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もう一人のロシアの娘


     一

 権八ごんぱちによれば、奇妙な死にざまにもかかわらず、イノシシの死骸は昨夜のうちにさばかれて、多くの者の腹を満たしたらしい。権八もそのうちの一人だ。
 イノシシの死骸を見たばかりか、その肉を食べられた権八をはるうらやましがった。せめて残った骨や毛皮を見たいと春子が言うと、山陰やまかげの者の所にあると権八は話した。それを聞くと、春子は残念そうにしながらあきらめた。
 千鶴ちづは山陰の者が何者なのかがわからない。なのにその説明をしないまま、春子はイノシシの死骸があった場所を確かめたいと言いだした。輿こしは夕方神社に戻るまで、周辺の村々を練り歩く。その間、自分たちには暇があるので見に行くと言うのだ。
 わざわざそんな所へ行くのはよしなさいと、和尚夫婦は口をそろえて忠告した。しかし、春子は余程イノシシに未練があるみたいで、千鶴に無理やり賛同させた。
 何がイノシシの頭を潰したのかという権八の素朴な問いに、ねん和尚は答えることができなかった。い加減なことは言えないのだろうが、まともに答えるのはとても恐ろしいことだったに違いない。ただでも怖い思いをしているのに、そんな不穏な死に方をしたイノシシの死骸があった場所になど、当然ながら千鶴は行きたくなかった。
 またイノシシの話を聞いてから、千鶴は何かを思い出しそうな気がしていた。だけど、それを思い出してはいけないように感じていたし、思い出すかもしれないのが怖かった。
 でも、世話になっている春子がどうしても見たいと言えば断ることはできない。なので嫌だと言わずに黙っていたのを、春子は千鶴が賛同したと無理やり見なしたわけだ。
 千鶴が拒まなかったからか、和尚たちも無理には引き留めなかった。それで千鶴は渋々ながら春子と一緒にイノシシの死に場所を見に行くことになった。

 道すがら千鶴は山陰の者についてたずねてみた。するとご機嫌だったはずの春子は、むすっとした顔になって話を始めた。
 山陰の者とは、文字通り山陰になった所に暮らす人たちのことで、生臭なまぐさい仕事を生業なりわいとしていたらしい。そのため村人たちは山陰の者を嫌うのだが、村人たちといさかいを起こす乱暴者もいるので、余計に嫌われていると春子は言った。
 しゃべっている時の春子の表情から、春子が山陰の者を毛嫌いしていると千鶴は理解した。山陰の者の所にあるというイノシシの骨や毛皮を、春子が見に行かないのはこれが理由と思われた。
 けれども、春子の態度は明らかに差別だ。相手が誰であれ、差別をする親友を見るのはつらかった。
 またその差別の矛先が、いつ自分にも向けられるかと思うと落ち着かない。今は親友として扱ってくれているが、春子の機嫌を損ねたら、山陰の者と同じ待遇を受けるのではないかと考えてしまう。
 そう思うのは千鶴がロシア兵の娘だからだが、実はがんごめだとなれば、それこそただでは済まないだろう。みんなで恐れおののいて逃げ出すか、あるいは徹底的に千鶴を排除するに決まっている。
 そんなことを心配する千鶴のかたわらで、春子はため息をつきながら、山陰の者への悪態をついた。その様子は千鶴をさらに不安にさせた。

 千鶴たちはたつむらへ向かう川辺の道を進んで行った。途中にやたら木の枝が落ちている所があったが、そのすぐ先に死骸があったと思われる血溜まりの跡が見つかった。そこにはイノシシの頭がめりこんだと思われる大きなくぼみがあり、どす黒くなった血が固まっている。
 辺りには肉片や骨片の一部が血と一緒に飛び散り、血の臭いと獣の臭いが漂っている。ここでイノシシが死んだのは間違いない。
 道をふさぐほどの大きさだったと権八は言ったが、ここに立ってみると、どれほどイノシシが大きかったかがわかる。まさに岩のごとき大きさだ。
 血溜まりや周りに漂う血の臭いは、夢で見た地獄を千鶴に思い出させた。あの生温かくぬるりとした感触が足の裏に蘇り よみがえ 、千鶴は小さく身震いをした。
「権八さんの話じゃ、頭はこっち向いとったらしいけん、イノシシはこの奥から来たんじゃね」
 春子が鼻を押さえながら道の奥を指差した。そちらを見った千鶴は、何だか胸騒ぎを覚えてまどった。
 両手で自分を抱きながら、もうぬろうと春子に声をかけたが、辺りを調べ始めた春子が、うんというわけがない。生返事をするばかりで一向に戻るつもりはなさそうだ。
 仕方がないので、千鶴は辛抱しんぼうして左手を流れる川を眺めた。血溜まりは見たくないし、道の先を見るのも嫌だった。
 ことこと流れる川のせせらぎは、嫌な気持ちを洗い流してくれる。しばらくせせらぎに耳を傾けていると、千鶴は何でか自分がここにいたことがあるような気がしてきた。前にもここで同じせせらぎの音を聞いていたみたいに思えるのだ。
