山陰の車夫
一
結局、千鶴たちは松山へ戻る客馬車には乗れなかった。
客馬車乗り場へ行った時に、二人は初めて客馬車の御者が言っていたことを思い出した。祭りの間は御者も祭りに出ていて、客馬車は動かないのだ。
春子の家族も和尚夫婦も千鶴たちにこの話をしてくれなかった。そのことに春子は愚痴をこぼしたが、祭りの日に客馬車が走るかどうかなど、誰も考えたことがなかったに違いない。
春子は大いに焦っていた。どうしても今日中に戻らなければ、先生との約束を破ったことになってしまう。
だが千鶴はもう一晩、法生寺に泊めてもらってもいいと考えていた。あとで家族や学校から大目玉を喰らう覚悟はできていた。
千鶴は自分を助けてくれたあの若者に、もう一度会いたかった。会ってゆっくり話がしたかった。
あの若者は千鶴の幸せを願って、お不動さまに願掛けをしたと言った。しかし初めて出逢ったはずなのに、千鶴のために願掛けをしたというのは矛盾している。それは、あの若者が千鶴のことを知っていたということだ。
名波村に来たばかりの千鶴を、若者が知る機会は限られている。だが、千鶴は助けてもらう以前に若者に出逢った覚えがない。出逢うとすれば、イノシシに襲われてから法生寺まで運ばれた間しかなく、きっとその時に若者は自分を知ったのだと千鶴は思った。
若者には夫婦約束を交わした娘がいた。その娘にそっくりな千鶴が倒れているのを見つけたならば、絶対に驚いたはずだ。夕暮れ時の薄暗さの中では、尚更見間違えやすかったと思われる。
しかし、若者はすぐに他人の空似だと気づいただろう。ロシアへ去った娘がいるわけがないからだ。
それでもロシア人の風貌をした千鶴の境遇を、若者は思いやってくれたのに違いない。あるいは好き合っていた娘の姿を、千鶴に重ね合わせたのかもしれない。
それで若者は法生寺の不動明王に、千鶴の幸せを願ってくれたのだ。そこには千鶴とロシアへ去った娘の両方への想いが込められていたのだろう。
野菊の花を飾ってくれたのも、きっとあの若者だ。若者がどんな想いで花を飾ったのか、それを考えると千鶴は涙が出てしまう。
若者ともう一度会ったところで、してあげられることは何もない。それでも千鶴はあの若者に会いたかった。せめて、名前を聞かせて欲しかった。もし、もう一泊できたなら、明日は必ずあの若者に会いに行こうと腹をくくっていた。
一方、春子は松山へ戻ることをあきらめなかった。少し離れた所にある乗合自動車の乗り場へ向かい、松山へ向かう自動車があるかを確かめた。
乗合自動車は松山と今治の間を行き来しているので、客馬車と違って運行はしていた。しかし、最終便はさっき通過したばかりらしい。
千鶴は心の内で喜んだが、春子は大いに落胆したようだった。
「どがぁしよう。戻れなんだら退学やし」
春子は泣きそうな顔で千鶴を見た。
まさか退学にはなるまいと、千鶴は思っていた。しかし、そう断言できるだけの自信はない。それに寮の規則が厳しいことは、千鶴も身を以て知っている。よく考えれば退学は有り得ることで、春子が退学になれば、春子に同伴していた自分も退学になるだろう。
項垂れる春子を見ているうちに、千鶴もだんだん不安になって来た。がんごめの自分には将来などないと考えていたことは、頭からすっかり抜け落ちている。
尋常小学校でさえ行かせてもらえない者がいる世の中だ。女が高等小学校を卒業させてもらうだけでも大変なことである。それを女子師範学校にまで行かせてもらえたというのは、相当恵まれていると言っていい。
祖父母は千鶴に冷たい態度を見せるが、学校に関して言えば、よくしてもらっている。祖父母なりの思惑があるのだろうが、千鶴にとっては有り難いことだった。それなのに、こんなことで退学になったならどうなるのか。
突然の名波村行きをすんなり認めてもらった上に、小遣いまで渡してくれた祖父が怒り狂うのは必至である。
とうとう春子はめそめそと泣き出した。それに釣られて千鶴まで泣きそうになった時、誰かが声をかけて来た。
「もうし、ひょっとして姉やんらは松山にでもお行きんさるおつもりかな?」
千鶴たちが振り返ると、そこに菅笠をかぶった法被と股引姿の男が立っていた。
春子はぎょっとしたように身を引いた。しかし男の後ろに二人掛けの人力車があるのに気がつくと、すぐに笑みを浮かべた。どうやら男は車夫のようだ。
「その俥ぁでおらたちを松山まで運んでもらえるん?」
俥というのは、この辺りでの人力車の呼び方だ。
「お望みとあらば、松山でも今治でもお運びしましょわい」
軽妙な男の話しぶりに、春子は嬉しそうに千鶴を見た。だが千鶴は芝居がかった喋り方をする男を怪しんだ。
祭りでみんなが出払っている中、一人だけ人力車を出すのは妙である。男が菅笠を深くかぶったまま、顔を見せようとしないのも何だか疑わしい。
