甚右衛門の思惑
一
甚右衛門が勝手口から家の中に入ると、千鶴もその後ろに続いた。
そこは表に構える店から続く通り土間だ。その名のとおり、通路を兼ねた土間である。
土間の右手には台所があるが、そこには母の幸子と女中の花江がいた。二人は丁稚の亀吉と新吉が抱える箱膳に、飯やら汁やらを載せてやっているところだ。
丁稚たちの脇には辰蔵が立ち、甚右衛門と千鶴が入って来るのを待っている。
千鶴が今戻んた――と甚右衛門が言うと、その後ろから顔を出した千鶴も、みんなに恐る恐る声をかけた。
「ただいま戻んたぞなもし」
途端に、振り返った幸子たちの顔に笑みが浮かんだ。
「お戻りたか。遅かったやないの。心配しよったんよ」
幸子が安心したように言った。
続けて花江も、お帰んなさい――と言い、亀吉と新吉も嬉しそうに千鶴に挨拶をした。
台所の向かいには小さな板の間の部屋がある。いろいろ作業をするのに使っているが、今は使用人の食事場所だ。
板の間には手代の茂七と弥七がいたが、二人とも顔を出して千鶴に声をかけた。
「まあ、ご無事でお戻りんさって、よかったよかった」
辰蔵はほっとした様子でつぶやくと、板の間に上がって自分の箱膳が置かれた場所に腰を下ろした。
辰蔵は三十を過ぎているが独り身だ。強面でがっしりした体つきをしているけれど、情の厚い男で千鶴にも優しい。今回も千鶴の戻りが遅いのを心配してくれていたようだ。
板の間の手前には茶の間がある。そこは家族の食事場所だ。上座に甚右衛門の箱膳が置かれ、その右斜めに祖母のトミが座っている。千鶴と幸子の箱膳は祖母と向かい合うように、上座の左側に並べられている。
「あんたな、今、何時やと思とるんね?」
使用人たちと違い、祖母は千鶴をいきなり叱った。
すんません――と千鶴は小さくなりながら頭を下げた。
「今日は男衆が先に銭湯に行ったけん、こがぁしてまだ食べよるけんど、ほんまなら疾うに食べ終わっとる時刻じゃけんね!」
千鶴がもう一度頭を下げると、先に部屋に上がった甚右衛門が、もうええ――と言って腰を下ろした。
「ほら、何しよんぞ。早よ上がって飯にせんかな。ほんで、向こうの祭りがどがいじゃったか報告せぇ」
祖父に急かされた千鶴は、また頭を下げると母と花江を見た。
「すぐに行くけん、先におあがり」
幸子に促され、千鶴は二人にも頭を下げた。
「あたしもここで土産話を聞かせてもらうよ」
花江は楽しげに千鶴に声をかけたあと、千鶴と一緒に食事をするよう幸子に言った。
「ここはあたし一人で大丈夫だからさ。幸子さんは千鶴ちゃんの隣にいてやんなよ」
ほんでも――と幸子は遠慮したが、花江はいいからいいからと言って、幸子を千鶴と一緒に茶の間へ上がらせた。
箱膳の前に座ると、千鶴はまず祖父母に向かって手を突き、こんな時期に一泊の旅に行かせてもらった礼を述べた。
「取り敢えず食え。話はほれからで構ん」
甚右衛門が素っ気なく言うと、千鶴は母と一緒に、いただきますと手を合わせた。箱膳に載せられているのは、麦飯に味噌汁、焼いたイワシに漬物だ。
一通り箸をつけたあと、千鶴は箸を置いて祭りの話を始めた。
まず話したのは、火事騒ぎのように賑やかで、かつ優雅なだんじりについてだ。それから、静かで不思議な神輿の渡御や、神社の石段から神輿を投げ落として壊す話などを喋った。
いつもであれば隣の板の間からぼそぼそと声が聞こえるのだが、今はしんと静まり返っている。使用人たちも千鶴の話に耳を傾けているらしい。
片づけが終わった花江も板の間には上がらないで、台所に立ったまま千鶴の話を聞いている。
甚右衛門は表情を変えずに聞いているので、自分は祖父にどう思われているのかと、千鶴は喋りながら不安な気持ちがあった。
一方、初めは不機嫌そうな顔をしていたトミは、箸の手を止めて千鶴の話に聞き入っていた。
