死んだイノシシ
一
夜明けの神輿の宮出しを見たあと、千鶴たちが法生寺に戻って来ると、安子が朝飯を用意してくれていた。
箱膳に並べられているのは、粥と味噌汁、漬け物とかぼちゃの煮物、それに温かい湯豆腐だ。
千鶴の家では朝飯と言えば、粥と味噌汁と漬物だけだ。そこにかぼちゃの煮物と湯豆腐が添えられているのは、驚くほど豪華な朝飯である。
朝飯の事情は春子も似たようなものらしく、用意された箱膳を見るなり、うわぁと大きな声を上げた。
この季節、昼間はまだ温かいが、夜明け前は結構冷える。温かい食事は本当に有り難いし、それを用意してくれた者の温かさも有り難く思える。
千鶴たちが箱膳の前に座ると、知念和尚と安子はにこにこしながら、祭りはどうだったかと訊ねた。和尚も安子も先に食事を済ませており、食べるのは千鶴と春子だけだ。
「やっぱし地元の祭りはええぞな。女子師範学校に入ってから、ずっと見られんかったけん、今日はまっこと感動したぞなもし」
春子は興奮しながら喋ると、その勢いのまま味噌汁を飲もうとした。しかし味噌汁が熱かったので、慌てて椀から口を離した。
春子の様子に笑った和尚と安子は、今度は千鶴に感想を訊いた。
千鶴は、お忍びの渡御とは違う素晴らしさがあったと答え、とても賑やかで楽しかったと言った。
喋っている間、千鶴はできるだけ笑顔を繕ったつもりだった。それでも、やはり表情が硬くなったかもしれないと千鶴は思った。
鬼の夢を見たことや、自分が村人たちから化け物のように見られているかもしれないという想い、それに、ほとんど眠れなかったことが、千鶴から元気を奪っていた。
確かに今朝の宮出しでは、昨夜より多くの屋台が見られた。それが素晴らしいのは事実である。しかし、千鶴にはそれに感動している余裕はなかった。頭の中は、自分は化け物なのだろうかという想いで一杯だった。
鬼の夢を見ただけのことで、そこまで思い詰める必要はないのかもしれない。いや、普通はそう考えるだろう。しかし地獄を訪れた夢の感覚や感情は、今でも現実のもののように千鶴の中に残っている。そのことがずっと千鶴を思い悩ませていた。
あの夢は今の暮らしの中のものではないが、あれが本当のことだったとするならば、きっと生まれて来る前のことに違いない。それは自分の本性が鬼だということである。そう考えると、千鶴は自分が恐ろしくて仕方がなかった。
千鶴の気持ちに気づいていないのか、知念和尚は千鶴の感想にうなずいて言った。
「昔は、わしらも宮出しを見に行きよった。ほんでも、やっぱし寺の仕事があるけんな。ほれで、見に行くんはやめたんよ」
「ほの頃の仕事言うたら、寝ることじゃろがね」
安子に笑われると、和尚も恥ずかしそうに笑った。それに合わせて千鶴たちも笑ったが、千鶴の笑いは形だけのものだった。
「松山のお祭りにはおらんかったけん、大魔は珍しかろ?」
口の中のかぼちゃをもごもごさせながら、春子が得意そうに言った。
大魔というのは、神輿の露払い役として、神輿の先を歩く二匹の鬼のことだ。
あれは初めて見たと千鶴がうなずくと、ほうじゃろほうじゃろと春子は嬉しそうに笑った。
「ほんでも、山﨑さん。大魔見よる時に顔引きつらせよったね。あれ、そがぁに怖かった?」
「ほやかて、初めて見たけん」
千鶴は小さな声で言葉を濁した。春子は笑いながら、粥を口の中に流し込んだ。
初めて大魔を見た時、千鶴はぎょっとした。まるで自分の正体を突きつけられているようで、その場から逃げ出したくなった。しかし、逃げ出すわけにもいかず、必死に恐ろしさをこらえていたのである。
春子によれば、大魔の役目は誰でもできるわけではなく、特別な地域の者だけに与えられた栄誉らしい。
その昔、風寄がひどい洪水に襲われたことがあり、その時に神社のご神体が海に流されたのだと言う。
夢のお告げでご神体が沈んだ場所を知った村人は、舟で海に出たものの、ご神体の引き揚げ作業は難航した。
