> 野菊のかんざし > 休み明けの学校

休み明けの学校

     一

 通学用のはかまを着けると、千鶴は茶の間へ挨拶に行った。茶の間では、甚右衛門が新聞を読んでいた。
 どの家でも新聞を取っているわけではないが、新聞を取っているからと言って、朝刊が朝に届くとは限らない。場所によれば、朝刊なのに届くのは夕方近くになってからという所もある。ここは幸い新聞社が近いので、朝早くに朝刊を届けてもらっている。
 店のことは使用人たちがしてくれるので、甚右衛門はこの時間はゆっくりしている。その隣では、トミが甚右衛門が飲むお茶をれていた。
 大地震で東京が壊滅したことで、東京へ多くの伊予絣を送っていた伊予絣問屋は大打撃を受けた。山﨑機織もその一つである。
 そのため甚右衛門は、今後の東京の復興も含めた日々の情報に目を光らせて、今後の絣業界の行く末を毎日占っていた。
 ところが悪い話はあっても、いい情報など出て来ない。この日もよくない記事が出ていたのか、甚右衛門の表情は強張っている。
 こんな時には迂闊うかつに声をかけない方がいいのだが、黙って行くわけにも行かず、千鶴は恐る恐る声をかけた。
「あの……、てまいります」
 千鶴の声が聞こえなかったのか、記事に集中しているのか、新聞に釘づけになったまま甚右衛門は返事をしない。
 代わりにトミが、てお戻り――と言った。
 トミは滅多に返事をしない。返事をする時は、あぁとか、はいとか、他を向いたまま気のない返事をする。しかし、この日はちゃんと千鶴に顔を向け、てお戻りと言った。
 今朝起きた時も、祖母はちゃんと挨拶を返してくれた。これはやはり家の中に異変が起きていると言わざるを得ない。
 千鶴がその場を離れようとすると、甚右衛門はようやく千鶴に気づいたようだ。新聞を下ろすと、おい――と言った。
 ところが、甚右衛門は何かを言いたげにしながら、じっと千鶴を見るばかりで黙っている。
「どがぁしんさった?」
 見かねたようにトミが声をかけると、甚右衛門は千鶴から目をらし、何でもないと言った。
 千鶴はもう一度甚右衛門に、てまいります――と声をかけた。甚右衛門はちらりと千鶴を見て、あぁとだけ言った。
 千鶴は不審に思いながらも二人に頭を下げ、台所の花江にも声をかけた。花江は明るく、行ってらっしゃいと言い、千鶴にお弁当を持たせてくれた。
 花江が来るまでは、幸子が女中代わりに家事をこなしていた。花江が来てくれたお陰で、幸子は再び看護婦の仕事ができるようになった。今日は早くに来て欲しいと言われたそうで、幸子は千鶴より先に家を出ている。
 幸子は自分が働くことを家計を助けるためだと言うが、それは甚右衛門が幸子への婿取りをあきらめたということでもある。そう考えると、やはり祖父は自分に婿を取るつもりなのかと千鶴は思えてしまう。
 丁稚や手代たちが千鶴たちの脇を通り抜けて、県外へ送り出す品を蔵から運び出している。その邪魔にならないようにしながら、千鶴は通り土間を抜けて帳場に出た。
 帳場には辰蔵が座り、行てお戻りなと千鶴に言った。
 表には積み荷を載せる大八車が用意されていて、蔵から運んで来た反物の木箱が、すでいくつか積まれていた。そこへ手代の茂七と弥七が新たな木箱を運んで来て、千鶴に声をかけた。
 東隣の紙屋の者たちに千鶴が朝の挨拶をしていると、今度は反物の木箱を大八車に載せた亀吉が、元気に声をかけてくれた。
「千鶴さん、行てお戻り」
 続けて出て来た新吉も、同じように千鶴に挨拶をした。
 朝に店を通り抜けながら、みんなから声をかけて送り出してもらうのは、小学校に通い始めた頃からの習慣だ。
 女子師範学校の寮に入っていた間は途切れていたが、寮を出て通学するようになってから再開した、お馴染みの朝の光景である。
 亀吉たちに手を振りながら、行て来るけんねと声をかけ返すと、千鶴は紙屋町の通りを西へ進んだ。

