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客馬車


     一

 爽やかな秋空の下、刈り取りが終わった田んぼに、かっぽんかっぽんと馬のひづめの音が響いている。音のぬしは一台の客馬車で、田んぼに囲まれた今治街道いまばりかいどうを北へかってのんびり走っている。
 昨日はこの日と違って大雨だった。それでまだ道の所々に少しぬかるみが残っているが、そんなぬかるみなど気にする様子もなく客馬車は進んで行く。
 六人りの客車には真ん中の狭い通路を挟んで、三人掛けの長椅子が左右に設置されている。客車の後ろの部分が乗降口になっているが、今は板の扉でふさがれている。
 それぞれの長椅子には乗客が三人ずつ肩を寄せ合って座っており、がたがたという車輪の振動がお尻から頭のてっぺんまで伝わるが、みんな黙って揺られている。
 その客車の左側の一番後ろの席に、千鶴ちづは座っていた。
 緊張の糸に縛られながら、千鶴はできるだけ目立たないように小さくなっている。それでも馬車に駆け乗った時の息がなかなか整わない。
 息が荒くなると目立つので、千鶴は苦しさをこらえながら小刻みに呼吸を繰り返した。しかし、誰かが匂い袋を身に着けているらしく、少しきつい香りが鼻を突いて息苦しさをさらにひどくする。
 客車の背もたれの壁は背中までで、肩の辺りから上方は大きく開いている。屋根には青い布が垂れ下がり、それが日よけやあまよけの役目を果たしている。
 千鶴の隣にいるのはじょはん学校の同級生で親友の村上むらかみはるだ。二人は四年生で来春卒業する予定になっている。一緒に客馬車に駆け乗ったので、春子も息を弾ませているが、うれしさを隠せず大はしゃぎだ。
 二人はこれから風寄かぜよせ波村なみむらにある、春子の実家へ向かおうとしていた。村のりを見るためだ。
 土曜日のこの日、授業は午前だけだったので、二人とも授業のあと、大急ぎで客馬車乗り場へやって来た。
 着物を着替える暇などない。はかまこそ着けていないが、手作りの伊予いよ絣のがすり 着物も、三つ編みを後ろで丸く束ねた髪も、学校にいた時のままだ。
 いつもは風寄の祭りは金曜日から始まるので、女子師範学校に入学して以来、春子は地元の祭りには戻れていない。授業を休んでまで祭りを見にいくことは許されないからだ。
 それで千鶴は毎年春子を家の近くにある阿沼美あぬみ神社の祭りへ誘っていた。この神社の祭りは輿こしをぶつけ合う盛大なもので迫力があった。
 と言っても、祭りが平日であれば昼間は見られない。そんな時は夕方に授業が終わったあと、先生に特別許可をもらって見に来ていた。
 春子は阿沼美神社の祭りを見るたびに、いつか自分の村の祭りを千鶴に見せたいと言った。しかし学校にいる間は日程的に無理だし、卒業したあともできそうになかった。
 卒業後は二人とも小学校教師となるのだが、それぞれがどこの小学校に赴任することになるかは、その時にならないとわからない。
 二人が同じ小学校に赴任するとは限らないし、恐らく離ればなれになるだろうと、千鶴も春子も思っていた。
 春子が千鶴を村の祭りへ連れて行くのであれば、今年が最後の機会だった。だが事情は例年と変わらず、春子の望みはかなわないと思われた。
 ところが今年は奇跡が起きた。急に状況が変わって行けることになったのである。春子がはしゃぐのは当然だった。

