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記憶の探索


      一

 庚申庵こうしんあんの藤棚はこの辺りでは有名だ。商売をする者が花を見るためにわざわざ仕事を休んだりはしないが、時間に追われていない百姓や商家しょうかの隠居などは、ここに咲く藤の花を毎年の楽しみにしている。
 いつもは正清まさきよの月命日には墓参りをしない甚右衛門じんえもんも、この時期の月命日だけはトミと一緒に墓参りに行く。その時に雲祥寺うんしょうじ近くにある庚申庵を訪ねて、二人で藤棚を楽しむのだ。
 さちは仕事が休みの日曜日に見物に行く。今年はちょうど五月の月命日と日曜日が重なるので、幸子は甚右衛門たちと一緒に出かける予定だ。
 例年五月初日は花盛りなので、使用人たちは毎年こぞって庚申庵へ出かける。普段は休みがもらえないでったちも、この日ばかりは辰蔵たちに同行させてもらえた。
 千鶴ちづも子供の頃にこの藤棚を何度か見に行ったことがある。しかし、多くの人が出入りする所なので、離れた所から眺めたぐらいだ。
 じょはん学校にいた頃は、本科二年までは入寮していたのでそんな暇はなかった。三年になって通学に変わってからは、日曜日に母と交代で眺めに行ったが、去年は五月初日に進之丞しんのじょうと一緒に行った。
 この日は日曜日ではなかったので母はおらず、千鶴は本当は家を離れられなかった。一方、使用人の進之丞はこの日しか自由に動けなかった。
 ところが花江が花見のあとに戻って来て、休みなのに家事を引き受けてくれた。それで、千鶴は進之丞と二人で藤棚をでられたのだ。
 今年も花江は藤棚を楽しんだあと、家事をやっておくからたださんと二人で見ておいでと、千鶴たちを送り出してくれた。本当に有難いことだった。

 二人が花江に感謝しながら庚申庵へ出かけると、家のあるじが留守にもかかわらず、庭の中は見物客でいっぱいだ。みんな縁側えんがわに勝手に座ったり、地べたに茣蓙ござを敷いたりして花を楽しみ、弁当を食べたり酒を飲んだりしている。
 日曜日は井上いのうえ教諭も仕事が休みだ。けれど、こんな状態だと気が休まらないに違いない。
 千鶴と進之丞は教諭を気の毒がりながら花を楽しんだ。また、千鶴はこの日が日曜日でなくてよかったと思っていた。
 日曜日であれば教諭がいるはずであり、その時に顔を合わせてしまうと、教諭に挨拶をするという口実で庚申庵を訪ねられなくなる。
 千鶴は後日ここを訪ねて、井上教諭に催眠術をかけてもらうつもりでいた。といっても、こんなに人の出入りが激しい時期には、教諭を訪ねるのは無理である。これでは挨拶をするだけでも、他人が話に交ざって来る。催眠術なんてとんでもない話だ。
 もし人に見られたりすれば、こんな所で二人で何いかがわしいことをやっているのかと、この辺りでうわさになってしまう。催眠術で前世の記憶を探るのは、花が終わるまでお預けだ。

 千鶴は井上教諭が庚申庵で暮らしていると進之丞に話した。進之丞はほぉと驚くと、この時期に人出が多いのは玉にきずだが、普段の教諭の暮らしは風流でうらやましいと言った。
 庚申庵の庭には藤棚だけでなく、山や川をした庭があった。
 いおりを建てたのはくりちょどうという俳人で、仲間と俳句を楽しむために、この庵を作ったといわれている。家にいながらさんせんそうもくでられるこの庭は、田んぼの中にとつじょとして現れた別世界のようだ。
 進之丞と二人で店を持つことになったなら、いつかこんな小さな家を建てて、そこで静かに余生を送れたらと千鶴は思った。また、その時までに進之丞が鬼にへんすることなく過ごせたならば、進之丞の罪も許されて人間に戻してもらえるだろうかと考えもした。
 その話をしても、進之丞はそうだなとは言わなかった。けれど、微笑む顔はそうなりたいと告げている。
 しかし心配はあった。横嶋よこしまつや子である。つや子の問題が解決しない限り安心はできない。
 昔ほどではないにしても、今も二百三高にひゃくさんこうまげの女はいくらでもいる。この庚申庵に集まっている女たちも、多くが似た頭をしている。そんな女たちが目に入ると、そこにつや子がいるような気がして、せっかくの花見気分が落ち着かなくなってしまう。
 つや子に何をされても、進之丞が絶対に鬼にならないという保証はない。一度たりとも人前でへんすればおしまいだ。そんな心配を避けるためにも、井上教諭に力を貸してもらわねばと千鶴は思った。
 実際どうなるかはわからない。千鶴は催眠術というものを知らないし、催眠術で前世の記憶が明らかにできるのかは、井上教諭だってわからない。そんなことができるのであれば、うの昔に誰かがやって、あちらこちらで前世の話が聞かれるだろう。
 ところが実際にはそうなっていない。前世の記憶を探るというのは、それだけ困難なものなのか、あるいは馬鹿げたことなのだ。千鶴だって進之丞がいなければ、前世を思い出そうなどとは考えもしなかった。けれど今はこれをするしかないし、うまくいくかどうかはやってみないとわからない。
 この見事な藤の花が咲き終わった頃がいよいよだと、千鶴は花を眺めながら気を引き締めた。
 とはいえ、井上教諭にはまったく相手にされないか、あるいは頭がおかしくなったと思われるかもしれない。だけど、それは承知の上だ。進之丞のためであれば、いくらでも恥をかく覚悟だ。