神輿を壊す話を聞くと、どうして神輿を壊すのかと、トミは訝しげに訊ねた。
神さまには一度使った物は使えないため、古い物を壊して新しい物を作るという、向こうで聞かされた理由を千鶴は説明した。
甚右衛門はなるほどとうなずいた。だがトミは顔をしかめ、もったいないことをすると、納得が行かない様子だった。
千鶴は隣に座る母に顔を向けると、昨夜は法生寺に泊めてもらったと話し、和尚夫婦の想いを伝えた。
驚いた幸子は一瞬嬉しそうな顔になった。だが、すぐに笑みを消し、ちらりと甚右衛門やトミを見遣ってから、どうして法生寺に泊まったのかと、その理由を訊ねた。
夜這いを避けるためと千鶴が話すと、ほうなんかと幸子はうなずいた。だが、目は甚右衛門とトミを気にしているようだった。
法生寺は身籠もった母が家を飛び出して世話になった所である。本当のところはそんな寺の話など、祖父母は聞きたくなかっただろう。
甚右衛門は何も言わなかったが、トミは眉間に皺を寄せ、ほじゃけんな――と言った。
「うちはこの子を向こうへ行かせることに反対やったんよ。だいたいな、女子が一人で他所の祭り見に行くやなんて有り得んで。しかも、こがぁな時期に思いつきでそげなことをするけん、ほんな危ない目に遭うんぞな」
トミの言葉は千鶴を責めながら、許可を出した甚右衛門に文句を言っているようにも聞こえた。
甚右衛門は平然とした顔で、いずれにせよ――と言った。
「夜這いはかけられなんだわけよ。無事に戻んて来たんじゃけん、よしとしよわい。ほれより、千鶴。向こうでは絣の話はなかったんか? うちは風寄からも絣を仕入れとるんぞ」
千鶴は名波村の女たちから伊予絣を作る苦労話を聞かされたことや、自分の家が山﨑機織であるとわかった時に頭を下げられたことなどを話した。
甚右衛門はようやく笑みを見せると、ほうかほうかと満足げにうなずいた。
「ほれで、お前はどがぁしたんぞ?」
「うちもみなさんに頭下げました。あの方たちの日頃のご苦労を聞かせてもろて、ずっと心の中で頭を下げよりました」
うむと甚右衛門は大きくうなずいた。
「お前もこの家の者である以上、商いの品がどげな風にこさえられとるんかを、己で確かめておく必要があるけんな。ほじゃけん、名波村行きは急な話じゃったが、ちょうどええと思たわけよ」
え?――と千鶴は祖父を見返した。トミも幸子も驚いたように、甚右衛門の顔を見つめている。
祖父にそんな思惑があったとは、千鶴は思いもしなかった。
「ほうやったんですか。そがぁな気ぃを遣ていただき、ありがとうございます」
千鶴は箸を置くと、甚右衛門に向かって手を突いた。そうして頭を下げながら、師範になる自分に絣が作られる所を確かめさせるというのは、どういうことだろうと考えていた。
二
「千鶴さん、ほうしょうじて、お寺?」
板の間と茶の間は襖で仕切られている。その襖の端がある土間側の柱の陰から、新吉がひょっこり顔を出していた。
新吉は声を潜めたつもりのようだが、離れた千鶴に聞こえるのだから、当然甚右衛門やトミにも聞こえている。
新吉はこの春に尋常小学校を出て丁稚になったばかりだ。ここでの仕事にもだいぶ慣れては来たようだが、まだまだ幼い感じが抜けきれず、つい子供っぽいことをしてしまう。
甚右衛門がじろりと見たが、新吉は気がつかない。
甚右衛門が何も言わないので、これ――とトミが叱った。だがそれと同時に、新吉の後ろから伸びた手が、ぽかりと新吉の頭を叩いた。
「痛っ! 何するんぞ」
新吉が頭を引っ込めて文句を言うと、襖の向こうから亀吉の声が聞こえた。
「何やなかろが。千鶴さんの話に勝手に交ざんな。お前は黙って聞きよったらええんじゃ」
亀吉は新吉より二つ年上で、店のことをよく知っている。そのため、まだ幼さが残る新吉の世話係を任されていた。
「新吉、亀吉の言うとおりぞな。己の立場をわきまえんかな」
これは辰蔵の声だ。
