不審火
一
千鶴が雲祥寺へ行くと、幸子が本堂の前で所在なさげに待っていた。千鶴が来たのがわかると、幸子は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「遅かったな。先生と話、弾みよったん?」
まあねと千鶴が答えると、幸子はじっと千鶴を見つめた。
「どがぁした? 元気ないみたいなけんど、何ぞあったんか?」
「何も。昔の話しよったら、ちぃと気ぃが滅入ったぎりぞな」
幸子はなるほどと思ったらしく、ほれは気の毒じゃったねと千鶴をいたわった。
微笑んだ千鶴の耳に、母の断末魔の叫びが聞こえている。目の前の母は生きているけれど、あの時の母は死んだのだ。幼い自分を護るために、恐怖と苦しみの中で死んだのである。
千鶴はこぼれそうな涙を堪えながら明るさを装った。
「お母さんの方こそ、久しぶりに三津子さんと会うて楽しかった?」
「まぁ、楽しかったいうか……」
幸子は口を濁して、はっきりとは答えない。
「楽しなかったん?」
「ほうやないけんど、ちぃと疲れてしもたかな。まぁ、三津子さんとおったらそげな感じじゃけどな」
「なして? あんだけ仲よしやったのに?」
「仲よしいうか、ええ人じゃて思いよったぎりぞな。いっつもかっつも一緒におったわけやないけん」
ほんじゃあ、去ぬろかね――と幸子は歩き始めた。
千鶴は一緒に歩きながら、三津子と何かあったのかと母に訊ねた。幸子は言葉少なに、何かがあったのではないと言った。
「昔は、三津子さんとは仕事の合間にちぃと喋るぎりでな。そがぁに仲よかったわけやないんよ。どっちかいうたら、お母さんは三津子さんより他の人と喋りよった」
今でこそ三津子は奇抜な格好で外を歩いているが、母と一緒に病院で働いていた頃は、あまり目立たない性格だったらしい。みんなといるより一人でいることの方が多く、何を考えているのかよくわからなかったと幸子は言った。
松山にロシア兵捕虜がいた頃、幸子と三津子はともにバラックと呼ばれる仮設病院で働いていた。戦争が終わるとバラックは解体され、幸子は街中の病院で働き始めたが、その同じ病院へ三津子も移って来たという。
バラックにいた頃は幸子と三津子は特に親しい間柄ではなく、次の病院で働き始めた頃も、その関係は変わらなかった。そんな三津子が親友になったのは、千鶴を身籠もったことが病院に知れてからだと幸子は言った。
幸子を呼び出した院長は、何故か幸子の腹の中にいる子供の父親がロシア兵だと知っていた。図星を言われた幸子は嘘も言い訳もできず、素直にミハイルのことを話した。
二人が関係を持ったのは戦争が終わってからのことであり、ミハイルも捕虜兵ではなくロシアの一市民として自由を手に入れていた。それでもロシアを敵国と見ていた者からすれば、幸子は敵国に通じた裏切り者だった。そして院長はロシアを憎んでいた。
独り身の娘が腹に子供を宿したというだけでも大問題なのに、元ロシア兵が子供の父親なのである。院長は激怒して、幸子にクビを言い渡した。
幸子が院長室を出ると、親しかった仲間たちの態度が変わっていた。みんな幸子が院長に呼び出された理由を知っていて、誰も幸子と口を利こうとしなかった。そんな中、三津子だけは幸子の所へ来て慰めたり励ましたりしてくれたという。
困った時こそ、その人の本性がわかるものだと、それから幸子は三津子を一番の友人と考えるようになった。病院を辞めたあとも、三津子は時々会いに来てくれたが、親しくなってからの三津子との付き合いは短かった。
ロシア兵の子供を身籠もった話は警察にまで届き、幸子はロシアのスパイではないかと疑われて、私生活のことまで根掘り葉掘り調べられた。甚右衛門たちも怒り狂い、一家の恥だと罵られた。
そんな時でも三津子は幸子を訪ねて来てくれた。幸子は泣きながら、信じられるのは三津子さんだけだと言い、三津子さんがいなければ死んでしまうとまで口にした。
死ぬなんて言うものではないと幸子をたしなめた三津子は、自分もあんな病院にはいたくなくなったと言った。それが幸子が三津子と会った最後だった。そのあと三津子は消息を絶って、幸子の前には現れなくなった。
心の拠り所を失った幸子は、甚右衛門と大喧嘩をしたあと、死のうと思って家を出た。そして死に場所を探しているうちに出会ったのが知念和尚だった。
「そげな感じでな。言うほど親しくはなかったんよ。ほんでも去年久しぶりに会うた時は、まっこと嬉しかった。いうても、あの人の変わりようにはたまげたけどな。三津子さん、あげな派手な格好する人やなかったけん、まるで別人に見えたで」
その後も幸子は甚右衛門に無理を言って、何度か三津子と出かけたが、違和感はどんどん強くなっていったという。
「昔の話をしもって二人で懐かしいねぇて言うたりするんやけんど、何か別の人と喋りよる気ぃがする時があるんよ。顔は確かに三津子さんなけんど、あげな格好しよるしな」
幸子はため息をついたが、千鶴は今の三津子しか知らない。だから、昔の三津子がどんな姿をしていたのか想像もできなかった。
「三津子さん、こっちの病院辞めたあと、大阪行ったり東京行ったりしよったんやて。何があったんか言うてくれんけんど、たぶんほの間に何ぞあったんじゃろねぇ。ほうでなかったら、あそこまで性格変わったりせんけん」
昔の三津子はどちらかというと話下手で、喋る時は幸子の方が言葉数が多かったらしい。だが、今の三津子はとにかくよく喋る。言いたいことを喋るだけ喋ると、ころっと話題を変え、いつも会話を先導しようとするそうだ。そうして幸子に家やら千鶴の話などを次々に訊ねるので、何だか取り調べを受けているみたいだと幸子はこぼした。
「お母さん、うちのこと、あの人にどがぁに言うたん?」
「どがぁにて……、学校やめて家の仕事するようなったとか、こないだの晩餐会でお酒を飲み過ぎて酔っ払った話とかよ。他は何も言うとらんよ」
「ほんまに? ほんまに何も言うとらんの?」
何かあんたまで警察みたいじゃとこぼしながら、千鶴と忠さんが夫婦になる予定なのも話したと幸子は言った。
