事件の波紋
一
「なして、わかった?」
月明かりが照らす雲祥寺の墓地で、千鶴を振り返った進之丞は言った。
「進さんの着物が落ちとったんよ」
千鶴が話すと、ほうじゃったか――と進之丞はため息をついた。
「あとで拾いに行ったが、のうなっとったけん、どがぁしたもんかと思いよった。じゃが、まさかお前が拾うたとはの」
「なして言うてくれなんだん? なして黙っておいでたん?」
千鶴に責められると、そげなこと――と進之丞は千鶴に背を向けた。
「言えるわけなかろがな。あしはお不動さまにお前の幸せを願たんぞ。ほれを己でぶち壊すなんぞでけんじゃろが」
「お不動さまに幸せを願てくれたけん、おらたち、こがぁして出逢えたんやないん?」
「鬼と一緒になって幸せになれる言うんか?」
振り向いた進之丞の目は濡れていた。月明かりではよくわからないが、その目は真っ赤になっているに違いなかった。
「あしは昔のあしやない。鬼ぞな。もう、お前を嫁にする資格は、あしにはないんじゃ」
それは、自分はがんごめだと信じていた時の千鶴の言葉だ。千鶴は返す言葉が見つからず下を向いた。
「進さん、なして鬼になってしもたん? 何も悪いことしとらんのに、なして鬼なんぞになってしもたん?」
進之丞は千鶴から顔を逸らして言った。
「前にも言うたように、あしは人の命を奪ったけんな」
「ほやけど、ほれはおらを殺そとして襲て来たお侍らじゃろ?」
「ほれぎりやない。あしは村の者にも手ぇかけてしもた」
「村の者?」
「鬼に操られた村の者らがお前と慈命和尚を襲い、鬼が和尚を庫裏ごと焼き殺そうとした話はしたな」
千鶴がうなずくと、進之丞は村人たちが和尚を助けるのを阻もうとしたので、仕方なしに斬り殺したと言った。死んだ村人たちは、みんな進之丞が知る者ばかりだった。
「あしは、あん時に人の心を捨てたんよ」
「何言うんね。人の心があるからこそ、炎の中に飛び込んでまでして、和尚さまを助けようとしたんじゃろ? おらのことを護ろとしてくんさったんも、進さんに人の心があるからやんか」
食ってかかる千鶴の言葉を切り捨てるように、進之丞は言った。
「とにかく、あしは鬼になってしもたんじゃ。お前と夫婦にはなれんし、お前を幸せにしてやることもできん」
「おら、進さんと一緒におれたら、ほれで十分なんよ。進さんと夫婦になれんでも構んけん。ほやけん……、進さん、ずっとおらの傍におって」
縋りつく千鶴を抱きながら、進之丞は力なく言った。
「あしは鬼ぞ。あしは必ずお前を不幸にしてしまわい」
「そがぁなことない。おらをイノシシから助けてくれたんは進さんじゃろ? 風寄で村の男の人らに襲われた時かて、進さんが助けてくれたんやんか。潰えそうになっとったうちの店を助けてくれたんも進さんぞな。みんな、進さんは福の神じゃて言いよったろ?」
「お前が学校をやめることになったんは、あしのせいぞな。大阪の新聞記者までもが、あしのことでここまで来よった。今度のことかて、このままでは済むまい」
進之丞の話で千鶴は特高警察の男たちのことを思い出した。
「……あの人ら、どがぁなったん?」
千鶴は恐る恐る訊ねた。進之丞は横を向いて素っ気なく言った。
「さぁな。城の近くに捨てて来たが、どがぁなったかの。あん時はまだ息があったが、死んだとすれば、あしは今世でも人殺しになったわけよ」
「そがぁなこと……。誰ぞが見つけて病院へ運ばれとるかもしれんぞな」
進之丞は千鶴に顔を戻して言った。
「あしは頭に血ぃが昇ると、いつ鬼に変化するやわからん。特にお前が傷つけられるようなことがあれば抑えが効かんなる。兵頭の家を壊した時は何とか気持ちを抑えたが、昨夜はお前に止められておらなんだら、あしは彼奴らを八つ裂きにしておった」
「これからは頭に血ぃ昇らんようにしたらええんよ。進さんがそがぁならんように、おらも気ぃつけるけん」
「そがぁしよったとこで、いずれまた抑えが効かんことがあろ。ほれにな、あしは鬼に変化するたびに、人の姿に戻りにくなっとるように感じとるんよ」
「ほれは、どがぁな……」
「今のあしが進之丞としておれるんは、己の本性を抑えておる故のことよ。鬼に変化するいうんは、その本性を露わにすることぞな。ほれを繰り返しよったら、いずれは本性を隠せんなるんじゃろ」
「ほんな……」
「そがぁなったら、おしまいぞな。いくらお前が傍におってくれ言うたとこで、あしは消えるしかあるまい」
千鶴は絶望しそうになったが、すぐに開き直った。
「おら、ほんでも構んけん。進さんが鬼の姿のまんまでも、進さんから離れんけんね」
「ほうはいくまい。お前を破滅させるわけにはいかん」
「ほやけど、おら、進さんと一緒におりたいんよ。どがぁなことがあっても、進さんと一緒におりたいんよ」
千鶴は必死に訴えた。だが、進之丞は黙っていた。
「進さん、何とか言うてや」
千鶴が語気を強めると、千鶴――と進之丞は静かに言った。
「あしは今世でお前に与えられた暮らしをゆがめてしもた。あしが現れたばっかしに、お前は本来の生き方を外れ、幸せから遠ざかる道を歩もとしとる」
「おらの幸せはおらにしかわからんことぞな。おらが幸せじゃて思たら、ほれがおらにとっての幸せなんよ。おら、進さんと一緒におるんが幸せなけん、幸せから遠ざかったりしとらんよ」
「ほれは、お前があしのことを思い出してしもたけんよ。ほんまのお前は、あしがおらん暮らしの中で幸せを見つけるはずじゃった」
「なして、そがぁなことがわかるんね。進さんがおらんのなら、おら、一生不幸な暮らしをしよるかもしれんやんか。絶対ほうよ。みんなに差別されて、不幸な暮らしをしよったに決まっとらい」
