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甚右衛門の思惑


     一

 甚右衛門じんえもんが勝手口から家に入ると、千鶴ちづもその後ろに続いた。そこは表に構える店から続く通り土間だ。茶の間の電灯に照らされた家の中は、外とは別の空間のようだ。
 土間の右手にある台所に、母のさちと女中のはながいた。二人はでっ亀吉かめきち新吉しんきちが抱える箱膳はこぜんに、飯やら汁やらを載せてやっているところだ。いつもならうに食事は終わっているのに、今日はこれから夕飯ゆうめしのようだ。
「千鶴が今んた」
 甚右衛門が声をかけたあと、後ろから顔を出した千鶴も恐る恐るみんなに挨拶をした。
「ただいまんたぞなもし」
 辰蔵たつぞうから話は聞いていただろうに、千鶴の顔を見るとみんなの顔に笑みが広がった。
「お戻りたか。遅かったやないの。心配しよったんよ」
 幸子があんした様子で言った。
 続けて花江も、お帰んなさいと言い、亀吉と新吉もうれしそうに千鶴に挨拶をした。
 台所の向かいには石油ランプがつるされた小さな板の間の部屋がある。いろいろ作業をするのに使っているが、今は使用人の食事場所だ。
 板の間にはだいしちしちがいたが、二人とも顔を出して千鶴に声をかけた。
「まあ、ご無事でお戻りんさって、よかったよかった」
 丁稚たちの脇に立っていた辰蔵は、ほっとしたようにつぶやくと、板の間に上がって自分の箱膳が置かれた場所に腰を下ろした。
 辰蔵は三十を過ぎているが独り身だ。強面こわもてでがっしりした体つきをしているけれど、情の厚い男で千鶴にも優しい。今回も千鶴の戻りが遅いのを心配してくれたようだ。
 板の間の手前にある茶の間は家族の食事場所だ。板の間とは障子しょうじで仕切られている。上座には甚右衛門の箱膳が置かれ、その右斜めに祖母のトミが座っている。千鶴と幸子の箱膳は祖母と向かい合った上座の左側に並べられている。
「あんたな、今、何時なんどきやと思とるんね?」
 使用人たちと違い、祖母は千鶴をいきなりしかった。すんませんと千鶴は小さくなりながら頭を下げた。
「今日は男衆おとこしが先に銭湯に行ったけん、こがぁしてまだ食べよるけんど、ほんまならうに食べ終わっとる時刻じゃけんね!」
 千鶴がもう一度頭を下げると、先に部屋に上がった甚右衛門が、もうええと言って上座に座った。
「ほら、なんしよんぞ。よ上がって飯にせんかな。ほんで、向こうの祭りがどがいじゃったか報告せぇ」
 祖父にかされた千鶴は、また頭を下げると母と花江を見た。
「すぐに行くけん、先におあがり」
 幸子にうながされ、千鶴は二人にも頭を下げた。
「あたしもここで土産みやげ話を聞かせてもらうよ」
 花江は楽しげに千鶴に声をかけたあと、幸子に言った。
「ここはあたし一人で大丈夫だからさ。幸子さんは千鶴ちゃんの隣にいてやんなよ」
 ほんでもと幸子は遠慮したが、花江はいいからいいからと言って、幸子を千鶴と一緒に茶の間へ上がらせた。
 箱膳の前に座ると、千鶴はまず祖父母に向かって手を突き、こんな時期に一泊の旅に行かせてもらった礼を述べた。
「取りえず食え。話はほれからでかまん」
 甚右衛門が素っ気なく言うと、千鶴は母と一緒に、いただきますと手を合わせた。箱膳に載せられているのは、麦飯に味噌みそしる、焼いたいわしに漬物だ。
 いつもと同じ食事の風景だが、千鶴は自分一人がこの部屋の中で浮いているような気がしている。自分だけがここのすべてと異質みたいな感じだ。