 千鶴が川音を聞いている間、春子はイノシシの頭を潰した物の痕跡を探した。しかし、辺りには大きな岩も太い巨木も落ちておらず、春子は手で鼻をふさぎながら、うーんとうなっている。
「何もほれらしいもんはないで。山﨑さん、どがぁ思う?」
「うちはわからん」
 早く戻りたい千鶴は素っ気なく言うと、川の向こうへ目をった。すると、そこにある丘陵と手前の畑のふちに一部崩れた所があった。一昨日の大雨で崩れたのだろうか。
 その時、頭上の木の枝でカラスが鳴いた。驚いた春子がカラスに怒鳴ると、カラスはばさばさと飛び去った。
 千鶴は妙な気分になった。以前に今見たのと同じ場面に出くわした気がしたのだ。
 カラスがいた枝を見上げた千鶴は、近くの木々の枝先を見て、おやと思った。
 道の上には、横の山から突き出すように生えた木と、川の岸辺に生える木が、軒みたいに枝を伸ばしている。ちょうど千鶴たちがいる所から、来た道を少し戻った辺りまで、その枝先の多くが折れているのだ。折れてなくなった枝もあれば、折れたままぶら下がっている枝もある。
 下を見ると、同じ場所の道端に先ほど見た小枝が落ちている。これはどういうことなのか。
「ちぃと奥の方も見てみよわい」
 春子は血溜まりの向こうへ千鶴を誘った。でも、血だらけの道を越えて行くなどとんでもない。自分はここにいると千鶴が言うと、春子は一人で奥へ向かった。
 一人残った千鶴は川音が気になった。さっきのカラスが飛び去る光景も引っかかっていた。しばらくそのまま川音を聞いていたが、目を閉じてさらに川音に耳を澄ませた。
 ぶたが作った闇の中で、川のせせらぎがことこととささやいている。その囁きに気持ちを集中させていると、次第に頭の中がぼーっとしてきた。さらにそのまま川音を聞いていると、やがて目蓋の闇が本物の闇になった。
 
 千鶴は濃い夕闇に包まれた道に立っていた。春子と一緒にここへ来たことも忘れている。わかっているのは、がんごめじゃ、化け物じゃと叫ぶヨネを思い出して泣いていたことだ。
 その闇に埋もれた道の先に、大きな岩のような黒い影が現れた。その影は千鶴に気づくと突進して来た。恐怖にみ込まれた千鶴は、あの時みたいに気を失いかけた。戻っていた春子がとっに支えてくれなければ、血溜まりの中に倒れているところだった。
 正気に戻った千鶴はがくがく震えた。その様子に春子は大いにうろたえた。
 どうしたのかと春子にかれたが、本当のことなど言えるわけがない。何でもないとごまかすしかなかったが、声も体も震えが止まらない。
 昨夕、自分はここにいた。春子の家を飛び出してここまで来たのだ。そして、あの化け物イノシシに襲われたのである。にもかかわらず、自分は無傷のまま法正寺ほうしょうじで和尚夫婦に見つけられ、イノシシは何かに頭を潰されて死んだ。
 そのことは何を意味しているのか。わかっているのは恐ろしい何かが起こったということだ。
 安子が言ったように、お不動さまが護ってくれたのだとすれば、イノシシの命を奪ったりはしないはずだ。なのに頭を潰して殺すなど、ほとけのすることではない。
 思い出した恐怖と新たな恐怖で、千鶴は思考も体もこわって動けない。頭の中には、闇から落ちて来た巨大な毛むくじゃらの足が浮かんでいる。
「ごめん、こがぁな所に連れて来たおらが悪かった。もうイノシシはええけんぬろう」
 春子はうろたえながら平謝りだ。
 震えながらふと視線を落とした千鶴は、血溜まりの手前にも大きな窪みがあることに気がついた。道には牛車ぎっしゃなどのわだちがあるが、その轍が窪みの所で潰れている。さっき通った時には気にならなかったが、今は窪みがとても大きな足跡に見える。
 小枝が落ちているのは窪みの両脇で、上を見ると木々の枝先が折れた空間がある。ここに何か巨大なものがいたというのか。
 恐ろしさをこらえながら横を見ると、川向こうの丘陵と畑の崩れた所が視界に入った。これも今は大きな生き物が通った跡みたいに思えてしまう。
 足跡のような窪みは、丘陵の向こうのどこへ向かったのか。はっとなった千鶴はがくぜんとなった。ここへ来るのに、丘陵に沿った道を歩いて来たからわかる。丘陵の向こうにあるのは法正寺だ。
 恐怖が絶望となり、千鶴の目から涙がこぼれた。
 慌てた春子は千鶴を抱えるようにして血溜まりをあとにした。千鶴に自慢の村祭りを見せるつもりが、昨日から大失態の連続で、春子は気の毒なくらいおろおろしている。しかし、千鶴には春子をづかう余裕がない。
 何がイノシシの命を奪ったのか。千鶴はイノシシに襲われた記憶は取り戻したが、イノシシが殺されるところは見ていない。だけど答えは明らかだ。鬼である。鬼が現れたのだ。
 イノシシが殺されたのは、千鶴を襲ったからだ。つまり、がんごめを襲ったから、イノシシは悲惨な殺され方をしたのだ。
 鬼が千鶴を法生寺まで運んだのも、そこががんごめのすみだったからだ。きっと前世と同じようにやれというのだろう。あの時に鬼は千鶴ががんごめの本性を取り戻すべく、何らかの働きかけたをしたに違いない。若侍のことを思い出したり、地獄の夢を見たりしたのはそのせいだ。
