新たに迫る危機
一
「お邪魔しまっせ」
思いがけず現れたのは、あの錦絵新聞の畑山だった。
帳場には辰蔵にお茶を運んで来た花江がいた。その花江を千鶴が呼びに来たところに、ちょうど畑山が顔を見せたのである。
「どちらさんですか?」
畑山とは初顔合わせの辰蔵は怪訝そうに訊ねた。畑山は辰蔵に答える前に、お久しぶりや――とにっこりしながら千鶴に手を上げた。
「お知り合いですかな?」
辰蔵が訊ねるので、えぇ、まぁ――と千鶴は言葉を濁した。頭の中では、三津子が錦絵新聞を知ったことへのいらだちがある。今度は何をしに来たのかと警戒心も抱いていた。
ちょっと待ってやと言うと、畑山は帳場の隅に菓子折と二通の封筒を置き、例によってあちこちのポケットを調べ始めた。そうしてようやく折れ目のある名刺を見つけると、それを訝しむ辰蔵に手渡した。
「大阪錦絵新報? 新聞記者をされておいでるんですか?」
「あれ? わかりまっか?」
茶色くなった歯を見せて笑う畑山に、辰蔵は名刺に書いてあると言った。
冗談でんがな――と言う畑山に、花江はくすくす笑った。
花江も錦絵新聞は知っている。畑山のこともわかっているが、千鶴とは違って畑山に悪い印象は持っていないようだ。
辰蔵の前で花江が笑顔になれたのは、千鶴も嬉しかった。その分、畑山へ対する千鶴の気持ちは少し緩んだ。
花江の様子に気をよくしたのか、大阪では見たことがないほどの別嬪だと、畑山は花江を褒めまくった。
辰蔵が苦笑しながら、何の用事で来たのか訊ねると、その前にと言って、畑山は帳場に置いた菓子折と封筒を千鶴に手渡した。それは父とスタニスラフからの手紙だった。
「なして、畑山さんがこれを?」
「いやね、今そこに妙な奴がおったんですわ」
真顔で喋る畑山に、花江が爆笑した。
「妙な奴って、そんなに何人もいるものなのかい?」
「いや、あのね、見たらわかるでしょ? わては妙な奴とは違いまんがな。せやのうて、わてがここへ来るちょっと前に、先に郵便屋が来ようとしよったんですわ。ほったら、横から出て来た男二人がね、その郵便屋を捕まえて山﨑機織に届ける手紙を出せ言うたんです」
聞けば、紙屋町の通りに入る札ノ辻の角の辺りのことらしい。畑山は山﨑機織と聞いて、思わずそこへ割って入ったという。
「せやから、わてな、お前らは何じゃい!――てそいつらに言うたったんですわ。そしたら向こうも、お前こそ誰じゃて言うからね。わしは山﨑機織の社長じゃ!――て言うたんです。ほったらそいつら、顔しかめて行ってしまいよった」
これは怪しい話である。その男たちは新たな特高警察に違いないと千鶴は思った。さすがの花江も笑いが止まり、強張った顔を辰蔵と見交わした。
そういうわけで自分は社長なので、郵便屋がさっきの手紙を渡してくれたと、畑山は言い足した。すると、誰が社長やて?――と言いながら甚右衛門が暖簾を上げて現れた。
「あ、社長! その節はどうもお世話になりました!」
「わしが何の世話をしたんぞな?」
不機嫌な顔の甚右衛門に、畑山は揉み手をしながら言った。
「そんな古い話は置いといて、まずはおめでとうございます」
畑山は甚右衛門に頭を下げ、千鶴を祝福した。
何の話かと甚右衛門が問うと、見ましたで――と畑山はにやりと笑った。
「千鶴さん、ロシアの貴公子と結婚されるんでしょ? いやぁ、めでたいでんな。ほんま、めでたい!」
「よもだ言うな!」
甚右衛門が怒鳴ると、畑山はきょとんとした。
「よもだて……、よもぎ餅のことでっか?」
花江がまたくすっと笑うと、甚右衛門は真っ赤になった。
「さっさと去ね!」
甚右衛門が畑山を外へ押し出すと、畑山は甚右衛門に縋りついた。
「お願いします。どうか、わてに記事を書かせてください。わて、ここんとこ、ええ記事書けとりまへんねん。今月一発当てなんだら、どないもならんのです」
「そげなこと知るかい! まともな記事が書けん己が悪いんじゃろが」
「そんな無体なこと言わんで頼んます! 家にはまだ小学生の子供が三人おるんです。せやけど、このままやったら一家心中や。旦さん、わてらが首吊って死んでもええて言わはるんでっか?」
「そげなてんぷ言うて、わしを騙せる思とるんか!」
「天ぷらの話はしとりませんし、騙したりもしまへん。お願いですよって、どうか――」
畑山は急に咳き込み、甚右衛門から離れて地面にうずくまった。
甚右衛門は畑山をにらんでいたが、咳はいつまでも止まらない。千鶴が心配して駆け寄ると、畑山は咳と一緒に真っ赤な血を吐き出した。
驚いた甚右衛門は、奥でトミに算盤を習っていた丁稚たちに、大急ぎで医者を呼んで来い!――と叫んだ。
亀吉たちはわけがわからないまま表に飛び出した。そこで血だらけの畑山を見ると、大慌てで走り出した。
何の騒ぎかと近くの者たちが外に出て来て、畑山を遠巻きに眺めた。表に出た甚右衛門は手拭いを畑山に持たせ、野次馬たちを追い払った。
畑山は渡された手拭いで口を押さえ、甚右衛門に感謝した。その手拭いは畑山が咳をするたびに、真っ赤に染まっていった。
甚右衛門は畑山に肩を貸すと、家の中へ担ぎ込んだ。
「すんまへん。わて、胸を患っとって……、医者から静養せいようて言われとるんでっけど……、そんなことしよったら生きていかれんよって、そんで――」
「わかったけん、ちぃと黙っとれ」
甚右衛門は花江に頼んで、板の間に布団を敷いてもらうと、そこへ畑山を寝かせた。
畑山はとても恐縮し感謝しながらも、子供のために取材をさせてほしいと頼み続けた。
甚右衛門は千鶴を呼ぶと、あとで畑山の相手をしてやるように言った。
前は猟銃で撃ち殺そうとしたのに、今度は取材に応じろとは真逆の応対だ。千鶴が訝っていると、死んでから化けて出られたら困ると、甚右衛門はうそぶいた。
二
ミハイルたちからの手紙には、どちらも拙いひらがなで似たことが書かれていた。
松山を離れたあと、二人は無事に神戸の家に着き、一人で留守番をしていたエレーナに、千鶴たちのことは伏せて松山の話をしたそうだ。
ところがエレーナは機嫌が悪く、自分に隠れて昔の女に会いに行ったのだろうと、ミハイルを詰ったらしい。