      二

 そろそろ藤の花も終わりを迎えたと思われる頃、家族で夕飯を食べている時に、千鶴は次の日曜日に井上教諭へ挨拶に行きたいと祖父母に申し出た。
 改めて教諭に挨拶をすることには、二人とも反対はしなかった。ただ、トミが同行すると言うので千鶴は困った。
 もう子供ではないので、自分一人で十分だと千鶴は主張した。だが、トミは千鶴が一人で行くのを許さなかった。一人暮らしの男の元へ、嫁入り前の娘を一人で行かせるわけにはいかない、というのがトミの言い分だ。しかし、そんな言い分など聞けるはずがない。
「先生はそがぁなお人やないぞな。おばあちゃんも藤の花見せてもらいに行った時に、先生に会いんさったんやないん?」
「ほやけんいうて、男を簡単に信用したらいけん。見かけは善人でも、男は男ぞな」
 トミが耳を貸そうとしないので、千鶴は甚右衛門に助けを求めた。
「おじいちゃん、何とか言うておくんなもし。こがぁなこと言いよったら挨拶にならんけん」
 甚右衛門も井上教諭には面識がある。ほれはほうじゃなとうなずいたので、千鶴はほっとした。祖父が認めてくれれば、祖母も口出しはできない。
 甚右衛門は幸子の方を向くと、おまいが千鶴と一緒に行けと言った。
 日曜日は幸子は仕事が休みなので同行は可能だ。そうなると井上教諭に催眠術をかけてもらえない。千鶴は必死に訴えた。
「お母さんがおらんと、花江さんが一人で家事をすることになるけん」
「挨拶やけん、そがぁになごには掛かるまい」
 甚右衛門は取り合おうとしなかった。幸子もうなずき、心配いらんけんと言った。
「あんたが学校へ行きよった頃は、花江さん一人で家事をこなしよったんやけん大丈夫」
 結局、千鶴は母と二人で次の日曜日にこうしんあんを訪ねることになった。千鶴は力なく漬物をぽりっとかじり、大きく息を吐いた。

 庚申庵へ向かう途中、千鶴たちはまんじゅう屋に立ち寄って、井上教諭への土産みやげを買った。ぎり饅頭とは別の普通の饅頭だが、これも千鶴のお気に入りだ。
「結局、あのがんごはどがぁなったんじゃろねぇ」
 饅頭屋を出てから、幸子がぽつりと言った。
特高とっこう警察のことはあったけんど、他にはあれから何も悪いことは起こっとらんし、あのがんごは何じゃったんじゃろかて時々思うんよ」
 鬼が現れてから二ヶ月が経つが、何だか肩透かしを食らった感じだと幸子は言った。
「ほじゃけん、がんごはうちらには悪させんて言うたやんか」
 千鶴は口をとがらせたが、幸子は構わず話を続けた。
「悪さするもせんもないがね。あがぁなもんが出て来るいうんは、ほれぎりでじんじょうなことやないけんね。というても、あれ以来、とんと姿見せんしなぁ。何か悪い夢見た気分やで」
「特高警察みたいなことがなかったら、がんごはうちらを見守るぎり姿見せたりはせんのよ」
 前から自転車に乗った若い男が来るのが見えた。自転車は高級品だ。どこかの大店おおだなつかいの者だろう。
 立ち止まって自転車をやり過ごしたあと、幸子は言った。
「お母さんが思うにな、あのがんごはあんたにれとるで」
 千鶴はぎくりとなった。母の鋭さにうろたえながら、どうしてそう思うのかと平静を装ってたずねた。
「あんたの身内でもないのにあがぁなことするいうたら、ほうに決まっとろ? あのがんごは男みたいなし」
「ほ、ほやけど、がんごやで?」
がんごであろうが人間であろうが、男がおなに優しゅうするんは、その女子に惚れとるけんよ。あん時、鬼があんたの言うこと素直に聞いたんも、そがぁ考えたらてんがいこ?」
 千鶴は返事に困った。母の言葉は図星だ。
 千鶴が黙っているので、幸子は千鶴が不安になったと思ったらしい。余計なことを言って悪かったとびた。
 ううんと千鶴が首を振ると、幸子はまた心配そうな顔になり、ただな――と言った。
がんごがあんたを護ってくれるんはええとしても、鬼があんたに惚れとるんやとしたら、たださんが危ないで」
 幸子は鬼が忠七ただしちに千鶴を奪われると思い、忠七に危害を加えることを恐れていた。
「忠さんはまっこと強いけんど、さすがにあのがんご相手じゃったら勝てんぞな」
「大丈夫やて。がんごは忠さんにぇ出したりせんけん」
「そがぁなことわかるもんかね。おじいちゃんも言うておいでたけんど、いつかがんごがあんたを連れて行くんやないかて、お母さんはほれが心配ぞな」
 近くの家から人が出て来たので、二人はしゃべるのをやめた。これで鬼の話は打ち切りとなったが、結局あの鬼はどうなったのだろうと千鶴はふと思った。あの鬼とは前世で千鶴をさらった鬼である。
 自分が鬼だと明かさなかった頃の進之丞は、千鶴を助けたのは改心した鬼だと言った。しかし、実際に千鶴を助けてくれていたのは進之丞だった。進之丞がああ言ったのは、自分が鬼であることを隠すためだろうが、改心した鬼はどこでどうしているのか。気にはなったが、今は井上教諭に催眠術をかけてもらえるかどうかで頭がいっぱいだ。