 一通り箸をつけたあと、千鶴は箸を置いて祭りの話を始めた。
 まず話したのは、火事騒ぎみたいににぎやかで、かつ優雅なだんじりについてだ。幸子はへぇと感心したが、甚右衛門とトミは黙って食事を続けた。しかし、静かで不思議な輿こしぎょの話には関心を持ったのか、二人は箸の手を止めて話を聞いていた。
 そのあとは神輿の投げ落としの話だ。千鶴は神輿の投げ落としを見ることができなかったが、見たことにして説明をした。
「こっちのお神輿みたいにぶつけ合ったりせんし、夜の静かなお神輿の渡御を見とるけん、ここのお祭りは荒っぽいことはせんのやて思いよったんよ。ほしたら最後にお神輿を投げ落としてめがすんじゃけん、まっことびっくりしたぞなもし」
「お神輿を投げ落とす? ほんまにそがぁなことするんかな?」
 甚右衛門が話に応じてくれたので、千鶴は驚いた。普段の甚右衛門は千鶴が何かをしゃべっても聞いていない素振りを見せるか、気のない言葉を投げかけるだけだ。
 壊れるまで何度も投げ落とすと千鶴が話すと、トミも話に食いついた。
「お神輿て神さまの乗りもんじゃろ? ほれを投げ落としてめがすやなんて信じられん。なしてかぜよせの人らは、そがぁなばち当たりなことをするんね?」
 トミも千鶴といろいろ喋ることなどめっにしない。それがこんな風に言葉を返されたので、千鶴は驚きつつも少し嬉しい気がした。
「向こうの人は、神さまにはいっぺん使つこもんは使えんて思ておいでるんぞなもし。ほやけん、使い終わった物は壊して、翌年にまた新しい物をこさえんさるんぞなもし」
 千鶴の話に甚右衛門はなるほどとうなずいた。しかしトミは顔をしかめ、もったいないことをすると納得がいかない様子だった。
 いつもであれば隣の板の間からぼそぼそと声が聞こえるのだが、今はしんと静まり返っている。使用人たちも千鶴の話に耳を傾けているらしい。片づけが終わった花江も板の間には上がらないで、台所に立ったまま千鶴の話を聞いていた。
 千鶴は隣に座る母に顔を向けると、昨夜は法生寺ほうしょうじに泊めてもらったと話し、和尚夫婦の想いを伝えた。
 幸子は驚き喜んだがすぐに笑みを消し、ちらりと甚右衛門やトミを見ってから、どうして法生寺に泊まったのかと、その理由をたずねた。
 夜這よばいを避けるためと千鶴が話すと、ほうなんかと幸子はうなずいた。だが、目は甚右衛門とトミを気にしていた。
 法生寺はもった母が家を飛び出して世話になった所だ。本当のところはそんな寺の話など、祖父母は聞きたくなかっただろう。
 甚右衛門は何も言わなかったが、トミはけんしわを寄せ、ほじゃけんなと言った。
「うちはこの子を向こうへ行かせるんは反対やったんよ。知らん男がうじゃうじゃおるとこに外からおなが入ったら、ほら夜這いをかけられてしまわい。そげなことは考えたらわかろうがな。だいたいな、女子が一人で他所よその祭り見に行くやなんて有り得んで。しかも、こがぁな時期に思いつきでそげなことをするけん、ほんな危ない目にうんぞな」
 トミの言葉は千鶴を責めながらも、聞きようによっては心配していたとも取れる。千鶴は少し違和感を覚えたが、トミの目が甚右衛門に向けられているところを見ると、トミは風寄行きの許可を出した甚右衛門に文句を言っているみたいでもあった。
 甚右衛門は平然とした顔で、いずれにせよと言った。
「夜這いをかけられず無事にんて来たんじゃけん、よしとしよわい。ほれより、千鶴。向こうではかすりの話はなかったんか? うちは風寄からも絣を仕入れとるんぞ」
 ありましたと答えた千鶴は、波村なみむらの女たちから伊予いよがすりを作る苦労話を聞かされたことや、自分の家が山﨑機織やまさききしょくだとわかった時に頭を下げられたことなどを話した。
 甚右衛門はようやく笑みを見せると、ほうかほうかと満足げにうなずいた。
「ほれで、おまいはどがぁしたんぞ?」
「うちもみなさんに頭下げました。あの方たちの日頃のご苦労を聞かせてもろて、ずっと心の中で頭を下げよりました」
 うむと甚右衛門は大きくうなずいた。
「おまいもこの家のもんである以上、商いの品がどげな風にこさえられとるんかを、己で確かめておく必要があるけんな。ほじゃけん、名波村行きは急な話じゃったが、ちょうどええと思たわけよ」
 え?――と千鶴は祖父を見返した。祖父にそんな思惑があったとは思いもしなかった。トミも幸子も驚いた顔で甚右衛門を見つめている。
「ほうやったんですか。そがぁなぃをつこていただきありがとうございます」
 千鶴は箸を置くと、甚右衛門に向かって手を突いた。そうして頭を下げながら、はんになる自分に絣が作られる所を確かめさせるとは、どういうことだろうと考えていた。

