休み明けの学校
一
通学用の袴を着けると、千鶴は茶の間へ挨拶に行った。茶の間では甚右衛門が新聞を読んでいる。
どの家でも新聞を取っているわけではないが、新聞を取っているからといって、朝刊が朝に届くとは限らない。場所によれば、朝刊なのに届くのは夕方近くになってからという所もある。ここは幸い新聞社が近いので、朝早くに朝刊を届けてもらっている。
店のことは使用人たちがしてくれるので、甚右衛門はこの時間はゆっくりしている。その隣では、トミが甚右衛門が飲むお茶を淹れていた。
大地震で東京が壊滅したことで、東京へ多くの伊予絣を送っていた伊予絣問屋は大打撃を受けた。ここ山﨑機織もその一つである。そのため、甚右衛門は東京の復興も含めた日々の記事に目を光らせて、今後の伊予絣業界の行く末を毎日占っていた。
ところが悪い話はあっても、いい話など出て来ない。この日もよくない記事が出ていたのか、甚右衛門の表情は曇っている。こんな時には迂闊に声をかけない方がいいのだが、黙って行くわけにもいかない。
「あの……、行てまいります」
千鶴は恐る恐る声をかけたが、記事に集中しているのか、甚右衛門は新聞に釘づけになったまま返事をしない。代わりにトミが甚右衛門の脇に湯飲みを置きながら、ちらりと千鶴を見て言った。
「行てお戻り。気ぃつけてお行きなさいや」
千鶴はぎょっとした。他の家では当たり前の言葉かもしれないが、祖母の口からこんな気遣いの言葉が出るとは思っていなかった。いつもであれば、しっかり学んで来いとか、遅刻するから早く行けとか、寄り道をするなと一言文句を添えるところだ。
千鶴の視線に気づいたトミは、ややうろたえながら、何ぞな?――と言った。
「いいえ、何も」
千鶴がトミに頭を下げて行こうとすると、甚右衛門はやっと千鶴に気がついた。新聞を下ろすと、よいと呼びかけたが、あとは何かを言いたげにしながら黙っている。
「どがぁしんさった?」
見かねたトミが声をかけると、甚右衛門は千鶴から目を逸らし、何でもないと言った。
千鶴はもう一度甚右衛門に、行てまいりますと声をかけた。あぁと顔を向けた甚右衛門は、やはり何かを気にしているようだ。
不審に思いながらも千鶴は二人に頭を下げ、台所の花江にも声をかけた。花江は明るく、行ってらっしゃいと言い、千鶴に弁当を持たせてくれた。
花江が女中になってから、それまで家事をこなしていた幸子は再び看護婦として働き始めた。今日は早めに来てほしいと病院から言われたので、千鶴より先に家を出ている。
幸子は自分が働くことを家計を助けるためだと言うが、それは甚右衛門が幸子への婿取りをあきらめたということだ。そう考えると、やはり祖父は自分に婿を取るつもりなのかと千鶴には思えてしまう。
丁稚や手代たちが千鶴たちの脇を通り抜けて、あらかじめ用意しておいた大阪へ送り出す品を蔵から運び出している。その邪魔にならないようにしながら、千鶴は通り土間を抜け、暖簾をくぐって帳場に出た。帳場には辰蔵が座り、行てお戻りなとにこやかに千鶴に言った。
表には積み荷を載せる大八車が置かれ、すでに反物の木箱がいくつか積まれていた。そこへ手代の茂七と弥七が新たな木箱を運んで来て、千鶴に声をかけた。年上の茂七は明るく大きな声だが、弥七はおとなしいので声は控えめだ。
東隣の紙屋の者たちに千鶴が朝の挨拶をしていると、送り先を確かめた木箱を大八車に載せた亀吉が、元気に声をかけてくれた。
「千鶴さん、行てお戻り」
続けて出て来た新吉も千鶴に挨拶をした。
朝に店を通り抜けながら、みんなから声をかけて送り出してもらうのは、小学校に通い始めた頃からの習慣だ。女子師範学校の寮に入っていた間は途切れていたが、寮を出てから再開したお馴染みの朝の光景である。
亀吉たちに手を振りながら、行てくるけんねと声をかけ返すと、千鶴は紙屋町の通りを西へ進んだ。
通常、家人は裏木戸から出入りする。しかし千鶴が小学校に入った時、祖父は千鶴に店から表に出るよう命じた。
千鶴が通った尋常小学校は城山の西の麓、師範学校の脇にある。だから裏木戸を出たところで、店の前を通ることには変わりない。けれども店から出て来ると、どうしても目立ってしまうので、千鶴は裏木戸からこっそり出たかった。
だが、祖父は許してくれなかった。堂々と店から表に出て、通学路とは反対側の店の人たちにも、大きな声で挨拶をせよというのが祖父の命令だった。それ以来、千鶴は学校へ行く時には店から表に出ている。
