もう一人のロシアの娘
一
権八によれば、奇妙な死に様にもかかわらず、イノシシの死骸は昨夜のうちにさばかれて、多くの者の腹を満たしたらしい。権八もそのうちの一人だった。
イノシシの死骸を見たばかりか、その肉まで食べることができた権八を、春子は羨ましがった。
せめて残った骨や毛皮を見たいと春子が言うと、それは山陰の者の所にあると権八は話した。それを聞くと、春子は残念そうにしながらあきらめた。
それでも春子は、イノシシの死骸があった場所を確かめに行きたいと言った。神輿は夕方神社に戻るまで、周辺の村々を練り歩く。その間、自分たちには暇があるので見に行くと言うのだ。
わざわざそんな所へ行くのはよしなさいと、和尚夫婦は口を揃えて言った。しかし、春子は余程イノシシに未練があるようで、千鶴に無理やり賛同させた。
何がイノシシの頭を潰したのかという権八の素朴な問いに、知念和尚は答えることはできなかった。好い加減なことは言えないだろうが、まともに答えるのはとても恐ろしいことだったに違いない。
そんな不穏な死に方をしたイノシシの死骸があった場所になど、当然ながら千鶴は行きたくなかった。
またイノシシの話を聞いてから、千鶴は何かを思い出しそうな気がしていた。しかし、それを思い出してはいけないように感じていたし、思い出すかもしれないのが怖かった。
それでも世話になっている春子がどうしても見たいと言えば、断ることはできなかった。それで嫌だと言わないのを、春子は千鶴が賛同したと主張した。
結局は和尚たちも無理には引き留めることはしなかった。それで千鶴は春子と一緒にイノシシの死に場所を見に行くことになった。
道すがら山陰の者について千鶴が訊ねると、春子はむすっとした顔で説明した。
それによると山陰の者とは、山陰になった所に暮らす人たちのことで、昔から血生臭い仕事を生業としていたらしい。そのため村人たちから嫌われているそうだが、村人たちと諍いを起こす乱暴者もいて、それで余計に嫌われていると春子は言った。
説明をする春子の表情から、春子が山陰の者を毛嫌いしていると千鶴は理解した。また、山陰の者の所にあるというイノシシの骨や毛皮を、春子が見に行かないのもこのためなのだと悟った。
しかし、それは明らかに山陰の者に対する差別だ。相手が誰であれ、差別をする親友を見るのは、千鶴にはつらいことだった。
またその差別の矛先が、いつ自分にも向けられるかもしれないと思うと落ち着かない。今は親友のように扱ってもらっていても、春子の機嫌を損ねたら、自分も山陰の者と同じ待遇を受けるかもと、不安な気持ちになってしまう。
それは自分がロシア兵の娘だからだが、実はがんごめだったとなれば、山陰の者どころではない目を向けられるだろう。その時は他の者たちも一緒になって恐れ戦き、自分を排除しようとするに違いない。
そんなことを心配する千鶴の横で、春子はため息をつきながら、山陰の者への悪態をついた。イノシシの骨や毛皮が山陰の者たちの所にあるからだろうが、その態度は千鶴をさらに刺激した。
千鶴たちは辰輪村へ向かう川辺の道を進んで行った。すると、死骸があったと思われる血溜まりの跡が、すぐに見つかった。
辺りには肉片や骨片の一部と思われる物が、血と一緒に飛び散っていた。そこでイノシシが死んだのは間違いないと思われた。
血溜まりや、その周りに漂う血の臭いは、夢で見た地獄を千鶴に思い出させた。あの生温かくぬるりとした感触が足の裏に蘇り、千鶴は小さく身震いをした。
血の臭いには獣の臭いも混じっている。その臭いは千鶴の記憶から何かを引き出そうとしているようだ。
春子もこの臭いには顔をゆがめ、手で鼻をふさいだ。それでも春子はこの場所の探索をやめようとはしなかった。
その時、頭上の木の枝でカラスが鳴いた。驚いた春子がカラスに怒鳴ると、カラスはばさばさと飛び去った。
千鶴は妙な気分になった。今見たのと同じ場面に出くわしたことがあるような気がしたのだ。
権八から死骸の向きを確かめていた春子は、道の奥を指差して、イノシシはあちらから来たようだと言った。
道の奥へ目を向けた千鶴は、そこにイノシシの姿を思い浮かべようとした。すると、胸騒ぎを覚えて困惑した。
胸騒ぎは千鶴を以前にもここにいたような気持ちにさせた。
春子の家を飛び出したあとの記憶がない千鶴にとって、これは一つの手掛かりだ。しかし、まさかこんな場所にいたなんてと考えると、そんな記憶は取り戻したくなくなってしまう。また、何だかそれは思い出してはいけないことのようにも思えていた。
それでも千鶴はもう一度頭上の木の枝を見上げ、それからまた道の奥を見てみた。何かを思い出しそうな気持ちがそうさせていた。
