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客馬車

     一

 かっぽんかっぽんと馬のひづめの音を響かせて、一台の客馬車が北へ向かってのんびりと走っている。
 周囲に広がるのは、刈り取りが終わった田んぼばかりだ。
 がたがたという車輪の振動が、お尻から頭のてっぺんまで伝わるが、乗客はみんな黙って揺られている。
 六人乗りの客車には、真ん中の狭い通路をはさんで、三人掛けの長椅子が左右に設置されている。客車の後ろの部分が乗降口だ。
 それぞれの長椅子には乗客が三人ずつ肩を寄せ合って、同じように揺られながら座っている。
 その左側の一番後ろの席に千鶴ちづは座っていた。
 緊張の糸に縛られながら、千鶴はできるだけ目立たないように小さくなっている。それでも馬車に駆け乗った時の息がなかなか整わない。
 息が荒くなると目立つので、千鶴は苦しさをこらえながら小刻みに呼吸を繰り返した。
 乗客の背後には大きな窓の空間があるが、風を遮るものはない。代わりに屋根から青い布が垂れ下がり、日けや雨除けの役目を果たしている。
 千鶴の隣にいるのは女子師範学校の同級生で親友の村上むらかみ春子はるこだ。二人は四年生で来春に卒業する予定になっている。
 一緒に客馬車に駆け乗ったので、春子も息を弾ませている。しかし、その顔は嬉しさを隠せない様子だ。
 何が嬉しいのかと言うと、これから千鶴を連れて風寄かぜよせの実家へ戻るところだからだ。
 春子の実家がある名波村ななみむらを含め、風寄の村々では今日から秋祭りが始まる。
 土曜日のこの日、授業は午前だけだったので、二人とも授業のあと、大急ぎで客馬車乗り場へやって来た。
 着物を着替える暇などない。はかまこそ着けていないが、手作りの伊予絣いよがすりの着物も三つ編みを後ろで丸く束ねた髪も、学校にいた時のままだ。
 千鶴の家の近くには、阿沼美あぬみ神社という神社がある。そこのお祭りは神輿みこしをぶつけ合う盛大なものだ。
 女子師範学校に入学して以来、千鶴は毎年この祭りに春子を誘っていた。それで春子も、いつか自分の村の祭りを千鶴に見せたいと言い続けていた。しかしなかなか事情が許さず、春子の願いは叶わないままだった。
 学校を卒業すると小学校教師となるのだが、どこの小学校に赴任ふにんすることになるかは、その時にならないとわからない。
 二人が同じ小学校に赴任するとは限らず、恐らく離ればなれになるだろうと、千鶴も春子も思っていた。だから春子にとっては、この秋が千鶴に祭りを見せる最後の機会だ。
 ただ今回も本当は、千鶴が風寄の祭りを見に行くのは無理なはずだった。それが突然状況が変わって行けることになったのである。春子がはしゃぐのは当然だった。

 春子は体をひねって後ろを向くと、青い布を持ち上げて外の景色を眺め、嬉しそうに千鶴に言った。
「ほれにしても、うまい具合ぐわいに馬車に乗られてよかったわい。もちっと遅かったら出てしまうとこやったで。危ないとこじゃった」
 客馬車は出発時間が決まっていない。乗客の乗り具合でいつ出発するかが決まる。二人が客馬車乗り場に着いた時、客馬車はまさに出発しようとしていたところだった。
「ほんまじゃねぇ」
 遠慮がちに微笑んだあと、千鶴はすぐに笑みを消した。
 千鶴の正面に座っている白木綿しろもめんの着物の老婆が、千鶴の一挙一動を見逃すまいとするかのように、じっと見えている。眉をひそめたその顔は、いかにも汚らわしいものを見ているかのようだ。