進之丞は息を一つ吐くと、今のお前には護ってくれる人たちがいると言った。
「今、お前が住もとる所は、前の世とは大違いぞな。確かに差別する者はおろう。やが肝心なんは、お前の身近に味方になってくれる者が、どんだけおるかということぞな。今のお前には、その味方がなんぼでもおらい。あしがおらいでも、お前は十分幸せになれたはずぞな」
千鶴はぷいっと横を向いた。
「ほんなこと言うたかて、もう進さんのこと思い出してしもたんやけん、仕方ないやんか」
進之丞は風寄の方を見ながら言った。
「あしはな、ほんまはここにはおらんはずやったんよ」
千鶴はぎょっとして進之丞に顔を向けた。
「ほれは、どがぁなこと?」
「余計なことを思てしもたばっかしに、あしは風寄に出て来てしもた。ほうでなかったら、あしは今ここにはおらぬ」
「進さん、何の話しよるん?」
千鶴は不安な気持ちになっていた。進之丞は千鶴に顔を戻すと、地獄のことは覚えているかと訊ねた。
千鶴がうなずくと、間違いはあそこで起こったんじゃと進之丞は言った。
二
鬼となって死んだあと、進之丞はあの暗く冷たい地獄に独りぼっちでいたと言う。そこへ時折、進之丞を嘲笑ったり貶めようとした者たちや、進之丞が命を奪った者たちが現れて、進之丞を罵り責め立てたそうだ。
怒り狂った進之丞はその者たちを皆殺しにするのだが、しばらくすると同じ者たちがまた現れて、同じように進之丞を罵り責め立てた。そんなことが何年も繰り返されたが、それは時が止まっているようでもあり、永久の中にいるようでもあったらしい。
そんなある時、その闇の牢獄の中に、いずこからか淡い光が現れたのだと進之丞は言った。
「暗うて冷やいあの場所にな、懐かしい温もりが広がったんよ。あしの胸は喜びに打ち震え、涙が止まらなんだ」
淡い光と聞いて、千鶴はもしやと思った。進之丞は千鶴を見つめながら話を続けた。
「その淡い光はな、長い間ずっと忘れよったこんまいこんまい灯火が、己の中にあったことに気づかせてくれたんよ。ほんで、あしの胸ん中にあるそのこんまい灯火が、その淡い光と引き合うたんじゃと、あしにはわかったんぞな」
「進さん、ほれはひょっとして……」
「ほうよ、千鶴。お前ぞな。その光はお前じゃった」
進之丞は千鶴に微笑んだ。その笑みには今もあの時の感激が隠れているようだ。
「お前は、鬼となって地獄へ堕ちたあしの元へ訪ねて来てくれた。あしは鬼になってしもたのに、お前はちゃんとあしのことをわかってくれた。あしの醜い姿を恐れもせず、お前は笑顔を向けてくれたんよ」
喋っているうちに、進之丞は顔をゆがませ涙をこぼした。
「お前は苦しみと絶望ぎりのあそこで……、あしと一緒におると言うてくれた……あん時、あしがどんだけ感激したことか……。また、どんだけ悲しかったことか……。」
己の中の千鶴への想いが、千鶴を地獄へ引き込んでしまったと、進之丞は悔やんでいたと言う。それで、進之丞は千鶴を元の明るい所へ戻そうと、千鶴への想いを断ち切ろうとした。それが千鶴が見たあの光景である。
「お前への想いを断つことは、あしにとって死ぬるのと対ぞな。ほれでもあしは、お前を明るうて光あふれる所へ戻したかった」
あの時の進之丞の想いは、千鶴にも伝わっていた。今でもあの時のことを思い出すと、悲しみで胸が張り裂けそうになってしまう。
「あしはお前への想いを断ち切りながら、お前を救い出して幸せにしてやって欲しいと、お不動さまに願た。その願いに応えるように光が闇を呑み込んだ時、闇であるあしは光の中に消え去るはずじゃった。やが、ほん時に、あしは間違いを犯してしもたんじゃ」
目映いばかりの光の中で命の灯火が消える刹那、進之丞は千鶴が明るい所へ戻されたと安堵しながらも、つい思ったのだと言う。
「消えゆく意識の中で、あしはちらりと思てしもた。来世のお前の幸せな笑顔が一目見たかったとな。ほれで気ぃついたら、あしはこの体、この姿で浜辺に立っとった」
え?――千鶴は進之丞の言葉が理解できなかった。
「進さん、生まれ変わったんやないん?」
「あしの記憶に残っとるんは、今申したとおりぞな。あしは知らぬ間に、この男の体の中に入っとった。いわば、この体を借り受けておるようなもんよ。借りた物はいずれは返さにゃなるまい」
「ほんな……」
「あしはお前の幸せな笑顔が見たいと思い、お前がおるこの世に舞い戻った。断ち切ったはずのお前への想いも、失われてはおらなんだ。これはお不動さまのご慈悲に相違なかろ。ほんでも、ほれはお前の幸せを確かめるまでのこと。願いが叶えば、あしはこの体から離れるんが定めぞな」
千鶴は言葉が出なかった。せっかく時を超えて再会できたのに、再び進之丞がいなくなるなど、絶対に認めることはできない。しかも千鶴の幸せな笑顔を見届ければ、進之丞は消え去ってしまうのである。こんな理不尽なことを許せるわけがない。
千鶴は泣きそうになりながら抗議した。
「じゃったら、おら、もう笑わんけん。絶対に幸せになんぞならんけんね。ほれに、もし進さんがおらんなったら、おら、また進さんの後を追わうけん」
「後を追わうことは敵うまい。あしはあん時に消え去るはずじゃった。再びこの世を去ったなら、あしはあの世にもおらんじゃろ」
覚悟を決めた様子の進之丞に、千鶴は首を振った。
「ほんなん嫌じゃ……。ほんなん嫌じゃ……」
千鶴は進之丞に抱きつき、嫌じゃ嫌じゃと泣いた。進之丞は千鶴を抱き返し、これが定めなのだと諭すように言った。
