男とうちとは縁がなかったわい」
何の説明もないまま、いきなり乱暴なことを言われ、千鶴は思わず言い返した。
「おじいちゃん、何を言いんさるん? ほれは、佐伯さんがここへはおいでんてこと?」
「ほういうことよ。わしとしてもまっこと残念からげるが仕方ないわい。あの男のことはあきらめて他を当たることにした。急がんと辰蔵をこっちへ戻せんなるけんな」
話はほれぎりぞなと言って、甚右衛門は体を元の向きに戻した。だが、それで納得できるはずがない。
「ちぃと待っておくんなもし。何がほういうことなんぞな? 何があったんか、きちんと説明しておくんなもし」
甚右衛門はすぐには返事をしなかった。しかし千鶴が強く説明を求めると、仕方なさげに千鶴に顔を戻した。
「ここでは働けんて、佐伯さんが言うておいでるん? ほれとも、何ぞおいでになれん事情ができんさったんかなもし?」
甚右衛門は再び千鶴の方に体を向けた。
「生まれぞな。あの男とうちとでは、あまりにも身分が違とらい。お前があの男に心を寄せとるんはわかっとる。わしにしたかて、あの男にはまっこと惚れ込んどった。ほんでも、あの男をうちへ入れることはでけん。申し訳ないけんど堪えてくれ」
わかりましたと言えるわけがない。千鶴が猛抗議をすると、かつて忠之の家が生臭物を扱っていたことや、忠之が尋常小学校も出ていないこと、忠之が乱暴者として村で嫌われていることなどを、甚右衛門は挙げ連ねた。
「あの男は読み書き算盤ができると、わしに言うた。ほやけど、尋常小学校も出とらん者が、読み書き算盤ができるとは思えん。つまり、あの男はわしに嘘を言うたことになろ」
「佐伯さんは嘘なんぞつかん!」
「ほれじゃったら、どがぁして読み書き算盤ができるんぞ? あの男の家族も字が読めんそうやないか」
断りの話は兵頭が伝えることになっていると言い、甚右衛門は体を前に向けた。
千鶴は立ち上がると、声を荒らげた。
「こないだは佐伯さんのこと、福の神じゃて言いんさったのに! 佐伯さんがおいでてくれんかったら、今頃この店を畳むことになっとったのに! 佐伯さんにここで働いてほしいて言うたんは、おじいちゃんやんか!」
甚右衛門は無表情のまま何も言わない。千鶴は体を震わせると、店の奥へ駆け込んだ。
中では花江が乾いた洗濯物を抱えて、板の間へ運んでいるところだった。茶の間ではトミが亀吉と新吉に算盤を教えている。
「おじいちゃんが、佐伯さんを雇わんて言うとる」
千鶴はトミたちに向かって訴えた。しかしトミは以前の冷たい顔で、家の主に逆らうなと言った。一緒にいる亀吉と新吉は、事情がわからず動揺している様子だ。花江は同情の眼差しを向けたものの、何も言ってくれなかった。
千鶴は持っていた荷物を土間へ落とすと奥庭へ走り、裏木戸から外へ飛び出した。足は風寄の方を向いていた。
このまま忠之の所まで行くつもりだった。だが風寄は遠く、行く手を阻むような北風は冷たかった。
兵頭が来たのは昨日の話だ。兵頭はすでに甚右衛門の言葉を忠之に伝えたに違いない。忠之の気持ちを想うと、千鶴は涙が止まらなかった。
忠之と一緒に歩いた道を一人でとぼとぼ歩き、山越の客馬車乗り場までやって来ると、別れ際の忠之の顔が思い出された。
忠之は自分が山陰の者であることを不安に思っていたはずだ。それでも山﨑機織へ来られるようがんばってみると言ってくれた。それは千鶴のためではあったが、甚右衛門を信じていたからだ。なのに、その甚右衛門に裏切られたのである。
千鶴は悔しくて悲しくて申し訳なくて、拭っても拭っても涙がこぼれた。
客馬車乗り場を越えてさらに歩き続けると、やがて家並みが見えなくなり、周囲は田畑ばかりになった。けれど、まだ一里も歩いていない。風寄までまだ三里以上ある。
西を見ると、どんよりした雲が広がって、まだ明るい空を呑み込もうとしている。風寄に着くまでに日は沈んで雨が降るだろう。
項垂れて歩いていると、ラッパの音が聞こえた。顔を上げると、前方から客馬車がやって来る。道の脇に避けると、客車から坊主頭の男が顔を出した。
「千鶴ちゃんやないか! どがいしたんな、こがぁな所で?」
それは法生寺の知念和尚だった。
ここで降りると知念和尚が大声で御者に告げると、馬車が停まった。馬車を降りた和尚は急いで御者に銭を払い、千鶴の傍へ駆け寄って来た。
張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、千鶴はへなへなと倒れそうになった。間一髪、和尚は千鶴を抱き留め、何があったのかと声をかけた。しかし千鶴は和尚に身を任せながら、あふれる悲しみで泣くしかできなかった。
四
「話はわかったが……、困ったの」
千鶴から事情を聞いた知念和尚は、顔を曇らせた。
和尚は忠之のことを知っていた。子供の頃からよく寺へ遊びに来ていたそうで、とても優しく頭のいい子だったと和尚は言った。
辺りは次第に薄暗くなり、冷たい北風が絶え間なく吹きつける。
千鶴が小さく体を震わせると、和尚は自分の襟巻きを外し、冷え切った千鶴の首元に巻いてくれた。
「歩きながら話そうかの。真っ暗になったら動けんなるぞな」
千鶴が黙っていると、和尚は諭すように言った。
「家を飛び出すんは簡単ぞな。ほやけど、問題はそのあとでな。二人でどこぞで暮らして行けるんならええが、銭が稼げんかったら悲惨ぞな。幸せ夢見て一緒になったはずが、些細なことで喧嘩になったり、銭のために嫌なことをせんといけんようになったりで、何のために一緒になったんかわからんなるけんの」
和尚の話は尤もだった。だが、納得がいくわけではない。
促されて歩きだした千鶴は、和尚に言った。
「和尚さん。なして、みんな生まれや育ちで人を差別したりするんぞな? そのお人には、何の罪もないのに……」
「ほれが人の弱さいうもんぞな。差別することで、己の立場をよく見せよとするんよ」
和尚はため息混じりに言った。
「あの子にはな、わしと安子とで読み書き算盤を教えたんよ。ほじゃけん、あの子が言うたんは嘘やない。しかもな、あの子はまっことできのええ子じゃった。何をやらせても、すらすらでけた。学校へ入れてもろとったら、もっといろいろでけたじゃろに、しょうもないことで差別しよってからに……」
和尚は袖で目を押さえた。
「こげなことになるんなら、あの子を為蔵さんにやるんやなかったかて思てしまうけんど、そげなこと言うんも、これまた差別になるけんな」
昔を思い出しているのか、知念和尚は遠くを眺めた。
「為蔵さんにやるんやなかったて、何の話ぞなもし?」
千鶴に問われた和尚は、はっとした顔で、余計なこと言うてしもたわいとうろたえた。けれど千鶴が説明を求めると、観念したように喋った。
「あの子の家族は為蔵さんとおタネさんという年寄り二人でな。この二人はあの子の育ての親なんやが、産みの親やないんよ」
「お父さんとお母さんは亡くなったんですか?」
「いや、ほうやない。というか、わからんのよ」
「わからんて……」
和尚は立ち止まると、悲しげな目でじっと千鶴を見つめた。
「あの子はな、捨て子なんよ」
千鶴は心臓が止まった気がした。
知念和尚は忠之が産まれて間もない頃に、法生寺の本堂に捨てられていたと語った。
近くの村の者たちには、子供を腹に宿していながら、その子供がいなくなったという女はいなかった。それで、身籠もった女が遍路旅の途中で赤子を産み落とし、その子を寺に託したのだろうと、和尚夫婦は考えたそうだ。
和尚夫婦は子宝には恵まれなかった。そこで二人はその女の願いどおり、寺でその赤ん坊を育てることにした。赤ん坊の乳は子供を産んだ山陰の女に分けてもらった。
すると赤ん坊の話を耳にした為蔵夫婦が訪れて、大切に育てるからその子が欲しいと願い出たという。為蔵夫婦は日露戦争で一人息子を失っており、その息子の代わりにと思ったようだ。
結局、和尚たちは為蔵の遠い親戚の子供ということにして、忠之を二人に預けた。
そうして忠之は為蔵夫婦の子供として育ったが、どういうわけか自分が捨て子だと知っているという。ただ、為蔵夫婦の前では何も知らないふりをしているらしい。それがあの子の優しさだと和尚は言った。
千鶴の目はみるみる涙でいっぱいになった。
これまで数え切れないぐらい、千鶴もつらい思いをしてきた。けれども千鶴には母がいた。母が千鶴を慰め力になってくれた。なのに、忠之はその母親に捨てられたのだ。
あんなに優しい人に、神さまはどうしてここまでつらい想いをさせるのか。祖父は大きな恩のあるあの人の苦労を知ったのに、どうしてこんな仕打ちができたのだろう。
知念和尚は着物の袖で千鶴の涙を拭いてくれたが、涙は次から次にこぼれ落ちた。
しばらく黙って歩いたあと、千鶴は知念和尚に言った。
「うち、自分は鬼娘やないんかて、ずっと悩みよったんぞなもし」
驚いた顔の和尚に千鶴は話を続けた。
「うち、風寄に行ってから、鬼に取り憑かれたて思いよりました。ほれで、自分は法生寺におった鬼娘の生まれ変わりに違いないて、そがぁ思いよったんです。ほじゃけん、いつか鬼の本性が出て来るて、ずっと悩んどりました」
「鬼娘の話は終わったと思いよったが……、ほうやったんか。ほれは気の毒じゃったな。ちぃとも気ぃがつかんで申し訳ないことをした。ほれにしても、なして鬼に取り憑かれたて思たんぞな?」
千鶴は自分が法生寺で見つかる前に、イノシシに襲われた話をした。初めて聞く話に、知念和尚は驚きを隠せない様子だった。
「ほんまなら、あそこで死んどったんはうちぞなもし。ほれやのにうちは助かって法生寺まで運ばれて、イノシシはあげな風に殺されました。和尚さんはうちを助けたんはお不動さまじゃて仰ったけんど、お不動さまじゃったらイノシシを殺めたりせんと思うんぞなもし」
「ほら確かに千鶴ちゃんの言うとおりぞな。やが、なして鬼なんぞな?」
千鶴は地獄の夢の話をし、自分には鬼を慕う気持ちがあったと言った。本当はぎょっとしたと思われるが、和尚は落ち着いた様子で千鶴を慰めるように言った。
「ほうはいうても、所詮は夢ぞな。そがぁに真剣に悩まいでもええとわしは思うがな」
「まだあるんぞなもし。松山に戻んてから、今度はお祓いの婆さまに、鬼に取り憑かれとるて言われました。ほれから次から次に悪いことが起こって……。うち、自分のせいでみんなに迷惑かけとるて思とりました」
「ほうじゃったか。そがぁにいろいろあったら、確かに悩むわな……」
慰めの言葉が見つからない知念和尚に、千鶴は続けて言った。
「うち、鬼娘やけん、いずれは鬼の本性が出て来て、人を殺して食べるようになるんじゃて……。そがぁなこと考えよったら、怖ぁて怖ぁてたまらんかったんです。ほんでも誰にも相談できんけん、ずっと一人で悩んどりました」
ほれは、まっこと気の毒じゃった――と和尚はつらそうな顔で言った。
「ほれで、千鶴ちゃんは今もそのことで悩んどるんかな?」
千鶴が首を振ると、忠之の話をした。
「佐伯さんがこないだおいでてくれた時に、うちの話を聞いてくんさったんです」
「ほうなんか。ほんで、あの子は何と言うたんぞな?」
「佐伯さん、うちは鬼娘やないて言うてくんさりました」
「ほうかほうか。あの子は喧嘩もするけんど、根は優しい子じゃけんな」
知念和尚は嬉しそうにうなずいた。
「鬼のことも、鬼は前世でうちに優しゅうされたけん、そのお返しに今もうちのことを護ってくれとんじゃて言うてくんさったんです。ほれに佐伯さん、鬼の気持ちを教えてくんさりました」
「鬼の気持ち?」
千鶴はうなずき、忠之に聞かされた鬼の話をした。和尚は感心すると、あの子もなかなか大したもんぞなと言った。和尚の褒め言葉はわずかながら千鶴への慰めとなった。
「ほれにしても、そがぁな話を誰から教わったんじゃろな」
「和尚さんの前に、法生寺においでた和尚さんらしいぞなもし」
知念和尚は、はてと首を傾げた。
「わしがあの寺を引き継いでからは、そのご住職は風寄へは来とらんがな。用事がある時は手紙を書くか、こっちから出向くけん、あちらからこっちへ来ることはないんよ」
「ほやけど、佐伯さんはそがぁ言うておいでました」
「ほれは妙じゃの。最前も言うたが、あの子はわしらがあの寺に来てから置いて行かれたんぞな。ほじゃけん、あの子が前のご住職に顔合わすことは有り得んがな」
和尚の言葉に困惑しながら、千鶴は喋った。
「佐伯さん、法生寺におった鬼娘も、うちみたいな異国の血ぃ引いとるぎりの娘さんで、ほんまの鬼娘やないんじゃて言うておいでました。ほじゃけん、うちがその娘さんの生まれ変わりじゃったとしても、うちが鬼娘とは言えんのじゃて」
「ほれも前のご住職から聞いたと言うんかな」
千鶴がうなずくと、知念和尚はまた首を傾げた。
「鬼娘の話は、わしらかておヨネさんから聞かされて初めて知ったんやけんな。ましてや、その娘が異国の血ぃ引いとるやなんて全然知らんことぞな。ほれをなしてあの子が知っとるんかな」
「どっかで前の和尚さんに会いんさったんやないんでしょうか?」
「言うたように、わしが風寄に来てから前のご住職がおいでたことはないんよ。ほじゃけん、あの子がそのご住職に会うことはないはずやが……。仮にどこぞで会うたにしても、前の和尚は鬼娘の話は知るまいに」
「じゃあ、誰から――」
言いかけて千鶴は、はっとなった。
忠之が夫婦約束をしていたのも、異国の血を引く娘だった。千鶴と同じロシア人の娘だと忠之は言っていた。だけど風寄にそんな娘がいたとしたら、誰も千鶴を見て珍しがったりはしないだろう。それに春子がそのことを知らないわけがない。
「あの子はまっこと優しいし頭がええ。やけん、千鶴ちゃんの悩みを聞いた時に、何とか千鶴ちゃんを慰めよ思て、即興で考えたんじゃろな」
知念和尚は忠之についての自分の考えを述べた。しかし、その声は千鶴の耳には残らなかった。
五
千鶴は和尚に顔を向けた。
「和尚さん、お訊ねしたいことがあるぞなもし」
「何かな?」
「和尚さんは佐伯さんが生まれるより前から、法生寺においでるんですよね?」
「ほうじゃが、ほれがどうかしたかな?」
「和尚さんが法生寺においでてから今日までの間に、風寄にロシア人の血ぃを引いた娘さんがおったいう話を、耳にしんさったことはおありですか?」
知念和尚は怪訝な顔で言った。
「いいや、そげな話は聞いたことないな」
「うちとそっくりで、うちと対の名前の娘さんは、ご存知ないんかなもし?」
「ロシア人の血ぃ引く娘いうたら、わしら、千鶴ちゃんしか知らんぞな」
千鶴は愕然とした。
忠之が出任せを言ったとは思えない。別れた娘の話をした時、忠之は涙ぐんでいた。
「和尚さん、もう一つ教えてつかぁさい。和尚さんがこちらへおいでてから、ロシアの船が風寄に来たことはあったんかなもし?」
「ロシアの船? そがぁなもん見たことないな。日露戦争が終わったあと、捕虜兵を引き取りに来た船はあろうが、ほれが風寄へ来ることもなかったわい。ここには捕虜収容所はなかったけんな」
日露戦争は明治の話で、千鶴も忠之もまだ生まれていない。忠之が夫婦約束をした娘と別れたのは、つい最近のはずだ。だけど知念和尚が知る限り、風寄に千鶴という名のロシアの娘はいないし、ロシアの船も来ていない。これはどういうことなのか。
普通は忠之が作り話をしたと考えるだろう。しかし、千鶴の頭には一つの可能性が浮かんでいた。とても有り得ないことだが、千鶴にはそれが真実のような気がしていた。
「ほれじゃったら、昔は来たことがあるんかなもし?」
「ロシアの船かな?」
千鶴がうなずくと、さぁなぁと和尚は言った。
「言うたように、わしらは土地の者やないけんな。ここの昔のことはよう知らんのよ。ほんでも瀬戸内海は黒船の航路やったけんな。徳川の時代が終わる頃に、ここら辺をロシアの黒船が通ったかもしれまい」
「確か、おヨネさんのお父さんが鬼を見た時に、沖の方に見たこともない大けな黒い船があったて言うとりんさったんや……」
「ほうよほうよ。そがぁなこと言うとったな。おヨネさんが子供の頃いうたら、ちょうど徳川の終わり頃になるけんな。あれも、ひょっとしたら西洋の黒船の可能性はあるな」
「ロシアの船かもしれませんよね?」
「ほやないとは言えんけんど、ほれがどがぁかしたんかな?」
千鶴は興奮で体が震えていた。もしやの想いが確信へと近づいている。けれど、まだ信じられない気持ちではあった。
「学校で習いましたけんど、黒船が日本に来よった頃は、異国人を殺そとするお侍もおったんですよね?」
「攘夷いうてな、異国人は日本を利用するぎりの悪い連中じゃて考える輩がおったな」
「鬼娘て呼ばれよった娘が異国の娘じゃて知れたら、狙われるんやありませんか?」
知念和尚は、ふーむとうなずいた。
「ほれはまぁ考えられるわな。なるほど、法生寺に集まっとった侍連中は、そげな目的があったんかもしれんな。ほんでも娘一人を殺めるんに大勢は必要なかろに」
「ここにロシアの船が来るてわかっとったら?」
知念和尚は驚いた顔で千鶴を見た。
「どがぁしたんぞな、千鶴ちゃん。何考えとるんぞな?」
浜辺で大勢の侍たちを迎え撃つ若侍の姿が、千鶴の目に浮かぶ。侍たちの狙いは千鶴だ。若侍は千鶴を海に逃がそうとしていた。後ろの海にはロシアの黒船が浮かんでいたはずだ。
――おらはな、どがぁに望んでも、その娘と一緒にはなれんなったんよ。
海を見つめる悲しげな忠之の顔が目に浮かぶ。
涙があふれそうになりながら千鶴は考えた。あの若侍が護ろうとしていたのが前世の自分だとしたら、あの人は恐らく……。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
千鶴の髪に花を飾ってくれた若侍が微笑んでいる。その顔は、今でははっきり見えている。
千鶴は胸が苦しくなった。自分が見た夢や幻影は、やはり前世の記憶だった。胸の中で感情が爆発しそうだ。涙で目がよく見えない。
千鶴は立ち止まって泣いた。
知念和尚はうろたえたように千鶴を慰めながら、何を泣くのかと訊ねたが、千鶴は答えられなかった。
説明してわかってもらえるものではない。考えていることが事実だという証もない。けれど、千鶴にはそれが真実だった。やはり忠之はあの若侍の生まれ変わりなのだ。
何故忠之の温もりを感じるのか。そのことを千鶴は不思議に思っていた。でも、今ならその理由がわかる。二人は時を超えて結ばれているのだ。
蘇った記憶
一
「ほんじゃあ、こっから先は一人で行けるかな?」
知念和尚は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。
千鶴はうなずき、襟巻きを和尚に返そうとした。しかし和尚はそれを制し、もう一度その襟巻きを千鶴の首に巻き直してくれた。
「ほれは千鶴ちゃんがしよりなさい。ほうじゃ、ちぃと待っとりなさいや。傘を借りて来てあげようわい」
ここは木屋町の電停を過ぎた辺りで、お寺が多い所だ。この近くのお寺に用があって来たという知念和尚は、そこへ傘を借りに行こうとした。いよいよ雨が降りだしそうな黒い雲が広がっている。
けれど、千鶴は大丈夫ぞなもしと言って傘を断った。それから和尚に世話になった礼を述べると、一人歩き始めた。
本当は傘を借りればよかったのかもしれない。だけど千鶴は忠之のこと以外、何も考えられなくなっていた。
この道を歩いていると、忠之に風寄から人力車で運んでもらったことを思い出す。風寄へ帰る忠之を見送りがてら、二人で歩いたのもこの道だ。
あの時、千鶴には希望が見えていた。きっと同じ希望を忠之も見ていただろう。自信のない顔を見せながらも、忠之の目には期待のいろが浮かんでいた。千鶴と同じ屋根の下で暮らせると、忠之は喜びを噛みしめていたはずなのだ。
そんなことを考えると、千鶴はまた泣きたくなった。あの時には知らなかったが、今は忠之が本当は誰なのかがわかっているから、余計に悲しい気持ちになる。
千鶴は悲しみを堪えながら、自分と忠之のつながりに思いをめぐらせた。
前世の自分は法生寺で暮らした娘だったと思われる。そして前世の忠之は風寄の代官の一人息子に違いない。二人は夫婦約束を交わしていた。ところが襲って来た攘夷侍たちによって、二人の間は引き裂かれた。
襲いかかる侍たちを迎え撃つ忠之の姿が、千鶴の目に浮かぶ。あの時、忠之は千鶴をロシアの黒船に託して攘夷侍たちと戦い、その命を散らしたのだろう。そうして死に別れた二人が今ここに生まれ変わり、奇跡の再会を果たしたのである。
これが真実だという裏付けはない。だがそう考えなければ頭に浮かんだ幻影や、忠之の言葉を説明することはできなかった。
千鶴の考えが正しければ、忠之は明らかに前世の記憶があるし、千鶴が法生寺にいた娘の生まれ変わりだとわかっている。だからこそ、あそこまで親切にしてくれたのだ。
鬼のことを知っていたのも、忠之は前世で直接鬼と対峙したことがあるのだろう。それがいつなのかはわからないが、両者は力を合わせて千鶴を護ってくれた。風寄で化け物イノシシに襲われた時も、忠之は鬼が千鶴をイノシシから救ったあとを引き受けたのだと思われる。
千鶴は興奮を覚えながらも、忠之の気持ちを思いやると胸が潰れそうになった。