ミハイルは否定し、スタニスラフもミハイルをかばっが、エレーナは二人の前に新聞を広げてみせたという。それは近所のロシア人からもらった日本の新聞だった。
新聞には赤で囲まれた記事があり、その記事を読むようエレーナは二人に求めたが、何とそれは千鶴たちが萬翠荘に招かれた話だった。噂は神戸にまで広がっていたようだ。
記事が読めなくても、そこに自分たちの名前が載っているのはわかる。おまけに記事には舞踏会の絵が掲載されていた。二人はとうとう観念して、嘘をついていたことを謝ったが、当然ながらエレーナの怒りは鎮まらなかった。
初めから昔の女と隠し子に会うのが目的で日本ヘ来たのかと、ミハイルは責められ、スタニスラフもミハイルの隠し子と結婚するとはどういうことかと罵られた。
エレーナは泣き叫び、近所の者が集まるほどの騒ぎになったそうで、お陰で大切な食器がいくつか割れてしまったとミハイルは嘆いていた。
また、幸子や千鶴にはもう一度会いたいが、この手紙の返事は出さないでもらいたいとミハイルは伝えていた。もし手紙の差出人の名前がエレーナに知れたら大変なことになるというのだ。
手紙を一緒に読んでいた千鶴と幸子は顔を見交わした。
二人に送った着物は山﨑機織の店名で出した。しかし、着物の間に二人で書いた手紙を挟んだのだ。
当然、手紙には名前を書いている。エレーナが日本語がわからなくても、新聞記事に載っていた千鶴や幸子の名前だけは、しっかり覚えているだろう。
エレーナに見られる前に二人が手紙を隠せたらいいが、見られてしまったらまたもや大騒ぎになるのは必至だ。
再び起こる神戸の騒動が目に浮かび、千鶴は父たちを気の毒に思った。だけど、大切な人を奪われると思ったエレーナの気持ちも理解できる。スタニスラフに戻って来られても困るので、千鶴としてはエレーナを応援したい気分だった。それでも二人に作った着物が、エレーナに引き裂かれませんようにとは祈っていた。
ミハイルが言うには、甚右衛門にもらった伊予絣の反物も、エレーナには見向きもしてもらえなかったらしい。でも、他のロシア人女性からは評判がよかったそうだ。
最後にミハイルは甚右衛門やトミにお世話になったとお礼を述べ、ソ連との取引もうまくいくと思うと書いていた。
スタニスラフも世話になったことの感謝に加え、手紙の返事は欲しいけれど出さないでと、ミハイルと同じことを書いていた。
また母が落ち着き次第、松山を訪ねたいとのことだが、千鶴にはエレーナが落ち着くとは思えなかった。つまり、スタニスラフは松山へは来られないわけで、千鶴には何よりの報告だった。
追伸には、できれば千鶴に教会で洗礼を受けてほしいとあったが、余計なお世話である。
甚右衛門たちはミハイルたちの手紙に笑ったり気の毒がったりしながらも、二人の今後を心配していた。離婚問題ではなく特高警察のことだ。
手紙には特高警察のことは書かれていなかったが、二人に監視がつくのは時間の問題と思われた。
特高警察も下手に動けば国際問題になるので、簡単にはミハイルたちに手を出さないと甚右衛門は考えていた。けれども松山へ事件を調べに来た者たちが、城山の事件とミハイルたちが関係ありと見なしたならば、何かの理由をつけて二人を捕まえるだろう。
千鶴は父たちを心配したが、自分たちのことさえ何もできずにいるのだ。遠い神戸のことをどうこうできるはずもない。二人が今の状況を無事に切り抜け、早いうちに家族で日本を離れるよう願うばかりだった。
三
特高警察が再び現れたということで、山﨑機織では厳戒態勢が敷かれた。
千鶴は外出禁止。幸子の病院の行き帰りには、これまでどおりに進之丞が護衛に就き、進之丞がいない間の仕事は、みんなで手分けをして行う。千鶴と幸子以外も怪しい者にはよく注意をし、何を訊かれても余計なことは言わない。いざとなれば大声を出す。以上が取り敢えずの甚右衛門からの指示だ。
それから三日が何事もなく過ぎていった。ところが四日目の夕方、危機は訪れた。幸子が男たちに連れ去られそうになったのだ。
幸い進之丞が男たちを捕まえて警察に突き出したのだが、進之丞がいなければ危ないところだった。
幸子の話によれば、家に向かって西堀端を歩いているところに、前から男三人がやって来たという。男たちは幸子の脇を通り過ぎたと思ったら、いきなり後ろから幸子を捕まえたらしい。
西堀端のちょうど真ん中辺り、松山歩兵第二十二連隊駐屯地の西門の向かいには、勧善社という京都の西本願寺説教所がある。週に一度、布教師が兵士たち相手に説教をする所であり、日露戦争の時にはロシア兵捕虜収容所にもなった所だ。
紙屋町まであと少しというこの勧善社のすぐ近くで、幸子は男たちに捕まったのである。
進之丞が幸子の護衛をする時、進之丞は幸子の後ろから少し距離を取って歩いている。いかにも護衛していますという感じなのを幸子が嫌ったのが理由だ。
男たちには、幸子が一人で歩いているように見えただろう。後ろから進之丞が来るのはわかっていたはずだが、恐らく幸子とは赤の他人だと思ったに違いない。
もし進之丞が咎めても、警察手帳を見せればうまくいくと男たちは考えたのか。あるいは腕に物を言わせて、進之丞を打ちのめすつもりだったのかもしれない。
一方、進之丞からは男たちの動きが丸見えだ。男たちが幸子に接近するのを見て、進之丞は幸子の傍へ駆け寄ろうとした。その時、不意に勧善社から三津子が現れて、あの調子で進之丞に声をかけて来たらしい。
いつも三津子は唐突に現れる。この時もそうであり、幸子を護ろうとした進之丞の前に、三津子が突然現れた様子が目に浮かぶ。
三津子に前を立ちふさがれた進之丞は、一瞬幸子と男たちを見失った。それで危うく男たちに幸子を攫われるところだったと進之丞は言った。
幸子は勧善社の北側にある路地へ連れ込まれた。その先には民家が並ぶ通りがあるが、空き家に潜り込まれたら見つけるのは困難だった。
けれど幸子も警戒していたので、口を押さえられた手に噛みつき、羽交い締めにされたまま大声で叫んだ。男たちが手間取っている間に、進之丞は三津子を押しのけて男たちに追いつき、すぐさま男たちを叩き伏せたという。
その時のことを幸子は興奮気味に話した。