 春子は体をひねって後ろを向くと、青い布を持ち上げて外の景色を眺め、嬉しそうに千鶴に話しかけた。
「ほれにしても、うまいわいに馬車に乗られてよかったわい。もちっと遅かったら出てしまうとこやったで。まっことないとこじゃった」
 客馬車は出発時間が決まっていない。乗客の乗り具合でいつ出発するかが決まる。二人が客馬車乗り場に着いた時、客馬車はまさに出発しようとしていたところだった。
「ほんまじゃねぇ」
 遠慮がちに微笑んだあと、千鶴はすぐに笑みを消した。
 千鶴の正面に座っているしろ綿めんの着物の老婆が、千鶴の一挙一動を見逃すまいとするかのように、じっと見えている。眉をひそめたその顔は、いかにもけがらわしいものを見ているかのようだ。
 目のり場がなく、千鶴が老婆から目をらすと、老婆の隣に座っていた若い男と目が合った。ながし姿に鳥打帽とりうちぼうをかぶったその男も、どうやら千鶴を眺めていたらしい。男は慌てて横を向くと、知らんぷりを装った。だが困惑したような目がきょときょとと動いている。
 鳥打帽の男の向こうには、髪を二百三高にひゃくさんこうった伊予いよしまの着物の女がいる。歳は若くないが、きれいな顔立ちをしている。
 前髪が山のように大きく盛り上がり、頭頂部のまげが高く突き出たこのひさしがみは、めいからの流行はやりではあるが、千鶴はこの髪型が好きではない。
 二百三高地というのはにち戦争の激戦地だ。そんな名前の髪型があることがだったし、その名前を好む人がいるのも嫌だった。
 この女は千鶴と目が合うと、にっこり微笑んだ。しかし、その笑顔の裏には何か冷たいものが感じられ、千鶴はできるだけこの女とも目を合わせないようにした。
 千鶴をにらみ続ける老婆は、千鶴たちが馬車に乗り込もうとした時には、春子が座っている所にいた。その時に空いていた席は左右の一番後ろだったので、本当ならば千鶴と春子は、後ろの端に向かい合って座るはずだった。
 春子が先に今の老婆がいる席に座ったのだが、続いて千鶴が乗り込もうとすると、老婆は春子に自分と席を替わらせた。千鶴と隣り合わせになるのが嫌だったのだろう。それでも、こうして向かい合うのも気に入らないらしく、ずっと千鶴のことをにらみ続けている。
 千鶴は他の者とは見た目が違っていた。老婆が千鶴を嫌うのは、千鶴の容姿のせいに違いなかった。
 老婆の態度には春子も気づいたはずだ。しかし、春子は千鶴の隣に座れたことが嬉しかったようで、老婆のことを気に留める様子はなかった。
 だから、千鶴も老婆のことは気にしないように努めていた。それでも胸の内では、やはり来るのではなかったかと、淡い後悔が浮かんでいる。