「あしがお前の笑顔が見たいなどと思わなんだら、あしはここにはおらなんだ。お前にはお前の人生というもんがあり、その中にお前がつかむべき幸せが用意されておったんぞな」
千鶴は顔を上げると、大声で文句を言った。
「おらの笑顔が見たいて思いんさったことの、何が悪いんね? 進さんがそがぁ思てくんさったことの、何が悪いんよ!」
「あしは……、あしは鬼ぞな。あしは罪深い鬼なんぞ……」
「やけん、何? 鬼は笑顔見たらいけんの? もしほれがいけんことじゃったら、いくら進さんがお願いしたかて、ここに出してもらえるはずないやんか。進さんがここにおいでるいうことは、何も悪ないいうことじゃろ?」
千鶴の剣幕に気圧されたのか、進之丞は戸惑っているようだ。
「ほやけど、あしはお前の人生を狂わせてしもた……」
「おらを想いんさることをお不動さまが許してくんさったんなら、こがぁしておらと一緒におることも、お不動さまはお認めになっておいでるはずぞな」
ほうじゃろ?――と進之丞に有無を言わせず、千鶴は続けて喋った。
「おらたちを引き合わせといて、もういっぺん引き裂くやなんて、慈悲深いお不動さまがしんさるはずない。ましてや、こがぁにおらのことを想てくんさる進さんを、お不動さまが消し去ったりするわけないけん」
「ほんでも、あしは人殺しぞな。恐らく、あの連中もほとんどが死んだであろ。あしはここでも人殺しになったんじゃ。そがぁな鬼をお不動さまはお許しにはなるまい」
千鶴は進之丞から離れて涙を拭いた。
「進さんは間違とらい。おら、思い出した。お不動さまは誰のことも見捨てたりはせんのよ。いくら進さんが鬼でも、いくら進さんが許されんことをしたとしても、お不動さまは決して進さんを見捨てたりせんのよ。ほじゃけん、進さんを消し去ったりもせんけん」
進之丞は驚いたように千鶴を見た。不動明王がどのような存在であるかを思い出したようだ。
「確かに……ほうじゃな……。お前の言うとおりぞな……。お不動さまは誰のことも見捨てたりはしんさらん……。救いようのない奴を消し去ると考えるんは、あしが鬼である証じゃな……。お不動さまはそがぁなことは思いもすまい……」
「じゃったら、進さん、ずっとおらと一緒におれるぞな」
嬉しそうな声を出す千鶴に、ほうはいくまいと進之丞は言った。
「消え去りはせんでも、このままいうことはなかろ。あしは人殺しの鬼じゃし、あしが余計なことをしたんは変わらんけんな」
「何が余計なん?」
「お前の頭に花を飾ったことや、お前を慰めるのにいろいろ喋ってしもたことよ。あしはお前を想う気持ちを抑えれなんだ。そのせいでお前は前世のことを思い出し、あしと夫婦になることを願うようになってしもた。やが、ほれはお不動さまの意に背くことぞな」
頑なに同じことを言う進之丞に千鶴は困惑した。
「なして、そがぁ思うんね。おらは全部お不動さまのお導きやて思いよるよ」
「何べんも言うが、あしは鬼ぞ。お前を幸せにするために、お不動さまがお前を鬼と一緒にさせるとは思えん。お前はあしとは別の男と出逢うことになっておったはずぞな」
千鶴はぎくりとなった。
「ひょっとして、スタニスラフさんのことを言うておいでるん?」
「あの男がほうじゃとは言わん。やが、あの男と踊るお前はまこと幸せそうじゃった」
千鶴の顔から血の気が引いた。
「進さん、あそこにおいでてたん?」
それには答えず、進之丞は遠くを見つめるようにして言った。
「あん時のお前は、まっこときれいじゃった……。あしが思たとおり、お前は花の神さまじゃった……。あしには決して手が届かん、きれいなきれいな異国の花じゃった……」
「やめて! そがぁな話、おら聞きとうない」
千鶴が叫んでも、進之丞の話は止まらない。
「あしはほん時に思たんよ。この笑顔こそが、お不動さまがあしに見せよとしんさった笑顔なんじゃと」
「やめてて言うとろ! そがぁな話聞いたら、おら、死にとなる。進さん、おらを死なせたいん?」
進之丞は口を噤んで千鶴に顔を向けた。千鶴は涙を浮かべて肩を上下させている。
すまぬと詫びて進之丞は項垂れた。ゆがめた進之丞の顔が涙に濡れた。千鶴は慌てて進之丞を抱きしめると、ごめんなと言った。
「進さん、ごめん。進さんをそがぁな気持ちにさせたおらは、まこと抜け作ぞな。どうか堪忍してつかぁさい。おら、進さんが花江さんに心変わりしたて思いよったんよ。ほれで、どがぁしたらええんかわからんで、ほれで……」
堪忍してつかぁさいと千鶴は泣きながら詫びた。進之丞は鼻をすすりながら言った。
「お前は悪ない。悪いんはあしの方ぞな。お前が花江どののことを誤解しよったんはわかっておった。あしはお前の心があしから離れるようにほれを利用したんよ。ほじゃけん、悪いんはあしなんよ」
「おら、あん時、酔っ払ってしもて、自分が何して何言うたんかも覚えとらんのよ。ほんでも新聞にあの人と結婚する言うたて書いてあって、おら、おら……」
進之丞は千鶴をなだめながら言った。
「もう言うな。すべての責任はあしにある。ただな、あしは、もしやこの男がと思たんよ。あしがお前の前に現れておらねば、この男こそがお前に幸せをもたらしたのではと思たんぞな」
それは高浜港で船に乗った父とスタニスラフを見送っていた時、千鶴がふと思ったことだった。後ろめたさを感じながら、千鶴は進之丞の胸に顔を埋めて言った。
「おらを幸せにできるんは進さんぎりぞな」
「あしは鬼ぞ? 人殺しぞ?」