「忠さんはとにかく強いんよ。ほんまにあっという間にあの人らをやっつけてしもたんよ。風寄で千鶴が助けてもろた話も、まことじゃったと改めて思たぞな」
進之丞の活躍には辰蔵も花江も興奮し、亀吉たちは跳び上がって喜んだ。弥七は黙っていたが、当の進之丞も下を向いたまま、甚右衛門たちに感謝されても、はぁと小さく答えるだけだった。
「ほれで、あの女はどがぁしたんね?」
トミが思い出したように言った。あの女というのは三津子のことだ。
三津子は野次馬たちに巡査を呼ぶよう頼んでいる進之丞の所へ、おろおろしながらやって来たそうだ。何があったのかと幸子は訊かれたが、三津子に特高警察の話はしていないし、しない方がいいと思ったので、知らない男たちにいきなり襲われたと話したという。
「ほしたらね、倒れよった男の一人が、いきなし三津子さんの足をつかんだんよ」
男二人は完全に伸びていたが、一人はまだ意識があった。その男は幸子と間違えて三津子の足をつかまえ、貴様――と呻くように言ったそうだ。恐ろしいほどの執念である。
ところが三津子は結構気が強く、男に足をつかまれても動じなかった。逆に男をにらみ返して顎を蹴り上げ、男は気を失った。野次馬たちが拍手すると、三津子ははしたない真似をしてしまったと恥じ入りながら、もう一度男を蹴りつけたという。
「昔はあがぁなことする人やなかったんやけどねぇ」
幸子は困惑気味に笑って言った。
千鶴は母の話を聞きながら、三津子という女はまったくつかみどころがないというか、得体の知れない女だと思った。進之丞も同じ気持ちなのか、三津子については何も言わずに難しい顔をしている。
幸子は話を戻して、そのあとのことを喋った。
数名の巡査が呼ばれて来ると、進之丞は三人を引き渡した。その時に野次馬たちが、男たちがいきなり幸子に襲いかかったと証言してくれたらしい。お陰で進之丞には何のお咎めもなく、無理やり起こされた男たちは、そのまま連れて行かれたという。
その後、巡査がその時の状況を確かめるため、改めて山﨑機織を訪れた。巡査の話では、男たちが何故幸子を襲ったのかは、黙秘を続けているのでわからないそうだ。
あの男たちは絶対に特高警察だと、幸子は巡査に訴えた。甚右衛門たちも同じ主張をしたが、巡査はその可能性を認めただけで、あとは何も言わずに戻って行った。
甚右衛門はもどかしげにしながら、警察も本当のことはわかっていても、立場上、喋るわけにはいかないのだと言った。
それでも公の前で不法な拉致行為を働いたのだ。いかに特高警察といえども、ただでは済まないだろうというのが甚右衛門の見解だった。
しかも愛媛県警の本部長が、千鶴と幸子はただの民間人であり、ソ連のスパイではないと言い渡してあるのだ。それを無視しての拉致行為は、明らかに越権行為であり犯罪だ。
トミが連中は刑務所行きだと鼻息荒く言うと、他の者たちもみんなうなずいた。だが、これで却って向こうの気持ちに火がつくというのは、十分に有り得る話だ。油断は許されない。
甚右衛門は店の者全員に、今後もいっそう気を引きしめるようにと声をかけた。とはいえ、特高警察の男たちは公衆の面前で巡査に逮捕されるという、大失態を演じたのである。さすがにすぐには身動きは取れないと思われた。
そのせいか、しばらくは平穏な日々が続いた。そんなある日、千鶴に一通の手紙が届いた。スタニスラフからだった。
四
住んでいる所が狭く、いつも母の目があるので簡単には手紙が書けない状況だと、スタニスラフは書いていた。
以前にミハイルと二人で手紙を書いた時は、近所の知り合いの家で書かせてもらったそうだ。でも毎回は無理なので、ミハイルは当面手紙を書けないようだ。
スタニスラフは母親が眠りに就いてから、ろうそくを灯してこの手紙を書いていた。
前の手紙と入れ違いに千鶴が送った着物は、無事に受け取ったとスタニスラフは伝えていた。だけど着物に挟んだ手紙がエレーナに知れてしまい、千鶴たちが心配したとおり、再び大騒ぎになったらしい。
結局、手紙は二人が読む前にエレーナに破り捨てられ、さらには鋏で細切れにされたそうだ。着物も鋏を入れられそうになったので、他のロシア人に預かってもらったと書かれていた。
また特高警察と思われる日本人が、スタニスラフたちを監視し始めたようだ。二人は極力外には出ないで、買い物など必要な物がある時は、仲間のロシア人に頼んでいるという。お金を稼ぎに出る時には、必ず他のロシア人たちと一緒にいるそうだ。
スタニスラフは毎日千鶴を想い、千鶴が苦しんでいないか心配していると伝えていた。さらに、千鶴の手紙は欲しいけれど、母に見つかると大変なので、今は返事をよこさないでとも書いてあった。
いつ日本を離れる予定なのかは書かれていなかったが、今の状態では、とてもそんな雰囲気ではないのだろう。やはり家族が一つにまとまっていなければ、他国へ移る話もできないに違いない。
でも、このまま日本に留まり続ければ、いつか特高警察に捕まる可能性がある。特高警察があきらめるとは思えないので、早く日本を離れた方がいいと千鶴は考えていた。
最近こちらでは特高警察らしき者の姿が見えないので、もしかしたら父たちに矛先を変えたのではと、千鶴は心配になった。
一度そう考えると、不安はどんどん膨らんだ。気持ちが抑えられなくなった千鶴は、スタニスラフに手紙を書くことにした。
エレーナに見つかれば、スタニスラフが読む前に破り捨てられるかもしれない。だけど、手紙を書かないわけにはいかなかった。
千鶴は手紙に松山の状況をひらがなで簡単に記したあと、スタニスラフに自分のことはあきらめて、お母さんのことを一番に考えてあげてほしいと伝えた。
スタニスラフの気持ちは有り難く思っているけれど、自分はスタニスラフとは一緒になれないし、松山を離れるつもりもないとも書いた。
そして、スタニスラフたちが特高警察に捕まるなんて考えるのも嫌なので、家族を大切にして一日も早く日本を離れてほしいと締めくくった。
追伸として、エレーナ宛にも伝えたいことを書いた。自分や母のことで嫌な思いをさせてしまったお詫びと、二人が自分たちと出会ったのはまったくの偶然だという説明だ。
さらに、スタニスラフのお母さんにも一目お会いしたかったですが、今は早く安全な所へ逃げてくださいと書き添えた。
