記憶の探索
一
庚申庵の藤棚はこの辺りでは有名だ。商売をする者が花を見るためにわざわざ仕事を休んだりはしないが、時間に追われていない百姓や商家の隠居などは、ここに咲く藤の花を毎年の楽しみにしている。
千鶴も子供の頃には何度か見に行ったことがある。しかし、多くの人が出入りする所なので、離れた所から眺めたぐらいだった。
女子師範学校にいた頃はまったく見る暇がなかったが、去年は久しぶりに見る機会を持てた。それも進之丞と一緒にである。
いつもは正清の月命日には墓参りをしない甚右衛門も、この時期の月命日だけはトミと一緒に墓参りに行く。その時に雲祥寺近くにある庚申庵を訪ねて、二人で藤棚を楽しむのである。
幸子は仕事が休みである日曜日に見物に行く。今年はちょうど五月の月命日と日曜日が重なるので、幸子は甚右衛門たちと一緒に出かける予定だ。
五月の初日はちょうど花盛りなので、使用人たちは揃って庚申庵へ出かける。今年も辰蔵に弥七、花江の三人は一緒に藤の花を見に行った。
普段は休みがもらえないはずの丁稚たちも、この日ばかりは辰蔵たちに同行させてもらうことが許された。
いつもの休日であれば、花江たちは一日出かけている。戻って来るのは夕方近くだ。しかし、この日は花江は途中で戻って来て、家事をやっておくから、忠さんと二人で見ておいでと千鶴に言ってくれた。
去年、千鶴が進之丞と藤の花見物に出かけられたのは花江のお陰である。そして、今年もまた同じように花江は、千鶴たちに花見の機会を与えてくれた。
二人が花江に感謝しながら庚申庵へ出かけると、家の主が留守にもかかわらず、庭の中は見物客でいっぱいだった。みんな縁側に勝手に座ったり、地べたに茣蓙を敷いたりして花を楽しみ、弁当を食べたり酒を飲んだりしている。
日曜日は井上教諭も仕事が休みだが、こんな状態だと気が休まらないに違いない。
千鶴と進之丞は教諭を気の毒がりながら花を楽しんだ。また、千鶴はこの日が日曜日でなくてよかったとも思っていた。
日曜日であれば教諭がいるはずであり、その時に顔を合わせてしまうと、教諭に挨拶をするという口実で、庚申庵を訪ねることができなくなる。
千鶴は後日ここを訪ねて、井上教諭に催眠術をかけてもらうつもりだった。それにしても、こんなに人の出入りが激しい時期には、教諭を訪ねるのは無理である。
これでは挨拶をするだけでも、他人が話に交ざって来るだろう。催眠術なんてとんでもない話だ。
もし人に見られたりすれば、こんな所で二人で何いかがわしいことをやっているのかと、この辺りで噂になってしまうに違いない。
催眠術で前世の記憶を探るのは、花が終わるまでお預けである。
先日千鶴が再会した井上教諭が、この春からここで暮らしていると聞かされた進之丞は、この時期に人出が多いのは玉に瑕だが、普段の暮らしは風流で羨ましいと言った。
庚申庵の庭には藤棚だけでなく、山や川を模した庭があった。
庵を建てたのは栗田樗堂という俳人で、仲間と俳句を楽しむために、この庵を作ったと言われている。家にいながら山川草木を愛でることができるこの庭は、田んぼの中に突如として現れた別世界のようだ。
進之丞と二人で店を持つことになったなら、いつかこんな小さな家を建てて、そこで静かに余生を送れたらと千鶴は思った。
また、その時までに進之丞が鬼に変化することなく過ごせたならば、進之丞の罪も許されて人間に戻してもらえるかもしれないと考えもした。
それを進之丞に話しても、進之丞はそうだなとは言わなかった。だが、微笑む顔はそうなりたいと告げているように見えた。
しかし心配はあった。横嶋つや子である。つや子の問題が解決しない限り安心はできない。
昔ほどではないにしても、今でも二百三高地髷の女はいくらでもいる。この庚申庵に集まっている女たちも、多くが似たような頭をしている。そんな女たちが目に入ると、そこにつや子がいるような気がして、せっかくの花見気分が落ち着かなくなってしまう。
つや子を捕まえることができれば、それが一番だ。だがそれができないうちはつや子に何をされようと、進之丞が怒り狂って鬼にならないようにしなければならない。そんな心配を避けるためにも、井上教諭には力を貸してもらわねばと千鶴は思った。
それでも、実際どうなるかはわからない。千鶴は催眠術というものを知らないし、催眠術で前世の記憶までもが明らかにできるのかは、教諭だって知らないだろう。
そんなことができるのであれば、疾うの昔に誰かがやって、あちらこちらで前世の話が聞かれるはずだ。
そうはなっていないことを考えると、前世の記憶を探るなどということは、無茶な考えなのかもしれない。それでも、それはやってみないとわからないことだし、他に方法はないのである。
この見事な藤の花が咲き終わった頃がいよいよだと、千鶴は花を眺めながら気を引き締めた。
井上教諭に相手にされないかもしれないし、頭がおかしくなったと思われるかもしれない。だが、それは覚悟の上である。進之丞のためであれば、恥をかくことなどどうでもいいことだった。
二
そろそろ藤の花も終わりを迎えたと思われる頃、家族で夕飯を食べている時に、千鶴は井上教諭へ挨拶に行きたいと祖父母に申し出た。
改めて教諭に挨拶をすることには、二人とも反対はしなかった。しかし、トミが同行すると言うので千鶴は困った。