そこへ海に釣りに出ていた若者二人が力を貸すと、見事ご神体は引き揚げられ、神さまは大いに喜ばれた。そして、神輿が出る時の露払いの役目を、その若者たちに与えたという話である。
鬼の姿をしているのは、大いなる力の化身ということらしい。姿は恐ろしくても、神に従う鬼ほど心強いものはないだろう。
しかし、千鶴が見た鬼は地獄にいた。そこは神から見捨てられた所であり、鬼は神とは正反対の存在なのだ。またそれは、その鬼を慕う気持ちがある自分も、神とは正反対の存在ということである。
春子の大魔の説明で、千鶴はますます追い詰められた気分になった。
火鉢で湧かしたお湯で、和尚と自分のお茶を淹れた安子は、食事を続ける千鶴の様子を見ながら言った。
「千鶴ちゃん、何や元気ないみたいなけんど、また何ぞ嫌なことでもあったんやないん?」
安子に訊かれ、千鶴は慌てて首を横に振った。
「別に何もないですけん」
「何か怪しいねぇ。ほら、正直に言うとうみ。何でも一人で抱え込むんはようないけん」
安子には見透かされていたようだ。千鶴が下を向くと、知念和尚も、やっぱしほうなんか――と言った。
「何や元気ないなとは思いよったんやが、やっぱし何ぞあったんやな。安子の言うとおり、一人で悩みよっても仕方ないぞな。わしらでよかったら話聞いてあげるけん、何でも言うとみなさいや」
春子が食べるのも忘れて心配そうな顔をしている。
千鶴は覚悟を決めた。
「あの、もし知っておいでたら、教えて欲しいんですけんど」
「知っとることなら、何でも話してあげよわい」
知念和尚は身構えたように腕を組んだ。
「がんごめって何のことでしょうか」
春子は驚いたような顔をしたあと、しょんぼり目を伏せた。
「がんごめ? その言葉がどがいしたんぞな?」
和尚は初めて聞いた言葉だと言うような顔を見せた。だが、安子は少し不安げに見える。
「村上さんの家で子供らがうちを見て、がんごめじゃて言うたんです。でも、その意味がわからんけん、何のことかて村上さんに訊いたんですけんど、村上さんも知らんみたいなけん」
ふむと和尚はうなずきながら、横目でちらりと春子を見た。春子は下を向いたままだ。
「子供がふざけて言うたことじゃろけん、そがいに気にせいでもええんやない?」
安子が慰めるように言った。千鶴は首を振ると、ほやない思うんですと言った。
「がんごめやなんて、子供が勝手に作った言葉とは思えません。子供は誰ぞの真似するもんですけん、大人が使た言葉や思うんです」
「ほらまぁ、ほうかもしらんけんど……」
言葉を引っ込めた安子と、黙っている和尚を見比べながら、千鶴は自分の考えを述べた。
「鬼のこと『がんご』言いますけん、がんごめは鬼と関係した言葉や思うんです。ほれに醜女の『め』は『女』て書きますけん、『がんごめ』の『め』も『女』じゃとしたら、『がんごめ』は……」
「鬼女やて思いんさったんか?」
千鶴はこくりとうなずいた。春子はますます項垂れて泣きそうな顔になっている。
「うち、思たんです。うちが村上さんの家飛び出したんは、村上さんのひぃおばあちゃんに、がんごめて言われたんやないかて。ほれで、他の人らも同し目でうちのこと見よるんやないかて……」
「そげなことない!」
春子が涙ぐんだ顔を上げて叫んだ。
「山﨑さん、絶対そげなことないけん! ヨネばあちゃん、惚けてしもとるんよ。他の者は誰っちゃそがぁなこと思とらんけん!」
知念和尚は微笑みながら千鶴に優しく言った。
「春ちゃんの言うとおりぞな。千鶴ちゃんみたいな別嬪さん、誰ががんごめやなんて言うんぞ。そげな者、どこっちゃおらんぞな」
安子も笑顔を見せて明るく言った。
「な、わかったじゃろ? ほやけんな、千鶴ちゃん、もう、そげなことは気にせんの。そもそも千鶴ちゃんには、お不動さまがついておいでるんじゃけんね」
代わる代わる慰められ、千鶴はわかりましたと言った。
「もう言いません。ほんでも、もう一つぎり知りたいことがあるんです」
