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飾られた花

     一

 愛らしい野菊の花が一面に咲いている。
 後ろに束ねた千鶴の髪が、時折そよぐ風に揺れる。
 すると、花たちも嬉しそうに左右に首を振る。まるで千鶴に話しかけているようだ。
 千鶴はこの花が好きだった。
 千鶴がしゃがんで花を眺めていると、背後で千鶴を呼ぶ声が聞こえた。
 振り向こうとすると、後ろから伸びて来た手が、そっと優しく千鶴の頭を押さえた。その手は摘んだ野菊の花を、千鶴の髪に挿してくれた。
 立ち上がって振り返ると、そこに若い侍が立っていた。
 逆光になっているせいか、侍の顔はよくわからない。それでも若侍が自分と親しい仲なのはわかっている。
 若侍は千鶴を眺めながら嬉しそうに言った。
 ――千鶴。やっぱしおまいには、この花が一番似合うぞな。
 千鶴はとても幸せだった。このまま時が止まればいいと思っていた。
 だがその時、誰かが千鶴の体を強く揺らした。

「山崎さん、しっかりしぃや! 山崎さん!」
 千鶴は肩を揺らされていた。目を開けると、若い娘が泣きそうな顔で、千鶴の顔をのぞき込んでいる。
「気ぃついたんじゃね。よかった! 山崎さんにもしものことがあったら、おら、どがいしよかて思いよった」
 千鶴が体を起こすと、若い娘は千鶴に抱きついて泣いた。
 意識が急速に現実に焦点を合わせた。泣いている若い娘が春子であることを、千鶴は思い出した。
 さっき見ていたのは夢だったらしい。しかし、あの夢の方が現実だったような感じがしている。
 千鶴は現実に引き戻されたことに、腹立たしさを覚えていた。
 自分とあの若侍は本当に惚れ合っていたのである。あのまま若侍と一緒にいられた幸せの中に、ずっと浸っていたかった。
 しかし、目覚めてしまったものは仕方がない。どんなに幸せでも夢の話だ。あきらめるしかない。
 辺りを見回すと、そこは部屋の中で、千鶴がいるのは蒲団ふとんの上だった。
 春子の後ろには、年老いた坊さまと老婦人が座っている。
「ここは……どこぞなもし?」
 たずねる千鶴に、坊さまは微笑みながら言った。
「ここは法生寺ほうしょうじという寺でな。わしは知念ちねん。隣におるんは、わしの女房の安子やすこぞな」
「法生寺?」
 聞いたことがある名前だと思ったあと、千鶴ははっとなった。
「法生寺て、うちのお母さんがお世話になったお寺?」
 そう言ってから、千鶴は慌てて自分と母の名を告げた。母が世話になった寺の名を、法生寺だと千鶴は聞いていた。
 知念和尚は、わかっとるぞな――とうなずいた。
「千鶴ちゃんが幸子さちこさんの娘さんじゃいうんは、春ちゃんから話を聞いてわかったぞな。お母さんは元気にしておいでるかな?」
 安堵あんどした千鶴は、母は今でも和尚夫婦に感謝していると伝えた。
 和尚たちは嬉しそうにうなずき合い、安子は感慨深げに言った。
「あん時、幸子さんのおなかん中おった子が、こげなきれいで立派な娘さんに育ったやなんてなぁ……。ほれにしても、千鶴ちゃんが目ぇ覚ましてくれてよかったぞな。今、お医者呼ぼかて言いよったとこなんよ」
 安子に褒めてもらった千鶴は、気恥ずかしくて下を向いた。しかし、すぐに我に返ると顔を上げた。
「うち、いったい――」
 自分に何があったのかと、千鶴は訊ねようとした。だが、その前に春子が待ちかねたように言った。
「おら、山崎さんのこと探しよったんよ。けんど、どこ探してもおらんけん、もしや思てここへ来てみたんよ。ほたら、表で倒れよった言われてな……。ほっとしたけんど、ほんまに心配したんで」
 春子の言葉に千鶴は当惑した。