しょんぼり項垂れる新吉の姿が、千鶴の目に浮かんだ。
新吉さん――と千鶴が声をかけると、トミが千鶴をにらんだ。しかし甚右衛門が黙っているので、千鶴はもう一度新吉を呼んだ。すると悲しそうな顔の新吉が、またひょっこりと現れた。
「新吉さん、法生寺いうんはな、名波村にあるお寺なんよ。うちのお友だちが子供の頃によう遊んだお寺でね。うちらはそこへ泊めてもろたんよ」
千鶴が丁寧に説明してやると、新吉は少し機嫌がよくなったみたいだった。
後ろから亀吉が、さっさとこっちへ来いと言ったようだが、新吉はそれを無視して千鶴に訊ねた。
「お寺、怖なかったん?」
「全然、怖なかったぞな」
千鶴が微笑んで答えると、新吉は調子が出たらしい。声が明るくなった。
「お化けは出なんだん?」
千鶴は笑いながら、出んかった――と言った。
「じゃあ、鬼は? 鬼も出なんだん?」
千鶴は返事ができなかった。自分はがんごめだったことを思い出したのだ。
「どがいした?」
甚右衛門が怪訝そうに声をかけた。隣の幸子も心配そうに大丈夫かと言った。
千鶴は慌てて笑みを繕うと、新吉に言った。
「鬼は出たぞな」
「ほんま? ほんまに出たん?」
新吉は興奮したように目を丸くした。その顔の上に、もう一つの顔が現れた。亀吉だ。
「千鶴さん、ほんまに鬼出たん?」
やはり興奮した様子の亀吉に千鶴はうなずいて、神輿の先を歩く大魔の話をしてやった。ただ、それが鬼に扮した人間であることは黙っていた。
亀吉と新吉は驚いた拍子にどたどたっと土間に落ちた。
トミは呆れて声も出ない様子だったが、甚右衛門は笑い出した。怖いはずの甚右衛門が笑ったので、トミも苦笑した。
「まったく、あんたたちはまだまだ子供だねぇ」
花江が笑いながら、二人を助け起こした。
千鶴も母と一緒に笑ったが、心の中では笑っていなかった。自分ががんごめであることがみんなに知れたらと思って、不安でいっぱいになっていた。
花江を手伝うようにして、辰蔵が新吉たちを板の間に引っ張り上げた。それから辰蔵は襖の柱越しに千鶴に顔を向けた。
「千鶴さん、だいば言うんは、御神輿の露払い役かなもし?」
はいと千鶴がうなずくと、自分の生まれ故郷の祭りでも、大魔と呼ばれる鬼が神輿の露払いをすると、辰蔵は話してくれた。
「えぇ? 番頭さん、ほれはほんまなん?」
新吉の声だ。
辰蔵は甚右衛門や千鶴たちに頭を下げると、襖の向こうに引っ込んだ。しかし襖越しに辰蔵の話が聞こえて来る。
「あたしん所はな、大魔の他にも、神輿と一緒に大勢が行列を組んで練り歩くんよ。神楽の舞姫もおるし、相撲の力士もおるし、槍持ちもおってな、宮司さんは馬に乗っておいでるんよ」
へぇと驚く声には新吉たちだけでなく、手代たちも入っている。
花江は甚右衛門たちに頭を下げると、板の間に姿を消して話に加わった。板の間は祭りの話で大盛り上がりだ。
いつもならば喋るにしても、声を潜めて甚右衛門やトミに気を遣うところだ。しかし、今はみんなが話に夢中になっているようで、遠慮のない話し声が聞こえて来る。
それをトミは苦虫を噛み潰したような顔で聞いていたが、甚右衛門は怒る様子もない。ここのところずっとみんなが暗い雰囲気だったので、久しぶりに耳にした楽しげな声が心地いいようだ。また、板の間が賑やかなのが好都合とばかりに、甚右衛門は小声で千鶴に言った。
「千鶴、ほんまは寺で何ぞあったんやないんか?」
「え? な、何もないぞなもし」
千鶴がうろたえると、何かを隠しているのではないかと、トミも疑いの目を向けた。
「あんた、向こうで嫌な目に遭うたんやなかろね?」
母にも訊かれて追い詰められた千鶴は、とにかく笑顔でごまかした。それにしても、今日の祖父母は妙である。
普段は祖父も祖母もこんなに話しかけたりはしない。それが今日はよく喋るし、気遣ってくれているような気さえする。
――ひょっとして……鬼?