本来であれば感動すべき再会なのに、千鶴は前世を覚えていないし、忠之が置かれた境遇は、胸を張って名乗り出られるものではなかった。
生まれ変わった千鶴を見つけた時、忠之はどれだけ驚き、どれだけ喜んだことか。けれど本当のことが伝えられず、代わりにしたせめてものことがあの野菊の花だった。あの花は前世での二人の関係と、千鶴への想いを示していたに違いない。
そのあとも、忠之は正体を明かさずに見守ってくれていた。
拒まれるのがわかっているのに祭りの人垣へ入ったのは、千鶴を心配してのことだろう。千鶴が源次たちに襲われた時にすぐに助けに現れたのも、ずっと様子を見てくれていたからだ。松山まで人力車で運んでくれたのもそうなのだ。
けれど忠之は千鶴を助けたあとはすっと離れ、それ以上は千鶴に関わらないようにしている。きっと山陰の者であることを気にしているのだ。あるいは親に捨てられたことも理由かもしれない。いずれにしても、自分と千鶴では身分が違うという遠慮が忠之にはあるようだ。
千鶴が山﨑機織の主の孫娘だとわかると、尚更忠之は千鶴には近づきがたくなったと思われる。それでも忠之は千鶴に逢いたくて松山ヘやって来た。そして、甚右衛門から働かないかと声をかけられた。これは忠之にとってまさに奇跡であり、思いがけない幸運のはずだった。
ところが忠之が山陰の者だと知った祖父は、手のひらを返して忠之を拒んだ。それを知らされた時の忠之が思い浮かぶと、千鶴の目から涙があふれ出た。
祖父は忠之を福の神だと持ち上げ、山﨑機織で働いてほしいと頼み込み、忠之をその気にさせた。なのに、お前は山陰の者だからいらないと切り捨てたのである。忠之がどれほど傷ついたのかと考えると、千鶴は涙が止まらなかった。
涙に濡れる千鶴の頬に、ぽつりぽつりと雨粒が当たった。雨は次第に強くなり、あっという間に土砂降りになった。辺りは真っ暗になり、足下がよく見えない。所々に洩れ見える家の明かりや、街灯だけが頼りだ。
ずぶ濡れになって歩きながら、千鶴は仲買人の兵頭を恨んだ。
兵頭が余計な話さえしなければ、祖父が忠之を雇わないと言いだしたりはしなかったのだ。言う必要がない忠之の素性をわざわざ喋ったのは、悪意があったとしか思えない。
兵頭の牛が動かなくなった時、忠之は善意で牛の代わりを申し出た。そして一人で絣を松山まで運び、その代金もきちんと兵頭に届けた。何の報酬もなしにだ。そんな恩義のある人間に不利になることを口にしたのは、忠之をただ働きさせられなくなった腹いせに決まっている。恩を仇で返すとはこのことだ。
兵頭の仕打ちを考えるほどに怒りは募り、濡れた体は小さく震える。人でなしの兵頭を呪った千鶴は、あれほど鬼娘であることを恐れていたのに、鬼になって兵頭に罰を加える自分を思い浮かべた。
忠之がどれほど傷つくかなどお構いなく、家の中でぬくぬく暮らす兵頭を、鬼になった千鶴は家の屋根を壊して捕まえようとした。しかし、千鶴の妄想はそこで終わった。
――千鶴さんは鬼娘やない。千鶴さんは人間の娘ぞな。千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞな。
心の中で忠之が千鶴に語りかける。忠之の言葉を聞けば、悪いことなど考えられるはずがない。それに忠之から受けた恩を仇で返したことでは、祖父だって同罪だ。兵頭を呪うのは、祖父を呪うということでもある。千鶴は項垂れた。
何とか怒りは鎮めたものの、悲しみだけはどうしても消えない。大切な忠之が踏みにじられているのに、それをどうにもできないことが悲しかった。千鶴は己の無力さに涙を流しながら雨の中を歩き続けた。
二
裏木戸から家に入ると、幸子と花江が手拭いを持って駆け寄って来た。
幸子は仕事から戻った時に、初めて千鶴のことを聞かされたのだろう。唇を噛みしめながら泣きそうな顔をしていた。
びしょ濡れになった千鶴の体を二人は懸命に拭いた。
首に巻いていた襟巻きはどうしたのかと訊かれ、山越の向こうで出会った知念和尚に貸してもらったと、千鶴は力なく話した。
幸子たちは千鶴が何をするつもりだったのかを理解したようだ。それ以上は何も訊かず、黙って千鶴を拭き続けた。けれど濡れた羽織や着物は水がしたたり落ちている。
幸子は千鶴に離れで着物を着替えるようにと言った。
座敷にいた甚右衛門とトミは、千鶴を見て戸惑っている様子だ。それでも千鶴に声をかけたり傍へ来ることはなく、黙って千鶴を眺めていた。
板の間にいる手代や丁稚たちも、やはり千鶴を眺めるばかりで黙ったままだ。
幸子は千鶴を離れの部屋へ連れて行った。そこで濡れた着物を脱がせ、改めて体を拭こうとしたが、千鶴の体に触れて驚きの声を上げた。
「千鶴、あんた、えらい熱があるぞな」
確かに悪寒がしていた。立っているのもつらい。
幸子は急いで千鶴に寝巻を着せると、布団を敷いて寝かせた。
「今、お薬持て来るけんな」
母が部屋を出て行ったあと、悲しみと疲れでぼーっとしていた千鶴は、すぐに夢の世界へ入った。
だが夢の中でも、千鶴は熱を出して寝ていた。
千鶴の枕元には、前髪が残る男の子が座っている。前世の子供の頃の忠之だ。名前は柊吉という。柊吉は千鶴の額に手を当てながら、苦しいかと訊ねた。
千鶴がうなずくと、柊吉は自分の額を千鶴の額に重ねて祈った。
――千鶴の病があしに移りますように。千鶴が笑顔になれますように。
そげなことは願わんといてと、千鶴は柊吉に言った。しかし柊吉は祈り続け、これで大丈夫ぞなと言った。柊吉が顔を上げると、そこには醜い鬼の顔があった。
「千鶴」
母の声が聞こえると、柊吉はいなくなった。
目を開けると、枕元に幸子がいた。額には濡らした手拭いが載せられている。
「お薬持て来たで。今、茂七さんが氷買いに行てくれとるけんな」
母に優しく声をかけられると、千鶴は声を出して泣いた。泣きながら、自分にも確かに前世の記憶があるのだと知った。また鬼も心配してくれているのだと思った。
幸子は千鶴を慰めながら薬を飲ませると、千鶴と一緒に横になって手を握ってくれた。千鶴は母を感じながら、再び眠りに落ちた。
千鶴は小さな杖を突きながら、険しい山道を歩いていた。ずいぶん前から歩き続けているが、いつまで歩くのかはわからない。
すぐ前を母が同じように杖を突きながら歩いている。母は頭に菅笠をかぶり、首にはたくさんのお札を束ねたものをぶら下げている。千鶴も子供ながら同じ格好だ。
大人でも大変な道を子供が歩くのはつらいことだ。だけど歩くしかないので、千鶴は懸命に歩いた。
千鶴が遅れると母は立ち止まって、千鶴が来るのを待っている。しかし、千鶴が追いつくと母はまた歩き始めるので、千鶴は休む暇がない。
体が熱く、噴き出る汗は手拭いで何度拭いても止まらない。
「かっか、暑い。おら、お水、飲みたい」
「えいよ、ちくと休もかね」
母は足を止めて、にっこり笑った。
千鶴は腰に提げた竹筒の水を飲もうとした。ところが水を入れたはずの竹筒は空っぽだった。
「かっか、これ、お水入っとらん」
「じゃったら、かっかのをお飲みや」
母は自分の竹筒を千鶴に渡そうとしたが、急に咽せ込んだようにひどい咳をし始めた。
咳は止まらず、母は崩れるようにしゃがみ込んだ。持っていた竹筒は地面に転がり、口を押さえた母の手は、指の間から赤い血が流れていた。
「かっか!」
千鶴は母の背中をさすりながら助けを呼んだ。
「誰か来て! かっかが、かっかが……」
いくら叫んでも、周りには誰もいない。千鶴は泣きそうなのを堪えながら、母に声をかけ続けた。
三
「千鶴、大丈夫か? しっかりせんね。ああ、えらい汗かきよらい」
手拭いで千鶴の寝汗を拭きながら、幸子は千鶴を起こした。
うっすら目を開けた千鶴は、薄暗さの中に母の顔を見つけた。
「かっか!」
千鶴は跳ね起きると、幸子に抱きついた。
「かっか、かっか、かっか……」
「ちょっと、どがぁしたんね? 千鶴、悪い夢でも見たんか?」
千鶴には慌てる母の言葉が聞こえていない。
「かっか、死なんといて。死んだら嫌や。おらを独りぼっちにせんで」
「おら? ちょっと千鶴。あんた、何言うとるんね?」
幸子は千鶴を押し離すと、千鶴!――と強く言った。
正気に戻った千鶴は、周りを見まわした。
そこは自分と母が使っている離れの部屋で、行灯の明かりがぼんやりと部屋を照らしている。いつもなら寝る時には消すのだが、母がつけておいたようだ。
「お母さん? うち、どがぁしたん?」
「どがぁしたんやないぞな。何ぞ悪い夢でも見たみたいで、かっか、かっかて、うなされよったんよ。ほじゃけん、大丈夫かて声かけたら、いきなしがばって起き上がって抱きついてな。また、かっか、かっか言うたり、死んだら嫌や、おらを独りぼっちにせんでて言うたんで」
「うちがそげなこと言うたん?」
「言うた言うた。いったい何の夢を見たんやら。ほれより、また着替えんとな。汗で寝巻がびちょびちょやで」
言われて千鶴は、自分が汗をびっしょりかいているのに気がついた。
「こんだけ汗かいたんじゃけん、喉渇いたろ? 着替えたら、お水持て来てあげるけん」
千鶴を着替えさせたあと、幸子が部屋を出て行くと、千鶴は一人きりになった。
さっきは何の夢を見たのだろうと、横になりながらぼんやり考えていると、いつの間にか、千鶴はお坊さまに手を引かれて石段を登っていた。
いつも一緒だった母はいない。母は亡くなったのだ。
石段の上には寺の山門がある。その門をくぐって境内に入ると、男が一人境内の掃除をしていた。男は寺で働く寺男で、千鶴を見ると驚いて腰を抜かしそうになった。
何も驚くことはないとお坊さまは男に言い、千鶴が異人と日本人の間に生まれた気の毒な娘だと説明をした。
場面が変わり、千鶴は寺男と一緒に寺の仕事を手伝っていた。
仕事が終わると、千鶴はお坊さまに呼ばれて習字を教わった。千鶴が教えてもらったのは「千鶴」という自分の名前の字だ。
村の者たちは千鶴を見ると気味悪がり、鬼の娘とか鬼娘と言って千鶴を深く傷つけた。村の子供たちはわざわざ寺まで来て、千鶴に石を投げつけたり、追いまわしたりしていじめた。
お坊さまや寺男が気がつくと、子供たちに雷を落として千鶴を護ってくれた。それでも千鶴は悲しかった。亡くなった母に逢いたくて、ずっと一人で泣いていた。
「また寝たんか? お水、持て来たで」
母の声が聞こえ、千鶴は目を覚ました。夢の記憶は残っている。今の自分の中には山﨑千鶴と、鬼娘と呼ばれた千鶴の、二人の千鶴がいた。
「だんだん」
水を受け取りながら、千鶴は母の顔を見つめた。
鬼娘と呼ばれた千鶴が心の中で泣いている。前世で死に別れた母が目の前にいる。
――かっか。
心の中で前世の千鶴が母を呼ぶ。けれど、その言葉を口に出せば母が困惑するのは目に見えている。
今の自分は前世の自分ではないし、今の母は前世の母ではない。でも、母の顔は前世の母の顔によく似ている。
母は前世のことなど覚えていないが、きっと母もまた生まれ変わって来たのに違いない。それも前世と同じ自分の母親として、生まれて来てくれたのだ。
母の有り難さはわかっていたつもりだった。でも今ほど有り難く思ったことはない。
「お母さん、これからもずっとうちの傍におってな」
母を見上げて千鶴は言った。
幸子は微笑むと、あんたが嫌と言うまでおらいと言った。
四
花江が氷を入れた氷嚢と氷枕を持って来てくれた。
心配する花江をねぎらうと、幸子は千鶴の頭の下に氷枕を入れ、千鶴の額に氷嚢を載せた。頭がひやりとして気持ちがいい。隣に母がいてくれるのも心強い。
一方で、親に捨てられた忠之を想うと、千鶴は胸が締めつけられた。その忠之を、事もあろうに自分の祖父がさらに傷つけたのだ。そのことはさらに千鶴をつらくさせた。
忠之は何も悪くない。しかも、祖父は忠之から多大なる恩を受けていた。それを山陰の者というだけで、その恩を裏切る仕打ちを祖父は見せたのだ。
なのに自分は何もできない。無力感は千鶴から気力ばかりか思考力も奪っていた。
頭はぼんやりしているが、全然眠れない。隣から母の寝息が聞こえてきても、千鶴はまだ目が覚めていた。
何となく目に浮かぶのは、大きな楠だ。
――あれは確か、法生寺の本堂の脇に生えとる楠爺ぞな。ずっと昔からある立派な楠じゃと、和尚さまが仰っておいでたわい。誰ぞが来ると、おら、よくこの楠爺の後ろに隠れたわいなぁ。
頭の中で独り言をつぶやきながら、千鶴はいつの間にか楠爺の陰から境内を眺めていた。
山門をくぐって境内に入って来たのは、お侍と男の子、それにお付きの者と思われる男の三人だ。男の子はお侍の子供なのだろう。村の子供たちとは異なる身なりをしている。見ていると、三人は庫裏の中へ入って行った。
千鶴は楠爺の陰から出ると、小石で地面に絵を描いて遊んだ。すると、間もなくして男の子だけが外へ出て来た。
驚いた千鶴は小石を捨てると、慌てて楠爺の後ろに隠れたが、男の子は千鶴に向かって走って来た。千鶴は本堂の裏へ逃げたが、男の子は足が速かった。千鶴はすぐに追いつかれ、境内の隅へ追い詰められた。
逃げられなくなって千鶴が泣きそうになると、泣くなと男の子は言った。男の子は懐に手を入れると、中から花を取り出した。それは野菊の花だった。
「お前のことは聞いておったけん、下でこの花を摘んで来たんぞ」
千鶴は男の子の言っていることが理解できなかった。男の子は構わず千鶴に近寄ると、千鶴の頭に花を飾ってくれた。
「うわぁ、きれいな。花の神さまみたいぞな」
自分で花を飾っておきながら、男の子は目を丸くした。千鶴は頭の花を手で触れると、男の子に言った。
「おらが、花の神さま?」
男の子は嬉しそうにうなずいた。
「花がそがぁ申しておらい」
「お花の言葉がわかるん?」
「わからんけんど、わかるんよ。お前は花の神さまぞな。ほれにお前を見て、あしはわかった」
「わかったて、何がわかったん?」
訝しむ千鶴に、男の子は真面目な顔で言った。
「あしはな、お前に会うためにここへ来たんぞな」
「おらに会うために? なして?」
「わからん。ほやけど、そがぁな気ぃがするんよ」
村の子供たちは千鶴を馬鹿にする。千鶴は男の子の言葉が信じられなかった。
「おらを、からかいよるんじゃろ?」
「からこうたりなんぞするもんかな。あしは嘘は嫌いぞな」
「ほやけど、おら、鬼娘やで」
「がんごめとは何ぞ?」
「鬼の娘のことぞな」
千鶴は男の子を見返すつもりで、少し胸を張った。すると男の子は顔をしかめて、何を申すんぞと言った。
「お前は花の神さまぞな。花の神さまはな、誰より優しいて、誰よりきれいなんぞ」
男の子が大真面目なのがわかると、千鶴は途端に恥ずかしくなった。
困って目を伏せる千鶴に、男の子は自分は柊吉だと名乗った。それから拾った小枝で、地面に名前を漢字で書いて見せた。
男の子に名前を訊ねられた千鶴は自分も名乗った。
字が書けるかと柊吉に訊かれ、千鶴はうなずいた。では書いてみろと、柊吉は持っていた小枝を千鶴に渡そうとした。でも千鶴は緊張していたのか、小枝を受け損なってぽろりと落としてしまった。
千鶴がしゃがんで拾おうとすると、同じく柊吉が伸ばした手と千鶴の手が重なった。
重なった手を通して、とても懐かしい感じがする温もりが伝わってきた。千鶴は驚いて柊吉を見た。柊吉も驚いた顔で千鶴を見ていたが、すぐににっこり微笑んだ。
千鶴は嬉しくも恥ずかしい気持ちになって、拾った小枝で地面に名前を書いた。柊吉はむずかしい字が書けると感心し、千鶴に尊敬の眼差しを向けた。千鶴は照れ笑いをしたが、胸には喜びが広がっている。また少しだけ誇らしい気持ちになった。
それから千鶴は柊吉と友だちになった。
場面が変わり、前髪が残る柊吉が息を切らせてやって来た。さっきよりも大きくなっている。お付きの者はいないので、柊吉は一人で来たようだ。
柊吉は油紙の包みを懐から取り出し、千鶴の前で開けて見せた。包みの中には、とげとげのある色とりどりのきれいな小さな粒が、たくさん入っている。
「これは金平糖というお菓子でな、父上の知人の土産ぞな」
柊吉は得意げに喋ると、千鶴に食べるよう促した。それで金平糖を一粒口の中へ入れてみると、千鶴の舌の上に甘さが広がった。千鶴が幸せの呻き声を上げると、柊吉は嬉しそうに笑った。
千鶴は柊吉も食べるよう勧めたが、柊吉は家で腹いっぱい食ったから、これは全部千鶴の物だと言った。しかし千鶴が金平糖を食べるたびに横で唾を飲み込むので、千鶴は口の中を見せてほしいと言った。
柊吉が言われるまま大きく口を開けると、千鶴はその中に金平糖を放り込んだ。驚いて口を閉じた柊吉は幸せそうな笑顔になって、まこと千鶴は優しいのと言った。
再び場面が変わると、柊吉は元服して佐伯進之丞となっていた。
晴れ姿を見せに来た進之丞を千鶴が褒めると、進之丞は千鶴の手を取って、自分の嫁になってほしいと言った。
期待はしていたが、本当に請われて千鶴はうろたえた。自分は親なし子だし、鬼娘だからと遠慮すると、進之丞はそんなことはどうでもいいと言った。
どうしても嫁になってほしいと繰り返し懇願され、千鶴は嫁になることを承諾した。
進之丞は大喜びで千鶴を抱きしめた。優しい温もりに包まれた千鶴は、自分みたいな娘が幸せになれるなんて信じられなかった。
進之丞は千鶴を抱きながら、千鶴には諱を教えよわいと言った。諱というのは侍の本当の名前だそうで、滅多に口にしてはいけないし、誰にでも告げる名前ではないらしい。
進之丞は呼び名であって、本当の名前ではないのだと進之丞は言ったが、千鶴には少しむずかしい。
「とにかくな、あしのほんまの名前は忠之ぞな。忠義の忠に之と書いて忠之て読むんよ。名前を全部言うなら佐伯進之丞忠之ぞな」
五
朝になると、千鶴の熱は下がっていた。
目が覚めた時、千鶴は今の自分が置かれた状況を理解していた。その一方で、夢によって蘇った前世の自分が、心の半分を占めている感じだった。
前世の自分が今世の自分の邪魔をすることはない。今の自分の中心は今世の自分だ。前世の自分は後ろからそっと今の状況を眺めている。
「目ぇ覚めたか? 具合はどがいなん?」
先に起きていた幸子が声をかけ、千鶴の額に手を載せた。
つい前世の自分が飛び出しそうになるのを抑えながら、千鶴は言った。
「昨日よりはええけんど、まだちぃと頭がぼーっとする」
「熱は下がったみたいなね。ほんでも、今日は一日おとなしゅうしとかないけんよ。ご飯は食べられるか?」
千鶴がうなずくと、幸子は嬉しそうに笑った。
「じゃったら、あとでご飯を持て来てあげよわいね。昨日も食べとらんのじゃけん、たんとお食べや。けんど、ほの前にまずはお水や」
幸子は千鶴を起こすと、用意していた水を飲ませた。
「あんな、かっか」
母に声をかけてから、千鶴はすぐに言い直した。
「間違うた。あんな、お母さん」
幸子は笑いながら、おかしな子じゃねぇと言った。
「どがいした? 何ぞ欲しいもんがあるんか?」
「おらを――やのうて、うちを産んでくれてだんだんな」
「何やのん、そがぁ改まったこと言うて」
幸子は笑っていいものかどうかわからない顔をしている。
「お母さん、体大事にしてや。うちより先に死んだら嫌やけんな」
「昨夜も妙なこと言いよったけんど、何ぞ怖い夢でも見たんか?」
「怖い夢なんぞ見とらんよ」
怖い夢ではない。悲しい夢だったのである。だけど、千鶴は夢の内容を話すのはやめておいた。喋ったところで信じてもらえないに決まっているし、熱のために悪い夢を見たのだろう、と言われるのが目に見えている。
「佐伯さんのこと、あんたにも佐伯さんにも気の毒じゃったね」
幸子は千鶴の様子を窺いながら話しかけた。千鶴が黙っていると、幸子は話を続けた。
「お母さん、仕事から戻んてから、何があったんか聞かされてな。あんたが家飛び出した言うけん、ほんまに心配しよったんよ」
「……ごめんなさい」
千鶴が下を向くと、幸子は考えるように少し間を置いてから言った。
「みんな、おじいちゃんのお世話になって暮らしよるけん、おじいちゃんには逆らえん。ほやけどな、お母さん、あんたの気持ちはようわかる。ほんでも今はぐっと堪えんとな。一人前の師範になったら、あんたは自由になれるけん、ほれまでは辛抱するんよ」
「ほやけど、おじいちゃん、うちに別のお婿さんを連れて来るんやないん?」
「そげなもん、あんたが断ればええことじゃろ? あんたが絶対に嫌じゃ言うたら、おじいちゃんも無理なことはできまい?」
千鶴はうなずいた。確かに母の言うとおりだと思うし、他にどうしようもない。
母が部屋を出て行こうとすると、母を引き留めたい前世の千鶴が顔を出した。しかし母が行ってしまうと、前世の千鶴は進之丞のことを考え始めた。
前世の千鶴は忠之を進之丞として認識しており、法生寺に捨てられた孤児とは見ていない。そんなのはどうでもいいことであり、死に別れた二人が再び出逢えたことを喜ぶばかりだ。またすべては定めであり、二人が夫婦になるのも定めだと信じている。
それでも千鶴は前世の記憶全部を思い出したわけではないので、前世の千鶴の存在感は希薄だった。千鶴が現在の忠之に思いを馳せると、前世の千鶴はたちまち後ろへ引っ込んでしまう。しかし忠之を進之丞の生まれ変わりだと見ると、途端に前世の千鶴は姿を見せて、何が何でも進さんの所へ行かねばと主張し始める。