 大林だいりんの前の道を少し南へ行くと、右手に分かれる道がある。庚申庵はその先にあった。
 かみ町のちょう 通りに戻った千鶴たちが、大林寺の前の辻を南へ曲がると、何ということか、こちらへ向かって来る三津子みつこに出くわした。
 三津子はいつもと同じような姿をしているが、今日の衣装は赤い花柄模様だ。
 甚右衛門が三津子禁止令を出しているので、近頃の幸子は三津子と出かけていない。三津子が会いに来ても、都合が悪いと言って追い返していた。幸子が特高警察に捕まった事件のあとも、三津子は一度訪ねて来たが、やはり幸子は会うのを断った。
 その三津子とこんな時にこんな所で出会ってしまったのだ。幸子はまどいを隠せないが、目を丸くした三津子は、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「あらぁ? あらあらあら。何てこと? こがぁなとこさっちゃんと千鶴ちゃんに出会うやなんて」
 いそいそと三津子が千鶴たちの所へやって来ると、最悪だと千鶴は天を呪いたくなった。
 そんなことにはお構いなしの三津子は、千鶴と幸子を見比べながら興味深げに言った。
「ちぃと珍しいんやない? 今日は二人してどこへお出かけ?」
 母が井上教諭の名前を出す前に、千鶴は手早く説明した。三津子に教諭のことは知られたくなかった。
「昔、お世話になった先生んとこへ、ご挨拶へ行くんぞなもし」
「お世話になった先生て、学校の先生?」
 興味深げな三津子を警戒しながら、ほうですと千鶴は言った。すると三津子は、ほうなん――と言いながらにんまり笑った。
 まさか一緒に行くつもりだろうか。それは絶対にまずい。
「お母さん、ここで三津子さんに出たんも何かの縁ぞな。うちは一人で大丈夫なけん、へえさしぶりに三津子さんと二人でゆっくりして来たらええよ」
 千鶴の言葉に幸子がこたえる前に、三津子は胸の前で両手を合わせながら、感激した顔で言った。
「あらまぁ、千鶴ちゃん。あなたって何て優しい子なん? うち、ひょっとして千鶴ちゃんには嫌われとるんやないかて気にしよったんよ。ほやけど、ほうやなかったんじゃねぇ。うれしいわぁ」
 あら、ほれはお饅頭?――と千鶴が持つ手土産に目を留めた三津子は、手を伸ばそうとした。千鶴は慌てて体をひねると、饅頭を三津子の手から遠ざけた。
「これは先生にて行くお土産ぞなもし。どこまりある饅頭やけん、三津子さんのお口には合わんぞなもし」
 三津子はじっと千鶴を見ながら言った。
「ほれは、うちのことを褒めてくれとるわけ?」
「ほやかて、三津子さんは都会の匂いがするけん」
 千鶴が笑みを見せながら話すと、三津子は相好そうごうを崩した。
「もう、幸ちゃん。あなた、どがぁしたらこげなええ子を育てられるんね。うち、もう感激で胸がいっぱいやわ」
 そう言いながら三津子はまた饅頭に手を伸ばした。千鶴は愛想笑いをしながら、饅頭を体の後ろに隠した。
 三津子は鼻の上にしわを寄せると、千鶴ちゃんの意地悪――と言った。幸子は笑いながら、まぁまぁと三津子をなだめた。
 甚右衛門たちと一緒に庚申庵の藤棚を見に行った時、幸子は井上教諭に会って挨拶をしていた。だから本当は、今日は挨拶に行く必要はない。それでだろうが、幸子は久しぶりに三津子と一緒に行く気になっている。
「ほしたらどがぁしよか。千鶴が一人でかまんなら、お言葉に甘えよかいね」
「ええよ、ええよ。こっちのことは気にせいでかまんけん、ゆっくりしておいでや」
 千鶴は二人に笑顔を振りいた。幸子は少し思案しながら言った。
「ほうはいうても、そがぁに長い間はまずかろ。一時間ぐらいでどがぁじゃろか」
 催眠術がどれくらい時間がかかるのか、千鶴にはわからなかったが、あまり長い時間は言えない。取りえずの時間を決めておいて、それに遅れたならば、その時に詫びればいいと千鶴は考えた。
「ええんやない? ほんなら一時間ね」
「よし、ほしたら三津子さん。一時間ぎりどっか行こか」
「ええわいね。一時間でも二時間でも」
 三津子が口を挟むと、千鶴は即座に言った。
「二時間はいけん。おじいちゃんにしかられてしまうぞな」
 幸子はうなずき、一時間ぎりぞなと言った。
 一時間後に雲祥寺うんしょうじで待ち合わせをすることにして、千鶴は母たちと別れた。
 雲祥寺は大林寺の南にあり、庚申庵からは目と鼻の先だ。やまさきだいでもあり、待ち合わせ場所としては最適だ。
 幸子と三津子は北へ向かって歩きだした。どこへ向かうつもりなのかは知らないが、三津子に行き先を見られたくない千鶴は、二人の姿が小さくなくなるまで見送った。
 三津子にはいらいらさせられてばかりだし、さっきは最悪だと思ったけれど、この時ばかりは、千鶴は三津子に感謝した。