だが、目の前に広がる眺めにはまったく覚えがない。それでも、すぐ横を流れる川のせせらぎが、千鶴がここにいたと証言しているように聞こえる。
胸がどきどきしている。本当に自分はここにいたのだとしたら、それはどういうことなのか。死んだイノシシと何かの関わりがあったのだろうか。
そんなことを考えると、どきどきはさらに強まった。頭では何も覚えていなくても、身体が覚えているかのようだ。
春子はイノシシの頭を潰すような、大きな岩か何かが落ちていないか辺りを調べている。しかし、そのような痕跡はどこにも見当たらないようで、手で鼻をふさぎながら、うーんと唸っている。
川向こうにある丘陵には一部崩れた所があった。だが、そこは離れ過ぎている所なので、イノシシとは関係ないようだ。
謎に首を捻る春子を横目に、きっと自分は昨夕ここにいたに違いないと千鶴は考えた。その時のことなど覚えていないし、思い出すのは怖い気がする。それでも思い出さねばと、千鶴はここが日が暮れた時の様子を想像してみた。
だが陽射しに満ちた今の場所が、夕闇に沈んでいる情景を想像するのは容易なことではない。
千鶴は目を閉じた。そうして目蓋が作った闇の中で川音を聞き、獣の臭いを嗅いだ。
しかし、何も思い出せなかった。それで一度目開けて、目の前にある道や樹木を目に焼きつけたあと、再び目を閉じた。目蓋が作った闇の中に、焼きつけた風景の輪郭がぼんやりと重なっている。
その風景を見つめながら川音を聞いていると、いつの間にか千鶴は濃い夕闇に包まれた道に立っていた。春子と一緒にこの場所に来ているという意識はあるが、夕闇の中の道にいるという感覚が強まると、元の意識は遠のいた。
今や千鶴は、闇でほとんど先が見えない道に立っていた。川音は聞こえているが、春子の声は聞こえない。鼻をふさぎたくなるような臭いも、今は千鶴の感覚に入って来ない。千鶴の意識をとらえているのは、前方の闇の中にある黒い岩のような影だった。
幻影の中で、千鶴は突然すべてを思い出した。そして、蘇った記憶のとおり、黒い影が千鶴に向かって突進して来た。
獣の臭いが鼻を突くと、あの時と同じように、千鶴は恐怖に襲われて気を失いかけた。春子が咄嗟に支えてくれなければ、血溜まりの中に倒れているところだった。
正気に戻った千鶴は体ががくがく震えた。その様子に春子は大いにうろたえた。
どうしたのかと春子に訊かれたが、本当のことなど言えるわけがない。何でもないとごまかすしかなかったが、声も体も震えが止まらない。頭の中は、蘇った恐怖と新たな恐怖でいっぱいだった。
本来ならば、ここで死んでいたのは自分のはずだった。あの時に死を覚悟した恐怖に、千鶴は再び胸を鷲づかみにされた。
ところが死んだのはイノシシの方で、自分は何者かに法生寺まで運ばれていたのである。しかもイノシシは無残にも頭を潰されたが、自分の方は無事な上に、頭に花が飾られていた。
安子が言ったように、お不動さまが護ってくれたのだとすれば、イノシシを殺す必要はない。千鶴を助ければいいことである。
それなのにイノシシは殺された。しかも、その殺し方が残虐だ。頭を潰して殺すなど、御仏のすることとは思えない。
イノシシの頭を潰したのが、人でもなく仏でもなければ、何がやったというのか。千鶴の頭に浮かんだのは、闇の中から落ちて来た巨大な毛むくじゃらの足だった。
体の震えが止まらない。恐れていたことが現実に起こったのだ。鬼はいる。自分と一緒に地獄から出て来た鬼が、自分を護ったのに違いない。それは自分ががんごめだということだ。
この事実は千鶴を大きく動揺させた。それは恐怖であり絶望だった。
鬼が法生寺へ向かったのは、そこががんごめの棲家だからだ。前世と同じようにやれということだろう。
川向こうの丘陵が崩れた所は、鬼が通った跡のように見える。自分を抱えた鬼が人目を避けながら、あの丘陵を越えて法生寺へ向かう姿が目に浮かぶ。
春子が千鶴を落ち着けようと必死に話しかけてきた。しかし春子の声は、千鶴の耳を素通りするばかりだった。
ロシア兵の娘ということで差別は受けても、風寄へ来るまでの自分は人間だった。しかし、今の自分は人間ではない。がんごめという鬼の娘なのである。
両親が人間なのだから、自分も人間だと思いたかった。だが悲惨なイノシシの死が、そうではないのだと告げている。
恐らく鬼よけの祠が壊れたために、鬼は再び風寄へ現れたのだ。そして自分を風寄へ引き寄せたに違いない。そうでなければ、自分が風寄の祭りを見るなど許されるはずがないのだ。
あまりの恐怖に、鬼を慕う気持ちは隠れてしまったようだ。
