野菊のかんざし 目次
野菊のかんざし 解説
客馬車
一
爽やかな秋空の下、刈り取りが終わった田んぼに、かっぽんかっぽんと馬の蹄の音が響く。音の主は一台の客馬車で、田んぼに囲まれた今治街道を北へ向かってのんびり走っている。
昨日はこの日と違って大雨だったので、まだ道の所々に少しぬかるみがある。しかし、そんなぬかるみなど気にすることもなく客馬車は進んで行く。
六人乗りの客車には真ん中の狭い通路を挟んで、三人掛けの長椅子が左右に設置されている。通路の後端は板の扉でふさがれているが、そこが乗降口だ。
この日の客馬車は満員で、それぞれの長椅子には乗客が三人ずつ肩を寄せ合って座っていた。がたがたという車輪の振動がお尻から頭のてっぺんまで伝わるが、みんな黙って揺られている。その揺れる客車の左の一番後ろの席に、千鶴は座っていた。
緊張の糸に縛られながら、千鶴はできるだけ目立たないように小さくなっていた。客馬車に駆け乗った時の息がなかなか整わないが、息が荒くなると目立つので呼吸も小さく抑えている。
座席の背もたれは背中までで、肩の辺りから上方は窓のように大きく開いている。屋根には日よけの青い布が垂れ下がっているだけで風通しはいい。乗降口の部分も同様だ。
誰かが匂い袋を身に着けているらしく、少しきつい香りが時折鼻を突く。けれど、吹き込む風が香りを取り去ってくれるので、何とか息苦しさは凌げている。
千鶴の隣にも若い娘が座っている。親友の村上春子だ。二人は女子師範学校の四年生で、来春卒業する予定になっている。一緒に客馬車に駆け乗ったので、春子も息を弾ませているが、嬉しさを隠せず大はしゃぎだ。
二人が向かおうとしているのは、風寄の名波村にある春子の実家だ。今日から行われる村祭りを見に行くのである。
土曜日のこの日、授業は午前だけだったので、二人とも授業が終わると大急ぎで客馬車乗り場へやって来た。着物を着替える暇などない。袴こそ着けていないが、手作りの伊予絣の着物も、三つ編みを後ろで丸く束ねた髪も、学校にいた時のままだ。
いつもは風寄の祭りは金曜日から始まるので、女子師範学校に入学して以来、春子は地元の祭りには戻れていない。授業を休んでまで見にいくことは許されないからだ。
代わりに千鶴は毎年春子を家の近くにある阿沼美神社の祭りへ誘っていた。この神社の祭りは神輿をぶつけ合う盛大なもので迫力があった。
といっても、祭りが平日であれば昼間は見られない。そんな時は授業が終わった夕方に、先生に特別許可をもらって見に来ていた。
春子は阿沼美神社の祭りを見るたびに、いつか自分の村の祭りを千鶴に見せたいと言った。だけど学校にいる間は日程的に無理だし、卒業したあともできそうになかった。
卒業後は二人とも小学校教師となるのだが、どこの小学校に赴任することになるかは、その時にならないとわからない。二人が同じ小学校に赴任するとは限らないし、恐らく離ればなれになるだろうと千鶴も春子も思っていた。
春子が千鶴を村の祭りへ連れて行くのであれば、今年しかない。それでも事情は例年と変わらず、春子の望みは叶わないと思われた。
ところが今年は奇跡が起きた。急に状況が変わって行けることになったのだ。春子がはしゃぐのは当然だった。
春子は体を捻って後ろを向くと、青い布を持ち上げて外の景色を眺め、弾む声で千鶴に話しかけた。
「ほれにしても、うまい具合に馬車に乗られてよかったわい。もちっと遅かったら出てしまうとこやったで。まっこと危ないとこじゃった」
客馬車は出発時間が決まっていない。いつ出るかは乗客の乗り具合で決まる。二人が客馬車乗り場に着いた時、ちょうどこの客馬車が出ようとしていたところだった。
「ほんまじゃねぇ」
遠慮がちに微笑んだあと、千鶴はすぐに笑みを消した。
千鶴の正面に座っている鼠色の呉服を着た老婆が、千鶴の一挙一動を見逃すまいとするかのごとくに、じっと見据えている。眉をひそめたその顔は、いかにも汚らわしいものを見ているかのようだ。
目の遣り場がなく、千鶴が老婆から目を逸らすと、老婆の隣に座っていた若い男と目が合った。着流し姿に鳥打帽をかぶったその男も、どうやら千鶴を眺めていたらしい。男は慌てて横を向くと、知らんぷりを装った。だが、うろたえているのか目がきょときょとと動いている。
鳥打帽の男の向こうには、髪を二百三高地に結った伊予縞の着物の女がいる。歳は若くないが、きれいな顔立ちだ。
前髪が山みたいに大きく盛り上がり、頭頂部の髷が高く突き出たこの庇髪は、明治の頃からの流行ではあるが、千鶴はこの髪型が好きではない。
二百三高地とは日露戦争の激戦地だ。そんな名前の髪型があることが嫌だし、その名前を好む人がいるのも嫌だった。
この女は千鶴と目が合うと、にっこり微笑んだ。しかし、その笑顔の裏には何か冷たいものが感じられ、千鶴はできるだけこの女とも目を合わせないようにした。
千鶴たちが馬車に乗り込もうとした時、座席は左右の一番後ろしか空いていなかった。千鶴をにらみ続ける老婆は、その時には春子が今座っている所にいた。
春子が鳥打帽の男の隣に座り、続いて千鶴が乗り込もうとすると、老婆は春子に自分と席を替わらせた。千鶴と隣り合わせになるのを嫌ったのだろう。だけど、こうして向かい合うのも気に入らないらしく、ずっと千鶴をにらみ続けている。
千鶴は他の者とは見た目が異なっていた。老婆が千鶴を嫌うのは、千鶴の容姿のせいに違いなかった。
老婆の態度には春子も気づいたはずだ。けれども、春子は千鶴の隣に座れたのが嬉しかったのか、老婆を気に留める様子はなかった。だから、千鶴も老婆のことは気にしないように努めていた。だけど胸の内では、やはり来るのではなかったかと、淡い後悔が浮かんでいる。
二
「おい、君。もう一度聞くが、今日は北城町で間違いなく宿が取れるんだろうな」
春子の左、つまり一番前に座っていた男が御者に声をかけた。
男は洋服姿で丸眼鏡をかけ、山高帽をかぶっている。足の間に立てたステッキに両手を乗せて揺られる姿や、その喋り方が少し威張っているみたいだ。
御者は馬を操りながら、ちらりと男を振り返った。
「へぇ、宿屋は祭りでも泊まれるぞなもし。ほれに宿は一つやないですけん」
「それならよかった。せっかく祭りを見に行っても、泊まる所がなかったら洒落にならないからな」
男は風寄の祭りを見に来たらしい。男がどこの村の祭りを見るのか知らないが、名波村は北城町のすぐ北だ。もしかしたら名波村の祭りを見るのかなと千鶴が考えていると、御者が男に声をかけた。
「ほれにしても、旦那はついとらい」
「ついてる? どういうことだね?」
怪訝そうな男に御者は言った。
「ほんまは祭りは昨日からじゃったんよなもし。けんど、昨日は朝から大雨じゃったけん、予定が一日延びたんよ。ほんでなかったらこの馬車には乗れんかったぞな」
「どうしてだね?」
「あしらは風寄の人間じゃけんな。祭りの日は祭りに行かにゃなるまい」
「だったら、今日はどうしてこの馬車は動いとるんだね? 祭りは今日からなんだろ?」
「始まるんは今日の晩方からよ。まぁ、準備しよる者らは朝から動きよるけんど、あしらはぎりぎりまで商売しよるけんな。ほんでも、今日はこの馬車でおしまいぞな」
春子は見開いた目を千鶴に向けた。これを逃せばもう風寄へ向かう馬車はなかったわけだ。自分たちは何とついていたのかと、春子はこぼれんばかりの笑みを浮かべた。
そうなのかねと、山高帽の男が意外そうに言いながら安堵のいろを見せると、御者は楽しげに男に話しかけた。
「旦那はどっからおいでたんかな?」
「東京だ」
男は素っ気なく答えた。田舎者相手に気を張っているようだ。すると、東京かなと御者は驚いた声を出した。
「東京いうたら、先月、がいな地震に襲われたろ?」
「がいな?」
「物凄でっかい地震ぞな」
男はうなずくと、顔をしかめて言った。
「あぁ、あれは最悪だ。まるで地獄みたいな有様だったよ」
「新聞にもそげなことが書いとったぞな。まぁ、ほんでも旦那はご無事でよかったわい」
優しい言葉をかけられたからか、男の表情から先ほどまでの尖った感じが消えた。
「ありがとう。自分でも運がよかったと思ってるんだよ」
「ほんで、今はどがぁしんさっとるんかな?」
「僕はね、東京で教鞭を執ってたんだ。だけど東京は壊滅してしまったから、どうしたもんかと思ってたら高松に教職の空きがあるって聞いてね。それでこっちへ来たんだよ」
高松といえば、お隣の香川県だ。なのに愛媛の祭りを見物するとは、職を失った者には見えないと千鶴は思った。
「せんせ、実はね、あたしもあん時、東京におりましたんですよ」
二百三高地の女が男たちの話に交ざった。
先生と声をかけるところだけを見ると、女は男の知り合いに思えるが、どうやらそうではないらしい。
男は驚いた顔で女を見たが、すぐに照れ笑いをしながら話しかけた。
「あなたもあすこにいらしたんですか?」
女がうなずくと、男は同情するような顔になった。
「それは大変だったでしょうな。地震で建物は壊れるし、火事は起こるし、人が人ではおられぬ所でしたからな」
「確かに仰るとおりですわ。あたしもいっぺんはほとんど死によりましたけん。ほんでもお陰さまで、こがぁな元気な体にしていただきました」
「ほぉ、それはよかったですな。公然と人殺しが行われる所でしたから、そんな話を聞かせていただくとほっとしますよ」
当時を思い出したのか、女は顔を曇らせて言った。
「人というものは、あげな時にこそ、ほんとの姿を見せるものなんですねぇ。あたし、ほれを身を以て知りました」
「まことに仰せのとおりですな」
男は何度もうなずいた。
千鶴は東京を知らないが、二人のやり取りを聞いていると、大地震と大火事で廃墟と化した街が目に浮かぶ。
がれきの前で佇む人や、狂ったように泣き叫ぶ人。誰かを必死に捜しまわる人。所々から昇り続ける黒い煙。再び起こる地面の揺れに言葉を失う人々。些細なことで始まる諍い。
千鶴の家は山﨑機織という小さな伊予絣問屋を営んでいる。
絣は普段着の着物生地として人気がある反物だ。中でも伊予絣は安くて丈夫だと全国でも評判だった。
仕入れた伊予絣は松山市内の太物屋に届けられるが、東京や大阪にも出荷されており、遠くは東北の方まで送られているという。
そんな伊予絣問屋にとって、先月関東を襲った大地震は他人事ではなかった。東京へ送った絣のうち二十万反以上が灰になり、東京の取引先も甚大な被害を受けた。そのため多くの絣問屋が廃業に追い込まれていた。
また、東京へ絣を売り込みに出ていて地震に巻き込まれた者もいる。山﨑機織でも東京で店廻りをしていた手代が亡くなった。
今のところ山﨑機織は何とか廃業は避けられたものの、東京への出荷再開は目途が立っておらず、この先、商いがどうなるかはわからない。
春子は東京の話を聞いても、今ひとつぴんとこないらしい。しかし向こうの悲惨な状況や、山﨑機織にも及んだ被害を知っている千鶴は、地震の話に敏感になっている。
「姉やんは向こうの言葉と伊予言葉が混ざりよるな。姉やんはどこの生まれかな」
御者が二百三高地の女に訊ねると、さあねぇと女は惚けた顔で言った。
「生まれた所なんぞ忘れてしもたぞな。ほんでも昔、風寄におったことはあるんよ」
「ほぉ、どこぞに嫁入りしよったんかな」
女はくすくす笑いながら言った。
「あたしみたいな者、お嫁に欲しいて言うてくれるお人なんて、誰っちゃおらんわね」
「そんなことはないでしょう。あなたみたいにおきれいな方なら、嫁に望む者は掃いて捨てるほどいるはずだ」
山高帽の男が思わずという感じで言った。
女は驚いた様子で男を見ると、恥ずかしそうに微笑んだ。男も我に返ったのか、うろたえたように下を向いた。
春子は黙ったまま意味ありげな目を千鶴に向けた。その顔は今にも噴き出しそうだ。
しかし、千鶴は笑う気分にはなれなかった。老婆がずっと千鶴をにらみ続けている。せっかくの楽しい名波村行きが台無しだ。
千鶴は老婆から気持ちを逸らそうと、これまでのことを思い返した。
三
千鶴の家は松山だが、女子師範学校は松山から西へ一里と少し離れた三津ヶ浜という海の近くにある。その行き帰りを千鶴は毎日歩いていた。
千鶴が入学した時の女子師範学校は全寮制だった。そのため千鶴も寮に入っていた。
ところが千鶴が二年生の時に規則が変わり、実家が遠方でない者は、三年生からは自宅から通学することになった。だから千鶴は今は家から学校に通っているが、春子は実家が遠いので、四年生の現在も寮にいることが許されていた。
寮生活をしていると、毎日長い距離を通学しなくてもいいのは利点だ。逆にいえば、簡単には外へは出られない。それだけ寮の規則は厳しかった。
今回、春子が実家へ戻ることが許されたのは、故郷の村で秋祭りが行われるという特別な理由があるからだ。ただ、それでも平日であれば許可は出なかった。
当初の予定であれば、祭りは昨日が始まりだった。それが先ほど御者が言ったように、大雨のために開催が今日に延びた。それで授業がない今日の午後に寮を出て、明日の日曜日には戻って来るという約束で許可がもらえたのである。
日曜日に戻る時刻も初めは門限の五時と言われたが、遠方の祭りなので無理な話だ。春子は先生と交渉し、戻りの時間を消灯時間までにしてもらった。阿沼美神社の祭りの時も同じ条件で許可をもらっていたので、この交渉はむずかしくなかったようだ。
祭りの開催が土曜日に延期された話を春子が知ったのは、名波村の実家から学校にかかってきた電話だ。
電話などどこの家にもあるものではなく、千鶴の家にも電話はない。春子の父親は名波村の村長なので、村で唯一の電話を持っていた。
職員室へ呼び出された春子は、実家の電話に出ながら先生と祭りに行く交渉をした。それが昨日の夕方で、千鶴が大喜びの春子に誘われたのは今朝である。
祭りに招待されたのは嬉しいことだ。しかし、あまりにも急な話だった。授業が終わったら一緒に名波村へ行こうと言われても、よし行こうと返事ができるわけがなかった。何の準備もしていないし銭もない。何より家族の許可がなければ無理な話だ。
そもそも女は気軽に遠出などできないし、ましてや自分は働いてもいない女学生の身分だ。家族の許可をもらうのは、学生寮の許可をもらうよりもむずかしかった。
千鶴はこの話を断ろうとしたが、先に春子から千鶴を連れて帰ることを実家に伝えたと言われた。銭がないと話すと、千鶴の客馬車の分も自分が何とかすると春子は言った。
ここまで言われては簡単には断れない。仕方なく、千鶴は春子に家の許可がもらえない可能性が高いことを説明した。その上で万が一にも許可がもらえたら、客馬車の駅で待ち合わせるという約束をした。
けれども客馬車がいつ出発するのかはわからない。それで家の許可の如何に関わらず、客馬車の出発までに自分が現れなければ一人で行ってもらうと、春子には了承してもらった。とはいっても、そうなることは確実だと千鶴は考えていた。
午前の授業が終わると、千鶴は持参していた弁当も食べず、大急ぎで家路に就いた。いつもは歩く道をずっと小走りし続けた。
実は、千鶴は名波村には縁があった。
母が千鶴を身籠もった時、祖父と喧嘩をして家を飛び出し、しばらく名波村の寺で世話になったと聞いていた。とてもよくしてもらったと母が言っていたので、いつか機会があれば訪ねたいと密かに思っていた。
家が近づくにつれ、その望みは次第に期待へと変わっていった。だけど家に着いた頃には、やはりだめだろうと、膨らんでいた気持ちは再び小さくしぼんでいた。
山﨑機織の主は祖父だ。家の中でも祖父に一番の権限がある。その祖父は孫娘である千鶴を快く思っていなかった。
それに東京の大地震が起こったのは、つい一月前のことだ。向こうで多くの人が亡くなり、千鶴が知る手代も死んだ。店の被害もかなりのもので、店を潰すまいとみんなが懸命にがんばっている。そんな中で、他の土地の祭りに行きたいなど、自分で考えても不謹慎極まりないことだ。祖父の承諾を得るのは不可能に決まっていた。
絶対にだめだと思いながらも、祖父の前へ進み出た千鶴は、春子からの誘いと、こんな時期ではあるけれど、名波村へ行ってみたいという自分の気持ちを必死に伝えた。銭も春子が出してくれるということを説明し、家には迷惑をかけないと訴えた。
喋るだけ喋ると、千鶴は仏頂面の祖父の視線から逃れるべく下を向いた。自分が無茶なことを言っているのはわかっており、すぐに雷のごとき怒鳴り声が落ちるはずだった。
ところが、千鶴の心配は杞憂に終わった。どういうわけか、祖父はあっさりと千鶴の名波村行きを認めてくれた。しかも小遣いまで持たせてくれたのだ。一応小遣いの名目は、向こうへの土産代と客馬車の運賃ということだが、渡された銭はそれ以上あった。
千鶴は信じられない気持ちで頭を下げると、祖父から名波村行きの承諾とお金をもらったことを祖母に伝えた。
祖父同様に千鶴が気に入らない祖母は、驚きと困惑が入り交じった不機嫌な顔を見せた。しかし、夫が決めたことだから文句は言わなかった。
母は外で働いているので、母には急いで置き手紙を書き残してきた。
食べなかった弁当はこっそり丁稚たちにやった。食べ終わったあとの弁当箱は、祖母に見つからないように片づけといてと頼んでおいた。
途中で手土産の饅頭を買うと、千鶴は空きっ腹のまま小走りで、半里ほどある客馬車乗り場へ向かった。正直なところ、空腹と疲れでへとへとになっていた。それでも三津ヶ浜から電車で来た春子と合流した時には、嬉しさで最高の気分だった。
けれど今はその気分も鎮まった。じっとにらみ続ける老婆を見ていると、本当に自分は春子の家族に歓迎してもらえるのだろうかと、不安が募っている。
四
「兄やん、兄やん。ここで降ろしておくんなもし」
老婆が大声で御者に声をかけた。
馬車が止まり、御者席から御者が降りて来た。
客馬車には乗り場の駅がある。千鶴たちが乗ったのは、北の町外れにある木屋町口という駅だ。降りるのは終着駅の北城町だが、中間辺りにある堀江という村にも駅がある。ところが、老婆が降りようとしているのは堀江の駅に着く前だった。どうやら降りる時は好きな所で降ろしてもらえるらしい。
御者が乗降口を開けると、老婆は立ち上がって前に出た。その時に老婆がよろけたので、千鶴は思わず手を伸ばして老婆を支えた。すると老婆はその手を振り払い、嫌な目つきで千鶴をにらみつけると、ゆっくりと客車から降りた。
老婆から乗車賃を受け取ると、御者は持ち場に戻り、客馬車は再び動きだそうとした。その時、いつの間にか後ろから来た乗合自動車が、道を空けよと催促した。御者は舌打ちをすると、客馬車を左端に寄せた。
道幅が狭いので、乗合自動車はゆっくりと馬車の横を、いかにも邪魔そうに通って行った。乗合自動車の後ろの座席には、客が三人乗っていた。その姿はちらりとしか見えなかったが、三人とも裕福そうに見えた。
再び客馬車が、がたがたかっぽんかっぽんと動きだすと、後方を歩く老婆はすぐに小さくなっていった。一方で、前方を行く乗合自動車も次第に小さくなっていく。
もう千鶴の前に老婆はいない。しかし千鶴の胸には、老婆から向けられた憎悪が突き刺さったままだ。そんな千鶴の気持ちを知らないのか、あるいはわかっていながら気づかないふりをしているのか、春子は鼻息荒く喋った。
「何や感じ悪いな、あの乗合自動車。ほら確かに乗合自動車の方が速かろ。けんど、乗り心地が悪いんは対よ。ほれやのに運賃が一円十銭もするんで。ほれに比べて、馬車の方は三十六銭じゃろ? ほら絶対馬車の方がええわいね」
じゃろげ?――と同意を求められ、千鶴は少しだけ微笑んでみせた。
千鶴は乗合自動車どころか、客馬車も生まれて初めて乗ったのである。だから客馬車はお尻が痛くなるのがわかったけれど、乗合自動車の乗り心地なんてわからない。春子の話にはどうにも返事のしようがないし、どうでもいいことだった。
堀江の駅に着くと、客馬車はしばらく停まっていた。
近くには四国遍路の札所があるので、お遍路の姿がちらほら見える。それでも新たに客馬車に乗り込む客はいなかった。
風が止まると、きつい香りが漂ってくる。どうも匂い袋を忍ばせているのは二百三高地の女のようだ。千鶴は気になったが、春子や他の乗客たちは何とも感じていないみたいだ。千鶴は匂いを避けて顔を馬車の後ろへ向けた。
客馬車が再び動き始めると、千鶴はそのまま後ろへゆっくり遠ざかる景色を眺めた。匂いも嫌だが、他の乗客たちと目を合わせたくなかった。しかし後ろにも青い布が垂れ下がっており、体をかがめなければ見えるのは低い所にある道や田んぼばかりだ。
春子も最初のはしゃぎぶりは落ち着いて、今は静かに揺られている。鳥打帽の男は黙ったまま腕を組んでいるが、ちらりちらりと千鶴を盗み見するのは変わらない。
山高帽の男と二百三高地の女は、相変わらずお喋りを続けていた。そこへ御者が話に交じるので、客車は賑やかだった。
千鶴は聞くつもりはなかったが、勝手に耳に入ってくる話によれば、山高帽の男には気にかけている甥っ子がいるようだ。
昔、その甥っ子は東京で暮らしていたが、訳あって精神を病んでしまい、ずっと引き籠もっていたと男は言った。その甥っ子が気分を変えるために、何年か前にこちらへ移り住んだらしい。山高帽の男はその甥っ子の親代わりで、高松へ赴任となったのを幸いに、その甥っ子に会いに来たそうだ。
甥っ子がいるのは三津ヶ浜だと言うので少し興味を引かれたが、どこで何をしているかまでは男は話さなかった。
「もうじき海が見えるけん」
不意に春子の声が聞こえた。見ると、春子は青い布を持ち上げ、千鶴に海を見せようとしている。
千鶴も青い布を持ち上げて景色を眺めてみたが、なるほど左手の先の方に海が見えてきた。それだけでずいぶん遠くへ来た感じがする。
やがて馬車は海のすぐ脇を走り始めたが、海は穏やかで大きな波は見えない。時折、優しげな潮風が千鶴たちの脇を通って、客車の中をくぐり抜けて行く。日はかなり西に傾いているものの、空が赤く染まるにはまだ時間がありそうだ。
右手に山の崖が迫ってくると、御者が前を向きながら大きな声で喋った。話しかけている相手は乗客全員というより、山高帽の男と二百三高地の女の二人だろう。
「ここいらはな、粟井坂いうて、昔はこの右手の山を越える道しかなかったんよなもし。ほれが四、五十年前じゃったかの。あしが生まれるより前のことなけんど、この新しい道がでけたけん、こがいして馬車が走れるようになったんよ」
「へぇ、そうなのかね。この道を造るのは大変だったろうに」
山高帽の男が崖沿いに造られた道を眺めて感心すると、山道の方がよかったのにと二百三高地の女が言った。
「昔の道には昔の道のよさというか、味わいがあるじゃござんせんか。せんせは、ほうは思われませんか」
男はうろたえながらうなずいた。
「そ、そう言われてみれば、確かにそうですな。古いものには味わいがありますな」
「けんど、前の道のままじゃったら、この馬車は走れまい」
御者が反論すると、山高帽の男は女をかばった。
「だけど、眺めは高い所の方がいいんじゃないかな」
すると、女は手で口を隠しながらくすくす笑った。
「嫌だわ、せんせ。山道は周りが木だらけなんですよ。眺めなんかちっともよくありませんよ」
「あ、いや、それは……」
山高帽の男が顔を赤らめて口を噤むと、女はまた笑いながら言った。
「でもね、せんせ。ここの峠から見える景色は、今よりずっと見晴らしがいいんですよ」
「そ、そうなのかね。じゃあ、やっぱり山道の方がいいのかな」
「ほんでも馬車で走るんなら、やっぱしこっちの道の方がええぞなもし」
天邪鬼みたいな女だった。ああ言えばこう言うで山高帽の男は少し気落ちしていたが、女に微笑みかけられると子供のように笑みをこぼした。男は完全に遊ばれていた。
鳥打帽の男は下を向きながらくっくっと笑い、春子もまた噴き出しそうな顔を千鶴に向けて、必死に笑いを堪えている。けれど千鶴は山高帽の男が気の毒で、何も見聞きしていないふりをして海を眺めた。
五
粟井坂の山を過ぎると、広々とした平野に出た。ここからが風寄だと春子は言った。名波村はまだ先だが、春子はもう故郷へ戻ったみたいな顔をしている。
過ぎた山の麓には小さなお堂があって、杖と菅笠を持ったお遍路が手を合わせていた。春子が言うには、あれは大師堂で弘法大師を祀ったものらしい。
しばらく行くと街道沿いに町並みが現れた。ここが北城町かと訊ねると、北城町ではなく柳原だと春子は言った。
柳原には客馬車の駅はない。ところが鳥打帽の男は、ここで降りると言った。
男は客馬車を降りる時、ちらりと二百三高地の女を一瞥した。すると、女の方もじろりと男を見返した。千鶴には二人が目で何かを言い交わしたように見えたが、すぐに男がこちらへ目を向けたので、慌てて下を向いた。
男は御者に金を払うと、もう客馬車には目もくれないで、辺りをきょろきょろと見まわしている。その様子を千鶴が眺めていると、もうしと呼びかける声が聞こえた。
「もうし、そこにおいでる姉やん」
声の方に顔を向けると、二百三高地の女がにこにこしながら、こちらを見ている。春子も顔を上げたが、女の視線は千鶴に向けられていた。
また馬車が動き始めた。女は揺れながら千鶴に話しかけた。
「姉やんは、お国はどこぞなもし」
「松山です」
千鶴は小さな声で申し訳程度に返事をした。馬車の車輪の音が大きいので、女に聞こえたかどうかはわからない。
二百三高地の女は興味深げな目を向けながら、さらに話しかけてきた。
「こがい言うたら失礼なけんど、姉やんは異国の血ぃが入っておいでるん?」
千鶴は下を向いて答えなかった。見かねた春子が女に噛みつくように言った。
「ほれが何ぞあんたに関係あるんかなもし?」
春子ににらまれても、女はまったく動じずに答えた。
「別に関係はないけんど、昔、ほの姉やんによう似ぃたお人を見たことがあるもんで、ちいと聞いてみとなったぎりぞなもし。気ぃ悪したんなら謝ろわい」
「うちと似ぃた人がおいでるんですか?」
千鶴が思わず顔を上げると、女は機嫌よく言った。
「昔の話ぞな。ずうっと昔のね」
「ほのお人は、今はどこで何をしておいでるんですか?」
「さあねぇ。とんと昔のことじゃけん。ほんでも、まっこと白うてきれいなお人やったぞな。今の姉やんみたいにねぇ」
女は千鶴を見つめながら微笑んだ。
人からきれいだなんて言われたのは初めてだ。千鶴はちょっぴり嬉しい気がした。しかしこの女が天邪鬼であることを思い出し、嬉しく思ったのが悔しくなった。それに千鶴を眺める女の笑顔が、何だか品定めをしているようにも見えたので、また緊張が戻ってきた。
千鶴が黙り込むと、女は千鶴に飽きたのか、今度は御者に話しかけた。
一方で山高帽の男は千鶴に興味を持ったようで、何か言いたげに口をもごもごさせた。だが間に春子が座っているからか、結局は男が千鶴に話しかけることはなかった。
「そろそろ着くで」
少し体をかがめた春子が、御者の前方に見える景色を眺めながら言った。客馬車は海沿いの松並木の道を走っている。前方に町並みが近づいているが、あれが北城町らしい。
春子は青い布を持ち上げて、町の左手に見える島を指差した。
「ほら、あそこにお椀みたいな、まーるい島が見えろ? あれは鹿島いうてな、鹿が棲んどる島なんよ。あがぁな島に何十匹も鹿がおるんで」
へぇと言いながら千鶴は鹿島を眺めた。陸からすぐ近くに浮かぶその小さな島は、何だか妙に存在感があった。そのせいかはわからないが、千鶴は小さな胸騒ぎを覚えた。
「もうし、姉やん」
また二百三高地の女が、千鶴に声をかけてきた。
千鶴が黙って女を見ると、両手で何かを持ち上げる仕草をしながら女は言った。
「申し訳ないけんど、そっちの日よけ、もちぃと持たげておくれんかなもし」
怪訝に思いながらも、千鶴は言われたとおり自分の後ろの青い布を持ち上げてやった。すると、そこには赤く染まった夕日が浮かんでいた。
「うわぁ、きれいやわぁ」
女が歓声を上げた。女の声で春子は後ろを振り返り、山高帽の男も後ろの青い布を持ち上げた。二人は感嘆の声を上げると、夕日に見とれた。
夕日は見事に美しかった。茜色の空の中、横に棚引く雲の層が金色に輝き、海の上をこちらへ延びる光の帯が、きらきらと揺らめいている。これまでに千鶴が見た夕日の中で、一番美しい夕日かもしれなかった。
だが夕日を見ているうちに、何故か胸の底から深い悲しみが湧き出して来た。その悲しみが夕日の美しさに代わって、千鶴の目を夕日に釘づけにした。
客馬車が北城町に入ると、夕日が町並みに遮られ、千鶴はようやく前を向くことができた。胸の中では、まだ理由のない悲しみが暴れている。
こんな訳のわからない動揺を春子に気づかれたくはない。千鶴はちらりと春子を横目で見たが、春子は故郷に戻って来た感激でいっぱいらしい。前方に見える町の景色を嬉しそうに眺めている。
ほっとして春子から目を外すと、二百三高地の女と目が合った。女はにこにこと楽しげに千鶴を見ていた。
女に心の内をのぞかれたみたいな気がして、千鶴は下を向いた。
鹿島を通り過ぎて少し行くと、道が枡形になっている。客馬車はそこで止まった。ここが終点の北城町の駅だと春子が言った。
客車を降りた春子は背伸びをしながら、着いた!――と叫んだ。千鶴も腰を伸ばして辺りを見まわした。奇妙な悲しみはやっと落ち着いたが、代わりに見知らぬ土地への不安が顔を出している。祭りの準備をしているせいか、御幣が飾られた町は閑散として寂しげだ。
御者に運賃を支払うと、春子は喜び勇んで千鶴を名波村へ誘った。二百三高地の女は山高帽の男とまだ喋っていたが、千鶴が顔を向けると小さく手を振って何かを言った。声は聞こえなかったが、口の動きを見ると、またねと言ったみたいだ。また会いたいと思わない千鶴は、小さく会釈をしただけで、春子のあとについて行った。
春子の家は十町ほど歩いた所にあるそうだ。北城町を北へ抜けると川があった。川の向こうが名波村だと春子は言った。
夕闇が迫る橋の途中で、ほらと春子が海を指差した。千鶴が振り返ると、黒々とした鹿島の右手に、今にも沈みそうな真っ赤な夕日があった。その夕日の前を大きな船が黒々とした影となって横切って行く。
思わず息を呑んだ千鶴の中で、あの悲しみがさっきよりも強く湧き起こった。涙が勝手にあふれ出し、胸の中で誰かが泣き叫んでいる。
千鶴の様子に気づいていない春子が先を促した。しかし、千鶴はそこからしばらく動くことができなかった。
がんごめ
一
「ほうかな。おとっつぁんはロシアのお人なんかな」
割烹着を着た春子の祖母マツは、千鶴の話に大きくうなずいた。
薄暗くなった空間を、土間の竈と囲炉裏の火が暖かく照らしている。その囲炉裏を囲んで千鶴たちは喋っていた。
昼間はまだ暖かいが、日が翳るとすぐにひんやりした感じが染み出してくる。夕暮れ時の今、囲炉裏の火は本当に有り難かった。
土間にある台所では春子の母イネが、春子の兄嫁の信子と竈で飯を作りながら、千鶴たちの話を聞いている。二人とも忙しそうだし、マツも千鶴が来た時には土間で二人を手伝っていた。そんな春子の家族に千鶴の緊張は続いていた。
春子は女子師範学校に入学した時に、同級生にロシア人の親を持つ生徒がいることを家族に話していた。ところがこの日訪ねて来るのがその生徒だとは、うっかり伝えていなかったらしい。春子に家の中へ招き入れられた千鶴を見ると、マツたちはとても驚いた顔を見せた。その様子に千鶴は血の気が引いた。
けれどもマツもイネも驚いただけで嫌悪のいろは見せなかった。土産の饅頭も喜んで受け取り、千鶴を歓迎してくれた。
一方、信子は無口な嫁で、義母たちに遠慮しているのか、千鶴が挨拶をした時も黙って会釈をしただけだった。
本当のところ、千鶴にはマツたちの心の内がわからなかった。千鶴に嫌な顔を見せないのは、千鶴を親友だと言う春子を気遣ってのことかもしれないのだ。それで囲炉裏端へ上げられても、千鶴はずっと気を張り続けていた。
夕日を見た時の意味不明な感情も、いつまた込み上げてくるかわからない。さっきは何とか春子をごまかしたが、マツたちを前にしてあんなことになったら、絶対に気づかれてしまう。そのことも千鶴を緊張させた。
とにかくいい印象を持ってもらおうと、千鶴はできる限り丁寧な姿勢で喋ることを心掛けた。今のところはマツもイネも好意的に見える。二人とも村長の家族なのに、少しも威張った感じがなく温かい人柄のようだ。
ただ、信子は千鶴の話に交ざろうとせず、台所で黙々と手を動かしていた。その雰囲気が千鶴には少し冷たく感じられた。
「山﨑さんのおとっつぁんはロシアの兵隊さんでな。おっかさんはおとっつぁんが入院しよった病院の看護婦さんやったんよ」
周囲の様子に無頓着な春子が、千鶴について得意顔で説明した。
父親がロシア人だと言えば、日露戦争の捕虜兵だと誰でもわかるはずだ。だから春子の母も祖母もそのことに敢えて触れなかったのだと、千鶴は受け止めていた。
二人が父のことを訊かなかったのは千鶴への思いやりに見えるが、ただの当惑にも思える。いずれにしても、千鶴にすればあまり触れてほしくないところだ。それをわざわざ父親はロシアの兵隊だと、春子にはっきり告げられたので千鶴は戸惑った。
また、春子が喋った時に信子の動きが一瞬止まったのを、千鶴は見逃さなかった。やはり信子は千鶴がロシア兵の娘であることに、何らかのわだかまりがあるのだろう。
マツは春子の説明に、ほうかねともう一度うなずいたが、特別な変化は見せなかった。イネも何も言わなかった。無関心を装っているみたいな妙な雰囲気だ。
空気が読めないのか、春子は尚も千鶴の両親の話をしようとした。するとイネが振り返り、春子――とたしなめるように声をかけて首を横に振った。それでようやく春子は口を閉じたが、続く沈黙が重くのしかかる。千鶴の中で不安がぐるぐる回りだした。
「千鶴ちゃんも苦労したんじゃろね」
マツがぽつりと言った。
マツの言葉は千鶴の胸を打った。そんな言葉をかけてもらえるとは思いもしていなかった。返事をしようとすると涙が出そうになって、千鶴は言葉を返せなかった。
春子は千鶴の沈んだ様子にうろたえて、大丈夫かと千鶴に声をかけた。しかし、どうして千鶴が暗い顔になったのかは思い当たらないようだ。
マツは黙って囲炉裏に吊した土瓶を外すと、千鶴たちにお茶を淹れてくれた。
台所のイネは千鶴たちを振り返ると、部屋の隅にある棚に、昼に食べた残りのおはぎがあると言った。
「千鶴ちゃん、おはぎ食べるじゃろ?」
イネのにっこりした笑顔に、千鶴も何とか笑顔を返して、いただきますと言った。イネやマツに余計な気遣いをさせたくなかった。
千鶴の機嫌がよくなったと思ったのか、あるいはおはぎが嬉しかったのか。春子は元気よく立ち上がって、棚からおはぎの皿を運んで来た。
「信子さんも食べん?」
春子が声をかけると、信子は微笑みながら首を横に振った。
「お昼にたんといただきましたけん、ほれは春ちゃんたちで食べてつかぁさい」
ちらりと千鶴に目を向けた信子の顔から、すぐに笑みが消えた。
ほんじゃあと言って千鶴の隣に腰を下ろした春子は、二人の間に皿を置いた。皿の上には大きなおはぎが四つ載っている。あんこがたっぷりでとても美味しそうだ。
さっき千鶴がいただきますと言ったのは、礼儀として応じただけだ。しかし現物のおはぎを目の前に置かれると、昼を食べずに来たことを思い出して、急に空腹感に襲われた。
「今日はばたばたしよったけん、お昼もちょこちょこっと食べたぎりなんよ。ほじゃけん、ちょうどお腹が空きよったとこやし」
春子の言い草が千鶴を刺激した。自分は何も食べずに来たのに、村上さんはお昼を食べて来たんかと、千鶴は少しむっとした気分になった。
それでもお陰で不安な気持ちを忘れることができた。それにイネやマツの人柄で不安自体がだいぶ落ち着いたようだ。
二
「ほら、山﨑さん、遠慮せんで、お食べな」
春子に促され、千鶴はおはぎを手に取った。
これをいただけるのだからもう昼飯のことは忘れねばと思って、千鶴はおはぎを口元へ運んだ。すると、春子がおはぎを手に持ったまま言った。
「山﨑さんは、おとっつぁんの方の血ぃが濃いんよね」
おはぎを食べようと口を開けていた千鶴はぎくりとなった。
懲りない春子はまだ千鶴のことを説明したいらしい。千鶴に話しかけながら、その目はマツとイネに交互に向けられていた。
自分の容貌を話題にされるのは、千鶴は好きではなかった。どちらの親の血が濃いのかは、説明しなくても見ればわかるものである。マツもイネも困惑顔だ。
千鶴はちらりと春子を見たあと、口元に運んだ手を膝の上に降ろして言った。
「うちの肌が白いんとか、目ぇの辺りなんかは、父に似ぃとるそうです。けんど、鼻とか口元は母似です。髪の毛ぇとか目ぇの色が薄いんは、父親の血ぃでしょうけんど、色が茶色っぽいんは、母親の血ぃやと思とります」
千鶴は自分が少しでも日本人である母と似ていることを強調したかった。だが、それは肌が雪のように白く、ほとんどロシア人みたいな顔つきへの劣等感の裏返しだった。
マツもイネもうんうんとうなずくだけで、千鶴の顔についていろいろ言わなかった。千鶴は少しほっとしたが、また春子は楽しげに喋った。
「山﨑さんの背ぇが高いんは、おとっつぁんの血ぃやな」
確かに千鶴は他の生徒から比べても背は高い方だ。しかし、背が高いことは女子にとって自慢できることではない。
それでも春子は千鶴を援護しているつもりのようで、今度は千鶴の成績を褒め立てた。
「ばあやん、山﨑さんはな、成績優秀なんで。やけん、先生からの評判もええんよ」
「ちぃと村上さん。そげな嘘は言うたらいけん」
自分では成績が優秀だなどとは思ったことがない。もっと成績がいい生徒はいくらだっている。だが千鶴が文句を言っても、嘘やないでと春子は取り合わない。
「山﨑さん、試験ではいっつもかっつもおらよりええ点取るやんか」
「ほやけど、うちの点なんか大したことないし」
千鶴が言い返すと、イネが笑いながら口を挟んだ。
「問題は春子の点がなんぼかいうことじゃろな」
ほれはほうじゃとマツも笑った。千鶴も春子も釣られて笑った。背中を向けている信子の顔はわからない。
「ほれで、千鶴ちゃんのおとっつぁんは松山においでるんかな?」
笑いが収まると、マツが千鶴に訊ねた。
「いえ、父はロシアにおります。あ、今はロシアやのうて、ソビエトれんぽうとかいう名前になったらしいですけんど」
「そべと?」
「ソビエトれんぽうです」
その国名をイネは言えたが、マツには言いにくいようだ。
「むずかしい名前じゃねぇ。けんど、お国が変わるいうたら大事ぞな。千鶴ちゃん、おとっつぁんとは手紙のやりとりしよるんかな?」
千鶴は、いいえと首を振った。
「母は父に家を教えんかったそうですし、父の住所も聞かんかったみたいです」
「へぇ、ほれはまた何でぞな?」
「ロシアの兵隊さんと一緒になれるわけないですけん。母は父とのことは思い出として、大切に胸に仕舞とこと思たそうです」
「ほんじゃあ、おとっつぁんは千鶴ちゃんが産まれたことも知らんままなんじゃねぇ」
イネが気の毒そうな顔をすると、マツは励ますように言った。
「ほんでも千鶴ちゃんにはおっかさんもおいでるし、お家の方もおいでるけん」
千鶴はうなずいた。だが胸の中は複雑だった。
「さてと、もちぃとゆっくり話を聞かせてもらいたいとこなけんど……」
マツは台所の二人を見ると、申し訳なさげに両膝をさすりながら言った。
「もうまぁ男衆が、だんじりの屋台こさえ終わる頃なけんな。戻んて来て食べるご飯をこさえとかにゃいけんのよ。いつもじゃったらあの二人に任せとくんやけんど、今日はおらもただ座っとるぎりにゃいかんけん」
続いてイネが、竈の火加減を確かめながら言った。
「ほん時に千鶴ちゃんも、みんなとご飯食べたらええよ。七時頃になったら神社の参道にここらの屋台が集まるけん、一緒に見に行こわいね。屋台の提灯に火ぃ灯すけん、きれいなで」
春子も母の言葉に合わせて言った。
「半鐘や太鼓をジャンジャンドンドン鳴らすけん、火事で騒ぎよるみたいに聞こえるんよ。ほれに屋台にいっぱい飾った笹が、提灯の明かりで照らされてな、遠目に見よったら、ほんまに火ぃ燃えよるみたいなで」
「千鶴ちゃんと春子はゆっくりしよったらええけん」
二人に声をかけると、マツは立ち上がって腰を伸ばした。すると春子が、自分たちも何か手伝おうかと申し出た。
千鶴はちょっとどきりとしたが、みんなが忙しい中でのんびり座ってはいられない。それに、自分に優しくしてくれたマツたちを手伝いたい気持ちはあった。
イネは土間の隅にあった菜っ葉を拾い上げると、千鶴たちに笑顔を見せて言った。
「近所の女子衆も家でこさえた物を持て来るけん、まぁ大丈夫いうたら大丈夫なけんど、手ぇ空いとんなら手伝てもらおかいね」
喜んでお手伝いします、と千鶴が言うと、イネとマツの顔に笑みが広がった。しかし、信子は背中を向けたままだ。
春子は家の奥に目を遣ると、ところでなと言った。
「ヨネばあやんはどがいしよるん?」
「部屋におるよ」
「たぶん寝とるな」
イネとマツは代わる代わる答えた。
春子は少しがっかりした声で言った。
「寝とるんか。山﨑さん紹介しよて思いよったのに」
「まぁ、声かけてみとうみ。起きとるかもしらんけん」
マツが言うと、春子はうなずいた。
「一応声かけてみよわい。手伝いはほのあとでも構ん?」
構ん構んとマツは言った。
「ほやけど、その前におはぎを食べておしまいや」
イネに言われると、春子はうなずき大きな口を開けた。その口におはぎが入る前に、千鶴は小声で訊ねた。
「村上さん、おばあちゃんが二人おるん?」
「ひぃばあやんよ」
口早に言うと、春子はおはぎにかぶりついた。
ひぃばあやんという言葉に千鶴は驚いた。千鶴には祖母はいるが、曾祖母はいない。千鶴の周辺でも曾祖母の話は聞いたことがなかった。祖父母の親の代の人間がまだ生きているなんて驚きで、まるで遠い昔から現代へ抜け出してきたような印象だ。
曾祖母というものに千鶴が感服している間に、春子は一つ目のおはぎを全部口の中に詰め込んでいた。
春子が甘い物に目がないのは、これまでの付き合いで千鶴も知っていた。それにしても、その勢いには困惑させられる。
春子は早く食べ終えて、母親たちの手伝いをするつもりなのだろう。だけど、まさかお客の自分がそんな食べ方をするわけにはいかない。とにかく急いで食べねばと千鶴が思っていると、マツが春子を注意した。
「ほらほら、そげな食い方しよったら喉に詰めてしまうぞな」
春子は大丈夫と言おうとしたようだが、突然動きを止めて目を白黒させた。心配したとおり喉に詰めたらしい。
千鶴は急いでお茶を春子に持たせた。ところがお茶はまだ熱かったので、春子は飲もうとしたが飲めなかった。そこへ信子が湯飲みに水を汲んでくれた。春子は急いで受け取ると、苦しげにしながら飲んだ。
「あぁ、助かった。ほんまに死ぬるかと思いよったで」
一息ついた春子が、お礼を述べながら湯飲みを信子に戻すと、信子はにっこりと笑顔を見せた。だが千鶴と目が合うと、すぐにその笑みを引っ込めた。
「気ぃつけなさいや。死んでしもたら、何のために学校へ行きよるんかわからんなるで」
イネに叱られ、春子は気まずそうに頭を掻いた。
台所に戻った信子は、何事もなかったように作業を再開した。しかし、その背中が千鶴に何かを言わんとしているみたいだ。
千鶴は何も気づかないふりをして、おはぎを小さくった。そうするよりほかなかった。
三
おはぎを食べ終わると、春子は千鶴を家の奥へ案内した。さすが村長の家だけあってとても広く、部屋をいくつか通り抜けると渡り廊下に出た。離れの部屋はその先らしい。
外はすっぽりと夕闇に包まれている。夕日はとっくに沈んだが、西の空は夕日の名残で茜色に染まっている。そのわずかな光で何とか周囲の様子は見て取れた。
塀に囲まれた敷地の中には大きな蔵がある。山﨑機織にも反物を仕舞っておく蔵があるが、こちらの蔵の方が遥かに大きい。中には何が入っているのだろう、と千鶴が考えているうちに離れの部屋に着いた。
「ヨネばあやん、山﨑さん見たら喜ぶで」
春子が千鶴を振り返って言った。
「なして喜ぶん?」
「山﨑さんは、おらが初めて家に連れて来た女子師範学校の友だちじゃけんな」
ロシア兵の娘だということで、千鶴は人から顔をしかめられることが多かった。
イネとマツは優しい応対をしてくれたが、信子は千鶴を快く思っていないように見える。だから春子の曾祖母がどんな顔を見せるのか千鶴は心配だった。しかし春子が絶対に大丈夫だと言うので、その言葉を信じることにした。本当に喜んでくれるなら、とても嬉しいことだ。
離れの部屋は障子が閉まっていた。これでは中の様子はわからない。
春子は廊下に膝を突いて座ると、中にいる曾祖母に障子越しに声をかけた。
「ヨネばあやん、春子やで。起きとる?」
声が聞こえないのか、中から返事はなかった。それでも春子が何度か大きめの声をかけると、ようやく嗄れた声が聞こえた。
「おぉ、春子か。音遠しぃのぉ。ほれ、そこ開けて中へお入り」
笑顔で千鶴を振り返った春子は、起きとる起きとると潜めた声で言った。
春子が障子を開けると、饐えた匂いが鼻を突いた。中はほとんど真っ暗でよく見えない。
「ヨネばあやん、今まで寝よったん?」
「ちぃと、うとうとしよったぎりなけんど、もう夜になってしもたかい」
闇の中から老婆が答えた。
「明かりつけたげるけんね」
春子は部屋の中へ入ると、ごそごそと何かを始めた。しばらくすると、ぼぉっと明るくなった。マッチに火を灯したらしい。
春子がつけた行灯の光で、部屋の中はほの明るく照らされた。部屋の真ん中には布団が一つ敷かれており、そこに老婆が横になっていた。この老婆がヨネという春子の曾祖母なのだろう。
部屋の隅には箪笥が一つぽつりと置かれているが、他には特にこれというものはない。
ヨネが藻掻くようにして体を起こそうとすると、春子は傍へ行ってヨネの体を支えてやった。
枯れ枝みたいなヨネは半身を起こすと、春子の手を取って嬉しそうに笑った。
「まっこと音遠しぃわいなぁ。もう、何年になるかいね。久し会えんけん、お前にゃ二度と会えまいかて思いよった」
「何言うんね。こないだのお盆にも戻んて来たろがね。忘れたん?」
「お盆? はて、ほうじゃったかいな」
「おら、盆と正月には必ず戻んて来とるんよ。もちぃとしたら、また正月やけん、ほん時にも戻んて来るんで」
ほうかほうかとヨネはにこにこしながら春子の手を撫でた。
その時、人の気配を感じたのか、ヨネはふと廊下の方へ顔を向けた。
「誰ぞがそこにおるな」
廊下で座って待っていた千鶴を、ヨネは震える手で指差した。
「おらの学校の友だちじゃ。お祭り見せよ思て誘たんよ」
春子は明るい声で説明した。ヨネは表情を緩めると笑顔を見せた。
「ほうかほうか。春子のお友だちか。ほれはええわいな。おら、もう目がよう見えんけん、失礼してしもたわい」
ヨネは千鶴に手招きすると、枕元をごそごそ探り始めた。
何を探しているのかと春子に訊かれたが、ヨネは黙ったまま枕元の布団の下に手を入れた。そこからヨネが取り出したのは、じゃらじゃら音がする巾着袋だった。音の正体は小銭だ。
ヨネは袋の小銭を全部布団の上に広げると、数を数え始めた。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……」
千鶴が傍へ来ても、ヨネは気がつかない様子で熱心に勘定し続けた。そうして一銭玉を十枚ずつ二列に並べたヨネは、その一方を集めて春子の手に持たせた。
「だんだん、ヨネばあやん!」
春子が大喜びすると、ヨネは楽しそうにひゃっひゃっと笑った。それから残りの十枚を両手で集めると、こっちのはお友だちにと言いながら顔を上げた。
目も口も小さく皺だらけの顔は、人懐こそうな笑みを浮かべていた。その笑顔は千鶴を見た途端に凍りつき、小さな目と口は大きく開かれた。
「が、がんごめ! がんごめじゃ!」
ヨネは悲鳴を上げ、千鶴から逃げ出した。その拍子に手に載せられていた小銭が、ばらばらっと辺りに散らばった。
「ヨネばあやん。何言いよん? この子はおらの友だちで」
驚き慌てた春子はヨネをなだめながら、改めて千鶴の説明をしようとした。だが、もはやヨネの耳には春子の言葉は届かなかった。
ヨネは春子の手を振り払い、狂ったかのごとく這い逃げた。しかし足腰が弱っているのか、あまり動けないらしい。少し這った所で千鶴を振り返ると、興奮した声で叫んだ。
「誰ぞ! 誰ぞ、おらんのか! マツ! マツはどこじゃ! がんごめじゃ! がんごめが来とるぞ!」
千鶴は困惑していた。
がんごめという言葉の意味は、千鶴にはわからない。それでもヨネが千鶴を拒絶しているのは明らかだ。理由は千鶴の顔が他の日本人とは異なるからに違いない。
「ヨネばあやん、好ぇ加減にしぃや! おらの友だちに失礼じゃろがね!」
さすがの春子も口調が荒くなった。対してヨネも負けじと言い返した。
「何が友だちじゃ! 春子、お前は騙されとるんじゃ。こいつは、がんごめぞ。化け物なんぞ! 誰ぞ! 誰ぞ、おらんか!」
――化け物……。
その言葉はこれまで千鶴に向けられたどんな悪い言葉より、千鶴の心を深く傷つけた。それは千鶴の人間としての尊厳を完全に否定するものだった。
ヨネは近くに転がった枕をつかむと、千鶴に投げつけた。枕は千鶴の体に当たってぽとりと落ちた。続けて空っぽの巾着袋さえも投げつけると、ヨネはさらに這って逃げ、箪笥の陰でがたがた震えた。
「ごめんよ、山﨑さん。ヨネばあやん、惚けとるんよ」
春子はおろおろしながら千鶴を振り返った。
そこへ騒ぎを聞きつけたイネがやって来た。どしたんね?――と言うイネの声が耳に入ると、千鶴は反射的に逃げ出した。
「山﨑さん!」
後ろで春子が叫んだ。しかし千鶴は立ち止まらず、渡り廊下を来たイネの脇をすり抜けて土間へ向かった。台所にいたマツと信子が驚いた顔で見ていたが、千鶴は二人を振り返りもせず、そのまま外へ飛び出した。
大きな提灯が飾られた長屋門から表に出ると、薄闇の中を大勢の人影がやって来るのが見えた。顔や姿はまったくわからないが、その雰囲気と喋り声は戻って来た男衆に違いなかった。
千鶴は男衆を避けて別の道を走った。向かう方角なんてわからない。とにかく、この場から誰もいない所へ逃げたかった。
四
どのくらい走ったのだろう。千鶴は息が切れるのも忘れ、消えてしまいたい一心で走っていた。気がつけば、右手に山裾が迫る道にいた。左手に生い茂る樹木の向こうから、川のせせらぐ音が聞こえてくる。その川音に合わせるかのごとく、あちこちで秋の虫が鳴いている。
頭上に広がる天のほとんどは星空に埋め尽くされているが、空の下方にはわずかに明るさが残っている所があった。その少し上に細い月が申し訳なさげに浮かんでいる。あちらが西だとすると、どうやら東へ向いて走って来たらしい。
西空の明かりを頼りに、辺りの様子が何とかわかる。けれども川の岸辺に茂る木々がその微かな光を遮るので、千鶴がいる道はほとんど真っ暗だ。勢いで入り込んだものの、さすがにそのまま走ることはできなかった。
木々の間から川の向こうを見てみると、狭い所に田畑があり、その奥には丘陵がある。そこは光が届かず、黒々とした闇が塗りつけられている。
辺りに民家は一軒もなく、人気もまったくない。誰もいない所を求めたはずだったが、千鶴は次第に心細くなってきた。それでも化け物と罵るヨネの声が頭の中で繰り返されると、悲しさが込み上げる。
千鶴はその場にうずくまって泣いた、だが、すぐに後ろの方に何かの気配を感じて泣くのをやめた。
しゃがんだまま後ろを振り返った千鶴は、気配を感じた辺りをじっと見つめた。しかし闇に埋もれた道はよく見えない。目を凝らしても何も動く物はなさそうだし、川音と虫の音以外は何も聞こえない。
闇は濃さが増したみたいで、千鶴は今度こそ本当に不安になってきた。こんな所にいつまでもいるわけにはいかないが、さりとて行く当てなどどこにもなかった。
もう春子の家には戻れない。きっと他の者たちも、本当は春子の曾祖母と同じ目で見ていたのだろう。そう思うと、風寄だけでなく世の中のすべての人から、化け物と見られている気がして、千鶴はまた泣きたくなった。
突然頭上で、がぁと大きな声が聞こえた。驚いて見上げると、道の上に大きく突き出した木の枝に、カラスが一羽留まっていた。
腹が立って思わず立ち上がると、カラスはバサバサと羽音を立てて飛んで行った。
「どがいしよう?」
不安な気持ちに戻った千鶴が小さくつぶやいた時、ガサガサと音が聞こえた。近くに何かがいる。びくりとしたあと、千鶴はじっとしたまま音が聞こえた方に目を凝らした。それはさっき気配を感じたのとは真逆の方角、つまり道の前方だ。けれども、やはり暗闇でよくわからない。
しばらくじっと闇を見ていると、動物の荒い鼻息らしき音が聞こえた。闇の中を、闇よりも黒い大きな影が動いている。千鶴の全身の毛が逆立った。
影の大きさから見ると、相手はかなり大きな獣だ。何の獣かはわからないが、これは明らかに危険な状態である。
千鶴は気づかれないように、そろりそろりと後ずさりした。ところが気をつけていたつもりなのに、草履が踏んだ小石がじゃりっと鳴った。
もぞもぞ動いていた影がぴくりと動きを止めた。気づかれたらしい。万事休すだ。
千鶴は迷った。このまま後ずさりで逃げるか、相手に背中を向けて駆け出すか。ただ、駆け出したところで向こうの方が速いだろう。どうしたところで逃げられないに決まっている。
ここはじっとしながら様子を見るしかなさそうだと千鶴は思った。こちらに敵意がないのがわかれば、興味を失って向こうへ行ってくれるかもしれない。
黒い塊にしか見えない相手とにらめっこをしていると、カッカッという音が聞こえてきた。何だろう。不気味な音だ。
続けて、ザッザッという音。脚で土をかいている音のように聞こえる。
――これはイノシシ?
何だか、イノシシみたいな気がしてきた。しかし、千鶴は本物のイノシシは見たことがない。
千鶴の祖父は絣問屋仲間と山へイノシシを撃ちに行くことがある。仕留めた時には、祖父は家族の前で両腕を広げて獲物の大きさを自慢したものだ。だが目の前にいる黒い影はそんなものではない。これがイノシシだとすれば尋常ではない大きさだ。これこそ本当の化け物だ。
暗闇の中なので、相手の状態はよくわからない。ただ人を憎悪する気のようなものが、ひしひしと伝わってくる。相手には千鶴を見逃す気はないらしい。
――来る!
そう思った刹那、黒い影は勢いよく千鶴の方に突進して来た。
あっという間に、黒い影は千鶴の近くまで迫った。恐怖にすくんだ千鶴は頭の中が真っ白になり、ふっと意識が遠のいた。ゆっくりと体が倒れていくのを感じながら、頭にぼんやり浮かんだのは、もうだめだというあきらめだ。
次の瞬間、衝撃が千鶴を襲うはずだった。それなのに千鶴の体は宙に浮かんだまま、何の衝撃も伝わってこない。
ちらりと獣の臭いがして少し体が揺れたが痛みはない。代わりに何だか懐かしい温もりに包まれて、とても心地がよい。もう自分は死んだのだろうかと、安らぎを覚えながら千鶴は思った。しかし、そのあとすぐに何もわからなくなった。
飾られた花
一
愛らしい野菊の花が一面に咲いている。
後ろに束ねた千鶴の髪が、時折そよぐ風に揺れる。すると、花たちも嬉しそうに左右に首を振る。まるで千鶴に話しかけているみたいだ。
千鶴はこの花が好きだった。しゃがんで花を眺めていると、背後で千鶴を呼ぶ声が聞こえた。振り向こうとすると、後ろから伸びて来た手が、そっと優しく千鶴の頭を押さえた。その手は摘んだ野菊の花を千鶴の髪に挿してくれた。
立ち上がって振り返ると、そこに若い侍が立っていた。
逆光になっているせいか顔はよくわからない。それでも若侍が自分と親しい仲なのはわかっている。若侍から漂う懐かしく温かい雰囲気が、千鶴を抱くように包み込む。
若侍は千鶴を眺めながら満足げに言った。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
この上なく幸せな気持ちで胸はいっぱいだ。このまま時が止まることを千鶴は願った。だが次の瞬間、誰かが千鶴の体を強く揺らした。
「山﨑さん、しっかりしぃや! 山﨑さん!」
千鶴は肩を揺らされていた。目を開けると、若い娘が泣きそうな顔で、千鶴の顔をのぞき込んでいる。
「気ぃついたんじゃね。よかった! 山﨑さんにもしものことがあったら、おら、どがいしよかて思いよった」
千鶴が体を起こすと、若い娘は千鶴に抱きついて泣いた。
意識が急速に現実に焦点を合わせ、千鶴は泣いている若い娘が春子だと思い出した。どうやら、さっき見ていたのは夢らしい。夢ではなかったみたいな気がしているけれど、やっぱり夢なのか。
それでも千鶴は夢から引き戻されたことに、腹立たしさを覚えていた。自分とあの若侍は本当に惚れ合っていたのだ。あのまま若侍とずっと一緒にいたかったのに、それを起こされたのである。せっかくの幸せな気分が台無しだ。
けれど目覚めてしまったものは仕方がない。どんなに幸せでも夢の話だ。あきらめるしかない。
辺りを見まわすと、そこは部屋の中で、千鶴がいるのは布団の上だった。春子の後ろには、年老いた坊さまと老婦人が座っている。
「ここは……どこぞなもし?」
訊ねる千鶴に、坊さまは微笑みながら言った。
「ここは法生寺という寺でな。わしは知念じゃ。隣におるんは、わしの女房の安子ぞな」
「ほうしょうじ?」
聞いたことがある名前だと思ったあと、千鶴ははっとなった。
「法生寺て、うちのお母さんがお世話になったお寺?」
そう言ってから、千鶴は慌てて自分と母の名を告げた。母が世話になった寺の名を、法生寺だと聞いていた。
知念和尚は、わかっとるぞなとうなずいた。
「千鶴ちゃんが幸子さんの娘さんじゃいうんは、春ちゃんから話を聞いてすぐにわかった。お母さんは元気にしておいでるかな?」
安堵した千鶴は、母は今でも和尚夫婦に感謝していると伝えた。
和尚たちは嬉しそうにうなずき合い、安子は感慨深げに言った。
「あん時、幸子さんのお腹ん中におった子が、こげなきれいで立派な娘さんに育ったやなんてなぁ……。ほれにしても、千鶴ちゃんが目ぇ覚ましてくれてよかった。今な、お医者呼ぼかて言いよったとこなんよ」
安子に褒めてもらった千鶴は、気恥ずかしくて下を向いた。しかし、すぐに我に返ると顔を上げた。
「うち、いったい――」
自分に何があったのかと、千鶴は訊ねようとした。だが、その前に春子が待ちかねた様子で言った。
「おら、山﨑さんのこと探しよったんよ。けんど、どこ探してもおらんけん、もしや思てここ来てみたら、表で倒れよった言われてな……。ほっとしたけんど、ほんまに心配したんで」
春子の言葉に千鶴は当惑した。
「ちぃと待ってや。うちがどこで倒れよったて?」
倒れた覚えなどないし、この寺がどこにあるのかも知らないのだ。うろたえる千鶴に、山﨑さんはここで倒れよったんよと、春子はもう一度言った。
千鶴が驚いていると、知念和尚が説明した。
「ちょうどわしと安子が、幸子さんは今頃どがぁしておいでようか、お腹におった子も大きなっとらいなぁ、と話しよった時のことぞな。いきなしどんどんどんと玄関の戸を叩く奴がおってな。誰じゃろ思て出てみたら、千鶴ちゃんがそこに倒れよったんよ」
「倒れよったいうよりは、寝かされよったいうんが正しいぞな」
安子が和尚の言葉を訂正した。
安子によれば、千鶴は髪も着物も乱れないまま、真っ直ぐ仰向けに寝かされていたらしい。履いていたはずの草履は、千鶴の脇にきちんと並べられてあったそうだ。
「じゃあ、誰ぞがうちをここまで運んだいうこと?」
千鶴が三人の顔を順番に見ると、みんな困惑のいろを浮かべた。
和尚と安子は顔を見交わすと、少し戸惑いながら言った。
「千鶴ちゃんが自分でここへ来たんやないんなら、ほういうことになるんかの。ほんでも、誰が千鶴ちゃんをここへ運んだんかは、わしらにもわからんぞな」
「千鶴ちゃんに何があったんかも、うちらにはわからんのよ」
春子は焦った顔で千鶴に訊ねた。
「山﨑さん、おらの家飛び出したあと、何があったん?」
千鶴はきょとんとなった。春子が何を言っているのか、千鶴にはわからなかった。
「うち、村上さんの家におったん?」
春子の顔が引きつった。
「山﨑さん、大丈夫なん? どっかで頭ぶつけたんやないん?」
「千鶴ちゃん、春ちゃんに誘われて、名波村のお祭り見においでたんじゃろ?」
安子に言われると、そんな気がしたが、今一つはっきりと思い出せない。何だか頭の中に靄がかかったみたいな感じだ。
何とか思い出そうと、何気なく右手で頭を押さえると、指先に何か柔らかい物が触れた。何だろうと手に取って見ると、それは野菊の花だった。
二
「あれ? 何これ? なして、こげな物がうちの頭にあるん?」
頭にあった野菊の花を見て千鶴は驚いた。でもすぐにさっき見た夢を思い出し、これは夢の続きなのかと訝った。
「そのお花、千鶴ちゃん、自分で飾ったんやないん?」
訊ねる安子に首を振りながら、千鶴はみんなの顔を見まわした。これはまだ夢の中で、自分は本当は目を覚ましていないのかもしれないと疑っていた。
「あん時は、山﨑さん、花なんぞ飾っとる場合やなかったけん、おら、和尚さんらが挿してやったんかて思いよった」
春子は千鶴が持つ花を見ながら不思議そうに言った。
「気ぃ失うて倒れよる千鶴ちゃんに、花飾ったりするかいな。その花は初めから千鶴ちゃんの頭に飾ってあったんよ」
知念和尚が言うと、安子もうなずいた。
結局、誰が千鶴の頭に花を飾ったのかはわからない。恐らく玄関を叩いて千鶴がいることを知らせた者に違いないが、それが誰で、どういうつもりでこんなことをしたのかと、謎は深まるばかりだ。
「村上さん、あん時て?」
千鶴が訊ねると、春子は少し困った顔で言った。
「あのな、言いにくいことなけんど、おらん所のひぃばあやんがな、山﨑さんを傷つけること言うてしもたんよ」
「ほうなん?」
「ほんでな、山﨑さん、おらの家飛び出して行方知れずになっとったんよ」
千鶴には春子が言うような記憶がない。訳のわからないこの状況は、やはり夢なのかと考えていると、知念和尚が心配そうに千鶴の顔をのぞきこんだ。
「千鶴ちゃん、何も思い出せんか」
妙な気分のまま、千鶴は何でもいいから思い出そうとしてみた。すると、春子と一緒に客馬車に乗っていたみたいな気がした。
「何か、客馬車に乗りよったんは思い出したんですけんど、そのあとのことは何も……」
「どがいしましょ。やっぱしお医者を呼んだ方が――」
心配する安子の言葉を遮って和尚は言った。
「いや、医者を呼んだとこで、千鶴ちゃんの記憶が戻るとは思えんな。別に具合が悪ないんなら、このまま様子を見よっても構んかろ」
そうはいっても、春子は不安げだ。千鶴の頭を触りながら傷がないかを確かめた。
「山﨑さん、どっか痛い所ないん?」
千鶴は大丈夫ぞなと言って笑ってみせた。
「どこっちゃ具合悪い所はないんよ。ただ、頭ん中がすっきりせんぎりぞな」
「ほれを具合悪いいうんやないん?」
「ほうなんか」
千鶴は苦笑した。
確かに頭がすっきりしないのは、尋常とはいえないのかもしれない。しかしこれが夢なら、すっきりしなくても不思議ではない。
「ほれにしても、千鶴ちゃんの頭にあったそのお花、誰が飾りんさったんじゃろねぇ」
安子が思い出したように言うと、知念和尚もうなずいた。
「ほうじゃほうじゃ。その花は千鶴ちゃんに起こったことと絶対関係あらい」
「ほれに、千鶴ちゃんをここまで運んだんが、誰かいうんも問題ぞなもし。このお花もそのお人が飾ったに違いないわね」
「さらにいうたら、なしてその人物が千鶴ちゃんをここへ運んだんかやな」
「ほれと、千鶴ちゃんを運んでおきながら、何も言わいで去ぬるいうんも気になりますわいねぇ」
和尚夫婦のやり取りを聞いていた春子が、自信なさげに言った。
「何とのうやけんど、おら、誰かが山﨑さんを慰めるためにその花飾った気ぃがする」
「うちを慰める?」
千鶴は春子を見た。
「ほれはどがぁなことかな?」
知念和尚が訊ねると、春子はしょんぼりしながら説明した。
「山﨑さんが何も思い出せんのは、ほれが山﨑さんにとって嫌なことやけんと思うんよ」
「嫌なことじゃったら、これまで何べんもあったけんど、忘れたことはないで。逆に忘れとうても忘れられんもん」
千鶴の言葉に、ほれはほうなんやけんど――と春子は言った。
「確かに嫌なことは忘れるもんやないよ。ほやけんな、誰ぞがほれを忘れさすために、山﨑さんの記憶を失さしたんやないかて、何とのう思たんよ」
「誰ぞて、誰?」
「ほれはわからん。けんど、たぶんその誰かが山﨑さんをここまで連れて来て、山﨑さんを慰めるために花を飾ってくれたんよ」
なるほどなるほどと和尚はうなずいた。
「春ちゃんの言うことには一理あるな。ただ、そげなことができるんは人間やないな」
「人間やないんなら、狸じゃろか?」
ふざけているみたいにも聞こえるが、春子は大真面目だ。それに対して、知念和尚も真顔で応じた。
「狸には千鶴ちゃんをこの寺へ運ぶ理由がなかろ? つまり、これは狐狸妖怪の類いの仕業やないな」
「じゃったら、誰が……」
春子は真剣な顔で考え込んでいる。一方で、千鶴の頭には若侍の姿が浮かんでいた。
さっきの夢の中で、あの若侍は千鶴に野菊の花を飾ってくれた。そして目覚めた時に、同じ花が同じ場所に飾られていたのである。素直に考えれば、千鶴に花を飾ってくれたのはあの若侍だ。
だが若侍は夢の中の人物だ。夢の人物が現実に出て来るなど有り得ない。しかし、まだ自分が夢の中にいるのなら、若侍が飾ってくれた花が頭に残っていても妙ではない。和尚たちが事情を知らないだけだ。
「わかったぞな!」
突然、安子が叫んだ。
「何がわかったんぞ?」
訝しげな和尚に、お不動さまぞなもしと安子は言った。
「お不動さまはうちの御本尊さまやし、幸子さんがここで暮らしよった時、幸子さんのお腹には千鶴ちゃんがおったじゃろ? ほじゃけん、お不動さまは千鶴ちゃんのこともご存知のはずぞな」
なるほど!――和尚は興奮した様子で膝を叩いた。
「お不動さまなら姿消したんも説明つこう! 安子、さすがはわしの女房じゃ。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまに違いない!」
和尚は手を合わせると、目を閉じて念仏を唱えた。
春子もこの意見には納得したらしい。安子と一緒に目を瞑って手を合わせている。
三
「あのぅ……」
花は若侍が挿してくれたものだと千鶴は話そうとした。しかし和尚たちの視線が集まると、何だか気恥ずかしくなった。
「これは、まだ夢の続きなんかなもし?」
遠慮がちな千鶴の言葉に、みんなはきょとんとしている。
「夢の続きて?」
春子に訊かれて、千鶴は少しうろたえた。
「いや、ほやけんな、うちはまだ夢ん中におるんじゃろかて訊いとるんよ」
春子は千鶴に自分の頬を抓ってみるように言った。頬を抓った千鶴は、痛っ!――と声を上げた。
「どがいね? まだ夢見よるみたいな感じする?」
心配そうに訊ねる春子に、千鶴は首を振った。
「千鶴ちゃん、大丈夫か? まだ頭に妙な感じがしよるんか?」
「お医者を呼ぶ?」
和尚夫婦が戸惑い気味に言った。千鶴は大丈夫ぞなもしと言いながら、そっと右手で左手を抓ってみた。やはり痛い。ということは、これは夢ではなく現実か。だとすると、この頭に飾られた花は何なのかと、少し怖いような驚きが千鶴の中で膨らんだ。
「ところで山﨑さん、何の夢見よったん?」
春子に唐突に訊ねられ、千鶴はうろたえた。
「何の夢て?」
「さっき、夢の続きかて言うたじゃろ?」
「あれは、何か夢見よった気ぃがしたぎりで、何ちゃ覚えとらんけん」
千鶴は笑ってごまかした。
若侍の夢の話はできなかった。そんな話をすれば、またみんなが不思議がり、話がややこしくなる気がした。とはいえ、お不動さまがやったという話には、千鶴は合点がいかなかった。
どこかで倒れていた自分を、ここまで運んで来てくれただけなら納得できる。だけど、お不動さまが花を飾るなんて妙な話だ。怖い姿のお不動さまに似つかわしくない。
今が夢ではなく現実だとしても、花を飾ってくれたのはあの若侍だと千鶴は思っていた。ただ、夢の中の人物がどうやって現実に花を飾るのかはさっぱりわからなかった。
「まぁ、お不動さまが千鶴ちゃんを助けてくんさったにしても、千鶴ちゃんに何があったんじゃろな?」
知念和尚が腕組みをしながら言うと、安子もうなずいた。
「ほうですわいねぇ。お不動さまが助けんといけんようなことが、千鶴ちゃんに起こったんやけんねぇ」
千鶴が無事であったことはともかく、何か危険な目に遭ったのだとすれば、それは千鶴を傷つけた春子の曾祖母の責任だ。言い換えれば、千鶴を風寄に招いて曾祖母に引き合わせた春子の責任になる。
春子がしょんぼりしているのに気づいた和尚夫婦は、互いに目を見交わして言った。
「ほうはいうても、千鶴ちゃんが無事じゃったんやけん、何があったんかはええことにしよわい」
「ほうよほうよ。何があったやなんて、考えたとこでわかるはずないけんね。ほれより、千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるてわかったことの方が肝心ぞなもし」
なぁと安子が春子に微笑みかけると、顔を上げた春子は寂しげな笑みを返した。
「ほんで千鶴ちゃんは、今晩は春ちゃん所でお世話になるん?」
突然安子に訊ねられ、千鶴は少しうろたえた。
何も覚えていないのだが、自分が春子の家を飛び出した経緯を考えると、春子の家に泊めてもらうことには気が引ける。かといって、ここに泊めてもらいたいとは言えない。そんなことを言えば、春子が悲しむのは目に見えている。
千鶴が言葉を濁していると、ここに泊めてもらいやと春子が言った。
「よう考えたら、今日はお祭りやけんな。うちには酔うた男衆がようけ集まるけん、うちに泊まるんはやめといた方がええ。泊まったら、山﨑さん、絶対夜這いかけられるで」
「夜這い? うちに?」
自分みたいな醜い女に手を出そうとする男がいるなど、千鶴には考えられなかった。だけど春子は真顔だ。
「山﨑さんは美人じゃけんな。色目で見る男はなんぼでもおらい。ほやけん、今晩はここで泊めてもろた方がええぞな」
「何言いよんよ。うちなんぞ、ちっとも美人やないし」
千鶴は春子の言い草が面白くなかった。お世辞にしたって、もう少し気の利いたことを言うべきだ。千鶴が口を尖らせると、安子と和尚が言った。
「うちも千鶴ちゃんは別嬪さんや思うぞな」
「わしもそがぁ思う。ほじゃけん、酔っ払うたトラがうじゃうじゃおる所にはおらん方がええ」
ここへ泊まっていかんかなと和尚は言った。
千鶴は嬉しかった。けれども、そうしますとは簡単には言えない。千鶴が遠慮して黙っていると安子が言った。
「ね、ここにお泊まんなさいな。そがぁしてもらえたら、うちらも嬉しいけん」
千鶴がようやく素直にうなずくと、和尚夫婦は喜んだ。春子は黙って微笑んでいたが、ちょっぴり寂しげでもあった。すると、安子が春子に言った。
「春ちゃん。あんたもここに泊まるじゃろ?」
「え? おらも?」
和尚が当然という顔で言った。
「千鶴ちゃんぎり、ここに泊まるわけにもいくまい。春ちゃんも一緒に泊まるんが筋じゃろがな。ほれに酔うたトラが危ないんは、春ちゃんかて対ぞな」
和尚たちの思いがけない言葉に、春子は戸惑いを見せた。千鶴は春子の手を取ると、一緒に泊まってほしいと言った。
「ほやけど、おら……」
春子は少しだけ躊躇したあと、わかったわいと笑顔でうなずいた。
「ほんじゃあ、おらもお世話になるぞなもし。和尚さん、安子さん、どんぞ、よろしゅう頼んます」
春子がぺこりと頭を下げると、千鶴も春子に倣い、よろしゅうお願いしますと和尚夫婦に改めて頭を下げた。
安子とにっこりうなずき合うと、和尚は千鶴たちに言った。
「もうちぃとしたら神社の前にだんじりが集まるけん、二人で見ておいでたらええぞな」
千鶴たちがうなずくと、安子が言った。
「春ちゃん、ここへ泊まることお母さんに言うて来んとね。お夕飯は向こうで食べておいでる?」
春子は千鶴を見た。千鶴は迷ったが、春子の家を訪ねたのであれば、このまま顔を出さないのは失礼になる。
「そがぁさせてもらいますぞなもし」
千鶴が答えると、春子は嬉しそうに笑った。
四
外へ出ると真っ暗だった。安子は提灯に火を灯すと、千鶴たちに持たせた。
「お不動さまにお礼言うてから行こか」
春子が千鶴に声をかけると、和尚も安子もほれがええぞなと言った。
千鶴は法生寺は初めてなので、どこにお不動さまが祀られているのかわからない。春子の後ろについて行くと、暗闇の中に大きな建物があった。本堂だ。その脇には一本の巨木がそびえ立っている。その大きさから見ると、かなり古い木のようだ。
知念和尚はその木を見ながら得意げに言った。
「この楠はでかかろ。聞いた話じゃ樹齢三百年以上になるらしいぞな」
「へぇ、そがぁに古い木なんですか。ほんじゃあ、ずっと昔からこの辺りのことを見よったんじゃろなぁ」
千鶴は巨木を見上げながら近づいて行った。夜空を背景にそびえるその巨木は、まるで大入道だ。
巨木を見上げているうちに、千鶴は突然はっとなった。以前にこんな風に目の前に本物の大入道がいたような気がしたのだが、胸が締めつけられてとても切ない。
もちろん大入道なんか見たことはないし、大入道に切なさを感じる理由がわからない。知らない間に法正寺に寝かされていたり、夢の若侍が頭に飾ってくれた花が本当にあったりと、奇妙なことが続くので千鶴は気味が悪くなった。
「山﨑さん、お不動さまにお礼言わんと」
春子に声をかけられて我に返った千鶴は、巨木を離れて本堂へ移動した。すると、本堂は扉が開かれたままで、知念和尚はありゃりゃと言った。
「妙じゃなぁ。ちゃんと閉めたはずなんやが」
首を傾げる知念和尚に、ほじゃけんねと安子が言った。
「千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまじゃて言うたじゃろ? ここが開いとるんが何よりの証ぞな」
和尚は見開いた目で安子を見て、同じ顔のまま本堂を見た。
「なるほど、確かにお前の言うとおりぞな。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、間違いのうお不動さまぞ」
知念和尚は本堂の不動明王に向かって、改めて手を合わせた。隣で安子も明王を拝んでいる。二人の話を聞いていた春子も、ここのお不動さまは本物だと、感激した声で千鶴に言った。
春子はお不動さまが生きていると思っているのか、失礼しますぞなもしと言いながら、怖々本堂に足を踏み入れた。
本堂の中は真っ暗で何も見えない。春子が提灯を掲げると、闇の中に不動明王の姿が浮かび上がり、うわっと春子は声を上げた。
千鶴たちをにらむような不動明王の恐ろしげな顔に、千鶴も一瞬ぎょっとした。だが何故かすぐに懐かしい気持ちになった。初めて見るお不動さまなのに妙なことだった。
不動明王は右手に剣、左手に羂索を持ち、厳めしい顔で鎮座している。その背後には炎となった明王の気迫がめらめらと立ち上っている。
春子は気を取り直して姿勢を正すと、近くに来た安子に提灯を預け、不動明王に手を合わせた。
「お不動さま、今日は山﨑さんを助けていただき、だんだんありがとうございました」
千鶴も安子に提灯を預けて手を合わせると、ありがとうございましたと不動明王にお礼を述べた。しかし頭の中では、あの若侍のことを考えていた。
お礼を述べ終えた春子は、しげしげと暗がりの中の不動明王を眺めながら言った。
「ほれにしたかて、お不動さまは、なしてこげな恐ろしいお顔をしておいでようか?」
千鶴は何となく思ったことを口にした。
「道を踏み外した人らを、力尽くでも本来の道に戻そと考えておいでるけんよ。ほれはな、誰のことも見捨てたりせんいうお不動さまのお気持ちぞな。親が子供を見捨てんのと対なんよ。ほじゃけん、お不動さまは見かけは恐ろしいても、心の優しいお方なんよ」
千鶴の説明に、春子はもちろん、知念和尚と安子も感心した。
「さすがは千鶴ちゃんぞな。まっこと、よう知っとる」
「そげなこと、どこで教えてもらいんさったん? 学校で教えてくれるん?」
「いえ、別に誰にも教わっとりません。ただ思たことを口にしたぎりぞなもし」
千鶴は困惑気味に答えたが、その答えは却って和尚たちを驚かせた。
「やっぱし千鶴ちゃんは、お不動さまとつながっておいでるんじゃねぇ」
「まっこと、千鶴ちゃんはお不動さまの申し子ぞな」
和尚夫婦に続いて、春子も興奮を隠さない。
「山﨑さんて、ほんま頭がええ! やっぱしおらが言うたとおり、山﨑さんはおらより勉強できらい」
「いや、ほやけん、違うんやて」
「違うことあるかいな。物知りやけん、勉強もできるんやんか」
「もうやめてや。物知りやないけん」
春子は笑いながら安子から提灯を受け取ると、和尚たちに挨拶をして山門へ向かった。千鶴も提灯を受け取り和尚夫婦に頭を下げると、春子の後を追いかけた。
五
「石段、急なけん、足下気ぃつけてな」
春子は山門の先にある石段を、提灯で照らしながら言った。
春子が先に立ち、千鶴はその後ろに続いたが、少し石段を下りたところで、千鶴は立ち止まって辺りを見渡した。
西の空には細い月が今にも沈みそうに浮かんでいる。その下にある海は恐ろしいほど真っ黒だ。左手に見える丸く黒い影は鹿島だろう。
海から顔を戻すと、石段の正面には北城町がある。道の両脇に並ぶ商店の軒先を電灯が照らしているので、そこだけが闇の中に浮かび上がって幻想的だ。
そこから東には田んぼが広がるが、どこもほとんど真っ暗で、何がどこにあるのかはよく見えない。集落のある辺りだけに、祭礼用と思われる提灯の明かりが集まっている。そのさらに向こうには黒々とした山が、風寄を取り囲みながら並びそびえている。
千鶴は夜の風寄を眺めながら、いったい自分はどこにいたのだろうと考えた。だが、春子の家にいたことすら忘れているのだ。どこにいたのかなど思い出せるはずがない。
ここへは春子に祭りに誘われて来た、ということは思い出していた。それがこんな奇妙なことになったのには、少なからぬ不安を感じている。ただ、何だか自分はこの土地に引き寄せられたみたいな気もしていた。
千鶴はそっと胸に手を当てた。懐には頭に飾られていた野菊の花が入っている。
どこからこの寺へ運ばれたのかはわからない。でも、運んでくれたのはこの花を飾ってくれた人に違いない。お不動さまではないと絶対に言い切ることはできないが、やはりそうではないと思う。お不動さまは優しい方ではあるけれど、女子の頭に花を飾るのはお不動さまらしくない。
助けてくれたのが人間であるならば、その人は自分に好意を抱いてくれたのか。そんな人が本当にいたなら嬉しいけれど、それにしてもやはり不自然だ。それに姿を消す理由もわからない。花を飾ったのが恥ずかしかったのだろうか。
「山﨑さん、何しよんよ。早よ下りといでや」
千鶴に気づかず一人で先に下りてしまった春子が、提灯を掲げて叫んだ。
「ごめんごめん。ちぃと考え事しよったけん」
もう一度上がって来た春子は、不安げに言った。
「考え事て何? おらの家のこと思い出したん?」
「まだ何も思い出せとらん。ほやのうて、うちをここまで運んでくれたお人のことを考えよったんよ」
「お不動さまやのうて?」
「お不動さまが花飾ったりせん思うんよ」
「じゃったら、誰やて思うん?」
千鶴の頭に浮かぶのは、あの若侍だ。姿を見せないことを考えても、やっぱり若侍しかいないと思えてしまう。
だけど、その話は他人に聞かせたくはなかった。ややこしいことになるからだけでなく、あの若侍との幸せは自分だけのものにしておきたかった。
「誰やなんてわからんわね。この村の人らは、みんな知らん人ぎりじゃけん」
「ほら、ほうじゃな。ほんでも村の誰かやとしたら、山﨑さん一人残しておらんなるいうんは妙な話じゃね」
「うちに花飾ったんが恥ずかしかったんかもしらんね。けんど、うちがどこぞに倒れよったとして、うちを見つけて頭に花飾るんも、やっぱし妙な話ぞな」
「ほうじゃなぁ。確かに妙な話よなぁ。そげなことしよる暇あったら、誰ぞを呼びに行くもんなぁ」
「じゃろ? ほじゃけん、こげなことしたんは――」
千鶴はそこで口を噤んだ。
こんなことをしたのはあの若侍だと言いたくてたまらなかった。でも、それは自分だけの秘密である。
「どしたんね。こげなことしたんは誰なんよ?」
「さぁねぇ。誰じゃろかねぇ」
自然と明るくなった千鶴の声が春子を刺激した。
「なぁ、誰なんよ。誰ぞ心当たりがあるんじゃろ?」
「そげなもん、あるわけなかろがね。うちはここでは余所者で。誰っちゃ知っとるお人なんぞおらんけん」
「ほやけど、何ぞ知っとるみたいな口ぶりやったで」
「ほんなことないて。気のせいやし」
「ほの物言いが怪しいんよ」
「もう、この話はおしまい。ほれより早よ戻らんと、村上さんのお家の人らが気ぃ揉んどらい」
ほうじゃったと言い、春子はまた先に立って石段を下り始めた。千鶴もそのあとに続いたが、少し下りた所でもう一度立ち止まった。
「どがぁしたん? 今度は何?」
山門を見上げる千鶴に、下から春子が声をかけた。
春子に顔を戻した千鶴は、何でもないと言った。だけど本当は誰かに上から見られていたような気がしていた。もし誰かがいるのだとすれば、きっと自分を助けてくれた人に違いない。
千鶴は誰もいない山門を振り返ると、ぺこりと頭を下げた。
「誰に頭下げよるん?」
訝しげな春子に、お不動さまだと千鶴は言った。そういうことにしておいた。
「ほな、行こ」
千鶴は春子を促し石段を下りた。後ろが気になってはいたが、石段を上ったところで誰もいないのはわかっていた。その何者かは、千鶴の前に姿を見せないと決めているのだろう。そうであるなら、相手を探しても無駄なことだった。
祭りの晩
一
千鶴たちが春子の家に戻ると、中では男衆が酒盛りを始めていた。提灯が吊された戸口の奥から、賑やかな声が聞こえてくる。酒に酔った大勢の見知らぬ者たちの気配は、千鶴を尻込みさせた。
春子が千鶴を待たせて家の中へ入ると、千鶴は逃げ出したくなった。すると、すぐにイネが飛び出して来て、よう戻んたねと泣きながら千鶴を抱きしめた。
千鶴が驚いていると、今後はマツが出て来た。マツも涙ぐんで千鶴の手を握り、悪かったねぇと詫びた。
「春子は戻らんし、真っ暗なってしもたけん、今おらたちも千鶴ちゃん探しに出よとしよったとこじゃった」
「すんません。お祭りで忙しいとこやのに、ご迷惑かけてしまいました」
二人が誰なのかわからないまま千鶴が謝ると、イネもマツも首を振った。
「悪いのは大ばあさまぞな。近頃、妙なことぎり言うんで、おらたちも困りよったんよ」
マツの言葉にイネがうなずいていると、春子が恰幅のよい年配の男を連れて出て来た。その後ろから幼い男女の子供がついて来る。
「あんたが山﨑千鶴さんかな。遠い所をせっかくおいでてくれたのに、うちの耄碌ばあさんがえらい失礼なことしてしもたそうで、まことに申し訳ない」
春子が紹介する前に、男は千鶴に頭を下げた。提灯の明かりではよくわからないが、だいぶ酒が入っているらしい。酒の臭いが漂っている。
「おらのおとっつぁんぞな」
春子が説明すると、男は名を名乗っていないことに気がつき、春子の父の村上修造ぞなもしと言った。つまり、名波村の村長だ。
千鶴は恐縮しながら、もう何とも思っとりませんと言った。でも自分が何をされたのかは、一つも思い出せていない。
「いや、そがぁ言うてもろたら助からい」
安心したように笑った修造は、先に出ていたマツとイネを春子の祖母と母親だと千鶴に紹介した。お陰で千鶴は二人が誰かを理解したが、本当にはわかっていない。
「何言うとるんね。そげなことは千鶴ちゃんはわかっとるがね」
マツが文句を言うと、ほんまよとイネも修造を一にらみして、千鶴に愛想笑いをした。千鶴が当惑しながら笑みを返すと、修造の左右からさっきの子供たちが顔をのぞかせた。
二人はじっと千鶴を見ていたが、千鶴が顔を近づけて声をかけると、うわぁ、がんごめじゃ!――と声を揃えて逃げ出した。
「こら、勘吉! 花子!」
春子が子供たちを叱ると、二人は家の中に逃げ込んだ。春子はため息をつくと、千鶴に詫びた。
「堪忍な。あの子ら、おらの甥っ子と姪っ子なんよ」
「村上さん、がんごめて何のこと?」
「え? いや、ほれは……」
春子が言葉を濁すと、修造がもう一度千鶴に謝った。
「いやぁ、重ね重ね申し訳ない。子供らにはわしがきつぅに言うとくけん、勘弁してやんなはらんか」
「ほれは構んのですけんど、がんごめて――」
「おい、春子。おらを紹介してくれや」
よたよたと現れた大柄の若い男が、にやけた顔で千鶴を見ながら春子に言った。
「こら、源次! お客さまに失礼じゃろが!」
修造が怒鳴ると、源次は修造にだらしなく頭を下げ、千鶴にも同じように頭を下げた。にやけた顔はそのままだ。暗いので源次の顔の色はわからないが、修造以上に酒の臭いがぷんぷんする。きっと顔は真っ赤に違いない。
「春子、おらをこの人に紹介してくれや」
源次がもう一度言うと、春子は千鶴に従兄の源次だと言った。
続けて春子が千鶴のことを源次に説明すると、千鶴も挨拶をした。
「千鶴さんか。ええ名前じゃの。ほやけど、日本人みたいな名前じゃな」
やはりこうなのかと千鶴が悲しくなると、マツが源次を叱りつけた。
「何失礼なこと言うんね! 千鶴ちゃんは日本人ぞな!」
「千鶴ちゃん、ごめんよ。ここは頭の悪い者ぎりでな、何が失礼なんかわからんのよ」
イネが千鶴に言い訳をすると、ばあやんとおっかさんの言うとおりだと春子も怒った。
源次は少し面白くなさげだったが、渋々千鶴に謝った。
「申し訳ございません。おらが悪うございました」
源次がふらつきながらだらりと頭を下げたところに、次々に若い男が現れて源次を突き飛ばした。源次は頭を下げたまま素っ転んだが、男たちは構わず千鶴に自己紹介を始めた。
起き上がった源次は声を荒らげて男たちに食ってかかった。そこへ修造の雷が落ちた。
「大概にせんかや! お前ら、わしに恥かかせるつもりか」
驚き顔で静かになった男たちを、さっさと去ね!――と怒鳴りつけて追い払った修造は、千鶴に愛想を振り撒きながら、まことに申し訳ないともう一度頭を下げた。
「ほな、山﨑さん。中へ入ろや」
春子に促されたが、千鶴は家の中に入るのが怖かった。今の源次みたいな者たちが多く集まっているのかと思うと、法生寺へ戻りたくなった。それでもイネとマツが気遣ってくれるので、辛抱して春子に従った。
家の中では、電灯が灯された座敷で大勢の男たちが飲み食いをし、女たちが世話をしていた。そこに交じって何人もの子供たちが食べたり騒いだりしている。その多くの視線が、土間に入った千鶴に向けられた。
千鶴がうろたえながら頭を下げると、まだ土間にいた源次が再び千鶴の所へやって来て、こっちぞなと千鶴の手を引っ張った。源次の後ろでは、さっきの男たちが千鶴を見ながらはしゃいでいる。千鶴が顔を強張らせると、イネがぴしりと源次の手を叩いた。
「何をしよんかな! さっきも怒られたとこじゃろがね!」
手を引っ込めた源次は、当惑しながら言い訳をした。
「おら、この人にみんなと一緒に、楽しゅう過ごしてもらおと思たぎりぞなもし」
「源ちゃん、悪いけんど、今日はそっちには行かれんけん」
春子が言うと、何でぞと源次はむくれ顔で春子をにらんだ。
「ほやかて源ちゃん、酔うとろ? 話がしたいんなら、酔いを覚ましてからにしてや」
「春子の言うとおりぞな。初めて会う女子に失礼じゃろがね」
マツにまで説教されて、源次がようやく引き下がると、後ろの男たちも残念そうに源次に続いた。自分を護ろうとしてくれるイネとマツを見ているうちに、千鶴は二人のことを何となく思い出してきた。
男衆の所にいた勘吉と花子は、男たちの世話をしていた女の一人を呼んだ。
「かっか、こっち来とうみ! 早よ、来とうみて!」
「姉やんがおいでとるんよ! 早よ来てや!」
呼ばれた女は顔を上げて子供たちを見たあと、千鶴の方に目を向けた。だが、すぐに無関心を装って男たちに酒を注いで廻った。無視された子供たちはぶうぶう文句を言ったが、女は知らんぷりを決め込んでいた。
その女が春子の兄嫁の信子であることも、千鶴は思い出した。
信子は初めて顔を合わせた時もよそよそしかった。今も同じ態度を見せるのは、千鶴を嫌っているのだろう。せっかく記憶が戻ったが、千鶴は気持ちが沈んだ。
けれど落ち込んでいる間もなく、千鶴はイネたちに誘われた。どうやら男衆が集まる部屋とは、別の部屋へ行くらしい。
その時、男衆の中から男が一人立ち上がって土間へ降り、千鶴の傍へやって来た。男の後ろには勘吉と花子がついて来た。
「春子の兄の孝義いいます。春子がいっつもお世話になっとるそうで」
孝義はぺこりと頭を下げた。春子の説明によれば、勘吉たちの父親であり信子の夫だという。そして村長の息子でもある。やはり酒が入っているようだが、さすがに源次たちとは違い、村長の息子としての品位と風格があった。
春子は兄が自慢なのだろう。誇らしげな顔を千鶴に向けている。
「ちぃとごたごたしたみたいなけんど、年寄りの戯言なんぞ気にせいで、楽しんでやっておくんなもし」
にっこり笑った顔が千鶴を安心させた。信子の夫とは思えないほど好意的な応対ぶりだ。千鶴はどぎまぎしてしまい、言葉を出せないまま頭を下げた。顔を上げると、孝義の肩の向こうから信子がじろりとにらんでいた。
二
千鶴が案内されたのは、少しこじんまりした部屋だった。
台所や男衆が集まった座敷には電灯があったが、ここは行灯だ。ただ、行灯一つだけでは薄暗いからだろうが、二つの行灯が置かれていた。
部屋に入ると、イネたちは春子に千鶴をどこで見つけたのかと訊ねた。春子は千鶴を見ながら、法生寺にいたと言った。法生寺と聞いただけで、イネもマツも安堵の笑みを浮かべた。和尚夫婦はイネたちから信頼されているのだろう。
千鶴は自分が倒れていたことを、春子が喋るのではないかと心配していた。ここへ来るまでに、余計なことは言わないでほしいと頼むのをうっかり忘れていた。だけど、春子は妙な話は何もしなかった。言わずともわかってくれていたようだ。
千鶴が知らない間に寺へ運ばれていた話など迂闊なことを言えば、また千鶴が気味悪がられると思ったのかもしれない。いずれにしても、春子が黙っていてくれたのは千鶴には有り難かった。
千鶴と春子を座らせると、イネたちはすぐに料理を載せた箱膳を運んで来た。二人の後ろには男衆の所にいた女たちが続き、別の料理の皿を箱膳の脇に置いてくれた。
子供たちも次々に集まって来た。部屋はあっという間に女と子供でいっぱいになり、千鶴を歓迎する場となった。
イネは一通りみんなを千鶴に紹介すると、じきに男衆が出かける頃合いになるから、急いで食べてほしいと千鶴たちに言った。
千鶴と春子がうなずいて箸を持つと、女たちは争うようにして千鶴に話しかけた。やはり女たちには千鶴が珍しいみたいで、いろいろ話が聞きたいらしい。それでも千鶴を傷つけてはいけないと思っているのか、みんな言葉を選んで慎重に喋っている様子だ。
風寄にも日露戦争で負傷した者や、命を奪われた者がいるはずだ。しかし、そのことで千鶴を責める者はいなかった。また、みんなと違う容姿のことで千鶴を蔑む者もいなかった。
女たちの多くは百姓仕事の傍ら、伊予絣の織子として働いていた。
絣は織る前に文様に合わせて、先に織り糸を染め分けておく。その糸を織り上げることで、絣の語源となる輪郭がかすれた文様ができるのだ。
この織り糸を作るのは手間がかかるので、近頃の織子は織元が準備してくれている織り糸を使って、指定された絵柄の絣を織り上げている。
かつての風寄では、女たちは自分たちの裁量で絣を織っていた。大変ではあったが、いい物を作ればそれだけ高く売れたので、結構な収入が得られたそうだ。ところが、いつの間にか織元の指示で織る形態が広がり、今ではみんなが織元の織子になっている。
織子は一反いくらと賃金が決まっており、出来の善し悪しに拘わらず一定の収入を得ることができる。その分、いい物を作るための工夫や努力をしなくてもいいが、逆に手抜きをしてしまう者も出て来るのが問題だった。
しかし名波村の女たちは自分たちの仕事に誇りを持っており、やるからにはきちんとした物を作るという気概があった。だが景気が悪くなると伊予絣の売れ行きが悪くなり、織元への注文が来なくなる。そんな時にはどんなにいい絣を織っても、絣の生産が中止になって織子が解雇されたり、織子の賃金が一方的に下げられたことがあったそうだ。
今回も関東の大地震で東京への伊予絣の出荷が止まったままになっており、織元への注文も激減しているらしい。
この辺りの絣を仕入れている仲買人の取引先も、この大地震の煽りで多くが潰れたのだという。つまり東京が復興したとしても、伊予絣を買ってくれる先がないのだ。
織った伊予絣が売れるかどうかは、絣で銭を稼ぐ女たちにとっては大問題だ。残っている伊予絣問屋にはもっとがんばってほしいし、仲買人にも新たな絣問屋を見つけてもらわねばと、女たちは半分真顔で愚痴を言い合った。
ところが春子に言われて千鶴の家が山﨑機織だと知れると、女たちは慌てて畳に手を突き、お世話になっておりますと千鶴に頭を下げた。聞けば、ここの女たちの織物は山﨑機織でも仕入れているそうだ。
千鶴が慌てて頭を下げ返し、お世話になっているのは自分たちの方ですと感謝すると、女たちは仲買人から話を聞いたと言った。女たちによれば、ここの絣を仕入れる絣問屋の多くが潰れた分、こんな時こそ助け合いだと、山﨑機織はいつもより多めに仕入れているとのことだ。
自分は家の仕事には関わりがないと千鶴は考えていたが、祖父の心意気には感心した。また、山﨑機織に感謝してくれる女たちに対して親近感を抱いた。そして、女たちの苦労があるからこそ山﨑機織は成り立っており、そのお陰で自分は暮らしてこられたのだと知った。
女たちは、その後の東京の具合はどうなったのかと恐る恐る訊いてきた。
店のことは千鶴が知るところではないが、まだ東京が復興していないのはわかっている。その話をすると女たちは落胆したが、山﨑機織も大変なのは理解してくれていた。
女たちは逆に千鶴たちの暮らし向きを心配してくれたり、東京が復興さえすれば、自分たちも山﨑機織も上向きになるからと励ましてくれた。
初めの緊張も解れ、千鶴はずいぶんと気持ちが安らいでいた。それもあってか、春子もほっとした様子で食事を楽しんでいる。
勘吉たちや他の子供たちが来て、一緒に遊ぼうとねだった。
女たちは二人に迷惑だと子供たちを叱ったが、千鶴と春子にしてみれば、女子師範学校で学んだ腕の見せ所だ。構ん構んと言って子供たちの相手をしてやると、千鶴たちの周りは子供たちの黒だかりとなった。
しばらく子供たちの相手をしていると、男たちが出かける時間になったらしい。イネや女たちが動きだしたので、子供たちも自分たちの父親を送り出しに行った。
部屋には千鶴と春子とマツだけが残された。マツは千鶴が十分食べたことを確かめると、もう少ししたら自分たちも出かけると言った。
「男衆が屋台を持て来るけんね。ほん時に合わせて、千鶴ちゃんらも一緒においでたらええよ」
千鶴たちの予定をマツは知らない。祭りを見たあとのことを言わねばと千鶴が気を揉むと、春子がマツに申し訳なさそうに言った。
「ばあやん、あのな、おらと山﨑さんは、今晩は法生寺に泊めてもらうことにしたんよ」
「法生寺に? ほうなんか」
案の定、マツはがっかりした。しかし、夜這いが心配だからと春子が説明すると、ほらほうじゃと大笑いをした。
「確かに男衆は酒が入ると何しでかすかわからんけんな。特に千鶴ちゃんみたいな別嬪さんがおいでたんじゃ、押さえが利くまい」
また別嬪と言われ、千鶴は下を向いた。春子は笑いながら、ほらなと言った。
三
イネたちに連れられて神社の参道へ行ってみると、多くの村人たちと一緒に、何台ものだんじりが集まっていた。
夜の帳が下りた村は、だんじりの提灯と村人が手に持つ提灯で美しく彩られていた。
だんじりの屋台はドンドンジャンジャンと、太鼓や半鐘の音を鳴り響かせている。上に立てられた笹の束が下に飾られた提灯に照らされ、まるで屋台が燃えているみたいだ。
近づいて見てみると、笹には小さな日の丸がびっしりと貼りつけられていた。何とも賑やかで盛大な印象だ。
燃えるような多くの屋台が闇の中を行き交う様子は、実に幻想的な光景だ。これは松山ではお目にかかれないものだった。
「うわぁ、きれいじゃねぇ」
思わず千鶴がつぶやくと、じゃろげ?――と春子は得意げだ。
「春子、千鶴ちゃんをしっかりつかまえとくんで。暗いけん、迷子なったら大事ぞな」
マツが春子に言うと、春子は提灯を持っていない方の手で千鶴の手をつかんでみせて、ほら大丈夫と答えた。
「千鶴ちゃん、暗いし人が多いけん、おらたちからはぐれても、春子からははぐれたらいけんよ」
大声で喋るイネに、千鶴は提灯を掲げながら、わかりましたとやはり大声で言った。
夜の闇が深くなるにつれ、村の中はいっそう賑やかになった。次々にやって来るだんじりに見とれていると、いつの間にかイネやマツの姿が見えなくなっていた。千鶴は慌てて横を見たが、そこに春子がいたのでほっとした。
春子はだんじりの向こう側にいる人たちの方を、あそこと指差した。だが春子が何を見せたいのか、千鶴にはわからなかった。すると春子は、帽子と言った。
「帽子?」
「客馬車におったろ? 客馬車のことは覚えとらいね?」
そう言われて、千鶴はやっとわかった。春子が指差す辺りにあの山高帽の男の姿があった。その隣にいるのはあの二百三高地の女だ。楽しげな二人は、千鶴たちには気がついていないらしい。
「あの二人、でけとるかもしれんで」
千鶴に顔を寄せた春子は面白そうに言った。
聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、千鶴は下を向いた。春子は笑いながら、二人から離れた場所へ千鶴を誘った。
しばらくすると、参道の突き当たりにある神社の鳥居をくぐり、一体の神輿が現れた。すると、それまで賑やかだっただんじりが、声や音を鳴り止ませて静まり返った。
辺りは静寂に包まれ、その中を神輿は掛け声もなく静かに滑るがごとくにやって来る。実に不思議な光景で、静けさが神々しさを醸し出している。
春子の説明によれば、村々の平和を願う神さまのお忍びの渡御だそうだ。屋台の明かりに見守られながら千鶴たちの近くへ来た神輿は、かつての庄屋の屋敷へ入って行った。
中でどんなことが行われているのかはわからないが、やがて屋敷から出て来た神輿は、再び音もなくすっと神社へ戻って行った。
神輿が見えなくなると、止まっていた時が再び動きだしたかのように、太鼓と半鐘が鳴り始めた。参道は賑やかな音と掛け声で新たに埋め尽くされ、人々の喜びが広がった。
十分に祭りを堪能して法生寺へ戻る途中、風寄の祭りはとても優雅で素敵だと、千鶴は絶賛した。ほうじゃろほうじゃろと、春子は嬉しくてたまらない様子だ。
しばらく二人は祭りの話で盛り上がったが、話が一息ついたところで、あのなと千鶴は言った。
「さっき聞きそびれてしもたけんど、がんごめって何ぞな?」
「がんごめ? おら、わからん」
暗いので春子の表情はわからない。しかし、春子の声は惚けているみたいに聞こえる。さっき家に戻った時には、明らかにわかっている感じだった。
「子供らが、うちを見て言うたろ? がんごめじゃて」
「そげなこと言いよったね。ほじゃけど、おら、知らんのよ」
「ほんまに知らんの?」
「うん、知らん」
「言うたら、うちが傷つく思て、知らんふりしよんやないん?」
「違う違う。ほんまに知らんのよ」
春子の声は何だか妙に明るかった。恐らく春子はがんごめが何かを知っているはずだ。けれども喋ってくれそうにないので、千鶴は訊くのをあきらめた。
寺に戻ったあと、千鶴たちは和尚夫婦としばらく話をした。
千鶴は和尚たちにがんごめの話を訊ねてみたかった。だけど何だか訊くのが怖い気がするし、春子が気を悪くすると思えたので訊けなかった。また和尚たちとは、それほど長く喋ってはいられなかった。
翌朝には、日の出とともに神輿の宮出しが行われる。そのため未明からだんじりの屋台が再び集結するらしい。その時は、先ほどよりも多くの屋台が集まるそうだ。それを見るには、朝の暗いうちから起きる必要があり、そのため早く寝なくてはならなかった。
結局、千鶴が和尚たちと喋ったのは祭りの話だけで、がんごめの意味を確かめることはできなかった。
千鶴たちは安子が用意をしてくれた部屋で床に就いた。行灯の火を消すと、春子はさっさと眠ったようだ。すぐに寝息が聞こえてきたが、千鶴はなかなか寝つけなかった。
早く眠らねばすぐに起きる時刻になってしまう。けれど、そう思えば思うほど却って目が冴えてしまい、眠気は遠のいてしまう。千鶴は長い間、闇の中で眠るために奮闘し、何度も寝返りを打った。
頭の中では、今日のことが幾度も思い返された。
不可解な出来事や若侍の夢。目が覚めたあとも残っていた、若侍が飾ってくれた野菊の花。いったい自分に何が起こったのか。若侍にはもう一度会いたいけれど、自分をここへ運んでくれたのは、本当のところは誰なのだろう。
村人たちの態度も気になった。見下すような者もいれば、頭を下げてくれる者もいた。親しくしてくれたみたいでも、実際は蔑んでいた人たちもいたのではないか。
それでも春子の母や祖母が詫びてくれたのは、偽りのない気持ちだと思う。がんごめとからかった子供たちも、千鶴と一緒に遊んで喜んでいた。
何が本当で、何が本当でないのかがわからない。そのことが居心地を悪くさせている。
それにしても、がんごめとは何なのか。少なくともいい言葉ではないだろう。そうでなければ、子供たちがこの言葉でからかうわけがない。
とはいえ、初対面の子供たちがいきなりがんごめというのも不自然だ。恐らくこれには春子の曾祖母が関係していると思われる。きっと曾祖母ががんごめと言い、それで自分は春子の家を飛び出したのだ。
いろいろ考えていると、いつまで経っても眠れない。このままではいけないと焦った千鶴は、考えるのをやめて眠ることにした。しかし真っ暗闇なので、目を閉じても開けているのと変わらない。やっぱり、いろんなことが勝手に頭に浮かんできてしまう。
困った千鶴は若侍のことを考えることにした。これで余計なことは考えずに済むはずだ。けれど、顔がわからない者を思い浮かべるのはむずかしい。そこへ時々思い出したみたいに子供たちが現れて、がんごめと言って千鶴をからかった。
子供たちを追い払って若侍を思い浮かべ直しても、いつの間にか子供たちは戻って来て、また千鶴をからかう。そのうちに、気がつけば千鶴は一人で闇の中に立っていた。
四
そこは漆黒と呼ぶべき暗闇だった。周りに生き物の気配はない。闇は凍えるほどに冷たく、千鶴は自分の体を抱きながら震えていた。
一方、素足が触れる地面は生温かく、ぬるぬるした泥みたいだ。辺りには血の臭いと、何かが腐ったような臭いが漂っている。
この暗闇はいるだけで気分が悪くなってくる。だけど、どうやってここに来たのかはわからない。千鶴には探している者がいたのだが、その相手を探しているうちに、ここへ来てしまったのだ。
一寸先も見えない。誰かに鼻を摘まれたとしても、絶対にわからない暗さだ。恐る恐る手を伸ばしてみても、指先には何も触れない。そのままの姿勢でゆっくりと二、三歩踏み出してみたが、やはり触れる物は何もない。
足下がぬるぬるしているので、下手に動くと転ぶかも知れず、千鶴は身動きが取れなかった。仕方がないので、千鶴は鼻と口を手で押さえたまま一所にじっとしていた。
すると、少し闇に目が慣れたのだろうか。周囲が二間ほど先の辺りまで、月明かりに照らされたかのごとくに、ぼんやりと闇の中に浮かび上がってきた。
極めて狭い範囲しか見えないが、見える限りにおいて、そこには何もなかった。
色と呼べる物はどこにもない。闇とは異なる黒さの地面があるばかりだ。他に見える物といえば、自分の白い手足だけである。
再び何歩か足を踏み出してみたが、目に映る光景に変化はない。
微かに風が吹いて、後ろに束ねた髪が少し揺れた。その時、どこからか憎悪と殺気が押し寄せてきた。慌てて振り返ったが、淡い光の中に見える景色は変わらない。しかし、その向こうに広がる闇の中では、明らかに何かが蠢く気配がする。
やがて聞こえてきたのは、ずるりずるりと何かを引きずる音だ。ぴちゃりぴちゃりと泥の上を歩くみたいな音も聞こえる。
苦しみと憎しみが入り混ざった不気味な呻き声も聞こえだした。一つや二つではない。その気味悪い声や音は近くからも遠くからも聞こえ、その数もどんどん増えてくる。
突然、結界を破るように淡い光の下に何かが這い出て来た。それは片方の目玉が腐ってこぼれ出た屍だった。ざんばら髪で骨と皮だけになった屍は、動きを止めると千鶴を見上げてにたりと笑った。
――見つけた。がんごめ、見つけたぞな。
乾いた舌を動かして、屍はかさかさ声でつぶやいた。舌が動くたびに、口の中から蛆がこぼれ落ちた。
千鶴は驚きのあまり声も出ず、体が動かなくなった。けれども屍が千鶴の方へ這って来ると、喉から悲鳴が飛び出した。
呪縛が解けた千鶴は闇の中を走って逃げた。しかし、おぞましい音や声は後ろからばかりではなく、周囲の至る所から聞こえてくる。
とうとう呻き声と不気味な音に取り囲まれ、千鶴は行き場を失った。
ぴちゃりぴちゃりと前から音が近づいて来た。千鶴が後ずさりをすると、後ろから誰かに肩をつかまれた。驚いて振り返ると、裸同然の髪の長い女が焦点の合わない目でにらんでいた。その目玉の上を、やはり蛆がもそもそと動いている。
――子供を返せ! お前が喰ろうた、おらの子供を返せ!
女は干物みたいな手で、千鶴の首を絞めようとした。千鶴は女の手を払いのけて逃げ出した。だが何かに足首をつかまれ、勢いよく転んでしまった。
顔や体中にべちゃりと泥がついた。その泥は胸悪くなる血の臭いがする。泥だと思っていたのは、どうやら血糊らしい。
千鶴の足をつかんでいる骸骨の屍が、歯をカチカチ鳴らしながらケタケタ笑った。
――捕まえた。がんごめを捕まえたぞな!
先ほどの女が再び千鶴に近づいて来た。さらに周囲からも次々と屍たちが姿を見せた。
ある者はこぼれた腸を引きずり、ある者は顔が崩れ、また、ある者は片手に千切れた頭をぶら下げている。
――殺せ! 八つ裂きにせぇ!
逃げ場を失った千鶴に、屍たちは腕を伸ばし歯を剥き出した。
その時、耳をつんざく凄まじい咆哮が辺りに響き渡った。その猛り狂った何かの声は、怒りで闇をびりびりと震わせた。
屍たちは一斉に動きを止め、怯えた様子で周囲の闇を見まわした。刹那、何か大きな物がぶんと音を立てながら現れた。それは屍たちを薙ぎ払い、闇の中へ引きずり込んだ。
他の屍たちは慌てふためき、闇の中へ姿を消した。その直後、ずんという地響きと、屍たちの苦しげな呻き声が聞こえた。
近くの闇に何かがぼとぼと落ちて来る音がした。と思ったら、淡い光の中に屍の頭や手足が転がり出て来た。
千鶴は驚いて立ち上がったが、何かから逃れようとする屍が、闇から千鶴の方へ這って来た。そこへ上の闇から巨大な足が落ちて来た。
毛むくじゃらのその足は、千鶴に這い寄ろうとした屍を、ずんと踏み潰した。振動は地面を伝って千鶴の足に届き、踏み潰された屍の一部が千鶴の足にぶつかった。
千鶴は震えながら、巨大な足の上に目を遣った。毛むくじゃらの足に続く胴の部分がちらりと見えた。その上は闇の中に消えている。
その化け物が闇の中からぬっと顔を出した。千鶴を見下ろしたのは、頭に二本の角を生やし口から牙をのぞかせた、形容しがたいほど醜悪な顔だった。
五
はっとなった瞬間、鬼は姿を消していた。千鶴を取り巻いていた淡い光もなく、千鶴は真っ暗闇の中にいた。
しばらくの間、千鶴は自分がどこにいるのかわからなかった。しかし隣から聞こえる春子の寝息で、ここは法生寺なのだと知ってようやく安堵した。
闇の中で千鶴は体を起こした。胸はまだどきどきしている。
冷たく血生臭い空気や、ぬるぬるした生温かい血溜まり。亡者につかまれた感触や、八つ裂きにされそうになった恐怖。それらは目が覚めた今でも心と体に実感として残っている。夢だったとは信じられないほどだ。もし目が覚めなかったら、自分はどうなっていたのかと思うと千鶴は体が震えた。
一方で、千鶴は鬼を見た時の自分の気持ちに混乱し、うろたえていた。
千鶴は夢の中で誰かを探していた。だが、それが誰なのかはよくわかっていなかった。ところがあの恐ろしい鬼を見た時、千鶴の胸は喜びでいっぱいになった。千鶴が探し求めていたのは、あの鬼だったのだ。
いくら夢とはいえ、鬼に心惹かれるなんて信じられなかった。しかも鬼を慕う気持ちは、目覚めた今もまだ残っていた。本当に逢いたかったのはあの若侍なのに、あろうことか地獄にいる鬼を探し求め、愛しく思うなど有り得ない話である。
千鶴は鬼を慕う自分に怯えながら、ふと屍が口にした言葉を思い出した。屍は千鶴をがんごめと呼んでいたのだ。
伊予では鬼のことをがんごという。その鬼を愛おしく思った自分ががんごめなのだとすると、がんごめとは鬼の女という意味かもしれないと千鶴は思った。
もし春子の曾祖母が千鶴を見てがんごめと言ったのならば、千鶴を化け物と見なしたわけだ。それが事実なら、とんでもない侮辱である。そんなことを言われて平気でいられるはずがない。春子の家を飛び出したのも納得がいく。
だがそうであったとしても、今の千鶴はそのことに反論ができなかった。
鬼を愛しく思うなんて、がんごめと言われても仕方がない。もしかしたら本当にがんごめではないのかと、自分でも疑いたくなるほどだ。とはいっても、地獄の夢を見たのはただの偶然で、鬼を愛しく想ったことは何かの間違いだと思いたかった。
しかしあの若侍の夢と同じで、夢で見た地獄はあまりにも現実感があった。夢というより、本当にそこにいた感じだ。目覚めているのに、まだ完全には地獄から抜け切れていない気がしている。また鬼を恐れているのに心の奥で鬼を慕っているのは、まるで心の中に自分とは別の何かが入り込んだかのようだ。
名波村に着いた時、夕日を見て理由もなく悲しくなったが、今思えばあれも別の自分が泣き叫んでいたみたいだった。
あのことと今見た夢は無関係とは思えない。どちらも明らかに妙であり尋常ではない。自分の中で何か恐ろしいことが起こっているのは疑う余地がない。
ひょっとしてあの夕日を見た時に、がんごめに取り憑かれたのかと、千鶴は震えながら考えた。けれども、がんごめが取り憑く理由がわからない。特別何かをしたわけではないし、何かがあったのでもない。だけどがんごめが取り憑いたと考えるしか、鬼を慕う自分を説明できなかった。
春子の曾祖母にがんごめと罵られたのであれば、曾祖母には取り憑いたがんごめが見えたのだろう。もしがんごめが取り憑いているのなら、自分はどうなってしまうのか。がんごめになって子供を喰らうようになるのか。
震えが強くなった千鶴は、懸命に両手で体を押さえた。それでも震えは止まらない。
隣から春子の平穏な寝息が聞こえてくる。何も悩む必要がなく安眠している春子が羨ましく腹立たしい。
千鶴は知念和尚に相談しようかと考えた。でも結局はただの夢かもしれないし、こんな夢を見たことを知られたくない気持ちもあった。特に春子にはこんな話は聞かせたくなかった。
いずれにしても、知らない間に法生寺の前で倒れていたことを考えると、やはり何かが起こっていると言わざるを得ない。
和尚夫婦は千鶴や春子が気にすると思ってか、このことに深く立ち入ろうとしなかった。しかしあの時の自分に何かがあったのは確かだし、それはとても重大なことに違いない。
恐怖を感じながらもあの若侍が思い浮かぶと、千鶴はわけがわからなくなった。
若侍の夢も現実と区別がつかなかったが、決して怖いものではなく、逆に幸せいっぱいだった。どちらの夢も我が身に起こった奇妙な出来事とつながりがあると思えるが、片方の夢は恐ろしくて、もう片方は幸せというのは妙な感じだ。
それにしても、若侍が飾ってくれた野菊の花は実際に頭に飾られていたのである。ということは、夢の鬼が現実に姿を見せることも有り得るわけだ。
もし鬼が本当にいて、目の前に現れたらどうしようと千鶴は焦った。一方で、もう一人の自分が鬼のことを考えて切なくなっている。鬼が現れれば、この鬼を慕う自分はもっとはっきり表に顔を出すだろう。
そうなった時のことを想像すると、千鶴は恐ろしくなって布団の中に頭を突っ込んだ。それでも嫌な妄想は終わらない。がんごめになった自分が鬼の子供を産み増やし、夫の鬼とともに人肉を喰らっている。
嫌じゃ!――と千鶴は布団の中で叫んだ。
ロシア人だと差別をされても人間がいい。本当に慕っているのは鬼ではなくあの若侍だ。千鶴は必死に自分に訴えたが、そんなことをしたところで何も変わらない。やがてあきらめて布団から頭を出すと、もう食えん、腹いっぱい――と隣で春子が寝言を言った。
千鶴は春子がいる辺りの闇を一にらみしたが、すぐに力なくため息をついた。春子には関係がないことであり、春子に怒りをぶつけている暇があるなら、これからどうすればいいのかを考えねばならない。けれど夜明け前に神社へ行くから、少しでも眠って体を休めておく必要がある。
眠れる自信はないし、もう地獄の夢なんか見たくないが、千鶴は頭から布団をかぶって目を瞑った。怖くても、今はとにかく眠らねばならなかった。
死んだイノシシ
一
夜明けの神輿の宮出しを見たあと、千鶴たちが法生寺に戻って来ると、安子が朝飯を用意してくれていた。箱膳に並べられているのは粥と味噌汁、漬物とかぼちゃの煮物、それに温かい湯豆腐だ。
千鶴の家では朝飯といえば、麦飯と味噌汁と漬物だけだ。おかずにかぼちゃの煮物と湯豆腐が添えられているのは、驚くほど豪華な朝飯である。お寺なので普段は質素な食事のはずだが、この日は千鶴たちのためにご馳走を出してくれたのだろう。
朝飯の事情は春子も似たようなものらしく、用意された箱膳を見るなり、おごっそうじゃ!――と大きな声を上げた。
この季節、昼間はまだ温かいが、夜明け前は結構冷える。温かい食事は本当に有り難いし、それを用意してくれた者の温かさも有り難い。
千鶴たちが箱膳の前に座ると、知念和尚と安子はにこにこしながら、祭りはどうだったかと訊ねた。二人とも先に食事を済ませており、食べるのは千鶴と春子だけだ。
「やっぱし地元の祭りはええぞな。女子師範学校に入ってから、ずっと見られんかったけん、今日はまっこと感動したぞなもし」
春子は興奮しながら喋ると、その勢いのまま味噌汁を飲もうとした。しかし味噌汁が熱かったので、慌てて椀から口を離した。
春子の様子に笑った和尚と安子は、今度は千鶴に感想を訊いた。
「昨夕のだんじりもよかったですけんど、今朝のはさらに賑やかで楽しかったぞなもし」
千鶴は喋っている間、できるだけ笑顔を繕ったつもりでいた。それでも、やはり表情が硬いのは否めない。地獄の夢や、がんごめに取り憑かれたのかもしれないという不安、そこに加えてほとんど眠れなかったことが、千鶴から元気を奪っていた。
確かに今朝の宮出しでは、昨夜より多くの屋台が見られた。その光景が素晴らしかったのは事実だ。だけど、千鶴には感動している余裕はなかった。頭の中は、自分はどうなるのだろうかという怯えでいっぱいだった
千鶴の気持ちに気づいていないのか、知念和尚は千鶴の感想にうなずいて言った。
「昔は、わしらも宮出しを見に行きよった。ほんでも、やっぱし寺の仕事があるけんな。ほれで、見に行くんはやめたんよ」
「ほの頃の仕事いうたら、寝ることじゃろがね」
安子に笑われると、和尚も恥ずかしそうに笑った。千鶴たちも一緒に笑ったが、千鶴の笑いは形だけのものだった。
「松山のお祭りにはおらんけん、大魔は珍しかろ?」
口の中のかぼちゃをもごもごさせながら、春子が得意げに言った。大魔とは露払い役として神輿の先を歩く二匹の鬼のことだ。
ぎこちなくうなずいた千鶴に、春子は笑いながら言った。
「山﨑さん。大魔出て来たら顔引きつらせよったね。あれ、そがぁに怖かった?」
「ほやかて、初めて見たけん」
千鶴が小さな声で言葉を濁すと、春子は楽しげに粥を口の中に流し込んだ。
初めて大魔を見た時、千鶴はぎょっとした。まるで自分の正体を突きつけられているみたいで、その場から逃げだしたくなった。しかしそうもいかないので、必死に恐ろしさを堪えていたのだ。
粥を食べ終わった春子は、大魔の役目は誰でもできるわけではないと言った。この役目は特別な地域の者だけに与えられた栄誉なのだそうだ。
春子の話によれば、その昔、風寄がひどい大水に襲われたことがあり、その時に神社のご神体が海に流されたのだという。
夢のお告げでご神体が沈んだ場所を知った村人は、舟で海に出たもののご神体の引き揚げ作業は難航した。ところが、そこへ釣りに出ていた山の若者二人が力を貸すと、見事ご神体は引き揚げられた。大いに喜ばれた神は若者たちに神輿の露払い役を与え、それが大魔の始まりとなったということだ。
大魔が鬼の姿をしているのは、大いなる力の化身の意味だ。姿は恐ろしくても、神に従う鬼ほど心強いものはない。
「ほやけんな、大魔は地獄の鬼とは違うんよ」
春子は得意げに言った。その言葉は千鶴の胸にぐさりと刺さった。地獄の鬼は神とは真逆の存在であり、がんごめも同じだ。
ますます追い詰められた気分になった千鶴は、箸と茶碗を持ったまま目を伏せた。
「千鶴ちゃん、何や元気ないみたいなけんど、また何ぞ嫌なことがあったんやないん?」
火鉢で沸かしたお湯でお茶を淹れていた安子が、心配そうに言った。
千鶴は慌てて顔を上げると、首を横に振った。
「別に何もないですけん」
「何か怪しいねぇ。ほら、正直に言うとうみ。何でも一人で抱え込むんはようないけん」
安子には見透かされていたようだ。千鶴が下を向くと、やっぱしほうなんかと知念和尚も言った。
「何や元気ないなとは思いよったんやが、やっぱし何ぞあったんやな。安子の言うとおり、一人で悩みよっても仕方ないぞな。わしらでよかったら話聞いてあげるけん、言うとみんさいや」
春子が食べるのも忘れて顔を曇らせている。千鶴は覚悟を決めた。
「あの、もし知っておいでたら、教えてほしいんですけんど」
「知っとることなら、何でも話してあげよわい」
知念和尚は身構えたように腕を組んだ。
「がんごめて……何のことでしょうか」
がんごめが鬼でなければ安心だ。千鶴の問いかけに春子は驚いた顔を見せ、しょんぼりと下を向いた。
「がんごめ? その言葉がどがいしたんぞな?」
和尚は初めて聞いた言葉だという顔を見せた。一方、安子は少し不安げに見える。
「村上さんのお家で子供らがうちを見て、がんごめじゃて言うたんぞなもし。でも意味がわからんけん、村上さんに訊いたんですけんど、村上さんも知らんみたいなけん」
ふむと和尚はうなずきながら、横目でちらりと春子を見た。春子は目を伏せたままだ。
「子供がふざけて言うたことじゃろけん、そがいに気にせいでもええんやない?」
安子が慰めるように言った。千鶴は首を振ると、ほやない思うんですと言った。
「がんごめやなんて、子供が勝手に考えた言葉とは思えんぞなもし。子供は誰ぞの真似するもんですけん、きっと大人が使た言葉や思うんです」
「ほらまぁ、ほうかもしらんけんど……」
言葉を引っ込めた安子と、黙っている和尚を見比べて、千鶴は自分の考えを述べた。
「鬼のこと『がんご』いいますし、醜女の『め』は『女』て書きますけん、『がんごめ』いうんは……」
「鬼女やて思いんさったんか?」
安子の言葉に千鶴はこくりとうなずいた。春子はますます項垂れて泣きそうな顔になっている。
「うち、思たんです。うちが村上さんの家飛び出したんは、村上さんのひぃおばあちゃんに、がんごめて言われたんやないかて。ほうやとしたら、他の人にもうちが鬼の娘に見えるんやないかて……」
「そげなことない!」
春子が涙ぐんだ顔を上げて叫んだ。
「山﨑さん、絶対そげなことないけん! ヨネばあやん、惚けてしもとるんよ。他の者は誰っちゃそがぁなこと思とらんけん!」
やはり思ったとおり、春子の曾祖母は千鶴をがんごめ、すなわち鬼の娘と見たようだ。春子の否定の言葉は、却って千鶴を落ち込ませた。
知念和尚は微笑みながら千鶴に優しく言った。
「春ちゃんの言うとおりぞな。千鶴ちゃんみたいな別嬪さん、誰が鬼娘やなんて言うんぞ。そげな者、どこっちゃおるまい」
安子も笑顔を見せて明るく言った。
「な、わかったじゃろ? ほやけんな、もう、そげなことは気にせんの。そもそも千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるんじゃけんね」
代わる代わる慰められ、千鶴はわかりましたと言った。
「もう言いません。けんど、もう一つぎり知りたいことがあるんぞなもし」
「何ぞな。何でも言うとうみ」
知念和尚が応じたが、千鶴は春子に訊ねた。
「村上さん。ひぃおばあちゃん、なしてうち見て、鬼娘言うたんかわかる?」
「な、なしてて……」
「みんながうちのことを鬼娘じゃて思わんのなら、なしてひぃおばあちゃんぎり、うちを鬼娘言うたんじゃろか? ひぃおばあちゃんにはうちの頭に角が見えたろうか?」
「ヨネばあやん、惚けとるぎりじゃけん。そげなこと、そがぁに真面目に考えんでもええやんか」
春子は答えたくなさそうだった。ということは、春子は理由を知っているのだろう。
「和尚さんたちはわかりますか?」
千鶴は知念和尚と安子に顔を向けた。
安子が当惑顔で和尚を見ると、和尚は春子に声をかけた。
「春ちゃん、もう千鶴ちゃんに話してやっても構んかろ? 千鶴ちゃんは頭のええ子ぞな。隠したかて疑いはますます膨らもう。ほんで、いずれは春ちゃんに不信感を持つようになろ。ほんでも春ちゃんはええんか?」
春子が首を横に振ると、ほうじゃろ?――と和尚は言った。
「ほんなら、わしから千鶴ちゃんに話そわい。ええな?」
春子がうなずくと知念和尚は千鶴に向き直り、今から二月ほど前の話ぞなと言った。
「台風が来よった時があったろ? あん時にな、そこの浜辺にあったこんまい祠がめげてしもたんよ。ほれからなんじゃな、おヨネさんが妙なこと言いだしたんは」
二
法生寺の近くの浜辺には、村人たちに忘れ去られた小さな祠があった。その祠はヨネが一人で世話をしていたのだという。けれどヨネは足腰が弱ってきたので、数年前からはイネやマツが祠の世話役になった。しかし、そこにどんな神さまが祀られているのかを、ヨネは誰にも教えていなかった。
今年の八月、この時期には珍しい台風が愛媛を襲ったが、この時に風寄は激しい風雨に曝された。その翌日、イネが祠を見に行くと、祠はばらばらに壊れていた。長年の風雨でかなり傷んでいたので、壊れてもおかしくはなかったらしい。周囲の木々も折れていたので、傷んだ祠が壊れるのは当然でもあった。
ところが、その話を耳にしたヨネは狂ったように騒ぎ始めた。鬼が来て村が滅びると言うのだ。何の話かと家族が問い詰めると、ようやくヨネはあの祠は鬼から村を護る鬼よけの祠だと話した。ヨネが言うには、鬼を見たというヨネの父親が造った祠らしい。
「鬼を見た? ほんまにそのお人は鬼を見んさったんですか?」
動揺を隠せない千鶴に、知念和尚は事実かどうかはわからないとしながら、そこの浜辺で大勢の侍と鬼が戦っていたらしいと言った。
「お侍と?」
「理由はわからんが、鬼が次々に侍を殺しよったそうな。沖には見たこともない真っ黒なでっかい船が浮かんどってな、鬼はその船に向かって海に入って行ったんじゃと」
ヨネの父親は急いで他の村人を呼びに行った。しかし浜辺に戻った時には鬼の姿はなく、黒い船が沖の方へ去って行くのが見えたという。それで鬼が二度と村に戻って来ないように、浜辺に鬼よけの祠を造ったのだそうだ。
祠ができた時、これは鬼よけの祠ではあるけれど、人前では絶対に鬼の話はするなと、ヨネは父親からきつく命じられた。鬼のことを口にすればひどい目に遭わされるというのだが、それをヨネは祠の秘密が知れると鬼に狙われるのだと解釈した。それがヨネがこれまで誰にも祠のことを話さなかった理由だった。
これはかなり具体的な話だ。それにわざわざ鬼よけの祠まで造ったのだから、ヨネの父親が法螺を吹いたわけではなさそうだ。
不安が募る千鶴に知念和尚は言った。
「こげな話をしても、おヨネさんが鬼を見たわけやないけん誰も信じまい? ほしたらな、自分は子供の頃に何べんも鬼娘を見たて、おヨネさんは言うたんよ」
ヨネによれば、鬼娘はこの法生寺に棲んでいたらしいと和尚は言った。ヨネの家は法生寺の近くだったので、鬼娘を見る機会はあったようだ。ヨネが見た鬼娘は雪のように白い娘の姿をしていて、見つめられると動けなくなったという。
鬼ばかりか鬼娘も実在したという話に、千鶴はますます動揺した。しかも鬼娘はこの寺にいたというのである。それだけで信憑性は高く感じられる。
「ほんまにこのお寺に鬼娘がおったんですか?」
千鶴がうろたえを隠して訊ねると、知念和尚は困惑気味に答えた。
「村長からもそげなこと訊かれたんやがな。わしらは途中からこの寺に来たけん、そげな昔の話は何も知らんのよ」
続いて安子が説明した。
「昔、この寺で火事があってな。本堂は無事じゃったけんど、庫裏が焼けてしもて、ほん時に書き物が全部焼けてしもたんよ。ここのご住職もほん時に亡くなってしもたけん、昔のことはようわからんのよ」
それは明治が始まるより前に起こった事件で、当時の風寄の代官とその息子までもが亡くなったらしい。残された代官の妻は髪を下ろして尼となり、庫裏の焼け跡に小さな庵を建てて、夫と息子、そして亡くなった住職を弔い続けたそうだ。
ヨネの父親が鬼を見たというのもこの頃の話で、いったいここで何があったのかと、千鶴は恐怖を抑えながら和尚たちの話に聞き入った。春子も隣で真剣に聞いている。
尼が亡くなると、法生寺は遠く離れた別の寺の住職が、掛け持ちで管理をすることになった。知念和尚がこの寺へ来たのは、掛け持ちの住職二人を経たあと、明治の半ば過ぎになってようやく庫裏が再建されてからだった。
先の住職は二人ともこの土地の者ではなく、普段はほとんどこちらにいなかった。そのため庫裏が焼ける前のことは、まったくといっていいほど何も知らず、鬼や鬼娘の話が住職たちの口から出ることはなかったそうだ。
ただ、その住職たちが伝え聞いた話によれば、庫裏が焼ける少し前に、この寺に不埒な侍たちが集まって狼藉を企てていたらしい。代官はその侍たちに殺され、当時の住職も命を落としたのだという。その時の争いで庫裏は焼け、寺へ押し寄せた村人も多くが命を失った。また、同じ時に北城町辺りにあった代官屋敷も焼けたということだ。
法生寺の庫裏と代官屋敷が燃えたことは、村長の修造も知っていた。その事件に悪い侍たちが関わっていたことも、修造はわかっていた。
一方、ヨネも燃える庫裏と代官屋敷を自分の目で見ていた。その上で鬼や鬼娘の話をするので、修造はとても困惑したようだ。だが、鬼と侍たちが戦っていたということを考えれば、その侍たちというのはこの不埒者たちだったのではないかと思えてしまう。
「そがぁなわけでな。侍の話はともかく、鬼や鬼娘の話がほんまかどうかはわからんのよ。おヨネさんほど長生きしておいでる者は、この村にはおらんけんな。今となっては確かめようがないんぞな」
知念和尚が申し訳なさそうに言った。だが、これだけの事件があって、そこに鬼が関わっていたならば、何らかの話が残っていてもよさそうだ。
それについて和尚は、ほうなんやがなと言った。
「村長ですら知らんのじゃけん、期待はできまい。ほれでこの話はな、村上家とわしらぎりの話いうことになったんよ。おヨネさんが妙なこと言いだしたて、噂が広まったら村長も困るけんな」
千鶴は春子に改めて訊ねた。
「村上さんはひぃおばあちゃんの話、知っとったんじゃね?」
春子は小さくうなずき、千鶴の言葉を認めた。
「こないだのお盆に戻んて来た時、そげなことがあったて聞いたんよ。ほやけど、まさかヨネばあやんが山﨑さん見て、鬼娘言うとは思わなんだんよ」
「ほれは、ほうじゃな。そげなこと誰も思うまい」
知念和尚が春子を慰めるように言った。けれど、鬼娘を知るヨネが千鶴を見て鬼娘だと言ったのだ。和尚ははっきり言わないが、それは千鶴が鬼娘に似ていたということだ。
夕刻は家の中は薄暗いから、肌の色はよくわからないはずだ。であれば、ヨネは千鶴の顔立ちを鬼娘と見間違えたのだろう。千鶴は気持ちが沈んだ。
それでも寺に鬼娘がいたというのは、少々違和感がある。千鶴は少しでも鬼や鬼娘がいたという話の矛盾を見つけたかった。
「ほれで、鬼娘はここで何をしよったんですか?」
千鶴の問いかけに春子は黙ったままだ。代わりに知念和尚がまた口を開いた。
「おヨネさんが言うにはな、村に禍呼んで、村の者の命を奪たんじゃと」
「禍?」
「たとえば、大雨降らして大水を引き起こしたり、悪い病を流行らせたりするんよ。ほんで亡くなった人の墓をな、あとで掘り返して屍肉を喰ろうたそうな。特に子供の屍肉を好んだんじゃと」
千鶴はぞくっとした。頭には、あの恐ろしい地獄の光景が浮かんでいる。
三
――子供を返せ! お前が喰ろうた、おらの子供を返せ!
屍の女が焦点の合わない目でにらんでいる。
子供の屍肉を喰ったような気がして、千鶴は手で口を押さえた。腹の中の物が込み上げて来そうだ。必死で堪えていると、春子が心配そうに大丈夫かと声をかけた。
「人が飯食うとる時に、そげなこと言うたらいけんでしょうが」
安子が知念和尚を叱りつけると、和尚は頭を掻いて千鶴に詫びた。
「悪かったぞな。もう、この話はおしまいにしよわい」
いえと千鶴は口を押さえながら言ったが、胃がなかなか落ち着いてくれない。しばらく息を大きく吸ったり吐いたりして気持ちを鎮め、それからお茶を一口飲むと、もう大丈夫ですと千鶴は言った。本当はまだ少し気分が悪いが、話を続けねばならない。
「今の話ですけんど……、鬼娘がそげな悪さするんがわかっとるんなら、なして村の人らは黙っとったんですか? ほれに、ここにおいでたご住職も、なして鬼娘がお寺に棲むんを許しんさったんでしょうか?」
千鶴の問いかけに、今度は春子が答えた。
「鬼娘はな、人の心を操ることがでけたんじゃと。ほれで、ここのお坊さまやお代官を味方につけて、我が身を護ったんやて」
何だか話がややこしい。千鶴は話を確かめながら喋った。
「じゃったら、ここにおった悪いお侍は、ここで鬼娘と争うたんじゃろか? ほのお侍らがお代官やご住職を殺めたんなら、鬼娘の敵いうことになろ?」
確かにほうならいねぇと春子はうなずいた。
「普段はおらんのがいきなし来たんなら、鬼娘もたまげた思うで。ほれも相手は刀持ったお侍やけんな」
そう言ったあと、春子は少し考えて、ほうかと一人うなずいた。
「そげなことで鬼娘とお侍が争うことになって、そこの浜辺で鬼とお侍が戦うたんよ。ほれをおらのひぃひぃじいやんが見んさったんじゃな。うん、絶対にほうやで」
興奮気味に喋った春子は、千鶴を見ると慌てて自分の言葉を否定した。
「言うとくけんど、これはヨネばあやんの話がほんまのことと仮定しての憶測なで。ほじゃけん、山﨑さん、本気で聞いたらいけんよ」
うなずきはしたものの、春子の言うとおりかもしれないと千鶴は思った。
「結局、鬼娘はどがぁなったんぞなもし?」
千鶴が力なく訊ねると、ほんまのとこはわからんがと、知念和尚は前置きして言った。
「庫裏が焼けてからは、鬼娘はぱったり姿を消したそうな。ほじゃけん、鬼と一緒に黒い船に乗って海に逃げたんやないかと、おヨネさんの父親は思たみたいじゃな」
鬼と鬼娘の話に矛盾はない。話の辻褄は合っている。千鶴は暗い気持ちになった。
千鶴の顔色を見た安子が明るい声で言った。
「二人ともお箸が止まっとるよ。この話はおしまいにして早よ食べてしまわんと、すぐにお昼になってしまうぞな」
春子は急いで箸を動かし始めた。しかし、千鶴は箸を持つ手が震えてしまう。再び箸を止めた千鶴は、あと一つぎりと言った。少しでも鬼の話を否定する証が欲しかった。
「鬼がお侍と戦うた話がほんまなら、浜辺にその跡が残っとったんでしょうか? たとえば大けな足跡があったとか」
「足跡のことはわからんが、浜辺には侍連中の死骸が――」
知念和尚はそこで言葉を切ると、安子の顔を見た。安子は自分で考えなさいと言いたげな惚けた顔をしている。
「大丈夫ですけん。続けてつかぁさい」
千鶴が言うと、和尚はもう一度ちらりと安子を見てから続きを喋った。
「実際、浜辺に侍連中の死骸がごろごろあったらしいぞな」
「じゃあ、ほんまに鬼とお侍が?」
「ほれが前のご住職の話では、侍連中と戦うたんは代官の息子なんじゃと」
「お代官の息子? 鬼やのうて?」
うなずく和尚に、戦ったのは代官の息子だけなのかと春子が訊ねた。
ほうらしいと和尚が言うと、春子はヨネの言い分も忘れたかのように目を丸くした。
「こげな田舎におったにしては、相当な剣の腕前やったみたいぞな。浜辺の死骸は、どれも一刀のもとに斬り殺されとってな。そこに代官の息子の刀が落ちとったそうな。ほれで誰ぞが見たわけやないんやが、たぶん代官の息子がやったんじゃろいう話ぞな」
「そのお人にとっては憎き父の仇やけん、命を懸けて戦いんさったんじゃろねぇ」
安子がうなずきながら言った。
侍たちと戦ったのは鬼ではなかった。その話が真実なのかはわからないが、千鶴はそう信じたかった。
それにしても一人で大勢の侍を相手に戦うのは、勇ましいが切なくもある。千鶴は代官の息子を気の毒に思いながら、その姿を思い浮かべようとした。すると、何故かそれらしき場面がはっきりと見えた。というより、千鶴はそこにいた。
刀を抜いた一人の若い侍が、千鶴に背を向けて立っている。向こうを向いてはいるが、あの若侍だと千鶴は直感した。場所は浜辺で、千鶴は誰かと小舟に乗っていた。
刀を抜いて身構える若侍の姿は満身創痍に見えた。その向こうの松原から大勢の侍たちが刀を抜いて走って来る。千鶴は侍たちの狙いが若侍ではなく自分だと思った。若侍は千鶴を護るために、ただ一人侍たちの前に立ちはだかっていた。
「たった一人で戦うやなんて活動写真の主人公みたいぞな。そがぁながいなお人がおったやなんて信じられん」
興奮した春子の声で、千鶴は現実に引き戻された。今のはいったい何だったのか。ほんのわずかな合間のことではあったが、千鶴は本当に海辺にいた。そして、あの若侍は襲って来る侍たちから千鶴を護ろうとしていたのだ。
春子の言葉に、まったくぞなと知念和尚がうなずいた。
「恐らく父親の代官がかなりの腕前やったんじゃろなぁ。ほうでなかったら、こがぁな田舎で剣術の達人にはなれまい」
「けんど、おとっつぁんの方は悪いお侍らに殺されてしもたんでしょ?」
「たぶん不意を突かれたんやなかろか。屋敷を出たとこで殺されたそうなけん」
春子と和尚の会話は、動揺する千鶴の耳には聞こえていない。
今の白昼夢は妄想ではない。勝手に現れたのだ。本当にそこにいた感じは、若侍や鬼の夢と似ている。今とは別の自分がいて、その自分の世界を見せられたみたいだ。これはいったいどういうことだろう。
千鶴は和尚に怖々訊ねた。
「ほのお代官の息子さんのことは、何もわからんのですか?」
ほうなんよと和尚は言った。
「ずっと行方知れずでな。代官の息子がどがぁなったんかは誰にもわからなんだ。ほんでも、浜辺には刀の他にずたずたにされた血だらけの着物が残されとったそうなけん、最後には力尽きて海に流されてしもたんじゃろ」
千鶴は泣きそうになった。自分を護ろうとしてあの若侍が死んだと思えてならなかった。和尚の話と今の幻影が同じものである証拠はない。けれど、千鶴は若侍が代官の息子であるような気がしていた。
だがそうだとしたら、若侍が護っていた自分は、ヨネが見たという鬼娘だったのだろうか。前世の自分は鬼娘で、今のはその時の記憶だったのか。
思いもしなかった考えに千鶴はうろたえた。でも若侍と想い合っていた実感があまりにも強くて、その考えを否定できなかった。今のが前世の記憶であるならば、若侍や鬼の夢も実際にあったことに違いない。つまり、鬼はいたのだ。
千鶴の手が小さく震えた。これまで別の自分だと受け止めていたものは、蘇りつつある鬼娘の本性なのか。もしそうであるなら、いずれ自分は鬼娘になるのだろう。
四
「千鶴ちゃん、大丈夫?」
千鶴の暗い顔を、安子がのぞきこんだ。大丈夫ですと微笑んでみせたが、少しも大丈夫ではない。
千鶴を気にしているのか、春子が遠慮がちに言った。
「ほれにしたかて、お侍らと戦うたんが鬼にしてもお代官の息子にしても、もうちぃと見た者がおってもよさそうやのにね」
ほうなんやがなと知念和尚がうなずいて言った。
「代官屋敷が燃えたけん、みんなそっちの方に気ぃ取られよったんじゃろな。ほれに代官が殺されたんじゃけん、浜辺の様子見よる暇なんぞなかったんやなかろか」
目撃者がほとんどいないのは、知念和尚の推察どおりだろう。では浜辺で侍たちと戦ったのは鬼なのか、代官の息子なのか。きっとその両方だと千鶴は思った。
もしかしたら襲って来た侍たちは風寄に鬼がいるという噂を耳にして、鬼を退治しに来たのかもしれない。だから鬼娘の自分は狙われ、鬼に操られていた代官も和尚も殺されたのだ。あの若侍も千鶴を護ろうとして死に、そして鬼が現れた。そう考えれば全部の説明がつく。
気持ちが沈んだままの千鶴を見ながら、知念和尚は言った。
「代官は殺され、その息子も死んだと見なされたんじゃろな。ほれで代官の妻は髪を下ろして尼になり、ここで生涯、夫と息子を弔い続けたんよ」
「ここは元々お代官の家の菩提寺やったんかなもし?」
春子が訊ねると、ほうやないと知念和尚は言った。
「たぶん代官の菩提寺は松山にあろうが、代官の妻はこっちに墓を建てたんよ」
「なしてぞな?」
それは恐らく息子のためだろうと思うと和尚は言った。
「ここには代官の墓と代官の妻の墓はあるんやが、息子の墓はどこにもないんよ」
なしてないんぞな?――と千鶴は思わず声を上げた。千鶴にとっては、あの若侍の墓がないと言われたも同然だった。
知念和尚は、どうしてなのかはわからないと言った。代官の妻が暮らした庵は、この庫裏が新たに建てられる時に取り壊された。そこに記録が残っていたのかどうかは定かではないらしい。
「喧嘩両成敗ていうてな。相手がふっかけてきた争い事でも、斬り合いになってしもたら双方が咎めを食うんよ。ほれも、代官の息子が斬り殺したんは一人や二人やないけんな」
知念和尚が話すと、安子が補足して言った。
「ほんまかどうかは知らんけんど、死んだお侍の中には、外から来たお人もおったそうでな。ほれが立派なお家柄の所のお身内やったいう話もあるみたいなけん、ほれがいけんかったんかもしらんね」
「ほんなん無茶苦茶ぞな。あのお人はたった一人で、うちを――」
護ろうとしてくれたのにと言いそうになった千鶴は、慌てて口を噤んだ。
「あのお人?」
「うち?」
怪訝な顔の和尚たちに、千鶴はうろたえながら言い直した。
「すんません。あのお人やのうて、そのお人ぞなもし」
「うちを、ていうんは?」
安子が訊ねると、ほれはと千鶴は困惑した。
「あの……、お家を背負ってと言うつもりでした」
安子はうなずき、和尚もなるほどと言った。
「確かにほうよな。父親亡きあとは、息子がすべてを背負て戦うたわけよな。ほれじゃのにその息子の墓がないんは、まことに理不尽なことぞな」
「ほやけど、千鶴ちゃん。さっきのは自分が知っておいでるお人のこと、言うとるみたいじゃったね」
安子が笑うと、和尚も春子も笑った。鬼娘は自分の前世だと言えない千鶴は、下を向きながら恥じ入っていた。
「まぁ何にしてもそがぁな理由で、代官の息子にまともな墓を建てることは許されんかったんやと思わい。ほれで代官の妻は墓を建ててやれん息子のために、ここに残って夫と一緒に息子を弔うたんやなかろか」
和尚が話し終わると、ひょっとしてと春子が言った。
「そのお代官の息子も鬼娘に操られよったんかもしれんで」
すぐにはっとして千鶴を見た春子は、今のは嘘だと慌てて弁解をした。しかし、春子の言葉は千鶴には衝撃だった。
あの若侍を操って自分を命懸けで護らせたのだとすると、それは最悪だ。だけど自分とあの若侍は恋仲にあったのだ。その若侍をむざむざ死なせるはずがない。
千鶴は反論しそうになったが、できなかった。それでも胸の中は悶々としている。
動揺する千鶴を見て、この話はこれでおしまいにしましょわいと安子が言った。知念和尚もうなずくと千鶴を慰めた。
「とにかくな、事実は誰にもわからんのよ。いずれにしても祠がめげたあとも何ちゃ起こっとらんし、おヨネさんが千鶴ちゃん見て鬼娘て言うたんは、ただの勘違いぞな」
「ほじゃけんな、ヨネばあやんが言うたことは気にせんで」
春子が必死に頼むので、千鶴は黙ってうなずいた。頭の中は若侍のことを考えている。
もし鬼娘が前世の自分だとしたら、若侍はそのことを知った上で心を寄せてくれたし、命懸けで護ろうとしてくれたに違いない。
その愛しい人を鬼娘のくせに助けられなかったのかと、千鶴は鬼娘の恐怖も忘れて自分を責めた。一方で、若者を助けなかったのは春子が言ったように、若侍がただの操り人形だったからなのかとも思えてうろたえた。
五
「和尚さま」
境内に面した障子の向こうから、誰かの声が聞こえた。
知念和尚は腰を上げると、障子を開けた。
そこは縁側になっていて、外に白髪頭の男が立っていた。伝蔵という寺男だ。
伝蔵は法生寺に住み込みで働いているが、昨夜は祭りでずっと村の者たちと一緒に過ごしていた。そのため千鶴は伝蔵とは初対面だった。目が合った時に千鶴は会釈をしたが、伝蔵は千鶴を見てぎょっとした。しかし、千鶴が春子の女子師範学校の友だちだと知念和尚から説明を受けると、ぎこちなく頭を下げた。
「ほれで、どがいしたんぞな?」
用事を訊ねる知念和尚に伝蔵は言った。
「権八が和尚さまに話があると言うとるぞなもし」
権八は近くに住む百姓で、毎朝寺に野菜を届けてくれる信心深い男である。さっきまで他の者と一緒にだんじりを動かしていただろうに、手が空いた隙に野菜を持って来てくれたようだ。
知念和尚が権八を呼ぶように言うと、伝蔵は横を向いて手招きした。すると、小柄な男がひょこひょこと現れた。
「権八さん、お祭りじゃのに、お野菜届けてくんさったんじゃね。だんだんありがとうございます」
安子が和尚の傍へ行って丁寧に礼を述べた。知念和尚も感謝をしたが、権八は嬉しそうに、とんでもないと手を振った。
その時、部屋の中にいる千鶴に気がつくと、権八は驚いて固まった。それで知念和尚が再び千鶴のことを説明しようとすると、先に伝蔵が口を開いた。伝蔵は千鶴が春子の学校の友だちだと権八に教え、千鶴さんに対して失礼だと権八を叱った。
慌てて頭を深々と下げた権八は、頭を上げるとしげしげと千鶴を眺めた。
「こら、権八。ぼーっとしよらんで、和尚さまにお訊ねしたいことがあるんじゃろが」
伝蔵に言われてはっとなった権八は、ほうじゃったほうじゃったと和尚に顔を戻した。
「あんな、和尚さま。ちぃと教えていただきたいことがあるんぞなもし」
「ほぉ、どがいなことかな?」
「あんな、和尚さま。昨夜のことなけんど、辰輪村の入り口ら辺で、でっかいイノシシの死骸が見つかったんぞなもし」
春子の目がきらりと輝いた。春子はこんな話が大好きだ。
「昨夜? 昨夜いうたら、参道に屋台が集まりよった頃かな?」
知念和尚が訊ねると、権八はうなずいて言った。
「ほうですほうです。ほん頃ぞなもし」
「そげな頃に、でっかいイノシシの死骸が、辰輪村の入り口で見つかった言うんかな」
「ほうですほうです。辰輪村の連中は、道が通れんで往生した言うとりましたぞなもし」
権八の話を聞きながら、千鶴は小声で辰輪村とはどこのことかと春子に訊いた。
話に聞き入っていた春子は、山の方の村だと口早に説明した。
「道が通れんほど、でっかいイノシシなんか」
驚く和尚に、権八は両腕を目いっぱい広げて見せた。
「あんな、和尚さま。これよりもっとでかかったぞなもし」
安子も春子も驚いている。千鶴は権八の仕草を見て、狩りで仕留めたイノシシの自慢話をする祖父を思い出した。しかしそれ以外の何かが、記憶の中から這い出て来ようとしている。
「権八、お前、その目で見たんか?」
伝蔵が疑わしげに言った。権八は大きくうなずくと、確かに見たと言った。
「山陰の者が呼ばれるんを耳にしたけん、何があったんか訊いたらな、岩みたいなイノシシの死骸じゃ言うけん、見に行ったんよ」
「岩みたいて、こげな感じか?」
権八より体が大きい伝蔵が両腕を広げてみせたが、もっとよと権八は首を振った。
「真っ暗い中、行きよったら、道の上にでっかい何かがどーんとあったんよ。おら、大けな岩が転がっとんかと思いよったかい」
伝蔵は知念和尚を見た。権八の話が信じられないようだ。安子と春子も顔を見交わしている。だが千鶴は何かを思い出しそうな気がして、話に集中できずにいた。
知念和尚は驚きながらも落ち着きを見せて言った。
「そがぁにでっかいんかな。ほら、まっことがいなイノシシぞな。ほれは間違いのう山の主ぞ。ほんなんが祭りしよる所へ現れとったら大事じゃったな」
確かにと、みんながうなずき合ったあと、ほれにしてもと和尚は権八に言った。
「なしてそげな所でイノシシが死んどったんぞな? 誰ぞが鉄砲で撃ったんかな?」
「ほれがな、和尚さま。ほうやないんぞなもし」
「鉄砲やないんなら、病気かな?」
権八は首を大きく横に振った。
「あんな、和尚さま。鉄砲でも病気でもないんぞなもし」
「ほんなら何ぞな? なして死んだんぞ?」
「あんな、和尚さま。おら、ほれを和尚さまにお訊ねしたかったんぞなもし」
知念和尚は苦笑すると、権八さんやと言った。
「わしは、ほのイノシシをまだ見とらんのよ。今初めて権八さんから聞いたとこやのに、なしてわしがイノシシが死んだ理由を知っとると思うんかな?」
権八はまた首を横に振った。
「あんな、和尚さま。ほうやないんぞなもし。死んだ理由はわかっとるぞなもし」
「わかっとんなら、わしに訊くまでもないやないか」
「あんな、和尚さま。わかっとんやけんど、わからんのですわい」
「こら、権八。そげな言い方じゃったら、和尚さまがお困りになろうが」
伝蔵が叱りつけると、権八は小さくなった。
「まぁまぁ、伝蔵さん。そがぁに言わんの」
安子が面白そうに言った。
知念和尚は少し困った様子で、権八に言った。
「申し訳ないが、権八さんが何を言いたいんか、わしにはわからんぞな。権八さんがわかっとる、イノシシが死んだ理由を先に言うてくれんかな」
わかりましたぞなもしと、権八は横目で伝蔵を見ながら言った。
「そのイノシシの死骸はな、頭ぁぺしゃんと潰されとったんぞなもし」
「何やて? 頭を潰されとった?」
知念和尚の顔に一気に緊張が走った。安子の顔から笑みが消え、春子は口を開けたまま千鶴を見た。
「権八さん。ほれはまことの話かな?」
不安げな和尚に、権八は大きくうなずいた。
「おら、この目でちゃんと見たぞなもし。こんまいイノシシでも、あげに頭ぁ潰すんは並大抵のことやないぞなもし。ほやのに、あの岩みたいなでっかいイノシシの頭がな、ほんまにぺしゃんこに潰されとったんぞなもし」
「嘘じゃろ?」
疑う伝蔵に、権八は不満げな目を向けた。
「おら、嘘なんぞつかん。嘘じゃ思うんなら、辰輪村の者でも山陰の者でも訊いてみたらええ」
伝蔵が言い返せずに口籠もると、権八は和尚に言った。
「ほじゃけんな、和尚さま。イノシシが死んだんは頭ぁ潰されたけんじゃと、おらは思うんぞなもし」
「ほれは、わしもそがぁ思わい」
和尚がうなずくと、権八は続けて言った。
「ほんでな、和尚さま。おらが和尚さまにお訊ねしたいんは、何がイノシシの頭ぁ潰したんかいうことなんぞなもし」
もう一人のロシアの娘
一
権八によれば、奇妙な死に様にも拘わらず、イノシシの死骸は昨夜のうちにさばかれて、多くの者の腹を満たしたらしい。権八もそのうちの一人だ。
イノシシの死骸を見たばかりか、その肉を食べられた権八を春子は羨ましがった。せめて残った骨や毛皮を見たいと春子が言うと、山陰の者の所にあると権八は話した。それを聞くと、春子は残念そうにしながらあきらめた。
千鶴は山陰の者が何者なのかがわからない。なのにその説明をしないまま、春子はイノシシの死骸があった場所を確かめたいと言いだした。神輿は夕方神社に戻るまで、周辺の村々を練り歩く。その間、自分たちには暇があるので見に行くと言うのだ。
わざわざそんな所へ行くのはよしなさいと、和尚夫婦は口を揃えて忠告した。しかし、春子は余程イノシシに未練があるみたいで、千鶴に無理やり賛同させた。
何がイノシシの頭を潰したのかという権八の素朴な問いに、知念和尚は答えることができなかった。好い加減なことは言えないのだろうが、まともに答えるのはとても恐ろしいことだったに違いない。ただでも怖い思いをしているのに、そんな不穏な死に方をしたイノシシの死骸があった場所になど、当然ながら千鶴は行きたくなかった。
またイノシシの話を聞いてから、千鶴は何かを思い出しそうな気がしていた。だけど、それを思い出してはいけないように感じていたし、思い出すかもしれないのが怖かった。
でも、世話になっている春子がどうしても見たいと言えば断ることはできない。それで嫌だと言わずに黙っていたのを、春子は千鶴が賛同したと強引に見なしたのだ。
千鶴が拒まなかったからか、和尚たちも無理には引き留めなかった。それで千鶴は渋々ながら春子と一緒にイノシシの死に場所を見に行くことになった。
道すがら千鶴は山陰の者について訊ねてみた。するとご機嫌だったはずの春子は、むすっとした顔になって話を始めた。
山陰の者とは、文字通り山陰になった所に暮らす人たちのことで、血生臭い仕事を生業としていたらしい。そのため村人たちは山陰の者を嫌うのだが、村人たちと諍いを起こす乱暴者もいるので、余計に嫌われていると春子は言った。
喋っている時の表情から、春子が山陰の者を毛嫌いしていると千鶴は理解した。山陰の者の所にあるというイノシシの骨や毛皮を、春子が見に行かないのはそのためだろう。
けれども、春子の態度は明らかに差別だ。相手が誰であれ、差別をする親友を見るのはつらかった。またその差別の矛先が、いつ自分にも向けられるかと思うと落ち着かない。今は親友として扱ってくれているが、春子の機嫌を損ねたら、山陰の者と同じ待遇を受けるのではないかと心配になる。
そう思うのは千鶴がロシア兵の娘だからだが、実は鬼娘だとなれば、それこそただでは済まないだろう。みんなで恐れ戦いて逃げ出すか、あるいは徹底的に千鶴を排除するに決まっている。
そんなことを心配する千鶴の傍らで、春子はため息をつきながら、山陰の者への悪態をついた。その様子は千鶴をさらに不安にさせた。
千鶴たちは辰輪村へ向かう川辺の道を進んで行った。途中にやたら木の枝が落ちている所があったが、そのすぐ先に死骸があったと思われる血溜まりの跡が見つかった。そこにはイノシシの頭がめりこんだと思われる大きな窪みがあり、どす黒くなった血が固まっている。
周辺には肉片や骨片の一部が血と一緒に飛び散り、胸悪くなる血の臭いと獣の臭いが漂っている。ここでイノシシが死んだのは間違いない。道をふさぐほどの大きさだったと権八は言ったが、ここに立ってみると、どれほどイノシシが大きかったかがわかる。まさに岩のごとき大きさだ。
血糊と血の臭いは、夢で見た地獄を千鶴に思い出させた。あの生温かくぬるりとした感触が足の裏に蘇り、千鶴は小さく身震いをした。
「イノシシはこっち向いて倒れとったていうけん、この奥から来たんじゃね」
春子が鼻を押さえながら道の奥を指差した。同じく鼻を押さえながらそちらを見遣った千鶴は、何だか胸騒ぎを覚えて戸惑った。もう去ぬろうと春子に声をかけたが、辺りを調べ始めた春子が、うんというわけがない。生返事をするばかりで一向に戻るつもりはなさそうだ。仕方がないので、千鶴は辛抱して左手を流れる川を眺めた。
ことこと流れる川のせせらぎは、嫌な気持ちを洗い流してくれる。しばらくせせらぎに耳を傾けていると、千鶴は以前にもここにいたことがあるような気がした。
千鶴が川音を聞いている間、春子はイノシシの頭を潰した物の痕跡を探した。しかし、辺りには大きな岩も太い巨木も落ちておらず、春子は両手で鼻をふさぎながら、うーんと唸っている。
「何もほれらしい物はないで。山﨑さん、どがぁ思う?」
何がイノシシの頭を潰したかなど考えたくもない。早く戻りたい千鶴は、わからんと素っ気なく答えると、川の向こうへ目を遣った。すると、そこにある丘陵と手前の畑の縁に一部崩れた所があった。一昨日の大雨で崩れたのだろうか。
その時、頭上の木の枝でカラスが鳴いた。驚いた春子がカラスに怒鳴ると、カラスはばさばさと飛び去った。
千鶴は妙な気分になった。前にも今見たのと同じ場面に出くわした気がしたのだ。落ち着かない気持ちで近くの木々の枝先を見上げた千鶴は、おやと思った。
道の上には、横の山から突き出すように生えた木と、川の岸辺に生える木が、軒みたいに枝を伸ばして隧道のようになっている。それがちょうど千鶴たちがいる所から、来た道を少し戻った辺りまで、枝先の多くが折れているのだ。折れてなくなった枝もあれば、折れたままぶら下がっている枝もある。
下に目を落とすと、同じ場所の道端に先ほど見た小枝が落ちている。これはどういうことなのか。
「ちぃと奥の方も見てみよわい」
春子は血溜まりの向こうへ千鶴を誘った。でも、血だらけの道を行くなどとんでもない。自分はここにいると千鶴が言うと、春子は血を避けながら一人で奥へ向かった。
一人残った千鶴は川音が気になった。さっきのカラスも引っかかっている。
もし自分がこの場所にいたとすれば、それは昨夕しかない。ヨネに鬼娘と言われたあとだ。だが、そうだとしても今は昼間だ。夕方なら思い出せるかもしれないが、日暮れ時とは様子が違うので何もわからない。虫たちも今は比較的静かだが、だんじりを眺めた時には、多くの虫の音が聞こえていた。きっとここも夕方は賑やかだったはずだ。
千鶴は目を閉じて川音に耳を澄ませた。そして昨夜聞こえた虫の音を思い出し、それを頭の中で川音と重ねてみた。
そうしてしばらく川音を聞いていたら、次第に頭がぼーっとしてきた。何だか川のせせらぎが、どこかへ誘おうとしているようだ。そのまま川音の囁きに耳を傾け続けると、目蓋の闇はいつの間にか本物の闇になった。
二
千鶴は濃い夕闇に包まれた道に立っていた。人気はなく、川音と虫の音だけが聞こえている。春子と一緒にここへ来たことは忘れ、頭の中はヨネに鬼娘だの化け物だのと言われた悲しみでいっぱいだ。でも近くに何かが潜んでいるようで怖い気持ちでもあった。
闇に埋もれた道の先に、大きな岩のような黒い影が現れた。その影は千鶴に気づくと突進して来た。恐怖に呑み込まれた千鶴は、あの時みたいに気を失いかけた。戻っていた春子が咄嗟に支えてくれなければ、血溜まりの中に倒れているところだった。
正気に戻った千鶴はがくがく震えた。その様子に春子は大いにうろたえた。
どうしたのかと春子に訊かれたが、本当のことなど言えるわけがない。何でもないとごまかすしかなかったが、声も体も震えが止まらない。
昨夕、自分はここにいた。春子の家を飛び出してここまで来たのだ。そして、あの化け物イノシシに襲われたのである。にも拘わらず、自分は無傷のまま法生寺で和尚夫婦に見つけられ、イノシシは何かに頭を潰されて死んだ。そのことは何を意味しているのか。わかっているのは恐ろしい何かが起こったということだ。
安子が言ったように、お不動さまが護ってくれたのだとすれば、イノシシの命を奪ったりはしないはずだ。頭を潰して殺すなど、御仏のすることではない。
思い出した恐怖と新たな恐怖で、千鶴は思考も体も強張って動けない。闇から落ちて来た巨大な毛むくじゃらの足が、脳裏に浮かんでいる。
「ごめん、こがぁな所に連れて来たおらが悪かった。もうイノシシはええけん去ぬろう」
春子はうろたえながら平謝りだ。
震えながらふと視線を落とした千鶴は、血溜まりの手前にも大きな窪みがあることに気がついた。道には牛車などの轍があるが、その轍が窪みの所で潰れている。さっき通った時には気にならなかったが、今は窪みがとても大きな足跡に見える。
小枝が落ちているのは窪みの両脇だ。上を見ると、そこに伸びている枝の先がいくつも折れて、ぽっかりと空が見えている。何か巨大なものの姿がそこに見えるようだ。
恐ろしさを堪えながら横を見ると、川向こうの丘陵と畑の崩れた所が視界に入った。これも今は大きな生き物が通った跡みたいに思えてしまう。これが足跡だとすると、どこへ向かったのか。
はっとなった千鶴は愕然となった。ここへ来るのに、丘陵に沿った道を歩いて来たからわかる。丘陵の先にあるのは法生寺だ。恐怖が絶望となり、千鶴の目から涙がこぼれた。
慌てた春子は千鶴を抱えるようにして血溜まりを後にした。千鶴に自慢の村祭りを見せるつもりが、昨日から大失態の連続で、春子は気の毒なくらいおろおろしている。しかし、千鶴には春子を気遣う余裕がない。
何がイノシシの命を奪ったのか。千鶴はイノシシに襲われた記憶は取り戻したが、イノシシが殺されるところは見ていない。だけど答えは明らかだ。鬼が現れたのである。
イノシシが殺されたのは、千鶴を襲ったからだろう。つまり、鬼娘を襲ったがためにイノシシは悲惨な殺され方をしたのだ。
鬼が千鶴を法生寺まで運んだのも、そこが鬼娘の棲家だったからだ。きっと前世と同じようにやれというのだろう。その時に鬼は千鶴が鬼娘の本性を取り戻すべく、何らかの働きかけをしたに違いない。若侍のことを思い出したり、地獄の夢を見たりしたのはそのせいだ。どんな思惑かは知らないが、千鶴の記憶を奪ったのも恐らく鬼の仕業だ。
夢や幻影で千鶴は自分は鬼娘ではないかと疑った。だけど、絶対にそうだと断定はできなかった。だが襲って来たイノシシの無残な死を突きつけられては、もう否定ができない。自分は鬼娘なのだ。
思いがけず風寄へ来ることになったのは、鬼に呼び寄せられたからだ。祭りが大雨でずれたのも、千鶴を呼ぶために鬼がやったのだろう。
あまりの恐怖に鬼を慕う気持ちは隠れてしまった。黙って歩いていても、涙が勝手にあふれ出す。
泣きそうな顔で何度も詫びる春子に、もう大丈夫だからと千鶴は涙を拭いて何とか笑みを作ってみせた。それでも自分は鬼娘だったという衝撃が、ずっと胸を貫いたままだ。
春子は千鶴を元気づけるために、このあと神輿が戻るまでどうするかを懸命に喋った。しかし、その声は千鶴の耳を空しく通り抜けるばかりだった。
三
「詣てこい!」
人で埋め尽くされた境内の中、そこにいる者たちに向かって、神輿に乗った男二人が挑発するように声を上げる。それに応じて周りの男たちも、詣てこい!――と声を返す。さらに二人が叫ぶと、周りも叫び返す。
声の掛け合いを続ける男たちの周りは、野良着姿の見物人で固められている。見えるのは頭ばかりで、誰が舁夫で誰が見物人なのか、よく見なければ区別がつかない。
神輿の近くには男たちが集まり、女たちは遠慮がちにその外側から神輿を眺めている。それでも気の強そうな女たちは男に交じって人垣の中で叫んでいるし、中に入れず外から叫ぶ男たちもいる。
境内にうねりとなって広がる熱気と興奮。そこにいるすべての者がこれから行われることを、今か今かと目を輝かせて待っている。
このあと神輿は三十九段ある神社の石段の上まで運ばれ、そこから下を目がけて投げ落とされる。投げ落としは、神輿が壊れて中の御神体が出て来るまで、何度でも繰り返される。神輿は全部で四体あり、一体が壊されると次の神輿が運ばれて来る。そうして四体全部が壊されるまで投げ落としは続く。
千鶴たちは松山へ戻らねばならないので、すべての投げ落としは見られない。それでも暇が許す限り見たいと春子は言った。春子にすれば、幼い頃からお馴染みの祭りである。しかも四年ぶりの祭りだ。興奮するのが当然だ。
千鶴にしても、この祭りの醍醐味を見られるのだ。本当であれば、もっと浮かれた気分になっていただろう。だけど今は祭りどころではない。イノシシに襲われた記憶を取り戻してから、ずっと恐怖と不安が頭に張りついたままだ。
世話になった和尚夫婦に感謝を告げて別れの挨拶をした時も、春子の家に立ち寄ってイネやマツと談笑した時も、何も考えられなかった。とにかく必死に笑顔を作ったが、何を喋ったのかは覚えていない。
これから自分に起こるであろう恐ろしいことを考えると、千鶴は泣き崩れてしまいそうになった。けれど春子を心配させるわけにはいかないので、懸命に涙を堪えて平静を装っていた。
一方、春子は千鶴が動揺を隠しているのはわかっている。動揺の本当の理由は知らなくても、自分がイノシシが死んだ場所へ連れて行ったせいだと、責任を感じているに違いない。
千鶴は人垣から少し離れた所から神輿を眺めていた。春子は人垣の中に入って騒ぎたいようだが、辛抱強く千鶴に付き合っている。
「村上さん、うちのことは構んでええけん、もうちぃと傍で見ておいでや」
千鶴が声をかけても、春子は微笑み、ええんよと言った。しかし、そわそわしているところを見ると、やはり行きたいらしい。
鬼のことはともかく、千鶴は見知らぬ人ばかりの人混みが好きではない。夜であれば暗がりに紛れることができるが、明るいうちは千鶴の姿は人から丸見えだ。ロシア兵の娘がいるぞと言われるのが嫌だった。
春子は落ち着きなく神輿を見ていたが、いよいよ神輿が階段の上へ動き始めると、ついに我慢ができなくなったようだ。
「山﨑さん、やっぱし、もうちぃと前に行こや! 向こうの階段の傍へ行こ!」
春子は千鶴の手をつかむと、人垣へ突っ込んだ。千鶴は抗う間もなく人垣の中へ引っ張り込まれ、誰かにぶつかるたびに、すんませんと詫び続けた。
千鶴を初めて見た者たちは、一様にぎょっとした顔になった。中には悲鳴を上げる者までいて、千鶴は自分の顔が鬼になっているのではないかと不安になった。
春子は人をかき分けながら、どんどん奥へ進んだ。途中で千鶴の手が離れたが、春子はまったく気づかないまま行ってしまった。
一人取り残された千鶴は、周囲の人々に四方から押されて身動きが取れない。周りにいる者たちの目は、神輿ではなく千鶴に向けられている。好奇と侮蔑の目に囲まれた千鶴は、下を向くしかできなかった。
「こら、さっさと出てかんかい! 祭りが穢れようが!」
近くで怒鳴り声が聞こえた。千鶴は驚いて顔を上げたが、誰が怒鳴ったのかはわからない。みんなが千鶴をにらんでいるみたいだ。
すんませんと言ってまた下を向くと、千鶴は外へ向かおうとした。その時、再び怒鳴り声が聞こえた。
顔を上げると、少し前の方で若い男が他の男たちに人垣の外へ押し出されようとしている。自分ではなかったのかと安堵したが、千鶴は罵られている若者が気の毒で悲しくなった。若者は春子のように、ただ神輿を近くで見たかっただけなのだろう。
同じ村の者であるなら、こんなことを言われたりはしないはずだ。きっと若者は山陰の者に違いない。ちらりと見えた継ぎはぎだらけの着物が、若者の貧しさを物語っており、それも千鶴の悲しみを深くした。
しかし、そんなことを考えている暇はなかった。次こそ自分が怒鳴られる番だ。その前に外へ出なくてはならない。
人垣は鳥居の外にまであふれていた。その中を若者はどんどん押し出されて行く。
この場から逃げたい気持ちと、追い出された若者への共感から、千鶴は若者の後を追って人垣の外を目指した。人を押し分けながら、やっとの思いで鳥居の外へ出てみると、先に押し出されたはずの若者の姿はどこにも見当たらなかった。
神社はこんもりした丘の上にある。その丘に沿って南へ向かう道があるが、その道には人の姿がない。
気疲れした千鶴は南へ向かう道を少し歩いた。春子のことは気になったが、村人の集団から離れたかった。すると、不意に後ろから呼び止められた。
「千鶴さん……やったかの?」
驚いて振り返ると、春子の従兄源次がいた。後ろには連れの仲間三人が立っている。
四
「こげな所で、何しよんかい?」
源次が訝しげに言った。突然声をかけられたことで、千鶴は動揺していた。
「あ、あの……、人を探しよったもんですけん」
「人て、誰ぞな?」
「名前は知らんのですけんど、継ぎはぎの着物を着た男の人ぞなもし。どこへ行てしもたんか……」
源次と目を合わせたくないので、千鶴はさっきの若者を探すふりをして横を向いた。それでもさっきの若者が気になっていたのは事実だ。それに若者が見つかれば源次たちから離れられるという期待もあって、千鶴は本気で若者を探した。だけどやはり若者はいない。
源次たちは、千鶴が口にした男が誰なのか見当がついたらしい。あいつかとうなずきながら、互いに目を見交わした。
千鶴に顔を戻した源次はにこやかに言った。
「そいつとは知り合いなんかの?」
「ほういうわけやないですけんど、ちぃと気になったけん」
「ほうかな。ほれじゃったら、おらたち、そいつがおる所知っとるけん、連れてってあげよわい」
「いえ、そがぁなこと無理にせいでも構んですけん」
「そげに気ぃ遣わいでも構ん構ん。すぐそこじゃけん、ついて来とうみや」
源次はにこやかに先頭に立つと、千鶴がいた道をさらに先へ進んだ。しかし、千鶴はその若者をちらりと見かけただけで、顔も合わせていない。そんな相手の所へ連れて行かれても、お互いに困るだけだ。何の用かと聞かれても返事のしようがない。さっきは若者が現れてくれればと思ったが、今は困惑するばかりだ。
後ろの男たちに促されて、千鶴も仕方なく歩き始めたが、強引というか異様な雰囲気だ。
「あの、ほんまに、もう構んですけん」
「もう、そこぞな。そこをな、左に曲がった先におるけん」
もうちぃとじゃけんと、後ろの男たちも笑みを浮かべながら言った。その笑みは何だか薄気味悪かった。
道なりに左へ曲がると、神社や参道が丘の陰になって見えなくなった。人々が叫ぶ声は聞こえるが、遠くで騒いでいるみたいだ。
千鶴は辺りを見まわしたが、そこには建物もなければ人気もない。刈り取りが終わった田んぼがある他は、何もない道が丘沿いに続いているだけだ。
「あの……、あのお人はどこに――」
「千鶴さん」
立ち止まった源次は振り返ると、千鶴の言葉を遮って言った。
「昨夜は春子の家やのうて、法生寺に泊まったんやて?」
「え? は、はい」
怪訝に思いながら、千鶴はうなずいた。
「春子に言われたけん、昨夜はな、千鶴さんに会お思て、必死に酔いを覚ましよったんよ。ほれやのに、聞いたら法生寺におる言われてな。おらたち、法生寺まで押しかけよかて思いよったかい」
「ほ、ほうなんですか」
源次が何を言いたいのか、千鶴には理解ができなかった。あとの言葉が続かず黙っていると、源次は千鶴の両手首をぎゅっとつかんだ。
「千鶴さん、昨夜果たせなんだ想いを、今ここで果たさせておくんなもし」
「え? な、何のこと――」
源次はぐいっと千鶴を引き寄せると、抱きついてきた。
「ち、ちぃとやめてつかぁさい。人を呼びますよ!」
「呼んでみぃや。誰っちゃ来んで。みぃんな神社に集まっとるけんな」
源次は暴れる千鶴に口を突き出して接吻を迫った。他の三人は千鶴の周囲を取り囲みながら、異人の女子はどがぁな味じゃろかと笑い合っている。
千鶴は源次から顔を背けながら、何とか右手で源次の顔を押し戻した。
「あんた、村上さんの従兄なんじゃろ? こげなことして許されるて思とるん?」
「別に許してもらうつもりはないけん。ほれに、ロシア兵の娘を手籠めにしたとこで、誰っちゃ文句は言うまい」
源次はもう一度千鶴の両手を押さえると、勝ち誇った顔で言った。
「昨日はみんなに歓迎されたて思たろが、そげなことあるかい。どこの村にもロシア兵に殺された者や、片輪にされた者がおらい。みんな春子に合わせて歓迎するふりしよったぎりじゃい」
「そげなこと――」
「あの家に信子いう女子がおったろ? あいつの父親は村長の弟でな、おらたちは従兄妹同士よ。あいつの父親はな、ロシア兵に殺されたんじゃい。あいつがまだ三つの頃よ。その仇を取ってやるんじゃけん、信子も孝義も村長もみんな喜んでくれらい」
源次の言葉は千鶴の胸を深く抉った。鬼娘である以前に、村の者たちがロシア兵の娘なんかを、快く受け入れるはずがなかったのだ。
それでも春子の家族に敵の娘という目で見られていたとは、やはり信じられない。みんな家を飛び出した自分を心配してくれたし、春子の兄は励ましの声をかけてくれた。
「村上さんはそがぁなこと言わん! あんたは村上さんも対じゃて言うん?」
千鶴が言い返すと、源次はふんと鼻で笑った。
「あいつが生まれたんは戦争が終わってからやけんな。叔父いうても、ぴんとこんじゃろし、戦争のこともわかっとらん。ほんでも、あいつ以外はみーんなロシアは敵よ」
確かに身内をロシア兵に殺されたのなら、ロシアは憎い敵だ。千鶴の家でも伯父が戦争で死んだ。だから千鶴の祖父母は未だにロシアを憎んでいるし、ロシアの血を引く千鶴を疎んでいる。春子の家族にしてもロシアを憎む気持ちは同じだろう。歓迎してくれたように見えたのは、源次が言うとおり、春子の顔を立てただけなのかもしれない。
言葉を返せない千鶴は、源次に抗う力を失った。千鶴がおとなしくなったので、源次は得意げに仲間たちを見た。
「言うとくけんど」
千鶴は力なく源次たちに言った。もうすべてがどうでもよく思われた。どうせ自分はロシア兵の娘であり、鬼娘なのだ。
「これ以上、うちに手ぇ出したら、どがぁなっても知らんけんね」
「ほぉ、やくざの姉やんみたいなこと言うんじゃな。面白いやないか。おらたちをどがぁするんぞ? ほれ、やっとうみや」
源次が千鶴を小馬鹿にすると、仲間の男たちもへらへら笑った。
千鶴は鬼娘の気分になっていた。鬼娘がこんな人間の屑の玩具になってたまるものかと思った時、千鶴は源次の左腕に噛みついていた。
「痛っ!」
思いがけない千鶴の反撃に、源次は反射的に右手を振り上げた。だが、千鶴は避けるつもりはなかった。自分に手を出せば、この男たちは鬼の餌食にされるだろうと考えていた。そして、そうなっても構わないとさえ思っていた。
ところが、現れたのは鬼ではなかった。
五
源次が振り上げた右手は、後ろから伸びて来た別の手につかまれた。驚いた源次が振り向くと、そこに若い男が一人立っていた。
「祭りの日に女子を襲うとはの。神をも恐れぬ不届き者とは、お前らのことぞな」
それは千鶴が探していた、あの若者だった。継ぎはぎだらけの着物がその証だ。
若者は切れ長の目に、鼻筋の通ったきれいな顔立ちをしていた。着ている物は貧しくとも、若者の顔や雰囲気には気品があった。
一方の源次と仲間の男たちは、いかにも祭りが似合っている荒くれ男だ。体も若者より大きい。助けてくれるのは嬉しいが、一対一でも若者には分が悪そうだ。なのに相手は四人もいる。と思ったら、源次の仲間の一人はすでに地面に倒れ、腹を押さえながら声も出せずに苦しんでいた。他の二人はあまりの驚きに固まっている。
「おどれ!」
叫んだ源次は千鶴を離して若者につかみかかろうとしたが、若者はつかんだ源次の腕を、素早く後ろへ捻り上げた。
「痛てて!」
源次が苦痛に顔をゆがめると、我に返った仲間の二人が若者に襲いかかった。
若者はすかさず近くの男に向かって源次を蹴り飛ばすと、飛びかかって来た別の男を、見事な一本背負いで地面に叩きつけた。その勢いは凄まじく、叩きつけられた男は息ができないのか声も出せず、強張った顔のまま地面に張りついたみたいに動かない。
仲間の一人と一緒に田んぼに落ちた源次は、捻られた腕を押さえながら起き上がると、若者をにらみつけた。その後ろで遅れて立ち上がった仲間の男は、若者の一本背負いが見えたのだろう。驚き怯えた様子で喚いた。
「お、お前、そげな技、いつの間に身に着けたんじゃい!」
「生まれつきぞな」
若者は涼しい顔で答えると、田んぼに降りて源次たちの方へ近づいた。
源次は若者に殴りかかったが、若者は源次の拳を難なく受け止めると、そのまま源次の懐に入り込んだ。その一瞬で源次は足を払われ、為す術もなくひっくり返った。あまりの見事さに千鶴は思わず感嘆の声を上げた。
若者は呻く源次を軽々と担ぎ上げると、うろたえるもう一人の男に向けて投げつけた。石を投げたがごとくに飛んだ源次を、男は避けることも受け止めることもできず、一緒になって後ろへ吹っ飛んだ。見た目には力持ちに見えないが、若者は相当な怪力の持ち主のようだ。
仲間を下敷きにした源次は、動くこともできずに苦悶の声を上げている。その下で同じように仲間の男が呻いている。
若者は源次を見下ろしながら嘲るように言った。
「無様よの。己一人じゃあ何もできぬくせに、村長の甥であることを鼻にかけ、腐った仲間の頭を気取る屑め。今の貴様の惨めな姿こそが、真の己と知るがええ」
若者の物言いは、差別をされて小さくなっている者には思えない。まるで源次よりも上に立つ者の言葉みたいだ。
源次はよろめきながら立ち上がったが、その顔は屈辱にゆがんでいる。源次が立つまでの間、若者は何もせずに腕組みをしながら源次を眺めていた。それは若者の余裕を示すものであり、源次は完全に圧倒されていた。
「お前、なしてこの女子の肩を持つんぞ。こいつはロシア兵の娘ぞ」
若者を見くびっていたであろう源次は、驚きと焦りの顔で若者を詰りながら、若者の横へ回り込もうとした。
「ほれが、どがぁした?」
体の向きを変えた若者は前に歩み出た。源次は慌てて後ろへ下がりながら、空威張りの笑みを見せた。
「ははぁん、わかったわい。お前、おらたちを追わいやってから、一人でこの女子をいただこ思とんじゃろげ。違うんか?」
源次にすれば精いっぱいの反撃なのだろう。若者は源次の侮辱に応じなかったが、怒りが滲み出ていたようだ。若者が黙って足を踏み出すと、源次は笑みを消してさらに下がった。だが、そこにある稲の切り株に足を取られて尻餅をついた。
一方、源次が若者を挑発している間に、初めに倒された男が腹を押さえながらよろよろと立ち上がり、後ろから若者に飛びかかろうとした。
「危ない! 後ろ!」
千鶴が思わず叫ぶと、若者は前を向いたまま、すっと体を脇に避けた。まるで背中に目がついているみたいだ。
目標を見失った男がよたよたと前に出ると、若者は男の背中を蹴り飛ばした。男は勢いよく源次の上まで飛び、源次は男の下敷きになった。
若者は千鶴を振り返ると、礼を述べるように会釈をした。千鶴はどきりとしたが、若者はすぐに源次たちに顔を戻した。
源次は腹を立てながら仲間の男を押しのけると、何とか立ち上がったもののふらふらだ。若者を見るその顔は明らかに狼狽しているが、まだ強気を装って源次は言った。
「お前、みんなから除者にされよるんが面白ないんじゃろが。ほじゃけん、おらたちがすることに逆らいとうなるんじゃろ?」
先ほど源次の下敷きにされた男は、ほういうことかと言いながら体を起こした。男は若者の機嫌を取ろうとしているのか、にやけた顔で立ち上がりながら若者に話しかけた。
「今日からお前をおらたちの仲間にしちゃろわい。お前かて、ほんまはその女子が欲しいんじゃろが? 格好つけたりせんで、おらたちと一緒に楽しもや」
な?――と男が媚びるような笑みを見せると、若者の顔は怒りにゆがんだ。
「この下司どもが!」
若者は吐き捨てるように言うと、にやけた男を捕まえてその股間を蹴り上げた。一瞬宙に浮いた男はそのまま地面に倒れ、股を押さえながら悶え苦しんだ。
「ほれで二度と女子を抱くことは敵うまい」
若者が倒れた男を冷たく一瞥すると、蹴り飛ばされた男が起き上がって、若者に飛びかかった。しかし、この男も一本背負いで地面に叩きつけられ動かなくなった。
「次は貴様の番ぞ」
若者が源次に向き直ると、源次はびくりとなった。源次の方が体が大きいのに、怯える源次は若者よりも小さく見えた。しかし逃げられないと観念したのか、源次はいきなり若者につかみかかった。
若者は源次と両手を組み合った。千鶴からは二人が力比べをしているみたいに見えたが、どちらが強いのかは一目瞭然だ。
源次は必死の形相だが、若者の表情は変わらない。源次の両手は甲の側に折り曲げられ、両膝を突いた源次は悲鳴を上げた。源次の両手首は折れる寸前だった。
「いけん!」
千鶴が叫ぶと、若者は千鶴を見た。
「ほれ以上はいけんぞな」
千鶴はもう一度叫んだ。
「助かったな」
若者は少し不満げに源次に言うと、源次を後ろへ蹴り倒した。
源次は握った形の両手を合わせ、地面に倒れたまま苦しそうに唸った。折れるのは免れたが、両方の手首と指はかなり痛めたと思われる。
源次は両手をかばいながら立ち上がると、まだ虚勢を張って若者に悪態をついた。
「お、おどれ、おらたちにこげな真似しよってからに。あとでどがぁなるか覚えとけよ」
「お前らの方こそ気ぃつけぇよ。今日はこのお人に免じて、こんで勘弁してやるがな、今度このお人に手ぇ出したら、ほん時は手首やのうて、その首へし折るけんな」
若者は気負うことなく静かに言った。だがその分、凄みがあった。脅しではなく、本気で言っているみたいに聞こえる。
源次は恐れをなしたのか何も言い返さず、倒れている仲間に何度も声をかけたり蹴飛ばしたりして無理やり立ち上がらせた。それから千鶴と若者をにらみつけると、よろめく仲間たちを急き立てながら逃げて行った。
六
源次たちが姿を消した曲がり道の向こうからは、相変わらず神輿を壊す騒ぎ声が聞こえてくる。
源次たちを見送った若者が千鶴に向き直ると、千鶴は深々と頭を下げた。
「このたびは危ないとこを助けていただき、まことにありがとうございました」
やめてつかぁさいと若者は人懐こそうな笑顔になった。先ほどの鬼神のごとき人物と同じ人間とは思えない。
「大したことしとらんのに、そがぁに頭下げられたらこそばゆいわい。ほれに女子の前であげな荒っぽいとこ見せて、却って怖がらせてしもたわいな。堪忍してつかぁさいや」
頭を掻く若者に、千鶴は遠慮がちに言った。
「あの、さっき境内から追わい出されましたよね?」
ありゃと若者は恥ずかしそうに頭の後ろに手を当てた。
「見られてしもたんか。こりゃ、しもうた」
「うち、あなたを探しよったんぞなもし。けんど、どこ行てしもたんかわからんで……。ほしたらあの人らに、あなたの所に連れてったるて言われて……」
千鶴の話に若者は驚いたみたいだった。
「ほうじゃったんか。ほんでも、なしておらを?」
千鶴は言うべきかどうか迷った。だけど若者が返事を待っているので、意を決して言うことにした。
「初めてお会いした人にこげなこと言うんは失礼なけんど、あなたがみんなから除者にされよるん見て、他人事には思えなんだんぞなもし。うち、日露戦争ん時のロシア兵の娘じゃけん、似ぃたようなことがしょっちゅうあるんぞな」
ほうなんかと若者は暗い顔を見せたが、すぐに明るく微笑んだ。
「ほんでも大丈夫ぞな。千鶴さんにも、いつか必ず幸せが訪れるけん」
若者の言葉に、千鶴は目を瞬かせた。
「あの、なしてうちの名前を知っておいでるんぞな?」
「え? いや、ほれはじゃな、あの……」
慌てる若者を見て、千鶴はしょんぼりした。
「ロシア兵の娘が来とるて、村中で噂になっとるんじゃね」
「いや、ほやないほやない」
若者は焦った様子で、胸の前で手を振った。
「じゃったら、なして知っておいでるん?」
「あのな、おら、千鶴さんと対の娘を知っとるんよ」
「うちと対?」
「ほうなんよ。その娘は千鶴さんにそっくりなけんど、その娘の名前がな、千に鶴て書いて、千鶴ていうんよ」
千鶴は目を丸くした。
「ほれ、うちと対じゃ」
「ほんでな、父親がロシア人で、母親が日本人なんよ」
千鶴は丸くした目を、さらに大きく見開いた。
「ほんまですか?」
「ほんまほんま。その娘はな、顔も姿も千鶴さんと真っ対じゃったけん、ほんで、つい千鶴さんて呼んでしもたんよ。ほやけど、ほうなんか。名前まで同しじゃったかい。こら、まっこと驚きぞな」
千鶴は驚き興奮した。
ロシア人の娘なんて自分だけだと思っていたのに、他にもいたのだ。しかもその娘は千鶴と名前が同じで、顔も姿もそっくりだという。
「その娘さんは、今どこにおいでるんぞな?」
「昔、ここにおったんよ。けんど、今は――」
若者は唇を噛んで千鶴をじっと見つめたが、ふっと目を逸らして言った。
「生き別れになっとったおとっつぁんがな、船に乗って迎えにおいでたんよ」
「ほんじゃあ、ロシアへ去んでしもたんですか?」
若者は黙ったまま返事をしない。けれど、それが答えなのだろう。悲しげな目がそう告げている。
「その娘さんとは親しかったんですね?」
「おらたち、夫婦約束しよったんよ」
若者は横を向いたままぽつりと言った。千鶴は胸が疼いたが、平気な顔を装って訊ねた。
「ほれじゃのに、その娘さん、ロシアへ去んでしもたんですか?」
「いろいろあってな。おら、その娘を嫁にすることができんなったんよ。そこへおとっつぁんが迎えにおいでてくれたけん」
「ほれで、その娘さんをロシアへ行かせてしもたんですか」
若者は押し黙ったまま海の方を向いた。これ以上は訊いてほしくないのだろうが、千鶴は自分を抑えることができなかった。
「その娘さん、ロシアへなんぞ行きとなかったろうに」
千鶴にはその娘の気持ちがわかる気がした。差別と偏見の中にいて、心から自分を受け入れてくれた人がいたならば、絶対にその人から離れたいとは思わない。
「ずっとずーっと、あなたと一緒におりたかったはずやし」
つい若者を責める口調を、千鶴は止めることができなかった。しかし若者は腹を立てたりせず、海の方を見つめたまま小さな声で言った。
「できることなら、おらもずっとその娘と一緒におりたかった」
「じゃったら、なして?」
「仕方なかったんよ」
若者は項垂れながら言った。
「おらはな、どがぁに望んでも、その娘と一緒にはなれんなってしもたんよ」
「ほんなん、その娘さんが納得するとは思えんぞな」
執拗に咎める千鶴に顔を向けた若者は、寂しげに微笑んだ。
「もう、済んでしもたことぞな」
「言うてつかぁさい。なして、あきらめんさったん?」
若者は千鶴にとって初対面の赤の他人だ。しかも危ないところを助けてくれた恩人であり、誰にも喋らないような話を打ち明けてくれている。なのに、千鶴は興奮が収まらなかった。
自分の態度が失礼なのはわかっていた。いつもの千鶴なら決してこんな言動は見せたりしない。けれど、自分が鬼娘であると悟った今、千鶴は若者が幸せをあきらめてしまうことが許せなかった。自分を助けてくれた素敵な人だからこそ、許せなかったのだ。
また若者を心から好いていたであろう、その娘にも幸せになってほしかった。自分とそっくりだというその娘には、自分の代わりに幸せをつかんでもらいたかった。
それでも千鶴が責めたところで、どうにかなるものではない。若者が言うとおり、もう終わったことなのだ。若者だってつらいし悲しいはずである。それを責めるのは、古い傷口を広げて塩をすり込むのと同じだ。
本当なら怒ってもいいのに、若者は黙ったまま千鶴に言いたいように言わせている。そのことが余計に悲しくて、千鶴は泣きだした。
「ごめんなさい……。うち……、助けてもろたお人に、こげなひどいことぎり言うてしもて……、どうか堪忍してつかぁさい」
「ええんよ。千鶴さんは、おらのこと心配してくれたぎりぞな。おら、ちゃんとわかっとるよ」
若者の優しい慰めは、千鶴をさらに泣かせた。止まらぬ千鶴の涙に若者はうろたえた。
「千鶴さん、勘弁してつかぁさい。おら、千鶴さん、泣かそ思て喋ったわけやないんよ。お願いやけん、どうか、泣きやんでおくんなもし」
おろおろする若者に、千鶴はしゃくり上げながら言った。
「うちね……、幸せになんぞなれんのよ……。やけん、あなたにも、あなたが好いた娘さんにも……、幸せになってほしかった……」
「何を――」
「うちね……、誰のことも好いてはいけんの……。誰から好かれてもいけんのよ……」
「なしてぞな? なして千鶴さんが誰かを好いたり、好かれたりしたらいけんのぞ? どこっちゃそげな法はなかろに」
「ほやかて、うち……、うち……」
鬼娘なんですと言いそうになった。でも言えなかった。他の者に喋っても、この若者にだけは自分の正体を知られたくなかった。
「なして千鶴さんがそげなことを言いんさるんか、おらにはわからんけんど、大丈夫ぞな。千鶴さんが誰を好こうが、誰に好かれようが、神さまも仏さまも文句なんぞ言わんけん」
若者は千鶴の両手を握ると、にっこり笑った。
「あのな、教えてあげよわい。千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人とめぐり逢うて幸せになるんよ。絶対にそがぁなるけん。おらが請け合おわい」
「なして、そげなことが言えるんぞなもし?」
千鶴は下を向きながら言った。下を向いていたのは、若者の顔がまともに見られないからだ。しかし、他にも理由があった。
千鶴の目は自分の手を優しく握る若者の手に釘づけになっていた。こんな風に男の人に手を握ってもらうなど、生まれて初めてのことだ。
それに初めて会った人なのに、その手から伝わる温もりは、何だか懐かしい感じがする。ただ体温が伝わっているのではない。若者の心の温もりが包んでくれているようだ。
もし自分が鬼娘でなかったならば、きっとこの人を好いていたに違いない。いや、すでに好いているのかもしれない。だが、それは許されないことだった。
悔しい想いを噛みしめる千鶴に、若者は明るく言った。
「おら、お不動さまにお願いしたんよ」
千鶴は思わず涙に濡れた顔を上げた。
「お不動さま?」
「ほうよほうよ、お不動さまよ。千鶴さんもお不動さまは知っておいでよう? おらな、お不動さまにお願いしたんよ。千鶴さんが幸せになれますようにて。ほじゃけん、千鶴さん、絶対に幸せになれるぞな」
「うちの幸せを? あなたがお不動さまに? なして?」
若者の顔に、はっと困惑のいろが浮かんだ。また余計なことを喋ってしまったと思ったようだ。
「いや、あの、ほじゃけんな、えっと……」
「あなた、ひょっとして――」
その時、千鶴を探す春子の声が聞こえた。
千鶴がこっちと叫ぶと、曲がり道の向こうから肩で息をした春子が現れた。
「山﨑さん! こがぁな所におったん? ずっと探しよったんで。急がんと松山に戻れんなるけん、早よ行こ!」
言われて初めて、千鶴は日が沈みかけていることに気がついた。確かに急がなければ、今日中に松山へ戻れなくなってしまう。
「ごめんなさい。うち――」
千鶴は若者を振り返った。
だが、そこにはもう若者の姿はなかった。慌てて辺りを見まわしたが、どこにも若者はいなかった。
山陰の車夫
一
結局、千鶴たちは松山へ戻る客馬車には乗れなかった。
客馬車乗り場へ行った時に、二人は初めて客馬車の御者が言っていたことを思い出した。祭りの間は御者も祭りに出ていて、客馬車は動かないのだ。
春子の家族も和尚夫婦も千鶴たちにこの話をしてくれなかった。そのことに春子は愚痴をこぼしたが、祭りの日に客馬車が走るかどうかなど、誰も考えたことがなかっただろう。
文句を言ったところで仕方がないが、どうしても今日中に戻らなければ、先生との約束を破ることになる。春子は大いに焦っていた。その傍らで、千鶴はもう一晩法生寺に泊めてもらってもいいと考えていた。
千鶴は自分を助けてくれたあの若者に、もう一度逢いたかった。逢ってゆっくり話がしたかった。そのためには、あとで家族や学校から大目玉を喰らう覚悟はできていた。
あの若者は千鶴の幸せを願って、お不動さまに願掛けをしたと言った。けれども初めて出逢ったのに、千鶴のために願掛けをしたというのは矛盾している。あの若者は千鶴のことを知っていたのだ。
名波村に来たばかりの千鶴を、若者が知る機会は限られている。だが、千鶴は助けてもらう以前に若者に出逢った覚えがない。あるとすれば、鬼に法生寺へ運ばれて知念和尚たちに見つけられるまでの間だけだ。であれば花を飾ってくれたのは、きっとあの若者だろう。不動明王と同じく鬼が花を飾るというのは妙だが、あの若者なら納得だ。
若者には夫婦約束を交わした娘がいた。その娘にそっくりな千鶴が倒れているのを見つけたならば、絶対に驚いたはずだ。夕暮れ時の薄暗さの中では、尚更見間違えやすかったと思われる。しかし、若者はすぐに他人の空似だと気づいただろう。ロシアへ去った娘がいるわけがないからだ。
それでも若者が不動明王に千鶴の幸せを願ってくれたのは、ロシア人の風貌をした千鶴の境遇を思いやってくれたのだ。本堂の扉が開いたままになっていたのは、若者が不動明王に祈ったからだろう。
若者の願いには、ロシアへ去った娘への想いも込められていたのかもしれない。若者は千鶴に野菊の花を飾りながら、二度と会えない娘の姿を見ていたに違いない。その時の若者の気持ちを考えると、千鶴は涙が出てしまう。
若者ともう一度逢ったところで、してあげられることは何もない。けれど千鶴はあの若者に逢いたかった。せめて名前を聞かせてほしかった。もし、もう一泊できたなら、明日は必ずあの若者に逢いに行こうと腹に決めていた。
一方、春子は松山へ戻るのをあきらめなかった。少し離れた所にある乗合自動車の乗り場へ向かうと、松山へ行く自動車があるかを確かめた。
乗合自動車は今治と松山の間を行き来しているので、客馬車と違って運行はしていた。ところが最終便はさっき通過したばかりらしい。千鶴は心の内で喜んだが、春子は動揺を隠せない。
「どがぁしよう。戻れなんだら退学やし」
春子が落胆の顔を向けたが、まさか退学にはなるまいと、千鶴は高を括っていた。だけど、そう断言できるだけの自信はない。泣きそうな顔の春子を見ているうちに、千鶴もだんだん不安になってきた。
寮の規則が厳しいことは、千鶴も身を以て知っている。よく考えれば退学は有り得る話で、春子が退学になれば、春子に同伴していた千鶴も同罪で退学になるだろう。
尋常小学校でさえ行かせてもらえない者がいる世の中だ。女が高等小学校を卒業させてもらうだけでも凄いことである。それを女子師範学校にまで行かせてもらえたのは、相当恵まれていると言っていい。
祖父母は千鶴に冷たい態度を見せるが、学校に関していえば、よくしてもらっている。祖父母なりの思惑があるのだろうが、千鶴にとっては有り難いことだった。
しかも今回は店が大変な状況にある中で、突然の名波村行きをすんなり認めてもらった上に、小遣いまでもらったのである。なのに、こんなことで退学になったら祖父の面目は丸潰れだ。やっぱり異人の娘はこんなものかと世間の目は見るだろうし、山﨑機織にとっても恥になる。今更ながら、どうしようと千鶴はうろたえた。
とうとう春子がめそめそと泣きだすと、釣られて千鶴まで泣きそうになった。
二
「もうし、ひょっとして姉やんらは松山にでもお行きんさるおつもりかな?」
後ろから誰かが声をかけてきた。千鶴たちが振り返ると、そこに菅笠をかぶった法被と股引姿の男が立っていた。
春子はぎょっとして身を引いた。ところが男の後ろに二人掛けの人力車があるのに気がつくと、すぐに笑みを浮かべて涙を拭いた。どうやら男は車夫らしい。
「その俥ぁでおらたちを松山まで運んでもらえるん?」
春子は期待を込めて訊ねた。俥というのは、この辺りでの人力車の呼び方だ。
「お望みとあらば、松山でも今治でも、おらがお運びしましょうわい」
軽妙な男の話しぶりに、春子は嬉しそうに千鶴を見た。だが、千鶴は芝居がかった喋り方をする男を怪しんだ。
祭りでみんなが出払っている中、一人だけ人力車を出すのは妙である。男が菅笠を深くかぶったまま顔を見せないのも何だか疑わしい。
源次たちに襲われたことで、千鶴は近づいて来る男に慎重になっていた。春子がいそいそと人力車に乗り込もうとすると、ちぃと待ちや――と千鶴は言った。
「村上さん、こっから松山まで力車で戻んたら、銭をようけ取られるぞな。うち、そげな大金は持っとらんよ」
力車に乗っておきながら、銭が払えないなら体で払ってもらおうと、源次みたいな男なら言うだろう。しかも人が来ない場所へ連れ込まれてから脅されるのだ。
人力車に手をかけていた春子は、千鶴の言葉にはっとした様子だった。春子にしても、乗合自動車に乗るぐらいの銭は持っていても、人力車に乗るほどの銭までは持たせてもらっていないはずだ。
「けんど、今日中に戻れなんだら退学で」
「ほら、ほうやけんど、銭がないのに乗ったら――」
途中で何をされるかわからないと、千鶴は言いたかった。けれど車夫本人を前にして、そんなことは言えなかった。すると、男は気さくな感じで話しかけてきた。
「姉やんらはどこぞの学生さんかなもし」
春子が三津ヶ浜にある女子師範学校だと言うと、男は顔を見せないまま、ほぉと大きくうなずいた。
「二人とも女子じゃというのに、まっこと大したもんぞな」
「ほやけど、このまま松山に戻れんかったら、おらたち退学になってしまうんよ」
春子がしょんぼり話すと、男は大丈夫だと言った。
「銭じゃったら心配せいでも構ん構ん。姉やんは名波村の村長さん所のお嬢じゃろ?」
「え? おらのこと知っておいでるん?」
春子は目をぱちくりさせた。
「ほら、誰かてわからい。名波村、いや風寄で女子師範学校へ入れた女子いうたら、姉やんを置いてはおるまい」
「え? おら、そがぁに有名なん? いや、困った。山﨑さん、どがぁしよう?」
すっかり気をよくした春子は照れ笑いをした。しかし、千鶴はまだ警戒を解いていない。口のうまい男など信用できなかった。
男は用心する千鶴を気にすることなく喋った。
「ほじゃけんな、お代の方はあとから村長さんにもらうけん、姉やんらは何も気にせいで構んぞなもし」
男の優しい言葉を信用して、春子は人力車に乗り込んだ。それから千鶴にも手招きをして、早よ乗りやと促した。
「兄やんは、なしてお祭りに行かんの?」
人力車に乗り込まないまま、千鶴は男に訊ねた。
男は少しうつむき加減で千鶴の方を向いた。やはり顔は隠したままだ。
「おらな、祭りより銭がええんよ」
ぽそっと喋った男の口調からは、先ほどまでの軽い感じが消えていた。本気で銭を欲しがっているようにも聞こえないし、この声には聞き覚えがある。
「あなたは――」
男は黙って千鶴の手を取ると、春子の隣に座らせた。男に手を握られている間、千鶴は菅笠に顔を隠した男をぼーっと見ていた。
手に伝わって来る男の手の温もり。千鶴は胸が詰まって涙が出そうになった。
三
「ほんじゃ、動かすぞな。後ろに傾くけん、気ぃつけておくんなもし」
男が千鶴たちの前に着いて、人力車の持ち手を持ち上げると、座席が後ろへ傾いた。きゃあと叫び声を上げた春子はとても楽しそうだ。
千鶴はもちろんだが、春子も人力車は初めてらしい。松山へ戻れるという安心と、ただで人力車に乗られた嬉しさでいっぱいの様子だ。しかも座席には座布団が敷かれていて、客馬車よりも乗り心地がいい。千鶴に二度までも嫌な想いをさせた上に、人垣の中に置き去りにしたことなど忘れたみたいに、春子は大はしゃぎで男に声をかけた。
「兄やん、松山まで俥ぁ引いたことあるん?」
「いんや、これが初めてぞなもし。ほじゃけん、道に迷わなんだらええんじゃけんど」
「大丈夫ぞな。堀江の辺りまでは一本道じゃし、そのあとは、おらが教えるけん」
「ほうかな。ほれは心強いぞなもし。さすが師範になる女子ぞな」
「もう恥ずかしいけん、あんまし言わんでや。師範になるんは、この子も対じゃけん」
春子が千鶴のことを言うと、男は千鶴に話しかけた。
「そちらの姉やんは、どがぁな師範になるんかなもし」
男の後ろ姿をぼんやり眺めていた千鶴は、話しかけられたのに気がつかなかった。春子は肘で千鶴を突くと、ほらと言った。
「え? 何?」
「何ぼーっとしよるんね。兄やんが聞いておいでるよ」
「え? な、何を?」
「山﨑さんはどがぁな師範になるんかて」
千鶴はうろたえながら、優しい師範になりたいと言った。
「うちが知っとる先生は、みんな厳しいお人ぎりじゃったけん、うちはどがぁな子に対しても、優しい先生になりたいて思いよります」
へぇと男は感心した声を出した。
「ほら立派なもんぞな。姉やんじゃったら、きっと願たとおりの師範になれらい。ところで、風寄のお嬢はどげな師範になるんかな」
「おら? おらはほうじゃなぁ。みんなに尊敬される師範になりたいな」
「尊敬される師範かな。さすが村長さん自慢の娘じゃな。言うことが違わい。恐らく行く末は校長先生じゃな」
「校長先生? おらが?」
もう、やめてや――と言いながら、春子は嬉しさを隠せない。
「山﨑さん、おらが校長先生になったら、どげな学校になろうか」
「たぶん、おやつの時間をこさえて、毎日おはぎやお饅頭を食べるんやない?」
「まっこと、ほうよほうよ。そげな学校にならい」
大笑いする春子を笑わせておきながら、千鶴は男に訊ねた。
「あの、いつもこのお仕事をされておいでるんですか?」
「おらのことかな?」
はいと千鶴が言うと、いつもというわけではないと男は答えた。
「乗ってくれるお客がおらんと、でけんぞな」
「そげな時は、何をしておいでるんですか?」
「そげな時は……、ほうじゃな。何をしとろうか」
男の答え方に、春子はまた笑った。
「兄やんて面白いお人じゃね。兄やんは俥ぁはいつから引いておいでるん?」
「ほうよな。今日からぞなもし」
え?――と千鶴たちは顔を見交わしたが、春子はすぐに笑って言った。
「もう、よもだぎり言うてからに。おらたち二人も乗せて、こがぁにうまいこと走るんじゃけん、今日が初めてなわけなかろ」
「ほら、大切な姉やんらを乗せとんじゃけん、気ぃつけて走りよるぎりぞな」
「ほやけど、二人も乗せとるんよ? 素人には無理じゃろに」
「おら、何も他人様に自慢でけるものはないけんど、ほんでも力ぎりは人一倍強いけん」
やはりこの人はあの人だと千鶴は思った。どこで知ったのかはわからないが、松山へ戻れず困る自分たちを、あの若者はわざわざ助けに来てくれたのだ。けれども、どうしてそこまでしてくれるのか。たぶん別れた娘にしてやれなかったことの代わりに、親切にしてくれているのだろう。
若者の目に映っているのが自分でないのが、千鶴は少し寂しかった。しかし、自分のために戦ってくれる者などどこにもいない。花を飾ってくれたのだってそうだし、誰が人力車で風寄から松山まで運んでくれるというのか。
この若者はまるで夢から抜け出た若侍だ。きっと若者が花を飾ってくれたのを無意識に感じ取って、あの若侍の夢を見たのに違いない。
千鶴は若侍に似たこの若者に心が惹かれた。若者の心が他へ向いていようと、自分が鬼娘であろうと、そんなことは関係なかった。
若者は手を伸ばせば届く所にいるのに手が伸ばせない。あんなに逢いたいと願っていた若者が、目の前にいるというのに何も話せない。
自分をもどかしく思うばかりの千鶴は、何も知らずに楽しげに若者と喋る春子が恨めしかった。だけど、いくら不満を抱いたところで、若者と話ができるわけではない。いろいろ考えた末に、千鶴は若者に訊ねた。
「あの、あなたは松山へ出ておいでるおつもりは、おありなんかなもし」
もし若者が松山で働く気があるのなら、これからも逢える機会があるだろう。そんな期待を込めての問いかけだった。
「今から姉やんらをお連れするつもりじゃけんど」
ふざけているのか、真面目に答えているのかはわからない。若者の返事に、春子はくすくす笑った。
千鶴は気を取り直して、今度ははっきりと訊ねた。
「ほやのうて、松山で働くおつもりはおありかなもし?」
「おら、風寄から外には出たことがないんよ。ほじゃけん、松山がどがぁな所か興味はあるけんど、誰っちゃ知っとるお人もおらんけん」
だから松山で働くことはない、というのが返事なのだ。千鶴ががっかりすると、すかさず春子が訊ねた。
「兄やんはどこにお住まい? おらのことを知っておいでるいうことは、名波村のお人なん?」
いんやと若者は言った。
「おらん家は名波村やないんよ。まあ、傍いうたら傍なけんど」
山陰が名波村に含まれているのかは、千鶴にはわからない。もし含まれていたとしても、あんな仕打ちを受けるのであれば、同じ村の者とはいえないだろう。
「傍いうたら、どこじゃろか?」
春子は名波村の近隣の村の名を片っ端から挙げたが、どれも若者の村ではなかった。それでも春子が山陰という言葉を出すことはなかった。
「ところで兄やんは、お名前は何ていうんぞな?」
若者の家を当てるのはあきらめたのか、春子は話題を変えた。
「おらの名かな。おらは、ふうたていうんよ」
「ふうた?」
「風が太いと書いて、風太ぞな」
違うなと千鶴は思った。若者の喋り方が適当に聞こえる。だけど、春子は若者の返事を素直に受け止めていた。
「ふうん。風太さんか。じゃあ、上の名前は何ていうんぞな?」
「何じゃったかの。忘れてしもた」
「忘れた? 自分の苗字を忘れるん?」
「ほうなんよ」
下手に苗字をいうと、どこに住んでいるかが知れてしまう。逆にまったく嘘の苗字をいうと、すぐに出鱈目だとばれるだろう。だから若者は苗字を忘れたと言ったのだ。
素直な春子は笑うと、わけありってことじゃねと言った。
「ほういうことぞな。おらが怪しい思うんなら、ここで降りてもろても構んぞなもし」
「とんでもないぞな。わけありなんは仕方ないことじゃけん。ほれより、兄やんは信頼できるお人じゃけん、おら、途中で降ろせやなんて言わんよなもし。降りろ言われたら、こっちが困るし」
「ほら、だんだんありがとさんでございますぞなもし」
名前の話が終わっても春子のお喋りは止まらない。千鶴は悶々としながら、時折若者が話を振ってくれるのを待つだけだ。そうしながら人力車はいくつかの町を通り抜け、がらがらと海沿いの道を走り続けた。もっとゆっくり行くものだと千鶴は思っていたが、二人のために急いでくれているようだ。
太陽は水平線に浮かぶ島々の向こうへ沈みそうだ。松山に着く頃には完全に沈んでいるだろう。
昨日、客馬車の中で夕日を見た時に、千鶴は深い悲しみに襲われた。あの時は何が悲しいのかがわからなかったが、今では自分を護ろうとしてくれた若侍の死を悲しんでいたのではないかと思っている。だけど、今は夕日を見ても悲しくならない。きっとこの若者がいるからだ。若者の存在は千鶴にとって慰めでもあった。
しかし、若者とは松山でお別れである。そんなのは絶対に嫌だ。何とかまたこの若者と逢いたいし、二人だけで話がしたい。けれど、いい方法が思いつかない。
松山が近づいて来るにつれ、千鶴は焦りが募った。
四
「風太さん、辰輪村の入り口で大けなイノシシが死んどった話、知っておいでる?」
突然、春子が若者に訊ねた。
千鶴はどきりとした。イノシシの話は鬼につながる。そんな話はしてほしくなかった。
それにイノシシの死骸があった場所を見に行って、千鶴が具合悪くなったのを春子は知っている。それなのに興味を抑えられない春子に千鶴は呆れもした。
「そげなことがあったんかな。今、初めて聞いたぞな」
驚いたように答える若者に、春子はがっかりを隠せない。
「何じゃ、知らんの。何ぞ知っておいでるんやないかて思いよったのに」
「ほれは申し訳ございませんでしたぞなもし」
若者はからから笑い、イノシシへ関心を示さなかったので、これでイノシシの話題は終わりになった。千鶴は若者の返答にほっとした。
あのイノシシの死骸は山陰の者がさばいたはずだ。だからこの若者が知らないわけがない。恐らく余計なことを喋ると、自分が山陰の者だと春子に知れると考えたのだろう。だけどそんなことよりも、千鶴は若者と野菊の花の関係を確かめたかった。
「あなたは法生寺のご住職をご存知?」
千鶴は胸をどきどきさせながら訊ねた。若者は少しの沈黙のあと、知っていると答えた。その一瞬のためらいは、千鶴が法生寺の境内で倒れていた時に、自分もそこにいたと告げているみたいだ。
「あそこの和尚さまには、こんまい頃にようお世話になったんよ」
「へぇ、ほしたら、おらも風太さんのことを知っとるかもしれんのじゃね」
春子が嬉しそうに言った。
千鶴はしまったと思った。下手をすれば、春子は若者が山陰の者だと感づいてしまう。そうなると、どんなことになってしまうのか。
そんな千鶴の心配をよそに、若者は焦った様子もなく、ほうかもしれまいと言った。
春子は昔の思い出をいろいろ話しながら、それについて知っているかと、いちいち若者に訊ねた。若者が知っていると答えると、春子はそこから若者の正体を探ろうとした。
しかし、春子はどうしても若者のことが思い出せなかった。というより、そもそも風太という名前自体が春子の記憶にはないらしい。
堀江を過ぎた頃には、辺りはすっかり夕闇に包まれて薄暗くなっていた。
道を教えると言った春子だったが、道がよく見えないので教えようがなかった。ところが若者は夜目が利くらしく、速度を落とすことなく走り続けた。
分かれ道で春子が案内ができずにいても、若者は構わず適当に進んで行った。そうやってとうとう木屋町まで来ると、二人をどこで降ろせばいいのかと若者は訊ねた。
その時、古町から道後へ向かう電車が目の前を横切った。すぐ左手に木屋町停車場があり、電車はしばしの間、そこに留まった。
若者は電車を初めて見たらしく、立ち止まったまま興奮した顔で見入っている。
「村上さんは、このあとこの電車で三津ヶ浜へ戻るんですよ」
千鶴は春子を持ち上げたが、そのあと若者と二人きりになれるという想いがある。
「へぇ、ほれはええわいな。おらもいっぺんでええけん、電車いう物に乗ってみたいな」
若者が羨ましがると、春子は不服げに言った。
「おらは電車より、この俥ぁで戻りたいな。風太さん、山﨑さんを降ろしたら、そのまま三津ヶ浜まで走ってもらえまいか?」
慌てた千鶴は若者が答えるより先に春子に言った。
「村上さん、ほれはいけん。風太さんは松山もようわからんので。三津ヶ浜まで行きよったら、風寄に戻れんなってしまわい。ほれに風太さん、ずっと走り詰めでくたくたじゃろし、電車で戻らんと寮の消灯時間に間に合わんで」
自分の方が先に降りることになっては、若者と二人だけになることができない。そんなのは絶対に認められるわけがなく、千鶴の口調はいつになく厳しかった。春子は消灯時間なら大丈夫だと言ったが、若者のことは気になったようだ。
「電車がないならともかく、まだ走っとるもんな。仕方ない。電車で去ぬろうわい」
春子が残念そうに言うと、停車場の電車が動きだした。千鶴はほっとしながら、ほれがええぞなと言った。
「あれはお城じゃな」
木屋町停車場を過ぎた所で、若者は左前方にある山を眺めて言った。山の上には松山城が黒い影となってそびえている。
「ほうよほうよ。あれが松山城ぞなもし」
春子が得意げに言った。堀江から先の道を若者に教えられなかった分、城山の西にある札ノ辻が自分たちの終点だと、春子は饒舌に喋った。
札ノ辻とは、まだ侍が闊歩していた頃に、城下の民衆へのお達しが書かれた高札が掲げられていた場所である。城山の南西の麓にはお堀に囲まれた三之丸があるが、その西堀の北端に札ノ辻はあった。
「山﨑さんのお家は札ノ辻のすぐ傍やし、おらが乗る電車の停車場もあるけん」
「ほぉ、ほらちょうどええ場所じゃな」
じゃろげ?――と楽しげな春子に、千鶴は言った。
「村上さん、札ノ辻より本町から乗る方が早いんやない?」
「本町? 本町も札ノ辻も大して変わらんけん、大丈夫大丈夫」
本町停車場は札ノ辻停車場より少し木屋町寄りの所にある。つまり札ノ辻停車場の次の停車場だ。
春子が言うように、両者の距離に大した差はなく、電車も頻繁に来るので、札ノ辻から電車に乗っても問題はない。ただ、千鶴はわずかでも若者と二人きりになれる時間が欲しかった。しかし春子が札ノ辻から電車に乗ると言うので、千鶴は笑顔を見せながらも、胸の中で落胆した。
「姉やんのご実家は何をしておいでるんかな?」
若者に声をかけられた千鶴は、やにわに元気を取り戻した。
「うちは山﨑機織という伊予絣問屋をしとります」
「ほぉ、伊予絣問屋かな。風寄にも絣を織りよる家がなんぼでもあらい」
「うちも風寄のみなさんのお世話になっとるんぞなもし」
へぇと感心の声を出した若者は、千鶴の家は札ノ辻のどの辺りにあるのかと訊いた。
紙屋町ぞなもしと答えてから、千鶴は若者が松山の地名がわからないことに気がついた。それで札ノ辻から西に向かって延びる筋だと説明した。
紙屋町は絣問屋の町ではあるが、町名から考えると昔は紙問屋の町だったと思われる。山﨑機織の東隣には古くからの紙屋があるが、昔の紙屋町の名残を留めているのは、この店ぐらいなものだ。そんな紙屋町の町筋の話を千鶴が若者に教えていると、札ノ辻には大丸百貨店があると春子が話に交ざった。
若者が百貨店を知らないのを確かめた春子は、風寄はおろか四国の他の地域にもない四階建ての立派なお店だと、松山の人間でもないのに得意げに喋った。
春子による松山の説明が始まると、千鶴はそれを補足する程度しか出番がなくなった。
若者と話す機会を奪われた千鶴は春子が苦々しかった。でも春子にはいろいろ世話になったし、若者も興味深く春子の話を聞いている。黙って我慢をするしかなかった。
五
街の中は所々にある街灯が灯り始めていた。その明かりの下を、二人の娘を乗せた人力車が走って行く。
千鶴たちみたいな若い娘が、人力車に乗ることは滅多にない。乗るとすれば芸子ぐらいなものだ。それも大抵は一人掛けの人力車であり、二人掛けに乗る娘は珍しい。
道行く者や家から顔を出した者が、何だ何だという顔で千鶴たちを乗せた人力車を振り返る。そのたびに千鶴は気恥ずかしくなって下を向き、春子は大はしゃぎをした。
城山の西の麓に小学校が二つ南北に並んでいるが、道を挟んでそのすぐ西隣に師範学校がある。小学校と師範学校の間にあるこの道を進むと三ノ丸に突き当たり、そこを右へ曲がると正面に札ノ辻がある。電車の札ノ辻停車場もそこだ。
人力車は札ノ辻の手前で停まった。千鶴が降りる時、若者は千鶴の手を取って降りるのを助けてくれた。手に伝わるその温もりは、若者が手を離しても余韻として残っている。
若者は春子の手も取って降りるのを手伝った。しかし、春子は若者に手を握られても何とも感じていないらしい。目の前にある建物を指差し、これが大丸百貨店だと得意げに喋っている。へぇと建物を見上げる若者と春子を眺めながら、千鶴はこのあとのことを考えた。
山﨑機織はすぐそこなのだが、ほんの少しの間でも若者と二人きりになりたかった。春子がいなくなったあと若者に家まで運んでもらい、自分の家を教えておきたかった。少しでも若者との別れを遅らせたかった。
千鶴は春子の見送りをする間、一緒に待っていてほしいと若者に頼んだ。その提案に春子は喜んだが、電車が気に入った様子の若者も、千鶴の頼みを快く聞き入れてくれた。
札ノ辻にも街灯がある。その明かりの下で、ようやくまともに見せてもらえたその顔は、紛れもなくあの若者だった。
先に春子を停車場へ向かわせて、千鶴は若者に本当の名前を訊ねた。
若者はにっこり笑うと、佐伯――と言って千鶴を見つめ、忠之というんぞな、と言い足した。何だか若者が千鶴の表情を確かめながら喋っているみたいで、千鶴は戸惑いを覚えた。
「さえき、ただゆき……さんですか」
「佐伯はわかろ? 忠之は、忠義の忠に之と書くんよ」
千鶴はどきどきしながら、若者の名前を決して忘れまいと、頭の中で何度もその名前を繰り返した。
「千鶴さん」
声をかけられた千鶴は慌てて返事をした。
「はい、何ぞなもし?」
「風寄では、あいつら以外にも嫌なことはあったんかな?」
いいえと千鶴は言った。鬼娘と言われたことや、本当に鬼娘だったことなど言えるはずがなかった。
「他には何もなかったぞなもし」
「ほうかな。ほれはよかった」
忠之は安心したように微笑んだ。千鶴は訊くのは今だと思った。
「あの、うちに花を――」
「二人で何喋りよるんよ。おらも仲間に入れてや」
停車場まで行ったものの、千鶴たちがいないことに気づいた春子が戻って来た。
「何喋りよったん?」
春子が無邪気に話に加わると、げんなりした千鶴に代わって忠之が言った。
「お嬢の学校での評判を聞かせてもらいよりました」
「お嬢て、おらのこと?」
「他に誰がおるんぞな?」
春子は照れながら、何を喋ったのかと千鶴に訊ねた。千鶴は答える気分ではなかったが、黙っているわけにもいかない。
「いっつも明るうて楽しいお人ぞなて言いよったんよ」
「おらが? いや、そがぁに言うてもらえるやなんて、おら、嬉しい。風太さん、この人はおらより頭がようてな。いっつもかっつもおらより試験の点数がええんよ」
「へぇ、ほうなんか。ほれは大したもんぞな」
驚いたふりなのか、本当に驚いたのかわからないが、忠之は目を丸くして千鶴を見た。
「もう、またそげなことを言う。ほら、電車がこっちへ来よるよ」
千鶴はお堀の南の方を指差した。南堀端から回って来た電車が、西堀の停車場に停まったところだ。電車を見た春子は、まだ大丈夫ぞなと言い、忠之に礼を述べた。
「風太さん。今日はほんまにありがとうございました。お陰さんで退学にならんで済みそうじゃ。おら、風太さんにはまっこと感謝しよるんよ」
「いやいや、こっちこそおらの拙い俥ぁに乗っていただき、ありがとさんでした」
千鶴の気も知らずに春子はしばらく忠之と話を続けたが、いよいよ電車が近づくと、千鶴は春子に停車場へ戻るように促した。一人を嫌う春子は、二人も一緒にと千鶴たちを停車場へ誘った。
「風太さんも電車が間近で見られる方がええじゃろ?」
ほうじゃなと言って、忠之が春子について行くので、千鶴は大きく息を吐いてから二人のあとに続いた。
間もなくすると、鉄の線路を軋ませながら電車がやって来た。もう暗いので運転席の上には電灯が点いている。札ノ辻停車場に電車が停まると、車掌が乗車口の扉を開けた。
春子は千鶴たちに声をかけると、電車に乗り込んだ。周囲が暗い中、電灯に照らされた車内は幻想的に見える。
春子が車掌から切符を買うと、扉が閉められ電車は再び動き始めた。春子は電車の窓越しに二人に手を振り、千鶴たちも手を振り返しながら電車を見送った。
電車が行ってしまうと、忠之は嬉しそうに千鶴を振り返った。
「いや、ええ物を拝ませてもろたわい。世の中がこがぁになるとは思いもせんかった」
もう電車が走り始めて何年にもなる。なのに未だに電車を知らなかった忠之を、千鶴は気の毒に思った。
「佐伯さん、松山においでませんか? うち、もっと佐伯さんとお話がしたいんです」
千鶴は想いを込めて忠之を見つめた。忠之は少し当惑した様子だったが、すぐに笑顔を見せて言った。
「おらには決められんことぞな。おら、定めに従うぎりじゃけん」
「定め?」
忠之はそれ以上は何も言わず、千鶴を人力車に乗せた。
六
「えっと、札ノ辻がここじゃけん、紙屋町いうんはこの筋かな」
忠之は千鶴に教えてもらった紙屋町を確かめるように、その町筋を眺めた。
「ほうです。この筋が紙屋町ぞなもし」
千鶴が答えると、忠之は紙屋町の通りに入って行った。だが山﨑機織はさほど奥ではない。大して喋る暇もないままに、千鶴たちはすぐに店の前に着いた。
「山﨑機織。ここが千鶴さんの家なんか」
もう閉まった店の看板を見上げて、忠之は言った。
紙屋町にも街灯はあるが、街灯から離れると薄暗い。山﨑機織の看板は読みづらかろうに、それが見えるのは、やはり夜目が利くのだろう。
千鶴は降りたくなかったが、降りるしかない。
「だんだんありがとうございました」
礼を述べると、千鶴は人力車を降りようとした。すると、忠之は千鶴が降りるのを手伝って、また手を握ってくれた。その手の温もりは千鶴の体に伝わり、千鶴は忠之に抱きしめられているみたいな錯覚を覚えた。
「今日は千鶴さんにお会いできて、話までできて、おら、まっこと嬉しかった。千鶴さん、これからもいろいろあろうけんど、めげたりせんでしっかり前向いて生きるんで」
千鶴の手を握りながら忠之は言った。諭すようなその話し方は、千鶴を想っての言葉に違いない。でも、これでお別れなのだと告げられているようでもあった。
千鶴の胸の中に悲しみが膨らんで来る。風寄へ向かう客馬車から夕日を見た時に込み上げたあの悲しみだ。
――嫌じゃ! 行かんといて!
千鶴は心の中で叫んだ。声こそ出ていないが、その叫びは千鶴の目に表れていたはずだ。だが忠之は千鶴から手を離すと、戸が閉まった店を眺めた。まるで千鶴の心の叫びが聞こえないふりをしているようだ。
「もう閉まっとるみたいなけんど、千鶴さんはどっから中へ入りんさるんかな?」
忠之の空々しい問いかけに、千鶴は悲しみを堪えながら店の脇を指差した。
「そっちに裏木戸があるんぞなもし」
山﨑機織は四つ辻の角にあり、角を北へ曲がった所に裏木戸がある。裏木戸を確かめた忠之はにこやかに言った。
「ほんじゃあ、おらは去ぬろうわい」
人力車を引きながら裏木戸の前まで来ると、忠之は改めて千鶴に別れを告げた。
何とか忠之を引き留めたい千鶴は、忠之を呼び止めながら急いで何を喋るか考えた。
「あの、お代はどがぁしましょう? うち、これしか払えんぞなもし」
千鶴は祖父に持たされた銭の残っていた全部を忠之に渡そうとした。忠之は千鶴のその手をそっと押し戻した。
「お代なんぞいらんぞな。お友だちの方のも、もらうつもりはないけん」
「村上さんの分も?」
「言うたじゃろ? おら、俥ぁ引いたんは今日が初めてなんよ。この俥ぁもこの衣装も全部借り物ぞな」
「え? どげなこと?」
「みぃんな祭りに出ておらなんだけんな。悪いとは思たけんど、ちぃと拝借させてもろたんよ。ほじゃけん、急いで戻んて元通りにしとかんと、あとで厄介なことになるんよ」
忠之は笑っているが、それは忠之が自分で言うようにまずいことだ。
「なして、そげなこと」
「ほやかて千鶴さんは松山へ戻るおつもりじゃったろ? ほんでも祭りん時は馬車は動かんし、自動車も出てしもたろけん」
「やけんいうて、こがぁなことをうちのために……」
「おらにでけるんは、これぎりのことじゃけん。ほんでも千鶴さんのお役に立てたんなら、おら、なーんも言うことないぞな」
千鶴の目から涙があふれた。自分なんかのためにここまでしてくれる人が、どこにいるだろう。別れたロシアの娘を重ねて見ていたとしても、あまりの優しさだ。
千鶴の涙を見て慌てる忠之に、千鶴は涙を拭いてもう一度感謝した。
「最後にもう一つぎり教えておくんなもし。うち、昨日の日暮らめに――」
そこに誰ぞおるんか?――と、裏木戸の向こうから不機嫌な声が聞こえた。
「ほんじゃあ、おら、去ぬるけん」
忠之は潜めた声で言うと、がらがらと人力車を引いて行った。入れ替わるように裏木戸が開くと、中から祖父の甚右衛門が仏頂面をのぞかせた。
「何じゃい、千鶴か。今、戻んたんか。がいに遅かったやないか」
うろたえた千鶴はしどろもどろに返答した。遠ざかる人力車が気になるがどうすることもできず、遅くなったことを祖父に詫びた。
千鶴の言葉を聞きながら、甚右衛門は去って行く人力車を訝しげに眺めた。
「ひょっとして、あれに乗って戻んたんか?」
「は、はい」
千鶴は下を向きながら答えた。
「銭はどがぁしたんぞ? あげな物に乗るほどは持たせなんだはずやが」
少しだけ顔を上げた千鶴は恐る恐る言った。
「あの、ただぞなもし」
「ただ? あれにどっから乗って来たんぞな?」
「北城町ぞなもし」
「北城町? 風寄のか?」
千鶴はうなずいた。暗くてよく見えないが、祖父は眉をひそめているようだ。
「あがぁな所から力車に乗って、ただいうことはなかろがな」
「ほれが、ただなんぞなもし。あの車夫のお人はまっこと親切なお方で、松山へ戻る馬車も自動車ものうて、うちらが困りよる時に力車を出してくんさったんぞなもし。あげなお人は、どこっちゃおりません」
祖父に忠之のことをよく見てもらいたい一心で、千鶴の舌はよく回った。いつもであれば祖父を相手にこんなには喋らない。
千鶴の勢いに少々押されながら、甚右衛門は怪訝そうに言った。
「ほれが、なしてただなんぞ?」
「うち、男の人らに襲われて、ほん時――」
何ぃ?――と甚右衛門は凄い声を出した。
「襲われたて、誰に襲われたんぞ?」
「誰て……、そげなことはわからんぞなもし」
まさか春子の従兄だとは、口が裂けても言えなかった。もちろん春子にも内緒である。だが、男に襲われるのはお前が油断したからだと怒鳴られるに決まっていた。だから千鶴は先に頭を下げて、すんませんと謝った。
「うち、お祭りん時、居場所がのうて、ほんで、人がおらん所へ行ったら――」
「そこで襲われたいうんかな」
千鶴は黙ってこくりとうなずいた。
不思議なことに甚右衛門は怒鳴らなかった。黙って沈黙しているが、何だか妙な感じだ。暗がりの中、甚右衛門は右手で顔を撫でると、馬鹿にしくさってと悪態をついた。恐らく風寄の人たちに対してのものだろう。
千鶴は慌てて、他の人たちはいい人たちだったと言い足した。
「旦那さん、どがいしんさったんぞなもし?」
番頭の辰蔵が顔を出した。辰蔵は千鶴に気がつくと、おやと言った。
「誰かと思たら千鶴さんかなもし。今、お戻りたかな」
辰蔵が笑みを見せたので、千鶴は少しほっとして辰蔵に挨拶をした。甚右衛門は辰蔵を先に戻らせると、千鶴に訊ねた。
「言いぬくいなら言わいでもええけんど、お前、連中に、その……」
自分の方が言いにくそうな祖父に、千鶴はさらりと答えた。
「何もされとらんぞなもし」
「何も? ほやけど、襲われたんじゃろがな?」
「ほなけんど、ほん時にさっきのお人が現れて、うちを助けてくんさったんぞなもし」
「相手は何人ぞ?」
千鶴は右手の指を四本立てて言った。
「四人ぞなもし。ほれも体の大けな人ぎりじゃった」
「四人! そげな四人を相手に一人で立ちまわったいうんかな」
「あのお人はまっこと強いお人でね。あっという間に、四人ともやっつけてしもたんよ。ほれで、うちらのことをここまで運んでくんさったんよ」
忠之の話になると千鶴は興奮して、祖父への口調がつい馴れ馴れしくなってしまった。喋り終わってからそのことに気づいた千鶴はすぐにぺこりを頭を下げて、すんませんでしたと言った。だが甚右衛門は千鶴の喋り方などまったく気にしておらず、ほうじゃったか、無事じゃったかい――とつぶやいた。
裏木戸から出て来た甚右衛門は、忠之が去った方へ体を向けると、両手を合わせて頭を下げた。その姿に千鶴は驚いた。千鶴が助かったことで祖父が感謝を示すなど、考えられないことだった。
祖父は昔から千鶴のことを邪険に扱っていた。
千鶴が小学校でいじめられて泣いて戻っても知らん顔をしていた。千鶴が街に出かけて嫌な思いをさせられても、やはり他人事みたいな態度を見せていた。
ところが今回の祖父は千鶴の名波村行きを認めてくれたし、千鶴の無事を喜んでくれている。それはとても有り難いことではあるが、違和感を覚えるものでもあった。
名波村で体験したことや、忠之との出逢いはすべて不可思議で、異界に迷い込んでしまったかのようだった。松山へ戻って来ると、その異界から日常に抜け出した感じがしたのだが、いつもと違う祖父の様子は千鶴を非日常に引き戻した。夢が覚めたと思ったら、まだ夢の中にいたという感じだ
「世話になった者に感謝するんは当たり前ぞ」
千鶴に見つめられた甚右衛門は、少しうろたえ気味に言った。それから今の話は家の中ではするなと付け足すと、さっさと裏木戸の中へ入ってしまった。
千鶴は見えなくなった忠之の姿を闇の中に追い求めた。暗がりの中を一人で風寄まで戻る忠之を思い浮かべると、その背中がとても寂しげに見えた。すぐにでも追いかけたい衝動に駆られたが、祖父に早く中へ入るよう促され、あきらめて裏木戸をくぐった。
甚右衛門の思惑
一
甚右衛門が勝手口から家に入ると、千鶴もその後ろに続いた。そこは表に構える店から続く通り土間だ。茶の間の電灯に照らされた家の中は、外とは別の空間のようだ。
土間の右手にある台所に、母の幸子と女中の花江がいた。二人は丁稚の亀吉と新吉が抱える箱膳に、飯やら汁やらを載せてやっているところだ。いつもなら疾うに食事は終わっているのに、今日はこれから夕飯のようだ。
「千鶴が今戻んた」
甚右衛門が声をかけたあと、後ろから顔を出した千鶴も恐る恐るみんなに挨拶をした。
「ただいま戻んたぞなもし」
辰蔵から話は聞いていただろうに、千鶴の顔を見るとみんなの顔に笑みが広がった。
「お戻りたか。遅かったやないの。心配しよったんよ」
幸子が安堵した様子で言った。
続けて花江も、お帰んなさいと言い、亀吉と新吉も嬉しそうに千鶴に挨拶をした。
台所の向かいには石油ランプが吊された小さな板の間の部屋がある。いろいろ作業をするのに使っているが、今は使用人の食事場所だ。
板の間には手代の茂七と弥七がいたが、二人とも顔を出して千鶴に声をかけた。
「まあ、ご無事でお戻りんさって、よかったよかった」
丁稚たちの脇に立っていた辰蔵は、ほっとしたようにつぶやくと、板の間に上がって自分の箱膳が置かれた場所に腰を下ろした。
辰蔵は三十を過ぎているが独り身だ。強面でがっしりした体つきをしているけれど、情の厚い男で千鶴にも優しい。今回も千鶴の戻りが遅いのを心配してくれたようだ。
板の間の手前にある茶の間は家族の食事場所だ。板の間とは障子で仕切られている。上座には甚右衛門の箱膳が置かれ、その右斜めに祖母のトミが座っている。千鶴と幸子の箱膳は祖母と向かい合った上座の左側に並べられている。
「あんたな、今、何時やと思とるんね?」
使用人たちと違い、祖母は千鶴をいきなり叱った。すんませんと千鶴は小さくなりながら頭を下げた。
「今日は男衆が先に銭湯に行ったけん、こがぁしてまだ食べよるけんど、ほんまなら疾うに食べ終わっとる時刻じゃけんね!」
千鶴がもう一度頭を下げると、先に部屋に上がった甚右衛門が、もうええと言って上座に座った。
「ほら、何しよんぞ。早よ上がって飯にせんかな。ほんで、向こうの祭りがどがいじゃったか報告せぇ」
祖父に急かされた千鶴は、また頭を下げると母と花江を見た。
「すぐに行くけん、先におあがり」
幸子に促され、千鶴は二人にも頭を下げた。
「あたしもここで土産話を聞かせてもらうよ」
花江は楽しげに千鶴に声をかけたあと、幸子に言った。
「ここはあたし一人で大丈夫だからさ。幸子さんは千鶴ちゃんの隣にいてやんなよ」
ほんでもと幸子は遠慮したが、花江はいいからいいからと言って、幸子を千鶴と一緒に茶の間へ上がらせた。
箱膳の前に座ると、千鶴はまず祖父母に向かって手を突き、こんな時期に一泊の旅に行かせてもらった礼を述べた。
「取り敢えず食え。話はほれからで構ん」
甚右衛門が素っ気なく言うと、千鶴は母と一緒に、いただきますと手を合わせた。箱膳に載せられているのは、麦飯に味噌汁、焼いた鰯に漬物だ。
いつもと同じ食事の風景だが、千鶴は自分一人がこの部屋の中で浮いているような気がしている。自分だけがここのすべてと異質みたいな感じだ。
一通り箸をつけたあと、千鶴は箸を置いて祭りの話を始めた。
まず話したのは、火事騒ぎみたいに賑やかで、かつ優雅なだんじりについてだ。幸子はへぇと感心したが、甚右衛門とトミは黙って食事を続けた。しかし、静かで不思議な神輿の渡御の話には関心を持ったのか、二人は箸の手を止めて話を聞いていた。
そのあとは神輿の投げ落としの話だ。千鶴は神輿の投げ落としを見ることができなかったが、見たことにして説明をした。
「こっちのお神輿みたいにぶつけ合ったりせんし、夜の静かなお神輿の渡御を見とるけん、ここのお祭りは荒っぽいことはせんのやて思いよったんよ。ほしたら最後にお神輿を投げ落として壊すんじゃけん、まっことびっくりしたぞなもし」
「お神輿を投げ落とす? ほんまにそがぁなことするんかな?」
甚右衛門が話に応じてくれたので、千鶴は驚いた。普段の甚右衛門は千鶴が何かを喋っても聞いていない素振りを見せるか、気のない言葉を投げかけるだけだ。
壊れるまで何度も投げ落とすと千鶴が話すと、トミも話に食いついた。
「お神輿て神さまの乗り物じゃろ? ほれを投げ落として壊すやなんて信じられん。なして風寄の人らは、そがぁな罰当たりなことをするんね?」
トミも千鶴といろいろ喋ることなど滅多にしない。それがこんな風に言葉を返されたので、千鶴は驚きつつも少し嬉しい気がした。
「向こうの人は、神さまにはいっぺん使た物は使えんて思ておいでるんぞなもし。ほやけん、使い終わった物は壊して、翌年にまた新しい物をこさえんさるんぞなもし」
千鶴の話に甚右衛門はなるほどとうなずいた。しかしトミは顔をしかめ、もったいないことをすると納得がいかない様子だった。
いつもであれば隣の板の間からぼそぼそと声が聞こえるのだが、今はしんと静まり返っている。使用人たちも千鶴の話に耳を傾けているらしい。片づけが終わった花江も板の間には上がらないで、台所に立ったまま千鶴の話を聞いていた。
千鶴は隣に座る母に顔を向けると、昨夜は法生寺に泊めてもらったと話し、和尚夫婦の想いを伝えた。
幸子は驚き喜んだがすぐに笑みを消し、ちらりと甚右衛門やトミを見遣ってから、どうして法生寺に泊まったのかと、その理由を訊ねた。
夜這いを避けるためと千鶴が話すと、ほうなんかと幸子はうなずいた。だが、目は甚右衛門とトミを気にしていた。
法生寺は身籠もった母が家を飛び出して世話になった所だ。本当のところはそんな寺の話など、祖父母は聞きたくなかっただろう。
甚右衛門は何も言わなかったが、トミは眉間に皺を寄せ、ほじゃけんなと言った。
「うちはこの子を向こうへ行かせるんは反対やったんよ。知らん男がうじゃうじゃおる所に外から女子が入ったら、ほら夜這いをかけられてしまわい。そげなことは考えたらわかろうがな。だいたいな、女子が一人で他所の祭り見に行くやなんて有り得んで。しかも、こがぁな時期に思いつきでそげなことをするけん、ほんな危ない目に遭うんぞな」
トミの言葉は千鶴を責めながらも、聞きようによっては心配していたとも取れる。千鶴は少し違和感を覚えたが、トミの目が甚右衛門に向けられているところを見ると、トミは風寄行きの許可を出した甚右衛門に文句を言っているみたいでもあった。
甚右衛門は平然とした顔で、いずれにせよと言った。
「夜這いをかけられず無事に戻んて来たんじゃけん、よしとしよわい。ほれより、千鶴。向こうでは絣の話はなかったんか? うちは風寄からも絣を仕入れとるんぞ」
ありましたと答えた千鶴は、名波村の女たちから伊予絣を作る苦労話を聞かされたことや、自分の家が山﨑機織だとわかった時に頭を下げられたことなどを話した。
甚右衛門はようやく笑みを見せると、ほうかほうかと満足げにうなずいた。
「ほれで、お前はどがぁしたんぞ?」
「うちもみなさんに頭下げました。あの方たちの日頃のご苦労を聞かせてもろて、ずっと心の中で頭を下げよりました」
うむと甚右衛門は大きくうなずいた。
「お前もこの家の者である以上、商いの品がどげな風にこさえられとるんかを、己で確かめておく必要があるけんな。ほじゃけん、名波村行きは急な話じゃったが、ちょうどええと思たわけよ」
え?――と千鶴は祖父を見返した。祖父にそんな思惑があったとは思いもしなかった。トミも幸子も驚いた顔で甚右衛門を見つめている。
「ほうやったんですか。そがぁな気ぃを遣ていただきありがとうございます」
千鶴は箸を置くと、甚右衛門に向かって手を突いた。そうして頭を下げながら、師範になる自分に絣が作られる所を確かめさせるとは、どういうことだろうと考えていた。
二
板の間と茶の間を仕切った障子が少し動いて、土間側の柱と障子の間に隙間ができた。その隙間から新吉が茶の間をのぞいて千鶴に声をかけた。
「千鶴さん、ほうしょうじて、お寺?」
新吉はこの春に尋常小学校を出て丁稚になったばかりだ。ここでの仕事にもだいぶ慣れたみたいだが、まだまだ幼い感じが抜けきれず、つい子供っぽいことをしてしまう。
新吉は声を潜めたつもりらしいが、離れた千鶴に聞こえるのだから、当然甚右衛門やトミにも聞こえている。甚右衛門がじろりと見たが、新吉は気がつかない。
障子の向こうで辰蔵が注意すると、痛っ!――と叫んで新吉は引っ込んだ。
「痛いやないか。何するんぞ!」
「何やなかろが。千鶴さんの話に勝手に交ざんな。お前は黙って聞きよったらええんじゃ。勝手に障子開けたら失礼なろが!」
新吉を叱る亀吉の声が聞こえた。新吉は亀吉に頭を叩かれたようだ。
亀吉は新吉より二つ年上で、店のことをよく知っている。そのため、まだ幼さが残る新吉の世話係を任されていた。
「新吉、亀吉の言うとおりぞな。己の立場をわきまえんかな」
辰蔵にも叱られ、新吉はしょんぼり項垂れているに違いない。
「新吉さん」
千鶴が声をかけると、トミが千鶴をにらんだ。しかし甚右衛門が黙っているので、千鶴はもう一度新吉を呼んだ。すると悲しげな顔の新吉が、また障子の隙間から現れた。
「新吉さん、法生寺いうんはな、名波村にあるお寺なんよ。うちのお友だちが子供の頃によう遊んだお寺でね。うちらはそこへ泊めてもろたんよ」
千鶴が丁寧に説明してやると、新吉は少し機嫌がよくなった。後ろから亀吉が、さっさとこっちへ来いと言ったが、新吉は無視して千鶴に訊ねた。
「お寺、怖なかったん?」
「全然、怖なかったぞな」
千鶴が微笑んで答えると、新吉は調子が出たらしい。声が明るくなった。
「お化けは出なんだん?」
千鶴は笑いながら、出んかったと言った。
「じゃあ、鬼は? 鬼も出なんだん?」
千鶴は返事ができなかった。自分は鬼娘だったと思い出したのだ。
「どがいした?」
甚右衛門が怪訝な顔をした。隣の幸子も心配そうに大丈夫かと言った。
千鶴は慌てて笑みを繕うと、鬼は出たんよと真面目な顔で新吉に言った。
「ほんま? ほんまに出たん?」
興奮して目を丸くした新吉の顔が消えると、代わりに違う顔が現れた。亀吉だ。新吉は亀吉に押しのけられたらしい。
「千鶴さん、ほんまに鬼出たん?」
やはり興奮している亀吉に千鶴はうなずいた。新吉が自分の場所を取り戻そうと、無理やり亀吉の下に入って千鶴に顔を見せた。押し合う二人の体が柱の外側にはみ出している。
「これ、亀吉、新吉! 障子が破れる!」
辰蔵が叱っても、亀吉たちは障子の隙間から離れない。二人の様子は千鶴を和ませ笑わせた。
甚右衛門は怒らないし、トミも呆れるばかりだったので、千鶴は大魔の話をしてやった。大魔が鬼に扮した人間だとは言わず、神に仕える鬼が山から下りて来て、神輿の通り道を清めていたと話すと、亀吉たちはとても驚いた。
亀吉たちの近くにいた花江が鬼の真似をして、うぉーと声を出すと二人はびっくりしてどたどたっと土間に落ちた。花江は思わず笑ったあとで、甚右衛門たちに気まずそうに頭を下げた。トミは呆れた様子だったが、甚右衛門は笑った。それでトミも苦笑し、千鶴も母と一緒に笑った。
「まったく、あんたたちはまだまだ子供だねぇ」
花江がまた笑いながら亀吉を助け起こすと、茂七と弥七が二人を板の間に引き上げた。
障子を閉めに来た辰蔵は、逆に少し障子を開けて千鶴に声をかけた。
「千鶴さん、だいばいうんは御神輿の露払い役かなもし?」
はいと千鶴がうなずくと、自分の生まれ故郷の祭りでも、大魔と呼ばれる鬼が神輿の露払いをすると、辰蔵は話してくれた。
「えぇ? 番頭さん、ほれはほんまなん?」
新吉の声だ。辰蔵は甚右衛門や千鶴たちに頭を下げると障子を閉めた。しかし障子越しに辰蔵の話が聞こえてくる。
「あたしん所はな、大魔の他にも神輿と一緒に大勢が行列を組んで練り歩くんよ。神楽の舞姫もおるし、相撲の力士もおるし、槍持ちもおってな、宮司さんは馬に乗っておいでるんよ」
へぇと驚く声には新吉たちだけでなく、手代たちも入っている。
花江は甚右衛門たちに頭を下げると、板の間に姿を消して話に加わった。板の間は祭りの話で大盛り上がりだ。
いつもならば喋るにしても、声を潜めて甚右衛門やトミに気を遣うところだ。でも、今はみんなが話に夢中になっていて、遠慮のない話し声が聞こえてくる。
その声をトミは苦虫を噛み潰したみたいな顔で聞いていたが、甚右衛門は怒る様子もない。ここのところずっとみんなが暗い雰囲気だったので、久しぶりに耳にした楽しげな声が心地いいようだ。
「千鶴、ほんまは寺で何ぞあったんやないんか?」
板の間が賑やかなのが好都合とばかりに、甚右衛門は小声で千鶴に言った。先ほどの千鶴の様子を見て訊いているのだろう。
「え? な、何もないぞなもし」
千鶴がうろたえると、何かを隠しているのではないかと、トミも疑いの目を向けた。
「何か怪しいねぇ。あんた、嘘言うとるんやないんか?」
「ほ、ほんまに何もないですけん」
千鶴の慌てぶりを見て、幸子までもが眉根を寄せた。
「あんた、向こうで嫌な目に遭うたんやなかろね?」
追い詰められた千鶴は、とにかく笑顔でごまかした。それにしても、今日の祖父母は妙である。普段は祖父も祖母もこんなに話しかけたりはしない。なのに今日はよく喋るし、気遣ってくれているような気さえする。
――ひょっとして……鬼?
