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事件の波紋

     一

「なして、わかった?」
 月明かりが照らす雲祥寺の墓地で、進之丞は言った。
「進さんの着物が落ちとったんよ」
 千鶴が話すと、ほうじゃったか――と進之丞はため息をついた。
「あとで拾いに行くつもりじゃったが、のうなっとったけん、どがぁしたもんかと思いよった。じゃが、まさかお前が拾うたとはの」
「なして言うてくれなんだん? なして黙っておいでたん?」
 千鶴に責められると、そげなこと――と進之丞は千鶴から離れて背を向けた。
「言えるわけなかろがな。あしはお不動さまにおまいの幸せをねごたんぞ。ほれを己でぶち壊すなんぞでけんじゃろが」
「お不動さまに幸せをねごてくれたけん、おらたち、こがぁして出会えたんやないん?」
がんごと一緒になって幸せになれる言うんか?」
 進之丞は振り向いた。月明かりではよくわからないが、進之丞の濡れた目は真っ赤になっているに違いなかった。
「あしは昔のあしやない。がんごぞな。もう、お前を嫁にする資格は、あしにはないんじゃ」
 それは、自分はがんごめだと信じていた時の千鶴の言葉だ。
 千鶴は返す言葉が見つからず下を向いた
「進さん、なしてがんごになってしもたん? 何も悪いことしとらんのに、なして鬼なんぞになってしもたん?」
 進之丞は千鶴から顔をらして言った。
「あしは、ようけの人を殺してしもた。お前や慈命和尚を護るためと言え、村のもんらにまで手をかけた報いぞな」
「村のもん?」
「村のもんがんごに操られ、慈命和尚の命を奪おとした。和尚を助けようとしたあしをも阻んだ故、仕方しゃあなしに斬り殺した」
「そげなこと……、悪いんは襲て来た方やのに、やり返した方ががんごになるん? ほんなん道理に合わんぞな!」
 食ってかかる千鶴の言葉を切り捨てるように、進之丞は言った。
「とにかく、あしはがんごになってしもたんじゃ。お前と夫婦めおとにはなれんし、お前を幸せにしてやることもできん」
「おら、幸せになんぞなれんでもええんよ。進さんと夫婦になれんでもかまんけん。ほやけん……、進さん、ずっとおらのねきにおって」
 すがりつく千鶴を抱きながら、進之丞は力なく言った
「お前はあん時と何も変わらんな。あん時も、お前はあしから離れよとせんかった……」
「あん時て、地獄におった時のこと?」
 進之丞はうなずくと、遠くを見るようにして言った。
がんごになって死んだあと、気ぃついたら、あしはあそこにおった。闇ん中であしは一人ぎりじゃった。時折、あしをあざわろもんや、あしをおとしめよとした者、あるいはあしが命をうぼた者がいずこからか現れて、あしを罵り、あしを責めた。あしは怒りに任せて連中を皆殺しにするんやが、しばらくするとおんなし奴らが現れて、またあしを罵り責め立てよる。ほれをまたつらまえて皆殺しにして……、延々とついのことを繰り返すぎりよ。そげなことを何年も続けよった」
「おら、すぐに進さんとこへ行ったつもりやったけんど、おらが辿たどり着くまで何年もってたん?」
「あしはそがぁに感じよった。永久とこしえついのことが続くように思われたんやが、ある時、あの闇ん中に淡い光が現れてな。くろうてやいあの場所に懐かしい温もりが広がって、あしの胸は喜びに打ち震えよった。ほん時に、己の胸のずっと奥にこんまいこんまい灯火があったことにな、あしは気ぃついたんよ。ほんで、その灯火のためにこの光が現れたんじゃと、あしにはわかったんよ」
「ほれは、ひょっとして……」
「ほうよ、千鶴。お前ぞな。その光はお前じゃった。がんごとなって地獄へ堕ちたあしの元へ、お前は訪ねて来てくれたんぞな」
 進之丞は愛おしげに千鶴を見つめて言った。
「あん時、あしがどんだけ感激したか。どんだけ嬉しかったか。また、どんだけ悲しかったか……。お前はあしががんごなんがわかった上で来てくれた。さらには、苦しみと絶望しかないあそこで、あしと一緒におると言うてくれた……」
 その時のことを思い出したのか、進之丞の声は震えて涙で消え入りそうになった。
 少ししてから進之丞は話を続けた。
「やが、お前にそがぁなことはさせられまい? あしは、お前をあそこから救い出すこと以外、何も考えれんようになった。ほん時に思たんは、己の中の灯火、つまりはお前への想いが、お前を呼び寄せてしもたに違いないということじゃった。ほれがある限り、お前を外へ出せん。ほれで、あしはほれを断ち切ろ思たんやが……」
 己の胸に爪を突き立て、胸の中の心臓をつかみ出した鬼の姿を、千鶴は思い出していた。
 千鶴は進之丞に抱きついた。
「なしておらのために、そこまでしんさるん?」
「ほれは、あしの台詞せりふぞな。なしてお前はがんごになったあしなんぞの元へ来るんぞ? あしなんぞ放って置けばえぇもんを……」
「そげなことできん。がんごになっても進さんは進さんぞな。ほやけど、なして進さんが鬼にならないけんの?」
「ほれは先に申したとおりぞな。あしは人殺しの人でなしよ。そこへ他の理由を付けるとしたら、憎しみと悲しみ、無念と未練の塊になることで、人であることをてたことじゃろな。そがぁして、あしは己の中にがんごという魔を受け入れたんよ」
「なしてそがぁなことを……」
「あん時はお前を救うこと以外、何も考えられんかったんよ」
「ほれは、おらががんごさらわれた時のこと?」
