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井上教諭

      一

「千鶴ちゃん、おるかな?」
 帳場で同業組合の組合長の声がした。
「旦那さんやないんですか?」
 き返したのは辰蔵だ。
「千鶴ちゃんや。ちぃと街で妙な話を耳にしたんよ」
「妙な話? 千鶴さんのことですか?」
「ほうよほうよ。こないだの晩餐会が終わったあとのことぞな」
 それだけで辰蔵は組合長が言いたいことがわかったようだ。わかりましたと言って、組合長を奥へ通した。
 千鶴は花江と一緒に取り込んだ洗濯物を、板の間で畳んでいるところだった。
 トミは他の絣問屋のおかみの所へお茶を飲みに行ったが、甚右衛門は茶の間で一人座って、東京の茂七からの報告を確かめていた。鬼や特高警察のことがあっても、伊予絣の売り上げを伸ばすことは考えねばならないのである。
 中へ入って来た組合長は、まずは甚右衛門に声をかけると、すぐに千鶴に話しかけた。
「千鶴ちゃん、ちぃとかまんか?」
「はい、何ぞなもし?」
 どんな用件なのかはわかっていたが、千鶴は洗濯物を畳んでいた手を止めると、組合長の方に向き直った。
「千鶴ちゃん、こないだの晩餐会の帰りしに、特高警察につらまったんか?」
 千鶴は神妙な顔を見せると、はいと小さくうなずいた。
 組合長は驚くと、噂はほんまやったんか――と言った。
「噂て?」
 千鶴が知らないふりをしてたずねると、組合長は千鶴たちを乗せた人力車の車夫たちが、広めているという噂の話をした。
 千鶴がそのとおりだと認めると組合長はもう一度驚き、どうしてそのことを黙っていたのかと言った。すると横から甚右衛門が怒ったように口を挟んだ。
「そがぁなこと言えるわけなかろがな。ほんまじゃったら楽しいはずの晩じゃったのに、特高につらまったやなんて言うたら、他の連中にどがぁな目で見られるか」
 それは確かにそうだと、組合長は口籠もった。
 甚右衛門は、街では他にどんな噂が流れているのかと訊ねた。
 組合長は言いにくそうに、特高警察に捕まった千鶴たちがどうなったのかと言い合っているのを、あちこちで耳にしたと話した。
「千鶴ちゃんは家におるでて言うたら、どがぁして特高から逃げたんじゃて訊きよるし、その話と城山で見つかった男らは関係ないんかて、いろいろ言われたんよ」
 さらに組合長は以前に兵頭の家が化け物に壊された話を引き合いに出し、それも城山の事件とつながりがあるのではないかと言う者もいたと話した。
 千鶴たちが恐れていたことが、街の中で起こり始めていた。
 甚右衛門は警察に話したように、千鶴たちが大声を上げて難を逃れたことと、愛媛の警察は千鶴たちがスパイでないことをわかっていて、特高警察との間には軋轢あつれきがあるという話をした。
 また、城山の事件は何も知らないので、関わりがあるみたいに思われると迷惑だと言った。
 組合長はうなずき、自分がその話を他の者にもして廻ると言ってくれた。
 ただ、城山の事件が不気味なのは同じであり、あそこで何があったのだろうかと組合長は首を捻り続けた。
 組合長が甚右衛門と喋り続けているので、千鶴はまた花江と洗濯物を畳み始めた。
 千鶴が再び特高警察に捕まったことや、進之丞が特高警察の男たちから記憶を奪い、偽の記憶を植えつけた話は誰も知らない。
 黙って組合長の話を聞いている花江は、ずっと心配そうな顔をしている。
「誰ぞ特高に恨みのある奴らが、連中を袋叩きにしたんやなかろかな」
 甚右衛門がとぼけて喋ると、兵士が聞いた化け物の声はどう説明するのかと組合長は言った。
「新聞に書いてあったろがな。あれは八股榎のお袖だぬきの仕業かもしれんぞな」
 甚右衛門の話に、なるほどと組合長はうなずいた。
「確かにほれはあるな。またあそこの榎をるいう話が出とるみたいなけん、お袖だぬきが怒っとるんかもしれまい」
「これまでも何やかんや言うて二回伐られとるけん、今度伐られたら三回目ぞ。ほら、わしでも怒るがな」
「ほうじゃほうじゃ。恐らく、お袖だぬきぞな。やとすると、お堀を埋めて道を広げる話は、ちぃと考えもんじゃな」
 納得した様子の組合長は、それはそうと特高警察はどうなったのかと言った。千鶴たちがスパイではないと認めたのでなければ、特高警察がまた来るのではないかと組合長は心配していた。
 甚右衛門は幸子が特高警察らしき男三人に、連れて行かれそうになったのを、忠七が助けて男たちを警察へ突き出したという話をした。
 組合長はそんな揉め事があったのは噂に聞いて知っていたが、それが幸子と忠七だとは知らなかったらしい。特高警察をぶちのめすほどの忠七の強さに感心しきりだった。
「そがぁなことで、連中も警察からしこたまお灸をえられたんやなかろか」
「牢屋へ入れられとるかもしれんな」
「やと、ええんやが。いずれにしても、ここんとこは特高らしい奴の姿は見とらんな」
「多分、牢屋に入っとるぞな。忠七の大手柄じゃな」
 組合長はようやく安堵あんどした笑みを見せ、恐らく特高はもう来ないだろうと千鶴に声をかけた。
 ありがとうございますと千鶴は頭を下げたが、実は今心配すべきは特高警察ではない。横嶋つや子である。
 だが、進之丞が特高警察の男から聞き出したとは言えない。つや子の名前を出せない千鶴は一人悩み続けていた。

