祭りの晩
一
千鶴たちが春子の家に戻ると、中では男衆が酒盛りを始めていた。提灯が吊された戸口の奥から、賑やかな声が聞こえて来る。酒に酔った大勢の見知らぬ者たちの気配は、千鶴を尻込みさせた。
春子が千鶴を待たせて家の中へ入ると、千鶴は逃げ出したくなった。すると、すぐにマツが飛び出して来て、よう戻んたね――と泣きながら千鶴を抱きしめた。
千鶴が驚いているとイネも出て来て、やはり泣きながら千鶴の手を握り、悪かったねぇと詫びた。
「春子は戻らんし、真っ暗なってしもたけん、今おらたちも千鶴ちゃん探しに出よとしよったとこじゃった」
「すんません。お祭りで忙しいとこやのに、ご迷惑かけてしまいました」
千鶴が謝ると、マツもイネも首を振り、悪いのは大ばあさまぞなと言った。
「近頃、妙なことぎり言うんで、おらたちも困りよったんよ」
イネの言葉にマツがうなずいていると、恰幅のよい年配の男が春子と一緒に出て来た。その後ろから幼い男女の子供がついて来る。
「あんたが山﨑千鶴さんかな。遠い所をせっかくおいでてくれたのに、うちの耄碌ばあさんが失礼なことしてしもたそうで、誠に申し訳ない」
春子が紹介する前に、男は千鶴に頭を下げた。提灯の明かりではよくわからないが、だいぶ酒が入っているようだ。酒の臭いが漂っている。
「おらのおとっつぁんぞな」
春子が説明すると、男は名を名乗っていないことに気がつき、春子の父の村上修造ぞなもしと言った。つまり、名波村の村長である。
千鶴は恐縮しながら、もう何とも思っとりませんと言った。でも自分が何をされたのかは、何も思い出せていない。
「いや、そがぁ言うてもろたら助からい」
にっこり笑った修造の左右から、さっきの子供たちが顔をのぞかせた。
二人はじっと千鶴を見ていたが、千鶴が顔を近づけて声をかけると、うわぁ、がんごめじゃ!――と声を揃えて逃げ出した。
「これ、勘吉! 花子!」
イネが子供たちを叱ったが、二人は家の中に逃げ込んだ。
春子はため息をつくと、千鶴に詫びた。
「堪忍な。あの子ら、おらの甥っ子と姪っ子なんよ」
「村上さん、がんごめて何のこと?」
「え? いや、ほれは……」
春子が言いにくそうにすると、修造がもう一度千鶴に謝った。
「いやぁ、重ね重ね申し訳ない。子供らにはわしがきつぅに言うとくけん、勘弁してやんなはらんか」
「ほれは構んのですけんど、がんごめて――」
「おい、春子。おらを紹介してくれや」
よたよたと現れた大柄の若い男が、にやけた顔で千鶴を見ながら春子に言った。
「こら、源次! お客さまに失礼じゃろが!」
修造が怒鳴ると、源次は修造にだらしなく頭を下げ、それから千鶴にも同じように頭を下げた。にやけた顔はそのままだ。
暗いので源次の顔の色はわからない。だが、修造以上に酒の臭いがぷんぷんする。きっと顔は真っ赤に違いない。
「春子、おらをこの人に紹介してくれや」
源次がもう一度言うと、春子は千鶴に従兄の源次だと言った。
続けて春子が千鶴のことを源次に説明すると、千鶴は源次に挨拶をした。
「千鶴さんか。ええ名前じゃの。ほやけど、日本人みたいな名前じゃな」
やはりこうなのかと千鶴が悲しくなると、マツが源次を叱りつけた。
「何失礼なこと言うんね! 千鶴ちゃんは日本人ぞな!」
「千鶴ちゃん、ごめんよ。ここは頭の悪い者ぎりでな、何が失礼なんかわからんのよ」
イネも千鶴に言い訳をしながら源次を叱った。源次は少し面白くなさそうだったが、渋々千鶴に謝った。
「申し訳ございません。おらが悪うございました」
源次がふらつきながらだらりと頭を下げたところに、源次を突き飛ばすようにして、次々に若い男が現れた。頭を下げていた源次はそのまま素っ転んだが、男たちは構わず千鶴に自己紹介を始めた。
起き上がった源次は声を荒らげて男たちに食ってかかった。そこへ修造の雷が落ちた。
「大概にせんかや! お前ら、わしに恥かかせるつもりか」
驚いたように静かになった男たちを、さっさと去ね!――と怒鳴りつけて追い払った修造は、千鶴に愛想を振り撒きながら、誠に申し訳ないともう一度頭を下げた。