「何ぞな。何でも言うとうみ」
知念和尚が応じたが、千鶴は春子に訊ねた。
「村上さん。ひぃおばあちゃん、なしてうち見て、がんごめ言うたんかわかる?」
「な、なしてて……」
「みんながうちのことを、がんごめじゃて思わんのなら、なしてひぃおばあちゃんぎり、うちをがんごめ言うたんじゃろか?」
「ヨネばあちゃん、惚けとるぎりじゃけん。そげなこと、そがぁ真面目に考えんでもええやんか」
春子は答えたくないようだった。と言うことは、春子は理由を知っているのだろう。
「和尚さんたちはわかりますか?」
千鶴は、知念和尚と安子に顔を向けた。
安子が当惑したように和尚を見ると、和尚は春子に声をかけた。
「春ちゃん、もう、千鶴ちゃんに話してやっても構んじゃろ? 千鶴ちゃんは頭のええ子ぞな。隠したかて疑いはますます膨らもう。ほんで、いずれ春ちゃんに不信感を持つようになるぞな。ほんでも春ちゃんはええんか?」
春子が首を横に振ると、ほうじゃろ?――と和尚は言った。
「ほんなら、わしから千鶴ちゃんに話そわい。ええな?」
春子は黙ってうなずいた。
知念和尚は千鶴に向き直ると、今から二月ほど前の話ぞな――と言った。
「台風が来よった時があったじゃろ? あん時にな、そこの浜辺にあったこんまい祠がめげてしもたんよ。ほれからなんじゃな、おヨネさんが妙なこと言い出したんは」
二
法生寺の近くの浜辺には、村人たちに忘れ去られた小さな祠があった。その祠はヨネが一人で世話をしていたのだと言う。
そのヨネが足腰が弱くなったため、数年前からはイネやマツが祠の世話をしていたそうだ。しかし、そこにどんな神さまが祀られているのか、ヨネは誰にも教えていなかったらしい。
知念和尚が言った台風が来たのは、今年の八月のことだ。その時に松山はかなり荒れたが、風寄も激しい風雨に曝された。
台風が去った翌日、イネが祠を見に行くと、祠はばらばらに壊れていた。長年の風雨でかなり傷んでいたので、とうとう壊れてしまったかという感じだった。周囲の木々も折れていたので、傷んだ祠が壊れるのは当然でもあった。
ところが、その話を耳にしたヨネは狂ったように騒ぎ始めた。鬼が来て村が滅びると言うのである。
何を言っているのかと家族に問い詰められ、ようやくヨネは、あの祠が鬼から村を護る鬼除けの祠だったと話した。
何故今まで黙っていたのかと訊かれると、鬼除けの祠の世話をしているのが知れると、鬼に殺されるからだと言った。祠の世話をする者が死ねば、いずれ祠は壊れてしまい、鬼にとっては好都合になるらしい。
ヨネによれば、ヨネがまだ幼かった頃、村にはがんごめが棲んでいたのだと言う。
がんごめは雪のように白い若い娘の姿をした鬼で、法生寺にいたらしい。ヨネの家は法生寺の近くにあったので、ヨネは時々がんごめを見たそうだ。
ただ、いつからがんごめが法生寺に棲みついたのかは、ヨネは知らなかった。
「このお寺に、がんごめがおったんですか?」
驚いた千鶴に、和尚は困ったように言った。
「村長からもそげなこと訊かれたんやがな。わしらは途中からこの寺に来たけん、そげな昔のことは何も知らんのよ」
和尚に続いて、安子が言った。
「昔、この寺で火事があってな。本堂は無事やったんじゃけんど、庫裏が焼けてしもて、ほん時に書き物が全部焼けてしもたんよ。ここのご住職も、ほん時に亡くなってしもたけん、昔のことはようわからんのよ」
明治が始まるより前に、風寄である事件があったと言う。その時に法生寺の庫裏が焼け、当時の住職が亡くなったらしい。
その事件絡みで風寄の代官とその息子も亡くなったそうで、法生寺の住職が亡くなったあとは、代官の妻が尼になり、庫裏の焼け跡に小さな庵を建てて夫と息子を弔い続けたらしい。
その尼が亡くなると、法生寺は遠く離れた別の寺の住職が、掛け持ちで管理をすることになった。
掛け持ちの住職二人を経たあと、明治の末頃にようやく庫裏が再建され、そこへ入ったのが知念和尚だった。
