井上教諭
一
「千鶴ちゃん、おるかな?」
帳場で同業組合の組合長の声がした。
「旦那さんやないんですか?」
訊き返したのは辰蔵だ。
「千鶴ちゃんや。ちぃと街で妙な話を耳にしたんよ」
「妙な話? 千鶴さんにですか?」
「ほうよほうよ。こないだの晩餐会が終わったあとのことぞな」
それだけで辰蔵は組合長が何が言いたいのか理解したらしい。わかりましたと言って、組合長を奥へ通した。
トミは他の伊予絣問屋のおかみの所へお茶を飲みに出かけたが、甚右衛門は茶の間に座って東京の茂七からの報告を確かめている。鬼や特高警察を気にしていても、伊予絣の売り上げを伸ばすことは考えねばならないのだ。
中へ入って来た組合長は、まずは甚右衛門に声をかけると、板の間で花江と一緒に洗濯物を畳んでいた千鶴に話しかけた。
「千鶴ちゃん、ちぃと構んか?」
「はい、何ぞなもし?」
どんな用件なのかはわかっていたが、千鶴は手を止めて組合長の方に向き直った。
組合長は花江をちらりと見ると、千鶴に顔を近づけて潜めた声で言った。
「千鶴ちゃん、こないだの晩餐会の帰りしに、特高に捕まったんか?」
千鶴は神妙な顔を見せると、はいと小さくうなずいた。
組合長は驚くと、噂はほんまやったんか――と言った。
「噂て?」
千鶴が知らないふりをして訊ねると、組合長は千鶴たちを乗せた人力車の車夫たちが、話を広めていると声を潜めずに言った。しかし横にいる花江を見て、慌てて手で口を押さえた。
「花江さんなら、今の話は知っておいでるけん大丈夫ぞなもし」
千鶴に言われて、組合長は恐る恐る花江を見た。花江がにっこり笑うと、早よ言うてや――と疲れたようにため息をついた。
「今の話、千鶴ちゃんたちはお客だったのに、そんな噂をわざわざ広めるなんて、ひどい人たちだね」
花江が千鶴に同情して憤った。組合長はまったくよと言い、どうしてこの話を黙っていたのかと千鶴に訊ねた。すると、横から甚右衛門が怒ったように口を挟んだ。
「そがぁなこと言えるわけなかろがな。ほんまなら楽しいはずの晩げじゃったのに、特高に捕まったやなんて言うたら、他の連中にどがぁな目で見られるか」
それは確かにそうだと、組合長は口籠もった。実際、好奇の噂が広がっているのだ。
甚右衛門は、街では他にどんな噂が流れているのかと組合長に訊ねた。
組合長は言いにくそうに、特高警察に捕まった千鶴たちがどうなったのかと言い合っているのを、あちこちで耳にしたと話した。
「千鶴ちゃんは家におるでて言うたら、どがぁして特高から逃げたんじゃて訊きよるし、その話と城山で見つかった男らは関係ないんかて、いろいろ言われたんよ」
さらに組合長は以前に兵頭の家が化け物に壊された話を引き合いに出し、それも城山の事件とつながりがあるのではないかと言う者もいたと話した。
千鶴たちが恐れていたことが、街の中で起こり始めていた。
甚右衛門は千鶴たちが大声を上げて難を逃れた話や、愛媛の警察は千鶴たちがスパイではないとわかっていて、特高警察との間には軋轢がある話をした。また、城山の事件は何も知らないので、関わりがあるみたいに思われると迷惑だと言った。
組合長はうなずき、自分がその話を他の者にもして廻ると言ってくれた。ただ、城山の事件が不気味なのは同じであり、あそこで何があったのかと組合長は首を捻り続けた。
組合長が甚右衛門と喋り続けているので、千鶴は再び花江と洗濯物を畳み始めた。
千鶴が再び特高警察に捕まったことや、進之丞が特高警察の男たちから記憶を奪い、偽の記憶を植えつけた話は誰も知らない。
黙って組合長の話を聞いている花江は、ずっと心配そうな顔をしている。
「誰ぞ特高に恨みのある奴らが、連中を袋叩きにしたんやなかろかな」
甚右衛門が惚けて喋ると、兵士が聞いた化け物の声はどう説明するのかと組合長は言った。
「新聞に書いてあったろがな。あれは八股榎のお袖狸の仕業やもしれまい」
甚右衛門の話に、なるほどと組合長はうなずいた。
「確かにほれはあるな。またあそこの榎を伐るいう話が出とるみたいなけん、お袖狸が怒っとるんぞ」
「これまで何やかんやいうて二回伐られとるけん、今度伐られたら三回目ぞ。ほら、わしでも怒らい」
「ほうじゃほうじゃ。恐らくお袖狸ぞな。やとすると、お堀を埋めて道を広げる話は、ちぃと考えもんじゃな」
納得した組合長は、そのあと特高警察はどうなったのかと言った。千鶴たちがスパイではないと認めたのでなければ、特高警察がまた来るのではないかと組合長は心配していた。
甚右衛門は幸子が特高警察らしき男三人に捕まりそうになったのを、忠七が助けて男たちを警察へ突き出したという話をした。
組合長はそんな揉め事があったのは噂に聞いて知っていたが、幸子と忠七の話だとは知らなかったようだ。特高警察をぶちのめすほどの忠七の強さに感心しきりだ。
「そがぁなことで、連中も警察からしこたまお灸を据えられたんやなかろか」
「牢屋へ入れられとるかもしれんな」
「やと、ええんやが。いずれにしても、ここんとこは特高らしい奴の姿は見とらんな」
「たぶん牢屋に入っとらい。忠七の大手柄じゃな」
組合長は安堵の笑みを見せ、恐らく特高はもう来ないだろうと千鶴に声をかけた。
ありがとうございますと千鶴は頭を下げたが、実際は千鶴は特高警察に襲われた。あの事件は料亭で謎の乱闘という見出しで新聞の記事になり、神戸から来た男四人が、料亭で酒を飲み過ぎて大乱闘をしたと書かれた。だが男たちの身元は明らかにされず、魔物を匂わせる記載もなかったので、甚右衛門も組合長もこの事件を特別視しなかったようだ。