「前世でも今世でも、進さんが人を殺めんさったんは、おらを護るためぞな。好きでしたことやないし、進さんの罪はおらの罪ぞな。おら、生きるも死ぬるも進さんと対やけん」
「お前は……お不動さまが用意しんさった幸せを捨ててでも……このあしを……、鬼のあしを選ぶと……、そがぁ言うんか?」
進之丞の声は震えていた。千鶴の頬を千鶴のではない涙が濡らした。
「お不動さまが用意してくんさったおらの幸せは……、あのお人と一緒になることやない……。進さんと一緒になることぞな……。ほやなかったら、おらが進さんのこと思い出したりはせんかったはずじゃ……。前世で一緒になれんかったおらと進さんをな……、お不動さまはお引き合わせくんさったんよ……」
ほやけん、ずっとおらの傍におってつかぁさい――と千鶴は泣きながら繰り返した。
進之丞は黙って千鶴を抱き続けていたが、やがて、わかった――と言った。鼻をすすってはいたが、もう涙は止まったようだ。進之丞の顔は何かを決心したようだ。
「まことの定めがどがぁなもんか、あしにはわからん。やが、ここは腹をくくってみることにしよわい。どがぁなるんかわからんけんど、ほれでお前が喜ぶんなら、お前が言うとおりにしてみよわい」
「ほんまに?」
「嘘は言わん。ほやけん、もう泣くな」
千鶴はもう一度進之丞に抱きつき、進之丞も千鶴を抱き返した。
誰もいない静かな墓地の片隅で、互いを温もりが包み込む。
進之丞が鬼であることは変わらない。だが、千鶴はやっと進之丞と本当に心が通じ合えたと感じていた。
三
翌日の朝刊に、とうとうあの男たちのことが載った。
「城山に謎の怪我人」という見出しの記事には、昨日の朝、城山の待合番所跡で、意識不明の怪我人が四人発見されたとあった。
四人とも全身の骨が折れていて瀕死の状態らしい。身元は不明で警察が現在確認中と書かれている。だが、実際は兵庫から来た特高警察の人間だと、警察では把握しているはずだ。状況を確かめるため公表していないだけに違いない。
また前夜には不気味な獣の鳴き声が、城山周辺で聞かれたという情報もあり、事件との関連を調査中だとも記事は述べていた。
さらに記事には、八股榎のお袖狸が三度目になる祠の立ち退きを拒んで、今回の事件を引き起こした可能性を指摘する話があるとも書かれていた。
朝飯を食べながら新聞を回し読みした千鶴たちの間には、どんよりとした雰囲気が漂っていた。
隣の板の間からは、やはり特高警察が気になるのか、怪しい者を見たとか見ないとかいう亀吉たちの声が聞こえて来る。
「冷たいようやが、この四人はこのまま死んでくれた方が、わしらは助からい」
甚右衛門は潜めた声で言った。
「ほうよほうよ。だいたい言いがかりをつけて来たんは、向こうなんじゃけんね。やのに、こっちに何ぞ言われても迷惑なぎりぞな」
トミも小さな声で冷たく言った。
二人とも鬼のことは口にしなかった。鬼を恐れる気持ちはあるのだろうが、助けてもらったのは事実であるから、鬼を悪くは言わないのだろう。
高浜港で明るく笑っていたように、幸子も鬼への警戒心は薄れているようだ。さすがに看護婦だけあって、幸子は特高警察の男たちの死を望んだりはしなかった。しかし、男たちが生き延びて鬼のことを証言されたらどうなるだろうかと困惑している様子だ。
それについて千鶴は心配していなかった。男たちが生き延びたとしても、あの時のことはおろか、自分がどこの誰で松山へ何をしに来たのか、すべてを忘れているはずだと進之丞が言ったからだ。
進之丞は鬼が人の心を操れることを教えてくれた。ただ本当に操れるのは心が穢れた者だけであり、心が穢れていない者はせいぜい眠らせるぐらいしかできないらしい。
しかし心が穢れていない者であっても、心が乱れていれば、その乱れを利用して操ることもあると言う。
風寄で千鶴が一時的に記憶を失っていたのも、進之丞がしたことだった。あの時の千鶴は悲しみと恐怖でいっぱいだった。その心の乱れを利用して、進之丞は千鶴の嫌な記憶を消したと言う。
ただ、進之丞も千鶴を見つけて動揺していたため、その時の暗示はうまくかからなかったらしい。それで千鶴はイノシシの記憶を思い出したのである。
千鶴たちが萬翠荘へ向かったあの日、進之丞は店の近くで怪しい者を見かけた。千鶴たちが心配になった進之丞は萬翠荘へ向かおうとしたそうだが、千鶴たちの帰りを待って誰も寝ようとしなかった。それで進之丞はみんなに暗示をかけて眠らせたと言う。
甚右衛門とトミについては、千鶴たちが戻った時に寝ているのはおかしいので、自分が外へ出ることについてだけ記憶を奪わせてもらったと進之丞は言った。
二人は萬翠荘で千鶴たちがどうしているのかと、ずっと気が気でなかったらしい。その心の乱れを利用させてもらったと、進之丞は説明をしてくれた。
そうしたみんなの意識の様子を目の当たりにしているので、千鶴は男たちが鬼の話をするとは思っていない。それより男たちが助かるかどうかが気になっていた。
男たちが死ねば、進之丞は今世でも人殺しになってしまう。それだけは避けたいところだが、あの時の状況を思い出すと、あまり希望は持てそうにない。
祖父母や母は特高警察のことをずっと喋っている。今回の男たちがどうなろうと、今後も特高警察が絡んで来るのは間違いない。そこで鬼が再び現れても問題であり、どうしたものかとみんなは箸を動かすのも忘れて思案していた。
だが結局は質の悪い特高警察への悪口が並ぶばかりで、いい知恵は出て来ない。千鶴も特高警察には嫌悪感しかなかった。
それでも、あの時に特高警察が現れなかったらどうなっていたかと考えると、千鶴は情けなくて死にたくなってしまう。
