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もう一人のロシアの娘

     一

 権八によれば、奇妙な死に様にもかかわらず、イノシシの死骸は昨夜のうちにさばかれて、多くの者の腹を満たしたらしい。権八もそのうちの一人だった。
 イノシシの死骸を見たばかりか、その肉まで食べることができた権八を、春子はうらやましがった。
 せめて残った骨や毛皮を見たいと春子が言うと、それは山陰やまかげの者の所にあると権八は話した。それを聞くと、春子は残念そうにしながらあきらめた。
 知念和尚たちがいたからなのか、春子は山陰の者について、その場では話してくれなかったが、あとで千鶴に説明してくれた。
 山陰の者とは、山陰になった所に暮らす人たちのことで、昔から血生臭い仕事を生業なりわいとしていたらしい。そのため山陰の者は村人たちから嫌われているのだと、春子は言った。
 また、村人たちといさかいを起こす乱暴者もいて、それも嫌われる理由の一つということだ。
 説明をしていた春子の表情から、春子が山陰の者を毛嫌いしていると千鶴は理解した。
 その山陰の者の所に骨や毛皮があったのでは、春子は見たくても見られないわけである。それでもあきらめきれないのか、春子はイノシシの死骸があった場所を見に行きたがった。
 神輿みこしは夕方神社に戻るまで、周辺の村々を練り歩く。その間、千鶴たちには暇があるので見に行こうと言うのである。
 イノシシの死骸があった場所になど、千鶴は行きたくなかった。
 それにイノシシの話を聞いてから、千鶴は何かを思い出しそうな気がしていた。
 一方で、それを思い出してはいけないように感じてもいた。その何かを思い出すのが怖かったので、千鶴はできればイノシシに関わりたくなかった。
 それでも、世話になっている春子がどうしても見たいと言えば、千鶴は断ることができなかった。

 千鶴たちは辰輪村へ向かう川辺の道を進んで行った。すると、死骸があったと思われる血溜まりの跡が、すぐに見つかった。
 辺りには肉片や骨片の一部と思われる物が、血と一緒に飛び散っていた。そこでイノシシが死んだのは間違いないと思われた。
 血溜まりや血の臭いは、夢で見た地獄を千鶴に思い出させた。生温かくぬるりとした感触が足の裏に蘇り、千鶴は背筋がぞくぞくした。
 血の臭いに加えて、獣の臭いが鼻を突いた。その臭いは千鶴が覚えていない記憶を、引き出そうとしているようだった。
 その時、頭上の木の枝でカラスが鳴いた。驚いた春子はカラスに怒鳴り、カラスはばさばさと飛び去った。
 千鶴は妙な気分になった。今見たのと同じ場面に出会でくわしたことがあるような気がしたのだ。
 権八から死骸の様子を確かめていた春子は、道の奥を指差して、イノシシはあちらから来たようだと言った。
 そう言われて、道の奥にイノシシの姿を思い浮かべようとした千鶴は、胸騒ぎを覚えた。何だか、ここにいたことがあるような気がするのである。
 千鶴はもう一度頭上の木の枝を見上げ、それからまた道の奥を見た。だが、目の前に広がる眺めには全く覚えがない。それでも、すぐ横を流れる川の音が、千鶴がここにいたと証言しているように聞こえる。
 春子はイノシシの頭を潰すような、大きな岩か何かが落ちていないか辺りを調べた。しかし、そのような痕跡はどこにも見当たらなかった。
 川向こうにある丘陵には一部崩れた所があった。だが、そこは離れ過ぎている所なので、イノシシとは関係ないようだと春子は判断した。
 春子がいろいろ調べている間、ここは日が暮れるとどんな感じだろうかと、千鶴は考えていた。自分がここにいたのだとすると、昨日の夕方以外には有り得ないからだ。
 しかし、明るい場所が暗くなった様子など思いもつかない。仕方がないので、千鶴は目を閉じた。そうして目蓋まぶたが作った闇の中で川音を聞き、獣の臭いを嗅いだ。すると、闇の中に黒い岩のような影が見えた。
