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白い靄

      一

弥七やしちさん、せっかくなけんど、これ、うち、もらえんぞな」
 弥七を奥庭へ呼んだ千鶴ちづは、先に弥七から渡されていたべっ甲のくしを、弥七に返そうとした。
 しかし、弥七はそれをすぐには受け取らず、何故受け取らないのかと理由をただした。
 千鶴は少し迷ったあと、受け取る理由がないと言った。
饅頭 まんじゅううて来て、これあげる言うても、受け取る理由がない言うて断るんか?」
「饅頭ぐらいならもらうけんど、べっ甲の櫛は高過ぎるぞな。ほれに櫛は女子おなごにとって特別なもんじゃけん、そがぁ簡単にもらう物やないんよ」
「ほれじゃったら、どがぁしたらもろてくれるんぞ?」
 弥七は意地になっているようだ。しかし、どうしたって千鶴はもらうつもりがない。どう言えばわかってもらえるのかと悩んだが、やはり花江に言われたとおり、はっきり言うしかないようだ。
「特別なもんいうことは、うちと弥七さんの関係が特別やないといけんいうことぞな」
忠七ただしちやったら受け取るんか?」
 弥七はにらむように千鶴を見ながら言った。その目のいろは明らかに進之丞へ しんのじょう の嫉妬だ。
たださんはこがぁなことはせん」
「こがぁなこと?」
「物で女子おなごぃ引くような真似はせんて言うとるんよ」
 弥七は半分開いた口を動かそうとしたが、口元が震えるばかりで声は出なかった。
 千鶴の手から櫛を奪うように取ると、弥七は肩をいからせながら家の中へ入って行った。
 千鶴はとても嫌な気分だったが、それでもすっきりした気もしていた。
 このあと弥七がどうするのかは、弥七が決めることだ。もし店を辞めると言われたら、祖父母は困るだろうが、その時はその時である。場合によっては、自分が弥七の代わりをする覚悟が千鶴にはあった。
 弥七が姿を消した勝手口を見つめながら、次はスタニスラフだと千鶴は思った。

 筆を手に持ちながら、スタニスラフにどう伝えようかと、千鶴はいろいろ考えた。
 曖昧あいまいな表現をすれば再び誤解を招く。スタニスラフが傷つくかどうかは二の次で、とにかく言いたいことをはっきり伝えようと千鶴は思った。
 これまでも自分の気持ちはお伝えしたつもりでしたが、誤解をされているようなので改めてお伝えします――と前置きをしてから、自分には好きな人がいて、その人と結婚することになっていると千鶴は書いた。
 その相手は山﨑機織で やまさききしょく 働く人で、将来は二人で店を継ぐことになっているとまでつづったが、果たしてそれでスタニスラフが納得してくれるかはわからなかった。
 さらに、スタニスラフと過ごした時は楽しかったけれど、一緒になることはできないし、松山を離れることもしないと伝え、自分よりももっと素敵な人が見つかるはずだから、自分のことは忘れて欲しいと書いた。
 そこまで書いてから、千鶴はまだ書き足らない気がした。このままでは、これまで伝えたことと変わらないように思える。
 何が足らないのか。それはスタニスラフに対して、やめて欲しいという強い言葉だと千鶴は考えた。それで最後に、手紙を送って来られても困るので、もう送って来ないで欲しいし、自分が書く手紙はこれが最後だと書き添えた。
 これでスタニスラフは拒絶されていることに、気がつくに違いない。スタニスラフの悲しむ顔が思い浮かぶと、罪悪感を感じてしまう。だが、これでいいのだと自分に言い聞かせて、千鶴は手紙に封をした。