続いてミハイルにも、会えないと思っていたお父さんに会えたことは、一生の思い出ですと書いた。また、もう二度と会えないのはとてもつらいけれど、どこへ行ってもお父さんのことは忘れませんと綴った。
翌朝の食事の時、千鶴はスタニスラフへの手紙を書いたと祖父母や母に伝えた。内容についても正直に話した。
甚右衛門はふーむと言ったきり黙っていた。トミは内容としてはそれでいいと言った。
幸子は手紙がエレーナを刺激するのではないかと心配した。でも、それは仕方がないと千鶴が言うと、幸子は手紙を出すのを認めてくれた。
甚右衛門は千鶴とスタニスラフの関係を断ち切りたいと思っている。なので、千鶴がスタニスラフへ手紙を出すことを、よくは受け止めていなかった。
だが、この手紙でスタニスラフが千鶴をあきらめて、特高警察の脅威を深刻に受け止めることを、甚右衛門は期待した。わかった――とうなずくと、食事のあとにその手紙を持って来るようにと千鶴に言った。
食事を終えたあと、千鶴が離れから手紙を入れた封筒を持って来ると、甚右衛門は宛名と差出人名を確かめて切手を貼ってくれた。
そんなことをしてくれるのかと千鶴が喜ぶと、甚右衛門は掃除の準備をしていた花江を呼んで、この手紙を近くの郵便箱へ入れて来てほしいと頼んだ。
千鶴は慌てて手紙は自分で出すと言ったが、危険だからだめだと甚右衛門は取り合おうとしなかった。それでも、千鶴がどうしても自分の手で出したいと言い張り続けると、では郵便箱の所まで自分が一緒に行くと甚右衛門は言った。
千鶴は郵便局まで行きたいと訴えた。しかし郵便局までは距離があるから、そこまでは甚右衛門は付き合えない。甚右衛門は郵便箱の何が悪いのかと言った。
千鶴は郵便箱の手紙を回収に来た郵便屋が、特高警察に捕まって手紙が奪われる可能性があると主張した。実際、特高警察が郵便屋を捕まえて、山﨑機織宛の郵便物を奪おうとした経緯がある。
千鶴が甚右衛門と交渉している間、花江はどうすればいいのかわからず、千鶴たちの顔を見比べながら立っていた。
その前を亀吉たち丁稚の三人が、蔵の品出しのために行ったり来たりしていた。途中、何を揉めているのかと足を止めることもあったが、トミに叱られるとすぐに忙しく動いた。
甚右衛門はしばらく考えていたが、だったら夕方に幸子を迎えに行く忠七と一緒に行けばいいと言った。それは千鶴が望んでいた言葉だった。
スタニスラフたちに着物を送る時にも、進之丞について来てもらった。だから、今回もそうしてもらえると千鶴は期待していた。
進之丞と二人で歩ける機会など、そうあるものではない。郵便箱ではなく、郵便局へと訴えた裏にはそんな思惑があった。それに万が一、特高警察が現れたとしても、進之丞が一緒であれば何も不安はない。
もちろん進之丞に対しての後ろめたさや申し訳なさはあった。
以前の着物は頼まれものなので、仕方なしという見方もできた。だが、今回の手紙は自分の考えで書いたものだ。
進之丞以外の男に手紙を出すなど、書くことですらためらわれる。なのに、そこにまた進之丞に同伴してもらうというのは、千鶴としてはつらいところだ。それでも進之丞と二人で歩けるのは、千鶴にとっては何より嬉しいことだ。
思わずこぼれた笑みを見て、幸子は花江と顔を見交わして笑った。トミもやれやれという顔をしている。みんな、千鶴の本当の狙いなどお見通しのようだ。
「堪忍な」
歩きながら千鶴は進之丞に詫びた。
「何を謝るんぞ?」
「ほやかて、進さんやない男の人に手紙を出すんよ。しかも、ほれに進さんについて来てもろとるんじゃもん。おら、進さんに申し訳のうて……」
進之丞は笑うと、何を言うんぞ――と言った。
「こがぁしてお前と二人で歩けるんは、あしには嬉しい限りぞな」
「進さん……」
進之丞が自分と同じ気持ちでいてくれたなんて、この上ないことだ。胸がいっぱいの千鶴に、進之丞は言った。
「特高は向こうにもおるじゃろけん、お前もさぞかし心配よな」
千鶴がうなずくと、どがぁしたもんかなと進之丞は顎に手を当てた。
「母上どのをお護りしよるが切りがないけんな。父上どのまでは手が回らん。とはいうても、このままにしておくわけにもいくまい。弱ったの」
「ほれはともかく、おっかさん、進さんのこと、ほんまに褒めよったよ」
ほうかなと進之丞は照れ笑いをした。
「ほやけどな、進さんはおっかさんのこと苦手みたいなとも言うとった」
「あしが?」
「何かな、進さんはおっかさんと顔合わすと、すぐに目ぇ逸らすて言うんよ。ほうなん?」
「ほうかな? そがぁなつもりはないけんど」
進之丞は惚けたように言った。本当はわかっているはずだ。
「おらが見よっても、確かに進さんはおっかさんに遠慮しよるみたいに見える時があるよ」
「ほうなんか? お前がそがぁ言うんなら、ほうなんじゃろな。まぁ、これからは気ぃつけよわい」
鬼に化身した進之丞が、千鶴を護ろうとした幸子の剣幕に気圧されていたのは事実だ。きっと進之丞は自分が鬼であることを引け目に感じ、母に対しても後ろめたくなるのだろうと千鶴は思った。
「やっぱしおらのおっかさんじゃけん、つい気ぃ遣てしまうんじゃろね」
ほうかもしれまいと進之丞は笑ったが、やはり憂いを感じさせる笑みだった。
五
無事に郵便局へ着いた千鶴は、進之丞が見守る中、スタニスラフへの手紙を出した。
今回は封筒に自分の名前をしっかり書いた。エレーナに見つかるのを恐れて、名前を書かないのは嫌だった。堂々と名前を書きかった。
手紙を出し終えて郵便局を出た時、千鶴は晴れ晴れした気分になっていた。これでスタニスラフとの関係を終えられたと思うと、進之丞に対する申し訳なさもなくなり、さっきよりも明るい会話を楽しめた。
向かっているのは、母が働く病院だ。
今歩いている通りを真っ直ぐ行けば大街道商店街に交差する。そこから電車通りへ向かうこともできるが商店街は人目が多い。それに前方から柄の悪そうな男たちが、こちらへ来るのが見えた。
関わり合いたくないので、千鶴は大街道ではなく手前の辻を北へ曲がった。ただ、その道は突き当たりに裁判所があり、裁判所の屋根の向こうに萬翠荘が見えている。