     二

「おい、君。もう一度聞くが、今日は北城町きたしろまちで間違いなく宿が取れるんだろうな」
 春子の左、つまり一番前に座っていた男が御者ぎょしゃに声をかけた。
 男は洋服姿で丸眼鏡をかけ、山高帽やまたかぼうをかぶっている。足の間に立てたステッキに両手を乗せて揺られる姿や、そのしゃべり方が少し威張いばっているようだ。
 御者ぎょしゃは馬を操りながら、ちらりと男を振り返った。
「へぇ、宿屋は宿屋ですけん。お祭りでも泊まれるぞなもし」
「それならよかった。せっかく祭りを見に行っても、泊まる所がなかったら洒落しゃれにならないからな」
 どうやら男は風寄かぜよせの祭りを見に来たらしい。男がどこの村の祭りを見るのか知らないが、波村なみむらは北城町のすぐ北だ。もしかしたら名波村の祭りを見るのだろうかと千鶴が考えていると、御者が男に声をかけた。
「ほれにしても、だんはついとらい」
「ついてる? どういうことだね?」
 げんそうな男に御者は言った。
「ほんまじゃったら、祭りは昨日きにょうからじゃったんよなもし。ほんでも昨日は朝から大雨じゃったけん、予定が一日延びたんよ。ほんでなかったらこの馬車には乗れんかったぞな」
「どうしてだね?」
「あしらは風寄の人間じゃけんな。祭りの日は祭りに行かにゃなるまい」
「だったら、今日はどうしてこの馬車は動いとるんだね? 祭りは今日からなんだろ?」
「始まるんは今日の晩方ばんかたからよ。まぁ、準備しよるもんらは朝からいごきよるけんど、あしらはぎりぎりまで商売しよるけんな。ほんでも今日はこの馬車でおしまいぞな」
 春子は驚いたように千鶴を見た。まさにぎりぎりだったわけだ。自分たちは何とついていたのかと、春子はこぼれんばかりの笑みを見せた。
 山高帽の男も、そうだったのかと驚きとあんのいろを浮かべた。その様子を見て、御者は楽しげに男に話しかけた。
「旦那はどっからおいでたんかな?」
とうきょうだ」
 男は素っ気なく答えた。田舎者相手に気を張っているようだ。すると、東京かな――と御者は驚いた声を出した。
「東京いうたら、先月、がいな地震に襲われたろ?」
「がい?」
物凄ものすごてでっかい地震ぞな」
 男はうなずくと、顔をしかめて言った。
「あぁ、そうだ。あれは最悪だった。まるで地獄みたいな有様ありさまだったよ」
「新聞にもそげなことが書いとったぞな。まぁ、ほんでも旦那はご無事でよかったわい」
 優しい言葉をかけられたからだろう。男の表情から先ほどまでのとがった感じが消えた。
「ありがとう。自分でも運がよかったと思ってるんだよ」
「ほんで、今はどがぁしんさっとるんかな?」
「僕はね、東京できょうべんってたんだ。だけど、東京は壊滅してしまったからね。それで職探しをしてたんだが、高松たかまつに教職の仕事があると教えてもらってね。それでこっちへ来たんだよ」
 高松と言えば、お隣の川県がわけんだ。それなのにひめの祭りを見物するとは、職を失った者には見えないと千鶴は思った。
「せんせ、実はね、あたしもあん時、東京におりましたんですよ」
 二百三高にひゃくさんこうの女が男たちの話に加わった。
 先生と声をかけるところだけを見ると、女は男の知り合いのように思える。だが、どうやらそうではないらしい。
 男は驚いたように女を見ると、すぐに照れたような顔になった。
「あなたもあすこにいらしたんですか?」
 女がうなずくと、男は顔を曇らせた。
「それは大変だったでしょうな。地震で建物は壊れるし、火事は起こるし、人が人ではおられぬ所でしたからな」
「確かに仰る おっしゃ とおりですわ。あたしもいっぺんはほとんど死によりましたけん。ほんでもお陰さまで、こがぁな元気な体にしていただきました」
「ほぉ、それはよかったですな。公然と人殺しが行われるような所でしたから、そんな話を聞かせていただくとほっとしますよ」
「人と言うものは、あげな時にこそ、ほんとの姿を見せるものなんですねぇ。あたし、ほれを身をもって知りました」
「まことにおおせのとおりですな」
 男は何度もうなずいた。
 千鶴は東京を知らない。しかし二人のやり取りが聞いていると、大地震と大火事で廃墟はいきょと化した町が目に浮かぶ。
 がれきの前でたたずむ人や、狂ったように泣き叫ぶ人。誰かを必死に捜し回る人。所々から昇り続ける黒い煙。再び起こる地面の揺れに言葉を失う人々。さいなことで始まる争い。
 千鶴の家は山﨑機織やまさききしょくという小さな伊予いよ絣問がすり 屋を営んでいる。
 かすりは普段着の着物生地として人気がある反物だ。中でも伊予絣は安くて丈夫ということで全国でも評判だった。
 仕入れた伊予絣は松山まつやま市内の太物ふともの屋に届けられるが、東京や大阪おおさかにも出荷されており、遠くは東北とうほくの方まで送られていると言う。
 そんな伊予絣問屋にとって、先月東京を襲った大地震は他人事ではなかった。東京へ送った絣のうち二十万たん以上が灰になり、東京の取引先も甚大じんだいな被害を受けた。そのため多くの絣問屋が廃業に追い込まれていた。
 また、東京へ絣を売り込みに出ていて地震に巻き込まれた者もある。山﨑機織でも東京で店まわりをしていただいが亡くなった。
 今のところ山﨑機織は何とか廃業は避けられたものの、東京への出荷再開は目途めどが立っておらず、この先、商いがどうなるかはわからない。
 春子は東京の地震の話を聞いても、今ひとつぴんと来ない様子だ。しかし向こうの悲惨な状況や、山﨑機織にも及んだ被害を知っている千鶴は、東京の話に敏感になっている。
ねえやんは向こうの言葉と伊予言葉が混ざりよるな。姉やんはどこの生まれかな」
 御者が二百三高地の女にたずねると、さあねぇ――と女はとぼけた様子で言った。
「生まれたとこなんぞ忘れてしもたぞな。ほんでも昔、風寄におったことはあるんよ」
「ほぉ、どこぞに嫁入りしよったんかな」
 女はくすくす笑いながら言った。
「あたしみたいなもん、お嫁に欲しいて言うてくれるお人なんて、誰っちゃおらんわね」
「そんなことはないでしょう。あなたみたいにおきれいな方だったら、嫁に欲しいという者は掃いて捨てるほどいるはずだ」
 山高帽の男が思わずという感じで言った。
 女は驚いた様子で男を見ると、恥ずかしそうに微笑んだ。男も我に返ったのか、うろたえたように下を向いた。
 春子は黙ったまま、意味ありげな目を千鶴に向けた。その顔は今にも噴き出しそうだ。
 しかし、千鶴は笑う気分にはなれなかった。しろ綿めんの老婆がずっと千鶴のことをにらみ続けている。
 せっかくの楽しい名波村行きのはずだった。だが千鶴は沈んだ気持ちで、これまでのことを思い返していた。