千鶴は全身がざわついた。
風寄へ行くことになったのは、大雨で祭りの予定が一日ずれたからだが、その大雨を降らせたのは鬼だと千鶴は考えていた。
だけど、日程がずれただけでは祭りへは行けなかった。行けたのは祖父の許しがあったからだ。本来は絶対にないはずの許しが得られたのは、やはり鬼の力が働いたと思われる。きっと祖父は鬼に操られているのだ。
女子師範学校に通っている自分に、絣が作られている所を確かめさせたかったなどと、祖父は取って付けたみたいなことを言った。それは鬼の意向で無理に許可を出したからだろう。祖母も何だかいつもと違うのは、祖母も鬼に支配されているということか。
「ほんまに、何もないぞなもし」
千鶴は執拗に質してくる祖父母に強張りそうな笑みを見せて、漬物を口に放り込んだ。口を動かしていないと顔が固まってしまいそうだった。
幸子は息を一つ吐くと、場を取り繕うように甚右衛門に言った。
「ところで、お父さん。さっき裏で大けな声を出しんさったんは、何ぞあったんですか?」
甚右衛門は少しうろたえ気味に、何でもないと言った。だが、何でもないのに大きな声を出すわけがない。甚右衛門が説明しないのは、千鶴が風寄で男に襲われた話をすれば、またトミに文句を言われるからだろう。今もトミは疑わしげな顔を向けている。
幸子が代わりの答えを求めて千鶴を見た。けれど、余計なことは言うなと千鶴は甚右衛門から釘を刺されている。忠之の活躍を喋りたい気持ちはあるが、祖父には逆らえない。
千鶴は話を変えようと祖父に訊ねた。
「話違うけんど、なしておじいちゃんはご飯時やったのに、さっきはあげな所においでたんぞなもし?」
祖父が裏木戸まで来たことを、千鶴は今になって不思議に思った。
声が聞こえたから確かめるのであれば、手代の誰かを来させただろう。手水へ出て来たにしても、食事が始まるところだったのだ。行くならもっと早く行っている。
返答に困っているのか、甚右衛門は無視するがごとくに黙っている。すると、トミが顔をしかめて言った。
「あんたの戻りが遅いけん、心配しよったんじゃろがね」
「え? うちを心配してくれたん……ですか?」
千鶴が驚くと、今度はトミがうろたえて口籠もった。甚右衛門は黙ったまま味噌汁をすすっている。千鶴は母を見たが、母も祖父たちの様子を妙だと感じていたらしい。
それでも、これまで千鶴に無頓着だった二人が、千鶴を心配してくれたのがよかったみたいだ。もう黙っていなさいと、幸子は嬉しげな目で伝えてきた。だが千鶴は気になった。祖父母が自分を心配してくれるなど、これまで一度もなかったことだ。
これは絶対に鬼の仕業に違いない。千鶴は気分が悪くなった。
三
「何か、おじいちゃんもおばあちゃんも妙な感じぞな」
銭湯へ向かいながら千鶴は言った。一緒に歩いているのは幸子と花江だ。トミが銭湯へ行くのはいつも千鶴たちとは別の日なので、ここにはトミはいない。
「確かに、ちぃといつもとは違うみたいじゃね」
幸子がうなずくと、もしかしたらと花江が言った。
「旦那さん、千鶴ちゃんにお婿さんをもらって、お店を継がせるおつもりかも」
「え? うちにお婿さん?」
千鶴が思わず花江を見ると、そうさと花江は大きくうなずいた。
「千鶴ちゃんに継がせたくなったから、商いを教えようとしたんだよ」
「ほやかて、うちは女子師範学校に通いよるんよ? あの学校かておじいちゃんが行けいうたけん行きよるんやし。ほれやのに、うちに店継がせるておかしない?」
「きっと気が変わったんだよ。二人とも千鶴ちゃんを師範にさせるより、お店を継がせる方がいいと思ったんだよ」
そんなことは有り得ない。だけど花江の言うとおりなら、やはり祖父母は鬼に操られているのだろう。
「お母さん、どがぁ思う?」
千鶴は母を振り返った。幸子も花江の話は信じられないようだが否定はしなかった
「ほんまじゃったら千鶴やのうて、うちが婿取りせんといかんとこなけんど、うちはもう若ないし、千鶴じゃったら子供産めるて考えんさったんかもしれんねぇ」
若さや子供を産むことだけをいうのなら、そうかもしれないが、祖父母はロシアを憎んでいる。そのロシアの血が流れる孫娘を店の跡継ぎにするはずがないのだ。
幸子には正清という兄がいた。千鶴にとっては伯父だ。
山﨑機織はこの正清が継ぐことになっていた。だが正清は日露戦争で兵隊に召集され、戦場で命を落とした。これが甚右衛門やトミが未だにロシアを憎む理由だ。
幸子は孝平という弟もいた。
当時、孝平は他の伊予絣問屋で丁稚として働いていた。正清亡きあと、甚右衛門は孝平が一人前の手代になったら跡継ぎにしようと考えた。ところが孝平は手代に昇格する前に、奉公先を逃げ出して姿を眩ましてしまった。
仕方なく甚右衛門は幸子に婿を取ろうとしたが、いい相手が見つからなかった。それは千鶴が原因だ。つまり、ロシア兵の子供を産んだことが問題だった。
敵兵の子供を産むなど、世間からすればとんでもない話だ。千鶴を身籠もったことが知れた時、幸子は周囲から白い目で見られ、警察からも事情聴取を受けた。また、山﨑機織の評判も落ちたという。
甚右衛門は子供を堕ろせと幸子に迫った。幸子はそれを拒んで家を飛び出し、偶然知念和尚と出会った。これが幸子が法生寺で世話になった経緯だ。
風寄で家の恥が広まるのを恐れた甚右衛門は、子供を産むことを許して幸子を家に呼び戻した。そうして千鶴が生まれたのだが、やはり幸子や千鶴に向けられた世間の目は冷たかった。
今でこそ千鶴たちを受け入れてくれる人は増えてきたものの、未だに見下している者も少なくない。そんな中で、千鶴の新たな父親になろうとする者などいない。だからといって、問題の原因である千鶴に婿の話が出るわけがなく、跡継ぎなど有り得ないのだ。
祖父母は幸子が千鶴を産むのは許しても、千鶴に心を許さなかった。
千鶴は祖父母に抱いてもらったり、遊んでもらったりした記憶がない。覚えているのは、いつも二人が不機嫌そうで、ちょっとしたことですぐに怒られたことだけだ。
普段、千鶴は気にしないようにしているが、自分は望まれて産まれたのではないという想いが、いつも心のどこかにある。これまで耐えてこられたのは、母ががんばっていたのと、辰蔵たち使用人が優しく接してくれていたからだ。
女子師範学校へ行かせてもらっているのも、小学校教師として自立して暮らすことが、期待されているのだと受け止めていた。そうすれば、実質的に山﨑機織との縁が切れる。それが祖父母の望みなのだ。そんな二人が疎ましい孫娘に店を譲るなど、どう考えたってあるはずがない。
百歩譲って、仮に祖父母が婿を取るつもりがあったとしても、自分なんかを望む者などいない。花江が言うこともわからなくはないが、やはり跡継ぎの話は無理がある。
ただ、今の祖父母は鬼に操られている。鬼が千鶴を妻にするつもりであれば、祖父母が千鶴に婿を取ろうとしても矛盾はない。婿取りは二人の考えではなく、鬼の意志なのだ。そう考えると、千鶴は花江の言葉が本当であるような気がしてきた。
当然、その婿は鬼に決まっている。だから千鶴が相手であっても、婿はすぐに見つかるだろう。千鶴は表向きは店を継ぎながら、鬼の妻として生きるのだ。鬼は山﨑機織を隠れ蓑にして、仲間を増やしていくのである。
地獄の夢を見た時に、千鶴には鬼を愛しく想う気持ちがあった。だが今はそんな気持ちはまったくない。いくら自分が鬼娘で鬼と夫婦になるのが定めであったとしても、そんなことは受け入れられない。それでもきっと定めどおりになり、やがて鬼の本性が出て来て本物の鬼娘になるのだろう。
千鶴は目の前が真っ暗になった。
四
「どがいした? 大丈夫か?」
黙り込んでいる千鶴の顔を、幸子がのぞき込んだ。
「ん? 何でもない」
千鶴は笑顔を装ったが、幸子は心配そうだ。
「おじいちゃんが決めんさったことに、うちらは逆らえんけんな。ほんでも、ほうはいうてもなぁ……」
幸子は最後までははっきり言わなかった。千鶴に婿が見つかるわけがないと言いたかったのだろうか。でも、それでは千鶴が傷つくと思ったに違いない。
「心配なんかいらないよ。きっといい人が千鶴ちゃんのお婿さんになってくれるよ」
何も知らない花江が能天気に言った。
「そげなこと……」
千鶴が顔を曇らせると、花江は励ますような明るい声で言った。
「だって千鶴ちゃん、可愛いからさ。そりゃあ、偏見を持ってる人たちは、千鶴ちゃんのこと悪く見るだろうけど、そんなのはこっちから願い下げだよ。偏見を持たないで、千鶴ちゃんを真っ直ぐ見てくれる人だったら、絶対に千鶴ちゃんを大事にしてくれるし、お店だってうまくやってくれるよ」
千鶴が黙っていると、花江は立ち止まって千鶴をじっと見た。
「千鶴ちゃん、自分に自信がないっていうより、お婿さんの話に乗り気じゃないみたいだね」
心の中を見通されているようで、千鶴は慌てて答えた。
「ほやかて、うち、小学校の先生になるつもりでおったけん、急にそげなこと言われたかて困らい」
「まぁ、そりゃそうだよね。でもさ、悪い話じゃないとあたしは思うよ。あとで、ゆっくり考えてみたらいいよ」
花江に言われると、千鶴は言い返せなかった。
花江は千鶴より五つ年上で、元は東京の太物問屋の娘だ。その太物問屋は山﨑機織とも取引があった。
花江は一人娘だったので、婿をもらって店を引き継ぐことになっていたという。ところが先月初めに東京を襲った大地震で、花江は家も店も家族もすべてを失った。
東京に営業に出ていた山﨑機織の手代も、この地震で命を落とした。それで辰蔵が苦労して東京を訪ねたのだが、その時に花江を見つけて甚右衛門に連絡し、先に松山へ来させたのである。今から一月ほど前のことだ。
天涯孤独の身になった花江を、甚右衛門は女中として雇った。とはいえ、花江は元取引先の娘だ。甚右衛門もトミも花江に対して気遣いを見せた。しかし、花江はただの女中として扱われることを望み、とにかく懸命に働いた。
山﨑機織で働き始めてからさほど経っていないのに、今では花江は昔からいるみたいに、ここでの暮らしにすっかり馴染んでいる。千鶴に対しても、初めて会った時から明るく優しく接してくれた。千鶴にとって花江は姉のように慕える人だ。けれど、一人でいる時に花江が陰で泣いているのを、千鶴は知っている。
花江にすれば、親が取りなしてくれる婿取りの話は、とても有り難いことなのだ。そんな花江が悪い話じゃないと言うのを、千鶴が否定できるはずがなかった。
銭湯の脱衣場で着物を脱いだ時、千鶴の胸元からしおれた花がぽとりと落ちた。千鶴は慌てて拾ったが、花江は見逃さなかった。
「それは花だね? 何でそんな物を胸に仕舞ってるんだい?」
「これはね、えっと……、きれいじゃったけん、摘んで来たんよ」
動揺を隠したつもりだったが、花江は目を細めて千鶴を見つめた。
「本当に自分で摘んだのかい?」
「ほ、ほんまやし」
口をすぼめながら花を胸に抱くと、花江は笑った。
「千鶴ちゃんって、ほんとわかりやすい娘だね。嘘ついたって、すぐにわかっちまう」
「ほんまは誰ぞにもろたんか?」
幸子が少し嬉しそうに訊ねた。千鶴は答えずに下を向いた。
風寄で男に襲われたことは黙っているようにと、祖父から言われている。だから、忠之との出逢いを説明できない。
だけど千鶴が話さなかったのは、本当は気恥ずかしかったからだ。誰かに心が惹かれていると知られたくなかった。あれほど忠之の話がしたかったのに、今は喋るのが何だか恥ずかしい。それに、鬼娘が人間の男と一緒になれるわけがない。だめなのがわかっている人の話をするのは空しかった。
それでも花江も幸子も千鶴の心に何があったのかを理解したらしい。
「ふーん。なるほどね。そういうことか」
花江がにやにやしながら言うと、幸子も楽しげに言った。
「その人とはお祭りで知り合うたん?」
千鶴は返事をしなかった。しかし黙っているのは、肯定しているのと同じ意味になる。どんな人なのかと交互に問われ、優しくて強い人だと千鶴は喋ってしまった。
幸子と花江は顔を見交わすと、我が事のように喜んだ。
二人はもっと詳しい話を求めたが、どうせ一緒にはなれないからと千鶴は話を拒んだ。幸子も花江も千鶴が話さない理由を、婿取りの話だと考えたに違いない。それでも、二人はずっとにこにこしたままだった。
五
千鶴たちが銭湯から戻ると、トミが台所の板の間で亀吉と新吉に漢字を教えていた。
板の間の奥には、甚右衛門とトミの寝間がある。閉められた襖の向こうから、甚右衛門の鼾が聞こえてくる。
辰蔵や手代たちは二階の部屋へ引き上げたみたいだが、まだ眠ってはいないらしい。板の間と帳場の間にある階段の上から、ひそひそ喋る声が聞こえている。
亀吉と新吉はあくびを噛み殺しながら、トミに言われた漢字を何度も繰り返して半紙に書いている。本当はさっさと寝たいだろうが、これも丁稚たちの仕事だ。
トミは丁稚たちに生きて行くのに必要なことを、昔からこんな風に教えてきた。
千鶴も子供の頃に、当時の丁稚に交じっていろいろ教え込まれたが、祖母はきちんとできるまで絶対に許してくれなかった。特に千鶴は丁稚たちよりも厳しくされて、ちゃんとできていても褒めてもらえず、何度もやり直しをさせられた。
でも、お陰で高等小学校にも上がれたし、女子師範学校にも入ることができた。それを考えれば有難いことだったのだろうが、もう少し優しくしてほしかった想いがある。父親がロシア人でなければ、また違った扱いをしてもらえただろうにと、祖母に教えを受ける丁稚を見るたびに切なくなってしまう。
千鶴たちが声をかけると、トミは亀吉たちに今日はここまでと言った。二人は千鶴たちに頭を下げると、習字道具を片づけて階段を上がって行った。
「さぁ、ほしたら繕い物をしようかね」
トミが疲れた様子で言った。
着物や足袋や襦袢などの破れを繕ったり、新しい着物を作ったりするのは女の仕事だ。特に育ち盛りの亀吉や新吉は、次の年には前の年の着物が合わなくなる。涼しくなると着物も単衣から袷になるが、袷を洗うときは裏地を解いて外すので、洗い終わったらもう一度縫い合わせる手間がいる。年に一度は布団も解いて洗い、あとで綿を入れて縫い直す。
男たちが床に就いたあとも、女たちはちくちくと針仕事で忙しい。それでもここには女が四人いるからいいが、女が少ない所は大変だ。
茶の間に上がった幸子は、板の間と仕切る障子を開けた。茶の間の隅には縫い物や繕い物が裁縫道具と一緒に置かれてある。千鶴と幸子は針や糸と繕い物を取り上げると、それぞれの場所に座って縫い始めた。
トミが板の間から茶の間に移ると、花江は七輪に残っていた炭火を火熨斗に入れ、板の間でまだ縫い合わせていない袷の着物の布の皺を伸ばした。
誰も一言も喋らないで、黙々と手を動かしている。こうしていると、千鶴には風寄の祭りを見に行ったことが嘘みたいに思える。だけど懐にはあの花がある。花はすべてが事実である証だ。風寄へ行ったのは本当で、あの人と出逢ったのも夢じゃないよと、花が胸の中で囁いている。
縫い物をする時には、針に集中しなければならない。でも、千鶴はつい忠之のことを考えてしまう。
忠之が親切にしてくれるのは、忠之が惚れていたロシアの娘を自分に重ねているからだと、千鶴は受け止めていた。けれどあそこまで親切にしてくれたのは、単に自分があの人の知る娘に似ているからではないと、今はそう思っていた。あの人の心は夫婦約束をした娘ではなく、自分に向けられていると信じていた。
一方で、愚かなことを考えるなと戒める自分がいた。あの人は別れた娘を見ているのであって、山﨑千鶴を見ているわけではないと戒める自分は主張した。
忠之に惹かれる自分は、別れた娘はもういないのであり、あの人の気持ちは自分だけのものだと反論した。あの人の着物だって、新しいのを自分がこうしてこさえてあげるんだと気負うと、鬼娘のくせに!――と戒める自分が言った。
「痛っ!」
指先を針でちくりと突いてしまい、千鶴は思わず声を上げた。涙で視野が滲んでしまい、針先がよく見えなくなっていた。
いつもであれば、何をやっているのかと祖母に冷たい視線を向けられるところだ。ところが、今日の祖母は違っていた。
手の甲で涙を拭った千鶴に、トミは言った。
「千鶴、今日はもうええ。あんたは疲れとろけん、もう寝なさいや。明日は学校じゃろ?」
思いがけない祖母の言葉に、千鶴は戸惑った。
これまでは疲れていようと翌日学校があろうと、そんなことには関係なく、祖母は仕事をさせていた。ましてや、今回は一人だけ特別に風寄の祭り見物へ行かせてもらったのである。その分、しっかり仕事をしろというのが当たり前だった。なのに疲れているから寝なさいというのは、普段の祖母では考えられないことだ。これは絶対におかしい。
やはり祖母も鬼に操られている。千鶴はそう確信した。
「ほんじゃあ、お先に上がらせてもらいます」
落ち着かない気持ちのまま自分の縫い物を片づけると、千鶴はトミや母たちに頭を下げた。それから手燭に火をもらい、茶の間から離れの部屋へ向かう渡り廊下に出た。
廊下の脇の奥庭は真っ暗だ。塀の向こうには街灯の光が届いているが、塀のこちら側には届かない。千鶴が手燭を差し出すと、暗い奥庭がぼんやりと照らされた。蔵の脇にある裏木戸も仄かに見える。
千鶴は闇の中の裏木戸を眺めながら、その向こうに忠之がいたことを思い出していた。
あれから一刻近くになると思うが、今も裏木戸の向こうに忠之がいるみたいな気がする。あの扉の向こうで、人力車を引く忠之がこちらを見つめているようだ。
忠之の少し寂しげな優しい笑顔が思い浮かぶと、千鶴は胸が潰れそうになるほど切なくなった。今日出逢ったばかりなのに、ここまで心が惹かれるのは、自分とあの人の間に深い縁があるからだと千鶴は思った。そうでなければ、あの温もりは説明ができない。
だけど、鬼娘の相手は鬼に決まっている。邪魔立てする者は殺されるだろう。あのイノシシのように。
もしかしたらあの若侍も、悪い侍たちではなく鬼に殺されたのかもしれないと思うと、千鶴は恐ろしくなった。忠之を若侍の二の舞にはしたくなかった。
それでもあきらめきれない千鶴は、何とかあの人と逃げられないかと考えた。でも、仮に鬼の手を逃れて二人が夫婦になれたとしても、鬼娘はいずれは鬼の本性を見せるのだ。そこには絶望的な悲劇しかない。結局、どれほど惹かれ合ったとしても、二人が結ばれることはないし、結ばれてはいけないのである。
千鶴は肩を落として涙ぐんだ。
黙って拝借した人力車で松山まで運んでくれるほど、忠之は千鶴のことを想ってくれている。けれどもそれ以上は、千鶴との関わりを避けているみたいだ。
夫婦約束までした娘を手放さざるを得なくなった経験が、恐らくそうさせているに違いない。それは千鶴には歯痒いけれど、あの人は今のままでいるのが二人のためなのだと、千鶴は自分に言い聞かせた。
空の人力車を引きながら、風寄へ戻る忠之の姿が目に浮かぶ。その姿はどんどん遠く、どんどん小さくなって行く。呼んでも声は届かない。これが二人の定めだと言わんばかりに、忠之が寂しげに去って行く。
客馬車で夕日を見た時の悲しみが蘇り、胸が締めつけられた千鶴は、大声で叫びたくなった。千鶴には忠之にあの若侍が重なって見えていた。若侍と同じように野菊の花を飾ってくれた忠之を失いたくなかった。
けれど千鶴が風寄へ行くことはもうないだろう。忠之が松山へ出て来ることもない。今後二人が再び出逢うことはないのである。それが鬼娘の定めであり、忠之のためでもあるのだ。
これでいいんだと、千鶴は涙をこぼしながら自分を納得させようとした。それでも堪えきれず項垂れてしゃがむと、声を殺して泣いた。
休み明けの学校
一
通学用の袴を着けると、千鶴は茶の間へ挨拶に行った。茶の間では甚右衛門が新聞を読んでいる。
どの家でも新聞を取っているわけではないが、新聞を取っているからといって、朝刊が朝に届くとは限らない。場所によれば、朝刊なのに届くのは夕方近くになってからという所もある。ここは幸い新聞社が近いので、朝早くに朝刊を届けてもらっている。
店のことは使用人たちがしてくれるので、甚右衛門はこの時間はゆっくりしている。その隣では、トミが甚右衛門が飲むお茶を淹れていた。
大地震で東京が壊滅したことで、東京へ多くの伊予絣を送っていた伊予絣問屋は大打撃を受けた。ここ山﨑機織もその一つである。そのため、甚右衛門は東京の復興も含めた日々の記事に目を光らせて、今後の伊予絣業界の行く末を毎日占っていた。
ところが悪い話はあっても、いい話など出て来ない。この日もよくない記事が出ていたのか、甚右衛門の表情は曇っている。こんな時には迂闊に声をかけない方がいいのだが、黙って行くわけにもいかない。
「あの……、行てまいります」
千鶴は恐る恐る声をかけたが、記事に集中しているのか、甚右衛門は新聞に釘づけになったまま返事をしない。代わりにトミが甚右衛門の脇に湯飲みを置きながら、ちらりと千鶴を見て言った。
「行てお戻り。気ぃつけてお行きなさいや」
千鶴はぎょっとした。他の家では当たり前の言葉かもしれないが、祖母の口からこんな気遣いの言葉が出るとは思っていなかった。いつもであれば、しっかり学んで来いとか、遅刻するから早く行けとか、寄り道をするなと一言文句を添えるところだ。
千鶴の視線に気づいたトミは、ややうろたえながら、何ぞな?――と言った。
「いいえ、何も」
千鶴がトミに頭を下げて行こうとすると、甚右衛門はやっと千鶴に気がついた。新聞を下ろすと、よいと呼びかけたが、あとは何かを言いたげにしながら黙っている。
「どがぁしんさった?」
見かねたトミが声をかけると、甚右衛門は千鶴から目を逸らし、何でもないと言った。
千鶴はもう一度甚右衛門に、行てまいりますと声をかけた。あぁと顔を向けた甚右衛門は、やはり何かを気にしているようだ。
不審に思いながらも千鶴は二人に頭を下げ、台所の花江にも声をかけた。花江は明るく、行ってらっしゃいと言い、千鶴に弁当を持たせてくれた。
花江が女中になってから、それまで家事をこなしていた幸子は再び看護婦として働き始めた。今日は早めに来てほしいと病院から言われたので、千鶴より先に家を出ている。
幸子は自分が働くことを家計を助けるためだと言うが、それは甚右衛門が幸子への婿取りをあきらめたということだ。そう考えると、やはり祖父は自分に婿を取るつもりなのかと千鶴には思えてしまう。
丁稚や手代たちが千鶴たちの脇を通り抜けて、あらかじめ用意しておいた大阪へ送り出す品を蔵から運び出している。その邪魔にならないようにしながら、千鶴は通り土間を抜け、暖簾をくぐって帳場に出た。帳場には辰蔵が座り、行てお戻りなとにこやかに千鶴に言った。
表には積み荷を載せる大八車が置かれ、すでに反物の木箱がいくつか積まれていた。そこへ手代の茂七と弥七が新たな木箱を運んで来て、千鶴に声をかけた。年上の茂七は明るく大きな声だが、弥七はおとなしいので声は控えめだ。
東隣の紙屋の者たちに千鶴が朝の挨拶をしていると、送り先を確かめた木箱を大八車に載せた亀吉が、元気に声をかけてくれた。
「千鶴さん、行てお戻り」
続けて出て来た新吉も千鶴に挨拶をした。
朝に店を通り抜けながら、みんなから声をかけて送り出してもらうのは、小学校に通い始めた頃からの習慣だ。女子師範学校の寮に入っていた間は途切れていたが、寮を出てから再開したお馴染みの朝の光景である。
亀吉たちに手を振りながら、行てくるけんねと声をかけ返すと、千鶴は紙屋町の通りを西へ進んだ。
通常、家人は裏木戸から出入りする。しかし千鶴が小学校に入った時、祖父は千鶴に店から表に出るよう命じた。
千鶴が通った尋常小学校は城山の西の麓、師範学校の脇にある。だから裏木戸を出たところで、店の前を通ることには変わりない。けれども店から出て来ると、どうしても目立ってしまうので、千鶴は裏木戸からこっそり出たかった。
だが、祖父は許してくれなかった。堂々と店から表に出て、通学路とは反対側の店の人たちにも、大きな声で挨拶をせよというのが祖父の命令だった。それ以来、千鶴は学校へ行く時には店から表に出ている。
初めの頃は、みんなに見られるのが嫌で仕方がなかった。孫娘を晒し者にする祖父を恨めしく思ったものだ。しかし今となっては慣れっこになったので、紙屋町の人々と顔を合わせることは気にならなくなった。向こうの方も最初はぎこちなかった挨拶が、今では当たり前になっている。
小学校に通っていた頃は、紙屋町の西側の人たちとはあまり顔を合わせることがなかった。だけど女子師範学校へ歩いて通い始めると、そこの人たちとも毎日顔を合わせるようになった。初めは少し緊張したが、向こうも千鶴のことを知らないわけではない。声をかければちゃんと返事をしてくれるので、もう緊張することはなくなった。
でも今は自分は鬼娘だという想いがある。それが千鶴の気持ちを後ろ暗くさせていた。
おはようござんしたとか、行てまいりますなどと、顔を合わせる人たちに挨拶をしながら紙屋町の通りを歩いて行くと、やがて大きな寺に突き当たる。かつて松山を治めていた久松松平家の菩提寺である大林寺だ。
祖父は事あるたびに、紙屋町のこの道は殿さまたちが通った道なのだと、誇らしげに言ったものだ。しかし、千鶴は大林寺に対して別な想いを抱いている。
日露戦争が始まると、捕虜になったロシア兵が大勢日本へ連れて来られた。その捕虜兵たちを収容することになったのが松山で、その一番初めの捕虜収容所となったのが、この大林寺だ。母の話では、父も最初はここへ入れられていたらしい。
普段は千鶴は父のことなど考えないが、この寺の前を通ると、どうしても考えてしまう。だから、いつも足早に通り過ぎていた。
ロシア人の血を引いているがために、千鶴は幼い頃から嫌な想いを強いられてきた。そのため、つらいことばかりなのは全部ロシア人である父のせいだという気持ちが、千鶴の中にはあった。もし父が日本人だったら、こんな苦労などしなかったのにと思うと、顔も知らない父を恨みたくなった。
だが一方で、父に会ってみたい気持ちもあった。
日本でなくロシアで暮らせば差別されないかもしれないと考える時、千鶴は父と暮らしている自分を想像してしまう。
父がどんな顔をしているのかはまったくわからない。それで自分に似た顔を想像し、父と暮らすことを願ったりもした。でも、この日に頭に浮かんだ父はロシア人ではなく、髪の中に角を隠した鬼だ。
顔や姿のように鬼の本性も親から受け継がれるのであれば、少なくとも両親の片方には鬼の血が流れているはずだ。であれば、父親はロシア兵に化けた鬼なのかもしれないのである。
千鶴は大林寺の山門の前で立ち止まった。
大林寺を眺めながら、千鶴はかつてここにいた父を思い浮かべ、あなたは鬼なのかと心の中で父に問いかけた。もし父が鬼であったなら、今の苦しみは父のせいである。ロシア人ということでも苦労させられた上に、今度は鬼だ。もしここに父がいたなら、大喧嘩をしていただろう。
父に腹を立てそうになった千鶴の心に、忠之が話しかけてくる。
――千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人とめぐり逢うて、幸せになるんぞな。
忠之を思い出すだけで、怒りは鎮まり切なくなる。けれどめぐり逢うのは鬼なのだ。
千鶴の懐にはまだあの花が入っている。千鶴は胸に手を当てながら、一緒になりたいのはあの人だと、忠之への想いを確かめた。だが確かめたところで、その願いは叶わない。忠之を想えば想うほど、却って空しい気持ちになるばかりだった。
二
大林寺の前を右に曲がると、左手に阿沼美神社が見えてくる。毎年春子に見せていた祭りの舞台だ。この神社の北端を西へ曲がった所に、伊予鉄道の古町停車場がある。
松山からは多くの伊予絣が県外へ発送されているが、その多くは三津ヶ浜の向こうにある高浜港から、瀬戸内海を渡って本州へ届けられる。
その高浜港まで荷を運ぶのは陸蒸気と呼ばれる蒸気機関車で、古町停車場には紙屋町で扱う伊予絣が集まって来る。これまで県外発送の中心は東京と大阪だった。しかし今は東京は大地震で壊滅状態なので、送られる先は大阪が大半と思われる。
もう少しすれば高浜港へ向かう陸蒸気がやって来る。貨物車に荷物を載せるため、停車場にはすでに何台もの大八車が集まっている。山﨑機織からも直に亀吉たちが荷物を運んで来るだろう。
古町停車場を眺めながらさらに北へ進むと、フワンと音が鳴った。我に返った千鶴が前を見ると、通りの少し先を電車が左前方へ横切り、緩やかな傾斜を上って行った。松山から三津ヶ浜へ向かう電車で、昨日、春子が札ノ辻から乗ったのと同じ電車だ。
家が裕福な級友は通学に電車を利用しているが、千鶴は歩いての通学だ。ただ大雨の時には、千鶴も電車に乗せてもらえる。風寄の祭りの前日も朝からかなりの雨が降ったので、電車で通学させてもらった。だけど少々の雨では乗せてもらえない。
電車の終点は三津ヶ浜だが、陸蒸気も高浜へ行く途中に三津ヶ浜で停まる。どうして三津ヶ浜へ向かう路線が二つもあるのかというと、元は二つは別々の会社が運営していたからだ。
春子が乗った電車の方は、千鶴が尋常小学校に入学した年にできたものだ。陸蒸気の方は母が生まれた頃にできたと聞いている。
詳しい話は知らないが、かつては三津ヶ浜が海の玄関口で、陸蒸気は三津ヶ浜が終点になっていた。ところが、大型の船も利用できる高浜港が三津ヶ浜の向こうに新たに建設され、伊予鉄道がそこまで路線を延長した。これが三津ヶ浜の人たちを怒らせた。
海の玄関口を自認する三津ヶ浜にとって、高浜港に船を取られるのは死活問題だ。猛反発をした三津ヶ浜の人たちは、伊予鉄道に対抗して別の電車を作った。それが春子が乗ったあの電車だ。
松山から東へ三十六町ほどの所に有名な道後温泉があるが、三津ヶ浜の人たちはそこまでの鉄道を作った。伊予鉄道との客の奪い合いは、知らぬ者はいないほどかなり熾烈なものだったらしい。
伊予鉄道は三津ヶ浜と高浜の間に海水浴場を作っていた。これに対抗して、三津ヶ浜の人たちも海水浴場を作り、伊予鉄道にはない遊園地まで作った。
客引き争いでは三津ヶ浜の方に分があったようだが、それは損得を度外視した値引き合戦の結果だった。結局は無理が祟って伊予鉄道との争いに負けてしまい、せっかく作った三津ヶ浜の電車も線路も、すべて伊予鉄道に召し上げられてしまった。千鶴が女子師範学校本科の二年生になった年のことだ。
当時は千鶴は寮にいたので、休みの日に三津ヶ浜の町に出ることがあった。その時の町の人たちが意気消沈していたのは今でも覚えている。自分の家が松山にあるとはとても言い出せない雰囲気が町中に広がっていた。
鉄道会社の争いと同じで、強い者が勝つのが世の常である。そして、自分は弱い者だと千鶴は思った。
世の中は男を中心に動いている。女は男に従うだけだ。ましてや自分は異国の血を引いており、物を言う権利など他の若い娘以上にない。けれど男でも立場が弱ければ、思いどおりにいかないのは同じだ。
忠之が惚れ合った娘との夫婦約束を果たせなかったのは、山陰の者であることが理由と思われる。恐らく娘の家は山陰ではない村にあったのだ。また娘の方も異国の血を引いているがために家族から疎まれて、迎えに来た父親に押しつけられたに違いない。
本人が悪いわけではなくても、生まれが悪いとどうすることもできないのは、男も女も変わらない。こんな理不尽なんかなくなればいいのにと思いながら、千鶴は広い松並木の道へ出た。三津ヶ浜へ向かう三津街道だ。
かつてお城の殿さまが参勤交代をしていた頃、殿さま一行は三津ヶ浜から船で出入りしていた。その時に使われた道がこの三津街道だ。街道と名のつく道はいくつもあるが、殿さまが通った三津街道は、他の街道よりも広くて立派な造りをしている。
千鶴がいる所は三津口と呼ばれるが、三津口から三津ヶ浜までの間には、千三百ほどの松や杉が日よけ目的に植えられている。殿さまがいなくなった今も、千鶴たちみたいに街道を歩く者たちに松や杉は木陰を与えてくれる。この並木がなかったなら、暑い夏場は歩くのが嫌になっていただろう。
街道の周辺は田畑ばかりでとても長閑だ。いつもと同じ穏やかな景色を眺めていると、風寄での体験や家の中の異変などが本当のことだとは思えなくなりそうだ。
少し歩くと、二本の線路が道を横切る。どちらも古町停車場から出たものだ。手前は道後温泉へ向かう電車の線路で、もう一方は陸蒸気が高浜へ向かう線路だ。荷物と乗客を港へ運ぶ陸蒸気が、もうそろそろやって来るはずだ。
二本の線路の間に立って左手に顔を向けると、二つの線路が跨線橋の下をくぐって来ているのがわかる。この橋は三津ヶ浜へ向かう電車のためにあり、先ほどの電車はここを通ったのである。橋の向こうには古町停車場が見えている。
陸蒸気は街道の右を走り、三津ヶ浜へ向かう電車は左を走る。この先、両者は街道に絡み合って走るが、その様子は未だに三津ヶ浜の人たちの怨念が生きているかのようだ。
ただ街道自体は、鉄道会社の争いごとなど関係ないかのごとくのんびりした雰囲気だ。所々で牛車が荷物を運び、千鶴と同じ絣の着物に袴を着けた若い娘たちが三々五々歩いている。いずれも女子師範学校の生徒だが、二年生までは寮なので、歩いているのは三年生か四年生だ。
千鶴たち四年生は四十名弱であり、そのうち松山から通う者は二十五名ほどだ。三年生と合わせると五十名近くになる。みんな千鶴とは家が近いわけでもなく、家を出る時間もまちまちだ。それに四年生の級友たちも春子ほどは親しくない生徒がほとんどだ。だから、学校の行き帰りは千鶴は大概一人だった。
一人で歩く千鶴の頭に浮かぶのは忠之のことばかりだ。切ない気持ちで歩いていると、前方から電車がやって来るのが見えた。ぼんやりその電車を眺めていたら、ピーッと甲高い汽笛が聞こえた。振り返ると、後ろから来た陸蒸気が白い煙をもくもくと吐きながら、千鶴を追い抜いて行った。
陸蒸気の後ろには客車と貨物車がつながれている。山﨑機織の絣が港へ運ばれて行くのだ。やがて電車と陸蒸気はすれ違ったが、その光景はきっと忠之を喜ばせただろう。
そのあと電車は千鶴の脇を通り抜け、陸蒸気はどんどん前方へ遠ざかる。千鶴は陸蒸気を見送りながら、客車に乗る自分と忠之を思い浮かべた。二人で港へ行って、そこから船でどこか遠くへ向かうのだ。そうすれば、鬼からも差別からも逃げられるかもしれない。
だけど千鶴はすぐにため息をついた。逃げたところで自分は鬼娘なのだ。
三
女子師範学校の校舎はモダンな洋風の二階建てだ。
玄関の庇は見晴らし台になっており、その玄関を中心に両翼を広げた形に造られている。両翼の端はどちらも手前に突き出した別棟の建物みたいで、とてもお洒落な外観だ。
毎週月曜日にこの校舎を目にすると、千鶴は今週もがんばろうと引き締まった気持ちになった。しかし、今日はそんな気持ちにはなれなかった。
目に見える光景は同じなのに、先週とは異なる世界にいるような気がする。
他の生徒たちと顔を合わせると、いつもどおりに挨拶を交わす。でも、千鶴には他の生徒たちが自分とは別の生き物に思えてしまう。そんな違和感を覚えながら教室の前まで来ると、中から大きな声が聞こえた。
そっと中へ入ってみると、教室の真ん中で高橋静子が級友たちを集めて喋っている。
春子と同じく、静子は千鶴が寮にいた時の同部屋仲間だ。三津ヶ浜の菓子屋の娘で、少しぷっくらした明るい性格の娘だ。千鶴とも仲がいい。
本当は静子も名波村の祭りに誘われていた。けれど静子は親の許可が下りず、一緒に行くことは敵わなかった。でもそれが普通であり、どの級友たちにしても許されることではない。千鶴だけが特別に認められたのだ。それがわかっているからか、静子は気落ちの様子もなく、両腕を広げながら元気に喋っている。
「ほれがな、これよりもっと大けなイノシシやったそうな。こらもう絶対、山の主で。その山の主がな、いきなし襲て来たんよ」
イノシシと聞いてぎくりとした千鶴は、春子を探した。
春子は静子の近くに座っていた。きっと静子は春子から話を聞いたのだ。ならば、千鶴が春子の家を訪ねたことは、みんな知っているだろう。
千鶴に気がついた静子が、嬉しそうに手招きをした。すると春子の近くにいた級友が、千鶴のために席を空けてくれた。仕方なく千鶴はそこに座ったが、本当はイノシシの話などには交じりたくなかった。
「お戻りたか、山﨑さん。名波村のお祭りは楽しかった?」
静子がにこやかに言った。やはり話が伝わっているらしい。
「お陰さんで楽しませてもろたぞな。だんだんな、村上さん」
千鶴が声をかけると、春子は小さくうなずいて微笑んだ。だけど、その笑みがぎこちない。千鶴は気になったが、静子は構わず言った。
「今な、化け物イノシシの話をしよったんやけんど、山﨑さん、村上さんと一緒にイノシシの死骸見に行ったんやて?」
「そげなもん見とらんよ。うちらが見たんは、イノシシが死んどった場所ぎりぞな」
そんなことまで春子は喋ったのかと思いながら答えると、そがい言うたやんかと春子は静子に口を尖らせた。
何だか春子は不機嫌そうだ。それでも静子はちっとも気に留めていない。ほうじゃったかねと笑うと、さっきの話の続きを喋りだした。
「今の話やけんど、ほら、もうびっくりじゃろ? イノシシはあっちじゃ思て待ち構えよんのに、でっかいのが横から出て来よったんじゃけん。しかも、そんじょそこらのイノシシやないで。男の人が両腕いっぱい広げてもまだ足りん大けなイノシシぞな」
「なぁ、高橋さんは何の話しよるん?」
千鶴は小声で春子に訊ねた。すると春子が答える前に、静子が自慢げに言った。
「あんな、風寄で見つかった化け物イノシシはな、うちの伯父さんが高縄山で仕留め損のうたイノシシなんよ」
四
高縄山は風寄の南東にそびえる山だ。
聞けば、静子の伯父たちは木曜日から風寄の柳原にいたそうだ。高縄山へは翌日の金曜日に入るつもりだったらしい。ところが大雨になったために予定を一日ずらし、土曜日に高縄山へ入ったのだという。
春子は静子に何か言いたそうだったが、千鶴が先に喋った。
「雨でお祭りが後ろにずれはしたけんど、ほんまなら金曜日はお祭りやったんやないん?」
静子は他人事みたいな顔で、ほうよなぁと言った。
「自分とこの祭りじゃったら別やろけんど、他所の祭りのことは、あんまし神聖なもんじゃとは思わんのじゃろね」
「ほやけど、村の人らがよう許したもんじゃね」
「たぶん、銭をつかませたんやと思うで」
「銭?」
嫌な言葉だ。
確かに世の中は銭で動いている。銭がなければ飯も食えない。だからといって、銭に物を言わせて自分の思いどおりにするやり方は、千鶴は好きじゃなかった。
「お祭りは夕方から始まるんじゃろ?」
静子が訊ねると春子は面倒臭げに、ほうよと言った。静子が喋る間、春子はずっと面白くなさそうにしていたが、静子は無視して千鶴に言った。
「ほじゃけん、銭もろた人らは夕方の祭りに間に合う形で、猟の手伝いを引き受けたんやなかろか」
なるほどと千鶴が一応納得すると、通学組の他の生徒が二人、教室へ入って来た。静子は彼女たちに声をかけ、今がいな話をしよるんよと手招きして呼んだ。
二人が来ると静子は話を戻し、伯父が仕留め損なったイノシシが風寄の里へ逃げ、死骸となって見つかったのだと主張した。その理由はイノシシの大きさだ。
山の主とおぼしきイノシシなど、そうざらにいるものではない。だから両者は同じイノシシであり、結局は伯父が仕留めたことになるというのが静子の言い分だ。
あのイノシシが高縄山から逃げて来たという話に、千鶴は納得した。あの時のイノシシからは殺気が感じられた。あれは自分ではなく人間を憎む殺気だったに違いない。
イノシシ狩りについては、千鶴は祖父の話でどんなものかをだいたい知っている。数名の勢子と呼ばれる人夫を雇い、イノシシの居場所を調べさせて、射手がいる所まで追い込ませるのだ。
静子の伯父たちも、同様の狩りをしていたようだ。静子が言うように、村の誰かに銭を支払って、この勢子の役目を引き受けてもらったのだろう。
元々射手は四人いたという。それが予定がずれたことで一人が抜けたため、今回は静子の伯父を含めた三人だけで狩りを行ったそうだ。
三人はそれぞれ離れた持ち場に潜んで、勢子が追い込んで来るイノシシを待っていた。そこへ突然別のイノシシが現れて、伯父たちを襲ったのだと静子は言った。
静子の伯父は三カ所の持ち場のうち、端を担当していた。初めに襲われたのは、静子の伯父とは反対側のもう一方の端にいた射手だった。三人とも追われたイノシシがいつ現れるかと、前方に意識を集中していた。そのため、横から巨大なイノシシが近づいて来ていたことに、誰も気づかなかったらしい。
最初の犠牲者は銃を撃つ暇もなくやられてしまった。また、仲間がやられたことが残りの二人はわからなかった。
二人目が襲われた時、その悲鳴で静子の伯父は何が起こっているのかを初めて知った。その仲間もすぐにはイノシシに気づかなかったらしく、銃を発砲できないままやられてしまった。
静子の伯父はイノシシに銃を向けたが、仲間に当たると思って引き金を引けなかった。しかしイノシシが凄い速さで迫って来ると、慌てて引き金を引いた。するとイノシシは向きを変えて、山の麓の方へ逃げたそうだ。
「伯父さんは弾が当たったかどうかわからんて言うておいでたけんど、今朝の新聞では、イノシシは何かに頭やられて死んどったて書いとったけん、恐らく伯父さんの弾が頭に当たったんよ」
静子は新聞記事を根拠に喋った。三津ヶ浜は松山から離れているが、まだ暗いうちから電車が動いているため、新聞は朝に届くみたいだ。
「新聞にそげな記事があったん?」
千鶴が驚くと、ほうよほうよと静子は楽しげに言った。伯父が誇らしいのだろう。
千鶴は祖父の様子を思い出し、そういうわけかと納得した。今朝、祖父は同じ記事を読んでいたのだろう。それで事実を確かめようとして千鶴を呼び止めたが、気味の悪い話だからやめたのだ。
記事に「頭を潰された」ではなく「頭をやられて」とあるのは、記者が村人たちの話に半信半疑だったのかもしれない。何しろ証拠は残されていないのである。
神輿が投げ落とされる時に春子が村人から聞いた話では、イノシシの骨と毛皮は山陰の者たちに燃やされ埋められたらしい。理由は、やはり気味が悪いからだ。そのことを春子は相当残念がったが、事実を知った新聞記者も口惜しがったに違いない。
静子の話をうんざりした様子で聞いていた春子は、静子の隙を突いて口を開いた。
「高橋さん、新聞にはイノシシが猟銃で頭撃たれて死んだてあったん?」
静子はきょとんとしたあと首を振った。
「ほやけど、イノシシは伯父さんに向かって来たんで。そこへ鉄砲向けて撃ったんじゃけん、当たるとしたら頭じゃろ?」
「もし、高橋さんが言うたとおりやとしてな、頭撃たれたイノシシが、高縄山から辰輪村まで来られる思う?」
「辰輪村てどこ?」
春子はため息をつくと、高縄山と辰輪村の場所、それに双方の距離を説明した。
「高橋さんの伯父さんが高縄山のどこらにおったか知らんけんど、風寄側におったんなら、辰輪村まで半里から一里はあらい。その距離を頭撃たれたイノシシが移動でけるとは思えんで」
「大した傷やなかったんやない?」
「ほれじゃったら、死んだりせんじゃろに」
「じゃあ、何で死ぬるんよ?」
いらだった口調の静子に、春子は疲れたように言った。
「ほれをさっきから説明しよ思いよったのに、高橋さんがずっと喋りよるけん、何も言えんかったんやんか」
「じゃあ、村上さんはイノシシが死んだ理由を知っとるん?」
春子はにやっと笑ってうなずいた。
「もちろん知っとらい。少なくとも猟銃で撃たれて死んだんやないで」
五
何だ、そういうことかと千鶴は思った。
春子が不機嫌に見えたのは、いろいろ喋りたいのに静子ばかりが喋って、自分は口を開く間がなかったからだ。
早く理由を知りたい級友たちが、声を揃えて説明を求めると、春子はいかにも嬉しげな顔をした。あの場で千鶴が具合が悪くなったことなど忘れているみたいだ。
まぁまぁと春子はみんなを落ち着かせると、聞いて驚かないようにと、級友たちの顔をゆっくりと見まわした。主役を奪われた静子は憮然としていたが、春子と目が合うとどきりとした顔になった。
春子は静子の目をのぞきながら言った。
「イノシシはな、頭潰されて死んだんよ」
「頭を? 潰された?」
「ほうよ。潰されたんよ。ぺしゃんこにな」
級友たちの顔が引きつった。静子も顔が強張っている。
「ぺしゃんこに潰されたて、何に潰されたん?」
「ほれが、わからんのよ。傍には大けな岩も落ちとらんし、太い木ぃが返っとったわけでもないんよ。おらと山﨑さんが見に行った時には、血溜まりがあったぎりじゃった」
「村上さん、イノシシの死骸、見とらんのじゃろ?」
静子が精いっぱい抗うように言った。
「見とらんよ。ほんでも、見た人がそがぁ言いんさったけん」
「ほんなん、嘘かもしれんやんか」
「何人も見とるし、お寺の和尚さんに何がイノシシの頭潰したんかて、訊きにおいでた人もおったけん」
「和尚さんは何て言うたん?」
「わからんて言いんさった。ほんでも、これは大事じゃて思いんさったみたいじゃった」
静子が黙ると、他の級友が訊ねた。
「その死骸はどがぁなったん?」
「肉はな、村のみんなが食べてしもたんよ。ほれで骨と毛皮も燃やされてしもたけん、残念なけんど証拠になるもんは何ちゃ残っとらんのよ」
春子ががっかりした顔で話すと、静子は千鶴に訊ねた。
「山﨑さんは何ぞ気ぃつかんかったん?」
大きな足跡らしきものを見つけたとは言えない。千鶴は何も知らないことにした。
「村上さんが言うたとおりぞな。うちには何もわからん。そげなことより高橋さん、伯父さんと一緒やったお人らはご無事じゃったん?」
伯父の話を訊かれた静子は、少し元気を取り戻して言った。
「ほれがな、二人とも亡くなったんよ」
「亡くなった?」
静子はうなずくと、二人とも牙でずたずたにされたらしいと、さらりと言った。
「顔なんか見られんかったそうな。ほんでも一番ひどいんは喉の傷やったて。相当抉られて、血ぃが止まらんかったらしいんよ。イノシシもどこが急所なんか、わかっとったんじゃろかね」
千鶴はざわっとなった。鬼に助けてもらわなければ、自分がそうなっていたのだ。話を逸らしたつもりが、余計なことを聞いてしまったと千鶴は後悔した。
級友たちはさらに恐怖心を煽られたようだ。みんな声を失い、泣きそうな顔になっている。春子も二人が死んだのは意外だったみたいで、当惑した顔を千鶴に向けた。
「そげな恐ろしいイノシシが、何かに頭を潰されたんじゃね」
級友の一人が震えながら言った。それは化け物イノシシ以上の何かがいるという意味になる。もうやめてと言う者が出て来たので、静子は化け物の話はおしまいにし、伯父の話に切り替えた。
イノシシに襲われたあと、静子の伯父は勢子が戻って来るのを待って、里に助けを求めたという。だが、その里は祭りの準備で大忙しだった。
祭りは村人たちにとって神聖な行事だ。そこへ助けを求めたので、静子の伯父も勢子となった者たちも、村人たちから散々罵られたそうだ。こんな日に何をしていたのかという話である。
そもそもこの時期は、まだ狩猟が解禁されていなかったらしい。そんな時期にイノシシ狩りを行なったから、山の神の怒りに触れたのだと叱責され、静子の伯父は何も言えずに小さくなるしかなかったようだ。
だけど死人をそのままにしておくわけにはいかない。結局、村では死人を三津ヶ浜まで運ぶ大八車を用意し、それを勢子をしていた者たちに引かせることにした。
しかし山からの遺体の運び出しは、他の村人たちも手伝った。それから駐在所に届け出たあと、静子の伯父たちは夜の道を提灯を掲げて三津ヶ浜まで遺体を運んだそうだ。
遺体が山から運ばれたのは、千鶴たちが名波村に着いてからのことらしい。あの時にそんな恐ろしいことがあったのかと思うと、今更ながら千鶴は背筋が寒くなった。
勢子を引き受けた者たちは、村人たちから責められた上に、年に一度の祭りの楽しみを台なしにされたのである。死人を運ぶ時には相当な不機嫌だったに違いない。その中で、静子の伯父も大八車を引いたり押したりしながら、疲れた体で三津ヶ浜まで歩いたそうだ。三津ヶ浜に着いたのは真夜中だが、まだ終わりではない。
静子の伯父は三津ヶ浜で宿を営んでいるが、亡くなった二人も旅館の主人だった。
順番にそれぞれの旅館を訪ねた静子の伯父は、出て来た家人たちに事情を説明し、主の命を救えなかったお詫びをした。
突然の主の死に家人たちが慌てふためき、嘆き悲しむ様子は想像に難くない。静子の話では、泊まり客までもが起きて来る騒ぎになったらしい。
イノシシ猟は静子の伯父が一人で決めたことではない。しかし生きているのは静子の伯父だけなので、どうして大雨になったところで中止にしなかったのかと、みんなから責められたそうだ。
苦労して暇を作っての猟だったので、あきらめるわけにはいかなかったと弁解したらしいが、そんな言い訳は通用しなかった。仲間の一人は予定が変わったことで猟をあきらめて、一足先に三津ヶ浜へ戻ったのである。
怒りのすべてを向けられ、静子の伯父は土下座をするしかなかった。そうして何とか二つの旅館を廻って、主の遺体を引き渡してもまだ終わらない。死人を運んでくれた勢子たちにも、相応のお礼と泊まる部屋を用意しなければならなかった。
翌日は亡くなった者たちの通夜の準備を手伝い、こちらの警察にも改めて事情を説明した。その警察では禁猟時期の狩猟ということで、静子の伯父はかなり絞られた上に罰金を支払うことになった。そのあと疲労と混乱と悲しみでいっぱいの状態で家に戻ると、今度は家族から責められて、二度と狩猟はしないと誓わされたという。
柳原村にも日を改めてお詫びに行かねばならず、静子の伯父は寝込んでしまうほど、身も心もぼろぼろのくたくただったはずだ。しかし誰も味方になってくれないからか、日曜日の夜に弟である静子の父を訪ね、何があったのかを涙ながらに語ったと静子は言った。
そんな感じで一昨日の夜から三津ヶ浜は大騒ぎになっていたらしい。
女子師範学校は町外れにあるので、昨日の夕方に寮へ戻った春子は、町の騒ぎを知らなかった。だが静子みたいに三津ヶ浜に暮らす級友たちは、二つの旅館で同時に通夜が行われるのを訝しんでいたそうだ。
初めは伯父のことを誇らしげに喋っていた静子だったが、伯父の悲惨な状況を話す時には少しも気の毒がる様子もなく淡々としていた。それで春子が呆れた顔で言った。
「高橋さん、伯父さんがそげなことになっとったのに、ようあがぁに楽しげに喋ったもんじゃねぇ」
ほやかてと静子は頬を膨らませた。
「うちは風寄のお祭りに行かせてもらえんかったんじゃもん。ちぃとでもお祭りに関係した話がしたいやんか」
やっぱり静子も風寄の祭りに行きたかったのだ。
静子があれほどはしゃいで見えたのは、一緒に祭りに行けなかった寂しさをごまかしていただけのようだ。
六
廊下で始業の鐘が、からんからんと鳴り響いた。
みんなが急いで自分たちの席に戻ると、先生が入って来た。縮れ髪に丸眼鏡の井上辰眞教諭だ。専門は博物学で蒼白く痩せた姿はいかにも学者である。
「おはようございます」
立ち上がった生徒たちに井上教諭が挨拶をすると、みんなも大声で挨拶を返した。
教諭はみんなを座らせると、丸眼鏡を指で押し上げて言った。
「さて、今日は動物の分類についてお話しましょう。動物には背骨があるものと、背骨がないものがありますが、前者を脊椎動物、後者を無脊椎動物といいます」
教諭は黒板にカッカッと音を立てながら、チョークで「脊椎動物」「無脊椎動物」と書いた。そのあと順番に生徒に動物の名前を挙げさせると、その名前を脊椎動物と無脊椎動物に分けて、黒板に書き加えて言った。
「では、次は山﨑さん。他にどんな動物がいますか?」
人間と千鶴が答えると、教諭はにっこり笑ってうなずいた。
「そうですね。人間も動物ですね。では、脊椎動物ですか? 無脊椎動物ですか?」
「脊椎動物ぞなもし」
そのとおりと言って、教諭は脊椎動物の所に「人間」と書き加えた。
教諭は書き並べた脊椎動物の名前を、色違いのチョークで書き分けていた。
「赤で書いたのは哺乳類、青で書いたのは爬虫類です。それから、黄色は両生類で、緑は魚類、橙は鳥類です」
そう言って、教諭は黒板にそれぞれの色で「哺乳類」「爬虫類」「両生類」「魚類」「鳥類」と書いた。すると静子が、先生――と手を挙げた。
「はい、高橋さん」
教諭が顔を向けると、静子は立ち上がって言った。
「えんこは何色になるんぞなもし?」
「えんこ? えんこって何だい?」
「先生、えんこを知らんのかなもし。えんこいうんは川におって、子供を水に引きずり込んだり、お尻の穴を抜き取ったりするんよなもし」
「そいつは頭にお皿が載ってるのかな?」
「ほうです。体はぬめっとしとって、相撲が好きなんぞなもし」
何だ、河童のことか――と井上教諭は苦笑した。
「ここで分類してるのは、実際に存在が確かめられている動物だけが対象です。残念ながらえんこは存在が不確かだから、対象にはなりません」
「ほやけど、うちの叔母さん、こんまい頃にえんこ見たて言うとりましたよ?」
静子が食い下がると、他の生徒たちも口々に似たようなことを言った。
井上教諭は両手を挙げて、生徒たちを静かにさせた。
「それはわかりますけど、誰かが捕まえてみせない限り、存在していたとしても、存在していないのと同じ扱いになるんです」
「じゃあ、もし存在しよったら、どこに分類されるんぞなもし?」
執拗な静子にいらだつこともせず、井上教諭は顎に手を当てながら真面目に応じた。
「うーん、むずかしい質問だな。えんこか……。哺乳類のようでもあり、両生類みたいでもあるけれど、恐らく新たな項目に分類されるだろうな」
井上教諭が茶色のチョークで「えんこ」と書くと、みんな、ついさっきイノシシの死に様に怯えていたことなど忘れ、争って魔物や化け物の名前を挙げた。中には背骨がなさそうなものもあったが、教諭はそれらを一まとめにして書き並べた。
井上教諭は優しい人で、千鶴が知る中では珍しく生徒の話に耳を傾けてくれる先生だ。生徒たちが口にした化け物たちの名前を、教諭は真面目に黒板に書き並べた。
「これは次の試験に出すかもしれません。もう、ありませんか? 締め切りますよ」
誰かが、がんごと言った。
「がんご?」
井上教諭が首を傾げると、鬼のことぞなもしと春子が言った。教諭はなるほどとうなずきながら、黒板に「がんご」と書き加えた。それから同じチョークで「異界生物」と書いた。
みんなは井上教諭の分類に満足したようだ。だけど、千鶴は黒板から目を逸らして下を向いた。何だか自分が異界生物に分類されたみたいな気分だった。
実際、千鶴が鬼娘だと知れたなら、また千鶴に鬼が憑いているとわかったなら、千鶴はみんなから異界生物として恐れられるに違いなかった。そうなれば今以上に世間の目に曝されて、どこにも居場所はなくなるだろう。下手をすれば、家族までもが今いる所を追われることになる。
そんな千鶴の気持ちなど誰も知る由がない。級友たちは楽しげな声を上げ、井上教諭はそれを制しながら授業を進めていった。
奇妙な老婆
一
名波村を訪ねてから一週間が経った日曜日、千鶴は母と二人で奥庭にしゃがんで洗濯をしていた。
幸子が働いているのは個人経営の小さな病院だが、入院部屋があるため看護婦には夜勤がある。しかし、幸子は若くない上に家事を手伝うこともあり、仕事は日勤だけにしてもらっていた。また日曜日は病院は休診なので、入院患者の看護などは住み込みで働く若い看護婦が担い、幸子は休みとなっていた。
千鶴はいろいろ鬼のことを心配したが、この一週間は祖父母が妙に優しくなった以外は、特に変わりはなかった。まだ不安がなくなったわけではないが、今は少し落ち着きを取り戻していた。
そうなると忠之のことが無性に気になってしまい、あのあと無事に風寄に戻れたのだろうかとか、あれから何をしているのかなと、洗濯の手を動かしながら忠之のことばかりを考えていた。
母から話しかけられても上の空で、返事も頓珍漢なものばかりだ。それでも母親だけあって、幸子は娘の心の内がわかるらしい。怒りもせずに呆れたように笑っている。
「千鶴さん、お友だちがおいでたぞなもし」
勝手口で新吉の声がした。千鶴が振り向くと、新吉は珍しいお客に興奮している様子だ。そわそわした感じで落ち着きがない。
訪ねて来たのは春子だろう。この日、千鶴は祖父に許しをもらって、春子と遊ぶ約束をしていた。名波村の祭りへ招いてもらったお返しだ。
「だんだん。今行くけん」
千鶴が声をかけると、新吉は蔵へ行った。残りの洗濯物を母に頼んで、千鶴が急いで店へ向かうと、帳場で辰蔵と談笑している春子がいた。
「お待たせ。ようおいでたね」
千鶴が声をかけると、春子は嬉しそうに手を振った。
「ここは初めてやけん、どきどきしよったけんど、番頭さんが優しいけんよかった」
いえいえと辰蔵は照れ笑いをしたが、この番頭さんはほんまに優しいんよと、千鶴は辰蔵を持ち上げた。辰蔵は当惑の笑みを見せながら、あとは奥でごゆっくりと言った。
辰蔵の向こうでは弥七が街の太物屋からの注文書を確かめている。千鶴が来ても顔も上げないし声もかけない。これが茂七であれば、忙しい中であっても愛想よく声をかけてくれる。
「ほれじゃあ、お邪魔します」
春子は辰蔵に頭を下げ、弥七にも声をかけた。辰蔵は笑顔で応じたが、弥七は注文書をにらんだまま返事もしない。辰蔵に注意されて、ようやく申し訳程度に頭を下げたが、すぐにまた注文書へ目を戻した。
弥七は昔から素っ気ないのだが、それでも千鶴は面白くなかった。春に手代に昇格したばかりだが、もう半年は経っているのだ。手代として周囲への気配りは必要だろう。
とはいえ、いずれ東京の仕事が再開して茂七が向こうへ出されれば、松山の手代は弥七一人になる。新たな手代を祖父がどうするつもりかはわからないが、弥七はまだ一人ですべてを背負う自信がないのだろう。千鶴たちに構ってなどいられないのである。
蔵から戻った新吉が、抱えていた木箱を弥七の傍に置いた。これから町の太物屋へ届ける品だ。大八車は一台しかないので、午前中に茂七と弥七が交代で、それぞれが受け持つ太物屋へ注文の品を届ける。今は茂七が亀吉を連れて出ているところだ。
弥七に次の品を命じられた新吉は、またぱたぱたと蔵へ走って行った。
学校は日曜日が休みだが、商家に日曜日は関係ない。使用人が仕事を休めるのは盆と正月の藪入りと、給金がもらえる毎月の一日だけだ。といっても新吉たち丁稚には給与は出ず、一日であっても雑用などの仕事がある。その話を千鶴から聞かされていた春子は、まだ幼さの残る新吉の働きぶりに感心しきりだった。
二
千鶴は春子を家の中へ誘うと、茶の間にいる祖父母に会わせた。
甚右衛門とトミは頭を寄せ合いながら算盤を弾いていた。関東の大地震で受けた打撃の穴埋めをどうするかで、二人はよく言い争いをした。この時も口論が始まりそうだったが、春子に気づくと慌てて笑顔を見せ、祭りで千鶴が世話になったことを感謝した。
実際は風寄でいろいろあったわけで、春子は甚右衛門たちの応対に少し戸惑っていた。それでも千鶴に祭りへ出向く許しを出してもらえた礼はきちんと述べた。
トミは千鶴を招き寄せると素早く銭を持たせ、あとで二人で何か食べるように言った。
祖母が小遣いをくれるなど滅多にないことだ。有り難くいただきはしたものの、千鶴は少し薄気味悪い気がした。
上がり框を拭いていた花江が微笑んでいる。千鶴がトミに優しくしてもらったのが嬉しいみたいだ。
新たな木箱を抱えた新吉が蔵から戻って来て、そのまま帳場へ行った。新吉がいなくなると、千鶴は花江に春子を紹介した。花江は手を休め、笑顔で春子に話しかけた。
「千鶴ちゃんから風寄のお祭りの話、聞かせてもらったよ。あたしも風寄のお祭りにいつか行ってみたいな」
「ぜひおいでてつかぁさい。ところで、花江さんはどこからおいでたんですか?」
春子は花江の言葉が気になったようだ。花江はにこやかに、東京だよと言った。
「先月初めの大地震でさ。家もお店も壊れるし、そのあと大火事になっちゃって、きれいさっぱりなくなっちまった」
花江は笑ったが涙ぐんでしまい、悲しみを堪えるように唇を噛みしめた。けれど、すぐに笑顔に戻ると話を続けた。
「うちはここと取引があった太物問屋だったんだ。番頭さんは去年まで東京にいたんだけどさ。今年から交代で東京を廻ってた人と連絡が取れなくなったから、東京まで様子を見に来たんだよ。それで、あたしらみたいな取引先の所も一軒一軒廻ってくれたんだ」
「さっき、おらが喋っとった番頭さん?」
帳場を振り返った春子に、そうだよと花江は言った。
「番頭さん、路頭に迷ってたあたしを見つけてくれてさ。松山においでって言ってくれたんだ。他にも困った人はいっぱいいたのに、そんなこと言ってもらえたあたしは恵まれてたんだね。あたしを働かせてくれた旦那さんやおかみさんにも感謝しかないよ」
花江が甚右衛門とトミを見ると、春子も二人に顔を向けた。甚右衛門は当惑しながら、事情を聞いたら放っておけなかったと言った。トミも横でうなずいている。
そんな祖父母を見ると、千鶴は少し胸が疼いた。本当は二人とも情が深いのだろう。それだけに、自分が冷たくされてきたことが千鶴は悲しかった。
しかし、花江に嫉妬しているわけではない。千鶴にしても花江は本当に気の毒だと思っている。それに鬼の仕業ではあっても、ここのところの祖父母は比較的優しく見える。そのせいか祖父母が他人に優しくするのを見ても、さほど悲しくはならなかった。
千鶴たちが喋っている間、新吉は帳場と蔵の間を行ったり来たりしていた。それで少し疲れたのか、蔵から戻って来た新吉は抱えた木箱が重そうだ。入った頃と比べるとだいぶ逞しくなったが、それでもまだ子供の丁稚が一人で荷物を運ぶのは難儀なことだ。せめて、もう一人丁稚がいればいいのにと千鶴は思うのだが、今はどうにもならない。
新吉が帳場へ姿を消すと、その時に東京廻りをしていた人はどうなったのかと、春子が訊ねた。
千鶴は甚右衛門たちを気にしながら小声で言った。
「亡くなったんよ。ほじゃけん、あっちで荼毘に付してお骨になって戻んて来たんよ。そげなことも全部番頭さんがやってくんさったんよ」
「ほうなん。遠い所のことやけんど、大事やったんじゃね。ほんでも番頭さん、今年こっちへ戻んておいでんかったら、番頭さんが亡くなっとったかもしれんのじゃね」
それは春子の言うとおりで、誰が助かって誰が死ぬかは運としか言いようがない。
以前は手代が四人いた。一人は東京を廻り、三人が松山にいた。ところが七年前、手代の一人が藪入りに戻った故郷でコレラに罹って死んだ。翌年には、東京廻りの手代が結核に罹患しているのがわかり、静養するために仕事を離れて松山の病院に入院した。
そこで当時手代だった辰蔵が東京へ送られ、松山は勇七という手代一人だけになった。仕方がないので、甚右衛門はまだ丁稚だった茂七を使って、何とか手代不足を補った。
その次の年には、少し早めに茂七を手代に昇格させたが、今度はスペイン風邪で先代の頃からいた番頭が死んだ。山﨑機織の要である番頭の死は、かなりの痛手となった。
度重なる不幸に心折れそうになりながら、甚右衛門は神社で厄払いをしてもらい、番頭になれる者が出て来るまでと帳場に座った。結核で静養となった手代が戻ることが期待されたが、結局はこの手代も亡くなった。
急いで人員を揃える必要に迫られた甚右衛門は、今年弥七を手代に昇格させ、東京から辰蔵を呼び戻して番頭に据えた。代わりに勇七を東京へ送り込んだが、厄払いの甲斐もなく勇七は大地震の犠牲となった。弥七が手代になっていなければ、辰蔵はそのまま東京に残っていたはずで、地震の犠牲になったのは辰蔵だったかもしれなかったのだ。
「人の運命なんてわかんないもんさね。番頭さん、亡くなった人は自分の身代わりになって死んだんだって、大泣きしてたよ」
花江がしんみり言った。でもすぐに、ごめんよと笑顔を見せた。
「せっかく遊びに来てもらったのにさ。暗い話になっちまったね。あとでお茶を淹れてあげるからさ。もうちょっと待ってておくんなね」
だんだん、花江さん――と言い、千鶴は春子を奥庭へ連れて行った。すると、新吉が蔵から反物の箱を抱えて出て来た。
基本的に蔵の品の出し入れは丁稚の仕事だが、茂七は手が空いていれば一緒に運ぶ。けれど、弥七は急ぎでなければ手伝わない。自分もそうやって来たという思いがあるのだろうが、人手が足らないのだから少しぐらい手伝ってやればいいのにと千鶴は思う。
それでも新吉にしても亀吉にしても、文句を言わずに働いてくれる。その健気な姿がいじらしい。偉いねぇと春子に褒められ、新吉は嬉しそうにしながら家の中へ入った。
千鶴たちに気がついた幸子は洗濯の手を止め、春子をにこやかに迎えてくれた。
「先日は千鶴がえらいお世話になりました。狭い所なけんど、今日はゆっくりしておいでなさいね」
恥ずかしげにうなずく春子を、千鶴は蔵へ案内した。中の棚にはずらりと反物の木箱が積み上げられており、仕入れ先と文様ごとに分けられてある。
「うわぁ、がいじゃねぇ。これ、全部絣が入っとるん?」
目を丸くした春子は名波村の絣を探し始めた。しばらく薄暗い中で順番に生産地を確かめ、あった!――と春子が喜びの声を上げると、新吉が木箱を抱えて戻って来た。
「あれ? 箱間違えたん?」
千鶴が訊ねると、新吉は箱を棚の上に載せて口早に言った。
「仕入れの品が届いたんよ。ほじゃけん、届けの品はあとやし」
新吉は急いで蔵を出て行ったが、本当に忙しくて大変そうだ。邪魔になるので千鶴たちも蔵から出た。
ゆっくりできるのは離れの部屋だけなので、千鶴は春子と一緒に再び母屋に戻った。
千鶴が祖父母に声をかけて茶の間に上がろうとすると、帳場から箱を抱えて来た新吉が奥庭へ行った。
千鶴がひょいと帳場の方を見ると、店と中を仕切る暖簾の下から表の通りが見えた。店の前には牛車があり、牛の尻尾がゆらゆら揺れている。
暖簾で顔は見えないが、仲買人と思われる男が牛車から木箱を帳場へ運び込んでいる。その中身を弥七が確かめ、確かめ終わった木箱を新吉がせっせと蔵へ運ぶのだ。
忙しい新吉の姿は、千鶴に後ろめたさを感じさせた。しかし、この日は特別だと自分に言い聞かせて、春子を離れの部屋へ案内した。
三
「へぇ、こげな自分らの部屋があるんや」
春子は珍しげに部屋の中を見まわした。
風寄の実家には、春子だけが使える部屋はない。寝る時は他の者と同じ部屋で寝る。千鶴が泊めてもらっていたならば、やはり春子たちと同じ部屋で寝ることになっていた。
だから千鶴と幸子に自分たちの部屋があることが、春子には羨ましく見えるのだろう。だが実態はロシア人の娘である千鶴と、千鶴を産んだ幸子が穢らわしいということで、母屋とは離れたこの部屋に置かれているのだ。ただ、離れ自体は千鶴たちのために建てたものではない。ずっと昔に建てられたものだ。
甚右衛門は元々は山﨑家の者ではなく、外から婿入りをした。そうして甚右衛門がこの家を継いだ時に、この離れはトミの両親の隠居部屋として使われた。つまり千鶴の曾祖父母の部屋だったのだが、その前は高祖父母が使い、曾祖父母が亡くなったあとは、幸子の兄正清が使っていた。
これまで千鶴は春子を祭りに誘ったり、春子と街へ出かけることはあった。だけど自分の部屋へ入れたのは、これが初めてだった。
家と店は一体となっているので、すべては商いが中心だ。気軽に誰かを家に呼び入れるなど許されない。それに、千鶴も家の中を他人に見せたくなかった。今回春子を家の中へ招いたのは特別なことだ。
「番頭さんらは、どこに寝泊まりするん?」
「お店の上に部屋が三つあるけん、番頭さん、花江さん、ほれから手代と丁稚の人らで使とるんよ」
「ええなぁ。おらん所は平屋じゃけん、二階には憧れとるんよ。自分の部屋はあるし、二階はあるし、やっぱし町の暮らしは違わいねぇ」
いくら羨ましがられても、千鶴は一つも嬉しくない。それに春子の家の方がここより遥かに広いし、蔵だって大きい。曾祖母が使っている離れもあるし、電話だってある。春子の言葉は半分以上お世辞のように聞こえてしまう。
千鶴は適当に愛想を振り撒きながら、井上教諭の話に話題を変えた。というのは、井上教諭に思いがけないことが起こったからだ。
「ほれにしても、井上先生、お気の毒じゃったね」
千鶴の言葉に、春子は大きくうなずいた。
「ほんまじゃねぇ。まっことお気の毒じゃった」
先週の火曜日、警察から井上教諭に連絡が来た。風寄で宿代を踏み倒そうとした男の身元引受人として呼ばれたのである。
警察に捕まった男は井上教諭の叔父ということだった。それで教諭はその日の午後の授業を休ませてもらって、急遽風寄へ向かった。
もちろんそんな内輪の、しかも恥になる話を、井上教諭が生徒たちに喋ったりはしない。この話は寮の食事を作ってくれる食堂のおばさんたちから春子が聞いたものだ。
その話によれば、井上教諭の叔父だというその男は、風寄の祭りを夫婦で見に行っていたらしい。その間、二人は北城町の宿屋に泊まっていたが、祭りが終わった翌朝に、まず女房が姿を消した。そのあと亭主すなわち教諭の叔父が逃げ遅れたところを捕まったのである。
しかし、教諭の叔父は一緒にいたのは女房などではなく、自分は女に騙されたのだと訴えたそうだ。言い分としては、仕事で東京から高松に移って来たので、三津ヶ浜にいる甥に面会に行ったのだという。女とは松山から乗った客馬車で知り合ったらしい。
この話を聞いた千鶴は、もしやと思った。客馬車で一緒になった山高帽の男の話によく似ていたからだ。祭りの夜にもあの男が二百三高地の女と一緒にいるところを、春子と目撃している。春子も自信を持って、絶対にあの山高帽の男だと断言した。
あの時、千鶴たちは月曜日の授業があるので、日曜日のうちに松山へ戻って来た。だが風寄の祭りは、神輿の投げ落としが終わりではなかった。翌日には鹿島から海を渡って来た二体の神輿が北城町や浜辺の村を練り歩き、港では前夜遅くまでだんじりが集結して賑やかに神輿を迎えていた。
神輿は渡御が終わると、禊ぎといって穢れを落とすために川や海に何度も豪快に投げ入れられる。そのあと神輿は船に乗せられて、迎え火が焚かれた鹿島へ帰って行くのだが、神輿の船を先導する船の上では、男たちが夕日を浴びながら勇壮な舞を披露する。
この二人はこの鹿島の神輿までも楽しんだようだ。そして翌朝、女は教諭の叔父の財布を持って姿を眩ました。教諭の叔父は呼ばれた警官に無実を訴えたが、結局は宿代の踏み倒しということでしょっ引かれ、甥である井上教諭が呼ばれたのだった。
井上教諭は風寄へ向かう前に、叔父が泊まった宿代や、叔父が高松へ戻る費用などを工面する必要があった。それで教諭は給料を前借りしたという話だ。
井上教諭にしてみれば、自分にはまったく関係のないことで、とんだ身内の恥を曝す羽目になったわけだ。しかも警察や宿屋の主人に下げなくていい頭を下げ、学校にも迷惑をかけたことを詫び、給料の前借りまでしたのである。
千鶴たちは水曜日に井上教諭の姿を見かけたが、教諭はげんなりして覇気がなかった。給料を前借りしたら来月はどうやって暮らすのだろうと、千鶴たちは教諭の暮らしを心配した。だが女に騙された教諭の叔父のことは、少しも気の毒だとは思わなかった。あんな見るからに怪しい女に騙されるのは、男が悪いというのが二人の出した結論だ。
千鶴たちはこの話を知らないことになっているので、井上教諭に慰めの言葉もかけられない。こうして二人で気の毒がるのがせめてものことだった。
四
「ずいぶん盛り上がってるじゃないの」
お茶とお菓子を運んで来てくれた花江が楽しげに言った。
花江は千鶴たちの分だけでなく、自分の分まで持って来ていた。二人の話に交ざって少し一服しようというのだろう。
春子はここだけの話と言いながら、花江に井上教諭と山高帽の男の話をした。すると、やはり花江は井上教諭を気の毒がり、教諭の叔父には毒づいた。
「ほんっと男って馬鹿なんだから。そんなのを自業自得っていうんだよ。だけどさ、その先生もほんとにお気の毒だねぇ」
花江は千鶴たちがお菓子を食べていないのに気づくと、早く食べるよう促し、話は違うけどさと言った。
「風寄じゃあ、お祭りの最中にあっちこっちで空き巣が入ったらしいね。新聞に書いてあったよ」
「へぇ、花江さん、新聞を読みんさるんじゃね。おらなんか全然読まんけん、尊敬するぞなもし」
春子に褒められて、花江は照れた。
「そんな大層なものじゃないよ。旦那さんが読み終わったのを、あとでこっそり読ませてもらってるんだ」
花江に感心しながら、春子は千鶴に言った。
「覚えとる? あの二百三高地の女の隣に、鳥打帽かぶった若い男がおったろ? あれ、何か怪しいことない?」
「怪しいて?」
「ほやけん、花江さんが言いんさったじゃろ? 祭りん時にあちこち空き巣が入ったて」
千鶴が鳥打ち帽の男のことで覚えているのは、ちらちらと自分を盗み見していたことぐらいだ。しかし、男が客馬車を降りる時のことが頭に浮かぶと、あ――と言った。
「あの人、あの女の人と目で合図しよったみたいに見えたで」
「じゃろげ? あいつら絶対にぐるぞな」
花江が千鶴と春子の顔を見比べながら言った。
「何だい何だい、二人とも空き巣を見たっていうのかい?」
ほういうわけやないけんどと、千鶴は少し口を濁した。
「ほうかもしれん人と、同し馬車に乗り合わせたんよ」
「そいつが鳥打帽をかぶった若い男なんだね? 二人とも凄いじゃないか。警察に教えてあげなよ」
「ほやけど、鳥打帽かぶった人なんか、なんぼでもおるけん」
千鶴が自信なく言うと、花江は素直にうなずいた。
「まぁ、それもそうだけどさ。あたしゃ鳥打帽の男には気をつけとくよ。それと二百三高地の女だね」
花江は自分の茶菓子を食べると、急ぐようにお茶を飲んだ。
さてと――と腰を上げた花江は、気合いの入った顔を見せた。
「そろそろ仕事に戻んなきゃね。千鶴ちゃんたちはこのあとはどうすんだい?」
「ちぃと街に出てみよかて思いよるんよ」
「そりゃいいや。ゆっくり楽しんでおいでよ」
花江はお盆を持つと部屋から出ようとした。ところが障子を開けたところで、千鶴たちを振り返った。
「そうそう。いい機会だから教えとくれよ。風寄の祭りの晩にでっかいイノシシの死骸が見つかったって、新聞に出てたんだけどさ。あれ、本当かい?」
千鶴はぎくりとしたが、春子は満面に笑みを広げ、ほんまぞなもしと声を弾ませた。
花江は目を輝かせると、千鶴たちの所へ戻って来た。
「見たのかい?」
「おらたちは見とらんけんど、男の人が両腕広げても、まだ足らんぐらい大けなイノシシじゃったと」
花江は自分で両手を広げながら、へぇと言った。
春子は静子の伯父の話も、花江に聞かせてやった。その話も新聞に載っていたみたいで、あの話かいと花江は驚いていた。
同じ話でも、記事で読むのと関係者から聞かされるのとでは、やはり迫力が違うらしい。花江はずっと眉をひそめながら、春子の話を聞いていた。静子の伯父の仲間が殺された様子には、花江は小さく身震いをしながら、くわばらくわばらと言った。
「二人とも、そのイノシシに出くわさなくてよかったねぇ。もし出くわしてたらさ、今頃あの世行きだよ」
何も言えない千鶴の横で、ほんまほんまと春子はうなずいた。花江はもう一度眉を寄せると、でもさと言った。
「そのイノシシは死んでたんだろ? 新聞には何かに頭をやられたってあったけどさ。あれ、どういうことなんだい?」
千鶴はそんな話はしたくなかったが、春子は得意げにイノシシの死に様などを説明した。学校でもそうだったが、春子はあそこで千鶴がどうなったかなど忘れているらしい。
「本当にそんなことがあるのかい?」
花江は信じられないという顔で千鶴たちを見た。
「そんな大きなイノシシの頭を潰したのが、岩でも木でもないとしたら、そりゃ、とんでもない化け物じゃないか! 風寄には昔からそんな化け物が棲んでるのかい?」
「いや、そげな話は聞いたことが――」
言葉を切った春子が口を半分開いたまま千鶴を見たので、花江も千鶴に目を向けた。
「何だい? 千鶴ちゃんが何か知ってるのかい?」
「うち、何も――」
千鶴は惚けようとしたが、鬼かもと春子が言った。花江は動転したように目を剥いた。
「がんご? がんごって新ちゃんが言ってたね。確か、鬼のことだろ?」
千鶴が渋々うなずくと、花江は興奮した様子で、風寄には鬼がいるのかと言った。
答えられない千鶴は黙っていたが、春子がひぃばあやんから聞いた話だと喋り始めた。
「だいぶ昔のことなけんど、おらのひぃばあやんのおとっつぁんが……、えっと、ほじゃけん、おらのひぃひぃじいやんがな、浜辺で大けな鬼を見たらしいんぞなもし」
人間よりずっと大きな鬼が、浜辺で大勢の侍と戦って皆殺しにしたあと、大きな黒い船に乗って海へ逃げたと、春子はまことしやかに語った。
知念和尚の話では、侍たちと戦ったのは代官の息子なのだが、春子はそのことには触れなかった。また千鶴を気遣ってか、鬼娘の話もしなかった。
花江は驚きのあまりすぐには言葉が出せず、うろたえながら言った。
「そ、それはほんとかい? 風寄にはそんな鬼が今もいるってことかい?」
「今まではおらんかったんやけんど……」
「いるんだね?」
春子はちらりと千鶴を見てから、今年の八月の台風で鬼よけの祠が壊れたと言った。
「鬼よけの祠?」
「鬼が二度と村に戻んて来んように、おらのひぃひぃじいやんがこさえたんぞなもし」
「その祠が壊れたって言うのかい? それは一大事じゃないか。イノシシを殺したのは絶対に封じられてた鬼さ。早く祠を造り直さないと大変なことになるよ!」
「ほやけど、鬼の話するんはひぃばあやんぎりやし、妙な噂立てられても困るけん、おとっつぁんも祠を直す気ぃはないみたいな」
自信なさげな春子に、花江は言った。
「イノシシの話がなかったら、鬼の話はひいおばあちゃんの妄想っていえるかもしんないけどさ。実際、イノシシが頭潰されて死んだんだろ? 鬼でなかったら、他に何がイノシシの頭を潰せるっていうんだい?」
「そがぁ言われたかて……」
春子は助けを求める目で千鶴を見た。話を打ち切りたい千鶴は、動揺を隠して花江を落ち着かせようとした。
「風寄では鬼のことも鬼よけの祠のことも、村上さんのひぃおばあちゃんの他は誰っちゃ知らんのよ。ほじゃけん、イノシシのこともこっちで思うほどは、みんな気にしとらんみたいなんよ」
「だって、大変なことじゃないか」
「ほんでも向こうの人が何とも思とらんうちは、どがぁもしようがないけん。ほれに鬼がイノシシを殺す理由もわからんし」
本当はわかっているが、それは言えない。
「そりゃ、そうだけどさ」
花江は納得がいかない様子だった。しかし、ここであれこれ騒いだところで仕方がないので話をやめた。
花江さん――奥庭で花江を呼ぶ声が聞こえた。亀吉だ。品納めから戻ったらしい。
「また誰かが来たみたいだね。今日は忙しいよ」
花江はお盆を持って部屋を出て行った。
ようやく鬼の話が終わり、千鶴がほっとしていると春子が言った。
「花江さんて元気なお方じゃねぇ。先月、家族やお店を失さした人とは思えんぞな」
「あがぁしとらんと、悲しいてめげそうになるんよ。東京の話した時に泣きそうな顔しておいでたろ? まっことつらい思いをしたお人じゃけん、うちなんかのこともよう励ましてくれるんよ」
春子は母屋の方へ顔を向けながら言った。
「ええお人なんじゃねぇ」
「ほうよほうよ。花江さんはまっことええお人ぞな」
「ええお人いうたら、あの風太さんはどがいしておいでようか」
風寄から戻って来た翌日に、春子は風太への感謝の気持ちを千鶴には喋った。でも静子には風太の話はしなかったし、級友たちの前で風太を話題にすることはなかった。なのにここで突然風太の話を出したので、千鶴は鬼のことも忘れるほど慌てた。
もちろん忠之がどうしているのかは気にはなっている。けれど、それは春子と一緒に考えることではない。
「さぁ、どがいしとろうか」
千鶴は無関心を装ったが、春子はまた風太さんに会いたいと言い続けた。忠之のことがかなり気に入ったのだろう。でも、千鶴はそんな話は聞きたくなかった。それで、そろそろ街に出かけようかと持ちかけると、行く行くと春子は満面の笑みになり、いそいそと腰を上げた。やれやれと思った千鶴は、春子に背を向けて小さくため息をついた。
五
離れを出て渡り廊下から奥庭を眺めると、物干しに洗濯物が掛けられていた。洗濯を母一人に押しつけてしまったことを、申し訳ないと思いながら千鶴は母屋へ入った。
幸子は台所にいて、昼飯の準備を始めていた。
甚右衛門はどこかへ出かけたらしい。茶の間ではトミが一人で新聞を眺めている。その傍では、花江が火鉢のお湯でお茶を淹れていた。やはり表に誰かが来ているようだ。
「おばあちゃん、村上さんと街に出かけて来ます」
千鶴が声をかけるとトミは顔を上げ、ゆっくりしておいでと笑顔で言った。その笑顔にどきりとした千鶴に、振り返った幸子が言った。
「お昼はどがぁするんね? お友だちの分もこさえよ思いよったけんど」
千鶴はちらりとトミを見て言った。
「おばあちゃんからお小遣いもろたんよ。ほじゃけん、何ぞ食べて来るけん」
「おばあちゃんがお小遣い?」
幸子は訝しげにトミを見たが、トミは何も聞こえていないふりをして新聞を読んでいる。ふっと笑った幸子は、行ておいでと言った。
千鶴が花江にも声をかけて土間へ降りると、春子もみんなに挨拶をしながら続いた。
何気なくちらりと店の方に目を遣った千鶴は、あれ?――と思った。暖簾の下から表の荷車が見える。しかし荷車を引く牛がいない。ということは、荷車は大八車のようだ。
遠方から反物を運ぶには牛車を用いる。大八車は人が引くので、近場でしか使わない。
松山の町中にも伊予絣を作っている所はある。そんな近い所であれば大八車を使うだろうが、山﨑機織が仕入れているのは、遠方の百姓や漁師の女たちが作った絣ばかりだ。荷物を運んで来るのは牛車に決まっていた。
弥七たちが注文の品を届けに行くのかと思ったら、木箱を抱えて入って来たのは亀吉だ。弥七たちはすでに外へ出たようだ。それに花江がお茶を淹れているのだから、やはり仲買人の大八車だろう。祖父は近場からも絣を仕入れることにしたのかもしれない。
外で亀吉に木箱を手渡しているのは仲買人のようだが、運ばれた木箱を確かめているのは辰蔵だ。茂七はどこにいるのか姿が見えない。
「どがぁしたんね? お友だちが待ちよるよ」
帳場を眺めている千鶴に、幸子が声をかけた。
千鶴は店の前にある大八車のことを話そうとしたが、勝手口の前に立つ春子を見て話すのをやめた。
「お待たせ。ほんじゃ、行こか」
春子に声をかけると、千鶴は春子と奥庭に出た。学校へ行くわけではないし、今は帳場は混み合っている。だから今日は裏木戸から出ることにした。
来た時に入った所と出る所が違うので、春子は面白がりながら千鶴に従った。
裏木戸をくぐって脇の道に出ると、春子は辺りを見まわして、自分がどこにいるのかを確かめた。それから千鶴の家を見上げ、二階に上がってみたかったと言った。
春子は余程二階に憧れているらしく、いつか自分が嫁入りする時は、二階のある家が条件だと言った。
「師範を続けるんが条件やないん?」
千鶴が訊ねると、あははと春子は笑った。
「言うてみたぎりぞな。師範になるんも嫁入りするんも、全部おとっつぁんが決めるけんな。おらはただほれに従うぎりやし。山﨑さん所かてほうじゃろげ?」
「ほうじゃね。うちは全部おじいちゃんが決めんさるけん、おじいちゃんが決めたとおりになるんよ」
まだ具体的には何も言われていない。だが、千鶴は祖父母が本気で自分の婿取りを考えていると思っていた。たとえその婿が鬼であろうと、祖父に命じられれば拒めない。千鶴は喋りながら己の無力さを感じていた。
「ほれにしても、こないだの風太さんはええ男やったわいねぇ」
またもや春子が忠之の話をし始めたので、千鶴は慌てた。
忠之の素性を知れば春子も気が変わるかもしれないが、そんなことは忠之を貶めることになるのでできない。だけど、このまま春子が忠之への気持ちを膨らませるのは困る。どうせ鬼娘である自分は忠之に想いを伝えることはできないが、それでも春子に忠之を取られるのは嫌だった。
「そがぁにええ男やったかいねぇ」
千鶴は素っ気なくしながら、春子の忠之への興味を削ごうと思った。しかし、そんなことは春子には通じない。
「風太さんは山﨑さんの好みやなかったみたいなね。山﨑さん、あんましおらみたいには風太さんと喋らんかったし」
ほれはあなたがおったけんじゃろがねと、千鶴は言葉が喉元まで出かかった。
何も知らない春子は、あんな男は他にはいないと、忠之のいい所を並べ立ててべた褒めした。いかにも忠之に惚れてしまったと言わんばかりだ。
このままではまずいと思った千鶴が、何か言わねばと考えていると、裏木戸の向こうから辰蔵の声が聞こえた。
「いや、こげなことまでしてもろて、まっこと申し訳ない」
いやいやと応じる男の遠慮がちな声もしたが、声が小さくてよく聞こえない。
「兄やん、こっちぞな」
亀吉の元気な声がした。やはり表の大八車は近場の織元からのもののようだ。男は絣を運んで来た仲買人だろう。思ったとおり、祖父は売り上げを伸ばすため新たな品を仕入れることにしたみたいだ。
どうしてだか茂七がいないようだが、代わりにこの仲買人が反物を蔵へ運ぶのを手伝ってくれているらしい。思いがけない助っ人に亀吉がはしゃいでいる。
今はどこの織元や仲買人も新たな商売相手を求めている。この仲買人は新たな顧客を得たことが余程嬉しかったに違いない。だから亀吉を手伝ってくれたのだろうが、ずいぶんと人が好い。ここまでしてくれる仲買人の話は聞いたことがない。
春子の気持ちを忠之から逸らすため、どこの誰かは知らないけれど、ここまでしてくれる人はなかなかいないと、千鶴はこの仲買人を褒め上げた。すると、風太さんみたいなお人じゃねと春子は笑い、千鶴はがっくりした。
「そこのお前!」
突然後ろから嗄れた声が叫んだ。驚いて振り返ると、杖を突いた老婆が立っていた。真っ白な髪を束ねることもせず、ぼぉぼぉと伸ばしたままの不気味な老婆だ。
「お前はこの家の者か?」
唐突で不躾な物言いに、千鶴はむっとした。しかし、見知らぬ者から侮蔑の眼差しを向けられるのは珍しいことではない。言い争うのも嫌なので、ほうですと千鶴は答えた。
何ぞご用ですかと訊ねても、老婆は何も言わずに千鶴の後ろにある裏木戸をじっとにらんだ。
「何ぞな? いきなり失礼じゃろがね!」
春子が文句を言ったが、老婆の耳に春子の声は少しも届いていない。
老婆は千鶴に顔を戻したが、その顔は何だか緊張で強張っているみたいだ。
「お前には鬼が憑いておるの。この家には鬼が入り込んでおるぞ」
老婆の言葉に千鶴は固まってしまった。それが図星であったことと、春子の前で告げられたことで声も出なかった。
「何言うんね! あんた、頭おかしいんやないん?」
春子が声を荒らげても、老婆は一向に堪える様子がない。千鶴をじっと見つめていた目を細めると、おや?――と言った。
「どうやらお前にも原因があるようじゃな。鬼はお前が呼び寄せたともいえるの……。ふーむ、なるほど。元々、お前と鬼は――」
喋りながら裏木戸に目を遣った老婆は、急に血相を変えた。そして、そのまま黙って立ち去ろうとした。
千鶴は反射的に老婆を呼び止めた。
「あなたは誰ぞなもし?」
老婆は立ち止まると、千鶴を振り返った。
「わしはな、お祓いの婆ぞな。この先に用があって行くとこなけんど、鬼が見えた故、お前に声をかけたまでよ」
「じゃあ、うちはどがぁしたらええんぞなもし?」
「気の毒やがな、わしはお前の力になってやれん。お前に憑いとる鬼は一筋縄でいく鬼やないでな。わしごときの力じゃ、どがぁもできまい。ほれに、鬼はお前を――」
ふと千鶴の後ろに視線を向けた老婆はぎょっとなり、慌てた様子で口を噤んだ。まるで余計なことを言うなと、何者かに脅しをかけられたみたいだ。
老婆は何も言わず、千鶴に背を向けると逃げるように行ってしまった。千鶴はもう一度声をかけたが、老婆は振り返りも立ち止まりもしなかった。
婿になる男
一
春子が風太すなわち忠之に自慢したとおり、紙屋町の入口である札ノ辻の北側の角には、木造四階建ての大丸百貨店がある。千鶴が高等小学校に入った大正六年に建てられたものだ。
紙屋町を含む城山の西側の区域は古町三十町と呼ばれている。明治になるまでこの区域は松山の商いの中心地で、租税も免除される特別地域だった。ところが明治になると租税免除の特権がなくなり、古町三十町の勢いは衰えた。
一方で、城山の南に位置する外側と呼ばれる地域にも、商人が暮らす町があった。こちらは伊予鉄道の起点となる松山駅ができたため、大いに活気づいた。
古町の商人たちは、このまま商いの中心が外側へ移ることを恐れた。それで古町の呉服屋が逆転を狙って建てたのがこの大丸百貨店だ。
当時、とても珍しくハイカラな大丸百貨店は、たちまち松山名所として人気を博した。東京の三越百貨店を知る花江も、地方の街にこんな百貨店があることに驚いたという。
当然、春子もここに憧れており、大丸百貨店へ行きたいと千鶴にせがんだ。だけどそれは半分が本当の気持ちで、あとの半分は千鶴を元気づけるためのものに違いない。
見知らぬ老婆からいきなり鬼が憑いていると言われた時、千鶴はあまりのことに呆然とするほかなかった。
春子は老婆に悪態をつき、何も気にすることはないと千鶴を慰めた。しかし、千鶴が平穏な気持ちになれるわけがない。そんな千鶴の気持ちを察して、春子は百貨店行きを明るくはしゃいでいるようだ。
表に回ると、店の前に空になった大八車が置かれていた。山﨑機織のとは別のものだ。これを運んで来た仲買人は、特別に奥でお茶を出してもらっているのだろう。帳場にいるのは辰蔵と亀吉だけだ。やはり茂七の姿はない。
いつもの千鶴であれば、大八車や茂七のことを確かめたところだが、今は何も考えられない。黙って店の前を通り過ぎようとしたところを、亀吉に声をかけられてようやく我に返った。それでもぎこちない笑みを返すしかできず、代わりに春子が、行てくるけんと返事をしてくれた。
「電車降りた時にな、おら、今日は絶対ここに来よて思いよったんよ」
百貨店の前に立った春子は、嬉しそうに千鶴を振り返った。けれど、千鶴を気遣っているからか、その笑顔は少し大袈裟に見える。
千鶴も春子が訪ねて来たら、ここへ連れて来るつもりだった。
学校の寮は門限が厳しいし、生徒たちはそれほどお金を持っていない。そのため、休みに外へ出るにしても三津ヶ浜ばかりで、松山まで遊びに出ることはほとんどなかった。
だから春子が大丸百貨店を訪れたのは去年の一度きりで、今回百貨店をのぞくのは楽しみにしていたはずだ。とはいっても、百貨店のすぐ近くに暮らす千鶴でさえも、ここへ来ることはない。
基本的に百貨店で取り扱っているのは高級品ばかりだ。山﨑機織の誰もが一度はこの百貨店を訪れたが、そのあとは本当に用事がない限り来ていない。仕事が忙しくて来る暇などなかったが、不要な高級品を買うだけの余裕がないのが一番の理由だ。
建物の中に入ると、まずそこで履物を脱いでスリッパに履き替える。脱いだ履物は下足番が預かって、裏口に回される仕組みになっている。もうこれだけで春子は大興奮だ。
通常の店では番頭が帳場に座り、客の注文に応じていちいち品を出して来る。ところが、百貨店ではすでに商品が陳列されているのだ。つまり、客は自分の頭になかった品を見られるのである。それは思いがけない品との出会いであり、商品を眺めているだけでも愉快で楽しかった。
また、百貨店の店員は全員が着物姿の女性だ。女性が客に商品の説明をして販売するのである。それも千鶴や春子には新鮮だった。
番頭や手代は男の仕事と決まっている。女には女中の仕事ぐらいしかない。女が働ける場所は限られており、千鶴たちが師範を目指している背景には、そんな事情もあった。そのため百貨店で働く女性店員の姿は、千鶴には輝いて見えた。
しかし、それは以前にここを訪れた時のことであり、今は老婆に言われたことで、何にも感動できなくなっていた。さらに、じろじろと目を向ける他の客たちの視線も、千鶴を憂鬱な気分にさせた。だけどせっかく来てくれた春子に嫌な想いをさせるわけにはいかないので、千鶴は心の内は隠したまま楽しいふりをしていた。
百貨店の一階は、ハンカチや靴下などの洋品が置かれている。二階は呉服売り場で、三階には文具と化粧品がある。
各売り場に陳列された商品はいずれも高級で、春子は眺めるしかないのを残念がった。けれども、百貨店には商品以外にも目玉になるものがあった。えれべぇたぁだ。
えれべぇたぁとは、案内の女性がいる小部屋だ。この小部屋はとても面白い。案内の女性が扉を閉め、次に開けた時には外は別の売り場になっているのだ。
去年来た時にも使ったはずなのに、春子は初めてみたいに大はしゃぎだった。
三階までは商品売り場だが、最上階の四階は食堂になっている。ここでの食事には憧れがあるが、祖母からもらった小遣いでは足が出る。それに食堂を埋める年配の女性たちに気後れしたので、二人は食堂はやめて外へ出た。
百貨店を出ると、すぐそこに師範学校がある。
師範学校があるのは西堀の北端で、建物の手前を電車が走り、その向こう側を札ノ辻を起点とした今治街道が通る。先日、忠之に人力車で運んで来てもらったのはこの道で、春子が人力車を降りたのが師範学校の前だ。
あの時は街灯ぐらいしか明かりがなかったので、師範学校はよく見えなかったが、今は太陽の下でその華麗な姿を見ることができる。遥か昔、中国の秦の始皇帝が建てた宮殿は阿房宮と呼ばれたが、それにちなんで師範学校は伊予の阿房宮という呼び名がつけられている。
「こっちが女子師範学校で、三津ヶ浜にあるんが師範学校やったらよかったのになぁ」
伊予の阿房宮を眺めながら、春子が残念そうに言った。
「ほれじゃったら、学校が休みん時は松山で遊べるし、この百貨店もちょくちょくのぞけるのに」
千鶴が女子師範学校に入った頃は寮生活だったので、松山から離れられたと千鶴は喜んだ。しかし寮を出て自宅から通い始めてからは、こちらが女子師範学校でないことを恨めしく思うことがあった。
女はいつも後回しで、何かのついででなければ目を向けてもらえないと、二人は文句を言いながら札ノ辻を南へ進んだ。
少し行くと、右手に勧商場がある。勧商場とは一つの建物の中にいくつもの小売店が集まったもので、ここには化粧品や衣類、日用雑貨などの店が並んでいる。
春子はここも初めてではない。なのに北城町の勧商場よりこちらの方が規模が大きいと、初めて訪れたみたいなことを言いながら、並べられた商品を見てまわった。高級品ではないので、高くて手が出せないわけではないが、二人は女学生の身分なので、やはり見るだけにした。
それでも春子は十分楽しんでいる様子だった。千鶴を気遣うのも忘れているが、それが却って千鶴の気分を和らげてくれていた。
二
伊予鉄道の松山停車場の北向かいに善勝寺というお寺がある。
御本尊は日切地蔵と呼ばれ、何日にとか何日までにと期日を決めて願掛けをすると願いが叶うといわれている。
この善勝寺へ千鶴は春子を連れて来た。けれど目的は日切地蔵ではない。境内で売られている饅頭だ。その名も日切饅頭というが、饅頭というより柔らかい焼菓子だ。中には熱々のあんこがたっぷりと入っていて三個五銭である。
千鶴と春子は買った饅頭を一つずつ手に取った。残りはあとで半分こだ。
「熱いけん、気ぃつけや」
春子の食べっぷりを知っている千鶴は、春子に忠告をした。春子は笑うと、わかっとるけんと言って、がぶりと饅頭にかぶりついた。途端に熱い熱いと大慌てだ。
千鶴は急いで春子を手水舎へ連れて行き、柄杓で水を口に含ませた。
「ああ、熱かった。口に入れた物は出せんし、さりとて呑み込めんけん、どがぁなるかと思いよった」
「ほじゃけん、気ぃつけやて言うたのに。村上さん、前来た時も対のことしよったよ」
ほうじゃったかねと春子は苦笑した。
「今度から気ぃつけるけん。ほれにしても、これ、まっこと美味いで。名波村のみんなにも食べさせてやりたいなぁ」
「ほれも前に言いよったね」
千鶴は笑いながら、自分も日切饅頭をあの人に食べさせてあげたいと思った。もちろん、あの人とは忠之のことだ。
春子は照れ笑いをすると、今度は慎重に少しずつ食べながら言った。
「おらな、こっち戻んてから家に手紙書いたんよ」
「何の手紙?」
「おらたちを運んでくれた風太さんのことぞな」
千鶴は胸がどきんとした。
老婆に鬼のことを言われてすっかり忘れていたが、春子は忠之に気があるらしいのだ。もしかしたら村長である父親に、風太と一緒になりたいと手紙を書いたのだろうかと、千鶴は大いに焦った。
もう勘弁してほしいと願う千鶴に、春子は話を続けた。
「風太さん、おらたちを運んだ銭を、あとで家に請求するて言うておいでたろ? ほじゃけん、ほれをおとっつぁんに謝っとかないけん思て手紙書いたんやけんど、その返事が昨日届いたんよ」
その話かと千鶴は胸を撫で下ろした。それに、春子が知らないことを自分は知っているという気持ちの余裕も出て来た。
「おとっつぁんからの手紙、何て書いとった思う? そげな請求なんぞ来とらんし、俥ぁ引く者に風太いう奴なんぞおらん言うんで。山﨑さん、どがぁ思う?」
春子は千鶴の予想どおりに喋った。千鶴は笑いを堪えながら惚けて言った。
「また、お不動さまが助けてくんさったんやないん?」
やっぱし?――と春子は真顔で言った。
「おらもな、ほうやないかて思いよったんよ。ほやなかったら他に説明できまい? 今更なけんど、よう考えたら初めて俥ぁ引く者が二人も乗せて、北城町から松山まで走るやなんてでけるわけないもんな。ほれに風太さんがお不動さまじゃったら、おらが子供ん頃に法生寺で顔合わせとるいうんも説明つこう?」
噴き出しそうになった千鶴は、横を向いてごまかした。
風太の正体がお不動さまなら、風太と一緒になりたいとは春子も考えないだろう。そのことも千鶴に笑みをこぼさせた。
「どがぁしたん?」
春子が怪訝な顔で言った。千鶴は慌てて笑みを消してごまかした。
「ちぃと小バエが顔に寄って来よるんよ」
いない小バエを手で追ってから千鶴が顔を戻すと、春子はため息交じりに言った。
「知らん男が引く俥ぁで松山に戻んたいうんで、おら、おとっつぁんにがいに叱られてしもた」
「ほやけど、こがぁして無事に戻んて来られたんじゃけん、よかったやんか。お不動さまに感謝せんと」
笑いを抑えながら千鶴が励ますと、ほんまよと春子は少し元気を取り戻した。
「まっことお不動さまの俥ぁに乗せてもらえなんだら、おらたち、今頃退学になっとったで。おとっつぁんには叱られてしもたけんど、お不動さまには感謝ぞな」
本当に春子の言うとおりだった。あの時、あの人がいなかったらどうなっていたかと思うと、改めて感謝の気持ちでいっぱいになる。
「今頃、どがぁしんさっておいでようか」
千鶴が忠之を思い浮かべながら、つい独り言をつぶやくと、春子はけらけらと笑った。
「ほら、決まっとらい。法生寺の本堂でこがぁして座っておいでらい」
春子は怖い顔をした不動明王の真似をした。その様子があまりに面白かったし、不動明王が助けてくれたと春子が真剣に信じていたので、千鶴は不安も忘れて笑い転げた。
三
善勝寺を出た千鶴たちは、そこから東へ延びる湊町商店街を歩いた。
湊町商店街の長さは約五町で、そこから今度は大街道商店街が北へ延びる。これも五町ほどの長さであり、全部合わせると十町になる商店街だ。春子にすれば歩くだけでも楽しい所だが、千鶴にしても滅多に出歩く所ではない。春子のお陰で鬼への不安が和らいだ今、とても楽しみな散策だ。
湊町商店街は呉服屋や洋品店、履物屋、眼鏡屋、仏具屋など日用品の店が多い。
日露戦争で松山へ連れて来られたロシア捕虜兵は、街へ出歩くことが許されていた。そのため、この商店街はロシア人たちの買い物で大いに賑わい、当時は露西亜町とも呼ばれていたらしい。洋菓子や洋食を出す店には、その頃の面影が残っている。
また大丸百貨店や勧商場の影響を受けたのか、呉服屋にも自慢の品が表から眺められるように、あらかじめ展示している所があり、春子を喜ばせた。
湊町商店街と大街道商店街の接点になる辺りは、魚の棚と呼ばれている。その名のとおりかつては多くの魚屋が集まっていた所だ。今は魚屋の他に天麩羅屋や菓子屋、八百屋、蒲鉾屋、乾物屋など庶民の食べ物を扱う店が並んでいる。
ここから大街道へ向かうと、すぐ右手に木造三階建ての立派なうどん屋がある。亀屋という有名な店で、松山を訪れた者は必ず立ち寄るといわれている所だ。千鶴はここで春子にうどんをご馳走することにした。
店の中は客で賑わっており、多くの視線が千鶴に集まった。だけど、千鶴は気にしないと決めていた。いずれ鬼になる自分がこんなことができるのも今しかないと思うと、人の目など気にしていられなかった。
春子はうどんを食べながら、大丸百貨店からここまでの楽しかったことを、ずっと喋り続けた。早く食べないとうどんが伸びると千鶴に言われると、慌ててうどんをすするのだが、すぐに箸を止めて喋った。今回の街歩きが余程楽しかったのだろう。
でも、その分だけ千鶴は切なさを感じていた。こんな風に春子と街で遊ぶのは、きっとこれが最後なのだ。もうすぐ卒業だからではない。鬼娘だからである。
春子に合わせて笑っていても、つい悲しみが込み上げると、千鶴は下を向いてうどんを一本だけすすった。
うどんを食べ終わると、二人は大街道商店街を見て歩いた。
大街道商店街にも呉服屋や履物屋、菓子屋などはあるが、湊町商店街との大きな違いは活動写真館が三つもあることだ。
活動写真とは舞台に用意された大きな幕に、無数の写真を物凄い速さで映し出すものだ。すると幕の上で写真の人物や動物や景色が動きだし、物語が展開されるのである。
幕の横には活動弁士と呼ばれる人が声を張り上げながら、物語を面白おかしく語ってくれる。活動写真の作品の善し悪しは、この活動弁士の腕にかかっているといっても過言でない。
他にも大街道商店街には亀屋の他にもおふくという、同じく三階建ての大きなうどん屋があるし、新栄座という芝居小屋まである。湊町商店街と比べると、こちらは娯楽向けの雰囲気だ。
芝居も見てみたいが、お金も時間もかかる。春子が門限までに戻れないと困るので、千鶴たちは活動写真館の一つ、世界館に入った。
千鶴は子供の頃、辰蔵に何度か活動写真に連れて来てもらった。でも自分ではお金がないので入ったことはない。三津ヶ浜にも活動写真館はあるが、そんなお金は持たせてもらえなかったし、以前に春子が松山へ遊びに来た時も事情は同じだった。
だけど、今日は祖母にもらったお金がある。千鶴は自分で活動写真を観ることに、少し興奮を覚えていた。一方、春子も千鶴と一緒に活動写真を観られると大はしゃぎだ。
ちょうど上演していたのは喜劇作品で、千鶴も春子も大いに笑った。この日のお楽しみはこれが最後であり、もしかしたら千鶴にとっての最後の楽しさかもしれなかった。そんなことを考えると悲しくなって、笑いの半分は見せかけとなった。
活動写真を見終わって外へ出ると、そろそろ春子が帰らねばならない時刻になった。門限の五時までには、春子は寮に戻っていなければならないが、札ノ辻まで歩いて戻ると、恐らくは間に合わない。
大街道を北に抜け出た所に、三津ヶ浜へ向かう電車の一番町停車場がある。春子はそこから電車に乗ることにした。
「今日はだんだんありがとう。おら、まっこと楽しかった」
「うちも楽しかった。ほんじゃあ、また明日学校でな」
春子は喜びいっぱいの顔で電車に乗った。千鶴は手を振りながら春子を乗せた電車を見送り、その電車の後を追うようにお堀に向かって歩いた。
春子は電車の後部の窓越しに、ずっと千鶴に手を振り続けた。千鶴も何度も手を振り返した。やがて電車はお堀に突き当たると、南へ曲がって行ってしまった。
電車を見送ったあと、千鶴は立ち止まって右手を見た。そこは裁判所で、そのすぐ向こうは城山だ。城山の麓には萬翠荘と呼ばれる美しい洋館が、裁判所に隠れるようにしてひっそり佇んでいる。殿さまの血筋である久松定謨伯爵が、去年の十一月に別邸として建てられたものだ。
千鶴はこの洋館に憧れていた。だけど電車の通りからでは、萬翠荘は裁判所の建物が邪魔になって見えづらかった。そこから南へ向かう道に入った千鶴は、裁判所から離れた所で城山を振り返った。すると樹木に囲まれた萬翠荘が、裁判所の上から顔を出していた。その美しさに千鶴はため息をついた。
ここは各界の名士と呼ばれる人々の集う場であり、皇族が来松した時に立ち寄る所だ。その記念すべき一番初めの宿泊客となったのは、体調が優れぬ大正天皇の摂政宮として、松山を訪れた裕仁親王だった。
親王は愛媛各地を視察されたが、女子師範学校もその一つとなった。千鶴たち生徒は親王の前で薙刀の演武を披露し、合唱曲を歌った。それは一生のうちに一度あるかないかという栄誉であり、あの時ばかりは千鶴が女子師範学校に通っていることを、祖父母は知人たちに自慢して廻ったそうだ。
そんなこともあって、千鶴は裕仁親王に親しみを感じていた。その親王が泊まられた屋敷が目の前にある。庶民には近づくことさえ敵わない館だ。
いずれ人として暮らせなくなる日が訪れるのだとしたら、その時までに一度でいいから屋敷の中を見てみたい。そんな想いで千鶴は憧れの洋館を眺めた。
頭の中では、再びあのお祓いの婆の言葉が繰り返されている。
四
紙屋町へ戻ると、山﨑機織の前には店で使う大八車が置かれていたが、仲買人が絣を運ぶ牛車や大八車はなかった。お客もいないので千鶴は店に入った。
「戻んたぞな、番頭さん」
千鶴は帳場にいる辰蔵に声をかけた。
午後は茂七と弥七は注文取りに廻っている。丁稚の二人は奥にいるのか、ここには姿がない。代わりに貧相な男が辰蔵の横で胡座をかいて座っている。
ぎょっとした千鶴を、男はじろりとにらんだ。
「お前、千鶴か」
「え? は、はい」
不躾に名前を呼ばれ、千鶴は戸惑いながら返事をした。
「わしが誰かわかるか? わかるまい」
いきなり訊かれても知らない相手である。千鶴が返事に困っていると、男は山﨑孝平と名乗り、お前の叔父よと言った。
「叔父さん? すんません、うち、初めて聞く話ですけん」
「ほら、ほうじゃろ。お前がまだこんまい頃に、わしは松山を出たんじゃけんな」
何だか喧嘩を売っているみたいな喋り方に、千鶴は困惑して辰蔵を見た。辰蔵もこの無礼な男に当惑のいろを隠せないようだ。
「あたしもこのお方に直接お会いするんは、今日が初めてなんぞなもし。ほんでもこのお方の話は、あたしが丁稚じゃった頃に耳にしたことはあるんです」
「ほんじゃあ、ほんまにうちの叔父さん?」
孝平は顔をしかめると、へっと息を吐いた。
「わしの言うことが信用でけんのかい。人に散々迷惑かけくさっといて、何じゃい。まっこと異人の娘は礼儀知らずやの!」
千鶴はむっとする気持ちを抑えながら、孝平に訊ねた。
「うちがどげな迷惑をおかけしたんぞなもし?」
孝平は嫌な顔のまま居丈高に言った。
「わしはな、ここと同業の店の丁稚をしよったんよ。もうちぃとで手代になれたのに、お前のせいで馬鹿にされて、わしよりあとから入った奴が手代になったんぞ。やけん、阿呆らしなって松山から出たんじゃい」
何かをして文句を言われるのであれば、素直に謝ることができる。だけど、何もしていないのにお前のせいでと言われては、どうにもしようがない。それは存在そのものが迷惑だという意味であり、困惑と狼狽をするばかりだ。
「ほれは……申し訳ございませんでした」
屈辱に耐えながら千鶴は頭を下げた。すると辰蔵が言った。
「千鶴さん、謝らいでもええぞなもし。千鶴さんは何も悪ないですけん」
「何やと?」
いきり立つ孝平に、辰蔵は堂々と言った。
「千鶴さんは旦那さんとおかみさんの大切なお孫さんぞなもし。お前さまに何があったんかは存じませんが、ほれと千鶴さんは何の関係もございません」
「関係ないことあるかい! わしが手代になれなんだんはな――」
孝平は声を荒らげたが、その声を遮って辰蔵は言葉を続けた。
「お前さまが手代になれなんだんはご自身の実力でしょう。商いと関係ないことで手代に昇格させんのなら、そこの主は初めからお前さまを丁稚に取ったりしません。ほれを千鶴さんのせいにしんさるんは、とんだお門違いいうもんぞなもし。いくら旦那さんのご子息やいうても、これ以上、千鶴さんを侮辱しんさるんは、このあたしが許しません」
千鶴は嬉しかった。だが、当然面白くない孝平は辰蔵をにらみつけた。
「お前、使用人のくせに偉そなこと言うてからに。わしはここの跡取り息子やぞ? わしがこの店継いだら、お前なんぞ、こいつと一緒に真っ先に放り出してやるけんな!」
辰蔵も負けていない。赤らんだ顔で孝平をにらみ返して言った。
「お前さまが旦那さんの後を継ぐいう話は、あたしはこれっぽっちも耳にしとりません。万が一、お前さまが後を継がれるのでしたら、こちらの方から出て行かせてもらいまさい!」
「ほぉ、よう言うた。その言葉、忘れんなや!」
孝平は片膝を立てて息巻いた。辰蔵も怒りを隠さず一触即発の雰囲気だ。
「お茶をどうぞ」
花江がお茶を載せたお盆を運んで来た。孝平も辰蔵も口を噤んだが、二人とも興奮が冷めやらない。
孝平は花江をじろりと見たが、すぐに驚いたように目を瞠った。一度は立てた片膝を急いで元に戻した孝平は、呆けたように口を半分開いたまま花江に目が釘づけになっている。
「こげな男に、お茶なんぞ出さいでもよかったのに」
淡々と二人の前にお茶を置く花江に辰蔵は言った。どうやら花江は頼まれてお茶を淹れたのではないらしい。恐らく孝平の顔を一目見てやろうと思ったのだろう。
辰蔵の言葉に孝平は逆上したが、花江にじろりと見られるとうろたえて口籠もった。
花江はすぐに千鶴に顔を向け、にっこり微笑んだ。
「お帰んなさい。楽しかったかい?」
「え? えぇ、お陰さまで十分楽しませてもらいました。いろいろ気ぃ遣ていただいて、だんだんありがとうございました」
まるで孝平などいないかのごとく振る舞う花江に、千鶴は戸惑いながら返事をした。花江は孝平を横目で見ると明るく言った。
「千鶴ちゃんはここの跡取り娘、じゃない、跡取り孫娘だもんね。街で楽しむぐらい当然だよ」
何やて?――と孝平がまた憤った。
「何じゃい、今の話は。なしてこいつが跡取りなんぞ。この店の跡取りは――」
真っ直ぐ顔を向けた花江ににらまれると、孝平は再び勢いを失った。
「跡取りは……、このわし……、なんやが……」
孝平の言葉は次第にもごもごとなり、後の方はよく聞こえない。孝平の様子がおかしいことには構わず、花江は腰に手を当てながら強い口調で言った。
「あんたさ、いきなり来といて何言ってんのさ。ここの跡取りは千鶴ちゃんだよ。どこの誰だか知んないけどさ。勝手なことを言うもんじゃないよ!」
「いや、ほじゃけん、わしはやな、その……」
花江が女中なのは見てわかるだろうに、何故か孝平は花江に言われ放題でしどろもどろになっている。
「さっきから何を言いよるんね?」
騒ぎが収まらないからだろう。台所から幸子が顔を出した。
幸子は孝平を見ると眉間に皺を寄せ、驚いたように目を見開いた。
「あんた、孝ちゃんか? 孝ちゃんなん?」
「な、何じゃい。馴れ馴れしゅうすんな」
うろたえた孝平が横を向くと、幸子は駆け寄って孝平の手を取った。
「やっぱし孝ちゃんやないの。あんた、今までどこ行きよったんね。お父さんもお母さんも心配しよったんよ!」
「穢らわしい。わしに触るな!」
孝平が幸子の手を振り払うと、花江が訝しそうな顔で幸子に訊ねた。
「幸子さん、この人、幸子さんの何なの?」
「この子はね、うちの弟なんよ。正兄が亡くなったあと、ほんまじゃったら、この子がここの跡取りになるはずやったんよ。ほれやのに、この子はみんなに黙って奉公先逃げ出して、行方知れずになっとったんよ」
「そういうわけだったんだ」
花江がうなずくと、わかったかと言わんばかりに孝平は胸を張った。
「聞いてのとおり、わしがここの正式な跡取りぞな。わかったら、みんな、ほれなりの礼儀いうもんを見せるんやな」
「孝ちゃん。あんた、お父さんには会うたんか?」
幸子が訊ねても、孝平は無視をした。怒った花江がどうして無視をするのかと質すと、穢れた者とは話をしないと孝平は言った。穢れとはロシア兵の子供を身籠もり産んだという意味だ。
花江は孝平に軽蔑の眼差しを向けると、きっぱりと言った。
「じゃあ、あたしもあんたとは喋らない。あたしゃ心の穢れた人間が大っ嫌いなのさ」
「何やと? わしはここの跡取りぞ?」
孝平が威張っても花江には通じない。花江は早速無視して、孝平に出したお茶をお盆に戻した。
「おい、ほれはわしの茶ぁぞ。勝手なことすんな」
孝平は文句を言ったが、まったく迫力がない。花江は聞こえないふりをして奥へ引っ込んだ。
気まずい顔の孝平を、辰蔵がふっと笑った。怒った孝平は辰蔵に手を出そうとしたが、幸子にきつく叱られた。姉に貫禄負けした孝平はむくれて横を向いた。
こんな男が自分の叔父なのかと、千鶴は呆れた。
万が一にも、この叔父が店を継いだりすれば、大事になるのは必至だ。そうはならないだろうが、この叔父がこのままここに居座れば、それも問題に違いない。
千鶴は不安になったが、幸子も困りきっているようだ。
五
「親父は中か?」
穢れた者とは話をしないと言ったくせに、話せる相手がいないからか、孝平は幸子に偉そうに訊ねた。幸子は憮然としながら言った。
「やっぱし、まだ会うとらんのじゃね。お父さんはどこ行きんさったんか知らんけんど、昼から出かけておいでるんよ。お母さんも雲祥寺へ出かけておらんぞな」
雲祥寺とは山﨑家の菩提寺で、大林寺の近くにある。
「何じゃい、どっちもおらんのか。こがぁな腐れ番頭一人置いておらんなるとは、二人とも無責任やの」
孝平が吐き捨てるように言うと、すぐさま幸子が叱った。
「あんた、何失礼なこと言うんね。辰蔵さんは立派な番頭さんで。辰蔵さんがおらなんだら、この店は疾うに潰えとるがね。無責任いうんなら、勝手に姿眩ましよったあんたこそ無責任じゃろが!」
「勝手に敵兵の子供産んだお前が言うな!」
孝平が噛みついて千鶴をにらむと、幸子も険しい顔で言い返した。
「あんた、そげなこと言うために戻んて来たんね? そげじゃったら戻んて来んでええけん、さっさとどこまり去になさいや!」
「つかましいわ。わしが用があるんは親父じゃ。お前やないわい」
どこまでも態度の悪い弟に幸子は閉口した。そこへ辰蔵が参戦して幸子をかばった。
「自分の姉に向かって、お前いう言い方はないんやないですか?」
孝平は辰蔵をにらむと、使用人は黙ってろと言った。
「さっきから使用人の分際で偉そうに。親父に会うて話つけたら、すぐに辞めさすけん覚悟しとれよ」
「偉そうなんはお前さまの方ぞなもし。いくら旦那さんの血ぃをお引きでも、いきなし戻んて来て、姉をお前呼ばわり、父親を親父呼ばわりするんは、偉そやないと言いんさるんか?」
「父親やけん親父やろが。ほれに、わしはこの女を姉やとは思とらん。親父はこげな恥知らずを、なしてここへ置いとるんぞ」
怒りを抑えた様子の辰蔵は、大きく息をしてから言った。
「お前さまが幸子さんを姉と認めんのは勝手でしょうが、ほれにしたかてお前いう言い草は失礼極まりないぞなもし。ほれにお前さまは幸子さんばかりか、旦那さんのことも下に見とるりんさる。本来の跡取りでありんさった正清さんは、旦那さんを親父と呼びんさったことはありませんでしたし、旦那さんに敬意を払っておいでました」
「死んだ人間のことなんぞ知るかい。わしにはわしのやり方いうんがあらい」
孝平のあまりの態度に、幸子は声を荒らげた。
「何てひどいこと言うんね! あんたのお兄さんじゃろがね」
「人間、死んだらおしまいぞな。人間の価値は生きてこそよ」
少しも悪びれない孝平に、ついに腹に据えかねた辰蔵が怒りを露わにした。
「その言葉、旦那さんの前で言いんさい」
「何やと?」
「今言いんさったこと、もういっぺん旦那さんの前で言うてみぃと言うとるんぞな」
「お前は阿呆か。親父の前でこがぁなこと言うわけなかろがな」
「つまりは旦那さんを騙くらかすおつもりか」
「騙くらかすんやないわ。余計なことを言わんぎりじゃい」
辰蔵はため息をつくと、孝平を哀れむ目で見た。
「お前さまは、ほんまに情けないお方ぞなもし。旦那さんやおかみさんの血ぃを引いておいでるとは信じられんぞなもし」
「何? この腐れ番頭が何をほざくか!」
「あたしは山﨑機織の使用人であって、お前さまの使用人ではございません。ほじゃけん、この店を守るためには、言うべきことは言わせてもらいまさい。お前さまは山﨑家の屑ぞなもし」
「何を!」
孝平が辰蔵につかみかかったので、千鶴と幸子は孝平を押さえようとした。しかし幸子は孝平に突き飛ばされ、土間に転んで腰を打った。
「お母さん!」
千鶴が叫ぶと、怒った辰蔵が立ち上がり、孝平と揉み合いになった。帳場机は蹴飛ばされ、帳場格子はひっくり返った。花江が置いて行った辰蔵のお茶が畳にこぼれ、湯飲みは土間へ落ちて割れた。
いつの間にか表には、近所の者たちが面白そうに集まっていた。
「ほれ、辰さん、しっかりせんかい!」
「辰蔵さん、あたしがついとるぞな!」
みんなは辰蔵の味方をするが、誰も手を貸さないし喧嘩も止めない。わいわいと楽しげに眺めているだけだ。
騒ぎを聞いて飛び出して来た花江は、倒れている幸子を千鶴と一緒に介抱した。花江の後ろには亀吉が呆然と立ち尽くしている。亀吉は奥で家事を手伝っていたようだ。
帳場では孝平と辰蔵が互いの襟をつかんで、相手を引きずり倒そうとしている。孝平は全力で辰蔵をねじ伏せようとしているが、力は明らかに辰蔵の方が上だ。それでもやはり主に対する遠慮があるのか、辰蔵は本気で孝平を組み伏せるつもりはないみたいだ。
そこへ店の前の人だかりをかき分けて甚右衛門が現れた。甚右衛門は店に入ると、やめんか!――と二人を一喝した。
その声で動きを止めた辰蔵に、孝平はびんたを食らわした。すると、花江がすっくと立ち上って帳場に上がり、孝平の頬をぴしゃりと叩いた。おぉっと表で歓声が上がる。
孝平は叩かれた頬を手で押さえ、驚いた顔で花江を見た。花江は黙ったまま顎をしゃくって、横の土間を見るよう孝平に促した。
顔を横に向けた孝平は、そこに甚右衛門の姿を見つけてうろたえた。だが、すぐに笑顔になって土間へ降りた。
「親父、わしぞな。孝平ぞな」
甚右衛門は孝平に背を向けると表に出た。孝平もそのあとについて行った。
「見世物やないけん、店に戻んて仕事せい!」
不機嫌そうに甚右衛門が手を振ると、もうおしまいかと残念がりながら野次馬たちはいなくなった。甚右衛門が振り返ると、孝平は笑顔を見せながら歩み寄った。
「親父、わしな、戻んて来たんよ。店の跡継ぎがおらんで困っとんじゃろ? ほじゃけんな、わし、戻んて来たんよ」
孝平は誇らしげに言った。甚右衛門はいきなり孝平の胸ぐらをつかむと、力いっぱい張り倒した。
無様に地面に転げた孝平を見下ろしながら、甚右衛門は言った。
「今更、何言うとんぞ? あん時、お前はわしにどんだけ恥かかせたんかわかっとらんのか! その上、今日はこげな騒ぎを起こして、また恥かかせよってからに!」
体を起こした孝平は、道の上に正座して両手を突きながら甚右衛門に言った。
「ほのことはこのとおり謝るけん。わしな、親父には迷惑ぎりかけてしもたけん、今度こそ親父の力になりたい思て戻んて来たんよ」
甚右衛門は孝平をじっと見据えながら言った。
「ほうか、お前もようやっと心を入れ替えたんか」
孝平は笑顔でうなずくと、いそいそと立ち上がって甚右衛門の傍へ行こうとした。しかし甚右衛門は素っ気なく、遅いわと言った。
「遅いて、跡継ぎはまだ決まっとらんのじゃろ?」
「いいや、決まった」
甚右衛門の言葉に辰蔵は思わず花江と顔を見交わした。千鶴も幸子を見たが、痛みに顔をしかめていた幸子も驚いた様子だ。
蒼ざめた孝平は動揺を隠せない。
「決まった? 決まったて、誰に?」
甚右衛門は横を向くと、離れた所に立っていた男を呼んだ。男が近くに来ると、甚右衛門は孝平に言った。
「この男が千鶴の婿になる。千鶴と夫婦になって二人でこの店を継ぐんぞな」
え?――と思って、千鶴はその男を見た。
小さな目に大きな口。お世辞にも素敵な顔とはいえない。それでも風貌は堂々としており、少し威張っているみたいにも見える。歳は二十四、五だろうか。
「ほら、あたしの言ったとおりだろ? 旦那さんは千鶴ちゃんを跡継ぎにって考えてたんだよ」
帳場から降りた花江は、幸子に肩を貸しながら得意げに言った。けれど、花江の言葉は千鶴の耳には聞こえていない。
千鶴はじっと男の頭を見つめた。角が生えていないかを確かめるためだ。だけど、いくら見ても角らしきものは見えない。
男は孝平をちらりと見たが、その目には嘲りのいろが浮かんでいる。孝平も男をにらんだが、その顔は焦りでゆがんでいる。
「親父、わしいう者がおるのに、なしてこがぁな男を連れて来るんぞ?」
「黙っとれ! これまで行方眩ましよったくせに、今頃何言うとんぞ。お前なんぞ何も言う資格はないわ! だいたい何が親父ぞ、偉そうに。お前は誰に物言うとるんぞ」
甚右衛門は泣きつく孝平を無視して男を店の中へ誘い、千鶴に笑顔で言った。
「千鶴、聞こえとったろ。お前の見合い相手を連れて来たぞ」
店の入り口に立った男は、千鶴に軽く会釈をした。わずかに微笑みながら男が向けた目は、千鶴を値踏みしているようだ。
「おじいちゃん、うち、お見合いするん?」
千鶴がうろたえながら訊ねると、ほうよと甚右衛門はうなずいた。
「いろいろ考えた末、そがぁすることにした。ほういうことじゃけん、奥の座敷へ行け。花江さん、すまんけんど、お茶を淹れてくれんかな。ん? 幸子はどがぁしたんぞな?」
幸子は花江に付き添われながら、腰に手を当てて帳場の端に座っていた。花江から事情を聞いた甚右衛門は、外に立ったままの孝平をじろりと見た。それから花江に、幸子を離れで休ませてからお茶を淹れるよう頼み直した。
「親父ぃ」
中に入れない孝平が、表から情けない声で甚右衛門を呼んだ。そこへ茂七が外の仕事から戻って来た。甚右衛門は怪訝そうに孝平を見る茂七と辰蔵に、孝平を店の中へ入れぬよう命じた。
茂七は何のことかわからない様子だったが、辰蔵は大きくうなずくと、お任せを――と言った。
六
障子を閉めた茶の間で、千鶴と向かい合わせに座った男は名前を名乗った。
「鬼山喜兵衛と申します」
「鬼山?」
「喜兵衛ぞなもし」
微笑む男の顔を見つめながら、やっぱしと千鶴は思った。
「こら、お前も挨拶をせんか」
甚右衛門に叱られて我に返った千鶴は、山﨑千鶴と申しますと言って頭を下げた。千鶴が顔を上げると、甚右衛門は得意げに言った。
「鬼山くんの家は元武家でな。わしの家とは知り合い同士よ」
「おじいちゃんの家?」
甚右衛門は意外そうな顔をしたあと、ほうかと照れた笑みを見せた。
「幸子から聞いとらんか。わしの実家は武家でな。子供の頃は歩行町におったんよ。ほんでも明治になると、武士じゃあ暮らしていけんなってな。ほれで、この家の跡取りとして婿入りさせてもろたんよ」
祖父の婿入り話は千鶴も知っていたが、武家の生まれだったなんて初めて聞いた話である。そもそも祖父がこんなにいろいろ喋ってくれたことは、これまで一度もなかった。
「ほういうわけで、似ぃた形で鬼山くんをうちへ迎え入れようと、こがぁなことぞな」
千鶴が黙っているので、甚右衛門は少し焦ったのか、慌てて説明を付け加えた。
「鬼山くんは剣道四段の腕前でな。道場でも、さすが武家の血筋とうなずかされる猛者やそうな」
どうやら甚右衛門は武家の出であることに、かなりの重きを置いているみたいだ。元々は自分も武士の家柄であったことを誇りに思っているのだろう。
「剣道四段て、がいなことなんですか?」
千鶴は剣道などわからない。喜兵衛が苦笑するのを見て、甚右衛門は少し機嫌を悪くしたらしい。いつもの仏頂面に戻って言った。
「がいに決まっとろが。四段いうんは、この若さでそうそう取れるもんやないんぞ」
千鶴は慌てて頭を下げ己の無知を詫びた。いやいやと喜兵衛は貫禄を見せて笑った。
「気にせんでつかぁさい。女子にはわからんことですけん」
喜兵衛は千鶴を下に見ている。というより、女を下に見ている。だけど、これ以上祖父に恥をかかせるわけにはいかない。千鶴は我慢しながら話しかけた。
「鬼山さんは、昔から歩行町に住まわれておいでたんですか?」
「あしが住みよるんは湊町ぞなもし。歩行町におるんはあしのじいさまばあさまと伯父貴の家族で、あしの親は歩行町から湊町へ移ったんぞなもし」
歩行町は城山の南東に位置する下級武士が暮らした町で、春子が電車に乗った一番町の電停の北にある。
千鶴と春子が歩いた湊町商店街は魚の棚までだが、湊町自体は魚の棚からさらに東へ延びている。魚の棚より東側には伊予絣を作る家が数多く並んでいるが、喜兵衛の家はその中の一軒ということだ。
鬼山家が昔からあるのであれば、鬼山という名は鬼とは関係がないのかもしれない。それでも喜兵衛が本当に鬼山家の一員なのかは定かでない。
「あの、おじいちゃんは鬼山さんを、いつからご存知やったんぞなもし?」
「今日知ったんよ」
「今日?」
「組合事務所で鬼山くんの話を耳にしたんで、早速会いに行ったんよ」
組合事務所とは、織元に対して織物の検品や指導を行う伊予織物同業組合の事務所だ。
山﨑機織は四つ辻の北東の一角にあるが、同じ辻の北西の一角に組合事務所はあった。山﨑機織の裏木戸を出ると、目の前に組合事務所があるわけだ。この近さもあって、組合長と甚右衛門は長く親しい間柄だった。
組合事務所には伊予絣に関する話が、いろいろと集まって来る。千鶴が部屋で春子と喋っている間、仕事のことで組合事務所を訪ねた甚右衛門は、そこで喜兵衛の話を耳にしたらしい。そこで善は急げと、午後から喜兵衛に会いに行ったのである。
それにしても、今日知ったばかりというのはやはり怪しい。何だか話が仕組まれているみたいに思える。千鶴は喜兵衛の様子を観察しながら訊ねてみた。
「鬼山さんは普段は何をされておいでるんぞなもし?」
「普段かな? 普段はほうじゃなぁ。家の仕事を手伝うたりもしよりますが、三男坊ですけん、比較的自由にさせてもろとります」
「ご次男の方はどがぁされておいでるんぞなもし?」
「二番目の兄貴は陸軍の士官になりました。あしも士官学校に入るよう勧められたんですが、あしの性に合わんので断りました」
「性に合わんとは?」
甚右衛門が訊ねると、自分は人に使われるのが嫌なのだと喜兵衛は言った。
「将校は兵士に指示を出すけんど、上の指示には従わにゃなりません。あしは何もかんも己の意思を貫いて生きたいんぞなもし。ほじゃけん、陸軍より商いの方が自分には向いとると思とるんです」
「なるほど。確かに己の道は己で切り開かんとな」
「そげです。その点、旦那さんはご自身の判断で山﨑機織を切り盛りし、先だっての東京の大地震のあとも乗り切っておいでる。いけんなった店も多い中、さすがは旦那さんじゃと思いよりました」
いやいやと甚右衛門は謙遜したが、悪い気はしないらしい。口元に隠し切れない笑みがこぼれている。
「そげなことで、旦那さんの所じゃったら思い切った商いができるんやなかろかと、こがぁ思たわけぞなもし」
喜兵衛の言葉に甚右衛門は何度もうなずいている。千鶴には祖父の姿が鬼に操られているとしか思えない。話は甚右衛門と喜兵衛の間ばかりで弾み、いつしか千鶴は蚊帳の外になっていた。
お待たせしましたと、障子の向こうで花江の声がした。甚右衛門が声をかけると、花江は障子を開けてお茶を出してくれた。
甚右衛門から言われたわけではないが、茶菓子までついている。千鶴の見合いだと思って、気を遣ってくれたのだろう。
千鶴は花江にお礼を言い、甚右衛門も花江をねぎらった。だが、喜兵衛はちろりと配られたお茶と茶菓子を見ただけで、花江には声をかけるどころか目もくれなかった。
千鶴がむっとしていると、甚右衛門は千鶴の気を引こうと話題を変えた。
「鬼山くんは剣道の他にもな、ええとこがようけあるんぞ。まず、三年の徴兵義務は終わっとるけん、兵隊に取られることはない。ほれに頭もようて弁が立つ。ほんまなら政治家にでもなれるぐらいの人物ぞな。しかもこのとおりの男前よ。鬼山くんに憧れる女子は数え切れんそうな。鬼山くんが独り身いうんが信じられまい」
喜兵衛は少し恥ずかしげな笑みを浮かべながらも、甚右衛門の言葉を否定はしない。そのとおりですと言っているみたいで嫌味ったらしい。それに喜兵衛の笑みはわざとらしく見える。すべて思惑どおりと考えているに違いない。
喜兵衛を男前と褒め称えたことで、祖父は絶対に喜兵衛に操られていると、千鶴は確信した。やはり喜兵衛は山﨑機織を利用して、鬼の仲間を増やすつもりなのだ。
「千鶴さんはお父さんのことは、何ぞご存知かなもし?」
喜兵衛に問いかけられた千鶴は、はっとなった。
「いえ、うちが産まれた時には、もう、おりませんでしたけん」
「じゃあ、お父さんにはまだ会うとらんのかなもし?」
はいと千鶴がうなずくと、父親に会いたいかと喜兵衛は畳みかけるように訊ねた。
千鶴はちらりと甚右衛門を見てから、いいえと言った。
「ほやけど、いっぺん会うてみたいて思うことはあろに」
次第に体が前のめりになる喜兵衛の言葉は、少し決めつけたというか強引さがある。そこまで父に関心があるのは、やはり父もこの男と同じ鬼なのか。
「なして鬼山さんは、そがぁに父のことぎり訊ねられるんぞなもし?」
怪しんだ千鶴が問いかけると、喜兵衛は姿勢を戻し、頭の後ろに手を当てて笑った。その仕草は伸びて来た角を隠そうとしたみたいだ。
「いや、申し訳ない。実は、いずれ伊予絣をソ連にも売り込んだろと思いよったんぞな。やけん、千鶴さんのお父さんと連絡が取れるんなら、これはいけると思たぎりぞなもし」
甚右衛門は喜兵衛の発想に大きくうなずいている。
「さすがじゃな、鬼山くん。まだ若いのに大したもんぞな。ソ連に伊予絣を売り込むやなんて、わしには思いつくまい」
「いやいや、今んとこソ連とはまだ国交がありませんけん、捕らぬ狸の皮算用ぞなもし」
喜兵衛は照れ笑いをした。甚右衛門も喜兵衛もすっかり意気投合している。二人とも千鶴が婿取りを了承するものと決め込んでいるようだ。
鬼娘が鬼と夫婦になるのは定めかもしれない。けれども喜兵衛を見ていて、千鶴は定めに抗うことに決めた。
おじいちゃん、鬼山さん――と千鶴は二人に声をかけた。
「うちはこれまでずっと小学校教師になるために、女子師範学校で勉学に励んで参りました。ほれやのに、今日いきなしお見合いさせられても、うちとしては困るんぞなもし。ここのお店の事情はわかっとりますけんど、ほれにしたかて困るんぞなもし」
千鶴はきっぱり言った。これだけのことが言えたのは、忠之への想いがあったからだ。
これまで千鶴は忠之ことはあきらめねばならないと考えていた。しかし、己の定めを突きつけられた今、絶対にあきらめたくないという自分の想いに気づかされた。
自分の夫になるのはあの人以外いない。あの人と夫婦になれないのであれば、一生独り身でいよう。千鶴はそう心に決めていた。
毅然とした千鶴の言葉に、甚右衛門も喜兵衛も少なからず動揺したらしい。甚右衛門は千鶴の言い分を聞き、確かに性急過ぎたと反省の姿勢を見せた。
喜兵衛も神妙な顔で、もうちぃと個人的な話をするべきでしたと、千鶴に自分の無神経さを詫びた。その上で、千鶴とは結婚を前提としたお付き合いがしたいと申し出た。もちろん、千鶴の婿になるという意味だ。
甚右衛門は千鶴をなだめるように言った。
「結婚については、今すぐ返事はせんでええ。どがぁでも師範になりたいいうんなら、ほれも構ん。その上でいっぺん鬼山くんと付き合うてみてはもらえまいか。付き合うてみて、やっぱしいけんかったら、ほれは仕方ないことよ。どがぁぞな?」
祖父にここまで言われたら、千鶴も拒絶ができなかった。
「結婚を前提とせんのであれば」
これが千鶴としては精いっぱいの返事だった。
甚右衛門は笑みを見せると、こんで構んかと喜兵衛に訊ねた。喜兵衛は千鶴と一緒になる自信があるのか、結構ぞなもしとうなずき千鶴を見た。
喜兵衛を一瞥したあと、千鶴は目を伏せた。目を逸らしたのではなく無視したつもりだ。祖父の顔を立てて付き合いはしても、絶対に結婚はしない。答えは決まっていた。
七
「あんた」
トミの声がした。甚右衛門が障子を開けると、土間にトミが立っている。その後ろで新吉が不安げな顔で千鶴たちを見ていた。新吉はトミに連れ出されていたらしい。
トミは何か言おうとしたが、喜兵衛に気づいて訝しげな顔をした。
「このお人は?」
「千鶴の婿になる男ぞな」
まだ婿になるとは決まっていないのにと、千鶴は腹が立った。しかし、これが祖父の本音というか、鬼の本音なのだ。
「鬼山喜兵衛と申します」
喜兵衛はトミに頭を下げた。トミも挨拶を返すと、すぐに甚右衛門に顔を戻した。
「あんた、表に孝平がおるぞな」
「わかっとらい」
甚右衛門は不機嫌そうに返事をした。
「わかっとるんなら、なしてあげな所に立たせとるんね? 早よ中へ入れてやらんね」
「ずっと行方眩ましよったくせに、いきなし戻んて来て跡継ぎ面する奴なんぞ勘当ぞ」
「勘当て……血ぃのつながった息子じゃろ。やっと戻んて来たのに勘当はなかろがね」
「つかましいわ! あいつがわしのこと、何て言うた思う? 親父ぞ。偉そうに!」
甚右衛門は怒り心頭だったが、トミは怯まなかった。
「ほやけど、勘当せいでもよかろ? そげなことは言うて聞かせたらええことぞな」
「ここにあいつの居場所はない」
「何でもさせたらええじゃろがね」
「そげなわけにいくかい」
二人のやり取りを聞いている喜兵衛は、素知らぬ顔をしているが目が笑っている。甚右衛門の馬鹿息子を嘲笑っているのかもしれないが、山﨑機織の実情を見てほくそ笑んでいるみたいでもある。
千鶴にはますます喜兵衛の正体が鬼に見えた。この店に入り込む余地があるとわかって喜んでいるに違いない。
「とにかく、客人の前でそげな話はすんな。客人に失礼なろが」
甚右衛門に叱られ、トミが横目で喜兵衛を見ながら口を噤むと、急に店の方が騒がしくなった。と思うと、孝平が飛び込んで来た。慌てて追いかけて来たのは茂七と辰蔵だ。
辰蔵たちに押さえられながら、孝平は土間に這いつくばって甚右衛門に詫びた。
「親父、いや、父さん。わしが悪かった。こがぁして謝るけん、どうか、わしをここへ置いてつかぁさい」
甚右衛門はトミを気にしながら孝平を叱りつけた。
「千鶴が見合いしよるんがわかった上で、こげな芝居がかったことをしくさって。お前なんぞ、もう息子でも何でもないけん、どこまり行くがええ」
甚右衛門が顎をしゃくると、辰蔵と茂七は暴れる孝平を抱えながら表へ連れて行った。
トミは憤慨したが、黙って孝平を追った。新吉はぼーっと突っ立っていたが、亀吉が奥庭へ引っ張って行った。勝手口から花江が遠慮がちに中をのぞいている。
甚右衛門は喜兵衛に詫びると、また別の日に千鶴と会ってやってほしいと頼んだ。千鶴にすれば余計なお世話だったが、祖父には逆らえない。とにかく結婚は前提ではないのだからと、心の中で何度も自分に言い聞かせた。
喜兵衛はにこやかにうなずき、承知いたしましたと言った。鬼の思惑どおりにされそうで気分が悪かったが、千鶴は黙って聞くしかなかった。
鬼と福の神
一
山﨑機織ではこれまで東京に手代の一人を送り込み、安宿に住まわせながら店廻りをさせていた。
一方、東京よりも近い大阪には月に一度、松山の手代に得意先廻りをさせて注文を取っていた。しかし松山から通いの注文取りでは廻る先が限られてしまう。そのため大阪の取引先は、東京ほどは増やせなかった。
そんな折、明治末に大阪で大火が起こり、山﨑機織が取引していた太物問屋にも、焼けて廃業に追い込まれた所があった。
行き場を失ったそこの使用人たちの中に、もう若くなく身寄りもないが、太物をよく知る仕事熱心な男がいた。作五郎というその男に、甚右衛門は自分たちの力になってほしいと頼み込んだ。そして、大阪の仕事を一手に引き受けてもらうことになった。
作五郎が動き始めると、松山にいる手代が大阪へ通い詰める必要がなくなった。また、手代が廻っていた時より多くの店を作五郎が廻ってくれたので、大阪での売り上げは以前よりも倍増した。
関東大地震で多くの伊予絣問屋が潰れる中、山﨑機織が何とか持ちこたえているのは、作五郎の力によるところが大きい。たまたまではあるが関東大地震の少し前に、作五郎は大阪で大口の契約をいくつか取ってくれた。そのお陰で山﨑機織は東京の被害を和らげることができたのだ。
少し気むずかしい男ではあるが、商いに対する作五郎の姿勢を甚右衛門は深く信頼していた。その作五郎の元に孝平を送る話が、甚右衛門とトミの間で持ち上がっていた。
甚右衛門は孝平をいったんは家から追い出した。けれども、トミが孝平を呼び戻せと言って聞かないため、仕方なく作五郎に孝平を試してもらおうと考えたのだ。
店の跡継ぎの話はともかくとして、山﨑機織に使用人が足らないのは事実であり、丁稚が少ないことにも甚右衛門たちは頭を悩ませていた。
もっと丁稚を取っていればよかったが、景気が悪くて毎年は丁稚を取れなかった。せっかく入っても続かずに辞めさせられる者もいた。そもそも山﨑機織の丁稚にという話が、他の店ほどは入ってこなかった。
それでも手代や番頭が続けざまに死ぬという不幸がなければ、それなりにやって来られたはずだった。特に東京の手代を大地震で失ったのは大きな痛手であり、東京への足がかりを断たれたも同然だった。
東京もいずれは復興する。その時には、誰かを店廻りにやらねばならないが、今の状態では東京へ送れる者がいない。これまでの手代不足の時には、茂七などのように経験のある丁稚を、少し早めに手代に昇格させて穴埋めをした。しかし亀吉はまだ経験が足らないし、新吉に至っては春に入って来たばかりだ。
そんな苦しい状況の中で、甚右衛門が千鶴と鬼山喜兵衛を夫婦にしようと考えたのは無理もなかった。
喜兵衛が来れば後継者としての修行も兼ねて、手代の仕事を務めてもらう手筈のようで、そうすれば茂七を東京へ送り出せると甚右衛門は考えていた。
手代の不足を埋めるだけならば、必ずしも千鶴の婿である必要はない。けれど、いきなり手代として雇い入れるには、相応の信頼と力量が求められる。それに千鶴を受け入れられる者でなければならない。もし千鶴の婿となる者が見つかれば、後継者も手代不足も解決できる一石二鳥となるのだ。
店を継げる者ならば、仕事も熱心にするだろうし信頼もおける。取り敢えずは婿を取って急場をしのぎながら、どんどん丁稚を育てていくというのが、甚右衛門が思い描いている構想だ。
一方、万が一にも作五郎が孝平を認めるのであれば、孝平を松山へ戻して茂七を東京へ行かせる道もある。期待はできないが、可能性がないわけではない。
いずれにしても東京の復興がすぐにでも始まるならば、まずは東京の勝手がわかっている辰蔵を送り込むつもりだと、千鶴は甚右衛門から聞かされている。その間の帳場は甚右衛門が守り、時期を見て茂七と辰蔵を交代させる寸法なのだそうだ。
ただ孝平を手代にするのは、当てにできる話ではなかった。
幸子が甚右衛門たちから聞いた話によれば、孝平は松山を出たあと、あちこちを転々と渡り歩きながら、その日暮らしをして何とか食いつないでいたようだ。
孝平が伊予絣問屋で丁稚奉公をしていた頃、甚右衛門はそこの主から、孝平は物覚えが悪く動きも鈍い上に、愚痴をこぼしてばかりと聞かされて大いに恥じ入ったという。つまり、孝平が手代にしてもらえなかった話に千鶴は関係なく、辰蔵が言ったとおり、孝平自身にその力がなかったのだ。
にも拘わらず、その主は甚右衛門の顔を立てて、孝平の面倒を見続けくれた。その店を孝平は黙って逃げ出したのである。甚右衛門の顔は丸潰れとなった。
その言い訳として孝平は、兵役が嫌で逃げたと言った。
男子は二十歳になると徴兵検査を受けなければならない。そこで健康に問題がなければ、三年間の兵役義務を負わされる。といっても、検査の合格者全員が徴兵されるわけではなく、実際に徴兵されるのは全体の二割ほどだけだ。それでも兄を日露戦争で失った孝平は徴兵を恐れ、二十歳になる直前に消息を絶った。それが事の真相だった。
孝平が松山へ戻って来たのは、近頃はその日暮らしも大変になったからだ。でも、そこには自分が逃げ出したことも、ほとぼりが冷めているだろうとの打算があったようだ。
実際、松山へ戻ってみると、孝平が丁稚をしていた店は潰れてなくなっていた。しかも、山﨑機織では未だに跡継ぎが決まっていなかった。自分にも運が向いてきたと考えた孝平は、意気揚々と店に乗り込んだが、その結果があの騒ぎだ。
店の主を気取っていた孝平は、辰蔵の代わりの番頭は簡単に雇い入れられると本気で信じていたらしい。また店の主は仕事をしなくてもいいとも考えていたようだ。
店の采配を振るったり、使用人を育て上げる主の苦労など、孝平は一つも理解しておらず、甚右衛門もトミも開いた口がふさがらなかったという。
そんな孝平には跡継ぎどころか、店の仕事など任せられない。本来ならば甚右衛門がやろうとしたように、さっさと店から追い出しているところだ。しかし、トミが孝平に最後の情けをかけてやってほしいと懇願するので、甚右衛門は渋々ながら孝平を呼び戻し、大阪へ送り出すことにしたのである。
もちろん、これは作五郎の了承を取ってからの話だ。嫌だと言われればそれまでであり、孝平に居場所はない。作五郎が引き受けてくれたとしても、途中で放り出されればおしまいだ。
そんな感じなので、甚右衛門が孝平よりも千鶴に期待をかけているのは間違いない。鬼の意向には関係なく、もはやロシア兵の子供などとは言っていられない状況なのだ。
千鶴に婿を迎えて後を継がせるという甚右衛門の考えは、トミも以前から聞かされており、そのことには賛成していたそうだ。
ところが喜兵衛を婿にする話は、甚右衛門のまったくの思いつきであり、何も聞かされていなかったトミは懐疑的だった。正清の命を奪った国との取引についても、トミは声を荒らげて反対した。
とはいえ、孝平は役に立ちそうにないし、正清を奪ったのはソ連ではなくロシアだと甚右衛門から諭されると、トミも気が変わった。そして、喜兵衛にソ連との取引を任せれば山﨑機織は勢いを取り戻せるかもしれないと、期待を寄せるようになった。それは裏を返せば、店の経営がかなり逼迫しているということだ。
千鶴にしても今の店の状況を見せられると当惑する。断ったつもりの婿話を祖父に言いくるめられても、自分ばかりが我が儘は言えないと再びあきらめ気分になってしまう。
風寄の祭りを見に行くまでは、千鶴は店のことは他人事のように見ていた。しかし店のことを知り、山﨑機織に来る丁稚が少ない理由を考えると、それは自分のせいかもしれないと思うようになった。
我が子をどの店の奉公に出すかは親が決めるが、同じ丁稚にするならば、多くの親がロシア兵の娘がいない店を選ぶに違いない。
祖父母は千鶴を疎んではいるが、これまで丁稚不足で千鶴に嫌みを言うことはなかった。その祖父母の困り切った姿を見ると、千鶴は自分の責任と罪悪感を感じてしまう。
結婚を拒んで独り身を貫けば、山﨑機織は立ち行かなくなるだろうし、いずれ鬼娘の本性が現れれば、教師として暮らすことも敵わなくなる。結局は同じ鬼仲間を婿に迎えるしか店を守れないし、自身の居場所もない。
やはり定めから逃れる術はないのかと、千鶴は失意でいっぱいだった。
二
翌週の日曜日、喜兵衛は再び千鶴に会いにやって来た。
千鶴は喜兵衛に会うことに気乗りがしなかった。でも甚右衛門が喜兵衛に千鶴を連れ出す許可を出したので、喜兵衛の誘いを拒めなかった。それで渋々喜兵衛について外へ出たものの、一つも楽しくない。
喜兵衛は歩きながら喋るばかりで、どこかの店に入ったり、芝居や活動写真を楽しんだりはしなかった。喜兵衛の話も面白さはなく、その話しぶりから、喜兵衛は芝居などの庶民の楽しみを軽蔑していると千鶴は理解した。
一方で前回とは打って変わり、喜兵衛は千鶴の父親には一切触れなかった。代わりにこれまでの千鶴の暮らしを聞きたがった。特につらい話に興味があるらしい。
千鶴は過去の嫌なことなど思い出したくなかったし、他人に喋ることもしたくない。それでもしつこく訊かれるので、仕方なくぽつりぽつりと話した。喜兵衛は憤慨したりうなずいたりしていたが、どこか他人事みたいに聞いている感じだった。
千鶴に楽しい思い出はあまり多くないが、まったくないわけではない。しかし千鶴が楽しい話をしても、喜兵衛は軽く聞き流して別の話題に変えた。喜兵衛は千鶴の夢や望みにも関心がないようで、千鶴にどんな師範になりたいかなどとは訊かなかった。どうせ自分の妻になれば、そんなことは関係ないと思っているのだろう。
喜兵衛は千鶴を気の毒な娘にしたいようだった。哀れな千鶴に同情することで、自分をよく見せたいのだろう。弱い女は強い男に従うのが幸せだと思っているらしく、自分はその強い男なのだと、しきりに示そうとした。
「自慢するわけやないけんど、今通いよる剣道の道場で、あしに勝てる者はおりません。恐らくやが、今のあしなら師匠にも勝てると思とります」
明らかに自慢話であり、喜兵衛は己の強さを誇示した。
「段位でいうたら、もちろんあしより上の者はおるんですが、段位は力量ぎりで決まるもんやないですけん、あしはあんまし興味ないんです。人が注目するんはほんまに強い者ぎりですけん、あしは力こそがすべてやと思とるんぞなもし」
世の中も力がある者が動かし、力がない者は言われたままに動くだけだと喜兵衛は言った。だから、今の世の中を変えるには、強い力が必要だというのが喜兵衛の考えだった。
「女子にはもっと働ける場所をこさえにゃならん。男が偉そなことが言えるんは、家で女子が支えてくれとるけんぞな。ほれと同じで、社会を支えるんは女子の仕事ぞなもし。ほれやなのに女子の働ける場所がないいうんは、お上の連中が抜け作いうことぞな」
喜兵衛は自分が女の味方であることを強調したが、実際に女の権利を訴える婦人たちのことは、何もわかっていない目立ちたがり屋だと決めつけた。
そんな喜兵衛から世の中の女子の立場をどう思うかと問われ、千鶴は返事に困った。
世の中が弱い者にとって理不尽だとは思っている。喜兵衛が言うように、もっと女が働ける場所があればいいとも思う。でも、どんな仕事が女にも与えられるべきなのかは思いつかない。それに女が強くなることを、喜兵衛は本当には望んでいないみたいだ。
喜兵衛が千鶴の答えを待っている。千鶴は困惑しながら口を開いた。
「女子の立場いうより、男も女も弱い立場の人はようけおりますけん、みんなが助け合うて仲よく楽しゅう過ごせたらええなて思とります」
自分だけでなく、山陰の者として差別を受けている忠之のことも考えての言葉だった。けれど、千鶴の答えに喜兵衛は顔をゆがめた。
「あしが訊いとるんは女子の立場ぞな。男のことは聞いとらん」
「男も女もいろいろぞなもし。強いお人もおれば、弱いお人もおるんは対ぞなもし」
「ほれはほうやが、今あしが訊いとるんは女子の話ぞな。わからんかな?」
喜兵衛の顔に明らかな侮蔑のいろが浮かんでいる。千鶴を頭の悪い女と見たようだ。
千鶴が返事をしなくなると、喜兵衛は慌てて微笑んだ。だけど、千鶴は喜兵衛の本当の顔を忘れなかった。
この男は口では女子のためにと言っているけれど、自分の評価を高めるために、弱い女子を利用しようとしているだけに過ぎない。心の内では女子を見下している。
鬼に選ばれた男はこんなものなのかと千鶴は落胆した。だが、そもそも鬼に人間らしさを求める方が間違いなのだ。
「いろいろ言いんさっておいでるけんど、うちにはちゃんとわかっとりますけん。鬼山さんはお名前どおりの鬼でしょ? ご自分の正体隠して、弱い者を喰いものにするおつもりなんはわかっとりますけん」
喜兵衛はきょとんとしたあと、声を出して笑った。
「千鶴さんは面白いことを言う女子じゃな」
「違うと言いんさるんか?」
真顔の千鶴を見て、喜兵衛は笑うのを止めた。
「こがい言うたら失礼なけんど、千鶴さんは見た目よりも、ずっと頭がええお人じゃな。いや、頭が切れるいうんがええかいの。そこらの弱虫連中とは違わい」
「はぐらかさんで答えておくんなもし。鬼山さんのほんまの狙いは弱い者を助けることやのうて、ご自分と対のお仲間を増やすことやないんですか?」
喜兵衛は千鶴に感心した目を向け、ふっと笑った。
「さすがじゃな。お察しのとおりよ。情け知らずの鬼の喜兵衛とはあしのことぞな。弱い奴にかける情けなんぞ持ち合わせとらんし、戦う相手は誰であれ完膚なきまで叩きのめすんが、あしの流儀ぞな。もちろん、普段は穏やかな人物を装っとるがな」
「やっぱし……」
千鶴は覚悟ができていたので驚きはしなかった。ただ悲しみが込み上げ横を向いた。
本性を見せた喜兵衛は、喋り方も馴れ馴れしくなった。
「世の中に虐げられる者がおるんは、はっきし言うたら、そいつが弱いけんよ。言い換えたら、頭が悪いわけぞな。そがぁな連中は利用されるぎりで、何人集まったとこで世の中ひっくり返す力にはならん。あしが求めよるんは、あしと対の力を持つ者ぞな」
「ほれと、銭じゃろ?」
千鶴の吐き捨てるような言い方に、喜兵衛はくっくっと笑った。
「ほのとおりぞな。やっぱし世の中は銭よ。何でかんで力尽くいうんは下作やけんな。なんぼ鬼でも頭は使わんといけん。千鶴さんはまこと頭がええ。ほれに、ほの気ぃの強さも気に入ったで」
千鶴が返事をしないでいると、喜兵衛は続けて言った。
「あしはな、今の世の中ぁひっくり返したいんよ。千鶴さんがあしと組んでくれたら、ほれがでける。どがいぞな。千鶴さん、あしと一緒に世の中ぁひっくり返さんか? 二人で仲間増やして、あしらの世界をこさえるんじゃ」
千鶴は喜兵衛に顔を向けると、濡れた目でにらみつけた。
「あなたはご自分のご野望のために、うちや、うちの店を利用するおつもり?」
「まぁ野望いうたら野望なけんど、ほれは千鶴さんのためにもならい。今の世は千鶴さんには住みにくかろ? もちろん商いはちゃんとするけん、甚右衛門さんに損はさせん」
「今の世の中が暮らしにくうても、うちは鬼山さんをお手伝いする気はありません」
千鶴がまた横を向くと、喜兵衛は困惑のいろを見せた。
「まだ話を全部聞いたわけやないのに、そがぁなことは言わんでくれんかなもし。あしがどがぁな世界を思い描きよるんか、聞いてからにしてつかぁさいや。きっと千鶴さんも、ほれはええて思うけん」
「全部を聞く必要はありません。うちは自分を見下すお人とは一緒にならんけん」
喜兵衛への嫌悪感で、千鶴は鬼娘の定めのことを忘れていた。千鶴の返事が思いがけなかったのだろう。喜兵衛は慌てて千鶴の前に回った。
「ちぃと待ってくれんかな。いつ、あしが千鶴さんを見下したと言うんぞな?」
「最初からずっとぞなもし。ご自分やなかったら、うちみたいな者の婿になる男子なんぞおらんて、高括っておいでるんじゃろけんど、うちは一生独りでも平気ですけん」
「ほれじゃったら、甚右衛門さんが困ろ?」
この言葉に鬼山の本音が表れている。男尊女卑は鬼も人間も同じなのだろう。
「おじいちゃんは――」
千鶴はそこで口を噤んだ。今の祖父母は鬼に操られている。だけど辰蔵たちが仕事をする様子を見ると、辰蔵たちがどんな気持ちで働いているかがよくわかる。それは祖父母が教え込んだものあり、鬼が現れる以前からの祖父母の商いの姿勢だった。
千鶴は口を開くと、自分なりに理解した祖父母の姿を語った。
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、伊予絣を誇りに思とるんよ。ほじゃけん、お店で働く人らも、みんなそがぁ思て仕事をしとりんさる。遠くにおいでる顔も知らんお人らが、うちらが売った絣を喜んでくんさるんを思い浮かべて商いしよるんよ。銭儲けのためぎりで商いしよるんやないですけん」
喜兵衛は、ほぉと感心した声を出した。
「千鶴さん、店の仕事しとらんのに、よう店のことをわかっておいでるんじゃの。千鶴さんには物事を的確に見る力があるいうことよ。やっぱし、あしには千鶴さんがぴったしじゃ。千鶴さんにはあしと対の匂いがすらい」
千鶴はぎくりとなった。やはりお前も鬼の仲間だと、喜兵衛は言っているのだ。しかし、千鶴の決意は変わらなかった。定めのことを思い出したが、口が勝手に動いている。
「うちは、あなたとは一緒になりません。あなたとのお付き合いもこれぎりぞなもし」
千鶴が背を向けて歩き出すと、喜兵衛は焦ったみたいだ。千鶴を呼び止め、自分の何がいけないのかと訊ねた。
千鶴は喜兵衛を振り返ると、きっぱりと言った。
「たとえあなたと一緒になるのが定めじゃったとしても、うちはその定めに従うつもりはありません。あなたが望む世の中は、うちが望むもんとは違います。うちが願とるんは、誰にも優しい世界ぞな。鬼が考える世界やないんぞなもし」
言うだけ言うと、千鶴は再び喜兵衛に背中を向けて歩き出した。後ろで喜兵衛が千鶴を呼び、誤解だと叫んでいたが、千鶴は耳を貸さずに歩き続けた。
やがて喜兵衛の声が聞こえなくなったが、こんなはずではと喜兵衛は途方に暮れているだろう。
千鶴も自分が取った行動に、今更ながら不安になっていた。頭に血が昇って喜兵衛を拒んでしまったが、これは定めに反することだ。鬼の喜兵衛がこのままおとなしく引き下がるわけがなく、千鶴が逆らったことを力尽くで後悔させようとするに違いない。
どうせあの人と夫婦になれないのなら、死んでも構わないと千鶴は考えていた。それでも家族や使用人たちに禍が降りかかるかもと思うと、千鶴の心は大きく動揺した。
三
家に戻ると、千鶴は待ち構えていた甚右衛門に、どうだったかと訊かれた。その隣でトミも千鶴の言葉を待っている。
台所で花江が仕事をしながら話を聞いているが、母の姿は見えない。
一週間前に腰を痛めた幸子は、勤務する病院に無理をいって翌日だけ休みをもらった。その連絡は前日のうちに、亀吉が事情を書いた手紙を病院へ届けてくれた。
次の日からは腰の痛みを抱えながら仕事に復帰したが、病院では湿布をしてくれたので、幸子の腰は少しずつ回復していた。それで病院が休みの今日も家事を手伝っていたのだが、今はどこへ行ったのか、台所にも奥庭にもいなかった。喜兵衛のことは母にも聞いてもらいたかったが、厠へでも行っているのだろうか。
千鶴は祖父母がいる茶の間に上がると、花江には悪いが部屋の障子を閉めた。驚いた様子の二人の前に座った千鶴は、両手を突いて頭を下げた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、申し訳ありません。やっぱし、うちはあのお人とは一緒になれんぞなもし」
何ぃ?――と甚右衛門が裏返った声を出した。
「な、何がいかんのぞ?」
動揺する甚右衛門に、千鶴は頭を伏せたまま答えた。
「あのお方はご自分のご野望のために、うちやこの店を利用しんさるおつもりぞなもし。あのお方にはおじいちゃんやおばあちゃん、番頭さんらのお気持ちなんぞ、これっぽっちもわかっとりません」
「わしらの気持ちて、何ぞな?」
千鶴は顔を上げると、喜兵衛に伝えたことや、喜兵衛が山﨑機織を利用して世の中をひっくり返すつもりであることを二人に説明した。
甚右衛門は唸ったまま黙り込んでしまったが、トミは千鶴の言うとおりだと言った。
「この子はうちらのことを、ようわかっとる。ほれに比べて何ぞな、あの鬼山いう男は。ここの仕事を真剣に受け継いでくれるて思たけん、千鶴の婿にと言いよんのに、世の中ひっくり返すてどがぁなことね。そげな男をこの子の婿になんぞできんがね」
甚右衛門は黙り続けているが、その顔はいかにも苦しげだ。千鶴の言い分を否定はできないが、ならば店はどうなるのかと困りきっているのだろう。
「あの男は誰にも指図されとないて言いよったんじゃろ? ほれはあとからうちらが文句言うたとこで、聞く耳持たんいうことやないの。冷静に考えたら、どんだけ危ない男かがわかろうに、あんたがどんどん話を進めてしまうけん。だいたいな、正清殺したロシアと商売するいう時点で、おかしいて気ぃつかんといけんかったんよ」
つかましいわ――と甚右衛門はトミをにらんだが、千鶴を叱りはしなかった。
「話はわかった。嫌がる者に無理なことはできんけんな」
「申し訳ありません」
千鶴が下を向くと、甚右衛門はむずかしい顔で、部屋へ戻って少し休めと言った。
千鶴が離れの部屋へ行くと、幸子が横になっていた。どうしたのかと訊ねると、さっきから腰が痛くなって動けないという。ずっとよくなっていたのに、急にずきんと痛くなってどうしようもなくなったので、花江に仕事を任せて休んでいるそうだ。
千鶴はざわっとなった。これは鬼の仕業に違いなかった。しかし、鬼の怒りはこんなものではないだろう。喜兵衛との結婚を千鶴が受け入れるまで、さらなる禍が続くのだ。
四
翌日、作五郎からの手紙が届いた。甚右衛門の希望どおり、孝平の世話を引き受ける内容だった。ただ、その分の手当を甚右衛門が提示した額よりも、もう少し上げてほしいという要望も書かれてあった。
甚右衛門は直ちに孝平に大阪行きを申しつけた。また、もし作五郎を怒らせたなら、そのままどこにでも行って二度と松山には戻って来るなと厳しく言い添えた。
孝平はすっかりおとなしくなり、素直に頭を下げた。
店に呼び戻されて以来、孝平は辰蔵たち使用人に対しても偉ぶった態度は見せず、言われたとおりに動いていた。花江にも口を利いてもらえるようになり、拍子抜けした辰蔵とも揉めることなくにこやかに過ごしていた。
孝平のそんな姿は、トミに期待を抱かせたらしい。トミは孝平を優しく励まし、必ず作五郎さんに認めてもらうようにと言った。孝平は嬉しそうに大きくうなずいた。
大阪へ向かう日の朝、店先で孝平は甚右衛門とトミに挨拶をした。
「父さん、母さん。これまで心配ぎりかけよったけんど、絶対に一人前になって戻んて来るけんな」
どこまで本気で聞いていたのかはわからないが、甚右衛門は黙ってうなずいた。千鶴の縁談が壊れた以上、孝平に望みを託す以外にない。しかし甚右衛門の表情を見ると、やはり期待は薄いと見ているようだ。
トミは涙ぐみながら、しっかりがんばりんさいと言った。
孝平は見送りに出ていた千鶴にも幸子にも挨拶はしなかったし、辰蔵たちにも声をかけなかった。おとなしくなったとはいっても、そうそう本音は変わらないわけだ。
けれども孝平は花江にだけは声をかけて、いきなり手を握った。
「ちょっと何を――」
「わしが一人前になって戻んて来たら、ほん時はわしの嫁になってくれ」
えぇ?――花江は驚いたが、他の者たちも驚いた。
「こら、孝平! こがぁな時に何言いよんぞ」
甚右衛門に怒られると、孝平は慌てて花江から手を離して姿勢を正した。
「ほんじゃあ、行てくるぞな」
孝平は甚右衛門とトミに声をかけると、ちらりと花江を見た。
「花江さん。約束ぞな」
「ちょっと待って。あたし、約束なんか――」
花江の返事を聞かず、孝平はそのまま古町停車場へ足早に向かった。花江は困惑して顔を伏せると、店の中へ逃げた。
「あんた、この手があったぞな」
トミが目を輝かせた。孝平と花江に店を継がせればと思ったのだろう。
「そげなことは、あいつが一人前になれたら考えようわい」
甚右衛門は素っ気なく答えると、使用人たちに仕事に戻るよう命じた。
数日後の日曜日、またもや喜兵衛が訪ねて来た。甚右衛門は千鶴を離れで控えさせると、喜兵衛を座敷に招き入れた。
千鶴はその時の様子をあとでトミに聞かせてもらったが、喜兵衛は終始居丈高な態度を見せていたという。頭を下げ続ける甚右衛門に対し、喜兵衛はずっと不機嫌な顔でふんぞり返っていたらしい。そこには目上の者に対する敬意など一欠片もなかったようだ。
見合いの話はそちらから持ちかけてきたものであり、恥をかかされた責任はどう取るつもりなのかと、喜兵衛は平謝りの甚右衛門を責め続けたそうだ。
それでも見合いを断るには理由がある。喜兵衛が商い以外に怪しげな企てを持っていたことについて、甚右衛門にも文句を言う権利はあるのだ。ところが甚右衛門はそのことに触れようとせず、我が夫ながら情けないとトミは首を振った。
トミが言うには、甚右衛門の実家の重見家と喜兵衛の実家の鬼山家では、どちらも元下級武士ながら鬼山家の方がわずかに格上だったそうだ。それで甚右衛門は相手の非を咎めることができなかったのだという。
「商家に婿入りして何十年にもなるのに、何が侍ぞな。だいたい今時、侍がどこにおるんね。相手に非ぃがあるのに、こっちが頭を下げるやなんて、こがぁなおかしな理屈があるもんかな」
千鶴に夫への愚痴をこぼしたトミは、今回のことが余程腹に据えかねたと見える。甚右衛門が喜兵衛から言われっ放しなので、代わりに言ってやったと鼻息荒く喋った。
「千鶴の婿になれるんは、ほれにふさわしい男ぎりであって、今度のことは、あんたが千鶴にはふさわしなかったぎりの話じゃろがね!――て言うたったんよ。ほしたらな、あの男、何も言い返せんで、顔を真っ赤にして去によったわい」
千鶴は祖母に女の強さを見たが、すぐに訝しんだ。
祖父母は鬼に操られていたはずだ。なのに祖母が喜兵衛を撃退したのは矛盾している。もしかしたら鬼が操っていたのは祖父だけなのだろうか。
だが祖父にしても、考えてみればおかしいのだ。
祖父が喜兵衛に頭が上がらないのは、鬼である喜兵衛の方が立場が上だからだ。だけど、祖父が本当に喜兵衛に操られているのであれば、自分が何と言おうと無理やり喜兵衛と夫婦にすればいいことだ。祖父にはその権限がある。それを祖父は頭を下げてこの縁談をなかったことにした。やはり妙だ。
恐らくは祖父母を操る鬼の力が弱かったのか。祖父母は鬼に操られはしたものの、完全に鬼の手に落ちていたわけではなかったと思われる。
今の祖父母を支配しているのは、山﨑機織が置かれたこの苦境を、何としても乗りきろうとする切実な想いなのだろう。実際、山﨑機織には危機が迫っていた。
五
この日、喜兵衛が出て行くのと入れ替わりに、いよいよ東京の問屋が商いを再開したという話が舞い込んだ。しかし、山﨑機織の取引先がどうなったのかまではわからない。
大地震のあと、辰蔵が東京の状況を確かめに行った時には、取引先はどこも店が潰れたり人が亡くなったりで、商いなど考えられない状態だった。
それでも商いを始める時には電報で知らせてほしいと、辰蔵は無事が確かめられた相手に頼んでおいた。だが東京からの連絡は入って来なかった。
何日か経つと、他の店は東京向けの仕事を再開した。なのに、山﨑機織には取引先からの連絡が届かなかった。
伊予織物同業組合の組合長が、ひょっこりと訪ねて来た。もうずいぶん涼しくなったのに、太めの組合長は暑そうに扇子で顔を扇いでいる。
組合長は甚右衛門を見つけるなり大丈夫なのかと訊ねた。何が大丈夫なのかと甚右衛門が訊き返すと、山﨑機織がもうすぐ潰れるという噂を耳にしたと組合長は言った。
驚いた甚右衛門は、すぐに噂の出所を確かめに行った。それが戻って来た時には、左手で右腕を押さえながら左足をひきずるという姿だった。着物は土に汚れ、右手の甲からは出血もしていた。
何があったのかとみんなから問われた甚右衛門は、噂の元を辿って行くと、噂を広めていたのが鬼山喜兵衛だとわかったと言った。
恐らく千鶴の婿になる話が流れた腹いせに違いなく、甚右衛門は喜兵衛を捕まえてとっちめてやろうと、湊町へ向かったそうだ。ところが頭に血が昇っていて、左から来た自転車に気がつかず、ぶつかられて転倒したという。
トミは病院へ行くよう促したが、この程度のことでは行かないと、甚右衛門は言い張った。けれども自転車がぶつかった所は赤黒い痣ができているし、転んで打ちつけた右腕もトミが触れると痛がった。
これではとても喜兵衛をとっちめるどころではない。こんな姿で行ったところで迫力もなく、白を切られて終わりになる。
代わりに自分が喜兵衛の所へ行くとトミが言ったが、甚右衛門は許さなかった。女が行っても相手にされないだろうし、今の状態が向こうに知れるのを甚右衛門は嫌がった。
トミは悔しがったが、山﨑機織全員がトミと同じ想いを抱いていた。甚右衛門自身、己が情けないらしく、痛みより腹立たしさで顔をゆがめているみたいだ。
いよいよ鬼の呪いが始まったと千鶴は思った。東京から連絡がないのも、祖父が怪我をしたのも鬼の仕業だ。喜兵衛が自ら山﨑機織の悪い評判を広めているのがその証だ。
千鶴は喜兵衛との縁談を拒んだことを、甚右衛門に詫びた。だが、甚右衛門は千鶴を責めず、あんな男を婿にしなくてよかったと言った。また、今回のことも自分に人を見る目がなかっただけだと、己の責任を認めた。
「わしらがきちんと商いができとったら、いくらあの男が悪い噂を立てたとこで誰も相手にすまい。ほんまの問題は人手が足らんのと、東京の様子がわからんいうことぞな」
甚右衛門は感情を抑えて冷静に喋った。そんな祖父の姿勢を千鶴は立派だと思った。また有り難いとも思った。だけど不思議でもあった。今の祖父は鬼の支配が及んでいるように見えない。なのに祖父が自分をいたわってくれるのは妙である。祖父はロシア人の血を引く孫が疎ましいはずなのだ。
ついに始まった禍に恐れを抱きながら、千鶴は当惑した。
東京からの連絡がないので、甚右衛門は東京の取引先の様子を、急いで辰蔵に見に行かせようとしていた。ところがこんな状態では、辰蔵に代わって帳場の仕事はできない。正座などできないし、帳簿をつけるのも困難だ。
甚右衛門は辰蔵の代わりに茂七を遣ることも考えた。けれど東京に不慣れな茂七では、行ったところでどうにもならないのは目に見えていた。
そんなところに銀行の行員が訪ねて来た。山﨑機織は銀行に借金があるので、倒産の噂を耳にした銀行が真偽を確かめに来たのだ。
甚右衛門は噂はでっち上げで、経営は順調だと訴えた。しかし、怪我だらけの甚右衛門の姿は説得力がなかっただろう。
関東大地震のあと、山﨑機織がぎりぎりの所で踏ん張っているのは行員も知っている。とはいえ、このまま東京への出荷が再開できなければ借金返済の目途が立たなくなり、いずれ経営は破綻すると見ているはずだ。
甚右衛門たちが不安のいろを浮かべる中、行員は帳簿を調べて確かめた。それで東京への出荷が止まったままなのを知ると、噂は本当だと判断したらしい。
これにどう対処するつもりかと行員は問うたが、甚右衛門はうまく答えられなかった。自分の傷が治ったら辰蔵を東京へ送るつもりだというのが、甚右衛門にできる精いっぱいの答えだった。
当然ながら、その答えに行員は満足しなかった。甚右衛門に十日だけの猶予を与え、十日以内に出荷が再開できなければ、借金を取り立てると言った。そうなると山﨑機織は本当に潰れてしまう。
トミは行員に縋りながら、もう少し待ってほしいと懇願した。行員がトミの手を振り払って帰ろうとすると、トミは胸を押さえて苦悶の表情で倒れた。
甚右衛門は急いで亀吉を医者を呼びに走らせた。行員はうろたえながらも、自分は関係ないと言いながら帰って行った。
駆けつけた医者の見立てでは、トミは心臓が弱っているらしい。医者は入院を勧めたが、トミは頑として拒んだ。どうせ死ぬのであれば、家で死にたいとトミは言った。
入院しないのであれば、誰かがトミの世話をしなければならない。
幸子は病院の仕事に復帰していたが、腰を痛めた時に急な休みを取って、これまで二度病院に迷惑をかけている。再び休みを取ると言えばクビにされてしまうし、完全に腰が治ったわけではないので、トミに十分な看護ができる状態ではなかった。
花江は家事で手がいっぱいだ。となると、千鶴しかいない。
千鶴にしても簡単には学校を休めないが、甚右衛門は千鶴に婿をもらって店を継がせるつもりだった。その時は千鶴を退学させたはずなので、甚右衛門に学校は重要ではない。学校を理由に祖母の世話ができないとは言えなかった。
それに千鶴自身、学校より祖母が心配だった。ずっと冷たくされていた祖母ではあったが、やはり肉親だし、鬼に操られていたとはいえ、最近の祖母は千鶴に優しかった。
ばあさんの世話をしてもらえないかと祖父に頼まれると、千鶴は素直にうなずいた。
トミの世話を始めた千鶴は、夜でもすぐに祖母の世話ができるように茶の間に自分の布団を運んだ。これまでの暮らしで初めてのことで、少なからず気が張っている。
しかし、千鶴の仕事は祖母の世話だけでない。手が空いていれば花江の手伝いをし、祖母に代わって、丁稚たちに読み書き算盤を教えたりもした。忙しく大変ではあったが、千鶴は自分の役割があることで居心地のよさを覚えてもいた。
これまで千鶴は自分を家族のお荷物だと受け止めていた。だけどこうして頼られていると、家族の一員として扱われているみたいに思えるのだ。
学校が気にならなかったわけではない。でもこのまま学校をやめて、家の仕事をするのも悪くないかもしれないと考えることもあった。ただ鬼の計画に従わなかった以上、この先に安定した暮らしなどないだろう。
行員が指定した期日までに東京との取引が再開できなければ、山﨑機織は倒産に追い込まれる。ところが東京からの連絡は来ないし、甚右衛門もトミも身動きが取れない。誰が見ても山﨑機織は瀕死の状態だった。
鬼の仕組んだことである以上、千鶴が喜兵衛との結婚を承諾しない限り、東京からの注文は入らない。日を追う毎に、千鶴に責任が深くのしかかった。
銀行との約束の期限まであと三日に迫った日の朝、祖母の食事の世話をしながら千鶴は涙をこぼした。
何を泣くのかとトミに問われた千鶴は、畳に両手を突いた。
「うちのせいで、お店が傾いてしまいました。うちが鬼山さんとの縁談を断らんかったら、こげなことにはならんかったし、おばあちゃんかて病気にならんかったのに……」
トミは弱々しく微笑むと、ええんよと言った。
「これで店が潰れるんなら、ほれがこの店の定めじゃったぎりのことぞな。前も言うたけんど、あがぁな男のことは気にせいでええ。もういつ死ぬるかわからんけん、言うとこわいね。うちらにとってはこの店よりも、あんたの方が大事なんよ。ほじゃけん、あんたは何も気にすることないけんな」
千鶴は祖母の言葉が信じられなかった。祖父と同じく自分を疎む祖母が、こんなことを言うわけがない。しかし鬼に操られての言葉なら、喜兵衛と一緒になってほしかったと言っただろう。
トミは食事をやめると横になって目を閉じた。千鶴は何も言えないまま呆然としたが、頬は勝手にあふれる涙で濡れていた。
六
朝食を先に食べ終わった使用人たちは、それぞれ自分の仕事を始めていた。
甚右衛門は茶の間で新聞を読んでいる。右腕の痛みはかなりよくなったもののまだ正座や胡座ができず、仏頂面で左足を投げ出すようにして座っている。
銀行の期限を考えると、辰蔵に東京の様子を見に行かせるにはぎりぎりだ。しかし、行かせたところで注文が取れなければ山﨑機織はおしまいである。甚右衛門は不安と迷いといらだちで記事の内容などほとんど頭に入っていないだろう。
いつもであればトミがお茶を淹れるところだが、花江が湯飲みを甚右衛門の傍にそっと置いた。そこへ帳場から困惑顔の弥七がやって来た。
「旦那さん、大八車がめげてしもたぞなもし」
何ぃ?――と唸るがごとき甚右衛門の叫びに、トミは目を開けた。
甚右衛門は急いで立ち上がろうとしたが、足の痛みに動きを止めた。けれども大八車が壊れたのが本当であれば一大事だ。甚右衛門は苦痛を堪えながら立ち上がると、土間に降りた。弥七は甚右衛門を誘うがごとくに帳場へ戻り、甚右衛門は足を引きずりながらそのあとに続いた。
しばらくすると、何をしとるんじゃい!――と甚右衛門の怒鳴り声が聞こえた。
千鶴と顔を見交わしたトミは、様子を見て来るようにと言った。
台所にいた花江は、すぐさま帳場の方へ向かった。千鶴も急いで土間へ降りたが、そこへ仕事へ行く身支度を終えた幸子が現れた。
異様な雰囲気に気づいた幸子は、何かあったのかと千鶴に訊ねた。母を振り返った千鶴が口を開くと、怒りで興奮した甚右衛門が足を引きずりながら戻って来た。
何も言わずに茶の間へ這い上がった甚右衛門は、肩で大きく息をしながら呆けたように黙っている。祖父を刺激しないために、千鶴は説明をやめて母と帳場へ向かった。
だが帳場には誰もおらず、みんなが店の外に出ていた。千鶴たちも表へ出ると、辰蔵と茂七、弥七の三人が大八車を押さえながら何かをしている。その傍では亀吉と新吉が突っ立ったまま泣いていた。
近所の者たちが朝の忙しい中、仕事の手を止めて集まっている。
花江が辰蔵たちの後ろに立っていたので、千鶴は花江に声をかけて、どうしたのかと訊ねた。花江は振り返ると、車輪が外れてしまったみたいだと言った。
見ると、確かに左の車輪が外れている。辰蔵たちは車輪を何とか本体に引っつけるべく苦闘していた。だけど、いくら押さえつけたところで壊れた物が直るわけがない。
無理ぞな無理ぞなと野次馬たちは無慈悲に口を揃えるが、誰も代わりの大八車を貸してやろうとは言わない。
何で壊れたのかと幸子が訊いたが、花江は黙って首を振った。
修理をあきらめた辰蔵が立ち上がって千鶴たちの所へ来ると、もう古い物なのでここのところ調子がよくなかったと言った。そろそろ新しい物を買わねばと話していたが、関東の大地震が起こってしまい買い替えることができなかったそうだ。
夜の間、大八車は店の土間に仕舞われている。朝になると丁稚たちが表に出して荷物を運ぶ準備をするのだが、今回外へ出す時に車輪が店の敷居を超えたところで、がくんと外れてしまったらしい。予備の物はないので修理に出そうにも出せずにいたのが、とうとう壊れてしまったというのが真相だ。
そのことは甚右衛門もわかっていたはずだ。けれど今の追い詰められた状況の中、大八車が壊れたことは店にとどめを刺されたのと同じ意味だった。
思わず甚右衛門が丁稚たちを怒鳴りつけたのも無理ないことではあったが、気の毒なのは丁稚たちだ。何も悪いことをしていないのに頭から怒鳴りつけられ、弁明さえも許されなかったのだ。
困惑した辰蔵に目を向けられると、野次馬たちはこそこそと自分たちの仕事に戻った。どこも遠方へ送る品を古町停車場まで運ぶ準備をしているところだ。大八車を貸してくれと言われても困るのだろう。
辰蔵の話では、この日は作五郎からの指示に合わせて、絣を大阪へ送り出すことになっている。しかし、大八車が使えないとなると約束の品を送れない。陸蒸気の時刻は決まっているので、あとから運んだのでは期日に間に合わなくなってしまう。
また町中の太物屋へ注文の品も納められないと、客からの信用がなくなるし、銀行からも厳しく咎められる。
辰蔵はさっきの野次馬たちに、大八車を貸してもらえないかと掛け合ってみた。だが予想したとおり、どこの店もいい返事をしてくれず途方に暮れるしかなかった。
いよいよ山﨑機織はおしまいのようだ。深く責任を感じた千鶴は、泣いている亀吉と新吉を抱き寄せて慰めながら一緒に泣いた。
札ノ辻の方から、がらがらという音が聞こえてきた。音の方を振り返ると、札ノ辻から男が一人、大八車を引いてやって来る。後ろの荷台には、どっさりと荷物が縛りつけられてある。近づいて来る男の着物は継ぎはぎだらけだ。
まさか?――信じられない光景に千鶴は胸が詰まった。千鶴に気づいた男は、目を見開くと嬉しそうに笑った。
「これはこれは、千鶴さんやないですか。おはようござんした」
胸がいっぱいになった千鶴は、言葉が出て来なかった。体が勝手に駆け寄ると、千鶴は忠之に抱きつき泣いた。
優しい温もりが、体ばかりか心までも包んでくれる。
「おっと、どがぁしんさった? 何ぞ、あったんかなもし?」
亀吉と新吉が泣くのも忘れ、驚いた顔で見ている。辰蔵たちも怪訝な顔を千鶴たちに向けている。
忠之は優しく千鶴の背中を叩きながら、子供らが見よるぞなと千鶴の耳元で言った。我に返った千鶴は慌てて忠之から離れ、後ろを振り返った。
亀吉と新吉はぽかんとしたまま千鶴たちを見ているし、辰蔵たちも何が起こったのかわからない様子だ。近所の店の者たちも、思いがけない場面に目が釘づけになっていたが、千鶴と目が合うと慌てて動きだした。
忠之は亀吉たちの所へ大八車を引いて行くと、どがいしたんぞと訊ねた。二人とも困惑しながらもじもじしている。見てはいけないものを見てしまった感じだ。
「これぞな」
辰蔵が壊れた大八車を指で差すと、ははぁと忠之はうなずき事情を察したようだ。
「ほんじゃあ、この荷物を急いで降ろして、ほれから、こいつでこっちの荷物を運びましょうわい」
「え? そがぁしてもらえるんかな?」
驚く辰蔵に忠之は笑顔で言った。
「大したことやないぞなもし。困った時はお互いさまですけん。ほれに、おらは人さまのお役に立てるんが嬉しいんぞなもし」
「そがぁしてもらえたら、まっこと助かるぞなもし。お前さまには先日も親切にしてもろて、ほんまに恩に着るぞなもし」
辰蔵は頭を下げると、茂七と弥七に命じて急いで積み荷を中へ運ばせた。
忠之は亀吉たちにも声をかけ、自分と一緒に荷物運びを手伝わせた。亀吉たちに笑顔が戻り、二人は張り切って荷物を運び入れた。
荷物は中身を確認してからでないと蔵へは運べない。帳場は運ばれて来た木箱が山積みされた。
荷物が全部降ろされると、今度は大阪へ送る荷物を載せる番だ。注文品の箱は昨日のうちに用意してある。手代と丁稚の四人が急いで蔵から木箱を運ぶと、辰蔵が送り先を確かめた。その木箱は忠之が大八車に積み、品を運び終えた手代たちも手伝った。
花江から聞いたのだろう。荷物を運べると知った甚右衛門が表に出て来て、大八車に荷物が積まれるところを眺めている。その後ろには、花江が笑顔で立っていた。
忠之たちが忙しく動きまわるのを、自分も手伝いたいと思いながら千鶴が見ていると、知り合いなのかと幸子が声をかけてきた。
千鶴は少しうろたえたが、黙ってこくりとうなずいた。千鶴と忠之の顔を見比べた幸子は、納得したように微笑んだ。
七
荷物を全部積み終わると、甚右衛門は忠之に感謝した。
忠之は照れ笑いをしながら、まだ終わっていないと言い、大八車を引いて行こうとした。千鶴は忠之を呼び止め、運ぶ先がわかっているのか確かめた。
忠之は頭を掻いて笑うと、どこじゃろかと言った。みんなが笑い、いい雰囲気が広がった。
辰蔵は茂七に後ろから押しながら道案内をするよう言った。
茂七は大八車の後ろにつくと、正面の寺の山門を右へ曲がるのだと忠之に教えた。
「すまんね、茂七さん」
忠之は大八車を引きながら言った。
「何言うんぞ。ほれはこっちの台詞ぞな。こないだもあしの戻りが遅なった時に、荷物運びを手伝てもろたみたいなし。お前さんはあしらの福の神ぞな」
「おらが福の神? そげなこと言われたんは初めてぞなもし」
「ほれにしても、今日はずいぶん早いんやな。お陰さんで助かったけんど、なしてこがぁに早よにおいでたんぞな?」
「何、朝早ように目が覚めてしもたぎりぞなもし」
二人が喋りながら大八車を動かして行くのを、千鶴はみんなと一緒に見送っていた。
どんどん離れて行くので、二人の話はよく聞き取れない。でも、こないだも忠之がここの仕事を手伝ってくれたと、茂七が言ったのは聞こえた。
それが何の話なのかは知らないし、忠之が大八車で荷物を運んで来た理由もわからない。いずれにせよ、忠之は千鶴が知らぬ間に山﨑機織と関係を持ったらしい。これは興奮すべきことではあるが、事情がわからない千鶴は歯痒い気持ちの方が大きい。
「なぁなぁ、千鶴さん。あの兄やんと千鶴さんて、どがぁな仲なんぞなもし?」
新吉が無邪気に千鶴の袖を引っ張った。
「こら、新吉。余計なこと言うな!」
亀吉が慌てて新吉を叱ると、何の話ぞなと甚右衛門が二人を見た。
「いや、あの、えっと……」
亀吉が口籠もると、新吉が言った。
「あの、さっき千鶴さんがあの兄やんに抱きつきんさって、泣いておいでたんぞなもし。ほれで、あの兄やんが千鶴さんのこと、こがぁして慰めよったけん」
新吉は亀吉を抱き寄せると、背中をぽんぽんと叩いた。
「何しよんぞ!」
亀吉が真っ赤になって新吉を突き放した。だが新吉も負けていない。旦那さんに説明しよんじゃが!――と怒って言い返した。
「千鶴、今の話はまことか?」
甚右衛門が千鶴を質すと、みんなの目が千鶴に集まった。
千鶴は下を向くと、蚊が鳴くみたいな声で、はいと言った。顔が熱く火照っている。きっと真っ赤になっているはずだ。
そがぁいうたらと、辰蔵が思い出したように言った。
「二人とも互いを知っておいでましたな。つまり、お二人は元々知り合いじゃったいうことかなもし」
千鶴は顔を上げると、甚右衛門に言った。
「名波村の祭りを見に行った時に、うちを助けてくんさったお人のことを、おじいちゃんにお話しましたけんど、あのお方がそのお人なんぞなもし」
何?――と甚右衛門が大きな声を出した。
幸子と花江は顔を見交わしてうなずき合った。
「旦那さん、これはどがぁな話ぞなもし?」
辰蔵が訊ねると、甚右衛門は言葉を濁しながら、千鶴が村の男に絡まれたのを、あの男が助けてくれたらしいと言った。
千鶴の祭りの報告は楽しい話ばかりだったので、辰蔵たちは意外そうに驚いた。幸子と花江の顔にも、少し不安のいろが浮かんでいる。
「ほれで千鶴さんは、ひどいことはされんかったんですか?」
「あの男に助けてもろたけん、無事じゃったと」
甚右衛門が笑うと、辰蔵は安堵して千鶴を見た。幸子と花江もほっとしたようだ。
「旦那さん」
新吉が甚右衛門に声をかけた。さっきは甚右衛門に叱られて泣いていたくせに、新吉は甚右衛門がそれほど怖くはないみたいだ。亀吉が泡食った顔をしているのに、新吉は平気な顔で甚右衛門に訊ねた。
「千鶴さんに絡んだ奴らて、どがぁな奴やったんぞなもし?」
甚右衛門は新吉の馴れ馴れしさを気にすることなく、楽しげに右手の指を四本立てた。
「でっかい男が四人じゃったと」
「でっかいのが四人?」
新吉は目を丸くして亀吉を見た。亀吉も驚いた顔をしている。幸子と花江の顔にも、再び不安のいろが浮かんだ。
新吉は千鶴を振り返ると、興奮した様子で訊ねた。
「千鶴さん、旦那さんが言うたんはほんまなん?」
千鶴は素直にうんとうなずいた。新吉は再び目を丸くして、亀吉と顔を見交わした。
「ほれにしても奇遇な話ぞな。風寄で千鶴さんを助けた男が、ここでこがぁな形で千鶴さんと再会するとは、まっこと人生とはわからんもんぞなもし」
辰蔵が感慨深げにうなずくと、新吉がまた千鶴に言った。
「千鶴さん、あの兄やんのこと好いとるん?」
「阿呆!」
亀吉が新吉の頭を叩いた。
「何するんぞ! 痛いやないか」
「余計なこと言うなて、言うとろうが」
これ!――と辰蔵が叱ると、二人はおとなしくなった。千鶴は恥ずかしくて、何も聞こえていないふりをした。幸子と花江がくすくす笑っている。
「なるほどな」
甚右衛門はにやりと笑うと、あの男が戻って来たら奥へ通すようにと辰蔵に言った。
辰蔵はわかりましたとうなずいて、後ろで黙って突っ立っていた弥七に声をかけた。弥七が驚いた声で返事をすると、辰蔵は忠之が運んで来た品の確認と、蔵への移動を命じて帳場へ戻った。
「確かに、あの男は福の神かもしれんな」
忠之たちが見えなくなった大林寺の方を眺めながら、甚右衛門は独り言をつぶやいた。そのあと、思惑ありげな目でちらりと千鶴を見ると、黙って店の中へ入った。
幸子が千鶴に声をかけた。その隣で花江がにやにやしている。
「あんた、あの花、あの人からもろたんじゃろ?」
銭湯で見られた野菊の花のことだ。もう隠しても仕方がない。本人に確かめてはいないが、あの人が飾ってくれたに決まっている。
千鶴がうなずくと、花江の笑顔がさらに明るさを増した。
「あの人は喧嘩も強いんだね?」
黙っていられない様子で花江が訊ねた。
恐ろしいくらいに強いと千鶴が言うと、信じられないねと花江は幸子を見た。自分の目で見た忠之の人柄や雰囲気と、喧嘩の強さが結びつかないらしい。
傍で話を聞いていた亀吉と新吉が、どうやって四人も倒せるのかと話に交ざった。あのねと千鶴が言うと、仕事を手伝え!――と弥七の怒鳴り声が飛んで来た。
亀吉たちは慌てて店に戻り、花江もいそいそとお茶の用意をしに行った。
「あんたが鬼山さんとのお見合い断ったんは、あの人がおるけんじゃね?」
幸子に訊かれて、千鶴はこくりとうなずいた。
「さっき、おじいちゃん、何ぞ考えておいでたみたいなね」
幸子は微笑むと、家の中に弁当を取りに戻った。もう行かねばならない時刻だ。
一人残った千鶴は大林寺の前の辻を眺めていた。古町停車場で荷物を降ろした忠之たちが、もう少しすれば姿を見せるだろう。
本当はそこまで迎えに行きたいが、それははしたないことだ。もどかしいが、ここで待っているしかない。
近くの店の者たちが興味深げに顔をのぞかせたが、千鶴は少しも気にならない。二度と逢えないと思っていたあの人が来てくれたのだ。
この奇跡の再会で胸の中は感激でいっぱいだ。話したいことはたくさんあるが、まずはどうして山﨑機織へ大八車で絣を運んで来たのかを訊かねばならない。
大林寺の方へ他の店の大八車が向かって行く。また大林寺の辻から荷物を運び終えた大八車が戻って来る。それらを眺めながら、千鶴の目は忠之が引く大八車を探し続けた。
待ちきれない気持ちを抑えながら、千鶴はじっと店の前に立っていた。しかし気がつけば、千鶴の足は大林寺に向かって歩きだしていた。
歩調は次第に速くなり、ついには小走りになった。誰かが声をかけても、その声は耳に入らない。喜びでいっぱいの千鶴の耳には、忠之が呼びかける優しい声が幾度も繰り返されている。
鬼の真実
一
「此度はお前さんにはまことに世話になった。お前さんがおらなんだら、どがぁなっとったかと思うと感謝の言葉もない。このとおり改めて礼を言わせてもらうぞなもし」
茶の間に通されて正座をする忠之に、甚右衛門も正座の姿勢で手を突いて頭を下げた。本当は足が痛いだろうが、甚右衛門は顔をゆがめたりはしなかった。
茶の間とは隔てられた寝間にいたトミも、そこの襖を開けて忠之に頭を下げた。着物が寝巻である上に、後ろには敷いたままの布団が見える。トミの体調がよくないのは、忠之には一目でわかったはずだ。怪我をしている甚右衛門ばかりかトミにまで頭を下げられて、忠之は大いにうろたえた様子だった。
「やめておくんなもし、旦那さんもおかみさんも、どうか頭を上げてつかぁさい。おら、そがぁにされる者やないですけん」
甚右衛門は頭を下げたまま言った。
「お前さんには千鶴がえらい世話になったとも聞いとるぞな。ほんことも含め、お前さんにはなんぼ感謝しても感謝しきれまい」
「ほれにしたかて、そこまでしてもらわいでも構んですけん。どうぞ、お二人とも頭をお上げになっておくんなもし」
甚右衛門たちが体を起こすと、忠之は居心地が悪そうにそわそわした。
「どがぁしんさった?」
「おら、体汚れとるけん、こがぁな所に通してもらうんは気ぃが引けるんぞなもし。こないだみたいに上がり框で十分ですけん」
こないだという言葉が千鶴は歯痒かった。自分が知らない間に忠之がこの家を訪れ、ここの上がり框に座っていたのだ。
そのことを千鶴が訊こうとしたら、先に甚右衛門が喋った。
「お前さんはまっこと謙虚な御仁じゃな。そがぁな心配はせいでも構んけん、膝を崩してゆっくりしたらええ」
はぁとうなずきながらも、忠之は正座の姿勢を崩さなかった。そわそわしてはいても背筋が伸びたその姿勢は、田舎の男とは思えない品のよさがある。その姿に千鶴は改めて心が惹かれたが、甚右衛門とトミも感ずるところがあるようだ。
その甚右衛門は足を痛めているため、長く正座はできない。申し訳ないがと言うと、顔をゆがめて左足を伸ばした。忠之は両手を振りながら、どうぞどうぞと言った。
「足を痛めんさったんですか?」
「郵便屋の自転車にぶつかられてしもたんよ。ちぃとはようなって来とるんやが……」
ほれはお気の毒にと忠之が甚右衛門を案じていると、お茶を淹れた花江が、どうぞと言って忠之の前に湯飲みと茶菓子を配った。忠之は両手を太腿の上に置いたまま、これはどうもと花江に軽く会釈した。
花江は思わずという感じで、ほんとにいい男だねぇと言ってから、すぐに慌てて口を押さえた。うろたえながら甚右衛門とトミに頭を下げた花江はちらりと千鶴を見たが、その顔には何か言いたげな笑みが浮かんでいる。
千鶴が恥ずかしくて下を向くと、甚右衛門は忠之に茶菓子を食べるよう促した。
忠之は静かに茶菓子を食べ、お茶を飲んだ。その一つ一つの所作は、やはり気品を感じさせる。
「ほれにしても、今日はえらい早かったな。お陰でわしらは助かったけんど、どがぁしたらこがぁに早よう来れるんぞな? 昨夜はどこぞに泊めてもろたんかな?」
改めて驚いた様子で甚右衛門が訊ねると、忠之は笑顔で言った。
「前ので慣れましたけん、お天道さんが顔出すちぃと前から走って来たんぞなもし」
え?――と千鶴は声を出した。甚右衛門もトミも目を丸くしている。
「お天道さんが顔出す前から走って来た? 風寄からかな?」
忠之がうなずくと、甚右衛門とトミは顔を見交わした。台所の土間にいる花江も、口を半分開けたまま忠之を見ている。
「風寄から来るぎりでも大儀ぃじゃのに、なしてそがぁに早よ来んさったんね?」
トミに問われると忠之は頭を掻いて、つい来てしもたんぞなもし――と言った。
「前に運んで来たんが結構楽しかったんで、待ちきれんかったんぞなもし。ほれに、向こうに戻んてからすることがありますけん」
「じゃあ佐伯さんは、まだ朝ご飯を食べてないのかい?」
びっくりしている花江を振り返り、忠之は笑って言った。
「朝飯前ていうやないですか」
「そりゃそうだけどさ。何も食べずに遠い所から一人であんな荷物を運んで来るなんて、普通じゃできないよ。しかも走ってだろ?」
みんなが驚くばかりなので、忠之は少し困ったようだ。甚右衛門はも唖然として言った。
「そがぁに早くじゃったら兵頭がうるさかったろうに」
「ほんでも、前の日から言うときましたけん、荷物の準備はしてくれよりました」
千鶴は兵頭が誰なのかわからなかった。だが、それより忠之がいつここを訪れたかだ。
「あの、前ん時ていつのことぞなもし?」
ようやく千鶴が遠慮がちに訊ねると、トミが言った。
「あんたのお友だちが遊びにおいでたじゃろがね。あん時ぞな」
「え、ほんまに? うち、何も聞いとらんぞなもし。あの日、佐伯さん、ここにおいでてたん?」
千鶴は思わず無念の声を上げて忠之を見た。
春子が遊びに来た時、表で大八車の荷物を亀吉に渡していたのは忠之だったのだ。あの時に裏木戸ではなく店から出ていれば、あるいはもう少し家にいれば忠之に会えたのである。裏木戸を出た所で聞こえた声の主も忠之で、戸板一枚隔てた所にこの人がいたのかと思うと、悔しくて仕方がない。
戸惑う忠之を見て、もう済んだことぞなとトミは笑い、甚右衛門が忠之が絣を運んで来た事情を説明した。
「風寄の仲買人で兵頭いう男がおるんやが、その男の牛が病気になってしもてな。絣を運べんなったんよ。ほれをこの佐伯くんが一人で大八車で運んでくんさって、兵頭もわしらも大助かりじゃった」
風寄には何人かの仲買人がいて、農作業の傍ら織元から買い求めた伊予絣を絣問屋へ売りに来る。兵頭はその中の一人で、馬酒村と名波村で作られた伊予絣を松山まで運んでいた。馬酒村は北城町の東にあり、名波村とは川を挟んで隣り合っている村だ。
しかし、ここのところ兵頭の牛は調子が悪かったらしい。にも拘わらず兵頭は牛を酷使したため、とうとう牛が動かなくなってしまったそうだ。それで兵頭が困り切っているところに忠之がたまたま出くわし、見かねて牛代わりの手伝いを申し出たという。
初め兵頭は本気にしなかったが、試しに忠之に大八車を引かせてみたところ、忠之は空の大八車はもちろんのこと、反物の箱を積んだ大八車を坂道でも一人で平気な顔で引いた。その働きぶりを兵頭は認め、忠之は松山への絣の運搬を任されることになった。これが忠之が山﨑機織へ来ることになった経緯だ。
千鶴は幸運を呼んだ忠之の人の好さを喜び、敬意を抱いた。一方で、大切な品の運搬や集金を、兵頭が忠之一人に任せるものなのかという疑問を持った。
それについては前回忠之の話し相手をしたトミが説明してくれたが、前に忠之が絣を運んで来た時は、本当なら兵頭も同行するはずだったそうだ。ところが、兵頭は腹を壊して長い道が歩けなかったので、忠之が一人で来たらしい。
兵頭に不安がなかったわけではないだろうが、忠之は仕事をきっちりこなし、お金も一銭の狂いもなく受け取って戻った。兵頭はすっかり忠之を信頼したらしく、今回は体調が悪くもないのに、忠之一人に絣を運ばせて自分は楽をしたようだ。
とはいっても、朝早くに風寄から松山まで走る忠之に、兵頭はついて来れなかったに違いない。
「こないだも一人で絣を運んで来んさったけん、えらい驚いたことじゃったけんど、こがぁな早くに大八車を引いて走って来るやなんて、あんたみたいなお人は見たことないぞな」
トミが改めて感心すると、甚右衛門も大きくうなずいた。
「ほうはいうても、松山に不慣れな佐伯さん一人で全部の届け先がわかるんですか?」
千鶴が訊ねると、忠之は照れたような笑みを見せて説明した。
「兵頭さんが荷物を届ける先の半分が、東京の大地震の煽りで潰えてしもたんよ。ほんで、もう半分は仕入れをやめてしもとったけん、届けるんは山﨑機織さんぎりじゃったんよ。ここじゃったらわかりやすい所にあるし、おらも知っとる所じゃったけんな」
忠之の説明に、トミが片眉を上げた。
「知っとる所じゃったいうんは、どがぁなことね?」
忠之ははっとした顔で千鶴を見た。余計なことを喋ったと思ったらしい。
ほれはなと甚右衛門は笑いながら、千鶴が風寄の祭りから戻った時に、忠之が人力車で千鶴と春子の二人をここまで運んで来た話をした。
トミは呆れた顔で忠之を見たが、台所の花江もまたもや開いた口がふさがらない。
「佐伯さん、向こうで千鶴ちゃんを護っただけじゃなかったんだ」
思わず口走った花江に、何のことかとトミが言った。花江が口を押さえて甚右衛門を見ると、甚右衛門は忠之が千鶴を暴漢から護ってくれたという話をトミにしてやった。
トミは驚きと当惑の顔で忠之に言った。
「この子が世話になったとは聞いたけんど、そがぁなことまでしてもろたんかな。もう何言うたらええんかわからんけんど、とにかくだんだんありがとうございました」
もう一度両手を突いて頭を下げたトミに、忠之は頭を上げるよう手を合わせて頼んだ。
「おらには全然大したことないですけん、そがぁに言わいでつかぁさい」
「ほやかて、あんたがおらなんだら、この子もこの店もどがぁなっとったことか」
涙ぐんで喋る祖母を見て、千鶴は混乱した。
店よりも千鶴が大事だと祖母は言ってくれた。理由はわからないが、その言葉はこれまで祖母が見せてきた態度とは、まったく真逆なものだった。それは嬉しくはあるものの、千鶴を戸惑わせた。そして今また祖母は同じ姿を見せている。
うろたえを隠したい千鶴は、話を戻す形で忠之に話しかけた。
「けんど、ほんなうまい具合にここぎりが届け先になったやなんて」
「兵頭さん所ぎりやのうて、他の仲買人らもみんな仕入れが止まってしもとったけんな。言うたら、ここぎりが仕入れを注文してくれたんよ。しかもな、旦那さんは他が仕入れを止めとる分、いつもの倍仕入れてくれたて、兵頭さん、えらい感激しよったかい」
忠之は名波村の女たちと同じ話をした。しかし、山﨑機織だって関東大地震の被害は少なくない。なのに仕入れを増やせたのは、大阪の作五郎のお陰だと甚右衛門は言った。
「ちょうど大阪で大口の契約がようけ取れたんやが、みんな風寄の絣がええ言うてくれたけん、仕入れを増やせたんよ。まぁ、風寄の織子の腕がよかったお陰でもあらいな」
忠之が絣を運んで来た背景にはいろんなことが重なっていたようで、そのことを千鶴は有難いと思った。けれど、忠之が訪ねて来たことに気づかなかったのはやはり悔しい。
「ほれにしても、こないだ佐伯さんがおいでてたてわかっとったら、うち……」
「どちゃみち友だちがおったんじゃけん、どがぁもなるまい」
甚右衛門は笑うと、佐伯くんににぎり飯を作ってやってくれと花江に頼んだ。花江は明るく返事をすると、お櫃の所へ行った。
「ほれで兵頭ん所の牛は、もういけんかな?」
忠之に向き直った甚右衛門は、笑みを消して言った。
「いけんみたいぞなもし。もう、だいぶ歳ですけん寿命やなかろか思とります」
「ほうかな。ほれで、お前さん、牛の代わりはいつまで続けるつもりぞな?」
祖父が何を考えているのか、ぴんときた千鶴は期待を込めて忠之を見た。忠之は横目で千鶴を見ながら、ほれが――と言った。
「おらが絣を持て来るんは、これが最後なんぞなもし」
「これが最後? 兵頭は新しい牛を手に入れた言うんかな?」
忠之はうなずくと、ほういうわけぞなもしと言った。千鶴は半分喜び、半分不安になった。あとは祖父と忠之のやり取りを見守るだけだ。
「この仕事辞めたら、あとはどがぁするつもりぞな?」
探るような口調で甚右衛門が訊ねると、忠之の方はさらりと答えた。
「これは別に仕事やないんぞなもし」
「仕事やない? 風寄からここまで大八車を引いて来て、また向こうへ戻るんぞ? ほれが仕事やないんかな」
「これは、おらの好意でしよるぎりですけん」
忠之は笑みを見せたが、甚右衛門は眉間に皺を寄せた。
「お前さん、ひょっとして兵頭から銭をもろとらんのか?」
忠之がうなずくと、甚右衛門は憤って横を向いた。トミも信じられない顔をしている。
どうして兵頭が山陰の者である忠之にこの仕事を任せたのか。それは忠之がただで牛の代わりをしてくれたからだ。しかも代金をごまかしたりしないお人好しだ。利用しない手はないと考えたのだろう。だけど、これほど人を馬鹿にした話があろうか。
千鶴は思わず忠之に言った。
「佐伯さん、なしてぞな? なして、ただでこげなことを?」
忠之は少し迷ったあと言った。
「正直言おわい。おらな、松山へ来る口実が欲しかったんよ」
「松山へ来る口実?」
「千鶴さんがおる松山に来てみたかったんよ。別に千鶴さんに会うつもりはなかったけんど、千鶴さんが暮らしておいでる松山に来てみとうて、この役目を引き受けたんよ」
千鶴が暮らす松山へ来てみたかった。その言葉は間違いなく千鶴への好意の表れだ。忠之は千鶴に会いたかったとは言わなかった。そのことにもどかしさを覚えながらも、千鶴は喜びに胸が詰まった。
二
「お待たせ」
花江が大きめのにぎり飯二つと、漬け物の小皿を忠之の前に置いた。おぉと感激する忠之に、花江は小声で言った。
「朝飯も食べないで風寄から走って来たのは、ほんとは千鶴ちゃんに会いたかったからだろ?」
「いや、そがぁなことは……」
惚ける忠之に、花江はにっこり笑って言った。
「別にいいけどさ。千鶴ちゃん、あの花、今も大事に持ってるんだよ」
忠之は驚いた顔で千鶴を見た。それは千鶴に花を飾ったのは自分だと白状したようなものだ。
何となくうろたえた感じの忠之に、甚右衛門は先に飯を食えと言った。
にぎり飯の匂いに引かれたように、帳場から新吉がそっと顔を出した。新吉はにぎり飯を羨ましげに眺めていたが、すぐに亀吉に引っ張って行かれた。丁稚たちを見て花江は笑っていたが、誰かに呼ばれたのか、花江も帳場の方へ行ってしまった。
忠之は両手を合わせるとにぎり飯に食らいついた。やはり腹が空いていたらしい。
喉を詰めるといけないので、千鶴は忠之にお茶を飲ませながらにぎり飯を食べさせた。忠之も素直にお茶を飲みながら、美味そうににぎり飯を食べた。そんな二人の様子を、甚右衛門もトミも微笑ましく眺めている。
忠之がにぎり飯も漬け物も平らげると、甚右衛門は言った。
「さっきの話やが、お前さんがただで絣を届けてくれるんなら、兵頭は新しい牛を手に入れるより、このままお前さんにやってもろた方が得やし楽なんやないんか? お前さんを信頼しとるみたいなし」
ほうなんですけんどと、また忠之は頭を掻いた。
「おらのおとっつぁんが、おらが銭もろとらんのを知ってぶち切れたんぞなもし。ほれでまぁ、こがぁなことになってしもたわけでして」
忠之は千鶴の方に体を向けて言った。
「ほんでも最後にこがぁして千鶴さんに会えたんは、お不動さまのお導きぞな。ここまで絣運ぶんも楽しかったし、みなさんのお役にも立てたし、おらは満足しとるんよ」
千鶴は何とかするよう祖父に目で訴えた。甚右衛門は咳払いをすると、実はな――と言った。
「うちは今、人手が足らんで困っとるんよ。ほやけど、誰でもええいうわけにもいかんけん、どがぁしたもんじゃろかと思いよったとこに、お前さんが現れたんよ。わしが何が言いたいか、わかろ?」
甚右衛門はのぞきこむように忠之を見たが、忠之は小首を傾げている。焦れったくなった千鶴は忠之に言った。
「佐伯さん、うちで働きませんか?」
千鶴の言葉を後押しして甚右衛門も言った。
「本来ならもっとこんまいうちに丁稚で入れて、じっくり育てて手代にするんやが、お前さんは子供やないけん、すぐに手代になれるようなら、きちんと給金を出そうわい」
「ほやけど、おら、こがぁな所で働いたことないですけん」
「お前さん、読み書き算盤はできるんかな?」
「はぁ、一応は」
「ほれじゃったら、すぐに手代になろ。どの仕事でもいえることやが、商いするにはお客から信頼されにゃならん。そのためには知識や品揃えはもちろんなけんど、何より人柄が大切ぞな。その人柄がお前さんは言うことなしよ。うちとしては是が非でもお前さんに来てもらいたいと思とるが、どがいじゃ? ちぃと考えてみてはもらえまいか?」
忠之は腕組みをして思案した。千鶴はなりふり構わず、忠之の着物の袖を引っ張った。
「佐伯さん、お願いじゃけん、うんて言うておくんなもし! 言うてくれんのなら、うち、佐伯さんを去ぬらせんぞな」
「どがぁする? 千鶴もこがぁ言うとらい」
甚右衛門がにやにやしながら言った。トミも楽しげに眺めている。
忠之は目を閉じたまま、腕組みをして考え続けていた。やがてぱちりと目を開けると、わかりましたぞなもしと忠之は言った。
「おらの気持ちとしては、お言葉に甘えさせてもらう方に傾いとります。けんど、おらの家族が反対したら、この話はなかったことにさせてつかぁさい」
「お前さんは一人息子なんかな?」
「はい。ほじゃけん、おら、勝手はでけんのです」
甚右衛門は少し顔をゆがめて言った。
「ほら、確かにほうじゃな。ところで、お前さんの家では何をしておいでるんかな?」
「履物をこさえとります」
「履物か。お前さんが後を継がんと潰えるんじゃな」
忠之がうなずくと、甚右衛門の勢いがなくなった。自分と同じ境遇を忠之の親に見たのだろう。無理は言えないと悟ったようだ。
千鶴もがっかりしたが、あきらめきれない。せっかくまた会えたのに、このまま別れてしまうなんて、あまりに酷な話だ。だが考えてみれば、銀行と約束した期限があと三日で、東京から連絡がなければ山﨑機織は畳むことになる。そのことを甚右衛門は忘れているようだが、今は忠之を雇うどころではないのだ。
帳場から困惑した様子の花江が戻って来た。ちらちらと帳場を振り返りながら、こちらに何かを言いたそうにしているが、甚右衛門の話に割り込めずにいる。
「もう一つぎり聞かせてもろても構んかな?」
甚右衛門が遠慮がちに言った。
「お前さん、なして千鶴にいろいろ親切にしてくんさった? 見てのとおり、この子には異人の血ぃが混じっとる。邪険にする者が多いのに、なしてお前さんは千鶴を大事にしてくんさるんぞな?」
忠之は姿勢を正すと、きっぱり言った。
「千鶴さんは素敵な娘さんぞなもし。ほれに、まっこと優しいお方ぞなもし」
「優しい? 千鶴の方がお前さんの世話になったんじゃろ?」
「おら、力ぎり自慢の何の取り柄もない男ぞなもし。誰っちゃ見向いてくれん男ぞな。けんど、千鶴さんはこげなおらに優しい言葉をかけてくんさったんです。ほじゃけん、おら、千鶴さんの力になりたい思たんぞなもし」
自分は山陰の者なのだと、忠之は暗に話しているのだろう。だからといって、自分を卑下するのは間違いだ。千鶴は黙っていられなくなった。
「佐伯さんこそ素敵なお人ぞな。取り柄がないやなんて、そげなことありません。うちみたいな者のためにここまでしてくんさるお人なんて、佐伯さん以外にはおりません」
千鶴が忠之を持ち上げると、忠之は甚右衛門やトミがいるのも忘れたかのごとくに言葉を返した。
「千鶴さんこそ、千鶴さんほどええお人はどこっちゃおらんのじゃけん、自分のことをそがぁに言うもんやないぞな」
「ほれは佐伯さんぞなもし。佐伯さんこそ、まっことええお人なんじゃけん、もっと胸張ってええと思います」
台所で困惑顔だった花江がくすくす笑っている。トミも笑いながら、まぁまぁと声をかけた。甚右衛門もにやりと笑い、どっちもどっちじゃのと言った。
あの――とようやく花江が甚右衛門に声をかけた。
何ぞなと機嫌よく顔を向けた甚右衛門に、花江は辰蔵が呼んでいるとだけ伝えた。
ちぃと席を外すと言い置いて、甚右衛門は土間へ降りて帳場へ向かった。
甚右衛門を見送った忠之は懐から油紙の包みを取り出して、これをあとで旦那さんにと言ってトミに手渡した。それは忠之が自分で薬草から作った膏薬で、万が一のためにと持っていたものらしい。
これは傷によく効くと請け合った忠之は、失礼ながらと前置きをして、おかみさんはどこの具合が悪いのかとトミに訊ねた。
トミは笑ってごまかしたが、心臓が弱っていると医者に言われたと千鶴が話した。
忠之はうなずくとトミに胸の病に効くツボを教え、そこにお灸を据えるといいと言った。また自分の本当の想いを隠さないのが、胸には一番いいと言った。
トミがはっとした顔になって涙ぐむと、医者でもないのに余計なことを言ったと、忠之はすぐに詫びた。けれどトミは首を振ると、そのとおりだと思うと言った。
よろしければ少し指圧をしましょうと、忠之は遠慮するトミのツボを指で押した。それが気持ちよかったのか、トミは素直に忠之に身を任せた。
「あんたは上手じゃなぁ。胸に詰まっとった物が、すっと抜けていくみたいぞな」
トミが心地よさげに喋っていると、甚右衛門が顔を曇らせて戻って来た。
「どがぁしんさった?」
忠之に指圧をしてもらいながらトミが訊ねたが、甚右衛門は何でもないとしか言わなかった。だが何か問題があるに違いなく、千鶴と忠之は顔を見交わした。
台所にいる花江が、忠之を見ながら何かを言いたげだ。だけど、口を半分開くばかりで何も言わない。そこへ新吉がやって来て、兄やん――と忠之に声をかけた。
「兄やんは、すぐ向こうに戻んてしまうんかなもし?」
「ほうじゃな。用が済めば戻らんとな」
「じゃあ、用事があったら戻らいでもええん?」
すんませんとトミに声をかけると、忠之は新吉の傍へ行った。
「何ぞあったんかな?」
「あのな、兄やんの大八車――」
こら!――と甚右衛門が新吉を叱った。
「いらんこと言わんで、あっちへ行っとれ!」
「ほやけど……」
新吉は口を尖らせたが、甚右衛門はもう一度、向こうへ行ってろと言った。すると亀吉が走って来て、新吉を帳場へ連れて行った。
「旦那さん、ひょっとして大八車のことでお困りなんかなもし」
忠之が訊ねると、甚右衛門は言いにくそうに、ちぃとなとうなずいた。
「あのね、お店の大八車が壊れちまったから、町の太物屋に注文の品を運べないんだよ」
甚右衛門に代わって花江が言った。それは、できれば大八車を貸してもらえないかという、甚右衛門たちの頼みだった。
忠之は大きくうなずくと、気がつかずに申し訳ないと言った。
「おら、あの大八車はここへ置いて行きますけん、どうぞ使てやっておくんなもし」
「何? そげなことしたら兵頭が文句を言おう?」
「大丈夫ぞなもし。兵頭さんには、ここに着いた時にめげてしもたて言うときますけん」
「いや、ほやけど、ほれじゃったら兵頭が困ろ?」
「もう新しい牛が来ますけん、今度は牛車を使たらええんぞな。ほじゃけん、ご心配には及ばんぞなもし」
「いや、しかし……」
甚右衛門は当惑しているが、大八車が欲しいのは欲しいのだ。それがわかっている忠之は、甚右衛門を気遣って言った。
「こちらのがめげとるんを目にした時から、おらの大八車は置いて行くつもりでおりました。ほれをもっと早よに言うたらよかったんですけんど、言うんが遅なってしもて申し訳ありません」
甚右衛門は感激して涙ぐみ、忠之の両手を握ると黙って頭を下げた。トミも両手を合わせて、忠之を拝みながら頭を下げている。
花江は帳場へ走って行った。そして、すぐに辰蔵たちと一緒に戻って来ると、みんなで忠之に感謝した。
忠之はうろたえながら、そろそろお暇しましょうわいと甚右衛門とトミに言った。それから千鶴にも挨拶をすると土間へ降りた。
帳場の方で人の声がした。辰蔵が見に行ったが、すぐに興奮しながら戻って来た。その手には何枚かの紙がある。
「旦那さん、来た! 来たぞなもし!」
「何が来たんぞな?」
訝しげな甚右衛門に、辰蔵は弾んだ声で言った。
「電報ぞなもし! 東京からの注文の電報が来たんぞなもし!」
何?――と言うなり、甚右衛門は辰蔵の手から電報を奪い取った。そして、その内容を確かめると他の者たちにも見せてやった。
何のことかわからない忠之に、大地震で壊滅した東京から待ち望んでいた絣の注文が入ったことを、千鶴が喜びを隠さず教えてやった。
ほれはよかったと忠之が微笑むと、あんたのお陰だよと花江が嬉しそうに言った。とんでもないと忠之は手を振ったが、甚右衛門は呆然と忠之を見つめて言った。
「花江さんの言うとおりぞな。お前さんは、まさにわしらの福の神ぞな」
「やめてつかぁさい。電報とおらは関係ないですけん」
「いいや、お前さんは間違いのうわしらの福の神ぞな。まこと、お前さんは……」
感極まった様子の甚右衛門は言葉に詰まって涙ぐんだ。トミも両手で口を押さえながら泣きだした。
うろたえた忠之は、ほんじゃあと逃げるように表に出た。千鶴は慌てて忠之について外へ出たが、すぐに甚右衛門も追いかけて出て来た。
甚右衛門は千鶴に銭を持たせると、二人で団子でも食ってこいと言った。それから忠之に改めて礼を述べると、待っとるぞなと期待を込めた笑みを見せた。
忠之は当惑気味に頭を下げると山﨑機織を後にした。その横には喜びいっぱいの千鶴がいる。このあと忠之がどうなるかはわからないが、二度と会えないはずの人と奇跡の再会を果たしたのだ。千鶴の胸は期待に膨らんでいる。
三
「何から何まで、ほんまにありがとうございました」
千鶴は改めて忠之に礼を述べた。忠之は笑いながら、もうやめてつかぁさいと言った。
「そげなことより、千鶴さんのご家族も、お店の人らもええ人ぎりじゃな。おら、まっこと安心した」
「まぁ、番頭さんらも花江さんもええ人なけんど……」
千鶴が言葉を濁すと、他はそうではないのかと忠之は眉根を寄せた。けれど身内の陰口になる話などしにくいし、最近の祖父母は千鶴に優しい。千鶴は戸惑いながら口を尖らせてみせた。
「おじいちゃん、お店を継げる者がおらんけん、うちに無理こやりこお見合いさせたんぞなもし」
今の祖父につける悪態といえばこれぐらいなのだが、そこまで言ってから、千鶴ははっとして口を押さえた。しかしすでに遅く、忠之はへぇという顔で千鶴を見ている。
「千鶴さん、お見合いしたんかな」
「いえ、お見合いいうか、おじいちゃんがいきなし男の人連れて来て、顔合わせさせられたぎりぞな。ほやけど、うち、ちゃんとお断りしたんです。何や偉そな感じのお人で、絶対嫌じゃ思たけん断ったんぞなもし」
喋っているうちに千鶴は喜兵衛のことを思い出して腹が立ってきた。
「ほしたら、ひどいんぞなもし。ほの人、山﨑機織が潰えるて嘘の噂を広めよったんぞな。お陰で銀行の人が来て借金取り立てられそうになったし、おじいちゃんやおばあちゃんがあがぁになったんも、あの人のせいなんぞな」
憤る千鶴をなだめると、忠之はにっこりしながら言った。
「自分でこれはいけん思たら、ほの心に従うたらええ。お不動さまは千鶴さんの心の中においでてな、どがぁしたらええんか、千鶴さんの心を通して教えてくんさるんよ。そがぁしよったら、きっとええ人にめぐり逢えるけん」
「ほれじゃったら、うちはもうすでにええ人にめぐり逢うとりますけん」
「へぇ、ほうなんか。ほれは、どがぁなお人ぞな?」
何て焦れったい人なんだろうと千鶴は思った。だけど、心の内を打ち明けるのは気が引けた。
「前にも言うたけんど、うち、誰かを好いたり好かれたりできんのです」
「前にも言うたけんど、そげなことは絶対ないけん。千鶴さんは幸せになれるけん」
道を行き交う人たちが訝しげに二人を振り返った。千鶴たちはしばらく黙ったまま歩いたが、途中に寺が現れると、千鶴は寺の境内に忠之を引き込んだ。
誰もいない境内で、千鶴は忠之を見つめた。その目に忠之への想いを込めたのだが、忠之はどこまで鈍いのか、あるいはわかって無視しているのか、辺りをきょろきょろと見まわしている。
「千鶴さん、ここは何の寺ぞな?」
「お寺はどがぁでもええんです。うち、佐伯さんにどがぁしても訊きたいことがあるんぞなもし」
やっと覚悟を決めた顔になった忠之に、千鶴は言った。
「佐伯さん、風寄でお祭りの晩げに大けなイノシシの死骸が見つかった話、ほんまは知っておいでるでしょ?」
「ほの話かな。確かに知っとるよ。ほれが、どがぁしたんぞな」
「うち、あのイノシシに襲われたんぞな」
忠之の顔が一瞬ゆがんだ。
「どこで襲われたんぞな? あげなイノシシに襲われたら、ただでは済まんじゃろに」
「あのイノシシの死骸が見つかった所ぞなもし。死骸があったあの場所で、うちは襲われたんぞな」
「じゃったら、どがぁして無事でおれたんかな?」
落ち着かない様子の忠之に、千鶴は話を続けた。
「うち、気ぃ失うてしもたけん、何も覚えとらんのです。目ぇ覚めたら、何でか法生寺におったんぞなもし。和尚さんに訊いたら、誰ぞが庫裏の玄関叩くんで外へ出てみたら、そこにうちが寝かされよったて言いんさったんです」
「ほれは、いったいどがぁな話ぞな?」
「ほれを、佐伯さんに訊いとるんぞなもし」
「おらに?」
「ほやかて、佐伯さんでしょ? うちの頭に野菊の花飾りんさったんは」
忠之は口を開けたまま固まった。どこかでジョウビタキが鳴いている。
「佐伯さんでしょ?」
「いや、あの、おらは何のことやら……」
忠之は惚けたが、明らかにうろたえている。千鶴は畳みかけて言った。
「うちが佐伯さんに助けてもろた時、佐伯さん、言いんさったでしょ? お不動さまにうちの幸せを願てくれたて。初めて会うたはずやのに、どがぁしたらそげなことができるんぞなもし?」
「ほれは……」
「あん時以外佐伯さんがうちを見んさったとしたら、うちが気ぃ失いよった時しかありません。ほれに法生寺の御本尊さまはお不動さまやし、佐伯さんがうちの幸せをお不動さまにお願いしんさったとしたら、ほん時しかないですけん」
忠之は惚けるのをやめて、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「千鶴さんは、まっこと頭のええお人ぞな」
「なして黙っておいでたんです?」
「ほやかて気ぃ失うとる女子の頭に勝手に花飾ったら、何て思われるかわかるまい? ほじゃけん、黙っとったんよ」
「庫裏の戸叩いたんも、佐伯さんでしょ?」
忠之は素直に認めた。
「なして姿消しんさったん?」
「おらが千鶴さんに何ぞ悪さした思われたら困るけん。ほれに頭に花飾ったんも、和尚さんらに知られとないじゃろ?」
「まぁ、ほれはほうじゃね」
うなずく千鶴に、忠之は付け足して言った。
「ほれにな、あん時、おら、ほとんど素っ裸やったんよ」
「素っ裸?」
思わず顔が熱くなった千鶴に、忠之は慌てて繰り返した。
「素っ裸やのうて、ほとんど素っ裸ぞな。一応、腰には破れた着物巻きよったけん」
「なして、そげな格好やったんぞな?」
「ちぃと村の連中と喧嘩したんで、着物破かれてしもたんよ。お陰さんで、おっかさんにしこたま怒られたかい。縫い直すんはいっつもおっかさんじゃけんな。ほんでもな、おっかさん、一晩で直してくれた。やけん、おら、おっかさんには頭が上がらんのよ」
忠之はいくつもある大きな継ぎ当てを千鶴に見せて笑った。千鶴は少し呆れて言った。
「佐伯さんて喧嘩好きなんですか?」
「別に好きいうわけやない。おら、争い事は好まんけん」
恐らく山陰の者というだけで、一方的に喧嘩を売られたのだ。けれど普段の忠之は、あの鬼神のごとき強さを隠していると思われる。あの強さを知った上で喧嘩を売る者などいるはずがない。千鶴は喧嘩の話はやめた。
「あの晩、佐伯さんはうちをどこで見つけんさったん?」
「法生寺の石段下りた所の傍にな、花がようけ咲きよる所があるんよ。そこにな、千鶴さんが倒れよったんよ」
「ほうなんですか。ほやけど佐伯さんには、うちがロシアへ行かせんさった娘さんに見えたんやないんですか?」
忠之は恥ずかしそうにうなずいた。
「あんまし似よるけん、本人か思いよった」
その娘は野菊の花が大好きで、野菊の花がよく似合ったという。それで、つい千鶴に花を飾ってしまったと忠之は弁解した。
やっぱり千鶴が思ったとおりだ。忠之の心の中には、今も別れた娘が住んでいる。照れ笑いをしているが、花を飾った時の忠之は泣きたい気持ちだったに違いない。
千鶴は切なくなった。しかし気を取り直して、佐伯さんと言った。
「うちを見つけた時、妙なもん目にせんかったですか?」
「妙なもん? 妙なもんとは何ぞな?」
訝しげな忠之に、千鶴は少し迷ってから思い切って言った。
「鬼ぞなもし」
忠之の顔が明らかにゆがんだ。やはり鬼を見たのかと思えたが、何を言うのかと千鶴を不審に思ったのかもしれなかった。
「なして、そげなこと言うんぞな?」
「佐伯さん、イノシシの死骸がどがぁなっとったか、ご存知ですよね?」
忠之は黙っていたが、千鶴は言葉を続けた。
「あそこには大けな岩も木ぃも落ちとりませんでした。ほれにあのイノシシの頭をぺしゃんこに潰せる生き物はおりません。ほやけんイノシシ殺めたんは鬼やと思たんです」
「化け物じゃったら他にもおろうに、なして鬼や思たんぞな?」
「ほれは――」
千鶴は唇を噛んで目を伏せた。
この人にだけは知られたくない。だけど、言わねばならないと千鶴は思った。言わねば、この人を不幸に巻き込んでしまう。それだけは死んでも避けたいことだった。
「佐伯さん」
千鶴は顔を上げた。頬を涙がぽろりと流れ落ちた。
「うち、鬼娘なんぞな」
四
泣きじゃくる千鶴を、忠之は黙って抱きしめてくれた。
鬼娘という言葉の意味を確かめないのは、その意味を知っているからだ。なのに逃げないで抱きしめてくれる忠之の優しさが、千鶴の涙をさらに誘った。
気持ちが少し落ち着くと千鶴は忠之から離れ、夢で見た地獄やおヨネの話、それにお祓いの婆の話をした。
また、イノシシに襲われた時に鬼が助けてくれたのは自分が鬼娘だからだし、そのあと法生寺へ運ばれたのは、法生寺がかつて鬼娘が暮らした所だからだと言った。
忠之は千鶴の話を否定せず、嫌な顔も見せずに最後まで聞いてくれた。本当は困惑しているのかもしれなかったが、そんな様子は少しも見せなかった。それより千鶴の苦しみや悲しみを受け止めてくれていたのだろう。話を聞く忠之はずっと悲しげだった。
そんな忠之の姿に安心しながらも、自分が忠之と同じ人間ではないと思うと、千鶴は悲しくなった。忠之と目を合わせられない千鶴は、目を伏せながら言った。
「うちは法生寺におった鬼娘の生まれ変わりぞな。ほじゃけん、鬼はうちを見つけて、うちが風寄へ行くよう仕向けたんです」
「千鶴さんがここにおるんがわかっとんのに、なして鬼はわざに千鶴さんを風寄へ呼び寄せる必要があるんぞな?」
「うちのことをよう確かめるためぞな。ほれで、やっぱし鬼娘じゃてわかったけん、うちに取り憑いて松山まで来たんよ」
「ほれじゃったら、実際に鬼に何ぞ悪さをされたんかなもし?」
「鬼と夫婦にさせられそうになりました」
「ほれが、さっき言うたお見合いなんか」
千鶴はうなずき、見合い相手の名前が鬼山で、自分のことを鬼だと言ったと説明した。
「うちがお見合い断ったら、ほの人、えらい怒りんさって、ほれから次から次に悪いことが起こったんぞな」
千鶴は具体的に何があったのかを話し、ほのうちみんな殺されると言って涙ぐんだ。
ほうじゃったかと、忠之は悲しそうに下を向いた。千鶴は鬼の報復も怖いが、自分のことも怖いと言った。
「お見合い断ったとこで、うちは鬼娘じゃけん。そのうち本性出して鬼になるんぞな」
「そげなこと――」
顔を上げた忠之の言葉を遮って、千鶴は首を振った。
「うち、今はまだ人の心持ちよりますけんど、今に恐ろしい鬼娘になって人を殺して食べるんよ。ほれが怖ぁて怖ぁて……。ほやけど誰にも相談できんけん、うち……」
項垂れる千鶴に、忠之は静かだが力の籠もった声で言った。
「大丈夫。千鶴さんは鬼娘なんぞになったりせんけん」
「そげなことない。うち、いつかきっと鬼娘になって、佐伯さんのことも平気で命を奪てしまうんよ」
千鶴が泣きだすと、忠之はもう一度千鶴を抱きしめた。
「ほん時は、おら、こがぁして千鶴さんのこと、ぎゅっと抱いて言うてあげよわい。千鶴さんは鬼娘やない、千鶴さんは人間の娘ぞな、千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞなて言うてあげるけん」
千鶴は涙に濡れた顔を上げた。
「ほやけど、うち、佐伯さんを傷つけるかも知れんのに?」
「ほんでも言うてあげらい。おら、この命が尽きようと、死ぬるまでずっと言い続けてあげるけん」
こんなことを言ってもらえるとは思いもしなかった。千鶴はまた泣いた。忠之は黙って千鶴を抱き続けてくれた。
忠之から伝わる温もりが、千鶴の心と体を優しく抱いてくれる。その優しさに包まれていると、不安も恐怖も悲しみもすべてが癒やされていく。
しばらくして千鶴が泣き止むと、忠之は手拭いで千鶴の涙を拭いてくれた。その忠之の目も泣いたみたいに赤くなっている。
「おら、千鶴さんがどがぁに苦しんでおいでたんか、ようにわかった。今の千鶴さんの気持ち、おらにはようわかる。ほやけどな、千鶴さんは勘違いしとらい。ほじゃけん、ほんまの話をおらが教えてあげよわい」
「ほんまの話?」
「あぁ、まことのほんまの話ぞな」
忠之は微笑みながらうなずいた。だが、その目は哀しげだった。
五
明治が始まるより前の話だと、忠之は言った。
「おヨネさんが言うたとおり、ほん頃の法生寺には、鬼娘て呼ばれた娘がおったんよ。けんどな、ほれはそがぁ呼ばれよったぎりの話で、ほんまに鬼娘やったわけやないんよ」
「ほれは、どがぁなこと?」
「ほの娘はな、千鶴さんと対で異国の血ぃ引いとったんよ。今かて異人は珍しがられるけんど、ほん頃は誰も異人なんぞ見たことないけんな。これは人やない、鬼娘じゃとなったんぞな」
その話を誰から聞いたと訊ねると、法生寺にいた和尚から聞いたと忠之は言った。ただ、それは知念和尚より前の和尚だそうだ。知念和尚は前の和尚からの引き継ぎで、鬼娘について何も教えてもらえなかったが、忠之はうまく話を聞き出したらしい。
「ほじゃけんな、仮に千鶴さんがその娘の生まれ変わりじゃったとしても、千鶴さんが鬼娘とは言えんのよ。ほうじゃろげ?」
千鶴は素直にうなずいた。忠之の言葉は千鶴の不安を和らげてくれた。
これも前の和尚から聞いたと、前置きをしてから忠之は言った。
「みんな、鬼は恐ろしいもん、穢らわしいもんやて思いよる。ほじゃけん、誰も鬼に優しい言葉なんぞかけたりせん。けんど、鬼かてな、好きで鬼しよるわけやないし、みんなが思とるみたいに、いっつもかっつも悪いことぎりしよるんやないんよ」
ほんでもなと言うと、忠之は横を向いた。
「所詮、鬼は嫌われ者ぞな。ほれは鬼かてわかっとる。もう、あきらめとるんよ。そげな鬼がな、もし誰ぞに優しゅうされたら、どげな気持ちになる思う?」
忠之に見つめられた千鶴は、首を小さく振った。ほんじゃあ教えてあげよわい、と忠之は話を続けた。
「まずは、たまげるんよ。ほれから、何ぞの間違いやないかて思うんよ。ほれで、ほうやないてわかるとな、ほれまでなかったほっこりしたもんが、胸ん中に湧いてくるんよ。ほれがまた鬼には嬉しいいうか、涙出るほど感激するんぞな」
和尚から聞いた話だというのに、忠之は自分が鬼であるかのごとくに喋っていた。その話しぶりは、千鶴が抱いていた鬼の印象を変えていった。千鶴の心にあった鬼への恐怖はほとんど消えかけていた。
「和尚さんの話では、鬼娘と呼ばれよった娘はまっこと心の優しい娘でな。鬼にも優しゅうしてやったらしいんよ」
千鶴は驚いた。これはまさに自分と鬼の関係を示す話だ。
「じゃあ、おヨネさんのお父さんが見た鬼ていうんは――」
「たぶん、ほの鬼を見たんじゃろな」
「あの鬼は鬼娘て呼ばれよった娘を護ろとしたん?」
「恐らく」
「ほのあと、ほの娘と鬼がどがぁなったんかはわからんのですか?」
「……おらには、わからんな」
忠之は千鶴から顔を逸らすと、境内の釣り鐘に目を遣った。鬼娘や鬼のことなど忠之がわかるはずもないが、何だか喋りたくないみたいにも見えた。
「じゃったら地獄の夢も、ほんまにあったことなんじゃろか?」
千鶴が話題を変えると、忠之は振り返って言った。
「千鶴さんがほの娘の生まれ変わりやったとしたら、ほうかもしれまい」
「うちがほんまの鬼娘やのうても、結局は地獄に堕ちてしもたてこと?」
「千鶴さんが地獄へなんぞ堕ちるかいな。千鶴さんは地獄へ堕ちたんやのうて、わざに地獄を訪ねたんよ」
「その鬼に逢うために?」
「千鶴さん、まっこと優しいけんな。他の者じゃったら絶対せんのに、千鶴さんは鬼のことを心配しんさったんよ。生きとる間にも優しゅうしてもろたのに、地獄へ堕ちたあとにも逢いに来てもらえた鬼は、どんだけ感激したことか」
しんみり話す忠之は、まるで鬼の気持ちがわかるみたいだ。
それにしても本当に自分は鬼に逢うために、わざわざ地獄を訪れたのかと千鶴は訝った。自分がそこまで鬼に優しかったなんて、我ながら信じられない話だ。
しかし、地獄で鬼を見つけた時に嬉しくなったのは事実だ。地獄へ堕ちたのでないのなら、忠之が言うように自分から鬼に逢いに行ったのだろう。
「うちをイノシシから護ってくれたんが対の鬼じゃとしたら、鬼は地獄からこの世へ抜け出せたいうことよね?」
「ほうじゃな。そがぁなるな」
「ほれは、風寄にあった鬼よけの祠がめげてしもたけん?」
「いや、ほうやないな」
「なして、そがぁ思いんさるん?」
「鬼は千鶴さんを助けたぎりで、村の者に何も悪さはしとらんじゃろ?」
祠がなくなったことで出て来たのなら、鬼は村に禍をもたらしただろうと忠之は言った。確かに祠が鬼を封じていたなら、鬼はその恨みを晴らそうとするはずだ。
「じゃあ、鬼はどがぁして地獄から出て来られたろうか?」
忠之は少し間を置いて言った。
「お不動さまのご慈悲ぞな」
六
不動明王は前世の千鶴が世話になっていた法生寺の御本尊だ。だから鬼にとっても特別であり、その不動明王の慈悲によって、鬼は地獄から出たと思うと忠之は言った。
「千鶴さんを法生寺まで運んだんがほの証ぞな。鬼は自分が助けた千鶴さんを、お不動さまに託そとしたんよ。千鶴さんが欲しいんなら、そがぁなことすまい?」
なるほどと思いながら、千鶴は不動明王が地獄の鬼に慈悲をかける理由を訊いた。
忠之は千鶴の疑問にすらすら答えていたが、ここに来て一瞬口籠もった。だけど、すぐにまた喋り始めた。
「お不動さまがご慈悲をかけんさるには、ほれなりの理由があるんよ」
「ほれは、どがぁな?」
「鬼はな、ずっと神仏に背中を向けてきたんよ。ほの鬼がお不動さまに何ぞ願たんじゃろな。鬼が神仏に願うんじゃけん、ほれは余程のことで、お不動さまもご納得しんさるもんやったんよ」
「ほじゃけん、ほれは、どがぁな願いぞなもし?」
忠之が答えを知るわけがないのだが、忠之は自分が鬼だったらと言った。
「おらがほの鬼じゃったら、まずは千鶴さんを地獄から出すことを願うな。ほれと千鶴さんの幸せぞな。うん、たぶんほうなんよ。ほれで、ほの願いが聞き届けられたんで、千鶴さんはこの世に生まれ変わり、鬼は千鶴さんの幸せを見届ける許しがもらえたんよ」
誰がこんな説明を思いつくだろう。千鶴は泣きそうになった。それでも、まだ訊いていないことがある。
「お祓いの婆さまに、鬼が取り憑いとるて言われたんは?」
「千鶴さんの後ろには鬼がおるやもしれん。ほやけど、ほれは悪い意味で取り憑いとるんやないで。取り憑くいうより、見守っとるいう方がええんやないかな。鬼は己と似ぃた者にしか取り憑けんのよ。ほじゃけん、優しい千鶴さんには取り憑けまい」
「けんど、お見合い断ってから、悪いことぎり起こりよるんよ?」
「不安な気持ちは悪い気ぃを呼ぶもんぞな。悪いことがあったにしても、ほれが鬼のせいとは限らんのよ。そもそも鬼が本気で千鶴さんに悪さしよて思たんなら、今言うたようなもんじゃ済まんぞな」
「じゃあ、お見合いの人は? 名前は鬼山いうて、自分のこと、鬼やて言うたんよ?」
「名前に鬼がついとるんはたまたまじゃろ。ほれに、もしそいつがまことの鬼じゃったら、鬼娘やない千鶴さんに己の正体を明かしたりはすまい。さらにいうたら、千鶴さんの店の悪口言いふらすような姑息な真似もせんけん。恐らく、そいつは己が鬼になったつもりでおるぎりなんよ」
「じゃったら、鬼のことは――」
「なぁんも心配いらんぞな。千鶴さんは鬼娘やないし、鬼が悪さすることもないけん。鬼は千鶴さんの幸せ願とるぎりぞな」
忠之が優しく微笑むと、千鶴の目から涙がこぼれ落ちた。その場にしゃがみ込んだ千鶴は、両手で顔を覆って泣いた。
「うちはひどい女子ぞな……。鬼は何も悪いことしとらんのに……、うちの命、助けてくれたぎりやのに……、うちは鬼じゃいうぎりで感謝もせんで勝手に怖がりよった……」
「仕方ないぞな。相手は鬼なんじゃけん」
忠之は横にしゃがんで慰めたが、千鶴は首を振った。
「うちな、何もしとらんのに、悪いことあったら、全部うちのせいにされたりな……、助けたつもりが、この顔見られて悲鳴上げられたりしたんよ……。ほれが、どんだけつらいかわかっとんのに、うち、対のこと鬼にしてしもた……。うちは最低の女子ぞな……」
「千鶴さんのほの言葉、鬼はちゃんと聞いとるけん。姿見せられんけんど、きっと千鶴さん拝んで泣きよらい」
千鶴を慰める忠之の声は、何故だか震えていた。
千鶴は涙を拭いて立ち上がると、両手を合わせて目を閉じた。
「鬼さん、うちを助けてくんさり、だんだんありがとうございました。今まで鬼さんを悪思たこと、どうか堪忍してつかぁさい。うちは自分勝手な女子じゃった。もう怖がったりせんけん、どこにも行ったりせんで、ずっと傍におってつかぁさい」
頭を下げてから千鶴が目を開けると、忠之は背中を向けて空を仰いでいた。その肩は何故か震えている。
千鶴が声をかけると、忠之は両手で顔をこすってから笑顔で振り向いた。
「まこと……、千鶴さんは優しいお人じゃな。きっと鬼は感激しよらい」
「じゃあ、うちが誰ぞ好いても、鬼は怒ったりせん?」
「せんせん。千鶴さんが幸せじゃったら、鬼も嬉しいけん」
「じゃったら、うち、佐伯さんを好いても構んのですか?」
「構ん構ん」
言ってから、え?――と忠之は驚いた。千鶴は大喜びをしたが、忠之は慌てている。
千鶴は上目遣いで忠之を見ながら言った。
「佐伯さん、鬼が一緒の女子は、お嫌かなもし?」
「いや、そげなことは……」
忠之がぎこちなく笑うと、よかったと千鶴は笑顔になった。
「これで、うち、幸せになれるけん。鬼さんも安心じゃね!」
千鶴ははしゃいだが、忠之は当惑顔で北の方を向き、お不動さまとつぶやいている。
「佐伯さん、お不動さまに何言うておいでるん?」
「あの、ほやけん、お礼を――」
千鶴は忠之に抱きついた。忠之は大いにうろたえた様子だったが、千鶴はお構いなしに喜びに浸った。
自分が慕っている人を祖父が気に入って山﨑機織で雇うのは、いずれは自分の婿にと考えているのに違いない。夫婦になった自分たちの姿が思い浮かぶと、千鶴は叫びたくなった。
一方、忠之の方はというと、千鶴と目を合わせると微笑むが、横を向いた顔は何だか困っているみたいだ。
忠之の心には夫婦約束をした娘への想いが残っている。そのことが忠之を戸惑わせるのだろう。だけど、その娘はもういない。
この人を笑顔にできるのは自分だけだと、千鶴は自らを励まし、絶対にこの人を真っ直ぐ自分の方に向かせてみせると、強く心に誓った。
これまでずっと恐れていた鬼が、後ろから支えてくれている気がする。敵に回せば怖い鬼も、味方になってくれれば百人力だ。
きっとうまくいく。困惑気味に微笑む忠之を見ながら、千鶴はそう確信していた。
立ちはだかる壁
一
千鶴は忠之を客馬車乗り場の辺りまで送って行った。本当はもっと一緒に行きたかったが、忠之がここまででいいと言うので、渋々そこで別れることにした。
別れ際、何とか山﨑機織へ来てほしいと、千鶴は念を押してお願いした。忠之はわかったと応じたものの、今ひとつ自信がない様子だった。
一人息子の忠之が外へ出ることを家族に了承してもらうのは、確かに容易ではない。だが忠之がはっきりしないのは、自分は山陰の者だという不安もあるに違いない。
そのことについて千鶴は敢えて触れなかった。忠之が自分から話してもいないのに、それを口にするのは失礼になるからだ。だけど、ここまで親しい仲になれた忠之と離れたくない。そのためにも忠之にはもっと自信を持ってもらいたかった。
もし松山に来られないなら、自分の方が風寄へ行くと千鶴が言うと、何とかやってみると忠之は約束した。忠之にしても、千鶴を山﨑機織から離れさせるような真似はしたくないのだろう。でも、やはり自信はなさそうだった。
姿が見えなくなるまで忠之を見送ると、千鶴はとぼとぼと家路に就いた。さっきまでは幸せいっぱいだったのに、忠之がいなくなると一気に寂しくなった。それに絶対に忠之が来てくれる保証はなく、何とも心許なかった。
けれども二度と逢えないと思っていた忠之と再会し、心を通わせることができた。それで、どんな形であれ自分はあの人とともに生きるのだと思えるようになった。また自分が鬼娘ではなく、鬼を恐れる必要がないとわかったのは思いがけない収穫だった。
鬼から事実を確かめたわけではない。でも忠之を絶対的に信じているので、千鶴の不安は一掃されていた。
それにしても、忠之と二人きりでこんなにゆっくりできるとは思っていなかった。本来ならば学校にいるところだ。それを家にいたのは祖母の世話をするためだった。なのに祖母の世話も家の手伝いもしないで、忠之と二人で過ごさせてもらえたのである。忠之を見送らせてくれた祖父母には感謝の気持ちしかなかった。
これはまさに天の恵みであり、自分たちの願いをお不動さまが聞き届けてくれたのだろう。山﨑機織だけでなく自分にも運が向いてきた気がして、千鶴の足取りは次第に軽やかになった。
千鶴が家に戻ると、花江が亀吉と新吉に昼飯の準備を手伝ってもらっていた。
茶の間には甚右衛門がいたが、その表情は明るかった。新たな大八車を手に入れたり、注文電報が東京から届いたからだろうが、理由は他にもあった。
甚右衛門は忠之からもらった膏薬を体の傷にすり込んでいた。それが早くも効き目があったらしい。痛みががずいぶん和らいだ気がすると上機嫌だ。
トミも忠之に教えてもらったツボにお灸を据えたそうだが、体がとても楽になり、病が治ったみたいだと言った。
「千鶴ちゃんのいい人は、ほんとに福を運んで来てくれたんだねぇ」
花江がにこにこしながら言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。しかし、あからさまにいい人と言われて返事ができず、千鶴は照れ隠しに花江を手伝おうとした。
「団子は食うたんか?」
甚右衛門に声をかけられると、千鶴は慌てて姿勢を正し、お陰さまで美味しいお団子をいただきましたと報告をした。忠之に想いを伝えたあとだったので、二人で食べた団子は格別だった。
「どこまで見送ってきたんね?」
今度はトミが訊ねた。山越までと千鶴が答えると、ほうじゃろと思いよったとトミはにやりと笑った。
「ように時間がかかっとるけん、遠い所まで見送りに行ったんじゃなて思いよった」
「一緒に風寄まで行ったんやないかて心配したぞな」
甚右衛門にも言われて、千鶴は二人に詫びた。だけど、忠之がここまででいいと言わなければ、本当に風寄までついて行ったかもしれなかった。
それはともかく、祖父母からこんな言葉をかけてもらえたことには違和感があった。鬼が祖父母を操っていたのでなければ、この変わり様は何なのかと千鶴は訝しんだ。
恐らく跡継ぎ問題が理由と思われるが、厳しく冷たい祖父母よりも、今の温かく優しい祖父母の方がいい。それに忠之と一緒になれるのであれば、千鶴としても不満はない。
「足の痛みがだいぶ楽になったけん、これじゃったら直に帳場に座れよう。そがぁなったら辰蔵を東京へ遣れらい」
花江は亀吉たちが持って来た茶碗にお櫃のご飯を入れていたが、動きを止めて甚右衛門を見た。東京という言葉に過敏になっているのか、花江は少し表情が硬くなったが、すぐにまた次の茶碗にご飯を入れ始めた。
当初の甚右衛門の予定では、鬼山喜兵衛を婿に迎えて手代を補強したのちに辰蔵を東京へ送り出し、そのあとで茂七を辰蔵と入れ替えるはずだった。ところが、喜兵衛の話は潰えてしまった。
あと残されるのは孝平だが、その孝平は大阪へ出たばかりだし期待はできない。一人前になって戻るどころか、作五郎に見捨てられる可能性が高いといえよう。それなのにこのまま辰蔵を東京へ送り出したのでは、辰蔵を呼び戻せなくなる。
「番頭さん、東京行ったら、もうこっちへは戻らんのかなもし?」
千鶴が訊ねると、花江がまた動きを止めた。話に耳を傾けているのだろう。
甚右衛門は、いんやと言って自分の思惑を説明した。
「今ぎりぞな。今は向こうもごたごたしよるけん、行き慣れた者やないと仕事にならん。ほじゃけん辰蔵を行かせるんやが、落ち着いた頃に茂七をやるつもりぞな」
「茂七さんを? ほんでも、そがぁなったら、こっちの人が足らんなるんや――」
「そがぁ思うか?」
甚右衛門に訊き返され、そうかと千鶴は思った。
「佐伯さんがおいでるんじゃね?」
「ほういうことよ。あの男は必ず来るとわしは踏んどる」
「おじいちゃん、ほんまにそがぁ思いんさるん?」
「間違いない。絶対に来るな」
祖父は本気で忠之が来ると確信していた。忠之を認められたのは嬉しいが、千鶴は祖父の確信の根拠が知りたかった。忠之は一人息子であり、簡単には家を出られないのだ。
「なして絶対て言えるんぞなもし?」
千鶴が問いかけると、甚右衛門はじろりと目を向け、わからんのかと言った。
少しうろたえながら千鶴がうなずくと、トミが笑いながら言った。
「あんたがおるけんじゃろがね」
かぁっと顔が熱くなった千鶴は、思わず下を向いた。
「ほやけど、家族が反対したら来られんて言うておいでたぞな」
小さな声で千鶴が反論すると、甚右衛門は自信ありげに言った。
「確かに家族が反対したままじゃったら来られんじゃろ。けんど、あの男は何とか家族を説得すらい」
「あんたがおるけんな」
トミはもう一度同じ言葉を付け足すと、甚右衛門と二人で大笑いをした。
千鶴が恥ずかしくて横を向くと、花江と目が合った。花江はにっこり微笑むと、亀吉たちと一緒に箱膳を座敷に運んだ。
「わしの目に狂いがなかったら、あの男はぐんぐん伸びらい。茂七の代わりぐらい、直にでけるようになろ」
「そがぁなってもらわんと困らい。このお店の将来がかかっとるんじゃけんね」
祖父母の言葉に千鶴は胸が弾んだ。忠之を婿にすると言ってくれたわけではないが、祖父母の頭の中には、そんな景色が見えているのに違いない。千鶴の目には、しっかりとその景色が映っている。
二
「甚さん、おるかな」
店の方で声がした。
奥においでますと辰蔵の声。すぐに茂七に案内されて組合長が入って来た。
「甚さん、傷の具合はどがぁかな?」
そう言いながらトミの姿を認めた組合長は、おぉと声を上げた。
「おトミさん、もうええんかな?」
「お陰さんで、このとおりぞなもし」
トミは両腕を曲げ伸ばししてみせた。
「ほうかな。ほれは、よかったよかった。次から次にようないことが起こるけん、心配しよったんぞな」
「ほれはどうも、ありがとさんでございます」
トミが少し戯けると、えらい上機嫌じゃなぁと組合長は笑った。
「甚さんの方はどがいぞな? ちぃとはようなったかな?」
組合長が改めて訊ねると、だいぶええぞなと甚右衛門は笑顔で言った。
「ほれにな、ようやっと東京から注文が入ったんよ」
「ほんまかな。ほれはほれは。向こうの様子はさっぱりわからんけん、ほんまに心配しよったんで」
千鶴は花江と一緒に台所仕事をしていたが、組合長は今度は千鶴に声をかけた。
「千鶴ちゃんも学校休んで大事やったな。ほんでも、これでまた学校へ行けらい」
組合長は千鶴が子供の頃から、よく声をかけてくれた。千鶴には数少ない理解者だ。だけど学校と言われても、千鶴はぴんとこなかった。学校のことはすっかり忘れて、この店で忠之と二人で働く姿が、ずっと頭の中に浮かんでいる。何とか笑顔で体裁を整えたが、本当のところ学校はどうなるのだろうと千鶴は思った。
祖母の看病で休むことは、松山から通う級友に頼んで学校へ伝えてもらっている。しかし細かな話は伝えられないままだし、基本的に休みは認められない。今のところ学校からの連絡はないが、もう一週間は休んでいるので退学の可能性は十分にあった。
「けんど、婿さんもろてこの店継ぐんじゃったら、学校なんぞ行かいでもええか」
組合長が呑気に言った。
千鶴が喜兵衛と見合いをしたのは組合長も知っている。もちろんその話が壊れたことも知っているはずだが、千鶴が婿を取って店を継ぐのは変わらないと考えているらしい。
婿取りの話をされると、千鶴の頭には忠之と夫婦になって暮らす姿が浮かぶ。ここは神妙な顔を見せたいが、つい嬉しさで顔が綻んでしまう。
「何、にやにやしてんのさ」
隣にいた花江が小声でからかった。花江には心のうちをすっかり見透かされている。すると、ほれがなと甚右衛門が言った。
「千鶴に婿取ろかて思いよったけんど、本人がどがぁしても学校の教師になるんじゃ言うて聞かんのよ」
千鶴は驚いて甚右衛門を振り返った。ふざけているのかとも思ったが、祖父は真顔だ。
「結局、あの男との話は流れてしもたし、流れてよかったんやが、ほれじゃったら本人が望むとおりにしてやるかと、トミと二人で言いよったとこよ」
「ほうなんか。さすがは千鶴ちゃんぞな。今どきの女子と違わい。わしは千鶴ちゃんが婿もろて、この店継ぐんは面白いなて思いよったんやが、学校の先生もええか」
「いや、あの……」
うろたえる千鶴に甚右衛門が言った。
「どがぁした?」
「あの、学校だいぶ休んでしもたけんね。ほやけん、たぶん退学やないかて……」
いつもの調子に戻ったトミが即座に言った。
「そげなことあるかいね。まだ今じゃったら大丈夫ぞな。万が一、校長が何ぞ言いよったら、うちが捻込みに行こわい」
「いやぁ、おトミさん、まっこと元気になったなぁ。ほんだけ元気じゃったら、もう心配いらんな」
感心する組合長に、トミはまた元気よく腕を曲げ伸ばししてみせた。
花江は千鶴が何を慌てているのかわかっているみたいで、笑いを堪えながら仕事をしている。
「ほやけど跡継ぎの方はどがぁするんぞ? 千鶴ちゃんに婿さんもらわんのなら、やっぱし幸ちゃんかいな」
「あんまし期待はできんけんど、孝平もおるけんね」
トミがため息交じりに言うと、組合長は顎に手を当て、孝平かとつぶやいた。
「まぁ、いろいろやってみたらええわい。ところでな、今日は甚さんに知らせることがあったんよ」
「わしに知らせること? 何ぞな」
「鬼山喜兵衛ぞな」
甚右衛門は目をぱちくりさせた。
「鬼山喜兵衛?」
「千鶴ちゃんの見合い相手ぞな」
「そげなこと、わかっとらい。あの男がどがぁしたんぞ?」
仏頂面になった甚右衛門に組合長は言った。
「警察に引っ張って行かれよった」
「警察に?」