初めの頃は、みんなに見られるのが嫌で仕方がなかった。孫娘を晒し者にする祖父を恨めしく思ったものだ。しかし今となっては慣れっこになったので、紙屋町の人々と顔を合わせることは気にならなくなった。向こうの方も最初はぎこちなかった挨拶が、今では当たり前になっている。
小学校に通っていた頃は、紙屋町の西側の人たちとはあまり顔を合わせることがなかった。だけど女子師範学校へ歩いて通い始めると、そこの人たちとも毎日顔を合わせるようになった。初めは少し緊張したが、向こうも千鶴のことを知らないわけではない。声をかければちゃんと返事をしてくれるので、もう緊張することはなくなった。
でも今は自分は鬼娘だという想いがある。それが千鶴の気持ちを後ろ暗くさせていた。
おはようござんしたとか、行てまいりますなどと、顔を合わせる人たちに挨拶をしながら紙屋町の通りを歩いて行くと、やがて大きな寺に突き当たる。かつて松山を治めていた久松松平家の菩提寺である大林寺だ。
祖父は事あるたびに、紙屋町のこの道は殿さまたちが通った道なのだと、誇らしげに言ったものだ。しかし、千鶴は大林寺に対して別な想いを抱いている。
日露戦争が始まると、捕虜になったロシア兵が大勢日本へ連れて来られた。その捕虜兵たちを収容することになったのが松山で、その一番初めの捕虜収容所となったのが、この大林寺だ。母の話では、父も最初はここへ入れられていたらしい。
普段は千鶴は父のことなど考えないが、この寺の前を通ると、どうしても考えてしまう。だから、いつも足早に通り過ぎていた。
ロシア人の血を引いているがために、千鶴は幼い頃から嫌な想いを強いられてきた。そのため、つらいことばかりなのは全部ロシア人である父のせいだという気持ちが、千鶴の中にはあった。もし父が日本人だったら、こんな苦労などしなかったのにと思うと、顔も知らない父を恨みたくなった。
だが一方で、父に会ってみたい気持ちもあった。
日本でなくロシアで暮らせば差別されないかもしれないと考える時、千鶴は父と暮らしている自分を想像してしまう。
父がどんな顔をしているのかはまったくわからない。それで自分に似た顔を想像し、父と暮らすことを願ったりもした。でも、この日に頭に浮かんだ父はロシア人ではなく、髪の中に角を隠した鬼だ。
顔や姿のように鬼の本性も親から受け継がれるのであれば、少なくとも両親の片方には鬼の血が流れているはずだ。であれば、父親はロシア兵に化けた鬼なのかもしれないのである。
千鶴は大林寺の山門の前で立ち止まった。
大林寺を眺めながら、千鶴はかつてここにいた父を思い浮かべ、あなたは鬼なのかと心の中で父に問いかけた。もし父が鬼であったなら、今の苦しみは父のせいである。ロシア人ということでも苦労させられた上に、今度は鬼だ。もしここに父がいたなら、大喧嘩をしていただろう。
父に腹を立てそうになった千鶴の心に、忠之が話しかけてくる。
――千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人とめぐり逢うて、幸せになるんぞな。
忠之を思い出すだけで、怒りは鎮まり切なくなる。けれどめぐり逢うのは鬼なのだ。
千鶴の懐にはまだあの花が入っている。千鶴は胸に手を当てながら、一緒になりたいのはあの人だと、忠之への想いを確かめた。だが確かめたところで、その願いは叶わない。忠之を想えば想うほど、却って空しい気持ちになるばかりだった。
二
大林寺の前を右に曲がると、左手に阿沼美神社が見えてくる。毎年春子に見せていた祭りの舞台だ。この神社の北端を西へ曲がった所に、伊予鉄道の古町停車場がある。
松山からは多くの伊予絣が県外へ発送されているが、その多くは三津ヶ浜の向こうにある高浜港から、瀬戸内海を渡って本州へ届けられる。
その高浜港まで荷を運ぶのは陸蒸気と呼ばれる蒸気機関車で、古町停車場には紙屋町で扱う伊予絣が集まって来る。これまで県外発送の中心は東京と大阪だった。しかし今は東京は大地震で壊滅状態なので、送られる先は大阪が大半と思われる。
もう少しすれば高浜港へ向かう陸蒸気がやって来る。貨物車に荷物を載せるため、停車場にはすでに何台もの大八車が集まっている。山﨑機織からも直に亀吉たちが荷物を運んで来るだろう。
古町停車場を眺めながらさらに北へ進むと、フワンと音が鳴った。我に返った千鶴が前を見ると、通りの少し先を電車が左前方へ横切り、緩やかな傾斜を上って行った。松山から三津ヶ浜へ向かう電車で、昨日、春子が札ノ辻から乗ったのと同じ電車だ。