「ほな、山﨑さん。中へ入ろや」
春子に促されたが、千鶴は家の中に入るのが怖かった。今の源次のような者たちが多く集まっているのかと思うと、法生寺へ戻りたくなった。それでもイネとマツが気遣ってくれるので、辛抱して春子に従った。
家の中では、電灯が灯された座敷で大勢の男たちが飲み食いをし、女たちが世話をしていた。それに交じって多くの子供たちも、食べたり騒いだりしていた。その多くの視線が、土間に入った千鶴に向けられた。
千鶴がうろたえながら頭を下げると、まだ土間にいた源次が再び千鶴の所へやって来て、こっちぞな――と千鶴の手を引っ張った。源次の後ろでは、さっきの男たちが千鶴を見ながらはしゃいでいる。
千鶴の顔が強張ると、イネがぴしりと源次の手を叩いた。
「何をしよんかな! さっきも叱られたとこじゃろがね!」
手を引っ込めた源次は、当惑した様子で言い訳をした。
「おら、この人にみんなと一緒に、楽しゅう過ごしてもらおと思たぎりぞなもし」
「源ちゃん、悪いけんど、今日はそっちには行かれんけん」
春子が言うと、何でぞ――と源次はむくれ顔で春子をにらんだ。
「ほやかて源ちゃん、酔うとろ? 話がしたいんなら、酔いを覚ましてからにしてや」
「春子の言うとおりぞな。初めて会う女子に失礼じゃろがね」
マツにまで説教されて、源次はようやく引き下がった。後ろの男たちも残念そうに源次に続いた。
男衆が集まっている所にいた勘吉と花子は、男たちの世話をしていた女の一人を呼んだ。
「お母ちゃん、こっち来とうみ! 早よ、来とうみて!」
「姉やんがおいでとるんよ! 早よ来てや!」
呼ばれた女は顔を上げると子供たちを見て、それから千鶴の方に目を向けた。しかしそれだけで、何の関心もないように女は男たちに酒を注いで廻った。無視された子供たちはぶうぶう文句を言ったが、それでも女は知らんぷりを決め込んでいた。
その女が春子の兄嫁の信子であることを、千鶴は思い出した。初めて顔を合わせた時もよそよそしい感じがしていたが、やはり信子は千鶴を嫌っているようだ。千鶴は気持ちが沈んだ。
しかし落ち込んでいる間もなく、千鶴はイネたちに誘われた。どうやら男衆が集まる部屋とは、別の部屋へ行くようだ。
その時、男衆の中から男が一人立ち上がって土間へ降り、千鶴の傍へやって来た。男の後ろには勘吉と花子がついて来た。
「春子の兄の孝義言います。春子がいっつもお世話になっとるそうで」
初めて見るが、孝義は勘吉たちの父親であり信子の夫だそうだ。そして村長の息子でもある。やはり酒が入っているようだが、さすがに源次たちとは違い、村長の息子としての品位と風格があった。
春子は兄が自慢のようだ。誇らしげな顔を千鶴に向けている。
「ちぃとごたごたしたみたいなけんど、年寄りの戯言なんぞ気にせいで、楽しんでやっておくんなもし」
にっこり笑った顔が千鶴を安心させた。信子の夫とは思えないほど好意的な応対ぶりだ。
千鶴はどぎまぎしてしまい、言葉を出せないまま頭を下げた。それから顔を上げると、孝義の肩の向こうから信子がじろりとにらんでいた。
二
千鶴が案内されたのは、少しこじんまりした部屋だった。
台所や男衆が集まった座敷には電灯があったが、ここは行灯だ。ただ、行灯一つだけでは薄暗いからだろうが、二つの行灯が置かれていた。
部屋に入ると、イネたちは春子に千鶴をどこで見つけたのかと訊ねた。春子は千鶴を見ながら、法生寺にいたと言った。
法生寺と聞いただけで、イネもマツも安心したような笑みを浮かべた。和尚夫婦が信頼されているということなのだろう。
千鶴は自分が倒れていたことを、春子が喋るのではないかと心配していた。ここへ来るまでに、余計なことは言わないで欲しいと頼むのをうっかり忘れていた。しかし、それについて春子は何も言わなかった。
千鶴が知らない間に寺へ運ばれていたことは不思議だが、その前にどこで気を失ったのかもわからない。迂闊なことを言えば、また千鶴が気味悪がられると春子も思ったのかもしれない。いずれにしても、春子が黙っていてくれたことは千鶴には有り難かった。