千鶴は全身がざわついた。
風寄へ行くことになったのは鬼に呼ばれたからだとすれば、祖父が風寄行きの許可を出したのは、鬼に操られていたと考えられる。
きっとそうだと千鶴は思った。そうでなければ師範になるはずの自分に、絣が作られている所を確かめさせたかったなどと、取って付けたようなことを祖父が言うはずがない。
「ほんまに、何もないぞなもし」
千鶴は強張りそうな顔に笑みを見せ、漬物を口に放り込んだ。口を動かしていないと顔が固まりそうだ。
幸子が場を取り繕うように、甚右衛門に言った。
「ところで、お父さん。さっき裏で大けな声を出しんさったんは、何ぞあったんですか?」
甚右衛門は少しうろたえた様子で、何でもないと言った。
何でもないのに大きな声を出すわけがない。しかし家長が何でもないと言うのを、他の家族が追求することはできない。
甚右衛門が説明しないのは、千鶴が風寄で男に襲われたという話をすると、またトミに文句を言われると思ったからだろう。今もトミは疑わしげな顔で甚右衛門を見ている。
幸子が代わりの答えを求めて千鶴に目を向けた。しかし、余計なことは言うなと千鶴は甚右衛門から釘を刺されている。忠之の活躍を喋りたい気持ちはあるが、やはり祖父には逆らえない。それで千鶴は話を変えようと祖父に訊ねた。
「話違うけんど、なしておじいちゃんはご飯時やったのに、さっきはあげな所においでたんぞなもし?」
祖父が裏木戸まで様子を見に来たことを、千鶴は今になって不思議に思った。
声が聞こえて様子を見るのであれば、手代の誰かを来させただろう。食事が始まったばかりなのに、手水へ出て来るというのも妙である。
返答に困っているのか、甚右衛門は無視したように黙っている。すると、トミが怒ったように言った。
「あんたの戻りが遅いけん、心配しよったんじゃろがね」
「え? うちを心配してくれたん……ですか?」
千鶴が驚くと、今度はトミがうろたえたように口籠もった。甚右衛門は黙ったまま味噌汁をすすっている。
千鶴は母を見たが、母も祖父たちの様子を妙だと感じていたようだ。
それでも、これまで千鶴に無頓着だった二人が、千鶴を心配してくれたというのがよかったのだろう。もう余計なことは言うなと、幸子は嬉しげな目で伝えて来た。
だが、やはり千鶴は気になった。祖父母が自分を心配してくれるなど、これまで一度もなかったことだ。
これは絶対に鬼の仕業に違いない。そう思った千鶴は気分が悪くなった。
三
「何か、おじいちゃんもおばあちゃんも妙な感じぞな」
銭湯へ向かいながら千鶴は言った。一緒に歩いているのは幸子と花江だ。トミが銭湯へ行くのはいつも千鶴たちとは別の日なので、ここにはトミはいない。
「確かに、ちぃといつもとは違うみたいじゃね」
幸子がうなずくと、もしかしたら――と花江が言った。
「旦那さん、千鶴ちゃんにお婿さんをもらって、お店を継がせるおつもりなのかもしれないよ」
「え? うちにお婿さん?」
千鶴が思わず花江を見ると、そうさと花江は大きくうなずいた。
「千鶴ちゃんにお店を継がせようと思ったから、商いのことを千鶴ちゃんに教えようとしたんだよ」
「ほやかて、うちは女子師範学校に通いよるんよ? あの学校かておじいちゃんが行け言うたけん行きよるんやし。ほれやのに、うちに店継がせるておかしない?」
「きっと気が変わったんだよ。二人とも千鶴ちゃんを大事に思ってるみたいだからさ。師範になるより、お店を継がせる方がいいと思ったんだよ」
そんなことはあるはずがない。穢れた孫娘に大切な店を譲るわけがないのである。それでも、もしそうなのだとしたら、やはり鬼が祖父母を操っているに違いない。
「お母さん、どがぁ思う?」
千鶴は母を振り返った。幸子も花江の話は信じられないようだ。
「ほんまじゃったら千鶴やのうて、うちが婿取りせんといかんとこなけんど、うちはもう若ないし、千鶴じゃったら子供産めるて考えんさったんかもしれんねぇ」
