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残された謎

      一

 特高警察に逮捕されそうになったことを、千鶴が黙っていたことについて、花江は水臭いじゃないかと言った。
 しかし、あんまりひどくて怖いことだったので、喋りたくなかったと千鶴が言うと、それはそうだねと花江は納得してくれた。
 それから、特高警察の男たちが死ぬ目に遭わされたのは、ばちが当たったに違いないと花江は憤りを見せた。
 だが、何が男たちを成敗したのかということになると、花江は顔を曇らせた。やはり、風寄から鬼が来たのではないかと心配しているようだった。
 それに対して千鶴は何も言えなかった。鬼のことは言いたくなかった。それでも三人が死に、一人が死にかけている。鬼の声も兵士たちに聞かれている。魔物などいるわけがないとは言えなかった。
 警官が来たことで辰蔵と弥七も驚いていた。古町停車場から戻って来た亀吉たちも、店から出て来る警官とばったり出会って仰天した。
 甚右衛門はみんなに城山で瀕死の男四人が見つかったと、今朝の新聞に載っていたことを話し、その男たちが特高警察の者だったと言った。
 ざわつく使用人たちに甚右衛門は、警官はその事件についての情報をきに来ただけで、別にどうということはないと言って落ち着かせた。
 みんなは静かになったが、それでも千鶴たちを捕まえようとした男たちが、城山で瀕死状態になっていたことに動揺していた。
 それは千鶴たちが男たちと関わりを持ったことで、あらぬ疑いをかけられたり、妙な噂を立てられることを心配したのだろう。
 あるいは城山で見つかった男たちの不幸が、自分たちにも降りかかると不安になったのかもしれない。
 特に弥七は錦絵新聞の畑山が、千鶴と鬼の関わりを口にしたのを耳にしている。そがぁ言うたら――とその弥七が口を開いたので、千鶴はびくりとした。
「仲買いの兵頭さんの家が、化け物に壊されたことがあったぞな」
「最初はそがぁなこと言いよったが、すぐにありゃ突風じゃったと言い直しとらい」
 即座に甚右衛門は弥七の言葉を否定した。弥七は何か言いたげだったが、主人に逆らうことはできない。そのまま口をつぐんだ。
 しかし、弥七の言葉はみんなを刺激するのに十分だった。辰蔵も亀吉たちも口を半分開いたまま、目を見開いている。確かにそんなことがあったと思い出したのだろう。
「仮に城山に化け物がおったとしても、お前らが襲われるわけやなかろがな」
 甚右衛門はいらだったように使用人たちに言った。だが、それは甚右衛門が化け物の存在を認めたように聞こえたのだろう。亀吉たち丁稚の三人は、かえって泣きそうな顔になった。
 だが、魔物を恐れるのは亀吉たちに限ったことではない。他の店の丁稚にも言えることだし、松山中の子供たちが同じように考えているのに違いない。
 また、化け物を恐れるのは子供ばかりではない。大人だって怖いものは怖いのである。
 それに風寄の事件の記事を読んだことがある者は、二つの事件が似ていることに気がつくはずだ。彼らは風寄と松山を結ぶ線上で、何かが起こっていると見るだろう。
 千鶴たちが男たちと関わっていたと知れた時、風寄の兵頭が山﨑機織に伊予絣を納める仲買人だと知っている者たちは、二つの事件を結びつける接点として、山﨑機織をとらえるに違いない。
 口には出さなくても辰蔵の顔を見れば、辰蔵もそんなことを考えているのは見てとれる。
 千鶴を見る弥七の目にも、おびえと困惑のいろが浮かんでいる。
 花江の言葉に従うならば、弥七は千鶴に気があるらしいが、その千鶴が本当に鬼と関わりがあるのかと、疑う想いを抱いているのだろう。
 弥七に惚れているわけではないから、弥七からどう思われようと千鶴には関係のないことだ。しかし、店の者たちの中に不信感が広がることは問題だった。
 ただでも大変な状況なのに加えて、特高警察の脅威はまだ消えていない。そんな時にみんながぎくしゃくしていたのでは、この困難を乗り切ることはかなわない。
 しかし、みんなを落ち着かせるさらなる言葉を、甚右衛門は見い出せないようだ。
 トミは幸子への手紙を書きながら丁稚たちを叱りつけたが、全く効果がない。当事者である千鶴も何も言えず困惑するばかりだ。
「ほらほら、みんな何をしょぼくれてるのさ。こんな時だからこそ気合いを入れなきゃだめだろ?」
 花江が暗い顔のみんなを励ました。
「何でもない時に、格好つけるのは誰にだってできるけど、困った時にがんばれる人は、そんなにいるもんじゃないからね。そんな時にこそ本音が出るってもんさ。亀ちゃんは、どっちの人間だい? もうだめだって思うのか、何くそって思うのか?」
 花江に訊かれた亀吉は、泣きそうだった顔を引きしめて言った。
「何くそて思う」