 進之丞はうなずくと、鬼に対峙たいじできたのは己も鬼になったからだと言った。
「あしががんごの姿になっても、かろうじて人の心を保てるのは、お前がおる故ぞな。お前を想う心があればこそ、あしは人の優しさを思い出せる。あしはほれをお前をさろた鬼に教え伝えたんよ。優しさいうもんは、己の中にこそあるもんぞとな」
「ほれで、そのがんごはおらを放してくれたん?」
 進之丞は、ほうじゃと言った。
「あしががんごの心を知り得たからこそ、その鬼もあしの言葉に耳を傾けてくれた。あしが人のままじゃったら、ほれはできんことじゃったろ。そがぁ考えると、あしが鬼になったんも無駄には――」
 千鶴は涙をぼろぼろ流して泣いた。
 進之丞は千鶴を抱きしめ、すまぬ――と言った。
「どのみち、あしは生きられぬ体じゃった」
がんごたたこうて傷つきんさったんじゃね?」
 進之丞は黙って小さくうなずいた。
「もし死ぬるような体やなかったら……」
「もう済んだことぞな。もし言うんはないけん」
「ほやかて死ぬる体やなかったら、進さん、がんごにならんかったかもしれんのに……」
「ほれじゃったら、あしはお前を救えんかったろ。あのがんごは頑固で凶暴で勝手な奴じゃったけんな。とは言うても、結局あしはお前を救うことはできなんだんじゃな……」
 それは千鶴が進之丞のあとを追って、命を絶ったことを言っているのだろう。悲しげな進之丞に千鶴は言った。
「進さんがおらんなったあと、おらぎり生きても、ほんなんは生きた屍ぞな。生きとっても死んどるんと変わらんけん」
「やが、初めからあしのことなんぞ知らんまま、新たな生を受けたなら、お前はあしに縛られることなく、思ったように生きられたじゃろ。やけん、あしはお前への未練を断とうとしたんやが……」
 進之丞はそこで口籠もると唇を噛んだ。
「あしは愚かもんぞな。お前のためにお前への未練を断つと決めたのに……。お不動さまにお前を救ていただくようねごたのに……。どうか、お前を幸せにしてやって欲しいと、ほれぎりを願とったのに……」
「なして進さんが愚かもんなんよ? おらのために命懸けんさったのに……、おらの幸せねごてくんさったぎりやのに……、ほれのどこが愚か者なん?」
 進之丞は千鶴をちらりと見たあと、遠くへ目を向け、あん時――と言った。
「あの闇の中で命の灯火が消える刹那せつな、あしは目映まばゆいばかりの光を見た。ほの光を見て、お前は元んとこへ戻されたんじゃなと、あしは安堵あんどした。やが、ほん時にちらりと思てしもたんよ。幸せになったお前の笑顔を一目見たかったとな……。ほれで気ぃついたら、あしはこの体、この姿で浜辺に立っとった」
 え?――千鶴は進之丞の言葉が理解できなかった。
「進さん、生まれ変わったんやないん?」
「あしの記憶に残っとるんは、今言うたとおりぞな。あしは知らぬ間に、この男の体の中に入っとった。いわば、この体を借り受けておるようなもんよ。借りたもんはいずれは返さにゃならん。あしがこの世に留まっておるんは、お前の幸せ、お前の笑顔を確かめるためぞな。ほれを確かめれば、消え去るんがあしの定めぞな」
 そう言われて納得できるはずがない。千鶴は泣きながら言った。
「ほれじゃったら、おら、もう笑わん。絶対に幸せになんぞならんけん」
 進之丞は困惑し、悔しそうに言った。
「こげなことになるけん、あしはお前に姿を見せまいと思いよった。ほれやのに……」
「進さんがおらなんだら、おら、あの男らに手籠めにされよったぞな。そがぁなっとったら、おら、うに死んどったけん!」
「そもそも、お前が風寄へ来ることになったんも、あしがお前を呼び寄せたんよ。地獄におった時とついの過ちを、あしはしてしもたんじゃ」
「ほんなことない。おらが風寄に行ったんは、村上さんに誘われたけんよ。進さんは関係ないけん」
 進之丞は少し間を置くと、言い聞かせるように言った。
「全ての動きは絡み合い、関係しうとる。あしが風寄に現れなんだら、お前が風寄の祭りに誘われることもなかったじゃろ。風寄に来んかったら、あの連中に襲われることもなかったんよ」
「ほんなん屁理屈ぞな。おら、そげな屁理屈信用せんけん」
「あしが余計なことを望んだばっかしに、あしは全てを台無しにしてしもた。恐らくお前はあのロシアの男と夫婦になり、幸せを手に入れたであろうに」
 顔が熱くなるのを感じた千鶴は、強く言い返した。
「もう言わんで! おらと進さんが一緒におるんは、お不動さまが決めんさったことぞな。進さんががんごなんはお不動さまかてわかっておいでたはずじゃろ? ほれでも、こがぁして一緒におらしてくんさるんは、これがおらたちの定めやいうことぞな」
「ほんでも、あしはがんごぞ。また、いつ本性表すかわからんのぞ。誰ぞに正体が知れたら、ほん時は、あしもお前もおしまいぞな」
「おら、覚悟はできとるよ。生きるも死ぬるも進さんとついぞな」
「あしは……」
 進之丞は千鶴に背中を向けて言った。
「あしは怒りをこらえきれんなると、がんごに姿を変える。ほん時のあしは心まで鬼になってしもとる。お前のことはわかるけんど、ほれ以外は何も考えられん。兵頭の家をめがした時は、これが己の定めなんじゃと思て、何とか己を抑えた。けんど、昨夜ゆんべはお前が止めてくれなんだら、あしはあの場で彼奴あやつらを八つ裂きにしたじゃろう」
 八つ裂きという言葉に千鶴は恐怖を覚えた。だが、それは表には出さずに口を尖らせた。
「じゃったら尚更なおさら、おらは進さんのねきにおるけん」