家が裕福な級友は通学に電車を利用しているが、千鶴は歩いての通学だ。ただ大雨の時には、千鶴も電車に乗せてもらえる。風寄の祭りの前日も朝からかなりの雨が降ったので、電車で通学させてもらった。だけど少々の雨では乗せてもらえない。
電車の終点は三津ヶ浜だが、陸蒸気も高浜へ行く途中に三津ヶ浜で停まる。どうして三津ヶ浜へ向かう路線が二つもあるのかというと、元は二つは別々の会社が運営していたからだ。
春子が乗った電車の方は、千鶴が尋常小学校に入学した年にできたものだ。陸蒸気の方は母が生まれた頃にできたと聞いている。
詳しい話は知らないが、かつては三津ヶ浜が海の玄関口で、陸蒸気は三津ヶ浜が終点になっていた。ところが、大型の船も利用できる高浜港が三津ヶ浜の向こうに新たに建設され、伊予鉄道がそこまで路線を延長した。これが三津ヶ浜の人たちを怒らせた。
海の玄関口を自認する三津ヶ浜にとって、高浜港に船を取られるのは死活問題だ。猛反発をした三津ヶ浜の人たちは、伊予鉄道に対抗して別の電車を作った。それが春子が乗ったあの電車だ。
松山から東へ三十六町ほどの所に有名な道後温泉があるが、三津ヶ浜の人たちはそこまでの鉄道を作った。伊予鉄道との客の奪い合いは、知らぬ者はいないほどかなり熾烈なものだったらしい。
伊予鉄道は三津ヶ浜と高浜の間に海水浴場を作っていた。これに対抗して、三津ヶ浜の人たちも海水浴場を作り、伊予鉄道にはない遊園地まで作った。
客引き争いでは三津ヶ浜の方に分があったようだが、それは損得を度外視した値引き合戦の結果だった。結局は無理が祟って伊予鉄道との争いに負けてしまい、せっかく作った三津ヶ浜の電車も線路も、すべて伊予鉄道に召し上げられてしまった。千鶴が女子師範学校本科の二年生になった年のことだ。
当時は千鶴は寮にいたので、休みの日に三津ヶ浜の町に出ることがあった。その時の町の人たちが意気消沈していたのは今でも覚えている。自分の家が松山にあるとはとても言い出せない雰囲気が町中に広がっていた。
鉄道会社の争いと同じで、強い者が勝つのが世の常である。そして、自分は弱い者だと千鶴は思った。
世の中は男を中心に動いている。女は男に従うだけだ。ましてや自分は異国の血を引いており、物を言う権利など他の若い娘以上にない。けれど男でも立場が弱ければ、思いどおりにいかないのは同じだ。
忠之が惚れ合った娘との夫婦約束を果たせなかったのは、山陰の者であることが理由と思われる。恐らく娘の家は山陰ではない村にあったのだ。また娘の方も異国の血を引いているがために家族から疎まれて、迎えに来た父親に押しつけられたに違いない。
本人が悪いわけではなくても、生まれが悪いとどうすることもできないのは、男も女も変わらない。こんな理不尽なんかなくなればいいのにと思いながら、千鶴は広い松並木の道へ出た。三津ヶ浜へ向かう三津街道だ。
かつてお城の殿さまが参勤交代をしていた頃、殿さま一行は三津ヶ浜から船で出入りしていた。その時に使われた道がこの三津街道だ。街道と名のつく道はいくつもあるが、殿さまが通った三津街道は、他の街道よりも広くて立派な造りをしている。
千鶴がいる所は三津口と呼ばれるが、三津口から三津ヶ浜までの間には、千三百ほどの松や杉が日よけ目的に植えられている。殿さまがいなくなった今も、千鶴たちみたいに街道を歩く者たちに松や杉は木陰を与えてくれる。この並木がなかったなら、暑い夏場は歩くのが嫌になっていただろう。
街道の周辺は田畑ばかりでとても長閑だ。いつもと同じ穏やかな景色を眺めていると、風寄での体験や家の中の異変などが本当のことだとは思えなくなりそうだ。
少し歩くと、二本の線路が道を横切る。どちらも古町停車場から出たものだ。手前は道後温泉へ向かう電車の線路で、もう一方は陸蒸気が高浜へ向かう線路だ。荷物と乗客を港へ運ぶ陸蒸気が、もうそろそろやって来るはずだ。
二本の線路の間に立って左手に顔を向けると、二つの線路が跨線橋の下をくぐって来ているのがわかる。この橋は三津ヶ浜へ向かう電車のためにあり、先ほどの電車はここを通ったのである。橋の向こうには古町停車場が見えている。
陸蒸気は街道の右を走り、三津ヶ浜へ向かう電車は左を走る。この先、両者は街道に絡み合って走るが、その様子は未だに三津ヶ浜の人たちの怨念が生きているかのようだ。