 夢や幻影で自分はがんごめではないかと疑いはしたが、絶対にそうだと断定はできなかった。だが悲惨なイノシシの死を突きつけられては、もう否定ができない。自分はがんごめなのだ。そして姿は見えないが、自分のそばには鬼がいる。
 恐らく鬼よけのほこらが壊れたために、鬼は再び風寄かぜよせへ現れた。そして、がんごめである千鶴を風寄へ引き寄せたのだ。祭りが大雨でずれたのも、恐らくは鬼のわざだ。
 あまりの恐怖に、鬼を慕う気持ちは隠れてしまった。黙って歩いていても、涙が勝手にあふれ出す。
 泣きそうな顔で何度もびる春子に、もう大丈夫だからと千鶴は涙を拭いて何とか笑みを作ってみせた。それでも自分はがんごめだったという衝撃が、ずっと胸を貫いたままだ。
 春子は千鶴を元気づけるために、このあと輿こしが戻るまでどうするかと懸命に喋った。しかし、その声は千鶴の耳を空しく素通りして行った。

     二

てこい!」
 人で埋めくされた境内けいだいの中、そこにいる者たちに向かって、神輿に乗った男二人が挑発するように叫ぶ。それに応じて周りの男たちも、詣てこい!――と叫び返す。さらに二人が叫ぶと、周りも再び叫び返す。
 声の掛け合いを続ける男たちの周りは、野良着のらぎ姿の見物人で固められている。両者の間に距離はなく、見えるのは頭ばかりだ。誰がかきで誰が見物人なのか、よく見なければ区別がつかない。
 境内にうねりとなって広がる熱気と興奮。そこにいるすべての者がこれから行われることを、今か今かと目を輝かせて待っている。
 このあと神輿は三十九段ある神社の石段の上まで運ばれ、そこから下を目がけて投げ落とされるのだ。
 投げ落としは、神輿が壊れて中の御神体おしょうねが出て来るまで、何度でも繰り返される。
 神輿は全部で四体あり、一体が壊されると次の神輿が運ばれて来る。そうして四体全部が壊されるまで投げ落としは続く。
 千鶴たちは松山まつやまへ戻らねばならないので、四体の投げ落としすべては見られない。それでも、暇が許す限り見たいと春子は言った。
 春子にすれば、幼い頃からお馴染なじみの祭りである。しかも四年ぶりの祭りだ。興奮するのが当然だ。
 千鶴にしても、この祭りのだいを見られるのだ。本当であれば、もっと浮かれた気分になっていただろう。だけど今は祭りどころではない。イノシシに襲われた記憶を取り戻してから、ずっと恐怖と不安が頭に張りついたままだ。
 世話になった和尚夫婦に感謝を告げて別れの挨拶をした時も、春子の家に立ち寄ってイネやマツと談笑した時も、何も考えられなかった。とにかく必死に笑顔を作ったが、何をしゃべったのかは覚えていない。
 これから自分に起こるであろう恐ろしいことを考えると、千鶴は泣き崩れてしまいそうになった。けれど春子を心配させるわけにはいかない。それで懸命に涙をこらえて平静を装っていた。
 その春子は千鶴が動揺を隠しているのはわかっている。動揺の本当の理由は知らなくても、自分が千鶴をイノシシの死骸があった場所へ連れて行ったからだと、責任を感じているに違いない。
 そのためか、人混みには入らず境内の隅から神輿を眺める千鶴に、春子は辛抱しんぼう強く付き合っている。久しぶりの地元の祭りなのだから、本当は人垣の中に入って、みんなと一緒に楽しみたいはずだ。
村上むらかみさん、うちのことはかまんでええけん、もうちぃとねきで見ておいでや」
 千鶴が声をかけても、春子は微笑み、ええんよ――と言った。しかし、そわそわしているところを見ると、やはり行きたいらしい。
 鬼のことはともかく、千鶴は見知らぬ人ばかりの人混みが好きではない。夜であれば暗がりにまぎれることができるが、明るいうちは千鶴の姿は人から丸見えだ。ロシア兵の娘がいるぞといわれるのが嫌だった。
 だけど千鶴たちがいる所からでは、いくにもなった人垣で舁夫たちの様子はよくわからない。持ち上げられた神輿と、神輿の上に乗った男たちの姿が見えるばかりだ。
 背が低い春子は、千鶴の隣でしきりに背伸びをして神輿の動きをうかがっていたが、ついに我慢ができなくなったようだ。
山﨑やまさきさん、やっぱし、もうちぃと前に行こや!」
 春子は千鶴の手をつかむと、人垣へ突っ込んだ。何も心配する必要はないと示したい気持ちもあったのだろう。あるいはイノシシの死骸で動揺した千鶴を元気づけたかったのかもしれない。
 千鶴はあらがう間もなく人垣の中へ引っ張り込まれ、誰かにぶつかるたびに、すんませんとび続けた。
 千鶴を初めて見た者たちは、一様にぎょっとした顔になった。中には悲鳴を上げる者までいて、千鶴は自分の顔が鬼になっているのではないかと不安になった。
 春子は人をかき分けながら、どんどん奥へ進んだ。途中で千鶴の手が離れたが、春子はまったく気づかないまま行ってしまった。
 千鶴は周囲の人々に四方から押され、身動きが取れない状態で一人取り残された。