      三

 あんなに人が集まっていた庚申庵こうしんあんだが、藤の花が終わった今はひっそりとたたずんでいる。それでも来客がいるかもしれず、千鶴はどきどきしながら笹垣の外からおとないを入れた。ところが何度声をかけても返事がないので、勝手に敷地の中へ入って行った。
 藤棚と庭があるのは建物の南側で、藤の花はほとんど散ってしまったものの、まだちらほらと咲き残っている花もあった。そのわずかな花を目当てに蜜蜂みつばちがぶんぶん飛んでいる。
 建物の玄関は手前にあるが、庭に面した所に縁側えんがわがあり、そこに胡座あぐらをかいて座る井上教諭の姿があった。教諭は煙草たばこくゆらせながら、ぼんやりと庭を眺めていた。
「井上先生」
 千鶴が声をかけると、教諭ははっとしたように振り返った。
「山﨑さんじゃないか。来てくれたのか」
「すんません。そこでお声をかけさせてもろたんですけんど、お返事がなかったもんで、勝手に入って来てしまいました」
「いや、いいんだいいんだ。気がつかなかった僕の方が悪いよ。玄関はそっちだけど、こっちも玄関みたいなものだから、こっちへいらっしゃい」
 教諭は煙草の火を消すと、千鶴を縁側へいざなった。
 千鶴が縁側まで行くと、障子しょうじを開け放った室内が見えた。そこは四畳半の部屋で隣に三畳間があり、間にあるふすまも開けてあるのでかなり広く見える。
 四畳半にはとこ床脇とこわきがある。床の間には立派な掛け軸が飾られてあるが、隣の床脇は棚に本が無造作に積まれている。
 部屋の隅には小さな机と行灯あんどんが置かれ、少し離れた所に鉄瓶てつびんを載せたばちがある。鉄瓶にはお湯が沸いているらしく、口から湯気が立ちのぼっている。
 縁側に腰掛けた千鶴は、教諭に手土産の饅頭を手渡した。
「やぁ、これはこれは。こんなに気をつかってもらわなくてもよかったのに」
 教諭はそう言いながら饅頭を受け取ると、お茶をれようと立ち上がった。
 教諭がお茶を用意してくれている間に、千鶴は庭を眺めた。
 藤棚の向こうに広がる小さな池は川のようでもあり、生い茂る木々や飛び交う蝶々を見ていると、自分がさんの中にいる気分にさせられる。
「藤棚もいいけど、そっちの庭もなかなかいいだろ?」
 お茶を湯飲みに注ぎながら井上教諭が得意げに言った。千鶴は教諭を振り向くと、えぇとうなずいた。
「ここはほんまに山ん中におるみたいぞなもし。うちの庭とは全然ちごて、まっこと素敵なお庭や思います。先生、ええとこ見つけんさったんですねぇ」
「前にも言ったけど、たまたまなんだ。うまい具合に空き家になったから借りられただけさ。でも、ほんとにいい所だよ。僕は俳句はたしなまないけど、ここで庭を眺めていると一句ひねってみたくなるよ」
 近くの木に小鳥が飛んで来てさえずっている。その鳴き声に聞きれていると、教諭がお茶を運んで来てくれた。
「お待たせ。お茶を飲みながら眺めたら、また格別だよ」
 教諭は土産の饅頭を添えて、千鶴の横に湯飲みを置いた。千鶴がお礼を述べてお茶を飲むと、その隣で教諭もお茶をすすった。
「学校をやめてから、変わりはなかったかい?」
「はい、お店を継ぐことになりまして、先日は村上むらかみさんと高橋たかはしさんとも再会できて、きちんと仲直りができました」
「そうか、それはよかった。結局、高橋さん一人が責任を負う形で退学になってしまったけど、彼女は元気にしてたかい?」
「お婿さんをもらうことになったて言うとりました。ええ人みたいですよ」
 それはよかったと繰り返す井上教諭に、千鶴は近況をたずねてみた。教諭は湯飲みを置くと、いろいろあってねと言った。
「僕にはね、妹が一人いたんだ」
 教諭は庭の池を眺めながら言った。
「二人きりの兄妹でさ、結構仲よしだったんだ。もう、何年になるのかな。その妹が死んじゃってね。僕は落ち込んで立ち直れなかったんだ。だけど、僕の親代わりの叔父さんが一生懸命励ましてくれてね。それで、もう一度生きてみようって思ってさ。叔父さんの口利きで、あそこの学校で雇ってもらえたんだ」
「ほうやったんですか……」
 千鶴は教諭にかける言葉が見つからなかった。こんなに優しくて頭がよくて面倒見のいい人に、そんな悲しい過去があったとは思いも寄らなかった。
 また、つや子にだまされたあの山高帽やまたかぼうの男が、そんないい人だとは知らず、悪く考えていたことを申し訳なく思った。
「こっちへ来る前はとうきょうに住んでたんだ。その時に妹と一緒にお世話になった人がいてね。その人の知り合いがわざわざ僕を訪ねて来てくれたんだ」
「そのお人も先生の知っておいでる方なんですか?」
「いや、知らない人だった。よこしまさんの代わりに僕の様子を見に来てくれたんだ」
 教諭の言葉に千鶴はぎくりとなった。
「よこしまさん?」
「ああ、言い忘れてたね。ごめんよ。その人が僕たち兄妹の世話をしてくれた人なんだ。きれいな人だったけど、一昨年おととしの関東大地震で亡くなったそうなんだ」