甚右衛門は目を見開いた。トミも驚き、千鶴と花江も組合長を振り返った。
「なして、捕まったんぞ?」
「何でも社会運動に関わっとったみたいでな。前から警察に目ぇつけられとったらしいんよ。ほれで、こないだ集会しよるとこを捕まったそうな」
「集会したぎりで捕まるんですか?」
千鶴が訊ねると、組合長は首を振った。
「集会の中身ぞな。民衆を誑かし世を乱そうとした不埒者として捕まったんよ。ほんまにええ話するならともかく、見合い断られた相手の悪口言い触らす奴の話なんぞ、誰が信用でけるかい」
喜兵衛には組合長も憤っていた。それに調子を合わせて、トミは甚右衛門を見ながら嫌味を言った。
「この人も、元お武家いうぎりで信用するんじゃけん」
甚右衛門はむっとした顔で言い返した。
「つかましいわ。どこの家にもろくでもない者はおるもんぞ」
「孝平のことを言うておいでるん? あの子じゃったら大阪でがんばりよろがね」
「そげなこと、わかるかい」
「作五郎さんが何も言うておいでんのは、あの子がうまいことやっとる証ぞな」
二人が言い争うので、まぁまぁと組合長が止めた。
「そげなことしよったら、おトミさん、またぶっ倒れてしまわい。ほれより甚さん。東京へは誰を遣るんぞ?」
「取り敢えずは辰蔵を遣るつもりよ。ほれで時期見て、茂七と交代させようわい」
「茂七かな。ほやけど茂七を向こうへ遣ってしもたら、こっちはどがいするんぞ? 辰さんに外廻りさすわけにはいくまい。かというて、弥七一人じゃ心許ないぞな」
「そげなことは言われいでも、わかっとらい」
「当てはあるんかな?」
「何とかならい」
甚右衛門は千鶴を見て、にやりと笑った。あの男がいると言いたいのだろう。
さっきは婿の話はなくなったようなことを言ってたくせに、おじいちゃんは何を考えているのだろうと千鶴は訝しんだ。
まさかあの人を雇いながら、自分のことは小学校教師として外へ出すつもりなのか。そんな考えが頭を過って千鶴がぷいっと横を向くと、また花江が笑っていた。
三
久しぶりに学校へ行くと、千鶴は校長室へ呼び出された。
校長は千鶴が休んでいた事情を知っている。それでも決まりだからと前置きをし、今度欠席になれば、卒業間近であっても退学になるから気をつけるようにと忠告した。
また、このあと欠席がなくても成績が悪ければ、やはり退学になるから、遅れた勉学を死に物狂いで取り戻すようにとも言った。
わかりましたと神妙な顔で答えたものの、千鶴は退学になっても構わない気持ちになっていた。ただ、祖父母が組合長に話したのが本当の考えならば、簡単に退学になるわけにはいかなかった。
一方で、忠之が山﨑機織に来るのであれば、毎日学校に通ってなんかいられないという気持ちもあった。だいたい佐伯さんを雇うことにしたのに、自分には学校へ行けと言うのは矛盾していると、千鶴は祖父母に少し腹立ちを覚えていた。
とはいうものの、確かに喜兵衛との縁談を断るのに、自分は教師になるつもりだったと見得を切ったのは事実である。他に断りようがあったろうにと、今更ながら悔やんだところで仕方がない。
とにかく今はまだ忠之は来ていない。だから、あの人が来るまでの間だけでもがんばろうと千鶴は思った。それに自分からやめるならともかく、退学させられたとなると体裁が悪い。そんな恥ずかしいところは、忠之には見せられない。
結局がんばると決めた千鶴は、休憩時間も惜しんで必死に勉強した。春子たちがお喋りに誘っても、今はだめと断って勉強を続けた。
けれど、時折幸せな夢想に手が止まってしまう。忠之と二人で店を切り盛りしているところや、二人の間に生まれた赤ん坊をあやしているところなど、次から次に思い浮かんで気持ちの集中が切れてしまうのだ。
気がつけばぼんやりしている千鶴に、何を嬉しそうにしているのかと春子たちが訊ねてくる。何でもないと言うと、何か隠していると問い詰められるが、それがまた嬉しい。だけど勉強は続けねばならず、とにかく千鶴は忙しい日々を送り続けた。
千鶴が再び学校へ行きだしてから一週間が過ぎた。その間に辰蔵は東京へ発った。だが忠之はやって来なかったし、何の連絡もなかった。
恐らく家族が反対しているのだろうが、だめならだめだったと手紙ぐらいよこすはずだ。そう思いながら、千鶴は忠之に自分の家の住所を教えてなかったことに気がついた。これでは手紙が届くはずがない。千鶴は急に不安になった。
さらに数日が経っても全然音沙汰はなく、もう師走に入るのも千鶴を焦らせた。
土曜日になり、午前の授業が終わると千鶴は昼飯も食べずに大急ぎで家に向かった。もしかしたらあの人が来ているかもしれないという期待があった。
息を弾ませながら紙屋町へ戻った千鶴は、恐る恐る店をのぞいてみた。しかし、中にいるのは帳場に座る祖父ばかりで忠之の姿はない。茂七と弥七は外廻りに出たみたいだ。来客もなく、丁稚もいない。
「佐伯さんは? 佐伯さんはおいでた?」
中に入るなり、千鶴は開口一番に祖父に訊ねた。
「いいや、来とらん」
甚右衛門は煙管を吹かしながら素っ気なく言った。何故か千鶴の方を向こうとしない甚右衛門は、膝をそわそわと動かしている。
千鶴ががっかりしながら、あれから風寄の絣は届いたのか訊ねると、甚右衛門は千鶴と目を合わせないまま、来た――とだけ言った。
牛車で来たのかと問うと、甚右衛門は同じ姿勢で、ほうよと言った。何だか様子がおかしい。忠之が連絡をよこさないので腹を立てているのだろうか。
いつ牛車が来たのかと質すと、昨日だと言う。しかし、昨夜は千鶴は何も聞かされていない。千鶴は祖父に不信感を抱いたが、何だか嫌な予感もしていた。
牛車で絣を運んで来たのは、忠之に大八車で荷物を運ばせていた仲買人の兵頭だ。
「兵頭さんは佐伯さんから手紙を預かっとらんの?」
千鶴が訊ねると、やはり甚右衛門は他を向いたまま、あぁとだけ言った。どういうわけか、甚右衛門は忠之への関心を失ってしまったみたいだ。兵頭は絣と一緒に悪い知らせも届けたのかと千鶴は焦った。
「兵頭さん、佐伯さんのこと、何ぞ言いんさった?」
甚右衛門は千鶴を横目に煙管の灰をぽんと煙草盆に落とし、ほうじゃなと言った。
千鶴は愕然となった。話を聞いたのであれば、昨日のうちに教えてくれるべきである。仮に話しにくいことだったにせよ、こちらはずっと待っているのだ。
千鶴は腹立ちを抑えながら、兵頭さんは何と言いんさったのかと祖父を問い詰めた。すると甚右衛門はようやく千鶴に顔を向け、そこに座れと言った。
何だか怖い気がしながら、千鶴は帳場の端に腰を下ろした。甚右衛門は煙草盆を脇へ寄せると、千鶴の方に向き直った。千鶴の心は緊張でざわついている。
「こがぁな話、ほんまはしとないけんど、ずっと黙っとるわけにもいかんけんな」
千鶴の心臓が暴れ始めた。甚右衛門は悲しげに千鶴を見つめながら言った。
「言いぬくいことやが、千鶴……。すまんが、あの男のことは忘れるんぞ。お前にはまっこと気の毒じゃと思うが、あの男とうちとは縁がなかったわい」
何の説明もないままいきなり乱暴なことを言われ、千鶴は思わず言い返した。
「おじいちゃん、何を言いんさるん? ほれは、佐伯さんがここへはおいでんてこと?」
「ほういうことよ。わしとしてもまっこと残念からげるが仕方ないわい。あの男のことはあきらめて他を当たることにした。急がんと辰蔵をこっちへ戻せんなるけんな」
話はほれぎりぞなと言って、甚右衛門は体を元の向きに戻した。だが、それで納得できるはずがない。
「ちぃと待っておくんなもし。何がほういうことなんぞな? 何があったんか、きちんと説明しておくんなもし」
甚右衛門はすぐには返事をしなかった。しかし千鶴が強く説明を求めると、仕方なさげに千鶴に顔を戻した。
「ここでは働けんて、佐伯さんが言うておいでるん? ほれとも、何ぞおいでになれん事情ができんさったんかなもし?」
甚右衛門は再び千鶴の方に体を向けた。
「生まれぞな。あの男とうちとでは、あまりにも身分が違とらい。お前があの男に心を寄せとるんはわかっとる。わしにしたかて、あの男にはまっこと惚れ込んどった。ほんでも、あの男をうちへ入れることはでけん。申し訳ないけんど堪えてくれ」
わかりましたと言えるわけがない。千鶴が猛抗議をすると、かつて忠之の家が生臭物を扱っていたことや、忠之が尋常小学校も出ていないこと、忠之が乱暴者として村で嫌われていることなどを、甚右衛門は挙げ連ねた。
「あの男は読み書き算盤ができると、わしに言うた。ほやけど尋常小学校も出とらん者が、読み書き算盤ができるとは思えん。つまり、あの男はわしに嘘を言うたことになろ」
「佐伯さんは嘘なんぞつかん!」
「ほれじゃったら、どがぁして読み書き算盤ができるんぞ? あの男の家族も字が読めんそうやないか」
断りの話は兵頭が伝えることになっていると言い、甚右衛門は体を前に向けた。
千鶴は立ち上がると、声を荒らげた。
「こないだは佐伯さんのこと、福の神じゃて言いんさったのに! 佐伯さんがおいでてくれんかったら、今頃この店を畳むことになっとったのに! 佐伯さんにここで働いてほしいて言うたんは、おじいちゃんやんか!」
甚右衛門は無表情のまま何も言わない。千鶴は体を震わせると、店の奥へ駆け込んだ。中では花江が乾いた洗濯物を抱えて板の間へ運んでいるところだった。茶の間ではトミが亀吉と新吉に算盤を教えている。
「おじいちゃんが、佐伯さんを雇わんて言うとる」
千鶴はトミたちに向かって訴えた。しかしトミは以前の冷たい顔で、家の主に逆らうなと言った。一緒にいる亀吉と新吉は事情がわからず動揺している様子だ。花江は同情の眼差しを向けたものの、何も言ってくれなかった。
千鶴は持っていた荷物を土間へ落とすと奥庭へ走り、裏木戸から外へ飛び出した。足は風寄の方を向いていた。
このまま忠之の所まで行くつもりだった。だが風寄は遠く、行く手を阻むような北風は冷たかった。
兵頭が来たのは昨日の話だ。兵頭はすでに甚右衛門の言葉を忠之に伝えたに違いない。忠之の気持ちを想うと、千鶴は涙が止まらなかった。
忠之と一緒に歩いた道を一人でとぼとぼ歩き、山越の客馬車乗り場までやって来ると、別れ際の忠之の顔が思い出された。
忠之は自分が山陰の者であることを不安に思っていたはずだ。それでも山﨑機織へ来られるようがんばってみると言ってくれた。それは千鶴のためではあったが、甚右衛門を信じていたからだ。なのに、その甚右衛門に裏切られたのである。
千鶴は悔しくて悲しくて申し訳なくて、拭っても拭っても涙がこぼれた。
客馬車乗り場を越えてさらに歩き続けると、やがて家並みが見えなくなり、周囲は田畑ばかりになった。けれど、まだ一里も歩いていない。風寄までまだ三里以上ある。
西を見ると、どんよりした雲が広がって、まだ明るい空を呑み込もうとしている。風寄に着くまでに日は沈んで雨が降るだろう。
項垂れて歩いていると、ラッパの音が聞こえた。顔を上げると、前方から客馬車がやって来る。道の脇に避けると、客車から坊主頭の男が顔を出した。
「千鶴ちゃんやないか! どがいしたんな、こがぁな所で?」
それは法生寺の知念和尚だった。
ここで降りると知念和尚が大声で御者に告げると、馬車が停まった。馬車を降りた和尚は急いで御者に銭を払い、千鶴の傍へ駆け寄って来た。
張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、千鶴はへなへなと倒れそうになった。間一髪、和尚は千鶴を抱き留め、何があったのかと声をかけた。しかし千鶴は和尚に身を任せながら、あふれる悲しみで泣くしかできなかった。
四
「話はわかったが……、困ったの」
千鶴から事情を聞いた知念和尚は、顔を曇らせた。
和尚は忠之のことを知っていた。子供の頃からよく寺へ遊びに来ていたそうで、とても優しく頭のいい子だったと和尚は言った。
辺りは次第に薄暗くなり、冷たい北風が絶え間なく吹きつける。
千鶴が小さく体を震わせると、和尚は自分の襟巻きを外し、冷え切った千鶴の首元に巻いてくれた。
「歩きながら話そうかの。真っ暗になったら動けんなるけんな」
千鶴が黙っていると、和尚は諭すように言った。
「家を飛び出すんは簡単ぞな。ほやけど、問題はそのあとでな。二人でどこぞで暮らして行けるんならええが、銭が稼げんかったら悲惨ぞな。幸せ夢見て一緒になったはずが、些細なことで喧嘩になったり、銭のために嫌なことをせんといけんようになったりで、何のために一緒になったんかわからんなるけんの」
和尚の話は尤もだった。だが、納得がいくわけではない。
促されて歩きだした千鶴は、和尚に言った。
「和尚さん。なして、みんな生まれや育ちで人を差別したりするんぞな? そのお人には、何の罪もないのに……」
「ほれが人の弱さいうもんぞな。差別することで、己の立場をよく見せよとするんよ」
和尚はため息混じりに言った。
「あの子にはな、わしと安子とで読み書き算盤を教えたんよ。ほじゃけん、あの子が言うたんは嘘やない。しかもな、あの子はまっことできのええ子じゃった。何をやらせても、すらすらでけた。学校へ入れてもろとったら、もっといろいろでけたじゃろに、しょうもないことで差別しよってからに……」
和尚は袖で目を押さえた。
「こげなことになるんなら、あの子を為蔵さんにやるんやなかったかて思てしまうけんど、そげなこと言うんも、これまた差別になるけんな」
昔を思い出しているのか、知念和尚は遠くを眺めた。
「為蔵さんにやるんやなかったて、何の話ぞなもし?」
千鶴に問われた和尚は、はっとした顔で、余計なこと言うてしもたわいとうろたえた。けれど千鶴が説明を求めると、観念したように喋った。
「あの子の家族は為蔵さんとおタネさんという年寄り二人でな。この二人はあの子の育ての親なんやが、産みの親やないんよ」
「お父さんとお母さんは亡くなったんですか?」
「いや、ほうやない。というか、わからんのよ」
「わからんて……」
和尚は立ち止まると、悲しげな目でじっと千鶴を見つめた。
「あの子はな、捨て子なんよ」
千鶴は心臓が止まった気がした。
知念和尚は忠之が産まれて間もない頃に、法生寺の本堂に捨てられていたと語った。
近くの村の者たちには、子供を腹に宿していながら、その子供がいなくなったという女はいなかった。それで、身籠もった女が遍路旅の途中で赤子を産み落とし、その子を寺に託したのだろうと和尚たちは考えたそうだ。
和尚夫婦は子宝には恵まれなかった。そこでその女の願いどおり、寺でその赤ん坊を育てることにしたと知念和尚は言った。
ちょうど山陰に子供を産んだ女がいたので、和尚たちは女に頼んで赤ん坊の乳を分けてもらった。すると赤ん坊の話を耳にした為蔵夫婦が訪れて、大切に育てるからその子が欲しいと願い出たという。為蔵夫婦は日露戦争で一人息子を失っており、その息子の代わりにと思ったようだ。
結局、和尚たちは為蔵の遠い親戚の子供ということにして、忠之を二人に預けた。そうして忠之は為蔵夫婦の子供として育ったが、どういうわけか自分が捨て子だと知っているという。ただ、為蔵夫婦の前では何も知らないふりをしているらしい。それがあの子の優しさだと和尚は言った。
千鶴の目はみるみる涙でいっぱいになった。
これまで数え切れないぐらい、千鶴もつらい思いをしてきた。けれども千鶴には母がいた。母が千鶴を慰め力になってくれた。なのに、忠之はその母親に捨てられたのだ。
あんなに優しい人に、神さまはどうしてここまでつらい想いをさせるのか。祖父は大きな恩のあるあの人の苦労を知ったのに、どうしてこんな仕打ちができたのだろう。
知念和尚は着物の袖で千鶴の涙を拭いてくれたが、涙は次から次にこぼれ落ちた。
しばらく黙って歩いたあと、千鶴は知念和尚に言った。
「うち、自分は鬼娘やないんかて、ずっと悩みよったんぞなもし」
驚いた顔の和尚に千鶴は話を続けた。
「うち、風寄に行ってから、鬼に取り憑かれたて思いよりました。ほれで、自分は法生寺におった鬼娘の生まれ変わりに違いないて、そがぁ思いよったんです。ほじゃけん、いつか鬼の本性が出て来るて、ずっと悩んどりました」
「鬼娘の話は終わったと思いよったが……、ほうやったんか。ほれは気の毒じゃったな。ちぃとも気ぃがつかんで申し訳ないことをした。ほれにしても、なして鬼に取り憑かれたて思たんぞな?」
千鶴は自分が法生寺で見つかる前に、イノシシに襲われた話をした。初めて聞く話に、知念和尚は口を開いたまま言葉を出せなかった。
「ほんまなら、あそこで死んどったんはうちぞなもし。ほれやのにうちは助かって法生寺まで運ばれて、イノシシはあげな風に殺されました。和尚さんはうちを助けたんはお不動さまじゃて仰ったけんど、お不動さまじゃったらイノシシを殺めたりせんと思うんぞなもし」
「ほら確かに千鶴ちゃんの言うとおりぞな。やが、なして鬼なんぞな?」
千鶴は地獄の夢の話をし、自分には鬼を慕う気持ちがあったと言った。本当はぎょっとしたと思われるが、和尚は落ち着いた様子で千鶴を慰めるように言った。
「ほうはいうても、所詮は夢ぞな。そがぁに真剣に悩まいでもええとわしは思うがな」
「まだあるんぞなもし。松山に戻んてから、今度はお祓いの婆さまに、鬼に取り憑かれとるて言われました。ほれから次から次に悪いことが起こって……。うち、自分のせいでみんなに迷惑かけとるて思とりました」
「ほうじゃったか。そがぁにいろいろあったら、確かに悩むわな……」
慰めの言葉が見つからない知念和尚に、千鶴は続けて言った。
「うち、鬼娘やけん、いずれは鬼の本性が出て来て、人を殺して食べるようになるんじゃて……。そがぁなこと考えよったら、怖ぁて怖ぁてたまらんかったんです。ほんでも誰にも相談できんけん、ずっと一人で悩んどりました」
ほれは、まっこと気の毒じゃった――と和尚はつらそうな顔で言った。
「ほれで、千鶴ちゃんは今もそのことで悩んどるんかな?」
千鶴が首を振ると、忠之の話をした。
「佐伯さんがこないだおいでてくれた時に、うちの話を聞いてくんさったんです」
「ほうなんか。ほんで、あの子は何と言うたんぞな?」
「佐伯さん、うちは鬼娘やないて言うてくんさりました」
「ほうかほうか。あの子は喧嘩もするけんど、根は優しい子じゃけんな」
知念和尚は嬉しそうにうなずいた。
「鬼のことも、鬼は前世でうちに優しゅうされたけん、そのお返しに今もうちのことを護ってくれとんじゃて言うてくんさったんです。ほれに佐伯さん、鬼の気持ちを教えてくんさりました」
「鬼の気持ち?」
千鶴はうなずき、忠之に聞かされた鬼の話をした。和尚は感心すると、あの子もなかなか大したもんぞなと言った。和尚の褒め言葉はわずかながら千鶴への慰めとなった。
「ほれにしても、あの子はそがぁな話を誰から教わったんじゃろな」
「和尚さんの前に、法生寺においでた和尚さんらしいぞなもし」
知念和尚は、はてと首を傾げた。
「わしがあの寺を引き継いでからは、そのご住職は風寄へは来とらんがな。用事がある時は手紙を書くか、こっちから出向くけん、あちらからこっちへ来ることはないんよ」
「ほやけど、佐伯さんはそがぁ言うておいでました」
「ほれは妙じゃの。最前も言うたが、あの子はわしらがあの寺に来てから置いて行かれたんぞな。ほじゃけん、あの子が前のご住職に顔合わすことは有り得んがな」
和尚の言葉に困惑しながら、千鶴は喋った。
「佐伯さん、法生寺におった鬼娘も、うちみたいな異国の血ぃ引いとるぎりの娘さんで、ほんまの鬼娘やないんじゃて言うておいでました。ほじゃけん、うちがその娘さんの生まれ変わりじゃったとしても、うちが鬼娘とは言えんのじゃて」
「ほれも前のご住職から聞いたと言うんかな」
千鶴がうなずくと、知念和尚はまた首を傾げた。
「鬼娘の話は、わしらかておヨネさんから聞かされて初めて知ったんやけんな。ましてや、その娘が異国の血ぃ引いとるやなんて全然知らんことぞな。ほれをなしてあの子が知っとるんかな」
「どっかで前の和尚さんに会いんさったんやないんでしょうか?」
「言うたように、わしが風寄に来てから前のご住職がおいでたことはないんよ。ほじゃけん、あの子がそのご住職に会うことはないはずやが……。仮にどこぞで会うたにしても、前の和尚は鬼娘の話は知るまいに」
「じゃあ、誰から――」
言いかけて千鶴は、はっとなった。
忠之が夫婦約束をしていたのも、異国の血を引く娘だった。千鶴と同じロシア人の娘だと忠之は言っていた。だけど風寄にそんな娘がいたとしたら、誰も千鶴を見て珍しがったりはしないだろう。それに春子がそのことを知らないわけがない。
「あの子はまっこと優しいし頭がええ。やけん、千鶴ちゃんの悩みを聞いた時に、何とか千鶴ちゃんを慰めよ思て、即興で考えたんじゃろな」
知念和尚は忠之についての自分の考えを述べた。しかし、その声は千鶴の耳には残らなかった。
五
千鶴は和尚に顔を向けた。
「和尚さん、お訊ねしたいことがあるぞなもし」
「何かな?」
「和尚さんは佐伯さんが生まれるより前から、法生寺においでるんですよね?」
「ほうじゃが、ほれがどうかしたかな?」
「和尚さんが法生寺においでてから今日までの間に、風寄にロシア人の血ぃを引いた娘さんがおったいう話を、耳にしんさったことはおありですか?」
知念和尚は怪訝な顔で言った。
「いいや、そげな話は聞いたことないな」
「うちとそっくりで、うちと対の名前の娘さんは、ご存知ないんかなもし?」
「ロシア人の血ぃ引く娘いうたら、わしら、千鶴ちゃんしか知らんぞな」
千鶴は愕然とした。
忠之が出任せを言ったとは思えない。別れた娘の話をした時、忠之は涙ぐんでいた。
「和尚さん、もう一つ教えてつかぁさい。和尚さんがこちらへおいでてから、ロシアの船が風寄に来たことはあったんかなもし?」
「ロシアの船? そげなもん見たことないな。日露戦争が終わったあと、捕虜兵を引き取りに来た船はあろうが、ほれが風寄へ来ることもなかったわい。ここには捕虜収容所はなかったけんな」
日露戦争は明治の話で、千鶴も忠之もまだ生まれていない。忠之が夫婦約束をした娘と別れたのは、つい最近のはずだ。だけど知念和尚が知る限り、風寄に千鶴という名のロシアの娘はいないし、ロシアの船も来ていない。これはどういうことなのか。
普通は忠之が作り話をしたと考えるだろう。しかし、千鶴の頭には一つの可能性が浮かんでいた。とても有り得ないことだが、千鶴にはそれが真実のような気がしていた。
「ほれじゃったら、昔は来たことがあるんかなもし?」
「ロシアの船かな?」
千鶴がうなずくと、さぁなぁと和尚は言った。
「言うたように、わしらは土地の者やないけんな。ここの昔のことはよう知らんのよ。ほんでも瀬戸内海は黒船の航路やったけんな。徳川の時代が終わる頃に、ここら辺をロシアの黒船が通ったかもしれまい」
「確かおヨネさんのお父さんが鬼を見んさった時に、沖の方に見たこともない大けな黒い船があったて言うとりんさったんや……」
「ほうよほうよ。そがぁなこと言うとったな。おヨネさんが子供の頃いうたら、ちょうど徳川の終わり頃になるけんな。あれも、ひょっとしたら西洋の黒船かもしれまい」
「ロシアの船かもしれませんよね?」
「ほやないとは言えんけんど、ほれがどがぁかしたんかな?」
千鶴は興奮で体が震えていた。もしやの想いが確信へと近づいている。けれど、まだ信じられない気持ちではあった。
「学校で習いましたけんど、黒船が日本に来よった頃は、異国人を殺そとするお侍もおったんですよね?」
「攘夷いうてな、異国人は日本を利用するぎりの悪い連中じゃて考える輩がおったな」
「鬼娘て呼ばれよった娘が異国の娘じゃて知れたら、狙われるんやありませんか?」
知念和尚は、ふーむとうなずいた。
「ほれはまぁ考えられるわな。なるほど、法生寺に集まっとった侍連中は、そげな目的があったんかもしれんな。ほんでも娘一人を殺めるんに大勢は必要なかろに」
「ここにロシアの船が来るてわかっとったら?」
知念和尚は驚いた顔で千鶴を見た。
「どがぁしたんぞな、千鶴ちゃん。何考えとるんぞな?」
浜辺で大勢の侍たちを迎え撃つ若侍の姿が、千鶴の目に浮かぶ。侍たちの狙いは千鶴だ。若侍は千鶴を海に逃がそうとしていた。後ろの海にはロシアの黒船が浮かんでいたはずだ。
――おらはな、どがぁに望んでも、その娘と一緒にはなれんなったんよ。
海を見つめる悲しげな忠之の顔が目に浮かぶ。
涙があふれそうになりながら千鶴は考えた。あの若侍が護ろうとしていたのが前世の自分だとしたら、あの人は恐らく……。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
千鶴の髪に花を飾ってくれた若侍が微笑んでいる。その顔は、今でははっきり見えている。
千鶴は胸が苦しくなった。自分が見た夢や幻影は、やはり前世の記憶だった。胸の中で感情が爆発しそうだ。涙で目がよく見えない。
千鶴は立ち止まって泣いた。知念和尚はうろたえたように千鶴を慰めながら、何を泣くのかと訊ねたが、千鶴は答えられなかった。
説明してわかってもらえるものではない。考えていることが事実だという証もない。けれど、千鶴にはそれが真実だった。やはり忠之はあの若侍の生まれ変わりなのだ。
何故忠之の温もりを感じるのか。そのことを千鶴は不思議に思っていた。でも、今ならその理由がわかる。二人は時を超えて結ばれているのだ。
蘇った記憶
一
「ほんじゃあ、こっから先は一人で行けるかな?」
知念和尚は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。
千鶴はうなずき、襟巻きを和尚に返そうとした。しかし和尚はそれを制し、もう一度その襟巻きを千鶴の首に巻き直してくれた。
「ほれは千鶴ちゃんがしよりなさい。ほうじゃ、ちぃと待っとりなさいや。傘を借りて来てあげようわい」
ここは木屋町の電停を過ぎた辺りで、お寺が多い所だ。この近くのお寺に用があって来たという知念和尚は、そこへ傘を借りに行こうとした。いよいよ雨が降りだしそうな黒い雲が広がっている。
けれど、千鶴は大丈夫ぞなもしと言って傘を断った。それから和尚に世話になった礼を述べると、一人歩き始めた。
本当は傘を借りればよかったのかもしれない。だけど千鶴は忠之のこと以外、何も考えられなくなっていた。
この道を歩いていると、忠之に風寄から人力車で運んでもらったことを思い出す。風寄へ帰る忠之を見送りがてら、二人で歩いたのもこの道だ。
あの時、千鶴には希望が見えていた。きっと同じ希望を忠之も見ていただろう。自信のない顔を見せながらも、忠之の目には期待のいろが浮かんでいた。千鶴と同じ屋根の下で暮らせると、忠之は喜びを噛みしめていたはずなのだ。
そんなことを考えると、千鶴はまた泣きたくなった。あの時には知らなかったが、今は忠之が本当は誰なのかがわかっているから、余計に悲しい気持ちになる。
千鶴は悲しみを堪えながら、自分と忠之のつながりに思いをめぐらせた。
前世の自分は法生寺で暮らした娘だったと思われる。そして前世の忠之は風寄の代官の一人息子に違いない。二人は夫婦約束を交わしていた。ところが襲って来た攘夷侍たちによって、二人の間は引き裂かれた。
襲いかかる侍たちを迎え撃つ忠之の姿が目に浮かぶ。あの時、忠之は千鶴をロシアの黒船に託して攘夷侍たちと戦い、その命を散らしたのだろう。そうして死に別れた二人が今ここに生まれ変わり、奇跡の再会を果たしたのである。
これが真実だという裏付けはない。だがそう考えなければ頭に浮かんだ幻影や、忠之の言葉を説明することはできなかった。
千鶴の考えが正しければ、忠之は明らかに前世の記憶があるし、千鶴が法生寺にいた娘の生まれ変わりだとわかっている。だからこそ、あそこまで親切にしてくれたのだ。
鬼のことを知っていたのも、忠之は前世で直接鬼と対峙したことがあるのだろう。それがいつなのかはわからないが、両者は力を合わせて千鶴を護ってくれた。風寄で化け物イノシシに襲われた時も、忠之は鬼が千鶴をイノシシから救ったあとを引き受けたのだと思われる。
千鶴は興奮を覚えながらも、忠之の気持ちを思いやると胸が潰れそうになった。
本来であれば感動すべき再会なのに、千鶴は前世を覚えていないし、忠之が置かれた境遇は、胸を張って名乗り出られるものではなかった。
生まれ変わった千鶴を見つけた時、忠之はどれだけ驚き、どれだけ喜んだことか。けれど本当のことが伝えられず、代わりにしたせめてものことがあの野菊の花だった。あの花は前世での二人の関係と、千鶴への想いを示していたに違いない。
そのあとも忠之は正体を明かさずに見守ってくれていた。
拒まれるのがわかっているのに祭りの人垣へ入ったのは、千鶴を心配してのことだろう。千鶴が源次たちに襲われた時にすぐに助けに現れたのも、ずっと様子を見てくれていたからだ。松山まで人力車で運んでくれたのもそうなのだ。
けれど忠之は千鶴を助けたあとはすっと離れ、それ以上は千鶴に関わらないようにしている。きっと山陰の者であることを気にしているのだ。あるいは親に捨てられたことも理由かもしれない。いずれにしても、自分と千鶴では身分が違うという遠慮が忠之にはあるようだ。
千鶴が山﨑機織の主の孫娘だとわかると、尚更忠之は千鶴には近づきがたくなったと思われる。それでも忠之は千鶴に逢いたくて松山ヘやって来た。そして、甚右衛門から働かないかと声をかけられた。これは忠之にとってまさに奇跡であり、思いがけない幸運のはずだった。
ところが忠之が山陰の者だと知った祖父は、手のひらを返して忠之を拒んだ。それを知らされた時の忠之が思い浮かぶと、千鶴の目から涙があふれ出た。
祖父は忠之を福の神だと持ち上げ、山﨑機織で働いてほしいと頼み込み、忠之をその気にさせた。なのに、お前は山陰の者だからいらないと切り捨てたのである。忠之がどれほど傷ついたのかと考えると、千鶴は涙が止まらなかった。
涙に濡れる千鶴の頬に、ぽつりぽつりと雨粒が当たった。雨は次第に強くなり、あっという間に土砂降りになった。辺りは真っ暗になり、足下がよく見えない。所々に洩れ見える家の明かりや、街灯だけが頼りだ。
ずぶ濡れになって歩きながら、千鶴は仲買人の兵頭を恨んだ。
兵頭が余計な話さえしなければ、祖父が忠之を雇わないと言いだしたりはしなかったのだ。言う必要がない忠之の素性をわざわざ喋ったのは、悪意があったとしか思えない。
兵頭の牛が動かなくなった時、忠之は善意で牛の代わりを申し出た。そして一人で絣を松山まで運び、その代金もきちんと兵頭に届けた。何の報酬もなしにだ。そんな恩義のある人間に不利になることを口にしたのは、忠之をただ働きさせられなくなった腹いせに決まっている。恩を仇で返すとはこのことだ。
兵頭の仕打ちを考えるほどに怒りは募り、濡れた体は小さく震える。人でなしの兵頭を呪った千鶴は、あれほど鬼娘であることを恐れていたのに、鬼になって兵頭に罰を加える自分を思い浮かべた。
忠之がどれほど傷つくかなどお構いなく、家の中でぬくぬく暮らす兵頭を、鬼になった千鶴は家の屋根を壊して捕まえようとした。しかし、千鶴の妄想はそこで終わった。
――千鶴さんは鬼娘やない。千鶴さんは人間の娘ぞな。千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞな。
心の中で忠之が千鶴に語りかける。忠之の言葉を聞けば、悪いことなど考えられるはずがない。それに忠之から受けた恩を仇で返したことでは、祖父だって同罪だ。兵頭を呪うのは、祖父を呪うということでもある。千鶴は項垂れた。
何とか怒りは鎮めたものの、悲しみだけはどうしても消えない。大切な忠之が踏みにじられているのに、それをどうにもできないことが悲しかった。千鶴は己の無力さに涙を流しながら雨の中を歩き続けた。
二
裏木戸から家に入ると、幸子と花江が手拭いを持って駆け寄って来た。
幸子は仕事から戻った時に、初めて千鶴のことを聞かされたのだろう。唇を噛みしめながら泣きそうな顔をしていた。
びしょ濡れになった千鶴の体を二人は懸命に拭いた。
首に巻いていた襟巻きはどうしたのかと訊かれ、山越の向こうで出会った知念和尚に貸してもらったと、千鶴は力なく話した。
幸子たちは千鶴が何をするつもりだったのかを理解したようだ。それ以上は何も訊かず、黙って千鶴を拭き続けた。けれど濡れた羽織や着物は水がしたたり落ちている。
幸子は千鶴に離れで着物を着替えるようにと言った。
座敷にいた甚右衛門とトミは、千鶴を見て戸惑っている様子だ。それでも千鶴に声をかけたり傍へ来ることはなく、黙って千鶴を眺めていた。
板の間にいる手代や丁稚たちも、やはり千鶴を眺めるばかりで黙ったままだ。
幸子は千鶴を離れの部屋へ連れて行った。そこで濡れた着物を脱がせ、改めて体を拭こうとしたが、千鶴の体に触れて驚きの声を上げた。
「千鶴、あんた、えらい熱があるぞな」
確かに悪寒がしていた。立っているのもつらい。
幸子は急いで千鶴に寝巻を着せると、布団を敷いて寝かせた。
「今、お薬持て来るけんな」
母が部屋を出て行ったあと、悲しみと疲れでぼーっとしていた千鶴は、すぐに夢の世界へ入った。
だが夢の中でも、千鶴は熱を出して寝ていた。
千鶴の枕元には、前髪が残る男の子が座っている。前世の子供の頃の忠之だ。名前は柊吉という。柊吉は千鶴の額に手を当てながら、苦しいかと訊ねた。
千鶴がうなずくと、柊吉は自分の額を千鶴の額に重ねて祈った。
――千鶴の病があしに移りますように。千鶴が笑顔になれますように。
そげなことは願わんといてと、千鶴は柊吉に言った。しかし柊吉は祈り続け、これで大丈夫ぞなと言った。柊吉が顔を上げると、そこには醜い鬼の顔があった。
「千鶴」
母の声が聞こえると、柊吉はいなくなった。
目を開けると、枕元に幸子がいた。額には濡らした手拭いが載せられている。
「お薬持て来たで。今、茂七さんが氷買いに行てくれとるけんな」
母に優しく声をかけられると、千鶴は声を出して泣いた。泣きながら、自分にも確かに前世の記憶があるのだと知った。また鬼も心配してくれているのだと思った。
幸子は千鶴を慰めながら薬を飲ませると、千鶴と一緒に横になって手を握ってくれた。千鶴は母を感じながら、再び眠りに落ちた。
千鶴は小さな杖を突きながら、険しい山道を歩いていた。ずいぶん前から歩き続けているが、いつまで歩くのかはわからない。
すぐ前を母が同じように杖を突きながら歩いている。母は頭に菅笠をかぶり、首にはたくさんのお札を束ねたものをぶら下げている。千鶴も子供ながら同じ格好だ。
大人でも大変な道を子供が歩くのはつらいことだ。だけど歩くしかないので、千鶴は懸命に歩いた。
千鶴が遅れると母は立ち止まって、千鶴が来るのを待っている。しかし、千鶴が追いつくと母はまた歩き始めるので、千鶴は休む暇がない。
体が熱く、噴き出る汗は手拭いで何度拭いても止まらない。
「かっか、暑い。おら、お水、飲みたい」
「えいよ、ちくと休もかね」
母は足を止めて、にっこり笑った。
千鶴は腰に提げた竹筒の水を飲もうとした。ところが水を入れたはずの竹筒は空っぽだった。
「かっか、これ、お水入っとらん」
「じゃったら、かっかのをお飲みや」
母は自分の竹筒を千鶴に渡そうとしたが、急に咽せ込んだようにひどい咳をし始めた。
咳は止まらず、母は崩れるようにしゃがみ込んだ。持っていた竹筒は地面に転がり、口を押さえた母の手は、指の間から赤い血が流れていた。
「かっか!」
千鶴は母の背中をさすりながら助けを呼んだ。
「誰か来て! かっかが、かっかが……」
いくら叫んでも、周りには誰もいない。千鶴は泣きそうなのを堪えながら、母に声をかけ続けた。
三
「千鶴、大丈夫か? しっかりせんね。ああ、えらい汗かきよらい」
手拭いで千鶴の寝汗を拭きながら、幸子は千鶴を起こした。
うっすら目を開けた千鶴は、薄暗さの中に母の顔を見つけた。
「かっか!」
千鶴は跳ね起きると、幸子に抱きついた。
「かっか、かっか、かっか……」
「ちょっと、どがぁしたんね? 何ぞ悪い夢でも見たんか?」
千鶴には慌てる母の言葉が聞こえていない。
「かっか、死なんといて。死んだら嫌や。おらを独りぼっちにせんで」
「おら? 千鶴、あんた、何言うとるんね?」
幸子は千鶴を押し離すと、千鶴!――と強く言った。
正気に戻った千鶴は、周りを見まわした。
そこは自分と母が使っている離れの部屋で、行灯の明かりがぼんやりと部屋を照らしている。いつもなら寝る時には消すのだが、母がつけておいたようだ。
「お母さん? うち、どがぁしたん?」
「どがぁしたんやないぞな。何ぞ悪い夢でも見たみたいで、かっか、かっかて、うなされよったんよ。ほじゃけん、大丈夫かて声かけたら、いきなしがばって起き上がって抱きついてな。また、かっか、かっか言うたり、死んだら嫌や、おらを独りぼっちにせんでて言うたんで」
「うちがそげなこと言うたん?」
「言うた言うた。いったい何の夢を見たんやら。ほれより、また着替えんとな。汗で寝巻がびちょびちょやで」
言われて千鶴は、自分が汗をびっしょりかいているのに気がついた。
「こんだけ汗かいたんじゃけん、喉渇いたろ? 着替えたら、お水持て来てあげるけん」
千鶴を着替えさせたあと、幸子が部屋を出て行くと、千鶴は一人きりになった。
さっきは何の夢を見たのだろうと、横になりながらぼんやり考えていると、いつの間にか、千鶴はお坊さまに手を引かれて石段を登っていた。
いつも一緒だった母はいない。母は亡くなったのだ。
石段の上には寺の山門がある。その門をくぐって境内に入ると、男が一人境内の掃除をしていた。男は寺で働く寺男で、千鶴を見ると驚いて腰を抜かしそうになった。
何も驚くことはないとお坊さまは男に言い、千鶴が異人と日本人の間に生まれた気の毒な娘だと説明をした。
場面が変わり、千鶴は寺男と一緒に寺の仕事を手伝っていた。
仕事が終わると、千鶴はお坊さまに呼ばれて習字を教わった。千鶴が教えてもらったのは「千鶴」という自分の名前の字だ。
村の者たちは千鶴を見ると気味悪がり、鬼の娘とか鬼娘と言って千鶴を深く傷つけた。村の子供たちはわざわざ寺まで来て、千鶴に石を投げつけたり、追いまわしたりしていじめた。
お坊さまや寺男が気がつくと、子供たちに雷を落として千鶴を護ってくれた。それでも千鶴は悲しかった。亡くなった母に逢いたくて、ずっと一人で泣いていた。
「また寝たんか? お水、持て来たで」
母の声が聞こえ、千鶴は目を覚ました。夢の記憶は残っている。今の自分の中には山﨑千鶴と、鬼娘と呼ばれた千鶴の、二人の千鶴がいた。
「だんだん」
水を受け取りながら、千鶴は母の顔を見つめた。
鬼娘と呼ばれた千鶴が心の中で泣いている。前世で死に別れた母が目の前にいる。
――かっか。
心の中で前世の千鶴が母を呼ぶ。けれど、その言葉を口に出せば母が困惑するのは目に見えている。
今の自分は前世の自分ではないし、今の母は前世の母ではない。でも、母の顔は前世の母の顔によく似ている。
母は前世のことなど覚えていないが、きっと母もまた生まれ変わって来たのに違いない。それも前世と同じ自分の母親として、生まれて来てくれたのだ。
母の有り難さはわかっていたつもりだった。でも今ほど有り難く思ったことはない。
「お母さん、これからもずっとうちの傍におってな」
母を見上げて千鶴は言った。
幸子は微笑むと、あんたが嫌と言うまでおらいと言った。
四
花江が氷を入れた氷嚢と氷枕を持って来てくれた。
心配する花江をねぎらうと、幸子は千鶴の頭の下に氷枕を入れ、千鶴の額に氷嚢を載せた。頭がひやりとして気持ちがいい。隣に母がいてくれるのも心強い。
一方で、親に捨てられた忠之を想うと、千鶴は胸が締めつけられた。その忠之を、事もあろうに自分の祖父が傷つけたのだ。そのことはさらに千鶴をつらくさせた。
忠之は何も悪くない。しかも、祖父は忠之から多大なる恩を受けていた。それを山陰の者というだけで、その恩を裏切る仕打ちを祖父は見せたのだ。
なのに自分は何もできない。無力感は千鶴から気力ばかりか思考力も奪っていた。
頭はぼんやりしているが、全然眠れない。隣から母の寝息が聞こえてきても、千鶴はまだ目が覚めていた。何となく目に浮かぶのは、大きな楠だ。
――あれは確か、法生寺の本堂の脇に生えとる楠爺ぞな。ずっと昔からある立派な楠じゃと、和尚さまが仰っておいでたわい。誰ぞが来ると、おら、よくこの楠爺の後ろに隠れたわいなぁ。
頭の中で独り言をつぶやきながら、千鶴はいつの間にか楠爺の陰から境内を眺めていた。
山門をくぐって境内に入って来たのは、お侍と男の子、それにお付きの者と思われる男の三人だ。男の子はお侍の子供なのだろう。村の子供たちとは異なる身なりをしている。見ていると、三人は庫裏の中へ入って行った。
千鶴は楠爺の陰から出ると、小石で地面に絵を描いて遊んだ。すると、間もなくして男の子だけが外へ出て来た。
驚いた千鶴は小石を捨てると、慌てて楠爺の後ろに隠れたが、男の子は千鶴に向かって走って来た。千鶴は本堂の裏へ逃げたが、男の子は足が速かった。千鶴はすぐに追いつかれ、境内の隅へ追い詰められた。
逃げられなくなって千鶴が泣きそうになると、泣くなと男の子は言った。男の子は懐に手を入れると、中から花を取り出した。それは野菊の花だった。
「お前のことは聞いておったけん、下でこの花を摘んで来たんぞ」
千鶴は男の子の言っていることが理解できなかった。男の子は構わず千鶴に近寄ると、千鶴の頭に花を飾ってくれた。
「うわぁ、きれいな。花の神さまみたいぞな」
自分で花を飾っておきながら、男の子は目を丸くした。千鶴は頭の花を手で触れると、男の子に言った。
「おらが、花の神さま?」
男の子は嬉しそうにうなずいた。
「花がそがぁ申しておらい」
「お花の言葉がわかるん?」
「わからんけんど、わかるんよ。お前は花の神さまぞな。ほれにお前を見て、あしはわかった」
「わかったて、何がわかったん?」
訝しむ千鶴に、男の子は真面目な顔で言った。
「あしはな、お前に会うためにここへ来たんぞな」
「おらに会うために? なして?」
「わからん。ほやけど、そがぁな気ぃがするんよ」
村の子供たちは千鶴を馬鹿にする。千鶴は男の子の言葉が信じられなかった。
「おらを、からかいよるんじゃろ?」
「からこうたりなんぞするもんかな。あしは嘘は嫌いぞな」
「ほやけど、おら、鬼娘やで」
「がんごめとは何ぞ?」
「鬼の娘のことぞな」
千鶴は男の子を見返すつもりで、少し胸を張った。すると男の子は顔をしかめて、何を申すんぞと言った。
「お前は花の神さまぞな。花の神さまはな、誰より優しいて、誰よりきれいなんぞ」
男の子が大真面目なのがわかると、千鶴は途端に恥ずかしくなった。
困って目を伏せる千鶴に、男の子は自分は柊吉だと名乗った。それから拾った小枝で、地面に名前を漢字で書いて見せた。
男の子に名前を訊ねられた千鶴は自分も名乗った。
字が書けるかと柊吉に訊かれ、千鶴はうなずいた。では書いてみろと、柊吉は持っていた小枝を千鶴に渡そうとした。でも千鶴は緊張していたのか、小枝を受け損なってぽろりと落としてしまった。
千鶴がしゃがんで拾おうとすると、同じく柊吉が伸ばした手と千鶴の手が重なった。
重なった手を通して、とても懐かしい感じがする温もりが伝わってきた。千鶴は驚いて柊吉を見た。柊吉も驚いた顔で千鶴を見ていたが、すぐににっこり微笑んだ。
千鶴は嬉しくも恥ずかしい気持ちになって、拾った小枝で地面に名前を書いた。柊吉はむずかしい字が書けると感心し、千鶴に尊敬の眼差しを向けた。千鶴は照れ笑いをしたが、胸には喜びが広がっている。また少しだけ誇らしい気持ちになった。
それから千鶴は柊吉と友だちになった。
場面が変わり、前髪が残る柊吉が息を切らせてやって来た。さっきよりも大きくなっている。お付きの者はいないので、柊吉は一人で来たようだ。
柊吉は油紙の包みを懐から取り出し、千鶴の前で開けて見せた。包みの中には、とげとげのある色とりどりのきれいな小さな粒が、たくさん入っている。
「これは金平糖というお菓子でな、父上の知人の土産ぞな」
柊吉は得意げに喋ると、千鶴に食べるよう促した。それで金平糖を一粒口の中へ入れてみると、千鶴の舌の上に甘さが広がった。千鶴が幸せの呻き声を上げると、柊吉は嬉しそうに笑った。
千鶴は柊吉も食べるよう勧めたが、柊吉は家で腹いっぱい食ったから、これは全部千鶴の物だと言った。しかし千鶴が金平糖を食べるたびに横で唾を飲み込むので、千鶴は口の中を見せてほしいと言った。
柊吉が言われるまま大きく口を開けると、千鶴はその中に金平糖を放り込んだ。驚いて口を閉じた柊吉は幸せそうな笑顔になって、まこと千鶴は優しいのと言った。
再び場面が変わると、柊吉は元服して佐伯進之丞となっていた。
晴れ姿を見せに来た進之丞を千鶴が褒めると、進之丞は千鶴の手を取って、自分の嫁になってほしいと言った。
期待はしていたが、本当に請われて千鶴はうろたえた。自分は親なし子だし、鬼娘だからと遠慮すると、進之丞はそんなことはどうでもいいと言った。
どうしても嫁になってほしいと繰り返し懇願され、千鶴は嫁になることを承諾した。
進之丞は大喜びで千鶴を抱きしめた。優しい温もりに包まれた千鶴は、自分みたいな娘が幸せになれるなんて信じられなかった。
進之丞は千鶴を抱きながら、千鶴には諱を教えよわいと言った。諱というのは侍の本当の名前だそうで、滅多に口にしてはいけないし、誰にでも告げる名前ではないらしい。
進之丞は呼び名であって、本当の名前ではないのだと進之丞は言ったが、千鶴には少しむずかしい。
「とにかくな、あしのほんまの名前は忠之ぞな。忠義の忠に之と書いて忠之て読むんよ。名前を全部言うなら佐伯進之丞忠之ぞな」
五
朝になると、千鶴の熱は下がっていた。
目が覚めた時、千鶴は今の自分が置かれた状況を理解していた。その一方で、夢によって蘇った前世の自分が、心の半分を占めている感じだった。
前世の自分が今世の自分の邪魔をすることはない。今の自分の中心は今世の自分だ。前世の自分は後ろからそっと今の状況を眺めている。
「目ぇ覚めたか? 具合はどがいなん?」
先に起きていた幸子が声をかけ、千鶴の額に手を載せた。
つい前世の自分が飛び出しそうになるのを抑えながら、千鶴は言った。
「昨日よりはええけんど、まだちぃと頭がぼーっとする」
「熱は下がったみたいなね。ほんでも、今日は一日おとなしゅうしとりんさいや。ご飯は食べられるんか?」
千鶴がうなずくと、幸子は嬉しそうに笑った。
「じゃったら、あとでご飯を持て来てあげよわいね。昨日も食べとらんのじゃけん、たんとお食べや。けんど、ほの前にまずはお水や」
幸子は千鶴を起こすと、用意していた水を飲ませた。
「あんな、かっか」
母に声をかけてから、千鶴はすぐに言い直した。
「間違うた。あんな、お母さん」
幸子は笑いながら、おかしな子じゃねぇと言った。
「どがいした? 何ぞ欲しいもんがあるんか?」
「おらを――やのうて、うちを産んでくれてだんだんな」
「何やのん、そがぁ改まったこと言うて」
幸子は笑っていいものかどうかわからない顔をしている。
「お母さん、体大事にしてや。うちより先に死んだら嫌やけんな」
「昨夜も妙なこと言いよったけんど、何ぞ怖い夢でも見たんか?」
「怖い夢なんぞ見とらんよ」
怖い夢ではない。悲しい夢だったのである。だけど、千鶴は夢の内容を話すのはやめておいた。喋ったところで信じてもらえないに決まっているし、熱のために悪い夢を見たのだろう、と言われるのが目に見えている。
「佐伯さんのこと、あんたにも佐伯さんにも気の毒じゃったね」
幸子は千鶴の様子を窺いながら話しかけた。千鶴が黙っていると、幸子は話を続けた。
「お母さん、仕事から戻んてから、何があったんか聞かされてな。あんたが家飛び出した言うけん、ほんまに心配しよったんよ」
「……ごめんなさい」
千鶴が下を向くと、幸子は考えるように少し間を置いてから言った。
「みんな、おじいちゃんのお世話になって暮らしよるけん、おじいちゃんには逆らえん。ほやけどな、お母さん、あんたの気持ちはようわかる。ほんでも今はぐっと堪えんとな。一人前の師範になったら、あんたは自由になれるけん、ほれまでは辛抱するんよ」
「ほやけど、おじいちゃん、うちに別のお婿さんを連れて来るんやないん?」
「そげなもん、あんたが断ればええことじゃろ? あんたが絶対に嫌じゃ言うたら、おじいちゃんも無理なことはできまい?」
千鶴はうなずいた。確かに母の言うとおりだと思うし、他にどうしようもない。
母が部屋を出て行こうとすると、母を引き留めたい前世の千鶴が顔を出した。しかし母が行ってしまうと、前世の千鶴は進之丞のことを考え始めた。
前世の千鶴は忠之を進之丞として認識しており、法生寺に捨てられた孤児とは見ていない。そんなのはどうでもいいことであり、死に別れた二人が再び出逢えたことを喜ぶばかりだ。またすべては定めであり、二人が夫婦になるのも定めだと信じている。
それでも千鶴は前世の記憶全部を思い出したわけではないので、前世の千鶴の存在感は希薄だった。千鶴が現在の忠之に思いを馳せると、前世の千鶴はたちまち後ろへ引っ込んでしまう。しかし忠之を進之丞の生まれ変わりだと見ると、途端に前世の千鶴は姿を見せて、何が何でも進さんの所へ行かねばと主張し始める。
前世の千鶴は自分の存在を進之丞に示したがっていた。今世の千鶴も前世を思い出したことを忠之に知らせたかった。そこのところでは、二人の千鶴の考えは一致していた。
きっと、それはあの人の悲しみを癒やすことになる。今度こそ自分たちは夫婦になるという決心を、あの人に抱かせるはずだ。そんな同じ想いで二人の千鶴はうなずき合った。
とにかくあの人と連絡を取らねばと思ったが、今は自由に動ける状態ではない。無鉄砲なことをすれば、却って状況は悪くなるかもしれなかった。
ここは知念和尚や母の忠告どおり、落ち着いて構える必要があると、千鶴は自分に言い聞かせた。前世の千鶴も黙ってその言葉を聞いている。
まずは手紙を書こうと思ったが、千鶴は忠之の住所を確かめていなかったと気がついた。忠之に自分の住所を教えていなかったこともそうだが、まさか、こんなことになるとは思いもしなかったのだ。
考え悩んだ末、千鶴は知念和尚に頼んで手紙を届けてもらうことを思いついた。知念和尚は自分たちの味方だし、今の状況も伝えてある。絶対に力になってくれるはずだ。
ところが、やはり法生寺の住所がわからない。宛先に法生寺とだけ書いても届くかもしれないが、届かない可能性もある。手紙を確実に届けるためには、あやふやなことは避けた方がいい。
どうしたものかと考えていると、幸子が千鶴の箱膳を運んで来てくれた。千鶴は和尚さんに佐伯さんへの手紙を頼みたいので、法生寺の住所を教えてほしいと頼んだ。幸子は困惑すると、うーんと言った。
「法生寺の住所なぁ。確かあったはずなけんど、ばたばたしよるうちに失さしてしもたで。ほやけん、お前を産んだあとに手紙を書こ思いながら出せんかったんよ」
またあとで探してみると言われたが、探す所などほとんどない。当てにはできないが、お願いしますと頼んでおいた。
母が再び部屋を出て行くと、千鶴は箱膳の前に座った。食欲はないけれど、明日は学校なので食べねばならなかった。
学校のことを考えた千鶴は、そうだと思った。春子に訊けばいいのだ。春子が知らなければ、実家に訊ねてもらえばいい。そのためにも明日は必ず学校へ行こう。
少し元気が出た千鶴は、飯を口に入れた。
現れた鬼
一
月曜日、千鶴は離れの部屋で朝飯を食べたあと、学校へ行く支度をした。
昨日のうちに体調を戻すつもりだったが、まだ完全とはいえなかった。けれども春子に法生寺の住所を教えてもらわねばならないし、今度学校を休むと退学になると言われている。
忠之が山﨑機織で働けない以上、忠之と一緒になるためには師範の資格はどうしても必要だ。たとえ熱があったとしても休むわけにはいかなかった。
髪を整え、着物の上に袴を着けると、幸子が羽織を着せてくれた。全部雨でびしょ濡れになっていたが、何とか昨日のうちに乾いてくれたみたいだ。
身支度を整え終わると、千鶴は幸子と一緒に茶の間へ向かった。茶の間では甚右衛門は新聞を読んでいた。その横でトミがお茶を淹れている。
千鶴たちはまず茶の間の奥にある仏間へ行き、仏壇の前で手を合わせた。この日は千鶴の伯父正清の命日だ。本来ならば家族揃って墓参りに行くところだが、千鶴は学校を休めないし、幸子も病院の仕事があった。
祈り終わって茶の間に戻ると、千鶴は甚右衛門たちに出かける前の挨拶をした。
甚右衛門は目だけを向け、あぁと素っ気ない返事をした。辰蔵がいないので早く帳場に行こうとしているのか、甚右衛門は忙しげに新聞をめくっている。幸子が声をかけても、その様子は同じだった。
トミは二人に顔を向けて返事をしたが、千鶴に待つように言うと、お茶を淹れた湯飲みを甚右衛門の脇に置いて千鶴の傍へ来た。
「今日は電車でお行き。戻りも電車でな」
トミは懐から財布を出すと、千鶴に銭を持たせた。昨日は冷たい顔を見せたが、今朝は優しげな祖母に戻っていた。
幸子は花江から用意していた弁当を受け取ると、一つを千鶴に持たせた。
「花江さん、行てきます」
千鶴が声をかけると、花江は何か言いたげだった。しかし言葉が見つからなかったのか、黙って微笑んだ。
「何じゃと?」
甚右衛門が突然大きな声を上げた。千鶴たちが驚いて振り返ると、甚右衛門は新聞に顔を突っ込んでいる。
「どがいしたんね? 急にそげな大けな声出しんさって」
トミが怪訝そうに声をかけたが、甚右衛門は記事に釘づけになっていて返事をしない。仕方なくトミは甚右衛門の傍へ行き、横から新聞をのぞき込んだ。
恐らく伊予絣の値が暴落したのだろうと思い、千鶴は祖父たちに背を向けて帳場へ向かおうした。すると、また甚右衛門の声が聞こえて足を止めた。
「兵頭よ。兵頭のことが出とる。ほれ、ここ見てみぃ」
「誰ぞな、兵頭て?」
訊き返したのは祖母の声だ。千鶴が二人を振り返ると、裏木戸へ行こうとしていた幸子も立ち止まって見ていた。花江は洗濯の準備をしているが、耳は甚右衛門たちの言葉をしっかり聞いているはずだ。
「風寄の仲買人の兵頭よ。金曜日にここへ来たろがな」
「あぁ、あの兵頭さんかな。あのお人が、なして新聞に載っておいでるん?」
甚右衛門は説明しようとしたが、面倒に思ったようだ。自分で読めと、新聞をトミに突きつけた。
新聞を受け取ったトミは、どれどれと両腕を真っ直ぐ伸ばすと、新聞を読み始めた。
「豪雨が降る土曜日の真夜中、風寄の馬酒村に住む兵頭勘助さんの家が、突然ばりばりと音を立てて屋根が壊れた。その時に兵頭さんたちは、化け物が吠える恐ろしげな声を聞いたという。家人に怪我人はいるものの命に別状はなし。ただし、購入したばかりの牛は驚いて死んだ模様。尚、風寄では先日、山の主のイノシシが何者かに頭を潰されて死ぬという事件が起こっており、村人たちはすっかり怯えた様子だ」
トミは新聞を下ろすと、甚右衛門に訊ねた。
「これ、何やと思いんさる?」
「そげなこと、わしがわかるわけなかろ!」
甚右衛門は怒鳴った。
幸子が不安げな顔を千鶴に向けた。花江も手が止まって千鶴を見ている。イノシシ事件の話を聞いていたからか、花江の顔は強張っていた。だけど、一番怖い顔になっていたのは千鶴かもしれなかった。
千鶴は直感で、これは鬼の仕業だと思った。自分が兵頭を呪ったために、その願いを叶えようと鬼がお仕置きをしたのに違いない。兵頭を呪った時、千鶴は頭の中で鬼になって兵頭の家を壊した。それは記事が伝えた話そのものだ。
鬼は千鶴の幸せを願い、千鶴を見守ってくれていると忠之は言った。あの話は恐らく事実であり、鬼は今世でも千鶴のために動いてくれた。それがイノシシ事件であり、今回の兵頭の事件だ。鬼は千鶴の心を読んで、そのとおりに動いたのだ。
千鶴は兵頭を一つも気の毒だとは思わなかった。兵頭は忠之の恩を仇で返した。鬼に襲われても自業自得だ。命が助かっただけでも有り難いと思うべきなのだ。
鬼が味方になってくれているという想いは、千鶴を安心させ慰めてくれた。しかし、よく考えてみれば、これは怖いことだった。
兵頭を恨んで呪った時、忠之を思い出して途中で呪うのをやめた。もしあのまま呪い続けていればどうなっていたのかと考えると、千鶴は背筋が寒くなった。
今回は牛が死んだだけで済んだが、人の命が失われていれば取り返しがつかないところだった。それに鬼の手だって血で汚させたくない。鬼には優しい鬼のままでいてほしかった。
今後は無闇に怒りを覚えてはならないと、千鶴は自分を戒めた。また、祖父に対しても腹を立てないと決めた。自分のちょっとした怒りが、大事になりかねないのだ。とにかく何があっても、するべきことを淡々とするだけで、決して腹を立ててはいけないと、千鶴は自分に言い聞かせた。
「ほやけど、どがぁするんぞな? 兵頭さん所の牛が死んでしもたて書いてあるけんど、今度はどがぁして絣を持って来んさるんじゃろか?」
トミは兵頭の家が壊れた話よりも、絣の納入が滞ることを気にしていた。
甚右衛門はトミを見たが、返事ができないようだ。それはそうだろう。もう前のように、忠之が大八車で絣を運んでくれることはないのだ。
兵頭ばかりか祖父までもが、再び頭を抱えねばならなくなったみたいだ。千鶴は少し鬱憤を晴らした気分になった。
二
札ノ辻から電車に乗った千鶴は、歩かずに済んだのを有り難く思いながら、電車に憧れていた忠之を思い出して悲しくなった。
松山で暮らしたなら、いつかは乗れたであろう電車や陸蒸気に忠之が乗ることはもうない。その電車に自分が乗っていることが、千鶴は切なかった。
電車は師範学校の脇を通り抜けたあと、西に向きを変えた。しばらくすると電車は傾斜を登り始めて、南北に走る二つの線路の上を越えた。すぐ左に古町停車場が見える。
そこにはもう何台かの大八車が集まって、遠方へ送る品が降ろされている。その様子を眺めていると、風寄から引いて来た大八車に載せた絣の箱を、茂七と一緒に停車場へ運び込む忠之の姿が目に浮かぶ。
車内には他の乗客もいたが、千鶴の頬は涙に濡れた。
いつも通学で歩く三津街道に沿って、電車は進んで行く。誰も座っていない隣の席で、嬉しそうな忠之がとびきりの笑顔を千鶴に見せている。
千鶴は堪えきれなくなって、両手で顔を覆った。
ゴトンゴトンという電車の揺れ動きを感じながら、千鶴は心の中で忠之に、必ず傍に行くから待っていてほしいと、ずっと声をかけ続けた。
「新立、新立です」
車掌の声が聞こえ、千鶴は顔を上げて涙を拭いた。そこはもう学校のすぐ近くだ。
電車を降りると、千鶴は女子師範学校へ向かった。
普段よりかなり早い時間の到着になったので、何だかいつもと調子が違う。それでも校門の前に立った千鶴は、とにかく将来のためにがんばろうと、校舎を見上げながら気持ちを新たにした。
校舎に入り教室へ向かうと、騒々しい声が教室から廊下にあふれ出ている。今日も静子が今朝の新聞記事のことで、みんなに喋っているのだろう。
「おはようござんした」
教室に入って声をかけると、級友たちはぴたりと喋るのをやめて千鶴を見た。一斉に振り返られた感じが異様な雰囲気で、千鶴は戸惑いを覚えながら笑顔を見せた。ところが千鶴に笑顔を返す者はなく、みんな怖い物でも見るような目を千鶴に向けている。
集まりの中心には、やはり静子がいた。その隣には春子がいる。二人の顔にも笑顔はない。静子は怯えた様子で、春子は今にも泣きそうだ。
「山﨑さん、鬼が憑いとるんやて?」
静子が唐突に言った。
え?――一瞬、頭の中が白くなった千鶴は、すぐに春子を見た。
春子は慌てて目を伏せた。静子は続けて言った。
「お祓いの婆さまに、鬼が憑いとるて言われたんじゃろ? その婆さまでも手に負えん恐ろしい鬼が憑いとるて聞いたで」
千鶴は返事をしなかった。顔を上げようとしない春子に怒りを覚えたが、怒ってはいけないと必死で自分を抑えていた。
静子は名探偵にでもなったつもりか、かつての仲よしだった千鶴を容赦なく責めた。
「今朝の新聞に出よったけんど、風寄で化け物に襲われた家があったそうなね。山﨑さんも知っとろ?」
「し、知らんぞな、そげな話」
知っているとは言えなかった。
「風寄で死んだイノシシ、頭潰されて死によったんじゃろ? あれかてほの化け物の仕業に違いないで」
「そげなこと、うちに言われたかて困らい」
「山﨑さん、イノシシの死骸が見つかった頃、気ぃ失うてお寺で倒れよったんやて? お寺に行ったはずないのに、お寺で見つかったやなんて尋常なことやないで。山﨑さん、ほん時に鬼に憑かれたんやないん?」
千鶴はもう一度春子を見た。春子は下を向いたまま顔を上げない。
「そのお寺、昔、鬼娘いう鬼の娘が棲みよったんじゃろ?」
「村上さん、高橋さんに全部喋ったん?」
千鶴は顔を伏せたままの春子を責めた。しかし、それは静子の言い分を認めたのと同じ意味になる。
級友たちがざわめいた。近くにいる者同士で身を寄せ合い、泣きそうな声で怖いと言う者もいた。
「うち、鬼娘やないけん」
千鶴が訴えながら一歩前に出ると、みんなは慌てて立ち上がり、転びそうになりながら後ずさった。静子は下がらなかったが、必死で恐怖に耐えている顔だ。
「山﨑さんがそがぁいうても、鬼はそげには思とらんのやないん? 山﨑さん、村上さんのひぃばあちゃんに鬼娘て言われたんじゃろ? 村上さんかて山﨑さん所遊びに行ってから、ずっと具合が悪い言うとるで」
「ほんな……」
春子はあれだけ喜んで帰って行ったのに、あれは全部嘘だったのか。その後も春子は何も言わなかった。言えば鬼を怒らせると思ったのだろうか。
春子は静子の袖をつかんで引っ張った。だが、静子はその袖を引き離した。
千鶴と目が合った春子は泣きそうな顔で首を横に振った。その横にいた級友の一人が怯えた声で言った。
「うちがここんとこ頭痛かったんは、鬼のせいじゃったんか」
その言葉が引き金になり、他の者たちも次々に同じようなことを口にした。中には家族の怪我や病気、遠方の親戚の不幸までも千鶴のせいにする者がいた。それに合わせて静子が言った。
「ひょっとして、うちの伯父さんらが化け物イノシシに襲われたんも、鬼が関わっとったんかも」
完全なる言いがかりだ。鬼がイノシシをけしかけたのなら、何故そのイノシシを殺す必要があったのか。理屈もへったくれもない。無茶苦茶である。
みんな恐れるがあまり、千鶴をすべての不幸の原因に仕立て上げた。千鶴が何を言おうと誰も聞く耳を持とうとしない。
おはようござんしたと、何も知らない別の級友が入って来た。教室の異様な雰囲気に気づいた級友は、入り口近くに立ったまま、どうしたのかとみんなに声をかけた。
「鬼ぞな。鬼がおるんよ」
誰かが言った。
「え? 鬼?」
入って来た級友が顔を強張らせると、千鶴はうろたえる春子を一睨みして教室を飛び出した。
三
千鶴が廊下に出ると、すぐに春子も追いかけて来た。春子を見るのも嫌な千鶴は校舎の外へ逃げたが、春子は後について来た。
校舎の裏に回った所で千鶴が立ち止まると、春子もそこで足を止めた。二人は黙って互いを見ながら、肩で大きく息をしている。
「山﨑さん、ごめん」
春子が先に口を開いた。千鶴が黙っていると、春子はもう一度、ごめんと言った。
何がごめんかと思いながら、千鶴は冷たく言い放った。
「鬼が怖ぁて謝りよるんじゃろ?」
春子は黙っている。図星なのだ。
「自分ぎり助けてもらお思て謝るやなんてみっともない」
「鬼が怖いんは嘘やないけんど、ほれが理由で謝っとるんやないけん」
「他にどがぁな理由があるん?」
「おら、山﨑さんを傷つけてしもたけん」
どの口が言うのかと言ってやりたかったが、千鶴は堪えた。とにかく腹を立ててはいけないと思い、何度も息を大きく吸って気持ちを落ち着けようとした。だけど、悔し涙が止まらない。
「うち、子供の頃からずっと白い目で見られよった……。ほんでもな、ここへ来て初めて友だちできたて思いよったんよ。うちがどんだけ嬉しかったか、村上さんにはわからんじゃろ」
「こげなこと言うても信じてもらえんかもしれんけんど、おら、山﨑さんに憧れよったんよ」
「うちみたいな者の何に憧れるんよ?」
「ほやかて、山﨑さん、きれいやし優しいし、立派なお店の娘さんやし、おらたちとは違うけん」
春子の空しい言葉は、千鶴を余計にいらだたせた。
「ほうよほうよ。うちはみんなとは違うんよ。ほじゃけん、いっつもかっつも邪険にされて、見下されてきたんよ」
「おら、見下したりしとらん」
「見下しとるけん、うちの知らんとこで、みんなにうちの陰口言いよったんじゃろ?」
「陰口言うたんやない」
「ほな、何やのん?」
「つい、口が滑ってしもたんよ……」
春子の弁解によれば、静子が新聞記事を話の種に、今朝早くに寮まで来たらしい。その時に、春子はうっかりお祓いの婆の話をしてしまい、そこからずるずると他のことも聞き出されたという。
だけど、そんな言い訳をされたところで納得できるわけがない。すべては風寄を訪れたために始まったのだ。
「風寄には村上さんが誘てくれたけん行ったんで。ほんまじゃったら、うちが風寄へ行くことはなかったんよ。ほしたら、今みたいなことにはならんかったんで」
春子は黙って項垂れている。
「ほんでも村上さんがうちを誘てくれて、うちはまっこと嬉しかった。村上さんがうちのこと大事に思てくれとるんじゃて、勝手に思いよった」
「おら、ほんまに村上さんを大事に思いよったんよ」
「じゃったら、なしてよ! なして、こがぁなことになるん? いくら高橋さんに言われたにしても、あれこれ喋る必要なかろがね」
春子が何も言わないので、千鶴は続けて言った。
「うち、村上さんに嫌な思いさせとなかったけん、今までずっと黙っとったけんど、教えてあげよわい。うちな、村上さんの従兄らに手籠めにされるとこやったんよ」
え?――と春子は驚いた顔を上げた。
「ほれ、いつのこと?」
「御神輿投げ落とそとしよった時、村上さん、うちを残して一人で人垣ん中へ入ってったろ? あのあとぞな。うちはあの人らにみんなから見えん所へ連れて行かれて、手籠めにされそうになったんよ」
「ほんな……」
「あの人ら、うちを捕まえて、へらへら笑いながら言うたんよ。ロシア兵の娘なんぞ、手籠めにしたとこで誰っちゃ文句は言わん、みんな喜んでくれるて言いよったわいね。村上さんのお父さんもお兄さんも、みんな、うちを歓迎するふりしよったぎりじゃて言いよったんよ!」
喋りながら悔しくなった千鶴の頬を、新たな涙が濡らした。春子は弁解をしようとしたが、千鶴は構わず話を続けた。
「ほんでも、あるお人に助けてもろたけん、手籠めにされんで済んだけんど、そのお人がおらなんだら、うちは今頃この世におらんけん」
「おら、何も知らなんだ。ごめん……」
また下を向いた春子に、千鶴は言った。
「ほん時に、うちは思たんよ。みんな、うちの前でにこにこしよるけんど、ほんまはうちを見下しよったんやなて」
「ほんなこと――」
顔を上げた春子を遮って千鶴は言った。
「ほやけど、うちは村上さんのことは信じとったんよ。一緒に松山の街を廻った時も、村上さん、ほんまに喜んでくれとるて思いよったんよ」
「おら、ほんまに楽しかった」
「ほうよな。あんまし楽し過ぎて具合悪なってしもたんじゃろ?」
「ほれは……」
「村上さん、うちのことみんなに喋りたかったんじゃろ? ほんまはうちのことが気味悪いて、みんなに言いたかったんじゃろ?」
「そがぁなこと思とらん」
「じゃったら、村上さん、さっき一言でもうちをかぼてくれた?」
春子は黙ったまま首を横に振った。
千鶴は目を閉じると、怒ってはいけないと自分を戒め、春子のことは怒っていないからと鬼に訴えた。
けれども、もう学校には残れない。自分を化け物と見なす者たちと、一緒に過ごすなどできなかった。だが、これで忠之と夫婦になるための唯一の道が断たれたのだ。そのことも悔しくて悲しくて、千鶴は子供みたいに泣いた。
四
「それは、みんなが間違ってるよ」
千鶴たちと向かい合って座る井上教諭は憤った。
一時限目は井上教諭の授業のはずだった。しかし千鶴と春子がいないことに気がつき、何があったのかを確かめた教諭は授業を自習にした。それから校舎の裏で泣いている二人を見つけ、応接室へ連れて来て話を聞いていた。
「これから小学校の教師になろうという者たちが、何てざまだ! これじゃ、いくら師範の資格を取ったところで、立派な教師になんかなれないじゃないか!」
春子は消え入りそうなほど小さくなっている。その春子に教諭は言った。
「村上さん。君は山﨑さんに悪かったと謝っている。だけど、物事には謝って済むことと、そうじゃないことがあるんだ。あとで謝るぐらいなら、最初からやるべきじゃない。自分の行動の結果がどうなるのかぐらい、わかってないとだめだろ?」
春子は項垂れて泣いているが、教諭にいつもの優しさはなく容赦なかった。
「たった一人を大勢でいたぶるのは、僕が一番嫌いなことなんだ。相手が抵抗できず逆らえないのがわかった上で、みんなでいたぶるなんて最低だよ」
井上教諭はいらだった様子で懐から煙草を取り出した。煙草に火をつける手が小さく震えている。教諭は本気で怒っていた。また、自分の教え子たちがこんな騒ぎを起こしたことに、打ちのめされているようでもあった。
ふぅっと煙を吐き出した教諭は、肩を落として言った。
「前に異界生物なんて分類をしたことで、君たちに本気で物の怪の類いを信じさせてしまったのだとしたら、この僕にも責任の一端はある。教師として僕は自分が情けないよ」
教諭はすぐに顔を上げると、だけどさと言った。
「山﨑くんはみんなと同じ人間じゃないか。しかも、ずっとみんなと一緒に過ごしてきた仲間だろ? お祓いのお婆さんや、村上さんのひいおばあちゃんが何を言ったとこで、まともに考えたら何が本当なのかわかるはずだよ」
僕は悲しいよと言うと、井上教諭はまた煙草を吸った。
「取り敢えずの話は聞かせてもらったけど、このあと改めて担任の先生や校長先生を交えて、事の経緯を聞かせてもらうからね。いじめは厳禁だから、下手をすれば全員が退学って話も有り得るよ」
教諭の言葉に、春子は声を上げて泣いた。
「先生、もう、ええんぞなもし」
千鶴は静かに言った。
「うち、もう誰のことも怒っとりません。ほやけん、もう、ええんぞなもし」
「山﨑さん、君は怒っていいんだ。悪いのはみんなの方なんだ」
「先生、ほんまにええんぞなもし。うち、もう怒るんはやめたんぞなもし」
井上教諭は指で眼鏡を押し上げて千鶴を見た。
「君は強い子だな。これだけのことをされながら、みんなを許すと言うのかい?」
千鶴がうなずくと、春子は泣きながら千鶴に謝った。千鶴は春子にも、もう怒ってないし許すからと言った。
よかったなと教諭は春子に声をかけた。だが、千鶴は間髪入れずに言った。
「ほやけど、学校はやめるぞなもし。うちは、ここにはおれんですけん」
春子は慌てて涙で濡れた顔を上げた。
「山﨑さん、そげなこと言わんでや。このとおり、おら、何べんでも謝るけん、やめるやなんて言わんで」
春子は千鶴の手を取って頭を下げた。その手をそっと離して千鶴は言った。
「村上さん。自分が今のうちの立場やったら、このまま平気な顔して学校へ来られる?」
春子は下を向いたまま黙って首を振った。
千鶴は井上教諭に言った。
「みんなはうちのこと化け物やて思とります。先生に言われて謝ったとしても、みんなの心の内は変わらんですけん。そげな所におるんは、うちには耐えられんぞなもし」
井上教諭は千鶴をなだめるように言った。
「君の気持ちは理解できるよ。だけど、傷つけられた君が学校をやめるなんて、道理に合わないよ」
「先生にはわからんことぞなもし」
困ったなと井上教諭は腕組みをすると、ふーむと唸った。
「先生方には、ほんまにお世話になりました。ほんまじゃったら、先生方お一人お一人にご挨拶せんといかんのじゃろけんど、今日はようしません。ほじゃけん、井上先生の方からよろしゅうお伝えいただけませんか」
「それはもちろん、校長先生や担任の先生とも話をしないといけないから……。でもね、明日になれば少し気持ちが落ち着くよ。学校をやめるかどうかを考えるのは、そのあとでも遅くはないと思うけど」
「うちは今度学校を休んだら退学になるて、校長先生から言われとります。ほじゃけん、どちゃみち学校にはおられんぞなもし」
井上教諭は春子に教室へ戻るようにと言った。春子が泣きながら応接室を出て行くと、教諭は千鶴に言った。
「要は君の気持ちの問題だよ。今回のことを君が気にしないでいられるなら、学校をやめないで済むだろ?」
「ほんなん無理やし」
「僕はね、少し催眠術をかじってるんだ。催眠術では昔の記憶を探ったりできるんだけど、嫌な記憶を消すのだって不可能じゃないんだよ。だから、これで君の傷ついた――」
「もう、ええんです。構んでつかぁさい」
千鶴は声を荒らげると立ち上がった。
「うちの記憶を消したとこで、みんなの気持ちは変わらんぞな。みんながうちを見下しよんのに、うちはみんなを友だちじゃて思わされるやなんて、ほれは、うちに阿呆になれいうことぞなもし」
「すまない。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。僕が悪かったよ」
うろたえる教諭に、千鶴は言った。
「すんません。先生が、うちのこと思て言いんさったんはわかっとります。ほやけど、もうどがいもならんぞなもし」
千鶴は頭を下げると、井上教諭を残して応接室を出て行った。
五
千鶴がまだ十一時にもならないうちに戻って来たので、帳場にいた甚右衛門は驚いた。
千鶴の悲壮な顔を見たからだろう。一緒にいた茂七と亀吉も何事があったのかという顔をしていたが、千鶴に声をかけたりはしなかった。
甚右衛門は茂七に帳場を任せると、千鶴を奥へ連れて行った。
茶の間ではトミが縫い物をし、台所では花江が昼飯の準備をしていた。甚右衛門が店を離れられないので、正清の墓参りにはトミが一人で行くらしい。それでも、まだいるところを見ると、墓参りには午後から出かけるようだ。
甚右衛門に顔を向けたトミと花江は、その後ろにいる千鶴に気づいて目を見開いた。
トミに声をかけた甚右衛門は、そのまま離れの部屋へ向かった。千鶴は黙ってその後に続き、さらに後ろをトミが不安げな顔でついて来た。
台所に残った花江は、心配そうに千鶴を見送っていた。
離れに入ると、甚右衛門は千鶴とトミを座らせ、どうしてこんな時刻に戻って来たのかと千鶴に訊ねた。
「具合が悪うて戻んたようには見えんが、なして戻んた?」
千鶴は黙って下を向いていたが、もう一度訊かれると、二人に頭を下げて言った。
「おじいちゃん、おばあちゃん、うち、学校はやめます。もう、学校には行きません」
甚右衛門もトミも目を瞠って互いを見た。
「学校をやめるとは、どがぁな了見ぞな? 理由を言え」
甚右衛門の問いかけに千鶴が黙っていると、トミが心配そうに声をかけた。
「千鶴、何があったんぞな? 怒ったりせんけん、言うとうみ」
「うち……」
家に戻って来るまでの間に、千鶴は気持ちが変わっていた。鬼娘扱いをされて傷ついた自分を、情けないと思うようになったのだ。
鬼の仲間と思われて傷ついたのを、鬼はどう思ったのかと千鶴は考えた。そして、自分もまた鬼を傷つけてしまったと気がついたのである。
ずっと自分の傍にいてほしいと言っておきながら、鬼が傍にいると言われて傷つくのは矛盾している。そのことを千鶴は家に戻るまで鬼に詫び続け、もう鬼の仲間と言われても傷つかないと約束した。だから学校をやめる理由を訊かれても、鬼を理由にしたくはなかった。しかし、事実は鬼が理由である。
「うち、人間やないけん……」
千鶴は下を向きながら小声で言った。心の中では、自分の言い草を鬼に詫びていた。
「人間やない? そげなことを誰が言うた?」
「……みんな」
甚右衛門は憤りを隠さなかったが、千鶴には静かに話しかけ、どうしてそんなことを言われたのか、その理由を訊ねた。
千鶴は風寄で我が身に起こったことや、お祓いの婆に言われたことなど、これまで二人に打ち明けていなかった話をした。ただ、イノシシに襲われたことは黙っていた。喋れば祖父母が鬼を疑うのは目に見えている。二人はすでに顔を強張らせていた。
「ほれで、みんなはお前を化け物扱いしたいうんかな」
甚右衛門に訊かれて千鶴がうなずくと、トミが言った。
「ほやけど、その話をみんなはどがぁして知ったんぞな?」
春子が新聞記事を見た級友から問い詰められて、いろいろ喋ってしまったことを千鶴は話した。春子を知る甚右衛門たちは驚き、何でまたと信じられない顔を見交わした。
千鶴は春子のことは怒っていないとしながら、級友たちの態度が耐えられないと言った。
「実際に鬼が出て来たことはないし、悪さをされたこともありません。ほやけど、誰もうちの話を聞いてくれんで、うちを鬼娘扱いするけん、もう学校にはおられんぞなもし。ほんでも、うちが我慢でけんのは鬼娘言われたことより、村八分にされたことですけん」
鬼への言い訳が混ざっているので妙な言い分になったが、甚右衛門もトミも何も言わなかった。二人とも明らかに顔色が変わっていて、千鶴の話は半分しか聞いていないように見えた。その様子は千鶴を悲しくさせた。
「やっぱしおじいちゃんもおばあちゃんも、鬼が怖いん?」
千鶴がしょんぼり訊ねても、二人は返事をしなかった。トミは甚右衛門を怯えた目で見るばかりだし、甚右衛門は動揺したように目を動かしている。
「旦那さん」
外で亀吉の声がした。
甚右衛門が顔を出すと、亀吉が言った。
「仕入れの荷物が届いたけん、旦那さん呼んで来てくれて、茂七さんが言うとりんさるぞなもし」
わかったと言うと、甚右衛門は千鶴を振り返った。
「今は仕事が忙しい。ばあさんも昼から墓参りに行かにゃならんけん、話の続きは夕飯を済ませてからにしよわい。ええな?」
千鶴がうなずくと、甚右衛門は急ぎ足で帳場へ向かった。
一方、トミは座ったまま動こうとしなかった。どうしたのかと思ったら、トミは泣いていた。トミは何度も涙を拭きながら、可哀想になと言った。
千鶴は聞き間違いかと思ったが、可哀想にとトミは繰り返して言った。
「おばあちゃん……」
「あんたは何もしとらんのにな……。なしてそげなことを言われないけんのぞ。どいつもこいつも人でなしばっかしぞな」
驚いたことに、トミは千鶴を想って泣いていた。鼻をすすったトミは目を伏せて言った。
「ほんでも、うちらかて人のことは言われん。うちらもまた人でなしぞな」
トミは甚右衛門が忠之を雇わなくなったことに対して腹を立てていた。だが、甚右衛門を止められない自分も同罪だと考えているらしかった。
「あの子はまっことええ子ぞな。今もまだうちの店があるんはあの子のお陰やのに、その恩を忘れて何が身分ね。人でなしに身分も糞もあるまいに」
千鶴は縋る想いで祖母に言った。
「おばあちゃん、今からでも佐伯さんをここへ呼び戻せんの?」
そがぁなこと――とトミは涙を拭きながら言った。
「あの人はいったん言いだしたら聞かんけんな。うちが何言うたところで、どがぁにもなるまい。ほれに今更どがぁ言うて、あの子にお詫びしたらええんね?」
「佐伯さんじゃったら、きっとわかってくんさるぞな」
「仮にあの子が勘弁してくれたとこで、あの子の家族が黙っとらんわね。うちが対の立場じゃったら、絶対に勘弁せんけん」
それは確かにそうだ。忠之をただ働きさせていた兵頭も、忠之の家族の怒りを買って、新たな牛を購入せざるを得なかったのである。
今回の祖父がしたことは、兵頭よりも質が悪いといえる。忠之の家族が許してくれるはずがない。
「とにかくな、学校のこともあの子のことも、今は辛抱するしかないぞな。ほんでも、あんたは下を向くんやのうて、前を向いとりんさい。誰が何を言おうと、あんたはうちらの自慢の孫娘ぞな。何があっても胸張っとるんよ。ええな?」
トミは千鶴を励ますと、部屋を出て行った。
六
思わず祖母と喋ってしまったが、我に返った千鶴は何が起こったのかわからなかった。
何故祖母が自分のために泣いてくれたのか。何故祖母が自分に優しい言葉をかけてくれたのか。前にも思ったことではあるが、千鶴は自分が異界に迷い込んでいるように感じていた。忠之や鬼のことも含め、何もかもが尋常じゃない。
それでも祖母の涙と言葉は千鶴の胸を打った。理由はわからないが、今の祖母は自分の味方だと、千鶴は受け止めていた。
状況がよくないことに変わりはないが、祖母が味方してくれるのはとても心強かった。これまでの寂しさが解消されるほど、千鶴の胸に嬉しさが広がった。
しかし、先ほどの鬼を恐れる祖母の様子を思い出すと、千鶴は悲しくなった。祖母が自分を励ましてくれただけに、鬼が憑いていると怖がられるのはつらかった。
だけど、自分に起こっていることを聞けば、鬼との関わりを疑うのは当たり前だし、その鬼を恐れるのも人間であれば当然なのだ。
自分だって忠之からいろいろ話を聞かせてもらうまでは鬼を恐れ、悪いことを全部鬼のせいにしていたのである。鬼を怖がる者たちに文句を言える立場ではない。
それはともかくとして師範の道が閉ざされたために、自立して忠之と夫婦になるという望みが絶たれてしまった。また、春子とこんなことになってしまったから、忠之へ手紙を出すことも敵わなくなった。
けれど、手紙を出したところで解決にはつながらない。祖母が言ったように、忠之の家族が怒り狂っているはずで、忠之をこちらへ呼ぶことは、祖父が考えを改めたとしてもむずかしいに違いない。かといって、自分が家を出て風寄へ行ったとしても、やはり忠之の家族には受け入れてもらえないだろう。
忠之の育ての親は、実の子供を日露戦争で失っている。それだけでもロシア兵の娘が認めてもらうのは困難なのに、そこへ今回のことが重なったのだ。どう考えても拒絶されるに決まっている。そんな家族に逆らってまでして、忠之は一緒になってはくれない。
「鬼さん、うちはどがぁしたらええと思いんさる?」
千鶴は自分に憑いている鬼に声をかけた。この部屋のどこかにいるだろうに、鬼からの返事はない。
「鬼さん、何とか言うておくんなもし」
いくら訊ねても、部屋の中は物音一つしない。きっと鬼は見守るばかりで、余計なことはしないのだ。
あきらめた千鶴は、級友たちのことは怒っていないから、何もしないでと鬼に頼んだ。
病み上がりで学校へ行った上に、耐えられないほど嫌な想いをさせられて、千鶴は疲労を感じていた。ごろりと仰向けになると、目を閉じて不動明王に祈った。
他にも神仏はいるが、前世で法生寺にいた千鶴には、不動明王が一番身近に感じられた。それに忠之が一番信心しているのも不動明王だ。何もできない今、頼れるのは不動明王だけだった。
「お不動さま、おらを進さんと夫婦にしてつかぁさい。どうか、おらたちの力になってつかぁさい」
千鶴は祈った。必死に祈り続けた。祈るしかなかった。
祈りながらいつしか眠りに落ちた千鶴は、進之丞の夢を見た。夢の中で、千鶴は子供になったり大人になったりしながら進之丞と遊んだ。
前に見た夢のごとく、嫁にしたいと進之丞から言われた千鶴は幸せを感じていた。しかし、二人は死に別れる定めであるとわかっている自分がいた。幸せに喜ぶ自分を眺めるもう一つの自分は、切なく悲しい気持ちに沈んでいた。
「千鶴ちゃん」
千鶴を呼ぶ声がした。はっと目を覚ました千鶴は体を起こした。
「千鶴ちゃん、寝てるのかい? お昼ができたんだけど、こっちへ持って来ようか?」
障子の向こうで声をかけているのは花江だ。
千鶴が障子を開けると、花江が心配そうな顔で立っている。
「だんだん。でもお弁当があるけん、ほれを食べるわ」
「やっぱり、まだ具合が悪いのかい?」
「ちぃとね。ほんでも、ご飯食べたら家のこと手伝うけん」
いいよいいよと花江は手を振り、今日はゆっくり休むようにと言ってくれた。
あとでお茶を持って来るからと花江がいなくなると、千鶴は今見た夢を思い返した。
前世の記憶をたどるような夢だったが、前世の結末を自分は知っている。そのために前世で幸せを感じていた自分を切なく思ったが、それは今の自分にも言えることだ。
来ると思っていた忠之が、思いがけない形で来なくなった。この先どうなるかを自分は知らないが、今の夢みたいに、どんな結末が待っているのかは決まっているのだろう。
いい結末なのか、悲しい結末なのか。考えてもわからないが、考えれば考えるほど後者のような気になってしまう。
千鶴は両手を合わせると、改めて不動明王に自分と忠之の幸せを願った。自分たちを引き合わせたのが不動明王であるならば、きっといい結末へ導いてくれるはずだ。そう期待を込めて、千鶴は願い続けた。
祖父母の想い
一
夕飯を済ませたあと、男衆は銭湯へ行った。花江は火熨斗に炭火を入れようとしていたが、トミに銭湯へ行くように促された。
千鶴は昼前に学校から戻ったことについて、病み上がりで具合が悪かったからと花江に話した。しかし、それが本当の理由でないのは花江はわかっていたはずだ。千鶴をねぎらって、それ以上突っ込みはしなかったが、やはり千鶴のことは気になるみたいだ。
使用人がみんな外に出されることにも何かを思ったらしく、花江は家を出るまで心配そうな目を千鶴に向けていた。
花江がいなくなると、トミは茶の間の障子を閉め切った。部屋の中にいるのは甚右衛門とトミ、そして幸子と千鶴の四人だけだ。
「改めて訊くが、千鶴、お前は学校をやめるんか?」
甚右衛門に質されると、千鶴はうなずいた。甚右衛門はわかったと言った。
「お前がやめる言うんを無理には行かせられまい。学校の方には、明日にでも連絡を入れようわい」
「すんません」
頭を下げる千鶴に甚右衛門は言った。
「別に気にせいでええ。お前に婿取るんなら、学校はやめさすつもりじゃったけん」
穏やかに話す甚右衛門に、横から幸子が口を挟んだ。
「ほんでも婿の話はのうなったし、この子は教師になろ思て、これまでがんばりよったのに、なしてこげな形で学校をやめないけんのですか」
幸子は憤っていた。忠之が山﨑機織に来なくなった今、忠之と一緒になるために一人前の師範になるようにと、千鶴を促したのは幸子である。なのにそれがだめになった腹立ちが、幸子の言葉に表れていた。
千鶴に何があったのかを幸子が知ったのは、病院の仕事から戻ったあとだった。夕飯の少し前に事情を聞かされたばかりで、幸子は食事中からずっと腹を立てていた。
そんな幸子とは対照的に、トミは落ち着いた様子で言った。
「世間はな、いっつもかっつも踏みつける相手を探しよるんよ。どがぁな形であれ、目立つ者は目の敵にされるもんぞな。やけんいうて、踏みつけられたままでおることはない。そげな連中を見返してやるぐらい、立派な人間になったらええんぞな」
甚右衛門はうなずくと、千鶴に訊ねた。
「学校ではこの件について、どがぁするつもりなんぞ?」
「うちにはわからんぞなもし。ただ先生には、うちは誰のことも怒っとらんし、みんなのことは許したて言いました」
千鶴の返事に幸子は呆れた顔になった。
「あんた、こがぁな目に遭わされたのに、怒っとらんて先生に言うたんか」
「もう済んだ話ぞな。文句言うても詮ないことよ。ほれより千鶴は立派じゃったな。ほんだけ悔しい思いをしたのに相手を許すなんぞ、誰にでもでけることやない」
甚右衛門が千鶴をねぎらうと、トミも千鶴を褒めた。
「ほうよほうよ。おじいちゃんの言うとおりぞな。あんたは立派じゃった」
何故、祖父母が自分に優しい言葉をかけるのか、千鶴にはわからなかった。特に祖母は千鶴のために泣いてくれた。千鶴は今こそ理由をはっきり知りたいと思った。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、なして、うちに優しい言葉をかけてくんさるん? うち、お婿さんもらう話も断ったし、せっかく行かせてもろた学校もこげなことになってしもた。ほんまじゃったら怒鳴られるとこやのに、なしてそげな優しい言葉をかけてくんさるんぞなもし?」
千鶴が訊ねると、甚右衛門とトミは戸惑った顔を見交わした。
「うち、お父さんがロシアの兵隊じゃけん、みんなから白い目で見られよるし、おじいちゃんらにも嫌われとるて思いよりました。ほれやのに、ここんとこ二人ともうちに優しゅうしてくんさるし、今日かて怒りもせん。なしてぞなもし?」
二人はまだ返事をしない。それでも千鶴が待っていると、トミが甚右衛門に目で何かを促した。覚悟を決めた様子の甚右衛門は、ようやく口を開いた。
「お前の言うことは尤もぞな。わしらはお前にずっと冷たい態度を見せよったけんな」
続けて甚右衛門は、幸子にも目を遣りながら話し始めた。
「正清の戦死の知らせが来た時、わしらは目の前が真っ暗になった。これから何を目標に生きていったらええんか、わからんなってしもた。戦争に勝ったとしても、息子が死んでしもたら意味ないけんな。ほじゃけん正直なとこ、日本が捕虜にしたロシア兵に手厚くしよるんを、わしらは腹立たしゅう思いよった。そこへ追い打ちをかけるようにな、幸子がロシア兵の血を引くお前を孕んだんよ」
当時の話は、千鶴は母からおおよそのことを聞いている。どこにも居場所がなくなった母は、大きく膨らみだしたお腹を抱えて家を飛び出し、当てもなく彷徨っているところを知念和尚に助けられたのである。
母が世話を受けた法生寺があるのは風寄だ。家のごたごたが絣の織子たちに知れるのを恐れた祖父は、母が子供を産むのを認めて家に呼び戻したという。それは母から聞かされていた話と同じだ。
お前には悪いけんど――と甚右衛門は千鶴に前置きをしてから、あの時は幸子が千鶴を産んだことが恥ずかしく、針の筵に座らされているみたいだったと言った。実際に陰口を言われたり笑われたりしたそうで、面と向かって恥知らずと罵られもしたらしい。
そんな話を聞かされるのは、千鶴にはつらかった。つい下を向くと、ほやけどなと甚右衛門は言った。
「わしは思い出したんよ。昔、わしの祖父上、つまり、わしのじいさんが話してくんさったことをな」
顔を上げた千鶴に、甚右衛門はにこやかに言った。
「こないだ言うたように、わしは元は武家の生まれでな。祖父上はお前からすれば、ひぃひぃじいさんじゃな。ひぃひぃじいさんはお侍じゃったんよ」
二
甚右衛門の父親は下級武士で、名を重見甚三郎という。
明治になって、苦しい家計がますます苦しくなると、甚右衛門は十二歳の時に山﨑家へ養子に出されることになった。
甚右衛門は家を出る前に、寝たきりになっていた祖父善二郎に別れの挨拶をした。
善二郎は喋るのが不自由だったが、甚右衛門が養子に出されることを惜しみ、自分もかつて養女をもらうはずだったと、呂律が回らない舌で甚右衛門に語った。
明治になる少し前、親友から相談を受けたのだと善二郎は言った。身分違いの娘を一人息子の嫁にしたいので、その娘を養女にしてもらいたいと親友に頼まれたそうだ。
身分を重んじる侍は、身分の低い者とはそのままでは夫婦になれない。そのため身分の低い娘を嫁に迎える時には、その娘を一旦武家の養女にすることで、身分の体裁を整えたという。
「祖父上の親友の名前は誰じゃったか忘れてしもたが、風寄の代官じゃったそうな。その息子の嫁になるんは、法生寺におった身寄りのない娘でな。お前と対で異国の血ぃが流れておったんじゃと」
何ということだろう。前世の自分が法生寺で暮らしていた話を、祖父が語ってくれている。千鶴は鳥肌が立つ思いがした。
「お前が聞いた話では、法生寺におった娘は鬼じゃいうことやが、事実はさにあらずよ。ほの娘はな、異国の血ぃを引いとったんよ。ほじゃけん、お前がその娘に似ぃとったとしても、何の不思議もないわけよ」
千鶴を慰めるように喋ったあと、甚右衛門は話を戻した。
「祖父上がほの娘を養女にすることに、周りはみんな反対じゃった。けんど親友の頼みじゃけんな。祖父上はほれをすんなり引き受けんさったんよ」
だが実際にその娘を養女に迎えようとしていた矢先、親友の代官とその息子は殺され、その娘も行方知れずになったと甚右衛門は言った。
「親友から娘の話を聞かされておいでた祖父上は、ほの娘を不憫に思いんさってな。せめてその娘の面倒だけでも見てやりたかったと言うとりんさった。その話をわしは思い出したんよ」
甚右衛門が語ったことを、トミはわかっていたらしい。黙って横でうなずいている。しかし、初めての話だった幸子は驚いた顔を見せた。
「お前を腹に抱えた幸子が世話になったんも、同し法生寺やけんな。わしはお前と祖父上が言いんさった娘に縁があるように思えてな。ほれでお前が産まれたことを、実家に報告しに行ったんよ」
「ほれはいつの話ぞなもし?」
幸子が訊ねると、千鶴が生まれて間もない頃だと甚右衛門は言った。
「わしは向こうの家を出る時に、山﨑家に入ったら重見家のことは忘れて、山﨑家のために生涯を尽くせと言われてな。ほれまで、ほのとおりに生きてきた。ほじゃけん、ほれが家を出てから初めての里帰りじゃった」
甚右衛門が重見家を訪ねると、兄の善兵衛が顔を出した。善兵衛は県庁勤めをしていたが、この日は休みで家にいた。
久しぶりの弟との再会に善兵衛はたいそう喜んだという。ところが甚右衛門の用向きを知ると、態度を豹変させて甚右衛門を追い返そうとした。甚右衛門同様、善兵衛も日露戦争で息子を失っていたのだ。
そこへ善兵衛の妻が来て、甚右衛門を奥へ通すようにという、父甚三郎の言葉を善兵衛に伝えた。それで善兵衛は渋々甚右衛門を中へ入れ、甚三郎に会わせた。
祖父の善二郎はすでに亡くなっており、甚三郎は甚右衛門が家を出た時の善二郎のように寝たきりになっていた。
甚右衛門と二人きりにするよう善兵衛に申しつけた甚三郎は、異国の血を引く女の赤ん坊が産まれたという報告を、甚右衛門から聞いた。
甚三郎は善二郎が語った娘の話を知っており、産まれた赤ん坊が女の子で名前が千鶴だとわかると、大変驚いて半身を起こしたそうだ。
「父上はの、わしにこがぁ仰った。祖父上が養女にするおつもりじゃた娘も、千に鶴と書いた千鶴という名じゃったとな」
もう間違いない。自分は法生寺にいた娘の生まれ変わりで、忠之は進之丞の生まれ変わりなのだ。興奮を抑えきれない千鶴と、驚きを隠せない幸子に甚右衛門は言った。
「これも何かの縁、産まれた子供は必ず大切にせよと、父上は言いんさった。ほれは父上の言葉じゃったが、わしには祖父上が言うておいでるようにも聞こえた。ほれにわし自身、千鶴とその娘に深い縁があると思たけん、父上の言葉どおりにしよと決めたんよ」
甚右衛門は千鶴を大切に育てると約束し、実家を後にした。
家に戻った甚右衛門がその旨をトミに告げると、トミもその指示に従うことに同意した。それは話を聞いたトミ自身が、千鶴と法生寺にいたという娘に縁があると感じたからだった。
「ほれまでのわしらは、お前のことを敵兵の娘じゃと思いよった。じゃが、ほん時からお前は敵兵の娘やのうて、祖父上が養女に迎えようとしんさった娘の生まれ変わりとなった。わしは祖父上の想いを引き継ぎ、お前を孫娘として大切に育てることにしたんよ」
甚右衛門の言葉を引き取って、今度はトミが喋った。
「不思議なもんで、受け入れるて決めたら、憎らしかったはずのあんたが何とも愛らしゅう思えてなぁ。つい顔が綻びそうになったり、優しい声をかけとなってしもたもんよ。こげなことじゃったら、最初からこの子を認めてやったらよかったて、この人と言うたもんじゃった」
「ほんでも、手のひら返したみたいなことは、わしらにはできなんだ。ほれまで幸子やお前を邪険にしよったけん、同しにするしかなかったんよ。ほれに、お前が法生寺におった娘の生まれ変わりやなんて言うたら、却って気味悪がられるけんの。表向きにはロシア兵の娘として扱わざるを得んかったんよ」
甚右衛門は悔やんだように目線を落とした。トミも悲しそうに気持ちを吐露した。
「ほんまはあんたをどんだけ抱いてやりたいて思たことか。あんたにきついこと言うて悲しそうな顔された時は、もう胸が張り裂けそうじゃった。ほんでも今度のことは、あまりにもあんたが不憫でな。つい、ほんまの気持ちが出てしもたんよ」
祖母の涙の理由をやっと理解できて、千鶴は胸がいっぱいになった。幸子も驚きを隠せないまま涙ぐんでいる。
「お前に優しゅうできんでも、お前を立派に育ててみせるとわしらは心に誓た。お前が外へ出る時に表から出させたんは、お前はわしらの孫娘じゃと世間に認めさせるためじゃった。お前が学校でいじめられたて聞いた時は、あとで学校へ怒鳴り込んだもんよ」
甚右衛門が本音を語ると、トミも負けじと喋った。
「あんたが買い物先で馬鹿にされた時はな、うちが行って店の主と大喧嘩したもんじゃった。ほれで店の物を壊したりもしてな。あとできっちり弁償させられたで」
トミの話に、幸子は思わずという感じで笑った。
「そがぁいうたら、ほんなことがあったわいねぇ。あん時は、なしてお母さんがお店の物壊しんさったんか、さっぱりわからんかったけんど、そげな理由やったんじゃね」
もう本心を見せたからか、甚右衛門もトミも穏やかな笑顔で話を続けた。
「お前には厳しゅうしよったけん、せめてお前の寝顔が見とうてな。こっちの部屋で寝かそかとばあさんと言うたこともあったが、そげなことしたら気ぃが緩もう? ほれに、お前がまだこんまいうちはぎりぎりまで寝かせてやりたかったけんな。ほれで今の部屋においたんやが、ほんまはこっちに呼びたかったし、お前と喋ったりお前の遊び相手がしたかった」
「あんたが夜泣きした時にはな、何泣かせとるんねて幸子に文句言いもって、顔見に行ったんよ。ほじゃけん、あんたが夜泣きしたら浮き浮きしよったで」
真相を知らされた幸子は、口を尖らせて文句を言った。
「ほんなん最初から言うといてや。うちはまたお母さんに叱られるて、びくびくしよったんで」
悪かったぞなとトミが笑いながら詫びると、幸子もすぐに笑顔になった。
「ほやけど、ほうやったんか。お母さん、あん時はそがぁな気持ちやったんじゃね。ほういうたら、お母さんの後ろにお父さんがついて来たこともあったわいね」
腹を立てたふりをしながら孫の顔を見に来る祖父母の様子が、千鶴の目に思い浮かんだ。温かいものが胸に広がり、それは涙となった。
甚右衛門は照れ笑いをしながら言った。
「お前にはいずれ店を持たせるつもりじゃったが、師範の免許があるおかみの方が箔がつく思てな。ほれで先に女子師範学校へ行かせたんよ」
「そがぁしたら誰もあんたを馬鹿にでけんようになるけんな。ほんでも、ほんまのことをあんたらにいつ言おうかて思いよるうちに、ずるずると今日になってしもた。体裁気にするんも疲れたし、あんたらに申し訳ないけん、早よ言いたかったんやけんど……」
トミが涙ぐむと、甚右衛門は千鶴たちに向かって両手を突いた。
「使用人にはお前を大切にするよう言うてきたんやが、わしら自身がお前や幸子にこれまで嫌な想いをさせてきた。そのことはほんまに悪かった思とる。今更なけんど、このとおりぞな。勘弁したってくれ」
甚右衛門が二人に頭を下げると、堪忍したってやと、トミも頭を下げた。
千鶴と幸子は慌てて二人に頭を上げさせたが、千鶴は祖父母の気持ちが嬉しかった。また、祖父母もつらかったのだと知って涙がこぼれた。幸子も泣きながら笑っている。
三
今度は千鶴が、甚右衛門とトミに向かって両手を突いた。
「おじいちゃんとおばあちゃんのお気持ち、ようわかりました。うち、自分がどんだけ恵まれとったんか、ちっとも知らなんだ。今までのこと、ほんまにありがとうございました」
千鶴が二人に頭を下げると、幸子も娘を認めてもらえた礼を述べた。甚右衛門とトミは安堵の顔で微笑み合った。しかし頭を上げた千鶴は、甚右衛門に厳しい目を向けた。
「ほんでも、うち、おじいちゃんに言わないけんことがあるぞなもし」
「あの男のことか?」
甚右衛門は少し当惑した様子だ。千鶴がうなずくと、言うてみぃと甚右衛門は言った。
「うちは、おじいちゃんが情の厚いお人やと知りました。ほれに、人から受けた恩を忘れんお人やと思とります。ほやけど、佐伯さんに対して見せんさった態度は、おじいちゃんのまことの姿やありません。佐伯さんのこと、福の神やて言うておいでたのに、恩を仇で返すようなことしんさるんは兵頭いうお人と対ぞなもし」
「お前が言うことはわかる。わしにしてもつらい判断じゃった」
甚右衛門は千鶴に理解を示してうなずいた。けれど、千鶴は祖父を容赦しなかった。
「失礼なけんど、おじいちゃんは間違とるぞなもし。うちがみんなに白い目で見られてつらい想いしよったん、おじいちゃん、わかっておいでたんでしょ? うちにひどいことした人のこと怒ってくんさったのに、なしてほの人らと対のことを、おじいちゃんがしんさるんぞな?」
甚右衛門は黙っている。幸子は千鶴をたしなめようとしたが、千鶴は構わず続けた。
「おじいちゃん、佐伯さんが山陰の者やて兵頭さんから聞きんさったんでしょ? 山陰の者て呼ばれよる人らが、どがぁな人なんか聞きんさったけん、佐伯さんのことを遠ざけんさったんでしょ?」
「ほうよ。山陰の者を入れたら、この家に傷がつく」
甚右衛門は当然という顔で言った。平気で差別をする祖父に千鶴は悲しくなった。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。いくら風寄におった娘の生まれ変わりでも、うちがロシア兵の娘なんは変わらんぞなもし。山陰の者が入ったらこの家に傷がつく言いんさるんなら、うちこそここにはおられんぞなもし」
「ほれは……」
甚右衛門の顔に焦りが見えた。
「ロシア兵の娘であるうちを励ましてくんさるんなら、山陰の者て言われて苦労ぎりしておいでる佐伯さんのことも、励ましてあげるんがほんまやないんですか? おじいちゃん、佐伯さんがどがぁなお人なんか、ご自分の目で見てわかっておいでるでしょ?」
甚右衛門はむぅと呻いたが、まだ忠之を認めるとは言わない。
「佐伯さんが小学校出とらんけん読み書き算盤ができるわけないて、おじいちゃんは言いんさったけんど、法生寺の和尚さんが奥さんと一緒に佐伯さんに読み書き算盤を教えんさったて、うちに言いんさった。和尚さん、佐伯さんは物覚えが早うて、がいに頭のええ子じゃったて言うとりんさったんよ。学校へ行かせてもらえとったら、もっともっといろんなことを学べたはずやのにて、和尚さんは仰りんさったぞな」
甚右衛門はまだ口を開かない。隣でトミがおろおろしている。
「どがぁしてもおじいちゃんが佐伯さんを認めてくんさらんのなら、うちが佐伯さん所へ行くしかありません」
甚右衛門はじろりと千鶴を見ると、ようやく口を開いた。
「ほれは、わしを脅しとるんか?」
「脅しとるんやありません。うちのほんまの気持ちを口にしたぎりぞなもし。うちはあのお人と離れたままでは生きていかれません。あのお人がここへおいでんのなら、こちらから行くしかないですけん」
「あんた……」
トミが不安げに甚右衛門を見た。甚右衛門は少しうろたえを見せたあと目を閉じた。しばしの間、甚右衛門はむずかしい顔をしていたが、やがて目を開けると下を向いて大きく息を吐いた。それからトミを一瞥すると千鶴に言った。
「わかった。お前の言うとおりぞな。わしが間違とった」
意外にも甚右衛門は素直に千鶴の言い分を認め、気まずそうに頭を掻いた。
「本音言うたら、ほんまにこれでええんかいう想いが、わしにもあったんよ。ほじゃけん、お前に言われて目ぇ覚めたかい」
「おじいちゃん……」
ほっとしたのと嬉しいのとで千鶴は泣きそうになった。トミや幸子にも驚いた顔をされて、甚右衛門は照れ笑いを見せた。
「お前にしても佐伯くんにしても、何や、わしは自分が試されとる気がすらい」
「試されとるて?」
トミが訊ねると、甚右衛門は言った。
「何がほんまに大切なんかを見極めるいうことよ。わしは武家じゃった実家を出て、商家であるここの婿になった。己の家が武家じゃったことは、ほん時に全部棄てたつもりじゃったが、自分はほんまは侍なんじゃいう未練が残っとったかい。人に上も下もないのにくだらんことよな。佐伯くんには、まっこと申し訳ないことをしてしもたわい」
甚右衛門は悔やんだように口を結んだあと、千鶴を見て言った。
「ほれにしても、お前がそこまで心惹かれるとこ見ると、ひょっとして佐伯くんは風寄の代官の息子の生まれ変わりなんかもしれんな」
千鶴はどきっとした。祖父の言葉は千鶴の考えに太鼓判を押してくれたみたいだ。
自分は本当に法生寺にいた娘の生まれ変わりなのだと、千鶴は告白したい想いに駆られていた。でも、まずは忠之に会って直接前世のことを確かめるのが先だ。
「佐伯くんには早速手紙で詫びを入れて、またここへ来てもらおわい。千鶴、佐伯くんが住んどる所は知っとるか?」
甚右衛門はすぐにでも手紙を書くつもりのようだ。けれど、忠之の家がどこにあるのかを千鶴は知らない。千鶴が首を振ると、それなら法生寺の和尚に頼んで手紙を届けてもらおうと甚右衛門は言った。しかし、それにはトミが反対した。
「手紙で詫びるぎりじゃったら相手に失礼ぞな。こっちで頼んだ話を一方的になしにしたんじゃけんね」
「そがぁなこと言うても、誰が風寄まで行くんぞ? わしはここを離れられんし、わし以外の者が詫びに行ったとこで詫びになるまい」
眉間に皺を寄せる甚右衛門に、千鶴は言った。
「うちが行くぞなもし」
「お前が?」
甚右衛門は驚いた顔で千鶴を見た。千鶴がうなずくと、いけんと即座に言った。
「お前を行かせるわけにはいけん」
「なしてぞな? おじいちゃんやなかったら、うち以外にこのお役目を果たせる者はおらんぞなもし」
「ほんでも、いけんもんはいけん」
「なしていけんの? ちゃんと説明しておくんなもし。おじいちゃん、風寄のお祭りには行かせてくんさったのに、なして今度はいけんの?」
甚右衛門は困ったように、トミと顔を見交わした。
「ねぇ、なしてなん?」
千鶴が強い口調で繰り返すと、甚右衛門は言った。
「鬼ぞな」
「鬼? やっぱしおじいちゃんも鬼のこと気にしておいでるん?」
鬼がいるのは事実だが、鬼が悪者扱いされるのには反発したくなる。
憤る千鶴にトミが言った。
「落ち着きなさいや。おじいちゃんが鬼を気にするんは理由があるんよ」
「理由?」
千鶴は祖父母の顔を見比べた。幸子も黙って二人の話を待っている。
「さっき、法生寺の娘を養女にする話をしたろ?」
気乗りしない様子で甚右衛門が言った。千鶴がうなずくと、甚右衛門は話を続けた。
「ほん時に、代官とその息子が殺されたて言うたわいな」
千鶴はもう一度うなずいた。甚右衛門は少し間を置いてから言った。
「伝えられとる話では、風寄の代官は異人の娘を息子の嫁にしようとして、攘夷侍に殺されたことになっとる。やが、ほんまはほうやないんよ」
「じゃあ、ほんまは?」
幸子が待ちきれずに訊ねた。
甚右衛門は一つ呼吸をしてから言った。
「鬼に殺されたんよ」
四
目を見開いた幸子の顔には、驚きと恐怖が入り混じっている。
もちろん千鶴も驚いた。だけど、あの鬼がそんなことをするはずがない。代官は進之丞の父なのだ。
「なして、そがぁ言えるんぞなもし?」
千鶴の責めるような問いに、甚右衛門は淡々と答えた。
「祖父上が代官の遺骸をご自分の目で確かめんさって、そがぁ言いんさったんよ。祖父上は養女にする娘に会うために風寄を訪ねんさったんやが、ほん時に代官と何名かのお付きの者らが文字通り八つ裂きにされておったんを見んさったそうな。ほれで、あれは人間にでけることやないて、わしに言いんさったんよ」
「ほんまに鬼がおったんですか?」
信じられない様子で幸子が訊ねると、ほうらしいと甚右衛門はうなずいた。
「村に鬼を見た者がおったそうでな。鬼は身の丈四丈はあろうかというでかさでな。浜辺で侍連中と争うとったそうな」
鬼を見たというのはヨネの父親のことだろう。それはともかく、千鶴は人間が八つ裂きにされた姿など想像できないし、したくなかった。ましてや代官の八つ裂きなんて、そんな恐ろしく理不尽なことを鬼がしたとは信じられる話ではない。
千鶴は少し焦って言った。
「じゃあ、なして伝わっとる話では攘夷侍に殺されたて言われとるんぞな?」
「鬼を見た者がおったけん、初めは代官らは鬼に殺されたいう話になっとったそうなんやが、代官には鬼に殺される理由がなかろ? ほれで代官の息子の嫁になるはずじゃった娘が、鬼と関係しとるんやないかと噂が立ったんよ」
「噂?」
「実は娘は鬼の仲間じゃったという噂ぞな。じゃが、ほれは娘を嫁にしようとした代官や代官の息子を貶めることになろ? 祖父上は娘が異人の血ぃを引いとるぎりじゃと知っておいでたけんの。ほのことを祖父上は証言し、娘や代官らを辱めるような噂は許せんと上に訴えんさったんよ。ほれで村では鬼の話をするんは厳禁となってな。代官らは攘夷侍らに殺されたいうことになったわけよ」
「ほんでもひぃひぃおじいちゃんは、お代官を殺めたんは鬼じゃと思いんさったと」
「ほういうことよ」
ヨネ以外の村人たちが鬼の話を知らなかったのは、そういうことだったのかと千鶴は納得した。また、ヨネの父親も流言を広めた廉で痛い目に遭わされたのだろう。それで幼いヨネに鬼の話はするなと命じたのだ。けれど、それでは鬼が代官を殺したと認めることになってしまう。千鶴の心は大きく動揺していた。
「鬼が浜辺で争うたお侍いうんは、お代官のお付きの方らですか?」
幸子が訊ねると、ほうやないと甚右衛門は言った。
「鬼と争うたんは、今言うた攘夷侍よ。連中は法生寺の娘を襲たんじゃろ。ほれで鬼と戦うことになったんよ」
「なしてその娘さんを襲たら、鬼が出て来るんぞなもし?」
「千鶴の話じゃ、元々その娘は村の者に鬼の娘じゃと思われとったらしいけんな。事実は異人の娘であっても、鬼がその娘を仲間と思い込んだんかもしれまい」
「じゃあ、お代官らが鬼に殺されたんはなしてぞなもし?」
「鬼が娘を連れ去ろうとしたら、代官はどがぁする? その娘は大切な一人息子の嫁になる女子ぞ? 鬼にとっては代官は邪魔者よ」
幸子は言葉が返せなかった。千鶴もまた祖父の鋭い洞察力にうろたえた。それでも自分を護ってくれている鬼が、進之丞の父親を八つ裂きにしたとはやはり信じられない。
「祖父上は子供をからかうお人やなかったけんな。この話を聞かされた時は、わしも心底怖いと思た。というても、山﨑家に入ってからはこの話は忘れよった。実家へ千鶴の話をしに行った時、鬼に気をつけよと父上に言われたが、ほれからも何事もなかったけんな。ほれでまた、鬼のことは頭から消えとった」
言い訳をするかのごとくに喋る甚右衛門を、横目で見ながらトミが言った。
「うちがこの話を聞かされたんは、千鶴が風寄の祭りから戻んたあとじゃった。あのイノシシの話が新聞に載った時ぞな。ほれまで何も聞かされとらんかったけん、初めに知っとったら、絶対千鶴を風寄には行かせなんだ」
「そがぁ言うな。わしも忘れよった言いよろが」
むすっとする甚右衛門を、トミはさらに責めた。
「そげな肝心なこと忘れてどがぁするんね。千鶴が連れ去られとったら、忘れよったじゃ済まんかったがね」
「忘れよったもん仕方なかろが」
「仕方なかろがやないわね」
「お父さんもお母さんも、今はそげなこと言い合うとる場合やないぞなもし」
幸子がなだめると、甚右衛門は咳払いをして話を続けた。
「新聞でイノシシの記事見つけた時、わしは嫌な予感がしよった。そこへ今度の兵頭の家の話よ。ほれで、もしや思いよったとこに、千鶴からさっきの話を聞かされたんぞな。そがぁなこと全部合わせよったら、鬼よけの祠がめげたために封じられよった鬼が現れたと見るんが筋じゃろ。しかも、その鬼は千鶴に目ぇつけたんやもしれんのぞ。ほじゃけん、千鶴を風寄に行かせるわけにはいくまいが」
鬼はすでに傍にいる。だけど、鬼は千鶴の幸せを見守ってくれているだけなのだ。
その話を千鶴は伝えたかったが、話したところで信じてもらえるとは思えなかった。逆に、やはり鬼に取り憑かれていると見られるのが落ちだろう。
「ほやけど、なしてこの子が鬼に目ぇつけられないけんのです?」
不安と腹立ちが混じった顔で幸子は不服を述べた。我が娘が鬼に狙われるという話が、どうしても受け入れられないのだろう。甚右衛門は片眉を上げると幸子に言った。
「言うたろが? 法生寺におった娘と千鶴が似ぃとるけんよ。名前も対で、どっちゃも異人の娘ぞ。千鶴の話じゃ、名波村の村長ん所のひぃばあさんが、千鶴をほの娘と見間違えたそうやないか。ほれぐらい二人は似ぃとるいうことよ。ほれに、ほんまに千鶴がその娘の生まれ変わりであるんなら、尚のこと鬼に狙われよう?」
幸子は怯えた顔で千鶴を見た。甚右衛門もちらりと千鶴を見てから話を続けた。
「法生寺におった娘が結局どがぁなったんかはわからんが、千鶴がほの娘の生まれ変わりであるなら、ほの娘は鬼から逃れようとして死んだんかもしれまい。ほのあと鬼は祠で封じられ、祠がめげて再びこの世に蘇ったとこで千鶴を見つけたんぞ。ほじゃけん、千鶴を風寄へ行かせるわけにはいくまい。行かせたら今度こそ鬼に連れ去られてしまわい」
甚右衛門は威厳を持って千鶴と幸子を見た。幸子は何も言い返せずに狼狽しているが、千鶴は黙っているわけにはいかない。
五
「鬼はそがぁなことはせんけん!」
千鶴が叫ぶと、みんなが驚いた目を千鶴に向けた。千鶴は慌てて声の調子を落とすと、もう一度同じことを言った。
「鬼はそがぁなことはせんけん」
「なして、そげに言えるんぞ?」
「ほやかて、鬼は何も悪さしとらんぞな。鬼がうちを攫うつもりじゃったら、疾うの昔に攫とるけん」
「前ん時は、まだお前が誰なんか、ようわからんかったんかもしれまいが」
鬼はすでに自分のことを知っているし、知った上でイノシシから助けてくれたと、喉元まで出かかっていた。だが、千鶴はそれを必死で呑み込んだ。
「何もしよらん鬼を、鬼いうぎりで悪さするて決めつけるんは、ロシア人の娘とか山陰の者が穢れとるて決めつけるんと対ぞな」
無理な言い草であるのはわかっているが、千鶴は必死に訴えた。しかし、忠之をかばったようにはいかない。鬼は禍の象徴であり、人間にとって悪そのものだ。
話にならないと思ったのか、甚右衛門がいらだった様子で口を噤むと、幸子が甚右衛門をかばった。
「おじいちゃんは、あんたを心配しておいでるぎりじゃろがね。そげな屁理屈言うたらいけん」
「ほやかて……」
千鶴も黙ってしまうと、トミが助け船を出してくれた。
「この子はほんだけあの子に逢いたいんよ。いずれにしても、誰ぞが向こうへ行ってお詫びをせにゃいくまい? というても、誰でもええわけやない。確かに鬼は気になるけんど、あんたが行かれんのなら、この子に行ってもらうしかないぞな」
「何よもだ言うんぞ。お前かて鬼のことがわかっとったら、千鶴を風寄には行かせなんだと言うたろが」
声を荒らげる甚右衛門に、トミは穏やかに言った。
「ほれはほうじゃけんど、このまんまにはできまい? ほれに、風寄の絣がどがぁなるんか確かめにゃならんし、兵頭さん所かてお見舞いを届けにゃいくまい?」
甚右衛門は返事をしなかった。トミは困った目を千鶴に向けて、もう一度甚右衛門に言った。
「あんたが何と言おうと、この子は行く言うたら行くぞな。こないだは法生寺の和尚さんが引き止めてくんさったけんど、今度は誰も止めてくれんで。どうせ行くじゃったら、勝手に行かせるんやのうて、できる限りのことをした上で行かせてやった方がええとうちは思うけんど、どがぁね?」
甚右衛門は仏頂面のまま何も言わない。根比べのごとくに他の者も黙っている。部屋には重苦しい沈黙が漂うばかりだ。
「できる限りのこととは何ぞ?」
ついに甚右衛門が不機嫌そうに口を開くと、待ってましたとばかりにトミが喋った。
「まず阿沼美神社でお祓いしてもろて御守りもらうんよ。ほれから幸子を同伴させるんよ。この子一人で行かせたら、また誰ぞに襲われるかもしれんけんな。悪い人間は鬼より怖いけん。ほれで向こうに着いたら、法生寺の和尚さんにお願いして、ずっと一緒におってもらおわい。ほれじゃったら、鬼も簡単にはこの子に手出しできまい?」
さらに幸子が言葉を添えた。
「ほれに明るいうちじゃったら、鬼も出て来にくいんやなかろか。イノシシが殺されたんも、兵頭さんのお家が壊されたんも、日が暮れてからの話やけんね」
甚右衛門がまた黙りこんだので、トミは涙ぐみながら語気を強めた。
「まだわからんのかな、この人は。学校に行けんなったこの子の唯一生きる力になってくれるんが、あの佐伯いう子じゃろがね。あの子をこのまま呼び戻せなんだら、千鶴はほんまに死ぬるぞな」
自分のためにここまで言ってくれる祖母に、千鶴は涙が出た。
「おじいちゃん、お願いぞなもし。うちを行かせておくんなもし」
千鶴が懇願すると、幸子も言った。
「お父さん、うちからもお願いします。うちもこの子をしっかり護ってみせるけん」
甚右衛門はしばらく黙って下を向いていたが、わかったわいと力なく言った。
「わしの代わりに千鶴を行かせよわい。ただし、ほれには条件がある」
「条件?」
訝しがるトミに、甚右衛門は千鶴を見ながら言った。
「阿沼美神社ぎりやのうて、雲祥寺でも祈祷してもろて御守りをもらうこと」
トミは安堵した様子で千鶴や幸子と微笑み合った。
「まだあらい」
甚右衛門の言葉に、千鶴たちは姿勢を正した。
「千鶴。万が一、鬼がお前を連れ去ろうとしたなら、じいさんの許しがないと行かれんと言うんぞ」
「おじいちゃん……」
甚右衛門は優しげに千鶴を見つめて言った。
「そがぁ言うたら、鬼はここへ現れよう。ほん時は、わしが鬼を退治しちゃる」
「あんた……」
甚右衛門の覚悟に、トミは涙ぐんだ。
「大丈夫ぞな。絶対にそげなことにはならんけん」
幸子が泣きそうな笑顔で言った。
「おじいちゃん、だんだん」
鬼と戦われては困るが、千鶴は祖父の気持ちが嬉しかった。
千鶴は立ち上がると、甚右衛門の傍へ行って抱きしめた。甚右衛門は慌てたが、すぐに千鶴を抱き返した。
「必ず無事に戻んて来るんぞ」
うんとうなずいた千鶴は、今度はトミに抱きついた。
「おばあちゃんも、だんだん」
初めて千鶴と抱き合ったことに感激したのか、トミはわんわん泣いた。横で幸子も泣いている。
裏木戸の辺りが騒々しくなった。茂七たちが銭湯から戻って来たようだ。
トミは声を殺したが、それでも涙は止まらない。甚右衛門も黙ったまま涙を浮かべている。千鶴も幸子も泣いていた。
ようやく家族が素直に一つになれた。そのことをみんなが噛みしめていた。静かな部屋の中は喜びに満ちている。
再び風寄へ
一
土産を渡しながら筆無精を詫びる幸子に、事情はわかっとるけんと知念和尚は言った。
借りた襟巻きを千鶴が感謝しながら和尚に手渡すと、まっことええ娘さんぞなと安子は幸子を祝福した。
久しぶりの再会を喜び合ったあと、幸子は風寄に来た理由を和尚夫婦に伝えた。二人は千鶴たちが忠之を迎えに来たことを我が事のように喜び感謝した。
幸子は千鶴から聞かされた話も伝え、不安な気持ちを吐露した。和尚も安子も口々に、心配はいらないと幸子を励まし、千鶴にも笑顔を見せた。
「千鶴ちゃんはイノシシから助けてくれたんは、鬼じゃて思とるけんど、鬼を見たわけやないけんな。ほんまに鬼やったかどうかはわかるまい」
知念和尚が言うと、幸子は驚いて千鶴を見た。
「イノシシて何の話ね? ひょっとして、あんた、あのイノシシに襲われたんか?」
千鶴を問い詰める幸子を見て、ありゃと和尚は困惑の声を出した。
「千鶴ちゃん、この話はご家族には話しとらんかったんかいな」
千鶴は目を伏せ、家族に余計な心配をかけたくなかったと言った。
和尚は気まずそうな顔をしながら、千鶴に代わってイノシシの話を幸子に説明した。その上で、何が千鶴を救ったのかはわからないのだと、もう一度強調した。
確かに千鶴は鬼を直接見てはいないが、鬼が助けてくれたのは間違いない。それでも和尚は母を安心させようとして言っているだけなので、千鶴は黙っていた。
知念和尚の説明にも拘わらず、幸子にはイノシシの話はかなりの衝撃だったらしい。ますます不安そうな顔になった幸子を、安子が落ち着かせようとした。
「兵頭さんの家かてな、ほんまは何が原因であがぁなったんかはわからんのよ。ほんまに鬼が暴れたんなら、他の家も壊されそうなもんやんか。ほれで、あの人も初めは化け物がやったて言いよったけんど、やっぱし突風でめげたんじゃて言い直しとるみたいなで」
兵頭が言い分を撤回した話に、千鶴は少し安堵した。けれど事実はわからない。
幸子は安子の話を聞いても、まだ不安が解消されない様子だった。それで知念和尚が再び喋った。
「実際のとこ、イノシシのことはようわからんが、仮に千鶴ちゃんが言うように、鬼が千鶴ちゃんを護ったんやとすれば、鬼は千鶴ちゃんに危害を加えたりはせんいうことにならいな。千鶴ちゃんをここへ運んだんが鬼やったとすれば、鬼は千鶴ちゃんを攫うつもりはなかったいうことになろ?」
「ほれは、ほうですけんど……」
まだ顔を曇らせている幸子を、安子が励ました。
「大丈夫ぞな。今日かて何も起こっちゃせんじゃろ? ほれに、うちらも一緒におるんじゃけん。何も心配することないわね」
知念和尚は腕組みをしながら、ほれにしてもと首を傾げた。
「鬼が千鶴ちゃんをここまで運んだとしてやな、なして千鶴ちゃんの頭に花を飾ったりしたんか、そこが解せんわな。鬼がそがぁなことするかいな」
「花? 花て、あの花?」
幸子に目を向けられた千鶴は戸惑いながら、あのぅと和尚たちに言った。
「ほのことですけんど……、うちに花飾りんさったんは佐伯さんやったんぞなもし」
安子は和尚と驚いた顔を見交わして言った。
「ほれは、あの子が自分で言うたん?」
「最初は惚けておいでたけんど、うちが問い詰めたら白状しんさったんです」
大きな笑い声が部屋に広がった。安子と一緒に笑いながら和尚は言った。
「千鶴ちゃんが問い詰めたら白状したんかな。あの子がなんぼ喧嘩が強うても、千鶴ちゃんには勝てんいうことじゃな。ほれで、あの子は千鶴ちゃんをどこで見つけたて?」
「ここの石段を下りた辺りに野菊の花が咲きよる所があって、そこにうちが倒れよったそうです」
あそこかいなと知念和尚がうなずくと、安子は言った。
「あそこは昔から野菊が群生しよるとこじゃけんね。ところで、なしてあの子は千鶴ちゃん一人残しておらんなったん?」
「ほれは、ほとんど裸じゃったけんて言うておいでました」
「裸?」
「いえ、裸やのうて、ほとんど裸ぞなもし」
少し顔の火照りを感じながら千鶴は事情を説明した。和尚も安子も大笑いをし、まったくあの子らしいわいなぁと言った。
「何や、楽しいお人みたいじゃね。お母さん、あの日は仕事に出てしもてお話もでけんかったけん、早よ会うて話がしとなったぞな」
和尚たちと一緒に笑いながら幸子が言った。
「ほんでも、その前にうちが佐伯さんと二人で話したいんよ」
千鶴の言葉に幸子は笑いを止めて眉根を寄せた。
「二人ぎりは危いけん、いけん」
「佐伯さんはそがぁなお人やないけん」
千鶴が憤ると、そういう意味ではないと幸子は言った。
「ほうやのうて、鬼ぞな。和尚さんらと一緒やないと危なかろ?」
「大丈夫。鬼は襲てこんけん」
幸子が渋っていると、安子が言った。
「幸子さん、さっきも言うたけんど、鬼は千鶴ちゃんを襲たりせんけん。ほれに千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるけん、何も心配はいらんぞな」
「佐伯さんもな、お不動さまにうちの幸せ願てくんさったんよ。ほじゃけん大丈夫ぞな」
思わず千鶴が喋ると、幸子はきょとんとした顔で千鶴を見た。
「佐伯さん、そげなことしんさったん?」
恥ずかしくて千鶴がうろたえながらうなずくと、和尚夫婦はにやにや顔で言い合った。
「これじゃあ、鬼が付け入る隙もないわいな」
「まこと、鬼が何ぞ言うても、二人の耳には聞こえまい」
また和尚たちが笑い出すと、千鶴は膨れて文句を言った。
「ちぃと二人とも笑い過ぎぞなもし」
和尚と安子は笑いながら悪かったと言った。
「とにかくな、千鶴ちゃんのことは心配せいでもええぞな、幸子さん」
知念和尚が微笑むと、幸子は仕方なさそうに、わかりましたと言った。幸子も忠之の話で気持ちが和らいだようだ。
「ほしたら千鶴が佐伯さんに会うとる間に、うちは兵頭さんのお見舞いに行きましょわい」
「家の屋根が全部やないけんど、ごっそり剥ぎ取られとるけんな。修理に村の者がようけ集まっとろうし、見たらすぐにどの家かわかると思うが、幸子さんは兵頭さんと面識はあるんかな?」
「仲買の人らにお茶を出したりはしよりましたが、誰が誰なんかはわからんぞなもし」
幸子が当惑気味に答えると、わかったと和尚は言った。
「ほれじゃったら、わしが一緒に行こわい。千鶴ちゃんの方は安子が案内したらええ」
「ほうじゃね。そがぁしよわい」
安子も同意し、千鶴と幸子は別々に動くことになった。
千鶴は鬼が壊した兵頭の家を実際に見てみたかったが、自分の役割を考えるとそれどころではない。これから向かう先には、忠之だけでなく忠之の家族もいるのだ。
二
「昔はな、偉い人ぎりが苗字を持てたんよ。ほやけど、明治になったら法律で誰もが苗字を持つよう決められたんよ」
寺の石段を下りながら安子は言った。
先に階段を下りて行く知念和尚と母を眺めながら、そういえばと千鶴は前世の記憶を振り返った。今の自分は山﨑千鶴だけれど、前世では千鶴という名前しかなかったようだ。手土産の風呂敷包みを胸に抱きながら、千鶴は安子の説明をなるほどと思った。安子の説明を千鶴はなるほどと思った。
知念和尚と母も何かを喋っている。花の話をしているらしい。しかし二人の話に耳を傾ける暇もなく、安子が苗字の話を続けた。
「佐伯は為蔵さん所の苗字なけんど、ほれに決めたんは為蔵さんのお父さんなんよ。為蔵さんのお父さんは、昔ここにおいでたお代官を尊敬しておいでたそうでな。ほれで、お代官の苗字を頂戴しんさったそうな」
「へぇ。じゃあ、忠之いう名前は誰がつけんさったんですか?」
「ほれはね、うちの人よ。お代官の名前が忠之助いうたそうじゃけん、そこからつけた名前なんよ」
千鶴は夢で進之丞が諱を教えてくれたことを思い出した。その諱は今と同じ忠之だった。恐らく前世でも父親の名前にちなんでつけてもらったのだ。
自分の名前が今世と前世で同じなのは不思議なことだ。しかし、忠之までもが同じ名前となると、単なる不思議では済まされない。これは自分たちの前世からのつながりを深く感じさせるものだ。抑えきれない興奮で千鶴の体中を血が駆けめぐった。
千鶴たちが下まで下りると、知念和尚が千鶴に言った。
「忠之に会いに行く前にな、千鶴ちゃんが倒れよった所を見せてあげよわい」
「お母さんも知っとるけんど、きれいな所なで」
幸子がにこやかに言った。幸子は以前にここのお世話になっていたので、その場所を知っているみたいだ。
「ほんでも、今はもうお花は終わってしもとるぞな」
安子が少し残念そうに話したが、千鶴はその場所を見てみたいと言った。
知念和尚について海の方へ歩いて行くと、野菊の群生があった。だが、安子が言ったように花は終わっており、葉もしおれて枯れ始めている。
しかし千鶴はこの場所を覚えていた。倒れていた時のことではない。前世でもここには野菊の花がいっぱい咲いていたのだ。進之丞もこの場所が好きで、よく二人で花を眺めていたものだ。夢で進之丞が花を飾ってくれたのも、ここなのである。きっと忠之も前世のことを思い出しながら、花を飾ってくれたのに違いない。
「佐伯さんはここであんたを見つけて、この花を飾ってくんさったんじゃね」
野菊の群生を見ながら、幸子は怪訝な顔になった。
「ほやけど、普通そげなことしようか? 和尚さん、安子さんはどがぁ思いんさる?」
「普通はせんわな。ほんでも、あんまし千鶴ちゃんがきれいやったけん、つい飾ってみとなったんやないんかな」
「あの子は優しい子じゃけん、千鶴ちゃん見て、千鶴ちゃんが苦労してきたてわかったんよ。ほれで、千鶴ちゃんねぎらうつもりで飾ったんやなかろか」
二人の意見にうなずきはしたが、幸子の顔はまだ納得してはいない。
「千鶴は佐伯さんから理由を訊いとるん?」
母に訊ねられ、千鶴はうろたえた。自分たちが前世からの関係だと説明できればいいのだが、今はその時ではない。
「うちが花の神さまに見えたんやて」
前世で柊吉が言った言葉だ。だから嘘ではない。
「花の神さま?」
きょとんとしたあと、知念和尚はまたもや大笑いをした。安子も口を押さえて笑ったが、二人とも笑いが止まらない。幸子も釣られて笑っている。
千鶴がむくれると、和尚は笑いを抑えきれないまま弁解した。
「いや、すまんすまん。別に千鶴ちゃんのことを笑たんやないで。ほやけん、気ぃ悪せんといてや。わしらが笑たんは、あの子の発想が面白い思たけんよ」
「まこと、あの子は他の者とは目線が違ういうか、あの子のそがぁな所がええわいねぇ。ほれにあの子は物事の芯の部分を、真っ直ぐに見る目を持っとるけんね。表現は奇抜かしらんけんど、言うとることは間違とらんぞな」
「安子の言うとおりぞな。あの子は千鶴ちゃんの純粋な心をちゃんと見抜いとらい」
「やめとくんなもし。うちはそげな上等の女子やないですけん」
千鶴が当惑すると、幸子はようやく納得して微笑んだ。
「この子が佐伯さんに心惹かれたんが、わかった気ぃがするぞなもし」
「もう、お母さんまで」
文句を言いながら千鶴は嬉しかった。忠之とのことをみんなに祝福されている気分だ。
「そもそも千鶴ちゃんが、ここに倒れよったいう話も怪しいぞな」
知念和尚が笑いの余韻を残しながら言うと、それはどういうことかと安子が訊ねた。
「ひょっとしたらやが、あの子は千鶴ちゃんを別ん所で見つけて、ここまで運んで来たんやないかな。花を飾ったんも、玄関の前に千鶴ちゃん寝かせたんも、あの子がしたことじゃったら、ここまで千鶴ちゃんを運んで来たんもあの子と考えるんが自然じゃろ?」
「ほんでも、佐伯さんがイノシシを殺したわけやないでしょうに」
幸子が疑問を示すと、そこはわからんがと和尚は口を濁した。
「いずれにせよ、鬼が千鶴ちゃんをここまで運んだんやないいうことぞな」
安子がうなずきながら言った。
「鬼はイノシシを殺したぎりで、千鶴ちゃんには構んかったんかもしれんね。ほれでイノシシの傍に倒れよった千鶴ちゃんを、あの子がここまで運んだとも考えられるわいね」
「ほやけど、佐伯さんはほうは言わんかったぞな」
千鶴が反論すると、安子は笑った。
「そげなこと言うかいな。頭潰されたイノシシの横に倒れよったやなんて言うたら、千鶴ちゃん、嫌じゃろ? ほれに、他の人らの耳にそげな話が入ったら、何言われるかわからんけんね。ほじゃけん、千鶴ちゃんはここで倒れとったて言うたんよ」
確かにそれは有り得ると千鶴は思った。
忠之は前世で鬼とつながりを持ち、力を合わせて自分を護ってくれたと千鶴は考えている。だから、イノシシに襲われた時にも両者の協力があったと受け止めていたが、忠之がどこで鬼から千鶴を受け取ったのかはわからない。
鬼が法生寺まで千鶴を運んだのかもしれないし、安子が言うようにイノシシが殺された場所で、忠之が千鶴を引き受けた可能性はある。あるいはまったく異なる場所で、千鶴の受け渡しが行われたとも考えられる。
ただ、どの場所で引き継がれたのかは重要でない。忠之が鬼といい関係を築いているのであれば、それこそが注目すべきところだろう。忠之が鬼のことをあれほど知っていたのも、誰かに教えられたのでなければ、鬼から直接聞かねばわからないことだ。
もちろん、本当のことは本人に確かめなければわからない。そして、その時が迫っている。もう間もなく、すべての真実が明らかになるはずだ。
だがその前に、忠之の家族が忠之に会わせてくれるかどうかが問題だ。会うことが敵(かな)わなければ真実を知るどころか、すべてが終わりになってしまうのだ。
三
「ほんじゃあ、わしらはこっちへ行くけん、千鶴ちゃんらはそっちぞな」
分かれ道で知念和尚が言った。決して一人になるなと幸子は千鶴に念を押した。
忠之の家は山裾にあるが、兵頭の家は山から離れた川向こうにある。千鶴が山沿いの道を歩きながら途中で振り返ると、川の方へ歩いて行く知念和尚と母の姿が見えた。
顔を前に戻した千鶴の胸で心臓が暴れている。これから忠之に逢うというのもあるが、忠之の家族と顔を合わせることに、千鶴は極度に緊張していた。
今からやろうとしていることは、千鶴にとって単なるお詫びではない。自分たちの将来を見極める重大な局面なのだ。もし詫びても忠之の家族の許しが得られず、自分を受け入れてもらえなければ、忠之と夫婦にはなれない。
千鶴は山﨑機織の娘であり、ロシア人の娘でもある。そのどちらも忠之の家族からすれば、怒りどころか憎しみさえ覚える要因だ。温かく迎え入れてもらえないのは覚悟しているが、完全に拒絶されれば絶望しかない。千鶴の体はがちがちになっていた。
しばらく進むと、左手に上り坂が現れた。安子に誘われてその坂を上って行くと、道はやがて下りになって丘陵の裏手に回った。
丘陵の向こうには別の丘陵が続き、その隙間に狭い田畑がひっそりと並んでいる。丘陵の際に日当たりが悪い所があるが、そこに掘っ立て小屋みたいな家の集落があった。
安子はそこにある小屋の一つに千鶴を案内した。どこからか鋸を挽くような音が聞こえてくるが、その音に負けないぐらい千鶴の心臓は激しく鼓動の音を打ち鳴らしている。
家の裏手をのぞいた安子は、もうし、為蔵さん――と声をかけた。すると音が止んだ。千鶴の胸は爆発寸前だ。
間もなくして背中が少し曲がった小柄な老人が現れた。
「誰か思たら、安子さんかな」
為蔵は相好を崩したが、千鶴に気づくと目を細めた。
「そちらさんは、どなたかな?」
うまく出ない声を何とか出し、舌を噛みそうになりながら千鶴は挨拶をした。
「あの、山﨑千鶴と申します。こち、こちらが佐伯忠之さんのお宅と伺いまして、や、安子さんに連れて来ていただきました」
「忠之の知り合いかな」
珍しげに千鶴を眺める為蔵に、あの子はおいでる?――と安子は訊ねた。
為蔵は顔をしかめると、兵頭ん所ぞなと言った。
「あの子はお人好しなけん、ええようにされとんよ」
あの人は向こうだったのかと、千鶴は落胆したが顔には出せない。為蔵は千鶴の様子を気に留めることもなく、悲しげな顔で安子に訴えた。
「兵頭ん所の牛が動かんなって、あの男がよいよ困りよった時に、あの子は牛の代わりを買うて出たんよ。ほれもな、ただよ。この辺りの織元廻るぎりやないんで。絣の箱を大八車にいくつも載せて松山まで運ぶんよ。ほれがどんだけ大事か、安子さんならわかろ?」
わかるぞなと安子がうなずくと、為蔵は話を続けた。
「なんぼあの子がただで構ん言うたとしても、言われたとおり一銭も出さんのは、あくどいとしか言いようがなかろ? ほじゃけんな、おら、あの男ん所へ怒鳴り込んだったんよ。ほしたら慌てて牛を持って来よったかい。ほれで、やれやれ思いよったら、今度は忠之が松山で働きたいて言いだしたんよ」
安子はちらりと千鶴を見た。その視線を追うように為蔵も千鶴を見ると、姉やんがおるんを忘れよったと言った。
「今の話やけんど、千鶴ちゃんはな、あの子が松山で働きたいて言いよった山﨑機織さんのご主人に代わって、あの子に会いにおいでたんよ」
安子の説明を聞いた途端、為蔵はたちまち険しい顔になり、何やて?――と大きな声を上げた。
「聞いた話じゃ、そちらの方から忠之にぜひ働いてほしいて言うたそうじゃな。ほれをあの子は真に受けて、すっかりその気になっとったんぞ。おらたちはな、騙されるけんやめとけ言うたんよ。ほしたら、あの人らはそがぁな人やないて、あの子は言うたんぞ。ほれが何じゃい。今頃んなって、身分が違うけんこの話はなかったことにやと? こがぁなふざけた話がどこにあるんぞ!」
為蔵は顔を真っ赤にしながら体を震わせた。安子は興奮する為蔵をなだめて言った。
「あのな、為蔵さん。ほやけん、ほのことを千鶴ちゃんがこがぁしてお詫びにおいでてくれたんよ」
「お詫び?」
ふんと言うと、為蔵は千鶴に悪態をついた。
「何がお詫びぞ。あんたらにはあの子がどんだけ傷ついたんか、ちっともわからんじゃろがな。申し訳ありませんでした言うたら、ほれで済む思とるんじゃろ。どいつもこいつも、おらたちを見下しおってからに」
千鶴はその場に膝を突くと手土産の包みを脇に置き、為蔵に土下座をして詫びた。
「何と言われましても、うちにはお詫びするしかできません。この度は、まことに申し訳ございませんでした」
千鶴の土下座が思いがけなかったのか、為蔵の勢いが失くなった。為蔵は怒りの矛先を千鶴から山﨑機織へ転じると、山﨑機織は何でこんな小娘をよこすのかと言った。
千鶴は地面に額をつけながら、主が人手が足らず店を離れられないことや、主からのお詫びの文を預かってはいるが、手紙だけでは失礼になると考えたことを説明した。しかし、為蔵の怒りは収まらない。
「主が店を離れられんいう時点で、本気で詫びる気なんぞないいうことじゃろが! ほれとも何か? 今にも潰える店やのに、あの子を雇うやなんて言うたんか!」
店の状態がよくないのは事実である。けれど、忠之に来てもらおうと考えたのは店を潰さないためだ。そのことを千鶴は言いたかったが、言い訳になるので黙っていた。
千鶴が弁解をしないので、為蔵は横目で安子を見ながらさらに言った。
「だいたい何ぞ。山﨑機織いうんは外人さんの店なんか? 責任者が詫びに来る代わりに、こがぁな小娘をよこすんが外人さんのやり方かい!」
顔のことを言われるのは、千鶴はつらかった。しかも為蔵は忠之の育ての親だ。覚悟はしていたが、実際にこんな態度を見せられると、悲しみが抑えられなかった。
千鶴が土下座をしながら泣いているので、安子が為蔵に話した。
「山﨑機織は日本人のお店ぞな。今はほんまに人がおらんで、ご主人が動けんそうな。ほれで千鶴ちゃんが代わりにお詫びにおいでたんよ。ご主人はほんまに申し訳ないことしたて言うとりんさって、あの子に早よ来てほしいて、改めてお願いしておいでるんよ」
「やけんいうて、なしてこがぁな外人の小娘をよこすんぞ。いくら人がおらんいうても、他にやりようがあろうがな」
為蔵の態度に少しいらだった様子の安子は、一呼吸置いてからきっぱりと言った。
「千鶴ちゃんはご主人のお孫さんぞな」
「孫? この娘がか?」
為蔵は目を見開いて千鶴を見た。安子は為蔵を諭すように話を続けた。
「山﨑機織のご主人がしんさったことは、確かに間違とるぞな。ほれを考え直させたんは、この千鶴ちゃんなんよ。千鶴ちゃんはあの子が苦労してきたことをわかってくれとるし、励ましてくれとったんよ。今かて自分が嘘言うたわけやないのに、こがぁして怒鳴られるんを覚悟してお詫びにおいでてくれたんよ」
打ち伏せたまま泣く千鶴を見て、為蔵は少しうろたえながら話を変えた。
「山﨑機織の主が日本人やのに、なしてその孫娘が外人なんぞ?」
「ほれは、なして言われても……」
安子が言葉を濁すと、千鶴は体を起こして涙を拭いた。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。母は日本人の看護婦で、捕虜になったロシア兵のお世話をしとりました」
ロシア兵じゃと?――為蔵はみるみる鬼のごとき顔になった。
「お前らが……、お前らが……」
為蔵はわなわなと体を震わせた。
「お前らがおらん所の息子を殺したんじゃ! おらたちの一人息子を、お前らが殺したんじゃ!」
「為蔵さん、落ち着きんさい。千鶴ちゃんは戦争と関係ないけん」
安子は千鶴をが、興奮する為蔵は聞く耳を持たない。為蔵の言葉に千鶴が何も言えずにいると、為蔵はさらに追い打ちをかけた。
「お前らはおらたちから一人息子奪といて、今度は忠之まで奪お言うんか。この人でなしめが!」
これだけ罵倒されても、千鶴は言葉を返せなかった。
「為蔵さん、ほれは言い過ぎぞな。千鶴ちゃんはあんたにも、あんたの息子さんにも何もしとらんでしょうが!」
安子がきつい口調で言っても、為蔵は千鶴に向かって、何とか言わんかなと声を荒らげた。だが、千鶴はただ項垂れるばかりだった。
四
「どしたんね? 何叫びよるんな」
家の中から為蔵の女房タネが姿を見せた。為蔵以上に腰が曲がったタネは、安子に気づいて挨拶をした。しかし、地面に座ってしょんぼりしている千鶴を見ると、怪訝な顔になった。
「こいつはロシア兵の娘ぞな!」
為蔵は吐き捨てるように言い残すと、家の裏へ姿を消した。
安子から話を聞いたタネは、千鶴を少し気の毒に思ったらしい。
「遠い所、せっかくおいでててもろたのに悪かったね」
タネは泣いている千鶴の手を取って立たせると、額と着物の裾に着いた土を払ってくれた。それから改めて千鶴を眺めると、別嬪さんじゃなぁと言って微笑んだ。
千鶴が涙を拭き頭を下げて詫びると、タネは二人に言った。
「戦争いうたら殺し合いぞな。こっちも殺されるけんど、向こうかて殺されとる。向こうは向こうで日本人に殺された言うとんじゃろな」
「おタネさんの言うとおりぞな」
安子がうなずくと、タネはさらに続けた。
「だいたい戦争やなんて、おらたちにゃ何の関係もないことぞな。ほれやのに戦争に引っ張り出されて殺し合いさせられて、恨まんでええ相手を恨んで一生悲しみを背負て暮らすんよ。おらはむずかしいことはわからんけんど、こげなことは間違とらい。おらたちも千鶴ちゃんもロシアの兵隊さんも、みんな戦争の被害者ぞな」
タネの優しい言葉は思いがけないものだった。千鶴がぼろぼろ涙をこぼすと、千鶴ちゃんもいろいろつらかったろうなとタネは言った。その言葉はさらに千鶴を泣かせた。
タネは泣きじゃくる千鶴を慰めると、安子に為蔵の話をした。
「あの人は千鶴ちゃんのこと、がいに怒鳴りよったけんど、ロシアには関係なく、最初から忠之が松山へ行くんには大反対やったんよ」
「おタネさんも、やっぱし反対なん?」
安子が訊ねると、ほうじゃなぁとタネは思案げに言った。
「おら、半分半分じゃな」
「半分半分?」
「おらもな、忠之は可愛いけん、ずっと傍に置いときたい気持ちはあるんよ。ほんでもな、あの子のこと考えたら、ずっとこげな所に閉じ込めるんやのうて、もっとええ思いさせてやりたいなぁて思う気持ちもあるんよ」
「おタネさん、優しいんじゃね」
安子が微笑むと、タネは照れながら話を続けた。
「あの子はな、まっこと優しい子でな。ついその優しさに甘えとなるけんど、優しいけんこそあの子を自由にさせてやりたいて、おら、前々から思いよった」
「おタネさんらしいぞな」
「そこへな、今回の松山の話が出て来たけん、おら、ちょうどええ機会かもしれんて思たんよ。ほんでもな、あの人があげな感じじゃけんな」
タネは自分の家を振り返り、千鶴たちに苦笑した。
「あの子はな、おらたちを捨ててまでやりたいことする子やないけんな。あの人がうんて言わんうちは、どがぁもでけんかったんよ。そがぁしよるうちに、こげなことになってしもたけん、おらもな、何があの子にええんかわからんなっとったんよ」
申し訳ございませんでしたと千鶴は改めて頭を下げた。タネは微笑むと安子に言った。
「ほんにええ娘さんやないの。うちの人からあがぁにぼろくそ言われても、まだ頭下げてくれるんじゃけん。本気やなかったらでけんぞな」
「千鶴ちゃんは、まっことあの子を大切に思てくれとるんよ。自分もつらい思いしてきた分、あの子のつらさもようわかってくれておいでるんぞな」
「ほうなんかな。ほれは忠之にとっては何よりぞな」
タネは千鶴の方を向くと、千鶴ちゃんと声をかけ、両手で千鶴の手を握った。
「忠之のこと、よろしゅうに頼まいね。ほれと、うちの人がひどいこと言うて堪忍な。あげな人やけんど寂しいぎりなんよ。ほんでも、忠之のことを大切に思とるんはおらと対じゃし、今頃、千鶴ちゃんにひどいこと言うてしもたて、一人で反省しとらい」
「確かにほうかもしれんね」
安子は笑いながらうなずき千鶴に言った。
「おタネさんがこがぁ言うておいでるんじゃけん、もう心配せいでもええんよ」
ありがとうございますと、千鶴はタネに手を握られたままもう一度頭を下げた。
「千鶴ちゃんがあの子のお嫁になってくれたら、おら、嬉しいけんど、どがぁじゃろね」
タネはにこやかに言った。千鶴は驚いて顔を上げた。タネの言葉は一瞬で千鶴の悲しみを吹き飛ばした。
「あ、あの……」
信じられない想いの千鶴は、喜ぶのも忘れてうろたえた。顔が熱くなるばかりで言葉が出て来ない。
「おタネさん、ちぃと気ぃが早過ぎるぞな」
千鶴の様子を見た安子が笑って言った。
「ほうかな。善は急げいうじゃろがな」
タネは微笑んではいるが大真面目のようだ。
「あ、ありがとうございます」
何とか感謝の言葉を口にした千鶴の心に感激の波が広がった。千鶴が嬉し涙をこぼすと、タネも涙ぐんだ。
「千鶴ちゃん、ほんまにあの子のこと好いてくれとんじゃな。ありがとな」
少ししんみりすると、安子が涙を拭きながら笑顔で言った。
「まずは千鶴ちゃんをあの子に会わせんとな」
ほれはほうじゃとタネはうなずき、ようやく千鶴の手を離した。
「あの子はな、兵頭ん所の家の修理を手伝いに行きよるんよ」
タネは少し不機嫌そうな顔で言った。為蔵も言っていたが、あの兵頭の家の修理を手伝うだなんて、確かにお人好しである。
その兵頭の家を知念和尚と母が訪ねている。千鶴は二人が忠之に会ったのだろうかと思ったが、タネから忠之の嫁にと言われた感激で、それ以上は何も考えられなかった。
タネは呆れた顔で話を続けた。
「あの子はまっことお人好しなけんど、人が好えんも程があらい。あんだけええようにされて馬鹿にされたいうのに、その家直しに行ってやるんじゃけん」
「ほれが、あの子のええ所ぞな」
安子が微笑むと、まぁなとタネも笑みを浮かべた。
「ほれじゃあ、行こかね」
安子が声をかけると、千鶴は足下の風呂敷包みを拾い上げてタネに渡した。包みの中はお気に入りの日切饅頭だ。ずっしり重みのある包みに、タネは顔を綻ばせた。
「ほんじゃあ、安子さん。あの子のこと、よろしゅうに。千鶴ちゃんもよろしゅうにな」
千鶴は微笑むタネの手を両手でしっかり握り、ありがとうございましたと頭を下げた。
千鶴たちが離れる時も、タネはずっとそこに立ったまま見送ってくれた。そして、千鶴が振り返ると手を振ってくれた。
千鶴は忠之を松山へ呼ぶことが、とても申し訳なく思えた。それを安子に話すと、忠之の幸せを願うおタネさんの気持ちを酌んであげるべきだと、安子は言った。
五
兵頭の家は離れた所からでもすぐにわかった。建物の真ん中の部分で屋根がなくなっていたし、大勢の村人たちが集まっていた。
家の壊れ具合を見ると、兵頭を呪った時に心の中で自分がやったことが、現実となって突きつけられているみたいで千鶴は動揺した。
家から目線を逸らしてそこに集まる者たちに目を向けると、その中に知念和尚と母の姿があった。二人は継ぎはぎの着物を着た若者と喋っている。忠之だ。
千鶴たちに気づいた幸子は手を振ったあと、千鶴たちを指差しながら和尚たちに声をかけた。和尚は千鶴に手を振ったが、忠之は黙って千鶴を見ている。ひょっとして怒っているのだろうかと不安になったが、近づいて行くと忠之は泣いていた。
「千鶴さん、なしてこがぁな所まで……」
あとの言葉が出て来ない忠之に千鶴は言った。
「うちと母はお店を出られんおじいちゃんに代わって、佐伯さんにお詫びに来ました。ここにおじいちゃんからのお詫びの手紙も預かっとります」
千鶴は甚右衛門の詫び状を懐から取り出すと、涙を流す忠之に手渡した。
「この度はおじいちゃんが佐伯さんを傷つけてしもたこと、まことに申し訳ありませんでした。謝って済むことやないですけんど、このとおりお詫びしますけん、どうか堪忍してやってつかぁさい」
千鶴が頭を下げると、忠之は千鶴の手を握り、そげなことはせんでもええと言った。
「おら、何も怒っとらんけん。ほやけど、まさか千鶴さんがおいでてくれるとは思わんかった……。おらのことなんぞ、忘れたかてよかったのに……」
「忘れるわけないぞなもし。佐伯さんと一緒になれんのなら、うちは死ぬるつもりでおりました」
忠之の温もりに包まれながら千鶴は言った。この温もりがあれば何もいらなかった。
「そげなこと言うたらいけん。死んでしもたら、何のために生まれて来たんかわからんなるぞな」
「うちが生まれて来たんは、佐伯さんと一緒になるためぞなもし」
こほんと知念和尚が咳払いをした。見ると、近くにいる村の者たちが面白そうに千鶴たちを眺めている。
慌てる千鶴に幸子がにこやかに言った。
「二人で話がしたいんなら、場所を変えた方がええね。けんど、その前に兵頭さんにご挨拶しなさいや」
兵頭になんか会いたくないと思ったが、そういうわけにはいかなかった。千鶴が婿を取って山﨑機織の跡継ぎになるならば、取引先である兵頭とはこれからも付き合っていかねばならないのだ。
幸子に案内された千鶴は、壊れた家の前にいた兵頭とその家族に挨拶をした。みんな顔に傷があり、手や足に包帯を巻いている。命に別状がなくとも、その姿は痛々しい。
ここは名波村ではないからだろうが、祭りの夜に春子の家で食事を呼ばれた時には、兵頭も兵頭の家族もいなかった。兵頭の家族が千鶴と会うのはこれが初めてであり、千鶴が声をかけると、みんなぎょっとした顔で固まった。
幸子が自分の娘だと説明すると、慌てた様子の兵頭は、山﨑機織さん所のお孫さんだと、強い口調で家族に言った。それで兵頭の家族は動揺しながら千鶴に頭を下げた。
兵頭自身、千鶴とまともに顔を合わせるのは初めてだ。千鶴も兵頭とは面識がない。痩せこけた貧相な顔の兵頭は、戸惑いを隠せず小さな目をきょときょと動かしている。
人手が足らないため甚右衛門が店を離れられないことを、兵頭は知っている。だが、甚右衛門の代わりに幸子と千鶴が来るとは思っていなかったらしい。
幸子と顔を合わせた時にもどぎまぎしたようだが、千鶴を見た兵頭は完全にうろたえていた。異人みたいな顔つきに驚いたのかもしれないが、甚右衛門に忠之の陰口を言った後ろめたさがあるはずだ。
「ほ、ほれにしても、なしてお孫さんまで、わざにおいでてくれたんかなもし?」
兵頭は強張った笑みを浮かべて言った。千鶴は気持ちを隠して丁寧に応じた。
「こちらには先日のお祭りの時にお招きいただいて、みなさんにずいぶんお世話になりました。そこで絣の仲買いされておいでるお人のお家が大事になったんですけん、お見舞いは当然ぞなもし」
「ほ、ほうなんかな。そがぁ思てもろとるやなんて、こがぁな時には何よりの慰めぞな」
兵頭は少し安堵のいろを見せた。なるべく千鶴と目を合わせまいとしてはいるが、千鶴を甚右衛門の代理として認めたようだ。千鶴に自分の家を見せると、このとおりひどいもんだと恨めしそうに喋った。
兵頭の家は離れた所から見てもひどい有様だったが、近くから改めて眺めると、無残の一言に尽きた。茅葺きの屋根が剥ぎ取られただけでなく、その下にある木材がいくつもへし折られ、その一部と一緒に天井も崩れ落ちている。家はゆがんで崩壊寸前だ。
とても突風で屋根が飛んだとは思えない。恐らく鬼がやったのだろうが、千鶴は自分がやったようにも思えて落ち着かない。
「なしておらの家ぎり、こげな目に遭わないけんのじゃて、おら、神さま仏さまを恨みよったかい」
不満を露わにした兵頭は、見てみぃと周囲の家を指さした。
「どっこも何ともなかろ? やのに、おらん所ぎりがやられてしもたんよ。いったい、おらが何したいうんかな」
何を寝惚けたことを言っているのかと、千鶴は腹が立った。鬼が壊したのでなかったとしても、天罰が下ったのは間違いないのだ。
しかし、そんな気持ちを顔に出すわけにはいかない。千鶴は兵頭に同情するふりをしながら、家が壊れた時の様子を訊ねた。兵頭は辺りを見まわし、家を修理してくれている村人たちから千鶴を遠ざけると、ここぎりの話ぞなと言った。
「あんたやけん言うけんどよ。化け物が出たんよ」
千鶴はぎくりとなった。やはり鬼だったのかと焦りを感じたが、わざとらしく驚いたふりをした。
「新聞にそげなことが書いとりましたけんど、あれはほんまのことやったんですね」
「新聞に? ほんまかな?」
千鶴がうなずくと兵頭は額に手を当てて、ほれはまずいなと言った。
「あん時は何が何やらわからんでよ。腹が立つやら悔しいやらで、会う奴会う奴に化け物の話をしてしもたんよ。ほん中に新聞記者がおったんやが、ほうか、やっぱし記事になってしもたかい」
兵頭は新聞を読んでいないらしく、どんな風に書かれていたのかと訊いた。千鶴は化け物の声が聞こえて牛が死んだという、記事の内容を説明してやった。
兵頭は困ったように首を横に振り、ほうなんよと言った。
「せっかく手に入れた牛が死んでしもたけんな。これから絣をどがぁして松山まで運んだもんかて悩みよらい」
また忠之に頼むと言わないのは、言えないからだろう。今はそんなことは考えなくていいと千鶴が慰めると、有り難いと言って兵頭は千鶴に頭を下げた。
「さすが甚右衛門さんのお孫さんぞな。人を思いやる心を持っておいでらい」
兵頭に言われても一つも嬉しくない。千鶴は話を戻して、化け物のことを訊ねた。
兵頭はもう一度周囲を見まわして声を潜めると、ここぎりの話と再度念を押した。
「初めは化け物が出たて言いよったけんど、今は突風で屋根が飛んだことにしとるんよ」
「なしてぞなもし?」
「やられたんはおらん所ぎりじゃけんな。おらが呪われとるみたいなけんまずかろ? ほじゃけん、化け物言うたんは勘違いで突風じゃったて言うとるんやが、ほんまは化け物なんよ」
千鶴は兵頭の家のことよりも、化け物の話が聞きたかった。それで兵頭を気遣うふりをしながら話を続けた。
「兵頭さんは化け物を見んさったん?」
「いんや、夜じゃったし、ちょうど寝よったとこじゃけん見はしとらん。ほんでも、いきなし屋根がめげて土砂降りの雨が降ってきたけん、真っ暗闇ん中で何が何やらわからんままおったんやが、ほん時に聞いたんよ。がいに恐ろしい化け物の声をな」
その時のことを思い出したのか、兵頭は両手で自分を抱きながら震えた。
「あん時ぁ、おら、化け物に喰われるて思いよった。あの声ぎりでも命が取られそうじゃったけん、布団かぶって震えよったんやが、化け物はほのままおらんなったんよ」
兵頭の話を聞きながら千鶴は背筋が寒くなった。もしあのまま自分が兵頭を呪い続けていたら、きっと兵頭とその家族は鬼に喰い殺されていたに違いない。いくら自分を護ってくれているとしても、鬼は鬼なのだ。
千鶴は動揺を隠しながら訊ねた。
「化け物の声を聞きんさったんは、兵頭さんぎり?」
「いんや、おらの家族も聞いとるし、近所の者らにもほの声で目ぇ覚ましたんがおるんよ。ほれに近くにでっかい足跡もあったんよ」
「でっかい足跡?」
兵頭は両手をいっぱい広げて、これぐらいの足跡だと言った。その足跡は家の近くにはあったが、他では見つかっていないらしい。そのため、化け物がどこから来てどこへ行ったのかはわからない。だが、それでは化け物は兵頭を襲うために現れたみたいだ。そう見られるのを嫌って、兵頭は見つけた足跡は埋めたと言った。
「前に辰輪村の近くで、でっかいイノシシが頭潰されて死んだけんど、あのイノシシ殺したんもこの化け物じゃて、みんなが言うんよ」
千鶴は胸がどきどきしていた。みんなが鬼の存在に気づき始めている。そこに自分が関わっていたと知れたらどうなるのか。千鶴の不安をよそに兵頭は話を続けた。
「みんな、その化け物をおらが怒らせたて思とるんよ。やけん、家がこがぁなっとんのをわかっとんのに、怖がって誰っちゃ来てくれんかった。一番先に助けてくれたんは、山陰の忠之でな。あいつが一人で動いてくれて、ほれで他の者も助けてくれだしたんよ」
千鶴は思わず泣きそうになった。あれだけの仕打ちを受けた相手を、いったい誰が助けに行くだろう。しかも誰より真っ先に。
千鶴の表情にまずいと思ったのか、兵頭はすぐに話を変えた。
「とにかくよ、おら、死ぬか思うほど恐ろしい目に遭うたわけなんよ。ほんでも、この話は内緒にしといてくれよ。言うたように、おらの家は突風でめげてしもたんやけんな」
わかりましたと言うと、千鶴は涙を堪えて母の元へ戻った。それから母と一緒に兵頭に頭を下げると、知念和尚の傍にいる忠之の所へ行った。
ちらりと振り返ると、まだ兵頭がこちらを見ている。後ろめたさがあるから、何を言われるのかと心配なのだ。
「うち、佐伯さんと二人きりでお話がしたいぞなもし」
千鶴は兵頭を無視して忠之に言った。
「おらと?」
忠之は知念和尚たちの顔を見た。和尚と安子は口々に言った。
「行ってやりんさい。千鶴ちゃんはほのためにここまでおいでたんじゃけんな」
「あんた、千鶴ちゃんの頭に花飾った責任、きちんと取りんさいや」
「え? え?」
忠之はうろたえた顔で千鶴を見た。
「ごめんなさい。つい喋ってしもたんよ」
千鶴が笑いながら謝ると、今度は和尚が言った。
「千鶴ちゃんを寺へ運んだんは、お前やそうじゃな。わしらは何も知らんけん、お不動さまが連れておいでたて思いよったぞな、まったく」
「そげなことまで……」
慌てながら横目で千鶴を見た忠之に、また安子が言った。
「ほうよほうよ、言い忘れとった。おタネさんがな、千鶴ちゃんにあんたのお嫁になってほしいて言うておいでたよ」
「え? おっかさんが?」
「為蔵さんはちぃと機嫌が悪かったけんど、二人ともあんたの思たとおりにさせるつもりみたいなで」
「ほんまに?」
「ほんまほんま。ほじゃけん、千鶴ちゃんと二人でように話をしておいでんさい」
忠之は黙って頭を下げた。少し戸惑った様子だったが、千鶴と目が合うと、忠之は照れたように微笑んだ。その笑顔が嬉しくて、千鶴も微笑み返した。
だが胸の中では緊張を感じていた。いよいよ前世の記憶を確かめる時が来たのだ。
時を越えて
一
千鶴と忠之は野菊の群生の前にいた。
ここは若侍が夢に出て来た場所であり、前世の千鶴が覚えている想い出の場所である。
「うちは、ここに倒れよったんですか?」
千鶴が訊ねると、忠之は黙ってうなずき、花が終わった群生の中にかがみ込んだ。立ち上がった忠之の手には、一輪の野菊の花があった。
「まだ一つぎり残っとった」
忠之は千鶴の髪にその花を挿してくれた。
「うん、きれいぞな。やっぱし千鶴さんには、この花が一番似合うぞな」
忠之は満足げに微笑んだ。
夢の若侍と同じだ。間違いなく忠之はあの若侍、つまり進之丞だと千鶴は確信した。
今こそこの人に前世の話をしよう。そう思った千鶴の視界に気になる物が入った。
すぐ傍にある松原の中に、木が折れて倒れている所があった。その近くには何かの残骸が散らばっている。
「あれは何ぞなもし?」
千鶴が指差すと、忠之はその残骸を振り返った。
「あぁ、あれは古い祠みたいな物ぞな」
「みたいな物? 祠やないいうこと?」
「そがぁにちゃんとこさえた物やないんよ。中には御神体らしきこんまい石があったけんど、ほれが何なんかはようわからん」
「ひょっとして台風でめげたいう鬼よけの祠やないんかなもし?」
「さぁな。ほんでも、あげな物が鬼よけになるとは思えんな」
忠之はまったく関心がないのか、喋り方もそれまでと違って素っ気なかった。
それでも祠が気になった千鶴は、松原の中へ入って行った。そのあとを忠之がゆっくりとついて来る。
近くで見ると、祠は原型をとどめないほどばらばらに壊れていた。それは忠之が言うように立派な祠というものではなく、御神体の雨よけ程度の造りだ。
これが壊れたとされる台風では、松山もかなりの風雨に曝されはした。だが、さほど大きな被害は出ていない。ここは余程の強風が吹いたのだろうか。それにしても妙な感じだ。
周囲の松には折れた木はない。折れているのはここだけだ。すぐそこの丘の上にある法生寺にも被害はなかった。木が折れるほどの風が吹いたのなら、法生寺にも何らかの被害があってもよさそうなのに、そんな話は聞かされていない。
また、風で吹き飛ばされて壊れたにしては、祠はあまりにもばらばらだ。いくら粗末でも、風でここまで壊れるものなのか。倒れた松の木に押し潰されたのだとすれば、潰れた祠は木の下にあるはずだが、祠の残骸と折れた木は別々の所にある。
それについて忠之は、わからないと言うので、千鶴は念を押して訊いた。
「これが鬼よけの祠じゃったとしても、鬼さんはこれがめげたけん地獄から出て来られたんやないんよね?」
「こげな物で鬼が封じられるんなら、誰も苦労すまい」
鬼が木をへし折ったような気がしたが、祠が鬼と関係ないなら、やはり風なのか。
「千鶴さんは鬼のことを心配しよるんかな」
訊ねる忠之に千鶴がうなずくと、忠之は祠の残骸を見て言った。
「こがぁなもん、いくつこさえたとこで鬼を封じたりはできんけん」
ほうじゃねと千鶴は微笑むと、忠之を誘って松原の向こうにある浜辺へ向かった。今は祠のことより前世を確かめるのが先だ。心臓の動きが速くなっている。
二
ひたひたと静かな波が、砂浜に打ち寄せている。
左手に見える丸い鹿島を見ると、千鶴は切ない気持ちになった。ここで進之丞は千鶴を護るために死んだのだ。
「どがぁしんさった?」
泣きそうになっていた千鶴に、忠之が声をかけた。千鶴は無理に笑顔を見せると、佐伯さん――と言った。
「前に話してくんさった、うちと真っ対のロシアの娘さん、今はどこでどがぁしておいでるんか知っとりんさるん?」
忠之はぎょっとした顔になると、千鶴から顔を逸らして海を見た。
「さぁなぁ。どこでどがぁしとるんやら」
「そげなこと言うて。ほんまは知っておいでるんでしょ?」
惚ける忠之の顔を、千鶴はのぞき込んだ。忠之は困惑気味に千鶴を見返すと、どうしてそんなことを訊くのかと言った。
「佐伯さんの心ん中には、今でもその娘さんがおいでるんじゃろなて思たんよ」
忠之は寂しげに微笑むと、ほうじゃなと言った。
「確かに、おらの心ん中にはその娘がおる。忘れろ言われても、忘れられるもんやないんよ。ほれが気ぃに障る言われても、こればっかしはどがいもしようがないんぞな」
正直に喋る忠之の言葉は、千鶴に好意を示しながらも、二人の間に線を引いたつもりだろう。しかし千鶴には同じ言葉が、胸の中にいるのはお前だけだと聞こえている。
そこまで自分のことを想い続けてくれているのかと、千鶴が思わず涙を見せると、忠之は慌てて千鶴を慰めた。
「千鶴さん、泣かんでおくんなもし。おら、千鶴さんに泣かれるんが何よりつらいけん」
「ほやかて、佐伯さん……、そがぁにその娘さんのこと……好いておいでるんやもん」
「いや、ほやけん、ほれはどがぁも……、いやいや、ちぃと待っておくんなもし。泣いたらいけん。泣かんでおくんなもし」
おろおろする忠之が気の毒になり、千鶴は涙を拭いた。忠之は疲れたように安堵したが、千鶴に真っ直ぐ見つめられるとうろたえた。
「佐伯さん」
「何かな? もう、さっきみたいな話は――」
「うち、その娘さんのことわかったんよ」
え?――と忠之は不意打ちを食らったような顔になった。
「な、何がわかったんぞな?」
「その娘さんは法生寺におりんさったんでしょ?」
忠之は口を半分開けたまま言葉に詰まったが、すぐに平静を装って言った。
「なして、そがぁ思うんぞな?」
「和尚さんがな、言うとりんさったよ。和尚さんが知る限り、うちみたいな異国の血ぃ引く娘は風寄にはおらなんだて」
「ほ、ほうなんか」
忠之は明らかに動揺している。千鶴は続けて言った。
「この辺りでうちと対のロシアの娘いうたら、昔、法生寺で暮らしよった、鬼娘て呼ばれよった娘しかおらんぞな。その娘は風寄のお代官の一人息子と夫婦約束をしよったんやて。しかもな、その娘はうちと同し千鶴ていう名なんよ」
忠之は喋ろうとしたが言葉が出て来ない。千鶴は忠之を見据えながら言った。
「この話、どこぞで聞いた話に似ぃとると思いませんか?」
「お、おら、何のこと言われとるんか……」
尚もわからないふりをする忠之に千鶴は言った。
「もう惚けんでもええんよ、進さん。おら、思い出したんよ。進さんと同しように、昔のことを思い出したんよ」
見開かれた忠之の目は千鶴を凝視して動かない。それでも忠之はすぐにまたしらばくれようとしたので、進さんと千鶴は呼びかけた。
「まだ信じてくんさらんみたいなけん、言うてあげましょわい。進さんはおらを護るために、ここでようけのお侍らと斬り合うたんよ。たった一人でおらを護ろとして、おらのためにお命を……」
その先を言えないまま千鶴は嗚咽した。千鶴の心は前世の千鶴が占拠していた。
千鶴の涙に弱いはずなのに、忠之は慰めようともしない。明らかに平静さを失っており、どう応ずるべきか測りかねている表情だ。
「進さん、黙っとらんで何とか言うておくんなもし」
千鶴が泣きながら促しても、忠之は黙ったままだ。認めたくないというより、認めてしまったあとのことを恐れているのだろうか。
進さんてば!――千鶴が語気を強めると、忠之は恐る恐る口を開いた。
「千鶴さんが進さんと呼びんさる男とおらが対じゃと、なしてわかるんぞな? ロシアの娘の話ぎりでそがぁ思とりんさるんなら、ほれは千鶴さんの思い違いぞな」
説得力のない弁解を続ける忠之に、千鶴は言った。
「進さんのまことの名は佐伯進之丞忠之ぞな。進之丞は呼び名で、忠之が諱じゃて、おらに教えてくんさったろ? 諱は誰にでも教えるもんやないけんどて言いながら、おらには教えんさったやんか。ほれに、今の進さんの名が佐伯忠之ていいんさるんは、おらの名が千鶴なんと対で、ほれこそ神さまがお示しくんさった、進さんである証ぞな!」
興奮して肩で息をする千鶴に、忠之の顔が綻んだ。
「ほんまに……、ほんまに思い出したんじゃな、千鶴」
「やっぱし進さんなんじゃね!」
千鶴は忠之、いや進之丞に飛びついた。進之丞は千鶴を抱きしめると、逢いたかったぞと言ってむせび泣いた。千鶴は涙で喋ることができず、ただ進之丞の胸の中でうなずくばかりだった。
三
師走に入っているが、柔らかな陽射しがぽかぽか暖かく、静かな波音が心地よい。
千鶴と進之丞は砂浜に座り、遥か昔を思い出している。
「おら、まだ全部を思い出したわけやないけんど、こがぁして進さんと喋っとると、どんどんいろんなこと思い出してくるぞな」
「思い出すんは楽しいことぎりにしとかんとな。思い出さいでもええことまで思い出したら、つろならい」
進之丞は微笑みながらも、その笑顔にはどこか翳りがある。
「進さん、おらのことどがぁしてわかったん?」
「どがぁしてて……」
「いくら今のおらが前世のおらと真っ対でも、ほれぎりじゃったら他人の空似かもしれんやんか」
「お前が何も申さんでも、あしにはお前のことがわかるんよ。たとえお前の姿が今と違たとしても、あしにはわかるんぞな」
「ほれは、おらを感じとるてこと?」
ほうよと言って進之丞はにっこり笑った。
千鶴は嬉しくなった。千鶴が進之丞を感じたように、進之丞もまた千鶴を感じてくれていたのだ。こうして互いの温もりを感じられるのは、やはり時を越えたつながりで結ばれているからだろう。
「おらもな、進さんがわからんうちから、進さんのこと感じよった。ほやけん、ずっと進さんのことが忘れられんかったんよ」
千鶴は進之丞に体を寄せた。あの温もりに包まれ、進之丞と一つになったみたいだ。
「進さんも、今おらを感じておいでる?」
進之丞がうなずくと、千鶴は喜びでいっぱいになり、進之丞の肩に頭を載せた。
「おらたち、こがぁしてお互いのこと思い出したけんど、もし思い出さんままじゃったとしても、この感じがあったらお互いに引き合うて一緒になれらいね」
ほうじゃなと微笑む進之丞の顔は、やはりどこか寂しげだ。たとえ互いの温もりを感じたとしても、生まれ育ちが壁となって一緒になれないこともあると言いたいのだろう。
前世で二人の身分は違い過ぎていたので、進之丞は千鶴を嫁にするために苦労をした。
しかし今世では立場が逆で、千鶴はロシア人の娘ながら伊予絣問屋の跡継ぎ娘だ。一方、進之丞は山陰の者として生きており、それがために一度は甚右衛門に見捨てられそうになった。時代が変わっても、生まれの違いを超えるのが容易でないのは変わらない。
「進さん、重見善二郎てお人、知っておいでる?」
千鶴が話題を変えると、進之丞は目を瞠った。
「重見善二郎? 知らいでか。そのお方はお前が武家に嫁入りする膳立てに、お前を養女に迎えてくんさることになっとったお人よ。じゃが、なしてお前があのお方を知っておるんぞ? まだお前には話しておらなんだはずじゃが」
「あのな、今のおらのじいちゃんは、重見善二郎いうお人の孫なんよ」
進之丞はさらに目を丸くして、何と――と言った。
「ほれは、まことの話か?」
「じいちゃんがそがぁ言うとりんさった。じいちゃんの実家は歩行町にある重見家で、じいちゃんのおとっつぁんは重見甚三郎ていいんさるそうな」
「甚三郎か、覚えておるぞ。一度手合わせをしたことがあるが、剣の腕前はなかなかじゃった。ほうか、千鶴は重見家の血筋の家に生まれて来たんじゃな。やっぱし、これはお不動さまのお導きに相違ない」
法生寺の方を向いた進之丞は、両手を合わせて不動明王に礼を述べた。
進之丞が祈り終えると、ほれにしたかてと千鶴は言った。
「進さん、おらのことがわかっとったんなら、なしてもっと早ように言うてくんさらんかったん?」
「ほやかて、お前が何も思い出しとらんのに、お前と夫婦約束しよった進之丞ぞな――とは申せまい。そげなこと申せば、頭おかしいんやないかて思われようが」
「まぁ、ほやないかて思いよった。ほんでも、おら、ずっと昔の自分にやきもち焼きよったんよ?」
千鶴が拗ねたふりをすると、進之丞は笑って言った。
「あしも、うっかり申さんでもええことを喋ってしもたけんな」
「ほやけど、あん時、進さんに助けてもらえなんだら、おら、死んどった。ほれが、こがぁして逢えたんは神さまのお引き合わせじゃね」
「確かにほうじゃな。やが、あしらを引き合わせてくんさったんはお不動さまじゃて、あしは思いよる」
「なして、お不動さまなん?」
進之丞は法生寺を振り返りながら言った。
「お不動さまは、昔からあしらを見守ってくんさっとるけんな」
「ほやけど、おらたちは死に別れてしもたぞな」
「ほじゃけん、こがぁして逢わせてくんさったんやないか」
進之丞は千鶴を諭すように言った。
「あしはな、わかったんよ。人は死んでも、ほれでおしまいやないてな。死んでもまた生まれ変わり、大切な者と再び出逢うんよ。そがぁな生き死にの繰り返しの中で、お不動さまはあしらを見守っておいでるんよ」
「進さん、相変わらず頭がええねぇ。おら、そげな深い考えはようせん」
「ほんでも、今は師範になる学校へ行きよるんじゃろ?」
進之丞の言葉で前世の千鶴は、後ろに隠れていた今世の千鶴に席を譲った。つまり、千鶴は我に返って困惑した。
「いや、あの、学校はな、その……」
「どがぁした?」
「ほやけんな、あの……、やめたんよ」
「やめた?」
進之丞は驚き、眉をひそめた。
「なして、やめたんぞな?」
「なしてて言われても……」
鬼のせいでやめたとは言いたくなかった。だけど、適当な説明が思いつかない。
「ひょっとして、あしがお店で働く思てやめたんか?」
弁解を探していた千鶴は、進之丞の言葉に飛びついた。
「おじいちゃんがな、うちらを夫婦にしてお店を継がせるおつもりじゃけん……」
そう言われたわけではないが、そうに決まっている。
小さいながらも山﨑機織は立派な絣問屋だ。そこの跡継ぎになるというのは、使用人にとっては大出世だ。千鶴は祖父が心から進之丞に詫びていると伝えたかったし、進之丞が喜んでくれると思った。しかし千鶴の期待に反して、進之丞は笑みを見せなかった。
「そげなことはでけん」
「でけんことないし。おじいちゃん、進さんにしんさったこと、ほんまに悪かったて思ておいでるんよ。ほれに、まっこと進さんに惚れ込んでおいでたんやけん」
山陰の者として生まれ変わったことを、進之丞は気にしているのだと千鶴は思った。だとすれば、やはり祖父の仕打ちは進之丞の心を深く傷つけたに違いなかった。
進之丞が黙っているので、千鶴は不安になった。
「進さん、おじいちゃんのこと怒っておいでるん?」
「いや、怒っとらん」
「じゃったら、なしてそがぁな顔するん?」
「そがぁな顔?」
「何や、むすっとしとるぞな」
進之丞は両手で顔をごしごしこすると、にっこり笑った。
「これでええかな?」
「ほれじゃったらええけんど、進さん、もううちの店にはおいでてくれんの?」
「いや、あしかてお前と一緒におれるなら、そがぁしたいと思いよる」
「ほんなら、何がいけんの?」
進之丞は千鶴の方に体を向けて言った。
「あしにはな、そがぁにうまくいくとは思えんのよ」
「なして? お不動さまが引き合わせてくんさったんよ? 進さんが自分でそがぁ言うたやんか」
進之丞は口を噤んで何も言わない。ひたひたという波音だけが聞こえている。
「あしは人殺しぞな」
進之丞はぽそりと言った。
「人殺し?」
千鶴はぎょっとしながら言った。
「進さん、誰ぞ殺めんさったん?」
「殺めたいうても今の話やない。前の話ぞな」
「ほれじゃったら――」
「人を殺めた者に幸せをつかむことはできん。人殺しのあしがおったら、お前は幸せにはなれまい」
「何言うん?」
馬鹿げた話に千鶴は反論した。
「ほんなん前世の話やんか。ほれに、ほれはわざにやのうて、おらを護ってしんさったことじゃろ? 仕方なしにやったことやのに、なしてそがぁに言うん?」
「ほやかて、人殺しは人殺しぞな」
「ほんでも、ほれは前世の話で、今の進さんには関係ないぞな」
「あしが何も覚えとらんのなら、ほうかもしれん。やがこのとおり、あしは全部覚えとる。己の罪は己が知っとるんじゃけん、ほの罪から逃れることはできまい」
「進さん一人が不幸になって、おらぎり幸せになれるわけないやんか。おらの幸せは進さんと一緒になることなんよ? ほれがでけんのなら、おら、幸せになんぞなれん」
千鶴が泣きだすと、進之丞はうろたえた。何とかなだめて慰めようとしたが、千鶴は泣き止まない。
「わかった。わかったけん、泣かんでくれ。もう余計なことは申さぬ。何でもお前が申すとおりにする故、泣かんでくれ」
千鶴は涙の目で進之丞を見た。
「ほんまに?」
「嘘は申さぬ」
「約束やで?」
「あぁ、約束する」
千鶴は進之丞に抱きついた。進之丞も千鶴を抱き返したが、その胸には過去の苦しみが残ったままだ。襲って来た方が悪いのに、その相手の命を奪ったことで、生まれ変わってからも苦しむなんて実に理不尽だ。だが実際に苦しんでいる者には、そんな理屈は通用しない。千鶴が進之丞にしてやれるのは、黙って抱きしめてやることだけだ。
「人は変わるが、海は昔と変わらんな」
海を眺めながら進之丞が言った。千鶴もうなずいて海を見つめた。
二人の傍まで波が静かに打ち寄せている。前世で二人に何が起こったのかを、波は覚えているだろう。それでも波は二人に対して何の判断も批判もせず、ただ寄せては引くを繰り返している。それは無関心のようでもあるが、思いやりにも見える。あるいはすべてを知った上で、昔のごとくに二人を受け入れてくれているみたいでもあった。
波は静かに砂を運ぶ。同じように時の流れが進之丞の苦しみを、静かに運び去ってくれればと願いながら、千鶴は進之丞の肩に頭を載せた。
四
「そろそろ寺へ行くか。みんなが待ちよろ」
立ち上がろうとする進之丞に、一つだけ聞かせてほしいと千鶴は言った。
「進さん、前に鬼の話をしてくんさったろ? あん時に言いんさった和尚さんて誰?」
「慈命和尚ぞな」
「え? あの和尚さま?」
「ほうよ。お前が世話になっておった慈命和尚ぞな」
慈命和尚は、前世の千鶴が法生寺で暮らしていた時の住職だ。千鶴が異国の血を引く娘だと知った上で寺に引き取り、村人たちにも千鶴を理解させようとしてくれた千鶴の大恩人である。
懐かしい想いに浸りながら千鶴は言った。
「おら、まだ思い出しとらんけんど、やっぱし、おらは前世で鬼と関わりがあったん?」
進之丞は迷ったように少し間を置いてから、うむとうなずいた。
「あしは鬼がお前を護っとると申したが、昔の鬼は今とは違てな、物分かりの悪い狼藉者じゃった」
「ほうなん?」
千鶴は驚いた。優しい鬼が狼藉者だったとは意外な話だ。
「お前がまだ風寄に来る前の話やが、鬼は山ん中の寺でお前に優しゅうされたんよ。ほれで、お前の優しさに憧れた鬼はお前が欲しなって、ずっとお前を探しよったんよ」
「ほれを慈命和尚さまから聞きんさったん?」
「いや、あん時はそがぁ申したが、ほんまはほうやない」
「じゃあ、誰から聞きんさったん?」
進之丞は少しためらってから、鬼ぞなと言った。
「こげな話をしたら、鬼へのお前の気持ちが変わるやもしれんが、嘘を申すわけにもいかぬ故、まことの話をしようわい。法生寺の庫裏が焼け、ほん時に慈命和尚が亡くなった話は、お前も知っとろう?」
千鶴がうなずくと、和尚は鬼に殺されたのだと進之丞は言った。
千鶴は全身がざわついた。進之丞の話を心が拒絶していた。
「嘘じゃろ?」
「嘘やない。お前の居場所を見つけた鬼は、村の者らを使て和尚とお前を捕まえたんよ。和尚は法力で鬼と戦うたが、村の者には無力じゃった。男らに散々殴られて瀕死の状態になった和尚を、鬼は庫裏ごと焼き殺そうとしたんよ」
そんな話は聞きたくなかった。村の者たちはみんな慈命和尚を尊敬していた。その者たちの手で和尚の命を奪うなんて、卑劣極まりない鬼の行いに千鶴は心が震えた。
「異変に気づいて駆けつけたあしの前で、鬼は庫裏に火を放ちおった。庫裏はすぐに火の海になり、あしはお前と和尚を助けようと炎の中へ飛び込んだんやが、鬼はお前を攫って逃げたあとでな。あしが見つけられたんは虫の息になった和尚ぎりじゃった」
見慣れた庫裏が燃え上がる様子が目に浮かび、千鶴は動揺した。もはや事実を否定することができず、体中の毛穴から何かが噴き出すみたいだ。
「和尚は死に際にこがぁ申された。鬼は力尽くで従わせよとしても無理じゃとな。鬼がお前を狙う理由も和尚は知っておいでての。そこから鬼を説き伏せるしか、千鶴を護ることは敵わぬと申された」
慈命和尚は千鶴の親代わりになってくれた人だ。読み書きも教えてくれたし、お不動さまのことも教えてくれた。厳しさもあったが、とても優しい人だった。その和尚の死に様が目に浮かび、千鶴は涙を抑えられなかった。
千鶴は鼻をすすりながら言った。
「ほれで進さん、どがぁしんさったん……? 鬼を説き伏せんさったん……?」
「そがぁするより他に手はなかったぞな。あしは海に逃げた鬼を追いかけ、必死で説得した。千鶴を己の物にしたとこで優しさは手に入らんのじゃと」
「鬼は進さんの話……わかってくれたん?」
「そがぁに簡単にはいくまい。ほんでも、あしはあきらめなんだ。優しさは奪うもんやのうて与えるもんであり、己の中にあるんじゃと、とにかく説き続けたんよ。ほれでしまいには鬼もあしの言葉に耳を貸してくれてな。ついにはお前を戻してくれたんよ」
千鶴は肩を落とした。進之丞の話はあまりにもつらかった。いくら自分を手放してくれたとはいえ、鬼にいい印象が浮かばない。
「おら、ほん時のこと、何も覚えとらん」
「ほれでええ。さっきも申したように、余計なことは思い出さん方がええ」
「ほれは、ほうじゃけんど……」
慈命和尚を殺した鬼に攫われておきながら、何一つ覚えていないのは釈然としない。
「あのお侍らが襲て来たんは、そのあとのこと?」
「ほうじゃ。連中は攘夷を掲げた屑どもぞな。鬼は優しさ求めて悪さをしたが、連中はゆがんだ虚栄心のために人を殺めよる。まっこと鬼より始末の悪い連中よ」
憤る進之丞に、自分はロシアへ行ったのかと千鶴は訊ねた。
「ほうじゃと思うが……」
進之丞は口を濁した。それが何を意味するのか悟った千鶴は慌てて話を変えた。
「ほれにしても、なして進さんはおらのおとっつぁんのことがわかっておいでたん?」
進之丞は顔を上げると言った。
「ちょうどその頃、三津ヶ浜にな、ロシアの黒船が来よったんよ」
五
黒船が三津ヶ浜に現れたのは、複雑な瀬戸内海の潮流を見極めるためだという。
突然黒船が現れた三津ヶ浜は大騒ぎになったと思われるが、その中で小舟で黒船に近づいた者がいた。異国人相手に商売ができるかもと考えた三津ヶ浜の商人だ。
商人に気づいたロシア人は、別のロシア人を呼んでその商人に話をさせた。商人と喋ったロシア人は通訳のようで、初めのロシア人の言葉を日本語にして商人に伝えた。それはこの辺りにロシア人の娘はいないかというものだった。
それに対して商人は、ロシアかどうかはわからないが、異人の娘なら噂を聞いていると答えた。異人の娘とは千鶴のことだ。
「なして、おらのことを三津ヶ浜のお人が知っておいでるん?」
「あしがお前を嫁にするいう話が、松山や三津ヶ浜まで広がっとったんよ」
「おらが異人の娘やけん?」
進之丞はうなずいた。進之丞によれば、二人が夫婦になる話は侍だけでなく庶民にまで聞こえていたそうだ。
通訳を介して訊ねたロシア人は、千鶴を自分の娘だと確信したらしい。商人に手紙と金子を持たせ、その娘に手紙を届けるように頼んだ。黒船には日本の船頭が案内人として乗り込んでおり、手紙はその案内人に書いてもらったようだ。
商人は手紙を引き受けたが、直接手紙を娘に届けると、あとでお仕置きを受ける恐れがあると考えた。それで手紙は娘ではなく、娘を嫁に迎える進之丞に届けられた。進之丞はちょうど父と遠方の村の見廻りから戻ったところで、商人から直接話も聞いた。
黒船が風寄へ向かうことが攘夷侍たちの耳に伝わったのは、たぶんこの商人からだろうと進之丞は言った。
三津ヶ浜には異国船を警戒する砲台が設置されたお台場があった。その真ん前に黒船が現れたので、現地にいた侍たちは大いに慌てたことだろう。一触即発の状況に肝を冷やしながらも、何事もないことを願っていたと思われる。
そんな状況に攘夷侍たちはいらだったに違いない。やられる前に先に大砲をぶっ放せばいいと思っていたはずだ。だが、砲台は船奉行たちが護っているので手が出せない。
ところが、風寄であれば邪魔者はほとんどいない。しかも風寄には武家の嫁になろうとしている異人の娘がいた。攘夷侍たちが動くべき時が来たのだ。
この時には、まだ進之丞は攘夷侍たちの動きを知る由もなかったが、それを抜きにしても進之丞には迷惑な手紙だった。
異人が勝手に上陸すれば大問題であり、その異人と接触したとなると、お咎めは免れない。下手をすれば、千鶴と夫婦になる話も許されなくなるかもしれなかった。
そうはいっても、自分の父親が会いに来ると千鶴が知れば、一目会いたいと思うのが人情である。また、一目会わせてやりたいと進之丞が思うのも人情だ。けれども、二人を会わせればどうなるかと考えると、進之丞は手紙の話を千鶴にできなかった。
手紙には一方的かつ簡略に、千鶴に会いに行く日時と場所が書かれていた。それがちょうど攘夷侍たちが襲って来た、あの時であり、あの場所だったと進之丞は語った。
「あしはその手紙を見んかったことにするつもりじゃった……。じゃが、あげなことが起こり、慈命和尚も父上も亡くなった。そこに加えて、あしも生きられぬ身になれば、お前を護れる者はおらんなる。ほれであしはお前を、お前の父上に託そと思たんよ」
「……ほうじゃったん」
過去の話ではあるが、千鶴は暗い気持ちになった。
「村上さん所のおヨネばあちゃんのおとっつぁんが、浜辺でお侍と戦う鬼を見たて聞いたけんど、鬼もお侍と戦うたん?」
「戦うた。心を入れ替えた鬼は、動けんなったあしの代わりにお前を護ってくれた。ほれから行くべき所へ行ったんよ」
「地獄てこと?」
進之丞はうなずいた。千鶴は自分が見た夢に納得がいった。地獄へは自分を護ってくれた鬼に会いに行ったのだ。
しかし鬼が慈命和尚の命を奪ったことは、その時の自分は知らなかったに違いない。もし知っていたなら、地獄まで鬼に会いに行ったりはしなかっただろう。また鬼が慈命和尚を殺めたのだとすれば、祖父が言っていた、風寄の代官が鬼に殺されたという話も事実と思われる。
「鬼が嫌いになったか?」
訊ねる進之丞に千鶴は訊き返した。
「進さんこそ、ほんまはどがぁ思ておいでるん? 鬼のことわかったみたいに喋っとりんさるけんど、おとっつぁん殺されても平気でおられるん?」
進之丞の顔が強張った。はっとなった千鶴は慌てて自分の無神経さを詫びた。
進之丞は硬い表情のまま言った。
「父上が鬼に殺められたこと、なして知っておるんぞ?」
「さっき話したじいちゃんのじいちゃんがな……、亡くなった進さんのおとっつぁんのお姿見んさって……、鬼にやられたらしいて言いんさったて……」
ほうかと進之丞は項垂れた。そして自分の両方の手のひらを見つめると、その手を握りしめて泣いた。
千鶴は進之丞の肩を抱くと、ごめんと詫びた。進之丞は尚も体を震わせて泣き続けたが、やがて涙を拭うと千鶴に向き直った。
「千鶴、お前も鬼が憎かろ。やが、あしから頼む。どうか、鬼を憎まんでやってくれ。許してやれとは申さぬが、憎むんはやめてくれ。ほやないと、せっかく新たな命をもろて生まれ変わったのに、これからのお前の暮らしがすべて台無しになってしまわい」
「進さん……」
「本来なら思い出すはずのないことで、苦しみ悲しむのは正しいことやない。お前の幸せのため、どうか、憎しみは捨ててくれ。ほの代わり、鬼はじきにお前から離れよう。鬼が望んどるんはお前の幸せぎりじゃけんな」
千鶴は黙ったまま、進之丞の言葉を噛みしめた。
何とか気持ちの整理がつくと、千鶴は進之丞を見てにっこり笑ってみせた。
「わかったわい。おら、もう忘れた」
「ほうか、ほれがええ。鬼のことも案ずるな」
「案じたりしとらんよ。鬼さんはおらの守り神じゃけん」
驚いた顔の進之丞に、千鶴は微笑んで言った。
「人それぞれぞな。おらも進さんもこがぁして生まれ変わったんじゃけん、きっと他の人らも生まれ変わっとらい。和尚さまも進さんのおとっつぁんも、みんなどっかに生まれ変わっとると、おらは思う。ほれやのに、昔のこと取り上げて恨みつらみ言うたかて詮ないことやし」
「千鶴……」
「ほれにな、おら、思たんよ。きっと、鬼さんかて昔のこと思い出したらつらかろうなて。人は前の世のことなんぞ、みんな忘れとんのに、鬼さんぎり覚えとるんは気の毒ぞな。ほじゃけんな、おら、鬼さんの力になってあげたいんよ。鬼さんにはこの先もずっと傍におってもろて、おらたちと一緒に……、進さん?」
進之丞は両手で顔を覆ってすすり泣いていた。
「進さん、何泣きよん?」
「千鶴……、なしてお前は……、そがぁに優しいんぞ?」
「なしてって……、鬼さん、気の毒やし。おらのこと陰で助けてくれとるんじゃけん」
「ほやけど、鬼ぞ?」
「おら、自分が鬼娘や思て悩みよったろ? あん時に、ようわかったんよ。自分が鬼になってしまう恐ろしさを。実際は鬼娘やなかったてわかったけん、ほっとはしたけんど、ほんまの鬼さんはどんだけつろうて悲しかろて思たんよ。鬼さん、好きで鬼になっとるわけやないもんね」
進之丞はますます泣きだした。千鶴は進之丞を抱きしめて慰めようとしたが、進之丞が泣く理由がわからない。進之丞は千鶴に抱かれながら泣き続けた。
六
しばらくして涙を拭った進之丞は、すまぬと言った。
「また取り乱して、見苦しい所見せてしもた」
「進さん、何をそがぁに泣きよったん?」
「あしはな、鬼の心がわかるんよ」
「鬼の心?」
進之丞はうなずくと、前の世で鬼を説得した時に、鬼と気持ちが通じるようになったと言った。
「鬼はな、千鶴の言葉を聞いて泣きよったんよ。その気持ちがあしにも伝わって、ほれで涙をこぼしてしもたんぞな」
「ほういうことやったん」
何だかとても感動した千鶴は、進之丞と鬼のことを確かめたくなった。
「鬼さんがおらをイノシシから救ってくれた時、ほんまは進さんも傍においでたんじゃろ?」
千鶴が問いかけると、進之丞は少し困った顔を見せ、それから小さくうなずいた。
「あの日、お前が泣きもって走って行くんが見えたんよ。ほん時はお前がおるとは思とらなんだ故、まさかと思いもって後を追わいよったら、あのイノシシが出て来てな……」
「鬼さんが現れて、おらを助けてくれたんじゃね」
千鶴の言葉に、進之丞は黙ってうなずいた。
「進さんは鬼さん見ても驚かなんだん?」
「互いを知った間柄故、驚きはせぬ。ほれに、あしはお前のことしか考えよらんかった」
「じゃあ、鬼さんも進さんがわかったん?」
「わかっとる。ほじゃけん、あとはあしが動いたんよ」
千鶴は納得した。思ったとおり進之丞と鬼は力を合わせる仲だったのだ。
かつて鬼と進之丞は争った仲であり、鬼は進之丞の父を八つ裂きにした。なのに今は互いに心を通わせている。それは何とも不思議であり、胸を打つものがあった。
「進さん、鬼さんに言うてくれる?」
「何をぞな?」
「絶対におらから離れんといてなって」
進之丞は困惑気味に、そげなことはでけんと即答した。
「なして?」
「鬼が現れたんはお前が幸せになるんを確かめるためぞ。ほじゃけん、お前が幸せなんがわかったら、鬼はおらんなるんよ」
「ほんなんいかんで。じゃったら、おら、幸せになれんやんか」
「なしてぞ?」
「鬼さんがおらんなったら、おら、悲しなるもん。幸せになれたとしても、幸せやなくなってしまわい」
「千鶴、お前はなして……」
進之丞がまた泣きだしたので、千鶴は慌てて進之丞をなだめた。
「進さん、泣いてんと、もう一つ鬼さんに伝えてくれん?」
「何を……ぞな?」
鼻をすすり上げる進之丞に千鶴は言った。
「あのな、おらが誰かに腹立てたら、鬼さんが仕返しするかもしれんのよ。ほやけん、そげなことはせいでも構んけんて言うといてほしいんよ」
「何ぞ、そがぁなことがあったんか?」
近くには誰もいないが、千鶴は声を潜めて言った。
「あのな、実は兵頭さんの家がめげたんは、おらのせいなんよ」
「なして、お前のせいなんぞ?」
「あのな、おら……、あの人のこと恨んでしもたんよ」
「恨んだ?」
「ほやかて、あの人がおじいちゃんに余計なこと言うたけん、おじいちゃんが進さんを雇うのをためろうてしもたじゃろ? おら、進さんがおいでてくれるて楽しみにしよったけん、ほれでつい……、恨んでしもたんよ。ほしたら、ほれが鬼さんに伝わってしもたみたいでな。ほれで、あげなことになってしもて……」
進之丞はふっと笑った。
「お前は、まっこと正直で可愛い女子よなぁ」
「何言うとるんよ。ほんまじゃったら、おら、兵頭さんにお詫びせんといけんのよ。ほやけど、そげなこと言えんやんか。やけん、こがぁなことが起こらんように気ぃつけんといけんのよ。ほやけどな、鬼さんのこと責めよるんやないんよ。そこん所はちゃんと伝えといてや」
進之丞は声を出して笑うと、相わかったと言った。
「もうお前の気持ちは伝わっとる故、何も案ずることはない。鬼もお前に迷惑かけたて謝っとらい」
「謝らいでもええんよ。おらな、おらのために鬼さんの手ぇ汚すような真似させとないけん言うとるんよ。せっかく優しい気持ちになったんじゃけんな。鬼さんには、いつまでも優しい鬼さんでおってほしいんよ。ほれじゃったら鬼さん、もう地獄に行くことないもんな」
進之丞がまたもや泣きだした。
千鶴は慌てて進之丞をなだめた。そうしながら、これから進之丞に鬼の話をする時には、気をつけねばならないと自分を強く戒めた。
広がる噂
一
正月になると、茶の間と隣の板の間を仕切る障子は外され、広くなった座敷に山﨑機織の者全員が集まった。
普段は使用人と家人は別の場所で食事をするが、祝い事の時には一緒に食べる。この日はもちろん一緒だ。
茶の間に甚右衛門が座ると、そこを基点として家人と使用人が向かい合う形で、板の間の方へ向かって並んだ。家人は部屋の奥、使用人は土間側だ。
甚右衛門のすぐ傍の家人側には、大阪の作五郎の下で修行をしていた孝平が座り、使用人側には東京廻りから戻った辰蔵が座っている。孝平の隣にはトミが座り、さらにその隣に幸子、千鶴と続く。一方で、辰蔵の隣には手代、丁稚が順に並んでいる。
花江は使用人ではあるが、千鶴の隣に座らされた。家人側と使用人側の人数合わせのためだが、花江が特別な使用人ということでもあった。
それぞれの箱膳には白飯と雑煮、黒豆や数の子、昆布に大根やごぼう、里芋などの煮物、赤蕪の酢の物などが所狭しと並べられている。箱膳の脇には、箱膳に載せきれない焼き魚の皿が置かれ、亀吉と新吉はもちろん、無口な弥七さえもが笑みを見せていた。
前年は関東の大地震で手代を亡くし、花江も家族を失った。ほんの四ヶ月前のことである。本来であれば祝い事などできないが、正月は特別だ。残った者たちをねぎらい励ます必要もある。しかし箱膳は祝い用の赤いものではなく、普段使っている黒い箱膳だ。
祝う言葉を用いずに一同に新年の挨拶をした甚右衛門は、昨今の絣業界の情勢について喋り、こうして正月を迎えられたのはみんなのお陰だと述べた。そのあと、千鶴が学校をやめて家や店の仕事を手伝うことになったと、さらりと言った。
千鶴は花江にだけは学校をやめたことを話していた。詳しい説明はしなかったが、ひどい差別を受けたからとだけ言った。千鶴が深く傷ついていたのはわかっているので、花江も余計なことは聞かなかった。
甚右衛門は辰蔵には千鶴のことを伝えていた。しかし、他の使用人には何も話していなかったので、千鶴が学校をやめた話には少なからぬざわめきがあった。だがそれは驚きではなく、やはりそうかという雰囲気だ。
みんな、師走に入ってから千鶴が学校へ行かずに家にいたのは知っている。特に茂七と亀吉の二人は、千鶴が学校へ行った最後の日に悲壮な顔で昼前に戻って来たのを、その目で見ている。
学校で何があったのかを茂七たちは知らないが、千鶴の様子がおかしいのは、甚右衛門が忠之の雇用をやめたことが絡んでいると見ていたようだ。ただ千鶴を気遣ってか、そのことで千鶴に声をかけたりはしなかった。
千鶴が花江から聞かされた話では、その後の千鶴が何故か機嫌よくなったのを、茂七たちは訝しく思っていたらしい。そこへ年末近くになった頃、忠之がまた大八車で風寄の絣を運んで来たので、そういうことかと勝手に納得したという。
つまり忠之を雇う話が復活したので、千鶴も家の仕事に入ったのだと、茂七たちは理解したということだ。だから千鶴が学校をやめたと聞かされても、茂七たちが驚かなかったのは当然だった。
しかしながら、大阪にいた孝平だけは事情を知らない。思いがけず千鶴が学校をやめて家にいるのが面白くないようだ。
「なして学校をやめたんぞ?」
孝平は身を乗り出して不満げに千鶴に言った。けれど、千鶴は返事をしなかった。代わりに説明をする者は誰もいない。
甚右衛門が黙って盃を手にしたので、みんなも盃を持った。孝平は千鶴を一にらみすると、仕方なさげに盃を手に取った。
甚右衛門が黙ったまま盃を掲げて、みんなのお屠蘇が酌み交わされた。次はいよいよお待ちかねのご馳走だ。
甚右衛門が雑煮に手をつけると、みんなは一斉に料理を食べ始めた。
新吉はいきなり大きな口で餅にかぶりつき、喉を詰めそうになって亀吉に背中を叩かれた。みんな笑いながらも、箸の動きはいつもより速い。滅多に食べられないご馳走は、それぞれの口へ次々に運ばれた。
ひとしきり食べたあと、甚右衛門は辰蔵に東京の状況を報告させた。
辰蔵は東京の復興が驚くべき速さで進んでいると語り、絣の需要は今後も増える見込みだと説明した。
ただ、今回の大地震で潰れた店も数多く、山﨑機織の取引先も以前と比べると半減したという。その中には花江の実家の太物問屋も入っており、花江はしんみりしながら話を聞いていた。
辰蔵は花江に声をかけると、花江の家族の墓参りもしてきたと伝えた。花江は笑顔で辰蔵に感謝したが、すぐに涙ぐんでしまい、めでたい日を湿っぽくしてしまったとみんなに詫びた。
辰蔵が花江の気を引く真似をしたと見たのだろう。孝平は辰蔵をにらんだが、辰蔵はまったく相手にしなかった。
甚右衛門は花江を気遣いながら辰蔵をねぎらうと、減った取引先を早急に増やさねばならないと言った。辰蔵はうなずきはしたが、事情は他の同業者も同じなので、事は簡単ではないと述べた。
祝いの席に着く前に、甚右衛門は辰蔵から東京の事情は聞いていたはずだ。それを改めて辰蔵に喋らせたのは、山﨑機織全員に話を聞かせて士気を高めるつもりに違いない。
これから東京の仕事を強化していくつもりだと甚右衛門は語ったが、そのためにも松山の人員を増やす必要がある。亀吉や新吉にも早く手代になってもらいたいと、甚右衛門に鼓舞された亀吉たちは、姿勢を正して大きな声ではいと言った。
手代になるというのは、一人前だと認めてもらうことである。丁稚で働いていても、仕事が向かないと判断されれば家に帰される。だが、今の甚右衛門の言葉は亀吉たちの働きぶりを褒めているわけで、二人の出世を請け合ったようなものだ。亀吉と新吉は喜び合い、がんばろうと誓い合った。
さて――と甚右衛門は孝平に顔を向けると、大阪の話を聞かせてもらおうと言った。ところが、ちらちらと花江を見ていた孝平は、甚右衛門の声が聞こえていない。
トミに叱られた孝平は、慌てて甚右衛門を見た。使用人たちは何も言わないが、孝平を見る目には侮蔑のいろが浮かんでいる。
甚右衛門は苦虫を噛み潰した顔で、大阪の報告をしろと繰り返し言った。
孝平は姿勢を正すと、作五郎から褒めてもらったと胸を張った。だけど、そんなことは訊いていないと甚右衛門に咎められると、うろたえてトミを見た。
トミはため息を一つつくと、大阪の商いの話だと言った。
ほうかとうなずいた孝平は、大阪は町も大きく商いも盛んで、松山とは店の規模も違うし、とにかく店がいくらでもあると話した。
花江が話を聞いていると思ったのだろう。孝平は大阪には通天閣という立派な塔や、石造りの大きな建物がいっぱいあると自慢げに喋った。また、今は燃えてなくなりはしたが、大阪城は松山城なんかより遥かに大きな日本一の城だったと言った。
甚右衛門は咳払いをして、伊予絣の評判を訊ねた。途端に孝平は口籠もり、そこそこ売れていると答えた。
甚右衛門は顔をしかめ、もうええと言った。
「作五郎さんから聞いた話やが、大阪には東京から移り住む人間が増えとるそうな。ほれが結構な数で、今後は大阪での需要がこれまで以上伸びるみたいなけん、今年はみんな忙しならい」
自ら喋った甚右衛門は、話を終えると孝平を見た。今の話を孝平の口から聞きたかったのだろうが、孝平は甚右衛門に目を合わせようとせず、雑煮の餅を食っていた。
二
独り者の作五郎は、年末年始を道後温泉で過ごすために松山を訪れていた。そのための旅費は作五郎への手当の一部であり、作五郎を雇う時に甚右衛門が提示した条件だ。
今回孝平を連れて松山へ来た作五郎は、道後温泉へ向かう前に山﨑機織に立ち寄寄った。その際に甚右衛門と会って話をしたが、話の中身は大阪の近況報告と孝平の仕事ぶりについてだ。
孝平は大阪へ行く前は周囲に対して下手に出ていたが、今は元に戻って偉ぶった態度を見せている。恐らく作五郎に褒めてもらったことで自信がついたのだろうが、甚右衛門に伝えた作五郎の評価は、孝平の自信とは真逆のものだった。
作五郎が褒めたのは花江を嫁にしたいという孝平の熱意だけだ。そこまで女のためにがんばるのは大したものだと言っただけのことで、仕事を褒めたわけではなかった。
ただ作五郎は甚右衛門に遠慮して、孝平が役に立たなくても怒鳴りつけたりせずに面倒を見続けた。それが孝平を誤解させたようだが、正月以降は仕事の邪魔になるから孝平は松山へ置いて行くと、作五郎は甚右衛門にきっぱりと告げたのだ。
「そがぁなわけで、東京に加えて大阪からの注文も増えてくるけん、さっきも言うたように、亀吉と新吉には早よ手代になれるようがんばってもらいたい。ほれと、東京には近々茂七を遣るつもりなけんど、そがぁなるとここの手が足らんなる。ほじゃけん、急いで人を増やさにゃならん」
甚右衛門の話に孝平は目を輝かせた。
作五郎にさじを投げられたことを知らない孝平は、松山に残るのは自分が認められたからだと信じている。そのことを甚右衛門が話すのだと、孝平の顔は期待に満ちていた。
新たに増える人物は自分だとばかりに、孝平は亀吉たちに自分を指差しながら得意げに笑った。甚右衛門はそんな孝平を無視して喋った。
「ほれで取り敢えずは、外から一人雇うことにした」
孝平は驚いた顔で甚右衛門を見た。しかし、甚右衛門はちらりとも孝平を見なかった。
甚右衛門が雇うと言うのは忠之のことだ。千鶴は嬉しくて仕方がなかった。忠之はついに為蔵から了承をもらい、山﨑機織で働くことになったのだ。ただし、それには条件があった。
もし山﨑機織の仕事がうまくいかなければ、風寄に戻って履物作りの仕事を引き継ぐ。また為蔵かタネのどちらかが、病に倒れるなどして動けなくなったら風寄に戻る。さらには、出世したら為蔵とタネの世話をする。この三つが条件だ。
孝平は口をぱくぱくさせたが何も言えない。笑いを堪えている亀吉や新吉をじろりと見たが、二人とも平気な顔だ。
「旦那さん、ほれは、あの風寄の兄やんかなもし?」
新吉が訊ねると、ほうよほうよと甚右衛門は上機嫌で言った。
「あの男は読み書き算盤が申し分ないそうな。商いの仕事を覚えたら、すぐに手代にするつもりよ。ほれで、あの男に手代が務まると判断でけたら、茂七を東京へ送る。ほれで向こうの引き継ぎが終わり次第、辰蔵を番頭に戻す。これが今の方針ぞな」
甚右衛門は孝平のことで正月早々から落胆すると同時に、悩みの種を抱えることになった。しかし救いがあった。それが忠之だった。
「やっぱし、ほうなんか。ほれで千鶴さん、学校をやめんさったんじゃね」
新吉が楽しげに千鶴を見た。もう訊いても構わないと思ったのだろう。新吉の隣で亀吉もにこにこしながら千鶴を見ている。
学校をやめた本当の理由はそうではないが、忠之が来るなら学校はやめたいと思っていた。だから、新吉が言うことは間違いとは言えない。あの騒ぎがなかったとしても、やはり学校はやめていただろう。
千鶴はうなずきはしなかったが、黙ったまま微笑んだ。新吉は図星だと思ったらしく、亀吉と顔を見交わして、よかったねぇと改めて二人で千鶴を祝福した。
「何ぞ何ぞ? 風寄の兄やんいうんは誰のことぞ?」
事情を知らない孝平がいらだたしげに口を開くと、新吉が即座に答えた。
「あのな、千鶴さんが好いておいでる兄やんぞな」
千鶴は慌てた。亀吉が新吉の頭を叩いたが、もう遅い。何やと?――と孝平は身を乗り出すと、亀吉の向かいに座る千鶴をにらんだ。
これ!――とトミに叱られて、孝平は渋々体を元に戻した。だが自分がいない間に山﨑機織に動きがあったと感づいたようで、孝平は腹立たしげに里芋を口に放り込んだ。
一度は流れた忠之の雇い話が復活したことを、茂七も千鶴を祝福しながら大いに喜んだ。その喜びには自分の東京行きも含まれているのだろう。
東京を一人に任されるというのは、とても名誉なことだ。辰蔵が番頭に抜擢されたみたいに、茂七は将来の出世が約束されたようなものだ。東京行きが楽しみだと、茂七が隣に座る辰蔵に話すと、辰蔵の方も茂七の肩を叩き、頼りにしとるぞと言った。
楽しげな茂七と丁稚たちの間で、弥七だけは何だか不満げだ。
忠之が大八車を残して行った時には弥七も喜んだ。弥七も忠之に対して恩義を感じたはずだ。けれども忠之が飛び入りで手代になるのは、弥七には面白くないらしい。自分は丁稚から下積みを重ねてやっと手代になれたのにと思っているのかもしれない。
弥七の様子を見て、千鶴は少し心配になった。
「外から人を雇うやなんて、わしは一言も聞いとらんが」
誰に聞かせるでなく、孝平が独り言のように愚痴をこぼした。しかし、すぐ隣は甚右衛門だ。お前に聞かせる必要はない話だと、甚右衛門はぴしゃりと言った。
「ほんでも、もうじき仲間入りするんじゃけん、簡単に話しとこわい。その男は佐伯忠之いうてな、千鶴が風寄で大変世話になった。秋に風寄の仲買人の兵頭の牛がいけんなったんやが、ほん時も佐伯くんが一人で大八車で絣を届けてくれた。佐伯くんがおらなんだら、今頃この店はどがぁなっとったかわからんほどよ」
甚右衛門は自分が一度雇い話を反故にしたことには触れず、初めから忠之を雇うつもりだったという顔で喋った。甚右衛門の忠之への期待は相当なもので、その口ぶりは忠之さえ来てくれれば必ず商いは好転すると信じているようだった。
「風寄から一人で大八車を? そがぁなことできるわけなかろ」
店の主の話なのに、孝平は小馬鹿にして笑った。だがみんながしらっとしているので、ほんまなんかと茂七に訊ねた。
茂七が黙ったままうなずくと、孝平は目を丸くしてうろたえた。
「そもそも、なして千鶴が風寄へ行くんぞ」
負け惜しみのごとくつぶやく孝平に、勉強のために行かせたと甚右衛門は言った。それで孝平は何も言えなくなった。
「あの男なら、あたしも太鼓判を押しましょわい」
辰蔵が力強く言った。
自分がいない間に、忠之と山﨑機織の間で何があったのかを辰蔵は知っていた。甚右衛門から恩を仇で返されても、それを恨もうとしない忠之を辰蔵は大きく買っていた。
「大八車も置いて行ってくれたもんな」
亀吉と新吉も嬉しそうにうなずき合った。
店の大八車が壊れた時に、二人は甚右衛門から怒鳴られて泣き合った仲だ。代わりの大八車を置いて帰った忠之のことは大いに慕っている。
ちなみに忠之が残した大八車は、元の大八車の修理が終わったあとに、牛車で絣を運んで来た兵頭に戻された。
忠之が使った大八車は壊れたことになっていたので、甚右衛門は大八車を修理しておいたと兵頭に言った。兵頭は修理代を気にしたが、甚右衛門が修理代などいらないと言うと、大喜びで牛車の後ろに大八車を結びつけて戻って行った。兵頭が甚右衛門に、忠之の陰口を聞かせた日のことだ。
忠之は年末の少し前に、もう一度牛の代わりに風寄の絣を運んで来た。その時に使ったのはこの同じ大八車だ。この時、忠之は何事もなかったように荷物を届けた。そして、千鶴と幸子に風寄まで来てもらったことへの感謝をし、家族が松山で働くことを許してくれたという報告を、甚右衛門に伝えた。
甚右衛門は忠之に両手を突いて己の愚行を詫び、両者の関係は修復された。こうして忠之が山﨑機織で働くことが正式に決まったのである。
「千鶴さん。こんで毎日、あの兄やんと一緒におれるね」
調子に乗って千鶴を冷やかす新吉の頭に、亀吉の手が飛んだ。頭を押さえて怒る新吉と、怒り返す亀吉に千鶴は言った。
「ほらほら、お正月早々怒ったらいけんよ。ほれより二人とも、佐伯さんがおいでたらいろいろ教えてあげてな」
新吉と亀吉は争うのを止めると声を揃えて、はいと言った。
孝平はまだ納得がいかないらしく、その男はどんな恩人なのかと、身を乗り出して千鶴に質した。いろいろぞなと千鶴は言葉を濁したが、はっきり言えと孝平は千鶴に迫った。すると、新吉が言った。
「あのな、千鶴さんが風寄で大けな男四人に絡まれたんよ。ほん時にな、あの兄やんはたった一人で、その男らをやっつけてしもたんやて」
孝平は目を丸くして、ほんまか?――と千鶴に確かめた。
千鶴が小さくうなずくと、孝平は目を泳がせながら黙って箸を動かし始めた。その情けない姿に、花江が声を出さずに笑った。
「旦那さん、あの兄やんはいつおいでるんぞなもし?」
新吉は孝平に構わず、甚右衛門に訊ねた。甚右衛門は藪入りのあとだと言った。
藪入りとは盆と正月の年に二回、商家に住み込みの使用人が実家へ戻れる休みだ。旧暦では一月と七月の十六日だったが、明治に新暦になってからは一月と八月の十六日を藪入りとしている。
正月の今来てもすぐに藪入りになるので、忠之が来るのは藪入り後になった。藪入りは使用人たちには待ち遠しいものだが、今回は千鶴にも待ち遠しい藪入りだった。
三
正月祝いが終わると辰蔵は東京へ戻り、孝平は松山へ残った。
作五郎は大阪へ戻る前に山﨑機織へ立ち寄り、しっかりなと孝平に声をかけた。何をしっかりなのかはわからないが、孝平は花江のことだと受け取ったらしい。満面の笑みを浮かべてちらりと花江を見ると、わかりましたぞなもしと上機嫌で答えた。
もちろん花江は嫁になる約束などしていないと、言い寄る孝平を突き放していた。それでも嫌い嫌いも好きのうちだと、孝平は意に介していなかった。
いずれ山﨑機織の主になれば、花江が拒むはずがないと信じているのだろう。でも現実には丁稚として扱われ、呼び名も孝吉となった。孝平はそれが大いに不満だった。
途中から加わる者が手代になれるのだから、年齢的にも自分が丁稚なのは絶対におかしいと、孝平は周囲に愚痴った。しかし、孝平を相手にする者は誰もいなかった。
向きになった孝平は、手代の二人に威張って指図をした。それで甚右衛門やトミから何度も叱りを受け、周りからさらに白い目を向けられた。
こんな状態が続くのかと、千鶴は先が思いやられたが、甚右衛門もトミも頭を悩ませているに違いなかった。
藪入りの前日、風寄の兵頭が牛車で絣を運んで来た。
甚右衛門が新吉と孝平に品を蔵へ仕舞わせている間、千鶴は兵頭にお茶を運ぼうとした。そこへ木箱を抱えて蔵へ向かう孝平が、邪魔じゃいと怒鳴りながらわざとぶつかった。その拍子に盆に載せた湯飲みがひっくり返り、お茶が盆を持つ千鶴の手を濡らした。
千鶴は盆を落としそうになったが、危ういところで何とか持ちこたえた。そのまま盆を板の間へ置くと、台所にいた花江がすぐに水で手を冷やしてくれた。
「千鶴さん、手ぇ大丈夫?」
孝平に続いて箱を運んで来た新吉が心配そうに声をかけた。大丈夫やけんと、千鶴は微笑んで新吉を蔵へ行かせたが、少しすると孝平が蔵から戻って来た。
花江は孝平を捕まえると、ひどいことをするなと文句を言った。だが、孝平は作業の邪魔をした千鶴が悪いと言って取り合おうとしなかった。すると、茶の間で繕い物をしていたトミが、大概にしや!――と孝平を叱った。
「この際やけん、はっきり言うとこわい。うちらは千鶴にこの店を継がせるつもりぞな。千鶴はお前の主になるんぞ。その主に失礼な態度取るんなら、お前をここへ置くわけにはいかん」
驚いた千鶴は孝平をにらみつける祖母を見た。花江も目を丸くしている。
孝平は茫然と立ち尽くしていた。後ろを通る新吉にぶつかられても、怒りもせずに突っ立ったままだ。トミが再び繕い物を始めると、孝平はうろたえながら言った。
「じゃったら、わしは何のために大阪へ行ったんぞな?」
「ほれは、こっちが訊きたいことじゃろがね」
トミは孝平に顔を向けないまま言った。
孝平はちらりと花江を見た。けれども、花江が味方をするはずもない。戸惑う目が千鶴と合った孝平は慌てて顔を背け、わかったわいと鼻息荒く言った。
「わしのことをそがぁ見よんなら、こっちかて考えがあらい」
顔を上げたトミは、どんな考えかと訊ねた。孝平は答えることができなかった。
トミは鼻をふんと鳴らすと、また繕い物を始めた。
「なぁんも考えとらんくせに。ここを出て行くんなら、誰も引き留めんけん勝手にしたらええ。なして作五郎さんがお前を置いて行きんさったんか、考えもせんかったんか、この抜け作!」
真っ赤な顔になった孝平はわなわなと体を震わせると、荒々しく店の方へ行こうとした。しかし甚右衛門が怖いのか、途中でくるりと向きを変えると奥庭へ出て行った。
そのまま家を出るかに見えたが、裏木戸が開く音が聞こえない。恐らく出て行くふりをして、トミの様子を窺っているのだろう。
千鶴は淹れ直したお茶を帳場へ運んだ。帳場に積まれた箱の傍には、腰を下ろした兵頭が煙管を吹かせながら、弥七が箱の中身を確かめるのを眺めている。茂七と亀吉は太物屋へ注文の品を届けに行ったので、ここにはいない。
「すんません。遅なってしまいました」
千鶴がお詫びしながらお茶を配ると、兵頭はにやにやしながら言った。
「何ぞ、奥で揉めとったみたいやな」
千鶴は笑みを浮かべてみせたが返事はしなかった。代わりに、相変わらず性格の悪い男だと、心の中で兵頭を罵った。
「牛、また新しいの買いんさったん?」
千鶴が訊ねると、兵頭は口をへの字に曲げながら首を振った。
「借ったんよ。家はめげるし、牛買う銭もないけんな。しばらくは借った牛で仕事するしかないわいな。ほんでも暖こなったら貸してもらえんし、おらん所も野良仕事で牛を使うけんな、ほれまでには何とかせにゃなるまい」
兵頭は煙管を吸うと、ため息交じりに煙を吐いた。
牛を借りたといっても、ただではあるまい。その金も惜しい兵頭は、本当ならば新しい牛が買えるまで忠之にただ働きをしてもらいたいはずだ。だけど忠之は藪入りのあと、松山へ来ることが決まっている。それに対する愚痴も含んでの言葉だろう。
千鶴は甚右衛門にもお茶を配ったあと、弥七の横にも湯飲みを置いた。するといつもなら知らんぷりの弥七が、手を止めて千鶴に顔を向け、だんだんと言った。
千鶴は少し面食らったが、何だか嬉しくなったので弥七に微笑んだ。弥七は慌てたように下を向くと、また確認作業を続けた。そこへ新吉が木箱を取りに来た。
「新吉さんにも、ほれが終わったらお茶を淹れたげよわいね」
千鶴が声をかけると、新吉は元気よく、うんと言い、また木箱を抱えて行った。
「あんたは優しいのぉ」
見ていた兵頭がお茶をすすりながら言った。兵頭に褒められても嬉しくないが、千鶴は愛想の笑みを見せた。
「めげた家はどがぁなったんぞ?」
甚右衛門が兵頭に訊ねた。兵頭は不機嫌そうに言った。
「何とか直してもろたけんどよ。なしておらん所ぎり、あげな目に遭わにゃいけんかったんじゃろな」
「一生懸命働いておいでるのにねぇ」
千鶴が笑顔で皮肉を言うと、まったくよと兵頭は顔をしかめた。
「ようやっと他からも注文が入ったけん、ほっとはしたけんどよ。その分、絣運ぶ回数が増えたけんな。このまんま牛が使えんかったら、どがぁしたもんかと悩みよらい」
兵頭は目を細めて煙管を吸うと、煙草盆に灰を落とした。
「あれから他に変わったことはないんかな?」
甚右衛門がまた訊ねた。兵頭というより化け物の様子を確かめたいらしい。千鶴は弥七が気になったが、甚右衛門は平気なようだ。弥七が千鶴と化け物を結びつけるとは思っていないのだろう。
「腹が立つぐらいなぁんもないわい。どうせなら、他の家の二、三軒もめげてくれたらよかったのによ」
何てことを言うのだろうと、千鶴は心の中で憤った。しかし、兵頭は少しも悪びれていない。その後も自分がどれだけ大変かを喋り続けたが、さすがに忠之を貶めることは言わなかった。ただ弥七がいる所での化け物を思わせるような話はしてほしくなかった。
「ほしたら、ぼちぼち去んでこうわい」
兵頭は湯飲みに残っていたお茶を一気に飲み干すと、よっこらしょと疲れたように立ち上がった。
この日は冷え込み、雪でも降りそうな気配だ。やれやれと言いながら表に出た兵頭は、ぶるっと身震いをすると、空の牛車を牛に引かせて帰って行った。
千鶴が奥へ戻ろうと暖簾を持ち上げると、甚右衛門が煙管を吹かせながら呼び止めた。
「さっき、孝平は何を騒ぎよったんぞ? 新吉ぎり荷物を運びよったみたいやが」
「ほれが――」
千鶴が説明しようとしたら、菓子折を手に提げた男がいきなり外から飛び込んで来た。
四
「お邪魔しまっせ! ここ、山﨑機織さんでんな?」
喋り方や落ち着きのなさから見て、松山の人間ではない。言葉の訛りは大阪のものだろうか。甚右衛門が訝しがっているのも構わず、男は馴れ馴れしく声をかけた。
「あんたはんが、ここの御主人?」
お前は誰ぞと甚右衛門がじろりとにらむと、これは失礼しました――と男は慌てて姿勢を正した。
「えっと、わてはですね。わては、こういう……あれ?」
男は菓子折を何度も持ち替えながら、外套の下に着ている洋服のポケットを、あちこちひっくり返し始めた。
しばらくして、やっと折れ曲がった名刺を見つけると、男はそれを丁寧に真っ直ぐ伸ばした。それから、わてはこういう者ですわと言って甚右衛門に手渡した。
男の赤黒く痩せこけた顔は、微笑んでいるが抜け目がなさそうに見える。その目が千鶴を捕らえると、男の顔ににんまりとした笑みが広がった。
「大阪錦絵新報 記者畑山孝次郎? 何ぞな、これは?」
名刺に目を通した甚右衛門が顔を上げると、畑山は甚右衛門には目もくれず、暖簾の前に立つ千鶴にはしゃいだ声をかけた。
「もしかして、あんたはん、千鶴さんでっしゃろ? うわぁ、ほんまに噂どおりの外人さんやな!」
畑山が喋ると煙草の臭いが千鶴の鼻を突いた。畑山は余程の煙草好きのようだ。畑山の臭いと勢いに千鶴が困惑すると、甚右衛門は握り潰した名刺を畑山の顔にぶつけた。
「失礼なことを言うな、千鶴は日本人ぞ!」
畑山は顔を押さえると、ひどいことやらはるなぁと言いながら、落ちた名刺を拾い上げた。その名刺の折れ目を畑山が伸ばしていると、蔵から戻った新吉が物珍しげに畑山を見た。畑山は嬉しそうに茶色い歯を見せると、ぼんはいくつや?――と言った。
「お前はさっさと家の仕事をしろ」
付き合ってられんとばかりに、甚右衛門は千鶴に命じた。千鶴が暖簾をくぐろうとすると、畑山は名刺をポケットに仕舞いながら慌てて言った。
「ちょっと待ってぇな。わては千鶴さんの話が聞きとうてお邪魔したんですよって」
「なして千鶴なんぞ? お前はいったい何者ぞ?」
眉間に皺を寄せている甚右衛門に、畑山は不服そうに言った。
「さっき、名刺をお見せしたでしょ?」
「あげな物でわかるかい」
「わてはな、大阪錦絵新報の記事を書いとるんですわ」
「ほれは何ぞ?」
畑山はやれやれといった感じで、今度は懐から名刺よりも大きな紙を取り出した。
「これですわ」
畑山は四つ折りにされた紙を、甚右衛門に手渡そうとした。ところが甚右衛門が手を伸ばすと、さっとその手を引っ込めた。
「言うときまっけど、さっきみたいにぐしゃぐしゃにしたり、破いたりしたらあきまへんで。これは大事な商売道具ですよって」
甚右衛門は返事もせずに畑山をにらんでいたが、畑山は紙を手渡した。
甚右衛門が紙を広げると、そこにはきれいな色彩の錦絵が描かれていた。だが、それは人が刃物で殺められたところを描いたもので、鮮やかな赤は殺められた者から流れ出る血の色だった。絵の上方には、事件の内容を説明した文章が細々と書かれてある。
畑山はこれが錦絵新聞だと言った。
「何ぞ、この絵は。大阪の人間はこげな趣味の悪い物を好むんか」
「旦さん、錦絵新聞ご存知おまへんのか。明治の最初頃に、あちこちで流行ったんでっけど……。あ、そうか、こんな田舎には錦絵新聞はなかったんか。なるほど。そういうことでっか。まぁ、田舎やったら知らんでもしゃあないわなぁ」
甚右衛門が何も答えていないのに、畑山は一人で納得しながらうなずいた。
「お前はこれを破いてほしいと見えるな」
甚右衛門が錦絵新聞を破る真似をすると、畑山は慌てて新聞を奪い取った。
「いかんて言うとるでしょ? ほんまに冗談やおまへんで」
「お前はわざわざ大阪から、わしらを馬鹿にしに来たんか?」
「せやから違いますってば。わては千鶴さんにお話を聞かせてもらいに伺うたんです」
「何の話ぞ?」
畑山は茶色い歯を見せてにやりと笑った。
「風寄でんがな」
五
甚右衛門はぎくりとした顔になった。千鶴も思わずうろたえた。二人の動揺に気づかないはずがないのだが、畑山は素知らぬ顔で喋った。
「わてな、世の中に変わったことないか、いつも耳澄ませて目ぇ光らせてまんねん。そしたら去年の秋や。風寄のお祭りの時に、でっかいイノシシが頭潰されて死んどったいう話が飛び込んで来たんですわ。それもぺちゃんこでっせ。あの硬いイノシシの頭がぺちゃんこになるやなんて、尋常なことやおまへんでっしゃろ?」
やはりその話かと千鶴は目を伏せたが、畑山は構わず話を続けた。
「しかも、その話は大阪の者は誰も知らんのやから、これは記事にするしかおまへんやん。せやから千鶴さんにお話聞かせてもらいたいて言うとりまんねん」
「なして千鶴なんぞ?」
「誰から話聞いたかは明かせまへんけど、千鶴さん、風寄のお祭り見に行って、そこでけったいな経験したんでっしゃろ? その話を聞かせてもらいたいんですわ」
「なして、お前にそげな話をする義理があるんぞ?」
甚右衛門が怒りを堪えているのが、千鶴にはわかった。けれども、畑山にはわからないらしい。
「別に義理はおまへんのでっけど、まぁ、聞いてくれまへんか。わてな、元は貸本屋やっとったんです。貸本屋はわかります? 本を売るんやのうて貸す店ですわ」
「わかっとらい、そげなこと」
甚右衛門が怒った口調で言っても、畑山は少しも堪えない。
いつの間にか、新吉が千鶴の傍で話を聞いている。弥七も確認作業の手が止まったままだ。しかし新吉が甚右衛門に叱られて動きだすと、弥七は慌てたように下を向いて作業を再開した。それでも弥七の目はちらちらと上目遣いに千鶴たちを見続けている。
残念そうに新吉を見送った畑山は話を続けた。
「そんで、わては大阪で貸本屋やっとったんでっけど、商売としてはまぁまぁ、いや、そこそこかな? いや、やっぱりまぁまぁか」
「どっちゃでも対じゃろが」
「ついとは何です?」
「同しいうことぞなもし」
千鶴の説明に、なるほどと畑山はうなずいた。
「田舎の言葉は面白いでんな。さよか、同じをついて言うんでっか。つい、忘れてしまいそうな……」
畑山はにやっとしながら甚右衛門と千鶴を見た。ところが、二人とも駄洒落に応じてくれないので、しょんぼりしながら、すんまへんと言った。
「そんで、その貸本屋でっけど、ちょっとヘマをやらかしてしもて、店が傾いてしもたんですわ。まぁいうたら、ついこないだの話です。ついいうても同じいう意味やおまへんで。そこでいろいろ考えて、この新聞を昔からの知り合いと始めましたんや。全部仲間内の手作りでっけど、やってみたらこれがまぁ結構人気出ましてね」
甚右衛門は黙っている。畑山は構わず喋り続けた。
「元々錦絵新聞は普通の新聞と違て、絵ぇがあってわかりやすいし、字も読みやすうてえらい人気があったんです。せやけど新聞の方も絵ぇ載せたり、漢字にふりがなつけたりし始めたんで廃れてしもたんですわ」
甚右衛門は自分は忙しいと言って、話をやめさせようとした。畑山は甚右衛門をなだめ、もう少しだけと言って話を続けた。
「とにかくでんな、いったんは廃れた錦絵新聞を、わてらは復活させよ思て始めたんです。けど、やっぱり大事なんは載せる記事や。新聞の真似事しよったら、すぐに廃れるんは目に見えとりますよって、記事は自分で探さなあきまへん。せやから、わてがあちこち走りまわって記事になる話を拾て来るんですわ」
「ほれで、こげな遠くまで来たんかな」
「何ぞええ記事はないかいなて思てたら、さっきのイノシシの話を思い出したんです。あの話聞いた時はまだ貸本屋しよったから、錦絵新聞は始めてなかったんでっけど、これは絶対記事にせないかんなとなってね。ほんでここへ来たいうわけですわ。せやけどあんまし銭はないから、道後温泉に入る余裕もおまへん。汚いぼろ宿で辛抱しながら、汗かき恥かきあちこちで話を聞いて廻っとるんでおます」
千鶴ににっこり笑った畑山の口元から、茶色い歯が愛嬌を振り撒いている。
「ご苦労なことやが、お前に聞かせる話はない」
甚右衛門は千鶴に奥へ入るよう命じ、畑山にはさっさと去ねと言った。
「ちょ、ちょっと待ってぇな。千鶴さん、ちょっとでええから、話聞かせてくれまへんか。わて、風寄で何があったんか知りたいんです。ほらこれ、そこで買うた饅頭。ない銭叩いて千鶴さんのために買うて来たんでっせ」
畑山が笑みを浮かべながら菓子折を掲げると、甚右衛門は顔をしかめた。
「そげな物で喋らそうとは、えらい見下されようじゃな」
「何言うとりまんねん。わては見下したりしとりまへん。ただ、銭がないんです」
「銭よこされても喋るかい」
再び甚右衛門に促されて、千鶴が土間の暖簾を持ち上げると、ちょうど蔵から戻って来た新吉と対面する形になった。
「千鶴さん、この人誰なん?」
新吉が小声で訊ねると、大阪の新聞記者だと千鶴は言った。その声が聞こえたらしく、新吉を見た畑山は得意げに胸を張った。それから千鶴に待つよう頼むと、甚右衛門に機嫌を伺いながら話しかけた。
「ほな、千鶴さんの前に旦さんにお話聞かせてもらいますわ。こないだも風寄で大事件がありましたでしょ? まるで、わてのために起きたみたいな事件が。それについて旦さんが知ってることを教えてもらえまへんか」
「大事件て何ぞ?」
「また惚けてから。ここの仲買人しよる人の家が化け物に壊された事件ですやん。旦さん、ご存知ないんでっか?」
「あれは突風で屋根が飛ばされたぎりぞな」
「ぎりて?」
甚右衛門がむっつりしているので、畑山は千鶴を見た。千鶴は甚右衛門を気にしながら説明した。
「だけっていう意味ぞなもし」
「だけ? だけがぎり? やっぱり面白いわぁ」
畑山は感心しながらうなずいた。
「ぎりいうたらね、義理深いわてはおにぎり千切りながら食うぐらい、時間も銭もぎりぎりなんです。ぎりぎり歯ぎしりしとなるほど焦っとる限りですわ。せやから千鶴さんぎりでも協力したってや。頼んます」
畑山はどこまで真面目に喋っているのかわからない。千鶴は畑山の駄洒落を聞き流したが、新吉はぷっと噴き出した。
「千鶴がお前に喋ることなんぞ何もない」
新吉の様子に笑みをこぼした畑山に、甚右衛門は冷たく言った。畑山は慌てて笑みを引っ込めると話に戻った。
「今言うた化け物が鬼やいう話もあるみたいでっけど、旦さん、風寄の村長はんに鬼よけの祠を造る銭を寄付したそうでんな。あれはやっぱり鬼を恐れてのことでっか?」
そんな話は千鶴は初耳だった。名波村の村長といえば、春子の父親だ。知らないところで、祖父は春子の実家へ連絡を取っていたのだろうか。
甚右衛門はうろたえながら、つかましいと怒鳴った。
「つかましい?」
「うるさいってことぞなもし」
説明した千鶴を、早く向こうへ戻れと甚右衛門は叱りつけ、新吉にもしゃんしゃん運べと声を荒らげた。新吉は急いで木箱を抱えると、蔵の方へ走って行った。続いて中へ入ろうとする千鶴を、畑山は焦った様子で呼び止めた。
「一つだけ教えてもらえまへんか? えっと、一つだけいうたら、一つぎりかいな」
ほうぞなもしと千鶴が言うと、ええでんなぁと畑山は茶色い歯を見せて笑った。
「千鶴さんの言葉、ほんま柔らこうてええわ。まぁ、それはともかく一つぎり聞きまっけど、千鶴さん、お祓いの婆ちゃんに鬼が憑いとるて言われたんは、ほんまでっか?」
千鶴の顔から血の気が引くと、甚右衛門は真っ赤な憤怒の形相になって立ち上がった。
畑山は咄嗟に甚右衛門に菓子折を差し出したが、甚右衛門はその菓子折を叩き落として土間へ飛び降りた。
殴られると思ったのだろう。畑山は両手を上げて身構えた。ところが、甚右衛門は畑山に背を向けて、店の奥へ入って行った。
弥七は見開いた目で畑山と千鶴を見ていた。知らない話と主の怒りように、何があったのかと驚き当惑している。
聞かせたくない話を弥七に聞かれた千鶴も困惑を隠せなかった。だけど、無神経な畑山に対して腹を立てると鬼が暴れる。千鶴は懸命に気持ちを落ち着けようとした。
その畑山は安堵の笑みを浮かべると、もったいないなぁと言いながら、潰れた菓子折を拾い上げた。そっと菓子折の蓋を開けた畑山は、中から形が崩れた饅頭を一つ取り出して口に入れた。
「うん、大丈夫や。まだいけるで。ほら、千鶴さんも食べてみ」
畑山は饅頭をもう一つ菓子折から取り出して、千鶴に渡そうとした。ちょうどそこへ戻って来た新吉は、口を開けながら畑山の饅頭を羨ましそうに眺めた。その時、店の奥から尋常ならぬトミの叫び声が聞こえた。
六
「そげなことしたらいけん!」
トミの声に驚いた千鶴が暖簾をのけて奥をのぞくと、猟銃を手にした甚右衛門が部屋から土間へ飛び降りたのが見えた。その後ろでトミが慌てて甚右衛門を止めようとしたが、甚右衛門は裸足のままこちらへ向かって来た。
仰天した千鶴は、いけんよ!――と叫び、甚右衛門の前に両手を広げて立ちはだかった。同じく驚いた新吉は一目散に店の表へ逃げ出した。
「いけんよ、おじいちゃん。そげな物持て来たらいけん!」
畑山は目を剥くと、千鶴の背中に隠れた。後ろから来る煙草の臭いが息苦しいが、ここは耐えるしかない。甚右衛門に押しのけられたら、山﨑機織はおしまいである。
千鶴は横目で弥七を見たが、弥七は固まったまま動かない。代わりに、トミが出て来て千鶴に加勢した。その後ろには花江がおろおろしながら立っている。
前後から押さえられて身動きが取れない甚右衛門を、千鶴は必死に説得した。その一方で、畑山には早く逃げるよう促した。なのに畑山は逃げないで、千鶴の肩越しに甚右衛門を刺激した。
「ちょっと鬼の話を聞きに来ただけやなのに、何でそこまで怒らはるんです?」
「やかんしい!」
甚右衛門がまた興奮して暴れたが、千鶴とトミに挟まれているので動けない。
トミは藻掻く甚右衛門を捕まえながら、何の話かと訊ねた。甚右衛門は畑山をにらみながら怒鳴るように言った。
「こいつは新聞記者で、千鶴が鬼と関係あるて記事に書き立てよとしよんぞ!」
「新聞やのうて、錦絵新聞ですわ」
黙っていればいいのに、畑山は甚右衛門の言葉を訂正した。
「ほうかな。ほんなら、あんたの好きにしたらええぞな」
トミが甚右衛門を捕まえていた手を離した。
花江は口を開けたまま目を大きく見開いた。甚右衛門も驚いた顔でトミを見た。そしてすぐに、ここぞとばかりに千鶴を押しのけようとした。
驚き慌てた畑山は、千鶴の動きに合わせて千鶴の背中に身を隠そうとしている。
「ち、ちぃと、おばあちゃん! 見よらんで助けて!」
千鶴の声が聞こえても、トミは惚けた様子で立ったままだ。
花江さんと叫ぶと、花江は慌てて甚右衛門を押さえようとした。しかし相手はここの主だし、歳は取っても男である。遠慮がちな花江では役に立たなかった。
焦った千鶴は弥七に助けを求めた。弥七は呪縛が解けたみたいに動きだすと、千鶴の傍へ来た。けれどどうすればいいのかわからず、おろおろしながら立つばかりだ。
甚右衛門が畑山を殴りつけろと命じると、トミは噛みついてやれと言った。千鶴は畑山を外へ逃がすよう頼んだが、弥七は誰の指示を聞くべきか迷っていた。しかし甚右衛門に怒鳴られると、弥七は畑山の腕をつかんだ。
「お願い、弥七さん。その人を逃がしてあげて!」
千鶴が懇願すると、弥七はわかったとうなずいた。
「こげな感じじゃけん、今日のとこはお引き取りを」
弥七はぼそぼそと畑山に声をかけると、畑山を外へ連れ出そうとした。
「その方がよろしいみたいでんな」
畑山も素直に従い、弥七と一緒に外へ出て行った。甚右衛門は興奮しながらもようやく奥へ戻ろうとした。トミもふんと鼻から息を吐くと背中を向けた。
千鶴と花江がほっとしていると、畑山がすぐに戻って来て千鶴に声をかけた。
「千鶴さん、また来ますよって。饅頭、ここ置いときますさかい」
畑山は潰れた饅頭の箱を帳場に置くと、千鶴に笑顔を見せた。
「二度と来んな!」
喚く甚右衛門を再び押さえながら、千鶴は弥七を呼んだ。後ろで弥七が畑山を追い払う声が聞こえ、甚右衛門は今度こそおとなしくなった。
新吉が恐る恐る店の中に入って来ると、トミは表に塩を撒いておくようにと命じて、奥へ戻って行った。甚右衛門も奥へ引っ込むと、花江もそのあとに続いた。
「弥七さん、だんだんありがとう。弥七さんがおらなんだら、この店はおしまいじゃった。助かったんは弥七さんのお陰ぞな」
千鶴が弥七の手を取って感謝すると、弥七は目を伏せて、ええんよと言った。うろたえてはいるが、千鶴を拒みはしない。手を握られた姿勢のままじっとしている。
千鶴はそんな弥七を見たのは初めてだった。少しまごついた千鶴は、手を離したあともその場を動けなかった。弥七も動かないので、二人は向かい合ったまま立っていた。
ちらりと千鶴を見た弥七が恥ずかしそうに笑ったので、千鶴も思わず微笑んだ。そこへ新吉が塩の皿を持って戻って来た。気恥ずかしくなった千鶴はうろたえて言った。
「ほんじゃあ、うち、お昼の支度するけん。急がんと茂七さんらが戻んて来るけんね」
あぁと弥七は小さくうなずいたが、何だか残念そうに見えた。
「うわぁ、雪や! 雪が降りよる!」
表に出た新吉が大きな声で叫んだ。表に目を遣ると、雪がちらついていた。近くの店の者たちも表に出て来て、初雪じゃと楽しげに空を見上げている。
新吉は塩を撒くのも忘れて、落ちてくる雪を追いかけた。その無邪気な姿は、とんだ騒動で気疲れした千鶴の心を、ちょっぴり癒やしてくれた。
千鶴が奥へ戻ると、トミが茶の間で何もせずに黙ったまま座っていた。甚右衛門もトミの横でこちらに背を向けたまま肩を上下させている。その脇には猟銃が転がったままだ。
花江は二人にお茶を淹れているところだったが、何があったのかを誰にも訊けず当惑しているようだ。
何とか畑山を逃がしたものの、畑山が何をしに来たのかを考えると、千鶴は暗い気持ちになった。せっかく新吉に癒やしてもらった気分もしぼんでしまった。
ふと勝手口へ目を向けると、孝平が顔を出して中をのぞいていた。
トミに対して啖呵を切って家を出るふりをしたものの、行く当てなどないのだろう。けれど中へ入ることもできず、誰かが声をかけてくれるのを待っていた。
恐らく孝平にも店の騒ぎは伝わったはずだ。何があったか今わからなくても、いずれは知れる。千鶴はますます暗い気分になった。
待ちわびた日
一
藪入りが終わると、千鶴は店に誰かが来るたびに、進之丞かと思って飛び出した。勢いよく出て来る千鶴を見ると、来客たちは一様に驚いた。
同業組合の組合長が顔を出した時、千鶴は煮物にする大根を切ろうとしていた。つい包丁を持ったまま飛び出したので、組合長は驚いて腰を抜かしそうになった。先ほど仕入れの絣が届いたが、千鶴はそれを運んで来た仲買人も驚かせたばかりだった。
帳場にいた甚右衛門は眉間に皺を寄せ、呼ぶまで出て来るなと千鶴を叱った。
弥七と亀吉は太物屋へ品納めに行き、孝平はトミの遣いで雲祥寺へ出かけている。新吉は仕入れた絣の最後の一箱を蔵へ仕舞いに行った。
残っているのは茂七だが、茂七は甚右衛門の向こうで、太物屋の注文書を確かめながら、肩を小さく震わせていた。千鶴の様子に笑いを噛み殺しているらしい。
包丁を持って何をしに出て来たのかと組合長に訊ねられ、千鶴は返事ができずに下を向いた。すると、惚れた男が来るのよ――と甚右衛門が言った。
千鶴は恥ずかしくなって店の奥へ逃げ戻ったが、後ろから組合長の大きな笑い声が追いかけて来た。
「また人違いかい?」
すごすごと戻って来た千鶴に、七輪に火を熾していた花江が笑いながら言った。
「呼ぶまで出て来んなて、おじいちゃんに叱られてしもたし、組合長さんに笑われた」
千鶴が口を尖らせると、当たり前ぞなと茶の間で繕い物をしているトミが言った。
「ちぃと、ここへ座りんさい」
トミは千鶴を呼んだ。お説教である。
千鶴はため息をつくと、板の間のまな板に包丁を置いた。それから茶の間に上がってトミの傍へ座った。蔵から戻って来た新吉が、何だろうという顔で二人を見ながら帳場へ行った。
「あのな、お前の気持ちはわかるけんど、もうちぃと落ち着かんかな。めんどしい」
トミにも叱られ、すんませんと千鶴は小さくなった。後ろは見えないが、絶対に花江が笑っている。
「うちらはお前を跡継ぎにとは思とるけんど、あの子をお前の婿にするとは決めとらんけんな」
「え? ほやけど、おじいちゃんが――」
焦って顔を上げた千鶴に、トミは言った。
「あの人は勢いで喋ることがあるけんな。ほれはお前かてわかっとろ? あの子を雇うとか雇わんとか、全部勢いで喋っとるけん、話半分で聞かんといけん」
確かに祖父にはそんなところがある。だけど祖父は千鶴の気持ちをわかった上で、進之丞を雇うと決めたのだ。
それに祖母だって、あの子がいなければ千鶴は死んでしまうと祖父に訴えてくれたのに、今更婿にしないとはどういうことかと、千鶴は不満げに黙っていた。
トミは千鶴の様子には構わず喋り続けた。
「あの子のことは、うちかてええ子やとは思とる。ほれに、お前の恩人でもあるわいな。ほんでも、男には甲斐性が必要ぞな。甲斐性のない男に、お前をやるわけにはいくまい」
「あの人は大丈夫やし」
むくれる千鶴に、さらにトミは言った。
「やってみんことにはわかるまい。人には向き不向きいうもんがあるけんな。とにかく先走ったことは――」
トミの言葉が終わらぬうちに、千鶴さんと叫びながら新吉が帳場から走って来た。
「千鶴さん、兄やんがおいでたよ」
新吉は興奮した顔で言った。千鶴は立ち上がると、ちらりとトミを見た。トミは苦笑し、行ておいでと言った。
土間へ飛び降りた千鶴は、草履も履かないまま新吉のあとに続いて店に出た。すると、帳場の脇に進之丞が立っていた。半纏を羽織った上に風呂敷を背負い、両手にも風呂敷包みを持っている。半纏を着ているからか、何だか懐がごわごわ膨れて見える。
千鶴は進之丞に飛びつきたかったが、必死に我慢した。甚右衛門の前だし、組合長もいる。ここは気持ちを抑えるしかない。
「千鶴さん、今日からお世話になりますぞなもし」
進之丞は頭を下げて、千鶴に挨拶をした。進之丞は今は忠之だと思い出した千鶴は、慌ててお辞儀を返して、こちらこそよろしゅうお願いしますと言った。
「お前さんが噂の色男か」
組合長がにやにやしながら進之丞に言った。
「もう恥ずかしいけん、やめておくんなもし」
顔の熱さを感じながら千鶴が言うと、わははと組合長は笑った。
「噂の色男?」
きょとんとする進之丞に、甚右衛門は苦笑しながら組合長を紹介し、この日の千鶴の様子を説明した。
戸惑った顔を向ける進之丞に、千鶴は目を合わせられず下を向いた。それで自分が裸足なのに気がつくと慌てて顔を上げ、隠れるはずのない足先をもぞもぞさせた。
「千鶴ちゃん、裸足なんか。余程嬉しかったんやな」
組合長に見つかって笑われると、千鶴は恥ずかしくて両手で顔を隠した。進之丞もどんな顔をしたらいいのかわからず当惑している。それがまた組合長の笑いを誘った。
「ほんじゃあ、わしはお邪魔なけん去んでこうわい」
組合長が笑いながら出て行くと、進之丞は照れた笑みを浮かべ、右手の風呂敷包みを甚右衛門に手渡した。
「これはおらのおとっつぁんが、旦那さんとおかみさんにこさえた物ぞなもし」
甚右衛門が包みを広げてみると、男物と女物の下駄が出て来た。どちらも桐でできた立派な下駄だ。
「鼻緒はおっかさんがこさえました。あとで、おらがお二人の足に合わせますけん」
進之丞が説明すると、甚右衛門は急いでトミを呼んだ。
「はいはい、何ぞなもし?」
少しもったいをつけて現れたトミは、甚右衛門に下駄を見せられると、あらまぁと言った。
「これは佐伯くんが持ておいでてくれた物ぞな。佐伯くんのお父さんがわしらにこさえてくんさったんよ。鼻緒はお母さんがこさえてくんさったそうな」
「え? ほんまかな?」
甚右衛門に手渡された下駄をトミは嬉しげに眺め、進之丞に礼を言った。そこへ後ろから花江が顔を出した。トミは自分の下駄と甚右衛門の下駄を、花江に自慢げに見せた。
へぇと花江がトミの下駄をしげしげ眺めていると、進之丞は左手の風呂敷包みを花江に手渡した。
「何だい、これは?」
「こっちはおっかさんがこさえた草履ぞなもし。女物の二つは花江さんと千鶴さんのお母さんで使てやってつかぁさい。男物は番頭さんが戻んたら渡してつかぁさい」
「え? あたしにまでくれるのかい?」
花江は嬉嬉として風呂敷を広げると、取り出した女物の草履を胸に抱いて小躍りした。
「幸子さんは今いないから、あとで戻った時に渡しておくよ。番頭さんのも、あたしがちゃんと預かっとくから」
こぼれる笑顔で花江が話すと、お願いしますぞなもしと進之丞は頭を下げた。
その横で新吉が羨ましそうに、ええなぁとつぶやいた。進之丞は背中の風呂敷包みを外すと、新吉に持たせてやった。
「これはな、おらがこさえた藁草履ぞな。こんまい方は新さんと亀さんので、大けな方は茂七さんと弥七さんのやけん」
新吉がいそいそと風呂敷を広げると、中からたくさんの藁草履が出て来た。大きいのと小さいのがあって賑やかだ。大喜びの新吉は風呂敷ごと藁草履を茂七にも見せた。
「こらまた丁寧にこさえとるなぁ」
茂七が大きいのを手にして感心すると、新吉も小さいのを手に取り、丁寧にこさえとらいと言ってみんなを笑わせた。
これで進之丞が持っていた風呂敷はすべて広げられた。なのに、千鶴にだけ土産物がなかった。
自分の履物を作るのを為蔵さんが嫌ったのかもしれないと、ふと思った千鶴は悲しくなった。けれど、そんなことを口にできるわけもなく、千鶴は何でもないふりをして微笑んでいた。しかし、土間に立つ裸足の足が悄気ている。
千鶴の足下をちらりと見た花江が、進之丞に言った。
「ねぇ、千鶴ちゃんには何もないのかい?」
「ええんよ、花江さん。うちは何もいらんけん。うちは佐伯さんがおいでてくれたら、ほれで十分なけん」
笑顔を繕いはしたものの、やはり寂しさは隠せない。思わず目を伏せた千鶴に、進之丞は膨れた懐に手を入れながら言った。
「しまいになってしもたけんど、これが千鶴さんの分ぞなもし」
進之丞が取り出したのは、油紙の包みだった。
「こがぁな所に入れとったけん、ちぃと汗臭なっとるけんど、包みの中は大丈夫ぞな」
みんなが見守る中、千鶴は受け取った包みをどきどきしながら広げた。中から出て来たのは桐の下駄だ。鼻緒の柄はトミの物よりも明るくて、若い娘にぴったりだ。
「こないだのお詫びに言うて、おとっつぁんがこさえよとしたんをな、無理こやりこ、おらにこさえさせてもろたんよ。鼻緒はおっかさんが選んでくれた。気に入ってもらえたらええけんど」
「気に入らんわけないやんか!」
千鶴は下駄を持ったまま進之丞に抱きついた。進之丞は慌てて千鶴をなだめ、うろたえながら甚右衛門とトミに頭を下げた。
甚右衛門はトミと顔を見交わして笑っていた。新吉は目を丸くして二人に見入り、花江が口を押さえながら、あらまと言うと、茂七は声を出して笑った。
千鶴が我に返って進之丞から離れると、甚右衛門は進之丞に言った。
「ここではみんな名前で呼んどるけん、佐伯くんのことも、初めは忠吉いうて呼ばせてもらうが、ほんで構んかな?」
はいと進之丞が答えると、うむと甚右衛門はうなずいた。
「もうちぃとしたら、外へ出とる連中も戻んて来るけん、みんなで昼飯にしよわい」
その前に――と下駄を抱いたトミが、笑みを消した顔で言った。
「ちぃと確かめさせてもらいたいことがあるんやけんど、構んかなもし?」
千鶴はどきりとした。祖母は何を確かめるつもりなのかと不安になったが、進之丞は少しも臆することなく平然とうなずいた。
二
奥の部屋へ進之丞を呼び入れたトミは、甚右衛門立ち会いの下、進之丞に新聞の記事や書物を読み上げさせた。進之丞は少しも詰まることなく、すらすらと読んだ。甚右衛門はうなずいたが、今度は字を書いてもらうとトミは言った。
硯と墨を受け取った進之丞は丁寧に墨をすった。その姿勢のよさには、甚右衛門もトミも感服した様子だ。
墨をすり終わると、進之丞は二人に代わる代わる言われた文字や言葉をさらさらと書いた。無学な者が書いたとは思えない美しさだ。
驚きを隠せない祖父母を見ながら、千鶴はこっそりほくそ笑んだ。進之丞は武芸だけでなく、教養も秀でていた。読書もたしなんでいたし、字を書かせれば達筆だった。
でも、次は算盤ぞなとトミが言うと、千鶴は少し心配になった。前世で進之丞が算盤が得意だったとは記憶にない。しかし、千鶴の心配は杞憂に終わった。
トミが次々に読み上げる数字を、進之丞は算盤を使わずに暗算で正解を出した。
信じられない顔をしている甚右衛門とトミに、自分は学校を出ていないので、知念和尚夫妻に徹底的に仕込まれたと、進之丞は説明をした。
甚右衛門とトミは満足げにうなずき合った。まずは文句なしの合格というところだろう。けれどトミはすぐに厳しい顔になって、進之丞に言った。
「商いする者が読み書き算盤はできて当たり前。商人にとってほんまに大切なんは、知恵と心構えと物事を決める覚悟ぞな」
甚右衛門も続けて言った
「商いしよったら、時には理不尽なことを言われ、足下を見られもする。どがぁにがんばっても、うもういかんこともあるが、ほれに耐えにゃならん。ほれは履物作りしよっても対じゃろけん、忠吉には十分そがぁな力があると、わしは見とる。ここでもぜひがんばってもらいたい」
甚右衛門自身が進之丞に理不尽なことをしたはずだが、進之丞は何事もなかったみたいに両手を突き、どがぁなことでもやらせていただきますと言った。千鶴にはそれが、自分と一緒になるための覚悟に思えて胸が熱くなった。
弥七と亀吉が太物屋への品納めから戻って来た。
弥七はいつもの素っ気ない態度で進之丞に挨拶をし、藁草履をもらったことに一応の礼を述べた。だが、進之丞を歓迎するという素振りは見せなかった。