 目のり場がなく、千鶴が老婆から目をらすと、老婆の隣に座っていた若い男と目が合った。
 着流し姿に鳥打帽とりうちぼうをかぶったその男も、どうやら千鶴を眺めていたらしい。慌てて横を向くと、知らんぷりを装った。だが困惑したような目がきょときょとと動いている。
 鳥打ち帽の男の向こうには、髪を二百三高地にひゃくさんこうちに結った伊予縞いよしまの着物の女がいる。歳は若くないが、きれいな顔立ちをしている。
 前髪が山のように大きく盛り上がり、頭頂部のまげが高く突き出たこの庇髪ひさしがみは、明治の頃からの流行はやりではあるが、千鶴はこの髪型が好きではない。
 二百三高地というのは日露戦争の激戦地である。そんな名前の髪型があることが嫌だったし、その名前を好む人がいるというのも嫌だった。
 この女は千鶴と目が合うと、にっこり微笑んだ。
 しかし、その笑顔の裏には何か冷たいものが感じられ、千鶴はできるだけこの女とも目を合わせないようにした。
 千鶴をにらみ続ける老婆は、千鶴たちが馬車に乗り込もうとした時には、春子が座っている所にいた。
 空いていた席は左右の一番後ろだったので、本当ならば千鶴と春子は、後ろの端に向かい合って座るはずだった。
 だが、老婆は千鶴の隣に座ることを嫌い、自ら右側の一番後ろに移動した。それで千鶴と春子は隣り合って座ることになった。
 千鶴は他の者とは見た目が違っていた。老婆が千鶴を嫌うのは、千鶴の容姿のせいに違いなかった。
 老婆の態度には春子も気づいたはずだ。しかし、春子は千鶴の隣に座れたことが嬉しかったようで、老婆のことを気に留める様子はなかった。
 だから、千鶴も老婆のことは気にしないように努めていた。
 それでも胸の内では、やはり来るのではなかったかと、淡い後悔が浮かんでいる。

     二

「おい、君。もう一度聞くが、今日は北城町きたしろまちで間違いなく宿が取れるんだろうな」
 春子の左、つまり一番前に座っていた男が御者ぎょしゃに声をかけた。
 男は洋服姿で丸眼鏡をかけ、山高帽やまたかぼうをかぶっている。足の間に立てたステッキに両手を乗せて揺られる姿や、その喋り方が少し威張いばったように見える。
 御者ぎょしゃは馬を操りながら、ちらりと男を振り返った。
「へぇ、宿屋は宿屋ですけん。お祭りでも泊まれるぞなもし」
「それならよかった。せっかく祭りを見に行っても、泊まる所がなかったら洒落しゃれにならないからな」
 どうやら男は風寄の祭りを見に来たらしい。男がどこの村の祭りを見るのか知らないが、名波村は北城町のすぐ北だ。もしかしたら名波村の祭りを見るのだろうかと千鶴が考えていると、御者が男に声をかけた。
「旦那はどっからおいでたんかな?」
「東京だ」
 男は素っ気なく答えた。すると、東京かな――と御者は驚いた声を出した。
「東京いうたら、先月、がいな地震に襲われたろ?」
「がい?」
物凄ものすごてでっかい地震ぞな」
「あぁ、そうだ。あれは最悪だった。まるで地獄みたいな有様だったよ」
「新聞にもそげなことが書いてあったぞな。まぁ、ほんでも旦那はご無事でよかったわい」
 優しい言葉をかけられたからだろう。男の表情から先ほどまでの尖った感じが消えた。
「ありがとう。自分でも運がよかったと思ってるんだよ」
「ほんで、今はどがぁしんさっとるんかな?」
「僕はね、東京で教鞭をってたんだ。だけど、東京は壊滅してしまったからね。それで職探しをしてたんだが、高松に教職の仕事があると教えてもらってね。それでこっちへ来たんだよ」
 高松と言えば、お隣の香川県だ。それなのに愛媛の祭りを見物するとは、職を失った者には見えないと千鶴は思った。