「ち、ちぃと待ってや。うちがどこで倒れよったて?」
 倒れるようなことがあった覚えはない。うろたえる千鶴に、ここで倒れていたと春子は言った。
 驚く千鶴に、知念和尚が説明した。
「ちょうどわしと安子が、幸子さんは今頃どがぁしておいでるじゃろかて、話しよった時のことぞな。いきなしどんどんどんと玄関の戸を叩く奴がおったんじゃ。誰じゃろ思て出てみたらな、千鶴ちゃんがそこに倒れよったんよ」
「倒れよった言うよりは、寝かされよった言うんが正しいぞな」
 安子が和尚の言葉を訂正した。
 安子によれば、千鶴は髪も着物も乱れないまま、真っ直ぐ仰向けに寝かされていたらしい。履いていたはずの草履は、千鶴の脇にきちんと並べられてあったそうだ。
「じゃあ、誰ぞがうちをここまで運んだいうこと?」
 千鶴は三人の顔を順番に見た。だが千鶴の様子に、みんな困惑しているようだ。
 安子が和尚に目を向けると、和尚は少し戸惑いながら言った。
「千鶴ちゃんが自分でここへ来たんやないんなら、ほういうことになるんかの。ほんでも、誰が千鶴ちゃんをここへ運んだんかは、わしらにもわからんぞな」
 安子も和尚に続けて言った。
「千鶴ちゃんに何があったんかも、うちらにはわからんのよ」
「山崎さん、おらの家飛び出したあと、なんがあったん?」
 春子が焦ったようにいたが、千鶴は春子の言っていることがわからない。
「うち、村上さんの家におったん?」
 春子の顔が引きつった。
「山﨑さん、大丈夫なん? どっかで頭ぶつけたんやないん?」
「千鶴ちゃん、春ちゃんに誘われて、名波村のお祭り見に来たんじゃろ?」
 安子に言われると、千鶴はそうだったような気がした。しかし、今一つはっきりと思い出せない。何だか頭の中にもやがかかったような感じだ。
 何とか思い出そうと、何気なく右手で頭を押さえると、指先に何か柔らかい物が触れた。何だろうと手に取って見ると、それは野菊の花だった。

     二

「あれ? 何ぞな、これは? なして、こげなもんがうちの頭にあるん?」
 頭にあった野菊の花を見て千鶴は驚いた。だが、すぐにさっき見た夢を思い出し、これは夢の続きなのかといぶかった。
「その野菊、千鶴ちゃん、自分で飾ったんやないん?」
 訊ねる安子に首を振りながら、千鶴はみんなの顔を見回した。これはまだ夢の中で、自分は本当は目を覚ましていないのかもしれないと疑っていた。
「あん時は、山﨑さん、花なんぞ飾っとる状態やなかったけん、おら、和尚さんらが挿してやったんかて思いよった」
 春子は千鶴が持つ花を見ながら不思議そうに言った。
「あん時て?」
 千鶴が訊ねると、春子は少し困ったような顔になった。
「あのな、言いにくいことなけんど、おらんとこのひぃばあちゃんがな、山﨑さんを傷つけるようなこと言うてしもたんよ」
「ほうなん?」
「ほんでな、山﨑さん、おらの家飛び出して行方知れずになっとったんよ」
 千鶴には春子が言うような記憶がない。訳のわからないこの状況を、やはり夢なのかと千鶴が考えていると、知念和尚が心配そうに言った。
「千鶴ちゃん、何も思い出せんか」
 千鶴は一応思い出そうとしてみた。すると、春子と一緒に客馬車に乗っていたような気がした。
「何か、客馬車に乗りよったんは思い出したんですけんど、そのあとのことは何も……」
「どがいしましょ。やっぱしお医者を呼んだ方が――」
 心配する安子の言葉を遮り、和尚は言った。
「いや、医者を呼んだとこで、千鶴ちゃんの記憶が戻るとは思えんぞな。別に具合ぐわいわるないんなら、このまま様子を見よってもかまんじゃろ」
 そうは言っても、春子は不安げな様子だ。千鶴の頭を触りながら傷がないかを確かめた。
「山﨑さん、どっか痛いとこないん?」
