がんごめ
一
「ほうかな。おとっつぁんはロシアのお人なんかな」
割烹着を着た春子の祖母マツは、千鶴の話に大きくうなずいた。
薄暗くなった空間を、土間の竈と囲炉裏の火が暖かく照らしている。その囲炉裏を囲んで千鶴たちは喋っていた。
昼間はまだ暖かいが、日が翳るとすぐにひんやりした感じが染み出して来る。夕暮れ時の今、囲炉裏の火はとても有り難かった。
土間にある台所では春子の母イネが、春子の兄嫁の信子と竈で飯を作りながら、千鶴たちの話を聞いている。
そんな春子の家族に千鶴の緊張は続いていた。
春子は女子師範学校に入学した時に、同級生にロシア人の親を持つ生徒がいることを家族に話していた。しかし、この日訪ねて来るのがその生徒であることは、うっかり伝えていなかったらしい。
春子に家の中へ招き入れられた千鶴を見ると、マツたちはとても驚いた顔を見せた。その様子に千鶴は血の気が引いた。
それでもマツもイネも驚いただけで嫌悪のいろは見せなかった。土産の饅頭を喜んで受け取り、千鶴を歓迎してくれた。
一方、信子は無口な嫁で、義母たちに遠慮しているのか、千鶴が挨拶をした時も黙って会釈をしただけだった。
本当のところ、千鶴にはマツたちの心の内がわからなかった。千鶴に嫌な顔を見せないのは、千鶴を親友だと言う春子を気遣ってのことかもしれないのである。それで囲炉裏端へ上げられても、千鶴はずっと気を張ったままだった。
それに夕日を見た時のような感情が、いつ込み上げて来るかもわからない。さっきは何とか春子をごまかしたが、マツたちを前にして同じようになったなら、絶対に気づかれてしまうだろう。そのことも千鶴を緊張させていた。
いずれにせよ、とにかくいい印象を持ってもらおうと、千鶴はできる限り丁寧な姿勢で喋ることを心掛けた。
今のところはマツもイネも好意的に見える。二人とも村長の家族なのに、少しも威張った感じがなく温かい人柄のようだ。
ただ、信子は千鶴の話に交ざろうとせず、台所で黙々と手を動かしていた。その様子が千鶴には少し冷たい感じに見えた。
しかし春子はそんなことにはまったく無頓着で、千鶴について得意顔で説明した。
「山﨑さんのおとっつぁんはロシアの兵隊さんでな。おっかさんはおとっつぁんが入院しよった病院の看護婦さんやったんよ」
父親がロシア人だと言えば、それだけで日露戦争の捕虜兵だったとわかるに決まっている。だから春子の母も祖母もそのことを敢えて確かめようとはしなかったのだと、千鶴は受け止めていた。
それは千鶴への思いやりかもしれないが、ただの当惑かもしれなかった。それをわざわざロシアの兵隊だと、春子にはっきり告げられて千鶴は戸惑った。
それに、信子の動きが一瞬止まったのを千鶴は見逃さなかった。やはり信子は千鶴がロシア兵の娘であることに、何らかのわだかまりがあるのだろう。
マツは春子の説明に、ほうかね――ともう一度うなずいたが、特別な変化は見せなかった。イネも何も言わなかった。無関心を装っているような妙な雰囲気だ。
千鶴の中で不安がぐるぐる回り出した。その時、マツがぽつりと言った。
「千鶴ちゃんも苦労したんじゃろね」
マツの言葉は千鶴の胸を打った。そんな言葉をかけてもらえるとは思いもしていなかった。返事をしようとすると涙が出そうになって、千鶴は言葉を返せなかった。
マツは黙って囲炉裏に吊した土瓶を外すと、千鶴たちにお茶を淹れてくれた。
台所のイネは千鶴たちを振り返ると、部屋の隅にある棚に、昼に食べた残りのおはぎがあると言った。
