残された謎
一
特高警察に逮捕されそうになったことは聞いていたが、化け物の声のことは聞いていないと、花江は千鶴に文句を言った。その裏には、自分がぐっすり眠っていたために、その声を聞き逃した残念な想いがあるようだ。
前に鬼の話をした時に、花江があんまり怖がっていたようだったので、声については喋るのをためらったと千鶴は弁解した。
そう言われると、花江もそれ以上は言えない様子だったが、城山には魔物がいると信じたようだった。そして、その魔物は風寄に現れた化け物と同じではないかと、疑っているようでもあった。
花江は千鶴たちが無事であったことを喜ぶ一方で、特高警察の男たちが死ぬ目に遭わされたのは、罰が当たったからだと言った。
とは言っても、今後は何も悪いことをしていない者が、魔物の犠牲になるかもしれないと、花江は興味を持ちながらも怯えていた。
帳場では辰蔵と弥七が巡査が来たことに驚いていた。二人には巡査と千鶴たちとの話は聞こえていなかったみたいだが、巡査が来たということは何かがあったと考えたようだった。
また、古町停車場から戻って来た亀吉たちも、店から出て来る巡査とばったり出会って仰天したようだ。慌てた様子で中へ入ると、何故巡査がいたのかと辰蔵たちに訊いていた。
甚右衛門はみんなを集めた。そこで、城山で瀕死の男四人が見つかったと、今朝の新聞に載っていたことを伝え、その男たちが特高警察の者だったと話した。
本当は三人が死んでいるのだが、それを言うとみんなが怖がると思ったのだろう。甚右衛門はそのことは伏せて、新聞記事の内容どおりに喋った。使用人で事実を知っているのは花江だけだ。
ざわつく使用人たちに甚右衛門は、巡査はその事件についての情報を訊きに来ただけで、別にどうということはないと言って落ち着かせた。
みんなは静かになったが、それでも千鶴たちを捕まえようとした男たちが、城山で瀕死状態になったという話に動揺していた。
男たちはどのような状態だったのかと新吉が訊ねたが、そこまではわからないと甚右衛門は言った。全身の骨が折れていたとは、とても言えないようだ。
だが、それはそれで妄想をかき立てられたみたいで、丁稚たちはひそひそと恐ろしげな様子を推測し合った。
弥七は丁稚たちの話を聞きながら顔をゆがませていたが、辰蔵は他のことを心配していた。
辰蔵は千鶴たちが男たちと関わりを持ったことで、あらぬ疑いをかけられたり、妙な噂を立てられないかと言った。それは千鶴たちを心配してのことだが、その話を聞いた弥七は、自分たちがそのように見られるのではないかと恐れたようだった。
弥七は錦絵新聞の畑山が、千鶴と鬼の関わりを口にしたのを耳にしている。そのためか千鶴に向けられた弥七の目には、恐れと疑いのいろが浮かんでいた。
もしかしたら男たちは千鶴と関わりを持ったがために、鬼に殺されたのではないかと、弥七は疑っているように見える。
そがぁ言うたら――と弥七が口を開くと、千鶴はびくりとした。
「仲買いの兵頭さんの家が、前に化け物に壊されたことがあったけんど、ほれと城山の話は関係なかろか?」
即座に甚右衛門は弥七の言葉を否定した。
「あの男も最初はそがぁなこと言いよったが、すぐにありゃ突風じゃったと言い直しとらい」
弥七は何か言いたげだったが、主人に逆らうことはできない。そのまま口を噤んだ。
しかし、弥七の言葉はみんなを刺激するのに十分だった。辰蔵も亀吉たちも口を半分開けたまま、目を見開いている。確かにそんなことがあったと思い出したのだろう。
「仮に城山に化け物がおったとしても、お前らが襲われるわけやなかろがな」
甚右衛門はいらだったように言った。だが、甚右衛門が化け物の存在を認めたように聞こえたのだろう。亀吉たち丁稚の三人は、却って泣きそうな顔になった。
魔物を恐れるのは亀吉たちに限ったことではない。他の店の丁稚にも言えることだし、松山中の子供たちが同じように考えているのに違いない。
また、化け物を恐れるのは子供ばかりではない。大人だって怖いものは怖いのである。
それに兵頭の家が壊れた事件の記事を読んだことがある者は、化け物の声という点で、二つの事件が似ていると気がつくはずだ。そして風寄と松山を結ぶ線上で、何かが起こっていると見るだろう。
千鶴たちが男たちと関わっていたと知れたらどうなるか。風寄の兵頭が山﨑機織に伊予絣を納める仲買人だと知る者たちは、二つの事件を結びつける接点として山﨑機織を捉えるに違いない。
弥七はもちろん、辰蔵でさえもそんなことを考えているような表情だ。丁稚たちはとにかく化け物を怖がっている。
特高警察の脅威はまだなくなっていないのに、みんながぎくしゃくしていたのでは、今の困難を乗り切ることは敵わない。だが、みんなを落ち着かせる言葉を、主である甚右衛門は見い出せないようだ。
トミは幸子への手紙を書きながら丁稚たちを叱りつけたが、まったく効果がない。当事者である千鶴も何も言えず困惑するばかりだ。
「ほらほら、みんな何をしょぼくれてんのさ。こんな時だからこそ気合いを入れなきゃだめだろ?」
花江が暗い顔のみんなを励ました。