あの時、人力車の中でスタニスラフに迫られた千鶴は、スタニスラフに唇を許そうとしていた。それは進之丞が心変わりしたと思っていたからなのだが、進之丞がどんな想いでいたのかと考えると、壁に頭を打ちつけ大声で叫びたくなる。
そもそも萬翠荘へ行ったりしなければ、スタニスラフに気持ちが揺れることはなかったし、特高警察に目をつけられることもなかったはずだった。元を正せば自分が悪いのだと、千鶴は自己嫌悪の気分になっていた。
また、神戸に戻った父たちのことが千鶴は心配だった。神戸は兵庫の特高警察の拠点に違いない。父たちは自分から特高警察に捕まりに戻ったようなものだ。
しかし神戸にはエレーナが残されているし、二人が神戸に戻らなければ、却って怪しまれるに決まっていた。
それについて甚右衛門は、しばらくは大丈夫だろうと言った。
「神戸のことはわからんが、あの二人が何ぞやったいう証拠はどこっちゃないけんな。なんぼ特高でも何の証拠もなしに二人を捕まえれまい。逆に言うたら、証拠をつかむためにも、連中はまずはこっちへ調べに来う」
「鬼が出たて正直に言うても、信じんじゃろな」
トミが投げやりに言うと、甚右衛門はふんと言った。
「あの連中が信じるかい。ひょっとしたら松山にはソ連のスパイがうようよおって、そいつらがあの四人をあんな目ぇに遭わせたと考えるやもしれまい」
「とにかくあの人らは、早う日本を離れた方がええんよ」
幸子が心配そうに言うと、みんなはうなずいた。
ほれにしても――とトミが潜めた声で、少し身を乗り出して言った。
「千鶴に憑いとる鬼は、普段はどこにおるんじゃろか」
甚右衛門は片眉を上げ、何を言っているのかという顔をした。
ミハイルたちの見送りに、千鶴と幸子だけを高浜まで行かせたのだから、甚右衛門は鬼を心配していないと思われる。それなのに鬼の話に眉を吊り上げるのは、幸子が言うように素直でないということだろう。
それがわかっているからか、トミは夫には構わず千鶴に顔を向けた。鬼の居場所を知っているのか訊きたいようだ。
もちろん千鶴は知っている。鬼は隣の板の間で辰蔵たちと一緒に朝飯を食っている。しかし、そんなことは言えるわけがない。
千鶴が首を横に振ると、トミは息を一つ吐いて言った。
「どこにおるんかわからいでも、今回のことに関して言うたら、やっぱし鬼にはお礼の一つも言うとかんとな」
「お礼? なして鬼に礼なんぞ言わんといけんのぞ」
素直でない甚右衛門が、小さな声で噛みつくように言った。
「ほやけど、助けてもろたんで?」
甚右衛門が返事をしないので、トミは幸子に訊いた。
「あんたは、どがぁ思う?」
幸子は困惑気味に、千鶴が以前にも助けてもらったのであれば、今回も助けてくれたと見るべきなのかなとは思うと、やはり小声で言った。
「あん時、うち、千鶴が襲われる思て、千鶴を抱きながらな、この子連れて行くんなら先にうちを殺せ――て鬼に言うたんよ」
「あんた、そがぁな恐ろしいこと言うたんか」
トミは驚いたが、甚右衛門も黙ったまま目を見開いている。
幸子はうなずいて話を続けた。
「ほしたらな、何か鬼は怯んだみたいじゃった。あん時は恐ろしかったし無我夢中やったけん、鬼の様子見よる余裕なんぞなかったけんど、今思たら、あれは鬼に気の毒やったように思うんよ」
「気の毒?」
「ほやかて、助けよとしよった相手に怒鳴られたんやで。鬼にしたら、え?――てなろ?」
あれだけ恐怖に震えていたはずの母が、笑いながら喋っている。それを聞いた祖母も、確かになとうなずきながら笑っている。その横で、祖父だけは笑うまいとがんばっている。
三人の様子を見て、千鶴は嬉しくなった。鬼が家族として受け入れられたような気分だ。
幸子までもが鬼の味方をするようになったので、甚右衛門は渋々ながらを装ってむずかしい顔で言った。
「確かに、千鶴を奪われる思て鬼が連中を手にかけたんなら、スタニスラフかて鬼にやられてもおかしないな。あいつは千鶴を連れて行きたがっとったけん。ほれに忠七かて疾うにやられとるかい」
甚右衛門の言葉にトミも幸子もうなずいた。だが、甚右衛門は小首を傾げて言った。
「やが、ほうやとしたら、わけがわからんなった。鬼が千鶴を狙とるんやないなら、なして千鶴を護るんぞ?」
甚右衛門が千鶴を見ると、トミと幸子も千鶴に顔を向けた。
うろたえる千鶴にトミが訊ねた。
「あんたは鬼が助けてくれたけん、鬼を信じたて言うたけんど、そもそもなして鬼があんたをイノシシから救ってくれたんね?」
「そがぁなこと言われても、うちかてわからん。恐らくなけんど、うちががんごめみたいな顔しよったけん、助けてくれたんやなかろか」
「じゃったら、鬼はお前を仲間として連れて行くんやないんか?」
甚右衛門が眉間に皺を寄せて言った。
「いや、ほじゃけん似ぃとるぎりで、がんごめやないんはわかっとるんよ」
「ほんでも気に入ったんなら、お前を自分の物にしよて思うんやないんか?」
「ほれは……」
千鶴が返答できなくなると、再び甚右衛門の不安が持ち上がったようだ。
「やっぱし鬼なんぞ信用できるかい。だいたいその鬼は風寄の代官を八つ裂きにした奴じゃろが。いくら千鶴を助けてくれとる言うても、本音のとこじゃ何考えとるんかわかるまい」
その時の鬼は改心したと進之丞が言った。しかし、それはここでは話せない。それに今回千鶴たちを護ってくれたのは進之丞だ。
「たぶん前の鬼と今度の鬼は違うんよ。鬼は一匹ぎりやのうて、前のとは別の鬼がうちらを助けてくれよるんよ」