千鶴と春子を座らせると、イネたちはすぐに料理を載せた箱膳を運んで来た。二人の後ろには男衆の所にいた女たちが続き、別の料理の皿を箱膳の脇に置いてくれた。
部屋はあっと言う間に、女たちと女たちが連れている子供でいっぱいになり、千鶴を歓迎する場となった。
イネは一通りみんなを千鶴に紹介すると、じきに男衆が出かける頃合いになるから、急いで食べて欲しいと千鶴たちに言った。
千鶴と春子がうなずいて箸を持つと、女たちは争うようにして千鶴に話しかけた。やはり女たちには千鶴が珍しいようで、いろいろ話が聞きたいらしい。それでも千鶴を傷つけてはいけないと思っているのか、みんな言葉を選んで慎重に喋っているように見えた。
風寄にも日露戦争で負傷した者や、命を奪われた者がいるはずである。しかし、戦争のことで千鶴を責める者はいなかった。また、みんなと違う容姿のことで千鶴を蔑む者もいなかった。
女たちの多くは百姓仕事の副業として、伊予絣の織子になっていた。
絣は織る前に文様に合わせて、先に織り糸を染め分けておく。その糸を織り上げることで、絣の語源となる輪郭がかすれた文様ができるのである。
この織り糸を作るのは手間がかかるので、近頃の織子は織元が準備してくれている織り糸を使って、指定された絵柄の絣を織り上げている。
織元の下で働くようになる前は、女たちは自分たちの裁量で絣を織っていた。大変ではあったが、いい物を作ればそれだけ高く売れたので、結構な収入が得られたと言う。
ところが、いつの間にか織元の指示で織るという形態が広がり、今ではみんなが織元の織子になっている。
織子は一反いくらと賃金が決まっており、出来の善し悪しに拘わらず一定の収入を得ることができる。その分、いい物を作るための工夫や努力をしなくてもいいが、それで手抜きをしてしまう者も出て来るのが問題だった。
それでも名波村の女たちは自分たちの仕事に誇りを持っており、やるからにはきちんとした物を作るという気概があった。
だが景気が悪くなると伊予絣の売れ行きが悪くなり、織元への注文が来なくなる。それでどんなにいい絣を織っても、絣の生産が中止になって織子が解雇されたり、織子の賃金が一方的に下げられたりすることがあったそうだ。
今回も東京の大地震で、東京への伊予絣の出荷が止まったままになっており、織元への注文も激減しているらしい。
この辺りの絣を仕入れている仲買人の取引先も、この大地震の煽りで多くが潰れたのだと言う。それは東京が復興したとしても、伊予絣を買ってくれる先がないということだ。
織った伊予絣が売れるかどうかは、それで銭を稼ぐ女たちにとっては大問題だ。残っている伊予絣問屋にはもっとがんばって欲しいし、仲買人にも新たな絣問屋を見つけてもらわねばと、女たちは半分真顔で愚痴を言い合った。
ところが、春子に言われて千鶴の家が山﨑機織だと知れると、女たちは慌てて床に手を突き、お世話になっておりますと千鶴に頭を下げた。ここの女たちの織物は山﨑機織でも仕入れているらしい。
千鶴が慌てて頭を下げ返し、お世話になっているのは自分たちの方ですと感謝すると、女たちは仲買人から話を聞いたと言った。女たちによれば、ここの絣を仕入れる絣問屋の多くが潰れた分、こんな時こそ助け合いだと、山﨑機織はいつもより多めに仕入れているのだと言う。
自分は家の仕事には関わりがないと考えていた千鶴は、祖父の心意気に感心した。また、山﨑機織に感謝してくれる女たちに対して親近感を抱いた。そして、女たちの苦労があるからこそ山﨑機織は成り立っており、そのお陰で自分は暮らして来られたのだと知った。
女たちは、その後の東京の具合はどうなったのかと恐る恐る訊いて来た。
店のことは千鶴が知るところではないが、まだ東京が復興していないことはわかっている。それを話すと、女たちはがっかりしたようだった。
それでも山﨑機織も大変であることは女たちは理解していて、千鶴たちの暮らし向きを心配してくれたり、東京が復興さえすれば、自分たちも山﨑機織も上向きになるからと励ましてくれた。