「そげなことまで話したん?」
「ほやかて、スタニスラフとは何もないて言うとかんといくまい?」
「ほれはほうやけんど……、ほんでも、うち、おじいちゃんがうちと番頭さんを夫婦にするつもりやないかて心配しよったんよ。まぁ、ほやないならよかった」
祖父が辰蔵と一緒にさせるつもりなのは母である。千鶴はそれを母の口から確かめたかった。だが幸子はさらりと聞き流し、おじいちゃんがそげなことをするわけなかろとだけ言った。母が本当の話をしないのは、喋りたい話ではないからだろう。そんな母を思うと、千鶴は悲しくなった。
前世で母は父と一緒になれなかった。そして今世でも母は父と一緒になれず、他の男の妻になろうとしている。
千鶴を想う母の姿も前世と同じだ。前世で母は我が身を犠牲にして千鶴を護ってくれた。先日も鬼の正体を知らない母は、命懸けで千鶴を護ろうとしてくれた。
そんな母を差し置いて自分は進之丞と夫婦になるのである。千鶴は母に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。また母がとても有り難く愛おしかった。
突然千鶴が腕を絡めたので、幸子は当惑した。
「何ね? どがぁしたんな?」
「かっか、ありがとう」
千鶴は母に体を寄せて言った。
「ちょっと千鶴。あんた、またおかしなったんか?」
「何もおかしないよ。お母さん、いつまでも元気でおってな」
幸子は千鶴がどうにかなったと思ったようだ。行き交う人の視線を気にしながら、離れなさいやと困惑気味に言った。けれど千鶴が泣きそうな顔なのに気がつくと、あきらめて千鶴の好きなようにさせた。
千鶴たちが家に戻ると、同業組合の組合長が来ていた。茶の間で甚右衛門やトミと怖い顔をして喋っている。
二人が挨拶をすると、組合長はくるっと笑顔になった。だが、千鶴たちが昼飯の支度をする花江を手伝い始めると、また怖い顔になって三人で喋り始めた。
声を潜めて喋っているので、何の話をしているのかはよく聞き取れない。すると花江が小声で、ソ連の話をしていると教えてくれた。
「ソ連て何の話?」
千鶴が訊ねると、伊予絣の輸出が思ったように進まないみたいと花江は言った。
「商売がうまくいかなくて、失業する人が増えてるんだって」
せっかく関東の大地震を乗り越えながら、ここで商いがだめになる人たちの話は、本当に気の毒だけれど他人事ではない。山﨑機織だって明日どうなるかはわからないのだ。
そもそもな――と幸子がやはり声を潜めて話に交ざった。
「ソ連に輸出せんといけんようになったんがいけんのよ。織子さんの織り賃が半分以下になるような真似するけん、どんどん質が悪なってしまうんで。ソ連の人らかて質の悪い物買うたりすまい?」
「それは辰さんも言ってたよ。数も大事だけど、もっといい物を作らないとだめだって。今のままだと、いくらたくさん売れたって儲けがほとんど出ないらしいよ」
状況はかなり深刻なようだ。千鶴たちばかりでなく、花江たちにも不安な話だ。
「あんたら」
トミの声がした。ああだこうだと話していた三人は、慌てて後ろを振り返った。
「三人で何ひそひそ喋りよるんね。鍋が沸いてしもとろがね」
トミが指差した七輪の上で、煮物の鍋が沸騰していた。
花江が慌てて鍋を降ろそうとして、熱い鍋に直接触れた。あちちと花江が手を引っ込めると、幸子が濡れ布巾で鍋を降ろした。
トミは眉間に皺を寄せたまま、組合長との話に戻った。
千鶴は汲んだ水で花江の指を冷やしてやりながら、将来への不安を覚えていた。
祖父は店を千鶴に継がせると言ってくれた。とはいえ、このままでは山﨑機織も危ういわけで、下手をすれば、家族も使用人たちも路頭に迷ってしまう。この状況をどう切り抜ければと千鶴は考えたが、祖父たちでさえわからないものがわかるはずもない。
「うちら、どがぁなるんじゃろか?」
心配する千鶴に、さぁねぇと幸子は言った。
「なるようにしかなるまいね。今はできることをやるぎりぞな」
要するに、何もできないという意味だ。幸子の言葉に花江もうなずいたが、千鶴は暗い気持ちがさらに暗く落ち込んだ。
二
翌日、甚右衛門宛に一通の封書が届いた。送り主は春子の父、村上修造だ。
甚右衛門は手紙を読み終えると、トミに見せた。そのあと掃除をしていた千鶴も呼ばれて見せてもらった。花江は豆腐を買いに出ているが、いたら興味が引かれただろう。
手紙の内容は鬼よけの祠の再建についてだ。
春子が話したように、修造は千鶴が女子師範学校を退学したことのお詫びに山﨑機織を訪れていた。その時に甚右衛門は鬼よけの祠再建について、お金の寄付を申し出たそうだ。ただそれは鬼を恐れるからではなく、妙な噂の元を断つという意味だと、甚右衛門は修造に伝えたという。
しかし、村人たちは鬼の存在について半信半疑だった。鬼よけの祠も知らないので、祠の再建といっても賛同を得るのは困難だったようだ。また修造自身が鬼を信じていないので、話はなかなか進まなかった。ところが、松山の城山に魔物が現れたという話が風寄にも伝わると状況は一変した。
手紙によれば風寄でも不安が広がり、あのイノシシを殺したのも、兵頭の家を壊したのも鬼に違いないと、みんなが言いだしたらしい。そこで修造が鬼よけの祠の話を改めて村人たちにしたところ再建することが決まり、実際に再建が始まったのだという。
前の物より立派な祠が建てられる予定で、竣工式は五月三十日の大安に執り行われるそうだ。ぎりぎり梅雨が始まる前の完成になるようで、よければ甚右衛門にも竣工式に出席してもらいたいと、修造は述べていた。
「近頃なかなかええ話はないけんど、これはええ話ぞな」
甚右衛門は久しぶりににこやかな顔で言った。だが、千鶴は祠が完成すると鬼はどうなるのかと心配になった。
話を聞く者は他にはいない。通り土間を丁稚たちが行ったり来たりしているが、三人とも忙しくて千鶴たちの話を気にする暇はない。
「特高の奴らも見えんなったし、鬼けの祠がでけたら祝言を挙げるとするか」