 周りにいる者たちの目は、神輿ではなく千鶴に向けられている。好奇とべつの目に囲まれた千鶴は、下を向くしかできなかった。
「こら、さっさと出てかんかい! 祭りがけがれようが!」
 近くで怒鳴り声が聞こえた。千鶴は驚いて顔を上げたが、誰が怒鳴ったのかはわからない。みんなが千鶴をにらんでいるみたいだ。
 すんませんと言ってまた下を向くと、千鶴は外へ向かおうとした。その時、再び怒鳴り声が聞こえた。
 顔を上げると、少し前で若い男が他の男たちに人垣の外へ押し出されようとしている。自分ではなかったのかとあんしたが、千鶴はののしられている若者が気の毒で悲しくなった。
 同じ村の者であるなら、こんなことを言われたりはしない。きっと若者は山陰やまかげの者に違いない。ちらりと見えた継ぎはぎだらけの着物が、若者の貧しさを物語っており、それも千鶴の悲しみを深くした。
 しかし、そんなことを考えている暇はなかった。次こそ自分が怒鳴られる番だ。その前に外へ出なくてはならない。
 人垣は鳥居の外にまであふれていた。その中を若者はどんどん押し出されて行く。
 この場から逃げたい気持ちと、追い出された若者への共感から、千鶴は若者のあとを追って人垣の外を目指した。人を押し分けながら、やっとの思いで鳥居の外へ出てみると、先に押し出されたはずの若者の姿はどこにも見当たらなかった。
 神社はこんもりした丘の上にある。その丘に沿って南へ向かう道があるが、その道には人の姿がない。
 気疲れした千鶴は南へ向かう道を少し歩いた。村人の集団から離れたかった。すると、不意に後ろから呼び止められた。
「千鶴さん……やったかの?」
 驚いて振り返ると、春子の従兄げんがいた。後ろには連れの仲間三人が立っている。四人はうれしそうに笑っているが、素面しらふなのかはわからない。
 
     三

「こげなとこで、何しよんかい?」
 源次がいぶかしげに言った。突然声をかけられたことで、千鶴は動揺していた。
「あ、あの……、人を探しよったもんですけん」
「人て、誰ぞな?」
「名前は知らんのですけんど、継ぎはぎの着物を着た男の人ぞなもし。どこへてしもたんか……」
 源次と目を合わせたくない千鶴は、さっきの若者を探すふりをして横を向いた。それでもさっきの若者が気になっていたのは事実だ。また、若者が見つかれば源次たちから離れられるという思いもあって、千鶴は若者の姿を探した。だけどやはり若者はいない。
 源次たちは、千鶴が口にした男が誰なのか見当がついたらしい。あいつかとうなずきながら、互いに目を見交わした。
 千鶴に顔を戻した源次はにこやかに言った。
「そいつとは知り合いなんかの?」
「ほういうわけやないですけんど、ちぃと気になったけん」
「ほうかな。ほれじゃったら、おらたち、そいつがおるとこ知っとるけん、連れてってあげよわい」
「いえ、そがぁなこと無理さっちにせいでもかまんですけん」
「そげにつかわいでもかまん構ん。すぐそこじゃけん、ついてとうみや」
 源次はにこやかに先頭に立つと、千鶴がいた道をさらに先へ進んだ。しかし、千鶴はその若者をちらりと見かけただけで、顔も合わせていない。そんな相手の所へ連れて行かれても、お互いに困るだけだ。何をしに来たと聞かれても返事のしようがない。さっきは若者が現れてくれればと思ったが、今は困惑するばかりだ。
 後ろの男たちにうながされて、千鶴も仕方なく歩き始めた。それにしても強引というか、何だか異様な雰囲気だ。
「あの、ほんまに、もうかまんですけん」
「もう、そこぞな。そこをな、左に曲がった先におるけん」
 もうちぃとじゃけん――と後ろの男たちも笑みを浮かべながら言った。その笑みは千鶴には何だか薄気味悪かった。
 道なりに左へ曲がると、神社や参道が丘の陰になって見えなくなった。人々が騒ぐ声は聞こえるが、遠くで騒いでいるみたいだ。
 千鶴は辺りを見まわしたが、そこには建物もなければひともない。刈り取りが終わった田んぼがある他は、何もない道が丘沿いに続いているだけだ。
「あの……、あのお人はどこに――」
「千鶴さん」
 立ち止まった源次は振り返ると、千鶴の言葉をさえぎって言った。
昨夜ゆんべは春子の家やのうて、法生寺ほうしょうじに泊まったんやて?」
「え? は、はい」
 げんに思いながら、千鶴はうなずいた。
「春子に言われたけん、昨夜ゆんべはな、千鶴さんにお思て、必死に酔いを覚ましよったんよ。ほれやのに、聞いたら法生寺におる言われてな。おらたち、法生寺まで押しかけよかて思いよったかい」
「ほ、ほうなんですか」
 源次が何を言いたいのか、千鶴には理解ができなかった。あとの言葉が続かず黙っていると、源次は千鶴の両手首をぎゅっとつかんだ。
「千鶴さん、昨夜ゆんべ果たせなんだ想いを、今ここで果たさせておくんなもし」
「え? な、何のこと――」
 源次はぐいっと千鶴を引き寄せると、抱きついてきた。
「ち、ちぃとやめてつかぁさい。人を呼びますよ!」
「呼んでみ。誰っちゃ来んで。みぃんな神社に集まっとるけんな」