源次たちに襲われたことで、千鶴は近づいて来る男に慎重になっていた。春子がいそいそと人力車に乗り込もうとすると、ちぃと待ちや――と千鶴は言った。
「村上さん、こっから松山まで力車で戻んたら、銭をようけ取られるぞな。うち、そげな大金は持っとらんよ」
人力車に乗っておきながら、銭が払えなければ体で払ってもらおうと、源次のような男なら言うだろう。しかも、人が来ないような所へ連れ込まれてから、脅されるのに決まっている。
人力車に手をかけていた春子は、千鶴の言葉にはっとした様子だった。春子にしても、乗合自動車に乗るぐらいの銭は持っていても、人力車に乗るほどの銭までは持たせてもらっていないはずだ。
春子は困った顔で言った。
「けんど、今日中に戻れなんだら退学で」
「ほら、ほうやけんど、銭がないのに乗ったら――」
途中で何をされるかわからないと、千鶴は言いたかった。だが車夫本人を前にして、そんなことは言えなかった。
すると、男は気さくな感じで話しかけてきた。
「姉やんらはどこぞの学生さんかなもし」
春子が三津ヶ浜にある女子師範学校だと言うと、男は顔は見せないまま大きくうなずいた。
「二人とも女子じゃというのに、まっこと大したもんぞな」
「ほやけど、このまま松山に戻れんかったら、おらたち退学になってしまうんよ」
春子がしょんぼり話すと、男は大丈夫だと言った。
「銭のことじゃったら、心配せいでも構んぞな。姉やんは名波村の村長さん所のお嬢じゃろ?」
「え? おらのこと知っておいでるん?」
春子は目をぱちくりさせた。
「ほら、誰かてわからい。名波村、いや風寄で女子師範学校へ入れた女子言うたら、姉やんを置いてはおるまい」
「え? おら、そがぁに有名なん? いや、困った。山﨑さん、どがぁしよう?」
すっかり気をよくした春子は照れ笑いをした。しかし、千鶴はまだ警戒を解いていない。口の上手い男など信用できなかった。
だが、男は千鶴の様子など気にせず言った。
「ほじゃけんな、お代の方はあとから村長さんにもらうけん、姉やんらは何も気にせいで構んぞなもし」
男の優しい言葉を信用して、春子は人力車に乗り込んだ。それから千鶴にも手招きをして、早く乗るよう促した。
「兄やんは、なしてお祭りに行かんの?」
人力車に乗り込まないまま、千鶴は男に訊ねた。
男は少しうつむき加減で千鶴の方を向いた。やはり顔は隠したままだ。
「おらな、祭りより銭がええんよ」
ぽそっと喋った男の口調からは、先ほどまでの軽い感じが消えていた。また、言葉どおりに本気で銭を欲しがっているようには聞こえない。それに、この声には聞き覚えがある。
「あなたは――」
男は黙って千鶴の手を取ると、春子の隣に座らせた。
男に手を握られている間、千鶴は菅笠に顔を隠した男をぼーっと見ていた。
手に伝わって来る男の手の温もり。千鶴は胸が詰まって、涙が出そうになった。
二
「ほんじゃ、動かすぞな。後ろに傾くけん、気ぃつけておくんなもし」
男が千鶴たちの前に着いて、人力車の持ち手を持ち上げると、座席が後ろへ傾いた。きゃあと叫び声を上げた春子はとても楽しそうだ。
千鶴はもちろんだが、春子も人力車に乗ったのは初めてだったようだ。松山へ戻れるという安心と、ただで人力車に乗られた嬉しさで、春子は大はしゃぎだった。
「兄やん、松山まで俥ぁ引いたことあるん?」
「いんや、これが初めてぞなもし。ほじゃけん、道に迷わなんだらええんじゃけんど」
「大丈夫ぞな。堀江の辺りまでは一本道じゃし、そのあとは、おらが教えるけん」
「ほうかな。ほれは心強いぞなもし。さすが師範になる女子ぞな」
「もう恥ずかしいけん、あんまし言わんでや。師範になるんは、この子も対なんじゃけん」
春子が千鶴のことを言うと、男は千鶴に話しかけた。
「そちらの姉やんは、どがぁな師範になるんかなもし」
男の後ろ姿をぼんやり眺めていた千鶴は、話しかけられたのに気がつかなかった。春子は肘で千鶴を突くと、ほら――と言った。
「え? 何?」
「何ぼーっとしよるんね。兄やんが聞いておいでるよ」
「え? な、何を?」
「山﨑さんはどがぁな師範になるんかて」
千鶴はうろたえながら、優しい師範になりたいと言った。
「うちが知っとる先生は、みんな厳しい人ぎりじゃったけん、自分はどがぁな子に対しても、優しい先生になりたいて思いよります」
へぇと男は感心したような声を出した。
「ほら立派なもんぞな。姉やんじゃったら、きっと願たとおりの師範になれらい。ところで、風寄のお嬢はどげな師範になるんかな」
「おら? おらはほうじゃなぁ。みんなに尊敬されるような師範になりたいな」
「尊敬される師範かな。さすが村長さん自慢の娘じゃな。言うことが違わい。恐らく将来は校長先生じゃな」
「校長先生? おらが?」
もう、やめてや――と言いながら、春子は嬉しさを隠せない。
「山﨑さん、おらが校長先生になったら、どげな学校になろうか」