「せんせ、実はね、あたしもあん時、東京におりましたんですよ」
 二百三高地の女が、男たちの話に加わった。
 先生と声をかけるところだけを見ると、女は男の知り合いのように思える。だが、どうやらそうではないらしい。
 男は驚いたように女を見ると、すぐに照れたような顔になった。
「あなたもあすこにいらっしゃったんですか?」
 女がうなずくと、男は顔を曇らせた。
「それは大変だったでしょうな。地震で建物は崩れるし、火事は起こるし、人が人ではおられぬ所でしたからな」
「確かに仰るとおりですわ。あたしもいっぺんはほとんど死によりましたけん。ほんでもお陰さまで、こがぁな元気な体にしていただきました」
「ほぉ、それはよかったですな。公然と人殺しが行われるような所でしたから、そんな話を聞かせていただくとほっとしますよ」
「人と言うものは、あげな時にこそ、本当ほんとの姿を見せるものなんですねぇ。あたし、ほれを身をもって知りました」
「まことに仰るとおりですな」
 男は何度もうなずいた。
 千鶴は東京を知らない。しかし、二人の話が聞こえた千鶴の頭には、噂に聞いている大地震と大火事で廃墟と化した町が浮かんだ。
 がれきの前でたたずむ人や、狂ったように泣き叫ぶ人。誰かを必死に捜し回る人。所々から昇り続ける黒い煙。再び起こる地面の揺れに言葉を失う人々。些細ささいなことで始まる争い。
 千鶴の家は山﨑機織やまさききしょくという小さな伊予絣問屋である。
 絣は普段着の着物生地として人気がある反物だが、中でも伊予絣は安くて丈夫ということで全国でも評判だった。
 伊予絣は松山市内の太物屋ふとものやに届けるだけでなく、東京や大阪にも出荷されており、遠くは東北の方まで送られていると言う。
 そんな伊予絣問屋にとって、先月東京を襲った大地震は他人事ではなかった。東京へ送った絣のうち二十万反以上が灰になり、東京の取引先も甚大な被害を受けた。そのため多くの絣問屋が廃業に追い込まれていた。
 また、東京へ絣を売り込みに出ていて地震に巻き込まれた者もあり、山﨑機織でも東京で営業をしていた手代が亡くなった。
 今のところ山﨑機織は何とか廃業は避けられたものの、東京への出荷再開は目途めどが立たず、この先商いがどうなるかはわからない。
 春子は東京の地震の話を聞いても、今ひとつぴんと来ない様子だった。しかし向こうの状況や、山﨑機織にも及んだ被害を知っている千鶴は、東京の話に敏感になっていた。
ねえやんは東京言葉と伊予言葉が混ざりよるな。姉やんはどこの生まれかな」
 御者が二百三高地の女に訊ねると、さあねぇ――と女はとぼけた様子で言った。
「生まれたとこなんぞ忘れてしもたぞな。ほんでも昔、風寄におったことはあるんよ」
「ほぉ、どこぞに嫁入りしよったんかな」
 女はくすくす笑いながら言った。
「あたしみたいなもん、お嫁に欲しいやなんて言うてくれるお人、誰っちゃおらんわね」
「そんなことはないでしょう。あなたみたいにおきれいな方だったら、嫁に欲しいという者は掃いて捨てるほどいるはずだ」
 山高帽の男が思わずという感じで言った。
 女は驚いた様子で男を見ると、恥ずかしそうに微笑んだ。男も我に返ったのか、うろたえたように下を向いた。
 春子は黙ったまま、意味ありげな目を千鶴に向けた。その顔は今にも噴き出しそうだ。
 しかし、千鶴は笑う気分にはなれなかった。白木綿の老婆が、ずっと千鶴のことをにらみ続けている。
 せっかくの楽しい名波村行きのはずだった。だが、千鶴は沈んだ気持ちで、これまでのことを思い返していた。