「あしががんごじゃと知れた時、お前までもが鬼の仲間じゃと、みんなに思われてしまわい。ほれが、あしは怖いんよ」
「おらがいろいろ言うてしもたけん、そがぁ思いんさるんじゃね。ごめんな……。おら、まっこと抜け作で自分でも情けないぞな。ほんでも、おら、もう何も気にせんけん。ほれに進さん、怒りさえせんかったら、人の姿でおられるんじゃろ?」
 まぁなと進之丞がうなずくと、じゃったら――と千鶴は言った。
「とにかく怒らんようにすればええんよ。おらも進さんが怒らんでええように気ぃつけるけん。ほしたら、これまでどおりに働けるし、おらたち夫婦めおとにもなれるぞな」
 進之丞は返事をしなかった。
 千鶴は進之丞を自分の方へ向けると、黙って抱きしめた。
 千鶴の腕の中で進之丞は泣いた。千鶴も泣いた。
 その本性があの巨大で恐ろしい姿とは思えないほど、千鶴には進之丞が小さくか細く感じられた。

     二

「ところで、あの人ら……、どがぁなったん?」
 千鶴がたずねたのは、特高警察の男たちのことだ。
 進之丞は関心がないみたいに素っ気なく言った。
「城の近くに捨てて来た。あん時はまだ息があったけんど、今はどがぁなっとるか……」
「あの人ら、がんごにやられたて言うじゃろか」
「死んだもんは何も言えまい。生きとっても、そいつは何も覚えちゃせん。己が何者でここへ何しに来たんか、全部忘れとらい」
「進さんがそがぁしんさったん?」
「あしはがんごじゃけんな。相手の心に忍び入り、心を操ることができるんよ。もっとも思いどおりに操れるんは、心の穢れた連中ぎりぞな。心が穢れとらん者を操ることはできん。精々せいぜいが眠らせるぐらいのことよ。ただ、その者の心が乱れておる時は、心が穢れておらんでもその乱れを利用して操ることもある」
 前世で鬼は村人たちを操り、慈命和尚を死に追いやった。それと同じことを進之丞はできるわけだ。そのことは進之丞はまぎれもなく鬼なのだと、改めて告げられているようだった。
「おら、風寄でイノシシに襲われた時のこと、しばらく思い出せんかったけんど、ひょっとしてあれも進さんがしんさったん?」
「お前の中に不安や悲しみが渦巻きよったけんな。ほれを忘れるように暗示をかけた。やが、あん時はあしも動揺しよったけん、暗示がふこうはかからんかったみたいじゃな」
「昨夜、花江さんらは知らん間に寝てしもとったて、言うておいでたけんど、あれもほうなん?」
 進之丞はうなずき、みんなが寝るのを待てなかったと言った。
「いつもじゃったらもっと早よに寝とるとこを、お前の土産話が聞きとうて、みんな寝ずにがんばりよったんよ。あしは昼間に近くで怪しいもんを見かけたけん、嫌な予感がしてな。早よに出たかったんやが、みんなが寝てくれんけん仕方しゃあなしに寝てもろたんよ」
「おじいちゃんとおばあちゃんは?」
「旦那さんらは寝るわけにはいかんけん、あしが表に出ることぎり忘れてもろたぞな。二人ともお前のことを心配しておいでたけん、操らせてもらうことがでけたんよ」
 そういうことだったのかと納得した千鶴は、もう一つ訊ねた。
「ほやけど、なしてあの継ぎはぎの着物を着んさったん?」
「店の着物着よったら、何ぞいざこざがあった時に、店の名前が出ろ? 旦那さんやおかみさんに迷惑かけるわけにいかんけん、ほれであの着物を着たんよ。履き物かてなかったら、どこ行きよったいう話になるけん、草鞋わらじも置いてった。まぁ風寄じゃいっつもかっつも裸足やったけん、ほんまはそっちの方がいごきえぇんよ」
 進之丞は照れたように笑ったが、すぐに笑みは引っ込めた。
「お店出てすぐに、あそこへおいでたん?」
 千鶴が訊ねると、いいやと進之丞は首を振った。
「お前と出会でくわすかと思いもって走ったけんど、結局はまだ萬翠荘の会はお開きになってなかったんよ。昼間見かけた怪しい連中も、ほん時には姿がなかった」
 門番の男を眠らせたあと、萬翠荘に辿たどり着いた進之丞は、月明かりに浮かんだ館の壮麗さに息を呑んだと言う。
「あれは、まっことがいなお屋敷じゃった。あしは西洋を知らんけんど、西洋いうんはこがぁな感じなんかと思わされたぞな」
「まっことあのお館はがいなけん、おらもお母ちゃんと二人で口をぽかんと開けたまま眺めよったぞな」
 初めて萬翠荘の前に立った時のことを思い出し、千鶴はくすくす笑った。だが、あの時の館の外に進之丞がいたということが、どういうことかと考えると、すぐに千鶴の笑いは消えた。
「あのお屋敷はおおけな窓が一杯じゃったな。がらすと言うんかな。向こうが透けて見える板が張っとるぎりで雨戸がないけん、外から中が見えよった」
 暗がりにたたずむ屋敷の大きな窓から明かりが漏れ、それがとても不思議な感じだったと進之丞は言った。
 千鶴はぎくりとなった。まさか自分の醜態を見られたのかと思うと、顔も体も強張った。
「中でしよったこと、外から見えたん?」
 恐る恐る千鶴が訊ねると、進之丞は楽しげにうなずいた。
「薄い布越しやけんど、まぁ見えたぞな」
 窓の内側には、厚手の布と白く薄い布が垂れ下がっていた。厚手の布は左右に開かれていたが、白い布は窓を覆っていた。それでも白い布はとても薄く、布越しに中で人が動く様子が見えたと言う。
 それでも布越しは見づらいので、進之丞はもっとよく見ようと思って、いくつかの窓を見て廻ったそうだ。すると一カ所だけ、白い布の真ん中に隙間がある窓があったと、進之丞は言った。