「祝言?」
千鶴が思わず顔を綻ばせると、あんたのことやないでと、トミが笑いながら言った。祖父が言うのは母と辰蔵の祝言だと気づいた千鶴は、自分が情けなくなった。それに祠が完成するとどうなるのかという不安は変わらない。
「ほうか、千鶴にはまだ言うとらなんだか」
ほんまはもちっと早ようにするつもりじゃったがと言いながら、甚右衛門は幸子と辰蔵を夫婦にするという話を千鶴にした。
すでに知っている話を、千鶴は初めて聞いたふりをして訊ねた。
「ほの話、お母さんは知っておいでるん?」
トミと一緒にうなずいた甚右衛門は、千鶴に今の店の事情を説明し、自分に万が一のことがあったとしても、辰蔵と幸子が店を守ってくれると話した。
また辰蔵と幸子の間に子供が産まれなければ、二人の後は千鶴と忠七が引き継ぐが、子供が産まれたら、千鶴たちには新たに店を持たせると甚右衛門は言った。それはトミも了承しているらしく、甚右衛門が喋っている間、トミは横で何度もうなずいていた。
千鶴と進之丞の結婚について、甚右衛門とトミが明言したのはこれが初めてだ。千鶴は少なからず興奮したが、今の店を維持するのも大変なのに、新たな店を持たせてくれるなど、本当にできるのだろうかと訝る気持ちもあった。
一昨年の関東大地震では二十万反の伊予絣が灰となり、多くの絣問屋が廃業に追い込まれた。山﨑機織も相当の被害を受けたと聞いている。そこを何とか踏みとどまってここまで来たので、余裕などないはずである。
花江や母が言っていたように、今の伊予絣は薄利多売の商いになっていて、いくら売れても儲けは少ない状況だ。何かが起これば、直ちに店は潰れるかもしれないのだ。
それに花江の悲しげな顔が目に浮かぶと、弾んでいた千鶴の心はすぐに沈んだ。辰蔵だって母との結婚を喜んではいないだろう。
辰蔵と花江が好き合っているのを祖父母は知らないのかと思ったが、それを口にしたところで、今更どうにもならない。
「ところで、この鬼よけの祠が完成したら、まっこと鬼は封じられようか?」
祠に話を戻したトミが心配そうに言った。
恐らくなと甚右衛門がうなずくと、トミは黙ったままもう一度手紙を眺めた。
ヨネの父は鬼と鬼娘が黒船で沖へ去ったと考え、鬼が二度と村に戻らないようにと、鬼よけの祠を造った。意味とすれば、鬼を村へ入れない結界を張ったのと同じだろう
ところがヨネの父が見たのは鬼に変化した進之丞だった。進之丞は黒船で去ったのではなく、命が尽きて海に沈んだのだ。その後、進之丞は鬼として地獄へ堕ち、鬼よけの祠が壊れた時に、佐伯忠之の心を喰らう形でこの世に蘇ったのである。
この事実から考えれば、祠の力というものは鬼を近づけない結界というより、鬼を地獄へ封じ込めてこの世へ出さない封印に思える。
一方で進之丞は、あんな祠で鬼が封じられるなら苦労しないと言った。
進之丞の話では、祠を壊したのは鬼に変化した佐伯忠之であり、つまりは進之丞自身である。であれば、祠には鬼を封じ込める効力がなかったことになる。
けれども、地獄にいた進之丞が唐突に忠之に取り憑いたというのは、いささか疑問が残る。不動明王の力によって特別にこの世へ戻されたのだとしても、忠之が祠を壊したために進之丞が復活できたと見れば合点がいく気もする。
もちろん、あそこまで祠をばらばらにしたのは進之丞だろうが、初めに祠を壊したのは忠之だ。であれば、進之丞がこの世に戻ったのは祠が壊されたからと考えられる。その場合、祠が再建されれば、進之丞は再び地獄へ封印されてしまうのだろう。新たに造られる祠は前のものよりも立派らしいから、その効力も強力に違いない。
進之丞が封印されるなど絶対に認められないが、これを阻止するにはどうすればいいのかわからない。進之丞を疑うつもりはないが、万が一のことを思うと、千鶴はじっとしていられなかった。
そわそわする千鶴に落ち着くようにと注意したあと、トミは甚右衛門に言った。
「ほんで、あんたは竣工式に出んさるおつもりかな?」
「仕事の都合がつくなら出てみてもええと思とる」
甚右衛門が答えると、ほうかなとトミはため息をついた。
「どがぁしたんぞ? 何ぞ問題があるんかな?」
「ほやかて、鬼はこの子らを特高から護ってくれたんで。その鬼が封じ込められるんを、のこのこ見に行くんは義理欠いとるんやないかて思たぎりぞな」
女房の意見に、甚右衛門は憤慨した。
「何言うんぞ? 鬼は鬼ぞ。元々封じられとったんなら、もういっぺん封じるんが筋じゃろがな」
「あんたにとっては筋かもしらんけんど、うちには恩知らずに見えるで」
「何が恩知らずぞ。あげなもんがまた出て来たら、今度はどがぁなるか――」
「うちはおばあちゃんに賛成ぞな」
黙っていられず、千鶴は二人に割って入った。
「鬼はうちらに何も悪いことしとらんし、うちらを助けてくれたんよ? ほれじゃのに地獄へ封じてしまうやなんて、ほんなん恩を仇で返すんと対やんか」
「地獄へ封じられるんか?」
トミに訊かれて、千鶴は言葉に詰まった。
「たぶん、ほうやないかて思たぎりぞな」
千鶴が言い訳をすると、甚右衛門は不機嫌を隠さずに言った。
「地獄が鬼の本来の居場所なら、ほれでええやないか。何の問題があるんぞ?」
「おじいちゃんは地獄がどがぁな所か知らんけん、そげなことが言えるんよ。あげな所、鬼かておりとないけん」
思わず千鶴が言い返すと、甚右衛門は目をぱちくりさせた。トミもきょとんと千鶴を見ている。
「お前は地獄がどがぁな所か知っとるんか?」
甚右衛門に訊かれると、千鶴は返事ができずに下を向いた。トミは千鶴をかばうかのように、とにかくと言った。
「うちは祠の再建には反対ぞな。まぁ、どがぁするかは風寄の人らが決めることなけんど、そこに加わるんはようないと思わい」
二人に反対されては、甚右衛門は面白くない。
「出るか出んかはわしが決めらい。女子が口出しすることやない」
「勝手にしぃや。ほんでも鬼を怒らせたらどがぁなるか、よう考えや」