「だろ? 新ちゃんはどうだい?」
「あしも何くそて思う」
 新吉が亀吉に負けないように胸を張ると、花江は嬉しそうに笑った。
「だと思った。亀ちゃんも新ちゃんも男の子だもんね。じゃ、豊ちゃんは?」
「あしも……、あしも何くそて思う」
 豊吉は下を向いて言った。
「でも、本当はちょっと怖いんだろ?」
 花江が訊ねると、豊吉は素直にうんと言った。花江は笑い、みんなも笑った。これで雰囲気が少し明るくなった。
 花江は今度は弥七にたずねた。
「弥さんの気持ちはどうなんだい?」
「あしは……」
 弥七は困ったように口籠もった。
「あしは? 何?」
 花江が促すと、弥七は千鶴を見ながら言った。
「あしはこの店を護る」
 へぇと花江は目を丸くした。弥七の返事には千鶴も驚いた。さすがは花江だと感心するしかない。
 花江は最後に辰蔵に言った。
「辰さんは何も言う必要ないもんね。辰さんもこのお店を護るんだろ?」
 花江の口調はそれまでとは違って、優しげで遠慮がちになった。最後の言葉を喋った時、辰蔵に向けられた花江の目は少し哀しげに見えた。
「あたしは番頭じゃけん」
 辰蔵はそれだけを言った。
 だよね――と花江は明るく笑った。だが、千鶴には花江が泣きそうな顔に見えた。

      二

 甚右衛門は豊吉を呼ぶと、トミが書いた手紙を持たせ、幸子に届けるよう命じた。その手紙には、千鶴の証言と口裏を合わせるための指示が書かれていた。
 警官より先に手紙を届ければ、証言に食い違いが出ることを防げるのだが、手紙を届けるところを警官に見られてはまずい。
 そこで甚右衛門は豊吉に、走って行く先に警官を見つけたなら、別の道を通って警官よりも先に病院へ行くよう言い添えた。
 豊吉は力強く返事をすると、ぱっと走って行った。体は小さいが足は亀吉や新吉たちよりも速い。機転も利くので、豊吉は新参者ながら甚右衛門に信頼されていた。
 一方で、いつもであれば幸子を送り届けた進之丞が戻って来る時刻になったが、進之丞は戻って来なかった。
 もしや何かがあったのかと甚右衛門たちが心配していると、しばらくして進之丞は豊吉と一緒に戻って来た。病院から戻る途中で豊吉を見つけた進之丞は、話を聞いてもう一度病院へ同行したのだそうだ。
 甚右衛門はすぐに豊吉を奥に呼び入れ、ちゃんと手紙を渡せたかと訊ねた。
 主人夫婦に迫られた豊吉は、緊張した様子で答えた。
「えっと、ちゃんと預けて来たぞなもし」
「預けた? 誰にぞ?」
 甚右衛門が眉根を寄せてただすと、豊吉はおびえたように小さくなって、受付の人――と言った。
「何ぃ? 受付の人?」
 甚右衛門が大きな声を出すと、豊吉はさらに小さくなった。
「幸子に手渡したんやないんか?」
 トミが訊ねると、豊吉は下を向いたまま目だけでトミを見た。
「幸子さんに手紙て言うたら、渡しとくけんて言われたけん……」
 あぁとうめきながら、甚右衛門は額に手を当てた。もし幸子が警官に千鶴と違う証言をしたなら、これはどういうことかと警官は不審に思うに違いない。
「忠七が一緒やったんやなかったんか!」
 甚右衛門の叫びのような声が聞こえたようで、帳場から進之丞が顔を出した。
 豊吉が病院にいる幸子へ手紙を届ける時に、一緒にいなかったのかと甚右衛門が問うと、進之丞は警官がすでにいたと言った。
 二人が病院に着いた時、まさに警官が中へ入ろうとしていたそうで、進之丞は咄嗟とっさに警官を呼び止めて、道を訊ねるふりをしたと言う。
 豊吉はその隙に先に病院へ入り、受付へ手紙を渡したということだった。幸子に直接渡したかったが、中は患者で混み合っていて、幸子を呼び出してもらうことはできなかったらしい。
 豊吉はできる限りのことをしたのである。豊吉を責めても仕方がない。あとは警官が来る前に、手紙が幸子の手に渡るのを祈るばかりだ。
 甚右衛門もトミも豊吉に文句を言うのはやめた。しかし、幸子がどうなったのかが心配なようで、二人とも怖い顔をしたままだ。
 豊吉は自分が何か失敗をしでかしたのではないかと、不安になっているようだった。
「豊吉さん、だんだんな。あげなとこまで走っておいでたけん、喉渇いたろ? 今、お水汲んであげよわいね」
 千鶴が笑顔で声をかけたが、豊吉は小さくうなずいただけで、おどおどしている。
 心配するなと言わんばかりに、進之丞は豊吉の頭を撫でて帳場へ戻って行った。
 その帳場から亀吉と新吉がそっとこちらをのぞいていた。豊吉が叱られているようだったのが気になったようだ。二人とも手紙の内容は知らないし、甚右衛門たちが何を問題にしているのかはわからない。
 二人は進之丞に促されて帳場へ姿を消し、千鶴は豊吉に水瓶から汲んだ水を飲ませてやった。
「豊吉さん、進さんとはどこら辺で一緒になったん?」