 手紙は紙屋町に かみやちょう ある郵便箱へ投函とうかんした。もう郵便局へ行くほどの想いは千鶴にはなかった。
 郵便箱に手紙を落とし入れながら、千鶴はスタニスラフが自分をあきらめてくれることを願った。
 また、これで進之丞のことに専念できると、千鶴は気持ちを新たにした。
 鬼の救いが何であるのか、未だに答えは見い出せていない。
 前世で千鶴をさらおうとした鬼が、千鶴の優しさが欲しかったという事実は、救いを見つける大きな手がかりに思えた。
 しかし、千鶴が鬼に優しくしても、あるいは鬼が千鶴に優しくしても、鬼の罪は許されない。優しさのさらに向こうにあるものが、千鶴にはわからなかった。
 それでも進之丞を人間に戻す手がかりを手に入れたことで、千鶴は前向きになっていた。
 家に戻って花江と家事をこなしながらも、千鶴は考え続けた。
 ちゃではトミが縫い物をしている。甚右衛門じんえもんは隣の組合事務所へ出向いていてここにはいない。
 昼に食べる味噌みそしるを作っていた千鶴は、鍋に刻んだ菜っ葉を入れながら、ひょっとして――と思った。
 ――しんさんはおらを助けるために、がんごと何ぞ取引をしんさったんやなかろか。
 進之丞は自身が鬼になったことで、鬼を説得することができたと言った。そのことを千鶴は進之丞が鬼になってしまい、結果的に相手の鬼を説得することができたのだと受け止めていた。だが、本当にそうなのかと今は思い直している。
 人が時に鬼になってしまうことがあっても、何も好き好んで鬼になるわけではない。いつの間にか鬼になってしまい、そのことで苦しむのである。だから、わざわざ自分から鬼になる者などいないと千鶴は考えていた。
 ところが、進之丞が言ったことを改めて思い返してみると、進之丞は自ら進んで鬼になったのではないかと思えて来る。
 もちろん進之丞とて理由わけもなく鬼になろうなどとは考えたりはしない。自ら鬼になったのであれば、それなりの理由があるはずだ。そして、その理由はある。それは千鶴を助けるということだ。
「千鶴ちゃん、早く味噌を入れないと、お鍋が沸いちまうよ」
 花江に声をかけられて、はっとなった千鶴は鍋を見た。鍋の菜っ葉はすでに煮え、湯の動きが速くなっている。
 千鶴は急いで味噌を鍋に入れると菜箸さいばしで溶いた。そうやって手を動かしながらも、頭の中は進之丞が鬼になった状況を考えている。
 たとえば、千鶴をさらった鬼が千鶴を手放す代わりに、進之丞にも千鶴と夫婦になる道を、鬼になって捨てさせたのかもしれない。あるいは、鬼には鬼の苦しみがあるわけで、千鶴を返してほしくば、己も鬼の苦しみを知れと、鬼が進之丞に迫った可能性もある。
 すでに致命傷を受けていた進之丞は、そうする他に鬼が千鶴に取りくのを防ぐ手段がなかったとすれば……。
 菜箸を持つ千鶴の手が止まった。
 以前に進之丞が語ってくれたことを、千鶴は思い出した。
 慈命和尚はじめいおしょう 進之丞に、鬼は力尽くで言うことを聞かせようとしても無理だと言った。千鶴を救うためには、鬼を説き伏せるしかないと和尚は告げたのである。だが、鬼は人の話になど耳を貸さない。では、どうすれば鬼を説き伏せることができるのか。
 そういうことだったのかと千鶴は思った。
 きっと千鶴を攫った鬼は、進之丞が鬼になる覚悟はないと見ていたのだろう。ところが進之丞は千鶴を救うため、自らを犠牲にして鬼になる道を選んだ。それに鬼は感服し、鬼になった進之丞の言うことに耳を貸したのだ。
 だからこそ、鬼は進之丞にべったりとなり、今も進之丞と一緒にいる。これで全部が説明できる。
「ほうか!」
 思わず千鶴が声を上げると、驚いて振り返った花江が、千鶴ちゃん!――と叫んだ。
「お鍋が吹いてるよ!」
 言われて見ると、味噌汁がぼこぼこと沸騰している。千鶴は慌てて鍋を七輪しちりんから下ろそうとしたが、鍋が熱くて持てない。
 花江が布巾ぶきんを持って来て、ようやく鍋を下ろしたが、鍋の中はまだぐつぐつと煮立っている。
「まったく、味噌汁作りながら何を考えてたのさ」
 花江がじろりと見ると、千鶴は小さくなって、ごめんなさいと言った。トミは縫い物の手を止めてあきれた顔をしている。
「ちぃと考え事をしよったんよ」
「だから、何を考えてたんだい?」
 えっと――と千鶴は鍋に目を落とした。鬼のことを考えていたとは言えない。
「花江さんから前に聞いた東京の とうきょう 味噌汁が、なしてこっちの味噌汁とちごあもないんかいうことぞな」
「へぇ、それで理由がわかったのかい?」
「ほれはな、味噌が違うけんよ」
 へ?――と不意打ちをらったような顔をした花江は、すぐに爆笑した。
 再び縫い物を始めていたトミも、思わず噴き出して針で指を突いてしまったようだ。いたっ――という小さな叫び声が聞こえた。
 花江は少しだけトミを気遣きづかったあと、すぐに千鶴に向き直った。
「味噌の味が違うのは、味噌が違うから? そんなの当たり前じゃないか。そんなことを真面目に考えてたのかい?」
 そうではないが違うとは言えない。千鶴が口をすぼませて黙っていると、花江は笑いながら言った。
「千鶴ちゃんて、ほんとに面白いだよね。あたし、そんな千鶴ちゃんが大好きさ。だけど、味噌汁はきちんと作っておくれよね」
 千鶴が口をすぼませながらうなずくと、昼飯の準備ができたと、花江が帳場ちょうばへ知らせに行った。その後ろ姿を見送りながら、千鶴は改めて進之丞が鬼になった理由を考えた。
 さっきはわかったつもりになったが、よく考えるとそれは進之丞が鬼になった理由ではない。鬼になった事情である。結局のところは進之丞がどうやって鬼になったのかはわからない。わかったつもりの事情でさえも、それが事実であるという証拠はない。
 千鶴を攫った鬼が進之丞に呪いをかけたのであれば、その呪いを解きさえすれば進之丞は人間に戻れるはずだ。鬼が本当に改心し、進之丞に感服したのなら、鬼は進之丞を人間に戻しているだろう。
 それに鬼自身が鬼のままでいるわけがない。進之丞を人間に戻せるのであれば、自分も人間に戻れるはずであり、鬼として苦しみ続ける必要はないのだ。
 進之丞がどうやって鬼になったのかは、やはり直接その場を見るしかないようだ。進之丞と鬼とのやり取りの中で、いったい何があってどうなったのかを確かめる必要がある。
 花江に呼ばれて、帳場から丁稚でっちたちがうれしそうに走って来た。その後ろに辰蔵たつぞうたちが続く。
 みんなに声をかけながら、千鶴は井上いのうえ教諭に早く会いに行かねばと考えた。とは言っても、教諭に会うことはままならない。
 しかし、もたもたしていると鬼よけのほこらが新たに造られるかもしれない。そうなると今度こそ進之丞がどうなるかわからなくなる。何としてもそうなる前に、前世の記憶を調べてもらいたいが、井上教諭に会う機会はなかなか訪れない。
 花江にご飯と漬物を載せてもらった亀吉かめきちが、千鶴の所へ来た。今は考え事より昼飯の準備が先だ。
 千鶴は亀吉からおわんを受け取り、味噌汁を入れようとした。すると、花江が楽しげに亀吉に声をかけた。
「今日のお昼の味噌汁は、よーくあっためてあるから気をつけなよ」
 亀吉は湯気を立てる味噌汁に顔を近づけ、ほんまやと言った。後ろの新吉しんきち豊吉とよきちが、味噌汁を作り損じたのかという顔をしている。
「梅雨時は案外冷えるけんね」
 千鶴が素知らぬ顔で新吉のお椀を受け取ると、そうだよねと言って花江が笑った。