 源次は暴れる千鶴に、口を突き出して接吻せっぷんを迫った。他の三人は千鶴の周囲を取り囲みながら、異人のおなはどがぁな味じゃろか――と笑い合っている。
 抱きつかれて両腕の自由が利かないが、千鶴は何とか引き抜いた右手で源次の顔を押し戻した。
「あんた、村上さんの従兄なんじゃろ? こげなことして許されるて思とるん?」
「別に許してもらうつもりはないけん。ほれに、ロシア兵の娘を手籠めにしたとこで、誰っちゃ文句は言うまい」
 源次はもう一度千鶴の両手を押さえると、勝ち誇った顔で言った。
昨日きにょうはみんなに歓迎されたて思たろが、そげなことあるかい。どこの村にもロシア兵に殺されたもんや、かたにされた者がおらい。みんな春子に合わせて歓迎するふりしよったぎりじゃい」
「そげなこと――」
「あの家にのぶいうおながおったろ? あいつの父親は村長の弟でな、おらたちは従兄妹同士よ。その信子の父親はな、ロシア兵に殺されたんじゃい。そのかたきを取ってやるんじゃけん、信子も信子の亭主も村長もみんな喜んでくれらい」
 源次の言葉は、千鶴の胸を深くえぐった。がんごめである以前に、村の者たちがロシア兵の娘なんかを、快く受け入れるはずがなかったのだ。
 それでも春子の家族にかたきの娘という目で見られていたとは、やはり信じられない。みんな家を飛び出した自分を心配してくれたし、春子の兄は励ましの声をかけてくれたのだ。
「村上さんはそがぁなこと言わん! あんたは村上さんもついじゃて言うん?」
 千鶴が言い返すと、源次はふんと鼻で笑った。
「叔父いうても、あいつにとってはつながりが薄いけんな。自分の家族とついには思とらんのじゃろ。ほんでも、あいつ以外はみんな直接つながりがあるけん、ロシアは敵よ」
 確かに身内をロシア兵に殺されたのであれば、ロシアは憎い敵だ。だから千鶴の祖父母は未だにロシアを憎んでいるし、ロシアの血を引く千鶴をうとんでいる。春子の家族にしても、ロシアを憎む気持ちは同じだろう。歓迎してくれたように見えたのは、源次が言ったとおり、春子の顔を立てただけなのかもしれない。 
 言葉を返せない千鶴は、源次にあらがう力を失った。千鶴がおとなしくなったので、源次は得意げに仲間たちを見た。
「言うとくけんど」
 千鶴は力なく源次たちに言った。もうすべてがどうでもよく思われた。どうせ自分はロシア兵の娘であり、がんごめなのだ。
「これ以上、うちにぇ出したら、どがぁなっても知らんけんね」
「ほぉ、やくざのねえやんみたいなこと言うんじゃな。面白おもろいやないか。おらたちをどがぁするんぞ? ほれ、やっとうみや」
 源次が千鶴を小馬鹿にすると、仲間の男たちもへらへら笑った。
 千鶴はがんごめの気分になっていた。がんごめがこんな人間のくず玩具おもちゃになってたまるものかと思った時、千鶴は源次の左腕にみついていた。
いてっ!」
 思いがけない千鶴の反撃に、源次は反射的に右手を振り上げた。
 だが、千鶴はけるつもりはなかった。自分に手を出せば、この男たちは鬼のじきにされるだろうと考えていた。そして、そうなっても構わないとさえ思っていた。
 ところが、現れたのは鬼ではなかった。

     四

 源次が振り上げた右手は、後ろから伸びて来た別の手につかまれた。驚いた源次が振り向くと、そこに若い男が一人立っていた。
「祭りの日におなを襲うとはの。神をも恐れぬ不届きもんとは、おまいらのことぞな」
 それは千鶴が探していた、あの若者だった。継ぎはぎだらけの着物がそのあかしだ。
 若者は切れ長の目に、鼻筋の通ったきれいな顔立ちをしていた。着ている物は貧しくとも、若者の顔や雰囲気には気品があった。
 一方の源次と仲間の男たちは、いかにも祭りが似合っている荒くれ男だ。体も若者よりも大きい。助けてくれるのはうれしいが、一対一でも若者にはが悪そうだ。なのに相手は四人もいる。
 と思ったら、源次の仲間の一人はすでに地面に倒れ、腹を押さえながら声も出せずに苦しんでいた。他の二人はあまりの驚きに固まっている。
 おどれ!――と叫んだ源次は、千鶴を離して若者につかみかかろうとした。若者はつかんだ源次の腕を、素早く後ろへひねり上げた。
いててて!」
 源次が苦痛に顔をゆがめると、我に返った仲間の二人が若者に襲いかかろうとした。
 若者はすかさず近くの男に向かって源次を蹴り飛ばすと、飛びかかって来た別の男を、見事な一本背負いで地面にたたきつけた。その勢いはすさまじく、叩きつけられた男はうめくばかりで、地面に張りついたみたいに動かない。
 仲間の一人と一緒に田んぼに落ちた源次は、捻られた腕を押さえながら起き上がると、若者をにらみつけた。
 その後ろで遅れて立ち上がった仲間の男は、若者の一本背負いが見えたのだろう。驚きおびえた様子でわめいた。
「おまい、そげな技、いつの間に身に着けたんじゃい!」
「生まれつきぞな」
 若者は涼しい顔で答えると、田んぼに降りて源次たちの方へ近づいた。