     二

 板の間と茶の間を仕切った障子しょうじが少し動いて、土間側の柱と障子の間に隙間ができた。その隙間から新吉が茶の間をのぞいて千鶴に声をかけた。
「千鶴さん、ほうしょうじて、お寺?」
 新吉はこの春にじんじょう小学校を出てでっになったばかりだ。ここでの仕事にもだいぶ慣れたみたいだが、まだまだ幼い感じが抜けきれず、つい子供っぽいことをしてしまう。
 新吉は声を潜めたつもりらしいが、離れた千鶴に聞こえるのだから、当然甚右衛門やトミにも聞こえている。甚右衛門がじろりと見たが、新吉は気がつかない。
 障子の向こうで辰蔵が注意すると、いたっ!――と叫んで新吉は引っ込んだ。
「痛いやないか。何するんぞ!」
「何やなかろが。千鶴さんの話に勝手に交ざんな。おまいは黙って聞きよったらええんじゃ。勝手に障子開けたら失礼なろが!」
 新吉をしかる亀吉の声が聞こえた。新吉は亀吉に頭をたたかれたようだ。
 亀吉は新吉より二つ年上で、店のことをよく知っている。そのため、まだ幼さが残る新吉の世話係を任されていた。
「新吉、亀吉の言うとおりぞな。己の立場をわきまえんかな」
 辰蔵にも叱られ、新吉はしょんぼりうなれているに違いない。
「新吉さん」
 千鶴が声をかけると、トミが千鶴をにらんだ。しかし甚右衛門が黙っているので、千鶴はもう一度新吉を呼んだ。すると悲しげな顔の新吉が、また障子の隙間から現れた。
「新吉さん、法生寺ほうしょうじいうんはな、波村なみむらにあるお寺なんよ。うちのお友だちが子供の頃によう遊んだお寺でね。うちらはそこへ泊めてもろたんよ」
 千鶴が丁寧に説明してやると、新吉は少し機嫌がよくなった。後ろから亀吉が、さっさとこっちへ来いと言ったが、新吉は無視して千鶴にたずねた。
「お寺、こわなかったん?」
「全然、こわなかったぞな」
 千鶴が微笑んで答えると、新吉は調子が出たらしい。声が明るくなった。
「お化けは出なんだん?」
 千鶴は笑いながら、出んかったと言った。
「じゃあ、がんごは? 鬼も出なんだん?」
 千鶴は返事ができなかった。自分は鬼娘がんごめだったと思い出したのだ。
「どがいした?」
 甚右衛門がげんな顔をした。隣の幸子も心配そうに大丈夫かと言った。
 千鶴は慌てて笑みを繕うと、がんごは出たんよと真面目な顔で新吉に言った。
「ほんま? ほんまに出たん?」
 興奮して目を丸くした新吉の顔が消えると、代わりに違う顔が現れた。亀吉だ。新吉は亀吉に押しのけられたらしい。
「千鶴さん、ほんまにがんご出たん?」
 やはり興奮している亀吉に千鶴はうなずいた。新吉が自分の場所を取り戻そうと、無理やり亀吉の下に入って千鶴に顔を見せた。押し合う二人の体が柱の外側にはみ出している。
「これ、亀吉、新吉! 障子が破れる!」
 辰蔵が叱っても、亀吉たちは障子の隙間から離れない。二人の様子は千鶴をなごませ笑わせた。
 甚右衛門は怒らないし、トミもあきれるばかりだったので、千鶴はだいの話をしてやった。大魔が鬼にふんした人間だとは言わず、神に仕える鬼が山から下りて来て、輿こしの通り道を清めていたと話すと、亀吉たちはとても驚いた。
 亀吉たちの近くにいた花江が鬼の真似をして、うぉーと声を出すと二人はびっくりしてどたどたっと土間に落ちた。花江は思わず笑ったあとで、甚右衛門たちに気まずそうに頭を下げた。トミは呆れた様子だったが、甚右衛門は笑った。それでトミも苦笑し、千鶴も母と一緒に笑った。
「まったく、あんたたちはまだまだ子供だねぇ」
 花江がまた笑いながら亀吉を助け起こすと、茂七と弥七が二人を板の間に引き上げた。
 障子を閉めに来た辰蔵は、逆に少し障子を開けて千鶴に声をかけた。
「千鶴さん、だいばいうんは輿こし露払つゆはらい役かなもし?」
 はいと千鶴がうなずくと、自分の生まれ故郷の祭りでも、だいと呼ばれる鬼が神輿の露払いをすると、辰蔵は話してくれた。
「えぇ? 番頭ばんとうさん、ほれはほんまなん?」
 新吉の声だ。辰蔵は甚右衛門や千鶴たちに頭を下げると障子を閉めた。しかし障子越しに辰蔵の話が聞こえてくる。
「あたしんとこはな、大魔の他にも神輿と一緒に大勢が行列を組んで練り歩くんよ。かぐ舞姫まいひめもおるし、相撲の力士もおるし、やり持ちもおってな、ぐうさんは馬に乗っておいでるんよ」
 へぇと驚く声には新吉たちだけでなく、だいたちも入っている。
 花江は甚右衛門たちに頭を下げると、板の間に姿を消して話に加わった。板の間は祭りの話で大盛り上がりだ。
 いつもならばしゃべるにしても、声を潜めて甚右衛門やトミに気をつかうところだ。でも、今はみんなが話に夢中になっていて、遠慮のない話し声が聞こえてくる。
 その声をトミは苦虫をみ潰したみたいな顔で聞いていたが、甚右衛門は怒る様子もない。ここのところずっとみんなが暗い雰囲気だったので、久しぶりに耳にした楽しげな声が心地いいようだ。