トミの言葉に、甚右衛門はふんと言って横を向いた。だが城山で特高警察の男たちがどんな目に遭わされたのかを甚右衛門は知っている。内心は穏やかでないはずだ。
裏木戸が開く音がして、すぐに花江が中へ入って来た。両手に抱えている鍋には豆腐が入っている。
「お戻りたか」
千鶴が声をかけると、花江は強張らせた顔で、いたよと言った。
「いた? 何がおったん?」
花江はちらりと甚右衛門とトミの顔を見てから、あの人だよと言った。
「あの人て?」
千鶴は誰のことかと考えたが、すぐにまさかと思った。言葉に出しはしなかったが、千鶴の顔を見て花江は黙ってうなずいた。
「ひょっとして、あの子がおったんか?」
トミが動揺した様子で訊ねると、はいと花江は小さく答えた。
「あんた、孝平が戻んて来たんよ」
トミに言われると、甚右衛門は不機嫌な顔をさらにゆがめた。
「戻んて来たも何も、ここへは入られんのじゃけん、戻んたとは言えまいが」
「ほやけど……」
「あいつはやったらいけんことをやって、ここを追わい出されたんぞ。なんぼ近所におったとしても、わしらと関係あるかい」
甚右衛門に言葉を返せず、トミは黙ったまま袖で目を押さえた。
千鶴はすぐに土間へ下りると、気にしたらいけんよと花江に言った。姿を見せた孝平のことでもあるし、祖父母のやり取りのことでもあった。
孝平に襲われた花江は何一つ悪くない。なのに、孝平が家にいられなくなったことで、花江は未だに責任を感じている。
ありがとねと花江は笑みを見せたが、やはりその表情は硬いままだ。
それにしても、孝平が山﨑機織を出てから一年近くになる。これまでずっと消息がわからなかったのに、今になって姿を見せたのには何か理由がありそうだ。
何だか嫌な予感がする千鶴は、悪いことにならねばいいがと心配になった。
三
結局、鬼よけの祠の竣工式に甚右衛門は出ないことになった。式への出席は、千鶴と鬼の関係を公に認めたことになるからだ。そのことにトミはほっとしていたし、千鶴もよかったと思った。しかし、竣工式は甚右衛門の参加に関係なく執り行われる。それが千鶴は不安で仕方がなかった。
万が一、進之丞が消えてしまうようなことになればと思うと、仕事は手につかないし、話しかけられても何を言われているのかよくわからなかった。
進之丞を人間に戻したくて、一度は井上教諭に無理をお願いし、催眠術による前世の記憶調べをしてもらった。けれど蘇った鬼の記憶が恐ろしくて、その後の調べは中断している。あれから井上教諭の所へは行かないままだ。
だが、進之丞が祠に封じられるかもしれないと思うと、どんなに恐ろしくても前世の記憶調べを続けるべきだったと、千鶴は後悔していた。ただそうはいっても、井上教諭が休みなのは日曜日だけだ。千鶴は日曜日を休めないし、教諭の所へ出かける口実もない。もう一度催眠術をかけてもらおうとしたところで、恐らく暇がなかっただろう。
何もできないまま日は過ぎていき、竣工式の日が近づいてくる。不安はどんどん膨らんで、進之丞の姿が見えないと、千鶴は居ても立ってもいられなくなった。
竣工式の日を迎えた朝、千鶴は進之丞に今日はどこにも行かないでほしいと懇願した。出かけた先で進之丞が消えてしまうのではないかと、千鶴は本気で心配していた。
しかし進之丞には仕事がある。どうしてそんなことを言うのかと問われても、千鶴は祠のことを言えなかった。言ったところで相手にされないだろうし、進之丞の言葉を信じていないと思われたくなかった。
そこへ同業組合の事務員が甚右衛門を呼びに来た。風寄の名波村から電話らしい。
電話はどこの家にもあるものではない。紙屋町では同業組合事務所に電話があり、急ぎの用事がある者は同業組合の電話を使わせてもらっていた。
甚右衛門は同業組合事務所へ行ったが、電話をかけてきたのは恐らく修造だ。祠の竣工式が始まるという知らせだろうか。それにしては少々早いように思われる。
しばらくしたら甚右衛門が戻って来た。その顔は何故か蒼く引きつっている。
「あんた、どがぁしたんね? 誰からの電話じゃった?」
トミが不安げに訊ねると、名波村の村長だと甚右衛門は落ち着きなく言った。
「村長さん? こがぁに早よに竣工式が済んだんかな?」
「ほうやない。ほの逆ぞな」
「ほの逆て?」
甚右衛門はちらりと千鶴の方を見た。
千鶴には洗濯の仕事があったが、まだ仕事には取りかからず、進之丞をつかまえたまま土間にいた。
トミがいる茶の間の拭き掃除を始めていた花江は、甚右衛門の様子を見て手を止めた。甚右衛門は花江に他の所を掃除するよう頼むと、茶の間へ上がって千鶴を呼んだ。
千鶴は進之丞の顔を見てから、あきらめてその手を離し、祖父の傍へ行った。
進之丞は帳場へ戻り、掃除をやめた花江は、千鶴の代わりに洗濯籠を抱えて奥庭へ向かった。けれど甚右衛門の声が聞こえると、勝手口を出た所で立ち止まって振り返った。
「燃えたんよ」
甚右衛門の言葉の意味がわからないトミが訊き直した。
「燃えた? 燃えたて何が?」
「何がて、決まっとろうが」
甚右衛門は怒った口調で言った。その声は怯えているようにも聞こえる。
「え? ひょっとして……」
「ほうよ。祠が燃えたんよ」
トミの顔がゆがんだ。花江は祠の再建話を知らないが、祠と聞いてやはり不安げだ。
「なして燃えるんね? 今日は天気もええし、雷が落ちたわけやなかろに」
トミが顔を強張らせながら、噛みつくように訊ねた。
「今朝方、未明のうちに燃えたらしいわい」
「なしてね?」
「燃えた理由はわからん。警察も出て調べよるそうやが……」
「誰ぞが火ぃつけたんじゃろか?」
「誰がつけるんぞ? 祠燃やして喜ぶ奴なんぞ、どこっちゃおるまい」
トミは黙り込んだ。甚右衛門も黙っている。
千鶴は状況が呑み込めなかった。祠が原因不明の火によって燃えてしまうとは、どういうことなのか。
わざわざお金をかけた祠であり、村人たちが鬼を恐れて造った物だ。村人たちに祠を燃やす理由はない。祠なんて勝手に燃える物ではないから、何者かが悪意を持って火をつけたのだろうが、いったい誰が?