ただ街道自体は、鉄道会社の争いごとなど関係ないかのごとくのんびりした雰囲気だ。所々で牛車が荷物を運び、千鶴と同じ絣の着物に袴を着けた若い娘たちが三々五々歩いている。いずれも女子師範学校の生徒だが、二年生までは寮なので、歩いているのは三年生か四年生だ。
千鶴たち四年生は四十名弱であり、そのうち松山から通う者は二十五名ほどだ。三年生と合わせると五十名近くになる。みんな千鶴とは家が近いわけでもなく、家を出る時間もまちまちだ。それに四年生の級友たちも春子ほどは親しくない生徒がほとんどだ。だから、学校の行き帰りは千鶴は大概一人だった。
一人で歩く千鶴の頭に浮かぶのは忠之のことばかりだ。切ない気持ちで歩いていると、前方から電車がやって来るのが見えた。ぼんやりその電車を眺めていたら、ピーッと甲高い汽笛が聞こえた。振り返ると、後ろから来た陸蒸気が白い煙をもくもくと吐きながら、千鶴を追い抜いて行った。
陸蒸気の後ろには客車と貨物車がつながれている。山﨑機織の絣が港へ運ばれて行くのだ。やがて電車と陸蒸気はすれ違ったが、その光景はきっと忠之を喜ばせただろう。
そのあと電車は千鶴の脇を通り抜け、陸蒸気はどんどん前方へ遠ざかる。千鶴は陸蒸気を見送りながら、客車に乗る自分と忠之を思い浮かべた。二人で港へ行って、そこから船でどこか遠くへ向かうのだ。そうすれば、鬼からも差別からも逃げられるかもしれない。
だけど千鶴はすぐにため息をついた。逃げたところで自分は鬼娘なのだ。
三
女子師範学校の校舎はモダンな洋風の二階建てだ。
玄関の庇は見晴らし台になっており、その玄関を中心に両翼を広げた形に造られている。両翼の端はどちらも手前に突き出した別棟の建物みたいで、とてもお洒落な外観だ。
毎週月曜日にこの校舎を目にすると、千鶴は今週もがんばろうと引き締まった気持ちになった。しかし、今日はそんな気持ちにはなれなかった。
目に見える光景は同じなのに、先週とは異なる世界にいるような気がする。
他の生徒たちと顔を合わせると、いつもどおりに挨拶を交わす。でも、千鶴には他の生徒たちが自分とは別の生き物に思えてしまう。そんな違和感を覚えながら教室の前まで来ると、中から大きな声が聞こえた。
そっと中へ入ってみると、教室の真ん中で高橋静子が級友たちを集めて喋っている。
春子と同じく、静子は千鶴が寮にいた時の同部屋仲間だ。三津ヶ浜の菓子屋の娘で、少しぷっくらした明るい性格の娘だ。千鶴とも仲がいい。
本当は静子も名波村の祭りに誘われていた。けれど静子は親の許可が下りず、一緒に行くことは敵わなかった。でもそれが普通であり、どの級友たちにしても許されることではない。千鶴だけが特別に認められたのだ。それがわかっているからか、静子は気落ちの様子もなく、両腕を広げながら元気に喋っている。
「ほれがな、これよりもっと大けなイノシシやったそうな。こらもう絶対、山の主で。その山の主がな、いきなし襲て来たんよ」
イノシシと聞いてぎくりとした千鶴は、春子を探した。
春子は静子の近くに座っていた。きっと静子は春子から話を聞いたのだ。ならば、千鶴が春子の家を訪ねたことは、みんな知っているだろう。
千鶴に気がついた静子が、嬉しそうに手招きをした。すると春子の近くにいた級友が、千鶴のために席を空けてくれた。仕方なく千鶴はそこに座ったが、本当はイノシシの話などには交じりたくなかった。
「お戻りたか、山﨑さん。名波村のお祭りは楽しかった?」
静子がにこやかに言った。やはり話が伝わっているらしい。
「お陰さんで楽しませてもろたぞな。だんだんな、村上さん」
千鶴が声をかけると、春子は小さくうなずいて微笑んだ。だけど、その笑みがぎこちない。千鶴は気になったが、静子は構わず言った。
「今な、化け物イノシシの話をしよったんやけんど、山﨑さん、村上さんと一緒にイノシシの死骸見に行ったんやて?」
「そげなもん見とらんよ。うちらが見たんは、イノシシが死んどった場所ぎりぞな」
そんなことまで春子は喋ったのかと思いながら答えると、そがい言うたやんかと春子は静子に口を尖らせた。
何だか春子は不機嫌そうだ。それでも静子はちっとも気に留めていない。ほうじゃったかねと笑うと、さっきの話の続きを喋りだした。
「今の話やけんど、ほら、もうびっくりじゃろ? イノシシはあっちじゃ思て待ち構えよんのに、でっかいのが横から出て来よったんじゃけん。しかも、そんじょそこらのイノシシやないで。男の人が両腕いっぱい広げてもまだ足りん大けなイノシシぞな」