     三

 千鶴の家は松山だが、女子師範学校は松山から西へ一里と少し離れた三津浜みつはまという海の近くにある。その行き帰りを千鶴は毎日歩いていた。
 千鶴が入学した時には、女子師範学校は全寮制だった。そのため千鶴も寮に入っていた。
 だが千鶴が二年生の時に規則が変わり、実家が遠方でない者は、三年生からは自宅から通学することになった。それで千鶴は今は家から学校に通っている。しかし春子は実家が遠いので、四年生の現在も寮にいることが許されていた。
 寮生活をしていると、毎日長い距離を通学しなくてもいいのは利点だ。だが逆に言えば、簡単には外へは出られないのである。それだけ寮の規則は厳しかった。
 今回、春子が実家へ戻ることが許されたのは、故郷の村で秋祭りが行われるという、特別な理由があるからだ。
 ただ、いくら故郷の村祭りと言っても、それが平日であれば実家へ戻る許可は出ない。大切な授業を休んで行くなど許されないことだ。
 授業がない土曜日の午後に寮を出て、日曜日には戻って来るという約束で許可がもらえたのである。
 本当は門限の五時には戻らなければならないが、それは無理な話なので、先生との交渉の結果、日曜日の消灯時間までに戻る、ということにしてもらった。阿沼美神社のお祭りを見た時も、同じ条件で許可をもらっていたので、この交渉はむずかしくなかった。
 だが当初の予定であれば、祭りは平日に始まるはずだった。予定どおりであれば、先生との交渉以前の話であり、実家へ戻る許可は出なかった。
 しかし、台風が来たために祭りの予定が変わり、開催が土曜日に延びたのである。こんなことは滅多にあるものではなく、自分の願いが天に届いたのだと春子は信じている。
 祭りの開催が土曜日になったという話は、名波村の実家から学校の電話を通じて春子に知らされた。
 電話などどこの家にもあるという物ではなく、千鶴の家にも電話はない。しかし、春子の父親は名波村の村長だった。それで、村で唯一の電話を持っていた。
 電話ですぐに連絡が取れるのはうらやましい限りだが、今回春子に連絡が来たのは金曜日の夕方だった。そして、千鶴が春子に誘われたのは土曜日の朝である。つまり、昨夕春子に連絡があり、それを千鶴は今朝言われたのだ。
 祭りに招待されたことは、千鶴には嬉しいことである。
 しかし、あまりにも急な話だった。授業が終わったら一緒に名波村へ行こうと言われても、よし行こうと返事ができるわけがなかった。何の準備もしていないし、何より家族の許可がなければ無理な話である。
 そもそも女が気軽に遠出するなどできることではない。ましてや自分は働いてもいない女学生の身分だ。家族の許可をもらうのは、学生寮の許可をもらうよりもむずかしいことだった。
 春子には申し訳ないが、千鶴はこの話を断ろうとした。しかし、春子は千鶴を連れて帰ると実家に伝えていた。
 村長一家が千鶴が来るのを楽しみにしていると言われては、簡単に断るわけにもいかなかった。
 仕方なく、家の許可がもらえない可能性が高いことを、千鶴は説明した。その上で、万が一許可がもらえたら、客馬車の駅で待ち合わせるという約束をした。
 だが、客馬車がいつ出発するのかはわからない。そのため、家の許可の如何いかんに関わらず、客馬車の出発までに自分が現れなければ、一人で行ってもらうということで、千鶴は春子に了解させた。
 とは言っても、そうなることは確実だと千鶴は考えていた。
 午前の授業が終わると、千鶴は持参していた弁当も食べず、大急ぎで家路いえじいた。いつもは歩く道をずっと小走りし続けた。