 よこしまという名前に刺激されたが、教諭が話す女性はつや子と違って善人らしい。
 その女性の死は教諭にはつらいものらしい。少し寂しげな顔をしているので、千鶴は急いで話を進めた。
「ほれで松山まつやまへおいでた人は、先生の元気なお姿を見て安心しんさったんですか?」
 そうだねと教諭が笑顔になったので、千鶴はほっとした。ところが、教諭はすぐに顔を曇らせた。
「その人は妹のことを知っててさ。どうで妹によく似た娘さんを見かけたから、会わせてあげようかって言われたんだ」
「そのお人は道後にお泊まりやったんですか?」
「そうみたいだね。それで、その人は僕を道後の花街に誘ったんだ。僕はあんないかがわしい所は好きじゃないから断ったら、妹に似た娘さんがいるって言われてさ。ちょっとその娘さんに会ってみたくなったんだ。もちろん変な意味じゃないよ」
 一応の弁解をした井上教諭は、その娘に会いに行ったところ、確かに妹に似ていたので気が動転したと話した。そのあとすぐに困惑顔になり、どうして君にこんな話をしているんだろうと言った。
「今まで誰にも話を聞いてもらうことがなかったから、ついしゃべってしまったんだな。もう君はあそこの生徒じゃないし、僕をづかって来てくれたから、気が緩んでしまったみたいだ。申し訳ない」
「いいえ、うちでよかったら話してつかぁさい。うち、誰にも喋りませんけん」
「ありがとう。それに、ここまで喋ってしまったからね」
 教諭は恥ずかしそうに笑うと、話を続けた。
「その娘さんは確かに妹に似てたんだ。見間違えるほどじゃなかったけど、僕にはその娘さんが妹と重なって見えてね。こんなことはやめてここから出るようにって諭したんだ」
 その娘は借金を返すまでは逃げられないと井上教諭に話したという。教諭は自分が代わりに借金を支払うと言ったが、その娘の借金は教諭が支払える金額ではなかった。
「あの時、僕は思考能力がなくなってたんだね。後先あとさきを考えもしないで、その娘さんを連れて逃げようとしたんだ。そしたら大騒ぎになってしまって……」
 どうなったかまでは教諭は話さなかった。けれど、およその察しはつく。
「そのことが学校にも知れてしまって、僕は女生徒に教える資格なしと判断されたんだ。首を覚悟してたけど、そうならないではん学校へ異動となったのは、きっと僕の事情に同情してもらえたんだね」
 教諭は饅頭をぱくりと食べると、これは美味うまいねと言った。どこの店で買ったのかとかれたので、その店の場所を説明したあと、千鶴は教諭に訊ねた。
「その……、先生をその娘さんに会わせんさったお人は、どがぁしんさったんぞな?」
「まさかそんな騒ぎになるとは思わなかったんだろうな。知らない間にいなくなってたよ。悪いことをしてしまった」
 確かに井上教諭が取った行動には驚かされただろう。しかし、その人物には教諭をそこへ連れて行った責任があるはずだ。なのに、騒ぎが起こると教諭を置いて逃げるだなんて、とんでもない男だと千鶴は心の中で憤っ いきどお た。
 一人取り残された教諭が、どんな想いでどんな目にわされたのかと考えると、千鶴は胸が痛んだ。
 そもそも善意か何か知らないが、純情な井上教諭を花街へ連れて行く男など信用できない。といっても、教諭の親代わりである叔父でさえも女癖はよくない。男にはこんな文句を言っても仕方がないのかもしれなかった。
 いずれにしてもすべては済んだ話だ。そのお陰でというのは教諭に申し訳ないが、結果的に教諭がここへ移って来たのは、千鶴にとってはうれしいことだ。
 けれど、ここを訪れた理由を教諭に告げるのは、やはり容易ではない。決心していたつもりだったが、なかなか言いだせずに千鶴がもじもじしていると、教諭が言った。
「ところで、君が今日ここへ来たのは、僕に挨拶に来ただけじゃなくて、何か頼み事があるんじゃないのかい?」
 驚いた千鶴が顔を上げると、やっぱりそうかと井上教諭は微笑んだ。
「僕だって伊達だてに教師をしているわけじゃないよ。毎日生徒の顔や様子を見て、その生徒の気持ちを考えながら授業をしてたんだ。君を見ていれば何かあるなって、すぐにわかるよ」
 さすがは井上教諭だと、千鶴は改めて感心し尊敬した。
「それで何だい、君の頼みっていうのは?」
 実は――と言いながら千鶴が言い淀んでいると、教諭は遠慮しないで言いなさいとうながした。それで千鶴も覚悟を決めた。
「実は、うちの記憶を探っていただきたいんです」
「君の記憶を?」
「先生、前におっしゃ ましたよね? 催眠術で記憶を引き出せるて」
 井上教諭は少し当惑のいろを見せたが、あぁ、あの話か――とすぐににこやかになった。
「そういえば、そんなことを言ったね。だけど記憶を探ってほしいだなんて、何か大切な物でもくしたのかい?」
 ほうやないんです――と答えた千鶴は、少しためらってから思い切って言った。
「先生に探っていただきたいんは、うちの前世の記憶ぞなもし」