「千鶴ちゃん、おはぎ食べるじゃろ?」
イネのにっこりした笑顔を見ると、涙がぽろりと千鶴の目からこぼれ落ちた。
千鶴は慌てて涙を拭うと、いただきます――と笑顔で言った。
千鶴の涙には春子も少しうろたえたようだった。しかし、千鶴がおはぎを食べると言ったので、元気よく立ち上がると、棚からおはぎが載った皿を運んで来た。
「信子さんも食べん?」
春子が声をかけると、信子は微笑みながら首を横に振った。
「お昼にたんといただきましたけん、ほれは春ちゃんたちで食べてつかぁさい」
ほんじゃあ――と言って、春子は千鶴の隣に腰を下ろし、二人の間に皿を置いた。皿の上には大きなおはぎが四つ載っている。あんこがたっぷりでとても美味しそうだ。
千鶴の心の中は、心配と安心がぶつかり合っていた。
しかし、おはぎを目の前に置かれると、昼を食べずに来たことを思い出し、急に空腹に襲われた。
「今日はばたばたしよったけん、お昼もちょこちょこっと食べたぎりなんよ。ほじゃけん、ちょうどお腹が空きよったとこやし」
春子はマツたちに嬉しそうに言った。
村上さんはお昼を食べて来たんかと、千鶴は少しむっとした気分になった。
でも、春子に罪はない。千鶴が松山の自宅まで歩いて戻らねばならなかったのは、春子の責任ではない。学校の規則である。三津ヶ浜から松山まで春子が電車に乗られたのも、千鶴と春子とでは家の事情が違うのだ。
それでも千鶴は、いろいろと恵まれている春子が羨ましかった。
二
「ほら、山﨑さん、遠慮せんで、お食べな」
春子に促され、千鶴はおはぎを手に取った。
これをいただけるのだから、もう昼飯のことは忘れよう。そう思って、千鶴はおはぎを口元へ運んだ。
その時、春子がおはぎを手に持ちながら言った。
「山﨑さんは、おとっつぁんの方の血ぃが濃いんよね」
おはぎを食べようと、口を開けていた千鶴はぎくりとなった。
春子はまだ千鶴のことを説明したいらしい。千鶴に話しかけながら、その目はマツとイネに交互に向けられていた。
しかし、自分の容貌のことを話題にされるのは、千鶴は好きではなかった。それにどちらの親の血が濃いのかは、説明しなくても見ればわかるものである。
千鶴はちらりと春子を見たあと、口元に運んだ手を膝の上に降ろして言った。
「うちの肌が白いんとか、目ぇの辺りなんかは、父に似ぃとるそうです。けんど、鼻とか口元は母似やそうです。髪の毛とか目ぇの色が薄いんは、父親の血ぃでしょうけんど、色が茶色っぽいんは、母親の血ぃやと思とります」
千鶴は少しでも自分が、日本人である母と似ていることを強調したかった。だが、それは肌が雪のように白く、ほとんどロシア人のような顔つきであることへの劣等感の裏返しだった。
マツもイネもうんうんとうなずくだけで、千鶴の顔についていろいろ言わなかった。それで千鶴が少しほっとしたところで、また春子が楽しげに喋った。
「山﨑さんの背ぇが高いんは、おとっつぁんの血ぃやな」
確かに、千鶴は他の生徒から比べても背は高い方だ。しかし、それは女子にとって自慢できることではない。
それでも、春子は千鶴を援護しているつもりなのだろう。今度は千鶴の成績を褒め立てた。
「ばあちゃん、山﨑さんはな、学校でも成績優秀なんで。やけん、先生からの評判もええんよ」
「ちぃと村上さん。そげな嘘は言うたらいかんぞな」
自分では成績が優秀だなどとは思ったことがない。もっと成績がいい生徒はいくらでもいる。
だが千鶴が文句を言っても、嘘やないで――と春子は取り合わない。
「山﨑さん、試験ではいっつもおらよりええ点取るやんか」
