野菊のかんざし 目次
野菊のかんざし 解説
客馬車
一
かっぽんかっぽんと馬の蹄の音を響かせて、一台の客馬車が北へ向かってのんびりと走っている。
周囲に広がるのは、刈り取りが終わった田んぼばかりだ。
がたがたという車輪の振動が、お尻から頭のてっぺんまで伝わるが、乗客はみんな黙って揺られている。
六人乗りの客車には、真ん中の狭い通路をはさんで、三人掛けの長椅子が左右に設置されている。客車の後ろの部分が乗降口だ。
それぞれの長椅子には乗客が三人ずつ肩を寄せ合って、同じように揺られながら座っている。
その左側の一番後ろの席に千鶴は座っていた。
緊張の糸に縛られながら、千鶴はできるだけ目立たないように小さくなっている。それでも馬車に駆け乗った時の息がなかなか整わない。
息が荒くなると目立つので、千鶴は苦しさをこらえながら、小刻みに呼吸を繰り返した。
乗客の背後には大きな窓の空間があるが、ガラスなど風を遮るものはない。代わりに屋根から青い布が垂れ下がり、日除けや雨除けの役目を果たしている。
千鶴の隣にいるのは女子師範学校の同級生で、親友の村上春子だ。二人は四年生で来春に卒業する予定になっている。
一緒に客馬車に駆け乗ったので、春子も息を弾ませている。しかし、その顔は嬉しさを隠せない様子だ。
何が嬉しいのかと言うと、これから千鶴を連れて風寄の実家へ戻るところだからだ。
春子の実家がある名波村を含め、風寄の村々では今日から秋祭りが始まる。
土曜日のこの日、授業は午前だけだったので、二人とも授業のあと、大急ぎで客馬車乗り場へやって来た。
着物を着替える暇などない。袴こそ着けていないが、伊予絣の着物も、三つ編みを後ろで丸く束ねた髪も、学校にいた時のままである。
千鶴の家の近くには、阿沼美神社という神社がある。そこのお祭りは、神輿をぶつけ合う盛大なものだ。
千鶴は一年生の時から、毎年この祭りに春子を誘っていた。それで春子も、いつか自分の村の祭りを千鶴に見せたいと言っていた。しかしなかなか事情が許さず、春子の願いは叶わないままだった。
学校を卒業すると小学校の教諭となるのだが、どこの小学校に赴任することになるかは、その時にならないとわからない。
二人が同じ小学校に赴任するとは限らず、恐らく離ればなれになるだろうと、千鶴も春子も思っていた。
だから春子にとっては、この秋が千鶴に祭りを見せる最後の機会だった。
ただ今回も本当は、千鶴が風寄の祭りを見に行くことは無理なはずだった。それが突然状況が変わって、行けることになったのである。春子がはしゃぐのは当然だった。
春子は体をひねって後ろを向くと、青い布を持ち上げて外の景色を眺め、嬉しそうに千鶴に言った。
「ほれにしても、うまい具合に馬車に乗られてよかったわい。もちっと遅かったら、出てしまうとこじゃったけんな。危ないとこじゃったぞな」
客馬車は出発時間が決まっていない。乗客の乗り具合でいつ出発するかが決まる。
二人が客馬車乗り場に着いた時、客馬車はまさに出発しようとしていたところだった。
「ほんまじゃねぇ」
遠慮がちに微笑んだあと、千鶴はすぐに笑みを消した。
千鶴の正面に座っている白木綿の着物の老婆が、千鶴の一挙一動を見逃すまいとするかのように、じっと見すえている。眉をひそめたその顔は、いかにも汚らわしいものを見ているかのようだ。
目の遣り場がなく、千鶴が老婆から目を逸らすと、老婆の隣に座っていた若い男と目が合った。
着流し姿に鳥打帽をかぶったその男も、どうやら千鶴を眺めていたらしい。慌てて横を向くと、知らんぷりを装った。だが困惑したような目がきょときょとと動いている。
鳥打ち帽の男の向こうには、髪を二百三高地に結った伊予縞の着物の女がいる。歳は若くないが、きれいな顔立ちをしている。
前髪が山のように大きく盛り上がり、頭頂部の髷が高く突き出たこの庇髪は、明治時代からの流行ではあるが、千鶴はこの髪型が好きではない。
二百三高地というのは日露戦争の激戦地である。そんな名前の髪型があることが嫌だったし、その名前を好む人がいるというのも嫌だった。
この女は千鶴と目が合うと、にっこり微笑んだ。
しかし、その笑顔の裏には何か冷たいものが感じられ、千鶴はできるだけこの女とも目を合わせないようにした。
千鶴をにらみ続ける老婆は、千鶴たちが馬車に乗り込もうとした時には、春子が座っている所にいた。
空いていた席は左右の一番後ろだったので、本当ならば千鶴と春子は、後ろの端に向かい合って座るはずだった。
だが、老婆は千鶴の隣に座ることを嫌い、自ら右側の一番後ろに移動した。それで千鶴と春子は隣り合って座ることになった。
千鶴は他の者とは見た目が違っていた。老婆が千鶴を嫌うのは、千鶴の容姿のせいに違いなかった。
老婆の態度には、春子も気づいたはずだ。しかし、春子は千鶴の隣に座れたことが嬉しかったようで、老婆のことを気に留める様子はなかった。
だから、千鶴も老婆のことは気にしないように努めていた。
それでも胸の内では、やはり来るのではなかったかと、淡い後悔が浮かんでいる。
二
「おい、君。もう一度聞くが、今日は北城町で間違いなく宿が取れるんだろうな」
春子の左、つまり一番前に座っていた男が御者に声をかけた。
男は洋服姿で丸眼鏡をかけ、山高帽をかぶっている。足の間に立てたステッキに両手を乗せて揺られる姿や、その喋り方が少し威張ったように見える。
御者は馬を操りながら、ちらりと男を振り返った。
「へぇ、宿屋は宿屋ですけん。お祭りでも泊まれるぞなもし」
「それならよかった。せっかく祭りを見に行っても、泊まる所がなかったら洒落にならないからな」
どうやら男は風寄の祭りを見に来たらしい。男がどこの村の祭りを見るのか知らないが、名波村は北城町のすぐ北だ。もしかしたら名波村の祭りを見るのだろうかと千鶴が考えていると、御者が男に声をかけた。
「旦那はどこからおいでたんかな?」
「東京だ」
男は素っ気なく答えた。すると、東京かな――と御者は驚いた声を出した。
「東京言うたら、先月、がいな地震に襲われたろ?」
「あぁ、そうだ。あれは最悪だった。まるで地獄みたいな有様だったよ」
「新聞にもそげなことが書いてあったぞな。まぁ、ほんでも旦那はご無事でよかったわい」
優しい言葉をかけられて、先ほどまでの尖った感じが男から消えた。
「ありがとう。自分でも運がよかったと思ってるんだよ」
「ほんで、今はどがぁなさっておいでるんぞな?」
「僕はね、東京で教鞭を執ってたんだ。だけど、東京は壊滅してしまったからね。それで職探しをしてたんだが、高松に教職の仕事があると教えてもらってね。それでこっちへ来たんだよ」
高松と言えば、お隣の香川県だ。それなのに、愛媛の祭りを見物するとは、職を失った者には見えないと千鶴は思った。
「せんせ、実はね、あたしもあん時、東京におりましたんですよ」
二百三高地の女が、男たちの話に加わった。
先生と声をかけるところだけを見ると、女は男の知り合いのように思える。だが、どうやらそうではないらしい。
男は驚いたように女を見ると、すぐに照れたような顔になった。
「あなたもあすこにいらっしゃったんですか?」
女がうなずくと、男は顔を曇らせた。
「それは大変だったでしょうな。地震で建物は崩れるし、火事は起こるし、人が人ではおられぬ所でしたからな」
「確かに仰るとおりですわ。あたしもいっぺんはほとんど死によりましたけん。ほんでもお陰さまで、こがぁな元気な体にしていただきました」
「ほぉ、それはよかったですな。公然と人殺しが行われるような所でしたから、そんな話を聞かせていただくと、ほっとしますよ」
「人と言うものは、あげな時にこそ、本当の姿を見せるものなんですねぇ。あたし、ほれを身をもって知りました」
「まことに仰るとおりですな」
男は何度もうなずいた。
二人の話が聞こえていた千鶴の頭に、話に聞いている大地震と大火事で廃墟と化した町が浮かぶ。
がれきの前でたたずむ人や、狂ったように泣き叫ぶ人。誰かを必死に捜し回る人。所々から昇り続ける黒い煙。再び起こる地面の揺れに、言葉を失う人々。些細なことで始まる争い。
「姉やんは東京言葉と伊予言葉が混ざりよるな。姉やんはどこの生まれかな」
御者が訊ねると、さあねぇ――と女は惚けた様子で言った。
「生まれた所なんぞ忘れてしもたぞな。ほんでも昔、風寄におったことはあるんよ」
「ほぉ、どこぞに嫁入りしよったんかな」
女はくすくす笑いながら言った。
「あたしみたいな者、お嫁に欲しいやなんて言うてくれるお人、誰っちゃおらんわね」
「そんなことはないでしょう。あなたみたいにおきれいな方だったら、嫁に欲しいという者は掃いて捨てるほどいるはずだ」
山高帽の男が思わずという感じで言った。
女は驚いた様子で男を見ると、恥ずかしそうに微笑んだ。男も我に返ったのか、うろたえたように下を向いた。
春子は黙ったまま、意味ありげな目を千鶴に向けた。その顔は今にも噴き出しそうだ。
しかし、千鶴は笑う気分にはなれなかった。白木綿の老婆が、ずっと千鶴のことをにらみ続けている。
せっかくの楽しい名波村行きのはずだった。だが、千鶴は沈んだ気持ちで、これまでのことを思い返していた。
三
春子は学校の寮で暮らしているが、千鶴は家から通学している。
千鶴の家は松山だが、女子師範学校は松山から西へ一里と少し離れた、三津浜という所にある。
千鶴も入学した時には寮に入っていた。しかし実家が遠方でない者は、三年生からは自宅から通学するのが規則だった。
元々は全寮制だったのだが、千鶴が二年生の時に規則が変わったのである。だが春子は実家が遠いので、四年生の現在も寮にいる。
その寮は規則が厳しく、簡単に外へは出してもらえない。
今回、春子が実家へ戻ることが許されたのは、故郷の村で秋祭りが行われるという、特別な理由があるからだ。
ただ、いくら故郷の村祭りと言っても、それが平日であれば実家へ戻る許可は出ない。大切な授業を休んで行くなど許されないことだ。
授業がない土曜日の午後に寮を出て、日曜日には戻って来るという約束で許可がもらえたのである。
本当は門限の五時には戻らなければならないが、それは無理な話なので、先生との交渉の結果、日曜日の消灯時間までに戻る、ということにしてもらった。阿沼美神社のお祭りを見た時も、同じ条件で許可をもらっていたので、この交渉はむずかしくなかった。
だが当初の予定であれば、祭りは平日に始まるはずだった。予定どおりであれば、先生との交渉以前の話であり、実家へ戻る許可は出なかった。
しかし、台風が来たために予定が変わり、開催が土曜日に延びたのである。こんなことは滅多にあるものではなく、自分の願いが天に届いたのだと春子は信じている。
祭りの開催が土曜日になったという話は、名波村の実家から、学校の電話を通じて春子に知らされた。
電話などどこの家にもあるという物ではない。千鶴の家にも電話はない。しかし、春子の父親は名波村の村長だった。それで、村で唯一の電話を持っていた。
電話ですぐに連絡が取れるのは羨ましい限りだが、今回春子に連絡が来たのは金曜日の夕方だった。そして、千鶴が春子に誘われたのは土曜日の朝である。つまり、今朝言われたのだ。
祭りに招待されたことは、千鶴には嬉しいことである。
しかし、あまりにも急な話だった。授業が終わったら、一緒に名波村へ行こうと言われても、よし行こうと返事ができるわけがなかった。
何の準備もしていないし、何より家族の許可がなければ無理な話である。
そもそも女が気軽に遠出するなどできることではない。
ましてや自分は働いてもいない女学生の身分だ。家族の許可をもらうのは、学生寮の許可をもらうよりもむずかしいことだった。
春子には申し訳ないが、この話は断ろうと千鶴は考えた。
しかし、春子は千鶴を連れて帰ると実家に伝えていた。
村長一家が千鶴が来るのを、楽しみにしていると言われては、簡単に断るわけにもいかなかった。
仕方なく、家の許可がもらえない可能性が高いことを、千鶴は説明した。その上で、万が一許可がもらえたら、客馬車の駅で待ち合わせるという約束をした。
だが、客馬車がいつ出発するのかはわからない。そのため、家の許可の如何に関わらず、客馬車の出発までに自分が現れなければ、一人で行ってもらうということで、千鶴は春子に了解させた。
とは言っても、そうなることは確実だと千鶴は考えていた。
午前の授業が終わると、千鶴は持参していた弁当も食べず、大急ぎで家路に就いた。いつもは歩く道をずっと小走りし続けた。
実は、千鶴は名波村には縁があった。
母が千鶴を身籠もった時、祖父と喧嘩をして家を飛び出し、しばらく名波村の寺で世話になったと聞いていた。
とてもよくしてもらったと母が言っていたので、いつか機会があれば訪ねてみたいという想いを、千鶴は抱いていたのである。
だが家に着いた頃には、やはりだめだろうと、膨らんでいた千鶴の気持ちは再び小さくしぼんでいた。
千鶴の家は、山﨑機織という小さな伊予絣問屋である。
絣は普段着の着物生地として人気がある反物だ。中でも伊予絣は安くて丈夫ということで全国でも評判であり、東北の方まで出荷されていると言う。
ちなみに千鶴や春子の着物は、どちらも自分たちで伊予絣の反物から作ったものだ。
絣は農家の副業で作られることが多い。山﨑機織ではいろんな地域から絣の反物を仕入れており、それを町中の太物屋だけでなく、東京や大阪へも納めている。
山﨑機織の主は千鶴の祖父だ。家の中でも、祖父に一番の権限がある。その祖父は孫娘である千鶴を快く思っていなかった。祖父の承諾を得るのは不可能に決まっていた。
それでも家に戻って祖父の前へ進み出た千鶴は、春子からの誘いと、名波村へ行きたいという自分の気持ちを懸命に伝えた。
喋るだけ喋ると、千鶴は仏頂面の祖父の視線から逃れようと下を向いた。
自分が無茶なことを言っているのはわかっている。雷のような怒鳴り声が落ちるはずだった。
しかし、千鶴の心配は杞憂に終わった。
どういうわけか、祖父はあっさりと千鶴の名波村行きを認めてくれた。しかも、小遣いまで持たせてくれたのである。
一応小遣いの名目は、向こうへの土産代と客馬車の運賃ということだった。だが、渡された銭はそれ以上あった。
千鶴は信じられない気持ちで、祖父から名波村へ行くことの承諾と、お金をもらったことを祖母に伝えた。
祖母も千鶴が気に入らない。祖母は驚きと困惑と少し怒ったような顔を見せた。だが、夫が決めたことだから文句を言うことはなかった。
母は外で働いていて不在だったので、置き手紙を残して来た。
食べなかった弁当はこっそり丁稚たちにやった。食べ終わったあとの弁当箱は、祖母に見つからないようにして、母に戻しておくように頼んでおいた。
途中で土産の饅頭を買うと、千鶴は空きっ腹のまま小走りで、半里ほどある客馬車乗り場へ向かった。正直、空腹と疲れでへとへとだった。
それでも、三津浜から電車で来た春子と途中で合流すると、嬉しさで最高の気分だった。しかし、今はその気分も鎮まり、本当に自分は春子の家族に歓迎してもらえるのかと、不安になっていた。
四
「兄やん、兄やん。ここで降ろしておくんなもし」
千鶴の正面に座っていた老婆が、大声で御者に声をかけた。
馬車が止まり、御者席から御者が降りて来た。
客馬車には乗り場の駅がある。千鶴たちが乗ったのは、北の町外れにある木屋町口という駅だ。降りるのは終着の北城町だが、その中間辺りにある堀江村という所にも駅があった。
ところが、老婆が降りようとしているのは、堀江の駅に着く前だった。どうやら降りる時は、好きな所で降ろしてもらえるらしい。
御者が千鶴と老婆の間にある乗降口の綱を外すと、老婆はそこから降りようとした。その時に老婆がよろけたので、千鶴は思わず手を伸ばして老婆を支えようとした。
しかし、老婆は千鶴の手を振り払うと、嫌な目つきで千鶴をにらみ、それからゆっくりと客車から降りた。
老婆から乗車賃を受け取ると、御者は持ち場に戻り、客馬車は再び動き出そうとした。
その時、いつの間にか後ろから来た乗合自動車が、道を空けるよう催促した。御者は舌打ちをすると、客馬車を左端に寄せた。
道幅が狭いので、乗合自動車はゆっくりと馬車の横を、いかにも邪魔そうな感じで通って行った。
乗合自動車の後ろの座席には、客が三人乗っている。その姿はちらりとしか見えなかったが、三人とも裕福そうな姿に見えた。
再び客馬車が、がたがた、かっぽんかっぽんと動き出すと、後方を歩く老婆の姿はすぐに小さくなって行った。
一方で、前方を行く乗合自動車も次第に小さくなって行く。
千鶴の正面に、もう老婆はいない。しかし千鶴の胸には、老婆から向けられた憎悪が突き刺さったままだった。
千鶴の気持ちを知らないのか、春子は鼻息荒く言った。
「何や感じ悪いな、あの乗合自動車。ほら確かに乗合自動車の方が速かろ。けんど、乗り心地が悪いんは対よ。ほれやのに運賃が一円十銭もするんで。ほれに比べて、馬車の方は三十六銭じゃろ? 絶対、馬車の方がええわいね」
じゃろげ?――と同意を求められ、千鶴は少しだけ微笑んでみせた。
千鶴は乗合自動車どころか、客馬車も生まれて初めて乗った。
それで、客馬車はお尻が痛くなるのがわかったけれど、乗合自動車の乗り心地なんてわからない。だから春子の話には、どうにも返事のしようがなかった。
堀江の駅に着くと、客馬車はしばらく停まっていた。
近くには四国遍路の札所があるので、お遍路の姿がちらほら見える。しかし、新たに客馬車に乗り込む客はいなかった。
ちょうど北城町から来た客馬車が堀江駅に到着すると、入れ替わるように千鶴たちを乗せた客馬車は動き始めた。
乗客たちと目を合わせたくないので、千鶴は客車の後部から、後ろにゆっくり遠ざかる外の景色を眺めていた。と言っても、青い布が邪魔で、見えるのは低い所にある道や田んぼばかりだ。
春子も最初のはしゃぎぶりは落ち着いたようで、今は黙って揺られている。鳥打帽の男も黙ったまま腕を組んでいたが、ちらりちらりと千鶴を盗み見するのは同じだった。
山高帽の男と二百三高地の女は、相変わらずお喋りを続けているが、時折そこへ御者が二人の話に交じった。
聞くつもりはないけれど、勝手に耳に入って来る話によれば、山高帽の男には気にかけている甥っ子がいるらしい。
昔、その甥っ子は東京で暮らしていたそうだが、訳あって精神を病んでしまい引きこもっていたと男は話した。
しかし、甥っ子は気分を変えるために、何年か前にこちらへ移り住んでいた。それで山高帽の男は高松へ赴任となったのを幸いに、その甥っ子に会いに来たと言う。
だが、昨夜は三津浜の宿に泊まったと男が言うので、どうして松山まで来て三津浜で宿を取るのかと、千鶴はぼんやり考えていた。
「もうじき海が見えるけん」
不意に春子の声が聞こえた。見ると、春子は青い布を持ち上げ、千鶴に海を見せようとしている。
春子は外の景色に気を取られていたのか、山高帽の男が言った三津浜という言葉には気がついていないようだった。
同じように青い布を持ち上げて、千鶴が景色を眺めていると、なるほど左手の先の方に海が見えて来た。
やがて馬車が海のすぐ近くを走り始めると、右手に山の崖が迫って来た。この先の道は山のすぐ際を走るらしい。
海は穏やかで大きな波は見えない。時折、優しげな潮風が千鶴たちの脇を通って、客車の中をくぐり抜けて行く。
この日の空は清々しい秋空だった。日はかなり西に傾いているものの、空が赤く染まるにはまだ時間がありそうだ。
「ここいらはな、粟井坂言うて、昔はこの右手の山を越える道しかなかったんよ。ほれが四、五十年前じゃったかの。この新しい道がでけたけん、こがいして馬車が走れるようになったんよ」
御者が前を向きながら大きな声で言った。話しかけている相手は乗客全員と言うより、山高帽の男と二百三高地の女の二人だろう。
「へぇ、そうなのかね。この道を作るのは大変だったろうに」
山高帽の男が感心すると、山道の方がよかったのにと二百三高地の女が言った。
「昔の道には昔の道のよさと言うか、味わいがあるじゃござんせんか。せんせは、ほうは思われませんか」
男はうろたえた様子でうなずいた。
「そ、そう言われてみれば、確かにそうですな。古いものには味わいというものがある」
「けんど、前の道のままじゃったら、この馬車は走れまい」
御者が反論すると、山高帽の男は女をかばった。
「でも、やはり眺めは高い所の方がいいんじゃないかな」
すると、女は手で口を隠しながらくすくす笑った。
「嫌だわ、せんせ。山道は周りが木だらけなんですよ。眺めなんかちっともよくありませんよ」
「あ、いや、それは……」
山高帽の男が、顔を赤らめて口を噤むと、女はまた笑いながら言った。
「でもね、せんせ。粟井坂の峠から見える海は、ここより見晴らしがいいのよ」
「そ、そうなのかね。じゃあ、やっぱり山道の方がいいのかな」
「だけど、馬車で走るんなら、やっぱしこっちの道の方がええぞなもし」
天邪鬼のような女だった。山高帽の男は完全に遊ばれている。千鶴は山高帽の男を気の毒に思った。
だが鳥打帽の男は下を向きながら、くっくっと笑っている。春子も笑いをこらえるのに必死なようだ。
五
粟井坂の山を過ぎると、広々とした平野に出た。ここからが風寄だと春子は言った。名波村はまだ先だが、春子はもう故郷へ戻ったような顔をしている。
過ぎた山の麓には小さなお堂があって、白装束のお遍路が手を合わせていた。春子が言うには、あれは大師堂で弘法大師を祀ったものらしい。
しばらく行くと、街道沿いに町並みが現れた。ここが北城町かと訊ねると、ここは柳原だと春子は言った。
柳原には客馬車の駅はない。だが鳥打ち帽の男は、ここで降りると言った。
男は客馬車を降りる時、ちらりと二百三高地の女を一瞥した。それに対して、女の方もじろりと男を見返した。
千鶴には二人が目で何かを言い交わしたように見えた。しかし、すぐに男がこちらへ目を向けたので、千鶴は慌てて下を向いた。
男は御者に金を払うと、もう客馬車には目もくれないで、辺りをきょろきょろと見回している。その様子を千鶴が眺めていると、もうし――と呼びかける声が聞こえた。
「もうし、そこにおいでる姉やん」
二百三高地の女がにこにこしながら、こちらを見ている。
春子は自分が声をかけられたのかと思ったみたいだった。だが、女の視線は千鶴に向けられていた。
千鶴は当惑しながら女に顔を向けた。
「姉やんは、お国はどこぞなもし」
「松山です」
千鶴は小さな声で申し訳程度に返事をした。馬車の車輪の音が大きいので、聞こえたかどうかはわからない。
二百三高地の女は興味深げな目を向けながら、さらに話しかけて来た。
「こがい言うたら失礼なけんど、姉やんは異国の血が入っておいでるん?」
千鶴は下を向いて答えなかった。見かねた春子が女に噛みつくように言った。
「ほれが何ぞあんたに関係あるんかなもし?」
女は平気な様子で微笑みながら答えた。
「別に関係はないけんど、昔、ほの姉やんによう似たお人を見たことがあるもんで、ちいと聞いてみとなったぎりぞなもし。気ぃ悪したんなら謝ろわい」
「うちと似た人がおいでるんですか?」
千鶴は思わず顔を上げると、女に訊ねた。女は機嫌よく言った。
「昔の話ぞな。ずっと昔のね」
「ほのお人は、今はどこで何をしておいでるんですか?」
「さあねぇ。とんと昔のことじゃけん。ほんでもな、まっこときれいなお人やったぞな。今の姉やんみたいにねぇ」
女は千鶴を見つめながら微笑んだ。
人からきれいだなんて言われたのは初めてだ。千鶴はちょっぴり嬉しい気がした。しかし、この女が天邪鬼であることを思い出し、嬉しく思ったのが悔しくなった。
それに千鶴を眺める女の笑顔が、品定めをしているようにも見えたので、また緊張が戻って来た。
千鶴が黙り込むと、女は千鶴に飽きたように、今度は御者に何かを話しかけた。
一方で、山高帽の男は千鶴に興味を持ったようだった。男は何か言いたげに口をもごもごさせたが、間に春子が座っているからだろう。結局は千鶴に話しかけることはなかった。
「そろそろ着くで」
春子が少し体をかがめて、御者の前方に見える景色を眺めながら言った。
「ほら、あそこにお椀みたいな、まーるい島が見えるじゃろ? あれは鹿島言うてな、鹿が棲んどる島なんよ」
春子は前方に見える島を指差した。その島を見た途端、千鶴の胸はどきんとなった。
陸からすぐ近くに浮かぶその小さな島は、何だか妙に存在感がある。周囲に似たような島がないからだろうか。
千鶴は胸の奥の方に、小さな胸騒ぎを感じていた。
「もうし、姉やん」
また二百三高地の女が、千鶴に声をかけて来た。
千鶴が黙って女の顔を見ると、両手で何かを持ち上げる仕草をしながら女は言った。
「申し訳ないけんど、ほの青い布をちぃと持たげておくれんかなもし」
怪訝に思いながらも、千鶴は言われたとおり、自分の後ろの青い布を持ち上げてやった。
「うわぁ、きれいやわぁ」
女が歓声を上げた。そこには赤く染まった夕日があった。
夕日は見事に美しかった。茜色の空の中、横に棚引く雲の層が金色に輝いている。また海の上にも、こちらへ延びる金色の帯がきらきらと揺らめいている。
女の声で、春子も山高帽の男も後ろの青い布を持ち上げた。春子はもちろん、山高帽の男も感嘆の声を上げた。
確かに美しい夕日だった。これまでに千鶴が見た夕日の中で、一番美しい夕日かもしれなかった。
千鶴の目は夕日に釘づけになっていた。しかし、それは夕日の美しさに見とれていたからではない。
何故だかわからないが、千鶴の胸の底から深い悲しみが湧き出していた。それはどんどん大きく膨らんで、千鶴は理由もなく、胸をかきむしりながら泣き叫びたくなるような衝動に襲われていた。
困惑した千鶴は、夕日から自分を引き剥がすように前を向いた。右手で押さえた胸の中では、まだ悲しみが暴れている。
青い布が再び垂れ下がったからだろう。あら?――と二百三高地の女が声を出した。
申し訳なく思った千鶴がちらりと目を遣ると、女は意外にもにこにこ微笑んでいた。
きっと、自分のことを面白がっているのだろうと、千鶴は女から顔を背けて、乗降口から後ろに流れ去る景色を見た。
胸の中の悲しみは少し落ち着いた。それでもまだ消えたわけではなく、ぐるぐると蠢いている。
ただでも不安が一杯なのに、理由のわからない悲しみが込み上げるなんて尋常じゃない。
自分はおかしくなったのではないかと、千鶴は心配になった。
どうして夕日を見ないのかと、隣で春子が怪訝そうにしている。しかし、千鶴には夕日をもう一度眺める勇気はなかった。
がんごめ
一
「ほうかね。お父ちゃん、ロシアの方なんかね」
割烹着を着た春子の祖母マツは、千鶴の話に大きくうなずいた。
薄暗くなった空間を、土間の竈と囲炉裏の火が暖かく照らしている。その囲炉裏を囲んで千鶴たちは喋っていた。
昼間はまだ暖かいが、日が翳るとすぐにひんやりした感じが染み出して来る。囲炉裏の火はとても有り難かった。
土間にある台所では春子の母イネが、春子の兄嫁の信子と竈で飯を作りながら、千鶴たちの話を聞いている。
そんな春子の家族に千鶴の緊張は続いていた。
学校にロシア人の親を持つ生徒がいることを、春子は女子師範学校に入学した時に家族に話していた。
しかし、この日訪ねて来るのがその生徒であることは、うっかり伝えていなかったらしい。
千鶴が春子に家の中へ招き入れられると、千鶴を見たマツたちは驚いた顔をした。その様子に千鶴は血の気が引いた感じがした。
それでも、マツもイネも千鶴に対して嫌悪の色は見せなかった。土産の饅頭を喜んで受け取り、千鶴を歓迎してくれた。
一方、信子は無口な嫁で、義母たちに遠慮しているのか、千鶴が挨拶をした時も、黙って会釈をしただけだった。
本当のところ、千鶴にはマツたちの心の中がわからなかった。千鶴に嫌な顔を見せないのは、千鶴を親友だと言う春子を気遣ってのことかもしれない。それで囲炉裏端へ上げられても、千鶴はずっと気を張ったままだった。
いずれにせよ、とにかくいい印象を持ってもらおうと、千鶴はできる限り丁寧な姿勢で喋るべきことを必死に喋った。
今のところはマツもイネも好意的に見える。二人とも村長の家族なのに、少しも威張った感じがなく温かい人柄のようだ。
ただ、信子は千鶴の話に反応を示さず、台所で黙々と手を動かしていた。その様子が千鶴には少し冷たい感じに見えた。
しかし春子はそんなことは全然気にならないようで、千鶴について得意顔で説明した。
「山﨑さんのお父ちゃんはロシアの兵隊さんでな。お母ちゃんはお父ちゃんが入院しよった病院の看護婦さんやったんよ」
父親がロシア人だと言えば、それだけで日露戦争の捕虜兵だったとわかるに決まっている。だからマツもイネもそのことをあえて確かめようとはしなかったのだと、千鶴は受け止めていた。
それは千鶴への思いやりかもしれないが、ただの当惑かもしれなかった。それをわざわざロシアの兵隊だと、春子にはっきり告げられて千鶴は困惑した。
それに、信子の動きが一瞬止まったのを千鶴は見逃さなかった。やはり信子は千鶴がロシア兵の娘であることに、何らかのわだかまりがあるのだろう。
マツは春子の説明に、ほうかね――ともう一度うなずいたが、特別な変化は見せなかった。イネも何も言わなかった。無関心を装っているような妙な雰囲気だ。
千鶴の中で不安がぐるぐる回り出した。その時、マツがぽつりと言った。
「千鶴ちゃんも苦労したんじゃろね」
マツの言葉は千鶴の胸を打った。そんな言葉をかけてもらえるとは思いもしていなかった。返事をしようとすると涙が出そうになって、千鶴は言葉を返せなかった。
マツは黙って囲炉裏に吊した土瓶を外すと、千鶴たちにお茶を淹れてくれた。
台所のイネは千鶴たちを振り返ると、部屋の隅にある棚に、昼に食べた残りのおはぎがあると言った。
「千鶴ちゃん、おはぎ食べるじゃろ?」
イネのにっこりした笑顔を見ると、涙がぽろりと千鶴の目からこぼれ落ちた。
千鶴は慌てて涙を拭くと、いただきます――と笑顔で言った。
千鶴の涙には春子も少し慌てたようだった。しかし、千鶴がおはぎを食べると言ったので、元気よく立ち上がると、棚からおはぎが載った皿を運んで来た。
「信子さんも食べん?」
春子が声をかけると、信子は微笑みながら首を横に振った。
「お昼にたんといただきましたけん、ほれは春ちゃんたちで食べてつかぁさい」
ほんじゃあ――と言って、春子は千鶴の隣に腰を下ろし、二人の間に皿を置いた。皿の上には大きなおはぎが四つ載っている。あんこがたっぷりでとても美味しそうだ。
千鶴の心の中は、心配と安心がぶつかり合っていた。
しかし、おはぎを目の前に置かれると、昼を食べずに来たことを思い出し、急に空腹に襲われた。
「今日はばたばたしよったけん、お昼もちょこちょこっと食べたぎりなんよ。ほじゃけん、ちょうどお腹が空きよったとこやし」
春子はマツたちに嬉しそうに言った。
村上さんはお昼を食べて来たんかと、千鶴はちょっとムッとした気分になった。
でも、春子に罪はない。千鶴が松山の自宅まで歩いて戻らねばならなかったのは、春子の責任ではない。
三津浜から松山まで春子が電車に乗られたのも、自分と春子とでは家の事情が違うのだからと、千鶴は自分を戒めた。
それでも千鶴は、家族に大切にしてもらっている春子が、ちょっぴり羨ましかった。
二
「ほら、山﨑さん、遠慮せんで、お食べな」
春子に促され、千鶴はおはぎを手に取った。
これをいただけるのだから、もう昼飯のことは忘れよう。そう思って、千鶴はおはぎを口元へ運んだ。
その時、春子がおはぎを手に持ちながら千鶴に言った。
「山﨑さんは、お父ちゃんの方の血が濃いんよね」
おはぎを食べようと、口を開けていた千鶴はぎくりとなった。
春子はまだ千鶴のことをマツたちに説明したいらしい。千鶴に話しかけながら、その目はマツとイネに交互に向けられていた。
しかし、自分の容貌のことを話題にされるのは、千鶴は好きではなかった。千鶴はちらりと春子を見たが、春子の言葉に対する返事はしなかった。
いったんは口元に運んだ、おはぎを持つ手を膝の上に降ろすと、千鶴はマツたちに言った。
「うちの肌が白いんとか、目ぇの辺りなんかは、父に似とるそうです。けんど、鼻とか口元は母似やそうです。髪の毛や目ぇの色が薄いんは、父親の血ぃでしょうけんど、色が茶色っぽいんは、母の血ぃやと思います」
千鶴は少しでも自分が、日本人である母と似ていることを強調したかった。
だが、それは千鶴が雪のように白く、ほとんどロシア人のような顔つきであることへの劣等感の裏返しだった。
「山﨑さんの背ぇが高いんは、お父ちゃんの血ぃやな」
千鶴の気も知らず、春子が楽しげに言った。
確かに、千鶴は他の生徒から比べても背は高い方だ。しかし、それは女子にとって自慢できることではない。
それでも、春子は千鶴を援護しているつもりなのだろう。今度は千鶴を褒め立てた。
「ばあちゃん、山﨑さんはな、学校でも成績優秀で、先生からの評判もええんやで」
「ちょっと、村上さん。そげな嘘は言うたらいかんぞな」
自分では成績が優秀だなどとは思ったことがない。
だが千鶴が文句を言っても、嘘やないで――と春子は取り合わない。
「山﨑さん、試験ではいっつもおらよりええ点取るやんか」
「ほやけど、うちの点なんか大したことないぞな」
千鶴が言い返すと、イネが笑いながら口を挟んだ。
「問題は春子の点がなんぼか言うことじゃろな」
ほれは、ほうじゃ――とマツも笑った。千鶴も春子も釣られて笑った。しかし、背中を向けている信子は、笑っているかはわからない。
笑いが収まると、マツは千鶴に訊ねた。
「ほれで、千鶴ちゃんのお父ちゃんは松山においでるんかね?」
「いえ、父はロシアにおります。あ、今はロシアやのうて、ソビエトれんぽうとかいう名前になったみたいですけんど」
「ソビ?」
「ソビエトれんぽうです」
マツはその国名を、何度か口にしようとがんばった。しかし、うまく言えないので、あきらめて恥ずかしそうに笑った。
「むずかしい名前じゃねぇ。けんど、お国が変わる言うたら大事ぞな。千鶴ちゃん、お父ちゃんとは手紙のやりとりしよるんかな?」
千鶴は、いいえと首を振った。
「母は父に住所を教えんで、父の住所も聞かんかったそうです」
「へぇ、ほれはまた何でぞな?」
「ロシアの兵隊さんと一緒になれるわけないですけん。母は父とのことは思い出として、大切に胸に仕舞とこと思たそうです」
「ほんじゃあ、お父ちゃんは千鶴ちゃんが産まれたことも、知らんままなんじゃねぇ」
イネが気の毒そうな顔をすると、マツは励ますように言った。
「ほんでも、千鶴ちゃんにはお母ちゃんもおいでるし、お家の方もおいでるけん、心強いわな」
千鶴はうなずいた。だが、胸の中は複雑だった。
「さてと、もうちぃとゆっくり話を聞かせてもらいたいとこなけんど……」
マツは台所の二人を見ると、申し訳なさそうに両膝をさすりながら言った。
「もうまぁ男衆が、だんじりの屋台こさえ終わる頃やけんな。戻んて来て食べるご飯をこさえとかにゃいけんのよ。いつもじゃったらあの二人に任せとくんやけんど、今日はおらもただ座っとるぎりにゃいかんけんな」
竈の火加減を確かめながら、イネは言った。
「ほん時に千鶴ちゃんも、みんなとご飯食べたらええぞな。七時頃になったら神社の参道に、ここら辺の屋台が集まるけん、一緒に見に行こわいね。屋台の提灯に火ぃ灯すけん、きれいなで」
母の言葉に、春子も続けた。
「半鐘や太鼓をジャンジャンドンドン鳴らすけん、火事みたいに聞こえるんよ。ほれに屋台に一杯飾った笹がな、提灯の明かりで照らされて、遠目に見よったら、ほんまに火ぃ燃えとるみたいなで」
「千鶴ちゃんと春子はゆっくりしよったらええけん」
マツが立ち上がって腰を伸ばすと、自分たちも仕事を手伝おうかと、春子は申し出た。
千鶴はちょっとどきりとしたが、みんなが忙しい中で、のんびり座っているわけにもいかない。それに、自分に優しくしてくれたマツたちを手伝いたい気持ちはあった。
土間の隅に置いてあった菜っ葉を拾い上げたイネは、千鶴たちに笑顔を見せながら言った。
「近所の女衆も家でこさえた物を持て来るけん、大丈夫言うたら大丈夫なけんど、手ぇ空いとんなら手伝てもらおかいね」
喜んでお手伝いします、と千鶴が言うと、イネもマツも嬉しそうに笑った。しかし、信子は背中を向けたままだった。
春子は家の奥に目を遣ると、ところで――と言った。
「ヨネばあちゃんはどがいしよるん?」
「部屋におるよ」
「多分、寝とるな」
イネとマツは代わる代わる答えた。
春子は少しがっかりしたように言った。
「寝とるんか。山﨑さん紹介しよて思いよったのに」
「まぁ、声かけてみとうみ。起きとるかもしらんけん」
マツが言うと、春子はうなずいた。
「一応、声かけてみよわい。手伝いはほのあとでええじゃろ?」
ええよええよ――とマツは言った。
「ほんでも、その前におはぎを食べておしまいや」
イネに言われると、春子は大きな口を開けて、おはぎを食べようとした。
千鶴は小声で春子に訊ねた。
「村上さん、おばあちゃんが二人おるん?」
「ひいばあちゃんぞな」
それだけ言うと、春子はおはぎに食いついた。
ひいばあちゃんという言葉に、千鶴は驚いた。
千鶴には祖母はいるが、曾祖母はいない。千鶴の周辺でも、曾祖母の話は聞いたことがなかった。
曾祖母というものを千鶴が考えている間に、春子は一つ目のおはぎを、全部口の中に詰め込んでいた。
春子が甘い物に目がないことは、これまでの付き合いで千鶴も知っていた。しかし、その勢いに千鶴は困惑した。
早く食べ終わって、イネたちの手伝いをするつもりなのだろう。
でもまさかお客の自分が、同じような食べ方をするわけにはいかない。とにかく急いで食べねばと思っていると、マツが春子を注意した。
「ほらほら、そげな食い方しよったら喉に詰めてしまうぞな」
春子は大丈夫と言おうとしたようだった。しかし、急に動きを止めて目を白黒させた。心配したとおり喉に詰めたらしい。
千鶴は急いでお茶を飲ませようとした。しかし、お茶はまだ熱かったので、春子は飲もうとしたが飲めなかった。
そこへ信子が湯飲みに水を汲んでくれた。春子はそれを受け取ると、苦しそうにしながら飲んだ。
「あぁ、助かった。ほんまに死ぬるかと思いよったで」
一息ついた春子が、お礼を述べながら湯飲みを信子に戻すと、信子はようやく笑顔を見せた。しかし千鶴と目が合うと、すぐにその笑みを引っ込めた。
「気ぃつけなさいや。死んでしもたら、何のために学校へ行きよるんかわからんなるで」
イネに叱られ、春子は気まずそうに頭を掻いた。
台所に戻った信子は、何事もなかったように作業を再開した。しかし、その背中が千鶴に何かを言わんとしているようだ。
それでも千鶴は気がつかないふりをして、おはぎを小さくかじった。そうするよりほかなかった。
三
おはぎを食べ終わると、春子は千鶴を家の奥へ案内した。
いくつかの部屋を横切ったあと、千鶴たちは渡り廊下に出た。その先には離れの部屋があった。
外はすっぽりと夕闇に包まれている。
夕日はとっくに沈んだが、西の空は夕日の名残で茜色に染まっている。そのわずかな光で何とか周囲の様子は見て取れた。
塀に囲まれた敷地の中に、大きな蔵がある。
山﨑機織にも反物を仕舞っておく蔵があるが、こちらの蔵の方が遥かに大きい。中には何が入っているのだろう、と思っているうちに離れの部屋に着いた。
「ヨネばあちゃん、山﨑さん見たら喜ぶで」
春子が千鶴を振り返って言った。
「なして喜ぶん?」
「山﨑さんは、おらが初めて家に連れて来た、女子師範学校の友だちじゃけんな」
ロシア兵の娘だということで、千鶴は人から顔をしかめられることが多かった。
イネとマツは優しい応対をしてくれたが、信子は千鶴を快く思っていないように見える。
春子の曾祖母がどんな反応を示すのか、千鶴は心配だった。
しかし、春子が絶対に大丈夫だと言うので、その言葉を信じることにした。本当に喜んでくれるなら、それはとても嬉しいことだ。
離れの部屋は障子が閉まっていた。これでは中の様子はわからない。
春子は廊下に膝を突いて座ると、中にいる曾祖母に障子越しに声をかけた。
「ヨネばあちゃん、春子ぞな。起きとる?」
声が聞こえないのか、中から返事はなかった。それでも、春子が何度か大きめの声をかけると、ようやく嗄れた声が聞こえた。
「おぉ、春子か。音遠しぃのぉ。ほれ、そこ開けて中へお入り」
春子は嬉しそうに千鶴を振り返ると、潜めた声で、起きとる起きとる――と言った。
春子が障子を開けると、饐えたような匂いが鼻を突いた。中はほとんど真っ暗でよく見えない。
「ヨネばあちゃん、今まで寝よったん?」
「ちぃと、うとうとしよったぎりなけんど、もう夜になってしもたかい」
闇の中から老婆が答えた。
「明かりつけたげるけんね」
春子は部屋の中へ入ると、ごそごそと何かを始めた。しばらくすると、ぼぉっと明るくなった。マッチに火を灯したらしい。
春子がつけた行灯の光で、部屋の中はほの明るく照らされ、千鶴にもようやく中の様子がわかった。
部屋の真ん中には布団が一つ敷かれており、そこに老婆が横になっていた。この老婆がヨネという春子の曾祖母らしい。
部屋の隅には箪笥が一つぽつりと置かれているが、他には特にこれと言うものはない。
ヨネが藻掻くようにして体を起こそうとすると、春子は傍へ行って、ヨネの体を支えてやった。
枯れ枝のようなヨネは半身を起こすと、春子の手を取って嬉しそうに笑った。
「まっこと音遠しぃわいなぁ。もう、何年になるかいね。久し会えんけん、お前にゃ二度と会えんのやないかと思いよったぞな」
「何言うんね。お盆にも戻んて来たじゃろがね。忘れたん?」
「お盆? はて、ほうじゃったかいな」
「おら、盆と正月には必ず戻んて来とるぞな。もうちぃとしたら、また正月やけん、ほん時にも戻んて来るんで」
ほうかほうか――とヨネはまた嬉しそうに春子の手を撫でた。
その時、人の気配を感じたのか、ヨネはふと廊下の方へ顔を向けた。
「誰ぞがそこにおるな」
廊下で座って待っていた千鶴を、ヨネは震える手で指差した。
「おらの学校の友だちじゃ。お祭り見せよ思て誘たんよ」
春子は明るい声で、ヨネに説明した。
「ほうかほうか。春子のお友だちか。ほれは、ええわいな。おら、もう目がよう見えんけん、失礼してしもたわい」
ヨネは千鶴に手招きすると、枕元をごそごそ探り始めた。
何を探しているのかと春子に訊かれたが、ヨネは黙ったまま枕元の蒲団の下に手を入れた。
そこからヨネが取り出したのは、じゃらじゃら音がする巾着袋だった。音の正体は小銭だ。
ヨネは袋の小銭を全部蒲団の上に広げると、数を数え始めた。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……」
千鶴が傍へ来ても、ヨネは気がつかない様子で、熱心に勘定し続けている。
一銭玉を十枚ずつ二列に並べると、ヨネはその一方を集めて、春子の手に持たせた。
「だんだん、ヨネばあちゃん!」
春子が大喜びすると、ヨネは嬉しそうにひゃっひゃっと笑った。
それから、残りの十枚を両手で集めたヨネは、こっちはお友だちに――と言いながら顔を上げた。
目も口も小さく皺だらけの顔は、人懐こそうな笑みを浮かべていた。だが千鶴を見た途端、その小さな目と口は大きく開かれた。
「が、がんごめ! がんごめじゃ!」
ヨネは悲鳴を上げ、千鶴から逃げようとした。その拍子に手に載せられていた小銭が、ばらばらっと辺りに散らばった。
「ヨネばあちゃん。何言いよん? この子はおらの友だちぞな」
驚き慌てた春子はヨネをなだめながら、改めて千鶴の説明をしようとした。しかし、もはやヨネの耳には誰の言葉も聞こえないようだった。
ヨネは春子の手を振り払うと、狂ったように逃げようとした。
だが、足腰が弱っているのか思ったように動けず、少し這った所で千鶴を振り返ると、興奮した声で叫んだ。
「誰ぞ! 誰ぞ、おらんのか! マツ! マツはどこじゃ! がんごめじゃ! がんごめが来とるぞ!」
千鶴は困惑していた。
がんごめという言葉の意味はわからない。しかし、ヨネは明らかに自分を拒絶していた。それは、自分が他の日本人と違う顔をしているからに違いなかった。
「好ぇ加減にしぃや! おらの友だちに失礼じゃろがね!」
さすがの春子も口調が荒くなった。だが、ヨネは負けじと言い返した。
「何が友だちじゃ! 春子、お前は騙されとるんじゃ。こいつは、がんごめぞ。化け物なんぞ! 誰ぞ! 誰ぞ、おらんか!」
――化け物……。
その言葉は、これまで千鶴に向けられたどんな悪い言葉より、深く心に突き刺さった。それは人間としての存在を、完全に否定するものだった。
ヨネは枕をつかむと、千鶴に投げつけた。枕は千鶴の体に当たって落ちた。
続けて空っぽの巾着袋さえも投げつけると、ヨネはさらに這って逃げ、箪笥の陰でがたがた震えた。
「ごめんよ、山﨑さん。ヨネばあちゃん、惚けとるんよ」
春子はおろおろしながら千鶴を振り返った。
そこへ騒ぎを聞きつけたイネがやって来た。イネの声が聞こえると、千鶴は反射的に逃げ出した。
山﨑さん!――後ろで春子の声が聞こえた。しかし、千鶴は渡り廊下でイネの脇をすり抜けて土間へ向かった。
台所にいたマツと信子が驚いた顔で見ていたが、千鶴は二人を振り返りもせず、そのまま外へ飛び出した。
すると、薄闇の中を大勢の人影が、南の道からやって来るのが見えた。顔は全くわからないが、その姿と喋る声で男衆だとわかった。
千鶴は男衆を避けようと別の道を走った。向かう方角なんてわからない。とにかく、この場から離れて誰もいない所へ逃げたかった。
四
どのくらい走ったのだろう。千鶴は息が切れるのも忘れ、消えてしまいたい一心で走っていた。
気がつけば右手に山裾が迫る川辺の道にいた。道の左手に生える樹木の向こうで、川のせせらぐ音が聞こえている。
頭上に広がる天のほとんどは、星空に埋め尽くされている。しかし空の下の方には、わずかに明るさが残っている所があった。その少し上には、細い月が申し訳なさそうに浮かんでいる。
あの少しだけ明るい方角が西だとすると、どうやら東へ向いて走って来たようだ。
西空に残された明かりを頼りに、辺りの様子が何とかわかる。それでも岸辺に茂る木々が、その微かな光を遮るので足下はよく見えない。
木々の間から、川の向こうを見てみると、狭い所に田畑があり、その奥には丘陵がある。そこは光が届かず真っ暗だ。
辺りに民家は一軒もなく、人気も全くない。
聞こえるものと言えば、ほとほとと流れる川音だけで、千鶴は次第に心細くなって来た。
しかし、化け物と罵るヨネの声が頭の中で繰り返されると、悲しさが込み上げて来て、千鶴はその場にうずくまって泣いた。
ひとしきり泣いた頃、後ろの方に何かの気配を感じ、千鶴は泣くのをやめた。
千鶴はしゃがんだまま後ろを振り返り、気配を感じた辺りをじっと見つめた。しかし何も動く物はないし、川音以外の音も聞こえない。
闇は濃さが増したようで、千鶴は今度こそ本当に不安になって来た。
こんな所にいつまでもいるわけにはいかないが、さりとて行く当てなどどこにもない。
もう春子の家には戻れない。きっと、他の者たちもヨネと同じ目で、自分のことを見ているに違いない。
突然頭上で、がぁと大きな声が聞こえた。
驚いて見上げると、道の上に大きく突き出した木の枝に、カラスが一羽留まっていた。
腹が立って思わず立ち上がると、カラスはバサバサと羽音を立てて飛んで行った。
「どがいしよう?」
千鶴が小さくつぶやいた時、ガサガサっと音が聞こえた。近くに何かがいる。
千鶴はじっとしたまま音が聞こえた方に目を凝らした。だが、暗闇でよくわからない。
音が聞こえたのは、さっき気配を感じたのとは真逆の方角、つまり道の前方だった。
しばらく見ていると、動物の荒い鼻息のような音が聞こえた。闇の中を、闇よりも黒い大きな影が動くのが見えた。
千鶴は全身の毛が逆立ったように感じた。
影の大きさから見ると、相手はかなり大きな獣のようだ。これは明らかに危険な状態である。
千鶴は気づかれないように、そろりそろりと後ずさりした。
しかし、気をつけていたつもりなのに、草履が踏んだ小石がじゃりっと鳴った。
もぞもぞ動いていた影がぴくりと動きを止めた。気づかれたらしい。万事休すだ。
千鶴は迷った。このまま後ずさりで逃げるか、相手に背中を向けて駆け出すか。
ただ、駆け出したところで向こうの方が速いだろう。どうしたところで逃げられない。
ここはじっとしながら、相手の様子を見るしかなさそうだと千鶴は思った。こちらに敵意がないのがわかれば、興味を失って向こうへ行ってくれるかもしれない。
黒い塊にしか見えない相手とにらめっこをしていると、カッカッという音が聞こえて来た。何だろう。不気味な音だ。
続けて、ざっざっという音。脚で土をかいているのだろうか。
――これはイノシシ?
何だか、イノシシのような気がして来た。しかし、千鶴は本物のイノシシは見たことがない。
千鶴の祖父は絣問屋仲間と、山へイノシシを撃ちに行くことがある。
仕留めた時には、祖父は家族の前で両腕を広げ、獲物の大きさを自慢したものだ。だが、目の前にいる黒い影はそんなものではなさそうだ。
もし、これがイノシシだとすれば、尋常ではないに違いない。
暗闇の中なので、相手の様子はよくわからない。しかし、人を憎悪する気のようなものが、ひしひしと伝わって来る。
――来る!
そう思った刹那、黒い影は勢いよく千鶴の方に突進して来た。
あっという間に黒い影は近くまで迫り、恐怖にすくんだ千鶴はその場に固まった。
獣の臭いが鼻を突いた時、千鶴は頭の中が真っ白になり、ふっと意識が遠のいた。
消えゆく意識が感じていたのは、ゆっくりと体が倒れて行く感覚だ。ぼんやりと考えたのは、もうだめだ、というあきらめだった。
次の瞬間、衝撃が千鶴を襲うはずだった。だが、千鶴の体は宙に浮かんだまま、何の衝撃も伝わって来ない。痛みも感じない。
代わりに、何だか懐かしいような温もりが、千鶴を包んでいた。
もう自分は死んだのだろうかと、千鶴はふと思った。しかし、すぐに何もわからなくなった。
飾られた花
一
愛らしい野菊の花が一面に咲いている。
後ろに束ねた千鶴の髪が、時折そよぐ風に揺れる。
すると、花たちも嬉しそうに左右に首を振る。まるで千鶴に話しかけているようだ。
千鶴はこの花が好きだった。
千鶴がしゃがんで花を眺めていると、背後で千鶴を呼ぶ声が聞こえた。
振り向こうとすると、後ろから伸びて来た手が、そっと優しく千鶴の頭を押さえた。その手は摘んだ野菊の花を、千鶴の髪に挿してくれた。
立ち上がって振り返ると、そこに若い侍が立っていた。
逆光になっているせいか、侍の顔はよくわからない。それでも若侍が自分と親しい仲なのはわかっている。
若侍は千鶴を眺めながら嬉しそうに言った。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
千鶴はとても幸せだった。このまま時が止まればいいと思っていた。
だがその時、誰かが千鶴の体を強く揺らした。
「山崎さん、しっかりしぃや! 山崎さん!」
千鶴は肩を揺らされていた。目を開けると、若い娘が泣きそうな顔で、千鶴の顔をのぞき込んでいる。
「気ぃついたんじゃね。よかった! 山崎さんにもしものことがあったら、おら、どがいしよかて思いよった」
千鶴が体を起こすと、若い娘は千鶴に抱きついて泣いた。
意識が急速に現実に焦点を合わせた。泣いている若い娘が春子であることを、千鶴は思い出した。
さっき見ていたのは夢だったらしい。しかし、あの夢の方が現実だったような感じがしている。
千鶴は現実に引き戻されたことに、腹立たしさを覚えていた。
自分とあの若侍は本当に惚れ合っていたのである。若侍と一緒にいられた幸せの中に、ずっと浸っていたかった。
しかし、目覚めてしまったものは仕方がない。どんなに幸せでも夢の話だ。あきらめるしかない。
辺りを見回すと、そこは部屋の中で、千鶴がいるのは蒲団の上だった。
春子の後ろには、年老いた坊さまと老婦人が座っている。
「ここは……どこぞなもし?」
訊ねる千鶴に、坊さまは微笑みながら言った。
「ここは法正寺という寺でな。わしは知念。隣におるんは、わしの女房の安子ぞな」
「法正寺て、うちのお母さんがお世話になったお寺?」
そう言ってから、千鶴は慌てて自分と母の名を告げた。母が世話になった寺の名を、法正寺だと千鶴は聞いていた。
知念和尚は、わかっとるぞな――とうなずいた。
「千鶴ちゃんが幸子さんの娘さんじゃいうんは、春ちゃんから話を聞いてわかったぞな。お母さんは元気にしておいでるかな?」
安堵した千鶴は、母は今でも和尚夫婦に感謝していると伝えた。
和尚たちは嬉しそうにうなずき合い、安子は感慨深げに言った。
「あん時、幸子さんのお腹ん中おった子が、こげなきれいで立派な娘さんに育ったやなんてなぁ……。ほれにしても、千鶴ちゃんが目ぇ覚ましてくれてよかったぞな。今、お医者呼ぼかて言いよったとこなんよ」
「うち、いったい――」
自分に何があったのかと、千鶴は訊ねようとした。だが、その前に春子が待ちかねたように言った。
「おら、山崎さんのこと探しよったんよ。けんど、どこ探してもおらんけん、もしや思てここへ来てみたんよ。ほたら、表で倒れよった言われてな……。ほっとしたけんど、ほんまに心配したんで」
春子の言葉に千鶴は当惑した。
「ち、ちぃと待ってや。うちがどこで倒れよったて?」
驚く千鶴に、知念和尚が説明した。
「ちょうどわしと安子が、幸子さんは今頃どがぁしておいでるじゃろかて、話しよった時のことぞな。いきなしどんどんどんと玄関の戸を叩く奴がおったんじゃ。誰じゃろ思て出てみたらな、千鶴ちゃんがそこに倒れよったんよ」
「倒れよった言うよりは、寝かされよった言うんが正しいぞな」
安子が和尚の言葉を訂正した。
安子によれば、千鶴は髪も着物も乱れないまま、真っ直ぐ仰向けに寝かされていたらしい。
「じゃあ、誰ぞがうちをここまで運んだいうこと?」
千鶴は三人の顔を順番に見たが、みんな困惑しているようだ。
安子が和尚に目を向けると、和尚は少し戸惑いながら言った。
「千鶴ちゃんが自分でここへ来たんやないんなら、ほういうことになるんかの。ほんでも、誰が千鶴ちゃんを運んだんかは、わしらにもわからんぞな」
「山崎さん、おらの家飛び出したあと、何があったん?」
春子に訊かれたが、千鶴は春子の言っていることがわからなかった。
「うち、村上さんの家におったん?」
春子の顔が引きつった。
「山﨑さん、大丈夫なん? どっかで頭ぶつけたんやないん?」
「千鶴ちゃん、春ちゃんに誘われて、名波村のお祭り見に来たんじゃろ?」
安子に言われると、千鶴はそうだったような気がした。しかし、今一つはっきりと思い出せない。何だか頭の中に靄がかかったような感じだ。
何とか思い出そうと、何気なく右手で頭を押さえると、指先に何か柔らかい物が触れた。何だろうと手に取って見ると、それは野菊の花だった。
二
「あれ? 何ぞな、これは? なして、こげな物がうちの頭にあるん?」
「その野菊、千鶴ちゃん、自分で飾ったんやないん?」
訊ねる安子に、千鶴は首を振った。
「あん時は、山﨑さん、花なんぞ飾っとる状態やなかったけん、おら、和尚さんらが挿してやったんかて思いよった」
春子は不思議そうに言った。
「あん時て?」
千鶴が訊ねると、春子は少し困ったような顔になった。
「あのな、言いにくいことなけんど、うちのひぃばあちゃんがな、山﨑さんを傷つけるようなこと言うてしもたんよ」
「ほうなん?」
「ほんでな、山﨑さん、おらの家飛び出して行方不明なっとったんよ」
「千鶴ちゃん、何も思い出せんか」
知念和尚が心配そうに言った。
「何か、客馬車に乗りよったんは思い出したんですけんど、そのあとのことは何も……」
「どがいしましょ。やっぱしお医者を呼んだ方が――」
安子の言葉を遮り、和尚は言った。
「いや、医者を呼んだとこで、千鶴ちゃんの記憶が戻るとは思えんぞな。別に具合が悪ないんなら、このまま様子を見よっても構んじゃろ」
「山﨑さん、どっか痛い所こないん?」
不安げな春子に、大丈夫ぞなと千鶴は言った。
「どこっちゃ具合悪い所はないんよ。ただ、頭の中がすっきりせんぎりぞな」
「ほれを具合悪い言うんやないん?」
「ほうなんか」
千鶴は苦笑した。
確かに、頭がすっきりしないのは、尋常とは言えないかもしれない。しかし、そうは言ってもどうしようもない。
「ほれにしても、千鶴ちゃんの頭にあったそのお花、誰が飾ってくれたんじゃろねぇ」
安子が思い出したように言うと、知念和尚もうなずいた。
「ほうじゃほうじゃ。その花は千鶴ちゃんに何があったんかいうんと関係あるに違いないぞな」
「ほれに、千鶴ちゃんをここまで運んだんが、誰かいうんも問題ぞなもし」
「全くぞな。さらに言うたら、なしてここへ千鶴ちゃんを運んだんかやな」
「ほれと、千鶴ちゃんを運んでおきながら、何も言わいで去ぬる言うんも気になりますわいねぇ」
和尚夫婦のやり取りを聞いていた春子が、自信なさげに言った。
「何とのうやけんど、おら、その花が山﨑さんを慰めるための物のような気がするぞな」
「うちを慰める?」
千鶴は春子を見た。春子はうなずくと話を続けた。
「山﨑さんが何も思い出せんのは、ほれが山﨑さんにとって嫌なことやけん思うんよ」
「嫌なことじゃったら、今までも何べんもあったけんど、忘れたことはないで。逆に忘れとうても忘れられんもん」
ほれは、ほうなんやけんど――と春子は言った。
「確かに、嫌なことは忘れるもんやないよ。ほやけんな、誰ぞがほれを忘れさすために、山﨑さんの記憶を失さしたんやないかて、何とのう思たんよ」
「誰ぞて、誰ぞな?」
「ほれはわからん。けんど多分、その誰かが山﨑さんをここまで連れて来て、山﨑さんの頭に花飾ってくれたんよ」
なるほどなるほどと和尚はうなずいた。
「春ちゃんの言うことには一理あるな。ただ、そげなことができるんは人間やないぞな」
「人間やないんなら、狸じゃろか?」
ふざけているようにも聞こえるが、春子は大真面目だ。
「狸には千鶴ちゃんをこの寺へ運ぶ理由がないぞな。つまり、これは狐狸妖怪の類いの仕業やない」
「じゃったら、誰が……」
千鶴の頭には若侍の姿が浮かんでいる。
あの若侍は夢の中で千鶴に野菊の花を飾ってくれた。そして目覚めた時に、同じ花が同じ場所に飾られていたのである。
素直に考えれば、千鶴に花を飾ってくれたのは、あの若侍のはずである。だが、若侍は夢の中の人物だ。夢の人間が現実に出て来るなど有り得ない。
それでもあの夢は、本当のことだったように千鶴には思えた。自分とあの若侍は互いを心から好いていたのだ。
わかったぞな!――と突然、安子が叫んだ。
「何がわかったんぞな?」
怪訝そうな和尚に、お不動さまぞなもし――と安子は言った。
「お不動さまはうちの御本尊さまやし、幸子さんがここで暮らしよった時、幸子さんのお腹には千鶴ちゃんがおったじゃろ? ほじゃけん、お不動さまは千鶴ちゃんのこともご存知のはずぞな」
なるほど!――和尚は興奮したように膝を叩いた。
「お不動さまなら、姿消したんも説明つこう! 安子、さすがはわしの女房じゃ。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまに違いない!」
和尚は手を合わせると、目を閉じて念仏を唱えた。
春子もこの意見には納得したらしい。安子と一緒に目を瞑って手を合わせた。しかし、千鶴は合点が行かなかった。
お不動さまが千鶴の頭に花を飾るというのは妙である。それは怖い姿のお不動さまに似つかわしくない。
自分を寺まで運んでくれたのはあの若侍に違いないと、千鶴はこっそり考えていた。
「ところで千鶴ちゃんは、今晩は春ちゃん所でお世話になるん?」
祈り終わった安子が思い出したように訊ねた。千鶴の謎が解けたことですっかり安心した様子だ。
千鶴は少しうろたえた。
ここに泊めてもらいたいのだが、春子の前でそうは言えない。かと言って、春子の家に泊めてもらうとも言えなかった。
言葉を濁していると、ここに泊めてもらいや――と春子が言った。
「よう考えたら、今日はお祭りじゃろげ? うちには酔うた男衆がようけ集まるけん、うちに泊まるんはやめといた方がええぞな。泊まったら、山崎さん、絶対に夜這いをかけられるで」
「夜這い? うちに?」
自分のような醜い女に手を出そうとする男がいるなど、千鶴には考えられなかった。だが春子は真顔だ。
「山崎さんは美人じゃけんな。色目で見る男はなんぼでもおるで。ほやけん、今晩はここで泊めてもろた方がええぞな」
「何言いよんよ。うちなんぞ、ちっとも美人やないし」
千鶴は春子の言い草が面白くなかった。お世辞にしたって、もう少し気の利いたことを言うべきだ。
和尚夫婦が褒めてくれるのならわかる。社交辞令だ。しかし、春子に褒められても、わざとらしく聞こえるだけだ。
ただ、あの若侍だけは別である。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
幸せな気分を思い出し、つい笑みがこぼれたようだ。千鶴が喜んでいると思ったのか、安子も和尚も春子に口を揃えた。
「うちも千鶴ちゃんは別嬪さんや思うぞな」
「わしもそがぁ思う。ほじゃけん、酔っ払うた虎がうじゃうじゃおる所にはおらん方がええ」
ここへ泊まって行かんかな――と和尚は言った。
千鶴は嬉しかった。だが、そうしますとは簡単には言えない。千鶴が遠慮して黙っていると、今度は安子が言った。
「ね、ここにお泊まんなさいな。そがぁしてもらえたら、うちらも嬉しいけん」
千鶴はようやく素直にうなずいた。和尚夫婦は顔を見交わして喜んだ。
春子も喜んでいたが、ちょっぴり寂しげでもあった。すると、安子が春子に言った。
「春ちゃん。あんたも、ここに泊まるじゃろ?」
「え? おらも?」
和尚が当然という顔で言った。
「千鶴ちゃんぎり、ここに泊まるわけにもいくまい。春ちゃんも一緒に泊まるんが筋じゃろがな。ほれに、酔うた虎が危ないんは、春ちゃんかて対ぞな」
春子は驚いたように千鶴を見た。千鶴は春子の手を取ると、一緒に泊まって欲しいと言った。
「ほやけど、おら――」
春子は少しだけ躊躇したあと、わかったわい――と嬉しそうにうなずいた。
「ほんじゃあ、おらもお世話になるぞなもし。和尚さん、安子さん、どんぞ、よろしいにお願いします」
春子はぺこりと頭を下げた。千鶴も春子に倣い、和尚夫婦に改めて、よろしいにお願いします――と頭を下げた。
嬉しそうに安子とうなずき合うと、和尚は千鶴たちに言った。
「もうちぃとしたら神社の前にだんじりが集まるけん、二人で見ておいでたらええぞな」
千鶴たちがうなずくと、安子が言った。
「春ちゃん、ここへ泊まることお母さんに言うて来んとね。お夕飯は向こうで食べておいでる?」
春子は千鶴を見た。
千鶴は迷ったが、このまま顔を出さねばイネやマツに失礼だ。
「そがぁさせてもらいますぞなもし」
千鶴が答えると、春子は嬉しそうに笑った。
三
外へ出ると真っ暗だった。安子が提灯を貸してくれた。
「お不動さまにお礼言うてから行こか」
春子がそう言うと、和尚も安子も、ほれがええぞなと言った。
千鶴は法正寺は初めてなので、どこにお不動さまが祀られているのかわからない。
提灯を持った春子の後ろについて行くと、暗闇の中に大きな建物があった。
その建物の脇には、一本の巨木がそびえ立っている。その大きさから見ると、かなり古い木のようだ。
和尚は得意げに言った。
「でかいじゃろ。聞いた話では、樹齢数百年らしいぞな」
「へぇ、そがぁに古い木なんですか。ほんじゃあ、ずっと昔から、この辺りのことを見よったんじゃろなぁ」
千鶴は巨木を見上げながら近づいて行った。
闇の中にそびえる巨木は、まるで巨大な獣のように見えた。
突然、はっとなった千鶴は胸が締めつけられた。
どうしてなのかはわからない。しかし、巨木に重なる巨大な何かの陰影は、千鶴を切ない想いにさせた。
「山﨑さん、お不動さまにお礼言わんと」
春子に声をかけられて我に返った千鶴は、巨木を離れて本堂へ移動した。すると、本堂は扉が開かれたままで、知念和尚はありゃりゃと言った。
「妙じゃなぁ。ちゃんと閉めたはずなんやが」
首をかしげる知念和尚に、ほじゃけんね――と安子が言った。
「千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまじゃて言うたじゃろ? ここが開いとるんが何よりの証拠ぞな」
和尚は驚いたように安子を見て、同じ顔のまま本堂を見た。
「なるほど、確かにお前の言うとおりぞな。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、間違いのうお不動さまぞな」
知念和尚は本堂の不動明王に向かって、改めて手を合わせた。隣で安子も同じように拝んでいる。
二人の話を聞いていた春子も、ここのお不動さまは本物だと、感激したように千鶴を振り返った。
お不動さまが生きていると思っているのだろうか。失礼しますぞなもしと言いながら、春子は怖々の様子で本堂に足を踏み入れた。
本堂の中は真っ暗で何も見えない。春子が提灯を掲げると、闇の中に不動明王の姿が浮かび上がり、うわっと春子は声を上げた。
千鶴たちをにらむような不動明王の恐ろしげな顔に、千鶴も一瞬ぎょっとした。だが何故か、すぐに懐かしい気持ちになった。初めて見るお不動さまなのに妙なことだった。
不動明王は右手に剣、左手に羂索を持ち、厳めしい顔で鎮座している。その背後には炎となった不動明王の気迫が、めらめらと立ち上っている。
春子は気を取り直したように姿勢を正すと、近くに来た安子に提灯を預け、不動明王に手を合わせた。
「お不動さま、今日は山﨑さんを助けていただき、だんだんありがとうございました」
千鶴も春子の隣で手を合わせると、ありがとうございましたと不動明王にお礼を述べた。しかし頭の中では、あの若侍のことを考えていた。
お礼を言い終えた春子は、しげしげと暗がりの中の不動明王を眺めた。
「ほれにしたかて、お不動さまは、なしてこげな恐ろしい顔をしておいでるんじゃろか?」
千鶴は何となく思ったことを口にした。
「道を踏み外した人らを、力尽くでも本来の道に戻そと考えておいでるけんよ。ほれはな、誰のことも見捨てたりせんいうお不動さまのお気持ちぞな。親が子供を見捨てんのと対なんよ。ほじゃけん、お不動さまはほんまは心の優しいお方なんよ」
千鶴の説明に、春子はもちろん、知念和尚と安子も感心したようだった。
「さすがは千鶴ちゃんぞな。まっこと、よう知っとる」
「そげなこと、どこで教えてもらいんさったん? 学校で教えてくれるん?」
「いえ、別に誰にも教わっとりません。ただ思たことを口にしたぎりぞなもし」
千鶴は困惑気味に答えた。だが、その答えは却ってみんなを驚かせたようだった。
「やっぱし千鶴ちゃんは、お不動さまとつながっておいでるんじゃねぇ」
「まっこと、千鶴ちゃんはお不動さまの申し子ぞな」
和尚夫婦に続いて、春子も興奮した様子で言った。
「山﨑さんて、ほんま頭がええ! やっぱしおらが言うたとおり、山﨑さんはおらより勉強できらい」
「いや、ほやけん、違うんやて」
「違うことあるかいな。物知りやけん、勉強もできるんやんか」
「もうやめてや。物知りやないけん」
春子は笑いながら提灯を受け取ると、和尚たちに挨拶をして寺の門へ向かった。
千鶴も和尚夫婦に頭を下げ、春子のあとを追いかけた。
四
「石段、急なけん、足下気ぃつけてな」
春子は、寺門の先にある石段を照らしながら言った。
西の空に細い月が、今にも沈みそうに浮かんでいる。その下には黒い海が見える。
千鶴はぼんやり海を眺めながら、いったい自分はどこにいたのだろうと考えた。
だが、春子の家にいたことすら忘れているのだから、どこにいたのかなど思い出せるはずがなかった。
ここへ来たのは春子に祭りに誘われたからだが、それがまさか、こんな奇妙なことになるとは思いもしなかった。
ただ、何だか自分はこの土地に引き寄せられたような気もしている。
千鶴はそっと胸に手を当てた。懐には頭に飾られていた野菊の花が入っている。
どこから運ばれたのかはわからない。しかし、運んでくれたのはこの花を飾ってくれた人に違いない。
お不動さまではないと、絶対に言い切ることはできないが、やはり違うと千鶴は思った。
お不動さまは優しい方ではあるけれど、女子の頭に花を飾るというのはお不動さまらしくない。
助けてくれたのが人間であるならば、自分に好意を抱いてくれている人だろう。そうでなければ花など飾るはずがない。
でも、それがこの村の誰かだとしても、姿を消す理由がわからない。花を飾ったことが恥ずかしかったのだろうか。
「山﨑さん、何しよんよ。一緒に下りんと足下見えんけん、危ないじゃろげ」
千鶴に気づかず、一人で先に下りてしまった春子が、提灯を掲げて叫んでいた。
「ごめんごめん。ちぃと考え事しよったけん」
もう一度上がって来た春子は、不安げに言った。
「考え事て何? おらの家のこと思い出したん?」
「まだ何も思い出せとらん。ほやのうて、うちをここまで運んでくれたお人のことを考えよったんよ」
「お不動さまやのうて?」
「お不動さまが花飾ったりせん思うんよ」
「じゃったら、誰やて思うん?」
千鶴の頭に浮かぶのは、あの若侍だ。思い出しただけで嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちになる。
だが、その話を他人に聞かせたくはなかった。あの若侍との幸せは、自分だけのものにしておきたかった。
「わからん。この村の人らはみんな知らん人ぎりじゃけん」
「ほら、ほうじゃな。ほんでも村の誰かやとしたら、山﨑さん一人残しておらんなる言うんは妙な話ぞな」
「うちに花飾ったんが恥ずかしかったんかもしらんね。けんど、うちがどこぞに倒れよったとして、そのうちを見つけて頭に花飾るんも、やっぱし妙な話ぞな」
「ほうじゃなぁ。確かに妙な話よなぁ。そげなことしよる暇あったら、誰ぞを呼びに行くもんなぁ」
「じゃろ? ほじゃけん、こげなことしたんは――」
千鶴はそこで口を噤んだ。
こんなことをしたのはあの若侍だと、千鶴は言いたくてたまらなかった。でも、やはりそのことは秘密にしていたかった。
「どしたんね。こげなことしたんは誰なんよ?」
「さぁねぇ。誰じゃろかねぇ」
千鶴の声は自然と明るくなった。それが春子を刺激した。
「なぁ、誰なんよ。誰ぞ心当たりがあるんじゃろ?」
「そげなもん、あるわけなかろがね。うちはここでは余所者で。知っとるお人なんぞ一人もおらんぞな」
「ほやけど、何ぞ知っとるみたいな口ぶりやったで」
「ほんなことないて。気のせいぞな」
「ほの物言いが怪しいんよ」
「もう、この話はおしまい。ほれより早よ戻らんと、村上さんのお家の人らが気ぃ揉んどるかもしれんぞな」
ほうじゃったと言い、春子はまた先に立って石段を下り始めた。千鶴もそのあとに続いたが、少し下りた所でまた立ち止まった。
「どがぁしたん? 今度は何ぞな?」
寺の門を見上げる千鶴に、春子が声をかけた。
千鶴は春子に顔を戻すと、何でもないと言った。でも本当は、誰かに上から見られていたような気がしていた。
もし誰かがいるのだとすれば、きっと自分を助けてくれた人だろう。千鶴は誰もいない寺の門に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「誰に頭下げよるん?」
怪訝そうな春子に、千鶴はお不動さまだと言った。そういうことにしておいた。
「ほな、行こ」
千鶴は春子を促し石段を下りた。後ろが気になってはいたが、石段を登ったところで、誰もいないのはわかっていた。
その何者かは、千鶴の前に姿を見せないと決めているのに違いない。そうである以上、相手を探しても無駄なことだった。
祭りの夜
一
春子の家に戻ると、中では男衆が飯を食いながら、酒盛りを始めていた。
春子は千鶴を外に待たせて中に入ると、恰幅のよい年配の男を連れて来た。男は春子の父修造だった。
提灯の明かりではよくわからないが、修造は酔っているようだ。酒の臭いが漂っている。
「あんたが山崎千鶴さんかな。遠い所をせっかくおいでてくれたのに、うちの耄碌ばあさんが失礼なことしてしもたそうで、誠に申し訳ない」
修造は千鶴に深々と頭を下げた。
千鶴は恐縮しながら、もう何とも思っていないと言った。でも自分が何をされたのかは、何も思い出せていない。
「いや、そがぁ言うてもろたら助かるぞな」
にっこり笑った修造の左右から、幼い男女の子供が顔をのぞかせた。
二人はじっと千鶴を見ていたが、千鶴が顔を近づけて声をかけると、がんごめじゃ!――と声を揃えて逃げ出した。
「こら、勘吉! 花子!」
春子は子供たちを叱ったが、二人は家の中に逃げ込んだ。
「堪忍な。あの子ら、おらの甥っ子と姪っ子なんよ」
「村上さん、がんごめて何のこと?」
「え? いや、ほれは……」
春子が言いにくそうにすると、修造がもう一度千鶴に謝った。
「重ね重ね申し訳ない。子供らはわしがきつぅに叱っとくけん、勘弁してやんなはらんか」
「ほれはええですけんど、がんごめて――」
「おい、春子。おらを紹介してくれや」
よたよたと現れた大柄の若い男が、にやけた顔で千鶴を見ながら春子に言った。
「こら、源次! お客さまに失礼じゃろが!」
修造が叱りつけると、源次は修造にだらしなく頭を下げ、それから千鶴にも同じように頭を下げた。にやけた顔はそのままだ。
暗いので源次の顔の色はわからない。だが、修造以上に酒の臭いがぷんぷんする。きっと顔は真っ赤に違いない。
「春子、おらをこの人に紹介してくれや」
源次がもう一度言うと、春子は千鶴に従兄の源次だと言った。
続けて、春子が千鶴のことを源次に説明すると、千鶴は源次に挨拶をした。
「千鶴さんか。ええ名前じゃの。ほやけど、日本人みたいな名前じゃな」
やはりこうなのかと千鶴が悲しくなると、春子が源次に噛みついた。
「源ちゃん、失礼なこと言わんでや。山﨑さんはれっきとした日本人ぞな」
「ほうかほうか。わしが悪かったぞな。こがぁして謝りますけん」
源次はふらつきながら、だらりと頭を下げた。そこへ源次を突き飛ばすようにして、次々に若い男が現れた。
男たちは源次が転ぶのも気にせずに、勝手に自己紹介を始めた。起き上がった源次が男たちに食ってかかると、修造の雷が落ちた。
「大概にせんかや! お前ら、わしに恥かかせるつもりか」
さっさと去ね!――と修造が男たちを追い払っているところに、勘吉と花子に手を引かれてイネがやって来た。
「うちのばあさまがひどいことを言うたそうで、ほんまに悪かったねぇ。頭が惚けた年寄りや思て堪忍したってな」
イネは千鶴の手を取ると、泣きそうな顔で詫びた。
「どんぞ、頭を上げてつかぁさい。ほんまに、もうええですけん」
そこへマツもやって来て、また同じように千鶴に詫びた。その様子を子供たちは、ぽかんと口を開けて眺めていた。
「ほな、山﨑さん。中へ入ろ」
春子に促されたが、千鶴は家の中に入るのが怖かった。
覚えていないとは言うものの、この中で春子の曾祖母に嫌な態度を見せられて、外へ飛び出したわけである。
今の源次の態度を見てもわかることだが、自分が見下されているのは間違いない。そんな者たちが集まっている所へ行くのは、やはり気が引けてしまう。
それでも中へ入らないと、どうしようもない。それに自分が愚図ると、春子を困らせることになる。
少なくとも春子の父や母、それに祖母は自分を受け入れてくれているようだ。ここは辛抱して中へ入るしかないだろう。
千鶴は気持ちを落ち着けると、春子たちと家の中へ入った。
すると、まだ土間にいた源次が再び千鶴の所へやって来て、こっちぞな――と千鶴の手を引っ張った。
千鶴の顔が強張ると、イネがぴしりと源次の手を叩いた。
「何をしよんかな! さっきも叱られたとこじゃろがね!」
手を引っ込めた源次は、当惑した様子で言い訳をした。
「おら、この人にみんなと一緒に、楽しいに過ごしてもらおと思たぎりぞなもし」
「源ちゃん、悪いけんど、今日はそっちには行かれんけん」
春子が言うと、何でぞ――と源次はむくれ顔で春子をにらんだ。
「ほやかて源ちゃん、酔うとるじゃろ? 話がしたいんなら、酔いを覚ましてからにしてや」
「春子の言うとおりぞな。初めて会う女子に失礼じゃろがね」
マツにまで叱られて、源次は渋々引き下がった。
その間に勘吉と花子は男衆が集まっている所へ行き、男たちの世話をしていた女の一人を呼んだ。
「お母ちゃん、こっち来とうみ! 早よ、来とうみて!」
「姉やんが来とるんよ! 早よ来てや!」
呼ばれた女は顔を上げると子供たちを見て、それから千鶴の方に目を向けた。しかし、それだけで何の反応もないまま、女は男たちに酒を配り始めた。
無視された子供たちはぶうぶう文句を言ったが、それでも女は知らんぷりを決め込んでいた。
その女が春子の兄嫁の信子であることを、千鶴は思い出した。やはり信子は千鶴が嫌いらしい。
悲しさをこらえる千鶴をイネたちは誘った。男衆が集まる部屋とは別の部屋へ行くようだ。
その時、男衆の中から男が一人立ち上がって土間へ降り、千鶴の傍へやって来た。男の後ろには勘吉と花子がついて来た。
「春子の兄の孝義言います。春子がいっつもお世話になっとるそうで」
初めて見るが、孝義は勘吉たちの父親であり、信子の夫だ。そして、村長の息子でもある。やはり酒が入っているようだが、さすがに源次たちとは違い、村長の息子としての品位と風格があった。
「ちぃとごたごたしたみたいなけんど、年寄りの戯言なんぞ気にせいで、楽しんでやっておくんなもし」
にっこり笑った顔が千鶴を安心させた。信子の夫とは思えないほど好意的な応対ぶりだ。
千鶴は嬉しくなったがどぎまぎしてしまい、言葉を出せないまま頭を下げるのが精一杯だった。
二
千鶴が案内されたのは、少しこじんまりした部屋だった。
イネたちは、すぐに料理を運んで来たが、男衆の所にいた他の女たちも、次々に料理の皿を持ってやって来た。
部屋はあっと言う間に、女たちと女たちが連れている子供で一杯になり、千鶴の歓迎会となった。
イネが一通りみんなを紹介し終わると、女たちは争うように千鶴に料理を勧めながら話しかけた。
やはり女たちには千鶴が珍しいようで、いろいろ話を聞きたい様子だった。しかし、千鶴を傷つけてはいけないと思っているのか、言葉を選びながら慎重に喋っているように見えた。
風寄にも日露戦争で負傷した者や、命を奪われた者がいるはずである。しかし、戦争のことで千鶴を責める者はいなかった。
また、みんなと違う容姿のことで千鶴を蔑む者もいなかった。
女たちの多くは百姓仕事の副業として、伊予絣を織っていた。
絣は織る前に文様に合わせて、先に織り糸を染め分けておく。その糸を織り上げることで、絣の語源となる輪郭がかすれた文様ができるのである。
この織り糸を作るのは手間がかかるので、織子になった女たちは織元が準備してくれている織り糸を使って、指定された柄の絣を織り上げている。
織元の下で働くようになる前は、女たちは自分たちの裁量で絣を織っていた。大変ではあったが、いい物を作ればそれだけ高く売れたので、結構な収入が得られたと言う。
ところが、いつの間にか織元の指示で織るという形態が広がり、今ではみんなが織元の織子になっている。
織子は一反いくらと賃金が決まっており、出来の善し悪しにかかわらず一定の収入を得ることができる。その分、いい物を作るための工夫や努力をしなくてもいいが、それで手抜きをしてしまう者も出て来るのが問題だった。
それでも名波村の女たちは自分たちの仕事に誇りを持っており、やるからにはきちんとした物を作るという気持ちがあった。
しかし景気が悪くなると伊予絣の売れ行きが悪くなり、織元への注文が来なくなる。そのため伊予絣の生産が中止になって織子が解雇されたり、織子の賃金が一方的に下げられたりすることがあったそうだ。
織子たちからすれば、伊予絣がどんどん売れてくれればいいわけである。それで、伊予絣を販売する店にはもっとがんばってもらわねばと困ると、女たちは千鶴の前で愚痴めいたことを言って笑っていた。
ところが、春子に言われて千鶴の家が山崎機織だと知れると、女たちは慌てて床に手を突き、お世話になっておりますと千鶴に頭を下げた。
自分は家の仕事には関わりがないと考えていた千鶴は、女たちの話を聞かされて、その苦労に頭が下がる気持ちになっていた。
女たちの苦労があるからこそ山﨑機織は成り立っているのだし、そのお陰で自分は暮らして来られたのだと知り、千鶴はとても恐縮していた。
そこへ女たちから頭を下げられたので、千鶴も同じように女たちに頭を下げて、お世話になっているのは自分たちの方ですと感謝した。その姿勢がよかったのか、頭を上げた女たちはさらなる親しみを千鶴に感じてくれたようだった。
また千鶴も初めと比べると、随分と気気持ちが安らいだ。
勘吉や花子、それに他の子供たちが千鶴と春子の所へ来て、一緒に遊ぼうとねだった。
女たちは二人に迷惑だと子供たちを叱ったが、千鶴と春子にしてみれば、女子師範学校で学んだ腕の見せ所である。
構んぞなと言って子供たちの相手をしてやると、千鶴たちの回りは子供たちの黒だかりとなった。
しばらく子供たちの相手をしていると、男たちが出かける時間になったらしい。女たちが動き出すと、子供たちも千鶴たちから離れて、父親たちを送り出しに行った。
部屋には、千鶴と春子とマツだけが残された。
マツは千鶴が十分食べたことを確かめると、もう少ししたら自分たちも出かけると言った。
「男衆が屋台を持て来るけんね。ほん時に合わせておいでたらええよ」
「ばあちゃん、あのな、おらと山﨑さんは今晩法正寺に泊めてもらうことにしたんよ」
春子が申し訳なさそうに言うと、案の定、マツはがっかりした様子だった。しかし、夜這いが心配だからと春子が説明すると、マツは納得したように大笑いをした。
「確かにな。ほれはほうじゃ。男衆は酒が入ると何しでかすかわからんけんな。特に千鶴ちゃんみたいな別嬪さんがおいでたんじゃ、抑えが利くまい」
また別嬪と言われ、千鶴は下を向いた。
春子は笑いながら、ほらな――と言った。
三
イネたちに連れられて神社の参道へ行ってみると、多くの村人たちと一緒に、何台ものだんじりが集まっていた。
夜の帳が下りた村は、だんじりの提灯と村人が手に持つ提灯で美しく彩られていた。
だんじりの屋台はドンドンカンカンと、太鼓や半鐘の音を鳴り響かせている。上に立てられた笹の束が、下に飾られた提灯に照らされて、屋台が燃えているようだ。
近づいて見てみると、笹には小さな日の丸がびっしりと貼りつけられていた。何とも賑やかで盛大な印象だ。
燃えるような多くの屋台が闇の中を行き交う様子は、実に幻想的な光景だ。これは松山ではお目にかかれないものだった。
「うわぁ、きれいじゃねぇ」
思わず千鶴がつぶやくと、じゃろげ?――と春子は得意げだ。
「春子、千鶴ちゃんをしっかりつかまえとくんで。暗いけん、迷子なったら大事ぞな」
マツが春子に言うと、春子は提灯を持っていない方の手で千鶴の手をつかみ、大丈夫ぞなと言った。
「千鶴ちゃん、暗いし人が多いけん、おらたちからはぐれても、春子からははぐれたらいけんよ」
大声で喋るイネに、千鶴も大声で、わかりましたと言った。
夜の闇が深くなるにつれ、村の中はいっそう賑やかになった。
次々にやって来るだんじりに見とれていると、いつの間にか、イネやマツの姿が見えなくなっていた。慌てて横を見ると春子がいたので、千鶴はほっとした。
春子はだんじりの向こう側にいる村人たちを指さしながら、あそこ――と言った。
春子が何を見せようとしているのか、千鶴にはわからなかった。すると春子は、帽子――と言った。
「帽子?」
「客馬車におったじゃろ?」
それで千鶴はようやくわかった。春子が指さす辺りに、あの山高帽の男の姿があった。その隣には二百三高地の女がいた。
楽しげな二人は、千鶴たちには気がついていないようだ。
「あの二人、でけとるかもしれんで」
千鶴に顔を寄せた春子は、面白そうに言った。
聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、千鶴は下を向いた。
春子は笑いながら、二人から離れた場所へ千鶴を誘った。
しばらくすると、参道の突き当たりにある神社の鳥居を潜り、一体の神輿が現れた。
すると、それまで賑やかだっただんじりが、声や音を鳴り止ませて静まり返った。
辺りは静寂に包まれ、その中を神輿は掛け声もなく、静かに滑るようにやって来る。
屋台の明かりに見守られ、その神輿はかつての庄屋の屋敷へ入って行った。
春子の説明によれば、村々の平和を願う神さまのお忍びの渡御らしい。実に不思議な光景で、静けさが神々しさを醸し出している。
やがて屋敷から出て来た神輿は、再び音もなく滑るようにして、神社へ戻って行った。
神輿が見えなくなると、止まっていた時が再び動き出したかのように、太鼓と半鐘が鳴り始めた。参道は賑やかな音と喜びの掛け声で、再び埋め尽くされた。
十分に祭りを堪能して法正寺へ戻る途中、風寄の祭りはとても優雅で素敵だと、千鶴は絶賛した。ほうじゃろほうじゃろと、春子は嬉しくてたまらない様子だ。
しばらく二人は祭りの話で盛り上がったが、話が一息ついたところで、あのな――と千鶴は言った。
「さっき、聞きそびれてしもたけんど、がんごめって何ぞな?」
「がんごめ? おら、わからん」
暗いので春子の表情はわからない。しかし、春子の声は惚けているように聞こえる。
「子供らが、うちを見た時に言うたじゃろ? がんごめじゃて」
「そげなこと言いよったね。ほじゃけど、おら、知らんのよ」
「ほんまに知らんの?」
「うん、知らん」
「言うたら、うちが傷つく思て、知らんふりしよんやないん?」
「違う違う。ほんまに知らんのよ」
恐らく、春子は知っているに違いない。だが、喋ってくれそうにないので、千鶴は訊くのをあきらめた。
寺に戻ったあと、千鶴たちは和尚夫婦としばらく話をした。
千鶴は和尚たちにがんごめの話を聞いてみたかった。だが、何だか聞くのが怖い気がした。
それに春子の前では、春子が気を悪くするように思えたので、訊くことができなかった。
また和尚たちとは、それほど長く喋ってはいられなかった。
翌朝には、日の出と共に神輿の宮出しが行われる。そのため未明からだんじりの屋台が再び集結するらしい。その時は、先ほどよりも多くの屋台が集まると言う。
それを見に行くためには、朝の暗いうちから起きて出発しなくてはならない。
結局、千鶴が和尚たちと喋ったのはお祭りの話だけで、がんごめのことを確かめることはできなかった。
千鶴たちは、安子が用意をしてくれた部屋で床に就いた。だが、千鶴はなかなか寝つけなかった。
早く眠らねばならないのだが、そう思えば思うほど却って目が冴えてしまい、眠気は遠のいてしまう。
隣で春子の寝息が聞こえ出しても、千鶴は長い間、闇の中で眠るために奮闘し、何度も寝返りを打った。
頭の中では、今日のことが幾度も思い返された。
不可解な出来事や夢に見た若侍。いったいあれは何だったのだろう。自分に何が起こったのか。
若侍にはもう一度会いたいが、自分をここへ運んでくれたのは、本当のところは誰なのだろう。
それに、村の者たちの千鶴に対する態度も気になった。
千鶴を見下すような者もいれば、頭を下げてくれる者もいた。どちらが本音なのかはわからない。
親しくしてくれたようでも、本当は蔑んでいたのかもしれない。しかし、マツやイネが千鶴に詫びてくれたのは、本当の気持ちだったように思える。
千鶴にがんごめと言った子供たちも、千鶴と遊んでもらったことを喜んでいた。
何が本当で、何が本当でないのか、わからないことで居心地が悪くなる。
それにしても、がんごめとは何のことだろう。何か悪い意味があるのに違いない。そうでなければ、がんごめという言葉を使って、子供たちがからかうはずがない。
だが初対面の子供たちが、いきなりそんなことをするのも不自然だ。と言うことは、千鶴を傷つけたという春子の曾祖母が関係しているのかもしれない。それで子供たちはがんごめと言って、千鶴をからかったのだろう。
そんなことを考え続けていると、いつまで経っても眠れない。
このままではいけないと思い、千鶴は考えるのをやめて眠ることにした。
しかし考えないつもりでも、頭の中ではいろんなことが勝手に浮かんで来てしまう。
どうせ考えるのならば、あの若侍のことを考えようと千鶴は思った。そうすれば他のことは浮かんで来ないに違いない。
千鶴は目を閉じたまま、若侍のことを考え続けた。
だが、若侍の顔はよくわからない。顔がわからない者を思い浮かべるのはむずかしかった。それに時々思い出したように子供たちが現れて、がんごめと言って千鶴をからかう。
子供たちを頭の中から追い払い、また若侍を思い浮かべるが、いつの間にか子供たちは戻って来て、また千鶴をからかう。
そうしているうちに、気がつけば千鶴は一人で闇の中に立っていた。
四
そこは漆黒と呼ぶべき暗闇だった。周りに生き物の気配はない。闇は凍えるほどに冷たく、千鶴は体を抱くようにしながら震えた。
一方、素足が触れる地面は生温かく、ぬるぬるした泥のようだ。辺りには血の臭いと、何かが腐ったような臭いが漂っている。
この暗闇はいるだけで気分が悪くなって来る。だけど、どうやってここに来たのかはわからない。
千鶴には探している者がいた。しかし、その相手がここにいるという確信などない。
一寸先も見えない。誰かに鼻を摘まれたとしても、絶対にわからないような暗さだ。
恐る恐る手を伸ばしてみても、指先は何にも触れなかった。
そのままの姿勢でゆっくりと二、三歩踏み出してみたが、やはり周囲には何もない。
足下がぬるぬるしているので、下手に動くと転ぶかも知れず、千鶴は身動きが取れなかった。
仕方がないので、千鶴は鼻と口を手で押さえたまま、一所にじっとしていた。
すると、少し闇に目が慣れたのだろうか。周囲が二間ほど先の辺りまで、月明かりに照らされたように、ぼんやりと闇の中に浮かび上がって来た。
極めて狭い範囲しか見えないが、見える限りにおいて、そこには何もなかった。
色と呼べるものはない。闇とは異なる黒さの地面があるばかりだ。他に見えるものと言えば、自分の白い手足だけである。
再び何歩か足を踏み出してみたが、目に映る光景に変化はない。
かすかに風が吹いて、後ろに束ねた髪が少し揺れた。
その時、どこからかわからないが、憎悪と殺気が千鶴に向かって押し寄せて来た。
慌てて振り返ったが、淡い光の中に見える景色は変わらない。
しかし、その向こうに広がる闇の中では、明らかに何かが蠢く気配がする。
聞こえて来たのは、ずるりずるりと何かを引きずる音だ。また、ぴちゃりぴちゃりと泥を歩くような音も聞こえる。
苦しみと憎しみが入り交ざったような不気味な呻き声。それも一つや二つではない。
その気味の悪い声や音は、近くからも遠くからも聞こえ、その数もどんどん増えて来る。
突然結界を破るように、淡い光の下に何かが這い出て来た。
それは片方の目玉が腐ってこぼれ出た屍だった。
ざんばら髪で骨と皮だけになった屍は、動きを止めると千鶴を見上げてにたりと笑った。
――見つけた。がんごめ、見つけたぞな。
乾いたような舌を動かして、屍はかさかさ声でつぶやいた。舌が動くたびに、口の中から蛆がこぼれ落ちた。
千鶴は驚きのあまり声も出ず、体が動かなくなった。だが、屍が千鶴の方へ這って来ると、喉から悲鳴が飛び出した。
呪縛が解けた千鶴は闇の中を走って逃げた。しかし、音や声は後ろからばかりではなく、周囲の至る所から聞こえて来る。
とうとう呻き声と不気味な音に取り囲まれ、千鶴は行き場を失った。
ぴちゃりぴちゃりと前から音が近づいて来た。
千鶴が後ずさりをすると、後ろから手が千鶴の肩をつかんだ。
驚いて振り返ると、裸同然の髪の長い女が、焦点の合わない目で千鶴をにらんでいた。その目玉の上を、やはり蛆がもそもそと動いている。
――子供を返せ! お前が喰ろうたおらの子供を返せ!
