飾られた花
一
愛らしい野菊の花が一面に咲いている。
後ろに束ねた千鶴の髪が、時折そよぐ風に揺れる。すると、花たちも嬉しそうに左右に首を振る。まるで千鶴に話しかけているみたいだ。
千鶴はこの花が好きだった。しゃがんで花を眺めていると、背後で千鶴を呼ぶ声が聞こえた。振り向こうとすると、後ろから伸びて来た手が、そっと優しく千鶴の頭を押さえた。その手は摘んだ野菊の花を千鶴の髪に挿してくれた。
立ち上がって振り返ると、そこに若い侍が立っていた。
逆光になっているせいか顔はよくわからない。それでも若侍が自分と親しい仲なのはわかっている。若侍から漂う懐かしく温かい雰囲気が、千鶴を抱くように包み込む。
若侍は千鶴を眺めながら満足げに言った。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
この上なく幸せな気持ちで胸はいっぱいだ。このまま時が止まることを千鶴は願った。だが次の瞬間、誰かが千鶴の体を強く揺らした。
「山﨑さん、しっかりしぃや! 山﨑さん!」
千鶴は肩を揺らされていた。目を開けると、若い娘が泣きそうな顔で、千鶴の顔をのぞき込んでいる。
「気ぃついたんじゃね。よかった! 山﨑さんにもしものことがあったら、おら、どがいしよかて思いよった」
千鶴が体を起こすと、若い娘は千鶴に抱きついて泣いた。
意識が急速に現実に焦点を合わせ、千鶴は泣いている若い娘が春子だと思い出した。どうやら、さっき見ていたのは夢らしい。夢ではなかったみたいな気がしているけれど、やっぱり夢なのか。
それでも千鶴は夢から引き戻されたことに、腹立たしさを覚えていた。自分とあの若侍は本当に惚れ合っていたのだ。あのまま若侍とずっと一緒にいたかったのに、それを起こされたのである。せっかくの幸せな気分が台無しだ。
けれど目覚めてしまったものは仕方がない。どんなに幸せでも夢の話だ。あきらめるしかない。
辺りを見まわすと、そこは部屋の中で、千鶴がいるのは布団の上だった。春子の後ろには、年老いた坊さまと老婦人が座っている。
「ここは……どこぞなもし?」
訊ねる千鶴に、坊さまは微笑みながら言った。
「ここは法生寺という寺でな。わしは知念じゃ。隣におるんは、わしの女房の安子ぞな」
「ほうしょうじ?」
聞いたことがある名前だと思ったあと、千鶴ははっとなった。
「法生寺て、うちのお母さんがお世話になったお寺?」
そう言ってから、千鶴は慌てて自分と母の名を告げた。母が世話になった寺の名を、法生寺だと聞いていた。
知念和尚は、わかっとるぞなとうなずいた。
「千鶴ちゃんが幸子さんの娘さんじゃいうんは、春ちゃんから話を聞いてすぐにわかった。お母さんは元気にしておいでるかな?」
安堵した千鶴は、母は今でも和尚夫婦に感謝していると伝えた。
和尚たちは嬉しそうにうなずき合い、安子は感慨深げに言った。
「あん時、幸子さんのお腹ん中におった子が、こげなきれいで立派な娘さんに育ったやなんてなぁ……。ほれにしても、千鶴ちゃんが目ぇ覚ましてくれてよかった。今な、お医者呼ぼかて言いよったとこなんよ」
安子に褒めてもらった千鶴は、気恥ずかしくて下を向いた。しかし、すぐに我に返ると顔を上げた。
「うち、いったい――」
自分に何があったのかと、千鶴は訊ねようとした。だが、その前に春子が待ちかねた様子で言った。
「おら、山﨑さんのこと探しよったんよ。けんど、どこ探してもおらんけん、もしや思てここ来てみたら、表で倒れよった言われてな……。ほっとしたけんど、ほんまに心配したんで」
春子の言葉に千鶴は当惑した。
「ちぃと待ってや。うちがどこで倒れよったて?」
倒れた覚えなどないし、この寺がどこにあるのかも知らないのだ。うろたえる千鶴に、山﨑さんはここで倒れよったんよと、春子はもう一度言った。