 源次は若者に殴りかかったが、若者は源次のこぶしを避ける素振りもない。源次をにらみながら、向かって来た源次の右の拳を難なく左手で受け止めた。同時にその手で源次の右拳を外へ捻ると、源次は為すすべもなくひっくり返った。
 若者は源次を倒しながら、もう一人の男に顔を向けた。じろりと若者ににらまれた男は、うろたえながら若者につかみかかった。
 若者は男の両手をつかむと、腹に蹴りを入れた。男が体をくの字に曲げると、若者は男を軽々とかつぎ上げ、ちょうど立ち上がった源次に向かって投げつけた。
 無理に重い物を持ち上げた場合、それを投げつけるのはむずかしい。投げ落とすのがせいぜいで、投げつけるだけの力などないだろう。
 ところが、見た目は力持ちに見えないこの若者は相当の怪力らしく、投げられた男は勢いよく源次にぶつかった。源次は仲間の下敷きになって再びひっくり返った。
 源次は呻きながら仲間の下からい出そうと藻掻もがいた。若者は源次を見下ろすと、あざけるように言った。
ざまよの。己一人じゃあなんもできぬくせに、村長のおいであることを鼻にかけ、腐った仲間のかしらを気取るくずめ。今の貴様のみじめな姿こそが、まことの己と知るがええ」
 若者の物言いは、差別をされて小さくなっている者には思えない。まるで源次よりも上に立つ者の言葉みたいだ。
 源次は上の仲間を必死に押しのけると、何とか立ち上がった。その間、若者は何もせずに源次を眺めていた。それは若者の余裕を示すものであり、源次は完全に圧倒されていた。
「おまい、なしてこのおなの味方をするんぞ。こいつはロシア兵の娘ぞ」
 若者を見くびっていたであろう源次は、驚きとあせりの顔で若者をなじりながら、若者の横へ回り込んだ。
「ほれが、どがぁした?」
 体の向きを変えた若者は、怒りの顔で前に歩み出た。源次は慌てて後ろへ下がりながら、から威張いばりの笑みを見せた。
「ははぁん、わかったわい。おまい、おらたちをわいやってから、一人でこのおなをいただこ思とんじゃろげ。違うんか?」
 源次にすれば精いっぱいの反撃だろう。だが、若者は源次の侮辱に応じることなく、黙ってさらに足を踏み出した。源次は笑みを消してさらに下がったが、足を稲の切り株に取られて尻餅をついた。
 一方、源次が若者を挑発している間に、若者に投げ飛ばされた男がよろよろと立ち上がり、後ろから若者に飛びかかろうとした。
「後ろ! 危ない!」
 千鶴が思わず叫ぶと、若者は前を向いたまま、すっと体を脇にけた。まるで背中に目がついているみたいだ。
 その際、足を横に伸ばしたので、飛びかかった男は若者の足につまづいて、勢いよく源次の上まで飛んだ。
 若者は千鶴を振り返ると、礼を述べるように会釈えしゃくをした。千鶴はどきりとしたが、若者はすぐに源次たちに顔を戻した。
 三度も仲間の下敷きにされた源次は、腹を立てながら上にかぶさった男を押しのけた。
 よろめきながら立ち上がると、源次は言った。
「おまい、みんなから除者はせだにされよるんが面白おもろないんじゃろが。ほじゃけん、おらたちがすることにさからいとうなるんじゃろ?」
 力なく立ち上がった仲間の男は、ほういうことかとうなずいた。
「そがぁなことじゃったら話は早い。今日からおまいをおらたちの仲間にしちゃろわい。お前かて、ほんまはそのおなが欲しいんじゃろが? 格好つけたりせんで、おらたちと一緒に楽しもや」
 この下司げすどもが!――若者は吐き捨てるように言うと、源次の仲間の男を捕まえ、その股間を蹴り上げた。一瞬、宙に浮いた男はそのまま地面に倒れ、股を押さえながらもだえ苦しんだ。
「ほれで二度とおなを抱くことはかなうまい」
 倒れた男を冷たく一瞥いちべつしたあと、若者は源次に向き直った。
「次は貴様の番ぞ」
 源次の方が若者より体が大きいのに、怯える源次は若者よりも小さく見えた。だけど逃げられないと観念したのか、源次はいきなり若者に飛びかかった。
 若者は源次と両手を組み合った。千鶴からは二人が力比べをしているみたいに見えた。しかし、どちらが強いのかは一目瞭然だ。
 源次は必死のぎょうそうだが、若者の表情は変わらない。源次の両手は甲の側に折り曲げられ、両膝を突いた源次は悲鳴を上げた。源次の両手首は折れる寸前だった。
「いけん!」
 千鶴が叫ぶと、若者は千鶴を見た。
「ほれ以上はいけんぞな」
 千鶴はもう一度叫んだ。
「助かったな」
 若者は少し不満げに源次に言うと、源次を後ろへ蹴り倒した。
 源次は握った形のままの両手を合わせ、地面で苦しそうに呻いている。折れるのは免れたが、両手首はかなり痛めたと思われる。
 源次は両手をかばいながら立ち上がると、まだ虚勢を張って若者に悪態をついた。
「お、おどれ、おらたちにこげな真似しよってからに。あとでどがぁなるか覚えとけよ」
「おまいらの方こそぃつけぇよ。今日はこのお人に免じて、こんで勘弁してやるがな、今度このお人にぇ出したら、ほん時は手首やのうて、その首へし折るけんな」
