> 松山の商店街 その1

松山の商店街 その1

松山市の中心には、銀天街、大街道と呼ばれる二つの大きな商店街があります。

銀天街は東西に、大街道は南北に走る通りで、二つが繋がることで、全体的にはL字型の商店街になっています。

ちなみに、銀天街というのは湊町商店街のことで、昭和28年に全国に先駆けて作られたアーケードが銀色だったので、この名前で呼ばれるようになったそうです。

千鶴が春子と商店街を散策したのは、大正末期のことです。
この頃は今のようなアーケードはありませんでした。

また、現在それぞれの商店街入り口にある、伊予鉄高島屋や三越などのデパートもありません。

それでも、これらの商店街には多くの人が集い、賑わっていたようです。

湊町商店街の入り口には、伊予鉄道の松山駅(現松山市駅)がありました。

電車の駅が近くにあったということは、商店街が賑わう大きな理由だったと思います。

※千鶴が暮らした頃の伊予鉄道松山駅。この奥が湊町商店街入り口です。

千鶴と春子が訪れたのは、伊予鉄道松山駅の向かいにある善勝寺です。
お目当ては境内で売られている、ひぎりまんぢうです。

※善勝寺の山門。向こうに本堂の屋根が見えます。
※善勝寺(おひぎりさん)
※学生さんと鳩は関係ありません。奥にあるのが、ひぎりまんぢうのお店です。

ひぎりまんぢうを食べたあと、千鶴と春子は商店街を散策します。
まず入ったのが、湊町商店街です。

※上から眺めた湊町商店街です。ずっと向こうの方まで続いています。
※明治時代の湊町商店街。
※大正時代の湊町商店街。
※昭和12年の湊町商店街。
※昭和12年の湊町商店街。

写真は明治から昭和初期にかけての湊町商店街です。

時代は変わっても、雰囲気は似ているように思います。

紙屋町の辺りに、大丸百貨店や勧商場が造られた影響でしょうか。

大正の中頃の呉服店でも、ショーウィンドウで品を展示して、まだ注文をする前の客に、自慢の品を見せるようになりました。

※湊町商店街の米周呉服店。
※米周呉服店のショーウィンドウ。
※湊町商店街の小倉薬局。
※湊町商店街の相原菓子店。

日露戦争で松山に多くのロシア捕虜兵が暮らした頃、湊町商店街はロシア兵たちによって、大いに潤ったそうです。

洋菓子や洋食の店も始まり、露西亜ろしあ町とも呼ばれていました。

※湊町を訪れたロシア兵たち
※これは湊町ではありませんが、このようなロシア語の看板の店もありました。

湊町商店街と大街道商店街の接点の辺りは、魚の棚と呼ばれていました。

名前のとおり魚屋が多かったそうですが、明治の中頃から、商店街の接点になる交差点より南側50メートルほどに、トタン屋根が並び、その下に魚屋の他に、天婦羅屋や甘酒屋、氷屋、餅団子屋、菓子屋などが店を出したと言います。

また接点の交差点より北側、すなわち大街道商店街に入った辺りには、乾物屋、蒲鉾屋、漬物屋などの店があったそうです。

※湊町商店街の端、つまり魚の棚の交差点にある神谷呉服店。

魚の棚の北端、大街道商店街入り口辺りの右手には、木造三階建ての大きなうどん屋がありました。

うどん亀屋という有名なお店で、地元の人に親しまれていただけでなく、外から松山を訪れた人が必ず立ち寄るというお店だったそうです。

※うどん亀屋。大街道側から見た写真です。

大正時代のうどんは三銭で、しっぽくうどんが十銭だったそうです。
今で言えば、うどん300円、しっぽくうどん1000円というところでしょうか。

魚の棚から大街道商店街に入ると、すぐ左手に同じようなうどん屋があります。

おふくといううどん屋で、こちらも木造三階建ての大きなお店です。
写真を見ると、蕎麦も売っていたようですね。

※うどん屋おふく。写真の奥が魚の棚方面です。