もう子供ではないので、自分一人で十分だと千鶴は主張した。だが、トミは千鶴が一人で行くことを許さなかった。
一人暮らしの男の元へ、嫁入り前の娘を一人で行かせるわけにはいかない、というのがトミの言い分だった。
先生はそんな人ではないと千鶴は訴えた。だが、男なんか信用できないとトミは言い、千鶴の言葉に耳を貸そうとしなかった。
初めから不審な目で見る者が行ったのでは挨拶にならないと千鶴が主張すると、それはそうだと甚右衛門はうなずいた。
祖父が認めてくれれば、祖母も口出しはできない。千鶴がほっとすると、甚右衛門は幸子に同行するように命じた。
井上教諭が自宅にいるのは日曜日である。日曜日は幸子は仕事が休みなので、千鶴に同行することは可能だ。
しかし、それでは千鶴の計画が狂ってしまう。幸子が一緒だと、千鶴は井上教諭に催眠術をかけてもらうことができなくなる。
母がいないと花江一人が家事をすることになると、千鶴は必死に言った。だが、そんなに長い間ではないだろうから心配ないと、甚右衛門は問題にしなかった。
それに千鶴が学校へ通っていた時は、花江は一人で家事をこなしていた。別に幸子がいなくても、特に問題があるはずがなかった。
幸子も甚右衛門に同意し、少しぐらいの間であれば花江に負担はかけないし、あとで二人が手伝えば大丈夫だと言った。
それで結局、千鶴は母と二人で次の日曜日に庚申庵を訪ねることになった。
千鶴は力なく漬物をぽりっとかじり、大きく息を吐いた。
庚申庵へ向かう途中、千鶴たちは饅頭屋に立ち寄って、井上教諭への土産の饅頭を買った。日切饅頭とは違う普通の饅頭だが、これも千鶴が気に入っている饅頭だ。
「結局、あの鬼はどがぁなったんじゃろねぇ」
饅頭屋を出てから、幸子がぽつりと言った。
「特高警察のことはあったけんど、他にはあれから何も悪いことは起こっとらんし、あの鬼は何じゃったんじゃろかて時々思うんよ」
鬼が現れてから二ヶ月が経つが、何だか肩透かしを食らったみたいだと幸子は言った。
「ほじゃけん、鬼はうちらには悪させんて言うたやんか」
千鶴は口を尖らせたが、幸子は構わず話を続けた。
「悪さするもせんもないがね。あがぁなもんが出て来るいうんは、ほれぎりで尋常なことやないけんね。と言うても、あれ以来、とんと姿見せんしなぁ。何か悪い夢でも見たような気分やで」
「特高警察みたいなことがなかったら、鬼はうちらを見守るぎり姿見せたりはせんのよ」
前から自転車に乗った若い男が来るのが見えた。自転車は高級品だ。どこかの大店の遣いの者だろう。
立ち止まって自転車をやり過ごしたあと、幸子は言った。
「お母さんが思うにな、あの鬼はあんたに惚れとるで」
千鶴はぎくりとなった。母の鋭さにうろたえながら、どうしてそう思うのかと平静を装って訊ねた。
「あんたの身内でもないのにあがぁなことするいうたら、ほうに決まっとろ? あの鬼は男みたいなし」
「ほ、ほやけど、鬼やで?」
「鬼であろうが人間であろうが、男が女子に優しいにするんは、その女子に惚れとるけんよ。あん時、鬼があんたの言うこと素直に聞いたんも、そがぁ考えたら合点が行こ?」
千鶴は返事に困った。母が言うことは図星である。
千鶴が黙っているので、幸子は千鶴が不安になったと思ったようだ。余計なことを言って悪かったと詫びた。
ううんと千鶴が首を振ると、幸子はまた心配そうな顔になり、ただな――と言った。
「鬼があんたを護ってくれるんはええとしても、鬼があんたに惚れとるんやとしたら、忠さんが危ないで」
幸子は鬼が忠七に千鶴を奪われると思い、忠七に危害を加えることを恐れていた。
「忠さんはまっこと強いけんど、さすがにあの鬼相手じゃったら勝てんぞな」
「大丈夫やて。鬼は忠さんに手ぇ出したりせんけん」
「そがぁなことわかるもんかね。おじいちゃんも言うておいでたけんど、いつか鬼があんたを連れて行くんやないかて、お母さんはほれが心配ぞな」
近くの家から人が出て来たので、二人は喋るのをやめた。これで鬼の話は打ち切りとなったが、結局あの鬼はどうなったのだろうと千鶴はふと思った。あの鬼とは前世で千鶴を攫った鬼である。
自分が鬼であることを明かさなかった頃の進之丞は、千鶴を助けたのは改心した鬼だと言った。しかし、実際に千鶴を助けてくれていたのは進之丞だった。
あの鬼は今はどこでどうしているのか。あとで進さんに確かめてみようと千鶴は思った。
大林寺の前の道を少し南へ行くと、右手に分かれる道がある。庚申庵はその先にあった。
紙屋町の通りに戻った千鶴たちが、大林寺の前の辻を南へ曲がると、何ということか、こちらへ向かって来る三津子に出くわした。
三津子はいつもと同じような姿だが、今日の衣装は赤い花柄模様だ。
甚右衛門が三津子禁止令を出しているので、近頃の幸子は三津子と出かけることはない。三津子が会いに来ても、都合が悪いと言って追い返していた。幸子が特高警察に捕まった事件のあとも、三津子は一度訪ねて来たが、やはり幸子は会うのを断った。
その三津子とこんな時にこんな所で出会ってしまったのである。幸子は戸惑いを隠せない様子だったが、目を丸くした三津子は、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「あらぁ? あらあらあら。何てこと? こがぁな所で幸ちゃんと千鶴ちゃんに出会うやなんて」