 千鶴は大丈夫ぞなと言って笑ってみせた。
「どこっちゃ具合ぐわい悪いとこはないんよ。ただ、頭の中がすっきりせんぎりぞな」
「ほれを具合ぐわい悪い言うんやないん?」
「ほうなんか」
 千鶴は苦笑した。
 確かに頭がすっきりしないのは、尋常とは言えないのかもしれない。しかしこれが夢であるのなら、すっきりしなくても不思議ではない。
「ほれにしても、千鶴ちゃんの頭にあったそのお花、誰が飾ってくんさったんじゃろねぇ」
 安子が思い出したように言うと、知念和尚もうなずいた。
「ほうじゃほうじゃ。その花は千鶴ちゃんに何があったんかいうんと関係あるに違いないぞな」
「ほれに、千鶴ちゃんをここまで運んだんが、誰かいうんも問題ぞなもし」
「全くぞな。さらに言うたら、なしてここへ千鶴ちゃんを運んだんかやな」
「ほれと、千鶴ちゃんを運んでおきながら、何も言わいでぬる言うんも気になりますわいねぇ」
 和尚夫婦のやり取りを聞いていた春子が、自信なさげに言った。
「何とのうやけんど、おら、その花が山﨑さんを慰めるためのもんような気がするぞな」
「うちを慰める?」
 千鶴は春子を見た。
「ほれはどがぁなことかな?」
 知念和尚が訊ねると、春子はしょんぼりした様子で説明した。
「山﨑さんが何も思い出せんのは、ほれが山﨑さんにとって嫌なことやけんと、おらは思うんぞな」
「嫌なことじゃったら、今までも何べんもあったけんど、忘れたことはないで。逆に忘れとうても忘れられんもん」
 千鶴の話に、ほれはほうなんやけんど――と春子は言った。
「確かに、嫌なことは忘れるもんやないよ。ほやけんな、誰ぞがほれを忘れさすために、山﨑さんの記憶をさしたんやないかて、何とのう思たんよ」
「誰ぞて、誰ぞな?」
「ほれはわからん。けんど多分、その誰かが山﨑さんをここまで連れて来て、山﨑さんの頭に花飾ってくれたんよ」
 なるほどなるほどと和尚はうなずいた。
「春ちゃんの言うことには一理あるな。ただ、そげなことができるんは人間やないぞな」
「人間やないんなら、たのきじゃろか?」
 ふざけているようにも聞こえるが、春子は大真面目おおまじめだ。それに対して、知念和尚も真面目に応じた。
たのきには千鶴ちゃんをこの寺へ運ぶ理由がなかろ? つまり、これは狐狸妖怪のたぐいの仕業しわざやないな」
「じゃったら、誰が……」
 春子は真剣な様子で考え込んでいる。
 一方で、千鶴の頭には若侍の姿が浮かんでいた。
 さっきの夢の中で、あの若侍は千鶴に野菊の花を飾ってくれた。そして目覚めた時に、同じ花が同じ場所に飾られていたのである。素直に考えれば、千鶴に花を飾ってくれたのはあの若侍のはずだ。
 だが若侍は夢の中の人物だ。夢の人物が現実に出て来るなど有り得ない。それでも、まだ自分が夢の中にいるのなら、若侍が飾ってくれた花が頭に残っていても妙ではない。和尚たちが事情を知らないだけのことである。
 わかったぞな!――と突然、安子が叫んだ。
「何がわかったんぞな?」
 怪訝けげんそうな和尚に、お不動さまぞなもし――と安子は言った。
「お不動さまはうちの御本尊さまやし、幸子さんがここで暮らしよった時、幸子さんのお腹には千鶴ちゃんがおったじゃろ? ほじゃけん、お不動さまは千鶴ちゃんのこともご存知のはずぞな」
 なるほど!――和尚は興奮したように膝を叩いた。
「お不動さまなら姿消したんも説明つこう! 安子、さすがはわしの女房じゃ。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまに違いない!」
 和尚は手を合わせると、目を閉じて念仏を唱えた。
 春子もこの意見には納得したらしい。安子と一緒に目をつぶって手を合わせた。