 千鶴は豊吉を元気づけようと話しかけた。だが、豊吉は水を飲むのをやめると、妙な顔で千鶴を見た。
「新さんは一緒やないし。途中で一緒になったんは忠さんぞな」
 まずいと思った千鶴は懸命に笑みを繕いながら、間違まちごうた――と言った。
「全く、おら、何言うとるんだか。忠さんて言おうとしたのにな」
「おら?」
 豊吉ばかりか、甚右衛門たちまでもが顔をしかめている。
 千鶴は固まった顔を両手で押さえ、今のは嘘、嘘!――と大慌てで訂正した。
「千鶴ちゃん、大丈夫?」
 花江が怪訝けげんそうにしながらも、くっくっと笑っている。
 千鶴の失言は緊張を和らげるのには役立ったようだが、甚右衛門とトミの二人は、こんな時に何を言っているのかと言いたげだ。
 焦りまくった千鶴は、もう一度豊吉に訊ねた。
「忠さんとはどこで一緒になったん?」
「日赤病院の辺り」
 千鶴はどきりとした。
 日赤病院があるのは東のお堀の脇で、お堀に沿った道が一番町の方へ曲がる角地に建てられている。
 電車が通る道を挟んだ北側には、日本赤十字社松山支部の建物がある。その脇の道は千鶴たちが特高警察に連れ込まれた道であり、進之丞が鬼に変化へんげした場所でもあった。
「あそこからお城山に登る道があるじゃろ? そこにね、人がようけ集まりよったんよ」
 まさに豊吉にその場所のことを言われ、千鶴は体を強張らせた。
「人って、どんな人だい?」
 すかさず花江が訊ねた。
「お巡りさんと、洋服着た人ら」
「みんな男の人かい?」
 うんとうなずき、豊吉は残っていた水を飲んだ。
 千鶴は甚右衛門とトミを見た。新たな特高警察が来たに違いなかった。甚右衛門たちもそう思ったようで、二人とも険しい顔をしている。花江を見ると、花江も不安げな顔を千鶴たちに向けていた。
「ほんで進さんは、そっからまた病院まで一緒に行ってくれたんじゃね?」
 千鶴が気を取り直して訊ねると、豊吉がじっと千鶴を見ている。
「どがぁしたん?」
「ほじゃけん、新さんやのうて忠さんやし」
 もう笑うしかないが、顔がうまく動かない。
 ご苦労じゃった――と甚右衛門は豊吉をねぎらい、店に戻って忠七にここへ来るようにと伝えさせた。
 豊吉が帳場へ行くと、すぐに進之丞がやって来た。
「ご苦労じゃったな。今、豊吉から話を聞いたが、日赤病院の向こうに妙な連中がおったそうじゃな」
 甚右衛門が訊ねると、進之丞はうなずいた。
「あれは間違いのう特高警察ぞなもし」
 やっぱしほうかと言うと、甚右衛門は落ち着きを失ったようにそわそわし始めた。
「ほんまに特高なんか? 何ぞの間違いやないんかな?」
 トミがうろたえた様子で進之丞に言った。進之丞はもう一度、間違いないぞなもしと言った。
「警官らに対して、偉そにしよりましたけん」
 甚右衛門はトミに言った。
「忠七の言うことに間違いないじゃろ。城山で見つかった奴らは、日赤病院に運ばれたそうなけん。そいつらは今朝方松山に着いて、病院で前の男らを確かめたあと、あの場所を調べよるんぞな」
「ほやけど、ここへ警官が千鶴の話聞きに来たんは、さっきのことじゃろ? ほれやのに、なしてその場所のことがわかるんぞな?」
 トミの疑問はもっともだったが、兵隊じゃろと甚右衛門は言った。
「あの晩、お堀の中の兵隊ががんごの声を聞いたて言いよったろ? ほじゃけん、あの辺りを調べよるんじゃろ。あそこには城山へ登る道もあるけんな」
 トミは不安げに言った。
「前の連中が千鶴らをつらまえようとしたことがわかったら、いきなしここ来て、千鶴を連れて行ことするんやなかろか」
「そげなことしよったら、ほれこそわしが連中を撃ち殺したらい」
 甚右衛門が憤ると、トミは悲壮な声を上げた。
「ほんなことなったら、うちらはおしまいぞな」
「千鶴を連れて行かれたら、そこでおしまいぞ」
 ほじゃけんど――とトミは尚も言った。
「幸子かて危ないぞな。千鶴はここにおるけんど、幸子は一人でおるけんね。病院に乗り込まれたらどがぁしよ?」
「ほん時は、おらが命に代えて連れ戻しますけん」
 進之丞が静かに言った。少しも気負ったところがない物言いからは、進之丞の覚悟と気迫が伝わって来る。
 甚右衛門は黙ってうなずくと、進之丞の両手をしっかり握った。
 トミも緊張した様子で、頼むぞなと進之丞に言った。
 千鶴は進之丞を信頼しているが、それでも特高警察との争いで、進之丞が本性を見せないという保証はない。それだけが心配で不安だったが、進之丞は千鶴を見るとにっこり微笑んだ。余計な心配はするなということだろう。それでもそれは無理な話である。
 特高警察は有無を言わせず相手を捕まえる。しかも仲間が謎の死をげたのである。真相解明のためには手段を選ばないだろう。怪しいとにらんだ者は、何の証拠がなくても難癖をつけて捕まえて、無理やり自白させようとするに違いない。