 実は、千鶴は名波村には縁があった。
 母が千鶴を身籠もった時、祖父と喧嘩をして家を飛び出し、しばらく名波村の寺で世話になったと聞いていた。
 とてもよくしてもらったと母が言っていたので、いつか機会があれば訪ねてみたいという想いを、千鶴は抱いていたのである。
 だが家に着いた頃には、やはりだめだろうと、膨らんでいた千鶴の気持ちは再び小さくしぼんでいた。
 山﨑機織の主は祖父だ。家の中でも祖父に一番の権限がある。その祖父は孫娘である千鶴を快く思っていなかった。
 それに東京の大地震が起こったのは、つい一月ひとつき前のことだ。向こうで多くの人が亡くなり、千鶴が知る手代も死んだ。店の被害も甚大であり、店を潰さないようにとみんなが懸命にがんばっている。
 そんな中で、他の土地の祭りに行きたいなど、自分で考えても不謹慎極まりないことだ。祖父の承諾を得るのは不可能に決まっていた。
 それでも家に戻って祖父の前へ進み出た千鶴は、春子からの誘いと、名波村へ行きたいという自分の気持ちを懸命に伝えた。
 喋るだけ喋ると、千鶴は仏頂面ぶっちょうづらの祖父の視線から逃れようと下を向いた。
 自分が無茶なことを言っているのはわかっている。雷のような怒鳴り声が落ちるはずだった。
 しかし、千鶴の心配は杞憂きゆうに終わった。
 どういうわけか、祖父はあっさりと千鶴の名波村行きを認めてくれた。しかも、小遣いまで持たせてくれたのである。
 一応小遣いの名目は、向こうへの土産代と客馬車の運賃ということだった。だが、渡された銭はそれ以上あった。
 千鶴は信じられない気持ちで、祖父から名波村へ行くことの承諾と、お金をもらったことを祖母に伝えた。
 祖母も千鶴が気に入らない。祖母は驚きと困惑と少し怒ったような顔を見せた。だが、夫が決めたことだから文句を言うことはなかった。
 母は外で働いていて不在だったので、置き手紙を残して来た。
 食べなかった弁当はこっそり丁稚でっちたちにやった。食べ終わったあとの弁当箱は、祖母に見つからないように片付けておくよう頼んでおいた。
 途中で土産の饅頭まんじゅうを買うと、千鶴は空きっ腹のまま小走りで、半里ほどある客馬車乗り場へ向かった。正直、空腹と疲れでへとへとだった。
 それでも、三津浜から電車で来た春子と途中で合流すると、嬉しさで最高の気分だった。しかし、今はその気分も鎮まり、本当に自分は春子の家族に歓迎してもらえるのかと、不安になっていた。

     四

にいやん、兄やん。ここで降ろしておくんなもし」
 千鶴の正面に座っていた老婆が、大声で御者に声をかけた。
 馬車が止まり、御者席から御者が降りて来た。
 客馬車には乗り場の駅がある。千鶴たちが乗ったのは、北の町外れにある木屋町口きやちょうぐちという駅だ。降りるのは終着の北城町だが、その中間辺りにある堀江村ほりえむらという所にも駅があった。
 ところが、老婆が降りようとしているのは堀江の駅に着く前だった。どうやら降りる時は好きな所で降ろしてもらえるらしい。
 御者が千鶴と老婆の間にある乗降口の綱を外すと、老婆はそこから降りようとした。その時に老婆がよろけたので、千鶴は思わず手を伸ばして老婆を支えようとした。
 しかし、老婆は千鶴の手を振り払うと、嫌な目つきで千鶴をにらみ、それからゆっくりと客車から降りた。
 老婆から乗車賃を受け取ると、御者は持ち場に戻り、客馬車は再び動き出そうとした。
 その時、いつの間にか後ろから来た乗合自動車が、道を空けるよう催促した。御者は舌打ちをすると、客馬車を左端に寄せた。