涙ぐんで怯え続ける千鶴に動転したのか、こんな所へ連れて来て悪かったと、春子は千鶴に平謝りした。
大丈夫と言いながら、千鶴は涙を拭いて気持ちを落ち着けようとした。だが自分はがんごめだったという衝撃は、千鶴の胸に深く突き刺さったままだった。
二
「詣て来い!」
人で埋め尽くされた境内の中、そこにいる者たちに向かって、神輿に乗った男二人が挑発するように叫ぶ。それに応じて周りの男たちも、詣て来い!――と叫び返す。さらに二人が叫ぶと、周りも再び叫び返す。
声の掛け合いを続ける男たちのさらに周りは、野良着姿の見物人で固められている。両者の間に距離はなく、見えるのは頭ばかりだ。誰が舁夫で誰が見物人なのか、よく見なければ区別がつかない。
境内にうねりとなって広がる熱気と興奮。そこにいるすべての者がこれから行われることを、今か今かと目を輝かせて待っている。
このあと神輿は三十九段ある神社の石段の上まで運ばれ、そこから下を目がけて投げ落とされるのだ。
投げ落としは、神輿が壊れて中の御神体が出て来るまで、何度でも繰り返される。
神輿は全部で四体あり、一体が壊されると次の神輿が運ばれて来る。そうして四体全部が壊されるまで投げ落としは続く。
千鶴たちは松山へ戻らねばならないので、四体の投げ落としすべては見られない。しかし、暇が許す限り見たいと春子は言った。
春子にすれば、幼い頃からお馴染みの祭りである。しかも四年ぶりの祭りなのだ。興奮するのが当然だ。
千鶴にしても、この祭りの醍醐味を見られるわけである。本当であれば、もっと浮かれた気分になっていただろう。
だが千鶴は祭りどころではない。イノシシに襲われた時のことを思い出してから、ずっと恐怖と不安が頭に張りついたままだ。
世話になった和尚夫婦に感謝を告げ、別れの挨拶をした時も、春子の家に立ち寄って、イネやマツと談笑した時も、何も考えることができなかった。とにかく必死に笑顔を作ったが、何を喋ったのかは覚えていない。
自分ががんごめだったなど誰にも言えるわけがなく、胸に膨らむ不安や恐怖を聞いてもらえる相手もいない。
これから自分に起こるであろう恐ろしいことに、千鶴は一人で耐えなければならなかった。また、実際にそれが起こった時の、家族や周囲の者たちの様子が思い浮かぶと、涙が出そうになった。
女子師範学校に通っているのは、自分の将来のためだった。しかし今の千鶴には将来などなかった。この先待ち受けているのは鬼なのだ。
恐怖と絶望で今にも泣き崩れてしまいそうだったが、春子を心配させないように、千鶴は必死に涙をこらえて平静を装っていた。
それでも春子は、千鶴が動揺を隠しているのはわかっている。動揺の本当の理由は知らなくても、自分が千鶴をイノシシの死骸があった場所へ連れて行ったからだと、責任を感じているに違いない。
それが証拠に、人混みには入らず境内の隅から神輿を眺める千鶴に、春子は辛抱強く付き合っている。久しぶりの地元の祭りなのだから、本当は人垣の中に入って、みんなと一緒に楽しみたいはずである。
「村上さん、うちのことは構んでええけん、もうちぃと傍で見ておいでや」
千鶴が声をかけても、春子は微笑み、ええんよ――と言った。しかし、そわそわしている様子を見ると、やはり行きたいらしい。
鬼のことはともかく、千鶴は見知らぬ人ばかりの人混みが好きではない。夜であれば暗がりに紛れることができるが、明るいうちは千鶴の姿は人から丸見えだ。ロシア兵の娘がいるぞと言われるのが嫌だった。
しかし千鶴たちがいる所からでは、幾重にもなった人垣で舁夫たちの様子はよくわからない。持ち上げられた神輿と、神輿の上に乗った男たちの姿が見えるばかりである。
背が低い春子は千鶴の隣でしきりに背伸びをして、神輿の様子を窺っていた。だが、ついに我慢ができなくなったようだ。
「山﨑さん、やっぱし、もうちぃと前に行こや!」
春子は千鶴の手をつかむと、人垣へ突っ込んだ。何も心配する必要はないと示したい気持ちもあったのだろう。あるいはイノシシの死骸で動揺した千鶴を、元気づけたかったのかもしれない。
千鶴は抗う間もなく人垣の中へ引っ張り込まれ、誰かにぶつかるたびに、すんませんと詫び続けた。
千鶴を初めて見た者たちは、一様にぎょっとした顔になった。中には悲鳴を上げる者までいて、千鶴は自分の顔が鬼になっているのではないかと不安になった。
春子は人をかき分けながら、どんどん奥へ進んだ。途中で千鶴の手が離れたが、春子はまったく気づかないまま行ってしまった。
千鶴は周囲の人々に四方から押され、身動きが取れない状態で一人取り残された。
周りにいる者たちの目は、神輿ではなく千鶴に向けられている。好奇と侮蔑の目に囲まれた千鶴は、下を向くしかできなかった。