女は干物のような手で、千鶴の首を絞めようとした。
千鶴は女の手を払いのけて逃げ出した。だが、何かに足首をつかまれ、勢いよく転んでしまった。
顔や体中にべちゃりと泥がついた。それは胸悪くなるような血の臭いがしている。泥だと思っていたのは血糊らしい。
千鶴の足をつかんでいる骸骨のような屍が、歯をカチカチ鳴らしながらケタケタ笑った。
――捕まえた。がんごめを捕まえたぞな!
先ほどの女が再び千鶴に近づいて来た。さらに周囲からも次々と屍たちが姿を見せた。
ある者はこぼれた腸を引きずり、ある者は顔が崩れ、また、ある者は片手に千切れた頭をぶら下げている。
――殺せ! 八つ裂きにせぇ!
必死に逃げようとする千鶴に屍たちは腕を伸ばし、歯を剥き出した。
その時、耳をつんざくような咆哮が聞こえた。怒りに満ちたその獣の声は、びりびりと闇を震わせた。
屍たちは一斉に動きを止め、怯えたように周囲の闇を見回した。
その刹那、何か大きな物がぶんと音を立てながら現れた。それは屍たちを薙ぎ払い、一部の屍たちを闇の中へ引きずり込んだ。
他の屍たちは慌てふためき、闇の中へ姿を消した。その直後、ずんという地響きと、屍たちの呻くような悲鳴が聞こえた。
近くの闇に何かがぼとぼと落ちて来る音がした。と思ったら、淡い光の中に屍の頭や手足が転がり出て来た。
声も出せずに千鶴が固まっていると、何かから逃がれようとする屍が、闇から千鶴の方へ這い出て来た。
そこへ上の闇から巨大な足が落ちて来た。
毛むくじゃらのその足は、千鶴に這い寄ろうとした屍を、ずんと踏み潰した。振動は地面を伝って千鶴の足に届き、踏み潰された屍の肉片が千鶴の足にぶつかった。
千鶴は震えながら、巨大な足の上に目を遣った。
毛むくじゃらの足に続く、胴の部分がちらりと見えた。しかし、その上は闇の中に消えている。それはこの化け物がいかに巨大であるかを物語っていた。
その化け物が千鶴を見下ろすように、闇の中からぬっと顔を見せた。
それは頭に二本の角を生やし、牙を剥き出しにした、形容しがたいほど醜悪な顔だった。
五
はっとなった瞬間、鬼は姿を消していた。千鶴を取り巻いていた淡い光もなく、千鶴は真っ暗闇の中にいた。
しばらくの間、千鶴は自分がどこにいるのかわからなかった。
だが隣から聞こえる春子の寝息で、ここは法正寺なのだと知り、千鶴はようやく安堵した。
闇の中で千鶴は体を起こした。胸はまだどきどきしている。
あの冷たく血生臭い空気や、ぬるぬるした生温かい血溜まり。亡者につかまれた感触や、八つ裂きにされそうになった恐怖。
それらは目が覚めた今でも、千鶴の心と体に実感として残っている。あれが夢だったとは信じられないほどだ。
もし目が覚めなかったら、自分はどうなっていたのだろう。そう思うと千鶴は体が震えた。
一方で、千鶴は鬼を見た時の自分の気持ちに混乱し、うろたえていた。
千鶴は夢の中で誰かを探していた。だが、それが誰なのか、自分でもよくわかっていなかった。
ところが、あの恐ろしげな鬼の醜い顔を見た時、千鶴の胸は喜びに震えたのだ。
そう、千鶴が探し求めていたのは、あの鬼だったのである。
千鶴は何度も頭を振って、鬼を慕う気持ちを頭の中から追い払おうとした。いくら夢とは言え、自分が鬼に心惹かれるなんて信じられなかった。
本当に会いたかったのは鬼ではない。あの若侍だったはずだ。それなのに、あろうことか地獄にいる鬼を探し求め、愛しく思うなんて有り得ない話である。
千鶴は自分がおかしくなったのではないかと疑った。
――見つけた。がんごめ、見つけたぞな。
屍が口にした言葉を千鶴は思い出した。屍は千鶴をがんごめと呼んでいた。
伊予では鬼のことをがんごと言う。その鬼を愛おしく思った自分ががんごめなのだとすると、がんごめというのは鬼の女という意味なのかもしれない。
もし春子の曾祖母が、千鶴を見てがんごめと言ったのであれば、それは千鶴を化け物と見なしたわけである。
そうであるなら、とんでもない侮辱だ。そんなことを言われて平気でいられるはずがない。春子の家を飛び出したのも納得が行く。
だがそうだったとしても、今の自分はそのことに反論ができなかった。
鬼を愛しく思う自分など、がんごめと言われても仕方がない。もしかしたら本当に自分はがんごめなのかもしれない、と自分でも疑いたくなるほどだ。
それでも村の者たちが春子の曾祖母と同じような目で、自分を見ていたのだとすると、それはあまりにも悲しく悔しいことだった。
それは事実ではないのかもしれない。しかし一度そう疑うと、その疑いはどんどん膨らんで行く。
自分を受け入れてくれた村の女たちが、あれだけ楽しそうにしていたのも全て偽りだったのかもしれない。
春子の母や祖母も含めて、本当はみんなが自分のことを気味悪く思っていたのかと思えて、布団に載せた千鶴の手を涙が濡らした。
千鶴がいない所で、みんなが自分のことをがんごめだと噂し合っているようだ。
そんな村の者たちの姿が、地獄の屍たちの姿と重なって見える。その屍たちを蹴散らしたのは、あの鬼である。鬼は自分を護ってくれたのだ。
千鶴の中で、鬼を慕う気持ちが広がった。
同時に、もう一人の自分が鬼に心が惹かれる自分を戒めた。それはあの若侍を慕う自分だ。
千鶴は困惑し、怯え、悲しみ、そして混乱した。
隣で聞こえる春子の平穏な寝息が羨ましく腹立たしい。
だが、千鶴は眠るのが怖かった。次はどんな夢を見せられるのかと思うと、恐ろしくて横になれなかった。
全てはただの夢だと思いたかった。しかし、法正寺の前で倒れていたことを考えると、若侍の夢も鬼の夢もただの夢ではないような気がした。
それでも二つの夢の内容は全くの真逆である。どちらも真実だとするには無理がある。
考えれば考えるほどわけがわからなくなり、千鶴は途方に暮れるばかりだった。
死んだイノシシ
一
夜明けの神輿の宮出しを見たあと、千鶴たちが法正寺に戻って来ると、安子が朝飯に粥と味噌汁、漬け物とかぼちゃの煮物、それに温かい湯豆腐を用意してくれていた。
千鶴たちがいない間に、先に食事を済ませた知念和尚と安子は、箱膳の前に座った二人の傍へ坐り、どうだったかと訊ねた。
春子は、やっぱり地元の祭りには感動すると、興奮しながら喋った。
千鶴は、お忍びの渡御とは違う別の素晴らしさがあったと答え、とても賑やかで楽しかったと言った。
喋っている間、千鶴はできるだけ笑顔を繕ったつもりだった。それでも、やはり表情が硬くなったかもしれないと千鶴は思った。
鬼の夢を見たことや、自分が村人たちから化け物のように見られているという想い、それに、ほとんど眠れなかったことが、千鶴から元気を奪っていた。
確かに今朝の宮出しでは、昨夜より多くの屋台が見られた。それが素晴らしいのは事実である。しかし、千鶴にはそれに感動している余裕はなかった。頭の中は、自分は化け物なのだろうかという想いで一杯だった。
千鶴の気持ちに気づいていないのか、知念和尚はうなずいて言った。
「昔は、わしらも宮出しを見に行きよった。ほんでも、やっぱし寺の仕事があるけんな。ほれで、見に行くんはやめたんよ」
「ほの頃の仕事言うたら、寝ることじゃろがね」
安子に笑われると、和尚も恥ずかしそうに笑った。それに合わせて千鶴たちも笑ったが、千鶴の笑いは形だけのものだった。
昨夜は夢の中でも目覚めたあとも、千鶴は鬼に心を寄せていた。だが、あとになって冷静に考えると、それは極めて異常なことだった。
いくらみんなから蔑まれようと、鬼に心が惹かれるなどあってはならないことである。それは自分の中に鬼が棲んでいる証であり、がんごめと言われても仕方がないことになる。
風寄の神輿には大魔と呼ばれる二匹の鬼が、露払い役としてお供していた。
もちろん大魔は本物の鬼ではない。鬼の姿をした人間である。しかし、初めて大魔を見た千鶴は、がんごめという自分の正体を示されたように思い、大いにうろたえた。
和尚と自分のお茶を淹れた安子は、食事を続ける千鶴の様子を見ながら言った。
「千鶴ちゃん、何や元気がないみたいなけんど、また何ぞ嫌なことでもあったんやないん?」
安子に訊かれ、千鶴は慌てて首を横に振った。
「別に何もないですけん」
「何か怪しいねぇ。ほら、正直に言うとうみ。何でも一人で抱え込むんはようないけん」
安子には見透かされていたようだ。千鶴が下を向くと、知念和尚も、やっぱしほうなんか――と言った。
「何や元気ないなとは思いよったんやが、やっぱし何ぞあったんやな。安子の言うとおり、一人で悩みよっても仕方ないぞな。わしらでよかったら話聞いてあげるけん、何でも言うとうみ」
春子が食べるのも忘れて心配そうな顔をしている。
千鶴は覚悟を決めた。
「あの、もし知っておいでたら、教えて欲しいんですけんど」
「知っとることなら、何でも話してあげよわい」
知念和尚は身構えたように腕を組んだ。
「がんごめって何のことでしょうか」
春子は驚いたような顔をしたあと、しょんぼり目を伏せた。
「がんごめ? その言葉がどがいしたんぞな?」
和尚は初めて聞いた言葉だというような顔を見せた。
「村上さんの家で子供らがうちを見て、がんごめじゃて言うたんです。でも、その意味がわからんけん、何のことかて村上さんに訊いたんですけんど、村上さんも知らんみたいなけん」
ふむと和尚はうなずきながら、横目でちらりと春子を見た。春子は下を向いたままだ。
「子供がふざけて言うたことじゃろけん、そがいに気にせいでもええんやない?」
安子が慰めるように言った。千鶴は首を振ると、ほやない思うんですと言った。
「がんごめやなんて、子供が勝手に作った言葉とは思えません。子供は誰ぞの真似するもんですけん、大人が使た言葉や思うんです」
「ほらまぁ、ほうかもしらんけんど……」
言葉を引っ込めた安子と、黙っている和尚を見比べながら、千鶴は自分の考えを述べた。
「鬼のこと『がんご』言いますけん、がんごめは鬼と関係した言葉や思うんです。ほれに醜女の『め』は『女』て書きますけん、『がんごめ』の『め』も『女』じゃとしたら、『がんごめ』は……」
「鬼女やて思いんさったんか?」
千鶴はこくりとうなずいた。春子はますます項垂れて泣きそうな顔になっている。
「うち、思たんです。うちが村上さんの家飛び出したんは、村上さんのひぃおばあちゃんに、がんごめて言われたんやないかて。ほれで、他の人らも同し目でうちのこと見よるんやないかて……」
「そげなことない!」
春子が涙ぐんだ顔を上げて叫んだ。
「山﨑さん、絶対そげなことないけん! ヨネばあちゃん、惚けてしもとるんよ。他の者は誰っちゃそがぁなこと思とらんけん!」
知念和尚は微笑みながら千鶴に優しく言った。
「春ちゃんの言うとおりぞな。千鶴ちゃんみたいな別嬪さん、誰ががんごめやなんて言うんぞ。そげな者、どこっちゃおらんぞな」
安子も笑顔を見せて明るく言った。
「な、わかったじゃろ? ほやけんな、千鶴ちゃん、もう、そげなことは気にせんの。そもそも千鶴ちゃんには、お不動さまがついておいでるんじゃけんね」
代わる代わる慰められ、千鶴はわかりましたと言った。
「もう言いません。ほんでも、もう一つぎり知りたいことがあるんです」
「何ぞな。何でも言うとうみ」
知念和尚が応じたが、千鶴は春子に訊ねた。
「村上さん。ひぃおばあちゃん、なしてうち見て、がんごめ言うたんかわかる?」
「な、なしてて……」
「みんながうちのことを、がんごめじゃて思わんのなら、なしてひぃおばあちゃんぎり、うちをがんごめ言うたんじゃろか?」
「ヨネばあちゃん、惚けとるぎりじゃけん。そげなこと、そがぁ真面目に考えんでもええやんか」
春子は答えたくないようだった。と言うことは、春子は理由を知っているのだろう。
「和尚さんたちはわかりますか?」
千鶴は、知念和尚と安子に顔を向けた。
安子が当惑したように和尚を見ると、和尚は春子に声をかけた。
「春ちゃん、もう、千鶴ちゃんに話してやっても構んじゃろ? 千鶴ちゃんは頭のええ子ぞな。隠したかて疑いはますます膨らもう。ほんで、いずれ春ちゃんに不信感を持つようになるぞな。ほんでも春ちゃんはええんか?」
春子が首を横に振ると、ほうじゃろ?――と和尚は言った。
「ほんなら、わしから千鶴ちゃんに話そわい。ええな?」
春子は黙ってうなずいた。
知念和尚は千鶴に向き直ると、今から二月ほど前の話ぞな――と言った。
「台風が来よった時があったじゃろ? あん時にな、そこの浜辺にあったこんまい祠がめげてしもたんよ。ほれからなんじゃな、おヨネさんが妙なこと言い出したんは」
二
法正寺の近くの浜辺には、村人たちに忘れ去られた小さな祠があった。その祠はヨネが一人で世話をしていたのだと言う。
数年前からは、ヨネの足腰が弱くなったヨネに代わって、イネやマツが祠の世話をしていたそうだ。しかし、そこにどんな神さまが祀られているのか、ヨネは誰にも教えていなかった。
今年の八月初めに台風が伊予を襲った。松山もかなり荒れたが、風寄も激しい風雨に曝されたと言う。
台風が去った翌日、イネが祠を見に行くと、祠はばらばらに壊れていた。長年の風雨でかなり傷んでいたので、とうとう壊れてしまったかという感じだった。周囲の木々も折れていたので、傷んだ祠が壊れるのは当然でもあった。
ところが、その話を耳にしたヨネは狂ったように騒ぎ始めた。鬼が来て村が滅びると言うのである。
何を言っているのかと家族に問い詰められ、ようやくヨネは、あの祠が鬼から村を護る鬼除けの祠だったと話した。
何故今まで黙っていたのかと訊かれると、鬼除けの祠の世話をしているのが知れると、鬼に殺されるからだと言った。祠の世話をする者が死ねば、いずれ祠は壊れてしまい、鬼にとっては好都合になるらしい。
ヨネによれば、ヨネがまだ幼かった頃、村にはがんごめが棲んでいたのだと言う。
がんごめは雪のように白い若い娘の姿をした鬼で、法正寺にいたらしい。ヨネの家は法正寺の近くにあったので、ヨネは時々がんごめを見たそうだ。
ただ、いつからがんごめが法正寺に棲みついたのかは、ヨネは知らなかった。
「このお寺に、がんごめがおったんですか?」
驚いた千鶴に、和尚は困ったように言った。
「村長からもそげなこと訊かれたんやがな。わしらは途中からこの寺に来たけん、そげな昔のことは何も知らんのよ」
和尚に続いて、安子が言った。
「昔、この寺で火事があってな。本堂は無事やったんじゃけんど、庫裏が焼けてしもて、ほん時に書き物が全部焼けてしもたんよ。ここのご住職も、ほん時に亡くなってしもたけん、昔のことはようわからんのよ」
火事があったのは明治が始まるより前のことで、その後の法正寺は遠く離れた別の寺の住職が、掛け持ちで管理をしていたそうだ。
掛け持ちの住職二人を経たあと、明治の末頃にようやく庫裏が再建され、そこへ入ったのが知念和尚だった。
知念和尚は寺を管理していた住職から、この寺のことを引き継いだが、その住職もその前の住職もこの土地の者ではなく、普段はほとんどこちらにいなかった。そのため、庫裏が焼ける前のことは全くと言っていいほど何も知らなかった。
鬼やがんごめの話も、その住職たちの口から聞かされることはなかったと知念和尚は言った。
ただ、掛け持ちの住職たちが伝え聞いた話によれば、庫裏が焼ける少し前に、この寺に不埒な侍たちが集まり、狼藉を企てていたと言う。
その侍たちはこの地を治める代官を殺し、寺へ押し寄せた村人たちとも争った。その時に庫裏は焼けたらしい。当時の住職もその争いで命を落としたそうだ。
「おヨネさんが子供ん頃、がんごめ見たいうんも、ほん頃のことらしいぞな。ほやけどな、おヨネさんほど長生きしておいでる者は、この村にはおらんけん。がんごめの話を知っとるんは、おヨネさん以外にはおらんのよ」
知念和尚が当惑気味に言った。
「ほんでも、ほんまにがんごめがおったんなら、そげな話が伝わっとってもええ思うんですけんど」
千鶴の言葉に和尚は、ほうなんやがな――と言った。
「村長ですら知らんのじゃけん、この話は村上家とわしらぎりの話いうことになっとるんよ。おヨネさんが妙なこと言い出したて、村中に噂ぁ広まったら村長も困るけんな」
千鶴は春子に改めて訊ねた。
「村上さんはひぃおばあちゃんの話、知っとったんじゃね?」
春子は小さくうなずき、千鶴の言葉を認めた。
「こないだのお盆に戻んて来た時、そげなことがあったて聞いたんよ。ほやけど、まさかヨネばあちゃんが山﨑さん見て、がんごめ言うとは思わなんだんよ」
「ほれはほうじゃな。そげなこと誰も思うまい」
知念和尚が春子を慰めるように言った。
千鶴は和尚たちの話を整理しようと思ったが、さっぱりわけがわからなかった。
鬼がいたのか、いなかったのか。ヨネの話は正しいのか、間違いなのか。そもそも鬼除けの祠が造られた理由は何なのか。鬼がいたからではないのだろうか。
千鶴がそのことを訊ねると、ヨネの父親が鬼を見たらしいと知念和尚は言った。祠も大工仕事をしていたヨネの父親が造ったのだと言う。
と言うことは、やはりがんごめは実在したということなのか。
「ちぃと信じがたい話なけんど、鬼はそこの浜辺でようけの侍を殺しよったそうな。ほんで、沖には見たこともないような、真っ黒ででっかい船が浮かんどったんじゃと」
鬼は本当にいた。千鶴は驚きで言葉を失いそうになった。だが、これはヨネが直接見た話ではない。幼いヨネが父親の言葉を聞き間違えた可能性はある。
それでもヨネの父親が鬼除けの祠を造ったのは事実である。千鶴の気持ちは不安の波で大きく揺れていた。
「ところで、がんごめはここで何をしよったんですか?」
気を取り直した千鶴はみんなの顔を見回した。しかし、春子が黙っているので、知念和尚が口を開いた。
「おヨネさんが言うにはな、村に禍呼んで、村の者の命を奪ったらしいぞな」
「禍?」
「たとえば、大雨降らして川の水あふれさせたり、悪い病流行らせたりするんよ。ほんで、亡くなった人の墓をな、あとで掘り返して屍肉を喰ろうたそうな。特に子供の屍肉を好んだらしいわい」
和尚は千鶴を見つめて言った。何だか心が見透かされているようで、千鶴は目を伏せた。心の内のことは、誰にも知られたくなかった。あの恐ろしい地獄の風景が目に浮かんでいる。
三
――子供を返せ! お前が喰ろうた、おらの子供を返せ!
焦点の合わない目でにらむ屍の女の顔が、千鶴の目に浮かんだ。
子供の屍肉を喰ったような気がして、千鶴は手で口を押さえた。
腹の中の物が込み上げそうになるのを必死でこらえていると、春子が心配そうに、大丈夫かと声をかけた。
安子は和尚をにらむと、叱りつけた。
「人が飯食うとる時に、そげなこと言うたらいけんでしょうが」
知念和尚は頭を掻くと、千鶴に詫びた。
「悪かったぞな。もう、この話はおしまいにしよわい」
いえ――と千鶴は口を押さえながら言うと、大きく息を吸ったり吐いたりした。それからお茶を一口飲むと、ふうと息を吐いた。
「もう、大丈夫ですけん。今の話ですけんど、がんごめがそげな悪さするんがわかっとるんなら、なして、村の人らは黙っとったんですか? ほれに、ここにおいでたご住職も、なして、がんごめがお寺に棲むんを許しんさったんでしょうか?」
今度は春子が答えた。
「がんごめはな、人の心を操ることができたんじゃと。ほれで、ここのお坊さまやお代官を味方につけて、我が身を護ったそうな」
何だか話がややこしい。千鶴は頭の中を整理しながら喋った。
「じゃったら、ここにおったいう悪いお侍は、ここでがんごめと争うたんじゃろか? ほのお侍らがお代官やご住職を殺めたいうことは、がんごめの敵いうことになろ?」
ほうならいねぇと春子はうなずいた。
「普段はおらんのがいきなし来たんなら、がんごめもたまげた思うで。しかも、相手は刀持ったお侍やけんな。ほんで、そこの浜辺で悪者同士の争で争うことになって、ほれをヨネばあちゃんのお父ちゃんが見んさったんよ。絶対にほうやで」
そう言ってから、春子は慌てて自分の言葉を否定した。
「言うとくけんど、これはヨネばあちゃんの話がほんまのことと仮定しての憶測なで。ほじゃけん、山﨑さん、本気で聞いたらいけんよ」
うなずきはしたものの、春子の説明で千鶴は話の整理がついたように思えた。
やはり、がんごめや鬼は実在したのである。そのことは、自分もがんごめかもしれないという、千鶴の不安を膨らませた。
千鶴の表情を見たのか、安子が明るい声で言った。
「二人とも箸が止まっとるよ。この話はおしまいにして早よ食べてしまわんと、すぐにお昼になってしまうぞな」
千鶴と春子は急いで箸を動かし始めた。しかし、千鶴はまた箸を止め、あと一つぎり――と言った。
「結局、がんごめと鬼はどがぁなったんぞなもし?」
「庫裏が焼けてからは、がんごめはぱったり姿を消したそうな」
知念和尚が言った。
「鬼の方は?」
「おヨネさんの父親が他の者を呼んで戻んた時には、もう鬼は姿を消しとったそうな。ほん時に沖へ去った黒い船が見えたそうで、鬼もがんごめもその船で逃げたと、おヨネさんの父親は思たらしい」
「ほれで浜辺に鬼除けの祠をこさえんさったんですね?」
「ほういうことらしいわい」
話の辻褄は合っている。だが、鬼が本当にいたという確かな証拠が千鶴は欲しかった。
「鬼がお侍と戦うた話がほんまなら、浜辺に争いの跡が残っとったんやないんですか? たとえば大けな足跡があったとか」
「足跡のことはわからんけんど、浜辺には侍連中の死骸が――」
知念和尚はそこで言葉を切ると、安子の顔を見た。安子は、自分で考えなさいと言いたげな惚けた顔をしている。
「大丈夫ですけん。続けてつかぁさい」
千鶴が言うと、和尚はちらりと安子を見てから話を続けた。
「実際、浜辺に侍連中の死骸がごろごろあったんよ。この話は前任のご住職から聞いた話じゃけん、間違いないぞな」
「じゃあ、ほんまに鬼とお侍が?」
「ただな、前のご住職から聞いた話では、侍連中と戦うたんは鬼やのうて、代官の息子やいうことぞな」
「お代官の息子? 鬼やのうて?」
うなずく和尚に、たった一人でかと春子が訊ねた。
ほうよと和尚が言うと、春子はヨネの言い分も忘れたように、目を丸くした。
「こがぁな田舎におったにしては、相当な剣の腕前やったみたいぞな。浜辺にあった死骸やがな、どれも刀で斬り殺されたものやったそうな。恐らく父親の代官がかなりの腕前やったに違いない」
「そのお人にとっては、相手は憎き父の仇やけんね。命を懸けて戦いんさったんじゃろねぇ」
安子がうなずきながら言った。
たった一人で何人もの侍を相手に戦う代官の息子。その様子を思い浮かべようとした千鶴の目に、何故か一瞬、それらしき場面がはっきりと見えた。
刀を抜いた一人の若い侍が、千鶴に背を向けて立っている。向こうを向いてはいるが、あの若侍だと千鶴は直感した。
場所は浜辺で、刀を持って身構えるその姿は満身創痍のように見えた。その向こうから大勢の侍たちが刀を抜いて走って来る。
ほんの一瞬の映像だが、千鶴には侍たちの狙いが若侍ではなく、自分であるように思えた。若侍は千鶴を護るため、たった一人で立ちはだかっていた。
すぐに現実に引き戻された千鶴の隣では、春子が興奮した様子で喋っている。
「たった一人で戦うやなんて、活動写真の主人公みたいぞな。そがぁながいなお人がおったやなんて信じられん」
「ほのお代官の息子さんは、どがぁなったんですか?」
千鶴が怖々訊ねると、行方知れずぞな――と和尚は言った。
「多勢に無勢じゃけんな。恐らく最後には力尽きて、海に流されてしもたんじゃろ」
千鶴は泣きそうになった。自分を護ろうとして、あの若侍が死んだのだと思えてならなかった。
「千鶴ちゃん、大丈夫?」
涙ぐむ千鶴に気づいた安子が、心配そうに声をかけた。
「大丈夫です。ただ、ほのお代官の息子さんがお気の毒で……」
千鶴は懐紙を取り出して涙を拭いた。
「まこと千鶴ちゃんは優しいわいねぇ」
安子は千鶴を見ながら微笑んだ。その様子を見ていた春子は、はしゃぐのをやめて静かになった。
「夫と息子を殺された代官の妻は、ここの焼けた庫裏の跡にこんまい庵を建て、髪を下ろして生涯夫と息子を弔い続けたそうな。ここの墓地には代官の墓と、尼になった代官の妻の墓があるんよ」
「ここは元々お代官の家の菩提寺やったんかなもし?」
春子が訊ねると、そうではないと知念和尚は言った。
「恐らく代官の菩提寺は松山にあると思う。けんど、そっちでは弔わんでこっちに墓を建てたんよ」
「なしてですか?」
それは恐らく息子のためだろうと思うと和尚は言った。
「ここにはな、今言うたように代官と代官の妻の墓はある。ほやけど、二人の息子の墓がないんよ」
春子は意外そうに千鶴を見た。なしてないんですかぁ――と千鶴は思わず声を上げた。だが、和尚はどうしてなのかはわからないと言った。
代官の妻が暮らしたという庵は、この庫裏が新たに建てられる時に取り壊されたと言う。そこに記録が残っていたのかどうかは定かではないらしい。
「喧嘩両成敗て言うけんな。相手がふっかけて来た争い事でも、斬り合いになってしもたら双方が咎めを喰うんよ。しかも、代官の息子が斬り殺したんは一人や二人やないけんな」
「ほんまかどうか知らんけんど、死んだお侍の中には、外から来たお人もおったらしいぞな。ほれが、立派なお家柄の所のお身内やったていう話もあるみたいなけん、ほれがいけんかったんかもしれんぞな」
「ほんなん無茶苦茶ぞな。あのお人はたった一人で、お父さんの仇と戦うたぎりやのに」
千鶴が叫ぶように言うと、和尚たちは怪訝そうな顔をした。
「あのお人?」
我に返った千鶴は、そのお人の間違いだと言って下を向いた。つい若侍のつもりで喋ってしまったことを千鶴は恥じ入った。
「何か、自分が知っておいでるお人のこと、言うてるみたいじゃったぞな」
安子が笑うと、みんなも笑った。千鶴は下を向きながら恥じ入り続けた。
「まぁ、恐らくそがぁな理由で、代官の息子はまともな墓を建てることは、許されんかったんやと思わい。まことに気の毒な話なけんど、代官の妻がここに夫の墓を建てて弔うことにしたんも、墓を建ててやれん息子のために、ここに残って夫と一緒に弔うためやなかろかと思うんよ」
はっとしたように春子が言った。
「ひょっとして、そのお代官の息子もがんごめに操られよったんかもしれんぞな」
そう言ってから春子は再びはっとした顔で千鶴を見て、今のは嘘だと慌てたように弁解をした。
確かに、本当にがんごめがいたのであれば、代官だけでなく代官の息子も操った可能性はあるだろう。二人は自分が死ぬまで、がんごめの敵である侍たちと戦わされたのだ。
一方で、そうではないという気持ちも千鶴にはあった。何だかあの若侍が、代官の息子であったような気がするのだ。
しかし、それは有り得ないことだ。あれはただの幻である。
「そがぁなわけで、鬼の話がどがぁなことかはわからんのやが、ここで争い事があって、ほんときにようけの者が死んだんは事実ぞな。いったい何があったんかは知る由もないが、今のとこは鬼を見た者はおらんし、特に変わったことは起きとらん。ほれしか、わしには言えんぞな」
知念和尚が締めくくるように話すと、春子も続けて言った。
「ほじゃけん、山﨑さん。ヨネばあちゃんが言うたことは、もう気にせんでな」
何だかすっきりしないが、どうしようもない。
千鶴が黙ってうなずくと、安子が千鶴と春子を見ながら、この話はこれでおしまいと言った。
四
「和尚さま」
境内に面した障子の向こうから、誰かの声が聞こえた。
知念和尚は腰を上げると、障子を開けた。
そこは縁側になっていて、外に白髪頭の男が立っていた。伝蔵という寺男だ。
千鶴は伝蔵とは初対面だった。目が合った時に会釈をしたが、伝蔵は千鶴を見てぎょっとしたようだった。
しかし、千鶴が春子の女子師範学校の友だちだと、知念和尚から説明を受けると、伝蔵はぎこちなく頭を下げた。
和尚が何の用事かと訊ねると、権八が話があるそうですと伝蔵は言った。
権八というのは近くに住む百姓で、毎朝寺に野菜を届けてくれる信心深い男である。
さっきまで他の者と一緒にだんじりを動かしていただろうに、手が空いたのだろう。今朝も野菜を持って来てくれたようだ。
伝蔵が横を向いて手招きすると、小柄な男がひょこひょこと現れた。
「権八さん、お祭りじゃのに、お野菜届けてくんさったんじゃね。だんだんありがとうございます」
安子が丁寧にお礼を述べ、知念和尚も感謝をすると、権八は嬉しそうに、とんでもないと手を振った。
しかし、部屋の中にいる千鶴に気がつくと、驚いたように固まった。
知念和尚は再び千鶴のことを説明しようとした。だが、その前に伝蔵が説明をし、千鶴に対して失礼だと権八を叱った。
権八は慌てたように頭を深々と下げたが、頭を上げると、しげしげと千鶴を眺めた。
「こら、権八。ぼーっとしよらんで、和尚さまにお訊ねしたいことがあるんじゃろが」
伝蔵に言われてはっとなった権八は、ほうじゃったほうじゃったと和尚に顔を戻した。
「あんな、和尚さま。ちぃと教えていただきたいことがあるんぞなもし」
「ほぉ、どがいなことかな?」
「あんな、和尚さま。昨夜のことなけんど、辰輪村の入り口辺りで、でっかいイノシシの死骸が見つかったんぞなもし」
「昨夜? 昨夜いうたら、参道に屋台が集まりよった頃かな?」
「ほうですほうです。ほん頃ぞなもし」
「そげな頃に、でっかいイノシシの死骸が、辰輪村の入り口で見つかったんかな」
「ほうですほうです。辰輪村の連中は、道が通れんで往生した、言うとりましたぞなもし」
権八の話を聞きながら、千鶴は小声で、辰輪村とはどこのことかと、春子に訊いた。
権八の話に聞き入っていた春子は、山の方の村だと口早に説明した。
「道が通れんほど、でっかいイノシシなんか」
「あんな、和尚さま。これより、もっとでかかったぞなもし」
権八は両腕を目一杯広げて見せた。その仕草を見た千鶴は、祖父がイノシシを狩りで仕留めた時の様子を思い出した。しかし、それ以外の何かが、記憶の中から這い出て来ようとしているようにも感じた。
「権八、お前、その目で見たんか?」
伝蔵が疑わしそうに言った。権八は大きくうなずくと、確かに見たと言った。
「山陰の者が呼ばれるんを耳にしたけん、何があったんか訊いたらな、岩みたいなイノシシの死骸じゃ言うけん、見に行ったんよ」
「岩みたいて、こげな感じか?」
権八より体が大きい伝蔵が両手を広げてみせたが、権八は首を振り、もっとよと言った。
「真っ暗い中、行きよったら、ほんまに道の上に、大けな岩が転がっとるみたいに見えたぞな」
伝蔵は信じられないという顔を、知念和尚に向けた。
しかし、信じられないのはみんな同じである。誰もが伝蔵と同じような顔をしていた。
ただ千鶴だけが何かを思い出しそうな気がして、話に集中できずにいた。
和尚は驚いた顔のまま、権八に言った。
「そがぁにでっかいんかな。ほら、まっことがいなイノシシぞな。ほれは間違いのう山の主ぞ。ほんなんが祭りしよる所へ現れとったら大事じゃったな」
みんなは互いにうなずき合った。
和尚は権八に顔を戻して言った。
「ほれにしても、ほのイノシシは、なしてそげな所で死んどったんぞな? 誰ぞが鉄砲で撃ったんかな?」
「ほれがな、和尚さま。ほうやないんぞなもし」
「鉄砲やないんなら、病気かな?」
権八は首を大きく横に振った。
「あんな、和尚さま。鉄砲でも病気でもないんぞなもし」
「ほんなら何ぞな? なして死んだんぞな?」
「あんな、和尚さま。おら、ほれを和尚さまにお訊ねしたかったんぞなもし」
知念和尚は苦笑すると、権八さんや――と言った。
「わしは、ほのイノシシをまだ見とらんのよ。見とらんどころか、今初めて権八さんから聞いたとこぞな。ほれやのに、なしてわしがイノシシが死んだ理由を知っとると思うんぞな?」
権八はまた首を横に振った。
「あんな、和尚さま。ほうやないんぞなもし。死んだ理由はわかっとるぞなもし」
「わかっとんなら、わしに訊くまでもないやないか」
「あんな、和尚さま。わかっとんやけんど、わからんのですわい」
「こら、権八。そげな言い方じゃったら、和尚さまはわからんじゃろがな」
伝蔵が叱りつけると、権八は小さくなった。
「まぁまぁ、伝蔵さん。そがぁに言わんの」
安子が面白そうに言った。
知念和尚は少し困った様子で、権八に言った。
「権八さんが何を言いたいんか、わしにはわからんぞな。権八さんがわかっとる、イノシシが死んだ理由を先に言うてくれんかな」
わかりましたぞなもし――と権八は、横目で伝蔵を見ながら言った。
「そのイノシシの死骸はな、頭ぁぺしゃんと潰されとったんぞなもし」
「何やて? 頭を潰されとった?」
知念和尚の顔に一気に緊張が走った。安子の顔から笑みが消え、春子は口を開けたまま千鶴を見た。
「権八さん。ほれはまことの話かな?」
権八は大きくうなずいた。
「おら、この目でちゃんと見たぞなもし。こんまいイノシシでも、あげに頭ぁ潰すんは並大抵のことやないぞなもし。ほれやのに、あの岩みたいなでっかいイノシシの頭がな、ほんまにぺしゃんこに潰されとったんぞなもし」
「嘘じゃろ?」
疑う伝蔵に、権八は不満げな目を向けた。
「おら、嘘なんぞつかん。嘘じゃ思うんなら、辰輪村の者でも山陰の者でも訊いてみたらええ」
伝蔵が言い返せずに口籠もると、権八は和尚に言った。
「ほじゃけんな、和尚さま。イノシシが死んだんは頭ぁ潰されたんが理由じゃと、おらは思うんぞなもし」
「ほれは、わしもそがぁ思うぞな」
和尚がうなずくと、権八は続けて言った。
「ほんでな、和尚さま。おらが和尚さまにお訊ねしたいんは、何がイノシシの頭ぁ潰したんかいうことなんぞなもし」
もう一人のロシアの娘
一
権八によれば、奇妙な死に様にも拘わらず、イノシシの死骸は昨夜のうちにさばかれて、多くの者の腹を満たしたらしい。権八もそのうちの一人だった。
イノシシの死骸を見たばかりか、その肉まで食べることができた権八を、春子は羨ましがった。
せめて残った骨や毛皮を見たいと春子が言うと、それは山陰の者の所にあると権八は話した。それを聞くと、春子は残念そうにしながらあきらめた。
知念和尚たちがいたからなのか、春子は山陰の者について、その場では話してくれなかったが、あとで千鶴に説明してくれた。
山陰の者とは、山陰になった所に暮らす人たちのことで、昔から血生臭い仕事を生業としていたらしい。そのため山陰の者は村人たちから嫌われているのだと、春子は言った。
また、村人たちと諍いを起こす乱暴者もいて、それも嫌われる理由の一つということだ。
説明をしていた春子の表情から、春子が山陰の者を毛嫌いしていると千鶴は理解した。
その山陰の者の所に骨や毛皮があったのでは、春子は見たくても見られないわけである。それでもあきらめきれないのか、春子はイノシシの死骸があった場所を見に行きたがった。
神輿は夕方神社に戻るまで、周辺の村々を練り歩く。その間、千鶴たちには暇があるので見に行こうと言うのである。
イノシシの死骸があった場所になど、千鶴は行きたくなかった。
それにイノシシの話を聞いてから、千鶴は何かを思い出しそうな気がしていた。
一方で、それを思い出してはいけないように感じてもいた。その何かを思い出すのが怖かったので、千鶴はできればイノシシに関わりたくなかった。
それでも、世話になっている春子がどうしても見たいと言えば、千鶴は断ることができなかった。
千鶴たちは辰輪村へ向かう川辺の道を進んで行った。すると、死骸があったと思われる血溜まりの跡が、すぐに見つかった。
辺りには肉片や骨片の一部と思われる物が、血と一緒に飛び散っていた。そこでイノシシが死んだのは間違いないと思われた。
血溜まりや血の臭いは、夢で見た地獄を千鶴に思い出させた。生温かくぬるりとした感触が足の裏に蘇り、千鶴は背筋がぞくぞくした。
血の臭いに加えて、獣の臭いが鼻を突いた。その臭いは千鶴が覚えていない記憶を、引き出そうとしているようだった。
その時、頭上の木の枝でカラスが鳴いた。驚いた春子はカラスに怒鳴り、カラスはばさばさと飛び去った。
千鶴は妙な気分になった。今見たのと同じ場面に、出会したことがあるような気がしたのだ。
権八から死骸の様子を確かめていた春子は、道の奥を指さして、イノシシはあちらから来たようだと言った。
そう言われて、道の奥にイノシシの姿を思い浮かべた千鶴は、胸騒ぎを覚えた。
何だか、ここにいたことがあるような気がした千鶴は、もう一度頭上の木の枝を見上げ、それからまた道の奥を見た。
目の前に広がる明るい眺めには、全く覚えがない。それでも、すぐ横を流れる川の音が、千鶴がここにいたと証言しているように聞こえる。
春子は、イノシシの頭を潰すような大きな岩か何かが、落ちていないか辺りを調べた。しかし、そのような痕跡はどこにも見当たらなかった。
川向こうにある丘陵には一部崩れた所があった。だが、そこは離れ過ぎている所なので、イノシシとは関係ないようだと春子は判断した。
春子がいろいろ調べている間、ここは日が暮れるとどんな感じだろうかと、千鶴は考えていた。自分がここにいたのだとすると、昨日の夕方以外には有り得ないからだ。
しかし、明るい場所が暗くなった様子など思いもつかない。仕方がないので、千鶴は目を閉じた。そうして目蓋が作った闇の中で川音を聞き、獣の臭いを嗅いだ。すると、闇の中に黒い岩のような影が見えた。
突然蘇った記憶の中で、その影は千鶴に向かって突進して来た。
あの時と同じように、恐怖に襲われた千鶴は気を失いかけた。春子が咄嗟に支えてくれなければ、血溜まりの中に倒れているところだった。
正気に戻った千鶴は体ががくがく震えた。その様子に、春子は大いにうろたえた。
どうしたのかと春子に訊かれたが、千鶴に本当のことなど言えなかった。何でもないとごまかすしかなかったが、頭の中は蘇った恐怖と新たな恐怖で一杯になっていた。
本来ならば、ここで死んでいたのは自分のはずだった。ところが死んだのはイノシシの方で、自分は何者かに法正寺まで運ばれていたのである。しかもイノシシは無残にも頭を潰されたが、自分の方は無事な上に、頭に花が飾られていた。
安子が言ったように、お不動さまが護ってくれたのだとすれば、イノシシを殺す必要はない。千鶴だけを助ければいいことである。
それなのにイノシシは殺された。しかも、その殺し方が残虐だ。頭を潰して殺すなど、仏のすることとは思えない。
イノシシの頭を潰したのが、人でもなく仏でもなければ、何がやったというのか。
千鶴の頭に浮かんだのは、闇の中から落ちて来た巨大な毛むくじゃらの足だった。その足がイノシシの頭を踏み潰したのに違いなかった。
ヨネにがんごめと言われたとか、地獄の夢で鬼を愛しく想ったとか、そのような話ではない。鬼が現実の中に現れて、自分をイノシシから護ってくれたのだ。
何故、鬼がそのようなことをする必要があったのか。それは、自分ががんごめだからである。他に理由は考えられない。
鬼が法正寺へ向かったも、そこががんごめの棲家だからだ。
春子が見つけた川向こうの丘陵の崩れた所は、鬼が通った跡のように思えた。自分を抱えた鬼が人目を避けながら、あの丘陵を越えて法正寺へ向かう姿が、千鶴の目には見えるようだった。
やはり自分はがんごめだった。それは恐怖であり絶望だった。
ロシア兵の娘ということで差別は受けても、風寄へ来るまでの自分は人間だった。しかし、今の自分は人間ではない。がんごめという鬼の仲間なのである。
両親が人間なのだから、自分も人間だと思いたかった。だが、イノシシの死という事実が、そうではないのだと物語っている。
地獄の鬼の夢を見たあと、千鶴の中には鬼を愛しく想う気持ちがあった。しかし、今はただ恐怖があるばかりだった。
千鶴の様子に動転したのか、こんな所へ連れて来て悪かったと、春子は千鶴に平謝りした。
千鶴は何とか平静を装ったが、自分ががんごめだったという衝撃が消えることはなかった。
二
「詣て来い!」
人で埋め尽くされた境内の中、神輿に乗った男二人が挑発するように叫ぶ。それに応じて周りの男たちも、詣て来い!――と叫び返す。
さらに二人が叫ぶと、周りも再び叫び返す。
声の掛け合いを続ける男たちの周りは、野良着姿の見物人で固められている。両者の間に距離はなく、見えるのは頭ばかりだ。誰が舁夫で誰が見物人なのか、よく見なければ区別がつかない。
境内にうねりとなって広がる熱気と興奮。
そこにいる全ての者がこれから行われることを、今か今かと目を輝かせて待っている。
このあと神輿は三十九段ある神社の石段の上まで運ばれ、そこから下を目がけて投げ落とされるのだ。
投げ落としは、神輿が壊れて中の御神体が出て来るまで、何度でも繰り返される。
神輿は全部で四体あり、一体が壊されると次の神輿が運ばれて来る。そして、四体全部が壊されるまで投げ落としは続くと言う。
千鶴たちは松山へ戻らねばならないので、四体の投げ落とし全てを見ることはできない。しかし、時間が許す限り見たいと春子は言った。
春子にすれば、幼い頃からお馴染みの祭りである。興奮するのは当然だろう。
千鶴にしても、この祭りの醍醐味を見られるわけである。本当であれば、もっと浮かれた気分になっていたはずだ。
だが千鶴は、今は何も楽しむ気になれなかった。頭の中は祭りどころではなかった。
千鶴は人混みの中へは入って行かず、境内の隅からぼんやり神輿を眺めていた。
鬼のことはともかく、そもそも千鶴は見知らぬ人ばかりの人混みは好きではない。
夜であれば暗がりに紛れることができるが、明るいうちは千鶴の姿は人から丸見えだ。ロシア兵の娘がいるぞと言われるのが嫌だった。
ましてや今は、自分はがんごめだという後ろめたさがあった。
だが千鶴がいる所からでは、幾重にもなった人垣で舁夫たちの様子はよくわからない。持ち上げられた神輿と、神輿の上に乗った男たちの姿が見えるばかりである。
背が低い春子は千鶴の隣で、しきりに背伸びをして神輿の様子を窺っている。しかし、ついに我慢ができなくなったようだ。
「山崎さん、もうちぃと前に行こや!」
春子は千鶴の手をつかむと、人垣へ突っ込んだ。
千鶴は抵抗する間もなく人垣の中へ引っ張り込まれ、誰かにぶつかるたびに、すんませんと詫び続けた。
千鶴を初めて見た者たちは、一様にぎょっとした顔になった。
中には悲鳴を上げる者までいて、千鶴は本当にがんごめになったような気がした。
春子は人をかき分けながら、どんどん奥へ進んだ。途中で千鶴の手が離れたが、春子は全く気づかないまま行ってしまった。
千鶴は周囲の人々に四方から押され、身動きが取れない状態で一人取り残された。
周りにいる者たちの目は、神輿ではなく千鶴に向けられている。好奇と侮蔑の目に囲まれた千鶴は、下を向くしかできなかった。
「こら、さっさと出てかんかい! 祭りが穢れろうが!」
近くで怒鳴り声が聞こえ、千鶴は驚いて顔を上げた。だが、誰が怒鳴ったのかはわからない。みんなが千鶴をにらんでいるようだ。
すんませんと言ってまた下を向くと、千鶴は外へ出ようとした。
すると、再び怒鳴り声が聞こえた。
見ると、すぐ近くで若い男が、他の男たちに人垣の外へ押し出されようとしている。
自分ではなかったのかと千鶴は安堵した。だが、罵られている若者が気の毒で悲しくなった。
同じ村の者であるなら、このようなことは言われるはずがない。きっと若者は山陰の者に違いないと千鶴は思った。
ちらりと見えた継ぎはぎだらけの着物が、若者の貧しさを物語っているようで、それもまた千鶴の悲しみを深くした。
しかし、そんなことを考えている暇はなかった。次こそ自分が怒鳴られる番である。その前に外へ出なくてはならない。
人垣は鳥居の外にまであふれていた。
この場から逃げたい気持ちと、追い出された者への共感から、千鶴は人を押し分けながら人垣の外を目指した。
千鶴がやっとの思いで鳥居の外の道へ出ると、先に押し出されたはずの若者の姿は、どこにも見当たらなかった。
神社はこんもりした丘の上にある。その丘に沿って南へ向かう道があるが、その道には人の姿がない。
気疲れした千鶴は村人の集団から離れるように、南へ向かう道を少し歩いた。すると、不意に後ろから呼び止められた。
「千鶴さん……やったかの?」
驚いて振り返ると、春子の従兄源次がいた。後ろには連れの仲間三人が立っている。
三
「こげな所で、何しよんかい?」
源次が訝しげに言った。突然声をかけられたことで、千鶴は動揺していた。
「あ、あの……、人を探しよったもんですけん」
「人て、誰ぞな?」
「名前は知らんのですけんど、継ぎはぎの着物を着た男の人ぞなもし。どこへ行てしもたんか……」
さっきの若者が気になっていたのは事実である。だが、真剣に探していたわけではない。人から離れたくて、誰もいないこの道を歩いていただけだ。
源次たちは、千鶴が口にした男が誰なのか見当がついたようだった。あいつかと言うように互いに目を見交わした。
千鶴に顔を戻した源次はにこやかに言った。
「そいつとは知り合いなんかの?」
「ほういうわけやないですけんど、ちぃと気になったけん」
「ほうかな。ほれじゃったら、おらたち、そいつがおる所知っとるけん、連れてってあげよわい」
「いえ、そがぁなこと無理にせいでも構んですけん」
「まぁ、ええがな。そげに気ぃ遣わいでも構ん構ん。すぐそこじゃけん、付いて来とうみや」
源次はにこやかに先頭に立つと、千鶴がいた道をさらに先へ進んだ。
しかし、千鶴はその若者をちらりと見かけただけで、顔も合わせていないのである。そんな相手の所へ連れて行かれても、お互いに困るだけだ。何をしに来たと聞かれても返事のしようがない。
それでも後ろの男たちに促されて、千鶴も仕方なく歩き始めた。それにしても強引と言うか、何だか異様な雰囲気である。
「あの、ほんまに、もう構んですけん」
「もう、そこぞな。そこをな、左に曲がった先におるけん」
もう、ちぃとじゃけん――と後ろの男たちも笑みを浮かべながら言った。だが、その笑みが千鶴には薄気味悪く思えた。
道なりに左へ曲がると、神社や参道が丘の陰になって見えなくなった。人々が騒ぐ声は聞こえるが、遠くで聞こえているようだ。
千鶴は辺りを見回したが、そこには建物もなければ人気もない。刈り取りが終わった田んぼがある他は、何もない道が丘沿いに続いているだけだった。
「あの……、あのお人はどこに――」
千鶴さん――立ち止まった源次は、千鶴の言葉を遮って言った。
「昨夜は春子の家やのうて、法正寺に泊まったそうじゃな」
「え? は、はい」
怪訝に思いながら、千鶴はうなずいた。
「春子に言われたけん、昨夜はな、千鶴さんに会お思て、必死に酔いを覚ましよったんよ。ほれやのに、聞いたら法正寺におる言われてな。おらたち、法正寺まで押しかけよかて思いよったんぞな」
「ほ、ほうなんですか」
源次が何を言いたいのか、千鶴には理解ができなかった。あとの言葉が続かず黙っていると、源次は千鶴の両手首をぎゅっとつかんだ。
「千鶴さん、昨夜果たせなんだ想いを、今、果たさせておくんなもし」
「え? な、何のこと――」
源次はぐいっと千鶴を引き寄せると、抱きついて来た。
「ちょ、ちょっとやめてつかぁさい。人を呼びますよ!」
「呼んでみ。誰っちゃ来んぞな。みぃんな神社に集まっとるけん」
源次は暴れる千鶴に、口を突き出して接吻をしようとした。
他の三人は周囲を取り囲みながら、異人の女子はどがぁな味じゃろ――と笑い合っている。
千鶴は源次の手から何とか右手を引き抜くと、源次の顔を押し戻しながら大声で言った。
「あんた、村上さんの従兄なんじゃろ? こげなことして許されるて思とるん?」
「別に許してもらうつもりはないけん。ほれに、ロシア兵の娘を手籠めにしたとこで、誰っちゃ怒ったりせんわい」
源次はもう一度千鶴の両手を押さえると、勝ち誇ったように言った。
「昨日はみんなに歓迎されたて思とるんじゃろが、そげなことあるかい。どこの村にもロシア兵に殺された者や、片輪にされた者がおるんぞな。みんな春子に合わせて歓迎するふりをしよったぎりじゃい」
「そげなこと――」
「あの家に信子いう女子がおったろ? あの女子の父親もロシア兵に殺されたんよ。おらたちがその仇を取ってやるんじゃけん、怒られるどころか、みんな喜んでくれらい」
源次の言葉は、千鶴の胸に深く突き刺さった。
村の人たちが自分なんかを快く受け入れてくれるのは、おかしいとは思っていた。だが、それをはっきり言われるのは、やはりつらかった。悲しみが千鶴の抗う力を奪った。
千鶴がおとなしくなったので、源次は得意げに仲間たちを見た。
「言うとくけんど」
千鶴は力なく源次たちに言った。もう何もかもがどうでもよく思われた。
「これ以上、うちに手ぇ出したら、どがぁなっても知らんけんね」
「ほぉ、やくざの姉やんみたいなこと言うんじゃな。おらたちをどがぁするつもりぞな? ほれ、やっとうみや」
源次が嘲るように言うと、仲間の男たちもへらへら笑った。
千鶴はがんごめの気分になっていた。
がんごめの自分が、こんな人間の屑の玩具になってたまるものかと思った時、千鶴は源次の左腕に噛みついていた。
「痛っ!」
思いがけない千鶴の反撃に、源次は反射的に右手を振り上げた。
だが、千鶴は避けるつもりはなかった。
自分に手を出せば、この男たちは鬼の餌食にされるだろうと考えていた。そして、そうなっても構わないとさえ思っていた。
ところが、現れたのは鬼ではなかった。
四
源次が振り上げた右手は、後ろから伸びて来た別の手につかまれた。
驚いた源次が振り向くと、そこに若い男が一人立っていた。
「祭りの日に女子を襲うとはの。神をも恐れぬ不届き者とは、お前らのことぞな」
それは千鶴が探していた、あの若者に違いなかった。継ぎはぎだらけの着物が、そう語ってくれている。
若者は切れ長の目に、鼻筋の通ったきれいな顔立ちをしていた。
一方の源次と仲間の男たちは、いかにも祭りが似合いそうな荒くれ男である。
助けてもらったのは嬉しいが、一対一でも若者には分が悪そうだった。しかも相手は四人もいる。
と思ったら、源次の仲間の一人はすでに地面に倒れ、腹を押さえながら声も出せずに苦しんでいた。
おどれ!――と叫んだ源次は千鶴を離すと、若者につかみかかろうとした。
しかし、若者はつかんだ源次の腕を、素早く後ろへ捻り上げた。
「痛てて!」
源次が苦痛に顔をゆがめると、残っていた仲間の二人が、若者に襲いかかった。
若者は一人に向かって、素早く源次を蹴り倒した。そして、飛びかかって来た別の男を、見事な一本背負いで地面に叩きつけた。
その勢いは凄まじく、叩きつけられた男は呻くばかりで、地面に張りついたように動かない。
仲間の一人と一緒に田んぼに落ちた源次は、捻られた腕を押さえながら起き上がると、若者をにらみつけた。
その後ろで遅れて立ち上がった仲間の男は、若者の一本背負いが見えたのだろう。驚き怯えた様子で喚いた。
「お前、そげな技、どこで身に着けたんじゃい!」
「生まれつきぞな」
若者は涼しい顔で答えると田んぼに降りて、源次たちの方へ近づいた。
怯んだように後ずさった源次は、後ろの男とぶつかった。
源次はその男を前に押しやると、辺りをきょろきょろと見回した。何か武器になるような物を探しているらしい。
前に押し出された男は、少しうろたえたあと、へっぴり腰で若者に殴りかかった。
しかし、若者がひょいと避けると、男はつんのめって転びそうになった。
何も得物を見つけられない源次の前に、若者がずいっと寄った。
ひぃと小さな悲鳴を上げた源次は、刈り取った稲の株につまづいて、転ぶように尻餅をついた。
その時、若者の後ろからさっきの男が飛びかかろうとした。
「危ない!」
千鶴が叫ぶと、若者は後ろを振り向きもせず、すっと体を脇に避けた。まるで、後ろに目がついているようだ。
その際、足を横に伸ばしたので、飛びかかった男は若者の足につまづいて、勢いよく源次の上まで飛んだ。
若者は千鶴を振り返ると、礼を述べるかのように会釈をした。千鶴はどきりとしたが、若者はすぐに源次たちに顔を戻した。
「無様よの」
藻掻いて起きようとする源次たちを、見下ろしながら若者は笑った。
仲間を押しのけて何とか立ち上がった源次は、若者に言った。
「お前、なしてこの女子の味方をするんぞ。こいつはロシア兵の娘ぞ」
「ほれが、どがぁした?」
「ははぁ、わかったわい。お前、おらたちを追わいやってから、一人でこの女子をいただこ思とんじゃろげ。違うんか?」
源次の後ろで、仲間の男も言った。
「お前、この女子が欲しいんじゃったら、おらたちの仲間に入れてやってもええんぞ。ん? どがいぞな?」
千鶴からは若者の後ろ姿しか見えない。だが、若者は怒りを露わにしたのだろう。源次たちの表情が怯えに変わった。
「人の皮かぶった、この外道らが!」
若者は源次の胸ぐらをつかむと、勢いよく横へ引き倒した。
源次は若者より体が大きい。だが、為す術もなく田んぼの中に、飛ぶようにして突っ伏した。
もう一人の男は若者に殴りかかった。だが、男の拳は若者の顔をかすめただけで空を切った。同時に男の顔は若者の右手につかまれていた。
若者はそのまま男を捻り倒すと、男の頭を地面に打ちつけた。
助けてもらいはしたが、千鶴は若者が恐ろしくなって来た。
若者は源次の所へ行くと、立てと命じた。
源次はよろよろと立ち上がると、若者につかみかかった。その両手を若者は左右の手でつかんだ。
両手を合わせて組んだ二人は、力比べをしているように見える。だが、そうではなかった。
若者は平気な顔だが、源次の顔はみるみるゆがんで行く。
とうとう源次は苦痛の悲鳴を上げた。捻れた源次の両手首が今に折れそうだ。だが、若者は手を離そうとしない。
「いかんぞな!」
千鶴が叫ぶと、若者は千鶴を見た。
「ほれ以上はいかんぞな」
千鶴はもう一度叫んだ。
「助かったな」
若者は源次にそう言うと、源次を蹴り倒した。
倒れた源次は握った形のままの両手を合わせら、苦しそうに呻いている。それでも何とか立ち上がると、若者に悪態をついた。
「お、おどれ、おらたちにこげな真似しよってからに。あとでどがぁなるか覚えとけよ」
「お前らの方こそ気ぃつけぇよ。今日はこのお人に免じて、こんで勘弁してやるがな、今度このお人に手ぇ出したら、間違いのうその首へし折るけんな」
若者は静かに言った。だがその分、凄みがあった。その言葉は脅しではなく、本気で言っているように聞こえた。
若者の言葉に恐れをなしたのか、源次は何も言い返さなかった。
倒れている仲間の傍へ行くと、何度も声をかけたり、足で蹴飛ばしたりして、無理やり立ち上がらせた。
それから千鶴と若者をにらみつけると、よろめく仲間たちをせき立てながら逃げて行った。
五
源次たちが姿を消した曲がり道の向こうからは、相変わらず神輿を壊す騒ぎ声が聞こえて来る。
源次たちを見送った若者が千鶴に向き直ると、千鶴は深々と頭を下げた。
「このたびは危ないとこを助けていただき、ほんまにありがとうございました」
やめてつかぁさい――と若者は人懐こそうな笑顔になった。先ほどの鬼神のような人物と同じ人間とは思えない。
「大したことしとらんのに、そがぁに頭下げられたらこそばゆいぞな。ほれに、女子の前であげな荒っぽいとこを見せてしもたけん、却って怖がらせてしもて悪かったぞな」
頭を掻く若者に、千鶴は遠慮がちに言った。
「あの、さっき境内から追わい出されましたよね?」
ありゃ――と若者は恥ずかしそうに頭の後ろに手を当てた。
「あれを見られてしもたんか。こりゃ、しもうた」
「うち、あなたを探しよったんです。ほやけど、どこ行ってしもたんかわからんで……。ほしたらあの人らに、あなたの所に連れてったるて言われて……」
千鶴の話に、若者は驚いたようだった。
「ほうじゃったんか。ほんでも、なして、おらを探したりしたんぞな?」
千鶴は言うべきかどうか迷った。だが、若者が千鶴の返事を待っているので、意を決して言うことにした。
「初めてお会いした人に、こげなこと言うんは失礼なけんど、あなたがみんなからのけ者にされよるん見て、他人事には思えなんだんです。うち、日露戦争ん時のロシア兵の娘じゃけん、似たようなことしょっちゅうあるんです」
ほうなんか――と若者は暗い顔になった。
「ほやけどな、大丈夫ぞな。千鶴さんにも、いつか必ず幸せが訪れるけん」
若者の言葉に、千鶴は目を瞬かせた。
「あの、なして、うちの名前を知っておいでるんですか?」
「え? いや、ほれはじゃな、あの……」
慌てる若者を見て、千鶴はしょんぼりした。
「ロシア兵の娘が来とるて、村中で噂になっとるんじゃね」
「いや、ほやないほやない」
若者は焦ったように、胸の前で手を振った。
「じゃあ、なして知っておいでるん?」
「あのな、おら、千鶴さんと対の娘を知っとるんよ」
「うちと対?」
「ほうなんよ。千に鶴て書いて、千鶴て読むんぞな」
千鶴は目を丸くした。
「ほれ、うちと対じゃ」
「ほんでな、父親がロシア人で、母親が日本人なんよ」
千鶴は丸くした目を、さらに大きく見開いた。
「ほんまですか?」
「ほんまほんま。その娘はな、千鶴さんと顔も姿もそっくりじゃけん、ほんで、おら、つい千鶴さんて呼んでしもたんよ。ほやけど、ほうなんか。同し名前じゃったかい。こら、まっこと驚きぞな」
千鶴は驚き興奮した。
自分だけだと思っていたのに、ロシア人の娘が他にもいたのだ。しかも、その娘は千鶴と名前が同じで、顔も似ていると言う。
「その娘さんは、今どこにおいでるんですか?」
「昔、ここにおったんよ。けんど、今は――」
若者は千鶴をじっと見つめていたが、不意に目を逸らした。
「生き別れになっとった父親が迎えに来たんよ」
「ほんじゃあ、ロシアへ去んでしもたんですか?」
若者は黙ったまま返事をしない。だが、それが答えなのだろう。悲しげな目がそう伝えている。
「その娘さんとは親しかったんですね?」
若者は小さくうなずき、寂しげに言った。
「おらたち、夫婦約束しよったんよ」
その言葉に千鶴の胸が疼いた。しかし、平気な顔を装って、千鶴は若者に訊ねた。
「ほれじゃのに、ロシアへ去んでしもたんですか?」
「いろいろあってな。おら、その娘を嫁にすることができんなったんよ。そこへ父親が迎えに来てくれたけん」
「ほれで、その娘さんをロシアへ行かせてしもたんですか?」
若者はまた押し黙ってしまった。
千鶴から顔を逸らして海の方を眺める若者に、千鶴は憤った。
「その人、ロシアへなんぞ行きとなかったろうに」
千鶴には、その娘の気持ちがわかるような気がした。差別と偏見の中にいて、心から自分を受け入れてくれた人がいたならば、その人から離れたくないはずだ。
「その人、ずっとあなたと一緒におりたかったんやないん?」
つい荒くなる口調を、千鶴は止めることができなかった。
しかし、若者は怒らなかった。海の方を見つめたまま小さな声で言った。
「できることなら、おらもずっとその娘と一緒におりたかった」
「じゃったら、なして?」
「仕方なかったんよ」
若者はうなだれながら言った。
「おらはな、どがぁに望んでも、その娘と一緒にはなれんなったんよ」
「ほんなん、その人が納得するとは思えんぞな」
執拗に責める千鶴に、若者は寂しげに微笑んだ。
「もう、済んでしもたことぞな」
「言うてつかぁさい。なして、あきらめんさったん?」
若者は千鶴にとって初対面の赤の他人だ。しかも、千鶴の恩人であり、誰にも喋らないような秘密を打ち明けてくれている。それなのに、千鶴は興奮を抑えることができなかった。
それが失礼な態度であるのはわかっていた。いつもの千鶴であれば、決してこのような言動は見せたりしない。
しかし、自分ががんごめであると悟った千鶴は、若者が幸せをあきらめてしまうことが許せなかった。自分を助けてくれた素敵な人だからこそ、許せなかったのである。
それに若者を心から好いていたであろう、その娘にも幸せになって欲しかった。自分とそっくりだというその娘には、自分の代わりに幸せをつかんでもらいたかった。
だが、千鶴が責めたところで、どうにかなるものではない。若者が言うように、もう終わったことなのだ。
若者だってつらいし、悲しいに違いない。それを責めるのは、古い傷口を広げて塩をすり込むようなものだろう。
本当なら怒ってもいいのに、若者は黙ったまま千鶴に言いたいようにさせている。それが余計に悲しくて、千鶴は泣き出した。
「ごめんなさい……。うち、助けてもろたお人に、こげなひどいことぎり言うてしもて……、堪忍してつかぁさい」
「ええんよ。千鶴さんは、おらのこと、心配してくれたぎりぞな。おら、ちゃんとわかっとるよ」
若者の優しい慰めは、千鶴をさらに泣かせた。
わぁわぁ泣く千鶴に、若者は困惑した様子だった。
「千鶴さん、勘弁してつかぁさい。おら、千鶴さん、泣かそ思て喋ったわけやないんよ。お願いやけん、どうか、泣きやんでおくんなもし」
千鶴はしゃくり上げながら言った。
「うちね……、幸せになんぞなれんのです……。ほじゃけん、あなたにも、あなたが好いた娘さんにも……、幸せになって欲しかった……」
「何を――」
「うちね……、誰のことも好いてはいかんの……。誰から好かれてもいかんのよ……」
「なしてぞな? なして、千鶴さんが誰かを好いたり、好かれたりしたらいかんのぞな? どこっちゃそげな法はなかろに」
「ほやかて、うち……、うち……」
がんごめなんよ――と言いそうになった。だが、言えなかった。
他の者に喋っても、この若者にだけは自分の正体を知られたくなかった。
「なして、千鶴さんがそげなことを言いんさるんか、おらにはわからんけんど、大丈夫ぞな。千鶴さんが誰を好こうが、誰に好かれようが、神さまも仏さまも文句なんぞ言わんけん」
若者は千鶴の両手を握るとにっこり笑った。
「あのな、教えてあげよわい。千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人と巡り会うて幸せになるんよ。絶対にそがぁなるけん。おらが保証しよわい」
「なして、そげなことが言えるんですか?」
千鶴は下を向きながら言った。
下を向いていたのは、若者の顔がまともに見られないからだ。だが、理由はそれだけではない。
千鶴の目は、自分の手を優しく握る若者の手に、釘づけになっていた。
こんな風に男の人に手を握ってもらうなど、生まれて初めてのことだった。
それに、初めて会った人なのに、その手から伝わる温もりは、何だか懐かしい感じがする。ただ体温が伝わっているのではなく、心の温もりが包んでくれるようだ。
もし、自分ががんごめでなかったならば、きっとこの人を好いていたに違いない。いや、すでに好いているのかもしれない。だが、それは許されないことなのだ。
悔しい想いを噛みしめる千鶴に、若者は明るく言った。
「おら、お不動さまにお願いしたんよ」
千鶴は思わず、涙に濡れた顔を上げた。
「お不動さま?」
「ほうよほうよ。お不動さまよ。千鶴さんも、知っておいでるじゃろ? おらな、お不動さまにお願いしたんよ。千鶴さんが幸せになれますようにて。ほじゃけん、千鶴さん、絶対に幸せになれるぞな」
「うちの幸せを? あなたがお不動さまに? なして?」
若者の顔に、はっとしたような困惑のいろが浮かんだ。また余計なことを喋ってしまったと思ったのかもしれない。
「いや、あの、ほじゃけんな、えっと……」
「あなた、もしかして――」
その時、千鶴を探す春子の声が聞こえた。
千鶴がこっちと叫ぶと、肩で息をした春子が現れた。
「山崎さん! こがぁな所におったん? ずっと探しよったんで。急がんと松山に戻れんようなるけん、早よ行こ!」
言われて初めて、千鶴は日が沈みかけていることに気がついた。確かに急がなければ、今日中に松山へ戻れなくなってしまう。
「ごめんなさい。うち――」
千鶴は若者を振り返った。
だが、そこにはもう若者の姿はなかった。慌てて辺りを見回したが、どこにも若者はいなかった。
山陰の車夫
一
結局、千鶴たちは松山へ戻る客馬車には乗れなかった。
どうやら御者も神輿の投げ落とし見物へ向ったようで、客馬車の駅には誰もいなかった。
考えてみれば、年に一度の祭りに仕事をする者などいるわけがない。しかも、今が祭りの山場なのである。
これは春子の誤算だった。
春子の家族や知念和尚たちも、祭りの日に客馬車が走るかどうかなど、考えたことがなかっただろう。千鶴たちが松山へ戻る予定を聞いても、誰も何も言ってくれなかった。
春子は大いに焦ったが、千鶴はもう一晩、法正寺に泊めてもらってもいいと考えていた。あとで家族や学校から大目玉を喰らう覚悟はできていた。
千鶴は自分を助けてくれたあの若者に、もう一度会いたかった。会ってゆっくり話がしたかった。
あの若者は千鶴の幸せを願って、お不動さまに願掛けをしたと言った。
初めて出会ったはずなのに、千鶴のために願掛けをしたというのは矛盾している。それは、あの若者が千鶴のことを知っていたということだ。
名波村に来たばかりの千鶴を、若者が知る機会は限られている。だが、千鶴は助けてもらう以前に若者に出会った記憶はない。
もし出会っているとすれば、イノシシに襲われてから法正寺まで運ばれた間しかない。その間、千鶴は意識を失っていたから、若者と出会っていたとしてもわからない。
若者には夫婦約束を交わした娘がいた。その娘にそっくりな千鶴が倒れているのを見つけたならば、絶対に驚いたはずだ。夕暮れ時の薄暗さの中では、尚更見間違えやすかったと思われる。
しかし、すぐに他人のそら似だと気づいただろう。ロシアへ去った娘がいるわけがないからだ。
それでも若者は、ロシア人の風貌をした千鶴の境遇を思い遣ってくれたのに違いない。あるいは、好き合っていた娘の姿を千鶴に重ね合わせたのかもしれない。
それで若者は法正寺のお不動さまに、千鶴の幸せを願ってくれたのだ。そこには千鶴とロシアへ去った娘の、両方への想いが込められていたのだろう。
野菊の花を飾ってくれたのも、きっとあの若者だ。
若者がどんな想いで花を飾ったのか、それを考えると千鶴は涙が出てしまう。
若者ともう一度会ったところで、してあげられることはない。それでも千鶴はあの若者に会いたかった。せめて、名前を聞かせて欲しかった。もし、もう一泊できたなら、明日は必ずあの若者に会いに行こうと、腹をくくっていた。
一方、春子は松山へ戻ることをあきらめなかった。
少し離れた所にある乗合自動車の乗り場へ向かい、松山へ向かう自動車があるかを確かめた。
乗合自動車は松山と今治の間を行き来しているので、客馬車と違って運行はしていた。しかし、最終便はさっき通過したばかりらしい。
千鶴は心の内で喜んだが、春子は溜息をついた。
「どがぁしよう。戻れなんだら退学になってしまうぞな」
春子は泣きそうな顔で千鶴を見た。
まさか退学にはなるまいと、千鶴は思っていた。しかし、そう断言できるだけの自信はない。
項垂れる春子を見ているうちに、千鶴もだんだん不安になって来た。
尋常小学校でさえ行かせてもらえない者がいる世の中だ。女が高等小学校を卒業させてもらうだけでも、大変なことである。
それを女子師範学校にまで行かせてもらえたというのは、相当恵まれていると言っていい。
祖父母は千鶴に冷たい態度を見せる。だが学校に関して言えば、よくしてもらっている。
祖父母なりの事情があるのだろうが、千鶴にとっては有り難いことだった。それを、こんなことで退学になったなら、どうなるのか。
突然の名波村行きをすんなり認めてもらった上に、小遣いまで渡してくれた祖父が怒り狂うのは必至である。その怒りは鬼より恐ろしいかもしれなかった。
とうとう春子は、めそめそと泣き出した。
それに釣られて千鶴まで泣きそうになった時、誰かが声をかけて来た。
「もうし、姉やんらはひょっとして松山にでもお行きんさるおつもりかな?」
千鶴たちが振り返ると、そこに菅笠をかぶった法被と股引姿の男が立っていた。
春子はぎょっとしたように身を引いた。しかし男の後ろに二人乗りの人力車があったので、すぐに笑みを浮かべた。
「その俥でおらたちを松山まで運んでもらえるん?」
俥というのは、この辺りでの人力車の呼び方だ。
「お望みとあらば、松山でも今治でもお運びしましょうわい」
春子は嬉しそうに千鶴を見た。だが千鶴は芝居がかった喋り方をする男を怪しんだ。
祭りでみんなが出払っているのに、一人だけ人力車を出すのは妙である。男が菅笠を深くかぶって、顔を見せようとしないのも何だか疑わしい。
源次たちに襲われたことで、千鶴は近づいて来る男に慎重になっていた。いそいそと人力車に乗り込もうとする春子に、ちぃと待ちや――と千鶴は言った。
「村上さん、こっから松山まで力車で戻んたら、銭をようけ取られるぞな。うち、そげな大金は持っとらんよ」
人力車に乗っておきながら、銭が払えなければ体で払ってもらおうと、源次のような男なら言うだろう。
しかも、人が来ないような所へ連れ込まれてから、脅されるのに決まっている。
人力車に手をかけていた春子は、千鶴の言葉にはっとした様子だった。
春子にしても、乗合自動車に乗るぐらいの銭は持っていても、人力車に乗るほどの銭までは持たせてもらっていないはずだ。
春子は困った顔で言った。
「けんど、今日中に戻れなんだら退学になるぞな」
「ほら、ほうやけんど、銭がないのに乗ったら――」
途中で何をされるかわからないと、千鶴は言いたかった。だが車夫本人を前にして、そんなことは言えなかった。
「銭のことじゃったら、心配せいでもええぞなもし。姉やんは、名波村の村長さん所のお嬢じゃろ?」
「え? おらのこと知っておいでるん?」
春子は目をぱちくりさせた。
「ほら、誰かて見たらすぐにわかるぞなもし。名波村、いや風寄で女子師範学校へ入れた女子言うたら、姉やん以外におらんぞな」
「え? おら、そがぁに有名なん? いや、困った。山﨑さん、どがぁしよう?」
すっかり気をよくした春子は、照れ笑いをした。
しかし、千鶴はまだ警戒を解いていない。口の上手い男など信用できなかった。
「ほじゃけんな、お代の方はあとから村長さんにもらうけん、姉やんらは何も気にせいで構んぞなもし」
男の軽妙な言葉を信用して、春子は人力車に乗り込んだ。それから千鶴にも手招きをして、早く乗るよう促した。
「兄やんは、なしてお祭りに行かんの?」
人力車に乗り込まないまま、千鶴は男に訊ねた。
男は少しうつむき加減で千鶴の方を向いた。やはり顔を隠したままだ。
「おらな、祭りより銭がええんよ」
ぽそっと喋った男の口調からは、先程までの軽い感じが消えていた。それにこの喋り方、この声には聞き覚えがある。
「あなたは――」
男は黙って千鶴の手を取ると、春子の隣に座らせた。
男に手を握られている間、千鶴は菅笠に顔を隠した男をぼーっと見ていた。
千鶴の手を握る男の手の温もり。
千鶴は胸が詰まって、涙が出そうになった。
二
「ほんじゃ、動かすぞな。後ろに傾くけん、気ぃつけておくんなもし」
男が千鶴たちの前に着いて、人力車の持ち手を持ち上げると、座席が後ろへ傾いた。
きゃあと叫び声を上げた春子は、とても楽しそうだった。
千鶴はもちろんだが、春子も人力車に乗ったのは初めてだったようだ。松山へ戻れるという安心と、ただで人力車に乗られた嬉しさで、春子はおおはしゃぎだった。
「兄やん、松山まで俥ぁ引いたことあるん?」
「いんや、これが初めてぞなもし。ほじゃけん、道に迷わなんだらええんじゃけんど」
「大丈夫ぞな。堀江の辺りまでは一本道じゃし、そのあとは、おらが教えるけん」
「ほうかな。ほれは心強いぞなもし。さすが師範になる女子ぞな」
「もう恥ずかしいけん、あんまし言わんでや。ほれにな、師範になるんは、おらの隣におるこの子も対ぞな」
春子が千鶴のことを喋ると、へぇ――と男は感心したような声を出した。
「そちらの姉やんも師範になるんかなもし」
男の後ろ姿をぼんやり眺めていた千鶴を、春子が肘で突いた。
「ほら、聞いておいでるぞな」
「え? な、何を?」
「山﨑さんも師範になるんかて」
は、はい――と千鶴は裏返りそうな声で返事をした。春子は笑ったが、男は笑わなかった。
「きっと二人とも、ええ師範になるぞなもし」
また褒められたと、春子は嬉しそうに千鶴を見た。しかし、千鶴は春子の相手をせず、男に訊ねた。
「あの、いつもこのお仕事をされておいでるんですか?」
「おらのことかな?」
はいと千鶴が言うと、いつもというわけではないと男は答えた。
「乗ってくれるお客がおらんと、できんぞな」
「そげな時は、何をしておいでるんですか?」
「そげな時は、ほうじゃな。何をしとるんじゃろか」
男の答え方に、春子は笑った。
「兄やんて面白いお人じゃね。兄やんは俥ぁはいつから引いておいでるん?」
「ほうよな。今日からぞなもし」
え?――と千鶴たちは顔を見交わした。
「また、よもだぎり言うてからに。おらたち二人も乗せて、こがぁに上手いこと走るんじゃけん、今日が初めてなわけないぞな」
「ほら、大切な姉やんらを乗せとんじゃけん、気ぃつけて走りよるぎりぞな」
「ほやけど、二人も乗せとるんよ? 素人には無理じゃろに」
「おら、何も他人様に自慢できるものはないけんど、力ぎりは人一倍強いけん」
あの源次たちが相手にならないほど、この若者は強かった。喧嘩慣れしているのだろうが、見かけによらない力持ちであることは間違いない。
かなり荒っぽいところはあるが、優しさも人一倍だ。また、人の悲しみも知っている。そんな若者に、千鶴は間違いなく心が惹かれていた。
千鶴のために戦ってくれる者など、夢で見たあの若侍ぐらいなものだ。この若者は夢から出て来た若侍のようだった。
自分に花を飾ってくれたのはこの若者に違いなく、それを無意識に感じていたことが、あの若侍の夢になったのだろうと、千鶴には思えるのだった。
その若者が目の前にいる。あんなに会いたいと願っていた若者が、手を伸ばせば届く所にいるのである。しかし春子がいるので、若者といろいろ話をすることはできない。
もどかしいばかりの千鶴は、何も知らずに楽しそうにしている春子が恨めしかった。
いろいろ考えた末に、千鶴は訊ねた。
「あの、兄やんは松山へ出ておいでるおつもりは、おありなんかなもし」
もし若者が松山で働く気があるのなら、これからも会える機会があるだろう。そんな期待を込めての問いかけだった。
「今から姉やんらをお連れするつもりじゃけんど」
ふざけているのか、真面目に答えているのかはわからない。若者の返事に、春子はくすくす笑った。
千鶴は気を取り直して、今度ははっきりと訊ねた。
「ほやのうて、松山で働くおつもりはおありかなもし?」
「おら、風寄から外には出たことがないんよ。ほじゃけん、松山がどがぁな所か興味はあるけんど、誰っちゃ知っとるお人もおらんけん」
だから松山で働くことはない、というのが返事なのだろう。
千鶴ががっかりすると、すかさず春子が訊ねた。
「兄やんは、どこにお住まい? おらのことを知っておいでるいうことは、名波村のお人なん?」
いんや――と若者は言った。
「おらん家は名波村やないんよ。まあ、傍言うたら傍なけんど」
山陰が名波村に含まれているのかは、千鶴にはわからない。
だが、含まれていたとしても、あのような仕打ちを受けるのであれば、同じ村の者とは言えないだろう。
「傍言うたら、どこじゃろか?」
春子は名波村の周辺の村の名を、片っ端から挙げた。だが、どの村も若者の村ではなかった。それでも、春子が山陰という言葉を出すことはなかった。
「ところで、兄やん、お名前は何て言うんぞな?」
若者の家を当てるのはあきらめたのか、春子は話題を変えた。
「おらの名かな。おらの名は、ふうたぞな」
「ふうた?」
「風が太いと書いて、風太ぞな」
違うなと千鶴は思った。名前と印象が合わないし、若者の喋り方が、適当なように聞こえたからだ。
しかし、春子は若者の答を素直に受け止めたようだった。
「ふうん。風太さんか。じゃあ、上の名前は何て言うんぞな?」
「忘れたぞな」
「忘れた? 自分の苗字を忘れるん?」
「ほうなんよ」
下手に苗字を言うと、どこに住んでいるかが知れてしまう。それに全く嘘の苗字を言うと、すぐにでたらめだとばれるだろう。だから、苗字を忘れたと言ったのに違いないと、千鶴は思った。
素直な春子は笑うと、わけありってことじゃね――と言った。
「ほういうことぞな。おらが怪しい思うんなら、ここで降りてもろても構んぞなもし」
「とんでもないぞな。わけありなんは仕方ないことじゃけん。ほれより、兄やんは信頼できるお人じゃけん、おら、途中で降ろせやなんて言わんぞな。降りろ言われたら、こっちが困るし」
「ほら、だんだんありがとさんでございますぞなもし」
千鶴たちを乗せた人力車は、がらがらと海沿いの道を走り続けた。
太陽は島の向こうへ沈みそうだ。松山に着く頃には完全に沈んでいるだろう。
昨日、客馬車の中で夕日を見た時に、千鶴は理由のわからない悲しみに襲われた。
しかし、今は夕日を見ても悲しみは湧き上がって来ない。
あれはいったい何だったのかと、千鶴は自分を訝しんだが、きっとこの若者がいるから、平気でいられるのだろうと思った。
千鶴は若者と自分に深いつながりがあるように感じていた。それでも、がんごめである自分が、この若者を好きになることは許されない。
もし、自分ががんごめだと知られたら……。そう思うと、千鶴はつらさで胸が一杯になった。
三
「兄やん、辰輪村の入り口で、大けなイノシシが死んどった話、知っておいでる?」
突然、春子が訊ねた。千鶴はどきりとした。
イノシシの話は鬼につながる。そんな話はして欲しくなかった。
それにイノシシの死骸があった場所を見に行って、自分が具合悪くなったのを春子は知っている。それなのにその話をするのかと、興味を抑えられない春子に、千鶴は呆れもした。
「そげなことがあったんかな。今、初めて聞いたぞな」
驚いたように答える若者に、春子はがっかりしたようだった。
「何じゃ、知らんの。何ぞ知っておいでるんやないかて思いよったのに」
「ほれは申し訳ございませんでしたぞなもし」
若者はからから笑い、春子はそれ以上訊くのをあきらめた。
若者の反応に千鶴はほっとした。だが、あのイノシシの死骸は山陰の者がさばいたはずだ。それをこの若者が知らないはずがない。
恐らく、余計なことを喋ると、自分が山陰の者だと春子に知れると考えたのかもしれない。
それより千鶴は、若者と野菊の花の関係を確かめたかった。
「兄やんは法正寺のご住職をご存知?」
千鶴が訊ねると、若者は一瞬沈黙して、知っていると答えた。
その一瞬のためらいは、千鶴が倒れていた時に、若者も法正寺の境内にいたと語っているようだった。
「知念和尚にはこんまい頃にようお世話になったぞな」
「へぇ、ほしたら、おらも兄やんのことを知っとるかもしれんのじゃね」
春子が嬉しそうに言った。
千鶴はしまったと思った。もしかしたら、春子は若者が山陰の者であると感づくかもしれなかった。
だが、若者は焦った様子もなく、ほうかもしれん――と言った。
春子は昔の思い出をいろいろ話しながら、それについて知っているかと、いちいち若者に訊ねた。
若者が知っていると答えるたびに、春子は若者の正体を探ろうとした。しかし、どうしても若者のことが思い出せない。
そもそも風太という名前自体、春子の記憶にはないようだった。
堀江を過ぎた頃には、辺りはすっかり夕闇に包まれて薄暗くなっていた。
道を指図すると言った春子だったが、道がよく見えないので教えようがなかった。しかし、若者は夜目が利くみたいで、速度を落とすことなく走り続けた。
分かれ道になっても、春子が指示ができずにいると、適当に進んで行った。
とうとう木屋町まで来ると、二人をどこで降ろせばいいのかと、若者は訊ねた。
その時、古町から道後へ向かう電車が目の前を横切った。
すぐ左手に木屋町停車場があり、電車はしばしの間、そこに留まった。若者は電車を初めて見たらしく、立ち止まったまま興奮したように喜んだ。
春子が三津浜まで電車で戻ることを、千鶴が若者に説明すると、若者は春子を羨ましがった。だが、春子は電車ではなく、若者の引く人力車で帰りたい様子だった。
春子が降りたあと、若者と二人きりになれると千鶴は見込んでいた。しかし、春子が三津浜まで人力車で戻れば、千鶴が先に降りることになる。
それで千鶴は、急いで戻らなければ寮の消灯時間に間に合わないと言い、人力車で帰ることを春子にあきらめさせた。
松山城がそびえる山の南西の麓には、かつての三之丸を囲んだお堀がある。その西堀の北端は札ノ辻と呼ばれている。民衆へのお達しが書かれた、高札が掲げられた場所である。
その札ノ辻から西に向かって、紙屋町と呼ばれる通りが延びている。
名前からすれば、昔は紙問屋の町だったと思われるが、今は絣問屋の町になっている。千鶴の家である山﨑機織も、この紙屋町の一画にある。山﨑機織の東隣に古くからの紙屋があるが、紙屋町の名残を留めているのは、この店ぐらいなものだ。
この札ノ辻には、松山から三津浜へ向かう電車の停車場がある。しかし、それより木屋町寄りの所に本町停車場がある。
そこの方が近いので、千鶴は春子を本町停車場から電車に乗せようと考えていた。
ところが、春子は千鶴の考えに同意しなかった。札ノ辻は千鶴の家の近くだし、札ノ辻から乗っても、寮の消灯時間までには戻れると言うのである。
本町停車場は札ノ辻停車場の次であり、両者の間は大した距離ではない。わずかな距離だが、その間だけでも若者と二人きりになれると、千鶴は期待していた。
だがその期待も空しく、春子は札ノ辻まで人力車に乗り続けた。
町に入ると、所々にある街灯が灯り始めた。その明かりの下を、二人の娘を乗せた人力車が走って行く。
千鶴たちのような若い娘が、人力車に乗ることは滅多にない。乗るとすれば芸子ぐらいなものである。それも大抵は一人掛けの人力車であり、二人掛けに乗る娘は珍しい。
それだけに、道行く者や家から顔を出した者が、何だ何だという顔で振り返るたびに、千鶴は気恥ずかしくなって下を向き、春子は大はしゃぎをした。
ようやく札ノ辻に着くと、春子を降ろすために千鶴が先に人力車を降りた。右は愛媛県師範学校で、左にはお堀がある。札ノ辻停車場は目の前だ。
山﨑機織はすぐそこなので、このまま歩いてもいいのだが、そのわずかな距離を若者に運んでもらおうと、千鶴は考えていた。ほんのわずかな時間でも、若者と二人きりになりたかったし、自分の家を若者に教えておきたかった。
少しでも若者との別れを遅らせたい千鶴は、二人で春子の電車を見送ったあと、家まで運んでもらいたいと若者に頼んだ。
若者は千鶴の頼みを快く聞き入れ、人力車を道の端に寄せた。
札ノ辻にも街灯がある。その明かりの下で、ようやくまともに見せてもらえたその顔は、紛れもなくあの若者だった。
停車場に移動した春子を眺めながら、千鶴は若者に本当の名前を訊ねた。
若者はにっこり笑うと、佐伯――と言い、千鶴の顔を見つめた。それからすぐに、忠之と言うんよ、と言い足した。
何だか千鶴の反応を確かめながら喋る様子に、千鶴は戸惑いを覚えた。
「さえき、ただゆき……さんですか」
「佐伯はわかろ? 忠之は、忠義の忠に之と書くんよ」
千鶴はどきどきしながら、若者の名前を決して忘れまいと、頭の中で何度もその名前を繰り返した。
「千鶴さん」
声をかけられた千鶴は、慌てて返事をした。
「はい、何ぞなもし?」
「風寄では、あいつら以外に嫌なことはあったんかな?」
いいえ――と千鶴は言った。
がんごめと言われたことや、本当にがんごめだったことなど言えるはずがない。
「他には何もなかったぞなもし」
「ほうかな。ほれはよかった」
忠之は安心したように微笑んだ。
千鶴は訊くのは今だと思った。
「あの、うちに花を――」
「二人で何喋りよるんよ。おらも仲間に入れてや」
停車場に立っていた春子が、千鶴たちの所へ戻って来た。
「何喋りよったん?」
春子が無邪気に話に交ざろうとした。げんなりした千鶴に代わって、忠之が言った。
「お嬢の学校での評判を聞かせてもらいよりました」
「お嬢て、おらのこと?」
「他に誰がおるんぞな?」
春子は照れながら、何を喋ったのかと千鶴に訊ねた。千鶴は答える気分ではなかったが、黙っているわけにもいかない。
「いっつも明るうて楽しいお人ぞなて言いよったんよ」
「おらが? いや、そがぁに言うてもろえるやなんて、おら、嬉しい。風太さん、この人はな、おらより頭がようてな。いっつもかっつもおらより試験の点数がええんよ」
「へぇ、ほうなんか。ほれは大したもんぞな」
驚いたふりなのか、本当に驚いたのかわからないが、忠之は目を丸くして千鶴を見た。
「もう、またそげなことを言う。ほら、電車がこっちへ来よるよ」
千鶴はお堀の南の方を指差した。南堀端を回って来た電車が、そこにある停車場に停まったところだ。
千鶴は春子に停車場へ戻るように促した。しかし、春子は一人が嫌なようで、二人にも停車場まで来るように言った。
「風太さんも電車が間近で見られる方がええじゃろ?」
ほうじゃなと言って、忠之が春子に付いて行くので、千鶴は大きく息を吐いてから、二人のあとに続いた。
間もなく、鉄の線路を軋ませながら電車がやった来た。もう暗いので運転席の上には電灯が点いている。
電車は札ノ辻停車場に停まると、乗車口の扉を開けた。扉が勝手に開いたので、おぉと忠之は声を上げた。
春子は千鶴たちに声をかけると、電車に乗り込んだ。周囲が暗い中、電灯に照らされた車内は幻想的に見える。
再び動き出した電車の窓越しに、春子が二人に手を振った。千鶴たちも手を振りながら見送ったが、電車が行ってしまうと、忠之は千鶴を振り返った。
「いや、ええ物を拝ませてもろたぞな。世の中がこがぁになるとは思いもせんかった」
もう電車が走り始めて何年にもなるが、未だにそれを知らなかったという忠之を、千鶴は気の毒に思った。
「佐伯さん、松山においでませんか? うち、もっと佐伯さんとお話がしたいんです」
忠之は少し思案するような仕草を見せると、にこりと笑った。
「おらには決められんことぞな。おら、定めに従うぎりじゃけん」
「定め?」
忠之はそれ以上は何も言わず、千鶴を人力車に乗せた。
四
「えっと、札ノ辻がここじゃけん、紙屋町いうんはこの筋かな」
千鶴に言われていた紙屋町の位置を、忠之は確かめるようにつぶやいた。
「ほうです。この筋が紙屋町ぞなもし」
千鶴が答えると、忠之は紙屋町の通りに入って行った。
この通りはそれほど長い通りではない。千鶴の実家、山﨑機織にはすぐに着いた。
「山﨑機織。ここが千鶴さんの家なんか」
もう閉まった店の看板を見上げて、忠之は言った。
紙屋町通りにも街灯はあるが、街灯から離れると薄暗い。山﨑機織の看板は読みづらいと思うのだが、それが見えるというのは、やはり夜目が利くのだろう。
千鶴は降りたくなかったが、降りるしかない。
「だんだんありがとうございました」
千鶴は礼を述べると、人力車を降りようとした。すると、忠之は千鶴が降りるのを手伝って、また手を握ってくれた。
その手の温もりは千鶴の体に伝わり、千鶴は忠之に抱きしめられているような錯覚を覚えた。
「今日は千鶴さんにお会いできて、話までできて、おら、まっこと嬉しかったぞな。これからもいろいろあるじゃろけんど、めげたりせんで、しっかりと前を向いて生きるんで」
千鶴の手を握りながら忠之は言った。その話し方は千鶴を諭しているようだった。
それは千鶴を想っての言葉に違いない。だが、これでお別れなのだと、告げられているようでもあった。
千鶴の胸の中で悲しみが膨らんで来る。それは風寄へ向かう客馬車から、夕日を見た時の悲しみと同じだった。
嫌じゃ! 行かんといて!――千鶴は心の中で叫んだ。声こそ出ていないが、その叫びは千鶴の目に表れていただろう。
しかし、忠之は千鶴から手を離すと、戸が閉まった店を眺めた。千鶴の心の叫びが聞こえないふりをしているようだ。
「もう、閉まっとるみたいなけんど、どっから中へ入りんさるんかな?」
忠之の空々しい問いかけに、千鶴は悲しみをこらえながら、店の脇を指さした。
「そっちに裏木戸があるんぞなもし」
山﨑機織は四つ辻の角にあり、角を北へ曲がった所に裏木戸がある。裏木戸を確かめた忠之はにこやかに言った。
「ほんじゃあ、おらは去ぬろうわい」
忠之が立ち去ろうとすると、千鶴は慌てて呼び止め、急いで何を喋るか考えた。
「あの、お代はどがぁしましょう? うち、これしか払えんぞなもし」
千鶴は祖父に持たされた銭の残っていた全部を、忠之に渡そうとした。しかし、忠之は千鶴の手を押し戻した。
「お代なんぞいらんぞな。お友だちの方のも請求したりせんけん、心配いらんぞなもし」
「村上さんの分も?」
「言うたじゃろ? おら、俥ぁ引いたんは今日が初めてなんよ。俥ぁも衣装も全部借り物ぞな」
「え? どげなこと?」
「みんな祭りでおらなんだけん、悪いとは思たけんど、ちぃと拝借したんよ。ほじゃけん、急いで戻んて元通りにしとかんと、あとで厄介なことになってしまうんよ」
「なして、そげなこと」
「ほやかて、千鶴さんは松山へ戻るおつもりじゃったろ? ほんでも、祭りん時は馬車は動かんし、自動車も出てしもたろけん」
「ほれでわざに、うちのために」
「おらにでけることは、これぎりのことじゃけん。ほんでも、千鶴さんのお役に立てたんなら、おら、何も言うことないぞな」
千鶴の目から涙があふれた。自分なんかのためにここまでしてくれる人が、どこにいるだろう。
千鶴の涙を見て慌てる忠之に、千鶴はもう一度感謝した。
「もう一つぎり教えておくんなもし。昨日の日暮らめに奇妙なことがあったんですけんど――」
そこに誰ぞおるんか?――と、裏木戸の向こうから怒ったような声が聞こえた。
「ほんじゃあ、おら、去ぬるけん」
忠之は潜めた声で言うと、がらがらと人力車を引いて行った。入れ替わるように裏木戸が開くと、中から祖父の甚右衛門が顔を出した。
「何じゃい、千鶴か。今、戻んたんか。がいに遅かったやないか」
うろたえた千鶴はしどろもどろに返答し、遅くなったことを祖父に詫びた。
千鶴の言葉を聞きながら、甚右衛門は去って行く人力車を訝しげに眺めた。
「あれに乗って戻んたんか?」
「は、はい」
「銭はどがぁしたんぞな? あげな物に乗るほどは持たせなんだはずやが」
「あの、ただぞなもし」
「ただ? あれに、どっから乗って来たんぞな?」
「北城町ぞなもし」
「北城町?」
暗くてよく見えないが、祖父が眉をひそめたのが千鶴にはわかった。
「あがぁな所から力車に乗って、ただ言うことはなかろがな」
「ほれが、ただなんぞなもし。あのお人はまっこと親切なお方で、松山へ戻る馬車も自動車ものうて、うちらが困りよる時に、力車を出してくんさったんぞなもし」
「ほれが、なしてただなんぞ?」
「うち、男の人らに襲われて、ほん時――」
何ぃ?――と甚右衛門はすごい声を出した。
「襲われたて、誰に襲われたんぞ?」
「誰て……、そげなことはわからんぞなもし」
まさか春子の従兄だとは、口が裂けても言えなかった。もちろん春子にも内緒である。
男に襲われるのはお前が油断したからだと、怒鳴られるに決まっていた。だから、千鶴は先に頭を下げて、すんませんと謝った。
「うち、お祭りん時、居場所がのうて、ほんで、人がおらん所へ行ったら――」
「そこで襲われた言うんかな」
千鶴は黙ってこくりとうなずいた。
不思議なことに祖父は怒鳴らなかった。ただ黙って沈黙しているが、それは何だか妙な感じだった。
暗がりの中、甚右衛門は右手で顔を撫でると、馬鹿にしくさってと悪態をついた。恐らく、風寄の人たちに対しての悪態だろう。
千鶴は慌てて、他の人たちはいい人たちだったと説明した。すると、そこへ番頭の辰蔵が顔を出した。
「旦那さん、どがいしんさったんぞなもし?」
辰蔵は千鶴を見ると、おやと言った。
「何や、千鶴さんかなもし。今、お戻りたかな」
千鶴が辰蔵に挨拶をすると、甚右衛門は辰蔵に先に戻るよう言った。辰蔵がいなくなると、甚右衛門は千鶴に訊ねた。
「言いにくいんなら言わいでもええけんど、お前、連中に何をされたんぞな?」
「何もされとらんぞなもし」
「何も? ほやけど、襲われたんじゃろがな?」
「ほなけんど、ほん時に、さっきのお人が現れて、うちを助けてくんさったんぞな」
「相手は何人ぞ?」
「四人ぞな。ほれも、体の大けな人ぎりじゃった」
「四人! そげな四人を相手に、一人で立ち回った言うんかな」
「あのお人はまっこと強いお人でね。あっと言う間に、四人ともやっつけてしもたんよ。ほれで、うちらのことをここまで運んでくんさったんよ」
忠之の話になると千鶴は興奮して、祖父への口調がつい馴れ馴れしくなってしまった。
喋り終わってから、そのことに気づいた千鶴は、慌ててぺこりを頭を下げて、すんませんでしたと言った。
甚右衛門は千鶴の喋り方など、全く気にしていない様子で、ほうじゃったか、無事じゃったか――とつぶやいた。
甚右衛門は忠之が去った方へ体を向けると、両手を合わせて頭を下げた。その姿に千鶴は驚いた。まるで千鶴が助かったことを、心から喜んでくれているみたいだからだ。
祖父は昔から千鶴のことを邪険に扱っていた。
千鶴が小学校でいじめられて、泣いて戻っても知らん顔だった。千鶴が町に出かけて、嫌な思いをさせられても、やはり他人事のような態度を見せていた。
それなのに今回の祖父は、千鶴の名波村行きを認めてくれたし、千鶴の無事を喜んでくれたようだ。
名波村の出来事も、忠之との出会いも不思議なことだった。今でも全てのことが、千鶴には信じられない気持ちだ。
それに加えて、いつもと違う祖父の様子は、現実が現実でなくなっているような、そんな不安を千鶴に感じさせるものだった。
甚右衛門の思惑
一
甚右衛門が先に家に入ると、千鶴はその後ろに続いた。
土間の右手奥には台所があるが、そこには母の幸子と女中の花江がいた。二人は丁稚の亀吉と新吉が抱える箱善に、飯やら汁やらを載せてやっているところだ。
丁稚たちの脇には辰蔵が立ち、甚右衛門と千鶴が入って来るのを待っている。
「ただいま戻んたぞなもし」
千鶴は甚右衛門の後ろから顔を出し、恐る恐る声をかけた。途端に幸子たちの顔に笑みが浮かんだ。
「お戻りたか。遅かったやないの。心配しよったんよ」
幸子が安心したように言った。
続けて花江も、お帰んなさい――と言い、亀吉と新吉も嬉しそうに千鶴に挨拶をした。
台所の向かいには小さな板の間の部屋がある。いろいろ作業をするのに使っているが、今は使用人の食事場所だ。
板の間には手代の弥七と茂七がいたが、二人とも顔を出して千鶴に声をかけた。
「まあ、ご無事でお戻りんさって、よかったよかった」
辰蔵はほっとした様子でつぶやくと、板の間に上がって自分の箱善が置かれた場所に腰を下ろした。
辰蔵は三十を過ぎているが独り身だ。強面でがっしりした体つきをしているが、情の厚い男で千鶴にも優しい。今回も千鶴の帰りが遅いのを心配してくれていたようだ。
板の間の手前には茶の間がある。そこは家族の食事場所だ。
上座に甚右衛門の箱善が置かれ、その右斜めに祖母のトミが座っている。
千鶴と幸子の箱善は祖母と向かい合うように、甚右衛門の左側に並べられている。
「あんたな、今、何時やと思とるんね?」
使用人たちと違い、祖母は千鶴をいきなり叱った。
すんません――と千鶴は小さくなりながら頭を下げた。
「今日は男衆が先に銭湯に行ったけん、こがぁしてまだ食べよるけんど、ほんまなら、疾うに食べ終わっとる時刻じゃけんね!」
千鶴がもう一度頭を下げると、先に部屋に上がった甚右衛門が、もうええ――と言って腰を下ろした。
「ほら、何しよんぞ。早よ上がって飯にせんかな。ほんで、向こうの祭りがどがいじゃったか報告せぇ」
千鶴はまた頭を下げると、母と花江を見た。
「すぐに行くけん、先におあがり」
幸子に促され、千鶴は二人にも頭を下げた。
「あたしもここで土産話を聞かせてもらうよ」
花江は楽しげに千鶴に声をかけたあと、千鶴と一緒に食事をするよう幸子に言った。
「ここはあたし一人で大丈夫だからさ。幸子さんは千鶴ちゃんの隣にいてやんなよ」
ほんでも――と幸子は遠慮したが、花江はいいからいいからと言って、幸子を千鶴と一緒に茶の間へ上がらせた。
箱善の前に座ると、千鶴はまず甚右衛門とトミの方に向いて手を突き、一泊の旅に行かせてもらった礼を述べた。
「とりあえず食え。話はほれからで構ん」
甚右衛門が素っ気なく言うと、千鶴は幸子と一緒に、いただきます――と手を合わせた。
箱膳に載せられているのは、麦飯に味噌汁、焼いたイワシに漬け物だ。
一通り箸をつけたあと、千鶴は箸を置いて、甚右衛門たちに名波村の話を始めた。
まず話したのは、火事騒ぎのように賑やかで、かつ優雅なだんじりについてだ。それから、静かで不思議な神輿の渡御や、神社の石段から神輿を投げ落として壊すなどの話をした。
いつもであれば隣の板の間から、ぼそぼそと喋り声が聞こえるのだが、今はしんと静まり返っている。使用人たちも千鶴の話に耳を傾けているらしい。
甚右衛門は表情を変えずに、千鶴の話を聞いている。
初めは不機嫌そうな顔をしていたトミも、箸の手を止めて千鶴の話に聞き入っていた。
神輿を壊す話を聞くと、どうして神輿を壊すのかと、トミは訝しげに訊ねた。
神さまには一度使った物は使えないため、古い物を壊して、また新しい物を作るという、向こうで聞かされた理由を千鶴は語った。
甚右衛門はなるほどとうなずいた。だがトミは顔をしかめ、もったいないことをすると、納得が行かない様子だった。
千鶴は隣に座る母に顔を向けると、昨夜は法正寺に泊めてもらったと話し、和尚夫婦の想いを伝えた。
驚いた幸子は一瞬嬉しそうな顔になった。だが、すぐに笑みを消し、ちらりと甚右衛門やトミを見やってから、どうして法正寺に泊まったのかと、その理由を訊ねた。
夜這いを避けるためと千鶴が説明すると、ほうなんかと幸子はうなずいた。だが、目は甚右衛門とトミを気にしているようだった。
法正寺は千鶴を身籠もった幸子が、家を飛び出して世話になった所である。本当のところはそんな寺の話など、祖父母は聞きたくなかっただろう。
甚右衛門は何も言わなかったが、トミは眉間に皺を寄せ、ほじゃけん――と言った。
「うちは反対やったんよ。大体な、女子が一人で他所の祭り見に行くやなんて有り得んぞな。ほれじゃなのに、思いつきでそげなことをするけん、ほんな目に遭うんぞな」
トミの言葉は千鶴を責めながら、許可を出した甚右衛門に文句を言っているようにも聞こえた。
甚右衛門は平然とした顔で、いずれにせよ――と言った。
「夜這いは掛けられなんだわけよ。無事に戻んて来たんじゃけん、よしとしよわい。ほれより、千鶴。向こうでは絣の話はなかったんか? うちは風寄からも絣を仕入れておるんぞ」
千鶴は名波村の女たちから、伊予絣を作る苦労話を聞かされたことや、千鶴の家が山﨑機織であるとわかると、頭を下げられたことなどを話した。
甚右衛門はようやく笑みを見せると、ほうかほうかと満足げにうなずいた。
「ほれで、お前はどがぁしたんぞ?」
「うちもみなさんに頭下げました。あの方たちの日頃のご苦労を聞かせてもろて、ずっと心の中で頭を下げよりました」
うむと甚右衛門は大きくうなずいた。
「お前もこの家の者である以上、商いの品がどげな風にこさえられとるんかを、己で確かめておく必要があるけんな。ほじゃけん、名波村行きは急な話じゃったが、ちょうどええと思たわけよ」
え?――と千鶴は祖父を見返した。トミも幸子も驚いたように、甚右衛門の顔を見つめている。
祖父にそんな思惑があったとは、千鶴は思いもしなかった。
「ほうやったんですか。そがぁな気ぃを遣ていただき、ありがとうございます」
千鶴は箸を置くと、深々と頭を下げた。頭を下げながら、師範になる自分に絣が作られる所を確かめさせるというのは、どういうことだろうと考えていた。
二
「千鶴さん、ほうしょうじて、お寺?」
板の間と茶の間は襖で仕切られている。その襖の端がある土間側の柱の陰から、新吉がひょっこり顔を出していた。
新吉は声を潜めたつもりのようだが、離れた千鶴に聞こえるのだから、当然甚右衛門やトミにも聞こえている。
新吉はこの春に尋常小学校を卒業して、丁稚になったばかりだ。ここでの仕事にはだいぶ慣れては来たようだが、まだまだ幼い感じが抜けきれず、つい子供っぽいことをしてしまう。
甚右衛門がじろりと見たが、新吉は気がつかない。
甚右衛門が何も言わないので、これ――とトミが叱った。だがそれと同時に、新吉の後ろから伸びた手が、ぽかりと新吉の頭を叩いた。
「痛っ! 何するんぞ」
新吉が頭を引っ込めて文句を言うと、襖の向こうから亀吉の声が聞こえた。
「何やなかろが。千鶴さんの話に勝手に交ざんな。お前は黙って聞きよったらええんじゃ」
亀吉は新吉より二つ年上で、店のことをよく知っている。そのため、まだ幼さが残る新吉の世話係を任されていた。
「新吉、亀吉の言うとおりぞな。己の立場をわきまえんかな」
これは辰蔵の声だ。
しょんぼり項垂れる新吉の姿が、千鶴の目に浮かんだ。
新吉さん――と千鶴が声をかけると、トミが千鶴をにらんだ。しかし甚右衛門が黙っているので、千鶴はもう一度新吉を呼んだ。すると、悲しそうな顔の新吉が、またひょっこりと現れた。
「新吉さん、法正寺いうんはな、名波村にあるお寺なんよ。うちのお友だちが子供の頃によう遊んだお寺でね。うちらはそこへ泊めてもろたんよ」
千鶴が丁寧に説明してやると、新吉は少し機嫌がよくなったみたいだった。
後ろから亀吉が、さっさとこっちへ来いと言ったようだが、新吉はそれを無視して千鶴に訊ねた。
「お寺、怖なかったん?」
「全然、怖なかったぞな」
千鶴が微笑んで答えると、新吉は調子が出たらしい。声が明るくなった。
「お化けは出なんだん?」
千鶴は笑いながら、出んかったぞな――と言った。
「じゃあ、鬼は? 鬼も出なんだん?」
千鶴は返事ができなかった。自分はがんごめなのだと思い出したのだ。
「どがいした?」
甚右衛門が怪訝そうに声をかけた。隣の幸子も心配そうに、大丈夫かと言った。
千鶴は慌てて笑みを繕うと、新吉に言った。
「鬼は出たぞな」
「ほんま? ほんまに出たん?」
新吉は興奮したように目を丸くした。その顔の上に、もう一つの顔が現れた。亀吉だ。
「千鶴さん、ほんまに鬼出たん?」
千鶴はうなずくと、大魔の説明をしてやった。ただ、それが鬼の姿をした人間であることは黙っていた。
すると、新吉も亀吉も驚き興奮し、どたどたっと土間に落ちた。
トミは呆れて声も出ない様子だったが、甚右衛門は笑い出した。怖いはずの甚右衛門が笑ったので、トミも苦笑した。
「全く、あんたたちはまだまだ子供だねぇ」
花江が笑いながら、二人を助け起こした。
千鶴も幸子と一緒に笑ったが、心の中では笑っていなかった。自分が鬼の仲間だと知れたら、大変な騒ぎになるだろうと、不安な気持ちで一杯になっていた。
花江を手伝うように、辰蔵が新吉たちを板の間に引き上げた。それから辰蔵は千鶴に顔を向けた。
「千鶴さん、だいば言うんは、御神輿の露払い役かなもし?」
千鶴がうなずくと、自分の生まれ故郷の祭りでも、大魔と呼ばれる鬼が神輿の露払いをすると、辰蔵は話してくれた。
「えぇ? 番頭さん、ほれはほんまなん?」
新吉の声だ。
辰蔵は甚右衛門や千鶴たちに頭を下げると、襖の向こうに引っ込んだ。しかし襖越しに辰蔵の話が聞こえて来る。
「あたしん所は大魔の他にも、神輿と一緒に大勢が行列を組んで練り歩くんぞな。神楽の舞姫もおるし、相撲の力士もおるし、槍持ちもおってな、宮司さんは馬に乗っておいでるんよ」
へぇと驚く声は、新吉たちだけでなく、手代たちの声も入っている。
花江も甚右衛門たちに頭を下げると、板の間に姿を消した。
そのあとも板の間では祭りの話で盛り上がった。いつもなら喋るにしても声を潜めて、甚右衛門に気を遣うところだ。しかし、今はみんなが話に夢中になっているようで、遠慮のない話し声が聞こえて来る。
それをトミは苦虫を潰したような顔で聞いていたが、甚右衛門は怒る様子もない。却ってそれが好都合だという感じで、小声で千鶴に言った。
「千鶴、ほんまは法正寺で何ぞあったんやないんか?」
「え? な、何もないぞなもし」
心の内を見透かされたような気がして、千鶴はうろたえた。それが顔に出てしまったのか、トミまでもが、何かを隠しているのではないかと、疑いの目を向けた。
「あんた、向こうで嫌な目に遭うたんやなかろね?」
幸子にも訊かれて追い詰められた千鶴は、とにかく笑顔でごまかした。それにしても、今日の祖父母は妙である。
いつもであれば、祖父も祖母もこんなに話しかけたりはしない。それが今日は千鶴に対してよく喋るし、気遣ってくれているような気もする。
――ひょっとして……鬼?