知念和尚は二人目の掛け持ち住職からこの寺を引き継いだが、その住職もその前の住職もこの土地の者ではなく、普段はほとんどこちらにいなかった。
また、初めの掛け持ち住職が風寄を訪れたのは、代官の妻であった尼が亡くなってからのことなので、庫裏が焼ける前のことは全くと言っていいほど何も知らなかったらしい。
鬼やがんごめの話も、その住職たちの口から聞かされることはなかったと知念和尚は言った。
ただ、その住職たちが伝え聞いた話によれば、庫裏が焼ける少し前に、この寺に不埒な侍たちが集まって狼藉を企てていたらしい。
代官を殺したのはその侍たちのようで、寺へ押し寄せた村人たちとも争い、多くの村人が命を失ったそうだ。
その時の争いで庫裏は焼け、当時の住職もその時に命を落としたと言う。また、同じ時に代官屋敷も焼けたということだった。
法生寺の庫裏と代官屋敷が燃えたことは、村長も知っていた。また、その事件に悪い侍の集団が関わっていたことも、村長はわかっていた。
一方、ヨネも燃える庫裏と代官屋敷を、自分の目で見たと話したらしい。その上で鬼やがんごめのことを言うので、村長はとても困惑したようだった。
「おヨネさんほど長生きしておいでる者は、この村にはおらんけんな。がんごめの話がほんまじゃったかどうか、確かめようがないんよ」
知念和尚が当惑気味に言った。
「ほんでも、ほんまにがんごめがおったんなら、どっかにそげらしい話話が伝わっとってもええ思うんですけんど」
千鶴の言葉に和尚は、ほうなんやがな――と言った。
「村長ですら知らんのじゃけん、期待はできんぞな。ほれでこの話はな、村上家とわしらぎりの話いうことになったんよ。おヨネさんが妙なこと言い出したて、噂が広まったら村長も困るけんな」
千鶴は春子に改めて訊ねた。
「村上さんはひぃおばあちゃんの話、知っとったんじゃね?」
春子は小さくうなずき、千鶴の言葉を認めた。
「こないだのお盆に戻んて来た時、そげなことがあったて聞いたんよ。ほやけど、まさかヨネばあちゃんが山﨑さん見て、がんごめ言うとは思わなんだんよ」
「ほれはほうじゃな。そげなこと誰も思うまい」
知念和尚が春子を慰めるように言った。
千鶴は和尚たちの話を整理しようと思ったが、さっぱりわけがわからなかった。
鬼がいたのか、いなかったのか。ヨネの話は正しいのか、間違いなのか。そもそも鬼除けの祠が造られた理由は何なのか。鬼がいたからではないのだろうか。
千鶴がそのことを訊ねると、ヨネの父親が鬼を見たらしいと知念和尚は言った。祠も大工仕事をしていたヨネの父親が造ったのだと言う。
と言うことは、やはりがんごめは実在したということなのか。
「ちぃと信じがたい話なけんど、鬼はそこの浜辺でようけの侍を殺しよったそうな。ほんで、沖には見たこともないような、真っ黒ででっかい船が浮かんどったんじゃと」
鬼は本当にいた。千鶴は驚きで言葉を失いそうになった。だが、これはヨネが直接見た話ではない。幼いヨネが父親の言葉を聞き間違えた可能性はある。
それでもヨネの父親が鬼除けの祠を造ったのは事実である。千鶴の気持ちは不安の波で大きく揺れていた。
「ところで、がんごめはここで何をしよったんですか?」
気を取り直した千鶴はみんなの顔を見回した。しかし、春子が黙っているので、知念和尚が口を開いた。
「おヨネさんが言うにはな、村に禍呼んで、村の者の命を奪ったらしいぞな」
「禍?」
「たとえば、大雨降らして川の水あふれさせたり、悪い病流行らせたりするんよ。ほんで、亡くなった人の墓をな、あとで掘り返して屍肉を喰ろうたそうな。特に子供の屍肉を好んだらしいわい」
和尚は千鶴を見つめて言った。何だか心が見透かされているようで、千鶴は目を伏せた。心の内のことは、誰にも知られたくなかった。あの恐ろしい地獄の風景が目に浮かんでいる。
三
――子供を返せ! お前が喰ろうた、おらの子供を返せ!