「こら、さっさと出てかんかい! 祭りが穢れようが!」
近くで怒鳴り声が聞こえ、千鶴は驚いて顔を上げた。だが、誰が怒鳴ったのかはわからない。みんなが千鶴をにらんでいるようだ。
すんませんと言ってまた下を向くと、千鶴は外へ出ようとした。すると、再び怒鳴り声が聞こえた。
見ると、すぐ近くで若い男が、他の男たちに人垣の外へ押し出されようとしている。
自分ではなかったのかと千鶴は安堵した。だが、罵られている若者が気の毒で悲しくなった。
同じ村の者であるなら、このようなことは言われるはずがない。きっと若者は山陰の者に違いないと千鶴は思った。
ちらりと見えた継ぎはぎだらけの着物が、若者の貧しさを物語っているようで、それもまた千鶴の悲しみを深くした。
しかし、そんなことを考えている暇はなかった。次こそ自分が怒鳴られる番である。その前に外へ出なくてはならない。
人垣は鳥居の外にまであふれていた。
この場から逃げたい気持ちと、追い出された若者への共感から、千鶴は人を押し分けながら人垣の外を目指した。そうして、やっとの思いで鳥居の外へ出たものの、先に押し出されたはずの若者の姿は、どこにも見当たらなかった。
神社はこんもりした丘の上にある。その丘に沿って南へ向かう道があるが、その道には人の姿がない。
気疲れした千鶴は南へ向かう道を少し歩いた。村人の集団から離れたかった。すると、不意に後ろから呼び止められた。
「千鶴さん……やったかの?」
驚いて振り返ると、春子の従兄源次がいた。後ろには連れの仲間三人が立っている。
三
「こげな所で、何しよんかい?」
源次が訝しげに言った。突然声をかけられたことで、千鶴は動揺していた。
「あ、あの……、人を探しよったもんですけん」
「人て、誰ぞな?」
「名前は知らんのですけんど、継ぎはぎの着物を着た男の人ぞなもし。どこへ行てしもたんか……」
さっきの若者が気になっていたのは事実である。だが、真剣に探していたわけではない。人から離れたくて、誰もいないこの道を歩いていただけだ。
源次たちは、千鶴が口にした男が誰なのか見当がついたようだった。あいつかと言うように互いに目を見交わした。
千鶴に顔を戻した源次はにこやかに言った。
「そいつとは知り合いなんかの?」
「ほういうわけやないですけんど、ちぃと気になったけん」
「ほうかな。ほれじゃったら、おらたち、そいつがおる所知っとるけん、連れてってあげよわい」
「いえ、そがぁなこと無理にせいでも構んですけん」
「まぁ、ええがな。そげに気ぃ遣わいでも構ん構ん。すぐそこじゃけん、ついて来とうみや」
源次はにこやかに先頭に立つと、千鶴がいた道をさらに先へ進んだ。しかし、千鶴はその若者をちらりと見かけただけで、顔も合わせていないのである。そんな相手の所へ連れて行かれても、お互いに困るだけだ。何をしに来たと聞かれても返事のしようがない。
それでも後ろの男たちに促されて、千鶴も仕方なく歩き始めた。それにしても強引と言うか、何だか異様な雰囲気である。
「あの、ほんまに、もう構んですけん」
「もう、そこぞな。そこをな、左に曲がった先におるけん」
もう、ちぃとじゃけん――と後ろの男たちも笑みを浮かべながら言った。だが、その笑みが千鶴には薄気味悪く思えた。
道なりに左へ曲がると、神社や参道が丘の陰になって見えなくなった。人々が騒ぐ声は聞こえるが、遠くで聞こえているようだ。
千鶴は辺りを見回したが、そこには建物もなければ人気もない。刈り取りが終わった田んぼがある他は、何もない道が丘沿いに続いているだけだった。
「あの……、あのお人はどこに――」
「千鶴さん」
立ち止まった源次は振り返ると、千鶴の言葉を遮って言った。
「昨夜は春子の家やのうて、法生寺に泊まったそうじゃな」
「え? は、はい」
怪訝に思いながら、千鶴はうなずいた。
「春子に言われたけん、昨夜はな、千鶴さんに会お思て、必死に酔いを覚ましよったんよ。ほれやのに、聞いたら法生寺におる言われてな。おらたち、法生寺まで押しかけよかて思いよったんで」
「ほ、ほうなんですか」
源次が何を言いたいのか、千鶴には理解ができなかった。あとの言葉が続かず黙っていると、源次は千鶴の両手首をぎゅっとつかんだ。
「千鶴さん、昨夜果たせなんだ想いを、今ここで果たさせておくんなもし」
「え? な、何のこと――」
源次はぐいっと千鶴を引き寄せると、抱きついて来た。
「ち、ちぃとやめてつかぁさい。人を呼びますよ!」
「呼んでみ。誰っちゃ来んで。みぃんな神社に集まっとるけんな」
源次は暴れる千鶴に、口を突き出して接吻をしようとした。