「……鬼か」
甚右衛門がつぶやくと、トミは震えながらうなずいた。
「たぶん、ほうよ。他には考えられんで。鬼が怒っとるんよ」
まさかと千鶴は思ったが、可能性は否定できない。ひょっとしたら、進之丞が改心させたという鬼の仕業かもしれないのだ。もしそうであるなら、やはり祠には鬼を封じ込める力があるのか。千鶴は進之丞に確かめてみることにした。
四
「ほれはあしがしたことやないし、あの鬼もやっておらぬ」
夕飯のあと、千鶴に奥庭へ引っ張り出された進之丞は、祠の火事への関与をきっぱりと否定した。また、改心した鬼は今も自分と一緒にいると言った。
改心した鬼は前世とは違って自分の体を持っていないため、進之丞に引っつく形でいるらしい。進之丞が千鶴を想い、心配したり励ます時には、その鬼も一緒に千鶴を想い、心配したり励ましているそうだ。
しかし、その真偽は千鶴には確かめようがない。進之丞を信じたいけれど、自身も鬼になった進之丞が、その鬼をかばっているのかもしれなかった。
いつから鬼は進之丞と一緒にいるのかと訊ねると、前世からだという。実は鬼が千鶴をあきらめた時、その鬼は死んだのだと進之丞は言った。
進之丞が忠之を喰らったように、鬼は千鶴を喰らおうとした。それは千鶴の優しさを己だけのものにするためだったが、進之丞との戦いで鬼は進之丞に致命傷を与えながら、自らも大きな傷を受けた。それ故、鬼にとって千鶴を喰らうことは生きるということでもあった。それでも鬼は進之丞の説得に応じ、千鶴を手放して死を受け入れたという。
鬼は死んだら地獄へ堕ちる。ところが、この鬼は死後も進之丞の力を借りて、何とかこの世に留まっていたそうだ。だが結局は進之丞も死んでしまったために、鬼は進之丞とともに地獄へ堕ちた。そして進之丞がこの世へ再び舞い戻った時に、その鬼も一緒に引っついて来たらしい。
「そがぁなわけで、あの鬼はいっつもかっつもあしと一緒におるんよ。ほじゃけん、あしにはその鬼の気持ちがわかるんよ」
千鶴は驚いたが、改心した鬼がどうなったのかという疑問が解けた。また、これまで進之丞が説明してきたことが、作り話ではないというのもわかった。改心した鬼も確かに千鶴を見守り、千鶴の幸せを願ってくれていたのだ。
「ほうじゃったん。鬼さんはほんまにおったんじゃね。おら、てっきり進さんぎりかて思いよった」
「あしが説明しとらんかったけんな。ほれはともかく、前に申したようにあげな祠で鬼を封じることはできぬ故、あしらが祠を燃やす理由はないわけよ」
改心した鬼を久しぶりに鬼さんと呼んだものの、前世の母が鬼に殺されたことを思い出すと、千鶴は複雑な気持ちになった。
「どがぁした?」
千鶴の表情が曇ったのを見て、進之丞が心配そうに言った。
千鶴は何でもないと笑みを見せると、祠に話を戻した。
「進さんも鬼さんも関係ないんなら、なしてあの祠は燃えたろか? 進さんはどがぁ思いんさる?」
千鶴が訊ねると、進之丞は腕組みをしてふーむと唸った。
「祠が勝手に燃えるわけない故、恐らく誰ぞが火ぃをつけたんじゃろが、はて……」
「おじいちゃんらは鬼じゃて思ておいでるし、風寄の人らもそがぁ思いよろうねぇ」
不安げな千鶴を、進之丞は目だけで見た。
「ということは、ほれこそが燃やした奴の狙いかもしれまい」
「鬼が祠を燃やしたて、みんなが思うんが目的なん?」
「みんながうろたえてやっさもっさしよるんを、陰から眺めて楽しみよるんぞ」
なるほどと千鶴がうなずくと、あるいはと進之丞は続けた。
「其奴は祠が鬼を封じると、本気で思いよったとも考えられよう」
「ほれはどがぁな……」
「つまり、鬼が封じられたら困る奴がおるいうことよ」
進之丞の言葉に千鶴は眉根を寄せた。
「おらの他にもそがぁな人がおるん?」
「鬼が世間を騒がせ続けることを望みよるんか、他に企みがあるんやもしれん」
「企みて?」
「ほれはわからん。いずれにせよ、ここは様子を見守るしかあるまい」
それは確かにそうだ。見守るより他にしようがない。
「また、何ぞ悪いことが起ころうか?」
「さぁな。何があったとしても乗り越えて行くぎりぞな」
進之丞は頼もしく言った。以前よりは開き直れた姿に千鶴は少しほっとした。祠が再建されたら進之丞がどうなるのか、不安が完全に拭えたわけではないけれど、ここは進之丞を信じるしかない。
「話違うけんど、孝平叔父が戻んて来とるみたいなんよ」
孝平の話に進之丞は片眉を上げた。
「あの男か。まぁ、どこっちゃ行く当てがないんなら、戻んて来るよりほかあるまい」
「ほやけん、花江さんが心配しよるんよ」
進之丞は気の毒そうな顔で言った。
「以前のお前のように一人で外へ出るんは、しばらくは控えた方がええじゃろ」
「おらもそがぁ言うたんよ。花江さん、賢いお人じゃけん、危ない真似はせんと思うけんど、何か嫌な予感がするんよ」
「嫌な予感とは?」
「何いうんやないけんど、何とのう嫌な気がするんよ」
進之丞はため息混じりに言った。
「お不動さまは、あしらを静かにはさせてくんさらんようじゃの」
「進さんもかっとならんよう気ぃつけておくんなもしね」
「案ずるな。お前さえ無事であれば、かっとなったりはせぬ」