「ほやけど、うちの点なんか大したことないぞな」
千鶴が言い返すと、イネが笑いながら口を挟んだ。
「問題は春子の点がなんぼか言うことじゃろな」
ほれは、ほうじゃ――とマツも笑った。千鶴も春子も釣られて笑った。しかし、背中を向けている信子の顔はわからない。
笑いが収まると、マツは千鶴に訊ねた。
「ほれで、千鶴ちゃんのおとっつぁんは松山においでるんかね?」
「いえ、父はロシアにおります。あ、今はロシアやのうて、ソビエトれんぽうとかいう名前になったみたいですけんど」
「ソビ?」
「ソビエトれんぽうです」
その国名をイネは言えたが、マツには言いにくそうだった。
「むずかしい名前じゃねぇ。けんど、お国が変わる言うたら大事ぞな。千鶴ちゃん、おとっつぁんとは手紙のやりとりしよるんかな?」
千鶴は、いいえと首を振った。
「母は父に住所を教えんで、父の住所も聞かんかったそうです」
「へぇ、ほれはまた何でぞな?」
「ロシアの兵隊さんと一緒になれるわけないですけん。母は父とのことは思い出として、大切に胸に仕舞とこと思たそうです」
「ほんじゃあ、おとっつぁんは千鶴ちゃんが産まれたことも知らんままなんじゃねぇ」
イネが気の毒そうな顔をすると、マツは励ますように言った。
「ほんでも、千鶴ちゃんにはおっかさんもおいでるし、お家の方もおいでるけん心強いわな」
千鶴はうなずいた。だが、胸の中は複雑だった。
「さてと、もちぃとゆっくり話を聞かせてもらいたいとこなけんど……」
マツは台所の二人を見ると、申し訳なさそうに両膝をさすりながら言った。
「もうまぁ男衆が、だんじりの屋台こさえ終わる頃なけんな。戻んて来て食べるご飯をこさえとかにゃいけんのよ。いつもじゃったらあの二人に任せとくんやけんど、今日はおらもただ座っとるぎりにゃいかんけん」
続いてイネが、竈の火加減を確かめながら言った。
「ほん時に千鶴ちゃんも、みんなとご飯食べたらええよ。七時頃になったら神社の参道に、ここらの屋台が集まるけん、一緒に見に行こわいね。屋台の提灯に火ぃ灯すけん、きれいなで」
春子も母の言葉に合わせて言った。
「半鐘や太鼓をジャンジャンドンドン鳴らすけん、火事で騒ぎよるみたいに聞こえるんよ。ほれに屋台にいっぱい飾った笹が、提灯の明かりで照らされてな、遠目に見よったら、ほんまに火ぃ燃えよるみたいなで」
「千鶴ちゃんと春子はゆっくりしよったらええけん」
二人に声をかけると、マツは立ち上がって腰を伸ばした。すると春子が、自分たちも何か手伝おうかと申し出た。
千鶴はちょっとどきりとしたが、みんなが忙しい中でのんびり座っているわけにもいかない。それに、自分に優しくしてくれたマツたちを手伝いたい気持ちはあった。
イネは土間の隅に置いてあった菜っ葉を拾い上げると、千鶴たちに笑顔を見せながら言った。
「近所の女子衆も家でこさえた物を持て来るけん、まぁ大丈夫言うたら大丈夫なけんど、手ぇ空いとんなら手伝てもらおかいね」
喜んでお手伝いします、と千鶴が言うと、イネもマツも嬉しそうに笑った。しかし、信子は背中を向けたままだった。
春子は家の奥に目を遣ると、ところでな――と言った。
「ヨネばあちゃんはどがいしよるん?」
「部屋におるよ」
「たぶん寝とるな」
イネとマツは代わる代わる答えた。
春子は少しがっかりしたように言った。
「寝とるんか。山﨑さん紹介しよて思いよったのに」
「まぁ、声かけてみとうみ。起きとるかもしらんけん」
マツが言うと、春子はうなずいた。