他の三人は千鶴が逃げられないように周囲を取り囲み、異人の女子はどがぁな味じゃろ――と笑い合っている。
千鶴は源次の手から何とか右手を引き抜くと、源次の顔を押し戻しながら大声で言った。
「あんた、村上さんの従兄なんじゃろ? こげなことして許されるて思とるん?」
「別に許してもらうつもりはないけん。ほれに、ロシア兵の娘を手籠めにしたとこで、誰っちゃ文句言うまい」
源次はもう一度千鶴の両手を押さえると、勝ち誇ったように言った。
「昨日はみんなに歓迎されたて思たんじゃろが、そげなことあるかい。どこの村にもロシア兵に殺された者や、片輪にされた者がおらい。みんな春子に合わせて歓迎するふりしよったぎりじゃい」
「そげなこと――」
「あの家に信子いう女子がおったろ? あいつの父親は村長の弟でな、おらたちは従兄妹同士よ。その信子の父親はな、ロシア兵に殺されたんじゃい。その仇を取ってやるんじゃけん、信子も村長もみんな喜んでくれらい」
源次の言葉は、千鶴の胸に深く突き刺さった。
がんごめである以前に、村の者たちが自分なんかを快く受け入れるはずがなかったのだ。春子の家族にしても、身内をロシア兵に殺されたのである。歓迎してくれたように見えたのは、源次が言ったように春子の顔を立てただけのことなのだろう。
言葉を返せない千鶴は、源次に抗う力を失った。千鶴がおとなしくなったので、源次は得意げに仲間たちを見た。
「言うとくけんど」
千鶴は力なく源次たちに言った。もう何もかもがどうでもよく思われた。どうせ自分はロシア兵の娘であり、がんごめなのだ。
「これ以上、うちに手ぇ出したら、どがぁなっても知らんけんね」
「ほぉ、やくざの姉やんみたいなこと言うんじゃな。おらたちをどがぁするつもりぞな? ほれ、やっとうみや」
源次が嘲るように言うと、仲間の男たちもへらへら笑った。
千鶴はがんごめの気分になっていた。がんごめの自分が、こんな人間の屑の玩具になってたまるものかと思った時、千鶴は源次の左腕に噛みついていた。
「痛っ!」
思いがけない千鶴の反撃に、源次は反射的に右手を振り上げた。
だが、千鶴は避けるつもりはなかった。自分に手を出せば、この男たちは鬼の餌食にされるだろうと考えていた。そして、そうなっても構わないとさえ思っていた。
ところが、現れたのは鬼ではなかった。
四
源次が振り上げた右手は、後ろから伸びて来た別の手につかまれた。驚いた源次が振り向くと、そこに若い男が一人立っていた。
「祭りの日に女子を襲うとはの。神をも恐れぬ不届き者とは、お前らのことぞな」
それは千鶴が探していた、あの若者に違いなかった。継ぎはぎだらけの着物がそう語ってくれている。
若者は切れ長の目に、鼻筋の通ったきれいな顔立ちをしていた。着ている物は貧しそうでも、若者の顔や雰囲気には気品があった。
一方の源次と仲間の男たちは、いかにも祭りが似合いそうな荒くれ男だ。体も若者よりも大きい。助けてくれるのは嬉しいが、一対一でも若者には分が悪そうだった。しかも相手は四人もいる。
と思ったら、源次の仲間の一人はすでに地面に倒れ、腹を押さえながら声も出せずに苦しんでいた。
おどれ!――と叫んだ源次は、千鶴を離して若者につかみかかろうとした。しかし、若者はつかんだ源次の腕を、素早く後ろへ捻り上げた。
「痛てて!」
源次が苦痛に顔をゆがめると、残っていた仲間の二人が若者に襲いかかった。
若者は一人に向かって源次を蹴り倒し、飛びかかって来た別の男を、見事な一本背負いで地面に叩きつけた。
その勢いは凄まじく、叩きつけられた男は呻くばかりで、地面に張りついたように動かない。
仲間の一人と一緒に田んぼに落ちた源次は、捻られた腕を押さえながら起き上がると、若者をにらみつけた。
その後ろで遅れて立ち上がった仲間の男は、若者の一本背負いが見えたのだろう。驚き怯えた様子で喚いた。
「お前、そげな技、いつの間に身に着けたんじゃい!」
「生まれつきぞな」
若者は涼しい顔で答えると、田んぼに降りて源次たちの方へ近づいた。
源次は若者に殴りかかったが、若者は源次の拳を避ける素振りもない。源次をにらみながら、向かって来た源次の右の拳を、難なく左手で受け止めた。
若者が源次の右拳を受け止めながら外へ捻ると、源次はそれに合わせてひっくり返った。源次を倒しながらも、若者の顔はもう一人の男に向けられている。
男はうろたえながら若者につかみかかった。
若者は男の両手をつかむと、男の腹に蹴りを入れた。男が体をくの字に曲げると、若者は男の体を担ぎ上げた。
見た目はそれほど力持ちに見えないのに、男を軽々と持ち上げる若者に千鶴は驚いた。
若者は担いだ男を、ちょうど立ち上がった源次に向かって投げつけた。