 突然蘇った記憶の中で、その影は千鶴に向かって突進して来た。
 あの時と同じように、恐怖に襲われた千鶴は気を失いかけた。春子が咄嗟とっさに支えてくれなければ、血溜まりの中に倒れているところだった。
 正気に戻った千鶴は体ががくがく震えた。その様子に、春子は大いにうろたえた。
 どうしたのかと春子に訊かれたが、千鶴に本当のことなど言えなかった。何でもないとごまかすしかなかったが、頭の中は蘇った恐怖と新たな恐怖で一杯になっていた。
 本来ならば、ここで死んでいたのは自分のはずだった。ところが死んだのはイノシシの方で、自分は何者かに法生寺まで運ばれていたのである。しかもイノシシは無残にも頭を潰されたが、自分の方は無事な上に、頭に花が飾られていた。
 安子が言ったように、お不動さまが護ってくれたのだとすれば、イノシシを殺す必要はない。千鶴だけを助ければいいことである。
 それなのにイノシシは殺された。しかも、その殺し方が残虐だ。頭を潰して殺すなど、仏のすることとは思えない。
 イノシシの頭を潰したのが、人でもなく仏でもなければ、何がやったというのか。
 千鶴の頭に浮かんだのは、闇の中から落ちて来た巨大な毛むくじゃらの足だった。その足がイノシシの頭を踏み潰したのに違いなかった。
 ヨネにがんごめと言われたとか、地獄の夢で鬼を愛しく想ったとか、そのような話ではない。鬼が現実の中に現れて、自分をイノシシから護ってくれたのだ。
 何故、鬼がそのようなことをする必要があったのか。それは、自分ががんごめだからである。他に理由は考えられない。
 鬼が法生寺へ向かったのも、そこががんごめの棲家すみかだからだ。
 春子が見つけた川向こうの丘陵の崩れた所は、鬼が通った跡のように思えた。自分を抱えた鬼が人目を避けながら、あの丘陵を越えて法生寺へ向かう姿が、千鶴の目には見えるようだった。
 やはり自分はがんごめだった。それは恐怖であり絶望だった。
 ロシア兵の娘ということで差別は受けても、風寄へ来るまでの自分は人間だった。しかし、今の自分は人間ではない。がんごめという鬼の仲間なのである。
 両親が人間なのだから、自分も人間だと思いたかった。だが、イノシシの死という事実が、そうではないのだと物語っている。
 地獄の鬼の夢を見たあと、千鶴の中には鬼を愛しく想う気持ちがあった。しかし、今はただ恐怖があるばかりだった。
 千鶴の様子に動転したのか、こんな所へ連れて来て悪かったと、春子は千鶴に平謝りした。
 千鶴は何とか平静を装ったが、自分ががんごめだったという衝撃が消えることはなかった。

     二

て来い!」
 人で埋め尽くされた境内の中、神輿に乗った男二人が挑発するように叫ぶ。それに応じて周りの男たちも、詣て来い!――と叫び返す。
 さらに二人が叫ぶと、周りも再び叫び返す。
 声の掛け合いを続ける男たちの周りは、野良着姿の見物人で固められている。両者の間に距離はなく、見えるのは頭ばかりだ。誰が舁夫かきふで誰が見物人なのか、よく見なければ区別がつかない。
 境内にうねりとなって広がる熱気と興奮。そこにいる全ての者がこれから行われることを、今か今かと目を輝かせて待っている。
 このあと神輿は三十九段ある神社の石段の上まで運ばれ、そこから下を目がけて投げ落とされるのだ。
 投げ落としは、神輿が壊れて中の御神体おしょうねが出て来るまで、何度でも繰り返される。
 神輿は全部で四体あり、一体が壊されると次の神輿が運ばれて来る。そうして四体全部が壊されるまで投げ落としは続く。
 千鶴たちは松山へ戻らねばならないので、四体の投げ落とし全てを見ることはできない。しかし、時間が許す限り見たいと春子は言った。
 春子にすれば、幼い頃からお馴染みの祭りである。しかも四年ぶりの祭りだ。興奮するのは当然だろう。