      四

 当然ながら、井上教諭は面食らった顔になった。
「ちょっと待ってくれよ。前世の記憶って、どういうことだい?」
 実は――と千鶴は前世の記憶を少しだけ思い出したと教諭に話した。当然ながら教諭は信じなかったが、千鶴は構わず、自分はかつて法生寺ほうしょうじにいたがんごめと呼ばれた娘だったと言った。
 がんごめが何を意味しているのか、井上教諭は例の騒ぎの一件で知っている。教諭は千鶴がおかしくなったのではないかと疑っているようだ。だけど話をやめるわけにはいかない。千鶴は少しうろたえながら、当時の自分は本物の鬼に襲われたらしいけれど、その時の記憶がないので、催眠術で確かめてほしいと頼んだ。
 教諭は興奮気味の千鶴を落ち着かせながら言った。
「いいかい? 君は学校で級友たちに鬼の仲間だと疑われたのが嫌で、学校をやめたんだよね? なのに、今度は自分から鬼と関係があると認めるって言うのかい?」
「うちはがんごやありません。けんど、鬼と関係があるか言われたら、ほれはあるんです。ただ、うちは人間やし、鬼も誰にも迷惑かけとりません。ほれやのに誰もうちの話を聞く耳持たんで、うちを化け物扱いするぎりじゃったけん、やめたんぞなもし」
 千鶴に圧倒された井上教諭は、わかったよ――とうなずいた。だけど、本当にわかってもらえたのかは疑わしい。
 教諭は千鶴の機嫌を取るように言った。
「それに思い出したよ、こっちでは鬼のことを、がんごっていうんだね」
「うちの話、信じてもらえるんですか?」
 千鶴が迫ると、教諭はうろたえ気味に返事をした。
「正直いって、よくわからないな。そもそも前世が本当にあるのかどうか、僕は知らないからね。仮に前世があったとして、催眠術でその時の記憶まで探れるのか、僕には自信がないよ。僕は専門家じゃないし、そんなの誰もやったことがないからね」
「やっていただけんのですか」
 千鶴が肩を落とすと、教諭は言った。
「前世の話以上に、君ががんごめでがんごに襲われたって話が、ちょっと僕には信じ難く思えるよ。でもね、君がうそをついてるとは思ってないからね」
 それは千鶴の頭がおかしいと思っているという意味になる。予想はしていたが、千鶴は悲しくなって涙ぐんだ。信じてもらえなければ記憶を調べることはかなわない。そうなれば進之丞を救う方法を探れなくなる。
 千鶴の涙に井上教諭は動揺していた。しかしそこは学者らしく、慰めたり言い訳をする代わりに、真面目な顔でしゃべり始めた。
「いいかい、君に前世の記憶があると認めるとしよう。けど、がんごに襲われた記憶はないんだよね? だから催眠術でその時の記憶を探りたいわけだ。だけどさ、だったらどうして自分が鬼に襲われたってわかるんだい?」
 進之丞のことは話せない。涙を拭きながら、千鶴は素早く考えをめぐらせた。
「当時のうちは、風寄かぜよせのお代官の息子と夫婦めおとになるはずでした。ほんでも、うちは身分の低い身寄りのない娘でしたけん、結婚する前にお代官がご自分のご友人のお侍に、うちを養女にするよう頼みんさったんです。そのご友人いうんが、今のうちのひぃひぃじいちゃんやったんです」
 千鶴は祖父から聞いた話と、自分が思い出した前世の記憶が同じだったと説明し、そう祖父の証言として、鬼が代官や寺を襲ったらしいと話した。
「うちがおった法生寺の庫裏くりは燃やされて、うちの親代わりじゃった和尚さまも、ほん時に殺されてしもたんです。ほれやのに肝心のうちは前世の記憶を取り戻したのに、そこんとこはどがぁしても思い出せんのです」
 千鶴の話を完全に信じてくれたのかはわからないが、井上教諭の表情はさっきよりも真顔になっていた。
 教諭は少し考えたあと、君を信じよう――と言った。
「全部を受け入れてはいないけど、君を信じるよ」
「じゃあ、うちに催眠術をかけていただけるんですか?」
「君が望む結果が出る保証はないけど、君が望むのであれば、試すだけは試してみてもいい」
 ほんまですか?――と千鶴が声を上げると、井上教諭はゆっくりとうなずいた。
「ただね、君にとってその時の記憶はとてもつらいものになると思うんだ。そこはわかってるんだろうね」
 千鶴は、はいと言った。だが、教諭はせない様子だ。普通はつらい記憶は忘れたいものであり、わざわざ思い出したいなどというのは、確かに妙な話だろう。
「君のことを考えると気が進まないけど、君がどうしてもって言うのなら、やるだけやってみよう。だけど僕は催眠術師としては未熟者だから、うまくいかないかもしれないよ」
「ほれでもかまんですけん」
「もしがんごに関する記憶が見つかっても、君がどうにかなってしまいそうだったら、そこですぐに中止するからね」
 千鶴はうなずいた。
 井上教諭は湯飲みに残っていたお茶を飲み干すと、千鶴に部屋へ上がるようにと言った。

      五

 井上教諭は用意したじゅっせん銅貨に糸を結びつけると、それを千鶴に持たせて、目の前に掲げるよう指示した。
「そのお金をじっと見てるんだよ。僕がお金が左右に揺れだすと言ったら、そのとおりになるから」
 千鶴は言われたとおり、糸にぶら下がった十銭銅貨をじっと見つめていた。
 ほら、お金が左右に揺れだすよ――と教諭が言うと、不思議なことに銅貨は左右に揺れだした。自分で揺らしている感覚はない。糸をつまんで持っているだけなのに、銅貨はゆらゆら揺れているのだ。
「今度は前後に揺れるよ」
 教諭が言うと、銅貨はゆっくりと揺れる向きを変え、ついには前後に揺れだした。
「不思議じゃ! 先生、これ、どがぁなっとんですか?」
「これが催眠なんだ。今度はね、銅貨はぐるぐる回りだすよ」
 すると、銅貨は教諭が言ったとおり、円を描いて回りだした。
 がいじゃ!――千鶴が叫ぶと教諭はうれしそうに、ありがとうと言った。
「じゃあ、次は部屋を暗くするよ」
 井上教諭は銅貨を受け取ると、部屋の障子しょうじふすまを全部閉めた。障子を通して明かりは差し込んで来るが、光に先ほどまでの勢いはなく、部屋の中は薄暗くなった。
 教諭は隅にあった小さな机を部屋の真ん中へ運び、千鶴の前に置いた。その机の上に小さなろうそくが置かれて火が灯された。
 薄暗い静かな部屋の中で、小さな炎がゆらゆらと揺らめいている。教諭は千鶴にその炎を見つめるようにと言った。
 千鶴がじっとろうそくの炎を見つめていると、ちろちろ揺れる小さな炎は、何かを千鶴に語りかけているみたいだ。
「ろうそくの火を見てると、だんだん目が疲れてくるだろう? ほーら、まぶたがだんだん重くなってくるよ。重くなってくる。重ーくなってくる」
 炎を見つめながら教諭の声を聞いていると、千鶴は目を開けているのがつらくなってきた。がんばって目を開けていようと思うのだが、かえって瞼が重くなり、とうとう目を閉じてしまった。
「ほーら、瞼がふさがった。もう、目は開かないよ」
 井上教諭は目を閉じたままの千鶴に、体が前後に揺れると暗示をかけた。
 千鶴の体はひとりでに前後に揺れ始めたが、もう千鶴が不思議だと思うことはなかった。千鶴は言われたとおりに体が動いているのを、ただぼんやりと感じていた。
「さぁ、今度は体が弧を描くように回り始めるよ。腰から上がどんどん左回りに回りだす。ぐるぐる、ぐるぐる、ほーら、回りだしただろ?」
 千鶴は目を閉じたまま、上半身をぐるぐる回し続けた。
「僕が君の肩に手を載せると、体の回転は止まるよ。だけど、頭の中は今と同じまんま、ぐるぐる回り続けままだよ」
 右肩に教諭の手を感じると、千鶴の体は次第に動きを止めた。頭の中はぐるぐる回った感じが続いている。
「君の頭の中は、時計とは逆回りに回ったまんまだ。その回転は時間を遡っ さかのぼ て、君を過去へ運んでくれる時空の隧道ずいどうだよ。その隧道をくぐって前世へ移動するんだ。僕が手を三つたたくと、君はがんごに出会った時へ飛ぶ。いいかい?」
 千鶴がうなずくと、ゆっくりと手を叩く音が聞こえた。三つ目の音が聞こえた時、千鶴はどこかの山小屋にいた。