      二

 毎日のように雨が続いている。七月のこの日は正清まさきよ伯父の月命日だった。
 月命日になると、千鶴は祖母と一緒に雲祥寺へ うんしょうじ 墓参りに訪れていた。ところがこの日、トミは体調を崩して離れの部屋でとこせっていた。それで今回は千鶴が一人で正清伯父の墓参りへ行くことになった。
 一人で家を抜け出る機会など、そう訪れるものではない。しかも雲祥寺は庚申庵の こうしんあん 目と鼻の先である。それなのにこの日は日曜日ではなかった。井上教諭は授業があるので、庚申庵を訪ねたところで家にいる可能性はない。
 どうして今日は日曜日でないのかと、千鶴はとても残念に思いながら家を出た。
 雨はそれほどひどくないが、傘を打ち鳴らす雨音は、千鶴の憂鬱ゆううつな心に響いて来る。いつあがるかわからない雨模様は、千鶴や進之丞の将来を表しているようだ。
 雲祥寺の墓地を訪れた千鶴は、ここで進之丞と話をしたことを思い出した。進之丞が鬼であると知り、そのことを進之丞に告げた日の夜、ここで二人で泣いたのだ。
 伯父の墓参りではあるが、千鶴は伯父を直接知らない。墓の前で手を合わせながらも、頭の中は進之丞のことばかりを考えていた。
 住職に会い、伯父のためにお経を上げてもらったあと、少しだけおしゃべりをしてから、千鶴は雲祥寺をあとにした。
 井上教諭がいないことはわかっていたが、教諭に未練がある千鶴の足は、自然に庚申庵へと向いた。
 笹垣の入り口に立ち、千鶴は中の様子をうかがった。しかし、何も物音は聞こえない。聞こえるのは千鶴の傘を打ちつける雨音と、中の小池で鳴くかえるの声ばかりである。
「井上先生」
 千鶴は声に出して教諭を呼んでみた。もちろん返事はない。やはりいないのかと、あきらめて帰ろうとしたら、傘を差した一人の男がうつむき加減に近づいて来た。傘に隠れて顔はよく見えない。
 千鶴に気がついたのか、男は傘を持ち上げて顔を上げた。それから、あれ?――と言った。驚いたことに、男は井上教諭だった。
「山﨑さんじゃないか。どうしたんだい?」
「先生! 先生こそ、今日は学校へおいでてたんやなかったんですか?」
「三日前から休んでたんだ」
「お休みですか?」
高松たかまつの叔父さんが亡くなってね。昨日がお葬式だったんだ」
 高松の叔父さんというのは、風寄かぜよせへ向かう客馬車に乗っていた、あの山高帽の やまたかぼう 男のことに違いない。女の色気には弱いが、井上教諭にとっては親代わりの人物であり、唯一の肉親だったようだ。
 その叔父の死は教諭を打ちのめしたに違いない。千鶴と喋っている間も、教諭は元気がないように見えた。
 亡くなった理由をたずねると、授業中に胸を押さえて倒れたらしいから、恐らく心臓だろうと教諭は言った。
 千鶴が教諭を慰めながら遠い高松までの旅をねぎらうと、教諭はにっこり笑って、ありがとうと言った。
「君のお陰で、前世や来世というものが信じられるようになったから、叔父さんの死は悲しいけど、幾分救われた気持ちもあるんだ。叔父さんもいろいろ苦労したけど、きっと来世ではもう少し楽ができるだろうなってね。君には本当に感謝してるよ」
 そげなこと――と千鶴は目を伏せてはにかんだ。井上教諭には迷惑をかけたと思っていたので、感謝されたことがうれしくもあったし安堵あんどもした。
「ところで、ぼくに用事があったのかな?」
 教諭にかれて、千鶴は顔を上げた。でも、すぐに下を向くと、実は――と言った。
「先生にご迷惑なんはわかっとりますけんど、もういっぺん前世を調べてもらいたいんぞなもし」
「えぇ? また調べるのかい?」
 あんじょう、井上教諭は困惑のいろを浮かべた。しかし、引き下がるわけには行かない。千鶴が黙っていると、取りえず中へ入るようにと教諭は言ってくれた。