前世の千鶴は自分の存在を進之丞に示したがっていた。今世の千鶴も前世を思い出したことを忠之に知らせたかった。そこのところでは、二人の千鶴の考えは一致していた。
きっと、それはあの人の悲しみを癒やすことになる。今度こそ自分たちは夫婦になるという決心を、あの人に抱かせるはずだ。そんな同じ想いで二人の千鶴はうなずき合った。
とにかくあの人と連絡を取らねばと思ったが、今は自由に動ける状態ではない。無鉄砲なことをすれば、却って状況は悪くなるかもしれなかった。
ここは知念和尚や母の忠告どおり、落ち着いて構える必要があると、千鶴は自分に言い聞かせた。前世の千鶴も黙ってその言葉を聞いている。
まずは手紙を書こうと思ったが、千鶴は忠之の住所を確かめていなかったと気がついた。忠之に自分の住所を教えていなかったこともそうだが、まさか、こんなことになるとは思いもしなかったのだ。
考え悩んだ末、千鶴は知念和尚に頼んで手紙を届けてもらうことを思いついた。知念和尚は自分たちの味方だし、今の状況も伝えてある。絶対に力になってくれるはずだ。
ところが、やはり法生寺の住所がわからない。宛先に法生寺とだけ書いても届くかもしれないが、届かない可能性もある。手紙を確実に届けるためには、あやふやなことは避けた方がいい。
どうしたものかと考えていると、幸子が千鶴の箱膳を運んで来てくれた。千鶴は和尚さんに佐伯さんへの手紙を頼みたいので、法生寺の住所を教えてほしいと頼んだ。幸子は困惑すると、うーんと言った。
「法生寺の住所なぁ。確かあったはずなけんど、ばたばたしよるうちに失さしてしもたで。ほやけん、お前を産んだあとに手紙を書こ思いながら出せんかったんよ」
またあとで探してみると言われたが、探す所などほとんどない。当てにはできないが、お願いしますと頼んでおいた。
母が再び部屋を出て行くと、千鶴は箱膳の前に座った。食欲はないけれど、明日は学校なので食べねばならなかった。
学校のことを考えた千鶴は、そうだと思った。春子に訊けばいいのだ。春子が知らなければ、実家に訊ねてもらえばいい。そのためにも明日は必ず学校へ行こう。
少し元気が出た千鶴は、飯を口に入れた。
現れた鬼
一
月曜日、千鶴は離れの部屋で朝飯を食べたあと、学校へ行く支度をした。
昨日のうちに体調を戻すつもりだったが、まだ完全とはいえなかった。けれども、春子に法生寺の住所を教えてもらわねばならないし、今度学校を休むと退学になると言われている。
忠之が山﨑機織で働けない以上、忠之と一緒になるためには、師範の資格はどうしても必要だ。たとえ熱があったとしても、休むわけにはいかなかった。
髪を整え、着物の上に袴を着けると、幸子が羽織を着せてくれた。全部雨でびしょ濡れになっていたが、何とか昨日のうちに乾いてくれたみたいだ。
身支度を整え終わると、千鶴は幸子と一緒に茶の間へ向かった。茶の間では甚右衛門は新聞を読んでいた。その横でトミがお茶を淹れている。
千鶴たちはまず茶の間の奥にある仏間へ行き、仏壇の前で手を合わせた。この日は千鶴の伯父正清の命日だ。本来ならば家族揃って墓参りに行くところだが、千鶴は学校を休めないし、幸子も病院の仕事があった。
祈り終わって茶の間に戻ると、千鶴は甚右衛門たちに出かける前の挨拶をした。
甚右衛門は目だけを向け、あぁと素っ気ない返事をした。辰蔵がいないので早く帳場に行こうとしているのか、甚右衛門は忙しげに新聞をめくっている。幸子が声をかけても、その様子は同じだった。
トミは二人に顔を向けて返事をしたが、千鶴に待つように言うと、お茶を淹れた湯飲みを甚右衛門の脇に置いて千鶴の傍へ来た。
「今日は電車でお行き。戻りも電車でな」
トミは懐から財布を出すと、千鶴に銭を持たせた。昨日は冷たい顔を見せたが、今朝は優しげな祖母に戻っていた。
幸子は花江から用意していた弁当を受け取ると、一つを千鶴に持たせた。
「花江さん、行てきます」
千鶴が声をかけると、花江は何か言いたげだった。しかし言葉が見つからなかったのか、黙って微笑んだ。
「何じゃと?」
甚右衛門が突然大きな声を上げた。千鶴たちが驚いて振り返ると、甚右衛門は新聞に顔を突っ込んでいる。
「どがいしたんね? 急にそげな大けな声出しんさって」
トミが怪訝そうに声をかけたが、甚右衛門は記事に釘づけになっていて返事をしない。仕方なくトミは甚右衛門の傍へ行き、横から新聞をのぞき込んだ。
恐らく伊予絣の値が暴落したのだろうと思い、千鶴は祖父たちに背を向けて帳場へ向かおうした。すると、また甚右衛門の声が聞こえて足を止めた。
「兵頭よ。兵頭のことが出とる。ほれ、ここ見てみぃ」
「誰ぞな、兵頭て?」
訊き返したのは祖母の声だ。千鶴が二人を振り返ると、裏木戸へ行こうとしていた幸子も立ち止まって見ていた。花江は洗濯の準備をしているが、耳は甚右衛門たちの言葉をしっかり聞いているはずだ。
「風寄の仲買人の兵頭よ。金曜日にここへ来たろがな」
「あぁ、あの兵頭さんかな。あのお人が、なして新聞に載っておいでるん?」
甚右衛門は説明しようとしたが、面倒に思ったようだ。自分で読めと、新聞をトミに突きつけた。
新聞を受け取ったトミは、どれどれと両腕を真っ直ぐ伸ばすと、新聞を読み始めた。
「豪雨が降る土曜日の真夜中、風寄の馬酒村に住む兵頭勘助さんの家が、突然ばりばりと音を立てて屋根が壊れた。その時に兵頭さんたちは、化け物が吠える恐ろしげな声を聞いたという。家人に怪我人はいるものの命に別状はなし。ただし、購入したばかりの牛は驚いて死んだ模様。尚、風寄では先日、山の主のイノシシが何者かに頭を潰されて死ぬという事件が起こっており、村人たちはすっかり怯えた様子だ」
トミは新聞を下ろすと、甚右衛門に訊ねた。
「これ、何やと思いんさる?」
「そげなこと、わしがわかるわけなかろ!」
甚右衛門は怒鳴った。
幸子が不安げな顔を千鶴に向けた。花江も手が止まって千鶴を見ている。イノシシ事件の話を聞いていたからか、花江の顔は強張っていた。だけど、一番怖い顔になっていたのは千鶴かもしれなかった。
千鶴は直感で、これは鬼の仕業だと思った。自分が兵頭を呪ったために、その願いを叶えようと鬼がお仕置きをしたのに違いない。兵頭を呪った時、千鶴は頭の中で鬼になって兵頭の家を壊した。それは記事が伝えた話そのものだ。
鬼は千鶴の幸せを願い、千鶴を見守ってくれていると忠之は言った。あの話は恐らく事実であり、鬼は今世でも千鶴のために動いてくれた。それがイノシシ事件であり、今回の兵頭の事件だ。鬼は千鶴の心を読んで、そのとおりに動いたのだ。
千鶴は兵頭を一つも気の毒だとは思わなかった。兵頭は忠之の恩を仇で返した。鬼に襲われても自業自得だ。命が助かっただけでも有り難いと思うべきなのだ。
鬼が味方になってくれているという想いは、千鶴を安心させ慰めてくれた。しかし、よく考えてみれば、これは怖いことだった。
兵頭を恨んで呪った時、忠之を思い出して途中で呪うのをやめた。もしあのまま呪い続けていればどうなっていたのかと考えると、千鶴は背筋が寒くなった。
今回は牛が死んだだけで済んだが、人の命が失われていれば取り返しがつかないところだった。それに鬼の手だって血で汚させたくない。鬼には優しい鬼のままでいてほしかった。
今後は無闇に怒りを覚えてはならないと、千鶴は自分を戒めた。また、祖父に対しても腹を立てないと決めた。自分のちょっとした怒りが、大事になりかねないのだ。とにかく何があっても、するべきことを淡々とするだけで、決して腹を立ててはいけないと、千鶴は自分に言い聞かせた。
「ほやけど、どがぁするんぞな? 兵頭さん所の牛が死んでしもたて書いてあるけんど、今度はどがぁして絣を持って来んさるんじゃろか?」
トミは兵頭の家が壊れた話よりも、絣の納入が滞ることを気にしていた。
甚右衛門はトミを見たが、返事ができないようだ。それはそうだろう。もう前のように、忠之が大八車で絣を運んでくれることはないのだ。
兵頭ばかりか祖父までもが、再び頭を抱えねばならなくなったみたいだ。千鶴は少し鬱憤を晴らした気分になった。
二
札ノ辻から電車に乗った千鶴は、歩かずに済んだのを有り難く思いながら、電車に憧れていた忠之を思い出して悲しくなった。
松山で暮らしたなら、いつかは乗れたであろう電車や陸蒸気に忠之が乗ることはもうない。その電車に自分が乗っていることが、千鶴は切なかった。
電車は師範学校の脇を通り抜けたあと、西に向きを変えた。しばらくすると電車は傾斜を登り始めて、南北に走る二つの線路の上を越えた。すぐ左に古町停車場が見える。
そこにはもう何台かの大八車が集まって、遠方へ送る品が降ろされている。その様子を眺めていると、風寄から引いて来た大八車に載せた絣の箱を、茂七と一緒に停車場へ運び込む忠之の姿が目に浮かぶ。
車内には他の乗客もいたが、千鶴の頬は涙に濡れた。
いつも通学で歩く三津街道に沿って、電車は進んで行く。誰も座っていない隣の席で、嬉しそうな忠之がとびきりの笑顔を千鶴に見せている。
千鶴は堪えきれなくなって、両手で顔を覆った。
ゴトンゴトンという電車の揺れ動きを感じながら、千鶴は心の中で忠之に、必ず傍に行くから待っていてほしいと、ずっと声をかけ続けた。
「新立、新立です」
車掌の声が聞こえ、千鶴は顔を上げて涙を拭いた。そこはもう学校のすぐ近くだ。
電車を降りると、千鶴は女子師範学校へ向かった。
普段よりかなり早い時間の到着になったので、何だかいつもと調子が違う。それでも校門の前に立った千鶴は、とにかく将来のためにがんばろうと、校舎を見上げながら気持ちを新たにした。
校舎に入り教室へ向かうと、騒々しい声が教室から廊下にあふれ出ている。今日も静子が今朝の新聞記事のことで、みんなに喋っているのだろう。
「おはようござんした」
教室に入って声をかけると、級友たちはぴたりと喋るのをやめて千鶴を見た。一斉に振り返られた感じが異様な雰囲気で、千鶴は戸惑いを覚えながら笑顔を見せた。ところが千鶴に笑顔を返す者はなく、みんな怖い物でも見るような目を千鶴に向けている。
集まりの中心には、やはり静子がいた。その隣には春子がいる。二人の顔にも笑顔はない。静子は怯えた様子で、春子は今にも泣きそうだ。
「山﨑さん、鬼が憑いとるんやて?」
静子が唐突に言った。
え?――一瞬、頭の中が白くなった千鶴は、すぐに春子を見た。
春子は慌てて目を伏せた。静子は続けて言った。
「お祓いの婆さまに、鬼が憑いとるて言われたんじゃろ? その婆さまでも手に負えん恐ろしい鬼が憑いとるて聞いたで」
千鶴は返事をしなかった。顔を上げようとしない春子に怒りを覚えたが、怒ってはいけないと必死で自分を抑えていた。
静子は名探偵にでもなったつもりか、かつての仲よしだった千鶴を容赦なく責めた。
「今朝の新聞に出よったけんど、風寄で化け物に襲われた家があったそうなね。山﨑さんも知っとろ?」
「し、知らんぞな、そげな話」
知っているとは言えなかった。
「風寄で死んだイノシシ、頭潰されて死によったんじゃろ? あれかてほの化け物の仕業に違いないで」
「そげなこと、うちに言われたかて困らい」
「山﨑さん、イノシシの死骸が見つかった頃、気ぃ失うてお寺で倒れよったんやて? お寺に行ったはずないのに、お寺で見つかったやなんて尋常なことやないで。山﨑さん、ほん時に鬼に憑かれたんやないん?」
千鶴はもう一度春子を見た。春子は下を向いたまま顔を上げない。
「そのお寺、昔、鬼娘いう鬼の娘が棲みよったんじゃろ?」
「村上さん、高橋さんに全部喋ったん?」
千鶴は顔を伏せたままの春子を責めた。しかし、それは静子の言い分を認めたのと同じ意味になる。
級友たちがざわめいた。近くにいる者同士で身を寄せ合い、泣きそうな声で怖いと言う者もいた。
「うち、鬼娘やないけん」
千鶴が訴えながら一歩前に出ると、みんなは慌てて立ち上がり、転びそうになりながら後ずさった。静子は下がらなかったが、必死で恐怖に耐えている顔だ。
「山﨑さんがそがぁいうても、鬼はそげには思とらんのやないん? 山﨑さん、村上さんのひぃばあちゃんに鬼娘て言われたんじゃろ? 村上さんかて山﨑さん所遊びに行ってから、ずっと具合が悪い言うとるで」
「ほんな……」
春子はあれだけ喜んで帰って行ったのに、あれは全部嘘だったのか。その後も春子は何も言わなかった。言えば鬼を怒らせると思ったのだろうか。
春子は静子の袖をつかんで引っ張った。だが、静子はその袖を引き離した。
千鶴と目が合った春子は泣きそうな顔で首を横に振った。その横にいた級友の一人が怯えた声で言った。
「うちがここんとこ頭痛かったんは、鬼のせいじゃったんか」
その言葉が引き金になり、他の者たちも次々に同じようなことを口にした。中には家族の怪我や病気、遠方の親戚の不幸までも千鶴のせいにする者がいた。それに合わせて静子が言った。
「ひょっとして、うちの伯父さんらが化け物イノシシに襲われたんも、鬼が関わっとったんかも」
完全なる言いがかりだ。鬼がイノシシをけしかけたのなら、何故そのイノシシを殺す必要があったのか。理屈もへったくれもない。無茶苦茶である。
みんな恐れるがあまり、千鶴をすべての不幸の原因に仕立て上げた。千鶴が何を言おうと誰も聞く耳を持とうとしない。
おはようござんしたと、何も知らない別の級友が入って来た。教室の異様な雰囲気に気づいた級友は、入り口近くに立ったまま、どうしたのかとみんなに声をかけた。
「鬼ぞな。鬼がおるんよ」
誰かが言った。
「え? 鬼?」
入って来た級友が顔を強張らせると、千鶴はうろたえる春子を一睨みして教室を飛び出した。
三
千鶴が廊下に出ると、すぐに春子も追いかけて来た。春子を見るのも嫌な千鶴は校舎の外へ逃げたが、春子は後について来た。
校舎の裏に回った所で千鶴が立ち止まると、春子もそこで足を止めた。二人は黙って互いを見ながら、肩で大きく息をしている。
「山﨑さん、ごめん」
春子が先に口を開いた。千鶴が黙っていると、春子はもう一度、ごめんと言った。
何がごめんかと思いながら、千鶴は冷たく言い放った。
「鬼が怖ぁて謝りよるんじゃろ?」
春子は黙っている。図星なのだ。
「自分ぎり助けてもらお思て謝るやなんてみっともない」
「鬼が怖いんは嘘やないけんど、ほれが理由で謝っとるんやないけん」
「他にどがぁな理由があるん?」
「おら、山﨑さんを傷つけてしもたけん」
どの口が言うのかと言ってやりたかったが、千鶴は堪えた。とにかく腹を立ててはいけないと思い、何度も息を大きく吸って気持ちを落ち着けようとした。だけど、悔し涙が止まらない。
「うち、子供の頃から、ずっと白い目で見られよった……。ほんでもな、ここへ来て初めて友だちできたて思いよったんよ。うちがどんだけ嬉しかったか、村上さんにはわからんじゃろ」
「こげなこと言うても信じてもらえんかもしれんけんど、おら、山﨑さんに憧れよったんよ」
「うちみたいな者の何に憧れるんよ?」
「ほやかて、山﨑さん、きれいやし優しいし、立派なお店の娘さんやし、おらたちとは違う人やけん」
春子の空しい言葉は、千鶴を余計にいらだたせた。
「ほうよほうよ。うちはみんなとは違うんよ。ほじゃけん、いっつもかっつも邪険にされて、見下されてきたんよ」
「おら、見下したりしとらん」
「見下しとるけん、うちの知らんとこで、みんなにうちの陰口言いよったんじゃろ?」
「陰口言うたんやない」
「ほな、何やのん?」
「つい、口が滑ってしもたんよ……」
春子の弁解によれば、静子が新聞記事を話の種に、今朝早くに寮まで来たらしい。その時に、春子はうっかりお祓いの婆の話をしてしまい、そこからずるずると他のことも聞き出されたという。
だけど、そんな言い訳をされたところで納得できるわけがない。すべては風寄を訪れたために始まったのだ。
「風寄には村上さんが誘てくれたけん行ったんで。ほんまじゃったら、うちが風寄へ行くことはなかったんよ。ほしたら、今みたいなことにはならんかったんで」
春子は黙って項垂れている。
「ほんでも村上さんがうちを誘てくれて、うちはまっこと嬉しかった。村上さんがうちのこと大事に思てくれとるんじゃて、勝手に思いよった」
「おら、ほんまに村上さんを大事に思いよったんよ」
「じゃったら、なしてよ! なして、こがぁなことになるん? いくら高橋さんに言われたにしても、あれこれ喋る必要なかろがね」
春子が何も言わないので、千鶴は続けて言った。
「うち、村上さんに嫌な思いさせとなかったけん、今までずっと黙っとったけんど、教えてあげよわい。うちな、村上さんの従兄らに手籠めにされるとこやったんよ」
え?――と春子は驚いた顔を上げた。
「ほれ、いつのこと?」
「御神輿投げ落とそとしよった時、村上さん、うちを残して一人で人垣ん中へ入ってったろ? あのあとぞな。うちはあの人らにみんなから見えん所へ連れて行かれて、手籠めにされそうになったんよ」
「ほんな……」
「あの人ら、うちを捕まえて、へらへら笑いながら言うたんよ。ロシア兵の娘なんぞ、手籠めにしたとこで誰っちゃ文句は言わん、みんな喜んでくれるて言いよったわいね。村上さんのお父さんもお兄さんも、みんな、うちを歓迎するふりしよったぎりじゃて言いよったんよ!」
喋りながら悔しくなった千鶴の頬を、新たな涙が濡らした。春子は弁解をしようとしたが、千鶴は構わず話を続けた。
「ほんでも、あるお人に助けてもろたけん、手籠めにされんで済んだけんど、そのお人がおらなんだら、うちは今頃この世におらんけん」
「おら、何も知らなんだ。ごめん……」
また下を向いた春子に、千鶴は言った。
「ほん時に、うちは思たんよ。みんな、うちの前でにこにこしよるけんど、ほんまはうちを見下しよったんやなて」
「ほんなこと――」
顔を上げた春子を遮って千鶴は言った。
「ほやけど、うちは村上さんのことは信じとったんよ。一緒に松山の街を廻った時も、村上さん、ほんまに喜んでくれとるて思いよったんよ」
「おら、ほんまに楽しかった」
「ほうよな。あんまし楽し過ぎて具合悪なってしもたんじゃろ?」
「ほれは……」
「村上さん、うちのことみんなに喋りたかったんじゃろ? ほんまはうちのことが気味悪いて、みんなに言いたかったんじゃろ?」
「そがぁなこと思とらん」
「じゃったら、村上さん、さっき一言でもうちをかぼてくれた?」
春子は黙ったまま首を横に振った。
千鶴は目を閉じると、怒ってはいけないと自分を戒め、春子のことは怒っていないからと鬼に訴えた。
けれども、もう学校には残れない。自分を化け物と見なす者たちと、一緒に過ごすなどできなかった。だが、これで忠之と夫婦になるための唯一の道が断たれたのだ。そのことも悔しくて悲しくて、千鶴は子供みたいに泣いた。
四
「それは、みんなが間違ってるよ」
千鶴たちと向かい合って座る井上教諭は憤った。
一時限目は井上教諭の授業のはずだった。しかし千鶴と春子がいないことに気がつき、何があったのかを確かめた教諭は授業を自習にした。それから校舎の裏で泣いている二人を見つけ、応接室へ連れて来て話を聞いていた。
「これから小学校の教師になろうという者たちが、何てざまだ! これじゃ、いくら師範の資格を取ったところで、立派な教師になんかなれないじゃないか!」
春子は消え入りそうなほど小さくなっている。その春子に教諭は言った。
「村上さん。君は山﨑さんに悪かったと謝っている。だけど、物事には謝って済むことと、そうじゃないことがあるんだ。あとで謝るぐらいなら、最初からやるべきじゃない。自分の行動の結果がどうなるのかぐらい、わかってないとだめだろ?」
春子は項垂れて泣いているが、教諭にいつもの優しさはなく容赦なかった。
「たった一人を大勢でいたぶるのは、僕が一番嫌いなことなんだ。相手が抵抗できず逆らえないのがわかった上で、みんなでいたぶるなんて最低だよ」
井上教諭はいらだった様子で懐から煙草を取り出した。煙草に火をつける手が小さく震えている。教諭は本気で怒っていた。また、自分の教え子たちがこんな騒ぎを起こしたことに、打ちのめされているようでもあった。
ふぅっと煙を吐き出した教諭は、肩を落として言った。
「前に異界生物なんて分類をしたことで、君たちに本気で物の怪の類いを信じさせてしまったのだとしたら、この僕にも責任の一端はある。教師として僕は自分が情けないよ」
教諭はすぐに顔を上げると、だけどさと言った。
「山﨑くんはみんなと同じ人間じゃないか。しかも、ずっとみんなと一緒に過ごしてきた仲間だろ? お祓いのお婆さんや、村上さんのひいおばあちゃんが何を言ったとこで、まともに考えたら何が本当なのかわかるはずだよ」
僕は悲しいよと言うと、井上教諭はまた煙草を吸った。
「取り敢えずの話は聞かせてもらったけど、このあと改めて担任の先生や校長先生を交えて、事の経緯を聞かせてもらうからね。いじめは厳禁だから、下手をすれば全員が退学って話も有り得るよ」
教諭の言葉に、春子は声を上げて泣いた。
「先生、もう、ええんぞなもし」
千鶴は静かに言った。
「うち、もう誰のことも怒っとりません。ほやけん、もう、ええんぞなもし」
「山﨑さん、君は怒っていいんだ。悪いのはみんなの方なんだ」