 若者は静かに言った。だがその分、すごみがあった。脅しではなく、本気で言っているみたいだ。
 若者の言葉に恐れをなしたのか、源次は何も言い返さなかった。代わりに倒れている仲間のそばへ行くと、何度も声をかけたり、足で蹴飛ばしたりして無理やり立ち上がらせた。それから千鶴と若者をにらみつけると、よろめく仲間たちをき立てながら逃げて行った。

     五

 源次たちが姿を消した曲がり道の向こうからは、相変わらず輿こしを壊す騒ぎ声が聞こえてくる。
 源次たちを見送った若者が千鶴に向き直ると、千鶴は深々と頭を下げた。
「このたびは危ないとこを助けていただき、まことにありがとうございました」
 やめてつかぁさい――と若者は人懐こそうな笑顔になった。先ほどのしんのごとき人物と同じ人間とは思えない。
「大したことしとらんのに、そがぁに頭下げられたらこそばゆいわい。ほれに、おなの前であげな荒っぽいとこ見せて、かえって怖がらせてしもたわいな。堪忍かんにんしてつかぁさいや」
 頭をく若者に、千鶴は遠慮がちに言った。
「あの、さっき境内けいだいからわい出されましたよね?」
 ありゃ――と若者は恥ずかしそうに頭の後ろに手を当てた。
「あれを見られてしもたんか。こりゃ、しもうた」
「うち、あなたを探しよったんぞなもし。ほやけど、どこてしもたんかわからんで……。ほしたらあの人らに、あなたのとこに連れてったるて言われて……」
 千鶴の話に若者は驚いたみたいだった。
「ほうじゃったんか。ほんでも、なしておらを?」
 千鶴は言うべきかどうか迷った。だけど若者が返事を待っているので、意を決して言うことにした。
「初めてお会いした人にこげなこと言うんは失礼なけんど、あなたがみんなから除者はせだにされよるん見て、他人事には思えなんだんぞなもし。うち、にち戦争ん時のロシア兵の娘じゃけん、ぃたようなことしょっちゅうあるんぞな」
 ほうなんか――と若者は暗い顔を見せたが、すぐに明るく微笑んだ。
「ほんでも大丈夫ぞな。千鶴さんにも、いつか必ず幸せが訪れるけん」
 若者の言葉に、千鶴は目を瞬か しばたた せた。
「あの、なしてうちの名前を知っておいでるんぞな?」
「え? いや、ほれはじゃな、あの……」
 慌てる若者を見て、千鶴はしょんぼりした。
「ロシア兵の娘が来とるて、村中でうわさになっとるんじゃね」
「いや、ほやないほやない」
 若者はあせった様子で、胸の前で手を振った。
「じゃったら、なして知っておいでるん?」
「あのな、おら、千鶴さんとついを知っとるんよ」
「うちとつい?」
「ほうなんよ。そのは千鶴さんにそっくりなけんど、その娘の名前がな、せんつるて書いて、千鶴ちづていうんよ」
 千鶴は目を丸くした。
「ほれ、うちとついじゃ」
「ほんでな、父親がロシア人で、母親が日本人なんよ」
 千鶴は丸くした目を、さらに大きく見開いた。
「ほんまですか?」
「ほんまほんま。そのはな、顔も姿も千鶴さんと真っついじゃったけん、ほんで、つい千鶴さんて呼んでしもたんよ。ほやけど、ほうなんか。名前までおんなしじゃったかい。こら、まっこと驚きぞな」
 千鶴は驚き興奮した。
 ロシア人の娘なんて自分だけだと思っていたのに、他にもいたのだ。しかもその娘は千鶴と名前が同じで、顔も姿もそっくりだという。
「その娘さんは、今どこにおいでるんぞな?」
「昔、ここにおったんよ。けんど、今は――」
 若者は唇をんで千鶴をじっと見つめたが、ふっと目をらして言った。
「生き別れになっとったおとっつぁんがな、船に乗って迎えに来たんよ」
「ほんじゃあ、ロシアへんでしもたんですか?」
 若者は黙ったまま返事をしない。けれど、それが答えなのだろう。悲しげな目がそう伝えている。
「その娘さんとは親しかったんですね?」
「おらたち、夫婦めおと約束しよったんよ」
 若者は横を向いたままぽつりと言った。
 その言葉に千鶴の胸がうずいた。それでも平気な顔を装って、千鶴は若者にたずねた。
「ほれじゃのに、その娘さん、ロシアへんでしもたん?」
「いろいろあってな。おら、そのを嫁にすることができんなったんよ。そこへおとっつぁんが迎えにおいでてくれたけん」
「ほれで、その娘さんをロシアへ行かせてしもたんですか?」
 若者は押し黙ったまま海の方を向いた。答えることができない若者に、千鶴は憤り いきどお を抑えられなかった。
「その娘さん、ロシアへなんぞ行きとなかったろうに」
 千鶴にはその娘の気持ちがわかる気がした。差別と偏見の中にいて、心から自分を受け入れてくれた人がいたならば、絶対にその人から離れたいとは思わない。
「ずっとずーっと、あなたと一緒におりたかったはずやし」
 つい荒くなる口調を、千鶴は止めることができなかった。
 しかし若者は腹を立てたりせず、海の方を見つめたまま小さな声で言った。
「できることなら、おらもずっとそのと一緒におりたかった」
「じゃったら、なして?」
仕方しゃあなかったんよ」