     三

 千鶴の家は松山まつやまだが、じょはん学校は松山から西へいちと少し離れた三津ヶみつがはまという海の近くにある。その行き帰りを千鶴は毎日歩いていた。
 千鶴が入学した時には、女子師範学校は全寮制だった。そのため千鶴も寮に入っていた。
 ところが千鶴が二年生の時に規則が変わり、実家が遠方でない者は、三年生からは自宅から通学することになった。それで千鶴は今は家から学校に通っている。しかし春子は実家が遠いので、四年生の現在も寮にいることが許されていた。
 寮生活をしていると、毎日長い距離を通学しなくてもいいのは利点だ。だが逆に言えば、簡単には外へは出られないのである。それだけ寮の規則はきびしかった。
 今回、春子が実家へ戻ることが許されたのは、故郷ふるさとの村で秋祭りが行われるという特別な理由があるからだ。それも授業がない土曜日の午後に寮を出て、日曜日には戻って来るという約束で許可がもらえたのである。
 本当は門限の五時には戻らなければならないが、それは無理な話である。それで先生と交渉の結果、日曜日の消灯時間までに戻る、ということにしてもらった。阿沼美神社の祭りの時も同じ条件で許可をもらっていたので、この交渉はむずかしくなかった。
 当初の予定であれば、祭りは昨日始まるはずだった。だが先ほど御者ぎょしゃが言ったように、大雨のために祭りの予定が変わり、開催が今日に延びたのである。
 祭りの開催が土曜日に延期されたという話は、波村なみむらの春子の実家から学校の電話を通じて春子に知らされた。
 電話などどこの家にもあるというものではなく、千鶴の家にも電話はない。だが春子の父親は名波村の村長だった。それで、村で唯一の電話を持っていた。
 その電話で春子に連絡が来たのは、昨日の夕方だった。そして、千鶴が大喜びの春子に誘われたのは今朝である。
 祭りに招待されたことは、千鶴にはうれしいことだ。しかし、あまりにも急な話だった。授業が終わったら一緒に名波村へ行こうと言われても、よし行こうと返事ができるわけがなかった。何の準備もしていないし、何より家族の許可がなければ無理な話である。
 そもそも女が気軽に遠出するなどできることではない。ましてや自分は働いてもいない女学生の身分だ。家族の許可をもらうのは、学生寮の許可をもらうよりもむずかしいことだった。
 春子には申し訳ないが、千鶴はこの話を断ろうとした。しかし、春子は千鶴を連れて帰ると実家に伝えていた。
 村長一家が千鶴が来るのを楽しみにしていると言われては、簡単に断るわけにもいかない。仕方なく、千鶴は春子に家の許可がもらえない可能性が高いことを説明した。その上で万が一にも許可がもらえたら、客馬車の駅で待ち合わせるという約束をした。
 だが、客馬車がいつ出発するのかはわからない。そのため家の許可の如何いかんに関わらず、客馬車の出発までに自分が現れなければ、一人で行ってもらうということで春子に了解させた。
 とは言っても、そうなることは確実だと千鶴は考えていた。
 午前の授業が終わると、千鶴は持参していた弁当も食べず、大急ぎでいえいた。いつもは歩く道をずっと小走りし続けた。
 実は、千鶴は名波村には縁があった。
 母が千鶴を身籠もった時、祖父とけんをして家を飛び出し、しばらく名波村の寺で世話になったと聞いていた。
 とてもよくしてもらったと母が言っていたので、いつか機会があれば訪ねてみたいと、千鶴は密かに思っていた。それが次第に期待へと変わって行く。
 しかし家に着いた頃には、やはりだめだろうと、膨らんでいた千鶴の気持ちは再び小さくしぼんでいた。
 山﨑機織やまさききしょくあるじは祖父だ。家の中でも祖父に一番の権限がある。その祖父は孫娘である千鶴を快く思っていなかった。
 それに東京の大地震が起こったのは、つい一月ひとつき前のことだ。向こうで多くの人が亡くなり、千鶴が知る手代も死んだ。店の被害もかなりのもので、店を潰さないようにとみんなが懸命にがんばっている。
 そんな中で、他の土地の祭りに行きたいなど、自分で考えても不謹慎極まりないことだ。祖父の承諾を得るのは不可能に決まっていた。
 それでも祖父の前へ進み出た千鶴は、春子からの誘いと、こんな時期ではあるけれど、名波村へ行ってみたいという自分の気持ちを必死に伝えた。
 しゃべるだけ喋ると、千鶴はぶっちょうづらの祖父の視線から逃れようと下を向いた。
 自分がちゃなことを言っているのはわかっている。すぐに雷のような怒鳴り声が落ちるはずだった。
 ところが、千鶴の心配はゆうに終わった。
 どういうわけか、祖父はあっさりと千鶴の名波村行きを認めてくれた。しかも、づかいまで持たせてくれたのである。
 一応小遣いの名目は、向こうへの土産みやげ代と客馬車の運賃ということだった。だが、渡された銭はそれ以上あった。
 千鶴は信じられない気持ちで頭を下げると、祖父から名波村へ行きの承諾とお金をもらったことを祖母に伝えた。
 祖父同様に千鶴が気に入らない祖母は、驚きと困惑が入り交じった少し怒ったような顔を見せた。だが、夫が決めたことだから文句を言うことはなかった。
 母は外で働いていて不在だったので、母には急いで置き手紙を書いて残して来た。
 食べなかった弁当はこっそり丁稚でっちたちにやった。食べ終わったあとの弁当箱は、祖母に見つからないように片づけといてと頼んでおいた。
 途中で土産みやげまんじゅうを買うと、千鶴はきっぱらのまま小走りで、はんほどある客馬車乗り場へ向かった。正直なところ、空腹と疲れでへとへとだった。
 それでも三津ヶ浜から電車で来た春子と合流すると、嬉しさで最高の気分だった。しかし今はその気分もしずまり、本当に自分は春子の家族に歓迎してもらえるのだろうかと、不安がつのっていた。