いそいそと三津子が千鶴たちの所へやって来ると、最悪だと千鶴は天を呪いたくなった。
そんなことにはお構いなしの三津子は、千鶴と幸子を見比べながら興味深げに言った。
「ちぃと珍しいんやない? 今日は二人してどこへお出かけ?」
母が井上教諭の名前を出す前に、千鶴は手早く説明した。三津子に教諭のことは知られたくなかった。
「昔、お世話になった先生ん所へ、ご挨拶へ行くんぞなもし」
「お世話になった先生て、学校の先生?」
興味深げな三津子に、ほうですと千鶴はうなずいた。すると三津子は嬉しげに、ほうなん――と笑みを見せた。
まさか一緒に行くつもりなのだろうか。それは絶対にまずいと思った千鶴は母に言った。
「お母さん、ここで三津子さんに出会たんも何かの縁ぞな。うちは一人で大丈夫なけん、久しぶりに三津子さんと二人でゆっくりして来たらええよ」
千鶴の言葉に幸子が応える前に、三津子は胸の前で両手を合わせながら、感激したように言った。
「あらまぁ、千鶴ちゃん。あなたって何て優しい子なん? うち、ひょっとして千鶴ちゃんには嫌われとるんやないかて気にしよったんよ。ほやけど、ほうやなかったんじゃねぇ。嬉しいわぁ」
あら、ほれはお饅頭?――千鶴が持つ手土産に目を留めると、三津子は手を伸ばそうとした。
千鶴は慌てて体を捻ると、饅頭を三津子の手から遠ざけた。
「これは先生に持て行くお土産ぞなもし。どこにでもある饅頭やけん、三津子さんのお口には合わんぞなもし」
三津子はじっと千鶴を見ながら言った。
「ほれは、うちのことを褒めてくれとるわけ?」
「ほやかて、三津子さんは都会の匂いがするけん」
千鶴が笑みを見せながら話すと、三津子は相好を崩した。
「もう、幸ちゃん。あなた、どがぁしたらこげなええ子を育てられるんね。うち、もう感激で胸がいっぱいやわ」
そう言いながら三津子はまた饅頭に手を伸ばした。千鶴は愛想笑いをしながら、饅頭を体の後ろに隠した。
三津子は鼻の上に皺を寄せると、千鶴ちゃんの意地悪――と言った。
幸子は笑いながら、まぁまぁと三津子をなだめ、ほしたらどがぁしよか――と千鶴を見た。
幸子は日曜日に庚申庵の藤棚を見に行った時、井上教諭に会って挨拶をしていた。だから本当は、今日また挨拶に行く必要はないのである。それでだろうが、幸子は久しぶりに三津子と一緒に行く気になっているようだ。
「そがぁに長い間はまずいじゃろけん、一時間ぐらいでどがぁじゃろか」
催眠術がどれくらい時間がかかるのか、千鶴にはわからなかったが、あまり長い時間を言うわけにはいかなかった。取り敢えずの時間を言っておいて、それに遅れたならば、その時に詫びればいいと考えていた。
「ほうじゃね。ほしたら三津子さん。一時間ぎりどっか行こか」
「ええわいね。一時間でも二時間でも」
三津子が口を挟むと、千鶴は即座に言った。
「二時間はいけん。おじいちゃんに叱られてしまうぞな」
幸子はうなずき、一時間ぎりぞなと言った。
一時間後に雲祥寺で待ち合わせをすることにして、千鶴は母たちと別れた。
雲祥寺は大林寺の南にあり、庚申庵からは目と鼻の先である。山﨑家の菩提寺でもあり、待ち合わせ場所としては最適だった。
三津子に行き先を見られたくない千鶴は、母と三津子が見えなくなるまで見送った。三津子にはいらいらさせられてばかりだが、この時ばかりは、千鶴は三津子を拝みたい気持ちだった。
三
あんなに人が集まっていた庚申庵だが、藤の花が終わった今はひっそりと佇んでいる。
それでも誰か来客がいるかもしれないので、千鶴はどきどきしながら訪いを入れた。
何度か声をかけたが返事がないので、千鶴は勝手に敷地の中へ入って行った。
藤棚と庭があるのは建物の南側で、藤の花はほとんど散ってしまったものの、まだちらほらと咲き残っている花もあった。そのわずかな花を目当てに、蜜蜂がぶんぶん飛んでいる。
建物の玄関は手前にあるが、その向こうの庭に面した所に縁側があり、そこに胡座をかいて座る井上教諭の姿があった。教諭は煙草を燻らせながら、ぼんやりした様子で庭を眺めていた。
「井上先生」
千鶴が声をかけると、教諭ははっとしたように振り返った。
「山﨑さんじゃないか。来てくれたのか」
「すんません。そこでお声をかけさせてもろたんですけんど、お返事がなかったもんで、勝手に入って来てしまいました」
「いや、いいんだいいんだ。気がつかなかった僕の方が悪いよ。玄関はそっちだけど、こっちも玄関みたいなものだから、こっちへいらっしゃい」
教諭は煙草の火を消すと、千鶴を縁側へ誘った。
千鶴が縁側まで行くと、障子を開け放った室内が見えた。そこは四畳半の部屋だが、隣に三畳間があり、間にある襖も開けてあるのでかなり広く見える。
四畳半には床の間と床脇がある。床の間には立派な掛け軸が飾られてあるが、隣の床脇は棚に本が無造作に積まれている。
部屋の隅には小さな机と行灯が置かれ、少し離れた所に鉄瓶を載せた火鉢がある。鉄瓶にはお湯が沸いているらしく、口から湯気が立ち上っている。
縁側に腰掛けた千鶴は、教諭に手土産の饅頭を手渡した。
「やぁ、これはこれは。こんなに気を遣ってもらわなくてもよかったのに」
そう言いながら教諭は饅頭を受け取ると、お茶を淹れようと立ち上がった。
教諭がお茶を用意してくれている間に、千鶴は庭を眺めた。