「何でもない時に格好つけるのは誰にだってできるけど、困った時にがんばれる人は、そんなにいるもんじゃないからね。そんな時にこそ本音が出るってもんさ。亀ちゃんは、どっちの人間だい? もうだめだって思うのか、何くそって思うのか?」
花江に訊かれた亀吉は、泣きそうだった顔を引きしめて言った。
「何くそて思う」
「だろ? 新ちゃんはどうだい?」
「あしも何くそて思う」
新吉が亀吉に負けないように胸を張ると、花江は嬉しそうに笑った。
「だと思った。亀ちゃんも新ちゃんも男の子だもんね。じゃ、豊ちゃんは?」
「あしも……、あしも何くそて思う」
豊吉は下を向いて言った。
「でも、本当はちょっと怖いんだろ?」
花江が訊ねると、豊吉は素直にうんと言った。花江は笑い、みんなも笑った。これで雰囲気が少し明るくなった。
花江は今度は弥七に訊ねた。
「弥さんの気持ちはどうなんだい?」
「あしは……」
弥七は困ったように口籠もった。
「あしは? 何?」
花江が促すと、弥七は千鶴に顔を向けた。それで少し思案したあと花江に顔を戻し、開き直ったように言った。
「あしはこの店を守る」
へぇと花江は目を丸くした。弥七は鬼を恐れていただろうに、弥七の返事には千鶴も驚いた。さすがは花江だと感心するしかない。
花江は最後に辰蔵に言った。
「辰さんは何も言う必要ないもんね。辰さんもこのお店を守るんだろ?」
花江の口調はそれまでとは違って、優しげで遠慮がちになった。その目は少し哀しげに見える。
「あたしは番頭じゃけん」
辰蔵はそれだけを言った。
だよね――と花江は明るく笑った。だが、千鶴には花江が泣きそうな顔に見えた。
二
トミが書き終えた手紙を封筒に入れると、甚右衛門はそれを豊吉に持たせ、すぐに幸子に届けるよう命じた。その手紙には、千鶴の証言と口裏を合わせるための指示が書かれている。
甚右衛門は豊吉には手紙の内容は伝えず、巡査より先に手紙を幸子に届けるようにと言った。
巡査より先に手紙を届ければ、千鶴と幸子の証言に食い違いが出ることを防げる。だが、巡査がここを出てからしばらく経つので、急がねばならなかった。
豊吉は力強く返事をすると、ぱっと走って行った。体は小さいが足は亀吉や新吉たちよりも速い。機転も利くので、豊吉は新参者ながら甚右衛門に信頼されていた。
一方で、幸子を送り届けた進之丞が戻って来る頃合いになっていたが、進之丞は戻って来なかった。
もしや何かがあったのかと甚右衛門たちが心配していると、しばらくして進之丞は豊吉と一緒に戻って来た。病院から戻る途中で豊吉を見つけた進之丞は、話を聞いてもう一度病院へ同行したのだそうだ。
さすがは忠七ぞなと甚右衛門はうなずき、すぐに豊吉を奥に呼び入れた。そこで、ちゃんと手紙を渡せたかと主人夫婦に迫られた豊吉は、緊張した様子で答えた。
「えっと、ちゃんと預けて来たぞなもし」
「預けた? 誰にぞ?」
甚右衛門が眉根を寄せて質すと、豊吉は怯えたように小さくなって、受付の人――と言った。
「何ぃ? 受付の人?」
甚右衛門が大きな声を出すと、豊吉はさらに小さくなった。
「幸子に手渡したんやないんか?」
トミが訊ねると、豊吉は下を向いたまま目だけでトミを見た。
「幸子さんに手紙て言うたら、渡しとくけんて言われたけん……」
あぁと呻きながら、甚右衛門は額に手を当てた。もし幸子が巡査に千鶴と違う証言をしたなら、これはどういうことかと巡査は不審に思うに違いない。
「忠七が一緒やったんやなかったんか!」
甚右衛門の叫びのような声が聞こえたようで、帳場から進之丞が顔を出した。
豊吉が幸子へ手紙を届ける時に、一緒にいなかったのかと甚右衛門が問うと、進之丞は巡査がすでにいたと言った。
二人が病院に着いた時、まさに巡査が中へ入ろうとしていたそうで、進之丞は咄嗟に巡査を呼び止めて、道を訊ねるふりをしたと言う。
豊吉はその隙に先に病院へ入り、受付へ手紙を渡したということだった。幸子に直接渡したかったが、中は患者で混み合っていて、幸子を呼び出してもらうことはできなかったらしい。
豊吉はできる限りのことをしたのである。豊吉を責めても仕方がない。あとは巡査が来る前に、手紙が幸子の手に渡るのを祈るばかりだ。
甚右衛門もトミも豊吉に文句を言うのはやめた。しかし、幸子がどうなったのかが心配なようで、二人とも怖い顔をしたままだ。
豊吉は自分が何か失敗をしでかしたのではないかと、不安になっているようだった。
「豊吉さん、だんだんな。あげな所まで走っておいでたけん、喉渇いたろ? 今、お水汲んであげよわいね」
千鶴が笑顔で声をかけたが、豊吉は小さくうなずいただけで、おどおどしている。
心配するなと言わんばかりに、進之丞は豊吉の頭を撫でて帳場へ戻って行った。
その帳場から亀吉と新吉がそっとこちらをのぞいていた。豊吉が叱られているようだったのが気になったようだ。二人とも手紙の内容は知らないし、甚右衛門たちが何を問題にしているのかはわからない。
二人は進之丞に促されて帳場へ姿を消し、千鶴は豊吉に水瓶から汲んだ水を飲ませてやった。