「もう、こないだのでりたんじゃなかったのかい?」
 火鉢ひばちに火をおこして鉄瓶てつびんを載せたあと、井上教諭は疲れたように腰を下ろしながら言った。実際、教諭は長旅で疲れているはずだ。千鶴は恐縮しながら話した
「ほうなんですけんど、ほんでも、やっぱし調べんといけんので」
「どうして、そこまでやらないといけないんだい? たとえ前世で君が鬼に襲われたのだとしても、それは前世の話だろ?」
「うちは、どがぁしてもがんごのことが知りたいんです」
 教諭は息を吐くと、僕は気が乗らないな――と言った。
「正直言って叔父の葬儀のことで疲れてるし、前世を調べるなんて何が起こるかわからないからね。こないだだって君の混乱ぶりに僕は相当あせったんだ。もうあんなのは御免ごめん被りこうむ たいよ」
 自分が無理を言っていることは、千鶴にもわかっている。それでも頼れる人は井上教諭しかいない。
 千鶴が下を向いたまま黙っていると、弱ったなぁ――と井上教諭は言った。
「確かに、前世というものがあったことや、鬼が本当にいたことには驚いたし、興味も引かれたよ。だけど、そこは人間が立ち入っちゃいけないところだと思うんだ」
 返す言葉がなく、千鶴は項垂うなだれて涙ぐんだ。
「先生しか……、うちには頼れるお人が……おらんのです……」
 井上教諭は少しうろたえながら言った。
「僕にはわかんないよ。どうしてそこまで前世の恐ろしい記憶を知りたがるんだい? 今そのことで何か困ってるならともかくさ。まさか、前世の鬼が今世にも現れたってわけじゃないんだろ?」
 千鶴が下を向いたまま黙っていると、井上教諭は、はっとした顔になった。
「いつだったか城山に魔物が出たって話があったけど、もしかしてあれが何か関係しているのかい?」
 千鶴は返事ができなかった。それを井上教諭は肯定の返事と受け取ったようだ。
「そうなのか。あの話にも鬼が絡んでるんだね。そうだとしたら、それは確かに怖い話だな。でも、それと前世の記憶がどう関係あるのかは、話してもらえないのかい?」
 すみませんと千鶴は頭を下げた。
 井上教諭はしばらく黙っていたが、わかったよと言った。
 驚いて千鶴が顔を上げると、教諭はにこやかに言った。
「君の望みどおり、もう一度前世の記憶を探ってみよう。でも、まずお茶を一杯飲んでからだよ」
 はい――と千鶴は小さいが興奮した声で返事をした。
 井上教諭は火鉢の所へ行くと、鉄瓶の湯が沸いていないか確かめた。

      三

 暗い部屋の中、机に置かれたろうそくの炎を見つめながら、千鶴はぼんやりした意識になって行った。
 井上教諭に誘導されて、千鶴の意識は法生寺の ほうしょうじ 庫裏くりが燃える少し前に飛んだ。
 千鶴は庫裏の中で慈命和尚と じめいおしょう 向き合って座っていた。夕方、父の船でロシアへ行くと、和尚に涙ながらに訴えているところだ。
 ――おとうさんの船でロシアへ行くって、どういうこと?
 教諭の声が聞こえると、千鶴は慈命和尚としゃべる自分を再体験しながら教諭に説明した。だが教諭と話しながらも、千鶴自身は当時の自分に戻っていた。
「今日の日暮ひぐらめに、おらの父ちゃんが船で迎えに来るんぞな」
 ――君のお父さんは、どうして君がそこにいることがわかったのかな?
「お父ちゃんは商いをしにおいでてて、三日前に三津ヶみつがはままでんさったそうなけんど、ほん時に、おらのことを知ったんぞなもし」
 ――三津ヶ浜で、どうやって君のことを知ったの?
「お父ちゃんの船に近づいてんさったお人に、おらのことをいたんぞなもし」
 ――その人はどうして君のことを知ってたんだろうね。
「おらがしんさんと夫婦めおとになるいう話が松山まつやまに広がって、ほれで三津ヶ浜でもうわさになっとったみたいぞなもし」
 ――そうなのか。ところで、しんさんって誰のこと?
風寄かぜよせのお代官だいかんの一人息子で、佐伯進之丞とさえきしんのじょう いうんぞなもし」
 ――だから進さんなのか。でも、君は進さんのお嫁になるのに、お父さんの船でロシアへ行くのかい?
 教諭の質問に千鶴は答えず、しくしく泣いた。
 ――どうしたの? 何を泣いてるの?
「進さん……、おらにうそついた……」
 ――嘘? それはどういうこと?
「進さん……、おらを嫁にする言うたのに……、他のお武家の娘と夫婦めおとになるて……。おら、進さん、信じよったのに……。おらには進さんぎりじゃったのに……」
 ――君が一緒になるはずだった進さんは、君を裏切って他の娘と一緒になるんだね?
 千鶴は泣きながらうなずいた。
 ――それで君はお父さんの船でロシアへ行こうとしてるのか。
「進さん、お父ちゃんの手紙も隠しよった……。おらに宛てた手紙じゃったのに、おらに黙って隠しよったんよ……」
 ――その手紙のことを、君はいつ知ったの?
「さっき」
 ――進さんから手紙を見せてもらったんだね?
「進さんの懐か ふところ ら落ちたんぞな」
 ――そうなのか。それじゃあ、君が怒るのも当たり前だね。
 教諭の声が聞こえたあと、千鶴の目に映っている庫裏では、突然境内けいだいが騒がしくなった。多くの人間がやって来て、がんごめ出て来いと怒鳴っている。
 ――どうしたんだい?
「村の人らが、おらをつらまえに来た」
 ――君を捕まえに? どうして?
「わからん。おら、何も悪いことしとらん……。ほんでもみんな、おらのことがんごめて叫びよるけん、おらを殺すつもりなんかもしれん……」
 慈命和尚が表に面する障子しょうじを開けた。境内には何人もの男たちがいて、手に手にくわや鎌、棒などを持っている。
 そこへ年老いた寺男の てらおとこ 仁助じんすけが、何をしているかと飛び出した。しかし男たちは話もせず、いきなり仁助を袋叩き ふくろだた にした。仁助は血だらけで倒れたまま動かなくなった。
 何をするかと慈命和尚が、男たちをしかりつけた。しかし、男たちは和尚に、がんごめを渡せと言い返した。
 普段の村人たちは慈命和尚を敬っていた。これまでこんな態度や振る舞いを見せることはなかった。
 和尚は村人たちに、千鶴が鬼の娘などではなく、異国の血を引いただけの、みんなと同じ人間だと諭して来た。それで多くの村人たちは、千鶴のことを受け入れてくれていた。
 だが、今の男たちにその姿勢はない。男たちのほとんどは千鶴を受け入れてくれていたはずだった。それがこんな風になったのは、狂ったとしか思えない。
 それでも慈命和尚は敢然かんぜんとして、このようなことをする理由わけを男たちに問いただした。すると、代官が鬼に八つ裂きにされたと、男の一人が言った。
 千鶴は全身に鳥肌が立った。鬼が来たのだ。母を殺したあの鬼が来たのだ。
 ――どうしたんだい? 何があったの?
 教諭の声が聞こえた。だが、千鶴は恐怖でうまく答えられない。
がんご……、鬼が、おらをつらまえに来た……」
がんごだって? 鬼が現れたのかい?」
「お母ちゃん殺したがんごが来た……。おらのこと殺しに来た……」
 千鶴は恐怖におののきながら、進之丞の父が鬼に八つ裂きにされたという話に泣いていた。
 進之丞の裏切りには、進之丞の父が絡んでいる。それでも千鶴が知る進之丞の父は、立派で優しい侍だった。その進之丞の父が八つ裂きにされたという話は、千鶴の想像を超えた恐ろしく悲しいことだった。
 だが、悲しんでいる暇はない。母と代官を殺した鬼が迫っているのだ。すぐにでも逃げ出さねばならないが、目の前には村の男たちが集まって、やはり千鶴を殺そうとしている。
 男たちは和尚が制するのも構わず、部屋になだれ込んで来た。あっと言う間に千鶴と和尚は縛り上げられ、外へ引きずり出された。
 井上教諭が何か喋っているのは聞こえているが、千鶴にはそれにこたえる余裕がない。千鶴は完全に当時の世界に入り込んでいた。