      六

 囲炉裏いろりにちろちろ火が燃えている。囲炉裏の近く以外は暗い。
 千鶴はまだ幼く、寝ているところを母親に起こされたばかりだ。
 眠くて文句を言う幼い自分と、その自分を通して辺りを観察している別の自分がいる。二つの自分は別々なのだが、一つに重なっているみたいでもある。
 ――君は今、どこにいるの?
 どこからか井上教諭の声が聞こえた。
「山ん中の小屋」
 千鶴はぽそりと答えた。教諭の声に返事をしたのは幼い自分ではなく、観察している方の自分だ。
 ――そこで何をしているんだい?
ぇたとこを、かっかに起こされた」
 千鶴は幼子おさなごの言葉になっていた。
 しゃべっているのは観察している自分なのに、意識が幼い自分と重なっているようだ。少し不機嫌な千鶴は、自分がどちらの自分なのかわからなくなっていた。
 ――そこは君とお母さんが暮らしている所かい?
「ううん。おらとかっかはおへんさんで、ここで休ませてもろうとる」
 ――そこは誰かの家なの?
「おばあちゃん」
 ――おばあちゃんって、君のおばあちゃんかい?
「ううん。親切なおばあちゃん。かっかがね、ぃ吐いて動けんなったき、おら、泣きよったがよ。そしたら、おばあちゃんが来て助けてくれたが」
 その老婆を幼い千鶴は知っていた。近くの寺で会った老婆だ。
 老婆は境内けいだいの隅に独りぼっちで立っていた。誰も近づこうとしないその老婆を見て、自分と同じだと千鶴は思った。
 千鶴は老婆のそばへ行くと、寺でもらったまんじゅうを老婆にやった。
 饅頭を受け取りながら、老婆は驚いた顔で千鶴を見たが、すぐににっこり笑って、ありがとよと言った。その笑顔がうれしくて、千鶴も老婆に笑顔を返した。
 どこから来たのかと老婆はたずねたが、千鶴は自分のことがよくわからなかった。
 親のことをかれると、近くで他のお遍路と喋っていた母を指差した。父親はと訊ねられたが、首を振るしかできなかった。
 その老婆が動けない母を背中にかつぎながら、千鶴の手を引いて自分の山小屋へ連れて来たのだ。
 そこで老婆にかゆをごそうになったあと、千鶴は眠くなって寝たが、まだ寝足りないところを母親に起こされた。辺りは真っ暗だ。寝ている間に夜になったらしい。
 千鶴を起こした母は声を潜め、こっから逃げるで――と言った。
 まだ眠い千鶴はむにゃむにゃしながら、行きたくないと言った。母は無理やり千鶴を背負うと、そっと小屋の外へ出た。老婆は手水ちょうずに行ったのか姿が見えない。
 おばあちゃんは?――と訊いても、母は何も言わずに夜の山道を走りだした。
 月明かりが照らす道を、血を吐いて倒れたとは思えないほど、母はすごい速さで駆け下りた。夜風が千鶴のほおかすめて行く。
 しばらくすると、後ろの方で獣がえる声が聞こえた。体が震えるような恐ろしい声で、千鶴はぎゅっと母にしがみついた。
 その時、月の光が途切れ、道は真っ暗な闇にみ込まれた。月が雲に隠れたのだ。
 足下が見えなくなった母は、千鶴を背負ったまま飛ぶようにして転んだ。母の体を通して千鶴にも衝撃が伝わった。
 母はうめき声を上げるが動かない。千鶴は母の背中から降りると、だいじょうぶ?――と母に声をかけた。
 再び月の光が差した。母は顔が血だらけで、肩や膝も痛めたらしい。母は立ち上がろうとしたが、すぐに顔をゆがめて倒れた。
 母は必死に半身はんしんを起こして千鶴を抱き寄せると、真剣な顔で言った。
「千鶴、ええか? これからかっかが言うことを、よう聞くんやで。あのばあさまはな、鬼なんじゃ」
「おに?」
「鬼はな、お前をねろうとるんじゃ。けんど、かっか、もうこれ以上は、あんたを背負うては逃げられん。ほじゃき、あんたをここへ隠すで」
「かっかは、どうするが?」
「かっかは鬼を引きつけるき、あんたはここに隠れてじっとしとり」
「そんなん嫌や! おら、かっかと一緒に行く!」
 べそをかく千鶴に、泣いたらいかん――と母親は言った。
「一緒に逃げられたらええけんど、それができんき、こう言うとるがよ。かっかかてな、つらいんよ。な、わかってや」
 母は涙ぐみながら、千鶴をもう一度抱きしめた。だがすぐに千鶴から体を離し、千鶴を近くのやぶの中へ押し込んだ。
「ええな? 絶対に声出したらいかんで。泣いてもいかんし、動いてもいかんが。もし鬼に見つかったら、殺されてわれてしまうんやで。どんなにこわぁても、こらえるんやきね。わかったね?」
 母はそれだけ言うとよろよろと立ち上がり、足を引きずりながら行ってしまった。
 千鶴は藪の中ですすり泣いた。いつも一緒だった母がいなくなったのである。こんな暗い夜に、こんな藪の中で独りぼっちだ。
 しばらくすると、何かがすごい勢いで迫って来る気配を感じて、千鶴は泣くのをやめた。
 母に言われたとおり、物音一つ出さずにじっとしていたが、息をする音さえもが気になってしまう。どきどきすると息が速くなるが、音がしないようにゆっくり吸ったり吐いたりした。
 不安がつのって母を追いかけたい衝動に駆られても、気配がどんどん近づいて来るので動けない。流れて来る恐怖に呑み込まれそうになった時、藪の向こうに一人の老婆が現れた。
 着ている者と髪の形から、千鶴を助けてくれた老婆だと思われた。けれど、月明かりに照らされた顔は、あの優しい老婆ではなかった。口元に牙をやし、頭に二本の角がある鬼だった。
 鬼になった老婆は千鶴のすぐ近くまで来ると、その場にいつくばって、くんくんと地面の匂いを嗅いだ。
「血の臭いじゃ。をしとるな。くっくっ、逃がさんぞ」
 それはあの老婆の優しい声ではなかった。低く籠もった気味の悪い声だ。
 立ち上がった老婆は、爪の伸びた指をうごめかせると、母が逃げた方へ走り去った。
 千鶴は恐ろしくてぶるぶる震えながら、必死で泣くのをこらえていた。小便も漏れてしまったが、母の言いつけを守ってじっとしていた。
 少しすると、遠くの方で女の悲鳴が聞こえた。ただの叫び声でない。苦しみの籠もった断末魔のような声だ。
 声が聞こえなくなった時、千鶴は母の死を悟った。
 千鶴は泣かないよう必死でこらえた。それでも目からあふれた涙は次々にこぼれ落ち、止めることはできなかった。