 千鶴にしても、この祭りの醍醐味を見られるわけである。本当であれば、もっと浮かれた気分になっていたはずだ。
 だが千鶴は、今は何も楽しむ気になれなかった。頭の中は祭りどころではなかった。
 千鶴は人混みの中へは入って行かず、境内の隅からぼんやり神輿を眺めていた。
 鬼のことはともかく、そもそも千鶴は見知らぬ人ばかりの人混みは好きではない。
 夜であれば暗がりにまぎれることができるが、明るいうちは千鶴の姿は人から丸見えだ。ロシア兵の娘がいるぞと言われるのが嫌だった。
 ましてや今は、自分はがんごめだという後ろめたさがあった。
 だが千鶴がいる所からでは、幾重にもなった人垣で舁夫たちの様子はよくわからない。持ち上げられた神輿と、神輿の上に乗った男たちの姿が見えるばかりである。
 背が低い春子は千鶴の隣でしきりに背伸びをして、神輿の様子をうかがっている。しかし、ついに我慢ができなくなったようだ。
「山崎さん、もうちぃと前に行こや!」
 春子は千鶴の手をつかむと、人垣へ突っ込んだ。
 千鶴は抵抗する間もなく人垣の中へ引っ張り込まれ、誰かにぶつかるたびに、すんませんと詫び続けた。
 千鶴を初めて見た者たちは、一様にぎょっとした顔になった。
 中には悲鳴を上げる者までいて、千鶴は本当にがんごめになったような気がした。
 春子は人をかき分けながら、どんどん奥へ進んだ。途中で千鶴の手が離れたが、春子は全く気づかないまま行ってしまった。
 千鶴は周囲の人々に四方から押され、身動きが取れない状態で一人取り残された。
 周りにいる者たちの目は、神輿ではなく千鶴に向けられている。好奇と侮蔑ぶべつの目に囲まれた千鶴は、下を向くしかできなかった。
「こら、さっさと出てかんかい! 祭りがけがれろうが!」
 近くで怒鳴り声が聞こえ、千鶴は驚いて顔を上げた。だが、誰が怒鳴ったのかはわからない。みんなが千鶴をにらんでいるようだ。
 すんませんと言ってまた下を向くと、千鶴は外へ出ようとした。すると、再び怒鳴り声が聞こえた。
 見ると、すぐ近くで若い男が、他の男たちに人垣の外へ押し出されようとしている。
 自分ではなかったのかと千鶴は安堵あんどした。だが、ののしられている若者が気の毒で悲しくなった。
 同じ村の者であるなら、このようなことは言われるはずがない。きっと若者は山陰の者に違いないと千鶴は思った。
 ちらりと見えた継ぎはぎだらけの着物が、若者の貧しさを物語っているようで、それもまた千鶴の悲しみを深くした。
 しかし、そんなことを考えている暇はなかった。次こそ自分が怒鳴られる番である。その前に外へ出なくてはならない。
 人垣は鳥居の外にまであふれていた。
 この場から逃げたい気持ちと、追い出された者への共感から、千鶴は人を押し分けながら人垣の外を目指した。
 千鶴がやっとの思いで鳥居の外の道へ出ると、先に押し出されたはずの若者の姿は、どこにも見当たらなかった。
 神社はこんもりした丘の上にある。その丘に沿って南へ向かう道があるが、その道には人の姿がない。
 気疲れした千鶴は村人の集団から離れるように、南へ向かう道を少し歩いた。すると、不意に後ろから呼び止められた。
「千鶴さん……やったかの?」
 驚いて振り返ると、春子の従兄源次がいた。後ろには連れの仲間三人が立っている。
 
      三

「こげなとこで、何しよんかい?」
 源次がいぶかしげに言った。突然声をかけられたことで、千鶴は動揺していた。
「あ、あの……、人を探しよったもんですけん」
「人て、誰ぞな?」
「名前は知らんのですけんど、継ぎはぎの着物を着た男の人ぞなもし。どこへ行てしもたんか……」
 さっきの若者が気になっていたのは事実である。だが、真剣に探していたわけではない。人から離れたくて、誰もいないこの道を歩いていただけだ。
 源次たちは、千鶴が口にした男が誰なのか見当がついたようだった。あいつかと言うように互いに目を見交わした。