単に若さや子供を産むことだけを考えるなら、そういうこともあるだろう。しかし、祖父母はロシアを憎んでいた。そのロシアの血が流れる孫娘を店の跡継ぎにするはずがないのだ。
母の幸子には正清という兄がいた。千鶴にとっては伯父だ。
山﨑機織はこの正清が継ぐことになっていた。だが正清は日露戦争で兵隊に召集され、戦場で命を落とした。これが甚右衛門やトミが未だにロシアを憎む理由だ。
幸子には孝平という弟もいた。
当時、孝平は他の伊予絣問屋で丁稚として働いていたが、正清亡きあと、甚右衛門は孝平を跡継ぎにと考えた。しかし、孝平は手代に昇格する前に、奉公先を逃げ出して姿を眩ましてしまった。
仕方なく甚右衛門は幸子に婿を取ろうとしたが、いい相手が見つからなかった。それで今日に至るまで、山﨑機織は跡継ぎが決まらないままになっていた。
幸子の婿が見つからなかったのは、千鶴が原因だった。つまり、ロシア兵の子供を産んだということが問題だったのである。
敵国の兵士の子供を産むなど、世間からすればとんでもないことだ。
千鶴を身籠もったことが知れた時、幸子は世間から白い目で見られ、警察からも事情聴取を受けることになった。また、山﨑機織の評判も落ちたと言う。
甚右衛門は子供を堕ろすよう幸子に迫ったが、幸子はそれを拒んで家を飛び出した。そこで偶然知念和尚に出会ったのだが、それが幸子が法生寺で世話になった経緯だ。
風寄で家の恥が広まることを恐れた甚右衛門は、子供を産むことを許して幸子を家に呼び戻した。そうして千鶴が生まれたのだが、やはり幸子や千鶴に向けられた世間の目は冷たかった。
今でこそ千鶴たちを受け入れてくれる人は増えて来たものの、未だに見下している者も少なくない。そんな中で、千鶴の新たな父親となることを望む者など、現れるはずがなかった。
だからと言って、問題の原因である千鶴に跡継ぎの話が出るわけがない。祖父母は幸子に千鶴を産むことは許しても、千鶴に心を許さなかった。
千鶴は祖父母に抱いてもらったり、遊んでもらったりした記憶がない。覚えているのは、いつも二人が不機嫌そうで、ちょっとしたことですぐに怒られたことだけだ。
普段、千鶴は気にしないようにしているが、自分が望まれて産まれたのではないという想いが、いつも心のどこかにある。これまで耐えて来られたのは、母ががんばっていたのと、辰蔵たち使用人が優しく接してくれていたからだ。
女子師範学校へ行かせてもらっていることも、小学校教師として自立して暮らすことが、期待されているのだと受け止めていた。そうすれば、実質的に山﨑機織との縁が切れるからである。そんな自分に祖父母が店を継がせるわけがない。
百歩譲って、仮に祖父母が自分に婿を取るつもりがあったとしても、自分なんかを望む者などいない。それは祖父母だってわかっているはずだ。
花江が言うこともわからなくはないが、やはり今日の祖父母は妙である。いや、名波村行きを許してくれた昨日からおかしいのだ。
祖父母は鬼に操られており、鬼の指示で自分に婿を取らせようとしている。そう考えれば、祖父母の矛盾は合点が行く。だが、それは千鶴を絶望的な気持ちにさせた。
その婿は鬼に決まっており、千鶴は鬼の妻となって、鬼の子供を産むのである。そうして鬼はこっそり人の世に紛れて暮らし、自分たちの子孫を増やして行くつもりなのだ。
地獄の夢を見た時に、千鶴には鬼を愛しく想う気持ちがあった。それは事実ではあるが、今はそんな気持ちはまったくない。いくら自分ががんごめで鬼と夫婦になるのが定めであったとしても、それは受け入れ難いことである。それでも、きっとそうなるのだろう。
千鶴は目の前が真っ暗になった。
四
「どがいした? 大丈夫か?」
黙り込んでいる千鶴の顔を、幸子がのぞき込んだ。
「ん? 何でもない」
千鶴は笑顔を装ったが、幸子は心配そうだ。
「おじいちゃんが決めんさったことに、うちらは逆らえんけんな。ほんでも、ほうは言うてもなぁ……」
幸子は最後までははっきり言わなかった。
仮に祖父が千鶴に婿を見つけようとしても、見つかるはずがないと言いたかったのだろう。しかし、そう言ってしまうと千鶴が傷つくと思ったのに違いない。