無理に重い物を持ち上げた場合、それを投げつけることはむずかしい。投げ落とすのがせいぜいで、投げつけるだけの力などないはずである。
ところがこの若者は相当の力持ちらしく、投げられた男は勢いよく源次にぶつかった。源次は仲間の下敷きになる形で、再びひっくり返った。
源次は呻きながらも、仲間の下から這い出ようと藻掻いた。若者は源次を見下ろすと、嘲るように言った。
「無様よの。己一人じゃあ何もできぬくせに、村長の甥であることを鼻にかけ、腐った仲間の頭を気取る屑め。今の貴様の無様な姿こそが、真の己と知るがええ」
若者の物言いは、差別をされて小さくなっている者のようには思えない。まるで源次よりも高い身分にいる者の言葉のようだ。
源次は上の仲間を必死に押しのけると、何とか立ち上がった。その間、若者は何もせずに源次を眺めていた。それは若者の余裕を示すものであり、源次は完全に圧倒されていた。
若者を見くびっていたであろう源次は、驚きと焦りの顔で若者を詰った。
「お前、なしてこの女子の味方をするんぞ。こいつはロシア兵の娘ぞ」
「ほれが、どがぁした?」
若者は怒りの顔で前に歩み出た。源次は慌てたように後ろへ下がったが、空威張りの笑みを見せて言った。
「ははぁん、わかったわい。お前、おらたちを追わいやってから、一人でこの女子をいただこ思とんじゃろげ。違うんか?」
源次にすれば精いっぱいの反撃なのだろう。だが、若者は源次の侮辱に応じることなく、黙ってさらに足を踏み出した。源次は笑みを消してさらに下がったが、足を稲の切り株に取られて尻餅を突いた。
一方、源次が若者を挑発している間に、若者に投げ飛ばされた男がよろよろと立ち上がり、後ろから若者に飛びかかろうとした。
「後ろ! 危ない!」
千鶴が思わず叫ぶと、若者は前を向いたまま、すっと体を脇に避けた。まるで背中に目がついているようだ。
その際、足を横に伸ばしたので、飛びかかった男は若者の足につまづいて、勢いよく源次の上まで飛んだ。
若者は千鶴を振り返ると、礼を述べるかのように会釈をした。千鶴はどきりとしたが、若者はすぐに源次たちに顔を戻した。
二度まで仲間の下敷きにされた源次は、腹を立てながら上にかぶさった男を押しのけた。
よろめきながら立ち上がると、源次は言った。
「お前、みんなからのけ者にされよるんが、面白ないんじゃろが。ほじゃけん、おらたちがすることに逆らいとうなるんじゃろ?」
力なく立ち上がった仲間の男は、ほういうことかとうなずいた。
「そがぁなことじゃったら話は早い。今日からお前をおらたちの仲間にしちゃろわい。お前かて、ほんまはその女子が欲しいんじゃろが? 格好つけたりせんで、おらたちと一緒に楽しもや」
この下司どもが!――若者は吐き捨てるように言うと、源次の仲間の男の胸ぐらをつかみ、その股間を蹴り上げた。一瞬、宙に浮いた男はそのまま地面に倒れ、股を押さえながら悶え苦しんだ。
「ほれで二度と女子を抱くことは敵うまい」
倒れた男を冷たく一瞥したあと、若者は源次に向き直った。
「次は貴様の番ぞ」
源次の方が若者より体が大きい。だが、怯える源次は若者よりも小さく見えた。それでも逃げられないと観念したのか、源次はいきなり若者に飛びかかった。
若者は源次と両手を組み合った。千鶴からは二人が力比べをしているように見えた。だが、どちらが強いのかは一目瞭然だった。
源次は必死の形相だが、若者の表情は変わらない。源次の両手は甲の側に折り曲げられ、両膝を突いた源次は悲鳴を上げた。源次の両手首は折れる寸前だった。
「いけんぞな!」
千鶴が叫ぶと、若者は千鶴を見た。
「ほれ以上はいけんぞな」
千鶴はもう一度叫んだ。
「助かったな」
若者は源次にそう言うと、源次を蹴り倒した。
源次は握った形のままの両手を合わせ、地面で苦しそうに呻いている。折れることは免れたようだが、両手首はかなり傷めたに違いない。
それでも源次は両手をかばうようにしながら立ち上がると、まだ虚勢を張って若者に悪態をついた。
「お、おどれ、おらたちにこげな真似しよってからに。あとでどがぁなるか覚えとけよ」
「お前らの方こそ気ぃつけぇよ。今日はこのお人に免じて、こんで勘弁してやるがな、今度このお人に手ぇ出したら、ほん時は手首やのうて、その首へし折るけんな」
若者は静かに言った。だがその分、凄みがあった。その言葉は脅しではなく、本気で言っているように聞こえた。
若者の言葉に恐れをなしたのか、源次は何も言い返さなかった。代わりに倒れている仲間の傍へ行くと、何度も声をかけたり、足で蹴飛ばしたりして無理やり立ち上がらせた。
それから千鶴と若者をにらみつけると、よろめく仲間たちを急き立てながら逃げて行った。