 その隙間からは、明るい中の様子がよく見えた。中では、千鶴とスタニスラフが多くの人々に囲まれる中、楽しそうに踊っているところだった。
「お前は実にきれいじゃった。やっぱしお前は花の神さまじゃったと、あしは思た。あしには手ぇの届かん異国の花なんじゃと」
 その時のことが思い浮かんだのか、進之丞の頬をほろりと涙がこぼれ落ちた。
「そがぁな話はせんで。おら、聞きとない!」
 千鶴は死にたい気分だった。一番見られてはならない進之丞に、あの破廉恥はれんちな姿を見られてしまったのだ。
 しかし、千鶴の声が聞こえていないのか、進之丞は喋り続けた。
「正直言うたら、あしはお前を手放しとうなかった。お前の幸せねごとる言いながら、あしの中には、まだお前への未練があった。お前があの男と踊る姿を見ながら、あしは己の心の貧しさを見せられた気分じゃった。ほんでも、あがぁにきれいで楽しそうなお前を見よったら、これでよかったんじゃて思えたんよ。この男じゃったら、あしに代わってお前を幸せにしてくれるじゃろうと……」
「やめてて言うとるじゃろ! あん時のこと思い出したら、おら、死にとなるけん」
 進之丞はようやく口を閉じたが、今度は喋らなくなった。あの時の悲しい気持ちが蘇ったのだろう。
 堪忍な――と千鶴が詫びると、進之丞は首を振った。
「お前が謝ることない。お前が何を望もうと、あしは文句は言わん」
 千鶴は泣きたくなった。一言ぐらい文句を言って欲しかった。
 千鶴の踊りを眺めていた進之丞は、やがて窓から離れ、近くの藪の中に身を潜めていたと言う。そこで己の中にある千鶴への未練を抑え、千鶴の幸せだけを考え続けたそうだ。
 気がつくと、客たちが次々に人力車で帰って行くところだった。慌てて様子を確かめたが、すでに館を出た人力車もあったようで進之丞は焦った。
 千鶴たちは出てしまったのか、まだ中に残っているのか。窓から中をのぞいたが、もうそこには誰もいなかった。
 進之丞は屋敷の前から人がいなくなるのを待った。やがて二台の人力車を残して、他の人力車が行ってしまうと、そのあとに続いて外へ出た。それから大急ぎで山﨑機織へ戻ったが、途中で千鶴を乗せた人力車を見ることはなかったし、店にも千鶴は戻ってはいなかった。
 しまったと思った進之丞は、すぐに萬翠荘へ引き返そうとした。
 その途中、八股榎があるお堀の角を曲がると、前方にある城山へ向かう暗がりの道から、二台の人力車と車夫たちが出て来るのが見えたと言う。
 そんな所から人力車が出て来るのは妙だと思い、進之丞は急いでその暗がりへ向かった。そして目にしたのは、男たちに捕まった千鶴が張り倒されたところだった。
「頭ん中が怒りで一杯なって、連中を皆殺しにすること以外、あしは何も考えられんなったんよ。ほんでも、お前の姿を目にした時、あしはもうおしまいじゃと思いよった。この姿見られた以上、もうお前のねきにはおれんとな。ほれが余計に彼奴あやつらへの憎しみをかき立てて、あがぁなことになってしもた」
 千鶴を哀しげに見下ろす鬼の姿や、千鶴に制止されて悔しそうに吠える鬼の姿が、千鶴の目に浮かんだ。
 進之丞をあそこまで追い込んだのは自分だと、千鶴は詫びながら泣いた。だが、ほうやないと進之丞は言った。
「あれがあしの本性やけん、いずれはあがぁなっとった。お前が悪いんやない。ほんでも、がんごいうんはそがぁに簡単には本性を見せんもんぞな。なるべく人の姿でひっそり暮らすんが、人の世で生きるためのすべなんよ。本性見せよったら、そこにはおれんなるけんな」
「いけんよ。おらから離れたら許さんけんね」
 思わず千鶴がにらむと、進之丞は苦笑した。
「お前には勝てんぞな。ほんでも、いつかお前と一緒にはおれんようになろ」
「なしてそげなこと言うんよ!」
「あしはな、がんご変化へんげするたびに、あしがあしでのうなって行くような、地獄におった時の己に戻って行くような、そげな気ぃがするんよ」
「ほれは、どがぁな意味?」
「今みたいに変化へんげ繰り返しよったら、いずれあしはあしの心をうしのうて、今の姿には戻れんなるいうことぞな」
「ほんな……」
「そがぁなったら、おしまいぞな。いくらお前がねきにおってくれ言うたとこで、あしは消えるしかあるまい」
 千鶴はまた泣き出した。
 進之丞は千鶴を慰めたが、千鶴の涙は止まらなかった。
 しかし、悲しんでばかりいても仕方がない。千鶴は何度も涙を拭きながら進之丞に言った。
「おら、気ぃつけるけん。おらさえしっかりしよったら、進さんが頭に血ぃ昇らせることもないはずぞな。そがぁしよったら、進さんががんごになることないし、おらたちずっと一緒におれるけん」
 進之丞は黙ったままだ。千鶴は進之丞の手を取り、一緒にがんばろうと言った。
 しかし、千鶴はふと辰蔵のことを思い出した。自分は辰蔵と夫婦にさせられてしまうのだ。それを拒めば山﨑機織は潰れてしまう。
 そのことを改めて進之丞に話すと、辰蔵の相手は千鶴ではないと進之丞は言った。
「旦那さんが辰さんと一緒にさせよと思とりんさるんは、お前の母上ぞな」
 え?――と千鶴は驚いた。
「ほんまに? 辰蔵さん、お母ちゃんと夫婦になるん?」
「花江どのがそがぁ申しておった。花江どのと辰さんは惚れうとってな。夫婦約束を交わしておったそうで、あしに旦那さんと交渉するよう頼んで来たんやが、そのことでお前には誤解を招いたようじゃったな」
 何もかもお見通しの進之丞に、千鶴は当惑した。
「進さん、知っておいでたん……」