屍の女が焦点の合わない目でにらんでいる。
子供の屍肉を喰ったような気がして、千鶴は手で口を押さえた。
腹の中の物が込み上げそうになるのを必死でこらえていると、春子が心配そうに、大丈夫かと声をかけた。
安子は和尚をにらんで叱りつけた。
「人が飯食うとる時に、そげなこと言うたらいけんでしょうが」
知念和尚は頭を掻くと、千鶴に詫びた。
「悪かったぞな。もう、この話はおしまいにしよわい」
いえ――と千鶴は口を押さえながら言うと、大きく息を吸ったり吐いたりした。それからお茶を一口飲むと、ふうと息を吐いた。
「もう、大丈夫ですけん。今の話ですけんど、がんごめがそげな悪さするんがわかっとるんなら、なして村の人らは黙っとったんですか? ほれに、ここにおいでたご住職も、なしてがんごめがお寺に棲むんを許しんさったんでしょうか?」
今度は春子が答えた。
「がんごめはな、人の心を操ることができたんじゃと。ほれで、ここのお坊さまやお代官を味方につけて、我が身を護ったそうな」
何だか話がややこしい。千鶴は頭の中を整理しながら喋った。
「じゃったら、ここにおったいう悪いお侍は、ここでがんごめと争うたんじゃろか? ほのお侍らがお代官やご住職を殺めたいうことは、がんごめの敵いうことになろ?」
ほうならいねぇと春子はうなずいた。
「普段はおらんのがいきなし来たんなら、がんごめもたまげた思うで。しかも、相手は刀持ったお侍やけんな。ほんで、そこの浜辺で悪者同士で争うことになって、ほれをヨネばあちゃんのお父ちゃんが見んさったんよ。絶対にほうやで」
そう言ってから、春子は慌てて自分の言葉を否定した。
「言うとくけんど、これはヨネばあちゃんの話がほんまのことと仮定しての憶測なで。ほじゃけん、山﨑さん、本気で聞いたらいけんよ」
うなずきはしたものの、春子の説明で千鶴は話の整理がついたように思えた。
やはり、がんごめや鬼は実在したのである。そのことは、自分もがんごめかもしれないという千鶴の不安を膨らませた。
千鶴の表情を見たのか、安子が明るい声で言った。
「二人とも箸が止まっとるよ。この話はおしまいにして早よ食べてしまわんと、すぐにお昼になってしまうぞな」
千鶴と春子は急いで箸を動かし始めた。しかし、千鶴はまた箸を止め、あと一つぎり――と言った。
「結局、がんごめと鬼はどがぁなったんぞなもし?」
「庫裏が焼けてからは、がんごめはぱったり姿を消したそうな」
知念和尚が言った。
「鬼の方は?」
「おヨネさんの父親が他の者を呼んで戻んた時には、もう鬼は姿を消しとったんじゃと。ほん時に沖へ去った黒い船が見えたそうで、鬼もがんごめもその船で逃げたと、おヨネさんの父親は思たらしいぞな」
「ほれで浜辺に鬼除けの祠をこさえんさったんですね?」
「ほういうことらしいわい」
話の辻褄は合っている。だが、鬼が本当にいたという確かな証拠が千鶴は欲しかった。
「鬼がお侍と戦うた話がほんまなら、浜辺に争いの跡が残っとったんやないんですか? たとえば大けな足跡があったとか」
「足跡のことはわからんけんど、浜辺にはな、殺された侍連中の死骸が――」
知念和尚はそこで言葉を切ると、安子の顔を見た。安子は自分で考えなさいと言いたげな惚けた顔をしている。
「大丈夫ですけん。続けてつかぁさい」
千鶴が言うと、和尚はちらりと安子を見てから話を続けた。
「実際、浜辺に侍連中の死骸がごろごろあったらしいぞな」
「じゃあ、ほんまに鬼とお侍が?」
「ただな、前のご住職から聞いた話では、侍連中と戦うたんは、恐らく代官の息子やいうことぞな」
「お代官の息子? 鬼やのうて?」
うなずく和尚に、たった一人でかと春子が訊ねた。
ほうよと和尚が言うと、春子はヨネの言い分も忘れたように、目を丸くした。
「こがぁな田舎におったにしては、相当な剣の腕前やったみたいぞな。浜辺にあった死骸は、どれも一刀のもとに斬り殺されとったそうな。ほれと、浜辺に代官の息子の刀が落ちとったそうでな。ほれで、誰ぞが見たいうんやないんやが、多分代官の息子がやったんじゃろという話ぞな」
「そのお人にとっては、相手は憎き父の仇やけんね。命を懸けて戦いんさったんじゃろねぇ」
安子がうなずきながら言った。