千鶴の説明に、甚右衛門もそれなりに納得したらしい。別の鬼かとつぶやくように言うと、あとは静かになった。
「まぁ恐らくは、今千鶴が言うたようなとこやなかろか。とにかくうちらは鬼を怖がる必要はないし、鬼はうちらを助けてくれたいうことぞな」
トミが潜めた声で話をまとめた。素直でない甚右衛門は、まぁええわい――と素っ気なく言った。
「妙な感じなけんど、ばあさんが言うとおり、今日のとこは鬼に感謝することにしよわい」
甚右衛門は目を閉じて両手を合わせた。それに倣ってトミも幸子も手を合わせた。
千鶴は胸が熱くなった。みんなが進之丞のことをわかってくれたわけではない。それでも進之丞がやったことに感謝を示してくれたのである。
千鶴も手を合わせながら、隣の板の間の方を向いた。襖の向こうには進之丞がいる。相変わらず亀吉たちが喋っているが、進之丞にはこちらの話が聞こえただろうか。
千鶴は見えない進之丞に、みんなが感謝してくれていると心の中で伝えた。そして、自分の感謝の念を喜びの気持ちと一緒に進之丞へ送った。
襖の向こうは見えないが、千鶴には進之丞が笑っているように思えた。
四
朝飯が終わり、幸子は勤務している病院へ行った。病院の行き帰りは、護衛役として進之丞が同伴だ。
亀吉たち丁稚三人組が、県外発送の品を古町停車場へ運びに出たあと、少しして店の方から聞き慣れない声がした。
「ごめん。主どのは、おいでるかな?」
すぐに慌てた様子の辰蔵が、茶の間にいる甚右衛門の所へ来た。
「旦那さん、警察ぞなもし」
その一言で緊張が走った。
千鶴と花江は奥庭でたらいに水を張って、洗濯の準備をしていたが、警察という言葉が聞こえると互いの顔を見交わした。すぐに家の中に戻ると、土間へ降りた甚右衛門が辰蔵に続いて帳場へ向かうところだった。
茶の間に一人残ったトミは、不安で顔が強張っているようだ。
花江は今朝の記事のことをまだ知らない。何だろうと心配そうに千鶴を見たが、今は何も説明できない。
そこへ甚右衛門が巡査を連れて、すぐに戻って来た。
「えっと、あなたが山﨑千鶴さんかな?」
甚右衛門が喋る前に、巡査が土間に立つ千鶴に声をかけた。
「はい、うちが山﨑千鶴ぞなもし」
四十を越えたと思われる巡査は、口元に威厳のある髭を生やしている。腰に提げたサーベルも威圧的だ。千鶴は平静を装ったが、胸の中では心臓がばくばく暴れている。
「ちぃと確認のために、二、三質問をさせていただきたいが、構んですかな?」
千鶴が緊張していると見たのだろうか、巡査はにっこり笑った。目尻には深い笑い皺が刻まれていて、本来は気さくな人柄のように思われた。だが、笑っている目には鋭さがある。
「そがぁに硬うならんで。型どおりの質問をするぎりじゃけん、何も心配することないぞなもし」
巡査は穏やかに言った。
千鶴は巡査の後ろにいる甚右衛門を見た。甚右衛門は黙って首を横に振った。気を許すなという意味だろう。
「あの、うちは何ぞいけんことしてしもたんでしょうか?」
先に千鶴が訊ねると、巡査はまた笑った。
「あなたが何もしとらんのはわかっとります。そがぁな話やのうてですな、私どもは、ある事件の目撃情報を集めとるんぞなもし」
「ある事件?」
あの特高の男たちのことに決まっている。案の定、巡査は城山で見つかった四人の男のことだと言った。
「今朝の新聞はお読みになりましたかな?」
巡査は甚右衛門を振り返った。巡査の背後から千鶴に顔で指図をしていた甚右衛門は、慌てたように背筋を伸ばした。
怪訝そうにする巡査に、甚右衛門は新聞なら読んだと言った。
「城山で身元不明の男四人が、瀕死の状態で見つかったとありましたでしょ?」
「そがぁ言うたら、そげな記事もあったかな」
甚右衛門が惚けると、あったんぞなもしと巡査は少し強い口調で言った。それから巡査は千鶴の後ろにいた花江にちらりと目を遣った。
花江は慌てて板の間に積み上げた洗濯物を抱えると、奥庭へ出て行った。
巡査は甚右衛門に顔を戻すと、実はですな――と言った。
「新聞では身元不明とありましたけんど、実際は四人とも神戸から来た特別高等警察の人間でしてな」
やはり警察では調べ済みだ。しかし甚右衛門とトミは、特別高等警察という言葉を初めて聞いたという顔で互いを見た。
「聞いたことはありませんかな。特別高等警察は特高警察とも言われとります。その呼び名のとおり、私どもと違て内務省直属の特別な巡査ですわい。その特高警察の者が、ある調べ事のために松山まで出ておいでたんじゃが、あがぁなことになってしもて……。神戸の特高警察も対でしょうが、こっちの警察も大騒ぎですわい」
「その方らは危ない状態なんでしょうか?」
千鶴が訊ねると、巡査はさらりと言った。
「病院に運ばれた時、一人はすでに死んどりました。あと二人も運ばれて間もなく死にました。残りの一人は重体でして、どがぁなるかはわからん状態ぞなもし」
予想していたことではあったが、三人が死んだという事実に千鶴は衝撃を受けた。それは進之丞が今世でも人殺しになってしまったということである。このことは進之丞が地獄へ引き戻されるには、十分な理由となるに違いない。
千鶴の表情に気づいたのか、巡査はじっと千鶴を見た。
「そこで質問ですけんど、あなたは一昨日の晩げに萬翠荘に招かれましたな?」
はいと千鶴がうなずくと、巡査は言った。
「あの晩、晩餐会が終わったあと、あなた方はどがぁして家に戻んて来んさったか、教えてもらえますかな?」
千鶴は二人掛けの人力車二台に乗ったと言った。