 通常、家人かじんは裏木戸から出入りする。しかし、千鶴が小学校に入った時、祖父は千鶴に店から表に出るよう命じた。
 千鶴が通った尋常小学校は城山の西のふもとにあり、高等小学校は城山の南にあった。だから、裏木戸を出たところで店の前を通ることには変わりない。それでも店から出て来ると、どうしても目立ってしまうので、千鶴は裏木戸からこっそり出たかった。
 だが、祖父はそれを許さなかった。堂々と店から表に出て、通学路とは反対側の店の人たちにも、大きな声で挨拶をするようにというのが祖父の命令だった。
 それ以来、千鶴は学校へ行く時には店から表に出ている。
 初めの頃は、みんなに見られるのが嫌で仕方がなかった。孫娘をさらし者にしようとする祖父を恨めしく思ったものだ。
 今となっては慣れっこになったので、紙屋町の人々と顔を合わせることは気にならなくなった。向こうの方も最初はぎこちなかった挨拶が、今では当たり前のようになっている。
 小学校に通っていた頃は、紙屋町の西の端の方の人たちとは、あまり顔を合わせることがなかった。
 女子師範学校へ歩いて通い始めると、そこの人たちとも毎日顔を合わせるようになった。初めは少し緊張したが、向こうも千鶴のことを知らないわけではない。声をかければ、ちゃんと返事をしてくれるので、今は緊張することはない。
 それでも今は、自分はがんごめだという想いがある。それが千鶴の気持ちを後ろ暗くさせていた。
 おはようござんしたとか、てまいりますなどと、顔を合わせる人たちに挨拶をしながら紙屋町通りを歩いて行くと、やがて大きな寺に突き当たる。かつて松山を治めていた久松ひさまつ松平家まつだいらけ菩提寺ぼだいじである大林寺だいりんじだ。
 祖父は事あるたびに、紙屋町のこの道は殿さまたちが通っていた道なのだと、誇らしげに言ったものだ。
 だが大林寺に対して、千鶴は別な想いを抱いている。
 日露戦争が始まると、捕虜になったロシア兵が大勢日本へ連れて来られた。その捕虜兵たちを収容することになったのが松山で、その一番初めの捕虜収容所となったのが、この大林寺なのである。
 母の話では、千鶴の父も最初はここへ入れられていたらしい。
 普段は千鶴は父のことなど考えないが、この寺の前を通ると、どうしても考えてしまう。だから、いつも足早に通り過ぎていた。
 ロシア人の血を引いているがために、千鶴は幼い頃から嫌な思いをいられて来た。それは全部ロシア人である父のせいだという気持ちが、千鶴の中にはあった。
 もし父が日本人だったら、こんな苦労などしなかったのにと思うことがある。そんな時には、顔も知らない父を恨みたくなった。
 だが一方で、父に会ってみたい気持ちもあった。
 日本でなくロシアで暮らせば、差別されないかもしれないと考える時、千鶴は父と暮らしている自分を想像してしまう。
 父がどんな顔をしているのかは全くわからない。それで自分に似た顔を想像し、父と暮らすことを願ったりもした。
 しかし、この日に頭に浮かんだ父はロシア人ではなかった。髪の中に角を隠した鬼である。
 自分の父親はロシア兵に化けた鬼だったのではないかと、千鶴は考えていた。
 母は祖父母の娘だから人間に違いない。つまり、自分は鬼と人間の間に生まれた子供なのだろう。
 半分は人間、半分は鬼であれば、このまま人間の姿でいられるのかもしれない。
 だが、父の血の方が濃いのだとすると、いずれは頭に角が生えたり、口から牙が出て来るに違いない。
 もしかしたら地獄の夢で見た鬼は、自分の父だったのだろうかとも千鶴は考えた。そうであるなら、鬼を愛おしく思ったのは当然なのだろう。
 それでも自分ががんごめだということは、千鶴には受け入れがたい悩みだった。
 ――千鶴さんはな、いつか必ず素敵な人と巡りうて、幸せになるんぞな。
 頭の中で、忠之が話しかけている。
 しかし自分が巡り会うのは、きっと鬼なのだ。
 千鶴は胸に手を当てた。懐にはまだあの花が入っている。
 自分ががんごめであることを考えないならば、一緒になりたいのはあの人だと、千鶴は忠之への想いを確かめた。
 だが確かめたところで、どうとなるものではない。むしろ空しい気持ちになるばかりだった。