「なぁ、高橋さんは何の話しよるん?」
千鶴は小声で春子に訊ねた。すると春子が答える前に、静子が自慢げに言った。
「あんな、風寄で見つかった化け物イノシシはな、うちの伯父さんが高縄山で仕留め損のうたイノシシなんよ」
四
高縄山は風寄の南東にそびえる山だ。
聞けば、静子の伯父たちは木曜日から風寄の柳原にいたそうだ。高縄山へは翌日の金曜日に入るつもりだったらしい。ところが大雨になったために予定を一日ずらし、土曜日に高縄山へ入ったのだという。
春子は静子に何か言いたそうだったが、千鶴が先に喋った。
「雨でお祭りが後ろにずれはしたけんど、ほんまなら金曜日はお祭りやったんやないん?」
静子は他人事みたいな顔で、ほうよなぁと言った。
「自分とこの祭りじゃったら別やろけんど、他所の祭りのことは、あんまし神聖なもんじゃとは思わんのじゃろね」
「ほやけど、村の人らがよう許したもんじゃね」
「たぶん、銭をつかませたんやと思うで」
「銭?」
嫌な言葉だ。
確かに世の中は銭で動いている。銭がなければ飯も食えない。だからといって、銭に物を言わせて自分の思いどおりにするやり方は、千鶴は好きじゃなかった。
「お祭りは夕方から始まるんじゃろ?」
静子が訊ねると春子は面倒臭げに、ほうよと言った。静子が喋る間、春子はずっと面白くなさそうにしていたが、静子は無視して千鶴に言った。
「ほじゃけん、銭もろた人らは夕方の祭りに間に合う形で、猟の手伝いを引き受けたんやなかろか」
なるほどと千鶴が一応納得すると、通学組の他の生徒が二人、教室へ入って来た。静子は彼女たちに声をかけ、今がいな話をしよるんよと手招きして呼んだ。
二人が来ると静子は話を戻し、伯父が仕留め損なったイノシシが風寄の里へ逃げ、死骸となって見つかったのだと主張した。その理由はイノシシの大きさだ。
山の主とおぼしきイノシシなど、そうざらにいるものではない。だから両者は同じイノシシであり、結局は伯父が仕留めたことになるというのが静子の言い分だ。
あのイノシシが高縄山から逃げて来たという話に、千鶴は納得した。あの時のイノシシからは殺気が感じられた。あれは自分ではなく人間を憎む殺気だったに違いない。
イノシシ狩りについては、千鶴は祖父の話でどんなものかをだいたい知っている。数名の勢子と呼ばれる人夫を雇い、イノシシの居場所を調べさせて、射手がいる所まで追い込ませるのだ。
静子の伯父たちも、同様の狩りをしていたようだ。静子が言うように、村の誰かに銭を支払って、この勢子の役目を引き受けてもらったのだろう。
元々射手は四人いたという。それが予定がずれたことで一人が抜けたため、今回は静子の伯父を含めた三人だけで狩りを行ったそうだ。
三人はそれぞれ離れた持ち場に潜んで、勢子が追い込んで来るイノシシを待っていた。そこへ突然別のイノシシが現れて、伯父たちを襲ったのだと静子は言った。
静子の伯父は三カ所の持ち場のうち、端を担当していた。初めに襲われたのは、静子の伯父とは反対側のもう一方の端にいた射手だった。三人とも追われたイノシシがいつ現れるかと、前方に意識を集中していた。そのため、横から巨大なイノシシが近づいて来ていたことに、誰も気づかなかったらしい。
最初の犠牲者は銃を撃つ暇もなくやられてしまった。また、仲間がやられたことが残りの二人はわからなかった。
二人目が襲われた時、その悲鳴で静子の伯父は何が起こっているのかを初めて知った。その仲間もすぐにはイノシシに気づかなかったらしく、銃を発砲できないままやられてしまった。
静子の伯父はイノシシに銃を向けたが、仲間に当たると思って引き金を引けなかった。しかしイノシシが凄い速さで迫って来ると、慌てて引き金を引いた。するとイノシシは向きを変えて、山の麓の方へ逃げたそうだ。
「伯父さんは弾が当たったかどうかわからんて言うておいでたけんど、今朝の新聞では、イノシシは何かに頭やられて死んどったて書いとったけん、恐らく伯父さんの弾が頭に当たったんよ」
静子は新聞記事を根拠に喋った。三津ヶ浜は松山から離れているが、まだ暗いうちから電車が動いているため、新聞は朝に届くみたいだ。
「新聞にそげな記事があったん?」
千鶴が驚くと、ほうよほうよと静子は楽しげに言った。伯父が誇らしいのだろう。
千鶴は祖父の様子を思い出し、そういうわけかと納得した。今朝、祖父は同じ記事を読んでいたのだろう。それで事実を確かめようとして千鶴を呼び止めたが、気味の悪い話だからやめたのだ。