「忠さん、お風呂行こ」
新吉が勝手口から声をかけた。その向こうに亀吉たちの姿も見える。よしと進之丞が返事をすると、
新吉は外へ出て来て進之丞に風呂の手拭いを渡した。続いて亀吉と豊吉が出て来て、その後ろに辰蔵と弥七が続いた。
それぞれは千鶴に声をかけて裏木戸をくぐり、進之丞も出て行った。最後は弥七だったが、弥七は千鶴に恨めしそうな目を向けただけで何も言わなかった。
何か弥七の機嫌を損なうような真似をしただろうかと、千鶴は弥七を見送りながら考えた。しかし、いくら考えても何も思い当たらない。あるとすれば、進之丞と二人でいたことだろう。そんなことで一々あんな態度を見せられたのではやっていられない。
ただでも不安が続く中、千鶴は滅入った気分で家に入った。
五
六月初日、朝から雨だ。雨は昨日から降り続けている。どうやら梅雨に入ったらしい。
雨なので洗濯物は干せないが、進之丞は外には出ないで家のことを手伝ったり、丁稚たちの相手をしてやったりしていた。
結局、辰蔵と幸子の祝言は挙げていない。祠が燃えてしまったことを、甚右衛門もトミも気にしていたからだ。
二人が夫婦になる話は、鬼よけの祠の竣工式が終わってから、使用人たちに伝えられるはずだった。ところが祠が燃えてしまったので、その話は公表されないままになっていた。それを使用人で知っているのは、辰蔵本人と花江と進之丞だけだ。
この日、弥七はいつものように外へ出かけると、夕食前に戻って来た。その時に、弥七は千鶴を呼んで奥庭へ出た。雨はやんでいたが、庭はぐっしょり濡れている。
弥七が千鶴を呼ぶなんて、山﨑機織に来て以来初めてのことだ。千鶴が少し緊張したまま弥七について行くと、弥七は懐から櫛を取り出した。
「これな、ええのがあったけん、買うて来たんよ」
弥七が千鶴に手渡したのは、上等のべっ甲の櫛だ。
「これ、べっ甲やんか。なして、こがぁな物買うたん?」
驚いて千鶴が顔を向けると、弥七はうろたえながら目を伏せた。
「千鶴さんにあげよ思て買うたんよ」
「え? うちに? なしてこがぁな物をうちに買うたん?」
弥七は顔を上げると、買いたいから買うたんや――と少し怒ったように言った。
千鶴が困って黙っていると、話はほれぎりぞなと言って、弥七は家の中へ入って行った。一人残った千鶴は手の中の櫛を見ながら、どがぁしようとつぶやいた。
「千鶴ちゃん、それはまずいよ」
洗濯物を洗いながら、花江が言った。
この日は梅雨の晴れ間で、溜まっていた洗濯物を一気に洗って干す貴重な日だ。傍を亀吉たちが蔵から木箱を運び出しているので、その動きを見ながら千鶴は言った。
「まずい言われたかて、一方的に渡されてしもたけん」
隣で同じように洗濯をしながら千鶴は言った。
「別に千鶴ちゃんを責めてるわけじゃないけどさ。それは困ったことだよ」
「確かに困っとるんよ」
「幸子さんには話したのかい?」
「ほうなん、困ったわいねぇ――て言われた」
「それだけ?」
千鶴がうなずくと、花江は笑った。
「男と女の話ってむずかしいからさ。あたしも幸子さんと同じで、何も言えないよ。ただ、今の状況がまずいのは確かだね」
「忠さんには見せられんし、うち、どがぁしたらええと花江さんは思いんさる?」
「あたしだってわかんないよ。でも、千鶴ちゃんが惚れてるのは忠さんだろ?」
うんと千鶴が言うと、だったらさと花江は言った。
「そこんとこを弥さんにはっきり伝えなきゃいけないと、あたしは思うね。こんなこと言ったら相手が傷つくんじゃないかとか、相手から嫌われるんじゃなかろうか、なんて考えちゃだめなんだ。こういうことは用件だけをきっちり伝えて、あとはどうなろうと知ったこっちゃないって覚悟を決めるしかないよ」
花江が言うのは尤もだ。心に決めた相手は進之丞ただ一人である。なのに気持ちを伝えるのをためらうのは、弥七が臍を曲げたり落ち込んだりして、仕事に支障を来すことを恐れるからだ。それに千鶴も弥七といるのが気まずくなる。
「ほれにしたかて、なして今頃こがぁなことするんじゃろか?」
千鶴が進之丞と惚れ合っているのは、弥七だってわかっているはずだ。なのに弥七がこういう行動に出たことが千鶴には理解できなかった。それについて花江は言った。
「だめもとでやったんじゃないのかな?」
「だめもと?」
花江はうなずき話を続けた。
「弥さんは千鶴ちゃんが好きだったのに、それを態度に示さなかったから、千鶴ちゃんを忠さんに取られたって思ったんじゃないかな。だから、今更だけど自分の気持ちを示して、千鶴ちゃんを自分に振り向かせたかったのかも。まぁ、一か八かってやつだね」
そんな博打みたいな真似はやめてほしいと、千鶴がため息をつくと、スタニスラフが来た頃さ――と花江はスタニスラフを呼び捨てて言った。
「あの頃、千鶴ちゃんと忠さん、何か行き違いがあったんだろ?」
千鶴はぎくりとした。まさか進之丞が花江に心変わりをしたと疑っていたとは言えない。それで、ちぃとねと笑ってごまかした。
花江は細かい事情を詮索するつもりはないようで、あの時は二人の仲を心配していたと言った。千鶴は恥ずかしいやら情けないやらで、自然と目が伏しがちになる。