千鶴が驚いていると、知念和尚が説明した。
「ちょうどわしと安子が、幸子さんは今頃どがぁしておいでようか、お腹におった子も大きなっとらいなぁ、と話しよった時のことぞな。いきなしどんどんどんと玄関の戸を叩く奴がおってな。誰じゃろ思て出てみたら、千鶴ちゃんがそこに倒れよったんよ」
「倒れよったいうよりは、寝かされよったいうんが正しいぞな」
安子が和尚の言葉を訂正した。
安子によれば、千鶴は髪も着物も乱れないまま、真っ直ぐ仰向けに寝かされていたらしい。履いていたはずの草履は、千鶴の脇にきちんと並べられてあったそうだ。
「じゃあ、誰ぞがうちをここまで運んだいうこと?」
千鶴が三人の顔を順番に見ると、みんな困惑のいろを浮かべた。
和尚と安子は顔を見交わすと、少し戸惑いながら言った。
「千鶴ちゃんが自分でここへ来たんやないんなら、ほういうことになるんかの。ほんでも、誰が千鶴ちゃんをここへ運んだんかは、わしらにもわからんぞな」
「千鶴ちゃんに何があったんかも、うちらにはわからんのよ」
春子は焦った顔で千鶴に訊ねた。
「山﨑さん、おらの家飛び出したあと、何があったん?」
千鶴はきょとんとなった。春子が何を言っているのか、千鶴にはわからなかった。
「うち、村上さんの家におったん?」
春子の顔が引きつった。
「山﨑さん、大丈夫なん? どっかで頭ぶつけたんやないん?」
「千鶴ちゃん、春ちゃんに誘われて、名波村のお祭り見においでたんじゃろ?」
安子に言われると、そんな気がしたが、今一つはっきりと思い出せない。何だか頭の中に靄がかかったみたいな感じだ。
何とか思い出そうと、何気なく右手で頭を押さえると、指先に何か柔らかい物が触れた。何だろうと手に取って見ると、それは野菊の花だった。
二
「あれ? 何これ? なして、こげな物がうちの頭にあるん?」
頭にあった野菊の花を見て千鶴は驚いた。でもすぐにさっき見た夢を思い出し、これは夢の続きなのかと訝った。
「そのお花、千鶴ちゃん、自分で飾ったんやないん?」
訊ねる安子に首を振りながら、千鶴はみんなの顔を見まわした。これはまだ夢の中で、自分は本当は目を覚ましていないのかもしれないと疑っていた。
「あん時は、山﨑さん、花なんぞ飾っとる場合やなかったけん、おら、和尚さんらが挿してやったんかて思いよった」
春子は千鶴が持つ花を見ながら不思議そうに言った。
「気ぃ失うて倒れよる千鶴ちゃんに、花飾ったりするかいな。その花は初めから千鶴ちゃんの頭に飾ってあったんよ」
知念和尚が言うと、安子もうなずいた。
結局、誰が千鶴の頭に花を飾ったのかはわからない。恐らく玄関を叩いて千鶴がいることを知らせた者に違いないが、それが誰で、どういうつもりでこんなことをしたのかと、謎は深まるばかりだ。
「村上さん、あん時て?」
千鶴が訊ねると、春子は少し困った顔で言った。
「あのな、言いにくいことなけんど、おらん所のひぃばあやんがな、山﨑さんを傷つけること言うてしもたんよ」
「ほうなん?」
「ほんでな、山﨑さん、おらの家飛び出して行方知れずになっとったんよ」
千鶴には春子が言うような記憶がない。訳のわからないこの状況は、やはり夢なのかと考えていると、知念和尚が心配そうに千鶴の顔をのぞきこんだ。
「千鶴ちゃん、何も思い出せんか」
妙な気分のまま、千鶴は何でもいいから思い出そうとしてみた。すると、春子と一緒に客馬車に乗っていたみたいな気がした。
「何か、客馬車に乗りよったんは思い出したんですけんど、そのあとのことは何も……」
「どがいしましょ。やっぱしお医者を呼んだ方が――」
心配する安子の言葉を遮って和尚は言った。
「いや、医者を呼んだとこで、千鶴ちゃんの記憶が戻るとは思えんな。別に具合が悪ないんなら、このまま様子を見よっても構んかろ」
そうはいっても、春子は不安げだ。千鶴の頭を触りながら傷がないかを確かめた。