 千鶴に顔を戻した源次はにこやかに言った。
「そいつとは知り合いなんかの?」
「ほういうわけやないですけんど、ちぃと気になったけん」
「ほうかな。ほれじゃったら、おらたち、そいつがおるとこ知っとるけん、連れてってあげよわい」
「いえ、そがぁなこと無理さっちにせいでもかまんですけん」
「まぁ、ええがな。そげに気ぃ遣わいでも構ん構ん。すぐそこじゃけん、付いてとうみや」
 源次はにこやかに先頭に立つと、千鶴がいた道をさらに先へ進んだ。
 しかし、千鶴はその若者をちらりと見かけただけで、顔も合わせていないのである。そんな相手の所へ連れて行かれても、お互いに困るだけだ。何をしに来たと聞かれても返事のしようがない。
 それでも後ろの男たちにうながされて、千鶴も仕方なく歩き始めた。それにしても強引と言うか、何だか異様な雰囲気である。
「あの、ほんまに、もう構んですけん」
「もう、そこぞな。そこをな、左に曲がった先におるけん」
 もう、ちぃとじゃけん――と後ろの男たちも笑みを浮かべながら言った。だが、その笑みが千鶴には薄気味悪く思えた。
 道なりに左へ曲がると、神社や参道が丘の陰になって見えなくなった。人々が騒ぐ声は聞こえるが、遠くで聞こえているようだ。
 千鶴は辺りを見回したが、そこには建物もなければ人気ひとけもない。刈り取りが終わった田んぼがある他は、何もない道が丘沿いに続いているだけだった。
「あの……、あのお人はどこに――」
 千鶴さん――立ち止まった源次は振り返りながら、千鶴の言葉を遮って言った。
昨夜ゆんべは春子の家やのうて、法生寺に泊まったそうじゃな」
「え? は、はい」
 怪訝けげんに思いながら、千鶴はうなずいた。
「春子に言われたけん、昨夜ゆんべはな、千鶴さんにお思て、必死に酔いを覚ましよったんよ。ほれやのに、聞いたら法生寺におる言われてな。おらたち、法生寺まで押しかけよかて思いよったんぞな」
「ほ、ほうなんですか」
 源次が何を言いたいのか、千鶴には理解ができなかった。あとの言葉が続かず黙っていると、源次は千鶴の両手首をぎゅっとつかんだ。
「千鶴さん、昨夜ゆんべ果たせなんだ想いを、今、果たさせておくんなもし」
「え? な、何のこと――」
 源次はぐいっと千鶴を引き寄せると、抱きついて来た。
「ちょ、ちょっとやめてつかぁさい。人を呼びますよ!」
「呼んでみ。誰っちゃ来んぞな。みぃんな神社に集まっとるけん」
 源次は暴れる千鶴に、口を突き出して接吻せっぷんをしようとした。
 他の三人は千鶴が逃げられないように周囲を取り囲みながら、異人の女子おなごはどがぁな味じゃろ――と笑い合っている。
 千鶴は源次の手から何とか右手を引き抜くと、源次の顔を押し戻しながら大声で言った。
「あんた、村上さんの従兄なんじゃろ? こげなことして許されるて思とるん?」
「別に許してもらうつもりはないけん。ほれに、ロシア兵の娘を手籠めにしたとこで、誰っちゃ怒ったりせんわい」
 源次はもう一度千鶴の両手を押さえると、勝ち誇ったように言った。
「昨日はみんなに歓迎されたて思とるんじゃろが、そげなことあるかい。どこの村にもロシア兵に殺されたもんや、片輪かたわにされた者がおらい。みんな春子に合わせて歓迎するふりしよったぎりじゃい」
「そげなこと――」
「あの家に信子いう女子おなごがおったろ? あの女子の父親もロシア兵に殺されたんよ。おらたちがその仇を取ってやるんじゃけん、怒られるどころか、みんな喜んでくれらい」
 源次の言葉は、千鶴の胸に深く突き刺さった。
 村の人たちが自分なんかを快く受け入れてくれるのは、おかしいとは思っていた。だが、それをはっきり言われるのは、やはりつらかった。悲しみが千鶴のあらがう力を奪った。
 千鶴がおとなしくなったので、源次は得意げに仲間たちを見た。
「言うとくけんど」
 千鶴は力なく源次たちに言った。もう何もかもがどうでもよく思われた。