千鶴は全身がざわついた。
法正寺にいたがんごめは人の心を操り、住職や代官を味方につけたと言う。がんごめにできるのであれば、鬼にもできるはずだ。
自分を名波村へ招き寄せるため、初めから鬼が祖父母の心を操っていたのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。
「ほんまに、何もないぞなもし」
千鶴は強張りそうな顔に笑みを見せると、漬け物を口に放り込んだ。口を動かしていないと顔が固まりそうだ。
幸子が場を取り繕うように、甚右衛門に言った。
「ところで、お父さん。さっき裏で大けな声を出しんさったんは、何ぞあったんですか?」
甚右衛門は少しうろたえた様子で、何でもないと言った。
何でもないのに、大きな声を出すわけがない。しかし、家長が何でもないと言うのを、他の家族が追求することはできない。
幸子はそれ以上は訊かなかった。代わりに、今度は千鶴が甚右衛門に訊ねた。
「ほやけど、おじいちゃん。なして、ご飯時にあげな所においでたんぞな?」
祖父が裏木戸まで様子を見に来たことを、千鶴は今になって不思議に思った。
声が聞こえて様子を見るのであれば、手代の誰かに行かせるだろう。食事が始まったばかりなのに、手水へ出て来るというのも妙である。
返答に困っているのか、甚右衛門は無視したように黙っている。すると、トミが怒ったように言った。
「あんたの戻りが遅いけん、心配しよったんじゃろがね」
「え? うちを心配してくれたん……ですか?」
千鶴が驚くと、今度はトミがうろたえたように口籠もった。甚右衛門は黙ったまま味噌汁をすすっている。
千鶴は母を見たが、母も甚右衛門たちの様子を妙だと感じていたようだ。
それでも、これまで千鶴に無頓着だった二人が、千鶴を心配してくれたというのがよかったのだろう。もう余計なことは言うなと、幸子は嬉しげな目で伝えて来た。
だが、やはり千鶴は気になった。祖父母が自分を心配してくれるなど、これまで一度もなかったことだ。
これは絶対に鬼の仕業に違いないと、千鶴は気分が悪くなった。
三
「何か、おじいちゃんもおばあちゃんも妙な感じぞな」
銭湯へ向かいながら千鶴は言った。一緒に歩いているのは幸子と花江である。
トミが銭湯へ行くのは、いつも千鶴たちとは別の日なので、ここにはいない。
「確かに、ちぃといつもとは違うみたいじゃね」
幸子がうなずくと、もしかしたら――と花江が言った。
「旦那さん、千鶴ちゃんにお婿さんをもらって、お店を継がせるおつもりなのかもしれないよ」
「え? うちにお婿さん?」
千鶴が思わず花江を見ると、そうさと花江は大きくうなずいた。
「千鶴ちゃんにお店を継がせようと思ったから、商いのことを千鶴ちゃんに教えようとしたんだよ」
「ほやかて、うちは女子師範学校に通いよるんよ? あの学校は、おじいちゃんが行け言うたけん行きよるんやし。ほれやのに、うちに店継がせるておかしない?」
「きっと気が変わったんだよ。二人とも千鶴ちゃんを大事に思ってるみたいだからさ。師範になるより、お店を継がせる方がいいと思ったんだよ」
そんなことはあるはずがない。穢れた孫娘に大切な店を譲るわけがないのである。
それでも、もしそうなのだとしたら、それはやはり鬼が祖父母を操っているに違いない。
「お母さん、どがぁ思う?」
幸子に訊ねたが、幸子も花江の話は信じられないようだった。
「ほんまじゃったら千鶴やのうて、うちが婿取りせんといかんとこなけんど、うちはもう若ないし、千鶴じゃったら子供産めるて考えんさったんかもしれんねぇ」
単に若さや子供を産むことだけを考えるなら、そういうこともあるだろう。しかし、祖父母はロシアを憎んでいた。そのロシアの血が流れる千鶴を、店の跡継ぎにするはずがないのだ。
母の幸子には正清という兄がいた。千鶴にとっては伯父である。
山﨑機織はこの正清が継ぐことになっていた。しかし、正清は日露戦争で兵隊に召集され、戦場で命を落としたのである。
幸子には孝平という弟もいた。
当時、孝平は他の伊予絣問屋で丁稚として働いていたが、正清亡きあと、甚右衛門は孝平を跡継ぎにと考えた。しかし、孝平は手代に昇格する前に、奉公先を逃げ出して姿を眩ましてしまった。
仕方なく甚右衛門は、幸子に婿を取ろうとしたようだが、いい相手が見つからなかったらしい。それで今日に至るまで、山﨑機織は跡継ぎが決まらないままになっていた。
幸子の婿が見つからなかったのは、千鶴が原因だった。つまり、ロシア兵の子供を産んだということが問題だったのである。
戦争相手の兵士の子供を産むなど、世間からすればとんでもないことであり、山﨑家にとっても大いなる恥だった。
ましてや、ロシアに家の跡継ぎとなる長男が殺されたのである。祖父母の怒りと嘆きは想像に難くない。
世間から白い目で見られ、警察からも事情聴取を受けることになった幸子は、甚右衛門から子供を堕ろせと迫られ家を飛び出した。
幸子に行く当てなどなかったが、偶然に出会った知念和尚に拾ってもらう形で、法正寺の世話になった。
その後、甚右衛門から許しが出たので、幸子は家に戻って千鶴を産んだ。だが、それは絣の仕入れ先である風寄で、店の恥になる話が広まるのを、甚右衛門が恐れたからに違いない。
本当の許しではないので、幸子は肩身が狭かったし、親が認めないような娘に、婿が見つかるはずがなかったのである。
だからと言って、問題の原因である千鶴に、跡継ぎの話が出るわけがない。
祖父母は幸子に千鶴を産むことは許しても、千鶴に心を許さなかった。
千鶴は祖父母に抱いてもらったり、遊んでもらったりした記憶がない。覚えているのは、いつも二人が不機嫌そうで、ちょっとしたことですぐに怒られたことだけだ。
普段、千鶴は気にしないようにしているが、自分が望まれて産まれたのではないという想いが、いつも心のどこかにある。
女子師範学校へ行かせてもらっていることも、小学校教師として自立して暮らすことが、期待されているのだろうと千鶴は受け止めていた。そうすれば、実質的に千鶴と山﨑機織との縁が切れるからだ。
そんな千鶴に祖父母が店を継がせるわけがない。
花江が言うこともわからなくはないが、やはり今日の祖父母は妙である。いや、千鶴の名波村行きを許してくれた、昨日からおかしいのだ。
鬼除けの祠が壊れたことで活動できるようになった鬼が、がんごめの居場所を探しているうちに、自分を見つけたのだろうかと千鶴は考えた。
今の状況を見ると、その推測は正しいように見える。
では、鬼は祖父母を操って、誰を千鶴の婿にしようとしているのだろうか。そう思った時、千鶴はどきりとした。
鬼自らが婿になるつもりかもしれない。あるいは仲間の鬼を婿にする可能性もある。そうして人の世に紛れて暮らすため、山﨑機織を隠れ蓑に使うのだ。そうだとすれば、自分は鬼の妻となり、鬼の子供を産むことになる。
地獄の夢を見た時に、鬼を愛しく想う気持ちがあったのは事実だが、今はそんな気持ちは全くない。いくら自分ががんごめで、鬼と夫婦になるのが定めでも、それは受け入れがたいことである。
千鶴は目の前が真っ暗になった。
四
「どがいした? 大丈夫か?」
黙り込んでいる千鶴の顔を、幸子がのぞき込んだ。
「ん? 何でもない」
千鶴は笑顔を装ったが、幸子は心配そうだ。
「おじいちゃんが決めんさったことに、うちらは逆らえんけんな。ほんでも、ほうは言うてもなぁ……」
幸子は最後までははっきり言わなかった。
仮に祖父が千鶴に婿を見つけようとしても、見つかるはずがないと言いたかったのだろう。しかし、そう言ってしまうと千鶴が傷つくと、母は思ったのに違いない。
しかし、これは鬼が祖父母を陰で操っての話である。婿はきっと見つかるし、誰が婿になるのかも決まっている。
「心配なんかいらないよ。きっといい人が千鶴ちゃんのお婿さんになってくれるよ」
何も知らない花江が能天気に言った。
「そげなこと……」
千鶴が顔を曇らせると、花江は励ますように明るい声で言った。
「だって千鶴ちゃん、可愛いからさ。そりゃ、偏見を持ってる人たちは、千鶴ちゃんのこと悪く見るだろうけど、そんなのはこっちから願い下げだよ。偏見を持たないで、千鶴ちゃんのこと真っ直ぐ見てくれる人だったらね、絶対に千鶴ちゃんのこと大事にしてくれるし、お店だって上手くやってくれるよ」
千鶴が黙っていると、花江は立ち止まって千鶴をじっと見た。
「千鶴ちゃん、自分に自信がないって言うより、お婿さんの話に乗り気じゃないみたいだね」
心の中を見透かされたようで、千鶴は慌てて言った。
「ほやかて、うち、小学校の先生になるつもりでおったけん、急にそげなこと言われたかて困るぞな」
「まぁ、それはそうだよね。でもさ、悪い話じゃないとあたしは思うよ。あとで、ゆっくり考えてみたらいいよ」
花江に言われると、千鶴は言い返せなかった。
花江は千鶴より五つ年上で、元は東京の太物問屋の娘だった。その太物問屋は山﨑機織とも取引があった。
花江は一人娘だったので、婿をもらって店を引き継ぐことになっていたと言う。
ところが、先月初めに東京を襲った大地震で、花江は家も店も家族も全てを失った。
東京に営業に出ていた山﨑機織の手代も、この地震で命を落とした。それで辰蔵が苦労して東京を訪ねたのだが、その時に花江を見つけて松山へ連れ帰ったのである。
天涯孤独の身になった花江を、甚右衛門は女中として雇った。
この話が出た時、取引先の跡取り娘を女中として雇うことに、甚右衛門は気が引けたようだった。しかし、花江自身が女中になると言うので、話は決まった。
そうは言っても、元取引先の娘である。甚右衛門もトミも花江に対して気遣いを見せた。
だが、花江はただの女中として扱って欲しいと望み、とにかく懸命に働いた。千鶴に対しても、初めて会った時から明るく優しく接してくれた。千鶴にとって花江は姉のように思える人だった。
それでも、一人でいる時に花江が陰で泣いているのを、千鶴は知っている。
花江にすれば、親が取りなしてくれる婿取りの話は、とても有り難いことだと受け止めているに違いなかった。そんな花江が悪い話じゃないと言うのを、千鶴が否定できるはずがなかった。
銭湯の脱衣場で着物を脱いだ時、千鶴の胸元からしおれた花がぽとりと落ちた。千鶴は慌てて拾ったが、花江は見逃さなかった。
「それは花だね? 何でそんな物を胸に仕舞ってるんだい?」
「これはね、えっと……、きれいじゃったけん、摘んで来たんよ」
動揺を隠したつもりだが、花江は目を細めて千鶴を見つめた。
「本当に自分で摘んだのかい?」
「ほ、ほんまやし」
口をすぼめながら花を胸に抱くと、花江は笑った。
「千鶴ちゃんって、ほんと、わかりやすい娘だね。嘘ついたって、すぐにわかっちまうよ」
「ほんまは誰ぞにもろたん?」
幸子が少し嬉しそうに訊ねた。千鶴は答えずに下を向いた。
甚右衛門からは、源次たちに襲われたことは黙っているように言われている。それが言えなければ忠之との出会いを説明できない。
だが千鶴が黙っていたのは、本当は気恥ずかしかったからだ。誰かに心が惹かれていることを、知られたくなかったのである。
それに、がんごめが人間の男と一緒になれるはずがない。だめなのがわかっている人のことを、口にするのは空しい。
それでも花江も幸子も、千鶴の心に何があったのかを理解したようだった。
「そうか。なるほどね。そういうことなんだね」
花江がにやにやしながら言うと、幸子も楽しげに言った。
「その人とはお祭りで知り合うたん?」
千鶴は返事をしなかった。しかし、返事をしないのは肯定しているのと同じ意味になるらしい。
どんな人なのかと幸子と花江に交互に問われ、優しくて強い人だと千鶴は喋ってしまった。
幸子と花江は顔を見交わすと、自分のことのように喜んだ。
二人はもっと詳しい話を求めたが、どうせ一緒にはなれないからと、千鶴は話を拒んだ。
幸子たちは、それ以上訊くのをやめた。二人は千鶴の言葉の理由を、婿取りの話と考えたようだった。
五
千鶴たちが銭湯から戻ると、トミが台所の板の間で、新吉と亀吉の二人に漢字を教えていた。
板の間の奥には、甚右衛門とトミの寝間がある。閉められた襖の向こうから、甚右衛門の鼾が聞こえて来る。
辰蔵や手代たちは二階の部屋へ引き上げたようだが、まだ眠ってはいないらしい。板の間と帳場の間にある階段から、ひそひそ喋る声が聞こえる。
新吉と亀吉はあくびを噛み殺しながら、トミに言われた漢字を、何度も半紙に書いている。本当はさっさと寝たいだろうが、これも丁稚たちの仕事である。
トミは昔から丁稚たちに生きて行くのに必要なことを、こんな風に教えて来た。指導する言葉はきついが、その姿は孫に読み書き算盤を教える、優しい祖母のようにも見える。
そのようなことをしてもらったことがない千鶴は、トミが丁稚たちに何かを教える姿を見るたびに、悲しい気持ちになっていた。今もそんな気持ちが湧き上がって来るようだ。
千鶴たちが声をかけると、トミは新吉たちに二階へ上がるように言った。二人は千鶴たちに頭を下げると、習字道具を片づけて、階段を上がって行った。
「さぁ、ほしたら繕い物をしようかね」
使用人たちの着物の破れを縫ったり、季節に合わせた着物を作ったりするのは女の仕事だ。特に育ち盛りの新吉や亀吉は、次の年には前の年の着物が合わなくなる。
男たちが床に就いてからも、女たちはちくちくと針仕事をするのである。
部屋の隅に用意されていた繕い物を、千鶴たちはそれぞれの場所に座って縫い始めた。
誰も一言も喋らないで、黙々と手を動かしている。こうしていると、風寄の祭りを見に行ったことが嘘のようだ。
それでも懐にはあの花がある。花は全てが事実である証だ。風寄へ行ったのは本当のことで、あの人と出会ったことも夢じゃないよと、花が胸の中で囁いている。
縫い物をする時には、針に集中しなければならない。だが、千鶴はつい忠之のことを考えてしまう。
あそこまで親切にしてくれたのは、単に自分があの人の知る娘に似ているからではないと、千鶴は思った。それは忠之の心が、夫婦約束をした娘ではなく、自分に向けられているということだ。
一方で、馬鹿なことを考えるなと戒める自分がいた。
あの人は別れた娘を重ねて見ているに過ぎず、山﨑千鶴を見ているわけではないと、否定的な自分が主張した。
それに対して、忠之に惹かれる自分は、たとえそうだとしても、別れた娘はもういないのであり、あの人の気持ちは自分だけのものだと反論した。
あの人の着物だって、新しいのを自分がこうしてこさえてあげるんだと気負うと、がんごめのくせに――と否定的な自分は言った。
「痛っ!」
指先を針でちくりと突いてしまい、千鶴は思わず声を上げた。涙で視野が滲んでしまい、針先がよく見えなくなっていた。
いつもであれば、何をやっているのかと、祖母に冷たい視線を向けられるところだ。ところが、今日の祖母は違っていた。
手の甲で涙を拭いた千鶴に、トミは言った。
「千鶴、今日はもうええ。あんたは疲れとろけん、もう寝なさい。明日は学校じゃろ?」
思いがけない祖母の言葉に、千鶴は戸惑った。
これまでは千鶴が疲れていようと翌日学校があろうと、そんなことには関係なく、トミは千鶴に仕事をさせていた。
ましてや、今回は一人だけ特別に風寄の祭り見物へ行かせてもらったのである。その分、しっかり仕事をしろと言うのが当たり前だった。それなのに疲れているから寝ろというのは、普段の祖母では考えられないことだ。これは絶対におかしい。
千鶴は鬼が祖母を操っていると確信した。
「ほんじゃあ、お先に上がらせてもらいます」
千鶴は自分の縫い物を片づけると、トミや母たちに頭を下げた。それから手燭に火をもらうと、茶の間から離れの部屋へ向かう渡り廊下に出た。
廊下の脇の奥庭は真っ暗だ。塀の向こうには街灯の光が届いているが、塀のこちら側には届かない。月明かりがない夜に裏木戸を出入りする時は、塀を頼りに前へ進むしかない。
手燭を差し出すと、暗い奥庭がぼんやり照らされる。蔵の脇にある裏木戸も仄かに見える。
千鶴は闇の中にある裏木戸を眺めながら、あの裏木戸の向こうに忠之がいたこと思い出していた。
あれから一時近くなると思うが、今も裏木戸の向こうに忠之がいるような気がする。あの扉の向こうで、人力車を引く忠之がこちらを見つめているようだ。
忠之の少し寂しげな優しい笑顔が思い浮かぶと、千鶴は胸が潰れそうになるほど切なくなった。
今日出会ったばかりなのに、ここまで心が惹かれるのは、自分とあの人の間に縁があるからだと千鶴は思った。そうでなければ、あの温もりは説明ができない。
あの温もりは体で感じたものではなく、心で感じたものだ。そんな温もりを感じさせる者など他にはいない。
また、同じ温もりをあの人も感じていたかもしれない。きっとそうだ。だからこそ、こんなにも親切にしてくれて、お不動さまに幸せを願ってくれたのだ。
――ほやのに、なして……。
どうして自分はがんごめなのかと、千鶴は悲しくなった。
それに、向こうも自分の気持ちを抑えているようだ。ある所まではとことん優しいのに、そこから先になると、すっと身を引いて離れてしまう。
それは自分に自信が持てないからかもしれなかった。夫婦約束までした娘を、手放さざるを得なくなったという経験が、あの人を臆病にしているのだろうと千鶴は思った。
だが、それは千鶴にとっては、いいことなのかもしれなかった。何故なら、忠之が千鶴を求めたら、千鶴はそれを拒むことができないからだ。
がんごめである自分が、人間の男と一緒になるとどんなことになってしまうのか。それを考えると、千鶴は暗い気持ちになる。
それに、鬼が千鶴の婿を決めているのだとすれば、それを邪魔する者は、あのイノシシのようにされるに違いない。
だから、このままあの人とは離ればなれになるのがいいと、千鶴は自分に言い聞かせた。
忠之が空の人力車を引きながら、風寄へ帰って行く姿が目に浮かぶ。もう、どこまで帰ったのだろう。忠之の姿はどんどん遠く、どんどん小さくなって行く。
実際、自分が風寄へ行くことはもうないだろう。忠之が松山へ出て来ることもない。二人が再び出会うことはないのである。
千鶴は項垂れてしゃがむと、声を殺して泣いた。
休み明けの学校
一
通学用の袴を着けると、千鶴は茶の間へ挨拶に行った。茶の間では、甚右衛門が新聞を読んでいた。
どの家でも新聞を取っているわけではないが、新聞を取っているからと言って、朝刊が朝に届くとは限らない。場所によれば、朝刊なのに届くのは夕方近くになってからという所もある。
ここは幸い新聞社が近いので、朝早くに朝刊が届くのだ。
店のことは使用人たちがしてくれるので、甚右衛門はこの時間はゆっくりしている。
甚右衛門の隣では、トミが甚右衛門が飲むお茶を淹れていた。
先月の大地震によって東京が壊滅したため、東京へ多くの商品を送り込んでいた、伊予絣問屋は大打撃を受けた。何でも二十万反もの伊予絣が、火災によって灰と化したらしい。
そのため、甚右衛門は日々の情報に目を光らせ、今後の絣業界の行く末を占っていた。
この日もよくない記事が出ていたのだろう。甚右衛門の表情は強張っている。
こんな時には、迂闊に声をかけない方がいいのだが、黙って行くわけにも行かず、千鶴は恐る恐る声をかけた。
「あの……、行てまいります」
千鶴の声が聞こえなかったのか、記事に集中しているのか、新聞に釘づけになったまま、甚右衛門は返事をしない。
代わりにトミが、行てお戻り――と言った。
トミは滅多に返事をしない。返事をする時は、あぁとか、はいとか、他を向いたまま気のない返事をする。しかし、この日はちゃんと千鶴に顔を向け、行てお戻りと言った。
今朝起きた時も、祖母はちゃんと挨拶を返してくれた。これはやはり、家の中に異変が起きていると言わざるを得ない。
千鶴がその場を離れようとすると、甚右衛門はようやく千鶴に気づいたようだ。新聞を下ろすと、おい――と言った。
ところが、甚右衛門は何かを言いたげにしながら、じっと千鶴を見るばかりで黙っている。
「どがぁしんさった?」
見かねたようにトミが声をかけると、甚右衛門は千鶴から目を逸らし、何でもないと言った。
千鶴は、もう一度甚右衛門に、行てまいります――と声をかけた。甚右衛門はちらりと千鶴を見て、あぁとだけ言った。
千鶴は不審に思いながらも、二人に頭を下げると、台所の花江にも声をかけた。花江は明るく、行ってらっしゃいと言い、千鶴にお弁当を持たせてくれた。
幸子は千鶴より早く出たので、家にはいなかった。
花江が来るまでは、幸子はずっと女中代わりに、家の仕事をしていた。しかし、花江が女中になってくれたお陰で、再び看護婦として働くようになった。
幸子は家計を助けるためだと言った。だが考えてみれば、それは甚右衛門が幸子への婿取りをあきらめたということだ。
県外へ送り出す品を、手代や丁稚たちが蔵から運び出している。その邪魔にならないようにしながら、千鶴は通り土間を抜けて帳場に出た。
帳場には辰蔵が座り、行てお戻りなと声をかけてくれた。
表に出ると、積み荷を載せる大八車が用意されていて、蔵から運んだ品のいくつかが、すでに積まれている。
山﨑機織の東隣は古くからある紙屋がある。顔馴染みになっているその店の者たちにも、千鶴は朝の挨拶をした。
「千鶴さん、行てお戻り」
反物の箱を大八車に載せた亀吉が千鶴に声をかけた。続けて出て来た新吉も、同じように千鶴に挨拶をした。
二人に手を振りながら声をかけ返すと、千鶴は紙屋町の通りを西へ進んだ。
通常、家人は裏木戸から出入りする。しかし、千鶴が小学校に入った時、祖父は千鶴に店から表に出るよう命じた。
表の通りには、他の伊予絣の店などが並んでいる。朝になると、それぞれが店を開ける準備で人が表に顔を出す。
千鶴は人の目が気になるので、できれば裏木戸からこっそり出て行きたかった。
だが、祖父はそれを許さなかった。堂々と店から表に出て、みんなに挨拶をして行くようにと言うのが、祖父の命令だった。
それ以来、千鶴は学校へ行く時、店から表に出ている。
初めの頃は、みんなに見られるのが嫌で仕方がなかった。祖父に意地悪をされているのが悲しかった。
今となっては慣れっこになったので、紙屋町の人々と顔を合わせることは気にならなくなった。
それでも今は、自分はがんごめだという想いがある。それが千鶴の気持ちを後ろ暗いものにさせていた。
おはようござんしたとか、行てまいりますなどと、顔を合わせる人たちに挨拶をしながら歩いて行くと、突き当たりの寺へ出る。かつて松山を治めていた、久松松平家の菩提寺である大林寺だ。
祖父は事あるたびに、紙屋町のこの道は殿さまたちが通っていた道なのだと、誇らしげに言ったものだ。
だが大林寺に対して、千鶴は別な想いを抱いている。
日露戦争が始まると、捕虜になったロシア兵が大勢日本へ連れて来られた。その捕虜兵たちを収容することになったのが松山で、その一番初めの捕虜収容所となったのが、この大林寺なのである。
母の話では、千鶴の父も最初はここへ入れられていたらしい。
普段は千鶴は父のことなど考えないが、この寺の前を通ると、どうしても考えてしまう。だから、いつも足早に通り過ぎていた。
ロシア人の血を引いているがために、千鶴は幼い頃から嫌な思いを強いられて来た。それは全部ロシア人である父のせいだという想いが、千鶴の中にはあった。
もし父が日本人だったら、こんな苦労などしなかったのにと思うことがある。そんな時には、顔も知らない父を恨みたくなった。
だが一方で、父に会ってみたい気持ちもあった。
日本でなくロシアで暮らせば、差別されないかもしれないと考える時、千鶴は父と暮らしている自分を想像してしまう。
父がどんな顔をしているのかは、全くわからない。それで自分に似た顔を想像し、父と暮らすことを願ったりもした。
しかし、この日、頭に浮かんだ父はロシア人ではなかった。髪の中に角を隠した鬼である。
自分の父親は、ロシア兵に化けた鬼だったのではないかと、千鶴は考えていた。
母は祖父母の娘だから人間に違いない。つまり、自分は鬼と人間の間に生まれた子供なのだろう。
半分は人間、半分は鬼であれば、このまま人間の姿でいられるのかもしれない。
だが、父の血の方が濃いのだとすると、いずれは頭に角が生えたり、口から牙が出て来るに違いない。
もしかしたら地獄の夢で見た鬼は、自分の父だったのだろうかとも千鶴は考えた。そうであるなら、鬼を愛おしく思ったのは当然なのだろう。
それでも、自分ががんごめだということは、千鶴には受け入れがたい悩みだった。
――千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人と巡り会うて、幸せになるんぞな。
頭の中で、忠之が話しかけている。
しかし、自分が巡り会うのは、きっと鬼なのだ。
千鶴は胸に手を当てた。懐には、まだあの花が入っている。
自分ががんごめであることを考えないならば、一緒になりたいのはあの人だと、千鶴は忠之への想いを確かめた。
だが確かめたところで、どうとなるものではない。むしろ空しい気持ちになるばかりだった。
二
大林寺の前を右に曲がると、左手に阿沼美神社が見えて来る。春子に見せた祭りの舞台だ。
神社の北端を西へ曲がった所に、伊予鉄道の古町停車場がある。
松山からは多くの伊予絣が県外へ発送されているが、紙屋町で扱っている伊予絣は、陸蒸気と呼ばれる蒸気機関車で、この古町停車場から高浜港へ運ばれる。そのあと船に移されて本州へ渡り、大阪や東京へ送られるのだ。
もう少しすれば、高浜へ向かう陸蒸気が来るだろう。それに荷物を載せようと、近くの店から大八車が集まって来ている。山﨑機織の荷物も、亀吉たちが運んで来るはずだ。
千鶴が古町停車場を眺めながら、さらに北へ進もうとすると、フワンと音が鳴った。
我に返って前を見ると、通りの少し先を電車が横切って行った。松山から三津へ向かう電車で、昨日、春子が札ノ辻から乗ったのと同じ電車だ。
陸蒸気も高浜へ行く途中、三津で停まる。どうして三津へ向かう路線が二つもあるのかと言うと、元は二つは別々の会社が運営していたのである。
春子が乗った電車の方は、千鶴が尋常小学校に入学した年にできたもので、陸蒸気の方は母が生まれた頃にできたらしい。
詳しい話は知らないが、三津の人たちが陸蒸気の伊予鉄道と仲違いをしたのが理由で、もう一方の電車を作ったのだと言う。
しかし、結局は伊予鉄道との争いに負けて、せっかく作った電車も線路も、伊予鉄道に召し上げられてしまった。千鶴が女子師範学校本科の二年生になった年のことだ。
当時は千鶴は寮にいたので、休みの日などに三津の町に出ることがあった。その時の町の人たちが、意気消沈していたのを千鶴は覚えている。自分の家が松山にあるとは、とても言い出せない雰囲気だった。
結局は、強い者が勝つのが世の常である。そして、自分は弱い者だと千鶴は思った。
世の中は男を中心に動いている。女はそれに従うだけだ。ましてや自分は異国の血を引いており、物を言う権利など他の若い娘以上にない。
家では祖父に頭が上がらないが、鬼は祖父より力が上だ。自分なんかが逆らうなど、絶対に無理である。
忠之も惚れ合った娘と夫婦約束を交わしたのに、その約束を果たせずに、娘を手放さざると得なかったという苦い経験がある。男の忠之でも生まれが悪いというだけで、どうすることもできないことがあるのだ。
こんな理不尽なんかなくなればいいのにと思いながら、千鶴は広い松並木の道へ出た。三津浜へ向かう三津街道だ。
かつて、お城の殿さまが参勤交代をしていた頃、お殿さま一行は三津浜から船で出入りしていた。その時に使われた道が、この三津街道である。
千鶴がいる所は三津口と呼ばれるが、三津口から三津浜までの間には、千三百ほどの松や杉が日除け目的に植えられている。
お殿さまがいなくなった今も、千鶴たちのように街道を歩く者たちに、松や杉は木陰を与えてくれる。この並木がなかったなら、暑い夏場は歩くのが嫌になっていただろう。
街道の周辺は田畑ばかりでとても長閑だ。いつもと同じ長閑さを感じていると、風寄での体験や家の中の異変などが、本当のことだとは思えなくなってしまう。
少し歩くと、二本の線路が道を横切る。どちらも古町停車場から出たもので、手前の線路は道後へ向かう電車が走る。もう一方は陸蒸気が走る線路で、もうそろそろやって来そうだ。
三津口を出たばかりの所では、陸蒸気は街道の右を走り、三津浜へ向かう電車は左を走る。
両者が街道に絡み合うようにして走る様は、未だに三津浜の人たちの怨念が生きているかのようだ。
ただ、街道自体は鉄道会社の争いごとなど関係ないかのように、のんびりした雰囲気だ。
所々で牛車が荷物を運び、千鶴と同じような着物に袴を着けた若い娘が、三々五々歩いている。いずれも女子師範学校の生徒だ。二年生までは寮にいるので、歩いているのは三年生か四年生である。
千鶴たち四年生は四十名弱であり、松山や三津浜から通う者は二十五名ほどだ。三年生と合わせると五十名ほどになる。
互いに家が近いわけでもなく、家を出る時間もまちまちなので、千鶴は大概一人である。本当は別の理由があるのかもしれないが、いずれにしても学校の行き帰りは、千鶴は一人のことが多かった。
春子のように仲のいい友だちもいるが、特に仲がいいわけではない生徒の方がほとんどだ。
もう慣れてしまったとは言うものの、やはり孤独を味わうのは寂しいものだ。
これまでは何も考えないようにしていたが、今は忠之のことばかりが頭に浮かぶ。孤独が忠之への想いを募らせるようだ。
切ない気持ちで歩いていると、前方から電車がやって来るのが見えた。歩きながらその電車を眺めていると、ピーッと甲高い汽笛が聞こえた。
振り返ると、後ろからやって来た陸蒸気が白い煙を吐きながら、千鶴を追い抜いて行った。
陸蒸気の後ろには、客車と貨物車がつながれている。貨物車の中には、山﨑機織の品も載せられているだろう。
すれ違う電車と陸蒸気を見ながら、あの人がこの光景を眺めたなら、きっと喜ぶだろうなと千鶴は思った。
そして、どんどん遠ざかる陸蒸気を見つめながら、自分もあの人と二人、あの客車に乗って港へ行き、そこから一緒に遠くへ逃げられたらと考えていた。
三
女子師範学校の校舎は、モダンな二階建てだ。
毎週月曜日にこの校舎を目にすると、今週もがんばろうと、引き締まった気持ちになったものだ。
しかし、今日はそんな気持ちにはなれなかった。
目に見える光景は同じなのに、千鶴は先週と今週で違う世界にいるような気がしていた。
他の生徒たちと顔を合わせると、いつもどおりに挨拶を交わす。だが、千鶴には他の生徒たちが、自分とは別の生き物のように思えてしまう。そんな違和感を覚えながら教室の前まで来ると、中から大きな声が聞こえた。
そっと中へ入ってみると、教室の真ん中で高橋静子が級友たちを集めて喋っている。
春子と同じく、静子は千鶴が寮にいた時の同部屋仲間だ。三津浜の菓子屋の娘で、少しぷっくらした明るい性格の娘だ。
本当は静子も名波村の祭りに誘われていた。だが、静子は親の許可が下りず、一緒に行くことは敵わなかった。
しかし、それが普通であり、どの級友たちにしても許されることではない。千鶴だけが特別に認められただけのことである。
それでも静子は落胆していないようで、身振りを交えながら元気に喋っている。
「ほれがな、これよりもっと大けなイノシシやったそうな。こらもう絶対、山の主ぞな。その山の主がな、いきなり襲て来たんよ」
イノシシと聞いて、千鶴はぎくりとした。
春子を探すと、春子は静子の近くに座っていた。
静子は春子から話を聞いたのだなと思っていると、千鶴に気がついた静子が嬉しそうに手招きをした。
千鶴が春子の家を訪ねたことは、みんなが知っている。春子の近くに座っていた級友は、千鶴のために席を空けてくれた。
仕方なく千鶴は空けてもらった椅子に座ったが、本当はイノシシの話になど交じりたくなかった。
「お戻りたか、山﨑さん。名波村のお祭りは楽しかった?」
「お陰さんで、楽しませてもろたぞな。だんだんな、村上さん」
千鶴が春子に声をかけ、春子がそれに応えると、静子は言った。
「今な、化け物イノシシの話をしよったんやけんど、山﨑さん、村上さんと一緒にイノシシの死骸見に行ったんやて?」
「死骸? そげなもん見とらんよ。うちらが見たんは、イノシシが死んどった場所ぎりぞな」
やっぱり春子が喋ったのかと思いながら、千鶴が答えると、そがい言うたやんか――と、春子は静子に口を尖らせた。
何だか春子は不機嫌そうだ。何かあったのだろうか。
それでも静子は、少しも気に留める様子はないようだ。ほうじゃったかね――と言って笑うと、さっきの話の続きを喋り出した。
「今の話やけんど、ほら、もうびっくりじゃろ? イノシシはあっちじゃ思て待ち構えよんのに、でっかいのが横から出て来よったんじゃけんな。しかも、そんじょそこらのイノシシやないで。伯父さんが両腕一杯広げても、まだ足りんぐらい大けなイノシシぞな」
「なぁ、高橋さんは何の話しよるん?」
千鶴は小声で春子に訊ねた。すると春子が答える前に、静子が自慢げに言った。
「あんな、風寄で見つかった化け物イノシシはな、うちの伯父さんが高縄山で仕留め損のうたイノシシなんよ」
四
高縄山は風寄の南東にそびえる山だ。
聞けば、静子の伯父たちは金曜日から風寄の柳原へ行き、土曜日の朝早いうちから高縄山へ入ったのだと言う。
春子は静子に何か言いたげだったが、千鶴が先に喋った。
「雨でお祭りが後ろにずれはしたけんど、ほんまなら金曜日はお祭りやったんやないん?」
静子は他人事のような顔で、ほうよなぁ――と言った。
「自分とこの祭りじゃったら別やろけんど、他所の祭りのことは、あんまし神聖なもんじゃとは思わんのじゃろね」
「ほやけど、地元の人がよう許したもんじゃね」
「多分、銭をつかませたんじゃろなぁ」
「銭?」
嫌な言葉だ。
確かに、世の中は銭で動いている。銭がなければ飯も食えない。だからと言って、銭に物を言わせて黒を白と言わせるようなやり方は、千鶴は好きじゃなかった。
「どっちにしたかて、祭りが後ろへずれたんじゃけん、伯父さんらも向こうの人も、あんまし気にせんかったんやないん?」
静子は話を戻すと、伯父が仕留め損なったイノシシが風寄の里へ逃げ、死骸となって見つかったのだと主張した。
その理由は、イノシシの大きさだと言う。
静子の伯父の話では、今まで見たことがないほど大きなイノシシだったそうだ。
風寄で見つかった死骸も、とても大きなイノシシなので、恐らく同じイノシシに違いないと、静子は言うのである。
千鶴は、静子の言うとおりかもしれないと思った。
あの時のイノシシからは殺気が感じられた。それは千鶴というより、人間を憎む殺気だったのだろう。
イノシシ狩りについては、千鶴は祖父の話でどんなものかを大体知っている。
数名の勢子と呼ばれる人夫を雇い、イノシシの居場所を調べさせて、射手がいる所まで追い込ませるのだ。
静子の伯父たちも、同様の狩りをしていたらしい。
元々射手は四人だったが、一人が都合が悪くなったため、静子の伯父を含めた三人だけで狩りを行ったそうだ。
三人はそれぞれ離れた持ち場に潜んで、勢子が追い込んで来るイノシシを待っていた。
そこへ突然、狙いのイノシシとは別のイノシシが現れて、伯父たちを襲ったのだと静子は言った。
静子の伯父は三カ所の持ち場のうち、端を担当していた。
初めに襲われたのは、静子の伯父とは反対側の、もう一方の端を担当していた射手だった。
三人とも追われたイノシシがいつ現れるかと、前方に意識を集中していた。それで、横から巨大なイノシシが近づいて来ていたことに、誰も気づかなかったらしい。
初めに襲われた仲間は、銃を撃つ暇もなくやられてしまった。また、仲間がやられたことが残りの二人はわからなかった。
二人目が襲われた時、その悲鳴で静子の伯父は、何が起こっているのかを初めて知った。
二人目の仲間も、すぐにはイノシシに気づかなかったようで、銃を発砲する間もないまま、イノシシの犠牲になった。
静子の伯父はイノシシに銃を向けたが、仲間に当たると思って、引き金を引けなかったらしい。
しかし、イノシシがすごい速さで迫って来ると、慌てて引き金を引いた。するとイノシシは向きを変えて、山の麓の方へ逃げたと言う。
「伯父さんは弾が当たったかどうか、わからんて言うておいでたけんど、今朝の新聞では、イノシシは何かに頭やられて死んどったて書いとったけん、多分、伯父さんの弾が頭に当たったんよ」
「新聞にそげな記事があったん?」
千鶴が驚くと、ほうよほうよと静子は楽しげに言った。自分の伯父が誇らしいのだろう。
一方で千鶴は、それでなのかと思った。
今朝、祖父が自分を呼び止めた時、同じ記事を読んでいたのに違いない。それで事実を確かめようとしたのだろうが、気味の悪い話だからやめたのだろう。
記事に「頭を潰された」と書かずに、「頭をやられて」とあるのは、記者が村人たちの話を半信半疑で聞いたということなのかもしれない。何しろ証拠は残されていないのである。
神輿の投げ落としを見る時に、春子が村人から聞いた話では、イノシシの骨と毛皮は、山陰の者たちが河原で燃やしたということだった。燃やした理由は気味が悪いからということらしい。
そのことを春子は相当残念がっていたが、新聞などの記事を書く者たちも、恐らく事実を知って口惜しがったに違いない。
静子の話をうんざりした様子で聞いていた春子は、静子の隙を突いたように口を開いた。
「高橋さん、新聞にはイノシシが猟銃で頭撃たれて死んだて、書いてあったん?」
静子はきょとんとした顔で春子を見ると、書いてなかったと言った。
「ほやけど、イノシシは伯父さんに向かって来たんで。そこへ鉄砲向けて撃ったんじゃけん、当たるとしたら頭じゃろ?」
「もし、高橋さんが言うたとおりやとしてな、頭撃たれたイノシシが、高縄山から辰輪村まで来られる思う?」
「辰輪村てどこ?」
春子は溜息をつくと、高縄山と辰輪村の場所と、双方の距離を説明した。
「高橋さんの伯父さんが高縄山のどこにおったか知らんけんど、風寄側におったんなら、辰輪村まで半里から一里あるぞな。その距離を頭撃たれたイノシシが移動でけるとは思えんけんど」
「大した傷やなかったんやない?」
「ほれじゃったら、死んだりせんじゃろに」
「じゃあ、何で死ぬるんよ?」
いらだった口調の静子に、春子は疲れたように言った。
「ほれをさっきから説明しよ思いよったのに、高橋さんがずっと喋りよるけん、何も言えんかったんやんか」
「じゃあ、村上さんはイノシシが死んだ理由を知っとるん?」
春子はにやっと笑うと、得意げにうなずいた。
「もちろん知っとるぞな。少なくとも猟銃で撃たれて死んだんやないで」
何だ、そういうことかと千鶴は納得した。
春子が不機嫌そうだったのは、いろいろ喋りたいのに静子ばかりが喋って、自分は喋らせてもらえなかったからだ。
早く理由を知りたい級友たちが、声を揃えて説明を求めると、春子はいかにも嬉しそうな顔をした。
まぁまぁと春子はみんなを落ち着かせると、聞いて驚かないようにと、級友たちの顔をゆっくりと見回した。
主役を奪われた静子は面白くなさそうだったが、春子と目が合うと、どきりとしたような顔になった。
春子は静子の目をのぞくようにしながら言った。
「イノシシはな、頭潰されて死んだんよ」
「頭を? 潰された?」
「ほうよ。潰されたんよ。ぺしゃんこにな」
級友たちの顔が引きつった。静子も顔が強張っている。
「村上さん、イノシシの死骸、見とらんのじゃろ?」
静子が精一杯抗うように言った。
「見とらんよ。ほんでも、見た人がそがぁ言いんさったけん」
「その死骸はどがぁなったん?」
級友の一人が訊ねた。
春子は残念そうに、村のみんなが食べてしまったし、骨と毛皮も燃やされてしまったと言った。
静子は春子の話を信じていないようだったが、また別の級友が春子に訊ねた。
「そのイノシシ、何に頭潰されたん?」
「ほれがな、わからんのよ。傍には大けな岩も落ちとらんし、大けな木が返っとったわけでもないんよ。おらと山﨑さんが見に行った時には、血溜まりがあったぎりぞな」
みんな言葉を失ったように押し黙ってしまった。誰もが青い顔になっている。
やはり青い顔になった静子が、千鶴に声をかけた。
「山﨑さんも見たんじゃろ? 何ぞ気ぃつかんかったん?」
「村上さんが言うたとおりぞな。うちには何もわからん。そげなことより、伯父さんと一緒やった人らは無事じゃったん?」
話を逸らそうとして、千鶴は静子に訊ねた。
静子は少し元気を取り戻したように、ほれがな――と言った。
「二人とも、亡くなったんよ」
「亡くなった?」
静子はうなずくと、二人とも牙でずたずただったらしいと、さらりと言った。
千鶴はざわっとなった。鬼に助けてもらえていなければ、それは自分の姿だったのだ。
話を逸らしたつもりが、余計なことを聞いてしまったと、千鶴は後悔した。
しかし、この話はみんなの恐怖心をさらに煽ったようだ。春子も二人が死んだとは思っていなかったらしく、驚いたように眉を寄せている。
もうやめてと言う者が出て来たので、静子は話を変えて伯父の話をした。山から戻って来た伯父は、生きた屍みたいにげっそりしていたらしい。
イノシシに襲われたあと、静子の伯父は勢子が戻って来るのを待って、里に助けを求めたと言う。
その里は祭りの準備で大忙しだった。しかも祭りとは神聖な行事である。そこへ助けを求めたので、静子の伯父は散々文句を言われたらしい。
そもそもこの時期は、まだ狩猟が解禁されていなかったそうだ。そんな時期にイノシシ狩りを行ったから、罰が当たったのだと罵る者もいたと言う。
それでも村の者たちは、死人を三津浜まで運ぶのに、大八車とそれを引く者数名を用意してくれた。
それは、千鶴たちが名波村に着いてからのことだったらしい。
村では死人を置いておくわけにもいかなかったので、日が暮れてから提灯を掲げて、松山まで遺体を運んだと言うことだった。
もちろん静子の伯父も、交代で大八車を引いたり押したりしながら、疲れた体で三津まで歩いたそうだ。
静子の伯父は三津で宿を経営していると言う。亡くなった二人もそれぞれ旅館の主人だった。
静子の伯父たちが、三津に着いたのは真夜中だった。それでも、それで終わりではない。
静子の伯父は、まず死んだ者たちの家に行った。そこで事情を説明し、命を救えなかったお詫びをした。
突然の主の死に家人たちが慌てふためき、嘆き悲しむ様子は想像に難くない。
また、死人を運んでくれた風寄の村の者たちにも、お礼と宿泊の手配をしなければならなかった。
翌日は、亡くなった者たちの通夜の準備を手伝い、警察にも事情を説明し、もう狩猟はしないと、みんなに誓わされた。
静子の伯父は、寝込んでしまうほどくたくただったはずである。
しかし、誰も味方になってくれないからなのか、日曜日の夜に弟である静子の父を訪ね、何があったのかを涙をこぼしながら喋ったと言う。
そんな感じで、一昨日の夜から三津は大騒ぎだったらしい。
級友たちの中には、静子のように三津に暮らす者が何人かいる。
彼女たちは二つの旅館で、同時に通夜が行われるのを訝しがっていたが、そういうことだったのかと納得した様子だった。
だが、春子は呆れたように静子に言った。
「高橋さん、伯父さんがそがぁなことになっとったのに、ようあがぁに楽しげに喋ったもんじゃねぇ」
ほやかて――と静子は頬を膨らませた。
「うちはお祭りに行かせてもらえんかったんじゃもん。代わりの楽しみ見つけたぎりぞな」
やっぱり静子も風寄の祭りに行きたかったのだ。
春子があれほどはしゃいだように見えたのは、伯父を誇りにしていると言うより、祭りに行けなかった寂しさをごまかしていたようだ。
五
廊下で始業の鐘が、からんからんと鳴り響いた。
みんなが急いで自分たちの席に戻ると、先生が入って来た。縮れ髪に丸眼鏡の井上辰眞教諭である。専門は博物学で、青白く痩せた姿はいかにも学者だ。
「おはようございます」
井上教諭が挨拶をすると、みんな立ち上がって挨拶を返した。
教諭はみんなを座らせると、丸眼鏡を指で押し上げて言った。
「さて、今日は動物の分類についてお話しましょう。動物には背骨があるものと、背骨がないものがありますが、前者を脊椎動物、後者を無脊椎動物と言います」
教諭は黒板にカッカッと音を立てながら、チョークで「脊椎動物」「無脊椎動物」と書いた。
それから順番に生徒に動物の名前を挙げさせ、その名前を脊椎動物と無脊椎動物に分けて、黒板に書き加えて言った。
「では、次は山﨑さん。他に、どんな動物がいますか?」
人間――と千鶴が答えると、教諭はにっこり笑ってうなずいた。
「そうですね。人間も動物ですね。では、脊椎動物ですか? 無脊椎動物ですか?」
「脊椎動物です」
そのとおりと言って、教諭は脊椎動物の所に「人間」と書き加えた。
教諭は書き並べた動物の名前を、色違いのチョークで書き分けていた。
「赤で書いたのは哺乳類、青で書いたのは爬虫類です。それから、黄色は両生類で、緑は魚類、橙色は鳥類です」
そう言って、教諭は黒板にそれぞれの色で「哺乳類」「爬虫類」「両生類」「魚類」「鳥類」と書いた。
すると、先生――と静子が手を挙げた。
「はい、高橋さん」
教諭が顔を向けると、静子は立ち上がって言った。
「えんこは何色になるんぞなもし?」
えんこ?――井上教諭は苦笑したが丁寧に説明した。
「えんこと言うのは河童のことだね? 残念ながら、ここでの分類は、実際に存在が確かめられている動物だけが対象なんだ」
「ほやけど、うちの叔母さん、こんまい頃にえんこ見たて言うとりましたよ?」
静子が言うと、他の生徒たちも口々に似たようなことを言った。井上教諭は両手を挙げて、生徒たちを静かにさせた。
「それはわかりますけど、実際に誰かが捕まえてみせない限り、存在していたとしても、存在していないのと同じ扱いになるんです」
「じゃあ、もし存在しよったら、どこに分類されるんぞなもし?」
「うーん、それはむずかしい質問だな。哺乳類のようでもあり、両生類のようでもあるけれど、恐らく新たな項目に分類されるだろうな」
教諭の説明に生徒たちは喜び、争うように魔物や化け物の名前を挙げた。ついさっきイノシシの死に様に怯えていたのに、そんなことなど忘れたようだ。
井上教諭は優しい人で、みんなに合わせて黒板の隅に、茶色のチョークで化け物たちの名前を書き並べた。
「これは次の試験に出すかもしれませんからね」
教諭が冗談を言うと、みんなが笑った。
「もう、ありませんか? 締め切りますよ」
誰かが、がんご――と言った。
「がんご?」
教諭が首を傾げると、春子が鬼のことだと教諭に教えた。
なるほどと言いながら、教諭は黒板に「がんご」と書き加えた。それから、茶色のチョークで「異界生物」と書いた。
みんなは井上教諭の分類に満足した様子だった。
しかし千鶴は、自分が異界生物に分類されたような気分になり、黒板を見ることができなかった。
奇妙な老婆
一
名波村を訪ねてから一週間が経った日曜日、千鶴は母と二人で奥庭にしゃがみ、たらいで使用人たちの着物を洗っていた。
幸子が働いているのは個人経営の小さな医院だが、入院部屋があるため、看護婦には夜勤がある。しかし幸子は若くない上に、家事を手伝うこともあり、仕事は日勤だけにしてもらっていた。
日曜日は医院は休診なので、入院患者の看護などは住み込みで働く若い看護婦が担い、幸子は休みとなっていた。それで千鶴と一緒に洗濯をしているのである。
いろいろと鬼のことを心配していた千鶴だったが、この一週間は特に変わったこともなかった。そのせいか、まだ不安がなくなったわけではないが、少し落ち着きを取り戻していた。
そうなると、忠之のことが無性に気になってしまうわけで、あのあと無事に風寄に戻れたのだろうかとか、あれから何をしているのだろうと、洗濯の手を動かしながら、千鶴の頭の中は忠之のことで一杯だった。
「千鶴さん、お友だちがおいでたぞなもし」
勝手口で新吉の声がした。千鶴が振り向くと、新吉は珍しいお客に興奮している様子だ。そわそわした感じで落ち着きがない。
「だんだん。今行くけん」
残りの洗濯物を母に頼むと、千鶴は急いで店へ向かった。
訪ねて来たのは春子だろう。この日、千鶴は甚右衛門に許しをもらって、春子と遊ぶ約束をしていた。
本当は静子も呼びたかったが、実家が菓子屋の静子は、学校が休みの日は店番を手伝わねばならなかった。
それに、名波村の祭りへ招いてもらったお返しの意味もあったので、この日は春子一人だけの招待となった。
千鶴が帳場へ行くと、春子は辰蔵と談笑していた。千鶴に気がつくと、春子は嬉しそうに手を振った。
学校は日曜日が休みだが、商家に日曜日は関係ない。使用人が仕事を休めるのは、盆と正月の藪入りと、給金がもらえる毎月の一日だけである。
とは言っても、丁稚には給与は出ず、一日であっても雑用などの仕事がある。給与と休みがもらえる身分になるには、がんばって手代に昇格するしかない。
春子が喋っていた辰蔵の向こうで、弥七が町の太物屋からの注文書を確かめている。これから大八車で品を届けるのだ。
茂七は先に亀吉を連れて、得意先へ注文の品を届けに出ている。午前中に茂七と弥七で交代で、それぞれの受け持つ太物屋へ品を運ぶことになっている。
茂七が戻れば、今度は弥七が新吉と二人で外へ出る。そのため、あらかじめ大八車に載せる品を用意しておくのだが、仕入れの品も運ばれて来るので、それの確認や蔵への仕舞い込みもしなければならない。ぼんやりしている暇はないのである。
それでも茂七だったら、千鶴が来れば愛想よく声をかける。弥七の場合は、千鶴が来たのはわかっていても見向こうともしない。
弥七は昔から千鶴に対して素っ気ない。嫌な態度を見せるわけではないが、できれば関わりたくないような雰囲気がある。
しかし、弥七を責めるわけにはいかない。弥七は千鶴と歳が同じで、手代になったばかりだ。
それに対して、茂七は弥七よりも四つ年上である。仕事に余裕があるのは当たり前だった。
本当は茂七の上に、もう一人手代がいたのだが、東京の地震で亡くなり、今は手代はこの二人だけになった。
いずれ茂七が東京へ出されるだろうから、弥七は一人前の手代になるのに必死のはずで、千鶴に構ってなどいられないのだ。
千鶴は春子を家の中へ誘うと、茶の間にいる祖父母に会わせた。
二人は角を突き合わせるようにしながら、算盤を弾いていた。関東の大地震で受けた打撃の穴埋めをどうするかで、甚右衛門とトミはよく言い争いをしていた。
この時も言い争いが始まりそうだったが、春子が来たことで、二人は慌てたように笑顔を見せた。
甚右衛門もトミも、祭りの時に千鶴が世話になったことを春子に感謝した。
トミは千鶴を招き寄せると素早く銭を持たせ、あとで二人で何か食べるように言った。
トミが小遣いをくれるなど、千鶴には生まれて初めてのことだ。有り難くいただきはしたものの、少し薄気味悪い気持ちもあった。
上がり框を拭いていた花江は、その様子をにこにこしながら見ている。千鶴がトミに優しくしてもらったのが嬉しいようだ。
帳場から新吉が走って来ると、そのまま奥庭の蔵の方へ行った。弥七に言われて、太物屋へ納める品を取りに行ったのだろう。
新吉を見送ったあと、千鶴は花江にも春子を紹介した。花江は手を休めると、笑顔で春子に話しかけた。
「こないだ千鶴ちゃんをお祭りに誘ってくれた人だね。あたしもほんとはお祭りに行きたかったんだよ」
「あの、花江さんはどこからおいでたんですか?」
花江の言葉が気になったのだろう。春子が訊ねると、東京から来たと花江は答えた。
「先月初めの大地震でさ。家もお店も壊れるし、そのあと大火事になっちゃって、きれいさっぱりなくなっちまった」
花江は笑ったが涙ぐんでしまい、悲しみをこらえるように唇を噛みしめた。しかし、すぐに笑顔に戻ると話を続けた。
「うちはここと取引があった太物問屋だったんだよ。二年前まで、今の番頭さんが東京のお店廻りをしてたんだけどさ。地震と火事で路頭に迷っているところに、番頭さんが来てくれたんだよ」
「さっき、おらが喋っとった番頭さん?」
「そうだよ。東京を廻ってた人と連絡が取れなくなったからって、様子を見に来たんだけど、あたしらみたいな取引先のこともね、一軒一軒廻ってくれたんだ。そうは言っても、全ての人を助けるなんてできないからね。だから、ここで暮らすよう言ってもらえた、あたしは恵まれてたのさ」
花江が甚右衛門とトミを見ると、春子も二人に顔を向けた。甚右衛門は困ったように笑い、事情を聞いたら放っておけなかったと言った。トミも横でうなずいている。
そこへ反物の箱を重そうに抱えた新吉が、奥庭から戻って来た。
毎日のことではあるが、一人で荷物を運ぶのは気の毒だった。せめて、もう一人丁稚がいればいいのにと千鶴は思うのだが、今はどうにもならない。
新吉が帳場へ行くのを見送ったあと、その時に東京廻りをしていた人はどうなったのかと、春子は千鶴に訊ねた。
「亡くなったんよ。ほじゃけん、あっちで荼毘に付してお骨になって戻んて来たんよ。そげなことも全部番頭さんがやってくんさったんよ」
「ほうなん。遠い所のことやけんど、大事やったんじゃね。ほんでも番頭さん、二年前にこっちへ戻らなんだら、番頭さんが亡くなっとったかもしれんのじゃね」
それは春子の言うとおりだった。
辰蔵が東京から呼び戻されたのは、当時の番頭が病に倒れたからだった。甚右衛門から番頭になるよう命じられたから戻ったのである。そうでなければ地震の犠牲になったのは、辰蔵だったかもしれなかった。
また新吉が奥庭へ走って行った。運ぶ箱はいくつもあるから大変である。
「人の運命なんてわかんないもんさね。番頭さん、亡くなった人は自分の身代わりになって死んだんだって、大泣きしてたよ」
花江がしんみり言った。しかしすぐに、ごめんよ――と笑顔を見せた。
「せっかく遊びに来てもらったのにさ。暗い話になっちまったね。あとでお茶を淹れてあげるからさ。もうちょっと待ってておくんなね」
だんだん、花江さん――と言い、千鶴は春子を奥庭へ連れて行った。すると、新吉が蔵から反物の箱を抱えて出て来た。
「えらいねぇ」
春子に褒められると、新吉は嬉しそうにしながら走って行った。
奥庭では幸子がまだ洗濯の途中だったが、立ち上がって春子をにこやかに迎えてくれた。
「先日は千鶴がえらいお世話になりましたぞなもし。狭い所なけんど、今日はゆっくりしておいでなさいね」
恥ずかしそうにうなずく春子を、千鶴は蔵へ案内した。
蔵の中には反物の木箱がたくさん積まれてある。どれが名波村から届いた絣だろうかと、春子は楽しげにそれらの箱を眺めた。
そこへ新吉がやって来たのだが、両腕には木箱を抱えている。
「あれ? 箱間違えたん?」
千鶴が訊ねると、新吉は箱を棚の上に載せて口早に言った。
「仕入れの品が届いたんよ。ほじゃけん、届けの品はあとやし」
それだけ言うと、新吉は急いだ様子で蔵を出て行った。本当に忙しくて大変そうだ。邪魔になるので千鶴たちは蔵から出た。
ゆっくりできるのは離れの部屋だけなので、千鶴は春子と一緒に再び家に戻った。それから甚右衛門たちに声をかけ、茶の間に上がろうとした時、帳場から箱を抱えて来た新吉が奥庭へ出て行った。
千鶴がひょいと帳場の方を見ると、通り土間の先に表の通りが見えた。店の前には牛車があり、牛の尻尾がゆらゆら揺れている。
牛車から仲買人と思われる男が、次々に木箱を帳場へ運び込んでいる。その中身を弥七が確かめており、確かめ終わった木箱を新吉がせっせと蔵へ運ぶのだ。
忙しい新吉の姿は、千鶴に後ろめたさを感じさせた。しかし、この日は特別だと自分に言い聞かせ、千鶴は春子を離れの部屋へ案内した。
二
「へぇ、こげな自分らの部屋があるんや」
春子は珍しそうに部屋の中を見回した。
風寄の実家には、春子だけが使える部屋はない。寝る時も家族みんなが同じ部屋で寝る。千鶴が泊めてもらっていたならば、やはり春子たちと同じ部屋で寝ることになっていた。
だから千鶴と幸子に自分たちの部屋があることが、春子には羨ましく見えるのだろう。だが実態は、ロシア人の娘である千鶴と、千鶴を産んだ幸子が穢らわしいということで、母屋とは離れたこの部屋に置かれているのである。
ただ、離れ自体は千鶴たちのために造ったものではない。元は甚右衛門がこの家を継いだ時に、その両親の隠居部屋として使われていたものだ。つまり、千鶴の曾祖父母の部屋である。
曾祖父母が亡くなってからは、この部屋は幸子の長兄正清が使っていた。
その頃の幸子は病院の看護婦寮で暮らしていた。実家に戻った時には、幸子は祖母の隣に寝ていたそうだ。
これまで千鶴は春子を祭りに誘ったり、たまに春子と町へ出かけることはあった。だが自分の部屋へ入れたのは、今回が初めてだった。
家と店は一体となっているので、全ては商いが中心である。気軽に誰かを家に呼び入れることなど許されない。それに、千鶴も家の中の様子を他人に見せたくなかった。今回春子を家の中へ招いたのは特別なことだった。
「番頭さんらは、どこに寝泊まりするん?」
「お店の上に部屋が三つあるけん、番頭さん、花江さん、ほれから手代と丁稚の人らで使とるんよ」
「ええなぁ。おらん所は平屋じゃけん、二階には憧れとるんよ。自分の部屋はあるし、二階はあるし、やっぱし町の暮らしは違わいねぇ」
いくら羨ましがられても、千鶴は一つも嬉しくない。適当に愛想を振り撒きながら、井上教諭の話に話題を変えることにした。
と言うのは、井上教諭に思いがけないことが起こったからだ。
「ほれにしても、井上先生、お気の毒じゃったね」
千鶴の言葉に、春子は大きくうなずいた。
「ほんまじゃねぇ。まっことお気の毒じゃった」
先週の水曜日、警察から井上教諭に連絡が来た。
風寄で宿代を踏み倒そうとした、男の身元保証人として呼ばれたのである。
それで教諭はその日の午後の授業を休ませてもらい、急遽風寄へ向かった。警察に捕まった男は井上教諭の叔父ということだった。
もちろんそんな内輪の、しかも恥になるような話を、井上教諭が生徒たちに喋ったりはしない。この話は寮の食事を作ってくれる調理担当のおばさんたちから、春子が聞いたものだ。
その話によれば、井上教諭の叔父だと言うその男は、風寄の祭りを夫婦で見に来ていたらしい。
その間、二人は北城町の宿屋に泊まっていたが、祭りが終わった翌朝、女房の方は姿を消し、亭主の方が逃げ遅れて捕まったのだと言う。
しかし、亭主と思われたこの男は、自分は女に騙されたのだと訴えたそうだ。
仕事で東京から高松に移って来たので、三津浜にいる甥に面会に行った帰りだ、というのが男の主張だった。
この話を聞いた春子は、もしやと思った。それは客馬車で一緒になった、あの山高帽の男の話によく似ていたからだ。
祭りの夜にも、あの男が二百三高地の女と一緒にいるところを、千鶴と二人で目撃している。
話を聞いた千鶴も、恐らく山高帽の男に違いないと思った。
調理のおばさんたちによれば、この二人は夫婦として宿に泊まっていたらしい。
あの時、千鶴たちは月曜日の授業があるので、日曜日のうちに松山へ戻って来た。だが風寄の祭りは、神輿の投げ落としが終わりではなかった。
翌日には、鹿島の神輿が練り歩いたあと、禊ぎと言って汚れを落とすために、川や海に神輿を何度も投げ入れる。
そのあと神輿は船に乗せられて、鹿島へ帰って行くのだが、神輿の船を先導する船の上で、男たちが勇壮な舞を披露する。
山高帽の男はそれらを全て見終わってから、次の日の朝、北城町の宿を発とうとしたらしい。しかし、その時には二百三高地の女は姿を眩まし、男が持っていた財布がなくなっていた。
警察が呼ばれると男は無実を訴えた。だが結局は宿代の踏み倒しということで、警察の世話になったのである。
井上教諭は風寄へ向かう前に、叔父が泊まった宿代や、叔父が高松へ戻る費用などを工面するのに、給料を前借りしたようだと、調理のおばさんたちは言っていたそうだ。
井上教諭にしてみれば、自分には全く関係のないことで、とんだ身内の恥を曝すことになったわけである。
しかも、警察や宿屋の主人に下げなくていいはずの頭を下げ、学校にも迷惑をかけたことを詫び、給料の前借りまでしたのだ。
千鶴たちは木曜日に井上教諭の姿を見かけたが、げんなりした様子で覇気がなかった。
給料を前借りしたら、来月はどうやって暮らすのだろうと、千鶴も春子も教諭の暮らしを心配していた。
だが、二百三高地の女に騙された教諭の叔父のことは、少しも気の毒だとは思わなかった。
あんな見るからに怪しい女に騙されるのは、男の方が悪いというのが二人の出した結論だ。
千鶴たちはこの話を知らないことになっているので、井上教諭に慰めの言葉もかけられない。こうして二人で気の毒がるのがせめてものことだった。
三
「随分、盛り上がってるじゃないの」
お茶とお菓子を運んで来てくれた、花江が楽しげに言った。
花江は千鶴たちの分だけでなく、自分の分まで持って来ていた。自分も千鶴たちの話に交ざり、少し一服しようと言うのだろう。
春子はここだけの話と言いながら、井上教諭と山高帽の男の話をした。
やはり花江は井上教諭を気の毒がり、教諭の叔父には毒づいた。
「ほんっと男って馬鹿なんだから。そんなのを自業自得って言うんだよ。だけどさ、あんたたちの先生もほんとにお気の毒だねぇ」
花江は、まだお菓子を食べていない千鶴たちに、食べるよう促して言った。
「話は違うけどさ。お祭りの最中にあっちこっちで空き巣が入ったらしいね。新聞に書いてあったよ」
「花江さん、新聞を読みんさるんじゃね。おらなんか全然読まんけん、尊敬するぞなもし」
春子に褒められて、花江は照れた。
「そんな大層なものじゃないよ。旦那さんが読み終わったのを、あとでこっそり読ませてもらってるんだ」
花江に感心しながら、春子は千鶴に言った。
「覚えとる? あの二百三高地の女の隣に、鳥打ち帽かぶった若い男がおったじゃろ? あれ、何か怪しいことない?」
「怪しいて?」
「ほやけん、花江さんが言いんさったじゃろ? 祭りん時にあちこち空き巣が入ったて」
千鶴は鳥打ち帽の男の様子を思い出そうとした。男のことで覚えているのは、ちらちらと千鶴を盗み見していたことぐらいだ。しかし、男が客馬車を降りる時のことを思い出すと、あ――と言った。
「あの人、あの女の人と目で合図しよったみたいに見えたぞな」
「じゃろげ? あいつら絶対にぐるぞな」
花江が千鶴と春子の顔を見比べながら言った。
「何だい何だい、二人とも空き巣を見たって言うのかい?」
ほういうわけやないけんど――と千鶴は言った。
「ほうかもしれんような人と、同し馬車に乗り合わせたんよ」
「そいつが鳥打ち帽をかぶった若い男なんだね? 二人ともすごいじゃないか。警察に教えてあげなよ」
「ほやけど、鳥打ち帽かぶった人なんか、なんぼでもおるけん」
千鶴が自信なく言うと、花江は素直にうなずいた。
「まぁ、それもそうだねぇ。でも、あたしは鳥打ち帽の男には気をつけておくよ。それと二百三高地の女だね」
さてと――と花江は腰を上げようとした。
「そろそろ仕事に戻んなきゃね。千鶴ちゃんたちは、このあとはどうすんだい?」
「ちぃと町に出てみよかて思いよるんよ」
「そりゃいいや。ゆっくり楽しんでおいでよ」
花江はお盆を持つと部屋から出ようとした。ところが障子を開けたところで、千鶴たちを振り返った。
「そうそう。いい機会だから教えとくれよ。風寄の祭りの晩にでっかいイノシシの死骸が見つかったって、新聞に出てたんだけどさ。あれ、本当かい?」
春子は嬉しそうに千鶴の顔を見てから、ほんまぞなもし――と弾んだ声で言った。
花江は目を輝かせると、千鶴たちの所へ戻って来た。
「見たのかい?」
「おらたちは見とらんけんど、男の人が両腕広げても、まだ足らんぐらい大けなイノシシじゃったらしいぞなもし」
花江は自分で両手を広げながら、へぇと言った。
春子は静子の伯父の話も、花江に聞かせてやった。
二人が殺されたという話は、そのイノシシがどれほど大きくて凶暴だったのかを、伝えるには十分だったようだ。
花江は小さく身震いをすると、くわばらくわばら――と言った。
「二人とも、そのイノシシに出会さなくてよかったねぇ。もし出会してたらさ、今頃あの世行きだよ」
ほんまほんまと春子が同意してうなずいた。その横で千鶴が黙っていると、だけどさ――と花江が眉を寄せて言った。
「そのイノシシは死んでたんだろ? 新聞には何かに頭をやられたってあったけどさ。あれ、どういうことなんだい?」
また春子が得意げに、イノシシの死に様について喋った。
花江は驚き、本当にそんなことがあるのかい?――と怯えたように言った。
「そんな大きなイノシシの頭を潰したのが、岩でも木でもないとしたら、そりゃ、とんでもない化け物じゃないか! 風寄には昔からそんな化け物が棲んでいるのかい?」
「いや、そげな話は聞いたことが――」
春子はそこで言葉を切ると、口を半分開いたまま千鶴を見た。それで花江も千鶴に目を向けた。
「何だい? 千鶴ちゃんが何か知ってるのかい?」
「うち、何も――」
千鶴は惚けようとしたが、がんごかも――と春子が言った。
「がんご? がんごって何だい?」
花江は春子と千鶴の顔を交互に見た。
千鶴が黙っているので、春子が説明した。
「がんご言うんは鬼のことぞなもし。おらのひぃばあちゃんのお父ちゃん……、えっと、ほじゃけん、おらのひぃひぃじいちゃんが、浜辺で大けながんごを見たらしいんぞなもし」
花江は驚いたように口を開けたが、すぐには言葉が出なかった。
「それは本当かい? じゃあ、風寄にはそんな大きな鬼がいるってことなのかい?」
「ほんでも、鬼は鬼除けの祠で封じられとったんぞなもし」
「がんご除けの祠?」
春子はうなずいて言った。
「ほやけど、その祠がこないだの台風でめげてしもたけん、ひょっとして言うことはあるかも」
「めげたって、壊れたってことかい?」
ほうですと春子が言うと、花江はうろたえた。
「それは一大事じゃないか。イノシシを殺したのは絶対に封じられてた鬼さ。早く祠を造り直さないと大変なことになるよ!」
「ほやけど、鬼の話するんはひぃばあちゃんぎりじゃけん」
自信なさげな春子に、花江は言った。
「イノシシの話がなかったら、鬼の話はただの妄想って言えるかもしんないけどさ。実際、イノシシが頭潰されて死んだんだろ? 鬼でなかったら、他に何がイノシシの頭を潰せるって言うんだい?」
「そがぁ言われたかて……」
春子は困ったように千鶴を見た。
千鶴は花江を落ち着かせようと、春子に代わって言った。
「風寄では、鬼のことも鬼除けの祠のことも誰も知らんけん、イノシシのことも、こっちで思うほどは気にしとらんみたいぞな」
「だって、大変なことじゃないか」
「ほんでも、向こうの人が何とも思とらんうちは、どがぁもしようがないけん」
「そりゃ、そうだけどさ」
花江さん――と奥庭で花江を呼ぶ声が聞こえた。亀吉の声だ。太物屋に品を納め終わって戻ったようだ。
「また誰かが来たみたいだね。今日は忙しいよ」
花江はお盆を持って部屋を出て行った。
花江がいなくなると、春子が言った。
「花江さんて、随分元気なお方じゃねぇ。先月、家族やお店を失さした人とは思えんぞな」
「あがぁしとらんと、悲しいてめげそうになるんよ。まっことつらい思いをしたお人じゃけん、うちなんかのことも、よう励ましてくれるんよ」
「ええお人なんじゃねぇ」
「ほうよほうよ。花江さんはまっことええお人ぞな」
「ええお人言うたら、あの風太さんはどがいしよるんじゃろねぇ」
突然忠之の話が出たので、千鶴はうろたえた。
「さぁ、どがいしよるんじゃろか」
確かにどうしているのかは知らないし、気にはなっている。しかし春子と一緒に考えることではない。
話を終わらせたいので、千鶴は町に出かけようと言った。春子は喜んで賛成した。
四
離れを出て渡り廊下から奥庭を眺めると、物干しに洗濯物が掛けられていた。
洗濯を母一人に押しつけてしまったことを、申し訳ないと思いながら千鶴は茶の間へ入った。すると、幸子は台所で昼飯の準備を始めていた。
茶の間には甚右衛門はおらず、トミが一人で新聞を眺めている。その傍では、花江が火鉢で沸かしたお湯でお茶を淹れていた。やはり表に誰かが来ているらしい。
「おばあちゃん、村上さんと町に出かけて来ます」
千鶴が声をかけるとトミは顔を上げ、ゆっくりしておいでと笑顔で言った。その笑顔にぎくりとなった千鶴に、振り返った幸子が言った。
「お昼はどがぁするんね? お友だちの分もこさえよ思いよったけんど」
千鶴はちらりとトミを見て言った。
「おばあちゃんからお小遣いもろたんよ。ほじゃけん、何ぞ食べて来るけん」
「おばあちゃんがお小遣い?」
幸子は怪訝そうにトミを見たが、トミは何も聞こえていないように新聞を読んでいる。
幸子はふっと笑うと、行ておいで――と言った。
千鶴は花江にも声をかけて土間へ降りた。それから、ちらりと店の方に目を遣り、あれ?――と思った。
店の前に荷車はあるのだが、それを引く牛の姿がない。と言うことは、荷車は大八車ということになる。
遠方から反物を運ぶには牛車を用いる。大八車は人が引くので、近場でしか使わない。
これから弥七と新吉が注文の品を届けに行くのだろうかと、千鶴が眺めていると、亀吉が木箱を抱えて入って来た。
箱を積み間違えたのかと思ったが、再び外へ出た亀吉は別の木箱を運んで来た。外でもう一人から荷物を受け取っているようだが、弥七だろうか。
それにしても新吉の姿が見えないし、茂七もいない。それに亀吉が運び入れた木箱を、辰蔵が土間に降りて確かめている。
どういうことだろうと首を傾げながら、千鶴は先に奥庭に出た春子の所へ行った。
「お待たせ。ほな、行こか」
春子に声をかけると、千鶴は裏木戸へ向かった。学校へ行くわけではないし、今は帳場は混み合っているので、裏木戸から出ることにしたのだ。
来た時は表の店から入ったが、出る時は違う所なので、春子は面白がりながら千鶴に従った。
横の道に出ると、春子は千鶴の家を見上げ、二階に上がってみたかったと言った。
春子は余程二階に憧れているらしく、いつか自分が嫁入りする時は、二階のある家が条件だと言った。
「師範を続けることが条件やないん?」
千鶴が訊ねると、あははと春子は笑った。
「言うてみたぎりぞな。師範になるんも嫁入りするんも、全部お父ちゃんが決めるけんな。おらはただほれに従うぎりやし。山﨑さんとこかてほうじゃろげ?」
「ほうじゃね。うちはおじいちゃんが全部決めんさるけん、おじいちゃんが決めたとおりになるんよ」
まだ具体的には何も言われていない。だが、千鶴は祖父母が本気で婿取りを考えていると思っていた。
たとえそれが鬼であろうと、自分には拒むことができない。千鶴は自分の無力さを感じずにはいられなかった。
「いや、こげなことまでしてもろて、まっこと申し訳ない」
裏木戸の向こうから、辰蔵の声が聞こえた。
どうやら、あの大八車は絣を運んで来たものらしい。どこから運んで来たのかわからないが、この人は木箱を蔵へ運ぶ仕事まで手伝ってくれているようだ。
気のいい人がいるものだと思っていると、後ろで突然嗄れた声が叫んだ。
「そこのお前!」
驚いて振り返ると、杖を突いた老婆が立っていた。真っ白な髪を束ねることもせず、ぼぉぼぉと伸ばしたままの不気味な老婆だ。
「お前はこの家の者か?」
ほうですと千鶴が答えると、老婆は千鶴の後ろにある裏木戸をじっとにらんだ。
「何ぞな? いきなり失礼じゃろがね!」
春子が文句を言ったが、老婆の耳に春子の声は少しも届いていないみたいだった。
老婆は目を細めると、千鶴に顔を戻した。その顔は何だか緊張で強張っているように見える。
「お前には鬼が憑いておるの。この家には鬼が入り込んでおるぞ」
老婆の言葉に、千鶴は固まってしまった。
それが図星であったことと、春子の前で告げられたことで、声も出て来なかった。
「何言うんね! あんた、頭おかしいんやないん?」
春子が声を荒げても、老婆は一向に平気だった。千鶴をじっと見つめながら目を細め、おや?――と言った。
「どうやら、お前にも原因があるようじゃな。鬼はお前が呼び寄せたと見えるわい。元々、お前と鬼は――」
老婆は再び裏木戸に目を遣ると、急に血相を変えた。そして、そのまま黙って立ち去ろうとした。
千鶴は反射的に老婆を呼び止めた。
「あなたは誰ぞなもし?」
老婆は立ち止まると、千鶴を振り返った。
「わしはな、お祓いの婆ぞな。この先に用があって行くとこなけんど、鬼が見えた故、お前に声をかけたまでよ」
「じゃあ、うちはどがぁしたらええんぞなもし?」
「気の毒なけんど、わしがお前の力になってやることはできん。お前に憑いとる鬼は、一筋縄で行くような鬼やないで、わしごときの力じゃ、どがぁもできまい。ほれに、鬼はお前を――」
喋りながら千鶴の後ろに視線を向けた老婆は、ぎょっとした顔になると、慌てたように口を噤んだ。それはまるで余計なことを言うなと、何者かに脅しをかけられたように見えた。
老婆はそれ以上は何も言わず、千鶴に背を向けると逃げるように行ってしまった。
千鶴はもう一度声をかけたが、もう老婆は振り返りも立ち止まりもしなかった。
婿になる男
一
紙屋町の入口、札ノ辻の北側の角には、木造四階建ての大丸百貨店がある。大正六年、千鶴が高等小学校に入った年に建てられたものだ。
紙屋町を含む城山の西側の区域は、古町三十町と呼ばれる明治以前の松山の商いの中心地で、租税も免除される特別地域だった。
ところが明治になると租税免除の特権がなくなり、その勢いは衰えた。
一方で、城の南の外側と呼ばれる地域にも、商人が暮らす町があったが、こちらは伊予鉄道の起点となる松山駅ができたため、大いに活気づくこととなった。
古町の商人たちは、このまま商いの中心が外側へ移ることを恐れた。それで古町の呉服屋が逆転を狙って建てたのが、この大丸百貨店だった。
当時、とても珍しくハイカラな大丸百貨店は、たちまち松山名所として人気を博した。
東京の三越百貨店を知る花江は、地方の町である松山に、こんな百貨店があることに驚いていた。
当然、春子にとっても憧れの場所であり、春子は大丸百貨店へ行きたいとせがんだ。それは、半分は本当の気持ちであっただろう。しかしあとの半分は、千鶴を元気づけるためのものに違いない。
見知らぬ老婆から、いきなり鬼が憑いていると言われた千鶴は、あまりのことに呆然とする他なかった。
春子は老婆に悪態をつき、何も気にすることはないと千鶴を慰めた。だが、そんなことで千鶴が平穏な気持ちになれるはずがなかった。そんな千鶴の気持ちを察して、春子は百貨店行きを明るくはしゃいでいるように見えた。
山﨑機織の前を通った時、大きな大八車が置かれていたが、千鶴はそれについて考える気持ちすら起こらなかった。
大八車の上に積荷はなく、これを運んで来た人物は奥でお茶でも出してもらっているらしい。帳場には辰蔵と亀吉だけがいた。
だが、帳場の様子になど頭が回らず、二人が声をかけてくれなければ、千鶴は黙って通り過ぎるところだった。
「さっきここ通った時にな、今日は絶対ここに来よて思いよったんよ」
百貨店の前に立った春子は、嬉しそうに千鶴を振り返った。
千鶴も春子が訪ねて来たら、ここへ連れて来ようと考えていた。
学校の寮は門限が厳しいし、生徒たちは多くのお金を持っていない。そのため、休みに外へ出るにしても三津の町のことが多く、松山まで遊びに出ることはそれほど多くはない。
春子と阿沼美神社の祭りを楽しんだ時も、先生に頼み込んで門限に遅れる許可をもらった。そうでなければ、ちょうど祭りのいい所で三津浜に戻ることになっていた。
寮生活はそんな感じなので、これまで春子が大丸百貨店へ来たのは、去年に一度来ただけだった。
とは言っても、百貨店のすぐ近くに暮らす千鶴でさえも、ここへ来ることは滅多になかった。
基本的に百貨店で取り扱っているのは、高級品ばかりである。甚右衛門を初め、山﨑機織の誰もが一度はこの百貨店を訪れたが、そのあとは本当に用事がない限り、ここを訪れることはなかった。
仕事が忙しくて暇がないこともあったが、不要な高級品を買うだけの余裕などないのが一番の理由だった。
建物の中に入ると、まずそこで履物を脱いでスリッパに履き替える。脱いだ履物は下足番が預かって、裏口に回される仕組みになっている。もう、これだけで春子は大興奮の様子だ。
通常の店では番頭が帳場に坐り、客の注文に応じていちいち品を出して来る。だが百貨店では、すでに商品が陳列されている。
つまり、自分の頭にない品を見られるのである。それは思いがけない品と出会うことでもあり、商品を眺めているだけでも愉快で楽しいことだった。
百貨店の店員は、全員が着物姿の女性だ。女性が客に商品の説明をし、販売するのである。そのことも千鶴や春子には新鮮だった。
通常の店の番頭や手代は、男の仕事と決まっていた。女には女中の仕事ぐらいしかない。
とにかく女が働ける場所は限られている。千鶴たちが師範を目指している背景には、そういった事情もあった。
そのため百貨店で働く女性店員の姿は、千鶴には輝いて見えた。だが、それは去年にここを訪れた時のことである。
今の千鶴は老婆に言われたことで、何かに感動することもできなくなっていた。
それに、じろじろと千鶴に目を向ける他の客たちの視線は、千鶴をさらに憂鬱にさせた。
百貨店の一階は、ハンカチや靴下などの洋品が置かれている。二階は呉服売り場で、三階には文具・化粧品がある。
各売り場に陳列された商品はいずれも高級で、春子は眺めるしかないことを残念がった。
しかし、百貨店には商品以外にも、目玉になるものがあった。それは、えれべぇたぁだ。
えれべぇたぁとは、案内の女性がいる小部屋だ。
この小部屋はとても面白い。案内の女性が扉を閉め、次に開けた時には、外は違う売り場になっているのだ。
去年来た時にも、使ったことがあるはずなのに、春子は初めてみたいに大はしゃぎだった。
三階までは商品売り場だが、最上階の四階は食堂になっている。
ここでの食事には憧れがあるが、祖母からもらった小遣いでは少し足が出る金額だ。それに、年配の女性ばかりで埋まっていることに気後れしたので、二人は食堂はやめて外へ出ることにした。
百貨店を出ると、師範学校が目に入った。
師範学校は西堀の北端にあり、その向こう側を札ノ辻を起点とした今治街道が通っている。
先日、忠之に人力車で運んで来てもらったのはこの道で、春子が人力車を降りたのが師範学校の前だった。
あの時は街灯ぐらいしか明かりがなかったので、師範学校はよく見えなかった。だが今は太陽の下で、その華麗な姿を見ることができる。
遥か昔、中国の秦の始皇帝が建てた宮殿を阿房宮と呼ぶが、それにちなんで愛媛師範学校は伊予の阿房宮と呼ばれている。
「こっちが女子師範学校で、三津浜にあるんが師範学校やったらよかったのになぁ」
伊予の阿房宮を眺めながら、春子が残念そうに言った。
「ほれじゃったら、学校が休みの時は松山で遊べるし、この百貨店もちょくちょくのぞけるのに」
千鶴が女子師範学校に入った頃は寮生活だったので、松山から離れられることを千鶴は喜んだ。
しかし寮を出て自宅から通うようになってからは、春子と同じように、こっちが女子師範学校であればよかったのにと思うことは何度もあった。
女はいつも後回しで、何かのついででなければ目を向けてもらえないと、二人は文句を言いながら札ノ辻を南へ進んだ。
少し行くと、右手に勧商場がある。
勧商場というのは、一つの建物の中にいくつもの小売店が集まったもので、ここでは化粧品や衣類、日用雑貨などの店があった。
春子はここも初めてのぞいたわけではないが、北城町の勧商場よりこちらの方が規模が大きいと、前と同じことを言いながら、並べられた商品を見て回った。
こちらも百貨店同様に、品物は先に陳列してあるが、百貨店のような高級品ではないので、高くて手が出せないというものではなかった。
それでも二人は学生の身分なので、やはり見るだけだったが、春子は十分楽しんでいる様子だった。千鶴を気遣うことも忘れているようなので、それが却って千鶴の気分を和らげてくれていた。
二
伊予鉄道の松山停車場の向かいに、善勝寺というお寺がある。
ご本尊は日切地蔵と呼ばれ、何日にとか、何日までにという感じで、期日を決めて願掛けをすると、願いが叶うと言われている。
この善勝寺へ千鶴は春子を連れて来た。だが、目的は日切地蔵ではない。境内で売られている饅頭だ。その名も日切饅頭と言うが、饅頭と言うより焼菓子だ。中には熱々のあんこがたっぷりと入っていて、三個五銭である。
千鶴と春子は買った饅頭を一つずつ手に取った。残りはあとで半分こだ。
「熱いけん、気ぃつけや」
春子の食べっぷりを知っている千鶴は、春子に忠告をした。春子はわかってると言いながらがぶりと囓り、熱い熱いと大慌てだ。
千鶴は急いで春子を手水舎へ連れて行き、柄杓で水を口に含ませた。
「ああ、熱かった。口に入れた物は出せんし、さりとて呑み込めんけん、どがぁなるかと思いよった」
「ほじゃけん、気ぃつけやて言うたのに。村上さん、前来た時も対のことしよったよ」
「今度から気ぃつけるけん。ほれにしても、これ、まっこと美味いぞな。名波村のみんなにも、食べさせてやりたいなぁ」
「ほれも前に言いよったね」
そう言いながら、千鶴もこれをあの人に食べさせてあげたいと思った。もちろん、あの人とは忠之のことである。
ほうじゃったかねと春子は笑うと、今度は慎重に少しずつ食べながら言った。
「おらな、こっち戻んてから家に手紙書いたんよ」
「何の手紙?」
「おらたちを運んでくれた風太さんのことぞな」
千鶴は胸がどきんとした。
「風太さん、おらたちを運んだ銭を、あとで家に請求するて言うておいでたじゃろ? ほじゃけん、ほんことをお父ちゃんに謝っとかないけん思て、家に手紙書いたんやけんど、その返事が昨日届いたんよ」
春子が何を言おうとしているのか、千鶴にはわかっていた。請求なんか来ていないし、風太などという者は車夫にはいないという話に違いない。
「お父ちゃんからの手紙、何て書いてあった思う? そげな請求なんぞ来とらんし、俥ぁ引く者に風太いう奴なんぞおらん言うんで。山﨑さん、どがぁ思う?」
「また、お不動さまが助けてくんさったんやないん?」
千鶴が惚けて冗談を言うと、春子は真顔で、やっぱし?――と言った。
「おらもな、ほうやないかて思いよったんよ。ほやなかったら、他に説明できんじゃろ?」
千鶴は噴き出しそうになるのを、横を向いてごまかした。
源次に襲われたことも含めて、春子には内緒事がいろいろある。申し訳ないとは思うのだが、話せることでもないから仕方がない。
「手紙の話に戻るけんど、知らん男が引く俥ぁで松山に戻んた言うんで、おら、がいに怒られてしもたぞな」
「ほんでも、こがぁして無事に戻んて来られたんじゃけん、よかったやんか」
「ほんまほんま。お不動さまの俥ぁに乗せてもらえなんだら、おらたち、今頃退学になっとったで」
本当に春子の言うとおりだった。忠之がいなかったら、どうなっていたかと思うと感謝しきれない。
「今頃、どがぁしんさっておいでるんじゃろか」
千鶴が独り言をつぶやくと、春子はけらけらと笑った。
「ほら、決まっとらい。法正寺の本堂でこがぁして座っておいでるぞな」
春子は不動明王の真似をしてみせた。その顔があまりに面白かったのと、不動明王が助けてくれたと、春子が真剣に信じていることで、千鶴は不安も忘れて笑い転げた。
千鶴たちは善勝寺を出たあと、そこから東へ延びる湊町の通りを進み、魚の棚という所へ出た。そこは、かつて多くの魚屋が集まっていた所だ。今でも魚屋はあるが他の店もある。
その一画に、三階建ての立派なうどん屋がある。亀屋という有名な店で、松山を訪れた者は必ず立ち寄ると言われている所だ。
千鶴はそこで春子にうどんをご馳走することにした。
どこへ行っても人々の視線が集まるが、千鶴は気にしないことにした。いずれ鬼になる自分が、こんなことができるのも今しかないと思うと、人の目など気にしていられなかった。
うどんを食べたあとは、魚の棚から北へ延びる大街道という商店街を散策した。ここは名前が示すとおり広くて長い商店街だ。
いろんな店が所狭しとひしめき合っていて、活動写真館や芝居小屋までもがあった。
あちこちの店をのぞき、活動写真館で活動写真を一つ楽しむと、春子は時間を気にし出した。
門限である五時までには、寮に戻っていなければならない。しかし、札ノ辻まで歩いて戻ると時間がかかる。
それで春子は、大街道の北端にある一番町停車場から電車に乗ることにした。
「今日はだんだんありがとう。おら、まっこと楽しかった」
「うちも楽しかった。ほんじゃあ、また明日学校でな」
春子を乗せた電車を手を振りながら見送ったあと、千鶴は線路に沿って歩いた。
右手には城山があり、山頂には松山城がそびえている。
城山の麓には萬翠荘と呼ばれる、美しい洋館がたたずんでいる。殿さまの血筋である久松定謨伯爵が、去年の十一月に別邸として建てたものだ。
萬翠荘の手前には裁判所がある。電車の通りからでは、萬翠荘は裁判所の建物が邪魔になって見えづらい。
千鶴は裁判所から南へ向かう道に入り、離れた所から城山を振り返った。すると、裁判所の上から顔を出すように、樹木に埋もれたような萬翠荘が見えた。
その美しさに千鶴は溜息をついた。
ここは各界の名士と呼ばれる人々の集う場であり、皇族が来松した時に立ち寄る所である。
記念すべき萬翠荘の一番初めの宿泊客は、体調が優れぬ大正天皇の摂政宮として、松山を訪れた裕仁親王だった。
親王は松山各地を視察されたが、女子師範学校もその一つとなった。
千鶴たち生徒は、親王の前で薙刀の演武を披露し、合唱曲を歌った。そんなことは一生のうちに、一度あるかないかというものであり、あの時ばかりは千鶴が女子師範学校に通っていることを、祖父母は知人たちに自慢したそうだ。
そんなこともあって、千鶴は裕仁親王に親しみを感じていた。その親王が泊まられた屋敷が目の前にある。
いずれ人として暮らせなくなる日が訪れるのだとしたら、その時までに一度でいいから屋敷の中を見てみたい。洋館を眺めながら千鶴はそう思った。
千鶴の頭の中では、再びあのお祓いの婆の言葉が繰り返されていた。
三
紙屋町へ戻って来ると、山﨑機織の前には牛車も大八車もなかった。お客も来ている様子がないので、千鶴は店に入った。
「戻んたぞな、辰蔵さん」
千鶴は帳場にいる辰蔵に声をかけた。
午後は茂七と弥七は注文取りに廻っている。丁稚の二人はいるはずだが、奥にいるのか、ここには姿がない。代わりにずんぐりした男が、辰蔵の横で胡座をかいて座っている。
男はじろりと千鶴を見ると、にらむような顔になった。
「お前、千鶴か」
「え? は、はい」