「山﨑さん、どっか痛い所ないん?」
千鶴は大丈夫ぞなと言って笑ってみせた。
「どこっちゃ具合悪い所はないんよ。ただ、頭ん中がすっきりせんぎりぞな」
「ほれを具合悪いいうんやないん?」
「ほうなんか」
千鶴は苦笑した。
確かに頭がすっきりしないのは、尋常とはいえないのかもしれない。しかしこれが夢なら、すっきりしなくても不思議ではない。
「ほれにしても、千鶴ちゃんの頭にあったそのお花、誰が飾りんさったんじゃろねぇ」
安子が思い出したように言うと、知念和尚もうなずいた。
「ほうじゃほうじゃ。その花は千鶴ちゃんに起こったことと絶対関係あらい」
「ほれに、千鶴ちゃんをここまで運んだんが、誰かいうんも問題ぞなもし。このお花もそのお人が飾ったに違いないわね」
「さらにいうたら、なしてその人物が千鶴ちゃんをここへ運んだんかやな」
「ほれと、千鶴ちゃんを運んでおきながら、何も言わいで去ぬるいうんも気になりますわいねぇ」
和尚夫婦のやり取りを聞いていた春子が、自信なさげに言った。
「何とのうやけんど、おら、誰かが山﨑さんを慰めるためにその花飾った気ぃがする」
「うちを慰める?」
千鶴は春子を見た。
「ほれはどがぁなことかな?」
知念和尚が訊ねると、春子はしょんぼりしながら説明した。
「山﨑さんが何も思い出せんのは、ほれが山﨑さんにとって嫌なことやけんと思うんよ」
「嫌なことじゃったら、これまで何べんもあったけんど、忘れたことはないで。逆に忘れとうても忘れられんもん」
千鶴の言葉に、ほれはほうなんやけんど――と春子は言った。
「確かに嫌なことは忘れるもんやないよ。ほやけんな、誰ぞがほれを忘れさすために、山﨑さんの記憶を失さしたんやないかて、何とのう思たんよ」
「誰ぞて、誰?」
「ほれはわからん。けんど、たぶんその誰かが山﨑さんをここまで連れて来て、山﨑さんを慰めるために花を飾ってくれたんよ」
なるほどなるほどと和尚はうなずいた。
「春ちゃんの言うことには一理あるな。ただ、そげなことができるんは人間やないな」
「人間やないんなら、狸じゃろか?」
ふざけているみたいにも聞こえるが、春子は大真面目だ。それに対して、知念和尚も真顔で応じた。
「狸には千鶴ちゃんをこの寺へ運ぶ理由がなかろ? つまり、これは狐狸妖怪の類いの仕業やないな」
「じゃったら、誰が……」
春子は真剣な顔で考え込んでいる。一方で、千鶴の頭には若侍の姿が浮かんでいた。
さっきの夢の中で、あの若侍は千鶴に野菊の花を飾ってくれた。そして目覚めた時に、同じ花が同じ場所に飾られていたのである。素直に考えれば、千鶴に花を飾ってくれたのはあの若侍だ。
だが若侍は夢の中の人物だ。夢の人物が現実に出て来るなど有り得ない。しかし、まだ自分が夢の中にいるのなら、若侍が飾ってくれた花が頭に残っていても妙ではない。和尚たちが事情を知らないだけだ。
「わかったぞな!」
突然、安子が叫んだ。
「何がわかったんぞ?」
訝しげな和尚に、お不動さまぞなもしと安子は言った。
「お不動さまはうちの御本尊さまやし、幸子さんがここで暮らしよった時、幸子さんのお腹には千鶴ちゃんがおったじゃろ? ほじゃけん、お不動さまは千鶴ちゃんのこともご存知のはずぞな」
なるほど!――和尚は興奮した様子で膝を叩いた。
「お不動さまなら姿消したんも説明つこう! 安子、さすがはわしの女房じゃ。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまに違いない!」
和尚は手を合わせると、目を閉じて念仏を唱えた。
春子もこの意見には納得したらしい。安子と一緒に目を瞑って手を合わせている。
三
「あのぅ……」
花は若侍が挿してくれたものだと千鶴は話そうとした。しかし和尚たちの視線が集まると、何だか気恥ずかしくなった。