「先生、ほんまにええんぞなもし。うち、もう怒るんはやめたんぞなもし」
井上教諭は指で眼鏡を押し上げて千鶴を見た。
「君は強い子だな。これだけのことをされながら、みんなを許すと言うのかい?」
千鶴がうなずくと、春子は泣きながら千鶴に謝った。千鶴は春子にも、もう怒ってないし、春子のことも許したと言った。
よかったなと教諭は春子に声をかけた。だが、千鶴は間髪入れずに言った。
「ほやけど、学校はやめるぞなもし。うちは、ここにはおれんですけん」
春子は慌てて涙で濡れた顔を上げた。
「山﨑さん、そげなこと言わんでや。このとおり、おら、何べんでも謝るけん、やめるやなんて言わんで」
春子は千鶴の手を取って頭を下げた。その手をそっと離して千鶴は言った。
「村上さん。自分が今のうちの立場やったら、このまま平気な顔して学校へ来られる?」
春子は下を向いたまま黙って首を振った。
千鶴は井上教諭に言った。
「みんなはうちのこと化け物やて思とります。先生に言われて謝ったとしても、みんなの心の内は変わらんですけん。そげな所におるんは、うちには耐えられんぞなもし」
井上教諭は千鶴をなだめるように言った。
「君の気持ちは理解できるよ。だけど、傷つけられた君が学校をやめるなんて、道理に合わないよ」
「先生にはわからんことぞなもし」
困ったなと井上教諭は腕組みをすると、ふーむと唸った。
「先生方には、ほんまにお世話になりました。ほんまじゃったら、先生方お一人お一人にご挨拶せんといかんのじゃろけんど、今日はようしません。ほじゃけん、井上先生の方からよろしゅうお伝えいただけませんか」
「それはもちろん、校長先生や担任の先生とも話をしないといけないから……。でもね、明日になれば少し気持ちが落ち着くよ。学校をやめるかどうかを考えるのは、そのあとでも遅くはないと思うけど」
「うちは今度学校を休んだら退学になるて、校長先生から言われとります。ほじゃけん、どちゃみち学校にはおられんぞなもし」
井上教諭は春子に教室へ戻るようにと言った。春子が泣きながら応接室を出て行くと、教諭は千鶴に言った。
「要は君の気持ちの問題だよ。今回のことを君が気にしないでいられるなら、学校をやめないで済むだろ?」
「ほんなん無理やし」
「僕はね、少し催眠術をかじってるんだ。催眠術では昔の記憶を探ったりできるんだけど、嫌な記憶を消すのだって不可能じゃないんだよ。だから、これで君の傷ついた――」
「もう、ええんです。構んでつかぁさい」
千鶴は声を荒らげると立ち上がった。
「うちの記憶を消したとこで、みんなの気持ちは変わらんぞな。みんながうちを見下しよんのに、うちはみんなを友だちじゃて思わされるやなんて、ほれは、うちに阿呆になれいうことぞなもし」
「すまない。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。僕が悪かったよ」
うろたえる教諭に、千鶴は言った。
「すんません。先生が、うちのこと思て言いんさったんはわかっとります。ほやけど、もうどがいもならんぞなもし」
千鶴は頭を下げると、井上教諭を残して応接室を出て行った。
五
千鶴がまだ十一時にもならないうちに戻って来たので、帳場にいた甚右衛門は驚いた。
千鶴の悲壮な顔を見たからだろう。一緒にいた茂七と亀吉も何事があったのかという顔をしていたが、千鶴に声をかけたりはしなかった。
甚右衛門は茂七に帳場を任せると、千鶴を奥へ連れて行った。
茶の間ではトミが縫い物をし、台所では花江が昼飯の準備をしていた。甚右衛門が店を離れられないので、正清の墓参りにはトミが一人で行くらしい。それでも、まだいるところを見ると、墓参りには午後から出かけるようだ。
甚右衛門に顔を向けたトミと花江は、その後ろにいる千鶴に気づいて目を見開いた。
トミに声をかけた甚右衛門は、そのまま離れの部屋へ向かった。千鶴は黙ってその後に続き、さらに後ろをトミが不安げな顔でついて来た。
台所に残った花江は、心配そうに千鶴を見送っていた。
離れに入ると、甚右衛門は千鶴とトミを座らせ、どうしてこんな時刻に戻って来たのかと千鶴に訊ねた。
「具合が悪うて戻んたようには見えんが、なして戻んた?」
千鶴は黙って下を向いていたが、もう一度訊かれると、二人に頭を下げて言った。
「おじいちゃん、おばあちゃん、うち、学校はやめます。もう、学校には行きません」
甚右衛門もトミも目を瞠って互いを見た。
「学校をやめるとは、どがぁな了見ぞな? 理由を言え」
甚右衛門の問いかけに千鶴が黙っていると、トミが心配そうに声をかけた。
「千鶴、何があったんぞな? 怒ったりせんけん、言うとうみ」
「うち……」
家に戻って来るまでの間に、千鶴は気持ちが変わっていた。鬼娘扱いをされて傷ついた自分を、情けないと思うようになったのだ。
鬼の仲間と思われて傷ついたのを、鬼はどう思ったのかと千鶴は考えた。そして、自分もまた鬼を傷つけてしまったと気がついたのである。
ずっと自分の傍にいてほしいと言っておきながら、鬼が傍にいると言われて傷つくのは矛盾している。そのことを千鶴は家に戻るまで鬼に詫び続け、もう鬼の仲間と言われても傷つかないと約束した。だから学校をやめる理由を訊かれても、鬼を理由にしたくはなかった。しかし、事実は鬼が理由である。
「うち、人間やないけん……」
千鶴は下を向きながら小声で言った。心の中では、自分の言い草を鬼に詫びていた。
「人間やない? そげなことを誰が言うた?」
「……みんな」
甚右衛門は憤りを隠さなかったが、千鶴には静かに話しかけ、どうしてそんなことを言われたのか、その理由を訊ねた。
千鶴は風寄で我が身に起こったことや、お祓いの婆に言われたことなど、これまで二人に打ち明けていなかった話をした。ただ、イノシシに襲われたことは黙っていた。喋れば祖父母が鬼を疑うのは目に見えている。二人はすでに顔を強張らせていた。
「ほれで、みんなはお前を化け物扱いしたいうんかな」
甚右衛門に訊かれて千鶴がうなずくと、トミが言った。
「ほやけど、その話をみんなはどがぁして知ったんぞな?」
春子が新聞記事を見た級友から問い詰められて、いろいろ喋ってしまったことを千鶴は話した。春子を知る甚右衛門たちは驚き、何でまたと信じられない顔を見交わした。
千鶴は春子のことは怒っていないとしながら、級友たちの態度が耐えられないと言った。
「実際に鬼が出て来たことはないし、悪さをされたこともありません。ほやけど、誰もうちの話を聞いてくれんで、うちを鬼娘扱いするけん、もう学校にはおられんぞなもし。ほんでも、うちが我慢でけんのは鬼娘言われたことより、村八分にされたことですけん」
鬼への言い訳が混ざっているので妙な言い分になったが、甚右衛門もトミも何も言わなかった。二人とも明らかに顔色が変わっていて、千鶴の話は半分しか聞いていないように見えた。その様子は千鶴を悲しくさせた。
「やっぱしおじいちゃんもおばあちゃんも、鬼が怖いん?」
千鶴がしょんぼり訊ねても、二人は返事をしなかった。トミは甚右衛門を怯えた目で見るばかりだし、甚右衛門は動揺したように目を動かしている。
「旦那さん」
外で亀吉の声がした。
甚右衛門が顔を出すと、亀吉が言った。
「仕入れの荷物が届いたけん、旦那さん呼んで来てくれて、茂七さんが言うとりんさるぞなもし」
わかったと言うと、甚右衛門は千鶴を振り返った。
「今は仕事が忙しい。ばあさんも昼から墓参りに行かにゃならんけん、話の続きは夕飯を済ませてからにしよわい。ええな?」
千鶴がうなずくと、甚右衛門は急ぎ足で帳場へ向かった。
一方、トミは座ったまま動こうとしなかった。どうしたのかと思ったら、トミは泣いていた。トミは何度も涙を拭きながら、可哀想になと言った。
千鶴は聞き間違いかと思ったが、可哀想にとトミは繰り返して言った。
「おばあちゃん……」
「あんたは何もしとらんのにな……。なしてそげなことを言われないけんのぞ。どいつもこいつも人でなしばっかしぞな」
驚いたことに、トミは千鶴を想って泣いていた。鼻をすすったトミは目を伏せて言った。
「ほんでも、うちらかて人のことは言われん。うちらもまた人でなしぞな」
トミは甚右衛門が忠之を雇わなくなったことに対して腹を立てていた。だが、甚右衛門を止められない自分も同罪だと考えているらしかった。
「あの子はまっことええ子ぞな。今もまだうちの店があるんはあの子のお陰やのに、その恩を忘れて何が身分ね。人でなしに身分も糞もあるまいに」
千鶴は縋る想いで祖母に言った。
「おばあちゃん、今からでも佐伯さんをここへ呼び戻せんの?」
そがぁなこと――とトミは涙を拭きながら言った。
「あの人はいったん言いだしたら聞かんけんな。うちが何言うたところで、どがぁにもなるまい。ほれに今更どがぁ言うて、あの子にお詫びしたらええんね?」
「佐伯さんじゃったら、きっとわかってくんさるぞな」
「仮にあの子が勘弁してくれたとこで、あの子の家族が黙っとらんわね。うちが対の立場じゃったら、絶対に勘弁せんけん」
それは確かにそうだ。忠之をただ働きさせていた兵頭も、忠之の家族の怒りを買って、新たな牛を購入せざるを得なかったのである。
今回の祖父がしたことは、兵頭よりも質が悪いといえる。忠之の家族が許してくれるはずがない。
「とにかくな、学校のこともあの子のことも、今は辛抱するしかないぞな。ほんでも、あんたは下を向くんやのうて、前を向いとりんさい。誰が何を言おうと、あんたはうちらの自慢の孫娘ぞな。何があっても胸張っとるんよ。ええな?」
トミは千鶴を励ますと、部屋を出て行った。
六
思わず祖母と喋ってしまったが、我に返った千鶴は何が起こったのかわからなかった。
何故祖母が自分のために泣いてくれたのか。何故祖母が自分に優しい言葉をかけてくれたのか。前にも思ったことではあるが、千鶴は自分が異界に迷い込んでいるように感じていた。忠之や鬼のことも含め、何もかもが尋常じゃない。
それでも祖母の涙と言葉は千鶴の胸を打った。理由はわからないが、今の祖母は自分の味方だと、千鶴は受け止めていた。
状況がよくないことに変わりはないが、祖母が味方してくれるのはとても心強かった。これまでの寂しさが解消されるほど、千鶴の胸に嬉しさが広がった。
しかし、先ほどの鬼を恐れる祖母の様子を思い出すと、千鶴は悲しくなった。祖母が自分を励ましてくれただけに、鬼が憑いていると怖がられるのはつらかった。
だけど、自分に起こっていることを聞けば、鬼との関わりを疑うのは当たり前だし、その鬼を恐れるのも人間であれば当然なのだ。
自分だって忠之からいろいろ話を聞かせてもらうまでは鬼を恐れ、悪いことを全部鬼のせいにしていたのである。鬼を怖がる者たちに文句を言える立場ではない。
それはともかくとして師範の道が閉ざされたために、自立して忠之と夫婦になるという望みが絶たれてしまった。また、春子とこんなことになってしまったから、忠之へ手紙を出すことも敵わなくなった。
けれど、手紙を出したところで解決にはつながらない。祖母が言ったように、忠之の家族が怒り狂っているはずで、忠之をこちらへ呼ぶことは、祖父が考えを改めたとしてもむずかしいに違いない。かといって、自分が家を出て風寄へ行ったとしても、やはり忠之の家族には受け入れてもらえないだろう。
忠之の育ての親は、実の子供を日露戦争で失っている。それだけでもロシア兵の娘が認めてもらうのは困難なのに、そこへ今回のことが重なったのだ。どう考えても拒絶されるに決まっている。そんな家族に逆らってまでして、忠之は一緒になってはくれない。
「鬼さん、うちはどがぁしたらええと思いんさる?」
千鶴は自分に憑いている鬼に声をかけた。この部屋のどこかにいるだろうに、鬼からの返事はない。
「鬼さん、何とか言うておくんなもし」
いくら訊ねても、部屋の中は物音一つしない。きっと鬼は見守るばかりで、余計なことはしないのだ。
あきらめた千鶴は、級友たちのことは怒っていないから、何もしないでと鬼に頼んだ。
病み上がりで学校へ行った上に、耐えられないほど嫌な想いをさせられて、千鶴は疲労を感じていた。ごろりと仰向けになると、目を閉じて不動明王に祈った。
他にも神仏はいるが、前世で法生寺にいた千鶴には、不動明王が一番身近に感じられた。それに忠之が一番信心しているのも不動明王だ。何もできない今、頼れるのは不動明王だけだった。
「お不動さま、おらを進さんと夫婦にしてつかぁさい。どうか、おらたちの力になってつかぁさい」
千鶴は祈った。必死に祈り続けた。祈るしかなかった。
祈りながらいつしか眠りに落ちた千鶴は、進之丞の夢を見た。夢の中で、千鶴は子供になったり大人になったりしながら進之丞と遊んだ。
前に見た夢のごとく、嫁にしたいと進之丞から言われた千鶴は幸せを感じていた。しかし、二人は死に別れる定めであるとわかっている自分がいた。幸せに喜ぶ自分を眺めるもう一つの自分は、切なく悲しい気持ちに沈んでいた。
「千鶴ちゃん」
千鶴を呼ぶ声がした。はっと目を覚ました千鶴は体を起こした。
「千鶴ちゃん、寝てるのかい? お昼ができたんだけど、こっちへ持って来ようか?」
障子の向こうで声をかけているのは花江だ。
千鶴が障子を開けると、花江が心配そうな顔で立っている。
「だんだん。ほれじゃあ、こっちへお願いします」
「やっぱり、まだ具合が悪いのかい?」
「ちぃとね。ほんでも、ご飯食べたら家のこと手伝うけん」
いいよいいよと花江は手を振り、今日はゆっくり休むようにと言ってくれた。
花江がいなくなると、千鶴は今見た夢を思い返した。
前世の記憶をたどるような夢だったが、前世の結末を自分は知っている。そのために前世で幸せを感じていた自分を切なく思ったが、それは今の自分にも言えることだ。
来ると思っていた忠之が、思いがけない形で来なくなった。この先どうなるかを自分は知らないが、今の夢みたいに、どんな結末が待っているのかは決まっているのだろう。
いい結末なのか、悲しい結末なのか。考えてもわからないが、考えれば考えるほど後者のような気になってしまう。
千鶴は両手を合わせると、改めて不動明王に自分と忠之の幸せを願った。自分たちを引き合わせたのが不動明王であるならば、きっといい結末へ導いてくれるはずだ。そう期待を込めて、千鶴は願い続けた。
祖父母の想い
一
夕飯を済ませたあと、男衆は銭湯へ行った。
花江はアイロン掛けを始めるところだったが、トミに銭湯へ行くように促された。
千鶴は昼前に学校から戻ったことについて、病み上がりで具合が悪かったからと花江に話した。しかし、それが本当の理由でないのは花江はわかっていたはずだ。千鶴をねぎらって、それ以上突っ込みはしなかったが、やはり千鶴のことは気になるみたいだ。
使用人がみんな外に出されることにも何かを思ったらしく、花江は家を出るまで心配そうな目を千鶴に向けていた。
花江がいなくなると、トミは茶の間の障子を閉め切った。部屋の中にいるのは甚右衛門とトミ、そして幸子と千鶴の四人だけだ。
「改めて訊くが、千鶴、お前は学校をやめるんか?」
甚右衛門に質されると、千鶴はうなずいた。甚右衛門はわかったと言った。
「お前がやめる言うんを、無理には行かせられまい。学校の方には、明日にでも連絡を入れようわい」
「すんません」
頭を下げる千鶴に甚右衛門は言った。
「別に気にせいでええ。お前に婿取るんなら、学校はやめさすつもりじゃったけん」
穏やかに話す甚右衛門に、横から幸子が口を挟んだ。
「ほんでも婿の話はのうなったし、この子は教師になろ思て、これまでがんばりよったのに、なしてこげな形で学校をやめないけんのですか」
幸子は憤っていた。忠之が山﨑機織に来なくなった今、忠之と一緒になるために一人前の師範になるようにと、千鶴を促したのは幸子である。なのにそれがだめになった腹立ちが、幸子の言葉に表れていた。
千鶴に何があったのかを幸子が知ったのは、病院の仕事から戻ったあとだった。夕飯の少し前に事情を聞かされたばかりで、幸子は食事中からずっと腹を立てていた。
そんな幸子とは対照的に、トミは落ち着いた様子で言った。
「世間はな、いっつもかっつも踏みつける相手を探しよるんよ。どがぁな形であれ、目立つ者は目の敵にされるもんぞな。やけんいうて、踏みつけられたままでおることはない。そげな連中を見返してやるぐらい、立派な人間になったらええんぞな」
甚右衛門はうなずくと、千鶴に訊ねた。
「学校ではこの件について、どがぁするつもりなんぞ?」
「うちにはわからんぞなもし。ただ先生には、うちは誰のことも怒っとらんし、みんなのことは許したて言いました」
千鶴の返事に幸子は呆れた顔になった。
「あんた、こがぁな目に遭わされたのに、怒っとらんて先生に言うたんか」
「もう済んだ話ぞな。文句言うても詮ないことよ。ほれより千鶴は立派じゃったな。ほんだけ悔しい思いをしたのに相手を許すなんぞ、誰にでもでけることやない」
甚右衛門が千鶴をねぎらうと、トミも千鶴を褒めた。
「ほうよほうよ。おじいちゃんの言うとおりぞな。あんたは立派じゃった」
何故、祖父母が自分に優しい言葉をかけるのか、千鶴にはわからなかった。特に祖母は千鶴のために泣いてくれた。千鶴は今こそ理由をはっきり知りたいと思った。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、なして、うちに優しい言葉をかけてくんさるん? うち、お婿さんもらう話も断ったし、せっかく行かせてもろた学校も、こげなことになってしもた。ほんまじゃったら怒鳴られるとこやのに、なしてそげな優しい言葉をかけてくんさるんぞなもし?」
千鶴が訊ねると、甚右衛門とトミは戸惑った顔を見交わした。
「うち、お父さんがロシアの兵隊じゃけん、みんなから白い目で見られよるし、おじいちゃんらにも嫌われとるて思いよりました。ほれやのに、ここんとこ二人ともうちに優しゅうしてくんさるし、今日かて怒りもせん。なしてぞなもし?」
二人はまだ返事をしない。それでも千鶴が待っていると、トミが甚右衛門に目で何かを促した。覚悟を決めた様子の甚右衛門は、ようやく口を開いた。
「お前の言うことは尤もぞな。わしらはお前にずっと冷たい態度を見せよったけんな」
続けて甚右衛門は、幸子にも目を遣りながら話し始めた。
「正清の戦死の知らせが来た時、わしらは目の前が真っ暗になった。これから何を目標に生きていったらええんか、わからんなってしもた。戦争に勝ったとしても、息子が死んでしもたら意味ないけんな。ほじゃけん、正直なとこ、日本が捕虜にしたロシア兵に手厚くしよるんを、わしらは腹立たしいに思いよった。そこへ追い打ちをかけるようにな、幸子がロシア兵の血を引くお前を孕んだんよ」
当時の話は、千鶴は母からおおよそのことを聞いている。どこにも居場所がなくなった母は、大きく膨らみだしたお腹を抱えて家を飛び出し、当てもなく彷徨っているところを知念和尚に助けられたのである。
母が世話を受けた法生寺があるのは風寄だ。家のごたごたが絣の織子たちに知れるのを恐れた祖父は、母が子供を産むのを認めて家に呼び戻したという。それは母から聞かされていた話と同じだ。
お前には悪いけんど――と甚右衛門は千鶴に前置きをしてから、あの時は幸子が千鶴を産んだことが恥ずかしく、針の筵に座らされているみたいだったと言った。実際に陰口を言われたり笑われたりしたそうで、面と向かって恥知らずと罵られもしたらしい。
そんな話を聞かされるのは、千鶴にはつらかった。つい下を向くと、ほやけどなと甚右衛門は言った。
「わしは思い出したんよ。昔、わしの祖父上、つまり、わしのじいさんが話してくんさったことをな」
顔を上げた千鶴に、甚右衛門はにこやかに言った。
「こないだ言うたように、わしは元は武家の生まれでな。祖父上はお前からすれば、ひぃひぃじいさんじゃな。ひぃひぃじいさんはお侍じゃったんよ」
二
甚右衛門の父親は下級武士で、名を重見甚三郎という。
明治になって、苦しい家計がますます苦しくなると、甚右衛門は十二歳の時に山﨑家へ養子に出されることになった。
甚右衛門は家を出る前に、寝たきりになっていた祖父善二郎に別れの挨拶をした。
善二郎は喋るのが不自由だったが、甚右衛門が養子に出されることを惜しみ、自分もかつて養女をもらうはずだったと、呂律が回らない舌で甚右衛門に語った。
明治になる少し前、親友から相談を受けたのだと善二郎は言った。身分違いの娘を一人息子の嫁にしたいので、その娘を養女にしてもらいたいと親友に頼まれたそうだ。
身分を重んじる侍は、身分の低い者とはそのままでは夫婦になれない。そのため身分の低い娘を嫁に迎える時には、その娘を一旦武家の養女にすることで、身分の体裁を整えたという。
「祖父上の親友の名前は、誰じゃったか忘れてしもたが、風寄の代官じゃったそうな。その息子の嫁になるんは、法生寺におった身寄りのない娘でな。お前と対で、異国の血ぃが流れておったんじゃと」
何ということだろう。前世の自分が法生寺で暮らしていた話を、祖父が語ってくれている。千鶴は鳥肌が立つ思いがした。