本当は進之丞とは通りたくない道ではあった。だがスタニスラフへの手紙を出し終えたことが、千鶴の気持ちを強くしていた。
とはいえ、歩くにつれて萬翠荘が近づいて来る。互いに萬翠荘には触れずに喋っていたが、自然と口は重くなった。
二人の会話が少なくなると、横から賑やかな声や三味線の音が聞こえてきた。
この道の右手は料亭や芸者の置屋が集まっている区域で、ちょうど千鶴たちが歩いていたのは高級料亭の横だ。
まだ夕飯には早いが、料亭にはすでに客が入っているみたいだ。世の中にはこんな時分からお酒が飲める人がいるのかと、千鶴は呆れた。その話をしていると、進之丞はちらりと後ろを見て、千鶴に少し足を速めるよう促した。千鶴は後ろを振り返ろうとしたが、進之丞はそれを制して、さっきの男たちがついて来ていると言った。
「特高警察?」
千鶴が緊張して訊ねると、ほうやないなと進之丞は言った。
「何者かはわからんが、あしらへの悪意を感じるけん、関わらん方がええじゃろ」
千鶴はうなずき、急ぐ進之丞に合わせて歩調を速めた。すると前の辻の陰から、男が一人のっそりと現れた。手には木刀を二本持っている。
「ちぃと付き合うてもらおか」
男の顔を見た千鶴は驚いた。
「鬼山さん?」
その男は、かつて千鶴の婿になろうとした鬼山喜兵衛だった。
「久しぶりじゃな、千鶴さん」
「鬼山さん、警察に捕まったんやなかったんですか?」
後ろからついて来ていた男たちが追いつき、二人を取り囲んだ。いずれも人相の悪い男たちで、全部で五人いる。
「確かにあしは捕まり、臭い飯を食わされた。こないだやっと出て来られたけんど、親からは勘当されて、その日暮らしの身の上よ。千鶴さんがあしとの見合いを断りんさったんは、正解じゃったいうわけぞな」
苦笑する喜兵衛に進之丞は用件を訊いた。喜兵衛はじろりと進之丞を見ると、ほうじゃなぁ――と言った。
「あしはお前さんに、やきもち焼きよるんよ」
「やきもち? ほれは、どがぁな意味ぞ?」
「お前さんはうまいこと山﨑機織に取り入って、千鶴さんともええ仲になっとるけん、羨ましいと思たんよ」
「この人はそがぁなことはしとりません」
千鶴がきっぱり言うと、ええのぉと喜兵衛はにやついた。
「こがぁなこと言うてもらえるやなんて、あしとは大違いぞな」
「いろいろ喋りよるけんど、ほれがほんまの理由やなかろ?」
進之丞が落ち着いて言うと、喜兵衛はふっと笑った
「お前さん、ただ者やないな。他の奴ならがくがく震えて命乞いするとこぞ」
進之丞が黙っていると、わかったわいと喜兵衛は言った。
「あしはな、お前さんなんぞどがぁでもええんじゃ。千鶴さんのことも根に持っとりゃせん。あしの目的は銭よ」
「銭?」
「ほうよ、銭よ。ある所から頼まれて、お前さんを痛めつけたら銭をもらえる話になっとるんよ」
「なしてあしを狙うんぞ?」
「そげなことまで、あしは知らん。とにかく銭を手にせんことには身動き取れんけんな」
あまりの喜兵衛の変貌ぶりに、千鶴は黙っていられなくなった。
「世の中を変えるて言うておいでた鬼山さんが、なして銭のためにこげなことをしんさるんぞな?」
「大事の前の小事いう言葉、聞いたことあろ?」
喜兵衛は惚けて笑っている。進之丞は喜兵衛をにらみながら言った。
「己の目的のためなら、こがぁなことは些細なことというわけか」
ほういうことよ――と口の端で笑った喜兵衛は、男たちに邪魔者を入れるなと命じた。そして進之丞には、ここは目立つから脇道に入れと言った。
喜兵衛が指し示した脇道は料亭の他、弁護士事務所や医院が並んでおり、この時刻には人通りが少ない。今も通りを歩く者の姿はなかった。
「鬼山さん、こげなことはやめてつかぁさい」
千鶴が訴えても、喜兵衛は聞こえぬふりをして歩き続けた。それでも千鶴が繰り返すと、進之丞を振り返って、ええのぉと言った。
「千鶴さんにこがぁに心配してもらえるやなんて、お前さんは大した男ぞな」
喜兵衛の言葉に、周りの男たちもにやにやしている。このあと進之丞がどうなるかを思い浮かべているのだろう。あるいは一人になった千鶴を狙っているのかもしれない。
進之丞が千鶴をかばいながら喜兵衛の後について脇道に入ると、男たちが二人を挟むようにして、この道の両側をふさいだ。
道の奥の方から、芸者を乗せた人力車がやって来たが、男たちに追い返された。
「公道じゃけん、そがぁに長にはふさがれんが、まぁ、すぐに終わろ」
喜兵衛は持っていた木刀の一本を、進之丞の足下に投げた。
「ほれを使え。いくら銭のためとはいえ、素手の素人を打ちのめすんは気が引けるけんな」
千鶴たちの後ろは、ちょうど料亭の入り口になっていた。進之丞はそこに千鶴を立たせると、武器なんぞいらんと喜兵衛に言った。
「武器はいらんやと? お前さん、えらい自信じゃな」
「あしが木刀を振り回したけん、仕方なしに打ち据えたと言い訳するつもりじゃろ?」
喜兵衛はからから笑うと、頭のええ奴じゃと言った。
「やけんいうて、素手であしと戦うんは不利じゃろがな。ほれとも木刀持っても勝てるわけないと観念しよるんか?」
進之丞が黙って一歩前に出ると、喜兵衛は思わず後ろへ引いた。進之丞の殺気を感じたのだろう。しかし、反射的に後ろへ下がったことを恥じたのか、喜兵衛は見物している男たちをうろたえた目で見ると、険しい顔になった。
「木刀を拾わなんだんは、お前さんの勝手。あしも勝手させてもらおわい」
喜兵衛は木刀を構えると、すぐさま進之丞に打ち込んだ。進之丞は体を左に捻りながらわずかに右へ移動し、喜兵衛が振り下ろした木刀を紙一重で躱した。
しかも躱しただけではない。進之丞の右手は喜兵衛の左手首をつかんでおり、左手は木刀を押さえている。喜兵衛はそれ以上動けない。素早い喜兵衛の動きを見切った一瞬の離れ技である。
「貴様、何者ぞ!」
顔色が変わった喜兵衛は進之丞をにらんで押しのけようとした。ところが、進之丞はびくとも動かない。焦った喜兵衛は木刀から右手を離すと、進之丞の右腕をつかんだ。それでも進之丞は動かず、喜兵衛の顔がゆがんだ。