一方、亀吉は進之丞が来たと知ると飛び上がって喜んだ。また、新吉に見せられた藁草履にも大喜びで、進之丞に何度も礼を言った。
雲祥寺から戻った孝平は、自分が知らない間にやって来た進之丞を見てぎょっとした。
甚右衛門は孝平を我が子とは言わず、丁稚の孝吉だと進之丞に紹介した。進之丞は少し驚いた顔を見せたが、すぐに礼儀正しく頭を下げた。
孝平は自分が丁稚であるのが引け目なのか、ちゃんとした挨拶もせずに、おうとだけ言った。同じ丁稚でも、年上の自分の方が上だと示したかったようだ。すぐさま甚右衛門に叱られて戸惑いを見せたが、孝平はじろじろと進之丞を観察した。進之丞が話に聞かされたように喧嘩が強いとは思えないのだろう。
「みんな忠さんに履き物もろたんで。ほら」
新吉が嬉しそうに自分の藁草履を孝平に見せると、亀吉ももらった藁草履を自慢した。
孝平は二人の藁草履をじろりと見ると、へっと言った。
「何じゃい、店の主にも藁草履かい」
ようやくけちをつけられる所を見つけたと思ったのか、孝平は小馬鹿にして笑った。ところが亀吉たちに反論され、甚右衛門とトミと千鶴には桐の下駄、幸子と花江と辰蔵には草履が贈られたと知った。真っ赤になった孝平は、自分の分は何かと進之丞を見た。
進之丞は気まずそうに頭を掻き、何も持って来なかった言った。
「おら、孝吉さんのことは知らんかったもんで」
孝平は憤慨したが、知らなかったのだから仕方がないと甚右衛門は進之丞をかばった。
「仮にお前の分があったとしても、丁稚のお前には藁草履ぞ。ほんでもお前は藁草履が気に入らんみたいなけん同しことじゃろがな」
傍を通りかかった茂七も、自分が履いた藁草履を孝平に見せて言った。
「あしはこれ気に入ったで。そこらで売っとるんよりかなり上等やで、これは」
何も言い返せない孝平はうろたえて目を泳がせたが、白けた顔の花江と目が合うと、逃げるようにその場を離れた。
みんなが揃ったところで昼飯となった。千鶴は何の疑いもなく、進之丞と一緒に食事ができると思っていた。それが実際に昼飯になると、千鶴の期待は裏切られた。
いくら千鶴と惚れ合っていても、進之丞は使用人である。まだ婿ではないのだから、千鶴たちとは食事は別だ。進之丞が飯を食べるのは、他の使用人たちと同じ板の間だ。
障子の向こうから使用人たちの話し声が茶の間に聞こえてくる。弥七の声はしないが、茂七と亀吉、新吉はずっと進之丞相手に喋り続けている。花江もそこに交ざって、板の間はとても賑やかだ。
孝平は甚右衛門の身内ではあるが丁稚扱いだ。そのため他の使用人たちと寝食をともにしている。孝平はそのことが不満だったが、三食を花江と一緒に食べられるので、仕方がないという顔で丁稚扱いを受け入れていた。もちろん、いずれは手代に昇格できると信じており、他の使用人たちに対して少しも遠慮がない。
花江にすれば食事の時間が苦痛らしく、何かと理由をつけては食事を始める時間をあとにずらし、できるだけ孝平と一緒に食べないようにしていた。しかし、この日の花江は初めから食事に交ざり、茂七たちと一緒に進之丞の話を聞きたがった。
孝平には面白くない状況であり、孝平はみんなの話に割り込んでは、進之丞の話の揚げ足を取ろうとした。けれど、孝平の言葉はすぐに他の者たちに否定された。ほとんどの者は進之丞の味方であり、進之丞の居心地はまずまずというところだろう。
そのことは千鶴を安心させたが、千鶴は花江が羨ましかった。せっかく進之丞が来てくれたのに、一緒に食事ができないのはとても悔しかった。しかもそれは今日だけでなく、これからずっと同じことが続くのだ。
千鶴が食事をしている茶の間の方は、板の間とは違ってひっそりしている。
甚右衛門もトミも元々無駄話はしないのだが、千鶴に本音を話してからは、いろいろ喋るようになっていた。しかし今日は二人は静かだった。忠之と一緒に食事ができない千鶴に、どう声をかけていいのか迷っているみたいだが、板の間の話に耳を傾けているようでもあった。
それでも千鶴の様子を見ていた甚右衛門たちは、代わる代わる千鶴に今後の話をした。これからの進之丞の扱いや、千鶴の心構えなどについてである。
女の仕事は家事ではあるが、店を継ぐ以上は商いのことをわかっている必要がある。商いを知れば、同じ仕事をするにしても、そこに込める気持ちが変わるというわけだ。
男は外に顔を向けて仕事をするが、そのためには中がうまくまとまっていなければならない。それが女の仕事であり、特におかみと呼ばれる者の責任となる。
普段は中の仕事をしていても、当主が何かを決断する時には、誰より信頼できる相談相手となるのがおかみである。時には男に代わって外の仕事ができるぐらいの逞しさや、状況に応じた気の利いた機転、迷う夫の背中を後押しできる心強さが、おかみには求められるのだ。
そんな話を甚右衛門とトミは千鶴に教えて聞かせた。千鶴も熱心に耳を傾けた。
祖父母の話は、いよいよ千鶴が店の跡継ぎになるのだと教えているようだった。二人の話を聞くほどに千鶴の気持ちは引き締まった。目先の仕事をこなすのではなく、先を見据えた仕事をしなければならないと、千鶴は胸に刻み込んだ。
山﨑機織の当主となった進之丞と二人で、この店を守りながら商いを繁盛させる。進之丞と一緒に食事ができない寂しさも、そんな将来の自分たちの姿を思い浮かべることでやり過ごせそうだ。
ただ、祖父母は進之丞がすぐに手代になるという話はしても、千鶴の婿にするとまでは言ってくれなかった。やってみなければわからないと思っているのかもしれないが、そういう方向で考えているぐらいのことは言ってほしいものだ。
それでも、とにかく念願の新しい暮らしが始まったのである。ここは小さな不満は呑み込んで、早く店を切り盛りできるようにならねばと、千鶴は自分を奮い立たせた。
といっても、相変わらず聞こえてくる楽しげな声は、話に交ざれない千鶴の心をわざと撫でて行く。それに耐えながら、千鶴は飯を口に入れた。
食事が終わると、甚右衛門は忠吉に街を案内するようにと千鶴に命じた。
本当ならば、進之丞にはすぐにでも仕事を覚えさせるところだろう。千鶴の気持ちを知っている甚右衛門の粋な取り計らいである。
思わず声を上げそうになった千鶴に、トミが多めの小遣いを持たせてくれた。正月が終わったばかりだが、千鶴の胸には早くも春が訪れたみたいだった。
三
以前に春子を案内したように、千鶴は進之丞をまずは大丸百貨店へ連れて行った。
普通の店とは異なる様子に進之丞は驚いていたが、目玉のえれべぇたぁには、千鶴の期待どおり子供のように喜んだ。
大丸百貨店のあとは勧商場へ行き、それから進之丞お待ちかねの陸蒸気の起点である松山停車場へ向かった。
松山停車場の駅舎は二階建ての大きく立派な建物だ。進之丞が感心しながら眺めていると、威勢のいい汽笛が聞こえた。進之丞は目を輝かせて千鶴を見た。
千鶴は進之丞を停車場へ誘った。勢いよく蒸気を吐き出す陸蒸気を見た進之丞はとても興奮し、いつかこれに乗ってみたいと言った。
必ず一緒に乗ると約束したあと、千鶴は松山停車場の向かいにある善勝寺へ進之丞を連れて行った。目的は前と同じ日切饅頭だ。けれど、春子と違って進之丞は日切地蔵を知っており、饅頭を食べる前に日切地蔵に手を合わせると言った。
日切地蔵に祈る時は、願いを叶えてもらう日を決めておく。それで千鶴は三年後の今日、自分たちが夫婦になっていますようにと祈った。
何故三年後なのかというと、進之丞が三年働き通せば、きっと祖父母が進之丞を婿として認めてくれると考えたからだ。
「千鶴は何を願たんぞ?」
進之丞に訊かれた千鶴は喋りたくて仕方がなかった。しかしその気持ちをぐっと抑え、内緒ぞなと言った。
「進さんこそ、何をお願いしたん?」
「決まっとらい」
「ほじゃけん、何?」
「お前の幸せよ」
不動明王にも願ってくれたのに、ここでも願ってくれたのかと千鶴は嬉しくなった。
「進さんと出逢て、こがぁして一緒におられるんじゃもん。おら、十分幸せぞな」
ほうかと微笑んだ進之丞の顔は、少し寂しげに見えた。
「進さん、やっぱし風寄のご両親が気になるん?」
「ん? 何でぞ?」
「何か寂しそうやったけん」
ほんなことはないと、進之丞は満面の笑みを見せた。
「あしかて、お前と一緒におられるんぞ。何も申すことはない」
「ほんまに? おら、嬉しい!」
千鶴は両手を合わせて喜び、さっきの話な――と言った。
「進さんがおらの幸せ願てくれたんは、いつのこと? ほれは今よりもっと幸せになるいうことじゃろ? ほれはいつなん?」
「ほれは、内緒ぞな」
「いや、気になるやんか。言うてや。いつなん?」
「ほやけん、内緒ぞな」
もう――とむくれる千鶴を見て、進之丞が笑っている。その笑顔を見ると、きっと進さんも対のことを願ってくれたんだと、千鶴は勝手に納得した。
日切地蔵に祈り終えたあとは、いよいよ目的の日切饅頭だ。
千鶴に茶店へ連れて行かれた進之丞は、目の前で焼かれる日切饅頭を見て、これは饅頭ではないなと言った。それでも美味そうな匂いに顔は綻んでいる。この饅頭は夏も美味いが、真冬の寒い時期にはこの温もりと香りは格別だ。
その温かい香りに引かれて来た客たちで、茶店の腰掛けは混み合っている。千鶴は店から借りたお盆にお茶と日切饅頭を載せると、人が少ない境内の隅の方へ移動した。
熱いからねと注意をしたのに、進之丞は渡された饅頭にかぶりついた。そして、あの時の春子のように目を白黒させながら、口をはふはふさせた。
けれども進之丞は慌てて水を飲んだりはせず、口の中でゆっくり餡を冷ました。そうしながら手に残った饅頭の中に、餡がぎっしり詰まっているのを確かめると、これで三個五銭は安いと言った。
千鶴が為蔵たちへの土産に持っていた日切饅頭も、進之丞は食べている。焼き立ても美味いし冷めても美味いと進之丞が絶賛するので、千鶴は嬉しさで胸がいっぱいになった。思わず口にした饅頭の餡が熱くて慌てると、進之丞が笑った。
「あらぁ?」
甲高い女の声が聞こえた。千鶴が声の方に顔を向けると、見慣れない女が感激した様子でこちらを見ている。
釣り鐘みたいな帽子に、耳を隠した短い髪。上と下が一つにつながった、水玉模様の妙な衣装は洋装だ。その衣装の上に羽織った上着は前開きだが、水玉模様の衣装には開く所がない。どうやって着るのかが不思議だけれど、とにかくこの辺りでは見かけない洒落た格好だ。
日本人ではないのかと思ったが、そうではないらしい。濃いめの化粧でわかりにくいが、歳は三十半ばぐらいだろうか。衣装の生地は薄くて少し寒そうに見えるが、本人は平気なようだ。
「ひょっとして、ひょっとして、ひょっとして」
女はそう言いながら、小走りに千鶴の傍へやって来た。
「あなた、山﨑幸子さんの娘さんやないん? 違う?」
「母をご存知なんですか?」
千鶴が驚くと、よーく知っとるぞなもしと女はにこやかに言った。
「うちは坂本三津子いうてね、あなたのお母さんがおった病院で看護婦しよったんよ。お母さんにはずいぶんお世話になってねぇ」
ほうなんですかと言ってから、千鶴は慌てて挨拶をした。
「山﨑千鶴と申します」
「ちづちゃん? どがぁな字書くん?」
「数字の千に鶴ぞなもし」
「千に鶴で千鶴ちゃんか。ええお名前じゃねぇ。うちが思たとおりの名前ぞな。ほれにしても、あなた、雪みたいに真っ白じゃねぇ。ほれに、よう似ぃておいでるぞなもし。まっこと真っ対やわぁ」
三津子の言葉に、千鶴の胸は弾んだ。
「父のこともご存知なんですか?」
「あなたのお父さん? ほら、知っとるわいね。あなたのお父さんはね、うちら看護婦仲間の間でも評判のええ男やったけんね」
三津子はにっこり笑うと、千鶴が持つ盆の上に一つだけ残っていた日切饅頭をひょいと手に取った。それは千鶴があとで進之丞に食べさせるつもりだった物だ。
あっと声を出す間もなく、三津子は美味そうに饅頭にかぶりつき、熱っ熱っ!――と騒ぎ立てた。
三津子は進之丞の湯飲みを取ると、急いでお茶を口に流し込み、またもや、あちちと慌てふためいた。口の周りは噴き出したお茶でべたべただ。
「水、水!」
千鶴が手水舎を指差すと、三津子はばたばたと走って行き、柄杓の水をがぶがぶ飲んだ。せっかくのお洒落な格好が台無しである。
ようやく落ち着いた三津子は、手に残った饅頭を少しずつかじりながら戻って来た。
「みっともない所を、お見せしてしもたわいね。まっこと恥ずかしいわぁ」
口では恥じ入っても、三津子の笑顔は恥知らずそのものだ。千鶴はいいえと言いながら、早くどこかへ行ってくれないかと考えていた。恐らく硬い表情になっていただろう。何せ、この女は進之丞が食べるはずの日切饅頭を勝手に食べてしまったのだ。
しかし三津子は少しも悪びれず、口をもぐもぐさせながら千鶴に訊ねた。
「お母さんは元気にしておいでるん?」
「お陰さまで」
千鶴は三津子の顔も見ずに、ぽそりと言葉を返した。
この雰囲気で相手が不愉快になっていると気づいてもよさそうなのに、三津子は話をやめない。
「ところで、こちらさんはどなた?」
進之丞に顔を向けながら三津子が言った。千鶴は渋々、今日から自分の所の店で働くことになった人だと説明した。
進之丞がぺこりと頭を下げると、三津子はまた千鶴に訊ねた。
「松山のお人?」
「いえ、風寄から出ておいでたんです」
「風寄……」
三津子は興味深げな目を進之丞に向けた。
「あなた、風寄はどちらからおいでたの?」
「ご存知か知らんけんど、名波村ぞなもし」
春子には名波村ではないと進之丞は言った。だけど、こう答えるところをみると、やはり山陰は名波村の一部らしい。
「あぁ、名波村ね。知っとるぞなもし。確か法生寺とかいうお寺があった所やった思うけんど、違たかしら?」
「いんや、合うとります。名波村にはおいでたことがおありなんかなもし?」
「ずっと昔に、ちょろっとおったことはあるんよ。ほやけど、そがぁに長にはおらんかったけん、ほとんど忘れてしもたわいね」
せっかく進之丞と二人きりだったのに、無神経な三津子に割り込まれた千鶴は、いらいらが募った。
「ほれにしても、あなた、えぇ男じゃねぇ。さぞかし女子にもてるじゃろに」
「いや、そがぁなことは……」
困惑する進之丞を見て、千鶴は三津子に声をかけた。
「あの、三津子さんは今も看護婦をしておいでるんですか?」
千鶴がいたのを思い出したように、三津子は千鶴を振り返った。
「今はね、しとらんの。病院の仕事が嫌になってしもたんよ。お母さんが千鶴ちゃん身籠もって病院辞めたあと、うちもすぐに病院辞めて東京へ出たんよ。お母さんのこと気にはしよったんじゃけんど、何も連絡でけんで申し訳ないて、ずっと思いよったんよ」
自分から訊ねた話だが、千鶴は何も言わなかった。三津子の気を進之丞から逸らさせるために話しかけただけであり、三津子の身の上話になど興味はない。それでも三津子は話を続けた。
「東京は賑やかじゃったけんど、苦労も多かったわいねぇ。その締め括りがあの大地震ぞな。うちはもうちぃとで命を落とすとこやったんよ。ほんで、やっぱし生まれ育った土地がええ思て戻んて来たんやけんど、まさかここで幸ちゃんの娘さんに会えるやなんてねぇ。今度はお母さんにも会いたいわぁ」
「母に伝えときますけん」
いらだちを抑えながら、千鶴は素っ気なく言った。
「お願いね。えっと、確かあなたのお家は紙屋町の――」
「山﨑機織いう伊予絣問屋ぞなもし」
「ほうよほうよ。絣問屋じゃった。いや、懐かしいわいねぇ」
三津子は指についた餡をしゃぶりながら言った。
三津子が全然離れてくれないので、千鶴は自分たちの方がこの場を離れることにした。二人ともまだ食べかけの饅頭が手に残っていたので、はしたないが歩きながら食べるしかない。
「ほんじゃあ、うちら、そろそろ去ぬりますけん」
千鶴が頭を下げると、もう行くのかと三津子は残念がった。
「もう店に戻って、仕事をせんといけんですけん」
「ほうなん。ほれは忙しいとこをお邪魔してしもて悪かったわいねぇ。ほんでも、うちには二人が逢い引きしよるみたいに見えたけん、声かけてしもたんよ。堪忍してね」
逢い引きと言われて、千鶴は顔が熱くなった。顔を見られたくないので、返事もそこそこに茶店に盆と湯飲みを返し、後ろを振り返りもせずにさっさと境内の外へ出た。
千鶴に遅れて出て来た進之丞は、そんなに怒るなと千鶴をなだめた。だけど、千鶴は腹の虫が治まらない。饅頭を食われたことにも腹が立ったが、逢い引きだと思いながら邪魔をしたというのが、余計に気に障っていた。
「何やのん、あの女! 進さんに思て残しよった日切饅頭、勝手に食うてしまうし、ちっとも気ぃ利かん!」
「饅頭なら、ちょうど一個ずつ食うた故、構ん構ん。ほれより、あの女子、何か妙に気にならい」
進之丞が振り返ると、気がついた三津子が笑顔で手を振った。仕方なく会釈をした進之丞は訝しげにしながら、気のせいかとつぶやいた。
四
三津子には店に戻ると言ったが、進之丞への街案内は始まったばかりだ。三津子に害された気分も、元に戻さなければならない。
千鶴は進之丞を湊町商店街へ連れて行き、あちこちの店をめぐりながら亀屋のうどんを食べたあと、大街道で活動写真を見た。
それは春子と歩いたのと同じ道のりだ。あの時の春子は本当に楽しそうだった。なのに、実際は喜んでくれていなかったのだと思うと、千鶴は少し悲しくなった。
しかし何でも珍しがり、活動写真に大興奮の進之丞を見ているうちに、春子との悲しい想い出は癒やされていった。
大街道の商店街を抜けたあと、千鶴は進之丞を歩行町へ連れて行き、祖父の実家を探した。かつて自分が養女として迎えられるはずだった家を一度見てみたかったのだが、進之丞も重見家を訪ねてみたいと思っていた。
前世に生きた時、千鶴を養女にしてもらうということで、進之丞は父忠之助と一緒に重見家へ挨拶に訪れていた。その時の記憶を頼りに歩行町を行ったり来たりしているうちに、進之丞は重見と書かれた門札を見つけた。
商家とは異なり、士族の家には門があって奥の敷地に家がある。そのため家に近寄ることは敵わないが、土塀越しに小さな屋敷を見た進之丞は、ここが重見家に違いないと言った。
「お前はここで武家の作法を教わり、そのあとあしと夫婦になるはずじゃった」
屋敷を感慨深く眺める千鶴に、進之丞は懐かしげに話した。
「重見殿はまこと懐の広いお方でな、あしのような若輩者にも丁寧に応じてくんさり、お前を養女にする話を快く引き受けてくんさった。まことにええお方じゃった」
昔を思い出しているのか、進之丞はじっと屋敷を見つめていた。
武家のしきたりのことはよく知らないが、進之丞が自分を嫁にするために、風寄からこんな遠い所まで来て骨折ってくれたことに、千鶴は有り難さと申し訳なさを感じた。また、そのために動いてくれた進之丞の父にも感謝の気持ちしか浮かばなかった。
進之丞は千鶴を見ると口惜しそうに言った。
「あしはお前がここの養女になる話を、すぐにでもお前に知らせとうてたまらなんだ。ほんでも、その前に父上と一緒に風寄の村々を廻らねばならなんだ故、すぐには戻れなんだんよ」
代官は村々の様子を見て廻るのも仕事だ。善二郎への挨拶を終えたあと、進之丞は父の仕事を覚えるため、父と動きを共にしたという。そのため進之丞が千鶴の元を訪ねることができたのは、重見家を離れてから一月ほどが過ぎた頃だった。そして、ようやく千鶴に逢えると思ったその日に、鬼が風寄を襲ったのである。
「もう一日早ように戻んておれたなら……」
進之丞は悔しげにつぶやくと唇を噛んだ。
一日早く戻ったところで鬼の襲来は防げない。結局は同じことになっただろう。それでも進之丞にすれば、養女の話を千鶴にできなかったことが残念で仕方がないようだ。
千鶴はしょんぼりする進之丞の腕に自分の腕を絡めて言った。
「おらのために、そこまでのことをしてくんさって、おら、感謝しとります。進さん、だんだんありがとうございました。おら、嬉しい」
進之丞は黙ったままなので、千鶴は尚も慰め励ました。
「前はうまくいかんかったけんど、今度こそおらたち夫婦になるんじゃけん、元気出しておくんなもし」
進之丞はやっと踏ん切りがついたのか、屋敷に向かって両手を合わせると、そろそろ行くかのと笑顔を見せた。
進之丞は歩きながら、何だか妙な気分だと言った。
もし前世で千鶴と夫婦になって何事もなく暮らしていたら、自分たちはどうなっていたのだろうと言うのだ。
明治になれば代官というお役目はなくなり、身分を失った他の侍たち同様に、他の職を得て暮らすしかなかったはずだ。恐らく何かの商売を始めたに違いないが、うまくいったとは限らない。
同じような歳であった甚三郎が、自分たちが生まれた頃には寝たきりになり、今は生きているかどうかもわからない。それは前世で何も起こらなかった場合の、自分たちの姿みたいだと進之丞は言った。
「こがぁして見れば、人とはいったい何なのかと考えたくならい。生まれて死に、また生まれて死に……。ほれを繰り返しながら、人の世は大きく変わっていく。これは何なのであろうな」
しみじみと話す進之丞が、千鶴にはとても大きく見えた。前世でも聡明だったが、さらに聡明さが増したようだ。
「おらにはわからんな。おらにわかっとるんは、世の中がどがぁに変わろうと、おらと進さんのつながりは変わらんいうことぎりぞな」
進之丞は千鶴を見た。その目が何故か悲しげだ。
「どがぁしたん? 進さん、何ぞ悲しいことでも思い出したん?」
「いや、何でもない」
進之丞は笑ってごまかしたが、千鶴は気になった。何が悲しいのか話してくれればいいのだけれど、心配させまいと思っているのか何も言ってくれない。
「なぁ、こっから札ノ辻まで電車で戻る?」
千鶴は進之丞を笑顔にしたくて提案してみた。すると千鶴の思惑どおり、進之丞はたちまち明るくなった。
「乗っても構んのか?」
「ほれぐらいの銭は、おばあちゃんからもろとるけん」
「まことか」
進之丞は山﨑機織に向かって両手を合わせると、千鶴に満面の笑みを見せて、では乗るかと言った。
生まれて初めて電車に乗った進之丞は、子供のように大はしゃぎだった。窓から見える景色を見ながら、おぉとか、うわぁと声を上げ、こっちに座ったかと思えばあっちに座り直すという感じで、千鶴は少々恥ずかしい気分だ。それでも進之丞が喜んでくれればと、進之丞に代わって他の乗客や車掌にこっそり頭を下げて騒々しさを詫びた。
札ノ辻で電車を降りた時、大満足の進之丞はまだはしゃいでいた。しかし電車が行ってしまうと、ようやく落ち着きを取り戻した。
「いやいや、実に愉快じゃった。千鶴、感謝するぞ」
急に大人に戻った進之丞を見て、千鶴はぷっと噴き出した。進之丞は眉根を寄せて、何がおかしいと言った。
「ほやかて、進さん、電車の中ではこんまい子供みたいじゃったのに、今は落ち着き払て、『いやいや、実に愉快じゃった。千鶴、感謝するぞ』て言うんじゃもん」
進之丞は困ったように首筋を掻くと、ええではないかと恥ずかしそうに言った。
「楽しいことに大人も子供もあるまい。楽しいもんは素直に楽しむんが一番ぞな」
「ほうじゃね。おらも楽しかった」
「じゃろ? あれは誰が乗っても楽しいもんぞ」
「ほやのうて、おらが楽しかった言うとるんは、大はしゃぎしよる進さんのことぞな」
進之丞は少し言葉に詰まったあと、もうよいと横を向いた。それから電車が去ったあとの線路を眺めて、真面目な顔で言った。
「あの電車は三津ヶ浜へ向かうようやが、人はこの先どこへ向こうて行くんじゃろな」
「ほれ、電車に乗る前に言いんさった話の続き?」
千鶴が笑いながら訊ねると、進之丞は少し憮然とした顔で、もう笑うなと言った。千鶴はごめんと謝ったが、笑いが止まらない。
先に去ぬるぞと言って進之丞が逃げるので、千鶴は笑いながら追いかけた。
五
紙屋町に並ぶ店は、どこも店仕舞いを始めていた。
表の掃除をしていた亀吉と新吉は声を揃えて、お戻りたかと千鶴たちに声をかけた。
二人に返事をしたあと、千鶴は隣の紙屋や近所の店の者たちに進之丞を会わせ、今日から働いてもらうことになったと話した。
進之丞はみんなに頭を下げて挨拶をしたが、多くの者が以前に大八車を引いて来た進之丞に、千鶴が泣きながら抱きついた場面を目撃している。にやにやしながら挨拶を返す者もいれば、よかったなぁと祝福する者もいて、千鶴は嬉しいやら恥ずかしいやらだ。
家に入ると、仕事から戻った幸子が花江と夕飯の準備をしていた。
進之丞が挨拶をすると、幸子は花江から受け取った草履のお礼を伝え、今日からよろしくお願いしますと頭を下げた。
進之丞は戸惑った様子で、あとで草履の鼻緒を合わせますと言ったが、幸子と目が合うと恐縮して下を向いた。
夕飯になると、また板の間は賑やかになり、みんなは千鶴とどこへ行ってきたのかと、進之丞を質問攻めにした。一方、千鶴も祖父母や母から、忠吉をどこへ連れて行ったのかと聞かれた。それで茶の間の方も賑やかになった。
千鶴が三津子のことを話すと、幸子はとても驚いて三津子に会いたがった。しかし、三津子の衣装の話を聞くと首を傾げて、そんな格好をする人ではなかったと言った。
東京の大地震で死にかけたらしいから、性格が変わったのかもしれないと千鶴が言うと、幸子は心配な顔を見せた。
母の様子が癪に障った千鶴は、あの女は佐伯さんに残しておいた日切饅頭を食べてしまったと愚痴った。その話に甚右衛門もトミも顔をしかめたが、幸子はさらに三津子を心配し、そんな人ではなかったのにと言った。
母が態度を変えないので千鶴はあきらめて、重見家の前まで行ったことを祖父母に伝えた。甚右衛門は驚き、よくわかったなと言った。進さんが覚えていたと言いそうになった千鶴は、その言葉を呑み込んで、門札に重見と書かれてあったと説明した。
納得した甚右衛門は、家の者には会ったのかと言った。会わなかったと答えると、甚右衛門はほっとした顔を見せた。
祖父の兄である大伯父はロシア人を憎んでいると前に聞かされたが、その大伯父が今も健在なのかはわからない。けれど、もし大伯父がいなかったとしても、ロシア人への嫌悪を家族が受け継いでいるかもしれず、祖父はそこを心配したらしい。
帰りに乗った電車の中での進之丞の様子には、みんなが笑った。笑いが終わったあとも、みんなの顔には笑みが残っていた。
一時はどうなるかと思われた進之丞だが、こうしてみんなに温かく迎えてもらえたことは千鶴を安堵させた。また自分も一緒に祝福されているみたいで、千鶴の胸は喜びでいっぱいだった。
夕飯のあと、銭湯で汗を流した進之丞を、千鶴は離れの部屋へ連れて行った。
行灯に火を入れた千鶴は、進之丞の継ぎだらけの着物を脱がそうとした。この日のために作っておいた着物を進之丞に着せてやるのだ。
進之丞は自分で脱ぐと言ったが、千鶴は女房気取りで脱がせてやった。すると、進之丞の右腰に大きな傷があり、血が流れている。
「進さん、これ何したん?」
千鶴は驚き、すぐにお医者を呼ばないととうろたえた。ところが進之丞は平気な様子で、これは傷ではなく赤痣だと言った。
「生まれつきの痣でな。みんな気味悪がるけん、お前にも見せとなかったんよ」
どう見ても刃物を刺されたような傷に見えるし、周りの小さな赤痣も傷から流れ出た血のようだ。銭湯でもみんなに驚かれたらしい。
千鶴は恐る恐る指で触ってみたが、少しもべたべたしないし指も汚れない。鼻を近づけても血の匂いはしなかった。
顔を上げると、進之丞が戸惑った笑みを見せた。ただでも差別を受けただろうに、この痣のせいで進之丞はどれだけ引け目を感じてきたのか。
千鶴は黙って進之丞の背中に抱きついた。進之丞は逆に千鶴を慰めるように千鶴の手に自分の手を重ねた。思いやりに満ちた部屋を静かに時が流れていく。
少しして体を離した千鶴は、進之丞に微笑みかけて新しい着物を着せてやった。このあと、茶の間で待っているみんなの前でお披露目だ。
帯を締めた進之丞の姿に千鶴はうなずいた。進之丞にぴったりだしよく似合っている。
進之丞は奴凧のように両手でそれぞれの袖の端をつかみ、嬉しそうに何度かくるくる回ってみせた。それから千鶴と向き合うと、千鶴を抱きしめて感謝を伝えた。笑っていたはずの進之丞は感激のあまり泣いていた。
千鶴は進之丞をなだめると顔を少し離し、目を閉じて唇を突き出した。ところが千鶴が期待するようなことは起こらなかった。
進之丞は千鶴から離れると、男のくせにまた泣いてしまったと、涙を拭いながら笑顔を見せた。そういうことではないでしょうにと、千鶴は心の中で文句を言うと、改めて進之丞にすり寄った。けれど、進之丞は着物を喜ぶばかりだ。
焦れったくなった千鶴は進さんと呼びかけ、もう一度目を閉じて唇を突き出した。
何かが唇に触れたので目を開けてみると、触れていたのは進之丞の指だった。千鶴の口を指で押さえながら、進之丞はにっこり笑った。
「そがぁなことは、旦那さんやおかみさんに認められてからぞな」
「え? ほやかて――」
「どこで誰に見られとるかわからんぞ。不真面目な奴じゃて思われたら、何もかんもおしまいぞな」
そんなことを言うのなら、この離れの部屋に二人きりでいること自体が不真面目だ。だが、進之丞は言った。
「他の使用人らから見て、示しがつかんことはやってはいくまい? 今日は二人で街に行かせてもろたんじゃ。あとは辛抱せんとな」
言われることは尤もだ。だけど今は誰もいないし、ちょっと唇を重ねるだけである。
「進さん、真面目過ぎらい。前はそこまで真面目やなかったやんか」
「前は前。今は今ぞな。今は旦那さんやおかみさんの期待に応えにゃならぬ」
そこまで言われては返す言葉がない。千鶴はあきらめて進之丞に従うことにした。進之丞の真剣さを思うと、自分の態度が恥ずかしかった。
千鶴は気持ちを入れ替えて進之丞に言った。
「進さん、いよいよじゃね」
「ん? あぁ、いよいよじゃな」
何だか気のない返事に千鶴は力が抜けた。進之丞が真剣だと思ったから自分の態度を反省したのに、進之丞は他のことでも考えていたらしい。
「進さん、何を考えておいでるん?」
「いや、別に何も」
「嘘や。何か考えよったぞな」
苦笑した進之丞は、やっぱし信じられんのよと言った。
「信じられんて、おらと夫婦になるんが? ほれとも、このお店を継ぐこと?」
「どっちもぞな。あしには、ほのどちらも受ける資格がない」
「また、そがぁなこと言うて。進さん、おらに泣いてほしいん?」
千鶴が泣く真似をすると、進之丞は慌てた。
「やめてくれ。お前に泣かれるんは死ぬるよりつらいけん」
「ほれじゃったら、もう悪あがきせんで、素直に自分の定めを受け入れてや」
「定めなら受け入れるが、これが定めやとは……。いや、待て待て。泣くな。泣いたらいけん」
「ほやかて、進さん、おらと夫婦になれるて喜んでくれんのじゃもん……」
べそをかく千鶴に詫びながら、進之丞は千鶴と夫婦になれるのであれば、他に何も望むものはないと言った。
「ほれやったら、もう余計なことは考えんで、おらと夫婦になるんが定めなんじゃて、素直に受け入れてや」
「わかった、相わかった。もう何も申さぬし、お前が申すことに逆ろうたりせん」
「ほんまに?」
「ほんまほんま」
わざとらしくうなずく進之丞に、ほんじゃあと千鶴は目を閉じ、唇を突き出した。けれど進之丞が何もしないので、千鶴は片目を開けて、逆らわんのじゃろ?――と言った。
再び千鶴が目を閉じると、進之丞はこほんと咳払いをしてから、千鶴を抱きしめた。心も体も温もりに包まれる中、千鶴の唇に進之丞の唇が重なった。千鶴は幸せで溶けてしまいそうだった。
進之丞が離れると、千鶴は辺りを見まわしながらつぶやいた。
「おら、幸せやけんど、幸せやないけん。おら、幸せやけんど、幸せやないけん」
「何を申しておるんぞ?」
進之丞が訝しげに声をかけると、千鶴は照れ笑いをした。
「鬼さんに言うとるんよ。こがぁ言うとかんと、鬼さん、おらから離れてしまうけん」
「お前という奴は……」
進之丞が言葉に詰まって涙をぼろぼろこぼしたので、千鶴はしまったと思った。進之丞の前で鬼の話をする時は気をつけると決めていたのに、幸せ過ぎてうっかりしていた。
千鶴は慌てて進之丞を慰め、みんなに晴れ姿を見せようと、進之丞を部屋の外へ誘った。そうしながら、千鶴はどこかで泣いている鬼を思いやったが、これは思った以上に大変かもしれないと考えていた。
送られて来た錦絵新聞
一
進之丞は亀吉たちと同じ丁稚扱いで仕事を始めた。
丁稚の仕事は荷物運びばかりではない。朝に井戸から汲んだ水を台所の水瓶に貯めるのも仕事だ。これまで亀吉と新吉が二人で水汲みをしてきた。今月から孝平が丁稚に加わっているが、孝平は水汲みが終わった頃に起きて来るので、亀吉たちはいつものように二人で動いていた。
しかし進之丞は亀吉たちに指導を仰ぎ、二人と一緒に起き出して水汲みをした。いつもなら二人が水桶を一つずつ繰り返し運んだが、進之丞は一人で二つ持って運ぶので水汲み作業はすぐに終わった。早速の進之丞の働きぶりに花江も幸子も喜び、千鶴は鼻高々だ。
わざと遅れて起きて来た孝平は、花江にじろりと見られると、朝寝坊をしたと言い訳をして、水汲みが終わったことを残念がった。
進之丞は次に何をするのかと、亀吉たちに教えを請うた。亀吉も新吉も威張ることなく、喜んで進之丞を表と帳場の掃除へ誘った。その後ろを花江の目を気にする孝平がついて行った。
朝は近所の者たちも店を開ける準備を始める。なので、表に出た亀吉たちは他の店の者たちと、互いに朝の挨拶をするのが毎日の習慣だ。ところが亀吉と新吉の話によれば、孝平は帳場の掃除ばかりをして表にはなかなか出ないらしい。表に出ても近所の者たちと目を合わせたりはせず、自分から挨拶することもないようだ。
一方、進之丞は誰に対しても笑顔で明るく挨拶をするので、近所の者たちから褒められたそうだ。始めたばかりの仕事はどうかと訊ねられると、進之丞は亀さんと新さんに教えてもらっているので大丈夫と答えたという。自分たちのことをそんな風に言ってくれたと、亀吉も新吉も大はしゃぎだ。
だが千鶴とのことを訊かれると、進之丞もさすがに返事に困って大笑いされたそうだ。それは千鶴にしても同じなのだが、からかわれるのは祝福されているということだろう。
板の間の賑やかな朝飯が終わると、すぐに県外へ送る品を蔵から運び出す作業だ。前の日に用意した木箱を亀吉たちは一つずつ運んだが、進之丞は一度に三箱を軽々と運ぶので、運び出し作業も時間がかからなかった。
その品を載せた大八車を古町停車場まで引くのも進之丞だ。進之丞一人でも十分な仕事だったが、亀吉と新吉が後ろを押した。これをしないとすることがなくなるし、とにかく二人は進之丞の傍にいたがった。
店に残った孝平は、街の太物屋へ届ける品を蔵から運び始めた。花江にいい所を見せたかったのか、孝平は一度に木箱を二つ抱えて運ぼうとした。渾身の力を込めた顔で一歩ずつよたよた進んだが、勝手口の敷居に足を取られて危うく転びかけた。近くにいた千鶴が咄嗟に支えたので事なきを得たが、転べば反物の箱が壊れたかもしれなかった。
孝平一人で二つの木箱を運ぶのは無理のようなので、一つは千鶴と花江が引き受けて帳場まで運んだ。甚右衛門は忙しい女二人に手伝わせたと孝平を叱りつけたが、運んで来たのが別の箱だったので、孝平はさらに強く怒られた。
孝平の仕事は、進之丞たちが古町停車場から戻ってもまだ終わっていなかった。そこで進之丞が手伝うと、作業はあっという間に終わってしまった。
いつもより仕事が早く終わると余裕ができる。少し他愛のない話ができて亀吉たちは楽しそうだ。孝平は隅の方でしょぼくれていたが、進之丞がうまく話を振ったので、偉そうにしながらもみんなの会話に交ざった。
そんな進之丞を見て、さすがだと千鶴は思った。前世でも進之丞は千鶴が村の子供たちと一緒に遊べるように取りなしてくれた。あの頃と変わらない進之丞が千鶴は嬉しかった。
しばしの休息のあと、進之丞は茂七と一緒に大八車を引いて、太物屋へ注文の品を届けに出ることになった。茂七の手伝いというより、茂七の仕事を見て覚えるためらしい。
進之丞が外廻りに出ると聞いた千鶴は掃除の手を止めて、雑巾を持ったまま見送りに出た。
さっきも古町停車場まで大八車を引く忠七を見送りに出たのにと茂七に笑われると、進之丞は一々出て来なくてもいいと千鶴に言った。けれど、太物屋へ行くのと古町停車場へ行くのとは違うと千鶴は言い張った。
とにかく今日進之丞がすることは全部が初めてなのだから、何をやっても進之丞の晴れ舞台である。千鶴としては祝福と期待の気持ちで送り出したかった。ただ近所の者に冷やかされると、少々恥じ入る気持ちにはなった。
付き合いのある太物屋には前もって注文を取り、あとでその品を届けて廻る。しかし予想外に絣が売れて、次の納入まで待てずに品を注文しに来る店もあった。また普段の付き合いがない店が、いつもと違う品を求めてのぞきに来ることもある。
手代になると、そんな来客の注文に応じた品を、即座に選んで出せなければならない。そのためには数多くある仕入れ先の絣の品質を、事細かに覚えておく必要がある。丁稚は長い時間をかけて、少しずついろんな知識を頭に入れるが、進之丞はできるだけ早くすべてを覚えなければならなかった。
進之丞が太物屋から戻ると、甚右衛門は進之丞に取り敢えずのことを教えた。進之丞は少しでも手が空くと、教えられたことを覚えるのに時間を費やした。
懸命に学ぶ進之丞の姿に触発されて、亀吉や新吉が必死になって勉強を始めると、物臭の孝平も少しはやる気を出した。けれど物覚えが得意でない孝平は、年下の亀吉たちが自分より知識があるのが癪に障るようだ。すぐに腹を立ててはトミに叱られていた。
一方、進之丞の手代昇格に不服がある弥七は、亀吉たちまでもが追い迫って来ると思ったのか、妙に焦った感じで仕事に精を出した。
孝平はともかく店の活気づいた雰囲気に、甚右衛門もトミも大いに満足している様子だ。
二
昼飯が終わると、茂七と弥七は注文取りに出かけた。進之丞も仕事を覚えるために、茂七について出た。当然、千鶴はこれも見送りに出て茂七に笑われた。
帳場では甚右衛門が他の丁稚たちに、商いについて講義をした。その中には孝平も入っている。
亀吉と新吉は主の話を真剣な眼差しで聞いた。孝平も一応は真面目に話を聞いていたが、その表情を見ると、どこまで話が理解できているかはわからない。
作五郎がさじを投げた以上、今更ではあるが甚右衛門は自分で孝平を育てるしかない。話しかけながら甚右衛門が孝平に向ける目には、何とか育ってほしいという切ない期待のいろがある。だが孝平はそれすら気がつかないようだ。
祖父母からおかみの心構えを教えられた千鶴は、厠の掃除にも自然と気合いが入った。厠の掃除は好きではないが、進之丞も将来に向けてがんばっているし、自分はおかみになるんだという気持ちが、余計なことを考えさせなかった。
掃除が終わって、きれいな仕上がりに我ながら満足した千鶴は、使った雑巾を奥庭で洗った。冷たい水に手がかじかむが、今日はそんなことも気にならない。
すると、店の方から聞き覚えのある甲高い声が聞こえた。
「もうし、こちら山﨑機織さん?」
千鶴は思わずぞわりとした。坂本三津子だ。
勝手口へ行って中をのぞいてみると、茶の間で縫い物をしていたトミも、板の間で洗濯物を畳もうとしていた花江も、聞き慣れない女の声に店の方へ顔を向けている。
店と家の間には暖簾が掛けられているので、帳場に立つ者の顔は見えないが体は見える。丁稚たちの向こうに例の変わった衣装姿を見つけると、千鶴は全身に鳥肌が立った。
甚右衛門が何の用かと聞いた。三津子の風体から客ではないと判断したようだ。しかし三津子は甚右衛門の言葉を聞き流して、坊らにお土産があるんよと言った。
「うわぁ、だんだんぞなもし」
新吉の嬉しげな声が聞こえた。坊というのは新吉たちのことらしく、新吉は三津子から何かをもらったようだ。続けて亀吉も何かをもらって明るく礼を述べた。
「あらぁ、ごめんなさいね。日切饅頭、確か三つあるて思いよったのに二つしかなかったわ。あのお店、一つごまかしたんじゃね。まっことひどい店ぞな」
意地汚い三津子のことだ。どうせ一つはここへ来る途中で自分で食べたに違いない。
貧乏くじを引かされたのは孝平らしい。えぇ?――と孝平の悲しげな叫びが聞こえた。きっと日切饅頭をもらった二人を、妬んだ目でにらんでいるのだろう。
「ええ歳してそがぁな物欲しがるな。そげじゃけん、手代になれんのぞ」
甚右衛門のいらだった声が聞こえた。自分だけ饅頭をもらえず、目をきょときょとさせている孝平の様子が目に浮かぶ。
「さっきも訊いたけんど、何の御用かな? うちは小売りはしとらんのやが」
甚右衛門の声だ。続けてすぐに三津子の声。
「幸ちゃん、おいでます? うちは幸ちゃんと同し病院で看護婦しよった、坂本三津子ていうんぞなもし」
「幸ちゃん? 幸子じゃったら、今はおらん。また病院で看護婦しよるけんな」
甚右衛門は素っ気なく言った。その口調には、さっさと帰れという響きがある。だけど、三津子にそんなのは通じない。
「あらぁ、ほうなんですか。ほれは残念やわぁ。こないだ善勝寺で千鶴ちゃんにお会いしましてね。幸ちゃんの話で盛り上がったもんじゃけん、幸ちゃんに会いとうて辛抱できんなったんぞなもし」
三津子との話なんか一つも盛り上がってはいない。よくもまぁこんな適当なことを平気で喋れるものだと、千鶴は呆れて聞いていた。
トミと花江は作業を再開しているが、二人とも聞き耳は立てている。
「とにかく、あいつはここにはおらん。戻んて来るんも日暮らめぞな。会いたいんなら日曜日に来るがええ。日曜じゃったら病院も休みじゃけんな」
「ほうですか。おらんもんは仕方ないわいねぇ。ほれじゃったら、千鶴ちゃんはおいでます?」
千鶴はどきりとしたが、甚右衛門は千鶴もいないと言った。それでほっとしたのも束の間、三津子の声が千鶴を慌てさせた。
「ほんじゃあ、中で待たせてもらおうかしら」
暖簾の下で、こちらを向いた三津子の体が、丁稚たちを押しのけようとするのが見えた。千鶴は持っていた雑巾を放り出すと、ばたばたと裏木戸から外へ逃げ出した。だけど、外へ逃げただけで行く当てはない。かといって、しばらく家には戻れないし、ここにいたら外に出て来た三津子に見つかってしまう。
店の方には行けないので、千鶴は店とは反対側の北へ向かおうとした。とにかく、ここから離れなくてはならなかった。
すると、すぐ先の辻を外套を羽織った洋服姿の男が、あたふたと横切るのが見えた。
ぎくりとして千鶴が立ち止まると、男はすぐに戻って来て、辻の真ん中で疲れたように立ち尽くした。やがて男は白いため息をつきながら、千鶴の方を振り返った。やはり男は畑山孝次郎だった。
畑山は千鶴に気がつくと満面の笑みを見せた。前門のトラ、後門のオオカミである。
「これはこれは。こんな所で千鶴さんにお会いできるやなんて、これは絶対、神さまのお引き合わせやな」
畑山が近づいて来たので、千鶴は店の方へ逃げようとした。畑山は慌てて追いかけながら、大きな声で千鶴を呼んだ。
「ちょっと、千鶴さん、待ってぇな。千鶴さんてば!」
大声で名前を呼ばれては、三津子に聞こえてしまう。千鶴は立ち止まると、くるりと向きを変えて畑山の所へ駆け戻った。
「あら、戻って来てくれはったん。やっぱり千鶴さん――」
千鶴は喋る畑山の手をつかむと、そのまま走って先の辻を左へ曲がった。そこなら家から見えることはない。
「待って……。ちょっと待って……。わて……、あんまり走るんは……、得意やないよって……」
苦しそうにしながら畑山が言った。千鶴は走るのをやめると、畑山から手を離した。
畑山は腰を曲げ、両手を両膝に突いた格好で、しばらく息をついていた。はぁはぁと白い息が尽きることなく吐き出される。これぐらいでこんなに息が切れるなんて、余程体力がないと見える。
本当なら千鶴は畑山にも近づきたくはなかった。畑山が大声を出さなければ、紙屋町の通りを大林寺の方へ逃げるつもりだった。今からでも逃げればいいのだが、畑山があんまり苦しげなので心配になっていた。
「畑山さん、大丈夫ぞな? うち、そがぁなるほど走ったつもりはないけんど」
はぁはぁしながら畑山は、斜めに上げた顔で千鶴を見ると、にやりと笑った。
「千鶴さん、わての名前、覚えててくれはったんや。嬉しいわぁ」
畑山は煙草のヤニだらけの歯を見せて笑った。吐き出す息が煙草の煙のように臭い。
千鶴が背中をさすってやると、畑山は気持ちよさそうにしていたが、やがて体を起こすとぺこりと頭を下げた。
「まずは、ありがとさんでおます。こないだは旦さんに撃ち殺されるとこを助けてもろて、今日もまたえらい気を遣てもらいました」
仕事は何か怪しいが、畑山の人柄は悪くはなさそうだ。少し気を許した千鶴は、さっきは何をしていたのかと畑山に訊ねた。
「さっきというと?」
「この道を行ったり来たりしておいでたでしょ?」
見てはったん?――と畑山は恥ずかしそうに右手で頭をぽんと叩いた。
「いや、えらいとこ見られてしもたな。わて、怖い顔してましたやろ?」
「いえ、そこまでは……。ほんでも、何か慌てておいでたみたいには見えたぞなもし」
「こないだも言うたけど、千鶴さんの言葉、柔らこうてええでんなぁ。もう、言葉に人柄が滲み出てるわ」
褒められているのか、ごまかされているのかよくわからない。できれば話したくないのだろうかと千鶴が黙っていると、少しして畑山は言った。
「さっきはね、ちょっと探しとった奴を見かけたんで追いかけよったんですわ。せやけど、うまいこと撒かれてしもて、くそって思とったら千鶴さんが現れたというわけや。せやからね、きっと神さんが、わてを千鶴さんに引き合わせるために仕組んだことやて、今はこない思とりまんねん」
大阪から遠く離れた松山で探していた相手を見つけるなんて、俄には信じられない話だが、畑山の話しぶりでは人違いだったようだ。
「お話、聞かせてもろてもよろしいやろか?」
改めて逃げることもできないので、千鶴は黙って歩いた。畑山も千鶴のあとをついて来る。千鶴が喋ってくれるのを根気よく待つつもりらしい。
道の突き当たりは阿沼美神社で、境内には幼稚園がある。入れるのは裕福な家の子供だけだ。境内にはたくさんの幼子たちがいたが、その中の一人が外へ抜け出して来た。先生は気がついていない。
千鶴は子供に近寄ってしゃがむと、境内に戻るよう話しかけた。すると、子供は見慣れない千鶴に怯えたのか、固まったあと泣きだした。泣き声を聞いて他の子供たちが駆け寄って来たが、千鶴を見るとみんな驚いた顔になった。
中には千鶴を知っている子供もいて、そのことを他の子供たちに伝えたが、その言葉が千鶴を深く傷つけた。
「このひとね、にっぽんのてきなんよ」
きっと親がそんな風に子供に教えているのだろう。子供にこんなことを言われて悲しくないわけがない。千鶴が何も言えずにいるのを見て、畑山は子供に注意をしようとした。すると、その子をどうするつもりかと言いながら女の先生がやって来た。先生は千鶴を見るなり、ぎょっとした顔になって声を荒らげた。
「さっさとその子から離れなさい! 離れんのなら警察呼びますよ!」
「ちょっと、あんた。いきなり何言うてまんねん。千鶴さんは、この子を――」
たまらず畑山が文句を言ったが、ええんですと千鶴は遮って言った。
「この子が外へ出て来たもんで、中へ戻るように言うてたぎりですけん。ほんでもご迷惑おかけしてしもたみたいで、すんません」
千鶴が頭を下げると、女の先生はつんと横を向いた。それから、変な人に近づいてはいけないと注意しながら、子供たちを連れて行った。
ぽつりと残された千鶴に、畑山が遠慮がちに声をかけた。
「大丈夫でっか、千鶴さん」
千鶴はにっこり微笑んでみせると、いつものことぞなもしと言った。
「いつものことて――」
畑山は言葉が続かず、向こうへ行った子供たちを見遣ると、悲しそうに千鶴を見た。
三
日曜日に三津子が再び訪ねて来ると、幸子は喜んで外へ出て行った。
先日は、やはり三津子は強引に家の中へ入って来たらしい。しかしトミが一喝したので、渋々退散したということだった。それで三津子を一歩も中へ入れてはならないと、トミの厳命が下されて、幸子は外で三津子と会うことになったのである。
どうして母が三津子と親しくなったのか、その理由を千鶴は聞いている。
母が身籠もった時、そのことが周囲に知れると、母は病院を辞めざるを得なくなった。誰もが責めるような眼差しを向ける中、三津子だけが母をかばい、母の味方になってくれたそうだ。
言われてみると、あの型破りな性格だからこそ、敵兵の子供を身籠もった母をかばえたのかもしれない。関係のない者には嫌な人間に思えても、落ち込んでいた母からは地獄に仏のごとく見えたのだろう。
母の話を聞き、千鶴は母と三津子の仲を理解した。だけど、自分が三津子と親しくするのは無理だと思った。
千鶴は進之丞と話がしたかった。せっかく同じ屋根の下で暮らすことになったのに、二人だけで喋る機会がない。家族に内緒で畑山の取材に応じたことや、三津子と母の関係を進之丞に聞いてほしいのに、なかなか敵わない状況だ。
進之丞は毎日動きまわっているし、動いていない時には商いの勉強をしていた。ちょっとした会話ならできても、二人でゆっくり話をする暇はない。一休みしていると思っても、必ず他の者が近くにいる。とても二人だけの話などできそうにない。
丁稚扱いのうちは、進之丞に休みはない。手代になれば月初めに休みがもらえるが、使用人でない千鶴には、逆に休みがない。使用人が休みの日は女中の花江も休むので、千鶴はいつも以上に忙しくなる。トミが手伝ってくれても、食事の用意、洗濯、掃除、買い物などを、基本的には千鶴一人でやらねばならない。
要するに進之丞が手代であろうとなかろうと、二人で落ち着いて喋る暇など、夫婦になるまでは作れないのだ。今にして思えば、進之丞が来た日に祖父が二人で街へ出してくれたのは、こうなることがわかっていたからに違いない。
進之丞と夫婦になれるよう日切地蔵にお願いしたのは三年後だ。つまり、三年は今みたいな状態が続くのだ。お願いは一年後にしておけばよかったと、千鶴は深く悔やんだ。
それはともかく、進之丞はまずまずの滑り出しである。その人柄と働きぶりは日を追うごとに周囲から認められ、そのことは千鶴を喜ばせた。
尤も、すべての人間が進之丞を認めているわけではない。孝平は何かと進之丞のやることにけちをつけるし、弥七は進之丞に対して不親切だった。
けれど進之丞は二人のことをまったく意に介さず、明るく仕事に励んだ。そんな進之丞を花江はべた褒めするし、甚右衛門とトミも大きく評価していた。しかし、進之丞を高く評価したのは甚右衛門たちだけではなかった。
ある朝、進之丞が亀吉たちと県外へ送る品を古町停車場まで運んでいる間に、茂七が奥庭にひょっこり顔を出した。
奥庭では千鶴と花江が洗濯の準備をしていた。茂七は二人を見つけると近くへ来て、出先での進之丞の受け具合を二人に聞かせた。
「行く店、行く店でな、忠吉は独り身なんか、うちに可愛い娘がおるんやがて言われるんよ。あしなんか、いっぺんもそがぁなこと言うてもろたことないのにな」
花江は当然という感じでうなずいた。
「そりゃあ、言われるだろうねぇ。忠さん、男前で優しいし、いろいろ気配りもできる人だもん。そう言われないほうが不思議さね。あれで喧嘩も強いってわかったら、廻る先々で無理やりそこの娘とお見合いさせられちまうよ」
二人にすれば進之丞を褒めているつもりでも、千鶴は喜んで聞いていられない。
「ほれで茂七さん、お店の人らに何て言うたん?」
真顔で訊ねる千鶴に、茂七はさらりと言った。
「ほら、ちゃんと正直に言うたがな。この男は独り身ぞなもして」
えぇ?――と千鶴が悲痛な叫びを上げると、ほやかて仕方ないやないかと茂七は楽しげに言った。
「あしらは忠吉が千鶴ちゃんの婿さんになるとは、聞かされとらんのやけん」
「ほんでも、もうちぃとうまいこと言うてくれたらええやんか」
「たとえば、どがぁに言うんぞな?」
「たとえば、えっと……、この人にはもう心に決めた女子がおるらしいで――とか」
「そがぁなこと、本人から何も聞いとらんのじゃけん、よう言わんで」
「ほんなん聞かいでもわかるやんか!」
まぁまぁと花江は千鶴をなだめると、茂七に訊ねた。
「それで、忠さんは何て言ったんだい?」
「今は仕事を覚えるのに必死やけん、他のことには目ぇが向かんて言いよった。けんど、ほれがまた向こうの旦那の気持ちをくすぐるみたいでな。仕事覚えたらいつでも娘に合わせるけん待っとるでて言うんよ」
茂七は喋りながら千鶴を横目で見た。
「うち、今度から一緒に外廻りについて行くけん!」
千鶴が半分本気で言うと、花江は驚いた顔で千鶴を見た。
「千鶴ちゃん、忠さんについて行って、お店の人たちに何て言うのさ? この人はあたしが見つけた男なんですって言うのかい?」
茂七がくっくっと笑っている。思ったとおりの千鶴の様子に笑いが止まらないようだ。
「そがぁなことは、あしが東京へ行ってからにしてくれな。ほんでも、案外人気が出るかもしれんで」
喋りながら笑っている茂七に、ところでさと花江は言った。
「茂さんはそんな話をわざわざ聞かせに、ここへ来たのかい?」
茂七は笑いを止めると、ほうじゃったほうじゃったと言った。
「ちぃと厠へ行こ思て来たぎりよ。ほしたら千鶴ちゃんがおったけん、言うてあげよて思たんやけんど、いけんいけん。早よ行かんとちびてしまわい」
茂七は慌てて厠へ向かった。
花江は茂七が千鶴をからかっただけだと言い、進之丞を心配する千鶴をなだめた。
「だけどさ、それだけ忠さんがみんなから気に入られたってことなんだから、いいことじゃないか。それに忠さんは浮気するような人じゃないだろ?」
千鶴がうなずくと、だったら何も心配いらないよと花江は笑った。それでも、まだ千鶴がそわそわしていると、忠さんが信じられないのかいと花江に活を入れられた。
「忠さん、一生懸命仕事を覚えてるんだからさ。千鶴ちゃんも自分がやるべきことをやんないと」
花江の言うとおりだと反省した千鶴は、たらいの水に手を入れた。冷たい水が目を覚ましてくれるようだ。
「でもいいよね、好きな人と一緒にいられるってさ」
隣にしゃがんだ花江は千鶴に微笑みかけると、たらいの水の冷たさに身震いした。
四
忙しい日々を送っているうちに、月が変わって二月になった。
月初めは使用人が休みの日なので、茂七と弥七と花江は街へ出かけて行った。日曜日であれば幸子がいるのだが、生憎この日は金曜日だ。家事は千鶴が一人でこなさなければならない。ところが進之丞がいろいろと千鶴を手伝ってくれた。亀吉と新吉も一緒だ。
丁稚の仕事には家事の手伝いもある。ただ商いの仕事があればそちらが優先だ。この日は手代がいないので外廻りの仕事はないが、直接店に注文をしに客が来ると丁稚に仕事ができる。甚右衛門やトミが出かける時も、丁稚がお供をすることが多い。なので、いつでも千鶴を手伝えるわけではない。
そうはいっても、普段と比べると丁稚の仕事は限られており、やることといえば家のことが中心だ。思いがけず進之丞と一緒にいられることになり、千鶴は大喜びだ。
甚右衛門やトミも何か用事があれば亀吉か新吉を呼び、進之丞には声をかけなかった。それで千鶴は進之丞と二人きりになれたので、やっと畑山や三津子の話を進之丞に聞いてもらうことができた。
畑山については、千鶴が考えて決めたのであれば、それでいいと進之丞は言った。また千鶴が畑山を信用したのなら、きっと畑山はそういう人間なのだろうと言ってくれた。
三津子については、幸子との関係は理解しながらも、あまり関わらない方がいいというのが進之丞の考えだった。千鶴もまったく同意見なので、旧友との再会を喜ぶ母には言えないが、とにかく三津子とはできるだけ距離を置くことにした。
それにしても進之丞と一緒に過ごせる日が来るとは思いも寄らず、千鶴にとっては実に嬉しい日となった。ただ、外廻りで太物屋の主が娘を引き合わせようとしても絶対に断ってと、進之丞に釘を刺すことは忘れなかった。
進之丞は笑い、あしの心に住まう娘はお前ぎりぞと言った。千鶴はやっと安心したが、それでも他の娘には近づかないでと念を押した。
相わかったと素直にうなずいた進之丞は、千鶴をじっと見つめた。その目は千鶴を面白がっているみたいだったが、何だか悲しそうにも見えた。うろたえた千鶴はこの話はおしまいと言い、お昼の用意の手伝いを進之丞に頼んだ。
翌日、千鶴が帳場へお茶を運ぶと、帳場の向こうで弥七が注文書をめくっていた。進之丞は茂七と外に出たのでいない。亀吉たちは弥七から指示された品を蔵から運び出している。もちろん孝平も一緒だが、その足取りは遅い。
弥七は千鶴が来たのに気がつくと、顔を上げて千鶴を見た。そのあとすぐに注文書をめくったが、またちらりと千鶴を見た。だがそこで千鶴と目が合うと、慌てたように注文書に目を戻した。
甚右衛門にお茶を配ったあと、千鶴は弥七にもお茶を配った。すると弥七はちゃんと顔を上げ、素っ気ないものの千鶴にねぎらいの声をかけた。最近の弥七はいつもこんな感じだ。そんな弥七の変化を、千鶴は洗濯物の取り込みの時に花江に話してみた。
弥七の変化には花江も気づいていたらしく、やっぱりねぇと花江は言った。何がやっぱりなのかと訊ねると、花江は千鶴の顔を見ながら、言ってもいいのかねぇと言った。
そこまで言うなら言ってほしいと千鶴がせがむと、勘違いかもしれないからね、と花江は前置きをしてから喋った。
「前からね、何となくそうなんじゃないかって思ってたんだけどさ。弥さんは千鶴ちゃんのことが好きなんだよ。でも忠さんが来たもんだから、張り合う気になったんじゃないのかな」
そんなはずはないと、千鶴は即座に花江の言葉を否定した。そして、弥七が自分に対して、どれだけ素っ気ない態度を取り続けていたのか説明した。すると花江は、弥七が千鶴を嫌っているのであれば、今みたいな態度は見せたりしないと言った。
「旦那さんたちのことだって、そうだったろ? 千鶴ちゃんはずっと自分が大事にされていないって信じてたけど、実際は旦那さんもおかみさんも、千鶴ちゃんのことを大事に思ってくれてたんじゃないか」
そう言われると返す言葉がない。
人は時々本音とは真逆の態度を見せることがあるものだと、花江は言った。
「ただね、千鶴ちゃんは忠さんを好いてんだろ? こんな話聞かされたって困るじゃないか。だから言おうか言うまいか迷ったんだよ。でもさ、喋っといてこんなこと言うのは何だけどさ。思い違いってこともあるから、気にしないでおくれよ」
気にするなと言われても手遅れだ。言われてみると、確かに弥七がそんな気になっているように思えてくる。甚右衛門に撃ち殺されそうになった畑山を、外へ逃がすよう頼んだ時の弥七の様子は、それまでとは違っていた。
千鶴は困ってしまった。こんなことなら花江に話すのではなかったと後悔したが、もうあとの祭りである。
「ほらほら、さっさと洗濯物を畳んじまわないと、次の仕事が待ってるよ」
花江に促され、千鶴は両手に抱えた洗濯物を急いで家の中へ運んだ。
五
数日後、大阪から一通の封筒が送られて来た。帳場にいた甚右衛門は、封筒の中身を確かめると顔をゆがめた。
午後だったので、茂七も弥七も外廻りに出ている。帳場の向こうで進之丞が注文書を見ているが、これは手代の仕事だ。進之丞はまだ手代ではないが、実質的には手代の仕事もさせてもらっているわけだ。恐らく近いうちに手代として認められるのだろう。
「おじいちゃん、お茶をどうぞ」
千鶴がお茶を配っても、甚右衛門は見向きもしなければ声もかけない。封筒に入っていた数枚の紙に目が釘づけになっている。
甚右衛門は他の者には見えないようにしながら、その紙を見ていた。しかし、千鶴にはきれいな絵がちらりと見えた。どんな絵なのかはわからないが、畑山に見せられた錦絵新聞に似ている。もしやと思ってどきどきしていると、案の定、紙をめくる甚右衛門の顔は、みるみる赤くかつ険しくなった。
緊張しながら千鶴が進之丞にお茶を配った時、紙をびりびり破く音がした。驚いて千鶴が振り返ると、甚右衛門は破いた紙を封筒に詰め込み、それを絞るように捻って手元の火鉢で燃やそうとしていた。
「甚さん、おるかな」
同業組合の組合長がひょっこり顔を出した。甚右衛門は捻った封筒を慌てて後ろに隠した。
「しばらく顔見とらんが、元気にしよったかい」
「元気、元気。このとおりぞな」
甚右衛門は引きつった笑顔で応じた。
「辰さんは、まだ戻らんのかな」
「まだやけんど、春頃には戻すつもりよ。忠吉もほとんど一人前やけん、もう直ぞな」
組合長が顔を向けた時に、進之丞も千鶴も頭を下げた。それが同時だったので組合長は楽しげに笑った。
「もう、すっかり夫婦やな」
こんな嬉しい言葉はない。照れる千鶴に組合長は言った。
「千鶴ちゃん、足踏み式の織機、知っとるかな」
「足踏み式ですか? 最近、新しい織機を使うことになったて耳にはしましたけんど」
「ほれよ。あれはな、なかなかええぞな。あれじゃったら素人でもほいほいできらい」
進之丞が顔を上げたが、何の話かを説明できないまま千鶴は組合長に言った。
「そがぁにええもんなんですか」
「これまで一日一反こさえよったんが、あれ使たら二反でける」
「へぇ、ほれはがいですねぇ」
「ほうじゃろ? こさえた分、ばんばん売れたら儲からい」
「そがぁなったら、ええですね」
ここで千鶴は進之丞を振り返り、これまでの織機は手で織っていたけれど、今度の足を使う織機は作業効率が二倍になると説明してやった。進之丞は感心してうなずき、ほれはがいじゃなと言った。
千鶴は織機の話をする甚右衛門と組合長に、またお茶を淹れて来ますと声をかけた。
送られて来た錦絵新聞を気にしながら甚右衛門の脇を通ろうとすると、甚右衛門がえへんと咳払いをした。見ると、後ろ手に持った捻り封筒を、千鶴に向けてゆらゆらと動かしている。
千鶴が傍に寄ると甚右衛門は顔を近づけて、わかっとるなと小声で言った。
何の話かと思ったが、さっきこれをどうしようとしていたのか見ていたな、と祖父は言いたいのだと千鶴は受け止めた。同時に、してはいけないことが咄嗟に頭に浮かんだ。
「甚さん、何ぞな、ほれは?」
千鶴が捻った封筒を受け取るのを見て、組合長が言った。
「いやいや、何でもない。ほれより、何ぞ話があるんかな?」
甚右衛門は話を逸らしながら、千鶴には早く行けと手を動かした。
組合長は怪訝な顔をしながら、ほれがなと言った。
「湊町の絣問屋の越智絣を知っとろ?」
「あぁ、老舗やな」
「そこの親爺が女に騙されたそうでな。店の金を持て行かれたらしいぞな」
「女に金を?」
「ほれで、店が潰えることになったんよ」
「何ぞ、ほれは? どがぁしたら、そげなことになるんぞ」
進之丞は話が聞こえているだろうに、全然興味なさげに注文書をめくっている。
一方、千鶴は封筒の中身が気になりながらも、祖父たちの話にも耳が向いてしまう。暖簾をくぐった所で立ち止まったまま、つい話を盗み聞いていた。
「あそこの親爺は真面目で評判やったと思うがな」
「ほれが禍して、女に夢中になってしもたかい。真面目な奴ほど、いったん崩れたら歯止めが効かんけんな」
「ほらまた気の毒いうか、愚かないうか――」
立ち聞きしている千鶴に気づいた甚右衛門は、土間へ身を乗り出して、早よ行かんかなと追い払うかのごとくに言った。顔は暖簾で隠れていても、体は帳場から丸見えだ。組合長が笑いながら、忠吉が笑いよるぞと暖簾越しに千鶴に言った。
千鶴は何も言えずに恥じ入りながら奥へ下がったが、また組合長が大笑いをした。
「今度は何を笑われたんだい?」
台所にいた花江が面白そうに言った。
「組合長さんは何しても笑うんよ」
千鶴が口を尖らせると、おや?――と花江は千鶴の手元を見て言った。
「それは何だい?」
千鶴は捻った封筒を掲げて見せた。
「おじいちゃんが読み終わった手紙ぞな。もういらんけん、燃やすようにて」
直接言われたわけではないが、絶対にそういう意味だ。もちろん千鶴は中身を燃やすつもりはない。
「ふーん、手紙をすぐに燃やすなんて、何だろね」
花江は興味津々だが、店の主の手紙だ。中身を確かめることはできない。少し残念そうにしながら、茶の間の火鉢で燃やせばいいよと言った。
茶の間にトミの姿はない。孝平を連れて雲祥寺へ出かけている。亀吉と新吉は奥庭で干していた洗濯物を取り込んでくれている。
「うち、その前にちぃと厠へ行てくるけん」
厠へ行くふりをして千鶴が離れへ向かうと、亀吉たちが洗濯物をつかんで口喧嘩をしていた。見かねた千鶴は渡り廊下から二人に声をかけ、素早く離れの部屋に滑り込んだ。
静かに入り口の障子を閉めると、千鶴は急いで捻られた封筒を広げた。けれど手がぶるぶる震えて中の紙がうまく出せない。封筒を逆さまにして勢いよく上下に振ると、落ちるように紙片が出て来たので、すぐに全部を部屋の隅に畳んだ布団の下へ突っ込んだ。
祖父への手紙を盗み見るなど断じてやってはいけないことだ。それでも千鶴は確かめてみたかった。あれは畑山が書いた錦絵新聞に違いないのだ。
畑山に捕まったあの日、いや、正確には千鶴が畑山を捕まえたのだが、千鶴は畑山に訊かれたことに素直に答えた。覚悟を決めた上でのことだったが、旅費が底をついて大阪へ戻るしかない畑山が気の毒に思えたというのもあった。
畑山は誰から話を聞いたとは明かさなかった。けれども話の出所を考えると、女子師範学校の生徒に取材したとしか思えなかった。そこまで知っている相手に白を切っても仕方がないので、畑山が知っていそうなことには、そのとおりだと言い、知らなさそうなことには、わからないと答えた。
畑山は千鶴に礼を述べ、この親切は忘れないと言ってくれた。その言葉は千鶴には迷惑をかけないという意味に聞こえたが、畑山が実際にどんな記事を書いたのか、千鶴は知りたかった。もしかしたら自分は浅はかなことをしたのかもしれないのだ。そこをどうしても確かめたかった。
空になった封筒には、大阪の作五郎の名前が書かれていた。千鶴は封筒を改めて捻り直すと茶の間へ戻った。
胸の中は走ったあとみたいにどきどきしている。体はがちがちに強張って、捻った封筒を持つ手が震えてしまう。心臓の拍動が耳の中で聞こえ頭が痛くなりそうだ。
千鶴が戻ったのを見て、花江が茶の間に上がって来た。封筒を燃やすところを眺めるつもりだろう。来てほしくはないが、来るなとは言えない。
千鶴が火鉢の横にかがむと、花江もすぐ傍に座った。
火鉢の上では、鉄瓶が湯気を立てている。千鶴は鉄瓶の下へ捻った封筒を差し入れた。封筒を持つ手が震えている。花江に気づかれないかと気になったので、すぐに封筒を離すと手を引っ込めた。
端に火がついた封筒は、鉄瓶の下でゆっくりめらめらと燃えていく。その様子を眺めながら、花江がぽそりと言った。
「ずいぶん薄っぺらい封筒だね。さっきはもうちょっと厚みがあったように見えたんだけどさ」
千鶴はぎくりとした。花江の観察力は大したものだ。確かに封筒は中身が抜かれた分、さっきよりも貧弱に見える。
封筒の火はどんどん大きくなったが、すぐに小さくなり、やがて消えた。中身があればもっと燃えるはずだし、燃える中身がちらりと見えただろう。けれど封筒は空っぽなので、炎はわずかな灰を残してあっけなく消えてしまった。
花江はその小さな炎をじっと見ていたが、封筒が燃え尽きるとその目を千鶴に向けた。微笑むわけでなく、ただ観察するように千鶴を見つめている。
「な、何? 何ぞ、顔についとるん?」
千鶴がうろたえて顔を両手で押さえると、花江はにっこり笑い、なぁんもと言った。
洗濯物を抱えた亀吉と新吉が、互いを押し合いながら騒々しく入って来た。
「ほらほら、喧嘩したらだめだよ」
花江は腰を上げると、亀吉たちに注意しながら台所へ戻った。
花江に気づかれたのではないかと不安になった千鶴は、どきどきしながら燃やした封筒の灰を眺めていた。しかし帳場から組合長の声が聞こえると、組合長へお茶を淹れることを思い出して立ち上がった。
六
みんなが昼飯を食べ終わったあと、千鶴はこっそり離れの部屋へ行った。
周りに誰もいないのを確かめた千鶴は、するりと離れに入った。それから布団の下に隠していた紙片を急いでかき出すと、破れ目をつなぎ合わせ始めた。
緊張で手が震えてしまい、なかなかうまく合わせられない。焦りながら何とかつなぎ合わせた四枚の紙は、一枚の手紙と三枚の錦絵新聞だった。
どきどきする胸を押さえながら、千鶴はまず手紙を読んだ。
手紙は作五郎から甚右衛門に宛てたもので、風寄のことが書かれた錦絵新聞を見つけたので送るとあった。
錦絵新聞には大阪錦絵新報と書かれてある。間違いない。畑山が書いた記事だ。
日付から一枚目と思われる新聞には、イノシシが大きな毛むくじゃらの足に、頭を踏み潰される絵が描かれていた。その脇には神輿やだんじりを担ぐ人々の姿もある。
記事には、伊予国の風寄で祭りの最中に、山の主のイノシシが村の近くで頭を潰されて死んでいたのが見つかったとある。
目撃した者の証言として死骸の大きさや様子が細かく書かれ、近くにはイノシシの頭を踏み潰したと思われる、化け物の足跡らしきものもあったとされていた。
あの血溜まりの近くにあった窪みのことなのか。あるいは川向こうの丘陵や畑の崩れた所のことを言っているのか。春子は気にしなかったが、村人たちの中にはあれを怪しいと見た者もいるようだ。そのことは千鶴を動揺させた。
記事の終わりには、この事件が起こる少し前に、村外れにある鬼よけの祠が台風で壊れたことが書かれ、果たしてそれが事件と関係があるのだろうかと括っていた。
二枚目には、墓を掘り起こして死骸を貪る女の鬼の姿が描かれていた。
記事にはヨネが喋っていた鬼娘の説明があり、鬼娘は法生寺という寺にいたとまで書かれていた。鬼娘は仲間の鬼を呼び、住職を殺した上に寺に火をつけたが、結局は侍たちに殺されて、鬼よけの祠に封印されたと出鱈目な記述がされている。だが記事を読んだ者にその真偽はわからない。
その鬼よけの祠が台風で壊れたあと、イノシシの事件が起こったと記事は訴え、その同じ日にヨネが再び鬼娘を目撃したと伝えていた。これはもちろん千鶴のことだ。
三枚目には、嵐の中で恐ろしげな顔をした鬼が家の屋根を壊す絵が描かれていた。これは兵頭の家の話だ。
兵頭のことは風寄に暮らす伊予絣の仲買人と説明され、兵頭と家人数名が怪我をした他、牛が死んだと書かれてある。また、兵頭は壊れた屋根越しに巨大な鬼の姿を見たとあるが、これは完全な作り話だ。兵頭は化け物の声は聞いたが姿は見ていない。
絵に描かれた鬼の口には牛がくわえられている。牛は驚いて死んだらしいが、錦絵新聞には牛がどうして死んだとは書いていない。この絵を見た人は、鬼が牛を喰い殺したと思うはずだ。
鬼に家を壊されたのは兵頭の所だけであり、鬼の足跡が見つかったのも兵頭の家の周辺だけだと記事は説明しつつ、何故兵頭の家だけが襲われたのかと疑問を投げかけていた。兵頭と鬼に何らかの因果関係があるとの示唆である。
続く化け物事件に村中が恐怖に戦いているが、鬼や鬼娘が再び封じられるまで同様の事件は続くだろうと述べて記事は終わった。
大阪の人間にとっては、これらの記事はただの面白い話かもしれない。けれど、現地に暮らす者にとっては他人事ではない。
千鶴はこの事件をきっかけに、女子師範学校をやめることになった。学校での騒動がどう決着したのかは知らないが、級友だった者たちは騒動の説明として、千鶴のことを家人に話していると思われる。その家人たちがこの錦絵新聞を目にしたなら、我が娘は間違っていなかったと思うだろう。そうなると噂は町に広がるに違いない。
もし話が兵頭と山﨑機織の関係を知る者に伝われば、千鶴だけの問題ではなく、山﨑機織を巻き込んだ騒ぎになりかねない。
記事を読み終えた千鶴は、やはり畑山に話すべきではなかったかと後悔していた。
恐らく千鶴が喋らなくても畑山は記事を書いただろうが、そこにわざわざ加担した形になったことが千鶴はつらかった。
畑山は千鶴にお祓いの婆の話を確かめた。しかし、そのことはどこにも書かれていない。甚右衛門が鬼よけの祠の再建にお金を寄付したという話も載っていない。風寄で意識を失った千鶴が法生寺で発見された話も畑山は書かなかった。
記事にするには話がまとまらなかったのかもしれないが、畑山は自分たちを気遣ってくれたのだと思いたかった。いずれにせよ畑山は鬼の存在を確信したはずであり、自信を持ってこれらの記事を書いたに違いない。
それでも畑山はこの錦絵新聞を松山の人間が目にするとは思っていなかっただろう。だが実際に千鶴も甚右衛門もこうして錦絵新聞を読んでいる。松山の他の誰かがこれを読めば、忘れられたはずの話が蒸し返されて、店の存亡に関わることになるかもしれない。甚右衛門が怒るのは当然だった。
「千鶴ちゃん、中にいるんだろ? あたしも入ってもいいかい?」
障子の外で花江の声がした。千鶴は跳び上がるほど驚き、すぐに返事ができなかった。
「ち、ちぃと待って」
千鶴は慌てて錦絵新聞を布団の下に突っ込み、言い訳を考えたが何も思いつかない。どうしようとうろたえたがどうにもならず、千鶴は胸に手を当てて一呼吸してから障子を開けた。
「千鶴ちゃん、ここで何をしてたのさ」
部屋をのぞき込んだ花江は中を見まわしながら言った。やはり千鶴の様子に何かを疑ったようだ。だけど掃除をしていたとは言えないし、着替えをしていたとも言えない。
千鶴が答えに迷っていると、目線を落とした花江が、おや?――と言った。花江の視線を追うと、布団の下から錦絵新聞の紙片の一部が顔をのぞかせている。千鶴の顔から血の気が引いた。
「これは何だい?」
花江はしゃがみ込んで、その紙片を摘まみ上げた。そこには錦絵の一部が描かれている。千鶴は覚悟を決めるしかなかった。
「花江さんには教えるけん、誰にも言わんでつかぁさい」
千鶴が懇願すると、花江はわくわくした様子で何度もうなずいた。千鶴は布団の下から紙片を全部かき出して、目を丸くしている花江に言った。
「これな、さっきの封筒に入っとった錦絵新聞なんよ」
「錦絵新聞? そういやぁ、あの猟銃騒ぎの時に千鶴ちゃんがかばってた人が、そんなこと言ってたよね?」
あんな騒ぎの中で畑山が口にした言葉を、花江はちゃんと覚えていた。どうしたって花江はごまかせないと改めて思った千鶴は、これはその人が作った錦絵新聞だと説明して、破れた錦絵新聞をつなぎ合わせた。花江も目を輝かせながら千鶴を手伝った。
つなぎ合わせが完成すると、花江は興奮した。しかし記事の内容が、以前に千鶴と春子から聞かされた話だとわかると、驚いた顔で千鶴を見た。
「これ、あの話じゃないか」
千鶴はうなずくと、大阪の作五郎さんがこんな物が出まわっていると、祖父に送ってよこしたと説明した。
「だけどさ、別に千鶴ちゃんと鬼が関係あるみたいには書かれてなかったね。旦那さんの早とちりだね」
「ほんまよ。猟銃なんぞ持ち出して来て、まっこと大事になるとこじゃった」
二人で少し笑ったあと、どうしてこれを燃やさなかったのかと花江は訊ねた。
「おじいちゃんが見よるんがちらっと目に入ったけん、燃やす前に見てみたかったんよ」
「そうかい。わかるよ、その気持ち」
花江はにこりと笑うと、もう一度錦絵に目を落とし、これさと言った。
「法生寺って、千鶴ちゃんや幸子さんがお世話になったお寺じゃないのかい?」
うなずく千鶴に、お寺で鬼娘の話は聞かなかったのかと、花江は訊ねた。
千鶴が首を振ると、花江は錦絵新聞に目を戻し、ヨネが見たという鬼娘はどうなったんだろうと首を傾げた。
これは自分のことだとは話せず、千鶴はわからないと言った。それ以上は胸の中で心臓が暴れてうまく喋れない。
「それにしてもさ、何だって、うちにつながりがある人が、化け物に襲われたりしたんだろうね。何か気味が悪いよ。千鶴ちゃんだって、お世話になったお寺の名前が出されたらさ、いい気持ちはしないだろ?」
千鶴は花江の言葉に動揺しながらうなずくと、この錦絵新聞をどうしようと相談した。
花江は考える素振りも見せずに、さらりと言った。
「朝、竈に火を入れる時に燃やしなよ」
「でもお母さんが一緒やけん、見つかってしまう」
「じゃあさ、あたしが預かっといて燃やしとくよ。だったら、いいだろ? あたしゃ一人だから、誰にも見られやしないさ」
千鶴は少し悩んだ末、かき集めた錦絵新聞と作五郎の手紙の切れ端を、風呂敷に包んで花江に手渡した。花江はそれを懐に仕舞ってにやりと笑うと、任せときなと言った。
若干の不安は残ったものの、花江が同じ秘密の仲間になったと思うと、千鶴は少し気が楽になった。
それでもこれからどうなるのかと考えると、やはり心配が膨らんだ。
鬼の定め
一
作五郎から錦絵新聞が送られて以来、何か困ったことになるのではないかと、千鶴はずっと不安だった。甚右衛門も落ち着かなかったと思われるが、実際は何事も起こらなかった。
結局は松山の人間があの錦絵新聞を目にすることはなかったのかもしれない。あるいは目にしていたとしても、千鶴と鬼の関係を疑ったりはしなかったのだろう。そもそも大阪の人間にしても、錦絵新聞を本気で読んではいないに違いない。所詮は素人が作った娯楽新聞なのだ。
少し安心した千鶴の頭には、錦絵新聞のことは次第に上らなくなった。
やがて三月に入ると、ついに進之丞が手代に昇格した。それに合わせて呼び名も忠吉から忠七になった。
千鶴は進之丞の昇格祝いに、手作りの羽織を贈った。
手代になった者には羽織を着ることが許されたが、それまでの羽織はトミや幸子が作っていた。進之丞に贈られた羽織は、千鶴が初めて作ったものだ。
羽織を着せてもらった進之丞は、飛び跳ねたり回ったりして全身で喜びを表したが、すぐに泣きそうになった。前世の頃と比べると、どうも進之丞は涙もろくなったようだ。
しかし進之丞の涙は千鶴を感激させ、ついに二人の新たな暮らしが始まったのだという感慨に浸らせてくれた。
進之丞が昇格する一方で、とうとう茂七は東京へ向かった。辰蔵は向こうで茂七への引き継ぎを終えたあと、四月には松山へ戻って来る予定だ。
頼りなかった弥七も、気合いが入ってきびきび動きだした。進之丞の昇格が刺激になったのか、あるいは茂七がいなくなったことが手代の自覚を持たせたのかもしれない。甚右衛門やトミは喜んでいるが、千鶴は複雑な気持ちだ。
そんなある日の午後、春子が山﨑機織を訪ねて来た。
亀吉に呼ばれて千鶴が店に出て行くと、春子が帳場の脇で神妙な顔をして立っていた。
進之丞も弥七も外廻りに出ており、孝平は勉強のために弥七について出ていた。帳場には甚右衛門がいたが、春子とは喋らずに黙ってお金の計算をしている。
店の表には新吉が一人でいた。春子がいるので遠慮したらしい。
「久しぶりじゃね。今日はどがぁしたん?」
もう春子へのわだかまりがない千鶴は、明るく声をかけた。
「おら、山﨑さんやお家の人にお詫びに来たんよ」
春子は伏し目がちに言うと、甚右衛門の方へ体を向け、深々と頭を下げた。
「おらが余計なこと喋ったばっかしに、山﨑さんに学校やめさせてしまいました。もっと早ようにお詫びに来んといけんかったのに、怖ぁて来れんかったんです。謝って済むことやないですけんど、どうか、堪忍してやってつかぁさい」
甚右衛門はじろりと春子を見ると、口は災いの元ぞなと言った。すんませんと春子が詫びると、もう済んだ話よと甚右衛門は少しだけ笑みを見せた。
「千鶴にはこの店を継がせるつもりじゃったけん、どちゃみち学校はやめとった。積もる話もあろ? 奥で二人でゆっくり喋ったらええ」
思いがけない言葉だったのだろう。春子は大泣きをした。千鶴は春子を慰め、抱きかかえながら奥へ連れて行った。
トミが茶の間にいたので、春子は涙を拭くと、もう一度頭を下げて詫びた。
笑顔を見せたトミは、よう来んさったなと春子をねぎらい、花江にお茶とお茶菓子を出すよう頼んだ。
千鶴は花江に声をかけると、また泣きそうになっている春子を離れに連れて行った。
二
春子と向かい合って座った千鶴は、明るく訊ねた。
「今日は学校やなかったん?」
「今日は土曜日なけん、授業は午前ぎりぞな」
春子が目を伏せたまま言うと、ほうやったかねと千鶴は苦笑した。店の仕事をしていると、今日が何曜日なのかと考えなくなっていた。
「今月で卒業やけん。山﨑さんにお詫びするんは今日しかない思て来たんよ。卒業したら、どこの学校行かされるかわからんけん」
「ほうなん。ほら、だんだんありがとう」
お礼を述べたものの、あとの言葉が出て来ない。
少しの沈黙を挟んで、千鶴は学校のことを訊ねた。学校をやめる手続きは全部祖母にしてもらったので、あの騒ぎのあとがどうなったのか、千鶴は何も知らなかった。
春子は暗い顔で、静子一人が退学になったと告げた。
「ほんまやったら、みんな退学になるとこやったんよ。山﨑さん、何ちゃしとらんのに、みんなで山﨑さんを傷つけて追い出してしもたんやけん。ほんでも、山﨑さんがみんなのこと許したて言うてくれたけん、みんなが退学なるんは免れたんよ」
「ほうなん。ほんでも、高橋さんは退学になったんじゃね」
「山﨑さんが学校やめたのに、一人も責任取らんいうわけにいかんけん。ほれで高橋さんが退学になったんよ。他のみんなはな、山﨑さんのお陰で退学ならんで済んだてわかったら、やっと目ぇ覚めたみたいでな。山﨑さんにひどいことしたて泣きよった」
みんな千鶴を恐れはしたが、それを煽動したのは静子だ。静子が責任を取らされたのは当然だった。しかし、春子は事の発端は自分にあると自らを責めた。
しょんぼりする春子を見ながら、千鶴は静子のことを考えた。
千鶴が寮で暮らした時には、静子とも仲がよかった。だから、あの時の静子の言動は未だに信じられないし、できれば思い出したくない。春子には悪いが、静子が退学になったと聞かされても気の毒にとは思わなかった。
「ほれで……、今は高橋さんはどがぁしとるん?」
「おらにもわからん。たぶん家の手伝いしとると思うけんど」
祖母は何も言わないが、学校へ退学の手続きをしに行った時に、この始末をどうつけるのかと校長に迫ったのかもしれない。祖母のことだから、静子の家にも怒鳴り込んだ可能性はある。静子が学校をやめた背景には、きっと祖母の存在があるのだろう。
しかし、先ほどの祖父母の春子への態度を見ると、二人は春子のことは許しているみたいだ。この差は何なのだろうか。
「あの騒ぎのこと、村上さんのお家にも伝わったん?」
千鶴に訊かれると、春子は項垂れるようにうなずいた。
「おら、しこたま怒られた。ほれで、おとっつぁん、ここ来てお詫びするて言いよったけんど、山﨑さん、おとっつぁんに会うてないん?」
会うとらんよと千鶴が答えると、ほうなんかと春子は言った。
「たぶん会わせてもらえんかったんじゃろな。ほんでも、ここのおじいちゃんにはお詫びしに来たと思う」
それでなのかと千鶴は思った。向こうの方から先に詫びに来たから、祖父母は春子を許したのだ。しかも春子の父は名波村の村長だ。村長がわざわざ詫びに来れば、それだけで祖父母の怒りは鎮まっただろう。そこで本当の問題は鬼にあるという話になり、鬼よけの祠を再建するお金を祖父が寄付することになったのだ。
その祠は結局どうなったのか。千鶴は気になった。進之丞はこんな物では鬼は封じられないと言ったが、実際どうなのかはわからない。もし鬼が封じられたらと考えると心配になる。千鶴は春子に確かめてみようと思った。
「千鶴ちゃん、お茶とお饅頭を持って来たよ」
障子の向こうで花江の声が聞こえた。千鶴が障子を開けると、花江は二人にお茶と饅頭を配った。今日は自分の分は持って来ていない。
花江には学校をやめた理由を、ひどい差別を受けたからだと言ったが、詳しい話はしていない。それでも春子が詫びに来たのを聞けば、そこに春子が関わっていたのは、花江にもわかったはずだ。
これは自分が立ち入る話ではないと思っているのだろう。花江は余計なことは何も言わず、二人に微笑みかけて戻って行った。
花江がいなくなったあと、二人は沈黙したまま座っていた。どちらもお茶にも饅頭にも手をつけない。
「村上さん、お饅頭食べてや。うちも食べるけん」
千鶴が饅頭を取って口に入れると、春子もようやく饅頭に手を伸ばした。しかし春子にいつもの元気はなく、饅頭は小さくかじるだけだった。
お茶を飲み、湯飲みを下へ置いた春子は、静子を悪く思わないでやってほしいと、目を伏せたまま言った。
「高橋さんな、やきもち焼きよったんよ」
「やきもち? 誰に?」
春子は少しだけ顔を上げて言った。
「山﨑さんによ」
「うちに? なして?」
「山﨑さん、おらと一緒に名波村の祭り見に行ったじゃろ?」
何だか言いがかりをつけられているみたいで、千鶴は春子に反論した。
「あれは村上さんに誘われたからやし。ほれに、高橋さんかて誘われたんじゃろ?」
「違うんよ」
「違う? ひょっとして高橋さんは誘わんかったん?」
「誘たよ。ほやのうてな、高橋さんは自分も山﨑さんと二人ぎりで遊びたかったんよ」
千鶴は絶句した。静子がそんな子供じみたことを考えるとは思いもしなかった。
「高橋さん、ほんまは自分も山﨑さんを家に呼んだり、一緒にお祭り楽しんだりしたかったんよ。ほれやのに、おら、何もわからんでな。山﨑さんと街で遊んだて自慢してしもたんよ」
春子の話を聞いた静子は、春子を羨んで泣いたという。
千鶴はうろたえた。何故静子がそこまで自分と遊びたがるのか理解ができなかった。
「なして、うちなんか……」
「山﨑さんは自分のことそがぁ言うけんど、おらたちから見たら、山﨑さんは憧れやったんよ」
春子は大真面目な顔で言った。けれど、千鶴は春子の言葉を受け入れられない。
「うちに憧れ? 嘘言わんでや」
「嘘なんぞ言わん。前にも言うたけんど、山﨑さんはおらたちには特別な存在なんよ」
「うちがロシア人の娘やけん?」
「ロシアいうんやのうてな、日本と異国の両方の血ぃが流れとるんが、おらたちにはがいなことなんよ」
やはり千鶴には春子たちの思考が理解できないが、春子は自分の気持ちを話し続けた。
「日本は外国に憧れて維新起こしたけんど、どがぁ足掻いたとこで外国人にはなれんぞな。ほやけど山﨑さんは産まれた時から、半分は外国人じゃろ? ほれを山﨑さんが重荷に感じとるんはわかるけんど、おらや高橋さんにはな、山﨑さんは憧れやったし、同級生いうんは誇りやったんよ」
春子の話は千鶴を混乱させた。自分なんかをそんな風に見てくれていたなんて、とても信じられなかった。
「高橋さん、山﨑さんに自分の気持ちをわかってほしいて、あげな態度を取ってしもたんやけんど、ほんまに悪いんはこのおらなんよ。おらがいろいろ喋って、高橋さんも山﨑さんも傷つけてしもたけん、何もかんも全部おらが悪いんよ」
話し終わって春子は項垂れた。千鶴は気持ちを整理し、静子のことを考えた。
言い分が何であれ、静子がやったことは駄々っ子と同じである。相手を傷つけてでも自分の気持ちをぶつけるのは、己のことしか考えない愚かな行為だ。子供たちに教える立場になる者が取るべき態度ではない。
とはいっても、もう済んだ話だ。静子を責める気などないし、静子を理解する必要もない。今の自分は山﨑機織の跡取りとしての道を歩みだしているし、春子も静子もそれぞれの道を行くだけだ。
三
「村上さんの話はわかったぞな。高橋さんのこともわかったけん。とにかく、もう終わったことやし、うちはこがぁしてちゃんと暮らしよるけん、二人とも何も気にせいでええんよ。ほんでも、二人がうちをそがぁに想てくれとったことには感謝せんといけんね」
千鶴の言葉に、春子は首を横に振った。
「感謝してもらお思て言うとるんやないけん。おらも高橋さんも、山﨑さんのこと傷つけてしもたんをずっと悔やんどるて、山﨑さんに知ってもらいたかったぎりぞな。ほんまはもっと早よに来るべきやったけんど、ここへ来るんは勇気がいったけん……」
「わざにおいでてくれて、だんだんありがとう。ほんでも村上さん、もう鬼は怖ないん?」
千鶴の言葉に春子は困惑して下を向き、あれは自分が阿呆やったと言った。
「確かにあのお祓いのお婆さんが、村上さんに鬼が憑いとるて言うた時はぞっとしたよ。ほんでもおらより村上さんの方が、どんだけぞっとしたんかて考えたら、そげなことは言われんけん……。ほやけど高橋さんに問い詰められた時にな。鬼が平気やったんか、平気なんは村上さんにも鬼が憑いとるんやないんかて言われてな。おら……」
涙ぐむ春子に、もうええよと千鶴は言った。
「もう、ほれ以上は言わいでもええけん。うちは村上さんが鬼を怖がっとるんか知りたかったぎりなんよ」
春子は顔を上げると、きっぱり言った。
「鬼は怖いけんど、山﨑さんに鬼が憑いとるとは思とらん」
「なして、そがぁ思うん?」
「ほやかて、山﨑さんにはお不動さまがついておいでるけん」
「お不動さま?」
「お不動さま、おらたちを風寄から松山まで運んでくんさったやんか」
春子の話が、初め千鶴はよくわからなかった。でも、すぐに進之丞のことだとわかると笑顔で大きくうなずいた。
「風太さんのことじゃね?」
「ほうよほうよ。あの風太さんはお不動さまの化身ぞな。そのお不動さまが護ってくんさっとる村上さんに、鬼が憑くわけないけん」
千鶴はおかしかったが、鬼が傍にいるのは事実である。千鶴の笑みはすぐに消えた。
春子は千鶴を見つめると、訴えるように言った。
「おら、山﨑さんと一緒に街に遊びに行ったこと一生忘れんよ。山﨑さんと二人で遊びよった時、おら、鬼のことも忘れて、まっこと楽しかった」
千鶴は春子の言葉を疑わなかった。あの時は自分も本当に楽しかった。
「村上さん、日切饅頭、熱いでて注意したのに、がぶってかぶりついて往生したわいねぇ。大丸百貨店のえれべぇたぁも何べん乗ったろうか」
「まっこと、ほうじゃったほうじゃった」
春子と千鶴は笑い合ったが、いつしか笑いは涙となった。
「ほんじゃあ、おら、そろそろ去ぬろうわい。もう会うこともないかもしれんけんど、山﨑さん、立派なおかみさんになりや」
「だんだん。村上さんも子供らに尊敬される先生になってや」
もう二人が同じ道を歩むことはない。そのことに切なさを感じながら、千鶴は春子と微笑みを交わした。
札ノ辻停車場で電車を待っていると、お堀の南の角を電車が曲がって来るのが見えた。あの電車が来れば、春子ともお別れだ。
「山﨑さん、元気でな」
「村上さんもな」
二人が名残惜しそうにしていると、大丸百貨店の方から、外廻りに出ていた進之丞が戻って来た。千鶴が一人でないので、進之丞は忠七として声をかけてきた。
「おや、千鶴さん。こがぁな所で何を――」
千鶴に声をかけた進之丞を見て、春子が驚きの声を上げた。
「風太さん? 風太さんじゃろ?」
千鶴と一緒にいたのが春子だとわかった進之丞は、ありゃりゃとばつの悪そうな声を出した。
「村長さんとこのお嬢かな。こげな所でお会いするとは思いもしよらんかったかい」
「ほれはこっちの台詞ぞな。風太さん、なしてここにおるんね? あれ? その羽織と着物、山﨑機織のやないの」
春子は問い詰めるような目を千鶴に向けた。千鶴は困惑を隠せないまま弁解した。
「実はな、うちの店、人手不足なんで、風太さんに手伝てもろとるんよ」
春子は納得しなかった。何故なら風太は不動明王の化身なのである。
停車場まで来た進之丞に春子は言った。
「風太さん、おらの家にお金請求せんかったろ?」
「まぁ、いろいろ事情があって……」
返事に困った進之丞は、頭を掻くとちらりと千鶴を見た。しかし千鶴も言い訳が思いつかない。
「おとっつぁん、俥夫に風太いう奴はおらんて言うておいでたよ。風太さんて、ほんまは誰なん?」
「おら、村の嫌われ者やけん、ほんまのことは言えなんだんよ」
「嫌われ者? ひょっとして……」
眉をひそめる春子に、ほういうことぞなと進之丞は微笑んでみせた。春子は戸惑った様子で、千鶴と進之丞を見比べた。
「ほやけど、なして――」
そこへ、ふぁんと音を鳴らして電車がやって来た。
停まった電車が扉を開けた。電車に乗り込んだ春子は、車掌から切符を買いながら千鶴たちに答を求める目を向けた。
「あのな、うちら夫婦になるんよ」
千鶴は思い切って言った。春子の目が大きく見開き、進之丞はうろたえた。
「いや、ほれはまだ――」
慌てる進之丞の腕を抱き、千鶴は続けて言った。
「ほやけんな、何も心配せんで。もし高橋さんに会うたら、うちのことは気にせんように言うといてな」
扉が閉まり、春子は扉の窓の向こうでうなずいた。本当はもっといろいろ訊きたいのだろう。でも、春子は笑顔で千鶴たちに手を振った。千鶴も春子に手を振り返した。
学校をやめた時のまま別れ別れになるのではなく、こうして春子と話ができたのは、千鶴には思いがけなく嬉しいことだった。
「わざに顔見せに来てくれたんか」
電車を見送りながら進之丞は言った。千鶴がうなずくと、進之丞は訝しげに訊ねた。
「ところで、高橋さんとは誰ぞ?」
「え? うちの級友じゃった子よ」
「その子と何ぞあったんか?」
「別に何もないよ。うちのこと心配してくれよるみたいなけん」
千鶴がはぐらかすと、ほうなんかと進之丞は見えなくなった電車に顔を戻した。
千鶴も電車が去った方へ目を遣ると、あ――と言った。春子に祠のことを訊くのを忘れていた。
「どがぁした?」
「いや、何でもないけん」
祠を気にしていると、進之丞には知られたくない。千鶴は笑ってごまかした。
「ほんじゃあ、去ぬろうか」
進之丞が歩き出すと、千鶴は後に従いながら改めて静子のことを考えた。
春子の話では、あの時の静子の言動はやきもちから来たもので、本当の気持ちでない。そのことにほっとさせられた千鶴は、静子を気の毒に思えるようになった。けれど、今は静子に会うことは敵わないから、慰めの言葉もかけられない。だから静子も心の痛みを乗り越えて、新たな人生を歩んでくれるようにと祈るしかなかった。
四
四月初日、進之丞は初めての給金と休みをもらった。
弥七は給金をもらうと、活動写真を見に出かけるのが常だった。一方、進之丞は初めての給金を、少しも使わず全部を千鶴に預けてくれた。それは進之丞の誠実さを示すものであり、千鶴を女房気分にしてくれた。
世の中は、夫婦になっても自分ばかりが好きなことをする男が多い。千鶴は自分が誰よりも恵まれていると思った。
進之丞は先月同様に外には出ないで千鶴を手伝ってくれた。亀吉と新吉も手伝ってくれたので、見かけは前の時と変わらない。しかし進之丞は手代なので、丁稚の仕事では呼ばれない。つまり、ずっと千鶴の傍にいられるのだ。
とはいっても、亀吉や新吉が忙しくなれば、進之丞は放っておかない。手代になった今でも、荷物運びなどの仕事は亀吉たちと一緒に動いている。そんな感じなので、亀吉たちも進之丞の仕事を喜んで手伝ってくれる。
進之丞と一緒にいられるだけでも嬉しいのに、進之丞が亀吉たちから慕われるのは、千鶴にとって何よりだった。
この日は豊吉という新しい丁稚が加わった。小柄でまだまだ子供である。
千鶴と初めて顔を合わせた時、豊吉は少し驚いた顔を見せた。それでも、あとは変わった様子もなく、ぺこりと頭を下げて、どうぞよろしゅうにと挨拶をした。
千鶴はしゃがんで豊吉の手を握り、こちらこそよろしゅうにと挨拶を返した。豊吉は頬を赤らめて下を向き、小さな声で、はいと返事をした。
進之丞も豊吉に丁寧に挨拶をし、みんなが期待していると豊吉の頭を撫でた。豊吉はまた頬を赤らめて、はいと小声で言った。
この少し不安げな新参者は、いつも亀吉に叱られている新吉を兄貴気分にさせたようだ。わからないことは何でも聞けと、新吉は胸を張ってみせた。ところが、この新参者はとても頭がよかった。
豊吉は甚右衛門の話をよく理解したし、読み書き算盤も亀吉以上によくできた。亀吉も新吉も面目丸潰れだ。
亀吉たちより実力が劣る孝平は、大人だけに潰れる面目すらない始末だ。それでも気位だけは高いので、頭のいい豊吉を威嚇する態度を見せた。しかしすぐに甚右衛門やトミに叱られ、亀吉たちも豊吉をかばったので、孝平は立つ瀬がなかった。
夕方になって戻って来た花江は、進之丞が先月と同じように千鶴を手伝っているのを見て、へぇと感心した。
「手代になったってぇのに、外にも出ないで千鶴ちゃんのお手伝いなんて、さすがは忠さんだねぇ。だけど忠さん、絶対に千鶴ちゃんの尻に敷かれるね。でも、こういうのって何かいいよね」
花江が二人に祝福の笑顔を向けていると、亀吉が豊吉を連れて来て紹介した。甚右衛門は帳場にいたので、亀吉が甚右衛門の代わりだ。
豊吉を見た花江の第一声は、あら可愛い――だ。
豊吉はまた顔を赤くして下を向きながら、花江に挨拶をした。花江も挨拶を返すと、茶の間にいたトミが、豊吉は本当に頭のいい子だと褒めた。豊吉は照れているのか緊張しているのか、ずっと下を向きっ放しだ。
しばらくすると弥七が戻って来た。
いつも弥七は街から戻ると、夕飯ができるまで二階の部屋でごろりとしている。この日も二階へ上がろうとしたが、台所の千鶴たちが目に入ると途端に焦った顔になった。
恐らく進之丞が千鶴を手伝っているのを見たからだろう。亀吉が豊吉を紹介しようとしたが、弥七は振り向きもしないで二階へ上がって行った。
花江はちらりと千鶴を見たが、その目は、困ったもんだねと言っていた。
夕飯時の話題は花見である。
松山では三月末頃から花見の季節だ。この頃になると、あちこちの店が臨時で店を休んで花見に出かける。山﨑機織でも辰蔵が東京から戻るのを待って、みんなで花見に出かける予定だ。
東京での売り上げは、銀行で小切手にしてもらって松山へ郵送する。辰蔵が戻って来るのは、三月分の売り上げを松山へ送金する手順を茂七に伝えてからだ。
東京から松山までは二十八時間かかる。辰蔵はくたくたのはずなので、今回の花見は辰蔵の慰労も兼ねている。
花江は今日、一足先に一人で桜を見物に行ったらしい。しかし、今年の開花は少し遅れていて、まだ咲き始めたばかりのようだ。
辰さんが戻って来る頃には、もっとたくさん花が咲いてるよと、板の間から花江の期待を込めた声が聞こえた。続いて、豊吉の歓迎会だと言う進之丞の声がして、ほんまじゃほんまじゃと亀吉と新吉が声を揃えた。やったと叫ぶ豊吉の嬉しそうな声が聞こえると、茶の間の甚右衛門とトミはふっと笑った。
千鶴たちもみんなで花見の話をしていたが、祖父母は笑うことが増えたし、鬼についてもほとんど気にしていないみたいだ。千鶴にはすべてが喜びに満ちあふれて見える。今までの花見はそんなに楽しみではなかったが、今年は待ち遠しくて仕方がない。
花見の席は無礼講で、家人と使用人の分け隔てがない。銘々が好きな場所で好きなように花を愛でられるし、誰と食事をしても構わないのだ。普段は食事が別々の進之丞の世話を、この日は存分に焼けるわけで、千鶴にとってはそれが何より楽しみだった。
五
東京から小切手が届いた翌日に、辰蔵が戻って来た。その二日後の日曜日、いよいよ花見へ行くことになった。日曜日にしたのは、幸子が病院の仕事が休みになるからだ。天気もいいし、桜もようやく見頃を迎えていた。みんな朝から浮き浮き気分だ。
朝飯を終えたあとは、掃除や洗濯などは手代や丁稚が引き受けて、千鶴たち女子衆は花見で食べるご馳走を作り始めた。
亀吉たちは作業をしながら何度も台所へやって来て、料理の進み具合を見て喜んだ。
支度ができると、甚右衛門が店の鍵をかけたのを合図に、みんなは賑やかに桜の花を求めて動きだした。
弁当とお茶だけでなく、酒や団子もあるので手荷物が多い。手代と丁稚で手分けして運ぶのだが、ぶつぶつ言うのは孝平だけで亀吉たちは少しも苦にしていない。小柄な豊吉までもが荷物を抱えながら、ずっとはしゃいで喋りっ放しだ。
紙屋町の他の店も、やはり花見へ向かう人々が楽しげに出て来て、甚右衛門たちと挨拶を交わした。その賑わいの中に怪しい男がいることに進之丞は気がついた。
鳥打帽をかぶった着流し姿のその男は、まだ若いのに杖を突いて右足を少し引きずっていた。この辺りの者ではないが、みんなに交ざって挨拶をしながら、何かを探しているのか辺りをきょろきょろと見まわしている。
この辺りに不案内な者だろうと、誰もが怪しまなかったこの男が、進之丞は気になった。少し歩いたところで、進之丞は戻って男がどうするかを確かめると言った。
千鶴は進之丞の心配を甚右衛門に伝え、自分も一緒に店を見てくると言った。
甚右衛門は進之丞の荷物を孝平に持たせると、進之丞に店の鍵を渡した。千鶴も手荷物を母に預け、進之丞と急いで店に戻った。
ところが、さっき見かけた男の姿はどこにもなかった。足を引きずる男が、そんな遠くへ行けるとは思えない。休まずに商いをしている店の中に入ったのかもしれないが、千鶴たちは一応家の様子を見てみることにした。
店に戻って表の戸を確かめると、鍵はかけられたままだ。裏木戸も内から閂がかけられているので、外からは開かない。中には誰も入れないはずだが、進之丞は土塀越しにじっと中の様子を窺った。
進之丞は千鶴にここで待つようにと言って店の鍵を預けると、ひょいと土塀を跳び越えた。その身軽さは千鶴を驚かせたが、しばらくすると中から知らない男の驚き慌てた声が聞こえた。そのあと奥庭に人の動く音が聞こえ、裏木戸が中から開けられた。
顔を出したのは進之丞で、その腕には気を失ったさっきの鳥打帽の男が抱えられていた。この男は空き巣だと進之丞は言った。
千鶴は男の顔を見せてもらった。はっきり覚えているわけではないが、風寄へ行く客馬車に一緒に乗り合わせた、あの鳥打帽の男に似ている気がした。
その話をすると、対の男かもしれんなと進之丞は言った。
進之丞は巡査を呼ぶよう千鶴に頼んだが、自分が土塀を跳び越えたことは黙っているようにと言った。喋れば今度は自分が空き巣を疑われるというのが理由だ。
千鶴はうなずくと急いで駐在所へ行き、巡査二人を連れ戻った。裏木戸周辺には近所の者たちが集まっていて、みんなが進之丞の手柄に感心している。
巡査たちは男を引き取ると、進之丞に大いに感謝した。巡査の話によれば、他にも花見の留守に空き巣に入られた家が、あちこちにあったらしい。
裏木戸の中には紐を縛りつけた杖が落ちていて、もう反対側の紐の先には、手のひらほどの長さの小枝が結びつけられていた。
恐らく男はこの杖を土塀に立てかけて、紐で結んだ小枝を土塀の向こうへ投げ込んだあとに、杖を踏み台にして土塀を乗り越えたと思われた。中へ入ったあと、紐を引っ張れば杖を中へ引き込めるので、誰にも怪しまれずに空き巣ができたのだ。
鍵をかけていたはずの家がやられていたので、どうやって空き巣が中へ入ったのかが、警察でもわからなかったそうだが、これでやっと謎が解けたと巡査たちは喜んだ。
千鶴はその話を聞きながら、確かに進之丞の身軽さを喋ると、進之丞にあらぬ疑いがかけられるなと思った。
進之丞が空き巣を捕まえた話は新聞にも載った。
記事によると、空き巣の男には横嶋つや子という仲間の女がいるそうで、警察はつや子の行方を追っていた。
悪事を働いた者が仲間のことをそんな簡単に喋るとは思えないが、それでも男が早々と仲間の名前を白状したのは、自分だけ捕まったのは割に合わないと思ったのかもしれない。さもなければ、警察の取り調べが余程厳しかったのだろう。
いずれにしても、まだ空き巣の仲間が残っているのは注意せねばならないが、女の空き巣仲間は珍しい。そこが何だか千鶴には引っかかっていた。
朝飯を済ませて、みんながいつものように動きだした頃、新聞を読んだ近所の者たちが次々に山﨑機織を訪れた。用件はどれも同じで、誰もが進之丞を褒め、空き巣を捕まえたことを感謝した。進之丞が空き巣を取り押さえた現場にいた者も改めて進之丞を賞賛し、紙屋町の誇りだとまで言った。
進之丞は戸惑っていたが、甚右衛門たちは嬉しさが隠せないし、千鶴も鼻が高い。
「これじゃあ太物屋のご主人たちが、ますます忠さんを放っておかないね」
花江が千鶴をからかったが、千鶴の笑みが消えると、笑いながら冗談だよと言った。
そこへ同業組合の組合長もやって来て、進之丞を褒めちぎった。そのあと女に騙されたという越智絣の主の話を持ち出した組合長は、騙した女の名前が横嶋つや子だったと思うと、甚右衛門に言った。
ほうなんかと甚右衛門は驚いたが、千鶴はもしやと思った。
千鶴が風寄の祭りを訪ねたあと、風寄でも空き巣が頻発した。そして井上教諭の叔父が二百三高地の女に騙された。今回捕まった空き巣があの鳥打帽の男だとすれば、横嶋つや子はあの二百三高地の女なのかもしれない。
その話を花江にすると、絶対にそうだと花江はうなずいた。花江は警察に教えたらどうかと言ったが、半年も前の話だ。証拠もないので、千鶴は黙っていることにした。
それでもこの推測が正しければ、鳥打帽の男に狙われたというめぐり合わせは、偶然というにはでき過ぎている。千鶴は妙な胸騒ぎを覚えた。
六
進之丞が仕事に慣れる一方で、進之丞に張り合っているのか、弥七もてきぱきと動くようになった。ところが孝平は少しも伸びず、甚右衛門やトミをがっかりさせた。
そもそも孝平は仕事に対する熱意がないので、覚えるべきこともなかなか覚えられず、人に見られていなければすぐに手を抜こうとする。そのくせ他の者にけちをつけて、自分の方が上だと示そうとするので、他の使用人たちから疎まれていた。
孝平は弥七と一緒に太物屋を廻ることがあったが、客からの印象が芳しくなかった。それで弥七が孝平とは廻りたくないと甚右衛門に訴えたので、近頃は外廻りにも出してもらっていない。それなのに、孝平は手代にしてほしいとしきりに甚右衛門に懇願した。
だが、甚右衛門が孝平を手代にするわけがない。丁稚としても使えないし、店の雰囲気が悪くなるので、孝平を店に置くのもそろそろ潮時と考えているみたいだ。
焦った孝平は、自分はこのままでは終わらないと花江に虚勢を張った。だけど、花江は端から相手にしていない。二人でここを出て一緒に店を持とうと、逃げる話を持ちかけたりもしたが、勝手に一人で行けと言われる始末で、孝平は次第に陰鬱になった。
そうして季節は移り変わり、梅雨が明けて夏が訪れると事件が起きた。
その日の朝、千鶴と幸子が台所へ向かうとすでにトミが起きていて、板の間で一人で千鶴たちを待っていた。
トミは千鶴たちに、今日は花江が手伝えないから、二人で朝飯の準備をするようにと告げると、脇にある階段を上がって行った。
下にいるのは亀吉、新吉、豊吉の丁稚三人だけで、他の者は全員が二階にいるらしい。
亀吉たちは井戸から汲んだ水を、台所の水瓶に入れていた。何があったのかと千鶴が訊ねても、三人とも知らないと言うばかりだ。
朝起きた時、部屋の外で孝平が自分の帯で縛られ、忠七が見張っていた。三人がわかっているのはそれだけだ。どうしたのかと忠七に訊ねても説明してもらえず、井戸の水汲みを頼むとだけ言われたそうだ。それで井戸の水を汲んでいると辰蔵が下に降りて来て、寝間にいた甚右衛門とトミに声をかけて起こしたという。
それだけ聞いて、千鶴はぴんときた。
昨夜、孝平は縛られるような真似をしたのだが、そこに花江が関わっているのであれば、答えは決まっている。孝平が花江を襲ったのだ。
進之丞たちがいる部屋と花江がいる部屋は、向かい合った所にある。しかも花江は一人だけだ。うだつが上がらず、花江にも相手にしてもらえない孝平が、力尽くで花江を物にしようとしたのに違いない。ところが騒ぎでみんなが目を覚まし、縛られることになったのだろう。
幸子も同じ考えだったが、とにかく食事の用意をしなくてはならない。二人で動きまわっていると、辰蔵と進之丞が階段を降りて来た。続いて弥七と花江が姿を見せた。
「迷惑かけちまったね。ごめんよ」
口早に千鶴たちに声をかけると、花江は急いで土間に降りて仕事を手伝い始めた。
男たちは朝の挨拶をしただけで、何も喋らなかった。辰蔵と進之丞は朝から疲れた顔だ。弥七は落ち着きがない様子ではあったが、疲れた感じはない。
「孝平の分はいらんけんな」
遅れて降りて来たトミは、それだけ言うと茶の間へ移った。
しばらくすると甚右衛門と孝平が降りて来た。甚右衛門は不機嫌そうにむすっとしており、孝平は憔悴しきって項垂れている。
甚右衛門は茶の間にいるトミの傍へ座ったが、孝平はそのまま土間へ降りた。
千鶴も幸子も何も知らないふりをして、いつものごとくに動いた。花江も忙しくしていたが、ずっと孝平に背中を向けていた。その背中に向かって、孝平は深々と一礼した。そのあと甚右衛門とトミにも頭を下げると、黙って奥庭へ出て裏木戸から出て行った。
食事が始まっても、孝平は戻って来なかった。
使用人たちが食事をする板の間も、いつもなら誰かの声が聞こえるのに、この日は一言も聞こえない。みんな黙々と食べている。
食事のあと、幸子が病院の仕事に向かい、千鶴が一人で奥庭で洗濯をしていると、手伝うよと言って花江が隣に来た。
「朝から妙な感じで驚いたろ?」
花江は明るく言ったが、表情は暗かった。
千鶴は返事に迷い、黙ってうなずいた。
「昨夜さ、嫌なことがあったんだよ」
やっぱりと思った千鶴に、花江は説明を始めた。
「あいつがさ、あたしが寝てる部屋に忍び込んで来て、あたしに襲いかかったんだ」
花江を自分の物にする方法は、これしかないと思ったのだろう。孝平は花江の寝込みを襲い、目を覚ました花江に騒いだら殺すと言ったらしい。
真っ暗闇の中、とにかく花江は抗い、のし掛かる孝平を押しのけようとしたという。すると――。
「ふわっとね、あいつの体が持ち上がったんだ。あたし思わずさ、自分はえらい力持ちだったんだって驚いちまったよ」
花江は少し笑ったあと、自分が手を引っ込めても、孝平は宙に浮かんだまま藻掻いていたが、下には落ちて来なかったと言った。
まさかと千鶴は思った。脳裏に浮かんだのは、鬼が孝平をつかみ上げている光景だ。闇から大きな手が伸びていたと、花江が言うのではないかと千鶴はびくびくした。
「何だかわかんないまま、とにかくあいつの下から逃げたらさ、声が聞こえたんだよ」
「声? どがぁな声が聞こえたん?」
訊ねながら、千鶴は顔から血の気が引くのを感じた。化け物の声がしたと言われるのではないかと緊張していると、忠さんだよと花江は楽しげに言った。
「暗がりの中から忠さんの声で、孝吉さん、こがぁな所で何しよんぞなもし――て聞こえたんだよ。それで急いで行灯に火を灯したら、忠さんがこんな風にさ、あいつの腰ひもを片手でつかんで持ち上げてたんだ」
花江は右手で荷物を持ち上げる格好をしてみせた。へぇと言いながら、鬼でなかったことに千鶴はほっとした。それにしても進之丞は怪力である。前世でそこまで力持ちだったとは記憶していないが、いずれにしても頼もしい限りだ。
「豊ちゃんみたいな子供を持ち上げるんならさ、あたしだって驚きゃしないよ。だけど、いくら痩せてたって三十過ぎの男だよ? 上に乗られたあたしは身動きが取れなかったんだ。それをさ、ひょいって片手で持ち上げてさ、あいつが暴れても全然平気なんだよ」
花江は興奮気味に喋った。孝平に襲われたことより、進之丞の力への驚きが勝ったのだろう。進之丞は花江に迷惑をかけたと、孝平に代わって詫びを入れたというが、少しも息が切れた感じがしなかったそうだ。
「そこへ辰さんが来てくれてさ。あたしが襲われたって言ったら、あいつを殴ろうとしたんだよ。そしたら忠さんが、手を出したらだめだって止めてね。今晩は自分が見張ってるから、朝になったら旦那さんにどうするかを決めてもらおうって言ったんだよ」
進之丞の判断は正しかったと思われる。辰蔵が孝平を傷つけたなら、辰蔵も何かの咎めを受けた可能性があった。そして、甚右衛門に判断を仰いだ結果が孝平の放逐だった。
花江は安堵はしたものの、旦那さんやおかみさんに申し訳ないと思っていると言った。あんな男でも甚右衛門たちにすれば血を分けた息子だ。その息子を追い出すのは、やはり親としてはつらかろうと言うのだ。
「花江さんは何も悪ないんじゃけん、何も気にすることないよ。うちは花江さんが無事じゃったんが何よりやけん」
千鶴が慰めると、花江はにっこり笑って、ありがとうと言った。それから進之丞の力の強さに改めて感心した。
「見かけじゃ絶対に辰さんの方が強そうなんだけどさ。男ってわかんないもんだよねぇ。しかもさ、あんなに強いのに、忠さんってちっともぶらないしさ。ほんとに優しいんだもん。千鶴ちゃんでなくたって、女だったら絶対惚れちまうよ」
進之丞を褒めてもらえるのは嬉しいが、最後の言葉はいただけない。花江も本気で言ったわけではないだろうが、千鶴の胸は一瞬ざわついた。
七
孝平がいなくなったあと、甚右衛門は苦虫を噛み潰したような顔のことが多くなった。また時折、鳩尾辺りに手を当てながら顔をしかめ、目を閉じたままじっとしていた。
伊予絣は足踏み式の織機を導入してから、生産能力は向上したものの、その分、織子の賃金は下がった。織子の士気は低下し、粗悪品が広く出まわりだしたため、伊予絣の評判は落ちていった。評判が落ちると売値を下げねばならず、それが伊予絣は安物だという評価を余計に引き出した。
同業組合では粗悪品の流通を防ぐため、組合で決めた基準以下の商品の売買を禁じていた。しかし、基準をぎりぎりで通過した高級品とはいえない商品が多く、とても評判を取り戻すまでには至らなかった。
どれほど多くの絣を生産したところで、利益が以前よりも減れば織子の賃金はさらに少なくなる。すると、もっと織子の士気が下がって絣の質がどんどん落ちていく。そんな悪循環に陥った伊予絣を泥沼から引き上げる策を、伊予絣業界は見出せずにいた。
そんな苦境に加え、今回の息子の不祥事だ。甚右衛門の胃が痛くなるのは当然だった。
トミは心配して医者に診てもらうように促した。だが甚右衛門は無駄な金は使わないと拒み、こんなものは時が経てばすぐに治ると言い張った。
幸い帳場は辰蔵が仕切ってくれるが、甚右衛門が不調なのは変わらない。気丈に振る舞っているトミだって、本当は気落ちしているのに違いなかった。
千鶴はトミを気遣い、手が空いた時にはトミの肩を揉んだり、背中をさすったりしてやった。初めの頃はトミは涙ぐんだりしていたが、そのうち涙は見せなくなり、いつものトミらしくなった。
一方、甚右衛門の腹痛には、進之丞がどこからか薬草を採って来て、甚右衛門に煎じて飲ませた。その効果はてきめんで、甚右衛門の腹痛はけろりとよくなった。それには甚右衛門はもちろん、千鶴もトミも驚いた。
辰蔵が忠七は薬屋になれるなと感心すると、甚右衛門もトミも忠七にはずっとここにいてもらうと言った。それは明らかに進之丞を千鶴の婿にするという意味だ。
千鶴は喜びに胸が弾んだが、進之丞は謙虚に微笑むばかりだった。
東京を任された茂七は思った以上にがんばっているらしく、東京からの注文は徐々に伸びてきていた。
また大阪からの注文も、甚右衛門の読みどおりに伸びていた。
みんなが汗だくになりながら懸命に働いた。孝平がいなくなったことは次第に忘れ去られ、以前の山﨑機織に戻って行くようだ。
以前に戻ったといえば、あの鬱陶しい三津子も春以降は姿を見せなくなっていた。
幸子は少し寂しがっていたが、いつまでも三津子に付き合っている暇はないので、半分はほっとしているみたいだ。
幸子の話では、三津子は道後で飲食の仕事をしているらしい。三津子が来なくなったのは、きっと仕事が忙しくなったからだと幸子は言った。
だけど千鶴には、他人を思いやれない三津子がまともな仕事をしているとは思えなかった。それに唐突に現れるほど暇がある者が、普通に働いているはずがない。恐らく何か怪しい仕事をしているのだ。姿を見せないのもそのせいに決まっている。
いずれにしても何かと波風を立てる者たちはいなくなり、ようやく本来あるべき新しい暮らしが始まったと千鶴は感じていた。それは進之丞を迎えての暮らしであり、前世で為し得なかったものだ。
八月に入り、盆を迎えたあと藪入りになった。弥七や丁稚たちは新しい着物を着せてもらい、土産の反物を手に実家へ戻って行った。
辰蔵もいなくなり、花江は自分で作った新しい着物を着て、一人で街へ出かけて行った。
進之丞も千鶴が作った新しい着物を着せてもらい、上等の絣の反物をいくつも土産に持たされて、風寄の実家へ顔を見せに戻った。
藪入りは一日だけなので、朝出かけても夜には戻って来なければならない。そのため風寄のような遠くから来ている者は、藪入りでも家に帰らず街で遊ぶ。けれども、進之丞は客馬車代まで持たされて実家へ帰らせてもらった。まさに特別待遇だ。
夕方戻って来た進之丞は、手代になったことや、客馬車に乗せてもらえるほど店で大事にされていることを、為蔵とタネが喜んでくれたと甚右衛門たちに報告した。
しかし、あとで千鶴にはこっそりと、風寄までの行き帰りを走って、客馬車代としてもらった銭を為蔵たちに渡して来たと話してくれた。また、二人が千鶴に会いたがっていると言われ、千鶴は涙が出るほど嬉しくなった。
八
秋になり、阿沼美神社の祭りが始まると、どこの店も仕事を休んで祭り見物をした。山﨑機織も例外ではなく、店の者みんなで祭りを見に行った。
去年は風寄の祭りで千鶴も進之丞も孤独な思いをした。だけど、今は二人とも孤独ではない。他人の目など気にすることなく勇壮な神輿を見物できた。
阿沼美神社には三体の神輿がある。一つは雷神の千木神輿でチキと呼ばれる。残り二つは黒くて四角い水神の神輿、それに金色で八角の大山祇大明神の神輿だ。こちらはそれぞれ「四角さん」「八角さん」と親しみを込めて呼ばれている。
一番初めに宮出しされるのは千木神輿だが、これは町内巡行はせずに宮入りする。
一方、四角と八角は町の中を練り歩くのだが、「四角さん」は町方の神輿で「八角さん」は村方の神輿だ。町人と百姓の力比べである二つの神輿の鉢合わせは有名で、四角さんが勝てば商売繁盛、八角さんが勝てば五穀豊穣といわれている。どちらが勝ってもいいことがあるわけだ。今も続くその習わしは多くの人々を興奮させる。
神輿の鉢合わせには、風寄の祭りとはまた違う迫力があり、二つの神輿を取り囲む人々は声を上げて祭りを盛り上げる。鉢合わせをするたびに、双方の神輿の上に乗った男たちが落ちそうになるが、どちらも意地でも落ちられない。そこは男たちの持つ勇ましさの見せ所で、その真剣勝負を進之丞も興奮気味に眺めていた。
「あれから一年になるんじゃな」
進之丞が周囲の喧噪に負けない声で言った。あれから一年というのは、二人が出逢った風寄の祭りから一年が経ったという意味だ。
千鶴が微笑みながらうなずくと、進之丞は嬉しそうに千鶴の肩を抱き寄せた。周りは人でいっぱいだが、誰も千鶴たちには目を向けていない。千鶴にとって存在しているのは進之丞だけだ。進之丞の温もりに包まれながら、千鶴は幸せに浸っていた。
進之丞はしばらく神輿を眺めていたが、やがて千鶴の肩を抱きながら人垣を離れた。人々の叫び声は続いているが、二人が喋る邪魔にはならない。
進之丞はそこから神輿を振り返って言った。
「こがぁしてお前と二人で祭りを見られるやなんて、あしには夢みたいぞな。またそがぁなことを申すんかと思われようが、あしは今の自分が怖い気ぃがしとる」
「何が怖いん?」
「あしにはな、幸せ過ぎるんよ。お前と再び出逢えた上に、こがぁして一緒におれるやなんて……。ほんまじゃったら、これは有り得んことぞな。ほれがあしには怖いんよ」
進之丞は未だに前世の罪に悩んでいるらしい。千鶴は無理に進之丞の言葉を否定せず、諭すように言った。
「ほやかて、これがおらたちの定めぞな。進さん、おらの幸せをお不動さまに願てくれたんじゃろ?」
「ほうやが、己の幸せなんぞ願とらん。あしが願たんはお前の幸せぎりぞな」
「ほやけんよ」
「ほやけん?」
「進さんと一緒になるんが、おらの幸せじゃいうことやんか。そこんとこをお不動さまは、ちゃんとわかっておいでたんよ」
「ほやけど、あしは――」
進之丞は喋りかけた口を噤んだ。
「ほやけど、何よ?」
「……あしはな、もう昔のあしやないんよ」
祭りの賑わいが二人の間を流れて行く。その喧噪が進之丞を連れ去りそうな気がした千鶴は、慌てて言い返した。
「何言うんよ。進さんは進さんやんか。前の世と今の世で違う言うんなら、ほれはおらかて対ぞな。どこでどがぁな風に産まれようと、進さんは進さんぞな」
進之丞は何も言わず、黙って千鶴に微笑んだ。何だか憂いのある微笑みが気になった千鶴は、進之丞の腕を抱いて言った。
「とにかくな、お不動さまがこがぁしてくんさっとるんじゃけん、余計なこと考えんの。おらは進さんと一緒におれて幸せぞな」
言ってしまってから、千鶴は慌てて手で口を押さえた。
「今の間違い。おら、幸せやけんど、幸せやないんよ」
ぷっと進之丞は小さく噴き出した。
「また、そがぁなこと申しとるんかな」
前の時には進之丞は涙を見せた。だけど今回は笑っている。少し慣れたみたいだ。
「案ずるな。お前がまことの幸せをつかむまで、鬼はお前の傍におる」
「まことの幸せて、今よりもっと幸せいうこと?」
進之丞がうなずくと、千鶴は胸が高鳴った。今よりも幸せといえば、晴れて進之丞と夫婦になるのだろう。だけど、その時には鬼は千鶴の元を去ることになる。それを考えると、千鶴は悲しくなった。
「ほんでも、おら、鬼さんには離れてほしない」
「鬼は所詮、鬼ぞな。前にも申したが、お前のような優しい女子の傍には、鬼はずっとはおれんのよ」
「今、一緒におれるんなら、ずっと一緒におれるんやないん?」
「今おれるんは、お不動さまのご慈悲ぞな。お前の幸せを見届ける間ぎり、お前の傍におるんを許されとるんよ。ほじゃけん、お前がまことの幸せになったなら、鬼はお前から離れるんが定めぞな」
「ほんなん……」
「これまで鬼はほれなりのことをしてきたんぞな。お前への優しさぎりで、ほの罪が許されるわけやないんよ」
項垂れる千鶴に、進之丞は続けて言った。
「お前が鬼を大事に思てくれるんなら、誰にも遠慮せんで幸せになるんぞ。ほれが鬼への供養になる故」
「鬼への供養?」
顔を上げた千鶴に、進之丞は微笑んだ。
「お前が幸せなったんがわかったら、鬼は安心して消えることがでける。ほやけん――」
千鶴は泣きだした。周りの者たちが目を向ける中、進之丞はうろたえながら千鶴を別の所へ誘った。
「忠さん、いけんやんか。女子泣かしたらいけんので」
振り返ると新吉がいた。亀吉と豊吉も一緒だ。
「忠さんが悪いんやないんよ。うちが勝手に泣いたぎりじゃけん」
千鶴は急いで涙を拭い笑顔を見せた。
「何を泣きよったん?」
訊ねる新吉に、余計なことを訊くなと亀吉が怒った。ええんよと亀吉をなだめて、千鶴は言った。
「世の中、理不尽なことばっかしやけん、つい泣いてしもたんよ」
「りふじんて?」
新吉が訊き返すと、亀吉が鼻息荒く言った。
「お前、そがぁなこともわからんのか。りふじんいうたらな……、りふじんいうたら、えっと――」
「道理に合わんことぞな」
豊吉がぽそりと言った。
亀吉は驚いて豊吉を見た。新吉も口を半分開けたまま、豊吉を見つめている。
「豊吉さん、賢いんじゃね」
千鶴に言われて、豊吉は恥ずかしそうに下を向いた。
「学校の成績、よかったんじゃろ?」
うん、まぁ――と豊吉は下を向いたままうなずいた。
「じゃ、じゃあ、道理って何ぞ?」
新吉が向きになると、物事の正しい筋道だと豊吉は答えた。
目を丸くする新吉を押しのけて、亀吉が言った。
「ほれじゃったら、因果応報はわかるか?」
ぎくりとした千鶴の横で、豊吉は言った。
「やったことに応じた報いがあるんよ」
「豊さん、大したもんぞな。亀さんも新さんも負けられんぞな」
豊吉の頭を撫でながら進之丞は言った。
豊吉は照れ笑いをし、亀吉と新吉はもっと勉強すると誓った。その横で千鶴は動揺していた。
何故、ここで因果応報という言葉が出たのか。今、進之丞が鬼の罪の話をしたところだ。そこにこの言葉が出て来たのは、鬼には鬼の定めがあると言われているみたいだ。
進之丞は小柄な豊吉に肩車をして神輿を見せてやった。その隣では亀吉と新吉が羨ましがり、次は自分の番だと言い合っている。
この賑やかさの傍らで、鬼は姿を隠して見守ってくれている。そんな鬼がどうして地獄へ戻されてしまうのか。
何とかならないのかと、千鶴は心の中で不動明王に訴えた。けれど、何も答えは返って来ない。ただ定めを受け入れよということだろう。
鬼が消えるのが定めであるなら、それに逆らうことはできない。だけど、やっぱり理不尽だ。きっと進之丞もそう感じているに違いない。進之丞が時折見せる寂しげな表情は、鬼を不憫に思っているのだろう。
いつかは訪れる鬼との別れを思うと、再び悲しみが込み上げる。丁稚たちと遊ぶ進之丞を後ろから見ながら、千鶴はそっと袖で目を押さえた。
思いがけない訪問者
一
年の暮れ、紙屋町にある伊予絣問屋の主が脳溢血で死んだ。
この店主は甚右衛門より三つ歳が若かったが、甚右衛門と同じで後継者が決まっていなかった。そのため誰に後を継がせるかで、葬儀のあとで一悶着があった。それがきっかけになって、甚右衛門は再び胃の痛みを感じるようになった。
自分よりも若い店主が突然死んだのである。しかも後継者が決まらないまま主が死ねば、店がどうなるかを見せられたのだ。甚右衛門が不安にならないはずがなかった。
甚右衛門は千鶴に店を継がせると決めている。といっても、実質は千鶴の婿になる者が店の主となるわけだ。
千鶴は進之丞が婿になり、いずれは山﨑機織の主になると信じているが、二人が夫婦になれるのはまだ先の話だ。千鶴が日切地蔵に願ったとおりになったとしても、それまでまだ二年ある。だが実際はさらに数年かかるかもしれないのだ。
単なる婿ではなく後継者になるためには、それだけ多くの経験が求められる。少なくとも辰蔵の代わりができねばならないが、それにはまだまだ時間がかかる。それまでの間、何事もなくすべてが順調にいけばいいが、甚右衛門の身に何かがあれば大事だ。
後継者が決まらないまま店を動かせば、責任者不在でいずれ店はばらばらになってしまう。その危機感をひしひしと感じたために、甚右衛門は胃痛に苦しんでいるのだ。
以前に胃が痛くなった時には、進之丞が薬草を採って来てくれた。その薬草を干した物が残っていたので、それを煎じて飲むことで甚右衛門は腹の痛みを抑えていた。だが後継者の問題が解決するまで、煎じ薬が持つかどうかはわからなかった。
年が明けたある晩、男衆が二階へ上がったあと、千鶴たちはいつものごとく縫い物などの仕事を始めようとした。すると、トミが今日はいいから部屋へ引き取るようにと言った。
甚右衛門は女が夜の仕事を始める頃には先に寝間へ行く。しかし、この日は茶の間に残って千鶴たちがいなくなるのを待っていた。
怪訝そうにしながら花江が二階へ上がり、千鶴と幸子が離れへ向かうと、甚右衛門は茶の間の障子を閉めて外から見えなくした。そんなことが幾晩かあった。
この日もトミに言われて、千鶴は母と一緒に部屋へ下がろうとした。その時、障子を閉める祖父の向こうに、階段を降りて来た辰蔵の姿が見えた。どうやら祖父母と辰蔵の三人で何かの話し合いをするようだ。これまで千鶴たちが茶の間から閉め出された時も、きっとそうだったに違いない。それで千鶴はぴんときた。
祖父たちがこっそり話をしているのは、恐らく後継者問題だ。祖父の不調は未だに続いているが、それは後継ぎについて思い悩み続けているからだ。
もし今、祖父が倒れたら、すぐにでも店を任せられるのは、辰蔵をおいて他にはいない。けれども辰蔵は山﨑家の人間ではない。辰蔵に後を継がせるためには、山﨑家の女を妻にする必要がある。千鶴はそのことが気がかりだった。
確かに祖父は進之丞を山﨑機織で雇ってくれた。千鶴と進之丞が惚れ合っているのも承知している。祖父母はともに進之丞を気に入っており、恐らく進之丞を千鶴の婿にと考えていたと思われる。
だがそれは千鶴たちが夫婦になるまでの間、祖父が元気でいればの話だ。自分の体に不安を覚えた祖父が、初めの考えを変えるというのは十分有り得ることだ。
それに祖父たちは千鶴に店を継がせるとは言ったが、忠七を婿にするとまでは言っていない。つまり、千鶴たちが夫婦になる話は約束されたものではないのだ。
もしものことがあって、今すぐ後継者を決めるとすれば辰蔵しかいない。であれば結論は一つだ。辰蔵を千鶴の婿にするのである。
動揺した千鶴は、祖父母が辰蔵だけと話をしたのは、千鶴の婿になる旨を打診していたのだと考えた。
辰蔵にすれば、店の後継者になれるのは願ってもない話だ。だけど、辰蔵は千鶴と進之丞の仲を知っているし、進之丞をとても高く買ってくれている。しかも辰蔵は情に厚い男だ。進之丞を押しのけて婿になるという話に、簡単に首を縦に振るとは思えない。
だからといって、店の状況を考えると辰蔵もいつまでもは拒めないだろう。もしかしたら今すぐとは言わなくても、主に危険が迫った時には婿になるという約束が、取り交わされたのかもしれなかった。
ならば、千鶴にも一言話があってもよさそうだが、今その話をすれば千鶴が猛反発するのは目に見えている。甚右衛門はそれを嫌っているのだろう。それでも、お前の婿は辰蔵に決めたと言われたら、千鶴には逆らう権利はない。どこの家も娘の相手は一家の主が決める。相談など必要はなく、娘は決定に従うしかない。
鬼山喜兵衛を連れて来た時は、甚右衛門は千鶴に気遣いを見せてくれた。けれど、店の危機が目前に迫っていると感じたらそんな余裕はない。有無を言わせず命令されれば、千鶴にはどうにもできないのだ。逆らうとなればこの家を出るしかないが、そうなると、山﨑機織は山﨑家の手を離れて他人のものになるだろう。
何があっても進之丞と夫婦になると千鶴は決めている。たとえこの家を出ることになったとしてもだ。だけど、実際にそんな決断をするのは恐ろしい。自分のせいで店がだめになるなんて、思い浮かべるのも嫌だった。
進之丞が山﨑機織に来てちょうど一年になるというのに、まさかこんな心配をする羽目に遭うとは思いもしなかった。とはいっても、これは千鶴の勝手な憶測だ。何も言われていない以上、祖父たちはまったく関係のない話をしていたのかもしれないのだ。
千鶴は自分の心配を母に相談した。しかし母は千鶴たちの気持ちを知っているおじいちゃんが、そんなことをするはずがないと取り合ってくれなかった。
進之丞に相談しようとも思ったが、進之丞は相変わらず忙しくて、なかなか二人で話をする暇がなかった。それでつい進之丞に文句を言ってしまうこともしばしばだった。
そうこうするうちに祖父母たちの密会は行われなくなり、千鶴は不安が募った。
二
「甚さん、おるかな」
同業組合の組合長が暖簾をくぐって茶の間の所まで入って来た。
「どしたんぞ? そがぁな顔して。まだ胃の具合が悪いんかな」
仏頂面で白湯を飲んでいる甚右衛門を見て、組合長は心配そうな顔をした。
とうとう煎じ薬がなくなり、甚右衛門は調子が悪い。進之丞が新しい薬草を採ってきてくれればいいのだが、この季節には欲しい草が手に入らないらしい。かといって、銭を使いたくない甚右衛門は、薬屋へも行かずに我慢をしている。
この日、トミは豊吉を連れて雲祥寺へ出かけており、甚右衛門は一人きりだった。
トミがいる時は、組合長は上がり框に腰を下ろすが、今はトミがいないからか、自分から茶の間へ上がり込んだ。
「今朝の新聞は読んだんか?」
「新聞? 今日は読む気になれんで、まだ読んどらん」
甚右衛門は喋るのも億劫なようだが、組合長は構わず話を続けた。
「ほうかな。ほれじゃったら、ちょうどええわい。実はな、日本がソ連と国交を結んだそうな」
「ソ連と? ほんまかな」
「ほんまほんま。新聞に書いとるけん、自分の目で確かめとうみ」
組合長に言われ、甚右衛門は部屋の隅に置いていた今朝の新聞を引き寄せた。
甚右衛門が新聞を読んでいる間、組合長は台所を振り返り、花江と一緒に昼飯の準備をしていた千鶴に声をかけた。
「今の話は、千鶴ちゃんにも関係あることで」
「ソ連の話ですか?」
千鶴がちらりと組合長の方を見て応じると、ほうよほうよと組合長はうなずいた。
「ソ連と国交結んだら、向こうと行き来でけるようになろ? ほしたら千鶴ちゃんもお父ちゃんと会えるやもしれまい」
「ほやけど、お父さんはうちが産まれたんは知らんですけん」
「ほんでも、ぶらっと松山を訪ねて来るかもしれんで。何せ、ここには千鶴ちゃんのお母ちゃんがおるけんな」
「そがぁなこと……」
まだ見ぬ父が突然訪ねて来る光景が、千鶴の頭に浮かんだ。その想像を後押しするように組合長は言った。
「有り得ん話やないで。お母ちゃんはまだ独り身なけん、お父ちゃんと縒りを戻して正式に夫婦になるいうんかてあろ?」
「人の家のこと勝手に決めんでくれんかな」
新聞を広げながらじろりと上目遣いでにらむ甚右衛門に、よもだ言うとるぎりぞなと組合長は笑った。
「お茶をどうぞ」
花江が湯飲みを差し出すと、組合長は喜んで受け取った。
いつもならこんな話を聞いた花江は興味津々の顔を見せる。なのに何故かこの日は無表情だ。今日の花江は今朝からずっとこんな感じだ。
組合長は花江の態度などまったく気にせず、お茶を一口飲むと甚右衛門に言った。
「読んだか?」
「読んだ」
甚右衛門は面倒臭そうに答えた。
「どがぁ思う?」
「どがぁとは?」
「ほやけん、ソ連に伊予絣を売り込めようと言うとるんやろがな。甚さん、前にもそがぁな話しよったろ? 条約の批准は来月なけん、ほれまでに準備をせにゃなるまい」
甚右衛門は口を開けたまま組合長を見た。
以前に鬼山喜兵衛が提案したソ連への伊予絣の売り込み話を、甚右衛門はすっかり忘れていたらしい。もう一度新聞に目を落とすと、甚右衛門は興奮した様子で顔を上げた。
「ええやないか。ええ話ぞな」
「ほうじゃろ? そげなしかめ面しよる暇はないんで。わしは他の店にもこの話をしよるんやが、みんなその気になっとらい。山﨑機織さんぎり遅れ取るわけにはいくまいが」
「ほらほうよ。よう言うてくれた。早速向こうのことを調べにゃな。誰ぞわかる奴はおるんかな」
「ほれよ。幸ちゃん、ロシア人の好みとか、ちぃとでも知っとることあったら教えてほしいんよ」
「なるほど。ほうじゃな。戻んて来たら確かめてみよわい」
甚右衛門は胃の痛みを忘れた顔で、白湯を飲み干した。
三
二月の初日、千鶴はたらいの前に進之丞と並んでしゃがみながら洗濯をしていた。
この日は日曜日で、いつもなら幸子が千鶴を手伝うので、せっかくなのに進之丞の出番はない。ところが、去年の春から姿を見せていなかった三津子が久しぶりに現れたため、幸子は外へ出かけて行った。三津子は嫌な女だが、千鶴は心の中で三津子を拝んだ。
亀吉たちは家の中の掃除をしてくれている。進之丞と二人きりになれた千鶴は浮き浮き気分だ。
千鶴は着物を洗いながら、日本がソ連と国交を結んだ話をした。
進之丞はその話を辰蔵から聞いており、千鶴の父親の国と関係がよくなるのはいいことだと喜んだ。また、前世では会えないと思っていた父親が千鶴を探しに来たのだから、今世でも同じことがあるかもしれないと言った。
進之丞も組合長と同じようなことを言うので、千鶴は動揺した。
前世で攘夷侍に襲われた時、ロシアから千鶴に会いに来た父親に、千鶴を託したと進之丞は言った。しかし、千鶴にはその時の記憶がない。だから前世のように父親に会えるかもと言われてもぴんとこない。たとえ覚えていたとしても、進之丞が死ぬ時のことだ。親子の対面を喜ぶどころではなかっただろう。
でも今であれば、父が訪ねて来ても落ち着いて会えるし、初対面を喜び合える。そうなれば嬉しいし、そうなってほしい気持ちはある。だけど、そもそも父親が生きているかどうかもわからない。
ロシアでは革命という大きな混乱が起きて、多くの人が死んだと聞いている。その中に父がいた可能性はあるわけで、そうであれば会えるはずがない。
けれど、もし父が生きていたなら、組合長や進之丞が言ったことがないとはいえない。ひょっとして父親が訪ねて来たらと考えると、千鶴はそわそわした気分になった。
黙ったまま父親のことを考える千鶴を、横目で見ながら進之丞は言った。
「お前が父親に会えようが会えまいが、今のお前には護ってくれる人がようけおる。そこが前とは違て安心じゃな」
「進さんもおるもんね」
千鶴は父親の想像をやめて進之丞に微笑みかけた。しかし今度は進之丞が黙っている。
「進さん、どがぁしたん?」
千鶴が声をかけると、進之丞は千鶴に顔を向けた。
「話は違うが、お前が学校をやめたまことの理由は何ぞな?」
突然、学校の話をされて千鶴は戸惑った。
「ほじゃけん、お店を継ぐことになって――」
千鶴が言い訳をしている途中で、進之丞は喋り始めた。
「昨日外廻り先でな、そこに来た客にお前のことを訊かれたんよ」
「おらのこと?」
「その客は若い娘でな。女子師範学校の卒業生じゃった。あしが山﨑機織の者やと知って声かけてきたんよ」
「ほうなん。いったい誰じゃろか?」
千鶴は平静を装ったが、胸の中はどきどきしている。春子とは仲直りをしたものの、女子師範学校のことは思い出したくなかった。
「名前までは聞いとらん。やが、お前の同級生じゃと申した」
「ほれで、その子は進さんに何ぞ言うたん?」
進之丞に話しかけたのが元級友となると、嫌な予感がする。
「しきりにお前の様子を気にするんでな。理由を訊ねたら、みんながお前に鬼が憑いとると騒いだために、お前が学校をやめることになってしもて、申し訳ないことしたと申しておった。この話はまことか?」
千鶴は即答ができなかった。弁解しようとしたが、うろたえて言葉が出ない。
「いや、ほれはな、ほの……」
「まことなんじゃな?」
観念した千鶴は小さくうなずいた。ほうかと力なく言った進之丞の表情は暗かった。
「お前と仲がよかった者らとの間にも、ほれが元でひびが入ったそうじゃな」
「ほれかて、村上さんがお詫びに来てくれたし。ほら、去年の三月やったかな。進さんも札ノ辻で一緒に見送ってくれたやんか」
「あのお嬢ともおかしなってしもたんか。あがぁに仲がよかったのに……」
「ほやけん、もう仲直りしたんやてば。進さんかて見たじゃろ?」
千鶴の弁解は進之丞の耳には入っていない。進之丞はしょんぼりと下を向いた。
「お前はどがぁな子にも優しい師範になりたいと申しておった。あとちぃとで学校を終え、その夢が叶うとこじゃったのに……」
「もう言わんで。そがぁなこと言いよったら、鬼さんが傷つくやんか。鬼さんのせいやのうて、おらが辛抱足らんかったぎりやし」
進之丞は黙ったまま着物をごしごししている。鬼に腹を立てているらしい。何だか思い詰めた顔で目に涙まで浮かべている。
「おら、師範になるより、こがぁして進さんと一緒にお店の仕事する方がええんよ。こっちの方がほんまの夢なんじゃけん」
千鶴が明るく話しかけても、進之丞の悲しげな顔は変わらない。
「まだ定かなことやないけんど……」
進之丞の気持ちを変えようと、千鶴は気になっていた後継者問題に話題を変えた。年明けから繰り返される祖父母と辰蔵の話し合いや、それに対する懸念をようやく進之丞に話せたのだが、学校の話が尾を引いているのか、進之丞は暗い顔のままだ。
どう思うかと千鶴が繰り返し訊ねると、進之丞はようやく返事をした。だけど、あまり興味がなさそうだ。
「そがぁなると決まったわけでもないのに、勝手に不安を膨らませるんは、賢いやり方ではないな」
「ほら、ほうかも知らんけんど、もしそがぁなったら困るやんか。ほじゃけん、ほん時にはどがぁしよかて悩みよるんよ」
「悩む?」
進之丞は手を止めて千鶴を見た。学校の話題をうまく切り替えられたという想いもあり、千鶴は勢いに乗って喋った。
「もしおじいちゃんに何ぞあって、ほん時におらが辰蔵さんと一緒になるんは嫌じゃて言うたら、このお店はどがぁなるんじゃろかて考えてしまうんよ」
「お前にとって、ここは生まれ育った家であり、大事な家族が住まう所である故、お前がそがぁ思うんは当然ぞな」
「じゃろ?」
「であるなら、その気持ちに従うまでぞな」
え?――驚く千鶴に、進之丞はきっぱりと言った。
「お前は、お前が思うとおりに生きるべきぞな」
「何言うとるん? おらが望みよるんは、進さんと一緒になることやで」
「ほんでも、お前は迷とるんじゃろ?」
「別に迷とるわけや……」
言葉を濁した千鶴に進之丞は言った。
「実際どがぁなるかはわからんが、もしお前が思たとおり、旦那さんが辰さんをお前の婿にしよと思とりんさるんなら、ほれは仕方ないことぞな」
「仕方ないて……。進さん、ほれで構んの?」
「構うも何も、旦那さんが決めんさること故、あしにはどがぁもできまい。あとはお前がどがぁするかぞな」
進之丞と夫婦になるのに迷いはない。迷っているのは、この店の行く末についてだ。だけど、それは進之丞とのことを迷っているのと同じ意味になる。進之丞はそこを指摘しているのであり、わかっている千鶴はうろたえていた。
「おらが訊いとるんは、進さんの気持ちぞな」
「あしの気持ち? ほれを確かめてどがぁするんぞ?」
「ほやけん、進さんがそがぁなことは嫌じゃて言うてくれたら、おらかて――」
進之丞は千鶴の言葉を遮って言った。
「あしがそがぁ申さねば、辰さんと夫婦になると申すのか?」
「誰もそげなこと言うとらんがね。ほやのうて、悩むおらを引っ張ってほしいんよ」
「お前を引っ張って、この店を潰せと申すか。お前が大事な家族を見捨てさせろと?」
「ほういうことやないんやてば」
「ほんでも、ほういうことじゃろ?」
言葉を返せない千鶴に、進之丞は言った。
「千鶴、あしはお不動さまにお前の幸せを願た。もし、お前が辰さんと夫婦になるんであれば、ほれがお前にとっての幸せぞな」
千鶴は目を見開いて進之丞を見た。
「進さん、本気でそがぁ思いよるん?」
「本気ぞな。あしが望んどるんは、お前の幸せぞ。あしがお前と夫婦になることやない」
思いも寄らない進之丞の言葉に、千鶴は愕然とした。
「ほれは、おらのことをそんぐらいにしか想とらんてこと?」
「あしはお前のことしか考えとらん」
「じゃったら、なしてそげなこと言うんね? おらがどがぁな気持ちになるんかわからんの?」
いらだちを隠さない千鶴に、進之丞は淡々と言った。
「あしらがどがぁに考えたとこで、すべては定めどおりに動くぎりぞな。お前が辰さんと夫婦になるんであれば、ほれがお前の定めじゃったということよ」
「前世で死に別れたおらたちが、今世でこがぁして一緒になれたていうのに、ほれをまた引き裂かれるんが定めじゃて言うん?」
「前に申したように、あしは血ぃで穢れとる。お前と一緒になれんとすれば、あしにはその資格がなかったいうことぞな」
千鶴は立ち上がって声を荒らげた。
「何が資格ね! 人が誰ぞを好きになるんに、何の資格がいる言うんね?」
進之丞は何かを言おうとした。だが何も言えずに口を噤んだ。言葉に出せない何かが悲しげな目に映っていたが、頭に血が昇った千鶴にはそれがわからない。
「前世では、おらを嫁にしようと奔走しんさったのに! おらのために命まで投げ出してくんさったのに! あん時の進さんはどこ行てしもたんよ!」
「千鶴、あしはな……」
立ち上がった進之丞は悲しげに言った。
「あしはな、もう昔のあしやないんよ」
「そがぁなことわかっとるがね。わかった上で一緒になろて言いよんのに」
怒りが収まらない千鶴は、もう手伝わなくていいと言った。
進之丞は叱られた子供のように、しょんぼり立っていた。千鶴は涙の目で進之丞をにらむと、さっさとどこまり行きんさいと言い放った。
寂しそうに進之丞が行ってしまうと、千鶴はしゃがんで泣いた。
四
千鶴は進之丞の気持ちを確かめたいだけだった。もしもの時にはどうするかを、一緒に考えてほしかった。なのに進之丞はあまりにも弱気で、困難に抗う姿勢が見られない。
進之丞は山陰の者であることを理由に、一度は甚右衛門から見捨てられた。だから甚右衛門の顔色の方を気にしてしまうのだろうが、それにしても他人事みたいな態度が千鶴は許せなかった。
昔の進さんであれば、絶対にあきらめたりはしなかったし、今回のことでも、何とかしようと知恵を絞っていたと、千鶴は泣きながら憤った。
前世で攘夷侍たちの命を奪ったために、今の自分が穢れていると信じているのも馬鹿げた話だ。いくら前世の記憶があるといっても、前世と今世の区別はするべきだ。
それに進之丞がいなければ、山﨑機織は一年前に潰れている。今の山﨑機織があるのは進之丞のお陰なのだ。
甚右衛門からあれほどひどい仕打ちをされたのに、進之丞はめげずにここで働き始めた。あれからもう一年が過ぎるが、その間に手代に昇格したし、取引先からの評判もいい。空き巣から店を護ったし、丁稚たちからも慕われている。甚右衛門もトミも絶対に手放さないとまで言っているのだ。
進之丞はもっと胸を張ればいいし、自信を持つべきである。千鶴と一緒になれないのであれば、辞めさせてもらいますぐらい言っても罰は当たらないはずだ。なのに、進之丞は辰蔵が千鶴の婿になるなら仕方がないと言う。主である甚右衛門やトミに対する遠慮なのだろうが、言い換えれば、千鶴を想う気持ちがその程度のものだということだ。
千鶴はどうしても進之丞と夫婦になりたいのに、進之丞はそうは思っていない。そのことが、千鶴の心を深く傷つけていた。
お前のことしか考えていないと進之丞は言ったが、想いの強さは明らかに以前と違う。今の自分は昔の自分ではないという弁解がその証だ。
進之丞の変わりようが情けなくて、千鶴は泣き続けた。
しばらく泣いたあと、千鶴は泣いている場合ではないと気がついた。進之丞が千鶴と辰蔵の結婚を認めるのなら、千鶴には辰蔵を拒む理由がなくなってしまう。このままでは辰蔵が婿になるのは必至だ。
千鶴は泣くのをやめて、どうすれば進之丞が以前の気持ちに戻ってくれるだろうかと頭を捻った。けれどなかなか名案は浮かばず、どうして進さんはここまで弱気になってしまうのかと腹立ちを覚えるばかりだった。だが考えるうちに、千鶴は自分が進之丞を思いやる気持ちを失っていたことに思い至った。
千鶴は自分の気持ちをわかってもらうことばかり考えて、進之丞の気持ちをわかろうとしていなかった。進之丞が弱気になるのはそれなりの理由がある。千鶴は進之丞に前世と同じものを求めたが、前世と今世では事情が違うのだ。進之丞はそのことを口にしていたのに、千鶴は一方的に進之丞を責めてしまった。
進之丞が多くの差別で苦しんできたことはわかっている。なのに、進之丞ならそれを乗り越えられると決めてかかり、進之丞を励ますというより自分の期待をぶつけていた。
その千鶴の期待に応えようと進之丞はがんばってくれた。それでも一度は甚右衛門に裏切られた進之丞が、自分に引け目を感じてしまうことを誰が責められるだろう。
千鶴も風寄で為蔵からロシア兵の娘だと罵倒された時には、深く傷ついた。今は為蔵は千鶴を認めてくれているみたいだが、本当に受け入れてもらえているのかという不安はある。もし為蔵が気が変わり、別の娘を忠之の嫁に決めたとしても、千鶴は何も言えない。ただ進之丞を想いながら泣くばかりだろう。
そうなれば進之丞に期待するしかないが、進之丞が親には逆らえないと言ったり、千鶴と家を飛び出すべきか悩んだらどうなのか。
千鶴は唇を噛んで項垂れた。今、自分が進之丞にやったのは、まさにそれだった。
もし辰蔵を千鶴の婿に決めたと甚右衛門が宣言したところで、進之丞は何も言えない。物が言えるのは千鶴であり、そうするのが千鶴の責任なのだ。なのに、進之丞に相談して意見を伺おうとするのは、まったくもって無責任かつ無思慮な態度だ。
千鶴が悩んでいると言った時、進之丞はどんな気持ちになったのか。千鶴は進之丞を思いやらずに、自分のことをそのぐらいにしか想っていないのかと罵った。だが、それは進之丞が言うべき台詞なのだ。なのに千鶴は進之丞の言葉に耳を貸さず、進之丞が悪いと決めつけて怒鳴ったのである。
情けなさと申し訳なさで、千鶴は自分が嫌になった。
進之丞と一緒に暮らせる喜びが、進之丞への気遣いを忘れさせていたようだ。進之丞を大切にしていたつもりだったが、進之丞が傍にいてくれるのを当たり前に思い、有り難さが見えなくなっていた。進之丞が時折見せる寂しげな顔も、いずれはいなくなる鬼を想ってのことだと受け止め、それ以上深くは考えようとしなかった。
すぐに進さんに謝らねばと千鶴は立ち上がった。一方で、進さんには一言励ましの言葉が欲しかったという甘えた気持ちもあった。そんな意地を張りたくなるのは、それを許してくれるほど進之丞が優しいからだ。このままでいても、そのうち進さんの方から声をかけてくれるという勝手な期待が、千鶴を再びしゃがませた。
結局、千鶴は進之丞に詫びないまま洗濯を再開した。けれど隣にいるはずの進之丞がいないのは、やはり寂しい。せっかくの二人で過ごせる時だったのだ。
横にぽつんと置かれたたらいには、まだ洗う途中の着物が入ったままだ。それを見ていると、たらいの主が二度と戻って来ない気がして、千鶴は着物を洗う手を止めた。
千鶴は腰を上げてそっと勝手口の中をのぞいた。帳場へ行ってしまったのか、進之丞の姿はない。亀吉たちも拭き掃除が終わったらしく、見える所にはいなかった。代わりにお盆を持ったトミが暖簾をくぐって現れた。帳場の甚右衛門にお茶を運んだようだ。
進之丞を罵った千鶴の声は、トミには聞こえたに違いない。丁稚たちもここにいたなら聞いただろう。帳場にいる甚右衛門も気まずそうに戻った進之丞を見れば、何かがあったと気づいただろう。トミと目が合った千鶴は居たたまれなくなって洗濯に戻った。
喜びあふれる日曜日のはずだった。頭の中は落胆と後悔でいっぱいだ。一人で洗わねばならない洗濯物はたくさんある。千鶴はため息をつきながら洗濯を再開したが、荒々しく動く手はいつまで経っても同じ着物ばかりをごしごし洗い続けている。
五
二月二十五日、日ソ基本条約が批准された。
大正六年のロシア革命でソビエト政権が成立して以来、日本とロシアの間にあった国交は途絶えていた。それに代わる日本とソ連の国交が、今回新たに樹立したのだ。
伊予織物同業組合の組合長たちの働きかけもあり、愛媛県では両国の国交樹立に先駆けて、ソ連への特産品の輸出を計画していた。そのために、まずハルピンへ有力商品を送ることになった。
ハルピンはソ連との国境近くにある中国の街で、多くのロシア系住民が暮らしている。ソ連との国交が樹立したとはいえ、すぐにはソ連へ商品を売りには行けない。そこでハルピンを介して、ソ連の住民に愛媛の商品を知ってもらおうという寸法だ。
組合長は各絣問屋にその話を伝えて、どの商品を送るか選別をしていた。また組合長は風寄の絣を高く評価しており、ハルピンへ送る商品を山﨑機織からも用意してほしいと、甚右衛門は頼まれていた。それで揃えた品が予定どおりハルピンへ送られることになり、甚右衛門はすっかりご満悦だ。
しかしその機嫌のよさは、ハルピンへの売り込みの話だけでなく、後継者問題が解決したからかもしれなかった。けれど、誰もそれについて本当のことを千鶴に教えてくれないし、千鶴も怖くて訊けなかった。
辰蔵のことがわからず落ち着かない千鶴は、進之丞とも仲直りができずにいた。あのあと進之丞がすぐに声をかけてくれると期待したが、進之丞は話しかけてくれなかった。
だからといって、進之丞が不機嫌というわけではない。いつもどおりに仕事をこなし、千鶴にも何もなかったかのごとくに明るく挨拶をしてくれる。ただ、わざわざ時間を取って千鶴と二人きりになろうとはしなかったし、気にするなとも言わなかった。
進之丞が不満を示さないから、詫びるつもりがあった千鶴は肩透かしを食らったみたいだった。それでつい千鶴も明るく接してしまい、二人の間にわだかまりがあるとは誰も気がつかなかった。祖母たちも、あの時のことは何だったのかと訝しんでいるだろう。
とはいえ、進之丞に理不尽な怒りをぶつけておきながら、千鶴は未だに詫びていないのだから、この一件にけりがついたわけではない。辰蔵の話も結論を出しておらず、このままでいいはずがない。なのに話の取っ掛かりがないまま毎日が忙しく過ぎていく。
進之丞が腹立ちを見せてくれれば、まだ応じようがあった。しかし進之丞はいつもと変わらない様子なので、その心の内は推察するほかない。
思えば、これまでも進之丞は嫌な顔を見せたことがない。だけど進之丞も人間だ。こないだの一件もそうだが、嫌な気持ちになることだってあるだろう。なのに近頃の自分は進之丞に対していささか偉そうになっていたのではないかと、千鶴は反省した。
進之丞は溜まった不満を黙って呑み込みながら過ごして来たはずだ。そこへ千鶴から辰蔵と夫婦になる話が出たら悩むと言われ、自分の立場を説明したら罵られたのである。普通であれば怒りを爆発させるところだろう。
ところが進之丞は怒りを見せなかった、だからこそ不安になる。怒りを抑え続けていれば、いずれは気持ちが冷めてしまうし、そうなることは必至のように思えてしまう。
あのあとすぐに迷いを捨て、絶対に辰蔵とは一緒にならないと宣言していれば、まだよかった。だが実際は散々進之丞を責めただけで、そのことを詫びもしないのだ。これでは進之丞の気持ちが冷めたとしても不思議ではない。いや、もしかしたらすでに冷めてしまったのかもしれないのである。
千鶴は焦った。進之丞に本心を確かめたいが、そんな暇は見つからない。何とか進之丞を捕まえても、進之丞は少し言葉を交わすだけで、するりと千鶴から離れてしまう。見ようによっては、千鶴を避けているみたいだ。
やはり進さんの気持ちは冷めてしまったのかと不安になると、進之丞に対する千鶴の態度は硬くなった。挨拶もよそよそしくなるし、ちょっとした会話すらできなくなった。
いつもであれば、花江が心配して何かを言ってくるのだが、ここのところ花江も様子がおかしい。何だかぼんやりしていることが多く、心ここにあらずという感じだ。声をかけても何でもないと言うけれど、とても話を聞いてもらう雰囲気ではなかった。
そもそも揺るぎないはずの進之丞との関係が危うくなっているなど、誰にも言いたくはない。だから千鶴は母にも相談できずにいた。
そうはいっても、本当に進之丞の気持ちが離れたならば、もはや辰蔵の話どころではない。人生が終わったも同然だ。そんな不安が原因なのか、千鶴は妙な夢を見た。
六
楠爺の陰で千鶴は女と会っていた。女は代官屋敷の女中で、進之丞の母親の世話をしていた。この女中は進之丞たちに不審を抱き、そのことを千鶴に伝えに訪れていた。
女中は潜めた声で、あんたは進之丞さまに騙されとるんよと言った。
そんな話など信用しないが、進之丞はここのところ何日も逢いに来ていない。嫁になってほしいと言ってくれはしたものの、その後、その話の進展はないままだ。
千鶴は女中に、どうしてそんな嘘をつくのかと質した。すると女中は、進之丞が千鶴とは別の嫁をもらうことになったと話した。
千鶴が愕然となると、嫁を誰にするかは親が決めるけんねぇ、と女中は気の毒そうに言った。
嘘じゃ嘘じゃと否定したものの、子供の結婚相手は親が決めるということぐらい、千鶴だって知っている。ただ、進之丞があれほど熱心に嫁になってほしいと言うので、その言葉を信じただけなのだ。
ほんでも進之丞さまはあんたを嫁にしようとはしんさったんよ、と女中は千鶴を慰めた。進之丞は千鶴を嫁にしたいと両親に申し出たが認められなかったらしい。
進之丞の父親も母親も千鶴は面識があり、どちらもとても優しい人だと認識していた。だから二人が反対するとは思いもしなかったが、遊び相手と嫁を一緒にするなと、進之丞は二人から諭されたそうだ。
嫁にするのは千鶴だけだとがんばりはしたが、進之丞は代官の一人息子だ。嫁をもらわねば家系が途絶えてしまう。そこで代官は息子に縁談話を持って来たと女中は話した。
進之丞は見合いを嫌がったが、親の命令には逆らえない。会うだけだと言って引き合わされた武家の娘はあまりにも美しく、芸事にも秀でていた。進之丞はその娘に心が惹かれ、ついにはその娘を嫁にする話を承諾したのだという。
千鶴はそんな話など信じたくなかった。だけど、言われてみれば有り得ることだ。自分が代官の息子の嫁になるという話の方が、遙かに作り事みたいに思われる。
親がおらず、村人から鬼娘と呼ばれて蔑まれる娘が、侍の嫁になれるはずもない。少し考えてみれば、誰にだってわかることだ。なのに進之丞に請われてその気になって、有頂天になってしまった。まったく愚かなことであり、今思えば情けなく恥じ入るばかりだ。
そこへ女中がとどめの話をした。進之丞の出世話である。
進之丞の嫁になる娘は老中とつながりがあると女中は言った。しかし、千鶴は老中がわからない。女中は、老中は城を動かせる権力者なのだと説明した。進之丞が見合いの娘と一緒になるというのは、老中に近づけるという意味で、進之丞の出世が保証されるということらしい。
普通に考えれば進之丞が誰を選ぶかは一目瞭然だし、千鶴は文句が言える立場にない。自分がとても惨めに思えた千鶴は下を向いた。
今日も進之丞さまはお屋敷で、その娘と仲睦まじくしておいでるぞなもし――と女中は千鶴の顔をのぞき込んで言った。
千鶴は進之丞が屋敷を留守にしていると信じていた。その進之丞が実は屋敷で美しい娘と肩寄せ合っていたと思うと、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
所詮男なんてみんな同しよ、と女中は言った。そして、本当はこんな話を伝えに来る義理ではないが、あんまりひどい話なので伝えに来たのだと千鶴に同情を寄せた。
言うだけ言った女中は、自分がここに来たことは誰にも言わないでほしいと千鶴に頼んだ。この話を千鶴に喋ったと知れれば、自分は打ち首になると言うのだ。
そこまでして来たのであれば、やはりこの話は間違いないのだろう。千鶴は項垂れたまま、いつまでも泣き続けた。
夢から目覚めたあとも、千鶴は動揺が収まらずに肩で息をしていた。騙されたという悲しみの余韻が、胸の中で渦巻いている。
夢の話なんか本気にする必要はないが、千鶴は何度か前世の記憶を夢で見ている。そして、この夢も本当にあったことだと、前世の自分が告げていた。
一方で、進之丞が騙すはずがないと、千鶴は自分に言い聞かせていた。
風寄の代官は千鶴を嫁に迎えるために、親友の養女にする手筈を整えてくれた。また、進之丞も千鶴のために重見家まで挨拶に出向いてくれた。夢の話とは真逆である。
千鶴は困惑した。何が本当なのか判断ができなかった。どちらも正しいのだとすれば、進之丞は結局は自分を選んでくれたのだろうが、一時的に他の娘に心を奪われたのだ。
魔が差したのか、状況に流されてしまったのかはわからない。いずれにしても、いかに進之丞でも他の娘に心が揺れることがあるわけだ。
どうしてこんな嫌な夢を見てしまったのか。きっと今の状況がこの夢を見せたのだと千鶴は思った。
進之丞は自分が置かれた状況に逆らおうとはしない。千鶴と夫婦になるかどうかは状況次第だ。しかも今は千鶴との関係が悪くなっている。そんなところへ夢と同じく魅力的な娘が現れたなら、進之丞がその娘に気を許すことは十分に考えられる。もしかしたら、すでにそんな娘が外廻り先にいるのかもしれない。
千鶴はうろたえた。早く進之丞との関係を修復しなければならないが、進之丞の方からの働きかけは期待できない。二人でゆっくり喋るには、次の月初めまでは辛抱するしかない。でも、その間に進之丞の気持ちがどんどん離れていく気がする。
どうしようという焦りばかりが、胸の中を駆けめぐる。それでも次の話し合いの機会を待つ以外、千鶴にはどうすることもできなかった。
七
三月が訪れた。
ちょうど一年前、進之丞は手代に昇格した。千鶴は祝いの羽織を贈り、羽織に袖を通した進之丞は感激して泣いた。その一年後に、二人の間に今みたいな危機が訪れるとは、誰が想像しただろう。
一月前、千鶴は進之丞と言い争った。実際は千鶴の方が一方的に腹を立てたのではあるが、互いの気持ちにずれが生じて意見が噛み合わなかったのは事実だ。そのことで進之丞を深く傷つけたのに、千鶴は詫びられずにいた。しかし、ようやく二人きりで話ができる機会が訪れた。
千鶴は緊張してこの日の朝を迎えた。今日こそは進之丞にきちんと詫び、自分には進さんしかいないと改めて訴えるつもりでいた。ところが、この日は二月初日に続いて日曜日だった。そのことを千鶴は母に言われて知った。母が家事を手伝うので、千鶴が期待した進之丞の出番はなくなった。
せっかくの休みじゃけん街に出かけておいでなさいと、幸子は進之丞を促した。自分が千鶴と進之丞の邪魔をしているとは気づいていない。逆に前回の進之丞の休みに三津子と出かけてしまったことを、幸子は申し訳なく思っているようだ。
千鶴の母親から言われて、拒む進之丞ではない。もう手伝わなくていいと先月に千鶴から言われたままでもある。進之丞の方から千鶴を手伝うとは言えない状況だ。
千鶴にしても母を押しのけて、進之丞に残ってほしいとは言えない。結局、進之丞は幸子に言われたとおり、ほんではお言葉に甘えてと、一人で出かけてしまった。
何も言えずに進之丞を見送った千鶴は、母を恨みたくなった。また、いつも思いがけなく訪ねて来る三津子が、何故今日は来ないのかと心の中で文句を言った。
進之丞を追いかけるように花江が出て行くと、千鶴は自分が使用人でないのを嘆いた。
明るい顔で洗濯仕事に誘う母を横目で見ながら、進さんが戻れば必ず話をしようと、千鶴は思った。近くに誰がいても、とにかく進之丞を捕まえて話をするつもりだった。
今日話さなければ、次にいつ話ができるかわからない。早くしないと手遅れになってしまう。そう思う一方で、進之丞がさっさと街へ出て行ったのは、どこかの娘に逢いに行ったのではないかと不安になる。気もそぞろで洗濯に集中ができず、千鶴はたらいの中でぼんやりと手を動かしていた。
「あんた、忠さんと喧嘩でもしたんか?」
隣で着物を洗う幸子が手を止めて話しかけてきた。いきなりそんな風に言われた千鶴はうろたえた。けれど、進之丞とのことを母に相談できるいい機会ではある。なのに、口から出たのは惚ける言葉だった。
「別に喧嘩なんぞしとらんけんど、なして?」
「何かここんとこ、あんたらがよそよそしいみたいなけん」
よそよそしくしているのは千鶴である。ただ、千鶴に対して進之丞が普段どおりに応じていることに、幸子は違和感を覚えたのかもしれない。
「別に、いつもどおりにしよるつもりなけんど」
「ほうなんか。ほんでも、お母さんにはそがぁには見えんぞな」
幸子が進之丞を街に出したのは、近頃の二人の関係について千鶴と話をしたかったのだろう。幸子は二人の様子に気を揉みながらも、千鶴が相談して来るのを待っていたのに違いない。
千鶴が黙っていると、幸子は言った。
「何があったんか知らんけんど、忠さんはあんたの恩人じゃろ? ほれに、あんたの求めに応じて、ここへおいでてくれたんやなかったんか。ほんまじゃったら、風寄で履物の仕事を受け継ぐはずやったんを、忠さんは――」
「そがぁなことはわかっとるけん、ほれ以上、言わんで」
千鶴は母の言葉を遮って言った。
「お母さんが言うとるんは、うちかて全部わかっとる。ほやけどな……」
そこで千鶴は口を噤んだ。
「ほやけど、何?」
続きを促されたが、言葉が出て来ない。母に言うべきなのかがわからないし、何から話せばいいのかもわからない。話したところで、結局はだめかもしれないのだ。
言葉の代わりに、涙が千鶴の頬を伝い落ちた。
「えらいことぞな! 幸子さん、千鶴さん、えらいことぞなもし!」
新吉が叫びながら走って来た。すぐ後ろに豊吉がついて来ている。丁稚たちはトミに字を教わっていたはずだ。トミに何かあったのかと千鶴たちは立ち上がった。
「幸子さん、千鶴さん、えらいことぞな」
二人の前に来た新吉は、驚いた顔で同じ言葉を繰り返した。
「えらいことて、何がえらいことなん?」
幸子が訊ねる間に、千鶴は急いで涙を拭いた。
「あのな、おいでたんよ!」
「おいでた? 誰が?」
「ほやけん、おいでたんよ。組合長さんが連れておいでた」
「ほやけん、誰がおいでたん?」
幸子は穏やかに繰り返し訊ねた。しかし新吉はうまく説明ができないので、後ろにいた豊吉が代わりに言った。
「外国の人がおいでたんぞな」
「外国の人? はて、誰じゃろか」
首を傾げる幸子に豊吉は言った。
「さちかさん、おいでますか――て言うとりんさった」
「さちかさん?」
「お母さんのことやないん?」
千鶴の言葉に、幸子ははっとした顔になった。
「嘘! まさか……」
幸子は手を拭きながら、そわそわしながら店の方を見た。
「ひょっとして、お父さん?」
千鶴の胸の中がざわめいた。
千鶴を見たあと、幸子は小走りに家の中へ入って行った。千鶴もその後を追い、新吉と豊吉が続いた。
八
茶の間にも台所にも誰もおらず、帳場の方から大勢の人の声が聞こえてくる。見ると、暖簾の向こうに何人もの人影が見える。
千鶴と幸子がそっと暖簾をめくって店をのぞくと、帳場に甚右衛門が座り、その脇にトミと亀吉が立っていた。
店の入り口には同業組合の組合長と、杖を突いた異国の大男がいる。男の右手には小さな花束が携えられている。外は黒山の人だかりで、この辺りの人間が全員集まったのではないかと思われるほどの野次馬だ。
組合長はずんぐりした体つきをしているが、異国の男は細身でかなり背が高い。その対比が、ただでも目立つ異国の男を尚更際立たせていた。
日本人と異なる容貌なので、男の年齢はよくわからない。顎髭があるので実際より歳が上に見えると思われるが、顎髭を勘定に入れなければ四十は過ぎていないだろうか。
「サチカサン、ドカ イマズゥカ? サチカサン、アイタイネ」
男はしきりに甚右衛門に訴えていた。甚右衛門は驚いているのか、事情がつかめないからか、目を丸くしたまま黙っている。
「甚さん、幸ちゃんのこと言うとるんじゃけん、会わせてやれや」
組合長が取りなして言った時、幸子が両手で口を押さえて悲鳴のような声を出した。その声を聞いて幸子に顔を向けた男は、喜びの笑みを浮かべた。
「サチカサン? サチカサンネ? アイタカタ!」
男は杖を落とすと両手を広げ、右足を少し引きずりながら幸子の方へ行こうとした。だがその前に、幸子の方が男の胸に飛び込んだ。
幸子は男に抱かれながら号泣し、男は身をかがめて愛おしげに幸子に頬ずりをしたり、頬や首筋に口づけをした。
男は千鶴の父親に違いない。初めて見る父親に千鶴は圧倒されていた。心の準備ができていないので、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
ひとしきり幸子を愛おしみ、花束を幸子に手渡したあと、男は千鶴に気がついた。
「サチカサン、カノォ、ムゥズゥメサン――」
「あなたの娘ぞな。千鶴て言うんよ」
涙を拭いた幸子は幸せそうな顔で千鶴を振り返り、お父さんやでと言った。
千鶴はうろたえていた。間近で見る男は、髭をのければ自分とよく似ている。やはり父親なのは間違いない。一生会えないと思っていた父が訪ねて来たのだ。素直に喜べばいいのだろうが、あまりにも突然のことなので、頭の中が混乱して喜ぶどころではない。
一方、男の方は自分の娘がいたというので、感極まった顔をしている。じわりと涙ぐむと、手を広げながら千鶴に近づいて来た。
「アナァタ、ヴァタァシナ、ムズゥメ。ヴァタァシ、アナァタナ、アトォサン」
どうしようどうしようと思っているうちに、千鶴は男に抱きしめられていた。抗いもできず頬に口づけをされ、何度も頬をこすりつけられた。
幸子と千鶴が男に抱かれている間、甚右衛門もトミも呆気に取られた顔で眺めていた。
亀吉と新吉は口をあんぐり開けたまま、大きく見開いた目で千鶴たちを見ていた。豊吉は両手で目を隠している。
「幸ちゃん、その人な、まだ甚さんらに挨拶済んどらんのよ」
組合長が言うと、幸子は慌てて男に自分の両親を紹介した。
男も甚右衛門やトミが幸子の親だとはわかっていなかったらしい。戸惑った様子で様子で二人に自分の非礼を詫びた。
「ヴァタァシヴァ、ミハイル・カリンスキー。ニホォン、ロォシア、タタカウ。ヴァタァシ、ホリヨネ。ホォンデ、マツゥヤマ、キタ。サチカサン、ヤサシカタ」
辿々しい言葉で話しかけながら、ミハイルは甚右衛門に握手を求めた。甚右衛門はミハイルをにらみながら、渋々手を出してミハイルと握手をした。
続いてミハイルはトミにも挨拶をして握手をすると、身をかがめてトミを抱きしめた。トミは慌てたが、甚右衛門も大慌てだ。
立ち上がった甚右衛門は、人の女房に何をするかとミハイルに怒鳴った。
ミハイルは甚右衛門よりかなり背が高いので、甚右衛門が帳場に立つとミハイルと釣り合いがとれた。しかし甚右衛門が何を怒っているのかは、ミハイルにはうまく伝わらなかったみたいだ。
自分とは挨拶の仕方が違うと、甚右衛門が文句を言っていると思ったのか、ミハイルは甚右衛門の傍へ戻ってぎゅっと抱きしめた。
甚右衛門は目を白黒させて藻掻いたが、大男のミハイルに抱かれては身動きが取れない。ミハイルに頬擦りをされて死にそうな顔になると、組合長が大笑いをし、トミまでもが笑いだした。千鶴たちも笑うと、笑いは店の外まで広がった。
甚右衛門は真っ赤になりながら組合長に怒鳴った。
「見世物やない。表の連中を何とかせぃ!」
組合長は尚も笑いながら、外にいた者たちに自分の店に戻るよう促した。野次馬たちは名残惜しそうに散って行ったが、少し離れた所に若い男が一人残っていた。組合長はその若い男を手招きして呼んだ。
恥ずかしそうにしながら入って来た若い男は、ミハイルと同じく異国人だ。
「カレェ、ヴァタァシナ、ムゥズゥカ」
ミハイルはこの若い男を息子だと言っているらしい。紹介された若い男は、ミハイルよりはわかりやすい日本語で挨拶をした。
「初メマァシテ。ヴァタァシヴァ、スタニスラフ、デズゥ」
スタニスラフは甚右衛門と握手をし、幸子やトミを抱いた。
余計なことを言うと、また抱きつかれると思ったのだろう。トミがスタニスラフに抱かれるのを見ても、甚右衛門は苦々しげな顔をするだけで怒鳴ったりはしなかった。
息子がいるのは、ミハイルがロシアで結婚をしたという意味だ。そのことを悟った幸子はスタニスラフを拒まず、素直にミハイルの結婚を祝福した。ミハイルは少し困惑顔で、ダンダンと言った。
トミから離れたスタニスラフは、嬉しそうな顔を千鶴に向けた。
スタニスラフに見つめられた千鶴は、次にスタニスラフがどうするのか、すぐにわかった。父親と同じことをするつもりなのだ。
父親の息子ということは、スタニスラフは千鶴とは腹違いの弟になるわけだ。姉弟で抱き合うのは、別に悪いことではないだろう。だけど、日本人は人前でそんなことはしないし、千鶴にとってスタニスラフはただの初対面の若い男だ。
千鶴は逃げようと思ったが足が動かない。蛇ににらまれた蛙みたいに固まっていると、いつの間にかスタニスラフの腕の中にいた。
こんな所を進さんに見られたらと焦りながら、千鶴は頬を合わせるスタニスラフの肩越しに店の外へ目を遣った。すると、そこに進之丞が立っていた。
じっと見つめる進之丞の目がとても悲しげで、千鶴は泣きたくなった。
ロシアの家族
一
甚右衛門は進之丞に帳場を任せると、ミハイルたちを家の奥へ通した。丁稚の三人は千鶴たちに遠慮して帳場に残った。家にいるのは身内の者だけだ。
ミハイルとスタニスラフは物珍しげに家の中を眺め、勝手口から奥庭をのぞいた。先に茶の間に上がった甚右衛門が呼ぶと、二人は上がり框に腰を下ろして靴を脱いだ。
幸子はミハイルからもらった花を生けようとしたが、千鶴は花を受け取って、みんなと一緒に座るよう母に促した。動揺している千鶴は、花を生けたりお茶の用意をすることで気持ちを落ち着けたかった。
千鶴に申し訳なさそうにしながら幸子はミハイルたちに続いたが、甚右衛門たちの前では気まずいのか、幾分戸惑っているようだ。それでもミハイルたちが慣れない正座をしようとすると我に返り、足を崩してと言った。特にミハイルは足が悪いので、正座はむずかしいし苦痛に違いなかった。
しかし、足を崩すという意味が二人にはわからない。甚右衛門は正座をやめて、胡座をかいたり足を伸ばしたまま座ったりしてみせ、好きなように座ればいいと言った。
ミハイルたちが安堵して足を伸ばすと、幸子も安心した様子でトミの隣に座った。
「ほれで、二人はここをどがぁして知ったんぞな?」
甚右衛門が訊ねるとミハイルは困った顔を幸子に向けた。ここを誰に教えてもらったのかと幸子が訊き直すと、今度はミハイルはうなずいた。
「ヴァタァシ、ドガオセン、イクゥ。チカァクゥ、コォエン、ズゥズゥキセンセ、オタネ。ズゥズゥキセンセ、サチカサン、カミヤチヨ、イルゥ、アシエタ」
「鈴木先生? ほんまに?」
幸子が懐かしさに顔を綻ばせると、ソゥソゥとミハイルは嬉しそうにうなずいた。
ミハイルたちは道後温泉で宿を取っていた。ミハイルが捕虜兵として松山にいた頃、この宿の近くの公園でロシア兵による自転車競争が行われた。その想い出の公園で、ミハイルは当時世話になった鈴木という軍医に出会い、紙屋町に幸子がいると教えてもらったらしい。
でも、鈴木医師はその後の幸子の状況を知らないはずだ。恐らく幸子の家が紙屋町にあると教えただけで、今も幸子がここにいるとまでは言わなかったと思われる。
そのことを補足した上で、鈴木医師は敵や味方の区別なく患者を診る人間味のある先生だと、幸子はみんなに説明した。それをスタニスラフがロシア語に直して伝えると、ミハイルは大きくうなずき、伸ばした右足を撫でながら言った。
「ズゥズゥキセンセ、タテモォ、エェヒタネ。ヴァタァシ、アシ、ナオシタ」
「鈴木先生はとてもええお人で、ミハイルの足を治してくれたて」
幸子の言葉に甚右衛門たちがうなずくと、ミハイルは言った。
「サチカサン、タテモォ、ヤサシカタ。ヴァタァシ、アルゥクゥ。サチカサン、ズゥト、イシヨ」
ミハイルが歩く練習をする時は、いつも一緒にいて励ましてあげたと、幸子は恥ずかしそうに説明した。ミハイルは嬉しそうにうなずいている。
お茶を淹れながら話を聞いていた千鶴は、両親が出会った頃の様子が頭に浮かんで温かい気持ちになった。けれど今の二人を思うと、すぐに切なくなった。
二人ののろけ話を聞かされていると思ったのか、甚右衛門は眉間に皺を寄せた。
「その話はわかったけん。ところで、お前さん方はいつ日本へおいでたんかな? 日本とソ連は国交を始めたばっかしやのに、ちぃと早過ぎろ?」
日本にはいつ来たのかと幸子が訊き直すと、ミハイルは片手の三本指を立てて、三年前と言った。でも、詳しい説明はミハイルにはむずかしいようなので、代わってスタニスラフが喋った。
「僕タチ、ウラジヴァストクデ、住ンデマシタ。ダケドォ、ロォシアヴァ、共産党、支配ズゥルゥ。ツゥカマレェバ、殺サレェマズゥ。サレェデ、日本ヘ、逃ゲマシタ」
甚右衛門たちは顔をしかめ、口々に二人にねぎらいの言葉をかけた。
千鶴も父たちの苦労に胸を痛めながら、みんなにお茶を配った。ミハイルはお茶を受け取るとにこやかに頭を下げ、スタニスラフははにかんだ笑みを浮かべた。
お茶を配り終えたあと、千鶴が幸子の隣に座ろうとすると、お父さんの隣に座りんさいと幸子は言った。
千鶴はちらりと祖父母を見たが、二人とも表情は変わらない。仕方なくスタニスラフとは反対側の父の隣に座ったものの、向かいは祖父なので何とも居心地が悪い。
ミハイルは千鶴の肩を抱くと、自分の喜びを表現した。スタニスラフも父親越しに千鶴を見て、目が合うと嬉しそうに微笑んだ。
しかし、千鶴は二人に愛想を振り撒くわけにいかない。祖父母にはあまり歓迎したくない相手である。それに頭の中には悲しげな進之丞の顔が浮かんでいる。
二
「ところで、ウラジバストクいう所は、どこにあるんぞな?」
トミが幸子に訊ねた。
「ウラジオのことぞなもし」
幸子が説明すると、ほうかなとトミは言った。
「ロシアではウラジオのことをウラジバストクいうんかな」
「お母さん、逆やし。ウラジバストクが正しい名前で、ほれを日本人がウラジオていうとるんよ」
幸子に教えられると、ほうかなとトミは照れ笑いを見せた。しかし、ミハイルたちにはトミが何を笑っているのかわからない。
両親は町の正しい名前をウラジオだと思っていたと、幸子は二人に説明してやった。すると、それぐらいのことは知っていると甚右衛門が文句を言った。だが甚右衛門の表情を見ると、本当に知っていたかどうかは定かでない。
幸子は笑いながら甚右衛門に謝り、誤解をしていたのは母だけで父はちゃんとわかっていたと、ミハイルたちに伝え直した。
ウラジヴァストクは日本海に面したロシアの港町だ。日本ではウラジオストクあるいはウラジオと呼ばれ、日露戦争前には多くの日本人が暮らしていた。戦争が始まるとほとんどが日本に引き揚げて来たが、戦争が終わると再びウラジオストクへ移り住む者が増えていた。
一方、大正三年に始まった世界大戦の最中にロシアでは革命が起こり、共産主義を掲げる勢力が国中に広がった。逆らう者は容赦なく粛正されるので、多くのロシア人がハルピンやウラジオストクへ逃げていた。
ミハイルたちも共産主義から逃れてウラジオストクに避難したそうだ。ところが、そこにも革命軍である赤軍が迫って来たので、多くのロシア人たちは中国へ逃げたが、しかしミハイルは日本を選んだ。理由は幸子だったが、そのことは妻には内緒だ。
ウラジオストクと日本の間には、神戸や大阪など複数の航路がある。地図を見ると神戸が松山に近いし、この航路の船は神戸よりもさらに松山に近い下関に寄港する。
しかし、福井県の敦賀への航路は距離が短く船賃も安い。ミハイルは悩んだ末に敦賀を選んだと言った。そうして日本に着きはしたものの、そのあとどうすればいいかがわからず、ミハイルたちは他のロシア人たちと一緒に横浜へ向かったそうだ。
ミハイルには二度目の日本でも、妻にとっては初めての国だ。しかも母国を追われての来日なので、妻はずっと不安だった。それでミハイルたちは他のロシア人たちと共に行動し、時期を見てアメリカへ移ることになった。
すぐにアメリカへ行かなかったのは、お金を稼ぐ必要があったからだが、幸子に会わないまま日本を離れたくなかったと、ミハイルはスタニスラフを気にしながら話した。
横浜ではどんな安賃金の仕事でも引き受けてお金を稼いでいたらしい。ミハイルが片言とはいえ日本語が話せたのが、仕事を見つける上で幸いしたようだ。またスタニスラフも日本語がわかるので、ミハイルと一緒に一生懸命働いたそうだ。
ところが一昨年の秋、関東が大地震で壊滅し、横浜も甚大なる被害を受けた。多くの建物が倒壊し、生じた火災で街は一昼夜にして焼き尽くされた。数え切れない人々が亡くなる中、ミハイルたちが助かったのは近くにあった公園へ逃げ込めたからで、公園がなければ危なかったという。
関東に居場所を失ったミハイルたちは神戸へ移動した。松山の近くへ来たことでミハイルは内心喜んでいたが、妻は度重なる不運にすっかり参ってしまい、ずっとふさぎ込んでいるらしい。
神戸からもアメリカ行きの船が出ていたので、妻は早くアメリカへ行きたがった。だけどまだお金が足らないので、ミハイルとスタニスラフは引き続き神戸で働いた。
一方、神戸からは松山へ向かう船もあったので、ミハイルはお金を稼ぎながら、いつか松山へ行こうと考えていたそうだ。そして、ようやくアメリカ行きの船賃に目処がついたので、念願の松山へ来ることができたとミハイルは興奮気味に喋った。
「戦争のあと、国では革命で住めんなって、こっちへ来たら今度は大地震かな。踏んだり蹴ったりとはこのことじゃな。ほら、難儀なことじゃったろ」
甚右衛門がミハイルたちの苦労をねぎらうと、トミも気の毒そうにうなずいた。
幸子とスタニスラフの仲介で、甚右衛門たちの話を理解したミハイルは、神妙な面持ちで頭を下げた。しかし、顔を上げると笑顔を見せた。
「マツゥヤマ、カヴァラナイ。マツゥヤマ、エエトカネ」
だんだん――と微笑む幸子に、ミハイルは訊ねた。
「サチカサン、マダ、カンガフゥサン」
「ほうなんよ。今も病院で働きよるんよ」
ミハイルは喋るのは片言でも幸子の言葉はわかるのか、にこにこしてうなずいた。
今度はスタニスラフが身を乗り出し、ミハイル越しに千鶴に話しかけた。
「千鶴サンヴァ、誰デズゥカ」
「誰?」
言われていることの意味がわからず、千鶴は戸惑った。幸子は笑いながら、仕事は何かと訊いとるんよと言った。
幸子の話では、ロシア語では仕事を聞く時にも「誰」という言葉を用いるという。どんなことをする人なのかという意味のようだ。また、質問する時には日本語みたいに言葉尻を上げないので、訊かれている方は質問されているとはわかりにくいらしい。
甚右衛門もトミも苦笑している。二人は日本語とロシア語の違いに面白さも感じただろうが、互いを理解することのむずさしさに困惑気味だ。
自分の訊ね方が悪かったと悟ったのか、スタニスラフは訊ね直した。
「千鶴サンヴァ、看護婦デズゥカ」
やはり言葉尻が下がってしまうと、訊ねられているようには聞こえない。妙な感じと思いながら、いいえと千鶴は首を振った。
「うちは家の仕事をしとります」
「家ナ、仕事?」
スタニスラフが困った目を向けたので、幸子が説明してやった。
「ここはね、伊予絣いう反物を売りよるんよ」
「イヨ……ガズゥ?」
「物を見せた方が早かろ」
そう言うと甚右衛門は帳場の進之丞を呼び、蔵から上等の反物を持って来るよう命じた。進之丞はちらりと千鶴やミハイルたちに目を向けたが、何の表情も見せずに奥庭へ向かった。言い訳の一つもできない千鶴はうろたえるばかりだ。
進之丞が蔵へ向かうと、幸子はミハイルに結婚相手のことを訊ねた。
ミハイルはためらいがちに、胸ポケットから取り出した妻の写真を見せた。エレーナというその女性は美しく聡明な顔立ちで、スタニスラフは母似のように見えた。
写真を眺める幸子に、ロシアに戻ってからもいつも幸子のことを考えていたと、ミハイルは言いにくそうに弁解した。
戦争や革命などの争い事に疲れきったミハイルが、誰かに傍にいてほしいと思った時に出逢ったのがエレーナだったそうだ。それでエレーナと一緒になったものの、幸子を忘れたことはないとミハイルは必死に訴えた。
幸子はスタニスラフの前でそんな話をしてほしくなかったのだろう。ミハイルには何も言わず、お母さんは優しいのかとスタニスラフに訊ねた。
スタニスラフはにこにこしながらうなずき、優しいけど怒ると怖いと言った。みんなが笑うと、今度はミハイルが千鶴に、幸子は優しいかと訊いた。
千鶴は母を見ながら、母も優しいけど怒ると怖いと答え、もう一度みんなが笑った。
「ところでお母さん、一人で大丈夫?」
神戸に一人残されたエレーナを幸子が気遣うと、スタニスラフはうなずいて、ダイジヨブネと言った。
日本を発つ前に夫が想い出の街を訪れることに、エレーナは反対しなかったという。
エレーナは松山に興味があった息子が同行することも認めたが、エレーナ自身は移動ばかりに疲れたので、神戸に残ることにしたそうだ。だが、まさか夫が松山でかつての恋人とその娘に会うとは思いもしなかっただろう。
「これで、どがぁぞなもし?」
戻って来た進之丞が、抱えていた反物の箱を茶の間に置いた。甚右衛門は中身を確かめると、うむとうなずいた。
進之丞は甚右衛門とトミに頭を下げ、ミハイルたちにも会釈をすると、千鶴には見向きもせずに帳場へ行った。
千鶴が不安になっていると、進之丞はすぐに戻って来て真っ直ぐ奥庭へ向かった。その後ろを新吉と豊吉がついて行く。何かを蔵から運び出すのだろうか。
途中で新吉と豊吉は千鶴たちを眺めたが、進之丞は一度も千鶴を見ようとしなかった。まるで千鶴がそこにいないかのごとく振る舞うのは、進之丞がスタニスラフのことで気分を害しているのだと千鶴は焦っていた。
自分たちの関係について煮え切らない態度を見せた進之丞を、千鶴は頭ごなしに怒った。その自分が進之丞の目の前で他の男に抱かれたのである。いや、進之丞が見ていないはずの所で抱かれたのだ。
無理やりのことではあったが、拒めただろうと責められても仕方がない。なのに抗いもしなかったのは、そこまで進之丞を大事には思っていないということになる。きっと他の男に抱かれても気づかれなければ構わないと考える、身勝手な女に見えただろう。
スタニスラフは腹違いの弟だと、千鶴は言い訳をしたかった。心の中では、ずっとそう叫んでいた。だけど、その声は進之丞には届かない。
落ち着かない千鶴の横で、ミハイルたちは甚右衛門から渡された伊予絣を手に取って感心しながら眺めた。
「カレェ、ドォシマズゥカ?」
ミハイルが幸子に訊ねた。これは何に使うのかという意味だろう。
「これで着物こさえるんよ」
幸子は自分が着ているものや他の者の着物を示して、同じ絣の布で作られているのをミハイルたちに教えた。なるほどという感じでスタニスラフとうなずいたミハイルは、自分たちはウラジオストクで食器や飾り物などを売っていたと言った。こちらでいう雑貨屋を営んでいたらしい。
「昔はミハイルは靴屋さんやったんよね?」
幸子が懐かしそうに言った。ミハイルの家は靴屋で、ミハイルも靴を作る仕事をしていたそうだ。それで捕虜収容所にいた頃には、足の傷の治療が終わったあと、捕虜兵たちが履く靴を作る仕事を与えられたという。給金ももらえたので、足を負傷する前に捕虜になりたかったとミハイルが笑うと、確かになと甚右衛門も笑った。
ミハイルと同じく進之丞の実家も履物屋で、進之丞も履物を作る。和やかな雰囲気の中、懐から千鶴の下駄を取り出す進之丞の笑顔を思い出して、千鶴は悲しくなった。
「ほれにしても、息子さんは日本語がお上手じゃねぇ。誰に教わったんぞな?」
ミハイルに話しかけた幸子は、スタニスラフに顔を向けた。ミハイルが説明を促すと、スタニスラフは少し照れながら言った。
「ウラジヴァストクナ、日本人、教エテクゥレェマシタ」
「へぇ、ほうなんじゃ。けんど、なして日本語を習う気になったんぞな?」
「ナシテ?」
伊予弁を知るミハイルがロシア語で説明をすると、スタニスラフは大きくうなずいた。
「松山ナ人、ロォシア人、タテモォ、親切。アトォサン、言ィマシタ。日本、ロォシア、戦争シタ。デモォ、松山ナ人、親切。ダケドォ、信ジラァレェナイ。ダカラァ、イツゥカ、松山、行キタイ、思イマシタ。サレェデ、日本語、教エテモラァイマシタ」
「ほやけど、松山の言葉は他所とは違うけん、わかりにくかろ?」
トミが面白そうに言った。
幸子に言い直してもらったスタニスラフは、右手の親指と人差し指を少し広げてみせ、チヨト、ムズゥカシィ――と言って笑った。
実際に日本へ来てみたら、スタニスラフたちは松山に限らず親切にされたらしい。それで何故この国と戦争になったのか、スタニスラフは理解できなかったという。
「父親が幸子と再会するんを、何とも思わなんだんか?」
甚右衛門が少し気遣うように訊ね、幸子がわかりやすく訊き直すと、スタニスラフは母のことを考えると少し胸が痛いと言った。
「ダケドォ、コレェヴァ、計画ジャナイ。神サマ、二人、逢ヴァセマシタ。コレェヴァ、運命デズゥ」
スタニスラフはそう言いながら、身を乗り出して千鶴を見た。何だか千鶴に話しかけているみたいだ。
トミは感心顔で言った。
「あんたはまだ若いのにしっかりしとるな。歳はなんぼぞな?」
「ナンボ……?」
きょとんとするスタニスラフに、またミハイルが説明した。
スタニスラフはうなずき、二十歳だと答えた。その答えに千鶴は、え?――と思った。
千鶴も二十歳だ。スタニスラフが腹違いの弟であれば、千鶴より年下のはずだ。これでは計算が合わないと、千鶴は父に説明を求めた。けれどミハイルはうまく言えないので、代わりにスタニスラフが笑顔で話した。
「僕ナ、アカァサン、アトォサント、一緒ナルゥ前、結婚シマシタ。ダカラァ、僕ヴァ、アトォサン、二人ネ」
なるほどと甚右衛門たちはうなずいたが、千鶴は顔が強張った。
スタニスラフの話によれば、自分たちには血のつながりがない。なのに進之丞の目の前で抱かれたのだ。これは今の千鶴には最悪の状況と言えた。
「僕ナ、初メナ、アトォサン、日本ナ、戦争デ、死ンダ。僕ト、アカァサン、泣イタ。ドォシテ生キルゥ、ヴァカラナイ。サナ時、カノォ、アトォサン、アカァサン、知リィ合タネ。アトォサン、僕ト、アカァサン、助ケタ」
スタニスラフの実の父親が戦争で死んだと聞かされ、甚右衛門たちは当惑のいろを浮かべた。すぐにスタニスラフは、ダイジヨブと言った。
「僕ヴァ、日本人、恨マナァイ。僕ヴァ、日本人、大好キネ」
スタニスラフの言葉に、甚右衛門もトミも黙って頭を下げた。すると幸子がミハイルたちに、自分の兄もあの戦争で死んだと言った。
ミハイルが松山にいた時には、幸子はそんな話はしていなかったようだ。今度はミハイルたちが顔色を変えて、甚右衛門たちに頭を下げた。
甚右衛門は二人に頭を上げさせ、お互いさまだと言った。
言葉の意味がわからないミハイルたちに、どちらも同じと幸子が説明した。二人は安心した笑みを浮かべ、千鶴に顔を向けたスタニスラフは微笑みながら言った。
「ダカラァ、僕タチ、姉弟ジャナイネ」
千鶴はうろたえて目を逸らした。歳のことを訊いたのは千鶴であり、スタニスラフはその説明をしただけだ。でも勝手に抱いておいて姉弟じゃないなんて無神経過ぎると、千鶴は憤りを覚えていた。しかし不愉快な気持ちを顔に出すわけにはいかない。千鶴は感情を抑えたが、心に浮かんだ進之丞の悲しげな目がつらかった。
三
ミハイルたちも一緒に昼飯を食べることになり、母と食事の準備を始めた千鶴は、洗濯が途中だったことを思い出した。慌てて奥庭に出ると、洗い忘れていた着物は全部物干しに干されていた。
「忠さんらがやってくれたみたいなね」
幸子が嬉しそうに言うと、千鶴は帳場へ走って行った。
進之丞は甚右衛門に代わって帳場に座っていたが、この日は客が来る様子もなく、亀吉たちとお喋りを楽しんでいた。
「あ、あの……」
千鶴が緊張しながら声をかけると、進之丞はにこやかな顔を千鶴に向けた。少しも怒っていないようなので、千鶴は胸を撫で下ろした。
「洗濯、だんだんありがとう」
「あし一人がしたんやないぞな。新さんも豊さんも手伝てくれたし、亀さんはあしの代わりに帳場を守ってくれたんよ」
進之丞は喋りながら三人の頭を撫でた。
「みんなもありがとう」
千鶴が礼を言うと、亀吉たちは笑顔を返した。
本当は他にも進之丞と話がしたいが、今はできない。千鶴は詫びる気持ちを目で伝えると、台所へ戻った。
昼飯のあと、千鶴と幸子はミハイルたちと外へ出かけることが許可された。
千鶴たちが外へ出ると家事をする者がいなくなる。そこで洗濯物の取り込みや掃除などは、進之丞と亀吉たちがしてくれることになった。また、夕飯の準備はトミがすると言ってくれた。ロシア人を憎んでいたはずの祖父母たちが、ここまでしてくれるのは意外だったし有難かった。それでも進之丞のことを思うと、千鶴は素直には喜べなかった。
表に出ると、幸子は幸せそうにミハイルと並んで歩いた。当然ながら紙屋町の人たちの目が集まったが、全然気にせず二人で挨拶を交わす姿は夫婦そのものだ。
両親のあとに続く千鶴も顔を合わせた人たちに会釈をしたが、気持ちはずっと後ろ髪を引かれていた。隣では何も知らないスタニスラフが子犬のようにはしゃいでいる。
四人が向かっているのは大林寺だ。大林寺はミハイルが捕虜兵として収容されていた所で、ミハイルと幸子が初めて出逢った場所でもあった。
大林寺に入ると、ミハイルは感動して立ち尽くした。しばらく感激した様子であちらこちらを眺めたあと、ミハイルは大林寺にいた時のことを、幸子と一緒に千鶴とスタニスラフに話して聞かせた。
幸子は初めてロシア兵が大林寺へ連れて来られた時から、看護婦として捕虜兵たちの世話をしていたという。
明るく優しい幸子は捕虜兵たちに人気があり、多くのロシア兵たちが幸子に会うのを楽しみにしていたと、ミハイルは自慢げに言った。当然ミハイルもその一人であり、いつも笑顔を絶やさない幸子にぼろぼろだった心が救われたと、ミハイルは胸を押さえて当時の喜びを表現した。
城山の北には、松山歩兵第二十二連隊の演習場がある。そこに通称バラックと呼ばれる仮設病院が建てられると、足を負傷していたミハイルは大林寺からそちらへ移された。
バラックへ移ることが決まった時、ミハイルは傷の治療のことよりも、幸子と一緒にいたいと願っていたという。すると、幸子も看護婦として一緒にバラックへ移動することになったので、神さまが願いを叶えてくれたとミハイルは大喜びをしたそうだ。
一方の幸子は、この時はまだミハイルに対してそれほどの気持ちは抱いていなかったらしい。それを聞いたミハイルは苦笑いをしながら少しがっかりしていた。
幸子は笑うと、バラックでミハイルの世話を続けているうちに、次第にミハイルに気持ちが惹かれたと言った。ミハイルは今度は胸を張って明るくなった。
日本とロシアの間でポーツマス講和条約が結ばれて、日露戦争が終結すると、ロシア兵たちは捕虜の身から解放されて自由になった。ロシアへ帰国するまでの間を、ロシア兵たちは好きなように過ごせたが、その時にミハイルは幸子に自分の想いを伝えたという。また幸子もミハイルに好意を抱いていたと話したそうだ。
二人が昔を懐かしむことは、スタニスラフにとってはあまりいいものではないはずだ。にこやかにしてはいるが、聞いているのはつらいだろう。
千鶴はスタニスラフを誘い、他の場所で両親とは全然関係のない話をした。進之丞の顔が浮かんだが、気の毒なスタニスラフを放ってはおけなかった。
千鶴の気遣いが嬉しいのか、スタニスラフは楽しげにいろいろ喋り、千鶴のこともいろいろと訊いた。千鶴が戸惑うほどスタニスラフは話に夢中になり、幸子が次へ行くと声をかけても、スタニスラフの話は終わらなかった。
次に向かったのは、城山の北にあるロシア人墓地だ。
千鶴たちは古町停車場から道後へ向かう電車に乗って、途中の千秋寺停車場で降りた。そこは木屋町停車場の次の停車場で、松山歩兵第二十二連隊が演習に使う城北練兵場のすぐ傍だ。
今は解体されてなくなってしまったが、両親が恋を育んだ想い出のバラックは、この城北練兵場の西側半分に建てられていた。そこは千鶴たちが立つ場所の目の前だ。
幸子はここがバラックがあった場所だとミハイルたちに説明すると、後ろの丘へとみんなを誘った。そこにロシア人墓地はある。丘を登る坂道は杖で歩くミハイルには大変だったが、幸子に背中に手を回して支えてもらいながら、ミハイルは坂道を登り切った。
二人の様子を見ていた千鶴は、両親はこんな風にしながら心を通わせたのかと、感慨を覚えながらも羨ましく思った。本当ならば自分と進之丞も、両親みたいに仲睦まじくしていただろうに、今はすれ違ったまま元に戻れない。
だけど、進之丞は黙って洗濯をしてくれた。父たちと別れたら、今度こそ進さんときちんと話をしようと千鶴は思った。本当は今すぐ戻って進之丞に謝りたかった。
「ダイジヨブ? 疲レェマシタカ?」
千鶴の沈んだ顔に気づいたのだろう。スタニスラフが心配そうに声をかけて来た。
千鶴は慌てて笑顔を見せると、大丈夫ぞなと言った。
ロシア人墓地に到着すると、ミハイルは神妙な顔になった。ここに眠る者たちの中には、ミハイルが知る兵士もいる。また幸子も墓に眠る者が誰なのかがわかっていた。
二人はゆっくりと一つ一つの墓に手を合わせて回った。
千鶴がロシア人墓地へ来たのは、これが初めてだ。けれど、ここは自分がつながる国の人たちの墓だと思うと、自然と厳かな気持ちになる。
戦争は嫌いだが、日露戦争がなければ自分は生まれていない。そう考えると、ここに眠る者たちに申し訳ない気がして、千鶴もそれぞれの墓に向かって手を合わせた。
スタニスラフは墓石や景色を眺めて歩いていた。しかし、千鶴が墓石に手を合わせているのに気がつくと、千鶴の横に並んで同じように手を合わせた。
幸子とミハイルはすべての墓に手を合わせ終わると、一緒に墓地の端から城北練兵場を見下ろした。練兵場全体が見渡せるので、バラックの建物がどこにどのようにあったのかを、二人は頭に浮かべているのだろう。何もない広場を指差して、ああだこうだと言いながら笑っていた。
千鶴はスタニスラフを気遣って、城山の上に見える松山城について説明してやった。スタニスラフは面白そうに話を聞いていたが、話が一区切りつくと、じっと千鶴を見つめた。
どきりとした千鶴がどうかしたのかと訊ねると、スタニスラフは言った。
「千鶴サンヴァ、好キナ人、イマズゥカ?」
「え?」
唐突にそんなことを訊かれ、千鶴は当惑した。
惚れている相手のことなど、簡単に他人に喋るものではない。返事ができない千鶴の顔をスタニスラフはのぞき込んだ。
「イナイデズゥカ?」
「日本人は、そがぁなことは人には言わんのよ」
千鶴はうやむやに答えてごまかそうとしたが、スタニスラフは執拗に訊いて来る。
「イルデズゥカ?」
いると言えばいいのに言えなかった。気恥ずかしいし、自分が進之丞に見せている態度は、好きな人に見せる態度ではない。それを考えると、胸を張って答えることなどできなかった。
千鶴が困って黙っていると、イナァイデズゥネとスタニスラフはにこやかに言った。しかし、勝手に決めつけられることに千鶴は反発を覚えた。
「うちのこと訊く前に、ご自分のことを言いんさい」
「ガジブゥン?」
「スタニスラフさんには、好いたお人はおるんかなもし?」
「ズゥイタ?」
「好きな人ぞな」
スタニスラフはにっこり笑ってうなずいた。
「僕ヴァ、好キナ人、イマズゥ」
へぇと千鶴は思った。日本人はそんなことは恥ずかしくて言えない。やはりスタニスラフは異国人なのだと改めて感心した。
「ほれは、どがぁなお人ぞなもし?」
「ドガナ?」
「スタニスラフさんが好いとるお人て、きれいなん?」
スタニスラフはにこにこしながら言った。
「世界デ、一番、美シィデズゥ」
よく恥ずかしげもなく人前でそんなことが言えるものである。聞いている方が恥ずかしくなる。
「そのお人には、スタニスラフさんの気持ちは伝えんさったん?」
スタニスラフは微笑みながら首を振り、マダネと言った。
「ヴァタァシ、サレェ、ハジメテ、キクゥネ」
いつの間にか近くに来ていたミハイルが、驚き顔で話に交ざって来た。幸子も興味津々の様子だ。
「サレェヴァ、ダレェ?」
「内緒ネ」
「アカァサン、シテマズゥカ?」
「知ラァナイ」
はにかんだスタニスラフの笑顔はとても愛らしい。きっと告白された相手はスタニスラフを好きになるだろう。千鶴はその娘を羨ましく思った。自分ももう一度進之丞に気持ちを伝えてもらいたかった。
進之丞とぎくしゃくするようになった事の始まりは、辰蔵を婿にすると言われたらという話だ。定かなことではないものの、もしそうなった時にどうするかは未だに決めかねている。だけど、これではもう一度進之丞と話し合っても結果は同じだ。
千鶴は覚悟を決めた。選ぶのは進之丞以外にない。あとは家族や使用人たちが路頭に迷わないことを祈るだけである。
四
宿では夕食が用意されているので、墓参りが終わったあとは、ミハイルたちは道後へ戻ることになっている。
翌日に再び会う約束をし、ミハイルとスタニスラフは千秋寺停車場から電車で道後へ向かった。電車の後部から手を振る二人を、幸子も手を振り返しながら名残惜しそうに見つめていたが、千鶴の頭は進之丞と話をすることでいっぱいだった。
二人を見送ったあと、千鶴と幸子は同じく電車で古町停車場まで戻った。電車の中で二人は黙りこくり、古町に着いてからもほとんど喋らなかった。
家に着くともう店仕舞いで、進之丞が丁稚たちと表の掃除をしていた。
進之丞たちに声をかけたあと、幸子は裏木戸から中へ入った。母がいなくなると千鶴は表に戻り、進之丞の袖をつかんで裏木戸の方へ引っ張って来た。
新吉が何だろうという顔で見ていたが、すぐに亀吉に叱られて、千鶴たちから見えない所へ連れて行かれた。
「何ぞな? あしはまた何ぞお前の気ぃに障ることをしてしもたんか?」
うろたえ気味の進之丞に千鶴は首を振り、スタニスラフに抱かれたことを詫びた。すると進之丞は安堵して笑い、そげなことは気にすんなと言った。
千鶴は小さくなりながら、ミハイルが父親で、スタニスラフは父親の再婚相手の息子だと説明した。
「最初は腹違いの弟やて思いよったんよ。ほんでも、あとで話聞いたら、ほうやなかったてわかってな……」
弁解する千鶴に構ん構んと進之丞は明るく応じて、スタニスラフをいい男だと褒めた。さらに、もし千鶴があの男に心惹かれても文句は言わないと、冗談めかして言った。
千鶴を悄気させまいとの気遣いかもしれないが、進之丞の態度に千鶴は落胆した。進之丞が怒っていないかと心配したが、笑って済ませるぐらいなら怒ってほしかった。怒らないまでも、せめて文句の一つも言ってもらいたかった。
スタニスラフに抱かれるのを目撃した時の進之丞は、とても悲しげな目をしていた。その悲しみを隠してのことだろうが、辰蔵であれスタニスラフであれ望むのであれば喜んで千鶴を任せよう、と言わんばかりの言動は思慮に欠けている。特に今は二人の関係がよくないのだから、どんな態度を取るかは考えるべきだ。
そんな腹立ちを覚えながらも、千鶴は進之丞が自分をあきらめてしまったのではないかという不安も抱いていた。進之丞の他人事みたいな態度は、すでに心が離れてしまったかのようにも見えた。
千鶴はこれまでの自分の態度を詫びて、店を捨ててでも進之丞と夫婦になりたいという気持ちを伝えるつもりだった。けれど、今の進之丞を見て気持ちが削がれてしまった。また、進之丞への腹立ちと不安で言うべきことが言えなくなった。
「とにかく、そがぁなことやけん」
それだけ言うと、千鶴はがっかりしながら裏木戸をくぐった。今日こそは絶対に進さんと話をしようと決めていたのに、千鶴の思惑は不発に終わってしまった。
奥庭に入って裏木戸を閉めた千鶴は、進之丞の様子を思い返し、進之丞の本心を探ろうとした。だけど不安な気持ちで考えると、悪いことしか浮かばない。
この一月の間、千鶴は自分の態度を進之丞に詫びずにいた。初めは普段どおりに明るく接していたが、進之丞は千鶴がまったく反省していないと思っただろう。
途中から不安になって進之丞に明るく振る舞えなくなってしまったが、進之丞には千鶴の想いが冷めたように映ったに違いない。
そこへとどめのスタニスラフだ。あの悲しげな目は、今も千鶴の頭から離れない。進之丞は構わないと言ったが、それが本心のわけがないのだ。
千鶴はもう一度裏木戸を開けようとした。やっぱり進さんと話をしなくてはと思っていた。しかし、裏木戸に手をかけたまま開けることができなかった。進之丞の気持ちを確かめるのが怖かった。
訊けば進之丞は千鶴の幸せを考えていると言うに決まっている。でも、千鶴と夫婦になろうという想いは失せたかもしれなかった。今の吹っ切れた感じの進之丞は、千鶴が誰を好きになろうが構わないと開き直っているみたいだ。
茂七はあちこちの太物屋の主が進之丞を狙っていると言った。今の状況で進之丞が心優しい娘に出会えば、気持ちがそちらに向いてもおかしくない。その娘が心優しいだけでなく、思いがけない苦労をしていたならば、進之丞はその娘を放っておけないだろう。
すべては千鶴の妄想である。だが進之丞に思いもしない態度を見せられると、どんどん進之丞が離れて行くようで、最悪のことばかりが頭に浮かぶ。
もし本当にそんな娘がいたとしても、進之丞は千鶴を信じて千鶴に心を残してくれていたと思われる。だが、それも千鶴がスタニスラフに抱かれるまでのことだ。きっとあの時に進之丞の心の糸は切れてしまったのだ。
千鶴は項垂れて後悔した。悪いのは自分だ。すぐに詫びずに、進之丞が声をかけてくれるのを待っていたのも、進之丞の気持ちを軽く見ていたからだ。
千鶴を完全にあきらめた進之丞が、自分を想う他の娘に心を寄せたなら、千鶴との関係が元に戻ることはない。進之丞にそんな娘がいるとは決まっていないのに、落ち込んで自信を失った千鶴には、それが事実に思えていた。
とはいえ、いくら太物屋の娘が進之丞に惚れたとしても、笑顔に隠れた進之丞の心の内を見抜き、進之丞を慰めて寄り添える娘などいるとは思えない。いたとしても、そこまでの関係になるだけの時間は、進之丞にも相手の娘にもないはずだ。
そんなことができるのは、自分のようにいつでも進之丞の傍にいる娘だけだと少しばかり安堵した千鶴の頭に、ふと花江の顔が浮かんだ。
花江はいつも進之丞の近くにいる。いつでも進之丞の様子に気を払っているし、進之丞を気遣える優しさと気配りを持ち合わせている。
千鶴は凍りついた。そんなのは有り得ないと、即座に自分の考えを否定したが、まさかという思いはなくならない。
花江は千鶴と進之丞の仲を知っているし、ずっと応援してくれていた。その花江が進之丞にちょっかいを出すわけがない。千鶴は必死に自分に言い聞かせたが、頭は勝手にいろいろ考え始める。
近頃の進之丞の落ち込みに気づいた花江が、千鶴との間に何かがあったのかと心配し、進之丞の話を聞くというのはあるだろう。そうして進之丞に同情するうち、次第に惹かれるようになった可能性はある。花江は進之丞に惚れない娘はいないと言ったのだ。
こんなことは考えるべきでないと、千鶴は震える体を押さえながら、すぐに自分を戒めた。けれども喋りだした疑いの気持ちは黙ろうとしない。
そういえば、近頃の花江はどんよりしていることが多い。ちょうど千鶴と進之丞が諍いを起こした頃か、あるいはそれより少し前からだ。
もしかしたら、その頃から花江は進之丞に心を寄せていたのかもしれない。千鶴にあまり声をかけなくなったのは、後ろめたさがあったからと考えられる。
思い返せば、花江は進之丞と喋る時には明るさを取り戻していた。進之丞といるのが嬉しいからだ。その花江が傷心の進之丞に気づき、悩みを打ち明けられたならどうなるか。
千鶴は胸が潰れそうになった。
花江はもう二十五だが、きれいな娘だ。面倒見もいいし仕事もできる。それに東京から来ただけあって華がある。あの孝平が一目惚れして頭が上がらなくなったぐらいだ。
一方、花江は関東の大地震で何もかも失った天涯孤独の身の上だ。どんなに明るく振る舞っていても、その顔の下には悲しさが隠れている。そんな花江の姿は、千鶴から見てもいじらしい。心優しい進之丞が心を動かされたとしても不思議ではない。
そうだったのかという気持ちと、そんなことあるものかという想いが、心の中でぶつかり合っているが、形勢は次第に前者に傾いて行く。
千鶴は湧き起こりそうな怒りを必死に押さえた。自分が怒れば鬼が黙っていない。大好きな花江にもしものことがあったら、一生悔やみ続けるだろう。だけど、花江に進之丞を奪われたのかもという想いはなくならない。
千鶴は大きく息をして気持ちを落ち着けようとした。けれども、勝手にこぼれ落ちる涙を止めることはできなかった。
五
次の日、幸子は仕事なので、千鶴が一人でミハイルたちに松山の街案内をすることになった。
家の仕事は花江一人に任せることになるので、そのことを頼みながらも、千鶴は花江の顔がまともに見られなかった。
昨日、千鶴たちが戻った時、花江は先に帰っていて、台所にいるトミを手伝っていた。千鶴の父親が訪ねて来たことをトミから聞かされていた花江は、千鶴と幸子を笑顔で祝福してくれた。
だが、千鶴はその笑顔を素直に受け止められなかった。その笑顔の裏で、花江がどんな顔をしているのかと考えてしまい悶々としていた。花江が進之丞を奪った事実などどこにもないのに、千鶴の頭の中には妄想が広がり、それが今朝になっても続いていた。
ミハイルたちがやって来たと豊吉に知らされ、千鶴は帳場へ二人を迎えに出た。花江も二人の顔を拝ませてもらおうと、仕事の手を休めて千鶴について来た。
するとスタニスラフが千鶴に呼びかけ、いきなり千鶴を抱きしめた。花江は目を丸くし、昨日同じ場面を見たはずの丁稚たちは思わず声を上げた。
帳場には辰蔵と一緒に進之丞と弥七もいた。
スタニスラフたちを初めて見る辰蔵と弥七は、それだけでも驚いただろうが、目の前でいきなり主の孫娘を抱きしめる男の姿には、開いた口がふさがらなかった。
表には何人かの近所の者たちがいて店の中をのぞいていたが、スタニスラフが千鶴を抱くのを見て興奮した声を出した。そんな中、進之丞だけは無表情のまま千鶴を見つめていた。もう昨日みたいな悲しげな顔はしていない。
スタニスラフの意表を突く行動に、千鶴は抗えなかった。スタニスラフに抱かれたまま、今の自分の姿が進之丞の目にどう映っているのかと千鶴は焦っていた。
スタニスラフから離れた千鶴は、ちらりと進之丞に目を遣った。みんながまだ驚いた顔をしているのに、進之丞は注文書に目を戻して確認作業をしている。無関心を装っているのかもしれないが、本当に千鶴への関心を失っているようにも見えた。
千鶴は非常識なスタニスラフに腹立ちを覚えた。だけどそんな気持ちは表に出さず、スタニスラフに明るく声をかけた。
自分を抱いた男に笑顔を向ければ、進之丞がどんな顔をするかを確かめたかった。進之丞が少しでもやきもちを焼いてくれればという期待があった。
同じく注文書を確かめていた弥七は手が止まり、何が起こっているのかという顔を千鶴たちに向けた。花江や亀吉たちも妙な顔をしている。けれど、進之丞は淡々と注文書を捲っていた。
やっぱし進さんの気持ちは離れてしまったのかと、千鶴は気持ちが沈んだ。それでも笑顔を繕い、続く父の抱擁を受けた。
父に抱きしめられたのは、今の千鶴には大きな慰めだった。千鶴は父の腕の中で、思わず泣きそうになった。
千鶴が初めにミハイルたちを連れて行ったのは、例の大丸百貨店だ。中に入ると、客たちは展示品よりも千鶴たちの方に顔を向けた。
千鶴も含めて異国人の顔が三つも並んでいれば、嫌でもみんなが振り返る。千鶴はみんなの視線が気になったが、ミハイルもスタニスラフも慣れているのか平気なようだ。時には自分を見つめる人たちに愛想を振り撒いている。
二人は展示されている日本の着物などに、興味深げな目を向けていた。けれど、一番喜んだのはえれべぇたぁだ。父たちが面白がる様子が千鶴は嬉しかったが、進之丞がこれで喜んだと思い出すと悲しくなった。
続いて千鶴は勧商場へ行き、そのあと善勝寺でお得意の日切饅頭を二人に振る舞った。
一応はあんこが熱いからと注意はしたものの、二人はお決まりのように頬張ったあんこの熱さに慌てふためいた。千鶴は笑ったが、進之丞と日切饅頭を食べた時のことが思い出されて切なくなった。
そのあとは湊町商店街へ向かったが、かつて露西亜町と呼ばれたほどロシア兵で潤ったこの商店街を、ミハイルは何度か訪れたことがあるという。
今ではかなり様変わりをしているが、当時から洋菓子を売る菓子屋が残っていた。千鶴たちがその店をのぞくと、年老いた店主が相好を崩して千鶴たちを迎えてくれた。
店主は昔を懐かしみ、戦争は嫌だけれど、ロシア人がたくさん来てくれたのはよかったと言った。また、店主は千鶴が伊予の言葉を喋るのに驚いた。
千鶴は滅多にここの商店街には来ないし、来た時にもこの菓子屋には入ったことがなかった。それで店主は千鶴のこともロシアから訪れた娘だと思ったようだ。
千鶴たちの事情を聞いた店主は、千鶴たち親子の再会を喜んでくれた。そして、祝いだと言ってお菓子をくれた。
ミハイルもスタニスラフも松山の人はやっぱり親切だとうなずき合った。実際は千鶴は差別をされていたのだが、二人が楽しそうにしているのでそのことは黙っていた。
露西亜町ではないが、大街道にもロシア捕虜兵に食べさせるパンを焼いていた菓子屋があった。その店もまだ残っていて、そこでもミハイルたちは歓迎された上にパンをただで分けてもらった。
昼飯には大街道で牛鍋を食べた。醤油と砂糖で味付けをした牛肉の鍋だ。
ミハイルもスタニスラフも絶賛したが、実は千鶴も牛鍋を食べたのは初めてだった。とても美味しいので進さんにも食べさせたいと思ったが、もう無理かもしれないと気持ちが沈んだ。
食事のあとは松山城を見に行くことになった。
けれど、城山の山頂までは急な坂道を登らなければならない。ロシア人墓地がある丘を登るのも大変なミハイルが、城山を登るのは困難だと思われた。
その話をしても、スタニスラフは城の近くへ行ってみたいと言った。ミハイルも捕虜兵として松山にいた時には城山を登れなかったので、登れるものなら登りたいと言った。千鶴は仕方なく県庁裏から城山へ登る道へ二人を案内した。
県庁があるのは城山の麓で東堀のすぐ手前だ。裁判所の前を真っ直ぐ進むと東堀に突き当たる。そこを右に曲がると、県庁の裏を回るように作られた登城道がある。
裁判所の近くへ来た時、千鶴はミハイルたちに萬翠荘を見せて説明をした。しかしそこからでは、裁判所の後ろにある萬翠荘はよく見えない。
千鶴はその場所から少し離れた所までミハイルたちを連れて行った。そこで裁判所の屋根から遠慮がちに顔をのぞかせている萬翠荘を見せ、それが何の建物かを説明した。
二人は萬翠荘はとても美しいと口を揃え、もっと近くで見たがった。だが、それはできないと知ると残念がった。
東堀までやって来た千鶴たちは、城山の方へ道を曲がった。横のお堀は城山に突き当たると、そこの高い石垣に沿って左へ曲がる。その石垣の上には陸軍の衛戍病院があるが、千鶴たちがいる道から入ることはできない。
千鶴たちの道も城山に突き当たるが、そこでお堀と別れて右へ曲がり城山を登る。これがまたかなり急な坂道で、杖を突くミハイルが登るのはやはり困難だった。スタニスラフが後ろから背中を押して登ろうとしたが、ミハイルは途中で登るのを断念し、城は下から眺めることにした。
スタニスラフはあきらめきれない様子だったが、父を気遣って千鶴が下りると決めると、仕方なく後ろについて来た。
千鶴たちは南堀近くまで移動して後ろを振り返った。そこからだと山の上の城がよく見える。ミハイルはしばらく城を眺めたあと、千鶴に話しかけた。
「ヴァタァシナ、アジサン、ムゥカシ、ニホォン、アイデタネ」
「おじさん?」
「ヴァタァシナ、アトォサンナ、アトォサンナ、アトォサンネ」
ミハイルは自分を差した指を、順繰りに上下させながら言った。それで曾祖父のことかと千鶴は理解したが、すぐに驚いた。千鶴からいえば高祖父である。
「お父さんが言うておいでるおじいさんて、お父さんのひぃおじいさんじゃね?」
「ヒ?」
きょとんとするミハイルに、千鶴は微笑みながら手を振った。
「ええのええの、気にせんで。ほれで、おじいさんは日本へ、何しにおいでたん?」
「アトォサン、イイマシタ。アジサン、フゥネ、シズゥンダ。ニホォンジン、アジサン、タズゥケタ」
どうやら、この話をミハイルは父親から聞いたらしい。高祖父は乗っていた船が日本近くで沈没し、日本人に助けてもらったようだ。
自分の高祖父が日本に縁があっただなんて、不思議なことだと千鶴は思った。
「サレェ、ホントデズゥカ? 僕ヴァ、初メテ、聞キマシタ」
驚くスタニスラフに少し肩を竦めてから、ミハイルは言った。
「アジサン、イイマシタ。ニホォン、ヤサシィ、ダケドォ、コヴァイ、カナシィ」
日本は優しくて怖くて悲しいというのは、どういうことだろうと千鶴は首を傾げた。
そもそも高祖父が日本へ来たのはいつなのか。千鶴の頭に浮かんだのは、歩行町に暮らしていたという祖父の祖父だ。こちらの高祖父は進之丞の父親の親友であり、前世の千鶴を養女に迎えようとしてくれた恩人である。
恐らく父方の高祖父もその頃の人物だ。ということは、前世の自分の親ぐらいの歳なのか。当時の父親が黒船でやって来たのだから、ロシアの人間は思ったよりも頻繁に日本を訪れていたのかもしれない。
しかし、その頃の日本は異国人に対して排他的であり、異国人に襲いかかる攘夷侍がいた。高祖父を助けてくれた人々は優しくても、高祖父を敵視した者もいたと思われる。
日本人と心を通わせたであろう高祖父は、命の危険を感じて日本から逃げ出したのだ。きっとそれが日本は優しく怖く悲しい理由だろう。
高祖父の言葉の意味は、スタニスラフにはわからないようだった。それで千鶴が当時の日本の状況を説明してやると、スタニスラフはうなずいた。ミハイルはちょっと違うと言いたげだったが、結局は何も言わなかった。
六
この日、ミハイルたちは千鶴の家で夕飯を食べることになっていた。夕方には幸子も病院から戻って来る。限られた時間を親子が共に過ごせるようにという甚右衛門の取り計らいだ。
店に戻ると帳場に来客がいたので、千鶴たちは裏に回った。裏木戸へ近づくと、押し殺した泣き声が聞こえてくる。
千鶴は後ろにいたミハイルたちに、静かにと口の前に指を立てて見せた。それから二人にそこで待つよう両手で示すと、そっと裏木戸の傍へ行った。すると、女の泣き声と男の声が聞こえた。やはり戸の向こうには誰かがいる。
耳を澄ませて声の主を確かめた千鶴はぎょっとなった。泣いていたのは花江で、慰めているのは進之丞だ。
「忠さん、あたし、もう堪えられないよ」
「そげなこと言われんぞな。互いの気持ちはわかっとろ?」
「互いの気持ちがわかってたって、何にもなりゃしないじゃないか! ねぇ、忠さんから旦那さんに言っておくれよ。あたしたち惚れ合ってるんですって。お願いだよ。あたしたちが一緒になれるよう頼んでおくれよ」
千鶴は息が止まりそうになった。まさかと思ったことが本当だったのだ。千鶴はこれまでにないほど打ちのめされ惨めな気持ちになった。
千鶴さんらが戻んて来たみたいと、中の二人に呼びかける豊吉の声が聞こえた。
花江は明るい声で、今行くよと返事をしたが、すぐには動かなかったようだ。時折、鼻をすする音が聞こえたが、あとは何も聞こえない。それが千鶴に余計な妄想をさせた。
千鶴は泣きそうになるのを堪えながら、ここは通れないから表から入れてもらおうと、ミハイルたちに言った。
千鶴の様子がおかしいのに気がついたミハイルたちは、何があったのかと訊いて来た。だけど説明できるはずがない。何でもないと微笑んだ千鶴は、二人を連れて店に戻った。中にいた客はちょうど帰るところで、弥七と亀吉が見送りに出ていた。
帳場の辰蔵はにこやかにミハイルたちを迎え入れた。
辰蔵が婿になると疑って以来、千鶴は辰蔵にもどんな顔を見せればいいのかわからずにいた。素っ気なく会釈をして中へ入ると、奥から進之丞が現れた。
進之丞が千鶴に声をかけたのに、千鶴は思わず顔を背けると、返事も返さずに進之丞の脇をすり抜けた。
台所には花江が戻っていた。新吉と豊吉も夕食の手伝いをしている。客が一緒の食事なので、いつもより準備が大変なのだろう。
お帰んなさいと花江は明るく千鶴たちに声をかけた。さらにいつもの調子で、楽しかったかい?――と訊ねた。何を空々しいと思いながら、楽しかったと千鶴は笑顔を見せた。それでも笑顔は続かず、千鶴は横を向いた。
千鶴は泣き伏したい気持ちを必死に我慢していた。こんなことになるのなら、進さんをここへ呼ぶのではなかったと、胸の中は後悔があふれていた。
晩餐会の夜
一
昨夜は千鶴はあまり眠れなかった。うとうとはしたが、その時に見た夢が悲しかった。
夢の中で、千鶴は店や家の中を行ったり来たりしながら、進之丞を探しまわっていた。だけど、いくら探しても進之丞はどこにも見つからない。
帳場に座る辰蔵に忠さんはどこかと訊ねると、花江さんと一緒になって風寄に戻んたろが――と言われた。
その物言いが少し偉そうなので、千鶴がむっとしていると、お前はもうあたしの女房なんじゃけん、好え加減あの男のことは忘れんさいやと、辰蔵は怒った顔で言った。
千鶴が店を飛び出すと、風寄にある進之丞の実家があった。そこで目にしたのは、二人で履物作りの仕事をする進之丞と花江の姿だった。
仲睦まじく働く二人の傍にはにこにこ顔の為蔵とタネがいて、忠之は本当にいい嫁を連れて来たと喜んでいる。
為蔵とタネは何故か花江を千鶴ちゃんと呼び、花江も嬉しそうに返事をした。
その人は花江で自分が千鶴だと、千鶴は必死に叫んだ。しかし、誰にも千鶴の声は聞こえないし、千鶴の姿も見えていない。
それでも進之丞だけは千鶴に気づいて微笑んでくれた。だがすぐに花江との作業に戻り、そのあとは千鶴の方を見てくれることはなかった。
目が覚めたあと、千鶴はしばらく声を出さずに泣いていた。
この夢が今の千鶴の気持ちの表れなのは明らかで、心の中は花江に進之丞を奪われた悔やみと悲しみしかなかった。
離れを出て台所へ向かうと、迎えてくれたのは花江だ。
ミハイルたちが来てから、花江は少し元気を取り戻したみたいだ。いや、絶対に取り戻している。他の者には珍しいロシアの客が刺激になったと見えるだろうが、本当はそうではない。進之丞と気持ちが通じ合えたからだ。だけど千鶴は文句が言えない。進之丞にそうさせたのは他ならぬ自分なのだ。
泥沼に沈んだ気分の千鶴に、何だか元気がないねと花江は言った。心配そうなその声が、千鶴には勝ち誇った皮肉に聞こえる。
笑顔を繕う余裕もなく千鶴が黙っていると、お父さんたちは明日帰るんだねと、花江は同情の声をかけた。でもこれも、離れるのが嫌なら一緒に神戸へ行けばいいじゃないか、と言われている気がする。千鶴は何も言わないまま花江に背中を向けた。
この日の朝、ミハイルたちは思っていたより遅い時間にやって来た。千鶴はスタニスラフに抱かれないよう、祖父母たちの後ろの方で二人を迎えた。
道に迷ったのかと甚右衛門が訊ねると、首を振ったミハイルは興奮気味に喋った。
「ズゥズゥキセンセ、アイデマシタ。カンバン、バンサンカイ、ヒラァクゥ、イイマシタ」
軍医の鈴木医師がミハイルたちを訪ねたのはわかったが、「かんばん」と「ばんさんかい」がよくわからない。甚右衛門とトミは顔を見交わした。
「看板に晩餐会?」
「開く言うとるけん、鞄のことじゃろか?」
「じゃったら、ばんさんかいは?」
「晩げに三回開くんよ」
何じゃい、ほれは――と甚右衛門が眉根を寄せると、後ろで話を聞いていた花江が、もしかしてと言った。
「かんばんってぇのは、お店の看板じゃなくて今晩ってことじゃないでしょうか? 晩餐会って晩に開くものでしょ?」
今晩かとうなずいた甚右衛門は、今日の夜のことかとミハイルたちに確かめた。二人は大きくうなずき、スタニスラフが嬉しそうに言った。
「鈴木先生、アトォサン、会エタ、タテモォ、喜ンダ。サレェデ、今晩、ア祝イズゥル、言ィマシタ」
どうやら鈴木医師がミハイルたちのために、今晩一席設けてくれるらしい。それは有り難いことだと甚右衛門もトミも喜んだ。
だが晩餐会というものは、庶民の宴会とは違って、もっと高貴な人々の祝宴だ。そこが今ひとつしっくりこないまま、晩餐会はどこでするのかとトミが訊いた。ミハイルは目を輝かせながら、アソォコと言って千鶴を見た。
落ち込んでいる千鶴には晩餐会などどうでもよかった。だから話も半分聞き流していたが、そこへ急に話を振られたので戸惑った。
「あそこて、どこ?」
千鶴がうろたえながら訊ねると、昨日千鶴に見せてもらった美しい家だとミハイルは言った。けれど思考が進まない千鶴は、どこのことか思い浮かばない。すると、城山を登りに行く時に見せてくれた家だとスタニスラフが言った。
それは萬翠荘しかない。千鶴はまさかと思いながら、どうも萬翠荘らしいと話したが、甚右衛門たちも何かの間違いだろうと口を揃えた。
萬翠荘は久松定謨伯爵の別宅であり、あそこへ招かれるのは皇族や政治家など特別な者だけだ。一般人でありロシア人でもあるミハイルたちが招かれるはずがないし、一介の軍医に過ぎない鈴木医師に、萬翠荘で晩餐会を開く権限などあるわけがない。
どういうことかと事情を確かめると、鈴木医師がミハイルの歓迎会をしようと、当時を知る者たちに声をかけて廻ったとミハイルが説明した。続いてスタニスラフが、その話が偉い人の耳に届いて、萬翠荘で晩餐会を開いてくれる話になったと言った。偉い人というのは久松伯爵のことらしい。それにしても、何故伯爵がそこまでしてくれるのか。伯爵はミハイルに関わりがないはずだ。
同じ疑問はミハイルも抱いたそうで、鈴木医師に訊ねたところ、一度は戦争を起こした両国が、今後は親しい隣国になることを伯爵は願われているのだという。だから捕虜兵だったミハイルが再び松山を訪ねてくれたことを、伯爵も歓迎してねぎらいたいということのようだ。
話としては筋が通っている。信じられない話だけれど、二人の言うとおりならとても光栄なことだ。落ち込んでいる千鶴でさえ、二人が羨ましく思えた。
とはいえ、そうなると父たちと最後の夜を一緒に過ごせなくなってしまう。それは千鶴と幸子には残念なことだった。
花江に進之丞を奪われた千鶴にとって、父やスタニスラフの存在は大きかった。特に父にはずっと傍にいてほしかったし、アメリカへ行くのであれば自分も連れて行ってもらいたかった。なのにアメリカへ行くどころか、最後の晩も一緒にいられないのである。
千鶴はさらに気持ちが沈んだが、話には続きがあった。晩餐会は千鶴と幸子も行くとミハイルが言うのだ。
伯爵はミハイルと幸子の再会を、両国の友好の象徴と見ているらしい。それで、幸子と二人の娘である千鶴にも、ぜひとも出席してもらいたいというのが、伯爵のご意向なのだそうだ。
これには一同が驚いた。甚右衛門は慌てふためき、トミは倒れそうになった。
凄いじゃないかと花江が千鶴の肩を叩いたが、花江へのわだかまりがある千鶴は、横目で花江を見るしかできなかった。
甚右衛門は即座にこの話を断ろうとした。ところが、伯爵の招待を断るのは失礼に当たらないかと、トミに言われて甚右衛門は唸った。
「ほれにしたかて幸子は仕事じゃし、二人ともそげな所で着る物がなかろがな」
トミが言うと、千鶴が言い換えてミハイルたちに説明した。すると、その言葉を待っていたかのようにスタニスラフが喋った。
「幸子サン、呼ブゥネ。着物、アリマズゥ。千鶴サン、幸子サン、何モ、イラナイ」
「着物があるて、どこにあるん?」
千鶴が訊ねると、晩餐会の人が貸してくれるとスタニスラフは言った。伯爵夫妻が用意してくれると言いたいらしい。
だけど、そんな都合のいい話があるわけがない。スタニスラフの話は誰も信じなかったが、ミハイルは今すぐ幸子を迎えに行くと言った。スタニスラフも千鶴の手を取って、一緒に来てほしいと訴えた。
思いも寄らない話に千鶴は狼狽し、自分には決められないと言った。ミハイルは甚右衛門たちに許可を求めたが、甚右衛門もトミも困惑して返事ができない。
花江は焦れったそうにしながら、行くと言いなと千鶴に口の動きで伝えていた。だが千鶴には、花江が邪魔な千鶴を進之丞から引き離そうとしているみたいに思えた。
千鶴は花江から顔を背けたが、スタニスラフに強く両手を引かれて、顔は自然にスタニスラフの方を向いた。
「アネガイシマズゥ。千鶴サン、来テサイ」
「ほやけど、今日は正清伯父さんの月命日やし」
千鶴は逃げる口実を探して祖母を見た。
曾祖父母と正清伯父の命日には、都合の悪い者がいない限り家族で墓参りに行く。でも、月命日はみんな仏前で手を合わせるだけで済ませていた。ただ、祖母は正清伯父の月命日も墓参りに行く。その時には誰かが付き添うのだが、以前は母が同行していた。
母が病院で働き始めてからは亀吉か新吉がお供をしていたが、今は千鶴の役目になっている。だからいつもの予定では、この日は祖母と一緒に正清伯父の墓参りだ。けれど父たちの話が正しければ、これは伯爵からのお招きである。断るなど畏れ多いことだ。
トミは今回の墓参りには甚右衛門に一緒に行ってもらうと言った。千鶴の邪魔はしないという意味だ。トミに顔を向けられた甚右衛門は、あぁとうろたえ気味にうなずいた。
これで千鶴は断る理由がなくなったが、まだ迷っていた。
憧れの萬翠荘での晩餐会に招かれるなんて、一生に一度もない話である。これは特別中の特別であり感激の極みだ。しかも両親とスタニスラフが一緒なので安心感もあるし、喜びを分かち合える。行けるものなら行きたいというのが、千鶴の素直な気持ちだ。
でも晩餐会に行けば、きっと花江と進之丞の仲を深めることになる。そう思うと、行く気持ちが失せてしまう。今の千鶴には萬翠荘へ行くことよりも、進之丞を取り戻すことの方が願いだった。
進之丞が土間を通りがかった。蔵へ向かうのだろうか。進之丞はスタニスラフに手を握られた千鶴を見たあと、ちらりと花江に顔を向けた。それはほんのわずかな間ではあったが、千鶴には二人が目で何かを語り合ったみたいに見えた。
かっと頭に血が昇った千鶴はスタニスラフに言った。
「わかりましたぞなもし。うちでよければ行かせてもらいますけん」
不安げな祖父母にも千鶴は言った。
「お二人が望んでおいでることですけん、行くぎり行てくるぞなもし。お二人の話に間違いがあったとしても、恥かくんはうちですけん」
「幸子はどがぁするんね?」
トミが心配そうに訊ねた。
「ほれも行てみて外へ出られんようなら、残念なけんどお母さんのことはあきらめてもらうぞなもし。ほんでもひょっと出られるようじゃったら、一緒に行てみよて思とります」
甚右衛門はわかったと言い、誤解があるようならさっさと戻って来いと、千鶴が晩餐会に出るのを認めた。トミは千鶴たちが行くしかないと覚悟を決めていたのだろう。くれぐれも伯爵に失礼のないようにと力を込めて言った。
「そがぁなわけで、うちも行くぞなもし」
改めて千鶴がスタニスラフに告げると、スタニスラフは喜んで千鶴を抱きしめた。
甚右衛門もトミも当惑を隠さず、花江は目を丸くして口を押さえている。
千鶴は顔が熱くなるのを感じながらも抵抗はしなかった。昨日は抗う余裕がなかったが、今回は敢えてスタニスラフに身を任せた。進之丞はすでに蔵へ行ったし、見られたって構うものかという気持ちだ。
けれど、心のどこかに後ろめたさがあった。また、進之丞が陰から見ていてやきもちを焼いてくれればという想いもあった。そのせいか、千鶴は背中に視線を感じていた。それは深い哀しみの視線だった。
スタニスラフから離れると、千鶴は急いで後ろを振り返った。しかし、そこにはただ勝手口がぽかりと口を開けているだけだった。
二
千鶴は父たちと一緒に母が勤める病院を訪ねた。そこは一番町停車場の近くにある小さな個人病院だ。待合室に入ると、何人もの患者が診察に呼ばれるのを待っていたが、ミハイルたちを見て一斉に驚いた。
呼び出された幸子は当惑していたが、少し嬉しげだ。だけど千鶴から事情を聞くと、予想どおりに戸惑いと困惑のいろを見せた。
たぶん無理ぞなと言いながら、幸子は院長に話をしに行った。だが、やはり院長は急に看護婦が足らなくなるのは困ると、幸子がいなくなることに難色を示した。
ところが、一緒に話を聞いてくれた院長の妻は理解があった。
院長の妻は普段は事務仕事をしているが、若い頃は看護婦として働いていた。そのため急な事情がある時には、事務もしながら看護婦の仕事もこなしていた。そして今回の話を急な事情だと認めてくれた。
庶民が萬翠荘に招かれるのはこの上なく光栄なことだと、院長の妻はわかっていた。それで、これを邪魔すれば久松伯爵の顔に泥を塗ることになると、夫の院長に忠告した。
その忠告は院長を不安にさせたみたいで、院長はどうするかを妻に任せることにした。
院長の妻は病室担当の若い看護婦を呼ぶと、入院患者の状態を確かめた。若い看護婦は今はどの患者も落ち着いていて問題がないと言った。
幸子の事情を説明した院長の妻は、午後から少し外来を手伝えるかと訊いた。
うなずいた若い看護婦は、幸子が萬翠荘へ招かれたという話に興奮し、外来の仕事は何とかするから絶対に行くべきだと言ってくれた。それで院長も渋々ながら、午後の診療から幸子が外れることを了承してくれた。
院長の妻は物わかりもいいが抜け目もない。久松伯爵夫妻に会ったら、ここの病院のことをよろしく伝えてほしいと幸子に頼んだ。
幸子がわかりましたと答えると、絶対にお伝えしますけん、と近くで話を聞いていた千鶴も力強く言った。
無理だろうと思っていた晩餐会に母と一緒に行けることになったので、千鶴は気分がかなり高揚していた。その喜びは一時的ではあったとしても、つらい進之丞とのことを忘れさせてくれた。
病院の午前の診療が終わるのを待って、千鶴たちは幸子と一緒に電車で道後温泉へ向かった。晩餐会は夕方からなので、その前に温泉で体を清めておくようにと、甚右衛門たちから言われていた。
道後へ向かう電車の中で、千鶴も幸子もそわそわしていた。萬翠荘へ行ける喜びよりも、とんでもないことだという緊張の方が強くなっていた。
一方、ミハイルとスタニスラフは嬉しさを隠せない。他の乗客の視線などまったく気にせずに、ずっと二人でロシア語で楽しげに喋っている。何を喋っているのかと幸子が訊ねると、ミハイルがにこにこしながら言った。
「バンサンカイ、エレーナ、ナイシヨ。スタニスラフ、ヤクゥソクゥシタ」
「あら、スタニスラフはお母さんよりお父さんの味方なんじゃね」
幸子がからかい気味に言うと、スタニスラフも笑顔で応えた。
「アトォサン、僕、松山、一緒、来タ。僕ヴァ、タテモォ、幸セ。ダカラァ、僕ヴァ、アトォサン、味方ネ」
ミハイルは得意げな笑みを見せ、スタニスラフの肩を抱いた。
電車に乗った時には、千鶴とスタニスラフは幸子とミハイルを間に挟んで座っていた。しかし、千鶴の隣にいた男が途中の停車場で降りると、スタニスラフはその空いた席へ移動して来た。千鶴はどきりとしたが、初めのような抵抗感はなかった。
スタニスラフは千鶴の緊張を解すつもりなのか、ずっと喋り続けて千鶴から笑顔を引き出そうとした。またお互いをさん付けで呼ぶのをやめようと、スタニスラフは提案した。スタニスラフは千鶴のことを千鶴と呼び、自分のことはスタニスラフと呼ばせた。
敬称をつけずに名前を呼ぶのは、上の者が下の者に対して呼ぶ時だけだ。だから、いきなり名前だけで呼べと言われても、自分が偉そうになったみたいで千鶴にはなかなかできなかった。それでも何度か「スタニスラフ」と、さん付けなしで呼ぶ練習をしているうちに少しずつ馴染んできて、千鶴はスタニスラフとの距離が近くなった気がした。
そんなスタニスラフの優しさは、千鶴の心の傷に沁み入った。けれど、スタニスラフは父とともに明日神戸へ戻るのだ。そのあとはアメリカへ行くというから、今後、千鶴と顔を合わせることはないだろう。
これが最初で最後の出逢いだと思うと、千鶴は切なくなった。できれば一緒に連れて行ってほしいと願ったが、スタニスラフの相手は自分ではない。スタニスラフには神戸に惚れた娘がいるのだ。
だけど、今だけはスタニスラフはすぐ隣にいる。千鶴は知らず知らずのうちに、スタニスラフに体を預けていた。
三
道後温泉で体を清めた千鶴たちは、電車で再び街まで戻って来た。四人とも温泉へ向かった時と違って言葉少なだ。千鶴や幸子はもちろん、さすがにミハイルとスタニスラフも緊張している。
電車が一番町停車場に着くと、このまま札ノ辻まで帰りたくなったと千鶴は言った。幸子は自分も同じ気持ちだと緊張した様子でうなずいた。
だけどここまで来て晩餐会に出ないのは、ミハイルたちを落胆させるばかりでなく、晩餐会を主催してくれる久松伯爵や関係者の人々に対して失礼になると、幸子は千鶴を諭した。またそれは山﨑機織の恥でもあり、店の者みんなが恥ずかしい思いをすることになると付け加えた。
千鶴は言い返すことができず、改めて晩餐会へ出る覚悟を決めた。
次の裁判所前停車場で電車を降りると、そこに山高帽をかぶった洋装の男四人がいた。男たちは電車に乗るわけでもなく、煙草を吸いながら千鶴たちに胡散臭げな顔を向けた。どうやら異国人がお気に召さないらしい。何だか雰囲気が悪いので、千鶴たちは男たちから逃げるように一番町の方へ戻った。
裁判所の東側には細い道があり、その突き当たりに門と建物がちらりと見えた。その奥にあるのは城山だ。千鶴も幸子も萬翠荘への道など知らないが、とにかくそこへ入って行くことにした。まだ千鶴たちを見ている男たちの目が嫌だった。
突き当たりまで行くと、建物の全体が見えた。洋風の立派なもので、庶民の家とは違う。その建物から男が一人出て来て、何のご用かと訊ねた。
スタニスラフが男に説明したが、スタニスラフの日本語は男にはわかりにくいようだ。代わって幸子が説明すると、男はにっこり笑って、お待ちしておりましたと言った。やはりここが萬翠荘へ向かう道で、男は門番役だ。
父たちの話が本当だったとわかった千鶴は、母と驚きと興奮の顔を見交わした。
門を開けて丁重に千鶴たちを中へ迎え入れた男は、萬翠荘へはこちらの道をお進みくださいと、森を抜ける緩やかな坂道を指し示した。
自分たちを特別客として扱う男の丁寧な対応に、千鶴の胸は高鳴った。
木々に囲まれた道を歩いていると、とてもここが街中だとは思えない。小鳥のさえずりが耳に心地よく、森の香りが胸に沁み渡る。辺りを眺めながら少し歩くと、右手の木々の向こうに西洋風の建築物が見えてきた。萬翠荘だ。
いつも目にする萬翠荘は裁判所の後ろに隠れているが、この日の萬翠荘は堂々とした姿で建っている。しかも自分たちのすぐそこだ。
一歩一歩近づくにつれて千鶴の胸はどきどきし、足取りは重くなった。母も同じらしく表情は硬いし無口になった。
千鶴たちに比べると、ロシアの二人の足取りは軽い。さっきまで緊張していたくせに、今は浮き浮きした感じだ。坂道なのにミハイルは杖を突いてどんどん進んで行く。自分は顔はロシア人でもやはり心は日本人なのだと、千鶴は二人を見ながらつくづく思った。
坂道は先の方で右へぐるりと回っている。そこを登って行くと、目の前に萬翠荘がその全貌を現した。
萬翠荘はどっしりした石造りの建物で、壁面は白い煉瓦を積み上げたみたいだ。至る所に大きなガラス窓があり、玄関と思われる所には観音開きの大きな扉があった。その扉の上は、広い見晴らし台が庇になって伸びている。
館は二階建てに見えるが、屋根にも小窓がたくさんある。屋根裏にも部屋があるのだろうか。その屋根は急勾配でうろこのような瓦で覆われている。
屋根の中心と右側の角は上に突き出し威厳を示しているが、特に右の屋根は尖塔になっている。屋根の棟と小窓の縁、それに尖塔の先端は緑色だ。黒っぽい屋根が緑で縁取られた色合いが、何ともお洒落で気品がある。西洋のお城はこんな感じなのかと思わせる、美しくかつ荘厳なる形状の館だ。間近で見る萬翠荘は、まさに異国そのものだ。
千鶴たちが建物の壮麗さに見とれていると、玄関から伯爵夫妻が現れた。千鶴と幸子が思わず平伏すると、お気軽にと言って伯爵は二人を立ち上がらせた。
左右に伸ばした伯爵の口髭は、両端が上を向いてぴんと跳ね上がっている。それだけでも千鶴は身分の違いを感じざるを得なかった。
どう挨拶をすればいいものやらと、千鶴と幸子がうろたえていると、ようこそおいでくださいましたと、優しげな夫人が千鶴たちをねぎらってくれた。反射的に夫妻に深々と頭を下げたので、千鶴たちは何とか挨拶をすることができた。
ミハイルとスタニスラフも伯爵夫妻を前にしては再び緊張したらしい。表情も口調も硬く何度も挨拶を間違えていた。
伯爵は笑いながらミハイルたちと握手を交わし、みんなを館の中へ誘った。
四
どきどきしながら大きな玄関をくぐって中へ入ると、石造りの広い床の先に三段の階段があり、その上にさらに大きな扉があった。これも観音開きで、どちらの扉にも大きなガラスがはめてある。
伯爵が扉の前に立つと、中にいる者が扉を開けた。視界に広がったのは、床一面に赤い絨毯を敷き詰めた広い空間と、正面にある広くて立派な造りの階段だ。
階段にも赤い絨毯が敷かれており、その先の踊り場にはとても大きなガラス窓があった。そのガラスは色のついたもので、海を行く帆船が描かれている。千鶴と幸子は思わずうわぁと声を上げた。
入り口の両脇には巨大な石の柱がそびえ、左手の柱の近くには、使用人と思われる人たちがずらりと並んでいた。
先に中へ入った伯爵夫妻が、どうぞと千鶴たちを招いた。
ミハイルとスタニスラフは千鶴たちを先に行かせようと、それぞれの手を前に差し伸ばした。とんでもないと千鶴たちは拒んだが、ロシアでは男はあとで女が先だとミハイルが説明した。
千鶴たちは仕方なく先に進み、階段の手前で履物を脱ごうとした。すると伯爵は、そのままお入りくださいと言った。見ると、伯爵も夫人も履物を履いたままだ。千鶴は熱くなった顔を伏せながら、顔を赤らめた母と一緒に中へ入った。その途端、横に並んでいた人たちが次々に頭を下げて歓迎してくれた。
すっかり恐縮した千鶴と幸子は、一人一人にお辞儀を返すと、ミハイルとスタニスラフも千鶴たちに倣って使用人たちに挨拶をした。その様子を見ながら伯爵夫妻はにこやかに笑っていた。
玄関の広間は両側に大きな扉が並んでいた。千鶴たちがきょろきょろしていると、夫妻はみんなを二階へ招いた。
どきどきというより、びくびくした感じで階段を上がると、正面の踊り場にある帆船の色ガラスを間近で眺めることができた。
描かれているのは海原に浮かぶ帆船と、空に浮かぶ白い雲、それに数羽のカモメだ。波の描き具合で、船が遠くにあるように見える。全体的に美しく、落ち着きのある色合いの絵だ。絵だけでも素敵なのに、これをガラスで表現しているところが尋常ではない。
そもそもガラス自体が貴重で珍しいものである。なのに色ガラスを組み合わせて絵を描くなど、千鶴たち庶民には考えが及ぶことではなかった。
千鶴たちが足を止めてガラスの絵に見入っていると、階段を上がりかけていた伯爵が、これはすてんどぐらすというものだと話してくれた。この帆船は伯爵が船で西洋へ渡った想い出を描いたものなのだという。
そう言われて、改めて帆船を眺めた千鶴ははっとなった。そこに描かれた黒っぽい帆船が、前世で自分を迎えに来た黒船に思えたのだ。
刹那、黒い船の絵は沖に浮かぶ本物の黒船となった。夕日を背景にした黒船は不気味なほど黒々としている。
千鶴は異国人が漕ぐ小舟の上にいた。小舟は黒船に向かっていた。後ろから誰かに抑えられて無理やり座らせられているが、耳に聞こえる舌を巻く喋り声は異国の言葉だ。
浜辺の方に顔を向けると、そこには千鶴に背を向けた進之丞が、刀を手に走って来る侍たちを迎え撃とうとしていた。
千鶴は小舟から飛び降りて進之丞の元へ行こうとしたが、押さえられているから動けない。千鶴が藻掻くと小舟が大きく揺れた。押さえていた手が離れると、千鶴は海へ飛び込もうとした。しかし、後ろから再び両肩をつかまれた。千鶴はその手を振り払って後ろを振り返った。すると、そこに父ミハイルの顔があった。
「ドカ、シマシタカ」
千鶴の両肩に手を載せていたミハイルは驚いた顔で言った。横にいたスタニスラフも何事かと目を見開いている。
興奮して肩を上下させながら涙ぐむ千鶴は、一瞬ここがどこなのかがわからなかった。
辺りを見まわすと、そこは赤い絨毯が敷かれた広い階段の踊り場で、黒っぽい船の絵を描いた大きなガラスの窓がある。それで萬翠荘へ来ていることを思い出しはしたが、今この瞬間にも進之丞が死んでしまうような気がして、千鶴の動揺は続いた。
「どがぁしたんね? 大丈夫か?」
母までもが心配し、先に階段を登っていた伯爵夫妻も怪訝そうにしている。頭の中は混乱し、気持ちも高ぶっていたが、千鶴は涙を堪えながら何とか言い訳をした。
「ごめんなさい……。ほんでも大丈夫……。ちぃと昔のことを……思い出してしもたぎりやけん」
そう、今のは前世の記憶であり、もう過去のことだ。あのあと進之丞は命を落とすのだが、それはどうにもできないのだ。
「大丈夫かな?」
伯爵が声をかけると、千鶴は夫妻に詫びて、もう大丈夫ぞなもしと言った。だけど、心の中は悲しみでいっぱいで涙がこぼれそうだ。
夫人がまだ心配そうにしているので、娘は昔の嫌なことを思い出したみたいだと幸子が話した。夫妻はうなずき、それなら尚のこと、今宵は存分に楽しんで嫌なことを忘れていただきたいと伯爵は言った。
改めて夫妻に誘われ、千鶴たちは二階へと階段を登った。
千鶴は悲しみを抑えながら進之丞のことを考えた。
前世で進之丞は命を捨てて、千鶴を護ろうとしてくれた。今世でも鬼娘のことで悩む千鶴を慰めてくれたし、たとえ命を失おうとも死ぬまで慰め続けると言ってくれた。また、前世で死に別れた千鶴のことを、決して忘れられないと言ってくれたのだ。
なのに今、進之丞は花江と心を通わせている。そんなのは有り得ないし、二人の会話を聞いてしまった今でも信じられない。
――なしてなん? なぁ、進さん、なしてよ?