 そんな場面に出会でくわしたなら、進之丞は再び鬼に変化へんげするかもしれないのだ。大丈夫と言われても、安心などできるわけがなかった。

 夕方、幸子が護衛役の進之丞と一緒に戻って来た。
 甚右衛門とトミはすぐに幸子を中へ招き入れると、警官が来たかと訊ねた。
 幸子はうなずき、朝に訪ねて来られたけれど、診療が忙しかったので、お昼休みの時間に来てもらうことになったと言った。
 千鶴はほっとした。手紙を届けたすぐあとに、警官と母が会うことになっていれば、手紙を読む暇はなかったかもしれない。
 祖父母も少し安堵したようだ。
「ほれで手紙は? あんた、手紙は受け取ったんか?」
 トミが待ちきれない様子で訊ねた。幸子はうなずくと、受け取ったと言った。
「お巡りさんにいっぺん引き取ってもろたあと、しばらくしてから奥さんが忘れよった言うて渡してくれたぞな」
 まさに間一髪である。甚右衛門は苦々しそうな顔をしながらも、受け取ったんならえぇわい――と言った。
「ほじゃけん、お昼にまたお巡りさんがおいでた時に、手紙に書かれたとおりに説明したんよ。ほしたらな、お巡りさんに妙な顔されたぞな」
「妙な? なしてぞ?」
「八股榎の所を曲がったら、がんごの声が聞こえたて言うたんよ。ほしたらな、なして鬼やとわかるんぞなて言われてしもたし」
 甚右衛門は眉をひそめて言った。
がんご? なしてそがぁなことを」
「ほやかて手紙にそがぁ書いてあったんやもん。えぇんかいなと思いもって言うたら、やっぱしいけんかったみたいなね」
 手紙を書いたのはトミである。じろりと甚右衛門が見ると、トミは横を向いて知らんぷりをした。
「ほれで、どがぁしたんぞ?」
 幸子に顔を戻した甚右衛門が困惑顔で訊ねた。幸子は笑うと、うまいこと話しといたけん――と言った。
「あげなおとろしい声いうたら、がんごしか思いつかんて言うたんよ。ほしたらまぁ、納得してくれたみたいじゃった」
 幸子が懐から取り出した手紙を受け取った甚右衛門は、急いで中を確かめた。すると、確かに鬼という言葉が書かれてある。甚右衛門は呻き声を上げた。
「ほんでも、取りえずはうまく行ったいうことぞな」
 トミが開き直ったように言った。
 甚右衛門は横目でトミを見たあと、とにかく特高警察には気をつけねばと言った。

      三

「ほれじゃあ、行て来ます」
 母や祖父母に声をかけると、千鶴は油紙の包みを胸に抱えて、郵便局へ向かった。お供に進之丞がついてくれている。
 この日は日曜日。母が家にいる日なので、家事は母と花江に任せられる。
 しかし進之丞には仕事がある。それにあまり支障を来さないように、郵便局が開く時刻に合わせての早い時間の外出である。
 郵便局があるのは八股榎があるお堀の角から、少し南に下った所にある東西に走る通りだ。急いで行って戻れば、進之丞が太物屋を廻る時刻には十分間に合う。
 包みの中身はミハイルとスタニスラフに作った着物だ。いつ二人が日本をつのかわからないので、母と二人で大急ぎで縫い上げた物である。
 本当はスタニスラフのために作った着物を送るのに、進之丞について来て欲しくはなかった。
 進之丞は気にしている様子はないが、千鶴は進之丞に対する後ろめたさが一杯だった。
 しかし特高警察のことがあるので、一人で出るわけには行かないし、丁稚がお供では特高警察に襲われた時に対処ができない。
 祖父母は亀吉に行かせればいいと言ったが、やはりスタニスラフのために作った着物は、自分の手で送りたかった。だからこそ、進之丞に対して後ろめたく思うのである。
 数日前、進之丞と豊吉がお堀の近くで特高警察らしき者たちを目撃した。それ以来警戒はしているものの、千鶴たちの前に特高警察は現れていない。
 あれから一般人の城山への出入りは禁止されているので、今は特高警察は城山を徹底的に調査しているのかもしれない。だが、男たちが最後に接触したと思われる者を、調べずにおくとは思えなかった。いずれは必ず姿を見せるであろうから油断はできない。
 この日、千鶴が外へ出るのは、特高警察の様子を確かめる意味もあった。もしどこかで千鶴の動向を見張っていたのだとすれば、恐らく接触を図るに違いないからである。
 それを提案したのは進之丞だが、甚右衛門はその提案を受け入れた。それは進之丞を絶対的に信頼しているということだ。
 進之丞と二人で外へ出ているのだから、本当であれば、千鶴は浮き浮きしながらお喋りをするところである。しかし、今はそんな状況ではない。
 特高警察の心配もあるし、スタニスラフへの荷物を送るのが用事である。進之丞と楽しく喋る気分でもないし、進之丞も黙ったまま歩いている。
 それを残念に思いながら、千鶴はこの一週間を振り返った。
 父ミハイルが突然現れたのが、ちょうど一週間前の日曜日だ。絶対に会うことはないだろうと思っていた父が、つい一週間前に現れたのである。