      二

 翌日、大阪の作五郎から手紙が届いた。恐らく中身は畑山が書いた錦絵新聞と思われた。
 前回、甚右衛門は一人で錦絵新聞を読んで、誰にも見せずに処分しようとした。
 しかし、今回は畑山が病を押して千鶴に取材したのを、みんなが知っている。一人だけで読むわけにはいかなかった。
 夕飯も終わって使用人たちが部屋へ引き上げると、唯一の電灯がある茶の間に家人だけが集まった。縫い物をしようとしていた花江も、今日はいいからとトミに言われて二階へ上がった。
 錦絵新聞は二枚あり、まず甚右衛門が一枚目を読むと、それを千鶴たちに渡した。
 女三人はトミを真ん中に、角突き合わせるようにして錦絵新聞をのぞきこんだ。そこに描かれている絵は舞踏会の絵だ。二組の男女が他の者たちに取り囲まれて踊っている。
 この二組はもちろんミハイルと幸子、そしてスタニスラフと千鶴である。松山の新聞に載せられた絵は白黒だったが、こちらの絵は色鮮やかに描かれている。
 説明文には、日露戦争中にロシア兵士ミハイルと看護婦幸子が恋に落ち、終戦後は離ればなれになったものの、二人は二十年ぶりに再会を果たしたとあった。
 そのあと千鶴たちについての説明があり、千鶴とスタニスラフが久松伯爵夫妻や来客たちの前で、結婚を誓い合ったとされていた。
 これは松山の新聞にも書かれたことである。同じことが書かれるのは仕方がないが、千鶴としては面白くなかった。畑山にはスタニスラフとは結婚しないとはっきりと伝えていた。
 その次に書かれてあったのは、事実とは異なるものだった。
 記者が直接千鶴を訪ねた時、偶然にもスタニスラフからの恋文が届き、千鶴が人目をはばからずに大喜びしたとあった。
 あの時、千鶴は喜んだりしなかったし、畑山は千鶴に手紙を渡しただけで、中身までは知らない。
 戦争で引き裂かれた恋が運命の再会を果たし、ここに新たな恋が芽生えたことは何と素晴らしいことかと、記事は絶賛していた。
 この記事を読んだ大阪の人々は、二人が結婚するものと信じたに違いない。事実、この新聞を送って寄越した作五郎は、甚右衛門に対する祝福の手紙を添えていた。
 思わず千鶴が錦絵新聞を破りそうになった時、あのどぐされが!――と甚右衛門がわめいた。
 甚右衛門が手に持った錦絵新聞を引き裂こうとしたので、トミが慌てて止めた。
「まだ、うちらは見とらんのに、勝手に破いたらいけんじゃろが」
 トミは甚右衛門から錦絵新聞を奪い取り、また女三人で読んだ。その横で、甚右衛門は苦虫を噛み潰したような渋い顔をしている。