     四

にいやん、兄やん。ここで降ろしておくんなもし」
 しろ綿めんの老婆が大声で御者ぎょしゃに声をかけた。
 馬車が止まり、御者席から御者が降りて来た。
 客馬車には乗り場の駅がある。千鶴たちが乗ったのは、北の町はずれにある木屋きや町口とちょうぐち いう駅だ。降りるのは終着駅の北城町きたしろまちだが、中間辺りにある堀江村ほりえむらという所にも駅があった。
 ところが、老婆が降りようとしているのは堀江の駅に着く前だった。どうやら降りる時は好きな所で降ろしてもらえるらしい。
 御者が千鶴と老婆の間にある乗降口を開けると、老婆はそこから降りようとした。その時に老婆がよろけたので、千鶴は思わず手を伸ばして老婆を支えようとした。
 しかし老婆は千鶴の手を振り払うと、嫌な目つきで千鶴をにらみ、それからゆっくりと客車から降りた。
 老婆から乗車賃を受け取ると、御者は持ち場に戻り、客馬車は再び動き出そうとした。
 その時、いつの間にか後ろから来た乗合自動車が、道を空けるよう催促した。御者は舌打ちをすると、客馬車を左端に寄せた。
 道幅が狭いので、乗合自動車はゆっくりと馬車の横を、いかにも邪魔そうな感じで通って行った。
 乗合自動車の後ろの座席には、客が三人乗っていた。その姿はちらりとしか見えなかったが、三人とも裕福そうな姿に見えた。
 再び客馬車が、がたがたかっぽんかっぽんと動き出すと、後方を歩く老婆の姿はすぐに小さくなって行った。
 一方で、前方を行く乗合自動車も次第に小さくなって行く。
 千鶴の正面に、もう老婆はいない。しかし千鶴の胸には、老婆から向けられた憎悪が突き刺さったままだった。
 千鶴の気持ちを知らないのか、気づかないふりをしているのか、春子は鼻息荒く言った。
「何や感じ悪いな、あの乗合自動車。ほら確かに乗合自動車の方が速かろ。けんど、乗り心地が悪いんはついよ。ほれやのに運賃が一円十せんもするんで。ほれに比べて、馬車の方は三十六銭じゃろ? ほら絶対馬車の方がええわいね」
 じゃろげ?――と同意を求められ、千鶴は少しだけ微笑んでみせた。
 千鶴は乗合自動車どころか、客馬車も生まれて初めて乗ったのである。それで客馬車はお尻が痛くなるのがわかったけれど、乗合自動車の乗り心地なんてわからない。だから春子の話にはどうにも返事のしようがないし、どうでもいいことだった。