記事に「頭を潰された」ではなく「頭をやられて」とあるのは、記者が村人たちの話に半信半疑だったのかもしれない。何しろ証拠は残されていないのである。
神輿が投げ落とされる時に春子が村人から聞いた話では、イノシシの骨と毛皮は山陰の者たちに燃やされ埋められたらしい。理由は、やはり気味が悪いからだ。そのことを春子は相当残念がったが、事実を知った新聞記者も口惜しがったに違いない。
静子の話をうんざりした様子で聞いていた春子は、静子の隙を突いて口を開いた。
「高橋さん、新聞にはイノシシが猟銃で頭撃たれて死んだてあったん?」
静子はきょとんとしたあと首を振った。
「ほやけど、イノシシは伯父さんに向かって来たんで。そこへ鉄砲向けて撃ったんじゃけん、当たるとしたら頭じゃろ?」
「もし、高橋さんが言うたとおりやとしてな、頭撃たれたイノシシが、高縄山から辰輪村まで来られる思う?」
「辰輪村てどこ?」
春子はため息をつくと、高縄山と辰輪村の場所、それに双方の距離を説明した。
「高橋さんの伯父さんが高縄山のどこらにおったか知らんけんど、風寄側におったんなら、辰輪村まで半里から一里はあらい。その距離を頭撃たれたイノシシが移動でけるとは思えんで」
「大した傷やなかったんやない?」
「ほれじゃったら、死んだりせんじゃろに」
「じゃあ、何で死ぬるんよ?」
いらだった口調の静子に、春子は疲れたように言った。
「ほれをさっきから説明しよ思いよったのに、高橋さんがずっと喋りよるけん、何も言えんかったんやんか」
「じゃあ、村上さんはイノシシが死んだ理由を知っとるん?」
春子はにやっと笑ってうなずいた。
「もちろん知っとらい。少なくとも猟銃で撃たれて死んだんやないで」
五
何だ、そういうことかと千鶴は思った。
春子が不機嫌に見えたのは、いろいろ喋りたいのに静子ばかりが喋って、自分は口を開く間がなかったからだ。
早く理由を知りたい級友たちが、声を揃えて説明を求めると、春子はいかにも嬉しげな顔をした。あの場で千鶴が具合が悪くなったことなど忘れているみたいだ。
まぁまぁと春子はみんなを落ち着かせると、聞いて驚かないようにと、級友たちの顔をゆっくりと見まわした。主役を奪われた静子は憮然としていたが、春子と目が合うとどきりとした顔になった。
春子は静子の目をのぞきながら言った。
「イノシシはな、頭潰されて死んだんよ」
「頭を? 潰された?」
「ほうよ。潰されたんよ。ぺしゃんこにな」
級友たちの顔が引きつった。静子も顔が強張っている。
「ぺしゃんこに潰されたて、何に潰されたん?」
「ほれが、わからんのよ。傍には大けな岩も落ちとらんし、太い木ぃが返っとったわけでもないんよ。おらと山﨑さんが見に行った時には、血溜まりがあったぎりじゃった」
「村上さん、イノシシの死骸、見とらんのじゃろ?」
静子が精いっぱい抗うように言った。
「見とらんよ。ほんでも、見た人がそがぁ言いんさったけん」
「ほんなん、嘘かもしれんやんか」
「何人も見とるし、お寺の和尚さんに何がイノシシの頭潰したんかて、訊きにおいでた人もおったけん」
「和尚さんは何て言うたん?」
「わからんて言いんさった。ほんでも、これは大事じゃて思いんさったみたいじゃった」
静子が黙ると、他の級友が訊ねた。
「その死骸はどがぁなったん?」
「肉はな、村のみんなが食べてしもたんよ。ほれで骨と毛皮も燃やされてしもたけん、残念なけんど証拠になるもんは何ちゃ残っとらんのよ」
春子ががっかりした顔で話すと、静子は千鶴に訊ねた。
「山﨑さんは何ぞ気ぃつかんかったん?」
大きな足跡らしきものを見つけたとは言えない。千鶴は何も知らないことにした。
「村上さんが言うたとおりぞな。うちには何もわからん。そげなことより高橋さん、伯父さんと一緒やったお人らはご無事じゃったん?」
伯父の話を訊かれた静子は、少し元気を取り戻して言った。
「ほれがな、二人とも亡くなったんよ」
「亡くなった?」
静子はうなずくと、二人とも牙でずたずたにされたらしいと、さらりと言った。
「顔なんか見られんかったそうな。ほんでも一番ひどいんは喉の傷やったて。相当抉られて、血ぃが止まらんかったらしいんよ。イノシシもどこが急所なんか、わかっとったんじゃろかね」
千鶴はざわっとなった。鬼に助けてもらわなければ、自分がそうなっていたのだ。話を逸らしたつもりが、余計なことを聞いてしまったと千鶴は後悔した。