 こちらの錦絵新聞には夜の松山城と城山が描かれており、黒々とした山の中に大きな鬼の姿があった。また城山の麓には、明々あかあかと明かりを灯した洋風の建物がさりげなく描かれている。
 書かれてある記事は、城山で見つかった四人の男たちのことである。
 どこで話を聞いたのか、畑山は尋常ではない男たちの様子を書き綴っていた。
 また、兵士が耳にしたという魔物の声と、風寄で化け物に家を壊された兵頭が聞いた化け物の声が似ていることから、四人の男たちを死傷させたのは、風寄から来た鬼に違いないと断定していた。
 風寄の壊れた鬼除けの祠は再建されておらず、新たに祠が造られるまでは、同様の事件が続くに違いないと結論づけていた。
 畑山の取材は晩餐会や舞踏会のことだと、甚右衛門もトミも考えていた。ところが、晩餐会と同じ日の夜に起きた事件として、この城山の事件を畑山は取り上げていた。
 城山の男たちが特高警察だとは畑山は書かなかった。そう書いてしまうと、千鶴たちと関連があると述べているようなものだ。そこは千鶴への気遣いを見せたのだと思われる。
 それでも同じ晩に起こった二つの出来事を陽と陰のように描くことで、関連性を示そうとしているように見えなくもない。
 大阪の人間は城山に描かれた洋風の建物が萬翠荘だとはわからない。こちらの記事に萬翠荘についての説明はない。だが、関係がないはずの萬翠荘を描いているのは、鬼と萬翠荘の関連性を表しているように見える。
 この建物が萬翠荘だとわかる者が見れば、千鶴たちのために催された萬翠荘の宴を、鬼が憎々しげに見ていると思うかもしれない。
 だが、城山で見つかった男たちが特高警察だと考える者だちは、鬼が宴を護っているようにも見えるだろう。それはつまり、鬼が千鶴たちを護っていたということになる。
 文面にこそ鬼と千鶴の関係は書かれていないが、二つの新聞は両者の関係を示していると言える。
 ただでも街に嫌な噂が広がっているというのに、このような錦絵新聞を書かれてはたまったものではない。甚右衛門が怒り狂うのも当然だろう。
 畑山はこの錦絵新聞を読むのは大阪の人間だけだと考えているかもしれないが、こうして千鶴たちは目にしているのだし、三津子のように外の者が大阪で読むこともあるはずだ。
 そんな者たちが松山に戻って、これを話題にしたならば、悪い噂はいつまで経っても消えず、余計に大きくなるかもしれない。
 特に三津子がこの錦絵新聞を読んだならと思うと、千鶴は気が滅入ってしまった。
「読んだか? 読んだんなら始末するぞ」
 甚右衛門が待ちわびたように訊ねても、誰も反対しなかった。
 二枚の錦絵新聞を重ねた甚右衛門は、それをびりびりと引き破ると千鶴に言った。
「もう二度とあいつには話をするな。ええな?」
 だが、畑山の取材に応じろと言ったのは祖父である。千鶴は納得が行かない気分だったが、おとなしくうなずいた。
「ほやけど、なしてあの人は城山の化け物ががんごじゃてわかったんじゃろか」
 トミが怪訝けげんそうに言った。
「あんた、あの人にがんごの話はしとらんのじゃろ?」
 幸子に訊ねられた千鶴は強く首を横に振った。しかし、畑山は千鶴と鬼の関係を知っている。
 風寄の取材に来た時に、畑山は女子師範学校の生徒たちから、千鶴の話を聞いていた。千鶴が否定したとしても、畑山は取材でわかった話が真実だと受け止めていただろう。だから、千鶴は畑山からお祓いの婆の話を聞かれた時、特に否定はしなかった。
 今回取材に訪れた時、畑山は人力車の車夫たちの話を確かめており、あの晩に千鶴たちが特高警察に捕まったことを知っていた。
 どうやって特高警察から逃れたのかという説明を、畑山が信じたとは思えない。畑山は突っ込んでは来なかったが、千鶴たちが特高警察と接触があったという点が、重要だったに違いない。
 城山で見つかった男たちが特高警察だと考えれば、千鶴たちに危害を及ぼした者たちが、千鶴に憑いている鬼の怒りを買ったという話が成り立つわけだ。
 四人の男たちがどういう理由で鬼を怒らせたのか、それは謎であると記事には書いてあった。しかし、男たちが千鶴に手を出したのが理由だと、畑山は確信していたに違いない。
 それは鬼が千鶴の味方ということであり、言い換えれば千鶴と鬼が仲間であるということだ。
 それなのに、取材をしていた畑山は千鶴を恐れる様子もなく、かえって千鶴を気遣っているようでもあった。本当のところ、畑山がどう考えていたのか千鶴にはわからなかった。
 それにしても今回の記事はいただけない。祖父に言われるまでもなく、金輪際こんりんざい畑山の取材には応じないと千鶴は強く思った。
 だが、それはそれとして千鶴は畑山の体が気がかりだった。咳と一緒に血を吐いた畑山の姿は、前世の母の姿と重なって見えた。
 前世で千鶴は母と二人で遍路旅を続けていた。それなのに、いつしか独りぼっちになり、慈命和尚に法生寺まで連れて来られたのである。それはきっと、母が亡くなったからに違いなかった。
 まだ小さな子供がいるという畑山には、生き続けてもらいたかった。そう思うと、千鶴の畑山への腹立ちも幾分和らいだ。

      三

 四月の初日。ミハイルたちが訪れてから、ちょうど一ヶ月が経った。
 この日は使用人が休みだが、進之丞は仕事に出る幸子の付き添いに出ている。
 本当ならば進之丞が座っているはずの千鶴の隣には、花江がしゃがんで洗濯を手伝ってくれていた。花江も本当は休みのはずだが、進之丞が戻ってから出かけるらしい。
 話題は特高警察と城山のことである。花江はどちらも気になって仕方がないようで、未だに買い物にも出られない千鶴を気の毒がった。
 千鶴はどちらの話題も触れたくない。城山についても特高警察についても、今のところは何もなく落ち着いているようだから、自分はあんまり心配していないと言った。
 実際、ずっと特高警察の姿がないところを見ると、進之丞の思惑どおりに、神戸へ引き揚げたように思われた。それでも、そのことは甚右衛門やトミには話せない。それで進之丞も千鶴も特高警察を警戒する姿勢を続けていなければならなかった。
 今、本当に警戒するのは横嶋つや子なのだが、それも口にできないのが千鶴は何とももどかしかった。
「それにしても、あの大阪から来た人、もう錦絵新聞は書いたのかねぇ」
 花江が思い出したように言った。
 前回の錦絵新聞を読んだ花江は、今回の錦絵新聞も楽しみにしているようだ。しかし、その錦絵新聞はすでに作五郎から送って来られ、甚右衛門によって引き裂かれたということを花江は知らない。
「さぁねぇ。どうせ、あんまし読みたくない記事書きよるじゃろけん、どがぁでもええぞな」
 千鶴が素っ気ないことを言うので、花江はそれ以上は錦絵新聞のことは口にするのはやめた。代わりに血を吐いた畑山の体を心配して、東京にいた頃の知り合いにも胸の病で亡くなった人がいるという話をした。
「同じ胸の病でも、恋煩こいわずらいならいいんだけどねぇ」
 花江が笑いながら言うので、ほんまじゃねぇと千鶴もそれに合わせてうなずいた。しかし、花江がすぐに笑みを消して少し寂しげな顔をしたので、その話題もそこまでとなり、あとは二人とも黙々と手を動かし続けた。
 ようやく洗濯が終わって、二人で物干し竿に洗濯物を広げていると、進之丞が戻って来た。
「あら、お疲れさま。悪いね、忠さんの場所、あたしが取っちまったよ」
 笑顔になった花江が、からかうように進之丞に声をかけると、いやいやと進之丞も笑みで応じた。
「ちょっとしか残ってないけどさ。忠さんが戻って来たから、あとは忠さんにお願いして、あたしは町に出かけてくるよ」
 花江は千鶴に明るく声をかけると、さっさと家の中へ入って行った。
 休みなのに千鶴を手伝い、進之丞が戻って来ると、邪魔をしないように姿を消す。そんな花江の思いやりが千鶴にはまぶしかった。誤解とは言え、花江が進之丞を奪ったと恨んだことを、千鶴は恥ずかしく思った。
「どれ、じゃあちぃとばかし手伝うかな」
 進之丞は残っていた着物を拾い上げて物干しに広げた。
 その横で千鶴も洗濯物を干しながら、病院への行き帰りに何もなかったかと進之丞に訊ねた。それは特高警察のことではなく、つや子のことだった。
 進之丞は特に何もなかったと言い、最後の着物を干し終えた。
 千鶴は進之丞に少し待つように言うと、離れの部屋へ向かった。
 すぐに戻って来た千鶴が抱えていたのは、進之丞の継ぎはぎの着物だった。
「これ、破れたとこ直してあろといたけん。帯は新しいのつけといた」
 手渡された着物に進之丞は目を丸くして、おぉと感激の声を上げた。
「よう直したなぁ。何べんも破れてぼろぼろじゃったけん、さすがに、もういけんと思いよったぞな」
 着物を広げた進之丞は、裏や表を確かめながら感心した。
 進之丞が喜んでくれると千鶴も嬉しい。
「いっぺんにはできんけん、他の布を当てながら、ちぃとずつ縫うたんよ」
 進之丞は千鶴に顔を向けると、だんだんな――と言った。
「今度こそ、この着物を破らんよう気ぃつけるけん」
 それはもう二度と鬼に変化へんげしないという意味なのだろう。その気持ちがまた千鶴には嬉しかった。