「あなたとお母さん、ほれとロシアのお二人に分かれて乗ったということですかな?」
「いえ、それぞれに父と母、ほれと、うちとスタニスラフさんが乗りました」
ロシア人二人は道後へ戻らなかったのかと訊かれると、二人は自分たちを紙屋町へ送り届けたあとに、道後へ戻るつもりだったと千鶴は説明した。
巡査はうなずきながら、手帳に千鶴の言葉を書き記した。それから、人力車が萬翠荘を出てから城山の麓を通ったことを確かめると、巡査はこれからが本番の質問だと言った。
「あなた方が家に戻るまでの間に、何ぞ事件に関連すると思われるようなものを、見聞きはせんでしたかな?」
じっと見つめる巡査の目は、隠そうとしても事実を知っているからなと告げているようだ。
千鶴は目を伏せると、実は――と言った。
「実は? 何ぞ、ありんさったんかな?」
巡査に問われて千鶴が顔を上げると、巡査の後ろで甚右衛門があたふたしている。トミも同じく動揺している様子だ。しかし、大声で特高警察を撃退したことにすると、初めに決めたはずである。
千鶴は覚悟を決めてうなずいた。巡査は意外そうに目を見開き、ほぉと言った。もしかしたら、千鶴から何も聞き出せないと思っていたのかもしれない。
「どこで何があったんぞなもし?」
「県庁の前辺りで、男の人四人に止められました。ほれからお堀の脇にある、お城山へ登る道の方に連れて行かれて、人力車の人らは追い返されました」
「男四人? その男らは何ぞ言いましたかな?」
「特高じゃ言うて、うちらにソ連のスパイの疑いがあるて言いよりました」
巡査がじろりと甚右衛門を振り返ると、甚右衛門は困ったように横を向いた。すると、トミが慌てた様子で巡査に言った。
「さっき知らんふりしよったんは、事件に関わっとるて思われるんが怖かったけんぞなもし」
ほれはほうでしょうなと巡査はうなずくと、千鶴に再び訊ねた。
「ほれで、その男らはあなた方を逮捕しようとしたんですな?」
千鶴がうなずくと、巡査は困惑した様子で、ほうでしたか――と言った。
「ここぎりの話ですけんど、そげなことはせんようにと連中には言うてあったんぞなもし。ほんでも、連中はこっちの言うことには耳を貸さんかったようですな」
「ほれは、どがぁなことですかな?」
後ろから甚右衛門が言った。巡査は振り返ると、晩餐会には愛媛県警察の本部長が同席していたと話した。
そんな話は初耳だと千鶴が言うと、警察だと知れるとみんなが緊張するので、久松伯爵の知人を装っていたと巡査は説明した。
千鶴は驚いた。伯爵夫妻と同じ席には、伯爵の知人という年配の夫婦が座っていた。父も母も知らない人たちで、ロシア人墓地の管理をしていると説明されたが、あの男性が警察の本部長だったわけだ。であれば、同伴の女性が男性の妻だったかも定かではない。
食事が終わって隣の部屋へ移動したあとに、その年配夫婦が来ていろいろ喋ったのは覚えている。その時に何を喋ったのかまでは覚えていないが、あれは自分たちがスパイでないことを確かめていたのかと、千鶴は今更ながら恐ろしい気がした。
「ソ連のスパイを見つけるんが連中の目的でしてな。神戸から来たロシアの二人が、ここで誰かと接触すると考えよったみたいです。ほんでも、その二人がたまたま鈴木先生と出会てこちらの方たちと再会したんは、私らもわかっとりましたけん。連中を納得させるために伯爵にお願いして、本部長が同席させてもろたわけぞなもし」
愛媛の警察でも特高警察の人間は扱いがむずかしいのだろう。こちらの事情なんか考慮しないで勝手に動き回られては、堪ったものではないと思うのは警察でも同じらしい。
そんなわけで愛媛県警の本部長は、千鶴たちの様子を逐一観察して、全員がただの民間人であると確かめた。そして会が終わったあとに、そのことを外で待っていた特高警察の四人に説明したのだと言う。
それなのに男たちがそれを無視した形で、千鶴たちを逮捕しようとしたことに巡査は憤っていた。それは本部長が馬鹿にされたということであり、また久松伯爵夫妻の顔に泥を塗られたということでもあるからだ。
「せっかくの楽しい宴を台無しにされて、あなた方にはまことにお気の毒でしたな。まぁ、ほれはともかくとして、あなた方はどがぁして連中の手から逃げんさった? 連中がそがぁ簡単に狙た相手を逃すとは思えんですが」
甚右衛門とトミが不安げに千鶴を見ている。花江が勝手口からそっと中をのぞき込んだが、巡査と目が合うと慌てて引っ込んだ。
「うちらはスパイやないて説明しました。ほんでもこっちの話を全然聞いてくれんで逮捕されそうになったけん、みんなで大声出したんぞなもし」
「大声?」
「聞こえるかどうかわからんかったですけんど、お堀のすぐ向こうには兵隊さんたちがおいでますけん、兵隊さんに助けてもらお思たんです」
巡査は手帳と鉛筆を手に持ちながら、なるほどという顔でうなずいた。それで安心した千鶴は少し饒舌になった。
「うちが最初に大声で叫んで、兵隊さんを呼んだんですけんど、ほしたら、みんなも同しように叫び出したんぞなもし。ほれで、あの人らはだいぶ慌てんさったみたいでした」
「慌ててどがぁしたんかな?」
「うちらが叫ぶんをやめさせよとして、怒鳴ったり殴ったり蹴飛ばしたりしました。ほんでもみんな必死ですけん、誰もやめんかったんぞなもし」
「ほれで、連中はあなた方を逮捕するんをあきらめたと?」
「お堀の向こうなんか、衛戍病院なんかわからんですけんど、何ぞ――みたいな声が聞こえたんです。ほれで、あの人らはあきらめたみたいで、お城山の方へ逃げて行きよりました」