初めの緊張も解れ、千鶴はずいぶんと気持ちが安らいでいた。千鶴の様子を見てか、春子も安堵しているようだ。そこへ勘吉や花子、それに他の子供たちが来て、一緒に遊ぼうとねだった。
女たちは二人に迷惑だと子供たちを叱ったが、千鶴と春子にしてみれば、女子師範学校で学んだ腕の見せ所である。構ん構んと言って子供たちの相手をしてやると、千鶴たちの周りは子供たちの黒だかりとなった。
しばらく子供たちの相手をしていると、男たちが出かける時間になったらしい。イネや女たちが動き出したので、子供たちもそれぞれの父親を送り出しに行った。
部屋には、千鶴と春子とマツだけが残された。マツは千鶴が十分食べたことを確かめると、もう少ししたら自分たちも出かけると言った。
「男衆が屋台を持て来るけんね。ほん時に合わせて、千鶴ちゃんらも一緒においでたらええよ」
千鶴たちの予定をマツは知らない。祭りを見たあとのことを言わねばと千鶴が気を揉むと、春子がマツに申し訳なさそうに言った。
「ばあちゃん、あのな、おらと山﨑さんは今晩法生寺に泊めてもらうことにしたんよ」
「法生寺に? ほうなんか」
案の定、マツはがっかりした様子だった。しかし、夜這いが心配だからと春子が説明すると、納得したように大笑いをした。
「確かに、男衆は酒が入ると何しでかすかわからんけんな。特に千鶴ちゃんみたいな別嬪さんがおいでたんじゃ、抑えが利くまい」
また別嬪と言われ、千鶴は下を向いた。
春子は笑いながら、ほらな――と言った。
三
イネたちに連れられて神社の参道へ行ってみると、多くの村人たちと一緒に、何台ものだんじりが集まっていた。
夜の帳が下りた村は、だんじりの提灯と村人が手に持つ提灯で美しく彩られていた。
だんじりの屋台はドンドンカンカンと、太鼓や半鐘の音を鳴り響かせている。上に立てられた笹の束が下に飾られた提灯に照らされて、まるで屋台が燃えているようだ。
近づいて見てみると、笹には小さな日の丸がびっしりと貼りつけられていた。何とも賑やかで盛大な印象だ。
燃えるような多くの屋台が闇の中を行き交う様子は、実に幻想的な光景だ。これは松山ではお目にかかれないものだった。
「うわぁ、きれいじゃねぇ」
思わず千鶴がつぶやくと、じゃろげ?――と春子は得意げだ。
「春子、千鶴ちゃんをしっかりつかまえとくんで。暗いけん、迷子なったら大事ぞな」
マツが春子に言うと、春子は提灯を持っていない方の手で千鶴の手をつかんでみせて、ほら大丈夫と答えた。
「千鶴ちゃん、暗いし人が多いけん、おらたちからはぐれても、春子からははぐれたらいけんよ」
大声で喋るイネに、千鶴も大声で、わかりましたと言った。
夜の闇が深くなるにつれ、村の中はいっそう賑やかになった。
次々にやって来るだんじりに見とれていると、いつの間にか、イネやマツの姿が見えなくなっていた。千鶴は慌てて横を見たが、そこに春子がいたのでほっとした。
春子はだんじりの向こう側にいる人たちを指差し、あそこ――と言った。だが春子が何を見せようとしているのか、千鶴にはわからなかった。すると春子は、帽子と言った。
「帽子?」
「客馬車におったろ?」
それで千鶴はようやくわかった。春子が指差す辺りにあの山高帽の男の姿があった。その隣にいるのはあの二百三高地の女だ。
楽しげな二人は、千鶴たちには気がついていないようだ。
「あの二人、でけとるかもしれんで」
千鶴に顔を寄せた春子は面白そうに言った。
聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、千鶴は下を向いた。春子は笑いながら、二人から離れた場所へ千鶴を誘った。
しばらくすると、参道の突き当たりにある神社の鳥居をくぐり、一体の神輿が現れた。すると、それまで賑やかだっただんじりが、声や音を鳴り止ませて静まり返った。
辺りは静寂に包まれ、その中を神輿は掛け声もなく静かに滑るようにやって来る。実に不思議な光景で、静けさが神々しさを醸し出している。