しかしあの状況を検分した警察は、事件に魔物が関わっていると見たはずだ。ただ、そう発表すれば庶民を混乱させるので、余計なことは言わぬよう料亭の者たちに指示を出したと思われる。
今のところ警察は聞き込みに来ていないので、千鶴たちのことは知られていないようだ。きっと警察では、また特高警察が何かをやらかして魔物を怒らせたと見ただろうし、下手に首を突っ込んで特高警察の二の舞にはなりたくないと考えているのかもしれない。執念深い特高警察もさすがに新手を送り込んで来たりはしないだろう。
それより今心配すべきは横嶋つや子だ。特高警察の後ろにいたこの女を捕まえなければ本当の安心は得られない。しかし、進之丞が特高の男からつや子の話を聞き出したとは言えなかった。つや子の脅威をみんなに伝えたくても話せないのだ
こうしている間にも、つや子の魔の手が忍び寄っているように思えてくる。けれど何もできない千鶴は、悶々とするばかりだった。
二
翌日、大阪の作五郎から手紙が届いた。中身は畑山が書いた錦絵新聞だ。
前回、甚右衛門は一人で錦絵新聞を読んで、誰にも見せずに処分しようとした。けれど、今回は畑山が病を押して千鶴に取材したのを、みんなが知っている。一人だけで読むわけにはいかなかった。
夕飯も終わって使用人たちが部屋へ引き上げると、唯一の電灯がある茶の間に家人だけが集まった。縫い物を始めようとしていた花江も、今日はいいからとトミに言われた。花江は怪訝な顔をしていたが、黙って二階へ上がった。
錦絵新聞は二枚あり、まず甚右衛門が一枚目を読むと、ふんと面白くなさそうな顔で千鶴たちに渡した。
女三人はトミを真ん中に、頭を寄せ合いながら錦絵新聞をのぞきこんだ。そこに描かれている絵は舞踏会の絵だ。二組の男女が他の者たちに取り囲まれて踊っている。
この二組はもちろんミハイルと幸子、そしてスタニスラフと千鶴だ。松山の新聞に載せられた絵は白黒の小さなものだったが、こちらの絵は大きい上に色鮮やかに描かれている。
説明文には、日露戦争中にロシア兵士ミハイルと看護婦幸子が恋に落ち、終戦後は離ればなれになったものの、二人は二十年ぶりに再会を果たしたとあった。
そのあと千鶴とスタニスラフの説明があり、日ソ友好を願う久松伯爵夫妻が城山の麓にある別邸の萬翠荘で、四人のために晩餐会と舞踏会を開いてくれたと書かれていた。
さらに、そこで千鶴とスタニスラフが久松伯爵夫妻や来客たちの前で結婚を誓い合い、差別に苦しんできた千鶴についに幸せが訪れたのであると、記事は千鶴を祝福するように述べていた。
結婚の話は松山の新聞にも書かれた。同じことが書かれるのは仕方がないが誇張が多く、千鶴としては面白くなかった。そもそも畑山にはスタニスラフとは結婚しないと、はっきりと伝えていたのだ。
その次の話は事実とは異なっていた。記者が直接千鶴を訪ねた時、偶然にもスタニスラフからの恋文が届き、千鶴が人目を憚らずに大喜びしたと書かれているのだ。
あの時、千鶴は喜んだりしなかったし、畑山は千鶴に手紙を渡しただけで中身については何も知らない。なのに記事は、戦争で引き裂かれた恋が運命の再会を果たし、ここに新たな恋が芽生えたとは何と素晴らしいことかと、惚けた調子で絶賛していた。
この記事を読んだ大阪の人々は、二人が結婚するものと信じただろう。事実、この新聞を送ってよこした作五郎は、甚右衛門に対する祝福の手紙を添えていた。
思わず千鶴が錦絵新聞を破りそうになると、あのどぐされが!――と甚右衛門が喚いた。
甚右衛門が手に持った錦絵新聞を引き裂こうとしたので、トミが慌てて止めた。
「まだ、うちらは見とらんのに、勝手に破いたらいくまい?」
トミは甚右衛門から錦絵新聞を奪い取り、また女三人で読んだ。その横で、甚右衛門は苦虫を噛み潰したような渋い顔をしている。
こちらの錦絵新聞には夜の松山城と城山が描かれており、黒々とした山の中に大きな鬼の姿があった。
鬼は両手に男をつかみ、口にも一人くわえていた。右足の下では男が一人踏み潰されている。
城山の麓には、明々と明かりを灯した二つの尖塔がある洋風の建物が、さりげなく描かれており、鬼の目はその建物にじっと注がれている。
書かれてある記事は、城山で見つかった四人の男たちのことだ。当然ながら事件が起きた日付は、晩餐会が開かれたのと同じ日付だ。
どこで話を聞いたのか、畑山は男たちの尋常ではない様子を書き綴っていた。
また、兵士や近くの者たちが耳にした魔物の声と、風寄で兵頭の家を壊した化け物の声が似ているとし、四人の男たちを死傷させたのは、風寄から来た鬼だと断定していた。
続けて、男たちは土地の者ではなく神戸から来た者たちで、異郷の地で何かをしでかして鬼を怒らせたらしいと書いてある。男たちが鬼に襲われたのはたまたまではなく、そこで何かをしたからだと決めつけ、その何かが事件の核心であるかのような書き方だ。
鬼が現れたのは、風寄にあった鬼よけの祠が、台風で壊れたままになっているためだと記事は結論づけながら、どうして風寄の鬼が松山に現れたのかは謎だとしていた。これも読者に謎の部分についての興味を持たせ、いろいろ推測させようとする記述だ。
祠が再建されるまで、いつ松山に平穏な日が訪れるのかと、松山の人たちを気の毒がる言葉で記事は終わっていた。だが、これも気の毒がりながら不安を煽っているのだ。
畑山は城山の男たちが特高警察だとは書かなかった。そう書いてしまうと、千鶴たちと関連があると述べることになる。そこは千鶴への気遣いを見せたのだと思われる。
とはいえ、同じ晩に起こった二つの出来事を陽と陰のごとく描いて、関連性を示していると見えなくもない。いや、恐らくそのつもりなのだ。