 堀江の駅に着くと、客馬車はしばらく停まっていた。
 近くにはこくへん札所ふだしょがあるので、お遍路の姿がちらほら見える。しかし、新たに客馬車に乗り込む客はいなかった。
 匂い袋のきつい香りはまだ漂っている。どうやら匂い袋を忍ばせているのは二百三高にひゃくさんこうの女らしい。千鶴はこの匂いが気になったが、春子や他の乗客たちは何とも感じていないようだ。千鶴は匂いを避けて顔を馬車の後ろへ向けた。
 客馬車が再び動き始めると、千鶴はそのまま後ろへゆっくり遠ざかる景色を眺めた。匂いだけでなく、他の乗客たちと目が合わせるのも嫌だった。しかし、後ろにも青い布が垂れ下がっている。体をかがめなければ、見えるのは低い所にある道や田んぼばかりだ。
 春子も最初のはしゃぎぶりは落ち着いたようで、今は静かに揺られている。鳥打帽とりうちぼうの男は黙ったまま腕を組んでいるが、ちらりちらりと千鶴を盗み見するのは変わらない。
 山高帽やまたかぼうの男と二百三高地の女は、相変わらずおしゃべりを続けている。そこへ御者が話に交じるので、客車はにぎやかだった。
 聞くつもりはないけれど、勝手に耳に入って来る話によれば、山高帽の男には気にかけているおいっ子がいるらしい。
 昔、その甥っ子はとうきょうで暮らしていたそうだが、訳あって精神を病んでしまい引き籠もっていたと男は話した。
 しかし甥っ子は気分を変えるために、何年か前にこちらへ移り住んだようだ。それで山高帽の男は高松たかまつへ赴任となったのを幸いに、その甥っ子に会いに来たと言う。
 それなのに昨夜は三津ヶみつがはまの宿に泊まったと男が言うので、どうして松山まつやままで来て三津ヶ浜で宿を取るのかと、千鶴はぼんやり考えていた。

「もうじき海が見えるけん」
 不意に春子の声が聞こえた。見ると、春子は青い布を持ち上げ、千鶴に海を見せようとしている。春子は外の景色に気を取られていたのか、山高帽の男が言った三津ヶ浜という言葉には気がついていないようだ。
 千鶴も青い布を持ち上げて景色を眺めてみたが、なるほど左手の先の方に海が見えて来た。それだけでずいぶん遠くへ来た感じがする。
 やがて馬車が海のすぐ近くを走り始めると、右手に山の崖が迫って来た。この先の道はその崖沿いを走るらしい。
 海は穏やかで大きな波は見えない。時折、優しげな潮風が千鶴たちの脇を通って、客車の中をくぐり抜けて行く。日はかなり西に傾いているものの、空が赤く染まるにはまだ時間がありそうだ。
 御者が前を向きながら大きな声で喋った。話しかけている相手は乗客全員と言うより、山高帽の男と二百三高地の女の二人だろう。
「ここいらはな、あわざか言うて、昔はこの右手の山を越える道しかなかったんよなもし。ほれが四、五十年前じゃったかの。あしが生まれるより前のことなけんど、この新しい道がでけたけん、こがいして馬車が走れるようになったんよ」
「へぇ、そうなのかね。この道を造るのは大変だったろうに」
 山高帽の男が崖に造られた道を眺めて感心すると、山道の方がよかったのにと二百三高地の女が言った。
「昔の道には昔の道のよさと言うか、味わいがあるじゃござんせんか。せんせは、ほうは思われませんか」
 男はうろたえた様子でうなずいた。
「そ、そう言われてみれば、確かにそうですな。古いものには味わいというものがある」
「けんど、前の道のままじゃったら、この馬車は走れまい」
 御者が反論すると、山高帽の男は女をかばった。
「でも、やはり眺めは高い所の方がいいんじゃないかな」
 すると、女は手で口を隠しながらくすくす笑った。
「嫌だわ、せんせ。山道は周りがが木だらけなんですよ。眺めなんかちっともよくありませんよ」
「あ、いや、それは……」
 山高帽の男が顔を赤らめて口をつぐむと、女はまた笑いながら言った。
「でもね、せんせ。ここの峠から見える景色は、今よりずっと見晴らしがいいんですよ」
「そ、そうなのかね。じゃあ、やっぱり山道の方がいいのかな」
「だけど馬車で走るんなら、やっぱしこっちの道の方がええぞなもし」
 天邪鬼あまのじゃくのような女だった。山高帽の男は完全に遊ばれている。千鶴は山高帽の男を気の毒に思った。
 だが鳥打帽の男は下を向きながら、くっくっと笑っている。春子も笑いをこらえるのに必死なようだ。