「豊吉さん、進さんとはどこら辺で一緒になったん?」
千鶴は豊吉を元気づけようと話しかけた。だが、豊吉は水を飲むのをやめると、妙な顔で千鶴を見た。
「新さんは一緒やないし。途中で一緒になったんは忠さんぞな」
まずいと思った千鶴は懸命に笑みを繕いながら、間違うた――と言った。
「まったく、おら、何言うとるんだか。忠さんて言おうとしたのにな」
「おら?」
豊吉ばかりか、甚右衛門たちまでもが顔をしかめている。
千鶴は固まった顔を両手で押さえ、今のは嘘、嘘!――と大慌てで訂正した。
「千鶴ちゃん、大丈夫?」
花江が怪訝そうにしながらも、くっくっと笑っている。
千鶴の失言は緊張を和らげるのには役立ったようだが、甚右衛門とトミの二人は、こんな時に何を言っているのかと言いたげだ。
焦りまくった千鶴は、もう一度豊吉に訊ねた。
「忠さんとはどこで一緒になったん?」
「日赤病院の辺り」
千鶴はどきりとした。
日赤病院があるのは東のお堀の脇で、お堀に沿った道が一番町の方へ曲がる角地に建てられている。
線路を挟んだ北側には、日本赤十字社松山支部の建物がある。愛媛県庁のすぐ隣だ。その脇の道は千鶴たちが特高警察に連れ込まれた道であり、進之丞が鬼に変化した場所でもあった。
「あそこからお城山に登る道があるじゃろ? そこにね、人がようけ集まりよったんよ」
まさに豊吉にその場所のことを言われ、千鶴は体を強張らせた。
「人って、どんな人だい?」
すかさず花江が訊ねた。
「お巡りさんと、洋服着た人ら」
「みんな男の人かい?」
うんとうなずき、豊吉は残っていた水を飲んだ。
千鶴は甚右衛門とトミを見た。新たな特高警察が来たに違いなかった。甚右衛門たちもそう思ったようで、二人とも険しい顔をしている。花江も不安げな顔を千鶴たちに向けていた。
「ほんで進さんは、そっからまた病院まで一緒に行ってくれたんじゃね?」
千鶴が気を取り直して訊ねると、豊吉がじっと千鶴を見ている。
「どがぁしたん?」
「ほじゃけん、新さんやのうて忠さんやし」
もう笑うしかないが、顔がうまく動かない。
ご苦労じゃった――と甚右衛門は豊吉をねぎらい、店に戻って忠七にここへ来るようにと伝えさせた。
豊吉が帳場へ行くと、すぐに進之丞がやって来た。
「ご苦労じゃったな。今、豊吉から話を聞いたが、日赤病院の向こうに妙な連中がおったそうじゃな」
甚右衛門が訊ねると、進之丞はうなずいた。
「あれは間違いのう特高警察ぞなもし」
やっぱしほうかと言うと、甚右衛門は落ち着きを失ったようにそわそわし始めた。
「ほんまに特高なんか? 何ぞの間違いやないんかな?」
トミがうろたえた様子で進之丞に言った。進之丞はもう一度、間違いないぞなもしと言った。
「巡査らに対して、偉そにしよりましたけん」
甚右衛門はトミに言った。
「忠七の言うことに間違いなかろ。城山で見つかったやつらは日赤病院に運ばれたそうなけん。そいつらは今朝方松山に着いて、病院で前の男らを確かめたあと、あの場所を調べよるんぞ」
「ほやけど、ここへ巡査が千鶴の話聞きに来たんは、さっきのことじゃろ? ほれやのに、なしてその場所のことがわかるんぞな?」
トミの疑問は尤もだったが、兵隊じゃろと甚右衛門は言った。
「あの晩、お堀の中の兵隊が鬼の声を聞いたて言いよったろ? ほじゃけん、あの辺りを調べよるんじゃろ。あそこには城山へ登る道もあるけんな」
トミは不安げに言った。
「前の連中が千鶴らを捕まえようとしたことがわかったら、いきなしここ来て、千鶴を連れて行ことするんやなかろか」
「そげなことしよったら、ほれこそわしが連中を撃ち殺したらい」
甚右衛門が憤ると、トミは悲壮な声を上げた。
「ほんなことなったら、うちらはおしまいぞな」
「千鶴を連れて行かれたら、ほれこそおしまいぞ」
ほじゃけんど――とトミは尚も言った。
「幸子かて危ないぞな。千鶴はここにおるけんど、幸子は一人でおるけんね。病院に乗り込まれたらどがぁしよ?」
「ほん時は、おらが命に代えて連れ戻しますけん」
進之丞が静かに言った。少しも気負ったところがない物言いからは、進之丞の覚悟と気迫が伝わって来る。
甚右衛門は黙ってうなずくと、進之丞の両手をしっかり握った。
トミも緊張した様子で、頼むぞなと進之丞に言った。
千鶴は進之丞を信頼しているが、それでも特高警察との争いで、進之丞が本性を見せないという保証はない。それだけが心配で不安だったが、進之丞は千鶴を見るとにっこり微笑んだ。余計な心配はするなということだろう。それでもそれは無理な話である。
特高警察は有無を言わせず相手を捕まえる。しかも仲間が謎の死を遂げたのである。真相解明のためには手段を選ばないだろう。怪しいとにらんだ者は、何の証拠がなくても難癖をつけて捕まえて、無理やり自白させようとするに違いない。
そんな場面に出くわしたなら、進之丞は再び鬼に変化するかもしれないのだ。大丈夫と言われても、安心などできるわけがない。
夕方、幸子が護衛役の進之丞と一緒に戻って来た。
甚右衛門とトミはすぐに幸子を中へ招き入れると、巡査が来たかと訊ねた。