「わかっておったが、お前の元から離れるには、ちょうどえぇと思て黙っとった。ほじゃけん、あの男と親しなったことでお前が気に病むことはない。悪いんはこのあしぞな」
 そう言われても、気持ちが揺れたことが悔やまれるのは同じだ。
 それにしても元をただせば、前世で自分を攫った鬼が悪いと千鶴は思った。あの鬼がいなければ、前世で自分と進之丞は夫婦になれたであろうし、進之丞が鬼になることもなかったはずだ。
 今世で自分を助けてくれていた鬼というのも、実際は進之丞だったのである。となると、あの鬼はどこで何をしているのだろう。
 千鶴は少し腹立ちを覚えながら進之丞に訊ねた。
「話違うけんど、前世でおらをさろがんごは、ほんまはどがぁなったん?」
「あのがんごはお前にしてしもたことを、心から悔やんどる」
 進之丞はさらりと言った。しかし、進之丞の言葉が本当かどうかはわからない。自分が鬼になったことで、あの鬼をかばっているとも考えられる。
「今はどこにおるん?」
「姿は見せられんが、あしのねきにおる」
「今もここにおるて言うこと?」
「ほういうことぞな。そのがんごもずっとお前のことを見守っとる」
 そう言われても、ぴんと来ない。自分を護ってくれていた鬼は進之丞であり、あの鬼が何かをしてくれたわけではない。
「進さんががんごになった時は、その鬼はどがぁしよったん?」
「あしと一緒におらびよった」
「その鬼は体はないん?」
「体は……己の体はない。ほじゃけん、あしに引っ付きよる」
「前世ではあったんじゃろ?」
「ほん時はな。今はないんよ。けんど、ほれはあしにしたかてついぞな。この体はあしの体やのうて借り物やけんな」
 前世と同じ姿なのに、今の体が借り物だと言われると、千鶴は悲しくなる。それは進之丞の本当の姿が幽霊のようなもので、いつこの世から消えてもおかしくないと言われているようなものだ。
「その体が借り物やとしても、おら、ずっと進さんと一緒におりたい。進さんがおらんなったら、おら、死ぬるけんね」
 脅迫めいた言葉になったが、千鶴は必死だった。こうでも言わないと、頑固な進之丞をつかまえているのは難しいと思っていた。
 進之丞は当惑気味に言った。
「恐らく、あしは今世でも人殺しになってしもた。ほんでも、お前はあしから離れん言うんか?」
「前世でも今世でも、進さんが人をあやめんさったんは、おらを護るためぞな。好きでしたことやないし、進さんの罪はおらの罪ぞな。おら、生きるも死ぬるも進さんとついやけん」
 進之丞は鼻から大きく息を吐き、わかった――と言った。
「まことの定めがどがぁなんか、あしにもわからんが、ここは腹をくくってみることにしよわい。どがぁなるんかわからんけんど、ほれでお前が喜ぶんなら、お前が言うとおりにしてみよわい」
「ほんまに?」
「嘘は言わん」
 千鶴は進之丞に抱きつき、進之丞も千鶴を抱き返した。
 誰もいない静かな墓地の片隅で、互いを温もりが包み込む。
 進之丞が鬼であるという悲しみは変わらない。それでも、ようやく互いの心が本当に通じ合えたと、千鶴の胸は喜びに震えた。

     三

 翌日の朝刊に、とうとうあの男たちのことが載った。
「城山に謎の怪我人」という見出しの記事には、昨日の朝、城山の待合番所跡で、意識不明の怪我人が四人発見されたとあった。
 四人とも全身の骨が折れていて瀕死の状態らしい。身元は不明で警察が現在確認中と書かれている。だが、実際は兵庫から来た特高警察の人間だと、警察では把握しているはずだ。状況を確かめるため公表していないだけに違いない。
 また前夜には不気味な獣の鳴き声が、近くで聞かれたという情報もあり、事件との関連があるか調査中だとも記事は述べていた。
 さらに、八股榎のお袖だぬきが祠立ち退きを拒んで、今回の事件を引き起こした可能性を指摘する話があるとも書かれていた。
 朝飯を食べながら新聞を回し読みした千鶴たちの間には、どんよりとした雰囲気が漂っていた。
「冷たいようやが、この四人はこのまま死んでくれた方が、わしらは助からい」
 甚右衛門は潜めた声で言った。
「ほうよほうよ。大体、言いがかりをつけて来たんは、向こうなんじゃけんね。ほれやのに、こっちに何ぞ言われても迷惑なぎりぞな」
 トミも小さな声で冷たく言った。
 二人とも鬼のことは口にしなかった。鬼を恐れる気持ちはあるのだろうが、助けてもらったのは事実であるから、鬼を悪くは言わないのだろう。
 その分、二人の怒りや不満は特高警察にぶつけられた。
 それは千鶴にしても同じだった。特高警察が現れなければ、進之丞が鬼に変化へんげすることもなかったからだ。
 しかし、あの時に特高警察が現れていなければ、人力車の中で自分とスタニスラフはどうなっていたのかと考えると、千鶴はそれ以上特高警察を責めることができなくなった。
 結局は浮かれて萬翠荘へ行った自分が悪かったのだと、千鶴は己を責めた。萬翠荘へ行っていなければ、特高警察に目を付けられることもなかっただろうし、スタニスラフに気持ちが揺れることもなかったのだ。
 一方で、新聞を読んだ幸子は、特高警察のことも鬼のことも口にしなかった。黙って甚右衛門たちの話を聞いているだけだったが、あの時のことを思い出しているのだろう。お椀を持つ手が小さく震えている。
 ミハイルたちを高浜まで見送りに行った時には、幸子は鬼を怖がっていないように見えた。しかし、新聞の記事を読むと、やはり鬼は恐ろしいものだと思ったのかもしれない。そんな険しい顔をしている。