千鶴は心の中でつぶやいたが、答えが得られるはずもない。切なさに嘆いている間もなく二階へ上がると、伯爵はミハイルとスタニスラフを正面の部屋へ招いた。
千鶴と幸子は伯爵夫人に別の部屋へ案内された。夫人はそこで侍女に手伝わせながら、自ら二人に着せる衣装や履物、飾り物を選んでくれた。すべて夫人の若い頃の物で、二人に貸してくれるということだ。
恐縮しきりの千鶴と幸子は、侍女たちに手伝ってもらいながら着替えをした。髪も洋風に整えられ、化粧や飾りもしてもらった。そのあと仕上がった姿を互いに見た二人は、一緒に驚きの声を上げた。
母は華族のごとくに気品あふれる美しさに包まれていた。その母がしきりに褒めてくれるので、千鶴はどきどきしながら大鏡の前に立った。
そこにいたのは息を呑むほど美しい女性で、とても自分だとは思えなかった。
今の自分を見てもらえたなら、進之丞が戻って来てくれるだろうかと、千鶴は胸が高鳴った。でも、千鶴が知る進之丞は人の外見で態度を変えたりはしない。せっかくきれいにしてもらったが、その感動はすぐに色褪せた。
千鶴たちが応接室へ通されると、すでに着替えて待っていたミハイルとスタニスラフは目を丸くして立ち上がり、ハラショー ポルチーラシ(素晴らしい!)!――と連発して叫んだ。
スタニスラフは千鶴に駆け寄り、手を取ると口早に言った。
「千鶴、ティ オーチン クラシーヴァヤ!」
言葉の意味はわからないが、褒めてくれているのは見てわかる。父やスタニスラフの喜ぶ様子が千鶴は嬉しかった。
「あの、何て言うたん?」
上気しながら千鶴が訊ねると、スタニスラフは感激した顔で言った。
「千鶴、アナァタヴァ、タテモォ、美シィ」
同じ言葉で幸子を褒め称えていたミハイルは、千鶴の傍へ来ると感無量といった感じで首を振った。
伯爵夫妻も笑みを取り戻した千鶴を見ると、安心したように微笑み合った。
五
千鶴たちは再び一階に下りた。着慣れない洋装なので、千鶴も幸子も階段を下りにくかったが、侍女たちが手伝ってくれた。
階段を下りると、左手に扉が二つある。その手前の扉を使用人の一人が開けてくれた。
伯爵夫妻に続いて部屋に入ると、見たこともない美しい輝きが目に飛び込んで来た。見ると、きらきらと煌めく光の房が天井に二カ所吊り下げられている。電球の光だろうが、見た目には電球に見えない。
二階の部屋の天井にも、たくさんの電球が集まったものが吊り下げられていた。けれど、どの電球も普通の家にあるものとは違って美しい形をしていた。千鶴たちが物珍しがると、これはしゃんでりあと呼ばれる西洋の照明ですと、伯爵夫人が教えてくれた。
二階で見たしゃんでりあも素敵だったが、この部屋のしゃんでりあは格別だ。電球が見えないほどに飾られた多くのガラスの棒や粒が、光を帯びて輝いていた。いつの間にか窓の外に迫った夕闇が、さらに光の華やかさを引き出している。
庶民の家では、みんなが集まる部屋に一つの電球があるだけだ。千鶴たちの家にしても、電球は茶の間にしかない。電球がない家も珍しくないのに、ここでは電球がふんだんに使われている上に、豪勢な装飾が施されている。まさにしゃんでりあは、ここが千鶴たちが暮らす所とは別の世界であることの象徴だった。
「千鶴、早クゥ、前ニ、行テサイ」
光の房に見入っていた千鶴と幸子は、後ろからスタニスラフに声をかけられて、部屋の入り口をふさいでいるのに気がついた。ごめんなさいと言いながら二人が慌てて前に進むと、多くの拍手が迎えてくれた。
部屋の中には白い布がかけられた丸い机がいくつかあり、そこには多くの人たちが座って拍手をしてくれている。男性は鈴木医師や仲間の医師、収容所の元所員、当時の通訳などでみんな夫人同伴だ。
誰かに拍手をすることはあっても、自分が拍手されることなどない。挨拶代わりの笑みを浮かべながらも、千鶴は緊張でがちがちだった。歩き方もぎこちなく見えただろう。幸子も微笑んだまま顔が固まっている。
部屋は黒茶色を基調としており、床に敷き詰められた絨毯も黒地に花が描かれている。その絨毯の上を歩きながら、千鶴たちは伯爵夫妻が待っている机の所へ行った。その机にはまだ誰も座っておらず、ここがあなたたちの席ですと伯爵が言った。
千鶴たちが席に着くと、伯爵夫妻は千鶴たちとは少し離れた別の席に座った。そこにはすでに一組の年配の夫婦と思われる人たちが座っていた。
拍手が鳴り止んだあとも、どうにも落ち着かない。緊張を解すつもりで、千鶴は部屋の中を見まわした。
部屋の入り口から見て正面と左側の壁には、戸口ぐらいの大きなガラスの窓がいくつもある。それぞれの窓には白っぽい厚手の窓掛けの布が、左右に押し広げて飾られているが、その間にある窓は装飾模様のある白く薄い窓掛けが覆っている。この白い布は向こうが透けて見えるので、外が暗くなっているのがわかる。
右側の壁の真ん中には竈らしきものがあり、その両脇に大きな扉がある。この竈のようなものには奥行きがなく、たくさんの小さな青白い炎が、中でちろちろと蠢いている。
あれは何かと千鶴が小声で訊ねると、暖炉みたいだとスタニスラフは言った。しかし、千鶴が暖炉を知らないとわかると、部屋を暖めるものだとスタニスラフは説明した。
するとミハイルが、あれはガスの火だと言った。言われて見ると、確かにガス燈の火のように見える。
ロシアの暖炉は薪を燃やすそうで、ガスの暖炉は珍しいとミハイルは言った。
上を見上げると、黒茶色の天井はお寺で見られるような格子状になっていて、細かい煌めきが散りばめられている。何が煌めいているのはわからないが、しゃんでりあの光を反射しているらしい。
伯爵は同席している年配の男性と何やら喋っていたが、すぐに立ち上がって、お待たせしましたと来賓たちに声をかけた。
伯爵は晩餐会を開くことになった経緯を簡単に説明し、千鶴たちの紹介を始めた。
初めは主役のミハイルだ。男性客たちはほとんどがミハイルを知っているらしい。ミハイルが立ち上がって簡単な挨拶と感謝を述べると、みんなが拍手をした。また声をかける者が何人もいた。
続いて幸子が紹介されると、やはり声をかける者がいた。幸子のこともみんながわかっているみたいだ。幸子はひどく緊張していたが、感激で涙をこぼした。それでまた多くの拍手が幸子を包んだ。
一方、千鶴とスタニスラフは一人も知っている者がいない。けれど伯爵が二人を紹介すると、温かい拍手が惜しみなく送られた。
スタニスラフがミハイルの結婚相手の息子だということは、男性客たちには伝わっていたようだ。千鶴とスタニスラフの関係を訊ねる男性客はいなかった。
ところが、女性客たちにはそこの事情は知らされていなかったらしい。拍手をしたあとになって、女性客の一人が二人は異母姉弟なのかと訊ねた。
伯爵はミハイルがロシアで結婚したことと、スタニスラフがその相手の息子であることを説明したが、女性客たちの間にざわめきが広がった。ミハイルには妻がいるのに、ここで幸子と一緒にいるのは不貞ではないのかというわけだ。
幸子と千鶴が戸惑いを見せると、伯爵夫人がすかさず立ち上がった。
「日露戦争、世界大戦、ロシア革命と、カリンスキーさんは運命に翻弄されてきました。命からがら逃れた日本でも、あの関東大震災に襲われました。でも、それらのすべてをはねのけて、ここでこうしてかつて愛を育んだ人との再会を果たしたのです。また、生まれたことも知らなかった娘さんにも会えました。これが神のお導きでなくて何でしょうか。私はこの奇跡に関われたことを心より光栄に存じ、今後の日ソの平和を願います」
威厳を持って話す夫人の言葉に女性客たちが静かになると、伯爵は来賓たちを順番に千鶴たちに紹介した。
ミハイルは鈴木医師以外はあまりよくわからなかったようだ。しかし伯爵から説明を受けて、本人からも挨拶をされると、やっと思い出したという笑顔で応えていた。
幸子はミハイルよりは覚えていた。だけど年月が経ってみんな歳を取っているので、すぐには相手を思い出せなかった。
伯爵夫妻と同じ所にいる年配の夫婦のことは、ミハイルも幸子もわからなかった。でもそれもそのはずで、伯爵が最後に紹介したその夫婦は伯爵の知人であり、ロシア人墓地の管理をしているとのことだった。
全員の紹介が終わり、ガラスの器に入れられた飲み物がみんなに配られると、鈴木医師が挨拶を兼ねた短い演説をした。
みんなが乾杯をすると、千鶴は出された飲み物を水のように飲み干した。緊張で喉が渇いていたのだが、その飲み物は甘くて美味しかったので、つい一気に飲んでしまった。
飲み終えてから、千鶴は他の人々が飲み物を全部は飲んでいないことに気がついた。思わず下を向いたが、恥ずかしくて顔は火照るし胸はどきどきしている。
それでも、千鶴は初めて飲んだこの飲み物が大いに気に入った。お代わりが欲しいと思っていると、給仕の者が来て千鶴の器に飲み物を注ぎ足してくれた。
よく見ると、水のように透明ではあるが、ほんのり淡い色がついている。いい香りに誘われると、千鶴はまたその飲み物を飲み干した。
次々に運ばれて来るご馳走も、今まで見たことがないものばかりだ。添えられた小さな包丁のような物や、小さな鋤みたいな物も、どう扱っていいのかわからない。
困っていると、スタニスラフが丁寧に教えてくれた。母を見ると、やはり父に助けてもらっている。とにかく緊張の連続で料理の味もよくわからないまま、千鶴はしきりに飲み物を口へ運び、そこへは新たな物が注ぎ足された。
「千鶴、あんた大丈夫なんか? これ、西洋のお酒やで」
千鶴の様子に気づいた幸子が、心配そうに声をかけた。
「お酒? こがぁな美味しい飲み物がお酒なん?」
自分でも口調が軽くなっているのがわかるのに、千鶴は何とも思わない。
「千鶴、モウ、終ヴァリィネ」
スタニスラフに言われると、千鶴は却って強気になってさらにぐびぐび飲んだ。
千鶴はいつも酒を飲むのかとミハイルが訊ねると、幸子は首を横に振った。ミハイルは身を乗り出して千鶴から器を取り上げると、アシマイネと父親らしく言った。
千鶴は文句を言ったが取り合ってもらえなかった。それで、今までずっと放って置かれたことを父に愚痴った。
「うちがどんだけ寂しかったか、お父さんにはわからんじゃろ」
千鶴はミハイルをにらんだが、幸子に叱られると泣きそうな顔になって下を向いた。
ミハイルは席を立つと、傍へ来て千鶴を抱きしめた。千鶴は父の胸でわぁわぁ泣いた。伯爵夫妻が大丈夫かと心配したが、父親と離ればなれになるのが悲しいんぞなもしと、幸子は夫妻や周囲の人たちに理解を求めた。
千鶴たちを見つめる人々の目には涙が浮かんでいた。ミハイルと幸子の関係に納得していなかった夫人たちも、懐から取り出した懐紙で目頭を押さえている。
確かに、せっかく会えた父親とすぐに別れる悲しみが千鶴にはあった。だけど千鶴が泣いたのは、それだけが理由ではない。進之丞の心変わりが悲しくつらかったのだ。
誰にも相談できないし、どうしていいかわからない。そこへ父親との別離が重なり、押さえていた感情が爆発したのである。
千鶴が泣きやむと、ダイジヨブデズゥカとミハイルは心配そうに千鶴の顔をのぞき込んだ。こくりと千鶴はうなずいたが、今度はスタニスラフが千鶴を抱きしめた。
「千鶴、アナァタニヴァ、僕ガ、イルゥ。ダカラァ、泣カナイデ」
頭の中がぐらんぐらんと回り、千鶴は考える力が落ちていた。スタニスラフの言葉の意味がよくわからないまま素直にうなずくと、千鶴はスタニスラフの腕に身を任せた。進之丞みたいな温もりはないが、他に縋れる者はいなかった。
六
食事が終わると、ガスの暖炉の両脇にある大きな扉が開け放たれた。そこは隣の部屋に通じているようだ。
伯爵の指示に従い、来賓たちは近くの扉から隣の部屋へ移動した。千鶴たちもみんなの後について移ったが、さっきとは異なる部屋の様子に感嘆の声を上げた。
そこは白を基調とした部屋で、絨毯は赤地に花が描かれている。この部屋の壁にもガスの暖炉があり、窓掛けが飾られた大きなガラス窓がいくつもあった。窓の向こうは真っ暗だ。
白い天井には、電球が花の形に装飾されたしゃんでりあが吊り下げられている。また壁のあちらこちらには大きなろうそくが灯されていた。けれど、よく見るとそれらはろうそくではなく、ろうそくの形をした電球だった。
部屋の隅には来賓とは別の人たちが集まっている。携えているのは西洋の楽器のようだ。これからここで演奏をするのだろうか。
ここには机はないが、部屋の端にはいくつかの椅子が用意されている。人々は立ったまま、あるいは椅子に座ってお喋りを楽しみ、給仕の者たちが所望する者たちに飲み物を配っていた。
給仕は千鶴たちにも飲み物はいかがですかと訊きに来た。千鶴はさっきのお酒を頼もうとしたが、この子にはお水をと幸子が先に言った。
給仕から渡された水の器を受け取ると、千鶴は不満げに母をにらんでから一口飲んだ。
ミハイルや幸子の周りには、すぐに人が集まって来た。千鶴やスタニスラフの所にも代わる代わるに人が来て、同じような質問を繰り返した。
頭はぼーっとしていたが、恥をかかないように、相手に失礼にならないようにと、千鶴はそのことばかりを考えていた。何を言われても笑顔を絶やさず、はいはいと返事をした。
鈴木医師がやって来て、スタニスラフくんのことをどう思うかと千鶴に訊ねた。千鶴はスタニスラフを見ると、優しくて素敵な人だと答えた。
鈴木医師がスタニスラフに千鶴のことを訊ねると、スタニスラフは千鶴を見て微笑んだあと、はっきりと言った。
「千鶴ヴァ、世界デ一番、大好キナ人デズゥ」
千鶴はスタニスラフの言葉をただの褒め言葉、あるいは励ましだと受け止めた。
「だんだん。うちもスタニスラフを世界で一番好いとります」
お返しのつもりでにこやかに応じると、スタニスラフは思わずという感じで胸で十字を切り、感激して千鶴を抱きしめた。
ここには進之丞はいない。周りにいるのは知らない人たちばかりだ。そのせいか、千鶴はスタニスラフに抱かれることに、あまり抵抗を感じなかった。むしろ、今の自分に優しくしてくれるスタニスラフの腕の中に、ずっといたい気分だった。
二人を見て驚いた鈴木医師は、目を丸くして言った。
「何と何と、二人はもうそがぁな仲になっとるんかな」
周囲にいた他の者たちも、二人の言葉を聞いて集まって来た。その中にはミハイルと幸子の姿もあった。
幸子は焦った様子で千鶴に呼びかけたが、その声は千鶴には聞こえていない。千鶴の耳は鈴木医師とは別の医師の言葉に向けられていた。
「ほやけど、スタニスラフくんはすぐに去んでしまうんじゃろ? 千鶴さんはどがぁするんな? スタニスラフくんについて行くんかな?」
スタニスラフには世話になった。いくら感謝してもしきれないくらいだ。千鶴はお世辞のつもりで、スタニスラフにはずっと傍にいてほしいと言った。しかし、スタニスラフは松山にはいられない。そこを訊かれると千鶴は口を噤んだ。
自分は辰蔵と夫婦にさせられる。だけど、進之丞は山﨑機織に残るだろう。進之丞がいなくなれば、山﨑機織が立ち行かなくなるのは明白だ。それをわかって辞める進之丞ではないが、その状況は千鶴にはつらいものだ。
スタニスラフに好きな人がいるのはわかっているが、このまま一緒に連れて行ってほしいという気持ちがあった。もちろん店が潰れるからそんなことはできないが、進之丞がいる所から消えてしまいたかった。けれど、そう思うのは進之丞への未練の裏返しだ。
――おらの心ん中にはその娘がおる。忘れろ言われても、忘れられるもんやないんよ。
進之丞は己の正体を隠しながら、こう言ってくれた。なのに今は忘れてしまったのだ。
千鶴は項垂れて涙をこぼした。人々はその涙を、スタニスラフとの別れを悲しむ涙と受け止めたらしい。まだ出逢って間もない二人がそこまで惹かれ合ったのかと、来賓たちはみんな心を打たれた様子だ。スタニスラフも感銘を受けたようで、絶対に千鶴から離れないと言って千鶴を慰めた。
「これは何と言うべきか。ともかく二人を祝福しましょう」
久松伯爵は千鶴たちに拍手をした。他の客たちも伯爵に応じて拍手をしたが、千鶴は何故みんなが拍手をするのかわからなかった。しかし、とにかく失礼にならないようにと、涙を拭いて会釈を続けた。
慌てて千鶴の傍へ来た幸子は、困惑しながらみんなに頭を下げると、潜めた声で千鶴に言った。
「あんた、自分が何言いよんのかわかっとるんか?」
せっかくみんなが祝福してくれているのに、水を差すようなことを言う母を、千鶴はじろりと見た。返事をしない千鶴に、幸子は繰り返し言った。
「さっき自分が何言うたか、ほれを聞いてみんながどがぁ思たんか、あんた、ほんまにわかっとるんか?」
「わかっとるよ」
口を尖らす娘を、幸子は信じていない。
「ほんまにわかっとるんか?」
「わかっとるてば」
千鶴は横を向きながら、何かまずいことを言ったのだろうかと考えた。だけど、自分が何を言ったのかが思い出せない。
伯爵が手で何かの合図をすると、音楽が聞こえ始めた。西洋の音楽だ。演奏しているのは、部屋の隅で待機していた人たちだ。
舞踏会の始まりが伯爵から告げられると、客たちは夫婦で一緒に踊り始めた。伯爵夫妻も千鶴たちに声をかけると、誘うようにして踊りだした。見たこともない踊りだが、男女が手を取り合って楽しげに踊る姿は、見ている者を浮き浮きさせる。
ミハイルは幸子の手を取ると、アドリマシヨと誘った。幸子は踊りを知らないと言ったが、ミハイルは自分が教えると言った。
幸子は千鶴を気にしていたが、結局はミハイルに手を引かれて踊り始めた。
足が悪いミハイルもこの時ばかりは杖なしだ。そのため幸子に教えると言っておきながら、ミハイルは転びそうになるのを幸子に支えてもらっていた。それでも一応は幸子に指示を出し、幸子はぎこちなくではあるが言われたとおりに体を動かしていた。本当は恥ずかしいだろうが、とても幸せそうな顔をしている。
千鶴が両親の踊りを眺めていると、スタニスラフが声をかけてきた。
「千鶴、僕ト、踊テサイ」
「ほやかて、うち、踊り方知らんし」
千鶴は逃げようとしたが、スタニスラフは千鶴の手をつかまえ、幸子だって踊っていると言った。
「僕ガ、教エマズゥ。ダカラァ、心配ナイ」
スタニスラフは千鶴が持っていた水を奪い取ると、椅子の上に置いて、千鶴を踊りの場へ引っ張り出した。
千鶴は覚悟を決めた。笑うなら笑えである。
普段の千鶴ならスタニスラフが何と言おうと、こんなことは拒んでいる。だけど、今は気持ちが大胆になっていた。
千鶴はさっぱりわからない踊りをスタニスラフに教えられながら、周りの人たちを見様見真似で踊った。でもよく見ると、他の人たちも踊り慣れていないようだ。みんな、今日覚え立てなのかもしれない。人と違う動きをしては恥ずかしそうに笑っている。
安心した千鶴は何度も間違えながらも踊り続け、次第に踊り方が呑み込めてくると踊ることが楽しくて夢中になった。スタニスラフに身を任せるのが心地よく、スタニスラフに抱かれると体の芯が熱くなった。
気がつけば他の者たちは踊るのをやめ、スタニスラフと千鶴だけがみんなの視線を集めながら踊っていた。初めて踊ったとは思えないと、伯爵夫妻が千鶴を褒めると、人々も大きくうなずいた。
踊り終わったあと、千鶴はスタニスラフに言われたとおりに、軽く膝を曲げてみんなに会釈をした。拍手喝采を受けても恥ずかしいという気持ちはなく、千鶴は気分がさらに高揚した。
七
夢のような時間が過ぎ、会がお開きになったのはとっぷり日が暮れてからだった。
着物に着替えた千鶴たちは、伯爵夫妻に何度も礼を述べて外へ出た。そこには二人掛け人力車が二台用意されていた。一台は千鶴たち用で、もう一台はミハイルたちのだ。
明日になれば二人は神戸へ戻って、もう会えない。寂しくなった千鶴が人力車に乗らずに佇んでいると、スタニスラフに早く乗るよう促された。仕方なく乗り込むと、隣の席にスタニスラフが乗った。見ると、もう一方の人力車には母と父が乗っている。
見送りに出てくれていた伯爵夫妻は怪訝に思ったらしく、それぞれ別に帰るのではないのかと声をかけて来た。するとスタニスラフが、まず千鶴たちを家まで送り届けて、そのあと道後の宿へ戻ると説明した。
夫妻が納得してうなずくと、スタニスラフは車夫に紙屋町へ向かうよう伝えた。
車夫は一台に三人いた。一人が前で引いて、もう一人が後ろから押すのだろう。残りの一人は提灯を持っての先導役だ。
進さんなら暗くても一人で引いたのにと、千鶴はふと思った。だが、進之丞のことを思い出すと悲しくなる。千鶴は考えるのをやめてスタニスラフと微笑み合った。
やや膨らんだ半月が、南の空に浮かんでいる。
伯爵夫妻に見送られながら、千鶴たちを乗せた人力車は暗い坂道を下って行った。先を進む両親の人力車を眺めながら、自分たちの人力車が後ろであることに千鶴は安堵していた。それはスタニスラフと一緒にいることへの後ろめたさかもしれなかった。
ここで別れ別れになると思っていたスタニスラフと、こうして一緒に人力車に乗れたことが嬉しかった。スタニスラフは千鶴にとって慰めだった。スタニスラフが好きだという娘が羨ましく、自分がその娘であったならと未練がましいことを考えもした。
しかし、たとえそうであってもどうにもならない。スタニスラフに好かれたところで、何の解決にもならないのだ。結局は進之丞を花江に取られた悲しさから逃れたいだけであり、本当の未練は進之丞だった。
――おらな、お不動さまにお願いしたんよ。千鶴さんが幸せになれますようにて。ほじゃけん、千鶴さん、絶対に幸せになれるぞな。
自分の正体を明かしていなかった頃の進之丞が、頭の中で千鶴を励ますと、千鶴は泣きだした。
あの時の進之丞は、どういうつもりであんなことを言ったのか。あれは思いつきで言っただけなのか。いや、そうではない。進之丞は本当に法生寺の不動明王に幸せを願ってくれた。前世で死に別れた千鶴のために願ってくれたのだ。
なのに、どうして心変わりなどするのだろう。進之丞は千鶴のことはどうしたって忘れられないと言ったのである。たとえ千鶴が嫌な態度を見せたにしても、それで花江に心を移すだなんて、そんなのは辻褄が合わない。無茶苦茶だ。
車夫たちは門番の男に声をかけると、表の道に出た。昼間は歩く人が多いこの道も、今はほとんど人気がない。こんな時刻に外にいるなど祭り以外にはないことだ。
月明かりに照らされた道を、二台の人力車はがらがら進む。
スタニスラフは泣き続ける千鶴を慰め、千鶴の手を握った。
「千鶴、僕ヴァ、千鶴カラァ、離レェタクゥナイ。ドカ、僕ト、結婚シテサイ」
まだ頭はぼーっとしてはいたが、千鶴は思考力が戻っていた。何を言われているのかを理解した千鶴は、驚いてスタニスラフを見た。
「スタニスラフが言うておいでた大好きなお人て、うちのことやったん?」
「ハイ。サキモ、ミンナナ、前デ、言ィマシタ。千鶴モ、同ジコトォ、言ィマシタ」
「さっき? うちがみんなの前で?」
何も覚えていない千鶴はうろたえた。そんなことを自分はみんなの前で言ってしまったのか。
思わずスタニスラフから手を引くと、スタニスラフはすぐに千鶴の手を握り直した。
「僕ヴァ、千鶴ガ、大好キ。ドカ、僕ト、結婚シテサイ」
「ほ、ほんなん無理やし」
千鶴は手を握られたまま、顔を背けて前を向いた。前方を進む両親の人力車を、こちらの提灯の明かりがほんのり照らしている。と思ったら、突然ふわんと音が鳴り、前の人力車に明るい光が当てられた。
間もなく後ろから来た電車が、千鶴たちの右脇を通って追い抜いて行った。乗客はほとんどいない。
貴重な明かりが去って行くと、辺りは再び薄明るい闇に包まれた。
スタニスラフは千鶴の顔を自分の方へ向けた。
「千鶴、アナタガ、誰ヨリィ、大好キデズゥ」
月明かりに照らされてスタニスラフの顔が見える。スタニスラフはじっと千鶴の目を見つめ続けている。
その顔がゆっくりと千鶴に近づいて来た。千鶴の胸の中で心臓が暴れている。
次にどうなるのかを千鶴はわかっていた。そして、それを期待している自分がいた。一方で、こんな事は恥知らずだと訴える自分もいた。
「いけんよ」
千鶴はスタニスラフから顔を逸らした。スタニスラフは千鶴の顔を押さえると、再び自分の方へ向けた。吸い込まれるような目に見つめられ、もう千鶴は抗えなくなった。
「ヤー・ティビャー・リュブリュー(君を愛してる)」
スタニスラフはつぶやくと、千鶴の唇に自分の唇を重ねようとした。千鶴はあきらめて目を閉じた。闇の中で進之丞が悲しそうに見つめている。
突然、人力車が動きを止め、千鶴たちは前へつんのめった。
我に返った千鶴はスタニスラフから体を離すと、何事が起こったのかと前を見た。すると、前をふさぐように山高帽をかぶった男が二人立っていた。
そのうち一人は千鶴たちの傍へ来て、暗がりなのも構わずに、懐から取り出した手帳らしき物を見せながら言った。
「兵庫から来た特高や。ちょっと来てもらおか」
落ちていた着物
一
千鶴たちが引き止められたのは県庁の前だ。周囲には男たちの他に人影はない。
男たちは車夫たちに、このまま真っ直ぐ進んでお堀に突き当たった所を右に入れと指示を出した。そこは昨日千鶴たちが城山へ登ろうとして入った道だ。
南から東堀端を進んで来た電車が、千鶴たちの方へ向きを変えた。照明が辺りを照らし、ミハイルと幸子が乗った人力車も、別の男二人に止められているのが見えた。
千鶴は助けを求める気持ちで電車を見た。しかし乗客のいない電車は、無情にも千鶴たちの右脇を通り過ぎて行った。
電車が去って辺りが再び薄暗くなると、父と母を乗せた人力車が再び動き始めた。
男たちが前に続けと言うと、千鶴たちの人力車も動きだした。車夫たちは怯えきっており、千鶴たちを気遣うのも忘れて黙って男たちに従うばかりだ。
道がお堀に突き当たった所には、お堀を渡る橋がある。その先にあるのは松山歩兵第二十二連隊駐屯地の東門だ。門の向こうには夜勤の衛兵がいると思われるが、誰かが門の所まで来ない限り、衛兵も堀の外のことなど気にしないだろう。
千鶴たちを乗せた人力車は誰にも助けを求められないまま、前の人力車に続いて橋の手前を右に曲がった。
この道に街灯はない。月明かりのお陰で周囲の建物などが見えるが、月がなければ真っ暗闇だ。右手に日本赤十字社の建物があるが、明かりは見えないし、ひっそりしていて人の気配もない。左手にあるお堀の向こうは、土塁が築かれていて中の様子はわからない。逆にいえば、向こうからも千鶴たちのことはわからないわけだ。
お堀の突き当たりにある衛戌病院も、消灯時間を過ぎたらしく建物はほとんど真っ暗だ。直接行き来できる道もないから、病院へ逃げることもできない。
登城道へ向かうためだけのこの道をこんな夜分に訪れる者はなく、声を出したところで誰にも聞こえない。いわば、千鶴たちは密室へ連れ込まれたのと同じ状況にあった。
道の奥の黒々とした城山が迫った所で、千鶴たちは人力車から降りろと言われた。少し先で母たちを乗せた人力車にも男たちが怒鳴っている。
表の通りを誰かが通っても、ここで何が起こっているのかはわからないだろう。お堀の脇を電車が来ても、その光はここにはほとんど届かない。スタニスラフは千鶴を抱いたまま動かなかったが、やはり怯えているようだ。体の震えが伝わってくる。
男の一人がスタニスラフの腕をつかみ、早よせぇと怒鳴った。抗うのをあきらめたスタニスラフは、千鶴をちらりと見てから降りようとした。それでも怖いのだろう。降りるのを戸惑っていると、男に引っ張られて地面に転げ落ちた。
「スタニスラフ!」
千鶴が叫ぶと、男は千鶴も無理やり引きずり降ろそうとした。スタニスラフがやめさせようとしたが、もう一人の男が容赦なくスタニスラフを殴りつけた。
「やめて! 今降りますけん、乱暴はやめてつかぁさい」
千鶴が大声で言うと、男はスタニスラフを殴るのをやめた。
見ると、前でも同じことが起きていた。人力車のすぐ脇で殴り倒されたミハイルを、幸子が身を挺してかばっている。どちらの車夫たちもただ黙って見ているだけで、誰も千鶴たちを助けようとはしない。
人力車から降りた千鶴は、怖かったが気丈に男たちに向かって言った。
「あんた方、兵庫のとっこうて言うたけんど、とっこうて何ぞなもし?」
「何ぞなもし?」
男たちは千鶴の喋り方を小馬鹿にして笑った。
「こっちは、ど田舎やからな」
スタニスラフを殴った男が、突っ立ったままの車夫たちを眺めながら言った。
しゃあないなと、もう一人の男が面倒臭そうに頭を掻いた。
「知らんのなら教えたろ。特高いうんはな、正式には特別高等警察ていうんや。松山にはまだないけどな。その名のとおり、わしらは内務省直属の特別な警察よ。愛媛の県知事とか、警察の本部長なんかにいちいちお伺い立てんでも自由に動けるんや。それに巡査はサーベルしか持たしてもらえんがな、わしらは拳銃を持たしてもろとるんや。わしらが特別いうんがわかるやろ?」
しょうもないことまで言うなと、ミハイルたちの所にいる男が怒鳴った。怒鳴られた男は、わかったわかったとうるさそうに返事をし、車夫たちをドスの利いた声で脅した。
「そういうわけやから、お前らも余計なこと喋ったら、ただじゃ済まんからな。わかったら、さっさと行け!」
車夫たちは千鶴たちを横目で見ながらいなくなった。提灯がなくなり月明かりだけになったが、その月もすぐに雲に隠れて辺りは闇に包まれた。それでもまだ雲を通して弱々しい光が届くので、男たちの様子は辛うじてが見えている。
「うちらが何をした言うんですか!」
幸子がミハイルをかばったまま大声で抗議した。幸子の近くにいた男は、幸子の脇にしゃがんで言った。
「それをお前らに吐かせるんが、わしらの仕事や」
千鶴も近くの男たちに必死に訴えた。
「うちら、何もしとりません。だいたい、なして兵庫の警察が来るんぞな? ここは松山ぞな!」
千鶴の傍にいる男は、千鶴の声など聞く素振りもなく煙草に火をつけた。代わりにスタニスラフを殴った男が言った。
「言うたやろ? わしらは特高や。愛媛も兵庫も関係ないんや」
「アナァタタチ、神戸カラァ、僕タチ、ツゥイテ来タ」
スタニスラフが怒った口調で言ったが、その声は震えている。男はスタニスラフの頭を叩き、ご名答!――と言った。
「お前らが松山へ行くんは何かあると思てな。それで後をつけて来たいうわけや。そしたら案の定、お前の父親は昔の女とその娘に連絡取って、お偉方らと晩餐会や。ただの旅行のはずが、こら、どういうこっちゃ!」
男の言葉がよくわからなかったのか、声を荒らげる男にスタニスラフは言い返さなかった。男はスタニスラフが罪を認めたと思ったらしく、このクソがと吐き捨てた。
今の話聞いたやろと奥の男がミハイルに声をかけた。もう観念しろと言いたいらしい。
煙草を吸った男が、ふうと煙を吐いて言った。
「今日集まった者の中に、お前らのスパイ仲間がおるはずや。それが誰なんかを教えてもらおか」
「僕タチ、ソ連カラァ、逃ゲタ。ソ連ナ、スパイジャナイ」
やっとスタニスラフが言い返すと、男たちはふっと笑った。
「みんな、そう言うんじゃ。わしはスパイじゃて、スパイが自分で言うか、ボケ!」
スタニスラフを罵った煙草の男に、千鶴は言い返した。
「ほんなん無茶苦茶ぞな。うちらは久松伯爵さまに招待されて――」
やかましい!――と煙草の男は千鶴を平手打ちし、千鶴はその場に倒れた。
「千鶴!」
叫んだスタニスラフも、また殴られた。
「しばかれとうないなら黙っとれ、この赤が! お前らが赤の鬼山とつるんどるんも、ちゃんと調べがついとるんじゃ。明日の朝一番の船で神戸へ戻ったら、詳しゅう話を聞かせてもらうで」
男が喋っている間に月が分厚い雲に隠れ、淡い月明かりも失われた。真っ暗闇の中で男のくわえた煙草の火だけが浮かんでいる。
「くそっ、これじゃあ暗うて手錠をかけられん」
奥にいた男たちがぼやいた。だが、煙草の男はそのわずかな明かりで、千鶴の姿が何とか見えるのだろう。倒れたままの千鶴の右手を乱暴につかみ上げて言った。
「山﨑千鶴、お前をソ連のスパイ容疑で逮捕する」
暗闇でよく見えないが、男は懐から手錠を取り出そうとしたようだ。ところが男は手錠をかける前に、つかんでいた千鶴の右手を離した。
闇に浮かぶ小さな煙草の火が、うわわという声とともに、どんどん高く浮かんで行く。と思った途端、その火は叩きつけられるがごとく勢いよく地面に落ちた。鈍い音が聞こえ、辺りは静かになった。落ちた煙草の火も動かない。
もう一人の男が、暗がりの中に浮かぶ巨大な影に気がついて声を上げた。所々薄明るい空を背景にした、その見上げるような影には二本の角が生えている。
二
「鬼さん?」
千鶴が思わず声をかけると、影は千鶴に顔を向けた。暗くて顔の形はわからないが、千鶴は影が哀しげな目で自分を見ている気がした。
影はすぐに動きだすと、スタニスラフの傍にいた男をつかみ上げた。それを見たスタニスラフはロシア語で何かを叫びながら這って逃げた。恐怖で千鶴のことなど頭から抜け落ちているようだ。
影はつかんだ男を口元へ運んだ。よく見えないが、千鶴には影が男を食いちぎろうとしているように思えた。男は気も狂わんばかりの悲鳴を上げている。
「いけんよ!」
千鶴が叫ぶと、影は動きを止めた。男の頭は大きく開いているであろう影の口のすぐ前だ。あまりの恐怖で失神したのか、男はぐったりして声を出さなくなった。
「殺めたらいけん!」
千鶴がもう一度叫ぶと、影は捕まえた男を口元から離し、千鶴を見下ろしながらぐるると唸った。
「千鶴! 逃げるんよ!」
幸子の叫び声が聞こえた。でも、影の唸り声に威嚇をしている感じはない。影は困惑しているようだ。
「う、撃て! 撃つんじゃ!」
ミハイルたちの所にいた男の一人が叫んだ。だがなかなか発砲しない。動揺が激しくて拳銃をうまく取り出せないのか、あるいは真っ暗闇なのも影響しているに違いない。
ところが影の方は夜目が利くらしく、つかんでいた男を二人めがけて投げつけた。いや、叩きつけたという方が正しいだろう。
まさに肉弾となった仲間の直撃を受け、男たちは後ろへ吹っ飛んだようだ。男たちの呻き声がさっきよりも奥の方で聞こえている。
「お母さん! お父さん!」
千鶴の呼びかけに、さっきと同じ辺りから両親の声が応じた。二人とも伏せたままなのが幸いしたらしい。もし立っていたら、男たちと一緒に吹っ飛ばされていただろう。
影が男たちに向かって唸った。今度は怒りの籠もった威嚇の唸りだ。影は男たちを殺すつもりだと千鶴は思った。
薄くなった雲を通して淡い月明かりが、辺りをほんのりと照らした。
影は身をかがめて千鶴に手を伸ばした。ミハイルと幸子の悲痛な叫びが聞こえた。スタニスラフは少し離れた所から千鶴を振り返ったが、声も出せずに見るばかりだ。
千鶴は迫る影を見上げながら動かなかった。胸はどきどきしていたが、影は自分に何もしないとわかっていた。
思ったとおり、影は千鶴に手を差し伸ばしたまま、千鶴に触れようとしなかった。すぐ目の前にある影の手は、本当は千鶴に触れたいのをためらっているみたいだ。
影は頭を少し傾げて悲しげな唸り声を出した。千鶴には影が泣いているように思えた。
「その子に手ぇ出すな!」
幸子が闇の中で転びそうになりながら走って来ると、影は立ち上がった。影の前まで来た幸子は、千鶴を抱きかかえながら影に叫んだ。
「この子に手ぇ出したら、うちが許さんよ。この子、連れて行くんじゃったら、先にうちを殺すがええ!」
影はうろたえたように唸った。影に幸子を殺すつもりはなさそうだ。むしろ幸子の剣幕に押されてたじろいでいる。
影はその場を離れると、道の奥へ向かった。スタニスラフは慌てて道の端へ逃げると、頭を抱えて小さくなった。
「ミハイル!」
千鶴を抱きながら幸子が叫んだ。鬼の行く手にはミハイルが倒れたままだ。しかし影はミハイルを跨いで、奥で呻いている男たちの所へ向かった。
するとスタニスラフが思い出したように千鶴に駆け寄り、幸子と一緒に千鶴を抱こうとした。
千鶴はその腕を払いのけ、母を押しのけると影を追いかけた。後ろで母が叫んでいるが、止まるわけにはいかなかった。
この影は鬼だと千鶴は確信していた。鬼に人殺しをさせまいと、ただそれだけを考えていた。
「チヅゥ」
暗い地面の近くで父の声がしたが、千鶴は応えられないまま影に走り寄った。
影は男二人を両手につかみ上げていたが、叩きつけもせず食いちぎりもしない。影はそのまま動きを止め、ただ唸るばかりだ。だが男たちの苦しそうな声は、すぐに断末魔のような叫びになった。どうやら影は男たちをじわじわと握り潰すつもりらしい。
「いけん! 鬼さん、やめて!」
千鶴は影を見上げながら叫んだ。
影が千鶴を振り返った時、雲間から月が顔を出した。月明かりに浮かび上がったのは、やはり鬼だった。醜悪な顔が叱られた子供みたいに困惑のいろを浮かべている。
「鬼さん、お願いやけん、もうやめて。うちのために手ぇ汚す真似はせんで。そげなことしよったら、また地獄へ戻されてしまうぞな。うちのこと想てくれるんなら、ずっとうちの傍におれるようにして! ほじゃけん、そがぁなことはやめてつかぁさい」
千鶴が必死に訴えると、鬼はつかんだ二人に牙を剥き、うろたえた目を千鶴に向けた。
「な? ほら、うちやったら、このとおり大丈夫じゃけん、もうええんよ。ほじゃけん、その人らを堪忍してやって」
千鶴が両腕を広げて鬼に笑顔を見せると、後ろから走って来た幸子が、再び千鶴を護って立ちはだかった。すると、鬼は幸子を恐れるかのように後ずさりをした。
その時、もう一人の男が近くで呻き声を出した。先ほど鬼に投げつけられた男だ。背骨が折れたのか、体が気味悪い形に曲がっている。
男の苦しげな声は鬼の怒りに再び火をつけたらしい。鬼は牙を剥き出して唸り声を上げると、足を上げてその男を踏み潰そうとした。
「いけん! 殺めたらいけん!」
千鶴は母を押しのけると鬼の前に走り出て、両手を上げながら叫んだ。
「殺めたらいけん!」
千鶴が踏み潰されると思ったのか、幸子は両手を口に当てたまま固まった。ミハイルとスタニスラフも声が出ない。
しかし、鬼は踏み下ろそうとしていた足を止め、そのまま静かに下ろした。鬼は千鶴に危害を与えないどころか、千鶴の言葉に従っているのは明らかだ。
それでも鬼は男たちの命を奪いたかったのだろう。両手につかんだ二人に向かって憎々しげに牙を剥き、悔しそうに天を仰ぐと凄まじい咆哮を上げた。それはまさしく地獄の鬼の咆哮そのものだった。
千鶴の体はびりびりと小さく震えた。幸子は頭をすくめ、両手で体を抱くようにしている。ミハイルとスタニスラフは両耳を手で押さえた。衛戍病院の窓ガラスが一斉に割れ、病室の中から多くの悲鳴が聞こえた。
鬼はつかんでいた男たちを左手に抱え直し、身体をかがめて千鶴の方へ右手を伸ばした。
幸子は咄嗟に千鶴を抱いてかばったが、鬼がつかみ上げたのは踏み潰そうとした男だった。
そのあと、鬼は初めに地面に叩きつけた男も拾い上げると、そのまま城山を登る道へ姿を消した。あとにはひっそりとした闇だけが残された。
三
鬼の咆哮が聞こえたのだろう。お堀の土塁の向こうが騒然となった。窓が割れた衛戍病院からも人の騒ぐ声がする。誰かに見つかると面倒なことになると思った千鶴は、みんなに急いで登城道に隠れるように言った。
何故隠れるのかは、ミハイルとスタニスラフにはわからない。しかし、幸子も今の状況を他人に知られるのはまずいと理解したようだ。すぐにミハイルを助け起こすと、千鶴の指示に従って鬼が消えた登城道へ向かった。
千鶴はおろおろするスタニスラフに早く隠れるよう強く促すと、その場に落ちていた男たちの帽子を拾って廻った。ここに誰かがいたという痕跡を残しておきたくなかった。
初めに煙草の男が叩きつけられた辺りには手錠が落ちていた。それはお堀の中に投げ捨てて、最後に父の杖を拾い上げると、千鶴は急いで母たちを追った。
昨日この道を登ろうとした時には、あまりの急斜面のためにミハイルは登るのを断念した。その同じ道をミハイルは幸子たちに助けてもらいながら、杖なしで昨日よりも上に登ることができた。足が痛かっただろうが、そんなことは言ってられなかった。
千鶴は三人に追いつくと、藪近くに身を隠すように言った。ほとんど間を空けずに衛戍病院の方から人の声が聞こえた。見ると、誰かが割れた窓から辺りを確かめている。
千鶴たちがいる所は暗くて病院からは見えないが、声を出せば気づかれてしまう。静かにと言ったわけではないが、ミハイルたちも息を殺して様子を窺っている。
少ししたら今度はお堀の東門から、ランプを掲げた三名の兵士が出て来た。月がまた隠れたので辺りは再び真っ暗闇だ。暗くて何も見えないと病院の誰かがぼやいている。
橋を渡った兵士たちはランプをかざしながら、さっきまで千鶴たちがいた辺りへ近づいて来た。途中で一人が道の隅に落ちていたぼろ切れのような物を拾い上げ、ランプの明かりで確かめている。千鶴たちがいた所よりも道の入り口に近い場所なので、特高警察の男たちとは関係ない物と思われた。
車夫たちが落とした物であれば、あとで誰の物なのかを特定されて、ここであったことを喋られるかもしれない。そうなれば、千鶴たちが特高警察の男たちとここにいた事実が知れてしまい、大事になるのは必定だ。
一人がぼろ切れを調べている間、もう一人はお堀をのぞき込み、残りの一人が千鶴たちの方へやって来た。まずいと思ったが、下手に動けば却って気づかれてしまう。
息を殺してじっとしていると、兵士は千鶴たちがいる坂道までやって来た。そこでランプを掲げて、登城道に何かがいないか確かめている。もし上がって来られればおしまいだ。
「何ぞおるんか?」
衛戍病院の窓から誰かが兵士に声をかけた。患者だろうか。暗闇の中の声だったので、近くまで来ていた兵士は驚きの声を上げた。
「な、何ぞ。いきなし声かけたら、びっくらこくじゃろが!」
「すまんすまん。ほんでも、さっきのはありゃ何ぞ? 窓は全部割れるし、みんな竦んでしもて声も出まい。あしもまだ体の震えが止まらんが」
「あしらにもさっぱりわからん。どこぞの国の秘密兵器かもしれんけん、見てこい言われて来たけんど、何もなさそうな」
「秘密兵器? ありゃあ化け物ぞ。あしゃあ、もうちぃとで心臓が止まるとこやったかい」
その時、こら!――と病院の窓辺りから怒鳴り声が聞こえた。
「何しよんぞ! そげな所におったら悪霊に取り憑かれようが! そっから離れぃ!」
ランプを持った見廻りらしき者が現れると、兵士と喋っていた男を無理やり奥へ引き戻した。そのぴりぴりした雰囲気は、病院中が恐怖に戦いている表れだ。
「何ぞ動いたぞ!」
お堀をのぞいていた兵士が叫んだ。喋っていた兵士は急いでお堀へ向かい、ぼろ切れを見ていた兵士も、それを投げ捨てて仲間の所へ駆け寄った。
三人はランプをかざしてお堀の水面を照らしていたが、ちょっと水音が聞こえただけで大騒ぎをした。本音では秘密兵器などではなく化け物だと思っているのか、三人ともかなり怯えているようだ。
兵士たちはしばらくお堀を調べ続けたが、そのうち一人が言った。
「おい、ひょっとしてこれはお袖狸の仕業やないんか?」
するともう一人が、ほうかもしれまいと応じた。
東堀と南堀が合わさる角には、八股榎と呼ばれる大きな榎が生えており、そこにはお袖という名の雌狸を祀った祠がある。
お袖狸は神通力で人々の願いを叶える有り難い狸で、この八股榎を住処にしているといわれている。榎の根元に建てられた祠には、毎日信者が参拝に訪れるほどの人気だ。
ところがお堀に沿った道を広げるために、お堀を埋め立てるという話が持ち上がっており、そうなると邪魔になる八股榎は伐られる運命にあった。
これまでにも八股榎は人間の都合により二度伐られた。その都度お袖狸は住処を失い、別の場所への移動を余儀なくされた過去がある。今度伐られたら三度目になるわけで、さすがにお袖狸が怒ったのだと、兵士たちは三人でうなずき合った。本当はさっさとここから離れたいに違いない。
三人は八股榎の方に向かって手を合わせると、お気持ちお察ししますと言い、明日はお供えを奮発するのでお怒りをお鎮めくださいと、お袖狸に声を出して祈った。
祈りを終えた兵士たちは、これにてお役御免とばかりに東門の向こうへ戻って行った。
兵士たちがいなくなると、千鶴は持っていた帽子を近くの藪に捨て、真っ暗な坂道を見上げた。この道を登って行った鬼が気になるが、後を追うことはできない。あきらめて衛戍病院の様子を確かめた千鶴は、道を下りるよう父たちを誘った。
月が隠れたままなので足下が見えず、足が悪いミハイルでなくても転びかねない。千鶴たちはミハイルを支えながら、ゆっくり慎重に坂道を下りて行った。戻った元の場所も真っ暗闇で、気をつけねばお堀に落ちてしまいそうだ。
辺りはしんと静まりかえり、先ほどのことはすべて幻だったのかと思えてしまう。だけど特高警察に捕まったのは事実だし、鬼は確かにいた。
鬼は進之丞の言葉どおりに千鶴を護ってくれていた。お陰で特高警察に捕まることは避けられたが、代わりにもっと大きな問題が起きてしまった。あの男たちは死んだかもしれないし、生きていたとしても前代未聞の大事件だ。さらには、それを両親たちが目の当たりにしてしまい、千鶴が鬼を従わせるところも見られたのだ。
千鶴は鬼に人殺しをさせまいと必死で、後のことなど考えていなかった。鬼がいなくなったあとも咄嗟にみんなに指示を出し、何とか兵士たちの目を逃れたが、今は不安と怯えで混乱していた。
あの特高警察の男たちはどうなったのか。今後どうなるのか。母たちは自分をどう見ているのか。頭の中でいろんなことが思い浮かぶが、どれにも共通して言えるのは、絶望しかないということだ。
ついさっきまで萬翠荘で宴が開かれていたのが嘘みたいだ。あの時の千鶴は、まるでお姫さまだった。でも、今の千鶴は鬼娘だ。仲間の鬼を従えた鬼の娘なのだ。
四
「アレェヴァ、ナンデズゥカ? アクゥマデズゥカ?」
興奮した様子のミハイルが、潜めた声で千鶴を質した。鬼に驚いたのはもちろんだろうが、鬼が千鶴に従っていたことにも驚愕していた。
「あれは千鶴に憑いとる鬼ぞな」
千鶴が黙っていたので幸子が言った。気丈に振る舞っていても声は恐怖に震えている。
少しだけ顔を出した月の明かりが、千鶴たちを仄かに照らした。幸子はしきりに両手で体をこすり、ミハイルは険しい顔をしていた。スタニスラフは一人だけ離れた所にいて、不安げに千鶴を見ている。
幸子の説明がわからないミハイルは、がんごとは悪魔のことかと訊ねた。しかし、今度は幸子が悪魔がわからない。
「あの鬼は、うちを護ろうとしたぎりなんよ」
千鶴が鬼をかばうと、よもだ言いなや!――と幸子は殺した声で叱った。
「鬼はあんたを狙とるんで! 鬼があの人らを襲たんは、あんたを横取りされるて思たけんよ。助けてくれたんやないで!」
娘が鬼を従わせた事実を、幸子は認めたくないようだ。鬼が千鶴を狙っていると言い張るのも、それが理由だろう。違うと言いたかったが、千鶴は言い返さなかった。
千鶴と鬼には前世からの因縁があるらしいと幸子が話しても、ミハイルにはわからない。とにかくあれは鬼という化け物で千鶴を狙っていると、幸子は千鶴への言い分を繰り返した。だが鬼は千鶴だけでなく、幸子たちのことも護ってくれたのだ。
千鶴は聞いていられなくなり、もうやめてと潜めた声で叫んだ。
「あの人らがあげなことせんかったら、鬼かて出て来んかったんよ。悪いんはあの人らじゃけん!」
幸子は興奮する千鶴をなだめながら、何かを言おうとしたミハイルにも黙っているようにと手で伝えた。
ミハイルは心配そうにしていたが、スタニスラフは明らかに困惑していた。あれほど千鶴を求めていたはずなのに、今のスタニスラフの目は恐れと狼狽に満ちている。スタニスラフは千鶴と鬼が深い関係にあると見たようだ。
みんなの視線が耐えられず、千鶴は母たちから離れた。すると、スタニスラフがミハイルと幸子の所へ来た。事情を知りたくても、千鶴が怖くて近づけなかったようだ。
スタニスラフはミハイル以上に鬼を恐れ、あれは悪魔だと決めつけた。幸子の説明はスタニスラフも理解ができず、互いに自分の言い分ばかりを繰り返した。
それほどまでにみんなが動転していた。それはそうだろう。三人とも、自分の目で鬼を目撃したのである。また千鶴自身が直に鬼を見たことで動揺していた。
進之丞から鬼の話を聞かされて、千鶴は強くて優しい鬼を勝手に思い描いていた。ところが実際に目にした鬼は、地獄にいたのと同じとんでもない化け物だった。
今まで忘れていたが、あの鬼が進之丞の父親を八つ裂きにしたのである。それを思うと、今更ながら恐ろしさに身が竦んでしまう。
そんなことは何も知らなかったから、地獄で鬼を見つけた時に愛しく想ったのだろうが、今は狼狽するばかりで、鬼を思いやる気持ちすら湧いて来ない。自分の傍にいられるようにしてと鬼に叫びはしたが、果たしてそれでよかったのかと疑っている。
空を埋め尽くそうとするかのごとく、大きな雲の塊が次々に流れて来て月を隠した。辺りは闇に包み込まれたが、その闇は千鶴に地獄を思い出させた。地獄にいたあの鬼は、千鶴を助けるためなら相手を殺すことを厭わない。だけど、それは恐ろしいことだ。
――鬼は所詮、鬼ぞな。
進之丞の言葉が蘇る。そう。鬼は所詮、鬼なのである。どんなに優しくても鬼は鬼だ。恐ろしい化け物であり、今見たすべてが鬼の本性なのだ。
これから自分はどうなるのかという不安が、千鶴の胸の中に持ち上がってきた。
いずれ男たちの死骸がどこかで発見される。そうなると最後に男たちと一緒にいた自分たちが、警察から詰問を受けることになる。その時に何と言い訳をすればいいのか。もし、父やスタニスラフが鬼の話をしたらどうなるのだろう。
みんなに指差され、鬼だの鬼娘だのと恐れられ罵られる自分の姿が頭に浮かぶ。化け物を捕まえて殺せと、街の人々が警察と一緒になって捕まえに来るのだ。
千鶴はしゃがんで頭を抱えた。鬼を責めるわけにはいかない。鬼は特高警察から護ってくれただけだ。けれども、自分を待ち受けているのは絶望だけだ。
一番町の方から来た電車が、お堀に沿って南へ曲がって行った。
電車の音と明かりが、少し前まで千鶴がいた世界を垣間見せてくれている。その世界はすぐそこにあるのに、もう手が届かない。
こんな時、いつも力になってくれたのは進之丞だ。なのに、その進之丞は花江に心を奪われてしまい、千鶴は独りぼっちだ。
「進さん、おらのこと、あがぁに想てくんさったのに、なして……なして心変わりしてしもたん? おら、そがぁに嫌な女子になってしもたんかな……? おら、もう、どがぁしたらええんかわからん……。お願いぞな。進さん、どうか、おらん所へ戻んて来てつかぁさい……。二度と進さん傷つけたりせんけん。お願いやけん、戻んて来て……」
千鶴がすすり泣いていると、辺りがぼんやり明るくなった。薄い雲から月明かりが届いたようだ。千鶴が顔を上げると、ぼろ切れみたいな物が見えた。さっき兵士が見つけた物だ。車夫たちが落としたにしては大き過ぎる。
みんな、ぼろ切れでも大切にして何かに使うものだ。こんな所にこんなに大きなぼろ切れが落ちているのは、何だか違和感がある。それにぼろ切れというより、破れた着物のようにも見える。そうであるなら尚のことおかしい。
ふわんという音が聞こえ、南堀の方から一番町へ向かう電車が来た。電車の明かりに照らされたぼろ切れには、模様らしき物があった。
明かりとはいっても、それほど明るいものではないので色まではわからない。千鶴はぼんやりとその模様を眺めていたが、え?――と思った。
動きだした電車が一番町の方へ曲がり始めると、千鶴はぼろ切れの傍へ行って拾い上げた。それはやはり破れた着物でだったがその破れ方は尋常ではなく、背の部分が真っ二つに裂けた上に、両方の袖が肩から袖口にかけて引き裂かれていた。
また着物にはたくさんの継ぎ当てがされていたが、ここまで幾度も継ぎ布を当てた着物は、どこにでもあるものではない。その継ぎはぎ模様に千鶴は見覚えがあった。
何故ここにこんな物が落ちているのか、千鶴は理解ができなかった。
辺りを見ると、千切れた着物の帯と一緒に、紐が切れた褌も落ちていた。この着物を着ていた者が、ここで着物と一緒に脱ぎ捨てたのか。けれど、帯も褌の紐も千切れている。脱いだとは思えない。
これらの物がここにある理由がわからないまま、千鶴はこのままではまずいと思った。急いで全部を拾い集めると、着物に帯に褌がどうすればこうなるのかと考えた。
そもそもこの着物はここにあるはずがない物だ。誰かが盗んで引き裂いて、ここへ捨てたというのも妙である。
仮に誰かが捨てたのであれば、自分たちがこの道へ連れ込まれる前だ。であれば、この着物や褌は何度も人力車や車夫たちに踏まれている。だけど、どこにもそんな汚れはついていない。
着物や褌にはわずかながら温もりが残っている。ついさっきまで、これを誰かが着ていたのだ。ならば、その人物はどこへ行ったのか。
もしやと思って、千鶴は着物の匂いを嗅いだ。そこには覚えのある匂いがあったが、血の匂いはしない。着物を着ていた人物を、鬼が襲ったのではなさそうだ。それに鬼と想いが通じている者を、鬼が襲うわけがない。
ほっとはしたものの、着物の主がいないことを千鶴は心配した。尋常ではない着物の破れ方を見れば、着物の主が無事だったとは思えない。いったい何があったのか。
改めて着物を眺めたが、背の部分はともかく、両方の袖の破れ方があまりにも不自然だ。誰かの着物を引き裂くにしても、こんな風にはしない。
帯や褌の紐だって、そう簡単に千切れたりはしないはずだ。それが千切れたのだから、余程の強い力が加えられたのだ。やはり鬼の仕業かと思ったが、鬼がこんなことをする理由がわからない。
よく見ると、継ぎ当ては両腕や背中に集中していた。着物の裂け目はその継ぎ当てを避けるように走っているが、この着物はこれまでにも何度か同じように破れたようだ。
――あん時、おら、ほとんど素っ裸やったんよ。
ふと思い出した言葉に、千鶴ははっとなった。確かに、この着物はひどく破られたことがあった。その時には村の者と喧嘩をして破かれたと聞かされていたが、実際はそうではなかった。着物の主は、村の者ではなく鬼と一緒にいたのだ。そして本当の理由はわからないが、その時に着物は破れたのである。
鬼が千鶴を救う状況で着物が破れたのは、イノシシの時と同じだ。違うのは、ここには着物の主がいないことだ。いたのは鬼だけであり、着物の主を知らない者がこの状況を見たなら、鬼が着物を着ていたと勘違いをするだろう。そうであるなら袖の破れ具合や、帯や褌の紐が千切れたことにも合点がいく。
そこまで考えて、千鶴はまさかと思った。確かにそう考えれば全部が説明できる。だが、それは有り得ないことだし馬鹿げている。それでも一度浮かんだ考えは消えてくれない。それどころか、ますます大きく膨らんでくる。
「そげなことあるはずない。絶対違うけん。ほんなんあるわけないやんか」
愚かな考えを切り捨てながらも、着物を持つ手が震えている。千鶴は祈る気持ちで辺りを見まわしたが、どこにも着物の主はいない。隠れる所などないし隠れる必要もない。わざわざ着物を破いて脱ぎ捨てる理由もないのだ。
着物は真実を知っているだろうに、何も語ってくれない。主のために懸命に惚けて白を切っている。けれど、この着物がここにあること自体が真実を告げている。
千鶴は必死になって辺りに着物の主を探した。そんなのはあるはずがないし、あってほしくない。絶対にあるわけがないし、あってはならないのだ。
しかし、いくら探しても自分たち以外には誰もいない。それに、どんなに否定をしても、不自然に裂かれた着物がここに落ちている事情が思い当たらない。
哀しげな鬼の目を思い出した千鶴は抗えなくなった。あの目は、悲しみを湛えたあの目は……。千鶴はあの哀しげな目に覚えがあった。
鬼は千鶴たちには傷一つつけなかった。千鶴の言うことも聞いてくれた。千鶴を護ろうとした母には気後れしたみたいに見えた。それに、月明かりで色まではわからなかったが、背を向けた鬼の右の腰には大きな黒い痣のようなものがあった。
頭の中で、愛しい人が話しかける。
――あしはな、鬼の心がわかるんよ。
千鶴は耳をふさいだ。そんな言葉なんか聞きたくない。だけど愛しい声は続いた。
――鬼は千鶴さんの幸せ願とるぎりぞな。
やめてやめてと千鶴は叫んだが、声は尚も喋った。
――お前が幸せなんがわかったら、鬼はおらんなるんよ。
着物を見つめる千鶴の目から涙があふれた。信じたくないが、きっとそれが真実なのだ。地獄の鬼に惹かれたのも、今なら理解ができる。
千鶴に触れたくて触れられなかった鬼の姿が、悲しく思い起こされる。あの時の鬼はどんな気持ちだったのか。
鬼は己の醜い姿を千鶴には見られたくなかったに違いない。己の恐ろしい本性を、千鶴にだけは知られたくなかったはずだ。
けれども鬼は現れた。千鶴を護るために。鬼は他のことなど考えず、ただ千鶴のことだけを考えていたのだ。本当であれば千鶴の幸せを見定めたあと、姿を見せずにそっといなくなるつもりだったのだろう。それが鬼に定められたことなのだ。
「やけん? やけん、おらから離れよとしんさったん?」
哀しげな目が黙ったまま千鶴を見つめている。千鶴は着物を抱きしめながら泣いた。
「嘘や、嘘や! ほんなん嘘や! おら、そげなこと信じんけん。絶対信じんけんね。なして鬼なんよ。なして鬼なん? なぁ、なしてなん? お願いやけん、嘘やて言うてや。お願いやけん……」
「どがぁしたんや? そこで何をしとるん?」
ミハイルたちと喋っていた幸子が、千鶴の傍へ近づいて来た。
千鶴は母に背を向けたが、着物を抱いているのはすぐに見つかってしまった。
「何なん、ほれは? 泣きながら何をしよん?」
千鶴は言い訳に、落ちていたぼろ布があとで何かに使えそうだからと説明した。
母の顔は見えないが、困惑にゆがんでいるのが雰囲気でわかる。娘の頭がおかしくなったのではないかと、不安になっているのだ。
幸子は無理に着物を取り上げたりせず、千鶴に優しい声で話しかけた。
「とにかく家に戻ろ。おじいちゃんらが心配しよるけんな」
ミハイルが千鶴を慰めに来た。スタニスラフは離れた所から千鶴を見ている。千鶴が抱えている物を見たミハイルは、それは何かと訊ねた。千鶴が返事をしないでいると、今は何も訊かんでと、幸子はミハイルに言った。
父にも頭がおかしくなったと思われたかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。きっと自分のことばかり考えていたので、罰が当たったのだと千鶴は自分を責めた。
お堀の東門のすぐ向こうには電車の停車場がある。幸子はミハイルたちに、そこから電車に乗れば道後へ行けると教えた。しかし、二人とも一緒に紙屋町へ行くと言った。
四人が電車の道に出る所を誰かに見られては、あとで困ったことになる。お堀の東門には兵士がいるし、表の通りを誰かが歩いているかもしれなかった。
その時、また月が分厚い雲に隠れて辺りは闇に包まれた。千鶴たちは互いの体に触れて確かめ合いながら、音を立てずに闇の中を急いで移動した。といっても、すぐ先にある電車の停車場には街灯がある。表に出ると明かりに照らされるので注意が必要だった。
幸い誰にも出くわさずに、千鶴たちは東門の前を通り抜けることができた。月が狭い雲の隙間からちらりと顔を出した時には八股榎の傍まで来ていた。
途中、千鶴は何度も後ろを振り返った。その都度、城山で大きな影が動いていないか目を凝らして確かめたが、どこにもそれらしきものは見えなかった。
――あしはな、もう、昔のあしやないんよ。
耳の中で愛しい声が哀しく響く。千鶴は堪えきれずに泣きだした。
スタニスラフは迷いながらも見かねたのだろう。恐る恐る千鶴の肩を抱くと、僕ガイルゥと慰めた。自分は千鶴を見捨てないと言いたいらしいが、少しも言葉に気持ちが籠もっていない。それに、鬼の前で曝した醜態のことも忘れているようだ。
仮にスタニスラフが勇敢だったとしても、今の千鶴の心にはスタニスラフの言葉は響かない。誰がどんなに慰めても、千鶴の涙を止めることはできなかった。
五
家に戻ると、甚右衛門とトミが寝ずに待っていた。
「ずいぶん遅い戻りじゃの。こげな時分まで宴会しよったんか?」
煙管を吹かしていた甚右衛門は、千鶴と幸子を見るなり文句を言った。だが、後に続くミハイルたちの姿を認めると、何かがあったと悟ったようだ。急いで煙管の火を消し、みんなを部屋へ迎え入れた。
外は雨が降りだしていて、千鶴たちも少し濡れた。それに気づいた甚右衛門とトミはすぐに手拭いを用意したが、その隙に千鶴は離れの部屋へ行った。
真っ暗な離れに入ると、千鶴は抱えていた物を手探りで風呂敷に包んだ。それを布団の陰に隠して茶の間へ戻ると、部屋にはミハイルとスタニスラフが腰を下ろしていた。幸子は土間でトミに手拭いで体を拭いてもらっている。
「何をしよったんぞ? 早よ体を拭かんかな」
甚右衛門は千鶴を叱ると、千鶴の頭や肩を手拭いで拭いた。すんませんと頭を下げた千鶴は、忠さんは?――と小さな声で甚右衛門に訊ねた。
「疾うに寝とらい。お前らが戻んて来るんがもうちぃと遅かったら、忠七と弥七を起こして迎えに行かせるとこやったが」
不安が隠れた険しい顔で甚右衛門は言った。だけど、そんなはずはない。二階へ上がっても、そこに進之丞の姿はないだろう。ただ、それを確かめるのは怖かった。また、いずれは戻って来るであろう進之丞を見つけるのも、怖くて悲しいことだった。
千鶴が座るのを待ち、甚右衛門は何があったのか説明を求めた。千鶴が何も言えずに黙っていると、幸子が口を開いた。
「実はな、萬翠荘を出たあと、県庁の前辺りで特高に捕まったんよ」
「何やと? 特高に捕まった?」
甚右衛門が大きな声を出した。
一度捕まったら拷問にかけられ、白でも黒にしてしまう。そんな特高の噂を耳にすることがあっても、まさか千鶴たちが特高に捕まるとは思いもしなかったのだろう。
「とっこうて、特高警察のことか?」
トミが顔を強張らせて訊ねると、幸子はうなずいた。
下を向いたままの千鶴を見た甚右衛門たちは、千鶴もひどい目に遭わされたとみたようだ。動揺しながらも二人は大いに憤り、特高警察に悪態をついた。
「ほれにしても、なして特高があんたらを捕まえるんや?」
トミが興奮しながら訊ねると、ソ連のスパイと疑われたと幸子は話した。
「ミハイルらはソ連から逃げておいでたのに、こっちの話は全然聞いてくれんで、いきなし逮捕する言われたんよ」
幸子は人力車で戻る途中で、待ち伏せしていた特高警察に県庁裏の登城道の近くへ連れ込まれた話をした。そこで特高警察の男たちが、幸子たちを無理やり逮捕しようとして暴力を振るったと聞くと、甚右衛門は怒り狂った。
トミは急いで千鶴たちの傷を確かめ、軽傷であることに安堵した。甚右衛門が膏薬を出して来ると、トミは傷にその膏薬を塗りながら言った。
「ほんでも、こがぁして戻んて来られたいうことは、結局はスパイやないてわかってもらえたんじゃろ?」
「あの人らがわかってくれたりするかいな」
幸子が腹立たしげ否定すると、甚右衛門は眉をひそめた。
「ほれは、どがぁなことぞ? わかってもらえんのに、なして逃げて来られたんぞ?」
再び恐怖が込み上げたのか、幸子はいったん口籠もってからぽつりと言った。
「出たんよ。鬼が」
鬼じゃと?――と甚右衛門はさっきよりも大きな声を出した。トミは叫ばなかったが、目を大きく見開いた顔が固まっている。
「鬼がな、その人らを捕まえてお城山へ消えたんよ」
幸子の顔は強張り声は震えていた。甚右衛門とトミは驚愕したまま、本当に鬼が出たのかと、千鶴たちを見まわした。
千鶴は黙っていたが、ミハイルとスタニスラフは大きな悪魔を目撃したと証言した。ミハイルは両手を使って鬼の大きさや、鬼の角を説明した。スタニスラフは鬼が特高の男たちを襲った時の様子を語った。
二人が鬼の凄まじい咆哮の話をすると、甚右衛門は腰が抜けたようにうろたえた。トミは甚右衛門にしがみつきながら、それはここにも聞こえたと言った。実はそれもあって、甚右衛門たちは戻りが遅い千鶴たちのことを心配していたようだ。
「あんまし恐ろしい声やったけん、ただ事やないとは思たけんど、あれが鬼やったんか」
トミが震えながら言った。甚右衛門も動揺を隠せないまま幸子に訊ねた。
「ほ、ほれで、鬼はお前らには手ぇ出さなんだんか?」
幸子がうなずくと、トミは怯えながらも意外そうに言った。
「手ぇ出さんかったけん、こがぁして無事に戻んて来れたんじゃろが……、何か今の話聞きよったら、鬼があんたらを特高から助けてくれたみたいやな」
幸子はトミの言葉を打ち消すように、千鶴に言ったことを主張した。トミは黙って聞いているだけだったが、甚右衛門はうなずいた。
「確かに幸子の言うとおり、安易に鬼を信用せん方がええ。所詮、鬼は鬼やけんな」
祖父の言葉は千鶴を悲しくさせた。結局、これが普通の考え方であり、自分だって鬼を同じように見ていたのだ。
スタニスラフは千鶴をちらりと見たあと、鬼が千鶴の言うとおりになったと話した。ミハイルがスタニスラフを注意したが、スタニスラフはやめなかった。千鶴が危険な状態にあると伝えたいのだろうが、千鶴にすれば余計なお世話だった。
驚いた甚右衛門は、そうなのかと幸子に確かめた。幸子は返事に躊躇したが、結局はうなずいた。次に目を向けられたのは千鶴である。祖父母だけでなく、他の者たちの視線も千鶴に集まっている。
甚右衛門は静かに千鶴に訊ねた。
「千鶴、お前は鬼に何ぞ言うたんか?」
「……人を殺めたらいけんて言いました」
千鶴は目を伏せながら答えた。
「お前がそがぁ言うたら、鬼は言うこと聞いたんか?」
千鶴は小さくうなずいた。
甚右衛門が当惑すると、今度はトミが訊ねた。
「鬼は、なしてあんたの言うことを聞いたんね?」
千鶴は答えられなかった。千鶴が黙っていると、トミは別の質問をした。
「あんた、鬼が恐ろしなかったんか?」
千鶴は何も言わずに、また小さくうなずいた。
「なして怖ないんね? 相手は鬼やで?」
「前は言わなんだけんど、うちは風寄であのイノシシに襲われました。ほん時に、うちを護ってくれたんが、あの鬼ぞなもし。ほのあと鬼はうちを法生寺へ運んでくれました」
見たわけではない。だが、事実だ。あの時、死を覚悟した自分は何故か安らぎの中にいた。あれは鬼が抱いてくれていたのだろう。あの安らぎは……そう、思い出した。あの安らぎは、いつも自分の傍にあったあの温もりだった。
千鶴の目から涙がぽろぽろこぼれ落ちた。一方、甚右衛門たちは口を開けたまま言葉が出ない。
「あんた、ほん時は気ぃ失うて何も覚えとらんかったんやないんか?」
母に問われると千鶴は涙を拭いて、思い出したんよとつぶやく声で言った。
「イノシシに襲われて気ぃ失う間際に、うちは鬼の手に抱かれよったんよ。ほじゃけん、ほのあとのことはわからんけんど、確かに鬼はうちを助けてくれたんよ」
幸子は驚いた顔で甚右衛門たちを見た。甚右衛門もトミも当惑している。千鶴と鬼の関係を測りかねているようだ。
事情を知らないミハイルたちは、何の話かと幸子に訊ねた。
幸子が困惑気味に今の話を説明すると、二人は驚いた顔を千鶴に向けた。何も話したくない千鶴は、ずっと下を向いていた。
ミハイルは幸子に、何故鬼が千鶴を助けたのかと訊ねた。幸子は答えられなかった。
甚右衛門は前世で鬼が千鶴を狙っていたと話したが、ミハイルたちには前世が理解できない。その話は二人にはわからないと幸子に言われた甚右衛門は、鬼よけの祠が台風で壊れたので鬼が現れたと言った。しかし、これもミハイルたちにはわからないし、鬼が千鶴を助けた説明になっていない。
幸子は甚右衛門に代わり、ずっと昔の風寄に千鶴によく似た娘が暮らしていたが、その娘は鬼に狙われていたと話した。それから、村の人たちが鬼よけの祠を作って鬼の力を奪ったけれど、その祠が台風で壊れてしまったと言った。
ミハイルは何が起こっているのかは理解できたようだが、鬼が千鶴を助けた理由はわからない。でも甚右衛門たちにもわからないので、誰も説明ができなかった。
一方、スタニスラフはその祠はどうなったのかと訊ね、壊れたままだと甚右衛門が答えると、どうして新しい物を造らないのかと怒りを見せた。
それは風寄の村の人たちがすることだから、自分たちにはどうにもできないと幸子が話すと、ではどうするのかとスタニスラフは興奮気味に喋った。
「アレェヴァ、悪魔デズゥ。千鶴ヴァ、悪魔、心、奪ヴァレェマシタ。悪魔、千鶴、魔女ニシマズゥ」
「まじよ? まじよて何ぞな?」
幸子が訊ねると、魔女は悪魔の僕であり、悪魔を慕う女だとスタニスラフは言った。
魔女は悪魔の指示に従って、人間に不幸や災いをもたらすというのだが、ヨネが考えていた鬼娘に似ている。結局ヨネは真実を知らぬまま、千鶴を鬼娘だと思い込んでいた。千鶴が魔女になるというスタニスラフはヨネにそっくりだ。
鬼を従えた千鶴を見た時、スタニスラフは千鶴を魔女だと思ったに違いない。だから千鶴を恐れて近づこうとしなかったのだ。しかし泣きじゃくる千鶴を見て、まだ魔女にはなりきっていないと判断し、自分は頼れる男だと示すことにしたのだろう。
突飛なことを言うスタニスラフに甚右衛門もトミも黙っていたが、面白くないのは顔に出ている。鬼は恐ろしい化け物でも、千鶴は二人には可愛い孫娘だ。本人が鬼に助けてもらったと話しているのに、それを無視するスタニスラフに不快を隠せないようだ。
幸子も千鶴の話を聞いて、千鶴が鬼を恐れなかったことには納得したらしく、スタニスラフの考えには同意しなかった。だがスタニスラフは譲らず、千鶴を教会へ連れて行くべきだと主張した。
「千鶴、教会デ、洗礼、受ケルゥ。ソシタラァ、悪魔、千鶴カラァ、離レェマズゥ」
「教会でせんれい? 何ぞ、ほれは?」
甚右衛門が不審げに言うと、スタニスラフは神の話をし、洗礼を受ければ神に護られるので、悪魔は千鶴から離れると説明した。
甚右衛門は鼻から大きく息を吐き、そんな必要はないと言った。
「日本には日本の神仏があらい。そがぁな西洋の神なんぞ、わしらにはいらん」
幸子も、千鶴は魔女じゃないから教会はいらないと言ったが、スタニスラフは食い下がった。ミハイルに止められても訴えをやめなかった。
ずっと目を伏せている千鶴を見て、幸子はスタニスラフにきっぱりと言った。
「千鶴のことは、うちらで考えるけん。あんたは黙っとりんさい。これはうちらの問題やけんね」
「デモ、僕ト、千鶴ヴァ――」
反論しようとしたスタニスラフを、幸子は手を上げて黙らせた。
「あなたには言うとかんといけんことがあるんよ。あのな、千鶴には好いた人がおるんよ。でも、ほれはあなたやないの」
スタニスラフは驚いた顔で千鶴を見たが、千鶴は黙っていた。何も言いたくなかった。
代わりに幸子が、萬翠荘では千鶴は酔っ払っていたから、スタニスラフに誤解をさせてしまったと、お詫びを兼ねて釈明した。
甚右衛門とトミはスタニスラフと千鶴の間に何があったのかを理解したようで、千鶴には決まった相手がいると口々に言った。辰蔵のことだと千鶴は受け止めたが、もはや辰蔵を拒める状況ではなく項垂れるしかない。
うろたえたスタニスラフは、そうなのかと千鶴を質した。千鶴は下を向いたまま小声で、ごめんなさいと言った。
納得できないスタニスラフは、その男は悪魔のことを知っているのかと訊ねた。千鶴が答えないでいると、知ラァナイデズゥネと少し威張って言った。
「サノォ人、千鶴、護リィマズゥカ? 僕ヴァ、護リィマズゥ」
スタニスラフは興奮して喋ったが、鬼の前でスタニスラフがどうしていたかを知っている幸子は、白けた顔で聞いている。
ミハイルがスタニスラフの肩を押さえ、もうやめろ、みたいなことをロシア語で言った。だが、スタニスラフは聞かなかった。
「僕ヴァ、千鶴、護リィタイ! 僕ヴァ、千鶴、助ケタイ!」
千鶴は顔を上げると、スタニスラフに微笑んで言った。
「スタニスラフさんは、まことええお人じゃね。うち、絶対嫌われるて思いよった。ほれやのにそがぁに言うてもらえるやなんて、ほんまに有り難いことやと思とります。ほんでも、うちはあなたと一緒に行くことはでけんのよ。あなたじゃったら、うちやのうても、なんぼでもええ女が見つかるけん、もう、うちのことは忘れておくんなもし」
幸子は千鶴の言葉をわかりやすくスタニスラフに説明してやった。しかし、スタニスラフは千鶴が本当に想っているのは自分だと信じており、頑として承服しなかった。
ミハイルはまだ喋ろうとするスタニスラフを黙らせると、みんなを見ながら心配そうに言った。
「アノ、アクゥマ、チヅゥ、ドゥシマズゥカ? チヅゥ、ダイジヨブデズゥカ?」
ミハイルは自分たちがいなくなったあと、あの鬼が千鶴に何もしないのかと訊きたいようだ。親として当たり前の心配である。
トミは、これまで鬼が千鶴を襲ったことはないと話した。甚右衛門は、鬼は信用できないと言った。たとえ千鶴を助けてくれたとしても、鬼は鬼だというわけだ。幸子は迷いながらも、やっぱり鬼だから心配はしていると言った。そこへスタニスラフが割り込んで、千鶴はきっと魔女にされると声を上げた。
ミハイルはスタニスラフをにらむと、千鶴に顔を向けた。千鶴の答えを聞きたいのだ。
千鶴はゆがんでしまいそうな顔を明るく繕って言った。
「みんな誤解しよらい。鬼はな、絶対にうちや家族に手ぇ出したりせんけん。さっきかてほうやったじゃろ?」
千鶴は父と母を見た。二人とも千鶴の言葉を否定せず、黙って千鶴の話を聞いている。
千鶴は祖父たちの方も見ながら話を続けた。
「あの鬼は普段は姿隠しとるけんど、うちらを見守ってくれとるぎりでな、何ちゃ悪いことは考えよらん。鬼が考えよるんは、うちの幸せぎりなんよ。ほんまぞな。嘘やないんよ。他にはなぁんも望んどらんのじゃけん。自分がどんだけつろうてもな、いっつもかっつも、うちのことぎり考えてくれよるんよ。うちがひどいこと言うても、うちが疑うたりしても、いっつもかっつも、うちのことぎり……」
喋りながら千鶴は涙をこぼした。だが、その涙の意味を知る者は一人もいなかった。
千鶴は立ち上がると、離れへ走った。
六
暗闇の中に座った千鶴は、拾った着物を包んだ風呂敷を抱きながら泣いていた。泣きながら、ぼんやりと前世での進之丞との別れを思い出していた。
これまではっきり思い出せていなかったことが、何も考えずにぼーっとしていると、活動写真のように動きだす。
目に浮かぶのは、進之丞と二人で風寄の浜辺を歩いた時のことだ。きれいな茜色の夕焼けを背景に、鹿島の陰から見たこともない黒く大きな船が突然現れた。
「進さん、あの船! おら、あげな大けな船、見たことない」
初めて見る巨船に千鶴ははしゃいだが、進之丞は哀しげだった。
見ていると黒い船は動きを止め、男二人を乗せた小舟が降ろされた。
千鶴、お別れぞな――近づいて来る小舟を見ながら、進之丞は言った。
「あれはお前を迎えに来た船ぞな。あの船にはお前が会いたがっとった、お前の父が乗っておいでる」
「進さん、何言いよん? おら、どこにも行かんよ」
うろたえた千鶴は、右腕を進之丞の腰へ回して体を寄せた。すると、右手に何かべっとりした物がついた。
驚いて手を見ると、真っ赤な血がついている。慌てて進之丞の腰を見ると、進之丞の着物は右の腰から足下まで、血で真っ赤に染まっていた。
「何これ? 進さん、これ、どがぁしたん? なして、こがぁな怪我しよるん?」
「無頼者と斬り合うたんよ。勝ちはしたが、不覚を取ってしもた」
進之丞の顔の半分は、夕日が当たって赤く見える。けれど、反対側は血の気がないみたいだ。進之丞は立っているのもつらそうだった。
よろめく進之丞を千鶴が抱き支えると、進之丞は改めて、迎えに来た父親と一緒に生きてほしいと言った。
「あしはもう生きられん。ほじゃけん、頼む」
「嫌じゃ! 嫌じゃ嫌じゃ! おら、絶対行かんけんね!」
「そげなことを申さんでくれ。お前一人残して死ぬるわけにはいかんけん」
「じゃったら、おらも死ぬるけん。進さんと一緒に死ぬるけん!」
千鶴は進之丞に抱きついて泣いた。進之丞も千鶴を抱き返しながらすすり泣き、すまぬと言った。
やがて進之丞が千鶴を体から離すと、誰かが後ろから千鶴の肩に手を乗せた。驚いて振り向くと、そこには千鶴と顔つきが似ている男が立っていた。
男は感激した様子で千鶴を抱きしめた。千鶴は藻掻いて男を叩いた。
その時、松原の中から何人もの侍が刀を抜いて走って来た。
「異人を逃がすな! 殺せ!」
侍たちの狙いは、千鶴や船の男たちだ。
進之丞は千鶴を抱いた男に、手振りで千鶴を連れて行くように伝えた。事情を察した男は暴れる千鶴を抱きかかえ、もう一人の男が待つ小舟に乗せた。
小舟が動きだすと、進之丞は刀を抜いて侍たちの前に仁王立ちになった。その腰から下は真っ赤な血に染まっている。
千鶴は自分を抱きかかえる男から逃れようと暴れた。小舟が揺れて男の手が離れると、千鶴は海へ飛び込もうとした。進之丞の傍にいたかった。けれど千鶴は再び押さえられ、浜辺の戦いが始まった。
侍たちは次々に進之丞に斬りかかった。進之丞はわずかな動きで相手の刃をかいくぐり、すれ違いざまに斬り伏せた。それでも四、五人を斬ったあと、進之丞はそのまま倒れて動かなくなった。
「進さん!」
千鶴が暴れるので小舟は揺れ動き、漕ぎ手の男は小舟をうまく進められない。そこへ残った侍たちが海へ入って来た。水が深くなると、侍たちは刀を口にくわえて泳いだ。
千鶴を抱いた男が何かを叫び、漕ぎ手は必死に小舟を漕いだ。しかし侍たちは泳ぎが達者で、次第に距離が縮まって来る。
後ろの船では甲板に並んだ異国人たちが、口々に何かを叫んでいる。誰かが銃を構えたが、別の者に止められた。千鶴たちに弾が当たることを恐れたようだ。侍たちはすぐそこまで迫っている。
それまで耳にしたことがない恐ろしげな咆哮が聞こえ、突如、浜辺に巨大な鬼が現れた。鬼は傷を負っているのか、よろけながら海に入って来た。千鶴を乗せた小舟の男たちも、後ろの船の者たちもみんな驚き叫んでいる。
鬼は次々に侍たちを捕まえては引き裂き、ある者は握り潰した。小舟のすぐ近くまで来ていた侍も、千鶴たちの目の前で鬼に捕まり、あっという間に肉塊にされた。
小舟の男たちは恐怖に固まっていたが、鬼は千鶴たちを襲おうとはしなかった。
胸から上だけ水面に出した鬼は、その場に留まったまま哀しげに千鶴を見つめている。千鶴は直感で、この鬼は進之丞だと悟った。
これまで進之丞が鬼であった事実はない。進之丞が鬼になる理由もなければ、どうして鬼になるのかもわからない。進之丞がこんな恐ろしい姿になるわけがないのだ。
だけど、千鶴は目の前にいる鬼が進之丞だと思った。心と体のすべてで、そう感じていた。どうしてと考える余裕などない。どんな姿をしていても、進之丞は進之丞なのだ。
我に返った漕ぎ手が我に返って必死に漕ぎ始めた。千鶴を見つめる鬼がどんどん離れて行く。
千鶴は鬼の所へ行こうとしたが、後ろから押さえられているので動けない。
進さん!――次第に小さくなって行く鬼に千鶴は叫んだ。それに応えて鬼は哀しげに吠えた。鬼は間違いなく進之丞だった。
やがて鬼は倒れるように海に沈んだ。千鶴は必死に進之丞の名を叫び続けたが、鬼は二度と姿を見せなかった。
小舟が待機していた船に着くと、異国人たちが乗船に気を取られている隙に、千鶴は海へ飛び込んだ。沈んだ鬼を探そうと、千鶴は深く潜って行った。息が苦しくなるのも構わず、どんどん潜って行くと、やがて目の前は真っ暗になった。気がつけば、千鶴は地獄に立っていた。
鬼娘を殺せと叫ぶ亡者たちが、千鶴に襲いかかって来た。だが、鬼が現れて千鶴を助けてくれた。鬼の足にしがみついて泣く千鶴を、鬼はそっと抱き上げた。あの優しい温もりが千鶴を包み込む。
千鶴に顔を近づけた鬼は、甘い唸り声を出した。鬼は言葉は話さないが、何が言いたいのかは心に伝わって来る。
鬼は千鶴を見ながらぼろぼろ涙をこぼした。何故ここまで追いかけて来たのかと泣いていた。千鶴は鬼の指を抱いて言った。
「おら、進さんと一緒におりたいんよ。ほじゃけん、おら、これからずっとここで暮らすけんね」
鬼は唸った。だめだと言っているらしかった。千鶴はどうやったらここを出られるか知らないからと、相手にしなかった。
すると鬼は千鶴を指差し、次に真っ暗な天を、そして最後に自分の胸を指差した。鬼は千鶴を地獄の外へ出すつもりのようだ。
鬼は左手で千鶴を抱くと、いきなり右手の爪を己の胸に突き立てた。驚く千鶴に構わず、鬼は右手を胸の奥深くへと突っ込んだ。
鬼は己の胸にある千鶴への想いが、千鶴を地獄へ引き寄せたと思ったのだろう。千鶴を地獄の外へ戻すため、その想いを断ち切ろうとしていた。
苦痛に顔をゆがめた鬼に、やめて!――と千鶴は必死に叫んだ。
鬼は千鶴を見て微笑むと、咆哮と共に胸から右手を引き抜いた。血しぶきと共に現れたのは、右手につかまれた蠢く心臓だった。
刹那、千鶴は目も眩むような光に包まれた。
渦巻く光はまるで暴風のようで、千鶴をどこかへ連れ去ろうとしていた。千鶴は必死に鬼の手にしがみつき、何があっても離すまいと思った。目を閉じた千鶴の耳には、鬼の叫びが余韻となって残っている。
やがて光の嵐が静まった時、鬼の声は聞こえなくなっていた。
光は目映さを失い、千鶴は目を開けた。
いつの間にか部屋に戻っていた母が、行灯に火を入れていた。その薄明るさの中で、千鶴は急いで自分の手を見た。
鬼の手にしがみついていたはずだった。その両手は痛くなるほど胸の風呂敷包みをつかんでいた。千鶴は風呂敷を胸に抱きしめたまま静かに泣いた。
桟橋の二人
一
朝の支度をするために離れの部屋を出た千鶴は、渡り廊下で立ち止まって奥庭を眺めた。奥庭は昨夜から降り続く雨に濡れている。
昨夜、雨に紛れて何者かが奥庭に侵入した音を千鶴は聞いた。そのあと勝手口の戸が静かに開く音が聞こえ、続けて戸が閉まる音がした。母は寝息を立てていたので、庭の音はわからない。気がついたのは千鶴だけだ。
音を聞いた時、千鶴は布団をかぶって泣いた。今は涙は止まったが、どうしてこうなってしまったのかと半分放心状態で雨を眺めている。
「何しよるんね? 早よせんと、みんなが起きて来てしまうで」
後から来た母に促されて千鶴は母屋へ入った。茶の間は障子が閉め切られている。
昨夜の話し合いは何の進展もないまま早めに切り上げられたそうだ。しかし夜も遅いし千鶴が心配なので、父たちは宿へは戻らず茶の間に泊まったらしい。
茶の間の脇にある廊下は雨戸が閉まっているので薄暗い。そこをそっと通り抜けて土間に降りると、台所にはすでに花江がいた。羽釜を載せた竈に火を入れているところだ。
二人に気づいた花江は、おはようございますと小声で言った。それから障子が閉められた茶の間をちらりと見ると、いるのかいと声を出さずに訊ねた。上がり框の下に珍しい履物があるから、ロシアの客人がいるのはすぐにわかる。
千鶴たちがうなずくと、目を輝かせた花江は、楽しかったかい?――と千鶴たちの顔を見比べた。千鶴も幸子も笑顔を繕いながら、楽しかったと答えた。けれど頭のいい花江はすぐに笑みを消し、何かあったのかいと言った。二人に未だに残った動揺が見えたのだろう。
結局、何かがあったことを千鶴たちは認め、詳しい話はあとですると言った。今はとにかく朝飯の支度をしなければならない。
花江が火吹竹を手に取ると、千鶴はその横にしゃがんで隣の竈の火熾しを始めた。その間に幸子は大鍋に水を入れ、それを千鶴が火熾しをしている竈の上に載せた。そのあとは味噌汁の具材の用意だ。
千鶴と花江が竹をくわえて竈の火に息を吹き込んでいると、丁稚の三人が目を擦りながら下りて来た。その後ろに進之丞を見つけると、千鶴は思わず顔を隠して下を向いた。
亀吉たちは千鶴や幸子を見るなり朝の挨拶も忘れ、昨日は楽しかったかと口を揃えて訊ねた。楽しかったと幸子はにこやかに答えたが、千鶴は返事ができなかった。
進之丞は普段どおりに、おはようござんしたと千鶴たちに声をかけた。幸子は普通に挨拶を返したが、千鶴は顔を上げられないまま、おはようござんしたと小声で言った。本当は進之丞に詫びねばならないのに、何かを言おうとすれば、そのまま泣き崩れてしまいそうだった。
昨夜の話をせがむ亀吉たちを、あとでねと幸子がなだめていると、茶の間の障子がさっと開いた。
「アハヨガザイマズゥ」
顔を出したのはスタニスラフだ。その後ろにはミハイルの姿もあった。
客人がいたことに気づいていなかった亀吉たちはとても驚いたが、進之丞は平然としていた。亀吉たちの応対はぎこちなかったが、進之丞は二人に普通に挨拶を返した。
幸子と花江はミハイルたちに顔を向けて挨拶したが、千鶴はちらりと見ただけで、やはり小声でおはようござんしたと言った。
もうスタニスラフに対して、昨日みたいな気持ちはなかった。今あるのは萬翠荘で自分が見せたであろう破廉恥な言動への腹立たしさと情けなさ、そして進之丞に対する申し訳なさだった。
行くぞと亀吉たちに声をかけると、進之丞は水桶を持って雨が降る奥庭へ出て行った。進之丞は手代になってからも、朝の水汲みを手伝っている。進之丞が外へ出たので、亀吉たちも慌てて桶を持つと後を追いかけた。
大鍋の水が煮立ち始めると、幸子は刻んだカブを鍋に入れた。花江は羽釜の前にしゃがんだまま幸子を見上げて言った。
「この人たち、たくさん食べるんだろ? 朝はあたしたちと同じで構わないのかい?」
一緒に食べるとわかっていればよかったのだが、思いがけずこうなったので特別には何も用意していない。
「ほうじゃねぇ。どがぁしよかねぇ」
幸子が小首を傾げると、トミの声が聞こえた。
「昨日買うた魚の干物があろ? ほれを焼いてやんなさいや」
振り返ると、いつの間にかトミが寝間から出て来て板の間に立っていた。花江と一緒にトミに挨拶をした幸子は、そがぁさせてもらおわいとほっとした顔で言った。
千鶴も立ち上がって祖母に挨拶をした。トミは心配そうに、大丈夫かと千鶴に声をかけた。大丈夫ぞなもしと千鶴は笑顔を見せたが、顔が硬いのは自分でもわかる。
すると、土間へ降りたスタニスラフが傍へ来て、千鶴をいきなり抱きしめた。千鶴は思わずスタニスラフを押し返すと、やめてつかぁさいと言った。
昨日とは異なる千鶴の態度にスタニスラフは当惑顔を見せた。昨夜、千鶴には好きな人がいると幸子が話したのに、まだ本気にしていないようだ。
水桶を抱えて戻って来た亀吉が、勝手口に目を丸くして立っていた。千鶴たちの様子を見たらしい。続けて戻った新吉がやはり水桶を抱えたまま、何があったのかという顔で亀吉を見た。
「みんなが見とりますけん、そがぁなことはせんでつかぁさい」
千鶴がうろたえながら言うと、スタニスラフは周りを見た。
スタニスラフと目が合った亀吉と新吉は、すぐに目を逸らした。花江とトミはスタニスラフをにらみ、幸子はスタニスラフに千鶴を抱くなと厳しく注意した。
そこへ進之丞が豊吉と一緒に入って来た。
「どしたん?」
妙な雰囲気を感じたのか、豊吉がみんなに声をかけた。しかし、亀吉も新吉も千鶴たちを前にして説明はできない。花江は進之丞を気遣うように見るばかりだ。
「僕モ、手伝イマズゥ」
スタニスラフは気を取り直したように言うと、千鶴が手に持っていた火吹竹を奪い取ろうとした。これぐらいなら自分でもできると思ったのだろう。
「何もしてもらうことはないですけん、どうぞ、そっちで待ってておくんなもし」
千鶴が火吹竹を手放さないまま言ったが、スタニスラフは動こうとしない。スタニスラフの頭には、萬翠荘で一緒に踊った千鶴の姿が残っているのだろう。
スタニスラフにすれば、たった一夜で千鶴の態度が変わるのは理解できないはずで、千鶴にはスタニスラフをその気にさせてしまった申し訳なさがあった。けれど、もう進之丞を悲しませるわけにはいかないし、誤解もされたくない。
鍋にカブの葉を入れ足した幸子が注意したが、スタニスラフは千鶴から離れない。
「スタニスラフ!」
ミハイルが強い口調でスタニスラフを呼ぶと、ロシア語で何やら注意した。スタニスラフはすごすごと茶の間に戻ると、少し奥にしゅんとなって座った。
ミハイルは幸子と千鶴に両手を合わせながら頭を下げた。邪魔をして申し訳ないと言いたいようだ。幸子も千鶴も笑みを返したが、千鶴は気持ちが落ち着かない。
険悪な雰囲気を変えるように、花江が亀吉たちに声をかけた。
「水を瓶に移し終わったらさ、七輪を二つばかり用意しておくれよ。魚の干物を焼くからさ」
「魚の干物?」
新吉が目を輝かせた。するとトミが、お客の分だけだと言った。
がっかりした新吉に、当たり前ぞなと亀吉が冷たく言った。しかし、亀吉も本音では残念だったらしい。ちらりとミハイルたちに向けた目が羨ましげだ。
二
味噌汁を千鶴に任せた幸子は、雨が小降りなのを確かめると廊下の雨戸を開けた。それから茶の間でミハイルたちが使った布団を畳み始めたが、そこへ二階から辰蔵と弥七が降りて来た。二人はミハイルたちに気がつくと、亀吉たち同様に驚いた。
「なして、お二人がここにおいでるんぞなもし?」
遠慮がちに訊ねる辰蔵に、昨夜ここでみんなで喋っていて、宿へ戻るのが遅くなったから泊まってもらったとトミが話した。
ほうですかとうなずいた辰蔵は、千鶴たちが戻った頃合いを教えてもらい、妙なことだと言った。
「昨夜は千鶴さんらがお戻りになるんを、上で弥七らと一緒に待ちよったんです。ほやのに、気ぃついたら自分の部屋で寝よりました。自分がいつ部屋に戻んたんか全然覚えとらんので、何や妙な気分ぞなもし」
弥七も辰蔵がいつ部屋へ戻ったのかわからないと言い、自分も知らない間に寝ていたと話した。すると竈の火を見ていた花江も振り返り、自分も同じだと言って首を傾げた。
「あたしも萬翠荘の話を聞かせてもらおうと思ってさ。寝ないで待ってたんだよ。だけど気がついたら、もう朝でさ。寝床にいたんだ。いつ寝ちまったのか自分でも覚えてなくてさ。ほんと不思議だよ」
ほうよほうよと七輪に火を熾しながら亀吉たちが話に加わった。三人とも千鶴たちの戻りを待っていたはずなのに、やはりいつの間にか寝てしまったそうだ。
みんなは不思議だとうなずき合っているのに進之丞は話に加わらず、これから焼く魚の干物を持ったまま豊吉の火熾し作業を眺めている。
あんたら――トミが使用人たちの顔を見まわしながら言った。
「昨夜は妙な声が聞こえんかったか?」
鬼の咆哮のことだろう。幸子が戸惑いながらトミに声をかけた。余計なことは喋るなと言いたげな顔だ。
「妙な声? 妙な声て、どがぁな声ぞなもし?」
辰蔵が訊き返すと、聞こえとらんなら構んとトミは言った。
「まぁそがぁなことで、この二人は昨夜はここに泊まりんさったんよ」
トミは怪訝そうな辰蔵を無視して、この話を終わらせた。
昨夜、二階で何があったのかはわからないが、みんなが知らない間に眠ってしまったのは、恐らく進之丞の仕業に違いない。
大鍋に味噌を入れながら、千鶴はちらりと進之丞を見た。進之丞は敢(あ)えて千鶴の方を見ないのか、豊吉が上手に火を熾したのをしきりに褒めている。
「賑やかじゃの」
とても疲れた顔の甚右衛門が起きて来た。
トミは豊吉を呼ぶと、店先から新聞を取って来させた。その間に進之丞は亀吉や新吉と干物の魚を焼き始めた。
幸子は茶の間に畳んだ布団を、急いで甚右衛門たちの寝間へ片づけた。入れ替わって茶の間へ移った甚右衛門は、二言三言ミハイルたちに声をかけ、豊吉が持って来た新聞を畳の上に広げた。
ミハイルたちは日本の新聞は読めない。簡単な言葉ならわかるが、新聞の文章はむずかしいようだ。二人は新聞をのぞき込みながら、昨晩のことが書いてあるのかと甚右衛門に訊ねた。甚右衛門は二人に待つように言うと、しばらく記事を順に目で追い、ある記事を見つけて指差した。
「ここに昨夜の萬翠荘のことが書かれとる」
そこには萬翠荘の記事が、舞踏会の絵付きで掲載されていた。絵に描かれている伯爵夫妻と一緒に踊る二組の男女は、ミハイルと幸子、スタニスラフと千鶴に違いなかった。
文章は読めなくても絵はわかる。ミハイルはスタニスラフと新聞を食い入るように眺め、戻って来た幸子にも見せた。絵を見た幸子は恥ずかしそうに微笑んだが、笑顔には少し困惑が混ざっている。
何と書かれているのかとスタニスラフが訊ねると、甚右衛門は記事を一文ずつ読み上げた。幸子はそれを簡略化して二人に伝えた。
記事には、日露戦争の時に結ばれたロシア兵と日本人看護婦、その子供たちの感動的な再会の場として、久松定謨伯爵が萬翠荘を提供し、親子のために晩餐会および舞踏会を開催されたとあった。
中身としては、伯爵を持ち上げる内容が主ではあったが、千鶴たちの名前はちゃんと記載されていた。読み上げられた名前を聞いたミハイルたちは少し微笑んだ。
「血がつながっていない二人の子供たちは、伯爵夫妻の前で――」
そこまで読んで言葉を切った甚右衛門は、新聞に顔を近づけて続きの文章を黙読し、これはどういうことかと幸子に問うた。
幸子は甚右衛門が示した文に目を向けると、顔を引きつらせた。
「これは何かの間違いぞな。こがぁなことはしとらんけん」
幸子が弁解すると、何の話をしているのかとミハイルたちが訊ねた。幸子は困惑顔で、記事に間違いがあったとだけ言った。何がと聞かれても、言葉を濁して答えなかった。
花江たちが振り返って見ている。進之丞も干物を焼きながら幸子に顔を向けている。
千鶴は不安になった。萬翠荘でのことはよく覚えていない。だけど、スタニスラフは自分たちがみんなの前で、互いの気持ちを伝え合ったみたいに言っていた。そんなことが書かれていたらと思うと、千鶴は何も考えられなくなった。
千鶴が火吹竹でまた火に息を吹きかけると、横にいた花江が声をかけた。
「何やってんだい、千鶴ちゃん。そんなことしたら味噌汁が煮立っちゃうよ!」
立ち上がって鍋を見ると、味噌汁が沸騰しそうだ。千鶴は慌てて竈の薪を火消壺に入れて火を消した。
三
朝飯の間、千鶴たちは誰も喋らなかった。
一方、板の間は萬翠荘の話が新聞に載ったことに加え、亀吉たちが千鶴や幸子から聞かせてもらった萬翠荘の中の様子や、ご馳走や踊りの話などで盛り上がっている。
進之丞の気持ちを考えると、そんな話はやめてほしいと千鶴は思った。そんな千鶴の苦悩に構わず話は続いたが、いつもなら聞こえるはずの進之丞の声が聞こえない。進之丞は黙って話を聞いているのだろう。千鶴はつらかった。
食事の途中で、千鶴は母から新聞の記事を見せてもらった。不安な気持ちで記事を読むと、祖父が口にできなかった文章があった。それを見た千鶴は血が凍った。
そこに書かれてあったのは、血がつながっていない二人の子供たちが、伯爵夫妻の前で結婚を誓い合ったというものだった。
「うち、こがぁなこと言うたん?」
焦った千鶴は小声で幸子に訊ねた。幸子は甚右衛門たちを気にしながら潜めた声で、こがぁには言うとらんと言った。
「ほんでも似ぃたことは言うたんよ。うちが止めても聞こうとせんでな。まっこと往生したわいね」
声を潜めても、甚右衛門たちには幸子の声が聞こえている。千鶴は祖父母に目を合わせられずに下を向いた。
「あんたは完全に酔っ払っとったけんな。なぁんも覚えとらんのじゃろ?」
千鶴はうなずきながら胸が疼いた。
甚右衛門とトミは何も言わないが、ため息をつかんばかりの表情だ。昨夜のスタニスラフの言動はそういうことかと思っているのだろう。
ちらりと千鶴と目が合ったミハイルは、気にするなという感じで微笑みながら小さく首を横に振った。千鶴と幸子が何を喋っていたのかがわかっているらしい。
ミハイルは千鶴とスタニスラフを引き合わせるために松山を訪れたのではない。千鶴が萬翠荘で酒を飲み過ぎていたのも知っている。だから、スタニスラフとのことが間違いであったとわかっても、少しも残念がる様子はなかった。
しかし千鶴との結婚を信じていたスタニスラフには、間違いでしたで済む話ではない。
スタニスラフは新聞記事に何と書かれているのかと千鶴に訊ね、千鶴が黙っていると幸子を問い質した。記事を確かめて、自分たちが互いを求め合ったという事実を、今一度甚右衛門たちの前で訴えるつもりなのだ。
幸子は同じ説明を繰り返し、それ以上はスタニスラフに言わせなかった。ミハイルもこの話はおしまいと言い、味方のいないスタニスラフは口を閉じざるを得なかった。
これで萬翠荘の話は終わったが、新聞記事が消えるわけではない。いずれ記事は進之丞の目に留まるだろう。そのことを考えると、千鶴は食事が喉を通らなくなった。
「どがぁなったんじゃろね」
トミが小声でぽそりと言った。
ミハイルとスタニスラフが顔を上げると、幸子は声を潜めて昨夜の特高の男たちのことと説明した。ミハイルはむずかしい顔を見せたが、スタニスラフは手刀で自分の喉を切る仕草をした。
「いずれ、わかろ」
甚右衛門は言葉少なに答えると、飯を口に放り込んだ。甚右衛門の表情は、そんなことなど知りたくもないと言っている。
ミハイルは特高警察が今後どう動くのかを気にしていた。心配しているのは自分たちではなく、千鶴や幸子のことだ。鬼については昨夜の千鶴の話を受け入れたのか、ここでは触れようとしなかった。
一方のスタニスラフは、特高警察よりも鬼のことが頭から離れないみたいだ。千鶴を教会へ連れて行き、洗礼を受けさせるべきだと繰り返した。
甚右衛門たちはうんざりした顔をし、ミハイルでさえもが好い加減にしろと言いたげにスタニスラフをにらんだ。
スタニスラフが口を噤むと、ほれにしてもやと甚右衛門が話を戻した。
「このままじゃ済むまい。あの連中があとで見つかろうが見つかるまいが、また誰ぞが神戸から調べに来う」
トミは不安げに言った。
「そがぁなったら、またこの子らを捕まえよとするんじゃろか」
「恐らく何があったんかを知る意味でも、千鶴らから話を聞き出そとすらい」
「ほれは、ミハイルとスタニスラフにも言えることやわいね」
幸子が心配そうにミハイルたちを見ながら言った。ほうよなとうなずいた甚右衛門は、特高警察の本拠地は二人が戻る神戸であることを指摘した。
「わざに捕まりに行くようなもんやけんな。神戸に戻んても、特高警察には気ぃつけんといくまい」
甚右衛門がミハイルたちに忠告すると、トミも言った。
「あんたらは早よ日本を立ち去った方がええ。一日でも早よにな」
幸子が二人の言葉をわかりやすく言い換えると、ミハイルは戸惑いながらうなずいた。しかし、スタニスラフは千鶴を放っておけないと言った。
「千鶴をどがぁするか考えるんはわしらの仕事で、お前さんの仕事やない」
昨夜の幸子と同じことを、甚右衛門はきっぱりと告げた。スタニスラフはミハイルを見たが、ミハイルは何も言わなかった。
賑やかだった板の間が、いつの間にか静かになっていた。みんな茶の間の話に耳を傾けているのだろう。
甚右衛門が大きく咳払いをすると、ごちそうさまと言う声が板の間から聞こえた。仕事を始める頃合いであり、幸子も病院の仕事へ向かわねばならなかった。
幸子は箱膳に残っているものを急いで口に運びながら、ミハイルたちに神戸へ帰る船の予定を聞いた。スタニスラフは帰りたくないと言い続けていたが、ミハイルは夜の八時四十分の船に乗ると言った。うなずいた甚右衛門はミハイルに話しかけた。
「じゃったら夕方、ここで飯を食うてから去ぬればええじゃろ。ほれと、道後の宿に戻んて支払いを済ませて来んとな。でないと、宿代を踏み倒したて思われてしまわい」
幸子が言い直すとミハイルは甚右衛門に感謝した。スタニスラフは不満げだったが、二人は甚右衛門に従って一度道後の宿へ戻ることになった。
外はまだ雨が降り続いている。幸子はミハイルと軽く抱き合ったあと、ミハイルに傘を持たせた。
二人を見ていたスタニスラフは期待の目を千鶴に向けた。千鶴は黙ってスタニスラフに傘を手渡すと、自分の傘を持って表に出た。千鶴が二人を古町停車場へ案内するのだ。
昨日、特高警察に捕まりそうになったのだから、千鶴にせよミハイルたちにせよ、油断はできないはずだ。ところが、甚右衛門たちは特高警察を心配する素振りがない。
敢えて口にはしないが、特高警察は鬼がみんな始末したと誰もが考えているようだ。
四
ミハイルたちを見送ったあと、千鶴が家に戻って来ると、店の入り口に人だかりができていた。傘を差している者もいれば、雨に濡れっ放しの者もいる。男も女も入り交じっての人垣だ。見ると、店の中にも多くの者が入り込んでいる。
何事かと思いながら近づいて行くと、一番後ろにいた男が千鶴に気づいて振り返り、戻んて来たぞなと叫んだ。
男は近所の絣問屋の主人で、千鶴の方へ駆け寄って来た。他の者たちも先を争って後に続き、千鶴は雨の路上で人々に取り囲まれた。みんな千鶴を知る者たちだ。
「千鶴ちゃん、結婚するんやて?」
「おめでとさん。ロシアにはいつ行くんや?」
「伯爵さまご夫妻が、お仲人してくんさるん?」
いきなり質問攻めにされて、千鶴はうろたえた。
「ちぃと待っておくんなもし。みなさん、何の話をしておいでるんぞなもし?」
「何の話て……、千鶴ちゃん、おとっつぁんと一緒に来た、あの若いロシア人と結婚するんじゃろ? 伯爵ご夫妻の前で誓い合うたて、ちゃんと新聞に書いてあったぞな」
喋ったのは山﨑機織の隣にある紙屋の女房だ。小学校に上がった頃まで冷たい態度を見せていたが、毎日挨拶を続けているうちに、今では向こうから声をかけてくれるようになった。他の者たちも似たようなものだ
近所の人たちがここまで気にかけてくれていたことに千鶴は当惑した。だが本当の当惑はそこではない。みんなが口にしている言葉だ。
これだけの者が集まって、千鶴とスタニスラフの婚約を祝いに来たのだ。記事の話は店の者全員が知っただろう。店の中には、まだ進之丞もいるはずだ。
千鶴は血の気が引いたが、まずはこの場を収めねばならなかった。
結婚なんかしないと千鶴は必死にみんなに説明し、自分は松山に残るし、スタニスラフは今晩の船で神戸に戻り、そのあとはアメリカへ行くと言った。それで紙屋の女房も他の近所の者たちも、やっと納得してくれたが、がっかりしたようでもあった。
千鶴はみんなが気にしてくれたことを感謝しながら頭を下げると、何事もなかった顔で店に戻った。頭の中は動揺でぐちゃぐちゃだ。
店に入ると、辰蔵と弥七が驚いた顔をしていた。やはり記事のことが知れたようだ。
千鶴の婿になるものと心を決めていたであろう辰蔵には、千鶴がスタニスラフと結婚するという話は寝耳に水だ。千鶴に真偽を確かめようと思ったみたいだが、あまりのことに口を開けたまま声が出ない様子だ。
弥七にしても、何が起こったのかがわからず混乱しているようだ。弥七は千鶴が惚れているのは忠七だと思っていたはずだ。それがどうしてスタニスラフと結婚なのかと呆然としている。
しかし進之丞は笑顔で、お戻りたかと千鶴に声をかけた。千鶴とスタニスラフとの仲を認めたということだろう。そして、黙って消え去るつもりなのだ。
千鶴は言い訳をしたかった。お酒を飲み過ぎたための間違いで、スタニスラフと結婚なんかしないと言いたかった。だけど、辰蔵の前では言えない。言えば辰蔵に弁明しているみたいに見えるだろう。
千鶴は黙ったまま進之丞にだけ小さく頭を下げて家の中に入った。だが、それもスタニスラフに心移りしたことの後ろめたさだと思われたかもしれなかった。
雨がようやく上がった頃、ミハイルたちは道後から戻って来た。
早速二人は茶の間へ通されたが、スタニスラフは部屋へ上がる前に、千鶴の傍へ来て千鶴を軽く抱いた。まだ千鶴をあきらめきれないらしい。
千鶴はもうやめてほしいと思った。でも今日でお別れなので、あまり嫌な態度は見せないようにしていた。けれど、花江はスタニスラフの馴れ馴れしさに眉をひそめていた。
近所の人々が集まったことで、花江にも新聞記事の中身が知れた。どういうことかと責めるように質されて、千鶴は昨夜は酔っ払ってしまって口が軽くなったと弁解した。
だけど新聞に書かれているようなことは言ってないという言い訳を、花江は一応納得してはくれた。それでも誤解を招くようなことはしない方がいいと、少し強い口調で千鶴に釘を刺した。
進之丞の真意を知ったことで、千鶴の花江に対するわだかまりは消えた。それどころか逆に自分の方が花江を傷つけていたのだと、花江に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
恐らく進之丞は花江に相談されていただけなのだ。であれば、花江が惚れた男は他にいるわけで、その相手は辰蔵しかいない。そして、その辰蔵は千鶴の婿になる予定なのだ。つまり、千鶴こそが花江と辰蔵の仲を引き裂いた張本人だったのである。
なのに花江は嫌な顔一つ見せず、姉のように戒めてくれる。もしかしたら、辰蔵の顔を潰すような真似はしてほしくないと思っていたのだろう。
スタニスラフが部屋へ上がると、ミハイルは甚右衛門とトミに宿の者たちが心配していたと報告した。ほうじゃろほうじゃろと甚右衛門はうなずいた。
「もうちぃとで宿代を踏み倒されたと思われるとこじゃったかい」
踏み倒すの意味をトミに教えてもらったミハイルは、そうじゃないと言った。宿の者たちが心配していたのは、宿代ではなくミハイルたちのことだったそうだ。
どういうことかと甚右衛門が訊ねると、昨日、特高を名乗る男たちが宿へ来たという。男たちは宿の者にミハイルたちのことをいろいろ訊き質し、勝手に上がり込んで二人の荷物を調べたとスタニスラフが言った。
特高という言葉に、みんなにお茶を淹れていた花江がぴくりと動いた。千鶴は焦ったが、スタニスラフは話を続けた。
宿の者たちは威張ったその男たちを嫌い、男たちの質問には答えなかったそうだ。しかし昨夜は二人が戻らなかったので、男たちに捕まったのではないかと心配していたらしい。それで今朝二人の元気な顔を見ると、大喜びをしてくれたようだ。
「ヤパリィ、マツゥヤマナ、ヒタ、ミンナ、シンセツゥネ」
ミハイルはにこやかに言ったが、甚右衛門の顔は険しかった。
「宿のことはよかったが、連中のやり口がどがぁなもんかは、今の話でようわかった。わしらもやが、二人ともように気ぃつけにゃいくまい」
花江がいるからか、甚右衛門は特高という言葉は使わずに喋った。
アメリカへはいつ行くのかとトミが訊ねると、まだ決まっていないが近いうちにとミハイルが答えた。できるだけ早く日本を離れた方がいいと千鶴が言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。ミハイルは同意したが、スタニスラフは松山に残りたいと訴えた。
みんなにお茶を配ろうとしていた花江は、何だって?――と言わんばかりの目をスタニスラフに向けた。
千鶴はちらりと花江を見てから、それは無理だし、そんなことをすればお母さんが悲しむとスタニスラフを諭した。とにかく今日は神戸へ戻ろうと、ミハイルもスタニスラフに言い聞かせた。だけど、本当は自分も千鶴の傍にいたいとミハイルは言った。
そのうち二人が鬼の話を始めるのではないかと、千鶴は冷や冷やしていた。それで今日が最後だから、このあとの予定を立てたらどうかと話を変えた。
甚右衛門はうなずくと、何かやりたいことはあるのかとミハイルたちに訊ねた。
ミハイルは何もないと答え、スタニスラフは千鶴と一緒にいたいと言った。お茶を配って台所に戻った花江が、何とか言ってやれと目で千鶴に訴えている。
千鶴は花江を気にしながら、お母さんへのお土産を買ったらどうかとスタニスラフに提案した。ミハイルはそれがいいとうなずいたが、スタニスラフは千鶴が一緒ならと言った。すかさず甚右衛門が口を挟み、今日は千鶴は留守番だと言った。
「ほんまは千鶴に行かせたいとこなけんど、今日は千鶴も忙しいけん、わしが案内しよわい」
甚右衛門の言葉にスタニスラフは不満を示した。けれど、ミハイルは感謝して甚右衛門の申し出を受け入れた。
「また妙な奴らが来よっても困るけんな」
納得しないスタニスラフに、甚右衛門は弁解のごとく付け足した。だが、朝は千鶴に二人を古町停車場まで送らせたのである。甚右衛門の言葉に説得力はなかった。
三人が出かけたあと、千鶴はトミがいる前で花江を呼ぶと、実は――と昨夜特高警察に捕まった話をした。
花江は驚いた。トミもその話をするのかという顔で千鶴を見た。
特高警察にはどんな言い訳も通用しないことは、花江だって知っている。それでどうなったのかと花江は目を剥いて訊ねた。
千鶴が考えたのは、県庁裏の登城道の方へ連れ込まれたあと、みんなで大声を出して人を呼んだというものだ。
いくら特高とはいっても、外から来た人間が正当な理由もなく、こちらの人間を捕まえるなんて許されるはずがない。国が認めても、地元の人間は認めないだろう。それに特高の者たちは威張ってはいるが、人目がない所で千鶴たちを捕まえようとしたのは、後ろめたさがあるからこそだ。
それで千鶴は花江に、できるだけみんなで大きな声を出して騒いだところ、男たちは驚いて城山へ登る道へ逃げて行ったと話した。
即興の嘘ではあったが、一応筋は通っている。花江は素直に信じて、千鶴ちゃんは頭がいいと感心した。また、トミもこの説明に納得してくれた。
「まっこと特高いう連中は、愚かな屑の集まりぞな」
トミが特高警察の男たちをこき下ろすと、花江も一緒になって特高警察の悪口を言った。そして千鶴たちが無事であったことを喜んでくれた。
花江の様子を見た千鶴は、取り敢えずはこの言い訳でいこうと少し安堵した。けれど、まだ悩みはたくさん残っている。
五
甚右衛門と戻って来たミハイルたちは、エレーナのために買った絵葉書と人形を千鶴に見せてくれた。行く時と違ってスタニスラフはご機嫌で、みんなはわかっていると千鶴に得意げに言った。
何の話かと思っていると、勧商場にいた連中から祝いの言葉をかけられたと、甚右衛門が仏頂面で説明した。萬翠荘の話は確実に街に広まっているようだ。
甚右衛門は人々に新聞記事は間違いだと説明をしたが、横にいるスタニスラフは千鶴との結婚は本当だと言って甚右衛門を困らせたらしい。しかしミハイルがスタニスラフを黙らせて、二人は結婚しないと断言してくれたという。
千鶴を行かせなくてよかったと甚右衛門は疲れた顔を見せながら、勧商場のあちこちで昨夜の鬼の咆哮についても囁かれていたと言った。
あれは松山歩兵第二十二連隊が夜の軍事演習をした音だという者もいたが、化け物の声ぞとか、いやいやお袖狸が怒っとるんぞななど、いろんな憶測が飛び交っていたそうだ。どの言い分にも共通していたのは、みんなが恐怖を感じ、その正体を知りたがっているということだった。
甚右衛門の報告が終わると、トミは甚右衛門に耳打ちをするように話しかけた。千鶴が花江に説明した内容を伝え、それでいこうというものだ。そうすることは千鶴とトミの間で決めていた。甚右衛門はうなずくと、わかったと言った。
千鶴もミハイルたちに、昨夜の鬼の話は他の人には内緒にすることと、みんなで大声を出したために、特高警察の男たちが城山へ逃げたことにしてほしいと頼んだ。
千鶴が鬼をかばっているように見えたのか、スタニスラフは少し嫌な顔をした。けれどミハイルは娘の気持ちがわかっているらしく、誰にも言わないと約束してくれた。それでスタニスラフも仕方なさげに了承した。スタニスラフが少し心配だが、まずは一安心だ。だけど、本当にこれでうまくいくかはわからない。
昼飯の前に使用人全員を集めた甚右衛門は、昨夜千鶴たちが特高警察にソ連のスパイ容疑で捕まりそうになった話をした。そのあとは千鶴が花江に喋ったとおりの説明だ。
話を聞かされていた花江は驚かなかったが、他の者たちは一人を除いて動揺を隠さなかった。その一人というのは進之丞である。
執拗な特高警察がいつまた接近して来るかはわからないので、怪しい者には気をつけよと、甚右衛門は厳しい口調で戒めた。使用人たちは声を揃えて返事をした。
捕まったらどうなるのかと、新吉が不安な顔で訊ねた。
甚右衛門は新吉を見据えると、捕まったら拷問にかけられ、無理やりスパイだと言わされるか、さもなくば殺されると言った。新吉だけでなく、他の者も蒼くなった。
わかったなと言う甚右衛門に、全員がもう一度声を揃えて返事をした。みんな緊張が走った顔をしていたが、特に進之丞の顔は険しかった。
花江は小さく手を挙げ、幸子が一人で病院へ向かったのが心配だと言った。甚右衛門は、確かになとうなずいた。
今日のところは大丈夫だろうが、鬼の話はできないのでそうは言えない。甚右衛門は進之丞に幸子の迎えを頼んだ。わかりましたと答えた進之丞の顔はやはり険しかった。
昼食後、甚右衛門たちは幸子が戻るまでミハイルたちをどうするかと話し合った。
その結果、二人はもう外には用事はないし、不用意に外へ出るのは危ないので、夕方まで家の中にいてもらうことになった。といっても、家には二人がすることがない。それでトミと千鶴が習字を教えることにした。
千鶴たちは墨をするところから始め、代わる代わるお手本に簡単な字を書いてみせた。
スタニスラフはあまり面白味を感じなかったみたいで、筆を手にはしたものの、真剣にはやろうとしなかった。つまらなそうに筆を動かすスタニスラフを見て千鶴はがっかりしたが、トミは孝平を思い出すと言って苦笑いをした。
一方、ミハイルは習字に興味を覚えたようで、正座はできないものの、お手本を見ながら懸命に書いた。その姿を眺めながら、千鶴は昨夜見た夢を思い出した。
昨夜は進之丞のことで頭がいっぱいで、他のことを考える余裕がなかった。でも今は、前世で自分を迎えに来た父親は、父ミハイルだったのではないかという気がしている。
顔をまともに見たわけではないが、夢で見た前世の父は今の父に似ていたように思えてならない。それに感じるのだ。目の前で筆を動かしている父の姿に重なって、前世の父を感じるのである。
今の母は前世の母の生まれ変わりだ。だから恐らく父も生まれ変わって、再び父親になってくれたのだ。前世でばらばらになった家族が、こうして再会できたと思うと、千鶴の胸は感激でいっぱいになる。同様に再会したはずの進之丞が鬼だったことには悲しみが募るが、そんな自分を両親の存在が支えてくれているようだ。
どうだとばかりに得意げな顔で、ミハイルは字を書いた半紙を掲げた。それを見てトミがべた褒めをした。千鶴も手を打って褒めちぎった。
ミハイルが褒めてもらったのを見て少しやる気を出したのか、スタニスラフもしばらく真面目に紙に向かった。だけど、ミハイルほどにはうまく書けなかった。
モウイイと言って、スタニスラフは筆を投げ出すと、今はこんなことをやっている時ではないと千鶴たちに訴えた。
「千鶴、悪魔、憑イテマズゥ。早クゥ、千鶴、悪魔カラァ、離サナイト、ダメデズゥ」
同じ言葉を繰り返すスタニスラフに千鶴は辟易した。父と親子の心を通わす一時が台無しだ。トミもちらりとスタニスラフを見ると、疲れた顔でため息をついた。
トミは鬼が現れたことに驚愕はした。でも冷静さを取り戻した今は、鬼をさほど恐れていない。これまで鬼は自分たちに何もしていないし、千鶴をイノシシや特高警察から護ってくれたからだろう。何より鬼が千鶴に従ったのは一番の安心材料に違いない。
ミハイルはロシア語でスタニスラフに何かを言った。スタニスラフの態度を注意したようだ。それでもスタニスラフは千鶴を助けると言って聞かなかった。
千鶴は少し厳しい声で、スタニスラフさんと言った。
「うちも同しことを何べんも言うんは嫌なんよ。あの鬼は悪魔やないし、うちらに悪さはせんの。ほんでもスタニスラフさんがうちを魔女じゃと思いんさるなら、どうぞご自由に。うちは魔女で結構ですけん。スタニスラフさんは何も心配することないぞなもし」
スタニスラフは助けを求める目をミハイルに向けた。けれどミハイルはスタニスラフを擁護せず、もうあきらめろとばかりに黙って首を小さく横に振った。それから千鶴に、アシエテクゥダサイと言った。
「ガンゴ、チヅゥ、タズゥケタ。ガンゴ、チヅゥナ、ハナシ、キイタ。ナシテデズゥカ?」
ミハイルは鬼が千鶴に従った理由を知りたいらしい。昨夜は千鶴が話さなかったので、改めて訊ねている。
トミも千鶴を見ている。父が訊ねていることは、祖母にしても知りたいはずだ。だが、それを説明するわけにはいかない。
千鶴は少し考えてから口を開いた。
「鬼いうてもいろいろで、全部の鬼が怖いんやないんよ。姿は恐ろしいても、心は優しい鬼もおるんよ。ほじゃけん、鬼はスタニスラフさんが言うておいでる悪魔やないんよ」
千鶴は父が理解できるようにゆっくりと喋り、スタニスラフにも顔を向けた。鬼と悪魔の違いをわかってもらえたらという気持ちだった。
スタニスラフは黙っていたが、ミハイルはわかったという顔でうなずいた。千鶴は話を続けた。
「いくら心が優しいてもな、姿が怖かったら、みんな鬼を怖がるんよ。ほしたら、鬼かて嫌な気持ちにならいね。ほんでも、うちは鬼を信じとるけん、鬼を怖いとは思わんの。ほじゃけん、鬼に話しかけたし、鬼も嬉しいけん、うちの言うこと聞いてくれたんよ」
ミハイルは大きくうなずいた。トミも納得したようだ。父や祖母がわかってくれたことが、千鶴は嬉しかった。
面白くなさそうなスタニスラフが、千鶴の話に口を挟もうとした。ミハイルはそれを遮って、千鶴と親子の話がしたいと言った。
六
離れの部屋にはスタニスラフもついて来た。これでは親子二人だけの話にならないが、スタニスラフだけを祖母の所に残すことはできないし、父も何も言わないので千鶴も黙っていた。
部屋に入ると、ミハイルたちは興味深げに中を見まわした。部屋の隅には畳んだ布団と一緒に、昨日千鶴が拾い集めた着物などを入れた風呂敷包みが置いてある。それに目を留めたスタニスラフが、これは何かと訊ねた。
本当の話はできないので、千鶴は知人に頼まれていた修繕の着物ということにした。すると、破れた着物を直せるのかとミハイルが感心した。
日本では娘はみんな自分で着物を作るし、破れたりした所も自分で直すと千鶴は説明した。また店で働く者たちの着物も全部自分たちで作ると話すと、二人はとても驚いた。
ミハイルは想い出に着物を作ってほしいと言った。スタニスラフも期待の目でうなずいた。だが今すぐはできないので、あとで母と二人で作って近いうちに送ると千鶴は約束し、二人の体の採寸をした。ミハイルたちは喜び合い、神戸の住所を書いた紙を千鶴に渡した。千鶴もこの家の住所を訊かれたので紙に書いた。
スタニスラフはふと思い出したように、着物が届くと母が怒るかもしれないと言った。エレーナは夫が松山で自分の娘やその母親に隠れて会っているとは知らないのだ。
困惑したミハイルは千鶴を見た。千鶴は山﨑機織という店の名前で送るから、ここで着物を注文したと説明すればいいと提案した。
ミハイルは明るい顔に戻ると、それがいいと言った。スタニスラフも安心したようだ。
そのあとミハイルは笑みを消すと、千鶴に話があると言った。いよいよ本題だ。父の表情を見て、千鶴は少し緊張した。
「ヴァタァシ、イイマシタ。アトォサンナ、アジサン、ニホォン、アイデマシタ。アジサン、タズゥケタ、トォサナ、ヒタネ。トォサ、ヴァカリィマズゥカ」
「とさ? 高知の土佐のこと?」
「コォチ? サレェヴァ、ドカデズゥカ?」
「愛媛と同し四国にあるんよ」
千鶴は紙に四国の図を描き、愛媛の場所と高知の場所を教えた。
「ココ、トォサ?」
高知を指差し訊ねるミハイルに、千鶴はうなずいた。
ミハイルは高祖父の船が沈み、ここで助けてもらったと言った。他の乗組員はみんな死に、高祖父だけが助かったそうだ。
その後、高祖父はそこの土地の娘と親しくなり、その娘を孕ませてしまったという。
「アジサン、ヴァタァシ、イシヨ。アジサン、ムズゥメ、ズゥキネ」
自分も同じことをしたと言いたいのだろう。ミハイルは少し照れていたが、それが原因で高祖父はそこを追い出されたと言った。
「アジサン、チィサナ、フゥネ、マライマシタ。サレェデ、ウミ、イキマシタ」
どうやら高祖父は小舟に乗せられて、そのまま海へ放り出されたらしい。詳しい話は、所々でスタニスラフがロシア語で聞き取り、千鶴に説明してくれた。
小舟で海に流された高祖父は、他の国の船に助けられたあと、無事にロシアへ戻ることができた。その後、ロシアで商売に励んで結婚もした。そして日本が鎖国を解いて諸外国を受け入れ始めると、船に乗って再び日本を訪れたという。一番の目的は商売だが、土佐で自分の子供を身籠もった娘がどうなったのかが気になっていたようだ。
当時、日本へ来た船といえば黒船だ。千鶴は動揺した。前世の千鶴を迎えに来たのもロシアの黒船なのだ。
高祖父を乗せた黒船は、神戸へ向かっていた。しかし瀬戸内海を通過する時、潮の流れが悪くて途中の港へ立ち寄った。その港があるのは、土佐と同じ島だ。つまり、四国である。
「港の名前、わかる?」
どきどきしながら千鶴が訊ねると、ミハイルは顎に手を当てながら言った。
「ミヅゥガマ? ミヅゥーマ?」
「ひょっとして三津ヶ浜?」
そうかもしれないとミハイルは言った。だとすれば、進之丞が言っていた話と符号する。もしやと思う千鶴の胸は高鳴った。
高祖父の船が三津ヶ浜の港に停まると、港の町では大騒ぎになった。そんな中、ロシア人との商売を考えた男が小舟で近づいて来たという。黒船には通訳が乗っており、自分に似た者を知らないかと、高祖父はその男に通訳を介して訊ねたそうだ。
千鶴は全身の毛が逆立つ思いだった。こんな話を父から聞かされるとは思いもしなかった。
ロシアと比べれば、四国なんてちっぽけな島だ。高祖父には三津ヶ浜も土佐も同じに思えただろう。とはいえ、小舟の男に訊ねた時、高祖父は半分あきらめていたらしい。ところが驚いたことに、知っているという返事が戻って来たのである。
高祖父が教えてもらったのは、近くの浜辺の寺に暮らす異国人の娘が、その土地の侍の息子と結婚するという話だ。娘は幼い頃に旅の途中で母が亡くなったため、そこの寺の住職に拾われたらしい。母親の生まれはわからないが、その娘の歳が自分の子供と同じぐらいなので、高祖父は娘を我が子と思ったそうだ。
高祖父は案内役として同乗していた日本人の船頭に、娘に宛てた手紙を書いてもらった。そして金貨と一緒にその手紙を小舟の男に渡し、その娘に届けてほしいと頼んだという。
手紙の中身は、自分は父親で二日後の夕刻にそこの浜辺へ行くというものだ。連れ去るつもりではなく、ただ会いたかっただけらしい。
千鶴は泣きそうになっていた。父は自分の前世を覚えていない。なのに前世の自分の話を高祖父の話として語ってくれている。やはり父は前世と同じ父なのだと、千鶴は感激していた。
船が三津ヶ浜を出航して教えられた浜辺へ向かうと、そこに娘がいた。娘の顔を見た高祖父は、間違いなく自分の娘だと思ったそうだ。
娘には若い侍が一緒にいたという。恐らく娘の夫になる男と思われた。その侍は嫌がる娘を高祖父に委ねると、現れた他の侍たちと戦い始めた。
若い侍が死を覚悟していると悟った高祖父は、娘を小舟に乗せて船へ戻ろうとした。そこへ侍たちが追いかけて来た。浜辺に若い侍の姿はなく、戦いに敗れて死んだと思われた。
高祖父たちは船へ急ごうとしたが、娘が暴れるので小舟が揺れてなかなか前に進まない。侍たちが迫って来ると、高祖父の仲間は櫂を外して身構えた。
その時、浜辺に突如として巨大な悪魔が現れ、海の中に入って来た。悪魔は次々に侍たちを殺し、小舟のすぐ近くまで来た。しかし、最後の侍を引きちぎって握り潰した悪魔はそこで動かなくなり、じっと娘を見つめていたそうだ。
娘がその悪魔に声をかけると、悪魔も悲しげな声を出した。そのあと、悪魔は海に沈んで行った。すると娘も海に飛び込んだ。あっという間のことだった。そして娘が再び上がって来ることはなかったという。
やっと会えたと思ったはずの我が娘が、目の前で海に飛び込み死んだのだ。高祖父はどれほど悲しみ、この出来事をどれほど怖いと思っただろう。それを思うと、千鶴は胸が痛かった。
それでも高祖父は娘を護ろうとした若い侍の気持ちは嬉しかったようで、二人の魂が一緒になれることを祈ったそうだ。
千鶴は泣いた。涙が勝手に流れていた。感動と当時の感情が入り交じった涙だった。
高祖父は悪魔を恐れはしたが、何か温かいものを感じたそうだとミハイルは言った。
「アクゥマ、アジサンナ、ムズゥメ、タズゥケタ。ムズゥメ、アクゥマ、シンジテタ」
そう言って、ミハイルは千鶴の両方の手を取った。
「ガンゴ、チヅゥ、タズゥケタ。チヅゥ、ガンゴ、シンジルゥ。ダカラァ、ヴァタァシ、シンジルゥネ。ヴァタァシ、チヅゥ、シンジマズゥ。チヅゥナ、ガンゴ、シンジマズゥ」
千鶴は嬉しかった。泣きながら父に抱きつくと、ありがとうと言い、そして、ごめんなさいと詫びた。ミハイルは何を謝られているのかわからずに当惑していたが、千鶴は構わず言った。
「あのな、お父さんは、お父さんなんよ。お母さんも、お母さん。ほれで、うちは、うちなんよ。昔も今も、ほれは同しなんよ」
生まれ変わりが理解できない父に、千鶴が言えるのはそれだけだった。けれども、前世で離ればなれになった家族が、今世でやり直しをさせてもらったという感激は、涙となってあふれ出る。
だが、流れる涙には悲しみも混ざっていた。自分を助けるために鬼は現れ、そして死んだ。それと同じことが繰り返されているようで、悲しみには大きな不安が絡んでいた。
一方でスタニスラフは、悪魔が娘を助けたのは娘が悪魔に魅入られていたからと解釈した。そして、今の千鶴も同じだと言うのだ。
何を言ってもわかってもらえそうにないので、千鶴はスタニスラフが言いたいように言わせておいた。
昨日、あれほど心が惹かれたはずなのに、今のスタニスラフは別人に見えた。
七
最後の夕食を終えたあと、千鶴は母と一緒に父とスタニスラフを高浜港まで見送ることになった。表に出ると、もう日は沈んで西の空が茜色に染まっていた。辺りは夕闇に包まれ、南の空に月が浮かんでいる。
昨日の今頃は萬翠荘にいた。そのあと特高警察に捕まり鬼が現れた。それらのことが思い出されて、千鶴は気持ちが落ち込んだ。
甚右衛門は古町停車場までは見送りに来た。陸蒸気が来た時にはじろじろと客車の中をのぞいて、怪しい者がいないかを確かめた。もう特高警察はいないが、念のためにという感じだ。
鬼に油断をするなと言いながらも、祖父が千鶴たちだけを港まで見送りに行かせるのは、きっと千鶴の言い分を聞いてくれたのだ。千鶴は嬉しかった。
千鶴たちが客車に乗り込んだあと、陸蒸気が出発の汽笛を鳴らすと、駆け込みで一人の男が乗って来た。
男が乗ったのは千鶴たちとは別の車両で、幸子もミハイルたちも気づいていない。だけど、千鶴だけはその男が乗り込んで来るとわかっていた。
男は千鶴たちが家を出た時から、かなり間を取って後をついて来ていた。顔を隠すために深くかぶった鳥打帽は祖父のものだし、着物も山﨑機織のものだ。
歩く姿や背格好から、男は進之丞だと千鶴は見抜いていた。恐らく祖父に頼まれたのだろうが、気づかれているのも知らずにこそこそする様子は、ずっと悲しんでいた千鶴を微笑ませてくれた。
高浜港に着くと、乗客たちはみんな桟橋へ向かった。千鶴たちも人々に交ざって移動したが、千鶴たちから離れた後ろの方を進之丞もついて来る。
西に延びた桟橋の先には、夕日の余韻もほとんどなくなった空が広がり、手前の海も黒々としている。見上げると頭上は夜空で、南の月が街灯と一緒に足下を照らしている。
千鶴たちは月明かりを背に受けながら、煌々とした明かりで闇に浮かぶ船を眺めた。出航時間まではまだ時間があり、桟橋の上は多くの人でごった返している。
ミハイルは最後の時を名残惜しみながら幸子の肩を抱き、スタニスラフは遠慮がちに千鶴のすぐ傍らに立っていた。
「サチカサン、チヅゥ、アエマシタ。タテモォ、タテモォ、ヨカタデズゥ」
ミハイルは笑顔を見せたが、本音は松山を去りたくないようだ。
幸子はミハイルに身を委ねながら言った。
「千鶴から聞いたけんど、着物すぐにこさえて送るけんね」
「アミセナ、ナマエデ、アネガイシマズゥ」
幸子はミハイルの顔を見ると噴き出した。
「ほうじゃね。ほうじゃったほうじゃった。うっかり自分の名前で送るとこじゃった。ちゃんとお店の名前で送るけん」
「エレーナ、タテモォ、キビシィネ。サチカサン、ナマエ、ミルゥ。エレーナ、ツゥノォ、ダズゥネ」
ミハイルは両手の人差し指を頭に立てて鬼の真似をした。幸子は笑ったが、その笑いは短かった。ミハイルは当惑しながら、ゴメナサイと言った。
スタニスラフは遠慮がちに千鶴の肩を抱き、桟橋の先へ誘った。
今の姿を進之丞に見られていると思うと、千鶴はつらかった。でも最後の別れなので、素直にスタニスラフに従っていた。
「千鶴ナ、好キナ人、誰デズゥカ?」
スタニスラフは単刀直入に訊ねた。
千鶴は後ろを振り返ると、離れた所で月を眺めている進之丞を指差した。
「あのお人ぞな。月を見ておいでる、あのお人ぞなもし」
千鶴に指差されていると気づいた進之丞は、慌てて姿を消した。その様子に千鶴がくすくす笑うと、スタニスラフは千鶴が適当な人物を指差したと思ったらしい。ふっと笑って言った。
「千鶴ヴァ、僕ニ、心配サセナイ、思テマズゥ。ダカラァ、嘘ツゥイテマズゥ」
「嘘? うちは嘘なんぞついとらんぞなもし」
「千鶴ヴァ、僕ガ、アキラァメルゥ思テ、嘘ツゥキマシタ。デモォ、モウ、嘘、イラァナイ。僕ヴァ、千鶴、アキラァメナイ。必ズゥ、千鶴、助ケマズゥ。必ズゥ、ココニ、戻リマズゥ。ダカラァ、待テテクゥダサイ」
どう言えばわかってもらえるのかと、千鶴は頭を悩ませた。
「スタニスラフさんは、うちが魔女になっても、同しこと言うてくんさるん?」
エ?――とスタニスラフは言葉に詰まった。やはり進之丞とは違う。だけど、これが普通なのだ。今ここに鬼が現れたらどうするのかと訊いてみたい気持ちがあったが、スタニスラフが困るのはわかっている。
とにかくもうすぐお別れだ。まぁいいかと思い直して、千鶴は微笑んだ。最後は気持ちよく送り出してやりたかった。
千鶴の微笑みに気をよくしたのか、スタニスラフは千鶴に顔を近づけて来た。千鶴は慌てて横を向くと、父と母に声をかけた。
「お父さん、お母さん、そろそろ船が出るんやないん?」
出港を待つ船はもう乗船が始まっており、他の乗客たちが次々に乗り込んでいる。
「大丈夫。船が出る時には銅鑼が鳴るけん」
幸子が大きな声で言った。
千鶴は途方に暮れた顔のスタニスラフを振り返ると、ほうなんやてと笑った。
八
いよいよ銅鑼が鳴った。両親は抱き合い最後の別れをしている。
スタニスラフも千鶴を抱きしめると、絶対に迎えに来ると言い、軽く千鶴の額に口づけをした。千鶴は顔が熱くなるのを感じながら笑顔で応じた。心の中では、進之丞に見られていないことを祈っていた。
続いてミハイルに抱かれた千鶴は、お父さんと言った。
「お父さんはな、うちが産まれる前からお父さんやったんよ」
ミハイルが当惑気味に笑みを浮かべると、何を言うとるんねと幸子が言った。
「お母さんも対ぞな」
「対て?」
「お母さんも、うちが産まれる前からお母さんやったんよ」
「まったく妙なことぎり言う子じゃねぇ」
幸子は呆れた顔で笑ったが、何だか嬉しそうにも見えた。
早く乗船するよう船員に促されると、ミハイルたちは残念そうに船に乗り込んだ。二人はすぐに甲板へ移動して、他の乗客たちと一緒になって千鶴たちに手を振った。
千鶴は母とともに手を振り返しながら、父に会えたことを心から感謝した。また、これでお別れだという安心感があったからか、自分なんかを想ってくれるスタニスラフのことも有難く受け止めた。
手を振りながら思い起こされるのは、やはり萬翠荘での晩餐会と舞踏会だ。あの時の高揚した気分は今でも覚えている。落ち込んでいたからとはいえ、確かに自分はスタニスラフに心を動かされたのだ。
進之丞のことを考えると、あれは恥ずべき行為だし許されるものではない。とはいえ、あんな気持ちになったのは事実であり、悔やみはしても否定はできなかった。
鬼が現れた時、千鶴はスタニスラフに怖がられると思っていた。実際、スタニスラフは千鶴を恐れたが、スタニスラフなりに力になろうとしてくれた。
進之丞と比べると頼りないし、空気を読めない自分勝手な所はある。けれど進之丞以外にここまで自分を想ってくれる人はいない、これが千鶴の率直な感想だ。
もし風寄で進之丞に出逢っていなければ、あるいは、そもそも風寄の祭りへ行かなかったなら、本当はスタニスラフと一緒になるのが自分の定めだったのか。
そんな考えがふと頭を過ぎり、千鶴は後ろめたくなった。すぐに頭の中から余計な考えを振り払うと、自分が慕っているのは進さんだけだと、千鶴は自身の気持ちを確かめた。それから見送り客の中に進之丞の姿を探したが、進之丞はどこにもいなかった。
――お前がまことの幸せになったなら、鬼はお前から離れるんが定めぞな。
頭の中で進之丞の声が聞こえた。
千鶴とスタニスラフが結婚を誓い合ったという話を、進之丞は笑顔で受け入れた。千鶴が何も言い訳をしないから、事実だと信じているはずだ。進之丞には今の千鶴の姿も、スタニスラフとの別れを心から惜しんでいるように見えているだろう。
千鶴は焦った。
父たちを見送ったあと、進之丞に本当の気持ちを伝えるつもりでいた。だけど、千鶴の幸せを見届けたと思った進之丞は、もう自分の役目は終わったと考えたかもしれない。
こうして見送りをしている間に、進之丞が姿を消したのではないかと思った千鶴は、船の二人に手を振りながら、何度も目で進之丞を探した。心は進之丞を探して辺りを走りまわっていた。
船が徐々に離れて行き、桟橋で手を振る人たちの数が減ってくると、千鶴は急いで高浜(たかはま)停車場へ向かった。まだミハイルたちに手を振っていた幸子は、怪訝そうに千鶴を見た。だが千鶴は振り向かなかった。
「進さん!」
千鶴は人混みをかき分けながら叫んだ。けれど、進之丞は見つからない。停車場にも客車の中にも進之丞の姿はなかった。
「進さん!」
周りの者たちが妙な顔で振り返ったが、千鶴は叫ぶのをやめなかった。しかし、どこにも進之丞はいない。進之丞は――鬼は去ってしまったのだ。
千鶴は立ったまま泣きだした。近くの人がどうしたのかと訊ねても、千鶴は泣くしかできなかった。
「進さん、何でおらんなったんよ……。おら、まだ幸せになっとらんのに、なしておらんなったんよ……」
子供みたいに泣きじゃくる千鶴から、人々は距離を置くように離れて行った。
千鶴が独りぼっちで泣き続けていると、後ろから千鶴に呼びかける懐かしい声が聞こえた。振り返ると、帽子を脱いだ進之丞がそこに立っていた。
「千鶴、どがぁした? 大丈夫か?」
「進さん!」
千鶴は飛びつくように進之丞に抱きつくと、わぁわぁ泣いた。
「ごめんな……、ごめんな……」
「何を謝るんぞ?」
「ほやかて、おら、おら……」
「お前は何も悪いことなんぞ、しとらんやないか」
「おら、抜け作じゃった。自分のことぎり言うて、進さんのこと、何もわかろうとしとらんかった」
戸惑う進之丞に、千鶴は泣きながら訴えた。
「お願いやけん、どこにも行かんで。ずっとおらの傍におって……。おらから離れたら嫌じゃ……。お願いやけん、約束してつかぁさい。絶対あげな所へは戻らんて……約束してつかぁさい」
「千鶴、お前……」
進之丞の顔が強張った。千鶴は続けて言った。
「おら、進さんが鬼でも構んけん、ずっと傍におってほしいんよ。他は何もいらんけん、進さんにずっと傍におってほしいんよ」
「……気ぃついてしもたんか」
千鶴は黙ったまま泣いていた。進之丞はうろたえた顔で天を仰ぐと目を閉じて、抜かったわとつぶやいた。
「お不動さま……、あしはしくじってしまいました……。せっかく……、せっかく千鶴の姿を見せていただいたのに……、あしは何もかも……、何もかも台無しにしてしまいました……。申し訳ありませぬ……。申し訳……ありませぬ……」
進之丞は目を閉じたまま涙を流して不動明王に詫びた。
千鶴は涙に濡れた顔を上げると鼻をすすり上げながら、何を言っているのかと訊ねた。
進之丞はすべてはお不動さまのご慈悲によるものだと言い、それを自分は台無しにしてしまったと唇を噛(か)んだ。
「千鶴」
母の声が聞こえ、千鶴は進之丞から離れて涙を拭いた。進之丞も慌てて後ろを向いた。
千鶴が振り返ると、桟橋から戻って来た幸子が心配そうに立っていた。だが背を向けた男を見ると、幸子はすぐに安堵した笑顔になった。
「誰か思たら、忠さんやないの」
進之丞がうろたえ気味に振り返って頭を下げると、幸子は訝しげに言った。
「忠さんがここにおるいうことは、うちらと対の陸蒸気に乗ってたんじゃね。じゃったら一緒におったらよかったのに遠慮しよったん?」
「いえ、ほういうわけや……」
進之丞が口籠もると、幸子は進之丞が持つ帽子を見てにっこりした。
「おじいちゃんに頼まれたんじゃね。うちらを特高から護るよう言われたんじゃろ?」
進之丞は目を伏せがちに、はぁとうなずいた。
「特高がおったら、どがぁしろて言われとるん?」
「海に投げ込め言われとります」
あははと笑った幸子は、ほんまはほうやないんよと言った。
母の明るさは父と再会できたからなのか。そうかもしれないと千鶴は思ったが、それだけではないなとすぐに思い直した。
「おじいちゃんは、特高気にして忠さんを来させたんやないんよ。特高が心配じゃったら、自分でここへおいでとらいね」
そう、今は特高警察はいない。だから母は安心しているのだろうし、鬼のことも祖父みたいに考え直してくれたようだ。だけど、そのどちらも笑う理由にはならない。
「じゃったら、なして……」
当惑する進之丞に、幸子は楽しげに言った。
「あんたらが一緒におれるようにしてくんさったんよ。ほれに、万が一のことがあったとしても、忠さんが一緒じゃったら安心じゃて思いんさったんじゃろねぇ。直接そがぁ言うたらええのに、おじいちゃんは素直やないけん」
幸子は千鶴と進之丞の関係を心配していた。母が笑うのは、二人の仲が戻ったことが嬉しかったからだと千鶴は思った。
祖父母にも心配をかけた。特にスタニスラフが来てからは、二人で気を揉んでいたに違いない。だがそれは、辰蔵を婿にするわけではないということか。
進之丞を失わずに済んだ千鶴は、母や祖父母の気持ちが有り難かった。また、進之丞が鬼でもすべてはうまくいく気がしていた。
幸子へ返す言葉が見つからない進之丞に、ほらなと千鶴は笑顔で言った。
「これが、お不動さまが決めんさった定めぞな」
「何やのん、お不動さまて?」
幸子が眉根を寄せた。何でもないと言うと、千鶴は困惑顔の進之丞に身を寄せた。
どうして進之丞が鬼になったのかは謎だ。けれど、進之丞が進之丞であることには変わりがない。
かつて自分は鬼娘だと信じていた千鶴は、鬼になった進之丞の苦悩や悲しみがわかる。そんな進之丞を二度と悲しませたりはしないと、千鶴は心に誓った。
これからどんな道を歩むことになったとしても、その道を二人で歩むのが自分たちの定めだ。それは困難な道で覚悟はいるだろう。だけど心は決まっている。何があっても進之丞から離れたりしない。どんな時にも進之丞に寄り添って生きていくのだ。千鶴にはそれが何より大切であり、それこそが望みだった。
事件の波紋
一
「なして、わかった?」
月明かりが照らす雲祥寺の墓地で、千鶴を振り返った進之丞は言った。
「進さんの着物が落ちとったんよ」
あの継ぎはぎで誰の着物かわかったと千鶴が話すと、ほうじゃったかと進之丞はため息をついた。
「あとで拾いに行ったが、のうなっとったけん、どがぁしたもんかと思いよった。じゃが、まさかお前が拾うたとはの」
「なして言うてくれなんだん? なして黙っておいでたん?」
千鶴に責められると、そげなこと――と進之丞は千鶴に背を向けた。
「申せるわけなかろがな。あしはお不動さまにお前の幸せを願たんぞ。ほれを己でぶち壊すなんぞできまい」
「お不動さまに幸せを願てくれたけん、おらたち、こがぁして出逢えたんやないん?」
「鬼と一緒になって幸せになれると申すか?」
振り向いた進之丞の目は濡れていた。
「あしは昔のあしやない。鬼ぞな。もう、お前を嫁にする資格はあしにはないんじゃ」
それは自分は鬼娘だと信じていた時の千鶴の言葉だ。千鶴は返す言葉が見つからず下を向いた。
「進さん、なして鬼になってしもたん? 何も悪いことしとらんのに、なして鬼なんぞになってしもたん?」
進之丞は千鶴から顔を逸らして言った。
「前にも申したように、あしは人の命を奪ったけんな」
「ほやけど、ほれはおらを殺そとして襲て来たお侍らじゃろ?」
「ほれぎりやない。あしは村の者にも手ぇかけてしもた」
「村の者?」
「鬼に操られた村の者らがお前と慈命和尚を襲い、鬼が和尚を庫裏ごと焼き殺そうとした話はしたな」
千鶴がうなずくと、進之丞は村人たちが和尚を助けるのを阻もうとしたので、仕方なしに斬り殺したと言った。死んだ村人たちは、みんな進之丞が知る者ばかりだった。
「あしは、あん時に人の心を捨てたんよ」
「何言うんね。人の心があるからこそ、炎の中に飛び込んでまでして、和尚さまを助けようとしんさったんじゃろ? おらを護ろとしてくんさったんも、進さんに人の心があるからやんか」
食ってかかる千鶴の言葉を切り捨てるように、進之丞は言った。
「とにかく、あしは鬼になってしもた。お前と夫婦にはなれんし、お前を幸せにはしてやれん」
「おら、進さんと一緒におれたら、ほれで十分なんよ。進さんと夫婦になれんでも構んけん。ほやけん……、進さん、ずっとおらの傍におって」
縋りつく千鶴を抱きながら、進之丞は力なく言った。
「あしは鬼ぞ。あしは必ずお前を不幸にしてしまわい」
「そげなことない。おらをイノシシから助けてくれたんは進さんぞな。風寄で村の男の人らに襲われた時かて、進さんが助けてくれたんやんか。潰えそうになっとったうちの店を助けてくれたんも進さんじゃ。みんな、進さんは福の神じゃて言いよったろ?」
「お前が学校をやめることになったんは、あしのせいぞな。大阪の新聞記者まで、あしのことでここまで来よった。今度のことも、このままじゃあ済むまい」
進之丞は暗い顔で横を向いた。確かに特高警察の男たちのことは大事になるだろう。
「……あの人ら、どがぁなったん?」
千鶴は恐る恐る訊ねた。進之丞は横を向いたまま素っ気なく言った。
「さぁな。城の近くに捨てて来たが、どがぁなったかの。あん時はまだ息があったが、死んだとすれば、あしは今世でも人殺しになったわけよ」
「そげなこと……。誰ぞが見つけて病院へ運ばれとるかもしれんぞな」
進之丞は千鶴に顔を戻して言った。
「あしは頭に血ぃが昇ると、いつ鬼に変化するやわからぬ。特にお前が傷つけられたりすれば抑えが効かんなる。兵頭の家を壊した時はお前の顔が浮かんだ故、何とか気持ちを抑えたが、昨夜はお前に止められておらなんだら、彼奴らを八つ裂きにしておった」
「これからは頭に血ぃ昇らんようにしたらええんよ。進さんがそがぁならんように、おらも気ぃつけるけん」
「そがぁしよったとこで、いずれまた抑えが効かんことがあろ。ほれにな、あしは鬼に変化するたびに、人の姿に戻りにくなっとるように感じとるんよ」
「ほれは、どがぁな……」
「今のあしが進之丞としておれるんは、己の本性を抑えておる故よ。鬼に変化するいうんは、その本性を露わにすることぞな。ほれを繰り返しよったら、いずれは本性を隠せんなるんじゃろ」
「ほんな……」
「そがぁなったら、おしまいぞな。いくらお前が傍におってくれと申したとこで、あしは消えるしかあるまい」
千鶴は絶望しそうになったが、すぐに開き直った。
「おら、ほんでも構んけん。進さんが鬼の姿のまんまでも、進さんから離れんけんね」
「ほうはいくまい。お前を破滅させるわけにはいかん」
「ほやけど、おら、進さんと一緒におりたいんよ。どがぁなことがあっても、進さんと一緒におりたいんよ」
千鶴は必死に訴えた。だが、進之丞は黙っていた。
「進さん、何とか言うてや」
千鶴が語気を強めると、千鶴――と進之丞は静かに言った。
「あしは今世でお前に与えられた暮らしをゆがめてしもた。あしが現れたばっかしに、お前は本来の生き方を外れ、幸せから遠ざかる道を歩もとしとる」
「おらの幸せはおらにしかわからんことぞな。おらが幸せじゃて思たら、ほれがおらにとっての幸せなんよ。おら、進さんと一緒におるんが幸せなけん、幸せから遠ざかったりしとらんよ」
「ほれは、お前があしを思い出してしもたけんよ。まことのお前は、あしがおらん暮らしの中で幸せを見つけるんが定めじゃった」
「なして、そげなことがわかるんね。進さんがおらんのなら、おら、一生不幸な暮らしをしよるかもしれんやんか。絶対ほうよ。みんなに差別されて、不幸な暮らしをしよったに決まっとらい」
進之丞は息を一つ吐くと、今のお前には護ってくれる人たちがいると言った。
「今、お前が住もとる所は、前の世とは大違いぞな。確かに差別する者はおろう。やが肝心なんは、お前の身近に味方になってくれる者がどんだけおるかよ。今のお前には、その味方がなんぼでもおらい。あしがおらいでも、お前は十分幸せになれたじゃろ」
千鶴はぷいっと横を向いた。
「ほんなこと言うたかて、もう進さんを思い出してしもたんやけん、仕方ないやんか」
進之丞は困惑のいろと浮かべると、風寄の方を見てつぶやいた。
「お不動さま、あしはどがぁしたらええんでしょうか?」
「どがぁもこがぁもないがね。進さんはずっとうちと一緒におるんやけんね」
文句を言う千鶴に顔を向けずに、千鶴――と進之丞は言った。
「地獄のことは覚えておろう?」
「……うん」
「あしはな、あのまま消え去るはずやったんよ」
え?――と驚く千鶴に顔を戻した進之丞は力なく言った。
「ほんまなら、あしはここにはおらなんだ。ほれがこがぁしておれるんは、お不動さまのご慈悲ぞな。あしはそのご慈悲に報わねばならんのよ」
二
鬼となって死んだあと、進之丞はあの暗く冷たい地獄に独りぼっちでいたという。そこへ時折、進之丞を嘲笑ったり貶めようとした者たちや、進之丞が命を奪った者たちが現れて、進之丞を罵り責め立てたそうだ。
怒り狂った進之丞はその者たちを皆殺しにするのだが、しばらくすると同じ者たちがまた現れて、繰り返し進之丞を罵り責め立てた。そんなことが何年も続いたが、それは時が止まっているようでもあり、永久の中にいるみたいでもあったらしい。
そんなある時、その闇の牢獄にいずこからか淡い光が現れたのだと進之丞は言った。
「暗うて冷やいあの場所にな、懐かしい温もりが広がったんよ。あしの胸は喜びに打ち震え、涙が止まらなんだ」
淡い光と聞いて、千鶴はもしやと思った。進之丞は千鶴を見つめながら話を続けた。
「その淡い光はな、長い間ずっと忘れよったこんまいこんまい灯火が、己の中にもあったと気づかせてくれたんよ。ほんで、あしの胸ん中にあるそのこんまい灯火が、その淡い光と引き合うたんじゃと、あしにはわかった」
「進さん、ほれはひょっとして……」
「ほうよ、千鶴。お前ぞな。その光はお前じゃった」
進之丞は千鶴に微笑んだ。その笑みには今もあの時の感激が隠れているようだ。
「お前は、鬼となって地獄へ堕ちたあしの元へ訪ねて来てくれた。あしは鬼になってしもたのに、お前はちゃんとあしのことをわかってくれた。あしの醜い姿を恐れもせず、お前は笑顔を向けてくれたんよ」
喋っているうちに、進之丞は顔をゆがませ涙をこぼした。
「お前は苦しみと絶望ぎりのあそこで……、あしと一緒におると申してくれた……あん時、あしがどんだけ感激したことか……。ほれに、どんだけ悲しかったことか……。」
己の中の千鶴への想いが、千鶴を地獄へ引き込んでしまったと、進之丞は悔やんだという。それで進之丞は千鶴を元の明るい所へ戻そうと、千鶴への想いを断ち切ろうとした。それが千鶴が見たあの光景である。
「お前への想いを断つんは、あしにとって死ぬるのと対ぞな。一度死んだ者が再び死ぬれば、今度こそ消え去ってしまうのであろうが、ほれでもあしはお前を明るうて光あふれる所へ戻したかった」
あの時の進之丞の想いは、千鶴にも伝わっていた。今もあの時のことを思い出すと、悲しみで胸が張り裂けそうになってしまう。涙ぐんだ千鶴に進之丞は話を続けた。
「あしはお前への想いを断ち切りながら、お前を救い出して幸せにしてやってほしいと、お不動さまに願た。その願いに応えるがごとくに光が闇を呑み込んだ時、闇であるあしは光の中に消え失せるはずじゃった。やが、ほん時にあしは過ちを犯してしもたんよ」
目映いばかりの光の中で命の灯火が消える刹那、進之丞は千鶴が明るい所へ戻されたと安堵しながらも、つい思ったのだという。
「消えゆく意識の中で、あしはちらりと思てしもたんよ。お前の幸せな笑顔が見たかったとな。ほれで気ぃついたら、あしはこの体、この姿で浜辺に立っとった」
千鶴は進之丞の言葉が理解できなかった。
「進さん、生まれ変わったんやないん?」
「あしの記憶に残っとるんは、今申したとおりぞな。あしは知らぬ間に、この男の体の中に入っとった。いわば、この体を借り受けておるようなもんよ。借りた物はいずれは返さにゃなるまい」
沈黙が辺りを包んだ。月の光だけが静寂の中をそっと降りて来る。
「ほんな……」
千鶴は言葉が出なかった。進之丞が鬼であっても、これからずっと一緒にいると心に決めていたのに、足下ががらがらと音を立てて崩れていくようだ。
「あしがこの世に舞い戻れたんも、断ち切ったつもりのお前への想いが失われてはおらなんだのも、すべてお不動さまのご慈悲に相違なかろ。ほんでも、ほれはお前の幸せを確かめるまでのこと。願いが叶えば、あしはこの体から離れるんが定めぞな」
せっかく時を超えて再会できたのに、再び進之丞がいなくなる。しかも千鶴の幸せな笑顔を見届ければ、進之丞は消え去ってしまうのだ。こんな理不尽をどうして許せようか。そんなことは絶対に認められない。認められるはずがない。
千鶴は泣きそうになりながら抗議した。
「じゃったら、おら、もう笑わんけん。絶対に幸せになんぞならんけんね。ほれに、もし進さんがおらんなったら、おら、また進さんの後を追わうけん」
「後を追わうことは敵うまい。あしはあん時に消え去るはずじゃった。再びこの世を去ったなら、あしはあの世にもおらんじゃろ」
覚悟を決めた様子の進之丞に、千鶴は首を振った。
「ほんなん嫌じゃ……。ほんなん嫌じゃ……」
千鶴は進之丞に抱きつき、嫌じゃ嫌じゃと泣いた。進之丞は千鶴を抱き返し、これが定めなのだと諭すように言った。
「お前の笑顔が見たいなどと思わなんだら、あしはここにはおらなんだ。お前にはお前の生きる道があり、その中にお前がつかむべき幸せが用意されておったはずじゃった」
千鶴は顔を上げると、大声で文句を言った。
「おらの笑顔が見たいて思いんさったことの、何が悪いんね? 進さんがそがぁ思てくんさったことの、何が悪いんよ!」
「あしは……、あしは鬼ぞな。あしは罪深い鬼なんぞ……」
「やけん、何? 鬼は笑顔見たらいけんの? もしほれがいけんのなら、いくら進さんがお願いしたかて、ここに出してもらえるわけないやんか。進さんがここにおいでるんは、何も悪ないいうことじゃろ?」
千鶴の剣幕に気圧されたのか、進之丞は戸惑っている。
「やが、あしがお前の人生を狂わせてしもたんは事実ぞな」
「おらを想いんさるんをお不動さまが許してくんさったんなら、こがぁしておらと一緒におることも、お不動さまはお認めになっておいでらい」
じゃろげ?――と進之丞に有無を言わせず、千鶴は続けて喋った。
「おらたちを引き合わせといて、もういっぺん引き裂くやなんて、慈悲深いお不動さまがしんさるはずない。ましてや、こがぁにおらを想てくんさる進さんを、お不動さまが消し去ったりするわけないけん」
「ほんでも、あしは人殺しぞな。恐らく、あの連中もほとんどが死んだであろ。あしはここでも人殺しになったんぞ。そげな鬼をお不動さまはお許しにはなるまい。お前にも正体を知られてしもたし、もはやお前の笑顔に関係なく、あしは消え去るじゃろ」
千鶴は進之丞から離れて涙を拭いた。
「進さんは間違とらい。おら、思い出した。お不動さまは誰っちゃ見捨てたりせんのよ。いくら進さんが鬼でも、いくら進さんが許されんことをやったとしても、お不動さまは決して進さんを見捨てたりせんのよ。ほじゃけん、進さんを消し去ったりもせんけん」
進之丞は驚いた顔で千鶴を見た。不動明王がいかな存在であるかを思い出したらしい。
「確かに……確かにほうじゃな……。お前の申すとおりぞな……。お不動さまは誰も見捨てたりはしんさらん……。救いようのない奴を消し去ると考えるんは、あしが鬼である証じゃな……。お不動さまはそがぁなことは思いもすまい……」
「じゃったら、進さん、ずっとおらと一緒におれらい」
嬉しそうな声を出す千鶴に、ほうはいくまいと進之丞は言った。
「消え去りはせんでも、このままいうんはなかろ。あしは人殺しの鬼じゃし、あしが余計なことをしたんは変わらんけんな」
「何が余計なん?」
「お前の頭に花を飾ったり、お前を慰めるのにいろいろ喋ってしもたことよ。あしはお前を想う気持ちを抑えれなんだ。そのせいでお前は前世のことを思い出し、あしを求めだした。やが、ほれはお不動さまの意に背くことぞな」
頑なに同じことを言う進之丞に千鶴は困惑した。
「なして、そがぁ思うんね。おらは全部お不動さまのお導きやて思いよるよ」
「何べんも申すが、あしは鬼ぞ。お前を幸せにするために、お不動さまがお前を鬼と一緒にさせるとは思えん。お前はあしとは別の男と出逢うことになっておったはずぞな」
千鶴はぎくりとなった。
「ひょっとして、スタニスラフさんのことを言うておいでるん?」
「あの男がほうじゃとは申さぬ。やが、あの男と踊るお前はまこと幸せそうじゃった」
千鶴の顔から血の気が引いた。絶対に見せられない姿を、絶対に見せてはいけなかった場面を見られてしまったのか。
「……進さん、あそこにおいでてたん?」
千鶴は動揺しながら訊ねた。進之丞はそれには答えず、遠くを見つめながら言った。
「あん時のお前は、まっこときれいじゃった……。あしが思たとおり、お前は花の神さまじゃった……。あしには決して手が届かん、きれいなきれいな異国の花じゃった……」
「やめて! そげな話、おら聞きとうない」
千鶴が叫んでも、進之丞の話は止まらない。
「あしはほん時に思たんよ。この笑顔こそが、お不動さまがあしに見せよとしんさった笑顔なんじゃと」
「やめてて言うとろ! そげな話聞いたら、おら、死にとなる。進さん、おらを死なせたいん?」
進之丞は口を噤んで千鶴に顔を向けた。千鶴は涙を浮かべて肩を上下させている。
すまぬと詫びて進之丞は項垂れた。ゆがめた進之丞の顔が涙に濡れた。千鶴は慌てて進之丞を抱きしめると、ごめんなと言った。
「進さん、ごめん。進さんをそがぁな気持ちにさせたおらは、まこと抜け作ぞな。どうか堪忍してつかぁさい。おら、進さんが花江さんに心変わりしたて思いよったんよ。ほれで、どがぁしたらええんかわからんで、ほれで……」
堪忍してつかぁさいと千鶴は泣きながら詫びた。進之丞は鼻をすすりながら言った。
「お前は悪ない。悪いんはあしの方ぞな。お前が花江どののことを誤解しよったんはわかっておった。あしはお前の心があしから離れるようにほれを利用したんよ。ほじゃけん、悪いんはあしなんよ」
「おら、あん時、酔っ払ってしもて、自分が何して何言うたんかも覚えとらんのよ。ほんでも新聞にあの人と結婚する言うたて書いてあって、おら、おら……」
進之丞は千鶴をなだめながら言った。
「もう申すな。すべての責任はあしにある。ただな、あしは、もしやこの男がと思たんよ。あしがお前の前に現れておらねば、この男こそがお前に幸せをもたらしたのではと思たぎりよ」
それは高浜港で父とスタニスラフを見送っていた時、千鶴がふと思ったことだった。後ろめたさを感じながら、千鶴は進之丞の胸に顔を埋めて言った。
「おらを幸せにできるんは進さんぎりぞな」
「あしは鬼ぞ? 人殺しぞ?」
「前世でも今世でも、進さんが人を殺めんさったんはおらを護るためじゃった。やけん、進さんの罪はおらの罪ぞな。おら、生きるも死ぬるも進さんと対やけん」
「あしは鬼なんぞ……? あしは必ずお前を不幸にしよう……。ほれでもお前はこのあしを……、鬼のあしを選ぶと……、そがぁ申すのか?」
進之丞の声は震えていた。千鶴の頬を千鶴のではない涙が濡らした。
「お不動さまが考えてくんさったおらの幸せはな……、あのお人と一緒になることやない……。番頭さんと夫婦になることでもないんよ……。おらの幸せは進さんと一緒になることぞな……。ほやなかったら、おら、進さんのこと思い出したりせんかった……。おらたち、前世で一緒になれんかったけん……、お不動さまがお引き合わせくんさったんよ……」
ほやけん、ずっとおらの傍におってつかぁさい――と千鶴は泣きながら繰り返した。
進之丞は涙にむせびながら千鶴と抱き合っていたが、やがて顔を上げた。鼻をすすってはいたが涙は止まり、何かを決意した表情だ。
「まことの定めがどげなもんかはわからんが、ここは腹を括るとしよわい。どがぁなるんかわからんが、ほれでお前が喜ぶんなら、お前が望むとおりにしてみよわい」
「ほんまに?」
「嘘は申さぬ。ほやけん、もう泣くな」
千鶴はもう一度進之丞に抱きつき、進之丞も千鶴を抱き返した。
誰もいない静かな墓地の片隅で、互いを温もりが包み込む。進之丞が鬼であることは変わらない。それでも、千鶴はやっと進之丞と本当に心が通じ合えたと感じていた。
三
翌日の朝刊に、とうとうあの男たちのことが載った。
「城山に謎の怪我人」という見出しの記事には、昨日の朝、城山の待合番所跡で意識不明の怪我人が四人発見されたとあった。
四人とも全身の骨が折れていて瀕死の状態らしい。身元は不明で警察が現在確認中と書かれている。だが実際は兵庫から来た特高警察の人間だと、警察では把握しているはずだ。状況を確かめるため公表していないだけだろう。
また前夜には不気味な獣の鳴き声が、城山周辺で聞かれているが、敵国の音波による攻撃の可能性もあり、事件との関連を調査中だと記事は述べていた。
さらに記事には、八股榎のお袖狸が三度目になる祠の立ち退きを拒んで、今回の事件を引き起こした可能性を指摘する話も書かれており、今後の道路拡張工事への影響を危惧されていた。
朝飯を食べながら新聞を回し読みした千鶴たちの間には、どんよりとした雰囲気が漂っていた。隣の板の間からはやはり特高警察が気になるのか、怪しい者を見たとか見ないとかいう亀吉たちの声が聞こえてくる。
「冷たいようやが、この四人はこのまま死んでくれた方が、わしらは助からい」
甚右衛門は潜めた声で言った。
「ほうよほうよ。だいたい言いがかりをつけて来たんは、向こうなんじゃけんね。やのに、こっちに何ぞ言われても迷惑なぎりぞな」
トミも小さな声で冷たく言った。
二人とも鬼のことは口にしなかった。鬼を恐れる気持ちはあっても、助けてもらったのは事実なので悪くは言わないのだろう。
高浜港で明るく笑っていたように、幸子も鬼への警戒心は薄れている。特高警察の男たちについては、さすがに看護婦だけあってその死を望んだりはしなかった。しかし男たちが生き延びて、鬼のことを証言されたらどうなるのかと困惑はしている。
だけど、千鶴は心配していなかった。男たちが生き延びたとしても、あの時のことはおろか、自分がどこの誰で松山へ何をしに来たのか、すべてを忘れていると進之丞が言ったからだ。
進之丞は鬼が人の心を操れると教えてくれた。ただ本当に操れるのは心が穢れた者だけであり、心が穢れていない者はせいぜい眠らせるぐらいしかできないそうだ。だが心が穢れていない者であっても心が乱れていれば、その乱れを利用して操ることはできるらしい。
千鶴は風寄で一時的に記憶を失っていたが、あれは進之丞がやったことだった。あの時の千鶴は悲しみと恐怖でいっぱいだった。その心の乱れを利用して、進之丞は千鶴の嫌な記憶を消したのだという。
ただ、あの時は進之丞も千鶴を見つけて動揺していたため、暗示はうまくかからなかったようだ。だから千鶴はイノシシの記憶を思い出せたのである。
千鶴たちが萬翠荘へ招かれた日の夜、辰蔵たちが知らない間に寝ていたのも、やはり進之丞の仕業だった。
あの日、進之丞は店の近くで怪しい者を見かけた。千鶴たちが心配になった進之丞は萬翠荘へ向かおうとしたが、千鶴たちの帰りを待って誰も寝ようとしなかった。それでみんなに暗示をかけて眠らせたのだという。
甚右衛門とトミについては、千鶴たちが戻った時に寝ているのはおかしいので、自分が外へ出ることだけ記憶を奪わせてもらったと進之丞は言った。二人は萬翠荘で千鶴たちがどうしているのかと気が気でなかったらしい。その心の乱れを利用したそうだ。
そうしたみんなの様子を目の当たりにしているので、千鶴は男たちが鬼の話をするとは思っていない。それより男たちが助かるかどうかが気になっていた。
男たちが死ねば、進之丞は今世でも人殺しになるわけで、それだけは避けたいところだ。だがあの時の状況を思い出すと、あまり希望は持てそうにない。
甚右衛門たちはずっと特高警察の話をしている。今回の男たちがどうなろうと、今後も特高警察は絡んで来るはずだ。そこで鬼が再び現れても問題であり、どうしたものかとみんなは箸を動かすのも忘れて思案している。だけど結局は質の悪い特高警察への悪口が並ぶばかりで、いい知恵は出て来ない。
けれども、あの時に特高警察が現れなかったらどうなっていたかと考えると、千鶴は情けなくて死にたくなってしまう。
特高警察に止められた時、千鶴はスタニスラフに唇を許そうとしていた。進之丞が心変わりしたと思っていたからだが、進之丞がどんな想いでいたのかと考えると、壁に頭を打ちつけ大声で叫びたくなる。
そもそも萬翠荘へ行ったりしなければ、スタニスラフに気持ちが揺れることはなかったし、特高警察に目をつけられたりもしなかった。元を正せば自分が悪いのだと、千鶴は自己嫌悪の気分になっていた。
また、神戸に戻った父たちが千鶴は心配だった。神戸は兵庫の特高警察の拠点に違いない。ミハイルたちは自ら特高警察の懐に飛び込んだのと同じだ。しかし神戸にはエレーナが残されているし、二人が神戸に戻らなければ却って怪しまれるに決まっていた。
それについて甚右衛門は、しばらくは大丈夫だろうと言った。
「神戸のことはわからんが、あの二人が何ぞやったいう証拠はどこっちゃないけんな。なんぼ特高でも何の証拠もなしに二人を捕まえれまい。逆にいうたら、証拠をつかむためにも、連中はまずはこっちへ調べに来う」
「鬼が出たて正直に言うても、信じんじゃろな」
トミが投げやりに喋ると、甚右衛門はふんと言った。
「あの連中が信じるかい。ひょっとしたら松山にはソ連のスパイがうようよおって、そいつらがあの四人をあんな目ぇに遭わせたと考えるやもしれまい」
「とにかくあの人らは、早よ日本を離れた方がええんよ」
幸子が心配そうに言うと、みんなはうなずいた。
ほれにしても――とトミが潜めた声で、少し身を乗り出して言った。
「千鶴に憑いとる鬼は、普段はどこにおろうか」
甚右衛門は片眉を上げ、何を言っているのかという顔をした。
ミハイルたちの見送りに千鶴と幸子だけを高浜まで行かせたのだから、甚右衛門は鬼を心配していないと思われる。なのに鬼の話に眉を吊り上げるのは、幸子が言うとおり素直でないのだ。
トミは夫には構わず千鶴に顔を向けた。鬼の居場所を知っているのか訊きたいらしい。
もちろん千鶴は知っている。鬼は隣の板の間で辰蔵たちと一緒に朝飯を食っている。だけど、そんなことは言えるわけがない。
千鶴が首を横に振ると、トミは息を一つ吐いて言った。
「どこにおるんかわからいでも、今回のことに関していうたら、やっぱし鬼にはお礼の一つも言うとかんとな」
「お礼? なして鬼に礼なんぞ言わんといけんのぞ」
素直でない甚右衛門が、小さな声で噛みつくように言った。
「ほやけど、助けてもろたんで?」
甚右衛門が返事をしないので、トミは幸子に訊いた。
「あんたは、どがぁ思う?」
幸子は困惑気味に、千鶴が以前にも助けてもらったのであれば、今回も助けてくれたと見るべきなのかなとは思うと、やはり小声で言った。
「あん時、うち、千鶴が襲われる思てな、千鶴を抱きながら、この子連れて行くんなら先にうちを殺せ!――て鬼に言うたんよ」
「あんた、そがぁな恐ろしいこと言うたんか」
トミは驚いたが、甚右衛門も黙ったまま目を見開いている。
幸子はうなずいて話を続けた。
「ほしたらな、何か鬼は怯んだみたいじゃった。あん時は恐ろしかったし無我夢中やったけん、鬼の様子見よる余裕なんぞなかったけんど、今考えたら、あれは鬼に気の毒やったろかて思うんよ」
「気の毒?」
「助けよとしよった相手に怒鳴られたんやで。鬼にしたら、え?――てなろ?」
あれだけ恐怖に震えていた母が、笑いながら喋っている。確かになとうなずきながら祖母も笑ったが、その横で祖父だけは笑うまいとがんばっている。
三人の様子を見て、千鶴は嬉しくなった。鬼が家族として受け入れられた気分だ。
幸子までもが鬼の味方をするようになったので、甚右衛門は渋々ながらを装いむずかしい顔で言った。
「確かに、千鶴を奪われる思て鬼が連中を手にかけたんなら、スタニスラフかて鬼にやられてもおかしないな。あいつは千鶴を連れて行きたがっとったけん。ほれに忠七かて疾うにやられとるかい」
甚右衛門の言葉にトミも幸子もうなずいた。だが、甚右衛門は小首を傾げて言った。
「やが、ほうやとしたら、わけがわからんなった。鬼が千鶴を狙とるんやないなら、なして千鶴を護るんぞ?」
甚右衛門が千鶴を見ると、トミと幸子も千鶴に顔を向けた。
うろたえる千鶴にトミが訊ねた。
「あんたは鬼が助けてくれたけん、鬼を信じたて言うたけんど、そもそもなして鬼があんたをイノシシから救ってくれたんね?」
「そげなこと言われても、うちかてわからん。恐らくなけんど、うちが鬼娘に似ぃとったけん助けてくれたんやなかろか」
「じゃったら、鬼はお前を仲間として連れて行くんやないんか?」
甚右衛門が眉間に皺を寄せて言った。
「いや、ほじゃけん似ぃとるぎりで、鬼娘やないんはわかっとるんよ」
「ほんでも気に入ったんなら、お前を自分の物にしよて思おう?」
「ほれは……」
千鶴が返答できなくなると、再び甚右衛門の不安が持ち上がったようだ。
「やっぱし鬼なんぞ信用でけるかい。だいたいその鬼は風寄の代官を八つ裂きにした奴じゃろが。いくら千鶴を助けてくれたいうても、ほんまは何考えとるんかわかるまい」
その時の鬼は改心したと進之丞は言った。しかし、それはここでは話せない。それに今回千鶴たちを護ってくれたのは進之丞だ。
「たぶん前の鬼と今度の鬼は違うんよ。鬼は一匹ぎりやのうて、前のとは別の鬼がうちらを助けてくれよるんよ」
千鶴の説明に、甚右衛門もそれなりに納得したらしい。別の鬼かとつぶやくと、あとは静かになった。
「まぁ恐らくは、今千鶴が言うたようなとこやなかろか。とにかくうちらは鬼を怖がる必要はないし、鬼はうちらを助けてくれたいうことぞな」
トミが潜めた声で話をまとめた。素直でない甚右衛門は、まぁええわいと素っ気なく言った。
「妙な感じなけんど、ばあさんが言うとおり、今日のとこは鬼に感謝しよわい」
甚右衛門は目を閉じて両手を合わせた。それに倣ってトミも幸子も手を合わせた。
千鶴は胸が熱くなった。みんなが進之丞のことをわかってくれたわけではない。それでも進之丞がやったことに感謝を示してくれたのである。
千鶴も手を合わせながら、隣の板の間の方を向いた。障子の向こうには進之丞がいる。相変わらず亀吉たちが喋っているが、進之丞にはこちらの話が聞こえただろうか。
千鶴は進之丞にみんなが感謝してくれていると心の中で伝えた。そして、自分の感謝の念を喜びの気持ちと一緒に進之丞へ送った。
障子の向こうは見えないが、千鶴には進之丞が笑っているように思えた。
四
朝飯が終わり、幸子は勤務している病院へ行った。病院の行き帰りは、護衛役として進之丞が同伴だ。県外発送の品は亀吉たち丁稚三人組が古町停車場へ運んだが、三人が店を出たあと少しして店の方から聞き慣れない声がした。
「ごめん。主どのは、おいでるかな?」
すぐに慌てた様子の辰蔵が、茶の間にいる甚右衛門の所へ来た。
「旦那さん、警察ぞなもし」
その一言で緊張が走った。
千鶴と花江は奥庭でたらいに水を張って洗濯の準備をしていたが、警察という言葉が聞こえると互いの顔を見交わした。すぐに家の中に戻ると、土間へ降りた甚右衛門が辰蔵に続いて帳場へ向かうところだった。
茶の間に一人残ったトミは、不安で顔が強張っている。
花江は今朝の記事の内容をまだ知らない。何だろうと心配そうに千鶴を見たが、今は何も説明できない。そこへ甚右衛門が巡査を連れて、すぐに戻って来た。
「えっと、あなたが山﨑千鶴さんかな?」
甚右衛門より先に巡査が千鶴に声をかけた。千鶴はどきりとしながら、はいと答えた。
四十を越えたと思われる巡査は、口元に威厳のある髭を生やしている。腰に提げたサーベルも威圧的だ。千鶴は平静を装ったが、胸の中では心臓がばくばく暴れている。
「ちぃと確認のために、二、三質問をさせていただきたいが、構んですかな?」
千鶴が緊張していると見たのか、巡査はにっこり笑った。目尻には深い笑い皺が刻まれていて、本来は気さくな人柄のように思われた。だが、笑っている目には鋭さがある。
「そがぁに硬うならんで。型どおりの質問をするぎりじゃけん、何も心配することないぞなもし」
巡査は穏やかに言った。千鶴は巡査の後ろにいる甚右衛門を見た。甚右衛門は黙って首を横に振った。気を許すなという意味だ。
「あの、うちは何ぞいけんことしてしもたんでしょうか?」
先に千鶴が訊ねると、巡査はまた笑った。
「あなたが何もしとらんのはわかっとります。そげな話やのうてですな、私どもはある事件の目撃談を集めとるんぞなもし」
あの特高の男たちのことに決まっている。千鶴は体が硬くなった。
「今朝の新聞はお読みになりましたかな?」
巡査は甚右衛門を振り返った。巡査の背後から千鶴に顔で指図をしていた甚右衛門は、慌てて背筋を伸ばした。
怪訝そうにする巡査に、新聞なら読んだと甚右衛門は言った。
「城山で身元不明の男四人が、瀕死の状態で見つかったとありましたでしょ?」
「そがぁいうたら、そげな記事もあったかな」
甚右衛門が惚けると、あったんぞなもしと巡査は少し強い口調で言った。それから巡査は千鶴の後ろにいた花江にちらりと目を遣った。
花江は慌てて板の間にあった洗濯籠を抱えると、奥庭へ出て行った。
巡査は甚右衛門に顔を戻すと、実はですな――と言った。
「新聞では身元不明とありましたけんど、実際は四人とも神戸から来た特別高等警察の人間でしてな」
やはり警察では調べ済みだ。しかし、甚右衛門とトミは特別高等警察という言葉を初めて聞いたという顔で互いを見た。
「聞いたことはありませんかな。特別高等警察は特高警察とも言われとります。ほの呼び名のとおり、私どもと違て内務省直属の特別な巡査ですわい。ほの特高警察の四人がある調べ事のために松山まで出ておいでたんじゃが、あげなことになってしもて……。神戸の特高警察も対でしょうが、こっちの警察も大騒ぎですわい」
「ほの方らは今も危ない状態なんですか?」
千鶴が訊ねると、巡査はさらりと言った。
「病院に運ばれた時、三人はすでに死んどりました。残りの一人は重体でして、どがぁなるかはわからん状態ぞなもし」
予想してはいたが、三人が死んだ事実に千鶴は衝撃を受けた。進之丞は今世でも人殺しになってしまったのだ。このことは進之丞が地獄へ引き戻される十分な理由になる。
千鶴の表情に気づいたのか、巡査はじっと千鶴を見た。
「そこでお訊ねしますが、あなたは一昨日の晩げに萬翠荘に招かれましたな?」
はいと千鶴が緊張してうなずくと、巡査は言った。
「晩餐会が終わったあと、あなた方はどがぁして家に戻んて来んさったか、教えてもらえますかな?」
千鶴は二人掛けの人力車二台に乗ったと言った。巡査は手帳を取り出し、また訊ねた。
「あなたとお母さん、ほれとロシアのお二人に分かれて乗ったということですかな?」
「いえ、それぞれに父と母、ほれと、うちとスタニスラフさんが乗りました」
ロシア人二人は道後へ戻らなかったのかと訊かれると、二人は自分たちを紙屋町へ送り届けたあとに、道後へ戻るつもりだったと千鶴は説明した。
巡査はうなずき、手帳に千鶴の言葉を書き記した。それから人力車が萬翠荘を出たあと城山の麓を通ったことを確かめると、これからが本番の質問だと言った。
「あなた方が家に戻るまでの間に、何ぞ事件に関連すると思われるもんを見聞きはしとりませんか?」
じっと見つめる巡査の目は、隠そうとしても事実を知っているぞと告げているようだ。
千鶴は目を伏せると、実は――と言った。
「実は? 何ぞ、ありんさったんかな?」
巡査に問われて千鶴が顔を上げると、巡査の後ろで甚右衛門があたふたしていた。トミも動揺してうろたえている。しかし、大声で特高警察を撃退したことにしようと、初めに決めたはずである。
千鶴は覚悟を決めてうなずいた。巡査は意外そうに目を見開き、ほぉと言った。もしかしたら、千鶴から何も聞き出せないと思っていたのかもしれない。
「どこで何があったんぞなもし?」
「県庁の前辺りで、男の人四人に止められました。ほれからお堀の脇にあるお城山へ登る道の方に連れて行かれて、車夫の人らは追い返されました」
「男四人? ほの男らは何ぞ言いましたかな?」
「特高じゃ言うて、うちらにソ連のスパイの疑いがあるて言いよりました」
巡査がじろりと甚右衛門を振り返ると、甚右衛門は困惑して横を向いた。すると、トミが慌てて巡査に弁解した。
「さっき知らんふりしよったんは、うちらが事件に関わっとるて思われとなかったけんぞなもし」
ほれはほうでしょうなと巡査はうなずくと、千鶴に再び訊ねた。
「ほれで、ほの男らはあなた方を逮捕しようとしたんですな?」
千鶴がうなずくと巡査は当惑顔で、ほうでしたかと言った。
「ここぎりの話ですけんど、そげなことはせんようにと連中には言うてあったんぞなもし。ほんでも、連中はこっちの話には耳を貸さんかったようですな」
巡査の言葉は意外だった。警察は特高警察の動きを阻止しようとしていたのだ。
五
「ほれは、どがぁなことですかな?」
後ろから甚右衛門が言った。巡査は振り返ると、晩餐会には愛媛県警察の本部長が同席していたと話した。そんな話は初耳だと千鶴が言うと、警察だと知れるとみんなを緊張させてしまうので、久松伯爵の知人を装っていたと巡査は説明した。
伯爵夫妻と同じ席には、伯爵の知人という年配の夫婦が座っていた。父も母も知らない人たちで、ロシア人墓地の管理をしていると説明されたが、あの男性が警察の本部長だったのだ。であれば、同伴の婦人も警察関係者に違いない。
食事が終わって隣の部屋へ移動したあとに、その年配夫婦が来ていろいろ喋ったのは覚えている。その時に何を話したかは記憶にないが、あれは自分たちがスパイでないことを確かめていたのかと、千鶴は今更ながら恐ろしい気がした。
「ソ連のスパイを見つけるんが連中の目的でしてな。神戸からおいでたロシアのお二人が、ここで誰かと接触すると考えよったみたいですわい。ほんでも、お二人がたまたま鈴木先生と出会てこちらの方らと再会したんは、私どももわかっとりましたけん。連中を納得させるために伯爵にお願いして、本部長が同席させてもろたわけぞなもし」
愛媛の警察でも特高警察の人間は扱いがむずかしいのだろう。こちらの事情なんか考慮しないで、勝手に動きまわられては堪ったものではないと思うのは警察も同じらしい。
それで愛媛県警の本部長は千鶴たちの様子を逐一観察して、全員がただの民間人であると確かめた。そして会が終わったあとに、そのことを外で待っていた特高警察の四人に説明したのだという。
なのに男たちがそれを無視した形で、千鶴たちを逮捕しようとしたことに巡査は憤っていた。本部長が馬鹿にされ、久松伯爵夫妻の顔に泥を塗られたからだ。
「せっかくの楽しい宴を台無しにされて、あなた方にはまことにお気の毒でしたな。まぁ、ほれはともかくとして、あなた方はどがぁして連中の手から逃げんさった? 連中がそがぁ簡単に狙た相手を逃すとは思えんですが」
甚右衛門とトミが不安げに千鶴を見ている。花江も勝手口からそっと中をのぞき込んでいたが、巡査と目が合うと慌てて引っ込んだ。
「うちらはスパイやないて説明しました。ほんでもこっちの話を全然聞いてくれんで逮捕されそうになったけん、みんなで大声出したんぞなもし」
「大声?」
「聞こえるかどうかわからんかったですけんど、お堀のすぐ向こうには兵隊さんたちがおいでますけん、兵隊さんに助けてもらお思たんぞなもし」
巡査は手帳と鉛筆を手に持ちながら、なるほどという顔でうなずいた。安心した千鶴は少し饒舌になった。
「うちが最初に大声で叫んで兵隊さんを呼んだんですけんど、ほしたら、みんなも一緒に叫びだしたんぞなもし。ほれで、あの人らはだいぶ慌てんさったみたいでした」
「慌ててどがぁしたんかな?」
「うちらが叫ぶんをやめさせよとして、怒鳴ったり殴ったり蹴飛ばしたりしました。ほんでもみんな必死ですけん、ずっと叫び続けたんぞなもし」
「ほれで、連中はあなた方を逮捕するんをあきらめたと?」
「お堀の向こうなんか、衛戍病院なんかわからんですけんど、何ぞ――て声が聞こえたんぞなもし。ほれであの人らはお城山へ逃げて行きよりました」
花江に説明した時よりも細かい話が、勝手に口を衝いて出る。そのことに千鶴自身驚きながらも、うまい説明ができたとほっとした。
急いで千鶴の言葉を手帳に書いた巡査は、興奮しながら千鶴に話を促した。
「連中は城山へ登って行ったんですな。ほれで、ほのあとは?」
「うちらはそっから歩いて家まで戻りました。ほじゃけん、ほのあとあの人らがどがぁなったんかは存じとりません」
「兵隊は出て来ましたかな?」
「いいえ、うちらの声は聞こえんかったみたいぞなもし」
「では、あなたが耳にした、何ぞという声は関係なかったと?」
「ほうみたいぞなもし。ほんでも、ほのお陰で助かりました」
千鶴が笑みを見せると、巡査は納得顔でうなずいた。
「確かにほのようですな。いや、あなた方が大声を出しんさったんは、まことに名案でした。連中は私どもの本部長や久松伯爵の顔に泥を塗る真似をしよったんですけんな。誰ぞにあなた方を逮捕するとこを見られると、非常にまずかったわけですわい」
巡査の言葉は無罪の太鼓判を押してくれたみたいだ。千鶴たちに安堵が広がった。
ところでですなと巡査は言った。途端に千鶴たちの顔から笑みが消えた。
「同し頃に、城山周辺で化け物の声を聞いた言う者があちこちにおりましてな。特にお堀の中の兵隊や衛戍病院の者が一番大けな声を聞いとりまして、建物のガラスが割れたそうです。ほじゃけん、他国の音を使た攻撃やないかいう声もあるんですが、あなた方はそがぁな声のようなもんは聞いとりませんかな?」
甚右衛門たちがはらはらする中、千鶴は一瞬焦りながらも、聞きましたと答えた。巡査は目を見開くと、その時の話をするよう求めた。
「お堀の八股榎がある角を曲がった頃、大けな獣みたいながいな声が聞こえました」
進之丞を売るような証言をすることに、千鶴はためらいがあった。しかし祖父母までもが耳にしている声を聞いていないとは言えなかった。
「ほれは、どっちから聞こえましたかな?」
「お城山の方からぞなもし。あんまし恐ろしかったけん、みんな震えよりました」
巡査は驚きを隠さず、かりかりと手帳に書いた。また勝手口から顔を出している花江もびっくりしたようだ。どうして黙っていたのかと言いたげな目を千鶴に向けている。
「実は、私どもも耳にしたんです。ほんでも何の声かはわからんし、どっから聞こえてきたんかもわからんかったんですが、とにかく背筋がぞっとする声でしたな」
巡査は職務を忘れたかのように喋ったが、その話しぶりが千鶴は悲しかった。
「ほれで、城山には何ぞ見えましたかな?」
「いえ、特には……。みんなでしばらく見よりましたが、何も見えんかったぞなもし」
「他には何ぞありましたかな?」
「いえ、ほれぎりぞなもし」
ほうですかと巡査は残念そうに手帳を閉じた。それから口髭をいじりながら、ふーむと唸って独り言のようにつぶやいた。
「やっぱし城山に何ぞおったいうことか……」
「何ぞとは?」
甚右衛門が惚けて訊ねた。
「あの声みたいなもんが兵器じゃったとしたら、城山に敵国の者が潜んどったんかもしれんのですが、ほれにしても――」
言い淀んだ巡査は、勝手口から顔を出していた花江に気がついた。花江はうろたえながら頭を下げたが、今度は引っ込もうとしない。どうしても話が聞きたいのだろう。
どうせここまで盗み聞きしていたと思ったのか、他言は無用にとだけ巡査は言った。花江は何度もうなずくと、こそこそと千鶴たちの傍へ来た。
甚右衛門たちに顔を戻した巡査は、ここぎりの話ぞなもしと声を潜めて言った。
「新聞にも書いとりましたが、連中は全員が全身の骨がぼきぼきでしてな。一人は完全に首が折れた上に顔半分が拉がれとりました。二人は体が潰えてぐにゃぐにゃやったそうです。残る一人は辛うじて息がありましたが、背骨がぽっきり折れて海老みたいな姿やったらしいですわい」
鬼が男たちを襲った時のことが目に浮かび、千鶴は狼狽して下を向いた。それを見て巡査は慌てたように言った。
「これは申し訳ない。あなたには気分が悪なる話でしたな」
いいえと言って千鶴が顔を上げると、巡査は話を続けた。
「たとえばあそこで大爆発でもあったんなら、まだ納得がいくんですが、恐ろしい声が聞こえたぎりですけんな。ガラスは割れても兵士らは無事でしたけん。というても、衛戍病院では何人かが発作を起こして死にかけたらしいですが」
「音の兵器使た外国の連中の仕業やないんかな?」
甚右衛門はわざとらしく投げかけたが、恐らく違うでしょうなと巡査は言った。
「敵国の人間なら速やかに命を奪うでしょう。あそこまでやるとは思えませんな」
「じゃったら、ひょっとしてお城山には魔物がおろうか?」
トミが白々しく言った。花江は不安げに千鶴を見ている。以前に喋った鬼のことを考えているのだろう。巡査はため息をつくようにうなずき、ほうですなと言った。
「まさにそがぁ思いとなる事件ぞなもし。ほうは言うても、簡単に魔物のせいにするわけにもいきますまい。そこは私どもも頭を悩ませよるとこぞなもし」
巡査が千鶴の協力に謝意を示すと、これで終わりと思ったのだろう。表情を緩めた甚右衛門は、お茶を淹れて差し上げるようにと花江に言った。
千鶴に向けられた祖父母の目は、即興でよく説明をしたと褒めてくれているみたいだ。千鶴もほっとしたし、少し誇らしい気分だ。
花江はすぐにお茶を用意しようとしたが、巡査は次に行く所があるからと丁重に断り、甚右衛門たちに笑顔で訊ねた。
「ところで、幸子さんはどちらの病院にお勤めですかな?」
トミが病院の名前を喋ると、巡査はにっこり笑い、わかりましたと言った。
「今度はそこへ行てみよ思とります」
千鶴はぎくりとなった。今の証言は母とは打ち合わせていない。祖父たちもうろたえている。
どうしようと焦る千鶴たちに挨拶をすると、巡査は表へ出て行った。
残された謎
一
特高警察に逮捕されそうになったとは聞いたけど、化け物の声の話は聞いていないと、花江は千鶴に文句を言った。その裏には、自分がぐっすり眠っていたために、その声を聞き逃した残念な想いがあるようだ。
当惑した千鶴は、前に鬼の話をした時に花江があんまり怖がっていたので、声については喋るのをためらったと弁解した。
そう言われると、花江もそれ以上は言えなかったが、城山には魔物がいると信じたらしい。そして、その魔物は風寄に現れた化け物と同じではないかと疑った。
花江は千鶴たちの無事を喜ぶ一方で、特高警察の男たちが死ぬ目に遭わされたのは、罰が当たったからだと憤った。とはいえ、今後は何も悪いことをしていない者が犠牲になるかもしれず、花江は魔物に興味を持ちながらも怯えていた。
帳場では辰蔵と弥七が巡査が訪ねて来たことに驚いていた。二人には巡査と千鶴たちの話は聞こえなかったみたいだが、巡査が来たのは何かがあったと考えたらしかった。
古町停車場から戻って来た亀吉たちも、店から出て来た巡査とばったり出会って仰天したようだ。慌てて中へ入って来て、何故巡査がいたのかと辰蔵たちに確かめている。
甚右衛門は使用人たちを家の中へ集めた。その後ろでは、トミが鉛筆の芯を舐めながら幸子への手紙を書いている。特高警察に捕まった時の口裏を合わさせる内容だ。
病院に向かった巡査に、幸子が千鶴と異なる話をすれば大事になる。一刻を争う状況に、トミの顔には焦りが見えている。
甚右衛門はみんなに話しておくことがあると言い、千鶴たちを捕まえようとした特高警察の男たちが、城山で瀕死状態で見つかったと話した。本当は三人が死んでいるのだが、そこまでは言えないようだ。
「男らのことは新聞にも載っとったが、連中が特高警察やったいうんは、さっきここへ来た巡査が教えてくれた。ちなみに巡査はその事件の聞き込みに来たぎりで、千鶴らに疑いをかけたわけやない。巡査は千鶴らが事件と無関係なんは、ちゃんとわかっとった」
「特高が千鶴さんを捕まえようとしたんは、お巡りさんは知っておいでたんですか?」
辰蔵が訊ねると、いいやと甚右衛門は言った。
「巡査が知っとったんは、千鶴らが特高に捕まるような真似はしとらんいうことよ。ほんでも千鶴が捕まりそうになったて言うたけん、えらい怒っとったわい」
「お巡りさんがわかっておいでてくんさるんなら安心ですけんど、千鶴さんが特高に関わりがあったいうことは、内密にしとった方がええぞなもし」
「ほれよ。この話をするんも、ほのためよ。千鶴らは今度の事件に関係ないけんど、世の中にはほうは思わん者もおらい。やけん、お前たちも物言いにはくれぐれも気ぃつけてもらいたい。不用意なことを口にして、妙な噂を立てられてはどうもならんけんな」
はいと辰蔵たちは返事をしたが、事件の真相については当然ながら気になるようだ。
あの――と新吉が言った。
「お城山で何があったんぞなもし?」
「わからん。やけん、巡査が調べて廻っとるんよ」
惚ける甚右衛門に新吉はさらに訊ねた。
「特高の奴らは死にかけとるて言いんさったけんど、どがぁな風に死にかけとるんぞなもし?」
ほれは――と甚右衛門は言葉に詰まった。巡査に言われたとおり話せば、みんなが怯えるのは必至である。それでも新聞に書かれてあることはいずれ知れるはずで、まったく知らないとは言えないようだ。
「四人とも体中の骨が折れとったそうな。わかっとるんは、ほれぎりぞな」
甚右衛門はさらりと言ったが、やはり新吉たちには衝撃的だったらしい。
直接は知らなくても、特高警察がどんなものかはみんな噂で聞いている。その男たちが体中の骨を折られて死にかけているというのだ。それがいかに異様なことであるかは、まだ子供である丁稚たちでもわかることだ。
「城山にやくざの集団でもおったろうか」
亀吉がつぶやくと、違うなと弥七が言った。
「一昨日の晩、がいに恐ろしい声が聞こえたて、何軒かの太物屋で言うとったろ?」
「え? 死にかけた特高が見つかったて、今朝の話やないん?」
「今朝の新聞に載ったいうことは、今朝の話やない。昨日の朝のことぞな」
亀吉は言葉を失った。恐ろしい声の話は、新吉や豊吉も廻った太物屋で耳にしたらしい。二人は泣きそうな顔になって抱き合っている。
弥七もまたうろたえた様子で、そがぁいうたらと言った。
「前に仲買いの兵頭さんの家が、化け物に壊されたことがあったけんど、ほれと城山の話は関係なかろか? 兵頭さんも化け物の声を聞いたて言うとりんさったけん」
兵頭の家の話は記事にもなったので、丁稚たちでさえ知っていた。ただあれからずいぶんになるので、みんなすっかり忘れていたが、今の弥七の言葉で思い出したらしい。
一昨日の晩に街に響き渡った不気味な声は、辰蔵も近くの者たちから聞かされていた。
昨日の朝は、紙屋町の住人たちは千鶴の祝福で頭がいっぱいで、化け物の声のことを喋るのを忘れていたらしい。あとになって、あの声を聞いたとか聞かないと噂をし合い、その話が辰蔵の耳にも入っていた。
しかし辰蔵は番頭だけあって、それをすぐに化け物だとは決めつけなかった。それでも兵頭の話を出されると、さすがに気味が悪くなったらしい。
「旦那さん、やっぱし城山には化け物がおるんかなもし」
不安げな辰蔵の言葉は、即座に甚右衛門に否定された。
「兵頭も最初はそげなこと言いよったが、すぐにありゃ突風じゃったと言い直しとらい。ほじゃけん、兵頭の家の話と城山の話は別物よ。ほれに、あの声は敵国の兵器かもしれんらしいし、八股榎が伐られるんに腹立てたお袖狸じゃいう話もあらい」
兵頭が言い直したことなど誰も知らないし、城山の声は多くの者が耳にしている。みんな兵器やお袖狸の可能性を否定はしなかったが、兵頭の事件と絡めるならば、これは化け物に違いないと見たようだ。
風寄から化け物が来たのであれば、ずっと城山にいるとは限らない。いつどこに現れるのかわからないわけで、亀吉たちは怖がって夜中に厠へ行けないと言いだした。
辰蔵は何も言わなかったが、弥七は千鶴に怯えたような目を向けた。
弥七は錦絵新聞の畑山が千鶴と鬼の関わりを口にしたのを聞いているし、あの時の甚右衛門の異常なまでの怒りようを目にしている。城山で見つかった男たちが特高警察であることから、弥七は千鶴と事件が関係あると受け止めたのかもしれなかった。
手紙を書き損じたトミが、ええぃと腹立ちの声を上げた。驚いた弥七たちはますます動揺したが、甚右衛門は使用人たちを落ち着かせる言葉を見つけられなかった。
「ほらほら、みんな何をしょぼくれてんのさ。こんな時だからこそ気合いを入れなきゃだめだろ?」
花江が暗い顔のみんなを励ました。
「何でもない時に格好つけるのは誰にだってできるけど、困った時にがんばれる人は、そんなにいるもんじゃないからね。こういう時にこそ本音が出るってもんさ。亀ちゃんは、どっちの人間だい? もうだめだって思うのか、何くそって思うのか?」
花江に訊かれた亀吉は、泣きそうだった顔を引きしめて言った。
「何くそて思う」
「だろ? 新ちゃんはどうだい?」
「あしも何くそて思う」
新吉が亀吉に負けないように胸を張ると、花江は嬉しそうに笑った。
「だと思った。亀ちゃんも新ちゃんも男の子だもんね。じゃ、豊ちゃんは?」
「あしも……、あしも何くそて思う」
豊吉は下を向いて言った。
「でも、本当はちょっと怖いんだろ?」
花江が訊ねると、豊吉は素直にうんと言った。花江は笑い、みんなも笑った。これで雰囲気が少し明るくなった。
花江は今度は弥七に訊ねた。
「弥さんの気持ちはどうなんだい?」
「あしは……」
弥七は困ったように口籠もった。
「あしは? 何?」
花江が促すと、弥七はちらりと千鶴を見てから開き直った感じで言った。
「あしはこの店を守る」
へぇと花江は目を丸くした。弥七は鬼を恐れていただろうに、弥七の返事には千鶴も驚いた。甚右衛門も意外そうな顔をしている。さすがは花江だと感心するしかない。
花江は最後に辰蔵に言った。
「辰さんは何も言う必要ないもんね。辰さんもこのお店を守るんだろ?」
花江の口調はそれまでとは違って、優しげで遠慮がちになった。その目は少し哀しげに見える。
「あたしは番頭じゃけん」
辰蔵は目を伏せて言った。
だよねと花江は明るく笑った。けれど、千鶴には花江が泣きそうな顔に見えた。
二
巡査がいたために中断していた太物屋への納品作業が始まった。亀吉と新吉は納める反物を急いで蔵から運び出したが、豊吉はそこには加わらず主の指示を待っていた。
トミがようやく手紙を書き終えて封筒に入れると、甚右衛門はその封筒を豊吉に手渡し、大急ぎでこの手紙を幸子に届けるようにと命じた。
もちろん手紙の内容は教えない。豊吉が強調して言われたのは、巡査より先に手紙を届けよということだけだ。そうすれば千鶴と幸子の証言の食い違いを防げる。だが、巡査がここを出てからしばらく経つので、急がねばならなかった。
豊吉は力強く返事をすると、ぱっと走って行った。体は小さいが足は亀吉や新吉たちよりも速い。機転も利くので、豊吉は新参者ながら甚右衛門に信頼されていた。
一方で、病院まで幸子に付き添って行った進之丞が、戻って来る頃合いが過ぎても戻らなかった。
もしや何かがあったのかと甚右衛門は表に出た。千鶴も時々暖簾の下から外の様子を確かめたが、心配そうな祖父の姿が見えるばかりだ。次第に不安が募って千鶴も表に出ると、ようやく進之丞が戻って来た。その横には豊吉が一緒だ。聞けば、病院から戻る途中で豊吉を見つけたので、話を聞いてもう一度病院へ同行したそうだ。
さすがは忠七ぞなと甚右衛門はうなずき、千鶴もほっとして、ご苦労さまでしたと進之丞をねぎらった。いやいやと進之丞は笑顔を返したが、それが嬉しい。あとでお茶を淹れたげるけんねと千鶴が笑みをこぼすと、帳場の弥七が驚いた顔で見ていた。
スタニスラフがいなくなった途端、千鶴の忠七への態度が変わったからだろう。弥七は当惑顔で、亀吉たちが運んで来た反物を確認するのも忘れている。
進之丞は甚右衛門に何か言おうとしたが、早く豊吉の報告を聞きたい甚右衛門は、豊吉を連れてさっさと家の奥へ入ってしまった。進之丞を気遣いながら千鶴も中へ入ると、ちゃんと手紙を渡せたのかと、豊吉は早速主人夫婦に迫られていた。
「えっと、ちゃんと預けて来たぞなもし」
豊吉は甚右衛門たちを上目遣いに見ながら答えた。
「預けた? 誰にぞ?」
甚右衛門が眉根を寄せると、豊吉は怯えたように小さくなって、受付の人と言った。
「何ぃ? 受付の人?」
甚右衛門が大きな声を出すと、豊吉はさらに小さくなった。
「幸子に手渡したんやないんか?」
トミが訊ねると、豊吉は下を向いたまま目だけでトミを見た。
「幸子さんに手紙て言うたら、渡しとくけんて言われたけん……」
あぁと呻きながら、甚右衛門は額に手を当てた。もし幸子が巡査に千鶴と違う証言をしたなら、これはどういうことかと巡査は不審に思うはずだ。
「忠七が一緒やったんやなかったんか!」
甚右衛門の叫びのような声が聞こえたらしく、帳場から進之丞が顔を出した。
豊吉が幸子へ手紙を届ける時に一緒にいなかったのかと甚右衛門が問うと、進之丞は巡査がすでにいたと言った。
二人が病院に着いた時、まさに巡査が中へ入ろうとしていたので、進之丞は咄嗟に巡査を呼び止めて、道を訊ねるふりをしたという。豊吉はその隙に先に入り、受付へ手紙を渡したそうだ。幸子に直接渡したかったが、中は患者で混み合っていて、幸子を呼び出してもらえなかったらしい。
豊吉はできる限りのことをしたのだ。豊吉を責めても仕方がない。あとは巡査の前に手紙が幸子の手に渡ったことを祈るばかりだ。
甚右衛門もトミも豊吉に文句を言うのはやめた。しかし、幸子がどうなったのかが心配なようで、二人とも怖い顔をしたままだ。豊吉は、自分が何か失敗をしでかしたのではないかと不安げにしている。
「豊吉さん、だんだんな。あげな所まで走っておいでたけん、喉渇いたろ? 今、お水汲んであげよわいね」
千鶴が笑顔で声をかけたが、豊吉は小さくうなずいただけでおどおどしている。
心配するなと言わんばかりに、進之丞は豊吉の頭を撫でて帳場へ戻ろうとした。すると、暖簾の下から亀吉と新吉がそっとこちらをのぞいていた。豊吉が叱られているみたいなのが気になったらしい。二人は進之丞に促されて帳場へ姿を消し、千鶴は豊吉に水瓶から汲んだ水を飲ませてやった。
「豊吉さん、進さんとはどこら辺で一緒になったん?」
千鶴は豊吉を元気づけようと話しかけた。豊吉は水を飲むのをやめると、妙な顔で千鶴を見た。
「新さんは一緒やないし。途中で一緒になったんは忠さんぞな」
まずいと思った千鶴は懸命に笑みを繕いながら、間違うたと言った。
「まったく、おら、何言うとるんだか。忠さんて言おうとしたのにな」
「おら?」
豊吉ばかりか、甚右衛門たちまで顔をしかめている。
千鶴は固まった顔を両手で押さえ、今のは嘘、嘘!――と大慌てで訂正した。
「千鶴ちゃん、大丈夫?」
花江が怪訝そうにしながらも笑っている。
千鶴の失言は緊張を和らげるのには役立ったが、甚右衛門とトミは、こんな時に何を言っているのかと言いたげだ。焦りまくった千鶴は、もう一度豊吉に訊ねた。
「忠さんとはどこで一緒になったん?」
「日赤病院の辺り」
千鶴はどきりとした。
日赤病院があるのは東のお堀の脇で、お堀に沿った道が一番町停車場の方へ曲がる角地に建てられている。線路を挟んだ北側には、日本赤十字社松山支部がある。愛媛県庁の西隣だ。その脇にある道は千鶴たちが特高警察に連れ込まれた道であり、進之丞が鬼に変化した場所でもあった。
「あそこからお城山に登る道があるやんか。そこにね、人がようけ集まりよったんよ」
まさに豊吉にその場所のことを言われ、千鶴は体を強張らせた。
「人って、どんな人だい?」
すかさず花江が訊ねた。
「お巡りさんと、洋服着た人ら」
「みんな男の人かい?」
うんとうなずき、豊吉は残っていた水を飲んだ。
千鶴は甚右衛門とトミを見た。新たな特高警察が来たに違いない。甚右衛門たちも顔が険しくなった。花江も不安げな顔を千鶴たちに向けている。
「ほんで進さんは、そっからまた病院まで一緒に行ってくれたんじゃね?」
千鶴が気を取り直して訊ねると、豊吉がじっと千鶴を見ている。
「どがぁしたん?」
「ほじゃけん、新さんやのうて忠さんやし」
もう笑うしかないが、顔がうまく動かない。
ご苦労じゃったと甚右衛門は豊吉をねぎらい、帳場の忠七にもう一度ここへ来るようにと伝えさせた。
豊吉が帳場へ行くと、すぐに進之丞がやって来た。
「今、豊吉から話を聞いたけんど、日赤病院の向こうに妙な連中がおったそうじゃな」
甚右衛門が訊ねると進之丞はうなずき、その報告をするつもりでしたと言った。
「あれは特高警察ぞなもし」
やっぱしほうかと言うと、甚右衛門は落ち着きを失ってそわそわし始めた。
「ほんまに特高なんか? 何ぞの間違いやないんかな?」
トミがうろたえ気味に言ったが、進之丞はもう一度、特高警察ぞなもしと答えた。
「巡査らに向かって偉そにしよりましたけん」
甚右衛門はトミに言った。
「忠七の言うとおりじゃろ。恐らく城山で見つかった奴らは日赤病院に運ばれたんよ。連中は今朝方松山に着いて病院の仲間を確かめたあと、あの場所を調べよるんぞ」
「ほやけど、ここへ巡査が千鶴の話聞きに来たんはさっきのことで? やのに、なしてほの場所のことがわかるんね?」
トミの疑問は尤もだったが、兵隊じゃろと甚右衛門は言った。
「お堀の中の兵隊らが聞いた声が一番でかかったいうことじゃし、窓も割れとろ? ほれにあそこには城山へ登る道もあるけんな」
特高警察が迫って来ていると思ったのだろう。トミは不安を募らせた顔で言った。
「前の連中が千鶴らを捕まえよとしたんがわかったら、いきなしここ来て、千鶴を連れて行ことするんやなかろか」
「そげなことしよったら、わしが連中を撃ち殺したらい」
甚右衛門が憤ると、トミは悲壮な声を上げた。
「ほんなことなったら、うちらはおしまいぞな」
「千鶴を連れて行かれたら、ほれこそおしまいぞ」
ほじゃけんど――とトミは尚も言った。
「幸子かて危ないぞな。千鶴はここにおるけんど、幸子は一人でおるけんね。病院に乗り込まれたらどがぁしよ?」
「ほん時は、おらが命に代えても連れ戻しますけん」
進之丞が静かに言った。少しも気負ったところがない物言いからは、進之丞の覚悟と気迫が伝わって来る。
甚右衛門は黙ってうなずくと、進之丞の両手をしっかり握った。トミも硬い表情で、頼むぞなと進之丞に言った。
千鶴は進之丞を信頼しているが、特高警察との争いで進之丞が本性を見せないという保証はない。それだけが不安だが、進之丞は千鶴を見るとにっこり微笑んだ。案ずるなというのだろうが無理な話だ。
特高警察は有無を言わせず相手を捕まえる。しかも仲間が謎の死を遂げたのである。真相解明のためには手段を選ばないはずだ。怪しいとにらんだ者は難癖をつけて捕まえて、無理やり自白させようとするに違いない。そんな場面に出くわしたなら、進之丞はきっと鬼に変化するだろう。大丈夫と言われても、安心などできるわけがない。
三
この日、再び巡査が来るのではないかと、千鶴たちはずっと落ち着かなかった。だが結局は巡査が顔を見せることはなく、夕方に幸子が護衛役の進之丞と一緒に戻って来た。
甚右衛門とトミはすぐに幸子を中へ招き入れると、巡査が来たかと訊ねた。その勢いに少し気圧されながら、幸子はうなずいた。
「おいでたよ。ほんでも訪ねておいでたんが、朝で患者さんが混み合っとる時やったけん、申し訳なかったけんど、お昼休みにもういっぺんご足労してもろたんよ」
千鶴はほっとした。手紙を届けたすぐあとに巡査と母が会うことになっていれば、母が手紙を読む暇はなかっただろう。祖父母も少し安堵したようだ。
「ほれで手紙は? あんた、手紙は受け取ったんか?」
トミが待ちきれない様子で訊ねた。幸子はうなずくと、受け取ったと言った。
「お巡りさんにいっぺん引き取ってもろたあと、しばらくしてから奥さんが忘れよった言うて持て来てくれた」
まさに間一髪だ。甚右衛門は苦々しげな顔で、受け取ったんならえぇわいと言った。
「ほじゃけん、お昼にまたお巡りさんがおいでた時に、手紙に書かれたとおりに説明したんよ。ほしたらな、妙な顔されてしもた」
「妙な? なしてぞ?」
「八股榎の所を曲がったら、鬼の声が聞こえたて言うたんよ。ほしたら、なして鬼やとわかるんぞなて言われてしもたし」
甚右衛門は眉をひそめた。
「鬼? なしてそがぁなことを」
「ほやかて手紙にそがぁ書いてあったんやもん。えぇんかいなと思いもって言うたら、やっぱしいけんかったみたいなね」
手紙を書いたのはトミである。じろりと甚右衛門が見ると、トミは横を向いて知らんぷりをした。
「ほれで、どがぁしたんぞ?」
幸子に顔を戻した甚右衛門が不安げに訊ねた。幸子は笑うと、うまいこと話しといたけんと言った。
「あげな恐ろしい声いうたら、鬼しか思いつかんて言うたんよ。ほしたらまぁ、納得してくれた」
幸子が懐から取り出した手紙を受け取った甚右衛門は、急いで中を確かめた。すると、確かに鬼という言葉が書かれてある。甚右衛門は呻き声を上げた。
「ほんでも、取り敢えずはうまくいったいうことぞな」
トミが涼しい顔で言った。
甚右衛門は横目でトミを見たあと、とにかく特高警察には気をつけねばと話を締めた。
四
「ほれじゃあ、行て来ます」
母や祖父母に声をかけると、千鶴は油紙の包みを胸に抱えて郵便局へ向かった。お供に進之丞がついてくれている。
この日は母が家にいるので、家事は母と花江に任せている。だけど、進之丞には仕事がある。それにあまり支障を来さないよう、郵便局が開く時刻に合わせての早い時間の外出だ。
郵便局があるのは八股榎があるお堀の角から、少し南に下った所にある東西に走る通りだ。急いで行って戻れば、進之丞が太物屋を廻る時刻には十分間に合う。
包みの中身は父とスタニスラフに作った着物だ。いつ二人が日本を発つのかわからないので、母と二人で大急ぎで縫い上げた物だ。
最初、甚右衛門は亀吉に行かせればいいと言った。でも、自分が作った着物は自分の手で送りたかった。母が作った着物も一緒なので、スタニスラフというより父への贈り物という気持ちが強かった。やはり父には自分の手で送りたい。
けれど特高警察のことがあるので、一人で出るわけには行かないし、丁稚がお供では特高警察に襲われた時に対処ができない。それで進之丞に同行してもらうことになったのだが、千鶴が作った着物はスタニスラフへの贈り物だ。なのに進之丞について来てもらうのは、とんでもないことだし後ろめたさがあった。
とはいえ、千鶴への同行は進之丞自身が言いだしたことだった。
数日前、進之丞と豊吉がお堀の近くで特高警察らしき者たちを目撃した。その後、ずっと警戒はしているものの、今のところ千鶴たちの前に特高警察は現れていない。
あれから一般人の城山への出入りは禁止されているので、今は特高警察は城山を徹底的に調査しているのかもしれない。しかし、男たちが最後に接触したと思われる者を、調べずにおくはずがない。いずれは必ず姿を見せるであろうから油断は禁物だ。
そんな状況なので、特高警察の様子を確かめるために、わざと千鶴を外に出してみればと進之丞が甚右衛門に提案したのだ。もちろん進之丞が護衛についての話だ。
甚右衛門は進之丞を絶対的に信頼しているので、この提案を受け入れた。ところが、進之丞の本当の意図は特高警察の確認ではなかった。自分で着物を送りたいと言う千鶴の気持ちを酌んでくれたのだ。それがわかっているだけに、千鶴は進之丞に申し訳なく思うのである。
本当ならせっかく進之丞と二人で外へ出ているのだから、浮き浮きしながらお喋りをするところだ。けれど、今はそんな気分ではない。進之丞も黙ったまま歩いている。千鶴は残念に思いながら、この一週間を振り返った。
父ミハイルが突然現れたのが一週間前の日曜日だ。父に会えたのは本当によかったと思うが、父と一緒に来たスタニスラフのことを考えると心が痛む。
父が訪ねて来たことで憧れていた萬翠荘に招かれたが、それは思いもしなかったことだ。だけど、それがためにスタニスラフに心が揺れ、特高警察に捕まって鬼が現れた。そして、その鬼の正体は進之丞だった。
進之丞の本当の気持ちを知ろうともせず、深く傷つけ悲しませたことは情けない。その挙げ句に、進之丞が見せたくなかったはずの正体を露わにさせてしまったことも、悔いるばかりだ。でも正体を明かしたことで、進之丞は正直に心を開いてくれた。家族も鬼を恐れず受け入れてくれたようだ。
何事もないまま暮らしていたら、ある日突然、進之丞が姿を消すことになっただろう。それを考えれば今回の件は悪いことではないと、今ではそう思えるようになった。今後の進之丞のことは心配だし、将来への不安もある。でも、きっと何とかなる。
千鶴は進之丞に微笑んだ。今の素直な気持ちである。進之丞も千鶴に微笑み返した。進之丞の気持ちだ。言葉は交わさずとも想いが通じるのは、やはり嬉しいことだ。
結局、千鶴たちは特高警察には出くわさないまま、郵便局に到着できた。
荷物の包みには、差出人として山﨑機織と書き記してある。それをしっかりと確かめると、千鶴は包みの品を受付の者に預けてお金を支払った。これで仕事は完了だ。
父とスタニスラフへの約束を果たし、千鶴はほっとした。特にスタニスラフに対して、するべきことを終えた気分だ。
ただ、せっかく会えた父に再び会えなくなるのは、やはり切なかった。できれば父が母と一緒に暮らせたらと思いはするが、父には新たな連れ合いがいる。また進之丞に教えてもらったのだが、母は辰蔵と夫婦になることが決まっている。千鶴は自分が辰蔵の妻にさせられると思っていたが、そうではなかったのだ。
この話を進之丞は花江から聞かされたそうだ。花江と辰蔵は惚れ合っており、夫婦約束を交わしていた仲だった。だけど店の事情が優先されるということで、辰蔵は甚右衛門やトミからの依頼を断り切れず、そのことを花江は進之丞に相談していたという。
辰蔵と夫婦になる話は、父が松山を訪れるより前に母には伝えられていたらしい。母がどんな想いで父と接していたのかと考えると、千鶴はとても悲しくなる。
両親に比べると、自分は恵まれていると千鶴は思った。確かに進之丞が鬼であったことには狼狽した。けれど、こうして進之丞と一緒にいられるし、困難はいろいろあるだろうが夫婦になるという夢がある。そして、その夢を何としても叶えるのだ。
郵便局を出たあと、千鶴は進之丞に寄り添った。進之丞は辺りを警戒していたが、千鶴と目が合うと嬉しそうに笑った。
千鶴は進之丞に腕を絡めたい衝動に駆られたが、人前でそんなはしたないことはできない。こうして横並びに歩くのさえ憚られるが、それが今できるせめてものことだ。
体を寄せて進之丞の温もりを感じていると、進之丞が鬼か人かなど、どうでもいいように思えてくる。いや、どうでもいいことなのだ。進之丞が自分の隣にいる。それだけが大事なのである。
いつしか千鶴の腕は進之丞の腕に絡んでいた。道行く者たちが千鶴たちを振り返っても進之丞は動じない。千鶴も幸せな気持ちでいるから周りの目など気にならない。二人で笑顔を交わして歩いていると、これが自分たちが歩む道なのだと千鶴には思えている。
五
千鶴たちが家に戻ると、辰蔵が座る帳場に甚右衛門もいた。弥七は亀吉と太物屋へ出かけたようだ。
祖父は何か辰蔵に指示を出しているのかと千鶴は思ったが、そうではないみたいだ。甚右衛門は座ったまま不機嫌そうに煙管を吹かしている。
「ただいま戻りました」
千鶴が声をかけると、お戻りたかなと辰蔵が笑顔で言った。
進之丞は甚右衛門と辰蔵に頭を下げると、郵便局への道中に怪しい者は現れなかったと報告した。甚右衛門は顔をしかめたまま、ご苦労じゃったと進之丞をねぎらった。
祖父の様子を訝しんだ千鶴が、何かあったのかと訊ねると、あの女が来とると、甚右衛門は仏頂面で店の奥の方へ顎をしゃくった。
暖簾の向こうで賑やかな女の声がしている。坂本三津子だ。トミは我慢がならず、一人でどこかへ行ってしまったと甚右衛門は言った。
本当ならば追い返すか、幸子と一緒に外へ出すところだが、今回三津子は千鶴の顔を見るまで帰らないと言い張ったらしい。店前に居座られても困るので中へ入れたようだが、仕事の邪魔になるのは同じだし、花江も困惑しているに違いない。
千鶴は動揺したが、逃げるわけにもいかない。千鶴が顔を見せなければ、三津子はずっと中に居続けることになる。
帳場に進之丞を残し、千鶴は恐る恐る中へ入った。だが台所には誰もいない。勝手口の向こうに見えた奥庭で、花江と新吉と豊吉の三人が洗濯物を干している。
茶の間は障子が閉めきられていて、中から三津子の甲高い声が聞こえる。恐らく母も中にいると思うが、母の声は聞こえない。三津子が一人で喋り続けている。
音を立てないようにして勝手口まで移動した千鶴は、花江たちにそっと声をかけた。
花江が潜めた声で、お帰んなさいと言うと、新吉と豊吉は元気よく、お戻りたかと声をかけた。すると茶の間の障子がさっと開いて、片手に煙草を燻らせた三津子が現れた。
「あらぁ、千鶴ちゃん、お帰りたかな。あなたのこと、ずっと待ちよったんよ」
花江が慌てたように、声を出さずに新吉たちを叱った。二人は自分たちのせいで千鶴が見つかってしまったとわかり、しょんぼりと目を伏せた。
千鶴は振り向きたくなかった。それでも一つ息を大きく吸うと、くるりと後ろを向いて、あら?――と笑顔を見せた。
「三津子さん、おいでてたんですか。ちぃとも気ぃつかんかったぞなもし」
あれだけ大きな声で喋っていたのだから、気がつかないはずがないのだが、千鶴は惚けてみせた。三津子は鼻に皺を寄せると、もう千鶴ちゃんたらと言った。
「今も言うたけんど、うちはもう一時間以上も千鶴ちゃんのこと、待ちよったんよ」
「うちを……ですか?」
「ほうやんか。あなた、新聞に載ったじゃろ? ロシアの貴公子と一緒の絵ぇは、まるでお姫さまみたいやったぞな。ほんまに腹立つぐらい幸せそうなんじゃもん。これは大事思て来たんよ。ほんまはもっと早よ来るつもりじゃったけんど、何かと忙しいて今日になってしもたんよ。勘弁してね」
何を勘弁しろと言うのか。千鶴はいらだちを抑えながら笑みを保つと、忠さんが戻んたよと新吉たちに小声で伝えた。自分たちの仕事に戻っていいという意味だ。
新吉と豊吉は花江に声をかけると、帳場へ戻った。
二人を見送った三津子は、いろいろ話を聞かせてちょうだいやと、千鶴を茶の間へ引き入れようとした。しかし、千鶴は花江を手伝わないといけないからと言って断った。
それを素直に聞く三津子ではなかったが、幸子がまだ掃除やお昼の用意もしないといけないからと言うと、ようやく引き下がった。それでも昼飯に交ざろうと思っているのか、三津子は座り直した所から腰を上げなかった。
千鶴は奥庭に出ると、残っていた洗濯物を花江と一緒に物干し竿に広げた。
花江は洗濯物を干しながら、三津子は千鶴が家を出たのと入れ替わりでやって来て、それからずっといるとぼやいた。幸子も三津子の相手をせざるを得ず困っているらしい。
「迷惑だったら迷惑だって、はっきり言ってやればいいのにさ。幸子さん、案外気弱で言えないみたいだね」
不満をこぼす花江に、昔いろいろ世話になったらしいからと、千鶴は母をかばった。
二人が洗濯物を干し終えて台所へ戻って来ると、煙草を燻らせていた三津子は、待ってましたとばかりに千鶴に話しかけた。
「千鶴ちゃんと幸ちゃんが萬翠荘に招かれたあの晩、すぐ裏のお城山で恐ろしいことがあったんやてねぇ。千鶴ちゃん、知っておいでる?」
千鶴にその話をするのかと言いたげな顔で、幸子が三津子の向こうで戸惑っている。
「新聞に載っとりましたけん知っとりますけんど、ほれ以上のことは知らんぞなもし」
一応返事はしたあと、千鶴は三津子に背中を向けて板の間の掃除に取りかかった。
「同し晩の話なけんど、何も見たり聞いたりしとらんの?」
立ち上がった三津子は茶の間と板の間を仕切る障子を開けて言った。その強引さに千鶴はむっとしながら、はいと返事だけをした。深い眠りについている者でなければ、あの咆哮が聞こえないわけがないのだが、三津子はそこは突っ込まずに、障子の柱に寄りかかりながら話を続けた。
「ほれにしても、千鶴ちゃんや幸ちゃんが化け物に襲われんでよかったわいねぇ。けんど、お城山にはいつからそがぁな化け物が棲みつくようになったろうか。昔はそげなことはいっぺんもなかったんやけどねぇ」
三津子は茶の間に座ったままの幸子に同意を求めた。幸子は慌ててうなずいた。本音は三津子の話に当惑しているようだ。
花江は食材を確かめている。必要な物があれば、買いに出なければならない。
帳場から新吉と豊吉が土間を通り抜けて奥庭へ出て行った。これから太物屋へ運ぶ品を蔵から出すのだろう。いつもなら進之丞も手伝うのに、この日は顔を見せない。
三津子は煙草を一口吸ったあと、話を続けた。
「ほんでも、ちぃと前には風寄で化け物の話があったやんか? ひょっとして、ほれと何ぞ関係があるんやなかろか。千鶴ちゃん、どがぁ思う?」
ぎくりとした千鶴は、わざとばたばたしながら返事だけした。
「すんません。うち、わからんけん。お母さんに聞いておくんなもし」
母には悪いが三津子を親友と呼ぶ以上、責任をもって三津子の応対をしてもらわなければならない。しかし、三津子は千鶴の方を向いたまま話を続けた。
「やっぱし鬼よけの祠がめげてしもたせいじゃろかねぇ?」
千鶴は思わず三津子を振り返った。三津子はにやにやしながら千鶴を見ている。
「あら? うち、何ぞ余計なこと言うたかしら?」
「三津子さん、その話はどこで聞きんさったん?」
幸子が驚いた顔で訊ねた。ふぅと煙を吐き出した三津子は土間に煙草の灰を落とすと、以前に見た大阪の錦絵新聞に書いてあったと言った。畑山が書いた錦絵新聞に違いない。
「大阪の錦絵新聞て、そげな物どこで見んさったん?」
「ちぃと大阪に用があって、しばらく向こうにおったんよ。ほん時に見たんやけんど、もう一年以上なるのに風寄では何も起こらんけん、どがぁしたんじゃろかて思いよったら、今度の事件じゃろ? ほれで、風寄の鬼がこっちへ移って来たろかて思たんよ」
好い加減な人だと思っていたが、どうして結構鋭いと千鶴は三津子を警戒した。母にも思いがけないことだったらしく、動揺を隠せないようだ。
三津子が喋っている間に、新吉と豊吉が木箱を抱えて入って来た。新吉は慣れた様子だが、豊吉は必死の顔で運んでいる。二人が帳場へ姿を消すと、花江が話に混ざった。
「風寄の鬼がどうして松山へ来るんだい? 他の所へ行ったっていいだろうに、どうして松山なのさ?」
花江も城山の魔物と風寄の化け物の関係を疑っていたはずだ。三津子に反発するような言葉は、余程三津子が気に入らないのだろうが、千鶴をかばっているようでもあった。
突然の女中の参戦に三津子は目を丸くしたが、すぐに微笑み、鬼娘ぞなと言った。
「昔、風寄の法生寺には鬼娘て呼ばれよった鬼の娘がおったそうな。鬼はその鬼娘を追いかけて松山へ来たんかもしれんぞな」
新吉たちが再び土間を通り抜けて行った。二人がいなくなると花江は訊ねた。
「何で、その鬼娘が松山にいるんだい?」
「さぁねぇ。ほれは本人に訊いてみんとわかるまいねぇ。ほんでも松山は人が多いけんね、鬼娘にしたら人に紛れておりやすいんやなかろか。風寄みたいな所におったら、白い娘はどがぁしても目立ってしまうけんねぇ」
ねぇ、千鶴ちゃん――と三津子は千鶴に声をかけた。
楽しげなその目がとても冷たく見えたので、わかりませんと答えて、千鶴はまた三津子に背を向けた。花江も喋るのをやめると、千鶴に声をかけて買い物に出かけた。幸子も黙ったままで、重い雰囲気が広がっている。
それでも三津子はまったく平気な様子で、ぷかりと煙を吐いた。
六
「あの、お話し中にすんません。おかみさんからの言伝で、幸子さんに今すぐ雲祥寺までおいでてほしいとのことぞなもし」
帳場から現れた進之丞が、幸子に声をかけた。
「あら、こないだのお人じゃね。お元気?」
三津子が声をかけると、進之丞は愛想よく頭を下げた。
「あなた、千鶴ちゃんがロシアの貴公子と一緒になるてご存知?」
「いえ、おらは何も」
「あら、ほうなん? お見受けしたとこ、あなた、千鶴ちゃんとはええ仲に見えたけんど、何も聞かされとらんわけ?」
「おらは仕事が忙しいですけん」
進之丞をからかう三津子に、千鶴は腹が立った。一言いってやろうと思ったら、だんだんね、忠さん――と幸子が言った。進之丞は頭を下げて帳場へ戻った。
「三津子さん、ごめんなさい。うち、行かんといけんけん、続きは今度にしよ」
「あら、ほうなん? もう直お昼やのに?」
もう直とはいっても、まだ昼飯までは時間がある。だから花江が買い物に出たのに、三津子はまだ居座るつもりらしい。
「どんくらい時間がかかるかわからんけん」
また今度と幸子が申し訳なさそうに繰り返すと、仕方ないわねぇと三津子はようやく重い腰を上げた。
「千鶴ちゃん、残念なけんど、近いうちにまた来るけんね」
三津子は千鶴に声をかけると、幸子について出て行った。
千鶴は一応会釈を返したものの、もう来なくていいと心の中で三津子に舌を出した。
母と三津子がいなくなると、千鶴一人が残された。がらんとした台所は物寂しげだ。
千鶴は掃除を再開しながら、祖母が母を雲祥寺まで呼ぶなんて、何があったのだろうと考えた。そんなのは今まで一度もなかったことだ。
特高警察のことを考えれば、母を一人で寺へ呼ぶというのは危険である。母の病院の行き帰りには、進之丞が護衛として同伴しているのだ。
また進之丞が同伴するのかと思ったが、進之丞には仕事がある。それに誰に言伝を頼んだかは知らないが、どうして呼ばれるのが母なのか。何か一大事があったのなら、母ではなくて祖父が呼ばれるはずだ。
掃除の手を止めながら千鶴が考えていると、幸子が戻って来た。トミはいない。
「あれ? えらい早いね。おばあちゃんは?」
千鶴が訊ねると、幸子はため息交じりに言った。
「さっきの話はな、おじいちゃんの作り話やったんよ。表に出たら、すぐに忠さんが旦那さんが呼んでおいでる言うて、うちを呼び戻したんよ」
三津子は一緒に雲祥寺へ行くつもりだったのか、外で幸子を待っていたらしい。それで幸子は少し込み入った話になったからと、三津子一人を帰らせたという。
「今度からここに来るなと、あいつに言うとけ!――ておじいちゃんに叱られてしもた」
幸子は疲れ気味に笑いながら言った。
それはそうだろう。三津子に再々来られたのでは、店の仕事ばかりか、家のことまでもが滞ってしまう。幸子もわかっているから、次に三津子に会うまでしばらく間を空けることにしたと言い、二階の掃除をしに階段を上がって行った。
母を見送りながら、それにしてもと千鶴は思った。選りに選って、三津子があの畑山の錦絵新聞を目にするとは思ってもみなかった。
錦絵新聞に書かれた話を三津子があちらこちらで喋って廻ると、城山の騒ぎはどんどん大きくなるだろう。三津子の性格を考えると、そうなるのは必至だと思えてしまう。
そんな中で困るのは、進之丞が再び鬼に変化することだ。変化しないよう努力はしても、実際はどうなるかはわからない。騒ぎが広がって千鶴や山﨑機織の人間に、嫌がらせや危害を加えられるようなことがあれば、進之丞が怒りを抑えきれなくなるかもしれないのだ。
それに、これ以上変化を繰り返せば、人間の姿に戻れなくなるかもしれないと進之丞は言った。進之丞にとってはもちろん、千鶴にしても最悪の状態だ。
でも、もし進之丞が人間に戻れたなら、鬼に変化する心配をしなくていい。地獄へ戻されることもないはずだ。できるものならそうしたいが、どうすればいいのかが千鶴にはわからなかった。進之丞が言ったように、多くの人の命を奪ったことで鬼になったのであれば、その罪が許されない限りは人には戻れないだろう。
弥七と亀吉が戻って来た。新吉たちはただちに帳場へ運んだ品を大八車に積込み、進之丞が大八車を引いて出て行った。今日のお伴は新吉だ。
進之丞たちを台所から土間を通して見送りながら、千鶴はため息をついた。進之丞はなかなか本当のことを話してくれない。前世の記憶を持っていることも、初めは黙っていた。千鶴が前世を思い出したことで、やっと自分が進之丞だと認めたが、その時点では鬼になったことは喋らなかった。
もちろん簡単に話せることではないので、鬼であることを隠していたのは理解できる。だけど、進之丞が全部は喋っていなかったというのは事実だ。
ところが千鶴の前で鬼に変化してしまったために、進之丞は洗いざらい喋らざるを得なくなった。それで今度こそすべてを話してくれたと、千鶴は受け止めていた。
けれども一点だけ納得のいかないことがあった。進之丞が鬼になった理由だ。これについては、進之丞はまだ本当のことを隠しているように思えてしまう。
人を殺したから鬼になったというのなら、世の中には思った以上に鬼がたくさんいることになる。特に戦争では多くの兵士が殺したり殺されたりするわけで、世界中が鬼であふれるだろう。でも、どこにもそんな事実はない。
やはり進之丞は本当のことを隠している。そうするのには、それなりの事情があるとは思う。とはいえ、進之丞が鬼なのは知れてしまったのだ。これ以上、何を隠す必要があるというのか。
千鶴は自分が鬼に攫われた時のことを何も覚えていない。だが進之丞が鬼になったのは、まさにその時なのだ。なのに何も思い出せないことが、千鶴は歯痒くつらかった。
その時の記憶があったなら、進之丞が鬼になった経緯がわかる。どうして鬼になったのかがわかれば、逆に進之丞を人に戻す方法が見つかるかもしれないのだ。
雲祥寺の墓地で話した時、進之丞は鬼である己を蔑み、千鶴と夫婦になれないことを悲しみはした。けれど、鬼になってしまったことを悔やみはしなかった。
千鶴を護るためにやったことに後悔はないということだろうが、自身が鬼になったからこそ千鶴を攫った鬼を説得できたと進之丞は話した。そして、もし人間のままでいたならば、その鬼は決して説得に応じなかったと言った。事実、進之丞が鬼になるまでその鬼は聞く耳を持たず、両者は死闘を繰り広げたという。
千鶴が思い出したあの時の進之丞は、すでに腰に致命傷となる傷を負っていた。進之丞は無頼者と斬り合って不覚を取ったと言ったが、あれこそが鬼との死闘の証に違いない。であれば、進之丞が鬼になったのは、あの傷を受けたあとだと思われる。
村人を殺したから鬼になるのであれば、もっと早くになってもいいはずだ。何故、深手を負ってから鬼になったのか。やはり、何か他の理由があるのだろう。それについて進之丞が話そうとしないのは、喋ったところで仕方がないと思っているのか、絶対に人には言えないことなのかもしれない。
進之丞が喋りたくないことを、千鶴は無理に確かめたいとは思っていない。だけど、そこに進之丞を人間に戻す手がかりがあるのなら、進之丞の意に反してでも確かめねばならない。
真相を知るためには、当時の記憶を取り戻す必要があるが、考えてできるものではない。その時の記憶さえあればと思っても、千鶴にはどうしようもないことだった。
途方に暮れた千鶴の頭に、ある人物がふと浮かんだ。女子師範学校の井上教諭だ。
千鶴が学校をやめるとなった時、井上教諭は催眠術で千鶴の記憶を消してみることを勧めた。その催眠術では過去の記憶を探ることもできると教諭は言っていた。
井上教諭に催眠術をかけてもらえば、もしかしたら進之丞が鬼になった時の状況を思い出せるかもしれない。
そう考えると、千鶴は居ても立ってもいられなくなった。けれど、教諭は三津ヶ浜だ。
学校をやめた千鶴が三津ヶ浜へ行くことはない。三津ヶ浜へ出かける理由を探したが、そんなものは見つからなかった。何かのついでにちょっと立ち寄るにしては、三津ヶ浜はあまりにも遠過ぎた。
それに特高警察が問題だ。特高警察がいる限り、近くに出ることさえ憚られる。三津ヶ浜なんて行けるわけがない。今は機会が訪れるまで待つしかないが、それでも井上教諭の存在は、千鶴にとって一筋の光明だった。
新たに迫る危機
一
「お邪魔しまっせ」
ある日の午後、思いがけず現れたのは、あの錦絵新聞の畑山だった。
帳場には辰蔵にお茶を運んで来た花江がいた。その花江を千鶴が呼びに来たところに、ちょうど畑山が顔を見せたのである。
「どちらさんですか?」
畑山とは初顔合わせの辰蔵は怪訝そうに訊ねた。畑山は辰蔵に答える前に、お久しぶりやとにっこりしながら千鶴に手を上げた。
「お知り合いですかな?」
辰蔵に訊かれた千鶴は、えぇ、まぁ――と言葉を濁した。畑山には一応会釈はしたが、頭の中では三津子が錦絵新聞を知ったことへのいらだちがある。今度は何をしに来たのかと警戒心も抱いていた。
畑山は辰蔵にちょっと待ってやと言うと、帳場の隅に菓子折と二通の封筒を置き、例によってあちこちのポケットを調べ始めた。そうしてようやく折れ目のある名刺を見つけると、訝しむ辰蔵に手渡した。
「大阪錦絵新報? 新聞記者をされておいでるんですか?」
「あれ? わかりまっか?」
茶色くなった歯を見せて笑う畑山に、辰蔵は名刺に書いてあると言った。
冗談でんがなと言う畑山に、花江はくすくす笑った。
花江も錦絵新聞は知っている。畑山のこともわかっているが、千鶴とは違って畑山に悪い印象は持っていないようだ。辰蔵の前で花江が笑顔になれたのは、千鶴も嬉しかった。その分、畑山へ対する千鶴の気持ちは少し緩んだ。
花江の様子に気をよくしたのか、大阪では見たことがないほどの別嬪だと、畑山は花江を褒めまくった。
辰蔵が苦笑しながら、何の用事で来たのか訊ねると、その前にと言って、畑山は帳場に置いた菓子折と封筒を千鶴に手渡した。それは父とスタニスラフからの手紙だった。
「なして、畑山さんがこれを?」
「いやね、今そこに妙な奴がおったんですわ」
真顔で喋る畑山に、花江が爆笑した。
「妙な奴って、そんなに何人もいるものなのかい?」
「いや、あのね、見たらわかるでしょ? わては妙な奴とは違いまんがな。せやのうて、わてがここへ来るちょっと前に、先に郵便屋が来ようとしよったんですわ。ほしたら横から出て来た男二人がその郵便屋を捕まえて、山﨑機織の手紙を出せ言うたんです」
聞けば、紙屋町の通りに入る札ノ辻の角の辺りのことらしい。畑山は山﨑機織と聞いて、思わずそこへ割って入ったという。
「せやから、わてな、お前らは何じゃい!――てそいつらに言うたったんですわ。ほしたら向こうも、お前こそ誰じゃて言うからね。わしは山﨑機織の社長じゃて言うたんです。ほしたらそいつら、顔しかめて行ってしまいよった」
これは怪しい話である。その男たちは新たな特高警察に違いないと千鶴は思った。笑いが止まった花江が強張った顔を辰蔵と見交わすと、畑山は得意顔で言い足した。
「そういうわけでね。わては山﨑機織の社長なんで、郵便屋がその手紙を渡してくれたんですわ」
「誰が社長やて?」
甚右衛門が暖簾を上げて現れた。
「あ、社長! その節はどうもお世話になりました!」
「わしが何の世話をしたんぞな?」
不機嫌な顔の甚右衛門に、畑山は揉み手をしながら言った。
「そんな古い話は置いといて、まずはおめでとうございます」
畑山は甚右衛門に頭を下げると、千鶴を祝福した。何の話かと甚右衛門が問うと、見ましたでと畑山はにやりと笑った。
「千鶴さん、ロシアの貴公子と結婚されるんでしょ? いやぁ、めでたいでんな。ほんま、めでたい!」
畑山が自分のおでこをぴたんと叩いて茶色い歯を見せると、花江がまたくすっと笑った。だが辰蔵は心配そうに甚右衛門を見ている。
「よもだ言うな!」
甚右衛門が怒鳴ると、畑山はきょとんとした。
「よもだて……、よもぎ餅のことでっか?」
辰蔵ははらはらしていたが、花江は声を出して笑った。でもすぐに慌てて口を押さえて甚右衛門を見た。真っ赤になった甚右衛門は、さっさと去ねと畑山を外へ押し出した。
焦った様子の畑山は、甚右衛門に縋りついて取材を懇願した。
「お願いします。どうか、わてに記事を書かせてください。わて、ここんとこ、ええ記事書けとりまへんねん。今月一発当てなんだら、どないもならんのです」
「そげなこと知るかい! まともな記事が書けん己が悪いんじゃろが」
「そんな無体なこと言わんで頼んます! 家にはまだ小学生の子供が三人おるんです。せやけど、このままやったら一家心中や。旦さん、わてらが首吊って死んでもええて言わはるんでっか?」
「そげなてんぷ言うて、わしを騙せる思とるんか!」
「天ぷらの話はしとりませんし、騙したりもしまへん。お願いですよって、どうか――」
急に咳き込んだ畑山は、甚右衛門から離れて地面にうずくまった。
甚右衛門は畑山をにらんでいたが、咳はいつまでも止まらない。千鶴が心配して駆け寄ると、畑山は咳と一緒に真っ赤な血を吐き出した。
「畑山さん!」
千鶴は畑山の背中をさすりながら甚右衛門に顔を向けた。甚右衛門も驚いた様子で、奥でトミに算盤を習っていた丁稚たちに、大急ぎで医者を呼んで来い!――と叫んだ。
わけがわからないまま飛び出して来た亀吉たちは、血だらけの畑山を見て立ち竦んだ。しかし甚右衛門に怒鳴られると、三人一緒に大慌てで走り出した。
何の騒ぎかと近くの者たちが外に出て来て、畑山を遠巻きに眺めた。甚右衛門は手拭いを畑山に持たせ、野次馬たちを追い払った。
畑山は渡された手拭いで口を押さえ、甚右衛門に感謝した。その手拭いは畑山が咳をするたびに、真っ赤に染まっていった。
甚右衛門は畑山に肩を貸すと、家の中へ担ぎ込んだ。畑山はすっかり恐縮した様子で、申し訳なさそうに喋った。
「すんまへん。わて、胸を患っとって……、医者から静養せいようて言われとるんでっけど……、そんなことしよったら生きていかれんよって、そんで――」
「わかったけん、ちぃと黙っとれ」
甚右衛門は花江に頼んで、板の間に布団を敷いてもらうと、そこへ畑山を寝かせた。畑山は感謝しながら、子供のために取材をさせてほしいと頼み続けた。
甚右衛門は千鶴を呼ぶと、あとで畑山の相手をしてやるように言った。前は猟銃で撃ち殺そうとしたのに、今度は取材に応じろとは真逆の応対だ。
千鶴が訝っていると、死んでから化けて出られたら困ると、甚右衛門はうそぶいた。
二
ミハイルたちからの手紙には、どちらも拙いひらがなで似たことが書かれていた。
松山を離れたあと、二人は無事に神戸の家に着き、一人で留守番をしていたエレーナに、千鶴たちのことは伏せて松山の話をしたそうだ。ところがエレーナは機嫌が悪く、自分に隠れて昔の女に会いに行ったのだろうと、ミハイルを詰ったらしい。
ミハイルはそれを否定し、スタニスラフもミハイルをかばっが、エレーナは二人の前に新聞を広げてみせたという。それは近所のロシア人からもらった日本の新聞だった。
新聞には赤で囲まれた記事があり、その記事を読むようエレーナは二人に求めたが、何とそれは千鶴たちが萬翠荘に招かれた話だった。噂は神戸にまで広がっていたようだ。
記事が読めなくても、そこに自分たちの名前が載っているのはわかる。おまけに記事には舞踏会の絵が掲載されていた。二人はとうとう観念して、嘘をついていたことを謝ったが、当然ながらエレーナの怒りは鎮まらなかった。
初めから昔の女と隠し子に会うのが目的で日本ヘ来たのかとミハイルは責められ、スタニスラフもミハイルの隠し子と結婚するとはどういうことかと罵られた。
エレーナは泣き叫び、近所の者が集まるほどの騒ぎになったそうで、お陰で大切な食器がいくつか割れてしまったとミハイルは嘆いていた。
また、幸子や千鶴にはもう一度会いたいが、この手紙の返事は出さないでもらいたいとミハイルは伝えていた。もし手紙の差出人の名前がエレーナに知れたら大変なことになるというのだ。
手紙を一緒に読んでいた千鶴と幸子は顔を見交わした。二人に送った着物は山﨑機織の店名で出した。しかし、着物の間に二人で書いた手紙をこっそり挟んだのだ。
当然、手紙には名前を書いた。エレーナは日本語がわからなくても、新聞記事に載っていた千鶴や幸子の名前だけはしっかり覚えているだろう。エレーナに見られる前に二人が手紙を隠せたらいいが、見られたらまたもや大騒ぎになるのは必至だ。
再び起こる神戸の騒動が目に浮かび、千鶴は父たちを気の毒に思った。だけど、大切な人を奪われると思ったエレーナの気持ちも理解できる。スタニスラフに戻って来られても困るので、千鶴としてはエレーナを応援したい気分だった。それでも二人に作った着物が、エレーナに引き裂かれませんようにとは祈った。
最後にミハイルは松山ではみなさんにお世話になりましたとお礼を述べ、ソ連との取引もうまくいくと思うと書いていた。
スタニスラフも世話になったことの感謝に加え、手紙の返事は欲しいけれど出さないでと、ミハイルと同じことを書いていた。また母が落ち着き次第、松山を訪ねたいとのことだが、千鶴にはエレーナが落ち着くとは思えなかった。つまり、スタニスラフは松山へは来られないわけで、千鶴には何よりの報告だった。
追伸には、できれば千鶴に教会で洗礼を受けてほしいとあった。余計なお世話である。
甚右衛門たちはミハイルたちの手紙に笑ったり気の毒がったりしながらも、二人の今後を心配していた。離婚問題ではなく特高警察のことだ。
手紙には特高警察のことは書かれていなかったが、二人に監視がつくのは時間の問題と思われた。
特高警察も下手に動けば国際問題になるので、簡単にはミハイルたちに手を出さないと甚右衛門は考えていた。けれども松山へ事件を調べに来た者たちが、城山の事件とミハイルたちが関係ありと見なしたならば、何かの理由をつけて二人を捕まえるだろう。
千鶴は父たちを心配したが、自分たちのことさえ何もできずにいるのだ。遠い神戸のことをどうこうできるはずもない。二人が今の状況を無事に切り抜け、早いうちに家族で日本を離れるよう願うばかりだった。
三
特高警察が再び現れたということで、山﨑機織では厳戒態勢が敷かれた。
千鶴は外出禁止。幸子の病院の行き帰りには、これまでどおりに進之丞が護衛に就き、進之丞がいない間の仕事は、みんなで手分けをして行う。千鶴と幸子以外も怪しい者にはよく注意をし、何を訊かれても余計なことは言わない。いざとなれば大声を出す。以上が取り敢えずの甚右衛門からの指示だ。
それから三日が何事もなく過ぎていった。ところが四日目の夕方、危機は訪れた。幸子が男たちに連れ去られそうになったのだ。幸い進之丞が男たちを捕まえて警察に突き出したのだが、進之丞がいなければ危ないところだった。
幸子の話によれば、家に向かって西堀端を歩いているところに前から男三人がやって来て、脇を通り過ぎたと思ったら、いきなり後ろから幸子を捕まえたという。
西堀端のちょうど真ん中辺り、松山歩兵第二十二連隊駐屯地の西門の向かいには、勧善社という京都の西本願寺説教所がある。週に一度、布教師が兵士たち相手に説教をする所であり、日露戦争の時にはロシア兵捕虜収容所にもなった所だ。紙屋町まであと少しというこの勧善社のすぐ近くで、幸子は男たちに捕まったのである。
進之丞が幸子の護衛をする時、進之丞は幸子の後ろから少し距離を取って歩いている。いかにも護衛していますという感じなのを幸子が嫌ったのが理由だ。
男たちには、幸子が一人で歩いているように見えただろう。後ろから進之丞が来るのはわかっていたはずだが、恐らく幸子とは赤の他人だと思ったに違いない。
もし進之丞が咎めても、警察手帳を見せればうまくいくと男たちは考えたのか。あるいは腕に物を言わせて、進之丞を打ちのめすつもりだったのかもしれない。
一方、進之丞からは男たちの動きが丸見えだった。男たちが幸子に接近するのを見て、進之丞は幸子の傍へ駆け寄ろうとした。その時、不意に勧善社の門の陰から三津子が現れて、あの調子で進之丞に声をかけて来たのだという。
いつも三津子は唐突に現れる。この時もそうであり、幸子を護ろうとした進之丞の前に、三津子が突然現れた様子が目に浮かぶ。
三津子に前を立ちふさがれた進之丞は、一瞬幸子と男たちを見失った。それで危うく男たちに幸子を攫われるところだったと進之丞は言った。
幸子は勧善社の北側にある路地へ連れ込まれた。その先には民家が並ぶ通りがあるが、空き家に潜り込まれたら見つけるのは困難だった。
けれど幸子も警戒していたので、口を押さえられた手に噛みつき、羽交い締めにされたまま大声で叫んだ。男たちが手間取っている間に、進之丞は三津子を押しのけて男たちに追いつき、すぐさま男たちを叩き伏せた。そうして幸子の拉致は防がれたのである。
その時のことを幸子は興奮気味に話した。
「忠さんはとにかく強いんよ。ほんまにあっという間にあの人らをやっつけてしもたんよ。風寄で千鶴が助けてもろた話も、まことじゃったと改めて思たぞな」
進之丞の活躍には辰蔵も花江も興奮し、亀吉たちは跳び上がって喜んだ。弥七は黙っていたが、当の進之丞は下を向いたまま、甚右衛門たちに感謝されても、はぁと小さく答えるだけだった。
「ほれで、あの女はどがぁしたんね?」
トミが思い出したように言った。あの女というのは三津子のことだ。
三津子は野次馬たちに巡査を呼ぶよう頼んでいる進之丞の所へ、おろおろしながらやって来たそうだ。何があったのかと幸子は訊かれたが、三津子に特高警察の話はしない方がいいと思ったので、知らない男たちにいきなり襲われたと話したという。
「ほしたらね、倒れよった男の一人が、いきなし三津子さんの足をつかんだんよ」
男二人は完全に伸びていたが、一人はまだ意識があった。その男は幸子と間違えて三津子の足をつかまえ、貴様――と呻くように言ったそうだ。恐ろしいほどの執念である。
ところが三津子は結構気が強く、男に足をつかまれても動じなかった。逆に男をにらみ返して顎を蹴り上げ、男は気を失った。野次馬たちが拍手すると、三津子ははしたない真似をしてしまったと恥じ入りながら、もう一度男を蹴りつけたという。
「昔はあがぁなことする人やなかったんやけんどねぇ」
幸子は困惑気味に笑って言った。
千鶴は母の話を聞きながら、三津子という女はまったくつかみどころがないというか、得体の知れない女だと思った。進之丞も同じ気持ちなのか、三津子については何も言わずにむずかしい顔をしている。
幸子は話を戻して、そのあとのことを喋った。
数名の巡査が呼ばれて来ると、進之丞は三人を引き渡した。その時に野次馬たちが、男たちがいきなり幸子に襲いかかったと証言してくれたらしい。お陰で進之丞には何のお咎めもなく、無理やり起こされた男たちはそのまま連れて行かれたという。
その後、巡査がその時の状況を確かめるため、改めて山﨑機織を訪れた。巡査の話では、男たちが何故幸子を襲ったのかは、黙秘を続けているのでわからないそうだ。
あの男たちは絶対に特高警察だと、幸子は巡査に訴えた。甚右衛門たちも同じ主張をしたが、巡査はその可能性を認めただけで、あとは何も言わずに戻って行った。
甚右衛門はもどかしげにしながら、警察も本当のことはわかっていても、立場上、喋るわけにはいかないのだと言った。それでも公の前で不法な拉致行為を働いたのだ。いかに特高警察といえども、ただでは済まないだろうというのが甚右衛門の見解だった。
しかも愛媛県警の本部長が、千鶴と幸子はただの民間人でソ連のスパイではないと言い渡してあるのだ。それを無視しての拉致行為は、明らかに越権行為であり犯罪だ。
トミが連中は刑務所行きだと鼻息荒く言うと、他の者たちもみんなうなずいた。だが、これで却って向こうの気持ちに火がつくかもしれず、油断は許されない。
甚右衛門は店の者全員に、今後もいっそう気を引きしめるようにと声をかけた。とはいえ、特高警察の男たちは公衆の面前で巡査に逮捕されるという大失態を演じたのである。さすがにすぐには身動きは取れないと思われた。
そのせいか、しばらくは平穏な日々が続いた。そんなある日、千鶴に一通の手紙が届いた。スタニスラフからだった。
四
住んでいる所が狭く、いつも母の目があるので簡単には手紙が書けない状況だと、スタニスラフは書いていた。
以前にミハイルと二人で手紙を書いた時は、近所の知り合いの家で書かせてもらったそうだ。でも毎回は無理なので、ミハイルは当面手紙を書けないようだ。
スタニスラフは母親が眠りに就いてから、ろうそくを灯してこの手紙を書いていた。
前の手紙と入れ違いに千鶴が送った着物は、無事に受け取ったとスタニスラフは伝えていた。だけど着物に挟んだ手紙がエレーナに知れてしまい、千鶴たちが心配したとおり、再び大騒ぎになったらしい。
結局、手紙は二人が読む前にエレーナに破り捨てられ、さらには鋏で細切れにされたそうだ。着物も鋏を入れられそうになったので、他のロシア人に預かってもらったと書かれていた。
また特高警察と思われる日本人が、スタニスラフたちを監視し始めたようだ。二人は極力外には出ないで、買い物など必要な物がある時は、仲間のロシア人に頼んでいるという。お金を稼ぎに出る時には、必ず他のロシア人たちと一緒にいるそうだ。
スタニスラフは毎日千鶴を想い、千鶴が苦しんでいないか心配していると伝えていた。さらに、千鶴の手紙は欲しいけれど、母に見つかると大変なので、今は返事をよこさないでとも書いてあった。
いつ日本を離れる予定なのかは書かれていなかったが、今の状態では、とてもそんな雰囲気ではないのだろう。やはり家族が一つにまとまっていなければ、他国へ移る話もできないに違いない。
でも、このまま日本に留まり続ければ、いつか特高警察に捕まる可能性がある。特高警察があきらめるとは思えないので、早く日本を離れた方がいいと千鶴は考えていた。
最近こちらでは特高警察らしき者の姿が見えないので、もしかしたら父たちに矛先を転じたのではと、千鶴は心配になった。
一度そう考えると、不安はどんどん膨らんだ。気持ちが抑えられなくなった千鶴は、スタニスラフに手紙を書くことにした。エレーナに見つかれば、スタニスラフが読む前に破り捨てられるかもしれない。だけど、手紙を書かないわけにはいかなかった。
千鶴は手紙に松山の状況をひらがなで簡単に記したあと、スタニスラフに自分のことはあきらめて、お母さんのことを一番に考えてあげてほしいと伝えた。スタニスラフの気持ちは有り難く思っているけれど、自分はスタニスラフとは一緒になれないし、松山を離れるつもりもないとも書いた。
そして、スタニスラフたちが特高警察に捕まるなんて考えるのも嫌なので、家族を大切にして一日も早く日本を離れてほしいと締めくくった。
追伸として、エレーナ宛にも伝えたいことを書いた。自分や母のことで嫌な思いをさせてしまったお詫びと、二人が自分たちと出会ったのはまったくの偶然だという説明だ。
さらに、スタニスラフのお母さんにも一目お会いしたかったですが、今は早く安全な所へ逃げてくださいと書き添えた。
続いてミハイルにも、会えないと思っていたお父さんに会えたことは、一生の思い出ですと書いた。また、もう二度と会えないのはとてもつらいけれど、どこへ行ってもお父さんのことは忘れませんと綴った。
翌朝の食事の時、千鶴はスタニスラフへの手紙を書いたと祖父母や母に伝えた。内容についても正直に話した。
甚右衛門はふーむと言ったきり黙っていた。トミは内容としてはそれでいいと言った。
幸子は手紙がエレーナを刺激するのではないかと心配した。でも、それは仕方がないと千鶴が言うと、手紙を出すことを認めてくれた。
甚右衛門は千鶴とスタニスラフの関係を断ち切りたいと思っている。なので、千鶴がスタニスラフへ手紙を出すことを、よくは受け止めていなかった。
だが、この手紙でスタニスラフが千鶴をあきらめて、特高警察の脅威を深刻に受け止めることを、甚右衛門は期待したようだ。わかったと甚右衛門はうなずくと、食事のあとにその手紙を持って来るようにと千鶴に言った。
食事を終えたあと、千鶴が離れから手紙を入れた封筒を持って来ると、甚右衛門は宛名と差出人名を確かめて切手を貼ってくれた。
そんなことをしてくれるのかと千鶴が喜ぶと、甚右衛門は掃除の準備をしていた花江を呼んで、この手紙を近くの郵便箱へ入れて来てほしいと頼んだ。
慌てた千鶴は手紙は自分で出すと言ったが、危険だからだめだと甚右衛門は取り合おうとしなかった。それでも、千鶴がどうしても自分の手で出したいと言い張り続けると、では郵便箱の所まで自分が一緒に行くと甚右衛門は言った。
千鶴は郵便局まで行きたいと訴えたが、郵便局までは距離があるから、そこまでは甚右衛門は付き合えない。甚右衛門は郵便箱の何が悪いのかと言った。
少し返事に困った千鶴は、郵便箱の手紙を回収に来た郵便屋が、特高警察に捕まって手紙が奪われる可能性があると主張した。無理な主張ではあったが、実際、特高警察が郵便屋を捕まえて、山﨑機織宛の郵便物を奪おうとした経緯がある。
千鶴が甚右衛門と交渉している間、花江は千鶴たちの顔を見比べながら立っていた。その後ろを亀吉たち丁稚の三人が、蔵の品出しのために行ったり来たりしたが、進之丞は幸子の護衛でいないから大変だ。三人は千鶴たちが何を揉めているのかと足を止めることもあったが、トミに叱られるとすぐに忙しく動いた。
甚右衛門はしばらく考えていたが、だったら夕方に幸子を迎えに行く忠七と一緒に行けばいいと言った。それは千鶴が望んでいた言葉だった。
スタニスラフたちに着物を送る時にも、進之丞について来てもらった。だから、今回もそうしてもらえると千鶴は期待していた。
進之丞と二人で歩ける機会など、そうあるものではない。郵便箱ではなく、郵便局へと訴えた裏にはそんな思惑があった。それに万が一、特高警察が現れたとしても、進之丞が一緒であれば何も不安はない。
もちろん進之丞に対しての後ろめたさや申し訳なさはあった。以前の着物は頼まれものなので仕方なしという見方もできた。だが今回の手紙は自分の考えで書いたのだ。
進之丞以外の男に手紙を出すなど、書くことですらためらわれる。なのに、そこにまた進之丞に同伴してもらうというのは、千鶴としてはつらいところだ。それでも進之丞と二人で歩けるのは、千鶴にとっては何より嬉しいことだ。
思わずこぼれた笑みを見て、幸子は花江と顔を見交わして笑った。トミもやれやれという顔をしている。みんな、千鶴の本当の狙いなどお見通しのようだ。
五
「堪忍な」
歩きながら千鶴は進之丞に詫びた。
「何を謝るんぞ?」
「ほやかて、進さんやない男の人に手紙を出すんよ。しかも、ほれに進さんについて来てもろとるんじゃもん。おら、進さんに申し訳のうて……」
進之丞は笑うと、何を申すんぞと言った。
「こがぁしてお前と二人で歩けるんは、あしには嬉しい限りぞな」
「進さん……」
進之丞が自分と同じ気持ちでいてくれたなんて、この上ないことだ。胸がいっぱいの千鶴に、進之丞は言った。
「特高は向こうにもおろう。お前もさぞかし心配よな」
千鶴がうなずくと、どがぁしたもんかなと進之丞は顎に手を当てた。
「母上どのをお護りしよるが切りがないけんな。父上どのまでは手が回らん。とはいうても、このままにしておくわけにもいくまい。弱ったの」
「ほれはともかく、おっかさん、進さんのこと、ほんまに褒めよったよ」
ほうかなと進之丞は照れ笑いをした。
「ほやけどな、進さんはおっかさんのこと苦手みたいなとも言うとった」
「あしが?」
「何か進さんはおっかさんと顔合わすと、すぐに目ぇ逸らすて言うんよ。ほうなん?」
「ほうかな? そがぁなつもりはないけんど」
進之丞は惚けたように言った。本当はわかっているはずだ。
「おらが見よっても、進さんはおっかさんに遠慮しよるみたいに見える時があるよ」
「ほうなんか? お前がそがぁ言うんなら、ほうなんじゃろな。まぁ、これからは気ぃつけよわい」
鬼に化身した時でさえ、進之丞は千鶴を護ろうとした幸子の剣幕に気圧されていた。きっと進之丞は自分が鬼であることを引け目に感じ、母に対しても後ろめたくなるのだろうと千鶴は思った。
「やっぱしおらのおっかさんじゃけん、つい気ぃ遣てしまうんじゃろね」
ほうかもしれまいと進之丞は笑ったが、やはり憂いを感じさせる笑みだった。
無事に郵便局へ着いた千鶴は、進之丞が見守る中、スタニスラフへの手紙を出した。
今回は封筒に自分の名前をしっかり書いた。エレーナに見つかるのを恐れて名前を書かないのは嫌だった。堂々と名前を書きたかった。
手紙を出し終えて郵便局を出た時、千鶴は晴れ晴れした気分になっていた。これでスタニスラフとの関係を終えられたと思うと、進之丞に対する申し訳なさもなくなり、さっきよりも明るい会話を楽しめた。向かっているのは母が働く病院だ。
今歩いている通りを真っ直ぐ行けば大街道商店街に交差する。そこから電車通りへ向かうこともできるが商店街は人目が多い。それに前方から柄の悪そうな男たちが、こちらへ来るのが見えた。
関わり合いたくないので、千鶴たちは大街道ではなく手前の辻を北へ曲がった。ただその道は突き当たりに裁判所があり、裁判所の屋根の向こうに萬翠荘が見えている。
本当は進之丞とは通りたくない道ではあった。だがスタニスラフへの手紙を出し終えたことが、千鶴の気持ちを強くしていた。とはいえ、歩くにつれて萬翠荘が近づいてくる。互いに萬翠荘には触れずに喋っていたが、自然と口は重くなった。
二人の会話が少なくなると、賑やかな声や三味線の音が聞こえてきた。この道の右手は料亭や芸者の置屋が集まっている区域で、千鶴たちが歩いていたのは高級料亭の横だ。
まだ夕飯には早いが、料亭にはすでに客が入っているみたいだ。世の中にはこんな時分からお酒が飲める人がいるのかと、千鶴は呆れた。その話をしていると、進之丞はちらりと後ろを見て千鶴に少し足を速めるよう促した。千鶴が後ろを振り返ろうとすると進之丞はそれを制して、さっきの男たちがついて来ていると言った。
「特高警察?」
千鶴が緊張して訊ねると、ほうやないなと進之丞は言った。
「何者かはわからんが、あしらへの悪意を感じるけん、関わらん方がええじゃろ」
千鶴はうなずき、急ぐ進之丞に合わせて歩調を速めた。すると前の辻の陰から、男が一人のっそりと現れた。手には木刀を二本持っている。
六
「ちぃと付き合うてもらおか」
男の顔を見た千鶴は驚いた。
「鬼山さん?」
その男は、かつて千鶴の婿になろうとした鬼山喜兵衛だった。
「久しぶりじゃな、千鶴さん」
「鬼山さん、警察に捕まったんやなかったんですか?」
後ろからついて来ていた男たちが追いつき、二人を取り囲んだ。いずれも人相の悪い男たちで、全部で五人いる。
「確かにあしは捕まり、臭い飯を食わされた。こないだやっと出て来られたけんど、親からは勘当されて、その日暮らしの身の上よ。千鶴さんがあしとの見合いを断りんさったんは、正解じゃったいうわけぞな」
苦笑する喜兵衛に進之丞は用件を訊いた。喜兵衛はじろりと進之丞を見ると、ほうじゃなぁと言った。
「あしはお前さんに、やきもち焼きよるんよ」
「やきもち? ほれは、どがぁな意味ぞ?」
「お前さんはうまいこと山﨑機織に取り入って、千鶴さんともええ仲になっとるみたいなけん、羨ましいと思たんよ」
「この人はそがぁなことはしとりません」
千鶴がきっぱり言うと、ええのぉと喜兵衛はにやついた。
「こがぁなこと言うてもらえるやなんて、あしとは大違いぞな」
「いろいろ喋りよるけんど、ほれがほんまの理由やなかろ?」
進之丞が落ち着いて言うと、喜兵衛はふっと笑った
「お前さん、ただ者やないな。他の奴ならがくがく震えて命乞いするとこぞ」
進之丞が黙っていると、わかったわいと喜兵衛は言った。
「あしはな、お前さんなんぞどがぁでもええんじゃ。千鶴さんのことも根に持っとりゃせん。あしの目的は銭よ」
「銭?」
「ほうよ、銭よ。ある所から頼まれて、お前さんを痛めつけたら銭をもらえる話になっとるんよ」
「なしてあしを狙うんぞ?」
「そげなことまで、あしは知らん。とにかく銭を手にせんことには身動き取れんのよ」
あまりの喜兵衛の変貌ぶりに、千鶴は黙っていられなくなった。
「世の中変えるて言うておいでた鬼山さんが、なして銭のためにこげなことをしんさるんぞな?」
「大事の前の小事いう言葉、聞いたことあろ?」
喜兵衛は惚けて笑っている。進之丞は喜兵衛をにらみながら言った。
「己の目的のためなら、こがぁなことは些細なことというわけか」
ほういうことよと口の端で笑った喜兵衛は、男たちに邪魔者を入れるなと命じた。そして進之丞には、ここは目立つから脇道に入れと言った。
喜兵衛が指し示した脇道は料亭の他、弁護士事務所や医院が並んでおり、この時刻には人通りが少ない。今も通りを歩く者の姿はなかった。
「鬼山さん、こげなことはやめてつかぁさい」
千鶴が訴えても、喜兵衛は聞こえぬふりをした。それでも千鶴が繰り返すと、進之丞を振り返って、まっことええのぉと言った。
「千鶴さんにこがぁに心配してもらえるやなんて、お前さんは大した男ぞな」
周りの男たちがにやにやしている。このあと進之丞がどうなるかを思い浮かべているのだろう。あるいは一人になった千鶴を狙っているのかもしれない。
進之丞が千鶴をかばいながら喜兵衛の後について脇道に入ると、男たちが二人を挟むようにしてこの道の両側をふさいだ。道の奥から芸者を乗せた人力車がやって来たが、男たちに追い返された。
「公道じゃけん、そがぁに長にはふさがれんが、まぁ、すぐに終わろ」
喜兵衛は持っていた木刀の一本を、進之丞の足下に投げた。
「ほれを使え。いくら銭のためとはいえ、素手の素人を打ちのめすんは気ぃが引ける」
千鶴たちの後ろは、ちょうど料亭の入り口になっていた。進之丞はそこに千鶴を立たせると、武器なんぞいらんと喜兵衛に言った。
「武器はいらんやと? お前さん、えらい自信じゃな」
「あしが木刀を振り回したけん、仕方なしに打ち据えたと言い訳するつもりじゃろ?」
喜兵衛はからから笑うと、頭のええ奴じゃと言った。
「やけんいうて、素手であしと戦うんは不利じゃろがな。ほれとも木刀持っても勝てるわけないと観念しよるんか? さっきあしが言うたことを真に受けて、素手じゃったら遠慮してもらえると思たら大間違いぞ。戦う以上は相手が誰であれ、これっぽちの情けもかけんのが鬼の喜兵衛の流儀やけんな」
進之丞が黙って一歩前に出ると、喜兵衛は思わず笑みを消して後ろへ引いた。進之丞の殺気を感じたのだろう。しかし反射的に後ろへ下がったことを恥じたのか、喜兵衛は見物している男たちをうろたえた目で見ると、険しい顔になった。
「木刀を拾わなんだんは、お前さんの勝手。やけん、あしも勝手させてもらおわい」
喜兵衛は木刀を構えると、すぐさま進之丞に打ち込んだ。
いきなりの打ち込みに千鶴は息を呑んだが、進之丞は体を左に捻りながらわずかに右へ移動し、喜兵衛が振り下ろした木刀を紙一重で躱した。しかも躱しただけではない。進之丞の右手は喜兵衛の左手首をつかんでおり、左手は木刀を押さえている。喜兵衛はそれ以上動けない。素早い喜兵衛の動きを見切った一瞬の離れ技である。
「貴様、何者ぞ!」
顔色が変わった喜兵衛は進之丞をにらんで押しのけようとした。ところが、進之丞はびくとも動かない。焦った喜兵衛は木刀から右手を離すと、進之丞の右腕をつかんだ。それでも進之丞は動かず、喜兵衛の顔がゆがんだ。
喜兵衛が苦し紛れに進之丞の顔をつかもうとすると、進之丞は離れて後ろへ下がった。顔への攻撃を嫌ったのではなく、様子を見ているようだ。喜兵衛がこのまま引き下がってくれることを期待したのかもしれないが、喜兵衛にはそのつもりはなさそうだ。
喜兵衛は右手で左腕を押さえながら、進之丞をにらんだ。威嚇というより、警戒している感じだ。つかまれた左腕を痛めたらしく、その顔には焦りのいろが浮かんでいる。
「貴様、剣の心得があるな?」
喜兵衛の言葉に進之丞は答えない。身構えもせず黙って立ったまま、じっと喜兵衛を見据えている。喜兵衛のわずかな動きも見逃さない鋭い目だ。
しばらくにらみ合ったあと、左手の痛みが取れたのか、喜兵衛は左手を何度か振ってから木刀を構え直した。顔は険しいままだが、口元に笑みが見える。
「どうやらあしはお前さんを見くびっとったようじゃの。やが、これは面白いな。銭とは関係なしに、お前さんと勝負がしとなった」
喜兵衛は進之丞に木刀を拾えと言った。互角の勝負がしたいのだろう。しかし、進之丞はそんなことには関心がない。
進之丞が相手にしないので、喜兵衛は少し残念そうに、わかったわいと言った。
「ほれじゃったら、このまま勝負といこわい。ほんでも、さっきのあしと対やと思いよったら大怪我するぞな。いや、大怪我や済まんやもしれんが恨むなよ」
喜兵衛は木刀を構えながら気合いを入れた。脇で眺めている男たちは体をびくっとさせたが、進之丞は表情も変わらず微動だにしない。喜兵衛の気合いなど聞こえていないかのようだ。
千鶴は進之丞がやられるとは、これっぽっちも思っていない。だけどこんな場面を目にすれば、はらはらどきどきしてしまう。思わず進さんと声をかけた刹那、喜兵衛が進之丞に凄まじい一撃を放った。
喜兵衛の打ち込みは先ほどよりも鋭く、木刀は進之丞の頭を叩き割るかに見えた。だが進之丞も同時に前に出ていた。その速さは喜兵衛を遙かに凌ぎ、進之丞は一瞬で喜兵衛の懐に飛び込んでいた。喜兵衛の鳩尾には進之丞の拳がめり込んでいる。
喜兵衛は目を見開いたまま動かない。半分開いた口からは声も漏れて来ず、手に持った木刀が地面に落ちると、喜兵衛は進之丞に身を預けるかのごとく倒れ込んだ。
道の両端をふさいでいた男たちが、慌てふためきながら進之丞に脅しをかけた。けれど口先ばかりで手を出さない。進之丞は男たちの様子を窺いながら、喜兵衛を静かに地面に降ろした。千鶴はほっとしながら、進之丞を誇らしく思った。
進之丞を恐れる男たちは、もはや進之丞の敵ではない。それでもついに男たちが一斉に進之丞に襲いかかった。
男たちはあれよあれよという間に打ち伏せられていく。千鶴がその様子に見入っていると、後ろから伸びて来た手が千鶴の口をふさいだ。また別の手が千鶴の体を捕まえ持ち上げた。千鶴は声も出せず、藻掻くこともできないまま料亭の中へ引きずり込まれた。
七
千鶴を捕まえたのは二人の男だ。男たちは力が強くて千鶴は抗えない。
建物の中には別の男がいて、千鶴の下駄を脱がせた。千鶴は口をふさがれたまま、男に抱えられて奥の部屋へ運ばれた。
畳へ降ろされた千鶴は大声を出した。しかし、その叫びは他の部屋の騒ぎ声でかき消され、外へ聞こえたかはわからない。聞こえたとしても、料亭の客が馬鹿騒ぎをしていると思われただけかもしれなかった。
千鶴は進之丞を呼んだ。三人の男たちは、進之丞が来るはずがないと思っているのだろう。千鶴を見ながらにやにやしている。
六畳間の部屋の奥では、眼鏡をかけた理知的に見える男が箱膳を前に酒を飲んでいる。その横で芸者が三味線を弾きながら唄っていたが、千鶴を見ると驚いて唄うのをやめた。
「このお人は何ぞなもし?」
「こいつか? こいつはソ連のスパイや。今から取り調べをするから、お前は下がっとれ。わしらが呼ぶまで、誰も来さすなよ。それからな、このことは誰にも言うな。言うたら、お前もスパイの仲間としてしょっ引くことになるからな」
芸者は立ち上がると、千鶴を横目で見ながらそそくさと部屋の外へ出て行った。部屋にいるのは千鶴と男たちだけになった。
男たちに囲まれて座る千鶴に、眼鏡の男は冷たく笑った。
「やっとお前を捕まえることができた。護衛の男がついとったようやが、そいつはここへは入れん。ここに入れるんは、わしらみたいな特権階級だけやからな。お前がここにおるとわかっても、あの男にはどないもできんのや」
「あんたら、特高警察やな? 鬼山さんを銭で買うて、うちらを襲わせたんはあんたらじゃろ!」
「鬼山? 誰のことを言うとんかな?」
「さっき、このお店の前でうちらに襲いかかって来た人ぞな」
「誰がお前らを襲ったんか、わしらは知らん。わかっとったんは、お前がここへ来るいうことだけや」
この男の話など信用できないが、この男が喜兵衛を雇ったのでないのなら、いったい誰が喜兵衛を動かしたのか。その何者かは特高警察の狙いを知った上で手を貸したことになる。底知れぬ不安を感じながらも、千鶴は男をにらみつけた。
「うちらがここに来るんがわかっとったて、ほれはどがぁなことね?」
「どうでもええやろ。とにかくお前はわしらに捕まり、どないもできんというわけや」
「ここの警察の人らは、うちらがスパイやないてわかってくんさっとるのに、なしてあんたらは、うちらをスパイて決めつけるんよ」
男は冷たい表情で、怪しい者は見逃さないと言った。
「今の日本にはロシア人がようけ入って来とる。そいつら全員がスパイやないて考える方がおかしいんと違うか。連中のうちの何人かは、逃げて来たふりしよるスパイに決まっとる。中でも日本に知り合いがおる奴らは一番怪しいわ」
「あんたら、こないだもうちのお母さん捕まえよとして警察に逮捕されたのに、なして同しことするんよ!」
「言うたやろ? わしらは特権階級やから、こんな田舎の警察には、わしらは捕まえられんのや。それに、わしらにも意地いうもんがある。わしらは狙た獲物は逃がさんのが自慢やからな。このまま引き下がるんは、わしらの恥になるんや」
この男たちは何を言っても聞く耳を持っていない。そう悟った千鶴は言い返すのをやめた。眼鏡の男は勝ち誇ったように、にやりと笑った。
「観念したようやの。お前には松山の誰がスパイの仲間か教えてもらうで。でもその前に、わしらの仲間を殺した奴のことを話してもらおか」
「あんたらの仲間て?」
男は途端に険しい顔になった。
「惚けんなよ。お前らを逮捕しようとした男が四人おったやろが。知らんとは言わせんぞ。あの四人を殺したんは誰や!」
「そげなことは知らんて、こっちの警察の人にも言うたぞな」
「それを、はいそうですかと、わしらが信じると思とるんか。こんなど田舎の警察とわしらを一緒にすんな、この女スパイが!」
男は凄んだあと、まぁええと言って鼻にずり落ちた眼鏡を押し上げた。
「わしらを舐めよったらどうなるんか教えたろ。あいつらに何をしたんか、お前が洗いざらい喋るまで、お前の体に話を訊かせてもらうで」
周りを取り囲んでいる男たちが、嫌らしそうな笑みを浮かべている。正面にいた両耳がへしゃげた大柄の男は、千鶴の前にしゃがむと脂ぎった顔を近づけた。
「途中で喋りとうなっても、体が話し終えてからやないと喋れんからな」
「そがぁなことしたら、あんたら、ただじゃ済まんけんね」
千鶴は男たちをにらみつけた。脅しで言ってるのではないが、男たちは馬鹿にしたように笑うばかりだ。
眼鏡の男はにやにやしながら言った。
「面白いこと言うやないか。わしらが連中みたいになると言うんやな。つまり、お前は四人がああなった理由を知っとるいうこっちゃ。自ら墓穴を掘ってしもたな。阿呆な奴や。ほな、早速喋ってもらうとしよか」
眼鏡の男が目で合図をすると、他の男たちが獣のごとく千鶴に迫った。その時、襖の向こうの廊下から店の者と思われる女の声が聞こえた。
「あの、お客さま。お客さまにご面会の方がおいでとるぞなもし」
「面会? 誰や?」
笑いを引っ込めた眼鏡の男が声をかけると、すっと襖が開いた。
そこには着物を着た女が座っていた。そして、その横に男が一人立っていた。それは進之丞だった。
八
「貴様! 何でここへ――」
眼鏡の男が驚くのと同時に、進之丞の両手が近くにいた男二人の首を鷲づかみにして持ち上げた。
廊下に座っていた女は、再びすっと襖を閉めた。
首をつかまれた男たちは苦しみながら、進之丞の手を外そうと必死で藻掻いた。ところが、進之丞は柱のようにびくとも動かない。男たちの足は畳から離れて宙に浮き、進之丞の両手の指は男たちの首を引きちぎらんばかりに食い込んでいる。
あとの二人をにらみつける進之丞の目は殺気に満ちていた。喜兵衛を相手にした時とは比べものにならない凄まじい殺気だ。その殺気に竦んだのか、耳が潰れた男は立ち上がったまま動かない。立とうとした眼鏡の男も片膝を立てた姿勢で固まっている。
千鶴が進之丞の後ろに隠れると、進之丞は両手につかんだ男たちの頭を勢いよくぶつけ合った。ごすっという嫌な音が聞こえて二人の男がぐったりなると、進之丞は男たちを投げ捨てた。二人はまだ生きているようだが潰れた首はねじ曲がり、ひゅうひゅうという息が今にも止まりそうだ。
耳が潰れた男が我に返ったように飛びかかったが、進之丞は男の顔をつかんで捻り倒し、鳩尾に強烈な一撃を加えた。それから男を抱え上げると、眼鏡の男に投げつけた。
眼鏡の男は拳銃を使おうとしていたところだったが、仲間を叩きつけられて拳銃を落とし、眼鏡も吹っ飛んだ。
耳が潰れた男はうつ伏せになったまま呻いていたが、密かに右手を懐へ入れていた。ごろりと横に転がった男は、懐から取り出した拳銃を構えた。しかし男の視野に進之丞はいない。進之丞はきょろきょろする男のすぐ横にいた。
男はすぐに進之丞に拳銃を向けようとしたが、その右腕は進之丞につかまれて無造作にへし折られた。男は苦痛に叫び声を上げたが、他の部屋の者にはただの馬鹿騒ぎと思われただろう。
「進さん、もうその辺で……」
千鶴が怖くなって声をかけても、進之丞の怒りは収まらない。男の左腕もへし折り、つかみ上げた男の頭を部屋の柱に叩きつけた。男は静かになって柱の下に崩れ落ちた。
進之丞と耳が潰れた男が争っている間、眼鏡の男は落とした眼鏡を必死に探していた。眼鏡がないと物がよく見えないようだ。
進之丞は部屋の隅に落ちていた眼鏡を拾うと、男の目の前にぽとりと落とした。男は慌てて眼鏡を着けたが、そこに進之丞がいるのに気づくと顔を引きつらせた。
「き、き、貴様は何者や!」
眼鏡の男は尻餅をついた格好で後ずさりながら、裏返った声で虚勢を張った。
「貴様、わ、わしらが誰なんかわかっとるんか? わしらはな――」
「特高警察じゃろ?」
進之丞は男の前にしゃがむと、今度はこっちが聞く番ぞと言った。
「お前ら、ここで何をしよったんぞ?」
「な、何て、別に何も――」
眼鏡の男は答えながら、傍に落ちていた拳銃を拾って進之丞に向けようとした。進之丞は男をにらみながら拳銃ごと男の手をつかむと、そのまま握り潰した。男は声も出せずに顔をゆがめたが、進之丞は容赦せず繰り返し訊いた。
「答えよ。お前ら、ここで何をしよったんぞ?」
男が答えないので、進之丞は男のもう一方の手も握り潰した。泣きそうな男は小さな声で弁解した。
「わ、私は何もしてへん……。ここで酒を飲んでただけや……。ほんまや……。この娘を捕まえたんも……、仲間が勝手にやったことや……。私は何もしてへんのや……」
さっきまでの人を馬鹿にした偉そうな態度から一転し、自分が助かりたい一心で仲間さえも売ろうとするこの男に、千鶴は怒りを覚えた。
「何言いよんよ。さっきは、おらを辱めて無理やり喋らそとしたくせに! 喋らんかったら体に喋らせるて言うたんは、どこの誰よ!」
つい声を荒らげた千鶴は、しまったと思った。進之丞の頬がぴくぴく引きつっている。
「ほやけど、進さんが来てくれたお陰で、何もされんで済んだけどな」
千鶴は笑顔で付け足して進之丞をなだめようとした。だが、時すでに遅しだ。
眼鏡の男は目を大きく見開き、そのままの姿勢で後ろへ逃げようとした。しかし、すぐ後ろの壁にぶつかると、あわあわと口を動かした。
進之丞の額には二つの瘤ができていて、そこから角が生えて来そうだ。口の端からも牙がのぞき、険しい顔に進之丞の面影はない。体も一回り大きくなっている。
「おま、おま、お前が――」
怯える男に進之丞は殺気に満ちた低い声で言った。もはや人間の声ではない。
「あしが何ぞ? 言うてみぃ」
「進さん!」
千鶴が叫んでも、進之丞の耳には届いていない。
「誰か! 化け物や! 化け物がおるぞ!」
眼鏡の男は大声を出したが、その声は他の部屋の騒ぎ声にかき消された。それに、呼ぶまで誰も来させるなと男が言ったので、この騒ぎがわかっても誰も来ないだろう。
「あしが何ぞ? 言うてみぃ」
迫る進之丞が鋭い爪の手で男の顔を押さえても、男は固まって声が出せない。
「言わんのか? 言わんのなら、この舌はいらんな。いらん舌は引っこ抜いてやろわい」
進之丞は男の口に両手の指を突っ込むと、無理やり男の口をこじ開けた。鼻の下まで眼鏡がずり落ちた男は、抵抗できずに口を大きく開けたまま涙と涎と鼻水を流すばかりだ。股間も小便で濡れている。
「進さん、いけん。落ち着いておくんなもし」
千鶴は進之丞にしがみついてやめさせようとした。進之丞の額の瘤はさらに伸びて角になり、大きく広がった口には牙が並んでいる。もうほとんど鬼の顔だ。
「進さんてば!」
千鶴が進之丞を何度も揺さぶると、進之丞はようやく正気に戻って元の姿になった。
眼鏡の男は顎が外れてしまい、涎と涙を流しながらあわあわ言うばかりだ。だらしなく開いた口は口角が裂け、進之丞につかまれた舌は爪で傷つき血だらけになっている。
進之丞は男の外れた顎を戻すと、静かに訊ねた。
「表におった連中は、お前らの差し金か?」
眼鏡の男は恐怖で混乱しているのか、進之丞の言葉が理解できないようだ。
「この人、鬼山さんのことは知らんて言いよった」
恐ろしかった光景に動揺しながら千鶴が話すと、進之丞は千鶴に顔を向けた。
「知らんとは?」
「おらたちがここへ来るんはわかっとったて言いよったけんど、鬼山さんに銭やるて言うたんは、この人やないみたいで」
男に向き直った進之丞は、今回のことは誰が仕組んだのかと訊ねた。けれど、男は気が触れたように意味不明のことばかり口にしている。
進之丞は男の額に右手の人差し指を当てると、もう一度同じことを訊ねた。すると男は目を大きく見開き、じっと前を見据えた顔で喋りにくそうにぼそぼそと答えた。
「つやこ……、よこしま……つやこ……」
進之丞は千鶴を見た。
「聞き覚えがある名前じゃな」
「ほれは、進さんが捕まえんさった空き巣の連れの女ぞな!」
男の言葉は衝撃的だった。特高警察の後ろに、あの横嶋つや子がいたのだ。
進之丞はまた男に訊ねた。
「その女はどこにおる?」
「わからん……」
「どがぁして接触した?」
「向こうから……近づいて来た……」
「あしらがここを通るんは、なしてわかった?」
「つやこが……言うた……」
千鶴はぞっとした。自分たちしか知らないはずのことを、つや子が知っていたのだ。
これ以上はこの男からは何も得られるものはないと、進之丞は判断したようだ。男の額に指を当てたまま、ここであったことはすべて忘れよと言った。
男は目を見開いたまま動かない。進之丞が立ち上がっても、男の視線はずっと同じ所に向けられている。
「進さん、今のは?」
「この男の記憶を消した。今から他の三人の記憶も消す」
進之丞は順番に気を失った男たちの額に指を当てた。相手の意識がなくても記憶を消せるらしい。すべての男の記憶を消すと、進之丞は少し考えた。それからまた順番に男たちの額に指を当て、違う記憶を植えつけていった
それは千鶴たちがソ連のスパイではないと判明したという記憶と、城山で見つかった男たちは横暴なよそ者を嫌う魔物に襲われ、自分たちも襲われたという記憶だ。男たちの体の傷が魔物の証になるだろうと進之丞は言った。男たちの記憶に残るのは魔物に襲われた恐怖だけで、ここで鬼に変化した進之丞に襲われたことは覚えていないらしい。
進之丞はいつもの様子に戻って言った。
「これでスパイの話はおしまいぞな。父上どのも安心できよう。此奴らの心には、魔物は人が手出しできるもんやないいうことと、よその町では行儀よくせにゃいけんということが、奥深くまで突き刺さっとる」
進之丞が人の記憶を操れるという話は聞いていたが、目にするのは初めてだ。千鶴は驚きながら、進之丞の力に感心せざるを得なかった。
だが、今回のことで新たな問題が発覚した。それは横嶋つや子だ。
つや子は特高警察を利用して、千鶴たちを陥れようとした。喜兵衛を雇ったのも、恐らくつや子だろう。しかし、つや子がそんなことをする理由がわからない。考えられるのは、進之丞が捕まえた空き巣が、警察でつや子の名前を喋ったということだ。
あの時も進之丞は、何もかも警察で喋るようにと空き巣に暗示をかけたそうだ。だから、あの男はつや子の名前を口にしたのだが、それにしても名前が警察に知れた腹立ちで、ここまでやるものだろうか。もしそうであるなら、つや子は狂っているに違いない。
それに、今日千鶴が郵便局まで手紙を出しに行くことになったのを、つや子はどうやって知ったのか。それは謎であり気味が悪い。進之丞も首を傾げている。
進之丞は男たちをそのままにして、千鶴と部屋を出た。他の部屋では相変わらず馬鹿騒ぎが続いている。みんな特権階級の者たちなのだろう。
玄関に行くと、そこに進之丞を案内した女がいた。進之丞は女に声をかけ、千鶴を見たという芸者を連れて来させた。訝しげにしながら女に連れて来られた芸者は、すぐに進之丞に記憶を消され、別の記憶を植え付けられた。
これで千鶴たちがここへ来た痕跡はすべて消せた。二人が安心して表に出ると、そこには何事もなかったかのような風景があった。喜兵衛も男たちも姿を消していた。
千鶴たちが料亭を離れると、芸者を乗せた人力車が同じ料亭の前に停まった。これから他の騒ぎが始まるのだ。
「すっかり遅なってしもた。急いで母上どのをお迎えに行かねば」
進之丞はいつもの顔で千鶴を見た。だけど、千鶴は見てしまった。進之丞が鬼に変化するところを。また鬼になった進之丞の恐ろしさを。
あのまま巨大な鬼になっていれば大事になっていた。男たちが殺されなかったのは幸いだった。とはいえ、男たちの状態が知れれば、あとで騒ぎになるのは必至だろう。
決して進さんを怒らせまいと決意していたはずなのにと、千鶴は己の不甲斐なさが情けなかった。ただ今回みたいな不測の事態が起こると、どうなるかはわからない。鬼の力には助けられたけれど、やはり進之丞を人間に戻してやりたい。
進之丞が言うとおり、これで特高警察のことが終わったのであれば、三津ヶ浜へ行って井上教諭に会えるかもしれない。
だが、あの二百三高地の女がどこかで見ている。女が何を考えているのかがわからないところは、特高警察よりも恐ろしい気がする。
いろいろ考えると不安になるが、今は母の元へ急がねば。進之丞が呼んでいる。
井上教諭
一
「千鶴ちゃん、おるかな?」
帳場で同業組合の組合長の声がした。
「旦那さんやないんですか?」
訊き返したのは辰蔵だ。
「千鶴ちゃんや。ちぃと街で妙な話を耳にしたんよ」
「妙な話? 千鶴さんのですか?」
「ほうよほうよ。こないだの晩餐会が終わったあとのことぞな」
それだけで辰蔵は組合長が何が言いたいのか理解したらしい。どうぞと言って、組合長を奥へ通した。
トミは他の伊予絣問屋のおかみの所へお茶を飲みに出かけたが、甚右衛門は茶の間に座って東京の茂七からの報告を確かめている。鬼や特高警察を気にしていても、伊予絣の売り上げを伸ばすことは考えねばならないのだ。
中へ入って来た組合長は、まずは甚右衛門に声をかけると、板の間で花江と一緒に洗濯物を畳んでいた千鶴に話しかけた。
「千鶴ちゃん、ちぃと構んか?」
「はい、何ぞなもし?」
どんな用件なのかはわかっていたが、千鶴は手を止めて組合長の方に向き直った。
組合長は花江をちらりと見ると、千鶴に顔を近づけて潜めた声で言った。
「千鶴ちゃん、こないだの晩餐会の帰りしに、特高に捕まったんか?」
千鶴は神妙な顔を見せると、はいと小さくうなずいた。
組合長は驚くと、噂はほんまやったんかと言った。
「噂?」
「千鶴ちゃんら乗せた力車の車夫らがな、そげな話広めとんよ」
組合長は声を潜めず喋ってから、横にいる花江に気づくと慌てて手で口を押さえた。
「花江さんなら、今の話は知っておいでるけん大丈夫ぞなもし」
千鶴に言われて、組合長は恐る恐る花江を見た。花江がにっこり笑うと、早よ言うてやと疲れたようにため息をついた。
「今の話、千鶴ちゃんたちはお客だったのに、そんな噂をわざわざ広めるなんて、ひどい人たちだね」
花江が千鶴に同情して憤った。組合長はまったくよと言い、どうしてこの話を黙っていたのかと千鶴に訊ねた。すると、横から甚右衛門が怒ったように口を挟んだ。
「そがぁなこと言えるわけなかろがな。ほんまなら楽しいはずの晩げじゃったのに、特高に捕まったやなんて言うたら、他の連中にどがぁな目で見られるか」
それは確かにそうだと、組合長は口籠もった。萬翠荘で優雅に過ごした千鶴たちが特高警察に捕まったと聞けば、そのあとどうなったのかと人々が思うのは当然だし、実際、好奇の噂が広がっているのだ。
「あちこちで千鶴ちゃんらはソ連のスパイやったんかとか、伯爵ご夫妻に泥塗ったとか言う奴がおったけんな、千鶴ちゃんは家におるでて言うたんよ。ほしたら、どがぁして特高から逃げたんじゃとか、城山の事件はソ連の秘密兵器と違うんかとか言われたんよ」
さらに以前に兵頭の家が化け物に壊された話を引き合いに出し、それも城山の事件とつながりがあるのではないかと言う者もいたと組合長は話した。
千鶴たちが恐れていたことが、街の中で起こり始めていた。
甚右衛門は千鶴たちが大声を上げて難を逃れた話をし、愛媛の警察も伯爵夫妻も千鶴たちがスパイではないことをわかってくれていると、千鶴たちの無実を主張した。また城山の事件は何も知らないので、関わりがあるみたいに思われると迷惑だと言った。
組合長はうなずき、自分がその話を他の者にもして廻ると言ってくれた。ただ、城山の事件が不気味なのは同じであり、あそこで何があったのかと組合長は首を捻り続けた。
組合長が甚右衛門と喋り続けているので、千鶴はまた花江と洗濯物を畳み始めた。
千鶴が再び特高警察に捕まったことや、進之丞が特高警察の男たちから記憶を奪い、偽の記憶を植えつけた話は誰も知らない。黙って組合長の話を聞いている花江は、ずっと心配そうな顔をしている。
「誰ぞ特高に恨みのある奴らが、連中を袋叩きにしたんやなかろかな」
甚右衛門が惚けて喋ると、化け物の声はどう説明するのかと組合長は言った。
「新聞に書いてあったろがな。あれは八股榎のお袖狸の仕業やもしれまい」
甚右衛門の話に、なるほどと組合長はうなずいた。
「確かにほれはあるな。またあそこの榎を伐るいう話が出とるみたいなけん、お袖狸が怒っとるんぞ」
「これまで何やかんやいうて二回伐られとるけん、今度伐られたら三回目ぞ。ほら、わしでも怒らい」
「ほうじゃほうじゃ。恐らくお袖狸ぞな。やとすると、お堀を埋めて道を広げる話は、ちぃと考えもんじゃな」
納得した組合長は、そのあと特高警察はどうなったのかと言った。千鶴たちの無実を認めたのでなければ、特高警察がまた来るのではないかと組合長は心配していた。
甚右衛門は幸子が特高警察らしき男三人に捕まりそうになったのを、忠七が助けて男たちを警察へ突き出したという話をした。
組合長はそんな揉め事があったのは噂に聞いて知っていたが、幸子と忠七の話だとは知らなかったようだ。忠七が特高警察をぶちのめした話を聞かされて、組合長は忠七の強さに感心しきりだ。
「そがぁなことで、連中も警察からしこたまお灸を据えられたんやなかろか」
「牢屋へ入れられとるかもしれんな」
「やと、ええんやが。いずれにしても、ここんとこは特高らしい奴の姿は見とらんな」
「たぶん牢屋に入っとらい。忠七の大手柄じゃな」
組合長は安堵の笑みを見せ、恐らく特高はもう来ないだろうと千鶴に声をかけた。
ありがとうございますと千鶴は頭を下げたが、実際は特高警察に襲われた。あの事件は料亭で謎の乱闘という見出しで新聞に載り、神戸から来た男四人が料亭で酒を飲み過ぎて大乱闘をしたと書かれた。だが男たちの身元は明らかにされず、魔物を匂わせる記載もなかったので、甚右衛門も組合長もこの事件を特別視しなかったようだ。
しかしあの状況を検分した警察は、事件に魔物が関わっていると見たはずだ。ただ、そう発表すれば庶民を混乱させるので、余計なことは言わぬよう料亭の者たちに指示を出したと思われる。
今のところ警察は聞き込みに来ていないので、千鶴たちのことは知られていないようだ。きっと警察では、また特高警察が何かをやらかして魔物を怒らせたと見ただろうし、下手に首を突っ込んで特高警察の二の舞にはなりたくないと考えているのかもしれない。執念深い特高警察もさすがに新手を送り込んで来たりはしないだろう。
それより今心配すべきは横嶋つや子だ。特高警察の後ろにいたこの女を捕まえなければ本当の安心は得られない。しかし、進之丞が特高の男からつや子の話を聞き出したとは誰にも言えなかった。だから、つや子の脅威をみんなに伝えたくても話せないのだ
こうしている間にも、つや子の魔の手が忍び寄っているように思えてくる。けれど何もできない千鶴は悶々とするばかりだった。
二
翌日、大阪の作五郎から手紙が届いた。中身は畑山が書いた錦絵新聞だ。
前回、甚右衛門は一人で錦絵新聞を読んで、誰にも見せずに処分しようとした。けれど、今回は畑山が病を押して千鶴に取材したのをみんなが知っている。甚右衛門一人で読むわけにはいかなかった。
夕飯も終わって辰蔵たちが部屋へ引き上げたあと、花江が縫い物を始めようとすると、今日はいいからとトミは言った。花江が怪訝そうにしながら二階へ上がると、トミは茶の間の障子を閉めた。部屋の中は家人だけになり、甚右衛門は送られて来た錦絵新聞を取り出した。錦絵新聞は全部で三枚あり、まず甚右衛門が一枚目を読んだ。
読み終わった甚右衛門は、面白くなさそうな顔でそれを千鶴たちに渡した。女三人はトミを真ん中に頭を寄せ合いながら錦絵新聞をのぞきこんだ。
そこには舞踏会の絵が描かれていた。二組の男女が他の者たちに取り囲まれて踊っている。
それはもちろんミハイルと幸子、そしてスタニスラフと千鶴だ。松山の新聞に載せられた絵は白黒の小さなものだったが、こちらの絵は大きい上に色鮮やかだ。
記事の冒頭には、日露戦争中にロシア兵士ミハイルと看護婦幸子が恋に落ち、終戦後は離ればなれになったものの、二十年ぶりに再会を果たしたとあった。そのあと千鶴とスタニスラフの説明がなされ、日ソ友好を願う久松伯爵夫妻が城山の麓にある別邸の萬翠荘で、四人のために晩餐会と舞踏会を開いてくれたと書かれていた。
また一目で惹かれ合った千鶴とスタニスラフが、伯爵夫妻や来客たちの前で結婚を誓い合い、差別に苦しんできた千鶴についに幸せが訪れたとして、記事は千鶴を祝福していた。
結婚の話は松山の新聞にも載った。同じことが書かれるのは仕方がないが、誇張が多くて千鶴としては面白くなかった。そもそも畑山にはスタニスラフとは結婚しないと、はっきりと伝えたのだ。なのに記事は、戦争で引き裂かれた恋が運命の再会を果たし、ここに新たな恋が芽生えたとは何と素晴らしいことかと、惚けた調子で絶賛していた。
この記事を読んだ大阪の人々は、二人が結婚するものと信じただろう。事実、この新聞を送ってよこした作五郎は、甚右衛門に対する祝福の手紙を添えていた。
千鶴は気分が悪かったが、最後に書かれた言葉が目に留まるとぎょっとした。トミと幸子も訝しげな顔をしている。記事は「ところが……」という言葉で終わっていた。
「あのどぐされが!」
甚右衛門が喚くと、手に持った二枚目の錦絵新聞を引き裂こうとした。
「まだ、うちらは見とらんのに、勝手に破いたらいくまい?」
慌てて錦絵新聞を奪い取ったトミは、横目で甚右衛門をにらみ、また女三人で読んだ。
こちらの錦絵新聞には夜の松山城と城山が描かれており、黒々とした山の中に大きな鬼の姿があった。鬼は両手に男をつかみ、口にも一人くわえていた。右足の下では男が一人踏み潰されている。
城山の麓には、明々と明かりを灯した洋風の建物がさりげなく描かれ、鬼の目はその建物にじっと注がれている。松山を知る者が見れば、これは萬翠荘だとわかるだろう。
書かれてあるのは、城山で見つかった四人の男たちのことだ。当然ながら事件が起きたのは、晩餐会が開かれたのと同じ日付だ。前の記事が「ところが……」で終わっていたのは、こういう意味だったのだ。
どこで話を聞いたのか、畑山は男たちの尋常ではない様子を書き綴っていた。また、兵士や近くの者たちが耳にした魔物の声と、風寄で兵頭の家を壊した化け物の声が似ているとし、四人の男たちを死傷させたのは、風寄から来た鬼だと断定していた。
続けて、男たちは土地の者ではなく神戸から来た者たちで、異郷の地で何かをしでかして鬼を怒らせたらしいと書いてある。
記事では鬼が現れたのは、風寄にあった鬼よけの祠が台風で壊れたままだからと結論づけていた。一方で、何故風寄の鬼が松山に現れたのかは謎だとしていた。いずれにせよ、祠が再建されるまでは同様の事件が起こるであろうと記事は括られていた。
畑山は城山の男たちが特高警察だとは書かなかった。そう書いてしまうと、千鶴たちと関連があると述べることになる。そこは千鶴への気遣いを見せたのだと思われる。
とはいえ、同じ晩に起こった二つの出来事を陽と陰のごとく描き、両者の関連性を疑わせるような記述をしている。ただでも街に嫌な噂が広がっているというのに、こんな錦絵新聞を書かれては堪ったものではない。
さらに気分が悪くなった千鶴が顔を上げると、甚右衛門が三枚目の錦絵新聞を見ながら険しい顔をしていた。
「どがぁしんさった? 破いたらいけんよ。何が書かれてあったんね?」
トミが不安げに声をかけると、甚右衛門は黙って三枚目をトミに渡した。
千鶴たちはもう一度頭を寄せ合って記事を読んだが、千鶴の顔は強張り血の気が引いた。そこには千鶴を捕まえようとした新手の特高警察の男たちのことが書かれていた。
記事の出だしには、松山のある料亭の一部屋で、神戸から来た男四人が仲間割れをして大乱闘をした事件があったと書かれてある。それだけなら松山の新聞と変わらないが、錦絵新聞には男たちの様子が細かく記載され、絵まで描かれていた。
記事には、二人の首は骨が折られて千切れそうだったとある。また別の一人は両腕をもぎ取られた上に、顔面を潰されて両眼が飛び出していたとされていた。残る一人は両手を紙屑のごとくに潰され、引き裂かれた口からは舌が引き抜かれていたとあった。
これらの描写はかなり誇張があるものの、概ね正しいといえる。畑山がどこでこの情報を手に入れたのかは知らないが、畑山の情報収集力は大したものだというほかない。
記事はこれが魔物によるものだとは書いていないが、果たしてこれが人間同士の争いで起こるものだろうかと疑問を投げかけていた。つまり、またしても松山に魔物が現れて神戸の男たちを手にかけたと言いたいのだろう。
「これ、鬼がしたんじゃろか?」
トミが少し怯えた様子で言った。千鶴は即座に否定して鬼をかばった。
甚右衛門は不愉快極まりない顔で、千鶴たちから錦絵新聞を取り戻しながら言った。
「銭儲けしとうてこげな話をこさえよったんぞ。あのてんぽ作が!」
前の時もそうだが、畑山は錦絵新聞を読むのは大阪の人間だけだと考えているのだろう。この記事が千鶴たちの目に付くとは思っていないはずだ。しかし実際こうして読んでいるわけで、三津子みたいな人間が読むことだってあるのだ。そうなればあることないこと噂にされて、みんながここにいられなくなるかもしれない。
恩を仇で返すような記事に甚右衛門たちは憤ったが、千鶴だけはうろたえていた。
これはまったくの作り話ではないので、松山の人間に知れたら大事になる。余計なことを言わないよう警察が口止めをしたとしても、料亭や病院の者たちから男たちの様子が漏れることは考えられる。それを思うと千鶴は気持ちが鎮まらない。
「これは始末するぞ」
甚右衛門の言葉に誰も反対しなかった。甚右衛門は三枚の錦絵新聞を重ねると、びりびりと引き破って千鶴に言った。
「もう二度とあいつには話をするな。ええな?」
畑山の取材に応じろと言ったのは祖父である。千鶴は納得がいかないままうなずいた。
あの時、畑山はすでに特高警察の話を知っていたので、千鶴はどうやって特高警察から逃れたかという話をした。だがそれを畑山が信じたかどうかは定かでない。いずれにせよ畑山は千鶴たちが特高警察と接触があったことの確認が取れればよかったのだろう。
それにしても畑山は侮れない。見た目は好い加減だし記者としても素人なのに、料亭の男たちの様子を知ることができたのは、神戸か松山に情報を提供してくれる者とつながりがあるのだろう。男たちが特高警察であることを畑山は知っているだろうから、事件に千鶴と鬼が関わっているのは間違いないと畑山は見ているはずだ。
これまで二度畑山に同情して取材に応じたが、今後は金輪際、畑山の取材に応じないのは、祖父に言われるまでもないことだ。
だがそれはともかくとして、千鶴は畑山の体が気がかりだった。咳と一緒に血を吐いた畑山の姿は、前世の母の姿と重なって見えた。
前世で千鶴は母と遍路旅を続けていた。なのにいつしか独りぼっちになり、慈命和尚と一緒に法生寺で暮らすようになった。それは母が亡くなったからに違いなかった。
まだ小さな子供がいるという畑山には、生き続けてもらいたかった。そう思うと、千鶴の畑山への腹立ちも幾分は和らいだ。
三
四月の初日。ミハイルたちが訪れてから、ちょうど一ヶ月が経った。この日は使用人の休みだが、進之丞は病院の仕事へ行く幸子の付き添いだ。
本来進之丞が座っているはずの千鶴の隣では、花江がしゃがんで洗濯を手伝ってくれている。花江も本当は休みなのに、進之丞が戻ってから出かけるらしい。一人きりになる千鶴を気遣ってくれているのだろうが、千鶴とのお喋りは楽しみなようだ。
話題は特高警察と城山の事件だ。花江はどちらも気になって仕方がないみたいで、未だに買い物にも出られない千鶴を気の毒がった。
一方、千鶴はどちらの話題も触れたくない。城山も特高警察も、今のところはどちらも何もなく落ち着いているようだから、自分はあんまり心配していないと言った。
料亭にいた男たちが、その後どうなったのかはわからない。何人かは死んだかもしれないが、新たに来た特高が生きている者から話を聞けたなら、進之丞の思惑どおりに千鶴たちに関わるのをあきらめるだろう。実際、あれから怪しい者の姿は見かけていない。
けれど、その話は誰にもできない。それで今も尚、千鶴たちは特高警察を警戒する姿勢を続けなければならなかった。本当に警戒すべきなのは横嶋つや子なのに、それが口にできないのが千鶴は何とももどかしかった。
「それにしてもさ。あの大阪から来た記者さん、もう錦絵新聞は書いたのかねぇ」
花江が思い出したように言った。
前回の錦絵新聞を読んだ花江は、今回の錦絵新聞も楽しみにしていた。しかし、その錦絵新聞はすでに作五郎から送って来られ、甚右衛門によって引き裂かれた。そのことを花江は知らない。
「さぁねぇ。どうせ、あんまし読みとない記事書きよろけん、別に読まいでもええわ」
千鶴が素っ気ないことを言うので、花江は錦絵新聞の話はやめた。代わりに血を吐いた畑山を心配して、東京の知り合いにも胸の病で亡くなった人がいるという話をした。
「同じ胸の病でも、恋煩いならいいんだけどねぇ」
花江が笑いながら言うので、ほんまじゃねぇと千鶴も合わせてうなずいた。けれど、花江がすぐに笑みを消して少し寂しげな顔をしたので、その話題もそこまでとなり、あとは二人とも黙々と手を動かし続けた。
やっと洗濯が終わって二人で物干し竿に洗濯物を広げていると、進之丞が戻って来た。
「あら、お疲れさま。悪いね、忠さんの場所、あたしが取っちまったよ」
花江がからかうように声をかけると、いやいやと進之丞は笑顔で応じた。
「ちょっとしか残ってないけどさ。忠さんが戻って来たから、あとは忠さんにお願いして、あたしは街に出かけてくるよ」
花江は千鶴に明るく声をかけると、さっさと家の中へ入って行った。
休みなのに千鶴を手伝い、進之丞が戻って来ると邪魔をしないように姿を消す。そんな花江の思いやりが千鶴には眩しかった。誤解とはいえ、花江に進之丞を奪われたと恨んだことが恥ずかしく情けない。
「どれ、じゃあちぃとばかし手伝うかな」
進之丞は残っていた襦袢を拾い上げた。千鶴は腰巻きを干しながら、病院への行き帰りに何もなかったかと進之丞に訊ねた。特高警察ではなく、つや子のことだ。
進之丞は特に何もなかったと言い、襦袢を物干しに広げた。
ちぃと待ちよってと、千鶴は進之丞に声をかけて離れの部屋へ向かった。
すぐに戻って来た千鶴が抱えていたのは、進之丞の継ぎはぎの着物だ。
「これ、破れた所直して洗といたけん。帯はさすがにいけんけん、さらのに代えといた」
手渡された着物に進之丞は目を丸くして、おぉと感激の声を上げた。
「よう直したなぁ。何べんも破れてぼろぼろじゃったけん、さすがに今度はもういけんと思いよった」
着物を広げた進之丞は裏を見て、もう一度声を上げた。元々は単衣だったのが裏地をつけた袷になり、裏側の継ぎ当てが見えなくなっている。
「いっぺんにはできんけん、他の布を当てながら、ちぃとずつ縫うたんよ」
千鶴がはにかみながら説明すると、進之丞は感激の様子でだんだんなと言った。
「今度こそ、この着物を破らんよう気ぃつけるけん」
もう二度と鬼に変化しないという意味だろう。その気持ちが千鶴を喜ばせた。
「ほやけど、なしてあん時、わざにこの着物を着んさったん?」
あの時というのは、千鶴たちが萬翠荘へ招かれた夜、特高警察を見かけた進之丞が千鶴を心配して出て来た時のことだ。
「店の着物着よったら、何ぞいざこざがあった時に店の名前が出よう? 旦那さんやおかみさんに迷惑かけるわけにはいかん故、これを着ぃたんよ」
「ほうやったん。草履も家に残っとったけど、進さん、裸足で出よったん?」
「草履がなかったら、どこ行きよったいう話になろ? ほじゃけん置いてったんよ」
進之丞は笑ったが、すぐに笑みは引っ込めた。
「あの日のこと、まだ全部は聞いとらんけんど、進さん、萬翠荘からおらたちの後、ずっとついておいでてたん?」
後ろについていたなら、進之丞は鬼に変化せずに特高警察の男たちをぶちのめしていたはずだ。でも実際は、千鶴たちが暗がりへ連れて行かれてから鬼の姿で現れた。
「いや、あん時は……、ちぃと出遅れてしもたんよ」
進之丞は言いにくそうに言った。
「気ぃついたら会がお開きになっとって、何台も俥ぁが出て行きよったけん、もうお前も出てしもたんか思てな。焦くりまわってここまで戻んて来たんよ」
ところが千鶴はまだ家には戻っておらず、慌てて元来た道を戻ったところ、あの暗がりから人力車が出て来るのが見えたのだという。
「あしがぼーっとしとらんかったら、あがぁなことにはならんかったろ。余計な騒ぎを起こしてしもて、まことに申し訳ないと思とる」
進之丞が神妙な面持ちを見せると、千鶴は慌てて言った。
「そげなつもりで訊いたんやないんよ。おら、ただ進さんがどこにおいでたんじゃろかて思いよったぎりぞな。別に深い意味はないんよ」
「あしは……、あの屋敷の裏の藪ん中におったんよ」
「藪ん中? なしてそがぁな所に――」
はっとなった千鶴は、ごめんと唇を噛んだ。進之丞は小さく首を振り、自分の修行が足らなかっただけだと言った。
「己でお前を手放そうとしたくせにな。情けないことよ」
悲しげに微笑む進之丞に、千鶴はもう一度ごめんと謝った。
「おら、また進さんの気持ちわかってあげられんで、余計なこと言うてしもた。堪忍な」
千鶴は進之丞を慰めようと顔を寄せた。すると進之丞はいきなり千鶴を抱き上げ、大丈夫ぞなと言った。
「今、お前はここにおる。お前はお不動さまが考えんさった幸せより、あしを選んでくれた。もう、あしの中に悲しみはないけん」
鬼でありながらも、千鶴とともに生きるという決意をはっきり述べた言葉だ。
千鶴は進之丞の首に抱きついた。その目を喜びの涙が濡らしている。
四
下へ下ろしてもらった千鶴は、おら、嬉しい――と涙を拭きながら言った。
「進さん、やっぱしあかんかもしれんて、すぐに思いんさるけん、おら、ほんまは心配しよったんよ。ほんでも今の言葉で安心した」
「こがぁなったら開き直りぞ。この先、山あり谷ありじゃろが行ける所まで行こわい」
「行ける所までやのうて、どこまでも行くんよ。二人でな」
進之丞と微笑み合った千鶴は、ふと気になった。
「ところでな、進さん、今の体は借り物じゃて言うとりんさったろ?」
「あぁ、申した」
進之丞の顔から笑みが消えた。借りた物は返さねばならないということを思い出したのだろう。早くも行ける所へ行き着いてしまったようだ。
進之丞の顔色を気にしながら千鶴は言った。
「借り物なんじゃったら、その体の元の持ち主はどこにおるん?」
「この男か?」
千鶴がうなずくと、進之丞は困った顔を見せた。
「こがぁなこと申せば、お前に嫌われるやもしれんが……」
「何? 何言われても嫌いになったりせんけん、言うて」
進之丞は少しためらいを見せてから言った。
「鬼はな、取り憑いた相手の心を喰ろうてしまうんよ」
「心を喰らう?」
ほうよと進之丞はうなずいた。
喰らうとは相手の心を己に取り込み、相手の心身ともに己の物にしてしまうという意味だと進之丞は言った。そうやって鬼は死ぬことを避け、この世に留まり続けるのだという。一方、喰らわれた方は鬼の一部となり、自分がわからなくなってしまうらしい。それは想像すらしたことがない恐ろしい話だ。
「じゃあ、進さんはその人の心を……喰らいんさったいうこと?」
「ほういうことよ。わざにやないが、あしはこの男の心を喰ろうてしもた。ほれでこの男の心はあしの一部となった故、今はこの男には己いうもんがわからん。この男が覚えよったことはあしの記憶となり、あしがこの男として生きるわけよ」
「そがぁなことが、ほんまに……」
「前に申したように、鬼は心がきれいな者には取り憑けん。この男の心はあしと対じゃったけん、あしに喰らわれてしもたんよ」
進之丞によれば忠之は村の嫌われ者で、何もしなくとも村人から憎まれていたそうだ。
忠之の胸には怒りと悲しみ、憎しみと虚しさが渦巻いていた。だが、まだ他人への優しさは失われておらず、その優しさが辛うじて忠之を支えていた。ところが、その優しさが踏みにじられる出来事があった。
一昨年の八月末、台風が風寄を襲った時、忠之は家からこっそり出て来た小さな女の子が、大風で転んで泣いているのを見つけた。女の子を抱き起こした忠之は、慰めながら家に戻るよう促した。泣き止んだ女の子はにっこり笑って、だんだんと言ったが、家の中から現れた女の子の母親が、うちの子に何をするかと怒りだしたという。
その声で女の子の父親が出て来て、近くの男たちも集まると、母親は忠之が娘に悪戯をしようとしたと訴えた。女の子は助けてもらったと言ったが、男たちは聞く耳を持たず忠之を袋叩きにした。
何もかもが嫌になり、忠之は荒れていた海へ行った。そこで祠を見つけると、忠之は無性に腹が立った。それが鬼よけの祠だと、誰かから聞かされたことがあった。なのに、村の中は鬼だらけだった。
「この男の記憶はそこまでぞな」
進之丞は気の毒そうに言った。
忠之は鬼に変化して祠をばらばらに壊し、怒りに任せて近くの木をへし折った。その鬼が進之丞なのだ。
怒りが鎮まって我に返った進之丞は、自分が壊れた祠の前に今の姿で佇んでいることに気がついたのだという。そして自分が意図せずして、この男の心を喰ってしまったのだと理解したそうだ。
「あしはこの男を狙て取り憑いたわけやないし、この男の心を喰らうつもりで喰ろうたんやない。ほんでも、この男に取り憑いて心を喰ろうたんは事実ぞな」
進之丞は自分の両手を見つめながら言った。
「いかに恵まれん暮らしであれ、この男の生はこの男のもんぞな。ほれをあしが横取りするなんぞ許されるはずもない」
進之丞は佐伯忠之という男に対して、本当に申し訳ないことをしたと思っていた。千鶴も罪悪感を感じながら、進之丞をかばった。
「けんど、ほれはお不動さまがしんさったんじゃろ? ほれじゃったら、進さんのせいやないけん」
「確かに、お不動さまがしんさったんじゃろ。この男があしと対の姿、対の名というんが何よりの証よ。とはいえ、この体が借り物であることに変わりはない。いずれはあしはこの体を離れるわけで、ほれまではこの体を大切に使わせてもらえということぞな」
「その体離れたら、どがぁなるん?」
「消え去るんでないんなら、元の所へ戻されよう」
元の所というのは地獄のことだ。千鶴は焦りながら言った。
「おら、進さんが人間に戻れる方法探すけん」
「そがぁなもん、あるもんかな」
「ある。絶対にある。おら、そがぁ信じとる。ほじゃけん、ほれまでは今のままで辛抱して。進さんが人間に戻れたら、そのお人も元に戻れるんじゃろ?」
進之丞は返事に困ったように少し間を置いて言った。
「あしがこの体から離れたら戻れるやもしれん。じゃが、この男の心があしに引っついたまんまじゃったら、この体は死ぬるじゃろ」
「ほんな……」
絶句する千鶴に進之丞は言った。
「定めでこの体を離れるならば、恐らくこの体は元の持ち主に戻されよう。お不動さまがこの男の命を奪うような理不尽なことをしんさるわけがないけんな。されど、定めやない形であしがこの体を離れたならば、どがぁなるかは定かやない。この男は助かるやもしれんし、死ぬるやもしれん」
千鶴の顔に絶望のいろが見えたのか、進之丞はあきらめたように目を伏せた。
「何をしたとこで、所詮は悪あがきぞな。やっぱし定めには逆らえんし、鬼のあしがお前と一緒になれるはずが――」
千鶴は進之丞の口元で人差し指を立てると、進之丞に顔を近づけて言った。
「ほれ以上言わんでや。とにかく、おらが何とかしてみせるけん」
「お不動さまでもできんことぞな」
「そがぁなことない。きっと、お不動さまが教えてくんさるけん」
すぐ目の前に進之丞の顔がある。千鶴は指をのけると、進之丞の目を見つめながら、さらに顔を近づけた。すると進之丞は体を後ろにすっと引き、目を動かして勝手口を見るよう千鶴に伝えた。
千鶴が勝手口を振り返ると、そこに新吉がぽかんとしながら千鶴たちを眺めていた。顔が熱くなった千鶴は、慌てて新吉に何か言おうとした。だけど言葉が思いつかない。
「こら、そっち行くなて言うとろが!」
家の中から亀吉が現れて、新吉を引っ張って行った。それを見ていた進之丞は面白そうに笑った。
「無邪気でええのぉ。あいつらにはまったく邪気がないけん、羨ましいわい」
「進さんかて、邪気なんぞないじゃろ?」
「あしは鬼じゃけん邪気だらけぞな。お前がおる故、抑えておれるぎりよ。ほれに旦那さんらもようしてくんさるけん、あしは居心地がええ。鬼やのにこがぁにしてもらえるやなんて信じられんほどよ。ほじゃけん、絶対にあとでしっぺ返しが――」
千鶴はもう一度進之丞の口元で指を立てた。
「すぐにそがぁ思うんはやめや。開き直ってどこまでも二人で行くんじゃろ? さっきも言うたけんど、おら、絶対に進さんを人間に戻してみせるけんね」
今度こそ進之丞に顔を近づけた千鶴は、指をのけてそっと唇を重ねた。
進之丞は何も言わないが、やはり無理だと思っているのだろう。ついさっき見せた元気がない。
だが、千鶴はあきらめていない。困難なのはわかっているけれど、必ず進さんを人間に戻してみせると。心の中はそんな気合いがみなぎっている。
五
今年の花見は空き巣騒ぎも起こらず、平和な一時を楽しめた。思えば昨年の花見の時に進之丞が空き巣を捕まえたのが、横嶋つや子との関わりの始まりだった。
しかし、風寄へ向かう客馬車に乗り合わせた二百三高地の女がつや子であるならば、つや子との関わりはさらに半年遡ることになる。
いずれにせよ、特高警察や鬼山喜兵衛を使ってまでして晴らすような恨みを買った覚えはない。つや子は明らかに狂っている。それでもあんな男たちを手玉に取れるのは、つや子がただ者ではないということだ。
近頃は何も起こっていないが、つや子が何かを企んでいると思うと、平穏な日々が嵐の前の静けさに思えてくる。
特高警察に再び捕まった時、つや子は千鶴が進之丞と郵便局へ行き、そのまま一緒に幸子を迎えに行くことを知っていた。だから道の途中に男たちを配置させ、千鶴が料亭の中に引き込まれるように導けたのだ。
だけど、つや子がどうやって千鶴たちの行動を知り得たのかは謎のままだ。可能性があるとすれば、母が仕事先の病院でつい口を滑らして誰かに喋ったのだろう。
ある晩、千鶴はそれとなく母に確かめてみた。もちろん特高警察に捕まったことは伏せてである。
幸子は訝しみながら、そんな話を人に喋るはずがないと言った。
萬翠荘へ招かれた時、幸子は病院の仕事を休ませてもらった。なので晩餐会や舞踏会の様子だとか、千鶴とスタニスラフについてはみんなから訊かれたし、それに答えもしたという。けれどスタニスラフから来た手紙や、千鶴がスタニスラフに出した手紙のことなどは、誰にも喋っていないそうだ。
どうしてそんなことを訊くのかと言われた千鶴は、病院で自分のことをいろいろ言われていないか気になっただけとごまかした。
母の言い分を信用するならば、母からつや子に話が漏れたわけではなさそうだ。であれば、つや子はどうやって自分たちの動きを知り得たのか。つや子が家のどこかに忍び込んで、こっそり話を盗み聞いたのだとしたら、それはとても気味悪いことだ。
今もどこかにつや子が隠れているようで、千鶴は辺りを見まわして小さく身震いした。
数日後、またもやスタニスラフから手紙が届いた。
スタニスラフに手紙を出してからずっと音沙汰がなかったので、やっとあきらめてもらえたと千鶴は安心していた。そこへ手紙が届いたので、落胆せざるを得なかった。
手紙には、千鶴の手紙に対する感謝と喜びが繰り返し書かれていた。また本当は書きたくないけれどとしながら、千鶴の手紙がスタニスラフより先にエレーナの手に届き、破り捨てられたことをスタニスラフは告白した。
千鶴の手紙は破られて他のゴミと一緒になっていたらしい。けれど、前の手紙みたいに鋏で細切れにはされていなかったので、スタニスラフは手紙の切れ端を拾い集め、何とか元の形に戻して読んだということだった。その間、スタニスラフは悲しくて涙が止まらなかったそうだ。
そのことでミハイルに詰られたエレーナは、逆にミハイルを責めて、またしても大喧嘩になったらしい。そんなエレーナにスタニスラフは復元した千鶴の手紙を、ロシア語に直して読み聞かせたそうだ。
初めは聞こうとしなかったエレーナも、スタニスラフが読み続けていると次第におとなしくなり、最後には泣きだしたという。
自分が怒り狂っているように、千鶴も自分のことを憎々しく思っていると、エレーナは信じていたらしい。ところが千鶴はエレーナへいたわりを見せ、結婚を誓い合ったはずのスタニスラフを、自分ではなく母を大切にするよう諭した。そのことにエレーナはたいへん驚き感激したそうだ。
母が知る女たちは欲しいと思った物は力尽くで奪う者ばかりで、千鶴みたいな思いやりのある娘を母は知らなかったのだと、スタニスラフは書いていた。
日本ヘ来る前からつらいことばかりで、ふさぎ込みがちだった母の心を千鶴が開いてくれたと、スタニスラフは改めて千鶴に感謝を伝え、これまで以上に千鶴を想う気持ちで胸がいっぱいだと綴っていた。
エレーナは手紙を破り捨てたことを詫び、スタニスラフが千鶴と付き合うことを認めたそうで、千鶴がよければ一緒にアメリカへ渡っても構わないとまで言ったらしい。それでアメリカへ行くのか日本ヘ残るのかを決めるのに、千鶴の希望を知りたいので早めに返事が欲しいという。相手の話を聞かない一方的なところは相変わらずである。
追伸では、ミハイルは手紙を書くことが許されず悲しそうにしているとあった。また、どういうわけか近頃は、特高警察らしき者たちの姿を見なくなったそうだ。
千鶴は困惑した。とんだ藪蛇である。そんなつもりでスタニスラフに手紙を書いたのではないのだ。
こうなったら自分には気がないのだと、スタニスラフにはっきり伝えねばと千鶴は思った。だけど、これまで落ち込んでばかりだったエレーナを、再びがっかりさせることには気が引ける。いずれは伝えなければならないが、今はとにかく手紙など書きたくないので、返事は出さずに放っておくことにした。
ため息が出る手紙ではあったが、特高警察らしき者たちの姿を見なくなったという話だけは朗報だ。どうやら進之丞の狙ったとおりになったようだ。
千鶴はその話を祖父母に伝えた。進之丞も幸子の送り迎えの間に、怪しい者を見かけなくなったと甚右衛門に報告した。
幸子は自分を襲った男たちが逮捕されて以来、何も問題は起こっていないから、特高警察は松山で活動ができなくなったのかもしれないと言った。
甚右衛門は腕組みをすると、もうしばらく様子を見て、それでも特高警察の気配がなければ、これまでの警戒を解くと決めた。幸子は付き添いが不要になり、千鶴も一人で外へ出ることが許されるのだ。
つや子には警戒を続けなければならないが、これで井上先生に会えると千鶴は思った。
とはいっても、三津ヶ浜まで出かける理由を考えねばならない。やっと自由に動けると思ったものの、事はそう簡単ではなかった。
六
四月の末頃、千鶴は買い物先近くの菓子屋から、若い娘が出て来るのを見かけた。店の者たちが見送りに出て来たので、ただのお客ではないようだ。
挨拶を終えた娘がこちらへ顔を向けると、千鶴は娘と目が合った。あ――と思った時、向こうも千鶴に気がつき慌てて逃げだした。
千鶴は急いで娘を追いかけた。ようやく追いついたのは、三津ヶ浜へ向かう電車の本町停車場の近くだった。
逃げるのをあきらめた娘は、観念したように振り向いた。思ったとおり高橋静子だ。
「やっぱし高橋さんやった」
千鶴が声をかけても、静子は目を伏せながら横を向いた。ちらりとだけ千鶴を見たが、あとは目を合わせまいと下を向いている。
「村上さんから話聞いたよ。うち、高橋さんの気持ちに気ぃつかんかったんよ。堪忍な」
千鶴が穏やかに話しかけると、静子は恐る恐る顔を上げた。
「山﨑さん、うちのこと怒っとらんの?」
千鶴がうなずくと、ほんまに?――と静子は言った。
「正直いうたら、あん時はまっこと悲しかったし、誰っちゃ信じられんかった。ほやけど、こないだ村上さんが訪ねて来てくれてな。うちに謝ってくれて、高橋さんのことも教えてくれたんよ」
静子はぽろぽろ涙をこぼし、ごめんなさいと言った。
「うち、山﨑さんにちぃと意地悪しとなったぎりなんよ。あそこまで言うつもりなかったのに、喋りよるうちに止まらんなってしもてな……。山﨑さん学校やめて、みんなも退学じゃて言われて、うち、どがぁしよかて……」
泣きじゃくる静子を、もうええんよと千鶴は慰めた。
「その話はおしまいにしよ。うち、もう何とも思とらんし、もういっぺん高橋さんとお友だちになれたら嬉しいな」
「うちと友だちに?」
涙に濡れた顔の静子に、千鶴は微笑みながら言った。
「また昔みたいな仲よしになりたいんよ。もし村上さんも来れたら、どっかで三人でお団子でも食べながらお喋りしよ」
静子は千鶴に抱きつくと、わぁわぁ泣いた。振り返る人たちを気にしながら、千鶴は静子を慰め続けた。
しばらくして静子が泣き止むと、何の用事でここへ来ていたのかと千鶴は訊ねた。
「うちな、お見合いしたんよ。ほんで、近々結婚することになったんよ」
「結婚? ほれもお婿さん?」
「うん。相手はこの近くのお菓子屋さんの息子さんなんよ」
「さっき出て来たお店じゃね?」
千鶴が訊ねると、静子は恥ずかしそうにうなずいた。
「今日はその人の顔見においでたん?」
静子は照れながら、もう一度うなずいた。へぇと千鶴が驚くと、赤くなった静子は、山﨑さんかて対じゃろ?――と言った。
「新聞見たよ。ロシアのお人と一緒になるんじゃろ? 萬翠荘でお祝いまでしてもろて、やっぱし山﨑さんはうちらとは違わい」
千鶴は慌てて、ほうやないんよと手を振った。
「あん時は、がいに酔っ払うてしもたけん、あげな誤解を招いてしもたんよ。うちはいずれお婿さんもろて山﨑機織の跡取りになるんが決まっとるし、あのお人はな、今はもう神戸に戻んて、もうじきアメリカへ行くんよ」
静子は失望の顔になると、ほうやったんかと言った。
「うち、山﨑さんの新聞記事に刺激されてお見合いしたんよ。山﨑さんが結婚せんのじゃったら、うちもやめといたらよかった」
「ほやけど旦那さんになってくれるお人は、悪いお人やないんじゃろ?」
静子は微笑むと、まぁねと言った。
「ほれじゃったら、ええやんか。うちの話はただのきっかけぞな。よかったねぇ、ええお人とご縁があって。ほんまにおめでとう」
「だんだんありがとう。みんな、おめでとう言うてくれるけんど、山﨑さんから言われたんが一番嬉しい」
「村上さんには会うとらんの?」
「いっぺん家に来てくれたらしいけんど、ほん時は留守しよって会えんかったんよ」
本町停車場のすぐ東は師範学校の北端になっている。そこから電車が現れて、千鶴たちの方へ曲がって来た。
「ほれじゃあ、もう行くけん。また今度ゆっくりお喋りしたいね」
千鶴に向かって小さく手を上げた静子の前に、電車が止まった。
電車の扉が開き、静子が乗り込もうとした時に、あの――と千鶴は思わず声をかけた。静子は電車に半分乗り込んだところで振り返った。
「高橋さん、井上先生がどがぁしておいでるか知っとる?」
千鶴は思いきって井上教諭のことを訊いてみたが、静子は学校をやめているので、教諭のことなど知るはずがない。けれど、三津ヶ浜のことを訊けるのは静子しかいなかった。
「井上先生?」
静子は少し首を傾げたあと、素っ気ない感じで言った。
「噂でしか知らんけんど、先生、学校辞めんさったみたいなで」
「え? 辞めた?」
静子が車内に入り、車掌から切符を買うと扉が閉まった。
窓越しに静子がにこやかに手を振り、千鶴も明るく手を振り返した。しかし、井上教諭がいなくなったという衝撃で、千鶴は頭の中が真っ白になっていた。
七
朝飯のあと、丁稚の三人は東京へ送る品の準備を始めた。
豊吉も山﨑機織に来てから、もう一年になる。まだ小柄ではあるが、去年よりは幾分背が伸びたみたいだ。その分、荷物を抱える力もついてきたようだ。
亀吉も新吉もずいぶんしっかりしてきており、三人は反物の箱を蔵からてきぱきと運び出して行く。相変わらず進之丞も品出しを手伝ってはいるが、みんな進之丞がいなくても大丈夫なほどきびきびしていた。今年は新たな丁稚が見つからなかったが、亀吉たちの働きぶりはそれを十分補うほどだ。
花江は部屋の掃除をしながら、亀吉たちを頼もしげに眺めていた。千鶴は奥庭でたらいに水を張って洗濯の準備をしていたが、やはり三人の動きに感心していた。思わず声をかけて褒めてやると、みんなはにかんで照れ笑いをするのだが、それがまた可愛い。
井上教諭の行方がわからなくなり、千鶴は途方に暮れる日々を送っていた。進之丞を人間に戻してみせると啖呵を切ったのに、その望みが絶たれたわけで、進之丞に合わせる顔がない。そんな千鶴を丁稚たちは慰めてくれているようだ。
洗濯物を取りに千鶴が家に入ると、三人はもう大八車に荷物を積み終えていた。これから古町停車場へ向かうところだ。
千鶴が腰をかがめて暖簾の向こうをのぞくと、千鶴に気づいた亀吉が喜んで手を振った。それを見た新吉と豊吉も千鶴に手を振った。
嬉しくなった千鶴は一度は抱えた洗濯籠を板の間へ下ろし、丁稚たちを見送りに出た。
千鶴さんが出て来てくれたと大喜びの亀吉たちは、はりきって大八車を動かし始めた。引くのは亀吉で、新吉と豊吉は後ろから押す役だ。
新吉と豊吉は何度も後ろを振り返って手を振るので、大八車が見えなくなるまで、千鶴は店の中へ戻れなかった。
やがて大八車が大林寺の前を右へ曲がると、千鶴は中へ戻ろうとした。その時、大八車と入れ替わるように、同じ辻の左側から洋装の男が一人現れ、千鶴の方へ向きを変えた。これまでこの辺りでは見たことがない男なので、千鶴は少し緊張した。
特高警察が再び現れたのかと警戒したが、男の歩く姿に怪しさはない。山高帽をかぶり眼鏡をかけたその男は、鞄を手に提げてうつむき加減に歩いて来る。その姿はいかにも学者風だ。
千鶴はこの男に見覚えがあった。もしやという思いは、男との距離が短くなるにつれて確信へと変わった。千鶴の胸は喜びに弾んだ。
「先生! 井上先生!」
千鶴は跳び上がりそうになりながら、男に大きく手を振った。男が上げた顔は、千鶴が探し求めた井上教諭その人だった。
「あれ? 山﨑さんじゃないか」
教諭の顔が驚きの表情から笑顔に変わった。教諭は足を速めて千鶴の傍へ来ると、山﨑機織の看板を見上げた。
「山﨑機織……。ここが君の家なのか。ちっとも気がつかなかったよ」
お元気でしたかと千鶴が訊ねると、教諭はうなずいて、君も元気だったかと言った。お陰さまでと千鶴が答えると、進之丞と弥七が顔を出した。
千鶴が二人に教諭を紹介すると、進之丞は畏まりながら頭を下げた。一方、弥七は軽く会釈をしただけで、さっさと中へ戻った。
進之丞は二言三言教諭と話をしたあと、何度も頭を下げながら店に入った。
千鶴は帳場にいた辰蔵にも教諭を会わせた。辰蔵は教諭に挨拶をしながら、自分よりも旦那さんの方がいいでしょうと言い、急いで甚右衛門を呼びに行った。
次々に挨拶をされたからか、井上教諭が少し困惑気味に見えたので、お引き留めしてすみませんと千鶴は詫びた。
いやいやと教諭が言うと、そこへ甚右衛門が現れた。
「これはこれは。その節は千鶴がまことにお世話になりました。あげな形で退学させてしもたこと、まことに心苦しゅう思とります」
甚右衛門が深々と頭を下げると、教諭はすっかり恐縮したようだ。
「私の方こそ山﨑さんの力になれず、まことに申し訳ありませんでした。一教諭として今も責任を痛感している次第です」
甚右衛門同様に、井上教諭は頭を深く下げて詫び返した。
互いに頭を下げ合って挨拶を終えると、ところで――と甚右衛門は教諭がここにいる理由を訊ねた。この時間に女子師範学校の教諭がここにいるのが解せなかったのだろう。
教諭は言いにくそうな顔で、実は女子師範学校からこちらの師範学校へ異動になったのですと説明した。
千鶴が住まいを訊ねると、大林寺のすぐ南にある古い小屋みたいな所に住んでいて、庭にはきれいな藤棚があると教諭は言った。
「えっと、何ていったかなぁ。確か、こうし何とかっていう所なんだ。昔、俳句好きの人が、俳句仲間が集まるために建てたって聞いたよ」
「ほれじゃったら、庚申庵やなかろか」
甚右衛門の言葉に、それですと教諭は即答した。ほうかなとうなずいた甚右衛門は楽しげに言った。
「あそこはええとこぞなもし。前はただの庵やったけんど、去年やったか、台所と厠をこさえて人が住めるようにしたとこぞな」
「そうなんです。大家さんの所のご隠居さんが住まわれていたそうなんですが、今年になってから亡くなって、ちょうど空き家になったんです」
庚申庵が空き家になっていたのは、甚右衛門も知っていたらしい。いい所が見つかってよかったと教諭の新居を喜んだ。
「あそこは今、藤が見頃じゃろ」
「はい、実に見事なものです。聞いた話では、建物と同じ百年以上も前の物なんだそうで、ほんとに驚きました。それにしても、まさかあんな所に住まわせてもらえるなんて思いもしませんでした」
「近所の者ものぞきに来う?」
「はい。私がいようがいまいが関係なく、しょっちゅう人が眺めに来られます」
「花が咲いとらなんだら、誰も行かんのやがな」
甚右衛門は笑っていたが、教諭が学校へ向かう途中だったのを思い出した。時間は大丈夫かと訊ねると、教諭は苦笑いをして、実は朝寝坊をしてしまいましたと言った。
「じゃったら、こがぁな所で喋っとる暇なんぞなかろに」
甚右衛門は慌てて教諭を送り出したが、教諭の方は落ち着いた様子で歩きだした。けれど、すぐに立ち止まって千鶴を振り返り、朝寝坊もしてみるもんだねと言って笑った。
記憶の探索
一
庚申庵の藤棚はこの辺りでは有名だ。商売をする者がここの花を見るためにわざわざ仕事を休んだりはしないが、時間に追われていない百姓や商家の隠居などは、庚申庵の藤の花を毎年の楽しみにしている。
いつもは正清の月命日に墓参りをしない甚右衛門も、この時期の月命日だけはトミと一緒に墓参りに行く。墓参りのあとに庚申庵を訪ねて、二人で藤棚を楽しむのだ。
幸子は仕事が休みの日曜日に見物に行く。今年はちょうど五月の月命日と日曜日が重なるので、幸子は甚右衛門たちと一緒に出かける予定だ。
例年五月初日は花盛りなので、使用人たちは毎年こぞって庚申庵へ出かける。普段は休みがもらえない丁稚たちも、この日ばかりは辰蔵たちに同行させてもらえた。
千鶴も子供の頃にこの藤棚を何度か見に行ったことがある。しかし、多くの人が出入りする所なので、離れた所から眺めたぐらいだ。
女子師範学校にいた頃は、本科二年までは入寮していたのでそんな暇はなかった。三年になって通学に変わると、日曜日に母と交代で眺めに行ったが、去年は五月初日に進之丞と一緒に花を楽しんだ。
この日は日曜日ではなかったので母はおらず、千鶴は本当は家を離れられなかった。一方、使用人の進之丞はこの日しか自由に動けなかった。ところが花江が花見のあとに戻って来て、休みなのに家事を引き受けてくれた。それで、千鶴は進之丞と二人で藤棚を愛でられたのだ。
今年も花江は藤棚を楽しんだあと、家事をやっておくから忠さんと二人で見ておいでと、千鶴たちを送り出してくれた。その思いやりに千鶴は感謝しかなかった。
二人が花江に感謝しながら庚申庵へ出かけると、家の主が留守にも拘わらず、庭の中は見物客でいっぱいになっていた。みんな勝手に縁側に座ったり、地べたに茣蓙を敷いたりして花を楽しみ、弁当を食べたり酒を飲んだりしている。
井上教諭も日曜日は仕事が休みだが、こんな状態だと気が休まらないに違いない。千鶴たちは教諭を気の毒がりながら花を楽しんだ。また、千鶴はこの日が日曜日でないことに安堵していた。
日曜日であれば教諭がいるはずであり、その時に顔を合わせてしまうと、挨拶をするという口実では教諭を訪ねられなくなる。そうなると、教諭に催眠術をかけてもらうことは敵わない。
とはいえ、こんなに人の出入りが激しい時期には、教諭を訪ねるのは無理である。これでは挨拶をするだけでも他人が話に交ざって来る。催眠術なんてとんでもない話だ。
もし人に見られたりすれば、こんな所で二人で何いかがわしいことをやっているのかと、この辺りで噂になってしまう。催眠術で前世の記憶を探るのは、花が終わるまでお預けだ。
千鶴は井上教諭が庚申庵で暮らしていると進之丞に話した。進之丞はほぉと驚くと、この時期に人出が多いのは玉に瑕だが、普段の教諭の暮らしは風流で羨ましいと言った。
庚申庵の庭には藤棚だけでなく、山や川を模した庭がある。
庵を建てたのは栗田樗堂という俳人で、仲間と俳句を楽しむためにこの庵を作ったといわれている。家にいながら山川草木を愛でられるこの庭は、田んぼの中に突如として現れた別世界のようだ。
進之丞と二人で店を持つことになったなら、いつかこんな小さな家を建てて、そこで静かに余生を送れたらと千鶴は思った。また、その時までに進之丞が鬼に変化することなく過ごせたならば、進之丞の罪も許されて人間に戻してもらえるような気がした。
そんな話をしても、進之丞はそうだなとは言わなかった。けれど、微笑む顔はそうなりたいと告げている。しかし心配はあった。横嶋つや子である。つや子の問題が解決しない限り安心はできない。
昔ほどではないにしても、今も二百三高地髷の女はいくらでもいる。この庚申庵に集まっている女たちも、多くが似た頭をしている。そんな女たちが目に入ると、そこにつや子がいるような気がして、せっかくの花見気分が落ち着かない。
つや子に何をされても、進之丞が絶対に鬼にならないという保証はない。一度たりとも人前で変化すればおしまいだし、実際、特高警察を相手に鬼になりかけたのだ。そんな心配を避けるためにも、井上教諭に力を貸してもらわねばと千鶴は思った。
実際どうなるかは定かでない。千鶴は催眠術というものを知らないし、催眠術で前世の記憶が明らかにできるのかは、井上教諭だってわからないはずだ。そんなことができるのであれば、疾うの昔に誰かがやって、あちらこちらで前世の話が聞かれるだろう。
ところが現実にはそうなっていない。前世の記憶を探るというのは、それだけ困難なものなのか、あるいは馬鹿げたことなのだ。千鶴だって進之丞がいなければ、前世を思い出そうなどとは考えもしなかった。けれど今はこれをするしかないし、うまくいくかどうかはやってみないとわからない。
この見事な藤の花が咲き終わった頃がいよいよだと、千鶴は花を眺めながら気を引き締めた。とはいえ、井上教諭にはまったく相手にされないか、あるいは頭がおかしくなったと思われるかもしれない。だけど、それは承知の上だ。進之丞のためであれば、いくらでも恥をかく覚悟がある。
二
そろそろ藤の花も終わりを迎えたと思われる頃、家族で夕飯を食べている時に、千鶴は次の日曜日に井上教諭へ挨拶に行きたいと祖父母に申し出た。
改めて教諭に挨拶をすることには、二人とも反対はしなかった。ただ、トミが同行すると言うので千鶴は困った。
「もう子供やないけん、おばあちゃんについて来てもらわいでも、うち一人で大丈夫なけん」
千鶴は必死に訴えたが、トミは許さなかった。一人暮らしの男の元へ、嫁入り前の娘を一人で行かせるわけにはいかない、というのがトミの言い分だ。しかし、そんな言い分など聞けるはずがない。
「先生はそがぁなお人やないぞな。おばあちゃんも藤の花見せてもらいに行った時に、先生に会いんさったんやないん?」
「ほやけんいうて、男を簡単に信用したらいけん。見かけは善人でも、男は男ぞな」
トミが耳を貸そうとしないので、千鶴は甚右衛門に助けを求めた。
「おじいちゃん、何とか言うておくんなもし。こがぁなこと言いよったら挨拶にならんけん」
甚右衛門も井上教諭には面識がある。ほれはほうじゃなとうなずいたので、千鶴はほっとした。祖父が認めてくれれば、祖母も口出しはできない。
甚右衛門は幸子の方を向くと、お前が一緒に行けと言った。
日曜日は幸子は仕事が休みなので同行は可能だ。そうなると井上教諭に催眠術をかけてもらえない。
「お母さんがおらんと、花江さんが一人で家事をすることになるけん」
「挨拶やけん、そがぁに長にはかかるまい」
甚右衛門は取り合おうとしなかった。幸子もうなずき、心配いらんけんと言った。
「あんたが学校へ行きよった頃は、花江さん一人で家事をこなしよったんやけん大丈夫」
結局、千鶴は母と二人で次の日曜日に庚申庵を訪ねることになった。千鶴は力なく漬物をぽりっとかじり、大きく息を吐いた。
庚申庵へ向かう途中、千鶴たちは饅頭屋に立ち寄って、井上教諭への手土産を買った。日切饅頭とは別の普通の饅頭だが、これも千鶴のお気に入りだ。
「結局、あの鬼はどがぁなったんじゃろねぇ」
饅頭屋を出てから、幸子がぽつりと言った。
「特高警察のことはあったけんど、他にはあれから何も悪いことは起こっとらんし、あの鬼は何じゃったんじゃろかて時々思うんよ」
鬼が現れて二月が過ぎたが、何だか肩透かしを食らったみたいだと幸子は言った。
「ほじゃけん、鬼はうちらには悪させんて言うたやんか」
千鶴は口を尖らせたが、幸子は構わず話を続けた。
「悪さするもせんもないがね。あがぁなもんが出て来ること自体が尋常やないけんね。というても、あれ以来、とんと姿見せんしなぁ。何か悪い夢見た気分やで」
「特高警察みたいなことがなかったら、鬼はうちらを見守るぎりで姿は見せんのよ」
前から自転車に乗った若い男が来るのが見えた。どこかの大店の遣いの者だろう。立ち止まって自転車をやり過ごしたあと、幸子は言った。
「お母さんが思うにな、あの鬼はあんたに惚れとるで」
千鶴はぎくりとなった。母の鋭さにうろたえながら、どうしてそう思うのかと平静を装って訊ねた。
「あんたの身内でもないのにあがぁなことするいうたら、ほうに決まっとろ? あの鬼は男みたいなし」
「ほ、ほやけど、鬼やで?」
「鬼であろうが人間であろうが、男が女子に優しゅうするんは、その女子に惚れとるけんよ。あん時、鬼があんたの言うこと素直に聞いたんも、そがぁ考えたら合点がいこ?」
千鶴は返事に困った。母の言葉は図星だ。
千鶴が黙っているので、幸子は千鶴が不安になったと思ったらしい。余計なことを言って悪かったと詫びた。ううんと千鶴が首を振ると、幸子はまた心配そうな顔で、ただな――と言った。
「鬼があんたを護ってくれるんはええとしても、鬼があんたに惚れとるんやとしたら、忠さんが危ないで」
幸子は鬼が忠七に千鶴を奪われると思い、忠七に危害を加えることを恐れていた。
「忠さんはまっこと強いけんど、さすがにあの鬼相手じゃったら勝てんで」
「大丈夫やて。鬼は忠さんに手ぇ出したりせんけん」
「そがぁなことわかるもんかね。おじいちゃんも言うておいでたけんど、いつか鬼があんたを連れて行くんやないかて、お母さんはほれが心配なんよ」
近くの家から人が出て来たので、二人は喋るのをやめた。これで鬼の話は打ち切りとなったが、結局あの鬼はどうなったのだろうと千鶴はふと思った。あの鬼とは前世で千鶴を攫った鬼である。
自分が鬼だと明かさなかった頃の進之丞は、千鶴を助けたのは改心した鬼だと言った。しかし、実際に千鶴を助けてくれていたのは進之丞だった。
進之丞がああ言ったのは、自分が鬼であることを隠すためだろう。それにしても改心した鬼はどこでどうしているのか、千鶴は気になった。けれど今はそれどころではない。どうすれば井上教諭に催眠術をかけてもらえるかを、急いで考えねばならなかった。
饅頭屋から紙屋町の通りに戻った千鶴たちは、大林寺の方へ向かって歩いた。大林寺の前の辻を南へ曲がり、少し行った所に右手に分かれる道がある。庚申庵はその先だ。
いい考えが浮かばないまま千鶴が大林寺の辻を南へ曲がろうとすると、何ということか、南の道から三津子がやって来るのが見えた。いつもと同じような格好をしているが、今日の衣装は赤い花柄模様だ。
甚右衛門が三津子禁止令を出しているので、近頃の幸子は三津子と出かけていない。三津子が会いに来ても、都合が悪いと言って追い返していた。幸子が特高警察に捕まった事件のあとも、三津子は一度訪ねて来たが、やはり幸子は会うのを断った。
その三津子とこんな時にこんな所で出会ってしまったのだ。幸子は戸惑いを隠せないが、目を丸くした三津子はすぐに満面の笑みを浮かべた。
「あらぁ? あらあらあら。何てこと? こがぁな所で幸ちゃんと千鶴ちゃんに出会うやなんて」
いそいそと三津子がやって来ると、最悪だと千鶴は天を呪いたくなった。そんなことにはお構いなしの三津子は、千鶴と幸子を見比べながら興味深げに言った。
「ちぃと珍しいんやない? 今日は二人してどこへお出かけ?」
幸子が井上教諭の名前を出す前に、千鶴は手早く説明した。三津子に教諭のことは知られたくなかった。
「昔、お世話になった先生ん所へ、ご挨拶へ行くんぞなもし」
「お世話になった先生て、学校の先生?」
興味深げな三津子を警戒しながら、ほうですと千鶴は言った。すると三津子は、ほうなんと言ってにんまり笑った。まさか一緒に行くつもりなのか。それは絶対にまずい。
「お母さん、ここで三津子さんに出会たんも何かの縁ぞな。うちは一人で大丈夫なけん、久しぶりに三津子さんと二人でゆっくりして来たらええよ」
咄嗟の千鶴の言葉に幸子が応える前に、三津子は胸の前で両手を合わせながら、感激した顔で言った。
「あらまぁ、千鶴ちゃん。あなたって何て優しい子なん? うち、ひょっとして千鶴ちゃんには嫌われとるんやないかて気にしよったんよ。ほやけど、ほうやなかったんじゃねぇ。嬉しいわぁ」
あら、ほれはお饅頭?――と千鶴が持つ手土産に目を留めた三津子は、手を伸ばそうとした。千鶴は慌てて体を捻ると、饅頭を三津子の手から遠ざけた。
「これは先生に持て行くお土産ぞなもし。どこまりある饅頭やけん、三津子さんのお口には合わんぞなもし」
三津子はじっと千鶴を見ながら言った。
「ほれは、うちのことを褒めてくれとるわけ?」
「ほやかて、三津子さんは都会の匂いがするけん」
千鶴が笑みを見せながら話すと、三津子は相好を崩した。
「もう、幸ちゃん。あなた、どがぁしたらこげなええ子を育てられるんね。うち、もう感激で胸がいっぱいやわ」
そう言いながら三津子はまた饅頭に手を伸ばした。千鶴は愛想笑いをしながら、饅頭を体の後ろに隠した。
三津子は鼻の上に皺を寄せると、千鶴ちゃんの意地悪と言った。幸子は笑いながら、まぁまぁと三津子をなだめた。
甚右衛門たちと一緒に庚申庵の藤棚を見に行った時、幸子は井上教諭に会って挨拶をしていた。だから本当は、今日は挨拶に行く必要はない。それでだろうが、幸子は久しぶりに三津子と一緒に行く気になっている。
「ほしたらどがぁしよか。千鶴が一人で構んなら、お言葉に甘えよかいね」
「ええよ、ええよ。こっちのことは気にせいで構んけん、ゆっくりしておいでや」
千鶴は二人に笑顔を振り撒いた。幸子は少し思案しながら言った。
「ほうはいうても、そがぁに長い間はまずかろ。一時間ぐらいでどがぁじゃろか」
催眠術にどれくらいかかるのか、千鶴にはわからなかったが、あまり長くは言えない。取り敢えずの時間を決めておいて、それに遅れたならば、その時に詫びればいいと千鶴は考えた。
「ええんやない? ほんなら一時間ね」
「よし、ほしたら三津子さん。一時間ぎりどっか行こか」
「ええわいね。一時間でも二時間でも」
三津子が口を挟むと、千鶴は即座に言った。
「二時間はいけん。おじいちゃんに叱られてしまうぞな」
幸子はうなずき、一時間ぎりぞなと言った。
一時間後に雲祥寺で待ち合わせをすることにして、千鶴は母たちと別れた。
雲祥寺は大林寺の南にあり、庚申庵からは目と鼻の先だ。山﨑家の菩提寺でもあり、待ち合わせ場所としては最適だ。
幸子と三津子は北へ向かって歩きだした。どこへ向かうつもりなのかは知らないが、三津子に行き先を見られたくない千鶴は、二人の姿が小さくなくなるまで見送った。
三津子にはいらいらさせられてばかりだし、さっきは最悪だと思ったけれど、この時ばかりは千鶴は三津子に感謝した。
三
あんなに人が集まっていた庚申庵だが、藤の花が終わった今はひっそりと佇んでいる。それでも来客がいるかもしれず、千鶴はどきどきしながら笹垣の外から訪いを入れた。ところが何度声をかけても返事がないので、勝手に格子戸を開けて中へ入った。
建物はすぐ右手にあり、千鶴は玄関がある建物の南側へ廻った。そこは藤棚がある庭だが、花はほとんど散って閑散としている。それでもまだちらほらと咲き残っている花もあり、そのわずかな花を目当てに蜜蜂がぶんぶん飛んでいた。
玄関の前に来た千鶴は改めて訪いを入れようとした。その時、何気なく庭に面した縁側に目を遣ると、胡座をかきながら煙草を燻らせる井上教諭の姿があった。教諭は物思いに耽っているのか、ぼんやりと庭を眺めている。
「井上先生」
千鶴が声をかけると、教諭ははっとしたように振り返った。
「山﨑さんじゃないか。来てくれたのか」
「すんません。そこでお声をかけさせてもろたんですけんど、お返事がなかったもんで、勝手に入って来てしまいました」
「いや、いいんだいいんだ。気がつかなかった僕の方が悪いよ。玄関はそっちだけど、ここも玄関みたいなものだから、こっちへいらっしゃい」
教諭は煙草の火を消すと、千鶴を縁側へ誘った。
千鶴が縁側まで行くと、障子を開け放った室内が見えた。そこは四畳半の部屋で隣に三畳間があるが、間にある襖を開けてあるのでかなり広く見える。
四畳半には床の間と床脇がある。床の間には立派な掛け軸が飾られてあるが、隣の床脇は棚に本が無造作に積まれていた。
部屋の隅には小さな机と行灯が置かれ、少し離れた所に鉄瓶を載せた火鉢がある。鉄瓶にはお湯が沸いているらしく、口から湯気が立ち上っている。
縁側に腰掛けた千鶴は、教諭に手土産の饅頭を手渡した。
「やぁ、これはこれは。こんなに気を遣ってもらわなくてもよかったのに」
相好を崩した教諭は、じゃあお茶を淹れようと言って腰を上げた。
教諭がお茶を用意してくれている間に、千鶴は庭を眺めた。藤棚の向こうに広がる小さな池は川のようでもあり、生い茂る木々や飛び交う蝶々を見ていると、まるで山野の中にいるような気分にさせられる。それでも胸の中はどきどきが続いたままだ。
「藤棚もいいけど、そっちの庭もなかなかいいだろ?」
お茶を湯飲みに注ぎながら井上教諭が得意げに言った。千鶴は教諭を振り向くと、えぇとうなずいた。
「ここはほんまに山ん中におるみたいぞなもし。うちの庭とは全然違て、まっこと素敵なお庭や思います。先生、ええ所見つけんさったんですねぇ」
「前にも言ったけど、たまたまなんだ。うまい具合に空き家になったから借りられただけさ。でも、ほんとにいい所だよ。僕は俳句は嗜まないけど、ここで庭を眺めていると一句捻ってみたくなるよ」
近くの木にホオジロが飛んで来てさえずっている。その鳴き声に聞き惚れていると、教諭がお茶を運んで来てくれた。
「お待たせ。お茶を飲みながら眺めたら、また格別だよ」
教諭は土産の饅頭を添えて、千鶴の横に湯飲みを置いた。千鶴がお礼を述べてお茶を飲むと、その隣で教諭もお茶をすすり、少し間を置いて言った。
「……今は、家の手伝いをしてるのかい?」
「はい、それでお店を継ぐことになりました」
「お店を? それは凄いじゃないか」
目を丸くする井上教諭に、千鶴は春子や静子と再会して仲直りをした話をした。教諭は喜びながらも結局は静子一人が退学になったと言い、静子のその後を心配した。
「高橋さん、こっちにあるお菓子屋さんの息子さんと結婚することになったて言うとりました。ええ人みたいですよ」
それはよかったと安堵の表情で繰り返す井上教諭に、千鶴は近況を訊ねてみた。教諭は湯飲みを置くと、いろいろあってねと言った。
「僕にはね、妹が一人いたんだ」
教諭は庭の池を眺めながら言った。
「二人きりの兄妹でさ、結構仲よしだったんだ。もう、何年になるのかな。その妹が死んじゃってね。僕は落ち込んで立ち直れなかったんだ。だけど、僕の親代わりの叔父さんが一生懸命励ましてくれてね。それで、もう一度生きてみようって思ってさ。叔父さんの口利きで、あそこの学校で雇ってもらえたんだ」
「ほうやったんですか……」
千鶴は教諭にかける言葉が見つからなかった。こんなに優しくて頭がよくて面倒見のいい人に、そんな悲しい過去があったとは思いも寄らなかった。
また、つや子に騙されたあの山高帽の男がそんないい人だとは知らず、悪く考えていたことを申し訳なく思った。
「こっちへ来る前は東京に住んでたんだ。その時に妹と一緒にお世話になった人がいてね。その人の知り合いが、春頃にわざわざ僕を訪ねて来てくれたんだ」
「そのお人も先生の知っておいでる方なんですか?」
「いや、知らない人だった。よこしまさんの代わりに僕の様子を見に来てくれたんだ」
教諭の言葉に千鶴はぎくりとなった。
「よこしまさん?」
「ああ、言い忘れてたね。ごめんよ。その人が僕たち兄妹の世話をしてくれた人なんだ。きれいな人だったけど、一昨年の関東大地震で亡くなったそうなんだ」
よこしまという名前に刺激されたが、教諭が話す女性はつや子と違って善人のようだ。その女性の死はつらいものらしく教諭が少し寂しげに見えたので、千鶴は急いで話を進めた。
「ほれで松山へおいでた人は、先生の元気なお姿を見て安心しんさったんですか?」
そうだねと教諭が笑顔になったので、千鶴はほっとした。ところが、教諭はすぐに顔を曇らせた。
「その人は妹のことを知っててさ。道後の花街に妹によく似た娘さんを見かけたから、会ってみないかって言われたんだ。僕はあんないかがわしい所は好きじゃないから断ったんだけど、ほんとに似てるからって何度も言うから、ちょっとその娘さんに会ってみたくなったんだ。もちろん変な意味じゃないよ」
一応の弁解をした井上教諭は、その娘に会いに行ったところ、確かに妹に似ていたので気が動転したと話した。そのあとすぐに困惑顔になり、どうして君にこんな話をしているんだろうと言った。
「今まで誰にも話を聞いてもらうことがなかったから、つい喋ってしまったんだな。もう君はあそこの生徒じゃないし、僕を気遣って来てくれたから、気が緩んでしまったみたいだ。申し訳ない」
「いいえ、うちでよかったら話してつかぁさい。うち、誰にも喋りませんけん」
「ありがとう。それに、ここまで話してしまったからね」
教諭は恥ずかしそうに笑うと、話を続けた。
「その娘さんは確かに妹に似てたんだ。見間違えるほどじゃなかったけど、僕にはその娘さんが妹と重なって見えてね。こんなことはやめてここから出るように諭したんだ」
その娘は借金を返すまでは逃げられないと井上教諭に話したという。教諭は自分が代わりに借金を支払うと言ったが、その娘の借金は教諭が支払える金額ではなかった。
「あの時、僕は思考能力がなくなってたんだね。後先を考えもしないで、その娘さんを連れて逃げようとしたんだ。そしたら大騒ぎになってしまって……」
どうなったかまでは教諭は話さなかった。けれど、およその察しはつく。
「そのことが学校にも知れてしまって、僕は女生徒に教える資格なしと判断されたんだ。クビを覚悟してたけど、そうならないで師範学校へ異動となったのは、きっと僕の事情に同情してもらえたんだね」
教諭は饅頭をぱくりと食べると、これは美味いねと言った。どこの店で買ったのかと訊かれたので、その店の場所を説明したあと千鶴は教諭に訊ねた。
「先生をその娘さんに会わせんさったお人は、どがぁしんさったんですか?」
「当たり前だけど、まさかそんな騒ぎになるとは思いもしなかったんだろうな。知らない間にいなくなってたよ。悪いことをしてしまった」
確かに井上教諭が取った行動には驚かされただろう。しかし、その人物には教諭をそこへ連れて行った責任があるはずだ。なのに騒ぎが起こると教諭を置いて逃げるだなんて、とんでもない男だと千鶴は心の中で憤った。
一人取り残された教諭が、どんな想いでどんな目に遭わされたのかと考えると、千鶴は胸が痛んだ。そもそも善意か何か知らないが、純情な井上教諭を花街へ連れて行くことが許せない。とはいっても、教諭の親代わりである叔父でさえも女癖はよくないのだから、その辺の男にはこれが普通なのかもしれない。
いずれにしてもすべては済んだ話だ。そのお陰でというのは井上教諭に申し訳ないが、結果的に教諭がここへ移って来たのは、千鶴にとっては嬉しいことだ。
けれど、ここを訪れた理由を教諭に告げるのは、やはり容易ではない。決心していたつもりだったが、簡単に言いだせることではなかった。
「ところで、君が今日ここへ来たのは、僕に挨拶に来ただけじゃなくて、何か頼み事があるんじゃないのかい?」
思いがけず井上教諭の方から声をかけてくれた。千鶴が驚いて顔を上げると、やっぱりそうかと井上教諭は微笑んだ。
「僕だって伊達に教師をしているわけじゃないよ。毎日生徒の顔や様子を見ながら授業をしてたんだ。君を見ていれば何かあるなって、すぐにわかったよ」
さすがは井上教諭だと、千鶴は改めて感心し尊敬した。
「それで何だい、君の頼みっていうのは?」
実は――と言いながら千鶴が言い淀んでいると、教諭は遠慮しないで言いなさいと促した。それで千鶴は思い切って言った。
「先生にうちの記憶を探っていただきたいんです」
「君の記憶を?」
「先生、前に仰いましたよね? 催眠術で記憶を引き出せるて」
井上教諭は少し当惑したが、あぁ、あの話か――とすぐににこやかになった。
「そういえば、そんなことを言ったね。だけど記憶を探ってほしいだなんて、何か大切な物でも失くしたのかい?」
ほうやないんですと答えた千鶴は、少しためらってから言った。
「先生に探っていただきたいんは、うちの前世の記憶ぞなもし」
四
当然ながら、井上教諭は面食らった顔になった。
「ちょっと待ってくれよ。前世の記憶って、どういうことだい?」
「全部やないですけんど、うち、前世のことを思い出したんです。うちは前世では風寄の法生寺というお寺で暮らしとって、村の人らから鬼娘て呼ばれよりました」
「何を言ってるんだ? 君は鬼娘が何かわかって言ってるのかい?」
「わかっとります。鬼娘いうてもそがぁ呼ばれたぎりで、ほんまは今と同し異国の血ぃを引いた娘やったんぞなもし。ほん時に、うちはほんまもんの鬼に襲われたんですけんど、ほの記憶を思い出せんけん、先生に催眠術で確かめてもらいたいんです」
教諭は明らかに困惑しうろたえていた。前世だの鬼だのという話をいきなり出されて受け入れられるはずもない。興奮する千鶴は狂ったと思われたに違いなかった。
「いいかい? 君は学校で級友たちに鬼の仲間だと疑われたのが嫌で、学校をやめたんだよね? なのに、今度は自分で鬼のことを認めるって言うのかい?」
「うちは鬼やありません。鬼も何もしとりません。ほれやのに誰もうちの話を聞く耳持たんで、化け物扱いするぎりじゃったけんやめたんぞなもし」
千鶴に圧倒された井上教諭は、わかったよとうなずいた。だけど、本当にわかってもらえたのかは疑わしい。
教諭は千鶴の機嫌を取るように言った。
「それに思い出したよ、こっちでは鬼のことを、がんごっていうんだね」
「うちの話、信じてもらえるんですか?」
千鶴が迫ると、教諭は困り切った様子で返事をした。
「正直いって、よくわからないな。そもそも前世が本当にあるのかどうか、僕は知らないからね。仮に前世があったとして、催眠術でその時の記憶まで探れるのか、僕には自信がないよ。僕は専門家じゃないし、そんなの誰もやったことがないからね」
「やっていただけんのですか」
千鶴が肩を落とすと、教諭は言い訳がましく言った。
「前世の話自体が僕には唐突過ぎることだけど、君が鬼に襲われたってなると、さすがにちょっと信じ難く思えるよ。いや、信じないって言ってるんじゃないんだ。信じ難いなって思ってるだけでさ。別に君が嘘をついてるとは思ってないよ」
嘘ではなく妄想と思われているのだろう。それは千鶴の頭がおかしいという意味だ。
予想はしていたが、千鶴は悲しくなって涙ぐんだ。信じてもらえなければ記憶を調べることは敵わない。そうなれば進之丞を救う方法を探れなくなる。
千鶴の涙に井上教諭は動揺した。しかし教諭は学者だし、千鶴は教え子だ。教諭は千鶴を慰める代わりに真面目な顔で、少し今の話を整理しようと言って千鶴をなだめた。
「それじゃあ、君に前世の記憶があると認めるとしよう。けど、鬼に襲われた記憶はないんだよね? だから催眠術でその時の記憶を探りたいわけだ。だけどさ、だったらどうして自分が鬼に襲われたってわかるんだい?」
教諭の疑問は尤もだ。だけど進之丞の話はできない。涙を拭きながら、千鶴は素早く考えをめぐらせた。
「当時のうちは風寄のお代官の息子と夫婦になるはずでした。ほんでも、うちは身分の低い身寄りのない娘でしたけん、結婚する前にお代官がご自分のご友人のお侍に、うちを養女にするよう頼みんさったんです。そのご友人いうんが、今のうちのひぃひぃじいちゃんやったんです」
千鶴は祖父から聞いた話と、自分が思い出した前世の記憶が同じだったと説明し、曾祖父の証言として、鬼が代官や寺を襲ったらしいと話した。
「うちがおった法生寺の庫裏は燃やされて、うちの親代わりじゃった和尚さまも、ほん時に殺されてしもたんです。ほれやのに肝心のうちは前世の記憶を取り戻したのに、そこん所はどがぁしても思い出せんのです」
千鶴の話を完全に信じてくれたのかはわからないが、井上教諭の表情はさっきよりも真剣になっていた。教諭は少し考えたあと、君を信じようと言った。
「すべてを受け入れたわけじゃないけど、君を信じるよ」
「じゃあ、うちに催眠術をかけていただけるんですか?」
「君が望む結果が出る保証はないけど、君が望むのであれば、試すだけは試してみてもいい」
ほんまですか?――と千鶴が声を上げると、井上教諭はゆっくりとうなずいた。
「ただね、君にとってその時の記憶はとてもつらいものになると思うんだ。そこはわかってるんだろうね」
千鶴は、はいと言った。だが、教諭は解せない様子だ。普通はつらい記憶は忘れたいものであり、わざわざ思い出したいなどというのは、確かに妙な話だろう。
「君のことを考えると気が進まないけど、まぁ、やるだけやってみよう。だけど僕は催眠術師としては未熟者だから、うまくいかないかもしれないよ」
「ほれでも構んですけん」
「もし鬼に関する記憶が見つかっても、君がどうにかなってしまいそうだったら、そこですぐに中止するからね」
千鶴はうなずいた。
井上教諭は湯飲みに残ったお茶を飲み干すと、千鶴に部屋へ上がるように言った。
五
井上教諭は用意した十銭銅貨に糸を結びつけると、それを千鶴に持たせて、目の前に掲げるよう指示した。
「そのお金をじっと見てるんだよ。僕がお金が左右に揺れだすと言ったら、そのとおりになるから」
千鶴は言われたとおり、糸にぶら下がった十銭銅貨をじっと見つめていた。
「ほーら、お金が左右に揺れだすよ」
教諭が言うと、不思議なことに銅貨は左右に揺れだした。自分で揺らしている感覚はない。糸を摘んで持っているだけなのに、銅貨はゆらゆら揺れているのだ。
「今度は前後に揺れるよ」
教諭が言うと、銅貨はゆっくりと揺れる向きを変え、ついには前後に揺れだした。千鶴は興奮を隠せなかった。
「不思議じゃ! 先生、これ、どがぁなっとんですか?」
「これが催眠なんだ。今度はね、銅貨はぐるぐる回りだすよ」
すると、銅貨は教諭が言ったとおり、円を描いて回りだした。
がいじゃ!――千鶴が叫ぶと教諭は嬉しそうに、ありがとうと言った。
「じゃあ、次は部屋を暗くするよ」
井上教諭は銅貨を受け取ると、部屋の障子と襖を全部閉めた。障子を通して明かりは差し込んで来るが、光に先ほどまでの勢いはなく部屋の中は薄暗くなった。
教諭は隅にあった小さな机を部屋の真ん中へ運び、千鶴の前に置いた。その机の上に小さなろうそくが置かれて火が灯された。
薄暗い静かな部屋の中で、小さな炎がゆらゆらと揺らめいている。教諭は千鶴にその炎を見つめるようにと言った。
千鶴がじっとろうそくの炎を見つめていると、ちろちろ揺れる小さな炎は、何かを千鶴に語りかけているみたいだ。
「ろうそくの火を見てると、だんだん目が疲れてくるだろう? ほーら、瞼がだんだん重くなってくるよ。重くなってくる。重ーくなってくる」
炎を見つめながら教諭の声を聞いていると、千鶴は目を開けているのがつらくなってきた。がんばって目を開けていようと思うのだが、却って瞼が重くなり、とうとう目を閉じてしまった。
「ほーら、瞼がふさがった。もう、目は開かないよ」
井上教諭は目を閉じたままの千鶴に、体が前後に揺れると暗示をかけた。
千鶴の体はひとりでに前後に揺れ始めたが、もう不思議だと思うことはなかった。千鶴は言われたとおりに体が動いているのを、ただぼんやりと感じていた。
「さぁ、今度は体が弧を描くように回り始めるよ。腰から上がどんどん左回りに回りだす。ぐるぐる、ぐるぐる、ほーら、回りだしただろ?」
千鶴は目を閉じたまま、上半身をぐるぐる回し続けた。
「僕が君の肩に手を載せると、体の回転は止まるよ。だけど、頭の中は今と同じまんま、ぐるぐる回り続けままだよ」
右肩に教諭の手を感じると、千鶴の体は次第に動きを止めた。頭の中はぐるぐる回った感じが続いている。
「君の頭の中は、時計とは逆回りに回ったまんまだ。その回転は時間を遡って、君を過去へ運んでくれる時空の隧道だよ。その隧道をくぐって前世へ移動するんだ。僕が手を三つ叩くと、君は鬼に出会った時へ飛ぶ。いいかい?」
千鶴がうなずくと、ゆっくりと手を叩く音が聞こえた。三つ目の音が聞こえた時、千鶴はどこかの山小屋にいた。
六
囲炉裏にちろちろ火が燃えている。囲炉裏の近く以外は暗い。千鶴はまだ幼く、寝ているところを母親に起こされたばかりだ。
眠くて文句を言う幼い自分と、その自分を通して辺りを観察している別の自分がいる。二つの自分は別々なのだが、一つに重なっているみたいでもある。
――君は今、どこにいるの?