だが、これは鬼が祖父母を陰で操っての話である。婿はきっと見つかるはずだ。
「心配なんかいらないよ。きっといい人が千鶴ちゃんのお婿さんになってくれるよ」
何も知らない花江が能天気に言った。
「そげなこと……」
千鶴が顔を曇らせると、花江は励ますように明るい声で言った。
「だって千鶴ちゃん、可愛いからさ。そりゃあ、偏見を持ってる人たちは、千鶴ちゃんのこと悪く見るだろうけど、そんなのはこっちから願い下げだよ。偏見を持たないで、千鶴ちゃんのこと真っ直ぐ見てくれる人だったらね、絶対に千鶴ちゃんのこと大事にしてくれるし、お店だって上手くやってくれるよ」
千鶴が黙っていると、花江は立ち止まって千鶴をじっと見た。
「千鶴ちゃん、自分に自信がないって言うより、お婿さんの話に乗り気じゃないみたいだね」
心の中を見通されているようで、千鶴は慌てて答えた。
「ほやかて、うち、小学校の先生になるつもりでおったけん、急にそげなこと言われたかて困るぞな」
「まぁ、それはそうだよね。でもさ、悪い話じゃないとあたしは思うよ。あとで、ゆっくり考えてみたらいいよ」
花江に言われると、千鶴は言い返せなかった。
花江は千鶴より五つ年上で、元は東京の太物問屋の娘だった。その太物問屋は山﨑機織とも取引があった。
花江は一人娘だったので、婿をもらって店を引き継ぐことになっていたと言う。ところが先月初めに東京を襲った大地震で、花江は家も店も家族もすべてを失った。
東京に営業に出ていた山﨑機織の手代も、この地震で命を落とした。それで辰蔵が苦労して東京を訪ねたのだが、その時に花江を見つけて甚右衛門に連絡し、先に松山へ来させたのである。それは今から一月ほど前のことだ。
天涯孤独の身になった花江を、甚右衛門は女中として雇った。
この話が出た時、取引先の跡取り娘を女中として雇うことに、甚右衛門は気が引けたようだった。だが、花江自身が女中になると言うので話は決まった。
とは言え、元取引先の娘である。甚右衛門もトミも花江に対して気遣いを見せた。しかし、花江はただの女中として扱われることを望み、とにかく懸命に働いた。千鶴に対しても、初めて会った時から明るく優しく接してくれた。千鶴にとって花江は姉のように思える人だった。
山﨑機織で働くようになってから、それほど経っていないのに、今では花江は昔からいるみたいに、ここでの暮らしにすっかり馴染んでいる。それでも一人でいる時に花江が陰で泣いているのを、千鶴は知っている。
花江にすれば、親が取りなしてくれる婿取りの話は、とても有り難いことだと受け止めているに違いなかった。そんな花江が悪い話じゃないと言うのを、千鶴が否定できるはずがなかった。
銭湯の脱衣場で着物を脱いだ時、千鶴の胸元からしおれた花がぽとりと落ちた。千鶴は慌てて拾ったが、花江は見逃さなかった。
「それは花だね? 何でそんな物を胸に仕舞ってるんだい?」
「これはね、えっと……、きれいじゃったけん、摘んで来たんよ」
動揺を隠したつもりだが、花江は目を細めて千鶴を見つめた。
「本当に自分で摘んだのかい?」
「ほ、ほんまやし」
口をすぼめながら花を胸に抱くと、花江は笑った。
「千鶴ちゃんって、ほんと、わかりやすい娘だね。嘘ついたって、すぐにわかっちまうよ」
「ほんまは誰ぞにもろたんか?」
幸子が少し嬉しそうに訊ねた。千鶴は答えずに下を向いた。
風寄で男に襲われたことは黙っているようにと、祖父から言われている。それが言えなければ、忠之との出逢いを説明できない。
だが千鶴が黙っていたのは、本当は気恥ずかしかったからだ。誰かに心が惹かれていることを知られたくなかったのである。忠之のことを喋りたかったはずなのだが、今は喋るのが恥ずかしい気がしている。
それに、がんごめが人間の男と一緒になれるはずがない。だめなのがわかっている人のことを口にするのは空しかった。
それでも花江も幸子も、千鶴の心に何があったのかを理解したようだった。