花江に説明した時よりも細かい話が、勝手に口を衝いて出る。そのことに千鶴自身驚きながらも、うまい説明ができたと安堵していた。
急いで千鶴の言葉を手帳に書いた巡査は、興奮した様子で千鶴に話を促した。
「連中は城山へ登って行ったんですな。ほれで、そのあとは?」
「うちらはそっから歩いて家まで戻りました。ほじゃけん、そのあと、あの人らがどがぁなったんかは存じとりません」
「兵隊は出て来ましたかな?」
「いいえ、うちらの声は聞こえんかったみたいぞなもし」
「では、あなたが耳にした、何ぞという声は関係なかったと?」
「ほうみたいぞなもし。ほんでも、そのお陰で助かりました」
千鶴が笑みを見せると、巡査は同意するようにうなずいた。
「確かに、ほのようですな。いや、あなた方が大声を出しんさったんはまことに名案でした。連中は私どもの本部長や久松伯爵の顔に泥を塗るような真似をしよったんですけんな。誰ぞにあなた方を逮捕するとこを見られると、非常にまずかったわけですわい」
巡査の言葉は、無罪の太鼓判を押してくれたみたいに聞こえる。千鶴たちの顔に安心の笑みが広がると、ところでですな――と巡査は言った。
「同し頃にお堀の中の兵隊らは、化け物みたいな声を聞いた言うとるんですわい。あなた方はそがぁな声は聞いとりませんかな?」
千鶴は咄嗟に、そがぁ言うたら――と言った。
「お堀の南の角を曲がった頃、獣みたいな声が聞こえたぞなもし」
何だか進之丞を売るような感じがしたので、こう証言することに千鶴はためらいがあった。しかし鬼の咆哮は兵士たちが聞いているし、紙屋町の祖父母までもが耳にしている。それを聞いていないと言うと、妙なことだと思われるに違いなかった。
「ほれは、どっちから聞こえましたかな?」
「お城山の方からぞなもし。あんまし大けな声じゃったけん、みんな驚きよりました」
千鶴の言葉に巡査は驚きを隠せない様子で、かりかりと手帳に書いた。また勝手口から顔を出している花江もびっくりしたようだ。どうして黙っていたのかと言いたげな目を千鶴に向けている。
「あの声は、私どもも耳にしたんです。ほんでも何の声かはわからんし、どっから聞こえて来たんかもわからんでおったんですが、とにかく背筋がぞっとするような声でした」
巡査は職務を忘れたように喋ったが、その話しぶりが千鶴は悲しかった。進之丞が鬼であることが知れたなら、警察や世間の人たちにどう扱われるかが見えるようだった。
「ほれで、城山には何ぞ見えましたかな?」
巡査に問われた千鶴は、我に返って返事をした。
「いえ、特には何も……。みんなでしばらく見よりましたが、何も見えんかったぞなもし」
「他には何ぞありましたかな?」
「いえ、ほれぎりぞなもし」
ほうですか――と巡査は残念そうに手帳を閉じた。それから口髭をいじりながら、ふーむと唸って独り言のようにつぶやいた。
「やっぱし城山に、何ぞおった言うことか……」
「何ぞとは?」
甚右衛門が惚けて訊ねた。
「大けな獣か、あるいは――」
言い淀んだ巡査は、勝手口から顔を出して話を聞いている花江に気がついた。花江はうろたえた様子で頭を下げたが、今度は引っ込もうとしない。話が聞きたいのだろう。
どうせ、ここまで盗み聞きしていたに違いないと思ったのか、巡査は無理に花江を遠ざけたりせず、他言は無用にとだけ言った。
花江が何度もうなずくと、巡査は甚右衛門たちに顔を戻し、ここぎりの話ぞなもし――と声を潜めて言った。それで花江はこそこそと千鶴たちの傍へ来た。
「連中は全員が全身の骨がぼきぼきでしてな。どがぁなことをしたら、あがぁなことになるんか、皆目見当がつかんのですわい。しかも、四人全員ですけん」
鬼が男たちを襲った時のことが目に浮かび、千鶴は狼狽して下を向いた。それを見て巡査は慌てたように言った。
「これは申し訳ない。あなたには気分が悪なる話でしたな」
いいえと言って千鶴が顔を上げると、巡査は話を続けた。
「私らも警察の仕事をしよりますけん、柔道や剣道なんかで体を鍛えとります。ましてや特高警察となったら、絶対に柔な人間やありません。みんな腕に覚えのある者ぎりじゃと思います。その男らが全員あがぁな目に遭うとしたら、何ぞ大けな事故に巻き込まれたかと思うんですけんど、見つかったんは何もないお城山ですけんな」
「ひょっとして、お城山には魔物がおろうか?」
トミが白々しく言った。
花江は不安げに千鶴を見ている。以前に喋った鬼のことを考えているのだろう。
巡査はため息をつき、まさにそがぁ思いとうなる事件ぞなもし――と言った。
「ほうは言うても、簡単に魔物のせいにするわけにも行きますまい。そこは私どもも頭を悩ませよるとこですわい」
巡査は千鶴の協力に感謝を示した。
これで終わりと思ったのか、表情を緩めた甚右衛門は、お茶を淹れて差し上げるようにと花江に言った。
千鶴に向けられた祖父母の目は、即興でよく説明をしたと褒めてくれているようだ。千鶴もほっとしたし、少し誇らしい気分だ。
花江はすぐにお茶を用意しようとしたが、巡査は次に行く所があるからと丁重に断り、甚右衛門たちに笑顔で訊ねた。
「ところで、幸子さんはどちらの病院にお勤めですかな?」
トミが病院の名前を喋ると、巡査はにっこり笑い、わかりましたと言った。
「今度はそこへ行てみよ思とります」
千鶴はぎくりとなった。今の証言は母とは打ち合わせていない。祖父母もうろたえている。
どうしようと焦る千鶴たちに挨拶をすると、巡査は表へ出て行った。