 しかも父が語る千鶴の高祖父は、前世を生きた父自身だった。
 そのことに加えて、憧れていた萬翠荘での晩餐会や舞踏会に招かれ、特高警察にも捕まった。そして鬼が姿を現し、その鬼の正体が進之丞だと知った。
 あまりにもいろんなことがこの一週間で起こり、何もかもが夢だったのではないかと思えるが、全ては事実である。その証拠に自分は今、こうして神戸へ送る着物を抱いて郵便局へ向かっている。

 結局、千鶴たちは特高警察には出会でくわさないまま、郵便局に到着できた。
 荷物の包みには、差出人として山﨑機織と書き記してある。それをしっかりと確かめると、千鶴は包みの品を受付の者に預けてお金を支払った。これで仕事は完了だ。
 父とスタニスラフへの約束を果たし、千鶴はほっとした。特にスタニスラフに対して、するべきことを終えた気分だった。
 スタニスラフは松山に戻って来ると言っていた。だが、実際は無理だろうと千鶴は考えていた。
 近々ヨーロッパへ移住するのだから、松山へ戻るなんてできるはずがない。自分だけ残るなんて言えば、母親に松山での秘密が知れてしまうだろう。そうなると絶対に猛反対されるだろうから、戻って来られるわけがないのだ。
 それに戻って来たとしても、自分はスタニスラフの気持ちに応えることはできない。だから、そうなるのが望ましいという想いも、千鶴の頭にはあった。
 ただ、せっかく会えた父に再び会えなくなるのは、やはり切なかった。
 できれば父が母と一緒に暮らせたならばと思うのだが、父には新たな連れ合いがいるし、母も辰蔵と夫婦になることになっている。どう考えても無理な話であり、それが二人の定めであるとするならば、定めとは無情なものだと考えざるを得なくなる。
 そして、それは自分と進之丞についても言えることだ。
 今の自分たちが置かれた状況を考えると、自分たちが従う定めというものも、やはり無情なものに違いない。どんなにあらがおうとしても、それが定めであるならば、そこから逃れることはできないのである。
 それでも自分は、何があっても進之丞とともにいると改めて心に誓うと、千鶴は隣にいる進之丞を見た。
 進之丞は辺りを警戒している様子だったが、千鶴と目が合うと嬉しそうに笑った。
 千鶴は進之丞に腕を絡めたい衝動に駆られたが、人前でそんなはしたないことはできない。こうして横並びに歩くことさえはばかられるのだが、それが二人にできるせめてものことだ。
 心の中で進之丞に体を預けると、進之丞の温もりが千鶴を抱き留めてくれる。それは本当に抱かれているようで、スタニスラフのことも特高警察のことも忘れさせてくれる優しさを千鶴は感じていた。行き交う人々もいないのと同じくらいに気にならない。
 これからの自分たちの暮らしも、ずっとこんな感じであればいいのにと願いながら、千鶴は進之丞とともに歩き続けた。

      四

 千鶴たちが家に戻ると、辰蔵が座る帳場に甚右衛門もいた。弥七は亀吉と太物屋へ出かけたようだ。
 何か辰蔵に指示を出しているのかと思ったが、そうではなさそうだ。甚右衛門は座ったまま、不機嫌そうに煙管を吹かしていた。
「ただいま戻りました」
 千鶴が声をかけると、お戻りたかなと辰蔵が笑顔で言った。しかし甚右衛門は仏頂面で、あの女が来とる――と店の奥の方へ顎をしゃくった。
 奥の方から賑やかな女の声が聞こえている。坂本三津子だ。
 トミは我慢がならず、一人でどこかへ行ってしまったと甚右衛門は言った。
 本当ならば追い返すか、幸子と一緒に外へ出すところだが、今回三津子は千鶴の顔を見るまで帰らないと言い張ったらしい。
 千鶴は困惑した。だが逃げるわけにもいかない。千鶴が顔を見せなければ、三津子はずっと中にいることになる。
 帳場に進之丞を残して恐る恐る中へ入ると、台所には誰もいないようだ。勝手口の向こうに見えた奥庭で、花江と新吉と豊吉の三人が洗濯物を干している。
 茶の間は障子が閉めきられていて、中から三津子の賑やかな声が聞こえる。
 千鶴は音を立てないようにしながら勝手口まで移動すると、花江たちにそっと声をかけた。
 花江が潜めた声で、お帰んなさい――と言うと、新吉と豊吉は元気な声で、お戻りたかと言った。すると、茶の間の障子がさっと開いて、片手に煙草をくゆらせた三津子が現れた。
「あらぁ、千鶴ちゃん、お帰りたかな。あなたのこと、ずっと待ちよったんよ」
 花江が慌てたように、声を出さずに新吉たちを叱った。二人は自分たちのせいで千鶴が見つかってしまったとわかり、しょんぼりと目を伏せた。
 千鶴は後ろを振り向きたくなかったが、そういうわけにはいかない。一つ息を大きく吸ってから、くるりと後ろを向いた。
「うちを……ですか?」
 三津子のことは祖父から聞いて知っていたが、千鶴はとぼけたふりをした。