 奥庭の隅に、自然に生えた雑草が可愛い花を咲かせている。その花を見て、千鶴は不意に風寄でのことを思い出した。
「ところでな、進さん、風寄でおらの頭に花を飾ってくんさったじゃろ? その理由を、おら、まだ聞かせてもろとらんかった。なして気ぃうしのうとるおらに、わざに花を飾ってくんさったん?」
 忘れていた話を突然訊かれ、進之丞は少し照れ臭そうに言った。
「お前は花の神さまなんじゃけん、つらいことがあっても負けたらいけんて、そがぁ伝えたかったんよ。あん時は、お前とこがぁして話でけるとは思いもせんかったけん」
「ほうじゃったん……」
 だんだんな――千鶴は進之丞に微笑んだ。嬉しかったが、悲しくもあった。こんなに優しい人がどうして鬼なのかと、神に文句を言いたかった。
 花を飾った千鶴を寺へ運んだあと、進之丞は庫裏の戸を叩き、知念和尚たちが出て来るのを楠爺の陰から確かめたと言う。
 和尚夫婦が千鶴を中へ運び入れると、進之丞は本堂の扉を開け、不動明王に千鶴の幸せを一心に願ったそうだ。
 しかしそこへ春子がやって来たので、本堂の扉を閉めないまま、急いでその場を離れたと進之丞は言った。
「何せ腰に破れた着物を巻きよるぎりじゃったけん、あのおじょんに姿見られるわけにいくまい」
「ほれは絶対見せられんぞな」
 千鶴は真顔で言ったあと、慌てる進之丞の姿が目に浮かび、くっくっと笑った。進之丞も照れ笑いをしながら、そのあと千鶴のことが頭から離れなくなったと言った。
「あしは祭りには交ぜてもらえんけん、いつもじゃったら見に行かんのやが、あん時はお前が来ると思たけん、こっそり見に行ったんよ」
 そこで見つけた千鶴は、春子に手を引かれて人垣の中へ突っ込んで行くところだったそうだ。それで進之丞も思わずあとを追いかけたら、村の者たちに見つかって追い出されたと言う。
 進之丞は恥ずかしげにしていたが、千鶴は嬉しかった。
「進さん、おらのこと見ててくんさったんじゃね」
「まさか、あしを探しよったとは思わんかったけん、お前が人垣離れてどこ行くんじゃろかて思いよったら、あの連中がお前に言い寄って来たけん、これはいけん思てな。ほんでも姿見せられんしと思いよるうちに、勝手に体がいごいてしもたかい」
「そがぁなことやったんじゃね」
 ようやく一連の流れが理解できたと千鶴が考えていると、さてと――と言って進之丞は家の方を向いた。
「洗濯も終わったし、次は二階の掃除でもするかな。こいつを仕舞しもて来んといけんしな」
 進之丞が千鶴から受け取った着物をぽんぽんと叩くと、ほうじゃと千鶴は言った。
「進さん、今の体は借り物じゃて言うとりんさったろ?」
「あぁ、言うた」
「ほれやのに、なしてその人の家族のこととか、昔のことがわかるん?」
 進之丞は台所で誰も話を聞いていないのを確かめると、千鶴に向き直って言った。
「こがぁなこと言うたら、お前に嫌われるやもしれんけんど……」
「何? 何言われても嫌いになったりせんけん、言うて」
がんごはな、取り憑いた相手の心を喰ろうてしまうんよ」
「心を喰らう?」
 進之丞はうなずいた。
 喰らうとは相手の心を己に取り込み、相手の心身共に己の物にしてしまうという意味だと進之丞は言った。そうすることで鬼はこの世に留まることができるそうなのだが、喰らえる相手がいない時に死ぬと、本来の居場所である地獄へ引き込まれるらしい。
「じゃあ、その人の心は進さんの……」
「あしの一部になってしもた。ほじゃけん、今はこの男には己いうもんがわからんのよ。この男が覚えとったことはあしの記憶となって、あしがこの男として生きるわけぞな」
「そがぁなことが、ほんまに……」
「前に言うたように、がんごは心がきれいなもんには取り憑けん。この男の心はあしとついじゃったけん、あしに喰らわれてしもたんよ」
 進之丞によれば忠之は村の嫌われ者で、何もしていなくとも村人から憎まれていたそうだ。
 忠之の胸には怒りと悲しみ、憎しみと虚しさが渦巻いていた。それでも、忠之は他人への優しさを失ってはおらず、その優しさがかろうじて忠之を支えていたらしい。
 一昨年の八月末、台風が風寄に近づいていた。忠之は大風で転んで泣いていた小さな女の子を見つけ、抱き起こしてやったと言う。
 忠之が女の子を慰めてやると、女の子はにっこり笑い、だんだん――と言った。その時、女の子の母親が現れ、うちの子に何をするかと怒り出したと言う。
 その声で村の男たちが集まると、母親は忠之が娘に悪戯をしようとしたと言い出した。女の子は違うと言ったが、男たちは誰も聞く耳を持たず、忠之を捕まえて袋叩きにした。
 何もかもが嫌になり、忠之は荒れていた海へ行った。そこで祠を見つけると、忠之は無性に腹が立った。それが鬼除けの祠だと、誰かから聞かされたことがあったが、村の中は鬼だらけだった。
「この男の記憶はそこまでぞな」
 忠之は鬼に変化へんげして祠をばらばらに壊し、怒りに任せて近くの木をへし折った。それがこの男の心を喰らった時なのだろうと進之丞は言った。
「あしはこの男をねろて取り憑いたわけやないし、この男の心を喰らうつもりで喰ろうたんやない。ほんでも、この男に取り憑いて心を喰ろうたことはおんなしぞな」
 進之丞は自分の両手を見つめながら言った。
「いかに恵まれん暮らしでも、この男の生はこの男のもんぞな。ほれをあしが横取りするなんぞ許されるはずもない。お不動さまがそげな理不尽なことを認めんさるわけがないんじゃ」
 進之丞は佐伯忠之という男に対して、本当に申し訳ないことをしたと思っているようだった。千鶴にしても、罪悪感を感じずにはいられない。
「おら、進さんが人間に戻れる方法探すけん」
「そがぁなもん、あるもんかな」
「ある。絶対にある。おら、そがぁ信じとる。ほじゃけん、ほれまでは今のままで辛抱して。進さんが人間に戻れたら、そのお人も元に戻れるんじゃろ?」
「あしがこの体から離れたら戻れるやもしれん。じゃが、この男の心があしに引っついたまんまじゃったら、この体は死ぬるじゃろ」
「ほんな……」
 絶句する千鶴に進之丞は言った。
「やけん、あしはおるぎりで罪なんよ。あしはおるぎりで人に迷惑をかけてしまうんじゃ。そがぁなあしが、お前と一緒になるやなんて――」
 千鶴は進之丞の口元で人差し指を立てた。
「ほれ以上言わんでや。とにかく、おらが何とかしてみせるけん」
「お不動さまでもできんことぞな」
「そがぁなことない。きっと、お不動さまが教えてくんさるけん」
 勝手口で新吉がぽかんと千鶴たちを眺めていた。
 それに気づいた千鶴が慌てて進之丞から離れると、亀吉が怒ったように新吉を引っ張って行った。
 その様子を見ていた進之丞は楽しげに笑った。
「無邪気でええのぉ。あいつらには全く邪気がないけん、うらやましいぞな」
「進さんかて、邪気なんぞないじゃろ?」
「あしはがんごじゃけん、邪気がないわけやない。ほれを抑えておれるんは、お前がおるけんよ。ほれに、旦那さんらもようしてくんさるけん、あしは居心地がええ。鬼やのにこがぁなことしてもらえるやなんて信じられんほどよ。ほじゃけん、絶対にあとでしっぺ返しが――」
 千鶴はまた進之丞の口元で指を立てた。
「すぐにそがぁ思うんはやめや。さっきも言うたけんど、おら、絶対に進さんを人間に戻してみせるけん」
 進之丞は無理だとは言わなかった。言ったところで千鶴が聞かないのはわかっているのだろう。小さく微笑むと、家の中へ入って行った。