「一応声かけてみよわい。手伝いはほのあとでも構ん?」
構ん構ん――とマツは言った。
「ほんでも、その前におはぎを食べておしまいや」
イネに言われると、春子はうなずき大きな口を開けた。その口におはぎが入る前に、千鶴は小声で訊ねた。
「村上さん、おばあちゃんが二人おるん?」
「ひぃばあちゃんぞな」
それだけ言うと、春子はおはぎにかぶりついた。
ひぃばあちゃんという言葉に千鶴は驚いた。千鶴には祖母はいるが、曾祖母はいない。千鶴の周辺でも曾祖母の話は聞いたことがなかった。
祖父母の親の代の人間が、まだ生きているということは、千鶴にとって驚きだった。まるで遠い昔から現代へ抜け出して来たような印象だ。
曾祖母というものに千鶴が感服している間に、春子は一つ目のおはぎを全部口の中に詰め込んでいた。
春子が甘い物に目がないことは、これまでの付き合いで千鶴も知っていた。それでも、その勢いに千鶴は困惑した。
春子は早く食べ終えて、母親たちの手伝いをするつもりなのだろう。でもまさかお客の自分が、同じような食べ方をするわけにはいかない。とにかく急いで食べねばと思っていると、マツが春子を注意した。
「ほらほら、そげな食い方しよったら喉に詰めてしまうぞな」
春子は大丈夫と言おうとしたようだった。ところが、急に動きを止めて目を白黒させた。心配したとおり喉に詰めたらしい。
千鶴は急いでお茶を飲ませようとした。しかし、お茶はまだ熱かったので、春子は飲もうとしたが飲めなかった。
そこへ信子が湯飲みに水を汲んでくれた。春子はそれを受け取ると、苦しそうにしながら飲んだ。
「あぁ、助かった。ほんまに死ぬるかと思いよったで」
一息ついた春子が、お礼を述べながら湯飲みを信子に戻すと、信子はようやく笑顔を見せた。だが千鶴と目が合うと、すぐにその笑みを引っ込めた。
「気ぃつけなさいや。死んでしもたら、何のために学校へ行きよるんかわからんなるで」
イネに叱られ、春子は気まずそうに頭を掻いた。
台所に戻った信子は、何事もなかったように作業を再開した。しかし、その背中が千鶴に何かを言わんとしているようだ。
千鶴はそれに気づかないふりをして、おはぎを小さくった。そうするよりほかなかった。
三
おはぎを食べ終わると、春子は千鶴を家の奥へ案内した。
いくつかの部屋を横切ったあと、千鶴たちは渡り廊下に出た。その先には離れの部屋があった。
外はすっぽりと夕闇に包まれている。夕日はとっくに沈んだが、西の空は夕日の名残で茜色に染まっている。そのわずかな光で何とか周囲の様子は見て取れた。
塀に囲まれた敷地の中には大きな蔵がある。山﨑機織にも反物を仕舞っておく蔵があるが、こちらの蔵の方が遥かに大きい。中には何が入っているのだろう、と千鶴が考えているうちに離れの部屋に着いた。
「ヨネばあちゃん、山﨑さん見たら喜ぶで」
春子が千鶴を振り返って言った。
「なして喜ぶん?」
「山﨑さんは、おらが初めて家に連れて来た女子師範学校の友だちじゃけんな」
ロシア兵の娘だということで、千鶴は人から顔をしかめられることが多かった。
イネとマツは優しい応対をしてくれたが、信子は千鶴を快く思っていないように見える。
春子の曾祖母がどんな顔を見せるのか千鶴は心配だった。しかし春子が絶対に大丈夫だと言うので、その言葉を信じることにした。本当に喜んでくれるなら、それはとても嬉しいことだ。
離れの部屋は障子が閉まっていた。これでは中の様子はわからない。
春子は廊下に膝を突いて座ると、中にいる曾祖母に障子越しに声をかけた。