こちらの記事に萬翠荘についての説明はない。だけど、もう一つの錦絵新聞を読めば、萬翠荘は城山の麓にあると書かれている。その記事と合わせると、この絵に描かれた館は萬翠荘だとわかる。
華やかな晩餐会や舞踏会が開かれていた萬翠荘のすぐ裏手に、鬼が潜んでいて萬翠荘の様子を窺っていると、二つの錦絵新聞を読んだ人は見るだろう。
鬼は萬翠荘を苦々しく見ているのか、あるいはこの華やぎを護ろうとしているのか。見る者によって受け止め方は違っても、城山で見つかった男たちが特高警察だと知れれば、絵が示す意味は決まってしまう。千鶴が女子師範学校をやめた経緯を知っている者は、やはりそうかと思うはずだ。
ただでも街に嫌な噂が広がっているというのに、こんな錦絵新聞を書かれては堪ったものではない。甚右衛門が怒り狂うのも当たり前だ。
前回にもいえることだが、この錦絵新聞を読むのは大阪の人間だけだと、畑山は考えているらしい。しかし、こうして千鶴たちが目にしているのだし、三津子みたいな外の者が大阪で読むこともある。そんな者たちが松山でこれを話題にしたならば、悪い噂はいつまで経っても消えず、余計に大きくなるかもしれない。
特に三津子がこの錦絵新聞を読んだならばと思うと、千鶴は気が滅入ってしまった。
「読んだか? 読んだんなら始末するぞ」
待ちわびたように甚右衛門が訊ねても、誰も反対しなかった。
甚右衛門は二枚の錦絵新聞を重ねると、びりびりと引き破って千鶴に言った。
「もう二度とあいつには話をするな。ええな?」
畑山の取材に応じろと言ったのは祖父である。千鶴は納得がいかなかったが、おとなしくうなずいた。
けれども、取材で余計なことを喋ったつもりはない。前に取材に応じた時もそうだったが、畑山は千鶴から話を聞く前に、すでに多くのことを確かめていた。千鶴との話は事実の確認という程度であり、畑山が知らないことを千鶴から喋ったりはしていない。
今回も特高警察の件は畑山は初めから知っていた。だから、千鶴も畑山の話を否定しなかった。
どうやって特高警察から逃れたかという話もしたが、畑山が信じたかどうかはわからない。恐らく信じてはいないだろうが、千鶴たちが特高警察と接触があったという点こそが、畑山にとっては重要なのだ。
きっと畑山は鬼が千鶴たちを助けたと考えている。それは鬼は千鶴の味方だという意味であり、言い換えれば千鶴と鬼は仲間だということだ。
なのに、取材をしていた畑山は千鶴を恐れる様子もなく、却って千鶴を気遣っているようでもあった。本当のところ、畑山がどう考えていたのか千鶴にはわからなかった。
といっても、今回の記事はいただけない。金輪際、畑山の取材に応じないのは、祖父に言われるまでもない。
だがそれはともかくとして、千鶴は畑山の体が気がかりだった。咳と一緒に血を吐いた畑山の姿は、前世の母の姿と重なって見えた。
前世で千鶴は母と二人で遍路旅を続けていた。なのに、いつしか独りぼっちになり、慈命和尚と一緒に法生寺で暮らすようになった。それはきっと、母が亡くなったからに違いなかった。
まだ小さな子供がいるという畑山には、生き続けてもらいたかった。そう思うと、千鶴の畑山への腹立ちも幾分は和らいだ。
三
四月の初日。ミハイルたちが訪れてから、ちょうど一ヶ月が経った。
この日は使用人の休みだが、進之丞は病院の仕事へ行く幸子の付き添いに出ている。
本来進之丞が座っているはずの千鶴の隣には、花江がしゃがんで洗濯を手伝ってくれていた。花江も本当は休みなのに、進之丞が戻ってから出かけるらしい。一人きりになる千鶴を気遣ってくれているのだろうが、千鶴とのお喋りは楽しみなようだ。
話題は特高警察と城山の事件だ。花江はどちらも気になって仕方がないみたいで、未だに買い物にも出られない千鶴を気の毒がった。
一方、千鶴はどちらの話題も触れたくない。城山についても特高警察についても、今のところは何もなく落ち着いているようだから、自分はあんまり心配していないと言った。
実際、ずっと怪しい者の姿を見かけないので、進之丞の思惑どおりに、特高警察は千鶴たちの逮捕をあきらめたものと思われる。だけどその話は誰にもできない。それで今も尚、特高警察を警戒する姿勢を続けなければならなかった。本当に警戒すべきなのは横嶋つや子なのに、それが口にできないのが千鶴は何とももどかしかった。
「それにしてもさ。あの大阪から来た記者さん、もう錦絵新聞は書いたのかねぇ」
花江が思い出したように言った。
前回の錦絵新聞を読んだ花江は、今回の錦絵新聞も楽しみにしていた。しかし、その錦絵新聞はすでに作五郎から送って来られ、甚右衛門によって引き裂かれた。そのことを花江は知らない。
「さぁねぇ。どうせ、あんまし読みとない記事書きよろけん、別に読まいでもええわ」
千鶴が素っ気ないことを言うので、花江は錦絵新聞の話はやめた。代わりに血を吐いた畑山の体を心配して、東京の知り合いにも胸の病で亡くなった人がいるという話をした。
「同じ胸の病でも、恋煩いならいいんだけどねぇ」
花江が笑いながら言うので、ほんまじゃねぇと千鶴も合わせてうなずいた。けれど、花江がすぐに笑みを消して少し寂しげな顔をしたので、その話題もそこまでとなり、あとは二人とも黙々と手を動かし続けた。
やっと洗濯が終わって、二人で物干し竿に洗濯物を広げていると、進之丞が戻って来た。
「あら、お疲れさま。悪いね、忠さんの場所、あたしが取っちまったよ」
笑顔になった花江が、からかうように進之丞に声をかけると、いやいやと進之丞も笑みで応じた。
「ちょっとしか残ってないけどさ。忠さんが戻って来たから、あとは忠さんにお願いして、あたしは街に出かけてくるよ」
花江は千鶴に明るく声をかけると、さっさと家の中へ入って行った。