「お前が聞いた話では、法生寺におった娘は鬼じゃいうことやが、事実はさにあらずよ。ほの娘はな、異国の血ぃを引いとったんよ。ほじゃけん、お前がその娘に似ぃとったとしても、何の不思議もないわけよ」
千鶴を慰めるように喋ったあと、甚右衛門は話を戻した。
「祖父上がほの娘を養女にすることに、周りはみんな反対じゃった。けんど親友の頼みじゃけんな。祖父上はほれをすんなり引き受けんさったんよ」
だが実際にその娘を養女に迎えようとしていた矢先、親友の代官とその息子は殺され、その娘も行方知れずになったと甚右衛門は言った。
「親友から娘の話を聞かされておいでた祖父上は、ほの娘を不憫に思いんさってな。せめてその娘の面倒だけでも見てやりたかったと言うとりんさった。その話をわしは思い出したんよ」
甚右衛門が語ったことを、トミはわかっていたらしい。黙って横でうなずいている。しかし、初めての話だった幸子は驚いた顔を見せた。
「お前を腹に抱えた幸子が世話になったんも、同し法生寺やけんな。わしはお前と祖父上が言いんさった娘に縁があるように思えてな。ほれでお前が産まれたことを、実家に報告しに行ったんよ」
「ほれはいつの話ぞなもし?」
幸子が訊ねると、千鶴が生まれて間もない頃だと甚右衛門は言った。
「わしは向こうの家を出る時に、山﨑家に入ったら重見家のことは忘れて、山﨑家のために生涯を尽くせと言われてな。ほれまで、ほのとおりに生きてきた。ほじゃけん、ほれが家を出てから初めての里帰りじゃった」
甚右衛門が重見家を訪ねると、兄の善兵衛が顔を出した。善兵衛は県庁勤めをしていたが、この日は休みで家にいた。
久しぶりの弟との再会に善兵衛はたいそう喜んだという。ところが甚右衛門の用向きを知ると、態度を豹変させて甚右衛門を追い返そうとした。甚右衛門同様、善兵衛も日露戦争で息子を失っていたのだ。
そこへ善兵衛の妻が来て、甚右衛門を奥へ通すようにという、父甚三郎の言葉を善兵衛に伝えた。それで善兵衛は渋々甚右衛門を中へ入れ、甚三郎に会わせた。
祖父の善二郎はすでに亡くなっており、甚三郎は甚右衛門が家を出た時の善二郎のように寝たきりになっていた。
甚右衛門と二人きりにするよう善兵衛に申しつけた甚三郎は、異国の血を引く女の赤ん坊が産まれたという報告を、甚右衛門から聞いた。
甚三郎は善二郎が語った娘の話を知っており、産まれた赤ん坊が女の子で名前が千鶴だとわかると、大変驚いて半身を起こしたそうだ。
「父上はの、わしにこがぁ仰った。祖父上が養女にするおつもりじゃた娘も、千に鶴と書いた千鶴という名じゃったとな」
もう間違いない。自分は法生寺にいた娘の生まれ変わりで、忠之は進之丞の生まれ変わりなのだ。興奮を抑えきれない千鶴と、驚きを隠せない幸子に甚右衛門は言った。
「これも何かの縁、産まれた子供は必ず大切にせよと、父上は言いんさった。ほれは父上の言葉じゃったが、わしには祖父上が言うておいでるようにも聞こえた。ほれにわし自身、千鶴とその娘に深い縁があると思たけん、父上の言葉どおりにしよと決めたんよ」
甚右衛門は千鶴を大切に育てると約束し、実家を後にした。
家に戻った甚右衛門がその旨をトミに告げると、トミもその指示に従うことに同意した。それは話を聞いたトミ自身が、千鶴と法生寺にいたという娘に縁があると感じたからだった。
「ほれまでのわしらは、お前のことを敵兵の娘じゃと思いよった。じゃが、ほん時からお前は敵兵の娘やのうて、祖父上が養女に迎えようとしんさった娘の生まれ変わりとなった。わしは祖父上の想いを引き継ぎ、お前を孫娘として大切に育てることにしたんよ」
甚右衛門の言葉を引き取って、今度はトミが喋った。
「不思議なもんで、受け入れるて決めたら、憎らしかったはずのあんたが何とも愛らしゅう思えてなぁ。つい顔が綻びそうになったり、優しい声をかけとなってしもたもんよ。こげなことじゃったら、最初からこの子を認めてやったらよかったて、この人と言うたもんじゃった」
「ほんでも、手のひら返したみたいなことは、わしらにはできなんだ。ほれまで幸子やお前を邪険にしよったけん、同しにするしかなかったんよ。ほれに、お前が法生寺におった娘の生まれ変わりやなんて言うたら、却って気味悪がられるけんの。表向きにはロシア兵の娘として扱わざるを得んかったんよ」
甚右衛門は悔やんだように目線を落とした。トミも悲しそうに気持ちを吐露した。
「ほんまはあんたをどんだけ抱いてやりたいて思たことか。あんたにきついこと言うて悲しそうな顔された時は、もう胸が張り裂けそうじゃった。ほんでも今度のことは、あまりにもあんたが不憫でな。つい、ほんまの気持ちが出てしもたんよ」
祖母の涙の理由をやっと理解できて、千鶴は胸がいっぱいになった。幸子も驚きを隠せないまま涙ぐんでいる。
「お前に優しゅうできんでも、お前を立派に育ててみせるとわしらは心に誓た。お前が外へ出る時に表から出させたんは、お前はわしらの孫娘じゃと世間に認めさせるためじゃった。お前が学校でいじめられたて聞いた時は、あとで学校へ怒鳴り込んだもんよ」
甚右衛門が本音を語ると、トミも負けじと喋った。
「あんたが買い物先で馬鹿にされた時はな、うちが行って店の主と大喧嘩したもんじゃった。ほれで店の物を壊したりもしてな。あとできっちり弁償させられたで」
トミの話に、幸子は思わずという感じで笑った。
「そがぁいうたら、ほんなことがあったわいねぇ。あん時は、なしてお母さんがお店の物壊しんさったんか、さっぱりわからんかったけんど、そげな理由やったんじゃね」
もう本心を見せたからか、甚右衛門もトミも穏やかな笑顔で話を続けた。
「お前には厳しゅうしよったけん、せめてお前の寝顔が見とうてな。こっちの部屋で寝かそかとばあさんと言うたこともあったが、そげなことしたら気ぃが緩もう? ほれに、お前がまだこんまいうちはぎりぎりまで寝かせてやりたかったけんな。ほれで今の部屋においたんやが、ほんまはこっちに呼びたかったし、お前と喋ったり遊び相手がしたかった」
「あんたが夜泣きした時にはな、何泣かせとるんねて幸子に文句言いもって、顔見に行ったんよ。ほじゃけん、あんたが夜泣きしたら浮き浮きしよったで」
真相を知らされた幸子は、口を尖らせて文句を言った。
「ほんなん最初から言うといてや。うちはまたお母さんに叱られるて、びくびくしよったんで」
悪かったぞなとトミが笑いながら詫びると、幸子もすぐに笑顔になった。
「ほやけど、ほうやったんか。お母さん、あん時はそがぁな気持ちやったんじゃね。ほういうたら、お母さんの後ろにお父さんがついて来たこともあったわいね」
腹を立てたふりをしながら孫の顔を見に来る祖父母の様子が、千鶴の目に思い浮かんだ。温かいものが胸に広がり、それは涙となった。
甚右衛門は照れ笑いをしながら言った。
「お前にはいずれ店を持たせるつもりじゃったが、師範の免許があるおかみの方が箔がつく思てな。ほれで先に女子師範学校へ行かせたんよ」
「そがぁしたら誰もあんたを馬鹿にでけんようになるけんな。ほんでも、ほんまのことをあんたらにいつ言おうかて思いよるうちに、ずるずると今日になってしもた。体裁気にするんも疲れたし、あんたらに申し訳ないけん、早よ言いたかったんやけんど……」
トミが涙ぐむと、甚右衛門は千鶴たちに向かって両手を突いた。
「使用人にはお前を大切にするよう言うてきたんやが、わしら自身がお前や幸子にこれまで嫌な想いをさせてきた。そのことはほんまに悪かった思とる。今更なけんど、このとおりぞな。勘弁したってくれ」
甚右衛門が二人に頭を下げると、堪忍したってやと、トミも頭を下げた。
千鶴と幸子は慌てて二人に頭を上げさせたが、千鶴は祖父母の気持ちが嬉しかった。また、祖父母もつらかったのだと知って涙がこぼれた。幸子も泣きながら笑っている。
三
今度は千鶴が、甚右衛門とトミに向かって両手を突いた。
「おじいちゃんとおばあちゃんのお気持ち、ようわかりました。うち、自分がどんだけ恵まれとったんか、ちっとも知らなんだ。今までのこと、ほんまにありがとうございました」
千鶴が二人に頭を下げると、幸子も娘を認めてもらえた礼を述べた。甚右衛門とトミは安堵の顔で微笑み合った。しかし頭を上げた千鶴は、甚右衛門に厳しい目を向けた。
「ほんでも、うち、おじいちゃんに言わないけんことがあるぞなもし」
「あの男のことか?」
甚右衛門は少し当惑した様子だ。千鶴がうなずくと、言うてみぃと甚右衛門は言った。
「うちは、おじいちゃんが情の厚いお人やと知りました。ほれに、人から受けた恩を忘れんお人やと思とります。ほやけど、佐伯さんに対して見せんさった態度は、おじいちゃんのまことの姿やありません。佐伯さんのこと、福の神やて言うておいでたのに、恩を仇で返すようなことしんさるんは兵頭いうお人と対ぞなもし」
「お前が言うことはわかる。わしにしてもつらい判断じゃった」
甚右衛門は千鶴に理解を示してうなずいた。けれど、千鶴は祖父を容赦しなかった。
「失礼なけんど、おじいちゃんは間違とるぞなもし。うちがみんなに白い目で見られてつらい想いしよったん、おじいちゃん、わかっておいでたんでしょ? うちにひどいことした人のこと怒ってくんさったのに、なしてほの人らと対のことを、おじいちゃんがしんさるんぞな?」
甚右衛門は黙っている。幸子は千鶴をたしなめようとしたが、千鶴は構わず続けた。
「おじいちゃん、佐伯さんが山陰の者やて兵頭さんから聞きんさったんでしょ? 山陰の者て呼ばれよる人らが、どがぁな人なんか聞きんさったけん、佐伯さんのことを遠ざけんさったんでしょ?」
「ほうよ。山陰の者を入れたら、この家に傷がつく」
甚右衛門は当然という顔で言った。平気で差別をする祖父に千鶴は悲しくなった。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。いくら風寄におった娘の生まれ変わりでも、うちがロシア兵の娘なんは変わらんぞなもし。山陰の者が入ったらこの家に傷がつく言いんさるんなら、うちこそここにはおられんぞなもし」
「ほれは……」
甚右衛門の顔に焦りが見えた。
「ロシア兵の娘であるうちを励ましてくんさるんなら、山陰の者て言われて苦労ぎりしておいでる佐伯さんのことも、励ましてあげるんがほんまやないんですか? おじいちゃん、佐伯さんがどがぁなお人なんか、ご自分の目で見てわかっておいでるでしょ?」
甚右衛門はむぅと呻いたが、まだ忠之を認めるとは言わない。
「佐伯さんが小学校出とらんけん読み書き算盤ができるわけないて、おじいちゃんは言いんさったけんど、法生寺の和尚さんが奥さんと一緒に佐伯さんに読み書き算盤を教えんさったて、うちに言いんさった。和尚さん、佐伯さんは物覚えが早うて、がいに頭のええ子じゃったて言うとりんさったんよ。学校へ行かせてもらえとったら、もっともっといろんなことを学べたはずやのにて、和尚さんは仰りんさったぞな」
甚右衛門はまだ口を開かない。隣でトミがおろおろしている。
「どがぁしてもおじいちゃんが佐伯さんを認めてくんさらんのなら、うちが佐伯さん所へ行くしかありません」
甚右衛門はじろりと千鶴を見ると、ようやく口を開いた。
「ほれは、わしを脅しとるんか?」
「脅しとるんやありません。うちのほんまの気持ちを口にしたぎりぞなもし。うちはあのお人と離れたままでは生きていかれません。あのお人がここへおいでんのなら、こちらから行くしかないですけん」
「あんた……」
トミが不安げに甚右衛門を見た。甚右衛門は少しうろたえを見せたあと目を閉じた。しばしの間、甚右衛門はむずかしい顔をしていたが、やがて目を開けると大きく息を吐いた。それからトミを一瞥すると千鶴に言った。
「わかった。お前の言うとおりぞな。わしが間違とった」
意外にも甚右衛門は素直に千鶴の言い分を認め、気まずそうに頭を掻いた。
「本音言うたら、ほんまにこれでええんかいう想いが、わしにもあったんよ。ほじゃけん、お前に言われて目ぇ覚めたかい」
「おじいちゃん……」
ほっとしたのと嬉しいのとで千鶴は泣きそうになった。トミや幸子にも驚いた顔をされて、甚右衛門は照れ笑いを見せた。
「お前にしても佐伯くんにしても、何や、わしは自分が試されとる気がすらい」
「試されとるて?」
トミが訊ねると、甚右衛門は言った。
「何がほんまに大切なんかを見極めるいうことよ。わしは武家じゃった実家を出て、商家であるここの婿になった。己の家が武家じゃったことは、ほん時に全部棄てたつもりじゃったが、自分はほんまは侍なんじゃいう未練が残っとったかい。人に上も下もないのにくだらんことよな。佐伯くんには、まっこと申し訳ないことをしてしもたわい」
甚右衛門は悔やんだように口を結んだあと、千鶴を見て言った。
「ほれにしても、お前がそこまで心惹かれるとこ見ると、ひょっとして佐伯くんは風寄の代官の息子の生まれ変わりなんかもしれんな」
千鶴はどきっとした。祖父の言葉は千鶴の考えに太鼓判を押してくれたみたいだ。
自分は本当に法生寺にいた娘の生まれ変わりなのだと、千鶴は告白したい想いに駆られていた。でも、まずは忠之に会って直接前世のことを確かめるのが先だ。
「佐伯くんには早速手紙で詫びを入れて、またここへ来てもらおわい。千鶴、佐伯くんが住んどる所は知っとるか?」
甚右衛門はすぐにでも手紙を書くつもりのようだ。けれど、忠之の家がどこにあるのかを千鶴は知らない。千鶴が首を振ると、それなら法生寺の和尚に頼んで手紙を届けてもらおうと甚右衛門は言った。しかし、それにはトミが反対した。
「手紙で詫びるぎりじゃったら相手に失礼ぞな。こっちで頼んだ話を一方的になしにしたんじゃけんね」
「そがぁなこと言うても、誰が風寄まで行くんぞ? わしはここを離れられんし、わし以外の者が詫びに行ったとこで、詫びになるまい」
眉間に皺を寄せる甚右衛門に、千鶴は言った。
「うちが行くぞなもし」
「お前が?」
甚右衛門は驚いた顔で千鶴を見た。千鶴がうなずくと、いけんと即座に言った。
「お前を行かせるわけにはいけん」
「なしてぞな? おじいちゃんやなかったら、うち以外にこのお役目を果たせる者はおらんぞなもし」
「ほんでも、いけんもんはいけん」
「なしていけんの? ちゃんと説明しておくんなもし。おじいちゃん、風寄のお祭りには行かせてくんさったのに、なして今度はいけんの?」
甚右衛門は困ったように、トミと顔を見交わした。
「ねぇ、なしてなん?」
千鶴が強い口調で繰り返すと、甚右衛門は言った。
「鬼ぞな」
「鬼? やっぱしおじいちゃんも鬼のこと気にしておいでるん?」
鬼がいるのは事実だが、鬼が悪者扱いされるのには反発したくなる。
憤る千鶴にトミが言った。
「落ち着きなさいや。おじいちゃんが鬼を気にするんは理由があるんよ」
「理由?」
千鶴は祖父母の顔を見比べた。幸子も黙って二人の話を待っている。
「さっき、法生寺の娘を養女にする話をしたろ?」
気乗りしない様子で甚右衛門が言った。千鶴がうなずくと、甚右衛門は話を続けた。
「ほん時に、代官とその息子が殺されたて言うたわいな」
千鶴はもう一度うなずいた。甚右衛門は少し間を置いてから言った。
「伝えられとる話では、風寄の代官は異人の娘を息子の嫁にしようとして、攘夷侍に殺されたことになっとる。やが、ほんまはほうやないんよ」
「じゃあ、ほんまは?」
幸子が待ちきれずに訊ねた。
甚右衛門は一つ呼吸をしてから言った。
「鬼に殺されたんよ」
四
目を見開いた幸子の顔には、驚きと恐怖が入り混じっている。
もちろん千鶴も驚いた。だけど、あの鬼がそんなことをするはずがない。代官は進之丞の父なのだ。
「なして、そがぁ言えるんぞなもし?」
千鶴の責めるような問いに、甚右衛門は淡々と答えた。
「祖父上が代官の遺骸をご自分の目で確かめんさって、そがぁ言いんさったんよ。祖父上は養女にする娘に会うために風寄を訪ねんさったんやが、ほん時に代官と何名かのお付きの者らが文字通り八つ裂きにされておったんを見んさったそうな。ほれで、あれは人間にでけることやないて、わしに言いんさったんよ」
「ほんまに鬼がおったんですか?」
信じられない様子で幸子が訊ねると、ほうらしいと甚右衛門はうなずいた。
「村に鬼を見た者がおったそうでな。鬼は身の丈四丈はあろうかというでかさでな。浜辺で侍連中と争うとったそうな」
鬼を見たというのはヨネの父親のことだろう。それはともかく、千鶴は人間が八つ裂きにされた姿など想像できないし、したくなかった。ましてや代官の八つ裂きなんて、そんな恐ろしく理不尽なことを鬼がしたとは信じられる話ではない。
千鶴は少し焦って言った。
「じゃあ、なして伝わっとる話では攘夷侍に殺されたて言われとるんぞな?」
「鬼を見た者がおったけん、初めは代官らは鬼に殺されたいう話になっとったそうな。けんど、代官には鬼に殺される理由がなかろ? ほれで、代官の息子の嫁になるはずじゃった娘が、鬼と関係しとるんやないかと噂が立ったんよ」
「噂?」
「実は娘は鬼の仲間じゃったという噂ぞな。やが、ほれは娘を嫁にしようとした代官や代官の息子を貶めることになろ? 祖父上は娘が異人の血を引いとるぎりじゃと知っておいでたけんの。ほのことを祖父上は証言し、娘や代官らを辱めるような噂は許せんと上に訴えんさったんよ。ほれで村では鬼の話をするんは厳禁となってな。代官らは攘夷侍らに殺されたいうことになったわけよ」
「ほんでもひぃひぃおじいちゃんは、お代官を殺めたんは鬼じゃと思いんさったと」
「ほういうことよ」
ヨネ以外の村人たちが鬼の話を知らなかったのは、そういうことだったのかと千鶴は納得した。また、ヨネの父親も流言を広めた廉で痛い目に遭わされたのだろう。それで幼いヨネに鬼の話はするなと命じたのだ。けれど、それでは鬼が代官を殺したと認めることになってしまう。千鶴の心は大きく動揺していた。
「鬼が浜辺で争うたお侍いうんは、お代官のお付きの方らですか?」
幸子が訊ねると、ほうやないと甚右衛門は言った。
「鬼と争うたんは、今言うた攘夷侍よ。連中は法生寺の娘を襲たんじゃろ。ほれで鬼と戦うことになったんよ」
「なしてその娘さんを襲たら、鬼が出て来るんぞなもし?」
「千鶴の話じゃ、その娘は村の者に鬼の娘じゃと思われとったらしいけんな。事実は異国の血ぃを引く娘であっても、鬼がその娘を仲間と思い込んだんかもしれまい」
「じゃあ、お代官らが鬼に殺されたんはなしてぞなもし?」
「鬼が娘を連れ去ろうとしたら、代官はどがぁする? その娘は大切な一人息子の嫁になる女子ぞ? 鬼にとっては代官は邪魔者よ」
幸子は言葉が返せなかった。千鶴もまた祖父の鋭い洞察力にうろたえた。それでも自分を護ってくれている鬼が、進之丞の父親を八つ裂きにしたとは、やはり信じられない。
「祖父上は子供をからかうお人やなかったけんな。この話を聞かされた時は、わしも心底怖いと思た。というても、山﨑家に入ってからはこの話は忘れよった。実家へ千鶴の話をしに行った時、鬼に気をつけよと父上に言われたが、ほれからも何事もなかったけんな。ほれでまた、鬼のことは頭から消えとった」
言い訳をするかのごとくに喋る甚右衛門を、横目で見ながらトミが言った。
「うちがこの話を聞かされたんは、千鶴が風寄の祭りから戻んたあとじゃった。あのイノシシの話が新聞に載った時ぞな。ほれまで何も聞かされとらんかったけん、初めに知っとったら、絶対千鶴を風寄には行かせなんだ」
「そがぁ言うな。わしも忘れよった言いよろが」
むすっとする甚右衛門を、トミはさらに責めた。
「そげな肝心なこと忘れてどがぁするんね。千鶴が連れ去られとったら、忘れよったじゃ済まんかったがね」
「忘れよったもん仕方なかろが」
「仕方なかろがやないわね」
「お父さんもお母さんも、今はそげなこと言い合うとる場合やないぞなもし」
幸子がなだめると、甚右衛門は咳払いをして話を続けた。
「新聞でイノシシの記事見つけた時、わしは嫌な予感がしよった。そこへ今度の兵頭の家の話よ。ほれで、もしや思いよったとこに、千鶴からさっきの話を聞かされたんよ。そがぁなこと全部合わせよったら、鬼よけの祠がめげたために、封じられよった鬼が現れたと見るんが筋じゃろ。しかも、その鬼は千鶴に目ぇつけたんやもしれんのぞ。ほじゃけん、千鶴を風寄に行かせるわけにはいくまいが」
鬼はすでに傍にいる。だけど、鬼は千鶴の幸せを見守ってくれているだけなのだ。
その話を千鶴は伝えたかったが、話したところで信じてもらえるとは思えなかった。逆に、やはり鬼に取り憑かれていると見られるのが落ちだろう。
「ほやけど、なしてこの子が鬼に目ぇつけられないけんのです?」
不安と腹立ちが混じった顔で幸子は不服を述べた。我が娘が鬼に狙われるという話が、どうしても受け入れられないのだろう。甚右衛門は片眉を上げると、幸子に言った。
「言うたろが? 法生寺におった娘と千鶴が似ぃとるけんよ。名前も対で、どっちゃも異人の娘ぞ。千鶴の話じゃ、名波村の村長ん所のひぃばあさんが、千鶴をほの娘と見間違えたそうやないか。ほれぐらい二人は似ぃとるいうことよ。ほれに、ほんまに千鶴がその娘の生まれ変わりであるなら、尚のこと鬼に狙われよう?」
幸子は怯えた顔で千鶴を見た。甚右衛門もちらりと千鶴を見てから話を続けた。