「ヨネばあちゃん、春子やで。起きとる?」
声が聞こえないのか、中から返事はなかった。それでも春子が何度か大きめの声をかけると、ようやく嗄れた声が聞こえた。
「おぉ、春子か。音遠しぃのぉ。ほれ、そこ開けて中へお入り」
春子は嬉しそうに千鶴を振り返り、起きとる起きとる――と潜めた声で言った。
春子が障子を開けると、饐えたような匂いが鼻を突いた。中はほとんど真っ暗でよく見えない。
「ヨネばあちゃん、今まで寝よったん?」
「ちぃと、うとうとしよったぎりなけんど、もう夜になってしもたかい」
闇の中から老婆が答えた。
「明かりつけたげるけんね」
春子は部屋の中へ入ると、ごそごそと何かを始めた。しばらくすると、ぼぉっと明るくなった。マッチに火を灯したらしい。
春子がつけた行灯の光で、部屋の中はほの明るく照らされ、千鶴にもようやく中の様子がわかった。
部屋の真ん中には布団が一つ敷かれており、そこに老婆が横になっていた。この老婆がヨネという春子の曾祖母らしい。
部屋の隅には箪笥が一つぽつりと置かれているが、他には特にこれと言うものはない。
ヨネが藻掻くようにして体を起こそうとすると、春子は傍へ行って、ヨネの体を支えてやった。
枯れ枝のようなヨネは半身を起こすと、春子の手を取って嬉しそうに笑った。
「まっこと音遠しぃわいなぁ。もう、何年になるかいね。久し会えんけん、お前にゃ二度と会えまいかて思いよった」
「何言うんね。こないだのお盆にも戻んて来たろがね。忘れたん?」
「お盆? はて、ほうじゃったかいな」
「おら、盆と正月には必ず戻んて来とるんよ。もちぃとしたら、また正月やけん、ほん時にも戻んて来るんで」
ほうかほうか――とヨネはまた嬉しそうに春子の手を撫でた。
その時、人の気配を感じたのか、ヨネはふと廊下の方へ顔を向けた。
「誰ぞがそこにおるな」
廊下で座って待っていた千鶴を、ヨネは震える手で指差した。
「おらの学校の友だちじゃ。お祭り見せよ思て誘たんよ」
春子は明るい声で説明した。ヨネは表情を緩めると笑顔を見せた。
「ほうかほうか。春子のお友だちか。ほれはええわいな。おら、もう目がよう見えんけん、失礼してしもたわい」
ヨネは千鶴に手招きすると、枕元をごそごそ探り始めた。
何を探しているのかと春子に訊かれたが、ヨネは黙ったまま枕元の布団の下に手を入れた。そこからヨネが取り出したのは、じゃらじゃら音がする巾着袋だった。音の正体は小銭だ。
ヨネは袋の小銭を全部布団の上に広げると、数を数え始めた。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……」
千鶴が傍へ来ても、ヨネは気がつかない様子で熱心に勘定し続けている。そうして一銭玉を十枚ずつ二列に並べたヨネは、その一方を集めて春子の手に持たせた。
「だんだん、ヨネばあちゃん!」
春子が大喜びすると、ヨネは嬉しそうにひゃっひゃっと笑った。それから残りの十枚を両手で集めると、こっちのはお友だちに――と言いながらヨネは顔を上げた。
目も口も小さく皺だらけの顔は、人懐こそうな笑みを浮かべていた。しかし千鶴を見た途端、その小さな目と口は大きく開かれた。
「が、がんごめ! がんごめじゃ!」
ヨネは悲鳴を上げ、千鶴から逃げようとした。その拍子に手に載せられていた小銭が、ばらばらっと辺りに散らばった。
「ヨネばあちゃん。何言いよん? この子はおらの友だちで」
驚き慌てた春子はヨネをなだめながら、改めて千鶴の説明をしようとした。だが、もはやヨネの耳には春子の言葉は届かないようだった。