      四

「おまい、お代官の息子に捨てられたんじゃろが!」
 男の一人がののしるように言った。
 千鶴は男の言葉に驚いた。進之丞に裏切られたと知ったのは、ついさっきのことだ。代官屋敷の女中が知らせに来たあと、訪ねて来た進之丞を問い詰めたところである。それなのに村の者が知っているということは、この話はすでに村中のうわさになっていたわけだ。
「なして、そがぁなこと……」
「捨てられた恨みで仲間のがんご呼んで、お代官をあやめたんじゃろ!」
「おら、そがぁなことせん!」
うそこけ! お代官は死んだんじゃ。あげにええお方をおまいは殺めたんじゃ!」
「おら、殺めたりしとらん! おらが殺めたんやない!」
 やかんしい――と男の一人が千鶴を張り倒した。やめろと叫ぶ慈命和尚にじめいおしょう 、男たちは侮蔑の眼差しを向けた。
「和尚さんよぉ、まだ、己がだまされとるんにぃつかんのかな」
「騙されとるんは、おまいたちの方じゃ!」
 男たちはへらへら笑うと、どうやって千鶴を殺すかと相談を始めた。
 倒れた千鶴の目の前に、血に染まりながら虚空を見つめる仁助の顔があった。すでに事切れているようだ。
 男たちはできるだけ千鶴を苦しめるよう、残虐な殺し方をああだこうだと言い合っていた。和尚は懸命に縄をほどこうと藻掻もがいていたが、きつく縛られた縄が解ける様子はない。
「おまいさん方、何をしよるんかな」
 山門さんもんの方から大きな声が聞こえた。
 男たちは一斉いっせいにそちらを見た。千鶴と和尚も同じ方を向いた。
 そこに立っていたのは、一人の年老いた尼僧にそうだった。
 尼僧が歩み寄ると、男たちは道を空けるように左右にのいた。
「おやまぁ、和尚さまと若い娘を縛り上げて、おまいさん方は盗賊しよんかな。ん? この娘はちぃと変わっとるの」
 千鶴の顔をのぞき込む尼僧に、男の一人が訴えた。
「尼さま、聞いてつかぁさい。この娘はがんごめでがんごの仲間ぞなもし。こっちの和尚はこいつに騙されて操られとるんぞな」
「この娘ががんごの仲間とな? ほうは見えんがの」
 千鶴に同情的な目を向ける尼僧に、男は言った。
「いんや、尼さま。こいつはがんごめぞなもし。こいつはお代官の息子に捨てられた腹いせに、仲間のがんごを呼んでお代官を八つ裂きにしたんぞなもし。ほじゃけん、みんなでつらまえて成敗しようとしよったとこぞなもし」
 千鶴は違うと言ったが、もう一人の男も前に歩み出て証言した。
「こいつは普段から、この村に大水おおみずら流行病や はやりやまい ら呼び込んで、村のもんの命を奪いよったんぞなもし。ほれで、墓に埋めたむくろを掘り返して、その肉を喰うとるんぞなもし」
「おら、そがぁなことはしとらん!」
 千鶴が叫ぶと、お前は黙ってろと言って、近くの男が千鶴を蹴った。尼僧はその男をなだめると、お前たちの言い分はわかったと、男たちに言った。
「ほれでもな、そがぁなもんであればこそ、尚更なおさら救いが必要ぞな。この娘はわたしが引き取とって改心させよわい」
 ほんなぁと男たちが文句を言うと、黙らっしゃい!――と尼僧は男たちを一喝した。
「この娘を殺めたら、この村のもんがんごによって皆殺しにされよう。ほれでもかまんのか!」
 ひるんだ男たちに、尼僧はさらに言った。
「おまいたち、お代官の死にざまを見たじゃろが。己も同じ目にいたいと申すか!」
 男たちはさらに怯み、わかったなと言う尼僧に跪い ひざまず て両手を突くと、深々と頭を下げた。
 尼僧は満足げにうなずくと、倒れたままの千鶴のそばへ来て、おまいを助けてやろわい――と小声で言った。
 地獄に仏とは、まさにこのことである。
 千鶴がすがる目を尼に向けると、尼僧はにっこり微笑んで千鶴を見つめ返した。その目を見ていると、自分にはこの人しかいないと千鶴は思うようになった。
 尼僧が千鶴を抱き起こし、千鶴を縛った縄を解いても、男たちは跪いたまままま動かない。千鶴が自由になるのを見ても、声の一つも上げず、まるで石仏のようにじっとしている。それは異様な光景だったが、千鶴はその様子を見ても何とも思わなかった。
「さて、これよりわたしはこの娘と二人で庫裏に籠もる。おまいたちはそこで邪魔が入らんようにしよれ」
 尼僧が命じると、ははぁと男たちは頭を下げた。満足げに笑った尼僧は、千鶴を庫裏へいざなおうとした。すると、待て!――と慈命和尚が叫んだ。
「おまいがんごじゃな。お前こそが佐伯さえきどのを殺めた鬼であろう!」
 尼僧は和尚を振り返ると、にたりと笑った。
「さすがは和尚。じゃが、そがぁな格好じゃ何もできまい」
 すると、慈命和尚はお経を唱え始めた。途端とたんに尼僧は顔をゆがめて、お経をやめよと叫んだ。それでも和尚がお経を唱え続けると、尼僧は跪いていた男たちに、和尚にお経をやめさせよと命じた。
 男たちは無言のまま立ち上がると、無表情で慈命和尚を何度も打ちえた。
 仁助のように血だらけになりながら、慈命和尚は千鶴に向かって逃げるよう叫んだ。
 千鶴は和尚の声が聞こえていたが、和尚が何を言っているのか理解ができなかった。また、和尚が男たちに打ち据えられるのを見ても、何とも思わなかった。
 和尚が静かになると、尼僧は男たちにやめるように言った。男たちは人形のように突っ立ったままになり、尼僧は和尚の傍へ来た。
「和尚、このまんまじゃおまいさまがあんまし気の毒なけん、最後に千鶴がどがぁなるんか見せてあげよわいねぇ」
 尼僧は倒れている和尚の襟首えりくびをむんずとつかみ上げると、千鶴をいざないながら和尚を引きずって庫裏の中へ入って行った。