「法生寺におった娘が結局どがぁなったんかはわからんが、千鶴がほの娘の生まれ変わりであるなら、ほの娘は鬼から逃れようとして死んだんかもしれまい。ほのあと鬼は祠で封じられ、祠がめげて再びこの世に蘇ったとこで、千鶴を見つけたわけよ。ほじゃけん、千鶴を風寄へ行かせるわけにはいくまい。今度行かせたら鬼に連れ去られてしまわい」
甚右衛門は威厳を持って千鶴と幸子を見た。幸子は何も言い返せずに狼狽しているが、千鶴は黙っているわけにはいかない。
五
「鬼はそがぁなことはせんけん!」
千鶴が叫ぶと、みんなが驚いた目を千鶴に向けた。千鶴は慌てて声の調子を落とすと、もう一度同じことを言った。
「鬼はそがぁなことはせんけん」
「なして、そげに言えるんぞ?」
「ほやかて、鬼は何も悪さしとらんぞな。鬼がうちを攫うつもりじゃったら、疾うの昔に攫とるけん」
「前ん時は、まだお前が誰なんか、ようわからんかったんかもしれまいが」
鬼はすでに自分のことを知っているし、知った上でイノシシから助けてくれたと、喉元まで出かかっていた。だが、千鶴はそれを必死で呑み込んだ。
「何もしよらん鬼を、鬼いうぎりで悪さするて決めつけるんは、ロシア人の娘とか山陰の者が穢れとるて決めつけるんと対ぞな」
無理な言い草であるのはわかっているが、千鶴は必死に訴えた。しかし、忠之をかばったようにはいかない。鬼は禍の象徴であり、人間にとって悪そのものだ。
話にならないと思ったのか、甚右衛門がいらだった様子で口を噤むと、幸子が甚右衛門をかばった。
「おじいちゃんは、あんたを心配しておいでるぎりじゃろがね。そげな屁理屈言うたらいけん」
「ほやかて……」
千鶴も黙ってしまうと、トミが助け船を出してくれた。
「この子はほんだけあの子に逢いたいんよ。いずれにしても、誰ぞが向こうへ行ってお詫びをせにゃいくまい? というても、誰でもええわけやない。確かに鬼は気になるけんど、あんたが行かれんのなら、この子に行ってもらうしかないぞな」
「何よもだ言うんぞ。お前かて鬼のことがわかっとったら、千鶴を風寄には行かせなんだと言うたろが」
声を荒らげる甚右衛門に、トミは穏やかに言った。
「ほれはほうじゃけんど、このまんまにはできまい? ほれに、風寄の絣がどがぁなるんか確かめにゃならんし、兵頭さん所かてお見舞いを届けにゃいくまい?」
甚右衛門は返事をしなかった。トミは困った目を千鶴に向けて、もう一度甚右衛門に言った。
「あんたが何と言おうと、この子は行く言うたら行くぞな。こないだは法生寺の和尚さんが引き止めてくんさったけんど、今度は誰も止めてくれんで。どうせ行くじゃったら、勝手に行かせるんやのうて、できる限りのことをした上で、行かせてやった方がええとうちは思うけんど、どがぁね?」
甚右衛門は仏頂面のまま何も言わない。根比べのごとくに他の者も黙っている。部屋には重苦しい沈黙が漂うばかりだ。
「できる限りのこととは何ぞ?」
ついに甚右衛門が不機嫌そうに口を開くと、待ってましたとばかりにトミが喋った。
「まず阿沼美神社でお祓いしてもろて、御守りもらうんよ。ほれと幸子を同伴させるんよ。この子一人で行かせたら、また誰ぞに襲われるかもしれんけんな。悪い人間は鬼より怖いけん。ほれで向こうに着いたら、法生寺の和尚さんにお願いして、ずっと一緒におってもらおわい。ほれじゃったら、鬼も簡単にはこの子に手出しできまい?」
さらに幸子が言葉を添えた。
「ほれに明るいうちじゃったら、鬼も出て来にくいんやなかろか。イノシシが殺されたんも、兵頭さんのお家が壊されたんも、日が暮れてからの話やけんね」
甚右衛門がまた黙りこんだので、トミは涙ぐみながら語気を強めた。
「まだわからんのかな、この人は。学校に行けんなったこの子の唯一生きる力になってくれるんが、あの佐伯いう子じゃろがね。あの子をこのまま呼び戻せなんだら、千鶴はほんまに死ぬるぞな」
自分のためにここまで言ってくれる祖母に、千鶴は涙が出た。
「おじいちゃん、お願いぞなもし。うちを行かせておくんなもし」
千鶴が懇願すると、幸子も言った。
「お父さん、うちからもお願いします。うちもこの子をしっかり護ってみせるけん」
甚右衛門はしばらく黙って下を向いていたが、わかったわいと力なく言った。
「わしの代わりに千鶴を行かせよわい。ただし、ほれには条件がある」
「条件?」
訝しがるトミに、甚右衛門は千鶴を見ながら言った。
「阿沼美神社ぎりやのうて、雲祥寺でも祈祷してもろて、御守りをもらうこと」
トミは安堵した様子で千鶴や幸子と微笑み合った。
「まだあらい」
甚右衛門の言葉に、千鶴たちは姿勢を正した。
「千鶴。万が一、鬼がお前を連れ去ろうとしたなら、じいさんの許しがないと行かれんと言うんぞ」
「おじいちゃん……」
甚右衛門は優しげに千鶴を見つめて言った。
「そがぁ言うたら、鬼はここへ現れよう。ほん時は、わしが鬼を退治しちゃる」
「あんた……」
甚右衛門の覚悟に、トミは涙ぐんだ。
「大丈夫ぞな。絶対にそげなことにはならんけん」
幸子が泣きそうな笑顔で言った。
「おじいちゃん、だんだん」
鬼と戦われては困るが、千鶴は祖父の気持ちが嬉しかった。
千鶴は立ち上がると、甚右衛門の傍へ行って抱きしめた。甚右衛門は慌てたが、すぐに千鶴を抱き返した。
「必ず無事に戻んて来るんぞ」
うんとうなずいた千鶴は、今度はトミに抱きついた。
「おばあちゃんも、だんだん」
初めて千鶴と抱き合ったことに感激したのか、トミはわんわん泣いた。横で幸子も泣いている。
裏木戸の辺りが騒々しくなった。茂七たちが銭湯から戻って来たようだ。
トミは声を殺したが、それでも涙は止まらない。甚右衛門も黙ったまま涙を浮かべている。千鶴も幸子も泣いていた。
ようやく家族が素直に一つになれた。そのことをみんなが噛みしめていた。静かな部屋の中は喜びに満ちている。
再び風寄へ
一
土産を渡しながら筆無精を詫びる幸子に、事情はわかっとるけんと知念和尚は言った。
借りた襟巻きを千鶴が感謝しながら和尚に手渡すと、まっことええ娘さんぞなと安子は幸子を祝福した。
久しぶりの再会を喜び合ったあと、幸子は風寄に来た理由を和尚夫婦に伝えた。二人は千鶴たちが忠之を迎えに来たことを我が事のように喜び感謝した。
幸子は千鶴から聞かされた話も伝え、不安な気持ちを吐露した。和尚も安子も口々に、心配はいらないと幸子を励まし、千鶴にも笑顔を見せた。
「千鶴ちゃんはイノシシから助けてくれたんは、鬼じゃて思とるけんど、鬼を見たわけやないけんな。ほんまに鬼やったかどうかはわからんぞな」
知念和尚が言うと、幸子は驚いて千鶴を見た。
「イノシシて何の話ね? ひょっとして、あんた、あのイノシシに襲われたんか?」
千鶴を問い詰める幸子を見て、ありゃと和尚は困惑の声を出した。
「千鶴ちゃん、この話はご家族には話しとらんかったんかいな」
千鶴は目を伏せ、家族に余計な心配をかけたくなかったと言った。
和尚は気まずそうな顔をしながら、千鶴に代わってイノシシの話を幸子に説明した。その上で、何が千鶴を救ったのかはわからないのだと、もう一度強調した。
確かに千鶴は鬼を直接見てはいないが、鬼が助けてくれたのは間違いない。それでも和尚は母を安心させようとして言っているだけなので、千鶴は黙っていた。
知念和尚の説明にも拘わらず、幸子にはイノシシの話はかなりの衝撃だったらしい。ますます不安そうな顔になった幸子を、安子が落ち着かせようとした。
「兵頭さんの家かてな、ほんまは何が原因であがぁなったんかはわからんのよ。ほんまに鬼が暴れたんなら、他の家も壊されそうなもんやんか。ほれで、あの人も初めは化け物がやったて言いよったけんど、やっぱし突風でめげたんじゃて言い直しとるみたいなで」
兵頭が言い分を撤回した話に、千鶴は少し安堵した。けれど事実はわからない。
幸子は安子の話を聞いても、まだ不安が解消されない様子だった。それで知念和尚が再び喋った。
「実際のとこ、イノシシのことはようわからんが、仮に千鶴ちゃんが言うように、鬼が千鶴ちゃんを護ったんやとすれば、鬼は千鶴ちゃんに危害を加えたりはせんいうことにならいな。千鶴ちゃんをここへ運んだんが鬼やったとすれば、鬼は千鶴ちゃんを攫うつもりはなかったいうことになろ?」
「ほれは、ほうですけんど……」
まだ顔を曇らせている幸子を、安子が励ました。
「大丈夫ぞな。今日かて何も起こっちゃせんじゃろ? ほれに、うちらも一緒におるんじゃけん。何も心配することないわね」
知念和尚は腕組みをしながら、ほれにしてもと首を傾げた。
「鬼が千鶴ちゃんをここまで運んだとしてやな、なして千鶴ちゃんの頭に花を飾ったりしたんか、そこが解せんわな。鬼がそがぁなことするかいな」
「花? 花て、あの花?」
幸子に目を向けられた千鶴は戸惑いながら、あのぅと和尚たちに言った。
「ほのことですけんど……、うちに花飾りんさったんは佐伯さんやったんぞなもし」
安子は和尚と驚いた顔を見交わして言った。
「ほれは、あの子が自分で言うたん?」
「最初は惚けておいでたけんど、うちが問い詰めたら白状しんさったんです」
大きな笑い声が部屋に広がった。安子と一緒に笑いながら和尚は言った。
「千鶴ちゃんが問い詰めたら白状したんかな。あの子がなんぼ喧嘩が強うても、千鶴ちゃんには勝てんいうことじゃな。ほれで、あの子は千鶴ちゃんをどこで見つけたて?」
「ここの石段を下りた辺りに、野菊の花が咲きよる所があって、そこにうちが倒れよったそうです」
あそこかいなと知念和尚がうなずくと、安子は言った。
「あそこは昔から野菊が群生しよるとこじゃけんね。ところで、なしてあの子は千鶴ちゃん一人残しておらんなったん?」
「ほれは、ほとんど裸じゃったけんて言うておいでました」
「裸?」
「いえ、裸やのうて、ほとんど裸ぞなもし」
少し顔の火照りを感じながら千鶴は事情を説明した。和尚も安子も大笑いをし、まったくあの子らしいわいなぁと言った。
「何や、楽しいお人みたいじゃね。お母さん、あの日は仕事に出てしもてお話もできんかったけん、早よ会うて話がしとなったぞな」
和尚たちと一緒に笑いながら幸子が言った。
「ほんでも、その前にうちが佐伯さんと二人で話したいんよ」
千鶴の言葉に幸子は笑いを止めて眉根を寄せた。
「二人ぎりは危いけん、いけん」
「佐伯さんはそがぁなお人やないけん」
千鶴が憤ると、そういう意味ではないと幸子は言った。
「ほうやのうて、鬼ぞな。和尚さんらと一緒やないと危なかろ?」
「大丈夫。鬼は襲てこんけん」
幸子が渋っていると、安子が言った。
「幸子さん、さっきも言うたけんど、鬼は千鶴ちゃんを襲たりせんけん。ほれに千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるけん、何も心配はいらんぞな」
「佐伯さんもな、お不動さまにうちの幸せ願てくんさったんよ。ほじゃけん大丈夫ぞな」
思わず千鶴が喋ると、幸子はきょとんとした顔で千鶴を見た。
「佐伯さん、そげなことしんさったん?」
恥ずかしくて千鶴がうろたえながらうなずくと、和尚夫婦はにやにや顔で言い合った。
「これじゃあ、鬼が付け入る隙もないわいな」
「まこと、鬼が何ぞ言うても、二人の耳には聞こえまい」
また和尚たちが笑い出すと、千鶴は膨れて文句を言った。
「ちぃと二人とも笑い過ぎぞなもし」
和尚と安子は笑いながら悪かったと言った。
「とにかくな、千鶴ちゃんのことは心配せいでもええぞな、幸子さん」
知念和尚が微笑むと、幸子は仕方なさそうに、わかりましたと言った。幸子も忠之の話で気持ちが和らいだようだ。
「ほしたら千鶴が佐伯さんに会うとる間に、うちは兵頭さんのお見舞いに行きましょわい」
「家の屋根が全部やないけんど、ごっそり剥ぎ取られとるけんな。修理に村の者がようけ集まっとろうし、見たらすぐにどの家かわかると思うが、幸子さんは兵頭さんと面識はあるんかな?」
「仲買の人らにお茶を出したりはしよりましたが、誰が誰なんかはわからんぞなもし」
幸子が当惑気味に答えると、わかったと和尚は言った。
「ほれじゃったら、わしが一緒に行こわい。千鶴ちゃんの方は安子が案内したらええ」
「ほうじゃね。そがぁしよわい」
安子も同意し、千鶴と幸子は別々に動くことになった。
千鶴は鬼が壊した兵頭の家を実際に見てみたかったが、自分の役割を考えるとそれどころではない。これから向かう先には、忠之だけでなく忠之の家族もいるのだ。
二
「昔はな、偉い人ぎりが苗字を持てたんよ。ほやけど、明治になったら法律で誰もが苗字を持つよう決められたんよ」
寺の石段を下りながら安子は言った。
先に階段を下りて行く知念和尚と母を眺めながら、そういえばと千鶴は前世の記憶を振り返った。今の自分は山﨑千鶴だけれど、前世では千鶴という名前しかなかったようだ。手土産の風呂敷包みを胸に抱きながら、千鶴は安子の説明をなるほどと思った。安子の説明を千鶴はなるほどと思った。
知念和尚と母も何かを喋っている。花の話をしているらしい。しかし二人の話に耳を傾ける暇もなく、安子が苗字の話を続けた。
「佐伯は為蔵さん所の苗字なけんど、ほれに決めたんは為蔵さんのお父さんなんよ。為蔵さんのお父さんは、昔ここにおいでたお代官を尊敬しておいでたそうでな。ほれで、お代官の苗字を頂戴しんさったそうな」
「へぇ。じゃあ、忠之いう名前は誰がつけんさったんですか?」
「ほれはね、うちの人よ。お代官の名前が忠之助いうたそうじゃけん、そこからつけた名前なんよ」
千鶴は夢で進之丞が諱を教えてくれたことを思い出した。その諱は今と同じ忠之だった。恐らく前世でも父親の名前にちなんでつけてもらったのだ。
自分の名前が今世と前世で同じなのは不思議なことだ。しかし、忠之までもが同じ名前となると、単なる不思議では済まされない。これは自分たちの前世と今世のつながりを深く感じさせるものだ。前世で死に別れた二人が、今世でめぐり逢うと定められていたのだろうか。
抑えきれない興奮で、千鶴の体中を血が駆けめぐった。
千鶴たちが下まで下りると、知念和尚が千鶴に言った。
「忠之に会いに行く前にな、千鶴ちゃんが倒れよった所を見せてあげよわい」
「お母さんも知っとるけんど、きれいな所なで」
幸子がにこやかに言った。幸子は以前にここのお世話になっていたので、その場所を知っているみたいだ。
「ほんでも、今はもうお花は終わってしもとるぞな」
安子が少し残念そうに話したが、千鶴はその場所を見てみたいと言った。
知念和尚について海の方へ歩いて行くと、野菊の群生があった。だが、安子が言ったように花は終わっており、葉もしおれて枯れ始めている。
しかし千鶴はこの場所を覚えていた。倒れていた時のことではない。前世でもここには野菊の花がいっぱい咲いていたのだ。進之丞もこの場所が好きで、よく二人で花を眺めていたものだ。夢で進之丞が花を飾ってくれたのも、ここなのである。きっと忠之も前世のことを思い出しながら、花を飾ってくれたのに違いない。
「佐伯さんはここであんたを見つけて、この花を飾ってくんさったんじゃね」
野菊の群生を見ながら、幸子は怪訝な顔になった。
「ほやけど、普通そげなことしようか? 和尚さん、安子さんはどがぁ思いんさる?」
「普通はせんわな。ほんでも、あんまし千鶴ちゃんがきれいやったけん、つい飾ってみとなったんやないんかな」
「あの子は優しい子じゃけん、千鶴ちゃん見て、千鶴ちゃんが苦労してきたてわかったんよ。ほれで、千鶴ちゃんねぎらうつもりで飾ったんやなかろか」
二人の意見にうなずきはしたが、幸子の顔はまだ納得してはいない。
「千鶴は佐伯さんから理由を訊いとるん?」
母に訊ねられ、千鶴はうろたえた。自分たちが前世からの関係だと説明できればいいのだが、今はその時ではない。
「うちが花の神さまに見えたんやて」
前世で柊吉が言った言葉だ。だから嘘ではない。
「花の神さま?」
きょとんとしたあと、知念和尚はまたもや大笑いをした。安子も口を押さえて笑ったが、二人とも笑いが止まらない。幸子も釣られて笑っている。
千鶴がむくれると、和尚は笑いを抑えきれないまま弁解した。
「いや、すまんすまん。別に千鶴ちゃんのことを笑たんやないで。ほやけん、気ぃ悪せんといてや。わしらが笑たんは、あの子の発想が面白い思たけんよ」
「まこと、あの子は他の者とは目線が違ういうか、あの子のそがぁな所がええわいねぇ。ほれにあの子は物事の芯の部分を、真っ直ぐに見る目を持っとるけんね。表現は奇抜かしらんけんど、言うとることは間違とらんぞな」
「安子の言うとおりぞな。あの子は千鶴ちゃんの純粋な心をちゃんと見抜いとらい」
「やめとくんなもし。うちはそげな上等の女子やないですけん」
千鶴が当惑すると、幸子はようやく納得して微笑んだ。
「この子が佐伯さんに心惹かれたんが、わかった気ぃがするぞなもし」
「もう、お母さんまで」
文句を言いながら千鶴は嬉しかった。忠之とのことをみんなに祝福されている気分だ。
「そもそも千鶴ちゃんが、ここに倒れよったいう話も怪しいぞな」
知念和尚が笑いの余韻を残しながら言うと、それはどういうことかと安子が訊ねた。
「ひょっとしたらやが、あの子は千鶴ちゃんを別ん所で見つけて、ここまで運んで来たんやないかな。花を飾ったんも、玄関の前に千鶴ちゃん寝かせたんも、あの子がしたことじゃったら、ここまで千鶴ちゃんを運んで来たんもあの子と考えるんが自然じゃろ?」
「ほんでも、佐伯さんがイノシシを殺したわけやないでしょうに」
幸子が疑問を示すと、そこはわからんがと和尚は口を濁した。
「いずれにせよ、鬼が千鶴ちゃんをここまで運んだんやないいうことぞな」
安子がうなずきながら言った。
「鬼はイノシシを殺したぎりで、千鶴ちゃんには構んかったんかもしれんね。ほれでイノシシの傍に倒れよった千鶴ちゃんを、あの子がここまで運んだとも考えられるわいね」
「ほやけど、佐伯さんはほうは言わんかったぞな」
千鶴が反論すると、安子は笑った。
「そげなこと言うかいな。頭潰されたイノシシの横に倒れよったやなんて言うたら、千鶴ちゃん、嫌じゃろ? ほれに、他の人らの耳にそげな話が入ったら、何言われるかわからんけんね。ほじゃけん、千鶴ちゃんはここで倒れとったて言うたんよ」
確かにそれは有り得ると千鶴は思った。
忠之は前世で鬼とつながりを持ち、力を合わせて自分を護ってくれたと千鶴は考えている。だから、イノシシに襲われた時にも両者の協力があったと受け止めていたが、忠之がどこで鬼から千鶴を受け取ったのかはわからない。
鬼が法生寺まで千鶴を運んだのかもしれないし、安子が言うようにイノシシが殺された場所で、忠之が千鶴を引き受けた可能性はある。あるいはまったく異なる場所で、千鶴の受け渡しが行われたとも考えられる。
ただ、どの場所で引き継がれたのかは重要でない。忠之が鬼といい関係を築いているのであれば、それこそが注目すべきところだろう。忠之が鬼のことをあれほど知っていたのも、誰かに教えられたのでなければ、鬼から直接聞かねばわからないことだ。
もちろん、本当のことは本人に確かめなければわからない。そして、その時が迫っている。もう間もなく、すべての真実が明らかになるはずだ。
だがその前に、忠之の家族が忠之に会わせてくれるかどうかが問題だ。会うことが敵(かな)わなければ真実を知るどころか、すべてが終わりになってしまうのだ。
三
「ほんじゃあ、わしらはこっちへ行くけん、千鶴ちゃんらはそっちぞな」
分かれ道で知念和尚が言った。決して一人になるなと幸子は千鶴に念を押した。
忠之の家は山裾にあるが、兵頭の家は山から離れた川向こうにある。千鶴が山沿いの道を歩きながら途中で振り返ると、川の方へ歩いて行く知念和尚と母の姿が見えた。
顔を前に戻した千鶴の胸で心臓が暴れている。これから忠之に逢うというのもあるが、忠之の家族と顔を合わせることに、千鶴は極度に緊張していた。
今からやろうとしていることは、千鶴にとって単なるお詫びではない。自分たちの将来を見極める重大な局面なのだ。もし詫びても忠之の家族の許しが得られず、自分を受け入れてもらえなければ、忠之と夫婦にはなれない。
千鶴は山﨑機織の娘であり、ロシア人の娘でもある。そのどちらも忠之の家族からすれば、怒りどころか憎しみさえ覚える要因だ。温かく迎え入れてもらえないのは覚悟しているが、完全に拒絶されれば絶望しかない。千鶴の体はがちがちになっていた。
しばらく進むと、左手に上り坂が現れた。安子に誘われてその坂を上って行くと、道はやがて下りになって丘陵の裏手に回った。
丘陵の向こうには別の丘陵が続き、その隙間に狭い田畑がひっそりと並んでいる。丘陵の際に日当たりが悪い所があるが、そこに掘っ立て小屋みたいな家の集落があった。
安子はそこにある小屋の一つに千鶴を案内した。どこからか鋸を挽くような音が聞こえてくるが、その音に負けないぐらい千鶴の心臓は激しく鼓動の音を打ち鳴らしている。
家の裏手をのぞいた安子は、もうし、為蔵さん――と声をかけた。すると音が止んだ。千鶴の心臓は爆発しそうだ。
間もなくして背中が少し曲がった小柄な老人が現れた。
「誰か思たら、安子さんかな」