藤棚の向こうに広がる小さな池は川のようでもあり、生い茂る木々や飛び交う蝶々を見ていると、自分が山野の中にいるような気にさせられる。
「藤棚もいいけど、そっちの庭もなかなかいいだろ?」
お茶を湯飲みに注ぎながら井上教諭が得意げに言った。千鶴は教諭を振り向くと、えぇとうなずいた。
「ここはほんまに山の中におるみたいぞなもし。うちの庭とは全然違て、まっこと素敵なお庭や思います。先生、ええ所見つけんさったんですねぇ」
「ほんとにたまたまなんだ。上手い具合に空き家になったから借りられただけさ。でも、ほんと、いい所だよ。僕は俳句は嗜まないけど、ここで庭を眺めていると一句捻ってみたくなるよ」
近くの木に小鳥が飛んで来てさえずっている。その鳴き声に聞き惚れていると、教諭がお茶を運んで来てくれた。
「お待たせ。お茶を飲みながら眺めると、また違うんだよ」
教諭は土産の饅頭を添えて、千鶴の横に湯飲みを置いた。
千鶴がお礼を述べてお茶を飲むと、その隣で教諭もお茶をすすりながら、学校をやめてから変わりはなかったかと訊ねた。
千鶴は店を継ぐことになったと話し、井上教諭の方の状況を訊ねてみた。教諭は湯飲みを置くと、いろいろあってねと言った。
「僕にはね、妹が一人いたんだ」
教諭は庭の池を眺めながら言った。
「二人きりの兄妹でさ、結構仲よしだったんだ。もう、何年になるのかな。その妹が死んじゃってね。それで、僕は落ち込んで立ち直れなかったんだ。だけど、僕の親代わりの叔父さんが一生懸命励ましてくれてね。それで、もう一度生きてみようって思ってさ。叔父さんの口利きで、あそこの学校で雇ってもらえたんだ」
「ほうやったんですか……」
それ以上、千鶴は教諭にかける言葉が見つからなかった。こんなに優しくて頭がよくて面倒見のいい人に、そんな悲しい過去があったとは思いも寄らなかった。
また、つや子に騙されたあの山高帽の男が、そんないい人だとは知らず、悪く考えていたことを申し訳なく思った。
「こっちへ来る前は東京にいたんだけど、その時に妹と一緒にお世話になった人がいてね。その人の知り合いが、わざわざ僕を訪ねて来てくれたんだ」
「そのお人も先生の知っておいでる方なんですか?」
「いや、知らない人だった。よこしまさんの代わりに、僕の様子を見に来てくれたんだ」
教諭の言葉に千鶴はぎくりとなった。
「よこしまさん?」
「ああ、言い忘れてたね。ごめんよ。その人が僕たち兄妹の世話をしてくれた人なんだ。きれいな人だったけど、一昨年の東京の震災で亡くなったそうなんだ」
千鶴はよこしまという名前に敏感になっていた。しかし、井上教諭が世話になったという、よこしまという女性はすでに亡くなっているし、つや子と違って善人のようだ。
井上教諭が少し寂しそうな顔をしているので、千鶴は急いで話を進めた。
「ほれで松山へおいでた人は、先生の元気なお姿を見て安心しんさったんですか?」
そうだねと教諭が笑顔になったので、千鶴はほっとした。だが、教諭はすぐに顔を曇らせた。
「その人は妹のことを知っててさ。道後で妹によく似た娘さんを見かけたから、会わせてあげようかって言われたんだ」
「そのお人は道後にお泊まりやったんですか?」
「そうらしいね。初めは妹の話じゃなくて、僕を道後の花街に誘ったんだ。だけど、僕はあんないかがわしい所は好きじゃないから断ったんだよ。そしたら、妹に似た娘さんがいるっていうから、その娘さんに会ってみたくなったんだ。もちろん変な意味じゃないよ」
一応の弁解をした井上教諭は、その娘に会いに道後へ行ったと話し、その娘が確かに妹に似ていたので気が動転したと言った。
そこまで話してから、どうして君にこんな話をしているんだろうと、井上教諭は困惑気味に言った。
「今まで誰にも話を聞いてもらうことがなかったから、つい喋ってしまったんだな。もう君はあそこの生徒じゃないし、僕を気遣って来てくれたから、気が緩んでしまったみたいだ。申し訳ない」
「いいえ、うちでよかったら話してつかぁさい。うち、誰にも喋りませんけん」
「ありがとう。それに、ここまで喋ってしまったからね」
教諭は恥ずかしそうに笑うと、話を続けた。
「その娘さんは、確かに妹に似ていたんだ。だけど、妹と見間違えるほど似ているわけじゃなかった。それでも、僕にはその娘さんが妹と重なって見えたんだ。妹が生まれ変わって、こんな目に遭わされてるのかって思えてね。こんなことはやめてここから出るようにって、僕はその娘さんを諭したんだ」
だが、その娘は借金を返すまでは逃げられないと話したと言う。それで教諭は自分が代わりに借金を支払うと言ったが、その娘の借金は教諭が支払える金額ではなかった。
「あの時、僕は思考能力がなくなってたんだね。後先を考えもしないで、その娘さんを連れて逃げようとしたんだ。そしたら大騒ぎになってしまって……」
どうなったかは教諭は言わなかった。だが、どうなったのかはおよその察しがつく。
「そのことが学校にも知れてしまって、僕は女生徒に教える資格なしと判断されたんだ。だけど首にはならないで、師範学校へ異動となったのは、きっと僕の事情に同情してもらえたんだろうね」
教諭は饅頭をぱくりと食べると、これは美味いねと言った。どこの店で買ったのかと訊かれたので、その店の場所を説明したあと、千鶴は教諭に訊ねた。
「その……、先生をその娘さんに会わせんさったお人は、どがぁしんさったんぞな?」