「これは、まだ夢の続きなんかなもし?」
遠慮がちな千鶴の言葉に、みんなはきょとんとしている。
「夢の続きて?」
春子に訊かれて、千鶴は少しうろたえた。
「いや、ほやけんな、うちはまだ夢ん中におるんじゃろかて訊いとるんよ」
春子は千鶴に自分の頬を抓ってみるように言った。頬を抓った千鶴は、痛っ!――と声を上げた。
「どがいね? まだ夢見よるみたいな感じする?」
心配そうに訊ねる春子に、千鶴は首を振った。
「千鶴ちゃん、大丈夫か? まだ頭に妙な感じがしよるんか?」
「お医者を呼ぶ?」
和尚夫婦が戸惑い気味に言った。千鶴は大丈夫ぞなもしと言いながら、そっと右手で左手を抓ってみた。やはり痛い。ということは、これは夢ではなく現実か。だとすると、この頭に飾られた花は何なのかと、少し怖いような驚きが千鶴の中で膨らんだ。
「ところで山﨑さん、何の夢見よったん?」
春子に唐突に訊ねられ、千鶴はうろたえた。
「何の夢て?」
「さっき、夢の続きかて言うたじゃろ?」
「あれは、何か夢見よった気ぃがしたぎりで、何ちゃ覚えとらんけん」
千鶴は笑ってごまかした。
若侍の夢の話はできなかった。そんな話をすれば、またみんなが不思議がり、話がややこしくなる気がした。とはいえ、お不動さまがやったという話には、千鶴は合点がいかなかった。
どこかで倒れていた自分を、ここまで運んで来てくれただけなら納得できる。だけど、お不動さまが花を飾るなんて妙な話だ。怖い姿のお不動さまに似つかわしくない。
今が夢ではなく現実だとしても、花を飾ってくれたのはあの若侍だと千鶴は思っていた。ただ、夢の中の人物がどうやって現実に花を飾るのかはさっぱりわからなかった。
「まぁ、お不動さまが千鶴ちゃんを助けてくんさったにしても、千鶴ちゃんに何があったんじゃろな?」
知念和尚が腕組みをしながら言うと、安子もうなずいた。
「ほうですわいねぇ。お不動さまが助けんといけんようなことが、千鶴ちゃんに起こったんやけんねぇ」
千鶴が無事であったことはともかく、何か危険な目に遭ったのだとすれば、それは千鶴を傷つけた春子の曾祖母の責任だ。言い換えれば、千鶴を風寄に招いて曾祖母に引き合わせた春子の責任になる。
春子がしょんぼりしているのに気づいた和尚夫婦は、互いに目を見交わして言った。
「ほうはいうても、千鶴ちゃんが無事じゃったんやけん、何があったんかはええことにしよわい」
「ほうよほうよ。何があったやなんて、考えたとこでわかるはずないけんね。ほれより、千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるてわかったことの方が肝心ぞなもし」
なぁと安子が春子に微笑みかけると、顔を上げた春子は寂しげな笑みを返した。
「ほんで千鶴ちゃんは、今晩は春ちゃん所でお世話になるん?」
突然安子に訊ねられ、千鶴は少しうろたえた。
何も覚えていないのだが、自分が春子の家を飛び出した経緯を考えると、春子の家に泊めてもらうことには気が引ける。かといって、ここに泊めてもらいたいとは言えない。そんなことを言えば、春子が悲しむのは目に見えている。
千鶴が言葉を濁していると、ここに泊めてもらいやと春子が言った。
「よう考えたら、今日はお祭りやけんな。うちには酔うた男衆がようけ集まるけん、うちに泊まるんはやめといた方がええ。泊まったら、山﨑さん、絶対夜這いかけられるで」
「夜這い? うちに?」
自分みたいな醜い女に手を出そうとする男がいるなど、千鶴には考えられなかった。だけど春子は真顔だ。
「山﨑さんは美人じゃけんな。色目で見る男はなんぼでもおらい。ほやけん、今晩はここで泊めてもろた方がええぞな」
「何言いよんよ。うちなんぞ、ちっとも美人やないし」
千鶴は春子の言い草が面白くなかった。お世辞にしたって、もう少し気の利いたことを言うべきだ。千鶴が口を尖らせると、安子と和尚が言った。