「そうか。なるほどね。そういうことなんだね」
花江がにやにやしながら言うと、幸子も楽しげに言った。
「その人とはお祭りで知り合うたん?」
千鶴は返事をしなかった。しかし、返事をしないのは肯定しているのと同じ意味になるらしい。
どんな人なのかと交互に問われ、優しくて強い人だと千鶴は喋ってしまった。
幸子と花江は顔を見交わすと、自分のことのように喜んだ。
二人はもっと詳しい話を求めたが、どうせ一緒にはなれないからと千鶴は話を拒んだ。それで幸子たちもそれ以上訊くのをやめた。二人とも千鶴が話さない理由を、婿取りの話と考えたようだった。
五
千鶴たちが銭湯から戻ると、トミが台所の板の間で亀吉と新吉に漢字を教えていた。
板の間の奥には、甚右衛門とトミの寝間がある。閉められた襖の向こうから、甚右衛門の鼾が聞こえて来る。
辰蔵や手代たちは二階の部屋へ引き上げたようだが、まだ眠ってはいないらしい。板の間と帳場の間にある階段の上から、ひそひそ喋る声が聞こえている。
亀吉と新吉はあくびを噛み殺しながら、トミに言われた漢字を何度も繰り返して半紙に書いている。本当はさっさと寝たいだろうが、これも丁稚たちの仕事である。
トミは丁稚たちに生きて行くのに必要なことを、昔からこんな風に教えて来た。指導する言葉はきついが、その姿は孫に読み書き算盤を教える優しい祖母のようにも見える。
そのようなことをしてもらったことがない千鶴は、トミが丁稚たちに何かを教える姿を見るたびに悲しい気持ちになった。今もまたそんな気持ちが湧き上がって来るようだ。
千鶴たちが声をかけると、トミは亀吉たちに二階へ上がるように言った。二人は千鶴たちに頭を下げると、習字道具を片づけて階段を上がって行った。
「さぁ、ほしたら繕い物をしようかね」
着物の破れを縫ったり、新しい着物を作ったりするのは女の仕事だ。特に育ち盛りの亀吉や新吉は、次の年には前の年の着物が合わなくなる。
また木綿の太物と違って絹の呉服は、洗う時に一度糸を解いてばらばらにする。洗ったあとは、乾かしてからまた縫い直して元に戻すという手間がいる。
男たちが床に就いたあとでも、女たちはちくちくと針仕事をしたり、洗った着物にアイロン掛けをしたりと忙しい。
幸子は板の間と茶の間を仕切る襖を開けた。
茶の間の隅には縫い物が置かれてある。千鶴と幸子は縫い物を取ると、自分たちの場所に座って縫い始めた。
トミも板の間から茶の間に移り、同じように縫い物を始めた。
花江は七輪に残っていた炭火をアイロンに入れると、板の間の隅に畳まれていた洗濯物に、アイロンをかけ始めた。
誰も一言も喋らないで、黙々と手を動かしている。こうしていると、風寄の祭りを見に行ったことが嘘のようだ。
だが懐にはあの花がある。花はすべてが事実である証だ。風寄へ行ったのは本当のことで、あの人と出逢ったのも夢じゃないよと、花が胸の中で囁いている。
縫い物をする時には、針に集中しなければならない。だが、千鶴はつい忠之のことを考えてしまう。
忠之が自分に親切にしてくれるのは、忠之が好きだったロシアの娘を自分に重ねているからだと、千鶴は受け止めていた。
それでもあそこまで親切にしてくれたのは、単に自分があの人の知る娘に似ているからではないと、今はそう思っていた。それは忠之の心が夫婦約束をした娘ではなく、自分に向けられているということだ。
一方で、愚かなことを考えるなと戒める自分がいた。
あの人は別れた娘を重ねて見ているに過ぎず、山﨑千鶴を見ているわけではないと、戒める自分が主張する。
それに対して忠之に惹かれる自分は、たとえそうだとしても別れた娘はもういないのであり、あの人の気持ちは自分だけのものだと反論した。
あの人の着物だって、新しいのを自分がこうしてこさえてあげるんだと気負うと、がんごめのくせに!――と戒める自分が言った。
「痛っ!」
指先を針でちくりと突いてしまい、千鶴は思わず声を上げた。涙で視野が滲んでしまい、針先がよく見えなくなっていた。