「たぶん、おやつの時間を設けて、毎日おはぎやお饅頭を食べるんやない?」
「まっこと、ほうよほうよ。そげな学校にならい」
大笑いする春子を笑わせておきながら、千鶴は男に訊ねた。
「あの、いつもこのお仕事をされておいでるんですか?」
「おらのことかな?」
はいと千鶴が言うと、いつもというわけではないと男は答えた。
「乗ってくれるお客がおらんと、でけんぞな」
「そげな時は、何をしておいでるんですか?」
「そげな時は……、ほうじゃな。何をしとろうか」
男の答え方に、春子はまた笑った。
「兄やんて面白いお人じゃね。兄やんは俥ぁはいつから引いておいでるん?」
「ほうよな。今日からぞなもし」
え?――と千鶴たちは顔を見交わしたが、春子はすぐに笑って言った。
「また、よもだぎり言うてからに。おらたち二人も乗せて、こがぁに上手いこと走るんじゃけん、今日が初めてなわけなかろ」
「ほら、大切な姉やんらを乗せとんじゃけん、気ぃつけて走りよるぎりぞな」
「ほやけど、二人も乗せとるんよ? 素人には無理じゃろに」
「おら、何も他人様に自慢でけるものはないけんど、ほんでも力ぎりは人一倍強いけん」
やはりこの人はあの人だと千鶴は思った。どこで知ったのかはわからないが、松山へ戻れず困る自分たちを、わざわざ助けに来てくれたのに違いない。
しかし、どうしてそこまでしてくれるのか。それは別れた娘の姿を自分に見ているからだろう。ロシアへ去った娘にしてやれなかったことを、自分にしてくれているのだ。
それは若者の目が自分ではなく、別れた娘に向けられているということだ。そこが少し寂しいところだが、どのみちがんごめである自分が、この若者の心を求めることは許されない。
自分はがんごめだったと思い出した千鶴は唇を噛んだ。しかし、自分の心が若者に惹かれていることは否定できなかった。
自分のために戦ってくれる者など、夢で見たあの若侍ぐらいなものだ。この若者は夢から出て来た若侍のようだった。恐らく花を飾ってくれたのはこの若者に違いなく、それを無意識に感じていたことが、あの若侍の夢になったのだろう。
――この人の心が他を向いていようと、自分ががんごめであろうと、うちはこの人を好いとる。この人にずっと逢いたかった。そげな気ぃがしとる。この世に生まれる前から、そがぁ願いよったような気ぃがする。うちががんごめと呼ばれよった娘の生まれ変わりじゃったら、恐らくこの人は……。
若者から伝わった温もりは、今も千鶴の胸の中に残っている。この温もりは、二人の間に特別な絆があるという証に違いない。
若者は手を伸ばせば届く所にいるのに、千鶴は手が伸ばせない。あんなに逢いたいと願っていた若者が、目の前にいるというのに何も話せない。
自分をもどかしく思うばかりの千鶴は、何も知らずに楽しそうに若者と喋る春子が恨めしかった。それでもいろいろ考えた末に、千鶴は若者に訊ねた。
「あの、あなたは松山へ出ておいでるおつもりは、おありなんかなもし」
もし若者が松山で働く気があるのなら、これからも会える機会があるだろう。そんな期待を込めての問いかけだった。
「今から姉やんらをお連れするつもりじゃけんど」
ふざけているのか、真面目に答えているのかはわからない。若者の返事に、春子はくすくす笑った。
千鶴は気を取り直して、今度ははっきりと訊ねた。
「ほやのうて、松山で働くおつもりはおありかなもし?」
「おら、風寄から外には出たことがないんよ。ほじゃけん、松山がどがぁな所か興味はあるけんど、誰っちゃ知っとるお人もおらんけん」
だから松山で働くことはない、というのが返事なのだろう。
千鶴ががっかりすると、すかさず春子が訊ねた。
「兄やんはどこにお住まい? おらのことを知っておいでるいうことは、名波村のお人なん?」
いんや――と若者は言った。
「おらん家は名波村やないんよ。まあ、傍言うたら傍なけんど」
山陰が名波村に含まれているのかは、千鶴にはわからない。だが含まれていたとしても、あのような仕打ちを受けるのであれば、同じ村の者とは言えないだろう。
「傍言うたら、どこじゃろか?」
春子は名波村の近隣の村の名を片っ端から挙げた。だが、どの村も若者の村ではなかった。それでも、春子が山陰という言葉を出すことはなかった。
「ところで兄やんは、お名前は何て言うんぞな?」
若者の家を当てるのはあきらめたのか、春子は話題を変えた。
「おらの名かな。おらの名は、ふうたぞな」
「ふうた?」
「風が太いと書いて、風太ぞな」
違うなと千鶴は思った。名前と印象が合わないし、若者の喋り方が適当に聞こえる。
しかし、春子は若者の返事を素直に受け止めたようだった。
「ふうん。風太さんか。じゃあ、上の名前は何て言うんぞな?」
「何じゃったかの。忘れてしもた」
「忘れた? 自分の苗字を忘れるん?」
「ほうなんよ」