      四

 変わらぬ日々が過ぎて行くと、いろんな出来事が本当はなかったように思えてしまう。
 それでも横嶋つや子が、今もどこかで自分たちをねらっているのだと思うと、何も起こらない日々が嵐の前の静けさのように思えて来る。
 自分がスタニスラフに手紙を出しに行くことを、どうしてつや子が知り得たのかと、千鶴はいろいろ考えてみた。しかし、やはりその謎はわからなかった。
 可能性があるとすれば、病院勤めの母がつい口を滑らして誰かに喋ったということだろうと千鶴は考えた。
 それである日の夜、千鶴は母にそのことを訊ねてみた。もちろん特高警察に捕まったことは伏せてである。
 どうしてそんなことを訊くのかといぶかしみながら、幸子はそんな話を人に喋るはずがないと言った。
 萬翠荘へ招かれた時、幸子は病院の許可をもらって仕事を休ませてもらった。だから、萬翠荘での晩餐会や舞踏会がどんな様子だったのかとか、新聞記事になった千鶴とスタニスラフの関係はどうなのかということは、みんな興味津々で訊きはした。
 それに対していろいろ話はしたけれど、スタニスラフから来た手紙のことや、千鶴がスタニスラフに手紙を出したことなどは、誰にも喋っていないと幸子は言った。
 母の言い分を信用するなら、母からつや子に情報が流れたわけではなさそうだ。
 千鶴は病院で自分がどう見られているのかが気になっただけだと言って、この話を切り上げた。
 しかし、母から情報が漏れたのでないのなら、どうしてつや子がそれを知り得たのかは、やはり謎である。
 もしかしたら家のどこかにつや子が忍び込んでいて、今もこっそり話を盗み聞きしているのかもしれない。そう思うと千鶴は気味が悪くなり、小さく体を震わせた。