      七

 ――山﨑さん、僕が手を三つたたくと、君は現代に戻って来る!
 あせったような井上教諭の声が聞こえ、速い拍子で手を叩く音が三つ鳴った。
「山﨑さん、大丈夫かい? 君が見たのは過去の話で、今のことじゃないんだ。だから、何も怖がらなくていいんだよ」
 眼を閉じたまま母を呼びながら泣き続ける千鶴を、動転した井上教諭は必死に目覚めさせようとした。
 教諭はろうそくの火を消すと急いで障子しょうじを開け、外の明かりを部屋の中へ入れた。
 千鶴の催眠は解けていた。目を開けた千鶴は、自分が畳の部屋にいるのはわかっていた。しかし、目の前でうろたえながら声をかける男の人が、誰なのかがわからない。何故自分がここにいるのかもわかっていなかった。
 千鶴の心は鬼に母を殺された、あの時のままだった。自分に何が起こったのかがわからないまま、千鶴は母を求めて泣き続けた。
 鬼と化した老婆の姿や、母の断末魔の声がいつまでも頭から離れない。心の中は恐怖と悲しみで埋め尽くされていた。
 あまりのことに教諭は打ちひしがれて頭を抱え、そのそばで千鶴は泣き続けていた。
 千鶴の意識は前世の幼い千鶴が占めていた。だが、片隅にあった現代の千鶴の意識が次第に大きくなってくると、千鶴は近くでうなれている男性が井上教諭だと思い出した。
 先生――と千鶴が声をかけると、教諭ははっとしたように振り返った。
「僕がわかるんだね? よかった……、本当によかった」
 教諭はわずかに笑みを見せたが、その顔からは動揺のいろが消えていない。
「もう君が正気に戻らないんじゃないか、僕は大変なことをしてしまったんじゃないかって、本当にあせったよ」
「すんません。うち、こがぁになるやなんて思いもせんかったんです。先生にご無理言うた上に嫌な思いをさせてしもて、ほんまにすんませんでした」
「いや、そんなことはいいんだ。それより大丈夫かい?」
 千鶴はうなずいた。だけど本当は大丈夫ではなかった。千鶴にとって今見たのは過去の話ではなく、ついさっきのことだ。
 母の死を直接見たわけではない。けれど、鬼に八つ裂きにされたという進之丞の父の姿と、鬼に殺された母の姿が重なってしまい、今にも吐きそうな気分だ。
「それにしても驚いたよ。本当に鬼がいたなんて」
 井上教諭は少しあんしたみたいだが、体は小さく震えている。
「君が喋っていた言葉は、こっちの言葉とは違っていたよ。それは君が目にしたものが、君の妄想じゃないってことだ。でも、本当にこんなことがあるなんて信じられないよ」
 前世のこととはいえ、実際に鬼がいたという事実に、教諭は衝撃を受けていた。
「今見たがんご風寄かぜよせまで来たんでしょうか」
「それはわからないけど、もう調べるのはやめておいた方がいいんじゃないかな。君が思い出すにはつら過ぎると思う」
 井上教諭自身が耐えられないのだろう。目があちこちに泳いでいる。
 千鶴は教諭の意見に同意した。こんなに恐ろしいのはもう嫌だ。
 鬼にへんした進之丞も恐ろしかったが、進之丞は千鶴の味方であり、千鶴の言うことを聞いてくれる。
 しかし、今見た鬼は千鶴の敵だ。その鬼は千鶴を狙い、最愛の母を無残に殺したのである。
 また恐らくこの鬼が、のちに進之丞の父とめい和尚を殺し、千鶴をさらったのだ。同じ鬼でも進之丞とは大違いだ。
 あんな鬼には二度と会いたくない。だが前世の記憶をあきらめるのは、進之丞が鬼になったけいを知るすべを失うということだ。
 恐怖と悲しみに大きな落胆が加わって、千鶴のほおを新たな涙が流れ落ちた。