為蔵は相好を崩したが、千鶴に気づくと目を細めた。
「そちらさんは、どなたかな?」
うまく出ない声を何とか出し、舌を噛みそうになりながら千鶴は挨拶をした。
「あの、山﨑千鶴と申します。こちらが佐伯忠之さんのお宅と伺いまして、あの、安子さんに連れて来ていただいたんぞなもし」
「忠之の知り合いかな」
珍しげに千鶴を眺める為蔵に、あの子はおいでる?――と安子は訊ねた。
為蔵は顔をしかめると、兵頭ん所ぞなと言った。
「あの子はお人好しなけん、ええようにされとんよ」
あの人は向こうだったのかと、千鶴は落胆したが顔には出せない。為蔵は千鶴の様子を気に留めることもなく、悲しげな顔で安子に訴えた。
「兵頭ん所の牛が動かんなって、あの男がよいよ困りよった時に、あの子は牛の代わりを買うて出たんよ。ほれもな、ただよ。この辺りの織元廻るぎりやないんで。絣の箱を大八車にいくつも載せて松山まで運ぶんよ。ほれがどんだけ大事か、安子さんならわかろ?」
わかるぞなと安子がうなずくと、為蔵は話を続けた。
「なんぼあの子がただで構ん言うたとしても、言われたとおり一銭も出さんのは、あくどいとしか言いようがなかろ? ほじゃけんな、おら、あの男ん所へ怒鳴り込んだったんよ。ほしたら慌てて牛を持って来よったかい。ほれで、やれやれ思いよったら、今度は忠之が松山で働きたいて言いだしたんよ」
安子はちらりと千鶴を見た。その視線を追うように為蔵も千鶴を見ると、姉やんがおるんを忘れよったと言った。
「今の話やけんど、千鶴ちゃんはな、あの子が松山で働きたいて言いよった山﨑機織さんのご主人に代わって、あの子に会いにおいでたんよ」
安子の説明を聞いた途端、為蔵はたちまち険しい顔になり、何やて?――と大きな声を上げた。
「聞いた話じゃ、そちらの方から忠之にぜひ働いてほしいて言うたそうじゃな。ほれをあの子は真に受けて、すっかりその気になっとったんぞ。おらたちはな、騙されるけんやめとけ言うたんよ。ほしたら、あの人らはそがぁな人やないて、あの子は言うたんぞ。ほれが何じゃい。今頃んなって、身分が違うけんこの話はなかったことにやと? こがぁなふざけた話がどこにあるんぞ!」
為蔵は顔を真っ赤にしながら体を震わせた。安子は興奮する為蔵をなだめて言った。
「あのな、為蔵さん。ほやけん、ほのことを千鶴ちゃんがこがぁしてお詫びにおいでてくれたんよ」
「お詫び?」
ふんと言うと、為蔵は千鶴に悪態をついた。
「何がお詫びぞ。あんたらにはあの子がどんだけ傷ついたんか、ちっともわからんじゃろがな。申し訳ありませんでした言うたら、ほれで済む思とるんじゃろ。どいつもこいつも、おらたちを見下しおってからに」
千鶴はその場に膝を突くと手土産の包みを脇に置き、為蔵に土下座をして詫びた。
「何と言われましても、うちにはお詫びするしかできません。この度は、まことに申し訳ございませんでした」
千鶴の土下座が思いがけなかったのか、為蔵の勢いが失くなった。為蔵は怒りの矛先を千鶴から山﨑機織へ転じると、山﨑機織は何でこんな小娘をよこすのかと言った。
千鶴は地面に額をつけながら、主が人手が足らず店を離れられないことや、主からのお詫びの文を預かってはいるが、手紙だけでは失礼になると考えたことを説明した。しかし、為蔵の怒りは収まらない。
「主が店を離れられんいう時点で、本気で詫びる気なんぞないいうことじゃろが! ほれとも何か? 今にも潰える店やのに、あの子を雇うやなんて言うたんか!」
店の状態がよくないのは事実である。けれど、忠之に来てもらおうと考えたのは店を潰さないためだ。そのことを千鶴は言いたかったが、言い訳になるので黙っていた。
千鶴が弁解をしないので、為蔵は横目で安子を見ながら、さらに言った。
「だいたい何ぞ。山﨑機織いうんは外人さんの店なんか? 責任者が詫びに来る代わりに、こがぁな小娘をよこすんが外人さんのやり方かい!」
顔のことを言われるのは、千鶴はつらかった。しかも為蔵は忠之の育ての親だ。覚悟はしていたが、実際にこんな態度を見せられると、悲しみが抑えられなかった。
千鶴が土下座をしながら泣いているので、安子が為蔵に話した。
「山﨑機織は日本人のお店ぞな。今はほんまに人がおらんで、ご主人が動けんそうな。ほれで千鶴ちゃんが代わりにお詫びにおいでたんよ。ご主人はほんまに申し訳ないことしたて言うとりんさって、あの子に早よ来てほしいて、改めてお願いしておいでるんよ」
「やけんいうて、なしてこがぁな外人の小娘をよこすんぞ。いくら人がおらんいうても、他にやりようがあろうがな」
為蔵の態度に少しいらだった様子の安子は、一呼吸置いてからきっぱりと言った。
「千鶴ちゃんはご主人のお孫さんぞな」
「孫? この娘がか?」
為蔵は目を見開いて千鶴を見た。安子は為蔵を諭すように話を続けた。
「山﨑機織のご主人がしんさったことは、確かに間違とるぞな。ほれを考え直させたんは、この千鶴ちゃんなんよ。千鶴ちゃんはあの子が苦労してきたことをわかってくれとるし、励ましてくれとったんよ。今かて自分が嘘言うたわけやないのに、こがぁして怒鳴られるんを覚悟してお詫びにおいでてくれたんよ」
打ち伏せたまま泣く千鶴を見て、為蔵は少しうろたえながら話を変えた。
「山﨑機織の主が日本人やのに、なしてその孫娘が外人なんぞ?」
「ほれは、なして言われても……」
安子が言葉を濁すと、千鶴は体を起こして涙を拭いた。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。母は日本人の看護婦で、捕虜になったロシア兵のお世話をしとりました」
ロシア兵じゃと?――為蔵はみるみる鬼のごとき顔になった。
「お前らが……、お前らが……」
為蔵はわなわなと体を震わせた。
「お前らがおらん所の息子を殺したんじゃ! おらたちの一人息子を、お前らが殺したんじゃ!」
「為蔵さん、落ち着きんさい。千鶴ちゃんは戦争と関係ないけん」
安子は千鶴をが、興奮する為蔵は聞く耳を持たない。為蔵の言葉に千鶴が何も言えずにいると、為蔵はさらに追い打ちをかけた。
「お前らはおらたちから一人息子奪といて、今度は忠之まで奪お言うんか。この人でなしめが!」
これだけ罵倒されても、千鶴は言葉を返せなかった。
「為蔵さん、ほれは言い過ぎぞな。千鶴ちゃんはあんたにも、あんたの息子さんにも何もしとらんでしょうが!」
安子がきつい口調で言っても、為蔵は千鶴に向かって、何とか言わんかなと声を荒らげた。だが、千鶴はただ項垂れるばかりだった。
四
「どしたんね? 何叫びよるんな」
家の中から為蔵の女房タネが姿を見せた。為蔵以上に腰が曲がったタネは、安子に気づいて挨拶をした。しかし、地面に座ってしょんぼりしている千鶴を見ると、怪訝な顔になった。
「こいつはロシア兵の娘ぞな!」
為蔵は吐き捨てるように言い残すと、家の裏へ姿を消した。
安子から話を聞いたタネは、千鶴を少し気の毒に思ったらしい。
「遠い所、せっかくおいでててもろたのに悪かったね」
タネは泣いている千鶴の手を取って立たせると、額と着物の裾に着いた土を払ってくれた。それから改めて千鶴を眺めると、別嬪さんじゃなぁと言って微笑んだ。
千鶴が涙を拭き頭を下げて詫びると、タネは二人に言った。
「戦争いうたら殺し合いぞな。こっちも殺されるけんど、向こうかて殺されとる。向こうは向こうで日本人に殺された言うとんじゃろな」
「おタネさんの言うとおりぞな」
安子がうなずくと、タネはさらに続けた。
「だいたい戦争やなんて、おらたちにゃ何の関係もないことぞな。ほれやのに戦争に引っ張り出されて殺し合いさせられて、恨まんでええ相手を恨んで一生悲しみを背負て暮らすんよ。おらはむずかしいことはわからんけんど、こげなことは間違とらい。おらたちも千鶴ちゃんもロシアの兵隊さんも、みんな戦争の被害者ぞな」
タネの優しい言葉は思いがけないものだった。千鶴がぼろぼろ涙をこぼすと、千鶴ちゃんもいろいろつらかったろうなとタネは言った。その言葉はさらに千鶴を泣かせた。
タネは泣きじゃくる千鶴を慰めると、安子に為蔵の話をした。
「あの人は千鶴ちゃんのこと、がいに怒鳴りよったけんど、ロシアには関係なく、最初から忠之が松山へ行くんには大反対やったんよ」
「おタネさんも、やっぱし反対なん?」
安子が訊ねると、ほうじゃなぁとタネは思案げに言った。
「おら、半分半分じゃな」
「半分半分?」
「おらもな、忠之は可愛いけん、ずっと傍に置いときたい気持ちはあるんよ。ほんでもな、あの子のこと考えたら、ずっとこげな所に閉じ込めるんやのうて、もっとええ思いさせてやりたいなぁて思う気持ちもあるんよ」
「おタネさん、優しいんじゃね」
安子が微笑むと、タネは照れながら話を続けた。
「あの子はな、まっこと優しい子でな。ついその優しさに甘えとなるけんど、優しいけんこそあの子を自由にさせてやりたいて、おら、前々から思いよった」
「おタネさんらしいぞな」
「そこへな、今回の松山の話が出て来たけん、おら、ちょうどええ機会かもしれんて思たんよ。ほんでもな、あの人があげな感じじゃけんな」
タネは自分の家を振り返り、千鶴たちに苦笑した。
「あの子はな、おらたちを捨ててまでやりたいことする子やないけんな。あの人がうんて言わんうちは、どがぁもでけんかったんよ。そがぁしよるうちに、こげなことになってしもたけん、おらもな、何があの子にええんかわからんなっとったんよ」
申し訳ございませんでしたと千鶴は改めて頭を下げた。タネは微笑むと安子に言った。
「ほんにええ娘さんやないの。うちの人からあがぁにぼろくそ言われても、まだ頭下げてくれるんじゃけん。本気やなかったらでけんぞな」
「千鶴ちゃんは、まっことあの子を大切に思てくれとるんよ。自分もつらい思いしてきた分、あの子のつらさもようわかってくれておいでるんぞな」
「ほうなんかな。ほれは忠之にとっては何よりぞな」
タネは千鶴の方を向くと、千鶴ちゃんと声をかけ、両手で千鶴の手を握った。
「忠之のこと、よろしゅうに頼まいね。ほれと、うちの人がひどいこと言うて堪忍な。あげな人やけんど寂しいぎりなんよ。ほんでも、忠之のことを大切に思とるんはおらと対じゃし、今頃、千鶴ちゃんにひどいこと言うてしもたて、一人で反省しとらい」
「確かにほうかもしれんね」
安子は笑いながらうなずき千鶴に言った。
「おタネさんがこがぁ言うておいでるんじゃけん、もう心配せいでもええんよ」
ありがとうございますと、千鶴はタネに手を握られたまま、もう一度頭を下げた。
「千鶴ちゃんがあの子のお嫁になってくれたら、おら、嬉しいけんど、どがぁじゃろね」
タネはにこやかに言った。千鶴は驚いて顔を上げた。タネの言葉は一瞬で千鶴の悲しみを吹き飛ばした。
「あ、あの……」
信じられない想いの千鶴は、喜ぶのも忘れてうろたえた。顔が熱くなるばかりで言葉が出て来ない。
「おタネさん、ちぃと気ぃが早過ぎるぞな」
千鶴の様子を見た安子が笑って言った。
「ほうかな。善は急げいうじゃろがな」
タネは微笑んではいるが大真面目のようだ。
「あ、ありがとうございます」
何とか感謝の言葉を口にした千鶴の心に感激の波が広がった。千鶴が嬉し涙をこぼすと、タネも涙ぐんだ。
「千鶴ちゃん、ほんまにあの子のこと好いてくれとんじゃな。ありがとな」
少ししんみりすると、安子が涙を拭きながら笑顔で言った。
「まずは千鶴ちゃんをあの子に会わせんとな」
ほれはほうじゃとタネはうなずき、ようやく千鶴の手を離した。
「あの子はな、兵頭ん所の家の修理を手伝いに行きよるんよ」
タネは少し不機嫌そうな顔で言った。為蔵も言っていたが、あの兵頭の家の修理を手伝うだなんて、確かにお人好しである。
その兵頭の家を知念和尚と母が訪ねている。千鶴は二人が忠之に会ったのだろうかと思ったが、タネから忠之の嫁にと言われた感激で、それ以上は何も考えられなかった。
タネは呆れた顔で話を続けた。
「あの子はまっことお人好しなけんど、人が好えんも程があらい。あんだけええようにされて馬鹿にされたいうのに、その家直しに行ってやるんじゃけん」
「ほれが、あの子のええ所ぞな」
安子が微笑むと、まぁなとタネも笑みを浮かべた。
「ほれじゃあ、行こかね」
安子が声をかけると、千鶴は足下の風呂敷包みを拾い上げてタネに渡した。包みの中はお気に入りの日切饅頭だ。ずっしり重みのある包みに、タネは顔を綻ばせた。
「ほんじゃあ、安子さん。あの子のこと、よろしゅうに。千鶴ちゃんもよろしゅうにな」
千鶴は微笑むタネの手を両手でしっかり握り、ありがとうございましたと頭を下げた。
千鶴たちが離れる時も、タネはずっとそこに立ったまま見送ってくれた。そして、千鶴が振り返ると手を振ってくれた。
千鶴は忠之を松山へ呼ぶことが、とても申し訳なく思えた。それを安子に話すと、忠之の幸せを願うおタネさんの気持ちを酌んであげるべきだと、安子は言った。
五
兵頭の家は離れた所からでもすぐにわかった。建物の真ん中の部分で屋根がなくなっていたし、大勢の村人たちが集まっていた。
家の壊れ具合を見ると、兵頭を呪った時に心の中で自分がやったことが、現実となって突きつけられているみたいで、千鶴は動揺した。
家から目線を逸らしてそこに集まる者たちに目を向けると、その中に知念和尚と母の姿があった。二人は継ぎはぎの着物を着た若者と喋っている。忠之だ。
幸子は千鶴たちに気づいたらしく、手を振ったあと千鶴たちを指差しながら、和尚と忠之の二人に声をかけていた。
和尚は千鶴に手を振ったが、忠之は黙って千鶴を見ていた。ひょっとして怒っているのだろうかと不安になったが、近づいて行くと忠之は泣いていた。
「千鶴さん、なしてこがぁな所まで……」
あとの言葉が出て来ない忠之に千鶴は言った。
「うちと母はお店を出られんおじいちゃんに代わって、佐伯さんにお詫びに来ました。ここにおじいちゃんからのお詫びの手紙も預かっとります」
千鶴は甚右衛門の詫び状を懐から取り出すと、涙を流す忠之に手渡した。
「この度はおじいちゃんが佐伯さんを傷つけてしもたこと、まことに申し訳ありませんでした。謝って済むことやないですけんど、このとおりお詫びしますけん、どうか堪忍してやってつかぁさい」
千鶴が頭を下げると、忠之は千鶴の手を握り、そげなことはせんでもええと言った。
「おら、何も怒っとらんけん。ほやけど、まさか千鶴さんがおいでてくれるとは思わんかった……。おらのことなんぞ、忘れたかてよかったのに……」
「忘れるわけないぞなもし。佐伯さんと一緒になれんのなら、うちは死ぬるつもりでおりました」
忠之の温もりに包まれながら千鶴は言った。この温もりがあれば何もいらなかった。
「そげなこと言うたらいけん。死んでしもたら、何のために生まれて来たんかわからんなるぞな」
「うちが生まれて来たんは、佐伯さんと一緒になるためぞなもし」
こほんと知念和尚が咳払いをした。見ると、近くにいる村の者たちが面白そうに千鶴たちを眺めている。
慌てる千鶴に幸子がにこやかに言った。
「二人で話がしたいんなら、場所を変えた方がええね。けんど、その前に兵頭さんにご挨拶しなさいや」
兵頭になんか会いたくないと思ったが、そういうわけにはいかなかった。千鶴が婿を取って山﨑機織の跡継ぎになるならば、取引先である兵頭とは、これからも付き合っていかねばならないのだ。
幸子に案内された千鶴は、壊れた家の前にいた兵頭とその家族に挨拶をした。みんな顔に傷があり、手や足に包帯を巻いている。命に別状がなくとも、その姿は痛々しい。
ここは名波村ではないからだろうが、祭りの夜に春子の家で食事を呼ばれた時には、兵頭も兵頭の家族もいなかった。兵頭の家族が千鶴と会うのはこれが初めてであり、千鶴が声をかけると、みんなぎょっとした顔で固まった。
幸子が自分の娘だと説明すると、兵頭は慌てた様子で、山﨑機織さん所のお孫さんだと、強い口調で家族に言った。それで兵頭の家族は動揺しながら千鶴に頭を下げた。
兵頭自身、千鶴とまともに顔を合わせるのは初めてだ。千鶴も兵頭とは面識がない。痩せこけた貧相な顔の兵頭は、戸惑いを隠せず小さな目をきょときょと動かしている。
人手が足らないため甚右衛門が店を離れられないことを、兵頭は知っている。だが、甚右衛門の代わりに幸子と千鶴が来るとは予想していなかったらしい。
幸子と顔を合わせた時にもどぎまぎしたようだが、千鶴を見た兵頭は完全にうろたえていた。異人みたいな顔つきに驚いたのかもしれないが、甚右衛門に忠之の陰口を言った後ろめたさがあるはずだ。
「ほ、ほれにしても、なしてお孫さんまで、わざにおいでてくれたんかなもし?」
兵頭は強張った笑みを浮かべて言った。千鶴は気持ちを隠して丁寧に応じた。
「こちらには先日のお祭りの時にお招きいただいて、みなさんにずいぶんお世話になりました。そこで絣の仲買いされておいでるお人のお家が大事になったんですけん、お見舞いは当然ぞなもし」
「ほ、ほうなんかな。そがぁ思てもろとるやなんて、こがぁな時には何よりの慰めぞな」
兵頭は少し安堵のいろを見せた。なるべく千鶴と目を合わせまいとしてはいるが、千鶴を甚右衛門の代理として認めたようだ。千鶴に自分の家を見せると、このとおりひどいもんだと恨めしそうに喋った。
兵頭の家は離れた所から見てもひどい有様だったが、近くから改めて眺めると、無残の一言に尽きた。茅葺きの屋根が剥ぎ取られただけでなく、その下にある木材がいくつもへし折られ、その一部と一緒に天井も崩れ落ちている。家は崩壊寸前だ。
とても突風で屋根が飛んだとは思えない。恐らく鬼がやったのだろうが、千鶴は自分がやったようにも思えて落ち着かない。
「なしておらの家ぎり、こげな目に遭わないけんのじゃて、おら、神さま仏さまを恨みよったかい」
不満を露わにした兵頭は、見てみぃと周囲の家を指さした。
「どっこも何ともなかろ? やのに、おらん所ぎりがやられてしもたんよ。いったい、おらが何したいうんかな」
何を寝惚けたことを言っているのかと、千鶴は腹が立った。鬼が壊したのでなかったとしても、天罰が下ったのは間違いないのだ。
しかし、そんな気持ちを顔に出すわけにはいかない。千鶴は兵頭に同情するふりをしながら、家が壊れた時の様子を訊ねた。兵頭は辺りを見まわし、家を修理してくれている村人たちから千鶴を遠ざけると、ここぎりの話ぞなと言った。
「あんたやけん言うけんどよ。化け物が出たんよ」
千鶴はぎくりとなった。やはり鬼だったのかと焦りを感じたが、わざとらしく驚いたふりをした。
「新聞にそがぁなことが書いてありましたけんど、あれはほんまのことやったんですね」
「新聞に? ほんまかな?」
千鶴がうなずくと兵頭は額に手を当てて、ほれはまずいなと言った。
「あん時は何が何やらわからんでよ。腹が立つやら悔しいやらで、会う奴会う奴に化け物の話をしてしもたんよ。ほん中に新聞記者がおったんやが、ほうか、やっぱし記事になってしもたかい」
兵頭は新聞を読んでいないらしく、どんな風に書かれていたのかと訊いた。千鶴は化け物の声が聞こえて牛が死んだという、記事の内容を説明してやった。
兵頭は困ったように首を横に振り、ほうなんよと言った。
「せっかく手に入れた牛が死んでしもたけんな。これから絣をどがぁして松山まで運んだもんかて悩みよらい」
また忠之に頼むと言わないのは、言えないからだろう。今はそんなことは考えなくていいと千鶴が慰めると、有り難いと言って兵頭は千鶴に頭を下げた。
「さすが甚右衛門さんのお孫さんぞな。人を思いやる心を持っておいでらい」
兵頭に言われても一つも嬉しくない。千鶴は話を戻して、化け物のことを訊ねた。
兵頭はもう一度周囲を見まわして声を潜めると、ここぎりの話と再度念を押した。
「初めは化け物が出たて言いよったけんど、今は突風で屋根が飛んだことにしとるんよ」
「なしてぞなもし?」
「今も言うたとおり、やられたんはおらん所ぎりじゃけんな。おらが呪われとるみたいなけんまずかろ? ほじゃけん、化け物言うたんは勘違いで突風じゃったて言うとるんやが、ほんまは化け物なんよ」
千鶴は兵頭の家のことよりも、化け物の話が聞きたかった。それで兵頭を気遣うふりをしながら話を続けた。
「兵頭さんは化け物を見んさったん?」
「いんや、夜じゃったし、ちょうど寝よったとこじゃけん見はしとらん。ほんでも、いきなし屋根がめげて土砂降りの雨が降ってきたけん、真っ暗闇ん中で何が何やらわからんままおったんやが、ほん時に聞いたんよ。がいに恐ろしい化け物の声をな」
その時のことを思い出したのか、兵頭は両手で自分を抱きながら震えた。
「あん時、おら、化け物に喰われるて思いよった。あの声ぎりでも、命が取られそうじゃった。やけん布団かぶって震えよったんやが、化け物はほのままおらんなったんよ」
兵頭の話を聞きながら千鶴は背筋が寒くなった。もしあのまま自分が兵頭を呪い続けていたら、きっと兵頭とその家族は鬼に喰い殺されていたに違いない。いくら自分を護ってくれているとしても、鬼は鬼なのだ。
千鶴は動揺を隠しながら訊ねた。
「化け物の声を聞きんさったんは、兵頭さんぎり?」