「これ以上、うちに手ぇ出したら、どがぁなっても知らんけんね」
「ほぉ、やくざのねえやんみたいなこと言うんじゃな。おらたちをどがぁするつもりぞな? ほれ、やっとうみや」
 源次が嘲るように言うと、仲間の男たちもへらへら笑った。
 千鶴はがんごめの気分になっていた。
 がんごめの自分が、こんな人間のくず玩具おもちゃになってたまるものかと思った時、千鶴は源次の左腕に噛みついていた。
いてっ!」
 思いがけない千鶴の反撃に、源次は反射的に右手を振り上げた。
 だが、千鶴は避けるつもりはなかった。
 自分に手を出せば、この男たちは鬼の餌食にされるだろうと考えていた。そして、そうなっても構わないとさえ思っていた。
 ところが、現れたのは鬼ではなかった。

     四

 源次が振り上げた右手は、後ろから伸びて来た別の手につかまれた。
 驚いた源次が振り向くと、そこに若い男が一人立っていた。
「祭りの日に女子おなごを襲うとはの。神をも恐れぬ不届き者とは、おまいらのことぞな」
 それは千鶴が探していた、あの若者に違いなかった。継ぎはぎだらけの着物が、そう語ってくれている。
 若者は切れ長の目に、鼻筋の通ったきれいな顔立ちをしていた。
 一方の源次と仲間の男たちは、いかにも祭りが似合いそうな荒くれ男である。助けてもらったのは嬉しいが、一対一でも若者にはが悪そうだった。しかも相手は四人もいる。
 と思ったら、源次の仲間の一人はすでに地面に倒れ、腹を押さえながら声も出せずに苦しんでいた。
 おどれ!――と叫んだ源次は千鶴を離すと、若者につかみかかろうとした。
 しかし、若者はつかんだ源次の腕を、素早く後ろへ捻り上げた。
いててて!」
 源次が苦痛に顔をゆがめると、残っていた仲間の二人が、若者に襲いかかった。
 若者は一人に向かって、素早く源次を蹴り倒した。そして、飛びかかって来た別の男を、見事な一本背負いで地面に叩きつけた。
 その勢いはすさまじく、叩きつけられた男はうめくばかりで、地面に張りついたように動かない。
 仲間の一人と一緒に田んぼに落ちた源次は、捻られた腕を押さえながら起き上がると、若者をにらみつけた。
 その後ろで遅れて立ち上がった仲間の男は、若者の一本背負いが見えたのだろう。驚きおびえた様子でわめいた。
「お前、そげな技、どこで身に着けたんじゃい!」
「生まれつきぞな」
 若者は涼しい顔で答えると田んぼに降りて、源次たちの方へ近づいた。
 ひるんだように後ずさった源次は、後ろの男とぶつかった。
 源次はその男を前に押しやると、辺りをきょろきょろと見回した。何か武器になるような物を探しているらしい。
 前に押し出された男は、少しうろたえたあと、へっぴり腰で若者に殴りかかった。
 しかし、若者がひょいとけると、男はつんのめって転びそうになった。
 何も得物えものを見つけられない源次の前に、若者がずいっと寄った。
 ひぃと小さな悲鳴を上げた源次は、刈り取った稲の株につまづいて、転ぶように尻餅をついた。
 その時、若者の後ろからさっきの男が飛びかかろうとした。
「危ない!」
 千鶴が叫ぶと、若者は後ろを振り向きもせず、すっと体を脇にけた。まるで、後ろに目がついているようだ。
 その際、足を横に伸ばしたので、飛びかかった男は若者の足につまづいて、勢いよく源次の上まで飛んだ。
 若者は千鶴を振り返ると、礼を述べるかのように会釈をした。千鶴はどきりとしたが、若者はすぐに源次たちに顔を戻した。
無様ぶざまよの」
 藻掻もがいて起きようとする源次たちを、見下ろしながら若者は笑った。
 仲間を押しのけて何とか立ち上がった源次は、若者に言った。
「お前、なしてこの女子おなごの味方をするんぞ。こいつはロシア兵の娘ぞ」
「ほれが、どがぁした?」
「ははぁ、わかったわい。お前、おらたちを追わいやってから、一人でこの女子おなごをいただこ思とんじゃろげ。違うんか?」