 また誰もが思っているのが、特高警察がこのまま黙ってはいないだろうということだ。
 男たちの身分が明らかになっているのであれば、兵庫の特高警察にも連絡が行っているに違いない。恐らく大騒ぎになっているだろうが、すぐに誰かが詳しい状況を調べに来るはずだ。
 元々ミハイルたちに付いて来たのであれば、ミハイルたちの足取りを調べると思われる。そうなると当然、山﨑機織や千鶴たちの名前が出て来るだろう。
 そんな男たちなんか知らないとしらを切ったところで、人力車の男たちに証言されれば、千鶴たちが男たちと最後に会った人間だと、すぐにわかるはずである。
 そうなった時に、どんな言い訳が通じるのか。
 今のところはみんなで大声を出して、男たちを城山へ撃退したことにしている。甚右衛門もトミもそれで通すしかないと言った。ただ、果たしてそんな話が特高警察に通じるのかはわからない。
「お父さんらは大丈夫じゃろか?」
 千鶴が心配すると、ほうじゃなぁ――と甚右衛門は首を傾げた。
「神戸のことはわからんけんど、あの二人が何ぞやったいう証拠はどこっちゃないけん、なんぼ特高でも証拠もなしに二人をつらまえれまい。逆に言うたら、証拠をつかむために、連中はまずはこっちへ調べに来るじゃろ」
がんごが出た言うても、信じんじゃろな」
 トミが投げやりに言うと、甚右衛門はふんと言った。
「あの連中が信じるかい。ひょっとしたら松山にはソ連のスパイがようけおって、そいつらがあの四人をあんな目ぇに遭わせたと考えるかもしれまい」
「とにかく、あの二人ははよう日本を離れた方がええぞな」
 トミが言うと、幸子もそう思うと言った。
「特高警察がおる以上、あの人らにとって日本は安全なとこやないけんね」
 千鶴も全く母と同意見で、ミハイルたちが神戸で特高警察に捕まらないよう祈っていた。
「ほれにしても、千鶴に憑いとるがんごは、普段はどこにおるんじゃろか」
 とうとうトミが鬼のことを口に出した。
 甚右衛門は片眉を上げ、何を言っているのかという顔をした。しかし、トミはお構いなしに話を続けた。
「どこにおるんかわからんけんど、今回のことに関して言えば、やっぱしがんごにはお礼の一つも言うとかんといけんじゃろな」
「お礼? なしてがんごに礼なんぞ言わんといけんのぞ」
 甚右衛門が噛みつくように言ったが、トミは平然と言い返した。
「ほやけど、助けてもろたんで?」
 甚右衛門は返事をしないので、トミは幸子にいた。
「あんたは、どがぁ思う?」
 幸子はうろたえ気味に、鬼は千鶴を自分の獲物として護ったと思うと言った。それは鬼に礼など言う必要はないということか。
 しかし幸子はすぐに、ほやけど――と言った。
「あん時、うちは千鶴を護りながら、殺すんじゃったらうちを殺せ――てがんごに言うたんよ。ほしたら、何か鬼がひるんだみたいでな。今思たら、鬼はうちのこともわかっとって、助けてくれたような気がせんでもないかな」
 当たり前だと千鶴は思った。進之丞は母のこともわかっている。千鶴だけでなく、他のみんなのことも助けてくれたのである。
 渋々ながらだろうが、甚右衛門がむずかしい顔で言った。
「確かに、千鶴を奪われる思てがんごが連中を手に掛けたんなら、ミハイルやスタニスラフかて鬼にやられてもおかしないな。けんど、ほうやとしたら、わけがわからんなった。鬼が千鶴をねろとるんやないなら、なして千鶴に憑くんぞ?」
 ほれは――と言って、トミは口籠もった。幸子も何も言わない。
 千鶴は事実を告げたかったが、告げられるはずがなかった。
「まぁ、ええわい。妙な感じなけんど、今日のとこはがんごに感謝することにしよわい」
 甚右衛門は目を閉じて両手を合わせた。それにならってトミも幸子も手を合わせた。
 千鶴は嬉しかった。みんなが進之丞のことをわかってくれたわけではない。それでも進之丞がやったことに感謝を示してくれたのである。
 千鶴も手を合わせながら、隣の板の間の方を向いた。襖の向こうには進之丞がいる。
 千鶴は見えない進之丞に、みんなが感謝してくれていると心の中で伝え、自分も改めて感謝した。

     四

 朝飯が終わり、幸子は勤務している病院へ行った。病院の行き帰りは、守り役として進之丞が同伴だ。
 亀吉たち丁稚三人組が、古町停車場へ県外へ発送する品を運びに出たあと、少しして店の方から聞き慣れない声がした。
「ごめん。あるじどのは、おいでるかな?」
 すぐに慌てた様子の辰蔵が、茶の間にいる甚右衛門の所へ来た。
「旦那さん、警察ぞなもし」
 その一言で、家の中に緊張が走った。
 甚右衛門は千鶴やトミをちらりと見ると、土間へ降りて帳場へ向かった。その後ろを辰蔵がついて行く。
 千鶴と一緒に掃除をしていた花江は、今朝の記事のことをまだ知らない。困惑した顔を千鶴に向けたが、今は説明できない。
 そこへ甚右衛門は警官を連れて、すぐに戻って来た。
「えっと、あなたが山﨑千鶴さんかな?」
 甚右衛門が千鶴を呼ぶ前に、警官が千鶴に声をかけた。
「はい、うちが山﨑千鶴ぞなもし」
 千鶴は掃除をやめると、警官の前に来て座った。
 四十を越えたと思われる警官は、口元に威厳のある髭を生やしている。腰にげたサーベルが威圧的だ。千鶴は平静を装ったが、胸の中では心臓がばくばく暴れている。
「ちぃと確認のために、二、三質問をさせていただきたいが、かまんですかな?」