喜兵衛が苦し紛れに進之丞の顔をつかもうとしたら、進之丞は喜兵衛の腕を離して後ろへ下がった。顔への攻撃を嫌ったというより、様子を見ているようだ。喜兵衛がこのまま引き下がってくれることを期待したのかもしれない。だが、喜兵衛にはそのつもりはなさそうだ。
喜兵衛は右手で左腕を押さえながら、進之丞をにらんだ。威嚇をしているというより、警戒している感じだ。進之丞につかまれた左腕を痛めたらしい。
「貴様、剣の心得があるな?」
喜兵衛の言葉に進之丞は答えない。身構えもせず黙って立ったまま、じっと喜兵衛を見据えている。喜兵衛のわずかな動きも見逃さない鋭い目だ。
しばらくにらみ合ったあと、左手の痛みが取れたのか、喜兵衛は左手を何度か振ってから木刀を構え直した。顔は険しいままだが、口元に笑みが見える。
「どうやらあしは、お前さんを見くびっとったようじゃの。やが、これは面白いな。銭とは関係なしに、お前さんと勝負がしとなった」
喜兵衛は進之丞に木刀を拾えと言った。互角の勝負がしたいのだろう。しかし、進之丞はそんなことには関心がない。
進之丞が相手にしないので、喜兵衛は少し残念そうに、わかったわいと言った。
「ほれじゃったら、このまま勝負といこわい。ほんでも、さっきのあしと対やと思いよったら大怪我するぞな。いや、大怪我や済まんやもしれんが恨むなよ」
喜兵衛は木刀を構えながら気合いを入れた。脇で眺めている男たちは体をびくっとさせたが、進之丞は喜兵衛を見据えたまま微動だにしない。
千鶴は進之丞がやられるとは、これっぽっちも思っていない。だけどこんな場面を目にすれば、はらはらどきどきしてしまう。
思わず進さんと声をかけた刹那、喜兵衛が進之丞に凄まじい一撃を放った。その打ち込みは先ほどよりも鋭く、木刀は進之丞の頭を叩き割るかに見えた。
だが進之丞も同時に前に出ていた。その速さは喜兵衛を遙かに上回っていた。
低くかがんだ進之丞の体は、喜兵衛の懐に入っていた。その拳は喜兵衛の鳩尾にめり込んでいる。
喜兵衛は目を見開いたまま動かない。手に持った木刀が地面に落ちると、喜兵衛は進之丞に身を預けるかのごとく倒れ込んだ。
道の両端をふさいでいた男たちが、慌てふためきながら進之丞に脅しをかけた。けれど口先ばかりで手を出さない。進之丞は男たちの様子を窺いながら、喜兵衛を静かに地面に降ろした。
男たちは進之丞を恐れていた。もはや進之丞の敵ではない。千鶴はほっとしながら、進之丞を誇らしく思った。
その時、千鶴の後ろから伸びて来た手が千鶴の口をふさいだ。また別の手が千鶴の体を後ろから捕まえ、千鶴は声も出せずに料亭の中へ引きずり込まれた。
六
千鶴を捕まえたのは二人の男だ。男たちは力が強くて千鶴は抗えない。
建物の中には別の男がいて、千鶴の下駄を脱がせた。千鶴は口をふさがれたまま、男に抱えられて奥の部屋へ運ばれた。
畳へ降ろされた千鶴は大声を出した。しかし、その叫びは他の部屋の騒ぎ声でかき消され、外へ聞こえたかはわからない。聞こえたとしても、料亭の客が馬鹿騒ぎをしていると思われただけかもしれなかった。
千鶴は進之丞を呼んだ。三人の男たちは、進之丞が来るはずがないと思っているのだろう。千鶴を見ながらにやにやしている。
六畳間の部屋の奥では、眼鏡をかけた理知的に見える男が箱膳を前に酒を飲んでいる。その横では芸者が三味線を弾きながら唄っていたが、千鶴を見ると驚いて唄うのをやめた。
「このお人は何ぞなもし?」
「こいつか? こいつはソ連のスパイや。今から取り調べをするから、お前は下がっとれ。わしらが呼ぶまで、誰も来さすなよ。それからな、このことは誰にも言うな。言うたら、お前もスパイの仲間としてしょっ引くことになるからな」
芸者は立ち上がると、そそくさと部屋の外へ出て行った。男たちに囲まれたまま畳の上に座る千鶴に、眼鏡の男は冷たく笑った。
「やっとお前を捕まえることができた。護衛の男がついとったようやが、そいつはここへは入れん。ここに入れるんは、わしらみたいな特権階級だけやからな。お前がここにおるとわかっても、あの男にはどないもできんのや」
「あんたら、特高警察やな? 鬼山さんを銭で買うて、うちらを襲わせたんはあんたらじゃろ!」
「鬼山? 誰のことを言うとんかな?」
「さっき、このお店の前でうちらに襲いかかって来た人ぞな」
「誰がお前らを襲ったんか、わしらは知らん。わかっとったんは、お前がここへ来るいうことだけや」
この男の話など信用できないが、この男が喜兵衛を雇ったのでないのなら、いったい誰が喜兵衛を動かしたのか。その何者かは特高警察の狙いを知って手を貸している。
底知れぬ不安を感じながらも、千鶴は男をにらみつけた。
「うちらがここに来るんがわかっとったて、ほれはどがぁなことぞな?」
「どうでもええやろ。とにかくお前はわしらに捕まり、どないもできんというわけや」
「ここの警察の人らは、うちらがスパイやないてわかってくんさっとるのに、なしてあんたらは、うちらをスパイて決めつけるんよ」
男は冷たい表情で、怪しい者は見逃さないと言った。
「今の日本にはロシア人がようけ入って来とる。そいつら全員がスパイやないて考える方がおかしいんと違うか。連中のうちの何人かは、逃げて来たふりしよるスパイに決まっとる。中でも日本に知り合いがおる奴らは一番怪しいわ」
「あんたら、こないだもうちのお母さん捕まえよとして警察に逮捕されたのに、なして同しことするんよ!」
「言うたやろ? わしらは特権階級やから、こんな田舎の警察には、わしらは捕まえられんのや。それに、わしらにも意地いうもんがある。わしらは狙た獲物は逃がさんのが自慢やからな。このまま引き下がるんは、わしらの恥になるんや」
この男たちは何を言っても聞く耳を持っていない。そう悟った千鶴は言い返すのをやめた。眼鏡の男は勝ち誇ったように、にやりと笑った。
「観念したようやの。お前には松山の誰がスパイの仲間か教えてもらうで。でもその前に、わしらの仲間を殺した奴のことを話してもらおか」
「あんたらの仲間て?」
男は途端に険しい顔になった。
「惚けんなよ。お前らを逮捕しようとした男が四人おったやろが。知らんとは言わせんぞ。三人が死んで一人は重体や。あいつらに何をしたんか、洗いざらい喋ってもらうで」
「そげなことは知らんて、こっちの警察の人にも言うたぞな」