不躾に名前を呼ばれ、千鶴は戸惑いながら返事をした。
「わしが誰かわかるか? わからんじゃろな」
いきなり訊かれても知らない相手である。千鶴が返事に困っていると、男は山﨑孝平と名乗り、お前の叔父だと言った。
「叔父さん? すんません、うち、初めて聞く話ですけん」
「ほら、ほうじゃろな。お前がまだこんまい頃に、わしは松山を出たんじゃけんな」
何だか喧嘩を売っているような喋り方に、千鶴は困惑して辰蔵を見た。辰蔵も少し困った様子で千鶴に言った。
「あたしも直接お会いするんは、今日が初めてなんぞなもし。ほんでもこの方のことは、あたしが丁稚じゃった頃に、耳にしたことはあるんです」
「ほんじゃあ、ほんまに、うちの叔父さん?」
「何じゃい、わしの言うことが信用できんかったんかい。人に散々迷惑かけといて偉そうに」
孝平は顔をしかめると、へっと息を吐いた。
千鶴はむっとする気持ちを抑えながら、孝平に訊ねた。
「うちがどげな迷惑をおかけしたんぞなもし?」
孝平は嫌な顔のまま居丈高に言った。
「わしはな、ここと同業の店の丁稚をしよったんぞな。もうちぃとで手代になれたのに、お前のせいで馬鹿にされて、わしよりあとから入った奴が手代になったんぞ。ほじゃけん、あほらしなって松山から出たんぞな」
孝平の話で、自分がどれだけ世間から邪険にされていたのか、千鶴は思い知らされた。何もしていなくとも、自分は存在そのものが迷惑なのだ。
「ほれは……申し訳ございませんでした」
悲しみと屈辱に耐えながら千鶴は頭を下げた。すると、辰蔵が言った。
「千鶴さんが悪いんやありません。何も謝ることないぞなもし」
何やと?――といきり立つ孝平に、辰蔵は堂々と言った。
「千鶴さんは旦那さんと奥さんの大切なお孫さんぞなもし。あなたさまに何があったんかは存じませんけんど、ほれと千鶴さんは何の関係もございません。あなたさまが手代になれなんだんは、あなたさまご自身の実力でしょうに、ほれを千鶴さんのせいにしんさるんは、とんだお門違い言うもんぞなもし。いくら旦那さんのご子息や言うても、これ以上、千鶴さんを侮辱しんさるんは、あたしが許しません」
「お前、使用人のくせに偉そなこと言うてからに。わしはここの跡取り息子やぞ? わしがこの店継いだら、お前なんぞ、こいつと一緒に真っ先に放り出してやるけんな!」
「あなたさまが旦那さんの跡を継ぐいう話は、これぽっちも耳にしとりません。万が一、あなたさまが跡を継がれるのでしたら、こちらの方から出て行かせてもらいまさい」
「ほぉ、よう言うた。その言葉、忘れんなや!」
そこへ花江がお茶を運んで来た。
二人の言い争いが聞こえていただろうが、花江は淡々とお茶を二人の前に置いた。それから千鶴に顔を向け、にっこり微笑んだ。
「お帰んなさい。楽しかったかい?」
「え? ええ、お陰さまで十分楽しませてもらいました。いろいろ気ぃ遣ていただいて、だんだんありがとうございました」
「千鶴ちゃんはここの跡取り娘、いや、跡取り孫娘だもんね。町で楽しむぐらい当然だよ」
何やて?――と孝平がまた憤った。
「何じゃい、今の話は。なして、こいつが跡取りなんぞ。跡取りはな――」
くるりと振り向いた花江ににらまれると、何故か、孝平は勢いを失った。
「跡取りは……、このわし……、なんじゃけんど……」
「あんた、いきなり来て、何言ってんのさ。ここの跡取りは千鶴ちゃんだよ。どこの誰だか知らないけどさ。勝手なことを言うもんじゃないよ!」
「いや、ほじゃけん、わしはやな、その……」
何だか孝平の様子がおかしい。花江に言われ放題で、しどろもどろになっている。そこへ幸子も顔を出した。
孝平を見た幸子は、眉間に皺を寄せながらしばらく孝平を見つめたあと、驚いたように目を見開いた。
「あんた、孝ちゃん? 孝ちゃんなん?」
「な、何じゃい。馴れ馴れしいにすんな」
うろたえた孝平が横を向くと、幸子は駆け寄って孝平の手を取った。
「あんた、今までどこ行きよったんね。お父さんもお母さんも心配しよったんよ!」
「穢らわしい。わしに触るな!」
孝平が幸子の手を振り払うと、花江が当惑顔で幸子に訊ねた。
「幸子さん、この人、幸子さんの何なの?」
「この子はね、うちの弟なんよ。正兄が亡くなったあと、ほんまじゃったら、この子がここの跡取りになるはずやったんよ。ほれやのに、この子はみんなに黙って奉公先逃げ出して、行方知れずになっとったんよ」
「そういうわけだったんだ」
花江がうなずくと、わかったかと言わんばかりに孝平は胸を張った。
「聞いてのとおり、わしがここの正式な跡取りぞな。わかったら、みんな、ほれなりの礼儀いうもんを見せるんやな」
「孝ちゃん。あんた、お父さんには会うたんか?」
幸子が訊ねても、孝平は無視をした。
怒った花江が、どうして無視をするのかと質すと、穢れた者とは話をしないと、孝平は言った。
「それじゃあ、あたしもあんたとは喋らない。あたしゃ心の穢れた人間が大っ嫌いなのさ」
「わしはここの跡取りやぞ?」
花江は早速孝平を無視して、孝平に出したお茶をお盆に戻した。
「おい、ほれはわしの茶ぁぞ。勝手なことすんな」
孝平は文句を言ったが、花江は聞こえないふりをして奥へ引っ込んだ。
気まずそうな孝平を、辰蔵がふっと笑った。それで孝平が辰蔵に手を出そうとしたので、幸子がきつく叱った。
姉に貫禄負けした孝平は、不機嫌そうに横を向いた。
こんな男が自分の叔父なのかと、千鶴は呆れた。
万が一にも、この叔父が店を継ぐようなことがあれば、大事になるのは必至である。それは有り得ないことだろうが、この叔父がこのままここに居座ることになると、それも問題に違いない。
千鶴は母を見たが、母も困惑のいろを浮かべている。
四
「親父は中か?」
穢れた者とは話をしないと言ったくせに、訊ねられる相手がいないからか、孝平は幸子に訊ねた。
偉そうな態度を見せ続ける弟に、幸子は憮然としながら言った。
「やっぱし、まだ会うとらんのじゃね。お父さんは昼前から出かけとるし、お母さんも雲祥寺へ出かけておらんぞな」
「何じゃい、どっちもおらんのか。こがぁな番頭一人置いておらんとは、二人とも無責任やの」
孝平が吐き捨てるように言うと、辰蔵が素っ気なく言った。
「直接お会いする勇気なんぞないくせに、偉そうに」
「何じゃと?」
「違うと言いんさるんか? 本気で旦那さんに会うつもりがおありじゃったら、ここであたしにぐちぐち言うとらんで、さっさと中へ入ったらよろしかろに」
「お前が知らん者には会わせられん言うけん、ここにおったんじゃろが!」
「ほんでも、ほんまに旦那さんの跡継ぎやと言いんさるんじゃったら、堂々とそがぁしんさったらどがぁぞな?」
「あがぁ言うたら、こがぁ言う。ほんまに憎たらしい番頭じゃの」
「ほれはお互いさまぞなもし」
何を!――と孝平が辰蔵につかみかかったので、千鶴と幸子は孝平を押さえようとした。しかし、孝平に突き飛ばされた幸子は、土間へ落ちて腰を打った。
「お母さん!」
千鶴が叫ぶと同時に、怒った辰蔵が立ち上がり、孝平と揉み合いになった。
いつの間にか、店の表には近所の者たちが面白そうに集まっている。
「ほれ、辰さん、しっかりせんかい!」
「辰蔵さん、あたしがついとるぞな!」
みんなは辰蔵の味方をするが、誰も手を貸そうとも、喧嘩を止めようともしない。わいわいと楽しそうに眺めているだけだ。
千鶴が倒れた母を花江と一緒に介抱していると、店の前の人だかりをかき分けて甚右衛門と亀吉が現れた。
亀吉は争いを見ると、驚いて立ちすくんだ。しかし、甚右衛門は店に入ると、やめんか!――と二人を一喝した。
その声で動きを止めた辰蔵に、孝平はびんたを食らわした。
すると、花江がすっくと立ち上って帳場に上がると、孝平の頬をぴしゃりと叩いた。
表から、おぉっ!――と言う歓声が上がる。
叩かれた頬を手で押さえながら、驚いて花江を見る孝平に、花江は黙ったまま顎をしゃくり、表を見るように伝えた。
そこに甚右衛門の姿を見つけた孝平は、一瞬うろたえた。だが、すぐに笑顔になって、親父――と言いながら土間へ降りた。
「親父、わしぞな。孝平ぞな」
甚右衛門は返事をしないまま孝平に背を向けると、野次馬たちに見世物ではないから自分の店に戻れと言った。
もうおしまいかと、野次馬が残念がりながらぞろぞろといなくなると、甚右衛門は孝平に顔を戻した。
「親父、わしな、戻んて来たんよ。店の跡継ぎがおらんで困っとんじゃろ? ほじゃけんな、わし、戻んて来たんよ」
誇らしげに言う孝平に近づくと、甚右衛門はいきなり胸ぐらをつかんで張り倒した。
「今更、何言うとんぞ? あん時、お前はわしにどんだけ恥かかせたんか、わかっとらんのか! その上、今日はこげな騒ぎを起こして、また恥かかせよってからに!」
孝平は道の上に正座すると、甚右衛門に言った。
「ほのことじゃったら、このとおり謝るけん。ほれよりな、店の跡継ぎで困っとんじゃろ? わし、親父には迷惑ぎりかけてしもたけん、今度こそ親父の力になりたい思て、戻んて来たんよ」
甚右衛門は、孝平を見下ろしながら言った。
「ほうか、ようやっと心を入れ替えたんか」
孝平は嬉しそうにうなずくと、いそいそと甚右衛門の傍へ行こうとした。だが甚右衛門は、もう遅いわい――と言った。
「遅いて、跡継ぎはまだ決まっとらんのじゃろ?」
「いいや、決まった」
「決まった? 決まったて、誰に?」
甚右衛門は横を向くと、離れた所に立っていた男を呼んだ。
男が近くに来ると、甚右衛門は孝平に言った。
「この男が千鶴の婿になる。千鶴と夫婦になって、二人でこの店を継ぐんぞな」
え?――と思って、千鶴はその男を見た。
小さな目に大きな口。お世辞にも素敵な顔とは言えない。だが、風貌は堂々としており、少し威張っているようにも見える。歳は二十四、五だろうか。
「ほら、あたしの言ったとおりだろ? 旦那さんは千鶴ちゃんを跡継ぎにって考えてたんだよ」
幸子に肩を貸しながら、花江が得意げに言った。しかし、花江の言葉は千鶴の耳には入っていない。
千鶴はじっと男の頭を見つめた。角が生えていないかを確かめるためだ。だが、いくら見ても角らしきものは見えない。
男は孝平をちらりと見たが、その目には嘲りのいろが浮かんでいるようだ。
孝平の方も男をにらんだが、その顔は焦りで歪んでいる。
「親父、わしいう者がおるのに、なして、こげな男を連れて来るんぞ?」
「黙っとれ! これまで行方をくらましよったお前には、何も言う資格はない!」
親父――と泣きそうな顔の孝平を無視して、甚右衛門は男を店の中へ誘った。それから千鶴に気がつくと、嬉しそうに笑った。
「おぉ、千鶴か。ちょうどええ。お前の見合い相手を連れて来たんぞな」
店の入り口に立った男は、千鶴に軽く会釈をした。しかし男には笑顔がなく、何を考えているのかがわからない。
「おじいちゃん、うち、お見合いするん?」
千鶴がうろたえながら訊ねると、甚右衛門はうなずいた。
「いろいろ考えた末、そがぁするんがええとなったんぞな。ほういうことじゃけん、奥の座敷へ行け。花江さん、すまんけんど、お茶を淹れてくれんかな。ん? 幸子はどがぁしたんぞな?」
甚右衛門が花江につかまっている幸子に気づくと、花江は事情を説明した。
甚右衛門は外に立ったままの孝平をじろりと見たあと、幸子を離れで休ませてから、お茶を淹れるよう花江に頼み直した。
「親父ぃ」
店に入れない孝平が、表から情けない声で甚右衛門を呼んだ。
そこへ茂七が外の仕事から戻って来た。その後ろについて、亀吉がこそこそと店に入った。
甚右衛門は辰蔵と茂七に、孝平を店の中へ入れないよう命じた。
茂七は何のことかわからず、甚右衛門と孝平を見比べたが、辰蔵はうなずき、お任せを――と言った。
五
茶の間で千鶴と向かい合わせに座った男は、名前を名乗った。
「鬼山喜兵衛と申します」
「鬼山?」
「喜兵衛ぞなもし」
微笑む男の顔を見つめながら、やっぱし――と千鶴は思った。
「こら、お前も挨拶をせんか」
甚右衛門に言われて我に返った千鶴は、山﨑千鶴と申しますと言って頭を下げた。
「鬼山くんの家は元武家でな。わしの家とは知り合い同士ぞな」
「おじいちゃんの家?」
「お前には言うとらんかったかな。わしはこの家に婿入りしたんぞな。わしの実家は武家でな。子供の頃は歩行町におったんよ。ほんでも明治になると、武士じゃあ暮らして行けんようなってな。ほれで、この家の跡取りとして婿に入らせてもろたんぞな」
千鶴は初めて聞いた話だった。そもそも祖父がこんなにいろいろ喋ってくれること自体が、これまでなかったことだった。
「ほういうわけで、似たような形で鬼山くんをうちへ迎え入れようと、こがぁなことぞな」
千鶴が黙っていると、甚右衛門は少し焦ったように付け加えた。
「鬼山くんは剣道四段の腕前でな。道場でも、さすが武家の血筋とうなずかされる猛者やそうな」
どうやら甚右衛門は武家であることに、かなりの重きを置いているようだ。元々は自分も武士の出であったことを、誇りに思っているのだろう。
「剣道四段て、がいなことなんですか?」
千鶴は剣道のことなどわからない。前世で進之丞が剣の腕を磨いていた時には、段というものは聞かされたことがないような気がしている。
喜兵衛が苦笑すると、甚右衛門は少し機嫌を悪くしたように言った。
「がいなことに決まっとろが。四段いうんは、この若さでそうそう取れるもんやないんぞ」
千鶴は慌てて喜兵衛に頭を下げると、何も知りませんもんで失礼致しました――と詫びた。
いやいやと喜兵衛は貫禄を見せるように笑い、女子にはわからんことですけん――と言った。
喜兵衛から下に見られていると感じながらも、これ以上祖父に恥をかかせるわけにもいかないと、千鶴は我慢しながら話しかけた。
「鬼山さんは、昔から歩行町に住まわれておいでたんですか?」
「あしが住みよるんは湊町ぞなもし。歩行町におるんはあしの祖父母で、あしの親は歩行町を出て湊町で暮らしよります」
歩行町というのは、城山の南東に位置する下級武士が暮らした町で、春子が電車に乗った一番町の電停より北にある。
千鶴と春子が松山電停から魚の棚まで歩いた通りは湊町商店街だが、湊町自体は魚の棚からさらに東へ延びている。
魚の棚より東側には伊予絣を作る家が数多く並んでいるが、喜兵衛の家はその中の一軒だった。
鬼山という家が昔からあるのであれば、鬼とは関係がないのかもしれない。
だが喜兵衛という人物が、本当に鬼山家の一員であるかは定かでない。もしかしたら、鬼山家の人間を装った鬼ということも考えられる。
「あの、おじいちゃんはこの方を、いつからご存知やったんぞなもし?」
「先日、歩行町の実家に立ち寄った時に、鬼山家に独り身のええ男がおると教えてもろたんよ。ほれで今日、湊町まで行てみたら、鬼山くんも千鶴に会うてみたい言うけん、連れて来たんぞな」
いい男と言われた喜兵衛は、少し恥ずかしそうな笑みを浮かべた。しかし警戒している千鶴には、その笑顔がわざとらしく見えた。
「ほじゃけん、お見合いいうほど堅苦しいもんやのうて、ただの顔合わせぞな。そがぁ思て気楽に喋ればええ」
いきなり見合い相手を連れて来られて、気楽に喋ればいいと言われても、喋れるわけがない。しかも、相手は鬼かもしれないのだ。
千鶴が黙っていると、喜兵衛の方から千鶴に話しかけた。
「千鶴さんはお父さんのことは、何ぞご存知かなもし?」
「いえ、うちが産まれた時には、もう、おりませんでしたけん」
「お父さんに会うたことはないんかなもし?」
はい――と千鶴がうなずくと、父親に会ってみたいかと喜兵衛は訊ねた。
千鶴はちらりと甚右衛門を見てから、いいえ――と首を小さく横に振った。
「ほやけど、いっぺん会うてみたいて思うことはあるじゃろに」
次第に体が前のめりになる喜兵衛の言葉は、少し決めつけたと言うか強引さがある。
そこまで父に関心があるというのは、やはり父もこの男も鬼だということなのか。千鶴は喜兵衛の正体を見たような気がした。
「なして鬼山さんは、そがぁに父のことぎり訊ねられるんぞな?」
千鶴の問いかけに、はっとしたように姿勢を正した喜兵衛は、頭の後ろに手を当てて笑った。その仕草は伸びて来た角を隠そうとしたように見える。
「いや、申し訳ない。実は、いずれ伊予絣をソ連にも売り込んだろと思いよったんぞな。ほじゃけん、千鶴さんのお父さんと連絡が取れるんなら、これは行けると思たぎりぞなもし。千鶴さん、お父さんとは手紙のやり取りぐらいはしよるんじゃろ?」
馴れ馴れしい口調になった喜兵衛を、千鶴はますます怪しんだ。
しかし、甚右衛門は喜兵衛の発想に大きくうなずいている。
「さすがじゃな、鬼山くん。まだ若いのに大したもんぞな」
「いやいや、今のとこはソ連とはまだ国交がありませんけん、捕らぬ狸の皮算用ぞなもし」
甚右衛門も喜兵衛も意気投合している様子だ。二人とも千鶴が婿取りを了承するものと決め込んでいるようだ。
がんごめである以上、鬼と夫婦になるのは定めかもしれない。しかし、千鶴は定めに抗うことに決めた。
「おじいちゃん、鬼山さん」
千鶴は二人に声をかけた。
「うち、これまでずっと小学校教師になるために、女子師範学校で勉学に励んで来ました。うちの頭にあるんは小学校教師になることぎりぞな。ほれやのに、今日いきなしお見合いさせられても、うちとしては困るんぞなもし。ここのお店の事情はわかっとりますけんど、ほれにしたかて困るんぞなもし」
千鶴はきっぱり言った。これだけのことが言えたのは、忠之への想いがあったからだ。
これまでは、忠之ことはあきらめねばならないと考えていた。
しかし、己の定めを突きつけられた今、千鶴は自分の本当の気持ちに気づかされた。
自分が夫婦になるのはあの人だけだと、千鶴は心に決めていた。夫婦になれないのであれば、一生独り身でいる覚悟があった。
毅然とした千鶴の言葉に、甚右衛門も喜兵衛も少なからず動揺したようだった。だが甚右衛門は千鶴の言い分を聞き、確かに性急過ぎたと反省の姿勢を見せた。
喜兵衛も同様に、もう少し個人的な話をするべきだったと言い、千鶴に自分の無神経さを詫びた。その上で、千鶴とは結婚を前提としたお付き合いがしたいと申し出た。もちろん、それは千鶴の婿になるということだ。
甚右衛門は千鶴をなだめるように言った。
「結婚について、今すぐ返事はせんでええ。どうしても教師になりたい言うんなら、ほれも構ん。その上で、いっぺん鬼山くんと付き合うてみてはもえまいか。付き合うてみて、やっぱしいけんと言うんなら、ほれはしゃあないことよ。どがぁじゃ?」
祖父にここまで言われたら、千鶴も拒絶ができなかった。
「結婚を前提とせんのであれば」
これが千鶴としては精一杯の返事だった。
甚右衛門は笑みを見せると、これでいいかと喜兵衛に訊ねた。喜兵衛は千鶴と一緒になる自信があるのか、結構ですと言った。
祖父の顔を立てて付き合いはしても、絶対に結婚はしない。それが千鶴の考えだった。
それにしても、これまで邪険に扱って来た孫娘に、手のひらを返したように、婿を取って店を継げと言うのは、何とも自分勝手な言い分である。
そのことに腹立ちを覚えながらも、やはり裏で鬼が糸を引いているに違いないと千鶴は確信していた。
「あんた」
トミの声がした。見ると、土間にトミが立っている。その横で、新吉が不安げな顔で千鶴たちを見ていた。新吉の後ろには、やはり不安げな亀吉がいる。
トミは何か言おうとしたようだが、喜兵衛に気づいて訝しげな顔をした。
「このお人は?」
「千鶴の婿になる男ぞな」
鬼山喜兵衛と申します――と喜兵衛はトミに頭を下げた。
トミも喜兵衛に挨拶を返すと、すぐに甚右衛門に顔を戻した。
「あんた、表に孝平がおるぞな」
「わかっとらい」
甚右衛門は不機嫌そうに返事をした。
「わかっとるんなら、なしてあげな所に立たせとるんね? 早よ中へ入れてやらんね」
「ずっと行方くらましよったくせに、いきなし戻んて来て跡継ぎ面する奴なんぞ勘当ぞ」
「勘当て……。血ぃのつながった息子やないの。やっと戻んて来たのに、勘当はないじゃろがね」
「つかましいわ! あいつがわしのこと、何て言うた思う? 親父やぞ。己を何様や思とるんじゃい、偉そうに」
甚右衛門は怒りを顕にしたが、トミは怯まなかった。
「ほやけど、勘当することないじゃろがね。そげなことは言うて聞かせたらええことぞな」
「ここにあいつの居場所はない」
「何でもさせたらええじゃろがね」
「そげなわけに行くかい」
店の方が騒がしくなったと思うと、孝平が飛び込んで来た。慌てて追いかけて来たのは茂七と辰蔵だ。
孝平は土間に這いつくばると、土に頭を擦りつけて甚右衛門に詫びた。
「親父、いや、父さん。わしが悪かった。こがぁしてお詫びするけん、どうか、わしをここへ置いてつかぁさい」
甚右衛門はトミを気にしながら、孝平を叱りつけた。
「千鶴の見合いをしとるんがわかった上で、そげな芝居がかったことをするんは、己のことしか考えとらん証じゃろがな。母親が味方してくれるて思とんじゃろが、とんでもない。お前なんぞ、もう息子でも何でもないけん、どこまり行くがええ」
甚右衛門が、辰蔵と茂七に顎をしゃくると、二人は暴れる孝平を抱えるようにして表へ連れて行った。
トミは憤慨した様子だったが、黙って孝平の後を追った。
亀吉はトミの後に続いたが、新吉はぼーっと突っ立っていた。すると、戻って来た亀吉が、新吉を店の方へ引っ張って行った。
甚右衛門は喜兵衛に詫びると、また別の日に千鶴と会ってやって欲しいと頼んだ。
千鶴にすれば余計なお世話だったが、祖父には逆らえない。喜兵衛がにこやかにうなずいて、また連絡しますぞなもし――と言うのを、黙って聞くしかなかった。
鬼と福の神
一
これまで山﨑機織は、東京に手代の一人を送り込んでいたが、大阪では作五郎という、現地に住む年配の男を雇っていた。
作五郎は元々大阪の呉服屋で働いていた。
しかし、明治末の大火事で店が焼けてしまい、それからは山崎機織のために働いてくれている。少し気むずかしい所があるが、信頼のおける人物である。
その作五郎の元に、甚右衛門は孝平を送ることにした。
腹を立てて家から追い出したものの、トミが孝平を呼び戻せと言って聞かないため、仕方なく孝平を作五郎に試してもらうことにしたのである。
店の跡継ぎの話はともかくとして、山﨑機織に使用人が足らないのは事実だった。
以前の山﨑機織には、今より多くの使用人がいた。
だが、千鶴が高等小学校二年生の時、番頭が流行性感冒で亡くなり、三十三歳だった留三という手代が、新たな番頭となった。
甚右衛門は留三と幸子を夫婦にするつもりだった。しかし、式を挙げる前に、留三が結核であることが判明した。
回復が期待されたものの、留三は入退院を繰り返しながら、二年前に亡くなった。
当時、辰蔵は二十九歳で、東京の店廻りを任されていた。
甚右衛門は辰蔵を呼び戻して番頭に据えた。代わりに若い手代を東京へ送り込んだのだが、この手代が大地震の犠牲となった。
手代として使える者が三人いなくなり、丁稚だった弥七を手代にしたが、それでも二人足らないままだ。
もっと丁稚を取っていればよかったのだが、景気が悪くて、毎年のようには丁稚を取ることはできなかった。
それに丁稚になりたがる者が、他の店ほどはいなかった。
それは千鶴のせいかもしれなかったが、甚右衛門もトミもそこには触れていない。
ただ二人とも後継者問題だけでなく、丁稚が少ないことにも頭を悩ましていた。
東京もいずれは復興する。その時には、誰かを店廻りにやらなくてはならない。だが、今の状態では東京へ送れる者がいない。
苦しい甚右衛門が、千鶴と鬼山喜兵衛を夫婦にしようと考えたのは、無理もないことだった。
千鶴と喜兵衛のことは別にしても、作五郎が孝平を認めるのであれば、孝平を松山へ戻して、取り敢えずは辰蔵を東京へ行かせるというのが、甚右衛門の考えだった。
そのあと、自分が帳場を守りながら孝平の働き具合を見て、確かに使えるようならば茂七を東京へ送る。それから辰蔵を再び呼び戻して番頭に戻す計画だと、千鶴は甚右衛門から聞かされている。
ただ、それは当てにできる話ではなかった。
松山を飛び出したあと、どこでどうしていたのかと甚右衛門から質されても、孝平からは曖昧な返答しか戻って来なかったようで、これにはトミも呆れた様子だったらしい。
要するに、孝平は松山を出たあとは、あちこちを転々と渡り歩きながら、その日暮らしのようなことをして、何とか食いつないでいたということらしかった。
だが、その日暮らしにも困ってこっそり松山へ戻った孝平は、未だに甚右衛門が山﨑機織を仕切っていると知り、今なら戻れると考えたと言う。
これまで孝平は、ちゃんとした店で働いていたわけではない。跡継ぎはおろか、まともな仕事すら任せることは無理だろうと、そこの所はトミも甚右衛門に同意している。
孝平を大阪へ送るのも、だめで元々の覚悟である。気むずかし屋の作五郎が放り出せば、それまでのことだった。
甚右衛門は孝平に、作五郎を怒らせたなら、そのままどこにでも行って、二度と松山には戻って来るなと言い含めてある。
そんな感じで、甚右衛門が孝平よりも千鶴に期待をかけているのは間違いなかった。
千鶴に婿を迎えて跡を継がせる話は、トミも以前から甚右衛門から聞かされており、そのことには賛成したと言う。
とは言え、喜兵衛を婿にする話は甚右衛門の思いつきであり、初めはトミは懐疑的だった。ところが、甚右衛門の説明を聞いているうちに、願ってもない話だと考えるようになった。
喜兵衛が口にしたソ連との将来の取引が、トミにも魅力的に思えたのである。
跡取り息子を奪った敵国と思えば腹が立つ。だが、敵国はロシアであって、ソ連は別の国だと考えればいいと言うのが、甚右衛門の言い分だった。
トミもその意見にうなずき、ロシアとソ連は別の国だと、早速丁稚たちに教え込んでいる。
ソ連に絣を送るようになれば、今以上に忙しくなるのは必至である。そのためには丁稚の数を増やし、今から対処しておく必要があった。
とにかく、山﨑機織は瀬戸際に立たされており、目の前に迫る危難に、一丸となって立ち向かわねばならなかった。
それがわかっているので、一度は断ったはずの婿の話を祖父に再び頼まれては、千鶴はそれを無下には拒めなかった。
鬼の策略に抗って、喜兵衛と結婚はしないと心に決めたつもりだったが、いずれ自分はがんごめの本性を出すようになる。そうなれば忠之と一緒になるなどできるはずもない。
やはり喜兵衛と一緒になるのが自分の定めなのかと、千鶴はあきらめの気持ちが強くなっていた。
二
翌週の日曜日、喜兵衛は一人で千鶴に会いにやって来た。
喜兵衛は甚右衛門の許しをもらって千鶴を外へ連れ出したが、歩きながら喋るばかりで、どこかの店に入るとか、お芝居や活動写真を楽しむということはなかった。
話の感じでは、どちらかと言えば、そういう庶民の楽しみを、喜兵衛は軽蔑しているようにも思われた。
喜兵衛は前回とは打って変わり、千鶴の父親のことには一切触れず、これまでの千鶴の暮らしを聞きたがった。中でも、千鶴がどんなつらい想いをして来たのか、という点に興味があるようだった。
千鶴は過去の嫌なことを思い出したくなかったし、それを他人に喋ることも、できればしたくなかった。それでもしつこく訊かれるので、仕方なくぽつりぽつりと話した。
喜兵衛は千鶴の話に憤慨したり、うなずいたりした。だが、どこか上の空で聞いているようでもあった。
千鶴に楽しい思い出はあまり多くないが、それでも全くないわけではない。
嫌な話よりも楽しい話の方がいいので、千鶴はその話をした。すると喜兵衛は軽く聞き流して、すぐに別の話題に変えた。
喜兵衛から出る話題は、政治の話が多かった。
弱い者が虐げられる今の世の中を変えねばならないとか、もっと女性が活躍できる場を増やさなくてはいけないなどと、喜兵衛は喋り続けた。
聞いてみれば尤もな話ばかりだが、どう思うかと訊ねられると、千鶴は返事に困った。確かに不自由を感じることは少なくない。だが、だからどうするということは考えたことがなかったので、どう答えればいいのかわからなかった。
すると一瞬ではあったが、喜兵衛の顔に明らかな侮蔑のいろが浮かんだ。その表情はすぐに微笑みに変わったが、千鶴は微笑みの裏に隠れた、喜兵衛の本当の顔を忘れなかった。
この男は口では女子のためにと言っているが、心の内では女子を見下していると千鶴は思った。
鬼に選ばれた男はこんなものなのかと落胆したが、そもそも鬼に人間らしさを求める方が間違いなのだろう。
それが鬼というものなのだと、それなりに納得をした千鶴は単刀直入に問いかけた。
「鬼山さんは、ほんまは鬼なんと違うんぞなもし?」
喜兵衛はきょとんとしたあと、声を出して笑った。
「千鶴さんは面白いことを言う女子じゃな」
「違うんぞな?」
千鶴に問い詰められると、喜兵衛は笑うのを止めた。
「こがい言うたら失礼なけんど、千鶴さんは見た目よりも、ずっと頭がええお人ぞなもし。いや、頭が切れる言うんがええかいの」
「はぐらかさんで答えておくんなもし」
「ほしたら言おわい。千鶴さんがご指摘のとおり、わしは普通の男やない。鬼ぞな。名前のとおりの鬼ぞなもし」
「やっぱし……」
千鶴は覚悟ができていたので驚きはしなかった。ただ、悲しみが込み上げて来て横を向いた。
「千鶴さん、あしに優しさを求めとるんなら、ほれは無理いうもんぞな。今、世の中は鬼を求めとるんよ。相手に情けなんぞかけん鬼の男をな。情けなんぞあったら、世の中ひっくり返すやなんてできまい? ほじゃけん、鬼と呼ばれるあしが世の中を変えるんよ」
「世の中は鬼なんぞ求めとりません。ほれに、うちも鬼山さんに優しさなんぞ求めとりませんけん」
千鶴は横を向いたまま言った。泣きそうな顔を見られると、言い訳をしていると思われそうで嫌だった。
一方、千鶴に反発された鬼山は、頭に手を当てながら笑った。
「いやぁ、はっきり言われてしもたなぁ。ほんでも、ちょうどええわい。千鶴さんのそげな気ぃの強いとこが、あしは気に入ったぞなもし。千鶴さんじゃったら、あしの力になってもらえそうじゃ」
「あなたはご自分の野望のために、うちや、うちの店を利用するおつもりなん?」
千鶴はきっと鬼山をにらんで言った。その歯に衣着せぬ千鶴の言葉には、さすがの喜兵衛も少したじろいだようだった。
「もちろん、甚右衛門さんの跡継ぎとしての責任は果たそうわい。ほやけど、ただ絣を売るぎりじゃったらつまらんじゃろ? ほじゃけん、店も十分儲けさせた上で、己がやりたいこともやらせてもらうつもりぞな」
「ご自分やなかったら、うちみたいな者の婿になる男子なんぞおるわけないて、高くくっておいでるんじゃろけんど、うちは一生独りでも平気ですけん」
「ほれじゃったら、甚右衛門さんが困ろ?」
この言葉に鬼山の本音が表れている。鬼の中でも男尊女卑は人間と同じということだろう。千鶴はきっぱりと言った。
「あなたはうちを利用したいぎりで、ほんまはうちを見下しておいでるんでしょ?」
「なして、そげなことを……」
「あなたがうちをほんまに気に入りんさって、一緒になろうとしとるわけやないて言うことぞなもし」
「千鶴さん、ほれは違うぞな」
言い訳をしようとする喜兵衛を遮り、千鶴は畳みかけて言った。
「あなたがやりたいことと、うちがやりたいことは対やないぞなもし。うちは鬼が暮らす世の中にしたいんやありません。うちが願とるんは誰にも優しい世の中ぞな。鬼山さんが言うておいでるような世の中やないんぞなもし」
千鶴が言葉を切ると、喜兵衛は当惑したように言った。
「ちぃと誤解されとるみたいなけん、言い直そうわい。あしは鬼と呼ばれる男なけんど、ほれは優しい世の中にするためぞな。世の中を変えるためには、鬼の強い意志と力が必要じゃけんな」
「ほれと、銭じゃろ?」
「千鶴さん、さすがじゃな。そのとおりぞな」
けろりとしたように笑う喜兵衛に、千鶴は怒りを覚えた。
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、辰蔵さんも、みんな伊予絣を誇りに思とるんよ。うちらが売った絣で、遠くにおいでる顔見ることもないようなお人らが、喜んでくれるんを思い浮かべて商いしよるんよ。銭儲けのためぎりで商いしよるんやないんよ」
「千鶴さん、店の仕事しとらんのに、よう店のことをわかっておいでるんじゃの」
「うち、あなたとは一緒になりません」
この言葉に喜兵衛はうろたえを見せた。
「ちぃと待ちや。話はまだ終わっとりゃせんぞな」
「これ以上聞いても同しぞな。うちは自分の力で生きて行きますけん、鬼の助けはいらんぞなもし」
千鶴は喜兵衛を残して、一人すたすたと歩いて戻った。
呆然とする喜兵衛の姿が頭に浮かんだが、一度も振り返りはしなかった。
家に戻ると、待ち構えていた甚右衛門に、どうだったかと訊かれた。その隣では、トミも千鶴の言葉を待っている。
千鶴は甚右衛門とトミの前に座ると、両手を突いて頭を下げた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、申し訳ありません。やっぱし、うちはあのお人とは一緒になれんぞなもし」
何?――と叫ぶ甚右衛門の声が聞こえた。
「な、何がいかんのぞ?」
千鶴は頭を伏せたまま答えた。
「あの方はご自分の野望のために、うちやこの店を利用しんさるおつもりぞなもし。あの方には、おじいちゃんやおばあちゃん、辰蔵さんらのお気持ちなんぞ、これっぽっちもわかっとりません。ほじゃけん、うちはあの人と一緒になるんは絶対に嫌ぞなもし」
「わしらの気持ちて、何ぞな?」
千鶴は頭を上げると、喜兵衛に伝えたことを二人に説明した。
甚右衛門は唸ったまま黙り込んでしまい、トミは千鶴の言うとおりだと言った。
「ほじゃけん、うちはこの見合いには反対やったんよ。どうも話がうま過ぎる思いよった。ほれを、あんたがやいのやいの言うけん」
つかましいわ――と甚右衛門はトミをにらんだが、千鶴を叱りはしなかった。
「わかった。嫌がる者に無理なことはできんけんな」
「ごめんなさい」
千鶴が項垂れると、甚右衛門は困ったように、部屋へ戻れと言った。
千鶴が離れの部屋へ行くと、幸子が横になっていた。どうしたのかと訊ねると、さっきから腰が痛くなって動けないと言う。どうやら、孝平に土間へ落とされた時に傷めた所が悪化したらしい。
これは鬼が怒っているのだと、千鶴は思った。
しかし、鬼の怒りがこんなものであるはずがない。喜兵衛との結婚を千鶴が受け入れるまで、これから禍が続くに違いなかった。
三
翌日、作五郎からの手紙が届いた。甚右衛門の希望どおり、孝平の世話を引き受けるという内容だった。
ただ、その分の手当を甚右衛門が提示した額よりも、もう少し上げて欲しいという要望も書かれてあった。
甚右衛門は直ちに孝平に大阪行きを申しつけた。
孝平はすっかりおとなしくなり、素直に頭を下げた。
辰蔵たち使用人に対しても偉そうな態度は見せず、何でも言われたとおりに動いていたので、辰蔵は拍子抜けしたようだった。
花江にも口を利いてもらえるようになり、孝平は人が変わったように、穏やかでにこやかになっていた。
大阪へ向かう日の朝、孝平は甚右衛門とトミに言った。
「父さん、母さん。これまで心配ぎりかけよったけんど、大阪で一人前になって戻んて来るけんな」
どこまで本気で聞いていたのかはわからないが、甚右衛門は黙ってうなずいた。
トミはやっぱり期待をかけているのか、涙ぐみながら、しっかりがんばるようにと言った。
孝平は千鶴にも幸子にも挨拶はしなかったし、使用人たちにも声をかけなかった。それでも花江にだけは声をかけ、いきなり花江の手を握った。
「ちょっと何を――」
「わしが一人前になって戻んて来たら、ほん時は、わしの嫁になってくれ」
えぇ?――花江は驚いたが、他の者たちも驚いた。
「こら、孝平! こがぁな時に、何言いよんぞ」
甚右衛門に怒られると、孝平は慌てて花江から手を離して姿勢を正した。
「ほんじゃあ、行て来るぞな」
孝平は甚右衛門とトミに声をかけると、ちらりと花江を見た。
「ほんじゃあ、花江さん。約束ぞな」
「ちょっと待って。あたし、約束なんか――」
花江の返事を聞かず、孝平はそのまま一人で外へ出て行った。
花江は困ったように顔を伏せると、台所へ逃げた。
「あんた、この手があったぞな」
トミが甚右衛門に言った。それは、孝平と花江に店を継がせるというものだろう。
「そげなことは、あいつが一人前になれたら考えようわい」
甚右衛門は素っ気なく答えると、使用人たちに仕事に戻るよう命じた。
一週間後、再び喜兵衛が訪ねて来た。しかし、千鶴は喜兵衛に会おうとしなかった。
喜兵衛はしばらく甚右衛門と喋ったあと、湊町へ帰って行った。
その時の様子を、あとで千鶴が花江に訊ねてみると、甚右衛門は喜兵衛に頭を下げていたが、喜兵衛はずっと不機嫌な顔でふんぞり返っていたらしい。
見合いの話は甚右衛門から持ちかけて来たものであり、恥をかかされた責任はどう取るつもりなのかと、喜兵衛は平謝りの甚右衛門を責め続けたと言う。
だが傍にいたトミは一度も喜兵衛に頭を下げず、つんとした感じで座っていたそうだった。恐らく、自分たちには孝平がいるから、喜兵衛など用済みだと考えていたのに違いなかった。
喜兵衛が出て行くのと入れ替わりに、東京の問屋が商いを再開したという情報が届いた。しかし、山﨑機織と取引のある所がどうなったのかまではわからない。
大地震のあと、辰蔵が東京の様子を確かめに行った時には、多くの取引先は店が潰れたり、人が亡くなったりで、商いの再開など考えられない状態だった。
それでも、商いを始める時には電報で知らせて欲しいと、辰蔵は無事が確かめられた相手に頼んでおいた。ところが東京からの連絡は入って来なかった。
それから数日経つと、他の店は東京向けの仕事を再開した。だが、山﨑機織には取引先からの連絡が届かないままだった。
伊予絣を織る者は数え切れないほどいる。そのため伊予絣の品位を汚すような品を、伊予絣として出す者も少なからずいた。それを防ぐために、織元に対して織物の検品や指導を行う伊予織物同業組合が設けられている。紙屋町にはその組合事務所が置かれていた。
山﨑機織は紙屋町の辻の北東の一角にあるが、組合事務所は同じ辻の北西の一角にあった。
つまり、山﨑機織の裏木戸を出ると、目の前に組合事務所があるわけだ。いわばお隣同士であり、組合長と甚右衛門は長く親しい関係にあった。
その組合長がひょっこりと訪ねて来て、大丈夫なのかと甚右衛門に訊ねた。
何が大丈夫なのかと甚右衛門が訊き返すと、山﨑機織がもうすぐ潰れるという噂を耳にしたと、組合長は言った。
驚いた甚右衛門は、すぐに噂の出所を確かめに行った。しかし、戻って来た時には、杖を突き歩く姿になっていた。
みんなから、何があったのかと問われた甚右衛門は、噂の元を辿って行くと、噂を広めていたのが鬼山喜兵衛だとわかったと言った。
恐らく、千鶴の婿になる話が流れた腹いせに違いなく、喜兵衛を捕まえてとっちめてやろうと甚右衛門は湊町へ向かった。だが、頭に血が昇っていて郵便屋の自転車に気がつかず、ぶつかられて転倒したと言う。
右膝を地面に打ちつけた甚右衛門は、一人では立ち上がれなくなり、郵便屋の肩を借りて病院へ行ったあと、杖を借りて戻ったということだった。
とても喜兵衛をとっちめるどころではない。行ったところで迫力もなく、白を切られて終わるに違いなかった。
トミが代わりに喜兵衛の所へ行くと言ったが、甚右衛門はそれをやめさせた。女が行っても相手にされないだろうし、トミが行くことで自分の今の状態が、向こうに知れるのを甚右衛門は嫌がった。
トミは悔しがったが、それは山﨑機織全員の気持ちでもあった。
千鶴は喜兵衛との縁談を拒んだことを甚右衛門に詫びた。だが、甚右衛門はあんな男を婿にしなくてよかったと言い、自分に人を見る目がなかっただけだと、自らの責任を認めた。
また甚右衛門は、喜兵衛が山﨑機織を悪く触れ回ったところで、しっかりとした商いができていれば、誰も喜兵衛を相手にしないと言った。問題は山﨑機織の人員不足と、東京の状況がわからないことだった。
甚右衛門は急いで辰蔵に、東京の取引先の様子を見に行かせるつもりだった。だがこんな状態では、辰蔵に代わって帳場の仕事ができない。正座などできないし、かと言って、足を伸ばしたまま長く座っているのは大変だった。
用を足す時も一苦労で、右膝の痛みをこらえながら何とかしゃがむことはできても、そのあと立ち上がることができなかった。
そのため厠の外で辰蔵が待っていて、事が終わったと告げられると、甚右衛門が立ち上がるのを手伝った。甚右衛門にすれば、主としての面目は丸潰れである。
こんな姿を見せられるのは、まだ辰蔵だから許された。手代や丁稚には見せられないし、ましてや女に見せることなどできない。そういう意味でも、辰蔵を東京へ出すことはむずかしい状況だ。
甚右衛門は辰蔵の代わりに茂七を遣ることも考えた。しかし、東京に不慣れな茂七では、行ったところでどうにもならないのは目に見えていた。
そんな状態のところに、銀行員が山﨑機織の経営状況を確かめに来た。山﨑機織は銀行に借金があるので、店が潰れるという噂を耳にした銀行が、真偽を確かめに来たのである。
甚右衛門は噂はでっち上げで、経営は順調だと訴えた。しかし、杖を突いて歩く甚右衛門の姿は、説得力がなかったに違いない。
銀行員は仕入れ状況や出荷状況を確かめた。それで東京への出荷が止まったままなのを知ると、噂は本当だと判断したらしい。
これにどう対処するつもりかと問われても、甚右衛門はうまく答えられなかった。自分の膝が治ったら、辰蔵を東京へ送るつもりだというのが、今の甚右衛門にできる精一杯の答えだった。
だが、その答えに銀行員は満足しなかった。甚右衛門に十日だけの猶予を与え、十日以内に出荷が再開できなければ、借金を取り立てると言った。そうなると山﨑機織は本当に倒産してしまう。
トミは銀行員にすがるようにしながら、もう少し待って欲しいと懇願した。それでも銀行員が無視して帰ろうとすると、トミは胸を押さえて苦悶の表情で倒れた。
甚右衛門は急いで亀吉を走らせ、医者を呼んだ。
駆けつけた医者の見立てでは、トミは心臓が弱っているとのことだった。
医者はトミの入院を勧めたが、トミは頑として拒んだ。どうせ死ぬのであれば、家で死にたいとトミは言った。
そうなると、誰がトミの世話をするかという問題が出て来た。
幸子は病院の仕事に復帰していたが、腰を傷めた時に、急な休みを取って病院に迷惑をかけている。再び休みを取ると言えば、首にされてしまうだろう。
花江は家事で手が一杯だ。となると、千鶴しかいない。
千鶴にしても簡単に学校を休むわけにはいかないが、甚右衛門は千鶴に婿をもらって、店を継がせるつもりだ。それは学校を退学になっても構わないということでもあるので、学校を理由に祖母の世話ができないとは言えなかった。
それに千鶴自身、学校よりも祖母のことが心配だった。ずっと冷たくされていた祖母ではあったが、やはり肉親であるわけだし、鬼に操られているとは言え、最近の祖母は千鶴に優しかった。
トミの世話をしてもらえないかと甚右衛門に頼まれると、千鶴は素直にうなずいた。
千鶴は自分の蒲団を離れの部屋から茶の間に運び、夜でもすぐに祖母の世話ができるよう、茶の間で寝ることになった。
千鶴の仕事は祖母の世話だけでない。手が空いていれば花江の手伝いをし、丁稚たちに読み書き算盤を教えたりもした。
それは大変ではあったが、自分の役割があることで、千鶴は居心地のよさを感じてもいた。
これまで千鶴は自分のことを、祖父母にとって単なるお荷物に過ぎないと思っていた。しかし、こうして頼られていると、家族の一員として扱われているように思えるのだ。
学校のことは気になったが、このまま学校をやめて家の仕事をするのも、悪くないかもしれないと考えるようにもなった。
ただ、鬼の計画に従わなかった以上、この先に安定した暮らしが待っているはずがなかった。
十日以内に東京との取引が再開できなければ、山﨑機織は倒産に追い込まれるのである。それなのに東京からの連絡は来ないし、祖父も祖母も身動きが取れない。誰が見ても山﨑機織は瀕死の状態だった。
日を追う毎に千鶴は責任を深く感じ、銀行との約束の期限まであと三日となった日の朝、祖母の食事の世話をしながら千鶴は涙をこぼした。
何を泣くのかとトミに問われた千鶴は、畳に両手を突いた。
「うちのせいで、お店が傾いてしまいました。うちが鬼山さんとの縁談を断らんかったら、こがぁなことにはならんかったし、おばあちゃんかてこげな病気にならんかったのに……」
トミは弱々しく微笑むと、ええんよ――と言った。
「これで店が潰れるんなら、ほれがこの店の定めじゃったぎりのことぞな。前も言うたけんど、あがぁな男のことは気にせいでええ。もういつ死ぬるかわからんけん、言うておこうわい。うちらにとってはこの店よりも、お前の方が大事なんよ。ほじゃけん、何も気にすることないんぞな」
千鶴は祖母の言葉が信じられなかった。鬼に言わされているのかと思ったが、鬼が言わせた言葉なら、喜兵衛と一緒になって欲しかったと言うはずだ。
どうして祖母の口から、そんな言葉が出て来たのか、千鶴には知る由もないが、勝手にあふれる涙を千鶴は止めることができなかった。
四
千鶴がトミに朝食を取らせている間、先に食べ終わった使用人たちは、それぞれが自分の仕事を始めていた。
隣の茶の間では、仏頂面の甚右衛門が一人で新聞を読んでいる。しかし、いらだたしげに紙面をめくる様子を見ると、記事の内容などほとんど頭に入っていないようだ。
そこへ帳場から困惑顔の弥七が来て、甚右衛門に言った。
「旦那さん、大八車がめげてしまいました」
何ぃ?――と唸るように叫んだ甚右衛門は、急いで立ち上がろうとしたが、右膝の痛みに動きを止めた。
それでも、大八車が壊れたのが本当であれば一大事である。甚右衛門は苦痛をこらえながら、上がり框まで這って行くと、杖をつかんで土間に降りた。
しばらくすると、何をしとるんじゃい!――と甚右衛門の怒鳴り声が聞こえた。
千鶴がトミと顔を見交わすと、トミは千鶴に様子を見て来るようにと言った。
千鶴が土間へ降りると、仕事へ行く身支度を終えた幸子が、離れから出て来た。台所にいたはずの花江は、先に様子を見に行ったのか姿が見えない。
そこへ表から戻って来た甚右衛門が、乱暴に杖を投げ捨てると、茶の間に上がって座り込んだ。肩で大きく息をしながら、呆けたように黙っている。
千鶴も幸子も甚右衛門には声をかけず、帳場の方へ向かった。
すると帳場には誰もおらず、みんなが店の外に出ていた。
千鶴たちも外へ出ると、辰蔵と茂七、弥七が大八車を押さえながら何かをしている。
その傍では、亀吉と新吉が立ったまま泣いていた。
近所の者たちが朝の忙しい中、仕事の手を止めて様子を見に来ている。
みんなの後ろに立っていた花江に、何があったのかと千鶴は訊ねた。よくわかんないけどと花江は前置きをしてから、大八車が壊れて車輪が外れてしまったようだと言った。
見ると、確かに大八車の左の車輪が外れており、それを何とか本体に引っ付けようと、辰蔵たちが苦闘していた。しかし、いくら押さえつけたところで、壊れた物が治るはずもない。
野次馬たちは無理ぞな無理ぞなと、無慈悲に口をそろえる。
どうして壊れたのかと幸子が訊ねると、わからないと花江は言った。
修理をあきらめた辰蔵が立ち上がると、千鶴たちの所へ来て、もう古い大八車なので、ここのところ調子がよくなかったと言った。
夜の間、大八車は店の土間に仕舞われている。朝になると、丁稚たちが表に出して、荷物を運ぶ準備をするのだが、今回は外を出す時に、車輪が店の敷居を超えたところで、がくんと外れてしまったらしい。
予備の大八車はなく、そのため修理に出そうにも出せずにいたのだが、それがとうとう壊れてしまったというのが真相だった。
それは甚右衛門もわかっていたはずだが、今の追い詰められた状況の中、大八車が壊れたことは、店にとどめを刺されたのと同じ意味だった。
思わず甚右衛門が丁稚たちを怒鳴りつけたのも、無理ないことではあったが、気の毒なのは丁稚たちである。何も悪いことをしていないのに、頭から怒鳴りつけられ、弁明することも許されなかったのだ。
困惑した辰蔵に目を向けられると、野次馬たちはこそこそと自分たちの仕事に戻った。どこも遠方へ送る品を、古町停車場まで運ぶ準備をしているところだ。
辰蔵の話では、この日は作五郎からの指示に合わせて、絣を大阪へ送り出すことになっており、その品を大八車に積み込もうとしていたところだったそうだ。
しかし、大八車が使えないとなると約束の品を送れない。陸蒸気の時刻は決まっているので、あとから運んだのでは、期日に間に合わなくなってしまう。
それに、町中の太物屋へ注文の品を納めることもできなくなる。そうなると、客からの信用をなくすばかりか、銀行からも厳しく咎められるに違いない。
辰蔵はさっきの野次馬たちに、大八車を貸してもらえないかと掛け合ってみた。しかしどこの店も余裕はなく、辰蔵も他の者たちも途方に暮れるしかなかった。
いよいよ山﨑機織はおしまいだと、自分の責任を感じながら、千鶴は泣いている亀吉と新吉を抱き寄せ、二人を慰めながら自分も涙をこぼした。
その時、札ノ辻の方から、がらがらという大八車の音が聞こえて来た。
音の方を見ると、札ノ辻から男が一人、大八車を引いてやって来る。後ろの荷台には、どっさりと荷物が縛りつけられてある。
近づいて来る男の着物は、継ぎはぎだらけだ。
――まさか?
男も千鶴に気づいたらしい。目を見開くと、嬉しそうに笑った。
「これはこれは、千鶴さんやないですか。おはようござんした」
嬉しさで一杯になった千鶴は、何も言葉を出すことができなかった。体が勝手に駆け寄ると、千鶴は忠之に抱きつき泣いた。
優しい温もりが、体ばかりか心までも包んでくれる。
「おっと、どがぁしんさった? 何ぞ、あったんかなもし?」
亀吉と新吉が泣くのも忘れ、驚いたように見ている。
辰蔵たちも、同じように千鶴たちに顔を向けている。
忠之は優しく千鶴の背中を叩くと、子供らが見とるぞな――と千鶴の耳元で言った。
我に返った千鶴は慌てて忠之から離れ、後ろを振り返った。
亀吉と新吉はぽかんとしたまま千鶴たちを見ているし、辰蔵たちも何が起こったのかわからない様子だ。
近くの店の者たちも、思いがけないことに目が釘付けになっていたようだ。千鶴と目が合うと、慌てたように動き出した。
忠之は何事もなかったように、新吉たちの所へ大八車を引いて行くと、どがいしたんぞ?――と訊ねた。
しかし新吉も亀吉も、どう言えばいいのか困惑したように、もじもじしている。
「これぞな」
辰蔵が壊れた大八車を指で差すと、ははぁと忠之はうなずき、事情を察したようだ。
「ほんじゃあ、この荷物を急いで降ろして、ほれから、この大八車でこっちの荷物を運びましょうわい」
「え? そがぁしてもらえるんかな?」
驚く辰蔵に、忠之は笑顔で言った。
「大したことやないぞなもし。困った時はお互いさまですけん。ほれに、おらは人さまのお役に立てるんが嬉しいんぞなもし」
「そがぁしてもらえたら助かるぞなもし。お前さまには、先日も親切にしてもろて、ほんまに恩に着るぞなもし」
辰蔵は頭を下げると、茂七と弥七に命じて、急いで積み荷を中へ運ばせた。
忠之は亀吉たちにも声をかけ、自分と一緒に荷物運びを手伝わせた。
荷物は中身を確認してからでないと、蔵へは運べない。それで帳場は積み荷が山積みされた。
忠之の荷物が全部降ろされると、今度は大阪へ送る荷物を、大八車に載せる番だ。帳場の奥に積み上げられていた木箱を、急いでみんなで大八車へ載せた。
花江に知らされたのだろう。荷物を運べると知った甚右衛門が表に出て来た。その後ろには、花江が嬉しそうに立っている。
忠之たちが忙しく動き回るのを、自分も手伝いたいと思いながら千鶴が眺めていると、知り合いなのかと幸子が声をかけて来た。
千鶴は少しうろたえたが、黙ってこくりとうなずいた。
幸子は千鶴と忠之の顔を見比べると、そういうことかと言う感じで、微笑みながらうなずいた。
大八車に荷物を載せ終わると、甚右衛門は忠之に感謝した。
忠之は照れ笑いをしながら、まだ終わっていないと言い、大八車を引いて行こうとした。
千鶴は忠之を呼び止め、運ぶ先がわかっているのか確かめた。
忠之は頭を掻いて笑うと、どこじゃろか?――と言った。みんなが笑い、亀吉と新吉にも笑顔が戻った。
辰蔵は茂七に、大八車を後ろから押しながら道案内をするよう言った。
茂七は大八車の後ろにつくと、正面の突き当たりを右へ曲がるのだと、忠之に言った。
「すまんね、茂七さん」
「何言うんぞな。ほれは、こっちの言うことぞな。こないだも、あしの戻りが遅なった時に、荷物運びを手伝てもろたみたいなし。お前さんは、あしらの福の神ぞな」
「おらが福の神? そげなこと言われたんは初めてぞなもし」
「ほれにしても、今日は随分早いんやな。お陰さんで助かったけんど、びっくりしたぞな」
「何、朝早うに目が覚めてしもたぎりぞなもし」
二人が喋りながら、大八車を動かして紙屋町通りを進んで行くのを、千鶴はみんなと一緒に見送っていた。すると、新吉が千鶴の袖を引っ張った。
「なぁなぁ、千鶴さん。あのお人と千鶴さんて、どがぁな仲なんぞなもし?」
「こら、新吉。余計なこと言うな!」
亀吉が慌てたように新吉を叱ると、何の話ぞな?――と甚右衛門が二人を見た。
「いや、あの、えっと……」
亀吉が口籠もると、新吉が言った。
「あの、さっき千鶴さんがあのお人に抱きついて、泣いておいでたんぞなもし。ほれで、あのお人が千鶴さんのこと、こがぁして慰めよったけん」
新吉は亀吉を抱き寄せると、背中をぽんぽんと叩いた。
「何しよんぞ!」
亀吉が真っ赤になって新吉を突き放すと、新吉は怒って、旦那さんに説明しよんじゃが!――と言った。
「千鶴、今の話はまことか?」
甚右衛門が千鶴を質すと、みんなの目が千鶴に集まった。
千鶴は下を向くと、蚊の鳴くような声で、はい――と言った。
きっと顔は真っ赤に違いない。熱く火照っている。
「そがぁ言うたら、さっき千鶴さんは、あの男の名前を呼びんさったな。つまり、元々知り合いじゃったいうことかなもし」
辰蔵が思い出したように言うと、あの人は誰かと、また新吉が千鶴に訊いた。
千鶴は顔を上げると、甚右衛門に言った。
「名波村の祭りへ行った時、うちを助けてくんさったんが、あのお人なんぞなもし」
何?――と甚右衛門が大きな声を出した。
幸子と花江は顔を見交わしてうなずき合った。
「旦那さん、これはどがぁな話ぞなもし?」
辰蔵が訊ねると、甚右衛門は言葉を濁しながら、千鶴が村の男に絡まれたところを助けてくれたのが、あの男らしいと言った。
祭りの報告の時、千鶴は楽しい話しかしなかったので、辰蔵たちは意外そうに驚いた。この話が初耳の幸子と花江の顔にも、少し不安が走ったようだ。
「ほれで千鶴さんは、ひどいことはされんかったんですか?」
「あの男に助けてもろたけん、無事じゃったそうな」
辰蔵は安堵したように千鶴を見た。幸子と花江もほっとしたようだ。
旦那さん――と、また新吉が甚右衛門に声をかけた。
甚右衛門に叱られて泣いていたくせに、新吉は甚右衛門がそれほど怖くはないらしい。亀吉が泡食ったような顔をしているのに、新吉は平気な顔で甚右衛門に訊ねた。
「千鶴さんに絡んだ奴らて、どげな奴やったんぞなもし?」
甚右衛門は新吉の馴れ馴れしさを叱りもせずに、楽しげな顔で言った。
「でかい男が四人じゃったと」
「でかいのが四人?」
新吉は目を丸くして亀吉を見た。亀吉も驚いた顔をしている。幸子と花江の顔にも、再び不安のいろが浮かんだ。
「なぁなぁ、千鶴さん。旦那さんが言うたんはほんまなん?」
今度は新吉は、千鶴に訊ねた。
もう、隠しておけないと悟った千鶴は、うん――とうなずいた。
新吉はまた目を丸くして、亀吉を顔を見交わした。
「ほれにしても、奇遇な話ぞな。千鶴さんを助けた男が、ここでこがぁな形で千鶴さんと再会するやなんて、まっこと人生とは意外なもんぞなもし」
辰蔵が感慨深げにうなずくと、新吉がまた千鶴に言った。
「千鶴さん、あのお人のこと好いとるん?」
阿呆!――と亀吉が新吉の頭を叩いた。
「何するんぞ! 痛いやないか」
「余計なこと言うなて、言うとろうが」
これ!――と辰蔵が叱ると、二人はおとなしくなった。
千鶴は恥ずかしくて、何も聞こえていないふりをした。幸子と花江がくすくすと笑っている。
「なるほどな」
甚右衛門はにやりと笑うと、あの男が戻って来たら奥へ通すようにと辰蔵に言った。
辰蔵はわかりましたと言い、黙って立ったままの弥七を振り返った。辰蔵に声をかけられた弥七は、驚いたように返事をした。
辰蔵は弥七に、忠之が運んで来た品の確認と、蔵への移動を命じて帳場へ戻った。
「茂七が言うたように、あの男は福の神かもしれんな」
甚右衛門は独り言のようにつぶやきながら、ちらりと千鶴を見ると、店の中へ入った。
千鶴――と幸子が千鶴に声をかけた。その隣で花江がにやにやしている。
「あんた、あの花、あの人からもろたんじゃろ?」
銭湯で見られた野菊の花のことだ。
もう隠しても仕方がない。千鶴が素直にうなずくと、花江の笑顔がさらに明るさを増した。
「あの人は喧嘩も強いんだね?」
黙っていられない様子で、花江が訊ねた。
恐ろしいくらいに強いと千鶴が言うと、信じられないねと花江は言った。自分の目で見た忠之の人柄や様子と、喧嘩の強さが結びつかないようだ。
傍で話を聞いていた亀吉と新吉が、どうやって四人も倒せるのかと話に交ざった。
千鶴が説明しようとすると、仕事を手伝えと言う弥七の怒鳴り声が飛んで来た。
亀吉たちは慌てて店に戻り、花江もいそいそとお茶の用意をしに行った。
「あんたが鬼山さんとのお見合い断ったんは、あの人がおるけんじゃね?」
幸子が訊ねると、千鶴はこくりとうなずいた。
「さっき、おじいちゃん、何ぞ考えておいでたみたいなね」
幸子は微笑むと、家の中に弁当を取りに戻った。もう行かねばならない時刻だ。
一人残った千鶴は、大林寺の方を眺めていた。古町停車場で荷物を降ろした忠之たちが、そこに姿を現すはずだ。
本当はそこまで迎えに行きたいが、それははしたないことだ。もどかしいが、ここで待っているしかない。
近くの店の者たちが、興味深げに顔をのぞかせている。しかし、千鶴はそんなことは少しも気にならない。考えているのは忠之のことだけで、その目はじっと大林寺に向けられていた。
鬼の真実
一
「此度はお前さんにはまことに世話になった。お前さんがおらなんだら、どがぁなっとったかと思うと感謝の言葉もないぞな。このとおり、改めて礼を言わせてもらうぞなもし」
茶の間に通された忠之に、甚右衛門は手を突いて頭を下げた。
トミは茶の間とは障子で隔てられた部屋にいたが、その障子を開けて甚右衛門同様に頭を下げていた。
着ている物が普段の着物ではなく寝巻である上に、トミの後ろには敷きっ放しの蒲団が見えている。トミの体調がよくないことは一目でわかる。甚右衛門ばかりか、そのトミまでもが蒲団から出て来て頭を下げていることに、忠之は大いにうろたえた様子だった。
「やめておくんなもし、旦那さんもおかみさんも、どうか頭を上げてつかぁさい。おら、そがぁにされるような者やないですけん」
甚右衛門は頭を下げたまま言った。
「お前さんには、千鶴がえらい世話になったとも聞いとるぞな。ほんことも含め、お前さんにはなんぼ感謝しても感謝しきれまい」
「ほれにしたかて、そこまでしてもらわいでも構んですけん。どうぞ、お二人とも頭をお上げになっておくんなもし」
ようやく甚右衛門たちが体を起こすと、忠之は居心地が悪そうにそわそわした。
「どがぁしんさった?」
「おら、体汚れとるけん、こがぁな所に通してもらうんは気が引けるぞなもし」
甚右衛門は呆れた顔になり、トミは面白そうに微笑んでいる。
「何を言うか思たら、お前さんはまっこと謙虚な御仁じゃな。そがぁな心配はせいでも構んけん、膝を崩してゆっくりしたらええ」
はぁとうなずきながらも、忠之は正座の姿勢を崩さなかった。そわそわしてはいても背筋が伸びたその姿勢は、田舎の男とは思えないような品のよさがある。その姿に千鶴は改めて心が惹かれたが、甚右衛門とトミも感ずるところがあるようだった。
お茶を淹れた花江は、どうぞと言って忠之の前に湯飲みと茶菓子を配った。
両手を太腿の上に置いたまま、これはどうもと、背筋を伸ばして軽く会釈する忠之を見て、花江は思わずという感じで、ほんとにいい男だねぇ――と言った。
それから花江は慌てたように手で口を押さえると、甚右衛門とトミに頭を下げたが、千鶴を見た花江の顔には、何か言いたげな笑みが浮かんでいた。
千鶴が恥ずかしくて下を向くと、甚右衛門は忠之に茶菓子を食べるよう促した。
忠之は静かに茶菓子を食べ、それからお茶を飲んだ。その一つ一つの仕草は、千鶴が見ていても気品を感じさせるものだった。
忠之の様子を観察しながら自分も茶菓子を食べ、お茶を飲んだ甚右衛門は、湯飲みを置いて忠之に話しかけた。
「ほれにしても、今日は随分早ように着いたんじゃな。お陰でわしらは助かったけんど、前ん時は、もうちぃと遅かったろ?」
「前ので慣れましたけん、お天道さんが顔出すちぃと前から走って来たんぞなもし」
「お天道さんが顔出す前から走って来た? 風寄からかな?」
忠之がうなずくと、甚右衛門もトミも驚いた。
「あんた、ほんまにそげなことしんさったんか?」
トミが目を丸くしたまま訊ねると、忠之は少し当惑気味にうなずいた。
「じゃあ佐伯さんは、まだ朝ご飯を食べてないのかい?」
台所に下がっていた花江までもが、思わず話に混じった。
「朝飯前て言うやないですか」
忠之は笑って答えたが、みんなは驚くばかりだった。
「そがぁに早くじゃったら、兵頭がうるさかったろうに」
驚いた顔のまま訊ねる甚右衛門に、忠之は微笑みながらうなずいた。
「まぁ、ほうですね。ほんでも前の日から言うときましたけん、荷物の準備はしてくれよりました」
千鶴は兵頭というのが誰のことかわからなかった。だがそれよりも、忠之が前にもここを訪れていたということが気になった。
「あの、前ん時ていつのことぞな?」
千鶴が遠慮がちに訊ねると、トミが言った。
「あんたのお友だちが遊びにおいでたじゃろがね。あん時ぞな」
「え、ほんまに? そげなこと、うち、聞いとらんぞなもし。あの日、佐伯さん、ここにおいでてたん?」
千鶴が顔を向けると、忠之は戸惑いを見せた。それで甚右衛門が代わりに言った。
「風寄の仲買人で兵頭いう男がおるんやが、その男の牛が病気になってな。絣を運べんなったんよ。ほれをこの佐伯くんが一人で大八車で運んでくんさってな。兵頭もわしらも大助かりじゃった」
兵頭は名波村やその周辺の村の織元から伊予絣を買い集め、それを山﨑機織まで運んで来る仲買人である。
牛の調子が悪かったにもかかわらず、兵頭は牛を酷使した。そのためにとうとう牛が動かなくなってしまい、兵頭は困り切っていたらしい。
織元の所へ絣を仕入れに行くこともできず、兵頭が弱っているところに、たまたま出会した忠之が手伝いを申し出たのだと言う。
忠之は兵頭と一緒に織元を訪ね、牛の代わりに大八車で絣を運んだ。遠方にある織元の所へも、忠之は平気な顔で大八車を引いたので、その働きぶりが兵頭に認められたらしい。
本来であれば風寄から松山まで荷物を運ぶのに、人力の大八車は使わない。だが、忠之であれば行けるだろうと踏んだ兵頭は、山﨑機織までの絣の運搬を忠之に任せたのである。
それにしても兵頭も一緒に来るべきだろうにと千鶴は思ったが、最初に忠之が松山まで絣を運んで来た時、兵頭は腹を壊して長い道を歩くことができなかった。それで荷物の運搬から代金の受け取りまで、忠之一人に任せてみたのだそうだ。
忠之は兵頭の期待どおりに仕事をきっちりこなし、お金も一銭の間違いもなく受け取って戻ったので、兵頭はすっかり忠之を信頼したようだった。
それで今回は自分の体調が悪いわけでもないのに、またもや忠之一人に任せることにしたらしい。要するに兵頭は楽をしたわけである。
とは言っても、朝早くに風寄から松山まで走る忠之に、ついて来ることはできなかったに違いない。
「ほうやったんですか。ほれにしても、こないだ佐伯さんがおいでてたてわかっとったら、うち……」
「どちゃみち友だちがおったんじゃけん、どがぁもなるまい」
それはそうなのだが、あの時の大八車を引いて来たのが忠之だったのに、何も知らずに出かけてしまったことが、やはり千鶴には悔しかった。
甚右衛門は忠之に握り飯を作ってやるよう花江に頼むと、忠之に向き直った。
「兵頭ん所の牛は、もういけんみたいかな?」
「いけんみたいぞなもし。もう、だいぶ歳ですけん寿命やなかろか思とります」
忠之が答えると、ふむと甚右衛門は思案気な声を出した。
「ほれにしても、兵頭は余程お前さんを信用しとると見えらい」
「有り難いことぞなもし」
忠之は頭を下げるようにうなずいた。
兵頭は忠之が山陰の者であると知っているはずだ。それなのにここまで仕事を任せるのは、忠之を余程信頼しているのに違いない。それは忠之が言うように、有り難いことだと千鶴も思った。
「ほれで、お前さん、牛の代わりはいつまで続けるつもりぞな?」
祖父が何を考えているのかピンと来た千鶴は、期待を込めて忠之を見た。
忠之は頭を掻きながら、ほれが――と言った。
「おらが絣を運んで来るんは、これが最後ぞなもし」
「これが最後? 兵頭は新しい牛を手に入れた言うんかな?」
忠之はうなずくと、ほういうわけぞなもし――と言った。
千鶴は半分喜び、半分不安になった。あとは祖父と忠之のやり取りを見守るだけだ。
「この仕事辞めたら、あとはどがぁするつもりぞな?」
探るような口調で甚右衛門が訊ねると、忠之の方はさらりと答えた。
「これは別に仕事やないんぞなもし」
「仕事やない? 風寄からここまで大八車を引いて来て、また向こうへ戻るんぞ? ほれが仕事やないて言うんかな?」
「これは、おらの好意でしよるぎりのことですけん」
忠之は笑みを見せたが、甚右衛門は眉間に皺を寄せた。
「お前さん、ひょっとして兵頭から銭をもろとらんのか?」
忠之がうなずくと、甚右衛門は憤ったように横を向いた。トミも呆れたように口を半分開いている。
どうして兵頭が山陰の者である忠之に、この仕事を任せたのか。
それは忠之を信用していたからではない。忠之がただで牛の代わりをしてくれるからだったようである。
しかも、代金をごまかしたりしないお人好しだ。利用しない手はないと兵頭は考えたのだろう。だが、こんな人を馬鹿にした話があるだろうか。
千鶴は思わず忠之に言った。
「佐伯さん、なして? なして、ただでこがぁなことを?」
「正直言おわい。おらな、松山へ来る口実が欲しかったんよ」
「松山へ来る口実?」
「千鶴さんがおる松山に来てみたかったんよ。別に千鶴さんに会うつもりはなかったけんど、千鶴さんが暮らしておいでる松山に来てみとうて、この役目を引き受けたんよ」
千鶴が暮らす松山へ来てみたい。その言葉は間違いなく千鶴への好意の表れである。千鶴に会いたかったとは言わない忠之にもどかしさを覚えながらも、千鶴は喜びに胸が詰まった。
二
お待たせ――と言って、花江が大きめの握り飯二つと、漬け物の小皿を忠之の前に置いた。
おぉと感激する忠之に、花江は小声で言った。
「朝飯も食べずに風寄から走って来るなんて、本当は千鶴ちゃんに会いたかったんだろ?」
「いや、そがぁなことは……」
惚けようとする忠之に、花江はにっこり笑って言った。
「別にいいけどさ。千鶴ちゃん、あの花をずっと大事に持ってるんだよ」
忠之は驚いたように千鶴を見た。それは千鶴に花を飾ったのは、自分だと白状したようなものだ。
何となくうろたえた感じの忠之に、甚右衛門は先に飯を食うように言った。
忠之は両手を合わせると、がつがつと握り飯に食らいついた。やはり腹が空いていたようだ。
途中、忠之が喉を詰まらせると、千鶴が背中を叩いてお茶を飲ませてやった。その光景を甚右衛門もトミも微笑ましく眺めていた。
忠之が握り飯も漬け物も平らげると、甚右衛門は言った。
「さっきの話やが、お前さんがただで絣を運んでくれるんなら、兵頭は新しい牛を手に入れるより、お前さんに運んでもらい続けた方が得やし、楽なんやないんか? お前さんのことを信頼しとるようじゃし」
ほうなんですけんど――と、また忠之は頭を掻いた。
「おらん所のじいさまが、おらが銭もろとらんのを知って怒ったんぞなもし。ほれでまぁ、こがぁなことになってしもたわけでして」
忠之は千鶴の方に体を向けて言った。
「ほんでも、最後にこがぁして千鶴さんに会えたんも、お不動さまのお陰ぞな。大八車引くんも楽しかったし、みなさんのお役にも立てたし、おら、十分満足できたぞなもし」
千鶴は何とかするよう甚右衛門に目で訴えた。甚右衛門は咳払いをすると、実はな――と言った。
「うちは今、人手が足らんで困っとるんよ。ほやけど、誰でもええ言うわけにもいかんけん、どがぁしたもんじゃろかと思いよったとこに、お前さんが現れたわけよ。わしが言いたいこと、わかろ?」
千鶴が忠之を見ると、忠之は小首を傾げている。焦れったくなった千鶴は忠之に言った。
「佐伯さん、うちで働きませんか?」
千鶴の言葉を後押しするように甚右衛門も言った。
「本来なら、もっとこんまいうちに丁稚で入れて、じっくり育ててから手代にするんぞな。ほじゃけど、お前さんは子供やないけん、すぐに手代になれるようなら、きちんと給金を出そうわい」
「ほやけど、おら、こがぁな所で働いたことないですけん」
「お前さん、読み書き算盤はできるんかな?」
「はぁ、一応は」
「ほれじゃったら、すぐに手代になろ。この仕事で一番大事なんはお客からの信頼ぞな。そのためには知識はもちろんなけんど、何より人柄が大切ぞな。その人柄がお前さんは言うことなしじゃ。うちとしては是が非でもお前さんに来てもらいたいと思とるが、どがいじゃ? ちぃと考えてみてはもらえまいか?」
忠之は腕組みをして考えている。千鶴はなりふり構わず、忠之の着物の袖を引っ張った。
「佐伯さん、お願いじゃけん、うんて言うておくんなもし! うんて言うてくれんのなら、うち、佐伯さんを帰さんぞな」
「どがぁする? 千鶴もこがぁ言うとるぞな」
甚右衛門がにやにやしながら言った。
忠之は目を閉じたまま、腕組みをして何やら考えていた。やがてぱちりと目を開けると、わかりましたぞなもし――と言った。
「おらの気持ちとしては、お言葉に甘えさせてもらう方に傾いとります。けんど、おらの家族が反対したら、この話はなかったことにさせてつかぁさい」
「お前さんは一人息子なんかな?」
「はい。ほじゃけん、おら、勝手なことはできんのです」
「ほら、確かにほうじゃな。ところで、お前さんの家では、何をしておいでるんかな?」
「履物をこさえとります」
「履物か。お前さんが跡を継がんと、だめんなるわけじゃな」
忠之がうなずくと、甚右衛門の勢いがなくなった。自分と同じ境遇を忠之の親に見たのだろう。無理なことは言えないと悟ったようだ。
「もう一つぎり聞かせてもろて構んかな?」
甚右衛門が遠慮がちに言った。
「お前さん、なして千鶴にいろいろ親切にしてくんさった? 見てのとおり、千鶴には異人の血が混じっとる。邪険にする者が多いのに、なしてお前さんは千鶴を大事にしてくんさるんぞな?」
忠之は姿勢を正すと、きっぱり言った。
「千鶴さんは素敵な娘さんぞなもし。ほれに、千鶴さんはまっこと優しいお方ぞなもし」
「優しい? 千鶴の方が、お前さんの世話になったんじゃろ?」
「おら、力ぎり自慢の何の取り柄もない男ぞなもし。誰っちゃ見向いてくれん男ぞな。けんど、千鶴さんはこげなおらに優しい言葉をかけてくれました。ほじゃけん、おら、千鶴さんの力になりたい思たんぞなもし」
自分が山陰の者であることを、忠之は暗に話しているのだと、千鶴は思った。
「佐伯さんこそ素敵なお人ぞな。取り柄がないやなんて、そげなことありません。うちみたいな者のために、ここまでしてくれるお人なんて、佐伯さん以外にはおらんぞなもし」
千鶴が忠之を持ち上げると、忠之は甚右衛門やトミがいるのを忘れたように言葉を返した。
「千鶴さんこそ、千鶴さんほどええ人は、どこっちゃおらんのじゃけん、自分のことをそがぁに言うもんやないぞな」
「ほれは佐伯さんのことぞなもし。佐伯さんこそ、まっことええお人なんじゃけん、もっと胸張ってええと思います」
台所で花江が背中を向けたままくすくす笑っている。トミも具合が悪いのを忘れたように笑いながら、まぁまぁと声をかけた。
甚右衛門もにやりと笑い、どっちもどっちじゃの――と言った。
三
忠之は万が一のためにと、懐に油紙の包みを忍ばせていた。自分で薬草から作った膏薬だ。傷によく効くというその膏薬の包みを、傷めた膝にどうぞと、忠之は甚右衛門に手渡した。
忠之はトミにも胸の病に効くツボを教え、そこにお灸を据えるといいと教えてくれた。また、自分の本当の想いを隠さないのが、胸には一番いいと言った。
トミがはっとしたような顔になって涙ぐむと、医者でもないのに余計なことを言ったと、忠之はすぐに詫びた。だが、トミは怒ることはせず、そのとおりだと思うとうなずいた。
感心した甚右衛門に、どうしてそんなにいろいろ知っているのかと問われると、田舎では自分のことは自分でするしかないからと、忠之は答えた。
トミは気分がよくなったと言い、千鶴に忠之を見送るように言った。甚右衛門もトミに同意し、二人で団子でも食えと、千鶴に銭を渡してくれた。
そこへ茂七がやって来て、甚右衛門に太物屋への注文の品はどうすればいいのかと言った。大八車がなければ、運べないということだ。
すると忠之は、自分の大八車を使えばいいと言った。兵頭には何と話すのかと訊かれると、松山まで来たところで壊れてしまったと伝えておくと、忠之は言った。
甚右衛門は躊躇したが、とにかく大八車は置いて行くと忠之は言った。
甚右衛門とトミは深々と頭を下げ、茂七は嬉嬉として辰蔵に報告に行った。
忠之が帳場へ行くと、みんなが忠之に感謝した。そこへ電報が届いたのだが、何とそれは東京の取引先からの絣の注文電報だった。
みんなは踊り出すほど大喜びをし、忠之を福の神だと言った。
何度も感謝されることに戸惑いながら、忠之は山﨑機織を後にした。その横には嬉しさ一杯の千鶴がいる。
「何から何まで、ほんまにありがとうございます」
千鶴は改めて忠之に礼を述べた。忠之は笑いながら、もうやめてつかぁさい――と言った。
「そげなことより、千鶴さんのご家族も、お店の人らもええ人ぎりじゃな。おら、まっこと安心した」
「まぁ、番頭さんらも花江さんもええ人なけんど、おじいちゃんはほんまはうちのことなんぞ、どがぁでもよかったんぞな。ただ、お店を継ぐ者がおらんけん、うちにお見合いさせて――」
そこまで言ってから、千鶴ははっとして手で口を押さえた。しかしすでに遅く、へぇと言う顔で忠之は千鶴を見た。
「千鶴さん、お見合いしたんかな」
「いえ、お見合い言うか、おじいちゃんが無理やり男の人連れて来て、顔合わせさせられたぎりぞな。ほやけど、うち、ちゃんとお断りしたんです。何や偉そうな感じのお人で、絶対嫌じゃ思たけん、断ったんぞな。ほしたら、ほの人、山﨑機織は潰れる言うて、嘘の噂を広めよったんぞな」
憤る千鶴をなだめると、忠之はにっこりしながら言った。
「自分でこれはいけん思たら、その心に従うたらええぞな。お不動さまは千鶴さんの心の中においでてな、どがぁしたらええんか、千鶴さんの心を通して教えてくんさるんよ。そがぁしよったら、きっとええ人に巡り会えるけん」
「その話がまことなら、うち、もうええ人に巡り会うたぞなもし」
「へぇ、ほうなんか。ほれは、どがぁなお人ぞな?」
何て焦れったい人なんだろうと千鶴は思った。だが、やはり心の内を打ち明けるのは気が引けた。
「前にも言うたけんど、うち、誰かを好いたり好かれたりできんのです」
「前にも言うたけんど、そげなことは絶対ないけん。千鶴さんは幸せになれるけん」
道を行き交う人たちが、訝しげに二人を振り返った。それで、千鶴たちはしばらく黙ったまま歩いた。途中に寺が現れると、千鶴は寺の境内に忠之を引き込んだ。
誰もいない境内で、千鶴は忠之を見つめた。その目に忠之への想いを込めたのだが、忠之はどこまで鈍いのか、あるいはわかって無視しているのか、辺りをきょろきょろと見回している。
「千鶴さん、ここは何の寺ぞな?」
「そげなことは、どがぁでもええんです。うち、佐伯さんにどがぁしても訊きたいことがあるんぞなもし」
ようやく覚悟を決めたような顔になった忠之に、千鶴は言った。
「佐伯さん、風寄でお祭りの夜、大けなイノシシの死骸が見つかった話、ほんまは知っておいでるでしょ?」
「ほの話かな。確かに知っとるよ。ほれが、どがぁしたんぞな」
「うち、あのイノシシに襲われたんぞな」
忠之の顔が一瞬ゆがんだ。
「ど、どこで襲われたんぞな? あげなイノシシに襲われたら、無事では済まんじゃろに」
「あのイノシシの死骸が見つかった所ぞなもし。死骸があったあの場所で、うちは襲われたんぞな」
「じゃったら、どがぁして無事でおれたんかな?」
「うち、気ぃ失うてしもたけん、何も覚えとらんのです。目ぇ覚めたら、何でか法正寺におったんぞなもし。和尚さんに訊いたら、誰ぞが庫裏の玄関叩くんで外へ出てみたら、そこにうちが寝かされよったて言われたんぞな」
「ほれは、いったいどがぁなことぞな?」
「ほれを、佐伯さんに訊いとるんぞなもし」
「おらに?」
「ほやかて、佐伯さんでしょ? うちの頭に野菊の花飾ってくれたんは」
「いや、おらは何のことやら……」
忠之は惚けようとしたが、明らかにうろたえている。
千鶴は畳みかけるように言った。
「うちが佐伯さんに助けてもろた時、佐伯さん、言いんさったでしょ? お不動さまにうちの幸せを願てくれたて。初めて会うたはずやのに、どがぁしてそげなことができるんぞなもし?」
「ほれは……」
「あん時以外にうちを見たとしたら、うちが気ぃ失いよった時しかないぞなもし。ほれに法正寺のご本尊さまはお不動さまやし、佐伯さんがうちの幸せを、お不動さまにお願いしんさったとしたら、あん時しかないですけん」
忠之は罰が悪そうに、頭を掻いた。
「千鶴さんは、まっこと頭のええお人ぞな」
「なして黙っておいでたんです?」
「ほやかて、気ぃ失うとる女子の頭に勝手に花飾ったら、何て思われるかわかるまい? ほじゃけん、黙っとったんよ」
「庫裏の戸叩いたんも、佐伯さんでしょ?」
忠之は素直に認めた。
「なして姿消しんさったん?」
「おらが千鶴さんに何ぞ悪さした思われたら困るけん。ほれに頭に花飾ったんも、和尚さんらに知られとないじゃろ?」
「まぁ、ほれはほうじゃね」
うなずく千鶴に、忠之は付け足して言った。
「ほれにな、あん時、おら、ほとんど素っ裸やったんよ」
「素っ裸?」
思わず顔が熱くなった千鶴に、忠之は慌てたように言い直した。
「素っ裸やのうて、ほとんど素っ裸ぞな。一応、腰には破れた着物巻きよったけん」
「なして、そげな格好やったんぞな?」
「ちぃと村の連中と喧嘩したんで、着物破かれてしもたんよ。お陰さんで、ばぁさまにしこたま怒られたぞな。縫い直すんはいっつもばぁさまじゃけんな」
「佐伯さんて喧嘩好きなんですか?」
「別に好きいうわけやない。おら、争い事は好まんけん」
恐らく、山陰の者というだけで、一方的に喧嘩を売られたに違いない。千鶴は喧嘩のことには触れるのをやめた。
「あの晩、佐伯さんはうちをどこで見つけんさったん?」
「石段下りた所の傍に、花がようけ咲きよる所があるんよ。そこにな、千鶴さんが倒れよったんぞな」
「ロシアへ行かせた娘さんと見間違えたん?」
「あんまし似よるけん、本人か思いよったぞな」
やはり千鶴が思ったとおりのようだ。忠之の心の中には別れた娘が住んでいる。
千鶴は切ない気持ちになった。しかし気を取り直して、佐伯さん――と言った。
「うちを見つけた時、妙なもん目にせんかったですか?」
忠之は眉をひそめると、怪訝そうに言った。
「妙なもんとは何ぞな?」
千鶴は少し迷ってから、思い切って言った。
「鬼ぞなもし」
忠之の顔が明らかにゆがんだ。それは、忠之が鬼のことを知っているという証に見える。だが、妙なことを言うと思ったのかもしれなかった。
忠之は動揺した様子で言った。
「なして、そげなこと言うんぞな?」
「佐伯さん、イノシシの死骸がどがぁなっとったか、ご存知ですよね?」
忠之は黙ったままだったが、千鶴は言葉を続けた。
「あのイノシシの頭をぺしゃんこに潰せる生き物はおりません。ほやけん、イノシシ殺めたんは鬼やと、うちは思とるんです」
「化け物は他にもおろうに、なして鬼や思んぞな?」
「ほれは――」
千鶴は唇を噛んだ。
この人にだけは知られたくない。しかし、言わねばならないと千鶴は思った。
言わねば、この人を不幸に巻き込んでしまう。それだけは死んでも避けたいことだった。
「佐伯さん」
千鶴は顔を上げた。頬を涙がぽろりと流れ落ちた。
「うち、がんごめなんぞな」
四
泣きじゃくる千鶴を、忠之は黙って抱きしめてくれた。
がんごめという言葉の意味を確かめようとしないのは、その意味を知っているということだ。それなのに逃げないで抱きしめてくれる忠之の優しさが、千鶴の涙をさらに誘った。
気持ちが少し落ち着くと、千鶴は忠之から離れ、夢で見た地獄のことや、おヨネの話、それにお祓いの婆のことを話した。
また、鬼にイノシシから救ってもらったのも、自分ががんごめだからだし、法正寺へ運ばれたのも、法正寺がかつてがんごめが暮らした所だからだと言った。
「きっと、うちは法正寺におったがんごめの生まれ変わりぞな。ほじゃけん、鬼はうちを見つけて、うちが風寄へ行くよう仕向けたんよ」
「千鶴さんが、ここにおるんがわかっとんのに、なしてわざわざ風寄へ呼び寄せる必要があるんぞな?」
「うちのことをよう確かめるためぞな。ほれで、やっぱしがんごめじゃてわかったけん、うちに取り憑いて松山まで来たんよ」
鬼に何か悪さをされたのかと、忠之は訊ねた。
千鶴は仲間の鬼と夫婦にさせられそうになったと言った。
「ほれが、さっき言うたお見合いなんか」
千鶴はうなずき、見合い相手の名前が鬼山で、本人が自分のことを鬼だと言ったと説明した。
「うちがお見合い断ったら、その人、えらい怒りんさって、ほれから、次から次に悪いことが起こったんぞな」
千鶴は具体的に何があったのか忠之に話し、そのうち、みんな鬼に殺されると言って涙ぐんだ。
ほうじゃったかと、忠之は悲しそうに下を向いた。
「ほんでも、お見合い断ったとこで、うちはがんごめじゃけん。そのうち鬼の本性出して、みんなとは一緒にはおられんようになるんぞな」
「そげなこと――」
忠之の言葉を遮るように、千鶴は首を振った。
「うち、今はまだ人の心持ちよりますけんど、今に恐ろしいがんごめになって、人を殺して食べるようになるんぞな。ほれが怖ぁて怖ぁて、ほやけど誰にも相談できんけん、うち……、うち……」
項垂れる千鶴に、忠之は静かだが力の籠もった声で言った。
「大丈夫ぞな。千鶴さんは、がんごめなんぞになったりせんけん」
「そげなことない。うち、いつかきっとがんごめになって、佐伯さんのことも平気で命を奪うようになるんよ」
千鶴がまた泣き出したので、忠之はもう一度千鶴を抱きしめた。
「大丈夫ぞな。ほん時は、おらがこがぁして千鶴さんのこと、ぎゅっと抱いて言うてあげようわい。千鶴さんはがんごめやない、千鶴さんは人間の娘ぞな、千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞな――て言うてあげるけん」
千鶴は、涙に濡れた顔を上げた。
「ほやけど、うち、佐伯さんを傷つけるかも知れんのに?」
「ほんでも言うてあげるぞな。おら、この命が尽きようと、死ぬるまでずっと言い続けてあげるけん」
こんなことを言ってもらえるとは思いもしなかった。
千鶴はまた泣いた。忠之は黙って千鶴を抱き続けてくれた。
しばらくして千鶴がようやく泣き止むと、忠之は手拭いで千鶴の涙を拭いてくれた。
「おら、千鶴さんがどがぁに苦しんでおいでたんか、ようわかったぞな。千鶴さんの気持ち、おらにはようわかる。ほやけどな、千鶴さんは誤解しとるぞな。ほじゃけん、ほんまの話をおらが教えてあげようわい」
「ほんまの話?」
「あぁ、まことのほんまの話ぞな」
忠之は千鶴を見つめながらうなずいた。だが、その目は何だか哀しげだった。
五
明治が始まるより前の話だと、忠之は言った。
「おヨネさんが言うたとおり、ほん頃の法正寺には、がんごめて呼ばれた娘がおったんよ。ほやけどな、ほれはそがぁ呼ばれよったぎりのことで、ほんまにがんごめやったわけやないんよ」
「ほれは、どがぁなこと?」
「ほの娘はな、異国の血ぃ引いとったんよ。ちょうど千鶴さんみたいにな。今でも異人は珍しがられるけんど、ほん頃は誰も異人なんぞ見たことないけんな。これは人やない、がんごめに違いないとなったんぞな」
その話を誰から聞いたと訊ねると、法正寺にいた和尚から聞いたと忠之は言った。ただ、それは知念和尚より前の和尚らしい。
知念和尚は前の和尚からの引き継ぎで、何も教えてもらえなかったが、忠之はうまく話を聞き出したようだ。
「ほじゃけんな、仮に千鶴さんがその娘の生まれ変わりじゃったとしても、千鶴さんががんごめとは言えんのよ。ほうじゃろげ?」
忠之の言葉は千鶴の不安を和らげてくれた。
これも前の和尚から聞いたと、前置きをしてから忠之は言った。
「みんな、鬼は恐ろしいもん、穢らわしいもんやて思いよる。ほじゃけん、誰も鬼に優しい言葉なんぞかけたりせん。けんど、鬼かてな、好きで鬼しよるわけやないし、みんなが思とるように、いっつもかっつも悪いことぎりしよるんやないんよ」
ほんでもな――と言うと、忠之は横を向いた。
「所詮、鬼は嫌われ者ぞな。ほれは鬼かてわかっとる。もう、あきらめとるんよ。そげな鬼がな、もし誰ぞに優しいにされたら、どげな気持ちになる思う? まずは、たまげるじゃろ? 何かの間違いやないかて思うんよ。ほんでも間違いやないてわかるとな、ほれまでなかったほっこりしたもんが、胸の中に湧いて来るんよ。ほれがまた鬼には嬉しい言うか、涙出るほど感激するんぞな」
忠之の話を聞いていると、鬼というものの印象が全く違ったものになって来る。千鶴の心にあった恐怖はほとんど消えかけていた。
「うち、もしかして前世で鬼に優しいにしたんじゃろか?」
「鬼は普段は人の姿に化けとるけん、ぱっと見た目には、ほれが鬼かどうかはわからんそうな。ほじゃけん、千鶴さんは鬼と知らんで、優しいにしてやったんかもしれんな。ほんでも鬼はほれを忘れんで、今も大切な千鶴さんを護ろうとしたんじゃろ」