「うちも千鶴ちゃんは別嬪さんや思うぞな」
「わしもそがぁ思う。ほじゃけん、酔っ払うたトラがうじゃうじゃおる所にはおらん方がええ」
ここへ泊まっていかんかなと和尚は言った。
千鶴は嬉しかった。けれども、そうしますとは簡単には言えない。千鶴が遠慮して黙っていると安子が言った。
「ね、ここにお泊まんなさいな。そがぁしてもらえたら、うちらも嬉しいけん」
千鶴がようやく素直にうなずくと、和尚夫婦は喜んだ。春子は黙って微笑んでいたが、ちょっぴり寂しげでもあった。すると、安子が春子に言った。
「春ちゃん。あんたもここに泊まるじゃろ?」
「え? おらも?」
和尚が当然という顔で言った。
「千鶴ちゃんぎり、ここに泊まるわけにもいくまい。春ちゃんも一緒に泊まるんが筋じゃろがな。ほれに酔うたトラが危ないんは、春ちゃんかて対ぞな」
和尚たちの思いがけない言葉に、春子は戸惑いを見せた。千鶴は春子の手を取ると、一緒に泊まってほしいと言った。
「ほやけど、おら……」
春子は少しだけ躊躇したあと、わかったわいと笑顔でうなずいた。
「ほんじゃあ、おらもお世話になるぞなもし。和尚さん、安子さん、どんぞ、よろしゅう頼んます」
春子がぺこりと頭を下げると、千鶴も春子に倣い、よろしゅうお願いしますと和尚夫婦に改めて頭を下げた。
安子とにっこりうなずき合うと、和尚は千鶴たちに言った。
「もうちぃとしたら神社の前にだんじりが集まるけん、二人で見ておいでたらええぞな」
千鶴たちがうなずくと、安子が言った。
「春ちゃん、ここへ泊まることお母さんに言うて来んとね。お夕飯は向こうで食べておいでる?」
春子は千鶴を見た。千鶴は迷ったが、春子の家を訪ねたのであれば、このまま顔を出さないのは失礼になる。
「そがぁさせてもらいますぞなもし」
千鶴が答えると、春子は嬉しそうに笑った。
四
外へ出ると真っ暗だった。安子は提灯に火を灯すと、千鶴たちに持たせた。
「お不動さまにお礼言うてから行こか」
春子が千鶴に声をかけると、和尚も安子もほれがええぞなと言った。
千鶴は法生寺は初めてなので、どこにお不動さまが祀られているのかわからない。春子の後ろについて行くと、暗闇の中に大きな建物があった。本堂だ。その脇には一本の巨木がそびえ立っている。その大きさから見ると、かなり古い木のようだ。
知念和尚はその木を見ながら得意げに言った。
「この楠はでかかろ。聞いた話じゃ樹齢三百年以上になるらしいぞな」
「へぇ、そがぁに古い木なんですか。ほんじゃあ、ずっと昔からこの辺りのことを見よったんじゃろなぁ」
千鶴は巨木を見上げながら近づいて行った。夜空を背景にそびえるその巨木は、まるで大入道だ。
巨木を見上げているうちに、千鶴は突然はっとなった。以前にこんな風に目の前に本物の大入道がいたような気がしたのだが、胸が締めつけられてとても切ない。
もちろん大入道なんか見たことはないし、大入道に切なさを感じる理由がわからない。知らない間に法正寺に寝かされていたり、夢の若侍が頭に飾ってくれた花が本当にあったりと、奇妙なことが続くので千鶴は気味が悪くなった。
「山﨑さん、お不動さまにお礼言わんと」
春子に声をかけられて我に返った千鶴は、巨木を離れて本堂へ移動した。すると、本堂は扉が開かれたままで、知念和尚はありゃりゃと言った。
「妙じゃなぁ。ちゃんと閉めたはずなんやが」
首を傾げる知念和尚に、ほじゃけんねと安子が言った。
「千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまじゃて言うたじゃろ? ここが開いとるんが何よりの証ぞな」
和尚は見開いた目で安子を見て、同じ顔のまま本堂を見た。