休みなのに千鶴を手伝い、進之丞が戻って来ると邪魔をしないように姿を消す。そんな花江の思いやりが千鶴には眩しかった。誤解とはいえ、花江に進之丞を奪われたと恨んだことが恥ずかしく情けない。
「どれ、じゃあちぃとばかし手伝うかな」
進之丞は残っていた着物を拾い上げて物干しに広げた。
その横で千鶴も洗濯物を干しながら、病院への行き帰りに何もなかったかと進之丞に訊ねた。特高警察ではなく、つや子のことだ。
進之丞は特に何もなかったと言い、最後の着物を干し終えた。
ちぃと待ちよってと、千鶴は進之丞に声をかけて離れの部屋へ向かった。
すぐに戻って来た千鶴が抱えていたのは、進之丞の継ぎはぎの着物だ。
「これ、破れた所直して洗といたけん。帯はさすがにいけんけん、新しいのに代えといた」
手渡された着物に進之丞は目を丸くして、おぉと感激の声を上げた。
「よう直したなぁ。何べんも破れてぼろぼろじゃったけん、さすがに今度はもういけんと思いよった」
着物を広げた進之丞は、裏や表を確かめながら感心した。進之丞が喜んでくれると千鶴も嬉しい。
「いっぺんにはできんけん、他の布を当てながら、ちぃとずつ縫うたんよ」
進之丞は千鶴に顔を向けると、だんだんな――と言った。
「今度こそ、この着物を破らんよう気ぃつけるけん」
もう二度と鬼に変化しないという意味だろう。その気持ちがまた千鶴を喜ばせた。
「ほやけど、なしてあん時、わざにこの着物を着んさったん?」
あの時というのは、千鶴たちが萬翠荘へ招かれた夜、特高警察を見かけた進之丞が千鶴を心配して出て来た時のことだ。
「店の着物着よったら、何ぞいざこざがあった時に、店の名前が出ろ? 旦那さんやおかみさんに迷惑かけるわけにいかんけんな。ほれでこれを着たんよ。履物かてここになかったら、どこ行きよったいう話になるけん、藁草履も置いてった。まぁ風寄じゃいっつもかっつも裸足やったけん、ほんまはそっちの方が動きええんよ」
進之丞は笑ったが、すぐに笑みは引っ込めた。
「あの日のこと、まだ全部は聞いとらんけんど、進さん、萬翠荘からおらたちの後、ずっとついておいでてたん?」
後ろについていたなら、進之丞は鬼に変化しないで、特高警察の男たちをぶちのめしていたはずだ。でも実際は千鶴たちが暗がりへ連れて行かれてから、鬼に変化して現れた。
「いや、あん時は……、ちぃと出遅れてしもたんよ」
進之丞は言いにくそうに言った。
「気ぃついたら会がお開きになっとって、何台も俥ぁが出て行きよったけん、もうお前も出てしもたんか思てな。焦くりまわってここまで戻んて来たんよ」
ところが千鶴はまだ家には戻っておらず、慌てて元来た道を戻ったところ、あの暗がりから人力車が出て来るのが見えたのだという。
「あしがぼーっとしとらんかったら、あがぁなことにはならんかったんよ。余計な騒ぎを起こしてしもて、まことに申し訳ないとは思とる」
進之丞が神妙な面持ちを見せると、そんなつもりで訊いたのではないと、千鶴は慌てて言った。
「おら、ただ進さんがどこにおいでたんじゃろかて思いよったぎりぞな。別に深い意味はないんよ」
「あしは……、あの屋敷の裏の藪ん中におったんよ」
「藪ん中? なしてそがぁな所に――」
はっとなった千鶴は、ごめんと唇を噛んだ。進之丞は小さく首を振り、自分の修行が足らなかっただけだと言った。
「己でお前を手放そうとしたくせにな。情けないことよ」
悲しげに微笑む進之丞に、千鶴はもう一度ごめんと謝った。
「おら、また進さんの気持ちわかってあげられんで、余計なこと言うてしもた。堪忍な」
千鶴は進之丞を慰めようと顔を寄せた。すると進之丞はいきなり千鶴を抱き上げ、大丈夫ぞな――と言った。
「今、お前はここにおる。お前はお不動さまが用意しんさった幸せより、あしを選んでくれた。もう、あしの中に悲しみはないけん」
鬼でありながらも、千鶴とともに生きるという決意を、はっきり述べた言葉だ。
千鶴は進之丞の首に抱きついた。その目を喜びの涙が濡らしている。
四
下へ下ろしてもらった千鶴は、おら、嬉しい――と涙を拭きながら言った。
「進さん、やっぱしあかんかもしれんて、すぐに思いんさるけん、おら、ほんまは心配しよったんよ。ほんでも今の言葉で安心した」
「こがぁなったら開き直りぞな。まだまだ山あり谷ありじゃろが、行ける所まで行こわい」
「行ける所までやのうて、どこまでも行くんよ。二人でな」
進之丞と微笑み合った千鶴は、ふと気になった。
「ところでな、進さん、今の体は借り物じゃて言うとりんさったろ?」
「あぁ、申した」
進之丞の顔から笑みが消えた。借りた物は返さねばならないということを思い出したようだ。早くも行ける所へ行き着いてしまったと言わんばかりに、進之丞は顔を曇らせた。
進之丞の顔色を気にしながら千鶴は言った。
「借り物なんじゃったら、その体の元の持ち主はどこにおるん?」
「この男か?」
千鶴がうなずくと、進之丞は困った顔を見せた。
「こがぁなこと申せば、お前に嫌われるやもしれんけんど……」
「何? 何言われても嫌いになったりせんけん、言うて」
進之丞は少しためらいを見せてから言った。
「鬼はな、取り憑いた相手の心を喰ろうてしまうんよ」
「心を喰らう?」
ほうよと進之丞はうなずいた。
喰らうとは相手の心を己に取り込み、相手の心身ともに己の物にしてしまうという意味だと進之丞は言った。そうやって鬼は死ぬことを避け、この世に留まり続けるのだという。しかし、喰らわれた方は鬼の一部となってしまい、その主体性を失ってしまうらしい。それは想像すらしたことがない恐ろしいことで、平静を装っても千鶴の顔は強張っている。