「あいつ、結構大胆だしさ。新聞にも千鶴ちゃんとあいつが結婚するって出てたじゃないか。正直いったら、あたしもさ。あの時の千鶴ちゃんは、あいつに心変わりしたように見えたんだ」
返す言葉もなく、千鶴は小さくなった。花江は構わず話を続けた。
「あの時に何があったのかは、どうでもいいんだけどさ。あたしが見たって、二人の間に隙間風が吹いたみたいだったから、弥さんにもそう見えたんじゃないかな」
顔を上げた千鶴に、花江は言った。
「あの時の千鶴ちゃんと忠さんの様子を見てさ、二人の仲はまだ思ったほどじゃないんだって、弥さんは考えたんだ。それで、これは自分にもまだ目があるって思ったんだよ」
「ほやけどお城山の事件の時、弥七さんはうちを鬼見るような目で見よったんよ? 花江さんも見んさったでしょ?」
千鶴は精いっぱいの反論をしたが、花江は認めなかった。
「だけどさ、弥さんはこう言ったよね。この店を守るって。確かに鬼は怖かったんだろうけど、弥さんは自分を奮い立たせたんだと思うよ。それにさ、きっとあれは千鶴ちゃんを護るって意味でもあったんだよ」
そうなのかと千鶴は驚き、さらに困惑した。また自分が進之丞を信じてさえいれば、弥七だってこうはならなかったのにと、自分の愚かさが悔やまれた。
ところでさ――と花江が思い出したように言った。
「あいつとは、その後どうなったんだい? まだ手紙のやり取りをしてるのかい?」
あいつというのは、スタニスラフのことだろう。スタニスラフからはその後も手紙が何度か届いていた。千鶴が返事の手紙を出さないから痺れを切らしているようだ。
千鶴がエレーナのために身を引いたとスタニスラフは受け止めており、千鶴の気持ちを取り戻そうと必死だった。
スタニスラフと千鶴の関係が壊れたのは自分のせいだと、エレーナは自分を責め続けているそうで、母を助けるためにも返事が欲しいとスタニスラフは訴えていた。
本当は今すぐ松山へ行きたいけれど、特高警察が心配で許してもらえないと、スタニスラフは残念な気持ちを綴っていた。だから、せめて千鶴の手紙が欲しいと言うのだが、これについても千鶴は悩んでいた。
その話をすると、花江は笑いながら千鶴に同情した。
「あっちもこっちも、千鶴ちゃん、もてもてだね」
からかう花江に、やめてやと千鶴は口を尖らせた。
「うち、ほんまに困りよるんよ」
「そうだったね、ごめんごめん。でもさ、ほんとに千鶴ちゃん、引っ張りだこじゃないの。千鶴ちゃん、自分に自信がなかったみたいだけど、千鶴ちゃんが気になる人間は結構いるんだね」
確かに春子や静子も特別に思ってくれていた。伯爵夫妻だって歓迎してくれた。差別する人間は決して少なくないけれど、そうではない人たちも案外いるのかもしれない。
だが、それとこれとは話が別だ。弥七にせよスタニスラフにせよ、向こうの気持ちを受け入れることはできないのだ。
洗った着物を搾りながら花江は言った。
「そっちにしたって、自分の気持ちをちゃんと伝えないとね。こんなこと言ったらどうなるんだろう、なんて考えてたら、いつまでもずるずるいっちゃうからね」
千鶴も洗った着物を搾って言った。
「花江さんの言うとおりじゃね。はっきり言うてあげんのは、思いやりとは違うもんね」
「そうだよ。言いにくいのはわかるけど、言うべき時には言わないとね」
花江は微笑むと、搾った着物をかごに放り込んだ。
六
「話は変わるけどさ、風寄の燃えちまった祠だけど、あれからどうなったんだい?」
次の着物を洗いながら花江は言った。
鬼よけの祠が燃えた事件は新聞の記事にもなった。世間がこの事件をどう見ているのかは知らないが、花江はこの事件と城山の事件が関係あると考えていた。
千鶴は搾った着物をかごに放り込み、さぁねぇと言った。
「おじいちゃんも何も言わんし、向こうからも何も言うて来んみたいなけん、どがぁなっとるんかわからんね」
「別に変わったことは起こってないんだね?」
「たぶんね」
「そんならいいけど、でもやっぱり気味悪いよね。このまま何も起こらなければいいんだけど……」
千鶴はうなずいたものの、花江が言うように祠が燃えてしまったのは不気味だし、誰かが何かを企んでいる気もして不安になる。けれど一方で、進之丞を救うべく、前世の記憶をもう一度調べる機会を与えられたようにも思えている。
進之丞が地獄へ戻されるのではないかと恐れるのは、もうたくさんだ。前世の記憶を探るのは怖いけれど、そんなことは言ってられない。
二人は黙って次の着物を洗い始めたが、花江が手を止めて言った。
「鬼ってさ、ほんとのところは何なんだろうねぇ?」
千鶴も考えたことがなかった。鬼とはいったい何なのか。進之丞が鬼になったのだから、鬼は元は人間だったわけだ。とはいえ、何故進之丞が鬼になったのかは依然として謎だ。また鬼がどういうものなのかもわかっていない。
鬼とは何なのだろう。千鶴は手を止めて、鬼になった進之丞のことを思い浮かべた。
進之丞は鬼に父を惨殺され、慈命和尚を救おうとして、殺したくもない村人たちを手にかけた。結局、慈命和尚は亡くなり、夫婦になるはずの千鶴が鬼に攫われた。