 数日後、またもやスタニスラフから手紙が届いた。
 スタニスラフに手紙を出してからずっと反応がなかったので、ようやくあきらめてもらえたと千鶴は思っていた。そこへ手紙が届いたので、千鶴は落胆せざるを得なかった。
 スタニスラフの手紙には、千鶴の手紙に対する感謝と喜びが繰り返し書かれていた。
 また本当は書きたくないけれどとしながら、千鶴の手紙がスタニスラフより先にエレーナの手に届き、破り捨てられたことをスタニスラフは告白した。
 そのことがすぐにはわからず、ゴミを捨てようとした時に、スタニスラフはゴミの中にある破られた手紙に気づいたそうだ。
 それは前の手紙のようにはさみで細切れにはされていなかったので、スタニスラフは手紙の切れ端を拾い集め、何とか元の形に戻して読んだらしい。その間、悲しくて涙が止まらなかったそうだ。
 ミハイルになじられたエレーナは、逆にミハイルを責めてまたもや大喧嘩になった。そんなエレーナにスタニスラフは、復元した千鶴の手紙を読み聞かせたと言う。
 初めは聞く耳を持たなかったエレーナだったが、スタニスラフが読み続けていると次第におとなしくなり、最後には泣き出したらしい。
 エレーナは自分が怒り狂っているのと同じように、千鶴も自分のことを憎々しく思っているのに違いないと信じていたそうだ。
 ところが、その千鶴がエレーナへのいたわりを見せ、スタニスラフに自分ではなく母を大切にするよう願ったことが、エレーナを驚かせ感激させたとスタニスラフは書いていた。
 結婚を誓い合ったはずなのに、自分が身を引いて母を大切にするようスタニスラフを諭そうとするなんて、信じられないとエレーナは言ったそうだ。
 エレーナが知っている女たちは、欲しいと思った物は力尽くで奪うような者たちばかりで、千鶴のような思いやりのある娘をエレーナは見たことがなかったらしい。
 エレーナは手紙を破り捨てたことをスタニスラフに詫び、千鶴と付き合うことを認めたと言う。それを伝えるスタニスラフが書いた文字は、喜びに踊っているように見えた。
 どうして息子が千鶴に心を奪われたのかを、エレーナはようやく理解したそうで、千鶴がよければ一緒にヨーロッパへ渡ることも構わないとまで言ったらしい。
 日本ヘ来る前からつらいことばかりで、ふさぎ込みがちだった母の心の氷を千鶴が溶かしてくれたと、スタニスラフは改めて感謝を伝えていた。そして、自分もこれまで以上に千鶴を想う気持ちで、胸が一杯になったと書いていた。
 それでヨーロッパへ行くのか、日本ヘ残るのか、千鶴の希望を知りたいとスタニスラフは述べていた。どちらでも自分は千鶴の希望に合わせると言うのである。
 追伸では、ミハイルが手紙を出すことは許されなかったそうで、ミハイルは悲しそうにしているとあった。
 また、どういうわけか近頃は、特高警察らしき者たちの姿を見なくなったとも書かれてあった。
 千鶴は困惑した。とんだ藪蛇やぶへびである。そんなつもりでスタニスラフに手紙を書いたわけではないのだ。 
 こうなったら、自分には気がないのだと、スタニスラフにはっきり伝えないといけないと千鶴は思った。しかし、スタニスラフの喜びようや、エレーナの様子が目に浮かぶと、それをぶち壊してしまうことがためらわれてしまう。
 とにかく今は返事など書きたくないので、しばらく手紙は出さないで放っておくことにした。
 困惑の手紙ではあったが、特高警察らしき者たちの姿を見なくなったという話だけは朗報である。どうやら進之丞の狙ったとおりになったようだ。
 千鶴はそのことを祖父母に伝えた。
 また進之丞も幸子の送り迎えの間に、怪しい者を見かけなくなったと甚右衛門に報告した。
 幸子は自分を襲った男たちが逮捕されて以来、何も問題は起こっていないから、特高警察は松山で活動ができなくなったのかもしれないと言った。
 甚右衛門は腕組みをすると、もうしばらく様子を見て、それでも特高警察の気配がないようなら、これまでの警戒を解くと決めた。
 それは幸子の付き添いがなくなり、千鶴も外へ出ることが許されるということだった。
 つや子のことは警戒を続けなければならないが、これで井上教諭と会うことができるかもしれないと千鶴は思った。
 とは言っても、三津浜まで出かける理由を考えねばならない。やっと自由に動けると思ったものの、事はそう簡単ではなかった。