「千鶴、ほんまは寺でなんぞあったんやないんか?」
 板の間がにぎやかなのが好都合とばかりに、甚右衛門は小声で千鶴に言った。先ほどの千鶴の様子を見ていているのだろう。
「え? な、なんもないぞなもし」
 千鶴がうろたえると、何かを隠しているのではないかと、トミも疑いの目を向けた。
なんか怪しいねぇ。あんた、うそ言うとるんやないんか?」
「ほ、ほんまになんもないですけん」
 千鶴の慌てぶりを見て、幸子までもが眉根を寄せた。
「あんた、向こうで嫌な目にうたんやなかろね?」
 追い詰められた千鶴は、とにかく笑顔でごまかした。それにしても、今日の祖父母は妙である。普段は祖父も祖母もこんなに話しかけたりはしない。なのに今日はよく喋るし、づかってくれているような気さえする。
 ――ひょっとして……がんご
 千鶴は全身がざわついた。
 風寄かぜよせへ行くことになったのは、大雨で祭りの予定が一日ずれたからだが、その大雨を降らせたのは鬼だと千鶴は考えていた。
 だけど、日程がずれただけでは祭りへは行けなかった。行けたのは祖父の許しがあったからだ。本来は絶対にないはずの許しが得られたのは、やはり鬼の力が働いたと思われる。きっと祖父は鬼に操られているのだ。
 じょはん学校に通っている自分に、かすりが作られている所を確かめさせたかったなどと、祖父は取って付けたみたいなことを言った。それは鬼の意向で無理に許可を出したからだろう。祖母も何だかいつもと違うのは、祖母も鬼に支配されているということか。
「ほんまに、なんもないぞなもし」
 千鶴は執拗しつようただしてくる祖父母にこわりそうな笑みを見せて、漬物を口に放り込んだ。口を動かしていないと顔が固まってしまいそうだった。

 幸子は息を一つ吐くと、場を取り繕うように甚右衛門に言った。
「ところで、お父さん。さっき裏でおおけな声を出しんさったんは、なんぞあったんですか?」
 甚右衛門は少しうろたえ気味に、なんでもないと言った。だが、なんでもないのに大きな声を出すわけがない。甚右衛門が説明しないのは、千鶴が風寄で男に襲われた話をすれば、またトミに文句を言われるからだろう。今もトミは疑わしげな顔を向けている。
 幸子が代わりの答えを求めて千鶴を見た。けれど、余計なことは言うなと千鶴は甚右衛門からくぎを刺されている。忠之ただゆきの活躍を喋りたい気持ちはあるが、祖父には逆らえない。
 千鶴は話を変えようと祖父に訊ねた。
「話違うけんど、なしておじいちゃんはご飯時やったのに、さっきはあげなとこおいでたんぞなもし?」
 祖父がうら木戸きどまで来たことを、千鶴は今になって不思議に思った。
 声が聞こえたから確かめるのであれば、手代の誰かを来させただろう。手水ちょうずへ出て来たにしても、食事が始まるところだったのだ。行くならもっと早く行っている。
 返答に困っているのか、甚右衛門は無視するがごとくに黙っている。すると、トミが顔をしかめて言った。
「あんたの戻りが遅いけん、心配しよったんじゃろがね」
「え? うちを心配してくれたん……ですか?」
 千鶴が驚くと、今度はトミがうろたえて口もった。甚右衛門は黙ったまま味噌みそしるをすすっている。千鶴は母を見たが、母も祖父たちの様子を妙だと感じていたらしい。
 それでも、これまで千鶴に無頓着むとんちゃくだった二人が、千鶴を心配してくれたのがよかったみたいだ。もう黙っていなさいと、幸子はうれしげな目で伝えてきた。だが千鶴は気になった。祖父母が自分を心配してくれるなど、これまで一度もなかったことだ。
 これは絶対に鬼のわざに違いない。千鶴は気分が悪くなった。