「じゃあ、うちが地獄へ行ったんは? 亡者にがんごめて言われたし、うちは鬼に会いたかったんよ? あれは、なして?」
「亡者の言うことなんぞ、何も気にせいでええ。悪いことは何でもかんでも人のせいにして、罪のない者を貶めようとした連中ぞな。地獄に堕ちるんは当たり前ぞな」
忠之は吐き捨てるように言った。
「ほやけど、うちかて地獄へ堕ちたんでしょ?」
「千鶴さんは違うぞな。きっとな、千鶴さんは鬼の正体知ったあとも、その鬼のこと心配して自分で会いに行ったんよ。ほんまじゃったら、もっとええ所へ行くはずじゃったのに……」
忠之は千鶴から顔を隠すように、ふと顔を横に向けた。
「千鶴さんはな、まっこと優しいお人ぞな。地獄まで会いにおいでてくんさった千鶴さん見つけた時に、鬼がどんだけ感激したか、おらにはわかる」
「うち、そがぁに優しい女子やったやなんて信じられんぞな」
忠之は笑顔で千鶴を振り返って言った。
「ほやけど、多分ほういうことぞな。ほじゃけん、千鶴さんがイノシシに襲われた時、鬼が現れて助けてくれたんよ」
「うち、地獄へ鬼に会いに行ったのに、なして、ここにおるん?」
「大切な千鶴さんを、地獄へおらすわけにいくまい? 鬼はな、己が滅してでも千鶴さんの幸せ願て、元の明るい所へ戻そとしたはずよ。そのために、ほれまで逆ろうてぎりじゃった、神さま仏さまにも頭下げたに違いないぞな」
「じゃあ、うちがこがぁしてこっちに産まれて来れたんは、鬼のお陰なんじゃね?」
「ほやない。鬼は願たぎりよ。ほの願いを叶えてくんさったんは、お不動さまぞな。ほじゃけん、鬼は千鶴さんを法正寺まで運んだんよ。お不動さまに助け求めてな」
疑問が次々に解決して行く。
千鶴は答が戻って来るのを期待して訊ねた。
「お祓いの婆さまに、鬼が取り憑いとるて言われたんは?」
「千鶴さんの後ろには、鬼がおるやもしれん。ほやけど、ほれは悪い意味で取り憑いとるんやないぞな。取り憑く言うより、見守っとる言う方がええんやないかな。鬼は己と似たような者にしか取り憑けんのよ。ほじゃけん、優しい千鶴さんには取り憑けまい」
「けんど、お見合い断ってから、悪いことぎり起こりよるんよ?」
「不安な気持ちは悪い気を呼ぶもんぞな。悪いことがあったにしても、ほれが鬼のせいとは限らんのよ。そもそも鬼が本気で千鶴さんに悪さしよて思たんなら、今言うたようなもんじゃ済まんぞな」
それは確かにそうかも知れないと千鶴も思った。
「じゃあ、お見合いの人は? 名前は鬼山言うて、自分のこと、鬼やて言うたんよ?」
「名前に鬼がついとるんは、たまたまじゃろ。ほれに、そいつがまことの鬼じゃったら、がんごめやない千鶴さんに、己の正体明かすような真似はせんぞな。さらに言うたら、千鶴さんの店の悪口を言いふらすような姑息な真似もせんけん」
「じゃったら、鬼のことは――」
「何も心配いらんぞな。千鶴さんはがんごめやないし、鬼が悪さすることもないけん。鬼は千鶴さんの幸せ願とるぎりぞな」
千鶴の目から涙がぼろぼろこぼれ落ちた。千鶴はしゃがみ込むと、両手で顔を覆って泣いた。
「うちはひどい女子ぞな……。鬼は何も悪いことしとらんのに……、うちの命、助けてくれたのに……、うちは、鬼じゃ言うぎりで感謝もせんで、勝手に怖がりよった……」
「仕方ないぞな。相手は鬼なんじゃけん」
忠之は横にしゃがんで慰めたが、千鶴は首を振った。
「うちな、何もしとらんのに、悪いことあったら、何でもうちのせいにされたりな……、助けたつもりが、この顔見られて悲鳴上げられたりしたんよ……。ほれが、どんだけつらいことかわかっとんのに、うち、対のこと鬼にしてしもた……。うちは最低の女子ぞな」
「千鶴さんのその言葉、鬼はちゃんと聞いとるけん。姿見せられんけんど、きっと、千鶴さん拝んで泣きよるぞな」
千鶴を慰める忠之の声は、今にも泣きそうだった。
千鶴は涙を拭いて立ち上がると、両手を合わせて目を閉じた。
「鬼さん、うちを助けてくんさり、だんだんありがとうございました。今まで鬼さんのこと悪思たこと、どうか堪忍してつかぁさい。うちは自分勝手な女子じゃった。もう怖がったりせんけん、どこにも行ったりせんで、いつまでも傍におってつかぁさい」
頭を下げてから千鶴が目を開けると、忠之は背中を向けて空を仰いでいた。何故か、忠之の肩は震えているように見える。
千鶴が声をかけると、忠之は両手で顔を擦り笑顔で振り向いた。
「まこと、千鶴さんは優しいお人じゃな。鬼は感激しよるぞな」
「じゃあ、うちが誰ぞ好いても、鬼は怒ったりせん?」
「せんせん。千鶴さんが幸せじゃったら、鬼も嬉しいけん」
「ほな、うち、佐伯さんを好いても構んのですか?」
「構ん構ん」
言ってから、え?――と忠之は驚いた。千鶴は大喜びをしたが、忠之が慌てていたので、千鶴は上目遣いで忠之を見た。
「鬼が一緒の女子は、お嫌ですか?」
「いや、そげなことは……」
うろたえる忠之に、よかった――と千鶴は笑顔で言った。
「これで、うち、幸せになれるけん。鬼さんも安心じゃね!」
千鶴ははしゃいだが、忠之は当惑顔で北の方を向き、お不動さま――とつぶやいている。
「佐伯さん、お不動さんに何言うておいでるん?」
「いや、ほやけん、お礼を――」
千鶴に抱きつかれ、忠之は大いにうろたえたようだった。
自分が好意を寄せている人を、祖父が気に入って山﨑機織で雇うのは、いずれは自分の婿にと考えているのに違いない。
夫婦になった自分たちの姿が思い浮かび、千鶴は嬉しくて叫びたくなった。
一方、忠之の方はと言うと、千鶴と目を合わせると微笑むが、横を向いた顔は、何だか困っているようにも見える。
忠之も自分に好意を抱いてくれていると、千鶴は確信していた。
しかし忠之の心には、まだ夫婦約束をした娘への想いが残っているに違いなかった。
だが、その娘はもういない。この人を笑顔にできるのは自分しかいないのだと、千鶴は自分に言い聞かせた。そして、絶対にこの人の心を、真っ直ぐ自分の方に向かせてみせると心に誓った。
これまでずっと恐れていた鬼が、自分を後ろから支えてくれているような気がしている。敵に回せば怖い鬼も、味方になってくれれば百人力だ。
きっとうまく行く。困ったように微笑む忠之を見ながら、千鶴はそう思っていた。
立ちはだかる壁
一
千鶴は忠之を客馬車乗り場の辺りまで送って行った。
本当はもっと一緒に行きたかったが、忠之がここまででいいと言うので、渋々そこで別れることにした。
別れる時、山﨑機織へ来てくれるよう、千鶴は念を押してお願いした。忠之はわかったと応じたものの、今ひとつ自信がない様子だった。
もし来られないなら、自分の方が風寄へ行くと千鶴が言うと、何とかやってみると忠之は約束した。
姿が見えなくなるまで忠之を見送ったあと、千鶴はとぼとぼと家に向かった。
絶対に忠之が来てくれるという保証はなく、何とも心許ない気持ちだ。だが、それでも気分を明るくしてくれる要素がある。
それは、自分ががんごめではないとわかったことと、鬼を恐れる必要がないということだ。
それと、忠之に想いを伝えて受け入れてもらえたことである。
鬼については、鬼から事実を確かめたわけではない。それでも忠之を絶対的に信じていることで、千鶴の不安は一掃された。
それにしても、忠之と二人きりでこんなにゆっくりできるとは思っていなかった。しかし、それは祖母の世話や、家の手伝いをしなかったということでもある。
祖父母から許しをもらっているとは言え、千鶴は何となく後ろめたさを感じていた。
千鶴が家に戻ると、花江が取り込んだ洗濯物を、板の間の部屋に置いているところだった。
隣の茶の間には甚右衛門がいたが、その表情は明るかった。大八車や東京からの電報が明るくさせていたのは間違いないが、理由はそれだけではなかった。
甚右衛門は早速忠之からもらった膏薬を、膝にすり込んだようだったが、それが早くも効き目があったらしい。痛みが随分和らいだ気がすると上機嫌だ。
トミも忠之に教えてもらったツボに、お灸を据えたそうだが、体がとても楽になり、胸のつかえが下りたようだと言った。
「千鶴ちゃんのいい人は、福を運んで来てくれたみたいだね」
花江がにこにこしながら言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。だが千鶴は、あからさまにいい人と言われて返事ができなかった。そんな千鶴の様子に、花江はケラケラ笑いながら、板の間に上がって洗濯物を畳み始めた。
「団子は食うたんか?」
花江を手伝おうとした千鶴に、甚右衛門が訊ねた。千鶴は慌てて姿勢を正し、お陰さまで美味しい団子を食べましたと報告をした。
「どこまで見送って来たんね?」
今度はトミが訊ねた。山越までと千鶴が言うと、ほうじゃろと思いよった――とトミは言った。
「ように時間がかかっとるけん、遠い所まで見送りに行ったんじゃなて思いよった」
「一緒に風寄まで行ったんやないかて心配したぞな」
甚右衛門にも言われて、千鶴は二人に頭を下げて詫びた。だが、こんな言葉をかけてもらえるのは、やはり違和感があった。
鬼が祖父母を操っていたのでなければ、この変わり様は何なのかと千鶴は訝しんだ。
ただ、厳しく冷たい祖父母よりも、今のように温かく優しい祖父母の方がいい。跡継ぎの問題がそうさせているのかもしれないが、忠之と一緒になれるのであれば、千鶴としても不満はない。
「膝の具合もええみたいじゃし、これじゃったら、じきに帳場に座ることができよう。そがぁなったら、辰蔵を東京へ遣れるわい」
てきぱきと洗濯物を畳んでいた花江の手が止まった。何か考え事をしているように見えたが、すぐに元のように動き始めた。やはり東京という言葉は、花江には刺激が強いに違いない。
「番頭さん、東京行ったら、こっちへは戻らんのですか?」
千鶴が訊ねると、甚右衛門は、いんや――と言った。
「今ぎりぞな。今は向こうもごたごたしよるけん、行き慣れた者やないと仕事にならん。ほじゃけん、辰蔵を行かせるけんど、落ち着いた頃に茂七をやるつもりぞな」
「茂七さんを? でも、そがぁなったら、こっちの人が足らんなるんや――」
「そがぁ思うか?」
甚右衛門に訊き返され、そうかと千鶴は思った。
「佐伯さんがおいでるんじゃね?」
「ほういうことぞな。あの男は必ず来る」
「おじいちゃん、ほんまにそがぁ思いんさるん?」
「間違いない。絶対に来るな」
千鶴は嬉しかった。祖父がそこまで確信しているのであれば、きっと忠之は来るだろう。
「けんど、なして絶対て言えるんぞな?」
甚右衛門はじろりと千鶴を見ると、わからんのかと言った。
千鶴がうなずくと、トミが笑いながら言った。
「あんたがおるけんじゃろがね」
かぁっと顔が熱くなった千鶴は、思わず下を向いた。
「ほやけど、家族が反対したら来られんて言うておいでたぞな」
小さな声で千鶴が言うと、甚右衛門は自信ありげに言った。
「家族が反対したままじゃったら来られんじゃろ。けんど、あの男は何とか家族を説得すらい」
「あんたがおるけんな」
トミがもう一度同じことを付け足すと、甚右衛門とトミは大笑いをした。
千鶴は恥ずかしくて横を向いたが、何故か花江は笑わないで、畳み終わった洗濯物をぼんやり眺めていた。
「わしの目に狂いがなけりゃ、あの男はぐんぐん伸びるぞな。茂七の代わりぐらい、じきにできるようになるじゃろ」
「そがぁなってもらわんと困るぞな。このお店の将来がかかっとるんじゃけんね」
祖父母の言葉に千鶴は胸が弾んだ。忠之を婿にすると言ってくれたわけではないが、祖父母の頭の中には、そんな景色が見えているのに違いない。そして、それは千鶴の目に浮かんだ景色でもある。
二
「甚さん、おるかな」
店の方で声がした。
奥においでます――と辰蔵の声。すぐに茂七に案内されて組合長が入って来た。
「甚さん、膝の具合はどうかな?」
そう言いながらトミの姿を認めた組合長は、おぉと声を上げた。
「おトミさん、もうええんかな?」
「お陰さんで、このとおりぞなもし」
トミは両腕を曲げ伸ばししてみせた。
「ほうかな。ほれは、よかったよかった。次から次にようないことが起こるけん、心配しよったんぞな」
「ほれはどうも、ありがとさんでございます」
トミが少し戯けたように言うと、えらい上機嫌じゃなぁと組合長は笑った。
「甚さんの方はどがいぞな? 膝はちぃとはようなったかな?」
組合長が改めて甚右衛門に訊ねると、甚右衛門はだいぶええぞなと笑顔で言った。
「ほれにな、ようやっと東京から注文が入ったんよ」
「ほんまかな。ほれはほれは。向こうの様子はさっぱりわからんけん、ほんまに心配しよったんで」
千鶴は花江と一緒に台所仕事をしていたが、組合長は今度は千鶴に声をかけた。
「千鶴ちゃんも学校休んで大事やったな。ほんでも、これでまた学校へ行けらい」
組合長は千鶴が子供の頃から、よく声をかけてくれた。千鶴には数少ない理解者である。
だが今の千鶴は、学校と言われてもピンと来なかった。忠之と二人でこの店で働く姿が、ずっと頭の中に浮かんでいる。組合長に学校と言われて、ああそうだったと思ったほどだ。
何とか笑顔で体裁を整えたが、本当のところ、学校はどうなるのだろうと千鶴は思った。
基本的には休みは認められない。今回、祖母の看病で休むことになったと、千鶴と同じように松山から通う同級生に頼んで、学校へ伝えてもらってはいる。
だが、何日休むのかという細かな話は伝えられないままだ。もう一週間は休んでいるはずなので、もしかしたら退学にされるかもしれなかった。
「ほんでも婿さんもろて、この店継ぐんじゃったら、学校なんぞ行かんでもええか」
千鶴が鬼山と見合いをしたのは、組合長も知っている。もちろんその話が壊れたことも知っているはずだが、千鶴が婿を取って店を継ぐというのは、変わらないと考えているようだ。
こんなことを言われると、千鶴はすぐに忠之と夫婦になっているところを想像してしまう。
「何、にやにやしてるのさ」
隣にいた花江が小声でからかったが、それがまた今の千鶴には心地よい。すると、ほれがな――と甚右衛門が言った。
「千鶴に婿取ろかて思いよったけんど、本人がどがぁしても学校の教師になるんじゃ言うけんな」
千鶴は驚いて甚右衛門を振り返った。ふざけているのかとも思ったが、甚右衛門は真面目な顔だ。
「ほうなんか。さすがは千鶴ちゃんぞな。今どきの女子と違わい。わしは千鶴ちゃんが婿もろて、ここを継ぐんは面白いなて思いよったんやが、学校の先生もええか」
「いや、あの……」
うろたえる千鶴に甚右衛門が言った。
「どがぁした?」
「あの、学校だいぶ休んでしもたけん、多分退学やないかて……」
いつもの調子に戻ったトミが、即座に言った。
「そがぁなことがあるかいね。まだ今なら大丈夫ぞな。万が一、校長が何ぞ言いよったら、うちがねじ込みに行こわい」
「いやぁ、おトミさん、まっこと元気になったなぁ。ほんだけ元気じゃったら、もう心配いらんな」
感心する組合長に、トミはまた元気よく腕を曲げ伸ばししてみせた。
花江は千鶴が何を慌てているのかわかっているようで、笑いをこらえながら仕事をしている。
「ほやけど跡継ぎの方はどがぁするんぞ? 千鶴ちゃんに婿さんもらわんのなら、やっぱし幸ちゃんかいな」
「あんまし期待はできんけんど、孝平もおるけんね」
トミが溜息交じりに言うと、組合長は顎に手を当て、うーんと言った。
「孝平か。まぁ、いろいろやってみたらええわい。ところでな、今日は甚さんに知らせることがあったんよ」
「わしに知らせること? 何ぞな」
「鬼山喜兵衛ぞな」
「鬼山喜兵衛?」
目をぱちくりさせる甚右衛門に、組合長は続けて言った。
「千鶴ちゃんの見合い相手ぞな」
「そげなこと、わかっとらい。あの男がどがぁしたんぞ?」
結局とっちめることができずにいた喜平の名前に、甚右衛門は仏頂面になった。
「警察に引っ張って行かれよったぞな」
「警察に?」
甚右衛門は目を見開いた。トミも驚き、千鶴と花江も組合長を振り返った。
「なして、捕まったんぞ?」
「何でも、社会運動に関わっとったみたいでな。前から警察に目ぇつけられとったらしいんよ。ほれで、こないだ集会しよるとこを捕まったそうな」
「集会したぎりで捕まるんですか?」
千鶴が訊ねると、組合長は首を振った。
「集会の中身ぞな。民衆をたぶらかし世を乱そうとした不埒者として捕まったんよ。ほんまにええ話するならともかくやな。見合い断られた相手の悪口言い触らす奴の話なんぞ、誰が信用できるかい」
トミは甚右衛門を見ながら嫌味を言った。
「この人も、元お武家言うぎりで信用するんじゃけん」
「つかましいわ。どこの家にも、ろくでもない者はおるもんぞ」
甚右衛門はむっとした顔で言い返した。
「孝平のことを言うておいでるん? あの子じゃったら、大阪でがんばりよろがね」
「そげなこと、わかるかい」
「作五郎さんが何も言うておいでんのは、あの子がうまいことやっとる証ぞな」
二人が言い争うので、まぁまぁと組合長が止めた。
「そげなことしよったら、おトミさん、またぶっ倒れてしまわい。ほれより、甚さん。東京へは誰を遣るんぞ?」
「取り敢えずは辰蔵を遣るつもりよ。ほれで時期見て、茂七と交代させようわい」
「茂七かな。ほやけど茂七を遣ってしもたら、こっちはどがいするんぞ? 辰さんが番頭しながら、外廻りするわけにはいかまい。かと言うて、弥七一人じゃ心許ないぞな」
「そげなことは言われいでも、わかっとらい」
「当てはあるんかな?」
「何とかならい」
甚右衛門は千鶴を見て、にやりと笑った。
さっきは婿の話はなくなったようなことを言ってたくせに、祖父はどういうつもりなのだろうと、千鶴は訝しんだ。
まさか忠之を使用人として雇いながら、自分のことは小学校教師として、外へ出そうとしているのだろうか。
そんな考えが頭を過って、千鶴がぷいっと横を向くと、また花江が笑っていた。
三
久しぶりに学校へ行くと、千鶴は校長室へ呼び出された。
校長は千鶴が休んでいた事情を知っている。それでも決まりだからと前置きをし、今度欠席になるようであれば、卒業間近であっても、退学になるから気をつけるようにと忠告した。
また、このあと欠席がなくても成績が悪ければ、やはり退学になるから、遅れた勉学を死に物狂いで取り戻すようにとも言った。
わかりましたと神妙な顔で答えたものの、千鶴は退学になっても構わない気持ちになっていた。
ただ、祖父母が組合長に話したことが、祖父母の本当の考えであるなら、簡単に退学になるわけにはいかなかった。
だが、忠之が山﨑機織に来るのであれば、毎日学校に通ってなんかいられないという気持ちもあった。
大体、忠之を雇うというのに、自分には学校へ行けと言うのは矛盾していると、千鶴は少し腹立ちを覚えていた。
とは言うものの、確かに喜兵衛との縁談を断るのに、自分は教師になるつもりだったと見得を切ったのは事実である。他に断りようもあったろうにと、今更ながら悔やんだところで仕方がない。
とにかく今は、まだ忠之は来ていない。それで、あの人が来るまでの間だけでも、がんばろうと千鶴は思った。
それに自分からやめるならともかく、退学させられたとなると体裁が悪い。そんな恥ずかしいところを、忠之に見せるわけにはいかなかった。
結局、がんばると心に決めた千鶴は、休憩時間も惜しんで必死に勉強した。春子たちがお喋りに誘っても、今はだめだと断って勉強を続けた。
しかし、時折幸せな夢想に手が止まってしまう。忠之と二人で店を切り盛りしているところや、二人の間に生まれた赤ん坊をあやしているところなど、次から次に思い浮かんで気持ちの集中が切れてしまうのだ。
気がつけばぼんやりしている千鶴に、春子たちは何を嬉しそうにしているのかと訊ねるのだが、忠之のことは内緒である。
何でもないと言うと、何を隠しているのかと問い詰められるが、それがまた嬉しい。
それでも勉強は続けねばならず、とにかく千鶴は忙しい日々を送り続けた。
千鶴が再び学校へ行き出してから一週間が過ぎた。その間に辰蔵は東京へ発った。だが、忠之はやって来なかったし、何の連絡もなかった。
家族が反対しているのかもしれないが、だめならだめだったと、手紙ぐらい寄越すはずである。手紙が来ないのは、忠之が家族の説得をしてくれているのに違いないと千鶴は考えた。
それでも、さらに数日が経っても全然音沙汰がないと、さすがに不安になって来る。
土曜日の午前の授業が終わると、千鶴は昼飯も食べずに大急ぎで家に帰った。もしかしたら、忠之が来ているかもしれないという期待があった。
山﨑機織へ戻ると、帳場に座る祖父の姿が見えた。
茂七と弥七は外廻りに出たのだろう。帳場にいるのは祖父一人のようだ。
店の中に入った千鶴は、忠之が来たか甚右衛門に訊ねた。
「いいや、来とらん」
甚右衛門は煙管を吹かしながら、素っ気ない様子で言った。
千鶴ががっかりしながら、あれから風寄の絣は届いたのかと訊くと、甚右衛門は千鶴と目を合わせず、来た――とだけ言った。
牛車で来たのかと問うと、祖父は同じ姿勢のまま、ほうよと言った。何だか様子がおかしい。忠之が連絡を寄越さないので、腹を立てているのだろうか。
いつ牛車が来たのかと質すと、昨日だと言う。しかし、昨夜は祖父は何も言ってくれなかった。千鶴は祖父に不信感を抱いた。
牛車で絣を運んで来たのは、忠之に荷物を運ばせていた仲買人の兵頭という男だ。
兵頭は忠之の手紙を持って来なかったのかと、千鶴は訊ねた。だが甚右衛門は、持って来ていないと言い、やはり千鶴と目を合わせようとしない。
どういうわけか、甚右衛門は忠之への関心を失ってしまったようだった。千鶴は焦りながら、兵頭から忠之のことを何か聞かなかったかと訊ねた。
甚右衛門は煙草盆に煙管の灰を落とすと、聞いた――と言った。
千鶴は愕然となった。話を聞いたのであれば、昨日のうちに教えてくれるべきである。
腹立ちを抑えながら、兵頭は何と言ったのかと問い詰めると、甚右衛門はようやく千鶴に顔を向け、そこに座れと言った。
何となく妙な雰囲気を訝しみながら、千鶴は帳場の端に腰を下ろした。
甚右衛門は煙草盆を脇へ寄せると、千鶴の方に体を向けた。
「千鶴、実はお前に話がある」
「話?」
千鶴は嫌な予感がした。
「すまんが、あの男のことは忘れるんぞ。お前には気の毒じゃと思うけんど、あの男とうちとは縁がなかったわい」
「おじいちゃん、何を言いんさるん? ほれは、佐伯さんがここへはおいでんてこと?」
「ほういうことよ。残念やが仕方ないわい。あの男のことはあきらめて、他を当たるとしよわい」
話はそれだけだと言って、甚右衛門は体を元の向きに戻した。
「ちぃと待ってや。何がほういうことなん? 何があったんか、きちんと説明しておくんなもし」
甚右衛門はすぐには返事をしなかった。しかし、千鶴が強く説明を催促すると、仕方なさげに千鶴に顔を向けた。
「ここでは働けんて、佐伯さんが言うておいでるん? ほれとも、何ぞ来られん事情ができたん?」
甚右衛門は再び千鶴の方に体を向けた。
「産まれぞな。あの男とうちとでは、あまりにも身分が違とらい。お前があの男に心を寄せとるんはわかっとる。わしにしたかて、あの男にはまっこと惚れ込んどった。ほんでも、あの男をうちへ入れることはできん。申し訳ないけんど、こらえてくれ」
千鶴が納得しないと、かつて忠之の家が生臭物を扱っていたことや、忠之が尋常小学校も出ていないこと、忠之が乱暴者として村で嫌われていることなどを、甚右衛門は挙げ連ねた。
「あの男は読み書き算盤ができると、わしに言うた。ほやけど、尋常小学校も出とらん者が、読み書き算盤ができるとは思えん。つまり、あの男はわしに嘘を言うたことになろ」
「佐伯さんは嘘なんぞつかん!」
「ほれじゃったら、どがぁして読み書き算盤ができるんぞ? あの男の家族も字が読めんそうやないか」
断りの話は兵頭が忠之に伝えることになっていると、甚右衛門は言った。
千鶴は立ち上がると、奥へ走って行った。
母は病院の仕事に復帰して、家にはいなかった。
花江は乾いた洗濯物を抱えて、板の間へ運んでいるところで、茶の間ではトミが、新吉と亀吉に算盤を教えていた。
「おじいちゃんが、佐伯さんを雇わんて言うとる」
千鶴はトミたちに向かって訴えたが、トミは以前の冷たい顔で、家の主に逆らうなと言った。
一緒にいる新吉と亀吉は、事情がわからず動揺している様子だ。
花江は同情の眼差しを向けたものの、何も言ってくれなかった。
千鶴は裏木戸から外へ飛び出した。千鶴の足は風寄の方を向いていた。
このまま忠之の所まで行くつもりだった。だが風寄は遠く、行く手を阻むような北風は冷たかった。
兵頭が来たのは昨日の話だ。もうすでに甚右衛門の言葉を忠之に伝えたに違いない。忠之の気持ちを思うと、千鶴は涙が止まらなかった。
しょんぼり歩きながら客馬車乗り場までやって来ると、別れた時の忠之の顔が思い出され、千鶴はさらに悲しくなった。
何度も涙を拭きながら歩いて行くと、やがて家並みが見えなくなり、周囲は田畑ばかりになった。
それでも、まだ一里も歩いていないだろう。風寄までは、まだ三里以上ある。
西を見ると、どんよりした雲が広がって、まだ明るい空を呑み込もうとしている。風寄に着くまでに日は沈んで雨が降るだろう。
項垂れて歩いていると、ラッパの音が聞こえた。
顔を上げると、前方から客馬車がやって来る。千鶴が道の脇に避けると、客車から坊主頭の男が顔を出した。
「千鶴ちゃんやないか! どがいしたんな、こがぁな所で?」
それは法正寺の知念和尚だった。
和尚はここで降りると御者に告げた。馬車が停まり、客車を降りた和尚は御者に銭を払うと、千鶴の傍へ駆け寄って来た。
千鶴がへなへなと倒れそうになると、間一髪、和尚は抱き留めてくれた。
四
「ほうなんか。ほれは困ったの」
事情を聞いた知念和尚は、顔を曇らせた。
辺りは次第に薄暗くなり、冷たい北風が絶え間なく吹きつける。
千鶴が小さく体を震わせると、和尚は自分の襟巻きを外し、冷え切った千鶴の首元に巻いてくれた。
「歩きながら話そうかの。真っ暗になったら動けんなるぞな」
千鶴が黙っていると、和尚は諭すように言った。
「家を飛び出すんは簡単ぞな。ほやけど、問題はそのあとぞな。二人でどこぞで暮らして行けるんならええけんど、銭が稼げんかったら悲惨ぞな。幸せ夢見て一緒になったはずが、些細なことで喧嘩になったり、銭のために嫌なことをせんといけんようになったりで、何のために一緒になったんかわからんなるけんの」
和尚の言うことは尤もだった。だが、納得が行くわけではない。
促されて歩き出した千鶴は、和尚に言った。
「和尚さん。なして、みんな生まれや育ちで、人を差別したりするんぞな? そのお人には、何の罪もないのに……」
「ほれが、人の弱さいうもんぞな」
和尚は溜息混じりに言った。
「忠之にはな、わしと安子とで読み書き算盤を教えたんよ。ほじゃけん、あの子が言うたんは嘘やない。しかもな、あの子はまっことできのええ子じゃった。何をやらせても、すらすらでけた。学校へ入れてもろとったら、もっといろいろでけたじゃろに、しょうもないことで差別しよってからに……」
和尚は袖で目を押さえた。
「こげなことになるんなら、あの子を為蔵さんにやるんやなかったかて思てしまうけんど、そげなこと言うんも、これまた差別になるけんな」
知念和尚は昔を思い出すように遠くを眺めた。
「為蔵さんにやるんやなかったて、何の話ぞなもし?」
千鶴に問われた和尚は、はっとしたような顔になると、余計なこと言うてしもたわい――とうろたえた。だが、千鶴が説明を求めると、観念したように喋った。
「今の忠之の家族はな、為蔵さんとおタネさんという年寄り二人ぞな。この二人はあの子の育ての親ではあるけんど、産みの親やないんよ」
「お父さんとお母さんは亡くなったんですか?」
「いや、ほうやない。と言うか、わからんのよ」
「わからんて……」
和尚は悲しそうな目で、じっと千鶴を見つめた。
「あの子はな、捨て子なんよ」
千鶴は心臓が止まったような気がした。
知念和尚は、忠之が生後まもない頃に、法正寺の本堂に捨てられていたと語った。
近くの村の者たちに、子供を腹に宿していながら、その子供がいなくなったという女はいなかった。
それで、遍路旅をしながら身籠もった女が、産み落とした赤子を寺に託したのだろうと、和尚夫婦は考えたそうだ。
和尚と安子はその女の願いどおり、寺で赤ん坊を育てようとしたのだが、大切に育てるからその子が欲しいと、為蔵夫婦が願い出たと言う。為蔵夫婦は、日露戦争で一人息子を失っており、その息子の代わりにと思ったらしい。
結局和尚たちは、為蔵の遠い親戚の子供ということにして、忠之を二人に預けることにしたそうだ。
ところが、何でわかったのか、忠之は本当のことを知っているのだと言う。ただ、為蔵夫婦の前では何も知らないふりをしているらしい。それがあの子の優しさだと和尚は言った。
千鶴の目はみるみる涙で一杯になった。和尚は着物の袖で涙を拭いてくれたが、涙は次から次にこぼれ落ちた。
これまで数え切れないぐらい、千鶴もつらい思いをして来た。
それでも千鶴には母がいた。母が千鶴を慰め力になってくれた。だが忠之はその母親に捨てられたのだ。
そのことを知った時、忠之はどんな気持ちだっただろう。それだけでもつらいことなのに、周りから差別され、甚右衛門からも見捨てられたのである。
しばらく黙って歩いたあと、千鶴は知念和尚に言った。
「うち、自分はがんごめやないんかて、ずっと悩みよったんです」
和尚は驚いたように千鶴を見た。
「ほうやったんか。ほれは気の毒じゃったな。ちぃとも気がつかんで申し訳ない」
千鶴は首を振ると、話を続けた。
「佐伯さん、うちの話聞いてくれて、うちのこと、がんごめやないて言うてくれました」
「ほうかほうか。あの子は喧嘩もするけんど、根は優しい子じゃけんな」
「うち、風寄に行ってから、自分に鬼が取り憑いとるて思とりました」
「ほう、ほらまた何でぞ?」
千鶴は自分が法正寺で見つかる前に、イノシシに襲われた話をした。
「ほんまなら、あそこで死んどったんは、うちぞなもし。ほれやのに、うちは助かって法正寺まで運ばれて、イノシシはあげな風に殺されました。和尚さんはうちを助けたんは、お不動さまじゃて仰ったけんど、お不動さまじゃったら、イノシシを殺めたりせんと思うんぞなもし」
「ほら言われてみたら、ほうじゃなぁ」
「ほれに、うち、松山でお祓いの婆さまに、鬼に取り憑かれとるて言われました。ほんで、次から次に悪いことが起こって、うち、自分のせいで、みんなに迷惑かけとるて思とりました。ほん時に、佐伯さんがおいでてくれて、うちの話を聞いてくんさったんです」
「ほうなんか。ほんで、あの子は何と言うたんぞな?」
「鬼は前世でうちに優しいにされたけん、そのお返しに今もうちのことを護ってくれとんじゃて、言うてくんさったんです。ほれに佐伯さん、鬼の気持ちを教えてくんさりました」
忠之に言われた鬼の話を、千鶴は知念和尚に話して聞かせた。
和尚は感心したようにうなずくと、あの子もなかなか大したもんぞな――と言った。
「ほれにしても、そげなことを誰から教わったんじゃろな」
「和尚さんの前に、法正寺においでた和尚さんらしいぞなもし」
知念和尚は、はて――と首を傾げた。
「わしがあの寺を引き継いでからは、そのご住職は風寄へは来とらんがな。用事がある時は手紙を書くか、こっちから向こうへ出向くけん、あちらからこっちへ来ることはないぞな」
「ほやけど、佐伯さんはそがぁ言いんさったぞな。ほれに、法正寺にはがんごめて呼ばれよった娘さんが暮らしよったけんど、その娘さんは異国の血ぃ引いとるぎりで、ほんまのがんごめやなかったんじゃて。ほやけん、うちがその娘さんの生まれ変わりやったにしても、うちががんごめいうんは有り得んのじゃて言うてくんさったんです」
「がんごめの話は、わしらかておヨネさんから聞かされて初めて知った話ぞな。ましてや、その娘が異国の血ぃ引いとるやなんて全然知らんことぞな。あの子はその話を誰から聞いたて言いよった?」
「さっきと対ぞなもし。前においでた和尚さんじゃて言うとりんさった」
「ほれはますます妙じゃの。今も言うたとおり、前の和尚とあの子が出会うたことはないんよ。前の和尚がどこにおいでるんかも、あの子は知らんはずぞな」
「じゃあ、誰から――」
千鶴は、はっとなった。
忠之が夫婦約束をしていたのも、異国の血を引く娘だった。千鶴と同じロシア人の娘だと忠之は言っていた。
しかし、風寄にそんな娘がいたとしたら、誰も千鶴を見て珍しがったりはしないだろう。それに春子がそのことを知らないわけがない。
「あの子はまっこと優しいし頭がええ。やけん、千鶴ちゃんの悩みを聞いた時に、何とか千鶴ちゃんを慰めよ思て、即興で考えたんじゃろな」
知念和尚は忠之についての自分の考えを述べた。しかし、それは千鶴の耳を取り過ぎて行った。
千鶴は和尚に顔を向けた。
「和尚さん、お訊ねしたいことがあるぞなもし」
「何ぞな?」
「和尚さんは佐伯さんが産まれるより前から、法正寺においでるんですよね?」
「ほうじゃが、ほれがどうかしたかな?」
「和尚さんが法正寺においでてから今日までの間に、風寄にロシア人の血ぃ引く娘さんがどこぞにおったいう話を、耳にしんさったことはおありですか?」
知念和尚は怪訝そうに言った。
「いいや、そげな話は聞いたことがないぞな」
「うちとそっくりで、うちと対の名前の娘さんは、ご存知ないんかなもし?」
「ロシア人の血ぃ引く娘言うたら、わしら、千鶴ちゃんしか知らんぞな」
千鶴は愕然とした。
忠之が出任せを言ったとは思えない。別れた娘の話をした時、忠之は涙ぐんでいた。
「和尚さん、もう一つぎり教えてつかぁさい。昔、ここにロシアの船が来たことはあるんかなもし?」
「わしらは土地の者やないけん、ここの昔のことはよう知らん。ほやけど、瀬戸内海は黒船の航路やったけんな。徳川の時代が終わる頃、ここら辺をロシアの船が通ったかも知れまい」
千鶴が立ち止まったので、和尚も足を止めた。
「どがぁしたんぞな? 早よ戻らんと雨が降るぞな」
「学校で習いましたけんど、黒船が日本に来よった頃は、異国人を殺そうとするお侍もおったんですよね?」
「攘夷いうてな、異国人は日本を利用するぎりの、悪い連中じゃて考える輩がおったんぞな」
「がんごめて呼ばれよった娘が異国の娘じゃて知れたら、狙われるんやありませんか?」
「ほれはまぁ考えられるわな。なるほど、法正寺に集まっとった侍連中いうんは、そげな目的があったんかもしれんな。ほんでも娘一人を殺めるんに大勢は必要ないじゃろ」
「ここにロシアの船が来るてわかっとったら?」
知念和尚は驚いたような顔で千鶴を見た。
「どがぁしたんぞな、千鶴ちゃん。何考えとるんぞな?」
浜辺で大勢の侍たちを迎え撃つ、若侍の姿が千鶴に見えた。若侍は千鶴を海に逃がそうとしていたのに違いない。
――おらはな、どがぁに望んでも、その娘と一緒にはなれんなったんよ。
海を見つめる悲しげな忠之の顔が目に浮かぶ。
まさかという思いが、千鶴の考えを引き止めようとする。だが、他にどう説明できるのか。
自分ががんごめと呼ばれた娘の生まれ変わりであるならば、その娘と夫婦約束をしていた若侍も、生まれ変わっているはずだ。そして、それは――。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
千鶴の髪に花を飾ってくれた若侍が微笑んでいる。その顔は、今でははっきり見えている。
何故海辺の夕日を見ると、悲しみが込み上げたのか。その理由が今わかった。
千鶴は胸が苦しくなった。胸の中で感情が爆発しそうだ。涙で目がよく見えない。
知念和尚がうろたえたように千鶴に声をかけた。だが、千鶴は答えることができないまま、ただ泣き続けた。
蘇った記憶
一
「ほんじゃあ、こっから先は一人で行けるかな?」
知念和尚は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。
千鶴はうなずき、襟巻きを和尚に返そうとした。だが和尚はそれを制し、もう一度襟巻きを千鶴の首に巻き直してくれた。
「ほれは千鶴ちゃんがしよりなさい。ほうじゃ、ちぃと待っとりなさいや。傘を借りて来てあげようわい」
ここは木屋町の電停を過ぎた辺りで、お寺が多い所だ。
知念和尚はここにあるお寺の一つに用があって来たそうで、そこへ傘を借りに行こうとした。
しかし、千鶴は大丈夫ですと言って、それを断った。それから和尚に世話になった礼を述べると、一人歩き始めた。
本当は傘を借りればよかったのかもしれない。だが、千鶴の頭は忠之のこと以外、何も考えられなくなっていた。
この道を歩いていると、忠之に風寄から人力車で運んでもらったことを思い出す。それに風寄へ帰る忠之を見送りがてら二人で歩いたのもこの道だ。
あの時、千鶴には希望が見えていた。きっと同じ希望を忠之も見ていたに違いない。千鶴と同じ屋根の下で暮らすことができると、喜びを噛みしめていたはずなのだ。
そんなことを考えると、千鶴はまた泣きたくなった。あの時には知らなかった忠之の正体が、わかっているから余計に悲しい気持ちになる。
千鶴は悲しみをこらえながら、自分と忠之のつながりを考えた。
まず前世の自分は、法正寺で暮らした娘だったと思われる。そして前世の忠之は、風寄の代官の一人息子だったに違いない。
二人は夫婦約束を交わしていた。ところが襲って来た攘夷侍たちによって、二人の間は引き裂かれた。忠之は千鶴をロシアの黒船に託して、攘夷侍たちと共にその命を散らしたのである。
そうして死に別れたはずの二人が、今ここに生まれ変わり、奇跡の再会を果たしたのだ。
それが真実だという証拠はない。だが、千鶴はそれを紛れもない事実だと確信していた。そう考えなければ、頭に浮かんだ幻影や、忠之の言葉を説明することはできなかった。
千鶴の考えが正しいのだとすれば、忠之は明らかに前世の記憶を持っている。それだけでなく、千鶴が法正寺にいた娘の生まれ変わりだと、忠之はわかっていると思われる。
だからこそ、他の者なら絶対に見せないような親切を、忠之は千鶴のために示してくれたのである。
生まれ変わった千鶴を見つけた時、忠之はどれほど驚き、どれほど喜んだことだろう。
本当であれば、二人は前世で夫婦約束を交わしていたのだと言いたかっただろうに、そう言わなかったのは何故なのか。
その理由の一つは、千鶴が前世の記憶を持っていないということだろう。覚えていない相手に前世の話をしても、頭がおかしいと思われるだけである。
しかし、それとは別にもう一つ理由があると千鶴は思った。
それは忠之が山陰の者であるということだ。あるいは、孤児であるということなのかもしれない。
そんな自分が千鶴と一緒になるなど無理だと、忠之は考えたに違いない。また、千鶴が山﨑機織の主の孫娘だとわかると、尚更あきらめの気持ちになったのだろう。
それでも千鶴に会いたくて、忠之は松山ヘやって来た。そして、甚右衛門から働かないかと声をかけられた。
あの時、忠之がどれほど胸を弾ませたことか。そして、忠之が山陰の者だと知った甚右衛門が、手のひらを返したように忠之を拒絶した時、どれほど傷ついたことか。
悔しさに涙ぐむ千鶴の頬に、ぽつりぽつりと雨粒が当たった。
雨は次第に強くなり、あっと言う間に土砂降りになった。
辺りは真っ暗になり、所々に洩れ見える家の明かりや、街灯だけが頼りだった。
ずぶ濡れになって歩きながら、千鶴は頭の中で、仲買人の兵頭を呪っていた。
兵頭が祖父に余計なことさえ言わなければ、忠之が山﨑機織へ来る話が、ふいになることはなかったのだ。
しかも、兵頭は牛が動かなくなった時、忠之に絣を松山までただで運んでもらったのである。
絣の代金だって、きちんと届けてもらったはずだ。そんな恩がある者にこんな仇を返すのは、人間のすることではない。
千鶴は自分が鬼になったような気持ちで、兵頭を罰するところを想像した。しかし、すぐに忠之の顔が思い浮かび、そんなことを考えるのをやめた。
――千鶴さんはがんごめやない。千鶴さんは人間の娘ぞな。千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞな。
心の中の忠之が千鶴に語りかけて来る。忠之の言葉を聞けば、悪いことなど考えられるはずがない。
それで何とか怒りは鎮めることができたが、悲しみだけはどうしても消すことができない。
自分の無力さに涙を流しながら、千鶴は雨の中を歩き続けた。
裏木戸から家に入ると、幸子と花江が手拭いを持って駆け寄って来た。
幸子は仕事から戻った時に、初めて千鶴のことを聞かされたのだろう。唇を噛みしめながら泣きそうな顔をしていた。
びしょ濡れになった千鶴の体を、二人は懸命に拭いた。
首に巻いていた襟巻きはどうしたのかと訊かれ、堀江の向こうで出会った知念和尚に貸してもらったと、千鶴は力なく話した。
それで幸子たちは、千鶴が何をしようとしていたのかを理解したようだった。二人はそれ以上は何も訊かず、黙って千鶴を拭き続けた。
だが、水がしたたり落ちるほど濡れた着物はどうしようもない。
幸子は千鶴に、早く着物を着替えるようにと言った。
座敷にいた甚右衛門とトミは、千鶴の様子を見て戸惑っている様子だった。それでも千鶴に声をかけたり、傍へ来ることはなく、黙って千鶴を眺めていた。
板の間にいる手代や丁稚たちも、やはり千鶴を眺めるばかりで黙っている。
幸子は千鶴を離れの部屋へ連れて行くと、着物を着替えさせながら、改めて体を拭こうとした。その時、千鶴の体に触れて驚きの声を上げた。
「千鶴、あんた、えらい熱があるぞな」
確かに悪寒がしていた。立っているのもつらい。
幸子は急いで千鶴に寝巻を着せると、布団を敷いて寝かせた。
「今、お薬持って来るけんな」
母が部屋を出て行ったあと、悲しみと疲れでぼーっとしていた千鶴は、すぐに夢の世界へ入った。
だが夢の中でも、千鶴は熱を出して寝ていた。
千鶴の枕元には、前髪が残る男の子が座っている。前世の子供の頃の忠之だ。名前は柊吉と言う。
柊吉は千鶴の額に手を当てながら、苦しいかと訊ねた。
千鶴がうなずくと、柊吉は自分の額を千鶴の額に重ねて祈った。
「千鶴の病があしに移りますように。千鶴が笑顔でいられますように」
そげなことは願わんといてと、千鶴は柊吉に言った。
だが柊吉は祈り続け、これで大丈夫ぞな――と言った。柊吉が顔を上げると、そこには醜い鬼の顔があった。
千鶴――幸子の声が聞こえると、柊吉はいなくなった。
幸子が薬の準備をしている横で、千鶴は声を出して泣いた。泣きながら、自分にも前世の記憶があるのだと知った。
幸子は千鶴に薬を飲ませても、部屋を出て行かなかった。千鶴の隣で自分も横になると、余計なことは何も言わず、千鶴の手を握り続けてくれた。
千鶴は母を感じながら、再び眠りに落ちて行った。
二
千鶴は小さな杖を突きながら、険しい山道を歩いていた。随分前から歩き続けているが、いつまで続けるのかはわからない。
すぐ前を、母が同じように杖を突きながら歩いている。母は白い衣装を身にまとい、菅笠をかぶっているが、千鶴も同じ格好だ。
大人でも大変な道を、子供の千鶴が歩くのはつらいことだ。それでも歩くしかないので、千鶴は懸命に歩いた。
千鶴が遅れると母は立ち止まって、千鶴が来るのを待っている。だが千鶴が追いつくと、母はまた歩き始めるので、千鶴は休む暇がない。
体が熱く、噴き出る汗は手拭いで何度拭いても止まらない。
「お母ちゃん、暑い。おら、お水、飲みたい」
「ええよ、ちくと休もかね」
母は足を止めて、にっこり笑った。
千鶴は腰に提げた竹筒の水を飲もうとした。しかし、水を入れたはずの竹筒は空っぽだった。
「お母ちゃん、これ、水入っとらん」
「ほれやったら、お母ちゃんのを飲みや」
母は自分の竹筒を千鶴に渡そうとした。
その時、母は急に咽せ込んだようにひどい咳をし始めた。
咳は止まらず、母は崩れるようにしゃがみ込んだ。持っていた竹筒は地面に転がり、口を押さえた母の手は、指の間から赤い血が流れていた。
「お母ちゃん!」
千鶴は母の背中をさすりながら助けを呼んだ。
「誰か来て! お母ちゃんが、お母ちゃんが」
ところが周りには誰もおらず、千鶴は泣きそうなのをこらえながら、母に声をかけ続けた。
「千鶴、大丈夫か? しっかりせんね。ああ、えらい汗かきよらい」
手拭いで千鶴の寝汗を拭きながら、幸子は千鶴を起こした。
うっすら目を開けた千鶴は、薄暗さの中に、母の顔を見つけた。
「お母ちゃん!」
千鶴は跳ね起きると、幸子に抱きついた。
「お母ちゃん、お母ちゃん、お母ちゃん……」
「ちょっと、どがぁしたんね? 千鶴、悪い夢でも見たんか?」
千鶴には慌てる母の言葉が聞こえていない。
「お母ちゃん、死なんといて。死んだら嫌や。おらを独りぼっちにせんで」
「おら? ちょっと千鶴。あんた、何言うとるんね?」
幸子は千鶴を押し離すと、千鶴!――と強く言った。
千鶴はようやく正気に戻り、周りを見回した。
そこは自分と母が使っている離れの部屋で、行灯の明かりがぼんやりと部屋を照らしている。いつもなら寝る時には消すのだが、母がつけておいたのだろう。
「お母さん? うち、どがぁしたん?」
「どがぁしたんやないぞな。何ぞ悪い夢でも見たみたいで、お母ちゃん、お母ちゃん言うて、うなされよったんよ。ほじゃけん、大丈夫かて声かけたら、いきなりがばって起き上がって抱きついてな。また、お母ちゃん、お母ちゃん言うたり、死んだら嫌や、おらを独りぼっちにせんでて言うたんぞな」
「うちがそげなこと言うたん?」
「言うた言うた。いったい何の夢を見たんやら。ほれより、また着替えんとな。汗で寝巻がびちょびちょやで」
そう言われて、自分が汗をびっしょりかいていることに、千鶴はようやく気がついた。
「こんだけ汗かいたんじゃけん、のど渇いたろ? 今、お水持て来てあげるけん、ちぃと待ちよりや」
幸子が部屋を出て障子を閉めると、千鶴は一人きりになった。
さっきは何の夢を見たのだろうと、横になりながらぼんやりしていると、いつの間にか、千鶴はお坊さまに手を引かれて石段を登っていた。
いつも一緒だった母はいない。母は亡くなったのだ。
石段の上には寺の山門がある。その門を潜って境内に入ると、寺男と思われる男が一人、境内の掃除をしていた。
男は千鶴を見ると、驚いて腰を抜かしそうになった。
お坊さまは男に、驚くことはないと言い、千鶴が異人と日本人の間に産まれた、気の毒な娘だと説明をした。
場面が変わり、千鶴は寺男と一緒に寺の仕事を手伝っていた。
仕事が終わると、千鶴はお坊さまに呼ばれて習字を教わった。千鶴が教えてもらったのは「千鶴」という自分の名前の字だった。
村の者たちは千鶴を見ると気味悪がり、鬼の娘と言ったり、がんごめと呼んだりした。
村の子供たちはわざわざ寺まで来て、千鶴を見つけると石を投げつけたり、追い回したりしていじめた。
お坊さまや寺男がそれを見つけると、子供たちに雷を落として千鶴を護ってくれた。それでも千鶴は悲しかった。亡くなった母に会いたくて、ずっと一人で泣いていた。
「千鶴、また寝たんか? お水、持て来たで」
母の声が聞こえ、千鶴は目を覚ました。だが、夢の記憶は残っている。
今の自分の中には、山﨑機織の千鶴と、がんごめと呼ばれた千鶴という二人の千鶴がいた。
「だんだん」
水を受け取りながら、千鶴は母の顔を見つめた。
がんごめと呼ばれた千鶴が心の中で泣いている。前世で死に別れた母が、今、目の前にいる。
――お母ちゃん。
心の中で、前世の千鶴が母を呼ぶ。しかし、その言葉を口に出せば、母が困惑するのは目に見えている。
今の自分は前世の自分ではないし、今の母は前世の母ではない。だが母の顔は、前世の母の顔によく似ている。
母は前世のことなど覚えていないが、自分と同じように、母も生まれ変わって来たのに違いない。それも、前世と同じ自分の母親として、生まれて来てくれたのだ。
母の有り難さはわかっていたつもりだが、今ほど有り難く思ったことはない。
「お母さん、これからもずっとうちの傍におってな」
母を見上げて千鶴は言った。
幸子は微笑むと、あんたが嫌と言うまでおるぞな――と言った。
三
母と共に再び床に就いた千鶴は、少し気持ちが落ち着いた。母が隣にいると思うだけで心強く感じられる。
一方で、親に捨てられた忠之を想うと、千鶴は胸が締めつけられた。
その忠之を、事もあろうに自分の祖父がさらに傷つけたのだ。
忠之は何も悪くない。しかも、祖父は忠之から多大なる恩を受けていた。それなのに山陰の者というだけで、手のひらを返したような仕打ちを祖父は見せたのである。
だが、それに対して自分は何もできない。無力感は千鶴から気力ばかりか思考力も奪っていた。
頭はぼんやりしているが、全然眠れない。隣から母の寝息が聞こえて来ても、千鶴はまだ目が覚めていた。
何となく目に浮かぶのは、大きな楠だ。
――あれは確か、法正寺の本堂の脇に生えとる楠爺ぞな。ずっと昔から生えとる立派な楠じゃと、和尚さまが仰っておいでたわい。誰ぞが来ると、おら、よく楠爺の後ろに隠れたわいなぁ。
頭の中で独り言をつぶやきながら、千鶴はいつの間にか楠爺の陰から、境内を眺めていた。
山門を潜って境内に入って来たのは、お侍と男の子の二人だ。男の子はお侍の子供なのだろう。村の子供たちとは違う身なりをしている。見ていると、二人は庫裏の中へ入って行った。
千鶴は楠爺の陰から出ると、小石で地面に絵を描いて遊んだ。すると、間もなくして男の子だけが外へ出て来た。
驚いた千鶴は小石を捨てると、慌てて楠爺の後ろに隠れたが、男の子は千鶴に向かって走って来た。
千鶴は本堂の裏へ逃げたが、男の子は足が速かった。千鶴はすぐに追いつかれ、境内の隅へ追い詰められた。
逃げられなくなって千鶴が泣きそうになると、泣くなと男の子は言った。それから男の子は懐に手を入れ、中から花を取り出した。それは野菊の花だった。
「お前のことは聞いておったけん、下でこの花を摘んで来たんぞ」
千鶴は男の子の言っていることが理解できなかった。
男の子は構わず千鶴に近寄ると、千鶴の頭に花を飾ってくれた。
自分で花を飾っておきながら、男の子は目を丸くした。
「うわぁ、きれいな。花の神さまみたいぞな」
千鶴は頭の花を手で触れると、男の子に言った。
「おらが、花の神さま?」
男の子は嬉しそうにうなずいた。
「花がそがぁ申しておらい」
「お花の言葉がわかるん?」
「わからんけんど、わかるんよ。お前は花の神さまぞな。ほれにお前を見て、あしはわかった」
「わかったて、何がわかったん?」
怪訝に感じる千鶴に、男の子は真面目な顔で言った。
「あしはな、お前に会うためにここへ来たんぞな」
「おらに会うために? なして?」
「わからん。ほやけど、そがぁな気がするんよ」
村の子供たちは千鶴を馬鹿にする。千鶴は男の子の言葉が信じられなかった。
「おらを、からかいよるんじゃろ?」
「からこうたりなんぞするもんかな。あしは嘘は嫌いぞな」
「ほやけど、おら、がんごめぞな。ほんでも構んの?」
「がんごめとは何ぞ?」
「鬼の娘のことぞな」
千鶴は男の子を見返すつもりで、少し胸を張った。
だが男の子は顔をしかめて、意外な言葉で応じた。
「鬼の娘? 何言いよんぞ。お前は花の神さまぞな。花の神さまはな、誰より優しいて、誰よりきれいなんぞ」
男の子が大真面目なのがわかると、千鶴は途端に恥ずかしくなった。
困って目を伏せる千鶴に、男の子は自分は柊吉だと名乗った。それから拾った小枝で、地面に名前を漢字で書いて見せた。
男の子に名前を訊ねられた千鶴は自分も名乗った。
字が書けるかと柊吉に訊かれ、千鶴はうなずいた。では書いてみろと、柊吉は持っていた小枝を千鶴に渡そうとした。千鶴はそれを受け取ろうとしたが、緊張していたのか、受け損なってぽろりと落としてしまった。
慌てて拾おうとしゃがんで千鶴が手を伸ばした時、同じように柊吉が伸ばした手と千鶴の手が重なった。
重なった手を通して、とても懐かしい温もりが伝わって来た。千鶴は驚いて柊吉と見ると、柊吉も同じように驚いた顔で千鶴を見ている。
千鶴は嬉しいような恥ずかしいような気持ちになって、拾った小枝で地面に名前を書いた。
それを見た柊吉は、千鶴がむずかしい字が書けると感心し、千鶴に尊敬の眼差しを向けた。
千鶴は嬉しかったし少しだけ誇らしい気持ちになった。それから千鶴は柊吉と友だちになった。
場面が変わり、前髪が残る柊吉が息を切らせてやって来た。
柊吉は油紙の包みを懐から取り出し、千鶴の前で開けて見せた。包みの中には、とげとげのある色とりどりのきれいな小さな粒が、沢山入っている。
「これは金平糖というお菓子でな、父上の知人の土産ぞな」
柊吉は得意げに言った。
柊吉に勧められ、千鶴は金平糖を一粒口の中へ入れた。舌の上に甘さが広がり、千鶴は幸せの呻き声を上げた。
柊吉にも食べるように促すと、柊吉は家で腹一杯食ったから、これは全部千鶴の物だと言った。
だが、千鶴が金平糖を食べるたびに、柊吉は横で唾を飲み込むので、千鶴は口の中を見せて欲しいと言った。
柊吉が言われるまま大きく口を開けると、千鶴はその中に金平糖を放り込んだ。
驚いて口を閉じた柊吉は幸せそうな笑顔になって、まこと千鶴は優しいの――と言った。
再び場面が変わると、柊吉は元服して佐伯進之丞となっていた。
晴れ姿を見せに来た進之丞を千鶴が褒めると、進之丞は千鶴の手を取って、嫁になって欲しいと言った。
期待はしていたが、本当に請われて千鶴はうろたえた。
自分は親なし子だし、がんごめだからと遠慮すると、進之丞はそんなことはどうでもいいと言った。
どうしても嫁になって欲しいと繰り返し懇願され、千鶴は嫁になることを承諾した。
進之丞は大喜びで千鶴を抱きしめた。
優しい温もりに包まれた千鶴は、自分のような娘が幸せになれることが信じられなかった。
進之丞は千鶴を抱きながら、千鶴には諱を教えよわいと言った。
諱というのは侍の本当の名前だそうで、滅多に口にしてはいけないし、誰にでも告げる名前ではないらしい。
進之丞というのは呼び名であって、本当の名前ではないのだと進之丞は言ったが、千鶴には少しむずかしい。
「とにかくな、あしのほんまの名前は忠之ぞな。忠義の忠に之と書いて忠之て読むんよ。名前を全部言うなら佐伯進之丞忠之ぞな」
四
朝になると、千鶴の熱は下がっていた。
目が覚めた時、千鶴は今の自分が置かれた状況を理解していた。
その一方で、夢によって蘇った前世の自分が、心の半分を占めているような感じだった。
前世の自分が現世の自分の邪魔をすることはない。今の自分の中心は現世の自分だ。前世の自分は現世の自分の後ろから、そっと今の状況を眺めている。
「目ぇ覚めたか? 具合はどがいなん?」
母が優しく声をかけ、千鶴の額に手を載せた。
つい、前世の自分が飛び出しそうになるのを抑えながら、千鶴は言った。
「昨日よりはええけんど、まだちぃと頭がぼーっとする」
「ほんじゃあ、今日は一日おとなしいにしとかないかんぞな。あとでご飯を持て来よわいね」
幸子は千鶴を起こすと、用意していた水を飲ませた。
「あのな、お母ちゃん」
母に声をかけてから、千鶴はすぐに言い直した。
「間違うた。あのな、お母さん」
幸子は笑いながら、おかしな子じゃねぇと言った。
「どがいした? 何ぞ欲しいもんがあるんか?」
「おらを――やのうて、うちを産んでくれてだんだんな」
「何やのん、そがぁ改まったこと言うて」
幸子は笑っていいものかどうかわからない様子だった。
「お母さん、体大事にしてや。うちより先に死んだら嫌やけんな」
「昨夜も妙なこと言いよったけんど、何ぞ怖い夢でも見たんか?」
「怖い夢なんぞ見とらんよ」
怖い夢ではない。悲しい夢だったのである。
だが、千鶴は夢の内容を話すのはやめておいた。
喋ったところで信じてもらえないに違いない。熱のために悪い夢を見たのだろう、と言われるのが目に見えている。
「佐伯さんのこと、あんたにも佐伯さんにも気の毒じゃったね」
幸子は改まった様子で、千鶴に話しかけた。
千鶴が黙っていると、幸子は話を続けた。
「お母さん、仕事から戻んてから、何があったんか聞かされてな。あんたが家飛び出した言うけん、ほんまに心配しよったんよ」
「……ごめんなさい」
幸子は考えるように少し間を置いてから言った。
「みんな、おじいちゃんのお世話になって暮らしよるけん、おじいちゃんには逆らえん。ほやけどな、お母さん、あんたの気持ちはようわかる。ほんでも、今はぐっとこらえんとな。一人前の師範になったら、あんたは自由になれるけん、ほれまでは辛抱するんよ」
「ほやけど、おじいちゃん、うちに別のお婿さんを連れて来るんやないん?」
「そげなもん、あんたが断ればええことじゃろ? あんたが絶対に嫌じゃ言うたら、おじいちゃんも無理なことはできんぞな」
千鶴はうなずいた。確かに母の言うとおりだと思うし、他にどうすることもできそうにない。
母が部屋を出て行くと、前世の千鶴が顔を現した。考えるのは忠之のことだ。
前世の千鶴は忠之を進之丞として認識しており、法正寺に捨てられていた孤児とは見ていない。そんなことはどうでもいいことであり、死に別れたはずの二人が、再び出会えたことを喜ぶばかりだ。また全て定めであり、二人が夫婦になるのも定めだと信じている。
それでも千鶴が思い出した前世の記憶は、全体の一部に過ぎなかった。全てを思い出したわけではないので、前世の千鶴の存在感は希薄でもあった。
千鶴が現在の忠之に思いを馳せると、前世の千鶴はすぐさま後ろへ引っ込んでしまう。
現世の千鶴には、できるだけ物事を客観的に見ようという気持ちがあった。そのため前世の自分の記憶が、果たして本物なのかと疑う気持ちもあった。
もしかしたら自分は頭がおかしくなったのではないかと、不安になったりもする。しかし、忠之が言ったことを信じるならば、やはり忠之は進之丞の生まれ変わりであり、前世の記憶があると考えざるを得ない。
すると、途端に前世の千鶴が顔を出し、何が何でも進之丞の所へ行かねばと主張し始める。
前世の千鶴は、自分の存在を進之丞に示したがっていた。現世の千鶴も、自分が前世を思い出したことを忠之に知らせたかった。そこのところでは、二人の千鶴の考えは一致していた。
きっとそれは忠之の悲しみを癒やすことになるだろうし、今度こそ二人が夫婦になるという決心を忠之に抱かせるはずだと、二人の千鶴はうなずき合った。
とにかく忠之と連絡を取らねばならないと思ったが、今は自由に動ける状態ではない。それに無鉄砲なことをすると、却って状況は悪くなるかもしれなかった。
ここは知念和尚や母の忠告どおり、落ち着いて構える必要があると、千鶴は自分に言い聞かせた。前世の千鶴も黙ってその言葉を聞いている。
まずは手紙を書こうかと思ったが、千鶴は忠之の住所を確かめていなかったことに気がついた。まさか、こんなことになるとは思いもしなかったのだ。
迂闊だったと自分を責めながら、千鶴は再び横になった。
どうしようかと思い悩んだが、いい考えは浮かばない。
知念和尚宛に手紙を出して、忠之に届けてもらおうかとも思ったが、やはり法正寺の住所がわからない。法正寺とだけ書いても届くかもしれないが、届かないかもしれない。手紙を確実に届けるためには、あやふやなことは避けた方がいいだろう。
少し考え、そうだと千鶴は思った。春子に訊けばいいのである。春子が知らなければ、実家に訊ねてもらえばいい。そうすれば法正寺の住所がわかるし、知念和尚なら絶対に二人のために動いてくれるはずだ。
明日は必ず学校へ行き、春子に会おう。そのためには、今日中に体調を戻す必要がある。
千鶴がようやく安堵して気持ちを整理できた頃、幸子が千鶴の箱膳を運んで来てくれた。
幸子がまた部屋を出て行ったあと、千鶴は一人でしっかり食べた。食欲があるわけではなかったが、明日のために、とにかく食べねばならなかった。
現れた鬼
一
月曜日、千鶴は学校へ行く準備をした。
昨日のうちに体調を戻すつもりだったが、まだ完全とは言えなかった。それでも春子に会って、法正寺の住所を教えてもらわねばならない。それに、また学校を休むと退学になると言われている。
忠之が山﨑機織で働けない以上、忠之と一緒になるためには、師範の資格はどうしても必要だ。たとえ熱があったとしても、休むわけにはいかなかった。
髪を整え、着物の上に袴を着けると、千鶴は茶の間へ挨拶をしに行った。病院の仕事へ向かう母も一緒だ。
祖父は新聞を読んでいる。その横で祖母がお茶を淹れていた。
千鶴と幸子は、まず茶の間にある仏壇の前で手を合わせた。この日は千鶴の叔父正清の命日だった。
「おじいちゃん、おばあちゃん、行てまいります」
祈り終わった千鶴が、幸子と一緒に祖父母に挨拶をすると、甚右衛門は目だけを向け、あぁ――と素っ気ない返事をした。
辰蔵がいないので早く帳場に行こうとしているのか、甚右衛門は忙しげに新聞をめくっている。
トミは千鶴に待つように言うと、お茶を入れた湯飲みを甚右衛門に渡し、千鶴の傍へ来た。
「今日は電車でお行き」
トミは懐から財布を出すと、千鶴に銭を持たせた。
昨夜は冷たい顔を見せたトミだったが、今朝は優しげな祖母に戻っていた。
幸子は花江から用意していた弁当を受け取ると、一つを千鶴に持たせた。
花江は千鶴に何か言いたげに見えた。しかし、言葉が見つからなかったのか、黙って微笑んだだけだった。
「花江さん、行て来ます」
千鶴が花江に声をかけて表へ出ようとすると、何じゃと?――と甚右衛門が声を上げた。
千鶴と幸子が驚いて振り返ると、甚右衛門は新聞に顔を突っ込むようにしている。
「どがいしたんぞな? 急にそげな大けな声出しんさって」
トミが怪訝そうに声をかけたが、甚右衛門は返事をしない。記事に釘づけになっているようだ。
トミは甚右衛門の傍へ行き、横から新聞をのぞき込んだ。
恐らく、伊予絣の値が暴落したのだろうと思い、千鶴は再び祖父たちに背を向けた。
すると、後ろでまた甚右衛門の声が聞こえた。
「兵頭よ。兵頭のことが出とる。ほれ、ここ見てみぃ」
「誰ぞな、兵頭て?」
訊き返したのは祖母の声だ。
「風寄の仲買人の兵頭ぞな。金曜日にここへ来たろがな」
「あぁ、あの兵頭さんかな。あのお人が、なして新聞に載っておいでるん?」
千鶴は二人を振り返った。幸子も同じように二人を見ている。
花江は洗濯の準備をしているが、耳は甚右衛門たちの言葉をしっかり聞いているはずだ。
甚右衛門は説明しようとした。だが面倒に思ったのか、自分で読めと、新聞をトミに突きつけるように手渡した。
新聞を受け取ったトミは、どれどれと両腕を真っ直ぐ伸ばすと、新聞を読み始めた。
「豪雨が降る土曜日の真夜中、風寄の名波村に住む、兵頭勘助さんの家が、突然ばりばりと音を立てて屋根が壊れた。その時に兵頭さんたちは、化け物が吠える声を聞いたと言う。家人に怪我人はいるものの命に別状はなし。ただし、購入したばかりの牛は驚いて死んだ模様。尚、風寄では先日、山の主のイノシシが何者かに頭を潰されて死ぬという事件が起こっており、村人たちはすっかり怯えている様子である」
トミは新聞を下ろすと、甚右衛門に訊ねた。
「これ、何やと思いんさる?」
「そげなこと、わしがわかるわけなかろ!」
甚右衛門は怒鳴った。
幸子は不安げに千鶴を見た。
花江も動きが止まって、千鶴を見ている。イノシシ事件を千鶴と春子から聞いていたからか、花江の顔は強張っていた。
だが、一番怖い顔になっていたのは千鶴かもしれなかった。
千鶴は直感で、これは鬼の仕業だと思った。自分が兵頭を呪ったために、その願いを叶えようと鬼がお仕置きをしたのに違いない。
鬼が千鶴のために動いたことは、忠之が言ったとおりだと千鶴に確信させた。
千鶴は兵頭を一つも気の毒だとは思わなかった。
兵頭は忠之の恩を仇で返した。鬼に襲われても自業自得である。命が助かっただけでも有り難いと思うべきなのだ。
鬼が味方になってくれていることは、千鶴を安心させ慰めてくれた。しかし、千鶴はふと怖くなった。
自分の怒りに鬼が反応したのだとすると、これは自分のせいということになる。
今回は牛が死んだだけで済んだが、この次は人の命が失われるかも知れない。それは避けねばならないことだし、千鶴は鬼の手を血で汚させたくなかった。鬼には優しい鬼のままでいて欲しかった。
今後は無闇に怒りを覚えてはならないと、千鶴は自分を戒めた。
また、祖父に対しても腹を立てないことに決めた。自分のちょっとした怒りが、大変なことにつながりかねないという思いが、千鶴を慎重にさせた。
とにかく何があっても、するべきことを淡々とするだけで、決して腹を立ててはいけないと、千鶴は自分に言い聞かせた。
「ほやけど、どがぁするんぞな? 兵頭さん所の牛が死んでしもたて書いてあるけんど、今度はどがぁして絣を持って来んさるんじゃろか?」
トミは兵頭の家が壊れたことよりも、絣の納入が滞ることを心配していた。
甚右衛門はトミを見たが、返事ができないようだった。それはそうだろう。もう、忠之が大八車で絣を運んでくれることはないのである。
兵頭も困るだろうが、祖父も再び頭を抱えねばならなくなったようだ。千鶴は少し鬱憤を晴らした気分になった。
二
札の辻から電車に乗った千鶴は、歩かずに済んだことを有り難く思いながら、電車に憧れていた忠之を思い出していた。
松山で暮らしたならば、いつか乗れたであろう電車や陸蒸気に、忠之が乗ることはないだろう。その電車に自分が乗っていることが悲しく切なくて、千鶴は外の景色を見ずに目を瞑り続けた。
ゴトンゴトンという電車の揺れ動きを感じながら、千鶴は心の中で忠之に声をかけ続けた。必ず傍に行くから待っていて欲しいと、ずっと念じ続けていた。
「新立、新立です」
車掌の声が聞こえ、千鶴は目を開けた。そこはもう学校のすぐ近くだ。
電車を降りると、千鶴は女子師範学校へ向かった。
いつもよりかなり早い時間の到着になったので、何だかいつもと調子が違う。
校門の前に立った千鶴は、とにかく将来のためにがんばろうと、校舎を見上げながら気持ちを新たにした。
校舎に入り教室へ行くと、騒々しい声が廊下にあふれ出ている。今日も静子が今朝の新聞記事のことで、みんなに喋っているのに違いない。
「おはようござんした」
教室に入った千鶴が声をかけると、級友たちはぴたりを喋るのをやめて千鶴を見た。
一斉に振り返られた様子が異様な感じだった。千鶴は戸惑いはしたが、それでも笑顔を見せた。だが、千鶴に笑顔を返す者はなく、みんな怖い物でも見るような目を千鶴に向け続けている。
集まりの中心には、やはり静子がいた。その隣には春子がいる。
しかし、二人の顔にも笑顔はない。静子は怯えたような顔をし、春子は泣きそうな顔だ。
「山崎さん、鬼が憑いとるんやて?」
静子が唐突に言った。
え?――一瞬、頭の中が白くなった千鶴は、すぐに春子を見た。
春子は慌てた様子で目を伏せた。静子は続けて言った。
「お祓いの婆さまに、鬼が憑いとるて言われたんじゃろ? その婆さまでも手に負えんような、恐ろしい鬼が憑いとるて聞いたで」
千鶴は返事をしなかった。顔を上げようとしない春子に怒りを覚えたが、怒ってはいけないと必死で自分を抑えていた。
静子は名探偵にでもなったつもりなのだろうか。かつての仲良しだった千鶴を容赦なく責め立てた。
「今朝の新聞に出よったけんど、風寄で化け物に襲われた家があったそうな。山﨑さんも知っとろ?」
「し、知らんぞな、そげな話」
知っているとは言えなかった。
「風寄で死んだイノシシ、頭潰されて死によったじゃろ? あれかてほの化け物の仕業に違いないで」
「そげなこと、うちに言われたかて困るぞな」
「山﨑さん、イノシシの死骸が見つかった頃、気ぃ失うてお寺で倒れよったんやて? お寺に行ったはずないのに、お寺で見つかったやなんて尋常なことやないで。山﨑さん、ほん時に鬼に憑かれたんやないん?」
千鶴はもう一度春子を見た。春子は下を向いたまま顔を上げようとしない。
「そのお寺、昔、がんごめ言う鬼の娘が棲みよったそうじゃね」
「村上さん、高橋さんに全部喋ったん?」
千鶴は顔を伏せたままの春子を責めた。だが、それは静子の言い分を認めたのと同じことだった。
級友たちがざわめいた。近くにいる者同士で身を寄せ合い、泣きそうな声で怖いと言う者もいた。
「うち、がんごめやないけん」
千鶴が訴えながら一歩前に出ると、みんなは慌てて立ち上がり、転びそうになりながら後ずさった。
静子は下がらなかったが、必死で恐怖に耐えているような顔だった。
「山﨑さんがそがぁ言うても、鬼はそがぁ思とらんのやないん? 山﨑さん、村上さんのひぃばあちゃんに、がんごめて言われたそうやんか。村上さんかて山﨑さんの家遊びに行ってから、ずっと体調悪い言うとるで」
「ほんな……」
春子はあれだけ喜んで帰って行ったのに、あれは全部嘘だったと言うことなのか。
その後も春子は千鶴の前では何も言わなかった。言えば鬼を怒らせると思ったのだろうか。
「うちも、ここんとこ頭痛いんは、鬼のせいじゃったんか」
級友の一人が言うと、他の者たちも同じようなことを口にした。中には、家族の怪我や病気、遠方の親戚の不幸までも、千鶴のせいにする者がいた。それに合わせて静子が言った。
「ひょっとして、うちの伯父さんらが化け物イノシシに襲われたんも、鬼が関わっとるんかも」
完全なる言いがかりだった。鬼がイノシシをけしかけたのなら、何故そのイノシシを殺す必要があったのか。理屈もへったくれもない。無茶苦茶である。
みんな千鶴を恐れるがあまり、全ての不幸の原因に仕立て上げようとしている。千鶴が何を言おうと誰も聞く耳を持とうとしない。
おはようござんしたと、何も知らない別の級友が入って来た。だが、教室の異様な雰囲気に気づいたようで、入り口近くに立ったまま、どうしたのかとみんなに声をかけた。
「鬼ぞな。鬼がおるんよ」
誰かが言った。
「え? 鬼?」
入って来た級友が顔を強張らせると、千鶴はうろたえる春子を一睨みして、教室を飛び出した。すると、すぐに春子も教室を出て追いかけて来た。
外へ出て学舎の裏に回った所で千鶴が立ち止まると、春子もそこで足を止めた。二人は黙って互いを見ながら、肩で大きく息をしている。
「山﨑さん、ごめん」
春子が先に口を開いた。
千鶴が黙っていると、春子はもう一度、ごめんと言った。
「鬼が怖ぁて謝りよるんじゃろ?」
春子は黙っている。図星なのだろう。
「自分ぎり助けてもらお思て、謝るやなんてみっともない」
「鬼が怖いんは嘘やないけんど、それぎりが理由で謝っとるんやないんよ」
「他にどがぁな理由があるん?」
「おら、山﨑さんを傷つけてしもたけん」
どの口が言うのかと言ってやりたかったが、千鶴はこらえた。とにかく腹を立ててはいけないのである。
千鶴は何度も息を大きく吸って、気持ちを落ち着けようとした。しかし、悔し涙が止まらない。
「うち、子供の頃から、ずっと白い目で見られよった……。ほんでもな、ここへ来て初めて友だちできたて思いよったんよ。うちがどんだけ嬉しかったか、村上さんにはわからんじゃろ」
「こげなこと言うても信じてもらえんかもしれんけんど、おら、山﨑さんのこと憧れよったんよ」
「うちみたいな者の何に憧れるんよ?」
「ほやかて、山﨑さん、きれいやし優しいし、立派なお店の娘さんやし、おらたちとは違う人やけん」
春子の言葉には空しい響きしかない。そのことは千鶴を余計にいらだたせた。
「ほうよほうよ。うちはみんなとは違うんよ。ほじゃけん、いっつもかっつも邪険にされて、見下されて来たんよ」
「おら、見下したりしとらん」
「見下しとるけん、うちの知らんとこで、みんなにうちの陰口言いよったんじゃろ?」
「陰口言うたんやない」
「ほな、何やのん?」
「つい、口が滑ってしもたんよ……」
春子の弁解によれば、静子が新聞記事を話の種に、今朝早くに寮まで来たらしい。
その時に、春子はうっかりお祓い婆の話をしてしまい、そこからずるずると他のことも聞き出されたと言う。
「風寄には村上さんが誘てくれたけん、行ったんで。ほんまじゃったら、うちが風寄へ行くことはなかったんよ」
春子は黙って項垂れている。
「村上さんがうちを誘てくれたこと、うちは嬉しかった。村上さんがうちのこと大事に思てくれとるんじゃて、勝手に思いよった」
「おら、ほんまに村上さんのこと大事に思いよったんよ」
「じゃったら、なしてよ! なして、こがぁなことになるん? いくら高橋さんに言われたにしても、あれこれ喋る必要なかろがね」
がらんがらんと始業の鐘が鳴った。しかし、二人ともその場を動かない。
春子が何も言わないので、千鶴は続けて言った。
「うち、村上さんに嫌な思いさせとない思て、今まで黙っとったけんど、教えてあげよわい。うちな、村上さんの従兄らに手籠めにされそうになったんよ」
え?――と春子は驚いた顔を上げた。
「ほれ、いつのこと?」
「神輿を投げ落としよった時、村上さん、うちを残して一人で人垣ん中へ入って行ったじゃろ? あのあとぞな。うちはあの人らに、みんなから見えん所へ連れて行かれて、手籠めにされそうになったんよ」
「ほんな……」
「あの人ら、うちを捕まえて、へらへら笑いながら言うたんよ。ロシア兵の娘なんぞ、手籠めにしたとこで誰っちゃ怒らん、却って、みんなに喜ばれるて言いよったわいね」
喋りながら悔しくなった千鶴の頬を、新たな涙が濡らした。
「ほんでも、あるお人に助けてもろたけん、手籠めにされんで済んだけんど、もし、そのお人がおらなんだら、うちは今頃、この世におらんけん」
「おら、何も知らなんだ。ごめん……」
また下を向いた春子に、千鶴は言った。
「ほん時に、うちは思たんよ。みんな、うちの前でにこにこしよるけんど、ほんまはうちのことを見下しよったんやなて」
「ほんなこと――」
顔を上げた春子を遮るように、千鶴は言った。
「ほんなことあるけん、こがぁなことになるんじゃろ? ほうでなかったら、うちのこと化け物扱いするんやのうて、うちの力になろうとするんやないん?」
「ほれは……」
春子はまだ項垂れた。
「村上さん、みんながうちを責めよる時、一言でもうちを庇てくれた?」
春子は黙って首を横に振った。
千鶴は目を閉じると、怒ってはいけないと自分を戒め、春子のことは怒っていないからと鬼に訴えた。
それでも、もう学校に残ることはできない。それは、忠之と一緒になるための道を断たれたようなものだった。そのことが悔しくて悲しくて、千鶴は子供のように泣いた。
三
「それは、みんなが間違ってるよ」
千鶴たちと向かい合って座る、井上教諭は憤ったように言った。
一時限目は井上教諭の授業のはずだった。しかし、教諭は授業を自習にし、千鶴と春子を応接室へ連れて来て話を聞いていた。
「これから小学校の教師になろうという者たちが、そんなことをしていたんじゃ、いくら師範の資格を取ったところで、立派な教師にはなれないじゃないか」
春子は消え入りそうなほど小さくなっている。その春子に教諭は言った。
「村上さん。君は山﨑さんに悪かったと謝っている。それはいいとしても、謝って済むことと、そうじゃないことがあるんだ。あとで謝るぐらいだったら、最初からやるべきじゃない。自分の行動の結果がどうなるのかぐらい、わかってないとだめだろ?」
春子は項垂れて泣いているが、教諭にいつもの優しさはなく容赦なかった。
「僕はね、たった一人を大勢でいたぶるのは、一番嫌いなことなんだ。相手が抵抗できず逆らえないのがわかった上で、みんなでいたぶるなんて最低だよ」
井上教諭は本当に怒っているようだ。
学校ではいじめは厳禁になっているから、この問題を見過ごすわけにはいかないと、教諭は言った。
「下手すれば、全員が退学ってことも有り得るからね」
教諭の言葉に、春子は声を上げて泣いた。
「先生、もう、ええんぞなもし」
千鶴は静かに言った。
「うち、もう誰のことも怒っとりません。ほやけん、もう、ええんぞなもし」
「山﨑さん、君は怒っていいんだ。悪いのはみんなの方だから」
「ほんまにええんぞなもし。うち、もう怒るんはやめたんぞな」
井上教諭は指で眼鏡を押し上げて千鶴を見た。
「君は強い子だな。これだけのことをされながら、みんなのことを許すと言うのかい?」
千鶴がうなずくと、春子は泣きながら、また千鶴に謝った。
千鶴は春子にも、もう怒ってないし、春子のことも許したと言った。
教諭は春子に、よかったなと声をかけた。だが、千鶴は間髪入れずに言った。
「ほやけど、学校はやめるぞなもし。うちは、ここにはおれんですけん」
春子は涙で濡れた顔で、慌てたように言った。
「山﨑さん、そげなこと言わんでや。このとおり、おら、何べんでも謝るけん、やめるやなんて言わんで」
春子は千鶴の手を取って、頭を下げた。
千鶴は春子の手をそっと自分の手から離して言った。
「村上さん。自分が今のうちの立場やったら、このまま平気な顔して学校へ来られる?」
春子は下を向いたまま、黙って首を振った。
千鶴は井上教諭に言った。
「みんなは、うちのこと化け物やて思とります。先生に言われて、みんなが謝ったとしても、みんなの心の内は変わらんですけん。そげな所におるんは、うちには耐えられんぞなもし」
「君の気持ちは理解できるよ。だけど、傷つけられた君が学校をやめるなんて、道理に合わないよ」
「先生にはわからんことぞなもし」
困ったなと井上教諭は腕組みをすると、ふーむと唸った。
「先生方には、ほんまにお世話になりました。ほんまじゃったら、先生方お一人お一人に、ご挨拶せんといかんのじゃろけんど、今日はようしません。ほじゃけん、井上先生の方から、よろしいにお伝えいただけませんか」
「それは、校長先生とも話をしないといけないことだし……。でもね、明日になれば少し気持ちが落ち着くよ。学校をやめるかどうかは、それから考えても遅くはないと思うけど」
「うちは今度学校を休んだら退学になるて、校長先生から言われとります。ほじゃけん、どっちみち学校にはおられんぞなもし」
井上教諭は春子に、教室へ戻るようにと言った。
春子が泣きながら応接室を出て行くと、教諭は千鶴に言った。
「要は、君の気持ちの問題だよ。今回のことを君が気にしないでいられるなら、学校をやめないで済むだろ?」
「ほんなん無理やし」
「僕はね、少し催眠術をかじったことがあるんだ。催眠術では昔の記憶を探ったりできるんだけど、嫌な記憶を消すことだって不可能じゃない。だからね、これで君の傷ついた――」
「もう、ええんです。構んでつかぁさい」
千鶴は立ち上がると、教諭に言った。
「うちの記憶を消したとこで、みんなの気持ちは変わらんぞな。みんながうちを見下しよんのに、うちはみんなを友だちじゃて思わされるやなんて。ほれは、うちに阿呆になれ言うことぞなもし」
「すまない。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。僕が悪かったよ」
「すんません。先生が、うちのこと思て言いんさったんはわかっとります。ほやけど、もうどがいもならんぞなもし」
千鶴は頭を下げると、井上教諭を残して応接室を出て行った。
四
千鶴が昼前に戻って来たので、甚右衛門は茂七に帳場にいるよう命じ、千鶴を奥へ連れて行った。帳場の脇にいた亀吉は、心配そうに千鶴を見送った。
茶の間ではトミが縫い物をし、台所では花江が昼飯の準備をしていた。二人とも千鶴を見ると驚いたように目を見開いた。
甚右衛門はトミを呼ぶと、そのまま土間を通り抜け、離れの部屋へ向かった。千鶴は黙ってその後ろに続き、さらに後ろをトミがついて来た。台所に残った花江は、やはり心配そうにしていた。
部屋に入ると、甚右衛門は千鶴とトミを座らせ、どうしてこんな時間に戻って来たのかと千鶴に訊ねた。
「具合が悪うて戻んたようには見えんが、なして戻んた?」
千鶴は黙って下を向いていたが、もう一度訊かれると、二人に頭を下げて言った。
「おじいちゃん、おばあちゃん、うち、学校をやめることにしました。もう、学校には行きません」
甚右衛門もトミも、目を瞠って互いを見た。
「学校をやめるとは、どがぁな了見ぞな? 理由を言え」
千鶴が黙っていると、トミが心配そうに声をかけた。
「千鶴、何があったんぞな? 怒ったりせんけん、言うとうみ」
「うち……」
千鶴は項垂れると、小さな声で言った。
「うち、化け物じゃけん……」
千鶴は家に戻って来るまでの間に、気持ちが変わっていた。化け物扱いされたことで傷ついた自分を、情けないと思うようになったのだ。
鬼の仲間と思われたことで傷ついたのを、鬼はどう思っただろうかと千鶴は考えた。そして、自分もまた鬼を傷つけてしまったと、気がついたのである。
ずっと自分の傍にいて欲しいと言っておきながら、鬼が傍にいることを言われて傷つくのは矛盾している。
千鶴は家に戻るまで、ずっと鬼に詫び続け、もう鬼の仲間と言われても傷つかないと約束した。だから、学校をやめる理由を訊かれても、鬼を理由にしたくはなかった。
しかし、何も喋らないわけにはいかず、化け物だからと小声で言ったのだが、それでも喋りながら、心の中で鬼に詫びていた。
「化け物? 何じゃい、ほれは。そげなことを誰が言うた?」
「……みんな」
甚右衛門は憤りを隠さなかったが、千鶴には静かに話しかけ、どうして化け物と言われたのか、その理由を訊ねた。
千鶴は兵頭の家が壊れたことや、イノシシが頭を潰されて死んだことに加え、風寄の祭りを訪れた時に我が身に起こったこと、お祓いの婆に言われたことなどを話した。
甚右衛門もトミも明らかに顔色が変わり、不安を感じた様子だった。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、鬼がおるて思ておいでるん?」
千鶴の問いかけに、二人は返事をしなかった。
ただ、トミは怯えたような目で甚右衛門を見て、甚右衛門は動揺したように目を動かしていた。
二人の反応は千鶴を傷つけた。祖父母も級友たちと同じだと、千鶴は思った。
「旦那さん」
外で亀吉の声がした。
甚右衛門が顔を出すと、亀吉が言った。
「仕入れの荷物が届いたけん、旦那さん呼んで来てくれて、茂七さんが言うとりんさるぞなもし」
わかったと言うと、甚右衛門は千鶴を振り返った。
「今は仕事が忙しい。続きは夕飯を済ませてからじゃ。ええな?」
千鶴がうなずくと、甚右衛門は急ぎ足で帳場へ向かった。
トミは甚右衛門のあとを追うかと思ったが、座ったまま動こうとしなかった。
どうしたのだろうと思ったら、トミは泣いていた。
トミは何度も涙を拭きながら、可哀想に――と言った。
祖母の言葉が、千鶴は信じられなかった。初めは聞き間違いかと思ったが、トミはもう一度、可哀想にな――と言った。
「おばあちゃん……」
「あんたは何もしとらんのにな……。何で、そげなことを言われないけんのじゃ。どいつもこいつも人でなしぎりぞな」
トミは千鶴を想って泣いていた。
「あんたはええ子ぞな。うちらの自慢の孫娘ぞな。何があろうと、あんたは胸張っとったらええ。うちらはあんたの味方やけんね」
千鶴が呆気に取られている間に、トミは部屋を出て行った。
一人部屋に残された千鶴は、祖母の涙と言葉について考えた。
自分はずっと祖父母には冷たく扱われて来たと思っていた。
最近になって二人の様子に変化が見られたが、それは山﨑機織を守るために婿を取らされるからだと受け止めていた。
しかし、今の祖母の言葉は、全てが違っていたと告げている。
千鶴は自分が以前とは違う別の世界に、放り込まれたような気分だった。忠之のことや鬼のことも含め、何もかもが尋常じゃない。祖父母にしても、同じ顔をした別人ではないのかと思えてしまう。
確かなのは忠之を想う自分の気持ちだ。また、学校をやめることも決まっている。それは、忠之と夫婦になる唯一の道さえもが、閉ざされたということである。
千鶴は改めて学校でのことを思い返した。
鬼の仲間と見られても、気にしないことにはしたものの、級友たちから仲間外れにされることは、やはり苦痛だし屈辱だ。
それでも落ち着いて考えれば、忠之と一緒になるために、苦痛に耐えて学校へ行くという選択もあったと思う。しかし、そんなことは後の祭りだ。すでに学校を飛び出して帰って来たのである。
今度学校を休めば退学だと言われていたのだから、これで終わりだ。今更、学校へ戻りたいと言ったところで手遅れなのだ。
千鶴は少し後悔の気持ちがあったが、忠之と一緒になるという想いは揺らいでいない。こんなことであきらめてなるものかと思っている。だが、どうしていいのかはわからない。
春子とこんなことになってしまったから、法正寺の住所を訊くこともできなかった。これでは忠之へ手紙を書くことができない。
それでも将来はここを出て風寄へ行き、忠之の嫁になると千鶴は心に決めていた。履物作りをする忠之を手伝うのだ。
ただそれは、忠之の家族が受け入れてくれればの話である。
忠之の親たちの実の子供は、日露戦争で命を失っている。ロシア兵の娘など受け入れてもらえないかもしれない。
「鬼さん、うちはどがぁしたらええと思いんさる?」
どこにいるのかわからない鬼に向かって、千鶴は訊ねた。だが、鬼からの返事はない。
「鬼さん、何とか言うておくんなもし」
いくら訊ねても、部屋の中は物音一つしない。
あきらめた千鶴は、級友たちのことは怒っていないから、何もしないようにと鬼に頼んだ。
それから、ごろりと仰向けになると、忠之のことを思い浮かべ、どうしてうまく行かないのかと悲しくなった。
しかし、忠之がお不動さまに幸せを祈ってくれたことを思い出すと、千鶴はお不動さまに忠之と一緒にさせて欲しいと願った。
「お不動さま、おらを進さんと夫婦にしてつかぁさい。どうか、おらたちの力になってつかぁさい」
千鶴は祈った。必死に祈り続けた。今の千鶴にできることは、祈ることだけだった。
祖父母の想い
一
夕飯を済ませた後、男衆は銭湯へ行った。
花江は繕い物をしようとしたが、トミに銭湯へ行くように言われた。
使用人たちがいなくなると、千鶴は障子を閉め切った茶の間で、甚右衛門とトミ、そして幸子を前にして座らされた。
甚右衛門は腕組みをしながら千鶴に言った。
「改めて訊くが、千鶴、お前は学校をやめるんか?」
千鶴がうなずくと、わかった――と甚右衛門は言った。
「お前がやめる言うんを、無理には行かせられまい。学校の方には、明日にでも連絡を入れようわい」
「すんません」
頭を下げる千鶴に甚右衛門は言った。
「別に気にせいでええ。お前に婿取るんなら、学校はやめさすつもりじゃったけん同しことよ」
「ほんでも婿の話はのうなったし、この子は教師になろ思て、これまでがんばりよったのに、なしてこげな形で学校をやめないかんのよ」
幸子が憤ると、トミが言った。