幸子はうなずき、朝に訪ねておいでたけれど、診療が忙しかったので、お昼休みの時間においでてもらうことになったと言った。
千鶴はほっとした。手紙を届けたすぐあとに、巡査と母が会うことになっていれば、手紙を読む暇はなかったに違いない。
祖父母も少し安堵したようだ。
「ほれで手紙は? あんた、手紙は受け取ったんか?」
トミが待ちきれない様子で訊ねた。幸子はうなずくと、受け取ったと言った。
「お巡りさんにいっぺん引き取ってもろたあと、しばらくしてから奥さんが忘れよった言うて渡してくれたぞな」
まさに間一髪である。甚右衛門は苦々しそうな顔をしながらも、受け取ったんならえぇわい――と言った。
「ほじゃけん、お昼にまたお巡りさんがおいでた時に、手紙に書かれたとおりに説明したんよ。ほしたらな、お巡りさんに妙な顔されたぞな」
「妙な? なしてぞ?」
「八股榎の所を曲がったら、鬼の声が聞こえたて言うたんよ。ほしたらな、なして鬼やとわかるんぞなて言われてしもたし」
甚右衛門は眉をひそめた。
「鬼? なしてそがぁなことを」
「ほやかて手紙にそがぁ書いてあったんやもん。えぇんかいなと思いもって言うたら、やっぱしいけんかったみたいなね」
手紙を書いたのはトミである。じろりと甚右衛門が見ると、トミは横を向いて知らんぷりをした。
「ほれで、どがぁしたんぞ?」
幸子に顔を戻した甚右衛門が困惑顔で訊ねた。幸子は笑うと、うまいこと話しといたけん――と言った。
「あげな恐ろしい声いうたら、鬼しか思いつかんて言うたんよ。ほしたらまぁ、納得してくれたみたいじゃった」
幸子が懐から取り出した手紙を受け取った甚右衛門は、急いで中を確かめた。すると、確かに鬼という言葉が書かれてある。甚右衛門は呻き声を上げた。
「ほんでも、取り敢えずはうまく行ったいうことぞな」
トミが涼しい顔で言った。
甚右衛門は横目でトミを見たあと、とにかく特高警察には気をつけねばと言った。
三
「ほれじゃあ、行て来ます」
母や祖父母に声をかけると、千鶴は油紙の包みを胸に抱えて、郵便局へ向かった。お供に進之丞がついてくれている。
この日は日曜日。母が家にいる日なので、家事は母と花江に任せられる。
だが進之丞には仕事がある。それにあまり支障を来さないよう、郵便局が開く時刻に合わせての早い時間の外出である。
郵便局があるのは八股榎があるお堀の角から、少し南に下った所にある東西に走る通りだ。急いで行って戻れば、進之丞が太物屋を廻る時刻には十分間に合う。
包みの中身は、父とスタニスラフに作った着物だ。いつ二人が日本を発つのかわからないので、母と二人で大急ぎで縫い上げた物である。
本当は一人で郵便局へ行きたかった。スタニスラフへ着物を送るのに、進之丞に同行してもらうなどとんでもないことだ。
進之丞は気にしている様子はないが、千鶴は進之丞に対する後ろめたさがいっぱいだった。
しかし特高警察のことがあるので、一人で出るわけには行かないし、丁稚がお供では特高警察に襲われた時に対処ができない。
祖父母は亀吉に行かせればいいと言ったが、やはり自分が作った着物は自分の手で送りたかった。だが、送る相手がスタニスラフなので、進之丞に対して後ろめたく思うのである。
数日前、進之丞と豊吉がお堀の近くで特高警察らしき者たちを目撃した。それ以来警戒はしているものの、千鶴たちの前に特高警察は現れていない。
あれから一般人の城山への出入りは禁止されているので、今は特高警察は城山を徹底的に調査しているのかもしれない。だが、男たちが最後に接触したと思われる者を、調べずにおくとは思えなかった。いずれは必ず姿を見せるであろうから油断はできない。
この日、千鶴が外へ出るのは、特高警察の様子を確かめる意味もあった。もしどこかで千鶴の動向を見張っていたのだとすれば、恐らく接触を図るに違いないからである。
それを提案したのは進之丞だが、甚右衛門はその提案を受け入れた。それは進之丞を絶対的に信頼しているということだ。
でも進之丞の本当の意図はそうではなく、自分で荷物を送りたいという千鶴の気持ちを酌んでくれたのだろう。それが千鶴にはわかっている。だが、やはり千鶴は進之丞に申し訳なく思っていた。
せっかく進之丞と二人で外へ出ているのだから、浮き浮きしながらお喋りをするところである。しかし、今はそんな気分ではない。進之丞も黙ったまま歩いている。それを残念に思いながら、千鶴はこの一週間を振り返った。
父ミハイルが突然現れたのが、ちょうど一週間前の日曜日だ。絶対に会うことはないだろうと思っていた父が、つい一週間前に現れたのである。しかも父が語った千鶴の高祖父は、前世を生きた父自身だった。
そのことに加えて、憧れていた萬翠荘での晩餐会や舞踏会に招かれ、特高警察に捕まった。そして鬼が姿を現し、その鬼の正体が進之丞だと知った。
あまりにもいろんなことがこの一週間で起こり、何もかもが夢だったのではないかと思えるが、すべては事実である。その証拠に自分は今、こうして神戸へ送る着物を抱いて郵便局へ向かっている。もしかして、今も夢を見ているのではないかと疑いたくなる気分だ。