 源次の後ろで仲間の男も言った。
「お前、この女子おなごが欲しいんじゃったら、おらたちの仲間に入れてやってもええんぞ。ん? どがいぞな?」
 千鶴からは若者の後ろ姿しか見えない。だが、若者は怒りをあらわにしたのだろう。源次たちの表情がおびえに変わった。
「人の皮かぶった、この外道げどうらが!」
 若者は源次の胸ぐらをつかむと、勢いよく横へ引き倒した。
 源次は若者より体が大きい。だが、為すすべもなく田んぼの中に、飛ぶようにして突っ伏した。
 もう一人の男は若者に殴りかかった。だが、男の拳は若者の顔をかすめただけで空を切った。同時に男の顔は若者の右手につかまれていた。
 若者はそのまま男を捻り倒すと、男の頭を地面に打ちつけた。
 助けてもらいはしたが、千鶴は若者が恐ろしくなって来た。
 若者は源次の所へ行くと、立てと命じた。
 源次はよろよろと立ち上がると、若者につかみかかった。その両手を若者は左右の手でつかんだ。
 両手を合わせて組んだ二人は、力比べをしているように見える。だが、そうではなかった。
 若者は平気な顔だが、源次の顔はみるみるゆがんで行く。
 とうとう源次は苦痛の悲鳴を上げた。捻れた源次の両手首が今にも折れそうだ。だが、若者は手を離そうとしない。
「いけんぞな!」
 千鶴が叫ぶと、若者は千鶴を見た。
「ほれ以上はいけんぞな」
 千鶴はもう一度叫んだ。
「助かったな」
 若者は源次にそう言うと、源次を蹴り倒した。
 倒れた源次は握った形のままの両手を合わせながら、苦しそうに呻いている。それでも何とか立ち上がると、若者に悪態をついた。
「お、おどれ、おらたちにこげな真似まねしよってからに。あとでどがぁなるか覚えとけよ」
「お前らの方こそ気ぃつけぇよ。今日はこのお人に免じて、こんで勘弁してやるがな、今度このお人に手ぇ出したら、間違いのうその首へし折るけんな」
 若者は静かに言った。だがその分、すごみがあった。その言葉は脅しではなく、本気で言っているように聞こえた。
 若者の言葉に恐れをなしたのか、源次は何も言い返さなかった。
 倒れている仲間のそばへ行くと、何度も声をかけたり、足で蹴飛ばしたりして、無理やり立ち上がらせた。
 それから千鶴と若者をにらみつけると、よろめく仲間たちをき立てながら逃げて行った。

     五

 源次たちが姿を消した曲がり道の向こうからは、相変わらず神輿を壊す騒ぎ声が聞こえて来る。
 源次たちを見送った若者が千鶴に向き直ると、千鶴は深々と頭を下げた。
「このたびは危ないとこを助けていただき、ほんまにありがとうございました」
 やめてつかぁさい――と若者は人懐こそうな笑顔になった。先ほどの鬼神のような人物と同じ人間とは思えない。
「大したことしとらんのに、そがぁに頭下げられたらこそばゆいぞな。ほれに、女子おなごの前であげな荒っぽいとこ見せてしもたけん、かえって怖がらせてしもて悪かったぞな」
 頭を掻く若者に、千鶴は遠慮がちに言った。
「あの、さっき境内から追わい出されましたよね?」
 ありゃ――と若者は恥ずかしそうに頭の後ろに手を当てた。
「あれを見られてしもたんか。こりゃ、しもうた」
「うち、あなたを探しよったんぞなもし。ほやけど、どこ行てしもたんかわからんで……。ほしたらあの人らに、あなたのとこに連れてったるて言われて……」
 千鶴の話に若者は驚いたようだった。
「ほうじゃったんか。ほんでも、なしておらを?」
 千鶴は言うべきかどうか迷った。だが、若者が千鶴の返事を待っているので、意を決して言うことにした。
「初めてお会いした人にこげなこと言うんは失礼なけんど、あなたがみんなからのけ者にされよるん見て、他人事ひとごとには思えなんだんぞなもし。うち、日露戦争ん時のロシア兵の娘じゃけん、似たようなことしょっちゅうあるんぞな」
 ほうなんか――と若者は暗い顔を見せたが、すぐに微笑んだ。