「ほうやんか。あなた、新聞に載ったじゃろ? ロシアの貴公子と一緒の絵ぇは、まるでお姫さまみたいやったぞな。ほんまに腹立つぐらい幸せそうなんじゃもん。これは大事おおごと思て来たんよ。ほんまは、もっと早よ来るつもりじゃったけんど、何かとせわしいて今日になってしもたぞな。勘弁してね」
 何を勘弁しろと言うのか。千鶴はいらだちを抑えながら、新吉と豊吉に進之丞が戻ったと伝え、自分の仕事に戻るように言った。
 新吉たちがいなくなると、三津子はいろいろ話を聞かせてちょうだいと言って、千鶴を茶の間へ引き入れようとした。しかし、千鶴は花江を手伝わないといけないからと言って断った。
 それを素直に聞く三津子ではなかったが、幸子がまだ掃除やお昼の用意もしないといけないからと言うと、ようやく引き下がった。
 それでも昼飯に交ざろうと思っているのか、三津子は腰を上げなかった。
 千鶴は奥庭に出ると、残っていた洗濯物を花江と一緒に物干し竿に広げた。
 花江は洗濯物を干しながら、三津子は千鶴が家を出たのと入れ替わりでやって来て、それからずっといるとぼやいた。
 幸子は三津子の相手をせざるを得ず、突然三津子が来たことで幸子も困っているらしかった。
「迷惑だったら迷惑だって、はっきり言ってやればいいのにさ。幸子さん、案外気弱で言えないみたいだね」
 不満をこぼす花江に、昔いろいろ世話になったみたいだからと、千鶴は母をかばった。
 二人が洗濯物を干し終えて台所へ戻って来ると、煙草を吹かせていた三津子は、待ってましたとばかりに千鶴に話しかけた。
「千鶴ちゃんと幸ちゃんが萬翠荘に招かれたあの晩、すぐ裏のお城山でおとろしいことがあったんやてねぇ。千鶴ちゃん、知っておいでる?」
「新聞に載っとりましたけん、知っとりますけんど、ほれ以上のことは知りません」
 一応返事はしたが、千鶴は三津子に背中を向けたまま、隣の部屋の掃除に取りかかった。
おんなし晩の話やけんど、何も見たり聞いたりしとらんの?」
 はいとだけ千鶴は言った。無視をされているのはわかりそうなのに、三津子は全く気にしていない。
「ほれにしても、千鶴ちゃんや幸ちゃんが化け物に襲われんでよかったわいねぇ。けんど、お城山にはいつからそがぁな化け物が棲みつくようになったんじゃろか。昔はそげなことはいっぺんもなかったんやけどねぇ」
 三津子は隣にいる幸子に同意を求めた。幸子は苦笑いをしながらうなずいた。家事を手伝えないことで、千鶴や花江に申し訳なさそうな顔だ。
 花江は昼と夕方の食材を確かめている。必要な物があれば、買いに出なければならない。
 帳場から新吉と豊吉が土間を通り抜けて奥庭へ出て行った。これから太物屋へ運ぶ品を蔵から出すのだろう。いつもなら進之丞も手伝うのだが、この日は顔を見せない。
「ほんでも、ちぃと前には風寄で化け物の話があったやんか? ひょっとして、ほれと何ぞ関係があるんやなかろか。千鶴ちゃん、どがぁ思う?」
 ぎくりとした千鶴は、わざとばたばたしながら返事だけした。
「すんません。うち、ちぃとわからんけん。お母さんに聞いておくんなもし」
 母には悪いが三津子を親友と言う以上、責任をもって三津子の応対をしてもらわなければならない。
「やっぱし鬼除がんごよけの祠がめげてしもたせいじゃろかねぇ?」
 千鶴は思わず三津子を振り返った。三津子はにやにやしながら、千鶴を見ている。
「あら、うち、何ぞ余計なこと言うたかしら?」
「三津子さん、その話はどこで聞きんさったん?」
 幸子が驚いた様子で訊ねた。三津子はふぅと煙を吐き出すと、以前に見た大阪の錦絵新聞に書いてあったと言った。それは畑山が書いた錦絵新聞に違いない。
「大阪の錦絵新聞て、そげなもんどこで見たん?」
「ちぃと大阪に用があって、しばらく向こうにおったんやけんど、ほん時に見たんよ。ほんでも、ほれから一年以上なるのに風寄では何も起こらんけん、どがぁしたんじゃろかて思いよったとこに、今度の事件じゃろ? ほれで、風寄のがんごがこっちへ移って来たんじゃろかて思たんよ」
 好い加減な人だと思っていたが、どうして結構鋭いと、千鶴は三津子を警戒した。母にも思いがけないことだったようで、動揺を隠せないようだ。
 三津子が喋っている間に、新吉と豊吉が反物の箱を抱えて入って来た。二人が帳場へ行くのを見送ってから花江が話に混ざった。
「風寄の鬼がどうして松山へ来るんだい? 他の所へ行ったっていいだろうに、どうして松山なのさ?」
 花江は鬼の話に興味を持ったのかもしれない。だが、その口ぶりは千鶴をかばってくれているようでもあった。
 突然の女中の参戦に三津子は目を丸くした。しかし、すぐににこっと笑うと、がんごめぞな――と言った。
「昔、風寄の法生寺にはがんごめいうがんごの娘がおったそうな。鬼はそのがんごめを追いかけて、松山へ来たんかもしれんぞな」