 しかし、千鶴は花を飾ってくれたのはあの若侍だと思っている。思っていると言うより、知っていると言う方が正しい。
「あのぅ……」
 花は若侍が挿してくれたものだと千鶴は話そうとした。しかし、和尚たちの視線が集まると、何だか気恥ずかしくなった。
「これは、まだ夢の続きなんかなもし?」
 遠慮がちな千鶴の言葉に、みんなはきょとんとしている。
 千鶴が少しうろたえると、夢の続きて?――と春子が言った。
「いや、ほやけんな、うちはまだ夢ん中におるんじゃろかて訊いとるんよ」
 春子は千鶴に自分の頬をつねってみるように言った。千鶴は右手で自分の頬を抓り、痛っ!――と声を上げた。
「どがいね? まだ夢見よるみたいな感じする?」
 心配そうに訊ねる春子に、千鶴は首を振った。
「千鶴ちゃん、大丈夫か? まだ頭が妙な感じがするんか?」
「お医者を呼ぶ?」
 知念和尚と安子も心配げに言った。千鶴は大丈夫ですと言いながら、そっと右手で左手を抓ってみた。すると、やはり痛かった。
 と言うことは、これは夢ではなく現実か。だとすると、この頭に飾られた花は何なのかと、少し怖いような驚きが千鶴の中で急激に膨らんだ。
「山﨑さん、何の夢を見よったん?」
「え?」
「ほやかて、さっき夢の続きかて言うたじゃろ?」
「いや、ほやけん、何か夢を見よったような気がしたけんな、ほれで訊いてみたぎりぞな」
 千鶴は笑ってごまかした。
 若侍の夢の話はできなかった。そんな話をすれば、またみんなが不思議がり、話がややこしくなるような気がした。
 そうは言っても、お不動さまがやったことだという話には、千鶴は合点がてんが行かなかった。
 どこかで倒れていた千鶴を、ここまで運んで来てくれたというだけであれば納得できる。だが、お不動さまが花を飾るというのは妙である。それは怖い姿のお不動さまに似つかわしくない。
 今が夢ではなく現実だとしても、やはり花を飾ってくれたのは、あの若侍に違いないと千鶴は思っていた。ただ、夢の中の人物がどうやって現実に花を飾るのかということまでは、さっぱりわからなかった。
「ところで千鶴ちゃんは、今晩は春ちゃんとこでお世話になるん?」
 安子が思い出したように訊ねた。千鶴の謎が解けたことですっかり安心した様子だ。
 千鶴は少しうろたえた。
 何も覚えていないのだが、春子の話によれば、春子の曾祖母がひどいことを言ったため、自分は春子の家を飛び出したということである。だとすると、春子の家に泊めてもらうことには気が引ける。
 かと言って、ここに泊めてもらいたいとは言えない。そんなことを言えば、春子が悲しむのは目に見えている。
 千鶴が言葉を濁していると、ここに泊めてもらいや――と春子が言った。
「よう考えたら、今日はお祭りじゃろげ? うちには酔うた男衆おとこしがようけ集まるけん、うちに泊まるんはやめといた方がええぞな。泊まったら、山崎さん、絶対夜這よばいかけられるで」
「夜這い? うちに?」
 自分のような醜い女に手を出そうとする男がいるなど、千鶴には考えられなかった。だが春子は真顔だ。
「山崎さんは美人じゃけんな。色目で見る男はなんぼでもおるで。ほやけん、今晩はここで泊めてもろた方がええぞな」
「何言いよんよ。うちなんぞ、ちっとも美人やないし」
 千鶴は春子の言い草が面白くなかった。お世辞にしたって、もう少し気の利いたことを言うべきだ。
 和尚夫婦が褒めてくれるのならわかる。社交辞令だ。しかし、春子に褒められても、わざとらしく聞こえるだけだ。
 ただ、あの若侍だけは別である。若侍の言葉に嘘はない。
 ――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