下手に苗字を言うと、どこに住んでいるかが知れてしまう。逆にまったく嘘の苗字を言うと、すぐに出鱈目だとばれるだろう。だから若者は苗字を忘れたと言ったに違いない。
素直な春子は笑うと、わけありってことじゃね――と言った。
「ほういうことぞな。おらが怪しい思うんなら、ここで降りてもろても構んぞなもし」
「とんでもないぞな。わけありなんは仕方ないことじゃけん。ほれより、兄やんは信頼できるお人じゃけん、おら、途中で降ろせやなんて言わんよなもし。降りろ言われたら、こっちが困るし」
「ほら、だんだんありがとさんでございますぞなもし」
人力車はいくつかの町を通り抜けながら、がらがらと海沿いの道を走り続けた。もっとゆっくり行くものだと千鶴は思っていたが、二人のために急いでくれているようだ。
太陽は水平線に浮かぶ島々の向こうへ沈みそうだ。松山に着く頃には完全に沈んでいるだろう。
昨日、客馬車の中で夕日を見た時に、千鶴は理由のわからない悲しみに襲われた。しかし、今は夕日を見ても悲しみは湧き上がって来ない。
あれはいったい何だったのかと、千鶴は自分を訝しんだが、きっとこの人がいるから平気でいられるのだろうと思った。それほど千鶴は若者との間に、深いつながりを感じていた。しかし自分はがんごめだと思うと、胸の中につらさが広がった。
三
「風太さん、辰輪村の入り口で大けなイノシシが死んどった話、知っておいでる?」
突然、春子が若者に訊ねた。
千鶴はどきりとした。イノシシの話は鬼につながる。そんな話はして欲しくなかった。
それにイノシシの死骸があった場所を見に行って、自分が具合悪くなったのを春子は知っている。それなのにその話をするのかと、興味を抑えられない春子に千鶴は呆れもした。
「そげなことがあったんかな。今、初めて聞いたぞな」
驚いたように答える若者に、春子はがっかりしたようだった。
「何じゃ、知らんの。何ぞ知っておいでるんやないかて思いよったのに」
「ほれは申し訳ございませんでしたぞなもし」
若者はからから笑い、春子はそれ以上訊くのをあきらめた。
千鶴は若者の返答にほっとした。だが、あのイノシシの死骸は山陰の者がさばいたはずだ。それをこの若者が知らないわけがない。
恐らく余計なことを喋ると、自分が山陰の者だと春子に知れると考えたのかもしれない。だが、千鶴はそんなことより若者と野菊の花の関係を確かめたかった。
「あなたは法生寺のご住職をご存知?」
千鶴が訊ねると、若者は一瞬沈黙して、知っていると答えた。その一瞬のためらいは、千鶴が法生寺の境内で倒れていた時に、自分もそこにいたと語っているようだった。
「あそこの和尚さまには、こんまい頃にようお世話になったんよ」
「へぇ、ほしたら、おらも風太さんのことを知っとるかもしれんのじゃね」
春子が嬉しそうに言った。
千鶴はしまったと思った。もしかしたら、春子は若者が山陰の者であると感づくかもしれなかった。
そんな千鶴の心配をよそに、若者は焦った様子もなく、ほうかもしれまい――と言った。
春子は昔の思い出をいろいろ話しながら、それについて知っているかと、いちいち若者に訊ねた。それで若者が知っていると答えると、そのたびにそこから若者の正体を探ろうとした。
しかし、春子はどうしても若者のことが思い出せなかった。と言うより、そもそも風太という名前自体が春子の記憶にはないみたいだった。
堀江を過ぎた頃には、辺りはすっかり夕闇に包まれて薄暗くなっていた。
道を教えると言った春子だったが、道がよく見えないので教えようがなかった。しかし若者は夜目が利くみたいで、速度を落とすことなく走り続けた。
分かれ道で春子が案内ができずにいても、若者は構わず適当に進んで行った。そうやってとうとう木屋町まで来ると、二人をどこで降ろせばいいのかと若者は訊ねた。
その時、古町から道後へ向かう電車が目の前を横切った。
すぐ左手に木屋町停車場があり、電車はしばしの間、そこに留まった。若者は電車を初めて見たらしく、立ち止まったまま興奮したように喜んだ。それで千鶴は春子の話をした。
「村上さんは、このあと電車で三津ヶ浜へ戻るんですよ」
「へぇ、ほれはええわいな。おらもいっぺんでええけん、電車いう物に乗ってみたいぞな」
若者が羨ましがると、春子は不服そうに言った。
「おらは電車より、この俥ぁで戻りたいな。風太さん、山﨑さんを降ろしたら、そのまま三津ヶ浜まで走ってもらえまいか?」
慌てた千鶴は若者が答えるより先に春子に言った。
「村上さん、ほれはいけんぞな。風太さんは松山もようわからんのに、三津ヶ浜まで行きよったら、風寄に戻れんなってしまわい。ほれに風太さん、ずっと走り詰めでくたくたじゃろし、早よ戻らんと寮の消灯時間に間に合わんぞな」
春子が降りたあと、若者と二人きりになれると千鶴は見込んでいた。だから、自分の方が先に降りることになっては困るのだ。