「じゃあ、進さんはその人の心を……喰らいんさったいうこと?」
「ほういうことぞな。わざにやないが、あしはこの男の心を喰ろうてしもた。ほれでこの男の心はあしの一部となった故、今はこの男には己いうもんがわからん。一方で、この男が覚えよったことはあしの記憶となり、あしがこの男として生きるわけよ」
「そがぁなことが、ほんまに……」
「前に申したように、鬼は心がきれいな者には取り憑けん。この男の心はあしと対じゃったけん、あしに喰らわれてしもたんよ」
進之丞によれば忠之は村の嫌われ者で、何もしなくとも村人から憎まれていたそうだ。
忠之の胸には怒りと悲しみ、憎しみと虚しさが渦巻いていた。だが、まだ他人への優しさは失われておらず、その優しさが辛うじて忠之を支えていた。ところが、その優しさが踏みにじられる出来事があった。
一昨年の八月末、台風が風寄に近づいていた。忠之は大風で転んで泣いていた小さな女の子を見つけ、抱き起こしてやった。
忠之が女の子を慰めてやると、女の子はにっこり笑い、だんだん――と言った。その時、女の子の母親が現れ、うちの子に何をするかと怒りだしたという。
その声で村の男たちが集まると、母親は忠之が娘に悪戯をしようとしたと言いだした。女の子は違うと言ったが、男たちは誰も聞く耳を持たず、忠之を捕まえて袋叩きにした。
何もかもが嫌になり、忠之は荒れていた海へ行った。そこで祠を見つけると、忠之は無性に腹が立った。それが鬼よけの祠だと、誰かから聞かされたことがあった。なのに、村の中は鬼だらけだった。
「この男の記憶はそこまでぞな」
進之丞は気の毒そうに言った。
忠之は鬼に変化して祠をばらばらに壊し、怒りに任せて近くの木をへし折った。その鬼が進之丞なのだ。
怒りが鎮まって我に返った進之丞は、自分が壊れた祠の前に、今の姿で佇んでいることに気がついたのだという。そして自分が意図せずして、この男の心を喰ってしまったのだと理解したそうだ。
「あしはこの男を狙て取り憑いたわけやないし、この男の心を喰らうつもりで喰ろうたんやない。ほんでも、この男に取り憑いて心を喰ろうたんは事実ぞな」
進之丞は自分の両手を見つめながら言った。
「いかに恵まれん暮らしであれ、この男の生はこの男のもんぞな。ほれをあしが横取りするなんぞ許されるはずもない」
進之丞は佐伯忠之という男に対して、本当に申し訳ないことをしたと思っていた。千鶴も罪悪感を感じながら、進之丞をかばった。
「けんど、ほれはお不動さまがしんさったんじゃろ? ほれじゃったら、進さんのせいやないけん」
「確かに、お不動さまがしんさったんじゃろ。この男があしと対の姿、対の名前というんが、その何よりの証ぞな。とはいえ、この体が借り物であるんは変わりがない。つまり、いずれはあしはこの体を離れにゃならんし、ほれまではこの体を大切に使わせてもらえということぞな」
「その体離れたら、どがぁなるん?」
「消え去るんでないんなら、元の所へ戻されるんじゃろな」
元の所というのは地獄のことだ。千鶴は焦りながら言った。
「おら、進さんが人間に戻れる方法探すけん」
「そがぁなもん、あるもんかな」
「ある。絶対にある。おら、そがぁ信じとる。ほじゃけん、ほれまでは今のままで辛抱して。進さんが人間に戻れたら、そのお人も元に戻れるんじゃろ?」
進之丞は返事に困ったように少し間を置いて言った。
「あしがこの体から離れたら戻れるやもしれん。じゃが、この男の心があしに引っついたまんまじゃったら、この体は死ぬるじゃろ」
「ほんな……」
絶句する千鶴に進之丞は言った。
「定めでこの体を離れるならば、恐らくこの体は元の持ち主に戻されよう。お不動さまがこの男の命を奪うような、理不尽なことをしんさるわけがないけんな。されど、定めやない形であしがこの体を離れたならば、どがぁなるかは定かやない。この男は助かるやもしれんし、死ぬるやもしれん」
千鶴の顔に絶望のいろが見えたのか、進之丞はあきらめたように目を伏せた。
「何をしたとこで、所詮は悪あがきぞな。やっぱし定めには逆らえんし、鬼のあしがお前と一緒になれるはずが――」
千鶴は進之丞の口元で人差し指を立てると、進之丞に顔を近づけて言った。
「ほれ以上言わんでや。とにかく、おらが何とかしてみせるけん」
「お不動さまでもできんことぞな」
「そがぁなことない。きっと、お不動さまが教えてくんさるけん」
すぐ目の前に進之丞の顔がある。千鶴は指をのけると、進之丞の目を見つめながら、さらに顔を近づけた。すると進之丞は体を後ろにすっと引き、目を動かして勝手口を見るよう千鶴に伝えた。
千鶴が勝手口を振り返ると、そこに新吉がぽかんとしながら千鶴たちを眺めていた。顔が熱くなった千鶴は、慌てて新吉に何か言おうとした。だけど言葉が思いつかない。
「こら、そっち行くなて言うとろが!」
家の中から亀吉が現れて、新吉を引っ張って行った。それを見ていた進之丞は面白そうに笑った。
「無邪気でええのぉ。あいつらにはまったく邪気がないけん、羨ましいわい」
「進さんかて、邪気なんぞないじゃろ?」
「あしは鬼じゃけん邪気だらけよ。ほれを抑えておれるんは、お前がおるけんよ。ほれに、旦那さんらもようしてくんさるけん、あしは居心地がええ。鬼やのにこがぁにしてもらえるやなんて信じられんほどよ。ほじゃけん、絶対にあとでしっぺ返しが――」
千鶴はもう一度進之丞の口元で指を立てた。
「すぐにそがぁ思うんはやめや。開き直って、どこまでも二人で行くんじゃろ? さっきも言うたけんど、おら、絶対に進さんを人間に戻してみせるけんね」
今度こそ進之丞に顔を近づけた千鶴は、指をのけてそっと唇を重ねた。