「その人は善意で僕を花街へ連れて行ってくれたんだけど、まさかそんな騒ぎになるとは思わなかったんだろうな。知らない間に姿を消してたよ」
確かに井上教諭が取った行動には驚かされたかもしれないが、その人物には教諭をそこへ連れて行った責任があるはずだ。それなのに騒ぎが起こると、教諭を置いて逃げるだなんてとんでもない男だと、千鶴は心の中で憤った。
一人取り残された教諭が、どんな想いでどんな目に遭わされたのかと考えると、千鶴は胸が痛んだ。
そもそも善意か何か知らないが、純情な井上教諭を花街へ連れて行くような男など信用できない。
とは言っても、教諭の親代わりである叔父でさえも女癖はよくないようだから、それは仕方がないことかもしれなかった。
いずれにしてもすべては済んだ話である。そのお陰でと言うのは教諭に申し訳ないのだが、結果的に教諭がここへ移って来たのは、千鶴にとっては嬉しいことだ。
だが、ここを訪れた理由を教諭に告げるのは、やはり容易なことではない。決心していたつもりだったが、千鶴はなかなか言い出せずにもじもじしていた。すると教諭は、ところで――と言った。
「君が今日ここへ来たのは、僕に挨拶に来ただけじゃなくて、何か頼み事があるんじゃないのかい?」
驚いた千鶴が教諭を見ると、やっぱりそうかと教諭は微笑んだ。
「僕だって伊達に教師をしているわけじゃないよ。毎日生徒の顔や様子を見て、その生徒の気持ちを考えながら授業をしてたんだ。君の様子を見ていれば何かあるなって、すぐにわかるよ」
さすがは井上教諭だと、千鶴は改めて感心し尊敬した。
「それで何だい、君の頼みっていうのは?」
実は――と言いながら千鶴が言い淀んでいると、教諭は遠慮しないで言うようにと促した。それで千鶴も覚悟を決めた。
「実は、うちの記憶を探っていただきたいんです」
「君の記憶を?」
「先生、前に仰いましたよね? 催眠術で記憶を引き出せるて」
井上教諭は少し当惑した表情を見せたが、あぁ、あの話か――とすぐににこやかになった。
「そう言えば、そんなことを言ったね。でも、記憶を探って欲しいだなんて、何か大切な物でも失くしたのかい?」
ほうやないんです――と答えた千鶴は、少しためらってから思い切って言った。
「先生に探っていただきたいんは、うちの前世の記憶ぞなもし」
四
当然ながら、井上教諭は面食らった顔になった。
「ちょっと待ってくれよ。前世の記憶って、どういうことだい?」
実は――と千鶴は前世の記憶を少しだけ思い出したと教諭に話した。それでもまだ信じられない様子の教諭に、自分はかつて法生寺にいた、がんごめと呼ばれた娘だったとも言った。
がんごめが何を意味しているのか、井上教諭は例の騒ぎの一件で知っている。教諭は千鶴がおかしくなったのではないかと疑っているようだった。
千鶴は構わず、当時の自分は本物の鬼に襲われたらしいが、その時の記憶がないので、催眠術で確かめて欲しいと頼んだ。
教諭は興奮気味の千鶴を落ち着かせながら言った。
「いいかい? 君は学校で級友たちに鬼の仲間だと疑われたのが嫌で、学校をやめたんだよね? それなのに今度は自分から鬼と関係があると認めるって言うのかい?」
「うちは鬼やありません。けんど、鬼と関係があるか言われたら、ほれはあるんです。ただ、うちは人間やし、鬼も誰にも迷惑かけとりません。ほれやのに誰もうちの話を聞く耳持たんで、うちを化け物扱いするぎりじゃったけん、やめたんぞなもし」
井上教諭は千鶴に圧倒されたように、わかったよ――とうなずいた。だが、本当にわかってもらえたのかは疑わしい。
教諭は千鶴の機嫌を取るように言った。
「それに思い出したよ、こっちでは鬼のことを、がんごって言うんだったね」
「うちの話、信じてもらえるんですか?」
千鶴が迫ると、教諭はうろたえ気味に返事をした。
「正直言って、よくわからないな。そもそも前世が本当にあるのかどうか、僕は知らないからね。それに前世があったとして、催眠術でその時の記憶まで探れるのか、僕には自信がないよ。僕は専門家じゃないし、そんなの誰もやったことがないからね」
「やっていただけんのですか」
千鶴が肩を落とすと、教諭は言った。
「前世の話以上に、君ががんごめで鬼に襲われたって話が、ちょっと僕には信じ難く思えるよ。でもね、君が嘘をついてるって思ってるわけじゃないからね」
それは千鶴の頭がおかしいと思っているという意味になる。
予想していたことではあったが、千鶴は悲しくなって涙ぐんだ。信じてもらえなければ記憶を調べることは敵わない。そうなれば進之丞を救う方法を探ることはできなくなる。
千鶴の涙に井上教諭は動揺したようだ。だがそこは学者らしく、慰めたり言い訳をする代わりに、真面目な顔で喋り始めた。
「いいかい、君に前世の記憶があると認めるとしよう。でも、鬼に襲われた記憶はないんだよね? だから催眠術でその時の記憶を探りたいわけだ。だけどさ、だったらどうして自分が鬼に襲われたってわかるんだい?」
進之丞のことは話せない。涙を拭きながら、千鶴は素早く考えをめぐらせた。
「当時のうちは、風寄のお代官の息子と夫婦になるはずでした。ほんでも、うちは身分の低い身寄りのない娘でしたけん、結婚する前にお代官がご自分のご友人のお侍に、うちを養女にするよう頼みんさったんです。そのご友人いうんが、今のうちのひぃひぃじいちゃんやったんです」