結局、千鶴たちは特高警察には出くわさないまま、郵便局に到着できた。
荷物の包みには、差出人として山﨑機織と書き記してある。それをしっかりと確かめると、千鶴は包みの品を受付の者に預けてお金を支払った。これで仕事は完了だ。
父とスタニスラフへの約束を果たし、千鶴はほっとした。特にスタニスラフに対して、するべきことを終えた気分だった。
スタニスラフは松山に戻って来ると言っていた。だが、実際は無理だろうと千鶴は考えていた。
近々ヨーロッパへ移住するのだから、松山へ戻るなんてできるはずがない。自分だけ残るなんて言えば、母親に松山での秘密が知れてしまうだろう。そうなると絶対に猛反対されるだろうから、戻って来られるわけがないのだ。
それに戻って来たとしても、自分はスタニスラフの気持ちに応えることはできない。だから、戻って来られないのが望ましいという想いも、千鶴の頭にはあった。
ただ、せっかく会えた父に再び会えなくなるのは、やはり切なかった。
できれば父が母と一緒に暮らせたならばと思うのだが、父には新たな連れ合いがいる。また、進之丞に教えてもらったことだが、母は辰蔵と夫婦になることになっている。千鶴は自分が辰蔵の妻にさせられると思っていたが、辰蔵の相手は母だったのだ。
この話を進之丞は花江から聞かされたそうだ。花江と辰蔵は惚れ合っており、夫婦約束を交わしていた仲だったらしい。しかし、店の事情が優先されるということで、辰蔵は甚右衛門やトミからの依頼を断り切れず、そのことを花江は進之丞に相談していたと言う。
辰蔵と夫婦になる話は、父が松山を訪れるより前に、母には伝えられていたらしい。母がどんな想いで父と接していたのかと考えると、千鶴はとても悲しくなる。
両親に比べると、自分は恵まれていると千鶴は思った。確かに、進之丞が鬼であったことには狼狽した。しかし、こうして進之丞と一緒にいられるし、困難はいろいろあるだろうが夫婦になるという夢がある。
郵便局を出たあと、千鶴は進之丞に寄り添った。
進之丞は辺りを警戒している様子だったが、千鶴と目が合うと嬉しそうに笑った。
千鶴は進之丞に腕を絡めたい衝動に駆られたが、人前でそんなはしたないことはできない。こうして横並びに歩くことさえ憚られるのだが、それが今の二人にできるせめてものことだ。
体を寄せて進之丞の温もりを感じていると、進之丞が鬼か人かなど、どうでもいいことのように思えて来る。いや、どうでもいいことなのだ。進之丞が自分の隣にいる。それだけが重要であり、他のことなど知ったことではないのである。
これから何があったとしても、今感じていることだけを大切にしようと千鶴は思った。それが自分が一番望んでいることであり、進之丞もまた一番に望んでいることに違いない。
いつしか千鶴の腕は進之丞の腕に絡んでいた。道行く者たちが千鶴たちを振り返る。だが、進之丞は動じない。二人は時折笑顔を交わし、それがあるべき姿であるかのように、今この時を歩き続けている。
四
千鶴たちが家に戻ると、辰蔵が座る帳場に甚右衛門もいた。弥七は亀吉と太物屋へ出かけたようだ。
祖父は何か辰蔵に指示を出しているのかと千鶴は思ったが、そうではなさそうだ。甚右衛門は座ったまま、不機嫌そうに煙管を吹かしている。
「ただいま戻りました」
千鶴が声をかけると、お戻りたかなと辰蔵が笑顔で言った。
進之丞は甚右衛門と辰蔵に頭を下げると、郵便局への道中に怪しい者は現れなかったと報告した。甚右衛門は顔をしかめたまま、ご苦労じゃったと進之丞をねぎらった。
祖父の様子を訝しんだ千鶴が、何かあったのかと訊ねると、甚右衛門は仏頂面で、あの女が来とる――と店の奥の方へ顎をしゃくった。
暖簾の向こうで賑やかな女の声がしている。坂本三津子だ。
トミは我慢がならず、一人でどこかへ行ってしまったと甚右衛門は言った。
本当ならば追い返すか、幸子と一緒に外へ出すところだが、今回三津子は千鶴の顔を見るまで帰らないと言い張ったらしい。
千鶴は困惑した。だが逃げるわけにもいかない。千鶴が顔を見せなければ、三津子はずっと中にいることになる。
帳場に進之丞を残して恐る恐る中へ入ると、台所には誰もいないようだ。勝手口の向こうに見えた奥庭で、花江と新吉と豊吉の三人が洗濯物を干している。
茶の間は障子が閉めきられていて、中から三津子の甲高い声が聞こえる。恐らく母も中にいるのだろうが、母の声は聞こえない。それほど三津子は一人で喋り続けていた。
千鶴は音を立てないようにしながら勝手口まで移動すると、花江たちにそっと声をかけた。
花江が潜めた声で、お帰んなさい――と言うと、新吉と豊吉は元気な声で、お戻りたかと言った。すると、茶の間の障子がさっと開いて、片手に煙草を燻らせた三津子が現れた。
「あらぁ、千鶴ちゃん、お帰りたかな。あなたのこと、ずっと待ちよったんよ」
花江が慌てたように、声を出さずに新吉たちを叱った。二人は自分たちのせいで千鶴が見つかってしまったとわかり、しょんぼりと目を伏せた。