春子は消灯時間なら大丈夫だと言ったが、若者のことは気になったようで、残念そうに言った。
「電車がないならともかく、電車が走っとるもんな。仕方ない。電車で去ぬろうわい」
千鶴がほっとすると、停車場の電車が動き出し、若者も人力車を再び引いた。
「あれはお城じゃな」
木屋町停車場を過ぎた所で、若者は左前方にある山を眺めて言った。山の上には城が黒い影となってそびえている。
「ほうよほうよ。あれが松山城ぞなもし」
春子が得意げに言った。堀江から先の道を若者に教えられなかった分、城山の西にある札ノ辻が自分たちの終点だと、春子は饒舌に喋った。
札ノ辻とは、まだ侍が闊歩していた頃に、城下の民衆へのお達しが書かれた高札が掲げられていた場所である。城山の南西の麓にはお堀に囲まれた三之丸があったが、その西堀の北端に札ノ辻はあった。
「山﨑さんのお家は札ノ辻のすぐ傍やし、おらが乗る電車の停車場もあるけん」
「ほぉ、ほらちょうどええ場所じゃな」
じゃろげ?――と楽しげな春子に、千鶴は言った。
「村上さん、札ノ辻より本町から乗る方が早いんやない?」
「本町? 本町も札ノ辻も大して変わらんけん、大丈夫大丈夫」
本町停車場は札ノ辻停車場より少し木屋町寄りの所にある。つまり札ノ辻停車場の次の停車場だ。
春子が言うように、両者の距離に大した差はなく、電車も頻繁に来るので、札ノ辻から電車に乗っても問題はない。それは千鶴もわかっているが、とにかくわずかでも若者と二人きりになれる時間が欲しかった。
だが結局、春子は札ノ辻から電車に乗ることになった。千鶴は笑顔を見せながら、胸の中で落胆していた。しかし若者に実家のことを訊かれると、やにわに元気を取り戻した。
「うちは山﨑機織という伊予絣問屋をしとります」
「ほぉ、伊予絣問屋かな。風寄にも絣を織りよる家がなんぼでもあらい」
「うちも風寄のみなさんのお世話になっとるんぞなもし」
へぇと感心の声を出した若者は、千鶴の家は札ノ辻のどの辺りにあるのかと訊いた。
紙屋町ぞなもしと答えてから、千鶴は若者が松山の地名がわからないことに気がついた。それで札ノ辻から西に向かって延びる通りですと言い換えた。
紙屋町は名前から考えると、昔は紙問屋の町だったと思われる。しかし今では絣問屋の町になっている。山﨑機織の東隣には古くからの紙屋があるが、昔の紙屋町の名残を留めているのは、この店ぐらいなものだ。
千鶴が紙屋町の町筋の話をすると、札ノ辻には大丸百貨店があると春子が言った。
若者が百貨店を知らないのを確かめた春子は、風寄はおろか四国の他の地域にもない、四階建ての立派なお店だと、松山の人間でもないのに得意げに説明した。
それから春子による松山の説明が始まり、千鶴はそれを補足する程度しか出番がなくなった。
若者と喋る機会を奪われた千鶴は、春子が苦々しかった。しかし春子にはいろいろ世話になったし、若者も興味深く春子の話を聞いている。ここは黙って我慢をするしかなかった。
町の中は所々にある街灯が灯り始めていた。その明かりの下を、二人の娘を乗せた人力車が走って行く。
千鶴たちのような若い娘が、人力車に乗ることは滅多にない。乗るとすれば芸子ぐらいなものである。それも大抵は一人掛けの人力車であり、二人掛けに乗る娘は珍しい。
それだけに道行く者や家から顔を出した者が、何だ何だという顔で、千鶴たちを乗せた人力車を振り返った。そのたびに千鶴は気恥ずかしくなって下を向き、春子は大はしゃぎをした。
城山の西の麓に小学校が二つ南北に並んでいるが、道を挟んでそのすぐ西隣に師範学校がある。小学校と師範学校の間にあるこの道を進むと三ノ丸に突き当たり、そこを右へ曲がると、正面に札ノ辻がある。電車の札ノ辻停車場もそこだ。
人力車は札ノ辻の手前で停まった。千鶴が降りる時、若者は千鶴の手を取って降りるのを助けてくれた。手に伝わるその温もりは、若者が手を離しても余韻として残っている。
若者は春子の手も取って降りるのを手伝った。しかし、春子は若者に手を握られても何とも感じていないようだ。
山﨑機織はすぐそこなので、このまま歩いてもいいのだが、そのわずかな距離を若者に運んでもらおうと千鶴は考えていた。
ほんの少しの間でも、若者と二人きりになりたかったし、少しでも若者との別れを遅らせたかった。また、自分の家を若者に教えておきたかった。
千鶴は春子の見送りをする間、一緒に待っていて欲しいと若者に頼んだ。その提案に春子は喜んだが、電車が気に入った様子の若者も、千鶴の頼みを快く聞き入れてくれた。
札ノ辻にも街灯がある。その明かりの下で、ようやくまともに見せてもらえたその顔は、紛れもなくあの若者だった。
先に春子を停車場へ向かわせて、千鶴は若者に本当の名前を訊ねた。
若者はにっこり笑うと、佐伯――と言い、千鶴の顔を見つめた。それからすぐに、忠之と言うんぞな、と言い足した。