五
源次たちが姿を消した曲がり道の向こうからは、相変わらず神輿を壊す騒ぎ声が聞こえて来る。
源次たちを見送った若者が千鶴に向き直ると、千鶴は深々と頭を下げた。
「このたびは危ないとこを助けていただき、まことにありがとうございました」
やめてつかぁさい――と若者は人懐こそうな笑顔になった。先ほどの鬼神のような人物と同じ人間とは思えない。
「大したことしとらんのに、そがぁに頭下げられたらこそばゆいぞな。ほれに、女子の前であげな荒っぽいとこ見せてしもたけん、却って怖がらせてしもて悪かったぞな」
頭を掻く若者に、千鶴は遠慮がちに言った。
「あの、さっき境内から追わい出されましたよね?」
ありゃ――と若者は恥ずかしそうに頭の後ろに手を当てた。
「あれを見られてしもたんか。こりゃ、しもうた」
「うち、あなたを探しよったんぞなもし。ほやけど、どこ行てしもたんかわからんで……。ほしたらあの人らに、あなたの所に連れてったるて言われて……」
千鶴の話に若者は驚いたようだった。
「ほうじゃったんか。ほんでも、なしておらを?」
千鶴は言うべきかどうか迷った。だが、若者が千鶴の返事を待っているので、意を決して言うことにした。
「初めてお会いした人にこげなこと言うんは失礼なけんど、あなたがみんなからのけ者にされよるん見て、他人事には思えなんだんぞなもし。うち、日露戦争ん時のロシア兵の娘じゃけん、似ぃたようなことしょっちゅうあるんぞな」
ほうなんか――と若者は暗い顔を見せたが、すぐに微笑んだ。
「ほんでも大丈夫ぞな。千鶴さんにも、いつか必ず幸せが訪れるけん」
若者の言葉に、千鶴は目を瞬かせた。
「あの、なしてうちの名前を知っておいでるんぞな?」
「え? いや、ほれはじゃな、あの……」
慌てる若者を見て、千鶴はしょんぼりした。
「ロシア兵の娘が来とるて、村中で噂になっとるんじゃね」
「いや、ほやないほやない」
若者は焦ったように、胸の前で手を振った。
「じゃったら、なして知っておいでるん?」
「あのな、おら、千鶴さんと対の娘を知っとるんよ」
「うちと対?」
「ほうなんよ。千に鶴て書いて、千鶴て読むんぞな」
千鶴は目を丸くした。
「ほれ、うちと対じゃ」
「ほんでな、父親がロシア人で、母親が日本人なんよ」
千鶴は丸くした目を、さらに大きく見開いた。
「ほんまですか?」
「ほんまほんま。その娘はな、顔も姿も千鶴さんと真っ対じゃったけん、ほんで、つい千鶴さんて呼んでしもたんよ。ほやけど、ほうなんか。名前まで同しじゃったかい。こら、まっこと驚きぞな」
千鶴は驚き興奮した。
ロシア人の娘なんて自分だけだと思っていたのに、他にもいたのだ。しかもその娘は千鶴と名前が同じで、顔も姿もそっくりだと言う。
「その娘さんは、今どこにおいでるんぞな?」
「昔、ここにおったんよ。けんど、今は――」
若者は千鶴をじっと見つめていたが、ふっと目を逸らした。
「生き別れになっとった父親がな、船に乗って迎えに来たんよ」
「ほんじゃあ、ロシアへ去んでしもたんですか?」
若者は黙ったまま返事をしない。だが、それが答えなのだろう。悲しげな目がそう伝えている。
「その娘さんとは親しかったんですね?」
若者は小さくうなずき、寂しげに言った。
「おらたち、夫婦約束しよったんよ」
その言葉に千鶴の胸が疼いた。しかし平気な顔を装って、千鶴は若者に訊ねた。
「ほれじゃのに、その娘さん、ロシアへ去んでしもたん?」
「いろいろあってな。おら、その娘を嫁にすることができんなったんよ。そこへ父親が迎えにおいでてくれたけん」
「ほれで、その娘さんをロシアへ行かせてしもたんですか?」
若者は押し黙ったまま海の方を向いた。答えることができない若者に、千鶴は憤りを抑えられなかった。
「その人、ロシアへなんぞ行きとなかったろうに」
千鶴にはその娘の気持ちがわかるような気がした。差別と偏見の中にいて、心から自分を受け入れてくれた人がいたならば、絶対にその人から離れたくないはずだ。
「その人、ずっとあなたと一緒におりたかったんやないん?」
つい荒くなる口調を、千鶴は止めることができなかった。
しかし、若者は怒らなかった。海の方を見つめたまま小さな声で言った。
「できることなら、おらもずっとその娘と一緒におりたかった」
「じゃったら、なして?」
「仕方なかったんよ」
若者は項垂れながら言った。
「おらはな、どがぁに望んでも、その娘と一緒にはなれんなってしもたんよ」
「ほんなん、その人が納得するとは思えんぞな」
執拗に責める千鶴に、若者は寂しげに微笑んだ。
「もう、済んでしもたことぞな」
「言うてつかぁさい。なして、あきらめんさったん?」