級友たちはさらに恐怖心を煽られたようだ。みんな声を失い、泣きそうな顔になっている。春子も二人が死んだのは意外だったみたいで、当惑した顔を千鶴に向けた。
「そげな恐ろしいイノシシが、何かに頭を潰されたんじゃね」
級友の一人が震えながら言った。それは化け物イノシシ以上の何かがいるという意味になる。もうやめてと言う者が出て来たので、静子は化け物の話はおしまいにし、伯父の話に切り替えた。
イノシシに襲われたあと、静子の伯父は勢子が戻って来るのを待って、里に助けを求めたという。だが、その里は祭りの準備で大忙しだった。
祭りは村人たちにとって神聖な行事だ。そこへ助けを求めたので、静子の伯父も勢子となった者たちも、村人たちから散々罵られたそうだ。こんな日に何をしていたのかという話である。
そもそもこの時期は、まだ狩猟が解禁されていなかったらしい。そんな時期にイノシシ狩りを行なったから、山の神の怒りに触れたのだと叱責され、静子の伯父は何も言えずに小さくなるしかなかったようだ。
だけど死人をそのままにしておくわけにはいかない。結局、村では死人を三津ヶ浜まで運ぶ大八車を用意し、それを勢子をしていた者たちに引かせることにした。
しかし山からの遺体の運び出しは、他の村人たちも手伝った。それから駐在所に届け出たあと、静子の伯父たちは夜の道を提灯を掲げて三津ヶ浜まで遺体を運んだそうだ。
遺体が山から運ばれたのは、千鶴たちが名波村に着いてからのことらしい。あの時にそんな恐ろしいことがあったのかと思うと、今更ながら千鶴は背筋が寒くなった。
勢子を引き受けた者たちは、村人たちから責められた上に、年に一度の祭りの楽しみを台なしにされたのである。死人を運ぶ時には相当な不機嫌だったに違いない。その中で、静子の伯父も大八車を引いたり押したりしながら、疲れた体で三津ヶ浜まで歩いたそうだ。三津ヶ浜に着いたのは真夜中だが、まだ終わりではない。
静子の伯父は三津ヶ浜で宿を営んでいるが、亡くなった二人も旅館の主人だった。
順番にそれぞれの旅館を訪ねた静子の伯父は、出て来た家人たちに事情を説明し、主の命を救えなかったお詫びをした。
突然の主の死に家人たちが慌てふためき、嘆き悲しむ様子は想像に難くない。静子の話では、泊まり客までもが起きて来る騒ぎになったらしい。
イノシシ猟は静子の伯父が一人で決めたことではない。しかし生きているのは静子の伯父だけなので、どうして大雨になったところで中止にしなかったのかと、みんなから責められたそうだ。
苦労して暇を作っての猟だったので、あきらめるわけにはいかなかったと弁解したらしいが、そんな言い訳は通用しなかった。仲間の一人は予定が変わったことで猟をあきらめて、一足先に三津ヶ浜へ戻ったのである。
怒りのすべてを向けられ、静子の伯父は土下座をするしかなかった。そうして何とか二つの旅館を廻って、主の遺体を引き渡してもまだ終わらない。死人を運んでくれた勢子たちにも、相応のお礼と泊まる部屋を用意しなければならなかった。
翌日は亡くなった者たちの通夜の準備を手伝い、こちらの警察にも改めて事情を説明した。その警察では禁猟時期の狩猟ということで、静子の伯父はかなり絞られた上に罰金を支払うことになった。そのあと疲労と混乱と悲しみでいっぱいの状態で家に戻ると、今度は家族から責められて、二度と狩猟はしないと誓わされたという。
柳原村にも日を改めてお詫びに行かねばならず、静子の伯父は寝込んでしまうほど、身も心もぼろぼろのくたくただったはずだ。しかし誰も味方になってくれないからか、日曜日の夜に弟である静子の父を訪ね、何があったのかを涙ながらに語ったと静子は言った。
そんな感じで一昨日の夜から三津ヶ浜は大騒ぎになっていたらしい。
女子師範学校は町外れにあるので、昨日の夕方に寮へ戻った春子は、町の騒ぎを知らなかった。だが静子みたいに三津ヶ浜に暮らす級友たちは、二つの旅館で同時に通夜が行われるのを訝しんでいたそうだ。
初めは伯父のことを誇らしげに喋っていた静子だったが、伯父の悲惨な状況を話す時には少しも気の毒がる様子もなく淡々としていた。それで春子が呆れた顔で言った。
「高橋さん、伯父さんがそげなことになっとったのに、ようあがぁに楽しげに喋ったもんじゃねぇ」
ほやかてと静子は頬を膨らませた。
「うちは風寄のお祭りに行かせてもらえんかったんじゃもん。ちぃとでもお祭りに関係した話がしたいやんか」