 若者はうなれながら言った。
「おらはな、どがぁに望んでも、そのと一緒にはなれんなってしもたんよ」
「ほんなん、その娘さんが納得するとは思えんぞな」
 執拗しつように責める千鶴に、若者は寂しげに微笑んだ。
「もう、済んでしもたことぞな」
「言うてつかぁさい。なして、あきらめんさったん?」
 若者は千鶴にとって初対面の赤の他人だ。しかも危ないところを助けてくれた恩人であり、誰にもしゃべらないような話を打ち明けてくれている。なのに、千鶴は興奮を抑えられなかった。
 自分が失礼な態度を見せているのはわかっていた。いつもの千鶴であれば、決してこんな言動は見せたりしない。
 けれど、自分ががんごめであると悟った今、千鶴は若者が幸せをあきらめてしまうことが許せなかった。自分を助けてくれた素敵な人だからこそ、許せなかったのだ。
 また若者を心からいていたであろう、その娘にも幸せになってほしかった。自分とそっくりだというその娘には、自分の代わりに幸せをつかんでもらいたかった。
 それでも千鶴が責めたところで、どうにかなるものではない。若者が言うとおり、もう終わったことなのだ。若者だってつらいし悲しいはずである。それを責めるのは、古い傷口を広げて塩をすり込むのと同じだ。
 本当なら怒ってもいいのに、若者は黙ったまま千鶴に言いたいように言わせている。そのことが余計に悲しくて、千鶴は泣きだした。
「ごめんなさい……。うち……、助けてもろたお人に、こげなひどいことぎり言うてしもて……、どうか堪忍してつかぁさい」
「ええんよ。千鶴さんは、おらのこと心配してくれたぎりぞな。おら、ちゃんとわかっとるよ」
 若者の優しい慰めは、千鶴をさらに泣かせた。わぁわぁ泣く千鶴に若者はうろたえた。
「千鶴さん、勘弁してつかぁさい。おら、千鶴さん、泣かそ思て喋ったわけやないんよ。お願いやけん、どうか、泣きやんでおくんなもし」
 おろおろする若者に、千鶴はしゃくり上げながら言った。
「うちね……、幸せになんぞなれんのよ……。やけん、あなたにも、あなたがいた娘さんにも……、幸せになってほしかった……」
「何を――」
「うちね……、誰のこともいてはいけんの……。誰からかれてもいけんのよ……」
「なしてぞな? なして千鶴さんが誰かをいたり、好かれたりしたらいけんのぞ? どこっちゃそげな法はなかろに」
「ほやかて、うち……、うち……」
 がんごめなんよ――と言いそうになった。でも、言えなかった。他の者に喋っても、この若者にだけは自分の正体を知られたくなかった。
「なして千鶴さんがそげなことを言いんさるんか、おらにはわからんけんど、大丈夫ぞな。千鶴さんが誰をこうが、誰に好かれようが、神さまも仏さまも文句なんぞ言わんけん」
 若者は千鶴の両手を握ると、にっこり笑った。
「あのな、教えてあげよわい。千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人とめぐりうて幸せになるんよ。絶対にそがぁなるけん。おらがけ合おわい」
「なして、そげなことが言えるんぞなもし?」
 千鶴は下を向きながら言った。
 下を向いていたのは、若者の顔がまともに見られないからだ。しかし、他にも理由があった。
 千鶴の目は自分の手を優しく握る若者の手にくぎづけになっていた。こんな風に男の人に手を握ってもらうなど、生まれて初めてのことだ。
 それに初めて会った人なのに、その手から伝わるぬくもりは、何だか懐かしい感じがする。ただ体温が伝わっているのではない。若者の心の温もりが包んでくれている。
 もし自分ががんごめでなかったならば、きっとこの人をいていたに違いない。いや、すでに好いているのかもしれない。だが、それは許されないことだった。
 悔しい想いを噛みしめる千鶴に、若者は明るく言った。
「おら、お不動さまにお願いしたんよ」
 千鶴は思わず涙にれた顔を上げた。
「お不動さま?」
「ほうよほうよ、お不動さまよ。千鶴さんもお不動さまは知っておいでよう? おらな、お不動さまにお願いしたんよ。千鶴さんが幸せになれますようにて。ほじゃけん、千鶴さん、絶対に幸せになれるぞな」
「うちの幸せを? あなたがお不動さまに? なして?」
 若者の顔に、はっと困惑のいろが浮かんだ。また余計なことを喋ってしまったと思ったようだ。
「いや、あの、ほじゃけんな、えっと……」
「あなた、ひょっとして――」
 その時、千鶴を探す春子の声が聞こえた。
 千鶴がこっちと叫ぶと、曲がり道の向こうから肩で息をした春子が現れた。
「山﨑さん! こがぁなとこにおったん? ずっと探しよったんで。急がんと松山まつやまに戻れんなるけん、よ行こ!」
 言われて初めて、千鶴は日が沈みかけていることに気がついた。確かに急がなければ、今日中に松山へ戻れなくなってしまう。
「ごめんなさい。うち――」
 千鶴は若者を振り返った。
 だが、そこにはもう若者の姿はなかった。慌てて辺りを見まわしたが、どこにも若者はいなかった。