春子の説明によれば、村々の平和を願う神さまのお忍びの渡御らしい。屋台の明かりに見守られながら千鶴たちの近くへ来た神輿は、かつての庄屋の屋敷へ入って行った。
中でどんなことが行われているのかはわからないが、やがて屋敷から出て来た神輿は、再び音もなく滑るようにして神社へ戻って行った。
神輿が見えなくなると、止まっていた時が再び動き出したかのように、太鼓と半鐘が鳴り始めた。参道は賑やかな音と掛け声で新たに埋め尽くされ、人々の喜びが広がった。
十分に祭りを堪能して法生寺へ戻る途中、風寄の祭りはとても優雅で素敵だと、千鶴は絶賛した。ほうじゃろほうじゃろと、春子は嬉しくてたまらない様子だ。
しばらく二人は祭りの話で盛り上がったが、話が一息ついたところで、あのな――と千鶴は言った。
「さっき聞きそびれてしもたけんど、がんごめって何ぞな?」
「がんごめ? おら、わからん」
暗いので春子の表情はわからない。しかし、春子の声は惚けているように聞こえる。さっき家に戻った時には、明らかにわかっている感じだった。
「子供らが、うちを見て言うたろ? がんごめじゃて」
「そげなこと言いよったね。ほじゃけど、おら、知らんのよ」
「ほんまに知らんの?」
「うん、知らん」
「言うたら、うちが傷つく思て、知らんふりしよんやないん?」
「違う違う。ほんまに知らんのよ」
春子の声は何だか妙に明るかった。恐らく春子はがんごめが何かを知っているに違いない。だが喋ってくれそうにないので、千鶴は訊くのをあきらめた。
寺に戻ったあと、千鶴たちは和尚夫婦としばらく話をした。
千鶴は和尚たちにがんごめの話を訊ねてみたかった。だが、何だか訊くのが怖い気がした。それに春子が気を悪くするように思えたので、訊くことができなかった。
また和尚たちとは、それほど長く喋ってはいられなかった。
翌朝には、日の出とともに神輿の宮出しが行われる。そのため未明からだんじりの屋台が再び集結するらしい。その時は、先ほどよりも多くの屋台が集まると言う。
それを見るには、朝の暗いうちから起きて出発しなくてはならない。そのため早く寝る必要があった。
結局、千鶴が和尚たちと喋ったのは祭りの話だけで、がんごめの意味を確かめることはできなかった。
千鶴たちは安子が用意をしてくれた部屋で床に就いた。だが、千鶴はなかなか寝つけなかった。
早く眠らねばならないのだが、そう思えば思うほど却って目が冴えてしまい、眠気は遠のいてしまう。隣で春子の寝息が聞こえ出しても、千鶴は長い間、闇の中で眠るために奮闘し、何度も寝返りを打った。
頭の中では、今日のことが幾度も思い返された。
不可解な出来事や夢に見た若侍。いったいあれは何だったのだろう。自分に何が起こったのか。若侍にはもう一度会いたいが、自分をここへ運んでくれたのは、本当のところは誰なのだろう。
それに村人たちの態度も気になった。見下すような者もいれば、頭を下げてくれる者もいた。親しくしてくれたようでも、実際は蔑んでいたのかもしれない。
それでも春子の母や祖母が詫びてくれたのは、偽りのない気持ちだったように思える。がんごめとからかった子供たちも、一緒に遊んでもらったことを喜んでいた。
何が本当で、何が本当でないのかがわからない。そのことが居心地を悪くさせている。
それにしても、がんごめとは何だろう。何か悪い意味の言葉に思えるけれど、少なくともいい意味ではないはずだ。そうでなければ、子供たちがこの言葉でからかうわけがない。
だけど初対面の子供たちが、いきなりそんなことをするのも不自然だ。恐らく、これには春子の曾祖母が関係していると思われる。きっと曾祖母ががんごめという言葉を使ったのだろう。そして、それは自分が春子の家を飛び出した時に違いない。
そんなことを考えていると、いつまで経っても眠れない。このままではいけないと焦った千鶴は、考えるのをやめて眠ることにした。
それでも、どうしてもいろんなことが勝手に頭に浮かんで来てしまう。だったら、あの若侍のことを考えようと千鶴は思った。そうすれば余計なことは考えずに済む。