千鶴は後ろを振り向きたくなかった。だが、そういうわけにはいかない。一つ息を大きく吸ってからくるりと後ろを向くと、あら?――と笑顔を見せた。
「三津子さん、おいでてたんですか。ちっとも気ぃつかんかったぞなもし」
あれだけ大きな声で喋っていたのだから、気がつかないはずがないのだが、千鶴は惚けてみせた。三津子は鼻に皺を寄せると、もう千鶴ちゃんたら――と言った。
「今も言うたけんど、うちはもう一時間以上も千鶴ちゃんのこと、待ちよったんよ」
「うちを……ですか?」
「ほうやんか。あなた、新聞に載ったじゃろ? ロシアの貴公子と一緒の絵ぇは、まるでお姫さまみたいやったぞな。ほんまに腹立つぐらい幸せそうなんじゃもん。これは大事思て来たんよ。ほんまはもっと早よ来るつもりじゃったけんど、何かと忙しいて今日になってしもたぞな。勘弁してね」
何を勘弁しろと言うのか。千鶴はいらだちを抑えながら笑みを保つと、忠さんが戻ったよ――と新吉と豊吉に小声で伝えた。それは自分たちの仕事に戻っていいという意味である。
新吉と豊吉は花江に声をかけると、帳場へ戻った。
二人を見送った三津子は、いろいろ話を聞かせてちょうだいと言って、千鶴を茶の間へ引き入れようとした。しかし、千鶴は花江を手伝わないといけないからと言って断った。
それを素直に聞く三津子ではなかったが、幸子がまだ掃除やお昼の用意もしないといけないからと言うと、ようやく引き下がった。
それでも昼飯に交ざろうと思っているのか、三津子は腰を上げなかった。
千鶴は奥庭に出ると、残っていた洗濯物を花江と一緒に物干し竿に広げた。
花江は洗濯物を干しながら、三津子は千鶴が家を出たのと入れ替わりでやって来て、それからずっといるとぼやいた。
母は三津子の相手をせざるを得ず、突然三津子が来たことで母も困っているらしかった。
「迷惑だったら迷惑だって、はっきり言ってやればいいのにさ。幸子さん、案外気弱で言えないみたいだね」
不満をこぼす花江に、昔いろいろ世話になったみたいだからと、千鶴は母をかばった。
二人が洗濯物を干し終えて台所へ戻って来ると、煙草を吹かせていた三津子は、待ってましたとばかりに千鶴に話しかけた。
「千鶴ちゃんと幸ちゃんが萬翠荘に招かれたあの晩、すぐ裏のお城山で恐ろしいことがあったんやてねぇ。千鶴ちゃん、知っておいでる?」
千鶴にその話をするのかと言いたげな顔で、幸子が三津子の向こうでうろたえている。
「新聞に載っとりましたけん、知っとりますけんど、ほれ以上のことは知りません」
一応返事はしたが、千鶴はすぐに三津子に背中を向けて、板の間の掃除に取りかかった。
「同し晩の話なけんど、何も見たり聞いたりしとらんの?」
三津子は茶の間と板の間を仕切る襖を開けて言った。その強引さに千鶴はむっとしながら、はい――と返事だけをした。あとは黙ったまま掃除を続けたが、三津子は無視をされていることをまったく気にしていない。襖の柱に寄りかかりながら喋り続けた。
「ほれにしても、千鶴ちゃんや幸ちゃんが化け物に襲われんでよかったわいねぇ。けんど、お城山にはいつからそがぁな化け物が棲みつくようになったんじゃろか。昔はそげなことはいっぺんもなかったんやけどねぇ」
三津子は茶の間に座ったままの幸子に同意を求めた。幸子は慌てた様子で笑みを見せてうなずいた。だが、本音は三津子の話に当惑しているようだ。
花江は昼と夕方の食材を確かめている。必要な物があれば、買いに出なければならない。
帳場から新吉と豊吉が土間を通り抜けて奥庭へ出て行った。これから太物屋へ運ぶ品を蔵から出すのだろう。いつもなら進之丞も手伝うのだが、この日は顔を見せない。
三津子は煙草を一口吸ったあと、話を続けた。
「ほんでも、ちぃと前には風寄で化け物の話があったやんか? ひょっとして、ほれと何ぞ関係があるんやなかろか。千鶴ちゃん、どがぁ思う?」
ぎくりとした千鶴は、わざとばたばたしながら返事だけした。
「すんません。うち、ちぃとわからんけん。お母さんに聞いておくんなもし」
母には悪いが三津子を親友と言う以上、責任をもって三津子の応対をしてもらわなければならない。
「やっぱし鬼よけの祠がめげてしもたせいじゃろかねぇ?」
千鶴は思わず三津子を振り返った。三津子はにやにやしながら、千鶴を見ている。
「あら? うち、何ぞ余計なこと言うたかしら?」
「三津子さん、その話はどこで聞きんさったん?」
幸子が驚いた様子で訊ねた。三津子はふぅと煙を吐き出すと、以前に見た大阪の錦絵新聞に書いてあったと言った。それは畑山が書いた錦絵新聞に違いない。
「大阪の錦絵新聞て、そげな物どこで見たん?」
「ちぃと大阪に用があって、しばらく向こうにおったんやけんど、ほん時に見たんよ。ほんでも、ほれから一年以上なるのに風寄では何も起こらんけん、どがぁしたんじゃろかて思いよったとこに、今度の事件じゃろ? ほれで、風寄の鬼がこっちへ移って来たんじゃろかて思たんよ」
好い加減な人だと思っていたが、どうして結構鋭いと、千鶴は三津子を警戒した。母にも思いがけないことだったようで、動揺を隠せないようだ。