進之丞は何も言わないが、やはり無理だと思っているのだろう。ついさっき見せた元気がない。
だが、千鶴はあきらめていない。困難なのはわかっているが、必ず進之丞を人間に戻す方法を見つけてみせる。心の中には、そんな気合いがみなぎっている。
五
今年の花見は空き巣の騒ぎも起こらず、平和な一時を楽しめた。思えば昨年の花見の時に進之丞が空き巣を捕まえたのが、横嶋つや子との関わりの始まりだった。
しかし、風寄へ向かう客馬車に乗り合わせた二百三高地の女がつや子であるなら、つや子との関わりはさらに半年遡ることになる。
いずれにせよ、特高警察や鬼山喜兵衛を使ってまでして晴らすような恨みを買った覚えはない。つや子は明らかに狂っている。それでも、あんな男たちを手玉に取れるのは、つや子がただ者ではないということだ。
近頃は何も起こっていないが、つや子が何かを企んでいると思うと、平穏な日々が嵐の前の静けさに思えてくる。
特高警察に再び捕まった時、つや子は千鶴が進之丞と郵便局へ行き、そのまま一緒に幸子を迎えに行くことを知っていた。だから道の途中に男たちを配置させ、千鶴が料亭の中に引き込まれるように導けたのだ。
だけど、つや子がどうやって千鶴たちの行動を知り得たのかは謎のままだ。
可能性があるとすれば、母が仕事先の病院でつい口を滑らして、誰かに喋ったのだろう。
ある晩、千鶴はそれとなく母に確かめてみた。もちろん特高警察に捕まったことは伏せてである。
幸子は訝しみながら、そんな話を人に喋るはずがないと言った。
萬翠荘へ招かれた時、幸子は病院の仕事を休ませてもらった。なので晩餐会や舞踏会の様子や、千鶴とスタニスラフについては、みんなから訊かれたし、それに答えもしたという。けれどスタニスラフから来た手紙や、千鶴がスタニスラフに出した手紙のことなどは、誰にも喋っていないそうだ。
どうしてそんなことを訊くのかと言われた千鶴は、病院で自分がどう見られているのかが気になっただけとごまかした。
母の言い分を信用するなら、母からつや子に話が漏れたわけではなさそうだ。であれば、どうしてつや子が知り得たのか。もしかしたら家のどこかに忍び込んでいて、こっそり話を盗み聞きしたのだろうか。
今もどこかにつや子が隠れている気がした千鶴は、辺りを見まわし小さく体を震わせた。
数日後、またもやスタニスラフから手紙が届いた。
スタニスラフに手紙を出してからずっと手紙が来なかったので、やっとあきらめてもらえたと千鶴は安心していた。そこへ手紙が届いたので、落胆せざるを得なかった。
手紙には、千鶴の手紙に対する感謝と喜びが繰り返し書かれていた。また本当は書きたくないけれどとしながら、千鶴の手紙がスタニスラフより先にエレーナの手に届き、破り捨てられたことをスタニスラフは告白した。
ゴミを捨てようとした時に、スタニスラフはゴミの中にある破られた手紙に気づいたそうだ。前の手紙みたいに鋏で細切れにはされていなかったので、スタニスラフは手紙の切れ端を拾い集め、何とか元の形に戻して読んだという。その間、悲しくて涙が止まらなかったとスタニスラフは述べていた。
ミハイルに詰られたエレーナは、逆にミハイルを責めて、またしても大喧嘩になったらしい。そんなエレーナにスタニスラフは復元した千鶴の手紙を、ロシア語に直して読み聞かせたそうだ。
初めは聞く耳を持たなかったエレーナも、スタニスラフが読み続けていると次第におとなしくなり、最後には泣きだしたという。
自分が怒り狂っているように、千鶴も自分のことを憎々しく思っていると、エレーナは信じていた。ところが千鶴はエレーナへいたわりを見せ、結婚を誓い合ったはずのスタニスラフを、自分ではなく母を大切にするよう諭した。そのことにエレーナはたいへん驚き、感激したそうだ。
母が知る女たちは欲しいと思った物は力尽くで奪う者ばかりで、千鶴みたいな思いやりのある娘を、母は知らなかったとスタニスラフは書いていた。
エレーナは手紙を破り捨てたことをスタニスラフに詫び、千鶴と付き合うことを認めたという。それを伝えるスタニスラフの文字は喜びに踊っているようだ。
どうして息子が千鶴に心を奪われたのかを、エレーナは理解したそうで、千鶴がよければ一緒にアメリカへ渡っても構わないとまで言ったらしい。
日本ヘ来る前からつらいことばかりで、ふさぎ込みがちだった母の心を千鶴が開いてくれたと、スタニスラフは改めて感謝を伝えていた。そして、自分もこれまで以上に、千鶴を想う気持ちで胸がいっぱいになったと書いていた。
それでアメリカへ行くのか、日本ヘ残るのかを決めるのに、千鶴の希望を知りたいとスタニスラフは述べていた。どちらでも自分は千鶴の希望に合わせるというのだ。
追伸では、ミハイルが手紙を出すのは許されず悲しそうにしているとあった。また、どういうわけか近頃は、特高警察らしき者たちの姿を見なくなったとも書かれてあった。
千鶴は困惑した。とんだ藪蛇である。そんなつもりでスタニスラフに手紙を書いたのではないのだ。
こうなったら自分には気がないのだと、スタニスラフにはっきり伝えねばと千鶴は思った。だけど、これまで落ち込んでばかりだったエレーナを、再びがっかりさせることには気が引ける。いずれは伝えなければならないが、今はとにかく手紙など書きたくないので、返事は出さずに放っておくことにした。
ため息が出る手紙ではあったが、特高警察らしき者たちの姿を見なくなったという話だけは朗報だ。どうやら進之丞の狙ったとおりになったようだ。
千鶴はその話を祖父母に伝えた。進之丞も幸子の送り迎えの間に、怪しい者を見かけなくなったと甚右衛門に報告した。