「世間はな、いっつもかっつも踏みつける相手を探しよるんよ。どがぁな形であれ、目立つ者は目の敵にされるもんぞな。ほんでも、やけん言うて、踏みつけられたままでおることはない。そげな連中を見返してやるぐらい、立派な人間になったらええんぞな」
「学校ではこの件について、どがぁするつもりなんぞ?」
甚右衛門の問いに、千鶴は首を振った。
「うちにはわからんぞなもし。ただ先生には、うちは誰のことも怒っとらんし、みんなのことは許したて言いました」
「あんた、こがぁな目に遭わされたのに、怒っとらんて先生に言うたんか」
幸子が呆れたように言った。落ち着けと幸子を諫めると、甚右衛門は言った。
「もう済んだことぞな。文句言うたかて詮ないことよ。ほれより千鶴は立派じゃったな。ほんだけ悔しい思いをしたのに相手のことを許すやなんて、誰にでもできることやないぞな」
「ほうよほうよ。おじいちゃんの言うとおりぞな。千鶴は立派じゃったと、うちも思わい」
トミも千鶴を褒めた。
何故、祖父母が自分に優しい言葉をかけるのか、千鶴にはわからなかった。まだ婿取りという下心があるのだろうかとも思ったが、どうもそうではないらしい。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、なして、うちに優しい言葉をかけてくんさるん? うち、お婿さんもらう話も断ったし、せっかく行かせてもろた学校も、こげなことになってしもた。ほんまじゃったら怒鳴られるとこやのに、なしてそがぁな優しい言葉をかけてくんさるんぞな?」
千鶴が訊ねると、甚右衛門とトミはうろたえたように顔を見交わした。
「うち、お父さんがロシアの兵隊じゃけん、みんなから白い目で見られよるし、おじいちゃんらにも嫌われとるて思いよりました。ほれやのに、ここんとこ二人ともうちに優しいにしてくんさるし、今日かて怒りもせん。なしてぞなもし?」
二人はまだ返事をしない。それでも千鶴が待っていると、トミが甚右衛門に目で何かを促した。それで甚右衛門は覚悟を決めたように口を開いた。
「お前がそがぁ言うんは尤もぞな。わしらはお前にずっと冷たい態度を取って来たけんな」
続けて甚右衛門は、幸子にも目を遣りながら話し始めた。
「正清が戦死したいう知らせが来た時、わしらは目の前が真っ暗になった。これから何を目標に生きて行ったらええんか、わからんなってしもた。戦争に勝ったとしても、息子が死んでしもたら意味ないけんな。ほじゃけん、正直なとこ、日本が捕虜にしたロシア兵に手厚くしよるんを、わしらは腹立たしいに思いよった。そこへ追い打ちをかけるようにな、幸子がロシア兵の子供を孕んだてわかったんよ」
当時の話は、千鶴は母からおおよそのことを聞いている。どこにも居場所がなくなった母は、大きく膨らみ出したお腹を抱えて家を飛び出し、当てもなく彷徨っているところを、知念和尚に助けられたのである。
幸子が暮らすようになった法正寺があるのは風寄だ。家のごたごたが絣の織子たちに知れるのを恐れた甚右衛門は、子供を産むことを許すと言って、幸子を家に呼び戻したと言う。それは千鶴が考えたとおりのことだった。
お前には悪いけんど――と甚右衛門は千鶴に前置きをしてから、あの時は幸子が千鶴を産んだことが恥ずかしく、針の筵に座らされているみたいだったと言った。
実際に陰口を言われたり笑われたりしたし、面と向かって恥知らずと罵られたこともあったらしい。
そんな話を聞かされるのは、千鶴にはつらかった。千鶴がつい下を向くと、ほやけどな――と甚右衛門は言った。
「わしは思い出したんぞな。昔、わしの祖父上、つまり、わしのじいさんが話してくんさったことをな」
顔を上げた千鶴に、甚右衛門はにこやかに言った。
「こないだお前にも言うたように、わしはこの家に婿として入ったんやが、元は武家の産まれでな。祖父上はお前からすれば、ひぃひぃじいさんじゃな。ひぃひぃじいさんはお侍じゃったんよ」
二
甚右衛門の父親は、重見甚三郎と言う下級武士だった。
明治になって、苦しい家計がますます苦しくなると、甚右衛門は十二歳の時に山崎家へ養子に出されたそうだ。
甚右衛門は家を出る前に、寝たきりになっていた祖父善二郎に挨拶をした。
善二郎は甚右衛門が養子に出されることを惜しみつつ、自分もかつて養女をもらうはずだったという話をした。
明治になる少し前、善二郎は親友から身分違いの娘を一人息子の嫁にしたいので、その娘を養女にしてもらいたいと頼まれたそうだった。
身分を重んじる侍は、身分の低い者とはそのままでは夫婦になれない。そのため身分の低い相手を武家の養女にすることで、身分の体裁を整えていたのである。
「祖父上の親友の名前は、誰じゃったか忘れてしもたけんど、風寄の代官じゃったそうな。その息子が嫁にしたい言うたんは、法正寺におった身寄りのない娘でな。お前と対で、異国の血ぃが流れておったらしいわい」
何ということだろう。前世の自分が法正寺で暮らした証を、祖父が語ってくれている。
驚く千鶴に甚右衛門は話を続けた。
「周りはみんな反対したそうじゃが、親友の頼みじゃけんな。ほの娘を養女にする話を、祖父上は引き受けたそうな」
だが実際にその娘を養女に迎えようとしていた矢先、親友である代官とその息子は殺され、その娘も行方知れずになったそうだと甚右衛門は言った。
「親友から娘の話を聞かされておいでた祖父上は、娘を不憫に思いんさってな。せめてその娘の面倒だけでも、見てやりたかったと言うとりんさった。その話をわしは思い出したんぞな」
甚右衛門が語ったことを、トミはわかっていたらしい。黙って横でうなずいていた。
だが、幸子は初めて聞かされたようで、千鶴と同じように驚いた顔を見せていた。
「その娘と同しように、異国の血を引くお前が産まれたことを、わしは実家に報告しに行った。わしは向こうの家を出る時、山﨑家に入ったら重見家のことは忘れて、山崎家のために生涯を尽くせと言われ、それまでそのとおりに生きて来た。ほじゃけん、家を出てから初めての里帰りじゃった」
甚右衛門が訪ねた重見家は、提灯屋になっていた。
訪いを入れて出て来たのは兄の善兵衛で、甚右衛門との再会を喜んだ。ところが甚右衛門の用向きを知ると、態度を豹変させて甚右衛門を追い返そうとした。甚右衛門同様、善兵衛も日露戦争で息子を失っていたのである。
しかし善兵衛の妻が来て、甚右衛門を中へ通すようにという、父甚三郎の言葉を善兵衛に伝えた。
それで善兵衛は渋々甚右衛門を中へ入れ、甚三郎に会わせた。
祖父の善二郎はすでに亡くなっており、甚右衛門が家を出た時の祖父のように、甚三郎は寝たきりになっていた。
甚三郎は甚右衛門と二人きりにするよう善兵衛に申しつけると、異国の血を引く女の赤ん坊が産まれたという報告を、甚右衛門から聞いた。
甚三郎は善二郎が語った娘のことを知っており、産まれた赤ん坊が女の子で名前が千鶴だとわかると、大変驚いて半身を起こしたと言う。
「父上はの、こがぁ仰った。祖父上が養女にするはずじゃた娘も、千に鶴と書いた千鶴という名じゃったとな」
もう間違いない。自分は法正寺にいた娘の生まれ変わりで、忠之は進之丞の生まれ変わりだ。
興奮を抑えようとする千鶴と、驚きを隠せない幸子に甚右衛門は言った。
「これも何かの縁じゃけん、産まれた子供は必ず大切にするようにと、父上は言いんさった。ほれは父上の言葉じゃったが、わしには祖父上が言うておいでるようにも聞こえた。ほれにわし自身、法正寺の娘と千鶴の間に縁があるように思いよったけん、実家へ報告しに行ったわけやが、二人が対の名前じゃったと知って、これは間違いない思たんよ」
甚右衛門は千鶴を大切に育てることを約束し、実家を後にした。
家に戻った甚右衛門がその旨をトミに告げると、トミもその指示に従うことに同意した。
「ほれまでのわしらは、お前のことを敵兵の娘じゃいう目で見よった。じゃが、ほん時からお前は敵兵の娘やのうて、祖父上が養女にするはずじゃった娘の生まれ変わりとなった。わしは祖父上の想いを引き継ぎ、お前を大切にすることを心に決めたんぞな」
甚右衛門の言葉を引き取って、今度はトミが言った。
「不思議なもんで、お前を受け入れるて決めたら、憎らしかったはずのお前が何とも愛らしいに思えてなぁ。つい顔が綻びそうになったり、優しい声をかけそうになってしもたもんよ。こげなことじゃったら、最初からお前を認めてやったらよかったて、この人と言うたもんじゃった」
「ほんでも、手のひら返したみたいなことは、わしらにはできなんだ。ほれまで幸子やお前を邪険にしよったけん、同しにするしかなかったんよ」
甚右衛門は悔やんだように言った。
「ほれに、千鶴が法正寺におった娘の生まれ変わりやなんて言うたりしたら、却って気味悪がられるけんの。表向きにはロシア兵の娘として扱わざるを得んかったんよ」
甚右衛門に負けじと、トミが言った。
「ほんまはお前のことを、どんだけ抱いてやりたいて思たことか。幸子にも冷たい仕打ちをしよったけん、今更ほんまのことも言えんし、お前にきついこと言うて、お前が悲しそうな顔した時は、胸が張り裂けそうやったぞな。ほんでも今度のことは、あまりにもお前が不憫でな。つい、ほんまの気持ちを隠せなんだんよ」
祖母の涙はそういうことだったのかと千鶴が納得すると、またもや甚右衛門が喋り始めた。
「お前に優しいにしてやれんでも、お前を立派に育ててみせると、わしらは心に誓た。ほじゃけん、外へ出る時には表から出るよう言うたし、お前が学校でいじめられたて聞いたら、あとで学校へ怒鳴り込んだもんよ」
トミも負けていない。
「お前が買い物先で馬鹿にされた時はな、うちがそこ行って、店の主と大喧嘩したもんじゃった。ほれで店の物を壊してしもたこともあってな。あとで弁償させられたりもしたわい」
幸子は笑いながら言った。
「そがぁ言うたら、ほんなことがあったわいねぇ。あん時は、なしてお母さんがお店の物壊しんさったんか、さっぱりわからんかったけんど、そげな理由じゃったんじゃね」
千鶴を女子師範学校へ行かせたのは、千鶴の賢さを伸ばしたかったのと、異国の血を引く娘でもこれだけ立派なことができるということを、世間に見せてやりたかったからだと二人は言った。
使用人たちにも千鶴を大切に扱うように指導し、千鶴を見下すような者たちは追い出したそうだ。
「ほうは言うても、お前や幸子に嫌な態度を見せて来たことは、ほんまに悪かった思とる。このとおりぞな。勘弁してやってくれ」
千鶴たちに向かって甚右衛門が両手を突くと、トミもそれに倣った。
千鶴と幸子は慌てて二人に頭を上げさせた。
千鶴は二人の気持ちが嬉しかった。また、祖父母もつらかったのだと知り涙がこぼれた。
千鶴と同じ想いなのだろう。幸子も泣きながら笑っている。
三
今度は千鶴が、甚右衛門とトミに向かって両手を突いた。
「おじいちゃんとおばあちゃんのお気持ち、ようわかりました。うち、自分がどんだけ恵まれとったんか、ちっとも知らなんだ。今までのこと、ほんまにありがとうございました」
千鶴が二人に頭を下げると、幸子も娘を認めてもらえた礼を述べた。甚右衛門とトミは嬉しそうにうなずき合っている。
千鶴は頭を上げると、甚右衛門に言った。
「ほんでも、うち、おじいちゃんに言わないけんことがあるぞなもし」
「あの男のことか?」
甚右衛門は少し戸惑った様子だ。
千鶴がうなずくと、言うてみぃと甚右衛門は言った。
「うちは、おじいちゃんが情の厚いお人やと知りました。ほれに、人から受けた恩を忘れんお人やと思とります。ほやけど、佐伯さんに対して見せんさった態度は、おじいちゃんのまことの姿やありません。佐伯さんのこと、福の神やて言うておいでたのに、恩を仇で返すようなことしんさるんは、兵頭いうお人と対ぞなもし」
「お前が言うことはわかる。わしかてつらい判断じゃった」
甚右衛門は千鶴に理解を示すようにうなずいた。だが、千鶴は祖父を容赦しなかった。
「失礼なけんど、おじいちゃんは間違とるぞなもし。うちがみんなに白い目で見られてつらい想いしよったん、おじいちゃん、わかっておいでたんでしょ? うちにひどいことした人のこと怒ってくんさったのに、なしてほの人らと対のことを、おじいちゃんがしんさるんぞな?」
甚右衛門は黙っている。幸子は千鶴をたしなめようとしたが、千鶴は構わず続けた。
「おじいちゃん、佐伯さんが山陰の者やて兵頭さんから聞きんさったんでしょ? 山陰の者て呼ばれよる人らが、どがぁな人なんか聞きんさったけん、佐伯さんのことを遠ざけんさったんでしょ?」
「ほうよ。山陰の者を入れたら、この家に傷がつく」
甚右衛門は当然という顔で言った。その様子に千鶴は悲しくなった。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。風寄におった娘の生まれ変わりでも、うちがロシア兵の娘であることには変わらんぞなもし。山陰の者が入ったらこの家に傷がつく言いんさるんなら、うちこそここにはおられんぞなもし」
「ほれは……」
甚右衛門の顔に焦りが見えた。
「ロシア兵の娘であるうちを励ましてくんさるんなら、山陰の者じゃ言うて苦労ぎりしておいでる佐伯さんのことも、励ましてあげるんがほんまやないんですか? おじいちゃん、佐伯さんがどがぁな人なんか、ご自分の目で見てわかっておいでるでしょ?」
甚右衛門はむぅと呻いたが、まだ忠之を認めるとは言わない。
「佐伯さんが小学校出とらんけん読み書き算盤できんて、おじいちゃんは言いんさったけんど、法正寺の和尚さんが、奥さんと一緒に佐伯さんに読み書き算盤を教えんさったて、うちに言いんさったぞな。和尚さん、佐伯さんは物覚えが早うて、がいに頭のええ子じゃったて言うとりんさった。学校へ行かせてもらえとったら、もっともっといろんなことを学べたはずやのにて、和尚さん、仰りんさったぞな」
甚右衛門はまだ口を開かない。隣のトミはおろおろしている。
「おじいちゃんが佐伯さんを認めてくんさらんのなら、うちが佐伯さん所へ行くしかありません」
甚右衛門はじろりと千鶴を見ると、ようやく口を開いた。
「ほれは、わしを脅しとるんか?」
「脅しとるんやありません。うちのほんまの気持ちを口にしたぎりぞなもし。うちはあのお人と離れたままでは生きて行かれません。あの人がここへおいでんのなら、こちらから行くしかないけん」
「あんた……」
トミが不安げに甚右衛門を見た。甚右衛門は落ち着きなく両膝を擦っていたが、やがてトミを一瞥すると千鶴に言った。
「わかった。お前の言うとおりぞな。わしが間違とった」
意外にも甚右衛門は素直に千鶴の言い分を認め、気まずそうに頭を掻いた。
「お前にしてもあの男にしても、何や、わしは自分が試されとるような気がすらい」
「試されとるて?」
トミが訊ねると、甚右衛門は言った。
「何がほんまに大切なんかを見極めるいうことよ。わしは武家じゃった実家を出て、商家であるここの婿になった。ほん時に自分が侍じゃったことは、全部棄てたはずじゃった。じゃが実際は、自分はほんまは侍なんじゃいう未練が残っとったかい。人に上も下もないのにくだらんことよ。あの男には、まっこと悪いことをしてしもたわい」
甚右衛門は千鶴に顔を向けて話を続けた。
「お前がそこまで心惹かれるとこ見ると、ひょっとしてあの男は、風寄の代官の息子の生まれ変わりなんかもしれんな」
千鶴はどきっとした。まるで祖父の言葉は、千鶴の考えに太鼓判を押してくれているようだ。
千鶴は自分が法正寺にいた娘の生まれ変わりだと、告白したい想いに駆られていた。だがそれは、忠之に会って直接前世のことを確かめてからである。
自分の気持ちを抑える千鶴に、甚右衛門は言った。
「あの男には早速詫びを入れて、ここへ来てもらうよう手紙を書こわい。千鶴、あの男の住所を知っとるか?」
千鶴は首を振った。
それならと、甚右衛門は法正寺の和尚に頼んで、忠之に手紙を届けてもらおうと言った。しかし、それにはトミが反対した。
「手紙で詫びるぎりじゃったら相手に失礼ぞな。こっちで頼んだ話を、一方的になしにしたんじゃけんね」
「そがぁなこと言うても、誰が風寄まで行くんぞ? わしはここを離れるわけにはいかんし、わし以外の者が詫びに行ったとこで、詫びにならんじゃろがな」
眉間に皺を寄せる甚右衛門に、千鶴は言った。
「うちが行くぞなもし」
「お前が?」
甚右衛門は驚いたように千鶴を見た。だが千鶴がうなずくと、甚右衛門は即座にだめだと言った。
「お前を行かせるわけにはいかん」
「なしてぞな? おじいちゃんやなかったら、うち以外にこの役目を果たせる者はおらんぞなもし」
「ほんでも、いかんもんはいかん」
「なして? おじいちゃん、風寄のお祭りには行かせてくんさったのに、なして今度はいかんの?」
甚右衛門は困ったように、トミと顔を見交わした。
「ねぇ、なしてなん?」
千鶴が強い口調で繰り返すと、甚右衛門は言った。
「鬼ぞな」
「鬼? おじいちゃんも鬼のこと気にしておいでるん?」
鬼がいるのは事実だが、そのことで悪く見られるのが千鶴は嫌だった。それは鬼が悪者扱いされることへの反発だった。
憤る千鶴にトミが言った。
「落ち着きなさいや。おじいちゃんは何もあんたのことを、悪う思て言うておいでるんやないけん。おじいちゃんが鬼を気にするんには理由があるんよ」
「理由て?」
千鶴はトミと甚右衛門の顔を見比べた。
幸子も知らないことらしく、黙って二人の話を待っている。
「さっき、法正寺の娘を養女にする話をしたじゃろ?」
気乗りしない様子で甚右衛門が言った。千鶴がうなずくと、甚右衛門は話を続けた。
「ほん時に、代官とその息子が殺されたて言うたわいな」
千鶴はもう一度うなずいた。甚右衛門はすぐには続きを話さず、少し間を置いてから言った。
「伝えられとる話では、風寄の代官は異人の娘を息子の嫁にしようとしたことで、攘夷侍に殺されたことになっとる。やが、ほんまはほうやないんよ」
「じゃあ、ほんまは?」
幸子が待ちきれない様子で言った。
「鬼に殺されたんよ」
四
目を見開いた幸子の顔には、驚きと恐怖が入り混じっている。
もちろん千鶴も驚いた。だが、あの鬼がそんなことをするはずがない。千鶴は反論するように訊ねた。
「なして、そがぁ言えるんぞなもし?」
「祖父上が代官の遺骸をご自分の目で確かめんさって、そがぁ言いんさったんよ。代官はな、文字通り八つ裂きにされておったと、祖父上は言うとりんさった。あれは人間にできることやないてな」
人間が八つ裂きにされた姿など想像できないし、したくない。ましてや代官は進之丞の父親である。
それに、そんな恐ろしいことを鬼がしたとは信じられない。
千鶴は少し焦って言った。
「じゃあ、なして伝わっとる話では、攘夷侍に殺されたことになるんぞな?」
「代官が鬼に殺されるんを見た者はおらんけんな。いかに尋常やない殺され方でも、目撃した者がおらん以上、鬼が殺したとは言えまい?」
「ほれじゃったら、ひぃひぃじいちゃんは、なして鬼やて言いんさったんぞな?」
「村に鬼を見た言う者がおったけんよ。その鬼は身の丈四丈はあろうかというでかさで、浜辺で侍連中と争うとったそうな」
それは法正寺で聞かされたヨネの話と同じだ。
忠之の話では、鬼は千鶴を護る存在だ。侍たちが千鶴を襲ったのであれば、鬼と侍が戦ったというのは理解できる。
しかし、千鶴の義理の父親になるはずの代官までもが、鬼に殺されたとなると話が違う。代官は千鶴に敵対したのではなく、千鶴を嫁に迎えるよう動いてくれていたはずだ。
事情がよく呑み込めないまま、千鶴は思わず体を強張らせた。
「侍連中って?」
初めてこの話を聞く幸子が訊ねた。
「攘夷侍らしいぞな。あの辺りにロシアの黒船が来るいう話があったそうでな。ほれで、ようけ集まって来よったらしいわい」
ロシアの黒船を狙った攘夷侍たち。千鶴が考えていたとおりの話である。それでも鬼の話は受け入れられない。
「ほやけど、なして鬼がそげな侍らと争うんぞな?」
また幸子が訊ねた。
「ほれはわからん。鬼を見た言うんは、たった一人ぎりじゃったそうで、他の者は誰っちゃ見とらんかったらしい。ほれでは鬼の話も真実かどうかわからんし、そもそも代官が鬼に殺される理由がないけんな。ほれで、鬼の話は代官殺しをごまかすために、攘夷侍らがこさえた作り話いうことになったそうな」
「ほんでも、ひぃひぃじいちゃんのお見立てでは、お代官を殺めたんは人やないと?」
甚右衛門はうなずいた。
「代官の死骸を確かめた他の者らも、人間の仕業とは思えんと言うとったそうな。ほんでも、これは攘夷侍の連中がやったことじゃと上から言われたら、誰も何も言えんじゃろ。風寄の村でもな、攘夷侍らに加担するいうことで、鬼の話が厳禁されたらしいわい」
それでヨネ以外の村人たちが、鬼の話を聞かされていなかったのかと千鶴は納得した。だが、それは鬼が代官を殺したことを認めることになってしまう。千鶴の心は大きく動揺していた。
「祖父上は子供をからかうようなお人やなかったけんな。この話を聞かされた時は、わしも心底怖いと思た。ほんでも山﨑家に入ってからは、この話は忘れよった。実家へ千鶴のことを話しに行った時、鬼に気をつけよと父上に言われたが、ほれからも何事もなかったけんな。ほれでまた、鬼のことは頭から消えとった」
トミが横目で甚右衛門を見ながら、千鶴に言った。
「うちがこの話を聞かされたんは、お前が風寄の祭りから戻んたあとじゃった。あのイノシシの話が新聞に載った時ぞな。ほれまで何も聞かされとらんかったけん、初めに知っとったら、絶対お前を風寄には行かせなんだ」
「そがぁ言うな。わしも忘れよった言いよろが」
むすっとする甚右衛門を、トミはさらに責めた。
「そげな肝心なこと忘れてどがぁするんね。千鶴が連れ去られとったら、忘れよったじゃ済まんかったぞな」
「忘れよったもん仕方なかろが」
「仕方なかろがやないわね」
まぁまぁと幸子になだめられて、二人は言い争いをやめた。
甚右衛門は咳払いをすると、千鶴の方を向いて話を続けた。
「新聞でイノシシの記事見つけた時、嫌な予感がしよったんよ。そこへ今度の兵頭の家の話があって、もしや思いよったとこに、お前からさっきの話を聞かされたんじゃ。そがぁなこと全部合わせて考えたら、鬼除けの祠がめげたけん鬼が現れたと考えとなろ? しかも、その鬼はお前に目ぇつけたんやもしれんのぞ。ほじゃけん、お前を風寄に行かせるわけにはいくまいが」
鬼はすでに自分の傍にいる。だが、それは自分の幸せを見守ってくれているだけなのだ。
そのことを千鶴は話したかった。しかし、そんなことを喋ったところで、信じてもらえるとは思えなかった。逆に、鬼に取り憑かれていると思われるのに違いない。
「なして、この子が鬼に目ぇつけられないけんのです?」
不安と腹立ちが入り混じったように、幸子が訊ねた。
甚右衛門は片眉を上げると、幸子に言った。
「ほれは法正寺におった娘が、鬼に狙われたけんよ」
「そげなこと、なしてわかるんぞな?」
甚右衛門はちらりと千鶴を見てから言った。
「千鶴が言うには、その娘は村の者に鬼の娘じゃと思われとったそうやないか。事実は異国の娘なんじゃが、鬼がその娘を仲間と思い込んだ可能性はあろ?」
「ほやない可能性かてあるぞなもし」
反発する幸子に、甚右衛門は続けて言った。
「なして鬼が代官を殺めたんか。鬼が娘を連れ去ろうとしたら、代官はどがぁする? その娘は大切な一人息子の嫁になる女子ぞ?」
幸子は口を開けたが言葉が出せなかった。甚右衛門は構わず話を続けた。
「鬼が攘夷侍らと戦うたんも、その理由はわかろ?」
「じゃあ、その娘が行方知れずになったんは……」
「鬼に連れ去られたんかもしれんな。やが鬼は祠で封印され、その間に娘は今の千鶴として生まれ変わった。そがぁ考えたら全部辻褄が合おう?」
祖父の話では、千鶴は鬼に無理やり地獄へ引きずり込まれたことになる。しかし、忠之はそうは言わなかった。
どちらの話が正しいのか、千鶴にはわからなくなった。前世の自分もそこのところは思い出していない。
それでも千鶴の心は忠之とともにあった。
「ほじゃけん、千鶴を風寄へ行かせるわけにはいかん。行って鬼に見つかれば、鬼は昔のように千鶴を奪い去ろうとすらい」
「鬼はそがぁなことはせんけん」
こらえきれず千鶴は声を荒げた。甚右衛門もトミも幸子も、みんなが驚いたように千鶴を見ている。
千鶴は慌てて声の調子を下げると、もう一度同じことを言った。
「鬼はそがぁなことはせんけん」
「なして、そげなことが言えるんぞ?」
「ほやかて、鬼は何も悪さしとらんぞな。鬼がうちを攫うつもりじゃったら、疾うの昔に攫とるけん」
「前ん時は、まだお前のことが誰なんか、ようわからんかったんかもしれんじゃろが」
鬼はすでに自分のことを知っているし、知った上でイノシシから助けてくれたと、喉元まで出かかっていたが、千鶴はそれを必死で呑み込んだ。
前世の記憶を持つであろう忠之が、鬼のことを話してくれたのである。その話が真実なのだと千鶴は信じた。
「何もしよらん鬼を、鬼いうぎりで悪さするて決めつけるんは、ロシア人の娘とか山陰の者が穢れとるて決めつけるんと対ぞな」
甚右衛門が黙り込んでしまったので、幸子が甚右衛門を庇った。
「おじいちゃんは、あんたを心配して言うておいでるぎりじゃろがね。そがぁな屁理屈言うたらいかんぞな」
「ほやかて……」
千鶴も黙ってしまうと、トミが助け船を出してくれた。
「この子は、ほんだけあの人に会いたいんじゃろ。いずれにせよ、誰ぞが向こうへ行ってお詫びをせにゃいくまい? と言うても、誰でもええわけやない。確かに鬼のことは気になるけんど、あんたが行かれんのなら、この子に行ってもらうしかないぞな」
「そげなこと言うて。お前かて鬼のことがわかっとったら、千鶴を風寄には行かせなんだと言うたろが」
声を荒げる甚右衛門に、トミは落ち着いた様子で言った。
「ほれはほうじゃけんど、このまんまにはできまい? ほれに、風寄の絣がどがぁなるんか確かめにゃならんし、兵頭さん所かてお見舞いを届けにゃいくまい?」
甚右衛門は返事をしなかった。トミは困ったように千鶴を見て、もう一度甚右衛門に言った。
「あんたが何と言おうと、この子は行く言うたら行くぞな。こないだは法正寺の和尚さんが引き止めてくんさったけんど、今度は誰も止めてくれんで。どうせ行くじゃったら、勝手に行かせるんやのうて、できる限りのことをした上で、行かせてやった方がええとうちは思うけんど、どがぁね?」
「できる限りのこととは何ぞ?」
甚右衛門が不機嫌そうに言うと、トミは用意していたかのように喋った。
「まず阿沼美神社でお祓いしてもろて、御守りもらうんよ。ほれと幸子を同伴させるんよ。この子一人で行かせたら、また誰ぞに襲われるかもしれんけんな。悪い人間は鬼より怖いけん。ほれで向こうに着いたら、法正寺の和尚さんにお願いして、ずっと一緒におってもらおわい。ほれじゃったら、鬼も簡単にはこの子に手出しできまい?」
さらに幸子が言葉を添えた。
「ほれに真っ昼間じゃったら、鬼も出て来にくいんやなかろか。イノシシが殺されたんも、兵頭さんの家が壊されたんも、日が暮れてからの話やけんね」
まだ黙っている甚右衛門に、トミは涙ぐみながら言った。
「まだわからんのかな、この人は。学校に行けんなった千鶴の、唯一生きる力になってくれるんが、あの佐伯いう人じゃろがね。この人を切り捨てたら、千鶴はほんまに死ぬるぞな」
自分のためにここまで言ってくれる祖母に、千鶴は涙が出た。
「おじいちゃん、お願いぞなもし。うちを行かせておくんなもし」
千鶴が懇願すると、幸子も言った。
「お父さん、うちからもお願いするぞな。うちもこの子のこと、しっかり護ってみせるけん」
甚右衛門はしばらく黙って下を向いていたが、わかったわい――と力なく言った。
「ただし千鶴を行かせるには、他にも条件があるぞな」
「条件とは?」
訝しがるトミに、甚右衛門は千鶴を見ながら言った。
「阿沼美神社ぎりやのうて、雲祥寺でも祈祷してもろて、御守りをもらうこと」
雲祥寺とは山﨑家の菩提寺だ。トミは安堵したように千鶴や幸子と微笑み合った。
「まだあるぞな」
甚右衛門の言葉に、千鶴たちは姿勢を正した。
「千鶴。万が一、鬼がお前を連れ去ろうとしたなら、じいさんの許しがないと行かれんと言うんぞ」
「おじいちゃん……」
甚右衛門は優しげに千鶴を見つめて言った。
「そがぁ言うたら、鬼はここへ現れよう。ほん時は、わしが鬼を退治しちゃる」
「あんた……」
甚右衛門の覚悟に、トミは涙ぐんだ。
「大丈夫ぞな。絶対にそげなことにはならんけん」
幸子がうろたえたような笑顔で言った。
「おじいちゃん、だんだん」
千鶴は立ち上がると、甚右衛門の傍へ行って抱きついた。甚右衛門は慌てたが、すぐに千鶴を抱き返した。
「必ず無事に戻んて来るんぞ」
うんとうなずいた千鶴は、今度はトミに抱きついた。
「おばあちゃんも、だんだん」
初めて千鶴と抱き合ったことに感激したのか、トミはわんわん泣いた。横で幸子も泣いている。
その時、裏木戸の辺りが騒々しくなった。茂七たちが銭湯から戻って来たようだ。
トミは声を殺したが、それでも涙は止まらない。甚右衛門も黙ったまま涙を浮かべている。
千鶴も幸子も泣いていたが、部屋の中を満たしているのは悲しみではなく喜びである。それは、ようやく家族が素直に一つになれた喜びだった。
再び風寄へ
一
筆無精を詫びる幸子に、事情はわかっているからと知念和尚は言った。
安子は千鶴を褒め、素敵な娘さんだと幸子を祝福した。
久しぶりの再会を喜び合ったあと、幸子は笑みを消すと、風寄に来た理由を和尚夫婦に伝えた。
千鶴が鬼に魅入られているかもしれないと不安がる幸子に、和尚たちは心配しないように言った。
イノシシが死んだのも兵頭の家が壊れたのも、鬼がやったという証拠はないと言うのが、和尚夫婦の言い分だった。
「鬼が暴れたんなら、他に被害があってもよさそうなもんぞな。そもそも、なして兵頭家が襲われるんか理由がわかるまい。あの家ぎりが鬼に襲われたとなると、あの家は鬼に目ぇつけられるようなことをしたいうことになるけんな。ほじゃけん今は、化け物が壊したんやのうて突風でめげたんじゃて、本人らが言うとるぞな」
兵頭が言い分を撤回したとなると、表面的には鬼の存在は否定される。しかし、それは事実とは言えない。
「イノシシのことはようわからんが、鬼が千鶴ちゃんを護ったんやとすれば、鬼が千鶴ちゃんに危害を加えることはない言うことにならいな。千鶴ちゃんをここへ運んだんが鬼やったとすれば、鬼は千鶴ちゃんを攫うつもりはなかったいうことになろ?」
「ほれは、ほうですけんど……」
まだ不安げな幸子を、安子が励ました。
「大丈夫ぞな。今日かて何も起こっちゃせんじゃろ? ほれに、うちらも一緒におるんじゃけん。何も心配することないぞな」
「ほれにしても、鬼が千鶴ちゃんをここまで運んだとしてやな、なして千鶴ちゃんの頭に花ぁ飾ったりしたんか、そこが解せんわな」
知念和尚は腕組みをしながら首を傾げた。
「あの、ほのことですけんど……」
千鶴は遠慮がちに言った。
「実は、うちに花飾ってくれたんは、佐伯さんやったんぞなもし」
和尚と安子は驚いた顔を見交わした。幸子も驚きながら嬉しそうに言った。
「やっぱし、あの花はあの人にもろたんじゃね?」
うなずく千鶴に、今度は安子が言った。
「ほれは、あの子が自分で言うたん?」
「最初は惚けておいでたけんど、うちが問い詰めたら白状しんさったんです」
安子と一緒に笑いながら和尚は言った。
「千鶴ちゃんが問い詰めたら白状したんかな。ほれで、あの子は千鶴ちゃんをどこで見つけた言うとった?」
「ここの石段を下りた辺りに、野菊の花が咲きよる所があって、そこにうちがおったそうです」
「あぁ、あそこかいな」
知念和尚がうなずくと、安子は言った。
「あそこは昔から野菊が群生しよるとこじゃけんね。ところで、なしてあの子は千鶴ちゃん一人残しておらんなったん?」
「ほれは、ほとんど裸じゃったけんて言うておいでました」
「裸?」
「いえ、裸やのうて、ほとんど裸ぞなもし」
千鶴は忠之から聞いた説明を、和尚たちにも聞かせた。
和尚も安子も大笑いをすると、全くあの子らしいわいなぁ――と言った。
「何や、楽しいお人のようじゃね。お母さんも早よ会いとなった」
和尚たちと一緒に笑いながら幸子が言った。
「ほんでも、その前にうちが佐伯さんと二人で話したいんよ」
千鶴の言葉に幸子は笑みを消した。
「二人きり言うんは、ちぃと危ないんやないん?」
「佐伯さんはそがぁなお人やないぞな」
千鶴が憤ると、そういう意味ではないと幸子は言った。
「ほうやのうて、鬼のことぞな。和尚さんらと一緒やないと危ないじゃろ?」
「大丈夫。鬼は襲って来たりせんけん」
幸子が渋っていると、安子が言った。
「幸子さん、さっきも言うたように、鬼は千鶴ちゃんを襲ったりせん。ほれに千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるけん、何も心配はいらんぞな」
「佐伯さんもな、お不動さまにうちの幸せ願てくれたんよ。ほじゃけん、大丈夫ぞな」
思わず千鶴が喋ると、幸子はきょとんとした顔で千鶴を見た。
「佐伯さん、そげなことしんさったん?」
恥ずかしくなった千鶴は、うろたえながらうなずいた。
知念和尚は安子と一緒に、また大笑いをした。
「これじゃあ、鬼が付け入る隙もないわいな」
「まこと、鬼が何ぞ言うても、二人の耳には聞こえまい」
「ちぃと二人とも、笑い過ぎぞなもし」
千鶴が膨れて文句を言うと、和尚たちは笑いながら悪かったと言った。
「とにかくな、千鶴ちゃんらのことは心配せいでもええぞな、幸子さん」
知念和尚が言うと、幸子は仕方なさそうに、わかりましたと言った。
「ほしたら、千鶴が佐伯さんに会うとる間に、うちは兵頭さんにお見舞いに行きましょわい」
「家の屋根が全部やないけんど、結構剥ぎ取られとるけんな。村の者が修理にようけ集まっとるけんど、幸子さんは兵頭さんの顔はわかるんかな?」
いいえと幸子が当惑気味に答えると、わかったと和尚は言った。
「ほれじゃったら、わしが一緒に行こわい。千鶴ちゃんの方は安子が案内したらええ」
「ほうじゃね。そがぁしよわい」
安子も同意し、千鶴と幸子は別々に動くことになった。
二
「昔はな、偉い人ぎりが苗字を持てたんよ。ほやけど、明治になったら法律で誰もが苗字を持つようにて決められたんよ」
寺の石段を下りながら安子は言った。
そう言われれば、今の自分は山崎千鶴だが、前世では千鶴という名前しかなかったなと、千鶴は思った。
「佐伯は為蔵さん所の苗字なけんど、ほれに決めたんは為蔵さんのお父さんなんよ。為蔵さんのお父さんは、昔ここにおいでたお代官を尊敬しておいでたそうでな。ほれで、お代官の苗字を頂戴しんさったそうな」
「へぇ。じゃあ、忠之いう名前は誰がつけんさったんぞな?」
「ほれはね、うちの人よ。お代官の名前が忠之助言うたそうじゃけん、そこからつけた名前なんよ」
千鶴は代官の名前まで知らない。しかし、前世でも進之丞は父親の名前にちなんで、忠之という名前をもらったのだなと思った。それは前世と今世のつながりを、深く感じさせることだった。
知念和尚と幸子は先に下まで下りていた。知念和尚は二人が下りて来るのを待ち、千鶴が倒れていたであろう場所を千鶴と幸子に見せた。
そこには、もう花が終わった野菊の群生があった。
「佐伯さんはここであんたを見つけて、この花を飾ってくんさったんじゃね」
そう言いながら、幸子は怪訝そうな顔をした。
「ほやけど、そげなこと普通するじゃろか? 和尚さん、安子さんはどがぁ思いんさる?」
「普通はせんわな。ほんでも、あんまし千鶴ちゃんがきれいやったけん、つい飾ってみとなったんやないんかな」
「あの子は優しい子じゃけん、千鶴ちゃん見て、千鶴ちゃんが苦労して来たてわかったんよ。ほれで、千鶴ちゃんねぎらうつもりで飾ったんやなかろか」
二人の意見にうなずきはしたが、幸子はまだ納得してはいないようだった。
「千鶴は佐伯さんから理由を訊いとるん?」
幸子に訊ねられ、千鶴はうろたえた。自分たちが前世からの関係だと説明できればいいのだが、今はその時ではないような気がしていた。
「うちが花の神さまに見えたんやて」
前世で柊吉が言った言葉だ。だから嘘ではない。
「花の神さま?」
きょとんとしたあと、知念和尚は大笑いをした。安子も口を押さえて笑っている。
「いや、すまんすまん。別に千鶴ちゃんのことを笑たんやないで。ほやけん、気ぃ悪せんといてや。わしらが笑たんは、あの子の発想が面白い思たけんよ」
「まこと、あの子は他の者とは目線が違う言うか、あの子のそがぁな所がええわいねぇ。ほれにな、あの子は物事の芯の部分を、真っ直ぐに見る目を持っとるけんね。表現は奇抜かしらんけんど、言うとることは間違とらんぞな」
「安子の言うとおりぞな。あの子は千鶴ちゃんの純粋な心をちゃんと見抜いとらい」
「やめとくんなもし。うちはそがぁな上等の女子やないですけん」
千鶴が当惑すると、幸子はようやく納得したように微笑んだ。
「この子が佐伯さんに心惹かれたんが、わかったような気がするぞなもし」
「もう、お母さんまで」
文句を言いながら千鶴は嬉しかった。忠之とのことを、みんなに祝福されているような気分だった。
「そもそも千鶴ちゃんが、ここに倒れよったいう話も怪しいぞな」
知念和尚は笑いながら言った。どういうことかと千鶴が訊くと、忠之は他の場所で千鶴を見つけて、ここまで運んで来たのかもしれないということだった。
「花を飾ったんも、玄関の前に千鶴ちゃん寝かせたんも、あの子がしたことじゃったら、ここまで千鶴ちゃんを運んで来たんも、あの子と考えるのが自然じゃろ?」
「ほんでも、佐伯さんがイノシシを殺したわけやないでしょうに」
幸子が疑問を示すと、そこはわからんがと和尚は口を濁した。
「いずれにせよ、鬼が千鶴ちゃんをここまで運んだわけやない言うことぞな」
安子がうなずきながら言った。
「ひょっとしたら鬼はイノシシを殺したぎりで、千鶴ちゃんには構んかったんかもしれんぞな。ほれで、イノシシの傍に倒れよった千鶴ちゃんを、あの子がここまで運んだとも考えられますわいね」
「ほやけど、佐伯さんはほうは言わんかったぞな」
千鶴が言うと、安子は笑った。
「そがぁなこと言うかいな。頭潰されたイノシシの横に倒れよったやなんて言うたら、千鶴ちゃん、嫌じゃろ? ほれに、他の人らの耳にそがぁな話が入ったら、何言われるかわからんけんね。ほじゃけん、千鶴ちゃんはここで倒れとったって言うたんよ」
なるほどと千鶴は思った。
イノシシから助けてくれたのは鬼かもしれないが、法正寺まで運んでくれたのは、忠之だという可能性は十分にある。
また、それは忠之が鬼を目撃しているかもしれない、ということでもあった。そうであるなら、忠之が鬼のことをよく知っているというのも、そのことと関係がありそうだ。
真実はどうなのか。それは本人の口に確かめればわかることである。
千鶴は気持ちが引き締まったが、幸子は少し安心したように見えた。
三
「ほんじゃあ、わしらはこっちへ行くけん、千鶴ちゃんらはそっちぞな」
分かれ道で知念和尚が言った。
幸子は千鶴に決して一人になるなと言い、松山から持って来た手土産を持たせた。
忠之の家は山裾にあるが、兵頭の家は山から離れた所にある。
千鶴たちは寺から来た道を、そのまま山沿いに進んだ。振り返ると、田んぼの中の道を歩いて行く知念和尚と幸子の姿が見えた。
しばらく進むと、左手に上り坂が現れた。
安子に誘われてその坂を上って行くと、やがて掘っ立て小屋のような家の集落が見えて来た。
安子はその一つに千鶴を案内した。建物の裏手から鋸を挽くような音が聞こえて来る。
家の裏手をのぞいた安子は、もうし、為蔵さん――と言った。
すると音が止んで、背中が少し曲がった小柄な老人が現れた。
「誰か思たら、安子さんかな」
為蔵は相好を崩したが、千鶴に気づくと目を細めた。
「そちらさんは、どなたかな?」
「あの、山崎千鶴と申します。こちらが佐伯忠之さんのお宅と伺うて、安子さんに連れて来ていただいたんぞなもし」
「忠之の知り合いかな」
珍しげに千鶴を眺める為蔵に、あの子はおいでる?――と安子は訊ねた。
為蔵は顔をしかめると、兵頭ん所ぞなと言った。
「あの子はお人好しなけん、ええようにされとんよ」
為蔵は悲しそうに安子に訴えた。
「兵頭ん所の牛が動かんなって、あの男がよいよ困りよった時に、あの子は牛の代わりを買うて出たんよ。ほれもな、ただよ。こっから松山まで大八車で絣の箱をいくつも載せて運ぶんぞな。ほれがどんだけ大事か、安子さんならわかろ?」
わかるぞなと安子がうなずくと、為蔵は話を続けた。
「なんぼあの子がただで構ん言うたとしても、言われたとおり一銭も出さん言うんは、あくどいとしか言いようがないわい。ほじゃけん、おらぁ、あの男ん所へ怒鳴り込んだった。ほしたら慌てて牛を持って来よったかい。ほれで、やれやれ思いよったら、今度は忠之が松山で働きたいて言い出したんよ」
安子はちらりと千鶴を見た。
安子の視線を追うように、為蔵も千鶴を見ると、姉やんがおるんを忘れよった――と言った。
安子は為蔵に千鶴のことを説明した。すると、為蔵は不機嫌になった。
「山﨑機織言うたら、忠之が働きたい言いよった所じゃろがな。聞いた話じゃ、そちらの方から忠之にぜひ働いて欲しいて言うたそうじゃな。ほれをあの子は真に受けて、すっかりその気になっとったんぞ。おらたちはな、騙されるけんやめとけ言うたんよ。ほしたら、あの人らはそがぁな人やないて、あの子は言うたんじゃ。ほれが何じゃい。今頃んなって、身分が違うけんこの話はなかったことにやと? こがぁなふざけた話がどこにあるんぞ!」
安子は興奮する為蔵をなだめて言った。
「あのな、為蔵さん。ほやけん、ほのことを千鶴ちゃんが、こがぁしてお詫びにおいでてくれたんよ」
「お詫び?」
ふんと言うと、為蔵は千鶴に悪態をついた。
「何がお詫びぞ。あんたらにはあの子がどんだけ傷ついたんか、ちっともわからんじゃろがな。申し訳ありませんでした言うたら、ほれで済む思とるんじゃろ。どいつもこいつも、おらたちのことを見下しおってからに」
千鶴はその場に膝を突くと、為蔵に土下座をして詫びた。
「何と言われようと、うちにはお詫びするしかできんぞなもし。この度はまことに申し訳ございませんでした」
千鶴の土下座が思いがけなかったのか、為蔵は少し勢いを失くしたようだ。怒りの矛先を千鶴から山﨑機織へ変え、山﨑機織は何でこんな小娘を寄越すのかと文句を言った。
「大体、何ぞ。山﨑機織言うんは外人さんの店なんか? 外人さんは責任者の代わりに、こがぁな小娘を寄越すんか」
千鶴が土下座をしながら泣いているので、安子が答えた。
「山﨑機織は日本人のお店ぞな。今はほんまに人がおらんで、ご主人が動けんそうな。ほじゃけん、忠之にも早よ来て欲しいて言うておいでたし、今回も千鶴ちゃんがご主人の代わりにお詫びにおいでたんよ。別に千鶴ちゃんが忠之に嘘言うたわけやないけん。千鶴ちゃんはな、ご主人がしんさったこと間違とる言うて考え直させたんよ。この子はな、あの子のために一生懸命に動いてくれとるんよ」
為蔵は千鶴を見下ろしながら訝しげに言った。
「日本人の店で、なして外人の娘がおるんぞな?」
「ほれは、なして言われても……」
安子が言葉を濁すと、千鶴は体を起こし、涙を拭いて言った。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。母は日本人の看護婦で、ロシア兵のお世話をしとりました」
ロシア兵じゃと?――為蔵の顔が鬼のようになった。
「お前らが……、お前らが……」
為蔵はわなわなと体を震わせた。
「お前らがおらん所の息子を殺したんじゃ! おらたちの一人息子を、お前らが殺したんじゃ!」
「為蔵さん、千鶴ちゃんは戦争とは関係ないぞな」
安子が千鶴を庇ったが、興奮する為蔵は聞く耳を持たない。
その為蔵の言葉に千鶴は返事ができなかった。そこへ追い打ちをかけるように為蔵は言った。
「お前らはおらたちから一人息子奪っといて、今度は忠之まで奪お言うんか。この人でなしめが!」
これだけ罵倒されても、千鶴は言葉を返すことができなかった。
「為蔵さん、ほれは言い過ぎぞな。千鶴ちゃんはあんたにも、あんたの息子さんにも何もしとらんでしょうが!」
安子がきつい口調で言っても、為蔵は千鶴に向かって、何とか言わんかな――と怒鳴った。
為蔵の怒鳴り声が聞こえたらしく、家の中から為蔵の女房タネが現れた。
「どしたんね? 何叫びよるんな」
為蔵以上に腰が曲がったタネは、安子に気づいて挨拶をした。だが、地面に座って項垂れる千鶴を見ると、怪訝そうな顔をした。
「こいつはロシア兵の娘ぞな!」
為蔵は吐き捨てるように言い残すと、家の裏へ姿を消した。
安子から話を聞いたタネは、千鶴を少し気の毒に思ったようだ。
「遠い所、せっかくおいでててもろたのに悪かったね」
タネは千鶴の手を取って立たせると、別嬪さんじゃなぁ――と言って微笑んだ。
千鶴が涙を拭いて頭を下げると、タネは言った。
「戦争言うたら殺し合いぞな。こっちも殺されるけんど、向こうかて殺されとる。向こうは向こうで、日本人に殺された言うんじゃろな。大体戦争やなんて、おらたちにゃ何も関係ないことぞな。ほれやのに戦争に引っ張り出されて殺されて。恨まんでええ相手を恨んで、一生悲しみを背負って暮らすんぞな。おらはむずかしいことはわからんけんど、こげなことは間違とらい。おらたちも姉やんもロシアの兵隊さんも、みんな戦争の被害者ぞな」
千鶴がぼろぼろ涙をこぼすと、姉やんも苦労したんじゃな――とタネは言った。
「姉やんは忠之を迎えにおいでてくれたそうなけんど、うちの人は忠之が松山へ行くことは、ロシアに関係なく、初めから大反対やったんよ」
「おタネさんも、やっぱし反対なん?」
安子が訊ねると、ほうじゃなぁ――とタネは思案げに言った。
「おら、半分半分じゃな」
「半分半分?」
「おらもな、忠之は可愛いけん、ずっと傍に置いときたい気持ちはあるんよ。ほんでもな、あの子のこと考えたら、ずっとこげな所に閉じ込めるんやのうて、もっとええ思いさえてやりたいなぁて思う気持ちもあるんよ」
「おタネさん、優しいんじゃね」
安子が嬉しそうに言うと、タネは照れながら話を続けた。
「あの子はな、おらたちにまっこと優しいんよ。ほじゃけん、ついその優しさに甘えとなるけんど、優しいからこそあの子を自由にさせてやりたいて、おら、前々から思いよった」
「おタネさんらしいぞな」
「そこへな、今回の松山の話が出て来たけん、おら、ちょうどええ機会かもしれんて思たんよ。ほんでもな、あの人があげな感じじゃけんな。忠之はおらたちを捨ててまで、やりたいことする子やないけん。せっかくええ話もろたのに、これまで返事もでけんかった。そがぁしよるうちに、こげなことになってしもたけん、おらもな、何があの子にええんかわからんなっとったんよ」
申し訳ございませんでした――と千鶴はタネに頭を下げた。
タネは微笑むと安子に言った。
「ほんにええ娘さんやないの。うちの人からぼろくそ言われても、まだ頭下げてくれるんじゃけん。本気やなかったら、できることやないぞな」
「千鶴ちゃんは、ほんまに忠之のこと大切に思てくれとるけんな。自分もつらい思いして来た分、忠之のつらさもようわかってくれておいでるんよ」
「ほうなんかな。ほれはあの子にとって何よりぞな」
タネは千鶴の方を向くと、千鶴の両手を握って言った。
「千鶴ちゃん、忠之のことよろしゅう頼んます。ほれと、うちの人がひどいこと言うて堪忍な。あげな人やけんど寂しいぎりなんよ。ほんでも、忠之のことを大切に思とるんはおらと対じゃし、今頃、千鶴ちゃんにひどいこと言うてしもたて、一人で反省しとるはずぞな」
「確かにほうかもしれんね」
安子が笑いながらうなずいた。
「千鶴ちゃん、おタネさんがこがぁ言うておいでるんじゃけん、もう心配せいでもええんよ」
ありがとうございますと、千鶴はタネに手を握られたまま、また頭を下げた。
「千鶴ちゃんがあの子のお嫁になってくれたら、おら、嬉しいけんど、どがぁじゃろね」
タネは笑いながら言った。その言葉は一瞬で千鶴の悲しみを吹き飛ばした。
熱くなった顔を隠したいが、片手をタネに握られ、もう片方は手土産を抱えているので、千鶴はどうにも動けない。
項垂れるように顔を伏せた千鶴を見て、安子が笑った。
「おタネさん、ちぃと気が早過ぎるぞな」
「ほうかな。善は急げ言うじゃろがな」
「その前に、まずはあの子に会わせんと」
ほれはほうじゃとタネはうなずき、ようやく千鶴の手を離した。
「あの子はな、兵頭ん所の家の修理を手伝いに行きよるんよ」
為蔵も言っていたが、あの兵頭の家の修理を手伝うだなんて、確かにお人好しである。
ところで兵頭の家と言えば、知念和尚と幸子が向かった先だ。千鶴は二人が忠之に会ったのだろうかと考えた。
タネは呆れた顔で話を続けた。
「あの子はまっことお人好しなけんど、人が好えんも程があらい。あんだけええようにされて馬鹿にされた言うのに、その家直しに行ってやるんじゃけん」
「ほれが、あの子のええ所ぞな」
安子が微笑むと、タネも笑みを浮かべた。
ほれじゃあ、行こか――と安子が千鶴に声をかけた。
千鶴は持って来た手土産をタネに渡した。手土産は千鶴のお気に入りの日切り饅頭だ。
ずっしり重みのある饅頭の包みに、タネは顔を綻ばせた。
「ほんじゃあ、安子さん。あの子のことよろしゅうに。千鶴ちゃんもよろしゅうにな」
微笑むタネの手を、千鶴は両手でしっかり握ると、ありがとうございました――と言って頭を下げた。
千鶴たちが離れる時も、タネはずっとそこに立ったまま見送ってくれた。そして、千鶴が振り返ると手を振ってくれた。
千鶴は忠之を松山へ呼ぶことが、とても申し訳なく思えた。そのことを安子に話すと、忠之に幸せになって欲しいと願う、おタネさんの気持ちを酌んであげるべきだと安子は言った。
四
兵頭の家は、離れた所からでもすぐにわかった。建物の真ん中の部分で屋根がなくなっていたし、たくさんの村人たちが集まっていた。
その中に、千鶴は知念和尚と幸子の姿を見つけた。二人は継ぎはぎの着物を着た若者と喋っている。忠之だ。
幸子は千鶴たちに気づいたようで、手を振ったあと、千鶴たちを指さしながら、和尚と忠之の二人に声をかけていた。
和尚は千鶴に手を振ったが、忠之は黙って千鶴を見ているだけだった。もしかして怒っているのだろうかと不安になったが、近づいて行くと忠之は泣いていた。
「千鶴さん、なしてこがぁな所まで……」
あとの言葉が出て来ない忠之に千鶴は言った。
「うち、佐伯さんにお詫びしに来たんぞな。おじいちゃんが佐伯さんを傷つけてしもたこと、このとおりお詫びしますけん、堪忍してやってつかぁさい」
千鶴が頭を下げると、忠之は千鶴の手を握り、そんなことはするなと言った。
「おらのことなんぞ、忘れたかてよかったのに……」
「忘れるわけないぞな。うち、佐伯さんと一緒になれんのなら、死ぬるつもりでおりました」
「そげなこと言うたらいけん。死んでしもたら、何のために産まれて来たんかわからんなるぞな」
「うちが産まれて来たんは、佐伯さんと一緒になるためぞな」
こほんと知念和尚が咳払いをした。見ると、近くにいる村の者たちが面白そうに千鶴たちを眺めている。
慌てる千鶴に幸子が言った。
「二人で話がしたいんなら、場所を変えた方がええぞな。けんど、その前に兵頭さんにご挨拶しなさいや」
兵頭になんか会いたくないと思ったが、そういうわけにはいかなかった。千鶴が婿を取って山﨑機織の後継者となるならば、取引先である兵頭とは、これからも付き合って行かねばならない。
幸子に案内された千鶴は、壊れた家の前にいた兵頭と家族に挨拶をした。
兵頭は痩せこけた貧相な顔の男で、小さな目は小心者のようにきょときょと動いている。
人手が足らないため甚右衛門が店を離れられないことを、兵頭は知っている。だが、甚右衛門の代わりに幸子と千鶴が来るとは予想していなかったらしい。
幸子と顔を合わせた時にもどぎまぎしたようだが、千鶴を見た兵頭は完全にうろたえているように見えた。千鶴にはそれが兵頭の後ろめたさの表れのように思えた。
「な、なしてお孫さんまでおいでてくれたんかなもし?」
千鶴は気持ちを隠して丁寧に応じた。
「こちらには先日のお祭りの時に、随分お世話になりました。そこで仲買されておいでるお人の家が大事になったんですけん、お見舞いは当然ぞなもし」
「ほ、ほうなんかな。そがぁ思てもろとるやなんて、こがぁな時には何よりの慰めぞな」
兵頭は少し安堵したように笑みを浮かべた。それでもまだ千鶴と目を合わせないようにしている。
もしかしたら自分のことを見下していたのだろうかと、千鶴は訝しんだ。忠之のことを見下していたのであれば、千鶴のことも同じ目で見ていた可能性は大いにあることだ。
それでも表向きは、見舞いに来てくれた絣問屋の孫娘である。
兵頭は千鶴を見下していないと示すためか、千鶴に自分の家を見せながら、ひどいものだと恨めしそうに言った。
「なしておらの家ぎり、こげな目に遭わないけんのじゃて、おら、神さま仏さまを恨みよったかい」
見てみぃと兵頭は周囲の家を指さした。
「どこも何ともないじゃろげ? じゃのに、おらん所ぎりがやられてしもたんよ。いったい、おらが何した言うんじゃろか」
何を寝惚けたことを言っているのかと、千鶴は腹が立った。しかし、そんな気持ちを顔に出すわけにはいかない。
千鶴は兵頭に同情するふりをしながら、家が壊れた時の様子を訊ねた。
兵頭は辺りを見回し、家を修理してくれている村人たちから千鶴を遠ざけると、ここだけの話だと言った。
「あんたやけん言うけんどよ。化け物が出たんよ」
「新聞にそがぁなことが書いてあったぞなもし」
「ほんまかな?」
千鶴がうなずくと兵頭は額に手を当て、まずいな――と言った。
「あん時は何が何やらわからんで、腹が立つやら悔しいやらで、会う奴会う奴に化け物のこと言うてしもたんよ。ほん中に新聞記者がおったんやが、ほうか、やっぱし記事になってしもたかい」
兵頭は新聞を読んでいないようで、どんな風に書かれていたのかと訊いた。それで千鶴は、化け物の声が聞こえて牛が死んだと書かれてあったと説明した。
兵頭は困ったように首を横に振り、ほうなんよ――と言った。
「せっかく手に入れた牛が死んでしもたけんな。これから絣をどがぁして松山まで運んだもんかて悩みよらい」
また忠之に頼むと言わないのは、言えないからだろう。今はそんなことは考えなくていいと千鶴が慰めると、有り難いと言って兵頭は千鶴に頭を下げた。
「さすが甚右衛門さんのお孫さんぞな。人を思いやる心を持っておいでらい」
兵頭に言われても一つも嬉しくない。千鶴は話を戻して、化け物のことを訊ねた。
兵頭はまた周囲を見回して声を潜めると、ここだけの話だと念を押すように言った。
「初めは化け物が出たて言いよったけんど、今は突風で屋根が飛んだことにしとるんよ」
「なしてぞなもし?」
「今も言うたとおり、やられたんはおらん所ぎりじゃけんな。おらが呪われとるみたいに見えるけんまずかろ? ほじゃけん、化け物言うたんは勘違いで突風じゃったて言うとるんやが、ほんまは化け物なんよ」
「化け物を見んさったん?」
「いんや、夜じゃったし寝よったとこじゃけん、見はしとらんけんど聞いたんよ。がいに恐ろしい獣みたいな声をな。あんまし恐ろしいて、おら、小便ちびってしもたかい。あ、いやいや、余計なこと言うてしもた。この話は誰にも言うたらいけんぞな」
「この話て、化け物の話?」
「ほれもやが、小便の話もよ。ええか、誰にも言わいでくれよ」
何だか、まともに取り合って腹を立てるのも、馬鹿馬鹿しく思えるような男である。
誰にも言わないことを約束して、千鶴は幸子の所へ戻った。
千鶴は幸子と一緒にもう一度兵頭に頭を下げると、知念和尚たちと一緒にいる忠之の傍へ行った。
ちらりと振り返ると、兵頭が心配そうにこちらを見ている。しかし、千鶴は兵頭を無視して忠之に言った。
「うち、佐伯さんと二人きりでお話がしたいぞなもし」
「おらと?」
忠之は知念和尚たちの顔を見た。
「行ってやんなさい。千鶴ちゃんはほのためにここまでおいでたんじゃけんな」
和尚が促すと、安子も言った。
「あんた、千鶴ちゃんの頭に花飾ったんじゃけん、きちんとその責任取らんといかんぞな」
「え? え?」
忠之はうろたえたように千鶴を見た。
「ごめんなさい。つい、喋ってしもたんよ」
千鶴が笑いながら謝ると、今度は和尚が言った。
「千鶴ちゃんを寺へ連れて来たんは、お前やそうじゃな。わしら、お不動さまが連れておいでたて思いよったぞな、全く」
「そげなことまで……」
横目で千鶴を見る忠之に、また安子が言った。
「おタネさんが千鶴ちゃんに、あんたのお嫁になって欲しいて言うておいでたぞな」
「え? ばあさまが?」
「為蔵さんはちぃと機嫌が悪かったけんど、二人ともあんたの思たとおりにさせるつもりみたいぞな」
「ほんまに?」
「ほんまほんま。ほじゃけん、千鶴ちゃんと二人でように話をしておいでなさいな」
忠之は黙って頭を下げた。少し戸惑った様子だったが、千鶴と目が合うと、忠之は照れたように微笑んだ。
その笑顔が嬉しくて、千鶴も微笑み返した。
だが胸の中では緊張を感じていた。いよいよ前世の記憶を、忠之に確かめる時が来たのである。
時を越えて
一
千鶴と忠之は野菊の群生の前にいた。
ここは若侍が夢に出て来た場所であり、前世の千鶴が覚えている思い出の場所である。
「うちは、ここに倒れよったんですか?」
忠之は黙ってうなずいた。それから花が終わった群生の中に入ると、屈んで手を伸ばした。
立ち上がった忠之の手には、一輪の野菊の花があった。
「まだ一つぎり残っとった」
忠之は千鶴の頭に、その野菊の花を挿してくれた。
「うん、きれいぞな。やっぱし千鶴さんには、この花が一番似合うぞな」
忠之は満足げに微笑んだ。
夢の若侍と同じだ。間違いなく忠之はあの若侍、つまり進之丞だと千鶴は確信した。
今こそこの人に前世の話をしよう。そう思った千鶴の視界に気になる物が入った。
すぐ傍にある松原の中に、木が折れて倒れている所があった。その近くには何かの残骸が散らばっている。
「あれは何ぞなもし?」
千鶴が指差すと、忠之はその残骸を振り返った。
「あぁ、あれは古い祠みたいな物ぞな」
「祠みたいな物? 祠やないいうこと?」
「そがぁにちゃんとこさえた物やないんよ。中には、こんまい石のご神体みたいなんがあったけんど、ほれが何なんかはようわからんぞな」
「ひょっとして、台風でめげたいう鬼除けの祠やないんですか?」
「さぁな。ほんでも、あげな物が鬼除けになるとは思えんぞな」
千鶴は松原の中へ入り、壊れた祠の傍へ行った。そのあとを忠之がゆっくりとついて来る。
近くで見ると、祠は原型をとどめないほど、ばらばらに壊れていた。だが、忠之が言うように立派な祠というものではなく、ご神体の雨除け程度の物だったようだ。
これが壊れたとされる台風では、松山もかなりの風雨に曝されはした。だが、それほど大きな被害は出ていない。
ここは余程の強風が吹いたのだろうが、それにしても妙な感じがする。
周囲の松には折れた木はない。折れているのはここだけだ。しかし、折れた木が枯れていたというわけでもなさそうだ。それに、すぐそこの丘の上にある法正寺には被害がない。
木が折れるほどの風が吹いたのであれば、丘の上にある寺にも何等かの被害があってもよさそうである。
また、風で吹き飛ばされて壊れたにしては、祠はあまりにもばらばらになり過ぎているように思える。いくら粗末であっても、風でここまで壊れるものだろうかと千鶴は訝しんだ。
倒れた松の木に押し潰されたのだとすれば、潰れた祠は木の下にあるはずだ。しかし、祠の残骸と折れた木は別々の所にある。
それについて忠之は、わからないと言った。
「これをこさえ直したら、鬼さんは封じ込まれるんじゃろか?」
千鶴が訊ねると、まさかと忠之は笑いながら言った。
「こげな物で鬼が封じられるんなら、誰も苦労せんぞな」
「ほやけど……」
「千鶴さんは鬼のことを心配しよるんかな」
千鶴がうなずくと、心配はいらないと忠之は言った。
「これがめげたせいやないんじゃったら、鬼さんが現れるようになった理由は何じゃろか?」
「さぁ、何でじゃろな。ほれはおらにもわからん。ほんでも敢えて言うなら、千鶴さんのことが気になったんかもしれん」
「うちのことが?」
「言うたじゃろ? 鬼は千鶴さんの幸せを願とるんよ。やけん、千鶴さんはどがぁしておいでるじゃろかて気になったんぞな」
忠之の言葉が正しいと示す証はない。しかし、千鶴は忠之の話を素直に受け止めた。
「ほんでも、なしてこの時期なんやと、佐伯さんは思いんさる?」
「さぁ、そこまではおらにもわからんぞな。全てはお不動さまの思し召しじゃけん」
「なしてお不動さま?」
「鬼を改心させられるんは、お不動さまぎりぞな。お不動さまは誰のことも、絶対に見捨てたりせんけんな」
そうなのかと思いながら、千鶴は話題を変えようと思った。
忠之に前世のことを確かめるのが何より優先である。他の話をしていては時間がなくなってしまう。
千鶴は壊れた祠から離れると、忠之を誘って松原の向こうの浜辺に出た。
砂浜には、ひたひたと静かな波が打ち寄せている。
左手に見える丸い鹿島を見ると、千鶴は切ない気持ちになった。ここで進之丞は千鶴を護るために死んだのだ。
「どがぁしんさった?」
泣きそうになっていた千鶴に、忠之が声をかけた。千鶴は無理に笑顔を見せると、佐伯さん――と言った。
「前に話してくんさった、うちと真っ対のロシアの娘さん、今はどこでどがぁしておいでるんか知っとりんさるん?」
忠之はぎょっとした顔になると、千鶴から顔を逸らすように海を見た。
「さぁなぁ。どこでどがぁしとるんやら」
「そげなこと言うて。ほんまは知っておいでるんでしょ?」
惚ける様子の忠之の顔を、千鶴はのぞき込んだ。忠之は困ったように千鶴を見返すと、どうしてそんなことを訊くのかと言った。
「佐伯さんの心ん中には、今でもその娘さんがおいでるんじゃろなて思たんよ」
忠之は寂しげに微笑むと、ほうじゃなと言った。
「確かに、おらの心ん中にはその娘がおる。忘れろ言われても、忘れられるもんやないんよ。ほれが気に障る言われても、これぎりはどがいもしようがないんぞな」
そこまで自分のことを想い続けてくれているのかと、千鶴は思わず涙を見せた。
千鶴の涙を見た忠之は、慌てた様子で千鶴を慰めた。
「千鶴さん、泣かんでおくんなもし。おら、千鶴さんに泣かれるんが何よりつらいぞな」
その言葉は、胸の中にいるのはお前なのだと、千鶴に伝えているように聞こえた。
佐伯さん――忠之を真っ直ぐ見ながら千鶴は言った。
「うち、その娘さんのことわかったんよ」
「何がわかったんぞな?」
「その娘さんは法正寺におったんでしょ?」
忠之は驚いたように千鶴を見た。
「なして、そがぁ思うんぞな?」
「和尚さんがな、言うとりんさったよ。和尚さんが知る限り、うちみたいな異国の血ぃ引く娘は、風寄にはおらなんだて」
「ほ、ほうなんか」
忠之は明らかにうろたえている。千鶴は続けて言った。
「この辺りで、うちと対のロシアの娘言うたら、昔、法正寺で暮らしよった、がんごめて呼ばれよった娘しかおらんぞな。その娘は風寄のお代官の一人息子と、夫婦約束をしよったんよ。しかもな、その娘の名は千鶴て言うんぞな」
忠之は口を開けたが言葉が出て来ない。千鶴は忠之を見つめながら言った。
「この話、どこぞで聞いた話に似とると思いませんか?」
「おら、何のこと言われとるんか……」
尚も惚けようとする忠之に、千鶴は言った。
「もう惚けんでもええんよ、進さん。おら、思い出したんよ。進さんと同しように、昔のことを思い出したんよ」
見開かれた忠之の目は、千鶴を凝視して動かない。だが、まだ千鶴の言葉に半信半疑の様子だ。
「まだ信じてくんさらんみたいじゃけん、言うてあげましょわい。進さんはおらを護るために、ここでようけのお侍らと斬り合うたんよ。たった一人でおらを護ろとして、おらのためにお命を……」
その先を言えないまま千鶴は嗚咽した。千鶴の心は前世の千鶴が占拠していた。
千鶴の涙に弱いはずなのに、忠之は慰めようともしない。明らかに動揺しているようだが、まだどう反応すべきか測りかねているようだ。
「進さん、黙っとらんで何とか言うておくんなもし」
千鶴が必死に促すと、忠之は恐る恐る口を開いた。
「千鶴さんが進さんと呼びんさる男とおらが対じゃと、なしてわかるんぞな? ロシアの娘の話ぎりでそがぁ思とりんさるんなら、ほれは千鶴さんの思い違いぞな」
説得力のない弁解を続ける忠之に、千鶴は言った。
「進さんのまことの名は佐伯進之丞忠之ぞな。進之丞は呼び名で、忠之が諱じゃて、おらに教えてくんさったろ? 諱は誰にでも教えるもんやないけんどて言いながら、おらには教えんさったやんか。ほれに、今の進さんの名が佐伯忠之て言いんさるんは、おらの名が千鶴なんと対で、ほれこそ神さまがお示しくんさった、進さんである証ぞな」
興奮して肩で息をする千鶴に、忠之の顔が綻んだ。
「ほんまに……、ほんまに思い出したんじゃな、千鶴」
「やっぱし進さんじゃね!」
千鶴は忠之、いや進之丞に飛びついた。進之丞は千鶴を抱きしめると、会いたかったぞと言ってむせび泣いた。千鶴は涙で声が出せず、ただ進之丞の胸の中でうなずくばかりだった。
懐かしい温もりが、千鶴の心と体を優しく包んでくれる。この温もりこそが進之丞の証なのだ。
二
静かな波音が心地よい。
千鶴と進之丞は砂浜に坐り、遥か昔のことを思い出している。
「おら、全部思い出したわけやないけんど、こがぁして進さんと喋っとると、どんどんいろんなこと思い出して来るぞな」
「思い出すんは楽しいことぎりにしとかんとな。思い出さいでもええことまで思い出したら、つろなるぞな」
進之丞は微笑みながらも、どこか影があるように見える。
「進さん、重見善二郎てお人知っておいでる?」
「重見善二郎? 知らいでか。そのお方はお前が武家に嫁入りするための準備として、お前を養女に迎えてくんさることになっとったお人ぞな。じゃが、なしてお前がほれを知っておるんぞ? まだお前には話しておらなんだはずじゃが」
「あのな。今のおらのじいちゃんは、重見善二郎いうお人の孫なんよ」
進之丞は目を丸くすると、何と――と言った。
「ほれは、まことの話か?」
「じいちゃんがそがぁ言うとりんさった。じいちゃんの実家は歩行町にある重見家で、じいちゃんのお父ちゃんは重見甚三郎て言いんさるそうな」
「甚三郎か、覚えておるぞ。一度手合わせをしたことがあるが、剣の腕前はなかなかじゃった。ほうか、千鶴は重見家の血筋の家に産まれて来たんじゃな。やっぱし、これはお不動さまのお導きに相違ない」
法正寺の方を向いた進之丞は、両手を合わせて不動明王に礼を述べた。
進之丞が祈り終えると、ほれにしたかて――と千鶴は言った。
「進さん、おらのことがわかっとったんなら、なしてもっと早ように言うてくんさらんかったん?」
「ほやかて、お前が何も思い出しとらんのに、お前と夫婦約束しよった進之丞ぞな――やなんて言えまい。そげなこと言うたら、こいつ頭おかしいんやないかて思われるじゃろがな」
「まぁ、ほやないかて思いよった。ほんでも、おら、ずっと昔の自分にやきもち焼きよったんよ?」
千鶴が拗ねたふりをすると、進之丞は笑って言った。
「あしも、うっかり言わいでもええことを喋ってしもたけんな」
「ほやけど、あん時に進さんに助けてもらえなんだら、おら、死んどったかもしれんぞな。ほしたら、進さんと出会うこともなかったろうに、こがぁなったんは神さまのお引き合わせなんじゃろね」
「確かにほうじゃな。やが、あしらを引き合わせてくんさったんはお不動さまじゃて、あしは思いよる」
「なして、お不動さまなん?」
進之丞は法正寺を振り返りながら言った。
「お不動さまは、昔からあしらを見守ってくんさっとるけんな」
「ほやけど、おらたちは死に別れてしもたぞな」
「ほじゃけん、こがぁして会わせてくんさったんやないか」
千鶴に顔を戻した進之丞は、諭すように言った。
「あしはな、わかったんよ。人は死んでも、ほれでおしまいやないてな。死んでもまた生まれ変わり、大切な者と再び出会うんよ。お不動さまはそがぁな生き死にの繰り返しの中で、あしらを見守っておいでるんよ」
「進さん、相変わらず頭がええねぇ。おら、そげな深い考えできんぞな」
「ほやかて、今は師範になる学校へ行きよるんじゃろ?」
進之丞の言葉で前世の千鶴は、後ろに隠れていた現世の千鶴に席を譲った。つまり、千鶴は我に返って困惑した。
「いや、あの、学校はな、その……」
「どがぁした?」
「ほやけんな、あの……、やめたんよ」
「やめた?」
進之丞は驚き、眉をひそめた。
「なして、やめたんぞな?」
「なしてて言われても……」
鬼のせいでやめたとは言いたくなかった。だが、適当な説明が思いつかない。
「ひょっとして、あしがお店で働く思てやめたんか?」
弁解を探していた千鶴は、進之丞の言葉に飛びついた。
「ほやかてな、おじいちゃんがおらたちを夫婦にして、お店を継がせるおつもりじゃけん……」
そう言われたわけではない。だが、そうに決まっていると千鶴は考えた。
小さいながらも山﨑機織は立派な絣問屋である。そこの跡継ぎになるというのは、使用人にとっては大出世だ。
千鶴は進之丞が喜んでくれると思った。しかし、千鶴の期待に反して、進之丞は笑みを見せなかった。
「そがぁなことはできん話ぞな」
「できんことないし。おじいちゃん、進さんにしんさったこと、ほんまに悪かったて思ておいでるんよ。ほれに、ほんまは進さんに惚れ込んでおいでたんやけん」
山陰の者として生まれ変わったことを、進之丞は気にしているのだろうと千鶴は思った。だとすれば、やはり祖父の仕打ちは、進之丞の心を深く傷つけたのかもしれなかった。
黙ったままの進之丞に千鶴は訊ねた。
「進さん、おじいちゃんのこと怒っておいでるん?」
「いや、怒っとらん」
「じゃったら、なしてそがぁな顔するん?」
「そがぁな顔?」
「何や、むすっとしとるぞな」
進之丞は両手で顔をごしごし擦ると、にっこり笑った。
「これでええかな?」
「ほれじゃったらええけんど、進さん、もう、うちの店にはおいでてくれんの?」
「いや、そげなことはない。あしかてお前と一緒におれるなら、そぁがしたいと思とる」
「ほれじゃったら、何がいかんの?」
進之丞は千鶴の方に体を向けて言った。
「あしにはな、そがぁにうまく行くとは思えんのよ」
「なして? お不動さまが引き合わせてくんさったんよ? 進さんが自分でそがぁ言うたやんか」
思い悩んだように口を噤んでから、進之丞は言った。
「あしは人殺しぞな」
「人殺し?」
千鶴はぎょっとしながら言った。
「進さん、誰ぞ殺めんさったん?」
「殺めたいうても今の話やない。前の話ぞな」
「ほれじゃったら――」
「人を殺めた者に幸せをつかむことはできん。あしがおったら、お前は幸せにはなれん」
「何言うん?」
馬鹿げた話に千鶴は反論した。
「進さんが人を殺めたて言いんさるんは、おらを護るためにしんさったことじゃろ? おらのためにしんさったことやのに、なしてそがぁなこと言うん?」
「ほやかて、人殺しは人殺しぞな」
「ほんでも、前世の話やんか。そげなこと、今の進さんには関係ないぞな」
「あしが何も覚えとらんのなら、ほうかもしれん。ほやけどこのとおり、あしは全部覚えとる。己の罪は己が知っとるんじゃけん、ほの罪から逃れることはできんぞな」
「進さん一人が不幸になって、おらぎり幸せになれるわけないやんか。おらの幸せは進さんと一緒になることなんよ? ほれができんのなら、おら、幸せになんぞなれん」
千鶴が泣き出すと、進之丞はうろたえた。何とかなだめて慰めようとしたが、千鶴は泣き止まない。
「わかった。わかったけん、泣かんでくれ。もう余計なことは言わん。何でもお前の言うとおりにするけん、泣かんでくれ」
千鶴は涙の目で進之丞を見た。
「ほんまに?」
「嘘は言わん」
「約束やで?」
「あぁ、約束する」
千鶴は進之丞に抱きついた。進之丞は黙って千鶴を抱き返した。だが、その胸には過去の苦しみが詰まっている。
千鶴は進之丞に抱かれたまま、進之丞を苦しみから救って欲しいと、不動明王に願い続けた。
三
「そろそろ寺へ行くか。みんなが待ちよろ」
立ち上がろうとする進之丞に、一つだけ聞かせて欲しいと千鶴は言った。
「進さん、前に鬼の話をしてくんさったろ? あの話は誰から聞きんさったん?」
「慈命和尚ぞな」
「え? あの和尚さま?」
「ほうよ。お前が世話になっておった慈命和尚ぞな」
慈命和尚は、前世の千鶴が法正寺で暮らしていた時の住職だ。千鶴が異国の血を引く娘だと知った上で寺に引き取り、村人たちにも千鶴を理解させようとしてくれた千鶴の大恩人である。
懐かしい想いに浸りながら千鶴は言った。
「おら、まだ思い出しとらんけんど、やっぱし前世で、おらは鬼と関わりがあったん?」
進之丞は迷ったように少し間を置いてから、うむとうなずいた。
「あしは鬼がお前を護っとると言うたけんど、昔の鬼は今とは違てな、物分かりの悪い乱暴者じゃった」
「ほうなん?」
千鶴は驚いた。優しい鬼が乱暴者だったとは意外な話である。
「お前がまだ風寄に来る前の話やが、鬼はお前に優しいにされたんよ。ほれで、お前の優しさに憧れた鬼はお前が欲しなって、ずっとお前を探しよったんよ」
「ほれは鬼に聞いた話なん?」
進之丞はうなずくと、その鬼がとうとう千鶴の居場所を見つけたのだと言った。
「こげな話をしたら、鬼に対するお前の気持ちが変わるやもしれんが、嘘を申すわけにもいかんけんな。まことの話をしようわい。法正寺の庫裏が焼け、ほん時に慈命和尚が亡くなった話は、お前も知っとろう」
千鶴がうなずくと、和尚は鬼に殺されたのだと進之丞は言った。
千鶴は全身がざわついた。進之丞の話を心が拒絶していた。
「嘘じゃろ?」
「嘘やない。鬼は村の者らを操って、和尚とお前を捕まえたんよ。和尚は法力で鬼に対抗したけんど、村の者には無力じゃった。男らに散々殴られて瀕死の状態になった和尚を、鬼は庫裏ごと焼き殺そうとしたんぞな」
そんな話は聞きたくなかった。村の者たちは慈命和尚を尊敬していたはずだ。その者たちの手で和尚の命を奪おうとするなんて、鬼がやったことは卑劣極まりないと千鶴は心が震えた。
「異変に気がついたあしが駆けつけた時には、庫裏はもう火の海じゃった。ほんでも、あしは燃える庫裏に飛び込んで和尚を助けたんやが、お前を見つけられなんだ。ほん時に、和尚は虫の息で言いんさった。千鶴は鬼に攫われたと」
もはや千鶴には事実を否定できなかった。体中の毛穴から何かが噴き出すように感じながら、千鶴は話を聞き続けた。
「和尚は死に際にこがぁ言いんさった。鬼は力尽くで言うこと聞かそとしても無理じゃとな。鬼が千鶴を望む理由も和尚は知っておいでての。そこから鬼を説き伏せるしか、千鶴を護ることは敵わぬと言いんさったんよ」
慈命和尚は千鶴の親代わりになってくれた人だった。読み書きも教えてくれたし、お不動さまのことも教えてくれた。厳しさもあったが、とても優しい人だった。
その和尚の死に様が目に浮かび、千鶴は涙を抑えることができなかった。
千鶴は鼻をすすりながら言った。
「ほれで、進さん、どがぁしんさったん? 鬼を説き伏せんさったん?」
「そがぁするより他に手はなかったぞな。あしは海に逃げた鬼を追いかけ、必死で説得した。千鶴を己の物にしたとこで優しさは手に入らんのじゃと」
「鬼は進さんの話わかってくれたん?」
「そがぁ簡単にはいくまい。ほんでも、あしはあきらめなんだ。千鶴を大事に思うのならばどがぁすべきかを、とにかく説き続けたんよ。ほれでしまいには、鬼もあしの言い分に耳を貸してくれてな。千鶴を戻してくれたんよ」
千鶴は肩を落とした。進之丞の話はあまりにもつらかった。いくら自分を手放してくれたとは言え、鬼にいい印象が浮かばない。
「おら、ほん時のことは何も覚えとらん」
「ほれでええ。さっきも言うたように、余計なことは思い出さん方がええんよ」
「ほれは、ほうじゃけんど……」
慈命和尚を殺した鬼に攫われておきながら、そのことを何一つ覚えていないのは、すっきりしない気分だ。
「あのお侍らが襲て来たんは、そのあとのこと?」
「ほうじゃ。連中は攘夷を掲げた屑どもぞな。鬼は優しさ求めて悪さをしたが、連中は歪んだ虚栄心のために人を殺めよる。まっこと鬼より始末の悪い奴らぞな」
憤る進之丞に、自分はロシアへ行ったのかと千鶴は訊ねた。
進之丞はしおれたように目を伏せると、黙って首を横に振った。それが何を意味するのかは、千鶴にはすぐにわかった。
「ほれにしても、なして進さんはおらの父ちゃんのことがわかっておいでたん?」
進之丞は顔を上げると言った。
「ちょうどその頃、三津浜にな、ロシアの黒船が来よったんよ」
四
黒船が三津浜に現れたのは、複雑な瀬戸内海の潮流を見極めるためだったと言う。
突然黒船が現れた三津浜は大騒ぎになったと思われるが、その中で、小舟で黒船に近づいた者がいたらしい。それは異国人相手に商売ができるかと考えた三津浜の商人だった。
ロシア人の中には通訳ができる者がいて、ロシア人の娘を知らないかと、その商人に訊ねたとのだと言う。それに対して商人は、ロシアかどうかはわからないが、異人の娘なら噂を聞いていると答えたらしい。異人の娘とは千鶴のことだ。
「なして、おらのことを三津浜のお人が知っておいでるん?」
「あしがお前を嫁にするいう話が、松山や三津浜でも噂になったらしいんよ」
「おらが異人の娘やけん?」
ほうよと進之丞は言った。
風寄の代官の息子が、法正寺に住む異人の娘を嫁にするという話が、松山や三津浜にまで伝わっていたらしい。その話は侍たちだけでなく、庶民にまで聞こえていたようだ。
通訳を介して異人の娘について訊ねたロシア人は、千鶴を自分の娘だと確信したらしい。
黒船には日本の船頭が案内人として乗り込んでいた。恐らく、千鶴の父親と思われるロシア人は、案内人に頼んで千鶴宛の手紙を書いてもらったのだろう。
小舟に乗った商人は、その手紙を金子と一緒に持たされ、その娘に届けるように頼まれた。
しかし、直接手紙を娘に届けると、あとでお仕置きを受ける恐れがあると商人は考え、娘ではなく、娘を嫁として迎える進之丞に届けたのだと言う。
黒船が風寄へ向かうことが、攘夷侍たちの耳に伝わったのは、多分この商人からだろうと進之丞は言った。
三津浜には異国船を警戒する砲台が設置されたお台場がある。その真ん前に黒船が現れたので、現地にいた侍たちは大慌てであったはずだ。一触即発の状況に肝を冷やしながらも、何事もないことを願っていただろう。
そんな状況に攘夷侍たちはいらだっていたに違いない。やられる前に先に大砲をぶっ放せばいいと思っていただろうが、砲台は船奉行たちが守っているので手が出せない。
だが、風寄であれば邪魔者はほとんどいない。しかも風寄には武家の嫁になろうとしている異人の娘がいた。攘夷侍たちには動くべき時が来たわけである。
進之丞にすれば迷惑な手紙だった。
異人が勝手に上陸すれば大問題であり、その異人と接触したとなると、お咎めは免れない。千鶴と夫婦になる話も許されなくなるかもしれなかった。
しかし、自分の父親が会いに来ると千鶴が知れば、一目会いたいと思うのが人情である。また、一目会わせてやりたいと進之丞が思うのも、また人情だった。
それでも、それをするとどうなるかと考えると、進之丞は手紙のことを千鶴に知らせることができなかった。
手紙には一方的かつ簡略に、千鶴に会いに行くという日時と場所が書かれていた。それがちょうど攘夷侍たちが襲って来た、あの時だったと進之丞は言った。
「あしはその手紙を見んかったことにするつもりじゃった……。じゃが、あげなことが起こり、慈命和尚も父上も亡くなった。そこに加えて、あしもまた生きられぬ身になれば、お前を護れる者はおらんなる。ほれであしはお前を、お前の父上に託そと思たんよ」
「……ほうじゃったん」
過去の話ではあるが、千鶴は暗い気持ちになった。
「おヨネばあちゃんのお父ちゃんが、浜辺でお侍と戦う鬼を見たて聞いたけんど、鬼もお侍と戦うたん?」
「戦うた。心を入れ替えた鬼は、動けんなったあしの代わりにお前を護ってくれた。ほれから行くべき所へ行ったんよ」
「地獄ってこと?」
進之丞はうなずいた。
これで千鶴は自分が見た夢に納得が行った。自分を護ってくれた鬼に会いに行ったのだ。
しかしその時の自分は、鬼が慈命和尚の命を奪ったことを知らなかったに違いない。もし知っていたなら、地獄まで鬼に会いに行ったりはしなかっただろう。
また、鬼が慈命和尚を殺めたのだとすれば、祖父が言っていた、風寄の代官が鬼に殺されたという話も事実と思われる。
「鬼が嫌いになったか?」
訊ねる進之丞に千鶴は訊き返した。
「進さんこそ、鬼のことどがぁ思ておいでるん? 鬼のことわかったみたいに喋っとりんさるけんど、お父ちゃん殺されても平気でおられるん?」
進之丞の顔が強張った。はっとなった千鶴は慌てて自分の無神経さを詫びた。
進之丞は硬い表情のまま千鶴に訊ねた。
「父上が鬼に殺められたこと、なして知っておるんぞ?」
「さっき話したじいちゃんのじいちゃんが、亡くなった進さんのお父ちゃんの姿見んさって、鬼にやられたらしいて言いんさったて聞いたんよ」
ほうか――と進之丞は項垂れた。そして、自分の両方の手のひらを見つめると、その手を握りしめて泣いた。
千鶴は進之丞の肩を抱くと、ごめんと詫びた。
進之丞は尚も体を震わせて泣き続けたが、やがて涙を拭くと、千鶴に向き直った。
「千鶴、お前も鬼が憎かろ。やが、あしからお前に頼む。どうか、鬼を憎まんでやってくれ。許してやれとは言わんが、憎むんはやめてくれ。ほやないと、せっかく新たな命をもろて生まれ変わったのに、全部台無しになってしまうぞな」
「進さん……」
「本来なら思い出すはずのないことで、苦しみ悲しむのは正しいことやない。お前の幸せのため、どうか、憎しみは捨ててくれ。ほの代わり、鬼はじきにお前から離れよう。鬼が望んどるんはお前の幸せぎりじゃけんな」
千鶴は黙ったまま、進之丞の言葉を噛みしめた。
何とか気持ちの整理がつくと、千鶴は進之丞を見てにっこり笑ってみせた。
「わかったぞな。おら、もう忘れた」
「ほうか、ほれがええぞな。鬼のことも心配するな」
「心配なんぞしとらんよ。鬼さんはおらの守り神じゃけん」
驚いたような進之丞に、千鶴は微笑んで言った。
「人それぞれぞな。おらも進さんもこがぁして生まれ変わったんじゃけん、きっと他の人らも生まれ変わっとらい。和尚さまも進さんのお父ちゃんも、みんなどっかに生まれ変わっとると、おらは思うぞな。ほれやのに、昔のこと取り上げて恨みつらみ言うたかて詮ないことやし」
「千鶴……」
「ほれにな、おら、思たんよ。きっと、鬼さんかて昔のこと思い出したらつらかろうなて。人は前の世のことなんぞ、みんな忘れとんのに、鬼さんぎり覚えとるんは気の毒ぞな。ほじゃけんな、おら、鬼さんの力になってあげたいんよ。鬼さんには、この先もずっと傍におってもろて、おらたちと一緒に……、進さん?」
忠之は両手で顔を覆ってすすり泣いていた。
「進さん、何泣きよん?」
「千鶴……、なしてお前は……、そがぁに優しいんぞ?」
「なしてって……、鬼さん、気の毒やし。おらのこと陰で助けてくれとるんじゃけん」
「ほやけど、鬼ぞ?」
「おらな、自分ががんごめや思て悩みよったじゃろ? あん時に、ようわかったんよ。自分が鬼になってしまう恐ろしさを。実際はがんごめやなかったてわかったけん、ほっとはしたけんど、ほんまの鬼さんはどんだけつろうて悲しかろて思たんよ。鬼さん、好きで鬼になっとるわけやないもんね」
忠之はますます泣き出した。
困った千鶴は忠之を抱きしめて慰めようとした。しかし、忠之が何を泣いているのかがよくわからないので、何と慰めればいいのかがわからなかった。
しばらくして涙を拭いた進之丞は、すまん――と言った。
「また取り乱して、みっともない所見せてしもた」
「進さん、何をそがぁに泣きよったん?」
「あしはな、鬼の心がわかるんよ」
「鬼の心?」
進之丞はうなずくと、前の世で鬼を説得した時に、鬼の気持ちが理解できるようになったと言った。
「鬼はな、千鶴の言葉を聞いて泣きよったんよ。その気持ちがあしにも伝わって、ほれで涙をこぼしてしもたんぞな」
「ほういうことやったん」
何だかとても感動した千鶴は、進之丞と鬼のことを確かめたくなった。
「鬼さんがおらをイノシシから救ってくれた時、ほんまは進さんも傍においでたんじゃろ?」
千鶴が問いかけると、進之丞は少し困った顔を見せ、それから小さくうなずいた。
「あの日、お前が泣きながら走って行くんが見えたんよ。まさかと思いながら後を追わいよったら、あのイノシシが出て来てな……」
「鬼さんが現れて、おらを助けてくれたんじゃね」
千鶴の言葉に、忠之は黙ってうなずいた。
「進さんは鬼さん見ても、驚かなんだん?」
「あしはお前のことしか考えよらんかった」
「じゃあ、鬼さんは進さんがわかったん?」
「わかっとる。ほじゃけん、あとはあしが動いたんよ」
そうだったのかと千鶴は納得した。進之丞と鬼が力を合わせる仲であることも理解できた。
かつて鬼と進之丞は争った仲であり、鬼は進之丞の父を八つ裂きにした。それなのに、今は互いに心を通わせているのが、とても不思議であり胸を打つものがあった。
「進さん、鬼さんに言うてくれる?」
「何をぞな?」
「絶対におらから離れんといてなって」
進之丞は困惑気味に、そがぁなことはできん――と即答した。
「なして?」
「ほやかて、鬼が現れたんは、お前が幸せになるんを確かめたいぎりじゃけんな。ほじゃけん、お前が幸せなんがわかったら、鬼はおらんなるんよ」
「ほんなんいかんで。じゃったら、おら、幸せになれんやんか」
「なしてぞ?」
「鬼さんがおらんなったら、おら、悲しなるもん。幸せになれたとしても、幸せやなくなってしまうぞな」
「千鶴、お前はなして……」
進之丞がまた泣き出したので、千鶴は慌てて進之丞をなだめた。
「進さん、泣いてんと、もう一つ鬼さんに伝えてくれん?」
「何を……ぞな?」
鼻をすすり上げる進之丞に千鶴は言った。
「あのな、おらが誰かに腹立てたら、鬼さんが仕返しするかもしれんのよ。ほやけん、そげなことはせいでも構んけんて言うといて欲しいんよ」
「何ぞ、そがぁなことがあったんか?」
近くには誰もいないが、千鶴は声を潜めて言った。
「あのな、実は兵頭さんの家がめげたんは、おらのせいなんよ」
「なして、お前のせいなんぞ?」