「それを、はいそうですかと、わしらが信じると思とるんか。まったくおめでたいやっちゃな。こんなど田舎の警察とわしらを一緒にすんな、このスパイ女が!」
男は凄んだあと、まぁええと言って鼻にずり落ちた眼鏡を押し上げた。
「わしらを舐めよったらどうなるんか教えたろ。お前が喋りとうなるまで、お前の体に話を訊かせてもらうで」
周りを取り囲んでいる男たちが、嫌らしそうな笑みを浮かべている。正面にいた両耳がへしゃげた大柄の男は、千鶴の前にしゃがむと脂ぎった顔を近づけた。
「途中で喋りとうなっても、体が話し終えてからやないと喋れんからな」
「そがぁなことしたら、あんたら、ただじゃ済まんけんね」
千鶴は男たちをにらみつけた。脅しで言ってるのではないが、男たちは馬鹿にしたように笑うばかりだ。
眼鏡の男はにやにやしながら言った。
「面白いこと言うやないか。わしらが連中みたいになると言うんやな。つまり、お前は四人がああなった理由を知っとるいうこっちゃ。ほな、早速喋ってもらうとしよか」
眼鏡の男が目で合図をすると、他の男たちが獣のごとく千鶴に迫った。その時、襖の向こうの廊下から店の者と思われる女の声が聞こえた。
「あの、お客さま。お客さまにご面会の方がおいでとるぞなもし」
「面会? 誰や?」
笑いを引っ込めた眼鏡の男が声をかけると、すっと襖が開いた。
そこには着物を着た女が座っていた。そして、その横に男が一人立っていた。それは進之丞だった。
七
「貴様! 何でここへ――」
眼鏡の男が驚くのと同時に、進之丞の両手が近くにいた男二人の首を鷲づかみにして持ち上げた。
廊下に座っていた女は、再びすっと襖を閉めた。
首をつかまれた男たちは苦しみながら、進之丞の手を外そうと必死で藻掻いた。ところが、進之丞は柱のようにびくとも動かない。男たちの足は畳から離れて宙に浮き、進之丞の両手の指は男たちの首を引きちぎらんばかりに食い込んでいる。
あとの二人をにらみつける進之丞の目は殺気に満ちていた。喜兵衛を相手にした時とは比べものにならない、凄まじい殺気だ。
その殺気に竦んだのだろう。耳が潰れた男は立ち上がったまま動かない。眼鏡の男も立とうとしたのか、片膝を立てた姿勢で固まっている。
やがて首をつかまれた男たちの手足がだらりとなった。死を意識したのか、我に返った耳が潰れた男は進之丞に飛びかかった。けれど捕まっている男たちが盾になり、男の手は進之丞に届かない。逆に盾の男たちごと進之丞に押されて、後ろの壁に激突した。
「動くな、撃つぞ!」
眼鏡の男が進之丞に拳銃を向けて叫んだ。だが、やはり盾になった仲間が邪魔で引き金が引けない。
進之丞が二人の男をそのまま投げつけると、眼鏡の男は男たちの下敷きになった。その間に起き上がった耳の潰れた男が、進之丞に後ろから飛びかかった。
千鶴は思わず立ち上がると、進之丞を捕まえた男につかみかかった。しかし、男に突き飛ばされて後ろに転んだ。
男はまたすぐに進之丞を捕まえようとしたが、くるりと振り向いた進之丞に両手で右腕をつかまれた。男は慌てて左手で進之丞の腕を外そうとしたが、進之丞の手は離れない。男の右腕は肘の上下をしっかり押さえられている。
転んだ千鶴を横目でちらりと見た進之丞は、黙って男の右腕をへし折った。悲鳴を上げた男の右腕は、肘から先が真逆の方向に折れ曲がっている。すかさず進之丞が鳩尾に一撃を加えると、男は崩れ落ちるように倒れて動かなくなった。
進之丞と男が争っている間、眼鏡の男は仲間の下から這い出して、落とした眼鏡を必死に探していた。
進之丞は部屋の隅に落ちていた眼鏡を拾うと、男の目の前にぽとりと落とした。男は慌てて眼鏡を着けたが、そこに進之丞がいるのに気づくと顔を引きつらせた。
「き、き、貴様は何者や!」
眼鏡の男は尻餅をついた格好で後ずさりながら、裏返った声で虚勢を張った。
「貴様、わ、わしらが誰なんかわかっとるんか? わしらはな――」
「特高警察じゃろ?」
進之丞は男の前にしゃがむと、今度はこっちが聞く番ぞと言った。
「お前ら、ここで何をしよったんぞ?」
「な、何て、別に何も――」
眼鏡の男は答えながら、手元に落ちていた徳利を進之丞の顔にぶつけようとした。進之丞は男の顔を見ながら徳利ごと男の手をつかむと、そのまま握り潰した。徳利はばらばらに砕けて下に落ち、男の指はぐちゃぐちゃに折れた。
男は声も出せずに顔をゆがめたが、進之丞は容赦せず繰り返し訊いた。
「答えよ。お前ら、ここで何をしよったんぞ?」
男が答えないので、進之丞は男のもう一方の手も握り潰した。泣きそうな男は小さな声で弁解した。
「わ、私は何もしてない……。ここで酒飲んでただけや……。ほんまや……。この娘を捕まえたんも……、仲間が勝手にやったことや……。私は何もしとらん……」
さっきまでの人を馬鹿にした偉そうな態度から一転し、自分が助かりたい一心で仲間さえも売ろうとするこの男に、千鶴は怒りを覚えた。
「何言いよんよ。さっきは、おらを辱めて無理やり喋らそとしたくせに! 喋らんかったら体に喋らせるて言うたんは、どこの誰よ!」
つい声を荒らげてから、しまったと千鶴は思った。進之丞の頬がぴくぴくと引きつっている。
「ほやけど、進さんが来てくれたお陰で、何もされんで済んだけどな」
千鶴は笑顔で付け足して進之丞をなだめようとした。だが、時すでに遅しだ。
眼鏡の男は目を大きく見開き、そのままの姿勢で後ろへ逃げようとした。しかし、すぐ後ろの壁にぶつかると、あわあわと口を動かした。
進之丞の額には二つの瘤ができていて、そこから角が生えて来そうだ。口の端からも牙がのぞき、険しい顔に進之丞の面影はない。体もそれまでより一回り大きくなっている。
「おま、おま、お前が――」
男が絞るような声を出すと、進之丞は殺気に満ちた低い声で言った。もはや人間の声ではない。
「あしが何ぞ? 言うてみぃ」
「進さん!」
千鶴が叫んでも、進之丞の耳には届いていない。
「誰か! 誰か来てくれ! 化け物や!」
眼鏡の男は大声を出したが、その声は他の部屋の騒ぎ声にかき消された。それに、呼ぶまで誰も来させるなと男が言ったので、この部屋の騒ぎがわかっても誰も来ないだろう。