三津子が喋っている間に、新吉と豊吉が反物の箱を抱えて入って来た。二人が帳場へ行くのを見送ってから花江が話に混ざった。
「風寄の鬼がどうして松山へ来るんだい? 他の所へ行ったっていいだろうに、どうして松山なのさ?」
花江は鬼の話に興味を持ったのかもしれない。だが、その口ぶりは千鶴をかばってくれているようでもあった。
突然の女中の参戦に三津子は目を丸くした。しかし、すぐににこっと笑うと、がんごめぞな――と言った。
「昔、風寄の法生寺にはがんごめいう鬼の娘がおったそうな。鬼はそのがんごめを追いかけて、松山へ来たんかもしれんぞな」
新吉たちが再び土間を通り抜けて行き、二人がいなくなると花江は三津子に訊ねた。
「何で、そのがんごめが松山にいるんだい?」
「さぁねぇ。ほれは本人に訊いてみんとわかるまいねぇ。ほんでも松山は人が多いけん、がんごめにしたら人に紛れておりやすいんやなかろか。風寄みたいな所におったら、白い娘はどがぁしても目立ってしまうけんねぇ」
ねぇ、千鶴ちゃん――と三津子は千鶴に声をかけた。
楽しげなその目がとても冷たく見えたので、わかりませんと答えて、千鶴はまた三津子に背を向けた。
花江も喋るのをやめると、千鶴に声をかけて買い物に出かけた。幸子も黙ったままで、嫌な雰囲気が広がっている。
それでも三津子はまったく平気な様子で、ぷかりと煙を吐いた。
五
「あの、お話し中にすんません。おかみさんからの言伝で、幸子さんに今すぐ雲祥寺まで来て欲しいとのことです」
帳場から進之丞が現れて幸子に声をかけた。
「あら、こないだのお人じゃね。お元気?」
三津子が声をかけると、進之丞は愛想よく頭を下げた。
「あなた、千鶴ちゃんがロシアの貴公子と一緒になるてご存知?」
「いえ、おらは何も」
「あら、ほうなん? お見受けしたとこ、あなた、千鶴ちゃんとはええ仲に見えたけんど、何も聞かされとらんわけ?」
「おらは仕事が忙しいですけん」
進之丞をからかう三津子に、千鶴は腹が立った。一言言ってやろうと思ったら、だんだんね、忠さん――と幸子が言った。それは仕事に戻ってくれという意味だ。進之丞は頭を下げて帳場へ戻った。
「三津子さん、ごめんなさい。うち、行かんといけんけん、お話の続きは、また今度にしよ」
「あら、ほうなん? もうじきお昼やのに?」
もうじきとは言っても、まだ昼飯までは時間がある。だから花江が買い物に出たのに、三津子はまだ居座るつもりのようだ。
「どんくらい時間がかかるかわからんけん、また今度にしよ」
幸子は申し訳なさそうにしながら、また今度と繰り返した。それで三津子は、仕方ないわねぇ――とようやく重い腰を上げた。
「千鶴ちゃん、残念なけんど、近いうちにまた来るけんね」
三津子は千鶴に声をかけると、幸子について出て行った。
千鶴は一応会釈を返したものの、もう来なくていいと心の中で三津子に言ってやった。
母と三津子がいなくなると、千鶴一人が残された。騒々しい三津子がいないからか、がらんとした台所は物寂しげだ。
千鶴は掃除を再開しながら、祖母が母を雲祥寺まで呼ぶなんて、何があったのだろうかと考えた。そんなことは今まで一度もない。
それに特高警察のことを考えれば、母を一人で寺へ呼ぶというのは危険なことのように思われた。母の病院の行き帰りには、進之丞が護衛として同伴しているのである。
それに祖母は一人で出かけたというのに、何故進之丞が祖母の居場所を知っているのか。誰かが祖母からの言伝を持って来てくれたのだろうか。
掃除の手を止めながら千鶴が考えていると、母が戻って来た。祖母はいない。母一人だ。
「あれ? えらい早いね。おばあちゃんは?」
千鶴が訊ねると、幸子は首を横に振り、さっきの話はおじいちゃんが企てたことだったと言った。
幸子と三津子が外へ出たところで、旦那さんが呼んでいると言って、進之丞がすぐに幸子だけを呼び戻したそうだ。
三津子は一緒に雲祥寺へ行くつもりだったのか、外で幸子を待っていたらしい。しかし幸子が顔を出して、少し込み入った話になったからと言って、三津子一人を帰らせたと言う。
「今度からここに来るなと、あいつに言うとけ!――ておじいちゃんに叱られてしもたぞな」
幸子は疲れ気味に笑いながら言った。
それはそうだろう。三津子に再々来られたのでは、店の仕事ばかりか、家のことまでもが滞ってしまう。
それは母もわかっていたようで、次に三津子に会うまでしばらく間を空けることにしたそうだ。
幸子は二階の掃除をして来ると言って、階段を上がって行った。
母を見送りながら、それにしても――と千鶴は思った。
選りに選って、三津子があの畑山の錦絵新聞を目にするとは思ってもみなかった。
錦絵新聞に書かれていたことを、三津子があちらこちらで喋って廻ると、城山の騒ぎはどんどん大きくなるだろう。また、三津子の性格を考えると、そうなるのは必至であるように思えてしまう。
一番困るのは、進之丞が再び鬼に変化することだ。そうならないよう努力はしても、実際はどうなるかはわからない。
しかし、もし進之丞が人間に戻れたなら、鬼に変化するかもしれないと恐れる必要はなくなる。そうなれば、いくら世間が鬼だ化け物だと騒いだところで、関係ないとやり過ごせばいいのだ。