     三

なんか、おじいちゃんもおばあちゃんも妙な感じぞな」
 銭湯へ向かいながら千鶴は言った。一緒に歩いているのは幸子と花江だ。トミが銭湯へ行くのはいつも千鶴たちとは別の日なので、ここにはトミはいない。
「確かに、ちぃといつもとは違うみたいじゃね」
 幸子がうなずくと、もしかしたらと花江が言った。
だんさん、千鶴ちゃんにお婿さんをもらって、お店を継がせるおつもりかも」
「え? うちにお婿さん?」
 千鶴が思わず花江を見ると、そうさと花江は大きくうなずいた。
「千鶴ちゃんに継がせたくなったから、商いを教えようとしたんだよ」
「ほやかて、うちはじょはん学校に通いよるんよ? あの学校かておじいちゃんが行けいうたけん行きよるんやし。ほれやのに、うちに店継がせるておかしない?」
「きっと気が変わったんだよ。二人とも千鶴ちゃんを師範にさせるより、お店を継がせる方がいいと思ったんだよ」
 そんなことは有り得ない。だけど花江の言うとおりなら、やはり祖父母は鬼に操られているのだろう。
「お母さん、どがぁ思う?」
 千鶴は母を振り返った。幸子も花江の話は信じられないようだが否定はしなかった
「ほんまじゃったら千鶴やのうて、うちが婿取りせんといかんとこなけんど、うちはもうわこないし、千鶴じゃったら子供産めるて考えんさったんかもしれんねぇ」
 若さや子供を産むことだけをいうのなら、そうかもしれないが、祖父母はロシアを憎んでいる。そのロシアの血が流れる孫娘を店の跡継ぎにするはずがないのだ。

 幸子には正清まさきよという兄がいた。千鶴にとっては伯父だ。
 山﨑機織やまさききしょくはこの正清が継ぐことになっていた。だが正清はにち戦争で兵隊に召集され、戦場で命を落とした。これが甚右衛門やトミが未だにロシアを憎む理由だ。
 幸子は孝平こうへいという弟もいた。
 当時、孝平は他の伊予いよがすり問屋ででっとして働いていた。正清亡きあと、甚右衛門は孝平が一人前のだいになったら跡継ぎにしようと考えた。ところが孝平は手代に昇格する前に、奉公ほうこう先を逃げ出して姿をくらましてしまった。
 仕方なく甚右衛門は幸子に婿を取ろうとしたが、いい相手が見つからなかった。それは千鶴が原因だ。つまり、ロシア兵の子供を産んだことが問題だった。
 敵兵の子供を産むなど、世間からすればとんでもない話だ。千鶴をもったことが知れた時、幸子は周囲から白い目で見られ、警察からも事情聴取を受けた。また、山﨑機織の評判も落ちたという。
 甚右衛門は子供をろせと幸子に迫った。幸子はそれを拒んで家を飛び出し、偶然ねん和尚と出会った。これが幸子が法生寺ほうしょうじで世話になった経緯いきさつだ。
 風寄かぜよせで家の恥が広まるのを恐れた甚右衛門は、子供を産むことを許して幸子を家に呼び戻した。そうして千鶴が生まれたのだが、やはり幸子や千鶴に向けられた世間の目は冷たかった。
 今でこそ千鶴たちを受け入れてくれる人は増えてきたものの、未だに見下している者も少なくない。そんな中で、千鶴の新たな父親になろうとする者などいない。だからといって、問題の原因である千鶴に婿の話が出るわけがなく、跡継ぎなど有り得ないのだ。

 祖父母は幸子が千鶴を産むのは許しても、千鶴に心を許さなかった。
 千鶴は祖父母に抱いてもらったり、遊んでもらったりした記憶がない。覚えているのは、いつも二人が不機嫌そうで、ちょっとしたことですぐに怒られたことだけだ。
 普段、千鶴は気にしないようにしているが、自分は望まれて産まれたのではないという想いが、いつも心のどこかにある。これまで耐えてこられたのは、母ががんばっていたのと、辰蔵たち使用人が優しく接してくれていたからだ。
 女子師範学校へ行かせてもらっているのも、小学校教師として自立して暮らすことが、期待されているのだと受け止めていた。そうすれば、実質的に山﨑機織との縁が切れる。それが祖父母の望みなのだ。そんな二人がうとましい孫娘に店を譲るなど、どう考えたってあるはずがない。
 百歩譲って、仮に祖父母が婿を取るつもりがあったとしても、自分なんかを望む者などいない。花江が言うこともわからなくはないが、やはり跡継ぎの話は無理がある。
 ただ、今の祖父母は鬼に操られている。鬼が千鶴を妻にするつもりであれば、祖父母が千鶴に婿を取ろうとしても矛盾はない。婿取りは二人の考えではなく、鬼の意志なのだ。そう考えると、千鶴は花江の言葉が本当であるような気がしてきた。
 当然、その婿は鬼に決まっている。だから千鶴が相手であっても、婿はすぐに見つかるだろう。千鶴は表向きは店を継ぎながら、鬼の妻として生きるのだ。鬼は山﨑機織を隠れ蓑にして、仲間を増やしていくのである。
 地獄の夢を見た時に、千鶴には鬼をいとしく想う気持ちがあった。だが今はそんな気持ちはまったくない。いくら自分が鬼娘がんごめで鬼と夫婦になるのが定めであったとしても、そんなことは受け入れられない。それでもきっと定めどおりになり、やがて鬼の本性が出て来て本物の鬼娘になるのだろう。
 千鶴は目の前が真っ暗になった。