何だか千鶴の表情を確かめながら喋る様子に、千鶴は戸惑いを覚えた。
「さえき、ただゆき……さんですか」
「佐伯はわかろ? 忠之は、忠義の忠に之と書くんよ」
千鶴はどきどきしながら、若者の名前を決して忘れまいと、頭の中で何度もその名前を繰り返した。
「千鶴さん」
声をかけられた千鶴は慌てて返事をした。
「はい、何ぞなもし?」
「風寄では、あいつら以外にも嫌なことはあったんかな?」
いいえ――と千鶴は言った。がんごめと言われたことや、本当にがんごめだったことなど言えるはずがなかった。
「他には何もなかったぞなもし」
「ほうかな。ほれはよかった」
忠之は安心したように微笑んだ。千鶴は訊くのは今だと思った。
「あの、うちに花を――」
「二人で何喋りよるんよ。おらも仲間に入れてや」
停車場まで行ったものの、千鶴たちがついて来ていないことに気づいた春子が戻って来た。
「何喋りよったん?」
春子が無邪気に話に交ざろうとした。げんなりした千鶴に代わって忠之が言った。
「お嬢の学校での評判を聞かせてもらいよりました」
「お嬢て、おらのこと?」
「他に誰がおるんぞな?」
春子は照れながら、何を喋ったのかと千鶴に訊ねた。千鶴は答える気分ではなかったが、黙っているわけにもいかない。
「いっつも明るうて楽しいお人ぞなて言いよったんよ」
「おらが? いや、そがぁに言うてもらえるやなんて、おら、嬉しい。風太さん、この人はおらより頭がようてな。いっつもかっつもおらより試験の点数がええんよ」
「へぇ、ほうなんか。ほれは大したもんぞな」
驚いたふりなのか、本当に驚いたのかわからないが、忠之は目を丸くして千鶴を見た。
「もう、またそげなことを言う。ほら、電車がこっちへ来よるよ」
千鶴はお堀の南の方を指差した。南堀端から回って来た電車が、そこにある停車場に停まったところだ。
千鶴は春子に停車場へ戻るように促した。しかし春子は一人が嫌なようで、二人にも停車場まで来るように言った。
「風太さんも電車が間近で見られる方がええじゃろ?」
ほうじゃなと言って、忠之が春子について行くので、千鶴は大きく息を吐いてから、二人のあとに続いた。
間もなくすると、鉄の線路を軋ませながら電車がやって来た。もう暗いので運転席の上には電灯が点いている。
電車は札ノ辻停車場に停まると乗車口の扉を開けた。木屋町停車場でも見たはずだが、勝手に開く扉を見ると、おぉと忠之は声を上げた。
春子は千鶴たちに声をかけると、電車に乗り込んだ。周囲が暗い中、電灯に照らされた車内は幻想的に見える。
再び動き出した電車の窓越しに、春子が二人に手を振った。千鶴たちも手を振りながら見送ったが、電車が行ってしまうと、忠之は千鶴を振り返った。
「いや、ええ物を拝ませてもろたわい。世の中がこがぁになるとは思いもせんかった」
もう電車が走り始めて何年にもなるが、未だにそれを知らなかったという忠之を、千鶴は気の毒に思った。
「佐伯さん、松山においでませんか? うち、もっと佐伯さんとお話がしたいんです」
忠之は少し思案するような仕草を見せ、にこりと笑った。
「おらには決められんことぞな。おら、定めに従うぎりじゃけん」
「定め?」
忠之はそれ以上は何も言わず、千鶴を人力車に乗せた。
四
「えっと、札ノ辻がここじゃけん、紙屋町いうんはこの筋かな」
忠之は千鶴に教えてもらった紙屋町を確かめるように、その町筋を眺めた。
「ほうです。この筋が紙屋町ぞなもし」
千鶴が答えると、忠之は紙屋町の通りに入って行った。
この通りはそれほど長くはない。大して喋る暇もないままに、千鶴の実家である山﨑機織にすぐに着いた。
「山﨑機織。ここが千鶴さんの家なんか」
もう閉まった店の看板を見上げて、忠之は言った。
紙屋町通りにも街灯はあるが、街灯から離れると薄暗い。山﨑機織の看板は読みづらいと思うのだが、それが見えるというのは、やはり夜目が利くのだろう。
千鶴は降りたくなかったが、降りるしかない。
「だんだんありがとうございました」
千鶴は礼を述べると、人力車を降りようとした。すると、忠之は千鶴が降りるのを手伝って、また手を握ってくれた。その手の温もりは千鶴の体に伝わり、千鶴は忠之に抱きしめられているような錯覚を覚えた。
「今日は千鶴さんにお会いできて、ほの上、話までできて、おら、まっこと嬉しかった。千鶴さん、これからもいろいろあるじゃろけんど、めげたりせんで、しっかりと前を向いて生きるんで」
千鶴の手を握りながら忠之は言った。千鶴を諭すようなその話し方は、千鶴を想っての言葉に違いない。だが、これでお別れなのだと告げられているようでもあった。
千鶴の胸の中で悲しみが膨らんで来る。それは風寄へ向かう客馬車から、夕日を見た時の悲しみと同じだった。
――嫌じゃ! 行かんといて!