どこからか井上教諭の声が聞こえた。
「山ん中の小屋」
千鶴はぽそりと答えた。教諭の声に返事をしたのは幼い自分ではなく、観察している方の自分だ。
――そこで何をしているんだい?
「寝ぇたとこを、かっかに起こされた」
千鶴は幼子の言葉になっていた。
喋っているのは観察している自分なのに、意識が幼い自分と重なっているようだ。少し不機嫌な千鶴は、自分がどちらの自分なのかわからなくなっていた。
――そこは君とお母さんが暮らしている所かい?
「ううん。おらとかっかはお遍路さんで、ここで休ませてもろうとる」
――そこは誰かの家なの?
「おばあちゃん」
――おばあちゃんって、君のおばあちゃんかい?
「ううん。親切なおばあちゃん。かっかがね、血ぃ吐いて動けんなったき、おら、泣きよったがよ。そしたら、おばあちゃんが来て助けてくれたが」
その老婆を幼い千鶴は知っていた。近くの寺で会った老婆だ。
老婆は境内の隅に独りぼっちで立っていた。誰も近づこうとしないその老婆を見て、自分と同じだと千鶴は思った。
千鶴は老婆の傍へ行くと、寺でもらった饅頭を老婆にやった。饅頭を受け取りながら、老婆は驚いた顔で千鶴を見たが、すぐににっこり笑って、ありがとよと言った。その笑顔が嬉しくて、千鶴も老婆に笑顔を返した。
どこから来たのかと老婆は訊ねたが、千鶴は自分のことがよくわからなかった。親のことを訊かれると、近くで他のお遍路と喋っていた母を指差した。父親はと訊ねられたが、首を振るしかできなかった。
その老婆が動けない母を背中に担ぎながら、千鶴の手を引いて自分の山小屋へ連れて来たのだ。そこで老婆に粥をご馳走になったあと、千鶴は眠くなって寝たが、まだ寝足りないところを母親に起こされた。辺りは真っ暗だ。寝ている間に夜になったらしい。
千鶴を起こした母は声を潜め、こっから逃げるでと言った。
まだ眠い千鶴はむにゃむにゃしながら、行きたくないと言った。母は無理やり千鶴を背負うと、そっと小屋の外へ出た。老婆は手水に行ったのか姿が見えない。
おばあちゃんは?――と訊いても、母は何も言わずに夜の山道を走りだした。
月明かりが照らす道を、血を吐いて倒れたとは思えないほど母は凄い速さで駆け下りた。夜風が千鶴の頬を掠めて行く。
しばらくすると、後ろの方で獣が吠える声が聞こえた。体が震えるような恐ろしい声で、千鶴はぎゅっと母にしがみついた。
その時、月が雲に隠れて道は真っ暗な闇に呑み込まれた。足下が見えなくなった母は、千鶴を背負ったまま飛ぶようにして転んだ。母の体を通して千鶴にも衝撃が伝わった。
母は呻き声を上げるが動かない。千鶴は母の背中から降りると、だいじょうぶ?――と母に声をかけた。
再び月の光が差した。母は顔が血だらけで、肩や膝も痛めたらしい。立ち上がろうとしたが、すぐに顔をゆがめて倒れた。
母は必死に半身を起こして千鶴を抱き寄せると、真剣な顔で言った。
「千鶴、ええか? これからかっかが言うことを、よう聞くんやで。あのばあさまはな、鬼なんじゃ」
「おに?」
「鬼はな、お前を狙うとるんじゃ。けんど、かっか、もうこれ以上は、あんたを背負うては逃げられん。ほじゃき、あんたをここへ隠すで」
「かっかは、どうするが?」
「かっかは鬼を引きつけるき、あんたはここに隠れてじっとしとり」
「そんなん嫌や! おら、かっかと一緒に行く!」
べそをかく千鶴に、泣いたらいかんと母は言った。
「一緒に逃げられたらええけんど、それができんき、こう言うとるがよ。かっかかてな、つらいんよ。な、わかってや」
母は涙ぐみながら、千鶴をもう一度抱きしめた。だがすぐに体を離し、千鶴を近くの藪の中へ押し込んだ。
「ええな? 絶対に声出したらいかんで。泣いてもいかんし、動いてもいかんが。もし鬼に見つかったら、殺されて喰われてしまうんやで。どんなに怖ぁても堪えるんやきね。わかったね?」
母はそれだけ言うとよろよろと立ち上がり、足を引きずりながら行ってしまった。
千鶴は藪の中ですすり泣いた。いつも一緒だった母がいなくなったのである。こんな暗い夜に、こんな藪の中で独りぼっちだ。
しばらくすると、何かが凄い勢いで迫って来る気配を感じて、千鶴は泣くのをやめた。
母に言われたとおり、物音一つ出さずにじっとしていたが、息をする音さえもが気になってしまう。どきどきすると息が速くなるが、音がしないようにゆっくり吸ったり吐いたりした。不安が募って母を追いかけたい衝動に駆られたが、気配がどんどん近づいて来るので動けない。
千鶴が迫って来る恐怖に呑み込まれそうになった時、藪の向こうに一人の老婆が現れた。着ている者と髪の形から、千鶴を助けてくれた老婆だと思われた。けれど、月明かりに照らされた顔は、あの優しい老婆ではなかった。口元に牙を生やし、頭に二本の角がある鬼だった。
鬼になった老婆は千鶴のすぐ近くまで来ると、その場に這いつくばって、くんくんと地面の匂いを嗅いだ。
「血の臭いじゃ。怪我をしとるな。くっくっ、逃がさんぞ」
それはあの老婆の優しい声ではなかった。低く籠もった気味の悪い声だ。
立ち上がった老婆は、爪の伸びた指を蠢かせると、母が逃げた方へ走り去った。
千鶴は恐ろしくてぶるぶる震えながら、必死で泣くのを我慢した。小便も漏れてしまったが、母の言いつけを守ってじっとしていた。
少しすると、遠くの方で女の悲鳴が聞こえた。ただの叫び声でない。苦しみの籠もった断末魔のような声だ。
声が聞こえなくなった時、千鶴は母の死を悟った。
千鶴は泣かないよう必死で堪えた。それでも目からあふれた涙は次々にこぼれ落ち、止めることはできなかった。
七
――山﨑さん、僕が手を三つ叩くと、君は現代に戻って来る!
焦ったような井上教諭の声が聞こえ、速い拍子で手を叩く音が三つ鳴った。
「山﨑さん、大丈夫かい? 君が見たのは過去の話で、今のことじゃないんだ。だから、何も怖がらなくていいんだよ」
眼を閉じたまま母を呼びながら泣き続ける千鶴を、動転した井上教諭は必死に目覚めさせようとした。
教諭はろうそくの火を消すと急いで障子を開け、外の明かりを部屋の中へ入れた。
千鶴の催眠は解けていた。目を開けた千鶴は、自分が畳の部屋にいるのはわかっていた。しかし、目の前でうろたえながら声をかける男の人が誰なのかがわからない。何故自分がここにいるのかもわかっていなかった。
千鶴の心は鬼に母を殺された、あの時のままだった。自分に何が起こったのかがわからないまま、千鶴は母を求めて泣き続けた。
鬼と化した老婆の姿や、母の断末魔の声がいつまでも頭から離れない。心の中は恐怖と悲しみで埋め尽くされていた。
あまりのことに教諭は打ちひしがれて頭を抱え、その傍らで千鶴は泣き続けた。
千鶴の意識は前世の幼い千鶴が占めていた。だが、片隅にあった現代の千鶴の意識が次第に大きくなってくると、千鶴は近くで項垂れている男性が井上教諭だと思い出した。
先生――と千鶴が声をかけると、教諭ははっとしたように振り返った。
「僕がわかるんだね? よかった……、ほんとによかった」
教諭はわずかに笑みを見せたが、その顔からは動揺のいろが消えていない。
「もう君が正気に戻らないんじゃないか、僕は大変なことをしてしまったんじゃないかって、ずっと焦ってたんだ」
「すんません。うち、こがぁになるやなんて思いもせんかったんです。先生にご無理言うた上に嫌な思いをさせてしもて、ほんまにすんませんでした」
「いや、そんなことはいいんだ。それより大丈夫かい?」
千鶴はうなずいた。だけど本当は大丈夫ではなかった。千鶴にとって今見たのは過去の話ではない。ついさっきのことだ。
母の死を直接見たわけではない。けれど、鬼に八つ裂きにされたという進之丞の父の姿と、鬼に殺された母の姿が重なってしまい、今にも吐きそうな気分だ。
「それにしても驚いたよ。本当に鬼がいたなんて」
井上教諭は少し安堵したみたいだが、体は小さく震えている。
「君が喋っていた言葉は、こっちの言葉とは違っていたよ。それは君が目にしたものが、君の妄想じゃないってことだ。でも、現実にこんなことがあるなんて信じられないよ」
前世のこととはいえ、実際に鬼がいたという事実に教諭は衝撃を受けていた。だが千鶴には教諭を気遣う余裕がない。
前世で千鶴を襲った鬼は山の寺で千鶴に優しくされ、その優しさを我が物にしようとしたと進之丞は語った。それはまさに今見たあの老婆の鬼に違いない。あの鬼が後に進之丞の父と慈命和尚を殺し、千鶴を攫ったのだ。そして、進之丞はあの鬼と戦い、自身も鬼になって死んだ。
「これは驚くべきことだけど、これ以上は鬼のことを調べるのはやめておいた方がいいんじゃないかな。やっぱり君が思い出すにはつら過ぎると思う」
井上教諭は千鶴をいたわったが、教諭自身が耐えられないのだろう。喋りながら目があちこちに泳いでいる。
千鶴は反論できなかった。今みたいな場面はもう見たくないし思い出したくなかった。けれど記憶の探索をあきらめるのは、進之丞が鬼になった経緯を知る術を失うということだ。それは進之丞を人間に戻す手掛かりをあきらめるのと同じだった。
恐怖と悲しみに大きな落胆が加わって、千鶴の頬を新たな涙が流れ落ちた。
不審火
一
千鶴が雲祥寺へ行くと、幸子が本堂の前で所在なさげに待っていた。千鶴が来たのがわかると、幸子は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「遅かったな。先生と話、弾みよったん?」
まあねと千鶴が答えると、幸子はじっと千鶴を見つめた。
「どがぁした? 元気ないみたいなけんど、何ぞあったんか?」
「何も。昔の話しよったら、ちぃと気ぃが滅入ったぎりぞな」
幸子はなるほどと思ったらしく、ほれは気の毒じゃったねと千鶴をいたわった。
微笑んだ千鶴の耳に、母の断末魔の叫びが聞こえている。目の前の母は生きているけれど、あの時の母は死んだのだ。幼い自分を護るために、恐怖と苦しみの中で死んだのである。
千鶴はこぼれそうな涙を堪えながら明るさを装った。
「お母さんの方こそ、久しぶりに三津子さんと会うて楽しかった?」
「まぁ、楽しかったいうか……」
幸子は口を濁して、はっきりとは答えない。
「楽しなかったん?」
「ほうやないけんど、ちぃと疲れてしもたかな。まぁ、三津子さんとおったらそげな感じじゃけどな」
「なして? あんだけ仲よしやったのに?」
「仲よしいうか、ええ人じゃて思いよったぎりぞな。いっつもかっつも一緒におったわけやないけん」
ほんじゃあ、去ぬろかね――と幸子は歩き始めた。
千鶴は一緒に歩きながら、三津子と何かあったのかと母に訊ねた。幸子は言葉少なに、何かがあったのではないと言った。
「昔は、三津子さんとは仕事の合間にちぃと喋るぎりでな。そがぁに仲よかったわけやないんよ。どっちかいうたら、お母さんは三津子さんより他の人と喋りよった」
今でこそ三津子は奇抜な格好で外を歩いているが、母と一緒に病院で働いていた頃は、あまり目立たない性格だったらしい。みんなといるより一人でいることの方が多く、何を考えているのかよくわからなかったと幸子は言った。
松山にロシア兵捕虜がいた頃、幸子と三津子はともにバラックと呼ばれる仮設病院で働いていた。戦争が終わるとバラックは解体され、幸子は街中の病院で働き始めたが、その同じ病院へ三津子も移って来たという。
バラックにいた頃は幸子と三津子は特に親しい間柄ではなく、次の病院で働き始めた頃も、その関係は変わらなかった。そんな三津子が親友になったのは、千鶴を身籠もったことが病院に知れてからだと幸子は言った。
幸子を呼び出した院長は、何故か幸子の腹の中にいる子供の父親がロシア兵だと知っていた。図星を言われた幸子は嘘も言い訳もできず、素直にミハイルのことを話した。
二人が関係を持ったのは戦争が終わってからのことであり、ミハイルも捕虜兵ではなくロシアの一市民として自由を手に入れていた。それでもロシアを敵国と見ていた者からすれば、幸子は敵国に通じた裏切り者だった。そして院長はロシアを憎んでいた。
独り身の娘が腹に子供を宿したというだけでも大問題なのに、元ロシア兵が子供の父親なのである。院長は激怒して、幸子にクビを言い渡した。
幸子が院長室を出ると、親しかった仲間たちの態度が変わっていた。みんな幸子が院長に呼び出された理由を知っていて、誰も幸子と口を利こうとしなかった。そんな中、三津子だけは幸子の所へ来て慰めたり励ましたりしてくれたという。
困った時こそ、その人の本性がわかるものだと、それから幸子は三津子を一番の友人と考えるようになった。病院を辞めたあとも、三津子は時々会いに来てくれたが、親しくなってからの三津子との付き合いは短かった。
ロシア兵の子供を身籠もった話は警察にまで届き、幸子はロシアのスパイではないかと疑われて、私生活のことまで根掘り葉掘り調べられた。甚右衛門たちも怒り狂い、一家の恥だと罵られた。
そんな時でも三津子は幸子を訪ねて来てくれた。幸子は泣きながら、信じられるのは三津子さんだけだと言い、三津子さんがいなければ死んでしまうとまで口にした。
死ぬなんて言うものではないと幸子をたしなめた三津子は、自分もあんな病院にはいたくなくなったと言った。それが幸子が三津子と会った最後だった。そのあと三津子は消息を絶って、幸子の前には現れなくなった。
心の拠り所を失った幸子は、甚右衛門と大喧嘩をしたあと、死のうと思って家を出た。そして死に場所を探しているうちに出会ったのが知念和尚だった。
「そげな感じでな。言うほど親しくはなかったんよ。ほんでも去年久しぶりに会うた時は、まっこと嬉しかった。いうても、あの人の変わりようにはたまげたけどな。三津子さん、あげな派手な格好する人やなかったけん、まるで別人に見えたで」
その後も幸子は甚右衛門に無理を言って、何度か三津子と出かけたが、違和感はどんどん強くなっていったという。
「昔の話をしもって二人で懐かしいねぇて言うたりするんやけんど、何か別の人と喋りよる気ぃがする時があるんよ。顔は確かに三津子さんなけんど、あげな格好しよるしな」
幸子はため息をついたが、千鶴は今の三津子しか知らない。だから、昔の三津子がどんな姿をしていたのか想像もできなかった。
「三津子さん、こっちの病院辞めたあと、大阪行ったり東京行ったりしよったんやて。何があったんか言うてくれんけんど、たぶんほの間に何ぞあったんじゃろねぇ。ほうでなかったら、あそこまで性格変わったりせんけん」
昔の三津子はどちらかというと話下手で、喋る時は幸子の方が言葉数が多かったらしい。だが、今の三津子はとにかくよく喋る。言いたいことを喋るだけ喋ると、ころっと話題を変え、いつも会話を先導しようとするそうだ。そうして幸子に家やら千鶴の話などを次々に訊ねるので、何だか取り調べを受けているみたいだと幸子はこぼした。
「お母さん、うちのこと、あの人にどがぁに言うたん?」
「どがぁにて……、学校やめて家の仕事するようなったとか、こないだの晩餐会でお酒を飲み過ぎて酔っ払った話とかよ。他は何も言うとらんよ」
「ほんまに? ほんまに何も言うとらんの?」
何かあんたまで警察みたいじゃとこぼしながら、千鶴と忠さんが夫婦になる予定なのも話したと幸子は言った。
「そげなことまで話したん?」
「ほやかて、スタニスラフとは何もないて言うとかんといくまい?」
「ほれはほうやけんど……、ほんでも、うち、おじいちゃんがうちと番頭さんを夫婦にするつもりやないかて心配しよったんよ。まぁ、ほやないならよかった」
祖父が辰蔵と一緒にさせるつもりなのは母である。千鶴はそれを母の口から確かめたかった。だが幸子はさらりと聞き流し、おじいちゃんがそげなことをするわけなかろとだけ言った。母が本当の話をしないのは、喋りたい話ではないからだろう。そんな母を思うと、千鶴は悲しくなった。
前世で母は父と一緒になれなかった。そして今世でも母は父と一緒になれず、他の男の妻になろうとしている。
千鶴を想う母の姿も前世と同じだ。前世で母は我が身を犠牲にして千鶴を護ってくれた。先日も鬼の正体を知らない母は、命懸けで千鶴を護ろうとしてくれた。
そんな母を差し置いて自分は進之丞と夫婦になるのである。千鶴は母に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。また母がとても有り難く愛おしかった。
突然千鶴が腕を絡めたので、幸子は当惑した。
「何ね? どがぁしたんな?」
「かっか、ありがとう」
千鶴は母に体を寄せて言った。
「ちょっと千鶴。あんた、またおかしなったんか?」
「何もおかしないよ。お母さん、いつまでも元気でおってな」
幸子は千鶴がどうにかなったと思ったようだ。行き交う人の視線を気にしながら、離れなさいやと困惑気味に言った。けれど千鶴が泣きそうな顔なのに気がつくと、あきらめて千鶴の好きなようにさせた。
千鶴たちが家に戻ると、同業組合の組合長が来ていた。茶の間で甚右衛門やトミと怖い顔をして喋っている。
二人が挨拶をすると、組合長はくるっと笑顔になった。だが、千鶴たちが昼飯の支度をする花江を手伝い始めると、また怖い顔になって三人で喋り始めた。
声を潜めて喋っているので、何の話をしているのかはよく聞き取れない。すると花江が小声で、ソ連の話をしていると教えてくれた。
「ソ連て何の話?」
千鶴が訊ねると、伊予絣の輸出が思ったように進まないみたいと花江は言った。
「商売がうまくいかなくて、失業する人が増えてるんだって」
せっかく関東の大地震を乗り越えながら、ここで商いがだめになる人たちの話は、本当に気の毒だけれど他人事ではない。山﨑機織だって明日どうなるかはわからないのだ。
そもそもな――と幸子がやはり声を潜めて話に交ざった。
「ソ連に輸出せんといけんようになったんがいけんのよ。織子さんの織り賃が半分以下になるような真似するけん、どんどん質が悪なってしまうんで。ソ連の人らかて質の悪い物買うたりすまい?」
「それは辰さんも言ってたよ。数も大事だけど、もっといい物を作らないとだめだって。今のままだと、いくらたくさん売れたって儲けがほとんど出ないらしいよ」
状況はかなり深刻なようだ。千鶴たちばかりでなく、花江たちにも不安な話だ。
「あんたら」
トミの声がした。ああだこうだと話していた三人は、慌てて後ろを振り返った。
「三人で何ひそひそ喋りよるんね。鍋が沸いてしもとろがね」
トミが指差した七輪の上で、煮物の鍋が沸騰していた。
花江が慌てて鍋を降ろそうとして、熱い鍋に直接触れた。あちちと花江が手を引っ込めると、幸子が濡れ布巾で鍋を降ろした。
トミは眉間に皺を寄せたまま、組合長との話に戻った。
千鶴は汲んだ水で花江の指を冷やしてやりながら、将来への不安を覚えていた。
祖父は店を千鶴に継がせると言ってくれた。とはいえ、このままでは山﨑機織も危ういわけで、下手をすれば、家族も使用人たちも路頭に迷ってしまう。この状況をどう切り抜ければと千鶴は考えたが、祖父たちでさえわからないものがわかるはずもない。
「うちら、どがぁなるんじゃろか?」
心配する千鶴に、さぁねぇと幸子は言った。
「なるようにしかなるまいね。今はできることをやるぎりぞな」
要するに、何もできないという意味だ。幸子の言葉に花江もうなずいたが、千鶴は暗い気持ちがさらに暗く落ち込んだ。
二
翌日、甚右衛門宛に一通の封書が届いた。送り主は春子の父、村上修造だ。
甚右衛門は手紙を読み終えると、トミに見せた。そのあと掃除をしていた千鶴も呼ばれて見せてもらった。花江は豆腐を買いに出ているが、いたら興味が引かれただろう。
手紙の内容は鬼よけの祠の再建についてだ。
春子が話したように、修造は千鶴が女子師範学校を退学したことのお詫びに山﨑機織を訪れていた。その時に甚右衛門は鬼よけの祠再建について、お金の寄付を申し出たそうだ。ただそれは鬼を恐れるからではなく、妙な噂の元を断つという意味だと、甚右衛門は修造に伝えたという。
しかし、村人たちは鬼の存在について半信半疑だった。鬼よけの祠も知らないので、祠の再建といっても賛同を得るのは困難だったようだ。また修造自身が鬼を信じていないので、話はなかなか進まなかった。ところが、松山の城山に魔物が現れたという話が風寄にも伝わると状況は一変した。
手紙によれば風寄でも不安が広がり、あのイノシシを殺したのも、兵頭の家を壊したのも鬼に違いないと、みんなが言いだしたらしい。そこで修造が鬼よけの祠の話を改めて村人たちにしたところ再建することが決まり、実際に再建が始まったのだという。
前の物より立派な祠が建てられる予定で、竣工式は五月三十日の大安に執り行われるそうだ。ぎりぎり梅雨が始まる前の完成になるようで、よければ甚右衛門にも竣工式に出席してもらいたいと、修造は述べていた。
「近頃なかなかええ話はないけんど、これはええ話ぞな」
甚右衛門は久しぶりににこやかな顔で言った。だが、千鶴は祠が完成すると鬼はどうなるのかと心配になった。
話を聞く者は他にはいない。通り土間を丁稚たちが行ったり来たりしているが、三人とも忙しくて千鶴たちの話を気にする暇はない。
「特高の奴らも見えんなったし、鬼けの祠がでけたら祝言を挙げるとするか」
「祝言?」
千鶴が思わず顔を綻ばせると、あんたのことやないでと、トミが笑いながら言った。祖父が言うのは母と辰蔵の祝言だと気づいた千鶴は、自分が情けなくなった。それに祠が完成するとどうなるのかという不安は変わらない。
「ほうか、千鶴にはまだ言うとらなんだか」
ほんまはもちっと早ようにするつもりじゃったがと言いながら、甚右衛門は幸子と辰蔵を夫婦にするという話を千鶴にした。
すでに知っている話を、千鶴は初めて聞いたふりをして訊ねた。
「ほの話、お母さんは知っておいでるん?」
トミと一緒にうなずいた甚右衛門は、千鶴に今の店の事情を説明し、自分に万が一のことがあったとしても、辰蔵と幸子が店を守ってくれると話した。
また辰蔵と幸子の間に子供が産まれなければ、二人の後は千鶴と忠七が引き継ぐが、子供が産まれたら、千鶴たちには新たに店を持たせると甚右衛門は言った。それはトミも了承しているらしく、甚右衛門が喋っている間、トミは横で何度もうなずいていた。
千鶴と進之丞の結婚について、甚右衛門とトミが明言したのはこれが初めてだ。千鶴は少なからず興奮したが、今の店を維持するのも大変なのに、新たな店を持たせてくれるなど、本当にできるのだろうかと訝る気持ちもあった。
一昨年の関東大地震では二十万反の伊予絣が灰となり、多くの絣問屋が廃業に追い込まれた。山﨑機織も相当の被害を受けたと聞いている。そこを何とか踏みとどまってここまで来たので、余裕などないはずである。
花江や母が言っていたように、今の伊予絣は薄利多売の商いになっていて、いくら売れても儲けは少ない状況だ。何かが起これば、直ちに店は潰れるかもしれないのだ。
それに花江の悲しげな顔が目に浮かぶと、弾んでいた千鶴の心はすぐに沈んだ。辰蔵だって母との結婚を喜んではいないだろう。
辰蔵と花江が好き合っているのを祖父母は知らないのかと思ったが、それを口にしたところで、今更どうにもならない。
「ところで、この鬼よけの祠が完成したら、まっこと鬼は封じられようか?」
祠に話を戻したトミが心配そうに言った。
恐らくなと甚右衛門がうなずくと、トミは黙ったままもう一度手紙を眺めた。
ヨネの父は鬼と鬼娘が黒船で沖へ去ったと考え、鬼が二度と村に戻らないようにと、鬼よけの祠を造った。意味とすれば、鬼を村へ入れない結界を張ったのと同じだろう
ところがヨネの父が見たのは鬼に変化した進之丞だった。進之丞は黒船で去ったのではなく、命が尽きて海に沈んだのだ。その後、進之丞は鬼として地獄へ堕ち、鬼よけの祠が壊れた時に、佐伯忠之の心を喰らう形でこの世に蘇ったのである。
この事実から考えれば、祠の力というものは鬼を近づけない結界というより、鬼を地獄へ封じ込めてこの世へ出さない封印に思える。
一方で進之丞は、あんな祠で鬼が封じられるなら苦労しないと言った。
進之丞の話では、祠を壊したのは鬼に変化した佐伯忠之であり、つまりは進之丞自身である。であれば、祠には鬼を封じ込める効力がなかったことになる。
けれども、地獄にいた進之丞が唐突に忠之に取り憑いたというのは、いささか疑問が残る。不動明王の力によって特別にこの世へ戻されたのだとしても、忠之が祠を壊したために進之丞が復活できたと見れば合点がいく気もする。
もちろん、あそこまで祠をばらばらにしたのは進之丞だろうが、初めに祠を壊したのは忠之だ。であれば、進之丞がこの世に戻ったのは祠が壊されたからと考えられる。その場合、祠が再建されれば、進之丞は再び地獄へ封印されてしまうのだろう。新たに造られる祠は前のものよりも立派らしいから、その効力も強力に違いない。
進之丞が封印されるなど絶対に認められないが、これを阻止するにはどうすればいいのかわからない。進之丞を疑うつもりはないが、万が一のことを思うと、千鶴はじっとしていられなかった。
そわそわする千鶴に落ち着くようにと注意したあと、トミは甚右衛門に言った。
「ほんで、あんたは竣工式に出んさるおつもりかな?」
「仕事の都合がつくなら出てみてもええと思とる」
甚右衛門が答えると、ほうかなとトミはため息をついた。
「どがぁしたんぞ? 何ぞ問題があるんかな?」
「ほやかて、鬼はこの子らを特高から護ってくれたんで。その鬼が封じ込められるんを、のこのこ見に行くんは義理欠いとるんやないかて思たぎりぞな」
女房の意見に、甚右衛門は憤慨した。
「何言うんぞ? 鬼は鬼ぞ。元々封じられとったんなら、もういっぺん封じるんが筋じゃろがな」
「あんたにとっては筋かもしらんけんど、うちには恩知らずに見えるで」
「何が恩知らずぞ。あげなもんがまた出て来たら、今度はどがぁなるか――」
「うちはおばあちゃんに賛成ぞな」
黙っていられず、千鶴は二人に割って入った。
「鬼はうちらに何も悪いことしとらんし、うちらを助けてくれたんよ? ほれじゃのに地獄へ封じてしまうやなんて、ほんなん恩を仇で返すんと対やんか」
「地獄へ封じられるんか?」
トミに訊かれて、千鶴は言葉に詰まった。
「たぶん、ほうやないかて思たぎりぞな」
千鶴が言い訳をすると、甚右衛門は不機嫌を隠さずに言った。
「地獄が鬼の本来の居場所なら、ほれでええやないか。何の問題があるんぞ?」
「おじいちゃんは地獄がどがぁな所か知らんけん、そげなことが言えるんよ。あげな所、鬼かておりとないけん」
思わず千鶴が言い返すと、甚右衛門は目をぱちくりさせた。トミもきょとんと千鶴を見ている。
「お前は地獄がどがぁな所か知っとるんか?」
甚右衛門に訊かれると、千鶴は返事ができずに下を向いた。トミは千鶴をかばうかのように、とにかくと言った。
「うちは祠の再建には反対ぞな。まぁ、どがぁするかは風寄の人らが決めることなけんど、そこに加わるんはようないと思わい」
二人に反対されては、甚右衛門は面白くない。
「出るか出んかはわしが決めらい。女子が口出しすることやない」
「勝手にしぃや。ほんでも鬼を怒らせたらどがぁなるか、よう考えや」
トミの言葉に、甚右衛門はふんと言って横を向いた。だが城山で特高警察の男たちがどんな目に遭わされたのかを甚右衛門は知っている。内心は穏やかでないはずだ。
裏木戸が開く音がして、すぐに花江が中へ入って来た。両手に抱えている鍋には豆腐が入っている。
「お戻りたか」
千鶴が声をかけると、花江は強張らせた顔で、いたよと言った。
「いた? 何がおったん?」
花江はちらりと甚右衛門とトミの顔を見てから、あの人だよと言った。
「あの人て?」
千鶴は誰のことかと考えたが、すぐにまさかと思った。言葉に出しはしなかったが、千鶴の顔を見て花江は黙ってうなずいた。
「ひょっとして、あの子がおったんか?」
トミが動揺した様子で訊ねると、はいと花江は小さく答えた。
「あんた、孝平が戻んて来たんよ」
トミに言われると、甚右衛門は不機嫌な顔をさらにゆがめた。
「戻んて来たも何も、ここへは入られんのじゃけん、戻んたとは言えまいが」
「ほやけど……」
「あいつはやったらいけんことをやって、ここを追わい出されたんぞ。なんぼ近所におったとしても、わしらと関係あるかい」
甚右衛門に言葉を返せず、トミは黙ったまま袖で目を押さえた。
千鶴はすぐに土間へ下りると、気にしたらいけんよと花江に言った。姿を見せた孝平のことでもあるし、祖父母のやり取りのことでもあった。
孝平に襲われた花江は何一つ悪くない。なのに、孝平が家にいられなくなったことで、花江は未だに責任を感じている。
ありがとねと花江は笑みを見せたが、やはりその表情は硬いままだ。
それにしても、孝平が山﨑機織を出てから一年近くになる。これまでずっと消息がわからなかったのに、今になって姿を見せたのには何か理由がありそうだ。
何だか嫌な予感がする千鶴は、悪いことにならねばいいがと心配になった。
三
結局、鬼よけの祠の竣工式に甚右衛門は出ないことになった。式への出席は、千鶴と鬼の関係を公に認めたことになるからだ。そのことにトミはほっとしていたし、千鶴もよかったと思った。しかし、竣工式は甚右衛門の参加に関係なく執り行われる。それが千鶴は不安で仕方がなかった。
万が一、進之丞が消えてしまうようなことになればと思うと、仕事は手につかないし、話しかけられても何を言われているのかよくわからなかった。
進之丞を人間に戻したくて、一度は井上教諭に無理をお願いし、催眠術による前世の記憶調べをしてもらった。けれど蘇った鬼の記憶が恐ろしくて、その後の調べは中断している。あれから井上教諭の所へは行かないままだ。
だが、進之丞が祠に封じられるかもしれないと思うと、どんなに恐ろしくても前世の記憶調べを続けるべきだったと、千鶴は後悔していた。ただそうはいっても、井上教諭が休みなのは日曜日だけだ。千鶴は日曜日を休めないし、教諭の所へ出かける口実もない。もう一度催眠術をかけてもらおうとしたところで、恐らく暇がなかっただろう。
何もできないまま日は過ぎていき、竣工式の日が近づいてくる。不安はどんどん膨らんで、進之丞の姿が見えないと、千鶴は居ても立ってもいられなくなった。
竣工式の日を迎えた朝、千鶴は進之丞に今日はどこにも行かないでほしいと懇願した。出かけた先で進之丞が消えてしまうのではないかと、千鶴は本気で心配していた。
しかし進之丞には仕事がある。どうしてそんなことを言うのかと問われても、千鶴は祠のことを言えなかった。言ったところで相手にされないだろうし、進之丞の言葉を信じていないと思われたくなかった。
そこへ同業組合の事務員が甚右衛門を呼びに来た。風寄の名波村から電話らしい。
電話はどこの家にもあるものではない。紙屋町では同業組合事務所に電話があり、急ぎの用事がある者は同業組合の電話を使わせてもらっていた。
甚右衛門は同業組合事務所へ行ったが、電話をかけてきたのは恐らく修造だ。祠の竣工式が始まるという知らせだろうか。それにしては少々早いように思われる。
しばらくしたら甚右衛門が戻って来た。その顔は何故か蒼く引きつっている。
「あんた、どがぁしたんね? 誰からの電話じゃった?」
トミが不安げに訊ねると、名波村の村長だと甚右衛門は落ち着きなく言った。
「村長さん? こがぁに早よに竣工式が済んだんかな?」
「ほうやない。ほの逆ぞな」
「ほの逆て?」
甚右衛門はちらりと千鶴の方を見た。
千鶴には洗濯の仕事があったが、まだ仕事には取りかからず、進之丞をつかまえたまま土間にいた。
トミがいる茶の間の拭き掃除を始めていた花江は、甚右衛門の様子を見て手を止めた。甚右衛門は花江に他の所を掃除するよう頼むと、茶の間へ上がって千鶴を呼んだ。
千鶴は進之丞の顔を見てから、あきらめてその手を離し、祖父の傍へ行った。
進之丞は帳場へ戻り、掃除をやめた花江は、千鶴の代わりに洗濯籠を抱えて奥庭へ向かった。けれど甚右衛門の声が聞こえると、勝手口を出た所で立ち止まって振り返った。
「燃えたんよ」
甚右衛門の言葉の意味がわからないトミが訊き直した。
「燃えた? 燃えたて何が?」
「何がて、決まっとろうが」
甚右衛門は怒った口調で言った。その声は怯えているようにも聞こえる。
「え? ひょっとして……」
「ほうよ。祠が燃えたんよ」
トミの顔がゆがんだ。花江は祠の再建話を知らないが、祠と聞いてやはり不安げだ。
「なして燃えるんね? 今日は天気もええし、雷が落ちたわけやなかろに」
トミが顔を強張らせながら、噛みつくように訊ねた。
「今朝方、未明のうちに燃えたらしいわい」
「なしてね?」
「燃えた理由はわからん。警察も出て調べよるそうやが……」
「誰ぞが火ぃつけたんじゃろか?」
「誰がつけるんぞ? 祠燃やして喜ぶ奴なんぞ、どこっちゃおるまい」
トミは黙り込んだ。甚右衛門も黙っている。
千鶴は状況が呑み込めなかった。祠が原因不明の火によって燃えてしまうとは、どういうことなのか。
わざわざお金をかけた祠であり、村人たちが鬼を恐れて造った物だ。村人たちに祠を燃やす理由はない。祠なんて勝手に燃える物ではないから、何者かが悪意を持って火をつけたのだろうが、いったい誰が?
「……鬼か」
甚右衛門がつぶやくと、トミは震えながらうなずいた。
「たぶん、ほうよ。他には考えられんで。鬼が怒っとるんよ」
まさかと千鶴は思ったが、可能性は否定できない。ひょっとしたら、進之丞が改心させたという鬼の仕業かもしれないのだ。もしそうであるなら、やはり祠には鬼を封じ込める力があるのか。千鶴は進之丞に確かめてみることにした。
四
「ほれはあしがしたことやないし、あの鬼もやっておらぬ」
夕飯のあと、千鶴に奥庭へ引っ張り出された進之丞は、祠の火事への関与をきっぱりと否定した。また、改心した鬼は今も自分と一緒にいると言った。
改心した鬼は前世とは違って自分の体を持っていないため、進之丞に引っつく形でいるらしい。進之丞が千鶴を想い、心配したり励ます時には、その鬼も一緒に千鶴を想い、心配したり励ましているそうだ。
しかし、その真偽は千鶴には確かめようがない。進之丞を信じたいけれど、自身も鬼になった進之丞が、その鬼をかばっているのかもしれなかった。
いつから鬼は進之丞と一緒にいるのかと訊ねると、前世からだという。実は鬼が千鶴をあきらめた時、その鬼は死んだのだと進之丞は言った。
進之丞が忠之を喰らったように、鬼は千鶴を喰らおうとした。それは千鶴の優しさを己だけのものにするためだったが、進之丞との戦いで鬼は進之丞に致命傷を与えながら、自らも大きな傷を受けた。それ故、鬼にとって千鶴を喰らうことは生きるということでもあった。それでも鬼は進之丞の説得に応じ、千鶴を手放して死を受け入れたという。
鬼は死んだら地獄へ堕ちる。ところが、この鬼は死後も進之丞の力を借りて、何とかこの世に留まっていたそうだ。だが結局は進之丞も死んでしまったために、鬼は進之丞とともに地獄へ堕ちた。そして進之丞がこの世へ再び舞い戻った時に、その鬼も一緒に引っついて来たらしい。
「そがぁなわけで、あの鬼はいっつもかっつもあしと一緒におるんよ。ほじゃけん、あしにはその鬼の気持ちがわかるんよ」
千鶴は驚いたが、改心した鬼がどうなったのかという疑問が解けた。また、これまで進之丞が説明してきたことが、作り話ではないというのもわかった。改心した鬼も確かに千鶴を見守り、千鶴の幸せを願ってくれていたのだ。
「ほうじゃったん。鬼さんはほんまにおったんじゃね。おら、てっきり進さんぎりかて思いよった」
「あしが説明しとらんかったけんな。ほれはともかく、前に申したようにあげな祠で鬼を封じることはできぬ故、あしらが祠を燃やす理由はないわけよ」
改心した鬼を久しぶりに鬼さんと呼んだものの、前世の母が鬼に殺されたことを思い出すと、千鶴は複雑な気持ちになった。
「どがぁした?」
千鶴の表情が曇ったのを見て、進之丞が心配そうに言った。
千鶴は何でもないと笑みを見せると、祠に話を戻した。
「進さんも鬼さんも関係ないんなら、なしてあの祠は燃えたろか? 進さんはどがぁ思いんさる?」
千鶴が訊ねると、進之丞は腕組みをしてふーむと唸った。
「祠が勝手に燃えるわけない故、恐らく誰ぞが火ぃをつけたんじゃろが、はて……」
「おじいちゃんらは鬼じゃて思ておいでるし、風寄の人らもそがぁ思いよろうねぇ」
不安げな千鶴を、進之丞は目だけで見た。
「ということは、ほれこそが燃やした奴の狙いかもしれまい」
「鬼が祠を燃やしたて、みんなが思うんが目的なん?」
「みんながうろたえてやっさもっさしよるんを、陰から眺めて楽しみよるんぞ」
なるほどと千鶴がうなずくと、あるいはと進之丞は続けた。
「其奴は祠が鬼を封じると、本気で思いよったとも考えられよう」
「ほれはどがぁな……」
「つまり、鬼が封じられたら困る奴がおるいうことよ」
進之丞の言葉に千鶴は眉根を寄せた。
「おらの他にもそがぁな人がおるん?」
「鬼が世間を騒がせ続けることを望みよるんか、他に企みがあるんやもしれん」
「企みて?」
「ほれはわからん。いずれにせよ、ここは様子を見守るしかあるまい」
それは確かにそうだ。見守るより他にしようがない。
「また、何ぞ悪いことが起ころうか?」
「さぁな。何があったとしても乗り越えて行くぎりぞな」
進之丞は頼もしく言った。以前よりは開き直れた姿に千鶴は少しほっとした。祠が再建されたら進之丞がどうなるのか、不安が完全に拭えたわけではないけれど、ここは進之丞を信じるしかない。
「話違うけんど、孝平叔父が戻んて来とるみたいなんよ」
孝平の話に進之丞は片眉を上げた。
「あの男か。まぁ、どこっちゃ行く当てがないんなら、戻んて来るよりほかあるまい」
「ほやけん、花江さんが心配しよるんよ」
進之丞は気の毒そうな顔で言った。
「以前のお前のように一人で外へ出るんは、しばらくは控えた方がええじゃろ」
「おらもそがぁ言うたんよ。花江さん、賢いお人じゃけん、危ない真似はせんと思うけんど、何か嫌な予感がするんよ」
「嫌な予感とは?」
「何いうんやないけんど、何とのう嫌な気がするんよ」
進之丞はため息混じりに言った。
「お不動さまは、あしらを静かにはさせてくんさらんようじゃの」
「進さんもかっとならんよう気ぃつけておくんなもしね」
「案ずるな。お前さえ無事であれば、かっとなったりはせぬ」
「忠さん、お風呂行こ」
新吉が勝手口から声をかけた。その向こうに亀吉たちの姿も見える。よしと進之丞が返事をすると、
新吉は外へ出て来て進之丞に風呂の手拭いを渡した。続いて亀吉と豊吉が出て来て、その後ろに辰蔵と弥七が続いた。
それぞれは千鶴に声をかけて裏木戸をくぐり、進之丞も出て行った。最後は弥七だったが、弥七は千鶴に恨めしそうな目を向けただけで何も言わなかった。
何か弥七の機嫌を損なうような真似をしただろうかと、千鶴は弥七を見送りながら考えた。しかし、いくら考えても何も思い当たらない。あるとすれば、進之丞と二人でいたことだろう。そんなことで一々あんな態度を見せられたのではやっていられない。
ただでも不安が続く中、千鶴は滅入った気分で家に入った。
五
六月初日、朝から雨だ。雨は昨日から降り続けている。どうやら梅雨に入ったらしい。
雨なので洗濯物は干せないが、進之丞は外には出ないで家のことを手伝ったり、丁稚たちの相手をしてやったりしていた。
結局、辰蔵と幸子の祝言は挙げていない。祠が燃えてしまったことを、甚右衛門もトミも気にしていたからだ。
二人が夫婦になる話は、鬼よけの祠の竣工式が終わってから、使用人たちに伝えられるはずだった。ところが祠が燃えてしまったので、その話は公表されないままになっていた。それを使用人で知っているのは、辰蔵本人と花江と進之丞だけだ。
この日、弥七はいつものように外へ出かけると、夕食前に戻って来た。その時に、弥七は千鶴を呼んで奥庭へ出た。雨はやんでいたが、庭はぐっしょり濡れている。
弥七が千鶴を呼ぶなんて、山﨑機織に来て以来初めてのことだ。千鶴が少し緊張したまま弥七について行くと、弥七は懐から櫛を取り出した。
「これな、ええのがあったけん、買うて来たんよ」
弥七が千鶴に手渡したのは、上等のべっ甲の櫛だ。
「これ、べっ甲やんか。なして、こがぁな物買うたん?」
驚いて千鶴が顔を向けると、弥七はうろたえながら目を伏せた。
「千鶴さんにあげよ思て買うたんよ」
「え? うちに? なしてこがぁな物をうちに買うたん?」
弥七は顔を上げると、買いたいから買うたんや――と少し怒ったように言った。
千鶴が困って黙っていると、話はほれぎりぞなと言って、弥七は家の中へ入って行った。一人残った千鶴は手の中の櫛を見ながら、どがぁしようとつぶやいた。
「千鶴ちゃん、それはまずいよ」
洗濯物を洗いながら、花江が言った。
この日は梅雨の晴れ間で、溜まっていた洗濯物を一気に洗って干す貴重な日だ。傍を亀吉たちが蔵から木箱を運び出しているので、その動きを見ながら千鶴は言った。
「まずい言われたかて、一方的に渡されてしもたけん」
隣で同じように洗濯をしながら千鶴は言った。
「別に千鶴ちゃんを責めてるわけじゃないけどさ。それは困ったことだよ」
「確かに困っとるんよ」
「幸子さんには話したのかい?」
「ほうなん、困ったわいねぇ――て言われた」
「それだけ?」
千鶴がうなずくと、花江は笑った。
「男と女の話ってむずかしいからさ。あたしも幸子さんと同じで、何も言えないよ。ただ、今の状況がまずいのは確かだね」
「忠さんには見せられんし、うち、どがぁしたらええと花江さんは思いんさる?」
「あたしだってわかんないよ。でも、千鶴ちゃんが惚れてるのは忠さんだろ?」
うんと千鶴が言うと、だったらさと花江は言った。
「そこんとこを弥さんにはっきり伝えなきゃいけないと、あたしは思うね。こんなこと言ったら相手が傷つくんじゃないかとか、相手から嫌われるんじゃなかろうか、なんて考えちゃだめなんだ。こういうことは用件だけをきっちり伝えて、あとはどうなろうと知ったこっちゃないって覚悟を決めるしかないよ」
花江が言うのは尤もだ。心に決めた相手は進之丞ただ一人である。なのに気持ちを伝えるのをためらうのは、弥七が臍を曲げたり落ち込んだりして、仕事に支障を来すことを恐れるからだ。それに千鶴も弥七といるのが気まずくなる。
「ほれにしたかて、なして今頃こがぁなことするんじゃろか?」
千鶴が進之丞と惚れ合っているのは、弥七だってわかっているはずだ。なのに弥七がこういう行動に出たことが千鶴には理解できなかった。それについて花江は言った。
「だめもとでやったんじゃないのかな?」
「だめもと?」
花江はうなずき話を続けた。
「弥さんは千鶴ちゃんが好きだったのに、それを態度に示さなかったから、千鶴ちゃんを忠さんに取られたって思ったんじゃないかな。だから、今更だけど自分の気持ちを示して、千鶴ちゃんを自分に振り向かせたかったのかも。まぁ、一か八かってやつだね」
そんな博打みたいな真似はやめてほしいと、千鶴がため息をつくと、スタニスラフが来た頃さ――と花江はスタニスラフを呼び捨てて言った。
「あの頃、千鶴ちゃんと忠さん、何か行き違いがあったんだろ?」
千鶴はぎくりとした。まさか進之丞が花江に心変わりをしたと疑っていたとは言えない。それで、ちぃとねと笑ってごまかした。
花江は細かい事情を詮索するつもりはないようで、あの時は二人の仲を心配していたと言った。千鶴は恥ずかしいやら情けないやらで、自然と目が伏しがちになる。
「あいつ、結構大胆だしさ。新聞にも千鶴ちゃんとあいつが結婚するって出てたじゃないか。正直いったら、あたしもさ。あの時の千鶴ちゃんは、あいつに心変わりしたように見えたんだ」
返す言葉もなく、千鶴は小さくなった。花江は構わず話を続けた。
「あの時に何があったのかは、どうでもいいんだけどさ。あたしが見たって、二人の間に隙間風が吹いたみたいだったから、弥さんにもそう見えたんじゃないかな」
顔を上げた千鶴に、花江は言った。
「あの時の千鶴ちゃんと忠さんの様子を見てさ、二人の仲はまだ思ったほどじゃないんだって、弥さんは考えたんだ。それで、これは自分にもまだ目があるって思ったんだよ」
「ほやけどお城山の事件の時、弥七さんはうちを鬼見るような目で見よったんよ? 花江さんも見んさったでしょ?」
千鶴は精いっぱいの反論をしたが、花江は認めなかった。
「だけどさ、弥さんはこう言ったよね。この店を守るって。確かに鬼は怖かったんだろうけど、弥さんは自分を奮い立たせたんだと思うよ。それにさ、きっとあれは千鶴ちゃんを護るって意味でもあったんだよ」
そうなのかと千鶴は驚き、さらに困惑した。また自分が進之丞を信じてさえいれば、弥七だってこうはならなかったのにと、自分の愚かさが悔やまれた。
ところでさ――と花江が思い出したように言った。
「あいつとは、その後どうなったんだい? まだ手紙のやり取りをしてるのかい?」
あいつというのは、スタニスラフのことだろう。スタニスラフからはその後も手紙が何度か届いていた。千鶴が返事の手紙を出さないから痺れを切らしているようだ。
千鶴がエレーナのために身を引いたとスタニスラフは受け止めており、千鶴の気持ちを取り戻そうと必死だった。
スタニスラフと千鶴の関係が壊れたのは自分のせいだと、エレーナは自分を責め続けているそうで、母を助けるためにも返事が欲しいとスタニスラフは訴えていた。
本当は今すぐ松山へ行きたいけれど、特高警察が心配で許してもらえないと、スタニスラフは残念な気持ちを綴っていた。だから、せめて千鶴の手紙が欲しいと言うのだが、これについても千鶴は悩んでいた。
その話をすると、花江は笑いながら千鶴に同情した。
「あっちもこっちも、千鶴ちゃん、もてもてだね」
からかう花江に、やめてやと千鶴は口を尖らせた。
「うち、ほんまに困りよるんよ」
「そうだったね、ごめんごめん。でもさ、ほんとに千鶴ちゃん、引っ張りだこじゃないの。千鶴ちゃん、自分に自信がなかったみたいだけど、千鶴ちゃんが気になる人間は結構いるんだね」
確かに春子や静子も特別に思ってくれていた。伯爵夫妻だって歓迎してくれた。差別する人間は決して少なくないけれど、そうではない人たちも案外いるのかもしれない。
だが、それとこれとは話が別だ。弥七にせよスタニスラフにせよ、向こうの気持ちを受け入れることはできないのだ。
洗った着物を搾りながら花江は言った。
「そっちにしたって、自分の気持ちをちゃんと伝えないとね。こんなこと言ったらどうなるんだろう、なんて考えてたら、いつまでもずるずるいっちゃうからね」
千鶴も洗った着物を搾って言った。
「花江さんの言うとおりじゃね。はっきり言うてあげんのは、思いやりとは違うもんね」
「そうだよ。言いにくいのはわかるけど、言うべき時には言わないとね」
花江は微笑むと、搾った着物をかごに放り込んだ。
六
「話は変わるけどさ、風寄の燃えちまった祠だけど、あれからどうなったんだい?」
次の着物を洗いながら花江は言った。
鬼よけの祠が燃えた事件は新聞の記事にもなった。世間がこの事件をどう見ているのかは知らないが、花江はこの事件と城山の事件が関係あると考えていた。
千鶴は搾った着物をかごに放り込み、さぁねぇと言った。
「おじいちゃんも何も言わんし、向こうからも何も言うて来んみたいなけん、どがぁなっとるんかわからんね」
「別に変わったことは起こってないんだね?」
「たぶんね」
「そんならいいけど、でもやっぱり気味悪いよね。このまま何も起こらなければいいんだけど……」
千鶴はうなずいたものの、花江が言うように祠が燃えてしまったのは不気味だし、誰かが何かを企んでいる気もして不安になる。けれど一方で、進之丞を救うべく、前世の記憶をもう一度調べる機会を与えられたようにも思えている。
進之丞が地獄へ戻されるのではないかと恐れるのは、もうたくさんだ。前世の記憶を探るのは怖いけれど、そんなことは言ってられない。
二人は黙って次の着物を洗い始めたが、花江が手を止めて言った。
「鬼ってさ、ほんとのところは何なんだろうねぇ?」
千鶴も考えたことがなかった。鬼とはいったい何なのか。進之丞が鬼になったのだから、鬼は元は人間だったわけだ。とはいえ、何故進之丞が鬼になったのかは依然として謎だ。また鬼がどういうものなのかもわかっていない。
鬼とは何なのだろう。千鶴は手を止めて、鬼になった進之丞のことを思い浮かべた。
進之丞は鬼に父を惨殺され、慈命和尚を救おうとして、殺したくもない村人たちを手にかけた。結局、慈命和尚は亡くなり、夫婦になるはずの千鶴が鬼に攫われた。
幸せは目の前にあった。なのに、それを手にする直前にすべてを鬼に奪われたのだ。己のことしか考えない身勝手な鬼と対峙した、進之丞の胸中はいかなるものだったのか。
千鶴は進之丞の心の内を読み解きながら喋った。
「鬼はな、がいな怒りで人間が変化したもんなんよ。がいな怒りいうても、ただの怒りやないよ。口では言えんような悲しみ……、憎しみ……、ほれと……絶望が混ざった怒りぞな。やけん鬼は恐ろしいんやけんど……」
横にいる花江は手を止めて驚いた顔をしている。だけど進之丞の心を説明するには、これではまだ言葉が足らない。千鶴は話を続けた。
「鬼はな、そがぁな自分が悲しいし寂しいんよ。ほれに……、自分を憎んどる。鬼になった自分を憎みよるんよ……。ほれで救いを求めとるんやけんど……、どがぁしたらええんかわからんし、誰っちゃ助けよとしてくれん。みんな鬼は怖いけんな。ほじゃけんな、単に鬼を怖がるんやのうて、なしてその鬼は鬼なんかて考えてやって、わかってあげるんが大事なんやなかろかて、うちは思うんよ」
やっと全部が言えたと思った千鶴に、花江は感動した顔で言った。
「千鶴ちゃん、それ、どこで聞いたんだい?」
「別に聞いたんやのうて、そがぁ思たぎりぞな」
「自分で思ったって言うのかい? 凄いじゃないか」
花江は感心したが、進之丞のことを考えていたら自然に出て来た言葉だ。
進之丞は多くの人を殺めたために鬼になったと言った。だが事実はそうではなく、今の自分の言葉の中に真実が隠れていると、千鶴は考えていた。といっても、そこに隠れているであろう真実が、千鶴にはまだわからなかった。
千鶴を攫った鬼が求めていたのは、千鶴の優しさだ。千鶴を喰らってその優しさを手に入れようとしたのも、結局は救いが欲しかったのだ。
きっと進之丞も救いを求めている。だけど、それは地獄から抜け出すことではないし、人間に戻ることでもない。どちらも救われた結果であって、救いそのものではないのだ。大切なのは、何が救いになるのかである。
「ほうよ、ほうなんよ」
千鶴が叫びながら立ち上がったので、花江は驚いた。
「何だい何だい? 何がそうなんだい?」
千鶴は花江を見下ろしながら言った。
「鬼は救いを求めとるんよ」
「さっき自分でそう言ったじゃないか」
「ほうなんやけど、ほうなんよ」
「もう千鶴ちゃんが何言ってんだか、わかんなくなっちまった」
花江はまたごしごしと洗濯を始めた。千鶴はその横で立ったまま考えた。
鬼は救いを求めているのに、何が救いなのかは鬼自身わかっていない。どうすればいいのかが鬼にもわからないのだ。だけど、進之丞は何が救いなのかがわかっているのではないか。千鶴はそんな気がした。
では、わかっているのに鬼のままでいるのはどうしてなのか。その理由は自分にあると千鶴は思った。
進之丞はいつも千鶴の幸せを考えている。己が救われるより千鶴の幸せが優先なのだ。
まずは千鶴の幸せを確かめてからというのであれば、千鶴が幸せになれば進之丞は救われるという意味になる。そうであるなら問題はない。二人で幸せを目指して突き進めばいいだけだ。しかし進之丞の様子を見る限り、そうではなさそうだ。
どういうことかはともかくとして、進之丞が救われるためには千鶴の幸せが犠牲になる。もしそうであれば、進之丞は決して救われたいとは思わない。そもそも千鶴が不幸になれば進之丞が救われるというのも妙な話だ。進之丞が救われて人間に戻れたなら、幸せが犠牲になるどころか、それこそ幸せなことだ。
一度はわかったつもりになっていたが、千鶴の心は急速にしぼんだ。結局は何もわかっていなかった。それでも、もう少しで答えが見つかりそうな気がしていた。
花江が洗濯をする横で、千鶴は立ったまま顎に手を当てた。どうしたんだろうという顔で亀吉たちが通り過ぎても、千鶴の頭は止まらない。
千鶴を襲った鬼は、千鶴の優しさが欲しかった。あれも本当は救いを求めていたのだとすると、優しさは救いと関係していると思われる。
しかし、優しさそのものが救いというのではないようだ。もし優しさが救いとなるのなら、これだけ優しい進之丞や、進之丞と心を一つにしているという鬼は、すでに人間に戻されているはずだ。
これまで鬼が行った悪事や非道な行為が、救いの邪魔をしているようにも思えるが、それでは未来永劫に鬼は救われない。それは全ての者を正しい道へ導くという不動明王の力に、限界があるということになってしまう。
千鶴は拳を額に当てて答えを求めた。
たとえ鬼であっても、必ず救いはある。絶対にある。救いがあれば、鬼は人間に戻れる。逆に考えれば、救いを失った人間が鬼になるのか。だとすれば、進之丞は何を失ったのだろう。人間であるために必要なもの、それはいったい何なのか。
やはり進之丞が鬼になった場面の記憶が必要だ。その時に進之丞が何を失ったのか。それを知ることは、進之丞を救う大きな手がかりになるに違いない。
そのためにはもう一度井上教諭を頼って、前世の記憶を調べる必要がある。どんなに鬼の記憶が恐ろしくても、進之丞のためにやらねばならない。
自分の洗い物を済ませた花江は、千鶴がまだ洗っていない着物を自分のたらいに移して洗いだした。それにも気づかないまま、千鶴は進之丞の救いについて考え続けた。
白い靄
一
「弥七さん、せっかくなけんど、これ、うち、もらえんぞな」
弥七を奥庭へ呼んだ千鶴は、先に弥七から渡されていたべっ甲の櫛を、弥七に返そうとした。しかし弥七は受け取らず、何故もらってくれないのかと理由を質した。
千鶴は少し迷ったあと、受け取る理由がないと言った。
「これが饅頭やっても、受け取る理由がない言うて断るんか?」
「饅頭ぐらいならもらうけんど、べっ甲の櫛は高過ぎやで。ほれに櫛は女子にとって特別な物じゃけん、そがぁ簡単にもらう物やないんよ」
「じゃったら、どがぁしたらもろてくれるんぞ?」
弥七は意地でも受け取らせたいらしい。だけど、どうしたって千鶴はもらうつもりがない。どう話せばわかってもらえるのかと悩んだが、やはり花江に言われたとおり、はっきり伝えるしかないようだ。
「特別な物いうことは、うちと弥七さんの関係が特別やないといけんいうことぞな」
「忠七やったら受け取るんか?」
弥七はにらむように千鶴を見ていた。その目のいろは明らかに進之丞への嫉妬だ。
「忠さんはこがぁなことはせん」
「こがぁなこと?」
「物で女子の気ぃ引くような真似はせんて言うとるんよ」
弥七は半分開いた口を動かそうとしたが、口元が震えるばかりで声は出なかった。
千鶴の手から櫛を奪い取った弥七は、肩を怒らせながら家の中へ入って行った。千鶴はとても嫌な気分だったが、それでもすっきりした気もしていた。
このあと弥七がどうするのかは弥七が決めることだ。もし店を辞めると言われたら祖父母は困るだろうが、その時はその時だ。場合によっては、自分が弥七の代わりをしようと千鶴は考えていた。
弥七が姿を消した勝手口を見つめながら、千鶴は息を吐いた。次はスタニスラフだ。
スタニスラフにどう伝えようかと、鉛筆を手に持ちながら千鶴はいろいろ考えた。
曖昧な表現をすれば再び誤解を招く。スタニスラフが傷つくかどうかは二の次で、とにかく言いたいことをはっきり伝えねばならない。そうは思っても、文章にするのはやはりむずかしい。
これまでも自分の気持ちはお伝えしたつもりでしたが、誤解をされておいでるようなので改めてお伝えします――と前置きをしてから、自分には好きな人がいて、その人と結婚することになっていると千鶴は書いた。
その相手は山﨑機織で働く人で、将来は二人で店を継ぐことになっているとまで綴ったが、果たしてスタニスラフが納得してくれるかはわからなかった。
さらに、あなたとは一緒にはなれないし松山も離れないと伝え、あなたにはもっと素敵な人が見つかるはずだから、自分のことは忘れてほしいと書いた。しかし、まだ書き足らない。このままでは、これまでと変わらないように思える。
何が足らないのか。それはスタニスラフに対して、やめてほしいという強い言葉だと千鶴は考えた。それで最後に、手紙を送って来られても困るので、もう送って来ないでほしいし、自分が書く手紙はこれが最後だと書き添えた。
これでスタニスラフは拒まれている気がつくだろう。スタニスラフの悲しむ顔が思い浮かぶと罪悪感を感じるが、これでいいと自分に言い聞かせて千鶴は手紙に封をした。
その日の夕方、手紙は札ノ辻にある郵便箱へ投函した。もう郵便局へ行くほどの想いはなかった。郵便箱に手紙を落とし入れながら、千鶴はスタニスラフが自分をあきらめてくれることを願った。また、これで進之丞のことに専念できると気持ちを新たにした。
鬼の救いが何であるのか、未だに答えは見い出せていない。
前世で千鶴を攫おうとした鬼が、千鶴の優しさが欲しかったという事実は、救いを見つける大きな手がかりに思えた。しかし千鶴が鬼に優しくしても、あるいは鬼が千鶴に優しくしても、鬼の罪は許されない。
優しさのさらに向こうにあるものが、千鶴にはわからなかった。それでも進之丞を人間に戻す手がかりを手に入れたことで、千鶴は前向きになっていた。
千鶴が家に戻ると、茶の間ではトミが縫い物をしていた。甚右衛門は組合事務所へ出向いている。トミに声をかけたあと、千鶴は花江と一緒に家事の仕事を始めたが、頭の中はずっと進之丞のことを考えている。
刻んだ菜っ葉と豆腐を竈に載せた大鍋に入れたあと、千鶴は竈の火に火吹竹で息を送り込みながら、ひょっとしてと思った。
進之丞は自身が鬼になったために、鬼を説得することができたと言った。千鶴はその話を、進之丞が図らずも鬼になってしまい、結果的に相手の鬼を説得できたと受け止めていた。だけど、本当にそうなのかと今は思い直している。
人が時に鬼になってしまうことがあっても、何も好き好んで鬼になるわけではない。いつの間にか鬼になってしまい、そのことで苦しむのだ。だから、わざわざ自分から鬼になる者などいない。けれど進之丞の言葉を改めて思い返してみると、進之丞は自ら進んで鬼になったのではないかと思えてくる。
鬼は力尽くで言うことを聞かせようとしても無理だと、慈命和尚は進之丞に言った。千鶴を救うためには、鬼を説き伏せるしかないと和尚は告げたのだ。といっても、鬼は人の話になど耳を貸さない。では、どうすれば鬼を説き伏せられるのか。
やはり進之丞は鬼を説得するために自ら鬼になったのだと千鶴は思った。しかし、どうやって鬼になったというのだろう。なろうと思ってなれるものなのか。
「千鶴ちゃん、お鍋が沸いちまうよ」
七輪で鰯を焼いていた花江に声をかけられて、はっとなった千鶴は鍋を見た。鍋の菜っ葉はすでに煮え、湯の動きが速くなっている。
千鶴は急いで味噌を鍋に入れると菜箸で溶いた。そうやって手を動かしながらも、頭の中は進之丞が鬼になった状況を考えている。
進之丞の話によれば、進之丞と鬼は死闘の末、双方ともに瀕死の重傷を負ったという。しかし鬼は千鶴を喰らうことで死を免れることができる。一方、進之丞は迫る死から逃れる術がない。進之丞の胸中は怒りと絶望でいっぱいだっただろう。その絶望と怒りが進之丞を鬼に変えたのだろうか。
けれど極限の怒りで鬼になるのであれば、戦争や犯罪で不当に命を奪われた者たちは、みんな鬼になるはずだ。世の中は鬼だらけでなければいけないが、そうはなっていない。
「ほら、お鍋が吹いてるじゃないか!」
またもや花江に言われて千鶴は我に返った。見ると、味噌汁がぼこぼこと沸騰している。味噌を入れる前に火を消せばよかったのに、ぼんやりしてしまった。千鶴は大急ぎで竈の薪を火消壺に入れたが、鍋の中はまだぐつぐつと煮立っている。
「だから言ったのに。味噌汁作りながら何を考えてたのさ」
花江が焼いた鰯を皿に載せながらじろりと見た。千鶴は小さくなって、ごめんなさいと言った。トミは縫い物の手を止めて呆れた顔をしている。
「ちぃと考え事をしよったんよ」
「だからさ、何を考えてたんだい?」
えっと――と千鶴は鍋に目を落とした。鬼のことを考えていたとは言えない。
「花江さんから前に聞いた東京の味噌汁が、なしてこっちの味噌汁と違て甘ないんかいうことぞな」
「へぇ、それで理由がわかったのかい?」
「ほれはな、ほれは、あの……味噌が違うけんよ」
へ?――と不意打ちを喰らった顔をした花江は、すぐに爆笑した。
茶の間から、痛っという小さな叫び声が聞こえた。再び縫い物を始めていたトミも、思わず噴き出して針で指を突いてしまったようだ。
花江は少しだけトミを気遣ったあと、すぐに千鶴に向き直った。
「味噌汁の味が違うのは、味噌が違うから? そんなの当たり前じゃないか。そんなことを真面目に考えてたのかい?」
そうではないとは言えずに、千鶴が口をすぼませて黙っていると、花江は笑いながら言った。
「千鶴ちゃんて、ほんとに面白い娘だよね。あたし、そんな千鶴ちゃんが大好きさ。でもさ、味噌汁はきちんと作っておくれよね」
千鶴が口をすぼませながらうなずくと、花江は帳場へ昼飯の準備ができたと知らせに行った。その後ろ姿を見送りながら、千鶴はまた進之丞と鬼のことを考えた。
もしかしたら進之丞は鬼の呪いを受けたのだろうか。だけどそうであるなら、互いの心を通わせるほどの仲になった今、鬼は呪いを解いているだろう。それに呪いによって相手を鬼にする力があるならば、心を入れ替えた鬼は自分を人間に戻しているはずだ。
それにふと思ったのが、そもそも鬼が自分を喰らうことができたのだろうかということだ。進之丞は鬼は心が穢れた者にしか取り憑けないと言った。だから千鶴には取り憑けないということなのだが、それでは鬼は千鶴を喰らうことはできない。
それについて千鶴はまだ進之丞から話を聞かされていない。実際に鬼は千鶴を喰らおうとしたのだから、何か方法があったのだろうが、ただの無鉄砲だったとも考えられる。無鉄砲であんなことをしたのだとすれば堪ったものではない。
それにしても、どうして進之丞は自身が鬼になった時のことを、正直に話してくれないのだろうか。恐らく気分が悪くなるような話なのだと思われるが、喋ってくれない以上は自分で前世の記憶を探るしかない。
花江に呼ばれて、帳場から亀吉たちが嬉しそうに走って来た。その後ろに辰蔵と弥七が続く。進之丞は甚右衛門を呼びに行ったのだろう。少しして戻った甚右衛門のあとについて来た。幸子もちょうど戻ったところで、裏木戸から勝手口へ入って来た。
みんなに声をかけながら、千鶴は井上教諭に早く会いに行かねばと考えた。進之丞の言葉を信じれば、鬼よけの祠が新たに造られたとしても心配ない。それでも万が一という想いが千鶴を不安にさせている。だから早く進之丞を人間に戻したいのだが、井上教諭に会うことはままならない。
甚右衛門が茶の間に上がると、進之丞と弥七が甚右衛門とトミの箱膳を運んだ。
その間に花江にご飯と漬物と鰯を載せてもらった亀吉が来ると、千鶴は亀吉からお椀を受け取って味噌汁を入れた。今は考え事より飯が先だ。すると、花江が楽しげに亀吉に声をかけた。
「今晩の味噌汁は、よーく温めてあるから気をつけなよ」
亀吉は入れてもらった味噌汁に顔を近づけ、ほんまやと言った。後ろの新吉や豊吉が、味噌汁を作り損じたのかという顔をしている。
「梅雨時は案外冷えるけんね」
千鶴が素知らぬ顔で新吉のお椀を受け取ると、そうだよねと言って花江が笑った。
二
毎日のように雨が続いている。七月のこの日は正清伯父の月命日だ。
月命日になると、千鶴は祖母と一緒に雲祥寺へ墓参りに訪れていた。ところがこの日、トミは体調を崩して離れの部屋で床に臥せっていた。それで今回は千鶴が一人で正清伯父の墓参りへ行くことになった。
一人で家を抜け出る機会など、そう訪れるものではない。しかも雲祥寺は庚申庵の目と鼻の先だ。なのに、この日は日曜日ではなかった。井上教諭は授業があるので、庚申庵を訪ねたところで教諭はいない。
どうして今日は日曜日でないのかと、千鶴はとても残念に思いながら家を出た。
雨はさほどひどくないが、傘を打ち鳴らす雨音は、千鶴の憂鬱な心に響いてくる。いつあがるかわからない雨模様は、千鶴や進之丞の将来を暗示しているようだ。
雲祥寺の墓地を訪れた千鶴は、ここで進之丞と話をしたことを思い出した。進之丞が鬼であると知り、そのことを進之丞に告げた日の夜、ここで二人で泣いたのだ。
伯父の墓参りではあるが、千鶴は伯父を直接知らない。墓の前で手を合わせながらも、頭の中は進之丞のことばかりを考えていた。
お参りを終えると、千鶴は住職に会って伯父のためにお経を上げてもらい、少しだけお喋りをして雲祥寺を後にした。井上教諭がいないのはわかっていたが、教諭に未練がある千鶴の足は自然に庚申庵へと向いた。
笹垣に挟まれた格子戸の前に立ち、千鶴は中の様子を窺った。しかし、何も物音は聞こえない。聞こえるのは千鶴の傘を打ちつける雨音と、中の小池で鳴く蛙の声ばかりだ。
「井上先生」
千鶴は声に出して教諭を呼んでみた。もちろん返事はない。やはりいないのかと、あきらめて帰ろうとしたら、傘を差した一人の男がうつむき加減に近づいて来た。傘に隠れて顔はよく見えない。
千鶴に気がついたのか、男は傘を持ち上げて顔を上げると、あれ?――と言った。驚いたことに、男は井上教諭だった。周りは雨だが、千鶴の胸には晴れ間が広がった。
「山﨑さんじゃないか。どうしたんだい?」
「先生! 先生こそ、今日は学校へおいでてたんやなかったんですか?」
「三日前から休んでたんだ」
「お休みですか?」
「高松の叔父さんが亡くなってね。昨日がお葬式だったんだ」
高松の叔父さんというのは、風寄へ向かう客馬車に乗っていた、あの山高帽の男だろう。女の色気には弱いが、井上教諭にとっては親代わりの人物であり、唯一の肉親だったようだ。その叔父の死は教諭を打ちのめしたに違いない。千鶴と喋っている間も、教諭は元気がなかった。
亡くなった理由を訊ねると、授業中に胸を押さえて倒れたらしいから、恐らく心臓だと思うと教諭は言った。千鶴が教諭を慰めながら遠い高松までの旅をねぎらうと、教諭はありがとうとにっこり笑った。
「君のお陰で、前世や来世というものが信じられるようになったから、叔父さんの死は悲しいけど、幾分救われた気持ちもあるんだ。叔父さんもいろいろ苦労したけど、きっと来世ではもう少し楽ができるだろうなってね。君には本当に感謝してるよ」
そげなこと――と千鶴は目を伏せてはにかんだ。井上教諭には迷惑をかけたと思っていたので、感謝されたことが嬉しくもあったし安堵もした。だが本題はそこではない。
「ところで、僕に用事があったのかな?」
教諭に訊かれて、千鶴は顔を上げた。でもすぐに下を向き、実はと言った。
「先生にご迷惑なんはわかっとりますけんど、もういっぺん前世を調べてもらえたらと思いまして……」
「えぇ? また調べるのかい?」
案の定、井上教諭は困惑のいろを浮かべた。しかし、引き下がるわけにはいかない。千鶴が黙っていると、取り敢えず中へ入りなさいと教諭は言ってくれた。
「もう、こないだので懲りたんじゃなかったのかい?」
火鉢に火を熾して鉄瓶を載せたあと、井上教諭は疲れたように腰を下ろしながら言った。実際、教諭は長旅で疲れているはずだ。千鶴は恐縮しながら話した。
「ほうなんですけんど、やっぱし調べんといけんので」
「どうしてそこまでやらないといけないんだい? たとえ前世で君が鬼に襲われたのだとしても、それは前世の話だろ?」
「うちはどがぁしても鬼のことが知りたいんです」
教諭は息を吐くと、僕は気が乗らないなと言った。
「正直いって僕は叔父の葬儀でくたびれてるし、前世を調べるなんて何が起こるかわからないからね。こないだだって君の混乱ぶりに僕は相当焦ったんだ。もうあんなのは御免被りたいよ」
自分が無理を言っているのはわかっている。だけど頼れる人は井上教諭しかいない。
千鶴が下を向いて黙っていると、弱ったなぁと井上教諭は言った。
「確かに前世というものがあったことや、鬼が本当にいたことには驚いたし、興味も引かれたよ。でも、そこは人間が立ち入っちゃいけないんじゃないかって、僕は思うんだ」
返す言葉がなく、千鶴は項垂れたまま涙ぐんだ。
「うちには先生しか……、頼れるお人がおらんのです……」
井上教諭は少しうろたえながら言った。
「僕にはわかんないよ。どうしてそこまで前世の恐ろしい記憶を知りたがるんだい? 今そのことで何か困ってるならともかくさ。まさか、前世の鬼が今世にも現れたってわけじゃないんだろ?」
千鶴は返事ができない。すると、井上教諭ははっとした顔になった。
「いつだったか城山に魔物が出たって話があったけど、もしかしてあれが何か関係しているのかい?」
そうですとは言えなかった。だが、教諭は沈黙を肯定の返事と受け取ったようだ。
「そうなのか。あれは鬼の仕業なんだね。だとしたら、確かに怖いよね。だけど、そのことと前世の記憶がどう関係あるのかは、話してもらえないのかい?」
すみませんと千鶴は頭を下げた。
井上教諭はしばらく黙っていたが、わかったよと微笑んだ。驚いて千鶴が顔を上げると、教諭はにこやかに言った。
「君の望みどおり、もう一度前世の記憶を探ってみよう。でもその前に、まずお茶を一杯飲んでからだよ」
はい――と千鶴は小さいが興奮した声で返事をした。
井上教諭は火鉢の所へ行くと、鉄瓶の湯が沸いていないか確かめた。
三
暗い部屋の中、机に置かれたろうそくの炎を見つめながら、千鶴はぼんやりした意識になっていった。
井上教諭に誘導されて、千鶴の意識は法生寺の庫裏が燃える少し前に飛んだ。
千鶴は庫裏の中で慈命和尚と向き合って座っていた。夕方、父の船でロシアへ行くと、和尚に涙ながらに訴えているところだ。
――お父さんの船でロシアへ行くって、どういうこと?
教諭の声が聞こえると、千鶴は慈命和尚と喋る自分を再体験しながら教諭に説明した。教諭と話す千鶴の意識は、当時の千鶴に戻っていた。
「今日の日暮らめに、おらのとっとが船で迎えにおいでるんよ」
――君のお父さんは、どうして君がそこにいることがわかったのかな?
「とっとは商いをしにおいでてて、三日前に三津ヶ浜まで来んさったそうなけんど、ほん時に、おらのことを知ったんぞなもし」
――三津ヶ浜で、どうやって君のことを知ったの?
「とっとの船に近づいて来んさったお人に、おらのことを訊いたんぞなもし」
――その人はどうして君のことを知ってたんだろうね。
「おらが進さんと夫婦になるいう話が松山に広がって、ほれで三津ヶ浜でも噂になっとったみたいぞなもし」
――そうなのか。ところで、しんさんって誰のこと?
「風寄のお代官の一人息子で、佐伯進之丞というんぞなもし」
――だから進さんなのか。でも、君は進さんのお嫁になるのに、お父さんの船でロシアへ行くのかい?
教諭の質問に千鶴は答えず、しくしく泣いた。
――どうしたの? 何を泣いてるの?
「進さん……、おらに嘘こいた……」
――嘘? それはどういうこと?
「進さん……、おらを嫁にする言うたのに……、他のお武家の娘と夫婦になるて……。おら、進さん、信じよったのに……。おらには進さんぎりじゃったのに……」
――君が一緒になるはずだった進さんは、君を裏切って他の娘と一緒になるんだね?
千鶴は泣きながらうなずいた。
――それで君はお父さんの船でロシアへ行こうとしてるのか。
「進さん、とっとの手紙も隠しよった……。おらに宛てた手紙じゃったのに、おらに黙って隠しよったんよ……」
――その手紙のことを、君はいつ知ったの?
「さっき」
――進さんに手紙を見せてもらったの?
「進さんの懐から落ちた」
――それじゃあ、君が怒るのも当たり前だね。
教諭の声が聞こえたあと、千鶴の目に映っている庫裏では、突然境内が騒がしくなった。多くの人間がやって来て、鬼娘出て来いと怒鳴っている。
――どうしたんだい?
「村の人らが、おらを捕まえに来た」
――君を捕まえに? どうして?
「わからん。おら、何も悪いことしとらん……。ほんでもみんな、おらのこと、鬼娘て叫びよるけん、おらを殺すつもりなんかもしれん……」
慈命和尚が表に面する障子を開けた。境内には何人もの男たちがいて、手に手に鍬や鎌、棒などを持っている。
そこへ年老いた寺男の仁助が、何をしとるかと飛び出した。すると男たちは話もせず、いきなり仁助を袋叩きにした。仁助は血だらけで倒れたまま動かなくなった。
前世の千鶴の驚きと恐怖が、今世の千鶴を引き込んだ。井上教諭が話しかけているが、千鶴は喋る余裕がない。
何をするかと、慈命和尚が男たちを叱りつけた。だが男たちは平気な顔で、和尚に鬼娘を渡せと言い返した。
普段の村人たちは慈命和尚を敬っており、こんな振る舞いや物言いを見せたりはしなかった。また和尚は村人たちに千鶴が鬼の娘などではなく、異国の血を引いただけのみんなと同じ人間だと諭してきた。それで多くの村人たちは、千鶴のことを見下しながらも受け入れてくれていた。
しかし今の男たちにその姿勢はない。突然こうなったのは狂ったとしか思えない。それでも慈命和尚は敢然として、このようなことをする理由を男たちに問い質した。すると男の一人が、お代官が鬼に八つ裂きにされたと言った。
千鶴は全身に鳥肌が立った。鬼が来たのだ。母を殺したあの鬼が来たのだ。
――どうしたんだい? 何があったの?
教諭の声が聞こえた。千鶴は恐怖でうまく答えられない。
「鬼……、鬼が、おらを捕まえに来た……」
――鬼だって? 鬼が現れたのかい?
「かっか殺した鬼が来た……。おらのこと殺しに来た……」
千鶴は恐怖に戦きながら、進之丞の父が鬼に八つ裂きにされたという話に泣いていた。
進之丞の裏切りには、進之丞の父が絡んでいる。けれど千鶴が知る進之丞の父は、立派で優しい侍だ。その進之丞の父が八つ裂きにされたという話は、千鶴の想像を超えた恐ろしく悲しいことだった。
だけど悲しんでいる暇はない。母と代官を殺した鬼が迫っているのだ。すぐにでも逃げねばならないが、目の前に村の男たちが集まって、やはり千鶴を殺そうとしている。
男たちは和尚が制するのも構わず、部屋になだれ込んで来た。あっという間に千鶴と和尚は縛り上げられ、外へ引きずり出された。
井上教諭が何か喋っているのは聞こえているが、千鶴の心は前世の千鶴と一つになり、完全に当時の世界に入り込んでいた。
四
「お前、お代官の息子に捨てられたんじゃろげ!」
男の一人が罵るように言った。
千鶴は男の言葉に驚いた。進之丞に裏切られたと知ったのは、ついさっきのことだ。代官屋敷の女中が知らせに来たあと、訪ねて来た進之丞を問い詰めたところである。なのに村の者が知っているということは、この話はすでに村中の噂になっていたわけだ。
「なして、そがぁなこと……」
「捨てられた恨みで仲間の鬼呼んで、お代官を殺めたんじゃろが!」
「おら、そがぁなことせん!」
「嘘こけ! お代官は死んだんぞ。あげにええお方をあがぁな悲惨なお姿にしおって!」
「おら、殺めたりしとらん! おらが殺めたんやない!」
やかんしい!――と男の一人が千鶴を張り倒した。やめよと叫ぶ慈命和尚に、男たちは侮蔑の眼差しを向けた。
「和尚さんよぉ、まだ、己が騙されとるんに気ぃつかんのかな」
「騙されとるんは、お前たちの方じゃ!」
男たちはへらへら笑うと、どうやって千鶴を殺すかと相談を始めた。
倒れた千鶴の目の前に、血に染まりながら虚空を見つめる仁助の顔があった。すでに事切れているようだ。
男たちはできるだけ千鶴を苦しめるよう、残虐な殺し方をああだこうだと言い合っていた。和尚は懸命に縄を解こうと藻掻いていたが、きつく縛られた縄が解ける様子はない。恐怖と絶望に包まれた千鶴の胸の中で、心臓が和尚のように藻掻いている。
「お前さん方、何をしよるんかな」
山門の方から大きな声が聞こえた。
男たちは一斉にそちらを見た。千鶴と和尚も同じ方を向いた。
そこに立っていたのは、一人の年老いた尼僧だった。
尼僧が歩み寄ると、男たちは左右にのいて道を空けた。
「おやまぁ、和尚さまと若い娘を縛り上げとるんか……。お前さん方は盗賊しよんかな。ん? この娘はちぃと変わっとるの」
千鶴の顔をのぞき込む尼僧に、男の一人が訴えた。
「尼さま、聞いてつかぁさい。この娘は鬼娘で鬼の仲間ぞなもし。こっちの和尚はこいつに騙されて操られとるんぞな」
「この娘が鬼の仲間とな? ほうは見えんがの」
千鶴に同情的な目を向ける尼僧に、男は言った。
「いんや、尼さま。こいつは鬼娘ぞなもし。こいつはお代官の息子に捨てられた腹いせに、仲間の鬼を呼んでお代官を八つ裂きにしたんぞなもし。ほじゃけん、みんなで捕まえて成敗しようとしよったとこぞなもし」
千鶴は違うと言ったが、もう一人の男も前に歩み出て証言した。
「こいつは普段から、この村に大水やら流行病やら呼び込んで、村の者の命を奪いよったんぞなもし。ほれで墓に埋めた骸を掘り返して、その肉を喰うんぞなもし」
「おら、そげなことはしとらん!」
千鶴が叫ぶと、お前は黙ってろと近くの男が千鶴を蹴った。尼僧はその男をなだめると、お前たちの言い分はわかったと、男たちに言った。
「ほれでもな、そがぁな者であればこそ尚更救いが必要ぞな。この娘はわたしが引き取とって改心させよわい」
ほんなぁと男たちが文句を言うと、黙らっしゃい!――と尼僧は男たちを一喝した。
「この娘を殺めたら、この村の者は鬼に皆殺しにされよう。ほれでも構んのか!」
怯んだ男たちに、尼僧はさらに言った。
「お前たち、お代官の死に様を見たじゃろが。己も同じ目に遭いたいと申すか!」
さらに怯んだ男たちは、わかったなと言う尼僧に跪いて両手を突き、深々と頭を下げた。尼僧は満足げにうなずくと、倒れたままの千鶴の傍へ来て、お前を助けてやろわいと小声で言った。地獄に仏とは、まさにこのことだ。
千鶴が縋る目を尼に向けると、尼僧はにっこり微笑んで千鶴を見つめ返した。その目を見ていると、自分にはこの人しかいないと千鶴は思うようになった。
尼僧が千鶴を抱き起こして縛った縄を解いても、男たちは跪いたまままま動かない。千鶴が自由になっても声の一つも上げず、まるで石仏のごとくじっとしている。明らかに異様な光景だが、千鶴はその様子を見ても何とも思わなかった。
「さて、これよりわたしはこの娘と二人で庫裏に籠もる。お前たちはそこで邪魔が入らんようにしよれ」
尼僧が命じると、ははぁと男たちは同じ格好のまま返事をした。満足げに笑った尼僧は、千鶴を庫裏へ誘おうとした。
「待て!」
慈命和尚が叫んだ。
「お前は鬼じゃな。お前こそが佐伯どのを殺めた鬼であろう!」
尼僧は和尚を振り返ると、にたりと笑った。
「さすがは和尚。じゃが、そげな姿じゃ何もできまい」
慈命和尚は目を閉じると、お経を唱え始めた。途端に尼僧は顔をゆがめて、お経をやめよと叫んだ。それでも和尚がお経を唱え続けると、尼僧は跪いていた男たちに、和尚にお経をやめさせよと命じた。
男たちは無言のまま立ち上がると、無表情で慈命和尚を何度も打ち据えた。和尚は仁助のように血だらけになりながら、逃げよと千鶴に向かって叫んだ。
千鶴は和尚の声が聞こえていたが、和尚が何を言っているのか理解ができなかった。また、和尚が男たちに打ち据えられるのを見ても、何とも思わなかった。
和尚が静かになると、尼僧は男たちにやめよと言った。すると男たちは動きを止めて、人形みたいに突っ立ったままになった。
尼僧は和尚の傍へ行くと、和尚にまだ息があることを確かめて言った。
「和尚、このまんまじゃお前さまがあんまし気の毒なけん、最後に千鶴がどがぁなるんか見せてあげよわいねぇ」
尼僧は倒れている和尚の襟首をむんずとつかみ上げると、千鶴を誘いながら和尚を引きずって庫裏の中へ入って行った。
五
庫裏の中で、尼僧は千鶴に香を嗅がせた。いい香りが鼻の奥に届くと、ふわふわ宙に浮かんでいる気分になる。
「千鶴、ようやっとお前に会うことがでけた。お前の母親がお前を殺して捨てたと言うた時は、わたしは絶望のどん底に落とされた。ほれが生きてここにおると知った時は、まこと天にも昇る想いじゃった」
ぼんやり話を聞く千鶴に、尼僧は上機嫌で話を続けた。
「お前は覚えておるかねぇ。みんながわたしを避けよる中で、お前ぎりがわたしに優しゅうしてくれた……。あの時以来、わたしはお前の虜になってしもたんよ」
尼僧がいつのことを言っているのか、千鶴にはわからなかった。意識はぼんやりしたままで、ただ尼僧が自分を褒め、ずっと追い求めていてくれたことだけを理解した。
「こんで長年の夢が叶おう。お前はこれからわたしと一つになるんよ。そがぁすればお前の優しさは、ずっとわたしぎりのもんになるけんねぇ」
ごろりと横になったままの慈命和尚が、薄目を開けて千鶴に呼びかけた。
「千鶴……、其奴の言葉に……耳を貸してはならんぞ……。其奴はお前を……喰らうつもりぞな……。其奴から……離れるんじゃ……。千鶴……」
尼僧はじろりと慈命和尚を見ると、にやりと笑った。
「せいぜいほざいとるがええ。この娘の耳には、お前の言葉なんぞ聞こえまい」
尼僧は千鶴に向き直って言った。
「ええか。お前はわたしと一つになるんよ。ほんでも一つ問題がある。お前の心は、わたしには美し過ぎるんよ」
「おらの……心?」
「ほうじゃ。お前の心は穢れを知らん。今のままじゃったら、わたしはお前と一つになれん。一つになるにはお前がわたしを心から受け入れて、わたしと同し穢れを持たんといけんのよ」
「穢れ……」
「ほうよほうよ。穢れぞな。まぁその前に、まずはわたしを受け入れてもらおわいねぇ」
尼僧は千鶴の額に右手の人差し指を当てながら言った。
「お前が信じられるんは、この世でこのわたしぎり。わたしぎりがお前の味方。わたしぎりが、お前を救えるんぞな」
「おらが信じられるんは、この世で尼さまぎり。尼さまぎりがおらの味方。尼さまぎりが、おらを救えるんぞな」
千鶴は尼僧が唱えた言葉を繰り返した。繰り返すたびに、千鶴の中で言葉どおりの想いが、どんどん膨らんでいった。
「進之丞はお前を騙くらかした。進之丞はお前を弄んだ。進之丞はお前を捨てた」
「進之丞はおらを騙くらかした。進之丞はおらを弄んだ。進之丞はおらを捨てた」
千鶴の中で進之丞は憎む相手として認識されていった。かつての進之丞との想い出は、すべてどこかへ消え失せてしまった。
「お前はわたしの物になる。お前はわたしと一つになる。お前はわたしを受け入れ、身も心もわたしに捧げるんぞな」
「おらは尼さまの物になる。おらは尼さまと一つになる。おらは尼さまを受け入れ、身も心も尼さまに捧げるんぞな」
千鶴は完全に尼僧の手の内に落ちていた。自分が口にしている言葉を本当には理解しないまま、尼僧の思うがままの考えを自らの心にすり込んでいた。
「ほれじゃあ、仕上げにかかろわいねぇ」
尼僧は布を巻いた出刃包丁を懐から取り出した。
「これで和尚の肉を削いで喰うんよ。そがぁすればお前は人ではなくなり、わたしと一つになれるけんねぇ」
尼僧は楽しげに包丁の布を解くと、その包丁を千鶴に手渡そうとした。その時、表で誰かが千鶴の名を叫んだ。
境内に目を遣ると、男たちに行く手をふさがれている進之丞の姿が見えた。
尼僧は舌打ちをすると、とんだ邪魔が入ったと言った。急いで包丁に布を巻き直し、それを再び懐へ仕舞った尼僧は畳の上に火鉢をひっくり返した。炭火はみるみる燃え広がり、辺りは炎と煙でいっぱいになった。
「千鶴! 和尚!」
燃え上がる炎の向こうから、進之丞の悲痛な叫びが聞こえた。しかし、尼僧の術にはまった千鶴の心は動かなかった。
千鶴は尼僧に庫裏の裏へ連れて行かれ、そこから外へ出た。それからそっと表に回ると、進之丞が男たちを斬り伏せて燃えさかる庫裏の中へ飛び込むのが見えた。
尼僧は笑いながら、千鶴を連れて境内の石段を下りて行った。
千鶴が連れて来られたのは、浜辺にある使われなくなった古い漁師小屋だ。
かつてはこの辺りにも漁師が暮らしていたが、今は別の所へ移ったらしい。戸も失われて今にも朽ち果てそうな小屋は無人だった。だが、何故かそこで千鶴の視界は白い靄で遮られた。何も見えなくなり、尼僧の声も聞こえなくなった。
白い靄の中に一人取り残された千鶴は、何がどうなったのかわからない。呆然としていると、井上教諭の声が聞こえた。
――山﨑さん、しっかりするんだ。僕の声がわかるかい?
教諭の声に引かれて、千鶴の意識は前世から離れて現世の意識に戻った。
「先生?」
――聞こえるんだね。あぁ、よかった。いくら呼びかけても返事をしてくれないから、どうなるかと心配したよ。
「先生、うち、うち……」
今は靄しか見えないが、これまでのことは覚えている。前世の自分になりきっている間はわからなかった鬼の恐ろしさが、今は骨の髄に染み込むほどわかっていた。
また、己が犯した罪の深さに千鶴はうろたえていた。
慈命和尚は必死に千鶴を護ろうとしてくれた。なのに千鶴は和尚が打ち据えられても何とも思わず、和尚が呼びかける声を無視して、燃える庫裏の中へ和尚を置き去りにしたのである。
「うち、和尚さまを死なせてしもた……。うちのこと護ってくんさっとったのに……。和尚さま、死なせてしもた……」
千鶴は催眠状態のまま泣いた。
動揺した様子の井上教諭の声が、千鶴を呼び戻そうとした。その時、突然靄が晴れて視界が戻った。すぐ目の前に現れたのは微笑む進之丞の顔だった。途端に千鶴の中に前世の意識が流れ込んで来た。
この時の前世の千鶴に進之丞への憎しみはなく、尼僧への忠誠心は消えていた。
観察している現世の意識は、自分が尼僧に誑かされていたのがわかっている。だが、前世の意識はそれがわかっていない。そもそも自分に何があったのかをまったく覚えていなかった。胸に広がるのは、進之丞を愛しく想う気持ちばかりで、現世の千鶴の意識は再び前世の千鶴の意識と一つになった。
「千鶴、あしがわかるか?」
進之丞の優しい笑顔。千鶴が求めていたものはこれだった。
「進さん! おいでてくれたんじゃね」
千鶴は体を起こして進之丞に抱きついた。
「千鶴……、あしが……、あしが悪かった……。あしのせいで、お前にこがぁなつらい想いをさせてしもた……。お前の傍にいてやれなんだ、あしが悪かった……。どうか、あしを許してくれ……」
千鶴を抱き返す進之丞の囁くような声は、何だか泣いているみたいに聞こえる。
「ええんよ。進さんを疑うたおらが悪かったんよ。ついかっとなってしもて、進さんの話も聞かんまま飛び出した、おらが悪かった。どうか、堪忍してつかぁさい」
進之丞の手を借りて立ち上がると、そこは砂浜だった。近くには壊れた小屋の残骸が散らばっている。
「あれ? おら、なしてこがぁな所におるんじゃろ?」
千鶴が辺りを見まわそうとすると、進之丞は千鶴の顔を押さえて言った。
「そげなことは、どがぁでもええ。ほれより、あれ見てみぃ」
進之丞が海を指差した。沖に浮かぶ島の向こうへ真っ赤な夕日が沈みかけている。西の空は茜色に輝き、黒々とした島影が幻想的だ。
「うわぁ、きれいじゃねぇ。こがぁして進さんと夕日を見るやなんて、何日ぶりじゃろか」
ねぇと言って進之丞を見ると、進之丞は夕日ではなく千鶴を悲しげに見つめていた。
「どがぁしたん?」
「何でもない。ちぃと歩くかの」
進之丞は夕日を右手に見ながらゆっくり歩きだした。千鶴は進之丞の左脇に並ぶと、進之丞と腕を絡めながら体を預けて歩いた。
幸せだった。この瞬間が永遠に続けばいいと思っていた。
そのあとは現世の千鶴がすでに知っている展開となった。
進之丞は千鶴に別れを告げると、黒船で現れた千鶴の父親に千鶴を託し、襲って来る侍たちと戦った。そして死に際に鬼に変化して千鶴を護りきり、海の底へ沈んで行った。
六
催眠が解けたあと、千鶴は前回以上に立ち直れなくなっていた。
母の死ばかりか、次々に大切な人が死んでいった。それなのに、誑かされていたためとはいえ、慈命和尚の言葉に耳を貸さず、和尚を助けることすらしなかった。また、一つも進之丞の力になることができなかった。
千鶴たちを襲った村の男たちも、前に進之丞が話してくれたように、鬼に操られていたのだ。あの男たちも敬愛していた慈命和尚や、寺男の仁助を手にかけさせられたのである。その男たちの命を今度は進之丞が奪い、進之丞は鬼になった。
すべてはあの鬼のせいだ。どんなに改心したといっても、それであの罪が許されるというのか。己の欲望のためにやったあの罪が、改心したと言えば許されるのか。
進之丞は鬼を憎むなと言った。しかし千鶴の心は鬼への不信感でどろどろだった。鬼が鬼になった理由を考えてやらねばと思っていたのに、そんな気持ちは消え失せてしまった。
それにどうして進之丞が鬼になったのかが、ここまでつらい想いをしたにも拘わらず、結局わからなかった。きっと、あの白い靄に隠れた所に秘密があるのだろう。だけど、何故あそこだけ白い靄がかかってしまうのか、千鶴にはわからなかった。あの靄をどうにかしない限り、進之丞の秘密は探れない。落胆と絶望が千鶴から気力を奪い去った。
一方、井上教諭は何とか千鶴を現世に呼び戻すことに成功して、心の底から安堵したようだ。
千鶴が前世を再体験している間、井上教諭は今世の千鶴の意識とうまくやり取りができていなかった。それで千鶴に何が起こったのかが教諭にはわからなかった。
教諭は打ちひしがれる千鶴に遠慮がちに声をかけ、何を見たのか説明してほしいと言った。千鶴は涙を流しながら自分の体験を教諭に語ったが、恐怖と悲しみと罪悪感で何度も途中で嗚咽した。
千鶴を慰めながら話を聞く教諭は、驚きを隠さなかった。前回知った鬼の存在と恐ろしさをさらに確信した教諭は、もはや千鶴と鬼との関係について疑いを持たなかった。
「確かめるために訊くけど、進之丞という人物が元々鬼だったわけじゃないんだよね?」
気遣いながら訊ねる教諭に、いいえと千鶴は力なく首を振った。
「進さんのことは子供の頃から知っとります。進さんは間違いのう人間でした」
「じゃあ、やっぱり靄で見えなくなった記憶の中に、進之丞くんが鬼になってしまった秘密が隠されてるってことか」
井上教諭は腕組みをして、うーんと唸った。進之丞が鬼になった理由がわからないのと、何故そこにだけ靄がかかっていたのかという、二つの謎に対する呻きのようだ。
「進さんが鬼になった理由が知りとうて、先生に前世を調べてもろたんです。ほれやのに肝心の所は見えなんだ……。せっかく調べてもろたのに、何もわからなんだ……。これじゃったら進さん救うてあげられん……。進さん、一人で苦しみよんのに何もしてあげられん……」
千鶴がまた泣きだすと、井上教諭はまた千鶴を慰めながら、何を言っているのかと訊ねた。しかし千鶴には説明することができない。千鶴は泣きながら黙り込んだが、教諭は無理に話を聞き出そうとはしなかった。
井上教諭は立ち上がって庭に面した障子を開けた。雨はいつの間にかやみ、池の蛙が千鶴の気も知らずにげげっげげっと鳴いている。
雨は上がったが、空にはまだどんよりした雲が広がったままだ。その向こうが見えないのは靄と同じだ。
「靄を晴らすことができればなぁ」
教諭は雲を見上げながら、独り言のようにつぶやいた。それは千鶴への同情あるいは思いやりだろうが、あの靄が晴れるとは思えない。
あの流れから考えると、靄の向こうには途方もなく恐ろしいことがあったに違いない。あのまま前世の記憶の再体験を続けたなら、どんなことを目にしたのかと考えると震えそうになるほど怖くなる。
それでも進之丞を救う手掛かりはそこにある。どんなに恐ろしくてもそこへ飛び込み、進之丞が鬼になった場面を確かめなければならないのだ。けれどすべてはあの靄の中にあるから、何一つ知ることはできなかった。得られたのは潰れそうな罪の意識だけだ。
思いがけないあの靄は行く手を阻む巨大な壁だ。井上教諭でさえどうにもできない靄に、もはや千鶴は希望を見出すことができなかった。
仕掛けられた罠
一
毎日が同じように過ぎていく。進之丞が鬼であろうがなかろうが関係なく、みんな日々の仕事に追われて暮らしている。山﨑機織だけでなく、世の中のみんながそうなのだ。
千鶴が萬翠荘へ招かれた話や、城山で四人の男が瀕死で見つかった事件は、もう話題にもならない。その後は城山で何も起こらないので、世間では城山の魔物はお袖狸の仕業ということで落ち着いたようだ。
ただお袖狸は人助けをする狸であり、人殺しをするはずがない。それで四人の男たちの事件はやくざ同士の争いだろうということになり、次第に忘れられていった。
千鶴たちの間でも、特高警察や不審火で燃えた鬼よけの祠のことは、みんなの頭から抜け落ちている。甚右衛門もトミも考えているのは売り上げを伸ばすことで、あんなに城山の魔物を怖がった亀吉たちも、今は何事もなかったみたいに仕事に励んでいる。
そんな周りの様子を見ていると、進之丞を人間に戻す努力などしなくてもいいのではないかという考えが、千鶴の頭に浮かんでくる。本当はそうではないとわかっているが、千鶴の中にはあきらめが無力感となって広がっていた。
あれだけつらい想いをしながら井上教諭に探ってもらった前世の記憶も、肝心の所が突然現れた白い靄でわからなかった。もうどうしたって進之丞は人間に戻せないのだ、という事実を突きつけられたみたいで、今では神仏に縋る気持ちさえも起こらない。
べっ甲の櫛を千鶴から返されてからというもの、弥七も仕事への気力が失われたらしい。注文の品を間違えたり、辰蔵から注意をされても投げやりな態度を見せたりで、甚右衛門もいらだつことが多い。
そういう話を耳にしても、千鶴は何とも思わなかった。以前であれば自分のせいだと悩んだり、何とかならないかと考えただろうが、今は少しもそんな気持ちにならない。はっきりいって、どうでもいいのだ。
手紙をよこさないでほしいと伝えたにも拘わらず、スタニスラフからの手紙も相変わらず届いている。もう封を切るのも煩わしくて、そのまま読まずに置いたままだ。
あらゆることに関心がなくなった感じだったが、あることには千鶴は腹立ちを覚えていた。それは鬼だ。前世で自分たちを苦しめた、あの鬼である。
進之丞の話を聞いた時には、千鶴はまだ鬼のことは思い出していなかった。だが今は鬼が何をしたのかを肌身で覚えている。その記憶は前世のものとはいえ、現世の記憶と変わらない。千鶴にとっては、つい数日前のことなのだ。
鬼だって好きこのんで鬼になったわけではない。それは理解している。鬼が心から反省しているという進之丞の言葉も信じよう。だからといって、鬼がやった悪事をすべて許せるのかというと、それは話が別だ。苦しみの記憶を忘れているならともかく、苦しみが続いている状態では、とても鬼を許す気にはなれない。
もしイノシシや特高警察から護ってくれたのがあの鬼であったなら、鬼に対して恩義を感じ、今とは別の受け止め方ができたかもしれない。だけど実際に助けてくれたのは進之丞だ。あの鬼は進之丞の横で千鶴を見守り励ましていたに過ぎず、その励ましの言葉だって、千鶴の耳には届いていない。
以前は鬼がずっと傍にいるよう願っていたが、今は馬鹿馬鹿しいことだと思っている。それどころか、さっさと進さんから離れてどこにでも行けばいい、という気持ちだ。そもそも、あの鬼が進之丞に引っついているという話も疑わしい。
いくら進之丞が鬼になったといっても、あの鬼は進之丞の父親を八つ裂きにしたのだ。また慈命和尚と仁助の命を奪った上に、進之丞に村人たちを殺めさせもした。さらに、夫婦になろうとしていた自分たちの仲をも引き裂いたのである。
そんな鬼を少しも恨まずかばうなど、自分はできないと千鶴は思っている。進之丞が鬼をかばえるのは、本当はあの鬼は地獄へ堕ちたままこの世には戻っていないからかもしれない。もしそうであるなら、何故進之丞はあの鬼が一緒にいるなどと言ったのか。
進之丞は鬼を憎むなと言った。鬼のためではなく、千鶴のためだ。心を憎しみのいろに染めれば、せっかくの新たな暮らしが台無しになるというのが理由である。それで進之丞はあの鬼が自分と一緒に千鶴を見守っていると話したのだろう。そして、その期待どおりに千鶴は鬼を恨まないことにした。
あの時の気持ちは今はない。進之丞には申し訳ないと思いつつ、千鶴の心はあの鬼への怒りで満ちていた。せいぜいが怒りが憎しみに変わらないようにするだけで、怒り自体は抑えようがない。だけどそれは進之丞には話せないし、気づかれてもいけない。進之丞を人間に戻すのをあきらめた態度も絶対に見せられない。
進之丞の前では、千鶴はこれまでどおりに明るく振る舞った。進之丞は相手の心を読み取ることができるので、笑顔に隠れた感情を悟られないように、できるだけ何も考えないようにした。けれど進之丞から離れると、胸の中はすぐに落胆のいろに染まった。
二
ついに甚右衛門は辰蔵と幸子の祝言を挙げることに決めた。いつまでもずるずる先延ばしにするのはよくないと判断したようだ。
式の日取りは七月十五日。この日は大安で鬱陶しい梅雨も明けているものと思われた。
日取りを告げられた辰蔵と幸子は二人とも、わかりましたと答えるだけで少しも喜ぶ様子はなかった。
二人が夫婦になることが使用人たち全員に伝えられると、亀吉たちは驚き興奮した。ただ、弥七だけは何故か蒼ざめていた。
花江は平気な顔をしていたが、あとで厠で泣いていたのを千鶴は知っている。その話を進之丞に伝えても、進之丞も気の毒そうにうなずくばかりだった。
婚礼の仲人は組合長夫妻にお願いすることになった。それで組合長夫妻が訪れたり、甚右衛門やトミが組合長の家を訪ねたりと、頻繁に互いを行き来することが続いた。
辰蔵と幸子の婚礼衣装の準備もあり、すでに二人が夫婦になったかのような雰囲気が店の中に広がった。しかし少しも喜びが感じられず、丁稚たちも何だか妙な感じだと思っているようだ。笑顔がないままぱたぱたと動きまわっている。
店を存続させねばならないにしても、誰も幸せになれないのであれば、何のために存続させるのかがわからない。進之丞を人間に戻せない無力感に、みんなの不幸な気持ちが重なって、千鶴はますますどんよりした気分になった。
いよいよ明日が祝言となる日、うまい具合に梅雨は明けて夏空が広がった。シャワシャワとクマゼミが賑やかに鳴いている。
式の前日ではあったが、幸子は病院の仕事に行った。式の日取りが決まったのが、あまりにも急なことなので、病院としても代わりの看護婦を見つけるのは困難だった。それで幸子は祝言のあとも翌日から八月いっぱいは勤めを続けることになっていた。
山﨑機織の仕事も通常どおり行われ、辰蔵や進之丞たちは普段と同じように仕事に追われていた。
千鶴と花江はいつもの仕事に加えて、明日の式の食事の買い出しや酒の注文もあった。正月どころではない大人数が集まるので、それに応じた膳も揃えておく必要がある。明日の料理は近所の者たちも手伝ってくれるが、全部お任せというわけにはいかない。明日はとにかく忙しいので、今日すべきことは今日の内に済ませておかねばならなかった。
千鶴は祝言なんか初めてだし、母たちの気持ちを思うと落ち着かない。普段の仕事をするにしても気が急いて、いつも以上に忙しく感じていた。亀吉たちは午後になれば手が空くだろうから、何か手伝ってもらおうと思っていたが、その思惑は外れてしまった。
昼飯が終わると甚右衛門が亀吉を連れて、組合長の家へ最後の打ち合わせに出かけた。またトミも新吉をお伴に正清の墓へ幸子の結婚報告をしに行った。千鶴たちが頼れるのは豊吉一人になったが、豊吉は一生懸命に動いてくれた。
千鶴が買い出しから戻って来ると、花江が豊吉と一緒に洗濯物を取り込んでいた。千鶴がいない間に飛び込みの客が来たので、豊吉は辰蔵に命じられた品出しをしたが、厠の掃除もしてくれたという。千鶴に褒められると、豊吉はにこにこしながら、何でもするけんと言った。去年の春に来た頃と比べると、本当に頼もしくなった。
次の仕事を始める前にお茶にしようと言って、花江は戸棚から茶菓子を出した。豊吉は自分だけが茶菓子を食べられると大喜びだ。
千鶴はみんなのお茶を淹れると、花江に声をかけた。お茶は辰蔵の分もある。
花江はお盆にお茶とお茶菓子を載せると帳場へ運んだ。暖簾の向こうで、花江と辰蔵がどんな想いで顔を合わせるのかと思うと、千鶴は切なくなった。
花江はすぐに戻って来た。恐らく辰蔵とは何も話さず、祝福の気持ちだけを伝えたのだろう。千鶴たちに向けた花江の笑顔が悲しかった。
いつもなら板の間に座るところだが、この日は千鶴たち以外誰もいない。千鶴が花江と豊吉を茶の間へ誘うと二人は喜んだ。といっても上がり框に腰をかけただけだが、それでも花江たちには特別なことだった。
お茶を飲み、お菓子を食べながら他愛ないお喋りを始めると、三人の中で豊吉が一番よく喋った。豊吉は頭がよいため理屈っぽいと亀吉はこぼすのだが、この日の豊吉のお喋りは子供っぽいものばかりだった。
本当は泣きたかろうに、豊吉の話を聞いて笑う花江の姿が千鶴にはいじらしかった。
しばらく喋ったあと、そろそろ仕事を始めようかと花江が言うと、その前に厠へ行くと、豊吉は渡り廊下を走って行った。その様子を笑っていた花江は、実はさ――と千鶴に向き直った。
「今月初めのお休みの日さ。ちょうど晴れてたから、道後にお風呂に入りに行ったんだ。そしたらね、またあいつに会っちまったんだよ」
あいつというのは孝平のことだ。お休みの日というのは、千鶴が井上教諭を訪ねた日の二日前のことである。
前に孝平を見てからしばらくの間は、花江は一人で外へ出ないようにしていた。けれど、その後は誰も孝平を見なかったので、近頃はまた一人で出かけていた。なのに、今度は道後で孝平に会ってしまったと言うのだ。
千鶴が不安な顔を見せると、大丈夫だってと花江は笑った。
「前に見た時は、あたしもすぐに逃げたからさ。何も喋らなかったんだけど、今度はあたしを呼び止めて、話があるって言うんだよ。だからあたしも逃げずに話を聞いたんだ」
「孝平叔父は何て言うたん?」
「それがさ、周りに何人も他の人がいたんだよ。そんな所でさ、人目も憚らずにね、どうせ伊予絣は儲からないから、松山を出て一緒に暮らそうって言うんだよ。何もできない自分がだめなくせにさ、偉そうなことを言うから、あたし、言ってやったんだ」
「何て言うたん?」
「お生憎さま、あたしはもうすぐ辰さんと祝言を挙げるんだよ――て言ったのさ」
驚く千鶴に、言うだけだからいいじゃないかと花江は口を尖らせた。
「ほんとはさ、あたし、辰さんと一緒になりたかったんだ。東京にいた頃、辰さんがうちの店に来てくれるのが楽しみでね。辰さんが来たら、呼ばれもしないのにお茶にお茶菓子を出したりさ、何か探すふりして帳場に行ったりしたんだよ。でも、あたしには親が決めた許婚がいたからね。一緒になるなんて無理な話だったんだけどさ」
花江はその頃を思い出すような顔になった。その表情は楽しそうではあったが、悲しそうにも見えた。
「辰さんが松山に戻った時はしばらく落ち込んだけど、あきらめて許婚と一緒になる覚悟を決めたんだ。それで、いよいよ祝言ってなった時にね、あの大地震が起きたんだよ。あれであたしは何もかも失っちまったけど、許婚の方も大変でね。とてもあたしの面倒を見るなんてできなかったんだ。簡単にいえばさ、あたしは見捨てられたんだよ」
燃えた家の前に立ちながら、花江はもう死ぬしかないと思ったという。瓦礫だらけの場所で行く当ても頼る者もなく一人佇む花江の姿が目に浮かび、千鶴は思わず涙ぐんだ。
しかし花江はぱっと明るい顔になって、そしたらさと言った。
「そこにね、思いがけず辰さんが現れたんだ。地獄に仏ってこのことだって思ったよ。まさか辰さんが来てくれるなんて、これぽっちも思ってなかったからね」
「ほれは嬉しかったじゃろね」
「嬉しいなんてもんじゃないよ。奇跡っていうか、あたしの幸運が全部来たって感じだったよ」
花江は興奮した様子で話を続けた。
「あの時ね、辰さんは言ったんだ。他の所より一番にあたしの所へ来たんだって。しかもね、松山で一緒に暮らそうって言ってくれたんだ。ここで一緒に働かせてもらおうってね」
過去の話ではあるが、聞いていて千鶴も胸が熱くなった。そのあとどうなるかがわかっているだけに切なくもあった。
「そんなこと、旦那さんに黙ってはできないって言ったらさ、自分が旦那さんにお願いするからって。どうしてそこまでしてくれるのかって訊いたらね、あたしをお嫁にしたかったって言ってくれたんだよ。あたし、嬉しくて嬉しくて、悲しかったことも全部忘れてさ。夢なら覚めないでって思ったんだ」
なのに、二人は今引き裂かれようとしている。夫婦になる直前で引き裂かれた前世の千鶴たちと同じだ。今からでも何とかしてあげたいが、今更どうにもできない。母と辰蔵の婚礼は明日なのだ。千鶴は自分の無力さを嘆き悔やんだ。
「なして……、なして二人が一緒になるんじゃて、もっと早うにおじいちゃんらに言わんかったん?」
「あたしは女中として雇ってもらったんだよ? そんなの言えるわけないじゃないか。だけど今年辺りにね、旦那さんやおかみさんに相談してみるつもりだって、辰さん、言ってくれてはいたんだよ」
ほうじゃったんと言ったきり、千鶴はあとの言葉が見つからなかった。去年のうちに話していればと思ったが、もうどうしようもない。
でもさ――と花江は寂しげに言った。
「あいつに辰さんと一緒になるんだって言ったあとに、旦那さんが辰さんと幸子さんを夫婦にするって言うなんてさ。わかってたことだけど、何だか罰が当たったみたいだよ」
「ほやかて花江さん、何も悪ないよ」
「ありがとう。明日が祝言だっていうのに、ごめんよ、こんな話して」
千鶴が黙ったまま首を振ると、花江は悲しげに微笑んだ。
豊吉が戻って来た。
「あぁ、すっきりした」
「長かったね。ちゃんと手は洗ったのかい?」
花江が明るい顔でからかうと、豊吉は両手を広げて見せて、洗ったもーんと言った。
花江は笑うと、千鶴と一緒にお茶飲みの後片づけをした。先に流しへ向かった花江は、そうそうと言いながら千鶴を振り返り、悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「実はさ、そん時にもう一つ嘘をついたんだ」
「もう一つ?」
「知りたいかい?」
千鶴がうなずくと、花江は言った。
「千鶴ちゃんの式も一緒に挙げることになってるって言ったんだよ」
「え? うち?」
「そうだよ。あいつ、いつも千鶴ちゃんのこと目の敵にしてたからね。いい機会だって思って言ってやったんだ。そしたらあいつさ、最初の話でも目ぇまん丸くしちゃって情けない顔してたんだけど、よっぽど悔しかったんだろうねぇ。口元をわなわな震わせてさ。走っていなくなっちまったよ」
ぽかんと話を聞いていた豊吉が、何の話かと言った。
「何でもないよ。大人の話さ」
花江がさらりと答えて流しに湯飲みを置くと、豊吉は千鶴に同じことを訊ねた。千鶴は豊吉を無視できず、花江をかばいながら説明した。
「そげなことでな、花江さんは孝平叔父を追い払お思て、ほんまやない話をしたんよ」
「嘘言うたん?」
「そうさ。嘘も方便って言うだろ?」
花江が振り向いて面倒臭そうに弁解した。
「ほやけど、嘘はいけんぞな。あとで、身から出た錆になるかもしれんけん」
花江は感心した顔で豊吉を見た。
「豊ちゃん、言葉を知ってるんだね。凄いじゃないか」
豊吉は照れながら、嘘はいけないと言った。
「わかったよ。もう嘘はつかないから。だけどさ、身から出た錆よりさ、あたしは、嘘から出た実の方がいいな」
「ほうじゃね。うちもそがぁ思うぞな」
本当にそうであれば、どれだけ嬉しいことか。だが豊吉は、それでも嘘はいけないと繰り返した。
三
「大事ぞな! おかみさんが倒れんさった! 千鶴さんも花江さんもすぐ来てつかぁさい!」
注文取りに出ていたはずの弥七が、大声で叫びながら飛び込んで来た。いきなり現れた弥七にも驚いたが、トミが倒れたのも衝撃だ。
「おばあちゃんが倒れたて、どこで倒れたん?」
千鶴が焦って訊ねると、大林寺で倒れたと弥七は口早に言った。けれど、何故祖母が大林寺にいるのかが千鶴にはわからなかった。
祖母が出かけた先は雲祥寺であり、大林寺ではない。山﨑家と大林寺の関わりは、ロシア兵の父と看護婦の母が知り合った場所ということだけだ。他には何のつながりもない。祖母が大林寺へ行く理由はないのだ。ましてや、今日は祝言の前日だ。祖母には用もない大林寺へ立ち寄る暇などない。
それに弥七が知らせに来たのも釈然としない。祖母には新吉がついているから、祖母に何かがあったとしたら、走って来るのは弥七ではなく新吉のはずだ。そのことを千鶴は質そうと思ったが、弥七は千鶴たちを急かしながら慌てたように表に飛び出した。
以前、家に居座った三津子を追い返すために、祖父が進之丞を使って、祖母が雲祥寺で母を呼んでいると、嘘の話を仕組んだことはある。
千鶴は何となくその時の事を思い出したが、今は三津子はいないし、弥七が自分たちを騙したりはしない。とはいっても、やはり妙である。
けれども、いろいろ考えている暇はない。新吉が祖母から離れられないのだとすれば、祖母は重篤なのかもしれないのだ。そうであれば、確かに大事である。大林寺はすぐそこだから、取り敢えず行ってみるしかない。
千鶴と花江は顔を見交わすと、黙ってうなずき合った。
二人が弥七の後を追って暖簾をくぐると、帳場には誰もいなかった。辰蔵は先に大林寺へ走ったのだと思った千鶴は、豊吉を呼んで店番を頼んだ。
表に出ると弥七が前方で待っていた。だが、大林寺へ向かう道に辰蔵の姿はなかった。弥七が戻った時にすぐに飛び出したとしても、道のどこかに走る辰蔵を認めるはずだ。
千鶴は違和感を覚えた。しかし弥七が再び走りだし、花江もそれに続いたので、とにかく大林寺へ向かうことにした。
大林寺の山門をくぐると、その先に中門がある。本堂があるのは中門の向こうだ。祖母はそこにいるのかと千鶴は思ったが、弥七は中門をくぐらず、中門から続く土塀沿いに左へ走った。
突き当たりは久松家の御廟所だ。歴代城主の墓が並ぶ所である。一般の者が立ち入る所ではないし、山﨑家にも関係のない場所だ。そんな所に祖母がいるわけがない。だが、弥七は御廟所の入り口で千鶴たちを振り返ると、この中だと言って入って行った。
普段であればここには番人がいて、関係者でない者を中へ入れないようにしている。ところが今日はその番人の姿がない。中で祖母が倒れたために、番人がそちらへ向かったのであれば、本当に祖母が危ないのかと千鶴は焦った。
花江が心配そうにしながら先を急ぐと、千鶴も花江に続いた。
御廟所の入り口を入ると、そこから西へ向かって広大な墓所が広がる。ここには東にある城と向かい合って、手前に五つ、奥に四つの久松家城主の墓があり、それぞれの墓の上には立派な御廟が建てられている。
入り口正面の奥には、手前の五つの御廟のための拝殿があり、右手にある四つの御廟には三つの拝殿がある。
各御廟の前には数え切れないほどの石灯籠が並び立ち、静寂ながら圧倒されるような荘厳な雰囲気が広がっている。部外者が気軽に立ち寄る所ではないことは、空気の違いですぐわかる。やはり、ここは祖母がいるには似つかわしくない場所だ。
千鶴たちはトミの姿を探したが、入り口から見える所にはトミも新吉もいなかった。手前の拝殿には手を合わせる五人の男たちがいるが、五人ともこの墓所の雰囲気にはそぐわない粗野な風体をしている。男たちが久松家の関係者でないのは明らかだ。
弥七は奥の墓所の入り口に立っており、早く来るようにと千鶴たちに手招きをしている。その表情は硬く、激しい手の動きも何だかぎこちない。
花江はすぐに弥七の方へ行こうとしたが、千鶴は花江を引き留めた。
「花江さん、ちぃと待って。これ、何かおかしいぞな。おばあちゃんがこがぁな所におるわけないで」
「だって、弥さんが……」
花江は少しも弥七を疑っていないが、千鶴は大きな胸騒ぎを感じていた。
早くここから立ち去らねばと思った千鶴は、強引に花江の手を引いて御廟所を出ようとした。すると外から六、七名のごろつきのような男たちが、こちらへぞろぞろやって来る。
「姉やんら、どこ行くつもりぞな? ここは通れんけん早よ奥へ行っておくんなもし」
男の一人がにやにやしながら言った。さすがに花江もこれはおかしいと思ったらしい。そこを通しておくれと気丈に言ったが、男たちは花江の言うことなど聞こうとしない。
「見てのとおり、こっちはいっぱいで通れんぞな。ほじゃけん、先に姉やんらが奥へ行っておくんなもし」
千鶴ちゃん――花江は強張った顔で千鶴を見た。後ろを振り返ると、拝殿で手を合わせていた男たちも、こちらの方へ向かって来る。千鶴と花江は後ずさりをしながら、じりじりと奥の墓所へ追い詰められた。
奥にある三つの拝殿にも複数の男たちがいた。一番手前の拝殿では男が一人手を合わせていて、その傍に弥七が立っていた。
トミも新吉も姿は見えず、御廟所の番人らしき者もここにはいない。奥の二つの拝殿にいる男たちは、後ろから来る男たちと同じごろつきだ。
「弥七さん、おばあちゃんはどこにおるんね?」
千鶴が強い口調で問い質しても、弥七はおろおろしながら黙っている。すると、その横にいた男がくるりと振り返った。男は孝平だった。
四
「二人とも、ようおいでたの。待ちよったぞな」
孝平は勝ち誇ったように笑った。
千鶴は孝平の隣にいる弥七をにらんだ。
「弥七さん、これは何の真似なん?」
弥七は目を伏せて何も言わない。間違いない。弥七も孝平とぐるだ。
花江は怒りを隠さず孝平たちをにらみつけた。
「あんたら、あたしたちを騙したんだね? ここであたしたちをどうしようってんだい!」
後ろは男たちで完全にふさがれている。周囲はすべて土塀で囲まれていて、逃げることはできないし、外からも中は見えない。
「さてと、どがいしようかの。そちらの返答次第で、どがぁするかは違てこう」
孝平はにやにやして言った。弥七は下を向いたままだ。
周囲にいる男たちを見る花江の目は、恐怖に怯えているようだ。しかし、孝平に喋るその口調は勝ち気そのものだ。
「こっちの返答次第? 何だい、それは。あたしたちにどうしろって言うのさ!」
「教えてほしいんなら言うちゃろわい。明日の祝言は取り止めて、わしと夫婦になると誓え」
弥七が孝平に何か文句をつけた。孝平はうなずくと千鶴に言った。
「千鶴、お前はこの弥七と夫婦になるんぞ」
「何言うんね。弥七さん、あんた本気なん?」
千鶴が質すと、弥七はうろたえながらも、孝平さんが言うたとおりやと言った。
なしてと憤る千鶴を制して、花江が孝平に話しかけた。
「答える前に聞かせておくれよ。祝言を取り止めないって言ったら、あたしたちをどうするつもりなんだい?」
「ほん時は、お前らを力尽くでわしらの物にするまでよ。そがぁなったら、もう祝言なんぞできんけんな」
「じゃあ、取り止めるって言ったら信じるのかい?」
「ほれは――」
孝平は言葉に詰まって弥七を見た。嘘をつかれた時のことなど考えていなかったのだろう。弥七も孝平に任せっきりにしていたのか、困惑顔で孝平を見返すばかりだ。
そんな二人を眺めながら、花江はふっと笑った。
何がおかしいと孝平は凄んだが、花江は平気な顔だ。
「あんたらしいなって思っただけさ。よく考えもしないで、こんな大それたことしちゃってさ。あたしよりずっと年上のくせに、ほんっとに馬鹿なんだから。呆れて物が言えないって、このことだよ」
「何やと?」
「さっきの質問に答えてあげる。祝言を取り止めるも何も、あたしは誰とも祝言なんか挙げないよ」
「何?」
「祝言を挙げるのは、あたしじゃなくて幸子さんさ。幸子さんが辰さんと夫婦になるんだよ」
「嘘こけ! お前と辰蔵が祝言挙げるて、お前が自分で言うたんじゃろが!」
「それは、あんたがしつこく付きまとうからだろ? だいたいさ、あんた、弥さんから話を聞いてないのかい?」
孝平はうろたえて弥七を見た。弥七も混乱した顔で孝平を見ている。
「孝平さん、知っとったんやないんですか?」
「いや、わしは花江と番頭が一緒になるて聞いとったけん」
「ほんな……、ほれじゃったら――」
弥七の言葉を遮って、花江は言った。
「あんたはいつだってそうなんだ。相手のことなんか、これっぽっちもわかろうとしないで、自分勝手に動くんだ。あたしがどんな気持ちで辰さんと祝言を挙げるって言ったのか、あんたはちっともわかってないじゃないか」
「え? ほれはどがぁなことぞ?」
当惑している孝平に花江は詰め寄った。気圧された孝平は後ろへのけぞった。
「あんたは人を期待させるだけさせといて、ちっともがんばろうとしない」
「え? 期待?」
「店でも文句ばっかり垂れて、あたしを手籠めにしようとするし」
「いや、ほれは――」
「家を追い出されたあとも、まともな仕事なんかしてなかったんだろ? そんなんで一緒になれるわけないじゃないか」
「一緒にて――」
「あんたが一人前になって戻って来るのを待ってたのに、こんなことしでかすなんて。あたしが今、どんだけ情けない気持ちでいるのか、あんたにはわからないだろうさ!」
花江の勢いに孝平はかなり動揺したらしい。顔に迷いと焦りのいろが表れている。
「ちぃと待て。お前、ひょっとしてわしのこと――」
「待ってたんだって言ってるだろ?」
「ほ、ほれじゃあ、わ、わしと一緒になってくれるつもりが――」
花江は大袈裟に首を振りながら言った。
「あぁ、嫌だ嫌だ。そんなことを女の口から言わせるつもりなのかい? だから、あんたって男はだめなんだよ」
「いや、ほんな……、ちぃと待ってくれ。これは誤解ぞな。わしかてお前にその気があるてわかっとったら、お前に襲いかかったり、こがぁなこともせんかったんぞ。元をいうたら、お前の――」
「あたしの何が悪いっていうのさ?」
花江がじろりと孝平をにらんだ。
「あ、いや、別に何も悪ないか……」
孝平は小さくなった。勝負ありだ。今度は弥七の番である。
「弥七さん、なしてこがぁなことしたん? うちが櫛を受け取らんかったけん、孝平叔父さんと一緒になって、うちを手籠めにしよ思たん?」
千鶴に問い詰められると、うろたえた弥七は、ほやかてと蚊の鳴くような声で言った。
「ほやかて、何よ?」
「ほやかて千鶴さん、あいつと祝言挙げるて聞いたけん……」
「そがぁなこと誰から聞いたんね? 花江さんが言いんさったとおり、祝言挙げるんはうちのお母さんと辰蔵さんぞな。おじいちゃんがそがぁ言いんさったんを、弥七さんかて聞いたじゃろ?」
弥七は黙って横目で孝平を見た。孝平は慌てて両手を振り、わしやないと言った。
「わしは花江から聞いたことを、こいつに教えたったぎりぞな。わしが言うたんやないけん」
「また、あたしのせいにするわけ?」
花江ににらまれると、いや――と孝平は下を向いた。
「あしは千鶴さんを他の男に取られとないんよ」
覚悟を決めたのか、弥七ははっきりした声で言った。
「あしはずっと前から千鶴さんを好いとった。ほれやのに千鶴さんは、あとから入って来たあいつの方がええみたいなけん、あしは何とかあいつに負けまいとがんばりよったんよ。ほんでも、千鶴さんはあいつと一緒になるて聞いたけん、ほじゃけん……」
弥七は下を向いて涙をこぼした。
「あしが千鶴さんと特別な関係になるには、こがぁするしかなかったんよ。ほやないと千鶴さんは明日あいつの物になってしまうけん、こがぁするしかなかったんよ……」
すすり泣く弥七の横で孝平が戸惑っている。この騒ぎにどう始末をつけたらいいのかわからないのだろう。小さくため息をついた花江は困惑顔で言った。
「千鶴ちゃん、ごめんよ。あたしのせいで、豊ちゃんの言ったとおりになっちまった」
千鶴は黙って小さく首を振ると、弥七に言った。
「弥七さん、こがぁなことして、うちの気持ちが自分に向くて思たん? 却って嫌われるとは思わなんだん?」
弥七は項垂れたまま黙っている。
この狂乱は孝平が主犯だ。弥七は孝平に従っているだけであり、孝平さえ手を引けば、すべて解決する。千鶴は孝平に声をかけた。
「孝平叔父さん、花江さんの誤解が解けたんなら、もうええでしょ? うちも花江さんも、このことは誰にも言わんけん」
「ほんまに言わんのか?」
孝平は疑わしそうに眉根を寄せた。
「うちにしても花江さんにしても、余計なこと言うてごたごたするより、黙って何もなかったことにしよる方がええもん」
なぁ、花江さん――と千鶴が花江に振ると、花江もうなずき、千鶴ちゃんの言うとおりだよと言った。
穏やかな顔になった孝平が、ほれでええかと弥七に言った。弥七がうなずくと、千鶴と花江は笑顔を見交わした。
ところが、黙って話を聞いていた男たちの一人が、ほうはいくまいと言った。それまでとは別の異様な雰囲気が広がり、他の男たちも薄ら笑いを浮かべている。
声を出した男は、他の男たちより二回り体がでかい。どうやら男たちの頭目のようだ。その男が冷たい口調で孝平に言った。
「孝平、勝手な真似は許さんぞな」
五
驚く孝平と弥七に頭目の男は言った。
「お前さんら、あしらの顔潰す気ぃか?」
孝平は顔を強張らせながら言い返した。
「ほ、ほやかて事情が変わったいうか、誤解が解けたんやし――」
「そげなこと、あしらには関係ない」
「何言うとるんぞ? お前らはわしの手伝いしに集まったんじゃろが。そのわしがもうええて言うとるんじゃけん、ほれでよかろが」
花江の手前、孝平は少し強気で喋ったが、頭目の男にはまったく通用しなかった。
「お前があしらに銭をよこすんか? ほうやなかろ? あしらは銭もろて動きよるんぞ。一銭も出しとらんお前の言うことを、なしてあしらが聞かにゃならんのぞ?」
孝平と男たちの関係を千鶴たちは知らない。しかし二人のやり取りからすれば、後ろに黒幕がいるようだ。しかし、孝平は自分が男たちに指図ができる立場だと思い込んでいたらしい。ところがそうではなかったと思い知らされ、怒りと怯えで顔を赤らめた。
「な、何やて? ほ、ほれじゃったら、お前ら、端からわしの手伝いする気ぃなんぞ、な、な、なかった言うんか?」
「そがぁなこと、あしらはお前に一言も言うとるまいが。あしらが手伝うて、お前が勝手に思いよったぎりよ」
「孝平さん、話が違うやないか!」
弥七に詰られ、孝平は頭目の男につかみかかった。ところが逆に殴り倒され、弥七も他の男に張り倒された。
千鶴と花江は男たちに取り囲まれた。千鶴は以前にも料亭の前で男たちに囲まれたが、今いる男たちはあの時の倍以上いる。しかも、ここには進之丞がいない。万事休すだ。
「あんたら、やめないと大声を出すよ。ここの和尚さんたちに見つかったら、あんたらだってただじゃ済まないからね」
花江は男たちを見まわしながら気丈に言った。けれど怯えは隠せない。体が小さく震えている。
男たちの中には長脇差を持った者が二人いた。その男たちは長脇差の鞘を捨てると、倒れている孝平と弥七の喉元に、その切っ先を当てた。その様子をちらりと見てから、頭目の男が脅しをかけた。
「そげなことをしたら、どがぁなるかは見てわかろ? お前らは黙ってあしらの言うとおりにするしかないんぞ」
「あたしらをどうするつもりなんだい!」
花江が噛みつくと、頭目の男は言った。
「さぁて、大阪にでも売り飛ばすかの。ほんでも騒がれても困るけんな。その前にあしらを存分に楽しませてもらおわい」
「こんな所であたしらを手籠めにしようってのかい? この罰当たり!」
「あしらは生まれつき罰当たりぞな」
「この外道され!」
倒れたまま孝平が叫んだ。しかし長脇差で喉元を少し刺されると、声にならない悲鳴を上げた。隣では弥七が横目で千鶴たちを見ながら、ぶるぶる震えている。
「お前らは己が惚れた女子が、あしらを楽しませるんをそこで眺めよれ」
頭目の男がにやりとしながら孝平たちに言うと、通路をふさいでいた男が下卑た笑いを浮かべて言った。
「わし、いっぺんでええけん、このロシアのお姫さんを抱いてみたかったんぜ。もう考えるぎりであそこがおっ立つぞな」
股間を両手で押さえる仕草をした男は、次の瞬間、ぐぇっと叫んで宙に高く浮いた。男は地面に落ちると、股間をさらに踏み潰されて悶絶した。
他の男たちが一斉に振り返った。そこにいたのは進之丞だった。男の股を踏み潰した進之丞の後ろには、数名の男たちが声も出さないまま倒れている。
「進さん! おいでてくれたんじゃね」
千鶴が喜びの声を上げると、近くにいた男たちが進之丞に襲いかかった。
進之丞は目にも留まらぬ速さで片っ端から男たちの腕をへし折り、顎や肋を打ち砕き、地面に叩きつけた。男たちへの遠慮は微塵も見られず、千鶴は進之丞が男たちを殺すのではないかとはらはらした。
孝平と弥七を押さえていた男たちが、長脇差で進之丞に斬りかかった。進之丞は紙一重で刃をかいくぐって男の一人を捕まえると、長脇差を持った右腕を肘の所で無造作にへし折った。そこへもう一人が再び斬りかかると、進之丞はその男を楯にした。
楯にされた男は肩から背中をざっくり斬られ、真っ赤な血が男の切り裂かれた着物を染めた。斬った方の男が狼狽すると、すかさず進之丞は楯にした男を捨てて、動揺する男の長脇差を持つ腕をつかんだ。男の腕は先の男と同じようにへし折られ、男は悲鳴を上げて長脇差を落とした。
進之丞は悲鳴を上げる男を軽々と抱え上げると、勢いよく土塀に投げつけた。張りつくように土塀にぶつかった男は、崩れた土壁と一緒に地面に落ちて静かになった。
初めは進之丞の登場に歓喜した花江も、あまりの凄惨さに言葉を失い、進之丞を見る目に怯えのいろを浮かべていた。
残った男たちがうろたえながら後ずさりをすると、頭目は男たちを怒鳴りつけて無理やり進之丞を襲わせた。だが、へっぴり腰になった男たちなど進之丞の敵ではない。全員があっという間に打ち伏せられ、地面に叩きつけられた。
「動くな!」
頭目が叫んだ。みんなの目が進之丞に向いていた隙に、頭目は千鶴を捕まえていた。千鶴の喉元には小刀が当てられている。
「千鶴ちゃん!」
花江が叫ぶと、進之丞は男をにらんだまま、逃げろと花江に叫んだ。男たちにふさがれていた通路には、もう誰もいない。
進之丞から凄まじい殺気が発せられている。その殺気を恐れたのか、頭目は千鶴を人質にしながら、じりじりと墓所の隅へと後ずさりした。
花江がもう一度千鶴を呼んだ。進之丞は出口を指差しながら、後ろにいる花江に逃げよと繰り返した。だが低くて凄味のある命令口調の声に、花江は驚いたように固まっている。千鶴から見える進之丞の顔は、今にも鬼に変化しそうだ。
「進さん、いけん。落ち着いて!」
頭目に捕まりながら千鶴は叫んだ。続けて花江に、お寺の人を呼んで来てと大声で頼んだ。頭目は焦っているらしく、余計なことを言うなと千鶴に怒鳴った。だが千鶴の言葉で我に返った花江は走って逃げ、花江を追いかけるように孝平も逃げ出した。
弥七も続こうとしたが、途中で立ち止まって千鶴の方へ来ようとした。千鶴を助けるつもりなのだろう。しかし千鶴が警察を呼んでと叫ぶと、わかったと言って再び走りだした。それを見てくそっと叫んだ頭目は、進之丞に顔を戻すと目を大きく見開いた。
進之丞は頭から角が生え、口からは牙がのぞいている。目は鋭く頭目を見据え、怒りと殺意に満ちたその顔はほとんど鬼だ。体も膨らみ始めて、今にも着物が破れそうだ。
「進さん、いけん! 変化したらいけん! 変化せいでも何とかできよう?」
千鶴は必死に叫んだが、怒りが鎮まらない進之丞の変化は解けない。
「な、何ぞ、お前は? ば、化け物か?」
頭目が震える声で虚勢を張った。進之丞の姿に怯えたためか、小刀を持つ頭目の手が緩んでいる。
頭目の言葉にかちんと来た千鶴は、頭目の手をつかんで小刀を喉元から外すと、思い切り噛みついた。気持ちは自分も鬼娘になったつもりだった。
痛ててと頭目が怯んで小刀を落とした隙に、千鶴は進之丞の所へ逃げた。
千鶴が噛みついた頭目の腕から血が滲んでいる。千鶴は汚らわしさを吐き出すように、ぺっと唾を吐いてから頭目に言った。
「進さんは化け物なんぞやない。人間ぞな!」
「人間やと? そ、そいつは人間やない!」
「人間やないんは、あんたの方じゃ! この人でなし!」
頭目は逃げようとしたが、進之丞に首をつかまれ引き倒された。
「逃げられると思うたか? 愚か者め。あきらめて己がやったことの報いを受けるがええ。このまま首をもいでやろうか? それとも腐った腸を引きずり出してやろうかの?」
くっくっと不気味に笑う進之丞に、頭目は怯えて藻掻いた。進之丞の一方の手が頭目の腹をつかむと、頭目は必死に抗おうとした。だが、その両腕はどちらも捻り折られ、頭目は泣き叫んだ。しかし、再び進之丞に首をつかまれると声を出せなくなった。進之丞の指は頭目の首に食い込み、本当に首を引きちぎりそうだ。
「進さん、いけんてば! 早よ元に戻らんと、人が来るぞな!」
千鶴が焦りながら叫ぶと、進之丞は横目で千鶴を見て、頭目に牙を剥いた。それから目を閉じると、元の進之丞に戻った。
進之丞が手を離すと、頭目は何度も噎せながら子供みたいに泣いた。しかし進之丞が額に指を当てると、頭目は呆けたようになった。
「これは誰の差し金ぞ?」
進之丞に問われると、頭目はぼんやりしたまま、つや子――と言った。
「つや子?」
進之丞は千鶴と顔を見交わした。また、つや子だ。
頭目に顔を戻すと、進之丞は再び訊ねた。
「なして、つや子がお前らに千鶴らを襲わせたんぞ?」
「ほれは知らん……。あしらは銭さえもろたら……、何でもする」
「つや子は今はどこにおるんぞ?」
「わからん……」
「ほうか、わかった。ほれじゃあ、今ここで見たことはすべて忘れ、警察で己の罪を洗いざらい白状せぃ」
頭目は目を閉じると意識を失った。
六
花江が寺の住職や小僧たちを連れて戻って来た。大切な御廟所での惨状に、住職も小僧たちも言葉を失ったが、驚いたことに住職たちの後ろには三津子がいた。
「あら? 千鶴ちゃんやないの。ほれに手代の兄やんも。なして、あなたたちがこがぁな所におるん? いったい、ここで何があったんね?」
驚いた様子の三津子は、倒れている男たちを踏みつけながら千鶴の所へ来た。
「なして三津子さんがここにおいでるんぞな?」
千鶴が訊き返すと、三津子は大林寺を見学に来たついでに、向こうで住職と喋っていたと言った。
「ところで、この人ら何なん?」
三津子は自分が踏みつけた男たちを振り返り、眉をひそめた。
千鶴は答えるのを少し迷ったが、黙り続けるわけにもいかない。
「うちと花江さんをここへ連れ込んで、手籠めにしようとしたんよ」
「千鶴ちゃんと女中さんを手籠めに? ここで? 嘘じゃろ?」
三津子は進之丞に、そうなのかと訊ねた。
進之丞はじっと三津子を見つめたままうなずいた。すると、んまぁ!――と三津子は驚きの声を上げた。
「ほれで、誰がこの人らをやっつけたん? ひょっとして、この兄やんが?」
改めて倒れている男たちを見たあと、三津子は進之丞に顔を向けた。しかし、進之丞は黙ったまま答えなかった。代わりに花江が、そうだよと言った。
「忠さんがたった一人でやっつけたんだよ。かなり荒っぽかったけど、これぐらいしなかったら、逆にこっちがやられてたよ」
花江は進之丞の戦いぶりに恐れをなした。だが少し冷静になった今は、進之丞の強さに敬意を払っていた。進之丞が来てくれていなかったらどうなっていたかと考えたのだろう。
「ちぃと待って。この兄やんがたった一人でやっつけたん? この人らを全部?」
三津子はまん丸に見開いた目で進之丞を見たあと、倒れている男たちを見まわしながら、ひぃ、ふぅ、みぃと数えた。
「嘘じゃろ? 十五人もおるぞな。しかも、何? この人ら刃物持ってたん?」
仲間に斬られて血まみれの男を見ても、三津子は平気な顔で喋り続けた。それを花江が指摘したら、元は看護婦じゃったけんねと三津子は楽しげに言った。
「こがぁな傷、しっかり押さえよったら大丈夫ぞな。ちぃとそこの小僧さんら。こっちへおいでてくんさらん?」
住職と一緒に立ちすくんでいる小僧たちに手招きした三津子は、斬られた男の傷をふさぐよう、しっかり手で押さえなさいと言った。
小僧たちは恐れをなしたが、言われたとおりにせよと住職に命じられると、二人の小僧が顔を背けながら男の傷を押さえた。それでも傷が大き過ぎて押さえきれず、小僧たちの手は漏れ出た血で真っ赤に汚れた。男は虫の息だ。
住職は千鶴たちの所へ来ると、何があったのか詳しい話を聞かせてほしいと言った。
しかし、孝平や弥七のことを千鶴は喋りたくなかった。花江も同じ気持ちだろう。二人で黙っていると、代わりに三津子がぺらぺらと説明をした。
話を聞いた住職は、どういう理由で千鶴たちが狙われたのかと訊ねた。三津子は答えられず、なしてなん?――と千鶴たちを振り返った。
「ほれは、うちらもわからん。けんど、この人らの後ろには黒幕がおるらしいぞな」
「黒幕? 誰やのん、ほれは?」
三津子は眉間に皺を寄せた。
千鶴はつや子の名は出さずに頭目の男を指差して、この人が金をもらったと言っていたとだけ話した。頭目がつや子の名を喋るはずがなく、つや子の名を出すのはまずいと判断してのことだ。
「ほんなこと言うたん、この男!」
三津子は頭目をにらむと、この屑と言って頭を二度蹴飛ばした。看護婦だった面影は微塵も見られない。
弥七が巡査を二名連れて戻って来た。巡査たちは御廟所へ入るなり、うっと呻いて立ちすくんだ。それでもさすがは巡査で、すぐに我に返ると、一人が倒れている男たちの具合を確かめ始め、もう一人は真っ直ぐ千鶴たちの所へ来た。
その巡査がここで何があったのかと訊ねると、三津子がまた得意げに説明を始めた。ところが、三津子は住職と喋っていただけで事件とは関係がないとわかると、巡査は三津子に黙っているようにと強い口調で命じた。
巡査は改めて千鶴と花江から、男たちが千鶴たちを手籠めにしようとしたという話を聞いた。また男たちの後ろに黒幕がいることや、進之丞が一人で男たちを倒して千鶴たちを助けたことを確かめた。
千鶴たちが巡査と話している間に、数名の別の巡査が応援に駆けつけたが、やはり凄惨な現場に言葉を失った。だがすぐに先にいた巡査に協力して、怪我の程度のひどい者たちを病院へ運ぶよう手配した。
だが、どの男たちも意識がないか朦朧としており、辛うじて意識があるものは苦しみ悶えていた。それで結局は全員が病院へ運ばれることになった。
これだけの男たちを病院へ運ぶのは大仕事だ。巡査たちは寺の雨戸を運搬用の戸板として利用させてもらい、集まった野次馬たちに協力を仰いで男たちを運び始めた。頭目も巡査たちが起こしても目を覚まさず、戸板に載せられて運ばれて行った。
そのあと御廟所の西南の隅を調べた巡査が、御廟の陰から猿ぐつわを噛まされて縛り上げられた男を見つけた。住職は男に駆け寄ると、この御廟所の番人だと巡査に話した。
猿ぐつわを外されて縄を解かれた番人は、いきなり現れた男たちに刃物を突きつけられて縛られたと言った。しかし、番人は男たちについては何も知らなかった。
千鶴と花江は改めて話を聞きたいのでと、警察への同行を求められた。二人が了承すると、その巡査は進之丞に向き直り、あなたを喧嘩の当事者として逮捕しますと言った。
驚いた千鶴と花江は猛抗議したが、巡査は聞き入れてくれなかった。進之丞がおとなしく両手を後ろに回すと、巡査はその両手を縛ろうとした。
千鶴と花江は尚も抗議し、三津子も怒りを露わにして巡査に食ってかかった。それでも巡査が話を聞こうとしないと、三津子は巡査を押し倒し、逮捕する相手が違うと喚いた。それで三津子までもが逮捕されそうになると、進之丞は三津子に頭を下げ、捕まえるのは自分一人で十分だろうと巡査に言った。
進之丞が改めて巡査に両手を差し出すと、巡査は進之丞を逮捕し、三津子については厳重注意で済ますことになった。三津子は目に涙を浮かべながら唇をわなわなと震わせて、後ろ手に縛られる進之丞をじっと見つめていた。千鶴と花江もどうすることもできず、進之丞の横で泣くばかりだ。
行くぞと巡査が進之丞を連行しようとすると、弥七が前に立ちはだかった。弥七はこの事件を引き起こしたのは自分だと申し出て、自分も逮捕してほしいと巡査に訴えた。
どういうことかと巡査が訊ねると、弥七は自分と孝平がこの男たちを使って、千鶴と花江を手に入れようとしたと白状した。
巡査は改めて千鶴と花江に、そうなのかと確かめた。泣く二人は喋ることができないまま、黙ってうなずいた。
その巡査は別の巡査を呼ぶと、弥七を逮捕させた。そして、逃げた孝平を捕まえるよう他の巡査に指示を出した。
大林寺を出ると、そこに多くの人だかりができていた。その中を後ろ手に縛られた進之丞と弥七が連行されて行く。その後ろを千鶴と花江は泣きながらついて行った。
集まった者たちの中には、当然千鶴たちが知る者もいた。何があったのかと声をかけられたが、説明などできなかった。
警察へ向かうのに、千鶴たちは紙屋町を通り抜けなければならなかった。両脇の店々からは、馴染みの顔がいくつものぞいている。何人かが千鶴たちに声をかけて近づこうとしたが、すぐに巡査たちに遠ざけられた。
山﨑機織の前を通る時、店に戻っていた甚右衛門とトミ、辰蔵と丁稚たちが、巡査につかみかからんばかりに飛び出して来て、千鶴たちを取り戻そうとした。けれど結局はみんな引き離されて、トミはその場に泣き崩れた。
甚右衛門は辰蔵に店を任せると、千鶴たちについて来た。しかし、警察に着くまで千鶴たちと喋ることは敵わず、甚右衛門もまた連行される一人のように見えた。
千鶴の隣では、花江が死にそうな顔で打ちしおれている。自分のついた嘘でこんなことになったと、責任を感じているのだろう。
弥七は項垂れたまま泣いている。だが進之丞は顔を真っ直ぐ上げて前を向いていた。考えているのは、つや子のことに違いない。
進之丞が逮捕されたのはまったくの理不尽であり、千鶴の胸は怒りと悲しみでいっぱいだった。一方で、千鶴はつや子のことが頭から離れなかった。
どうしてつや子はここまでのことをするのか。そこまで自分たちに恨みがあるというのか。だとすれば、これで終わりではなく、今後もつや子の企みは続くのか。
千鶴は不安と恐怖に襲われた。それはつや子を捕まえない限り終わらない。
歩いている間、道の脇に家や店を持つ者たちは、千鶴たちを心配そうに見ていたが、道行く者たちは好奇と侮蔑の目を向けている。その中には二百三高地の髷を結った女もたくさんいた。
客馬車で一緒になったつや子の顔を、千鶴ははっきりとは覚えていない。自分たちを眺める二百三高地の女を認めるたびに、もしやこの女がつや子ではなかろうかと、疑心暗鬼の気持ちにさせられる。でも堂々としている進之丞を見ると、自分はその女房らしくいようと思った。見るなら見ろである。
千鶴は涙を拭くと、進之丞の隣に身を寄せた。進之丞を後ろから連行する巡査が、千鶴に離れるように命じたが、自分はこの人の女房だと千鶴は強く言い返した。そして進之丞と同じように顔を上げ、胸を張って歩いた。
自分たちは何も悪いことをしていないのだから、胸を張るのは当然だ。どこかで見ているつや子に、少しも堪えていないところを見せてやるのだ。
そんな千鶴を横目で見て、進之丞は微かに笑った。その笑みが千鶴にとっては何よりの励みであり誇りだ。
何があろうとも二人が離れることはない。どんな困難も二人で乗り切ってみせる。そんな想いを強く胸に抱き、千鶴は進之丞とともに長い道のりを歩き続けた。
破局
一
事件のせいで、幸子と辰蔵の祝言は取り止めとなった。当日、仕立てた婚礼衣装が届けられたが、袖を通すことなく仕舞われた。
仲人をするはずだった組合長夫妻はもちろん、近所の者たちにも何が起こったのかを、甚右衛門は恥を忍んで話さねばならなかった。
甚右衛門は我が息子の愚かさを認めながらも、事件の主犯はごろつきたちを金で雇った者だと強調した。ただ、その黒幕が千鶴たちを襲わせた理由までは説明できなかった。
また、忠七は男たちを打ちのめしたために喧嘩両成敗で逮捕されたと語った。けれど、弥七がどうして逮捕されたのかは黙っていた。すると、みんなは弥七も千鶴と花江を助けるべく、忠七と一緒に男たちと戦ったのだと勝手に解釈した。
取材に来た新聞記者にも、甚右衛門は同じように説明をした。ところが、記者は弥七が逮捕された理由を知っていた。そこを問われると、甚右衛門は何も言えなくなった。
千鶴と花江は悪いのは男たちであり、忠七さんは自分たちを護ってくれただけだし、弥七さんは男たちに利用されただけですと訴えた。しかし、あとで新聞に掲載された記事では、事件はやくざを巻き込んだ山﨑機織の内輪の揉め事として書かれ、千鶴たちはひどく打ちのめされた。それでも、やらねばならない仕事は山積みだった。
進之丞と弥七が警察に捕まっているので、山﨑機織は手代がいない状態だ。店は甚右衛門が守り、注文取りも注文の品を運ぶのも、辰蔵と慣れない丁稚たちで手分けしてやるしかなかった。
けれどすべての店を辰蔵が廻るわけにもいかず、店によっては亀吉たち丁稚だけで廻りもした。同情してくれる店もあったが、手代が来ないことに文句を言う店もあり、山﨑機織はやくざの集まりかと蔑む店もあった。以後の付き合いを拒まれたり、注文が欲しいのであれば値下げをしろと無理を言われたりもした。
丁稚たちは涙を堪えながら懸命に働き続け、辰蔵も毎日くたくただった。
直接注文をしに来る客もぱったりと途絶えた。辰蔵たちが外へ出ている間、甚右衛門は所在なげに帳場に座るばかりだ。時折、同業組合の組合長や近所の者たちが慰めと励ましの言葉をかけてくれたが、それだけではどうにもならなかった。
辰蔵たちが一日の仕事を終えて戻って来ると、甚右衛門はすぐに警察へ向かい、進之丞と弥七の釈放を訴えた。千鶴とトミも同行し、着替えや食べ物を二人に届けた。
弥七はともかく進之丞の逮捕は誰もが納得していない。進之丞は千鶴たちを助けただけだ。それも普通であれば誰もが尻込みする相手に、たった一人で立ち向かったのである。本来なら英雄扱いされるべきところなのだ。
その結果、相手が重傷を負ったにせよ、それは向こうの責任であって進之丞の責任ではない。なのに逮捕された上になかなか釈放されないことに、甚右衛門もトミも怒りを覚えていた。
一方、トミは弥七を恩知らずと罵り、弥七なんか放っておけばいいと言った。だが、甚右衛門は弥七を唆したのは我が息子の孝平だと理解している。それに山﨑機織の責任者だ。事件への感情はあっても、店の主として知らぬふりはできなかった。
そうはいっても弥七が釈放されたところで、再び手代として使うのはむずかしいに違いない。今の取引先の雰囲気を見ても弥七が受け入れられるとは思えないし、辰蔵たちが弥七を許すかどうかもわからない。何より弥七自身がここにいられないだろう。
いずれにしても店として弥七をどうするかは、弥七が釈放されてから決めると甚右衛門は考えていた。
事件当日病院で働いていた幸子は、仕事を終えて家に戻った時に初めて何が起こったのかを知らされた。激しく動揺した幸子は仕事など手がつかなかったが、病院の勤務を休むわけにはいかなかった。
新聞にも載った事件は病院にも伝わり、院長たちは祝言が中止になったことも含めて、幸子に同情を寄せた。同時に、みんなが事件の真相を知りたがってあれこれ訊こうとするので、幸子は居たたまれない状況にあった。患者ですら幸子が山﨑機織の人間だと知る者たちは、自分の病気や怪我のことも忘れて、何があったのかと幸子を質した。
幸子は悲しみに耐えながら働くしかなかった。家に戻っても、いるのは使用人たちだけで話し相手はいなかった。
甚右衛門の指示で、使用人たちは先に食事を済ませることになっていた。幸子は食事を取らずに茶の間で縫い物をしながら、千鶴たちが警察から戻るのを一人で待ち続けた。そんな幸子に遠慮しながら、辰蔵たちは隣の板の間で夕飯を食べた。ほとんど誰も喋らない暗い雰囲気の中での食事だ。
千鶴たちが戻って来ると丁稚の三人は挨拶をして二階へ上がり、辰蔵は食事をする甚右衛門の横でその日の報告をした。しかし、甚右衛門が明るい話を聞ける日はなかった。
来る日も来る日も同じような報告で、山﨑機織との取引を止めるとか、品物の値を下げろという話ばかりだ。それを甚右衛門は拷問にかけられているみたいな顔で聞くのだが、途中で鳩尾を押さえて食事をやめるのが決まりになっていた。
千鶴たちが食事をする間、花江は一人で板の間に座って繕い物をした。けれど辰蔵の報告が聞こえるたびに、手を止めて悲しげにうつむいた。
事件について花江は深く責任を感じていて、警察での事情聴取が終わったあと、自分に暇を出してほしいと甚右衛門に願い出た。だが甚右衛門は花江のせいではないと言い、逆に愚かな息子がしでかしたことを花江に詫びた。そして、引き続き山﨑機織を助けてほしいと頼んだ。実際、今花江にいなくなられたら山﨑機織は立ちまわらなかった。
トミも花江が孝平についた嘘について怒ったりはせず、悪いのは孝平だと言った。また辰蔵と花江が好き合っていたのに気づかずにいたことを、悪かったねと逆に花江と辰蔵に詫びた。
辰蔵も花江も黙って頭を下げ、花江は山﨑機織に残ることになった。けれども店の状況を見ると、花江にとっては針の筵に座らされているようなものに違いなかった。
二
事件の三日後、千鶴たちが警察を訪ねているところに、道後の花街で捕まった孝平が連行されて来た。
甚右衛門は孝平につかみかかろうとしたが、近くにいた巡査たちに押さえられた。孝平は下を向いて泣いていたが、詫びも何も言わないまま連れて行かれた。
甚右衛門をなだめた巡査は、今の時点でわかっていることを話してくれた。それによれば、男たちの頭目は熊の平次という名で知られる、裏の世界では恐れられた男だった。他の男たちは平次の手下に過ぎず、今回の事件の目的も真相も聞かされていなかった。
といっても、すべての男から話が聞けたわけではない。ほとんどの者は喋れる状態になく、話ができた男たちも寝台に寝たままで動くことはできないらしい。
事情を知る平次は意識を取り戻したが、正気を失ったように意味もなく怯え続けているという。それでも一応の会話はできるので取り調べがされたのだが、首をかなり痛めているし両腕を折られているので、他の者同様に寝台に寝たままの取り調べとなった。
質問をされると、平次は呆けた様子になって素直に答えるらしいが、御廟所で何があったのかは一つも覚えておらず、その話になると狂ったように騒ぎだすと巡査は言った。
けれども、平次は自分が何をするつもりだったのかは覚えており、横嶋つや子という女の指示で動いていたということを正直に喋ったようだ。それで巡査は横嶋つや子という女に心当たりがあるかと千鶴たちに訊ねた。
甚右衛門は驚きながら、それは忠七が捕まえた空き巣の連れの女だと言った。トミも目を見開いたままうなずいた。だが、つや子との関わりはそれだけで、他につや子の恨みを買うような真似をした覚えはないと甚右衛門は憤った。
巡査は甚右衛門を落ち着かせると、恐らく仲間を捕らえられた逆恨みでしょうと言った。また、そんなことでここまでする女は狂っていると、千鶴たちに同情を寄せた。
警察が平次から聞き出した話によれば、つや子は派手な柄の着物が似合う庇髪の女で、時々道後の酒場に顔を出していたという。平次はそこでつや子と知り合い、深い仲になると同時にお金で使われるようになったらしい。
しかし平次はつや子の居場所は知らなかった。つや子とは一緒に暮らしているわけではなく、つや子の方がぶらりと現れて、お願いという形で平次に指示を出すそうだ。
つや子がどこの生まれで、どういう人物なのかを平次は知らないし、つや子が千鶴たちを襲う理由も聞かされていなかった。平次が関心があるのは、お金だけだった。
自分が御廟所で倒れていたことについては、平次は何も話せなかった。忠七に両腕を折られたことも覚えておらず、今の自分の状態には戸惑っているようだ。
一方で、進之丞もその時のことは覚えていないと答えていた。無我夢中だったという意味だが、警察がそれを鵜呑みにするはずがなかった。そもそも一人の人間が十五名の荒くれ者たちを不具にできること自体が信じられないことであり、佐伯が正直に喋るまでは釈放はむずかしいでしょうと巡査は千鶴たちを落胆させた。
巡査は千鶴に進之丞が平次に何をしたのか教えてほしいと言われた。千鶴は困惑しながら頭をめぐらせ、忠七さんは動きがとにかく素早いので、あっという間に平次を倒したけれど、何がどうなってというのは自分にはわからないと話した。
ほうですかと巡査は残念そうに言い、この話はこれで終わった。
別の日に、警察は孝平と弥七について教えてくれた。それによれば山﨑機織を追い出された孝平は、道後の花街で下働きをしていたそうだ。
道後で花江を見かけた孝平は、辰蔵と祝言を挙げると花江に言われて花街へ逃げ戻ったが、何とそこへ弥七が訪ねて来たという。
孝平が山﨑機織にいた頃、弥七は孝平に反発していた。けれど休みの日に街で偶然出会った孝平が、未だに花江に心を寄せているのを知って気持ちが変わったらしい。
弥七は休みになると街へ出かけていたが、休みなのに千鶴を手伝う進之丞を見て焦ったようだ。それで同じ悩みを抱えた孝平に胸の内を聞いてもらい、べっ甲の櫛で千鶴の気を引くように促された。ところがそれが不発に終わったので、その愚痴を言うために弥七は孝平を訪ねたのだった。
弥七にも惨めな思いをさせたくなった孝平は、花江から聞いた話として、番頭の祝言に併せて千鶴も忠七と祝言を上げるようだと弥七に話した。花江と辰蔵の祝言と言わずに番頭の祝言と言ったのは、花江を辰蔵に奪われる屈辱を弥七に知られたくなかったからだが、このことが後に事態を大きくする要因になった。
弥七は孝平の期待どおりに動揺したが、うろたえる弥七を見ているうちに、孝平は弥七を利用して花江と辰蔵の祝言をやめさせることを思いついた。それが千鶴と花江を二人で手籠めにするというものだ。
自分が痛い目に遭ったことは棚に上げ、女は力尽くで物にしろと孝平は弥七に言った。また千鶴が祝言を挙げる前に、自分の物にしてしまえと弥七を唆した。
そんなのは無理だと弥七が怯むと、そうすれば千鶴に言われた特別な関係になれるし、甚右衛門が怒り狂っても世間体というものがあると孝平は説いた。弥七を追い出して千鶴を傷物のままにするよりも、弥七を千鶴の婿として受け入れる方を甚右衛門は選ぶはずだというのが、孝平の理屈だ。
それでもまだ弥七が迷っていると、千鶴の婿となった者がいずれは山﨑機織の主になるのだと、孝平は強調した。さらに、弥七にその気があるなら自分も一枚噛ませてもらって、花江を手に入れたいと付け加えた。これこそが孝平の本当の狙いだった。
この最後の言葉が、心が揺れる弥七にはとどめとなった。一人ではなく仲間がいることが、弥七に千鶴を襲う決意をさせた。
しかし孝平は店におらず、いるのは弥七だけだ。そんな状態でどうするのかと弥七が問うと、孝平は近くにいた平次に弥七を会わせた。
孝平は平次がどんな人間なのかを知っていて、いつもであればなるべく近づかないようにしていたというが、この時は平次の力を後ろ盾にしようと考えたらしい。
相談を受けた平次は力を貸すとは約束せずに、考えておくとだけ言った。そのあとで平次がこの話をつや子に伝えたところ、喜んだつや子は平次に具体的な指示を与えた。首尾よくいった時の報酬もあった。それが今回の御廟所事件の真相だ。
平次によると、何故かつや子は孝平と弥七のことを知っていたそうだ。そのことは千鶴たちを驚かせた。千鶴が料亭で特高警察に捕まったのも、つや子が千鶴と進之丞の動きを知っていたからで、つや子の不気味な影は千鶴を不安にさせた。
辰蔵と幸子を夫婦にすると甚右衛門が宣言をした日、弥七は慌てて道後の孝平を訪ねた。注文取りを後回しにしての報告だ。
弥七は番頭さんの祝言が決まったと孝平に伝えたあと、千鶴さんの話は出なかったが、どうなっているのかと訊いた。孝平は首を傾げながらも、花江の話は疑わなかった。そこで考えたのは、千鶴たちの祝言については予定が変わり、辰蔵とは別の日に執り行うというものだった。
いずれにしても千鶴と忠七は近々祝言を挙げるはずだとしながら、予定が先に延びたのであれば、弥七にとっては却って好都合だと、孝平は弥七を鼓舞した。弥七は少し気持ちが揺らいだが、計画は予定どおり行われることになった。
今更ではあるが、祝言について弥七が孝平に報告した時、番頭さんの祝言とは言わずに、番頭さんと幸子さんの祝言と言えば、恐らくこの事件は回避できたのである。
しかし、弥七は孝平が何もかも知っていると考えていた。その孝平が番頭の祝言と言うので、同じ言い方をしたらしい。結果的にこの二人の思い込みによる不運な会話が、つや子の思惑の実現につながったのだ。
事件当日の午前中、弥七は亀吉と二人で太物屋へ注文の品を納めに廻っていた。その時に弥七は甚右衛門やトミの予定を孝平に伝えた。その様子は亀吉が目撃しており、突然現れた孝平に弥七が何やら耳打ちをしていたと亀吉は証言した。
午後にいったん店を離れた弥七は、計画に従って辰蔵を帳場から離れさせた。甚右衛門が組合長の家で倒れたと伝え、辰蔵を組合長の家まで走らせたのだ。
そのあと弥七はトミが大林寺で倒れたと言って、千鶴と花江を引っ張り出した。ここまでが巡査が教えてくれた事の経緯だ。
もし進之丞が駆けつけていなければ、千鶴と花江は男たちの玩具にされた挙げ句に大阪へ売り飛ばされ、弥七と孝平は殺されて海に沈められていたはずだった。進之丞が千鶴たちを助けられたのは、豊吉の機転があったからだ。
三
太物屋を廻った時に弥七が孝平と喋っていた話を、豊吉は亀吉から聞かされていた。弥七に不審を抱いた亀吉は、あの二人は何だか怪しいと丁稚だけで話していたそうだ。
そのあと突然現れた弥七が、有無を言わせぬ形で千鶴と花江を引っ張り出し、帳場の辰蔵もいなくなっていたので、これは何かあると豊吉は思ったという。
千鶴から店番を頼まれたので、店を空けることに気が引けはしたが、豊吉は真っ直ぐ進之丞の元へ走った。
亀吉や新吉同様に、豊吉は進之丞を兄のごとく慕っていた。進之丞は豊吉の頭のよさを大いに評価したが、それが豊吉は何より嬉しかった。その敬愛する進之丞から、自分の留守中に千鶴や店に異変があったなら、すぐに知らせてほしいと豊吉は頼まれていた。
今こそ忠七兄貴に知らせる時だと思った豊吉は、時間帯から進之丞の居場所を考え、そこへ走った。豊吉の予想はどんぴしゃりで、異変を聞かされた進之丞は注文書を豊吉に預けると、疾風のごとくに大林寺へ向かったという。
まさに豊吉の大手柄であったが、まさか弥七がこんな大それたことをするとは、さすがの豊吉も思いもしなかっただろう。
ただ、千鶴たちの危機に進之丞が間に合ったのは、孝平のお喋りも幸いしていた。
当初の計画では、孝平と弥七は初めから千鶴たちを無理やり手籠めにして、自分たちの物にするはずだった。ところが花江に対して自分の優位性と正当性を誇示したくなった孝平は、花江を手籠めにする前に得意げに話しかけた。
けれど、ただの思いつきでは花江にいろいろ言われても返答ができず、ついには花江に言いくるめられた。だがそのやり取りがあったお陰で、進之丞が間に合ったのである。
「千鶴さんは以前にもごろつきたちに襲われたそうですな」
唐突に巡査が話したので、千鶴は大いに焦った。そんな話は初耳の甚右衛門とトミは驚いて千鶴に真偽を確かめた。千鶴は返答ができなかったが、巡査は構わず続けた。
「平次の取り調べには時間がかかりましてな。あとになってから、前にもつや子に頼まれて、手下のごろつきたちに千鶴さんと佐伯を襲わせたと言うんですわい」
「ほれはいつのことですかな?」
訊ねる甚右衛門に、春頃らしいぞなもしと巡査は言った。
「千鶴さんが佐伯と二人で郵便局へ行くのを待ち伏せしよったと言うとりました」
甚右衛門たちはあの時かとすぐにわかったようだ。何故黙っていたのかと問い詰められた千鶴は、家族に心配をかけたくなかったからと下を向いて言った。
「男たちには鬼山喜兵衛という剣道四段の用心棒がついとったらしいんですが、結局は全員が佐伯にぶちのめされたようですな」
またもや驚いた甚右衛門とトミは、喜兵衛の名前をもう一度巡査に確かめた。
「鬼山をご存知ですかな?」
「ご存知も何も、千鶴の婿にと思たことがある男ぞなもし」
「ほうですかな。ほれは何とまぁ」
巡査は唖然としながら、平次が十五人もの手下を率いたのは佐伯への警戒があったからだと言った。ところが進之丞の強さは平次の予想を遥かに超え、全員が病院送りになった。たかだか五名のごろつきに用心棒が一人加わったところで、進之丞に敵うはずがないのだが、巡査は進之丞が木刀を持った喜兵衛を素手で倒したことに注目していた。
甚右衛門もトミも喜兵衛に憤りを見せたが、忠七という男は何者かと思っただろう。それでも訝しむどころか、忠七は大した男だと二人で笑みを見せながらうなずき合った。
しかし、やはり警察では進之丞を怪しんでいた。どこでどうやってそんな強さを身に着けたのかと質したそうだが、進之丞は生まれつきだとしか言わないらしい。それで千鶴は進之丞の強さについて訊かれたが、わからないと惚けた。
「ところで、千鶴さんは以前に特高警察に捕まりそうになったと伺うとりますが、その後は連中と関わることはありませんでしたか?」
巡査が話題を変えると、千鶴はぎょっとした。料亭で見つかった男たちの様子が、今回のごろつきたちの状態と似ていると、警察では見たのかもしれなかった。
千鶴は何とか平静を装い、お陰さまで何もありませんと答えた。すると、すぐさま甚右衛門が言った。
「この子やのうて、この子の母親が誘拐されそうになったことはあるけんど、ほん時も忠七が連中をぶちのめして警察に突き出しとります。その話は聞いとりませんかな?」
巡査が少し苦笑しながら、聞いとりますと答えると、トミは鼻息荒く言った。
「そいつらは牢屋に入れられとるんじゃろ? こちらではうちらがロシアのスパイやないてわかってくんさっとるみたいなし、さすがに特高も出て来れまい」
巡査は、ほうですなと言った。実は男たちはすぐに釈放されたとは言えないのだろう。つまりこれ以上は料亭の話はできなくなったわけだ。意図せずして千鶴たちをかばってくれた祖父母に千鶴は感謝した。
平次もつや子から特高警察のことは聞かされていなかったようだ。また、あの時のごろつきたちも進之丞と戦うのに必死で、千鶴が料亭の中へ連れ込まれるところは見ていなかったと思われる。千鶴はほっとしながら言った。
「忠七さんが鬼山さんたちを打ちのめしたことも、罪として咎められるのでしょうか?」
「いいえ、ほれについては被害届が出とりませんし、誰が怪我をしたんかもわからんですけん咎めはありません。ほんでも、今回は重傷者がおるんがわかっとりますけん、佐伯のやったことが罪に問われる可能性はあるでしょうな」
巡査の返答に千鶴たちは猛抗議をした。けれど、巡査は申し訳ありませんがと言うばかりだった。
四
進之丞が千鶴や花江を護ろうとしただけだというのは、警察も理解していた。ただ、あまりにも人間離れした暴れぶりに、警察は進之丞が何者なのかを慎重に調べているらしかった。とにかくこの男をすぐに外へ出してはならぬというのが警察の姿勢だった。
とはいえ誰に正義があるかは、素人が見ても明らかだ。紙屋町の人々は進之丞の無実と即時釈放を訴え、多くの署名を集めて警察へ提出してくれた。それは普段の進之丞の人柄や働きぶりを、紙屋町の人たちが認めてくれていたということで、千鶴たちには何より心強く嬉しかった。
その署名の効果だろうか、進之丞は逮捕の一週間後にようやく解放された。だが、弥七と孝平は釈放されなかった。
事件の黒幕はつや子であり、千鶴たちを襲ったのはつや子の指示に従った男たちだ。孝平と弥七はつや子の存在を知らないし、男たちが自分たちとは別の指示で動いていたのもわかっていなかった。孝平たちはつや子に利用されたに過ぎない。
それでも事実を知るまでは、孝平たちには首謀者としての自覚はあった。二人の目的は明らかで、犯罪者として裁判にかけられるそうだ。また現場が大林寺の御廟所であることも問題視されていた。神聖な場所を汚したことでも二人は厳しく問われるようだ。
弥七は自分がしたことの意味を理解しており、深く悔いていた。事件のせいで店の経営が傾いている事実を知らされると、壁に頭を打ちつけて泣いたという。
一方、孝平は実家に迷惑をかけたとは思っていなかった。孝平が気にしていたのは花江だけだ。今も大林寺での花江の言葉を信じていて、自分を待っていてくれた花江に申し訳ないことをしたと、花江の話になると悄気るらしい。
二人とも山﨑機織の関係者であり、いわば身内の争いなので、甚右衛門たちが罪を軽減するよう申し出れば、情状酌量の余地はあると巡査は言った。
甚右衛門は弥七の罪を軽減してやってほしいと述べ、トミも渋々ながら夫の言葉に同意した。だが孝平については、甚右衛門は受けるべき罰を受けさせてほしいと願い、トミは死罪にしてもらっても一向に構わないと言った。
進之丞が釈放され、甚右衛門もトミも安堵の顔を見せた。
千鶴は人目も憚らず、進之丞に抱きついて泣いた。進之丞は千鶴を抱き返し、甚右衛門とトミに深々と頭を下げた。甚右衛門もトミも泣きながら、苦労をかけたと進之丞に感謝し、これから一からやり直しだと言った。
紙屋町の人々も進之丞が戻ったことを喜んでくれた。町中の人たちが進之丞のために署名をしてくれたと聞かされると、進之丞は男泣きに泣いた。その涙に他の者たちも釣られるように泣き、みんなで進之丞に拍手をした。
けれど、それでめでたしめでたしではない。山﨑機織が置かれた状況は最悪といえた。
翌日から進之丞は仕事に復帰したが、取引先の進之丞を見る目は冷ややかだった。
中には十五人ものやくざを相手に勇ましく戦ったと、進之丞を称賛してくれる者もいた。しかし、進之丞をただの乱暴者と捉える者も少なくなく、注文する物は何もないと言われることが多かった。かつては娘の婿になってくれと言っていた所も、手のひらを返したごとき応対を見せた。
事件は大阪にも伝わったみたいで、胡散臭い所とは付き合わないと言って、山﨑機織との取り引きをやめる所が出てきたと、作五郎から連絡が入った。
東京は大丈夫かと思ったが、他の伊予絣問屋から営業に出ている者たちが事件の話を広げていると、茂七からの手紙が届いた。
紙屋町ではどの店も山﨑機織に同情してくれているように見えた。ところが、東京では山﨑機織を蹴落として取引先を奪おうとする動きがあった。恐らく状況は大阪も同じに違いなかった。
伊予絣問屋は同じ伊予絣を扱う仲間ではあるけれど、顧客を奪い合う商売敵でもある。その現実を思い知らされて、甚右衛門もトミも人間不信に陥った。
悪いことには悪いことが重なるもので、山﨑機織を危ないと見た銀行の行員が、八月初めにまたもや店の経営状況を確かめに来た。
七月の前半はよかったが、事件の影響で後半が散々だったため、月末に集金できた金額は予定よりもかなり少なかった。帳簿を見た行員は山﨑機織へ貸した金を、すぐにまとめて返済してもらうと言いだした。
経営が傾いたとはいっても、まだ盛り返せる可能性はある。なのに借金を取り立てられるとなると、店を取り上げられてしまう。それは店が潰れるということだ。
何としても店を差し押さえられるのだけは防がねばならず、甚右衛門はなりふり構わず行員に、もう少しだけ待ってほしいと畳に額をこすりつけた。トミも使用人の前であったが、両膝を突いて行員を拝んだ。
千鶴と進之丞も土間に手を突いて頭を下げ、花江や辰蔵、丁稚たちまでもが行員を囲んで土下座をした。
前にトミが倒れたのを覚えていたのか、うろたえた行員は一月だけ待つと約束した。一応の情けをかけるというのだろうが、九月一日に確認する八月の売り上げが今回よりも増えていなければ、容赦なく取り立てると行員は言った。取り敢えずは難を逃れた形になり、みんなはがんばろうと誓い合った。だが、現実は厳しかった。
行員が帰ったすぐあとに、東京にいる茂七から電報が届いた。集金した売上金を盗まれたというのだ。
東京や大阪からの売上金は銀行で小切手にしてもらい、それを郵送してくる。だから、向こうの売上金を現金として受け取れるのは、小切手が届いてからだ。その金額は七月の売り上げとして計上されている。
売上金を盗まれたために、ただでも少ない七月の売り上げがさらに落ち込んだ。それは八月に使える現金が少なくなったという意味だ。しかも東京での売上金の一部は、茂七が東京に滞在するための経費として使う。それを失っては、茂七は東京に残れない。
茂七がいるのは安宿ではあるが、毎日泊まっているのでその金額は馬鹿にならない。食費や移動の費用も必要だ。電報だけでは詳しい事情はわからないが、茂七は責任を感じながら、身動きが取れなくなっているはずだ。甚右衛門はすぐさま茂七に送金する準備をし、取り敢えずの金を送るから待つようにと電報を送った。
翌日、作五郎からの小切手が届いた。ほっとはしたものの、やはり金額はかなり少なかった。
蔵の中には、行き場を失った絣の箱が山積みになっている。なのに、注文をしていた品は織元から次々に届けられる。
太物屋へ売った品の代金は、月末になるまで手に入らない。けれど、遠くから伊予絣を運んで来る仲買人たちには、その都度支払いをする必要があった。その支払いが次第に怪しくなり、ついには支払いを待ってほしいと頼む事態になった。
また、売れない品を注文しても在庫の山になるばかりなので、次回の注文も待ってほしいと言うと、仲買人は臍を曲げた。
この仲買人は山﨑機織との取り引きを止めると言い、運んで来た絣をそのまま持ち帰った。そのあとに来た仲買人たちも同じことになった。
仲買人たちに見切りをつけられた話は噂となって広がった。まだ取り引きを続けてくれていた太物屋も、山﨑機織はもうだめだと思ったらしい。ほとんどの店が、もう注文はしないと決めた。
山﨑機織はついに命運が尽きた。実にあっけない幕切れであり、甚右衛門はトミと二人で泣いた。
五
商いがだめになったと銀行に悟られないために、甚右衛門は辰蔵たちに八月三十日まで仕事をしているふりをするよう命じた。
茂七にも、東京から手を引くので戻って来るようにと、手紙を書いた。作五郎にも、店を畳むので注文は必要がなくなったと伝えた。また、売り上げが減ったにも拘わらず、いつもと同じだけの給金を送金した。
作五郎からは山﨑機織の店仕舞いを残念がる手紙が届いた。
手紙で作五郎は一度は仕事を失った自分を拾ってくれたことへの感謝と、孝平をうまく育てられなかった詫びを伝えていた。作五郎も山﨑機織の倒産について、深い責任を感じているようだった。
甚右衛門は丁稚たちに次の働き場所を探してやった。幸い三人とも引受先が見つかった。
亀吉たちのために甚右衛門は上等の絣の反物を用意してやり、千鶴と幸子とトミで三人に新しい着物を縫ってやった。進之丞はどこかから調達して来た稲藁で、三人に新しい藁草履を作ってやった。
新たな仕事もなく、悲しみに満ちた日々が過ぎていく。働いているふりをするため、進之丞は丁稚の一人を従えて、届ける先のない反物の箱を載せた大八車を引いて廻った。辰蔵も誰も来ない帳場にずっと座り続けた。
そして別れの日が訪れた。この日は日曜日だ。幸子も病院の仕事は休みで、山﨑機織の者全員が揃っている。甚右衛門がこの日まで使用人たちを引き留めたのは、銀行の目を欺く他に、家族全員でみんなを送り出すという意図があったからだ。
亀吉、新吉、豊吉の三人は新しい着物を着せられながら泣いた。三人ともずっと山﨑機織で働きたかったと言い、ここを離れたくないと駄々を捏ねた。
進之丞は亀吉たちを上がり框に座らせると、一人ずつ藁草履を履かせてやった。亀吉たちは涙をぽろぽろこぼしながら、みんなに世話になった礼を述べた。
甚右衛門も言葉に詰まりながら三人を励まし、最後まで面倒を見てやれなかったことを詫びた。トミはみんなを孫のように思っていたと言い、涙ぐみながら一人一人の頭を撫でてやった。
花江は泣きながら豊吉にごめんねと言い、亀吉と新吉にも謝った。豊吉は首を振り、花江さんは悪くないと言った。亀吉と新吉も同じように花江を慰めた。
東京から戻っていた茂七は、すまないと亀吉たちに深く頭を下げた。亀吉たちは茂七を責めたりせず、逆に励ましてやった。
幸子と千鶴は三人を順番に抱いてやり、いつか立派なお店を持ってねと言った。
亀吉たちが泣きながら山﨑機織を去って行くと、甚右衛門は辰蔵たちに最後の給金を払うと言った。甚右衛門は店で回すお金がなくなる中で、使用人たちに支払う給金だけは使わずに残していた。
自分が文無しになる甚右衛門が給金をもたせようとすると、いりませんと辰蔵は言った。それでも甚右衛門は無理やり辰蔵に給金を持たせ、茂七にも給金を手渡そうとした。
茂七は自分にはそんな資格はないと受け取りを拒んだが、甚右衛門は押しつけるようにして給金を持たせ、これまでの苦労をねぎらった。茂七は返す言葉がなく、ただ泣くばかりだった。
甚右衛門は花江にも世話になった礼を述べて給金を渡そうとした。やはり花江も固辞したが、受け取ってあげてと千鶴は懇願した。トミもこれは辰蔵との仲を引き裂こうとしたお詫びでもあるからと言った。花江は給金を受け取ると、胸に抱いて泣いた。
進之丞も騒ぎを起こしたからと給金を断ったが、甚右衛門は千鶴に持たせた。甚右衛門は千鶴が進之丞の給金を預かっていることを知っていた。
茂七が泣きながら何度も頭を下げて去ると、花江もそれに続こうとした。甚右衛門は花江を呼び止めると、辰蔵にも声をかけた。
「これはな、いつかお前に暖簾分けさせよと思て貯めよった銭ぞな。これで花江さんと二人で何ぞ商いを始めたらええ」
甚右衛門はトミから受け取った銭の袋を辰蔵に渡そうとした。驚いた辰蔵はとんでもないと受け取ろうとせず、花江も、旦那さんたちこそこれで出直してくださいと言った。
しかし甚右衛門は自分がこの金を持っていると銀行に差し押さえられるから、受け取ってほしいと繰り返した。トミも、自分たちができなかったことを今度は二人で成し遂げてもらいたいと言った。
花江と顔を見交わした辰蔵は、甚右衛門から銭を受け取ると号泣した。その横で花江もわんわん泣いた。二人は礼を述べようとしたが言葉にならず、代わりに甚右衛門たちが二人に励ましの言葉をかけた。
千鶴と進之丞も、おめでとうと声をかけた。幸子も笑顔で祝福した。どん底の状態ではあったが、みんなで二人を祝ってやれたのがせめてもの救いだった。
鼻をぐずぐずさせながらも、ようやく落ち着いた辰蔵と花江が礼を述べると、これからどこで暮らすつもりかと甚右衛門は訊ねた。
「東京へ行てみよかと思とります」
辰蔵は花江の顔を見てから言った。
東京は花江にとってはつらい所ではあるが、想い出の場所でもある。花江が嬉しそうにうなずくと、甚右衛門もトミもそれがいいと微笑んだ。
みんなで辰蔵と花江を送り出したあと、進之丞は甚右衛門とトミに向かって両手を突き、千鶴に風寄で履物作りの仕事を手伝ってもらいたいと頭を下げた。それが千鶴を嫁にもらいたいという意味なのは、誰の目にも明らかだった。
甚右衛門はこちらから頼みたいくらいだと言って進之丞を立たせた。そして進之丞の手を取ると、千鶴をよろしく頼むと深々と頭を下げた。それから進之丞を抱き、これまでのことについての感謝とねぎらいを伝えた
トミも千鶴を頼みますと言い、進之丞の手を握りながら涙ぐんで頭を下げた。
進之丞は改めて二人に頭を下げたが、目には涙が光っている。千鶴も涙ながらに祖父母に感謝した。
次に進之丞は幸子と向き合い、再び黙って手を突いた。進之丞の体はとても緊張したように小さく震えている。
幸子はしゃがんで進之丞の手を握ると、これまでの感謝をして、千鶴をよろしくお願いしますと言った。進之丞は打ち伏したまま泣き、申し訳ありませぬと幸子に詫びた。
幸子は進之丞の田舎の者らしからぬ言葉に戸惑いながら、あなたは何一つ悪いことはしてないから自分を責めないでと言った。しかし、その言葉はさらに進之丞を泣かせた。
甚右衛門とトミは土佐にいる遠い親戚の世話になることが決まっていた。
山﨑家の先祖は土佐の出で、これまで音沙汰がなかった何軒かの親戚に甚右衛門は手紙を書いた。手紙を書いたのは、茂七から売上金を盗まれたという知らせが届いた直後だ。甚右衛門はその時に店がだめになると覚悟したようだ。
出した手紙への返事はほとんど戻って来なかったが、一軒だけが快い返事をくれた。それで甚右衛門はそこを頼ることにしたのである。
幸子と辰蔵との婚礼は中止になったが、幸子が病院で働くのは八月いっぱいという話に変わりはなかった。今更変更してほしいとは言えないし、幸子のあとに入る看護婦がすでに決まっていた。そのため幸子は八月末で仕事を辞めざるを得なかった。
図らずも最後の病院勤務は山﨑機織を畳む日と重なったのだが、幸子はそれでよかったと思っていた。年老いた両親だけを見知らぬ土地へ行かせるわけにはいかないと、二人に同伴することを幸子は決めていた。しかし、土佐へ行くのはもう少しあとだ。
明日は多くはないが最後の集金がある。店仕舞いの挨拶を兼ねて甚右衛門が一人で廻るのだが、その金は進之丞との婚礼の祝儀として千鶴に持たせるつもりだ。売上金がまったくないと知れたら銀行が怒り狂うのは必至だが、そこは承知の上だ。土佐へ向かうのは、激怒した行員と借金返済の話をつけてからになる。
進之丞は藪入りも仕事をするつもりでいた。しかし店仕舞いにすると知らされ、藪入りには今後のことを決めるために風寄へ戻った。そこで為蔵とタネに今の状況を話し、月末に戻って来ると伝えた。また甚右衛門の許しが出れば千鶴を連れて戻ると、二人に告げた。
千鶴は祖父母や母が松山にいる間は松山に残ろうと考えていた。ここで祖父母たちと別れるともう二度と会えないかもしれず、残された時をともに過ごしたかった。
千鶴が残るのであれば進之丞もここにいればいいのだが、為蔵たちには八月末に戻ると伝えてある。二人が待っているので進之丞だけが明日風寄へ一人で向かい、翌日に再び千鶴を迎えに戻ることになった。
千鶴と夫婦になれば、進之丞は山﨑家の使用人ではなく身内になる。しかし、五人が一緒にいられるのは今だけだ。限られた時間を惜しむように、みんなでいろんなことを語り合った。思い出話もあればこれから先の話もした。不安もあれば期待もあった。
進之丞は履き物の大店を作って甚右衛門たちを迎えると約束し、待っとるぞなと甚右衛門たちは笑顔で応じた。そんな話に花を咲かせていると、どこで山﨑機織の話を聞きつけたのか、突然三津子が訪ねて来た。
三津子は甚右衛門とトミに慰めの言葉をかけると、幸子と抱き合って泣いた。そのあと千鶴にも声をかけて励まし、これからどうするのかと訊ねた。
千鶴が説明をしかねていると、代わりに幸子が今後について三津子に話した。
三津子は家族がばらばらになってしまうと同情して嘆きつつ、千鶴と進之丞をにこやかに祝福した。そして手提げの小さな鞄から財布を取り出すと、中からお札をつかみ出し、祝いを兼ねた餞別だと言って千鶴に持たせた。
これまでの意地汚い三津子からは想像もできないことだった。千鶴は三津子に感謝しながら、これまで三津子を悪く見ていたことを心の中で申し訳なく思った。
いつ風寄へ行くのかと三津子に訊かれた千鶴は、恐らく明後日だと思うと答えた。ただ進之丞は明日先に発つと話すと、ほうなんと三津子はにっこり笑い、改めて千鶴と進之丞を祝福した。
いつもの三津子ならそのまま居座り続けているところだ。ところがこの日の三津子は驚いたことに、みんな揃っての最後の日に邪魔をしてはいけないからと帰って行った。
へぇと千鶴は感心し、さすがにこういう時にはちゃんとできる人なのだと、三津子のことを見直した。見ると、幸子も何だかほっとしているみたいだ。
甚右衛門もトミも妙な感じだと言いながら、三津子を好意的に受け止めていた。
進之丞も三津子の様子を訝しく思ったのだろう。三津子が出て行ったあとを、じっと見つめていた。
六
翌日、進之丞は風寄へ向かった。千鶴は途中まで見送りだ。
山﨑機織へ来た時のように、進之丞は両手と背中に大きな風呂敷包みを持たされた。
背中の風呂敷には半纏とあの継ぎはぎの着物を入れ、両手の風呂敷には上等の絣の反物が詰められるだけ詰めてある。反物は千鶴が風寄へ行ってから、為蔵とタネ、そして進之丞の着物を仕立てるつもりだ。
進之丞と二人で歩く千鶴の胸の中では、いろんな感情が渦巻いている。
店がだめになり、みんながばらばらになるのはとても悲しい。しかし、それぞれが新たな道を歩みだすのだと考えれば、必ずしも悪いことではない。実際、千鶴と進之丞は晴れて夫婦になるわけで、暮らしも履物作りの仕事があるから心配はない。法生寺も近いし、春子の実家もある。全然知らない土地へ行くのではないから安心だ。
進之丞は、実は――と言って、藪入りに風寄へ戻った時に、おとっつぁんとおっかさんから何としても千鶴を嫁にもらって来るよう命じられたと、笑顔で千鶴に話した。千鶴には驚きであり感激の話だ。あの為蔵さんがそこまで言ってくれたのかと、胸の中が熱くなり、間もなく風寄で暮らすことになる日が待ち遠しくなった。
実際に一緒に暮らせば、いろいろ問題は出て来るだろう。だけど進さんと夫婦になれるのだから、何があろうと乗り越えられる。そんな想いが千鶴の期待を膨らませた。
師範学校の北端まで来ると、見送りはここまででいいと進之丞は言った。進之丞はまだ捕まらないつや子を警戒していた。
進之丞は三津子にも気をつけるようにと言った。三津子には妙なものを感じるらしい。
三津子は元々妙な女であり、言われなくても警戒はしている。ただ今回餞別をもらったので、千鶴の三津子に対する気持ちは緩んでいた。どうせもう三津子に会うことはないと思いながら、気ぃつけるけんと千鶴は進之丞に約束した。
そんなことより、千鶴はこのまま進之丞について行きたかった。でも、祖父母を残しては行けない。それに明日になれば進之丞は戻って来る。寂しいが少しだけの辛抱だ。
けれど寂しさはどんどん募り、このまま進之丞と永遠に別れてしまうような、そんな予感がした。
行こうとする進之丞を千鶴は抱きしめた。進之丞を行かせたくなかった。道行く者たちや近くの店の者たちが見ていたが、他人の目を気にする余裕はなかった。
進之丞は不安がる千鶴を抱き返しながら、案ずるなと言った。
「明日の朝一番に戻んて来る故、藪入りとさほど変わるまい。ほんでも、ほれまでは旦那さんらの傍におるんぞ。あしにしたかて、お前のことが心配なけんな」
やっと進之丞を送り出す決心をした千鶴は、進之丞の手を握りながら言った。
「待ちよるけん、なるべく早よ戻んてな」
うむとうなずくと、進之丞は歩きだした。何度も振り返りながら進之丞がどんどん遠ざかって行く。その様子に海で千鶴を見つめながら遠ざかる鬼の姿が重なって見えた。
「進さん!」
思わず千鶴は大きな声で叫んだ。進之丞は一度だけ千鶴を振り返ると、道を行き交う者たちの中に姿を消した。それはまるで千鶴に応えた鬼が海に消えたみたいだった。
取り返しがつかないことをした気がした千鶴は、急いで進之丞を追いかけた。やはり引き留めなければと、襲ってくる不安に呑み込まれそうになっていた。
しかし、千鶴が進之丞に追いつくことはできなかった。進之丞は走り去ったようで、道のどこにも進之丞の姿はなかった。
七
千鶴は夜明け前から目を覚ましていた。進之丞のことが気になって、昨夜もほとんど眠れていない。進之丞との別れ際に感じた不穏な想いはずっと消えずに残っている。
昨日の約束では進之丞は朝に迎えに来ることになっており、その約束に縋ることで千鶴は不安を抑えようとした。
――進さんのことやけん、朝飯も食わんでおいでるんじゃろな。たぶん今頃は風寄を出てこっちへ向かっとろ。もう堀江の辺りまでおいでとろうか。
千鶴は自分に言い聞かせるように考えをめぐらせていたが、進之丞が本当に早くに戻るのであれば寝てなんかいられない。
外が少し薄明るくなった頃、千鶴はまだ寝息を立てている母を起こさないようにしながら、そっと起きて着替えをした。それから台所へ行くと、米を研いで竈に火を入れた。炊く米は進之丞の分も入っているが、いつもより量が少ないので炊き損じないよう気をつけねばならない。
ひょっとしたらご飯を炊いているところに戻って来るかもしれない。そうなったら前みたいに手伝ってもらおう。お母さんも一緒だけど、最後の朝飯だから賑やかでいい。
そんなことを考えながら、千鶴は朝飯を作り始めた。すぐに幸子が起きてきて加わったが、進之丞は姿を見せない。そのうち甚右衛門とトミも起きて来て食事の時間になったが、進之丞は戻って来なかった。
口に出さなくても千鶴が落胆しているのはわかるので、みんなは心配ないからと千鶴を慰めた。きっと為蔵さんらがきちんと朝飯を食わせているのだと甚右衛門が言うと、トミも幸子もうなずいた。
進之丞の戻りを待ちながら、食事はいつもよりもゆっくりしていた。食べ終わったあとも、しばらくはみんなで他愛ない話をしながら進之丞を待った。しかし、いつまで経っても進之丞が戻らないので、千鶴と幸子は仕方なく片づけを始めた。
千鶴の胸の中では、不安が大きく膨らんでいる。それが顔に出ていたのだろう。忠さんは大丈夫なけんと幸子が慰めの声をかけた。
銀行の行員がやって来た。約束どおり八月の売り上げを確かめに来たのだ。
帳簿を見せるよう甚右衛門に迫る行員は、どうせだめなのはわかっていると言いたげで、意地悪そうな笑みを浮かべていた。
甚右衛門に渡された帳簿を確かめた行員は、それ見たことかと言わんばかりに帳簿を投げ出し、残っている金を見せろと言った。
甚右衛門がないと答えると行員は笑みを消し、どういうことかと眉をひそめた。
銭は全部暇を出した使用人たちにくれてやったと甚右衛門が答えると、行員の顔はみるみる険悪になった。行員は怒りを隠さず、騙しやがったなと口汚く罵ると、明日にでも財産をすべて差し押さえると言いおいて出て行った。
行員がいなくなったあと、甚右衛門はやれやれと言いながら、みんなと顔を見交わして笑った。本当は昨日集めた金がまだ残っている。千鶴と進之丞の祝儀にするため、甚右衛門が猟銃と併せて組合長に預けたのだ。千鶴が預かっていた進之丞の給与も一緒だ。
組合長は仕事だけでなく、イノシシ猟でも甚右衛門とはいい仲だった。辰蔵と幸子のためにあつらえた婚礼衣装も組合長に預けており、佐伯くんが戻ればその衣装を渡すから、仕立て直して二人で使えと甚右衛門は千鶴に言った。
トミも幸子もよかったなと言い、千鶴は涙が出るほど喜んだ。また、一度も婚礼をしたことがない母に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
話はそこで留まらず、トミが土佐へは二人の婚礼を見てから行こうかと言いだした。幸子もうなずき、自分も見たいと言った。
泊まる所がないと甚右衛門が口をゆがめると、法生寺に泊めてもらえばいいと幸子は応じた。甚右衛門はなるほどとうなずき、ほれはええなと笑顔を見せた。
客馬車の金はどうするのかとトミが言うと、そんなものは組合長が出してくれると甚右衛門は胸を張った。
みんなが本気で喋っていると思った千鶴は、進之丞への心配も忘れて嬉しくなった。
知念和尚と安子に仲人をしてもらい、為蔵とタネ、そして自分の家族が集まった中での祝言の様子が目に浮かぶ。早く進之丞が戻ってこの話に加わればいいのにと、千鶴は胸を弾ませた。
八
「ごめん」
訪いを入れる声が聞こえた。千鶴が表をのぞくと、二人の巡査が立っていた。
一人は以前に城山の事件のことで千鶴の話を聞きに来た年配の巡査だった。もう一人はかなり若い感じで、佐伯忠之はおるかと、いきなり偉そうに千鶴を問い質した。
千鶴の後ろに出ていた甚右衛門は若い巡査をにらむと、お前は物の訊ね方を教わっとらんのかと叱りつけた。
若い巡査は顔を赤らめて気色ばんだが、年配の巡査は頭を下げながら、ご尤もぞなもしと言って若い巡査をたしなめた。それから年配の巡査は訪ねて来た理由を説明した。
「実は昨夕のことですけんど、こちらで働きよった佐伯が、風寄の家族を惨殺して逃げたいう知らせがありましてな。ほんで申し訳ないんですけんど、佐伯が戻んとらんか、家の中を確かめさせてもらいたいんですわい」
巡査の話を千鶴たちは理解ができなかった。甚右衛門は精いっぱいの平静を保ちながら言った。
「ちぃと待ってつかぁさいや。今、何と仰たんかな? うちの忠七が人を殺めたと、こがぁ聞こえたけんど」
「風寄の実家の老夫婦を殺めたんぞなもし」
「実家の老夫婦て、為蔵さんとおタネさんですか?」
千鶴が訊ねると、年配の巡査は手帳を確かめてから、そげですなと言った。
千鶴は愕然となった。つい昨日、為蔵とタネに千鶴を嫁にするよう命じられたと、進之丞は笑いながら言ったのである。その二人を進之丞が殺めるなど、天地がひっくり返っても有り得ない。
「そげなこと、絶対にないですけん!」
千鶴が叫ぶように言うと、甚右衛門たちも怒りを隠さず抗議した。
若い巡査がむっとした顔で何か言おうとしたが、年配の巡査はそれを制し、見た者がおるんですわいと言った。
「同し集落の者が、佐伯が山へ逃げるんを見とるんです。ほんで家をのぞいてみたら、二人が殺されよったいうことぞなもし」
「ほんなん、嘘ぞな。そのお人が嘘こいとるんよ!」
千鶴が大きな声を出すと、若い巡査が頭ごなしに怒鳴った。
「誰も嘘なんぞこいとらん! 佐伯を隠しとらんのなら、さっさと中を見せんか!」
「若造のくせに何を偉そうに言うか! 貴様の親は、貴様にどがぁな躾をしたんぞ!」
甚右衛門が怒鳴り返すと、トミも甚右衛門に加勢した。
「この人の言うとおりぞな。いきなし人ん所来といて家の中見せぇて、自分がどんだけ失礼な物言いしよんのかわからんのかな。子供でもそがぁな物言いはせんぞな!」
何を!――と憤る若い巡査を、年配の巡査はきつく叱った。
「この方らの言い分は尤もぞな。この方らは犯罪者やないし、佐伯を匿とる証拠はない。お前が偉そに言える理由はなかろが」
さすがに年配の仲間には噛みつけず、若い巡査は面白くなさげに口を噤んだ。
年配の巡査は千鶴たちに向き直ると、お気持ちはわかりますと言った。
「私にしても、佐伯が身内を殺めたいう話は信じがたいと思とります。ほんでも実際に殺人が起こって目撃者がおる以上は、ほれを調べるんが私らの勤めぞなもし」
丁重な言葉には、甚右衛門もトミも怒鳴れない。けれど自分たちは忠七を信じており、家を調べさせるような真似は忠七を疑うことになるから断ると言った。
また何か言いたげな若い巡査を横目でじろりと見てから、年配の巡査は甚右衛門たちに言った。
「私は佐伯が犯人じゃと決めつけとるわけやありません。ただ、今の状況が佐伯にとって不利なんは間違いないですけん、いろいろ調べて確かめにゃならんのです」
千鶴はすぐに反論した。
「なしてですか? あの人はがいな家族想いやったんです。今度もうちをお嫁に迎えるために先に風寄へ戻ったぎりですし、為蔵さんもおタネさんも、うちに会うんを楽しみにしんさったんです。ほれやのに、なしてあの人が家族を殺さないけんのですか?」
「ほれもまだわからんことぞなもし。ほじゃけん、私は佐伯が犯人じゃとは決めつけとらんと申しとるんですわい」
「ほれじゃったら他に犯人がおるやもしれんと、あんたは思いんさるんかな?」
甚右衛門が訊ねると、もちろんぞなもしと年配の巡査は言った。
「ほんでも佐伯が犯人でないんなら、家族が殺されとるんを見つけた時に逃げたりせんで、駐在所へ知らせるんが普通でしょう。ほれやのに逃げたいうんは、何ぞ後ろめたいことがあるんやないかと疑われても、仕方ないいうことになりませんかな?」
言い返せない甚右衛門に代わって、トミが訊ねた。
「その目撃が誤りいうことはないんかな?」
「もちろんその可能性もありますが、ほれにしても佐伯が駐在所に顔も見せんで姿を眩ますんは理解できかねますな。とにかく本人に話聞いてみんことには、ほんまのとこは何もわかりますまい」
そういうわけで家の中を見せてもらえないかと、年配の巡査が改めて丁重に頼むと、甚右衛門はようやく許可を出した。
ほれではと、年配の巡査は若い巡査に二階を調べるよう指示を出すと、自身は奥庭へ向かった。
「あの――」
幸子が恐る恐る声をかけると、巡査は勝手口で立ち止まって振り返った。
「忠さんのご家族は、どがぁな風に……」
「二人とも、包丁でめった刺しと聞いとります」
幸子は口を開けたまま何も言えなかった。ほんなと言ったきり千鶴も言葉が出ず、涙がぼろぼろこぼれ落ちた。甚右衛門もトミも顔が強張っている。
「ほんでも、そこが引かかるとこぞなもし」
巡査がため息交じりに言うと、甚右衛門は鋭く巡査を見た。
「引かかるとは?」
「佐伯はまっこと強い男ぞなもし。先だっての大林寺での騒動ですが、どがぁに強い男でも刃物まで持った荒くれ男十五人を、あげな目には遭わせられんでしょう。そこまで強い男が、相手を殺すんに刃物を使うとは思えませんな。しかも相手は年寄りぞなもし」
「ほれは、ほうじゃな。お前さんの言うとおりぞな」
「ほれに事情聴取した時の佐伯の態度は、まっこと礼儀正しい上に正義感もあるし、他者への思いやりがあったと聞いとります。そがぁな男がいきなし家族を殺すとは思えんのですわい」
「じゃったら――」
縋るような甚右衛門の言葉を遮って、ほれでもと巡査は言った。
「最前も申しましたように、佐伯が隠れて姿を見せんのは、後ろめたさがあると見られてしまいますけん。今は通常の捜査をさせてもらうしかないんですわい」
それだけ話すと、巡査は再び背を向けて奥庭へ出て行った。
九
結局、巡査たちは進之丞を見つけられず、佐伯が戻って来たら必ず連絡をしてほしいと言いおいて帰って行った。
気丈に堪えていたトミは堰を切ったように泣き崩れ、甚右衛門は、畜生め!――と上を向いて喚いた。あの時の胸騒ぎはこれだったのかと、千鶴は進之丞を引き留められなかったことを深く悔やんだ。
「なして、あの子は逃げたりしたんね……」
トミが泣きながらつぶやくと、甚右衛門が力なく言った。
「気が動転したんじゃろ……」
「ほやかて、何も逃げることなかろに」
「お前が殺したんじゃろて言われるんが怖かったんよ。何もしよらんでも悪ぅ見られてしまうけん……」
かつて進之丞を山陰の者というだけで退けようとしたことがあるからだろう。甚右衛門は唇を噛んで涙ぐんだ。けれど千鶴は進之丞が姿を消した理由を知っていた。あまりの怒りに鬼に変化しそうになったのだ。
それにしても誰が為蔵とおタネを殺したのか。千鶴の頭に女の影が過った。つや子だ。
「おい、鬼! こそこそ隠れよらんで出て来い!、わしらぁ油断させて破滅させたぎりじゃ、まだ足らん言うんか! そがぁに祠が気に障った言うんなら、出て来てわしと正々堂々と勝負せぃ!」
突然狂ったように、甚右衛門が物陰に向かって叫んだ。すべては鬼が仕組んだと受け止めたらしい。
千鶴と幸子は甚右衛門を懸命になだめた。トミも鬼は関係ないと言った。けれど、甚右衛門は聞こうとはしなかった。
「鬼が千鶴を護っとんなら、なして大林寺で千鶴が襲われた時に現れんかったんぞ。なして千鶴を護ってくれんかったんぞ。鬼が護ってくれとったら、忠七が捕まることはなかったし、店も潰れんかった……。忠七の家族も殺されたりせんかったんじゃ……」
悲しみを隠さずに泣く甚右衛門に、トミも涙ぐみながら諭すように言った。
「あの子が駆けつけてくれたけん、鬼は出る幕がなかったんよ。ほれにあげな所で鬼が出よったら、ほれはほれでもっと大事になっとったろ? 鬼はこの子の迷惑にならんように気ぃ遣いよったんよ」
「お前に何がわかるんぞ! 忠七の家族を殺したんは鬼ぞ。千鶴を忠七に奪われる思た鬼が、見せしめに忠七の家族を殺したんぞ!」
やめて!――千鶴は叫ぶと泣きだした。
「……なしてこがぁなことになったんぞ」
甚右衛門は力が抜けたようにぺたんと座り込んで項垂れた。
「あの女じゃ」
幸子が言った。
「あの女て?」
トミが幸子を見た。
「つや子ぞな。男に千鶴を襲わせよった横嶋つや子ぞな」
甚右衛門もはっとして顔を上げた。
「ほうじゃ。あの女ぞな。絶対ほうに決まっとらい」
みんなの気持ちがつや子へ向いた時、千鶴は言った。
「うち、これから風寄へ行くけん!」
鬼に変化した進之丞が身動きできなくなっている。じっとなんかしていられない。
千鶴が土間へ降りると、ならん!――と叫んで甚右衛門も土間へ飛び降りた。千鶴と甚右衛門は揉み合い、幸子とトミは必死に二人を引き離そうとした。
「お邪魔しまっせ」
表から声がした。
甚右衛門が千鶴から離れて暖簾を持ち上げると、店の入り口に誰かが立っている。目を細めてその人影を見た甚右衛門は、みるみる険しい顔になった。
「貴様!」
甚右衛門が帳場へ出て行くと、千鶴と幸子もすぐに追いかけた。甚右衛門は男につかみかかろうとしたが、おっとっと――と男は慌てて表に逃げた。
「旦さん、何をそんなに怒ってはりまんのんや? わて、何もしとりまへんやん」
千鶴と幸子は表に出ようとした甚右衛門を何とか押さえた。安心した男は茶色い歯を見せて笑った。男は畑山孝次郎だった。
つや子の影
一
「まずはお詫びします」
畑山はみんなに深々と頭を下げると、先の錦絵新聞の記事で萬翠荘の話と城山の事件が関係があるかのような形になったことについて弁解した。
「たまたま同じ晩に起こったことなんで、あんな書き方になってしもたんですわ。別に千鶴さんの話にけちつけよ思たわけやおまへんよって、そこんとこはご理解のほどよろしゅう頼んます」
ぽかんと話を聞いている甚右衛門たちに、畑山はもう一度頭を下げた。
「あんた、ほれを言いに、わざにおいでたんかな?」
訊ねるトミに畑山は手を振り、そうやおまへんと言った。すかさず甚右衛門は、また記事のネタ探しに来たのかと畑山をにらみつけた。
「違いまんがな。そうやおまへんのや。わてな、実は作五郎はんと知り合いでんねん。作五郎はん、ご存知でしょ?」
意外な話に甚右衛門たちが驚くと、畑山は話を続けた。
「こないだその作五郎はんから、わてとこの錦絵新聞をこちらへ送ったて聞かされましてね。これはまずいと思たんです」
「まずいと思たんは、まずいこと書いたいう自覚があったけんじゃろがな」
再び甚右衛門がにらむと、畑山は困ったように笑った。
「いやまぁ、それはそうなんでっけど、まさかこっちであの錦絵新聞が見られるとは思とりまへんで。あ、いや、せやから大阪で売る分には千鶴さんには迷惑にならんと考えたからこそ、あれを出させてもろたんです」
そうだったのかと、千鶴は作五郎が錦絵新聞を送って来た理由を理解した。作五郎は偶然あの錦絵新聞を見つけたのではなく、畑山がこちらで取材したのを知っていたのだ。
また、畑山がスタニスラフとの結婚について好い加減なことを書いたり、城山の事件と絡めて書いたのも、千鶴が思ったとおりだった。だが、もはやそんな話はどうでもいいことだ。もう山﨑機織は潰れてしまったし、今は進之丞のことで頭がいっぱいだ。
「ほれで、あの錦絵新聞は売れたんですか?」
沈黙を嫌ったのか、幸子が訊ねた。畑山はにんまりして、それはもうと言った。
「あれがね、どっちか一つだけやったら、そんなには売れんかったかもしれまへん。せやけど、初めの二つは同じ晩の話やからね。天国と地獄が一所にあったみたいなんが、読者の心をつかんだんですわ。そこにあの三枚目でっしゃろ? 売れましたでぇ。前に出した風寄の記事の復刻版を出せ言う声も多くてね。そらもう、てんやわんやでした」
自慢げに喋る畑山に、甚右衛門は皮肉を込めて言った。
「とにかく、お前さんはあることないこと書き立てて、こっちが迷惑しよるんを尻目に、向こうで大儲けしたわけよ。血ぃ吐いたお前さんのために医者まで呼んで、素直に千鶴に話をさせた結果があれやけんな」
「いや、せやからそれはですね」
「もう言い訳は聞きとうないけん去んでくれ。ほれに、もうわしらにはそがぁな話はどがぁでもええことなけんな」
背を向ける甚右衛門に、畑山は焦ったように言った。
「旦さん、そう言わんで、わての話を聞いておくれやす」
「今更何を聞けと言うんかな。もう新聞は出てしもた。ええも悪いもなかろ? ほれにな、もうわしらはこの店を畳んだんよ。明日にでも店も家も全部が差し押さえられてここを追わい出されらい」
力なく話した甚右衛門に、それでんがなと畑山は言った。
「最前からわてが言いたかったんは、それですわ」
「ほれとは?」
甚右衛門が振り返ると、畑山は真面目な顔で言った。
「せやからですね、作五郎はんからこちらの状況を耳にして、わては居ても立ってもいられんようになったんです。別に何かできるわけやおまへんけど、とにかくみなさんのお顔を見に行かないかんて思て馳せ参じたんでおます」
畑山はきりりと顔を引きしめて、千鶴たちの顔を見渡した。しかし、甚右衛門たちはきょとんとしている。いきなりそんなことを言われても、自分たちが知っている畑山の姿に合わないと戸惑っているようだ。
だけど、千鶴だけは畑山の気持ちが理解できた。好い加減に見えるけれど、畑山は本当は心の温かい人物なのである。
千鶴たちの前で血を吐いた時と比べると、畑山はさらに痩せたみたいだ。肌の色もよくないので、恐らく体調は悪化していると思われた。なのにこんな所まで励ましに来てくれたのかと思うと、千鶴の目は涙に濡れた。
だんだん、畑山さん――と千鶴は涙を拭きながらお礼を言った。いいえと畑山が微笑むと、ようやく甚右衛門たちにも畑山の本意がわかったらしい。ほういうことじゃったかいと甚右衛門が礼を述べると、トミと幸子も目に涙を浮かべて感謝した。
みんなに頭を下げられた畑山は、慌てた様子で喋った。
「作五郎はんから聞いた話やけど、こないだ千鶴さんらが襲われた話、あれ、裏に黒幕がおるんでっしゃろ? 横嶋つや子ちゅう悪い女が」
畑山の登場で殺伐とした雰囲気が少し変わったのだが、つや子という名前がみんなを現実に引き戻した。
トミが両手で顔を覆い、泣きながら言った。
「そもそも、あがぁなことがなかったら、今みたいにはならんかったんよ」
甚右衛門も幸子も目を伏せ、千鶴も悲しみが込み上げてきた。祖母の言うとおり、あの事件が起こらなければ山﨑機織も潰れていないし、進之丞が家族殺しの汚名を着せられることもなかったのだ。
畑山はトミを慰めながら言った。
「わてな、その横嶋つや子いう女、知っとりまんねん」
二
何じゃと?――と甚右衛門が目を見開いた。千鶴も驚いて母と顔を見交わし、トミも涙に濡れた顔を上げた。
みんなから注目された畑山は気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「情けない話でっけど、わて、あの女に騙されて、有り金全部持って行かれたんですわ」
「貸本屋がだめになったていうんは、そのせいなんですか?」
千鶴が訊ねると、そうですと畑山は言った。
「まぁ、騙されたわても悪いんやけどね。この胸の病に効く薬があるて言われましてん。それで有り金はたいて、その薬手に入れたんです。そしたらね、それ、東京で売りよった、ただの風邪薬やったんですわ。もう腹は立つわ、悲しいやらで、わて、あの女見つけて絞め殺したろかて思いました。えぇ、それぐらい腹立ちました」
畑山が騙されたと気づいた時には、つや子は行方を眩ましていたという。調べてみると、他にもつや子に騙されたという者が何人もいて、中には絶望して首を吊った者もいたらしい。そのつや子が千鶴と花江が襲われた事件に関わっていると知ったのも、畑山がここへ来た理由の一つだった。
「ほやけど畑山さんを騙した女と、こっちでいうとる横嶋つや子は同姓同名の別人かもしれんやないですか?」
半信半疑の幸子に、恐らく同一人物だと思うと畑山は言った。
「正月明けにお邪魔した時、わて、ここであの女、見かけたんですわ。そんで急いで追いかけたんやけど、うまい具合にまかれてしもて捕まえれんかったんです」
「ひょっとして、うちと会いんさったあの時?」
千鶴は三津子から逃げようとして、畑山に見つかった時のことを思い出していた。
「そうそう。あん時ですわ。あん時は、千鶴さんに会えて話まで聞かせてもらえたから、まぁええわて思たんでっけど、今考えたら、あん時にあの女を捕まえとったらて思てね。申し訳ないし悔しいし情けないし、とにかく汚名返上いうか、何かお役に立てたら思て駆けつけたんです」
甚右衛門は畑山を見直したらしい。素直にうなずいた。
「話はわかったし、まっこと有り難いとは思うけんど、なしてそこまでわしらのことを気にかけるんぞな? お前さんにとって、わしらはただの記事のネタに過ぎまい?」
甚右衛門が訊ねると、畑山は照れ臭そうに笑い、千鶴さんですわと言った。
「うち?」
驚く千鶴に、畑山は自分にも千鶴と同じくらいの娘がいると言った。
「わてはこんな男でっけど、実は目の中入れても痛ない娘がおるんですわ。いや、ほんまは目に入れたりしたら痛いんやけどね。というか、目に入るわけないわなぁ」
ふざけているのか、普通に喋っているのかよくわからないが、畑山の話を聞いていると、自然に千鶴たちの顔が綻んだ。
「その娘にも苦労かけたけど、そんでも真っ当に育ってくれて、何とか嫁にもろてくれる相手も見つかったんです。たった一人の娘ですさかい、ほんまにほっとしましたわ」
感慨深くうなずく畑山に、ちぃと待てと甚右衛門が言った。
「お前さん、こないだ来た時、小学校に通とる子供が三人おるて言わんかったかな?」
「え? いや、それはその……、お隣の子供ですわ。しょっちゅう遊びに来とるから、もうすっかりうちの子供になってしもて……」
はははと畑山は笑ったが、甚右衛門が黙っていると、すんまへんと頭を下げた。
トミが呆れ顔でさっきの話の続きを求めると、畑山は頭を掻きながら、それでですねと話を続けた。
「うちの娘と歳も変わらん千鶴さんが、昔からえらい苦労してきたはるてわかって、わて、千鶴さんのこと軽うに考えとった自分が恥ずかしなったんです。しかもね、わてみたいなことしよったら、どこ行ってもうるさがられるのに、千鶴さん、こんなわてにも優しゅうしてくれて……。わて、あん時、泣きそうなりました」
「畑山さん……」
しんみり話す畑山に、千鶴は心が打たれた。
畑山は千鶴を見ると、きっぱり言った。
「せやからね、わては千鶴さんに絶対幸せになってほしいんです。千鶴さんに鬼が憑いていようと狸が憑いていようと、わては千鶴さんを応援しよて決めたんです」
さっと甚右衛門たちの顔色が変わった。千鶴は構わず畑山に訊ねた。
「畑山さんは鬼が怖ないんですか?」
「わてが思うところ、鬼が害を為すんは千鶴さんを苦しめる奴だけでしょ? せやから、わてが鬼に襲われる心配はおまへん。恐らくでっけど、鬼でさえも千鶴さんの優しさに惚れてしもとるんやおまへんか」
千鶴は畑山が大好きになった。思わず畑山の両手を握ると、だんだんと繰り返しながら泣いた。
畑山は少し恥ずかしそうに笑いながら、胸ポケットから封筒を取り出した。
「これね、ほんの気持ちです。全然大した額やないけど、どうぞ、受け取ってやってくれませんか」
畑山が差し出した封筒を受け取った甚右衛門は、改めて深々と頭を下げた。トミと幸子も頭を下げて感謝した。
「こがぁな時こそ、人の思いやりが身に染みるぞなもし。お前さんのお気持ち、この甚右衛門、一生忘れんぞなもし」
甚右衛門の言葉を合図に、トミは畑山を家の奥へ誘うと、千鶴にお茶の用意をするよう言った。
いやいや、お気遣いなく――と言いながら、畑山はさっさと中へ入って行った。そこで使用人もいなくなってがらんとなった家の中を見ると、畑山は立ち止まったまま何も喋らなくなった。
「みんな一昨日暇を出したけんな。今おるんは、わしらぎりぞな」
甚右衛門が寂しげに言った。
「おとういというと?」
「昨日の前の日のことぞなもし」
千鶴に説明されると、畑山はなるほどとうなずき、沈んだ声で言った。
「わてもね、いっぺん貸本屋だめにしてもたから、みなさんのお気持ちわかります」
「まぁ、上がってつかぁさいや」
甚右衛門に促されて茶の間に上がった畑山は、みんなにこれからのことを訊ねた。だが誰も答えないのでまずいことを訊いたと思ったらしく、すんまへんと言った。
「お店が潰れたとこやのに、これからのことなんかわかりまへんわな。わても貸本屋潰した時は、あとの方針なんて考えられんほど放心状態でした」
自分の話に自分でうなずきながら、畑山はちらりと千鶴たちを見た。しかし、誰もしょんぼりしたまま畑山の駄洒落に気づいてもいない。畑山は気まずそうに笑うと、元気を出すようみんなを励ました。
「落ち込む気持ちはわかりまっけど、これで人生終わったわけやおまへん。わてを見たってください。貸本屋だめにしても、こうして次の仕事をがんばっておます。お手本ていえるほどのもんやないけど、こんな時こそ顔を上げて前を向かんとあきまへん」
畑山の力説にも拘わらず、みんなは黙り続けている。畑山は落ち着きなさげに両膝を手でこすりながら、お茶を配る千鶴に救いを求める目を向けた。
「何や、みなさん、さっきよりも元気なくなったみたいでっけど、もしかして、ここ出たあとに行くとこがないんや……」
「おじいちゃんらは土佐の親戚のお世話になって、うちは風寄で暮らすことになっとりました」
「なっとりましたて……、暮らせんようになったんでっか?」
千鶴が涙をこぼすと畑山はうろたえて、何があったのかと甚右衛門たちを見た。
甚右衛門は黙ったままで、トミは泣きだした。やはり涙をこぼした幸子は何度も涙を拭きながら、さっき巡査が来たことや、巡査に言われた話を畑山に聞かせた。
顔を険しくした畑山は、それは誰が聞いてもおかしい話だと憤り、これは誰かが仕組んだことだと思うと言った。
忠七が姿を隠したりしなければとトミが嘆くと、畑山は千鶴を見た。
「忠七さんいうんは、ただの使用人の方でっか?」
「いえ、うちの許婚ぞなもし」
千鶴が遠慮がちに答えると、そうでっかと畑山は大きくうなずいた。
畑山は見た目と違って頭が鋭い。畑山の目が進之丞の正体を見破ったように見えて、千鶴は少しうろたえた。
「それは心配というか……、心配やなんてもんやおまへんな。まずは、その忠七さんを見つけるんが先決でっしゃろ」
「ほうなんですけど、どがぁしたら……」
「わてが何とかしますわ。その前に千鶴さんに一つ訊かせてほしいんでっけど、その忠七さんは千鶴さんにとって守り神みたいな人でっか?」
はいと千鶴が答えると、畑山はにっこり笑い、今の答でよくわかりましたと言った。
「よくわかったとは?」
甚右衛門が訊ねると、畑山は笑顔のまま答えた。
「忠七さんが千鶴さんにとって、掛け替えのないぐらい大切な人いうことですわ」
畑山の答えに甚右衛門は納得したようだ。しかし、千鶴は畑山が進之丞の正体に気づいていると思っていた。
畑山は千鶴と進之丞、つまり千鶴と鬼との関係を新聞の記事にするのだろうか。ちらりとそんな考えが頭を過ったが、千鶴はすぐにその考えを打ち消した。畑山さんはそんな人ではないと、千鶴は畑山を信じる方を選んだ。今頼れるのは畑山しかいないのだ。
よろしゅうお願いしますと千鶴が頭を下げると、甚右衛門たちも頭を下げた。畑山は照れながら、英雄になったみたいやなと言った。
「とにかく親切にしてくれた千鶴さんのためや。どうか、わてに任せといておくれやす」
畑山はにっこり笑って胸を叩くと、げほげほと咳き込んだ。
三
「これからどこへおいでるおつもりですか?」
畑山を見送りがてら千鶴が訊ねると、畑山はさらりと答えた。
「お祓いの婆て呼ばれとる、ばあちゃんがおるでしょ? あの人ん所へ行ってみよ思てまんねん」
千鶴はどきりとした。お祓いの婆とは、千鶴に鬼が憑いていると言い当てた老婆だ。その老婆に会いに行くというのは、やはり畑山は進之丞の正体を見破っている。
千鶴の困惑に気づいたのか、畑山は付け足して言った。
「あのばあちゃん、結構占いが当たるて評判らしいんですわ。ただ気むずかしい人やから、前に来た時は門前払いされました。けど、今度は何が何でもあのばあちゃんに会うて、忠七さんの居場所を訊いてみますわ。それと、あのつや子の居場所もね」
最後の言葉を口にした時の畑山の表情は、笑みが消えて怖い顔になっていた。個人的なことも含めて、つや子に対する相当の怒りがあるのだろう。
本町停車場辺りまで来ると、畑山はここまででいいと言った。見送りへの感謝を告げた畑山は、ほんじゃあと手を上げて背を向けた。その背中を見た千鶴はまた嫌な予感がした。
千鶴は畑山を呼び止めると、やっぱり行かなくていいと言った。訝る畑山に千鶴は胸騒ぎがすると告げ、進之丞を罠にはめたのはつや子だという自分の確信も伝えた。
畑山は微笑むと、わてもそう思うと言った。
「あの女は警察では捕まりまへん。せやから、お祓いのばあちゃんの力が必要なんです」
「ほやけど、畑山さんに何ぞあったら、うち……」
「こんな時やのに、ほんま、千鶴さん優しいわぁ。せやけど、わてやったら大丈夫や。ご心配には及びまへん。それにね、これでまた新しい記事が書けるでしょ?」
え?――と千鶴が驚くと、違いまんがなと畑山は笑いながら手を振った。
「わても大阪の人間や。千鶴さんらの力になりたいいうんはほんまやし、あのつや子を追い詰めたろ思うんもほんまです。けど、そこで終わったら仕方ないですやん。大阪の人間はね、どんな時にも得することを考えるんですわ」
まだよくわからない千鶴に、畑山は続けて言った。
「あの女を追い詰めて警察に捕まえてもろたら、それで記事が書けるやないですか。これまでのことは全部つや子がやったて、世の中に伝えるんですわ。そしたらあの女は恥かくし、千鶴さんらの名誉が護れるし、わてかてまた儲かると、一石三鳥でしょ?」
せやからねと畑山は強調した。
「これは千鶴さんのためだけやのうて、わて自身のためでもあるんですわ。千鶴さんがわてのこと心配してくれるんは嬉しいんでっけど、千鶴さんが責任感じんかてええんです。わては己の意思で己の道を行くんですよって。男一匹畑山孝次郎、正義のために今日も行く――や。どないだ? かっこええでっしゃろ?」
胸を張って喋ったあとの、間が抜けた笑顔が畑山らしい。鼻を突く煙草の臭いも愛おしく思えてしまう。千鶴を心配させまいと、わざと大阪の人間であることを強調する畑山の気持ちが、千鶴は有難く切なかった。この人を行かせるわけにはいかない。
「ほんでも、やっぱし行くんはやめておくんなもし。うちは畑山さんに危ないことはしてほしないんです。お願いやけん、行かんでつかぁさい。お願いやけん」
これから嫁入りする娘がいる畑山に、進之丞の二の舞には絶対になってほしくない。千鶴が何度も懇願すると、畑山は微笑みながら涙ぐみ、千鶴さんと言った。
「千鶴さんは今どんだけつらかろうに。せやのに、こんなわてのこと心配してくださり、ほんまに感謝します。けど、ほんまに大丈夫ですよって。どうぞご心配なく」
ほな――と畑山は手を上げると、さっと行ってしまった。千鶴は不安な気持ちを抱いたまま、人混みに消える畑山を見送るしかできなかった。
四
千鶴が家に戻ると、待ち構えていたように三津子が訪ねて来た。三津子は昨日来たばかりだが、差し入れだと言って日切饅頭を六つ持って来た。
三津子にしては珍しく饅頭に一つも手をつけていない。一昨日もそうだったが、あまりにも三津子らしくないので、有り難く思いながらも違和感もあった。
みんなで食べましょうと言って、三津子は一人一人に饅頭を配った。千鶴は饅頭なんか食べたいとは思っていなかった。みんなも同じ気持ちだろうが、せっかく持って来てくれたからと、甚右衛門たちも黙って受け取った。
みんなに配り終えたあと、三津子が自分の分を取ると、饅頭が一つ残った。三津子は、あら?――と辺りを見まわした。
「あの人はおらんの?」
「あの人て?」
幸子が訊ねると、あの人やんかと三津子は言った。
「千鶴ちゃんと夫婦になる、あの若い兄やんぞな」
一気に暗い雰囲気が広がり、幸子が困惑した顔で、忠さんは昨日――と言いかけた。すると三津子は幸子の言葉を遮って、ほうよほうよと大きくうなずいた。
「ほうじゃったわいねぇ。すっかり忘れよったぞな。あの兄やん、おらんのよねぇ。どうせなら今日までここにおったらよかったのに。ほしたら、あの兄やんもみんなでこのお饅頭食べられたのに、残念やわぁ」
三津子は手に持った饅頭にかぶりつこうとした。しかし千鶴が泣きだしたので、かぶりつくのをやめた。
「千鶴ちゃん、どがぁしたん? あの兄やんがおらんなったけん寂しいん?」
千鶴が喋らないので、三津子は幸子を見た。幸子は少し迷ったあと事情を話した。
「忠さんにな、殺人の疑いがかけられとるんよ」
「殺人?」
三津子は目を剥いた。
「何やのん、ほれは? 何があったん?」
三津子は千鶴たちの顔を見まわしたが、誰も喋ろうとしない。そこでもう一度幸子に訊ねると、幸子は巡査の話をした。三津子は言葉を失ったみたいに口を半分開けたまま、食べようとしていた饅頭をぽとりと落とした。
「なして? なしてそがぁなことぎり続くわけ?」
三津子はみんなの顔を順に見ながら言った。
「千鶴ちゃんがごろつきに襲われて、お店が潰えて、今度は人殺しの疑い? これ、おかしいぞな。絶対おかしいわ! 全部、この店に恨みがある者が仕組んどるんよ」
誰か心当たりはないのかと三津子が憤りながら問いかけると、一人おると甚右衛門が言った。
「ほれは誰ぞなもし?」
「横嶋つや子いう女よ」
「横嶋つや子? ごろつきに千鶴ちゃんを襲わせた女?」
大林寺での事件の黒幕は横嶋つや子という女だと、その後の新聞に発表されていた。三津子はその記事を読んでいたらしい。
ほうよとうなずいて甚右衛門は言った。
「あの女と連んどった空き巣を忠七が捕まえたけんな。ほん時にあの女の名前も出たけん、ほれを逆恨みしよるんじゃろ」
「犯人がその女であろうがなかろうが、ほんまの犯人は正気やないぞな。気ぃ狂とる」
トミが怒りを込めて喋ると、三津子が言った。
「ちぃと待っておくんなもしね。横嶋つや子て、ひょっとしてうちが知っとる女かもしれん。あの女……、確か……」
え?――と千鶴たち全員が三津子を見た。畑山に続いて三津子までもが、つや子を知っているのは驚きだった。
三津子はみんなが見ている中、進之丞に食べさせるはずの饅頭をぱくぱくと食べた。食べながら考えているのか、三津子の目は空中の一点を見据えている。
饅頭を食べ終わって指をしゃぶった三津子は、眉根を寄せて言った。
「ほうよほうよ、今の今まで忘れよったけんど、あの女の名前は横嶋つや子じゃった」
「あんた、あの女と知り合いなんか?」
トミが驚いて訊ねると、知り合いなどではないと三津子は気色ばんだ。
「あの女はな、生きるためじゃったら何でもするんよ。ほれに、人が泣いたり苦しんだりするんが楽しいんよ。やけん、今度のことは全部あの女が仕組んだに決まっとらい」
甚右衛門は肩を怒らせる三津子をなだめ、つや子に何かされたのかと訊いた。
三津子はじろりと甚右衛門を見ると、何かやて?――と言った。
「東京が大地震に襲われた時、あの女が倒れよったんを、うちは助けよとしたんよ。ほれやのに、あの女はうちから何もかも奪いよった。何もかもぞな。恩を仇で返すとは、このことぞな!」
「三津子さん、落ち着いてつかぁさい。同し名前の別人かもしれんけん」
千鶴が声をかけても、三津子の勢いは止まらない。
「こげな阿漕な真似する奴がほかにおるわけないけん……。普段はか弱い女子のふりしといて、平気で相手の寝首を掻いたりするんよ! あれ? そがぁいうたら、あの女……」
「どがぁしたん?」
「ちぃと待ってや……。ほうよほうよ、思い出した。思い出したぞな。あの道後の飲み屋におった女も、確か自分のこと横嶋つや子て言いよった」
「え? 道後の飲み屋におったん?」
三津子はうなずき、腹立たしげに話を続けた。
「ほん時は対の名前じゃとは思たけんど、前とは違う格好やったけん、あの女やとは気ぃつかんかった。ほやけど今の話聞きよったら、絶対あの女があの横嶋つや子ぞな!」
道後といえば、熊の平次もつや子と道後の酒場で知り合ったのだ。三津子の話は間違いないようだ。
「その女はどがぁな格好しよったん?」
驚いて訊ねる幸子に、三津子は鼻息荒く言った。
「着物着ぃて二百三高地の髷結った女ぞな。ほんでも東京ではうちみたいな格好しよったんよ。あの女、うちに引っついて松山へ来よったんやわ。くそっ、まっこと腹の立つ」
何と三津子はつや子を知っていた。三津子が口にした女の姿は、まさにつや子だ。
「千鶴ちゃん、約束するけん。絶対つや子に今度のこと、千鶴ちゃんに詫びさせるけんな。ほれで、あの兄やんの無実を晴らしてあげよわい。見よってちょうだいや」
三津子は息巻くと、そのまま外へ飛び出して行った。
五
甚右衛門とトミは呆気に取られていたが、我に返ると互いに顔を見交わした。
「あんた、やっぱし、つや子ぞな」
「ほうよ、あの女ぞ。間違いない。これは警察へ言わんといかん」
甚右衛門がうなずくと、トミは顔を曇らせた。
「ほやけど、忠七が出て来なんだら、やっぱし忠七が疑われるで」
「ほれよ。けんど、ひょっとしたら忠七は犯人の姿を見たんかもしれまい」
「犯人を見た?」
「ほじゃけん、そいつを追わったんじゃろ」
「ほうやとしたら、あの子はその犯人を捕まえたんじゃろか?」
「ほれはわからんが、姿を見せんとこをみると、もしかしたら……」
甚右衛門はそこで口を噤んだ。その険しい表情から、祖父が何が言いたいのかが千鶴にはわかった。祖父は犯人を追った進之丞が返り討ちに遭ったと考えている。それは、進之丞がもうこの世にはいないという意味だ。
トミも幸子も甚右衛門の沈黙を、千鶴と同じように受け取ったのだろう。二人の目から涙があふれ落ちた。だけど、進之丞がそんなに簡単にやられるわけがない。姿を見せないのは鬼に変化しているからだ。
そう考えた時、ひょっとしてつや子も進之丞の正体を知っているのではと、千鶴はふと思った。まさかという気持ちもあったが、頭はどんどん追求を始めた。
山﨑機織に恨みを晴らすためだけであれば、進之丞を家族殺しの殺人鬼に仕立て上げなくても、他に方法はある。そもそも本当に山﨑機織に恨みがあるのなら、山﨑機織が倒産して恨みは晴れたはずだ。あるいは山﨑機織の人間に恨みがあるのなら、直接襲ってくればいいことである。
実際、千鶴と花江はごろつきたちに襲われたが、あれも進之丞を怒らせて、町中で鬼に変化させるのが目的だったのではないのか。
千鶴が恨みの対象ならば、進之丞がいない今こそ襲えばいいのだ。なのに進之丞の家族を殺したのは、進之丞が怒り狂って鬼に変化することを期待したと考えられる。
再建された鬼よけの祠が燃えてしまったのも、まだ進之丞を封じさせまいと考えたつや子の仕業だ。同時に鬼の恐ろしさを人々の心に植え込み、進之丞が鬼に変化した時の騒ぎを大きくしようと思ったのだろう。
風寄の家に戻った進之丞が見たであろう光景が目に浮かび、千鶴は怒りと悲しみに肩を震わせた。自分が鬼娘であったなら、絶対に咆哮を上げて鬼に変化していた。そして、それこそがつや子の狙いだったのだ。
進之丞は怒りが収まらなければ、変化を解くことは敵わない。あるいは、もう人間の姿に戻れなくなってしまったのかもしれないのだ。
怒りにまみれながらもどうにもできず、人前に姿を見せられない進之丞が、山に潜みながら悲しみ苦しんでいる。
千鶴は手に持っていた饅頭を土間に投げつけた。
甚右衛門たちが驚き振り返った。幸子は千鶴の傍へ来ると、千鶴を抱きしめた。甚右衛門の言葉で千鶴が感情を爆発させたと思ったらしい。忠さんは大丈夫じゃけんと、幸子は千鶴を慰めた。けれど、千鶴は怒りで母の声が聞こえていない。
何故つや子はそんなことをするのか。どうして進之丞の正体を知っているのか。
三津子はつや子のことを、人が泣いたり苦しんだりするのが楽しいと言った。畑山の話でも、つや子は相手の希望が絶望に変わるのを楽しんでいるようだ。とてもまともな人間とは思えない。
千鶴は客馬車で乗り合わせたつや子の姿を思い出そうとした。
二百三高地の髷の女。冷ややかで男を手玉に取る天邪鬼。そのつや子が自分に話しかけてきた。そう、つや子は自分に話しかけたのだ。確かそれは、ずっと昔に自分によく似た異国の娘を見たというものだった。
その娘をどこで見たとはつや子は言わなかった。東京での話かもしれないが、千鶴は気になった。つや子の言葉が、正体を隠していた頃の進之丞の言葉に似ているからだ。
もし風寄の話だとすれば、つや子が知る異国の娘というのは前世の自分しかいない。それはつや子にも前世の記憶があるということだ。しかし、前世の記憶など誰にでもあるものではない。自分たちが前世を覚えているのは奇跡であり、お不動さまのご慈悲によるものだ。そんな神仏の力が、あんな狂った女にも働いたというのか。
そんなことがあるはずない。つや子にこんなことをさせるために、神仏がつや子に前世の記憶を与えるわけがないのだ。けれど、つや子は進之丞の正体を知っている。それは進之丞が前世で鬼になった場面を見ていたからではないのか。
つや子が特高警察とつながりを持つ前に、進之丞は三度鬼に変化した。鬼よけの祠を壊した時と兵頭を襲った時、そして萬翠荘を出た千鶴たちが特高警察に捕まった時だ。そのいずれかをつや子がたまたま見かけたのだろうか。いや、そうだとは思えない。
であれば、つや子が進之丞の秘密を知ったのは、前世で千鶴たちが鬼に襲われたあの時しかない。千鶴によく似た娘というのは前世の千鶴なのだ。だがそれが前世の記憶でなければ、つや子はあの頃からずっと生き続けていることになる。そんなことが有り得るのか。
千鶴ははっとなった。鬼が存在しているのである。他に魔物がいても不思議ではない。
つや子が人間であったなら、わざわざ進之丞を怒らせて鬼に変化させようとは思わないだろう。逆に鬼である進之丞を刺激するようなことは避けるはずだ。
千鶴は全身に鳥肌が立った。
千鶴は震えながら祖父母に目を遣った。二人はつや子のことを警察へ伝えようと話し合っている。だが、恐らくつや子はみんなが考えているようなものではない。
千鶴は自分を抱く母を見た。
幸子は千鶴に微笑みかけたが、その笑顔は見せかけだ。その後ろには不安と恐怖が隠れている。そんな母につや子が人間ではないとは言えない。言えば、母が恐怖で混乱するのは目に見えている。
「大丈夫なけん。あんたは余計なことは考えんでええ」
幸子は千鶴を抱いて言った。しかし千鶴の頭の中では、次々に考えがめぐっている。
前世で千鶴は代官の一人息子進之丞の嫁になろうとしていた。異人の娘で孤児でもあった千鶴にとって、それは夢のようなことだった。だが、その幸せは鬼によって絶望に変えられた。あれもすべてはつや子が仕組んだことではなかったのか。
つや子が人を騙して絶望へ追いやるのを楽しむ魔物ならば、あの出来事もつや子が後ろで糸を引いていたとは十分考えられる。
千鶴は代官屋敷の女中を思い出した。あの女中は善意を装って、千鶴に進之丞を疑うように仕向けた。そう、恐らくあの女中こそがつや子だったのだ。あの女中のせいで千鶴は進之丞が信じられなくなり、鬼の手中に落ちたのである。
幸せを目前にしていた千鶴と進之丞が、悲しみの中で海に消えるのを眺めながら、つや子は笑っていたに違いない。
それから長い年月を経て、つや子はあの客馬車で今世に生まれ変わった千鶴を見つけた。さらには進之丞の存在にも気がついた。
かつて絶望のどん底へ沈めたはずの二人が蘇り、再び幸せを手にしようとしているのを知ったら、つや子はどうするか。決まっている。もう一度二人を絶望に追いやるのだ。
恐怖を感じながらも、千鶴は怒りも覚えていた。二度とあんな女の思いどおりにさせるものかと、心の中に怒りの炎が立ち上る。だが、どうすればいいのかはわからない。相手は人の命など何とも思わない化け物だ。
人間に戻れずに苦しむ進之丞の姿が浮かび、千鶴の頬を悔し涙が伝い落ちた。
「心配いらんて。忠さんは必ず戻んて来るけん」
幸子が目に涙を浮かべながら明るく言った。だけど進之丞は戻って来ない。戻れないのである。つや子の思惑どおり、進之丞は鬼になったのだ。
六
翌日、銀行の行員が山﨑機織を差し押さえに来た。
行員の指示により、家の中にある家財道具が、雇われた男たちに次々に運び出されて行く。その様子を近所の者たちが取り囲んで眺めている。そこには組合長の姿もあった。
すべての荷物が運び出されると、風呂敷包みを持った甚右衛門たちは、追い立てられるように表に出された。行員は店の表の戸を閉めて鍵をかけると、差し押さえの紙を貼った。ついに千鶴たちは居場所を失ったのだ。
呆然としている甚右衛門をじろりと一瞥した行員は、男たちに指図をすると、家財道具を積み上げた荷車と一緒に行ってしまった。
行員がいなくなると、近所の者たちが甚右衛門の傍へ来て声をかけた。だが、それは慰めでも励ましでもなかった。みんなが口にしたのは、何故忠七はあんなことをしたのかということだった。
倒産が決まってから、甚右衛門は新聞をやめた。だから今朝の新聞にどんな記事が出ていたのか知らないが、やはり風寄の惨殺事件について書き立てられていたようだ。記事を読んだ近所の者たちは、銀行の行員が差し押さえに来る前から、事件の真相を聞き出そうと集まっていた。
甚右衛門は相手にしたくないので誰も家の中に入れなかった。しかし、自分たちが家から追い出されてはどうすることもできない。みんなに取り囲まれて逃げられない甚右衛門は、憮然とした顔で声を荒らげた。
「忠七は無実ぞな! 新聞に載っとる記事は全部出鱈目ぞ!」
「忠七は千鶴を嫁に迎えるために、一足先に風寄に戻んたぎりなんよ!」
トミも必死の声でみんなに説明し、千鶴も幸子もうなずいてトミの話を肯定した。
だが何故あんな記事が出るのかと問われると、甚右衛門たちは言葉に窮した。つや子がやったと言いたいが証拠はない。それに忠七が姿を見せない理由も説明できなかった。
進之丞が心配でみんな憔悴しきっているし、昨夜もほとんど眠れていない。涙ぐむしかできない千鶴たちを見て、人々は千鶴たちも何もわからないまま苦しんでいると悟ったようだ。事件についてそれ以上質すのをやめ、これからどうするのかと心配そうに質問を変えた。けれど、それにも誰も答えられず、千鶴も黙って下を見るしかなかった。
千鶴が風寄で暮らす話はなくなった。甚右衛門たちも土佐へ行くどころではない。今は進之丞の行方を捜さねばならないが、今晩寝る場所もない。行く当てもなく、四人とも店の前で立ち尽くすばかりだ。
組合長だけは甚右衛門から何があったかを聞かされていた。甚右衛門たちに代わって、組合長がみんなを落ち着かせていると、突然トミが崩れるように倒れた。