千鶴は祖父から聞いた話と、自分が思い出した前世の記憶が同じだったと説明し、曾祖父の証言として、鬼が代官や寺を襲ったらしいと話した。
「うちがおった法生寺の庫裏は燃やされて、うちの親代わりじゃった和尚さまも、ほん時に殺されてしもたんです。ほれやのに肝心のうちは前世の記憶を取り戻したのに、そこん所はどがぁしても思い出せんのです」
千鶴の話を完全に信じてくれたのかはわからないが、井上教諭の表情はさっきよりも真顔になっていた。
教諭は少し考えたあと、君を信じよう――と言った。
「全部を受け入れたわけじゃないけど、それでも君を信じるよ」
「じゃあ、うちに催眠術をかけていただけるんですか?」
「それで君が望む結果が出る保証はないけど、君がそう望むのであれば、試すだけは試してみてもいい」
ほんまですか?――と千鶴が声を上げると、井上教諭はゆっくりとうなずいた。
「だけど、もし君がその時の記憶を思い出せたなら、それは君にとって、とてもつらいものになるんじゃないのかな。それでも思い出したいのかい?」
千鶴は、はいと言った。だが教諭は解せない様子だった。
普通はつらい記憶は忘れたいものであり、それをわざわざ思い出したいなどと言うのは、確かに妙な話だろう。
「君のことを考えると、僕は気が進まないけど、それでも君がどうしてもって言うのなら、やるだけやってみよう。だけど、僕は催眠術師としては未熟者だから、うまく行かないかもしれないよ」
「ほれでも構んですけん」
「それと、もし鬼に関する記憶が見つかっても、それで君がどうにかなってしまいそうだったら、そこですぐに中止するからね。それでもいいかい?」
千鶴はうなずいた。
井上教諭は湯飲みに残っていたお茶を飲み干すと、千鶴に部屋へ上がるようにと言った。
五
井上教諭は用意した十銭銅貨に糸を結びつけると、それを千鶴に持たせて、目の前に掲げるよう指示した。
「そのお金をじっと見てるんだよ。僕がお金が左右に揺れ出すと言ったら、そのとおりになるから」
千鶴は言われたとおり、糸にぶら下がった十銭銅貨をじっと見つめていた。
ほら、お金が左右に揺れ出すよ――と教諭が言うと、不思議なことに銅貨は左右に揺れ出した。
自分で揺らしている感覚はない。糸を摘んで持っているだけなのに、銅貨はゆらゆら揺れているのだ。
「今度は前後に揺れるよ」
教諭が言うと、銅貨はゆっくりと揺れる向きを変え、ついには前後に揺れ出した。
「不思議じゃ! 先生、これ、どがぁなっとんですか?」
「これが催眠なんだ。今度はね、銅貨はぐるぐる回り出すよ」
すると、銅貨は教諭が言ったとおり、円を描いて回り出した。
がいじゃ!――千鶴が叫ぶと教諭は嬉しそうに、ありがとうと言った。
「じゃあ、次は部屋を暗くするよ」
井上教諭は銅貨を受け取ると、部屋の障子と襖を全部閉めた。障子を通して明かりは差し込んで来るが、光に先ほどまでの勢いはなく、部屋の中は薄暗くなった。
教諭は隅にあった小さな机を部屋の真ん中へ運び、千鶴の前に置いた。
その机の上に小さなろうそくが置かれて火が灯された。
薄暗い静かな部屋の中で、小さな炎がゆらゆらと揺らめいている。
教諭は千鶴にその炎を見つめるようにと言った。
千鶴がじっとろうそくの炎を見つめていると、ちろちろ揺れる小さな炎は、何かを千鶴に語りかけているようだ。
「ろうそくの火を見てると、だんだん目が疲れて来るだろう? ほーら、瞼がだんだん重くなって来るよ。重くなって来る。重ーくなって来る」
炎を見つめながら教諭の声を聞いていると、千鶴は目を開けているのがつらくなって来た。がんばって目を開けていようと思うのだが、却って瞼が重くなり、とうとう目を閉じてしまった。
「ほーら、瞼がふさがった。もう、目を開けることはできないよ」
井上教諭は目を閉じたままの千鶴に、体が前後に揺れると暗示をかけた。すると千鶴の体は、ひとりでに前後に揺れ始めた。
だが、千鶴はそれを不思議だと思うことはなかった。ただ言われたとおりに体が動いているのを、ぼんやり感じているだけだった。
「さぁ、今度は体が弧を描くように回り始めるよ。腰から上がどんどん左回りに回り出す。ぐるぐる、ぐるぐる、ほーら、回り出しただろ?」
千鶴は目を閉じたまま、上半身をぐるぐる回し続けた。
「僕が君の肩に手を載せると、体の回転は止まるよ。だけど、頭の中は今と同じまんま、ぐるぐる回り続けままだよ」
右肩に教諭の手を感じると、千鶴の体は次第に動きを止めた。しかし、頭の中はぐるぐる回った感じが続いている。
「君の頭の中は、時計とは逆回りに回ったまんまだ。その回転は時間を遡って、君を過去へ運んでくれる時空の隧道だよ。その隧道を潜って前世へ移動するんだ。僕が手を三つ叩くと、君は鬼に出会った時へ飛ぶ。いいかい?」
ゆっくりと手を叩く音が聞こえた。三つ目の音が聞こえた時、千鶴はどこかの山小屋にいた。
六
囲炉裏にちろちろ火が燃えている。囲炉裏の近く以外は暗い。千鶴はまだ幼く、寝ているところを母親に起こされたばかりだった。
まだ眠いのにと文句を言う幼い自分と、その自分を通して辺りを観察している別の自分がいる。
二つの自分は分離しているようでもあるが、まったく一つになっているようでもある。
――君は今、どこにいるの?