 新吉たちが再び土間を通り抜けて行き、二人がいなくなると花江は三津子に訊ねた。
「何で、そのがんごめが松山にいるんだい?」
「さぁねぇ。ほれはがんごに訊いてみんとわかるまいねぇ。ほんでも、松山は人が多いけん、がんごめにしたら人にまぎれておりやすいんやなかろか。風寄みたいなとこにおったら、白い娘はどがぁしても目立ってしまうけんねぇ」
 ねぇ、千鶴ちゃん――と三津子は千鶴に声をかけた。
 楽しげなその目がとても冷たく見えたので、わかりませんと答えて、千鶴はまた三津子に背を向けた。
 花江も喋るのをやめると、千鶴に声をかけて買い物に出かけた。幸子も黙ったままで、嫌な雰囲気が広がっている。
 それでも三津子は全く平気な様子で、ぷかりと煙を吐いた。

      五

「あの、お話し中にすんません。おかみさんからの言伝ことづてで、幸子さんに今すぐ雲祥寺まで来て欲しいとのことです」
 帳場から進之丞が現れて幸子に声をかけた。
「あら、こないだのお人じゃね。お元気?」
 三津子が声をかけると、進之丞は愛想よく頭を下げた。
「あなた、千鶴ちゃんがロシアの貴公子と一緒になるて、ご存知なん?」
「いえ、おらは何も」
「あら、ほうなん? お見受けしたとこ、あなた、千鶴ちゃんとはええ仲に見えたけんど、何も聞かされとらんわけ?」
「おらは仕事が忙しいですけん」
 進之丞をからかう三津子に、千鶴は腹が立った。一言言ってやろうと思ったら、だんだんね、忠さん――と幸子が言った。それは仕事に戻ってくれという意味で、進之丞は頭を下げて帳場へ戻った。
「三津子さん、ごめんなさい。うち、行かんといけんけん、お話の続きは、また今度にしよ」
「あら、ほうなん? もうじきお昼やのに?」
 もうじきとは言っても、まだ昼飯までは時間がある。だから花江が買い物に出たのに、三津子はまだ居座るつもりのようだ。
「どんくらい時間がかかるかわからんけん、また今度にしよ」
 幸子は申し訳なさそうにしながら、また今度と繰り返した。それで三津子は、仕方しゃあないわねぇ――とようやく重い腰を上げた。
「千鶴ちゃん、残念なけんど、近いうちにまた来るけんね」
 三津子は千鶴に声をかけると、幸子について出て行った。
 千鶴は一応会釈を返したものの、もう来なくていいと心の中で三津子に言ってやった。
 母と三津子がいなくなると、千鶴一人が残された。騒々しい三津子がいないからか、がらんとした台所は物寂しげだ。
 千鶴は掃除を再開しながら、祖母が母を雲祥寺まで呼ぶなんて、何があったのだろうかと考えた。そんなことは今まで一度もない。
 それに特高警察のことを考えれば、母を一人で寺へ呼ぶというのは危険なことのように思われた。母の病院の行き帰りには、進之丞が護衛として同伴しているのである。
 それに祖母は一人で出かけたというのに、何故進之丞が祖母の居場所を知っているのか。誰かが祖母からの言伝ことづてを持って来てくれたのだろうか。
 掃除の手を止めながら千鶴が考えていると、母が戻って来た。祖母はいない。母一人だ。
「あれ? おばあちゃんは?」
 千鶴がたずねると、幸子は首を横に振り、さっきの話はおじいちゃんが企てたことだったと言った。
 幸子と三津子が外へ出たところで、旦那さんが呼んでいると言って、進之丞がすぐに幸子だけを呼び戻したそうだ。
 三津子は一緒に雲祥寺へ行くつもりだったのか、外で幸子を待っていたらしい。しかし幸子が顔を出して、少し込み入った話になったからと言って、三津子一人を帰らせたと言う。
「今度からここに来るなと、あいつに言うとけ!――ておじいちゃんに叱られてしもたぞな」
 それはそうだろう。三津子に再々来られたのでは、店の仕事ばかりか、家のことまでもが滞ってしまう。
 それは母もわかっていたようで、次に三津子さんに会うまで、しばらく間を空けることにしたと言った。
 幸子は二階の掃除をして来ると言って、階段を上がって行った。
 母を見送りながら、それにしても――と千鶴は思った。
 りに選って、三津子があの畑山の錦絵新聞を目にするとは思ってもみなかった。
 錦絵新聞に書かれていたことを、三津子があちらこちらで喋って廻ると、城山の騒ぎはどんどん大きくなるだろう。また、三津子の性格を考えると、そうなるのは必至であるように思えてしまう。
 一番困るのは、進之丞が再び鬼に変化へんげすることだ。そうならないよう努力はしても、実際はどうなるかはわからない。
 しかし、もし進之丞が人間に戻れたなら、鬼に変化へんげするかもしれないと恐れる必要はなくなる。そうなれば、いくら世間が鬼だ化け物だと騒いだところで、関係ないとやり過ごせばいいのだ。
 それに、これ以上変化へんげを繰り返せば、人間の姿に戻れなくなるかもしれないと進之丞は言った。それは進之丞にとってはもちろん、千鶴にしても最悪の状態だ。