千鶴は目を閉じたまま、若侍のことを考えた。
だが、若侍の顔はよくわからない。顔がわからない者を思い浮かべるのはむずかしかった。それに時々思い出したように子供たちが現れて、がんごめと言って千鶴をからかった。
子供たちを頭の中から追い払い、また若侍を思い浮かべるが、いつの間にか子供たちは戻って来て、また千鶴をからかう。
そうするうちに、気がつけば千鶴は一人で闇の中に立っていた。
四
そこは漆黒と呼ぶべき暗闇だった。周りに生き物の気配はない。闇は凍えるほどに冷たく、千鶴は体を抱くようにしながら震えた。
一方、素足が触れる地面は生温かく、ぬるぬるした泥のようだ。辺りには血の臭いと、何かが腐ったような臭いが漂っている。
この暗闇はいるだけで気分が悪くなって来る。だけど、どうやってここに来たのかはわからない。
千鶴には探している者がいた。しかし、その相手がここにいるという確信などない。それでもその相手を探しているうちに、ここへ来てしまったのだ。
一寸先も見えない。誰かに鼻を摘まれたとしても、絶対にわからないような暗さだ。
恐る恐る手を伸ばしてみても、指先は何にも触れなかった。そのままの姿勢でゆっくりと二、三歩踏み出してみたが、やはり周囲には何もない。
足下がぬるぬるしているので、下手に動くと転ぶかも知れず、千鶴は身動きが取れなかった。仕方がないので、千鶴は鼻と口を手で押さえたまま一所にじっとしていた。
すると、少し闇に目が慣れたのだろうか。周囲が二間ほど先の辺りまで、月明かりに照らされたように、ぼんやりと闇の中に浮かび上がって来た。
極めて狭い範囲しか見えないが、見える限りにおいて、そこには何もなかった。
色と呼べるものはどこにもない。闇とは異なる黒さの地面があるばかりだ。他に見えるものと言えば、自分の白い手足だけである。
再び何歩か足を踏み出してみたが、目に映る光景に変化はない。
微かに風が吹いて、後ろに束ねた髪が少し揺れた。その時、どこからか憎悪と殺気が押し寄せて来た。
慌てて振り返ったが、淡い光の中に見える景色は変わらない。しかし、その向こうに広がる闇の中では、明らかに何かが蠢く気配がする。
やがて聞こえて来たのは、ずるりずるりと何かを引きずる音だ。また、ぴちゃりぴちゃりと泥を歩くような音も聞こえる。
苦しみと憎しみが入り交ざったような不気味な呻き声。それも一つや二つではない。その気味の悪い声や音は近くからも遠くからも聞こえ、その数もどんどん増えて来る。
突然、結界を破るように淡い光の下に何かが這い出て来た。それは片方の目玉が腐ってこぼれ出た屍だった。
ざんばら髪で骨と皮だけになった屍は、動きを止めると千鶴を見上げてにたりと笑った。
――見つけた。がんごめ、見つけたぞな。
乾いたような舌を動かして、屍はかさかさ声でつぶやいた。舌が動くたびに、口の中から蛆がこぼれ落ちた。
千鶴は驚きのあまり声も出ず、体が動かなくなった。だが、屍が千鶴の方へ這って来ると、喉から悲鳴が飛び出した。
呪縛が解けた千鶴は闇の中を走って逃げた。しかし音や声は後ろからばかりではなく、周囲の至る所から聞こえて来る。
とうとう呻き声と不気味な音に取り囲まれ、千鶴は行き場を失った。
ぴちゃりぴちゃりと前から音が近づいて来た。
後ずさりをすると、後ろから誰かが肩をつかんだ。驚いて振り返ると、裸同然の髪の長い女が、焦点の合わない目でにらんでいた。その目玉の上を、やはり蛆がもそもそと動いている。
――子供を返せ! お前が喰ろうた、おらの子供を返せ!
女は干物のような手で、千鶴の首を絞めようとした。
千鶴は女の手を払いのけて逃げ出した。だが何かに足首をつかまれ、勢いよく転んでしまった。
顔や体中にべちゃりと泥がついた。その泥は胸悪くなるような血の臭いがする。どうやら泥だと思っていたのは血糊らしい。
千鶴の足をつかんでいる骸骨のような屍が、歯をカチカチ鳴らしながらケタケタ笑った。
――捕まえた。がんごめを捕まえたぞな!