 千鶴が緊張していると見たのだろうか、警官はにっこり笑った。
 目尻には深い笑いじわが刻まれていて、本来は気さくな人柄のように思われた。だが、笑っている目には鋭さがある。
「そがぁにかとうならんで。型どおりの質問をするぎりじゃけん、何も心配することないぞなもし」
 警官は穏やかに言った。
 千鶴は甚右衛門を見た。甚右衛門は黙って首を横に振った。気を許すなという意味だろう。
「あの、うちは何ぞいけんことしてしもたんでしょうか?」
 先に千鶴が訊ねると、警官はまた笑った。
「あなたが何もしとらんのはわかっとります。そがぁな話やのうてですな。私どもは、ある事件の目撃情報を集めとるんぞなもし」
「ある事件?」
 あの特高の男たちのことに決まっている。案の定、警官は城山で見つかった四人の男のことだと言った。
「今朝の新聞はお読みになりましたかな?」
 警官は甚右衛門を振り返った。警官の背後から千鶴に顔で指図をしていた甚右衛門は、慌てたように背筋を伸ばした。
 怪訝けげんそうにする警官に、甚右衛門は新聞なら読んだと言った。
「城山で身元不明の男四人が、瀕死の状態で見つかったとあったでしょ?」
「そがぁ言うたら、そげな記事もあったかな」
 甚右衛門がとぼけると、あったんぞなもしと警官は言った。
「新聞では身元不明とありましたけんど、実際は四人とも神戸から来た特別高等警察の人間でしてな」
 やはり警察では調べ済みだ。しかし甚右衛門とトミは、特別高等警察という言葉を初めて聞いたという顔で互いを見た。
「聞いたことはありませんかな。特別高等警察は特高警察とも言われとります。その呼び名のとおり、私どもとちごて内務省直属の特別な警官ですわい。その特高警察のもんがある調べ事のために、松山まで出ておいでたんじゃが、あがぁなことになってしもて……。神戸の特高警察もついでしょうが、こっちの警察も大騒ぎですわい」
 声は出さないが、花江が上気じょうきした顔で話を聞いている。盗み聞きではなく、しっかりと警官に体を向けて立っていた。
「その方らは危ない状態なんでしょうか?」
 千鶴が訊ねると、警官はちらりと花江を見た。
 花江は慌ててその場を離れようとしたが、警官は花江を制して、他言無用にしてもらえるなら、そこにいて構わないと言った。
 花江がうなずくと、警官は千鶴たちに顔を戻した。
「病院に運ばれてまもなく三人は死にました。残りの一人は重体でして、どがぁなるかはわからん状態ぞなもし」
 予想していたことではあったが、三人が死んだという事実に千鶴は衝撃を受けた。それは進之丞が今世でも人殺しになってしまったということであり、進之丞が地獄へ引き戻されるには、十分な理由となるに違いない。
 千鶴の表情に気づいたのか、警官はじっと千鶴を見た。
「そこで質問ですけんど、あなたは一昨日おとういの晩げに、萬翠荘の晩餐会に招かれましたな?」
 はいと千鶴がうなずくと、警官は言った。
「あの夜、晩餐会が終わったあと、あなた方はどがぁして家にんて来んさったか、教えてもらえますかな?」
 千鶴は二人掛けの人力車二台に乗ったと言った。
「ほれはあなたとお母さん、ほれとロシアのお二人に分かれて乗ったいうことですかな?」
「いえ、それぞれに父と母、ほれと、うちとスタニスラフさんが乗りました」
 ロシア人二人は道後へ戻らなかったのかと訊かれると、二人は自分たちを紙屋町へ送り届けたあとに、道後へ戻るつもりだったと千鶴は説明した。
 警官はうなずきながら、手帳に千鶴の言葉を書き記した。
 警官は人力車が萬翠荘を出てから、紙屋町へ向かった道筋を確かめると、これからが本番の質問だと言った。
「あなた方が家に戻るまでの間に、何ぞ事件に関連すると思われるようなものを、見聞きはせんでしたかな?」
 じっと見つめる警官の目は、隠そうとしても事実を知っているからなと告げているようだ。
 千鶴は目を伏せると、実は――と言った。
「実は? 何ぞ、ありんさったんかな?」
 千鶴が顔を上げると、警官の後ろで甚右衛門が慌てている。トミも同じく動揺している様子だ。しかし、大声で特高警察を撃退したことにすると、初めに決めたはずである。
 千鶴は覚悟を決めてうなずいた。警官は意外そうに目を見開き、ほぉと言った。千鶴から何も聞き出せないと、警官は思っていたのかもしれない。
「どこで何があったんぞなもし?」
「県庁の前辺りで、男の人四人に止められました。ほれからお堀の脇にある、お城山へ登る道の方に連れて行かれて、人力車の人らは追い返されました」
「男四人? その男らは何ぞ言いましたかな?」
「特高じゃ言うて、うちらにソ連のスパイの疑いがあるて言いよりました」
 警官がじろりと甚右衛門を見ると、甚右衛門は困ったように横を向いた。すると、トミが警官に言った。
「さっき知らん言うたんは、事件に関わっとるて思われるんが怖かったけんぞなもし」
 ほれはほうでしょうなと警官はうなずくと、千鶴に再び訊ねた。
「ほれで、その男らはあなた方を逮捕しようとしたんですな?」
 千鶴がうなずくと、警官は困惑した様子で、ほうでしたか――と言った。
「ここぎりの話ですけんど、そげなことはせんようにと連中には言うてあったんぞなもし。ほんでも、連中はこっちの言うことには耳を貸さんかったようですな」
「耳を貸さんとは、どがぁなことですかな?」
 後ろから甚右衛門が言った。警官は振り返ると、晩餐会には愛媛県警察の本部長が同席していたと話した。