 道幅が狭いので、乗合自動車はゆっくりと馬車の横を、いかにも邪魔そうな感じで通って行った。
 乗合自動車の後ろの座席には、客が三人乗っている。その姿はちらりとしか見えなかったが、三人とも裕福そうな姿に見えた。
 再び客馬車が、がたがた、かっぽんかっぽんと動き出すと、後方を歩く老婆の姿はすぐに小さくなって行った。
 一方で、前方を行く乗合自動車も次第に小さくなって行く。
 千鶴の正面に、もう老婆はいない。しかし千鶴の胸には、老婆から向けられた憎悪が突き刺さったままだった。
 千鶴の気持ちを知らないのか、春子は鼻息荒く言った。
「何や感じ悪いな、あの乗合自動車。ほら確かに乗合自動車の方が速かろ。けんど、乗り心地が悪いんはついよ。ほれやのに運賃が一円十銭もするんで。ほれに比べて、馬車の方は三十六銭じゃろ? 絶対、馬車の方がええわいね」
 じゃろげ?――と同意を求められ、千鶴は少しだけ微笑んでみせた。
 千鶴は乗合自動車どころか、客馬車も生まれて初めて乗った。それで客馬車はお尻が痛くなるのがわかったけれど、乗合自動車の乗り心地なんてわからない。だから春子の話には、どうにも返事のしようがなかった。

 堀江の駅に着くと、客馬車はしばらく停まっていた。
 近くには四国遍路の札所ふだしょがあるので、お遍路の姿がちらほら見える。しかし、新たに客馬車に乗り込む客はいなかった。
 ちょうど北城町から来た客馬車が堀江駅に到着すると、入れ替わるように千鶴たちを乗せた客馬車は動き始めた。
 乗客たちと目を合わせたくないので、千鶴は客車の後部から、後ろにゆっくり遠ざかる外の景色を眺めていた。と言っても、青い布が邪魔で、見えるのは低い所にある道や田んぼばかりだ。
 春子も最初のはしゃぎぶりは落ち着いたようで、今は静かに揺られている。鳥打帽の男も黙ったまま腕を組んでいたが、ちらりちらりと千鶴を盗み見するのは同じだった。
 山高帽の男と二百三高地の女は、相変わらずお喋りを続けているが、時折そこへ御者が二人の話に交じった。
 聞くつもりはないけれど、勝手に耳に入って来る話によれば、山高帽の男には気にかけているおいっ子がいるらしい。
 昔、その甥っ子は東京で暮らしていたそうだが、訳あって精神を病んでしまい引きこもっていたと男は話した。
 しかし甥っ子は気分を変えるために、何年か前にこちらへ移り住んだようだ。それで山高帽の男は高松へ赴任となったのを幸いに、その甥っ子に会いに来たと言う。
 それなのに昨夜は三津浜の宿に泊まったと男が言うので、どうして松山まで来て三津浜で宿を取るのかと、千鶴はぼんやり考えていた。
「もうじき海が見えるけん」
 不意に春子の声が聞こえた。見ると、春子は青い布を持ち上げ、千鶴に海を見せようとしている。
 春子は外の景色に気を取られていたのか、山高帽の男が言った三津浜という言葉には気がついていないようだった。
 同じように青い布を持ち上げて、千鶴が景色を眺めていると、なるほど左手の先の方に海が見えて来た。
 やがて馬車が海のすぐ近くを走り始めると、右手に山の崖が迫って来た。この先の道はその崖沿いを走るらしい。
 海は穏やかで大きな波は見えない。時折、優しげな潮風が千鶴たちの脇を通って、客車の中をくぐり抜けて行く。
 この日の空は清々すがすがしい秋空だった。日はかなり西に傾いているものの、空が赤く染まるにはまだ時間がありそうだ。
「ここいらはな、粟井坂あわいざか言うて、昔はこの右手の山を越える道しかなかったんよ。ほれが四、五十年前じゃったかの。この新しい道がでけたけん、こがいして馬車が走れるようになったんよ」