「なるほど、確かにお前の言うとおりぞな。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、間違いのうお不動さまぞ」
知念和尚は本堂の不動明王に向かって、改めて手を合わせた。隣で安子も明王を拝んでいる。二人の話を聞いていた春子も、ここのお不動さまは本物だと、感激した声で千鶴に言った。
春子はお不動さまが生きていると思っているのか、失礼しますぞなもしと言いながら、怖々本堂に足を踏み入れた。
本堂の中は真っ暗で何も見えない。春子が提灯を掲げると、闇の中に不動明王の姿が浮かび上がり、うわっと春子は声を上げた。
千鶴たちをにらむような不動明王の恐ろしげな顔に、千鶴も一瞬ぎょっとした。だが何故かすぐに懐かしい気持ちになった。初めて見るお不動さまなのに妙なことだった。
不動明王は右手に剣、左手に羂索を持ち、厳めしい顔で鎮座している。その背後には炎となった明王の気迫がめらめらと立ち上っている。
春子は気を取り直して姿勢を正すと、近くに来た安子に提灯を預け、不動明王に手を合わせた。
「お不動さま、今日は山﨑さんを助けていただき、だんだんありがとうございました」
千鶴も安子に提灯を預けて手を合わせると、ありがとうございましたと不動明王にお礼を述べた。しかし頭の中では、あの若侍のことを考えていた。
お礼を述べ終えた春子は、しげしげと暗がりの中の不動明王を眺めながら言った。
「ほれにしたかて、お不動さまは、なしてこげな恐ろしいお顔をしておいでようか?」
千鶴は何となく思ったことを口にした。
「道を踏み外した人らを、力尽くでも本来の道に戻そと考えておいでるけんよ。ほれはな、誰のことも見捨てたりせんいうお不動さまのお気持ちぞな。親が子供を見捨てんのと対なんよ。ほじゃけん、お不動さまは見かけは恐ろしいても、心の優しいお方なんよ」
千鶴の説明に、春子はもちろん、知念和尚と安子も感心した。
「さすがは千鶴ちゃんぞな。まっこと、よう知っとる」
「そげなこと、どこで教えてもらいんさったん? 学校で教えてくれるん?」
「いえ、別に誰にも教わっとりません。ただ思たことを口にしたぎりぞなもし」
千鶴は困惑気味に答えたが、その答えは却って和尚たちを驚かせた。
「やっぱし千鶴ちゃんは、お不動さまとつながっておいでるんじゃねぇ」
「まっこと、千鶴ちゃんはお不動さまの申し子ぞな」
和尚夫婦に続いて、春子も興奮を隠さない。
「山﨑さんて、ほんま頭がええ! やっぱしおらが言うたとおり、山﨑さんはおらより勉強できらい」
「いや、ほやけん、違うんやて」
「違うことあるかいな。物知りやけん、勉強もできるんやんか」
「もうやめてや。物知りやないけん」
春子は笑いながら安子から提灯を受け取ると、和尚たちに挨拶をして山門へ向かった。千鶴も提灯を受け取り和尚夫婦に頭を下げると、春子の後を追いかけた。
五
「石段、急なけん、足下気ぃつけてな」
春子は山門の先にある石段を、提灯で照らしながら言った。
春子が先に立ち、千鶴はその後ろに続いたが、少し石段を下りたところで、千鶴は立ち止まって辺りを見渡した。
西の空には細い月が今にも沈みそうに浮かんでいる。その下にある海は恐ろしいほど真っ黒だ。左手に見える丸く黒い影は鹿島だろう。
海から顔を戻すと、石段の正面には北城町がある。道の両脇に並ぶ商店の軒先を電灯が照らしているので、そこだけが闇の中に浮かび上がって幻想的だ。
そこから東には田んぼが広がるが、どこもほとんど真っ暗で、何がどこにあるのかはよく見えない。集落のある辺りだけに、祭礼用と思われる提灯の明かりが集まっている。そのさらに向こうには黒々とした山が、風寄を取り囲みながら並びそびえている。
千鶴は夜の風寄を眺めながら、いったい自分はどこにいたのだろうと考えた。だが、春子の家にいたことすら忘れているのだ。どこにいたのかなど思い出せるはずがない。