「あのな、おら……、あの人のこと恨んでしもたんよ」
「恨んだ?」
「ほやかて、あの人がおじいちゃんに余計なこと言うたけん、おじいちゃんが進さんを雇うのをためろうてしもたじゃろ? おら、進さんがおいでてくれるて楽しみにしよったけん、ほれでつい……、恨んでしもたんよ。ほしたら、ほれが鬼さんに伝わってしもたみたいでな。あげなことになってしもて……」
進之丞はふっと笑った。
「お前は、まっこと正直で可愛い女子よなぁ」
「何言うとるんよ。ほんまじゃったら、おら、兵頭さんにお詫びせんといけんのよ。ほやけど、そげなこと言えんやんか。やけん、こがぁなことが起こらんように気ぃつけんといけんのよ。ほやけどな、鬼さんのこと責めよるんやないんよ。そこん所はちゃんと伝えといてや」
進之丞は声を出して笑うと、わかった――と言った。
「もうお前の気持ちは伝わっとるけん、何も心配はいらん。鬼もお前に迷惑かけたて謝っとるけん」
「謝らいでもええんよ。おらな、おらのために鬼さんの手ぇ汚すようなことさせとないんよ。せっかく優しい気持ちになったんじゃけんな。いつまでも優しい鬼さんでおって欲しいんよ」
進之丞がまた泣き出した。
千鶴は慌てて進之丞をなだめた。そうしながら、これから進之丞に鬼の話をする時には、気をつけねばならないと考えていた。
広がる噂
一
正月になると、茶の間と隣の部屋を仕切る襖は取り払われ、広くなった座敷に山崎機織の者全員が集まった。
いつもは使用人たちの食事は、家人とは別である。だが祝い事の時には、座敷で一緒の食事が許されていた。
甚右衛門を中心に、家人と使用人が向かい合う形で並び、甚右衛門のすぐ傍には、東京廻りから戻った辰蔵と、大阪の作五郎の下で修行をしていた孝平が、向かい合って座っている。
辰蔵の隣には手代、丁稚が順に並び、孝平の隣にはトミ、さらにその隣に幸子、千鶴と続いた。
花江は使用人だが、千鶴の隣に座らされた。それは家人側と使用人側の人数を合わせるためでもあるが、花江が特別な使用人ということでもあった。
それぞれの箱膳には白飯と雑煮、黒豆や数の子、昆布に大根やごぼう、里芋などの煮物、赤蕪の酢の物などが所狭しと並べられている。
箱膳の脇には乗り切らない焼き魚の皿が置かれ、亀吉と新吉はもちろん、無口な弥七さえもが笑みを見せていた。
一同に新年の挨拶をした甚右衛門は、昨今の絣業界の情勢について喋り、こうして正月を迎えられたのはみんなのお陰だと述べた。
それから甚右衛門は、千鶴が学校をやめて家や店の仕事を手伝うことになったと、さらりと言った。
十二月に入ってから、千鶴が学校へ行かずに家にいたことを、ほとんどの者は学校が休みなのだと思っていた。そのため、千鶴が学校をやめたと聞いた時には、少なからぬざわめきがあった。
それでも一度は千鶴が婿を取る話があったので、また新たに婿の話があったのだろうと、みんなは受け止めたようだった。
お屠蘇が酌み交わされて、甚右衛門が雑煮に手を付けると、みんな一斉に料理を食べ始めた。
新吉はいきなり大きな口で餅にかぶりつき、喉を詰めそうになって亀吉に背中を叩かれた。
他の者たちも笑いながら、箸の動きはいつもより速い。滅多に食べることができないご馳走を、次々に口へ運んで行く。
ひとしきり食べたあと、甚右衛門は辰蔵に東京の様子を報告させた。
辰蔵は、東京の復興が驚くべき速さで進んでいると話し、絣の需要は今後も増える見込みだと説明した。
ただ、今回の大地震で潰れた店も数多く、山﨑機織の取引先も、以前と比べると半分に減っていたと言う。
その中には、花江がいた太物問屋も入っており、花江はしんみりした様子で話を聞いていた。
辰蔵は花江に声をかけると、花江の家族の墓参りもして来たと伝えた。花江は笑顔で辰蔵に感謝したが、すぐに涙ぐんでしまい、めでたい日を湿っぽくしてしまったと、みんなに詫びた。
甚右衛門は花江を気遣いながら、減った取引先を早急に増やすことが急がれると言った。それに対して辰蔵は、事情は他の同業者も同じなので、事は簡単ではないと語った。
祝いの席に着く前に、甚右衛門は辰蔵から東京の事情は聞いていたはずである。それを改めて辰蔵に喋らせたのは、山﨑機織全員に話を聞かせて、士気を高めるものなのだろうと千鶴は思った。
これから東京の仕事を強化していくつもりだと、甚右衛門は言ったが、そのためにも松山の人員も増やす必要がある。亀吉や新吉にも早く手代になってもらいたいと、甚右衛門は二人を鼓舞した。
手代になると言うのは、一人前だと認めてもらうことである。
丁稚で働いていても、仕事が向かないと判断されれば家に帰されることもある。実際、これまでにも帰された者は何人もいた。
それで亀吉も新吉も、自分たちの出世が保証されたと受け止めたらしい。二人で喜び合い、がんばろうと誓い合った。
さて――と甚右衛門は孝平に顔を向けると、大阪の話をするように言った。しかし、ちらちらと花江を見ていた孝平は、甚右衛門の声が聞こえていない。
トミに叱られた孝平は、慌てて甚右衛門を見た。使用人たちは何も言わないが、孝平を見る目には侮蔑のいろが浮かんでいる。
甚右衛門は苦虫を潰した顔で、大阪の様子を話すようにと繰り返し言った。
孝平は姿勢を正すと、作五郎から褒めてもらったと胸を張った。だが、そんなことは訊いていないと甚右衛門に言われると、うろたえてトミを見た。
トミは溜息を一つつくと、大阪の商いの話だと言った。
孝平はうなずくと、大阪は町も大きく商いも盛んで、松山とは店の規模も違うし、とにかく店がいくらでもあると説明した。
花江が話を聞いていると思ったのか、調子に乗った孝平は、通天閣という立派な塔や、松山城よりも大きな大阪城が、大阪にはあると自慢げに言った。
甚右衛門は咳払いをすると、伊予絣の評判を訊ねた。すると途端に孝平は口籠もり、そこそこ売れていると答えた。
甚右衛門は顔をしかめ、もうええと言った。それから、作五郎から聞いた話として、東京から大阪へ移り住む者が増えたため、大阪の人口が増えて来ているらしいと言った。
それは普段着としての伊予絣の需要が伸びるという意味だ。甚右衛門はそのことを孝平の口から聞きたかったようだった。
実は独り者の作五郎は、年末年始を道後温泉で過ごすために松山を訪れていた。孝平は作五郎に連れられて松山へ戻って来たのである。
作五郎は山﨑機織の仕事を手伝ってくれてはいるが、山﨑機織の使用人ではない。手間賃をもらっていても、辰蔵たちとは立場が違うため、甚右衛門たちと一緒に正月を過ごすわけではない。
だが道後温泉へ向かう前に、作五郎は山﨑機織に立ち寄り、甚右衛門といろいろ話をしていた。大阪の状況はもちろんだが、孝平の仕事ぶりについても、甚右衛門は報告を受けていた。
「ほういうわけで、今後は東京に加え、大阪からの注文も増えて来るけん、かなり忙しなるけんな。さっきも言うたとおり、亀吉、新吉には早よ手代になれるよう、がんばってもらいたい。ほれと、東京には茂七を遣るつもりなけんど、そがぁなると、ここの手が足らんなる。ほじゃけん、人を増やさにゃならん」
大阪から戻った孝平は、松山に残ることが決まっていた。それで甚右衛門が自分のことを言っていると思ったらしい。孝平は亀吉たちに自分を指さしながら胸を張ってみせた。
ところが、孝平が松山に残ることになったのは、作五郎がさじを投げたからだった。
作五郎は孝平が役に立たないと甚右衛門に告げていた。
二ヶ月ほどの間、途中で孝平を放り出さなかったのは、甚右衛門に申し訳ないと思ったからで、正月以降は仕事の邪魔になるから、孝平は松山へ置いて行くと、作五郎はきっぱりと言ったのだった。
孝平が作五郎に褒められたのは、花江を嫁にしたいという熱意だけだった。そこまで女のためにがんばるのは大したものだと言われただけのことで、仕事を褒められたわけではなかった。
孝平は得意顔だったが、甚右衛門は孝平を無視して言った。
「ほれで取り敢えずは、外から一人雇うことにした」
もちろん、それは進之丞のことだ。千鶴は嬉しくて仕方がなかった。進之丞は為蔵から了承をもらい、山﨑機織で働くことになったのである。
ただし、それには条件があった。
もし山﨑機織の仕事がうまく行かないようなら、風寄に戻って履物作りの仕事を引き継ぐということだ。
また、為蔵かタネのどちらかが病に倒れるなどして動けなくなったら、やはり風寄に戻るということも条件である。
さらには、出世してお金儲けができるようになれば、為蔵とタネの世話をするということも、条件に加えられていた。
千鶴は進之丞と夫婦になって山﨑機織を引き継ぐつもりだが、万が一、進之丞が風寄へ戻ることになったなら、自分も嫁として同行する覚悟だった。
もちろん、そうなると店の跡取りがいなくなる。だから、絶対にそうならないよう願うばかりでもあった。
「旦那さん、ほれは、あの風寄の兄やんかなもし?」
新吉が訊ねると、ほうよほうよと甚右衛門は言った。
「あの男は読み書き算盤もでけるけんな。商いの仕事がでけるようなら、すぐに手代にするつもりよ。ほれで、あの男に手代が務まると判断でけたら、茂七を東京へ送る。ほれで向こうの引き継ぎが終わり次第、辰蔵をここの番頭に戻す。これが今の方針ぞな」
東京を一人に任されるというのは、とても名誉なことである。辰蔵が番頭に抜擢されたように、将来の出世が約束されたようなものだ。
茂七は嬉しさを隠せず、東京行きが楽しみだと辰蔵に言った。
だが弥七は意外そうに、あの男の話はなくなったのではなかったのかと、独り言のように言った。それに対して茂七は、事情が変わったのだと切り捨てるように言った。
「何ぞ何ぞ? 風寄の兄やんいうんは誰のことぞ?」
事情を知らない孝平が不満げに言った。すると、新吉が即座に答えた。
「あのな、千鶴さんが好いておいでる兄やんぞな」
何やと?――と孝平は身を乗り出すと、亀吉の向かいに座る千鶴をじろりとにらんだ。
これ!――とトミに叱られて、孝平は渋々体を元に戻した。
だが自分がいない間に、山﨑機織に動きがあったと感づいたようで、孝平はいらだちを隠さなかった。
「わしは、そがぁなこと一言も聞かされとらんがな」
孝平が愚痴をこぼすと、お前に聞かせる必要はない話だと、甚右衛門がぴしゃりと言った。
「まぁ、もうじき仲間入りするんじゃけん、簡単に話しておこうわい。その男は佐伯忠之言うてな、千鶴が風寄で大変世話になった男ぞな。ほれに、風寄の仲買人の兵頭の牛がいかんなった時には、この男が一人で大八車を引いて、風寄の絣を運んで来てくれた。あの男がおらなんだら、今頃この店はどがぁなっとったかわからん」
「風寄から一人で大八車を? そがぁなことできるわけなかろ」
孝平は小馬鹿にするように笑ったが、みんながしらっとしているので、ほんまなんかと茂七に訊ねた。
茂七が黙ったままうなずくと、孝平は目を丸くしてうろたえた。
「あの男なら、あたしも太鼓判を押しましょうわい」
忠之を直接知る辰蔵が言った。
自分が東京へ行っている間に、忠之と山﨑機織の間で何があったのかを辰蔵は知っていた。ひどい目に遭わされても、それを恨もうとしない忠之を辰蔵は大きく買っていた。
「大八車も置いて行ってくれたもんな」
亀吉と新吉が嬉しそうにうなずき合った。
店の大八車が壊れた時に、二人は甚右衛門から怒鳴られて泣き合った仲だ。大八車を置いて行ってくれた忠之のことは、亀吉も新吉も大いに慕っている。
ちなみに忠之が残した大八車は、元の大八車の修理が終わったあとに、牛車で絣を運んで来た兵頭に戻された。
忠之が使った大八車は壊れたことになっていたので、甚右衛門は大八車を修理しておいたと兵頭に言った。
兵頭は修理代を気にしたが、甚右衛門が修理代などいらないと言うと、大喜びで牛車の後ろに大八車を結びつけて戻って行った。それは兵頭が甚右衛門に、忠之の陰口を言った日のことだ。
兵頭の新しい牛が死んだあと、忠之はもう一度牛の代わりに、この大八車で風寄の絣を運んで来てくれた。
それで甚右衛門との関係も修復され、忠之が山﨑機織で働くことが正式に決まったのである。
そんな忠之に文句をつけられるわけもなく、茂七も辰蔵や亀吉たち同様に、忠之が来ることを大いに喜んでいた。
しかし弥七は黙ったまま、笑みも浮かべず箸を動かしていた。
自分は苦労して丁稚から手代になったのに、忠之はすぐに手代になるということが、面白くないのかもしれない。
だが弥七は千鶴に対しても、いつもあっさりした態度なので、浮かれた様子を見せないのは、元々の性格のせいとも思われた。
「よかったなぁ、千鶴さん。こんで毎日、あの兄やんと一緒におれるやんか」
調子に乗る新吉の頭に亀吉の手が飛んだ。頭を押さえて怒る新吉と、怒り返す亀吉に千鶴は言った。
「ほらほら、お正月早々怒ったらいけんよ。ほれより二人とも、佐伯さんがおいでたら、いろいろ教えてあげてな」
新吉と亀吉は争うのを止めると声を揃えて、はいと言った。
孝平はまだ納得が行かないようで、佐伯忠之という男はどういう恩人なのかと、身を乗り出して千鶴に質した。
いろいろぞな――と千鶴が言葉を濁すと、はっきり言えと孝平は千鶴に迫った。すると、新吉が言った。
「あのな、千鶴さんが風寄で大けな男四人に絡まれたんよ。あの兄やんはな、その男らをたった一人でやっつけてしもたんぞな」
孝平は目を丸くして、ほんまか?――と千鶴に確かめた。
千鶴が小さくうなずくと、孝平は何も言えなくなり、黙って箸を動かし始めた。その情けない姿に、花江が声を出さずに笑った。
「旦那さん、あの兄やんはいつおいでるんぞなもし?」
新吉は孝平に構わず、甚右衛門に訊ねた。甚右衛門は藪入りが終わってからだと言った。
藪入りとは盆と正月の年に二回、商家に住み込みの使用人が実家へ戻れる休みで、一月と七月の十六日を言う。
今来てもすぐに藪入りになるので、来るのは藪入りが終わってからとなったのである。
藪入りは使用人たちには待ち遠しいものだが、今回は千鶴にも待ち遠しい藪入りだった。
二
正月祝いが終わると辰蔵は東京へ戻り、孝平は松山へ残った。
作五郎は大阪へ戻る前に山﨑機織へ立ち寄り、しっかりなと孝平に声をかけた。
何をしっかりなのかはわからないが、孝平は花江のことだと受け取ったらしい。満面の笑みを浮かべてちらりと花江を見ると、わかりましたぞなもしと上機嫌で応えていた。
もちろん花江は嫁になる約束などしていないと、言い寄る孝平を突き放していた。だが、嫌い嫌いも好きのうちだと、孝平は意に介していないようだった。
いずれは自分が山﨑機織の主になると信じているのだろう。そうなれば、花江が自分を拒むはずがないと思っているらしい。
そんな感じなので、大阪に出る前と比べると、孝平の態度は大きくなっていた。
ただ、仕事上の扱いは丁稚と同じだったので、孝平はそれが不満なようだった。
途中から加わる者が手代になれるのだから、自分も手代にしてもらえると、孝平は考えていたらしい。年齢的にも、自分が丁稚なのは絶対におかしいと周囲に愚痴るのだが、誰も孝平を相手にしなかった。
それでも孝平は自分が上だと示そうと、手代の茂七や弥七に偉そうに指示しようとした。それで、甚右衛門やトミから何度も叱りを受けていた。
藪入りの少し前、風寄の兵頭が牛車で絣を運んで来た。
甚右衛門が新吉と孝平に品物を蔵へ仕舞わせている間、千鶴は兵頭にお茶を出そうとした。
その途中、反物の箱を抱えて蔵へ向かう孝平が、邪魔じゃいと怒鳴りながらわざと千鶴にぶつかった。それで盆に載せた湯飲みがひっくり返り、中のお茶が盆を持った千鶴の手を濡らした。
千鶴は思わず盆を落としそうになったが、危ういところで何とか持ちこたえた。そのまま盆を台所の板の間へ置くと、台所にいた花江がすぐに水で千鶴の手を冷やしてくれた。
同じく箱を運んでいた新吉は、千鶴の傍へ来ると、大丈夫かと心配そうに声をかけた。
千鶴は大丈夫だからと微笑み、新吉を蔵へ行かせた。
孝平が蔵から戻って来ると、花江は孝平を捕まえて、ひどいことをするなと文句を言った。
だが、孝平は作業の邪魔をした千鶴が悪いと言って、取り合おうとしなかった。すると、茶の間で繕い物をしていたトミが、好ぇ加減にしやと孝平を叱った。
「この際やけん、はっきり言うとこわい。うちらはこの店を千鶴に継がせるつもりぞな。千鶴はお前の主になるんぞ。その主に失礼な態度取るんなら、お前をここへ置くわけにはいかん」
千鶴は驚いてトミを見た。花江も目を丸くしている。しかし、トミは千鶴には顔を合わせず、仏頂面のまま孝平をにらんでいる。
孝平は茫然と立ち尽くしていた。後ろを通る新吉にぶつかられても反応しない。
トミが再び繕い物を始めると、孝平はうろたえたように言った。
「ほれじゃったら、わしは何のために大阪へ行ったんぞな?」
「ほれは、こっちが訊きたいことじゃろがね」
トミは孝平に顔を向けないまま言った。
孝平はちらりと花江を見た。しかし、花江が味方をするはずもない。
千鶴と目が合った孝平は、わかったわい――と声を荒げた。
「わしのことをそがぁ見よんなら、こっちかて考えがあらい」
トミは孝平に顔を向けると、どんな考えかと訊ねた。しかし、孝平は答えることができなかった。
トミは鼻をふんと鳴らすと、また繕い物を始めた。
「何も考えとらんくせに。ここを出て行くんなら、誰も引き留めんけん勝手にしたらええ。なして作五郎さんがお前を置いて行きんさったんか、考えもせんかったんか、この抜け作」
孝平はわなわなと体を震わせると、荒々しく店の方へ出て行こうとした。しかし甚右衛門が怖いのか、くるりと向きを変えると奥庭へ出て行った。
そのまま家を出るかのように見えたが、裏木戸が開く音が聞こえない。恐らく出て行くふりをして、トミの様子を窺っているのに違いなかった。
千鶴が淹れ直したお茶を帳場へ運ぶと、兵頭は帳場に積まれた箱の傍に腰を下ろして、煙管を吹かせていた。箱の一部は、弥七が中身を確かめている。茂七と亀吉は太物屋へ注文の品を届けに行ったので、ここにはいない。
「すんません。遅なってしまいました」
千鶴がお詫びしながらお茶を配ると、兵頭はにやにやしながら言った。
「何ぞ、奥で揉めとったみたいやな」
千鶴は笑みを浮かべてみせたが返事はしなかった。代わりに、相変わらず性格の悪い男だと、心の中で罵った。
「牛、また新しいの買いんさったん?」
千鶴が訊ねると、兵頭は口をへの字に曲げながら首を振った。
「借ったんよ。家はめげるし、牛買う銭もないけんな。しばらくは借った牛で仕事するしかないわいな。ほんでも、暖こなって種蒔きやら始まったら貸してもらえんけん、ほれまでには何とかせにゃなるまい」
兵頭は煙管をすぱすぱ吸うと、煙草盆に灰を落とした。
本当ならば、新しい牛が買えるまで、進之丞にただ働きをしてもらいたいはずだ。だが進之丞は藪入りのあと、松山へ来ることが決まっている。それに対する愚痴も含んでの言葉なのだろう。
千鶴が弥七にもお茶を配ると、弥七は手を止めて千鶴を見た。いつもなら顔も上げずにいるのだが、この日は珍しく顔を上げ、だんだん――と言った。
千鶴は少し面食らったが、何だか嬉しくなったので、弥助に微笑んだ。すると、弥助は慌てたように下を向き、確認作業を続けた。
そこへ新吉が木箱を取りに来た。
「新吉さんにも、ほれが終わったらお茶を淹れたげようわいね」
千鶴が声をかけると、新吉は嬉しそうに、うんと言い、また木箱を抱えて行った。
「あんたは優しいのぉ」
見ていた兵頭がお茶をすすりながら言った。兵頭に褒められても嬉しくないが、千鶴は愛想の笑みを見せた。
「めげた家はどがぁなったんぞ?」
甚右衛門が兵頭に訊ねた。
「何とか直してもろた」
兵頭は不機嫌そうに言った。
「ほれにしたかて、なしておらん所ぎり、あげな目に遭わにゃいけんかったんじゃろな」
「一生懸命に働いておいでるのにねぇ」
千鶴が笑顔で皮肉を言うと、全くよ――と兵頭は言った。
「あれから他に変わったことはないんかな?」
甚右衛門が訊ねたが、兵頭というより鬼の様子を確かめたいように、千鶴には聞こえた。
「いんや、何もないわい。どうせなら、他の家の二、三軒もめげてくれたらよかったのによ」
何てことを言うのだろうと千鶴は心の中で憤ったが、兵頭は少しも悪びれた様子がない。
「ほしたら、ぼちぼち去んで来うわい」
兵頭は湯飲みに残っていたお茶を一気に飲み干すと、よっこらしょと疲れたように立ち上がった。
ずっと進之丞一人に絣を運ばせていたので、足が鈍ったに違いない。やれやれと言いながら表に出た兵頭は、空の牛車を牛に引かせて帰って行った。
千鶴が奥へ戻ろうとすると、甚右衛門が煙管を吹かせながら千鶴を呼び止めた。
「さっき、孝平は何を騒ぎよったんぞ? 新吉ぎり荷物を運びよったみたいやが」
「ほれが――」
千鶴が説明をしようとすると、菓子折を手にぶら下げた男が、いきなり外から飛び込んで来た。
三
「お邪魔しまっせ! ここ、山﨑機織さんでんな?」
喋り方、落ち着きのなさから見て、松山の人間ではない。言葉の訛りは大阪のものだろうか。
甚右衛門が訝しがっているのも構わず、男は馴れ馴れしく声をかけた。
「あんたはんが、ここの御主人?」
お前は誰かと甚右衛門が怪訝そうにすると、男は慌てて、これは失礼しました――と姿勢を正した。
「えっと、わてはですね。わては、こういう……あれ?」
男は菓子折を何度も持ち替えながら、外套の下に着ているよれよれの洋服のポケットを、あちこちひっくり返し始めた。
しばらくして、ようやく折れ曲がった名刺を見つけると、男はそれを丁寧に真っ直ぐ伸ばした。それから、わてはこういう者ですわ――と言って甚右衛門に手渡した。
男の赤黒く痩せこけた笑顔は、抜け目がなさそうに見える。
「大阪錦絵新報 記者畑山孝次郎? 何ぞな、これは?」
名刺に目を通した甚右衛門は、畑山を見た。
だが、畑山の目は甚右衛門ではなく、奥の入り口に立っていた千鶴に向けられていた。
「もしかして、あんたはん、千鶴さんやろ? うわぁ、ほんまに噂どおりの外人さんやな!」
千鶴が何も言わないのに、畑山は勝手に一人で盛り上がった。
「失礼なことを言うな、千鶴は日本人ぞ!」
甚右衛門は握り潰した名刺を、畑山の顔にぶつけた。
畑山は顔を押さえると、ひどいことやらはるなぁ――と言いながら、落ちた名刺を拾い上げた。それから、もう一度名刺の皺を何とか真っ直ぐに伸ばすと、大事そうにポケットに仕舞った。
甚右衛門は千鶴に奥へ行くよう命じたが、畑山は慌てて千鶴を呼び止めた。
「ちょっと待ってぇな。わては千鶴さんの話が聞きとうて、ここへお邪魔したんですよって」
蔵から戻った新吉が物珍しそうに畑山を見た。にっこり笑った畑山の口から茶色い歯がこぼれた。
「なして千鶴なんぞ? お前はいったい何者ぞ?」
眉間に皺を寄せている甚右衛門に、畑山は不服そうに言った。
「さっき、名刺をお見せしたでしょ?」
「あげな物でわかるかい」
「わてはな、大阪錦絵新報の記事を書いとるんですわ」
「ほれは何ぞ?」
畑山はやれやれと言った感じで、今度は懐から名刺よりも大きな紙を取り出した。
「これですわ」
畑山は四つ折りにされた紙を、甚右衛門に手渡そうとした。しかし甚右衛門が手を伸ばすと、さっと紙を持った手を引っ込めた。
「言うときまっけど、さっきみたいにぐしゃぐしゃにしたり、破いたりしたらあきまへんで。これは大事な商売道具ですよって」
甚右衛門は返事もせずに畑山をにらんだままだったが、畑山は紙を手渡した。
甚右衛門が紙を広げると、そこにはきれいな色彩の錦絵が描かれていた。だが、それは人が刃物で殺められる様子を描いたものだった。きれいな赤い色は、殺められた者から流れ出る血の色だ。
絵の上方に事件の内容を説明した文章が、細々と書かれてある。
畑山はこれが錦絵新聞だと言った。
「何ぞ、この絵は。大阪の人間はこげな趣味の悪い物を好むんか」
「旦さん、錦絵新聞ご存知おまへんか。明治の最初頃にあちこちで流行ったんでっけど……。あ、そうか、こんな田舎には錦絵新聞はなかったんか。なるほど。そういうことでっか」
甚右衛門が何も答えていないのに、畑山はまた一人で納得しながら喋り続けた。
「お前はこれを破いて欲しいと見えるな」
甚右衛門が錦絵新聞を破る真似をすると、畑山は慌てて新聞を奪い取った。
「いかんて言うとるでしょ? ほんまに冗談やおまへんで」
「お前はわざわざ大阪から、わしらを馬鹿にしに来たんか?」
「せやから違いますってば。最前から言うとるでしょ? わては千鶴さんにお話を聞かせてもらいたいんですわ」
「何の話ぞ?」
畑山はにやりと笑って言った。
「風寄でんがな」
四
甚右衛門はぎくりとした顔になった。それは千鶴も同じである。その様子に畑山が気づかないはずがないが、畑山は素知らぬ顔で喋り続けた。
「わてな、世の中に変わったことないか、いつも耳澄ませて、目ぇ光らせとるんです。そしたら去年の秋や。風寄のお祭りの時に、でっかいイノシシが頭潰されて死んどったいう話が、飛び込んで来たんですわ。それもぺちゃんこでっせ。あの硬いイノシシの頭がぺちゃんこになるやなんて、尋常なことやないでっしゃろ?」
やはり、その話かと千鶴は下を向いた。弥助がいる所でそんな話はして欲しくない。
「しかも、その話は大阪の者は誰も知らんのやから、これは記事にするしかおまへんやん。せやから千鶴さんにお話聞かせてもらいたいて言うとりまんねん」
「なして千鶴なんぞ?」
「誰から話聞いたかは明かせまへんけど、千鶴さん、風寄のお祭り見に行って、そこでけったいな経験したんでっしゃろ? その話を聞かせてもらいたいんですわ」
「なして、お前にそがぁな話をする義理があるんぞ?」
甚右衛門が怒りをこらえているのが、千鶴にはわかった。ところが、畑山にはわからないらしい。
「別に義理はおまへんのでっけど、まぁ、聞いてくれまへんか。わてな、元は貸本屋やっとったんです。貸本屋はわかります? 本を売るんやのうて貸す店ですわ」
「わかっとらい、そげなこと」
甚右衛門が声を荒げても、畑山は少しも堪えない。
いつの間にか、新吉が千鶴の傍で話を聞いている。甚右衛門は新吉に早く残っている木箱を運ぶよう命じた。
新吉が木箱を抱えていなくなると、畑山は話を続けた。
「それやったら話戻しまっけど、わて、大阪で貸本屋しよったんです。商売としてはまぁまぁ、いや、そこそこかな? いや、やっぱりまぁまぁぐらいか」
「どっちゃでも対じゃろが」
「ついとは何です?」
「同しいうことぞなもし」
千鶴が説明すると、なるほどと畑山はうなずいた。
「田舎の言葉いうんは面白いでんな。さよか、同じ言うんを、ついて言うんでっか。つい、忘れてしまいそうな……」
畑山はにやっとしながら甚右衛門と千鶴を見た。しかし、二人とも駄洒落に反応してくれないので、しょんぼりしながら、すんまへんと言った。
「それでその貸本屋でっけど、去年の秋頃にちょっとヘマをやらかしてしもて、それで店が傾いてしもたんですわ。まぁ言うたら、ついこないだの話です。つい言うても、同じいう意味やおまへんで。そこでいろいろ考えて、昔からの知り合いと、この新聞を始めましたんや。全部仲間内の手作りでっけど、やってみたら、これがまぁ結構人気出ましてね」
甚右衛門は黙っている。畑山は構わず喋り続けた。
「元々錦絵新聞いうんは普通の新聞と違て、絵があってわかりやすいし、字も読みやすうてえらい人気があったんです。せやけど新聞の方も絵ぇ載せたり、漢字にふりがなつけたりするようなったんで廃れてしもたんですわ」
甚右衛門は自分は忙しいと言って、話をやめさせようとした。畑山は甚右衛門をなだめ、もう少しだけと言って話を続けた。
「とにかくでんな、いったんは廃れた錦絵新聞を、わてらは復活させよ思て始めたんでっけど、やっぱり大事なんは載せる記事や。新聞記事の真似事しよったら、すぐに廃れるんは目に見えとりますよって、記事は自分で探さなあきまへん。それで、わてがあちこち走り回って、記事になるような話を拾て来るんですわ」
「ほれで、こげな遠くまで来たんかな」
「何ぞええ記事はないかいなて思てたら、さっきのイノシシの話を思い出したんです。あの話聞いた時はまだ貸本屋しよったから、錦絵新聞は始めてなかったんですけど、これは絶対記事にせないかんなとなってね。ほんでここへ来たいうわけですわ。せやけど銭はないから、道後温泉に入る余裕もおまへん。汚いぼろ宿で辛抱しながら、情報を集めて廻っとるんです」
「ご苦労なことやが、お前に聞かせる話はないぞな」
甚右衛門は千鶴に奥へ入るよう命じ、畑山にはさっさと帰るように言った。
「ちょ、ちょっと待ってぇな。千鶴さん、ちょっとでええから、話聞かせてくれまへんか。わて、風寄で何があったんか知りたいんです。ほらこれ、そこで買うた饅頭。千鶴さんのために買うて来たんでっせ」
畑山が笑みを浮かべながら菓子折を掲げると、甚右衛門は顔をしかめた。
「そげな物で喋らそうとは、えらい見下されようじゃな」
「何言うとりまんねん。わては見下したりしとりません。ただ、銭がないんです」
「銭寄越されても喋るかい」
再び甚右衛門に促されて、千鶴が奥へ戻ろうとすると、ちょうど蔵から戻って来た新吉と対面する形になった。
「千鶴さん、この人誰なん?」
新吉が小声で訊ねると、大阪の新聞記者だと千鶴は言った。その声が聞こえたようで、畑山は新吉を見て胸を張った。
それから畑山は千鶴に待つよう頼むと、機嫌を伺うように甚右衛門に話しかけた。
「ほな、千鶴さんの前に、旦さんにお話伺うことにしますわ。こないだも風寄で大事件があったんでっしゃろ?」
「大事件て何ぞ?」
「また惚けてから。ここの仲買人しよる人の家が、化け物に壊された事件ですやん。ご存知ないんでっか?」
「あれは突風で屋根が飛ばされたぎりぞな」
「ぎりて?」
「だけって言う意味ぞなもし」
千鶴が説明すると、やっぱり面白いなぁと畑山はうなずいた。
「ぎり言うたら、わては時間も銭もぎりぎりなんです。せやから千鶴さんも協力したってや」
「千鶴がお前に喋ることなんぞ何もない」
甚右衛門に言われて、畑山はまた甚右衛門の方を向いた。
「今の化け物が鬼やいう話もあるみたいでっけど、旦さん、風寄の村長はんに鬼除けの祠を造る銭を寄付したそうでんな。あれはやっぱり鬼を恐れてのことでっか?」
そんな話は千鶴は初耳だった。名波村の村長と言えば、春子の父親である。千鶴の知らないところで、祖父は春子の実家へ連絡を取ったということなのか。
甚右衛門はうろたえたように、つかましいと怒鳴った。
「つかましい?」
「うるさいってことぞなもし」
説明する千鶴に、早く向こうへ戻れと甚右衛門は声を荒げ、新吉にもさっさと仕事を済ませろと言った。
千鶴が再び中へ入ろうとすると、畑山は千鶴を呼び止めた。
「一つだけ教えてもらえまへんか? えっと、一つだけ言うたら、一つぎりかいな」
ほうですぞなもしと千鶴が言うと、畑山は嬉しそうに笑った。
「ほんなら一つぎり聞きまっけど、千鶴さん、お祓いの婆さんに鬼が憑いとるて言われたんは、ほんまでっか?」
甚右衛門が真っ赤な憤怒の形相になって立ち上がった。畑山は慌てて甚右衛門に菓子折を差し出したが、甚右衛門はその菓子折を叩き落として土間へ飛び降りた。
殴られると思ったのだろう。畑山は両手を上げて身構えたが、甚右衛門は畑山に背を向けて店の奥へ入って行った。
驚いたように目を見開いた弥七は、固まったように畑山と千鶴を見ている。
聞かせたくない話を弥七たちに聞かれた千鶴も、困惑を隠せなかった。しかし、畑山に対して腹を立てると鬼が暴れると思い、千鶴は気持ちを落ち着けようとした。
その畑山はほっとしたように笑みを浮かべると、もったいないなぁと言いながら、潰れた菓子折を拾い上げた。
そっと菓子折の蓋を開けた畑山は、中から形が崩れた饅頭を一つ取り出して口に入れた。
「うん、大丈夫や。まだいけるで。ほら、千鶴さんも食べてみ」
畑山は饅頭をもう一つ菓子折から取り出して、千鶴に渡そうとした。それを新吉が口を開けながら羨ましそうに見ていると、店の奥から、そげなことしたら、いけん!――と尋常ならぬトミの叫び声が聞こえた。
千鶴が奥へ顔を向けると、猟銃を手にした甚右衛門が、部屋から土間へ飛び降りたのが見えた。
その後ろで、トミが慌てて甚右衛門を止めようとしたが、甚右衛門は裸足のままこちらへ向かって来た。
驚いた千鶴は、現れた甚右衛門の前に両手を広げて立ちはだかった。同じく驚いた新吉は、一目散に店の表へ逃げ出した。
「いけんよ、おじいちゃん。そげな物持って来たらいけん!」
畑山は目を剥くと、千鶴の背中に隠れた。余程の煙草好きのようで、後ろから煙草の臭いが千鶴の鼻を突いた。
甚右衛門は千鶴を押し退けようとするが、ここで押し退けられたら、山﨑機織はおしまいである。
千鶴は横目で弥七を見たが、弥七は固まったまま動かない。
だが、トミが出て来て千鶴に加勢した。その後ろに花江がおろおろした様子で立っている。
前後から押さえられて身動きが取れない甚右衛門を、千鶴は必死に説得した。その一方で、畑山には早く逃げるよう促した。
しかし畑山は逃げず、千鶴の肩越しに甚右衛門を刺激した。
「ちょっと鬼の話を聞きに来ただけやなのに、旦さん、何でそこまで怒らはるんでっか?」
やかんしい!――甚右衛門がまた興奮して暴れるが、千鶴とトミに押さえられて動けない。
トミは藻掻く甚右衛門を捕まえながら、何の話かと訊ねた。
「こいつは新聞記者で、千鶴が鬼と関係あるみたいな記事を書くつもりなんぞ!」
「新聞やのうて、錦絵新聞ですわ」
黙っていればいいのに、畑山が甚右衛門の言葉を訂正した。
「ほうですか。ほんなら、あんたの好きにしたらええぞな」
トミが甚右衛門を捕まえていた手を離した。
花江は口を開けたまま目を大きく見開いたが、甚右衛門も驚いたようにトミを見た。そしてすぐに、ここぞとばかりに千鶴を押し退けようとした。
慌てた様子の畑山は、千鶴の動きに合わせて千鶴の背中に身を隠そうとした。
「ちょ、ちょっと、おばあちゃん! 見よらんで助けて!」
千鶴の声が聞こえているのに、トミは惚けた様子で立っている。
花江さんと叫ぶと、花江は慌てたように甚右衛門を押さえようとした。しかし相手はここの主だし、歳は取っても男である。遠慮がちな花江では役に立たなかった。
焦った千鶴は弥七に助けを求めた。
弥七は呪縛が解けたように動くと、千鶴の傍へ来た。しかし、どうすればいいのかがわからないらしい。おろおろした様子で立つばかりだ。
甚右衛門が畑山を殴りつけるよう弥七に命じると、トミは噛みついてやれと弥七に言った。
しかし、千鶴は畑山を外へ逃がすよう弥七に頼んだ。
弥七は誰の指示を聞くべきか迷っているようだ。甚右衛門に怒鳴られると、弥七は畑山の腕をつかんだ。
「お願い、弥七さん。その人を逃がしてあげて!」
千鶴が懇願するように頼むと、弥七はわかったとうなずいた。
「こがぁな感じじゃけん、今日のところは、お引き取りを」
弥七はぼそぼそと畑山に声をかけると、畑山を外へ連れ出そうとした。
「その方がよろしいみたいでんな」
畑山も素直に従い、弥七と一緒に外へ出て行った。だが畑山はすぐに戻って来て、千鶴に声をかけた。
「千鶴さん、また来ますよって」
二度と来るな!――と叫ぶ甚右衛門を押さえながら、千鶴は弥七を呼んだ。後ろで弥七が畑山を追い払う声が聞こえ、甚右衛門はようやくおとなしくなった。
新吉が店の中に戻って来ると、トミは表に塩を撒いておくようにと命じて、奥へ戻って行った。
甚右衛門も興奮したまま奥へ引っ込むと、花江はそのあとに続いた。
千鶴は弥七の手を取って感謝した。
「弥七さん、だんだんありがとう。弥七さんがおらなんだら、この店はおしまいじゃった。助かったんは弥七さんのお陰ぞな」
弥七は千鶴に手を握られたまま目を伏せて、ええんよ――と言った。うろたえているようだが、千鶴を拒む様子はない。同じ姿勢のままじっとしている。
千鶴はそんな弥七を見たのは初めてだった。それで少しまごついてしまい、手を離したあとも、千鶴はその場を動けなかった。
弥七の方も動かないので、二人は向かい合ったまま立っていた。
弥七がちらりと千鶴を見て、恥ずかしそうに笑ったので、千鶴も思わず微笑んだ。全くこんな弥七は初めてで、これまでの弥七は何だったのだろうと思われるほどだ。
「ほんじゃあ、うち、お昼の準備があるけん」
千鶴がそう言うと、あぁと弥七は小さくうなずいた。だが、何だか残念そうに見えた。
塩を撒きに来た新吉と入れ違いに、千鶴が奥へ入ると、トミは茶の間で何もせずに黙ったまま座っていた。
甚右衛門も帳場には戻らず、こちらに背を向けたまま、トミの横で胡座をかいている。肩が上下している様子は、まだ息が荒いようだ。
花江は二人にお茶を淹れようとしていたが、何があったのかを誰にも訊けず、当惑しているようだった。
何とか畑山を逃がしたものの、畑山が何をしに来たのかを考えると、千鶴も暗い気持ちになった。
ふと勝手口へ目を遣ると、孝平が顔を出して中をのぞいていた。
トミに対して啖呵を切って、家を出るふりをしたものの、行く当てなどないのだろう。しかし、中へ入ることもできず、誰かが声をかけてくれるのを待っているようだ。
恐らく孝平にも、店で騒ぎがあったことは伝わったはずだ。それが何かはわからなくても、いずれ知れることだろう。それを考えると、千鶴はますます暗い気分になった。
待ちわびた日
一
藪入りが終わると、千鶴は店に誰かが来るたびに、進之丞かと思って飛び出した。勢いよく出て来る千鶴を見ると、来客たちは一様に驚いた。
同業組合の組合長が顔を出した時には、千鶴は大根と包丁を持っていた。組合長が驚くと、甚右衛門は眉間に皺を寄せ、呼ぶまで出て来るなと千鶴を叱った。
この日、弥七と亀吉は太物屋へ品納めに出ており、甚右衛門の向こうでは茂七が座って、県外へ送る注文書を確かめている。
茂七の目は注文書を見ているが、千鶴の様子に笑いを噛み殺しているようだ。肩が小さく震えている。
孝平はトミの遣いで、山﨑家の菩提寺である雲祥寺へ出かけていた。また、新吉も甚右衛門の煙草を買いに出ている。
包丁を持って何をしに出て来たのかと組合長に訊ねられ、千鶴は返事ができずに下を向いた。すると、惚れた男が来るのよ――と甚右衛門が言った。
千鶴は恥ずかしくなって、店の奥へ逃げ戻ったが、後ろから組合長の大きな笑い声が追いかけて来た。
「また人違いかい?」
すごすごと戻って来た千鶴に、七輪に火を熾していた花江が笑いながら言った。
「呼ぶまで出て来んなて、おじいちゃんに叱られてしもたし、組合長さんに笑われた」
千鶴が口を尖らせると、当たり前ぞなと、茶の間で繕い物をしているトミが言った。
「ちぃと、ここへ座りんさい」
トミは千鶴を呼んだ。お説教である。
千鶴は台所の板の間に大根と包丁を置くと、茶の間に上がってトミの傍へ座った。
「あのな、お前の気持ちはわかるけんど、もうちぃと落ち着かんかな。めんどしい」
トミに叱られ、すんませんと千鶴は小さくなった。後ろは見えないが、絶対に花江が笑っている。
「うちらはお前を跡継ぎにとは思とるけんど、あの子をお前の婿にするとは決めとらんけんな」
「え? ほやけど、おじいちゃんが――」
焦って顔を上げた千鶴に、トミは言った。
「あの人は勢いで喋ることがあるけんな。ほれはお前かてわかっとろ? あの子を雇うとか雇わんとか、全部勢いで喋っとるけん、話半分で聞かんといけん」
確かに、祖父にはそのようなところがある。それでも、祖父は千鶴の気持ちをわかった上で、進之丞を雇うと決めたのである。
それに祖母だって、忠之がいなければ千鶴は死んでしまうと、祖父に言ってくれたはずだ。それなのに、今更婿にしないとはどういうことだと、千鶴は不満げに黙っていた。
トミは構わず喋り続けた。
「あの子のことは、うちかてええ子やとは思とる。ほれに、お前の恩人でもあるわいな。ほやけど、男には甲斐性が必要ぞな。甲斐性のない男に、お前をやるわけにいくまい」
「あの人は大丈夫やし」
むくれる千鶴に、さらにトミは言った。
「やってみんことには、わからんぞな。人には向き不向きいうもんがあるけんな。とにかく、先走ったことは――」
トミの言葉が終わらないうちに、千鶴さん――と叫びながら、新吉が駆け込んで来た。買い物から戻ったようだ。
「千鶴さん、兄やんがおいでたぞな」
千鶴は立ち上がると、ちらりとトミを見た。
トミは苦笑すると、行ておいで――と言った。
千鶴は土間へ飛び降りると、新吉のあとに続いて店に出た。すると、帳場の脇に進之丞が立っていた。背中には風呂敷を背負い、両手にも風呂敷包みを持っている。
着ている半纏の下は、いつもの継ぎはぎだらけの着物だ。だが、あんまり継ぎ当てをしているせいか、あるいは半纏を着ているせいなのか、何だか懐がごわごわと膨れた感じだ。
千鶴は進之丞に飛びつきたかったが、必死に我慢した。甚右衛門の前だし、組合長もいる。ここは気持ちを抑えるしかない。
「千鶴さん、今日からお世話になりますぞなもし」
進之丞は頭を下げて、千鶴に挨拶をした。それで、進之丞が今は忠之であることを千鶴は思い出した。慌ててお辞儀を返して、こちらこそと言った。
「お前さんが噂の色男か」
組合長がにやにやしながら進之丞に言った。
「もう恥ずかしいけん、やめておくんなもし」
顔の熱さを感じながら千鶴が言うと、わははと組合長は笑った。
「噂の色男?」
きょとんとする進之丞に甚右衛門は苦笑しながら、組合長を紹介した。それから、この日の千鶴の様子を説明した。
驚いたように目を向ける進之丞に、千鶴は目を合わせられず、下を向いて、さらに横を向いた。
「ほな、わしはお邪魔なけん去んで来うわい」
笑いながら出て行く組合長を見送った進之丞は、右手の風呂敷包みを甚右衛門に手渡した。
「これはおらん所のじいさまが、旦那さんとおかみさんにこさえた物ぞなもし」
甚右衛門が広げてみると、男物と女物の下駄が出て来た。どちらも桐でできた立派な下駄だ。
「鼻緒はばあさまがこさえました。あとでおらがお二人の足に合わせますけん」
進之丞が説明すると、甚右衛門は急いでトミを呼んだ。
「はいはい、何ぞなもし?」
少しもったいをつけて現れたトミは、甚右衛門に下駄を見せられると、あらまぁと言った。
「これは佐伯くんが持っておいでてくれた物ぞな。佐伯くん所のじいさまが、わしらにこさえてくんさったんよ」
「え? ほんまかな?」
甚右衛門に手渡された下駄を、トミは嬉しそうに眺め、進之丞に礼を言った。
そこへ後ろから、花江が様子を見に顔を出した。トミは自分の下駄と甚右衛門の下駄を、花江に自慢げに見せた。
花江が感動したようにしげしげと下駄を眺めていると、進之丞は左手の包みを花江に手渡した。
「何だい、これは?」
「こっちはばあさまがこさえた草履ぞなもし。二つあるけん、花江さんと千鶴さんのお母さんで使てやってつかぁさい」
「え? あたしにまでくれるのかい?」
花江は嬉嬉として風呂敷を広げると、取り出した草履を胸に抱いて小躍りした。
進之丞が幸子を探している様子だったので、幸子さんは外に出ているけれど、あとで戻った時に渡しておくよと、花江は言った。
ほうですかと安心する進之丞の脇で、新吉が羨ましそうに、ええなぁとつぶやいた。すると、進之丞は背中の風呂敷包みを外して、新吉に持たせてやった。
「これはな、おらがこさえた草鞋ぞな。ようけこさえて来たけん、みんなで使てやっておくんなもし」
風呂敷から出て来た草鞋には、大きいのやら小さいのやらがあって賑やかだった。
新吉は大喜びして、風呂敷包みを茂七にも見せた。
「これはまた丁寧にこさえとるなぁ」
茂七が大きいのを手にして言うと、新吉も小さいのを手に取り、丁寧にこさえとらい――と言って、みんなを笑わせた。
これで進之丞が持っていた風呂敷は、全て広げられたわけだが、千鶴にだけ土産物がなかった。
為蔵が千鶴の履物を作ることを嫌ったのかもしれないと、ふと思った千鶴は悲しくなった。
それでも、そんなことを口にできるわけもなく、千鶴は何でもないふりをして微笑んでいた。
すると、花江が進之丞に言った。
「ねぇ、千鶴ちゃんには何もないのかい?」
「ええんよ、花江さん。うちは何もいらんけん。うちは佐伯さんがおいでてくれたら、他には何もいらんぞな」
笑顔を繕いはしたものの、やはり寂しさは隠せない。思わず目を伏せた千鶴に、進之丞は膨れた懐に手を入れながら言った。
「最後になってしもたけんど、これが千鶴さんの分ぞなもし」
進之丞が取り出したのは、油紙の包みだった。
「こがぁな所に入れとったけん、ちぃと汗臭なっとるけんど、包みの中は大丈夫ぞな」
みんなが見守る中、千鶴は丁寧に油紙を広げた。中から出て来たのは桐の下駄だった。鼻緒の柄はトミの物よりも明るくて、若い娘にぴったりだ。
「こないだのお詫びに言うて、じいさまがこさえよとしたんをな、無理やりこ、おらにこさえさせてもろたんよ。鼻緒はばあさまが選んでくれたんぞな。気に入ってもらえたらええけんど」
「気に入らんわけないやんか!」
千鶴は下駄を持ったまま進之丞に抱きついた。
進之丞は慌てて千鶴をなだめ、うろたえたように甚右衛門とトミに頭を下げた。
甚右衛門はトミと顔を見交わして笑っていた。
新吉は目を丸くして二人に見入り、花江が口を押さえながら、あらまと言うと、茂七は声を出して笑った。
千鶴が我に返って進之丞から離れると、甚右衛門は進之丞に言った。
「ここではみんな名前で呼んどるけん、佐伯くんのことも、初めは忠吉言うて呼ばせてもらうが、ほんで構んかな?」
はいと進之丞が答えると、うむと甚右衛門はうなずいた。
「もうちぃとしたら、外へ出とる連中も戻んて来るけん、みんなで昼飯にしよわい」
その前に――と下駄を抱いたトミが、笑みを消した顔で言った。
「ちぃと確かめさせてもらいたいことがあるんやけんど、構んかなもし?」
千鶴はどきりとしたが、進之丞は平然とうなずいた。
二
奥の部屋へ進之丞を呼び入れたトミは、甚右衛門立ち会いの下、進之丞に新聞の記事や書物を読み上げさせた。
進之丞は少しも詰まる事なく、すらすらと読んだ。甚右衛門はうなずいたが、今度は字を書いてもらうとトミは言った。
硯と墨を受け取った進之丞は、丁寧に墨を擦った。その姿勢のよさには、甚右衛門もトミも感服した様子だった。
墨を擦り終わると、進之丞は二人に代わる代わる言われた文字や言葉をさらさらと書いた。
それはまた達筆で、無学な者が書いたとは思えないような美しさだった。
甚右衛門とトミは驚きを隠せない様子だったが、千鶴はこっそりほくそ笑みながら当然だと思っていた。
進之丞は武芸だけでなく、教養も秀でていた。読書もたしなんでいたし、字を書かせれば達筆だった。
だが、次は算盤だとトミが言うと、千鶴は少し心配になった。
前世で進之丞が算盤が得意だったとは記憶していない。しかし、千鶴の心配は杞憂に終わった。
トミが次々に読み上げる数字を、進之丞は算盤を使わず、暗算で正解を出した。
信じられない顔をしている甚右衛門とトミに、自分は学校を出ていないので、知念和尚夫婦に徹底的に仕込まれたと、進之丞は説明をした。
甚右衛門とトミは満足げにうなずき合った。まずは文句なしの合格というところだろう。
しかし、トミはすぐに厳しい顔になり、進之丞に言った。
「商いする者が読み書き算盤はできて当たり前。商人にとってほんまに大切なんは、知恵と心構えと物事を決める覚悟ぞな」
甚右衛門も続けて言った
「商いしよったら、時には理不尽なことを言われ、足下を見られもする。どがぁにがんばっても、うもう行かんこともあるが、ほれに耐えにゃならん。ほれは履物作りでも対じゃろ? ほじゃけん、忠吉には十分そがぁな力があると、わしは見とる。ここでも是非がんばってもらいたい」
進之丞は両手を突くと、どんなことでもやらせていただきますと言った。千鶴にはそれが、自分と一緒になるための覚悟であるように思え、胸が熱くなった。
昼飯のあと、甚右衛門は忠吉に町を案内するようにと千鶴に言った。
本当ならば、すぐにでも仕事を覚えさせるところだろう。千鶴の気持ちを知っている、甚右衛門の粋な取り計らいである。
以前に春子を案内したように、千鶴は進之丞をまずは大丸百貨店へ連れて行った。
普通の店とは異なる様子に進之丞は驚いていたが、目玉のえれべぇたぁには、千鶴の期待どおり子供のように喜んだ。
そのあと千鶴は陸蒸気の起点である松山停車場へ向かった。
松山停車場は二階建ての大きく立派な建物で、進之丞は感心した様子で眺めていた。
その時、威勢のいい汽笛が聞こえた。進之丞は目を輝かせて千鶴を見た。
千鶴は進之丞を停車場の中が見える所へ誘った。
蒸気を吐き出す陸蒸気を見た進之丞はとても興奮し、いつかこれに乗ってみたいと言った。
次に進之丞を連れて行ったのは、やはり春子と行った善勝寺だ。目的は前と同じ日切饅頭である。
だが春子と違って、進之丞は日切地蔵を知っており、饅頭を食べる前に、日切地蔵に手を合わせると言った。
日切地蔵に祈る時は、願いを叶えてもらう日を決めておく。それで千鶴は、三年後の今日、進之丞と自分が夫婦になっているようにと祈った。
何故三年後なのかと言うと、進之丞が三年働き通せば、きっと祖父母が進之丞を婿として認めてくれると考えたからだ。
「千鶴は何を願たんぞ?」
進之丞に訊かれた千鶴は喋りたくて仕方がなかった。しかし、その気持ちをぐっと抑え、内緒ぞな――と言った。
「進さんこそ、何をお願いしたん?」
「決まっとらい」
「ほじゃけん、何?」
「千鶴の幸せよ」
不動明王にも願ってくれたのに、ここでもまた願ってくれたのかと千鶴は嬉しくなった。
「進さんと出会て、こがぁして一緒におられるんじゃもん。おら、何も言うことないぞな」
「ほうか」
進之丞は嬉しそうに笑ったが、その笑顔が千鶴には何だか寂しげに見えた。
「ほやけどな、ここでは日を切ってお願いするんよ? おらの幸せ願てくれた言うんは、いつのこと?」
にやりと笑った進之丞は、千鶴と同じように答えた。
「ほれは、内緒ぞな」
「いや、気になるやんか。言うてや。いつなん?」
「ほやけん、内緒ぞな」
もう――とむくれながら、進之丞も自分と同じことを願ってくれたに違いないと、千鶴は一人で納得した。
祈り終えると、いよいよ目的の日切饅頭だ。
千鶴に茶店へ連れて行かれた進之丞は、目の前で焼かれる日切饅頭を見て、これは饅頭ではないなと言って笑った。
茶店の腰掛けは混み合っている。千鶴は店から借りたお盆に、お茶と日切饅頭を載せ、人が少ない境内の隅の方へ移動した。
熱いからねと注意をしたのに、進之丞は渡された饅頭にかぶりついた。そして、あの時の春子のように目を白黒させながら、口をはふはふさせた。
それでも進之丞は慌てて水を飲んだりはせず、口の中でゆっくり餡を冷ました。そうしながら手に残った饅頭の中に、餡がぎっしり詰まっているのを確かめると、これで三個五銭は安いと言った。
千鶴が為蔵たちへの土産に持っていた日切饅頭も、進之丞は食べている。焼き立ても美味いし冷めても美味いと、進之丞が絶賛するので、千鶴は嬉しさで胸が一杯になった。
思わず口にした饅頭の餡が熱くて慌てると、進之丞が笑った。
三
「あらぁ?」
甲高い女の声が聞こえた。千鶴が振り返ると、見慣れない女が感激した様子でこちらを見ている。
釣り鐘のような帽子に、耳を隠した短い髪。上の服と下のスカートが繋がった水玉模様の衣装に、前開きの上着を羽織っている。この辺りでは見かけない格好だ。
濃いめの化粧でわかりにくいが、歳は三十半ばぐらいだろうか。少し寒そうに見えるが、本人は平気らしい。
「ひょっとして、ひょっとして」
女はそう言いながら、小走りに千鶴の傍へやって来た。
「あなた、山崎幸子さんの娘さんやないん? 違う?」
「母をご存知なんですか?」
千鶴が驚くと、よーく知っとるぞなもし――と女は嬉しそうに言った。
「うちは坂本三津子言うてね、あなたのお母さんがおった病院で看護婦しよったんよ。お母さんには随分お世話になってねぇ」
ほうなんですか――と言ってから、千鶴は慌てて挨拶をした。
「山崎千鶴と申します」
「ちづちゃん? どがぁな字書くん?」
「数字の千に鶴ぞなもし」
「千に鶴で千鶴ちゃんか。ええお名前じゃねぇ。うちが思たとおりの名前ぞな。ほれにしても、あなた、雪みたいに真っ白じゃねぇ。ほれに、よう似ておいでるぞなもし。まっこと真っ対やわぁ」
三津子の言葉に、千鶴の胸は弾んだ。
「父のこともご存知なんですか?」
「ほら、知っとるわいね。あなたのお父さん、うちら看護婦仲間の間でも、評判のええ男やったけんね」
三津子はにっこり笑うと、千鶴が持つ盆の上に一つだけ残っていた、日切饅頭をひょいと手に取った。それは千鶴が進之丞に食べさせるつもりだった物だ。
あっと千鶴が声を出す間もなく、三津子は美味そうに饅頭にかぶりつき、熱い熱いと騒ぎ立てた。
三津子は進之丞の湯飲みを取ると、急いでお茶を口に流し込み、またもや、あちちと慌てふためいた。
「水、水!」
千鶴が手水舎を指さすと、三津子はばたばたと走って行き、柄杓の水をがぶがぶ飲んだ。せっかくお洒落な格好をしているのに台無しである。
ようやく落ち着いた様子の三津子は、手に残った饅頭を少しずつ囓りながら戻って来た。
「みっともない所を、お見せしてしもたわいね」
いいえと言いながら、早くどこかへ行ってくれないかと千鶴は考えていた。
恐らく硬い表情になっていただろう。何せ、この女は進之丞が食べるはずの日切饅頭を、勝手に食べてしまったのだ。
しかし、三津子は少しも悪びれた様子がない。口をもぐもぐさせながら千鶴に訊ねた。
「お母さんは元気にしておいでるん?」
「お陰さまで」
千鶴は三津子の顔も見ずに、ぽそりと言葉を返した。
この雰囲気で相手が不愉快になっていると気づいてもよさそうなのに、三津子は話をやめない。
「ところで、こちらさんはどなた?」
進之丞に顔を向けながら三津子が言った。千鶴は渋々、今日から山﨑機織で働くことになった人だと説明した。
進之丞がぺこりと頭を下げると、三津子はまた千鶴に訊ねた。
「松山のお人?」
「いえ、風寄から出ておいでたんです」
「風寄……」
三津子は興味深げに進之丞に目を向けた。
「あなた、風寄はどちらからおいでたの?」
「ご存知か知らんけんど、名波村ぞなもし」
春子には名波村ではないと言った進之丞だが、こう答えるところをみると、やはり山陰は名波村の一部のようだ。
「名波村、知っとるぞなもし。確か法正寺とかいうお寺があった所やった思うけんど、違たかしら?」
「いんや、合うとります。名波村には、おいでたことがおありなんかなもし?」
「ずっと昔に、ちょろっとおったことはあるんよ。ほやけど、そがぁに長にはおらんかったけん、ほとんど忘れてしもたわいね」
せっかく進之丞と二人きりだったのに、無神経な三津子に割り込まれた千鶴は、いらいらが募った。
「ほれにしても、あなた、えぇ男じゃねぇ。女子にもてるんやないん?」
「いや、そがぁなことは……」
困惑する進之丞を見て、千鶴は三津子に声をかけた。
「あの、三津子さんは今も看護婦をしておいでるんですか?」
千鶴がいたのを思い出したように、三津子は千鶴を振り返った。
「今はね、しとらんの。病院の仕事が嫌になってしもたんよ。お母さんが千鶴ちゃん身籠もって病院辞めたあと、うちもすぐに病院辞めて東京へ出たんよ。お母さんのこと気にはしよったんじゃけんど、何も連絡でけんで申し訳ないて、ずっと思いよった」
自分から訊ねた話だが、千鶴は返事をしなかった。三津子の気を進之丞から逸らさせるために話しかけただけであり、三津子の身の上話になど興味はない。それでも三津子は話を続けた。
「東京は賑やかじゃったけんど、苦労も多かった。その締めくくりが、あの大地震ぞな。うちは、もうちぃとで命を落とすとこやったんよ。ほんで、やっぱし生まれ育った土地がええ思て戻んて来たんやけんど、まさかここで幸ちゃんの娘さんに会えるとはねぇ。今度はお母さんに会いたいわぁ」
「母に伝えときますけん」
いらだちを抑えながら、千鶴は素っ気なく言った。
「お願いね。えっと、確か、あなたの家は紙屋町の――」
「山崎機織いう伊予絣問屋ぞなもし」
「ほうよほうよ。絣問屋じゃった。いや、懐かしいわいねぇ」
三津子は指についた餡をしゃぶりながら言った。
三津子が全然離れる様子がないので、千鶴は自分たちの方がこの場を離れることにした。
千鶴も進之丞もまだ食べかけの饅頭が手に残っていたが、歩きながら食べるしかない。
「ほんじゃあ、うちら、そろそろ去ぬりますけん」
千鶴が頭を下げると、もう行くのかと三津子は残念がった。
「もう店に戻って、仕事をせんといかんですけん」
「ほうなん。ほれは忙しいとこをお邪魔してしもて悪かったわいねぇ。ほんでも、うちには二人が逢い引きしよるように見えたけん、声かけてしもたんよ。堪忍してね」
逢い引きと言われて、千鶴は顔が熱くなった。顔を見られたくないので、返事もそこそこに茶店に盆と湯飲みを返しに行った。
あとは後ろを振り返りもせず、さっさと境内の外へ出た。
千鶴に遅れて出てきた進之丞は、そんなに怒るなと千鶴をなだめた。だが、千鶴は腹の虫が治まらない。
饅頭を食われたことにも腹が立ったが、逢い引きだと思いながら邪魔をしたというのが、余計に気に障っていた。
「何やのん、あの女! 進さんに思て残しよった日切饅頭、勝手に食うてしまうし、ちっとも気が利かん!」
「ちょうど一個ずつ食うたんじゃけん構ん構ん。ほれより、あの女子、妙に気になるぞな」
進之丞が振り返ると、それに気がついた三津子が嬉しそうに手を振った。仕方なく会釈をした進之丞は、気のせいかとつぶやいた。
四
店に戻ると、千鶴は進之丞を離れの部屋へ連れて行き、作っておいた着物を着せてやった。
進之丞は言葉が出ないほど感激したようだった。嬉しそうな顔で何かを言おうとするのだが、結局は何も言えず、ついには涙を流し始めた。
嬉しいやら当惑するやらの千鶴は、とにかく進之丞が喜んでくれたことに、お礼を言った。
すると進之丞は、いきなり千鶴を抱きしめた。千鶴は眼を閉じて顔を突き出したが、期待するようなことは起こらなかった。
進之丞は千鶴を離すと、涙を拭きながら、男のくせに泣いてしまったと笑顔を見せた。
そういうことではないでしょうにと、千鶴は心の中で文句を言った。それから改めて進之丞にすり寄ったが、進之丞は着物を喜ぶばかりだった。
焦れったくなった千鶴は、進さん――と呼びかけ、目を閉じて唇を突き出した。
何かが唇に触れたので目を開けてみると、それは進之丞の指だった。千鶴の口を指で押さえながら、進之丞はにっこり笑った。
「そがぁなことは、旦那さんやおかみさんに認められてからぞな」
「え? ほやかて――」
「どこで誰に見られとるかわからんけんな。不真面目な奴じゃて思われたら、何もかんもおしまいぞな」
そんなことを言うのなら、この離れの部屋に二人きりでいること自体が不真面目だ。だが、進之丞は言った。
「他の使用人らから見て、示しがつかんようなことはやったらいかんじゃろ? 今日は二人で町に行かせてもろたんじゃけん、それ以上のことは辛抱せんとな」
言われることは尤もだ。しかし、今は誰もいないし、ちょっと唇を重ねるだけである。
「進さん、真面目過ぎるぞな。前はそこまで真面目やなかったやんか」
「前は前。今は今ぞな。旦那さんやおかみさんの期待に応えにゃならんけんな」
そこまで言われては返す言葉がない。千鶴はあきらめて進之丞に従うことにした。それに、これは進之丞が真剣である証だと受け止めた。そう思うと、千鶴は自分の態度が恥ずかしくなった。
千鶴は気持ちを入れ替えて進之丞に言った。
「進さん、いよいよじゃね」
「ん? あぁ、いよいよじゃな」
何だか気のない返事に、千鶴は力が抜けた。進之丞が真剣だと思ったから、自分の態度を反省したのに、進之丞は他のことでも考えていたようだ。
「進さん、何を考えておいでるん?」
「いや、別に何も」
「嘘や。何か考えよったぞな」
進之丞は苦笑すると、やっぱし信じられんのよ――と言った。
「信じられんて、おらと夫婦になることが? ほれとも、このお店を継ぐこと?」
「どっちもぞな。あしには、ほのどちらも受ける資格がない」
「また、そがぁなこと言うて。進さん、おらに泣いて欲しいん?」
千鶴が泣く真似をすると、進之丞は慌てた。
「やめてくれ。お前に泣かれるんは、死ぬよりつらいけん」
「ほれじゃったら、もう悪あがきせんで、素直に自分の定めを受け入れてや」
「定めなら受け入れるけんど、これが定めやとは……。いや、待て待て。泣くな。泣いたらいけん」
「ほやかて、進さん、おらと夫婦になれるて喜んでくれんのじゃもん……」
べそをかく千鶴に詫びながら、進之丞は千鶴と夫婦になれるのであれば、他に何も望むものはないと言った。
「ほれやったら、もう余計なことは考えんで、おらと夫婦になることが定めなんじゃて、素直に受け入れてや」
「わかった、相わかった。もう言わんし、お前が言うことに逆ろうたりせん」
「ほんまに?」
「ほんまほんま」
わざとらしくうなずく進之丞に、ほんじゃあと千鶴は目を閉じ、唇を突き出した。しかし、進之丞が何もしないので、千鶴は片目を開けて、逆らわんのじゃろ?――と言った。
再び千鶴が目を閉じると、進之丞はこほんと咳払いをしてから、千鶴を抱きしめた。心も体も温もりに包まれる中、千鶴の唇に進之丞の唇が重なった。千鶴は幸せで溶けてしまいそうな気分だった。
しばらくして進之丞が離れると、千鶴は辺りを見回しながらつぶやいた。
「おら、幸せやけんど、幸せやないけん。おら、幸せやけんど、幸せやないけん」
「何を言うとるんぞ?」
進之丞が怪訝そうに声をかけると、千鶴は照れ笑いをした。
「鬼さんにな、言うとるんよ。こがぁ言うとかんと、鬼さん、おらから離れてしまうけん」
「お前という奴は……」
進之丞は言葉に詰まると、涙をぼろぼろこぼした。それを見て、千鶴はしまったと思った。
進之丞の前で鬼の話をする時は、気をつけねばならないと決めていたはずなのに、幸せ過ぎてうっかりしてしまった。
千鶴は慌てて進之丞を慰め、みんなに晴れ姿を見せようと、進之丞を部屋の外へ誘った。そうしながら、千鶴はどこかで泣いている鬼を思いやり、これは思った以上に大変だと気を引きしめた。
送られて来た錦絵新聞
一
進之丞は亀吉たちと同じ丁稚扱いで仕事を始めた。
それでも、甚右衛門やトミを驚かせるほど読み書き算盤ができたので、中身としては亀吉たちと同格ではない。
それに進之丞は物覚えはいいし、疲れ知らずの力持ちである。いつも気持ちよく仕事をこなし、どんな相手にも笑顔を絶やさない。また、人によって態度を変えたりもしなかった。
真面目で謙虚で、誰も見ていないからと言ってずるいことなど絶対にしない。人の陰口も言わないし、人を思いやる気持ちを持っている。
甚右衛門やトミにすれば何も言うことはなく、仕事さえ覚えてくれれば、すぐにでも手代に昇格させるつもりのようだった。
亀吉と新吉はそんな進之丞を兄のように慕い、東京行きが決まっている茂七も、進之丞が早く手代になるのを待ち望んでいた。
しかし、孝平は予想どおり進之丞が気に入らず、何かにつけてけちをつけたり、進之丞の邪魔をしようとした。
弥七は孝平のように、進之丞を貶めようとはしなかったが、歓迎しているわけではなさそうだった。進之丞が声をかけても無視することが多いし、進之丞に仕事を教える時も、面倒臭そうに好い加減な態度を見せていた。
そんな二人の存在を、進之丞は全く気にしていないようだった。それがまた進之丞の人柄を表していると、甚右衛門やトミはもちろん、花江も進之丞をべた褒めした。
「こんな男がいただなんて、あたしゃ信じられないよ。辰蔵さんだって、鶏冠に来て喧嘩になることがあるのにさ。忠さんは腹を立てるってことを知らないからね。別に我慢してるって感じでもないしさ。ほんとに強い男って、あんな感じなのかしらねぇ」
花江は千鶴と進之丞が前世で夫婦約束をしていたことや、死に別れてしまったことを知らない。
進之丞は他の者とは気持ちが全然違うのだ。千鶴と夫婦になるために、どうでもいいことに気持ちを向けたりせず、懸命にやるべきことをしているだけなのである。
それにしても花江が言うように、孝平や弥七の態度に少しも腹が立たない、ということはないだろうにと千鶴は思っていた。
食事も使用人は同じ板の間でとるし、寝る部屋も同じだ。四六時中、嫌な相手と一緒にいるのだから、本当のところは、進之丞もいらだちを募らせているはずだ。
そのことを千鶴が訊ねてみると、いらだつことなどないと進之丞は言った。
「ほんまじゃったら、あしがお前と一緒におられるやなんて有り得んことぞな。ほれがこがぁしておれるんじゃけん、感謝こそすれ、いらだちや腹立ちなんぞ、これっぽっちも覚えたりはせん」
進之丞の言葉に千鶴は胸が打たれた。そして、自分もトミの後を引き継ぐ立場として、もっと学ばねばと気持ちを新たにした。
二
昼飯が終わったあと、千鶴が部屋の掃除をしていると、店の方から坂本三津子の声が聞こえた。思わず逃げたくなったが、そういうわけにもいかない。
繕い物をしているトミも、台所にいる花江も聞き慣れない声に手を止めた。
「うわぁ、だんだんぞなもし」
新吉の嬉しそうな声が聞こえた。三津子から何かをもらったらしい。続けて亀吉が礼を述べる声がした。
「あらぁ、ごめんなさいね。日切り饅頭、三つあるて思いよったのに、二つしかなかったわ。あのお店、一つごまかしたんじゃね。ほんまにひどい店ぞな」
どうせ、一つはここへ来る途中で、自分で食べたに違いない。
今日は茂七が進之丞を連れて外廻りをしている。進之丞にいろいろ教えるためだ。
また弥七も一人で、進之丞たちとは別の店を廻っている。
孝平は同業組合の組合長に言伝を届けるよう、さっき甚右衛門に命じられていた。孝平もいないとなると、三津子は誰に話しかけているのだろうと千鶴は考えた。するといらだったような祖父の声が聞こえた。
「ええ歳してそがぁな物欲しがるな。ほれより早よ行かんかな」
言われた相手の声は聞こえない。だが、恐らく孝平だろう。言われたことをまだ済ませていなかったようだ。そして、饅頭をもらい損ねたのは孝平に違いない。自分だけ饅頭をもらえず、目をきょときょとさせている孝平の様子が見えるようだ。
「ところで、何の御用かな? うちは小売りはしとらんのやが」
また甚右衛門の声がした。続けてすぐに三津子の声が聞こえた。
「幸ちゃん、おいでます? うちは幸ちゃんと同し病院で看護婦しよった、坂本三津子言います」
「幸ちゃん? 幸子のことじゃったら、今はおらんぞな。また病院で看護婦しよるけんな」
甚右衛門は素っ気なく言った。その口調には、さっさと帰れという響きがある。だが、三津子にそんなことは通じない。
「あらぁ、ほうなんですか。ほれは残念やわぁ。こないだ善勝寺で千鶴ちゃんにお会いしましてね。幸ちゃんの話で盛り上がったもんじゃけん、幸ちゃんに会いとうて辛抱できんなったんぞなもし」
三津子との話など全然盛り上がってはいない。よくもまぁ、こんな適当なことを平気で喋れるものだと、千鶴は呆れて聞いていた。
トミと花江は作業を再開しているが、二人とも聞き耳は立てているようだ。
「とにかく、あいつはここにはおらん。戻んて来るんも日暮らめぞな。会いたいんなら日曜日に来るがええ。日曜じゃったら病院も休みじゃけんな」
「ほうですか。おらんもんは仕方ないわいねぇ。ほれじゃったら、千鶴ちゃんはおいでます?」
千鶴はどきりとしたが、甚右衛門は千鶴もいないと言った。すると、ほんじゃあ中で待たせてもらおうかしら――と三津子の声。
千鶴は持っていた雑巾を放り出すと、ちぃと出て来るけん――とトミに声をかけ、大急ぎで土間へ降りた。
花江が驚いた顔で見ていたが、事情など説明している暇はない。
ちらりと店の方を見ると、例の変わった衣装姿の三津子がいた。三津子は甚右衛門と押し問答をしているが、こちらを向かれたら、中にいることが知れてしまう。
千鶴は慌てて奥庭へ出ると、裏木戸から外へ逃げ出した。
だが、外へ逃げただけで行く当てはない。それでも、しばらく家には戻れそうにないし、ここにいたら外に出て来た三津子に見つかってしまうだろう。
店の前の道には行けないので、千鶴は北の方へ向かおうとした。とにかく、ここから離れなくてはならなかった。
すると、すぐ先の辻を洋服姿の男が、あたふたと横切るのが見えた。
ぎくりとして千鶴が立ち止まると、男はすぐに戻って来て、辻の真ん中で疲れたように立ち尽くした。それから男は溜息をつくと、千鶴の方を振り返った。やはり男は畑山孝次郎だった。
畑山は千鶴に気がつくと、嬉しそうに満面の笑みを見せた。前門のトラ、後門のオオカミである。
「これはこれは。こんな所で千鶴さんにお会いできるやなんて、これは絶対、神さまのお引き合わせやな」
畑山が近づいて来たので、千鶴は店の方へ逃げようとした。畑山は慌てて追いかけながら、大きな声で千鶴を呼んだ。
「ちょっと、千鶴さん、待ってぇな。千鶴さんてば!」
大声で名前を呼ばれては、三津子に聞こえてしまう。千鶴は立ち止まると、畑山の所へ駆け戻った。
「あら、戻って来てくれはったん。やっぱり千鶴さん――」
千鶴は喋る畑山の手をつかむと、そのまま走って、先の辻を左へ曲がった。そこなら家から見えることはない。
「待って。ちょっと待って……。わては、あんまり走るんは……、得意やないよって……」
はぁはぁと苦しそうにしながら畑山が言った。
千鶴は走るのをやめると、畑山から手を離した。
畑山は腰を曲げ、両手を両膝に突いた格好で、しばらく息をついていた。これぐらいでこんなに息が切れるなんて、余程体力がないと見える。
本当なら、千鶴は畑山にも近づきたくはなかった。畑山が大声を出さなければ、紙屋町の通りを大林寺の方へ逃げるつもりだった。
今からでも逃げればいいのだが、畑山があんまり苦しそうにしているので、千鶴は心配になっていた。
「畑山さん、大丈夫ぞな? うち、そがぁなるほど走ったつもりはないけんど」
はぁはぁしながら畑山は、斜めに上げた顔で千鶴を見ると、にやりと笑った。
「千鶴さん、わての名前、覚えててくれはったんや。嬉しいわぁ」
笑った歯が、煙草のヤニで茶色くなっている。それに吐き出す息が煙草の煙のように臭い。
千鶴が背中をさすってやると、畑山は気持ちよさそうにしていたが、やがて体を起こすとぺこりと頭を下げた。
「まずは、ありがとさんにおます。こないだは旦さんに撃ち殺されそうになったとこを助けてもろて、今日もまた、えらい気を遣てもらいました」
仕事は何だか怪しそうだが、畑山の人柄はそれほど悪くはなさそうだ。少し気を許した千鶴は、さっきは何をしていたのかと畑山に訊ねた。
「さっきと言うと?」
「この道を行ったり来たりしておいでたでしょ?」
あぁと言いながら、畑山は右手で頭をぽんと叩いた。
「見てはったん? いや、えらいとこ見られてしもたな。わて、怖い顔してましたやろ?」
「いえ、そこまでは……。ほんでも、何か慌てておいでたみたいには見えたぞなもし」
「千鶴さんの言葉、柔らこうてええでんなぁ。もう、言葉に人柄が滲み出てるみたいやわ」
褒められているのか、ごまかされているのかよくわからない。できれば話したくないのかもしれないと思い、千鶴が黙っていると、少しして畑山は言った。
「さっきはね、ちょっと探しとった奴を見かけたんで、追いかけよったんですわ。せやけど、うまいことまかれてしもて、くそって思とったら千鶴さんが現れたというわけや。せやからね、きっと神さんが、わてを千鶴さんに引き合わせようと仕組んだことやったんかて、今はこない思とりまんねん」
畑山が誰を探していたのか、千鶴は少し気になった。だがこの話しぶりでは、どうやら畑山は人違いをしていたのだろう。
「お話、聞かせてもろてもよろしやろか?」
改めて逃げることもできないので、千鶴は黙って歩いた。畑山も千鶴のあとをついて来る。千鶴が喋ってくれるのを根気よく待つつもりらしい。
道の突き当たりは阿沼美神社で、境内には幼稚園がある。幼稚園には誰もが入れるわけではない。裕福な家の子供だけだ。
境内にはたくさんの幼子たちがいたが、その中の一人が外へ抜け出して来た。先生は気がついていないらしい。
千鶴は子供に近寄ると、しゃがんで境内に戻るよう話しかけた。すると、子供は見慣れない千鶴に怯えたようで、固まったあと泣き出した。その泣き声を聞いて、他の子供たちが駆け寄って来たが、やはり千鶴を見て、みんな驚いた顔をした。
中には千鶴を知っている子供もいて、そのことを他の子供たちに伝えたが、その言葉が千鶴を深く傷つけた。
「このひとね、にっぽんのてきなんよ」
きっと親がそういう風に、子供に教えているのだろう。
さらにそこへ現れた女の先生が、子供をどうするつもりかと、千鶴の話も聞かないで、いきなり決めつけたように言った。その目は人攫いでも見るようだ。
「ちょっと、あんた。いきなり何言うてまんねん。千鶴さんは、この子を――」
たまらず畑山が文句を言おうとしたが、ええんです――と千鶴はそれを遮った。
「この子が外へ出て来たもんで、中へ戻るように言うてたぎりですけん。ほんでも、ご迷惑おかけしてしもたみたいで、すんません」
千鶴が頭を下げると、女の先生は何も言わず、子供たちを連れて行ってしまった。
ぽつりと残された千鶴に、畑山が遠慮がちに声をかけた。
「大丈夫でっか、千鶴さん」
千鶴はにっこり微笑んでみせると、いつものことぞなもし――と言った。
「いつものことて――」
畑山は言葉が続かず、向こうへ行った子供たちを見遣ると、悲しそうに千鶴を見た。
三
次の日曜日、三津子が再び訪ねて来ると、幸子は喜んで外へ出て行った。
先日は、やはり三津子は強引に家の中へ入って来たらしい。しかしトミが一喝したので、渋々退散したと言うことだった。
それでこの日は三津子を一歩も中へ入れてはならないと、トミの厳命が下されて、幸子は外で三津子と会うことになったのである。
三津子と初めて会った日に、千鶴は母に三津子の話をした。幸子はとても喜び、三津子が同じ病院で働いた仲間だったと言った。
三津子の言ったのは本当だったのかと、千鶴は驚くと同時に、あんな女のどこがいいのだろうと、喜ぶ母を訝しんだ。
あの人は他の人の饅頭を勝手に食べてしまう図々しい人間だと、千鶴は訴えた。だが、幸子はその話を笑って聞き流した。
それでも千鶴が納得が行かないと言うと、幸子は自分が三津子を信頼している理由を説明した。
幸子が千鶴を身籠もった時、それが周囲に知れると、幸子は病院を辞めざるを得なくなった。誰もが幸子を責め、幸子は居たたまれなくなったと言う。
そんな時に三津子だけが幸子を庇い、幸子の味方になってくれたそうだ。
言われてみると、あの型破りな性格だからこそ、敵兵の子供を身籠もった母を庇うことができたのかもしれない。
関係のない者から見たら嫌な人間に思えても、落ち込んでいた母から見れば、地獄に仏のように思えたのだろう。
母の話を聞き、千鶴は母と三津子の仲を理解した。だが、自分が三津子と親しくするのは、やはり無理だと思った。
千鶴は進之丞に三津子や畑山のことを話したかった。しかし進之丞は毎日動き回っていて、千鶴とゆっくり話をする暇がなかった。
一休みしている時も、必ず他の者たちが近くにいるので、二人だけで話をする機会を持つことはできない状況だった。
丁稚扱いのうちは、進之丞に休みはない。
手代になれば、給金をもらえる月初めに休みがもらえるが、使用人でない千鶴には、逆に休みがない。その時には、女中の花江も休みになるので、千鶴はいつも以上に忙しくなる。
トミが手伝ってくれても、食事の用意、洗濯、掃除、買い物などを、基本的には千鶴一人でやらねばならない。
どっちにしても進之丞と二人で喋る暇など、夫婦になるまでは作れそうになかった。
今にして思えば、進之丞が来た日に祖父が二人で町へ出してくれたのは、こうなることがわかっていたからに違いなかった。
二人が夫婦になれる日まで、こんな感じが続くのだろう。
進之丞と夫婦になれるよう、日切り地蔵にお願いしたのは三年後である。つまり、三年間はこのような状態が続くわけで、お願いは一年後にしておけばよかったと、千鶴は深く悔やんだ。
四
二月の初め頃、千鶴がお茶を帳場に運んだ時、帳場の向こうで弥七が注文書をめくっていた。
千鶴が来たのに気がつくと、弥七は顔を上げて千鶴を見た。そのあとすぐに注文書をめくったが、またちらりと千鶴を見る。それで千鶴を目が合うと、慌てたように注文書に目を戻した。
甚右衛門にお茶を配ったあと、千鶴は弥七にもお茶を配った。それに対して弥七はちゃんと顔を上げ、素っ気ないものの、千鶴にねぎらいの声をかけた。最近の弥七はいつもこんな感じだ。
そんな弥七の様子を、千鶴は洗濯物の取り込みを手伝ってくれた花江に話した。
弥七の変化には花江も気がついていたようで、やっぱりねぇと花江は言った。
何がやっぱりなのかと訊ねると、花江は千鶴の顔を見ながら、言ってもいいのかねぇ――と言った。
そこまで言うなら言って欲しいと千鶴がせがむと、勘違いかもしれないからね、と花江は前置きをしてから言った。
「弥さんはね、千鶴ちゃんのことが好きなんだよ。前からね、何となくそうなんじゃないかって思ってたんだけどさ。忠さんが来たもんだから、張り合う気になったんじゃないの」
そんなはずはないと、千鶴は即座に花江の言葉を否定した。続いて、弥七が自分に対して、どれだけ素っ気ない態度を取り続けていたのか説明した。
しかし、弥七が千鶴を嫌っているのであれば、今のような態度を見せるはずがないと花江は言った。
「旦那さんたちのことだって、そうだったろ? 千鶴ちゃんは、ずっと自分が大事にされていないって信じてたみたいだけどさ。実際は旦那さんもおかみさんも、千鶴ちゃんのことを大事に思ってくれてたんじゃないのかい?」
そう言われると返す言葉がない。
人は時々本音とは真逆の態度を見せることがあるものだと、花江は言った。
「ただね、千鶴ちゃんは忠さんを好いてんだろ? こんな話聞かされたって困るじゃないか。だから、あたしゃどうしようかなって迷ったんだよ。でもさ、喋っといてこんなこと言うのは何だけどさ。あたしの勘違いってこともあるから、気にしないでおくれよ」
気にするなと言われても手遅れである。言われてみると、確かに弥七がそんな気になっているように思えて来る。しかし、だからと言って、どうすることもできない。千鶴の心は決まっている。
それでも千鶴は困ってしまった。こんなことなら花江に話すのではなかったと後悔したが、もうあとの祭りである。
「ほらほら、さっさと洗濯物を畳んじまわないと、次の仕事が待ってるよ」
花江に促され、千鶴は両手に抱えた洗濯物を、急いで家の中へ運んだ。
数日後、大阪から一通の封筒が送られて来た。
帳場にいた甚右衛門は、封筒の中身を確かめると顔をゆがめた。
午後だったので、茂七も弥七も外廻りに出ている。
帳場の向こうで進之丞が注文書を見ているが、これは手代の仕事である。進之丞はまだ手代にはなっていないが、実質的には手代の仕事もさせてもらっているわけだ。恐らく、近いうちに手代として認められるのだろう。
「おじいちゃん、お茶をどうぞ」
千鶴がお茶を配っても、甚右衛門は見向きもしなければ、声もかけない。封筒に入っていた数枚の紙に、目が釘付けになっている。
甚右衛門は他の者には見えないようにしながら、その紙を見ていた。しかし、千鶴にはきれいな絵がちらりと見えた。それがどんな絵なのかはわからないが、畑山に見せられた錦絵新聞に似ている。
もしやと思って千鶴がどきどきしていると、案の定、紙をめくる甚右衛門の顔は、みるみる赤くかつ険しくなった。
どうしようと思いながら千鶴が進之丞にお茶を配ると、甚右衛門は読んでいた紙をびりびりと破って、封筒の中に詰め込んだ。そして、その封筒を絞るように捻ると、手元の火鉢で燃やそうとした。
「甚さん、おるかな」
同業組合の組合長がひょっこり顔を出した。甚右衛門は捻った封筒を慌てて後ろに隠した。
「しばらく顔見とらんが、元気にしよったかい」
「元気、元気。このとおりぞな」
甚右衛門は引きつった笑顔で応じた。
「辰さんは、まだ戻らんのかな」
「まだやけんど、春頃には戻すつもりよ。忠吉もほとんど一人前やけん、もうじきぞな」
進之丞と千鶴が頭を下げるのが同時だったので、組合長は楽しげに笑った。
「もう、すっかり夫婦やな」
こんな嬉しい言葉はない。照れる千鶴に組合長は言った。
「千鶴ちゃん、足踏み式の織機、知っとるかな」
「足踏み式ですか? 最近、新しい織機を使うことになったて、耳にはしましたけんど」
「ほれよ。あれはな、なかなかええぞな。あれじゃったら素人でもほいほいできらい」
「そがぁにええもんなんですか」
「これまで一日一反こさえよったんが、あれ使たら二反でける」
「へぇ、ほれはがいですねぇ」
「ほうじゃろ? こさえた分、ばんばん売れたら儲かるぞな」
「そがぁなったら、ええですね」
進之丞は何の話なのか、よくわからない様子だった。
千鶴はこれからは新しい織機で、これまでの倍の伊予絣を作ることができるようになると、進之丞に説明してやった。
それから織機の話をする甚右衛門と組合長に、またお茶を淹れて来ますと声をかけた。胸の中では、祖父に送られて来た錦絵新聞が気になっている。
千鶴が甚右衛門の脇を通ろうとした時、甚右衛門がえへんと咳払いをした。見ると、後ろ手に持った捻り封筒を、千鶴に向けてゆらゆらと動かしている。
千鶴が傍に寄ると甚右衛門は顔を近づけて、わかっとるな――と小声で言った。
何の話かと思ったが、さっき自分がこれをどうしようとしていたのか見てわかっているだろう、という意味かと千鶴は考えた。
同時に、してはいけないことが咄嗟に頭に浮かんだ。
「甚さん、何ぞな、ほれは?」
千鶴が捻った封筒を受け取るのを見て、組合長が言った。
「いやいや、何でもない。ほれより、何ぞ話があるんかな?」
甚右衛門は話を逸らそうとしながら、千鶴には早く行けと手を動かした。
組合長は怪訝そうにしながらも、ほれがな――と言った。
「湊町の絣問屋の越智絣を知っとろ?」
「ああ、老舗やな」
「そこの親爺が女に騙されたそうでな。店の金を持って行かれたそうな」
「女に金を?」
「ほれで、店が潰れることになったんよ」
「何ぞ、ほれは? どがぁしたら、そげなことになるんぞ」
進之丞は話が聞こえているだろうに、全然興味がなさそうに仕事をしている。
一方、千鶴は封筒の中身が気になりながらも、祖父たちの話にも耳が向いてしまう。店の奥に入った所で立ち止まった千鶴は、そこで話を聞いていた。
「あそこの親爺は真面目で評判やったと思うがな」
「ほの真面目が禍して、女に夢中になってしもたんじゃろ。真面目な奴ほど、いったん崩れたら歯止めが効かんけんな」
「ほらまた気の毒言うか、愚かな言うか――」
立ち聞きしている千鶴に気づいた甚右衛門は、土間へ身を乗り出して、さっさと行けと追い払うように言った。
進之丞がふっと笑うのが見えて、千鶴は恥じ入りながら奥へ下がった。
五
「おや、それは何だい?」
台所へ戻った千鶴の手元を見て、花江が言った。
「おじいちゃんが読み終わった手紙ぞな。もういらんけん、燃やすようにて」
直接そう言われたわけではないが、そういう意味に違いない。もちろん千鶴は、中身を燃やすつもりはない。
「ふーん、手紙をすぐに燃やすなんて、何だろね」
花江は興味津々の様子だが、中身を確かめるわけにはいかず、茶の間の火鉢で燃やせばいいよと言った。
茶の間にトミの姿はない。孝平を連れて雲祥寺へ出かけている。
亀吉と新吉はと言うと、奥庭で干していた洗濯物を取り込んでくれている。
「うち、その前にちぃと厠へ行て来るけん」
千鶴は厠へ行くふりをして離れへ向かった。
喧嘩をしながら洗濯物を取り込む亀吉たちに、渡り廊下から声をかけると、千鶴は離れの部屋に滑り込むように入った。
静かに入り口の障子を閉めると、千鶴は急いで捻られた封筒を広げた。それから中の破られた紙を全部出して、部屋の隅に畳んである布団の下へ突っ込んだ。
祖父への手紙を盗み見るなど、絶対にしてはいけないことだ。それでも千鶴は確かめてみたかった。あれは絶対に畑山が書いた錦絵新聞に違いないと思っていた。
畑山に捕まったあの日、いや、正確には千鶴が畑山を捕まえたのだが、千鶴は畑山に訊かれたことに素直に答えた。
覚悟を決めたからだが、旅費が底をついてしまって大阪へ戻るしかないという畑山が、気の毒に思えたからでもあった。
誰から話を聞いたとは畑山は明かさなかったが、畑山が女子師範学校の生徒から、いろいろ話を聞いたのは間違いないようだった。
そこまで知っている相手に白を切っても仕方がないので、畑山が知っていそうなことには、そのとおりだと言い、知らなさそうなことには、わからないと答えた。
畑山は千鶴に礼を述べ、千鶴の親切は忘れないと言ってくれた。それは千鶴に迷惑をかけないと言っているようにも聞こえたが、畑山が実際にどんな記事を書いたのか、千鶴は知りたかった。
もしかしたら、自分は浅はかなことをしてしまったのかもしれないのである。そこをどうしても確かめたかった。
空になった封筒には、大阪の作五郎の名前が書かれていた。千鶴は封筒を改めて捻り直すと台所へ戻った。
胸の中は走ったあとのようにどきどきしている。心臓の拍動は全身に伝わり、頭が痛くなりそうだ。
千鶴が茶の間へ上がると、花江も一緒に上がって来た。封筒を燃やすところを眺めようと言うのだろう。
火鉢の上では、鉄瓶が湯気を立てている。千鶴は鉄瓶の下へ捻った封筒を差し入れた。
封筒の端に火がついて、ゆっくりめらめらと燃えて行く。
「随分、薄っぺらい封筒だね。さっきはもうちょっと厚みがあったように見えたんだけどさ」
花江の言葉に千鶴はぎくりとした。花江の観察力は大したものだ。確かに封筒は中身が抜かれた分、さっきよりも貧弱に見える。
封筒の火はどんどん大きくなったが、すぐに小さくなり、やがて消えた。中身があれば、もっと燃えるだろうし、燃える中身がちらりと見えただろう。だが封筒は空っぽなので、炎はわずかな灰を残してあっけなく消えてしまった。
花江はその様子をじっと見ていたが、封筒が燃え尽きると、その目を千鶴に向けた。微笑むわけでなく、ただ観察するように千鶴を見つめている。
「な、何? 何ぞ、顔についとるん?」
千鶴がうろたえると、花江はにっこり笑い、何も――と言った。
洗濯物を抱えた亀吉と新吉が、互いを押し合いながら騒々しく入って来た。
「ほらほら、喧嘩したらだめだよ」
花江は腰を上げると、亀吉たちに注意しながら台所へ戻った。
千鶴は少しの間、燃やした封筒の灰を眺めていたが、すぐに組合長へお茶を淹れることを思い出して立ち上がった。
六