     五

 あわざかの山を過ぎると、広々とした平野に出た。ここからが風寄かぜよせだと春子は言った。波村なみむらはまだ先だが、春子はもう故郷ふるさとへ戻ったような顔をしている。
 過ぎた山のふもとには小さなお堂があって、杖と菅笠すげがさを持ったおへんが手を合わせていた。春子が言うには、あれはだいどう弘法大こうぼうだいまつったものらしい。
 しばらく行くと、街道沿いに町並みが現れた。ここが北城町きたしろまちかとたずねると、ここはやなぎはらだと春子は言った。
 柳原には客馬車の駅はない。だが鳥打帽とりうちぼうの男は、ここで降りると言った。
 男は客馬車を降りる時、ちらりと二百三高にひゃくさんこうの女を一瞥いちべつした。それに対して、女の方もじろりと男を見返した。
 千鶴には二人が目で何かを言い交わしたように見えた。しかし、すぐに男がこちらへ目を向けたので、慌てて下を向いた。
 男は御者ぎょしゃに金を払うと、もう客馬車には目もくれないで、辺りをきょろきょろと見回している。その様子を千鶴が眺めていると、もうし――と呼びかける声が聞こえた。
「もうし、そこにおいでるねえやん」
 二百三高地の女がにこにこしながら、こちらを見ている。
 春子は自分が声をかけられたのかと思ったみたいだった。だが、女の視線は千鶴に向けられていた。
 また馬車が動き始めた。千鶴は当惑しながら女に顔を向けた。
ねえやんは、おくにはどこぞなもし」
松山まつやまです」
 千鶴は小さな声で申し訳程度に返事をした。馬車の車輪の音が大きいので、女に聞こえたかどうかはわからない。
 二百三高地の女は興味深げな目を向けながら、さらに話しかけて来た。
「こがい言うたら失礼なけんど、ねえやんは異国のぃが入っておいでるん?」
 千鶴は下を向いて答えなかった。見かねた春子が女にみつくように言った。
「ほれが何ぞあんたに関係あるんかなもし?」
 女は平気な様子で微笑みながら答えた。
「別に関係はないけんど、昔、ほのねえやんにようぃたお人を見たことがあるもんで、ちいと聞いてみとなったぎりぞなもし。わるしたんならあやまろわい」
「うちとぃた人がおいでるんですか?」
 千鶴が思わず顔を上げると、女は機嫌よく言った。
「昔の話ぞな。ずうっと昔のね」
「ほのお人は、今はどこで何をしておいでるんですか?」
「さあねぇ。とんと昔のことじゃけん。ほんでもな、まっことしろうてきれいなお人やったぞな。今のねえやんみたいにねぇ」
 女は千鶴を見つめながら微笑んだ。
 人からきれいだなんて言われたのは初めてだ。千鶴はちょっぴりうれしい気がした。しかし、この女が天邪鬼あまのじゃくであることを思い出し、嬉しく思ったのが悔しくなった。
 それに千鶴を眺める女の笑顔が、何だか品定めをしているようにも見えたので、また緊張が戻って来た。
 千鶴が黙り込むと、女は千鶴に飽きたように、今度は御者に何かを話しかけた。
 一方で、山高帽やまたかぼうの男は千鶴に興味を持ったようだった。男は何か言いたげに口をもごもごさせた。だが間に春子が座っているからか、結局は千鶴に話しかけることはなかった。