      五

 庫裏くりの中で、尼僧にそうは千鶴にこうを嗅がせた。いい香りが鼻の奥に届くと、ふわふわ宙に浮かんでいる気分になる。
「千鶴、ようやくおまいに会うことがでけた。お前の母親がお前を殺して捨てたと言うた時は、わたしは絶望のどん底に落とされた。ほれが生きてここにおると知った時は、まこと天にも昇る想いじゃった」
 ぼんやり話を聞く千鶴に、尼僧は上機嫌で話を続けた。
「おまいは覚えておるかねぇ。みんながわたしを避けよる中で、お前ぎりがわたしに優しいにしてくれた……。あの時以来、わたしはお前のとりこになってしもたんよ」
 尼僧がいつのことを言っているのか、千鶴にはわからなかった。意識はぼんやりしたままで、ただ尼僧が自分を褒め、ずっと追い求めていてくれたことだけを理解した。
「こんで長年の夢がかなおう。おまいはこれからわたしと一つになるんよ。そがぁすればお前の優しさは、ずっとわたしの中にあり続けるけんねぇ」
 ごろりと横になったままの慈命和尚が じめいおしょう 、薄目を開けて千鶴に呼びかけた。
「千鶴……、そやつの言葉に……耳を貸してはならんぞ……。そやつはおまいを……らうつもりぞな……。そやつから……離れるんじゃ……。千鶴……」
 尼僧はじろりと慈命和尚を見ると、にやりと笑った。
「せいぜいほざいとるがええ。この娘の耳には、おまいの言葉なんぞ聞こえまい」
 尼僧は千鶴に向き直って言った。
「ええか。おまいはわたしと一つになるんぞな。ほんでも、一つ問題がある。ほれはな、お前の心が美し過ぎるいうことぞな」
「おらの……心?」
「ほうじゃ。おまいの心はけがれを知らん。今のままじゃったら、わたしはお前と一つになれん。一つになるには、お前がわたしを心から受け入れて、わたしとおんな穢れを持たんといけんのよ」
「穢れ……」
「ほうよほうよ。穢れぞな。まぁその前に、まずはわたしを受け入れてもらおわいねぇ」
 尼僧は千鶴のひたいに右手の人差し指を当てながら言った。
「おまいが信じられるんは、この世でこのわたしぎり。わたしぎりがお前の味方。わたしぎりが、お前を救えるんぞな」
「おらが信じられるんは、この世で尼さまぎり。尼さまぎりがおらの味方。尼さまぎりが、おらを救えるんぞな」
 千鶴は尼僧が唱えた言葉を繰り返した。繰り返すたびに、千鶴の中で言葉どおりの想いが、どんどん膨らんで行った。
「進之丞はおまいだまくらかした。進之丞はお前を弄ん もてあそ だ。進之丞はお前を捨てた。進之丞はお前をあやめようとした」
「進之丞はおらを騙くらかした。進之丞はおらを弄んだ。進之丞はおらを捨てた。進之丞はおらを殺めようとした」
 千鶴の中で進之丞は憎む相手として認識されて行った。かつての進之丞との思い出は、すべてどこかへ消えせてしまった。
「おまいはわたしのもんになる。お前はわたしと一つになる。お前はわたしを受け入れ、身も心もわたしに捧げるんぞな」
「おらは尼さまのもんになる。おらは尼さまと一つになる。おらは尼さまを受け入れ、身も心も尼さまに捧げるんぞな」
 千鶴は完全に尼僧の手の内に落ちていた。自分が口にしている言葉を本当には理解しないまま、尼僧の思うがままの考えを自らの心にすり込んでいた。
「さて、ほれじゃあ仕上げにかかろわいねぇ」
 尼僧は布を巻いた出刃包丁を懐か ふところ ら取り出した。
「これで和尚の肉をいで喰うんぞな」
 尼僧は楽しげに布をほどくと、千鶴に包丁を手渡そうとした。その時、千鶴!――と叫ぶ声が表から聞こえた。
 境内けいだいに目をると、男たちに行く手をふさがれている進之丞の姿が見えた。
 尼僧は舌打ちをすると、とんだ邪魔が入ったと言い、急いで包丁に布を巻き直した。再び包丁を懐へ仕舞った尼僧は、畳の上に火鉢ひばちをひっくり返した。
 炭火はみるみる燃え広がり、辺りは炎と煙でいっぱいになった。
「千鶴! 和尚!」
 燃え上がる炎の向こうから、進之丞の悲痛な叫びが聞こえた。しかし、尼僧の術にはまった千鶴の心は動かなかった。
 尼僧は千鶴を庫裏の裏へ連れて行き、そこからこっそり外へ逃げ出した。それから、そっと表に回ると、進之丞が男たちを斬り伏せて、燃えさかる庫裏の中へ飛び込むのが見えた。
 尼僧は笑いながら、千鶴を連れて境内の石段を下りて行った。