 そんな話は初耳だと千鶴が言うと、警察だと知れるとみんなが緊張するので、久松伯爵の知人を装っていたと警官は説明した。
 千鶴は驚いた。伯爵夫妻と同じ席には、伯爵の知人という年配の夫婦が座っていた。父も母も知らない人たちで、ロシア人墓地の管理をしていると説明されたが、あの男性は警察の本部長だったわけだ。であれば、同伴の女性が男性の妻だったかも定かではない。
 食事が終わって隣の部屋へ移動したあとに、その年配夫婦が来ていろいろ喋ったのを覚えている。その時に何を喋ったのかは覚えていないが、あれは自分たちがスパイでないことを確かめていたのかと、千鶴は今更ながら恐ろしい気がした。
「実は、ソ連のスパイを見つけるんが連中の目的でしてな。神戸から来た二人が、ここで誰かと接触すると考えよったみたいです。ほんでも、その二人がたまたま鈴木先生と出会でおて、こちらの方たちと再会したんは、私らもわかっとりましたけん。連中を納得させるために伯爵にお願いして、本部長が同席させてもろたわけぞなもし」
 愛媛の警察でも特高警察の人間は扱いがむずかしいのだろう。こちらの事情なんか考慮しないで勝手に動き回られては、たまったものではないと思うのは警察でも同じらしい。
 そんなわけで愛媛県警の本部長は、千鶴たちの様子を逐一観察して、全員がただの民間人であると確かめた。そして会が終わったあとに、そのことを外で待っていた特高警察の四人に説明したのだと言う。
 それなのに男たちがそれを無視した形で、千鶴たちを逮捕しようとしたことに警官は憤っていた。
 それは本部長が馬鹿にされたということであり、また久松伯爵夫妻の顔に泥を塗ったということでもあるからだ。
「せっかくの楽しいうたげを台無しにされて、あなた方にはまことにお気の毒でしたな。まぁ、ほれはともかくとして、あなた方はどうやって連中の手から逃げんさった?」
 甚右衛門とトミが不安げに千鶴を見ている。花江も甚右衛門の後ろで緊張した様子だ。
「うちらはスパイやないて説明しました。ほんでも聞いてくれんので、みんなで大声出したんぞなもし」
「大声?」
「聞こえるかどうかわからんかったですけんど、お堀のすぐ向こうには兵隊さんたちがおいでますけん、兵隊さんに助けてもらお思たんです。ほしたら、あの人らは城山の方へ逃げて行きよりました」
 警官は急いで千鶴の言葉を手帳に書いた。
「城山へ登って行ったんですな。ほれで、そのあとは?」
「あとは、そっから歩いて家まで戻りました。ほじゃけん、そのあと、あの人らがどがぁなったんかは存じとりません」
「兵隊は出て来ましたかな?」
「いいえ、うちらの声は聞こえんかったみたいぞなもし」
「お堀の中の兵隊らは、化け物みたいな声を聞いた言うとるんですわい。あなた方はそがぁな声は聞いとりませんかな?」
 千鶴は咄嗟とっさに、そがぁ言うたら――と言った。
「お堀の南の角を曲がった頃、獣みたいな声が聞こえたぞなもし」
 何だか進之丞を売るような感じがしたので、こう証言することに千鶴はためらいがあった。しかし、鬼の咆哮ほうこうは兵士たちが聞いている。それを聞いていないと言うと、妙なことだと思われるに違いなかった。
 千鶴の言葉に警官は驚きを隠せない様子で、かりかりと手帳に書いた。花江もびっくりしたようで、どうして黙っていたのかと言いたげな目を千鶴に向けていた。
「その他は何ぞありましたかな?」
「いえ、ほれぎりぞなもし」
 ほうですか――と警官は残念そうに手帳を閉じた。それから口髭をいじると、ふーむと唸った。
「やっぱし城山に、何ぞおった言うことか……」
「何ぞって?」
 それまで黙っていた花江が、つい話に交じった。
 警官は花江を見ると、ここだけの話だと声を潜めた言った。
「連中は全員が全身の骨がぼきぼきでしてな。どがぁなことをしたら、あがぁなことになるんか、皆目見当がつかんのですわい。しかも、四人全員ですけん」
 鬼が男たちを襲った時のことが目に浮かび、千鶴はうろたえて下を向いた。それを見て警官は慌てたように言った。
「これは申し訳ない。あなたには気分が悪なる話でしたな」
 いいえと言って、千鶴は息を深く吸ってから顔を上げた。
「わしらも警察の仕事をしよりますけん、柔道や剣道なんかで体を鍛えとります。ましてや特高警察となったら、絶対にやわな人間やありません。みんな腕に覚えのある者ぎりじゃと思います。その男らが全員あがぁな目に遭うとしたら、何ぞおおけな事故に巻き込まれたかと思うんですけんど、見つかったんは何もない城山ですけんな」
「もしかして、城山に魔物がおるんじゃろか?」
 トミが白々しく言った。花江は不安げに千鶴を見た。以前に喋った鬼のことを考えているのだろう。
 警官はため息をつき、まさにそう思いたくなる事件だと言った。
「ほうは言うても、簡単に魔物のせいにするわけにも行きませんけんな。わしらも頭を悩ませよるとこですわい」
 警官は千鶴の協力に感謝を示した。
 これで終わりと思ったのか、安堵の表情になった甚右衛門は、お茶を淹れて差し上げるようにと花江に言った。
 しかし、警官は次に行く所があるからと断った。
「ところで、幸子さんはどちらの病院にお勤めですかな?」
 トミが病院の名前を喋ると、警官はにっこり笑い、わかりましたと言った。
「今度はそこへ行てみよ思とります」
 千鶴はぎくりとなった。今の証言は母とは打ち合わせていない。
 どうしようと思っているうちに、警官は表へ出て行った。