 それを避けるためにも、進之丞を人間に戻さなければならない。だが、どうすればいいのかがわからなかった。
 そもそも進之丞が鬼になった理由が、千鶴には今ひとつはっきりしない。人を殺したからなどと進之丞は理由を説明したが、その説明で納得できたわけではない。むしろ、それだけが理由で鬼になるはずがないと千鶴は思っていた。

 新吉と豊吉が何度か土間を往復したあと、弥七と亀吉が戻って来た。新吉たちはただちにからの大八車に、自分たちが帳場へ運んだ品を積込み始めた。もちろん進之丞も手伝っている。
 積込み作業が終わると、進之丞と新吉は大八車を引いて出て行った。
 台所から土間を通して、進之丞たちが大八車を引いて行くのを見送りながら、千鶴はため息をついた。
 進之丞はなかなか本当のことを話してくれない。前世の記憶を持っていることも、初めは黙っていた。
 千鶴が前世を思い出したことで、ようやく自分が進之丞であると認めたが、その時点では鬼になったことは喋らなかった。
 もちろん簡単に話せることではないので、鬼であることを隠していたのは理解できる。それでも進之丞が本当のことを、全部は喋っていなかったというのは事実である。
 それが千鶴の前で鬼に変化へんげしてしまったことで、進之丞は洗いざらいを喋らざるを得なくなった。今度こそ全てを話してくれたと、そう千鶴は受け止めていた。
 それでも一点だけ納得のいかないことがあった。それが進之丞が鬼になった理由である。
 これについては、進之丞はまだ本当のことを隠しているように思えてしまう。今の説明とは別の本当の理由があるように千鶴は感じていた。
 だが残念なことに、進之丞が鬼になったと思われる頃の記憶は、千鶴には戻っていなかった。もしその場に自分がいたのであれば、進之丞が鬼になった理由がわかるはずだ。そして実際自分はその場にいたのである。
 進之丞は千鶴をさらった鬼と戦い、自らが鬼になって相手の鬼を諭したと言った。
 その場面の記憶を取り戻せたら、どうして進之丞が鬼になったのかがわかるだろう。それはきっと進之丞を人間に戻す手掛かりになると千鶴は考えた。
 それにしても、何故進之丞は本当の理由を隠すのか。恐らく進之丞は千鶴には言えないような、余程のひどいことをしてしまったのかもしれない。そうでなければ進之丞のような人間が鬼になるはずがない。
 ただ、人の命を奪うこと以上にひどいことというものが、千鶴には思い浮かばなかった。
 それに進之丞が何か恐ろしいことをしたのだとして、それが何なのかを確かめたところで、進之丞を人間に戻せるとは限らない。
 たとえば進之丞が言うとおり、人をあやめたから鬼になったのだとしても、それがわかったところで、進之丞を人間に戻すことはできない。死んだ人間を生き返らせない以上、犯した罪を償うことは無理である。
 だが、そんなこととは別の理由で鬼になったとも考えられる。たとえば千鶴を攫った鬼から呪いを受けたということだ。
 しかし、その鬼は進之丞に諭されて改心したらしいから、鬼に呪いを受けたのであれば、その呪いを解いてもらえそうなものだ。
 となれば、また別の理由を考えねばならないが、とにかく何か呪いを解けば元に戻るような、そんな事情で進之丞が鬼になったのだとすれば、それを知ることは無駄ではない。
 望みは薄いかもしれないが、それを確かめるのは自分の責任だと千鶴は感じていた。
 いずれにしても、千鶴にはそれを確かめるすべがない。どうすればと悩み続けた時、千鶴の頭に浮かんだ人物がいた。井上教諭だ。
 千鶴が学校をやめるとなった時、井上教諭は催眠術で千鶴の記憶を消してみることを勧めた。その催眠術では過去の記憶を探ることもできると教諭は言っていた。
 井上教諭に催眠術をかけてもらえば、もしかしたら進之丞が鬼になった時の状況を、思い出せるかもしれない。
 そう考えると、千鶴は居ても立ってもいられなくなった。だが、教諭は三津浜である。
 学校をやめた千鶴が三津浜へ行くことはない。三津浜へ出かける理由を探したが、そんなものは見つからなかった。何かのついでにちょっと立ち寄るにしては、三津浜はあまりにも遠過ぎた。
 それに今は特高警察が問題だ。特高警察がいる限り、近くに出ることさえ注意が必要な状況だ。三津浜なんて行けるわけがない。
 進之丞を人間に戻すには、井上教諭しか頼れる人はいない。それのに千鶴は教諭の近くへ行くことができないのだ。
 とにかく今できることは、進之丞を鬼に変化へんげさせないことだ。いつか井上教諭に相談ができるまで待つしかない。それまでは絶対に進之丞を怒らせない。今はそれしかないと千鶴は思った。
 そのためにも、自分はいろいろ慎重でいなければならない。千鶴は一人うなずいた。