      五

 四月の末頃、千鶴が買い物に出かけた時、買い物先の近くにある菓子屋から若い娘が出て来るのを見かけた。
 店の者たちが見送りに出て来たので、ただのお客ではなさそうだった。
 挨拶を終えた娘がこちらを見た時に、千鶴と娘は目が合った。
「高橋さん?」
 千鶴に気づいた娘は慌てた様子で逃げようとした。
 千鶴は急いで娘を追いかけた。ようやく追いついたのは三津浜へ向かう電車の本町停車場の近くだった。
 逃げるのをあきらめて観念したように振り向いた娘は、やはり高橋静子だった。
「やっぱし高橋さんやった」
 千鶴がそう言っても、静子は目を伏せながら横を向いた。ちらりとだけ千鶴を見たが、あとは目を合わせまいとするように下を向いている。
「村上さんから話聞いたぞな。うち、高橋さんの気持ちに気づかんかったんよ。堪忍な」
 千鶴が穏やかに話しかけると、静子は恐る恐る顔を上げた。
「山﨑さん、うちのこと怒っとらんの?」
 千鶴が首を振ると、ほんまに?――と静子は言った。
「正直言うたら、あん時はほんまに悲しかった。みんな、ほんまはうちのこと見下しよったんじゃて思たら、誰も信じられんようになったんよ。ほやけど、こないだ村上さんが訪ねて来てくれてな。うちに謝ってくれて、高橋さんのことも教えてくれたんよ」
 静子はぽろぽろ涙をこぼし、ごめんなさい――と言った。
「うち、山﨑さんにちぃと意地悪しとなったぎりなんよ。あそこまで言うつもりはなかったけんど、喋りよるうちに止まらんなってしもて……。山﨑さん学校やめて、みんなも退学じゃて言われて、うち、どがぁしよかて……」
 泣きじゃくる静子を、もうええんよ――と千鶴は慰めた。
「その話はおしまいにしよ。うち、もう何とも思とらんし、また高橋さんとお友だちになれたら嬉しいぞな」
「うちと友だちに?」
 涙に濡れた顔の静子に、千鶴は微笑みながら言った。
「また昔みたいにな。もし村上さんも来れたら、どっかで三人でお団子でも食べながらお喋りしよ」
 静子は千鶴に抱きつくと、わぁわぁ泣いた。
 振り返る人たちを気にしながら、千鶴は静子を慰め続けた。
 しばらくしてようやく静子が泣き止むと、何の用事でここへ来ていたのかと千鶴は訊ねた。
「うちな、お見合いしたんよ。ほんで、近々結婚することになったんやけんど、うち、一人娘なけん、嫁入りやのうてお婿さんもらうことになったんよ」
「結婚? ほれもお婿さん?」
「うん。この近くのお菓子屋さんの次男じなんさんなんよ」
「さっき出て来たお店じゃね?」
 千鶴が訊ねると、静子は恥ずかしそうにうなずいた。
「今日はその人の顔見においでたん?」
 静子は照れながら、またうなずいた。へぇと千鶴が驚くと、赤くなった静子は、山﨑さんかてついじゃろ?――と言った。
「新聞見たよ。ロシアのお人と一緒になるんじゃろ? 萬翠荘でお祝いまでしてもろて、やっぱし山﨑さんはうちらとは違わい」
 千鶴は慌てて、そうじゃないと説明した。静子は失望したような顔で、ほうやったんかと言った。
「うち、山﨑さんの新聞記事に刺激されてお見合いしたんよ。山﨑さんが結婚せんのじゃったら、うちもやめといたらよかった」
「ほやけど、お婿さんになってくれるお人は、悪いお人やないんじゃろ?」
 静子は微笑むと、まぁねと言った。
「ほれじゃったら、ええやんか。うちの話はただのきっかけぞな。よかったねぇ、ええお人とご縁があって。ほんまにおめでとう」
「だんだんありがとう。みんな、おめでとう言うてくれるけんど、山﨑さんから言われたんが一番嬉しいぞな」
「村上さんにはうとらんの?」
「いっぺん家に来てくれたみたいなけんど、ほん時は留守しよって会えんかったんよ」
 本町停車場のすぐ東は師範学校の北端になっている。そこから電車が現れて、千鶴たちの方へ曲がって来た。
「ほれじゃあ、そろそろ行くけん。また今度ゆっくりお喋りしたいね」
 千鶴に向かって小さく手を上げた静子の前に、電車が止まった。
 電車の扉が開き、静子が乗り込もうとした時に、あの――と千鶴は思わず声をかけた。
 静子が電車に半分乗り込んだところで振り返ると、千鶴は思いきって井上教諭のことを訊ねた。
 静子は学校をやめているので、教諭のことなど知るはずがない。だが今、三津浜のことを訊けるのは静子しかいなかった。
「井上先生?」
 静子は少し首を傾げたあと、素っ気ない感じで言った。
「噂でしか知らんけんど、先生、学校辞めんさったみたいなで」
「え? 辞めた?」
 静子が車内に入ると、扉が閉まった。
 窓越しに静子がにこやかに手を振り、千鶴も明るく手を振り返した。しかし、井上教諭がいなくなったという衝撃で、千鶴の頭の中は当惑で真っ白な状態になっていた。