甚右衛門は慌ててトミを抱きかかえ、声をかけたが意識がない。組合長が医者を呼べと叫び、何人かが走って行った。
大勢に囲まれる中、トミに呼びかける千鶴たちの悲痛な声が紙屋町に響き続けた。
「不整脈じゃな。心労が祟ったんじゃろ。ちぃと質が悪い不整脈じゃけん、今日はこのまま入院して安静にせにゃなるまい。意識が戻んたら一安心なけんど、目ぇ覚まさんかったら危ないぞな」
トミを診察したのは、一昨日まで幸子が働いていた病院の院長だ。院長は神妙な面持ちで甚右衛門に告げると、トミに注射をした。
紙屋町の近くの医者たちは、トミに金もなければ家もないと知ると、今は手が離せないと言って診に来てくれなかった。仕方なく甚右衛門がトミを背負ってこの病院まで走ったが、ここは事情を知った上でトミを診てくれた。
幸子が元いた看護婦というのもあるだろうが、萬翠荘の晩餐会への幸子の出席を認めてくれた所である。気さくな雰囲気があり、金がない患者たちにも好評な病院だ。
ここで診てもらえたのはよかったが、トミは意識が戻らないままだ。脈は未だに乱れ続けているそうで、油断は禁物とのことだった。
トミが入れられたのは四人部屋だが、幸い他には誰も入院しておらず、部屋は貸し切り状態だ。
「今んとこ、ここの部屋は空いとるけん、行く当てがないんなら、今晩はみんなここにおったらええぞな。いうても、ひょっと重症患者が運ばれて来たら申し訳ないけんど、おトミさんの付き添い以外は廊下に出てもらわにゃならんが」
院長の言葉に、ありがとうございますと千鶴たちは頭を下げた。
幸子の家族ということで、院長には看護婦だけでなく院長の妻も付き従っていたが、二人とも幸子を慰め、千鶴たちを励ましてくれた。千鶴と甚右衛門は何度も感謝をしたが、幸子は院長たちの優しさが身に染みたようで、頭を下げながら嗚咽した。
院長たちがいなくなったあと、甚右衛門はトミの傍に座っていたが、すっかり落ち込んで自信を失っている様子だ。項垂れ気味にずっとトミの手を擦り続ける姿は、山﨑機織の主ではなく、ただの老人のように見えた。その横で幸子も心配そうにトミの寝顔を見つめているが、胸の中では忠七やつや子の不安が渦巻いているに違いない。
それでも取り敢えずはトミが入院できたことは千鶴を安心させた。このあと祖母がどうなるかは心配だけれど、やはり頭に浮かぶのは鬼に変化した進之丞のことだ。
祖母は倒れても、こうやってみんなに心配してもらい、面倒を見てもらえる。しかし、鬼になった進之丞は独りぼっちで身を隠しながら、育ての親を殺された怒りと悲しみに耐えなければならないのだ。恐ろしいはずの鬼が、人に見つかるのを恐れて小さくなっている姿は、哀れ以外の何物でもない。
「おじいちゃん、お母さん、うち、風寄に行きたい」
思わず千鶴が訴えても、甚右衛門はトミを見つめたまま、いかんと一言だけ言った。千鶴は母を見たが、母も頭を横に振り、無理ぞなと言った。
「今、向こうへ行くんは危険ぞな。ほれに、もう客馬車に乗る銭もないけんな」
「歩いて行けるけん」
「いかんて言うとろ? あんたにまで何ぞあったら、お母さんらどがぁして生きていったらええんね?」
千鶴は肩を落とした。母の言うことは尤もであり、言葉が返せない。それに進之丞を見つけたところで、人間に戻してやれなければ仕方がない。だけど、せめて自分だけでも進之丞の傍にいてやりたかった。
「甚さん、ええかな?」
病室の扉が少し開き、組合長が顔を出した。外はもう日が暮れかけている。
甚右衛門が招き入れると、組合長は風呂敷包みを差し出した。中には大きなにぎり飯がいくつも入っている。
「腹減ったろ。こがぁなもんしかないけんど、腹の足しにしたってや」
千鶴たちは昼飯もまだ食べていなかった。甚右衛門は両手を合わせ、拝むようにして感謝した。幸子と千鶴も礼を述べると、組合長は眠っているトミの顔をのぞき込んだ。
「おトミさん、まだ目ぇ覚まさんかな」
「まだぞな」
甚右衛門が不安な顔を見せると、ほうかなと組合長も力なく言った。
「忠七のこと、夕刊にも出とった。あがぁな話有り得んが、なしてあげなことになってしもたんじゃろな」
ほれよと甚右衛門は険しい顔になった。
「何もかんも横嶋つや子いう女の仕業ぞな」
「横嶋つや子? 新聞にも載っとった、あの横嶋つや子かな」
「ほうよ、全部あの女が仕組んだんに決まっとらい」
組合長は合点がいったようにうなずいた。
「なるほど。確かにほうじゃな。あの女が一番怪しいわい。ほれにしても、あの女はなしてあげなことを……」
「狂とんよ。ほじゃけん、何考えよるんか想像もつかん。ほんでも、あの女を知っとるいう者がおってな。今わしらのために動いてくれよるんよ」
「ほうかな。ほれは誰ぞ?」
「一人は新聞記者で、一人は幸子の知り合いよ。二人ともあの女にひどい目に遭わされとってな。絶対にあの女を捕まえるて言うてくれたんよ」
祖父の話を聞きながら、千鶴は畑山と三津子のことを考えた。
お祓いの婆に会って進之丞の居場所がわかれば、畑山は知らせに来てくれる。だけど、千鶴たちがここにいるのを畑山は知らない。トミが倒れるとは誰も思わなかったし、そもそも店を差し押さえられたあと、どこで連絡を取り合うかを決めていなかった。
それでも畑山は新聞記者だ。見た目と違って話を集めることに長けているようだから、無事でいるならいずれこの病院を訪ねて来るだろう。訪ねて来なければ、何かがあったということだ。
畑山に感じた悪い予感が外れて、畑山には無事でいてほしいと千鶴は願っていた。畑山が姿を見せないのは、自分たちがこの病院にいるのを知らないからだと信じたかった。
また、同じようにつや子を追った三津子も、この件に深入りしないことを祈った。普段は怖い物知らずの三津子だが、今回ばかりはいつもの調子で動くのは危険だった。
「ほれは頼もしいことなけんど、あの女が怪しいいう話は警察に言わにゃいくまい」
組合長の言葉に甚右衛門はうなずいた。
「ほうじゃな。トミの具合見ながら、明日にでも行て来うわい」
「ほれがええ。ほやないと忠七が気の毒ぞな。あがぁなええ男が人殺しの汚名を着せられてしもて……。ほれにしたかて、なして忠七は姿を隠しよるんぞ?」
「ほれはな……」
甚右衛門は千鶴を横目で見てから、組合長を部屋の外へ連れ出した。恐らく忠七は殺されていると話すのだろう。組合長の驚く声が戸の向こうから聞こえた。千鶴も幸子も黙って座っていたが、千鶴の胸には人殺しの汚名という言葉が突き刺さっている。
千鶴を護るため、進之丞は特高警察の男四人の命を奪った。そのことは誰も知らないが、進之丞自身は自分を人殺しだと言った。
もちろん状況的には相手が悪いのだが、進之丞が人の命を奪ったのは事実である。千鶴はそのことを隠しながら、進之丞との幸せな暮らしを手に入れようとした。それがこうなったのは、人の目は騙せても神や仏の目は騙せなかったということか。
戸が開いて甚右衛門が入って来た。そのあとに続きながら組合長は言った。
「とにかくな、わしにできることじゃったら何でもするけん。土佐に行けるようなるまで、わしが借家を世話しよわい。もちろん家賃もわしが出すけん心配いらんぞな」
甚右衛門は組合長に頭を下げ、千鶴も幸子と一緒に感謝した。路頭に迷う千鶴たちにとって、組合長の励ましは本当に有難かった。しかし千鶴の胸の中は、天罰が下された気分でいっぱいだった。
七
「うち、お茶もろて来るけん。おにぎり食べよ」
組合長を見送ったあと、幸子は明るい声で言った。少しでも明るくしていなければ、どんどん気持ちが落ち込むと思っているのだろう。それにこの病院はかつて知ったる職場だ。お茶をもらいに行くぐらい、幸子には造作ないことのようだ。
幸子が部屋を出て行くと、すまんと甚右衛門は言った。
何を謝るのかと千鶴が訊ねると、己の不甲斐なさだと甚右衛門は言った。
「お前に店をやる言うたのに、わしはその店を潰してしもた……。先代から受け継いだ店を、わしが潰してしもた……」
しょんぼりしながら涙を浮かべる祖父を千鶴は慰めた。
「おじいちゃんが悪いんやないよ。悪いんは全部あのつや子いう女やし。おじいちゃんは一生懸命しんさった。うちも、お母さんも、おばあちゃんも、みんなわかっとるけん」
「わしが孝平をちゃんと育てられとったら、こがぁなことにはならんかったろ」
「ほれを言うんなら、正清伯父さんが戦争で亡くならんかったら、こがぁにはならんかったんよ。おじいちゃんが悪いんやない。戦争が悪いんよ」
「ほやけど戦争がなかったら、お前は産まれて来んかった……。戦争は嫌やが、お前がおらんのは困る」
「おじいちゃん……」
祖父の言葉に千鶴は胸が詰まった。絶望しかないこの時に、祖父の気持ちは何にも代えがたいほど嬉しかった。
「お前に何もしてやれんのなら、最初からお前に優しゅうしてやったらよかった……。世間の目ぇ気にして、お前に優しゅうせんかったけん、罰が当たったんよ……」
「ほんなことない。おじいちゃんもおばあちゃんも、うちの知らんとこで、うちを支え続けてくれたやんか」
「わしの人生は、いったい何やったんじゃろな……」
千鶴は甚右衛門の傍へ行って抱きしめた。甚右衛門は千鶴の腕の中で泣いた。
しばらくして千鶴から離れた甚右衛門は、みっともないとこを見せたと恥じ入った。祖父の本当の姿を見せてもらえた千鶴は、ほんなことないよと微笑んだ。
気恥ずかしいのか、甚右衛門は千鶴から顔を逸らして廊下の方を見た。
「ほれにしても幸子は遅いな。お茶がもらえんで揉めとろか」
確かに遅いと千鶴も思った。母はいったいどこまで行ったのだろうと、少し不安になり始めた時、幸子がお盆に急須と湯飲みを載せて戻って来た。
「ごめんごめん。すっかり遅なってしもた」
「どこで油売っとったんかな」
仏頂面に戻った甚右衛門が言った。
「うちの代わりに今日から新しく入った看護婦さんがおるんやけんど、その人がな、昔うちが働きよった病院で一緒やった人なんよ。ほんで、つい喋りよって遅なってしもた」
幸子が昔働いた病院というのは、ロシア兵を収容していたバラックと呼ばれる仮設病棟のあとに勤めていた病院だ。その病院は幸子が千鶴を身籠もって、みんなから白い目を向けられた所だが、そこで働いていた看護婦とここで再会したということらしい。
その看護婦も母に白い目を向けた一人ではないかと、千鶴は訝しんだ。けれど、幸子は特に不愉快な思いはしなかったようで、お盆を置くと機嫌よくみんなにお茶を配った。
組合長にもらったにぎり飯を、千鶴たちは一つずつ手に取った。にぎり飯は明日の朝食べる分まであった。みんなは改めて組合長への感謝を述べると、にぎり飯を食べようとした。その時、眠っていたトミが目をぱちりと開けた。
初めに気がついた幸子が、お父さんと甚右衛門を呼んだ。甚右衛門はトミを見て、おぉと喜びの声を上げた。
「目ぇ覚めたんか。よかったよかった。トミ、わしがわかるか?」
トミは横になったままじろりと甚右衛門を見ると、黙って小さくうなずいた。
「お母さん、気分はどがぁなん? どっか具合悪いとこある?」
幸子が訊ねると、トミはまたじろりと幸子を見て、小さく首を横に振った。
「おばあちゃん、大丈夫なんじゃね。よかった」
千鶴も声をかけると、トミは千鶴に目を向け、千鶴――とつぶやくような声を出した。
「何?」
千鶴が顔を近づけるとトミは弱々しい声で、お城には近づいたらいけんと言った。千鶴には、何の話やらわからない。
甚右衛門は怪訝そうにトミに訊ねた。
「トミ、なして千鶴がお城に近づいたらいけんのぞ?」
「正清が……、そがぁ言いよった」
トミは蚊の鳴くような声で、自分が見た夢の話をした。
夢の中で正清は、気をつけろとトミに告げたらしい。何に気をつけるのかとトミが訊ねると、千鶴だと正清は答えたそうだ。
その時に、トミは満月が浮かぶ城の傍にいたという。トミがきれいな月を見上げた隙に、正清は姿が見えなくなった。だが頭の中で、千鶴を城に近づけるなと言う正清の声が聞こえ、そこで目が覚めたということだ。
小さな声でそれだけ喋ると、トミはまた眠ってしまった。
甚右衛門と幸子は顔を見交わした。城といえば、鬼が特高警察の男たちを捨てた所であり、二人にとっては不吉な場所だ。
「いよいよ鬼が動きだしたんぞ。正清はほれをわしらに伝えようとしたんぞな」
甚右衛門が言うと、幸子もうなずいた。
すべてはつや子が引き起こしたと考えていたのに、正清の話を聞くと、二人にはつや子の背後に鬼がいると思えたようだ。
「千鶴らが大林寺で襲われたんも、ほんまは鬼が千鶴を連中に連れて来させるはずやったんぞ。ほれをあいつらが千鶴に手ぇ出そとしよったけん、忠七が助けに来たときに鬼は連中を護らんかったんじゃ」
甚右衛門が真顔で喋ると、幸子は納得した顔で言った。
「忠さんの家族があげな目に遭うたんも、忠さんが千鶴を嫁にしよとしたけんやわ。心配しよったとおり、鬼が怒ったんよ」
以前に幸子は鬼は千鶴に惚れていると言い、千鶴と惚れ合っている忠七を心配していた。今回の事件は、まさにそれが現実のものとなったと幸子は見ていた。だけど幸子の言葉は、行方知れずの忠七はすでに鬼に殺されているという意味になる。
二人のとんでもない考えに千鶴は怒りと悲しみを隠せず、忠さんは生きているし、鬼はそんなことはしないと噛みついた。
幸子はすぐに千鶴に詫びたが、甚右衛門は考えを曲げなかった。とにかく城山へは絶対に近づいてはならんと、甚右衛門は千鶴にきつく命じた。それには幸子も同意見だ。
正清が亡くなったのは、幸子が千鶴を身籠もるより前である。伯父は自分のことを知らないのだから、祖母の夢はただの夢だと千鶴は訴えた。また、用事もないから城山へは行かないし、鬼が自分を狙うことはないと必死に鬼をかばった。しかし、甚右衛門も幸子も鬼への疑いを捨てなかった。
甚右衛門は組合長に預けている猟銃を取って来ると言って病室を出ようとした。千鶴と幸子は慌てて引き留めたが、甚右衛門は強引に出て行こうとした。だが、猟でもないのに猟銃を持ち歩いたりすれば気が狂ったと思われるし、警察に捕まってしまう。それこそ鬼の思う壺だと幸子が説得すると、甚右衛門はやっとおとなしくなった。
鬼の思う壺だと言う母の言葉が悲しくて、千鶴は泣きそうになった。その鬼がこれまでどれだけ助けてくれたのか、大声で教えてやりたかった。だけどそんなことをすれば、進之丞を余計にまずい立場へ追い込むことになる。今は黙って堪えるしかない。
千鶴は二人から離れると、窓辺から外を眺めた。辺りは夕闇が広がってすっかり暗くなっている。東の空を見ると、ほとんどまん丸の月がぽっかりと浮かんでいた。明日は満月らしい。
夢の中で祖母は満月の城にいた。つまり、それは明日の夜の城だろう。そんな時間に城山へ登るなど、明日でなくてもするわけがない。行くはずのない所へ行くなとは、どういうことなのか。
もしかしたら鬼に変化した進之丞が、お城に現れるのかもしれないと千鶴は思った。
そこへ自分が行って、それを誰かに見られたら大事になる。伯父はそれを危惧しているのに違いない。だが何にせよ伯父の夢が示しているのは、明日の晩に進之丞が城山へ戻って来るということだと思われる。
千鶴の胸の中で期待と動揺がぶつかり合った。
進之丞に会えるのは嬉しいが、鬼に化身した進之丞を救う手立てがない。いずれつや子の悪事が暴かれても、進之丞が鬼のままでは悲惨な結末が待つばかりだ。だから、きっと進之丞は別れを告げるつもりで戻って来るのだ。
空の月を見上げながら、もう暇がないと千鶴は焦った。何としても明日の夜までに、進之丞を人間に戻す方法を見つけねばならないが、それは限りなく不可能なことだった。
忍び寄る狂気
一
野菊の群生の前で、千鶴は進之丞と言い争っていた。
「千鶴、あしを信じてくれ! あしにはお前しかおらん!」
「いっつもかっつもそがぁ言うて、おらを騙くらかしてばっかし。おらには進さんしかおらんかったのに……」
「ほじゃけん、ほれはあしかて対ぞな。あしが嫁にしよて思とるんは、お前ぎりぞな」
進之丞は懸命に弁解していたが、千鶴はまったく進之丞を信じていなかった。
「前にそがぁ言うてから、今日までどんだけ経ったて思とるん? おら、進さんの言葉信じて、ずっとずっと待ちよったんよ? ほれやのに、ちっとも逢いに来てくれんかったやんか」
「ほれは父上について村廻りをしよったけんよ。お前のことを忘れよったんやない。ほれに、お前を嫁にするためにいろいろ手回しがいったんよ」
進之丞の言い訳に腹が立った千鶴は、進之丞の秘密に言及した。
「進さん、お武家の娘がええんじゃろ? おら、知っとるんで」
「お武家の娘? 何の話ぞ?」
「また惚けてからに。ほれじゃったら言うちゃろわい。進さん所のお女中さんが、おらに教えてくれたんよ。おらと違て、きれいで芸事もできる娘さんやて言いよったぞな」
千鶴には進之丞が動揺しているみたいに見えた。
「ちぃと待ってくれ。女中て誰のことを申しとるんぞ?」
「そがぁなこと言われんぞな。言うたら、そのお女中さん、首斬られてしまうけん」
「千鶴、お前はあしより、その女中の方を信じるんか?」
「そのお女中さんが、おらに嘘こいたて言うん?」
「ほうよ。其奴は嘘をこいとらい」
「なして? なしておらにそがぁな嘘、わざに言いに来るん?」
「そいつはたぶん、お前にやきもち焼きよるんぞ。やけん、嫌がらせしよるぎりぞな」
進之丞は強引に千鶴を抱き寄せた。千鶴は反射的に進之丞を押しのけたが、その時、進之丞の懐から顔をのぞかせていた物がぽとりと落ちた。
進之丞は慌てて拾おうとしたが、千鶴の方が速かった。
「千鶴、ほれを見たらいけん」
「これ、おらへの手紙やんか」
千鶴ににらまれると、進之丞はうろたえた。
千鶴は進之丞を見据えながら手紙を読んだが、読むうちに驚き動揺した。手紙は行方知れずになっていた父からのものだった。
これまで千鶴は父親のことはほとんど考えてこなかった。けれど進之丞に裏切られたと思ってからは、父親が迎えに来てくれることを願っていた。だがそれは儚い望みであり、叶うはずがない願いだった。ところが、それが現実のものとなったのだ。
手紙には今日の夕暮れに風寄の浜辺へ船で行くとある。夕暮れまであまり時間は残されていない。
千鶴は顔を上げると進之丞を質した。
「これはおらのとっとの手紙じゃ。なしてこの手紙を進さんが持っとるんね?」
「ほやかて、お前はあしの嫁になるけん」
「そげなことは訊いとらん。なしてこの手紙を進さんが持ちよるんかて訊いとるんよ」
「ほれは……、その手紙を届けに来た者が、お前に直接渡したら差し障りがある思て、あしによこしたんよ」
「じゃったら、すぐにおらに見せんといくまいが。進さん、おらを慰み物にするぎりやのうて、おらから何もかも奪うつもり?」
「何を申すか」
その時、慌てふためいた様子の男が走って来て、進之丞さまと声をかけた。男は代官屋敷の者のようだ。進之丞が振り返ると、男は今にも泣きそうな顔で、一大事にござりますると言った。
「お代官さまが――」
男はそこで絶句して口を噤み、口元をわなわなと震わせた。
進之丞が男の傍へ寄ると、男はうろたえながら耳打ちで進之丞に何かを伝えて泣いた。途端に進之丞の顔色が変わり、何かが代官の身に起こったらしいと千鶴は悟った。
しかし、代官は進之丞に他の娘を会わせた張本人だ。代官に何があろうと千鶴にはどうでもよかった。
進之丞は千鶴を振り返って言った。
「千鶴、あしは行かねばならん」
「どこまり好きな所へ行ったらええ。おらもとっとと行くけん! もう、こがぁな悲しい所にはおりとない」
千鶴は進之丞に背を向けた。
「待て、千鶴! 千鶴!」
呼び止める進之丞の声を無視して千鶴は走った。拭いても拭いても涙が止まらない。
千鶴は目が覚めた。部屋の中はまだ暗い。夢の中で千鶴は泣いていたが、目覚めた今も涙は流れていた。けれど、それは夢とは別の涙だった。
今見た夢は前世の記憶であり、本当にあったことだ。千鶴は進之丞を疑い、父の元へ行こうとしたのである。
あの時、進之丞を信じてさえいれば、鬼につけ込まれたりはしなかったし、進之丞が鬼になることもなかっただろう。
千鶴はあの女中こそがつや子だと確信していた。前世の自分はつや子に騙され、進之丞を疑うように仕向けられたのだ。
だが、それは進之丞を信じる気持ちに揺らぎがあったからだ。進之丞を本当に信じていれば、いくら疑うよう唆されたとしても、進之丞を疑ったりはしなかったはずだ。
結局は自分のせいだと己を責めながら、千鶴は闇の中で泣き続けた。
二
朝になって看護婦がのぞきに来ると、みんなそれぞれの寝台の上に体を起こした。
この時にはトミも目覚めていたが、昨夜の正清の夢のことは何も覚えていなかった。何故自分がここにいるのかもわかっておらず、説明をされても怪訝そうにしていた。
トミの状態を確かめた看護婦は千鶴を見て、この娘さん?――と幸子に声をかけた。
「ほうなんよ。この子が千鶴ぞな」
幸子は少し笑みを浮かべて言った。だけど、千鶴は何のことかわからない。甚右衛門もトミも訝しげに幸子と看護婦を見比べた。
「この人が昨夜話した、うちの昔の同僚の山岡八重子さんぞな」
幸子が看護婦をみんなに紹介すると、初めましてと八重子は挨拶をした。千鶴は慌てて寝台から降りると挨拶を返した。
「その節は母がお世話になりました。ほれから、今回は祖母がお世話になります」
千鶴が八重子に頭を下げると、甚右衛門も不審げな顔のまま会釈した。
トミは昨夜の幸子の話を聞いていないので、きょとんとしている。幸子が改めて八重子のことを説明すると、トミは甚右衛門と同じような顔で八重子を見た。
八重子は二人に笑顔を返したあと千鶴を見て、ええ娘さんじゃねと幸子に言った。
「あん時は、こがぁな娘さんが産まれるとは、誰っちゃ思いもせんかったけんなぁ。まっこと山﨑さんには気の毒じゃった」
「ええんよ。ほんまのことがわかったけん、ここで山岡さんに会えてよかったわい」
幸子は微笑んだが、千鶴は気まずい気持ちになった。自分を身籠もったせいで母が病院を辞めさせられた話など、できれば耳にしたくなかった。
「お母さんの朝ご飯が終わったら、先生が診においでるけんね」
八重子は笑顔でトミや甚右衛門に会釈すると、千鶴にも声をかけて病室を出て行った。
「お母さん、ほんまのことて何なん?」
千鶴が訊ねると、幸子は笑みを消して息を一つ吐いた。
「さっきの山岡さんや他の看護婦さんらはな、お母さんがあんたを身籠もったてわかったら、口利いてくれんなったんよ。病院辞める時も、何ちゃ挨拶してくれんかった。ほじゃけん、お母さん、みんなに嫌われたて思いよった。けんど、ほんまはほうやなかったんじゃて、山岡さんが教えてくれたんよ」
「ほうやなかったって?」
「お母さんには、みんながお母さんのこと腹立てよるように見えたんやけんど、ほんまはお母さんの気持ちがわかる人もおったそうでな。山岡さんもその一人じゃったと」
「ほれじゃったら、腹立てんといたらよかったのに」
「ほうなんやけんど、みんなと違う態度は見せられんけんな。ほれに、うちと口利いた者は同罪じゃて婦長さんの指示があったんやて。ほれで声の一つもかけられんままになってしもて、ほんまに申し訳なかったて謝ってくれたんよ」
「ここでお前と顔会わせてしもたけん、言い訳しよったぎりじゃろがな」
甚右衛門が不信感を露わにしたが、幸子は淡々と喋った。
「ほうかもしらんけんど、もう昔のことやしね。ほれでな、山岡さん、自分らは騙されよったんじゃて言いんさったんよ」
「騙されよったて?」
トミが怪訝な顔をした。
「婦長さんはうちと口利くなとは言うてなかったんやて」
「どがぁなことぞ?」
甚右衛門が眉間に皺を寄せながら言った。
「婦長さんがこがぁ言いんさったて、みんなに伝えた人がおったんよ」
「誰ぞ、ほれは?」
ほれがなと幸子はためらいながら言った。
「三津子さんじゃて言うんよ」
「三津子? 三津子て、あの三津子かな?」
トミが訊くと、幸子は戸惑い気味にうなずいた。甚右衛門は顎に手を当てると、ふーむと唸った。
「あの頃の三津子さんは目立たん人じゃったけんど、何でか婦長さんには気に入られとったんよ。ほじゃけん、婦長さんがこがぁ言うておいでたて三津子さんが言うたら、みんなほれを信じたんよ」
店を畳むことになった甚右衛門たちを見舞い、つや子を捕まえてみせると言った三津子を、千鶴同様に甚右衛門たちも見直していた。その三津子へ再び不信感が湧き起こったのか、二人ともむずかしい顔をしている。
「三津子が嘘言うたて、なしてわかったんぞ?」
甚右衛門が腹立たしげに言った。幸子は当惑顔で説明した。
「うちが辞めたあと、最後の挨拶ぐらいしたかったて、山岡さんらが婦長さんに文句言うたんやて。ほしたら、うちと口利くなやんて言うとらんて婦長さんは言いんさったそうな」
「ほんまかな。適当なこと言うとるんやないんか」
「うちが病院辞める時、婦長さんぎりは最後に声をかけてくんさったんよ。ほやけん、山岡さんの言うんが正しい気ぃもするけんど……」
幸子は困惑したように口を噤んだ。八重子の言い分を認めるのは、三津子を疑うことになるからだろう。
甚右衛門は腕組みをすると、ふんと言った。
「どこまで信用でけるか、わかったもんやないわい」
「ほんまのことはわからんけんど、もう二十年も前の話やけん。別にええんよ。ほれに山岡さん、うちらが萬翠荘に招かれた記事を見んさったそうでな。ずっと悪いことしたて思いよった気持ちが、あれでだいぶ楽になったんやて」
八重子をかばう幸子に、トミが不愉快そうに言った。
「ほんで、嘘がばれた三津子はどがぁなったんね?」
「山岡さんの話では、みんなから嘘つき呼ばわりされて、居たたまれんなって辞めたらしいんよ」
喋りながら幸子は判断しかねているようだ。三津子は幸子を追い出した病院が嫌になって辞めたと言っていたのだ。
「お母さんは、どっちの話信じるん?」
千鶴が訊ねると、幸子はうーんと言った。
「どっちを信じたらええんか、うちにもわからんのよ。山岡さん、うちがお前を身籠もったんを院長先生に告げ口したんは、三津子さんじゃて言いんさってな」
千鶴は驚いた。甚右衛門もトミも目を見開いている。
「ほんまに? ほやかて、三津子さんはお母さんの味方になってくれたんやないん?」
「ほうなんよ。ほやけん、わけがわからんなってしもた」
幸子は混乱したように首を横に振った。
「あん時はまだお腹はそがぁには目立っとらんかったんよ。ほじゃけん、院長先生に知れた時には、なしてわかったんじゃろかて思いよった。しかも、父親のことまで知っておいでたけんね」
「なんちゅう女じゃ、あの三津子という女は!」
甚右衛門が吐き捨てるように言うと、ほんまよとトミもうなずいた。幸子は甚右衛門たちをなだめ、ほやけどなと言った。
「うちは子供を身籠もったことは誰にも言うとらんけん、三津子さんが知っとるはずがないんよ」
「ほやけど、院長先生は知っておいでたんじゃろ?」
トミに訊かれた幸子は、ほうなんよと当惑顔でうなずいた。
「とにかく誰も知らん話やけん、なして院長先生が知っておいでたんか不思議じゃった」
「誰から聞いたんかて確かめんかったんか?」
甚右衛門が質すと、そげなことと幸子は首を振った。
「聞けるわけないやんか。聞いたとこで言うてもらえるはずないし。あん時はえらいことになってしもたて焦くりまわるばっかしやったけん。まぁ、とにかく山岡さんの話聞いた時は、まっことびっくりじゃった」
幸子は笑顔を見せたが、戸惑いはなくならない。三津子は唯一信じられる友だったのに、その三津子が幸子を病院から追い出した張本人だったと言われたのである。簡単に信じられる話ではないが、八重子を疑う理由も見つからない。八重子が言い訳をするだけなら、わざわざ三津子の話を持ち出さずとも、婦長のせいにしておけばよかったのだ。
三津子をどう見るべきなのか、幸子も含めてみんなが困惑を覚えていた。
とはいえ、昔の話である。千鶴たちへの慰めや励ましにしても、三津子が本気で言ったかどうかなどどうでもいいことだ。今の千鶴たちにはすることがあり、三津子の心の内を詮索している暇などなかった。
今後は本気で三津子の相手をしなければいいと、甚右衛門が締めくくり、幸子がうなずいてこの話は終わった。ただ、それはつや子を追い詰めるという約束が一つ失われたということで、病室の中には失望が広がった。
三
「不整脈は落ち着いたみたいじゃな」
トミを診察した院長は笑顔で言った。付き従っているのは八重子とは別の看護婦だ。
「ほんじゃあ、もう退院できるんかなもし?」
トミが嬉しそうに訊ねると、院長は笑顔を崩さないまま、今日一日はここで様子を見た方がいいと言った。
「ここ出たとこで、すぐには行く当てもないんじゃろ? じゃったら、もうちぃとここにおりんさいや」
ただ――と言いながら、院長は幸子に顔を向けた。
「全員にずっとここにおられるんは困るけんな。おトミさんの付き添い一人ぎりじゃったら、おってもろても構んけんど、あとの二人は他の居場所を探してもらわにゃな」
わかっとりますと幸子がうなずくと、甚右衛門も言った。
「ほれじゃったら大丈夫ぞなもし。知り合いが当面の部屋を用意してくれるて言うてくれとりますけん」
ほれはよかったと院長はにっこり笑うと、トミに顔を戻した。
「まぁ、ほれにしても、おトミさんは今日はここにおりんさいや」
トミは不満な顔で、わかりましたと言った。
院長たちが部屋を出て行くと、幸子は改めてトミに昨日の夢のことを訊ねた。トミはきょとんとしながら、そんな夢など見た覚えはないと言い、今日は何日かと訊き返した。
「今日? 今日は何日じゃったかね」
幸子が首を傾げると、指折りで数えた甚右衛門が言った。
「今日は……九月三日じゃな」
「九月三日? ほらいけん。今日は正清の月命日ぞな。こげな所で寝とる場合やないで」
トミは慌てて正清の位牌を手荷物の中から引っ張り出し、両手を合わせて念仏を唱え始めた。その間、千鶴も位牌に手を合わせながら、正清伯父の忠告についてもう一度考えた。そして、今晩進之丞が城山に現れるのは間違いないと思った。
「おじいちゃん、今日は何曜日?」
「曜日まではわからん。もう新聞も読んどらんけんな」
甚右衛門が素っ気なく答えると、幸子が木曜日だと言った。
「曜日なんぞ訊いてどがぁするんね?」
「いや、別に。ただ何となく訊いてみたぎりぞな」
訝しげな母をごまかすと、千鶴は井上教諭に会いに行くのは夕方しかないと思った。
月が出るのは夜の七時頃。それまでに進之丞を救う方法を見つけ出さねばならない。時間は限られているから、少々強引なやり方であっても、井上教諭の所へ行って催眠術をかけてもらうのだ。しかし、あの白い靄を何とかしないと結果は同じだ。
「ほんまじゃったら墓参りもするとこなけんど、やっぱし無理かいねぇ」
トミが残念そうに位牌を見つめると、甚右衛門がいらだった様子で言った。
「お前、わしらがどがぁな目に遭うとるんか忘れとるんか? 今は墓参りどころやなかろがな」
「ほやかて、毎月行きよったのに」
「わしらが土佐へ行ってしもたら、墓参りなんぞできんなろが」
「ほんでも、ここにおる間は行けるぞな」
話が通じないトミに、甚右衛門は疲れた顔で息を吐いた。
外へ出る理由が欲しい千鶴は、甚右衛門に声をかけた。
「おじいちゃん、うちがお墓参り行てこうわい」
「あんたが行てくれるんか?」
トミの顔がぱっと明るくなった。トミはつや子の脅威を忘れているらしい。
「いかん! 何言うとるんぞ!」
甚右衛門はトミを叱り、外へ出てはならんと千鶴に言った。うちが一緒じゃったらと、幸子が助け船を出してくれたが、甚右衛門は許さなかった。
「女二人ぎりで、またごろつきどもに襲われたら、どがぁもできまいが。そがぁなっても、もう――」
怒った口調で喋りながら、甚右衛門は口を噤んだ。もう助けてくれる忠七はいないと言いそうになったのだろう。
うろたえたように目を動かした甚右衛門は、わかったけんとトミに言った。
「正清の墓参りは、あとでわしが行くけん。ほんならよかろ?」
「ほれじゃったらな」
トミはうなずくと、することがなくて退屈だと言いだした。
「こがぁな所におったら、ほんまに病気になってしまうで」
「病気になってしまうんやのうて、もうなってしもたんよ、お母さん」
幸子が文句を言うトミをなだめると、甚右衛門は警察へ行ってくると言って腰を上げた。すると、トミは甚右衛門を呼び止めた。
「警察行って、忠七の無実を訴えんさるんか?」
「今度のことは横嶋つや子の仕業やけん、つや子を捕まえて調べるよう言うてこうわい」
「ほれじゃったら、孝平がどがぁしよるんかも訊いてきてつかぁさいや」
「孝平? あげなてんぽ作、どがぁしよっても関係あるかい!」
「そがぁ言わんで、訊いてきてつかぁさいや。あがぁな子でも、うちらの子には違いないんやけん」
甚右衛門はむすっとした。
孝平を死罪にしても構わないと警察で言ったのはトミである。その言葉を忘れたかのようなトミの態度に顔をしかめながら、甚右衛門は部屋を出て行った。
甚右衛門がいなくなると、トミは昔を懐かしむ話を始めた。そこに忠七は登場しない。トミが喋るのは正清が生きていた頃の話ばかりで、千鶴や幸子の話も出て来なかった。現実から逃れたい気持ちの表れなのかもしれないが、千鶴にはよくわからない内容だ。それで千鶴は祖母の話を聞きながら、どうやって井上教諭に会うかと考えた。
母も祖母に話を合わせながら、どこか上の空だ。つや子の恐怖に怯える中で、三津子までもが信用できなくなり、気持ちが落ち着かないのだろう。
トミが喋り疲れて静かになると、千鶴は母に少し一人になりたいと言った。幸子はうなずき、少し気分を変えるのがいいと言った。
「ほんでも建物の外へ出たらいけんよ。あの女が捕まるまでは油断したらいけんけんね」
心配する母に外には出ないと約束し、千鶴は一人で廊下へ出た。
畑山から連絡がないのが千鶴は気になっていた。
トミが倒れてこの病院へ運ばれたのは、紙屋町の者なら誰もが知っている。昨日のうちに畑山が紙屋町へ戻っていたなら、病院の消灯時間までに顔を出したと思われた。
それでも畑山はトミが倒れたことを気遣って、昨日は遠慮したのかもしれない。だとすれば、今日の午前中に訪ねて来るはずだ。千鶴が病室を出たのは、畑山を待ちきれなかったからだ。
建物は二階建てだが、トミがいる病室は一階にあった。狭い廊下を少し行くと、すぐに外来の待合所だ。受付の横には花を生けた立派な花瓶が飾られている。萬翠荘の宴に幸子を行かせたことへの久松伯爵からのお礼の品だ。病院にすればとても栄誉なものだが、千鶴には遠い昔の話のようだ。
表へ出られないのであれば、病室の中であろうと外であろうと、大して変わらない閉塞感がある。しかも待合所には多くの患者が座って診察の順番を待っている。これでは余計に窮屈な感じがして、気が滅入ってしまう。
千鶴は待合所の中を見渡したが、畑山の姿はなかった。玄関に目を遣っても、畑山が現れる気配はない。しばらくそこに立って待ってみたが、やはり畑山はやって来ない。
壁に掛けられた柱時計を見ると、もう昼が近い。もしかしたら畑山はお祓いの婆には会えなかったのかと思ったが、昨日の嫌な予感が続いている。
「先生! えらいこっちゃ! 先生!」
外から泡喰った様子の男が、勢いよく待合室へ飛び込んで来た。
男は同じ言葉を叫びながら、勝手に診察室へ入ろうとした。看護婦は戸の向こうに立ちはだかり、男の侵入を防いだ。
「先生、すぐに来てやってつかぁさい!」
男は看護婦の肩越しに、奥にいる院長に声をかけた。
「どがぁしたんぞな? 今、こっちも忙しいんやが」
院長が迷惑そうに出て来ると、男は言った。
「うちの隣のお祓いのばあさまが死んどるみたいなけん」
「何? 死んどる? ほれはどがぁな具合ぞな?」
男は興奮した声で言った。
「包丁でな、めった刺しにされたみたいぞな」
四
「めった刺しやて?」
話を聞いた患者たちは騒然としたが、めった刺しという言葉に千鶴は鳥肌が立った。それは為蔵とタネが殺された状況と同じであり、二つの事件は同じ人物が引き起こしたように思えた。
千鶴は畑山が心配になった。殺された老婆があのお祓いの婆だとすれば、畑山の身にも何かがあったと考えられる。
院長が看護婦にすぐに出かける指示を出すと、男は続けて話しかけた。
「先生、もう一人な、妙な男がおるんよ」
「妙な男?」
院長は振り返ると男に言った。
「妙な男て、そいつが犯人なんか?」
「わからん。そいつはあしの知らん奴なけんど、その男がな、ばあさまの家で首吊って死んどるんよ」
「何やて? ところで、お前さん、警察は呼んだんか?」
「警察? いや、まだぞな。先に先生に診てもらお思て、ここへ走って来たんよ」
阿呆!――と怒鳴ると、院長は男に老婆の家がどこにあるのかを聞き出し、受付にいた自分の妻に、すぐに駐在所へ連絡をするようにと言った。
院長の妻は別の看護婦を呼びに病棟へ走り、院長は診察鞄は用意できたかと声を荒らげながら診察室へ戻った。
千鶴は膝ががくがく震えた。涙があふれそうになり、息がうまく吸えなくなった。それでも千鶴は待っている男の傍へ行き、もうしと声をかけた。
振り向いた男は千鶴の顔を見てぎょっとした。それには構わず、千鶴は死んでいた男の容貌を訊ねた。
「何ぞな、あんたは? あの男の知り合いか?」
「ほれがわからんけん、教えてつかぁさい。そのお人は痩せておいでましたか?」
男は千鶴を訝しんだ。しかし千鶴が繰り返しお願いすると、男は警戒しながら喋った。
「あしも恐ろしいけん、ちらっとしか見とらんけんど、確かに痩せとったな。ほれと、えらい煙草臭かったわい」
男の言葉に千鶴は絶望を感じた。死んでいた男が着ていた物を確かめたが、やはり畑山の衣服と似ている。
千鶴がしゃがみ込んで号泣したので、男は驚いて後ずさりをし、自分が泣かせたのではないと周りの患者たちに訴えた。
「どがぁした? ん、山﨑さんの娘さんやないか。なしてここで泣きよるんかな?」
千鶴の泣き声を聞いて出て来た院長が、千鶴に声をかけた。千鶴は泣きながら、殺された男は自分の知り合いだと言った。
どういうことかと訊ねる院長に、千鶴は泣きながら、自分の許婚の居場所を教えてもらうために、畑山がお祓いの婆を訪ねてくれたことを説明した。
「あんたの許婚? ほれはひょっとして……」
「ほうです。うちの許婚は無実の罪を着せられて行方知れずになりました。ほれで畑山さんがその人の行方を捜すために、お祓いのおばあさんを訪ねてくんさったんです。ほれやのに、その畑山さんまで……」
周りにいる患者たちは、妙なものを見る目で千鶴を見つめていた。
みんな風寄の事件の話は知っているらしく、その事件が身近に拡大していると捉えたようだ。千鶴に向けられた患者たちの視線は冷たく、千鶴を恐れているみたいにも見えた。
だが、院長は冷静だった。慰めるような穏やかな声で、院長は千鶴に話しかけた。
「ほれじゃったら、あんたも一緒に来たらええ。ほんで、死んだ男の顔見て、確かにあんたの知り合いじゃと言うんなら、そのことを警察に話すんぞな」
先生、用意がでけました――と看護婦が診察鞄を持って来た。
千鶴は畑山の死に様など確かめたくなかった。でも確かめなければ、畑山がお祓いの婆殺しの犯人にされてしまう。千鶴は恐ろしさと悲しさと責任で動けなかったが、患者たちにしばらく待つように言った院長は、千鶴を急かして外へ連れ出した。
五
警察で事情を聴取されたあと、千鶴は一人で警察をあとにした。太陽が西に傾いており、日が暮れようとしている。
やはり殺されたのは、あのお祓いの婆と畑山だった。二人が殺害されたのは遺体の状況から昨日だろうと判断された。
畑山の上着からは名刺も錦絵新聞も抜き取られていて、身元がわからなくされていた。代わりに上着の内ポケットから、遺書と思われる紙が見つかった。そこには大変なことをしでかしたので、死んでお詫びをしますとだけ書かれてあった。畑山の両手や衣服は血だらけで、千鶴の証言がなければ、畑山が老婆を惨殺したと見られるところだった。
畑山が殺人の濡れ衣を着せられるのは防げたが、畑山の命は戻って来ない。大阪では何も知らない畑山の家族が、畑山が無事に戻って来るのを待っている。それを思うと、千鶴は涙が止まらなかった。
警察には午前中に甚右衛門が訪れて、本当の犯人は横嶋つや子だと訴えていた。しかし、言われずともすでにつや子は捜査対象ですと千鶴は説明された。
ただ、忠七の行方がわからない以上、忠七についても捜査は続けるそうだ。また甚右衛門が言ったように、警察でも忠七が殺されている可能性は視野に入れているようだった。
そんな中で起きた今回の事件で、警察ではつや子への疑いを強めており、風寄の事件も詳しく見直すと千鶴に約束してくれた。
一方で、畑山の上着のポケットにはマッチと煙草の箱が入っていた。煙草の箱には折り畳まれた紙片が差し込まれており、警察ではその紙片を一つの手掛かりと見ていた。
その紙片には高縄山と記されてあり、そこから引かれた矢印の先には松山と書いてあった。松山という文字の下には、小さな文字で明晩と書き添えられている。それがどういう意味なのかは警察ではわからなかったが、畑山が忠七の居場所を占ってもらいにお祓いの婆を訪ねたという千鶴の証言で、その占いの結果がこの紙片だと断定された。
意味としては、高縄山にいる忠七が今晩松山へ戻るということだろうと見なされたが、警察が占いを信じて動くわけにはいかない。この紙片は畑山が千鶴が証言した理由でお祓いの婆を訪ねた証拠とされただけで、高縄山からの道をふさいで検問をするまでにはならなかった。尤も検問をしたところで、進之丞を捕らえることはできないだろう。
警察はお祓いの婆をただの占い師としか見ていないようだが、お祓いの婆は鬼の存在に気づいた人物だ。その霊能力は本物であり、進之丞が高縄山に潜んでいるのは間違いない。そして今晩高縄山から松山へ戻って来るのだ。それは正清伯父の忠告と一致する。
何故夜なのか。たぶん人目を避けるためだろう。けれど、誰にも見られないという保証はどこにもない。それでも進之丞が戻って来るのは、やはり自分に最後の別れを告げに来るつもりなのだと千鶴は思った。
進之丞の家族が殺され、お祓いの婆と畑山まで殺された。そして夫婦になるはずの進之丞は鬼となって消えようとしている。これでは前世の悲劇の繰り返しであり、千鶴は泣き叫びたくなった。だが、どこかで今の自分を見て笑う女の影が頭に浮かび、あんな奴の望みどおりになるものかと懸命に歯を食いしばった。
千鶴は母たちに会いたかった。今の気持ちを共有できるのは母たちだけだ。
病院を出る時に、千鶴は母や祖母に話をする暇がなかった。急に自分がいなくなったため、きっと母たちは心配したに違いない。けれど、警察にいることは院長が知らせてくれたはずなので、祖父か母が警察へ迎えに来ると千鶴は思っていた。ところが、千鶴が警察を出る時になっても誰も来なかった。
恐らく祖父は午前中に警察を訪れたあと、正清伯父の墓参りをしたり、組合長の所へ行ったりしていたと思われる。祖母の付き添い以外は病室を出なければならないので、祖父は今晩の宿を確かめる必要があった。
祖父が病院に戻っていなければ、代わりに母が来るはずだ。ところが母も迎えに来ていない。ただでも外は危ないというのに畑山が殺されたのである。さらなる危険が迫っているのはわかるだろうに、まさか院長が警察での事情聴取について母たちに伝え忘れているのだろうか。
千鶴は訝ったが、いずれにせよ今はこうして一人で自由に動ける状況にある。こんな形ではあるが、これは自分が望んでいたことだ。井上教諭の所へ行くなら今しかない。
暗い気持ちに沈んだまま、千鶴は庚申庵の方へ向かって歩き始めた。どんなに畑山の死がつらくても、進之丞を救わねばならない。それは命懸けで進之丞のことを調べてくれた畑山へ報いることにもなる。そう自分に言い聞かせて千鶴は歩いた。
ただ、あの白い靄をどうすればいいのかはわからない。このままでは井上教諭に会えたとしても、進之丞が鬼になった理由を知ることはできない。
月が昇る時刻が刻一刻と迫っているが、千鶴の前にはあの靄が立ちはだかっていた。あたかも千鶴が記憶を探りに来るのがわかっていたかのごとく、靄は一番肝心な部分を隠しているのだ。
千鶴は、はっとして立ち止まった。
――隠す? 靄が記憶を隠しとる?
隠すとは誰かが意図的にやることだ。しかし、記憶を隠すなど誰にでもできることではない。そんなことができるのは――。
「進さんや」
千鶴は悟った。あの白い靄で記憶のあの部分を消したのは、進之丞に違いない。だとすれば、自分には絶対に見せたくないものが、あそこには隠されている。きっと余程のものなのだろう。千鶴は靄の向こうを探るのが怖くなった。
とはいえ、そもそも靄の向こうは探れない。けれど、靄を作ったのが進之丞だとわかれば、井上教諭が何とかしてくれる気がしている。
わずかながら希望が見えた。千鶴の足は次第に速まった。
六
庚申庵に着くと、千鶴は訪ないを入れながら格子戸を開けた。
西の空に浮かぶ太陽はかなり低くなり、辺りには夕闇が迫りつつある。もう時間がないが、井上教諭の返事はない。まだ学校の仕事が終わらないのだろうか。
不安な気持ちで庭に廻ってみると、雨戸が開いている。障子は閉められているが、中に誰かがいるようだ。きっと井上教諭だ。
安堵した千鶴は遠慮がちに、井上先生――と声をかけた。だけど返事がない。障子に近づいて行くと、中から教諭がむせび泣く声が聞こえてきた。
教諭が一人なのか、客が来ているのかわからないが、千鶴はもう一度外から教諭を呼んだ。すると泣き声がやみ、人が動く気配がした。けれど、すぐには障子は開かず、中で襖が閉まる音がした。そのあと少しして教諭が顔を出した。
「山﨑さんじゃないか。どうしたのかな、こんな時刻に?」
教諭は少しうろたえているようだ。元生徒とはいえ、若い娘が独り身の男の家を訪ねる時刻ではない。でも、それより今の泣いている声を聞かれたと恥じ入っているのだろう。山﨑機織が潰れたことは教諭も知っているだろうに、それについての慰めもないのが、教諭が動揺している証だ。
だが、千鶴にも教諭を気遣っている余裕などない。千鶴はすぐに用件を伝えた。
「先生、お願いです。もういっぺん、うちに催眠術をかけてつかぁさい」
「え? またかい?」
教諭は明らかな困惑を見せた。
「こんな時刻だと、親御さんたちが心配するんじゃないのかい? 何たって僕は独り身の男だからね。というか、君の家は大変なことになってしまったんだね。言うのが遅くなってしまったけど、声もかけてあげられず、ずっと申し訳なく思ってたんだ」
ようやく慰めの言葉を口にした教諭に、だからこそ先生の助けが必要なんですと千鶴は訴えた。
「それが催眠術なのかい?」
「ほうなんです。お願いします。うち、もう暇がないんぞなもし」
千鶴の様子を見て、井上教諭は教師の顔になった。
「何だか深刻なようだね。だけど、あの白い靄が出て来たらお手上げだよ。僕にはどうすることもできないのは、君だってわかってるだろ?」
「あの靄をこさえたんは進さんぞなもし」
「え? 進さんて――」
「お願いします。今すぐ、うちに催眠術をかけてつかぁさい」
必死に訴える千鶴をじっと見た教諭は、部屋の右手の方をちらりと見てから言った。
「わかった。まずは話を聞くから、部屋に上がっておいで」
井上教諭は障子を大きく開くと、千鶴を部屋へ誘った。
部屋へ上がると、千鶴はお香の匂いに気がついた。さっきまで誰かがいたのだろうか。
これまでは隣の三畳間との間の襖が開けられていて広々した感じがあった。しかし、今日は襖が閉まっていて三畳間は見えない。襖が閉められているせいか、千鶴たちがいる四畳半の部屋が少し窮屈に感じられる。
千鶴が部屋の中を見まわしていると、何を見ているんだいと井上教諭は微笑みながら言った。その笑みは少し強張っているように見える。
「先生、ひょっとして誰ぞおいでたんですか?」
「え? どうしてそう思うんだい?」
「お香の匂いがするけん」
お香?――と言って、教諭は鼻をひくひくさせた。
「そういえば、ちょっと匂うかな。さっきお客が来てたから、その人の匂いが残っているのかもしれないね」
ほうですかと言いながら、千鶴は井上教諭がむせび泣いていたのを思い出した。
「先生、うち、自分の話ぎりしてしもてすんません」
「何、いいんだよ。こないだは僕も残念に思ってたんだ。本当のところをいうと、また来てくれて嬉しいよ」
にこやかに話す教諭に、千鶴は遠慮がちに訊ねた。
「先生、何ぞお嫌なことがおありんさったんですか?」
「何で、そう思うんだい?」
「こがぁなこと言うたら失礼なけんど、さっき先生が泣いておいでる声が聞こえたんぞなもし」
「あ、そうなのか。やっぱり聞かれてしまったのか」
教諭は深く恥じ入ると、実は――と涙の理由を話してくれた。
それは前に千鶴に話した、道後の花街にいる妹に似た娘のことだった。その娘がごろつきたちに乱暴されて死んだという話を、その娘に会わせてくれた人から聞かされたのだと教諭は言った。
「前には言わなかったけど、僕の妹も僕の目の前でごろつきどもに玩具にされてね。そのあと首を吊って死んだんだ。僕は妹を助けたかったけど、このとおり非力だから何もできなかった。そんな自分が情けなくて、僕はずっと死ぬことばかり考えてたんだ」
さっきも花街の娘の死に妹の死を重ねてしまい、つい泣いてしまったと教諭は言った。
かける言葉が見つからず千鶴は黙っていたが、教諭はそのまま話を続けた。
「世の中ってうまくいかないもんだね。戦争もそうだけどさ。死ななくてもいい者が死んで、何でこんなのがって奴がのうのうと生きてるんだ。僕は信心深くはないけど、どうして自分にもっと力を与えてくれなかったのかって、時々神を呪うことがあるんだよ」
しんみりしたあと、井上教諭は我に返ったように、ごめんごめんと言った。
「こんな話を聞きに来たんじゃなかったよね。暗い話を聞かせてしまって申し訳ない」
「いいえ、そがぁなことありませんけん」
「ところで、さっきも少し言ったけど、君の家は気の毒なことになってしまったんだね。今日、新聞で知ったんだけど、君の所にいた佐伯くんっていうのかな。実家の家族を殺してしまったってあったけど、あれは本当なのかい?」
千鶴は小さく首を横に振ると、涙ぐんで言った。
「あの人はそげなことはしません。風寄へはうちをお嫁に迎えるために、先に家族に会いに戻ったんです」
「え? そうなのかい? じゃあ、どうして――」
「あの人の家族を殺したんは別の人間……、いえ、人間やのうて化け物ぞな。あの人はその化け物に家族殺しの罪を着せられてしもたんです」
ちょっと待ってくれよと、井上教諭は戸惑いを見せた。
「化け物って……、まぁ、鬼が本当にいるってわかったから否定はしないけど……、化け物って言われてもなぁ……。何か化け物がやったっていう証拠でもあるのかい?」
「証拠は……、ありません」
「だったら、化け物だって決めつけられないだろ?」
「ほんでも、うちが前世で生きとった頃から、ずっと生き続けとるんやとしたら、化け物以外に有り得ません」
井上教諭は困惑していた。ただでも千鶴の話について来るのは大変なところに、新たに化け物の話が出て来たのである。困惑するのは当然だ。
教諭が返答に困っていると、千鶴は下を向いた。
「すんません。こがぁなこと言われても困りますよね」
「いや、いいんだ。気にしないでくれ。君には驚かされっ放しだからさ。君の話が嘘じゃないのもわかってるよ。ただ驚いたっていうか、理解できないことが続くから頭が混乱してるんだ」
「前世でうちと進さんが死に別れたんも、進さんが鬼になってしもたんも、元はといえば、全部その化け物のせいなんです。その化け物が今世でうちと進さんが夫婦になるんを知って、また同しことをしよるんです」
「何だって? 進さんっていうのは前世の話だけじゃなくて、今もここにいるって言うのかい?」
驚く教諭に、千鶴は覚悟を決めて言った。
「先生には何もかもお話します。家族殺しの罪を着せられたあの人こそが、うちが言うてる進さんぞなもし」
七
「彼が進さんって……、君と再会した朝に、僕に挨拶をしてくれた……彼が進さん?」
「ほうです」
「じゃ、じゃあ、彼は君が前世の君だってことを……」
「わかっとります」
「それじゃあもしかして、彼はその……」
「鬼ぞなもし」
えぇっ?――と井上教諭は驚きの声を上げた。それから慌てたように三畳間の方をちらりと見ると、潜めた声で言った。
「信じられないよ。彼が鬼だって? 彼はどう見たって人間じゃないか。とても感じがいい青年だし、そこら辺の胡散臭い連中の方が、よっぽど鬼みたいだよ」
「普段は人の姿でおりますけんど、怒りを抑えきれんなったら鬼に変化してしまうんぞなもし。ほじゃけん、風寄の家族を殺されたんを知って、進さんは鬼に変化してしもたんやと思います」
「それで行方を眩ましたのか……」
「何べんも鬼に変化しよったら人間の姿に戻れんなるて、進さんは言うとりました。ほじゃけん、たぶん今は元に戻れんで鬼の姿のまんま……」
千鶴が項垂れて涙をこぼすと、そういうことだったのかと井上教諭は言った。
「君が進さんを助けたいって言う理由が、ようやくわかったよ。だけど、彼が鬼だとしたら、風寄の家族も鬼ってことなのかい?」
「いえ、あの人たちは普通の人間ぞなもし。進さんは――」
佐伯忠之という人物の心を喰らって、この世に蘇ったとはとても言えなかった。
「進さんは赤ん坊の時に、法生寺に置き去りにされたて聞きました」
「なるほど。誰が置き去りにしたのかは気になるけど、とにかく、進さんは鬼のまま生まれて来たんだね。それで、化け物っていうのはそのことを――」
「知っとります。ほじゃけん、わざに進さんを怒らせて、みんなの前で鬼に変化させよとしたんです」
「そうか。じゃあ、君はその化け物のことがわかってるんだね?」
千鶴はうなずくと、その化け物は二百三高地の髷を結った三十過ぎの女の姿をしていて、横嶋つや子と名乗っていると言った。
「横嶋つや子? 君たちをひどい目に遭わせたあの女が化け物?」
井上教諭は驚いたが、千鶴の言葉を疑う様子はない。千鶴はうなずき言った。
「恐らくほうやと思います。あの女は人の不幸が楽しいみたいで、あちこちでいろんな人を不幸な目に遭わせたらしいぞなもし」
「じゃあ、先に君が大林寺でごろつきたちに襲われた事件も、彼を鬼に変化させるために、その化け物が引き起こしたってことなのかい?」
「ほうです。うちらを絶望のどん底に突き落とすんが、あの女の目的ぞなもし」
井上教諭は納得顔でうなずいた。
「前にも言ったと思うけど、東京で僕と妹が世話になった人がいてね。その人も横嶋つや子っていうんだ。とってもいい人でさ。君が言う化け物のつや子とは大違いだよ。同じ名前なのに、まさにサギとカラスだな」
「確か、先生がお世話になったそのお人は……」
「一昨年の東京の震災の時に亡くなったんだ。だけど、震災で亡くなったんじゃないんだよ。せっかく助かったのに、暴漢に命を奪われてしまったんだ」
少ししんみりしたあと、そうそう進之丞くんのことだったねと教諭は言った。
「進之丞くんが白い靄を作ったとは、どういうことだい?」
千鶴は進之丞が人の記憶を操る力を持っていると説明し、自分も風寄でイノシシに襲われた時の記憶を消されたことがあったと話した。
「進さんがうちの記憶を消しんさったんは、うちが悲しまんようにという配慮からです。ほやけん、あの白い靄の向こうには、うちが見たら悲しなるもんが隠されとるんです。ほれは絶対に進さんが鬼になってしまうとこぞなもし」
千鶴の考えに井上教諭はうなずいた。
「確かにそんなのを見たら悲しくなるよね。つまり、あの白い靄は前世の進之丞くんが、自分が鬼になってしまった経緯を、君の記憶から消すために作ったんだね」
「ほんでも人間やった進さんが、どがぁして鬼になったんかがわかったら、進さんを鬼から人間に戻すための手掛かりも、わかるんやないかと思うんぞなもし」
「なるほど。それは確かめてみる価値がありそうだね。でも、進之丞くんがわざわざ消した記憶だよ? 君が思っている以上につらいものがあるんじゃないかと思うんだけど、本当に確かめる覚悟があるのかい?」
千鶴はこくりとうなずいた。進之丞を救うためなら、どんなにつらい目に遭っても構わないと思っていた。
井上教諭は、わかったと言った。
「とにかく進之丞くんが作ったという話を参考に、あの靄を消す方法を考えてみよう」
千鶴には井上教諭が頼もしく見えた。きっと教諭なら何とかしてくれる。千鶴が期待の眼差しを向けると、教諭は腕組みをして、ふーむと唸った。
八
腕組みをしてから、井上教諭はずっと考え込んでいる。月が昇る時刻が迫っているが、教諭は黙り込んだまま動かない。心配になった千鶴は教諭に声をかけた。
「先生、あの靄を進さんがこさえたてわかっても、どがぁもなりませんか?」
井上教諭は顔を上げると、真剣な表情で言った。
「今考えてるところなんだ。あの靄は進之丞くんが作ったものだから、恐らく進之丞くんじゃないと消せないんだよ。それを素人の催眠術師の僕が消そうっていうんだ。事はそう簡単にはいかないよ。でも、そうだな。どうすれば……」
井上教諭はまた黙り込んだ。
教諭はやろうとしてくれているが、やはり無理かもしれない。沈黙が続く中、時間がどんどん過ぎていく。肩を落とした千鶴は悔しさにつぶやいた。
「先生が進さんじゃったら靄を晴らせるのに……」
「僕が進之丞くんだったら?」
教諭は顔を上げると、それだと言った。
「そうだよ。山﨑さん、君の言うとおりだ」
え?――と千鶴も顔を上げた。
「方法がわかったよ。といっても、本当にうまくいくかどうか、やってみないとわからないけどね。でも、もしかしたらこれで靄を晴らせるかもしれないよ」
「ほんまですか?」
うなずいた教諭は、襖が閉められた三畳間の方をちらりと見て言った。
「でも今じゃないとだめかい? 明日ってわけにはいかないのかな?」
「今すぐやないといけんのです。ほやないと間に合わんぞなもし」
「間に合わないって?」
「今晩、進さんがここへ戻んて来るんです。うちにお別れしに戻んて来るんです。ほじゃけん、ほれまでに何とか進さんを人間に戻してあげる方法を見つけんといけんのです」
「どうして進之丞くんが今晩戻って来るってわかるんだい?」
「お祓いのおばあさんが教えてくれました」
「お祓いのおばあさん?」
お祓いの婆と畑山の死が頭に浮かび、涙があふれた千鶴は説明ができなかった。千鶴は涙を拭きながら教諭に言った。
「お願いします。先生にご無理を言うとるんはわかっとります。ほやけど、うちは先生しかお願いできる人がおりません。ほやけん、どうかすぐにうちに催眠術をかけてつかぁさい。ほれで、あの白い靄の向こうにあるもんを、うちに見せてつかぁさい」
井上教諭は横目で三畳間の方を見ながら咳払いを二回繰り返した。それから、わかったと覚悟を決めた顔で言った。
「それじゃあ、どうなるかわからないけど、とにかくやってみるとしよう」
井上教諭は立ち上がると、部屋の隅にあった小机を真ん中へ移した。教諭が障子を閉めに縁側へ向かうと、千鶴の目は教諭を追うように庭の方へ向いた。
日がもうすぐ沈むようだ。庭に残る明るさは、かなり弱々しくなっている。急がないと月が昇ってしまう。
焦る千鶴の想いを断つごとくに、教諭は障子を閉めた。庭は見えなくなり、ただでも薄暗い部屋の中はさらに暗くなった。
井上教諭は小机の上に置いたろうそくに火を灯そうとした。しかし、マッチに火をつけようとした手が小さく震えてうまくつけられない。これから行おうとしていることに、相当興奮しているのか、あるいは緊張しているのだろう。
見かねた千鶴がマッチを受け取り、ろうそくに火を灯した。ぼわんと広がったろうそくの明かりに、まだ部屋に残るお香の匂いが加わって、部屋には妖しい雰囲気が漂った。
「だけど、どうやったら人間が鬼になるのかな。僕も興味が湧いて来たよ。でも面白半分の興味じゃないからね。君にとっては、決して楽しいことでないのもわかってるから」
井上教諭は学者として、この催眠術を執り行おうとしているようだ。言ってみれば、教諭はこの催眠術を一種の実験と捉えているのだろう。けれど、千鶴にそんなことを気にしている余裕はない。一刻も早くあの靄に隠された記憶を探るだけだ。
「もう一度だけ訊くよ。君は靄の向こうを見ても、絶対に後悔しない覚悟があるんだね?」
催眠術をかける前に、井上教諭は千鶴の気持ちを確かめた。
はいと千鶴はうなずいたが、顔は緊張で強張っていた。時間がない焦燥と、見てはいけないものを見る恐ろしさが、心の中でぶつかり合っている。
じっと千鶴の表情を見つめていた教諭は、では始めようと言った。
九
井上教諭の指示に従い、千鶴はぼんやりとした意識になった。あらゆることへの関心が薄れ、ただ教諭の声に従うだけである。
千鶴が催眠状態になった時、隣の三畳間の襖がすっと開いた。誰かが三畳間にいたらしい。静かに畳の上を歩いて、井上教諭の近くに座ったようだ。辺りにお香の匂いが広がった。
音や気配、匂いを感じていても、千鶴は何とも思わない。何かが聞こえても、聞こえていないのと同じ状態だ。耳に残るのは自分に向けられた声ばかりだ。
「聞いてたわよ。鬼がいるんですって?」
女の声が聞こえた。
「ちょっと困りますよ。そっちにいてください。というか、もうお引き取りください。これはこの子の問題であって、あなたには関係のないことですから」
「いいじゃないのよ。何を言ったって、今のこの子は何も聞こえてないんでしょ?」
困惑した井上教諭が何を言っても、女は少しも堪えていないようだ。いらだちが隠せない教諭は語気を強めた。
「そうですけど、僕の気が散ります。それに、これは僕とこの子だけの秘密なんです。本当はさっきの話もあなたに聞かせるべきではなかったし、催眠術も別の日にするところです。時間がないから始めることにしましたが、あなたはもう帰ってください」
「あらまぁ、さっきは慰めてもらってたくせに、そんなことを言うわけ? あなたって案外ひどい人なのね」
「それとこれとは話が別です。あなたにはお世話になったし感謝もしています。だけど、僕はこの子を助けなきゃいけないんです。ですから、どうか邪魔をしないでください」
やれやれ、わかりましたよ――と言いながら、女は元の三畳間に戻った。そこから玄関へ向かうのかと思いきや、女はそのままそこへ腰を下ろし、襖を開けたまま千鶴たちを眺めているらしい。
教諭は荒々しく立ち上がると女の傍へ行き、ぴしゃりと襖を閉めた。
一連の声や音を千鶴は何とも思っていない。ただぼんやりした意識の中で、教諭の指示を待っていた。
千鶴の傍らへ戻った教諭は、ごめんよと千鶴に声をかけると、少しの間沈黙した。いらだつ気持ちを落ち着けているのだろう。
しばらくすると、ようやく井上教諭の指示が聞こえた。
――山﨑さん、いいかい。僕が三つ手を叩いたら、君はあの白い靄の所まで飛ぶからね。
時空の隧道を感じながら、千鶴は小さくうなずいた。それから教諭がゆっくり手を叩く音が聞こえた。
音が三回鳴ると、千鶴の意識はぐるぐると渦になって時空の隧道に吸い込まれた。やがて渦が止まると、そこは白い靄の中だった。
暴かれた真実
一
千鶴の目の前は、白い靄で覆われて何も見えない。
どこからか井上教諭の声が聞こえてくる。
――いいかい、僕が三つ手を叩くと、僕は進之丞くんになる。今から僕が言うことは進之丞くんの言葉になるんだ。いいね?
靄を見ながら千鶴はうなずいた。ゆっくり音が三回鳴った。
――千鶴、あしがお前にかけた暗示はすべて解けた。その白い靄は晴れよう。
進之丞の声が聞こえたと思うと、すっと靄が晴れた。
千鶴は尼僧と一緒に浜辺の古い漁師小屋の前に立っていた。戸もない小屋は無人で朽ち果てている。振り返ると丘の上にある寺が燃えていたが、北城町の方からも火の手が上がっている。
尼僧は火事を気にする様子もなく、千鶴を小屋の中へ誘って言った。
「ほんまじゃったら、お前に和尚の肉を喰わせてやれたんやが、邪魔が入ってしもたけん、代わりにわたしの肉を喰わせてやろわいねぇ。ほれでお前が穢れたら、今度はわたしがお前を喰らうんよ。ええな?」
「おらは尼さまの肉を喰らう。ほれで、おらが穢れたら、今度は尼さまがおらを喰らう」
「ほうよほうよ。ほれでええ。そがぁしたら、わたしとお前は一つになれるんよ。どがいじゃ、嬉しかろ?」
千鶴は黙ってこくりとうなずいた。
現世の千鶴は尼僧が鬼だとわかっているが、前世の千鶴はこの尼僧だけが味方だと信じている。騙されていると千鶴が前世の自分に伝えたくても、それはできない。これは過去の記憶を再現しているに過ぎず、すべてはすでに起こってしまったことなのだ。千鶴にできるのは、それを前世の自分と一緒に再体験することだけだ。
「ほれじゃあ、ええな。まずは、お前がわたしを喰らうんぞ」
懐の包丁をもう一度取り出した尼僧は、布を解いて土間にしゃがんだ。それから左手を板の間の上に乗せると、その左手首に包丁を当てた。
尼僧は右手を包丁の柄から刃の背の部分に移すと、えぃと気合いを込めて包丁を左手に力いっぱい押しつけた。嫌な音が聞こえて、尼僧の左手が切り離された。噴き出した血で辺りは血まみれだ。
顔をゆがめた尼僧は、包丁を捨てて左手を拾い上げ、これを喰えと千鶴に差し出した。
「この肉を喰えば、お前は人ではのうなる。そがぁなって初めて、お前はわたしと一つになれよう」
前世の千鶴の意識は尼僧の支配下にあるので、尼僧の言動に少しも動じない。尼僧の左手首からどくどく噴き出る血を見ても、血だらけの尼僧の左手を突きつけられても平然としている。
一方で、現世の千鶴の意識はぎょっとなった。しかし頭がぼんやりしているので、進之丞から元に戻った井上教諭に、何が起こっているのかを比較的淡々と報告した。
それでも前世の意識と融合しそうになると、教諭への報告が滞ってしまう。井上教諭はしきりに千鶴に声をかけながら、千鶴の現世の意識を保とうとしていた。
「さぁ、喰え。お前はわしと一つになりたいんじゃろ?」
尼僧の声が男のような低い声になった。
尼僧の顔を見ると、額に二本の角が生えていた。にんまり笑った口元からは牙がのぞいている。それはまさに母を殺したあの鬼だ。
現世の千鶴は息苦しさを覚えたが、前世の千鶴は何とも感じていない。鬼の尼僧は満足げに話をした。
「わかるか? わしはお前が幼子じゃった頃、お前に優しゅうしてもろた鬼ぞな。優しいお前を喰ろうてお前と一つになるんが、わしの長年の夢じゃった。この身が朽ちる前にお前と出逢えるとは、これほど喜ばしいことはない。どがいぞな、お前も嬉しかろ?」
千鶴がこくりとうなずくと、鬼は大きな口を横に広げて、満面の笑みを浮かべた。
「さぁ、喰うがええ。これを喰えば、お前はわしと一つになって鬼になれる」
「これを喰えば、おらは尼さまと一つになって鬼になれる」
尼僧の言葉を繰り返しながら、千鶴は尼僧の左手を受け取った。その手にはまだ温もりがあり、血が滴り落ちている。その血だらけの切り口に、千鶴はかぶりつこうとした。
だが、まさにその時、進之丞が小屋の中に飛び込んで来た。
「千鶴! 無事か?」
驚いたわけではないが、突然の出来事に千鶴は動きを止めて、進之丞の方を向いた。
現世の千鶴は進之丞の登場に胸が弾んだが、前世の千鶴は鬼によって進之丞への想いを消されている。
鬼の尼僧は苦々しげに牙を剥いた。だが、進之丞が刀に手をかけて進んで来ると、後ろに飛びのいて間合いを取った。
千鶴は進之丞に構わず、もう一度尼僧の手にかぶりつこうと口を開けた。それに気づいた進之丞は千鶴から尼僧の手を奪い取り、尼僧に向けて放り投げた。
尼僧は右手を伸ばして、己の左手を受け止めた。そこを進之丞は素早く前に踏み込みながら刀を抜きざまに斬りつけた。
尼僧の右腕の肘から先がぼとりと落ち、その切り口からも血が噴き出した。
「おのれ……。今一歩で千鶴に我が肉を喰らわせて穢せたものを……」
両手を失った尼僧は怒りを剥き出し、巨大な鬼に変化した。小屋は崩れ、進之丞は千鶴をかばって覆いかぶさった。
鬼は進之丞を踏み潰そうとした。だが、千鶴に気づいて一度は上げた右足を下へ降ろした。その隙を逃さず、進之丞は転がりながら鬼の左足首の腱を斬った。
鬼は崩れ落ちるがごとくに倒れたが、手のない腕を振りまわし、大きな口で進之丞を噛み裂こうとした。そうしながら右足だけで立とうとするが、進之丞が攻めると鬼は再び均衡を失って倒れた。しかし鬼は暴れ続けるので、進之丞も迂闊には近づけない。それでも勝負は明らかに鬼に不利だった。
左手に見える西日が、鬼の焦った顔を赤く染めている。千鶴はぼんやりした頭で、鬼を助けなければと思った。現世の千鶴は前世の千鶴の思考に戸惑ったが、どうすることもできない。
近くに包丁が落ちているのに気づいた千鶴は、それを拾い上げると、そっと進之丞の後ろに忍び寄った。
――いけん!
現世の千鶴は叫んだが、その声は前世の千鶴には届かない。
鬼は明らかに疲れており、出血もひどかった。動きは次第に鈍くなり、やがて動きを止めると、荒々しい息をするばかりになった。進之丞は勝機と見たようだ。刀を構え直した進之丞は、鬼に向かって踏み込もうとした。その時、千鶴は両手で包丁を構えたまま、進之丞目がけて体ごとぶつかった。
ずぶりという感触が千鶴の手に伝わって来る。驚いて後ろを振り向く進之丞。見開かれた目は、何が起こったのか理解できない様子だ。
――進さん! 進さん!
現世の千鶴は泣きながら必死に叫んだが、その声は進之丞には聞こえない。前世の千鶴は動揺する進之丞をにらんで毒を吐いた。
「死ね! お前に邪魔なんぞさせてたまるか。おらは鬼になるんぞ。尼さまと一つになって鬼になるんぞ!」
進之丞の向こうで、高笑いのように鬼が吠えた。千鶴を見つめる進之丞の目に涙があふれた。刀を落とした進之丞は千鶴の方に向きを変えると、包丁から手が離れた千鶴をぎゅっと抱きしめた。
「千鶴……、あしが悪かった……。お前に寂しい想いをさせたばっかしに……、お前をこがぁな目に遭わせてしもた……。どうか……、あしを許してくれ……」
「えぇい、やかましい! おら、お前のことなんぞ、何とも思とらんわ。おらは鬼になるんぞ。邪魔くれすんな!」
千鶴は進之丞から離れようと暴れた。だが、進之丞は千鶴を離さず、千鶴の耳元で囁くように言った。
「千鶴……、お前は鬼やない……。お前は誰より優しい……女子ぞな……。誰よりきれいで……、あしが誰より……嫁にしたいと思た……娘ぞな……」
――この言葉……。あぁ、進さん、進さん!
現世の千鶴は泣くしかできない。一方、前世の千鶴は進之丞に声を荒らげて抗った。
「つかましい! よもだ言うな!」
抱きつく進之丞を押しのけようと千鶴は藻掻いた。その時、進之丞の右の腰に刺さったままの包丁に、千鶴の手が触れた。
千鶴は進之丞を抱くようにして、包丁の柄を両手で握った。そして、思いきり手前へ引きつけた。包丁の残っていた刃の部分は、進之丞の体に深くめり込んだ。
現世の千鶴は絶叫した。
進之丞は顔をゆがませ、喘ぐように口を動かした。それでも進之丞は千鶴を離さず、途切れ途切れに同じ言葉を繰り返した。
「お前は鬼やない……。誰より……誰より優しい娘ぞな……。お前はあしが……誰より嫁に……したいと思た……娘……ぞな」
空虚だった千鶴の胸の中に懐かしい温もりが広がった。ふと千鶴は目の前にいるのが、進之丞だと気がついた。
「……進さん?」
「千鶴……気ぃついたか……。よかった……」
進之丞は微笑んだ。だが鬼が吠えると、千鶴は再び虚ろな心に戻りそうになった。その刹那、進之丞は千鶴の鳩尾に拳を当てた。千鶴は息が詰まって、その場に倒れた。
すまぬ――千鶴に詫びた進之丞は小刀を抜くと、鬼に目がけて投げつけた。小刀は鬼の眉間を貫き、鬼は仰向けに倒れた。
進之丞は腰の包丁を気合いと共に引き抜くと、千鶴から離れた所へ投げ捨てた。傷からあふれ出た血が進之丞の腰を赤く濡らしていく。
鬼は力が尽きたのか、荒い息をするばかりで動かない。進之丞は刀を拾うとよろめきながら鬼の傍へ行き、渾身の力で鬼の体に這い上った。ふらつきながら鬼の胸の上に立った進之丞は、刀を深々と鬼の胸に突き刺した。鬼はびくんと体を震わせ、そのまま静かになった。
「父の仇……、慈命和尚の仇……、そして……我が千鶴の仇……、たった今、討ち取ったり!」
進之丞は叫び終わると、鬼の上から転げ落ちた。鬼は動かない。勝負は進之丞が勝ったように見えた。すると、鬼の体から不気味な赤い霧が立ち上った。
二
赤い霧は倒れている千鶴の所へ移動し、千鶴を包み込んだ。この赤い霧こそが、鬼の本性であり魂に違いない。
鬼は千鶴の心に無理やり入り込もうとしていた。千鶴は抵抗できなかったが、鬼の方も千鶴の心にうまく入り込めないようだ。千鶴が尼僧の肉を口にしなかったからだろうが、千鶴は進之丞を殺めようとして心が穢れてしまった。その穢れから鬼が千鶴の心に入り込むのは、時間の問題と思われた。
その時、進之丞が落ちていた尼僧の右腕を拾い上げ、よろよろと立ち上がって叫んだ。
「鬼よ……、千鶴から離れてよっく聞け……! 貴様が人の心に入り込まねば……この世に留まれぬことは……、慈命和尚から聞いて……知っておるぞ……! 千鶴に己の肉を喰わせようとしたのは……、貴様には千鶴の心が……眩し過ぎたのであろう……。それ故、千鶴の心を……穢そうとしたのであろうが……、もうあきらめよ……。貴様が千鶴の心を喰らうことは……できぬ……!」
しかし、赤い霧は千鶴から離れようとしない。進之丞はよろけそうになるのを堪えながら、さらに叫んだ。
「聞け、鬼よ……! あしは数多の見知った村人を……無残に斬り殺した……。あしは人の心を捨て……貴様と同し鬼になったんぞ……。この怒り……憎しみ……悲しみ……、貴様ならわかろう……。己をも憎み許せぬあしは……貴様と同類ぞ……。されど、今一度……貴様の肉を喰ろうて……、あしが人ではない証を……見せてやろうぞ……!」
進之丞は尼僧の腕に食らいつき、肉を噛みちぎって飲み込んだ。血に染まった口を手の甲で拭った進之丞は、鬼に向かって言った。
「見たであろう……。あしはもはや人にあらず……。貴様と同し心の穢れた鬼ぞ……。さぁ、最後の勝負ぞ……。あしを喰らえるもんなら……喰ろうてみよ……。貴様に千鶴は喰えぬ……。急がねば、貴様は間もなく……この世から離れることになろう……」
千鶴の心に入り込もうとしていた鬼は、潮が引くように千鶴の心から離れた。
それでも千鶴への未練か、赤い霧はしばらく千鶴にまとわりついていた。だが徐々に千鶴から離れると、やがて引き寄せられるがごとく進之丞の方へ移動して行った。そして進之丞を包み込んだ赤い霧は、そのまま進之丞の体に吸い込まれた。
鬼の死骸はいつしか消え、代わりに裸の尼僧の死骸が転がっていた。死骸が小さくなったからか、刺さっていた二本の刀は抜け落ちている。その死骸の横で進之丞は胸を掻きむしって苦しみ、地面の上をのたうちまわった。
進さん!――今世の千鶴は叫んだが、前世の千鶴は倒れたまま、進之丞の様子をぼんやり眺めている。
しばらくして体を起こした進之丞は下品に笑った。
「愚かな奴よ……。己を犠牲にして千鶴を救うたつもりじゃろが……、貴様のこの体を使うて……、今度こそ千鶴を喰ろうてやろわい……」
続いて進之丞は顔をしかめると、そがぁなことはさせん!――と叫んだ。
「鬼よ……、お前が千鶴の優しさを……求めておるのは……わかっておる……。されど千鶴を……喰ろうたとこで……、千鶴の優しさは……手に入らぬ……。優しさとは……そげなもんではない……!」
進之丞は再び声色を変えて自分に言い返した。
「戯けたことを……。千鶴の優しさは……、千鶴の中にこそあろう……。されば、その千鶴を喰ろうてこそ……、その優しさが我が物になるいうもんぞ……」
「違う違う……! ほうではない……! 優しさとは……相手をいたわる心ぞ……。千鶴の優しさは……、お前の中にも対の優しさが……あると教えてくれとるぎりぞ……」
「鬼であるわしに……優しさがあるとな……?」
進之丞は嘲り笑った。
「どっからそがぁな言葉が……出るんぞ……? 今のお前なら……、わしん中にそげなもんがないんは……わかろがな……」
「いや……、お前の中にも……優しさはある……。お前が千鶴の優しさに……憧れるんがその証ぞな……。お前が己の優しさを忘れ……、気づいておらんぎりぞ……」
「やかましい……! そろそろよもだはやめて……、好ぇ加減、わしに喰らわれよ……」
進之丞はいらだって歯を剥いたが、すぐに穏やかな顔になった。
「わかった……、喰らわれてやろわい……。あしを喰ろうて……、優しさがどがぁなもんかを……知るがええ……。我が心を……お前にやる代わりに……、優しさとは……奪うもんやのうて……、与えるもんと知れ……!」
一人芝居のようなやり取りが続いたあと、進之丞は倒れて動かなくなった。
ついに死んだのかと思われたが、やがて進之丞はゆっくりと起き上がると、落ちていた刀を拾って鞘に収めた。それから、ふらつきながら千鶴の傍へ来ると、血で汚れた己の手を着物で拭き、千鶴を抱き起こして額に指を当てた。
「千鶴……、お前は鬼ではない……。鬼になることもない……。お前は人の娘ぞな……。誰より優しく……美しい娘ぞな……。わかったな……?」
千鶴はぼんやりしたままうなずき、進之丞の言葉を繰り返した。
進之丞は千鶴の額に指を当てたまま、さらに言った。
「此度お前に起きた……禍々しきことは……すべて忘れよ……。特にここで起こったことは……、何があっても……思い出してはならぬ……。来世に生まれ変わろうと……、決して思い出すまいぞ……」
千鶴がうなずくと、進之丞は千鶴を正気に戻した。
心の靄が晴れた千鶴の前に、進之丞の優しい笑顔があった。
三
現世に戻った千鶴は号泣していた。
催眠が解けたわけではない。まだ目は閉じられ、頭はぼんやりしたままだ。けれど己の罪と進之丞の優しさを知った今、千鶴は涙を止めることができなかった。
鬼の術中にはまったとはいえ、己の手で進之丞の命を奪ったのである。その進之丞は千鶴を救うため、命が燃え尽きる前に千鶴の身代わりに鬼になった。
悔やんでも悔やみきれない、詫びても詫びきれない過ちを犯してしまったと、千鶴は己を責めて泣き叫び続けた。井上教諭が必死になだめなければ、千鶴は気が狂っていたか、あるいは自害したかもしれなかった。
焦った井上教諭が千鶴の催眠を解こうとした時、隣の三畳間から誰かが出て来て教諭の近くに座った。恐らく先ほどの女だろう。お香の匂いが強くなった。
催眠が解けていない千鶴は、女に構わず泣き続けた。同じ部屋に座っていても、千鶴がいるのは悲しみと悔恨の世界だった。そこで一人つらい記憶を思い返しては、罪の意識に押し潰されそうになっていた。
「凄いじゃないのさ。前世がわかるだけでも凄いのに、鬼がほんとにいるなんて驚きだわ。しかも、その鬼が今もいるなんてさ」
楽しげな女の声に、井上教諭の疲れた声が応じた。
「あなたはこの子の気持ちがわからないのですか? この子は喋りながら泣いてたじゃないですか。この子がどんな気持ちで前世を再体験していたのかを考えたら、そんな他人事みたいには言えないはずですよ」
「わかってるわよ。だけど、それにしたって凄いことでしょ? あなただって本当は興奮してるくせに」
「何を馬鹿なこと言ってるんですか。この子は鬼になった許婚を人間に戻したくて、必死の想いで僕に催眠術をかけてもらいに来たんですよ?」
「その結果がこれだなんて、洒落にもなりゃしないじゃないの」
「それはそうなんですけど……」
教諭は力なく言うと黙り込んだ。部屋の中に聞こえるのは千鶴がすすり泣く声だけだ。
少しして女が言った。
「で、このあとどうすんの?」
「どうするって?」
「この子は許婚を人間に戻したいんでしょ? 戻せるの?」
「それは……」
「戻せないの?」
畳みかかける女の言葉に、井上教諭は少し間を置いてから言い訳をした。
「今回わかったのは鬼の本性というか、魂みたいなものが人間に取り憑いて鬼は生き延びるってことです。前世でこの子の許婚は鬼に取り憑かれて、鬼になってしまったわけですけど、それがわかったところで彼を人間に戻すことはできません。この子にも彼にも、どうしてあげることもできないんです」
教諭が喋っている間、マッチをする音が聞こえ、ふぅと息を吐き出す音がした。女が煙草に火をつけて吸ったのだろう。辺りに煙草の臭いが広がった。
コトンと小机に何かが当たる音がした。教諭が灰皿を置いたようだ。
「許婚を人間に戻せなくても、この子を救うことはできるんじゃないのかしら?」
「この子を救う? どういう意味ですか?」
「そもそも鬼と夫婦になるなんて尋常なことじゃないでしょ? この子は鬼に魅入られてるから、こんな風に考えるのよ」
「でも進之丞くんは元は人間で、この子と夫婦約束をしていたんです。僕が知ってる進之丞くんだって、とっても感じがよくて、全然鬼になんか見えません」
「あなた、馬鹿ね。その男は鬼なんだって、この子が自分で言ってたでしょ? 鬼が自分は鬼でございますって姿でいるわけないじゃないのよ」
ふぅと煙を吐く音がして、煙草の臭いが強くなった。
「今年の春頃だったかしらねぇ。あなたをあの花街の娘さんに会わせてあげたのは」
「今、その話は関係ないでしょ?」
教諭の声はうろたえている。女は構わず喋った。
「確か、あの頃にこの子は萬翠荘に招かれて、晩餐会やら舞踏会やらを開いてもらったのよ。あなた、覚えてるかしら?」
教諭は少し落ち着きを取り戻した声で言った。
「えぇ、覚えてますよ。新聞に載ってました」
「その新聞に、この子とロシアの男の子が伯爵夫妻の前で、結婚を誓い合ったってあったでしょ?」
「そういえば、そうだったかな」
「この子はね、本当はあのロシアの子と一緒になるつもりだったのよ。でも、今は鬼が許婚だって言ってるわよね。これは、どういうことだと思う?」
「どういうことって……。ロシアの相手とは別れたってことじゃないんですか?」
「ほんとにそう思うの?」
「違うんですか?」
少し沈黙が続いたあと、煙を吐き出す音がした。
「まったく……。どうして学者ってこうなのかしら。頭がいいんだか悪いんだかわかんなくなっちゃうわ」
教諭はうろたえ気味に、どういうことですかと言った。
いいこと?――と女は少し威張った感じで喋った。
「この子とロシアの子は伯爵夫妻の前で結婚を誓い合ったの。伯爵夫妻よ? それが突然相手を鞍替えって不自然じゃない? しかもその相手は鬼なのよ?」
「言われてみれば、確かにそうかもしれませんね」
「そうかもしれないじゃなくて、そうなの!」
井上教諭は反論ができず、完全に女に言い込められている。
「じゃあ、どうしてこの子が鬼に心変わりしたと思う?」
「鬼に魅入られた……てことですか?」
「そうよ。この子が言ってたでしょ? 鬼は人間の記憶を変えられるのよ。この子は記憶を塗り替えられて心を操られているの。鬼にすれば、この子は自分の物なんだもの。何も悪いとは思ってないわ」
教諭は黙っている。女の話について考えているのだろう。
「本当はロシアの子と結婚したかったのに、無理やり鬼と結婚させられるなんて、あなた、この子を気の毒だと思わない? この子、あなたの教え子でしょ?」
「だけど、進之丞くんは元々この子と夫婦になるはずだったんですよ。だから、今世で夫婦になろうとしてるんじゃないんですか?」
あなたね!――と女が怒った声で言った。女の剣幕に井上教諭は小さくなっただろう。
「前世のことなんか誰も覚えてなんかいやしないわよ。あなた、自分の前世覚えてるの?」
いいえと教諭が小さな声で答えると、それ見なさいと女は鼻息を荒く吐き出した。
「みんな前世なんか関係なく、今世を一生懸命に生きてるのよ。なのに、お前は前世で俺と夫婦約束をしたんだから、今世でも夫婦になるんだって言われても困るでしょ? ましてや、この子には惚れ合った結婚相手がいたのよ?」
教諭は黙っている。まだ女の話に納得していないらしい。沈黙が続いている。
煙を吐き出す音のあと、女は教諭に諭すように言った。
「この子は鬼を人間に戻したいって思ってた。それはいいの。この子はそれだけ優しい子なのよ。だけどね、問題はそこじゃないのよ。本当の問題は、この子が鬼に操られてるってことなの」
女に言われっ放しの井上教諭は、いらだった声で言った。
「それで、僕にどうしろって言うんですか?」
「あら? 何だか反抗的ね。あたしはあなたやこの子のことを想って喋ってるのに、そんなふて腐れた態度を取るんなら、いいわ。勝手になさいな。あたしはもう帰ります」
ふぅっと大きく息を吐く音が聞こえたあと、小机の灰皿が動く音がした。女が煙草の火を消したのだろう。
「もうすぐ鬼がここへ来るってこと、忘れないでね」
「え? ここへ?」
「だって、その子が言ってたでしょ? 鬼はその子に逢いに来るのよ。でも鬼が今のその子を見たら、どう思うでしょうね?」
「どう思うって?」
「あなた、鬼が封印してたこの子の記憶を暴いたんでしょ?」
教諭の声が聞こえない。言葉を失ったようだ。目を見開き、口を開いたまま固まっているのだろう。
「じゃあ、あたしはお暇しますね」
女が立ち上がる気配がした。教諭は慌てて女を引き留めた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「何? ここで見聞きしたことは、誰にも喋ったりしないから心配しないでちょうだい。あたし、そんな野暮な女じゃないわよ」
「そんなことじゃなくて、僕はどうなるんですか?」
「知りたいの?」
はいと教諭が言うと、女は得意げに話した。
「鬼がこの子の心を操るのは、この子に惚れてるからよ。だから鬼は鬼なりにこの子を気遣って、この子が傷つかないようにしてたの。それがあの記憶の封印よ。それをあなたが無作法に暴いたってわけ。これがどういうことかわかるでしょ?」
「鬼が怒るって言うんですか? でも、僕はわざとやったんじゃありませんよ。この子に頼まれて仕方なく――」
「あたしに言い訳したってしょうがないわ。言い訳するんなら、鬼になさい」
じゃあねと女は三畳間の方へ行こうとした。教諭は女を必死に呼び止めた。
「待ってください。逃げないで」
「あなたと一緒に八つ裂きにされろって言うの?」
「八つ裂き?」
「鬼はあなたの体をつかんでね、まず腕と脚を引っこ抜くのよ。それから胴体を二つにちぎって、最後に首を引きちぎるの。これで八つ裂きになるでしょ? あれ? 今のだったら……あら嫌だ。七つだわ。これじゃあ、七つ裂きになっちゃう」
「七つでも八つでも同じことです。僕は八つ裂きにされてしまうんですか?」
井上教諭は相当焦っているようだ。早口に喋る声が震えている。
「だって、あなた、鬼の大切なその子を狂わせてしまったじゃないの。他にどうやってこの始末をつけるつもりなの?」
「だ、だって、僕はよかれと思って――」
「だから、言い訳は鬼が来たら言いなさいな。どうせ、あたしは関係ないんですから」
「そんなこと言わないで助けてください。僕はどうすればいいんですか?」
「知りたい?」
教諭がうなずいたのだろう。女は少し間を置いてから言った。
「殺られる前に、殺ればいいのよ」
四
「ぼ、僕が鬼を殺すんですか?」
井上教諭の声はうろたえている。女はほほほと笑うと、頭を使いなさいと言った。
「殺すと言ったって、その柔な体で鬼と戦う必要はないわよ。罠を仕掛ければいいの」
「罠?」
「その子に殺させればいいのよ。その子なら鬼も油断するだろうから簡単に殺せるわよ」
女は千鶴の方を向いて言った。しかし、千鶴には女の言葉はわからない。
「そんなこと……」
「ちょうど今、この子はあなたの催眠術にかかってるんでしょ? 今なら、何だってあなたの言いなりになるわよ」
「何言ってるんですか。この子はその鬼を救いたくて、ここへ来たんですよ? その鬼をこの子に殺させるだなんて無茶苦茶です」
井上教諭は憤ったが、女が気にする様子はない。
「この子を助けようとしたあなたを、鬼が八つ裂きにするのだって無茶苦茶でしょ? 同じじゃないの」
「そんなこと言ったって、そんなの無理です。僕にはできません」
弱音を吐く教諭に、女はふんと言った。
「あなたがどうすればいいのかって訊くから、教えてあげただけでしょ? あたしは別に無理強いしようってんじゃないんですからね。だけどね、八つ裂きって相当痛いだろうし苦しいわよ。もう想像しただけで気が狂っちゃいそう」
「やめてください。あぁ、僕はどうすれば……」
頭を抱えたと思われる教諭に、女は説教をした。
「あなたね、妙な正義感を持ってるから、そんな風に悩むのよ。相手は鬼なのよ? あなたの正義感なんか通じないわ」
教諭は泣きそうな声で言った。
「この子に鬼を殺させるだなんて、僕にはできません」
「じゃあ、どうすんの? ここから逃げる? 逃げたって鬼は絶対にあなたを許さないわよ。この世の果てまで追いかけて、あなたをばらばらに引き裂くわ」
ついに教諭は泣きだした。すすり泣く教諭に、女は容赦なく言った。
「城山で四人の男が魔物に襲われたって事件があったでしょ? あれはこの鬼の仕業なのよ。あの四人は特高警察でね。この子をソ連のスパイと疑って逮捕しようとしたの。それで鬼の怒りを買ったのよ。この子を傷つけた者たちの末路ね」
教諭のすすり泣く声が止まった。顔を上げて女の話を聞いているのだろう。
「あの男たちね、みんな体中の骨をへし折られて、ぐにゃぐにゃだったんだって」
「ぐにゃぐにゃ……」
「八つ裂きも痛いでしょうけど、握り潰されるってのも痛いでしょうねぇ」
また教諭は泣きだした。女は構わず話を続けた。
「この子、鬼が家族を化け物に殺されたって言ってたけど、あれだって怪しいもんよ。本当は家族に正体を見られちゃって殺したんじゃないの? どんなに人がいいように見せたって、鬼は鬼なんだもの。気に入らない者を殺すのなんて平気の平左よ」
女はようやく優しく教諭を慰め、死にたくなければ戦うしかないのよと言った。
「それにね、この子に鬼を殺させるっていうのは、この子のためでもあるのよ」
「この子のため……?」
鼻をすすり上げる教諭に女は言った。
「鬼に魅入られてるっていうのは、この子の心の問題でもあるの。他人がどうこうできる話じゃなくて、本人が自分で解決しないといけないのよ。あなただって、そうだったでしょ? あなた自身、自分で苦しみを乗り越えて来たんじゃない。それと同じよ」
「僕と同じ……」
「そうよ。この子もね、自分の手で鬼の呪いを断ち切る必要があるのよ」
「それが……鬼を殺すってことなんですか……」
「そういうこと。一見ひどいことをさせるように見えてもね、この子に自分で自分を救う機会を与えてあげるのよ」
女の話に引き込まれたのか、教諭は泣き止んでいた。女は得意げに話を続けた。
「もういっぺん言うわよ。この子はね、互いに惚れ合ったロシアの男の子と結婚するはずだったの。それを進之丞っていう男が鬼になってもこの子をあきらめきれず、横から出て来てこの子を奪い取ったのよ。この子が自分と夫婦になりたいって思うように、この子の心を操ってね。これだけ言えば、何が本当の問題かわかるでしょ?」
女に主導権を握られた井上教諭は、はいと小さな声で答えたあと遠慮がちに言った。
「だけど、この子に鬼を殺させるだなんて危険じゃないんですか? もしこの子に危害が及ぶようなことがあったら……」
「大丈夫よ。鬼はこの子に惚れてるの。この子に危害を加えるなんてできやしないわよ」
「だって、鬼はこの子に殺されるんですよ?」
「鬼は死んでもこの子には手を出さないわ。考えてごらんなさい。進之丞って男は前世でこの子に殺されたじゃない。なのに恨みもしないで、この子の代わりに鬼になったのよ。いくら殺されそうになったって、鬼がこの子を傷つけるなんて有り得ないわ」
なるほどと井上教諭は言った。だが納得したというより、自分を納得させようとしているみたいだ。
「だったらいいんですけど、本当にうまくいくんでしょうか」
「必ずしも鬼を殺せるとは限らないないけど、そこまで自分が拒絶されてるってわかったら、鬼はこの子から離れてどこかへ行ってしまうでしょ。どっちにしても、この子は鬼から解放されるのよ」
「僕はその方がいいな。いくら鬼とはいえ、この子に他の命を奪うような真似はさせたくありません」
少し安堵した様子の教諭に、でもねと女は言った。
「もし鬼が死んだらいいことがあるわよ?」
「いいこと?」
「あなた、さっき言ってたわよね? 鬼みたいな力があったら、妹さんとかあの娘さんのような気の毒な女の子たちを助けてあげられるのにって」
「言いましたけど、これとは関係――」
「あるわよ。大ありよ。だって、あなたの望みが叶うんだもの」
「それはどういう……」
「あなたに鬼の力が手に入るってことよ」
五
わずかな沈黙のあと、教諭はいささか興奮気味の声で言った。
「僕に鬼の力が?」
「そうよ。この子が鬼を殺すところに立ち会ってね、鬼を自分に取り憑かせるの」
「え?」
教諭は目を瞠ったと思われた。恐らく、女はにんまり笑みを浮かべているはずだ。女の勝ち誇ったような声が話を続けた。
「鬼に取り憑かれたって、あなたなら自分を保っていられるわ。何たって学者さんだし、正義感が強いもの。弱い者の気持ちがわかるあなたにこそ、鬼の力はふさわしいわ」
少しの間を置いて教諭は言った。
「そんなこと、考えもしませんでした」
井上教諭の声には幾分力が籠もっている。女の話を真に受けて、その気になり始めているのかもしれない。そんな教諭の気持ちをはぐらかすように女は言った。
「まぁ、これは本筋じゃなくて、おまけみたいなものだけどね。本筋はこの子に鬼を殺させて、この子とあなたの両方を救うってことよ。あなたが鬼になるのは、あわよくばぐらいなものかしらね」
「あわよくばですか」
教諭の声には残念そうな響きがあった。女は笑いながら言った。
「だって、鬼は心がきれいな者には取り憑けないんでしょ? 取り憑いてもらうためには、あなた、自分を穢さないといけないわよ」
教諭はぎょっとしたように言った。
「進之丞くんみたいに人の肉を食べるんですか?」
「さぁね。自分で考えなさい。それより、もうすぐ鬼が来るわよ。時間がないけど、どうすんの?」
沈黙が少し続いてから、井上教諭の声が聞こえた。
「僕は頭が混乱しているから、少し整理させてください。えっと……、山﨑さんは鬼になった許婚を、人間に戻したくて僕の所へ来たけれど、そもそもそれは山﨑さんの本当の気持ちではない」
「そうよ。そのとおり」
女が合いの手を入れると、教諭は言葉を続けた。
「今の山﨑さんが本当に好きなのは、伯爵夫妻の前で結婚を誓い合ったロシアの青年で、前世で夫婦約束を交わした進之丞くんではない」
「そうそう。そんなの前世なんて思い出さなきゃ関係ない話よ。この子が今世で結婚する相手は、あのロシアの子なの」
井上教諭は黙っていたが、少ししてから再び口を開いた。
「進之丞くんには気の毒だけど、前世は前世。今世は前世とは違うから、ここは進之丞くんに山﨑さんをあきらめてもらわないといけないんですね。進之丞くんは山﨑さんを解放し、あのロシアの青年に返してやるのが一番正しいことなんだ」
「やっとわかったみたいね。さすがだわ。やっぱり学者さんは頭の回転が速いわね」
女のお世辞には付き合わず、井上教諭は話を続けた。
「山﨑さんが進之丞くんから解放されるためには、山﨑さん自身が進之丞くんを拒絶する必要がある。そのために山﨑さんには鬼と戦う強い気持ちが求められるんですね。それが鬼を殺すという行為になるわけですが、要は相手を拒絶するという意思表示ができればいいから、必ずしも本当に殺す必要はない」
「まぁそうなんだけど、それはこの子と鬼との間の話ね」
「どういうことですか?」
「今はここにあなたも絡んでるでしょ? この子が鬼を殺せなかったら、その時は鬼はあなたを八つ裂きにするわよ」
「え?」
顔が引きつったであろう井上教諭に、女は指導者のごとくに話しかけた。
「だって、そうでしょ? 鬼にしたらさ、この子が自分を拒絶するのは何故かって考えるじゃない。そしたら、誰かがこの子の記憶の封印を解いたからだってわかるでしょ? 鬼は拒絶されたこの子から離れるでしょうけど、黙ってそのまま立ち去ると思う?」
井上教諭は黙っている。恐怖で声も出ないようだ。聞こえるのは女の声だけだ。
「あなた、死にたくなかったら、やっぱり鬼は殺さないとだめよ。この子には、必ず鬼を殺すように言い聞かせないとね」
「そんな……」
「死にたいの?」
教諭は返事をしない。悩んでいるらしい。できれば千鶴に鬼を殺させたくないのだろうが、それは自分の死を意味している。
しばらくして、教諭は抗うように言った。
「あとでこの子が自分が鬼を殺したってわかったら、またおかしくなってしまうんじゃないでしょうか?」
「この子はあなたの催眠にかかっているのよ。鬼を殺してから催眠を解けば、何も覚えてないわよ。それに、鬼が死んだら鬼の力も消えるでしょ? あなたがこの子を正気に戻した時には、この子は鬼のことなんかすっかり忘れて、あのロシアの子のことを思い出すでしょうよ」
「なるほど……、だったら心配はいらないか」
「この子のお店、潰れちゃったから、家族が路頭に迷ってるでしょ? 今のこの子に救いの手を差し伸べられるのは、あのロシアの子だけなのよ。それを鬼が邪魔してるってわけ。わかる?」
井上教諭はついに覚悟を決めたらしい。千鶴にどうやって鬼を殺させればいいのかと女に訊ねた。女は楽しげに答えた。
「あたしが思うに、たぶんその鬼は人間の姿に戻ってるわね」
「どうしてそう思うんですか?」
「だって鬼の姿のままじゃあ、いくら夜に動いたにしたって、誰かに見られちゃうかもしれないじゃない。だからここへ来るっていうのは、万が一誰かに見られても騒がれないのがわかってるからよ。つまり人間の姿に戻ってるのよ。それだったら、包丁で急所を一突きしたら殺せるんじゃないかしらね」
「人間に戻ってるんなら、この子にそれを教えてやれば……」
まったく何言ってんのよ――と女が呆れた声で言った。
「さっきはあなたのこと褒めたけど、あれは取り消しね。あなた、自分が置かれた状況が、まだわかってないじゃないの」
「……すみません」
「今は人間の姿でもね、あなたがこの子の封印を解いたってわかったら、即座に鬼に変化して、あなたは八つ裂き。鬼はもう人間には戻れないし、この子は鬼に連れて行かれてすべてはおしまいよ」
井上教諭はおろおろしているようだ。何も言えない教諭に、女は優しげに話しかけた。
「ごろつきに殺された花街の娘さんね。前にあなたが連れて逃げようとしてくれたことを、とっても感謝してたのよ。本当はあなたみたいな人と一緒に暮らしたかったって、あのあと、あたしに言ったの。だからでしょうね、あの娘が男たちの言いなりにならなくなって殺されちまったのは」
教諭は顔をゆがめたに違いない。また教諭のすすり泣く声が聞こえてきた。
「可哀想にね。あの娘、あなたに惚れてたのよ。だって、あなたみたいな人、どこにもいないんだもの。きっとあなたがもう一度自分のことを連れて逃げてくれるって、あの娘、信じてたんだわ。あなたのこと、待ってたのよ」
嗚咽する井上教諭の傍に座り直した女は、教諭に囁いた。
「もしあなたに鬼の力があったらね、今からでも、そのごろつきたちを懲らしめてやりたいでしょ?」
教諭は泣きながら、はいと言った。
「あなたに鬼の力があったなら、これから似たような気の毒な娘たちを護ってあげることもできるわよね?」
教諭は再び、はいと言った。
「もし鬼になるつもりがあるんならさ、鬼がこの子に殺されたら、どこでもいいからすぐに鬼の体を一口食いちぎるのよ」
教諭は蚊が鳴くような声で、はいと言った。
六
すぐ傍で恐ろしい会話が続けられていたのに、悲しみと悔恨に縛られた千鶴には、何の話をしているのかまったくわからない。
しばらくすると、井上教諭は自分も鼻をすすりながら、すすり泣いている千鶴の所へ来て耳元で囁いた。
「山﨑さん、君のつらさは僕にもよくわかるよ」
「おらが進さんを殺してしもた……。おらが進さんを鬼にしてしもた……」
泣きながらつぶやく千鶴を、教諭は優しく慰めた。
「君は悪くないよ。悪いのは鬼、いや、鬼なんだ。その鬼をやっつけて、進之丞くんを鬼から解放してあげようよ」
「進さんを……解放?」
千鶴はぼんやりした顔を上げた。教諭の声は聞こえても、教諭の顔は見えていない。
井上教諭は千鶴に話しかけた。もう鼻はすすっていない。
「そうだよ。進之丞くんを鬼から解放してあげるんだ。だけどそのためには鬼を殺して、進之丞くんから引き離さないとだめなんだ」
「鬼を……進さんから……引き離す……」
「そう、鬼を進之丞くんから引き離すんだ。それをね、君が自分の手でやるんだよ」
「おらが?」
「鬼はとっても強いから、他の者だとすぐにやられるだろ? でも君なら鬼も油断してるから、簡単にやっつけられるよ」
「鬼を……やっつける?」
「鬼を殺すんだ。君がその手で鬼の命を奪うんだよ。鬼を殺せば、進之丞くんは鬼から解放されるからね」
「おらが……鬼を……殺す……」
「そう、鬼を殺すんだ。大変なことだけど、進之丞くんのためならできるよね? 鬼を殺して、進之丞くんを救うんだ」
「おらが……鬼を……殺して……、進さんを……救う……」
「そのとおり。君ならできる。僕も君の傍にいるから心配ないよ。君は一人じゃない。だから君は鬼を殺して、進之丞くんを救うんだ」
「おらが……鬼を……殺して……、進さんを……救う……」
近くでくっくっと女が笑っている。しかし、千鶴は同じ言葉を繰り返すばかりだ。すると、女が突然千鶴に声をかけた。
「千鶴ちゃん、あんた、鬼が憎いんだろ?」
井上教諭は驚いて女を振り返り、やめてくださいと言った。だが、女はやめなかった。
「お世話になってた和尚さんを殺されて、大好きな人との夢も潰されて、その人が人間でいることさえも奪われたんだもの。憎くない方がおかしいよねぇ。しかも、その大好きな人を千鶴ちゃんに殺させたんだもんねぇ」
ただ耳に流れてくる声や音と違い、女の声は千鶴に向けて投げかけられたものだった。そのため、女の声はしっかりと千鶴の耳に聞こえていた。
「ちょっと好い加減にしてください!」
井上教諭が声を荒らげても女は平気だ。呆けたような千鶴の目から涙がこぼれ落ちるのを見て、女は楽しげに言った。
「そうそう、思い出したわよ。確かその鬼は大好きな人のおとっつぁんと、千鶴ちゃんのおっかさんを八つ裂きにしたのよねぇ?」
「何であなたが、そんなことまで知ってるんですか?」
井上教諭は不審な目を女に向けた。さぁねぇと女は惚けながら笑いを堪えている。
再び千鶴に顔を戻した教諭は眉をひそめた。涙が止まった千鶴の顔は、憎しみで険しくなっていた。
「鬼を殺す……。おらが鬼を殺す……」
心が鬼への憎しみでいっぱいになった千鶴に、井上教諭は当惑しながら話しかけた。
「山﨑さん、いいかい? 今から僕が言ったとおりにするんだよ。そうすれば、きっとうまくいくからね」
千鶴はうなずきもせず、鬼を殺すという言葉を繰り返した。
もはや鬼と進之丞が一つであるという認識は、千鶴の頭の中には浮かんでこなかった。
月夜の城
一
昨日銀行に差し押さえられたばかりの山﨑機織の前に、千鶴と井上教諭は立っていた。千鶴は胸に小さな風呂敷包みを抱いている。
店の入り口には差し押さえの紙が貼られているが、教諭はその紙の上にもう一枚の紙を貼りつけた。
誘われ 白鶴来る 月の城
貼られた紙には、この俳句が書かれてあった。月明かりでは見えにくいが、夜目が利く鬼であれば読めるだろうという想定だ。
「まだ俳句はうまくできないけど、これで君がどこにいるのか、彼ならわかるはずだ。夜のお城は人目につかないしね」
井上教諭は空を見上げた。東にきれいな満月が浮かんでいる。しばらく月を眺めていた教諭は、名残惜しそうに千鶴に顔を戻すと、じゃあ、行くとしようか――と言った。
通りを歩く者はほとんどいないが、まったくいないわけではない。教諭は少しでも人影を見つけると、慌てて千鶴と物陰に隠れた。道後で問題を起こした教諭が、こんな時刻に若い娘と歩いているのを誰かに見られたら、きっと咎められるに違いない。しかし、教諭の頭にあるのは、これから行おうとしていることへの後ろめたさだろう。
札ノ辻へ出ると、教諭は千鶴の手を引きながら、すぐ先の城山へと急いだ。すると師範学校の脇に電車が現れたので、教諭は千鶴を抱きかかえながら線路の上を走り抜けた。
教諭が後ろを振り返ると、電車は札ノ辻停車場で止まった。降りて来る者はおらず、中にいる数名の乗客は誰も千鶴たちの方を見ていない。
「見られなかったみたいだな。よかった」
井上教諭は額を手でこすり、右に顔を向けた。そこには月明かりに浮かぶ伊予の阿房宮が静かに佇んでいる。
しばしの間、教諭はその美しい建物をじっと眺めていた。女子師範学校を辞めさせられた自分を受け入れてくれた、新たな職場への想いが込み上げているのだろう。やがてあきらめたように前を向いた教諭は、千鶴に声をかけてとぼとぼと歩き始めた。
ここは城山の西で三ノ丸を囲んだお堀の北側になる。三ノ丸は松山歩兵第二十二連隊の駐屯地で、ここには北門がある。閉められた門の向こうには衛兵がいると思われた。
教諭は千鶴に声を出さないよう注意してから、足早に北門の前を通り過ぎて師範学校の東側へ廻った。この道は今治街道で、師範学校と道を挟んだ城山の西の麓には、南北に二つの小学校が並んでいる。北側にあるのが第二尋常小学校で、千鶴が子供の頃に通った小学校だ。そして南側にあるのが師範学校の附属小学校だ。
二つの小学校の間を入ると、ここにも登城道がある。教諭は千鶴をその道へ誘った。
「あの人の言うとおりだったな。提灯を持って来てよかったよ」
井上教諭は登城道を見上げながら、独り言のようにつぶやいた。家を出る時、満月で明るかったので、教諭は提灯を持たずに行こうとした。それを女に注意されたのだ。
月明かりはあっても、登城道は山の西側にある上、木々が鬱蒼と茂っていて真っ暗だ。提灯がなければ、この道を歩くのは無理である。
登城道の入り口で、井上教諭は手に提げて来た提灯を千鶴に持たせると、中のろうそくにマッチで火を灯した。しかし、手が震えてなかなか灯せない。何度も失敗して、教諭はようやく提灯に火を灯せた。
一つしかない提灯を手に持ち、教諭は千鶴と肩を寄せ合って登城道を登った。
提灯の明かりが照らすのは足下近くだけだ。道の先の方は見えないし、周囲の様子もよくわからない。山道なので歩きにくい上に二人で一緒に歩くので、一歩一歩確かめながら進む歩き方になる。時折、風が木々の枝をざわめかせると、井上教諭は竦んだように立ち止まり、何かが潜んでいるのではないかと辺りを見まわした。
だが千鶴は平気で立っていた。頭にあるのは鬼を殺すことだけだ。
二
長く暗い道を登りきると、ぬっと怪物みたいな櫓が現れた。高い石垣の上にある乾櫓だ。
月の光を背景に黒々とそびえ立つ乾櫓を見た井上教諭は、鬼が現れたと思って叫び声を上げた。しかしすぐに櫓だと気がつき、恥じ入ったように千鶴を見た。だが目的以外には関心がない千鶴は、櫓を見ても動じないし、教諭の驚きにも表情を変えなかった。
安堵した井上教諭は改めて櫓を見上げた。櫓があるのは本丸が近いということだ。道はその櫓の手前で左右に分かれている。
「えっと、どっちへ行くんだっけかな?」
城の道を知らない井上教諭は、左右の道を見比べた。右手の道は月明かりに照らされているが、左手の道は月の光が届かない暗闇だ。
教諭は右手の道を選んで、乾櫓の石垣を右へ回り込んだ。道は上り坂になっていて、前方の左手に門が見える。乾門だ。教諭はほっとした顔で千鶴を見たが、千鶴は門を目にしても何とも感じなかった。
紙屋町を出た時には東の空に見えていた月が、かなり上の方にまで昇っている。月を見上げた教諭は、急がないと――と言いながら乾門へ向かった。
乾門は閉じられており、門の東側に櫓がある。その櫓と乾櫓をつなぐ通路が門の上にあるが、この通路も櫓のようだ。侵入者を拒む威圧感に井上教諭は途方に暮れたが、門を両手で押してみると、門は音を軋ませながら開いた。閂がされていなかったらしい。
教諭は千鶴と一緒に門の隙間から中へ入ると、急いで門を閉めた。侵入の痕跡を残したくなかったのだろう。それから坂道をさらに登ると開けた所に出た。本丸だ。本丸に足を踏み入れると、来る者を阻むような本壇が月の光を浴びながらそびえていた。
本丸は天守閣が置かれた城の中枢だが、本壇は天守閣を護るために、本丸の中にさらに築かれた砦だ。高い石垣の上に天守閣を防御する櫓が並び、近づく者をにらんでいる。
千鶴たちが見上げているのは本壇の西側で、左の角に北隅櫓、右の角に南隅櫓、両者の間に通路を兼ねた、十間廊下と呼ばれる長い多聞櫓が連なっている。
本壇の入り口がどこにあるかは、井上教諭は女から聞かされていた。教諭が南隅櫓の石垣を廻り込むと、別の多聞櫓で南隅櫓と連なった小天守が現れた。小天守も櫓の一種だが、本壇入り口を護るために他の櫓よりも一段高く造られていて重厚感がある。
小天守の前には、本壇正面に出る紫竹門があるが、何故か閉め忘れたかのように大きく開いている。そこをくぐって小天守右脇にある本壇入り口へ向かうと、目の前に見上げるような大天守が姿を見せた。その迫力のある光景に、井上教諭はしばしの間立ち止まったまま、月明かりに照らされた大天守を眺めた。その横で千鶴は黙って立っている。
少しして自分がやるべきことを思い出したのか、教諭はあきらめたように大天守から顔を背けて右方を見た。そこには本壇の入り口である一ノ門が、やはり大きな口を開けて千鶴たちを中へ招き入れようと待ち構えている。
この時刻に門が開かれたままなのを、井上教諭が妙に思ったかどうかはわからない。教諭は首を傾げることもなく、千鶴を誘いながら一ノ門をくぐって先を急いだ。門の先はすぐ階段になっていて、周囲は櫓で固められている。侵入者には四方から容赦のない攻撃が加えられるのだろう。
階段を突き当たると、さらに左手に階段があり、その先にまた門がある。二ノ門だ。奇妙なことに、この二ノ門も開かれている。
この階段は急なので、井上教諭は千鶴の手を取って階段を登るのを助けた。そうして二ノ門をくぐると、二人は広い庭に出た。そこは外曲輪と呼ばれる所で、三層に造られた大天守が、左手の高い石垣の上にずっしりと腰を据えている。
右手から正面にかけては、小窓がいくつも並んだ土塀が外曲輪を囲んでいる。その小窓から銃で下にいる敵を狙うのだ。
土塀に沿って何本かの樹木が植えられているが、その奥の端に櫓が一つ見える。千鶴たちは大天守を回り込みながら、その櫓に向かって外曲輪を歩いた。
この櫓は天神櫓と呼ばれている。ここは本壇の鬼門になるので、久松松平家の祖先である菅原道真が祀られているが、それが櫓の名前の由来だ。
井上教諭は松山城をよく知らないらしく、大天守の入り口を探していたが、外曲輪に面した部分にはそれらしき所はないようだ。
天神櫓の前まで来た井上教諭は、後ろを振り返って外曲輪全体を眺めた。教諭が立っているのは、ちょうど大天守の北東の角辺りだ。そこから今入って来た二ノ門を見ると、その右隣に並んで大天守の石垣脇にもう一つの開かれた門が見える。三ノ門だ。
三ノ門の向こうには石垣が見える。そこは大天守の南東の角で、その角を廻って大天守の向こう側へ向かう通路があるようだ。
右に目を遣ると、こちらの大天守の石垣脇にも開かれた門があった。仕切門と呼ばれている門だ。教諭は千鶴を誘いながら仕切門をくぐった。そこは大天守の北西の角を囲むように造られた狭い空間で、やはり小窓が並ぶ土塀に囲まれている。
この石垣の角を曲がろうとすると、そこにも門があった。この門は内門と呼ばれ、上には通路を兼ねた櫓がある。仕切門をくぐって来た者は、ここで狙い撃ちにされるのだ。
内門も開かれており、その向こうには四角い内庭があった。仕切門の向こうが外曲輪と呼ばれるのに対し、こちらは内曲輪と呼ばれている。中に入って周囲をぐるりと見渡すと、内曲輪の四つの角を、北隅櫓と南隅櫓、それに小天守と大天守が占めているのがわかる。
大天守の左側に内門があるが、右側の小天守との間にも門がある。それは筋鉄門と呼ばれ、外曲輪から三ノ門をくぐって入って来ると、この門の下を通ることになるようだ。
内門同様に、筋鉄門の上にも櫓がある。三ノ門からの侵入を防ぐと同時に、小天守と大天守を連絡する役割があるらしい。
四隅の建造物は、いずれも通路を兼ねた多聞櫓で結ばれている。千鶴たちがくぐって来た内門の上にある櫓は、北隅櫓と大天守をつなぐ通路の一部だ。これらの櫓は外の敵を攻撃するだけでなく、内曲輪へ侵入した者を四方八方から攻撃するのだろう。
今の千鶴たちは、まさに侵入者である。井上教諭は自分が狙われている気分でいるのか、両腕で自らの体を抱くようにしながら、周囲の櫓を不安げに見まわしている。そうするうちに教諭は、長い多聞櫓でつながった二つの櫓の正体に気がついた。
今いる所は外の門をくぐって本丸に入った時に、最初に見えた高い石垣の上にあった櫓の裏側だと、教諭は高揚した声で千鶴に説明した。その興奮の裏には不安が隠れているように見えたが、教諭の話は千鶴の頭に残らなかった。千鶴が考えているのは、もう間もなく始まる鬼との対決のことだ。
内門のすぐ脇にある大天守の石垣には、真四角に切り取られた窪みがあり、鉄の扉でふさがれている。井上教諭はそこが大天守への入り口だと思ったようだ。しかし、その鉄の扉は押せども引けども動かない。大天守の入り口に隠れるつもりだった教諭は、あきらめて後ろを振り返った。
内門の左手には唐破風の屋根がある構造物がある。北隅櫓のすぐ手前だ。そこは北隅櫓から大天守へつながる通路の入り口のようで、その立派な造りから見ると、ここが大天守への入り口かなと井上教諭は言った。事実、そこは天守玄関と呼ばれる大天守への入り口であり、高い位置にある廊下へ上がるための階段がついている。
この廊下への入り口は扉が閉められていて、これは押しても開かなかった。けれど天守玄関の屋根が前に突き出ているので、暗い階段の上まで登れば内曲輪からは見えにくい。教諭はここへ隠れることにした。
天守玄関から出て来た井上教諭は、改めて内曲輪の構造を見まわしながら、面白い構造だと感心した。
教諭はここへ来た目的を忘れたかのように、千鶴を内曲輪で待たせると、筋鉄門から外曲輪へ出て行った。それから少しして内門から戻って来ると、教諭は少年みたいに興奮しながら、何度もなるほどとうなずいていた。しかし、千鶴の前まで来ると現実に引き戻されたらしい。悲しそうな顔で大天守を見上げながら、独り言のようにつぶやいた。
「ここにはもっと早く来るべきだったな。せっかく興味深いものに出会えたのに、もう見られないかもしれないなんて」
後悔しているのか、井上教諭は内曲輪の中を行ったり来たりした。そんな教諭の気持ちを思いやりもせず、千鶴は憎い鬼のことばかり考えていた。
だが、千鶴の想いは本当は憎しみだけではない。憎しみの下に隠れて、進之丞を救うという気持ちがあり、そのさらに下には、進之丞を殺して鬼にしてしまった悲しみと悔恨、そして進之丞へ詫びる想いがあった。
とうとう井上教諭は迷いを吐露するように千鶴に話しかけた。
「山﨑さん、僕が君の力になりたいというのは本当の気持ちだよ。だけど君に鬼を殺させるなんて、やっぱりできないよ」
「おら、鬼を殺して進さんを救うぞな」
千鶴はぼんやりした頭で、教諭の顔も見ずに言った。それは教諭が暗示をかけて千鶴に思い込ませた言葉だ。
教諭は悔やんだように唇を噛み、人形みたいな千鶴に自分の気持ちを訴えた。
「いくら君が鬼だって言っても、僕が知ってる進之丞くんは人間なんだ。前にも言ったけど、そこら辺にいる連中より、彼の方が余程人間らしいよ。その彼が鬼になって僕を殺すだなんて、やっぱり僕には信じられない。その上、彼を君に殺させるだなんて……」
独り言のような井上教諭の言葉は、千鶴には伝わらない。千鶴は鬼を殺して進さんを救うと繰り返すばかりだ。教諭は千鶴の催眠を解こうとしたが、千鶴に声をかけたところで項垂れて下を向いた。
「僕は弱虫なんだ。君のためって言いながら、本当は死ぬのが怖いんだよ。だけど、今からすることも怖いし、鬼になるなんてとんでもないって感じさ。と言ったところで、今の君には何もわからないか」
教諭は無反応の千鶴を見てため息をついた。
「僕を頼ってくれた君をこんな風にしてしまうだなんて……。いったい僕は何をやってるんだろう。何でこんなことになってしまったんだ」
井上教諭は両手で頭を抱えて悔やんだ。鬼と戦うことしか頭にない千鶴は、ぼんやり教諭を見つめるばかりだ。そんな千鶴を見ながら苦笑した教諭は悲しげにつぶやいた。
「今の僕に正義はあるのかな……。これが本当に君のためになるのか、僕にはわからないよ……。いや、そうじゃない。これが君のためになるはずがない。これが正義なわけがあるもんか。だって、君はあんなに彼を救おうとしてたんだ。その彼の命をもう一度君の手で奪わせるだなんて、そんなの正義なんかじゃないよ」
井上教諭は月明かりに照らされた大天守を見上げて言った。
「僕は君を助けたい。それが一番思ってることなんだ。僕は妹を死なせてしまった。花街の娘さんも助けてあげられなかった。だから君だけは助けたいと思ってる。でも、君は本当に鬼に誑かされているのかな? もし、そうじゃないのだとしたら……」
教諭は千鶴に声をかけたが、千鶴は何も応えない。教諭は迷いながら何かを言おうとした。再び千鶴の催眠を解こうと思ったのだろう。だが結局はあきらめて横を向いた。
「今更だな。あの人が言ったように、君の本当の結婚相手はあのロシア人の青年なんだ。進之丞くんの事情はわかるけど、君の本来の道を取り戻すんだ。それに、もうやるしかない。やらなければ君には絶望しかないし、僕は死ぬだけだ。だって……、僕は君にかけられた封印を解いて、絶対君に見せてはならないものを見せてしまったからね」
井上教諭は落ち着きなくそわそわし始めた。やはり恐ろしいようだ。煙草を探して懐に手をやったが、煙草を持って来るのを忘れたらしい。
あきらめた教諭は怯えた様子で辺りを見まわすと、そろそろ始めようかと言って提灯の火を消した。
三
千鶴は南隅櫓のすぐ傍に立った。そこであれば天守玄関に隠れている教諭から見えやすい。それに外曲輪とつながる内門と筋鉄門の双方を同時に見ることができるので、鬼がどちらから現れてもすぐにわかる。
また内曲輪は満月の光に照らされて、提灯がなくともよく見える。しかし千鶴がいる櫓の脇は影になっているので、外曲輪から中をのぞいても、千鶴の居場所はよくわからない。ここは鬼を迎え撃つには好都合の場所だ。
千鶴は二つの門を見比べながら待った。だが鬼はなかなか現れない。
しばらく待っていると、不意に頭の上から千鶴を呼ぶ声がした。後ろを振り向いて見上げると、十間廊下の屋根の上に進之丞が立っていた。
進之丞は千鶴の傍へ飛び降りると、辺りを警戒しながら、一人だけかと千鶴に問うた。けれど千鶴は返事をしなかった。
進之丞は黙ったままの千鶴に紙を見せた。
「これを書いた奴はおらんのか?」
月明かりに照らされた紙には、何か文字が書かれている。よく見えないが、それは井上教諭が山﨑機織の入り口に貼りつけた紙に違いなかった。だが、そんなことは千鶴にはどうでもよかった。
千鶴は抱いていた風呂敷から包丁を取り出すと、いきなり進之丞の首を切りつけた。驚いた進之丞は反射的に後ろへ飛びのいた。
「何をするんぞ?」
進之丞の顔が険しくなった。
鬼め!――千鶴は包丁を構えながら進之丞をにらみつけた。
「よくもおらのかっかを殺し、進さんのおとっつぁんと和尚さまを殺し、おらに……、おらに進さんを殺めさせたな!」
「何? 千鶴、お前、ほれをどこで?」
驚きうろたえる進之丞に、千鶴は再び切りつけた。しかし進之丞がぎりぎりで躱すので、刃は進之丞に届かない。
「何が千鶴じゃ! おらと進さんの夢を台無しにした上に、進さんを喰らいよって! 進さんを返せ! おらの進さんを返せ!」
「此奴か! これを書いた奴がお前の記憶の封印を解いたんじゃな!」
井上教諭が書いた俳句の紙を進之丞は握り潰した。怒りに顔をゆがませた進之丞の額に角が生え、口からは牙が顔をのぞかせた。その姿を見て、千鶴はさらに興奮した。
「本性を現しおったな、この鬼め。さぁ、進さんを返せ! おらに進さんを返せ!」
怒りを露わにした進之丞だったが、喚く千鶴を見るうちに、その恐ろしげな鬼の顔が泣きそうになった。
進之丞は鬼の声で悲しげに言った。
「千鶴、今のお前に何を申しても、言い訳にしか聞こえまい。されど、あしは鬼であると同時に、進之丞でもあるんぞな。もはや二つが袂を分かつなんぞできんのよ」
「嘘じゃ! 先生はおらに言いんさった。お前を殺せば進さんを取り戻せると、先生はそがぁ言いんさったぞな!」
先生?――進之丞は目を見開いた。
「先生いうんは、あの庚申庵に移っておいでたという、あの先生か?」
「ほうじゃ! 先生は何でも知っておいでる偉いお人じゃ。おらのために力を貸してくんさった偉いお人ぞな!」
「その先生がお前に、鬼を殺したら進之丞が戻ると、こがぁ申したんか?」
「ほうじゃ!」
進之丞は一瞬怒りを見せて牙を剥いたが、すぐに悲しげな顔になって千鶴を見つめた。
「千鶴、お前の先生は間違とらい。鬼を殺したら進之丞も死ぬるぞな」
「そげな嘘言うても、おら、騙されんぞ!」
千鶴に進之丞の言葉は届かない。千鶴が振りまわす包丁を避けながら、因果応報とはこのことかと進之丞は肩を落とした。
「千鶴、お前の申すとおり、あしは鬼ぞな。進之丞の心を持つ鬼ぞな。前世でお前にいかにひどいことをしたんか、あしは今でも覚えとる。お前の母上をこの手にかけたのも、我が父を八つ裂きにしたのも、慈命和尚を絶望に追いやり殺したのも、すべて鬼であるこのあしがやったことぞな」
「やっと、己の罪を認めたか!」
にらみつける千鶴に、進之丞は懺悔を続けた。
「あしは他にも多くの人を殺め、数多の罪を犯してきた。それらの一つ一つを思い出すたびに、あしは胸が張り裂けそうになる。お前を想えば想うほどに、かつては平気であったことが耐えられんようになってしもた」
「進さんでもないくせに、ようもぬけぬけとそがぁなことが言えらい」
「ほうよ。あしはお前が知る進之丞やない。やが、お前が知る鬼でもない。己が進之丞なんか鬼なんか、ほれはあしにもわからん。あしに言えるんは、あしは進之丞でもあり鬼でもあるいうことぞな。進之丞の想いは鬼のものとなり、鬼の想いは進之丞のものとなった。やけん、あしは進之丞であって進之丞でなく、鬼であって鬼でないんよ」
「何、わけのわからんこと言うとるんね。そがぁな言葉でおらを騙くらかそ思ても無駄やけんな」
千鶴は次の攻撃のために包丁を身構えた。
お不動さま――目を閉じた進之丞はつぶやきながら涙を流した。すると、進之丞は鬼から元の人間の姿に戻った。
四
「そがぁな姿に戻ったとこで、もう騙されんけん」
一瞬うろたえた千鶴は、すぐに進之丞をにらみつけた。進之丞は目を開けると、千鶴を見つめながら言った。
「お前に許してもらえたと勝手に思いよった、あしが愚かじゃった。真を知った今のお前の想いこそ、お前の本音であろう。やが、お前が怒るのは当然。すべては己が犯した罪への報いぞな」
進之丞は地面に両膝を突くと、千鶴に向かって土下座をした。
「詫びて許されるもんでもないが、今のあしには詫びるしかできん……。千鶴、これまでのこと、まことにすまなんだ……。まことに……まことに申し訳ない」
思いがけない進之丞の行動に、千鶴は深く動揺した。
「やめろ! 立って、おらと戦え!」
「ほんなことはできん。あしがここにおるんは、こがぁしてお前に詫びるためぞな」
「おらに詫びるため?」
「なしてお不動さまがあしとお前を引き合わせんさったんか、あしはわかった。全ては因果応報。己がやったことが己に戻んて来るいうことを、お不動さまはあしに示しんさったんじゃ。お前に憎まれようが殺されようが、ほれは己の罪への報いぞな。やけん、お前の好きにするがええ。あしはお前の望むとおりになろわい」
「ごちゃごちゃ言わんで、立っておらに向かって来んね!」
鬼を殺すつもりだったのに、相手は進之丞の姿のまま地面にひれ伏して動かない。それは千鶴にとって鬼ではなかった。しかし進之丞を救うためには、鬼を殺さねばならない。
どうしていいかわからなくなった千鶴は、進之丞を蹴飛ばし拳で叩いた。それでも進之丞が動かないので、千鶴は進之丞の髪をつかんで頭を引っ張り上げた。
進之丞は泣いていた。声を出さずに涙をぼろぼろこぼして泣いていた。
千鶴は驚きうろたえ、髪をつかんだ手を離した。すると、進之丞は立ち上がって千鶴を強く抱きしめた。
「千鶴……、あしが悪かった……。前世ばかりか今世でも、お前をこがぁな目に遭わせてしもた……。鬼の分際で余計なことを願た、あしが悪かった……」
「やめろ! 離せ、離せ!」
千鶴は包丁を持ったまま藻掻いたが、進之丞に抱かれているので身動きができない。
「鬼のくせに己の分をわきまえず、お前の前に姿を見せたあしが愚かじゃった……。いずれお前を苦しめるのはわかっておったのに……。お前の傍におりたいという想いを、あしは抑えられなんだ……」
「何言うとるんね。おらから離れろ!」
千鶴は藻掻きながら進之丞の腰に包丁を突き立てようとした。進之丞は千鶴を抱いたまま絞るような声で言った。
「ほれでもこの二年、お前と一緒におれたあしはまっこと幸せじゃった……。千鶴、今までありがとう……」
千鶴の頬を進之丞の涙が濡らした。千鶴は忘れていた温もりに包まれていた。遙か昔から慣れ親しんだ温もりが、千鶴の心に染み渡っていく。
進之丞は千鶴から離れると、胸を開き両手を広げた。
「千鶴、お別れぞな。ここをように狙て刺すがええ。心の臓はここにある」
進之丞は右手を自分の胸に当てた。千鶴の頭に自ら心臓をつかみ出した鬼の姿が浮かんだ。千鶴は頭を押さえ困惑に呻いた。
「これまでの禍は、すべてこのあしが引き寄せたのであろうな。さればあしが消えれば、お前から禍はなくなろう。さすれば、あとはお不動さまがお前をお導きくんさるぞな。やが、消えさる前に今一度お前の記憶を封じて、お前を旦那さんの元へ届けてやろわいな。ほれが、最後にあしがお前にしてやれることぞな」
海の中に立ち、じっと千鶴を見つめながら遠ざかる鬼の姿が見える。
「進さん……、進さん……」
涙ぐんでつぶやく千鶴を、さぁ、やれ!――と進之丞が促した。
顔を上げた千鶴の前に進之丞がいる。だけど、それは進之丞を喰らい、進之丞の姿を借りた鬼なのだ。
千鶴は包丁を両手に持ち直すと、大声で叫びながら進之丞に突進した。
千鶴の体が進之丞の胸にぶつかり、進之丞はよろめいた。だが倒れずに踏みとどまり、そっと千鶴を抱いた。進之丞の腕の下で、千鶴は下を向いたまま体を震わせている。静寂に包まれた内曲輪の中で、月の光に照らされた二人の姿は動かない。
やがて進之丞が静かに千鶴に声をかけた。
「なして刺さん? あしが憎いんやないんか?」
ぽとりと包丁が千鶴の足下に落ちた。
「でけん……、おらには、でけん……」
千鶴は進之丞の胸に顔を埋めたまま泣いていた。
「おら、お前が憎い……。おらから何もかも奪った、お前が憎い……。けんど……、けんど、おら……、おら……、お前が好きじゃ」
千鶴?――戸惑う進之丞に、千鶴は涙に濡れた顔を上げた。
「この二年……、おらも幸せじゃった……。お前は進さんとして、おらの傍におってくれたし、みんなの力にもなってくれた……。鬼としても、いろんな所でおらを助けてくれた……。いっつもかっつも、お前はおらの幸せぎり考えてくれよった……。おら、お前が憎いけんど……、お前が好きじゃ……」
「千鶴……」
千鶴は進之丞から離れると、泣きながらつぶやいた。
「そもそも悪いんはおらなんじゃ。おらさえおらんかったら、鬼も悪さなんぞせんで済んだんじゃ。おらさえおらんかったら……、おらさえおらんかったら進さんかて……」
自分の両手を見つめた千鶴は、頭を抱えてしゃがみ込み、大声で喚きながら己を罵った。
「おらが進さんを殺めたんじゃ! おらが進さんを殺めた! ほれやのに、今もまた進さんのこと殺めよとしてしもた! 死んだらええんは、おらなんじゃ! おらが死んだらよかったんじゃ!」
千鶴は包丁を拾うと、自分の喉を突こうとした。すんでの所で千鶴の腕を押さえた進之丞は、包丁を取り上げて本壇の外へ投げ捨てた。
千鶴を強く抱きしめた進之丞は叫ぶように言った。
「お前は悪ない! 悪いんはこのあしぞ! あしが現れたばっかしに、こがぁにお前を苦しめてしもた。何もかも、お前に未練を持ったあしが悪かった!」
千鶴と抱き合いながら泣いていた進之丞は、やがて千鶴に顔を上げさせて言った。
「千鶴……。もう、おしまいにしよわい……。全部忘れるんぞな……。前世のことも、今世であしと出逢たことも……」
「嫌じゃ……、ほんなん嫌じゃ……」
進之丞は首を振る千鶴の頭を押さえると、額に指を当てた。
「千鶴、幸せになるんぞ」
千鶴の目から涙があふれ、進之丞の頬を涙が伝い落ちた。
月が雲に隠れ、すべては闇に呑み込まれた。進之丞と千鶴の姿も闇に消えた。
五
闇の中を何かが近づいて来る音が聞こえた。千鶴は進之丞に抱き上げられ、どさりと何かが落ちる音がした。続いて苦しそうな声が闇の中で呻いた。
雲に隠れていた月が再び顔を出し、辺りに光が差し込んだ。見ると、天守玄関の前に井上教諭が倒れていた。教諭の脇には小刀が落ちている。闇で何も見えないのに、千鶴を助けようと思ったのだろう。
「貴様か! 貴様が千鶴の封印を解いたんか!」
怒鳴る進之丞が再び鬼の顔になっていく。
「千鶴を傷つけまいと封印したのに、ほれを貴様が暴いたんか!」
進之丞は体がみるみる膨れ上がり、着ていた着物が破れ落ちそうになった。
「いけん!」
進之丞に抱かれながら千鶴が叫んだ。
「いけん、進さん。いけんよ! もう鬼の姿にはならんて約束したやんか! おらなら大丈夫じゃけん、怒らんで!」
千鶴になだめられ、進之丞の体は膨らみが止まった。
下へ降ろしてもらった千鶴は、倒れている教諭の傍へ行って声をかけた。
「先生、大丈夫ぞな?」
井上教諭は進之丞の蹴りで左の肋を折られたらしい。そこに手を当てながら、目を閉じて呻いている。傷の所に千鶴が手を触れると教諭は声を上げて痛がった。千鶴は慌てて手を引っ込めて謝った。
「先生、こがぁな格好で喋るんも何じゃけんど、鬼を殺したとこで進さんは戻んて来んぞなもし。ほんでも、おら、わかったんぞな。おらな、進さんも進さんと一緒になった鬼も、どっちも大切やし、どっちも愛しいんぞなもし」
「千鶴……」
千鶴の後ろで、鬼の進之丞が泣きそうになっている。
顔をゆがめながら見上げる教諭に千鶴は続けて言った。
「確かに前世で鬼はひどいことをしました。今思い出しても悲しいてたまらんぐらい、鬼はひどいことをしたんです。ほんでも今は鬼は心を入れ替えとります。もうあん時の鬼とは違うんぞなもし。別の鬼になった言うた方がええかもしれんぞな」
「君は本心から……、そう……言ってるのかい?」
井上教諭は喘ぎながら言った。
「これはおらの本心ぞなもし。おら、嘘なんぞついとりません。進さんと一つになってから、鬼はいっつもおらを助けてくれたし、おらのために何べんも命を投げ出してくれました。今かてほうじゃ。鬼はおらのために死のうとしてくれたんです。ほやけん、おらん中にあった鬼を憎む気持ちはのうなりました」
「そうなのか……」
「この人は進さんであり、鬼なんです。おらが進さんじゃて思たら進さんじゃし、鬼じゃて思たら鬼なんです。ほんでも、ほれはどっちゃでもええことなんぞなもし」
千鶴は進之丞を振り返りながら話を続けた。
「おら、これからもこの人と一緒に生きていきます。ほやけん、先生にはいろいろご迷惑かけてしもたけんど、もう、ええんです」
千鶴の話を聞きながら、進之丞は鬼の姿のまま泣いた。千鶴の目も涙で濡れている。
「山﨑さん……、どうやら暗示が解けたようだね……」
井上教諭はつらそうだが、穏やかな声で言った。
「僕は……君が新聞に載ってた……ロシアの青年と……結婚するつもりだったって……思ってたんだ……。だから鬼のことは……君の本心じゃないって……、君は鬼に誑かされてるんだって……思ったんだよ……」
スタニスラフのことを言われて、千鶴は動揺した。慌てて進之丞を振り返り、あの記事は間違いだと教諭に言った。
「あん時、おら、お酒飲んで酔っ払ってしもとったけん、何もわけわからんまま喋りよったんです。おらと進さんは、あの人がおいでる前から好き合うとったんぞなもし」
「何だ、そうなのか……。それを、もっと早くに……聞いておけばよかった……」
井上教諭は折れた肋を押さえ、石垣で体を支えながら苦悶の表情で立ち上がった。
「今更こんなことを……言えた義理じゃないけど……、山﨑さん、僕が悪かった……。僕は誤解してたんだ……。許しておくれ……」
教諭は鬼の姿の進之丞にも顔を向けて言った。
「進之丞くんにもお詫びするよ……。君の命を奪おうとした……僕が浅はかだった……」
あれだけ鬼を怖がっていたのに、教諭の声に怯えの響きはない。黙ったまま泣いている進之丞に、教諭は続けて話しかけた。
「僕は……山﨑さんの記憶の封印を……解いてしまった……。だから君に……殺されるって思ったんだ……。山﨑さんのことも……、君に無理に言わされてるって……考えてしまってね……。君がいなくなれば……、僕も助かるし……山﨑さんも救えるって……、そう思ってしまったんだ……」
井上教諭は項垂れると、悔やんだように言った。
「だけど……、僕が間違ってた……。鬼の姿をしていても……、君は人間だ……。君を殺そうとした……僕の方こそ……人でなしの鬼だった……」
「先生……」
千鶴は進之丞を振り返った。
「先生がおらの記憶の封印を解きんさったんは、おらが無理にお願いしたけんよ。悪いんは先生やのうて、おらなんよ。ほじゃけん、先生を勘弁してあげて」
千鶴に対して返事はしないまま、進之丞は井上教諭を質した。
「お主があしを殺そうとした理由は、ほれぎりやあるまい。まだ他に狙いがあろう?」
「君は……何でもお見通し……なんだね」
井上教諭は苦しそうに言った。
「僕は……鬼になりたかったんだ……。鬼の力が……欲しかったんだよ……。鬼になるのは怖いけど……、君が死んだら……鬼の魂が僕に取り憑いて……鬼になれると……思ったんだ……」
千鶴は井上教諭のそんな気持ちを知らなかった。初めて聞いた話に驚いていたが、進之丞は鬼の姿のまま淡々と話を聞いている。
六
「なして鬼になりたいと思たんぞ?」
進之丞が静かに訊いた。その声に怒りの響きはない。
「山﨑さんには……話したけど……、僕には妹がいたんだ……。その妹は……僕の目の前で……ごろつきどもに辱められて……死んでしまった……」
教諭は自分を慕ってくれた花街の娘も、男たちに乱暴されて死んだと話し、弱い娘たちを助けるために、鬼の力が欲しかったと言った。
喋り疲れたのか、井上教諭は話し終わると、石垣にもたれたまま喘いだ。息をするたびに肋が痛むらしく、顔はずっとつらそうなままだ。
教諭の想いに千鶴は涙をこぼしたが、進之丞は哀れむように、愚かなと言った。
「お主は進之丞の心が鬼の心をねじ伏せたと考え、己も同しにでけると思たんじゃろが、事実はさにあらずぞな」
「違うのかい……?」
「あしが進之丞として生きておるのは、進之丞の心が鬼の心に打ち勝った故ではない。鬼の心が進之丞の心を受け入れたぎりのことよ」
「それは……どういうこと……?」
興味が頭をもたげた様子の教諭に、進之丞は穏やかに語った。
「鬼とは数え切れぬほどの者らの未練や怒り、悲しみや苦しみが渦巻いたもんよ。進之丞一人の心がどがぁに足掻いたとこで、太刀打ちできるもんやない。進之丞の想いを鬼が無視すれば、ほれまでのこと。進之丞は鬼に喰らわれたぎりで、鬼は鬼のまんまよ」
「それじゃあ……、どうやって……」
「鬼は千鶴の優しさに触れ、その優しさに憧れた。やが、ほれは鬼の中にも優しさが潜んでおったということよ。ほうでなければ鬼が優しさに惹かれたりはせぬ。鬼は喰ろうた進之丞の心を通して、己の中の優しさに気づけたんぞな。わかるか?」
「わかるような……気がするよ……」
井上教諭はしんみりとうなずいた。進之丞は千鶴を振り返って言った。
「お前にも申したであろう。あるいは記憶を取り戻したんであれば、見たことを覚えておろう? 進之丞は鬼の心に語りかけ続けた。鬼に心を喰らわれたあともな。そして、ついには鬼の心が進之丞の声に耳を傾けたわけよ」
千鶴がうなずくと、進之丞は教諭に顔を戻した。
「鬼は千鶴を喰らえば、千鶴の優しさを我が物にでけると思た。されど千鶴の優しさは、千鶴と一つでないからこそ得られるもんぞ。鬼はそがぁなこともわからなんだが、進之丞の心を喰ろうた時に、進之丞の千鶴への想いが、鬼の中にあった対の想いに響いたんよ。その想いこそが、鬼の心の奥底に潜んでおった優しさじゃった」
「鬼はどうして……自分の中に……優しさがあることを……忘れてたんだろう……?」
「鬼はな、何もかんもすべてをあきらめておったんよ。ほれで、怒りであれ悲しみであれ、己ではどがぁもできん想いを、相手構わずぶつけよった。やが、そがぁなことで己が満たされるはずもない。人から余計に嫌われ憎まれ恐れられ、どうせ己なんぞそがぁなもんじゃと思ううち、いつしか人を思いやる気持ちが心の奥底に隠れてしもたんよ」
「それが山﨑さんの……優しさに共鳴し……、進之丞くんの……想いによって……、引き出されたって……わけなのか……」
ほういうことよと鬼の進之丞はうなずいた。
「己の優しさを知った鬼は、己が千鶴を愛おしく想いよったことにも気ぃがついた。じゃのに己がしてきたこというたら、千鶴を苦しめることぎりじゃった。ほれを思うと、鬼も進之丞もともに悔やみ苦しんだ」
「進さんも苦しむん?」
千鶴が話に交ざって訊ねた。進之丞と鬼が一つになったことを、千鶴は理解したつもりではいた。けれど、まだ今ひとつぴんとこないところがあった。
進之丞は千鶴を見て、ほうよと言った。
「進之丞と鬼は一つである故、進之丞の苦しみは鬼の苦しみ、鬼の苦しみは進之丞の苦しみとなる。進之丞自身が犯した罪でのうても、進之丞はほれを己の罪と感じるんよ」
千鶴は心の不思議を知った。また、一つになった進之丞と鬼は、もはや二つに分かつことはできないのだと悟った。
進之丞は井上教諭に顔を戻して言った。
「この苦しみは千鶴に関することぎりやない。ほれより前に犯した罪の深さをも、鬼は知るようになった。ほれは申したように進之丞の苦しみでもある。ほれがいかにつらいものかは、お主には到底理解できまい」
「進さん……」
千鶴はようやく進之丞の本当の苦しみを知った。己が犯した罪を悔いれば悔いるほど、その苦しみは募るのだ。
涙ぐんで抱きつく千鶴を抱き返しながら、進之丞は言った。
「こがぁして千鶴とともにおれることぎりが、あしにとってはせめてもの安らぎじゃった。ほれでも、ほれで己の罪が消えるわけやない。また、己の罪に千鶴を巻き込むことへのつらさも口にはできんほどよ。鬼になるとはな、そがぁなことなんぞ」
井上教諭は肩を落とし、自分がどれだけ浅はかだったかを知ったと言った。
進之丞は鬼のままだが穏やかで、教諭に手を出す様子はない。これで話は丸く収まったと思えたその時、どこからか女の笑い声が聞こえた。
「鬼のくせに、ずいぶんしおらしいことを言うじゃないか。あたしゃ笑い過ぎて涙が出ちまったよ」
声は内門の方から聞こえてくる。千鶴と進之丞が近づくと、誰かが外曲輪へ逃げるのが見えた。
追いかけて仕切門をくぐると、天神櫓の前に花柄の着物を着た女が、背を向けて立っていた。大きく膨らんだ庇髪は二百三高地だ。
吹き始めた風が千鶴の髪を揺らした。西から夜空を呑み込もうと真っ黒い雲が近づいている。どうやら間もなく雨になるようだ。
対決
一
貴様は誰ぞ!――と進之丞は叫んだ。
「さぁ、誰かしらね」
振り返った女には角が生えていた。千鶴はぎょっとしたが、それは般若の面だった。
進之丞は女をじっとにらみながら言った。
「貴様、人ではないな」
女はほほほと笑い、そのとおりだよと言った。
「見てのとおり、あたしゃ本物の人でなしだよ。ろくでなしとも言うかしらね」
「千鶴、気ぃつけぇよ。此奴は人やない。あしと対の魔物ぞ」
やっぱりと千鶴は思った。一方、女は進之丞の言葉が気に障ったらしい。
「失礼なことを言うんだね。あたしがお前と同じ化け物だって? あたしゃ人でなしだけど、お前みたいな木偶の坊とは違うんだよ。惚れた娘の家が潰れても何にもできず、身内が殺されても隠れることしかできないお前なんか、ただの木偶の坊じゃないか!」
「すべては貴様の仕業か!」
怒りを見せた進之丞を千鶴は必死になだめた。その様子を女は嘲笑った。
「やっぱり木偶の坊だねぇ。そんな小娘になだめられてるなんて」
千鶴は、きっと女をにらみつけた。
「あんた! あんたが――」
つや子なのかと千鶴が言おうとした時、よろめきながら姿を見せた井上教諭が、女に小刀を差し出して言った。
「もう、よしましょう……。これはお返しします……。所詮、僕なんか……鬼にはなれないし……、きっと妹も……こんなことは……望んでませんから……」
女は高笑いすると、どこまで馬鹿な男なんだろうと言った。
「あんたが鬼になれないことぐらい、端からわかってるさね。あんたは一度絶望したはずなのに、こっちへ来て元気になったからさ。もういっぺん絶望させてやりたかっただけなんだよ」
「な、何を――」
「まだ、わかんないのかい? ごろつきどもにあんたの妹を襲わせたのはね、このあたしなんだよ!」
そんな――井上教諭の顔がゆがんだ。
「花街の娘が殺されたっていう話も嘘。だいたいさ、あんたみたいな野暮ったい男に、あの娘が惚れるわけがないだろ? そんなの、ちょっと考えればわかることじゃないか」
こんな屈辱があるだろうか。うろたえた教諭の目に涙があふれたが、女は楽しそうに喋り続けた。
「自分を知らないっていうか、図々しいっていうか、まったく自惚れが強い男さね。鬼になって気の毒な娘たちを助けるんだって? ほんと笑わせてくれるよ」
あははと笑う女の前で、井上教諭は項垂れて悔しそうに泣いた。
「その顔、いいじゃないか。あたしゃ、その顔が見たくってね。それであんたを励ましてやったんだよ!」
激しい怒りを覚えながら、千鶴は自分と花江が襲われた時と同じだと思った。
あの時、孝平と弥七は花江と千鶴を自分の物にできると期待していた。だが実際は千鶴も花江も二人の前で男たちに手籠めにされるところだったのだ。この女は千鶴たちだけでなく、孝平たちの絶望した顔も見たかったに違いない。
「あんたが横嶋つや子なんじゃね!」
千鶴が叫ぶと女は千鶴の方を向いて、大当たり!――と言った。
「横嶋つや子……?」
井上教諭は涙だらけの顔を上げて女を見た。
「あなたは本当は誰なんだ?」
「お黙り! 負け犬は黙ってな」
つや子は教諭に口を噤ませたが、千鶴は黙っていなかった。
「あんた、なして進さんの家族を殺したんね?」
「別にどうだっていいじゃないか、あんな老いぼれたちがいなくなったって、世の中何も変わりゃしないよ」
貴様!――怒った進之丞は巨大化しそうになった。進之丞の着物は前が大きくはだけ、背中は今にも破れようとしている。体に食い込んだ帯も千切れそうだ。
千鶴が急いでなだめたので、進之丞は何とか怒りを抑えたが、その体はわなわなと震えている。そんな進之丞を女は馬鹿にしてからかった。
「そんな格好で怒ったってさ、おかしいばかりでちっとも怖くないよ。だいたい、あんた、鬼のくせに何怒ってるんだい? 自分だってこれまで何人も殺して来たくせにさ。ちょっと自分の身内が殺されたからって、文句を言える筋合いじゃないだろ?」
進之丞が唸り声を出した。千鶴は進之丞を制して女に言った。
「あんたが進さんの家族殺したんは、進さん怒らせて鬼に変化さすためじゃろ!」
さぁねぇと惚けるつや子に、千鶴は唇を震わせた。
「あんた、畑山さんも殺めたじゃろ!」
「畑山? はて、畑山ねぇ? 誰のことかしら?」
つや子は顎に手を当てて首を傾げた。
「お祓いのお婆さんと一緒に殺めたじゃろがね!」
お祓いの婆のことを言われて、やっと理解ができたらしい。あぁ、あの男ね――とつや子は大きくうなずいた。
「あの馬鹿のことなら覚えてるよ。さっさと大阪で死んでりゃいいのにさ。こんな所へのこのこ出て来て、つまんないことに首を突っ込むんだもの」
「畑山というのは、大阪の錦絵新聞の男か?」
話に交ざった進之丞に千鶴はうなずいた。
「畑山さんはおらたちのことを耳にして、わざに大阪から励ましにおいでてくんさったんよ。ほれで進さんを探してくれようとして、進さんも知っておいでる、あのお祓いのお婆さんを訪ねてくんさったのに、その畑山さんとお婆さんをこの女が殺したんよ」
ほうじゃったかと進之丞が気の毒そうに言うと、つや子は腹立たしげにふんと言った。
「何を偉そうに。お前だって人殺しのくせに」
「進さんをあんたと一緒にせんで! 畑山さんにはね、これからお嫁入りする娘さんがおいでたんよ!」
「おや、そうだったのかい? それはおめでたいねぇ。そんな娘がいるのに死んじまうだなんて、ほんとにおめでたい男だよ」
楽しげに笑うつや子に、千鶴は怒りを露わにした。
「なして、あの人らを殺したんよ!」
「あたしの正体を知ったからさ」
つや子は冷たい声で言った。
お祓いの婆は進之丞の正体にも気づいたほどだ。畑山から相談を持ちかけられた時、婆はつや子が魔物だと悟ったに違いない。だが、それが命取りになってしまったのか。
「あの婆はね、身の程知らずにも、あたしを封じようだなんて思い上がった真似をしたのさ。婆が飛ばした言霊が鎖になって、あたしを縛り上げてね。いきなり動けなくなったから、あん時はさすがのあたしも結構焦っちまった。だけど、あたしも必死に抵抗したからね。何とか動くことができたんだ」
「どがぁしておばあさんの家を見つけたん?」
「言霊ってぇのはね、諸刃の剣なんだよ。言霊を辿れば、それを飛ばした奴の所へ行けるのさ。でも、そこまで行くのは大変だったよ。婆の家がもう少し遠ければね、あたしも危うかったんだ。それで婆の家へ行ったら、あの男もそこにいたってわけさ」
ずっとつや子の声を聞いているうちに、千鶴はこの声には何だか聞き覚えがあると思った。まさかと思ったものの、所々で声の質がある女に似ているようだ。喋り方は全然違うが、思いつく人物はただ一人だ。
「あんた、もしかして三津子さんやないん?」
つや子はびくりと動きを止めると、じっと千鶴を見据えた。それから、あの癇に障る喋り方で楽しげに言った。
「ようやっと、わかってくれたん? うち、千鶴ちゃんがいつ気ぃついてくれるんじゃろか思て、はらはらしながら待ちよったんよ」
つや子は般若の面を取り、庇髪のかつらを脱ぎ捨てた。現れたのは髪の短い坂本三津子だった。
二
「道理で前々から怪しいと思いよった」
進之丞が憎々しげに言うと、三津子はころころ笑って、お互いさまぞなと言った。
「じゃあ、まずは千鶴ちゃんとの約束を果たそうわいね」
三津子はえへんえへんと咳払いをすると、つや子の声で喋り出した。
「えー、あたくし横嶋つや子は、そっちの鬼の兄やん……じゃなかった、そちらの鬼のお兄さんに無実の罪をなすりつけ、千鶴ちゃんに多大なるご迷惑をおかけしましたことを、このとおりお詫びしまぁす」
三津子はぺこりと頭を下げ、再び頭を上げるとケタケタ笑った。
「その姿で、まんまとおらたちから話を聞き出しよったんじゃね」
悔しげな千鶴に、三津子は楽しそうに言った。
「千鶴ちゃんはなかなか喋ってくれんけん、幸ちゃんからいろいろ聞かせてもろたぞな」
「何も知らんお母さんを騙くらかして!」
「別に騙しちゃあおらんわね。うちは坂本三津子として、幸ちゃんと会いよったんじゃけんね。ほんでも、幸ちゃんも全部は言うてくれんけん。あとはもう一人の抜け作の手代さんから、ちょくちょく話を聞かせてもろたんよ」
「弥七さんのこと言いよん?」
「そがぁな名前じゃったかいねぇ。ちぃとお茶をご馳走してやったらね。鬼の兄やんに千鶴ちゃん取られたこととか、千鶴ちゃんがロシアの貴公子と、お手紙のやり取りしよる話を教えてくれたんよ」
そんなことを弥七がぺらぺら喋っていたことに千鶴は驚いた。三津子はにやにやしながら話を続けた。
「いつやったかいねぇ。今日も千鶴ちゃんが夕方手紙出しに行くそうなて愚痴こぼすけんね。千鶴ちゃんはまだ自分の相手を決めたわけやないじゃろけん、あきらめたらいけんよて言うてあげたんよ」
それはきっと鬼山喜兵衛と特高警察に襲われたあの日のことだ。つや子に千鶴たちの動きを教えていたのは弥七だったのだ。
「なして弥七さんが、おらが手紙出すこと知っとるんね?」
「そがぁなことは本人に訊いてちょうだいや。そげなことまでは聞いとらんけん」
あの日、千鶴が祖父と手紙についてのやり取りをしているのを、蔵から品出しをしていた亀吉たちは聞いていた。恐らく弥七は午前に太物屋へ注文の品を届ける際に、同行した丁稚の誰かからその話を耳にしたのだろう。そして午後に一人で注文取りに出た時に、三津子と出会って喋ったのだ。
三津子と千鶴たちが言い合っているうちに、井上教諭はそろりそろりと三津子の後ろへ回り込もうとしていた。
三津子の背後まで回った井上教諭は、小刀を振りかざして三津子に斬りかかった。しかし三津子は教諭の動きに気づいていて、小刀を避けながら足で教諭の足を払った。無様に倒れた教諭は折れた肋を打ちつけたらしく、ぐぅと呻いたきり動かなくなった。
「嫌やわぁ、この人。こがぁなか弱い女子に後ろから斬りかかるやなんて信じられん。ほんなん、男がすることやないで。ほんでも刃物を持ったとこで、やっぱし腰抜けは腰抜けじゃわいねぇ。まっこと情けない男ぞな」
三津子は井上教諭に近づき、この役立たず!――と言って、教諭の傷めた肋を容赦なく蹴飛ばした。苦悶の声を上げた教諭は天を仰いで、畜生と叫んだ。
「やめて! 傷ついとる人をさらに傷つけて何が面白いん?」
千鶴は教諭の傍へ駆け寄ろうとした。だが進之丞に引き留められて、にやにやする三津子をにらんだ。
「なして、そがぁにみんなを苦しめるん? しかも偽名まで使うやなんて、なしてそこまでするんね!」
「偽名? 千鶴ちゃん、何言うとるん? 横嶋つや子はうちの本名ぞな」
「え? じゃあ、坂本三津子の方が――」
「ほれも本名。うちはね、他にもいっぱい本名を持っとるんよ」
当惑する千鶴に代わって進之丞が言った。
「貴様、その女を喰ろうたな?」
顔をむっとさせた三津子は腰に手を当て、もう!――と言った。声はつや子の声だ。
「そういう下品な言い方やめてくんない? 東京であたしが財布抱えて死にそうなふりしてたらね。この女はあたしを介抱する真似して、あたしの財布を奪おうとしたんだよ。それじゃあ、あたしだって困るからさ。一応は抵抗をしたんだ。そしたらさ、この女、あたしの頭を石でがつんってね。それであたしは代わりにこの体をいただいたってわけ。喰ったんじゃないよ。いただいたの。前の体の代わりにね」
千鶴がぞっとすると、つや子は片眉を吊り上げて言った。
「何さ、そんな顔して。あんたは知らないだろうけど、この三津子っていう女はね、結構な性悪女だったのさ。あんたの母親を病院から追い出したのは、この女が仕組んだことなんだからね」
母が病院で聞かされた話と同じだと千鶴が思った時、つや子は三津子になった。
「千鶴ちゃん、ごめんね。うち、奥手じゃけん、なかなかほんまのことが言えん質なんよ。ほじゃけん、自分が惚れたロシアの兵隊さんにも、自分の気持ちをよう伝えんかったんよ。ほしたらね、あなたのお母さんがね」
横取りしよったんじゃい!――と三津子は男のような声で怒鳴った。しかし、すぐに恥じ入りながら話を続けた。
「もう、ごめんなさいね。うちとしたことが、つい興奮してしもた。まぁ、そがぁなわけでね、うちはあなたのお母さんにちぃと仕返ししとなったんよ。ほれで、院長先生に出任せ言うたんやけんど、まさかほんまに子供こさえとったとはねぇ。あん時はまっことびっくりじゃったし、幸子さんて手が早いいうか――」
まっこと、どあつかましい意地腐れ女ぞな!――と三津子はまた男みたいに喚いた。
「もう、またはしたない声出してしもた。恥ずかしいわぁ。とにかくね、うちはあなたのお母さんにひどい目に遭わされたわけ。うちがどがぁな気持ちじゃったか、千鶴ちゃん、わかってくれた?」
「そげなもん、わかるはずなかろ!」
千鶴が言い返すと、そうなのかいと三津子はつや子に戻ってにやにやした。
「千鶴ちゃんなら、わかってくれるって思ったんだけどねぇ。千鶴ちゃんだってさ、自分が惚れた男を他の女に奪われそうになった時に、相手を恨んだんじゃないのかい?」
千鶴はぎくりとした。花江のことを言われているのかと思ったが、つや子が話しているのは前世のことらしい。
「あんたの場合、相手が近くにいなかったから、仕返しができなかっただけじゃないか。その分、あんたを裏切った男の方にひどいことをしたんじゃなかったかしらねぇ?」
進之丞が牙を剥いた。
「そこまでにしとけよ。ほやないと――」
「どうすんだい? あたしと勝負するつもりかい、この唐変木」
千鶴は進之丞をなだめると、つや子に言った。
「なしてあんたはこがぁな真似ぎりするん? おらたちは何もしとらんじゃろがね!」
「そんなのはそこの腰抜けも同じさ。あたしはね、むかつくのさ」
「むかつく?」
「異人の小娘のくせに日本人面する奴とか、鬼のくせに人並みの幸せを欲しがる奴にね、無性にむかつくんだよ!」
「ほれは貴様も対じゃろが!」
言うなり進之丞が飛びかかると、つや子は素早く大天守の石垣に飛び移った。
石垣に張りつくつや子はまるでヤモリだ。わずかな石の隙間に引っかけた手の指に鋭い爪が伸びている。足袋の先も鋭い爪が突き破り、その爪で石をしっかりつかんでいた。
つや子はさらに大天守の壁までさっとよじ登ると、そこから千鶴たちに毒気を吐いた。
「せっかく二人して死なせてやったのにさ、一緒に蘇って来るなんて、腹が立とうってもんだろ? だいたい、あんたね、鬼のくせに何だって地獄から戻って来るのさ。死んだんなら、ちゃんと死んでりゃいいんだよ!」
進之丞が近づくと、つや子はささっと別の場所に移動した。
「あたしを捕まえようったって無駄さ。それに、もうすぐ警察が来るよ」
「何?」
「あたしが呼んだのさ。その小娘は行方不明になってるらしいからね。異人の娘を連れた怪しい男が城山に登るのを見たって言ったら騒いでたよ」
千鶴が戻らないことを甚右衛門たちが警察に届けたのだろう。今ここに警察に来られては大事になる。すべてはつや子の計算どおりだ。
三
「あんたたちは、もう逃げられないよ。人攫いと殺人鬼、鬼に取り憑かれて狂った異人の小娘。それぞれ警察と病院の牢屋に入れられて、めでたしめでたしってわけさ。それとも鬼の姿のまま小娘を連れて逃げまわるかい?」
けらけら笑うつや子に、ほういうことかと進之丞は言った。
「要するに、貴様は誰ぞに構てもらいたいんじゃな?」
つや子は笑いを引っ込めると、進之丞をにらんだ。
「馬鹿を言わないでおくれ。あたしがどうして人に構ってもらわないといけないのさ? あたしが構ってやってるんであって、あたしが構ってもらうことなんかないわさ」
「じゃったら、なして姿を見せた? あしらを貶めるぎりなら、何も姿を見せいでも、隠れて警察が来るんを眺めておればよかろ?」
「本当のことを教えてやって、お前たちが苦しむ姿が見たいのさ」
「見たいんやのうて、見てもらいたいんじゃろ?」
進之丞が笑うと、つや子は顔をゆがめた。
「何を抜かすか、この鬼の風上にも置けない腐れ鬼めが! お前よりあたしの方が上だって、まだわからないんだね」
「あしより上? そこでヤモリみたいに張りつきよることを言いよるんか? こそこそ逃げまわる以外、己じゃ何もでけんくせに」
つや子がきぃっと牙を剥くと、その頭からにょきりと角が生えた。
「やっぱし鬼か。ほれも口先ぎりのひねくれ者。貴様、天邪鬼じゃな」
「あたしは、そんな名前じゃない!」
「思い出したぞ。あしに千鶴を喰らうよう唆したんは貴様じゃったな。あん時と姿は違ても、発せられとる気ぃが対ぞ」
え?――と千鶴は進之丞と天邪鬼の顔を見比べた。進之丞は天邪鬼に顔を向けたまま、横目で千鶴を見て言った。
「寺でお前に饅頭をもろたあと、あしはお前の優しさにしばらく呆けたままじゃった。ほん時に此奴が現れて、ほんなに優しさがええんなら、その娘を喰ってしまえば、娘の優しさはお前ぎりのものと言いおった。愚かなあしはほれを名案じゃと思てしもたんよ。今思えば、己が情けのうて恥じ入るばかりぞな」
やはりこの女が裏で糸を引いていたのかと、千鶴は天邪鬼に怒りの眼差しを向けた。
「進さん所のお女中のふりして、おらに進さんを疑うよう唆したんもあんたじゃ。みんな、あんたに騙されたんじゃ!」
二人に詰られた天邪鬼は、やれやれとため息をついた。
「どいつもこいつも、何言いがかりつけてんだい。元々あんたに進之丞を疑う気持ちがあったんだろ? あたしはその気持ちを膨らませてやっただけじゃないか。そっちの馬鹿鬼にしたってそうさ。あの娘が欲しいって言うから、じゃあ喰っちまったらどうだいと、背中を押してやっただけなのに、それを何だい、全部こっちのせいにして」
腹立たしさが募っているのだろう。進之丞は天邪鬼に牙を剥いて言った。
「千鶴を失うたと思いよったあしに、千鶴が風寄で生きておると、わざに教えに来たんは貴様じゃろが」
「落ち込んでるお前に朗報を伝えてやっただけじゃないか。あの時、大喜びしたのを忘れたのかい?」
「千鶴を喰ろうたとこで、千鶴の優しさが手に入らぬのを貴様はわかっとったろが? わかった上であしを唆し、あしらが共倒れになるんを眺めよったんじゃろが」
「何とでも言うがいいさ。どっちみち、お前たちはおしまいだよ。前みたいに、みんなまとめて奈落の底へ落ちるがいい」
天邪鬼が言ったとおり、ここへ巡査が向かっているのであれば、急いでここを離れねばならない。だが、天邪鬼は簡単に逃がしてくれそうにはなかった。
「愚かな奴め。あしも愚かじゃったが、貴様はほれ以上の愚か者よ。貴様にはお不動さまも手を焼いておいでよう」
千鶴は焦っていたが、進之丞は平然としている。
「お不動さま? 鬼のくせに何がお不動さまだ! ふざけんじゃないよ」
「あしはもう、かつての荒くれた鬼やない。あしの中にはお不動さまがおいでるんぞ。そのことに、あしは気ぃがついたんじゃ」
天邪鬼は下品な声を出して笑った。
「鬼の中にお不動さまだって? 笑わせないでおくれ。お前はそこの娘にのぼせ上がって、狂っちまった哀れな鬼なのさ!」
天邪鬼の挑発には乗らず、進之丞は穏やかに言った。
「聞け、天邪鬼よ。お不動さまはな、誰の中にもおいでるんぞな。そがぁして、その者を正しき道へ導こうとしんさるんじゃ。貴様の中にもお不動さまはおいでるぞ。ただ、ほれに貴様が気ぃつかんぎりぞな」
「ふざけたことをお言いでないよ! あたしのどこにお不動さまがいるって言うんだい!」
興奮する天邪鬼を、進之丞は哀れみの目で見つめた。
「貴様、これまでちぃとでも胸が痛なったことはないんか? 貴様が喰ろうた者らも、胸が痛なったことがあろうが」
「あたしが胸を痛めるなんてことは、これまで一度もないねぇ。お前とは鬼の出来が違うのさ」
聞く耳を持たない天邪鬼に、進之丞は尚も言った。
「胸の痛みいうんはの、お不動さまの痛みぞ。お不動さまは御自身の胸の痛みを通して、その者を導こうとしておいでるんぞな。あしは千鶴を想ううちに、ほれがわかったんぞ」
「戯けたことを! 鬼のくせに坊主にでもなったつもりかい?」
「貴様はほんまは寂しいんじゃろ? 独りぼっちなんがつらいんよな。やが、ほれを認めるんが怖いのよ。認めてしもたら己が惨めになると恐れとろ?」
天邪鬼は牙を剥き出して言い返した。
「誰が寂しいんだって? 独りぼっちの何が悪いんだい! あたしゃ一人でいるのが好きなのさ。だいたいね、誰かを信じるなんて馬鹿げたことさね。みんな、自分ばかりが大事なんだ。それが人間ってもんなのさ。口でどんなにきれい事を言ったって、そんなの全部嘘っぱちなんだよ!」
「人は過ちを犯して人を苦しめ、己自身をも苦しめる。やがの、過ちを許し許されることで、人は苦しみから解き放たれるんぞ」
「偉そうなことを! 許し許されたら苦しみから解き放たれる? だったら、お前はどうなんだい? まだ鬼のままじゃないか! そういうのをきれい事っていうのさ。わかった風なことを抜かすんじゃないよ!」
進之丞が口籠もると、今度は千鶴が代わって言った。
「人間に戻りたいけん許すとか許されるとか、この人はそげな下心があって言うとるんやないんよ。勘違いせんといて!」
「何がこの人だい。こいつは人じゃなくて鬼じゃないか!」
「あんたはほんまに可哀想な鬼やな。この人は優しさが欲しかったてちゃんと認めとるのに、あんたはそげなこともでけんで人の幸せ妬んでばっかしじゃ! 幸せが欲しいんなら人の幸せ壊すんやのうて、幸せになりたいんじゃて素直に認めたらどがぁね」
「うるさい、うるさい! あたしゃ幸せなんか信じないよ! 幸せなんて全部偽物なのさ! そんなもの存在するもんか!」
天邪鬼はがさがさと大天守から這い降りると、千鶴たちを威嚇した。進之丞は千鶴を護るように前に出た。
「存在するなら、幸せを手に入れたいと申すのか?」
「違う違う! 幸せなんか全部紛い物だって言ってるんだよ!」
興奮する天邪鬼は狼狽しているようにも見える。千鶴は進之丞の横に並んで言った。
「おらはこの人と一緒におれて幸せぞな。この人が鬼であろとなかろと、そげなことは関係ない。たとえ死んでも、この人とのつながりはずっと残るんよ。ほじゃけん何があっても、おら安心しよらい」
進之丞は千鶴の肩を抱いて言った。
「こげなことを申してくれる千鶴と縁があったことを、あしは心の底から幸せに思とる。たとえこの命が奪われようと、決してこの幸せはめげたりはせぬ」
嘘だ!――天邪鬼は完全に鬼の姿になると千鶴を罵った。
「お前なんか人殺しのくせに! お前がこいつを殺して鬼にしたんじゃないか。お前のせいで、こいつは鬼になったんだよ!」
やめて!――千鶴は耳をふさいでうずくまった。だが天邪鬼は尚も千鶴を責め続けた。進之丞が千鶴を抱きながら、やめろと言っても天邪鬼は聞こうとしない。千鶴は己の罪に押し潰されそうになり、その場に泣き崩れた。
「貴様、許さぬ!」
進之丞は天邪鬼を凄い形相でにらみつけた。その体はみるみる膨れ上がり、帯は千切れて着物は破れ落ちた。
怒りの咆哮が城を震わせた。千鶴が顔を上げた時には手遅れだった。そこには猛り狂った巨大な鬼が、今にも襲いかからんと天邪鬼に牙を剥いていた。
千鶴は鬼をなだめようと必死で叫んだが、もはや鬼の耳に千鶴の声は届かなかった。
四
風は強まり、近くに迫った黒雲が月を呑み込もうとしている。
月が隠れて辺りが闇に包まれれば、状況は天邪鬼に有利だと思われた。月の光があるうちに、天邪鬼を何とかしなければならない。
鬼は天邪鬼を追い詰めながら捕まえようとするが、天邪鬼の動きは鬼よりも素早かった。あと少しというところで、さっと鬼の手から逃れてしまう。後ろへ回ったかと思えば、ひらりと大天守に張りつき、次の瞬間にはぴょんと飛び降りて鬼の脇を走り抜ける。まるで牛若丸と弁慶だ。
鬼の脇を抜ける際に、天邪鬼は鬼の足を爪で引っ掻いたり、咬みついたりして傷つけた。だが、その程度で鬼は倒せない。力の差は歴然としているので、まともに戦えば天邪鬼に勝機はない。それでも天邪鬼が姿を眩まさずに逃げまわっているのは、警察が来るまでの時間稼ぎをしているのだろう。
少し焦りが見える鬼はいらだったように腕を振りまわし、外曲輪の樹木は多くの枝が叩き折られた。また地面は鬼が動きまわるたびに、あちらこちらが大きくえぐれた。
鬼と天邪鬼が争っている間、千鶴は倒れていた井上教諭を助け起こして、安全な場所へ移動させようとした。けれども教諭は進之丞に折られた肋を天邪鬼にも蹴りつけられて、傷がさらに悪化したらしい。息をするのもつらそうで、下手に動かすと教諭は激しく痛がった。そのため千鶴はなかなか教諭を動かせなかった。
それでも今がどんな状況なのかは、井上教諭もわかっていた。申し訳ないと言いながら痛みを堪え、何とか千鶴の肩を借りて立ち上がった。だがいくら痩せているといっても、やはり男一人の体は重い。千鶴は天神櫓の陰へ隠れるつもりだったが、思ったように速くは動けなかった。
「ほらほら何やってんだい。早く捕まえないと、じきに警察が来るよ」
鬼をからかう天邪鬼は、井上教諭と千鶴を見るとにやりと笑った。
鬼の攻撃をひらりと躱すと、天邪鬼は鬼に向かって言った。
「この場に巡査が来たら面白いって思ったけど、もっと面白いことを考えたよ」
鬼は引き抜いた樹木を天邪鬼に投げつけた。天邪鬼は素早く大天守に這い上り、樹木は石垣にぶつかり落ちた。
天邪鬼は大天守の壁に張りつきながら、鬼に言った。
「さっきお前たちは、死んだって幸せだってほざいてただろ? それが本当か、今から確かめてあげようね」
天邪鬼は大天守から飛び降りると、落ちていた小刀を拾い上げて千鶴たちの前に来た。教諭に肩を貸しているので、千鶴は動けない。鬼は慌てて千鶴を護ろうとしたが、けけっと笑った天邪鬼は、小刀を千鶴の胸に向けて飛びかかった。千鶴は逃げることもできず固まった。
向かって来る小刀は避けられない。死を覚悟する余裕もなく、千鶴は思考が止まったまま迫る小刀を見るばかりだった。ところが小刀が千鶴に届くと見えたその刹那、井上教諭が千鶴を突き飛ばした。天邪鬼の小刀は千鶴ではなく教諭の胸を貫いた。
一瞬驚いた様子の天邪鬼の腕を、教諭は両手でしっかりとつかんで言った。
「これ以上……、お前の好きに……させる……もの……か」
天邪鬼はきぃっと教諭をにらんで蹴り倒したが、上から伸びて来た鬼の手に捕まった。
「先生!」
千鶴は井上教諭に駆け寄ったが、教諭はにらんだ顔のまま動かない。教諭の胸はどんどん黒く染まっていく。千鶴は教諭を抱き起こして何度も声をかけた。だけど教諭は何も言ってくれなかった。
一方、天邪鬼は小刀を振りまわし、鬼の指に咬みついた。しかし、鬼が天邪鬼をつかんだ手を握りしめると、ぎぇぇと絶叫した。ぼきぼきと骨が折れる音が聞こえ、天邪鬼はぐったりとなった。鬼は両手で天邪鬼をつかむと、そのまま引きちぎろうとした。
「やめて、殺したらいけん!」
千鶴は教諭を抱きながら鬼に叫んだ。今度は千鶴の声が聞こえたようで、鬼は両手で天邪鬼をつかんだまま恨めしそうに千鶴を見た。
「そこまでにしとくんよ。殺したらいけんぞな。ほれとも、もう死んでしもたろか?」
千鶴は教諭の体をそっと寝かせると、涙を拭いて鬼の傍へ行った。
鬼は天邪鬼を千鶴に見せた。天邪鬼はぐったりしているが、かすかに呻き声を出している。まだ生きているらしい。
「もういけんかもしれんけんど、とにかく殺生はいけんぞな」
千鶴が悲しみを堪えながら言うと、鬼は天邪鬼に歯を剥き、再び悔しげな咆哮を上げた。それから腹立たしげに天邪鬼を南の門の方へ投げ捨てた。天邪鬼は二ノ門と三ノ門の間にある壁にぶつかり地面に落ちた。
千鶴は早く元の姿に戻るよう鬼に促すと、再び井上教諭の傍へ駆け戻った。だが教諭はにらんだ顔のまま事切れていた。
「先生……。先生みたいなお人が、なしてこがぁなことに……」
千鶴は泣きながら教諭の目を閉じてやり、体を真っ直ぐにして、両手を腹の上で組ませてやった。それから教諭の亡骸に向かって手を合わせ、命を救ってくれたことを感謝した。また、自分が教諭を引き込んでしまったことを詫びた。
「嫌だ……、嫌だよ……」
か細く泣きそうな声が聞こえた。見ると、天邪鬼が石垣に縋りながら、必死に体を起こそうとしていた。しかし、すぐに転がるように倒れると、悲しげな声でつぶやいた。
「死にたくない……。死ぬのは嫌だ……。地獄なんか……行きたくないよ……」
天邪鬼は二ノ門の方へずるりずるりと這って行く。動ける状態ではないだろうに、死から逃れようとする凄まじい執念だ。その様子を見ながら、鬼は悔しそうに唸っていた。
「進さん、何しよんね。早よ元の姿に戻らんと警察が来るで!」
千鶴は涙を拭いて鬼に声をかけると、急いで進之丞の着物や帯などを拾い集めた。
「誰か……、誰か……」
取り憑く相手を求める天邪鬼の声は、辛うじて聞き取れるほど小さく哀れだった。取り憑ける者がいなければ、天邪鬼も死んで地獄へ堕ちるのだろう。天邪鬼はそれが嫌で、これまで何人もの人間に取り憑いてきたのだ。だけど、それもこれで最後である。
天邪鬼が向かう地獄がどんな所か知らないが、救ってくれる者が現れなければ、きっと未来永劫にその地獄に留まることになるのだろう。
二ノ門の向こうに天邪鬼が転げ落ちると、千鶴は鬼を振り返った。鬼はまだそのままの姿だ。
「どがぁしたん? なして元の姿に戻らんの?」
鬼は困惑のいろを浮かべながら何か言おうとした。でも、出て来たのはもう言葉にはならない唸り声だった。
「進さん、ひょっとして戻れんなってしもたん?」
以前に進之丞は鬼になるのを繰り返していれば、人には戻れなくなると言っていた。それで為蔵夫婦が殺された時に、鬼に変化した進之丞は人間に戻れなくなったと千鶴は考えていた。ところが、ここで再会した進之丞は人の姿だった。だから、もう一度人間に戻れると思ったのに、ついに限界が来たようだ。
「ほんな……、やっと……、やっと逢えたのに……」
千鶴の目から再び涙があふれた。ぽつりぽつりと降り始めた雨が、涙と一緒に千鶴の顔を濡らしていく。
「うわぁ、化け物じゃ!」
突然、男の声が聞こえた。一ノ門辺りに誰かがいるらしい。外へ這って出ようとした天邪鬼を見つけたのだ。騒ぐ声からすると、いるのは複数のようだ。恐らく天邪鬼が呼んだ巡査たちだろう。
本壇から出られるのは、巡査たちがいる所だけだ。他に逃げ道はない。千鶴たちは逃げる機会を失ってしまった。
「進さん」
千鶴はあきらめて鬼を見上げた。生きるも死ぬも一緒だと覚悟を決めていた。千鶴たちの脇を、雨交じりの風が吹き抜けて行く。
鬼は千鶴を胸に抱えると、巡査たちがいるのとは反対の、北側の土塀を跳び越えた。ふわりと宙に浮いた感覚のあと、ずしんと地面に落ちた振動が、鬼の体を通して千鶴にも伝わって来た。
下はまだ本丸だが本壇の外だ。取り敢えずは巡査たちから逃げることができた。ただ、井上教諭の亡骸がそのままだった。千鶴は鬼に抱かれたまま本壇に向かって手を合わせ、教諭を置いて行くことを心の中で詫びた。
どこからか、うわわと言う男の声がした。鬼と千鶴が声の方を振り向くと、猟銃を抱えて提灯を手にした男が、腰を抜かしたのか地面に尻餅をついている。途端に月が黒雲に隠れて、辺りは真っ暗になった。明かりといえるのは、男が持った提灯の灯だけだ。
雨は急速に強まり始め、千鶴たちの体を濡らしていく。
鬼を見て驚いた男は、月が隠れるまでのわずかの間に、鬼に抱かれた千鶴が見えたらしい。男は千鶴に呼びかけた。
「千鶴? 千鶴か?」
男の顔は見えないが、震えたようなその声は甚右衛門だ。
「おじいちゃん?」
「やっぱし千鶴か。くそっ、鬼め。お前なんぞに千鶴を連れて行かせるかい!」
甚右衛門は提灯を地面に置いた。暗くてよくわからないが、猟銃を構えようとしているようだ。
「おじいちゃん、違うんよ。この鬼は悪い鬼やないんよ!」
千鶴が必死に叫んだが、ばりばりと雷鳴が轟いて千鶴の声はかき消された。
目映い閃光が走り、辺りが明るくなったと思った刹那、どーんというけたたましい轟音が、そこにあるものすべてを震わせた。
光の中で、猟銃を持って立ち上がった甚右衛門の目と、千鶴、そして鬼の目が合った。
改めて見上げた鬼に気後れしたのか、甚右衛門は猟銃を撃つ間もなく、辺りは再び闇に呑み込まれ、ざーっと打ちつけるような雨が降りだした。
千鶴は鬼のことを甚右衛門に伝えようと何度も叫んだ。だが雨音に消された千鶴の声は、甚右衛門には救いを求める叫びに聞こえたようだ。
「千鶴、待っとれよ。今助けてやるけんな!」
「やめて、おじいちゃん、やめて!」
旦那さん――鬼はそう言おうとした。千鶴にはそれがわかった。だけど、鬼の声は唸り声にしかならなかった。
鬼が千鶴を渡そうと甚右衛門に近づいた時、すぐ近くに雷が落ちた。凄まじい轟きと目も眩む閃光がほぼ同時に辺りを包み込み、一瞬時が止まったかに思えた。
白い光の中で、千鶴たちに銃口を向けたまま、驚いて目を見開いた甚右衛門の顔が見えた。思ったよりも鬼が近くに迫っていたため、恐怖で固まったらしい。それは甚右衛門の思考が止まっていることを意味していた。
あっと千鶴が思った時、雷鳴の余韻を切り裂く猟銃の音が聞こえた。辺りは再び闇に包まれ、あとに聞こえるのは激しい雨音だけだった。
五
千鶴は鬼に包まれるように抱かれていた。
鬼が跳び上がったのか、千鶴は宙を飛んでる感じがした。続けて、ずしんと鬼の足が地面についたと思われる振動が響く。
鬼は城山の斜面を駆け下りた。何度も木の枝が折れる音が聞こえたが、鬼の腕に護られた千鶴を木の枝が傷つけることはなかった。
相変わらず稲光が狂ったように閃光を放ち、雷鳴が轟いている。しかし千鶴は鬼の胸に抱かれていたので、鬼の腕の隙間からわずかに光を見るばかりだ。
鬼は城山の麓へ下りたあとも、止まらずに走り続けた。
雨はさらに強く打ちつけて降り、外に出ている者は誰もいない。鬼を見て驚く声はなく、激しい雨音と走る鬼の足音だけが、同じ調子で聞こえている。
雨は冷たいが、鬼の体は温かかった。その温もりは千鶴の体だけでなく、心までも温めてくれる。けれどその温もりはいつもの温もりと異なり、必死に千鶴を温めくれているようだ。
鬼の胸に耳を当てると、中で鼓動を打つ心臓の音が聞こえる。
地獄で鬼は千鶴への想いを断ち切ろうとして、己の心臓をつかみ出した。今聞こえているこの心臓の音は、自分を想ってくれる鬼の心なのだと千鶴は思った。千鶴は鬼の温もりを感じながら、じっと鬼の心臓の音に耳を傾け続けた。その心臓の音は、まるで泣いているみたいだった。
どこを走っているのかはわからない。気がつけば、鬼の荒い息づかいが聞こえた。心臓の鼓動の音も初めと比べると、どんどん速まっている。不安になった千鶴の鼓動も一緒に速くなっていく。
どれだけ走ったのだろう。長い時が過ぎていた。やがて雨音が静かになった頃、鬼の足取りは重くなっていた。
鬼が足を止めた時、再び月が顔を出した。千鶴は鬼の指の間から辺りの様子を窺った。
初めはそこがどこだかわからなかった。だが、月の光に照らされた丘へ登る石段が見えると、法生寺のある丘の麓だとわかった。
鬼は石段へは行かず、松原の近くでがっくりと膝を突いた。そこで千鶴をそっと降ろしたあと、鬼は崩れるように倒れた。
見ると、右の腰から血がどくどくと流れている。ちょうどあの赤痣の所だ。千鶴をかばったために、甚右衛門が撃った弾が当たったのだ。
「進さん、しっかりして!」
千鶴は鬼に呼びかけた。鬼は倒れたまま微笑んだ。醜い顔が涙ぐんでいる。
「おら、和尚さん、呼んで来るけん!」
千鶴が急いで石段へ向かおうとすると、鬼は小さく首を振って、千鶴の後ろへ手を伸ばした。そこには月明かりに雨の滴を輝かせる野菊の花があった。
鬼は花を摘もうとした。しかし、指が大き過ぎて花を潰すばかりだ。
千鶴は代わりに花を摘んでやり、鬼に持たせてやった。すると、鬼は花を千鶴の髪に飾ろうとした。だけど、やはりうまくできないので、千鶴は鬼を手伝いながら自分で花を髪に挿した。
「どがぁ? おら、きれい?」
涙ぐみながら微笑む千鶴に、鬼はにっこり笑った。鬼の息が荒くなってきているが、千鶴にはどうしてやることもできない。
「進さん! がんばってつかぁさい!」
千鶴は鬼の体に縋ったが、鬼の目はだんだん虚ろになっていく。
鬼は気力を振り絞ったように千鶴を見つめると、何かを言いたげに口を動かした。けれど、出て来るのは人の言葉ではなく獣の声だ。それでもその声は自分を想ってくれる鬼の気持ちだと、千鶴にはわかっていた。
「進さん、鬼さん、死んだら嫌じゃ……。お願いやけん、死なんといて……。おらを独りぼっちにせんといて……。お願いやけん……、お願いやけん、ずっと傍におってつかぁさい……」
千鶴が懇願しても、鬼は愛おしげに千鶴を見つめながら涙を流すばかりだ。
このまま鬼を死なせるわけにはいかない。千鶴は必死になって考えた。そして鬼の右腰の所へ行くと、傷に顔を押し当てて流れ出る血を飲んだ。
血だらけになった顔で鬼の前に戻ると、千鶴は言った。
「ほら! これで、おら、人でなしぞな。進さんの血ぃを飲んだんじゃけん、おら、人でなしになったんよ。やけん、進さん、おらに乗り移ってつかぁさい。鬼さん、おらと一つになって一緒に生きよ。な?」
鬼は涙をこぼしながら首を横に振った。千鶴は鬼に縋り、拳で叩いて、自分に乗り移るよう頼んだ。
鬼は手を伸ばして千鶴を抱くように包むと、消え入るような唸り声を出した。
――ありがとう。
鬼の唸り声が、千鶴にはそう聞こえた。千鶴は鬼の手を抱きながら怒ったように泣き叫んだ。
「なして? おらが頼んどるんよ? お願いじゃ、おらに乗り移ってや! おら、鬼になりたいんよ! おら、鬼娘になりたいんよ! お願いやけん、進さん、鬼さん! なぁ、進――」
鬼はじっと千鶴を見つめていた。しかし、その目は千鶴よりずっと遠くを見ているようだった。
千鶴を包んでいた手が、ずしりと千鶴に乗りかかって来た。千鶴は転びそうになりながら、その手にしがみついて鬼に呼びかけた。だけど、鬼は二度と動かなかった。
突然、鬼の体全体から赤黒い霧が湧き起こった。千鶴は鬼の手から離れると、両腕を大きく広げ、さぁ!――と言った。
「進さん、鬼さん。おらに乗り移るんよ。おらと一緒に生きよ!」
赤黒い霧は月の光に輝くような金色へと色を変えると、愛おしげに千鶴にまとわりついた。金色の光に包まれた千鶴を抱くのは、あの愛しい温もりだ。
千鶴はこのまま進之丞や鬼と一つになるつもりでいた。しかし、やがて金色の霧は千鶴から離れて人の形になった。姿を現したのは進之丞だ。
「進さん!」
千鶴は進之丞に駆け寄った。進之丞の体は宙に浮かび、向こうが透けて見える。
進之丞を見上げながら千鶴が触れあぐねていると、進之丞は千鶴に語りかけた。
「千鶴。お前のお陰で、みんな成仏でけるようになった。感謝するぞな」
「成仏? 成仏て何の話?」
「鬼は所詮、鬼じゃとあしらは思いよった。どがぁに優しいにしてもろても鬼は鬼。己が犯した罪が許されるはずがない。あしらはそがぁに考えよったんじゃ」
「あしらて……」
「申したように、鬼は怒りや悲しみ、未練や憎しみを抱えたまま、罪を犯し続けた者らの魂が集まったもんぞな。みんな己が許されるとは思とらなんだし、何より己自身が許せなんだ。己なんぞ鬼がお似合いじゃと思いよったんじゃ。されど、千鶴。お前の優しさ、お前の心が、あしらの凝り固まった想いを溶かしてくれた」
「おらの心が?」
「ほうよ。あしらを本気で想うてくれた、お前の真の優しさのお陰で、あしらはもう己を許してもええんじゃなと思えるようになったんよ。ほれ故、あしらは鬼であることから解き放たれて成仏でけるようになったんぞな」
「じゃあ、もう鬼やなくなるてこと?」
「ほうじゃ。みんな成仏して、それぞれが行くべき所へ行けるようになった。あしも含めて、みんながお前に感謝しとるぞな」
そう言うと、進之丞の姿はかき消えて再び霧に戻り、霧は四方に大きく広がった。
霧は今度は数え切れないほどの人の姿となり、みんなで千鶴に頭を下げた。その中には男もいれば女もいた。年寄りもいれば若者もいた。尼僧に化けていたあの老婆もいた。
現れた者たちは頭を下げたまま霧に戻り、そのまま消えてしまった。ただ一塊の霧だけが鬼の死骸の傍に残り、そこから進之丞の声が聞こえた。
「千鶴、お前は心の赴くままに生きよ。されば、幸せが待っていよう。申しておくが、あしを追わい求めてはならぬ。あしの後を追わっても、あしに逢うことは敵わぬぞ」
「ほれは、どがぁなこと? なして逢えんの?」
「あしはもはや過ぎ去りし記憶、過去の幻影に過ぎぬ。千鶴、今を生きよ。今にこそ、お前の真の幸せが隠されておる。本来、お前に用意されておった幸せがな」
「嫌じゃ! 行ったら嫌じゃ!」
進さん!――千鶴は霧を捕まえようとした。しかし、両腕は空しく宙を抱き、霧は消えてしまった。
千鶴は鬼の骸に縋って号泣した。すると骸がぴくりと動いた。
見ていると骸はみるみる縮んでいき、やがて人の姿に戻って忠之になった。
血だらけの腰の傷から大きな銃弾がぽろりとこぼれ落ちると、忠之は一度だけ大きく息を吸った。でも、すぐにまた動かなくなった。
千鶴は急いで石段を駆け上り、知念和尚を呼びに行った。
終わりのない悲しみ
一
法生寺に運ばれた忠之は奇跡的に息を吹き返した。だが、ほとんど仮死状態で呼吸も脈も著しく遅かった。
まだ外は暗かったが、知念和尚は寺男の伝蔵を北城町まで医者を呼びに走らせ、安子に清潔な木綿布を用意させた。安子が木綿布を持って来ると、和尚はその布を忠之の傷に当てて、上からしっかりと押さえ込んだ。これ以上の出血を防ぐためだ。
千鶴は医者が来るまでの間、忠之が実は前世で夫婦約束をした進之丞であり、進之丞が鬼になってしまったことや、今まで自分たちを助けてくれたことを和尚夫婦に話した。またすべての事件の犯人は天邪鬼で、天邪鬼を成敗した進之丞が甚右衛門に猟銃で撃たれたことを、泣きながら説明した。
殺人犯として追われていた忠之が、こんな形で見つかって和尚夫婦は驚いた。そこに加えて千鶴の話はさらに二人を驚かせた。けれど二人は千鶴の話を疑わなかった。現に瀕死状態の忠之が、松山にいたはずの千鶴と一緒にここにいるからだ。
和尚と安子は動揺して泣き続ける千鶴を慰め、忠之はきっと大丈夫だからと言った。
間もなくして到着した医者は、眠たげな顔で忠之の状態を確かめながら、どうしてこの男はこんな怪我をしたのかと訊ねた。
千鶴が説明できずにいると、山でイノシシに襲われたらしいと知念和尚が言った。医者は何でまたこんな時刻に山にいるのかと訝しみながら、忠之の腰の傷を丹念に調べた。
知念和尚が傷を押さえてくれていたからか、出血はほとんど止まっていた。だが、電灯の下で見る忠之の顔も体も血の気が失せて白っぽく、出る血がなくなったので血が止まったようにも思われた。
「ちょうど赤痣の所を傷つけてしもたけん、血ぃがようけ出たんじゃろ。ほれはともかくやな、この傷はイノシシの傷とは思えんが、はて?」
医者は消毒した指を傷口の中へ差し込んだ。千鶴も和尚たちも思わず顔をしかめたが、医者は涼しい顔で傷の深さを確かめた。
「鉄砲で撃たれたんかと思たが、弾はないようやな。ほれと傷は深いけんど内臓までは届いとらんな」
「イノシシの長い牙でやられたろうか?」
知念和尚が惚けて喋ると、違うなと医者は言った。
「イノシシの牙でやられたんなら引き裂かれとろ。ほれにイノシシは噛むけん、他の傷もあるはずぞな」
「じゃったら何じゃと思いんさる?」
「ほうじゃな……。何ぞ長い物を突き刺したんかもしれまい。転んだ拍子に枯れ枝が刺さったとか」
「なるほど。ほうかもしれん」
医者は顔を上げると、和尚に訊ねた。
「ほれにしても、なしてこの男はこげな時刻に山で怪我をするんぞな?」
「ほれは……」
和尚が口を濁すと、医者は三人の顔を見まわし、もう一度忠之を見た。
「ひょっとして、この男……」
医者が眉間に皺を寄せると、和尚も安子も即座に忠之は無実だと訴えた。
「この子は何もしとらんけん。みんなが疑うけん、この子は山に隠れよったんぞな」
「この子が山陰の者やなかったら、逃げたりしませんでした」
必死に喋る和尚たちを制して、医者は言った。
「心配せいでも誰にも言わんけん。この男が何者であれ、わしにとっちゃあ一人の患者に過ぎん」
医者の言葉に和尚たちが安堵しかけると、ただな――と医者は言った。
「恐らくこの男は助かるまい。あまりにも血ぃが出てしもとる。傷に指突っ込んでもちっとも痛がらんのは、死にかけとるいうことぞな」
和尚夫婦は顔を強張らせ、言葉を失った千鶴は顔をゆがめた。千鶴を見た和尚は、医者に懇願するように言った。
「先生、何とかならんのかなもし」
医者は手を拭きながら力なく言った。
「悪いが、わしにでけることは何もない。まことに申し訳ない」
ほんな――と千鶴は絶望に泣き崩れた。千鶴にとって忠之はまだ進之丞だった。
知念和尚と安子は改めて手を尽くすよう医者に頼んだ。しかし医者は申し訳ないと言うばかりで、診察鞄を手に持つと千鶴たちに頭を下げた。
伝蔵に提灯持ちを頼み、医者を送り出した知念和尚と安子は、できるだけのことをしてみようと嗚咽する千鶴を励ました。
和尚たちの言葉にうなずくと、千鶴は口移しで忠之に水を飲ませてやった。すると、忠之はごくりと飲み込んだ。忠之はまだ生きようとしていた。和尚と安子は興奮した顔を見交わした。
忠之の体は死人みたいに冷たかった。知念和尚は忠之を温めるため布団を重ねた。それから千鶴に忠之の傍にいてやるよう頼むと、湯たんぽを用意しに行った。
安子は千鶴の濡れた着物を着替えさせると、忠之に食べさせるお粥を作りに台所へ向かった。
二人がいなくなると、千鶴は着替えたばかりの着物を脱いで布団に入り、忠之を抱いて自らの肌で温めた。千鶴も雨で冷えてはいたが、忠之の体はひんやり冷たかった。
忠之を抱きしめても、いつもであれば感じられるあの温もりが感じられない。忠之が死にかけているからかもしれないが、忠之が進之丞ではない証にも思える。
姿形は進之丞と同じでも、もはやこの人は別人なのだと思うと、千鶴は悲しくなった。
それでも一縷の望みとして、忠之が無事に生き延びて目を覚ました時に、そこに進之丞がいることを千鶴は期待していた。そのわずかな期待が、今の千鶴を何とか支えてくれていた。そのためにも忠之を死なせるわけにはいかなかった。
知念和尚が湯たんぽを持って来ると、千鶴は忠之から離れた。布団に千鶴の温もりは残ったが、忠之の体は冷たいままだ。
布団から出た千鶴が裸だったので、和尚は慌てて湯たんぽを落としそうになった。
和尚は顔を横に背けたまま千鶴が着物を着るのを待ち、湯たんぽを二つ千鶴に渡した。
「千鶴ちゃんも体が冷えとるけん、これを抱いとりんさいや」
布でくるんだ湯たんぽを千鶴に渡すと、和尚はお茶を淹れに再びいなくなった。
湯たんぽから伝わる温もりは、和尚夫妻の温もりのようだ。今の千鶴にはこの温もりは何物にも代えがたかった。
忠之の布団に一つを入れたあと、千鶴はしばらく湯たんぽを抱いていた。でもすぐにそれも忠之の布団に入れてやり、もう一度忠之に口移しで水を飲ませた。気持ちは進之丞を介抱しているつもりだった。
しばらくしたら、知念和尚が急須と湯飲みを載せたお盆を持って戻って来た。
忠之の枕元に座る千鶴の傍らで、和尚は急須のお茶を湯飲みに注いだ。それを千鶴に手渡すと、残りを自分の湯飲みに注いだ。
振り返れば、畑山の死を確かめるために病院を出て以来、千鶴は何も口にしていなかった。一口飲んだ熱いお茶は、千鶴に日常の香りを思い出させてくれた。それは懐かしく悲しい香りだった。
前世で死に別れた二人が今世で再会し、困難を乗り越えながらここまで来た。そしてつい四日前、進之丞は祖父たちに頭を下げ、千鶴をもらいたいと言ってくれた。なのに今はもういない。本当なら今頃は、千鶴は進之丞の嫁として風寄を訪れていたのだ。
湯飲みを持ったまますすり泣く千鶴を、知念和尚は黙ったまま見守っていた。初めの千鶴の説明では、本当のところは状況がよくわからなかったと思われるが、和尚は何も訊かず、千鶴が泣くに任せていた。
やがて安子がお粥を運んで来ると、千鶴は口移しで忠之に食べさせてみた。すると、忠之はそれも飲み込んだ。
千鶴は泣くのを忘れ、夢中になって忠之にお粥を食べさせた。ただ、意識がない者に大量には食べさせられない。間違って喉を詰めたり、胸に入ってしまうと大事になる。
時折忠之がむせると、千鶴は慌てて背中をさすってやり、ごめんなさいと詫びた。
和尚夫婦が千鶴にもお粥を食べるよう促、千鶴は根気よく忠之にお粥を与えながら、自分も同じお粥を口にした。
「今はこれぐらいにしとこうわいね」
しばらく忠之にお粥を食べさせたあと、安子が言った。千鶴はお椀を置いた。
食べさせられたのは、わずかのお粥だ。だけど、忠之は食べてくれた。それは千鶴にとって、かすかな希望の光となった。
千鶴は知念和尚と安子に向き直ると、これまでのことを改めて洗いざらい語った。和尚たちには驚きの連続だが、二人は千鶴の話を素直に信じてくれた。
知念和尚と安子が知る忠之は、二年の間、進之丞に心身ともに乗っ取られた状態にあった。なのに二人とも進之丞を不憫に思い、知念和尚は進之丞のためにお経を上げてくれた。
お経を終えた和尚は、昨日為蔵とタネの葬儀を執り行い、二人は山陰の者たちの墓地に埋葬されたと千鶴に話した。その同じ日に、進之丞が天邪鬼を倒して二人の仇を取ってくれたのだなと、和尚は着物の袖で目頭を押さえ、安子も黙ったまま涙ぐんだ。
為蔵とタネの死は悲しいものだが、忠之にとっても重大な出来事だ。忠之が運よく生き延びられたとしても、そこに待っているのは最悪の悲劇なのだ。
けれど、千鶴はまだ忠之を思いやる気持ちが持てなかった。頭の中は進之丞のことばかりで、進之丞が心と体を奪っていた忠之には、申し訳なかったという気持ちすら湧いてこなかった。
少し寝なさいと言われ、千鶴は忠之の隣に敷いてもらった布団に入った。しかし眠る気分ではないし、寝ている間に忠之が死んだらどうしようと思うと、不安で眠れない。
千鶴は自分の布団を抜け出すと、忠之の布団に入って添い寝をした。でも、やはり進之丞の温もりは感じられないし、忠之の体は冷たいままだ。
忠之が生き延びるよう不動明王にお願いしたが、それ以外はこれまでのことが頭の中に繰り返し浮かんでくる。思い浮かぶのは、畑山や井上教諭の死などつらいことばかりだ。中でも一番つらいのは、前世で進之丞の命を奪ってしまったことだった。進之丞を包丁で刺した感触が蘇ると、千鶴は体は震えて涙が止まらなかった。
忠之の右腰にある赤痣は、千鶴が刺した傷と同じ場所にある。痣の形も刺された傷のように見える。きっとあの痣は進之丞の無念が形になったものに違いない。そこを祖父に猟銃で撃たれて進之丞と鬼は死んだ。撃たれたのが痣でなければ助かったかもしれず、今度のことも自分のせいだと千鶴は泣きながら自分を責めた。
二
松山では、千鶴が鬼に攫われたと甚右衛門たちが打ちひしがれているに違いなかった。そのため千鶴が無事で法生寺にいると、急いで伝えてやる必要があった。
夜が明けると、知念和尚は春子の実家へ電話を借りに行ってくれた。春子の実家は寺からさほど遠くはない。しかし、和尚が戻って来たのは思ったよりも遅かった。和尚は疲れた顔で、村長たちからいろいろ訊かれて往生したと言った。
電話の先は伊予絣の同業組合事務所だ。甚右衛門たちは組合長の世話になるという話だったので、組合長に言えば甚右衛門たちに話が伝わると知念和尚は考えていた。
ところが事務所に組合長は出て来ておらず、和尚は代わりに出た者に言伝を頼んだ。千鶴が忠之に会うために、夜の間に雨の中を一人で風寄まで歩いて来たというものだ。甚右衛門が聞けば嘘だとわかる話なので、とにかく千鶴ちゃんは寺におると伝えてほしいと強調して和尚は電話を切った。
その話を和尚の横で修造たちがずっと聞いていたらしく、みんなで千鶴を慰めに来ると言うのをなだめるのに時間がかかったそうだ。
そうして知念和尚が伝えた話が、果たして甚右衛門に伝わったかどうかは定かではなかった。伝わったところで、本気にしてもらえるかもわからなかった。
だがこの日の昼前に、甚右衛門はトミと幸子を連れて三人で乗合自動車で風寄へやって来た。
法生寺を訪れた甚右衛門たちは、何が起こったのかをまったく知らなかった。唯一わかっていたのは、千鶴が鬼に連れ去られたということだけだ。三人は法生寺には来たものの、千鶴がここにいるという話には半信半疑に見えた。
甚右衛門たちは不安げな顔のまま、安子に案内されて部屋に入って来た。そこで千鶴を見つけると驚きを隠さずに駆け寄って、本物の千鶴なのかと確かめた。
そのあと、近くの布団で寝ているのが忠七だとわかると、これはどういうことかと、三人とも戸惑いと不審のいろを浮かべた。
何故忠七がここにいるのかと訊ねられても、千鶴は涙が出て返事ができなかった。知念和尚は千鶴に代わって、実はな――と鬼の正体は忠七だったと三人に話した。
とはいえ、いきなりそんな話を聞かされても信じられるわけがない。鬼は千鶴を攫った魔物であり、忠七は千鶴や山﨑機織を護り続けた、千鶴の夫となる男なのだ。
「これは、あなたが猟銃で撃ちんさった傷ぞな」
知念和尚は忠之の右腰の傷を甚右衛門に示し、忠之の体から出て来た銃弾も見せた。甚右衛門は和尚から手渡された銃弾を確かめ、もう一度忠之の傷を見た。
城山での出来事を、甚右衛門はまだ知念和尚たちには話していなかった。なのに和尚から猟銃の話をされて愕然としていた。
甚右衛門は千鶴を見ると、ほうなんかと言った。千鶴が涙ぐんで黙ってうなずくと、甚右衛門はうろたえた。だが、まだ信じられないのかトミたちと戸惑う顔を見交わした。
話せば長くなるがと前置きをした知念和尚は、千鶴が前世で鬼に狙われていた話や、進之丞が千鶴を救おうとして鬼になった話をした。また前世で鬼として死んだ進之丞が今世で忠之の体に乗り移り、これまで佐伯忠之として生きていたと説明した。
黙って聞いてはいるものの、甚右衛門たちの顔にはまだ疑いのいろが浮かんでいる。
和尚は、前世で千鶴が鬼に襲われて、進之丞が鬼になった背景には、天邪鬼の存在があったと告げた。けれど、甚右衛門たちには天邪鬼がよくわからない。
「天邪鬼いうんは素直やないぎりやのうて、人の幸せを妬むらしいんぞなもし」
安子の説明に和尚はうなずき、山﨑機織を襲った数々の出来事は、すべて天邪鬼が仕組んだことだ話した。
「天邪鬼は男にも女にもなれるが、今は女に化けとるそうな。東京では横嶋つや子と名乗っとったらしいぞな」
甚右衛門たちはつや子の名前に顔をゆがめた。つや子が魔物だったと説明されたことで、三人はつや子の異常性に納得して天邪鬼の存在を受け入れた。しかし、天邪鬼が松山では坂本三津子という名前も使っていたと聞かされると、みんなが目を見開いた。
「何じゃと? あの女がつや子で天邪鬼じゃったと?」
思わず甚右衛門は叫んだ。トミと幸子は声も出ないほど驚愕している。
天邪鬼が三津子となって山﨑機織に入り込み、千鶴たちの動きを見ていたことに、甚右衛門もトミも怒りに体を震わせた。一方、幸子は大いにうろたえた。
三津子は幸子の親友ということで、山﨑機織に近づいたのだ。幸子は責任を感じながらも、三津子が天邪鬼だという事実を受け入れられないようだ。けれども三津子が天邪鬼になった経緯や、幸子がロシア兵の子供を身籠もったと、病院の院長に三津子が出任せを言った話を千鶴から聞かされると、幸子は呆然となった。
「ほれにしても、その天邪鬼いうんは、なしてそこまで千鶴にこだわるんぞな?」
トミが訝しむと安子が話を引き取り、ただでも人の幸せに腹を立てる天邪鬼には、異国の血を引く千鶴や鬼となった進之丞が、幸せになるのが許せなかったらしいと話した。
あまりの理不尽に顔をゆがませる甚右衛門たちに、知念和尚は言った。
「千鶴ちゃんは鬼になって苦しむ進之丞を、何とか人間に戻そと思てな。学校でお世話になった井上いう先生に催眠術をかけてもらい、前世で進之丞が鬼になった状況を調べてもろとったそうな」
「催眠術? そげなもんで前世でわかるんかな」
千鶴がうなずくと、いつそんなことをしていたのかとトミが驚いた顔で訊ねた。千鶴は目を伏せ、先生にご挨拶に行った時ぞなもしと言った。
「挨拶に行った時? 確か、あん時は幸子も一緒やったろがね?」
トミは幸子を見た。甚右衛門も幸子を振り返った。
幸子はうろたえた。あの時、幸子は三津子つまり天邪鬼と出かけたのだ。ごめんなさいと言って幸子が涙ぐむと、千鶴は母をかばった。
「お母さんが悪いんやないんよ。あん時、たまたま三津子さんに会うたけん、三津子さんと出かけたらて、うちがお母さんに言うたんよ」
甚右衛門はため息を一つつくと、まぁええと言った。
「ほれで、昨夜はなして城山におったんぞ? 警察出たあと、何があったんや?」
千鶴は畑山がお祓いの婆に告げられたことを話し、鬼になった進之丞を救うべく、井上教諭に催眠術をかけてもらいに行ったと説明した。だが、そのあと城山へ登ることになった理由は言えなかった。
甚右衛門は繰り返し城山に何故登ったのかと訊ねた。しかし千鶴が答えることができずに下を向くと、見かねた知念和尚が代わりに話した。
「千鶴ちゃんが催眠術を受けた時、どうやらその先生の傍に天邪鬼がおったみたいでな。先生は天邪鬼に言いくるめられて、千鶴ちゃんに鬼を殺すよう暗示をかけたらしいんよ」
驚いた甚右衛門たちは、そうなのかと千鶴を質した。
千鶴はうなずけなかった。そもそもは自分が井上教諭に催眠術を無理に頼んだのが悪いのだ。けれど否定はしなかったので、甚右衛門たちは和尚の話を信じたようだ。
「先生が教え子に、そがぁなことをさせるやなんて……」
「いくら天邪鬼がおったいうても、どがぁしたらそげなとっぽを思いつくんね」
甚右衛門とトミは憤りを隠さなかった。幸子は困惑顔で絶句している。
「先生は進さんが悪い鬼やて、天邪鬼に信じ込まされたんよ。先生はうちを鬼から護ろうとしんさったぎりなんよ」
千鶴は必死に井上教諭をかばったが、甚右衛門たちの怒りは鎮まらない。しかし、天邪鬼が東京で教諭にしたことや、天邪鬼がそれを城山で教諭に教えて嘲笑ったことを聞かされると、次第に静かになった。そして教諭が身を挺して天邪鬼から千鶴を護り、千鶴の身代わりに命を落とした話には、三人とも言葉を失って涙を流した。
「天邪鬼は進さんが退治したけんど、天邪鬼は敏捷うてな。進さんもなかなか捕まえれんかった。ほんでも、先生がご自分を犠牲にしんさって天邪鬼を押さえてくんさったけん、進さんは天邪鬼を捕まえることがでけたんよ。進さんが天邪鬼を退治でけたんは、先生のお陰なんよ」
千鶴は喋りながら城山のことを思い出して泣いた。甚右衛門たちも涙を流しながら、死んだ井上教諭に手を合わせた。
鼻をすすり上げた甚右衛門は悲しげに言った。
「結局、天邪鬼はお前らに殺し合いをさすために、城山へ登らせたんか」
「ほれぎりやなかったんよ。天邪鬼はね、井上先生をうちの誘拐犯に仕立てて、お城に警察が来るよう企てとったんよ。お巡りさんが来たら、そこには鬼になったままの進さんもおったけん、大事になるとこやったんよ」
「天邪鬼はそがぁなことまで考えよったんか……」
天邪鬼の執念に顔を強張らせる甚右衛門たちに、千鶴はためらいがちに話を続けた。
「進さんが天邪鬼を捕まえたすぐあとにね、ほんまにお巡りさんらが来たんよ。ほれで、もう逃げられんて思いよったら、進さんがうちを抱いてお城の北側に飛び降りたんよ。ほしたらね、ほしたらそこに……、そこにおじいちゃんがおったんよ」
最後の声を絞るように出した千鶴の頬を、涙がこぼれ落ちた。
ここで猟銃の話に戻ったと、甚右衛門は悟ったようだ。驚いて開けた口は何かを言おうとするが言葉は出ない。恐らく頭の中にはあの時の光景が浮かんでいるに違いない。辛うじて出て来た言葉は、ほんな――というつぶやきだった。
知念和尚は甚右衛門に向かって言った。
「鬼はな、あなたが誰なんかがわかっておってな。あなたに千鶴ちゃんを託そうとしたんじゃと。ほれで千鶴ちゃんを差し出そうとしたんやが、悲しいかな、鬼は人の言葉が話せなんだ。ほやけん、鬼の声はあなたには届かなんだんよ」
ここまで聞いて、甚右衛門は己が犯してしまった罪の重さを知ったようだ。みるみる涙ぐんだ甚右衛門は、ほうなんかと千鶴を振り返った。
千鶴が黙って小さくうなずくと、甚右衛門は忠之の手を握り、すまなんだ、勘弁してくれ――と言って泣き崩れた。
特高警察が現れた時、鬼が自分たちには手を出さずに男たちだけを連れ去った理由が、幸子ははっきりわかったらしい。トミと一緒に忠之の傍へ座り、忠之の手を握ったり体をさすったりしながら泣いた。
「最後にこの子が千鶴ちゃんをここへ連れて来たんは、鬼になってしもた自分が頼れるんは、ここぎりじゃて思たんじゃろね」
安子が着物の裾で目を押さえて言った。
「和尚、忠七を……、何とか忠七を助けてやってつかぁさい」
甚右衛門は泣きながら知念和尚に頼んだ。和尚は悲しげに首を振り、ほれは無理ぞなと言った。
どうして無理なのかと甚右衛門が食い下がると、和尚は困った顔を千鶴に向けた。
「おじいちゃん……」
千鶴が声をかけると、甚右衛門は千鶴に顔を向けた。
「忠七さんはな、もう戻らんのよ」
「戻らん? 忠七はまだ生きとるやないか」
当惑する甚右衛門に安子が言った。
「この子がこのまま助かるかどうかは、まだわからんのです。この子を診んさったお医者さまのお見立てでは、血ぃがあまりにも出過ぎてしもとるけん、恐らく助からんじゃろいう話でした」
「そがぁな藪医者、当てになるかい。もっとええ医者呼んだらええんよ。この辺りに、もっと上等の医者はおらんのかな?」
和尚と安子の顔を代わる代わる見ながら、甚右衛門は必死に訴えた。しかし和尚たちは返事ができない。千鶴は困惑する祖父に言った。
「おじいちゃん……、たとえこのお人が助かってもな、忠七さんは戻らんのよ」
意味がわからない甚右衛門に、千鶴は続けて言った。
「このお人はな、まだこがぁして息があるけんど、鬼はな……、鬼は死んだんよ」
「何? 鬼が死んだ? ほれはどがぁな――」
「鬼は死んだんよ。ほじゃけん進さんじゃった忠七さんも一緒に死んでしもた……。このお人はな、鬼が死んで離れたあとに息を吹き返しんさったぎりなんよ。顔も体も忠七さんのままなけんど、このお人は忠七さんやないんよ。おじいちゃん……、忠七さんはな、もうこの世にはおらんのよ」
「もう、この世におらん? ほんな……」
甚右衛門はひどく狼狽した。千鶴は涙を堪えながら、鬼が死んだ時の様子を甚右衛門たちに語った。
甚右衛門は両手で顔を覆うと、泣き叫びながら頭を何度も畳に打ちつけた。トミと幸子は甚右衛門を押さえたが、一緒に声を上げて泣いた。
額を赤くした甚右衛門は千鶴に体を向けて土下座をし、己がしてしまったことを詫びた。
千鶴は首を横に振ると、ええんよと言った。
「おじいちゃんは、うちを助けよとしんさったぎりやけん……。悪いんは天邪鬼で、おじいちゃんは何も悪ないんよ……。ほれにな、進さんも鬼さんも人間に戻ることができたんよ……。もう人間には戻れんて思いよったのに、ようやっと人間に戻れたんよ……。ほやけんな、もうご自分を責めるんはやめておくんなもし……。おじいちゃんがそがぁに泣きよったら、きっと忠七さんも困るぞなもし……」
甚右衛門は畳に伏せたまま泣き続けた。千鶴も泣いた。
千鶴は祖父に喋りながら、そうなのだと思っていた。進之丞は確かに死んで成仏したのである。たとえ忠之が助かったとしても、忠之は進之丞のはずがないのだ。
三
千鶴が予想したとおり、昨日、甚右衛門は警察へ行ったあと、雲祥寺へ正清の墓参りに行き、組合長の所を訪ねていた。
一方で畑山とお祓いの婆の検死に引っ張り出された院長は、病院へ戻ってもすぐには千鶴のことをトミや幸子に知らせなかった。待合所にあふれかえった多くの患者を診るのが優先されたし、すでに妻が幸子たちに伝えていると思い込んでいたようだ。
ところが院長の妻は警察への連絡でばたばたしていたため、夫が千鶴を連れ出したことに気づいていなかった。あとで病室へ来た時に、院長は幸子たちに話が伝わっていないことを知り、事件と千鶴のことを二人に伝えたそうだ。
話を聞いた幸子たちは当然ながら驚いた。千鶴が警察へ連れて行かれた話はもちろんだが、畑山が殺されたことには大きな衝撃を受けたという。
幸子はすぐに警察へ千鶴を迎えに行こうとした。ところが、よくなっていたはずのトミが再び具合が悪くなり、幸子はトミの傍を離れられなくなった。仕方なく甚右衛門が戻るのを待ったが、ようやく甚右衛門が戻ったのは日が沈みかけた頃だった。
事情を知った甚右衛門は大急ぎで警察へ向かった。しかし千鶴はすでに警察を出たあとで、警察でも千鶴の行方はわからなかった。甚右衛門は千鶴に危険が迫っていると訴えたが、事件性がはっきりしないという理由で警察は取り合ってくれなかったそうだ。
甚右衛門は千鶴はつや子の手に落ちたと疑わなかった。動揺しながら外に出ると、東の空に満月が見えた。それでトミが見た正清の夢を思い出した甚右衛門は、千鶴が月夜の城に現れると考えて城へ登ることにしたという。
甚右衛門はつや子の背後に鬼がいると信じていたため、再び組合長を訪ねて猟銃を戻してほしいと頼んだ。だが、いきなりそんな話をされても組合長が了承するわけがない。どういうことかと問われた甚右衛門は、千鶴が鬼に連れて行かれると説明したが、組合長は甚右衛門が狂ったと思ったようで、のらりくらりと話をはぐらかそうとした。
仕方なく甚右衛門は千鶴と鬼との関係や、鬼が特高警察の男たちの命を奪った話を組合長に聞かせた。またつや子を動かしていたのは鬼だと訴えたが、それでも組合長は渋り続けた。
すると、どこからか恐ろしげな咆哮が聞こえた。それは天邪鬼と対決する鬼の咆哮だったのだが、顔色が変わった組合長は甚右衛門の話を信じる気になり、自分が一緒に行くのを条件に猟銃を持たせてくれた。
甚右衛門はすぐに組合長同伴で、千鶴たちが通ったのと同じ登城道で城へ向かった。しかし夜分で足下が悪かったため、組合長が乾櫓の手前で足をくじいてしまった。その時、再び恐ろしい咆哮が聞こえて二人は恐怖に竦み上がったが、それでも甚右衛門は千鶴を救うため、組合長をそこに残して一人で本丸へ向かった。
雨が降り出し、月が雲に隠れようとしていた。本壇へ急いだ甚右衛門が紫竹門まで行くと、南から登って来た三名の巡査らしき者たちが、本壇へ向かうのが見えたという。咆哮が聞こえたからだろうが、みんなサーベルを抜いて警戒していたそうだ。
巡査を避けるために甚右衛門は乾門の方へ戻り、本壇の北側に回って様子を窺った。すると、強まった雨と一緒にいきなり上から鬼が落ちて来たと甚右衛門は言った。
あまりのことに腰を抜かしたが、鬼の腕に抱かれた千鶴を見た甚右衛門は、急いで猟銃を構えた。だが月が隠れて辺りは闇だった。そのままでは千鶴に弾が当たる恐れがあるので、引き金を引く心構えはできていなかった。ところが稲光が光った時、すぐ目の前に鬼がいたので、驚いて引き金を引いてしまったと甚右衛門は項垂れて涙をこぼした。
千鶴も泣き、みんなが泣いた。甚右衛門は何度も涙を拭いながら、あの時、確かに鬼は千鶴を差し出そうとしていたと、声を絞り出して深く悔やんだ。
しばらく嗚咽した甚右衛門は、また話を続けた。
猟銃を撃ったあとで再び稲光が光った時、そこにはもう鬼の姿はなく、千鶴の行方もわからなくなった。甚右衛門は鬼に千鶴を連れ去られたと思い、急いであとを追おうとしたが、鬼がどこへ向かったのかがわからない。それに乾櫓のすぐ下で動けなくなっている組合長を、放っておくわけにもいかなかった。
組合長の所へ戻った甚右衛門は、今の話を伝えたあと、組合長に肩を貸しながら城山を下りた。そのあと一人で城山の北へ回ったが、土砂降りの真っ暗闇の中なので、鬼が逃げた痕跡は見つけられなかった。落胆した甚右衛門は、ずぶ濡れの組合長と一緒に組合長の家に戻った。
甚右衛門は病院で待つトミと幸子に、鬼に千鶴を連れ去られた事実を告げられなかった。告げれば二人は泣き崩れるに違いなく、トミがどうにかなりそうで怖かった。
夜が明けても、甚右衛門は病院へは行かずに組合長の家にいた。すると、組合事務所の事務員が法生寺からの言伝を伝えに来た。それは千鶴が法生寺にいるというものだ。雨の中を千鶴が一人で歩いて来たという話は疑ったが、知念和尚が悪ふざけをする理由がない。とにかく藁にも縋りたい気持ちで、甚右衛門は法生寺を訪ねることにした。
組合長はすぐに三人が乗合自動車に乗るお金と、自動車乗り場までの人力車のお金を用意してくれた。その金を持って、甚右衛門は急いで病院へ向かった。
その頃にはトミの容態は落ち着いていたものの、千鶴が心配でいつまた具合が悪くなるかわからなかった。病院からは、少なくとももう二日は入院していた方がいいと言われていが、鬼に連れ去られた千鶴が法生寺にいると聞いては、トミがじっとしていられるはずがない。すぐに退院させてもらい、三人で急いで風寄へ来た。
これが千鶴がいなくなったあとの、甚右衛門たちの動きだった。
四
甚右衛門は法生寺に千鶴がいると確認できたら、組合長に連絡する約束をしていた。それで知念和尚が甚右衛門を連れて再び春子の家を訪ね、電話を貸してもらった。
甚右衛門が現れたので、村長の修造はいよいよ大事になったと思ったようだ。イネやマツと一緒に千鶴を見舞うと騒ぎだし、知念和尚は修造たちを再びなだめねばならなかった。だが結局は、翌日に修造とイネとマツが三人で寺を訪ねて来た。
応対に出た知念和尚と安子は、修造たちを玄関近くの部屋へ招き入れると、そこで千鶴と引き合わせた。
修造たちは本当に千鶴がいたことに驚きながら、口々に千鶴をねぎらった。千鶴は三人に頭を下げて座り、その隣に知念和尚が腰を下ろした。
安子がお茶の用意をしに行くと、知念和尚は困った笑みを見せて、さてと――と言った。何をどう話せばいいかわからないのだろう。千鶴も黙ったまま下を向いていたので、重い沈黙が部屋に広がった。
修造たちも何を言えばいいのか困惑していたが、まずは山﨑機織の倒産について気の毒がった。倒産の話は為蔵とタネが殺された事件の記事でちらりと触れられていたみたいだが、甚右衛門が電話を借りに行った時に、本人からも直接確かめたようだ。
三人は仰々しいほど残念がりながら千鶴を慰め、忠之の悪口を言い始めた。
実情を知らない修造たちは、これまで新聞に書かれた記事を鵜呑みにし、忠之がすべての禍の元と見ていた。やはり山陰の者には気をつけねばと言い、実は二年前の祭りの時にも、源次とその仲間が忠之に大怪我をさせられたとうなずき合った。
「源次が放っとけ言うけんそのままにしよったが、ほんまならただでは済まさんとこよ」
大袈裟に憤る修造の言い草に千鶴は愕然とした。また修造ばかりかイネとマツまで山陰の者を差別するので、千鶴は深い悲しみを覚えた。修造たちにすれば千鶴たちに同情しているつもりだろうが、千鶴にはとんでもないことだった。
黙っていられなくなった千鶴は、あの祭りの日に源次たちに手籠めにされそうになったところを、忠之に助けてもらったと説明し、悪いのは源次たちだと訴えた。
知念和尚は初耳の話に驚いたが、修造たちも当惑を隠せずに、それは知らなかったと源次たちの不始末を千鶴に詫びた。けれど、忠之は乱暴者だという認識は崩そうとせず、その話はともかく山﨑機織を倒産させるほどの大乱闘はやり過ぎだと言った。
そもそも親を殺して逃げる凶暴な男など、山﨑機織で雇うべきではなかったとも言われ、千鶴は言い返す気力すら失った。
千鶴が何も言わずに涙をこぼすと、ほれは違わいと知念和尚が言った。
知念和尚は忠之が山﨑機織のために懸命に働き、みんなに認められていたと話した。大林寺の騒動についても、忠之が男たち全員を倒していなければ、どうなっていたかを考えなさいと修造たちを諭した。
イネとマツは口籠もったが、修造は今回の殺人事件についてはどう説明するのかと食い下がった。
知念和尚は忠之は被害者であって加害者ではないと主張した。しかし修造は忠之が逃げるところを見た目撃者がいると言った。忠之が無実であるなら何故姿を見せないのかと、修造が巡査と同じ指摘をするとイネとマツもうなずいた。
和尚は反論したくてもできなかった。今は忠之の話は出せない。千鶴も唇を噛んで耐えるしかなかった。
玄関で安子を呼ぶ伝蔵の大きな声が聞こえた。すぐに安子が出て来ると伝蔵は言った。
「下の知り合いに言うて、今朝獲れたウナギをな、分けてもろたんですわい。これを忠之に食わせてやったら、元気になるんやなかろか思うんやけんど」
伝蔵が忠之の名前を口にしたからだろう。安子はうろたえた。それに気づかない伝蔵は続けて言った。
「やっぱしお寺で生臭物はいけんかなもし。うなぎは精がつくけん、忠之に食わせてやったらええと思うんやが。何じゃったらわしが外で焼いて来うわい。ほれじゃったら構んかろ? ほれとも、ほれもいくまいか?」
安子は小声で伝蔵に礼を述べ、外で焼いて来るよう頼んだ。伝蔵は嬉しそうに返事をして表へ出て行った。
修造たちは訝しげに和尚を見ると、忠之とは誰のことかと訊ねた。
和尚はもう隠しきれないと思ったようだ。ちらりと千鶴を見ると、ここぎりの話にしてつかぁさいやと言った。
「忠之はな、そっちの部屋におるんよ」
和尚の言葉に修造たちはとても驚いた。殺人犯とされている忠之を、和尚が匿っていたのだ。動揺する三人に、とにかく忠之の顔を見てやってはもらえまいかと知念和尚は言った。
千鶴たちが部屋を出ると、ちょうど安子がお茶を運んで来た。和尚が耳打ちをすると、安子はお盆を持ったまま和尚に従った。
修造たちが案内された部屋には布団が敷かれ、甚右衛門たちに見守られながら忠之が寝かされていた。その姿は誰が見ても死にかけているみたいだ。
「和尚、これはどがぁな?」
修造が振り返って訊ねると、知念和尚は悲しげな顔で言った。
「いっつもかっつも悪ぅ見られとるけん、お前が殺したんじゃろがと言われるんが怖かったんじゃろな……。ほれで警察も行けんで一人で山に籠もって大怪我したんじゃろ。血だらけなって何とかここまで来たんやが力尽きてな、この下で倒れとったんよ。ほれを千鶴ちゃんが見つけてくれたんやが、この子が助かるかどうかはわからんのよ」
「やけんいうて、この男が犯人やないとは言えまいに」
戸惑いながらもまだ忠之を殺人犯と疑う修造に、安子が言った。
「ほんまやったらな、千鶴ちゃんは今頃この子の嫁になって、為蔵さんらと一緒に暮らしよったはずなんよ。この子が風寄に戻んたんはな、千鶴ちゃんをお嫁にすることになったて、為蔵さんとおタネさんに報告するためやったんよ」
驚く修造たちに、知念和尚も言った。
「為蔵さんもおタネさんも、千鶴ちゃんを嫁にもろて来るようにと、この子に命じとったそうな。ほれぐらい、あの二人は千鶴ちゃんが嫁に来るんを楽しみにしよったんよ。そがぁな二人をこの子が殺すわけなかろ?」
ほうなんかと修造たちは千鶴を見た。
千鶴がうなずいて涙をこぼすと、修造たちは自分たちの態度が、どれほど千鶴を傷つけていたのかを悟ったらしい。イネとマツは涙をぼろぼろこぼして、自分たちが口にしたことを謝りながら千鶴を慰めた。修造も深く頭を下げて自分の非礼を千鶴に詫び、これからはできる限り忠之の力になると約束してくれた。
自分たちが誤解させられた怒りもあるのだろう。三人は本当の人殺しは誰なのかと憤り、このまま犯人を放置しておくのは村の恥だと言った。
そこへ北城町から今朝の朝刊が届いた。もう昼は過ぎていたが、風寄は松山から遠いので、朝刊が届くのはこれぐらいの時間になるようだ。
新聞を受け取った安子は大きく書かれた一面の記事を見て、急いで知念和尚の所へ戻って来た。和尚は渡された新聞を広げると、険しい顔になった。そこには「ついに城山に鬼現る!」という見出しがあり、一昨日の晩の城山の話が大きく取り上げられていた。
修造の家でも新聞を取っているが、配達される時間は法生寺よりも遅いのだろう。和尚が広げた新聞に、三人は頭を寄せ合って集まった。
記事には、城での犯罪の知らせを受けた巡査三人が、夜中の城山を捜索したところ、恐ろしい咆哮を耳にし、本壇入口において鬼を発見したと書かれていた。
鬼は何故か女物の着物姿をしており瀕死状態だった。そこで巡査の一人がサーベルでとどめを刺したところ、突然雷鳴が轟いて豪雨になったという。
そのあと巡査たちが本壇の中へ突入すると、外曲輪にある天神櫓の近くで若い男が死んでいたとあった。その男は井上教諭なのだが、記事が書かれた時点では、まだ身元は判明していなかった。
若い男の近くには小刀が落ちており、男はその小刀で胸を刺されて死んだと思われるという説明のあと、奇妙なことにその男の遺骸は体が真っ直ぐにされた上、両手を腹の上で組まされていたと書いてあった。その状況から、これはただの殺人ではなく、何かの儀式の生贄なのかもしれないと、警察では考えているらしい。
外曲輪には二ノ門と三ノ門の間の板塀の損傷や、何本も枝を折られたり、根こそぎ引き抜かれた樹木、地面が大きく抉られた無数の大きな窪みなど、魔物が暴れたみたいな跡が見つかったとあった。
城山の北側の森にも一部崩れた場所があり、事件と関係するものか、大雨によるものなのかはこれから調べられるそうだ。
さらに驚いたことには、巡査たちが本壇から出る時に鬼の死骸を確かめると、いつの間にか女の死骸に変わっていたという。女には巡査が刺したサーベルの跡が残っており、巡査が鬼だと誤認して女を刺し殺した可能性があると、記事は指摘していた。
一方で記事は、この女は全身の骨が折れていたとも伝えていた。その様子は以前に城山で瀕死の男たちが見つかった事件を彷彿させるが、巡査たちが聞いた大きな獣らしき咆哮も、前の事件と共通している。このことから、前回も城で何らかの怪しい儀式が執り行われていた可能性があるとして、記事は締めくくっていた。
これは大事になったと修造たちは慌てふためき、やはり鬼よけの祠を燃やしたのは、封じられるのを嫌った鬼の仕業だと言いだした。このままでは何があるかわからないし、今度は誰かが死ぬるかもしれないと血相を変えている。
どうすればいいかと相談された知念和尚は、ちらりと千鶴たちに目を遣ったあと、今しばらく様子を見ればどうかと言った。だが三人にそんな余裕はないようだ。やはり急いで祠を再建せねばと修造が言うと、イネもマツも怯えた顔でうなずいた。
五
この日の夕方、今度は巡査が二人訪ねて来た。若い方の巡査は何故か風呂敷包みを三つ抱えている。年配の巡査は、村長から忠之の話を聞いたので確かめに来たと言った。そう言われては、どうにもごまかせない。
忠之の話はしばらく伏せておいてほしいと、知念和尚は修造たちに口止めをしておいた。けれど、村長としては警察が捜している人物の行方を知っているのに、黙ったままというわけにはいかなかったようだ。とはいえ、忠之の無実を信じてのことだろう。
知念和尚は仕方なく二人を中へ入れた。
部屋へ巡査たちが通されると、千鶴は忠之の上に覆いかぶさって忠之をかばった。甚右衛門たちも忠之は殺人犯ではないと訴え、忠之が連行されるのを阻止しようとした。
年配の巡査は両手を上げて、大きな声で言った。
「みなさん、落ち着いてつかぁさい。我々は佐伯を捕まえに来たんやありませんけん」
巡査は、警察では忠之を無実と認めたということを、やはり大きな声で伝えた。
新聞記事には書かれていないが、巡査の説明によれば、警察ではすでに本壇で見つけた小刀の指紋鑑定を行っており、本壇入口で死んだ女の指紋との一致を確認したという。
一方、千鶴から畑山の無実を訴えられた警察は、すぐにお祓いの婆の殺害に使われた包丁と、為蔵夫婦を殺した凶器の包丁の指紋を照合し、両者が同一であると確認していた。そして、その指紋が今回の小刀から見つかったものとも同じだとわかったので、すべての殺人事件の犯人は死んだあの女だと断定したという。
つまり忠之の家族殺しの疑いは冤罪であり、忠之は無実だと警察が認めたのだ。
その忠之が山に隠れて瀕死の重傷を負い、法生寺で手当を受けていると聞いたので、その確認とお詫びで訪れたと巡査は説明した。
その言葉は千鶴を安堵させたが、同時に悔しさが込み上げて来て、涙が目からあふれ出た。甚右衛門は男泣きし、トミと幸子も抱き合って泣いた。知念和尚と安子もほっとした顔で涙ぐんでいる。
巡査の話では、忠之の手荷物と判断された三つの風呂敷包みが、証拠品として事件現場である忠之の家から押収されていたらしい。忠之の無実がわかったので、その品を本人に戻しに来たのだそうだ。
若い巡査は持っていた風呂敷包みを知念和尚に預けた。和尚が包みを千鶴たちに手渡すと、四人はすぐに開いて中身を確かめた。中には甚右衛門が持たせた上等の絣の反物と、進之丞が着ていた半纏とあの継ぎはぎだらけの着物が入っていた。
千鶴は継ぎはぎの着物を手に取ると、抱きしめて泣いた。その着物は進之丞そのものだった。
巡査たちはみんなに敬礼をして引き揚げて行ったが、果たして女は鬼だったのかということには何も触れなかった。恐らく警察では今も女の死骸を調べているのだろうが、余計なことは一切喋るなという指示が出ていたと思われた。
忠之の無実が知れると、多くの村人たちが忠之の見舞いに訪れた。山陰の者もそうでない者も、みんなが入り交じって忠之を哀れみ気の毒がった。
山﨑機織が契約していた織元の織子である女たちや仲買人の兵頭は、山﨑機織がつや子に潰されたことも残念がった。
兵頭は自分が山﨑機織を見捨てたのをごまかしたいのか、城山の魔物は自分の家を壊した化け物に違いないと鼻息荒く言った。しかし家が壊れたのは突風だと言い逃れをしていたのを思い出し、急いで鬼よけの祠をもう一度こさえてもらわねばと話を変えた。
一緒にいた他の村人たちは兵頭の提案に賛同し、できるだけ早く祠を造り直そうとうなずき合った。兵頭はほっとした顔をしていたが、千鶴は悲しかった。甚右衛門たちも同じ気持ちらしく、鬼よけの祠の話など聞きたくないみたいだった。
忠之の世話をする合間に、千鶴は丘の麓にある野菊の群生地を毎日訪れていた。そこは進之丞や鬼と最後の別れをした所だ。
眠ったままの忠之を見ていると、進之丞がいなくなったことが嘘のように思えるが、ここへ来ると進之丞は鬼とともに確かに成仏したのだと思い出す。
この場所へ来るたび、千鶴は鬼が倒れていた所に向かって手を合わせ、進之丞を想いながら、もう一度進さんに会いたいと訴えた。また忠之の世話をしていることも報告し、進之丞を安心させようとした。生前、進之丞は忠之を喰らったことで心を痛めていた。だから千鶴が忠之の世話をするのは、進之丞に代わっての罪滅ぼしでもあった。
それでも進之丞と同じ姿の忠之を見て、この人は進さんではないと思うと胸が苦しくなった。そんな苦しみも千鶴はここで進之丞に聞いてもらっていた。
進之丞は消え去る前に、今にこそ本当の幸せがあると千鶴に言った。だけど、千鶴にとっては進之丞こそが幸せだった。なのに、その進之丞はもういない。
ここへ来ることで、千鶴は今でも進之丞と心がつながっているような気になれた。けれど、生きた進之丞に逢うことは敵わない。結局は寂しさをまぎらわせるだけで、千鶴の悲しみが終わることはなかった。
千鶴は悲しみに耐えて忠之の世話を続けた。トミや幸子が代わろうと言ってくれても、それを断って一人でやった。
一時、忠之はかなりの高熱を出し、このまま死んでしまうのではないかと思われた。だがやがて熱は下がり、息を吹き返した七日後には意識が戻った。目を覚ました忠之に一番初めに気がついたのは千鶴だった。
千鶴は忠之に声をかけ、自分が誰かわかるかと訊ねた。忠之はぼんやり千鶴を見つめるばかりで返事ができなかった。
和尚夫婦が呼びかけると、忠之は小さくうなずいた。千鶴がもう一度声をかけると、しばらく千鶴を見つめ、小さく首を振った。甚右衛門たちも声をかけたが、忠之は首を横に振るばかりだった。
予想はしていたが、千鶴は深く傷つき動揺した。忠之は進之丞ではない。わかっていたはずのその事実が、どうしても受け入れられなかった。
忠之はまだかなり朦朧としているので、千鶴たちのことがわからなくても仕方がないと和尚たちは千鶴を慰めた。しかし、それは大した慰めにはならなかった。
さらに七日が過ぎると、忠之も意識がかなりはっきりして来て、支えられながらであれば体を起こせるようになった。けれどもその体はげっそり痩せ細って青白く、以前の力自慢だった頃の面影はなかった。甚右衛門に撃たれた傷も、なかなか肉が盛り上がって来ず、右の腰にある赤痣の真ん中には醜い窪みが残っていた。
それでも結構受け答えはできるようになったので、千鶴は改めて自分がわかるか訊ねてみた。だがやはり答えは同じで、忠之は自分に何があったのか一つもわからなかった。
どこまでなら覚えているかと知念和尚に訊かれると、忠之はしばらく考え込み、台風の風が吹き荒れる中で、鬼よけの祠の前に立っていたことを思い出した。それは忠之が村人たちに激しい怒りを覚えて鬼に変化した時だろう。進之丞が話したように、その時に忠之は進之丞に取り憑かれ、鬼に心を喰われたのだ。
忠之が進之丞ではないと明らかになり、千鶴はひどく落ち込んだ。
進之丞はもういないのだと思いながらも、ほんのわずかな期待を千鶴は抱いていた。その儚い期待さえもが無残に打ち砕かれて、生きる望みを完全に失ってしまった。
甚右衛門たちも落胆した。三人とも忠之が自分たちをわかってくれるのではという想いがあったようだ。
甚右衛門は千鶴にこれからどうするつもりなのかと訊ねた。進之丞とは別人である忠之の嫁になるつもりなのかという意味だ。トミも幸子も心配している。
いつまでもこのままではいられないと、千鶴も理解している。だけど、忠之は二年間のすべてを進之丞に奪われたのだ。しかも知らない間に家族が殺されて、天涯孤独の身になってしまった。忠之が進之丞ではないとはっきりした今、忠之への罪悪感が千鶴にずっしりとのしかかっていた。その責任を考えれば、忠之から離れるとは言えなかった。
しかし、千鶴は忠之から離れたくない気持ちもあった。
忠之の傍にいると進之丞を思い出す。それは千鶴にとってつらいことではあった。それでも忠之の微笑みは、進之丞の微笑みだった。忠之を支えると、進之丞を支えている気になれた。もちろん偽りの慰めであることはわかっている。だけど、今も進之丞が生きているかのように思えることは、悲しいけれど捨てがたいものでもあった。
六
二年の記憶がない忠之は、自分が山で怪我をしたと聞かされても、当然ながらぴんとこないようだ。
何故千鶴が看病をしてくれるのかと不思議がるので、千鶴はこの二年ほどの間、忠之が山﨑機織で手代として働いていたと説明した。甚右衛門たちも自分が誰であるかを説明し、千鶴が話したとおりだと言ってくれた。