     四

「どがいした? 大丈夫か?」
 黙り込んでいる千鶴の顔を、幸子がのぞき込んだ。
「ん? なんでもない」
 千鶴は笑顔を装ったが、幸子は心配そうだ。
「おじいちゃんが決めんさったことに、うちらは逆らえんけんな。ほんでも、ほうはいうてもなぁ……」
 幸子は最後までははっきり言わなかった。千鶴に婿が見つかるわけがないと言いたかったのだろうか。でも、それでは千鶴が傷つくと思ったに違いない。
「心配なんかいらないよ。きっといい人が千鶴ちゃんのお婿さんになってくれるよ」
 何も知らない花江が能天のうてんに言った。
「そげなこと……」
 千鶴が顔を曇らせると、花江は励ますような明るい声で言った。
「だって千鶴ちゃん、可愛いからさ。そりゃあ、偏見を持ってる人たちは、千鶴ちゃんのこと悪く見るだろうけど、そんなのはこっちから願い下げだよ。偏見を持たないで、千鶴ちゃんを真っぐ見てくれる人だったら、絶対に千鶴ちゃんを大事にしてくれるし、お店だってうまくやってくれるよ」
 千鶴が黙っていると、花江は立ち止まって千鶴をじっと見た。
「千鶴ちゃん、自分に自信がないっていうより、お婿さんの話に乗り気じゃないみたいだね」
 心の中を見通されているようで、千鶴は慌てて答えた。
「ほやかて、うち、小学校の先生になるつもりでおったけん、急にそげなこと言われたかて困らい」
「まぁ、そりゃそうだよね。でもさ、悪い話じゃないとあたしは思うよ。あとで、ゆっくり考えてみたらいいよ」
 花江に言われると、千鶴は言い返せなかった。

 花江は千鶴より五つ年上で、元はとうきょう太物ふともの問屋の娘だ。その太物問屋は山﨑機織やまさききしょくとも取引があった。
 花江は一人娘だったので、婿をもらって店を引き継ぐことになっていたという。ところが先月初めに東京を襲った大地震で、花江は家も店も家族もすべてを失った。
 東京に営業に出ていた山﨑機織の手代も、この地震で命を落とした。それで辰蔵が苦労して東京を訪ねたのだが、その時に花江を見つけて甚右衛門に連絡し、先に松山まつやまへ来させたのである。今から一月ひとつきほど前のことだ。
 天涯孤独の身になった花江を、甚右衛門は女中として雇った。とはいえ、花江は元取引先の娘だ。甚右衛門もトミも花江に対してづかいを見せた。しかし、花江はただの女中として扱われることを望み、とにかく懸命に働いた。
 山﨑機織で働き始めてからさほど経っていないのに、今では花江は昔からいるみたいに、ここでの暮らしにすっかり馴染なじんでいる。千鶴に対しても、初めて会った時から明るく優しく接してくれた。千鶴にとって花江は姉のように慕える人だ。けれど、一人でいる時に花江が陰で泣いているのを、千鶴は知っている。
 花江にすれば、親が取りなしてくれる婿取りの話は、とても有り難いことなのだ。そんな花江が悪い話じゃないと言うのを、千鶴が否定できるはずがなかった。