幸子は自分を襲った男たちが逮捕されて以来、何も問題は起こっていないから、特高警察は松山で活動ができなくなったのかもしれないと言った。
甚右衛門は腕組みをすると、もうしばらく様子を見て、それでも特高警察の気配がなければ、これまでの警戒を解くと決めた。幸子は付き添いが不要になり、千鶴も一人で外へ出ることが許されるのだ。
つや子には警戒を続けなければならないが、これで井上先生に会えると千鶴は思った。
とはいっても、三津ヶ浜まで出かける理由を考えねばならない。やっと自由に動けると思ったものの、事はそう簡単ではなかった。
六
四月の末頃、千鶴が買い物に出かけた時、買い物先の近くにある菓子屋から若い娘が出て来るのを見かけた。
店の者たちが見送りに出て来たので、ただのお客ではないようだ。挨拶を終えた娘がこちらを見た時に、千鶴と娘は目が合った。
あ――と千鶴が思った時、向こうも千鶴に気がついて慌てて逃げだした。
千鶴は急いで娘を追いかけた。ようやく追いついたのは、三津ヶ浜へ向かう電車の本町停車場の近くだった。
逃げるのをあきらめ観念したように振り向いた娘は、やはり高橋静子だ。
「やっぱし高橋さんやった」
千鶴が声をかけても、静子は目を伏せながら横を向いた。ちらりとだけ千鶴を見たが、あとは目を合わせまいと下を向いている。
「村上さんから話聞いたよ。うち、高橋さんの気持ちに気づかんかったんよ。堪忍な」
千鶴が穏やかに話しかけると、静子は恐る恐る顔を上げた。
「山﨑さん、うちのこと怒っとらんの?」
千鶴が首を振ると、ほんまに?――と静子は言った。
「正直いうたら、あん時はほんまに悲しかった。みんな、ほんまはうちのこと見下しよったんじゃて思たら、誰も信じられんようになったんよ。ほやけど、こないだ村上さんが訪ねて来てくれてな。うちに謝ってくれて、高橋さんのことも教えてくれたんよ」
静子はぽろぽろ涙をこぼし、ごめんなさい――と言った。
「うち、山﨑さんにちぃと意地悪しとなったぎりなんよ。あそこまで言うつもりはなかったけんど、喋りよるうちに止まらんなってしもてな……。山﨑さん学校やめて、みんなも退学じゃて言われて、うち、どがぁしよかて……」
泣きじゃくる静子を、もうええんよ――と千鶴は慰めた。
「その話はおしまいにしよ。うち、もう何とも思とらんし、もういっぺん高橋さんとお友だちになれたら嬉しいな」
「うちと友だちに?」
涙に濡れた顔の静子に、千鶴は微笑みながら言った。
「また昔みたいな仲よしになりたいんよ。もし村上さんも来れたら、どっかで三人でお団子でも食べながらお喋りしよ」
静子は千鶴に抱きつくと、わぁわぁ泣いた。振り返る人たちを気にしながら、千鶴は静子を慰め続けた。
しばらくして静子が泣き止むと、何の用事でここへ来ていたのかと千鶴は訊ねた。
「うちな、お見合いしたんよ。ほんで、近々結婚することになったんやけんど、うち、一人娘なけん、嫁入りやのうてお婿さんもらうんよ」
「結婚? ほれもお婿さん?」
「うん。この近くのお菓子屋さんの次男さんなんよ」
「さっき出て来たお店じゃね?」
千鶴が訊ねると、静子は恥ずかしそうにうなずいた。
「今日はその人の顔見においでたん?」
静子は照れながら、もう一度うなずいた。へぇと千鶴が驚くと、赤くなった静子は、山﨑さんかて対じゃろ?――と言った。
「新聞見たよ。ロシアのお人と一緒になるんじゃろ? 萬翠荘でお祝いまでしてもろて、やっぱし山﨑さんはうちらとは違わい」
千鶴は慌てて、ほうやないんよと言い、酔っ払ったために誤解を招いたことや、山﨑機織の跡取りになることを話した。
「あのお人はな、もう神戸に戻んて、もうじきアメリカへ行くんよ」
静子は失望の顔で、ほうやったんかと言った。
「うち、山﨑さんの新聞記事に刺激されてお見合いしたんよ。山﨑さんが結婚せんのじゃったら、うちもやめといたらよかった」
「ほやけど、お婿さんになってくれるお人は、悪いお人やないんじゃろ?」
静子は微笑むと、まぁねと言った。
「ほれじゃったら、ええやんか。うちの話はただのきっかけぞな。よかったねぇ、ええお人とご縁があって。ほんまにおめでとう」
「だんだんありがとう。みんな、おめでとう言うてくれるけんど、山﨑さんから言われたんが一番嬉しい」
「村上さんには会うとらんの?」
「いっぺん家に来てくれたらしいけんど、ほん時は留守しよって会えんかったんよ」
本町停車場のすぐ東は師範学校の北端になっている。そこから電車が現れて、千鶴たちの方へ曲がって来た。
「ほれじゃあ、そろそろ行くけん。また今度ゆっくりお喋りしたいね」
千鶴に向かって小さく手を上げた静子の前に、電車が止まった。
電車の扉が開き、静子が乗り込もうとした時に、あの――と千鶴は思わず声をかけた。静子は電車に半分乗り込んだところで振り返った。千鶴は思いきって井上教諭のことを訊いてみた。
静子は学校をやめているので、教諭のことなど知るはずがない。けれど、三津ヶ浜のことを訊けるのは静子しかいなかった。
「井上先生?」
静子は少し首を傾げたあと、素っ気ない感じで言った。
「噂でしか知らんけんど、先生、学校辞めんさったみたいなで」
「え? 辞めた?」
静子が車内に入ると、扉が閉まった。
窓越しに静子がにこやかに手を振り、千鶴も明るく手を振り返した。しかし、井上教諭がいなくなったという衝撃で、千鶴の頭の中は真っ白になっていた。
七
朝飯のあと、丁稚の三人は東京へ送る品の準備を始めた。
豊吉も山﨑機織に来てから、もう一年になる。まだ小柄ではあるが、去年よりは幾分背が伸びたみたいだ。