ここへは春子に祭りに誘われて来た、ということは思い出していた。それがこんな奇妙なことになったのには、少なからぬ不安を感じている。ただ、何だか自分はこの土地に引き寄せられたみたいな気もしていた。
千鶴はそっと胸に手を当てた。懐には頭に飾られていた野菊の花が入っている。
どこからこの寺へ運ばれたのかはわからない。でも、運んでくれたのはこの花を飾ってくれた人に違いない。お不動さまではないと絶対に言い切ることはできないが、やはりそうではないと思う。お不動さまは優しい方ではあるけれど、女子の頭に花を飾るのはお不動さまらしくない。
助けてくれたのが人間であるならば、その人は自分に好意を抱いてくれたのか。そんな人が本当にいたなら嬉しいけれど、それにしてもやはり不自然だ。それに姿を消す理由もわからない。花を飾ったのが恥ずかしかったのだろうか。
「山﨑さん、何しよんよ。早よ下りといでや」
千鶴に気づかず一人で先に下りてしまった春子が、提灯を掲げて叫んだ。
「ごめんごめん。ちぃと考え事しよったけん」
もう一度上がって来た春子は、不安げに言った。
「考え事て何? おらの家のこと思い出したん?」
「まだ何も思い出せとらん。ほやのうて、うちをここまで運んでくれたお人のことを考えよったんよ」
「お不動さまやのうて?」
「お不動さまが花飾ったりせん思うんよ」
「じゃったら、誰やて思うん?」
千鶴の頭に浮かぶのは、あの若侍だ。姿を見せないことを考えても、やっぱり若侍しかいないと思えてしまう。
だけど、その話は他人に聞かせたくはなかった。ややこしいことになるからだけでなく、あの若侍との幸せは自分だけのものにしておきたかった。
「誰やなんてわからんわね。この村の人らは、みんな知らん人ぎりじゃけん」
「ほら、ほうじゃな。ほんでも村の誰かやとしたら、山﨑さん一人残しておらんなるいうんは妙な話じゃね」
「うちに花飾ったんが恥ずかしかったんかもしらんね。けんど、うちがどこぞに倒れよったとして、うちを見つけて頭に花飾るんも、やっぱし妙な話ぞな」
「ほうじゃなぁ。確かに妙な話よなぁ。そげなことしよる暇あったら、誰ぞを呼びに行くもんなぁ」
「じゃろ? ほじゃけん、こげなことしたんは――」
千鶴はそこで口を噤んだ。
こんなことをしたのはあの若侍だと言いたくてたまらなかった。でも、それは自分だけの秘密である。
「どしたんね。こげなことしたんは誰なんよ?」
「さぁねぇ。誰じゃろかねぇ」
自然と明るくなった千鶴の声が春子を刺激した。
「なぁ、誰なんよ。誰ぞ心当たりがあるんじゃろ?」
「そげなもん、あるわけなかろがね。うちはここでは余所者で。誰っちゃ知っとるお人なんぞおらんけん」
「ほやけど、何ぞ知っとるみたいな口ぶりやったで」
「ほんなことないて。気のせいやし」
「ほの物言いが怪しいんよ」
「もう、この話はおしまい。ほれより早よ戻らんと、村上さんのお家の人らが気ぃ揉んどらい」
ほうじゃったと言い、春子はまた先に立って石段を下り始めた。千鶴もそのあとに続いたが、少し下りた所でもう一度立ち止まった。
「どがぁしたん? 今度は何?」
山門を見上げる千鶴に、下から春子が声をかけた。
春子に顔を戻した千鶴は、何でもないと言った。だけど本当は誰かに上から見られていたような気がしていた。もし誰かがいるのだとすれば、きっと自分を助けてくれた人に違いない。
千鶴は誰もいない山門を振り返ると、ぺこりと頭を下げた。
「誰に頭下げよるん?」
訝しげな春子に、お不動さまだと千鶴は言った。そういうことにしておいた。
「ほな、行こ」
千鶴は春子を促し石段を下りた。後ろが気になってはいたが、石段を上ったところで誰もいないのはわかっていた。その何者かは、千鶴の前に姿を見せないと決めているのだろう。そうであるなら、相手を探しても無駄なことだった。