また甚右衛門は忠之が山で大怪我をしたのは、自分の代理として忠之が風寄の仲買人に会いに来た時だとうまく話してくれた。それで忠之は自分の状況を一応は受け入れた。
とはいえ、忠之はまさか自分が松山で働くとは思いもしていなかった。それで千鶴たちの話も今ひとつ信じられないようで、甚右衛門やトミのことは山﨑さんと呼び、幸子のことは千鶴さんのおっかさんと他人行儀な呼び方をした。甚右衛門たちは寂しげだったが、忠之には記憶がないので仕方がないことだった。
千鶴は根気よく二年前の自分たちの出会いを話し、それが縁で佐伯さんは山﨑機織で働くことになったと言った。ただ、それは忠之ではなく進之丞との出会いだったわけで、千鶴は複雑な気持ちだった。
忠之は感心しきりで話を聞いていたが、自分には全然記憶がないので、狸に化かされた気分だと笑った。一方で、忠之は為蔵とタネが一度も顔を見せに来ないのを訝しんだ。可愛い息子が死ぬ目に遭ったというのに会いに来ないなど不自然であり、二人はどうしているのかと忠之は気にしていた。
知念和尚はまだ忠之に二人の死を告げられないと考えていた。千鶴も同じ気持ちで、どうしようかと悩んでいると、為蔵さんたちは遍路旅に出ているというのはどうかと安子が提案した。知念和尚は名案だと言い、その説明でいこうと三人で決めた。
ところが、その話に忠之は納得しなかった。何故今頃になって年寄り二人が四国遍路の旅に出るのかと言うのだ。
その辺の事情まではわからないと言って、千鶴は話を終わらせたが、いつまでもは隠せない。説明を先延ばしにしたところで、死んだ為蔵とタネは生き返らないのだ。だけど忠之に事実を告げるのは、千鶴にも忠之にもつらいことだ。いずれは話さないといけない時が訪れるが、やはり今は話せない。
それはともかく、忠之が話ができるほど回復してきたことには、千鶴も安堵の気持ちを抱いていた。迷惑をかけてしまった忠之が元気になるのはいいことだし、それで少しでも進之丞の罪が許されるならという想いがあった。
千鶴の頭には常に進之丞がいたが、畑山と井上教諭のことも頭から離れなかった。二人とも千鶴に関わったがために天邪鬼に殺されたのだ。
畑山はもうすぐ娘が嫁に行くと言っていた。その娘が突然の父親の死を知らされたら、どれだけ衝撃を受けるだろう。千鶴は畑山の家族に詫びねばならないと思った。
だけど、お詫びの手紙を書こうにも宛先がわからない。母に相談してみると、もうすでに祖父が詫び状を作五郎に送ったと聞かされた。作五郎は畑山と知り合いなので、甚右衛門は作五郎に頼んで、畑山の家族に手紙を届けてもらったということだ。
作五郎からの返事も届いており、向こうに手紙は届けたと報告してくれていた。畑山の家族は思ったとおり、みんな悲しみに暮れていたという。
ただ畑山が自分で決めて動いたことなので、家族としてはどうこう言うつもりはないらしい。また犯人が死んだのが、せめてもの救いだと話していたそうだ。同じ犯人によって店を潰され、家庭を無茶苦茶にされた千鶴たちには同情してくれており、お詫びなどいらないと言われたことを、作五郎は手紙に綴っていた。
この話は、千鶴にはとても有り難かった。詫びて済む話ではないのに、そんな風に言ってもらえるのには感謝しかなかった。
だが井上教諭については、千鶴は何もできなかった。
教諭には身寄りがないので手紙を書く相手もいないし、その後の教諭がどうなったのかもわからない。本当のことを申し出られないので、千鶴にできるのはここで教諭の成仏を祈ることだけだった。
七
忠之が千鶴に支えられながら、ゆっくりと歩き始めた頃、春子が静子と一緒に訪ねて来てくれた。二人がわざわざ駆けつけてくれたのが、千鶴は本当に嬉しかった。
春子たちは忠之を千鶴が夫婦約束をしていた忠七だと思っていて、忠七さんに会いたいと言った。千鶴は二人に、忠七さんは大怪我で死にかけたためこの二年の記憶がないと伝え、それから忠之を連れて来た。
静子は初対面であり、忠之は緊張しながら挨拶をした。だが春子のことは忠之はわかっていた。春子が自分をどんな目で見ていたかを覚えているのだろう。静子よりもさらに緊張して頭を下げたが、その春子から優しい言葉をかけられると忠之は困惑した。
風太さんと呼びかけられ、早く自分と山﨑さんを俥ぁで松山まで運んだように元気になってと言われると、何の話かと忠之は千鶴を見た。
千鶴は気にしないでとだけ言い、少しの間だけ忠之を交えて喋った。それから、まだ長くは起きていられないからと春子たちに話して、忠之を元の部屋へ連れて行った。
春子も静子も忠之を明るく見送ったが、千鶴が戻って来ると暗く押し黙っていた。二人は千鶴と忠之を想って泣いていた。
千鶴は二人に感謝して、あれでもだいぶ元気になってきたんよと笑顔を見せた。
話題は自然につや子に移り、そこから城山で死んだ井上教諭の話になった。
城で遺体で見つかった若い男は、師範学校に勤務していた井上辰眞教諭だと、すでに新聞が記事に掲載していた。その記事は春子も静子も知っていた。
記事では、井上教諭とつや子のつながりについては未だに不明とされていた。それでも春子たちは教諭とつや子の関係を疑い、井上先生にはがっかりさせられたと憤慨した。
千鶴は井上教諭がつや子に騙されたことや、命を捨てて自分を護ってくれた話をしたかった。でもそれはできないので、庚申庵へ井上先生を訪ねたことがあると言った。そして、その時に聞いた話として、井上教諭が目の前で男たちに暴行される妹を助けられず、その妹が自殺したために生きる道を見失っていたそうだと二人に説明した。
春子たちは驚き、教諭に深く同情した。つや子はそんな苦しむ人間の心の隙に付け入る魔物のような女だと千鶴が言うと、二人ともしんみりうなずいた。
実際、つや子は魔物だったのだが、新聞につや子が初めは鬼の姿で発見されたとあったので、春子も静子もあれは絶対に魔物だと断言した。
井上教諭がつや子の被害者だと認めた二人は、きっと教諭はつや子に言葉上手に騙されて、魔物を呼ぶ儀式の生贄にされたのだと言った。
進之丞を呼び出して鬼に変化させるために、天邪鬼は井上教諭を利用した。それを考えると、確かに教諭は生贄だったと言える。けれども教諭は最後に天邪鬼と対決し、自分の命と引き換えに千鶴を護ってくれた。天邪鬼の好きにされたままにはならず、本当の強さを天邪鬼に示したのだ。
「先生はちゃんと弔うてもらえたろうか?」
千鶴は涙ぐみながら訊ねたが、春子も静子もわからないと言った。
「先生、身寄りがのうて孤独なお人じゃったけん、お世話をしてくれる人がおらんのよ」
「あの山高帽の叔父さんは?」
春子の言葉に千鶴は首を振った。
「こないだ心臓で亡くなったて、先生が言うとりんさった」
山高帽の男を知らない静子が、誰のことかと訊くと、春子がいろいろと説明をした。その間、千鶴は井上教諭に命を救ってもらった時のことを思い出して、ぽろぽろ涙をこぼした。春子たちは驚き、先生は被害者なのだから師範学校が放っておかないと千鶴を慰めた。教諭の葬儀や墓についても、春子があとで確かめて教えると言ってくれた。
千鶴が落ち着きを取り戻すと、これからどうするつもりなのかと春子が訊ねた。やはり記憶を失った忠之とのことが気になるらしい。
「二人には気の毒なけんど、やっぱしむずかしいとうちは思うで」
千鶴が答える前に静子が言った。すると即座に春子が反論した。
「そげなこと言うたら、佐伯さんが可哀想じゃろ? 今は思い出せいでも、あとで思い出すかもしれんやんか」
山陰の者を嫌っていたはずなのに、春子は忠之に同情的だ。一方の静子は忠之を知らないだけに、冷静な見方をしている。
「ほら思い出せたらええけんど、思い出せるかどうかわからんのに一緒になるんはどうかと、うちは思う」
「仮に佐伯さんが山﨑さんのことを思い出せんかったとしてもな。佐伯さん、絶対にもういっぺん山﨑さんのこと好きになると、おらは思わい」
「ほうじゃろか?」
「絶対にほうやて。さっき見よった感じも、佐伯さん、山﨑さんに好意持っとるみたいやったで」
「ほんでも、何も覚えとらんいうんはなぁ」
結局は千鶴次第なのだ。二人に顔を向けられた千鶴はうろたえた。
忠之はあからさまには気持ちを見せないが、何となく好意を抱かれているようには千鶴も感じていた。そうだとしたら、千鶴が付きっきりで世話を続けていたからだろう。
忠之が進之丞であるのなら、それは嬉しいことだ。記憶を失ってもまだ千鶴を慕ってくれるのは、二人の心がつながっている証だ。だけど、別人である忠之に好意を持たれても困ってしまう。進之丞ではない者には応えることなどできない。
「この先どがぁなるかはわからんけんど、今はとにかくできることをするぎりぞな」
千鶴は笑みを繕って言った。だけど本当はわかっている。進之丞はもういないのだ。
戻って来た男
一
九月の末頃、組合長が様子を見にやって来た。甚右衛門たちもいつまでも寺の世話になるわけにはいかず、そろそろ土佐行きを決めねばならなかった。
鬼を知る組合長に、甚右衛門はこれまでのことをすべて話して聞かせた。組合長は何度もうなずきながら涙ぐみ、黙って千鶴の肩を叩いて慰めてくれた。また忠之に対しても気の毒がり、これからどうするのかと他の者と同じ質問を千鶴に投げかけた。
心配されているのはわかるが、何度も同じことを訊かれると、早く白黒つけよと催促されているみたいに聞こえてしまう。千鶴が返事に困っていると、ほうよほうよと言いながら、組合長は懐から一通の手紙を取り出した。
「これを忘れよったかい。ほれ、千鶴ちゃんへの手紙ぞな」
それはスタニスラフからの手紙だった。山﨑機織宛に郵便屋が届けに来た手紙を、組合長が預かっていたそうだ。届いたのは十日ほど前で、すぐには持って来られなかったと組合長は詫びた。
いいえと言って受け取った手紙を、千鶴は思わず胸に抱いた。
スタニスラフにはずっと返事を出さなかったので、いつの間にか手紙は来なくなっていた。もうスタニスラフとは縁が切れたと思っていたし、千鶴の心には進之丞しかいなかった。組合長から手紙を渡されるまで、スタニスラフのことなど思い出しもしなかった。それだけに新たに送られて来た手紙に千鶴を驚き、有り難く思った。
忠之の世話で苦しんでいなければ、そんな気持ちにはならなかっただろう。しかし暗闇の中で途方に暮れる千鶴には、この手紙は思いがけず差し伸べられた手のようだった。
手紙を胸に抱く千鶴の心に、スタニスラフと過ごした時が懐かしく蘇る。進之丞のことを考えれば悲しい想い出だけれど、萬翠荘に招かれたのは忘れられない栄誉でもあった。また、あの時にスタニスラフに心が揺れたのは事実だった。
千鶴に手紙を渡した組合長は、弥七と孝平の裁判が終わったと、甚右衛門たちに報告を始めた。二人とも素直に罪を認めているために早く結審したらしい。
弥七は反省している点を考慮されて執行猶予がついたが、孝平の方は実刑判決が出たそうだ。孝平はしばらくの間、外には出られないみたいだが、弥七は解放されたあと、どこかへ行ってしまったと組合長は言った。
甚右衛門は一応話は聞いているが、弥七や孝平などどうでもいい表情だ。トミも孝平が刑務所入りになったと聞いても、少しも涙を流さなかった。代わりに離れた所にいる忠之を悲しげに見つめていた。幸子も同様で、まるで他人の話を聞いている顔だ。
千鶴も弥七や孝平の名前など聞きたくなかった。二人があの事件を起こさなければ、山﨑機織は潰れなかったし、鬼と進之丞も死ななかったのだ。
千鶴はみんなから離れて他の部屋へ行った。そこで眺めた封筒には、久しぶりに見たスタニスラフの辿々しいひらがな文字が書かれてあった。本来であれば見ることのない手紙であり、見る気も起こらないものだ。それでも千鶴は手紙を開けてみたい衝動に駆られていた。
希望もなく、どうすればいいのかわからない千鶴は、この手紙が自分に元気をくれる気がした。スタニスラフの気持ちには応えられないが、この手紙に詰まっているであろうスタニスラフの想いが励ましに思えていた。
しばらく悩んだのち、千鶴は手紙の封を切った。父の様子も知りたいし、ただ目を通してみるだけだと自分に言い聞かせたが、胸はどきどきしている。取り出した手紙を広げるのがもどかしい。
ようやく目を通した手紙には、スタニスラフたちがいよいよ神戸を出て、アメリカへ向かうことになったと書かれていた。
何度手紙を出しても返事が来ないので、スタニスラフは千鶴のことはあきらめてアメリカへ行くことを決めたという。ところが松山の城山に再び魔物が出たという記事が神戸の新聞でも紹介され、心配になったスタニスラフはアメリカへ行く前に、もう一度だけ千鶴に会いたいと思ったそうだ。
スタニスラフは自分が会いに行くことを許してくださいと千鶴に訴え、この手紙を受け取ったらすぐに返事が欲しいと伝えていた。
父のことが一言も書かれていなかったのは不満だったが、自分を心配してくれるスタニスラフの気持ちは嬉しかった。また予想したとおりではあったが、未だに自分を望んでくれているのだと、千鶴は少なからぬ感動を覚えていた。
高浜港で父とスタニスラフを見送った時、進之丞と出会っていなければ、スタニスラフと一緒になるのが自分の定めだったのかと、ふと考えたことを千鶴は思い出した。
あの時はすぐにその考えを否定したが、あとで進之丞も同じようなことを言っていた。そんなことを考えると、やっぱりスタニスラフは特別な存在なのだろうかと思いたくなる。しかし、千鶴は即座にそんな自分を情けないと罵った。進之丞がいなくなった寂しさを、他の男で埋めようとしていることが恥ずかしくて腹立たしかった。
千鶴は手紙を自分の荷物の中に突っ込むと、もう忘れることにした。返事なんか出さないし、スタニスラフがアメリカへ行くのはめでたい話だ。
けれど一度思い出してしまうと、スタニスラフは事あるごとに千鶴の心に顔をのぞかせた。その都度、千鶴は腹を立てて自分を戒めたが、その効果は長くは続かなかった。
忠之の傍にいて進之丞を思い出すと、泣き崩れそうになるほど落ち込んだりもする。そんな誰にも縋れず助けてもらえない時に、スタニスラフは千鶴に微笑みかけてくる。それを避けようとすればするほど、スタニスラフは千鶴の心に忍び込もうとするのだ。
一方で、声も姿も進之丞そのものである忠之は、仕草も千鶴に見せる気遣いもますます進之丞に似てきた。
進之丞とまったくの別人らしく性格も喋り方も考え方も違っていれば、千鶴もこんなにつらく感じなかっただろう。忠之を見ていると、本当に進之丞がそこにいるみたいに思えてしまう。だけど、それは進之丞ではなく忠之なのだ。もはや千鶴にとって忠之は苦しみだけの存在になっていた。
忠之の前では千鶴は精いっぱいの笑顔を繕っているが、本当は泣き叫びたかった。この顔、この声、この体は、本当は進さんのものなのにという誤った想いが浮かぶこともあり、千鶴は自分が嫌になっていた。
千鶴の心はぼろぼろだった。千鶴は癒やしを求めていた。慰めが欲しかった。
野菊の群生の前に行くと、自分も死にたいと千鶴は進之丞に訴えた。しかし、死んだところで逢えないと、進之丞に釘を刺されている。どうしてなのかはわからないが、逢えないのであれば死んでも仕方がない。
また進之丞は今を生きよと言った。だけど、千鶴には自分の将来が見えなかった。
祖父母と母は間もなく土佐へ行ってしまうが、自分は一人残って忠之の世話をしなければならない。つまり、この苦しみからは逃れられないのだ。
もちろん、いつかは忠之の世話を終える時が訪れる。けれど異人の娘である自分は、そのあとどうやって生きていけばいいのかと考えると、気持ちは暗く打ち沈む。
前世のように法生寺の世話になったなら、ずっと忠之の傍で暮らすことになる。それは死ぬまで苦しみ続けるという意味であり、忠之の人生を奪った罰だとしてもつらいことだった。
だが、ここを出たとしても行く当てがない。祖父母を追って土佐へ行ったところで、自分なんかが快く受け入れてもらえるとは思えなかった。見知らぬ者たちの好気の目に曝され、差別を受けながら生きるのかと思うと、とても心細くなってしまう。
進之丞への祈りを終えたあとも不安は続く。そんな千鶴にスタニスラフが微笑みかけてくる。差別をする者が多い中、スタニスラフだけは千鶴を求めてくれる。
それにスタニスラフの所には父もいる。父は鬼を信じ、千鶴を信じてくれた。千鶴は父に会いたかった。
千鶴はスタニスラフに返事を出したくなった。スタニスラフに訪ねて来てほしかったし、父も一緒に来てくれるかもしれないという期待もあった。
でも手紙を受け取ってから何日にもなる。受け取る前にも十日ほどが過ぎていたらしいから、もうスタニスラフはあきらめてアメリカへ発ったに違いなかった。
千鶴は残念に思ったが、これでいいのだと思い直した。
結局はスタニスラフとは縁がなかったのであり、進之丞がいなくなった今も、心の中に住まっているのは進之丞だけだ。スタニスラフに会ったところで仕方がない。父に会えないのは寂しいけれど、これが自分の進む道なのだと千鶴は自分を励ました。
二
十月に入ると、麓の村は祭りの準備で忙しくなった。
二年前、千鶴はこの祭りで進之丞と出会った。だが、その進之丞はもういない。祭りの気配は千鶴の胸を詰まらせた。
けれど山陰の者である忠之は、祭りの話をしてもあまり関心がなかった、これまで祭りには入れてもらえなかったからだろう。千鶴を追って人垣の中へ入った進之丞が、周囲から罵られて外へ押し出されたことが思い出され、千鶴は切なくなった。
忠之は祭りの話より、為蔵とタネのことを気にしていた。当然ではあるが、未だに二人に会えないのが寂しいようだ。
「おとっつぁんとおっかさんは、ほんまにお遍路しよろうか」
千鶴と一緒に庫裏の縁側に座った忠之は、外の景色を眺めながら千鶴に話しかけた。やはり半信半疑なのだろう。しかし、千鶴はわからないとしか答えられなかった。
忠之は一度家に戻りたいと言ったが、まだまだ支えがなければ歩くこともおぼつかない。為蔵たちのことを別にしても、今すぐは無理な話だ。
「おらが松山へ出てしもたけん、寂しなったろか」
「ほうかもしれんね。佐伯さんはがいに家族想いのお人じゃけん」
千鶴に言われると、忠之ははにかみながら微笑んだ。そのあと少し黙って外を眺めると、ぽつりと言った。
「おらな、捨て子なんよ」
千鶴はどきりとした。忠之が赤ん坊の頃に法生寺の本堂に捨てられていたという話は、知念和尚から聞かされたが、進之丞から聞いたことはない。どう応じればいいのか迷いながら、ほうなんですかと千鶴は遠慮がちに言った。
忠之はうなずくと、自分はこの寺に捨てられていたらしいと少し寂しげな顔を見せた。その話を誰から聞いたのかと訊ねると、同じ集落に住む者に聞かされたと忠之は言った。
山陰の者は村人たちから差別を受けているが、その山陰の者の中でも、捨て子である忠之は周りから見下されていたという。
差別に苦しんでいるはずの者たちが、他の者に対して同じことをする理不尽に、千鶴は胸を痛めた。忠之が受けてきた苦しみを思うと、千鶴は悲しくつらかった。
村人たちばかりか仲間からも差別された上に、進之丞に心と体を奪われ、その間に育ての親さえも失ったのである。進之丞との暮らしばかり考えていた千鶴は、忠之を利用し続けていたわけで、自分は忠之を見下していた者たちと同じだったと気持ちが沈んだ。
千鶴が暗くなったからだろう。忠之は明るい顔に戻ると、ほんでもなと話を続けた。
「今のおとっつぁんとおっかさんは、こがぁなおらを育ててくれたし、まっこと大事にしてくれとる。ほじゃけん血はつながってのうても、おらには大切な家族なんよ。あ、この話はおとっつぁんらには内緒やけんな。おらが知っとるてわかったら、二人とも気ぃ遣てしまうけん」
忠之は為蔵とタネの優しさを話したかったようだ。
二人は忠之が捨て子ということで、周囲から嫌がらせをされているのを知っていただろう。甚右衛門やトミがそうだったように、きっと忠之が知らないところで二人は忠之を護ってきたに違いない。そして、忠之もそのことをわかっている。
この親子がどれほど互いを思いやっていたのかと考えると、千鶴は泣きたくなる。これほど忠之が大切に想っている為蔵とタネはもういないのだ。決して償うことができない責任と罪の意識で、千鶴は目を伏せて涙ぐんだ。
「おら、余計なこと言うてしもたかな。おら、千鶴さん泣かそ思て喋ったんやないんよ。ほじゃけん、どうか泣かんでおくんなもし」
慌てた忠之の姿も言葉も、千鶴の涙にうろたえた進之丞と同じだった。それがまた千鶴の涙を誘った。何も知らない忠之はおろおろしている。
千鶴は涙を拭くと、ごめんなさいと言って笑顔を見せた。だけど気持ちは落ち着かないままだ。
「佐伯さん、本当に親思いなんですね。うちも見倣わんと」
「千鶴さんこそ、おっかさんを大事にしよるやないですか。おっかさんも千鶴さんのこと、大事にしとらい。見よったらわかるけん」
千鶴は黙ったまま笑みを見せた。だが心の中は忠之への申し訳なさでいっぱいで、それが顔に出たようだ。忠之は千鶴を元気づけるように明るく言った。
「おらん所は履物こさえる仕事しよるんよ。ほじゃけん、おら、元気になったら世話になったお礼に、千鶴さんに桐の下駄をこさえるけん」
懐から桐の下駄を取り出した笑顔の進之丞が、千鶴の目に浮かんだ。
涙がこぼれて嗚咽を漏らしそうになった千鶴は、手で口を押さえながら立ち上がり、何も言わずにその場を離れた。忠之には失礼だったが、そこまで考える余裕がなかった。
境内へ出て山門まで行った千鶴は、そこから眼下に見える村をぼんやりと眺めた。だけど悲しみは抑えられない。
目に映る景色は前世にここから見たものとほとんど変わらない。今世にこの村で進之丞と出逢ったことに加え、前世での進之丞との想い出も蘇って悲しみは増す一方だ。
今にも進之丞あるいは柊吉が石段を登って来そうな気がして、千鶴は涙に濡れた目を町の方へ移した。そこはかつて進之丞がいた代官屋敷があった所だ。そのすぐ近くに、瀕死の鬼が千鶴を抱えて走って来た道が見える。
その道を男が一人、北城町の方から歩いて来るのが千鶴の目に留まった。その背格好や服装で、その人物が村の者でないのは一目でわかった。その男がだんだん近づいて来るのを見ているうちに、千鶴の心の中に驚きと喜びが湧き上がってきた。
男は法生寺へ登る石段の下まで来ると、上を見上げた。千鶴と目が合ったその男は、まさしくスタニスラフだった。
三
千鶴は急いで石段を下りた。足が勝手に動いていた。
石段を降りきってスタニスラフと向き合った千鶴は、息を弾ませるばかりで言葉が出ない。しかし、会いたかったという想いは目に出ていたに違いない。
こぼれんばかりの笑みを見せたスタニスラフは、黙って千鶴を抱きしめた。千鶴は抗わないでスタニスラフの腕に身を任せた。
「僕ヴァ、千鶴、忘レェナイ。アキラァメナイ。ダカラァ、会イニ、来マシタ」
千鶴を抱きながらスタニスラフは言った。千鶴は黙ってうなずくと、スタニスラフの胸で泣いた。忠之の前でずっと押し殺していた悲しみが、堰を切ったようにあふれ出た。
スタニスラフは千鶴を慰めていたが、千鶴が少し落ち着くと千鶴の唇を求めた。千鶴は慌ててスタニスラフから離れると、泣いたことを詫びた。
スタニスラフは少しばつが悪そうな顔をしたが、それ以上は千鶴を求めなかった。
同じくばつが悪い千鶴は、どうしてここへ来たのかと、はぐらかして訊ねた。スタニスラフは千鶴からの手紙の返事を待ちきれなかったと言った。
「僕ヴァ、千鶴、迎エニ、来マシタ。僕ト、一緒ニ、行キマショウ」
手紙にはそんなことは書かれていなかったが、初めからそのつもりでいたのだろう。
スタニスラフは千鶴が本当に想っているのは自分だと信じている。また城山の魔物から千鶴を救うには、千鶴をここから離すしかないと考えているのだ。千鶴がスタニスラフの腕で泣いたからか、その真剣な眼差しは千鶴がうなずくと確信しているようだ。
千鶴は当惑しながら、一緒には行けないと言った。その理由を訊かれて説明できずにいると、スタニスラフは紙屋町で店の話を聞いて驚いたと話を変えた。
再び紙屋町を訪れたスタニスラフは、山﨑機織が潰れていたのでとても困ったという。近所の店に千鶴たちの行方を訊ねてもわからないと言われるばかりで、途方に暮れていたところを、運よく組合事務所にいた組合長が気づいてくれたらしい。
「アナ人、千鶴ガ、コォコォイルゥ、教エテクゥレェマシタ」
スタニスラフは、組合長が法生寺までの道程を書いてくれた紙を千鶴に見せた。
店の話を聞いたと言っておきながら、スタニスラフは店が潰れた理由も訊ねないし、そのことで千鶴や家族をねぎらう言葉も出て来ない。店にはまったく関心がないようだ。
「千鶴ヴァ、店、継ガナイデズゥネ」
期待で目を輝かせながらスタニスラフは言った。
それは事実なので千鶴がうなずくと、ならば結婚の話はどうなったのかと、スタニスラフは畳みかけて訊ねた。それには答えられず千鶴が目を伏せると、スタニスラフは結婚の話もだめになったと受け止めたらしい。
「店、ナクゥナタ。結婚モ、ナクゥナタ。千鶴ヴァ、自由ネ。デモォ、千鶴ヴァ、一緒ニ、行ケナイ。ドシテデズゥカ?」
スタニスラフに質されても、千鶴は答えなかった。スタニスラフは質問を変え、どうしてここにいるのかと言った。
「お店で働いていた忠七さんがここで大怪我をしたけん、みんなでお世話をしとります」
ここは忠七の故郷だと千鶴は説明したが、スタニスラフは忠七が誰かがわからない。また、忠七の世話のために千鶴たちがここにいる理由が理解できなかった。
「サナ人、千鶴ナ、結婚ナ人デズゥカ?」
スタニスラフは眉間に皺を寄せながら言った。結婚はだめになったのに、忠七が未だに千鶴を束縛していると受け止めたのだろう。
スタニスラフの態度は千鶴をいらだたせた。せっかくの久しぶりの再会を喜んでいたのに、そこへ水を差す言動は千鶴の気持ちを萎えさせた。
忠之が進之丞であるのなら、千鶴は迷わずにうなずいていた。しかし忠之は進之丞ではない。それにスタニスラフに忠之への敵対心を抱いてほしくなかった。
「忠七さんは、うちらにとって家族みたいなお人やけん」
千鶴の曖昧な返事にスタニスラフはふっと笑った。千鶴は忠七をかばっているだけで、好きなわけではないと見たようだ。
スタニスラフは何でも自分に都合のいいように解釈する。それにうんざりしていたことを思い出した千鶴は、ため息をつきたくなった。
スタニスラフは話題を変えて、城山の魔物の話を持ち出した。
新聞に出ていた魔物はあの時の悪魔なのかと訊かれ、千鶴は一気に気持ちが沈んだ。やはりスタニスラフは変わらない。
鬼を悪魔だと信じるスタニスラフには、何を言っても通じない。それに進之丞や鬼の話は、家族や和尚夫婦以外にはしたくなかった。
無思慮に悪魔と言い続けるスタニスラフに腹立たしさを覚えながら、悲しみが膨らんだ千鶴は黙って涙をこぼした。それをスタニスラフは千鶴が未だに悪魔に苦しんでいると勝手に思い込んだようだ。顔をしかめると、千鶴の両肩をつかんで強い口調で言った。
「千鶴、僕ト、一緒ニ、アメリカへ、行キマショウ。ソウズゥレェバ、悪魔カラァ、逃ゲラレェマズゥ」
千鶴はスタニスラフの言い草に辟易した。思わずスタニスラフの腕の中で泣いてしまったことを後悔しながらスタニスラフから離れると、それはできないと言った。
忠之と一緒にいるつらさから逃げ出したい気持ちがあるのは事実だ。だけど忠之に対する責任は感じているし、罪を償わねばという想いもある。どんなにつらくても逃げるわけにはいかない。そもそもつらいのは罰が当たったからだし、罪滅ぼしがつらいのは当たり前なのだ。
それにここは進之丞や鬼と死に別れた場所だ。忠之のことがなければ、ここから離れたいとは思わない。たとえ離れることがあったにしても、進之丞や鬼を悪魔呼ばわりするスタニスラフと一緒に行くなど、間違っても有り得ない。
「僕ヴァ、千鶴、助ケニ、来マシタ。僕ト、一緒ニ、逃ゲマショウ」
スタニスラフが繰り返すので、千鶴は少しお灸を据えてやりたくなった。
「スタニスラフさんは、鬼と戦うお気持ちはないんかなもし?」
千鶴が真顔で訊ねると、スタニスラフは顔を強張らせた。
「悪魔ト、戦ウ、神ダケデズゥ。ダカラァ、教会デ、洗礼シテ、神ニ、護テモラァイマショウ」
「教会なんぞ行く前に、鬼に殺されるぞなもし。今ここに鬼が現れたら、スタニスラフさんはどがぁしんさるんぞな?」
「サレェヴァ……」
スタニスラフは返事ができなかった。その顔は相当焦っている。千鶴は笑うと、別にええんぞなもしと言った。
自分のことばかり言うスタニスラフには疲れるが、神戸からわざわざ会いに来てくれたことは、千鶴は素直に嬉しかった。ずっと暗い気持ちでいた心に、ささやかな明かりを灯してくれたのは有り難いことだった。
「鬼の話はもうええけん、まずはみんなに顔を見せてあげておくんなもし。きっと、みんな、喜んでくれるぞなもし」
千鶴の言葉に救われたスタニスラフは、途端に元気を取り戻して大きくうなずいた。
四
みんなに挨拶をしたスタニスラフは隣に座った千鶴を見て、城山の魔物の記事を知って千鶴が心配になったので、アメリカへ行く前に会いに来たと話した。
知念和尚と安子は、遙々神戸から千鶴を訪ねて来たスタニスラフをねぎらった。二人は近頃の千鶴の様子に気づいていたのだろう。スタニスラフの来訪を喜んでくれた。
甚右衛門たちも一応は頭を下げて感謝の気持ちを示した。だが、まだ千鶴をあきらめていない様子のスタニスラフを警戒しているようだ。そのスタニスラフの隣に千鶴が座ったことも気になるようで、何も言いはしないが三人とも訝しげな顔をしている。
幸子にミハイルのことを訊かれると、スタニスラフはエレーナに頭が上がらないミハイルの話をして、みんなを笑わせた。また、ミハイルは本当はアメリカへは行きたくないみたいだと話し、僕ト一緒デズゥネと言って千鶴に顔を向けた。
ぎくりとなった千鶴は甚右衛門たちを見た。ミハイルの想いに幸子は少し悲しげな顔だが、甚右衛門とトミはやはり表情が硬くなっている。けれどスタニスラフはまったく気にする様子もなく、本当はミハイルも一緒に来たかったと言った。しかしそれはエレーナが許さないので、ミハイルはスタニスラフに手紙を持たせたそうだ。
スタニスラフから渡された一枚の紙には、急いで書いたと思われる短い文があった。それを千鶴は幸子と一緒に読んだ。
そこには、どんなに離れていても私の心はいつも二人の傍にありますと書かれてあった。幸子は読みながら口を押さえて涙ぐみ、千鶴も父の気持ちに涙をこぼした。
甚右衛門とトミもしんみりとなり、和尚夫婦は千鶴たちによかったなと声をかけた。部屋の中には温かい雰囲気が広がり、みんながスタニスラフに話しかけた。
いろいろ談笑していると、ふらつきながら忠之が顔を見せた。まだ誰かの支えが必要なのに、珍しい来客に興味を惹かれたのか、柱につかまったりしながら来たようだ。
千鶴は急いで立ち上がると、忠之に肩を貸して知念和尚の隣に座らせた。そのあとスタニスラフの隣に戻ったが、忠之が進之丞であれば千鶴の座る所は忠之の隣だ。また忠之の世話をする身であることを考えたなら、やはり千鶴が座る場所は忠之の隣である。なのにスタニスラフの隣に座ったことで、千鶴は罪悪感を覚えた。
遠方から訪ねて来た客をねぎらっているつもりなのだが、スタニスラフがどういう人物かを考えると、これでいいのかと戸惑ってしまう。家族の目も気になるし、じっと見つめる忠之が進之丞のように思えて、胸の中は動揺が収まらない。
知念和尚がスタニスラフに忠之を紹介すると、スタニスラフは知っていると答えた。忠七の名前は覚えていなくても、忠之の顔は覚えていたらしい。忠之に挨拶もしないで、にらむような目を向けている。この男が千鶴を縛りつけていたのかと考えているのだ。
一方、忠之はスタニスラフが誰だかわからない。なのに向こうは自分のことを知っていて、何だか怒っているように見えるから困惑するしかない。忠之は少しうろたえながら、黙ってぺこりと頭を下げた。
スタニスラフの表情に気づいた千鶴は、忠七さんは怪我のせいで昔のことを思い出せないと、慌ててスタニスラフに話した。
どういうことかと訊ねるスタニスラフに、忠七さんは山で大怪我をしてずっと意識がなかったと千鶴は説明した。そのせいで記憶を失い、あなたが誰なのかはわからないと聞かされると、スタニスラフは納得してうなずいた。その口元には笑みが見える。
スタニスラフは自分を指差して、覚エテマズゥカと忠之に訊ねた。いいえと忠之が首を横に振ると、スタニスラフの小さな笑みは満面の笑顔になった。こんな男は自分の敵ではないと思ったのだろう。可哀想デズゥネと笑みを消して、一応は忠之への同情を見せが、すぐに勝ち誇った笑みを再び浮かべた。
スタニスラフの様子はみんなが見ている。初めは歓迎していたはずが、何だか空気がおかしくなり始めていた。
甚右衛門はスタニスラフと千鶴の関係や、スタニスラフがアメリカへ行く前に神戸から千鶴に会いに来た旨を、忠之に説明してやった。もちろん二人が萬翠荘に招かれた話や、スタニスラフが千鶴と結婚したがっていたことなどは口にしなかった。
忠之はアメリカはもちろん、神戸がどこなのかもわからなかった。忠之の様子を見た幸子は、神戸は瀬戸内海の向こうで、アメリカはもっと遠くの海のずっと向こうにある外国だと教えてやった。
どちらもここから遠いと理解した忠之は、笑顔を見せてスタニスラフに話しかけた。
「そがぁな遠い所からわざにおいでて、もっと遠い所へお行きんさるんかな。ほれは大儀なことぞなもし」
「千鶴モ、一緒デズゥ」
相手をねぎらう忠之に、スタニスラフは間髪入れずにこやかに言った。千鶴は自分の物だという宣言だ。
千鶴は焦ったが、和尚夫婦も甚右衛門たちも言葉を失った。千鶴とスタニスラフはすでにそんな話を決めていたのかと、みんな驚きを隠せなかった。
「あんた、そがぁなこといつ決めたんね?」
幸子が厳しい口調で千鶴を質した。
「うち、何も決めとらん」
千鶴はうろたえながら答えた。しかしスタニスラフは自分は千鶴を迎えに来たと言い、そのことは千鶴もわかっていると主張した。
「スタニスラフ、あんたはちぃと誤解しよるぞな。千鶴はな――」
スタニスラフに注意しようとする母を、千鶴は制して言った。
「ええんよ、お母さん。スタニスラフさんには、あとでうちから話しとくけん」
幸子は不満げに千鶴を見た。甚右衛門やトミ、和尚夫婦も当惑している。何故みんなの前ではっきりと、一緒に行くつもりはないと言わないのかと、誰もが言いたげな顔だ。
進之丞がこの世を去ってから、まだ一月である。忠之は生き返ったが、進之丞は死んだのだ。進之丞はただの使用人ではなく、千鶴の許婚であり家族だった。その進之丞が千鶴を護って死んだのである。
知念和尚は進之丞のために毎日お経を上げてくれている。和尚がお経を上げている間、千鶴の傍には安子が座り、その後ろで甚右衛門たちも一緒に手を合わせている。
特に甚右衛門は進之丞を死なせてしまった責任を深く感じており、一月経った今もまだ落ち込み続けている。けれど甚右衛門からすれば、千鶴こそが誰より一番進之丞の死を悲しみ、深く傷ついているはずだった。
なのに、さっき来たばかりのスタニスラフと一緒になるような話が出て、千鶴がそれを明確に否定しないのは納得できるものではない。トミや幸子、和尚夫婦にしても同じ想いだろう。
千鶴が進之丞を失って嘆き苦しんでいるのは、みんなが理解している。だからといって、この時期に他の男に心を移すなど、断じて受け入れられない話だ。ましてや、その男と一緒に異国へ行くなど言語道断である。
今の千鶴の態度を見た甚右衛門たちには、スタニスラフの手紙を受け取った時から、千鶴が心変わりをしたと見えたに違いない。千鶴が自らスタニスラフの隣に座ったのも、そういうことかと思っただろう。これまで進之丞を弔うために千鶴が手を合わせていたのは、すべて偽りだったのかという疑いがみんなの目に見てとれる。
知念和尚と安子は忠之を我が子のごとく思っている。その忠之と進之丞が別人なのは、二人とも理解している。けれど忠之の記憶を持ち、忠之と同じく優しく賢い進之丞を、忠之と区別するのはむずかしい。
和尚夫婦には進之丞も我が子のようで、千鶴の態度に心を痛めている様子だ。また、すべてを失った忠之が千鶴からも見捨てられるのかと落胆したようにも見えた。
何だか険悪な空気が漂い始めたからか、忠之はみんなに頭を下げると、その場を離れようとした。雰囲気が悪くなったことに責任を感じたのだろう。しかし足下がふらついて転びそうになり、危うく知念和尚に支えてもらった。
千鶴は忠之の所へ行こうとしたが、先に幸子が立ち上がり、忠之を気遣いながら連れて行った。まるで千鶴には世話をさせないと言っているみたいだ。
千鶴は居たたまれなかったが、みんながスタニスラフや自分の態度で動揺しているのは理解していた。
スタニスラフは一度思い込んだら周りが見えなくなる性格だ。とはいえ、まさかこんな状況でいきなり自分の言いたいことを言うとは、千鶴も予想していなかった。一緒には行けないと伝えたはずなのにこんなことになってしまい、千鶴も困惑を覚えている。
けれど、わざわざ神戸から会いに来てくれたスタニスラフに、恥をかかせるような真似はしたくなかった。それで曖昧な態度を見せたのだが、そのせいでいっぺんに歓迎の雰囲気が失われてしまい、千鶴はうろたえるばかりだった。
五
何の弁解もできずに千鶴が小さくなっていると、忠之を連れ出した幸子が戻って来た。幸子が座ると、知念和尚はスタニスラフに訊ねた。
「スタニスラフさんというたかな。あなたのご家族は、いつアメリカへ発ちんさるおつもりかな?」
発つという言葉が、よくわからないスタニスラフに、アメリカへはいつ行くのかと千鶴が訊き直してやった。スタニスラフはうなずくと、自分が神戸に戻った時だと言った。
今度は安子が、いつ神戸に戻るつもりなのかと訊ねた。場の空気が読めないのか、わかった上でなのか、スタニスラフは胸を張ると、千鶴が一緒に行く時だと答えた。
またもや一方的に喋るので、みんなはさらに不愉快になった。今にも怒鳴りだしそうな家族の顔を見て、さすがの千鶴も黙っていられなくなった。
「うちはあなたと一緒に行かれんて言うたでしょ? なしてそがぁな勝手なことぎり言いんさるん? うちはあなたとは行かんけん」
「サレェヴァ、千鶴ナ、本当ナ、気持チジャナイ」
何を言おうと、スタニスラフは自分が正しいと信じている。その姿勢は千鶴を少なからずいらだたせた。
「あのな、これ以上同しこと言い続けるんなら、せっかく神戸からおいでてもろたけんど、このまま神戸に去んでもらうぞなもし」
千鶴の言葉がちゃんと理解できたかはわからないが、千鶴の厳しい顔を見たからか、スタニスラフは勢いを失った。そうなると、自分をにらむみんなの顔が気になりだしたようで一転態度を改めた。
スタニスラフは自分が悪かったと認め、みんなに頭を下げて詫びた。ただ、どこまで本気で悪いと思っているのかはわからない。それでも和尚夫婦はスタニスラフが詫びたことを認めてくれた。千鶴の顔を立ててくれたのだろう。異国人は日本のことがわからなくても仕方がないと、二人は表情を緩めた。
一方、甚右衛門とトミは不機嫌そうな顔のままだ。幸子はミハイルの息子が和尚夫婦に不快な思いをさせたと深く恐縮していた。
「ところで、千鶴ちゃんはいつまで今のままでおるつもりかな?」
知念和尚が千鶴に訊ねた。千鶴のはっきりした気持ちを知りたいのだ。
千鶴はきっぱりと答えた。
「うちは佐伯さんが一人でおっても大丈夫なんがわかるまでは、ここを離れるつもりはありません」
「ほれじゃったら、千鶴ちゃんがいつここを離れられるんかはわかるまいに」
和尚は横目でスタニスラフを見ながら言った。スタニスラフは千鶴に佐伯とは誰かと訊いた。忠七さんのことだと千鶴が答えると、忠七と千鶴はどういう関係なのかとスタニスラフは問うた。石段の下で千鶴がはっきり答えなかった質問だ。
「忠七さんは、うちらにとって大切なお人ぞなもし」
千鶴としては精いっぱいの言い方をしたが、スタニスラフは納得しなかった。何故使用人がそこまで大切なのかまったく理解できないと、手振りを交ぜて疑問を投げかけた。
自分と一緒に行くと千鶴に言わせられないので、スタニスラフは別な形で千鶴の本音を引き出そうと考えているのだろう。千鶴が義務的に忠之の世話をしているようなことを口にすれば、そこから千鶴を解放すべしという意見を述べるつもりなのだ。
何も事情を知らずに身勝手なことを言うスタニスラフの態度は、当然みんなを怒らせた。甚右衛門とトミがついに怒りを爆発させて怒鳴ろうとしたが、先に口火を切ったのは幸子だった。
「あんたな、好ぇ加減にしぃや! あの人と千鶴がどがぁな関係かなんて、なして一々あんたに説明せんといけんのよ? 千鶴はあんたと一緒には行かんて言うとるんじゃけん、男じゃったらごちゃごちゃ言わんで、いさぎようにあきらめんかね!」
さっきまでとはまったく異なる幸子の様子に、スタニスラフは仰天した。
今度は興奮した甚右衛門が待ちかねて言った。
「お前を見よったら、正清がロシアに殺されたいう気持ちが蘇ってしまわい。相手のこと考えんで言いたい放題言いよったら、また戦争になってしまおが!」
トミも続いて言った。
「前にあんたを見た時はええ子や思いよったけんど、今のあんた見よったら、ほれは間違いじゃったて思わい。やっぱしロシア人いうんは人の気持ちがわからんのかいねぇ」
トミの言葉に少しうろたえた幸子は、もう一度スタニスラフに言った。
「あんたが自分勝手なことしよったらな、他のロシアの人も、みんながあんたと対じゃて思われてしまんよ。あんたのお父さんやお母さんまでが、ロシア人いうぎりで悪う見られてしまうんで」
どこまでみんなの言葉が理解できたのかはわからないが、思った以上の怒りをぶつけられたのは、スタニスラフには衝撃だったようだ。スタニスラフがしゅんとなると、その辺にしてあげてと千鶴は言った。
みんなが不満げな顔のまま黙ると、千鶴はスタニスラフを諭した。
「あなたにはわからんじゃろけんど、忠七さんはうちらには大切な人なんよ。とっても、とっても大切な人ぞなもし。やけんな、うちはあなたとは一緒には行かれんのよ」
このままではまずいと思ったのか、スタニスラフは再び自分の態度をみんなに詫びた。それから知念和尚に自分もここに置いてほしいと頼んだ。
ぎょっとする和尚たちに、スタニスラフは自分も千鶴を手伝いたいと言った。和尚と安子が困惑を見せるのも構わず、何でもしますとスタニスラフは必死に訴えた。
和尚たちは千鶴に目を向けた。千鶴の考えを知りたいようだ。
千鶴はスタニスラフにいてもらいたい気持ちがあった。だが、そんなことを言えるわけがない。千鶴が黙って下を向くと、わかったと和尚は言った。
「あなたのご家族がいつまで待てるかわからんけんど、好きなだけここにおりんさい」
「やけんいうて、千鶴ちゃんが一緒に行くとは思わんでね」
安子が釘を刺したが、スタニスラフには通じない。スタニスラフは大喜びで千鶴を抱きしめた。千鶴が一緒に喜んでくれると思ったらしい。甚右衛門たちの顔がゆがんでいる。
千鶴はスタニスラフから逃れると、和尚たちに黙って頭を下げた。
和尚夫婦がスタニスラフを受け入れたので、甚右衛門たちもそれ以上はスタニスラフを責めなかった。しかし度重なるスタニスラフの身勝手な態度に、不愉快なのは隠せないようだ。
スタニスラフを受け入れた千鶴も同罪だ。一緒に行けないと、みんなの前でスタニスラフに告げたにも拘わらず、じろりと千鶴を見た家族の目は不審のいろに満ちていた。
六
スタニスラフが仕事に加わったといっても、忠之に悪意を抱くスタニスラフに、忠之の世話を手伝わせるわけにはいかない。忠之に関することは千鶴が一人で続けた。それに自分も好い加減な気持ちで世話をしているのではないというところを、千鶴はみんなに示さなければならなかった。
けれど忠之は初めの頃とは違って、今では自分で食事もできるし、厠で用も足せる。千鶴がしているのは移動の時の支えや、濡れた手拭いで体を拭いてやること、着替えの手伝いぐらいだ。右腰の傷も一応はふさがっている。
あとは世話というのではないが、食事の時はもちろん、そうでない時にもできるだけ忠之の傍にいてやり、話し相手になってやるのが千鶴の日課となっていた。
千鶴がすることには寺の仕事もある。食事の準備や部屋の掃除、洗濯、彼岸などの行事の手伝いなど、寺の仕事だけでも忙しい。時々は村の者が手伝いに来てくれるが、千鶴と幸子は寺男の伝蔵と一緒に毎日動き続けていた。スタニスラフはそこに入ることになった。
スタニスラフが法生寺に住み込みで働き始めた話は、すぐに村人たちの知るところとなり、村長の修造の耳にも届いた。
千鶴とスタニスラフが久松伯爵夫妻の前で、結婚を誓い合ったという新聞記事を思い出した修造は、今の状況を勝手に解釈した。それは千鶴が忠之に見切りをつけて、スタニスラフと結婚するというものだ。村長の見解はあっという間に村中に広がった。
寺を訪れる村人たちの中には、千鶴の心変わりに理解を示す者もいたが、忠之を気の毒がる者もいた。そんな話にはなっていないと千鶴が否定しても、スタニスラフは上機嫌で肯定するので、いつまで経っても噂はなくならなかった。
村の噂には甚右衛門たちも困惑していた。それで修造が見舞いに来た時に、甚右衛門は千鶴をスタニスラフと結婚させるつもりは毛頭ないと言った。ならばこのまま忠之と一緒にさせるのかと問われると、甚右衛門は返事に窮した。
もし千鶴を忠之と夫婦にするのであれば、甚右衛門たちが風寄で暮らせるように手配をすると、修造は申し出た。修造としては約束どおり忠之の力になりたいようだ。
土佐へ行くのが決まっているとはいえ、甚右衛門たちはそこの土地を知らないし、迎え入れてくれる親戚とも面識がない。甚右衛門たちにとって、修造の申し出はとても有り難かった。
ただ、千鶴が忠之といるのを苦痛に感じているのは、甚右衛門もトミもわかっていた。それを無理に一緒にはさせられないので、甚右衛門は修造からの申し出を丁重に断った。
ではどうするのかと改めて訊かれると、今はわからないと甚右衛門は言った。
前世でも今世でも進之丞との別れの地となったここを立ち去るか否かは、千鶴が決めることだと甚右衛門は考えているようだった。
スタニスラフが寺の仕事を手伝うようになると、千鶴は仕事の手を休めて、スタニスラフと一緒にいることが多くなった。
初めのうちはスタニスラフを気遣って少し喋る程度だった。ところがその時間が次第に長くなり、ついには幸子に叱られるほどになっていた。
忠之と一緒にいると、千鶴は進之丞を思い出す。それで忠之と喋っている間に、上の空になったり泣きそうになっても、笑顔を見せていねばならなかった。
でもスタニスラフと喋る時は、進之丞のことを考えずにいられた。またスタニスラフが聞かせてくれるロシアの話は面白かった。強引なことさえ言わなければ、スタニスラフといるのは楽しかった。
必要な世話はきちんとやっているので、スタニスラフの所へ行くのは息抜きのつもりでいた。しかし他の者の目には、やはりスタニスラフに心移りしたのだと映ったようだ。
甚右衛門たちは千鶴の態度に苦い思いをしていたに違いない。けれどみんなあきらめているのか、千鶴に小言を言う者はいなかった。
その代わり、甚右衛門とトミが忠之の話し相手になった。そこに幸子が加わることもあった。千鶴が忠之の傍を離れたあとに戻って来ても、もう誰かが忠之の両脇を占めており、千鶴の居場所はなくなっていた。
甚右衛門は進之丞に持たせた反物を使って、忠之に着物を作ってやってはどうかとトミに提案した。ほれはええねと、トミはすぐに忠之の体の採寸をした。
トミが忠之の着物を作り始めると、幸子も自分もやりたいと言って、暇を見つけては別の絵柄の着物を作り始めた。それを見ると、千鶴は後ろめたくなった。本当であれば自分がしてやればいいのに、それをやらないから二人が代わりにしていると思った。
忠之が着物を作ってもらうのを見て、スタニスラフは自分にも作ってほしいと千鶴にせがんだ。前に作ってあげたと千鶴が言うと、あれは神戸にあるからと、スタニスラフはここでの着物を欲しがった。
千鶴がその話をすると、ならんと甚右衛門は素っ気なく言った。この反物は忠七にやった物であり、スタニスラフには使わせないと言うのだ。トミも幸子も同意見で、忠之には作ってやらない着物をスタニスラフには作ってやるのかと、千鶴に白い目を向けた。
千鶴にしてもスタニスラフに着物を作ってやるつもりはなく、ただ話をしただけなのだが、家族の反応には戸惑うしかなかった。
それでも自分に非があるのは、千鶴もわかっていた。もちろん千鶴ばかりが一方的にスタニスラフの所へ行くわけではない。スタニスラフの方から千鶴を呼ぶこともしばしばだ。けれど、別に用事がないのはわかっている。それを拒まないのは千鶴が悪いという話だ。
七
スタニスラフが来てから、千鶴は野菊の群生地にも行かなくなった。行こうとするとスタニスラフがついて来るので、進之丞や鬼に祈りを捧げることができなかった。
ついて来ないでと言っても、スタニスラフはついて来る。それで進之丞や鬼と死に別れた場所から足が遠のいてしまった。
祈りを大切に思うのなら、スタニスラフを神戸へ追い返せばいいことだ。しかし千鶴はスタニスラフがいないと、忠之と一緒にいるつらさに潰れてしまいそうだった。
ところがある時、さすがに千鶴も我慢ならないことがあった。
スタニスラフは何かと悪魔の話を持ち出し、教会で洗礼を受けろとうるさかった。千鶴を神戸に連れて帰るにも、悪魔が憑いたままでは困るのだろう。ここを離れれば悪魔から逃れられると言ったのに、本当は洗礼を受けねば悪魔は離れないと思っているのだ。
千鶴が墓地の掃除をしていた時、スタニスラフがやって来てまた同じ話を繰り返した。うんざりした千鶴は、鬼は死んだとスタニスラフに告げた。スタニスラフは信じなかったが、鬼は死んだからその話はしないでと、千鶴は強い口調で言った。
疑うスタニスラフは、悪魔はいつどうやって死んだのかと説明を求めた。喋りたくない千鶴は、信じるかどうかはあなたの勝手だと突っぱね、とにかく鬼は死んだと不機嫌を露わにした。どうして今まで黙っていたのかと訊かれても、言いたくなかったからとしか言わなかった。
スタニスラフは千鶴が適当な話をしていると思ったようで、本気で聞こうとはしなかった。しかし真顔の千鶴が涙ぐむのを見て、ようやく鬼の死を信じた。
スタニスラフの考えでは、悪魔の死を悲しむ千鶴は魔女のはずである。しかし悪魔がいなくなった嬉しさの方が大きいらしく、みるみる顔に笑みが広がったスタニスラフは、手を叩き声を出して喜んだ。たとえ千鶴が魔女でも何とかなると思ったのかもしれない。
千鶴は怒りを抑えてスタニスラフに背を向けたが、愚かなスタニスラフは千鶴を自分の方に向き直させ、オ祝イシマショウと言って抱きしめた。
堪えきれなくなった千鶴は、スタニスラフを力任せに突き飛ばした。
尻餅をついたスタニスラフは驚いた顔で千鶴を見た。千鶴が肩を怒らせてにらむと、スタニスラフは千鶴が魔女の本性を見せたと思ったようだ。やはり自分の手には負えないと考えたのか、その目には困惑と恐れのいろが浮かんでいる。
千鶴は再び背を向けて仕事に戻った。鬼の死を、進之丞の死を喜ぶ者など許せない。鬼はスタニスラフをも特高警察から救ってくれたのだ。その鬼の死を喜ぶスタニスラフは最低の男だ。
スタニスラフがどんな人間なのかはわかっていたはずだ。なのに忠之といるつらさから逃げたくて、スタニスラフを有り難がってしまった。でも怒りを覚えたことで、千鶴は目が覚めた気がした。胸の中は進之丞や鬼への申し訳なさと自分への情けなさでいっぱいだった。
スタニスラフは千鶴を恐れたのか、しばらく千鶴に近づこうとしなかった。それでも千鶴をあきらめきれないようで、千鶴の様子を窺いながら謝りに来た。しかし千鶴は許す気がない。千鶴が黙っているとスタニスラフは少しおどおどしながら、教会へ行って洗礼を受けようと話しかけた。懲りないスタニスラフに、千鶴は怒りしかなかった。
松山で特高警察に捕まりそうになった時、誰が助けてくれたのかと千鶴は問うた。返事に困ったスタニスラフは、神が助けてくれたと言った。千鶴のことも忘れて祈り続けたお陰で助かったというわけだ。千鶴は呆れて次の言葉が見つからなかった。
ため息しか出ない千鶴は、自分は魔女だからあきらめて神戸に帰るようにと言った。スタニスラフは帰らないと言い張り、自分が千鶴を救うと宣言した。魔女になった千鶴にとにかく洗礼を受けさせるつもりなのだろう。
勝手にしんさいと言って、千鶴はスタニスラフを無視した。千鶴の言葉どおり、スタニスラフは何かと千鶴の傍にいようとした。千鶴が再び野菊の群生地へ向かおうとすると、他の仕事があっても千鶴の後をついて来た。
スタニスラフは千鶴が悪魔を復活させる儀式をすると思い込んでいた。ついて来ないでと千鶴が声を荒らげても、千鶴を護るのが自分の役目だと聞く耳を持たなかった。それで結局、死に別れた場所で進之丞や鬼を偲べないという状況は変わらず、千鶴は肩を落とすしかなかった。
八
千鶴は忠之に着物を作った。忠之に詫びる気持ちがあるなら作るべきだと思い、祖母と母に頭を下げて作らせてもらったのだ。
祖母や母が作った着物に袖を通した時、忠之はとても喜んだ。しかし、千鶴が作った着物を着た時には感極まって涙ぐんだ。その姿は進之丞そのもので、千鶴も思わず泣いた。だが、それが千鶴が今まで見ようとしなかった、進之丞ではない忠之自身の姿なのだと気づくと、千鶴は胸が熱くなった。
忠之は何もしていないのに二年の記憶を失い、大切な家族をも失った。この二年を振り返ると、千鶴は悲しみでいっぱいになるが、忠之にはそんな泣ける想い出すらなかった。進之丞として一度は死んだ身なので、体は惨めなくらい痩せ細ってしまい、以前のような体力を取り戻せるかもわからない。
そんな忠之が自分の着物をそこまで喜んでくれたことは、千鶴の胸を打った。少しでも罪滅ぼしができたという嬉しさもあったが、忠之の人柄が千鶴の心に温かいものを運んでくれた。
進之丞が話したとおり、忠之の心は進之丞と真っ対だった。似ているというより同じなのだ。忠之の優しさは進之丞の優しさであり、忠之の憂いは進之丞の憂いだ。だけど、どんなに似ていたとしても、忠之は忠之なのである。
忠之が進之丞とそっくりなのは、千鶴にとって苦痛ではあったが慰めでもあった。けれど、やがて苦痛ばかりになり、そこから逃げ出したくなりもした。それが今は、逆に忠之自身に惹かれるようになった。
しかし、それは問題だった。千鶴の心は進之丞のものであり、千鶴が慕うのは進之丞ただ一人のはずなのだ。なのに、千鶴の中では忠之の存在がどんどん膨らみだし、ついには呑み込まれそうになっていた。
だけど忠之から逃げることはできない。千鶴には忠之の世話をする義務がある。加えてお世話をしたいという気持ちは募る一方で、逃げねばという想いすら失せてしまう。
そんな気持ちに困惑した千鶴は、自分を戒めながら忠之に接し、できるだけ忠之への想いを押し殺して表に出さないようにした。
ところが、そうなるとどうしても笑顔が見せられなくなる。態度もぎこちなくなって、忠之を拒んでいるように見えてしまう。そのせいで忠之が顔を曇らせると、千鶴は胸が苦しくなった。これは忠之といるのが苦痛だったのとは真逆のつらさだ。
この日、千鶴は忠之と玄関脇の部屋にいた。忠之が千鶴の両親の馴れ初めについて訊くので、母や祖父母から離れたこの部屋で話すことにしたのだ。
スタニスラフは千鶴たちを気にしていたが、スタニスラフには掃除の仕事がある。それに千鶴が忠之の世話をしているところには近づけない。
例の一件以来、千鶴がスタニスラフと距離を置くようになったのもあり、スタニスラフは苦々しげにしながら己の仕事をするしかなかった。
忠之を座らせた千鶴は、自分もその横に腰を下ろした。冷静さを保とうとはしても、忠之の隣にいると胸がどきどきしてしまう。そんな自分を情けなく思いながら、千鶴は母から聞いていた話を忠之にしてやった。
忠之は興味深く話を聞いた。そして、戦争をしている国の者同士が戦時中に恋に落ち、その想いを貫いたことを驚きをもって賞賛した。
幸子が結ばれたのは敵国の兵士である。幸子がどんな境遇にいたのかは想像がつく。それは二人の子供として生まれた千鶴も同様だ。
忠之は幸子や千鶴の苦労を思いやり、二人の強さを褒め称えた。また、ミハイルが千鶴たちに会いに来てくれた話には、我が事のように喜んだ。
忠之自身には親はいない。育ての親はいても、実の親は忠之を捨てたのだ。それを知った忠之がつらい気持ちにならなかったはずがない。けれど、そんなことはおくびにも見せず、千鶴さんはまっこと大事にされとらいと、忠之は千鶴を励ました。甚右衛門やトミも含め、千鶴が温かい人々に囲まれているという意味だ。
また忠之は、自分自身もみんなから家族みたいに面倒を見てもらえるのが、不思議だし幸せなことだと感慨深く話した。
「おとっつぁんとおっかさんがお遍路から戻んたら、おら、みなさんを二人に会わせたいて思いよるんよ。おらが世話になっとったんは、こがぁなええ人らじゃて、おら、おとっつぁんらに見せてやりたいんよ」
忠之が言ういい人たちの中には千鶴も入っている。千鶴は罪悪感でいっぱいだった。
何も知らない忠之は、為蔵とタネに会うのを楽しみにしている。だが二人はもうこの世にはいない。いずれその事実を忠之は知ることになるが、その時に忠之を襲う絶望を思うと、千鶴は居たたまれなかった。
優しい笑顔を向ける忠之が、千鶴には哀れであり愛おしかった。忠之に詫びる想いはもちろんあるが、それとは別の想いだ。
千鶴は黙って忠之を抱きしめてやりたかった。一生傍にいてあげたいと思った。それは忠之に心を奪われたということだが、千鶴には絶対に認められないことでもあった。
進之丞が死んだとはいえ、千鶴の心は進之丞だけのものだ。死んでもつながっているはずの自分の心を、進之丞とは別の男に捧げるなど許されない。しかも進之丞が死んだのは、ついこないだなのだ。
千鶴は抑えきれない感情に混乱し、何も言えなくなった。
九
「すんません」
うろたえた千鶴は立ち上がると、逃げるようにその場を離れた。
部屋を出ると、玄関に母がいた。千鶴は母に忠之を頼むと、そのまま縁側のある座敷へ行った。外を眺められる場所で、混乱した気持ちを落ち着けたかった。
座敷には祖父母がいると思ったが、いたのはスタニスラフだけだった。スタニスラフは掃除もせずに、ぽつんと縁側に座って庭を眺めていた。
千鶴に気がつくと、スタニスラフは笑顔で振り返り、自分の隣へ千鶴を誘った。
千鶴はスタニスラフの横へ行きたいとは思わなかった。ただ気持ちを落ち着けるために、誰かと話がしたい気分ではあった。祖父母がいればよかったが、二人ともいなかった。スタニスラフに訊くと、祖父母は墓地の掃除に出たという。
千鶴は少し迷ったが、仕方がないのでスタニスラフの隣に座った。スタニスラフは早速千鶴に体を寄せて肩に手を回した。
忠之と何をしていたのかとスタニスラフが訊ねると、千鶴はスタニスラフの手を外しながら、ちょっと話をしていただけと言った。スタニスラフは何の話をしていたのか聞きたがったが、大した話ではないと言って千鶴はごまかした。
スタニスラフと一緒にいても、前みたいに喋ることがない。気怠さと気まずさが沈黙となると、神戸にはいつ戻るのかと千鶴は素っ気なく訊ねた。
神戸に戻るのは千鶴が一緒に行く時だとスタニスラフは公言したのに、その千鶴からそんなことを訊かれては困惑しかない。顔をゆがめたスタニスラフは直接は答えずにアメリカの話をしたが、千鶴にはそんな話は少しも響いてこない。
千鶴の表情に焦ったスタニスラフは、今度は萬翠荘での晩餐会や舞踏会の話を持ち出した。あの時の千鶴の気持ちを取り戻したいのだろうが、今の千鶴には後悔の想いしかない。上っ面の楽しさに浸っていた千鶴たちを、陰から見ながら泣く進之丞が思い浮かぶ。
千鶴は立ち上がろうとした。いくら話し相手が欲しくても、スタニスラフと一緒にいたのは間違いだった。
慌てたスタニスラフは千鶴の腕を引っ張ると、無理やり抱き寄せた。千鶴は抗ったが腕を押さえられて動けない。スタニスラフが千鶴に顔を近づけた時、千鶴を呼ぶ幸子の声が聞こえた。はっとしたスタニスラフを千鶴が押しのけると、廊下に忠之に肩を貸した幸子が現れた。
押しのけたとはいっても、千鶴がいるのはスタニスラフのすぐ隣だ。幸子には二人が体を寄せ合って戯れているように見えたのだろう。眉間に深い皺を寄せている。忠之も千鶴たちの姿を目にしたはずで、千鶴は顔から血の気が引いた。
こうなっているのはスタニスラフに強引に迫られたからだが、二人にはわからない。また佐伯さんを蔑ろにしているのかと、幸子の目は千鶴を責めていた。
だが忠之は気にする様子もなく、幸子に礼を述べると一人で千鶴たちの所へ来ようとした。まだ足下がおぼつかず、ふらつくとすぐに幸子が支えたが、千鶴も立ち上がって忠之に駆け寄った。
「佐伯さんがな、どがぁしてもあんたに話したいことがある言うけん連れて来たのに」
叱る口調の幸子は、情けなさと申し訳なさの顔で忠之を見た。忠之はばつが悪そうに微笑みながら、邪魔をして申し訳ないと千鶴に頭を下げた。
佐伯さんにこんなことを言わせるのかと言いたげに、幸子は千鶴をにらんだ。だけど、千鶴自身同じ気持ちだった。
うろたえた千鶴は上擦った声で忠之から離れたことを詫び、申し訳ないのは自分の方だと言った。スタニスラフに会うために離れたわけではないと弁解もしたかったが、それ以上はうまく喋れなかった。
スタニスラフが縁側に座ったまま、千鶴たちに嫉妬の目を向けている。それを見咎めた幸子がスタニスラフを叱りつけた。
「スタニスラフ、あんた、こがぁなとこでずるけしよらんで、しゃんしゃん仕事せんかね」
スタニスラフが渋々立ち上がると、幸子は千鶴に顔を戻した。千鶴に忠之を預けて本当に大丈夫なのかと不審げだ。千鶴が忠之に肩を貸すと、幸子は鼻で大きく息を吐いて心配そうに見守った。
そのあと、もう一度スタニスラフを見遣った幸子は、スタニスラフ!――と叫んだ。
スタニスラフは腰を上げたものの、その場に立ち続けて忠之をにらんでいた。自分と千鶴の邪魔をしたと思っているのだろう。忠之の着物もスタニスラフは気に入らない。自分には作ってもらえなかった着物を、忠之が着ているのが癪に障るのだ。
幸子ににらまれながらスタニスラフが出て行くと、千鶴は忠之を縁側に座らせた。それから自分もその隣に腰を下ろしたが、胸の中で心臓が暴れ続けている。
スタニスラフと寄り添って座っていたところを見られてしまい、恐らく誤解されているという気持ちが千鶴を焦らせていた。改めてお詫びと言い訳をしようとしたが、何と言えばいいのかわからない。
「ごめんなさい。うち……」
言葉が続かず目を伏せる千鶴に、忠之は明るく言った。
「ええんよ。おらのことは気にせんでつかぁさい。おらの方こそ、千鶴さんの邪魔して悪かった。ほんでもな、おら、どがぁしても千鶴さんにお願いしたいことがあるんよ」
「お願い?」
顔を上げた千鶴に、忠之はうなずいた。
「さっき言うたらよかったんやけんど、言いそびれてしもたけん」
忠之が言いそびれたのではなく、千鶴の方が勝手に席を立ったのだ。忠之の顔を見づらい千鶴は、目を伏せがちにしながら頼み事の中身を訊いた。
忠之はそろそろ家に戻りたいと訴えた。何を頼まれるのかと少し緊張したが、その話かと千鶴は肩から力が抜けた。
家に戻りたいとは、前にも言われたことだ。その時にはまだ早いからと説得し、忠之もそれを受け入れた。今回はあの時よりも強い気持ちのようだ。決心は変わらないと言わんばかりの目で見られると、千鶴は困惑した。
「佐伯さんのお気持ちはわかるけんど、まだいけんぞな。もうちぃと、もうちぃとぎり我慢しておくんなもし」
今までならば、千鶴がこれだけ言えば忠之は引き下がってくれた。なのに今日は珍しく忠之は首を縦に振ろうとしない。
自分はもう一人で何でもできるから、世話はいらないし家に戻りたいと忠之は主張した。家に戻っても誰もいないと千鶴は言ったが、おとっつぁんとおっかさんがいつ戻ってもいいように、履物を作りながら待っていると譲らなかった。
実際、為蔵たちが遍路旅に出ているという話を、忠之がどれだけ信じているかはわからない。いつまで経っても会いに来ない家族が、本当のところはどうしているのかを自分の目で確かめたいのだろう。
困った千鶴は知念和尚に相談しようと思った。しかし、もう事実を告げる時が来たのだと思い直した。どうせ、いつかは誰かが話さなくてはならないのだ。その誰かというのも、自分を置いてはいない。
千鶴は少し悩んだあと、佐伯さんと言った。
「実は、うち、佐伯さんにお話せんといけんことがあるんぞなもし」
「おらに話? おらの家族のことかな?」
やはり忠之は遍路旅の話を疑っていたようだ。でも話を聞くのが不安なのか、少しそわそわしている。
千鶴も喋ると決めたつもりなのに、話を続けるのが怖くなった。だけど、もう話があると言ったのだ。
「ほれもあるけんど、他にも佐伯さんにお伝えせんといけんことがあるんぞなもし」
喋りながら千鶴は緊張したが、忠之も同じだ。ほうなんかと言った忠之の顔は硬く強張っている。
千鶴が忠之に向き直ると、忠之も体の向きを変えた。向かい合って座る忠之を見ると、まだ自分の正体を明かしていなかった頃の進之丞が、目の前に座っているみたいだ。
思わず目を伏せたが、千鶴は自分を励まし顔を上げた。
「今から大切な話をしますけん、気持ちをように落ち着けて聞いてつかぁさい」
声が自然に震えてしまう。千鶴は自身も気持ちを落ち着けねばならなかった。
真実を知った忠之から罵倒される覚悟はしていた。とてもつらいことではあるけれど、むしろ罵倒してもらった方が気持ちが楽になるという想いもあった。
しかし、いざ話そうと思うと、どこから話せばいいのかわからない。少し考えたあと、千鶴は前世の話をすることにした。自分と進之丞、そして鬼の物語である。
見まがわれた道
一
前世の話と言われても、忠之は少しも妙な顔を見せずに千鶴の話に耳を傾けた。
その話が自分にどう関係があるのか、何故千鶴がそんな話をするのか、どうして前世がわかるのかなど一切訊かずに、忠之は静かに千鶴の話を聞いた。
千鶴が初めに語ったのは、前世の自分の生い立ちだった。千鶴が前世でもロシア人の父親と日本人の母親の間に生まれたという話は忠之を驚かせた。
父親を海に流され、物心がついた頃には母親と一緒に遍路旅をしていた千鶴の境遇は、前世の話ながら忠之を心配させた。道中出くわした鬼に狙われて母親を殺された話には、忠之は驚愕しながら涙ぐみ、少しも千鶴の話を疑おうとしなかった。
千鶴が同じ話を聞かされる立場であったなら、本当なのかと疑うだろう。人によれば前世の話と言われた時点で、真面目に話を聞くのをやめる。ところが忠之は千鶴の話をすべて真実だと受け止めてくれていた。それだけ信頼されているのだろうが、そこまで信頼してもらえるのは、千鶴には有り難くも不思議なことだった。
独りぼっちになった千鶴が、慈命和尚に法生寺へ連れて来られた話には、忠之は安堵して喜んだ。自分がいるこの場所に前世の千鶴がいた事実にも、驚き感動したようだ。
当時も千鶴は異人の顔をしていたので、村人たちから鬼娘と呼ばれたが、代官の一人息子の柊吉が友だちになってくれたという話を聞くと、忠之は柊吉を褒め称えた。
だが、何故侍の子供が一人で遊びに来られたのかと首を傾げるので、慈命和尚が代官からも敬われていたからと千鶴は説明した。また、初めのうちはお付きの者がいたけれど、柊吉が大きくなると、まったくの一人で訪ねて来るようになったと言った。
柊吉が寺へ来る名目は、慈命和尚からいろいろ教えを受けるというものだった。実際、柊吉は村の子供たちや千鶴と一緒に和尚から学びを受けた。それ以外は千鶴と遊んだし、千鶴と村の子供たちの仲立ちをしてみんなで遊んだりもした。
千鶴の笑顔のためなら柊吉は何でもやってくれた。千鶴が喜ぶと、柊吉も笑顔でいっぱいになった。千鶴にとって懐かしく切ない思い出だ。
柊吉の優しさに忠之は感心しきりだったが、柊吉に花の神さまと言われたことや、よく野菊の花を飾ってもらったことは、千鶴は恥ずかしくて黙っていた。
柊吉が元服して進之丞になり、千鶴を嫁にする話になると、忠之は身分を超えた結婚にかなり驚いた。
千鶴が武家の嫁になるために、代官の知人の侍に養女にしてもらうことが決まっていたと説明されると、忠之はへぇと感服した。そして、よかったなと千鶴を祝福してくれた。ところがその千鶴と進之丞の幸せが、母を殺した鬼によって引き裂かれたと知ると、忠之は大きく顔をゆがめた。
千鶴は鬼の話をするのがつらかった。今の千鶴にとっては、鬼も愛しく大切な存在だ。過去のこととはいえ鬼の悪行を喋るのは嫌だし、その時の感情を思い出したくなかった。だけど鬼の話をしなければ、忠之に何があったのかを伝えられなくなってしまう。
風寄で鬼が何をやったのか。それを話すと、忠之は険しい顔になった。しかし、鬼は優しさが欲しかっただけと千鶴が鬼をかばうと戸惑いを見せた。
「そがぁいうても、優しさが欲しいけんてそげなことしよったら、千鶴さんに優しゅうしてもらえるわけなかろに」
「鬼はうちを喰らおうとしよったんです。うちを喰らうことで、うちの優しさを自分一人のものにしようと考えたんぞなもし」
ぎょっとなった顔の忠之に、千鶴は喰らうとはどういうことか説明した。忠之は目を丸くしたが、想像を超える話に面食らったようだ。しかし、忠之自身が進之丞に喰らわれていたのだ。千鶴は喋るうちに罪悪感で目は伏しがちになり、声も小さくなった。
少し間をおいて、千鶴は鬼と戦った進之丞が千鶴の身代わりとなって鬼に喰らわれたと語った。頭の中では進之丞を刺した記憶が蘇っている。
千鶴は何度も涙を拭きながら、進之丞を喰らったことで鬼が己の中の優しさに気づいて心を入れ替えた話や、進之丞の心を受け入れた鬼が、進之丞として生きることになった話を力を込めて喋った。そして、鬼はそのあと襲いかかって来た攘夷侍たちから千鶴を護り、力尽きて死んだと言った。
「進さんは鬼になる前に、深手を負って助からん体になっとったんぞなもし」
「ほれで鬼になって死んだんか。ほんでも進さんは千鶴さんを護りきったんじゃな」
忠之は気の毒そうにしながらも進之丞を称えた。しかし、千鶴は何も言えなかった。
千鶴は進之丞の命を奪った罪を、家族にも和尚夫婦にも話せていなかった。誰かに聞いてほしい気持ちはあるけれど、とても話せることではなかった。だけど忠之であれば打ち明けられそうな気がして、言おうか言うまいかと迷っていた。
「どがぁしんさった?」
進之丞が怪訝そうに言った。千鶴は意を決すると顔を上げた。
「進さんを……進さんを殺めたんは、このうちなんぞなもし」
忠之はぎょっとしたように目を見開いたが、千鶴は続けて言った。
「進さんはうちを助けよと必死になって鬼と戦いんさった。その進さんをうちは後ろから包丁で刺したんぞな」
「包丁で? なしてそげなこと……」
「うちは鬼に暗示をかけられ、鬼ぎりが自分の味方じゃと思わされとりました。ほれで、うちを助けよとしんさった和尚さまを燃える庫裏の中に置き去りにし、うちのために鬼と戦ってくんさった進さんを、この手で殺めてしもたんです」
千鶴が号泣すると忠之はうろたえながら、悪いのは鬼だからと懸命に慰めた。そして一緒に涙をこぼしながら、千鶴さん、つらかったな――と繰り返して言った。
「いくら鬼が悪い言うたとこで、千鶴さんの苦しみは変わるまい……。おら、何もしてあげられんけんど……、消せるもんなら、千鶴さんのそがぁな記憶……、おらが全部消してあげるんやがな……。恐らく進さんも、おらと同し気持ちやったと思わい……」
千鶴は忠之を見た。やはり忠之の心は進之丞と対だ。その忠之に誰にも言えなかった話を聞いてもらい、励ましてもらえたのは大きな慰めとなった。また、千鶴の心はさらに忠之に惹かれた。
二
鬼が死んだあと自分も後を追ったと千鶴が話すと、忠之は悲しげに目を伏せた。
そのあと地獄へ行ったと千鶴が話すと、忠之は驚いて顔を上げた。しかし千鶴は地獄に堕ちたのではなく、鬼となった進之丞に逢いに行ったのだとわかると、そげなことをするんは千鶴さんぎりぞなと言って笑みを浮かべた。
「その鬼はまっこと嬉しかったろうな。まさか千鶴さんが地獄にまで逢いに来てくれるやなんて思いもせんかったろ……。ほんでもな、鬼はまっこと悲しかったとも思わい」
忠之は微笑んでいたが、少し寂しげだ。千鶴は忠之の言葉が気になった。
「なして鬼は悲しかったて思いんさるん?」
「ほやかて、おらが鬼じゃったら、自分のせいで千鶴さんを地獄へ呼んでしもたて思うけん……。そがぁな所、鬼は絶対に千鶴さんを来させとうはなかったろ」
忠之の言葉は進之丞が語ったことと同じだった。千鶴は進之丞を思い出しながら、忠之に引き込まれそうになった。
「鬼は困ったんやないんかな?」
忠之に訊かれて我に返った千鶴は、鬼が千鶴を光の世界へ戻すため、千鶴の幸せを願いながら、千鶴への想いを断ち切ろうとした話をした。
泣きそうな顔の忠之は目を閉じて胸を押さえると、お不動さま――とつぶやいた。
鬼が千鶴を不動明王に託そうとしたとは、千鶴は言わなかった。なのに、忠之はお不動さまとつぶやいた。それはまるで進之丞のつぶやきだった。
「切ないな……」
少しして目を開けた忠之は涙ぐんで言った。
「鬼はほんまは千鶴さんに傍におってほしかったろうにな……」
しんみりした沈黙のあと、千鶴は忠之にさっきのつぶやきを訊ねた。あぁと言って笑った忠之は照れて頭を掻いた。
「おら、こんまい頃からここの和尚さんや安子さんには、いろいろお世話になっとるけん、お不動さまとも顔馴染みなんよ。ほじゃけん、何ぞあったらすぐにお不動さまて言うてしまうんよ。さっきも鬼の話があんまし切なかったけん、つい言うてしもたんよ」
忠之は鬼に自分を重ねていたのだろう。千鶴は感銘を受けながら、はっとなった。
鬼は千鶴を想いながら、千鶴の幸せを願って自らの想いを断った。そんな鬼を切なく想う忠之は、鬼と同じことを考えていたのではないか。
忠之が家に戻ると言って譲らない本当の理由は、そこにあると千鶴は悟った。
これまでの千鶴の態度を見て、忠之は自分が避けられていると感じていたはずだ。それがスタニスラフが来てから顕著になったので、千鶴はスタニスラフを好いていると受け止めたのだろう。なのに千鶴は忠之の世話があるから自由にできない。だから、忠之は千鶴への想いを断ち、千鶴の幸せのために姿を消すつもりなのだ。
千鶴は泣きそうになった。さっきはどうして忠之から離れたのか、本当の理由を忠之に伝えたかった。だがそれを拒む自分がいた。進之丞への裏切りだと、その自分は訴えていた。ぶつかり合う二つの想いのせいで、千鶴は喋れなくなった。
けれど、今は話を続けねばならない。進之丞が忠之を喰らったという事実を、忠之に伝えなければいけないのだ。
千鶴は気持ちを落ち着けると、そのあと自分は山﨑千鶴として生まれ変わったと言った。しかし、そこで再び口籠もった。音が聞こえそうなほど心臓がどきどきしている。
鬼はどうなったのかと忠之が訊ねた。大きく呼吸をしたあと、千鶴は言った。
「進さんは、うちみたいには生まれ変わらんかったんぞなもし」
「じゃあ、どがぁに?」
千鶴はためらいながら、佐伯さんぞなもしと言った。意味がわからない忠之は、自分を指差しながら当惑した。
「佐伯さんが最後に覚えとりんさるんは、台風が来よった時に鬼よけの祠の前に立ちんさったことですよね?」
当惑気味にうなずいた忠之を、しっかり見据えながら千鶴は言った。
「ほん時に、進さんは佐伯さんに取り憑きんさったんぞなもし」
え?――忠之は千鶴の言葉が理解できなかった。千鶴は構わず話を続けた。
「進さんは鬼に喰らわれて鬼になりました。その進さんに、佐伯さんは喰らわれんさったんぞなもし」
「おらが? 喰らわれた? 進さんに?」
千鶴はうなずき、忠之にこの二年の記憶がないのは、進之丞の心の一部になっていたためだと説明した。
「進さんは鬼に喰われんさったあとも、進さんのままでおいでたけんど、佐伯さんはほうはならんかったんぞなもし。そがぁして進さんは佐伯さんのお体とご記憶をご自分の物にしんさって、佐伯さんとしてこの二年を生きて来んさったんです」
動揺した忠之は自分の手のひらを見たり、体に触れたりして千鶴に顔を戻した。
「なして、おらが進さんに?」
鬼は心の穢れた者にしか取り憑けないとは言えない。忠之の心が穢れているとも思えない。千鶴は、鬼は自分と似ぃた心に取り憑くそうですと説明した。
「進さんが言いんさるには、進さんと佐伯さんは心が対じゃったらしいんぞなもし。やけん、進さんは佐伯さんに取り憑けたて言うておいでました」
「おらと進さんが心が対?」
「うちから見ても、佐伯さんは進さんと真っ対ぞなもし。ほじゃけん、進さんは佐伯さんに取り憑いてしもたんやと思います」
こんな説明をされても、忠之は戸惑うばかりだ。千鶴は進之丞のために弁解した。
「ほんでも、進さんはわざに佐伯さんを喰ろたんやのうて、気ぃついたら喰ろてしもとったそうなんです。進さん、ほれをずっと気にしておいでて、佐伯さんに申し訳ないことしたて言い続けんさったんです」
驚いた顔のままの忠之に向かって、千鶴は両手を突いた。
「お詫びして許されるもんやないですけんど、うちには詫びるしかできません。この度はまことに申し訳ありませんでした」
頭を下げた千鶴は、忠之が怒りだすのを待った。緊張で突いた手が震えている。
しばらくすると、わかったけんと忠之は穏やかな声で言い、千鶴に頭を上げさせた。
「今の話にはまっことたまげたけんど、おらが何もわからんのはそがぁなことやったんじゃな。ほんでも、千鶴さんが頭下げることないけん」
「ほやけど、うちは進さんが佐伯さんを喰ろたんを知りながら、進さんと暮らして来たんぞなもし。ほやけん、うちにも罪があるんぞなもし」
「おらはそげには思わん。ほれで、進さんはどがぁなったんぞな? おらが意識を取り戻したんじゃけん、進さんはおらから離れたんじゃろ?」
「進さんは……」
最後に花を飾ってくれた鬼の姿が浮かんでいる。涙があふれ出して千鶴が喋れなくなると、忠之は慌てて慰めた。
「おら、余計なこと訊いてしもたんじゃな。ごめんよ。おら、千鶴さんに泣かれたら困るけん。お願いじゃけん、泣きやんでおくんなもし」
忠之のうろたえようは進之丞そっくりだ。千鶴はますます泣いた。
三
千鶴!――と叫びながらスタニスラフが素っ飛んで来た。他の所で仕事をさせられていたはずなのに、抜け出して来て千鶴たちの様子を窺っていたらしい。
千鶴を抱きかかえたスタニスラフは、千鶴に何をしたのかと、凄い剣幕で忠之をにらみつけた。千鶴に余計なことを言ったと思っている忠之はおろおろしている。
スタニスラフの腕を振り解いた千鶴は、佐伯さんは何もしていないと忠之をかばい、自分が勝手に泣いただけだと言った。けれど、スタニスラフは信じる気がないらしく、尚も忠之をにらみ続けた。
「邪魔くれするんなら神戸へ帰りんさい!」
千鶴は辟易しながら声を荒らげたが、それでもスタニスラフは離れない。そこへ騒ぎを耳にした安子と幸子がやって来た。
幸子はスタニスラフを見つけると、掃除をしていないのかと怒りを露わにした。スタニスラフは少し勢いを失ったが自分の正当性を訴えて、忠之が千鶴を泣かせたと言って聞かなかった。
千鶴は即座に否定して、喋っているうちに昔を思い出して泣いただけで、佐伯さんは何もしていないと言った。
安子は腰に手を当てると、本人がこう説明しているのに、どうして自分勝手なことを言うのかと、強い口調でスタニスラフを叱った。
「まだ千鶴ちゃんらの邪魔するいうんなら、今すぐここから出て行ってもらうけんね!」
安子がここまで強く言うことは滅多にない。さすがに焦った様子のスタニスラフは、小さな声でゴメナサイと言うと、悔しそうに部屋から出て行った。
幸子はやれやれという感じで安子と顔を見交わすと、千鶴の傍へ来て、佐伯さんと何の話をしていたのかと訊ねた。
千鶴はうろたえながら、これまでの事とだけ言った。幸子と安子は顔を見交わしてうなずくと、誰にも邪魔はさせないからと言い置いていなくなった。
改めて忠之と二人きりになった千鶴は、スタニスラフの非礼を詫びた。忠之は何も気にしていないと微笑み、この二年のこともなと付け足した。
忠之の怒りを覚悟していた千鶴は、肩透かしを食らった気分になった。
「進さんに取り憑かれんさったのに怒らんのですか?」
千鶴が訊ねると、忠之は笑いながら、そげなこと――と言った。
「ほれより、おら、自分が進さんの一部として、この二年をどがぁしよったんか、そっちを知りたいんよ」
それは忠之を喰らった進之丞が、この二年をどう暮らしていたのかという話だ。
千鶴はうなずくと、忘れたくないし忘れられない想い出を静かに話し始めた。
風寄の祭りで千鶴が男たちに襲われた時、突然現れた進之丞に助けてもらった話は、忠之を喜ばせた。
進之丞が人力車で千鶴と春子を松山まで運んだり、仲買人の兵頭の牛代わりに風寄の伊予絣を山﨑機織まで届けた話を聞くと、忠之は驚きながら自分の力に感心した。また、山﨑機織の壊れた大八車の代わりに、進之丞が自分の大八車を置いて行った話には、忠之は大きくうなずいた。
すっかり甚右衛門に気に入られた進之丞が、為蔵とタネの世話をする約束で山﨑機織で働くようになった話を聞くと、忠之はなるほどと納得した。為蔵たちがいるのに自分が松山へ行った理由が、やはり気になっていたらしい。
忠之が忠吉や忠七と呼ばれていたことや、忠之が甚右衛門たちを何と呼んでいたのかを千鶴が話すと、忠之は面白そうにそれぞれの呼び方を繰り返した。
懸命に働いた進之丞がみんなに信頼されて、すぐに手代に昇進した話は忠之を感心させた。忠之には自分なんかがという気持ちがあるようで、進之丞の才能には敬服していた。
休日になると進之丞が洗濯や掃除などを手伝ってくれた話や、二人で楽しんだ祭りや花見見物の様子、困った時には進之丞が必ず助けてくれたことなど、二人だけの想い出も千鶴は喋った。話を聞く忠之はとても楽しげだった。
どうでもいい些細な話や取るに足らないちょっとしたことまで、思い返せばすべてが幸せだった。二人で言い争ったことまでもが、今に思えば愛おしかった。
喋っているうちに、千鶴は涙が止まらなくなった。忠之はうろたえて、もう十分だと話を中断させた。
千鶴は涙を拭きながら、またスタニスラフが素っ飛んで来るのではないかと心配した。すると忠之は、あのロシアの人のことを訊いても構わないかと言った。
千鶴はどきりとした。忠之からすれば、これほど進之丞を愛しく想う千鶴が、スタニスラフと一緒にいたがるのが不思議なのだろう。
忠之は千鶴がスタニスラフと仲よくなった経緯を知りたがった。千鶴は仕方なく萬翠荘に招かれた話をした。忠之は目を輝かせて、自分もその時の千鶴を見てみたかったと言った。またスタニスラフが千鶴を気に入った理由にも納得してうなずいた。
「そがぁなわけで、あのお人は遠い所からわざに千鶴さんを迎えにおいでたんか」
「うちはあのお人と一緒には行きませんけん」
千鶴は即座に言った。それは自分の気持ちであり、さっきスタニスラフと一緒にいたことの弁解でもあった。けれど忠之は本気には聞いていないようだ。微笑みはしたが少し悲しげだ。
忠之の体を離れた進之丞がどうなったのかを、千鶴はまだ喋っていない。けれど千鶴の様子を見ていれば、進之丞はもういないのだと誰だって察しがつく。それで心が弱った千鶴がスタニスラフに慰めを求めても仕方がないと、忠之は見ているのだ。また自分にはできない役割をスタニスラフが果たしていると受け止めているに違いない。
「言うときますけんど、うちがスタニスラフさんのお相手しよるんは、あのお人が遠い所からうちを心配して、わざにおいでてくんさったけんぞなもし。ほれ以外の理由はないですけん」
千鶴はきっぱり言ったが、忠之は自分から逃げてスタニスラフに寄り添う千鶴の姿を、己が目で見ているのだ。千鶴の言葉は言い訳にしか聞こえないだろう。
忠之の当惑気味の微笑みに戸惑いながら、千鶴は天邪鬼の話に話題を変えた。忠之に話さなければならないことが、まだ残っている。
四
天邪鬼がどんな鬼なのかを説明したあと、前世の悲惨な出来事はすべて天邪鬼が仕組んだことだと千鶴は言った。
天邪鬼のせいで千鶴と進之丞は死に別れ、鬼と化した進之丞は地獄へ堕ちた。そのことに忠之は怒りを見せたが、今世で奇跡的な再会を果たした二人を、天邪鬼が再び絶望のどん底へ突き落とそうとした話には、拳を握りしめて憤った。そして大林寺での事件のせいで山﨑機織が倒産したと知ると、大きな衝撃を受けたように驚いた。
千鶴ばかりか甚右衛門たちもが自分の面倒を見てくれているのを、忠之は不思議に思っていた。今の話でその理由がわかった忠之は、家も店も失った千鶴たちに同情を寄せた。だが、忠之の方こそすべてを失ったのだ。
いよいよ話の本題が近づき、千鶴の心臓は再び暴れ始めている。
「お店が潰れたあと、進さんはうちをお嫁にして、風寄の仕事を引き継ぐつもりでした。ほれで為蔵さんやおタネさんにその報告をするために、進さんは一足先に風寄に戻りんさったんです」
忠之は目を瞠ったまま話を聞いている。
天邪鬼はともかく、千鶴が喋っているのは、進之丞が忠之の大切なものをすべて奪った話だ。進之丞は忠之ばかりか、忠之の家族さえも我が物にしていた。それは進之丞の罪ではあるが、千鶴の罪でもあった。今、千鶴はその罪を懺悔しているのである。
山﨑機織の話は忠之もぴんとこなかったかもしれないが、家族の話となれば人生を奪われたと思うはずだ。罪悪感を感じながら千鶴は話を続けた。続けねばならなかった。
「ほん時……」
緊張が高まり、千鶴は喉が詰まった。喋ろうとすれば唇が震えてしまう。じっと見つめる忠之の視線が痛くて、千鶴は目を伏せて喋った。
「ほん時、天邪鬼が風寄に先回りして、ほれで、ほれで……」
涙がぽろぽろこぼれた千鶴は、声を絞り出して言った。
「……為蔵さんとおタネさんのお命を……奪たんです」
え?――と言う小さな声が聞こえた。あとは何も聞こえない。忠之は怒鳴りもしなければ泣き叫びもせず、訊き返すことすらしなかった。
「……天邪鬼は進さんを怒らせて鬼に変化さすために……、お二人を殺めたんです」
千鶴は泣きながら状況を説明したが、忠之は黙ったままだ。恐る恐る顔を上げてみると、忠之は呆然としていた。その頬をつっと涙がこぼれ落ちたが表情は変わらない。
千鶴は忠之に土下座をすると、申し訳ありませんでしたと言った。
「うちらが関わってしもたばっかしに……、佐伯さんの大切なご家族まで犠牲にしてしまいました……。許してほしいとは言いません……。どうぞ、焼くなり煮るなり、うちを好きにしてつかぁさい……」
千鶴は打ち伏したまま忠之の怒りを待った。けれど、いつまで経っても忠之の声は聞こえない。沈黙だけが続いている。
千鶴がもう一度そっと顔を上げると、忠之は放心状態で静かに泣いていた。その様子が悲しくて、千鶴は嗚咽しながらもう一度頭を下げた。
しばらくしたら、鼻をすする音と穏やかな声が聞こえた。
「千鶴さん、もうええけん。おら、怒っとらんけん、頭を上げてつかぁさい」
忠之の顔は涙に濡れていたが、千鶴の顔もぐちゃぐちゃだ。忠之は両手の親指で千鶴の涙を拭って微笑みかけた。
「千鶴さんはおらの家族を知っておいでるんかな?」
こくりと千鶴がうなずくと、二人はどんな感じだったかと忠之は訊ねた。
「お会いしたんは一度ぎりぞなもし」
そう前置きをしてから、千鶴は初めて会った時の為蔵とおタネのことを正直に話した。また、二人が千鶴たちのために履き物を作ってくれた話や、千鶴を嫁として連れて戻るようにと進之丞に命じていた話もした。
忠之は笑いながら、父親の非礼を勘弁してやってほしいと言った。
「おとっつぁんは頑固なけん、いっぺん言いだしたら聞かんのよ。ほんでも、ほんまは千鶴さんがどがぁなお人なんかは、ちゃんとわかっとったと思わい」
千鶴はどんな顔をすればいいのかわからず下を向いた。忠之は遠くを眺めるようにしながら、懐かしそうに喋った。
「何だかんだいうても、おとっつぁんはおっかさんには頭が上がらんかった……。偉そにしよっても、結局はうねうね言いもって、おっかさんの言うとおりに動きよった……」
千鶴が上目遣いに忠之を見ると、忠之は千鶴をにっこりと見返した。
「二人とも、おらにまっこと優しかった……。おらが捨て子じゃったとは一言も言わずにな、おらを実の子のように大事に育ててくれたんよ……。まっこと、おらにはもったいない親じゃった……」
微笑んだ忠之の頬を涙がまた流れ落ちた。恥ずかしげに涙を拭く忠之に千鶴は訊ねた。
「佐伯さん、うちや、進さんのこと、ほんまに怒っておいでんのですか?」
「怒っとらんよ」
「なして? なして怒らんのですか?」
ほやかて――と忠之は戸惑いながら下を向いた。
「別に千鶴さんがおとっつぁんらを殺めたんやないし、進さんにしたかて、おらの代わりにおとっつぁんらを大事にしてくれとったんじゃろ? 悪いんは天邪鬼で、千鶴さんも進さんも悪ないけん」
「ほやけど――」
「ええんよ。もう済んだ話ぞな。今更どがぁ言うたとこで詮ないことやし。ほれより天邪鬼よ。天邪鬼はどがぁなったんぞな? 今もまだ千鶴さんを狙いよるんかな」
険しい顔になった忠之に、天邪鬼は死んだと千鶴は言った。
「お城山で鬼に変化した進さんが退治したんぞなもし」
千鶴はそれしか言えなかった。自分が天邪鬼の手に落ちて、進之丞すなわち忠之の命を奪おうとした話や、井上教諭まで巻き込んで死なせてしまった話はできなかった。
「ほうなんか。退治したんか」
忠之は驚き安堵の顔を見せたが、千鶴たちが城山に登った理由は訊ねなかった。
少し間を置いて千鶴は話を続けた。
「天邪鬼はお城に警察が来るように仕掛けとったんですけんど、ほれで巡査が来たんです。やけん、進さんはうちを抱いて本壇の北側に飛び降りたんぞなもし。ほしたら……、そこにおじいちゃんがおいでたんです」
「おじいちゃんて、旦那さんかな?」
千鶴はうなずくと、自分が鬼に連れ去られたと思い込んでいた祖父が、猟銃を持って城山へ探しに来ていたと話した。忠之は顔を強張らせ、まさかと言った。
「おじいちゃん、鬼に抱かれたうちを見つけて、うちを助けようとしんさったんです。うち、この鬼は悪い鬼やないて、必死で叫んだけんど、ほん時、大雨が降って雷が落ちたけん、うちの声はおじいちゃんには聞こえんかったんです。ほれで……」
すぐに逃げていれば、進之丞は撃たれなかった。なのに、進之丞は千鶴を甚右衛門に返そうとした。稲光の中で見た祖父の驚いた顔が浮かび、千鶴はすすり泣いた。
「進さん、すぐに手当したら助かったのに……、うちをここまで運んだけん、血ぃがいっぱい出て……」
あとの言葉が出せず、千鶴は泣いた。忠之は大きく目を見開いたが、やがて目を伏せると、ほういうことかと力なく言った。
千鶴は涙を拭きながら話を続けた。
「佐伯さんの右の腰にある傷は、山で怪我したんやありません。ほれは、おじいちゃんの猟銃で撃たれた傷ぞなもし。鬼が死んだ時、佐伯さんも死んだはずじゃったけんど、佐伯さんは息を吹き返しんさって、生き返ることができたんです」
「鬼も進さんも死んだのに、おらは生き返ったんかな」
驚きながらも少ししょんぼりしている忠之に、千鶴は言った。
「佐伯さんぎりでも生き残れたんは幸いなことでした……。佐伯さんから心と体ばかりか、大切なご家族を奪てしもた上に……、佐伯さんのお命まで奪うとこでした……。おじいちゃんも佐伯さんに申し訳ないことしたて、ずっと悔やんでおいでるんです……」
忠之は自分が死にかけたことには触れずに、悪かったなと顔を曇らせながら言った。
「おらばっかし息吹き返してしもて……。ほんまなら、進さんも一緒じゃったらよかったのにな」
どきりとしながらも、千鶴は忠之の言葉に腹が立った。
「なしてそがぁなことを言いんさるん? うちらは佐伯さんに取り返しがつかんご迷惑をおかけしてしもたんぞな。謝るんはこっちの方であって、佐伯さんが謝りんさるんは間違とります。佐伯さんは怒りんさってええんです。うちのこと、怒ってどやしつけて殴り飛ばしてつかぁさい。うちはその覚悟でこの話をしたんぞなもし」
忠之は微笑みながら言った。
「そげなこと、できるわけなかろがな。千鶴さんはおらの命の恩人ぞな。千鶴さんは懸命におらを助けてくんさった。おらな、身内以外でこがぁに親切にされたんは、生まれて初めてなんよ。おら、千鶴さんには感謝の気持ちしかないけん」
こんな風に言われるなんて千鶴は思いもしていなかった。そこまで想いを寄せてくれているのかと胸が打たれたが、この言葉は正体を明かす前の進之丞が口にした言葉でもあった。どこまでも進之丞と似ている忠之に、千鶴は泣きそうになった。
忠之は少し戸惑いながら、ほれになと言った。
「おら、千鶴さんがこの二年、幸せに過ごしんさったんが嬉しいんよ」
思いも寄らない言葉に、千鶴は忠之を見た。
「おら、ずっと千鶴さんの傍におったろうに、何ちゃ覚えとらん。けんどさっきの話聞いたら、千鶴さん、幸せにしよったみたいなし、こがぁなおらが、ほれにちぃとでも役に立てたんじゃなて思たら嬉しいんよ」
「なして、うちなんか……」
「言うたじゃろ? 千鶴さんはおらの命の恩人やし、おらに優しゅうしてくれたお人やけん。その千鶴さんが喜んでくれよったいうんが、おらには何よりなんよ」
どうすればこんな風に考えられるのだろう。いくら好意を持ってくれていたとしても、他の者なら絶対にこんなことは言わない。
千鶴は堪えられなくなった。忠之に背を向けると声を殺して泣いた。
五
「千鶴さん、おらと一緒におったら、ほんまはつらかろ?」
後ろから忠之が申し訳なさそうに声をかけた。千鶴はぎくりとなった。
急いで涙を拭くと、そがぁなこと――と言いながら忠之を振り返った。しかし、忠之と目が合うと思わず下を向いた。気恥ずかしさとうろたえがもつれ合っている。
忠之は寂しげに言った。
「進さんはおらと真っ対なんよな? というか、おらの体を使いよったんじゃけん、おらが進さんじゃったんよな。ほんでも、今のおらは進さんやないけん、おらと一緒におったら、千鶴さん、混乱してしまわい」
まったくの図星である。忠之は千鶴の心の内を見抜いていた。だけど今は進之丞への想いと別に、忠之に惹かれる気持ちもある。ただ、それは口にはできない。
「さっきも言うたけんど、おらぎりやのうて、進さんも生き返ったらよかったのにな」
しょんぼり話す忠之に、千鶴は腹が立ったし悲しかった。
「そがぁなことは言わんでつかぁさい! こんでもうちは佐伯さんが助かるようにがんばったつもりぞなもし」
千鶴の剣幕に忠之は、ほやかてと言って悲しげに口を噤んだ。
今度は千鶴は自分に腹を立てた。忠之にこう言わせたのは自分なのだ。せっかく生き返った忠之が、己には生きる価値がないと思ったならば、それは千鶴の責任だ。
これまでの自分の態度について千鶴が詫びると、ほれはええんよと忠之は言った。
「おらと進さんは対やけんど、別人じゃけんな。千鶴さんが戸惑うんもわかるし、どんだけ苦しいんかもわかる気がすらい」
ただなと忠之は目を伏せて話を続けた。
「おら、千鶴さん悲しませとないし、いつまでも千鶴さんをおらに縛りつけとないんよ。おら、千鶴さんには自由でおってほしいし、好きにしてもらいたいんよ」
顔を上げた忠之はにっこり笑い、千鶴さんには笑顔が似合うけんと言った。
千鶴は切なくなった。やはり忠之は自分の気持ちを殺して姿を消そうとしていたのだ。
本当は自分もあなたの傍にいたい。そう伝えたいが、言葉は頭の中に留まったまま口には出せなかった。自分の心は進之丞だけのものだし、進之丞が死んで間もないというのに、もう他の男に心を移すのかと、もう一人の自分が罵っている。
そんな千鶴の葛藤を知らぬまま、忠之は笑顔を見せて言った。
「おら、もう何だって一人でできらい。和尚さんもおるし、安子さんもおる。千鶴さんがおらいでも、おら何ちゃ困らんけん。ほじゃけん、千鶴さんはおらには構んで、自分が思たようにしておくんなもし」
「そがぁ言われても……」
「ええんよ。おらに遠慮なんぞせんでええけん。ほんまにおらじゃったら大丈夫ぞな。千鶴さんは悲しいこと忘れて、自分が楽しゅう思えることをしよったらええ。ほれがおらの望みぞな」
「ほやかて……」
「あのロシアのお人が初めておいでた時、一緒に戻んておいでた千鶴さん、まっこと幸せそうに笑いよった。おら、あがぁな千鶴さんでおってほしいんよ」
千鶴は体中の血が顔に集まったように感じた。
思いがけないスタニスラフの訪問に、すっかり舞い上がっていて気づかなかったが、あの時、庫裏の縁側にいた忠之に二人の様子を見られていたのだ。
萬翠荘での舞踏会を進之丞に見られた時の、あの焦りと動揺が千鶴を襲った。あの時、進之丞はスタニスラフと踊る千鶴の笑顔こそが、お不動さまが見せようとした笑顔なのだと思いながら泣いていた。きっと忠之も同じ気持ちだったに違いない。
「ほうやないんです」
千鶴は訴える眼差しで忠之を見たが、頭の中が真っ白であとの言葉が続かない。だが、それは忠之の言葉を否定できないという意味になる。そのことが千鶴をさらに焦らせた。
うろたえる千鶴を励まそうと思ったのか、忠之は少し迷いながら言った。
「おら、あのお人が千鶴さんにどがぁなんかはわからんけんど……、もし千鶴さんがあのお人のことを好いておいでるんなら――」
やめて!――と千鶴は叫んだ。忠之は驚いて口を噤んだ。
何故自分を犠牲にしてそんなことを言うのか。どうして進さんと同じことを言うのか。忠之の悲しみが、進之丞の悲しみとなって千鶴の上にのしかかる。
進さんでもないのに進さんと対のことを言うなと、千鶴は怒鳴りたかった。そんな悲しい言葉を口にしてほしくなかった。そんな言葉を言わせてしまったことを謝りたかった。なのに狼狽と腹立ちで頭がいっぱいになった千鶴は、思わず声を荒らげてしまった。
「何も知らんずくに、知ったかぶりして余計なこと言わんでつかぁさい!」
忠之は呆気に取られた顔になった。はっとなった千鶴は、激しく動揺した。
詫びている相手に怒鳴ったのだ。しかも忠之は千鶴の長い話に付き合い、千鶴の悲しみに涙してくれた。その忠之を怒鳴ったのである。
おろおろする千鶴に忠之はしゅんとなって、悪かったと謝った。その姿を見て、千鶴は愚かな自分に泣きたくなった。
「つい言わいでええこと言うてしもた。堪忍してやってつかぁさい。おら、千鶴さんの笑た顔が見たかったぎりなんよ」
忠之は進之丞ではないのに、進之丞そのものだ。進之丞としても忠之は千鶴を惹きつけてしまう。最後の抗いが力をなくしそうだ。
とはいえ、忠之に声を荒らげたのだ。忠之は千鶴が笑顔の仮面を取って、素顔を見せたと受け止めただろう。千鶴に好意を寄せながら、自分の存在が千鶴を不快にさせていると思う忠之が、今のでどれほど傷ついたのかが、千鶴には痛いほどにわかっていた。
「あの……、うち……、うち……」
うろたえた千鶴は忠之に本当の気持ちを伝えそうになった。どうして自分がいらだつのか、その本当の理由を説明したかった。けれど進之丞への想いが踏みとどまらせた。進之丞ではない者を好きになるのは許されないのだ。
しかし、それでは忠之を傷つけたままになってしまう。千鶴は言い訳しようと口を動かしたが、言葉が出て来ない。何とか出たのは、ごめんなさいという言葉だけだった。
忠之は微笑んだが、その目には悲しみのいろが浮かんでいた。
六
本当であれば、千鶴は自分の気持ちを抑えながら、忠之が一人で暮らせるようになるまで、励ましながら支えてやるつもりでいた。それが忠之への償いであり、進之丞の想いの代弁でもあった。なのに忠之に声を荒らげてしまったのだ。そんな者に忠之の世話をする資格はない。自分を嫌う相手に世話をされるなど、忠之だって望まない。
忠之の悲しげな目が頭から離れない。絶対に悲しませたくない人が泣いている。
千鶴は頭を抱えて泣いた。頭の中で何度も忠之に詫びた。一方で、泣きながら忠之を想う自分を叱りつける、もう一人の自分がいた。
あの人に心を奪われるなんて進さんへの裏切りだ。このままでは間違いなく進さんを忘れて、あの人のものになってしまう。あの人は危険だ。あの人から遠く離れなければ。
進之丞を慕う心はそう強く訴えたが、だけど――と忠之に惹かれる心がためらいを見せる。まだ回復していない忠之を放ってはおけないし、忠之から離れたくない。けれど忠之をあれほど深く傷つけてしまった以上、もうお世話をすることは敵わない。
後悔と恐れと恋慕の想いが混乱の渦となって、千鶴から思考力を奪っていた。何をどうすればいいのかわからず、忠之を傷つけた罪深さが千鶴を責めた。それは消えてしまいたいという気持ちとなり、忠之から逃げねばという想いに拍車をかけた。
千鶴は庫裏の外へ出ると、楠爺の陰に隠れた。前世から見守り続けてくれている楠爺だけが、自分をわかってくれる気がした。
「楠爺、おら、もうここにはおれん。おら、どがぁしたらええん?」
千鶴は楠爺に抱きつくと泣きながら話しかけた。楠爺は何も答えてくれなかったが、お前の好きにしなさいと言っているみたいでもあった。
その時、本堂の裏手からスタニスラフの悲鳴のような声が聞こえた。
千鶴は楠爺から離れて本堂の裏に回った。すると手紙らしき物を両手に持ったスタニスラフが、天に向かって怒りの叫び声を上げていた。
千鶴が声をかけると、スタニスラフは驚いて振り返った。手にしているのは、やはり手紙だ。スタニスラフは絶望的な顔で、母からの手紙が届いたと言った。
法生寺に住み込みで働くと決めたあと、スタニスラフは家に手紙を書いた。こちらの事情を説明して、アメリカ行きをもう少し待ってほしいという内容だ。今読んでいたのは、その手紙に対する返事らしい。
「千鶴、僕ヴァ、帰ラァナイト、イケナイ」
え?――と驚く千鶴に、アメリカ行きはこれ以上は引き延ばせないと、母に告げられたとスタニスラフは言った。
「帰るて、いつ?」
「スゥグゥニデズゥ」
ついさっき、千鶴はスタニスラフの嫉妬深さにうんざりし、スタニスラフと一緒にいたことを後悔した。スタニスラフが一人でさっさと神戸へ戻ればいいとさえ思っていた。なのに、忠之から逃げることしか考えられない千鶴は、ほとんど衝動的に喋った。
「うちも……、うちも一緒に連れて行っておくんなもし」
エ?――今度はスタニスラフが驚いた。
「千鶴、今、何ト、言イマシタカ?」
「うちを一緒に連れて行ってて言うたんぞな」
「一緒ニ? 神戸へ?」
千鶴は強張った顔でうなずいた。心の中で、本当にそれでいいのかと叫ぶ自分がいた。けれどその声はとても小さく、混乱した気持ちにかき消された。
みるみる顔に笑みが広がったスタニスラフは、跳び上がらんばかりに喜んだ。千鶴を抱きしめ、さらに抱き上げるとくるくる回りながら喜びの雄叫びを上げた。そのあまりの喜びように、千鶴はようやく自分が過ちを犯したと知った。スタニスラフは誤解をしている。これはまずいと思った千鶴に、スタニスラフの顔が迫って来る。
一緒に連れて行ってと頼んだのは、忠之から遠く離れたいという意味だった。しかし、スタニスラフは千鶴が自分と一緒になる道を選んだと受け止めている。そのことに千鶴は気がついたが、もはや手遅れだった。部屋から外へ出ようとして蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のごとく、スタニスラフの腕に絡め取られた千鶴は身動きができなかった。
うろたえ動揺しながらも、千鶴はスタニスラフを拒めなかった。自分の方から連れて行ってと頼んだのである。そういう意味ではないと言えないまま、ついに千鶴はスタニスラフに唇を奪われた。
千鶴は頭の中で進之丞に詫びながら、心だけは進さんのものだからと訴えて許しを請うた。しかしスタニスラフと唇を重ねる自分を、心の中の進之丞に見せたくはない。千鶴は涙をこぼしながら進之丞に詫び続け、進之丞を心の奥深くに仕舞い込んだ。
空っぽになった頭には、悲しげな進之丞の顔は浮かばない。千鶴はスタニスラフに愛撫されるのを感じているだけで、喜びも悲しみもない。
かすかに心の奥で別の自分が泣き叫んでいた。千鶴はスタニスラフの腕の中で、その泣き声も進之丞と一緒に心の奥底へ押しやった。
七
スタニスラフはみんなに話がしたいと、知念和尚に告げた。千鶴はスタニスラフの後ろで下を向いている。スタニスラフは興奮しているが、千鶴は後ろめたさと狼狽が隠せない。ずっと目を伏せがちで、スタニスラフに従う姿勢を取っていた。
知念和尚はスタニスラフに手紙が届いたのは知っていた。恐らくその話だと思ったようだが、千鶴が一緒なのが気になったらしい。これは何か重大事だと、すぐにみんなを呼び集めに行った。
集まって来た甚右衛門たちも、千鶴たちの様子を知念和尚から聞いたのだろう。みんな不安のいろを浮かべている。
一方で、和尚は忠之を境内へ連れ出すよう伝蔵に頼んでいた。スタニスラフが訪ねて来た時みたいに、ひょっこり忠之が顔を出してはまずいと判断したようだ。
全員が席に着くと、まずスタニスラフが母から手紙が届いたことを報告した。
アメリカへ行く日程を変えられないので、すぐに戻って来るようにという手紙の内容を聞かされると、スタニスラフはどうするつもりなのかと安子が訊ねた。
スタニスラフは手紙の指示どおり神戸に戻ると答え、甚右衛門たちに安堵の笑みが広がった。しかし、その笑みは続くスタニスラフの言葉によってすぐに消された。
「神戸ニヴァ、千鶴モ、一緒ニ、行キマズゥ」
スタニスラフの言葉に、場は騒然となった。
初めてスタニスラフが法生寺へ来た時に、スタニスラフは同じことを言ってみんなを怒らせた。その時に、自分は行かないと千鶴は断言した。だけど今はスタニスラフの隣で下を向いたまま黙っている。
「スタニスラフ、あんた、またそげなよもだ言うとるんね!」
頭に血が昇った幸子が叫ぶように言った。スタニスラフは涼しい顔で、千鶴ガ言イマシタと答えた。
幸子は千鶴に目を向けたが、千鶴は顔を上げられない。異様な雰囲気が広がる中、ほうなんかと知念和尚が穏やかに千鶴に訊ねた。千鶴は返答ができずにうろたえた。
「どがぁなんや?」
黙ったままの千鶴を、知念和尚は促した。
和尚の顔が見られない千鶴は、下を向いたまま小さくこくりとうなずいた。みんなはどよめき、どがぁなことぞ!――と甚右衛門が怒鳴り声を上げた。
トミも幸子も、黙ってないで説明しなさいと怒りを隠さない。和尚夫婦は何も言わないが、納得しているわけがない。
千鶴はおどおどしながら顔を上げた。怒りと不信、悲しみに満ちたみんなの目が、千鶴を刺すがごとくに向けられている。千鶴はどこを見ればいいかわからず、目を左右に泳がせながら蚊が鳴くような声を出した。
「うちは……」
顔は強張り、手も体も震え続けている。胸の中では心臓が破れそうなほど激しく動き、吐きそうな気分だ。何でこうなってしまったのか。だけど、もう後戻りはできない。
千鶴はまた下を向くと、震える小声で言った。
「うちは……、スタニスラフさんと一緒に……行くことになりました」
「何じゃと! も、もういっぺん言うてみぃ!」
甚右衛門は興奮しながらうろたえている。千鶴はもう一度顔を上げると、祖父の顔を見ながら少し大きな声で繰り返した。
「うちは、スタニスラフさんと一緒に、神戸へ行くことになりました」
甚右衛門は口をぱくぱくさせたが言葉が出ない。驚くばかりの幸子とトミは、今にも泣きだしそうだ。和尚夫婦も口を半分開いたままの顔をうろたえたように見交わした。
顔を紅潮させた甚右衛門が、やっと声を荒らげた。
「お前は行かんて言うたはずぞ。ほの言葉を違えるんは、なしてぞ? やっぱし……、やっぱしお前は……、最初からほのつもりやったんか!」
千鶴は項垂れて首を横に振り、違いますと言った。
「うちはここで佐伯さんのお世話をするつもりでおりました。スタニスラフさんと一緒には行かんて言うたんは嘘やありません」
「じゃったら、なしてぞ? なして急に考えを変えたんぞ?」
「うちには佐伯さんのお世話ができんけんです。がんばってはみたけんど、これ以上はもう無理なんぞなもし」
それが忠之に心を奪われるという意味だと理解する者は一人もいない。千鶴は忠之と一緒にいる苦痛に耐えられなくなったのだと、誰もが受け止めただろう。だがそれにしても、千鶴の宣言はあまりにも唐突であり理不尽だった。
気を取り直した幸子が訝しげに言った。
「あんた、最前まで佐伯さんと話しよったばっかしやのに、あん時に何ぞあったんか?」
安子も理解しかねた顔で返事を待っているが、千鶴は答えられない。
「ひょっとして佐伯さんが怒りんさったんか?」
幸子は気遣うように訊ねたが、千鶴は首を横に振った。じゃったらなしてと幸子は当惑した。千鶴が下を向いていると、安子が穏やかに千鶴に質した。
「あの子は千鶴ちゃんの話聞いて、何て言うたん? 怒りはせんにしても、何ぞ千鶴ちゃんを傷つけるようなこと言うたんか?」
千鶴はいいえと首を振り、少しだけ顔を上げて言った。
「佐伯さんはそがぁなことは何も言うとりません」
「じゃあ何て言うたん? 千鶴ちゃんから話聞いて、ずっと黙ったままやったんか?」
「もう自分で何でもでけるけん、世話してもらわんでも大丈夫じゃて言うてくんさりました」
「千鶴ちゃんは、今のあの子がその言葉どおりやて思たん?」
千鶴はまた項垂れて首を振った。甚右衛門たちは何かを言いたげにしていたが、安子が続けて訊ねた。
「千鶴ちゃんは、あの子にもう世話せんでも構んて言われて傷ついたんか?」
傷ついたのは忠之の方だ。千鶴を気遣ってくれただけなのに、その忠之に千鶴は声を荒らげたのだ。悲しげな忠之の顔を思い出した千鶴は、涙ぐみながら首を振った。
黙り続ける千鶴に、あんたな――と幸子が怒った声を張り上げた。
「佐伯さんが、なしてそがぁなこと言いんさったんかわからんのか? まだ支えがなかったら歩けんのやで? そがぁな体やのに世話はいらんて言いんさったんは、あんたがそがぁ言わせたんやないんか?」
千鶴は下を向いたまま、ぼろぼろ涙をこぼした。まったく母の言うとおりであり、返す言葉がなかった。
今度はトミが言った。
「さっき幸子から聞いたけんど、お前、あの子とこれまでのこといろいろ話したそうやな。あの子はほんまに怒らんかったんか?」
はいと千鶴は小さな声で答えた。
「あの子のご両親が亡くなった話もしたんか?」
千鶴が声も出せずにうなずくと、トミはその時の忠之の様子を聞かせるよう求めた。
千鶴はすぐには話せなかった。それでも繰り返し求められると、佐伯さんは黙って泣いただけで全然怒らなかったと話した。
「この二年のことはどがぁね? 何も覚えとらんこの二年を、あの子はどがぁ言うた?」
千鶴は目を伏せ、佐伯さんは少しも怒らず、逆にお世話を感謝されましたと言った。
トミは唇を震わせながら涙をこぼすと、お前は――と言った。
「お前はそがぁな優しい子を見捨てる言うんか……。お前を責めもせんで感謝までしてくれる……、そがぁな子をお前は見捨てるんか……。お前のせいで独りぼっちになってしもたあの子に……、お前はこがぁな仕打ちをするんか……」
千鶴は弁解したかった。でも、できなかった。進之丞の死を悼んでいるはずなのに、その心を忠之に奪われるとは言えなかった。
なのに、その自分がスタニスラフの嫁になろうとしている。いくら心は進之丞のものだといっても、これは大きな矛盾であり説得力の欠片もない。だが、もはや千鶴は自分では止まれなくなっていた。
知念和尚が千鶴に助け船を出すがごとく、話に割って入った。
「千鶴ちゃんはこれまでの話をあの子にしよるうちに、進之丞のことを改めて思い出したんじゃろ。ほれで、ほれがあんましつろうて耐えきれんなったんよ。ほうじゃろ?」
千鶴は和尚にこくりとうなずいた。忠之に心を奪われまいと抗うのは、進之丞のことを忘れていないからだ。けれど、それでみんなが納得するわけがない。
甚右衛門が横目でスタニスラフをにらみながら言った。
「やけんいうて、なしてこの男と一緒になるんぞ? 進之丞を思い出して、佐伯くんの傍におるんがつろなった。そこまではええ。ほれぎりじゃったら、まだ話はわからい。やが、やけんこの男と一緒に行くいうんは筋が通るまい?」
ほうよほうよと幸子も言った。なしてね?――とトミも疑問を投げかけ、和尚夫婦も答えを待っている。
千鶴はただ忠之から逃れたかっただけなのだ。だから、スタニスラフとこうなってしまったことに、千鶴自身が困惑してうろたえていた。そこをみんなから責められると、千鶴は泣くしかできなかった。
八
スタニスラフはみんなが何を問題にしているのかが理解できない。言葉もよくわからないし、そもそもの話の流れを知らないのだ。
とはいえ、千鶴がみんなから責められ続けるのが、スタニスラフは我慢ならなかったらしい。チヨトイイデズゥカァと不満げな声を上げた。
「千鶴ヴァ、僕ト、結婚シマズゥ。カレェヴァ、僕ト、千鶴ガ、決メルゥカトデズゥ。千鶴ヴァ、僕ト、一緒ニナルゥ、言イマシタ。ダカラァ、何モ、問題ナイネ」
スタニスラフのこの言葉は火に油を注いでしまった。
甚右衛門は真っ赤になって立ち上がり、何を抜かすか!――と怒鳴った。トミも興奮して、何も知らん異人が勝手なことを言うなと喚き、心配した幸子はトミを懸命になだめた。
スタニスラフは甚右衛門たちの怒りように驚いたが、自分が誤ったことを言ったとは思っていない。
千鶴はスタニスラフに、日本では子供の結婚を決めるのは親の役目で、自分たちだけでは勝手に決められないと説明した。納得できないスタニスラフは、それはおかしいと気色ばんだ。
甚右衛門は千鶴に顔を向けると、体を震わせながら言った。
「千鶴、お前はこがぁに失礼な男の嫁になる言うんか! 進之丞が死んでまだ四十九日も終わっとらんのに、その進之丞を忘れて、進之丞とは真逆のこがぁな礼儀知らずの男と一緒になるんか!」
トミも怒りを隠さない。落ち着かせようとする幸子を無視して千鶴を責めた。
「そもそも伯爵御夫妻の御前でこの男と結婚の約束交わしたいうんも、新聞の間違いなんぞやなかったんじゃな。進之丞はお前をかぼて死んだいうのに、お前はあん時からこの男に心変わりしよったんか! あれこれ偉そなこと言うておきながら、やっぱし普通の男がよかったいう話じゃろが。この恩知らずの浮気者!」
千鶴は首を横に振り、そうではないと言おうとした。しかし自分がやっていることは、こう責められても仕方がない。
スタニスラフは千鶴をかばいながら、シンノジョウとは誰かと、みんなの顔を見まわしながら訊ねた。
「知りたいんなら、千鶴に訊いたらよかろ!」
トミが吐き捨てるように言った。スタニスラフは困惑しながら千鶴に訊ねたが、千鶴には説明できなかった。話したところでスタニスラフには理解できないし、簡単に他人に喋ることではない。特にスタニスラフには何も話したくなかった。
千鶴が泣きだしても、甚右衛門たちは容赦しなかった。スタニスラフが何か言おうとしても、一切聞く耳を持たなかった。幸子も涙を流しながら、千鶴を叱りつけた。
「千鶴、あんた、自分がやろとしよること、忠さんの前で言うとうみ。もう、あなたのことは忘れたけん、この人と一緒になりますて言うとうみや!」
母にまで厳しく責められて、千鶴は泣き崩れた。本当の気持ちなど誰にも言えないし、誰にもわかってもらえない。
今度は忠さんという名前が出て来たので、スタニスラフはさらに混乱したみたいだ。幸子はため息をつくと、スタニスラフに言った。
「佐伯さんやないで。さっきから言うとる進之丞や。進之丞はな、この子と夫婦になるはずじゃった、まっことええ子やったんよ。その子がな、つい一月前に亡くなったんよ」
「ナクゥナタ?」
「死んだんよ。この子護って、この子の代わりに死んだんよ。ほれでこの子もずっと泣きよったのに、手のひら返して、あんたと一緒に行く言うけん、みんなが怒りよるんよ」
初めて聞いた話にスタニスラフは驚いた。でも、自分と結婚すると千鶴が決めたのは、本当は進之丞を好きではなかったからだと、スタニスラフは自分の意見を述べた。
誰も反論しなかった。いや、できなかった。事実、千鶴は進之丞を忘れて、スタニスラフの嫁になろうとしているのだ。千鶴ですらスタニスラフの言葉を否定できなかった。
どこに千鶴の本心があったのか、甚右衛門たちにとっては明らかだ。何も知らずに千鶴に偽られ続けて命まで失った進之丞を、甚右衛門たちは哀れに思って涙を流している。
千鶴は居たたまれなくなり、おじいちゃんと言った。
「うちの相手を決める権利はおじいちゃんにあります。おじいちゃんがスタニスラフさんと一緒に行くんは許さんと言いんさるなら、うちはほれに従います」
千鶴の言葉にスタニスラフは慌てた。しかし、千鶴は祖父の言葉に救いを求めていた。この結婚を止められるのは祖父だけだ。絶対に許さんと言ってほしかった。
千鶴の濡れた目に見つめられたまま、甚右衛門は返事をしない。下を向いたまま黙っている。千鶴の言葉が聞こえていないかのようだ。
おじいちゃん――千鶴が促すように声をかけると、甚右衛門は顔を上げた。目を真っ赤にした甚右衛門は、疲れ切って途方に暮れた表情だ。
「わしはほの男をお前の相手とは絶対に認めん。こげな無礼な男にやるために、お前をここまで育てたわけやない」
甚右衛門の言葉に、千鶴の胸には安堵が広がった。だが、甚右衛門は続けて言った。
「ほんでも、わしはお前に命令はできん」
え?――と千鶴は驚きうろたえた。祖父が引き留めてくれると思ったのに、何だか様子がおかしい。祖母や母も妙な顔をしている。
「言うたように、わしはお前を法生寺におった娘の生まれ変わりとして、大切に育てると誓た。そのお前がその男を選ぶと言うんなら、あきらめるしかなかろ。どうせ店は潰えとるけん、お前を引き留める理由はない。ほれにお前が進之丞と夫婦になっとったんならともかく、そがぁなる前にあの男は死んだけんな。お前が喪に服する義務はない」
甚右衛門の言葉には、トミも幸子も驚いた。二人は目を見開いて甚右衛門を見たが、甚右衛門は力なく話を続けた。
「ほんまじゃったら、あの男こそがお前の夫となるはずじゃったが、わしが死なせてしもたけんな。そがぁなわしにとやかく言う権利はない。お前の好きにしたらええ」
喋り終えた甚右衛門は堪えきれずに泣いた。進之丞の無念を想い、進之丞に詫びながら泣いているに違いない。
「おじいちゃん……」
呆然とする千鶴の横で、甚右衛門の最後の言葉だけがわかったスタニスラフは大喜びした。みんなの前で千鶴を抱きしめ、その頬に口づけをした。
千鶴は人形みたいにスタニスラフに抱かれたまま、祖父を見つめていた。もう自分を止めてくれるものはなくなったと、千鶴の目から涙がこぼれた。みんなはそれを嬉し涙と見たようだ。
トミも幸子も悲しげにしていたが、甚右衛門が認めた以上は何も言えない。知念和尚と安子も黙ったまま涙ぐんでいる。
和尚夫婦にとっては、忠之も進之丞も我が子と同じだ。その二人ともが千鶴から見捨てられようとしているのだ。和尚夫婦が悲しまないわけがなかった。
トミは悔しげな顔で、自分は絶対に祝福はしないと言った。それが精いっぱいの言葉なのだろう。憔悴しきったトミは、立ち上がろうとしてふらりと倒れそうになった。幸子が慌てて体を支えて別の部屋へ連れて行き、甚右衛門も心配そうについて行った。けれど、千鶴はそこへ加われなかった。
スタニスラフが来て以来、千鶴と家族の間はぎくしゃくしていたが、まだその関係は途絶えてはいなかった。和尚夫婦も何とか千鶴の気持ちをわかろうとしてくれていた。
だけど、今度ばかりは家族との関係が完全に途絶えてしまったようだ。和尚夫婦との間にも、見えない壁ができたみたいだ。
千鶴は本当の孤独になった。これまで千鶴は一人で悲しみを背負っている気分でいた。だが、そうではなかったのだと思い知らされていた。
進之丞との想い出や進之丞を失った悲しみを、本当は家族や和尚夫婦と分かち合っていたのである。なのにそのことを知ろうとせず、自分の気持ちばかりに目を向けていたため、そのすべてを失う羽目になってしまった。
それどころか、進之丞の姿を思い浮かべることすらできなくなった。こんな愚かな恥知らずが、どうして進之丞に顔を合わせられるだろう。
今のこの絶望的な状況も含め、千鶴は進之丞に苦しみを聞いてもらうことはできなくなった。二人で過ごした時のことを思い出すことさえできないのだ。独りぼっちになった千鶴の相手ができるのは、千鶴の心を知ることができないスタニスラフだけだ。
みんながいなくなったので、スタニスラフは千鶴を抱きしめて唇を求めた。
千鶴はスタニスラフを押しのけると、背を向けて泣いた。
異変
一
スタニスラフは喜びいっぱいの顔でずっと上機嫌だ。一方の千鶴は暗く打ち沈んでいた。心にあるのは後悔だけだ。
本意ではないスタニスラフとの結婚が認められ、家族は千鶴に背を向けたままだ。和尚夫婦も前みたいには声をかけてくれない。
これが望まれた結婚であるなら、これから先への期待や不安について、みんなであれこれ語り合っていただろう。進之丞と夫婦になると決まった時には、家族五人で尽きることなく話し込んだ。けれど、今の千鶴にはそんな相手はいなかった。
だが、それは当たり前だ。進之丞が初めて家族として認められ、みんなで話し合ったあの想い出の日は、ほんの一月ほど前だ。しかも進之丞は千鶴をかばって死んだのである。なのにこうしてスタニスラフと結婚するなど、誰が考えても正気の沙汰ではない。
そもそも千鶴はスタニスラフと結婚するつもりなどなかった。忠之から逃げようとしただけであり、結婚するなど一言も言ってない。スタニスラフの誤解である。であれば、そう言えばいいのにできなかった。
自ら神戸へ行くことを望み、その結果、スタニスラフに唇を許したのだ。すべては自分の責任であり、もう取り返しがつかないというあきらめが千鶴を支配していた。
伝蔵に外へ連れ出されていた忠之が戻って来た。忠之は中の暗い雰囲気に戸惑っていたが、千鶴に気づいて顔を向けた。
千鶴がうろたえて目を逸らすと、隣にいるスタニスラフが勝ち誇った顔で忠之を見ながら千鶴の肩を抱いた。けれどその手を千鶴が払いのけなかったので、自分がいない間に何かがあったと忠之は悟ったに違いない。
忠之は何も言わず、千鶴たちから離れて行った。きっと、ここであったことを誰かから聞かされるだろう。忠之の背中を見ながら千鶴は泣いた。
スタニスラフとは一緒に行かないと千鶴は忠之に伝えた。スタニスラフに言及した忠之に声を荒らげもした。なのに、その舌の根も乾かぬうちにスタニスラフとの婚姻を決めたのだ。自分が心を寄せた女がどれほど好い加減で恥知らずかを忠之は知るだろう。
千鶴はせめて忠之には本当の気持ちを伝え、深く傷つけたことを詫びたかった。だけど今更であり、話したところで信じてもらえるはずがない。それに千鶴は忠之の世話から外されたので、忠之に話しかける機会もなかった。
それを決めたのは幸子だが、甚右衛門たちも和尚夫婦も反対はしなかった。忠之の世話は幸子がやり、忠之の話し相手も幸子や甚右衛門たちがすることになった。忠之から逃れたいと思った千鶴は、忠之に近づくことすらできなくなった。
遅くなった昼食が用意された。
これまではみんなが一所に集まって食事をしていたが、千鶴とスタニスラフの箱膳はみんなとは別の部屋に運ばれた。これも幸子の指示によるものだ。スタニスラフを目の前にしては食事も喉を通らないし、トミがまた倒れる恐れがあるというのが理由だ。だけど、千鶴たちを忠之に近づかせないというのが本音だろう。
母の言い分は尤もだと思いつつも、千鶴は疎外感に落ち込んだ。しかし、スタニスラフは千鶴と二人きりになれるので却って喜んだ。
部屋を仕切る襖は開け広げてあるので、甚右衛門たちが食事をする様子は、千鶴たちから見える。だから向こうからもこちらが見えているが、誰も千鶴たちに目を向けない。
ただ忠之だけが、時折千鶴に心配そうな顔を向けた。やはり千鶴たちのことを誰かから聞かされたのだろう。だが恥じ入っている千鶴は、忠之と目が合うたびに慌てて下を向いた。あまりの情けなさと気まずさで、とてもお詫びをするどころではない。
千鶴が黙ったまましょんぼりしていても、スタニスラフは自分の夢を得意げに語るばかりで、少しも千鶴の気持ちを推し量ろうとしない。千鶴の方から連れて行ってと言ったからだろうが、自分と一緒に行けば千鶴も喜ぶと思い込んでいるようだ。
スタニスラフの夢というのは、アメリカで商売をして金儲けをすることだ。具体的にどんな商売をするかはまだ決めていないが、とにかくお金をたくさん稼いで贅沢な暮らしをするというのが夢らしい。しかし、千鶴には口先だけにしか聞こえなかったし、そんな話はどうでもよかった。
前に忠之の世話を抜け出して喋った時は、スタニスラフの話は面白かった。けれど、今はどんな話を聞かされても一つも胸が弾まない。
千鶴がスタニスラフに安らぎを覚えたのは、忠之と一緒にいることで気が滅入っていたからだ。スタニスラフ自身に安らぎはなく、その性格に千鶴は嫌気が差している。にも拘わらずスタニスラフと結婚するなんて、己の道から逃げた天罰に違いなかった。この先の暮らしを思うと絶望しかない。頭の中は悔やむ想いばかりだった。
神戸に戻るとスタニスラフが告げた時、連れて行ってと思わず言ったのが失敗だった。冷静になって考えれば、忠之から逃れる先は土佐でもよかったのだ。見知らぬ土地への不安があっても、スタニスラフと一緒になるよりずっといい。
また、あの時の気持ちの混乱が落ち着けば、改めて忠之と話をして、本当の想いを伝えられたかもしれなかった。考えてみれば、何故佐伯さんから逃げねばならなかったのかと、千鶴は自分が取った思いがけない行動を嘆いた。
どうしてあの時にあそこにスタニスラフがいたのか。どうしてあそこでスタニスラフが叫び声を上げたのか。どうしてあの日にエレーナからの手紙が届いたのか。
悔やむ心はこうなってしまった原因を探そうとするが、いくら考え悔やんだところでもう遅い。みんなの前でスタニスラフと一緒に行くと宣言し、無理やり了承させたのだ。あの時に、みんなに本当の気持ちを伝えていればと思ってもどうしようもない。
二
「千鶴、ドゥシマシタカ?」
ぼんやりしている千鶴に、スタニスラフが声をかけた。千鶴が顔を向けると、スタニスラフはにっこりと微笑んだ。
スタニスラフはいつも自分中心で人の気持ちがわからないが、千鶴に優しいのも事実である。後悔しかない今、スタニスラフの優しさだけがせめてもの救いだろう。どうにもできない以上、そう考えるしかない。
とはいえ、家族との間に大きな溝ができたのはつらかった。家族の誰かが慰め励ましてくれたなら、あきらめて前を向いて歩く気持ちになれるかもしれないが無理な話だ。
家族は誰も千鶴とスタニスラフの結婚を受け入れていない。祖父が好きにしろと言ったので、渋々二人の仲を認めただけだ。本音は誰一人今回のことをよしとはしていない。
和尚夫婦も怒りこそしないが、不満と悲しみのいろは隠せない。これまで散々世話になり、力になってくれた二人をそんな気持ちにさせたのは、恩知らずの恥知らず以外の何物でもなかった。
スタニスラフが厠へ行った。その隙に、忠之がふらつきながらやって来た。
「千鶴さん、おめでとう」
誰も千鶴を祝福しないので、励ましに来てくれたようだ。千鶴が見せた言動には触れないまま、忠之はにこにこしながら千鶴を祝福した。自分が逃げようとした忠之だけが、祝福に来てくれたのは皮肉なことだ。
千鶴は返事もできずに下を向いた。このまま小さくなって消えてしまいたかった。
「……ごめんなさい」
千鶴は下を向いたまま忠之に詫びた。忠之を傷つけたことを謝る言葉だったが、スタニスラフと一緒になるのは自分の本意ではないと、忠之に気づいてもらいたかった。
「何も謝らいでええよ。おら、千鶴さんが幸せになってくれるんなら、何も言うことないけん」
顔を上げた千鶴の前に、忠之の優しい笑顔があった。千鶴は泣きそうになりながら忠之に訴えた。
「佐伯さん、うち、ほんまは行きとないんです。神戸になんぞ行きとないんです。うち、佐伯さんのお世話がしたいんです。これからもずっと佐伯さんのお世話がしたいんです」
それは死ぬまで忠之の世話を続けたいという意味だ。忠之は微笑んだまま、ええんよと言った。
「言うたろ? おら、一人で何でもでけるけん、心配せいでも構んぞな」
「そげな意味やないんです。うち、ほんまは佐伯さんの傍におりたいんです。ずっとずっと一緒におりたいんです」
千鶴は忠之に本当の気持ちを聞かせてもらいたかった。もし一言でも傍にいてほしいと言ってくれたなら、そうするつもりだった。けれど、忠之は言ってくれなかった。
忠之は少し戸惑いを見せたが、すぐに笑顔になった。
「ありがとう。おら、今の千鶴さんの言葉、ずっと大事にするけんな」
スタニスラフに一緒に連れて行ってと頼んだのは千鶴である。その話は忠之の耳にも入っているはずだ。だから、忠之は千鶴の言葉を本気には受け取らず、千鶴が声を荒らげてしまったことを詫びているだけだと思ったに違いない。
「ほうやないんです。うち、ほんまは佐伯さんが――」
はっきり想いを伝えようとしたのに、スタニスラフが戻って来た。忠之はもう一度千鶴に笑顔を見せると、じゃあなと言ってその場を離れた。
スタニスラフは戻って行く忠之をにらむと、腹立たしげに千鶴の隣に座った。
「アナ人ヴァ、何シニ、来マシタカ?」
質すスタニスラフに千鶴は顔を向けないまま、祝福をしに来てくれただけと言った。嘘はついていないが、スタニスラフは信じる気がない。
「千鶴ヴァ、僕ト、結婚シマズゥ。ダカラァ、モウ、アナ人ト、喋ルゥ。ダメネ」
スタニスラフは命令口調で言った。そこに千鶴への優しさは微塵も見られなかった。
三
千鶴がここを離れるのであれば、忠之が独り立ちできるまで、自分たちが千鶴に代わって世話をすると、甚右衛門たちは和尚夫婦に申し出た。しかし、知念和尚は丁重にその申し出を断った。
忠之は自分たちの子供として、安子と二人で面倒を見るから心配はいらないと和尚は言った。本音はこれ以上忠之を悲しませたくないのだ。
それで甚右衛門たちは当初の予定どおりに、土佐の親戚の元へ行くことになった。甚右衛門はその親戚に宛てた手紙を新たに書くと、麓にある郵便箱に出してもらうよう伝蔵に頼んだ。出発は明日だ。
手紙を受け取った伝蔵の懐には、もう一通の手紙があった。スタニスラフが神戸の家族に宛てた手紙だ。そこには千鶴との結婚が決まり、二人で神戸に戻ると書いてある。
スタニスラフはすぐにでも千鶴を神戸へ連れ帰りたがっていた。しかし、千鶴は自分の家族が土佐へ発つまでは、絶対にここを離れないと言い張った。
今生の別れとなるであろう家族を、千鶴はきちんと見送りたかった。また、スタニスラフたちがアメリカへ出発する日に、間に合わなくなればという想いもあった。
千鶴が風寄を離れるのをスタニスラフが待てなければ、二人の結婚もなくなると千鶴は期待した。だが、スタニスラフはまだ数日は大丈夫と言った。祖父たちが土佐行きを延ばしてくれればと思っても、三人とも早くここを立ち去りたいみたいだ。
千鶴はもう少しだけここに残ってほしいと、祖父たちにお願いしたかった。けれどそんなことを頼める雰囲気ではないし、家族の方から千鶴に声をかけてくれることもない。みんな千鶴とスタニスラフに対して、勝手に好きなようにすればいいという態度だ。
和尚夫婦も千鶴たちの予定を確かめはしたが、他の話はしなかった。腹を立てている感じではないが、千鶴と共有できる話がない。
それに千鶴にはスタニスラフが張りついていて、千鶴に近づく者を監視していた。そのため和尚夫婦ですら千鶴に近づきにくいし、ゆっくり話なんかさせてもらえない。忠之に至っては、千鶴に顔を向けることすらスタニスラフは許さなかった。
まるで牢獄に監禁されているみたいだが、そんなスタニスラフを千鶴が選んだと思われているので、誰も助けようとしてくれなかった。忠之にしても千鶴を心配しているかもしれないが、千鶴が望んだことに口は挟めないだろう。
祖父たちは和尚夫婦や伝蔵に世話になった礼を述べ、土佐の話をしたり、忠之との名残を惜しんだりした。千鶴はまったくの蚊帳の外で、みんなが喋っているのを離れた所で聞くばかりだ。
千鶴は頭の中でみんなの所へ駆け寄って、もう結婚はやめたから自分も土佐へ連れて行ってと叫んでいた。あるいは、和尚夫婦と忠之に本当の気持ちを伝え、ずっと佐伯さんの傍にいたいと必死に訴えていた。
すべては想像だ。現実ではスタニスラフから離れられず、ただみんなの話を聞きながら、その様子を見守るだけだ。そんな千鶴を慰めるつもりなのか、スタニスラフは千鶴を他の場所へ誘って、そこで千鶴を抱きしめ口づけをした。
これが自分が選んだ道であり、愚かな自分への罰なのだと、千鶴はあきらめてスタニスラフに身を委ねた。絶望で心は麻痺しており、ただの人形になった気分だ。
初めてスタニスラフに唇を許した時に、千鶴は進之丞を心の奥深くに押し込めた。以来、進之丞は心の中に顔を出してない。
以前は進之丞が死んだあとも、進之丞を身近に感じていた。ところが今は進之丞を感じなくなった。だが、そのことに千鶴は気づいていない。ほんの一月前まで進之丞はいたのに、今では進之丞がいたという事実すら、頭から抜け落ちているようだ。
昼飯が終わると、甚右衛門は春子の家に挨拶を兼ねて電話を借りに行った。土佐へ向かう前に世話になった組合長に顔を見せることになっている。それについての連絡だ。
ところが甚右衛門が春子の家を訪ねると、修造たちは千鶴がスタニスラフと結婚する話をすでに知っていた。どうやら手紙を出しに行った伝蔵が、出会った村人に千鶴たちの話を喋ったらしい。噂は瞬く間に村中に広がり、修造たちの所にも伝わったようだ。
訪ねて来た甚右衛門に、修造がどんな顔で話をしたのかは定かでない。本来ならば祝福の言葉をかけるところだが、甚右衛門は千鶴とスタニスラフを一緒にはさせないと明言していた。不機嫌そうな顔もしていただろうから、恐らく修造は困惑したに違いない。
電話を終えて法生寺に戻った甚右衛門は、千鶴を呼んだ。ずっと声をかけてもらえなかったので、千鶴は緊張しながら祖父の元へ行った。祖父の傍には、祖母と母、そして和尚夫婦がいた。
千鶴の後ろには、呼ばれもしないのにスタニスラフがついて来ていた。甚右衛門はスタニスラフを無視して、千鶴に電話の内容を伝えた。組合長が二人の祝言を挙げさせてくれるという話だ。
甚右衛門は初めは組合長の申し出を断った。しかし、千鶴がアメリカへ行ってしまうと二度と会えなくなるのだから、絶対に祝言を挙げさせた方がいいと、組合長は強く主張したらしい。それで仕方なく申し出を受けたと甚右衛門はうそぶいた。
幸子と辰蔵が着るはずだった婚礼衣装も、組合長に預けたままだった。それを二人に合わせて仕立て直せば手間もいらないそうだと、甚右衛門は他人事みたいに喋った。
だが組合長が何を言ったところで、甚右衛門が拒めばそれまでの話だ。そうしなかったのは、甚右衛門自身が千鶴たちを祝福すると決めたからだ。
信じられない想いの千鶴は祖父の手を握ると、ありがとうございますと泣きながら何度も感謝した。甚右衛門も、幸せになるんぞと涙ぐんだ。
先日、組合長は訪ねて来た時に、預かっていた忠七の給金と最後の集金を、甚右衛門に渡していた。その最後の集金を婚礼祝いとして千鶴に持たせると甚右衛門は言った。
それは千鶴と進之丞の婚礼祝いになるはずだったものだ。しかし、祖父に祝ってもらったことで気持ちが舞い上がっていた千鶴は、祝儀をもらえる話を素直に喜んだ。
甚右衛門が千鶴たちに祝言を挙げさせると決めたので、渋々ながらではあるが、トミも幸子も千鶴を祝福してくれた。和尚夫婦も割り切った顔でおめでとうと言ってくれた。
千鶴はようやく新たな一歩を踏み出せた気分になった。いろいろありはしたけれど、これでよかったのだという気持ちになれた。
後ろにいたスタニスラフに千鶴が涙の笑顔で話を伝えると、スタニスラフは大喜びをして甚右衛門に両手を合わせた。それから千鶴を抱きしめ、甚右衛門の前なのも忘れて千鶴に口づけをした。千鶴もそれを拒まなかった。
千鶴の胸の中は、安堵と喜びでいっぱいになっていた。進之丞の顔が浮かぶこともなく、気持ちはすでにスタニスラフの妻だった。
はしゃぐ声が聞こえたからか、忠之が伝蔵に付き添われながら近くへやって来た。スタニスラフは忠之をにらまずに、優越感に満ちた笑みを見せた。
一方、千鶴はというと、不思議なことに忠之を見てもうろたえなかった。少し照れ臭い気持ちはあったが、後ろめたさはなかった。
千鶴が忠之に惹かれたのは、忠之の人柄があまりにも進之丞に似ていたからだ。ところが千鶴は完全に進之丞の存在を忘れていた。そのため進之丞と同じ姿の忠之を見ても、これまでみたいに心は騒がなかった。
進之丞のことを忘れているので、忠之にこれまでの経緯を語った記憶もない。だから、忠之が優しい人なのはわかっていても、それがどんな優しさなのかは千鶴の頭からすっかり消えていた。
今の千鶴にとって、忠之は山﨑機織の元使用人という認識しかなかった。忠之が大怪我をしたことや、和尚夫婦が忠之の親代わりなのはわかっていた。でも、わかっているのはそれだけだ。
ただ、忠之には何か心惹かれるところはあった。特に親しくした覚えはないが、げっそり痩せている弱々しげな姿が、そう思わせているのかもしれなかった。
千鶴は自分たちがここにいる理由も忘れていた。山﨑機織が潰れたのは知っているが、その後どういう事情で法正寺の世話になったのかは定かでない。店が潰れた理由も知らないし、女子師範学校へ通っていたはずが、どうして教師をしていないのかもわからない。井上教諭と何かを話したような気がするが、それ以上のことは何も思い出せない。
いろいろ記憶が曖昧で妙な感じではあった。はっきりしているのは、家族が猛反対していたスタニスラフとの結婚を祝福してくれたことだ。特に疎まれていたはずの祖父母が結婚を認めて祝福してくれたのは、信じられないし本当に嬉しいことだった。
確かにスタニスラフは少し強引なところはあるが、とても優しい人だ。千鶴が知る限り、スタニスラフより優しい人は他にいない。
久松伯爵夫妻に招かれた萬翠荘で一緒に食事をして踊ったのは、本当に幸せな一時だった。細かいことはよく覚えていないけれど、伯爵夫妻の前で二人で結婚を誓い合ったと新聞に載っていたそうだ。スタニスラフは日本を離れることになっていたので、まさかと思っていたら、本当に神戸から迎えに来てくれた。
スタニスラフと結婚すれば、アメリカへ行くことになる。それで反対されていたのに祝言を挙げてもらえることになった。やはり家族に祝福されるのが一番だ。ロシア兵の娘として肩身の狭い想いばかりしてきた自分に、こんな幸せが用意されていたなんて本当に信じられないことだ。
母やせっかく自分を受け入れてくれた祖父母と離れることには、寂しいものがある。だけど、ずっと離れていた父と暮らせるのは楽しみだ。まだ顔も知らないスタニスラフの母に会えるのも待ち遠しい。
もちろん外国であるアメリカに対しては、少なからず不安がある。だけど、父もスタニスラフもいるから心配はいらないだろう。
千鶴は明らかに異常といえる事態にあった。しかし、自分では少しも違和感を覚えていなかった。
家族や和尚夫婦にしても、はしゃぐ千鶴の姿を見て、やはりこれが千鶴の本音なのかと思ったのだろう。あきらめた笑顔には悲しみのいろが浮かんでいたが、千鶴の異常に気づいた者は一人もいなかった。
四
夕食後、千鶴とスタニスラフは家族の目を逃れ、夕闇に包まれた本堂脇の楠の陰で唇を重ね合っていた。だが何故か千鶴は急に悲しくなって、スタニスラフから離れた。
何かがおかしい。何かが違う。そう感じるのに、それが何なのかはわからない。
スタニスラフとの結婚が喜びであっても、新しい暮らしへの不安がないわけではない。きっとその気持ちが出て来たのだと思ったが、どうにも気持ちが落ち着かない。
境内は薄暗いが、まだ辺りの様子は窺える。掃除をし残したのか、千鶴の足下に一本の短い小枝が落ちていた。何気なくしゃがんで手を伸ばすと、不意に小さな手が横から伸びて来て、千鶴の手に重なった。
え?――と思って横を見たが、そこには誰もいないし、伸びて来た手も消えていた。ただ千鶴を見上げた男の子の顔がちらりと見えた。
その男の子に見覚えはない。いや、見覚えがあるような気もしたが、一瞬なのでよくわからない。それでも男の子の姿は目に残っている。お芝居に出て来る昔のお侍みたいな格好で、髷を結った頭には前髪が残っていた。
千鶴が驚いて立ち上がると、スタニスラフが再び千鶴を抱こうとした。
――千鶴。
千鶴に呼びかける子供の声が聞こえた。そちらへ顔を向けると、さっきの男の子が微笑んで立っていた。手には一輪の野菊の花を持っている。
自分はこの子を知っている。だけど、名前を思い出せない。
頭の中で、表に出て来られない何かが渦巻いている。忘れてはいるが何かとても大切なことで、それがもう少しで姿を見せようとしている。何だかわからないが、胸が締めつけられて涙が勝手にあふれ出る。何? この子は誰?
スタニスラフが千鶴の顔を自分の方に向け、顔を近づけて来た。千鶴が顔を背けると、まだ扉を閉めていない本堂が目に入った。そこには誰もいないが、千鶴には誰かがそこに立って祈っている姿が見えた。その誰かが祈っているのは、千鶴の幸せだった。
――あれは誰? なしてうちの幸せを祈ってくれとるん?
理由がわからないまま、胸の奥から悲しみが込み上げてくる。心の中でもう一人の自分が泣き叫んでいるみたいだ。
スタニスラフはもう一度千鶴の顔を自分に向けると、強引に唇を奪った。そんな気分ではなくなっていたが、千鶴はスタニスラフに抗えない。そのまま唇を重ね合っていると、頭の中で誰かがつぶやいた。
――おらはこの人と一緒におれて幸せぞな。この人が鬼であろうとなかろうと、そげなことは関係ない。たとえ死んでも、この人とのつながりはずっと残るんよ。ほじゃけん何があっても、おら安心しよるぞな。
千鶴は、はっとなった。今のは天邪鬼に対して放った自身の言葉だ。
うろたえた千鶴は押しのけるようにスタニスラフから体を離すと、手の甲で口を拭った。スタニスラフが怪訝そうに、どうしたのかと言ったが、千鶴は答えられなかった。
千鶴は今の自分の状況が理解できず混乱していた。
どうして忘れていたのだろう。悲しくつらい城山での出来事を、どうしたって頭から消えなかったあの時のことを、どうして忘れていたのか。
千鶴は自分が進之丞のことすら忘れていたのに気がついた。たとえ死んでも進之丞とのつながりはずっと残ると、天邪鬼に言い切ったのに、実際はどうなのか。
スタニスラフとの祝言や、父やスタニスラフとの新しい暮らしばかりに夢中になり、大切な進之丞のことは思い出しすらしなかったのだ。本当であれば、今頃自分は進之丞の嫁になり、風寄で暮らしていたのにである。これではまるで誰かに進之丞の記憶を奪われたみたいだ。
スタニスラフはもう一度千鶴を抱こうとした。千鶴は逃れて背中を向けた。
天邪鬼に対してあれだけの見得を切ったのである。進之丞も自分と縁があったことを、心の底から幸せに思っていると言ってくれた。それなのに――。
訝しがるスタニスラフに、少し一人にしてと言って、千鶴はスタニスラフを無理やりどこかへ行かせた。
スタニスラフがいなくなったのを見届けると、千鶴は楠爺を抱いた。楠爺は物は言わないが、前世から見守り続けてくれている、千鶴の大切な知り合いだ。こうして楠爺を抱いていると、千鶴は気持ちが安らいだ。その安らぎは千鶴を前世へと導いてくれる。
ここで初めて進之丞と出逢い、進之丞と数え切れないほど遊んだ。嫁になってもらいたいと進之丞に請われたのもここなのだ。
そのあと突然鬼に襲われ、進之丞は千鶴の身代わりに鬼となった。そして攘夷侍たちから千鶴を護って死んだ。
その進之丞と風寄で奇跡的に再会し、二年の間ともに暮らした。とても幸せな時だった。しかし、天邪鬼が二人の仲を引き裂こうとした。
鬼に変化した進之丞は天邪鬼と対決し、これを討ち果たしたあと、祖父が撃った猟銃から千鶴をかばい、鬼とともにここで死んだ。ほんの一月ほど前のことだ。
どうしてそれを忘れてしまったのか。瀕死の鬼に自分に取り憑くよう懇願したが、鬼はそうはしなかった。鬼は千鶴の幸せだけを考えてくれていた。その鬼をどうすれば忘れられるのか。
楠爺を抱きながら千鶴は泣いた。自分が情けなくて泣いた。進之丞と鬼に詫びながら泣き続けた。
五
以前は千鶴は忠之の隣に布団を敷いてもらっていたが、今晩から幸子が忠之の傍に寝て、千鶴は別の部屋で一人で寝ることになった。それはスタニスラフを大いに刺激した。
みんなが床に就いたあと、スタニスラフは千鶴が寝ている部屋へ忍び込んで来た。二人が結婚するのは決まっているので、別に構わないと思ったのだろう。恐らく千鶴もそれを望んでいるか、少なくとも拒みはしないと考えたに違いない。
一方、千鶴は大切な進之丞を忘れていたことで、深く落ち込んでいた。布団に入ってもなかなか眠れず、自分をずっと責めながら進之丞に詫び続けていた。そうして、もう一度進さんに逢いたいと願いながら、いつの間にかうとうとし始めたところを、突然何者かに起こされたのである。
布団に侵入して来た不埒者に体をまさぐられ、上にのし掛かられた千鶴は大声で悲鳴を上げた。慌てふためいた相手は千鶴の口を手でふさぎ、僕デズゥと潜めた声で言った。
千鶴は口をふさいだ手に噛みつき、この不埒者を布団の外へ蹴り出した。それから急いで体を起こすと着物の乱れを直しながら、闇に向かって怒鳴りつけた。
「あんた、いったい何考えとるんね! まだ祝言も挙げとらんのに何しよるんよ! この恥知らず! 獣!」
「チヨト、待テクゥダサイ。怒ラナイデ」
「つかましい! 出てけ!」
千鶴が投げつけた枕が当たったらしい。スタニスラフは小さく呻くと、そそくさと部屋を出て行った。
部屋の外で別の声が聞こえた。母や和尚たちが騒ぎを聞いて起きて来たようだ。スタニスラフが何か言い訳をしていたが、みんなからきつく叱られた。
少しすると幸子が襖越しに千鶴に声をかけた。大丈夫かと聞かれたので大丈夫と答えると、幸子は襖を開けずにそのまま行ってしまった。
だけど本当は大丈夫ではなかった。体の震えは止まらないし、怒りが収まらなかった。
千鶴は進之丞の夢を見ていた。それを途中で起こされたのだ。怒りが鎮まるはずがない。しかも、ここは進之丞と鬼が死んだ場所だ。本当ならば口づけさえ許されないのに、体を求めるなどとんでもないことだ。
スタニスラフがいなくなっても興奮冷めやらぬ千鶴は、進之丞に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。あんな男と結婚する自分が情けなくて死にたかった。
だけど今日の自分は進之丞を忘れ、スタニスラフとの結婚を喜び、みんなから隠れて逢瀬を楽しんだのだ。今も進之丞を忘れたままでいたなら、きっとスタニスラフの求めに応じていたに違いない。
進之丞と鬼が死んだこの場所で、スタニスラフと抱き合う自分を思い浮かべると、千鶴は大声で叫びたくなった。
涙ぐみうろたえながら、どうしてこんなことになったのかと千鶴は考えた。そして、これは天罰だと受け止めた。
そもそもはスタニスラフに甘えたのが間違いの元だった。
スタニスラフがここを訪ねて来た時、勝手なことばかり言うスタニスラフをみんながにらむ中、千鶴はスタニスラフをここへ残らせた。そして忠之の世話を離れてはスタニスラフの元へ行った。それは進之丞を思い出す悲しみから逃げていたのだが、考えてみれば、それは進之丞を記憶から消そうとしていたのと同じだった。
忠之の世話をするのは、直接お詫びができない進之丞に代わっての罪滅ぼしだ。それを放棄したのは、進之丞の想いを捨てたことになる。
スタニスラフが来てから、進之丞や鬼と死に別れた場所での祈りもしていない。どんなに言い訳をしたところで、祈りよりもスタニスラフを尊重したのは事実だ。
忠之に心を奪われそうになって、スタニスラフに助けを求めた時、確かに動揺はしていた。しかし本当にスタニスラフを嫌っていたなら、連れて行ってとは言わなかったはずだ。そう願った背景には、萬翠荘での陶酔感がどこかに残っていたのかもしれない。スタニスラフが法生寺に残るのを望んだのも、恐らく同じ理由だろう。
けれど萬翠荘でスタニスラフと踊っていた時、進之丞は陰からその姿を眺めて泣いていたのだ。それを知りながらスタニスラフを求めるなんて、とんだ恥知らずだ。
スタニスラフに唇を求められた時だって、拒むことはできたはずだ。そうせずに進之丞を心の奥へ押し込めたのは、明らかに進之丞への裏切りだ。決してスタニスラフとの口づけを望んだわけではないのだが、であれば、どうして誤解だと言えなかったのか。
不動明王は地獄から千鶴を救おうとした進之丞の想いに応えて、進之丞を忠之の体に宿らせた。進之丞は与えられた命を使い、千鶴の幸せだけを考えて生きてきた。そして千鶴を護って死んだ。
ところが、千鶴は進之丞を忘れて己のことばかり考える道を選んだ。だから不動明王がお怒りになり、千鶴から進之丞の記憶を奪ったのに違いない。それほど進之丞より自分が大事であるならば、願いどおりにしてやろうというわけだ。
だけど、スタニスラフとの暮らしに幸せがあるとは思えない。優しいように見えても、スタニスラフにとって千鶴はただの籠の鳥だ。常に息が詰まるほどに監視しているし、他の者が千鶴を籠から出すのを許さない。
心の赴くままに生きればそこに幸せが待っていると、進之丞は言った。きっと進之丞は、千鶴が忠之に心が惹かれるとわかっていたに違いない。それで忠之に千鶴の幸せを託すつもりだったのだ。
己の心に従って忠之を選んでいたなら、進之丞を忘れたりはしなかった。忠之も進之丞を受け入れてくれたはずなのだ。なのに進之丞を忘れてスタニスラフとの結婚を喜ぶ自分は、何もわからない愚かな生きた屍だと千鶴は思った。本当は死んでいるのに、生きているつもりの屍だ。
進之丞の存在を忘れるのは、進之丞を消し去ることであり、進之丞の命を奪うのと変わらない。それは前世で鬼に魅入られた時の自分であり、今世で進之丞を殺すよう暗示をかけられた自分と同じだ。これを天罰と言わずして、何と言えるだろう。
これまでの己を顧みた千鶴は、項垂れるしかできなかった。言い訳ならいくらでもできたが、どんなに言い訳をしたところで意味がないのは、今の自分を見ればわかる。
千鶴はスタニスラフとの結婚をご破算にしたいと思った。しかし、すべては二人の結婚へと動きだしている。松山では組合長が二人の祝言の準備を進めてくれているし、あれほど猛反対した家族や和尚夫婦も、二人の結婚を祝福してくれたのだ。それを再び取り止めるとはなかなか言い出せるものではない。
自分勝手にスタニスラフとの結婚を宣言して無理やり認めさせたのに、また自分勝手にやめるのかと言われるのが千鶴は怖かった。
――みんな、自分ばかりが大事なんだ。それが人間ってもんなのさ。口でどんなにきれい事を言ったって、そんなの全部嘘っぱちなんだよ!
天邪鬼の声が聞こえる。そう、天邪鬼の言うとおりだ。結局は、人から悪く見られるのが嫌なのだ。スタニスラフに間違いだったと言えなかったのも、自分勝手な嘘つきと思われたくなかったからだ。
父とスタニスラフが松山を訪れる前に、進之丞を責め立てた時もそうだ。さっさと素直に謝ればよかったのに、自分の非を認められなかった。あの時に進之丞を思いやっていれば、スタニスラフをその気にさせたりはしなかっただろう。それを自分のことばかり考えていたから、進之丞を傷つけスタニスラフを誤解させることになったのだ。
本当はどうすればいいのかわかっているのに動こうとしない。そうして動かない言い訳ばかり探している。
千鶴は唇を噛んだ。二度と進之丞を忘れまいと考えながら、すぐにスタニスラフとの結婚を取り止めないのは、そのことでみんなからいろいろ言われるのが怖いからだ。本当に進之丞が大事なら、今すぐにでもスタニスラフの所へ行って、結婚はしないと言うべきなのだ。それをやらない後悔などきれい事の嘘っぱちだ。
千鶴はさっき見ていた夢を思い返した。それは前世や今世での進之丞の記憶が色のない映像となって、走馬灯のように声も音もないまま静かに現れては消えるというものだ。
そこには何の感情もなく、千鶴はただ流れる白黒の映像をぼんやりと眺めていた。進之丞との想い出を目にしていたのに、何も感じなかったのだ。それは何とか取り戻したつもりの進之丞の記憶が、再び失われてしまう暗示のようだった。
このまま再び進之丞の記憶を奪われるのは、千鶴にとって何より重い罰であり、死ぬよりつらい。せっかく進之丞のことを思い出したのに、その重い罰が改めて執り行われようとしている。
千鶴はうろたえて泣いた。たとえ独りぼっちであっても、進之丞とのつながりを信じていれば立派に生きていけた。なのにこうなったのは、進之丞の死を嘆くばかりで二人のつながりを信じなかったからだ。
千鶴は進之丞に詫びながら、スタニスラフとは結婚しないと約束した。不動明王にも、もう二度と道を踏み外しませんと誓った。その証として、明日の朝一番にみんなの前で結婚はしないと告げますと、不動明王と進之丞の双方に宣言した。
当然スタニスラフは怒るし、みんなにも呆れられるだろう。けれどそれが正しい道であり、そうするべきである。詫びる相手にはきちんと頭を下げ、誤った道を正すのだ。
千鶴は進之丞の記憶を確かめるため、また自分を鼓舞するためにも、進之丞と過ごした日々を思い浮かべようとした。ところが何も浮かんで来なかった。ついさっき見た夢さえもが、まったくわからない。
驚いた千鶴は何でもいいから思い出そうとした。何とか浮かんだのは、風寄で進之丞に助けてもらったことや、春子と一緒に人力車に乗せてもらったことぐらいだ。
進之丞と山﨑機織で過ごした想い出は何一つ浮かんで来ない。進之丞の姿どころか、進之丞と一緒に過ごしたことが何も思い返せないのである。
進之丞以外の者たちについては簡単に思い出せた。可愛い丁稚たちの言い争う様子はまざまざと目に浮かぶし、辰蔵や花江の笑顔もすぐに思い浮かんだ。弥七や孝平の顔でさえ覚えているのに、進之丞だけが出て来ない。これではまるで山﨑機織には進之丞が存在していなかったみたいだ。
千鶴は焦った。これまで何があったのかを思い起こしながら、その時のことを懸命に思い浮かべた。けれど、やはり無理だった。
風寄へ進之丞を迎えに来て、自分も前世を覚えていると告げ、互いに抱き合って泣いたのは事実としては覚えている。だけど、その時の場面が浮かんで来ない。
千鶴は初めて鬼が現れた夜を思い浮かべた。
萬翠荘での晩餐会や舞踏会、それに人力車の中でスタニスラフに心が揺れたことは、気分が悪くなるほど思い出せる。そのあと特高警察に捕まって、暗い夜道へ連れ込まれた時のことも目に浮かぶ。ところが、そのあとがわからなかった。鬼が助けてくれたのは確かなのに、鬼の姿が浮かばないし、鬼が何をしたかも忘れてしまった。
高浜港で父とスタニスラフを見送った情景は記憶に残っている。そのあと、進之丞を探して泣いたのは覚えているのに、進之丞が姿を見せてくれた時のことがわからない。
雲祥寺の墓地では、自分の正体を明かした進之丞とともに泣いた。特高警察や荒くれ男たちに襲われた時は、進之丞が戦って護ってくれた。なのにその場面が出て来ない。
城山で天邪鬼と対峙した時のことも、千鶴は思い出せなくなっていた。そういう事実があったのはわかっているが、それさえ今にも消えそうな儚い感じがする。嵐の中を瀕死の鬼に法生寺まで運ばれて、死にゆく鬼に縋って泣いたのも遠い夢のようだ。
鬼の最後はどうだったのか。進之丞とどんな言葉を交わしたのか。大切なことがわからなくなるだけでなく、出来事そのものが記憶から消えかけていた。
不動明王に詫びたのに、明王の怒りは解けなかったらしい。何より大切な進之丞が自分の中から消えていく。それを止められない千鶴は叫びたい気持ちになった。
辛うじて残っている初めて出逢った時の進之丞の顔を思い浮かべ、どうか消えないでと千鶴は必死に祈った。だけどその顔もはっきりしない上に、次第に自分とは関係のない他人の顔に見えてくる。
このまま眠ってしまえば、次に目が覚めた時には、進之丞のことはすべて忘れているような気がして、千鶴は眠れなくなった。どうすればと考えるうちに、進之丞という名前さえもが誰のことかわからなくなりそうだった。
六
千鶴は夜が明けるのを待たずに布団を出ると、まだ寒くて真っ暗な中を、手燭を持って和尚たちの寝間の前まで行った。知念和尚と安子がいつ起きて来るかはわからないが、千鶴は廊下で震えながら二人を待った。
初めは忠之の所へ行ってみようかとも思った。忠之といれば進之丞を忘れずにいられるかもしれなかったし、忠之なら今の自分の話を聞いて力になってくれる気がした。
しかし、忠之の傍には母が寝ている。祖父母が寝ているのもその近くだ。部屋は真っ暗だし、そんな所へ忍び込むのは、さっきのスタニスラフと同じだ。
それで忠之の所へ行くのはあきらめたが、和尚たちを待っている間にも、どんどん記憶が消えていく。自分が自分でなくなっていくのを感じて、千鶴は悲鳴を上げた。
その声が聞こえたのか、襖が開いて安子が顔を出した。安子は怯えた千鶴を見つけて驚き、こんな所で何をしているのかと訊ねた。千鶴はうろたえながら自分に起こった異変を必死に訴えた。けれど進之丞の名前がすぐに出て来ず、涙がぼろぼろ出るばかりだ。
安子は千鶴を寝間へ招き入れると、行灯に火を灯した。知念和尚は少し寝惚けている様子だったが、状況がわかると眉をひそめて、うーむと唸った。
安子が火鉢を用意する傍らで、千鶴はスタニスラフとの結婚が進さんを忘れないためだったと和尚たちに打ち明けた。
「進さんが亡くなってまだ一月しか経っとらんのに、うち、佐伯さんに心が奪われてしまいそうになったんです。ほれで怖なって逃げたら、スタニスラフさんからすぐに神戸に戻ることになったて聞かされて……、うち、何も考えんまま、うちも連れてってて言うてしもたんです。ほしたらスタニスラフさん、誤解して、うちの唇を奪たんです」
「ほれで、あの男に逆らえんまま結婚することになってしもたんか」
和尚たちは千鶴に同情して慰めた。千鶴は項垂れ、泣きながら言った。
「うち、結婚なんぞしとうない……。あげな人と一緒になるんは嫌や……。進さん忘れて、あげな人と一緒になるんやったら死んでしまいたい……」
「ほやけど、千鶴ちゃん、今日はスタニスラフとの祝言挙げてもらえる言うて、えらいはしゃぎよったろ? あん時も、進さんのこと忘れよったん?」
安子に訊かれた千鶴は、悔やんだようにうなずいた。
「あん時のうちは生きた屍でした。進さんのことも佐伯さんのことも、全部忘れよったんです。ほれで、自分にはスタニスラフさんしかおらんのやて思い込んどったんです」
「ほうやったん。何や様子が違うとは思いよったけんど、ほういうことやったんじゃね」
「さっきも進さんのこと忘れたままじゃったら、進さんと死に別れたこの場所で、あのお人の求めに応じとったと思います。進さんが亡くなったこの場所で、平気でそがぁなことするんは人間やありません。獣です。うちは天罰が下って獣になるんです……」
「天罰て……、千鶴ちゃん、何も悪いことなんぞしとらんやないか」
慰めようとする和尚に、千鶴は首を力なく振った。
「うちには進さんがすべてでした。佐伯さんのお世話も、進さんに代わってのお詫びのはずでした。やのに佐伯さんから離れてスタニスラフさん所に行ったり、こげな進さんを裏切るような真似をしてしもたけん、お不動さまがうちから進さんを取り上げんさったんぞな」
泣き崩れる千鶴を、和尚と安子はもう一度慰めた。
千鶴が少し落ち着きを取り戻すと、和尚は千鶴が何を覚えていて何を覚えていないのかを聞き取った。そのあと、ふーむと唸った和尚は、今度は前世について訊ねた。
千鶴は前世の記憶を探ってみたが、思い出せるものは何一つなかった。当時のことが思い浮かばないどころか、何があったのかをすべて忘れていた。
遍路旅をしている時に母親が鬼に殺されたことや、子供の頃の進之丞との出逢い、鬼との戦いや進之丞との死別など、和尚は前世の出来事を千鶴に確かめた。けれど、千鶴は何もわからなかった。
知念和尚は、ほういうことかとうなずいた。
どがぁなことねと安子が訊ねると、和尚は千鶴と安子を見比べながら、恐らくやがなと前置きをして言った。
「千鶴ちゃんの中におったな、前世の千鶴ちゃんが姿を消したんよ」
「前世のうち?」
「つまりじゃな、千鶴ちゃんは進之丞に出逢う前の、元の千鶴ちゃんに戻りつつあるいうことぞな。前世も進之丞もまだ何も思い出しとらなんだ頃の千鶴ちゃんに戻ろとしとるんよ。ほじゃけん、決して天罰が下ったわけやないとわしは思わい」
和尚の説明は理に適っているように聞こえる。だけど、どうして前世の自分が姿を消したのか、千鶴には理解ができなかった。
「なしてそがぁな……」
「人は生まれ変わっても、前世のことなんぞ覚えちゃせんが、前にもここにおったことがあるとか、今と対のことをしたことがあると思うことがあろ? あれはちらっと前世の記憶が顔を出しとるんじゃろな。風寄に初めて来た千鶴ちゃんにも似ぃたようなことがあったんやが、そこへ前世のまんまの進之丞が現れたんで、千鶴ちゃんの中におった前世の千鶴ちゃんが引っ張り出されたんよ」
「千鶴ちゃんが前世のことを思い出したんは、そがぁなわけやったんですね?」
安子の合いの手に、恐らくなと知念和尚はうなずいた。
「ところが、その進之丞がおらんなってしもたけん、前世の千鶴ちゃんは今世に留まりにくなったんじゃろな」
和尚の説明は、千鶴にはわかるようでわからない。
「ほれは、どがぁなことですか?」
「進之丞がおった時は、前世の者同士で喋ったり前世の話したりしてお互いを確かめ合えたんよ。でも片方がおらんなってしもたら、残された方は出番がのうなってしまお?」
「ほやけど、うちはずっと覚えとりました」
「ほんでも千鶴ちゃんは忠之の傍におって、進之丞を思い出すんがつらかったろ?」
千鶴は言葉が返せなかった。しょんぼり下を向いた千鶴に和尚は言った。
「進之丞が死んで悲しんだんは前世の千鶴ちゃんで、その悲しみから逃れたいと思たんは今世の千鶴ちゃんじゃと考えたら、どがぁかな?」
「でも千鶴ちゃんは進之丞さんのこと、忘れとなかったんよね?」
安子が千鶴を慰めるように声をかけた。千鶴はこくりとうなずき、昨日の昼までは覚えていたと訴えた。
「昨日の朝、うちはこれまでのことを佐伯さんにすべてお話しました。ほん時は全部覚えよったし、佐伯さんから逃げよとしたんも、あの人のことが頭にあったけんです」
「じゃあ、いつからわからんなったんぞな?」
千鶴は小首を傾げて考えた。昼飯の時、スタニスラフがいなくなった隙に忠之が来てくれた。千鶴は忠之に自分の本当の気持ちを知ってほしいと思ったが、進之丞を気にしたりはしなかった。あの時、すでに進之丞のことを考えなくなっていたのか。
みんなの前でスタニスラフと一緒に行くと宣言した時、家族は進之丞の名前を出して千鶴を責めた。千鶴は言われたことは理解したし話を聞くのがつらかった。しかし、進之丞を思い浮かべていたかと考えると、そうではなかったように思える。大変なことをしたという想いばかりで、頭にあったのはみんなから責められるつらさだけだった。
ずっと思い返していった千鶴は、千鶴ははっとなった。スタニスラフに唇を許した時、千鶴は進之丞を心の奥に押し込めた。思えば、それから進之丞の姿は思い浮かばなくなった。
千鶴は半分開いた口をわなわなと震わせ、己の愚かさに泣いた。
「どがぁしたんな? 何ぞ思い出したんかな?」
知念和尚が訊ねると、あの人――と千鶴は泣きながら言った。
「うちは、あの人を押し込めてしもた……」
「あの人? あの人とは誰のことかな?」
進之丞という名前が出て来ない。
「あの人は……、あの人ぞなもし」
千鶴は答えながらうろたえた。心の中から進之丞が再び消えようとしていた。
「あの人て、進之丞さんでしょ?」
安子が助け船を出してくれたので、千鶴は何とか進之丞の存在を引き留めた。
「うちは進さんを心の奥に押し込めてしもたんです。スタニスラフさんに唇奪われた時に、進さんに見られとのうて押し込めてしもたんです」
項垂れる千鶴に、なるほどなと知念和尚は言った。
「千鶴ちゃんは、ほん時に前世の千鶴ちゃんも、進之丞と一緒に心の奥に押し込めてしもたんかもしれまい」
和尚の説明に、安子は疑問を投げかけた。
「ほんでも、今の千鶴ちゃんも進之丞さんと一緒に過ごした記憶があるでしょ? 前世のことがわからんなるぎりならともかく、今世のことまで忘れるてどがぁなこと?」
「これも恐らくやが、今世についても進之丞の記憶があるんは、前世の千鶴ちゃんじゃったということじゃろ」
安子は眉間に皺を寄せて首を振った。
「そげな説明じゃ、さっぱしわからんぞな。もちっとわかりやすうに言うてくれん?」
「つまり今世で進之丞と喋ったりしよったんは、実は前世の千鶴ちゃんであって、今世の千鶴ちゃんは前世の千鶴ちゃんの後ろで、ほれを眺めよったぎりいうことぞな」
安子はうーんと唸り、もう少しやさしく言ってと頼んだ。自分もわかってるわけではないと前置きをして、和尚は喋った。
「今の千鶴ちゃんが進之丞のことがわかるんは、前世の千鶴ちゃんと記憶を分かち合いよったけんじゃろと思う」
「記憶を分かち合う?」
和尚はうなずくと、話を続けた。
「進之丞は前世の人間じゃけん、今世であっても、進之丞と喋ったり、進之丞のことを考えるんは前世の千鶴ちゃんなんよ。今世の千鶴ちゃんは前世の千鶴ちゃんから記憶とか考えを分けてもろて、ほれで自分が進之丞をわかった気になるんぞな」
「ほじゃけん、前世の千鶴ちゃんがおらんなったら、今世の千鶴ちゃんは全部わからんなってしまうんですか?」
「たぶんな。千鶴ちゃんが何とか進之丞のことがわかるんは、前世の千鶴ちゃんが後ろでこそっと顔を出しよるんよ。ほんでも完全に隠れてしもたら、千鶴ちゃんは進之丞のことは一切わからんなってしまうんじゃろ」
それはスタニスラフとの祝言に浮かれていた時のことだ。和尚の説明では、その自分こそが今世の本来の自分であるわけだ。だけど、あの自分は愚かで破廉恥な生きた屍だ。
ほんな――と千鶴は肩を落としたが、またもや進之丞の名前がわからなくなっている。
「あの人はうちにとっても大切なお人ぞな。そのお人のことを忘れるやなんて……」
涙を流す千鶴に、安子は優しく言った。
「そがぁに心配せいでも、すぐ思い出すわいね。ほれより、スタニスラフとの結婚はどがぁするつもりぞな? 今のままにするん?」
いいえと千鶴は首を振った。
「結婚は取り止めたいて思とります。何べんも言うこと変えたら、またみんなから叱られるけんど、うちはもう決めました。明日の朝一番で、みんなの前でそがぁ言うつもりぞなもし。もちろんスタニスラフさんにも謝ります」
知念和尚と安子は嬉しそうにうなずいた。
「ほうじゃな。ほれがええ。千鶴ちゃんがやっぱし結婚やめるて言うても、誰も怒ったりせんけん」
「ほうよほうよ。千鶴ちゃんのほんまの気持ちがわかったら、みんな喜んでくれらい。ほじゃけん、何も心配いらんけん」
二人は千鶴を励ました。だけど、どうしてスタニスラフとの結婚を取り止めようと思ったのか、千鶴にはその理由がわからなくなっていた。
「進之丞のことはともかく、スタニスラフとの結婚は絶対に止めといた方がええわい」
「ほうですよね。ぎりぎりじゃったけんど、千鶴ちゃんのほんまの気持ちが聞けてよかったぞなもし」
和尚と安子の会話が、千鶴には二人が遠くで喋っているように聞こえていた。まるで自分とは関係のない話をしているみたいだ。
千鶴の様子に気づいた二人は、焦った声をかけた。千鶴の頭は次第にぼやけていく。
忠之が二年の記憶を失ったことを、千鶴は微かに覚えていた。その忠之を見捨てるような真似をしたから、こんなことになったのかと、千鶴はぼんやりする頭で考えた。そのうち、その考えもすぐに消えてしまった。
「千鶴ちゃん、しっかりするんよ」
安子が泣きそうな顔で声をかけている。知念和尚も必死に、がんばるんぞなと千鶴を励ましている。でも、千鶴には二人が何を言っているのかがわからなかった。
「あの……、うちはここへ何しに来たんでしょうか?」
和尚夫妻の寝間にいることに千鶴が戸惑うと、和尚と安子は顔をゆがめた。
自分が泣いていたと知った千鶴は、慌てて涙を拭いたあと、どうして自分は泣いていたのかと和尚たちに訊いた。
けれど、和尚も安子も何も答えてくれなかった。代わりに今度は二人が泣いた。
野菊のかんざし
一
「いろいろお世話になりましたぞなもし。幸子や千鶴ばかりかわしらまで何から何までお世話いただき、いくら感謝してもしきれんぞなもし。このご恩、一生忘れんぞなもし」
甚右衛門たちは和尚夫婦に何度も礼を述べた。これから土佐へ向かうのだが、その前に松山の組合長を訪ねて、千鶴とスタニスラフの婚礼の準備をすることになっている。
「あのな、甚右衛門さん。千鶴ちゃんのことなんやが……」
知念和尚が話をしようとすると、甚右衛門は手を振って、ええんぞなもしと言った。
「もう気持ちの整理はつきましたけん。ほれに千鶴はいずれ進之丞のことは忘れて新たな道を行かにゃなりますまい。やけん、ちぃと早いですけんど、こんでええんぞなもし」
甚右衛門は自分に言い聞かせるように言った。しかし、スタニスラフを認めたという意味ではない。あくまで千鶴の意思を尊重したというだけである。
「ほやけど、今回のことは誤解やて千鶴ちゃんが――」
安子が堪り兼ねたように喋りかけたが、わかっとりますと甚右衛門はうなずいた。
「あの進之丞をそがぁ簡単に忘れられるもんやないですけんな。恐らくあの子は懸命に悲しみから抜け出そとしよんでしょ。あの子の悲しみはあの子にしかわからんですけん」
甚右衛門は千鶴の気持ちを理解しようとしていた。それはトミや幸子にしても同じらしい。二人とも甚右衛門の話にうなずいている。
松山へ向かう乗合自動車の時刻が迫っていた。甚右衛門たちはまだ話を続けたそうな和尚たちに頭を下げると、少し離れた所にいた千鶴とスタニスラフの方へ行った。
どうするのかと言いたげに安子は知念和尚を見たが、和尚も困惑顔を見せるばかりだ。
本音では甚右衛門たちは千鶴とスタニスラフとの結婚をよしとはしていない。三人は祝福の言葉を避けながら、千鶴を介して今後の予定などをスタニスラフに訊いた。
少しすると、幸子とトミは千鶴だけを本堂脇にある大きな楠の陰に連れて行った。スタニスラフも三人について行こうとしたが、甚右衛門が話しかけて引き留めた。
「あんた、ほんまにこれでええんか?」
幸子が真剣な顔で訊ねると、千鶴は黙ってうなずいた。もう後戻りはできないのだし、自分にはスタニスラフしかいないのだ。
「やめるんじゃったら今のうちぞな。今じゃったら、まだ何とでもなるけんな」
トミも迫るように言ったが、千鶴はやめるとは言わなかった。
千鶴が二人に心配してくれたことを感謝していると、スタニスラフがやって来た。幸子たちは千鶴から離れて甚右衛門の所に戻り、伝蔵の肩を借りて立つ忠之の傍へ行った。
甚右衛門たちは伝蔵に何度も礼を述べ、忠之に別れの挨拶をした。
甚右衛門は忠之の手を握ると、残念そうに言った。
「お前さんを一緒に連れて行きたいけんど、わしらも土佐は知らんけんな。恐らく苦労させてしまおう。やけん、今はここにおった方がよかろ」
忠之はまだ一人では歩けない状態なのだから、土佐へなど行けるわけがない。それでも一緒に連れて行きたいというのは甚右衛門の本当の気持ちのようだ。
「おらみたいな者にはもったいないお言葉ぞなもし」
忠之が涙を浮かべると、そげなことは言うなと、甚右衛門は忠之を抱き寄せ涙ぐんだ。
トミは涙を拭きながら忠之の両手を握った。
「あんたのことは死んでも忘れんけんね。何があってもへこたれたりせんで、しっかり前向いて生きていくんよ。ええな?」
ありがとうございますと頭を下げながら、忠之は泣いた。
幸子は忠之と進之丞が同じに見えたのだろう。何も言えずに忠之を抱きしめたまま、わんわん泣いた。忠之も幸子に抱かれたまま黙って涙を流している。
幸子から離れると、忠之は三人に改めて感謝した。
「おらなんかのために、こがぁにようしてもろたこと、おら、一生忘れません。おら、何も覚えとらんのに、お給金もあがぁにようけもろて……。おとっつぁんもおっかさんもおらんなってしもたけんど、みなさんが家族みたいにしてくんさったけん、おら、まっこと嬉しかった……。旦那さんも、おかみさんも、幸子さんも、いつまでもお元気で」
「なして、わしらをそがぁ呼ぶんぞな?」
驚く甚右衛門たちに、千鶴さんに教えてもらいましたと忠之は言った。
「おら、この二年のこと、何も覚えとらんけんど、その間、どがぁにみなさんのお世話になっとったかを、千鶴さんから聞かせてもらいました。ほれも含めまして、みなさん、今までまことにありがとうございました」
甚右衛門たちの目にみるみる涙があふれた。言葉が出ない三人は、もう一度忠之の手を握ったり抱きしめたりしながら泣いた。
知念和尚も安子も泣き、伝蔵も目を潤ませて鼻をすすり上げている。
忠之が山﨑機織にいたことを忘れてしまったという話に千鶴は驚いていた。大怪我をしたのは知っているが、そんな話は初耳だ。怪我が原因で全部を忘れたのだろうか。
法生寺には何日もいたのに、千鶴は忠之の記憶のことを知らなかった。それに、いつ忠之に店の話をしたのかもわからない。そもそも山﨑機織に忠之がいたのも覚えていないし、店がだめになった理由も知らなかった。これでは忠之と同じで妙な気分だ。
それはさておき、千鶴もみんなの所へ行きたかった。けれど、甚右衛門たちと忠之の別れの挨拶に千鶴は関係ないと言って、スタニスラフが行かせてくれなかった。しかし、本当は千鶴を忠之に近づけさせたくないだけなのだ。
スタニスラフは信じられないほどのやきもち焼きだ。結婚が決まって以来、千鶴は自分だけのものだという態度をあからさまに見せる。千鶴が誰かと喋ろうとすると、勝手に間に割り込んで来るし、相手が忠之であれば、話どころか目を合わすのさえ許さない。
忠之はスタニスラフに一度も嫌な態度を見せていないし、まだ弱った体で周囲の助けが必要な状態だ。なのにスタニスラフは忠之に対して敵意を剥き出しにしていた。
昨夜、まだ祝言を挙げたわけではないのに、スタニスラフは千鶴の寝床へ忍び込んで来た。スタニスラフの身勝手で無礼な行為に千鶴は怒り狂った。それが尾を引き、昨日はあれだけ嬉しかったスタニスラフとの結婚に、今は少し興醒めしている。そこへ忠之への冷たい態度を見せられるので、千鶴の気持ちはさらに冷めていた。
それでも自分にはスタニスラフしかいないというあきらめが、千鶴を従順にさせていた。またスタニスラフは夫になるのに、昨夜は怒り過ぎたかという反省気分もあり、千鶴は気持ちを抑えていた。とはいえ、千鶴はまだ山﨑家の者であり、目の前にいるのは千鶴の家族だ。その中に入らせてもらえないというのはやはり不満だった。
互いに別れを惜しむ家族と忠之を眺めていると、千鶴は前にも同じ光景を見たような気がした。と思ったら、千鶴は唐突に進之丞を思い出した。祖父が山﨑機織を畳んだ時、進之丞は祖父たちに千鶴をもらいたいと頭を下げた。祖父たちも泣きながら、千鶴をよろしく頼むと言ったのだ。
悲しみが込み上げて呆然と立ち尽くす千鶴の肩を、スタニスラフが抱き寄せようとした。千鶴は思わずスタニスラフから逃げると、忠之の傍へ駆け寄った。
忠之は千鶴を見ると、涙を拭いて微笑んだ。それは進之丞が見せていた微笑みだ。本当の想いを伝えられず、黙って千鶴を支え続けてくれていた進之丞の微笑みだった。
「進さん」
千鶴が声をかけても、忠之は返事をしてくれなかった。千鶴が自分を進之丞と勘違いしているとわかっているからだろうが、微笑んだだけで何も言ってくれなかった。
二
千鶴とスタニスラフは北城町まで甚右衛門たちを見送った。三人を乗せた乗合自動車が行ってしまうと、スタニスラフは満面の笑みを見せた。甚右衛門たちへの気疲れから解放されたのと、家族がいなくなって千鶴が一人になったという嬉しさがあるのだろう。
一方で千鶴は気持ちが沈んでいた。家族と別れたからではない。前世の自分がふと顔を見せたために、忘れていた進之丞の記憶が鮮明に思い起こされたからだ。
その大切な記憶が再び色褪せていこうとしている。それがわかっていても、その記憶をつなぎ止めておけない。それが千鶴は悔しくて悲しかった。
千鶴はスタニスラフとの結婚を取り止めるつもりでいたのも思い出し、そうしなければと考えていた。祖父たちは松山へ向かってしまったが、やはりスタニスラフとの結婚は間違っている。たとえ進之丞の記憶が取り戻せなくなったとしても、誰にも頼らず独りで生きていくべきなのだ。
スタニスラフは千鶴が家族と別れて落ち込んでいると思ったようだ。慰めるつもりなのか、千鶴を抱き寄せようとした。だが千鶴はスタニスラフの腕を払いのけて一人で歩いた。スタニスラフには体に触れられるのも嫌だった。
法生寺の近くまで戻った頃、千鶴の肩にはスタニスラフの手が載っていた。
千鶴はスタニスラフに手をつながれて石段を登り、山門をくぐって境内に入った。大きな楠の隣に本堂が見える。その本堂の前で、忠之が両手を合わせて何かを祈っていた。
さっきは伝蔵がついていたが、今は忠之一人だ。中に一度戻ってから、再び一人で外に出て来たのだろうか。まだ支えがなければ転ぶかもしれないのに、一人で本堂の階段を登ったようだ。恐らく祖父母たちの安全を願ってくれているのだろう。千鶴が見ている間も一心に拝み続けている。その姿には感謝しか浮かばない。
「千鶴、何見テマズゥカ? 早クゥ、中へ、入リィマシヨ」
不機嫌そうにスタニスラフが千鶴を促した。千鶴が忠之を見るのが気に入らないらしい。ずっといらだちを抑えていたが、千鶴は我慢がならなくなった。
「おじいちゃんらの旅の安全を祈ってくれとるお人を見よるぎりじゃろがね。ほれの何が悪いんね。中に入りたいんなら、さっさと一人で入りんさい!」
千鶴が強い口調で言い返すと、スタニスラフは口を噤んだ。それでも、いつまでここにいるのかと言いたげな顔で千鶴から離れない。
千鶴はスタニスラフを無視して、不動明王を拝む忠之を眺め続けた。すると、再び記憶に蘇った進之丞の姿がそこに重なった。
前世でも今世でも、進之丞は不動明王に千鶴の幸せを願ってくれた。忠之が祈る姿は、今も進之丞が千鶴の幸せを願ってくれているようだ。
千鶴がぼろぼろ涙をこぼすとスタニスラフはうろたえて、何だかわからないまま千鶴を抱こうとした。千鶴はスタニスラフから逃れると、背を向けて泣き続けた。
進之丞は千鶴の幸せを願い続けてくれている。なのに自分は進之丞を忘れてスタニスラフと一緒になろうとしているのだ。千鶴は自分が情けなく悲しかった。だけど、またすぐに進之丞のことは忘れてしまうに違いない。
千鶴は泣きながら焦った。今度進之丞を忘れてしまえば、もう二度と思い出さないかもしれない。そしてスタニスラフの人形として生きるのだ。
千鶴は涙を拭くと、急いで庫裏へ向かった。後ろでスタニスラフが呼ぶ声がしたが振り返らなかった。進之丞の記憶が残っているうちに、知念和尚に会って確かめておきたいことがあった。
三
「和尚さん、教えてつかぁさい。成仏するとは、どがぁなことなんぞなもし?」
千鶴は知念和尚を見つけるなり質すように訊ねた。和尚は安子と二人で、ぼんやりと座敷に座っていた。
「成仏? どがぁしたんぞな、いきなし」
きょとんとする和尚たちに千鶴は言った。急いで喋らなければ、頭の中から進之丞がいなくなろうとしている。
後ろの襖を閉めると、千鶴は和尚たちの傍へ行った。
「鬼が死んで進さんがこの世を去る時、みんな成仏できて行くべき所へ行けるようになったて、進さんは言いんさったんです。ほんでも、うちが進さんの後を追って死んでも会えんて言われました。これはどがぁなことでしょうか?」
進之丞が残した言葉は、以前にも二人に伝えていた。その時には忠之の看病に必死で深く考えなかったし、和尚たちも何も言わなかった。けれど、今は無性にこの言葉の意味を知りたかった。結局、進之丞はどうなったのか。それをこの言葉は示している。
「千鶴ちゃん、また進之丞のこと思い出したんか」
驚く和尚と安子に千鶴は素早くうなずき、時間がないからと返事を急がせた。
千鶴がすぐに記憶を失うのは和尚もわかっている。うむとうなずくと、成仏といっても言う者によって意味が異なると和尚は話した。
「一般には成仏するいうんはな、この世への未練がのうなって、あの世へ行くいう意味になるな。たとえば、未練があると幽霊になってこの世へ留まろうとするが、未練がのうなるとあの世へ行ける。ほれを成仏したというんよ。鬼が成仏でけたいうんもこれと対で、己を許せんいう想いから解放されて、やっと地獄やないあの世へ行けたんじゃろ」
進之丞が言った成仏が、今和尚が話した成仏であれば、進之丞はあの世へ行ったことになる。であれば、後追いをすれば会えるはずだが、進之丞はできないと言った。
「今のと別の成仏はどがぁなもんですか?」
「ほれはまことの成仏ぞな。煩悩から抜け出して悟りを開くんよ。ほれは文字どおりほんまもんの仏になるいう意味ぞな」
「ほれは、先に言いんさった成仏とは違うんですか?」
「初めに言うた成仏は、ただあの世へ行くいうぎりの話でな。未練は断てても、煩悩から抜け出せたとは限らんのよ。ほじゃけん、そがぁな者らはもういっぺんこの世へ出て来て、己の煩悩を断ち切る必要があるんぞな」
「ほれが生まれ変わりですか?」
「ほうよ。ただ、誰も己が生まれ変わってきたとはわからんけんな。煩悩を断ち切るいうんは、なかなかむずかしいんよ」
「まことの成仏をしんさった人は、生まれ変わらんのですか?」
「まことに成仏したんなら生まれ変わることはない。その必要がないけんな」
千鶴は途方に暮れた。
成仏をした者はあの世へ行ったのちに、その多くが再びこの世へ生まれ変わる。それは自分が前世から今世に生まれ変わったから理解ができる。あの世のことは覚えていないが、あの世にいたからこそ地獄にいた進之丞に会いに行けたのだ。
しかし、今度は同じようにはできないと進之丞は言った。それは進之丞はあの世にはいないという意味になる。ならば、進之丞は煩悩を断ち切った者たちが行く所へ行ってしまったのか。
大丈夫かと安子が千鶴を気遣った。千鶴はうなずくと和尚に訊ねた。
「進さんはまことの成仏をしんさったんでしょうか」
「さぁなぁ。ほれはわしにもわからんぞな。鬼というどん底を経験して悟りを開いたんなら、ほれも有り得るとは思うがな。まことの悟りを開くいうんは、そがぁに簡単な話やないけんな」
――あしはもはや過ぎ去りし記憶、過去の幻影に過ぎぬ。
進之丞の言葉を思い出した千鶴は恐ろしくなった。
「和尚さん、進さんは自分を過ぎ去りし記憶、過去の幻影て言いんさったんです。ほれは進さんが消え去ってしもたいうことなんでしょうか」
知念和尚は少し考えてから、ほれは恐らくこがぁなことぞなと言った。
「今世の者から見て、前世の自分がどこにおるんかはわからんけんど、どっか心の奥底でつながっとるんじゃろな。前世の千鶴ちゃんが顔出したんも、そがぁなことじゃろ。ほんでも前世の千鶴ちゃんが顔出さなんだら、千鶴ちゃんにとって前世の千鶴ちゃんは、過ぎ去りし記憶や過去の幻影と言えよう?」
「じゃあ、進さんは今は誰かの……」
知念和尚はうなずいた。
「本来、進之丞は前世の人物であって、誰ぞの過ぎ去りし記憶であり、過去の幻影なんよ。つまり、進之丞は今度こそどっかで誰ぞに生まれ変わったんじゃな。ほれじゃったら、千鶴ちゃんが後を追わったとこで会えまいが」
そうなのかと千鶴は項垂れた。進之丞が消えたのでないのなら、それは嬉しいことだ。けれど、今の進之丞がどこかで産声をあげたばかりの赤ん坊であれば、もう二人が出逢うことはない。
出逢ったとしても互いを知る術がないし、向こうは赤ん坊だ。二人は別々の道を歩むしかない。そう、もはや進之丞は千鶴にとっても過ぎ去りし記憶であり、過去の幻影だ。千鶴が前を向いて歩みだしたなら、忘れ去られるものなのだ。
進之丞が未だに幸せを願ってくれているような気がしたが、赤ん坊に生まれ変わったのであれば有り得ない話だ。もう進之丞のことは忘れて前に進むしかない。
進之丞は心の赴くままに生きよと言った。それはやはり忠之と生きろという意味だったのだ。忠之が自分の代わりになってくれると、進之丞は期待したのだろう。
素直な気持ちに従っていれば、進之丞のことを忘れても、進之丞と築くはずだった暮らしができたのだ。それに考えてみれば、忠之は進之丞とまったくの別人というわけではない。千鶴が慕った進之丞の中に忠之はいたのである。言い換えれば、忠之は進之丞が千鶴のために残してくれた分身なのだ。だからこそ、あれほど心が惹かれたのだろう。
だけど今更である。忠之自身と心を通わせていたならともかく、今は進之丞の記憶が消えると、忠之とのつながりがなくなってしまう。忠之と過ごしたこの一月のことを忘れたら、何もできずに離れるだけだ。
ありがとうございましたと、千鶴が礼を述べて立ち上がると、安子が呼び止めた。
「結婚、どがぁするんね? 今やったら、まだ間に合うで?」
知念和尚も期待の眼差しを向けている。千鶴は唇を噛むと下を向いた。
「うちはじきにうちやのうなります。ほやけん、急いでこの話を伺いに来たんです。結婚を取り止めるつもりでおっても、すぐにそのことを忘れてしまうけん、うちには、もうどがぁもでけんのです」
和尚も安子も悲しそうな顔をするばかりで何も言わなかった。
千鶴はもう一度二人に頭を下げると部屋を出た。そこにはスタニスラフが不愉快な顔で立っていた。
四
「何ナ話、シテマシタカ?」
スタニスラフは詰問の口調で質した。千鶴は何でもないと答えたが、腹の中はスタニスラフの態度に煮えくり返っている。
どうやらスタニスラフは襖越しに話を盗み聞きしていたらしい。詳しい話の内容はわからなくても、千鶴たちが進之丞の話をしていたのはわかったようだ。
前にスタニスラフは進之丞のことを根掘り葉掘り訊いてきた。その時は千鶴はまだ進之丞の存在を覚えていたが、一切説明をしなかった。スタニスラフは進之丞について訊くのをあきらめたが、千鶴の心に残る進之丞に嫉妬の炎を燃やしていた。その嫉妬を剥き出しにしたスタニスラフは、捲し立てて千鶴を詰った。
「千鶴ヴァ、僕ト、結婚シマズゥ。ダケドォ、進之丞、忘レェナイ。何故デズゥカ? 進之丞、死ニマシタ。進之丞、モウイナイ。千鶴ニヴァ、僕ダケネ。僕ガ、見捨テタラァ、千鶴ヴァ、ドウシマズゥカ?」
これがスタニスラフの本音なのだ。ロシアの血を引く千鶴など、自分でなければ誰にも相手にされないと決めつけている。それは千鶴を見下しているということだ。スタニスラフはこれまで隠していた素顔を、千鶴が逃げられないと思って見せたようだ。しかし、スタニスラフに嫌気が差していた千鶴にとって、この言葉は決定的だった。
千鶴の怒りに気づかないスタニスラフは、祖父たちが別れを惜しんでいた忠之の所へ、千鶴が駆け寄ったことまで蒸し返して文句を言った。
「千鶴ヴァ、本当ニ、僕ト、結婚スルゥ気ィ、アリィマズゥカ?」
自分と結婚したいのであれば怒らせるなと言いたいらしい。だが千鶴にすれば、スタニスラフと一緒になる道を選んだために、大切な進之丞を失うことになったのだ。
千鶴はスタニスラフをにらみつけると、きっぱりと言った。
「あなたはまっことひどいお人ぞなもし。他人の話を盗み聞きするぎりでも許されんのに、ほうやって相手の気持ちも考えんで、ご自分の言い分ぎりを押し通そうとしんさる。あなたはうちを何やと思とりんさるん? うちは物でも人形でもありません。うちはあなたと同し人間ぞなもし」
千鶴に気圧されたスタニスラフは、言い返そうとしても言葉がうまく出なかった。代わりに眉間に皺を寄せながらロシア語でべらべらと反論したが、千鶴にはロシア語がまったくわからない。なのにロシア語で喋り続けるのは、千鶴に文句を言わせないためだ。そして、これが千鶴を待っている二人の暮らしなのだ。
「スタニスラフさん、うちはあなたとは結婚しません。松山での祝言は取り止めます。神戸にも行かんし、アメリカにも行きません。あなたはさっさと一人で戻りんさい」
口を開けたまま言葉に詰まったスタニスラフは、大いにうろたえた。
「サンナカト、シタラァ、ミンナァ、困リィマズゥ。サレデモォ、イイデズゥカ」
「誰も困らんぞな。みんな、うちらの結婚には反対しよったんじゃけん」
「ダケドォ、ア祝イズゥルゥ人、困リィマズゥ」
「組合長さんのこと言うとりんさるんなら、うちがあとで謝っときます」
「千鶴ヴァ、僕ガ、イナイト、ドシマズゥカ?」
「家族と土佐で暮らすんもええし、ここのお世話になることもできます。ほじゃけん、うちのことはなーんも心配いらんぞなもし」
どう言ったところで千鶴には通じないと、スタニスラフはようやく悟ったらしい。さっきまでの勢いはどこへやらで、手のひらを返すがごとくに千鶴に平謝りした。けれど、千鶴は許すつもりはない。この結婚をやめたいと思っていたから、ちょうどいい機会だ。
「どがぁしたんぞな?」
知念和尚が部屋から顔を出した。安子も一緒だ。
千鶴たちの言い争いが聞こえていたと思うが、いつまで経っても終わらないので心配して出て来たらしい。
千鶴は事情を説明しようとしたが、スタニスラフと言い争う前に何を問題としていたのかを忘れていた。覚えているのは、スタニスラフが横柄な態度で自分を怒らせたということだけだ。
怒る理由が説明できなければ話にならない。怪訝そうにしている和尚夫妻に、もうええんですと千鶴は言った。
二人はスタニスラフに顔を向け、何があったのかと訊ねた。慌てて笑顔を繕ったスタニスラフは、何デモナイネと言ってごまかした。
それでこの場は何となく収まったが、千鶴が抱いたスタニスラフへの不信感は消えなかった。二人が争った原因は忘れてしまったが、スタニスラフが見せた嫌な態度はしっかりと覚えている。
しかし、結婚を取り止める気持ちは萎えていた。さっきは本気で思ったが、よく考えればスタニスラフが言うように、みんなに迷惑がかかってしまう。とても簡単にできることではない。
それに悔しいけれど、スタニスラフでなければ自分を嫁に望む者などいない。一生嫁のもらい手がないまま過ごすことを考えると、腹立ちを覚えても我慢するしかない。
千鶴の中にスタニスラフへの不信は残っていたが、怒りの気持ちは急速にしぼみ、代わってあきらめと空しさが広がった。
五
千鶴とスタニスラフが法生寺を去るこの日、奇しくも風寄の祭りが始まったいた。今朝は暗いうちからたくさんのだんじりが神社に集まり、今は神輿が賑やかに村々を練り歩いている。山門から見える村の祭りの様子にスタニスラフは興奮気味だ。
本当は昨夜神社の前に集まっただんじりを、スタニスラフと一緒に見に行くはずだった。しかし、スタニスラフへの嫌悪感を持った千鶴はそんなことはしなかった。
スタニスラフは境内から見えるだんじりの灯りに惹かれていたが、千鶴は一緒に行こうとは言わなかった。行きたければ一人で行けばいいのに、スタニスラフは千鶴から離れたくはないようで、見に行こうと何度も千鶴を誘ったが、千鶴は耳を貸さなかった。
それでもだんじりの灯を目にした千鶴は、二年前に春子に誘われて風寄の祭りを見に来たことを思い出した。その懐かしさは千鶴に忠之との出会いを呼び起こさせた。
忠之にはどこか心惹かれるところがあった。忠之との想い出が蘇ってその理由を理解した千鶴は、どうしてスタニスラフではなくこの人を選ばなかったのかと悔しくなった。
二年前、千鶴は春子の従兄たちに襲われた。それを救ってくれたのが忠之だ。あの頃の忠之は喧嘩も強く、信じられないほどの力持ちだった。
松山へ戻る手段を失った千鶴と春子を、人力車で運んでくれたのも忠之だ。他の誰もやらないような親切を忠之は見せてくれた。
忠之には夫婦約束をした娘がいたが、山陰の者という理由で夫婦にはなれなかった。その娘もロシアの血を引いており、千鶴とそっくりな上に名前までもが同じだった。実に不思議な巡り合わせだが、忠之が示してくれた優しさの陰には、別れざるを得なかった娘への想いが隠れていた。そんな切ないまでの忠之の優しさに千鶴は虜になったのだ。
あのあと、忠之とは二度と会えないと思っていた。ところがある日、忠之は大八車を引いて風寄の絣を運んで来た。仲買人の牛が病気で動かなくなったので、代わりを買って出たのだ。そして店の壊れた大八車の代わりに、その大八車を残してくれた。
あの頃、千鶴は自分は本当は鬼ではないかと思い悩んでいた。そんな千鶴を忠之は抱いて慰めてくれた。そして、たとえ千鶴に命を奪われても死ぬまで千鶴を慰め続けると言ってくれた。また鬼の話もしてくれて、千鶴の悩みが勘違いだと教えてくれた。
当時のことを思い出した千鶴は胸が高ぶった。自分にはスタニスラフしかいないと思い込んでいたけれど、こんな身近に本当に心惹かれる人がいたのだ。
それでも山﨑機織にいたという忠之のことは何も思い出せない。他の使用人たちのことは思い浮かべることができるのに、忠之のことだけがわからない。それはとても奇妙なことであり、悔しく残念なことだった。
何にしても、千鶴はスタニスラフの嫁になろうとしている。忠之とのことは遠い想い出だ。忠之と結ばれなかったのは、きっと忠之は別れた娘が忘れられなかったのだろう。
だけど、今の忠之はあんなやつれた体になった上に記憶までも失くしている。家族も亡くなり天涯孤独の身の上だ。その気の毒な忠之を残してここを離れるのである。
しかもスタニスラフには嫌悪感しかない。自分が見捨てたらどうするのかと言われたことは忘れない。もっと早くに佐伯さんのことを思い出していれば、スタニスラフとの結婚なんか考えもしなかっただろうにと、千鶴は自分の愚かさを悔やむばかりだった。
今日になっても忠之への想いは募る一方だ。
結婚なんかしないで、ずっと佐伯さんの傍にいてお世話をしてあげたい。もっと本当をいえば、佐伯さんと一緒になりたい。たとえ佐伯さんの心に今も昔の想い人がいたとしても構わない。佐伯さんの妻になって、一生佐伯さんを支えてあげたい。
そんな想いで頭はいっぱいだけど、松山では祝言の準備が進められている。今更結婚しないとは言えるものではない。千鶴は遣る瀬なさと無力感にため息をついた。
今朝、千鶴は春子の家へ行った。二年前にお世話になったお礼も兼ねての挨拶だ。暇がないので大急ぎでの訪問である。
スタニスラフもついて行くと言ったが、こんなに嫉妬深い者など同行させられない。連れて行けばどうなるかは明らかだ。
向こうにはロシア人を嫌う者もいるからと、千鶴はスタニスラフを寺に残そうとした。事実、春子の兄嫁は千鶴を嫌っているし、従兄は未だにロシア人を敵と見なしている。
スタニスラフが千鶴もロシア人の顔をしていると反発すると、自分は半分日本人だし、春子の友だちだから特別だと強引にスタニスラフを黙らせた。
春子の家に行くと、イネとマツが歓迎してくれたが、いないと思っていた修造もいた。神輿は若い者たちに任せているので年寄りは一休みだと修造は笑った。
千鶴が一人なので、修造たちはスタニスラフが来なかったことを残念がった。
いろいろ準備があるのでと弁解したら、おとっつぁんに認めてもらえてよかったなと修造は言った。イネとマツもうなずいている。ただ、三人とも千鶴と忠之の関係を知っているので、千鶴の態度の変化には戸惑っていた。
以前は修造たちは忠之を見下していたが、全力で忠之を支えると千鶴の前で誓った。なのに、肝心の千鶴が忠之を見放したのでは戸惑うのは当たり前だ。だけど、千鶴はその時のことは覚えていない。修造たちの様子は千鶴には奇妙に見えた。
本当は修造たちは千鶴の心変わりの理由を訊きたいのだろう。何か言いたげにしながら愛想笑いをし、伯爵御夫妻の御前で結婚を誓い合ったのだから、これでよかったと修造たちはうなずき合った。
千鶴は春子がいるかと思ったが、残念ながら春子は仕事で戻って来られなかったみたいだ。春子は師範として松山よりずっと南にある砥部の小学校に赴任しているそうで、忙しいし遠いのでとても里帰りなどできないらしい。千鶴とスタニスラフの結婚は電話で修造たちから聞かされており、よろしく伝えてほしいとのことだった。
春子の話をする時、修造たちは申し訳なさそうな顔をしていた。どうして三人がそんな顔をするのかわからなかったが、千鶴はとにかく明るい顔で春子の仕事ぶりを喜んだ。
春子の家を出る時、イネとマツが忠之はどうしているのかと訊ねた。
千鶴は今の忠之の体の状態を説明し、昨日祖父たちが松山へ向かった時の様子を話した。今朝も千鶴たちを祝福して別れを惜しんでくれたと話したが、実際はスタニスラフが忠之を近づけないので、挨拶すらできていなかった。
ほうかねと言いながら、イネとマツは何故か涙ぐんだ。修造も複雑な顔を見せたが、すぐに笑顔になって、アメリカに行ってもがんばんなさいやと応援してくれた。
六
この日は松山へ着いたら、スタニスラフとの祝言を挙げる手筈だ。二人の婚礼衣装は母と祖母が仕立て直してくれている。
祝言の前には銭湯で体をきれいにしなくてはならないし、千鶴は髪を結う必要がある。いろいろ時間は決められており、それに合わせて動かなければならなかった。
祭りの間は客馬車は走らない。それで乗合自動車で松山へ向かうのだが、その時刻が迫っていた。スタニスラフは焦っているが、千鶴は忠之に人力車に乗せてもらった時のことを懐かしく思い出していた。
あの時も客馬車が走らず乗合自動車も出たあとで、千鶴たちは途方に暮れていた。松山に戻れなければ退学になると春子と二人で泣いていたら、忠之が車夫の格好で現れた。それで千鶴たちを人力車で松山まで運んでくれたのだ。車夫の衣装も人力車も黙って拝借したものだ。ただの好意だけでできるものではない。今考えても胸が熱くなる。
スタニスラフが忘れ物はないかと、ぼんやり立っていた千鶴に言った。我に返った千鶴は風呂敷包みを抱えた。荷物はそれで全部だけれど、忘れ物はある。忠之だ。
最後の別れの挨拶がしたいのに、千鶴が春子の家から戻った時から忠之は行方知れずになっていた。千鶴がいない間に、忠之が本堂で御本尊の不動明王に手を合わせていたのを伝蔵が目にしているが、そのあとどこへ行ったのかがわからない。
和尚夫婦も伝蔵と一緒に探してくれているが、それでも忠之は見つからない。このままではここを離れられないが、スタニスラフは心配する千鶴を気遣うことなく急かした。
千鶴はスタニスラフをにらんだが、時間がないのは事実だ。だが、だからといって忠之と言葉を交わさないままここを立ち去るなどできない。
千鶴は思い出した。二年前に風寄を訪れた時、千鶴は春子の家を飛び出して山で化け物みたいなイノシシに襲われた。そのあと気がついたら何故か法生寺の前に寝かされていて、頭には野菊の花が飾られていたのだ。
あのイノシシからどうやって助かったのかはわからないけど、花は忠之が飾ってくれたものだった。忠之は野菊の花が好きだったという娘を思い浮かべながら、同じ顔をした千鶴のことを思いやってくれた。そして千鶴の幸せをお不動さまにお願いしてくれたのだ。初めて会ったばかりなのに、千鶴の幸せを願ってくれたのである。
千鶴の目から涙がこぼれた。あの頃に戻りたかった。また自分に優しくしてくれた忠之の恩に報いたかった。けれど、今その忠之を置き去りにしてここを去ろうとしている。千鶴は胸が潰れそうになった。
今こそ恩を返す時である。それなのに、どうしてこのままあの人を置いて行けるのか。
千鶴はここに残ると言おうとした。でも、スタニスラフの険しい顔を見ると言えなくなった。大喧嘩になるのも嫌だし、松山で待っている人たちに迷惑はかけられない。
それでも、せめて忠之には別れの挨拶がしたい。ここを離れる前に一言声をかけて励ましてあげたかった。けれど、知念和尚たちはまだ忠之を見つけられないようだ。
七
知念和尚は出発前に千鶴ちゃんに見せておきたい物があると言った。
ついて来なさいと和尚が手招きをすると、時間がないとスタニスラフが文句を言った。けれど和尚もわかった上で千鶴を呼ぶのだから、何かとても大切なことに違いない。
千鶴は安子に風呂敷包みを預けて和尚の所へ行こうとした。すると、スタニスラフも鼻息を荒くしながらついて来ようとした。
「用があるのは千鶴ちゃんぎりぞな。あなたには関係ないことやけん」
和尚は珍しく険しい顔で強く制した。安子も怖い顔で、あなたはここに残りなさいと言った。だが、もう寺に留まる必要がないからか、スタニスラフは従おうとしない。
千鶴はスタニスラフをきつく叱った。逆らえば結婚は取り止めだ。それでスタニスラフはようやくあきらめた。
千鶴はため息をつくと、知念和尚のあとに従った。
知念和尚が千鶴を連れて来たのは寺の墓地だった。
千鶴は寺の仕事を手伝っていたので、墓地の掃除もしていた。だから、どうして和尚さんは今更ここに自分を連れて来たのだろうと思っていた。
知念和尚は墓の一つを指差して、この墓は慈命和尚という明治の前にこの寺にいたご住職の墓だと言った。
その古い墓は千鶴も目にしていた。だけど、それが慈命和尚の墓だとは知らなかったし、知ったところでどうということはない。
出発が迫ったこの時に、知念和尚はこの寺の歴史を語るつもりなのかと千鶴は訝しんだ。しかし、和尚はただ千鶴の様子を窺っているだけだ。
次に和尚は別の墓を千鶴に示した。それも古いが大きく立派な墓だ。
和尚はこの墓はかつて風寄にいた代官の墓だと言った。この墓も目にしていた千鶴は、ほうですかと言うだけで和尚の意図がわからなかった。
その隣には少し小ぶりの墓があって、代官の妻の墓だと和尚は言った。この代官の妻は代官が亡くなったあと、ここで尼として暮らしながら代官を弔い続けていたという。
やはり寺の歴史の話かと千鶴が思っていると、知念和尚はこの代官夫婦には一人息子がいたのだと言った。その一人息子も代官が亡くなった時に命を落としたというが、その墓が見つからなかったらしい。
知念和尚は代官やその息子が死んだ理由は話さないまま、千鶴を墓地の片隅へ誘った。そこは無縁仏の墓が集められた所だ。
四国遍路の旅をしていると、旅の途中で亡くなる者もいる。その者たちは近隣の村人たちの手で、遍路道の脇に葬られることが多いという。しかし先の慈命和尚は旅の途中で亡くなった身寄りのない者たちを引き受けて、ここに墓を作って弔ったそうだ。
慈命和尚という方は、その名のとおりに人を思いやる優しい人だったのだなと千鶴は思った。けれど、千鶴にはまだ和尚が何を言わんとしているのかがわからない。
知念和尚は無縁仏の墓地の隅っこにある、二つの小さな墓石を指差した。見せたかったのはこの墓だと和尚は言った。
その二つの墓は目立たないようにひっそり佇んでいる。見方によれば、寄り添っているみたいにも見える。
知念和尚はこの二つの墓を見つめながら言った。
「先に言うた代官の息子の墓がな、これなんよ。わしもここ来て三十年になるけんど、こがぁな所に隠れよったとは、ちぃとも気づかなんだ。ほれがな、昨夜、安子の夢に出て来たんでわかったんよ」
千鶴は思わず、へぇと言った。
「安子さんが見んさったんは、どがぁな夢やったんですか?」
「夢ん中で安子はな、尼さんやったんよ。ほれで、ここでこの墓を拝みよったそうな。その話を聞いてな、今朝確かめてみたら、ほんまにこの墓があったんよ」
不思議な話である。まるでこの墓の場所を教えたような夢だ。しかし墓は二つある。千鶴が訊ねると、和尚はこの墓は代官の息子と、その許嫁の墓だと言った。
「その許嫁の娘はな、千鶴ちゃんみたいに異国の血ぃを引いとったんよ。ほじゃけん、村の者らから冷とうされよったそうな」
「そがぁな娘さんを、お代官の息子はお嫁にしようとしんさったんですか?」
ほうよと和尚はうなずき、代官の息子は心が広く気高い人物だったと言った。また、我が息子が異国の血を引く娘を嫁にするのを認めた代官も立派だと和尚は褒め称えた。
確かに和尚の言うとおりだと千鶴は思った。だけど、何故その二人の墓がこんな所にひっそりと作られたのか。
和尚は、二人が夫婦になる直前に事件が起きたと言った。この娘を狙った鬼が村を襲い、娘を攫ったというのだ。その時に慈命和尚も代官も命を落とし、代官の息子は娘を取り戻そうと鬼を追ったという。
鬼が本当にいたことに千鶴は驚きながら、和尚の話に引き込まれた。かつて鬼に取り憑かれたと悩んでいた千鶴にすれば、他人事には思えない話だ。
千鶴は和尚が続きを話すのが待てず、代官の息子は許嫁を取り戻せたのかと訊ねた。和尚は悲しげに小さくうなずいた。
「代官の息子はな、その娘を助けることはでけたんよ。やがな、その代償に己自身が鬼になってしもたんよ」
千鶴は思わず息を呑んだ。本当にそんなことがあるのだろうか。
和尚は話を続け、代官の息子は鬼になる前に深手を負って、長くは生きられなかったと言った。そして、そこへ今度は異国人を敵視する攘夷侍が何人も現れて、せっかく助けた娘に襲いかかったのだと、和尚は自分の目で見ていたかのごとくに話した。
鬼になった代官の息子は、傷ついた体で必死になって侍たちと戦った。そして娘を護りきったところで力尽きて海に沈み、娘も鬼を追って海に姿を消したと和尚は語った。
知念和尚は喋りながら涙ぐんでいた。言い伝えの話だろうが、確かに悲しい話だ。
千鶴はしゃがんで二つの墓石を眺めた。それぞれには名前が彫り込んであるが、とても古い石で何と書いてあるのかは読みづらい。右の墓石に刻まれた名前は長かったが、左の方は二文字だけだ。千鶴は左の方から凝視しながら読んだ。
「千……鶴?」
え?――と千鶴は和尚を振り返った。
「うちと同し名前?」
和尚はうなずくと、隣の墓の名も読んでみなさいと言った。
千鶴は右の墓に目を向けると、ゆっくりと上から順に刻まれた文字を読み上げた。
「佐……伯……進……之……丞……忠……之?」
「ほうじゃ。ほれが代官の息子の名前ぞな。この名前見て、千鶴ちゃん、何とも感じんかな?」
千鶴はもう一度墓石の名前を見ると、佐伯さんの名前と似ていると言った。ほらほうよと和尚はうなずき、あの子の名前は代官の名前から付けたものだと言った。
墓石に刻まれた進之丞というのは呼び名であり、忠之というのが諱といわれる本当の名前だと和尚は説明した。
「この墓は恐らく代官の妻がこさえたんよ。けんど、もうちぃと立派な墓建てたらよかったのに、こがぁな所にひっそりあるんはなしてじゃと思う?」
千鶴が首を横に振ると、身分違いの娘が侍の嫁になるには、婚姻の前にいったん武家の養女になる必要があったと和尚は話した。
「ほんでもこん時には、まだ千鶴ちゃんはお武家の養女やなかったけん、立派な墓は建てられなんだ。ほじゃけん、代官の妻は息子の墓を千鶴ちゃんの墓に合わせて、こがぁな形にしたんよ。そんだけ千鶴ちゃんのことを大事に思てくれとったんよな」
和尚の言葉に千鶴が眉をひそめていると、和尚は慌ててここにおった娘のことぞなと言い直した。
「千鶴ちゃんと対の名前じゃけん、ごっちゃになってしもたわい」
「ほら、そがぁなりますよね」
千鶴は笑って立ち上がった。何だか悲しい話だけど、和尚がこの墓を見せた理由は、やはりよくわからない。佐伯さんが出て来るまでの時間稼ぎをしたのだろうか。いずれにしても、もう行かねばならない。きっとスタニスラフが爆発しそうになっている。
知念和尚に珍しい話を聞かせてもらったお礼を述べると、千鶴は改めて二つの墓石に向かって手を合わせて話しかけた。
「夫婦になれんかったんは残念なけんど、二人とも今度生まれ変わってきたら、ほん時には必ず夫婦になれるけんね」
千鶴の頬をぽろりと涙がこぼれ落ちた。何故涙が流れたのか、千鶴にもわからない。ただ、仲睦まじく並んでいる墓石を眺めていると、自然に涙がこぼれてしまう。
千鶴は涙を拭くと、知念和尚に照れ笑いをしながら言った。
「妙ですね。勝手に涙が出て来てしもた」
和尚はさらに何かを言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。
「何かこのお墓見よったら、スタニスラフやのうて佐伯さんのお嫁になりんさいて言われとる気ぃがしたぞなもし」
千鶴が冗談を言うと、和尚は顔をゆがめて涙をこぼした。どがぁしんさったんですかと千鶴が訊ねると、和尚はあわてて涙を拭き、何でもないと言って笑った。
八
いよいよ出発の時が来た。
忠之はいない。ずっと待たされていたスタニスラフが、和尚夫婦の前でも不機嫌を隠さず、しきりに時間を気にしている。忠之を探している暇はない。
「ほんまに、こがぁな時にどこ行てしもたんじゃろか」
安子がうろたえ気味に言った。知念和尚も心配そうに辺りを見まわした。
「ずっと一緒におりんさった千鶴さんが、もうおらんなるんじゃけん、どっかで隠れて泣きよるんやなかろか」
伝蔵が笑って言った。しかしその笑みは半分で、残り半分は何だか悲しそうだ。
「千鶴、急ガナイト、自動車ガ、来マズゥ。乗リ場マデ、走ラナイト、ダメデズゥ」
スタニスラフがいらいらした顔で言った。だけど千鶴は忠之が気になった。忠之は絶対に見送りに出て来るはずだ。なのに姿を見せないのは、きっと何かがあったのだ。
伝蔵が言うように、どこかに隠れているのであれば構わない。でもそうではなく、みんながいなくなって一人になる寂しさに耐えきれず、よからぬことを考えたのではと思うと、千鶴は気が気でなかった。
もし忠之が無事でいるなら、千鶴は自分の想いを伝えたかった。さっきは知念和尚に冗談めかして言ったけど、二つの墓石が千鶴に忠之の嫁になるべきだと告げているように思えてならなかった。
千鶴は落ち着きなく周囲を見まわし忠之を探した。スタニスラフが怖い顔で千鶴を呼ぶと、見かねた和尚たちが忠之のことは心配いらないと言った。二人は忠之の悲しみがわかっているのだろう。忠之には千鶴が心配していたことを、あとで伝えておくからと言った。スタニスラフは鼻から大きく息を吐くと、急ギナサイと命令口調で言った。
仕方がないので、千鶴は後ろ髪を引かれながら発つことにした。結婚はやめると言えない以上、行くしかなかった。
幸せにねと安子は千鶴とスタニスラフの手を握った。知念和尚も黙って二人を見つめている。別れを惜しむ二人の顔は今にも泣きそうだ。
スタニスラフはずっといらいらしていたくせに、和尚たちの様子に気分がよくなったのか、ダイジヨブと千鶴の肩を抱きながら誇らしげに言った。
だが、千鶴は不安を感じていた。このままここを立ち去っても本当にいいのかと、心の中で誰かが叫び続けていた。
千鶴自身、忠之に会わずに行けば一生後悔すると思っていた。松山で待っている家族や組合長たちには迷惑をかけるが、これ以上自分を偽ることはできない。自分は神戸にもアメリカにも行きたくない。ここにいたいのだ。
それでもまだ本音を口にしにくい千鶴は、ここに留まるための時間稼ぎをすることにした。その間に忠之が姿を見せてくれる期待があったし、スタニスラフが怒りだして大喧嘩になり、その勢いで結婚がご破算になればという想いもあった。予定の乗合自動車に乗れなければ、祝言も中止になるだろう。そう思うと、千鶴は希望が見えた。
千鶴は本堂脇にある楠の老木に近づくと、その太い幹を抱きしめた。何百年も前からここにいるというこの老木は、千鶴のお気に入りだ。前に忠之が教えてくれたことだが、かつてここにいた娘も異国の血を引いていたらしい。その娘もこうしてこの老木を抱いていたのかと思うと、何だか泣きそうになる。
後ろでスタニスラフが顔をゆがめているが、今のところは黙ったままだ。また結婚を取り止めると言われるのが怖いのだろう。
ならばと、千鶴は今度は本堂へ向かった。
法生寺には長く滞在していたのに、失礼ながら御本尊のお不動さまにご挨拶する余裕がなかった。もしこのままここを離れてしまえば、恐らく二度と訪れることはない。だから、どうしてもお不動さまには挨拶をしておきたかった。
スタニスラフが怒りを抑えた声で千鶴を呼んだが、千鶴は無視した。知念和尚たちがはらはらしているが、怒るなら怒れである。
本堂の中をのぞくと、炎を背負い剣と羂索を手にした不動明王が鎮座していた。
不動明王はとても厳めしい顔で千鶴を見つめている。本当は恐ろしく見えるであろうその明王が、何故か千鶴には懐かしく思えた。二年前に春子と二人で拝みはしたが、それよりもっと昔からこのお不動さまを知っているような気がするのだ。
千鶴は手荷物を脇に置くと、不動明王に手を合わせた。
「お不動さま。これまで長い間、お世話になりました」
挨拶をして不動明王を拝むと、やはりずっと昔にも拝んでいた気がした。それに別の誰かがここで、自分のために祈ってくれていたようにも思えた。
佐伯さんだろうかと思ったが、少し違う。誰だろうと思ったその時、千鶴の脳裏にその人物の後ろ姿が浮かんだ。その人物は不動明王に向かって何かを一心に祈っている。
え?――と思うと、その幻は一瞬にして、今千鶴が立っている場所に立った。
千鶴は幻の人物と重なっている。千鶴の頭の中にその人物が祈る声が聞こえた。
――千鶴が幸せになりますように。どうか、千鶴が幸せを見つけますように。
「進……さん?」
千鶴の中に進之丞の記憶が蘇り、目から涙があふれ出た。
知念和尚が見せてくれた自分たちの小さな墓石を、千鶴は思い出した。仲睦まじく並んだあの墓石の姿こそ自分が求めていたものであり、本来自分たちのあるべき姿だった。
千鶴は泣いた。大声を上げて泣きそうになったが、スタニスラフに来られたくなかったので、両手を合わせながら声を殺して泣いた。
スタニスラフとは絶対に結婚しない。千鶴は進之丞と不動明王に誓った。けれど千鶴には迷いがあった。それは忠之のことだ。
自分には進之丞だけだと思っていたのに、どうしても忠之に心が惹かれてしまう。スタニスラフと一緒になるという話も、その混乱から逃れようとしたがためだった。今を生きよという進之丞の言葉が、本当に忠之のことを示しているのであればそうするつもりだけれど、千鶴ははっきりした答えが欲しかった。
進之丞は誰の中にもお不動さまがいて、人を正しき道に導かれると言った。だけど、千鶴にはその道がわからなかった。
――お不動さま。どうか、うちを導いてつかぁさい。うちはどがぁすればええんでしょうか。
千鶴は祈った。しかし、心の中にいるはずのお不動さまは、何も語ってくれなかった。
進之丞が死んで何年も経っているならともかく、今忠之に心を移すことには、やはり罪悪感を覚えてしまう。一生独りで生きていくのが定めであるなら、それに従うまでだ。忠之が姿を見せなくなったのも、もしかしたらそういう意味なのかもしれない。
千鶴は進之丞に会いたかった。もう一度進之丞に会うことができたなら、今の迷いを捨てて生きていけると思った。
――お不動さま。たった一度で構いません。どうか、もう一度ぎり進さんに会わせてつかぁさい。進さんのお顔を見せてつかぁさい。進さんのお声を聞かせてつかぁさい。
千鶴は真剣に願ったが、所詮無理な願いだった。進之丞はもういないのである。今頃どこかの赤ん坊になっているだろうし、その子を見ても進之丞だと知る術はないのだ。
千鶴が落胆を隠して本堂を離れると、スタニスラフが爆発寸前の顔をしていた。やはり忠之の姿は見えない。きっと独りで生きよという意味なのだろう。
千鶴は松山へ行って結婚を取り止める旨を伝え、みんなを混乱させたことを詫びようと決めた。あとは祖父たちと一緒に土佐へ行くのだ。また進之丞のことを忘れる不安はあるが、これが定めであるなら結婚を取り止めるまでは進之丞を覚えていられるだろう。
知念和尚はもう一泊していけばどうかと冗談を言ったが、スタニスラフは噛みつきそうな顔で、絶対ニ嫌ダ!――と言い返した。和尚夫婦は顔をしかめ、伝蔵も眉をひそめた。
千鶴は和尚夫婦に最後の挨拶をしたかったが、スタニスラフは千鶴の手を乱暴につかんで足早に山門へ向かった。和尚たちが呼びかけても、スタニスラフは止まらなかった。
九
山門まで来ると、千鶴はスタニスラフの手を振り放し、和尚たちを振り返って頭を下げた。それからスタニスラフの後ろを一人で石段を下りると、遠くの方で神輿が練り歩く声が聞こえた。進之丞と出逢った祭りだ。
千鶴は思わず神輿の声に耳を澄ませた。まるで、あの時に戻ったみたいだ。今もすぐそこに進之丞がいるように思えて胸が苦しくなった。
二年前のこの日、そう、まさに今日だった。源次たちに襲われた千鶴を、突然現れた進之丞が救ってくれた。進之丞はその前の日から千鶴のことを見守ってくれていたのだ。
千鶴が石段の上に立ち尽くして泣いている間、スタニスラフは祭りの声に耳を傾ける余裕もなく、急いで石段を下りた。しかしあまりに急ごうとしたため、危うく足を踏み外しそうになって声を上げた。そのせいで追憶は中断され、千鶴は現実に引き戻された。
気をつけてと千鶴に言われても、知らぬ顔で先に下りたスタニスラフは、ゆっくり下りて来る千鶴に早く下りろと怒鳴った。自分が転げ落ちそうになったくせに、千鶴が転ぶかもしれないなどこれっぽっちも考えていない。
松山に着いてから結婚は取り止めると言うつもりだったが、スタニスラフの横暴な態度が腹に据えかねた千鶴は、石段を下りきったところでスタニスラフに言った。
「あとで言うつもりやったけんど、もう我慢できんけん、ここで言わせてもらうぞなもし。うちはあんたと結婚なんかせんけん。結婚は取り止めます。あんたみたいな自分勝手で礼儀知らずで思いやりのない人なんかとは、絶対一緒になったりせんけん!」
こんな時にそんなことを言うのかと言わんばかりに、スタニスラフは顔をゆがめた。それでもまだ千鶴が本気で言っているとは思っていないらしい。また千鶴が怒りを爆発させたところで、時間が経てばすぐに怒りは収まると考えているだろう。
スタニスラフは自分の態度を詫びながらも時間がないことを強調した。千鶴がこんな強気でいられるのも今だけで、結婚してアメリカへ行きさえすれば、自分に従わざるを得ないと思っているに違いない。
実際、いつまで進之丞のことを覚えているかはわからない。またすぐに忘れてしまい、松山で祝言の準備を迫られたら断りきれない可能性はある。進之丞を忘れても忠之がいればスタニスラフを退けられるが、自分一人だけでそうできる自信はない。進之丞を覚えている今のうちにスタニスラフをあきらめさせたいが、簡単にはいかないようだ。
千鶴はスタニスラフに背を向けると、海の方を見た。この先には野菊の群生地がある。そこは進之丞との想い出の場所であり、進之丞と死に別れた場所でもあった。千鶴はそこで進之丞と最後の別れの挨拶がしたかった。それができるのは今しかない。
千鶴がそちらへ向かおうとすると、スタニスラフがついて来ようとした。
「ついて来んで!」
千鶴は声を荒らげて叫んだ。今度ばかりは絶対にスタニスラフに邪魔はさせない。それでもスタニスラフが来ようとすると、千鶴はスタニスラフをにらみつけた。
「ほれ以上ついて来たら、鬼に殺されるで!」
思わず出た言葉だったが効果はてきめんだ。スタニスラフは顔を強張らせている。
「悪魔ヴァ、死ニマシタ」
「あれは嘘じゃ! あんたがしつこいけん、死んだて言うたんよ」
スタニスラフは言葉が出せず、固まったように動かない。千鶴は構わず背を向けると、野菊の群生地へ走った。以前は毎日訪れていたのに、スタニスラフが来てからは足を運ばなくなっていた。胸の中は後悔だらけで、千鶴はあふれる涙を拭きながら、松原の手前にあるその場所に来た。
そこには見事な野菊の群生が広がり、愛らしい花が一面に咲き誇っていた。その花たちの前に誰かが立っている。その誰かが千鶴に気づいて振り返った。身に着けているのはあの継ぎはぎの着物だ。手には一輪の野菊の花を持っている。
「進さん?」
思わず駆け寄ると、立っていたのは進之丞ではなく忠之だった。行方がわからなかった忠之は、こんな所にいたのだ。
近くで見ると、顔や手や脛が泥で汚れた上に傷がある。恐らく石段から転げ落ちたのだろう。流れ出た血はまだ固まりきっておらず、継ぎはぎの着物も泥だらけだ。
千鶴は涙ぐみながら忠之の傷を確かめ、寺へ連れ戻ろうとした。スタニスラフが許さなくても、忠之を放っておくことなど絶対にできなかった。
忠之は大丈夫だと言うと、千鶴を見つめて微笑んだ。
「千鶴さん、いよいよお行きんさるんじゃな。おめでとな。おら、千鶴さんにお祝いしたかったけんど何もあげる物がないけん、せめてこれをと思て、ここで待ちよったんよ」
忠之は戸惑う千鶴の髪に、手に持っていた花を飾ってくれた。
「うん、きれいじゃ。千鶴さんには、この花が一番似合うぞな。こがぁして見よったら、千鶴さん、花の神さまみたいじゃな」
え?――驚く千鶴に忠之は微笑みながら言った。
「千鶴さんは誰より優しいお人じゃし、まっこと誰よりきれいじゃけん、絶対幸せになれるぞな」
「なして、ほの言葉を?」
「ほの言葉? ほの言葉て?」
「うちのこと、花の神さまとか、優しゅうてきれいじゃて……」
忠之は照れながら頭を掻いた。
「ほれは……、ほやかて、そがぁ思たけん言うたぎりなけんど、おら、またいらんこと言うてしもたろか? 気ぃ悪したんなら謝るぞなもし」
うろたえる忠之は進之丞そのものだ。それに、今の言葉は進之丞の言葉だ。まるで忠之の心の奥に進之丞が隠れていて、忠之を通して喋っているみたいだ。
そう感じた千鶴は、まさか?――と思った。
金色の霧になった進之丞は、鬼の一部だった者たちが行くべき所へ行けるようになったと言った。そして、自身のことは過ぎ去りし記憶、過去の幻影だと表現したのである。
知念和尚は、進之丞は誰かとして生まれ変わったのだと言った。その誰かは赤ん坊だと思っていたが、そうではなかったのか。
千鶴は忠之をじっと見た。忠之は狼狽した様子で、どうしたのかと言った。千鶴は忠之を見つめながら考え続けた。
自身が鬼であることを明かした進之丞は、忠之に取り憑いてその心を喰ったと言った。けれど、進之丞自身には忠之を喰った覚えはなかった。結果的に喰ってしまったと受け止めていただけだ。だから、本当にそうだったとは言い切れない。
前世の自分が隠れた時、今の自分はこの二年の記憶のほとんどを失ってしまう。それは忠之の状態と似ているが、似ているというより同じなのではないのか。
忠之の心から進之丞が離れたために、忠之は二年の間のことがわからない。そして自分も前世の自分が離れると、同じ状態になってしまう。
だが前世の自分は完全に消えたわけではない。時折、後ろからこっそり姿を見せる。そんな時には、さっきの墓石を見た時の涙のように思いがけないことが起こる。
――もし……、もし佐伯さんがうちと対じゃとしたら、佐伯さんが進さんそっくりの言動を見せんさるんは……。
忠之を見つめる千鶴の目に涙が滲んだ。
「ほうやったんじゃね……。ほういうことやったんじゃね……」
忠之がうろたえると、千鶴は目を伏せ泣きそうな声でつぶやいた。
「うちは抜け作じゃった……。まっこと抜け作じゃった……」
「千鶴さん? 大丈夫かな?」
忠之は千鶴の顔を心配そうにのぞき込んだ。だがこぼれる千鶴の涙を見ると、忠之はまたうろたえた。
進之丞は自分と忠之の心が対だったと言った。まさにその言葉どおりであったなら、進之丞がどこへ行ったのか、その答えは明らかだ。進之丞が自身を過ぎ去りし記憶、過去の幻影と表現したのは、そういう意味だったのだ。心の赴くままに生きよという言葉も、進之丞は自分の居場所を伝えようとしていたのに違いない。
進之丞の声が聞こえてくる。
――千鶴、今を生きよ。今にこそ、お前の真の幸せが隠されておる。本来、お前に用意されておった幸せがな。
どこへ進之丞は行ったのか、どこが進之丞の居場所なのか、千鶴はついに悟った。何故忠之に心を奪われたのか。その理由がここにあった。
思い返せば、知念和尚も教えてくれたように、忠之という諱こそが進之丞の本当の名なのだ。進之丞という名にこだわっていたばかりに諱の意味が頭に浮かばなかった。今の自分が前世と同じ千鶴という名前であるがごとく、忠之という名が何を示していたかはわかっていたはずだったのに。
それに忠之の右腰にある赤痣は生まれつきだ。あれが前世の傷であるならば、佐伯忠之が何者なのかは明白だ。
「千鶴さん、そろそろ行かんと、あのお人が待ちよらい」
忠之は落ち着きのない様子で、石段の近くで待っているスタニスラフの方を見た。
千鶴は構わず忠之の手を握った。忠之は驚いたが、黙って千鶴に手を握らせた。懐かしい温もりが、手を通して千鶴の中に流れ込んで来る。
どうして、この温もりに気がつかなかったのだろう? この温もりは初めからあったに違いない。
千鶴は悲しくなった。きっと忠之を拒む気持ちが気づかせなかったのだ。ずっと傍にあったこの温もりを、何度も感じていたはずなのに……。
持っていた手荷物を落とすと、千鶴は忠之を抱きしめた。忠之は大いに慌てたが、すぐに千鶴をそっと抱き返した。
千鶴の体が、心が、忠之の温もりに包まれる。時を超えたあの懐かしい温もりだ。
この温もりは、きっと忠之も感じていただろう。なのに自分を殺して、ずっと千鶴のことだけを考えてくれていたのか。
千鶴は涙が止まらなかった。忠之を抱きながら声を上げて泣いた。
忠之はもう慌てることはせず、千鶴を抱きながら優しく慰めた。
「千鶴さん、もう泣かんのよ。千鶴さんに泣かれたら、おら、困ってしまわい」
泣きじゃくる千鶴の耳元で、忠之も涙ぐみながら囁いた。
「千鶴さん、今までほんまにありがとう。おら、お不動さまに千鶴さんのこと、お願いしといたけんな。ほじゃけん、千鶴さん、絶対幸せになれるぞな」
後ろの方でスタニスラフが喚いてる。だけど千鶴の耳にスタニスラフの声は聞こえない。聞こえているのは、千鶴に呼びかける忠之と進之丞の声だけだ。
また、千鶴の濡れた目に映っているのは、忠之の優しい笑顔と、そよ風に揺れる野菊の花たちだけだった。
(了)