 幸せな気分を思い出し、つい笑みがこぼれたようだ。千鶴が喜んでいると思ったのか、安子も和尚も春子に口をそろえた。
「うちも千鶴ちゃんは別嬪べっぴんさんや思うぞな」
「わしもそがぁ思う。ほじゃけん、酔っぱろうた虎がうじゃうじゃおるとこにはおらん方がええ」
 ここへ泊まって行かんかな――と和尚は言った。
 千鶴は嬉しかった。だが、そうしますとは簡単には言えない。千鶴が遠慮して黙っていると、今度は安子が言った。
「ね、ここにお泊まんなさいな。そがぁしてもらえたら、うちらも嬉しいけん」
 千鶴はようやく素直にうなずいた。和尚夫婦は顔を見交わして喜んだ。
 春子も喜んでいたが、ちょっぴり寂しげでもあった。すると、安子が春子に言った。
「春ちゃん。あんたもここに泊まるじゃろ?」
「え? おらも?」
 和尚が当然という顔で言った。
「千鶴ちゃんぎり、ここに泊まるわけにもいくまい。春ちゃんも一緒に泊まるんが筋じゃろがな。ほれに、酔うた虎が危ないんは、春ちゃんかてついぞな」
 春子は驚いたように千鶴を見た。千鶴は春子の手を取ると、一緒に泊まって欲しいと言った。
「ほやけど、おら――」
 春子は少しだけ躊躇ちゅうちょしたあと、わかったわい――と嬉しそうにうなずいた。
「ほんじゃあ、おらもお世話になるぞなもし。和尚さん、安子さん、どんぞ、よろしいにお願いします」
 春子はぺこりと頭を下げた。千鶴も春子にならい、和尚夫婦に改めて、よろしいにお願いします――と頭を下げた。
 嬉しそうに安子とうなずき合うと、和尚は千鶴たちに言った。
「もうちぃとしたら神社の前にだんじりが集まるけん、二人で見ておいでたらええぞな」
 千鶴たちがうなずくと、安子が言った。
「春ちゃん、ここへ泊まることお母さんに言うてんとね。お夕飯いはんは向こうで食べておいでる?」
 春子は千鶴を見た。
 千鶴は迷ったが、このまま顔を出さねばイネやマツに失礼だ。
「そがぁさせてもらいますぞなもし」
 千鶴が答えると、春子は嬉しそうに笑った。

     三

 外へ出ると真っ暗だった。安子が提灯ちょうちんを貸してくれた。
「お不動さまにお礼言うてから行こか」
 春子がそう言うと、和尚も安子も、ほれがええぞなと言った。
 千鶴は法生寺は初めてなので、どこにお不動さまがまつられているのかわからない。
 提灯を持った春子の後ろについて行くと、暗闇の中に大きな建物があった。
 その建物の脇には一本の巨木がそびえ立っている。その大きさから見ると、かなり古い木のようだ。
 和尚は得意げに言った。
「でかいじゃろ。聞いた話では、樹齢数百年らしいぞな」
「へぇ、そがぁに古い木なんですか。ほんじゃあ、ずっと昔から、この辺りのことを見よったんじゃろなぁ」
 千鶴は巨木を見上げながら近づいて行った。
 闇の中にそびえる巨木は、まるで巨大な獣のように見えた。
 突然、はっとなった千鶴は胸が締めつけられた。
 どうしてなのかはわからない。しかし、巨木に重なる巨大な何かの陰影は、千鶴を切ない想いにさせた。
「山﨑さん、お不動さまにお礼言わんと」
 春子に声をかけられて我に返った千鶴は、巨木を離れて本堂へ移動した。すると、本堂は扉が開かれたままで、知念和尚はありゃりゃと言った。
「妙じゃなぁ。ちゃんと閉めたはずなんやが」
 首をかしげる知念和尚に、ほじゃけんね――と安子が言った。
「千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、お不動さまじゃて言うたじゃろ? ここが開いとるんが何よりの証拠ぞな」
 和尚は驚いたように安子を見て、同じ顔のまま本堂を見た。