「ほやけどな、大丈夫ぞな。千鶴さんにも、いつか必ず幸せが訪れるけん」
 若者の言葉に、千鶴は目をしばたたかせた。
「あの、なしてうちの名前を知っておいでるんぞな?」
「え? いや、ほれはじゃな、あの……」
 慌てる若者を見て、千鶴はしょんぼりした。
「ロシア兵の娘が来とるて、村中で噂になっとるんじゃね」
「いや、ほやないほやない」
 若者は焦ったように、胸の前で手を振った。
「じゃあ、なして知っておいでるん?」
「あのな、おら、千鶴さんとついを知っとるんよ」
「うちとつい?」
「ほうなんよ。千に鶴て書いて、千鶴ちづて読むんぞな」
 千鶴は目を丸くした。
「ほれ、うちとついじゃ」
「ほんでな、父親がロシア人で、母親が日本人なんよ」
 千鶴は丸くした目を、さらに大きく見開いた。
「ほんまですか?」
「ほんまほんま。そのはな、千鶴さんと顔も姿もそっくりじゃけん、ほんで、おら、つい千鶴さんて呼んでしもたんよ。ほやけど、ほうなんか。おんなし名前じゃったかい。こら、まっこと驚きぞな」
 千鶴は驚き興奮した。
 自分だけだと思っていたのに、ロシア人の娘が他にもいたのだ。しかも、その娘は千鶴と名前が同じで、顔も似ていると言う。
「その娘さんは、今どこにおいでるんぞな?」
「昔、ここにおったんよ。けんど、今は――」
 若者は千鶴をじっと見つめていたが、不意に目をらした。
「生き別れになっとった父親が迎えに来たんよ」
「ほんじゃあ、ロシアへんでしもたんですか?」
 若者は黙ったまま返事をしない。だが、それが答えなのだろう。悲しげな目がそう伝えている。
「その娘さんとは親しかったんですね?」
 若者は小さくうなずき、寂しげに言った。
「おらたち、夫婦めおと約束しよったんよ」
 その言葉に千鶴の胸がうずいた。しかし平気な顔を装って、千鶴は若者に訊ねた
「ほれじゃのに、ロシアへんでしもたん?」
「いろいろあってな。おら、そのを嫁にすることができんなったんよ。そこへ父親が迎えに来てくれたけん」
「ほれで、その娘さんをロシアへ行かせてしもたんですか?」
 若者はまた押し黙ってしまった。
 千鶴から顔をらして海の方を眺める若者に、千鶴はいきどおった。
「その人、ロシアへなんぞ行きとなかったろうに」
 千鶴にはその娘の気持ちがわかるような気がした。差別と偏見の中にいて、心から自分を受け入れてくれた人がいたならば、その人から離れたくないはずだ。
「その人、ずっとあなたと一緒におりたかったんやないん?」
 つい荒くなる口調を、千鶴は止めることができなかった。
 しかし、若者は怒らなかった。海の方を見つめたまま小さな声で言った。
「できることなら、おらもずっとそのと一緒におりたかった」
「じゃったら、なして?」
仕方しゃあなかったんよ」
 若者は項垂うなだれながら言った。
「おらはな、どがぁに望んでも、そのと一緒にはなれんなってしもたんよ」
「ほんなん、その人が納得するとは思えんぞな」
 執拗しつように責める千鶴に、若者は寂しげに微笑んだ。
「もう、済んでしもたことぞな」
「言うてつかぁさい。なして、あきらめんさったん?」
 若者は千鶴にとって初対面の赤の他人だ。しかも、千鶴の恩人であり、誰にも喋らないような秘密を打ち明けてくれている。それなのに、千鶴は興奮を抑えることができなかった。
 それが失礼な態度であるのはわかっていた。いつもの千鶴であれば、決してこのような言動は見せたりしない。
 しかし、自分ががんごめであると悟った千鶴は、若者が幸せをあきらめてしまうことが許せなかった。自分を助けてくれた素敵な人だからこそ、許せなかったのである。
 それに若者を心から好いていたであろう、その娘にも幸せになって欲しかった。自分とそっくりだというその娘には、自分の代わりに幸せをつかんでもらいたかった。
 だが千鶴が責めたところで、どうにかなるものではない。若者が言うように、もう終わったことなのだ。