ヨネは春子の手を振り払うと、狂ったように逃げようとした。しかし足腰が弱っているのか、思ったようには動けないみたいだ。少し這った所で千鶴を振り返ると、興奮した声で叫んだ。
「誰ぞ! 誰ぞ、おらんのか! マツ! マツはどこじゃ! がんごめじゃ! がんごめが来とるぞ!」
千鶴は困惑していた。
がんごめという言葉の意味は、千鶴にはわからない。だが、ヨネは明らかに千鶴を拒絶していた。それは、千鶴が他の日本人と違う顔をしているからに違いなかった。
「ヨネばあちゃん、好ぇ加減にしぃや! おらの友だちに失礼じゃろがね!」
さすがの春子も口調が荒くなった。それに対して、ヨネは負けじと言い返した。
「何が友だちじゃ! 春子、お前は騙されとるんじゃ。こいつは、がんごめぞ。化け物なんぞ! 誰ぞ! 誰ぞ、おらんか!」
――化け物……。
その言葉はこれまで千鶴に向けられたどんな悪い言葉より、千鶴の心を深く傷つけた。それは千鶴の人間としての存在を完全に否定するものだった。
ヨネは近くに転がった枕をつかむと、千鶴に投げつけた。枕は千鶴の体に当たってぽとりと落ちた。続けて空っぽの巾着袋さえも投げつけると、ヨネはさらに這って逃げ、箪笥の陰でがたがた震えた。
「ごめんよ、山﨑さん。ヨネばあちゃん、惚けとるんよ」
春子はおろおろしながら千鶴を振り返った。
そこへ騒ぎを聞きつけたイネがやって来た。イネの声が聞こえると、千鶴は反射的に逃げ出した。
山﨑さん!――後ろで春子の声が聞こえた。しかし、千鶴は渡り廊下でイネの脇をすり抜けて土間へ向かった。
台所にいたマツと信子が驚いた顔で見ていたが、千鶴は二人を振り返りもせず、そのまま外へ飛び出した。
大きな提灯が飾られた長屋門から表に出ると、薄闇の中を大勢の人影がやって来るのが見えた。顔や姿はまったくわからないが、その雰囲気と喋り声は戻って来た男衆に違いなかった。
千鶴は男衆を避けようと別の道を走った。向かう方角なんてわからない。とにかく、この場から誰もいない所へ逃げたかった。
四
どのくらい走ったのだろう。千鶴は息が切れるのも忘れ、消えてしまいたい一心で走っていた。
気がつけば、右手に山裾が迫る道にいた。左手に生い茂る樹木の向こうから、川のせせらぐ音が聞こえて来る。その川音に合わせるかのように、あちこちで秋の虫が鳴いている。
頭上に広がる天のほとんどは星空に埋め尽くされているが、空の下方にはわずかに明るさが残っている所があった。その少し上に細い月が申し訳なさそうに浮かんでいる。あの少しだけ明るい方角が西だとすると、どうやら東へ向いて走って来たようだ。
西空に残されたわずかな明かりを頼りに、辺りの様子が何とかわかる。それでも岸辺に茂る木々がその微かな光を遮るので、千鶴がいる道はほとんど真っ暗だ。勢いで入り込んだものの、さすがにそのまま走ることはできなかった。
木々の間から川の向こうを見てみると、狭い所に田畑があり、その奥には丘陵がある。そこは光が届かず、闇が塗られたように黒々としている。
辺りに民家は一軒もなく、人気もまったくない。誰もいない所を求めたはずだったが、千鶴は次第に心細くなって来た。それでも、化け物と罵るヨネの声が頭の中で繰り返されると、また悲しさが込み上げる。
千鶴はその場にうずくまって泣いた、だが、すぐに後ろの方に何かの気配を感じて泣くのをやめた。