亀吉も新吉もずいぶんしっかりしてきており、三人はてきぱきと動いて、送る品を蔵から運び出して行く。相変わらず進之丞も品出しを手伝ってはいるが、進之丞がいなくても大丈夫なほど三人はきびきびしていた。今年は新たな丁稚が見つからなかったが、亀吉たちの働きぶりはそれを十分補うほどだ。
花江は部屋の掃除をしながら、三人を頼もしげに眺めていた。
千鶴も奥庭でたらいに水を張って洗濯の準備をしていたが、最近の三人の動きには驚かされる。思わず声をかけて褒めてやると、三人ともはにかんで照れ笑いをするのだが、それがまた可愛い。
井上教諭の行方がわからなくなり、千鶴は途方に暮れる日々を送っていた。進之丞を人間に戻してみせると啖呵を切ったのに、その望みが断たれたわけで、進之丞に合わせる顔がない。そんな千鶴を丁稚たちは慰めてくれているようだ。
千鶴が洗濯物を取りに家の中へ戻ると、三人はもう大八車の準備が終わっていた。これから古町停車場へ向かうところだ。
千鶴が腰をかがめて暖簾の向こうをのぞくと、千鶴に気づいた亀吉が喜んで手を振った。それを見た新吉と豊吉も千鶴に手を振った。
嬉しくなった千鶴は一度は抱えた洗濯物を板の間へ下ろし、丁稚たちを見送りに出た。
千鶴が出て来てくれたと大喜びの亀吉たちは、はりきって大八車を動かし始めた。引くのは亀吉で、新吉と豊吉は後ろから押す役だ。
新吉と豊吉は何度も後ろを振り返って手を振るので、大八車が見えなくなるまで、千鶴は店の中へ入れなかった。
やがて大八車が大林寺の前を右へ曲がると、千鶴は中へ戻ろうとした。その時、大八車と入れ替わるように、同じ辻の左側から男が一人現れた。これまで見たことがない男なので、千鶴は少し緊張した。
特高警察が再び現れたのかと警戒したが、男の歩く姿に特高警察のような怪しさはない。
つばの付いた帽子をかぶった男は眼鏡をかけている。鞄を手に提げてうつむき加減に歩く姿は、いかにも学者風だ。
男が近づくにつれ、千鶴の緊張は消えていった。
その男に千鶴は見覚えがあった。もしやという思いは、男との距離が短くなるのに合わせて確信へと変わった。千鶴の胸は喜びに弾んだ。
「先生! 井上先生!」
千鶴は跳び上がりそうになりながら、男に大きく手を振った。男が上げた顔は、まさしく井上教諭その人だった。
「あれ? 山﨑さんじゃないか」
教諭の顔が驚きの表情から笑顔に変わった。教諭は足を速めて千鶴の傍へ来ると、山﨑機織の看板を見上げた。
「山﨑機織……。ここが君の家なのか。ちっとも気がつかなかったよ」
お元気でしたかと千鶴が訊ねると、教諭はうなずいて、君も元気だったかと言った。お陰さまでと千鶴が答えると、進之丞と弥七が顔を出した。
千鶴が二人に教諭を紹介すると、進之丞はとても恐縮しながら頭を下げた。一方、弥七は軽く会釈をしただけで、さっさと中へ戻った。
進之丞は二言三言教諭と話をしたあと、何度も頭を下げながら店に入った。
千鶴は帳場にいた辰蔵にも教諭を会わせた。辰蔵は教諭に挨拶をしながら、自分よりも旦那さんの方がいいでしょうと言い、急いで店の奥へ入って行った。
次々に挨拶をされたからか、井上教諭が少し困惑気味に見えたので、お引き留めしてすみませんと千鶴は詫びた。
いやいやと教諭が言うと、そこへ甚右衛門が現れた。
「これはこれは。その節は千鶴がまことにお世話になりました。あげな形で退学させてしもたこと、まことに心苦しゅう思とります」
甚右衛門が深々と頭を下げると、教諭はすっかり恐縮したようだ。
「私の方こそ山﨑さんの力になれず、まことに申し訳ありませんでした。一教諭として今も責任を痛感しております」
甚右衛門同様に、井上教諭は頭を深く下げて詫び返した。
互いに頭を下げ合って挨拶を終えると、ところで――と甚右衛門は教諭がここにいる理由を訊ねた。この時間に女子師範学校の教諭がここにいるのが解せなかったのだろう。
教諭は言いにくそうな顔で、実は女子師範学校からこちらの師範学校へ異動になったのですと説明した。
千鶴が住まいを訊ねると、大林寺のすぐ南にある古い小屋みたいな所に住んでいて、庭にはきれいな藤棚があると教諭は言った。
「えっと、何ていったかなぁ。確か、こうし何とかっていう所なんだ。昔、俳句好きの人が、俳句仲間が集まるために建てたって聞いたよ」
「ほれじゃったら、庚申庵やなかろか」
甚右衛門の言葉に、それですと教諭は即答した。ほうかなとうなずいた甚右衛門は楽しげに言った。
「あそこはええとこぞなもし。前はただの庵やったけんど、去年やったか、台所と厠をこさえて人が住めるようにしたとこぞな」
「そうなんです。大家さんの所のご隠居さんが住まわれていたそうなんですが、今年になってから亡くなって、ちょうど空き家になったんです」
庚申庵が空き家になっていたのは、甚右衛門も知っていたらしい。いい所が見つかってよかったと教諭の新居を喜んだ。
「あそこは今、藤が見頃じゃろ」
「はい、実に見事なものです。聞いた話では、建物と同じ百年以上も前の物なんだそうで、ほんとに驚きました。それにしても、まさかあんな所に住まわせてもらえるなんて思いもしませんでした」
「近所の者ものぞきに来う?」
「はい。私がいようがいまいが関係なく、しょっちゅう人が眺めに来られます」
「花が咲いとらなんだら、誰も行かんのやがな」
甚右衛門は笑っていたが、教諭が学校へ向かう途中だったのを思い出した。時間は大丈夫かと訊ねると、教諭は苦笑いをして、実は朝寝坊をしてしまいましたと言った。
「じゃったら、こがぁな所で喋っとる暇なんぞなかろに」
甚右衛門は慌てて教諭を送り出したが、教諭の方は落ち着いた様子で歩きだした。けれど、すぐに立ち止まって千鶴を振り返り、朝寝坊もしてみるもんだねと言って笑った。