「いんや、おらの家族も聞いとるし、近所の者らにもほの声で目ぇ覚ましたんがおるんよ。ほれに近くにでっかい足跡もあったんよ」
「でっかい足跡?」
兵頭は両手をいっぱい広げて、これぐらいの足跡だと言った。その足跡は家の近くにはあったが、他では見つかっていないらしい。そのため、化け物がどこから来てどこへ行ったのかはわからない。だが、それでは化け物は兵頭を襲うために現れたみたいだ。そう見られるのを嫌って、兵頭は見つけた足跡は埋めたと言った。
「前に辰輪村の近くで、でっかいイノシシが頭潰されて死んだけんど、あのイノシシ殺したんもこの化け物じゃて、みんなが言うんよ」
千鶴は胸がどきどきしていた。みんなが鬼の存在に気づき始めている。そこに自分が関わっていたと知れたらどうなるのか。千鶴の不安をよそに兵頭は話を続けた。
「みんな、その化け物をおらが怒らせたて思とるんよ。やけん、家がこがぁなっとんのをわかっとんのに、怖がって誰っちゃ来てくれんかった。一番先に助けてくれたんは、山陰の忠之でな。あいつが一人で動いてくれて、ほれで他の者も助けてくれだしたんよ」
千鶴は思わず泣きそうになった。あれだけの仕打ちを受けた相手を、いったい誰が助けに行くだろう。しかも誰より真っ先に。
千鶴の表情にまずいと思ったのか、兵頭はすぐに話を変えた。
「とにかくよ、おら、死ぬか思うほど恐ろしい目に遭うたわけなんよ。ほんでも、この話は内緒にしといてくれよ。言うたように、おらの家は突風でめげてしもたんやけんな」
わかりましたと言うと、千鶴は涙を堪えて母の元へ戻った。それから母と一緒に兵頭に頭を下げると、知念和尚の傍にいる忠之の所へ行った。
ちらりと振り返ると、まだ兵頭がこちらを見ている。後ろめたさがあるから、何を言われるのかと心配なのだ。
「うち、佐伯さんと二人きりでお話がしたいぞなもし」
千鶴は兵頭を無視して忠之に言った。
「おらと?」
忠之は知念和尚たちの顔を見た。和尚と安子は口々に言った。
「行ってやりんさい。千鶴ちゃんはほのためにここまでおいでたんじゃけんな」
「あんた、千鶴ちゃんの頭に花飾った責任、きちんと取りんさいや」
「え? え?」
忠之はうろたえた顔で千鶴を見た。
「ごめんなさい。つい喋ってしもたんよ」
千鶴が笑いながら謝ると、今度は和尚が言った。
「千鶴ちゃんを寺へ運んだんは、お前やそうじゃな。わしらは何も知らんけん、お不動さまが連れておいでたて思いよったぞな、まったく」
「そげなことまで……」
横目で千鶴を見る忠之に、また安子が言った。
「ほうよほうよ、言い忘れとった。おタネさんがな、千鶴ちゃんにあんたのお嫁になってほしいて言うておいでたよ」
「え? おっかさんが?」
「為蔵さんはちぃと機嫌が悪かったけんど、二人ともあんたの思たとおりにさせるつもりみたいなで」
「ほんまに?」
「ほんまほんま。ほじゃけん、千鶴ちゃんと二人でように話をしておいでんさい」
忠之は黙って頭を下げた。少し戸惑った様子だったが、千鶴と目が合うと、忠之は照れたように微笑んだ。その笑顔が嬉しくて、千鶴も微笑み返した。
だが胸の中では緊張を感じていた。いよいよ前世の記憶を確かめる時が来たのだ。
時を越えて
一
千鶴と忠之は野菊の群生の前にいた。
ここは若侍が夢に出て来た場所であり、前世の千鶴が覚えている想い出の場所である。
「うちは、ここに倒れよったんですか?」
千鶴が訊ねると、忠之は黙ってうなずき、花が終わった群生の中にかがみ込んだ。立ち上がった忠之の手には、一輪の野菊の花があった。
「まだ一つぎり残っとった」
忠之は千鶴の髪にその花を挿してくれた。
「うん、きれいぞな。やっぱし千鶴さんには、この花が一番似合うぞな」
忠之は満足げに微笑んだ。
夢の若侍と同じだ。間違いなく忠之はあの若侍、つまり進之丞だと千鶴は確信した。
今こそこの人に前世の話をしよう。そう思った千鶴の視界に気になる物が入った。
すぐ傍にある松原の中に、木が折れて倒れている所があった。その近くには何かの残骸が散らばっている。
「あれは何ぞなもし?」
千鶴が指差すと、忠之はその残骸を振り返った。
「あぁ、あれは古い祠みたいな物ぞな」
「みたいな物? 祠やないいうこと?」
「そがぁにちゃんとこさえた物やないんよ。中には御神体らしきこんまい石があったけんど、ほれが何なんかはようわからん」
「ひょっとして台風でめげたいう鬼よけの祠やないんかなもし?」
「さぁな。ほんでも、あげな物が鬼よけになるとは思えんな」
忠之はまったく関心がないのか、喋り方もそれまでと違って素っ気なかった。
それでも祠が気になった千鶴は、松原の中へ入って行った。そのあとを忠之がゆっくりとついて来る。
近くで見ると、祠は原型をとどめないほど、ばらばらに壊れていた。それは忠之が言うように立派な祠というものではなく、御神体の雨よけ程度の造りだ。
これが壊れたとされる台風では、松山もかなりの風雨に曝されはした。だが、さほど大きな被害は出ていない。ここは余程の強風が吹いたのだろうか。それにしても妙な感じだ。
周囲の松には折れた木はない。折れているのはここだけだ。すぐそこの丘の上にある法生寺にも被害はなかった。木が折れるほどの風が吹いたのなら、法生寺にも何らかの被害があってもよさそうなのに、そんな話は聞かされていない。
また、風で吹き飛ばされて壊れたにしては、祠はあまりにもばらばらだ。いくら粗末でも、風でここまで壊れるものなのか。倒れた松の木に押し潰されたのだとすれば、潰れた祠は木の下にあるはずだが、祠の残骸と折れた木は別々の所にある。
それについて忠之は、わからないと言うので、千鶴は念を押して訊いた。
「これが鬼よけの祠じゃったとしても、鬼さんはこれがめげたけん地獄から出て来られたんやないんよね?」
「こげな物で鬼が封じられるんなら、誰も苦労すまい」
鬼が木をへし折ったような気がしたが、祠が鬼と関係ないなら、やはり風なのか。
「千鶴さんは鬼のことが心配かな」
忠之が千鶴を振り返った。千鶴がうなずくと、忠之は祠の残骸を見て言った。
「こがぁなもん、いくつこさえたとこで鬼を封じるなんぞできんけん」
ほうじゃねと言うと、千鶴は忠之を誘って松原の向こうにある浜辺へ向かった。今は祠のことより前世を確かめるのが先だ。心臓の動きが速くなっている。
二
ひたひたと静かな波が、砂浜に打ち寄せている。
左手に見える丸い鹿島を見ると、千鶴は切ない気持ちになった。ここで進之丞は千鶴を護るために死んだのだ。
「どがぁしんさった?」
泣きそうになっていた千鶴に、忠之が声をかけた。千鶴は無理に笑顔を見せると、佐伯さん――と言った。
「前に話してくんさった、うちと真っ対のロシアの娘さん、今はどこでどがぁしておいでるんか知っとりんさるん?」
忠之はぎょっとした顔になると、千鶴から顔を逸らして海を見た。
「さぁなぁ。どこでどがぁしとるんやら」
「そげなこと言うて。ほんまは知っておいでるんでしょ?」
惚ける忠之の顔を、千鶴はのぞき込んだ。忠之は困惑気味に千鶴を見返すと、どうしてそんなことを訊くのかと言った。
「佐伯さんの心ん中には、今でもその娘さんがおいでるんじゃろなて思たんよ」
忠之は寂しげに微笑むと、ほうじゃなと言った。
「確かに、おらの心ん中にはその娘がおる。忘れろ言われても、忘れられるもんやないんよ。ほれが気ぃに障る言われても、こればっかしはどがいもしようがないんぞな」
正直に喋る忠之の言葉は、千鶴に好意を示しながらも、二人の間に線を引いたつもりだろう。しかし千鶴には同じ言葉が、胸の中にいるのはお前だけだと聞こえている。
そこまで自分のことを想い続けてくれているのかと、千鶴が思わず涙を見せると、忠之は慌てて千鶴を慰めた。
「千鶴さん、泣かんでおくんなもし。おら、千鶴さんに泣かれるんが何よりつらいけん」
「ほやかて、佐伯さん……、そがぁにその娘さんのこと……好いておいでるんやもん」
「いや、ほやけん、ほれはどがぁも……、いやいや、ちぃと待っておくんなもし。泣いたらいけん。泣かんでおくんなもし」
おろおろする忠之が気の毒になり、千鶴は涙を拭いた。忠之は疲れたように安堵したが、千鶴に真っ直ぐ見つめられるとうろたえた。
「佐伯さん」
「何かな? もう、さっきみたいな話は――」
「うち、その娘さんのことわかったんよ」
え?――と忠之は不意打ちを食らったような顔になった。
「な、何がわかったんぞな?」
「その娘さんは法生寺におりんさったんでしょ?」
忠之は口を半分開けたまま言葉に詰まったが、すぐに平静を装って言った。
「なして、そがぁ思うんぞな?」
「和尚さんがな、言うとりんさったよ。和尚さんが知る限り、うちみたいな異国の血ぃ引く娘は風寄にはおらなんだて」
「ほ、ほうなんか」
忠之は明らかに動揺している。千鶴は続けて言った。
「この辺りでうちと対のロシアの娘いうたら、昔、法生寺で暮らしよった、鬼娘て呼ばれよった娘しかおらんぞな。その娘は風寄のお代官の一人息子と夫婦約束をしよったんやて。しかもな、その娘はうちと同し千鶴ていう名なんよ」
忠之は喋ろうとしたが言葉が出て来ない。千鶴は忠之を見据えながら言った。
「この話、どこぞで聞いた話に似ぃとると思いませんか?」
「お、おら、何のこと言われとるんか……」
尚もわからないふりをする忠之に、千鶴は言った。
「もう惚けんでもええんよ、進さん。おら、思い出したんよ。進さんと同しように、昔のことを思い出したんよ」
見開かれた忠之の目は、千鶴を凝視して動かない。それでもすぐに我に返ると、懲りずにしらばくれようとした。
「まだ信じてくんさらんみたいなけん、言うてあげましょわい。進さんはおらを護るために、ここでようけのお侍らと斬り合うたんよ。たった一人でおらを護ろとして、おらのためにお命を……」
その先を言えないまま千鶴は嗚咽した。千鶴の心は前世の千鶴が占拠していた。
千鶴の涙に弱いはずなのに、忠之は慰めようともしない。明らかに平静さを失っており、どう応ずるべきか測りかねている表情だ。
「進さん、黙っとらんで何とか言うておくんなもし」
千鶴が泣きながら促しても、忠之は黙ったままだ。認めたくないというより、認めてしまったあとのことを恐れているのだろうか。
進さんてば!――千鶴が語気を強めると、忠之は恐る恐る口を開いた。
「千鶴さんが進さんと呼びんさる男とおらが対じゃと、なしてわかるんぞな? ロシアの娘の話ぎりでそがぁ思とりんさるんなら、ほれは千鶴さんの思い違いぞな」
説得力のない弁解を続ける忠之に、千鶴は言った。
「進さんのまことの名は佐伯進之丞忠之ぞな。進之丞は呼び名で、忠之が諱じゃて、おらに教えてくんさったろ? 諱は誰にでも教えるもんやないけんどて言いながら、おらには教えんさったやんか。ほれに、今の進さんの名が佐伯忠之ていいんさるんは、おらの名が千鶴なんと対で、ほれこそ神さまがお示しくんさった、進さんである証ぞな!」
興奮して肩で息をする千鶴に、忠之の顔が綻んだ。
「ほんまに……、ほんまに思い出したんじゃな、千鶴」
「やっぱし進さんなんじゃね!」
千鶴は忠之、いや進之丞に飛びついた。進之丞は千鶴を抱きしめると、逢いたかったぞと言ってむせび泣いた。千鶴は涙で喋ることができず、ただ進之丞の胸の中でうなずくばかりだった。
三
師走に入っているが、柔らかな陽射しがぽかぽか暖かく、静かな波音が心地よい。
千鶴と進之丞は砂浜に座り、遥か昔を思い出している。
「おら、まだ全部を思い出したわけやないけんど、こがぁして進さんと喋っとると、どんどんいろんなこと思い出してくるぞな」
「思い出すんは楽しいことぎりにしとかんとな。思い出さいでもええことまで思い出したら、つろならい」
進之丞は微笑みながらも、その笑顔にはどこか影がある。
「進さん、おらのことどがぁしてわかったん?」
「どがぁしてて……」
「いくら今のおらが前世のおらと真っ対でも、ほれぎりじゃったら他人の空似かもしれんやんか」
「お前が何も申さんでも、あしにはお前のことがわかるんよ。たとえお前の姿が今と違たとしても、あしにはわかるんぞな」
「ほれは、おらを感じとるてこと?」
ほうよと言って進之丞はにっこり笑った。
千鶴は嬉しくなった。千鶴が進之丞を感じたように、進之丞もまた千鶴を感じてくれていたのだ。こうして互いの温もりを感じられるのは、やはり時を越えたつながりで結ばれているからだろう。
「おらもな、進さんがわからんうちから、進さんのこと感じよった。ほやけん、ずっと進さんのことが忘れられんかったんよ」
千鶴は進之丞に体を寄せた。あの温もりに包まれ、進之丞と一つになったみたいだ。
「進さんも、今おらを感じておいでる?」
進之丞がうなずくと、千鶴は喜びでいっぱいになり、進之丞の肩に頭を載せた。
「おらたち、こがぁしてお互いのこと思い出したけんど、もし思い出さんままじゃったとしても、この感じがあったらお互いに引き合うて一緒になれらいね」
ほうじゃなと微笑む進之丞の顔は、やはりどこか寂しげだ。たとえ互いの温もりを感じたとしても、生まれ育ちが壁となって一緒になれないこともあると言いたいのだろう。
前世で二人の身分は違い過ぎていたので、進之丞は千鶴を嫁にするために苦労をした。
しかし今世では立場が逆で、千鶴はロシア人の娘ながら伊予絣問屋の跡継ぎ娘だ。一方、進之丞は山陰の者として生きており、それがために一度は甚右衛門に見捨てられそうになった。時代が変わっても、生まれの違いを超えるのが容易でないのは変わらない。
「進さん、重見善二郎てお人、知っておいでる?」
千鶴が話題を変えると、進之丞は直ちに元気になった。
「重見善二郎? 知らいでか。そのお方はお前が武家に嫁入りする膳立てに、お前を養女に迎えてくんさることになっとったお人よ。じゃが、なしてお前があのお方を知っておるんぞ? まだお前には話しておらなんだはずじゃが」
「あのな、今のおらのじいちゃんは、重見善二郎いうお人の孫なんよ」
進之丞は目を丸くして、何と――と言った。
「ほれは、まことの話か?」
「じいちゃんがそがぁ言うとりんさった。じいちゃんの実家は歩行町にある重見家で、じいちゃんのおとっつぁんは重見甚三郎ていいんさるそうな」
「甚三郎か、覚えておるぞ。一度手合わせをしたことがあるが、剣の腕前はなかなかじゃった。ほうか、千鶴は重見家の血筋の家に生まれて来たんじゃな。やっぱし、これはお不動さまのお導きに相違ない」
法生寺の方を向いた進之丞は、両手を合わせて不動明王に礼を述べた。
進之丞が祈り終えると、ほれにしたかてと千鶴は言った。
「進さん、おらのことがわかっとったんなら、なしてもっと早ように言うてくんさらんかったん?」
「ほやかて、お前が何も思い出しとらんのに、お前と夫婦約束しよった進之丞ぞな――とは申せまい。そげなこと申せば、頭おかしいんやないかて思われようが」
「まぁ、ほやないかて思いよった。ほんでも、おら、ずっと昔の自分にやきもち焼きよったんよ?」
千鶴が拗ねたふりをすると、進之丞は笑って言った。
「あしも、うっかり申さんでもええことを喋ってしもたけんな」
「ほやけど、あん時、進さんに助けてもらえなんだら、おら、死んどった。ほれが、こがぁして逢えたんは神さまのお引き合わせじゃね」
「確かにほうじゃな。やが、あしらを引き合わせてくんさったんはお不動さまじゃて、あしは思いよる」
「なして、お不動さまなん?」
進之丞は法生寺を振り返りながら言った。
「お不動さまは、昔からあしらを見守ってくんさっとるけんな」
「ほやけど、おらたちは死に別れてしもたぞな」
「ほじゃけん、こがぁして逢わせてくんさったんやないか」
進之丞は千鶴を諭すように言った。
「あしはな、わかったんよ。人は死んでも、ほれでおしまいやないてな。死んでもまた生まれ変わり、大切な者と再び出逢うんよ。お不動さまはそがぁな生き死にの繰り返しの中で、あしらを見守っておいでるんよ」
「進さん、相変わらず頭がええねぇ。おら、そげな深い考えできんぞな」
「ほんでも、今は師範になる学校へ行きよるんじゃろ?」
進之丞の言葉で前世の千鶴は、後ろに隠れていた今世の千鶴に席を譲った。つまり、千鶴は我に返って困惑した。
「いや、あの、学校はな、その……」
「どがぁした?」
「ほやけんな、あの……、やめたんよ」
「やめた?」
進之丞は驚き、眉をひそめた。
「なして、やめたんぞな?」
「なしてて言われても……」
鬼のせいでやめたとは言いたくなかった。だけど、適当な説明が思いつかない。
「ひょっとして、あしがお店で働く思てやめたんか?」
弁解を探していた千鶴は、進之丞の言葉に飛びついた。
「おじいちゃんがな、うちらを夫婦にしてお店を継がせるおつもりじゃけん……」
そう言われたわけではないが、そうに決まっている。
小さいながらも山﨑機織は立派な絣問屋だ。そこの跡継ぎになるというのは、使用人にとっては大出世だ。千鶴は祖父が心から進之丞に詫びていると伝えたかったし、進之丞が喜んでくれると思った。しかし千鶴の期待に反して、進之丞は笑みを見せなかった。
「そげなことはでけん」
「でけんことないし。おじいちゃん、進さんにしんさったこと、ほんまに悪かったて思ておいでるんよ。ほれに、まっこと進さんに惚れ込んでおいでたんやけん」
山陰の者として生まれ変わったことを、進之丞は気にしているのだと千鶴は思った。だとすれば、やはり祖父の仕打ちは進之丞の心を深く傷つけたに違いなかった。
進之丞が黙っているので、千鶴は不安になった。
「進さん、おじいちゃんのこと怒っておいでるん?」
「いや、怒っとらん」
「じゃったら、なしてそがぁな顔するん?」
「そがぁな顔?」
「何や、むすっとしとるぞな」
進之丞は両手で顔をごしごしこすると、にっこり笑った。
「これでええかな?」
「ほれじゃったらええけんど、進さん、もううちの店にはおいでてくれんの?」
「いや、あしかてお前と一緒におれるなら、そがぁしたいと思いよる」
「ほれじゃったら、何がいかんの?」
進之丞は千鶴の方に体を向けて言った。
「あしにはな、そがぁにうまくいくとは思えんのよ」
「なして? お不動さまが引き合わせてくんさったんよ? 進さんが自分でそがぁ言うたやんか」
進之丞は口を噤んで何も言わない。ひたひたという波音だけが聞こえている。
「あしは人殺しぞな」
進之丞はぽそりと言った。
「人殺し?」
千鶴はぎょっとしながら言った。
「進さん、誰ぞ殺めんさったん?」
「殺めたいうても今の話やない。前の話ぞな」
「ほれじゃったら――」
「人を殺めた者に幸せをつかむことはできん。人殺しのあしがおったら、お前は幸せにはなれまい」
「何言うん?」
馬鹿げた話に千鶴は反論した。
「ほんなん前世の話やんか。ほれに、ほれはわざにやのうて、おらを護ってしんさったことじゃろ? 仕方なしにやったことやのに、なしてそがぁに言うん?」
「ほやかて、人殺しは人殺しぞな」
「ほんでも、ほれは前世の話で、今の進さんには関係ないぞな」
「あしが何も覚えとらんのなら、ほうかもしれん。やがこのとおり、あしは全部覚えとる。己の罪は己が知っとるんじゃけん、ほの罪から逃れることはできまい」
「進さん一人が不幸になって、おらぎり幸せになれるわけないやんか。おらの幸せは進さんと一緒になることなんよ? ほれがでけんのなら、おら、幸せになんぞなれん」
千鶴が泣きだすと、進之丞はうろたえた。何とかなだめて慰めようとしたが、千鶴は泣き止まない。
「わかった。わかったけん、泣かんでくれ。もう余計なことは申さぬ。何でもお前が申すとおりにする故、泣かんでくれ」
千鶴は涙の目で進之丞を見た。
「ほんまに?」
「嘘は申さぬ」
「約束やで?」
「あぁ、約束する」
千鶴は進之丞に抱きついた。進之丞も千鶴を抱き返したが、その胸には過去の苦しみが残ったままだ。襲って来た方が悪いのに、その相手の命を奪ったことで、生まれ変わってからも苦しむなんて実に理不尽だ。だが実際に苦しんでいる者には、そんな理屈は通用しない。千鶴が進之丞にしてやれるのは、黙って抱きしめてやることだけだ。
「人は変わるが、海は昔と変わらんな」
海を眺めながら進之丞が言った。千鶴もうなずいて海を見つめた。
二人の傍まで波が静かに打ち寄せている。前世で二人に何が起こったのかを、波は覚えているだろう。それでも波は二人に対して何の判断も批判もせず、ただ寄せては引くを繰り返している。それは無関心のようでもあるが、思いやりにも見える。あるいはすべてを知った上で、昔のごとくに二人を受け入れてくれているみたいでもあった。
波は静かに砂を運ぶ。同じように時の流れが進之丞の苦しみを、静かに運び去ってくれればと願いながら、千鶴は進之丞の肩に頭を載せた。
四
「そろそろ寺へ行くか。みんなが待ちよろ」
立ち上がろうとする進之丞に、一つだけ聞かせてほしいと千鶴は言った。
「進さん、前に鬼の話をしてくんさったろ? あん時に言いんさった和尚さんて誰?」
「慈命和尚ぞな」
「え? あの和尚さま?」
「ほうよ。お前が世話になっておった慈命和尚ぞな」
慈命和尚は、前世の千鶴が法生寺で暮らしていた時の住職だ。千鶴が異国の血を引く娘だと知った上で寺に引き取り、村人たちにも千鶴を理解させようとしてくれた千鶴の大恩人である。<