「なるほど、確かにお前の言うとおりぞな。千鶴ちゃんをここへ連れておいでたんは、間違いのうお不動さまぞな」
 知念和尚は本堂の不動明王に向かって、改めて手を合わせた。隣で安子も同じように拝んでいる。
 二人の話を聞いていた春子も、ここのお不動さまは本物だと、感激したように千鶴を振り返った。
 お不動さまが生きていると思っているのだろうか。失礼しますぞなもしと言いながら、春子は怖々の様子で本堂に足を踏み入れた。
 本堂の中は真っ暗で何も見えない。春子が提灯を掲げると、闇の中に不動明王の姿が浮かび上がり、うわっと春子は声を上げた。
 千鶴たちをにらむような不動明王の恐ろしげな顔に、千鶴も一瞬ぎょっとした。だが何故か、すぐに懐かしい気持ちになった。初めて見るお不動さまなのに妙なことだった。
 不動明王は右手に剣、左手に羂索けんさくを持ち、いかめしい顔で鎮座している。その背後には炎となった不動明王の気迫が、めらめらと立ちのぼっている。
 春子は気を取り直したように姿勢を正すと、近くに来た安子に提灯を預け、不動明王に手を合わせた。
「お不動さま、今日は山﨑さんを助けていただき、だんだんありがとうございました」
 千鶴も春子の隣で手を合わせると、ありがとうございましたと不動明王にお礼を述べた。しかし頭の中では、あの若侍のことを考えていた。
 お礼を言い終えた春子は、しげしげと暗がりの中の不動明王を眺めた。
「ほれにしたかて、お不動さまは、なしてこげなおとろしい顔をしておいでるんじゃろか?」
 千鶴は何となく思ったことを口にした。
「道を踏みはずした人らを、力尽くでも本来の道に戻そと考えておいでるけんよ。ほれはな、誰のことも見捨てたりせんいうお不動さまのお気持ちぞな。親が子供を見捨てんのとついなんよ。ほじゃけん、お不動さまは見かけはおとろしいても、心の優しいお方なんよ」
 千鶴の説明に、春子はもちろん、知念和尚と安子も感心したようだった。
「さすがは千鶴ちゃんぞな。まっこと、よう知っとる」
「そげなこと、どこで教えてもらいんさったん? 学校で教えてくれるん?」
「いえ、別に誰にも教わっとりません。ただ思たことを口にしたぎりぞなもし」
 千鶴は困惑気味に答えた。だが、その答えはかえってみんなを驚かせたようだった。
「やっぱし千鶴ちゃんは、お不動さまとつながっておいでるんじゃねぇ」
「まっこと、千鶴ちゃんはお不動さまの申し子ぞな」
 和尚夫婦に続いて、春子も興奮した様子で言った。
「山﨑さんて、ほんま頭がええ! やっぱしおらが言うたとおり、山﨑さんはおらより勉強できらい」
「いや、ほやけん、違うんやて」
「違うことあるかいな。物知りやけん、勉強もできるんやんか」
「もうやめてや。物知りやないけん」
 春子は笑いながら安子から提灯を受け取ると、和尚たちに挨拶をして寺の門へ向かった。
 千鶴も和尚夫婦に頭を下げ、春子のあとを追いかけた。

     四

「石段、急なけん、足下気ぃつけてな」
 春子は、寺門の先にある石段を照らしながら言った。
 西の空に細い月が、今にも沈みそうに浮かんでいる。その下には黒い海が見える。
 千鶴は立ち止まるとぼんやり海を眺めながら、いったい自分はどこにいたのだろうと考えた。しかし、春子の家にいたことすら忘れているのだから、どこにいたのかなど思い出せるはずがなかった。
 ここへ来たのは春子に祭りに誘われたからだ、ということは思い出していた。それがこんな奇妙なことになったことに、少なからぬ不安を感じている。ただ、何だか自分はこの土地に引き寄せられたような気もしていた。
 千鶴はそっと胸に手を当てた。懐には頭に飾られていた野菊の花が入っている。