「そろそろ着くで」
 少し体をかがめた春子が、御者の前方に見える景色を眺めながら言った。客馬車は海沿いの松並木の道を走っている。前方に町並みが近づいているが、あれが北城町らしい。
 春子は青い布を持ち上げて、町の左手に見える島を指差した。
「ほら、あそこにおわんみたいな、まーるい島が見えろ? あれは鹿しま言うてな、鹿がんどる島なんよ」
 おかからすぐ近くに浮かぶその小さな島は、何だか妙に存在感があった。鹿島を見た千鶴は、何故か胸の奥の方に小さな胸騒ぎを覚えた。
「もうし、ねえやん」
 また二百三高地の女が、千鶴に声をかけて来た。
 千鶴が黙って女を見ると、両手で何かを持ち上げる仕草をしながら女は言った。
「申し訳ないけんど、そっちの日よけもちぃとたげておくれんかなもし」
 げんに思いながらも、千鶴は言われたとおり自分の後ろの青い布を持ち上げてやった。すると、そこには赤く染まった夕日が浮かんでいた。
「うわぁ、きれいやわぁ」
 女が歓声を上げた。女の声で春子は後ろを振り返り、山高帽の男も後ろの青い布を持ち上げた。二人は感嘆の声を上げると、夕日に見とれた。
 夕日は見事に美しかった。あかねいろの空の中、横にたなく雲の層が金色こんじきに輝いている。また海の上にも、こちらへ延びる金色の帯がきらきらと揺らめいている。それはこれまでに千鶴が見た夕日の中で、一番美しい夕日かもしれなかった。
 千鶴の目は夕日にくぎづけになっていた。しかし、それは夕日の美しさのせいではない。何故だかわからないが、夕日を眺めているうちに、胸の底から深い悲しみが湧き出して来た。その悲しみが千鶴の目を夕日から離さなかったのだ。
 客馬車が北城町に入ると、夕日が町並みにさえぎられ、千鶴はようやく前を向くことができた。それでも胸の中では、まだ悲しみが暴れている。
 こんな訳のわからない動揺を、春子に気づかれたくはない。千鶴はちらりと春子を横目で見たが、春子はいよいよ故郷に戻って来たという感激でいっぱいのようだ。前方に見える町の景色を嬉しそうに眺めている。
 ほっとして千鶴が春子から目を外すと、二百三高地の女と目が合った。女はにこにこと楽しげに千鶴のことを見ていたようだ。
 女に心の内をのぞかれたような気がして、千鶴は下を向いた。

 鹿島を通り過ぎて少し行くと、道が枡形ますがたになっている。客馬車はそこで止まった。ここが北城町の駅らしい。
 客車を降りた春子が背伸びをしながら、着いたと叫んだ。千鶴も腰を伸ばしながら辺りを見回した。奇妙な悲しみはようやく落ち着いたが、代わりに見知らぬ土地への不安が顔を出している。祭りの準備をしているせいか、へいが飾られた町は閑散として寂しげだ。
 御者に運賃を支払うと、春子は喜び勇んで千鶴を名波村へいざなった。二百三高地の女は山高帽の男とまだ喋っていたが、千鶴が顔を向けると小さく手を振って何かを言った。声は聞こえなかったが、口の動きを見ると、またねと言ったようだ。また会いたいと思わない千鶴は、小さく会釈えしゃくをしただけで、春子のあとについて行った。
 春子の家は十ちょうほど歩いた所らしい。北城町を北へ抜けると川があった。川の向こうが名波村だと春子は言った。
 夕闇が迫る橋の途中で、ほら!――と春子が海を指差した。千鶴が振り返ると、黒々とした鹿島の右手に、今にも沈みそうな夕日があった。
 思わず息をんだ千鶴の中で、あの悲しみがさっきよりも強く湧き起こった。涙が勝手にあふれ出し、胸の中で誰かが泣き叫んでいる。
 千鶴の様子に気づいていない春子が先をうながした。しかし、千鶴はそこからしばらく動くことができなかった。