たった一人で何人もの侍を相手に戦う代官の息子。その様子を思い浮かべようとした千鶴の目に、何故か一瞬、それらしき場面がはっきりと見えた。
刀を抜いた一人の若い侍が、千鶴に背を向けて立っている。向こうを向いてはいるが、あの若侍だと千鶴は直感した。
場所は浜辺で、刀を持って身構えるその姿は満身創痍のように見えた。その向こうから大勢の侍たちが刀を抜いて走って来る。
ほんの一瞬の映像だが、千鶴には侍たちの狙いが若侍ではなく、自分であるように思えた。若侍は千鶴を護るために、ただ一人侍たちの前に立ちはだかっていた。
すぐに現実に引き戻された千鶴の隣では、春子が興奮した様子で喋っている。
「たった一人で戦うやなんて活動写真の主人公みたいぞな。そがぁながいなお人がおったやなんて信じられん」
まったくぞなと知念和尚がうなずいた。
「恐らく、父親の代官がかなりの腕前やったんじゃろなぁ。ほうでなかったら、こがぁな田舎で剣術の達人になれまい」
「ほんでも、お父ちゃんの方は悪いお侍らに殺されてしもたんですよね?」
「多分、不意を突かれたんやなかろか。でなければ、そがぁ簡単には殺されまいに」
和尚の話に納得する春子を横目に見ながら、千鶴は和尚に怖々訊ねた。
「ほのお代官の息子さんのことは、何もわからんのですか?」
ほうなんよ――と和尚は言った。
「ずっと行方知れずでな。代官の息子がどがぁなったんか、誰もわからんかったそうな。ほんでも、浜辺には刀の他に、ずたずたにされた血だらけの着物が残されとったそうでな。最後には力尽きて海に流されてしもたんじゃろという話ぞな」
千鶴は泣きそうになった。自分を護ろうとして、あの若侍が死んだのだと思えてならなかった。
「千鶴ちゃん、大丈夫?」
涙ぐむ千鶴に気づいた安子が、心配そうに声をかけた。
「大丈夫です。ただ、ほのお代官の息子さんがお気の毒で……」
千鶴は懐紙を取り出して涙を拭いた。
「まこと千鶴ちゃんは優しいわいねぇ」
安子は千鶴を見ながら微笑んだ。
春子ははしゃぐのをやめて、ほんでも――と遠慮がちに言った。
「お侍らと戦うたんが、鬼にしてもお代官の息子にしても、もうちぃと見た者がおってもよさそうやのにね」
「恐らく、代官屋敷が燃えたけん、みんなそっちの方に気を取られよったんじゃろな。ほれに、代官が殺されたいう話もあったけん、浜辺の様子を見よる暇なんぞなかったんやないかな」
鬼がいた証拠に鬼除けの祠があるし、代官の息子がいた証拠に刀と着物が落ちていた。
いったいどっちが本当なのかはわからない。だが、一瞬の幻を見た千鶴には、少なくとも代官の息子が侍たちと戦ったことは、間違いないように思えていた。
気持ちが沈んだままの千鶴に、知念和尚は言った。
「とにかく代官は殺され、その息子も死んだと見なされたんじゃろな。代官の妻は髪を下ろして尼になり、ここで生涯夫と息子を弔い続けたそうな」
「ここは元々お代官の家の菩提寺やったんかなもし?」
春子が訊ねると、そうではないと知念和尚は言った。
「恐らく代官の菩提寺は松山にあろ。けんど、そっちでは弔わんでこっちに墓を建てたんよ」
「なしてぞな?」
それは恐らく息子のためだろうと思うと和尚は言った。
「ここにはな、代官の墓と尼になった代官の妻の墓はあるんよ。けんど、息子の墓はどこにもないんよ」
春子は意外そうに千鶴を見た。なしてないんぞな?――と千鶴は思わず声を上げた。千鶴にとっては、あの若侍の墓がないと言われたようなものだった。
それについて和尚は、どうしてなのかはわからないと言った。
代官の妻が暮らしたという庵は、この庫裏が新たに建てられる時に取り壊されたと言う。そこに記録が残っていたのかどうかは定かではないらしい。
「喧嘩両成敗て言うけんな。相手がふっかけて来た争い事でも、斬り合いになってしもたら双方が咎めを喰うんよ。しかも、代官の息子が斬り殺したんは一人や二人やないけんな」
知念和尚が話すと、安子も和尚の話を補足するように言った。
「ほんまかどうか知らんけんど、死んだお侍の中には、外から来たお人もおったらしいぞな。ほれが、立派なお家柄の所のお身内やったていう話もあるみたいなけん、ほれがいけんかったんかもしれんね」
「ほんなん無茶苦茶ぞな。あのお人はたった一人で、うちを――」
護ろうとしてくれたのにと言いそうになった千鶴は、慌てて口を噤んだ。