 御者が前を向きながら大きな声で言った。話しかけている相手は乗客全員と言うより、山高帽の男と二百三高地の女の二人だろう。
「へぇ、そうなのかね。この道を作るのは大変だったろうに」
 山高帽の男が崖に造られた道を眺めて感心すると、山道の方がよかったのにと二百三高地の女が言った。
「昔の道には昔の道のよさと言うか、味わいがあるじゃござんせんか。せんせは、ほうは思われませんか」
 男はうろたえた様子でうなずいた。
「そ、そう言われてみれば、確かにそうですな。古いものには味わいというものがある」
「けんど、前の道のままじゃったら、この馬車は走れまい」
 御者が反論すると、山高帽の男は女をかばった。
「でも、やはり眺めは高い所の方がいいんじゃないかな」
 すると、女は手で口を隠しながらくすくす笑った。
「嫌だわ、せんせ。山道は周りが木だらけなんですよ。眺めなんかちっともよくありませんよ」
「あ、いや、それは……」
 山高帽の男が、顔を赤らめて口をつぐむと、女はまた笑いながら言った。
「でもね、せんせ。粟井坂の峠から見える海は、ここより見晴らしがいいのよ」
「そ、そうなのかね。じゃあ、やっぱり山道の方がいいのかな」
「だけど、馬車で走るんなら、やっぱしこっちの道の方がええぞなもし」
 天邪鬼あまのじゃくのような女だった。山高帽の男は完全に遊ばれている。千鶴は山高帽の男を気の毒に思った。
 だが鳥打帽の男は下を向きながら、くっくっと笑っている。春子も笑いをこらえるのに必死なようだ。

     五

 粟井坂の山を過ぎると、広々とした平野に出た。ここからが風寄だと春子は言った。名波村はまだ先だが、春子はもう故郷へ戻ったような顔をしている。
 過ぎた山のふもとには小さなお堂があって、白装束のお遍路が手を合わせていた。春子が言うには、あれは大師堂だいしどうで弘法大師をまつったものらしい。
 しばらく行くと、街道沿いに町並みが現れた。ここが北城町かと訊ねると、ここは柳原やなぎはらだと春子は言った。
 柳原には客馬車の駅はない。だが鳥打ち帽の男は、ここで降りると言った。
 男は客馬車を降りる時、ちらりと二百三高地の女を一瞥いちべつした。それに対して、女の方もじろりと男を見返した。
 千鶴には二人が目で何かを言い交わしたように見えた。しかし、すぐに男がこちらへ目を向けたので、慌てて下を向いた。
 男は御者に金を払うと、もう客馬車には目もくれないで、辺りをきょろきょろと見回している。その様子を千鶴が眺めていると、もうし――と呼びかける声が聞こえた。
「もうし、そこにおいでる姉やん」
 二百三高地の女がにこにこしながら、こちらを見ている。
 春子は自分が声をかけられたのかと思ったみたいだった。だが、女の視線は千鶴に向けられていた。
 千鶴は当惑しながら女に顔を向けた。
「姉やんは、お国はどこぞなもし」
「松山です」
 千鶴は小さな声で申し訳程度に返事をした。馬車の車輪の音が大きいので、聞こえたかどうかはわからない。
 二百三高地の女は興味深げな目を向けながら、さらに話しかけて来た。
「こがい言うたら失礼なけんど、姉やんは異国の血ぃが入っておいでるん?」
 千鶴は下を向いて答えなかった。見かねた春子が女に噛みつくように言った。
「ほれが何ぞあんたに関係あるんかなもし?」
 女は平気な様子で微笑みながら答えた。
「別に関係はないけんど、昔、ほの姉やんによう似たお人を見たことがあるもんで、ちいと聞いてみとなったぎりぞなもし。気ぃわるしたんなら謝ろわい」
「うちと似た人がおいでるんですか?」