若者は千鶴にとって初対面の赤の他人だ。しかも危ないところを助けてくれた恩人であり、誰にも喋らないような話を打ち明けてくれている。それなのに、千鶴は興奮を抑えることができなかった。
それが失礼な態度であるのはわかっていた。いつもの千鶴であれば、決してこのような言動は見せたりしない。
しかし、自分ががんごめであると悟った今、千鶴は若者が幸せをあきらめてしまうことが許せなかった。自分を助けてくれた素敵な人だからこそ、許せなかったのである。
それに若者を心から好いていたであろう、その娘にも幸せになって欲しかった。自分とそっくりだというその娘には、自分の代わりに幸せをつかんでもらいたかった。
だが千鶴が責めたところで、どうにかなるものではない。若者が言うように、もう終わったことなのだ。
若者だってつらいし、悲しいに違いない。それを責めるのは、古い傷口を広げて塩をすり込むようなものだろう。
本当なら怒ってもいいのに、若者は黙ったまま千鶴に言いたいようにさせている。それが余計に悲しくて、千鶴は泣き出した。
「ごめんなさい……。うち、助けてもろたお人に、こげなひどいことぎり言うてしもて……、堪忍してつかぁさい」
「ええんよ。千鶴さんは、おらのこと心配してくれたぎりぞな。おら、ちゃんとわかっとるよ」
若者の優しい慰めは、千鶴をさらに泣かせた。わぁわぁ泣く千鶴に、若者は困惑したようだ。
「千鶴さん、勘弁してつかぁさい。おら、千鶴さん、泣かそ思て喋ったわけやないんよ。お願いやけん、どうか、泣きやんでおくんなもし」
千鶴はしゃくり上げながら言った。
「うちね……、幸せになんぞなれんのよ……。やけん、あなたにも、あなたが好いた娘さんにも……、幸せになって欲しかった……」
「何を――」
「うちね……、誰のことも好いてはいけんの……。誰から好かれてもいけんのよ……」
「なしてぞな? なして千鶴さんが誰かを好いたり、好かれたりしたらいけんのぞな? どこっちゃそげな法はなかろに」
「ほやかて、うち……、うち……」
がんごめなんよ――と言いそうになった。だが、言えなかった。
他の者に喋っても、この若者にだけは自分の正体を知られたくなかった。
「なして千鶴さんがそげなことを言いんさるんか、おらにはわからんけんど、大丈夫ぞな。千鶴さんが誰を好こうが、誰に好かれようが、神さまも仏さまも文句なんぞ言わんけん」
若者は千鶴の両手を握ると、にっこり笑った。
「あのな、教えてあげよわい。千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人とめぐり逢うて幸せになるんよ。絶対にそがぁなるけん。おらが請け合おわい」
「なして、そげなことが言えるんぞなもし?」
千鶴は下を向きながら言った。
下を向いていたのは、若者の顔がまともに見られないからだ。だが、理由はそれだけではない。
千鶴の目は、自分の手を優しく握る若者の手に釘づけになっていた。こんな風に男の人に手を握ってもらうなど、生まれて初めてのことだった。
それに初めて会った人なのに、その手から伝わる温もりは、何だか懐かしい感じがする。それは、ただ体温が伝わっているのではない。若者の心の温もりが包んでくれているようだ。
もし、自分ががんごめでなかったならば、きっとこの人を好いていたに違いない。いや、すでに好いているのかもしれない。だが、それは許されないことなのだ。
悔しい想いを噛みしめる千鶴に、若者は明るく言った。
「おら、お不動さまにお願いしたんよ」
千鶴は思わず、涙に濡れた顔を上げた。
「お不動さま?」
「ほうよほうよ。お不動さまよ。千鶴さんも、知っておいでるじゃろ? おらな、お不動さまにお願いしたんよ。千鶴さんが幸せになれますようにて。ほじゃけん、千鶴さん、絶対に幸せになれるぞな」
「うちの幸せを? あなたがお不動さまに? なして?」
若者の顔に、はっとしたような困惑のいろが浮かんだ。また余計なことを喋ってしまったと思ったのかもしれない。
「いや、あの、ほじゃけんな、えっと……」
「あなた、ひょっとして――」
その時、千鶴を探す春子の声が聞こえた。
千鶴がこっちと叫ぶと、曲がり道の向こうから肩で息をした春子が現れた。
「山﨑さん! こがぁな所におったん? ずっと探しよったんで。急がんと松山に戻れんようなるけん、早よ行こ!」
言われて初めて、千鶴は日が沈みかけていることに気がついた。確かに急がなければ、今日中に松山へ戻れなくなってしまう。
「ごめんなさい。うち――」
千鶴は若者を振り返った。
だが、そこにはもう若者の姿はなかった。慌てて辺りを見回したが、どこにも若者はいなかった。