 千鶴が連れて来られたのは、浜辺にある使われなくなった古い漁師小屋だった。
 かつてはこの辺りにも漁師が暮らしていたが、今は別の所へ移ったようだ。戸も失われて今にも朽ち果てそうな小屋は無人だった。
 小屋に入ると、尼僧は千鶴の方に向き直って言った。
「ほんまじゃったら、おまいに和尚の肉を喰わせてやれたんやが、邪魔が入ってしもたけん、代わりにわたしの肉を喰わせてやろわいねぇ。ほれでお前が穢れたら、今度はわたしがお前を喰らうぞな。ええな?」
「おらは尼さまの肉を喰らう。ほれで、おらが穢れたら、今度は尼さまがおらを喰らう」
「ほうよほうよ。ほれでええ。そがぁしたら、わたしとおまいは一つになれるんよ。どがいじゃ、うれしかろ?」
 千鶴は黙ってこくりとうなずいた。
「ほれじゃあ、ええな。まずは、おまいがわたしを喰らうんぞな」
 尼僧は懐の包丁をもう一度取り出すと、布を解いて土間にしゃがんだ。それから左手をいたの上に乗せると、その左手首に包丁を当てた。
 何故かそこで千鶴の視界は白いもやさえぎられた。何も見えないし、尼僧の声も聞こえない。
 千鶴は一人、白い靄の中に取り残された。何がどうなったのかはわからない。
 その時になって、ようやく千鶴の耳に井上教諭の声が届いた。
 ――山﨑さん、しっかりするんだ。僕の声が聞こえるかい?
 教諭の声が聞こえると、千鶴の意識は前世から離れて現世の意識に戻った。
「先生?」
 ――聞こえるんだね。あぁ、よかった。いくら呼びかけても返事をしてくれないから、どうなるかと心配したよ。
「先生、うち、うち……」
 今は靄しか見えないが、これまでのことは覚えている。前世の自分になりきっている間はわからなかった鬼の恐ろしさが、今は骨の髄に染み込むほどわかっていた。
 また、己が犯した罪の深さに千鶴はうろたえていた。
 慈命和尚は必死に千鶴を護ろうとしてくれた。それなのに自分は和尚が打ちえられても何とも思わず、和尚が呼びかける声を無視して、和尚を燃える庫裏の中へ置き去りにしたのである。
「うち、和尚さまを死なせてしもた……。うちのこと護ってくんさっとったのに……。和尚さま、死なせてしもた……」
 千鶴は催眠状態のまま泣いた。
 動揺した様子の井上教諭の声が、千鶴を呼び戻そうとした。
 その時、突然靄が晴れて視界が戻った。すぐ目の前に現れたのは微笑む進之丞の顔だった。途端とたんに千鶴の中に前世の意識が流れ込んで来た。
 この時の前世の千鶴に進之丞への憎しみはなく、尼僧への忠誠心は消えていた。
 観察している現世の意識は、自分が尼僧に洗脳されていたのがわかっている。だが、前世の意識はそれがわかっていない。そもそも自分に何があったのかをまったく覚えていなかった。
 胸に広がるのは、進之丞をいとしく想う気持ちばかりで、現世の千鶴の意識は、再び前世の千鶴の意識と一つになった。
「千鶴、あしがわかるか?」
 進之丞の優しい笑顔。千鶴が求めていたものはこれだった。
しんさん! おいでてくれたんじゃね」
 千鶴は体を起こして進之丞に抱きついた。
「千鶴……、あしが悪かった……。あしのせいで、おまいにつらい想いをさせてしもた……。お前のねきにいてやれなんだ、あしが悪かった……」
 千鶴を抱き返す進之丞のささやくような声は、何だか泣いているように聞こえる。
「ええんよ。進さんをうたごうたおらが悪かったんよ。ついかっとなってしもて、進さんの話も聞かんまま飛び出した、おらが悪かった。どうか、堪忍かんにんしてつかぁさい」
 進之丞の手を借りて立ち上がると、そこは砂浜だった。近くには壊れた小屋の残骸が散らばっている。
「あれ? おら、なしてこがぁなとこにおるんじゃろ?」
 千鶴が辺りを見回そうとすると、進之丞は千鶴の顔を押さえて言った。
「そがぁなことは、どがぁでもええ。ほれより、あれ見てみぃ」
 進之丞が海を指差した。沖に浮かぶ島の向こうへ、夕日が沈みかけている。西の空は茜色に あかねいろ 輝き、黒々とした島影が幻想的だ。
「うわぁ、きれいじゃねぇ。こがぁして進さんと夕日を見るやなんて、何日ぶりじゃろか」
 ねぇ――と言って進之丞を見ると、進之丞は夕日ではなく千鶴の顔を悲しげに見つめていた。
「どがぁしたん?」
「何でもない。ちぃと歩くかの」
 進之丞は夕日を右手に見ながらゆっくり歩き出した。千鶴は進之丞の左脇に並ぶと、進之丞と腕を絡めながら体を預けて歩いた。
 幸せだった。この瞬間が永遠に続けばいいと思っていた。
 そのあとは、現世の千鶴がすでに知っている展開となった。
 進之丞は千鶴に別れを告げると、黒船で現れた千鶴の父親に千鶴を託し、襲って来る侍たちと戦った。そして、死に際に鬼に変化へんげして千鶴を護りきり、海の底へ沈んで行った。