「あしが何ぞ? 言うてみぃ」
迫る進之丞が鋭い爪の手で男の顔を押さえても、男は固まって声が出せない。
「言わんのか? 言わんのなら、この舌はいらんな。邪魔な舌は引っこ抜いてやろわい」
進之丞は男の口に両手の指を突っ込んだ。無理やり男の口をこじ開けるつもりらしい。鼻の下まで眼鏡がずり落ちた男は、抵抗できずに涙と涎と鼻水を流すばかりだ。股間も小便で濡れている。
「進さん、いけん。落ち着いておくんなもし」
千鶴は進之丞にしがみついてやめさせようとした。進之丞の額の瘤はさらに伸びて角になり、大きく広がった口には牙が並んでいる。もうほとんど鬼の顔だ。
「進さんてば!」
千鶴が進之丞の体を何度も揺さぶると、進之丞はようやく正気に戻って元の姿になった。
眼鏡の男は顎が外れてしまったのか、進之丞が手を離しても口を開けたまま、涎と涙を流しながらあわあわ言うばかりだ。口の中は進之丞の爪で傷つき血だらけになっている。
進之丞は男の外れた顎を戻すと、静かに訊ねた。
「表におった連中は、お前らの差し金か?」
口は閉じたものの恐怖で混乱しているのか、眼鏡の男は進之丞の言葉が理解できないようだ。
「この人、鬼山さんのことは知らんて言いよった」
恐ろしかった光景に動揺しながら千鶴が話すと、進之丞は千鶴を振り返った。
「知らんとは?」
「おらたちがここへ来るんはわかっとったて言いよったけんど、鬼山さんに銭やるて言うたんは、この人やないみたいで」
男に向き直った進之丞は、今回のことは誰が仕組んだのかと訊ねた。けれど、男は気が触れたように意味不明のことばかり口にしている。
進之丞は男の額に右手の人差し指を当てると、もう一度同じことを訊ねた。すると男は目を大きく見開き、じっと前を見据えた顔でぼそぼそと答えた。
「つやこ……、よこしま……つやこ……」
進之丞は千鶴を見た。
「聞いたことがある名前じゃな」
「ほれは、進さんが捕まえんさった空き巣の連れの女ぞな!」
男の言葉は衝撃的だった。特高警察の後ろに、あの横嶋つや子がいたのだ。
進之丞はまた男に訊ねた。
「その女はどこにおる?」
「わからん……」
「どがぁして接触した?」
「向こうから……近づいて来た……」
「あしらがここを通るんは、なしてわかった?」
「つやこが……言うた……」
千鶴はぞっとした。自分たちしか知らないはずのことを、つや子が知っていたのだ。
これ以上はこの男からは何も得られるものはないと、進之丞は判断したようだ。男の額に指を当てたまま、ここであったことはすべて忘れよ――と言った。
男は目を見開いたまま動かない。進之丞が立ち上がっても、男の視線はずっと同じ所に向けられている。
「進さん、今のは?」
「この男の記憶を消した。今から他の三人の記憶も消す」
進之丞は順番に気を失った男たちの額に指を当てた。相手の意識がなくても記憶を消せるらしい。すべての男の記憶を消すと、進之丞は少し考えた。それからまた順番に男たちの額に指を当て、違う記憶を植えつけていった
それは、千鶴たちがソ連のスパイではないと判明したという記憶と、城山で見つかった男たちは横暴なよそ者を嫌う魔物に襲われ、自分たちも襲われかけたという記憶だ。男たちの体の傷が、魔物がいた証になるだろうと進之丞は言った。
男たちの記憶に残るのは魔物に襲われた恐怖だけで、ここで鬼に変化した進之丞に襲われたことは覚えていないらしい。
「これでスパイの話はおしまいぞな。父上どのも安心できよう。此奴らの心には、魔物は人が手出しできるもんやないいうことと、よその町では行儀よくせにゃいけんということが、奥深くまで突き刺さっとる」
進之丞が人の記憶を操れるという話は聞いていたが、目にするのは初めてだ。千鶴は驚きながら、進之丞の力に感心せざるを得なかった。
だが、今回のことで新たな問題が発覚した。それは横嶋つや子だ。
つや子は喜兵衛や特高警察を利用して、千鶴や進之丞を陥れようとした。しかし、千鶴たちにはその理由がわからなかった。考えられるのは、進之丞が捕まえた空き巣が、警察でつや子の名前を喋ったということだ。
あの時も進之丞は、何もかも警察で喋るようにと空き巣に暗示をかけたそうだ。だから、あの男はつや子の名前を口にしたのだ。それにしても名前が警察に知れた腹立ちで、ここまでやるものだろうか。もしそうであるなら、つや子は狂っているに違いない。
それに、今日千鶴が郵便局まで手紙を出しに行くことを、つや子がどうやって知ったのかが謎であり気味が悪い。進之丞も首を傾げている。
進之丞は男たちをそのままにして、千鶴と部屋を出た。他の部屋では相変わらず馬鹿騒ぎが続いている。みんな特権階級の者たちなのだろう。
玄関に行くと、そこに進之丞を案内した女がいた。進之丞は女に声をかけ、千鶴を見たという芸者を連れて来させた。訝しげにしながら女に連れて来られた芸者は、すぐに進之丞に記憶を消され、別の記憶を植え付けられた。
これで千鶴たちがここへ来た痕跡はすべて消せた。二人が安心して表に出ると、そこには何事もなかったかのような風景があった。喜兵衛も男たちも姿を消していた。
千鶴たちが料亭を離れると、芸者を乗せた人力車が同じ料亭の前に停まった。これから他の騒ぎが始まるのだ。
「すっかり遅なってしもた。急いで母上どのをお迎えに行かねば」
進之丞はいつもの顔で千鶴を見た。だけど、千鶴は見てしまった。進之丞が鬼に変化するところを。また鬼になった進之丞の恐ろしさを。あのまま巨大な鬼になっていれば大事になっていたし、男たちが殺されなくて幸いだった。
進之丞を怒らせてはいけない、決して怒らせまいと決意していたはずなのにと、千鶴は自分の不甲斐なさが情けなかった。ただ、今回みたいな不測の事態が起こると、どうなるかはわからない。やはり進之丞を人間に戻してやるのが一番である。
進之丞が言うとおり、これで特高警察のことが終わったのであれば、三津ヶ浜へ行って井上教諭に会えるかもしれない。
しかし、あの二百三高地の女の影が前に立ちはだかっている。女が何を考えているのかがわからないところは、特高警察よりも恐ろしい気がする。
いろいろ考えると不安になるが、とにかく今は母の元へ急がねば。進之丞が呼んでいる。