千鶴は心の中で叫んだ。声こそ出ていないが、その叫びは千鶴の目に表れていただろう。
しかし忠之は千鶴から手を離すと、戸が閉まった店を眺めた。その様子は、千鶴の心の叫びが聞こえないふりをしているようだ。
「もう閉まっとるみたいなけんど、千鶴さんはどっから中へ入りんさるんかな?」
忠之の空々しい問いかけに、千鶴は悲しみをこらえながら店の脇を指差した。
「そっちに裏木戸があるんぞなもし」
山﨑機織は四つ辻の角にあり、角を北へ曲がった所に裏木戸がある。裏木戸を確かめた忠之はにこやかに言った。
「ほんじゃあ、おらは去ぬろうわい」
人力車を引きながら、千鶴と一緒に裏木戸の前まで来ると、忠之は改めて千鶴に別れを告げた。
何とか忠之を引き留めたい千鶴は、忠之を呼び止めながら、急いで何を喋るか考えた。
「あの、お代はどがぁしましょう? うち、これしか払えんぞなもし」
千鶴は祖父に持たされた銭の残っていた全部を忠之に渡そうとした。しかし、忠之は千鶴の手をそっと押し戻した。
「お代なんぞいらんぞな。お友だちの方のも、もらうつもりはないけん」
「村上さんの分も?」
「言うたじゃろ? おら、俥ぁ引いたんは今日が初めてなんよ。俥ぁも衣装も全部借り物ぞな」
「え? どげなこと?」
「みぃんな祭りに出ておらなんだけんな。悪いとは思たけんど、ちぃと拝借させてもろたんよ。ほじゃけん、急いで戻んて元通りにしとかんと、あとで厄介なことになるんよ」
忠之は笑っているが、それは忠之が自分で言うようにまずいことである。
「なして、そげなこと」
「ほやかて千鶴さんは松山へ戻るおつもりじゃったろ? ほんでも、祭りん時は馬車は動かんし、自動車も出てしもたろけん」
「やけん言うて、こがぁなことをうちのために……」
「おらにでけるんは、これぎりのことじゃけん。ほんでも、千鶴さんのお役に立てたんなら、おら、なーんも言うことないぞな」
千鶴の目から涙があふれた。自分なんかのためにここまでしてくれる人が、どこにいるだろう。別れたロシアの娘と自分を重ねて見ていたとしても、あまりの優しさだ。
千鶴の涙を見て慌てる忠之に、千鶴は涙を拭いてもう一度感謝した。
「もう一つぎり教えておくんなもし。昨日の日暮らめに奇妙なことがあったんですけんど――」
そこに誰ぞおるんか?――と、裏木戸の向こうから怒ったような声が聞こえた。
「ほんじゃあ、おら、去ぬるけん」
忠之は潜めた声で言うと、がらがらと人力車を引いて行った。入れ替わるように裏木戸が開くと、中から祖父の甚右衛門が仏頂面をのぞかせた。
「何じゃい、千鶴か。今、戻んたんか。がいに遅かったやないか」
うろたえた千鶴はしどろもどろに返答した。それから遠ざかる人力車を気にしつつ、遅くなったことを祖父に詫びた。
千鶴の言葉を聞きながら、甚右衛門は去って行く人力車を訝しげに眺めた。
「ひょっとして、あれに乗って戻んたんか?」
「は、はい」
千鶴は下を向きながら答えた。
「銭はどがぁしたんぞ? あげな物に乗るほどは持たせなんだはずやが」
少しだけ顔を上げた千鶴は恐る恐る言った。
「あの、ただぞなもし」
「ただ? あれに、どっから乗って来たんぞな?」
「北城町ぞなもし」
「北城町? 風寄のか?」
千鶴はうなずいた。暗くてよく見えないが、祖父は眉をひそめたようだ。
「あがぁな所から力車に乗って、ただ言うことはなかろがな」
「ほれが、ただなんぞなもし。あの車夫のお人はまっこと親切なお方で、松山へ戻る馬車も自動車ものうて、うちらが困りよる時に力車を出してくんさったんぞなもし。あげなお人は、どこっちゃおりません」
祖父に忠之のことをよく見てもらいたい一心で、千鶴の舌はよく回った。いつもであれば、祖父を相手にこんなには喋らない。
千鶴の喋る勢いに少々押されながら、甚右衛門は怪訝そうに言った。
「ほれが、なしてただなんぞ?」