 銭湯の脱衣場で着物を脱いだ時、千鶴の胸元からしおれた花がぽとりと落ちた。千鶴は慌てて拾ったが、花江は見逃さなかった。
「それは花だね? なんでそんな物を胸に仕舞ってるんだい?」
「これはね、えっと……、きれいじゃったけん、摘んで来たんよ」
 動揺を隠したつもりだったが、花江は目を細めて千鶴を見つめた。
「本当に自分で摘んだのかい?」
「ほ、ほんまやし」
 口をすぼめながら花を胸に抱くと、花江は笑った。
「千鶴ちゃんって、ほんとわかりやすいだね。うそついたって、すぐにわかっちまう」
「ほんまは誰ぞにもろたんか?」
 幸子が少しうれしそうにたずねた。千鶴は答えずに下を向いた。
 風寄かぜよせで男に襲われたことは黙っているようにと、祖父から言われている。だから、忠之との出いを説明できない。
 だけど千鶴が話さなかったのは、本当は気恥ずかしかったからだ。誰かに心がかれていると知られたくなかった。あれほど忠之の話がしたかったのに、今はしゃべるのがなんだか恥ずかしい。それに、鬼娘がんごめが人間の男と一緒になれるわけがない。だめなのがわかっている人の話をするのは空しかった。
 それでも花江も幸子も千鶴の心に何があったのかを理解したらしい。
「ふーん。なるほどね。そういうことか」
 花江がにやにやしながら言うと、幸子も楽しげに言った。
「その人とはお祭りで知りうたん?」
 千鶴は返事をしなかった。しかし黙っているのは、肯定しているのと同じ意味になる。どんな人なのかと交互に問われ、優しくて強い人だと千鶴は喋ってしまった。
 幸子と花江は顔を見交わすと、我が事のように喜んだ。
 二人はもっとくわしい話を求めたが、どうせ一緒にはなれないからと千鶴は話を拒んだ。幸子も花江も千鶴が話さない理由わけを、婿取りの話だと考えたに違いない。それでも、二人はずっとにこにこしたままだった。

     五

 千鶴たちが銭湯から戻ると、トミが台所の板の間で亀吉と新吉に漢字を教えていた。
 板の間の奥には、甚右衛門とトミの寝間ねまがある。閉められたふすまの向こうから、甚右衛門のいびきが聞こえてくる。
 辰蔵やだいたちは二階の部屋へ引き上げたみたいだが、まだ眠ってはいないらしい。板の間と帳場ちょうばの間にある階段の上から、ひそひそしゃべる声が聞こえている。
 亀吉と新吉はあくびをみ殺しながら、トミに言われた漢字を何度も繰り返して半紙に書いている。本当はさっさと寝たいだろうが、これもでったちの仕事だ。
 トミは丁稚たちに生きて行くのに必要なことを、昔からこんな風に教えてきた。
 千鶴も子供の頃に、当時の丁稚に交じっていろいろ教え込まれたが、祖母はきちんとできるまで絶対に許してくれなかった。特に千鶴は丁稚たちよりも厳しくされて、ちゃんとできていても褒めてもらえず、何度もやり直しをさせられた。
 でも、お陰で高等小学校にも上がれたし、じょはん学校にも入ることができた。それを考えれば有難いことだったのだろうが、もう少し優しくしてほしかった想いがある。父親がロシア人でなければ、また違った扱いをしてもらえただろうにと、祖母に教えを受ける丁稚を見るたびに切なくなってしまう。
 千鶴たちが声をかけると、トミは亀吉たちに今日はここまでと言った。二人は千鶴たちに頭を下げると、習字道具を片づけて階段を上がって行った。

「さぁ、ほしたら繕いもんをしようかね」
 トミが疲れた様子で言った。
 着物や足袋たび襦袢じゅばんなどの破れを繕ったり、新しい着物を作ったりするのは女の仕事だ。特に育ち盛りの亀吉や新吉は、次の年には前の年の着物が合わなくなる。涼しくなると着物もひとからあわせになるが、袷を洗うときは裏地をほどいてはずすので、洗い終わったらもう一度縫い合わせる手間がいる。年に一度は布団も解いて洗い、あとで綿を入れて縫い直す。
 男たちがとこいたあとも、女たちはちくちくと針仕事で忙しい。それでもここには女が四人いるからいいが、女が少ない所は大変だ。
 茶の間に上がった幸子は、板の間と仕切る障子しょうじを開けた。茶の間の隅には縫い物や繕い物が裁縫道具と一緒に置かれてある。千鶴と幸子は針や糸と繕い物を取り上げると、それぞれの場所に座って縫い始めた。
 トミが板の間から茶の間に移ると、花江は七輪しちりんに残っていた炭火を火熨斗ひのしに入れ、板の間でまだ縫い合わせていない袷の着物の布のしわを伸ばした。
 誰も一言も喋らないで、黙々と手を動かしている。こうしていると、千鶴には風寄かぜよせの祭りを見に行ったことがうそみたいに思える。だけどふところにはあの花がある。花はすべてが事実であるあかしだ。風寄へ行ったのは本当で、あの人と出ったのも夢じゃないよと、花が胸の中でささやいている。
 縫い物をする時には、針に集中しなければならない。でも、千鶴はつい忠之のことを考えてしまう。
 忠之が親切にしてくれるのは、忠之がれていたロシアの娘を自分に重ねているからだと、千鶴は受け止めていた。けれどあそこまで親切にしてくれたのは、単に自分があの人の知る娘に似ているからではないと、今はそう思っていた。あの人の心は夫婦めおと約束をした娘ではなく、自分に向けられていると信じていた。
 一方で、愚かなことを考えるなと戒める自分がいた。あの人は別れた娘を見ているのであって、山﨑千鶴を見ているわけではないと戒める自分は主張した。
 忠之にかれる自分は、別れた娘はもういないのであり、あの人の気持ちは自分だけのものだと反論した。あの人の着物だって、新しいのを自分がこうしてこさえてあげるんだと気負うと、鬼娘がんごめのくせに!――と戒める自分が言った。