 千鶴は思わず顔を上げると、女に訊ねた。女は機嫌よく言った。
「昔の話ぞな。ずっと昔のね」
「ほのお人は、今はどこで何をしておいでるんですか?」
「さあねぇ。とんと昔のことじゃけん。ほんでもな、まっこと白うてきれいなお人やったぞな。今の姉やんみたいにねぇ」
 女は千鶴を見つめながら微笑んだ。
 人からきれいだなんて言われたのは初めてだ。千鶴はちょっぴり嬉しい気がした。しかし、この女が天邪鬼であることを思い出し、嬉しく思ったのが悔しくなった。
 それに千鶴を眺める女の笑顔が、品定めをしているようにも見えたので、また緊張が戻って来た。
 千鶴が黙り込むと、女は千鶴に飽きたように、今度は御者に何かを話しかけた。
 一方で、山高帽の男は千鶴に興味を持ったようだった。男は何か言いたげに口をもごもごさせたが、間に春子が座っているからだろう。結局は千鶴に話しかけることはなかった。

「そろそろ着くで」
 春子が少し体をかがめて、御者の前方に見える景色を眺めながら言った。客馬車は海沿いの松並木の道を走っている。
「ほら、あそこにお椀みたいな、まーるい島が見えるじゃろ? あれは鹿島かしま言うてな、鹿がんどる島なんよ」
 春子は前方に見える島を指差した。その島を見た途端とたん、千鶴の胸はどきんとなった。
 おかからすぐ近くに浮かぶその小さな島は、何だか妙に存在感がある。周囲に似たような島がないからだろうか。
 千鶴は胸の奥の方に小さな胸騒ぎを感じていた。
「もうし、姉やん」
 また二百三高地の女が、千鶴に声をかけて来た。
 千鶴が黙って女を見ると、両手で何かを持ち上げる仕草をしながら女は言った。
「申し訳ないけんど、ほの青い布をちぃと持たげておくれんかなもし」
 怪訝けげんに思いながらも、千鶴は言われたとおり、自分の後ろの青い布を持ち上げてやった。
「うわぁ、きれいやわぁ」
 女が歓声を上げた。そこには赤く染まった夕日があった。
 夕日は見事に美しかった。茜色あかねいろの空の中、横に棚引く雲の層が金色こんじきに輝いている。また海の上にも、こちらへ延びる金色の帯がきらきらと揺らめいている。
 女の声で、春子も山高帽の男も後ろの青い布を持ち上げた。春子はもちろん、山高帽の男も感嘆の声を上げた。
 確かに美しい夕日だった。これまでに千鶴が見た夕日の中で、一番美しい夕日かもしれなかった。
 千鶴の目は夕日に釘づけになっていた。しかし、それは夕日の美しさに見とれていたからではない。
 何故だかわからないが、千鶴の胸の底から深い悲しみが湧き出していた。それはどんどん大きく膨らんで、千鶴は理由わけもなく、胸をかきむしりながら泣き叫びたくなるような衝動に襲われていた。
 困惑した千鶴は、夕日から自分を引きがすように前を向いた。右手で押さえた胸の中では、まだ悲しみが暴れている。
 青い布が再び垂れ下がったからだろう。あら?――と二百三高地の女が声を出した。
 申し訳なく思った千鶴がちらりと目をると、女は意外にもにこにこ微笑んでいた。
 きっと、自分のことを面白がっているのだろうと、千鶴は女から顔をそむけて、乗降口から後ろに流れ去る景色を見た。
 胸の中の悲しみは少し落ち着いた。それでもまだ消えたわけではなく、ぐるぐるとうごめいている。
 ただでも不安が一杯なのに、理由わけのわからない悲しみが込み上げるなんて尋常じんじょうじゃない。自分はおかしくなったのではないかと、千鶴は心配になった。
 どうして夕日を見ないのかと、隣で春子が怪訝そうにしている。しかし、千鶴には夕日をもう一度眺める勇気はなかった。