それに、これ以上変化を繰り返せば、人間の姿に戻れなくなるかもしれないと進之丞は言った。それは進之丞にとってはもちろん、千鶴にしても最悪の状態だ。
それを避けるためにも、進之丞を人間に戻さなければならない。だが、どうすればいいのかがわからなかった。
そもそも進之丞が鬼になった理由が、千鶴には今ひとつはっきりしない。人を殺したからなどと進之丞は理由を説明したが、それで納得できたわけではない。むしろ、それだけが理由で鬼になるはずがないと千鶴は思っていた。
進之丞と一緒に新吉と豊吉が何度か土間を往復したあと、しばらくしてから弥七と亀吉が戻って来た。新吉たちはただちに空になった大八車に、自分たちが帳場へ運んだ品を積込み始めた。もちろん進之丞も手伝っている。
積込み作業が終わると、進之丞と新吉は大八車を引いて出て行った。
台所から土間を通して、進之丞たちが大八車を引いて行くのを見送りながら、千鶴はため息をついた。
進之丞はなかなか本当のことを話してくれない。前世の記憶を持っていることも、初めは黙っていた。
千鶴が前世を思い出したことで、ようやく自分が進之丞であると認めたが、その時点では鬼になったことは喋らなかった。
もちろん簡単に話せることではないので、鬼であることを隠していたのは理解できる。それでも進之丞が全部は喋っていなかったというのは事実である。
それが千鶴の前で鬼に変化してしまったことで、進之丞は洗いざらい喋らざるを得なくなった。今度こそすべてを話してくれたと、そう千鶴は受け止めていた。
それでも一点だけ納得の行かないことがあった。それが進之丞が鬼になった理由である。これについては、進之丞はまだ本当のことを隠しているように思えてしまう。
人を殺したから鬼になったと言うのなら、世の中には思った以上に鬼がたくさんいることになる。特に戦争では多くの兵士が殺したり殺されたりするわけで、世界中が鬼であふれてしまうだろう。
やはり進之丞は本当のことを隠しているに違いない。本当の理由を隠すのは、それなりの事情があるのだろう。それでも自分は進之丞が鬼であることを知っている。今更隠し事はして欲しくない。
そう思ってはみても、それで進之丞が喋ってくれるはずもない。
千鶴は自分が鬼に攫われた時のことを何も覚えていない。だが進之丞が鬼になったのは、まさにその時なのだ。それなのに何も思い出せないことが、千鶴は歯痒くつらかった。
その時の記憶があったなら、進之丞が鬼になってしまったという経緯がわかるはずだ。ひょっとしたら、そこから進之丞を人に戻す方法が見つかるかもしれないのである。
雲祥寺の墓地で話した時、進之丞は鬼である自分を蔑み、千鶴と夫婦になれないと悲しみはした。だが、鬼になってしまったことを悔やんでいたわけではなかった。
その理由を訊ねると、自身が鬼になったからこそ、千鶴を攫った鬼を説得することができたのだと進之丞は言った。もし進之丞が人間のままでいたならば、鬼は決して説得に応じなかったと言う。
事実、進之丞が鬼になるまで、進之丞と鬼は死闘を繰り広げたそうだ。
千鶴が思い出したあの時の進之丞は、すでに腰に致命傷となる傷を負っていた。進之丞は無頼者と斬り合って不覚を取ったと言ったが、あれこそが鬼との死闘の証に違いない。であれば、進之丞が鬼になったのは、あの傷を受けたあとだと思われる。
村人を殺したから鬼になるのであれば、もっと早くになってもいいはずだ。何故、深手を負ってから鬼になったのか。
考えれば考えるほど、進之丞の説明は正しくないように思えて来る。進之丞は事実について敢えて黙っているみたいだ。
進之丞が喋りたくないことを無理に確かめたいとは思わない。それでも、そこに進之丞を人間に戻す手がかりがあるのなら、進之丞の意に反してでも確かめねばならない。
だが真相を知るためには、当時の記憶を取り戻す必要がある。それは考えてできるものではない。その時の記憶さえあればと思っても、千鶴にはどうしようもないことだった。
途方に暮れた千鶴の頭に、ふと浮かんだのは井上教諭だ。
千鶴が学校をやめるとなった時、井上教諭は催眠術で千鶴の記憶を消してみることを勧めた。その催眠術では過去の記憶を探ることもできると教諭は言っていた。
井上教諭に催眠術をかけてもらえば、もしかしたら進之丞が鬼になった時の状況を思い出せるかもしれない。
そう考えると、千鶴は居ても立ってもいられなくなった。だが教諭は三津ヶ浜である。
学校をやめた千鶴が三津ヶ浜へ行くことはない。三津ヶ浜へ出かける理由を探したが、そんなものは見つからなかった。何かのついでにちょっと立ち寄るにしては、三津ヶ浜はあまりにも遠過ぎた。
それに今は特高警察が問題だ。特高警察がいる限り、近くに出ることさえ注意が求められる。三津ヶ浜なんて行けるわけがない。
進之丞を人間に戻すには、井上教諭の力が必要だ。しかし今は、いつか機会が訪れるまで待つより他にない。それでも井上教諭の存在は、千鶴に少しは希望をもたらしてくれたようだった。