しゃがんだまま後ろを振り返った千鶴は、気配を感じた辺りをじっと見つめた。しかし闇に埋まった道はよく見えない。目を凝らしても何も動く物はなさそうだし、川音と虫の音以外は何も聞こえない。
闇は濃さが増したようで、千鶴は今度こそ本当に不安になって来た。こんな所にいつまでもいるわけにはいかないが、さりとて行く当てなどどこにもない。
もう春子の家には戻れない。きっと他の者たちも、春子の曾祖母と同じ目で見ているに違いない。そう思うと、風寄だけでなく世の中のすべての人から、同じように見られている気がして、千鶴はまた泣きたくなった。
その時、突然頭上でがぁと大きな声が聞こえた。驚いて見上げると、道の上に大きく突き出した木の枝に、カラスが一羽留まっていた。
腹が立って思わず立ち上がると、カラスはバサバサと羽音を立てて飛んで行った。
「どがいしよう?」
不安な気持ちに戻った千鶴が小さくつぶやいた時、ガサガサっと音が聞こえた。近くに何かがいる。
びくりとしたあと、千鶴はじっとしたまま音が聞こえた方に目を凝らした。だが、やはり暗闇でよくわからない。
音が聞こえたのは、さっき気配を感じたのとは真逆の方角、つまり道の前方だった。
しばらくじっと闇を見ていると、動物の荒い鼻息のような音が聞こえた。闇の中を、闇よりも黒い大きな影が動くのが見えた。
千鶴は全身の毛が逆立ったように感じた。
影の大きさから見る、相手はかなり大きな獣のようだ。これは明らかに危険な状態である。
千鶴は気づかれないように、そろりそろりと後ずさりした。しかし、気をつけていたつもりなのに、草履が踏んだ小石がじゃりっと鳴った。
もぞもぞ動いていた影がぴくりと動きを止めた。気づかれたらしい。万事休すだ。
千鶴は迷った。このまま後ずさりで逃げるか、相手に背中を向けて駆け出すか。
ただ、駆け出したところで向こうの方が速いだろう。どうしたところで逃げられないに違いない。
ここはじっとしながら相手の様子を見るしかなさそうだと千鶴は思った。こちらに敵意がないのがわかれば、興味を失って向こうへ行ってくれるかもしれない。
黒い塊にしか見えない相手とにらめっこをしていると、カッカッという音が聞こえて来た。何だろう。不気味な音だ。
続けて、ざっざっという音。脚で土をかいているのだろうか。
――これはイノシシ?
何だか、イノシシのような気がして来た。しかし、千鶴は本物のイノシシは見たことがない。
千鶴の祖父は絣問屋仲間と山へイノシシを撃ちに行くことがある。仕留めた時には、祖父は家族の前で両腕を広げて獲物の大きさを自慢したものだ。だが目の前にいる黒い影はそんなものではない。これがイノシシだとすれば尋常ではないだろう。これこそ本当の化け物だ。
暗闇の中なので、相手の様子はよくわからない。しかし人を憎悪する気のようなものが、ひしひしと伝わって来る。相手には千鶴を見逃す気はなさそうだ。
――来る!
そう思った刹那、黒い影は勢いよく千鶴の方に突進して来た。
あっという間に、黒い影は千鶴の近くまで迫った。恐怖にすくんだ千鶴は頭の中が真っ白になり、ふっと意識が遠のいた。
消えゆく意識が感じていたのは、ゆっくりと体が倒れて行く感覚だ。ぼんやりと考えたのは、もうだめだというあきらめだった。
次の瞬間、衝撃が千鶴を襲うはずだった。だが、千鶴の体は宙に浮かんだまま、何の衝撃も伝わって来ない。ちらりと獣の臭いがしたが、痛みは少しもない。代わりに、何だか懐かしいような温もりが千鶴を包んでいた。
もう自分は死んだのだろうかと、安らぎを感じながら千鶴はふと思った。しかし、そのあとすぐに何もわからなくなった。