 若者だってつらいし、悲しいに違いない。それを責めるのは、古い傷口を広げて塩をすり込むようなものだろう。
 本当なら怒ってもいいのに、若者は黙ったまま千鶴に言いたいようにさせている。それが余計に悲しくて、千鶴は泣き出した。
「ごめんなさい……。うち、助けてもろたお人に、こげなひどいことぎり言うてしもて……、堪忍してつかぁさい」
「ええんよ。千鶴さんは、おらのこと心配してくれたぎりぞな。おら、ちゃんとわかっとるよ」
 若者の優しい慰めは、千鶴をさらに泣かせた。わぁわぁ泣く千鶴に、若者は困惑した様子だった。
「千鶴さん、勘弁してつかぁさい。おら、千鶴さん、泣かそ思て喋ったわけやないんよ。お願いやけん、どうか、泣きやんでおくんなもし」
 千鶴はしゃくり上げながら言った。
「うちね……、幸せになんぞなれんのよ……。やけん、あなたにも、あなたが好いた娘さんにも……、幸せになって欲しかった……」
「何を――」
「うちね……、誰のことも好いてはいけんの……。誰からかれてもいけんのよ……」
「なしてぞな? なして千鶴さんが誰かを好いたり、好かれたりしたらいけんのぞな? どこっちゃそげな法はなかろに」
「ほやかて、うち……、うち……」
 がんごめなんよ――と言いそうになった。だが、言えなかった。
 他の者に喋っても、この若者にだけは自分の正体を知られたくなかった。
「なして千鶴さんがそげなことを言いんさるんか、おらにはわからんけんど、大丈夫ぞな。千鶴さんが誰をこうが、誰にかれようが、神さまも仏さまも文句なんぞ言わんけん」
 若者は千鶴の両手を握ると、にっこり笑った。
「あのな、教えてあげよわい。千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人と巡りうて幸せになるんよ。絶対にそがぁなるけん。おらが保証しよわい」
「なして、そげなことが言えるんぞなもし?」
 千鶴は下を向きながら言った。
 下を向いていたのは、若者の顔がまともに見られないからだ。だが、理由はそれだけではない。
 千鶴の目は、自分の手を優しく握る若者の手に釘づけになっていた。こんな風に男の人に手を握ってもらうなど、生まれて初めてのことだった。
 それに初めて会った人なのに、その手から伝わる温もりは、何だか懐かしい感じがする。それは、ただ体温が伝わっているのではない。若者の心の温もりが包んでくれているようだ。
 もし、自分ががんごめでなかったならば、きっとこの人を好いていたに違いない。いや、すでに好いているのかもしれない。だが、それは許されないことなのだ。
 悔しい想いを噛みしめる千鶴に、若者は明るく言った。
「おら、お不動さまにお願いしたんよ」
 千鶴は思わず、涙に濡れた顔を上げた。
「お不動さま?」
「ほうよほうよ。お不動さまよ。千鶴さんも、知っておいでるじゃろ? おらな、お不動さまにお願いしたんよ。千鶴さんが幸せになれますようにて。ほじゃけん、千鶴さん、絶対に幸せになれるぞな」
「うちの幸せを? あなたがお不動さまに? なして?」
 若者の顔に、はっとしたような困惑のいろが浮かんだ。また余計なことを喋ってしまったと思ったのかもしれない。
「いや、あの、ほじゃけんな、えっと……」
「あなた、ひょっとして――」
 その時、千鶴を探す春子の声が聞こえた。
 千鶴がこっちと叫ぶと、曲がり道の向こうから肩で息をした春子が現れた。
「山崎さん! こがぁなとこにおったん? ずっと探しよったんで。急がんと松山に戻れんようなるけん、早よ行こ!」
 言われて初めて、千鶴は日が沈みかけていることに気がついた。確かに急がなければ、今日中に松山へ戻れなくなってしまう。
「ごめんなさい。うち――」
 千鶴は若者を振り返った。
 だが、そこにはもう若者の姿はなかった。慌てて辺りを見回したが、どこにも若者はいなかった。