先ほどの女が再び千鶴に近づいて来た。さらに周囲からも次々と屍たちが姿を見せた。
ある者はこぼれた腸を引きずり、ある者は顔が崩れ、また、ある者は片手に千切れた頭をぶら下げている。
――殺せ! 八つ裂きにせぇ!
必死に逃げようとする千鶴に屍たちは腕を伸ばし、歯を剥き出した。
その時、耳をつんざくような凄まじい咆哮が辺りに響き渡った。怒りに満ちたその猛獣のような声は、びりびりと闇を震わせた。
屍たちは一斉に動きを止め、怯えたように周囲の闇を見回した。
その刹那、何か大きな物がぶんと音を立てながら現れた。それは屍たちを薙ぎ払い、一部の屍たちを闇の中へ引きずり込んだ。
他の屍たちは慌てふためき、闇の中へ姿を消した。その直後、ずんという地響きと、屍たちの呻くような悲鳴が聞こえた。
近くの闇に何かがぼとぼと落ちて来る音がした。と思ったら、淡い光の中に屍の頭や手足が転がり出て来た。
千鶴は慌てて立ち上がったが、何かから逃れようとする屍が、闇から千鶴の方へ這って来た。そこへ上の闇から巨大な足が落ちて来た。
毛むくじゃらのその足は、千鶴に這い寄ろうとした屍を、ずんと踏み潰した。振動は地面を伝って千鶴の足に届き、踏み潰された屍の一部が千鶴の足にぶつかった。
千鶴は震えながら、巨大な足の上に目を遣った。
毛むくじゃらの足に続く、胴の部分がちらりと見えた。しかし、その上は闇の中に消えている。それはこの化け物がいかに巨大であるかを物語っていた。
その化け物が千鶴を見下ろすように、闇の中からぬっと顔を見せた。それは頭に二本の角を生やし口から牙を剥いた、形容しがたいほど醜悪な顔だった。
五
はっとなった瞬間、鬼は姿を消していた。千鶴を取り巻いていた淡い光もなく、千鶴は真っ暗闇の中にいた。
しばらくの間、千鶴は自分がどこにいるのかわからなかった。しかし隣から聞こえる春子の寝息で、ここは法生寺なのだと知ってようやく安堵した。
闇の中で千鶴は体を起こした。胸はまだどきどきしている。
冷たく血生臭い空気や、ぬるぬるした生温かい血溜まり。亡者につかまれた感触や、八つ裂きにされそうになった恐怖。それらは目が覚めた今でも心と体に実感として残っている。あれが夢だったとは信じられないほどだ。もし目が覚めなかったら、自分はどうなっていたのかと思うと千鶴は体が震えた。
一方で、千鶴は鬼を見た時の自分の気持ちに混乱し、うろたえていた。
千鶴は夢の中で誰かを探していた。だが、それが誰なのかは自分でもよくわかっていなかった。ところが、あの恐ろしい鬼を見た時、千鶴の胸は喜びでいっぱいになった。
そう、千鶴が探し求めていたのは、あの鬼だったのである。
千鶴は何度も頭を振って、鬼を慕う気持ちを頭の中から追い払おうとした。いくら夢とは言え、鬼に心惹かれるなんて信じられなかった。
本当に逢いたかったのは鬼ではない。あの若侍だったはずだ。それなのに、あろうことか地獄にいる鬼を探し求め、愛しく思うなど有り得ない話である。
自分がおかしくなったのではないかと疑った千鶴は、ふと屍が口にした言葉を思い出した。屍は千鶴をがんごめと呼んでいたのだ。
伊予では鬼のことをがんごと言う。その鬼を愛おしく思った自分ががんごめなのだとすると、がんごめというのは鬼の女という意味なのかもしれないと千鶴は思った。
もし春子の曾祖母が千鶴を見てがんごめと言ったのであれば、それは千鶴を化け物と見なしたわけである。そうであるなら、とんでもない侮辱だ。そんなことを言われて平気でいられるはずがない。春子の家を飛び出したのも納得が行く。
だがそうであったとしても、今の千鶴はそのことに反論ができなかった。
鬼を愛しく思うなんて、がんごめと言われても仕方がない。もしかしたら本当に自分はがんごめなのかもしれないと、自分でも疑いたくなるほどだ。それでも地獄の夢を見たのはただの偶然で、鬼を愛しく想ったことは何かの間違いだと思いたかった。