「あのお人?」
「うち?」
怪訝そうにする和尚たちに、千鶴はうろたえながら言い直した。
「すんません。あのお人やのうて、そのお人ぞなもし」
「うちを、て言うんは?」
安子が訊ねると、ほれは――と千鶴は困惑した。
「ほれは、お代官のお家を背負ってという意味ぞなもし」
安子はうなずき、和尚もなるほどと言った。
「確かにほうよな。父親亡きあとは、息子が全てを背負て戦うたわけよな。ほれじゃのに、その息子の墓がないいうんは、まことに理不尽ぞな」
「ほやけど、千鶴ちゃん。さっきのは自分が知っておいでるお人のこと、言うてるみたいじゃったぞな」
安子が笑うと、和尚も春子も笑った。ただ千鶴だけは、下を向きながら恥じ入っていた。
「まぁ何にしてもそがぁな理由で、代官の息子にまともな墓を建てることは、許されんかったんやと思わい。ほれで代官の妻は墓を建ててやれん息子のために、ここに残って夫と一緒に息子を弔うたんやなかろかと思うんよ」
和尚が話し終わると、はっとしたように春子が言った。
「ひょっとして、そのお代官の息子もがんごめに操られよったんかもしれんぞな」
そう言ってから春子は再びはっとした顔で千鶴を見て、今のは嘘だと慌てたように弁解をした。
確かに、本当にがんごめがいたのであれば、代官だけでなく代官の息子も操った可能性はあるだろう。そうであるなら二人は自分が死ぬまで、がんごめの敵である侍たちと戦わされたのだ。
一方で、そうではないという気持ちが千鶴にはあった。どうしてもあの若侍が代官の息子であったような気がするのだ。あの若侍ががんごめに操られていたとは思えない。
「とにかく鬼の話がどがぁなことかはわからんのやが、ここで争い事があって、ほん時にようけの者が死んだんは事実ぞな。いったい何があったんかは知る由もないが、今のとこは鬼を見た者はおらんし、特に変わったことは起きとらん。ほれしか、わしには言えんぞな」
知念和尚が締めくくるように話すと、春子も続けて言った。
「ほじゃけん、山﨑さん。ヨネばあちゃんが言うたことは、もう気にせんでな」
何だかすっきりしないが、どうしようもない。
千鶴が黙ってうなずくと、安子が千鶴と春子を見ながら、この話はこれでおしまいと言った。
四
「和尚さま」
境内に面した障子の向こうから、誰かの声が聞こえた。
知念和尚は腰を上げると、障子を開けた。
そこは縁側になっていて、外に白髪頭の男が立っていた。伝蔵という寺男だ。
千鶴は伝蔵とは初対面だった。目が合った時に会釈をしたが、伝蔵は千鶴を見てぎょっとしたようだった。
しかし、千鶴が春子の女子師範学校の友だちだと、知念和尚から説明を受けると、伝蔵はぎこちなく頭を下げた。
「どがいしたんぞな?」
用事を訊ねる知念和尚に伝蔵は言った。
「権八が和尚さまに話があると言うとるぞなもし」
権八というのは近くに住む百姓で、毎朝寺に野菜を届けてくれる信心深い男である。
さっきまで他の者と一緒にだんじりを動かしていただろうに、手が空いたのだろう。今朝も野菜を持って来てくれたようだ。
知念和尚が権八を呼ぶように言うと、伝蔵は横を向いて手招きした。すると、小柄な男がひょこひょこと現れた。
「権八さん、お祭りじゃのに、お野菜届けてくんさったんじゃね。だんだんありがとうございます」
安子が和尚の傍へ行って丁寧に礼を述べた。知念和尚も感謝をすると権八は嬉しそうに、とんでもないと手を振った。
しかし、部屋の中にいる千鶴に気がつくと、権八は驚いたように固まった。
知念和尚は再び千鶴のことを説明しようとした。だが、その前に伝蔵が説明をし、千鶴に対して失礼だと権八を叱った。
権八は慌てたように頭を深々と下げたが、頭を上げると、しげしげと千鶴を眺めた。
「こら、権八。ぼーっとしよらんで、和尚さまにお訊ねしたいことがあるんじゃろが」
伝蔵に言われてはっとなった権八は、ほうじゃったほうじゃったと和尚に顔を戻した。
「あんな、和尚さま。ちぃと教えていただきたいことがあるんぞなもし」
「ほぉ、どがいなことかな?」
「あんな、和尚さま。昨夜のことなけんど、辰輪村の入り口辺りで、でっかいイノシシの死骸が見つかったんぞなもし」
「昨夜? 昨夜いうたら、参道に屋台が集まりよった頃かな?」
「ほうですほうです。ほん頃ぞなもし」