いつもであれば、何をやっているのかと祖母に冷たい視線を向けられるところだ。ところが、今日の祖母は違っていた。
手の甲で涙を拭った千鶴に、トミは言った。
「千鶴、今日はもうええ。あんたは疲れとろけん、もう寝なさいや。明日は学校じゃろ?」
思いがけない祖母の言葉に、千鶴は戸惑った。
これまでは疲れていようと翌日学校があろうと、そんなことには関係なく、祖母は仕事をさせていた。
ましてや、今回は一人だけ特別に風寄の祭り見物へ行かせてもらったのである。その分、しっかり仕事をしろと言うのが当たり前だった。それなのに疲れているから寝ろというのは、普段の祖母では考えられないことだ。これは絶対におかしい。
やはり祖母も鬼に操られている。千鶴はそう確信した。
「ほんじゃあ、お先に上がらせてもらいます」
千鶴は自分の縫い物を片づけると、トミや母たちに頭を下げた。それから手燭に火をもらうと、茶の間から離れの部屋へ向かう渡り廊下に出た。
廊下の脇の奥庭は真っ暗だ。塀の向こうには街灯の光が届いているが、塀のこちら側には届かない。手燭を差し出すと、暗い奥庭がぼんやり照らされる。蔵の脇にある裏木戸も仄かに見える。
千鶴は闇の中の裏木戸を眺めながら、その向こうに忠之がいたことを思い出していた。
あれから一刻近くになると思うが、今も裏木戸の向こうに忠之がいるような気がする。あの扉の向こうで、人力車を引く忠之がこちらを見つめているようだ。
忠之の少し寂しげな優しい笑顔が思い浮かぶと、千鶴は胸が潰れそうになるほど切なくなった。
今日出逢ったばかりなのに、ここまで心が惹かれるのは、やはり自分とあの人の間に深い縁があるからだと千鶴は思った。そうでなければ、あの温もりは説明ができない。また、ここまで優しくしてくれるのは、あの人も同じ温もりを感じていたからだろう。
あの人は代官の息子の生まれ変わりに違いない。そう、あの若侍こそがあの人の前世だ。だから法正寺で倒れていた時、無意識にあの人を感じて、若侍の夢を見たのだ。
興奮を覚えた千鶴は、あの人が自分にそっくりな娘に心惹かれたのは、自分を捜し求めていたからだと考えた。つまり、千鶴がその娘に似ていたのではなく、その娘の方が千鶴に似ていたということだ。
しかし、千鶴の興奮はすぐに冷めた。どんなに惹かれ合っていても、がんごめが人間の男と一緒になることはできないのである。
千鶴が見た前世と思われる光景では、攘夷侍たちと戦う若侍の姿があったが、そこには鬼はいなかった。ヨネの父親が見たという鬼は、若侍が死んだあとに現れたのだろう。
きっと千鶴と若侍を引き離すため、鬼は若侍が死ぬのを待っていたのだ。千鶴が人間の男と一緒になることを、鬼は許さなかったのに違いない。
がんごめの相手は鬼に決まっており、それを邪魔立てする者は死ぬのである。前世では攘夷侍が利用されたが、次は鬼が直接手を下すかもしれない。あのイノシシのように。
仮に鬼の手を逃れて二人が夫婦になれたとしても、千鶴には鬼の本性がある。その本性が現れたなら、そこには絶望的な悲劇しかない。
結局、どれほど惹かれ合ったとしても、二人が結ばれることはないし、結ばれてはいけないのである。
千鶴は肩を落として涙ぐんだ。
黙って拝借した人力車で千鶴を松山まで運んでくれるほど、忠之は千鶴のことを想ってくれている。だがそれ以上は、敢えて千鶴と関わりを持たないようにしているみたいだ。夫婦約束までした娘を手放さざるを得なくなったという経験が、そうさせているのかもしれない。けれども、それが二人のためなのだと千鶴は自分に言い聞かせた。
空の人力車を引きながら、風寄へ戻る忠之の姿が目に浮かぶ。その姿はどんどん遠く、どんどん小さくなって行く。呼んでも声は届かない。これが二人の運命だと言わんばかりに、忠之が寂しげに去って行く。
実際、千鶴が風寄へ行くことはもうないだろう。忠之が松山へ出て来ることもない。二人が再び出逢うことはないのである。しかし、これでいい。これでいいのだ。
千鶴は項垂れてしゃがむと、声を殺して泣いた。