幸せは目の前にあった。なのに、それを手にする直前にすべてを鬼に奪われたのだ。己のことしか考えない身勝手な鬼と対峙した、進之丞の胸中はいかなるものだったのか。
千鶴は進之丞の心の内を読み解きながら喋った。
「鬼はな、がいな怒りで人間が変化したもんなんよ。がいな怒りいうても、ただの怒りやないよ。口では言えんような悲しみ……、憎しみ……、ほれと……絶望が混ざった怒りぞな。やけん鬼は恐ろしいんやけんど……」
横にいる花江は手を止めて驚いた顔をしている。だけど進之丞の心を説明するには、これではまだ言葉が足らない。千鶴は話を続けた。
「鬼はな、そがぁな自分が悲しいし寂しいんよ。ほれに……、自分を憎んどる。鬼になった自分を憎みよるんよ……。ほれで救いを求めとるんやけんど……、どがぁしたらええんかわからんし、誰っちゃ助けよとしてくれん。みんな鬼は怖いけんな。ほじゃけんな、単に鬼を怖がるんやのうて、なしてその鬼は鬼なんかて考えてやって、わかってあげるんが大事なんやなかろかて、うちは思うんよ」
やっと全部が言えたと思った千鶴に、花江は感動した顔で言った。
「千鶴ちゃん、それ、どこで聞いたんだい?」
「別に聞いたんやのうて、そがぁ思たぎりぞな」
「自分で思ったって言うのかい? 凄いじゃないか」
花江は感心したが、進之丞のことを考えていたら自然に出て来た言葉だ。
進之丞は多くの人を殺めたために鬼になったと言った。だが事実はそうではなく、今の自分の言葉の中に真実が隠れていると、千鶴は考えていた。といっても、そこに隠れているであろう真実が、千鶴にはまだわからなかった。
千鶴を攫った鬼が求めていたのは、千鶴の優しさだ。千鶴を喰らってその優しさを手に入れようとしたのも、結局は救いが欲しかったのだ。
きっと進之丞も救いを求めている。だけど、それは地獄から抜け出すことではないし、人間に戻ることでもない。どちらも救われた結果であって、救いそのものではないのだ。大切なのは、何が救いになるのかである。
「ほうよ、ほうなんよ」
千鶴が叫びながら立ち上がったので、花江は驚いた。
「何だい何だい? 何がそうなんだい?」
千鶴は花江を見下ろしながら言った。
「鬼は救いを求めとるんよ」
「さっき自分でそう言ったじゃないか」
「ほうなんやけど、ほうなんよ」
「もう千鶴ちゃんが何言ってんだか、わかんなくなっちまった」
花江はまたごしごしと洗濯を始めた。千鶴はその横で立ったまま考えた。
鬼は救いを求めているのに、何が救いなのかは鬼自身わかっていない。どうすればいいのかが鬼にもわからないのだ。だけど、進之丞は何が救いなのかがわかっているのではないか。千鶴はそんな気がした。
では、わかっているのに鬼のままでいるのはどうしてなのか。その理由は自分にあると千鶴は思った。
進之丞はいつも千鶴の幸せを考えている。己が救われるより千鶴の幸せが優先なのだ。
まずは千鶴の幸せを確かめてからというのであれば、千鶴が幸せになれば進之丞は救われるという意味になる。そうであるなら問題はない。二人で幸せを目指して突き進めばいいだけだ。しかし進之丞の様子を見る限り、そうではなさそうだ。
どういうことかはともかくとして、進之丞が救われるためには千鶴の幸せが犠牲になる。もしそうであれば、進之丞は決して救われたいとは思わない。そもそも千鶴が不幸になれば進之丞が救われるというのも妙な話だ。進之丞が救われて人間に戻れたなら、幸せが犠牲になるどころか、それこそ幸せなことだ。
一度はわかったつもりになっていたが、千鶴の心は急速にしぼんだ。結局は何もわかっていなかった。それでも、もう少しで答えが見つかりそうな気がしていた。
花江が洗濯をする横で、千鶴は立ったまま顎に手を当てた。どうしたんだろうという顔で亀吉たちが通り過ぎても、千鶴の頭は止まらない。
千鶴を襲った鬼は、千鶴の優しさが欲しかった。あれも本当は救いを求めていたのだとすると、優しさは救いと関係していると思われる。
しかし、優しさそのものが救いというのではないようだ。もし優しさが救いとなるのなら、これだけ優しい進之丞や、進之丞と心を一つにしているという鬼は、すでに人間に戻されているはずだ。
これまで鬼が行った悪事や非道な行為が、救いの邪魔をしているようにも思えるが、それでは未来永劫に鬼は救われない。それは全ての者を正しい道へ導くという不動明王の力に、限界があるということになってしまう。
千鶴は拳を額に当てて答えを求めた。
たとえ鬼であっても、必ず救いはある。絶対にある。救いがあれば、鬼は人間に戻れる。逆に考えれば、救いを失った人間が鬼になるのか。だとすれば、進之丞は何を失ったのだろう。人間であるために必要なもの、それはいったい何なのか。
やはり進之丞が鬼になった場面の記憶が必要だ。その時に進之丞が何を失ったのか。それを知ることは、進之丞を救う大きな手がかりになるに違いない。
そのためにはもう一度井上教諭を頼って、前世の記憶を調べる必要がある。どんなに鬼の記憶が恐ろしくても、進之丞のためにやらねばならない。
自分の洗い物を済ませた花江は、千鶴がまだ洗っていない着物を自分のたらいに移して洗いだした。それにも気づかないまま、千鶴は進之丞の救いについて考え続けた。