どこからか井上教諭の声が聞こえた。
「山ん中の小屋」
千鶴はぽそりと答えた。教諭の声に返事をしたのは幼い自分ではなく、観察している方の自分だ。
――そこで何をしているんだい?
「寝ぇたとこを、お母ちゃんに起こされた」
千鶴は幼子の言葉になっていた。
喋っているのは観察している自分なのに、意識が幼い自分と重なっているようだ。少し不機嫌な千鶴は、自分がどちらの自分なのかわからなくなっていた。
――そこは君とお母さんが暮らしている所かい?
「ううん。おらとお母ちゃんはお遍路さんで、ここで休ませてもろうとる」
――そこは誰かの家なの?
「おばあちゃん」
――おばあちゃんって、君のおばあちゃんかい?
「ううん。親切なおばあちゃん。おかあちゃんがね、血ぃ吐いて動けんなったき、おら、泣きよったがよ。そしたら、おばあちゃんが来て助けてくれたが」
その老婆を幼い千鶴は知っていた。近くの寺で会った老婆だ。
老婆は境内の隅に独りぼっちで立っていた。誰も近づこうとしないその老婆を見て、自分と同じだと千鶴は思った。
千鶴は老婆の傍へ行くと、寺でもらった饅頭を老婆にやった。
饅頭を受け取りながら、老婆は驚いた顔で千鶴を見ていた。しかし、すぐに嬉しそうに笑うと、ありがとよと言った。その笑顔が嬉しくて、千鶴も老婆に笑顔を返した。
どこから来たのかと老婆は千鶴に訊ねた。だが、千鶴は自分のことがよくわからなかった。
親のことを訊かれると、近くで他のお遍路と喋っていた母を指差した。父親はと訊ねられたが、首を振るしかできなかった。
その老婆が動けない母を背中に担ぎながら、千鶴の手を引いて自分の山小屋へ連れて来たのである。
そこで老婆に粥をご馳走になったあと、千鶴は眠くなって寝たのだが、まだ寝足りないところを母親に起こされた。辺りは真っ暗だったので、寝ている間に夜になったようだ。
千鶴を起こした母は声潜め、こっから逃げるで――と言った。
まだ眠い千鶴はむにゃむにゃしながら、行きたくないと言った。
だが、母は無理やり千鶴を背負うと、そっと小屋の外へ出た。老婆は手水にでも行ったのか姿が見えない。
おばあちゃんは?――と訊いても、母は何も言わずに夜の山道を走り出した。
月明かりが照らす道を、血を吐いて倒れたとは思えないほど、母はすごい速さで駆け下りた。夜風が千鶴の頬を掠めて行く。
しばらくすると、後ろの方で獣が吠えるような声が聞こえた。千鶴は恐ろしくなって母にしがみついた。
その時、月の光が途切れ、道は真っ暗な闇に呑み込まれた。月が雲に隠れたのだ。
足下が見えなくなった母は、千鶴を背負ったまま飛ぶようにして転んだ。母の体を通して千鶴にも衝撃が伝わった。
母は呻き声を上げるが動かない。千鶴は母の背中から降りると、だいじょうぶ?――と母に声をかけた。
再び月の光が差した。母は顔が血だらけで、肩や膝も傷めたようだった。母は立ち上がろうとしたが、すぐに顔をゆがめて倒れた。
母は必死に半身を起こして千鶴を抱き寄せると、真剣な顔で言った。
「千鶴、ええか? これからお母ちゃんが言うことを、よう聞くんやで。あのばあさまはな、鬼なんじゃ」
「おに?」
「鬼はな、お前を狙うとるんじゃ。けんど、お母ちゃん、もうこれ以上は、あんたを背負うては逃げられん。ほじゃき、あんたをここへ隠すで」
「お母ちゃんは、どうするが?」
「お母ちゃんは鬼を引きつけるき、あんたはここに隠れてじっとしとり」
「そんなん嫌や! おら、お母ちゃんと一緒に行く!」
べそをかく千鶴に、泣いたらいかん――と母親は言った。
「一緒に逃げられたらええけんど、それができんき、こう言うとるがよ。お母ちゃんかてな、つらいんよ。な、わかってや」
母は涙ぐみながら、千鶴をもう一度抱きしめた。だが、すぐに千鶴から体を離し、千鶴を近くの藪の中へ押し込んだ。
「ええな? 絶対に声出したらいかんで。泣いてもいかんし、動いてもいかんが。もし鬼に見つかったら、殺されて喰われてしまうんやで。どんなに怖ぁても、こらえるんやきね。わかったね?」
母はそれだけ言うとよろよろと立ち上がり、足を引きずりながら行ってしまった。
千鶴は藪の中ですすり泣いた。いつも一緒だった母がいなくなったのである。こんな暗い夜に、こんな藪の中で独りぼっちだ。
だが、何かがすごい勢いで迫って来る気配を感じると、千鶴は泣くのをやめてじっとした。
物音一つ出さずにじっとしていたが、息をする音さえもが気になってしまう。どきどきすると息が速くなるが、音がしないようにゆっくり吸ったり吐いたりした。