いたっ!」
 指先を針でちくりと突いてしまい、千鶴は思わず声を上げた。涙で視野がにじんでしまい、針先がよく見えなくなっていた。
 いつもであれば、何をやっているのかと祖母に冷たい視線を向けられるところだ。ところが、今日の祖母は違っていた。
 手の甲で涙をぬぐった千鶴に、トミは言った。
「千鶴、今日はもうええ。あんたは疲れとろけん、もう寝なさいや。明日あひたは学校じゃろ?」
 思いがけない祖母の言葉に、千鶴はまどった。
 これまでは疲れていようと翌日学校があろうと、そんなことには関係なく、祖母は仕事をさせていた。ましてや、今回は一人だけ特別に風寄の祭り見物へ行かせてもらったのである。その分、しっかり仕事をしろというのが当たり前だった。なのに疲れているから寝なさいというのは、普段の祖母では考えられないことだ。これは絶対におかしい。
 やはり祖母も鬼に操られている。千鶴はそう確信した。

「ほんじゃあ、お先に上がらせてもらいます」
 落ち着かない気持ちのまま自分の縫い物を片づけると、千鶴はトミや母たちに頭を下げた。それから手燭てしょくに火をもらい、茶の間から離れの部屋へ向かう渡り廊下に出た。
 廊下の脇の奥庭は真っ暗だ。へいの向こうには街灯の光が届いているが、塀のこちら側には届かない。千鶴が手燭を差し出すと、暗い奥庭がぼんやりと照らされた。蔵の脇にあるうら木戸きどほのかに見える。
 千鶴は闇の中の裏木戸を眺めながら、その向こうに忠之がいたことを思い出していた。
 あれから一刻いっとき近くになると思うが、今も裏木戸の向こうに忠之がいるみたいな気がする。あの扉の向こうで、人力車を引く忠之がこちらを見つめているようだ。
 忠之の少し寂しげな優しい笑顔が思い浮かぶと、千鶴は胸が潰れそうになるほど切なくなった。今日出逢ったばかりなのに、ここまで心が惹かれるのは、自分とあの人の間に深い縁があるからだと千鶴は思った。そうでなければ、あのぬくもりは説明ができない。
 だけど、鬼娘の相手は鬼に決まっている。邪魔立てする者は殺されるだろう。あのイノシシのように。
 もしかしたらあの若侍も、悪い侍たちではなく鬼に殺されたのかもしれないと思うと、千鶴は恐ろしくなった。忠之を若侍の二の舞にはしたくなかった。
 それでもあきらめきれない千鶴は、なんとかあの人と逃げられないかと考えた。でも、仮に鬼の手を逃れて二人が夫婦になれたとしても、鬼娘はいずれは鬼の本性を見せるのだ。そこには絶望的な悲劇しかない。結局、どれほど惹かれ合ったとしても、二人が結ばれることはないし、結ばれてはいけないのである。
 千鶴は肩を落として涙ぐんだ。
 黙って拝借した人力車で松山まつやままで運んでくれるほど、忠之は千鶴のことを想ってくれている。けれどもそれ以上は、千鶴との関わりを避けているみたいだ。
 夫婦めおと約束までした娘を手放さざるを得なくなった経験が、恐らくそうさせているに違いない。それは千鶴にはがゆいけれど、あの人は今のままでいるのが二人のためなのだと、千鶴は自分に言い聞かせた。
 からの人力車を引きながら、風寄へ戻る忠之の姿が目に浮かぶ。その姿はどんどん遠く、どんどん小さくなって行く。呼んでも声は届かない。これが二人の定めだと言わんばかりに、忠之が寂しげに去って行く。
 客馬車で夕日を見た時の悲しみがよみがえり、胸が締めつけられた千鶴は、大声で叫びたくなった。千鶴には忠之にあの若侍が重なって見えていた。若侍と同じように野菊の花を飾ってくれた忠之を失いたくなかった。
 けれど千鶴が風寄へ行くことはもうないだろう。忠之が松山へ出て来ることもない。今後二人が再び出逢うことはないのである。それが鬼娘の定めであり、忠之のためでもあるのだ。
 これでいいんだと、千鶴は涙をこぼしながら自分を納得させようとした。それでもこらえきれずうなれてしゃがむと、声を殺して泣いた。