やっぱり静子も風寄の祭りに行きたかったのだ。
静子があれほどはしゃいで見えたのは、一緒に祭りに行けなかった寂しさをごまかしていただけのようだ。
六
廊下で始業の鐘が、からんからんと鳴り響いた。
みんなが急いで自分たちの席に戻ると、先生が入って来た。縮れ髪に丸眼鏡の井上辰眞教諭だ。専門は博物学で蒼白く痩せた姿はいかにも学者である。
「おはようございます」
立ち上がった生徒たちに井上教諭が挨拶をすると、みんなも大声で挨拶を返した。
教諭はみんなを座らせると、丸眼鏡を指で押し上げて言った。
「さて、今日は動物の分類についてお話しましょう。動物には背骨があるものと、背骨がないものがありますが、前者を脊椎動物、後者を無脊椎動物といいます」
教諭は黒板にカッカッと音を立てながら、チョークで「脊椎動物」「無脊椎動物」と書いた。そのあと順番に生徒に動物の名前を挙げさせると、その名前を脊椎動物と無脊椎動物に分けて、黒板に書き加えて言った。
「では、次は山﨑さん。他にどんな動物がいますか?」
人間と千鶴が答えると、教諭はにっこり笑ってうなずいた。
「そうですね。人間も動物ですね。では、脊椎動物ですか? 無脊椎動物ですか?」
「脊椎動物ぞなもし」
そのとおりと言って、教諭は脊椎動物の所に「人間」と書き加えた。
教諭は書き並べた脊椎動物の名前を、色違いのチョークで書き分けていた。
「赤で書いたのは哺乳類、青で書いたのは爬虫類です。それから、黄色は両生類で、緑は魚類、橙は鳥類です」
そう言って、教諭は黒板にそれぞれの色で「哺乳類」「爬虫類」「両生類」「魚類」「鳥類」と書いた。すると静子が、先生――と手を挙げた。
「はい、高橋さん」
教諭が顔を向けると、静子は立ち上がって言った。
「えんこは何色になるんぞなもし?」
「えんこ? えんこって何だい?」
「先生、えんこを知らんのかなもし。えんこいうんは川におって、子供を水に引きずり込んだり、お尻の穴を抜き取ったりするんよなもし」
「そいつは頭にお皿が載ってるのかな?」
「ほうです。体はぬめっとしとって、相撲が好きなんぞなもし」
何だ、河童のことか――と井上教諭は苦笑した。
「ここで分類してるのは、実際に存在が確かめられている動物だけが対象です。残念ながらえんこは存在が不確かだから、対象にはなりません」
「ほやけど、うちの叔母さん、こんまい頃にえんこ見たて言うとりましたよ?」
静子が食い下がると、他の生徒たちも口々に似たようなことを言った。
井上教諭は両手を挙げて、生徒たちを静かにさせた。
「それはわかりますけど、誰かが捕まえてみせない限り、存在していたとしても、存在していないのと同じ扱いになるんです」
「じゃあ、もし存在しよったら、どこに分類されるんぞなもし?」
執拗な静子にいらだつこともせず、井上教諭は顎に手を当てながら真面目に応じた。
「うーん、むずかしい質問だな。えんこか……。哺乳類のようでもあり、両生類みたいでもあるけれど、恐らく新たな項目に分類されるだろうな」
井上教諭が茶色のチョークで「えんこ」と書くと、みんな、ついさっきイノシシの死に様に怯えていたことなど忘れ、争って魔物や化け物の名前を挙げた。中には背骨がなさそうなものもあったが、教諭はそれらを一まとめにして書き並べた。
井上教諭は優しい人で、千鶴が知る中では珍しく生徒の話に耳を傾けてくれる先生だ。生徒たちが口にした化け物たちの名前を、教諭は真面目に黒板に書き並べた。
「これは次の試験に出すかもしれません。もう、ありませんか? 締め切りますよ」
誰かが、がんごと言った。
「がんご?」
井上教諭が首を傾げると、鬼のことぞなもしと春子が言った。教諭はなるほどとうなずきながら、黒板に「がんご」と書き加えた。それから同じチョークで「異界生物」と書いた。
みんなは井上教諭の分類に満足したようだ。だけど、千鶴は黒板から目を逸らして下を向いた。何だか自分が異界生物に分類されたみたいな気分だった。
実際、千鶴が鬼娘だと知れたなら、また千鶴に鬼が憑いているとわかったなら、千鶴はみんなから異界生物として恐れられるに違いなかった。そうなれば今以上に世間の目に曝されて、どこにも居場所はなくなるだろう。下手をすれば、家族までもが今いる所を追われることになる。
そんな千鶴の気持ちなど誰も知る由がない。級友たちは楽しげな声を上げ、井上教諭はそれを制しながら授業を進めていった。