みんなが昼飯を食べ終わったあと、千鶴はこっそり離れの部屋へ行った。
周りに誰もいないのを確かめた千鶴は、するりと離れに入った。それから布団の下に隠していた破れた紙を急いでかき出すと、破れ目をつなぎ合わせて元の四枚の紙に戻した。
四枚の紙は、一枚の手紙と三枚の錦絵新聞だった。
どきどきする胸を押さえながら、千鶴はまず手紙を読んだ。
手紙は作五郎から甚右衛門に宛てたもので、風寄のことが書かれた錦絵新聞を見つけたので送るとあった。
錦絵新聞には大阪錦絵新報と書かれてある。間違いない。畑山が書いた記事だ。
日付から一枚目と思われる新聞には、イノシシが大きな毛むくじゃらの足に、頭を踏み潰される絵が描かれていた。その脇には、神輿やだんじりを担ぐ人々の絵も描かれている。
記事には、伊予国の風寄で祭りの最中に、山の主のイノシシが村の近くで頭を潰されて死んでいたのが見つかったとある。
死骸の様子が目撃した者の証言として細かく書かれ、近くにはイノシシの頭を踏み潰したと思われる、化け物の足跡らしきものもあったとされていた。
千鶴は現場を流れる川の向こうに、丘陵の崩れた所があったことを思い出した。記事にある足跡というのは、あれのことなのかと思ったが、血溜まりがあった所が、少し窪んでいたような気もしていた。だが、今となっては確かめようがない。
二枚目には、墓を掘り起こして死骸を貪る、女の鬼の姿が描かれていた。
記事にはヨネが喋っていたがんごめの説明があり、鬼娘は法正寺という寺にいたとまで書かれていた。
鬼娘は仲間の鬼を呼び、住職を殺した上に寺に火をつけたが、結局は侍たちに殺されて、鬼除けの祠に封印されたと出鱈目な説明があった。だが、記事を読んだ者に真偽はわからない。
その鬼除けの祠が台風で壊れ、その後にイノシシの事件が起こったと記事は伝えていた。そして、鬼娘を知る唯一の人間ヨネが、再び鬼娘を目撃したそうだと締めくくられていた。
三枚目には、嵐の中、恐ろしげな顔をした鬼が、家を壊す絵が描かれていた。これは兵頭の家の話で、化け物に壊されたことになっている。
兵頭のことは、風寄に暮らす伊予絣の仲買人と説明され、兵頭がそれまで聞いたこともない恐ろしい獣の声を聞いたという話や、家人数名が怪我をした他、牛が死んだと書かれてある。
兵頭は鬼を見たわけではないが、絵には鬼の姿が描かれていた。その鬼の口には牛がくわえられている。
他の家は無事であり、何故兵頭の家だけが襲われたのかと、記事は疑問を投げかけていた。
兵藤は鬼との関わりを否定しているが、何か秘密があるに違いなく、村の者たちはみんな恐怖に戦いているが、鬼や鬼娘が再び封じられるまで事件は続くであろうとくくっていた。
記事を読み終えた千鶴は、やはり畑山に喋るべきではなかったかと少し後悔していた。
恐らく千鶴が喋らなくても、畑山のことだから記事は書いただろう。それでも、そこに自分が荷担した形になったことが、千鶴はつらかった。
畑山は千鶴にお祓いの婆の話を確かめた。しかし、そのことはどこにも書かれていない。甚右衛門が鬼除けの祠の再建に、お金を寄付したという話も載っていない。風寄で意識を失った千鶴が、法正寺で発見されたということも、畑山は書かなかった。
記事にするほどには、話がまとまらなかったのかもしれないが、これは畑山が自分たちを気遣ってくれたのだと、千鶴は思いたかった。
それでも祖父があれほど怒ったのは、畑山が鬼の話を世間に広めたことへの反発だろう。
もし大阪の人たちがこの続きを知りたがったら、どうなるかはわからない。その結果、自分と鬼とのつながりが知れたなら、ここにいられなくなるし、山﨑機織も潰れるに違いない。
祖父はそのことに怒りを覚えたのだろうと千鶴は思った。
「千鶴ちゃん、中にいるんだろ? あたしも入ってもいいかい?」
障子の外で花江の声がした。千鶴は跳び上がるほど驚き、すぐに返事ができなかった。
「ち、ちぃと待って」
千鶴は慌てて錦絵新聞を布団の下に突っ込んだ。それから障子を開けて、花江を中に入れた。
「千鶴ちゃん、ここで何をしてたのさ」
花江は部屋の中を見回しながら言った。掃除をしてたとは言えないし、着替えをしていたとも言えない。何と答えようかと迷っていると、目線を落とした花江が、おや?――と言った。
千鶴が花江の視線を追うと、布団の下から錦絵新聞の一部がはみ出ている。
「これは何だい?」
花江はしゃがみ込んで、錦絵新聞の切れ端を摘まみ上げた。
千鶴は目を閉じて気持ちを落ち着けると、誰にも言わないで欲しいと花江に言った。
花江がわくわくした様子でうなずくと、千鶴は布団の下から、錦絵新聞の切れ端を全部かき出した。
「これな、さっきの封筒に入っとった錦絵新聞なんよ」
「錦絵新聞? そう言やぁ、あの猟銃騒ぎの時に、千鶴ちゃんが庇ってた人がそんなこと言ってたよね?」
花江の記憶力は大したものだった。あんな騒ぎの中で、畑山が口にした言葉を覚えていた。
これはその人が作った錦絵新聞だと言って、千鶴は破れた錦絵新聞をつなぎ合わせた。
花江は興奮したように読んだが、以前に千鶴と春子から聞かされた話だとわかると、驚いた顔で千鶴を見た。
「これ、あの話じゃないか」
千鶴はうなずくと、こんな物が出回っていると、大阪の作五郎が甚右衛門に送って寄越したものだと説明した。
「だけどさ、別に千鶴ちゃんと鬼が関係あるみたいには書かれてなかったね。旦那さんの早とちりだね」
「ほんまよ。猟銃なんか持ち出して来て、まっこと大事になるとこじゃった」
二人で少し笑ったあと、どうしてこれを燃やさなかったのかと花江は訊ねた。
「おじいちゃんが見よるんがちらっと目に入ったけん、燃やす前に見てみたかったんよ」
「そうかい。わかるよ、その気持ち」
花江はにこりと笑うと、もう一度錦絵に目を落とし、これさ――と言った。
「法正寺って、千鶴ちゃんや幸子さんがお世話になったお寺じゃないのかい?」
うなずく千鶴に、お寺で鬼娘の話は聞かなかったのかと、花江は訊ねた。
千鶴が首を振ると、花江は錦絵新聞に目を戻し、ヨネが見たという鬼娘は、また法正寺に隠れているのだろうかと言った。
わからないとだけ千鶴は言った。胸の中で心臓が暴れて、それ以上は喋れなかった。
「それにしてもさ、何だって、うちにつながりがある人が、化け物に襲われたりしたんだろうね。何か、気味が悪いよ」
「花江さん、やっぱし鬼は怖いん?」
花江はきょとんとしたあと、何言ってんのさ――と言った。
「鬼が怖くない人なんているわけないじゃないか。千鶴ちゃんだって鬼は怖いだろ?」
怖いと言えば鬼が傷つく。千鶴は曖昧に返事をしてごまかすと、この錦絵新聞をどうしようと花江に相談した。
花江は考える素振りも見せずに、さらりと言った。
「朝、竈に火を入れる時に、一緒に燃やしなよ」
「でも、お母さんが一緒やけん、見つかってしまう」
「じゃあさ、あたしが預かっといて燃やしとくよ。だったら、いいだろ? あたしゃ一人だから、誰にも見られやしないさ」
千鶴は少し悩んだ末、かき集めた錦絵新聞と作五郎の手紙の切れ端を、風呂敷に包んで花江に手渡した。花江はそれを懐に仕舞ってにやりと笑うと、任せときな――と言った。
若干の不安は残ったものの、花江が同じ秘密の仲間になったと思うと、千鶴は少し気が楽になった。
それでも、これからどうなるのだろうと考えると、やはり心配が膨らんだ。
移りゆく季節と織模様
一
作五郎から錦絵新聞が送られて以来、何か困ったことになるのではないかと、千鶴はずっと不安だった。
恐らく甚右衛門も同じ気持ちだっただろうが、実際は何事も起こらなかった。
錦絵新聞が発行されたのは、大阪であって松山ではない。松山の人間は大阪の錦絵新聞のことなどわからないだろうし、錦絵新聞を見た大阪の人間も、記事の内容を確かめに松山へ来るほど暇ではないのだろう。
そう思うと千鶴は少し安心し、錦絵新聞のことは次第に頭に上らなくなった。
やがて三月に入ると、進之丞が手代に昇格した。昇格に合わせ、呼び名も忠吉から忠七になった。
千鶴は進之丞の昇格祝いに、手作りの羽織を贈った。
手代になった者には羽織を着ることが許されたが、それまでの羽織はトミや幸子が作っていた。進之丞に贈られた羽織は千鶴が初めて作ったものだった。
羽織を着せてもらった進之丞は、本当に嬉しそうな顔をしたが、すぐに泣きそうになった。前世の頃と比べると、どうも進之丞は涙もろくなったようである。
しかし、そのことは千鶴を感激させ、間違いなく二人の新たな暮らしが始まったのだと感慨に浸らせた。
進之丞が昇格する一方で、茂七は東京へ送られ、四月には辰蔵が松山へ戻って来ることになった。
進之丞の昇格が刺激になったのか、茂七がいなくなることが手代の自覚を持たせたのか、頼りない感じだった弥七も、気合いが入ったようにきびきび動くようになった。
そのことは甚右衛門やトミを喜ばせ、山﨑機織にも春が訪れたようだった。
そんなある日の午後、春子が山﨑機織を訪ねて来た。
亀吉に呼ばれて千鶴が店に出て行くと、春子が帳場の脇で神妙な顔をして立っていた。
進之丞も弥七も外廻りに出ており、孝平は勉強のためという理由で、弥七に付いて出ていた。
帳場には甚右衛門がいたが、春子とは喋らずに黙ってお金の計算をしている。
店の表には新吉が一人でいた。春子がいるので遠慮したようだ。
「久しぶりじゃね。今日はどがぁしたん?」
もう春子へのわだかまりがない千鶴は、明るく声をかけた。
「おら、山﨑さんやお家の人にお詫びに来たんよ」
春子は伏し目がちに言うと、甚右衛門の方へ体を向け、深々と頭を下げた。
「おらが余計なこと喋ったばっかしに、山﨑さんに学校やめさせてしまいました。もっと早ようにお詫びに来んといかんかったのに、怖ぁて来れんかったんです。謝って済むことやないですけんど、どうか、堪忍してやってつかぁさい」
甚右衛門はじろりと春子を見ると、口は災いの元ぞな――と言った。それに対して、すんませんと春子が詫びると、もう済んだことよと甚右衛門は少しだけ笑みを見せた。
「千鶴にはいずれこの店を継がせるつもりやけん、どちゃみち学校はやめとった。積もる話もあるじゃろけん、奥で二人でゆっくり喋ったらええ」
思いがけない言葉だったのだろう。春子は大泣きをした。
千鶴は春子を慰め、抱きかかえるようにして奥へ連れて行った。
トミが茶の間にいたので、春子は涙を拭くと、さっきと同じように頭を下げて詫びた。
するとトミも笑顔を見せ、よう来んさったな――と言った。それから、花江にお茶とお茶菓子を出すよう頼んだ。
千鶴は花江に声をかけると、また泣きそうになっている春子を、離れに連れて行った。
二
「今日は学校はどがぁしたん?」
「今日は土曜日なけん、授業は午前ぎりぞな」
千鶴と向かい合って座った春子は、目を伏せたまま言った。
千鶴は苦笑すると、ほうやったかねと言った。店の仕事をしていると、今日が何曜日なのかと考えなくなっていた。
「今月で卒業やけん。山﨑さんにお詫びするんは今日しかない思て来たんよ。卒業したら、どこの学校行かされるかわからんけん」
「ほうなん。ほら、だんだんありがとう」
お礼を述べたものの、あとの言葉が出て来ない。
少しの沈黙を挟んで、千鶴は学校のことを訊ねた。春子は暗い顔で、静子一人が退学になったと告げた。
学校をやめる手続きは全部祖母にしてもらったので、あの騒ぎのあとがどうなったのか、千鶴は何も知らなかった。
「おらが余計なこと言わなんだら、あがぁなことにはならんかったじゃろ……。ほんまやったら、おらも退学でもおかしないのに……」
しょんぼりする春子を見ながら、千鶴は静子のことを考えた。
千鶴が寮で暮らした時には、静子とも仲がよかった。だから、あの時の静子の様子は今でも信じられないし、できれば思い出したくない。春子には悪いが、静子が退学になったと聞かされても、気の毒にという気持ちは起こらなかった。
「ほれで……、今は高橋さんはどがぁしとるん?」
「おらにもわからん。多分、家の手伝いしとると思うけんど」
「あの騒ぎのこと、村上さんの家にも伝わったん?」
春子は項垂れるようにうなずいた。
「おら、しこたま怒られた。ほれで、お父ちゃん、ここ来てお詫びするて言いよった。山﨑さん、お父ちゃんに会うてないん?」
千鶴が首を振ると、ほうなんかと春子は言った。
「多分、会わせてもらえんかったんじゃろな。ほんでも、ここのおじいちゃんには、お詫びしに来たと思う」
それでなのかと千鶴は思った。畑山が口にしていた鬼除けの祠を再建するお金の話は、その時に祖父がしたのだろう。
結局、祠はどうなったのかと千鶴は気になった。進之丞はこんな物では鬼は封じられないと言っていたが、実際はどうなのかはわからない。もし鬼が封じられたらと思うと千鶴は心配になった。
「千鶴ちゃん、お茶とお饅頭を持って来たよ」
障子の向こうで、花江の声が聞こえた。
千鶴が障子を開けると、花江は二人にお茶と饅頭を配った。今日は自分の分は持って来ていない。
千鶴が学校をやめた本当の理由を、千鶴は花江に話していなかった。だから、トミと春子のやり取りを聞いて、花江は何かがあったのだと悟ったようだ。
前の時とは違って、花江は春子に話しかけることはせず、お茶と饅頭を配り終えると、じゃあねと言って戻って行った。
花江がいなくなったあと、二人は沈黙したまま座っていた。どちらもお茶にも饅頭にも手をつけない。
「村上さん、お饅頭食べてや。うちも食べるけん」
千鶴がそう言って饅頭を口に入れると、春子もようやく饅頭に手を伸ばした。しかし、いつものような元気はなく、小さくかじるだけだった。
お茶を飲み、湯飲みを下へ置いた春子は、静子のことを悪く思わないでやって欲しいと言った。
「高橋さんな、やきもち焼きよったんよ」
「やきもち? 誰に?」
春子は少しだけ顔を上げて言った。
「山﨑さんによ」
「うちに? なして?」
「山﨑さん、おらと一緒に風寄の祭り見に行ったじゃろ?」
何だか言いがかりをつけられているみたいで、千鶴は春子に反論した。
「あれは村上さんに誘われたからやし。ほれに、高橋さんかて誘われたんじゃろ?」
「違うんよ」
「違う? ひょっとして高橋さんのこと誘わんかったん?」
「誘たよ。ほやのうてな、高橋さんは自分も山﨑さんと二人で遊びたかったんよ」
千鶴は絶句した。そんな子供じみたことは思いもしなかった。
「高橋さん、ほんまは自分も山﨑さんを家に呼んだり、一緒にお祭り楽しんだりしたかったんよ。ほれやのに、おら、何もわからんでな、山﨑さんと町で遊んだこと言うてしもたんよ」
春子の話を聞いた静子は、春子を羨んで泣いたと言う。
千鶴はうろたえた。どうして静子がそこまで自分と遊びたがるのか理解ができなかった。
「なして、うちなんか……」
「山﨑さんは自分のことそがぁ言うけんど、おらたちから見たら、山﨑さんは憧れやったんよ」
春子は大真面目な顔で言った。だが、千鶴は春子の言葉を受け入れられない。
「うちに憧れ? 嘘言わんでや」
「嘘なんぞ言わん。前にも言うたけんど、山﨑さんは他の人とは違う特別な存在じゃったけん」
「うちがロシア人の娘やけん?」
「ロシア言うんやのうて、日本と異国の両方の血が流れとるいうんが、がいなことなんよ。日本は外国に憧れて明治維新起こしたけんど、どがぁ足掻いたとこで外国人にはなれんぞな。ほやけど、山﨑さんは産まれた時から、半分は外国人じゃろ? ほれを山﨑さんが重荷に感じとるんはわかるけんど、おらや高橋さんにはな、山﨑さんは憧れやったし、同級生いうんは誇りやったんよ」
春子の話は千鶴を混乱させた。こんな自分をそんな風に見てくれていたなんて、とても信じられなかった。
「高橋さん、山﨑さんに自分の気持ちをわかって欲しいて、あがぁな態度を取ってしもたんやけんど、ほんまに悪いんは、このおらなんよ。おらがいろいろ喋って、高橋さんも山﨑さんも傷つけてしもたけん、何もかんも全部おらが悪いんよ」
静子の気持ちはともかく、どうしてあんな言動を取ったのか。静子がやったことは駄々っ子と同じである。子供たちに教える立場になる者が取るべき態度ではない。
とは言っても、もう済んだことである。静子を責める気などないし、静子を理解する必要もない。今の自分は山﨑機織の跡取りとしての道を歩み出しているし、春子も静子もそれぞれの道を行くだけだ。
「とにかく、もう終わったことやし、うちはこがぁしてちゃんと暮らしよるけん。もう何も気にせいでええんよ。ほんでも、二人がうちのことをそがぁ想てくれとったことは、感謝せんといけんね」
千鶴の言葉に、春子は首を横に振った。
「感謝してもらお思て言うとるんやないけん。ただ、おらも高橋さんも山﨑さんのこと傷つけてしもたんを、ずっと悔やんどるいうことを、山﨑さんに知ってもらいたかったぎりぞな。ほんまは、もっと早よに来るべきやったけんど、ここへ来るんは勇気がいったけん……」
「わざわざおいでてくれて、だんだんありがとう。ほんでも村上さん、もう鬼は怖ないん?」
千鶴の言葉に、春子は困惑したように下を向き、あれは自分が阿呆やった――と言った。
「確かに、あのお祓いのお婆さんが、村上さんに鬼が憑いとるて言うた時は、ぞっとしたぞな。ほんでも、おらより村上さんの方が、どんだけぞっとしたんかて思たら、そがぁなことは思われんて自分に言い聞かせたんよ。ほやけど、高橋さんに問い詰められた時に、鬼が平気やったんか、平気やとしたら村上さんにも鬼が憑いとるんやないんかて言われてな。おら……」
涙ぐむ春子に、もうええよと千鶴は言った。
「もう、ほれ以上は言わいでもええけん。うちは村上さんが鬼を怖がっとるんか知りたかったぎりなんよ」
「鬼は怖いけんど、山﨑さんに鬼が憑いとるとは思とらん」
「なして、そがぁ思うん?」
「ほやかて、山﨑さんにはお不動さまがついておいでるけん」
「お不動さま?」
「お不動さま、おらたちを風寄から松山まで運んでくんさったやんか」
春子が言っていることが、初め千鶴はよくわからなかった。しかし、すぐに進之丞のことだとわかると、笑顔で大きくうなずいた。
「風太さんのことじゃね?」
「ほうよほうよ。あの風太さんはお不動さまぞな。そのお不動さまが護ってくんさっとる村上さんに、鬼が憑くわけないけん」
千鶴は可笑しかったが、鬼が傍にいるのは事実である。だが、それは春子に話せることではない。千鶴の笑みはすぐに消えた。
春子は千鶴を見つめて訴えるように言った。
「おら、山﨑さんと一緒に町に遊びに行ったこと一生忘れんよ。山﨑さんと二人で遊びよった時、おら、鬼のことも忘れて、まっこと楽しかった」
千鶴は春子の言葉を疑わなかった。あの時は、自分も本当に楽しかった。
「ほうじゃね。村上さん、日切り饅頭、熱いでて注意したのに、がぶってかぶりついて往生したわいねぇ」
「まっこと、ほうじゃったほうじゃった」
春子と千鶴は笑い合ったが、いつしか笑いは涙となった。
「ほれじゃあ、おら、そろそろ去ぬろうわい。もう会うこともないかもしれんけんど、山﨑さん、立派なおかみさんになりや」
「だんだん。村上さんも子供らに尊敬される先生になってや」
春子と微笑み合いながら、千鶴は春子を部屋の外へ誘った。
札ノ辻停車場で電車を待っていると、お堀の南の角を電車が曲がって来るのが見えた。あの電車が来れば、春子ともお別れである。
「ほんじゃあ、元気でな」
「村上さんもな」
二人が名残惜しそうにしていると、大丸百貨店の方から、外廻りに出ていた進之丞が戻って来た。
千鶴が一人でないので、進之丞は忠七として声をかけて来た。
「おや、千鶴さん。こがぁな所で何を――」
千鶴に声をかけた進之丞を見て、春子が驚きの声を上げた。
「風太さん? 風太さんじゃろ?」
千鶴と一緒にいたのが春子だとわかった進之丞は、ありゃりゃと罰の悪そうな声を出した。
「これはこれは、村長さんとこのお嬢かな。こげな所でお会いするとは思いもしよらんかったぞな」
「ほれはこっちの台詞ぞな。風太さん、なしてここにおるんね? あれ? その着物、山﨑機織の着物やないの」
春子は問い詰めるような目を千鶴に向けた。
困った千鶴は、実はな――と言い、人手不足の店を助けてもらうことになったと説明した。だが、春子はその説明だけでは納得が行かないようだ。何故なら、風太は不動明王の化身なのである。
停車場まで来た進之丞に春子は言った。
「風太さん、おらの家にお金請求せんかったんじゃろ?」
「まぁ、いろいろ事情があって……」
「お父ちゃん、俥夫に風太いう奴はおらんて言いよったぞな。風太さん、ほんまは誰なん?」
「おら、村の嫌われ者やけん、ほんまのことは言えなんだんよ」
「嫌われ者? ひょっとして……」
眉をひそめる春子に、ほういうことぞな――と進之丞は微笑んでみせた。春子はうろたえた様子で、千鶴と進之丞を見比べた。
「ほやけど、なして――」
そこへ、ふぁんと音を鳴らして電車がやって来た。
止まった電車が扉を開けた。春子は電車に乗り込みながらも、千鶴たちに答を求める目を向けていた。
「あのな、うちら夫婦になるんよ」
千鶴は思い切って言った。
「いや、ほれはまだ――」
慌てる様子の進之丞に構わず、千鶴は言った。
「ほやけんな、うちのことは何も心配せんで。高橋さんにも会うことがあったら、うちのことは気にせんように言うといてな」
扉が閉まり、春子はガラスの向こうでうなずいた。本当はもっといろいろ訊きたいのだろう。でも、春子は笑顔で千鶴たちに手を振った。千鶴も春子に手を振り返した。
学校をやめた時のまま別れ別れになるのではなく、こうして春子と話ができたことは、千鶴には思いがけなく嬉しいことだった。
「わざに顔見せに来てくれたんか」
電車を見送りながら進之丞は言った。
千鶴がうなずくと、進之丞は訝しげに千鶴を振り返った。
「ところで、高橋さんとは誰ぞ?」
「え? うちの級友じゃった子よ」
「その子と何ぞあったんか?」
「いや、別に何もないけんど、うちのこと心配してくれよるみたいなけん」
千鶴がはぐらかすと、ほうなんかと進之丞は言って、見えなくなった電車に顔を戻した。
千鶴も電車が去った方へ目を遣ると、あ――と言った。春子に祠のことを訊くのを忘れていた。
「どがぁした?」
「いや、何でもないけん」
祠を気にしていると知られたくない千鶴は、笑ってごまかした。
「ほんじゃあ、去ぬろうか」
進之丞に言われて、千鶴は一緒に歩き出した。歩きながら静子のことを考えた。
あの時の静子の言動が、やきもちから来たもので本気でないのならと思うと、千鶴は静子が気の毒になった。だが、今は静子に会うことは敵わない。
今千鶴にできることは、静子も心の痛みを乗り越えて、新たな人生を歩んでくれるように祈ることだけだった。
三
四月になると、東京から辰蔵が戻って来た。
また、豊吉という新しい丁稚が加わった。新吉はすっかり兄貴気分である。
手代になった進之丞は、月初めに給金と休みをもらえるようになった。
同じ手代の弥七は給金をもらうと、町に活動写真を見に出かけるのが常だった。亀吉や新吉は活動写真なんか行けないので、あとで話を聞かせてもらいながら弥七を羨ましがった。
まだ丁稚扱いの孝平も、給金はもらえないし休みもない。それでも若造である弥七から活動写真の話など聞こうとはしなかった。
ただ給金と休みについては、やはり羨ましいようで、弥七が手土産なしに戻って来ると嫌味を言った。
一方、進之丞は給金をもらってもそれを使うことはせず、一日中ずっと店に残って千鶴の仕事を手伝った。
この日は花江も休みをもらうので、千鶴にしたら大助かりだし、進之丞と二人で仕事ができることが何より嬉しかった。
そのせいなのか、この日に町から戻った弥七は機嫌が悪く、今回は亀吉たちに活動写真の話をしなかったらしい。亀吉たちが話をせがむと、怒って口を利かなくなったそうだ。
また、手土産がないことを孝平からぐちぐち言われると、弥助は珍しく口答えをしたと言う。金が欲しいのなら、さっさと手代にしてもらえばいいと言ったらしい。
それに孝平が怒っても怯まず、外廻りに付いて来られるのも迷惑だとまで言ったそうだ。こんな弥助は誰も見たことがなく、さすがの孝平も、それ以上は何も言い返せなかったようだ。
孝平は千鶴と進之丞が一緒にいることも、面白くなかったみたいだった。しかし、甚右衛門やトミの目があるので、千鶴に嫌な態度は見せられず、進之丞に皮肉を言った。ところが、進之丞がまるで相手にしないので、罰が悪そうにするばかりだった。
松山では三月末頃から花見の季節だ。この頃になると、あちこちの店が臨時で店を休んで花見に出かける。
山﨑機織でも辰蔵が東京から戻るのを待って、みんなで花見に出かけたのだが、店を出る時に、進之丞は怪しい男がいるのに気がついた。
どうしても気になると進之丞が言うので、千鶴は進之丞と一緒に確かめることにした。
二人で店に戻って来ると、表の戸は鍵が掛けられたままだった。裏木戸も内から閂が掛けられているので、外からは開かない。
中には誰も入れないはずだが、進之丞は土塀越しにじっと中の様子を窺った。それから千鶴に待っているように言うと、ひょいと土塀を乗り越えた。
しばらくすると、知らない男の慌てたような叫び声が聞こえた。
それから少しすると奥庭に人の気配が聞こえ、裏木戸が中から開けられた。顔を出したのは進之丞で、千鶴に警官を呼んで来るよう頼んだ。その腕には気を失った男が抱えられており、空き巣だと進之丞は言った。
男が被った鳥打ち帽を見た千鶴は、男の顔を見せてもらった。はっきり覚えているわけではないが、風寄へ行った時の客馬車に一緒に乗り合わせた、あの鳥打ち帽の男に似ているような気がした。
そのことを話すと、対の男かもしれんなと進之丞は言った。
千鶴は急いで警察へ行き、警官を連れて戻った。すると、裏木戸周辺には近所の者たちが集まっていて、みんなが進之丞の手柄に感心していた。
警官は男を引き取ると、進之丞に大いに感謝した。警官の話によれば、やはり花見の留守に空き巣に入られた家があちこちにあったらしい。
進之丞が空き巣を捕まえた話は新聞にも載った。
記事によると、空き巣の男には横嶋つや子と言う仲間の女がいるそうで、警察ではつや子の行方を追っているようだ。
悪事を働いた者が仲間のことを訊かれても、そんなに簡単には喋らないものである。
それなのに男が早々と仲間の名前を白状したのは、自分だけ捕まったのは割に合わないと思ったのかもしれない。そうでなければ、警察の取り調べが余程厳しいものだったに違いない。
いずれにしても、まだ空き巣の仲間が残っているというのは、注意しなければならないことだ。ただ、女が仲間だというのが珍しいというか、何だか千鶴には引っかかっていた。
朝飯を済ませて、みんながいつものように動き出した頃、新聞を読んだ近所の者たちが次々に山﨑機織を訪れると、改めて進之丞を褒めた。また、空き巣を捕まえたことに誰もが感謝した。
同業組合の組合長もやって来ると、進之丞をべた褒めした。それから組合長は、女に騙されたという越智絣の主の話を持ち出し、騙した女の名前が横嶋つや子だったと思うと、甚右衛門に言った。
ほうなんかと甚右衛門は驚いたが、お茶を配っていた千鶴はもしやと思った。
千鶴が風寄の祭りを訪ねたあと、風寄でも空き巣が頻発し、井上教諭の叔父が二百三高地の女に騙された。今回捕まった空き巣があの鳥打ち帽の男だとすれば、横嶋つや子というのは、あの二百三高地の女だったのかもしれない。
その話を花江にすると、絶対にそうだと花江は言った。
花江は警察で話したらどうかと言ったが、半年も前のことだ。絶対にそうだという証拠もないので、千鶴は黙っていることにした。
しかし、もし考えたとおりであるならば、鳥打ち帽の男に狙われたという巡り合わせが、偶然と言うには奇妙な気がした。
四
進之丞はすっかり仕事に慣れたようだった。取引先の太物屋からも信頼を得るようになっていたが、空き巣を捕まえたことで人気者にもなっていた。
進之丞に刺激されたのか、てきぱきと働く弥七も太物屋との関係は良好で、甚右衛門から褒められることも多くなっていた。
それに対して、孝平はなかなかうだつが上がらず、早く手代にして欲しいと、しきりに甚右衛門やトミに訴え続けていた。
しかし、孝平は取引先から悪い印象を持たれていた。そんな状態では手代にしてもらえるはずがなかった。
一人前になって花江と一緒になろうと考える孝平は、手代にしてもらえないことに焦っているようだった。
花江の前では、自分はこのままでは終わらないと虚勢を張り、二人でここを出て一緒に店を持とうと、持ちかけたりもした。だが、花江が相手にしないので、孝平は次第に陰鬱になって行った。
孝平は時々一人で勝手に出歩くようになり、甚右衛門から厳しく叱責されても、同じことを繰り返した。
仕事ではあまり役に立たないので、孝平がいなくても誰も困ることはなかった。むしろ弥七や丁稚たちは、孝平がいないことを歓迎している様子だった。
それでも士気に関わることなので、今度勝手な真似をしたら店から追い出すと、甚右衛門は孝平に通告した。
それからしばらくは孝平はおとなしかったが、梅雨が明けた頃のある日、事件は起きた。
その日の朝、千鶴と幸子が台所へ向かうと、板の間でトミが一人で待っていた。
トミは千鶴たちに、今日は花江が手伝えないから、二人で朝飯の準備をするようにと告げると、脇にある階段を上がって行った。
下にいるのは丁稚の三人だけで、他の者は全員が二階にいるらしかった。
丁稚たちは毎朝井戸から、台所の瓶に入れる水を汲んで来てくれる。この日も亀吉たちが水を用意してくれていたので、千鶴は何があったのかと小声で訊ねてみた。
しかし、三人とも何があったのかは知らないらしかった。わかっているのは、朝起きた時に部屋の外で、孝平が自分の帯で縛られていて、その横で進之丞が見張っていたということだけだった。
つまり、昨夜孝平が縛られるような問題を起こし、それに花江も関わっているということなのだろう。
それだけ聞いて、千鶴はぴんと来た。
進之丞たちがいる部屋と花江がいる部屋は、向かい合った所にある。しかも花江は一人だけだ。
うだつが上がらず、花江にも相手にしてもらえない孝平が、力尽くで花江を物にしようとしても不思議ではない。
幸子も同じように考えていたようだが、とにかく食事の用意をしなくてはならない。二人で動き回っていると、辰蔵が階段を降りて来た。続いて進之丞と花江が姿を見せたが、祖父母と孝平は降りて来ない。
「迷惑かけちまったね。ごめんよ」
口早に千鶴たちに声をかけると、花江は急いで土間に降り、仕事を手伝い始めた。
辰蔵と進之丞は朝の挨拶をしただけで、それ以上は何も言わなかった。二人とも朝から疲れたような顔をしている。
「孝平の分はいらんけんな」
遅れて降りて来たトミは、それだけ言うと茶の間へ移った。
しばらくすると甚右衛門と孝平が降りて来た。
甚右衛門は不機嫌そうにむすっとしており、孝平は憔悴しきった様子で項垂れている。
甚右衛門は茶の間にいるトミの傍へ座ったが、孝平はそのまま土間へ降りた。
千鶴も幸子も何も知らないふりをして、いつものように動いた。花江も忙しくしていたが、ずっと孝平に背中を向けていた。
その背中に向かって、孝平は深々と一礼すると、甚右衛門とトミにも同じように頭を下げた。それから黙って奥庭へ出ると、裏木戸から外へ出て行った。
食事が始まっても、孝平は戻って来なかった。
使用人たちが食事をする板の間も、いつもなら誰かの声が聞こえるのだが、この日は一言も聞こえない。みんな黙々と食べている。
食事のあと、幸子が病院の仕事に向かい、千鶴が奥庭で洗濯をしていると、手伝うよ――と言って、花江が隣に来た。
「朝から妙な感じで驚いたろ?」
花江は明るく言ったが、表情は暗かった。
千鶴は返事に迷い、黙ってうなずいた。
「昨夜さ、嫌なことがあったんだよ」
やっぱりと千鶴は思った。
「あいつがさ、あたしが寝てる部屋に忍び込んで来て、あたしに襲いかかったんだ」
孝平は花江の寝込みを襲い、目を覚ました花江に、騒いだら殺すと言ったらしい。
真っ暗闇の中、とにかく花江は抗い、のし掛かる孝平を押し退けようとしたと言う。すると――。
「ふわっとね、あいつの体が持ち上がったんだ。あたし、思わず自分は力持ちだったんだって思っちまった」
花江は少し笑ったあと、自分が手を引っ込めても、孝平は宙に浮かんだまま藻掻いていたが、下には落ちて来なかったと言った。
まさか――と千鶴は思った。脳裏に浮かんだのは、鬼が孝平をつかみ上げている光景だ。闇から大きな手が伸びていたと、花江が言うのではないかと千鶴はびくびくした。
「あたし、とにかくあいつの下から逃げたんだ。そしたら、声が聞こえたんだよ」
「声? どがぁな声が聞こえたん?」
千鶴は顔から血の気が引く感じがした。花江が聞いたのは鬼の声かと疑っていた。だが花江は、忠さんだよ――と楽しげに言った。
「闇の中から忠さんの声で、孝平さん、こがぁな所で何しよんぞなもし――て聞こえたんだよ。それで、急いで行灯に火を灯したら、忠さんがあいつの腰の所で帯ひもを、片手でつかんで持ち上げてたんだ」
そうだったのかと千鶴はほっとした。それにしても進之丞は怪力である。前世でそこまで力持ちだったとは千鶴は記憶していない。だが、いずれにしても頼もしい限りだ。
「豊ちゃんみたいな子供を持ち上げるんならさ、あたしだって驚きゃしないよ。だけど、三十を過ぎたあの男だよ? 実際、上に乗られたあたしは、息ができないほどだったんだ。それをさ、ひょいって持ち上げてさ、あいつが暴れてても全然平気なんだよ」
花江は興奮したように喋った。孝平に襲われたことより、進之丞の力への驚きが勝っていたようだ。
進之丞は花江に迷惑をかけたと、孝平に代わって詫びを入れたそうだが、少しも息が切れた感じがしなかったと言う。
「そこへ辰さんが来てくれてさ、あたしが襲われたって言ったら、あいつのこと殴ろうとしたんだよ。そしたら忠さんが、手を出したらだめだって辰さんを止めてね。今晩は自分が見張ってるから、朝になったら旦那さんに、どうするかを決めてもらおうって言ったんだよ」
進之丞の判断は正しかっただろう。辰蔵が孝平を傷つけたなら、辰蔵もまた何かの咎めを受けた可能性があった。
そして、甚右衛門に判断を仰いだ結果が、孝平の放逐だった。
それで花江は安堵はしたものの、旦那さんやおかみさんに申し訳ないと思っていると言った。
あんな男でも甚右衛門たちにすれば息子である。その息子を追い出すのは、やはり親としてはつらかろうと言うのだ。
千鶴は花江を慰め、花江は一つも悪くないし、花江が無事だったことが自分は何より嬉しいと伝えた。
花江はにっこり笑うと、ありがとうと言い、進之丞の力の強さに改めて感心した。
「見かけじゃ絶対に辰さんの方が強そうなんだけどさ。男ってわかんないもんだよねぇ。しかもさ、あんなに強いのに、忠さんってちっともぶらないしさ。ほんとに優しいんだもんねぇ。千鶴ちゃんでなくたって、女だったら絶対惚れちまうよ」
進之丞を褒めてもらえるのは嬉しいが、最後の言葉はいただけない。花江も本気で言ったわけではないだろうが、千鶴の心は一瞬ざわついた。
五
孝平がいなくなったあと、甚右衛門は苦虫を噛み潰したような顔のことが多くなった。また時折鳩尾辺りに手を当てて顔をしかめ、目を閉じたままじっとしていることがあった。
伊予絣は足踏み式の織機を導入してから、生産能力は向上したものの、その分、織子の賃金は下がった。織子の士気は低下し、粗悪品が広く出回るようになったため、伊予絣の評判は落ちて行った。
評判が下がると売値を下げねばならず、それが伊予絣は安物だという評価を、余計に引き出すことになった。
同業組合では粗悪品の流通を防ぐため、組合で決めた基準以下の商品の売買を禁じていた。しかし、基準をぎりぎりで通過した、高級品とは言えない商品が多く、とても評判を取り戻すまでには至らなかった。
どれほど多くの絣を生産したところで、利益は以前よりも落ちてしまい、それがさらに織子の賃金を下げる要因となっていた。そんな悪循環に陥っていた伊予絣を泥沼から引き上げる策を、伊予絣業界は見出せずにいた。
そんな苦境に加え、今回の息子の不祥事である。甚右衛門の胃が痛くなるのは当然だった。
トミは心配して、医者に診てもらうように言ったが、甚右衛門は無駄な金は使わないと言い、こんなものは時間が経てば、すぐに直ると言い張った。
幸い帳場は辰蔵が仕切ってくれるので、甚右衛門はゆっくりすることができた。
甚右衛門が不調なので、トミは気丈に振る舞っているが、本当はトミも気落ちしているのに違いなかった。
千鶴はトミを気遣い、手が空いた時にはトミの肩を揉んだり、背中を擦ったりしてやった。
初めの頃はトミは涙ぐんだりしていたが、そのうち涙は見せなくなり、いつものトミらしくなった。
一方、甚右衛門の腹痛には、進之丞がどこからか薬草を採って来て、甚右衛門に煎じて飲ませた。
本当は一度干した方がいいのだけれどと進之丞は言ったが、薬草の効果はてきめんだった。薬を飲むと、甚右衛門の腹痛はけろりとよくなった。
その効果に甚右衛門は驚き、進之丞に感心した辰蔵は、忠七は薬屋になれるなと言った。
すると、甚右衛門もトミも忠七は手放さないと言い、ずっとここにいてもらうと宣言した。それは明らかに進之丞を千鶴の婿にするという意味である。
千鶴は嬉しさに胸が弾んだが、進之丞は謙虚に微笑むばかりだった。
東京を任された茂七は思った以上にがんばっているらしく、東京からの注文は徐々に伸びて来ていた。
また大阪からの注文も、甚右衛門の読みどおりに伸びていた。
みんなが汗だくになりながら懸命に働いた。
孝平がいなくなったことは次第に忘れ去られ、山﨑機織は孝平が現れる前に戻ったようだった。
以前に戻ったと言えば、あの鬱陶しい三津子も春以降は姿を見せなくなっていた。
幸子は少し寂しがっていたが、いつまでも三津子に付き合っている暇はないので、半分はほっとしているようにも見えた。
幸子の話では、三津子は道後で飲食の仕事をしているらしい。
三津子が来なくなったのは、きっと仕事が忙しくなったのだろうと幸子は言った。
しかし千鶴には、他人を思いやれない三津子が、まともな仕事をしているとは思えなかった。恐らく何か怪しい仕事をしていて、姿を見せないのもそのせいに違いないと考えていた。
八月の藪入りになると、弥七や丁稚たちは土産の反物を手に、それぞれの実家へ戻って行った。
辰蔵もいなくなり、花江は一人で町へ出かけて行った。
進之丞も上等の絣の反物をいくつも土産に持たされて、風寄の実家へ顔を見せに戻った。
藪入りは一日だけなので、朝出かけても夜には戻って来なければならない。それでも、風寄のような遠くから来ている者は、藪入りでも家に帰らず町で遊ぶことが多い。しかし、進之丞は客馬車代まで持たされて実家へ帰らせてもらった。まさに特別待遇である。
夕方戻って来た進之丞は、手代になったことや、客馬車に乗せてもらえるほど店で大事にされているということを、為蔵とタネが喜んでくれたと甚右衛門たちに報告した。
しかし、あとで千鶴にはこっそりと、風寄までの行き帰りを走ったことや、客馬車代としてもらった銭を、為蔵たちに渡して来たことを話してくれた。
また、二人が千鶴に会いたがっていると言われ、千鶴は涙が出るほど嬉しくなった。
六
秋になり、阿沼美神社の祭りが始まると、どこの店も仕事を休んで祭り見物をした。
山﨑機織も例外ではなく、店の者みんなで祭りを見に行った。
去年は風寄の祭りで千鶴も進之丞も孤独な思いをした。だが今は二人とも孤独ではない。
いつの間にか人混みの中で、千鶴と進之丞はみんなとはぐれて二人きりになった。周囲は祭りに夢中で、誰も千鶴たちに注意を払わない。喧噪が二人を守ってくれているようだ。
「あれから一年か」
男たちが担ぎ上げる神輿を眺めながら、進之丞はつぶやくように言った。
あれから一年というのは、二人が出会った風寄の祭りから一年が経ったという意味だ。
「今の世ではあしは祭りに交ぜてもらえんが、前の世ではお前が祭りに交ぜてもらえなんだ。覚えとるか?」
進之丞に言われ、千鶴は前世の記憶をたぐった。
ぼんやりと思い出したのは、法正寺の寺門から遠くの祭りの様子を、一人で眺めていたことだ。神輿を落として壊すのは、去年見たのが前世と今世を通して初めてのことだった。
うなずく千鶴に、進之丞は感慨深げに言った。
「前の世から、こがぁして二人で祭りを見られるのは、初めてのことぞな。あしはそのことが嬉しいが、また、怖い気もしとる」
「嬉しいんはわかるけんど、なして怖いん?」
「あしにはな、幸せ過ぎるんよ。お前と再び出会えた上に、こがぁして一緒におれるやなんて……。ほんまじゃったら、これは有り得んことぞな。ほれがあしには怖いんよ」
「ほやかて、これがおらたちの定めぞな。進さん、おらの幸せをお不動さまに願てくれたんじゃろ?」
「ほうやが、自分の幸せなんぞ願とらん。あしが願たんはお前の幸せぎりぞな」
「ほやけんよ」
「ほやけん?」
「進さんと一緒になれることが、おらの幸せじゃいうことやんか。そこんとこをお不動さまは、ちゃんとわかっておいでたいうことぞな」
「ほやけど、あしは――」
進之丞は喋りかけた口を噤んだ。
「ほやけど、何よ?」
「……あしはな、もう昔のあしやないんよ」
祭りの賑わいが二人の間を流れて行く。その喧噪が進之丞を連れ去りそうな気がした千鶴は、慌てて言い返した。
「何言うんよ。進さんは進さんやんか。ほれに、前の世と今の世で違う言うんなら、ほれはおらかて対ぞな。どこでどがぁな風に産まれようと、進さんは進さんぞな」
進之丞は何も言わず、黙って千鶴に微笑んだ。何だか憂いのある微笑みが気になった千鶴は、進之丞の腕を抱いて言った。
「とにかくな、お不動さまがこがぁしてくんさっとるんじゃけん、余計なこと考えんの。おらは進さんと一緒におれて幸せぞな」
そう言ってから、千鶴は慌てて手で口を押さえた。
「今の間違い。おら、幸せやけんど、幸せやないんよ」
ぷっと進之丞は小さく噴き出した。
「また、そがぁなこと言いよんかな」
前に同じことを言った時、進之丞は涙を見せたが、今回は笑っている。少し慣れたようだ。
「心配すんな。お前がまことの幸せをつかむまで、鬼はお前の傍におるけん」
「まことの幸せて、今よりもっと幸せいうこと?」
進之丞がうなずくと、千鶴は胸が高鳴った。それはきっと、晴れて進之丞と夫婦になる時のことだろう。だがその時には、鬼は千鶴の元を離れるのである。それを考えると、千鶴は悲しくなった。
そのことを話すと、仕方がないことだと進之丞は言った。
「鬼は所詮、鬼ぞな。前にも申したが、お前のような優しい女子の傍には、鬼はずっとおることはできんのよ」
「今、一緒におれるんなら、ずっと一緒におれるんやないん?」
「今おれるんは、お不動さまのご慈悲ぞな。お前の幸せを見届ける間ぎり、お前の傍におることが許されとるんよ。ほじゃけん、お前がまことの幸せになったなら、鬼はお前から離れるんが定めぞな」
「ほんなん……」
「これまで鬼は、ほれなりのことをして来たんぞな。お前への優しさぎりで、ほの罪が許されるわけやないけん」
項垂れる千鶴に、進之丞は続けて言った。
「お前が鬼を大事に思うんなら、誰に遠慮することなく幸せになるんぞ。ほれが鬼への供養になるけん」
「鬼への供養?」
顔を上げた千鶴に、進之丞は微笑んだ。
「お前が幸せなったんがわかったら、鬼は地獄へ戻されても生きて行けるじゃろう。ほやけん――」
千鶴は泣き出した。周りの者たちが目を向ける中、進之丞はうろたえた様子で、千鶴を違う所へ誘った。
「忠さん、いかんやんか。女子泣かすんはいかんことぞな」
振り返ると新吉がいた。亀吉と豊吉も一緒だ。
「忠さんが悪いんやないんよ。うちが勝手に泣いたぎりじゃけん」
千鶴は急いで涙を拭くと、笑顔で言った。
「なして泣きよったん?」
訊ねる新吉に、余計なことを言うなと亀吉が怒った。
「世の中、理不尽なことばっかしやけん、つい泣いてしもたんよ」
「りふじんて?」
新吉が訊き返すと、亀吉が鼻息荒く言った。
「お前、そがぁなこともわからんのか。りふじん言うたらな、りふじん言うたら、えっと――」
「道理に合わんことぞな」
豊吉がぽそりと言った。
亀吉は驚いて豊吉を見た。新吉も口を半分開けたまま、豊吉を見つめている。
「豊吉さん、賢いんじゃね」
千鶴に言われて、豊吉は恥ずかしそうに下を向いた。
「学校の成績、よかったんじゃろ?」
うん、まぁ――と豊吉は下を向いたままうなずいた。
「じゃ、じゃあ、道理って何ぞ?」
新吉が向きになると、物事の正しい筋道だと豊吉は答えた。
目を丸くする新吉を押し退けて、亀吉が言った。
「ほれじゃったら、因果応報はわかるか?」
ぎくりとした千鶴の横で、豊吉は言った。
「やったことに応じた報いがあるいうことぞな」
「豊さん、大したもんぞな。亀さんも新さんも負けられんぞな」
豊吉の頭を撫でながら進之丞は言った。
豊吉は照れ笑いをし、亀吉と新吉はもっと勉強すると誓った。その横で千鶴は動揺していた。
何故、ここで因果応報という言葉が出たのか。それはまるで、鬼の定めに抗うなと不動明王に言われているようである。
丁稚たちが進之丞と喋っている間、千鶴はひどく打ちのめされた気分だった。
思いがけない訪問者
一
年の暮れ、紙屋町にある伊予絣問屋の主が脳溢血で死んだ。
甚右衛門より三つ歳が若い店主だったが、甚右衛門と同じで後継者が決まっていなかった。そのため誰に後を継がせるかで、葬儀のあとで一悶着があった。
それがきっかけになったのか、甚右衛門は再び胃の痛みを感じるようになった。
甚右衛門は千鶴に店を継がせると決めている。だが実質は千鶴の婿になる者が店の主となる。
千鶴は進之丞が婿になり、山﨑機織の主になると信じているが、二人が夫婦になれるのはまだ先のことである。
千鶴が日切地蔵に願ったとおりになったとしても、それまでまだ二年ある。実際はさらに数年かかるかもしれない。
それまでの間、何事もなく全てが順調に行けばいいのだが、甚右衛門の身に何かがあれば大変だ。後継者が決まらないまま、店を動かさなければならなくなる。
それが現実になる恐れをひしひしと感じたために、甚右衛門は胃痛に苦しんでいるのに違いなかった。
以前に進之丞が採って来た薬草を乾燥させた物が残っていたので、それを煎じて飲むことで甚右衛門は腹の痛みを抑えていた。
だが後継者の問題が解決するまで、その煎じ薬が持つかどうかはわからなかった。
年が明けても甚右衛門の不調は続いた。
ある晩、みんなが寝る時間になったあと、甚右衛門は辰蔵を部屋へ呼んだ。
男たちが寝たあとも、女は遅くまで起きて縫い物をするのが常だった。だが、辰蔵が呼ばれると縫い物は中断され、千鶴たちは部屋へ引き取るようにとトミに言われた。
そのあとで甚右衛門とトミと辰蔵の三人は、何やら話し合ったようなのだが、何の話をしていたのかは誰にも知らされなかった。そんなことが幾晩かあった。
千鶴はそれを、恐らく後継者のことに違いないと考えていた。
年末からの甚右衛門の様子を見ていると、このような密会を開く理由は他には思いつかなかった。
もし今甚右衛門が倒れたら、すぐにでも店を任せられるのは、辰蔵をおいて他にはいない。
しかし、辰蔵は山﨑家の人間ではない。辰蔵に後を継がせるためには、山﨑家の女を妻にする必要がある。千鶴はそのことが気がかりだった。
確かに甚右衛門は進之丞を山﨑機織で雇ってくれた。千鶴と進之丞が好き合っているということも承知の上だ。
また甚右衛門もトミも進之丞を気に入っているのは事実である。二人が進之丞を千鶴の婿にと考えていたのは間違いないだろう。
だが、それは千鶴と進之丞が夫婦になるまでの間、甚右衛門が元気でいたらの話である。
いつ自分が倒れるかもしれないと不安になった甚右衛門が、初めの予定を変更することは有り得ないことではない。
それに千鶴に店を継がせるとは言われたが、進之丞を千鶴の婿にするとは、はっきり言われたわけではない。つまり、進之丞と千鶴が夫婦になる話は約束されたものではないのである。
約束されているのは、千鶴に店を継がせるということだけだ。そして、今すぐ後継者を決めるとすれば辰蔵しかいない。
そう考えると結論は一つだ。辰蔵を千鶴の婿にするのである。
祖父母が辰蔵だけと話をするのは、その旨を打診していたのに違いない。
辰蔵にすれば、店の後継者になれるのは願ってもない話だろう。
だが辰蔵は千鶴と進之丞の仲を知っている。進之丞のこともとても高く評価している。しかも辰蔵は情に厚い男だ。進之丞を押し退けて千鶴の婿になるという話に、そんな簡単に首を縦に振るとは思えない。
それでも店の状況を考えると、いつまでもは拒めないだろう。
もしかしたら今すぐとは言わなくても、甚右衛門に危険が迫った時には、千鶴と夫婦になるという約束が交わされたのかもしれなかった。
それであれば千鶴にも一言話があってもよさそうなものだが、どこの家でも娘の相手は一家の主が決める。相談など必要はなく、娘はそれに従うしかない。
鬼山喜兵衛を連れて来た時は、甚右衛門は千鶴への気遣いを見せていた。だが、店の危機が目前に迫っていると感じていたら、あの時のような気遣いを見せるとは限らない。
お前の婿は辰蔵に決めたと言われても、千鶴には逆らう権利はない。それでも逆らうとなれば、それはこの家を出るという意味であり、山﨑機織が他人の手に渡るということでもある。
何があっても進之丞と夫婦になる覚悟があるとは言え、実際にそんなことを決断するのは、とても恐ろしいことだ。
それでもこれは千鶴の勝手な推測である。何も言われていない以上、祖父たちは全く関係のない話をしていたのかもしれない。
千鶴は自分の心配を母に相談した。
だが幸子は千鶴たちの気持ちを知っている祖父が、そんなことをするはずがないと取り合ってくれなかった。
それで千鶴は進之丞にも相談しようと思ったが、進之丞は相変わらず忙しくて、なかなか二人で話をする暇がなかった。
二
「甚さん、おるかな」
同業組合の組合長が、店から茶の間の土間まで入って来た。
「どしたんぞ? そがぁな顔して。まだ胃の具合が悪いんかな」
仏頂面で白湯を飲んでいる甚右衛門を見て、組合長は心配そうな顔をした。煎じ薬がなくなり、甚右衛門は調子が悪い。
進之丞が新しい薬草を煎じてくれればいいのだが、この季節には欲しい草が手に入らないらしい。
トミは豊吉を連れて雲祥寺へ出かけており、甚右衛門は一人きりだった。
トミがいる時は、組合長は上がり框に腰を下ろすが、今はトミがいないからか、自分から茶の間へ上がり込んだ。
「今朝の新聞は読んだんか?」
「新聞? 今日は読む気になれんで、まだ読んどらん」
甚右衛門は喋るのも嫌そうだが、組合長は構わず話を続けた。
「ほうかな。ほれじゃったら、ちょうどええわい。実はな、日本がソ連と国交を結んだらしいぞな」
「ソ連と? ほんまかな」
「ほんまほんま。自分の目で確かめてみたらええぞな」
組合長に言われ、甚右衛門は部屋の隅に置いていた今朝の新聞を引き寄せた。
甚右衛門が新聞を読んでいる間、組合長は台所を振り返り、花江と一緒に昼飯の準備をしていた千鶴に声をかけた。
「千鶴ちゃんも無関係やない話ぞな」
「ソ連の話ですか?」
千鶴がちらりと組合長の方を見て言うと、ほうよほうよと組合長は言った。
「ソ連と国交結んだら、向こうと行き来でけるようになろ? ほしたら千鶴ちゃんもお父ちゃんと会えるやもしれまい」
「ほやけど、お父さんはうちが産まれたこと知らんですけん」
「ほんでも、ぶらっと松山を訪ねて来るかもしれんぞな。何せ、ここには千鶴ちゃんのお母ちゃんがおるけんな」
「そがぁなこと……」
まだ見ぬ父が突然訪ねて来る光景が、千鶴の頭に浮かんだ。
千鶴の想像を後押しするように、組合長は言った。
「有り得ん話やないで。幸ちゃんはまだ独り身やけん、縒りを戻して、正式に夫婦になるいうことかてあるじゃろがな」
「人の家のこと勝手に決めんでくれんかな」
じろりと上目遣いににらむ甚右衛門に、よもだ言うとるぎりぞな――と組合長は笑って応じた。
「お茶をどうぞ」
花江が湯飲みを差し出すと、組合長は喜んで受け取った。
いつもならこんな話を聞いた花江は、興味津々の顔を見せる。だが、何故かこの日は無表情だ。
しかし、組合長はそんなことなど気にすることなく、お茶を一口飲むと甚右衛門に言った。
「読んだか?」
「読んだ」
甚右衛門は面倒臭そうに答えた。
「どがぁ思う?」
「どがぁとは?」
「ほやけん、ソ連に伊予絣を売り込めるじゃろがと言うとるんやろがな。甚さん、前にもそがぁな話をしよったじゃろが」
甚右衛門は口を開けたまま組合長を見ていた。
以前に鬼山喜兵衛が提案していた、ソ連への伊予絣の売り込みの話を、甚右衛門はずっと忘れていたようだった。それを今改めて思い出したらしい。もう一度新聞に目を落としたあと、甚右衛門は興奮した様子で言った。
「ええやないか。ええ話ぞな」
「ほうじゃろ? そがぁなしかめ面しよる場合やないんで。わしは他の店の連中にもこの話をしよるんやが、みんなその気になっとらい。山﨑機織さんぎり遅れ取るわけにはいかんぞな」
「ほらほうじゃ。よう言うてくれた。早速、向こうの情報を集めにゃならんが、誰ぞわかる奴はおるんかな」
「ほれよ。幸ちゃん、ロシア人の好みとか、ちぃとでも知っとることあったら教えて欲しいんよ」
「なるほど。ほうじゃな。戻んて来たら確かめてみよわい」
甚右衛門は胃の痛みを忘れた顔で、白湯を飲み干した。
三
二月の初日、千鶴はたらいの前に進之丞と並んでしゃがみながら洗濯をしていた。
この日は日曜日で、いつもであれば幸子が千鶴を手伝うので、進之丞の出番はない。だが去年の春以来、姿を見せていなかった三津子が久しぶりに現れたため、幸子は外へ出かけて行った。そのお陰で、千鶴は進之丞と二人でいることができた。
千鶴は着物を洗いながら、日本がソ連と国交を結んだ話を進之丞にした。
進之丞はその話を辰蔵から聞いていたようで、千鶴の父親の国と関係がよくなるのはいいことだと言った。
前世では会えないと思っていた父親が、千鶴を探しに来たのだから、今世でも同じことがあるかもしれないと言われると、千鶴は動揺した。
千鶴は前世で自分の父親ときちんと会った覚えがない。進之丞が死んで自分も後を追ったので、親子の対面などしていないのだ。
それが今度は会えるかもしれないと、淡い期待ようなものが千鶴の頭を過った。しかし、そもそも父親が生きているかどうかも、千鶴にはわからない。
ロシアでは革命という大きな混乱が起きて、多くの人が死んだと聞いている。その中に父がいた可能性はあるわけで、そうであれば会えるわけがない。
父親のことを考えていたので、千鶴は黙ったままだった。そんな千鶴を横目で見ながら進之丞は言った。
「お前が父親に会えても会えんでも、今のお前には護ってくれる人がようけおる。そこが前とは違て安心ぞな」
「進さんもおるもんね」
千鶴は微笑みかけたが、今度は進之丞が黙っていた。
「進さん、どがぁしたん?」
千鶴が声をかけると、進之丞は千鶴に顔を向けた。
「話は違うが、お前が学校をやめたほんまの理由は何ぞな?」
突然、学校の話をされて千鶴は戸惑った。
「ほじゃけん、お店を継ぐことになって――」
千鶴が言い訳をしている途中で、進之丞は喋り始めた。
「昨日外廻り先でな、そこに来た客にお前のことを訊かれたんよ」
「おらのこと?」
「その客は若い娘でな。女子師範学校の卒業生じゃった。あしが山﨑機織の者やと知って声かけて来たんよ」
「ほうなん。いったい誰じゃろか?」
「名前までは聞いとらん。やが、お前の同級生じゃと言うとった」
「ほれで、その子は進さんに何ぞ言うたん?」
「みんながお前に鬼が憑いとると騒いだために、お前が学校をやめることになってしもて、申し訳ないことしたと言いよった。この話はまことか?」
「いや、ほれはな、その……」
「まことなんじゃな?」
観念した千鶴は小さくうなずいた。ほうか――と力なく言った進之丞の表情は暗かった。
「ほやけどな、おら、もう何も気にしとらんけん。鬼さんがおるんもちっとも迷惑やないし、鬼さんにもそがぁ言うたけん」
「ほんでも、お前が鬼のせいで学校をやめたんは事実ぞな」
「もう言わんで。そがぁなこと言いよったら、鬼さんが傷つくやんか。鬼さんのせいやのうて、おらが辛抱足らんかったぎりやし」
進之丞が黙ったまま着物をごしごししているので、千鶴は話題を変えることにした。ずっと気になっていた後継者問題だ。
定かなことではないとした上で、千鶴は年が明けてから、祖父と祖母が辰蔵と三人で、何やら話し合いを繰り返していると話した。
それから自分の心配を伝えたのだが、進之丞は他人事のように興味がなさそうな態度を見せるばかりだった。
それに対して千鶴が文句を言うと、そうだと決まったわけでもないのに、勝手に不安を膨らませるのは賢いやり方ではないと進之丞は言った。
それは確かにそのとおりなのだが、万が一の時にはどうするのかを、千鶴は確かめておきたかった。
そのことを言うと、進之丞は着物を洗う手を止めて言った。
「もしお前が思たとおり、旦那さんが辰さんをお前の婿にしよと思とりんさるんなら、ほれは仕方がないことぞな」
「仕方がないて……。進さん、ほれで構んの?」
「構うも何も、旦那さんが決めんさることやけん、あしにはどがぁもできまい」
進之丞の言い草に、千鶴は向かっ腹が立った。
「ちぃと進さん、何やのん、ほの言い草は」
「何を怒っとるんぞ? 仕方ないけん、仕方ないて言うとるぎりじゃろがな」
「おらのこと、そがぁ簡単にあきらめんさるつもりなん? 前は身分違いのおらを嫁にしようと奔走しんさったのに」
「前の世は、前の世ぞな」
何だか投げやりな言い方をしながら、進之丞は洗い終わった着物を物干しに干そうとした。
千鶴は立ち上がると、進之丞の手から着物を奪い取った。
「今の言葉、どがぁなつもりで言うたんね?」
進之丞は困惑した様子で言った。
「お前が言うたとおりになったなら、ほれが定めぞな。血ぃで穢れたあしには、お前を幸せにはできんいうことじゃろ。お前を幸せにするんは、あしやのうて辰さんじゃいうことぞな」
頭に血が上った千鶴は肩を震わせると、持っていた着物を進之丞に投げつけた。
「なして、そがぁなこと言いんさるん? おらがどがぁな気持ちになるんか、ちっとも考えておいでんのじゃね」
進之丞は悲しそうに千鶴を見つめた。うろたえた千鶴は進之丞から目を逸らして言った。
「定めやとか仕方がないとか、そがぁなことやのうて、進さんはおらが他の人の物になっても平気なん?」
「あしはお前が幸せになってくれるんなら、ほれでええ」
「おらのこと、そこまで好いておいでんてこと?」
「そがぁなことは言うとらん」
「言うとんのと対じゃろ?」
千鶴は項垂れて泣いた。
「千鶴」
進之丞は千鶴の肩に手を置こうとした。千鶴はその手から逃げて背を向けた。
「千鶴、あしはな……」
進之丞はそこで口を噤んだ。千鶴が背中を向けたまま黙っていると、進之丞はもう一度悲しげに言った。
「あしはな、もう昔のあしやないんよ」
千鶴は振り返ると、進之丞をにらんだ。
「そがぁなことわかっとるがね。わかった上で一緒になろて言いよんのに」
千鶴はもう一度進之丞から着物を奪い取ると、もう手伝わなくていいと言った。進之丞がしょんぼりしながら立っていると、さっさとどこにでも行ってと千鶴は声を荒げた。
進之丞が行ってしまうと、千鶴は濡れた着物を抱きしめてすすり泣いた。
いくら山陰の者とは言え、あそこまで自分に自信がないのかと、千鶴は進之丞を情けなく思った。
気持ちが落ち着かない千鶴は、進之丞への不満を心の中でぶちまけた。
進之丞が山﨑機織で働き始めて、もう一年が過ぎた。その間に進之丞は手代に昇格したし、取引先からの評判もいい。祖父母は進之丞を絶対に手放さないとまで言っている。
本当であれば、もっと胸を張ればいいし、自信を持てばいい。千鶴と一緒になれないのであれば、辞めさせてもらいますぐらい言えばいいのだ。
この店で世話になっているから、いろいろ言いにくいのはわかるけれど、どうしても言うべきことは言うべきである。それさえも言えないのは、やはり自信がないということなのだろう。
しかし逆に言えば、自信がない進之丞を燃え立たせるほどの魅力が、今の自分にはないということなのかもしれないと、千鶴はふと思った。
進之丞が自分のことを絶対に手放したくないのであれば、それなりの行動を取るはずである。だがそうしないのは、前世と比べると想いが褪せたということなのか。
ひょっとして風寄にいる育ての親が気になっているのだろうか、と千鶴は考えた。
本来は進之丞は為蔵の跡を継いで、風寄で履物屋をしていたはずだ。それを無理言って山﨑機織へ来てもらったので、進之丞が育ての親に対して、後ろ髪が引かれているというのはあるだろう。
その場合、もし千鶴と一緒になれないのであれば、進之丞はさっさとあきらめて風寄へ戻るつもりなのかもしれない。
だがそれは、今の進之丞が抱く千鶴への想いが、その程度だということだ。
千鶴は気持ちがざわついた。
前世で死に別れたところを、せっかくこうして再び出会うことができたのである。一年前、進之丞は千鶴と同じ屋根の下で暮らせることを、涙を流して喜んだ。
しかし一年間ともに過ごしたことで、却って気持ちが弱まったのであれば、それは自分のせいかもしれないと千鶴は不安になった。
そうだとすると、前世の自分と今の自分は何が違うのか。護ってくれる家族がそうなのか。あるいは店の跡継ぎという立場がそうなのか。
きっとその両方に違いないと千鶴は思った。
前世の自分は身寄りのない異人の娘だった。進之丞からすれば、何としても自分が護らねばと思うだろう。
だが、今の自分は異人の娘ではあるが、進之丞に護られる立場ではない。何が何でも自分が護るという気持ちは、進之丞の中にはないのかもしれない。
そこに加えて、お人好しと言われるほどの優しさや思いやりが進之丞にはある。それが甚右衛門やトミに対する義理堅さや、育ての親への気遣いとなって、二人の距離を引き離す力となっているということは、十分に考えられる。
千鶴はうろたえた。
進之丞は状況に逆らわない。千鶴と一緒になれるのであれば、そうするだろうし、なれないのであれば、それを受け入れるだろう。
辰蔵と夫婦にさせられそうになっても、山﨑機織の将来を気にしなければ、それを拒むことはできる。しかし、その時に進之丞が自分を受け入れるつもりがなければ、どうなってしまうのか。
それでは辰蔵との結婚を拒む大義名分がないことになる。そうなると、やはり辰蔵と一緒になるしか道がないということだ。
もう泣いている場合ではない。何とかしないと、進之丞と夫婦になる道が閉ざされてしまう。前世のような強い気持ちを、進之丞に取り戻してもらわなければならない。だが、どうすればいいのか。
千鶴は必死に考えた。だが、いくら考えてもいい方法は思い浮かばず、千鶴は抱えた洗濯物に顔を埋めた。
四
二月二十五日に、日ソ基本条約が批准された。
大正六年のロシア革命でソビエト政権が成立して以来、日本とロシアの間にあった国交は途絶えていた。それに代わる日本とソ連の国交が、今回新たに樹立したのである。
これに先駆けて、愛媛県ではソ連への特産品の輸出を計画していた。
県の意向を聞いた同業組合の組合長は、各絣問屋にその話を伝えて、どの商品を送るか選別をしていた。
組合長は風寄の絣を高く評価しており、ハルピンへ送る商品を山﨑機織からも用意して欲しいと、甚右衛門に頼んでいた。
ハルピンはソ連との国境近くにある中国の街で、多くのロシア系住民が暮らしている。
ソ連との国交が樹立したとは言え、すぐにソ連へ商品を売りに行くことはできない。そこでハルピンを介して、ソ連の住民に愛媛の商品を知ってもらおうと言うわけである。
甚右衛門が選別した品は、予定どおりハルピンへ送られることになり、甚右衛門はすっかり上機嫌だった。ただ、その機嫌のよさの理由はソ連への輸出のことだけでなく、後継者問題が解決したからかもしれなかった。
それについて、誰も本当のことを千鶴に教えてくれないし、千鶴も怖くて訊くことができなかった。
また、千鶴は進之丞とも仲直りができずにいた。
本当は進之丞の気持ちを、これまで以上に引きつけなければならないのに、進之丞へのいらだちが千鶴を真逆の行動に導いていた。
朝の挨拶もよそよそしいし、ちょっとした会話もできず、千鶴は自分に対して腹立ちを覚えた。それでも進之丞の顔を見ると妙に体が硬くなり、以前のような自然な振る舞いができなくなった。
一方、進之丞の方は何事もなかったかのように、千鶴に接していた。千鶴の態度にも腹を立てることもなく、いつもどおりに動いていた。
それは千鶴の態度を気にしていないということだろうが、千鶴の気持ちを全く理解できていないようにも見えた。それがまたちくりちくりと、千鶴のいらだちがしぼまないよう刺激するのだ。
そうは言っても、こんなことを続けていれば、さすがの進之丞も本当に愛想を尽かし、心変わりをするかもしれないという不安もある。
その不安が原因なのか、この夜、千鶴は妙な夢を見た。
楠爺の陰で、千鶴は女と会っていた。女は代官屋敷の女中で、進之丞の母親の世話をしていた。
この女中は進之丞たちに不審を抱き、そのことを千鶴に伝えに訪れていた。
女中は潜めた声で、あんたは進之丞さまに騙されとるんよ――と千鶴に話した。
千鶴はそんな話など信用しないが、進之丞はここのところ何日も会いに来ていない。千鶴を嫁にすると言ってくれはしたものの、その後、その話の進展はないままだった。
千鶴は女中に、どうしてそんな嘘をつくのかと質した。すると女中は、進之丞が千鶴とは別の嫁をもらうことになったと言った。
愕然とする千鶴に、妻を誰にするかは親が決めるけんね――と女中は気の毒そうに言った。
嘘じゃ嘘じゃと否定したものの、子供の結婚相手は親が決めるということぐらい、千鶴でも知っていることだった。ただ、進之丞があれほど熱心に嫁になって欲しいと言うので、その言葉を信じただけのことである。
女中は言葉を失った千鶴に、ほんでも進之丞さまはあんたを嫁にしようとはしたんよ――と慰めるように言った。
女中の話によれば、進之丞は千鶴を嫁にしたいと両親に申し出たらしい。
進之丞の父親も母親も千鶴は面識があり、どちらもとても優しい人だと認識していた。だから、二人が反対するとは思いもしなかったのだが、遊び相手と嫁を一緒にするなと、進之丞は二人から諭されたそうだ。
それでも進之丞は、千鶴以外の娘を嫁にはしないとがんばったらしい。だが進之丞は代官の一人息子だ。嫁をもらわねば、家系が途絶えてしまう。
そこで父親の代官は息子のために縁談話を持って来た、と女中は話した。
進之丞は見合いを嫌がっていたが、親の命令には逆らえない。会うだけだと言って、引き合わされた武家の娘はあまりにも美しく、芸事にも秀でていた。
進之丞はその娘に心が惹かれ、ついにはその娘を嫁にする話を承諾したのだと言う。
千鶴はそんな話など信じたくなかったが、言われてみれば有り得ることだ。自分が代官の息子の嫁になるという話の方が、遙かに現実味がないように思われた。
自分には親がおらず、村人からはがんごめと呼ばれて蔑まれている。そんな娘が侍の嫁になれるはずもない。少し考えてみれば、誰にでもわかることだ。
それを進之丞に言われてその気になって、有頂天になってしまったのだ。全く愚かなことであり、情けなく恥じ入るばかりだった。
そこへ女中のとどめの言葉が突き刺さった。それは進之丞の出世話である。
進之丞が嫁にしようとしている娘は、老中とつながりがあるらしい。
老中というのは城を動かすことができる権力者で、その娘と一緒になるというのは、老中に近づけるということだった。それは進之丞の出世を保証するものなのである。
普通に考えれば、進之丞が誰を選ぶかは一目瞭然だ。それに、千鶴はそのことで文句が言える立場にない。
千鶴は自分がとても惨めに思えた。
今日も進之丞さまはお屋敷で、その娘と仲良くしておいでるんよ――と女中は言った。
進之丞が美しい娘と肩寄せ合っているところが心に浮かび、千鶴はぽろぽろと涙をこぼした。
そんな千鶴を慰めながら、所詮男なんてみんな同じだと女中は言った。
さらに女中は続けて、本来ならばこんな話を伝えに来る義理ではないが、あまりにひどい話だったので、これは言わねばならないと思ったのだと喋った。
自分がここに来たことは誰にも言わないで欲しいと、女中は頼んだ。千鶴に喋ったことが知れたら打ち首になると言うのだ。
そこまでして来たのであれば、やはりこの話は間違いないのだろう。
千鶴は項垂れたまま、いつまでも泣き続けた。
夢から目覚めたあとも、千鶴は動揺が収まらずに肩で息をしていた。騙されたという悲しみの余韻が、胸の中で渦巻いている。
夢の話なのだから本気にすることはないのだが、千鶴はこれまでも何度か前世の記憶を夢で見ている。
この時も前世の自分が、この夢は本当にあったことだと告げていた。
一方で、進之丞が騙すわけがないと、千鶴は自分に言い聞かせていた。
祖父の話が間違いなければ、進之丞の父は自分を嫁に迎えるために、親友である武家の養女にする手筈を整えていたのである。それは夢の話とは真逆のことだ。
千鶴は困惑した。何が本当のことなのか判断ができなかった。
どちらも正しいのだとすれば、進之丞は結局は自分を選んでくれたのだろうが、一時的に他の娘に心を奪われたということになる。
魔が差したのか、状況に流されてしまったのかわからないが、いずれにしても、いかに進之丞でもそういうことは有り得るということだろう。
どうしてこんな嫌な夢を見てしまったのかと考えた時、千鶴は今の状況がこの夢を見せたのに違いないと思った。
今の進之丞は状況に逆らおうとはしない。千鶴と夫婦になるかどうかは状況次第なのである。
しかも千鶴との関係が悪くなっているこの時に、夢の話のように魅力的な娘が現れたなら、その娘に気を許すということは十分に考えられることだ。
千鶴はうろたえた。
辰蔵を婿にする話がどうなるのかはわからないが、少なくとも自分と進之丞の関係は良好に保っておく必要がある。
しかし、そうする機会は簡単には訪れない。ちょっとしたきっかけがあればいいのだが、進之丞の方からはそんな働きかけはしてくれそうにない。
素直に謝ればいいのかもしれないが、それは状況次第という進之丞の考えを認めることになってしまう。
どうしようという焦りばかりが、千鶴の胸の中を駆け巡っていた。
五
三月の初日は再び日曜日だった。
日曜日でなければ、千鶴が進之丞と二人きりになれるいい機会になっていた。しかし、日曜日は病院の仕事が休みの母がいる。
幸子は先月、三津子に誘われて出かけたので、今度こそは千鶴を手伝うと意気込んでいる。当然、進之丞の出番はない。
することがない進之丞は、幸子に勧められて町をぶらりと歩いて来ることになった。
だが、それは千鶴を心配にさせた。町に出かけた進之丞が、どこで悪い女に引っかかるかと思うと気が気でなかった。
千鶴と二人で洗濯を始めた幸子は、ふと千鶴に話しかけた。
「あんた、忠さんと喧嘩でもしたんか?」
突然そんなことを言われて、千鶴はうろたえた。
「別に喧嘩なんぞしとらんけんど、なして?」
「何か、ここんとこあんたらがよそよそしいに見えるけんな」
よそよそしくしているのは千鶴である。ただ、千鶴の態度に進之丞が反応を示さないことも、よそよそしく見えたのかもしれない。
「別に、いつもどおりにしよるつもりなけんど」
「ほうなんか。お母さんにはそがぁには見えんぞな」
千鶴が黙っていると、幸子は言った。
「何があったんか知らんけんど、忠さんはあんたの恩人じゃろ? ほれに、あんたの求めに応じてここへおいでてくれたんで。ほんまじゃったら、風寄で履物の仕事を受け継ぐはずやったのに、忠さんは――」
「わかったけん、ほれ以上、言わんで」
千鶴は母の言葉を遮って言った。
「お母さんが言うとることは、うちかて全部わかっとる。ほやけどな……」
そこで千鶴は口を噤んだ。
「ほやけど、何?」
続きを促されたが、言葉が出て来ない。母に言うべきことなのかもわからないし、何から話せばいいのかもわからない。
言葉の代わりに涙がこぼれた時、大変ぞな!――と叫びながら新吉が走って来た。すぐ後ろに豊吉がついて来ている。
丁稚たちはトミに字を教わっていたはずだ。トミに何かがあったのだろうかと、千鶴と幸子は立ち上がった。
「幸子さん、千鶴さん、大変ぞな」
二人の前に来た新吉は、驚いたような顔で言った。
「大変て、何が大変なん?」
幸子が訊ねる間に、千鶴は急いで涙を拭いた。
「あのな、おいでたんよ!」
「おいでた? 誰が?」
「ほやけん、おいでたんよ。組合長さんが連れておいでた」
「ほやけん、誰がおいでたん?」
幸子は落ち着いた様子で、繰り返し訊ねた。しかし、新吉はうまく説明ができないようで、後ろにいた豊吉が代わりに言った。
「外国の人がおいでたんぞな」
「外国の人? はて、誰じゃろか」
「さちかさん、おいでますかて言うとりんさった」
「さちかさん?」
「お母さんのことやないん?」
千鶴が言うと、幸子ははっとした顔になった。
「嘘! まさか……」
幸子は手を拭きながら、そわそわした様子で店の方を見た。
「ひょっとして、お父さん?」
千鶴の胸の中がざわめいた。
千鶴を見たあと、幸子は小走りに家の中へ入って行った。千鶴もその後を追い、新吉と豊吉が続いた。
茶の間にも台所にも誰もいない。だが土間の先の店からは、大勢の人の声が聞こえて来る。
帳場へ行くと、帳場の脇にトミと亀吉が立っていた。帳場には辰蔵の代わりに甚右衛門が座っており、店の入り口には同業組合の組合長と、杖を持った異国の男が立っていた。
組合長はずんぐりした体つきだが、異国の男は細身で背が高い。その対比が、ただでも目立つ異国の男を尚更際立たせていた。
日本人と異なる容貌なので、男の年齢はよくわからない。顎髭を生やしているので、歳を取っているようにも見える。だが、顎髭を勘定に入れなければ、四十は過ぎていないかもしれない。
店の外は黒山の人だかりだった。この辺りの人間が全員集まったのではないか、と思われるほどの野次馬だ。
「サチカサン、ドカ イルゥ? サチカサン、アイタイネ」
男はしきりに甚右衛門に訴えるが、甚右衛門は驚いているのか、事情がつかめないからか、目を丸くしたまま黙っている。
「甚さん、幸ちゃんのこと言うとるんじゃけん、会わせてやれや」
組合長が取りなすように言ったが、甚右衛門は男をじっと見るばかりだ。この男が幸子を孕ませたのかと思っているのか、驚いたままの顔には怒りが透けて見えそうだ。
トミの後ろから男を見た幸子は、両手で口を押さえて悲鳴のような声を出した。その声を聞いて幸子に顔を向けた男は、喜びの笑みを浮かべた。
「サチカサン? サチカサンネ? アイタカタ!」
男は杖を落とすと両手を広げ、右足を少し引きずりながら、幸子の方へ来ようとした。だがその前に、幸子の方が男の胸に飛び込んだ。
幸子は男に抱かれながら号泣し、男は愛おしげに幸子に頬ずりをしたり、頬や首筋に口づけをした。
男は千鶴の父親に違いない。
初めて見る父親に千鶴は圧倒されていた。心の準備ができていないので、どう反応していいのかわからなかった。
ひとしきり幸子を愛おしんだ父親は、千鶴に気がついた。
「サチカサン、コノ、ムズゥメサン――」
「あなたの娘ぞな。千鶴て言うんよ」
幸子は千鶴を振り返ると、お父さんやで――と言った。
間近で見る男は、髭を除ければ千鶴とよく似た容貌だった。やはり父親なのは間違いないようだ。
それでも千鶴はうろたえていた。喜べばいいのだろうが、あまりにも突然のことなので、頭の中が混乱して喜ぶどころではない。
一方、男の方は自分の娘がいたということで、感極まったような顔をしている。じわりと涙ぐむと、手を広げながら千鶴に近づいて来た。
「アナァタ、ヴァタァシナ、ムズゥメ。ヴァタァシ、アナァタナ、オトォサン」
どうしようどうしようと思っているうちに、千鶴は男に抱きしめられていた。抗うこともできず、頬に口づけをされ、何度も頬をこすりつけられた。
幸子と千鶴が男に抱かれている間、甚右衛門もトミも呆気に取られたように、その様子を眺めていた。
亀吉と新吉は口をあんぐり開けたまま、大きく見開いた目で千鶴たちを見ていたが、豊吉は両手で目を隠していた。
「幸ちゃん、その人な、まだ甚さんらに挨拶済んどらんのよ」
組合長が言うと、幸子は慌てて男に自分の両親を紹介した。
男も甚右衛門やトミが幸子の親だとはわかっていなかったらしい。うろたえた様子で二人に自分の非礼を詫びた。
「ヴァタァシヴァ、ミハイル・カリンスキー。ニホン、ロォシア、タタカウ。ヴァタァシ、ホリヨネ。ホンデ、マツゥヤマ、キタ。サチカサン、ヤサシカタ」
辿々しい言葉で話しかけながら、ミハイルは甚右衛門に握手を求めた。甚右衛門は渋々手を出し、ミハイルと握手をした。
続いてミハイルはトミにも名を名乗って握手をしたあと、身を屈めてトミを抱きしめた。
トミは慌てたが、甚右衛門も大慌てだ。甚右衛門は立ち上がり、人の女房に何をするかと怒鳴った。
ミハイルは甚右衛門よりかなり背が高いので、甚右衛門は帳場に立って、ようやくミハイルと目線の高さが同じになった。
怒りを示すにはその方がいいのだが、ミハイルは甚右衛門の怒りを意に返していないようだった。甚右衛門の傍へ行くと、ぎゅっと抱きしめた。
甚右衛門は目を白黒させて藻掻いたが、大男のミハイルに抱かれて、身動きが取れない。ミハイルに頬擦りをされて死にそうな顔をした。
組合長が大笑いすると、トミまでもが笑い出した。
千鶴たちも笑うと笑いは店の外まで広がり、甚右衛門は真っ赤になりながら組合長に怒鳴った。
「見世物やない、表の連中を何とかせぃ!」
組合長は尚も笑いながら、外にいた者たちに自分の店に戻るよう促した。
野次馬たちは名残惜しそうに散って行ったが、少し離れた所に一人だけ立っている者がいた。
組合長はその若い男を手招きして呼んだ。
恥ずかしそうにしながら入って来た男は、ミハイルと同じく異国人だった。
「コレェ、ヴァタァシナ、ムズゥカ」
ミハイルはこの若い男を息子だと言っているらしい。
紹介された男は、ミハイルよりはわかりやすい日本語で挨拶をした。
「初メマァシテ。ヴァタァシヴァ、スタニスラフ、デズゥ」
スタニスラフは甚右衛門に握手をし、幸子やトミと抱き合った。
息子がいるということは、ミハイルはロシアで結婚をしたということである。そのことを悟ったであろう幸子は、スタニスラフを嫌がらず、素直にミハイルの結婚を祝福した。
ミハイルは少し困惑した様子で、ダンダン――と言った。
スタニスラフに見つめられた千鶴は、次にスタニスラフが何をしようとしているのか、すぐにわかった。父親と同じことをするつもりに違いない。
父親の息子ということは、スタニスラフは千鶴とは腹違いの弟になるわけだ。姉弟で抱き合うことは、別に悪いことではないかもしれない。しかし、日本人は人前でそんなことはしないし、千鶴にとってスタニスラフは、ただの初対面の若い男である。
千鶴は逃げようと思ったが足が動かない。蛇ににらまれた蛙のように固まっていると、いつの間にかスタニスラフの腕の中にいた。
こんな所を進之丞に見られたらと思いながら、スタニスラフの肩越しに店の外へ目を遣ると、そこに進之丞が立っていた。
じっと見つめる進之丞の目が何だか悲しげに見え、千鶴は泣きたくなった。
ロシアの家族
一
甚右衛門は進之丞に帳場を任せると、ミハイルたちを奥の部屋へ通した。
先に茶の間に上がった甚右衛門とトミは、ミハイルたちにも上がるよう促した。
すると、スタニスラフが土足のまま上がろうとしたので、ミハイルが注意をし、靴を脱いで手本を示した。
スタニスラフは千鶴に向かって恥ずかしそうに笑うと、ミハイルに倣って靴を脱いだ。
千鶴は幸子にも座るよう促すと、お茶の用意を始めた。
幸子はトミの隣に座ったが、ミハイルたちが慣れない正座をしようしていたので、足を崩すように言った。
特にミハイルは足が悪いので、正座のような坐り方はむずかしいし、苦痛に違いなかった。
しかし足を崩すという意味が、二人にはわからないようだった。そこで甚右衛門が正座をやめて、胡座をかいたり足を伸ばしたまま座ってみせた。
ミハイルたちは安堵したように微笑むと、それぞれ好きなような坐り方をした。
「ほれで、二人はここをどがぁして知ったんぞな?」
甚右衛門が訊ねると、ここを誰に教えてもらったのかと幸子が言い直した。
「ヴァタァシ、ドガオセン、イク。チカクゥ、コエン、ズゥズゥキセンセ、オタネ。ズゥズゥキセンセ、サチカサン、カミヤチヨ、イルゥ、アシエタ」
「鈴木先生?」
幸子が懐かしそうに言うと、ソゥソゥとミハイルは嬉しそうにうなずいた。
幸子はミハイルが道後公園で、捕虜だった時に世話になった鈴木という軍医に出会い、紙屋町に自分がいることを教えてもらったらしいと、甚右衛門たちに説明した。
続けて幸子は、鈴木医師は敵や味方の区別なく患者を診る、人間味のある先生だったと言い、千鶴を身籠もった時も、いつもと変わらぬ態度でいてくれたと、しみじみと話した。
その話をスタニスラフがロシア語に直してミハイルに話して聞かせると、ミハイルは大きくうなずき、伸ばした右足を撫でながら言った。
「ズゥズゥキセンセ、タテモ、エェヒタネ。ヴァタァシ、アシ、ナオシタネ」
「鈴木先生はいい人で、ミハイルの足を治してくれたって」
幸子が言い直した言葉に甚右衛門たちがうなずくと、ミハイルは言った。
「サチカサン、タテモ、ヤサシカタ。ヴァタァシ、アルゥクゥ。サチカサン、ズト、イシヨーネ」
ミハイルが歩く練習をする時は、いつも一緒にいて励ましてあげたと、幸子は恥ずかしそうに説明した。
二人ののろけ話を聞かされていると思ったのか、甚右衛門は眉間に皺を寄せた。
「その話はわかったけん。ところで、お前さん方はいつ日本へおいでたんぞな? 日本とソ連は国交を始めたばっかしやのに、ちぃと早過ぎるんやないんかな?」
甚右衛門の問いかけを幸子が簡単に言い直し、それをスタニスラフがロシア語に直してミハイルに伝えた。
ミハイルはうなずくと片手の三本指を立てて、日本に来たのは三年前だと言った。
しかし、詳しい説明はミハイルには難しいようだったので、代わってスタニスラフが喋った。
「僕タチ、ウラジヴァストクニ、住ンデマァシタ。ダァケド、ロォシアヴァ、共産党、支配シテマズゥ。共産党ニ、ツカマァルト、僕タチ、殺サァレマズゥ。サレェデ、日本ヘ、逃ゲテ来マァシタ」
千鶴がみんなにお茶を配ると、ミハイルは嬉しそうに微笑み、スタニスラフは恥ずかしそうに笑った。
お茶を配り終えたあと、千鶴が幸子の隣に座ろうとすると、幸子はミハイルの隣に座るようにと言った。
ちらりと千鶴が祖父母を見ると、二人とも構わない様子だ。それで仕方なく、千鶴はスタニスラフとは反対側の、ミハイルの隣に座った。
向かいにいるのは甚右衛門なので、千鶴は何とも居心地が悪い。それでもミハイルは千鶴の肩を抱き、自分の喜びを表現した。
また、スタニスラフも自分の父親越しに千鶴を見て、千鶴と目が合うと嬉しそうに笑った。
だが、千鶴は二人に対して愛想を振りまくわけにもいかず、祖父の前で小さくなっていた。
「ところで、ウラジバストクいう所は、どこにあるんぞな?」
首を傾げるトミに、ウラジオのことだと幸子が言った。
ウラジヴァストクは日本海に面したロシアの港町で、日本ではウラジオストクあるいは、ウラジオと呼ばれている。
日露戦争前には多くの日本人が暮らしていたが、戦争が始まるとほとんどが日本に引き揚げて来た。しかし、戦争が終わると再びウラジオストクへ移り住む者が増えていた。
一方、大正三年に始まった世界大戦の最中に、ロシアでは革命が起こり、共産主義を掲げる勢力が国中に広がった。逆らう者は容赦なく粛正されるので、多くのロシア人がハルピンやウラジオストクへ逃げていた。
ミハイルたちも共産主義から逃れて、ウラジオストクに避難していた。しかし、革命軍である赤軍が迫っていたので、その前に日本ヘ逃げて来たと言う。
多くのロシア人は中国へ逃げたが、ミハイルは幸子がいる日本を選んだのだと言った。
ウラジオストクと福井県の敦賀の間には、明治三十五年以来、定期航路が設けられている。ミハイルたちはその船で敦賀に渡ったあと、他のロシア人たちと一緒に横浜へ向かったそうだ。
何故、松山へ来なかったのかと言うと、松山へ来る道がわからなかったことと、妻が怯えきっていて、それどころでなかったのが理由らしい。
ミハイルには二度目の日本でも、妻にとっては初めての国だ。しかも母国を追われての来日なので、ずっと不安だったようだ。
それで他のロシア人たちと共に行動し、アメリカへ渡る船が出る横浜へ行ったと言う。
しかし一昨年の秋、関東が大地震で壊滅すると、ミハイルたちは神戸まで逃げて来た。度重なる不運にミハイルの妻はすっかり参ってしまい、ずっとふさぎ込んでいるらしい。
神戸からはヨーロッパへ向かう船が出ている。それで妻が日本を出てヨーロッパへ行くことを望んだので、その前に松山を訪ねることにしたとミハイルは言った。もちろんミハイルの言葉はスタニスラフが補足して説明した。
「戦争のあと、国では革命で住めんなって、こっちへ来たら今度は大地震かな。踏んだり蹴ったりとはこのことじゃな。ほら、難儀なことやったじゃろ」
甚右衛門がねぎらうと、トミも気の毒そうにうなずいた。
幸子とスタニスラフの仲介で、甚右衛門たちの話を理解したミハイルは、神妙な面持ちで頭を下げた。それから、にっこり笑って言った。
「マツゥヤマ、カヴァラナァイ。マツゥヤマ、エェトコネ」
だんだん――と微笑む幸子に、ミハイルは言った。
「サチカサン、マダ、カンゴフサン」
「ほうなんよ。今も、病院で働きよるんよ」
ミハイルは喋るのは片言だが、幸子の言葉はわかるのか、にこにこしてうなずいた。
今度はスタニスラフが身を乗り出し、ミハイル越しに千鶴に話しかけた。
「千鶴サンヴァ、誰デズゥカ」
「誰?」
言われていることの意味がわからず、千鶴は戸惑った。
すると幸子が笑いながら、仕事は何かと訊いとるんよと言った。幸子の話では、ロシア語では仕事を聞く時にも、「誰」という言葉を用いるらしい。
また日本語のように質問する時に言葉尻を上げないので、訊かれている方は質問されているとはわかりにくいと幸子は話した。
日本語とロシア語の違いに甚右衛門もトミも苦笑した。二人は言葉の違いに面白さも感じていただろうが、互いを理解することのむずさしさに困惑しているようでもあった。
自分の訊ね方が悪かったと悟ったのだろう。スタニスラ