 催眠が解けたあと、千鶴は前回以上に立ち直れなくなっていた。
 母の死ばかりか、次々に大切な人が死んで行った。それなのに、洗脳されていたためとは言え、自分は慈命和尚を助けることすらしなかった。また、一つも進之丞の力になることができなかった。
 恐らく千鶴を襲った村の男たちも、本当のところは鬼に操られていたに違いない。あの男たちも敬愛していた慈命和尚や、寺男の仁助を手にかけさせられたのだ。そして、その男たちの命を進之丞が奪い、進之丞は鬼になった。
 すべてはあの鬼のせいである。どんなに改心したと言っても、あの罪が許されると言うのか。いや、千鶴を手放したからと言って、それが本当に改心したことになるのか。
 千鶴の心は鬼への不信感でどろどろになっていた。鬼が鬼になった理由を考えてやらねばと思っていたのに、そんな気持ちはどこかへ消えていた。
 それに進之丞が鬼になった理由は、ここまでつらい想いをしたにもかかわらず、結局わからなかった。
 きっと、あの白い靄に隠れた所に秘密があるのだろう。しかし、何故あそこだけ白い靄がかかってしまうのか、千鶴にはわからなかった。その落胆と絶望が千鶴から気力を奪い去っていた。
 井上教諭は何とか千鶴を現世に呼び戻すことに成功して、心の底から安堵あんどしたようだった。
 千鶴が前世を再体験している間、教諭は今世の千鶴の意識とうまくやり取りができていなかった。それで千鶴に何が起こったのかがわからない。
 井上教諭は打ちひしがれる千鶴に遠慮がちに声をかけ、何を見たのか説明して欲しいと言った。
 千鶴は涙を流しながら自分の体験を教諭に語ったが、恐怖と悲しみと罪悪感で、何度も途中で嗚咽おえつした。
 教諭は千鶴を慰めながら話を聞いていたが、驚きを隠せない様子だった。前回以上に鬼の存在と恐ろしさを確信した教諭は、もはや千鶴と鬼との関係について疑いを持たなかった。
「確かめるためにくんだけど、進之丞という人物が元々鬼だったってことはないんだよね?」
 気遣きづかいながらたずねる教諭に、千鶴は力なく首を振った。
「違います。進さんのことは子供の頃から知っとります。進さんは間違いのう人間でした」
「じゃあ、やっぱり靄で見えなくなった記憶の中に、進之丞くんが鬼になってしまった秘密が、隠されてるってことか」
 井上教諭は腕組みをして、うーんとうなった。進之丞が鬼になった理由がわからないことと、どうしてそこにだけ靄がかかっていたのかということの、二つの謎に対するうめきのようだ。
「進さんががんごになった理由が知りとうて、先生に前世を調べてもろたんです。ほれやのに肝心のとこはわからなんだ……。せっかく調べてもろたのに、なんもわからなんだ……。これじゃったら、進さんを救うてあげられん……。進さん、苦しみよんのに何もしてあげられん……」
 千鶴が泣き出すと、井上教諭は千鶴を慰めながら、何を言っているのかと訊ねた。だが、千鶴に本当のことが言えるわけがない。
 千鶴は口を閉じて黙っていた。教諭は無理に話を聞き出そうとはせず、庭に面した障子しょうじを開けた。
 雨はいつの間にかやみ、池のかえるが千鶴の気も知らない様子で、げげっげげっと鳴いていた。
 空にはまだどんよりした雲が広がっている。その向こうが見えないのは靄と同じだ。
「靄を晴らすことができればなぁ」
 教諭は雲を見上げながら、独り言のようにつぶやいた。
 それは千鶴への慰めだろうが、あの靄が晴れるとは思えない。どうしようもない巨大な壁に行く手を阻まれたようで、千鶴にはもう希望を見出すことができなかった。