「うち、男の人らに襲われて、ほん時――」
何ぃ?――と甚右衛門は凄い声を出した。
「襲われたて、誰に襲われたんぞ?」
「誰て……、そげなことはわからんぞなもし」
まさか春子の従兄だとは、口が裂けても言えなかった。もちろん春子にも内緒である。だが、男に襲われるのはお前が油断したからだと、怒鳴られるに決まっていた。だから千鶴は先に頭を下げて、すんませんと謝った。
「うち、お祭りん時、居場所がのうて、ほんで、人がおらん所へ行ったら――」
「そこで襲われた言うんかな」
千鶴は黙ってこくりとうなずいた。
不思議なことに祖父は怒鳴らなかった。ただ黙って沈黙しているが、それは何だか妙な感じだった。
暗がりの中、甚右衛門は右手で顔を撫でると、馬鹿にしくさってと悪態をついた。恐らく風寄の人たちに対してのものだろう。
千鶴は慌てて、他の人たちはいい人たちだったと説明した。すると、そこへ番頭の辰蔵が顔を出した。
「旦那さん、どがいしんさったんぞなもし?」
辰蔵は千鶴に気がつくと、おやと言った。
「何や、千鶴さんかなもし。今、お戻りたかな」
千鶴が辰蔵に挨拶をすると、甚右衛門は辰蔵に先に戻るよう言った。辰蔵がいなくなると、甚右衛門は千鶴に訊ねた。
「言いぬくいなら言わいでもええけんど、お前、連中に、その……」
自分の方が言いにくそうな祖父に、千鶴はさらりと答えた。
「何もされとらんぞなもし」
「何も? ほやけど、襲われたんじゃろがな?」
「ほなけんど、ほん時にさっきのお人が現れて、うちを助けてくんさったんぞなもし」
「相手は何人ぞ?」
千鶴は右手の指を四本立てて言った。
「四人ぞなもし。ほれも体の大けな人ぎりじゃった」
「四人! そげな四人を相手に一人で立ち回った言うんかな」
「あのお人はまっこと強いお人でね。あっと言う間に、四人ともやっつけてしもたんよ。ほれで、うちらのことをここまで運んでくんさったんよ」
忠之の話になると千鶴は興奮して、祖父への口調がつい馴れ馴れしくなってしまった。
喋り終わってから、そのことに気づいた千鶴は、すぐにぺこりを頭を下げて、すんませんでしたと言った。
甚右衛門は千鶴の喋り方などまったく気にしていない様子で、ほうじゃったか、無事じゃったか――とつぶやいた。
甚右衛門は忠之が去った方へ体を向けると、両手を合わせて頭を下げた。その姿に千鶴は驚いた。まるで千鶴が助かったことを、心から喜んでくれているみたいだからだ。
祖父は昔から千鶴のことを邪険に扱っていた。
千鶴が小学校でいじめられて泣いて戻っても知らん顔だった。千鶴が町に出かけて嫌な思いをさせられても、やはり他人事のような態度を見せていた。
それなのに今回の祖父は、千鶴の名波村行きを認めてくれたし、千鶴の無事を喜んでくれたようだ。それは千鶴にとって有り難いことではあるが、とても違和感を覚えるものでもあった。
名波村で体験したことや、忠之との出逢いはとても不可思議なことだ。まるで異界に迷い込んでしまったみたいで、今でもすべてのことが信じられない気持ちだ。
松山へ戻って来ると、その異界から日常に抜け出せたような気になったが、いつもと違う祖父の様子を見ると、自分はまだ非日常の中にいるみたいに思えてしまう。夢が覚めたと思ったら、まだ夢の中だったという感じだ。
それは自分ががんごめだという事実を、改めて突きつけられたようでもあった。忠之と一緒にいられたことで和らいでいた不安な気持ちが、再び膨らんで来た。
千鶴がじっと見ていることに気づいた甚右衛門は、世話になった者に感謝するんは当たり前ぞ――と少しうろたえ気味に言った。
それは確かにそうなのだが、やはり何だか妙な感じだ。
今の話はするなと付け足すと、甚右衛門はさっさと裏木戸の中へ入った。
千鶴は見えなくなった忠之の姿を闇の中に追い求めた。しかし早く中へ入るよう促され、あきらめて裏木戸をくぐった。