しかしあの若侍の夢と同じように、夢で見た地獄はあまりにも本物のようだった。夢を見たというよりは、本当にそこにいたという感じで、目覚めて時間が経った今もその感触が残っている。まだ完全には地獄から抜け切れていないみたいだ。
また鬼を慕う想いも消えていない。あの醜く恐ろしい鬼を愛しく想う気持ちが、それを否定する自分とは別にあるのだ。それは、まるで自分の中に別の何かが入り込んだかのようだ。
そう感じた時、千鶴は夕日を見た時にも同じようなことがあったと思った。あの時は理由もなく悲しくなったが、やはり自分の中で別の自分が泣き叫んでいたようだった。
これは明らかに妙であり、尋常ではない。自分の中で何か恐ろしいことが起こっているようだ。
ひょっとしてあの夕日を見た時に、がんごめに取り憑かれたのではないだろうか、と千鶴は震えながら考えた。だが、がんごめが取り憑く理由がわからない。特別何かをしたわけではないし、何かがあったわけでもなかった。だが、がんごめが取り憑いたのでなければ、どうして鬼を慕うような自分がいるのだろう。
春子の曾祖母にがんごめと罵られたたのだとすれば、春子の曾祖母には取り憑いたがんごめが見えたのかもしれない。そうだとすれば、どうすればいいのだろう。このままでいれば、いずれはがんごめに自分が乗っ取られてしまうかもしれない。
震えが強くなった千鶴は、懸命に両手で体を抱くように押さえた。しかし、それでも震えは止まらない。
隣から春子の平穏な寝息が聞こえて来る。何も悩む必要がなく安眠している春子が羨ましく腹立たしい。
千鶴は知念和尚に相談してみようかと思った。しかし結局はただの夢かもしれないし、こんな夢を見てしまったことを知られたくない気持ちもあった。特に春子にはこんな話は聞かせたくなかった。
だが、知らない間に法生寺の前で倒れていたことを考えると、やはり何かが起こっているように思える。あの時にいったい何があったのか。
和尚夫婦は千鶴や春子が気にしないように、このことに深く立ち入ろうとしなかった。しかし、あの時の自分に何かがあったのは確かだし、それは何か重大なことに違いない。そして、あの不可思議な出来事は、絶対に今の夢と関係があるはずだ。
恐怖を感じながらも、若侍のことを思い出すと、千鶴はわけがわからなくなった。
若侍の夢は怖いものではなかった。逆に幸せいっぱいだった。あの夢も現実のような気がするし、若侍が飾ってくれた野菊の花は、実際に頭に飾られていた。だから、あの夢もただの夢ではないし、他の夢や出来事と関係があるに違いない。それなのに片方は恐ろしく、もう片方は幸せだというのは矛盾に思える。
それにしても、夢の中の花が現実に現れたということは、夢の鬼が現実に姿を見せるということも有り得るわけだ。
もし鬼が本当にいて、目の前に現れたらどうしようと千鶴は焦った。一方で、もう一人の自分が鬼のことを考えて切なくなっている。この自分は鬼に逢いたがっているようだ。鬼が現れれば、この自分はもっとはっきり表に顔を出すに違いない。そうなれば自分はどうなってしまうのか。
千鶴は恐ろしくなって布団の中に頭を突っ込んだ。
それでも嫌な妄想は終わらない。鬼の子供を産み増やし、夫の鬼とともに人間の肉を喰らう自分が思い浮かぶと、嫌じゃ!――と千鶴は布団の中で叫んだ。
ロシア人だと差別をされても人間がいい。それに本当に慕っているのはあの若侍だと、千鶴は自分に訴えた。
だが、そんなことをしたところで何も変わらない。あきらめて布団から頭を出すと、もう食えん、腹いっぱい――と春子が寝言を言った。
千鶴は春子がいる辺りの闇を一にらみしたが、春子に怒りをぶつけても仕方がない。
起きるにはまだ早いので、千鶴は力なく横になった。少しでも眠っておかないといけないが、もう地獄の夢を見るのは嫌だった。
隣から気持ちよさげな春子の寝息が聞こえて来る。千鶴は布団をかぶると、今度こそ若侍に逢えることを祈った。