気配はどんどん近づいて来た。それは恐怖が流れて来るようで、やがて藪の向こうに現れたのは、あの老婆だった。
月明かりに照らされた老婆は、あの優しげな顔ではない。牙が生えた恐ろしい顔で、頭には二本の角があった。老婆は千鶴のすぐ近くまで来ると、その場に這いつくばって、くんくんと地面の匂いを嗅いだ。
「血の臭いじゃ。怪我をしとるな。くっくっ、逃がさんぞ」
それはあの老婆の優しい声ではなかった。低く籠もった気味の悪い声だ。
立ち上がった老婆は、爪の伸びた指を蠢かせると、母が逃げた方へ走り去った。
千鶴は恐ろしくてぶるぶる震えながら、必死で泣くのをこらえていた。小便も漏れてしまったが、それでも母に言いつけられたとおり、身動きしないでじっとしていた。
遠くの方で女の悲鳴が聞こえた。ただの叫び声でない。苦しみの籠もった断末魔のような声だった。
声が聞こえなくなった時、千鶴は母の死を悟った。
千鶴は泣かないよう必死でこらえた。だが、目からあふれた涙は次々にこぼれ落ち、止めることはできなかった。
――山﨑さん、僕が手を三つ叩くと、君は現代に戻って来る!
焦ったような井上教諭の声が聞こえ、速い拍子で手を叩く音が三つ鳴った。
「山﨑さん、大丈夫かい? 君が見たのは過去の話で、今のことじゃないんだ。だから、何も怖がることはないんだよ」
眼を閉じたまま母を呼びながら泣き続ける千鶴を、動転した様子の井上教諭は必死に目覚めさせようとした。
教諭はろうそくの火を消すと、急いで部屋の障子を開けて、外の明かりを部屋の中へ入れた。
千鶴の催眠は解けていた。目を開けた千鶴は、自分が畳の部屋にいることはわかっていた。しかし、目の前でうろたえながら声をかける男の人が、誰なのかがわからない。何故自分がここにいるのかも、わかっていなかった。
千鶴の心は鬼に母を殺された、あの時のままだった。自分に何が起こったのかがわからないまま、千鶴は母を求めて泣き続けた。
鬼と化した老婆の姿や、母の断末魔の声がいつまでも頭から離れない。心の中は恐怖と悲しみで埋め尽くされていた。
あまりのことに教諭は打ちひしがれたように頭を抱え、その傍で千鶴は泣き続けていた。
それでも少しずつ千鶴は正気を取り戻した。前世の幼い千鶴が占めていた意識の片隅から、徐々に現代の千鶴の意識が大きくなり、近くに座って項垂れている男性が、井上教諭であることを思い出した。
先生――と千鶴が声をかけると、教諭ははっとしたように振り返った。
「僕がわかるんだね? よかった……、本当によかった」
教諭はわずかに笑みを見せたが、その顔からは動揺のいろが消えていない。
「もう君が正気に戻らないんじゃないか、僕は大変なことをしてしまったんじゃないかって、本当に焦ったよ」
「すんません。うち、こがぁなことになるやなんて思いもせんかったんです。先生にご無理言うた上に嫌な思いをさせてしもて、ほんまにすんませんでした」
「いや、そんなことはいいんだ。それより大丈夫かい?」
千鶴はうなずいた。だが、本当は大丈夫ではなかった。
千鶴にとって今見たことは過去の話ではなく、ついさっきのことなのである。
母の死を直接見たわけではない。しかし、鬼に八つ裂きにされたという進之丞の父の姿と、鬼に殺された母の姿が重なってしまい、今にも吐きそうな気分だ。
「それにしても驚いたよ。本当に鬼がいたなんて」
井上教諭は少し安堵したように言った。しかし、その体は小さく震えている。
「君が喋っていた言葉は、こっちの言葉とは違っていたよ。それは君が目にしたものが、君の妄想じゃないってことだ。でも、本当にこんなことがあるなんて、信じられない気持ちだよ」
前世のことではあっても、実際に鬼がいたという事実に、教諭は衝撃を受けているようだ。
「今見た鬼が風寄まで来たんでしょうか」
「それはわからないけど、もう調べるのはやめておいた方がいいんじゃないかな。君が思い出すにはつら過ぎると思う」
井上教諭自身が耐えられないのだろう。目があちこちに泳いでいる。
千鶴は教諭の意見に同意した。こんなに恐ろしいのは嫌だった。
鬼に変化した進之丞も恐ろしかったが、進之丞は千鶴の味方であり、千鶴の言うことを聞いてくれる。
しかし、今見た鬼は千鶴の敵だった。その鬼は千鶴を狙い、最愛の母を無残に殺したのである。
また恐らくこの鬼が、後に進之丞の父と慈命和尚を殺し、千鶴を攫ったのだろう。同じ鬼でも進之丞とは大違いだった。
もうあんな鬼には会いたくない。だが、前世の記憶をあきらめるということは、進之丞が鬼になった経緯を知る術を失うということだった。
恐怖と悲しみに大きな落胆が加わって、千鶴の頬を新たな涙が流れ落ちた。