      六

 朝飯のあと、丁稚の三人は東京へ送る品の準備を始めた。
 豊吉も山﨑機織に来てから、もう一年になる。まだ小柄ではあるが、去年よりは幾分背が伸びたようだ。
 亀吉も新吉も随分しっかりして来ており、三人はてきぱきと動いて、送る品をすぐに蔵から運び出して行く。
 花江は部屋の掃除をしながら、三人を頼もしそうに眺めていた。
 千鶴も奥庭でたらいに水を張って洗濯の準備をしていたが、最近の三人の動きには驚かされる。思わず声をかけて褒めてやると、三人とも嬉しそうに照れ笑いをするのだが、それがまた可愛い。
 千鶴が洗濯物を取りに家の中へ戻ると、三人はもう大八車の準備が終わり、これから古町停車場へ向かうところだった。
 千鶴に気づいた亀吉が、土間を通して千鶴に手を振ると、新吉と豊吉も同じように手を振った。
 嬉しくなった千鶴は、一度は抱えた洗濯物を板の間へ下ろすと、丁稚たちを見送りに表へ出た。
 千鶴が出て来てくれたというので、亀吉たちは大喜びをすると、はりきって大八車を動かし始めた。引くのは亀吉で、新吉と豊吉は後ろから押す役だ。
 新吉と豊吉は何度も後ろを振り返って手を振るので、大八車が見えなくなるまで、千鶴は店の中へ入れなかった。
 やがて大八車が大林寺の前を右へ曲がると、千鶴は中へ戻ろうとした。その時、大八車と入れ替わるように、同じ辻の左側から男が一人現れた。
 これまで見たことがない男だったので、千鶴は少し緊張した。
 引き揚げたはずの特高警察が、再び現れたのかと警戒したが、どうも男の歩く姿に特高警察のような怪しさはないようだ。
 よく見ると、うつむき加減に歩く男は眼鏡をかけており、いかにも学者風だった。
 男が近づくにつれ、千鶴の緊張は消えて行った。
 その男に千鶴は見覚えがあった。もしやという思いは、男との距離が短くなるのに合わせて確信へと変わった。千鶴の胸は喜びに弾んだ。
「先生! 井上先生!」
 千鶴は跳び上がりそうになりながら、男に大きく手を振った。男が上げた顔は、まさしく井上教諭その人だった。
「あれ? 山崎さんじゃないか」
 教諭の顔が驚きの表情から笑顔に変わった。教諭は足を速めて千鶴のそばへ来ると、山﨑機織の看板を見上げた。
「山﨑機織……。ここが君の家なのか。ちっとも気がつかなかったよ」
 嬉しそうな教諭に、お元気でしたかと千鶴はたずねた。教諭はうなずくと、君も元気だったかと言った。
 お陰さまでと千鶴が答えると、進之丞と弥七が顔を出した。
 千鶴が二人に教諭を紹介すると、進之丞はとても恐縮した様子で頭を下げた。
 一方、弥七は軽く会釈をしただけで、さっさと中へ戻った。
 進之丞は二言三言教諭と話をしたあと、何度も頭を下げながら店に入った。
 千鶴は帳場にいた辰蔵にも教諭を会わせた。辰蔵は教諭に挨拶をしながら、自分よりも旦那さんの方がいいでしょうと言い、急いで店の奥へ入って行った。
 次々に挨拶をされたからか、井上教諭が少し困惑気味に見えたので、お引き留めしてすみませんと千鶴は詫びた。
 いやいやと教諭が言うと、そこへ甚右衛門が現れた。
「これはこれは。その節は千鶴がまことにお世話になりました。あげな形で退学させてしもたこと、まことに心苦しく思とります」
 甚右衛門が深々と頭を下げると、教諭は恐縮したように、自分の方こそ千鶴の力になれなかったと詫び返した。
 挨拶を終えた甚右衛門は、ところでと言って、教諭がここにいる理由を訊ねた。この時間に女子師範学校の教諭がここにいるのがせなかったのだろう。
 教諭は言いにくそうな顔で、実は女子師範学校からこちらの師範学校へ異動になったのですと説明した。
 千鶴が住まいを訊ねると、大林寺のすぐ南にある古い小屋のような所に住んでいて、庭にはきれいな藤棚があると教諭は言った。
「えっと、何て言ったかなぁ。確か、こうし何とかって言う所なんだ。昔、俳句好きだった人が、俳句仲間が集まるために建てたって聞いたよ」
「ほれじゃったら、庚申庵こうしんあんやなかろか」
 甚右衛門が言うと、それですと教諭は即答した。
「あそこはええとこぞなもし。前はただのいおりやったけんど、去年やったか、台所とかわやをこさえて人が住めるようにしたとこぞな」
「そうなんです。大家さんの所のご隠居さんが住まわれていたそうなんですが、今年になってから亡くなって、ちょうど空き家になったんです」
「あそこは今、藤が見頃じゃろ」
「はい。それはまぁ実に見事なものです。聞いた話では、建物と同じ百年以上も前のなんだそうです。それにしても、まさかあんな所に住まわせてもらえるなんて思いもしていませんでした」
近所ねきもんものぞきに行こう?」
「はい。私がいようがいまいが関係なく、しょっちゅう人が眺めに来られます」
「花が咲いとらなんだら、誰も行かんのやがな」
 甚右衛門は笑っていたが、教諭が学校へ向かう途中だったことを思い出したらしい。時間は大丈夫かと訊ねると、教諭は苦笑いをして、実は朝寝坊をしてしまいましたと言った。
「じゃったら、こがぁなとこで喋っとる暇なんぞなかろに」
 甚右衛門は慌てたように教諭を送り出した。
 教諭の方は落ち着いた様子で歩き出したが、すぐに立ち止まって千鶴を振り返り、朝寝坊もしてみるもんだねと言って笑った。