 どこからこの寺へ運ばれたのかはわからない。しかし、運んでくれたのはこの花を飾ってくれた人に違いない。お不動さまではないと絶対に言い切ることはできないが、やはり違うと千鶴は思った。
 お不動さまは優しい方ではあるけれど、女子おなごの頭に花を飾るというのはお不動さまらしくない。
 助けてくれたのが人間であるならば、自分に好意を抱いてくれている人だろう。そうでなければ花など飾るはずがない。
 でも、それがこの村の誰かだとしても、姿を消す理由がわからない。花を飾ったことが恥ずかしかったのだろうか。
「山﨑さん、何しよんよ。一緒に下りんと足下見えんけん、危ないじゃろげ」
 千鶴に気づかず一人で先に下りてしまった春子が、提灯を掲げて叫んでいた。
「ごめんごめん。ちぃと考え事しよったけん」
 もう一度上がって来た春子は、不安げに言った。
「考え事て何? おらの家のこと思い出したん?」
「まだ何も思い出せとらん。ほやのうて、うちをここまで運んでくれたお人のことを考えよったんよ」
「お不動さまやのうて?」
「お不動さまが花飾ったりせん思うんよ」
「じゃったら、誰やて思うん?」
 千鶴の頭に浮かぶのは、あの若侍だ。思い出しただけで嬉しいような恥ずかしいような、そんな気持ちになる。
 だが、その話を他人に聞かせたくはなかった。ややこしいことになるからだけでなく、あの若侍との幸せは自分だけのものにしておきたいと思っていた。
「誰やなんてわからんわね。この村の人らは、みんな知らん人ぎりじゃけん」
「ほら、ほうじゃな。ほんでも村の誰かやとしたら、山﨑さん一人残しておらんなる言うんは妙な話ぞな」
「うちに花飾ったんが恥ずかしかったんかもしらんね。けんど、うちがどこぞに倒れよったとして、そのうちを見つけて頭に花飾るんも、やっぱし妙な話ぞな」
「ほうじゃなぁ。確かに妙な話よなぁ。そげなことしよる暇あったら、誰ぞを呼びに行くもんなぁ」
「じゃろ? ほじゃけん、こげなことしたんは――」
 千鶴はそこで口をつぐんだ。
 こんなことをしたのはあの若侍だと、千鶴は言いたくてたまらなかった。でも、やはりそのことは秘密にしていたかった。
「どしたんね。こげなことしたんは誰なんよ?」
「さぁねぇ。誰じゃろかねぇ」
 千鶴の声は自然と明るくなった。それが春子を刺激した。
「なぁ、誰なんよ。誰ぞ心当たりがあるんじゃろ?」
「そげなもん、あるわけなかろがね。うちはここでは余所者よそもんで。知っとるお人なんぞ一人もおらんぞな」
「ほやけど、何ぞ知っとるみたいな口ぶりやったで」
「ほんなことないて。気のせいぞな」
「ほの物言いが怪しいんよ」
「もう、この話はおしまい。ほれより早よ戻らんと、村上さんのお家の人らが気ぃ揉んどるかもしれんぞな」
 ほうじゃったと言い、春子はまた先に立って石段を下り始めた。千鶴もそのあとに続いたが、少し下りた所でまた立ち止まった。
「どがぁしたん? 今度は何ぞな?」
 寺の門を見上げる千鶴に、下から春子が声をかけた。
 千鶴は春子に顔を戻すと、何でもないと言った。でも本当は、誰かに上から見られていたような気がしていた。
 もし誰かがいるのだとすれば、きっと自分を助けてくれた人だろう。千鶴は誰もいない寺の門に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「誰に頭下げよるん?」
 怪訝そうな春子に、お不動さまだと千鶴は言った。そういうことにしておいた。
「ほな、行こ」
 千鶴は春子をうながし石段を下りた。後ろが気になってはいたが、石段を登ったところで、誰もいないのはわかっていた。
 その何者かは、千鶴の前に姿を見せないと決めているのに違いない。そうである以上、相手を探しても無駄なことだった。