「そげな頃に、でっかいイノシシの死骸が、辰輪村の入り口で見つかったんかな」
「ほうですほうです。辰輪村の連中は、道が通れんで往生した言うとりましたぞなもし」
権八の話を聞きながら、千鶴は小声で辰輪村とはどこのことかと春子に訊いた。
話に聞き入っていた春子は、山の方の村だと口早に説明した。
「道が通れんほど、でっかいイノシシなんか」
「あんな、和尚さま。これより、もっとでかかったぞなもし」
権八は両腕を目一杯広げて見せた。その仕草を見た千鶴は、祖父がイノシシを狩りで仕留めた時の様子を思い出した。しかし、それ以外の何かが、記憶の中から這い出て来ようとしているようにも感じた。
「権八、お前、その目で見たんか?」
伝蔵が疑わしそうに言った。権八は大きくうなずくと、確かに見たと言った。
「山陰の者が呼ばれるんを耳にしたけん、何があったんか訊いたらな、岩みたいなイノシシの死骸じゃ言うけん、見に行ったんよ」
「岩みたいて、こげな感じか?」
権八より体が大きい伝蔵が両手を広げてみせたが、権八は首を振り、もっとよと言った。
「真っ暗い中、行きよったら、ほんまに道の上に大けな岩が転がっとるみたいに見えたぞな」
伝蔵は信じられないという顔を、知念和尚に向けた。
しかし、信じられないのはみんな同じである。誰もが伝蔵と同じような顔をしていた。ただ、千鶴だけが何かを思い出しそうな気がして、話に集中できずにいた。
和尚は驚いた顔のまま権八に言った。
「そがぁにでっかいんかな。ほら、まっことがいなイノシシぞな。ほれは間違いのう山の主ぞ。ほんなんが祭りしよる所へ現れとったら大事じゃったな」
和尚はみんなとうなずき合ったあと、権八に顔を戻した。
「ほれにしても、ほのイノシシは、なしてそげな所で死んどったんぞな? 誰ぞが鉄砲で撃ったんかな?」
「ほれがな、和尚さま。ほうやないんぞなもし」
「鉄砲やないんなら、病気かな?」
権八は首を大きく横に振った。
「あんな、和尚さま。鉄砲でも病気でもないんぞなもし」
「ほんなら何ぞな? なして死んだんぞな?」
「あんな、和尚さま。おら、ほれを和尚さまにお訊ねしたかったんぞなもし」
知念和尚は苦笑すると、権八さんや――と言った。
「わしは、ほのイノシシをまだ見とらんのよ。見とらんどころか、今初めて権八さんから聞いたとこぞな。ほれやのに、なしてわしがイノシシが死んだ理由を知っとると思うんぞな?」
権八はまた首を横に振った。
「あんな、和尚さま。ほうやないんぞなもし。死んだ理由はわかっとるぞなもし」
「わかっとんなら、わしに訊くまでもないやないか」
「あんな、和尚さま。わかっとんやけんど、わからんのですわい」
「こら、権八。そげな言い方じゃったら、和尚さまはわからんじゃろがな」
伝蔵が叱りつけると、権八は小さくなった。
「まぁまぁ、伝蔵さん。そがぁに言わんの」
安子が面白そうに言った。
知念和尚は少し困った様子で、権八に言った。
「権八さんが何を言いたいんか、わしにはわからんぞな。権八さんがわかっとる、イノシシが死んだ理由を先に言うてくれんかな」
わかりましたぞなもし――と権八は、横目で伝蔵を見ながら言った。
「そのイノシシの死骸はな、頭ぁぺしゃんと潰されとったんぞなもし」
「何やて? 頭を潰されとった?」
知念和尚の顔に一気に緊張が走った。安子の顔から笑みが消え、春子は口を開けたまま千鶴を見た。
「権八さん。ほれはまことの話かな?」
不安げな和尚に、権八は大きくうなずいた。
「おら、この目でちゃんと見たぞなもし。こんまいイノシシでも、あげに頭ぁ潰すんは並大抵のことやないぞなもし。ほれやのに、あの岩みたいなでっかいイノシシの頭がな、ほんまにぺしゃんこに潰されとったんぞなもし」
「嘘じゃろ?」
疑う伝蔵に、権八は不満げな目を向けた。
「おら、嘘なんぞつかん。嘘じゃ思うんなら、辰輪村の者でも山陰の者でも訊いてみたらええ」
伝蔵が言い返せずに口籠もると、権八は和尚に言った。
「ほじゃけんな、和尚さま。イノシシが死んだんは頭ぁ潰されたんが理由じゃと、おらは思うんぞなもし」
「ほれは、わしもそがぁ思うぞな」
和尚がうなずくと、権八は続けて言った。
「ほんでな、和尚さま。おらが和尚さまにお訊ねしたいんは、何がイノシシの頭ぁ潰したんかいうことなんぞなもし」