     二

 大林寺の前を右に曲がると、左手に阿沼美あぬみ神社が見えて来る。春子に見せた祭りの舞台だ。
 神社の北端を西へ曲がった所に、伊予鉄道の古町こまち停車場がある。
 松山からは多くの伊予絣が県外へ発送されているが、紙屋町で扱っている伊予絣は、陸蒸気おかじようきと呼ばれる蒸気機関車で、この古町停車場から高浜港たかはまこうへ運ばれる。そのあと船に移されて本州へ渡り、大阪や東京へ送られるのだ。
 もう少しすれば、高浜へ向かう陸蒸気が来るだろう。それに荷物を載せようと、近くの店から大八車が集まって来ている。山﨑機織の荷物も亀吉たちが運んで来るはずだ。
 千鶴が古町停車場を眺めながら、さらに北へ進もうとすると、フワンと音が鳴った。
 我に返って前を見ると、通りの少し先を電車が横切って行った。松山から三津へ向かう電車で、昨日、春子が札ノ辻から乗ったのと同じ電車だ。
 陸蒸気も高浜へ行く途中、三津で停まる。どうして三津へ向かう路線が二つもあるのかと言うと、元は二つは別々の会社が運営していたのである。
 春子が乗った電車の方は、千鶴が尋常小学校に入学した年にできたもので、陸蒸気の方は母が生まれた頃にできたらしい。
 詳しい話は知らないが、陸蒸気の伊予鉄道と仲違なかたがいをした三津の人たちが、もう一方の電車を作ったのだと言う。
 しかし、結局は伊予鉄道との争いに負けて、せっかく作った電車も線路も、伊予鉄道に召し上げられてしまった。千鶴が女子師範学校本科の二年生になった年のことだ。
 当時は千鶴は寮にいたので、休みの日などに三津の町に出ることがあった。その時の町の人たちが意気消沈していたのを千鶴は覚えている。自分の家が松山にあるとは、とても言い出せない雰囲気だった。
 結局は強い者が勝つのが世の常である。そして、自分は弱い者だと千鶴は思った。
 世の中は男を中心に動いている。女はそれに従うだけだ。ましてや自分は異国の血を引いており、物を言う権利など他の若い娘以上にない。
 家では祖父に頭が上がらないが、鬼は祖父より力が上だ。自分なんかが逆らうなど絶対に無理である。
 忠之も惚れ合った娘と夫婦約束を交わしたのに、その約束を果たせずに、娘を手放さざると得なかったという苦い経験がある。男の忠之でも生まれが悪いというだけで、どうすることもできないことがあるのだ。
 こんな理不尽りふじんなんかなくなればいいのにと思いながら、千鶴は広い松並木の道へ出た。三津浜へ向かう三津街道だ。
 かつて、お城の殿さまが参勤交代をしていた頃、お殿さま一行は三津浜から船で出入りしていた。その時に使われた道が、この三津街道である。
 街道と名のつく道はいくつもあるが、お殿さまの通り道だった三津街道は、他の街道よりも広くて立派な造りをしている。
 千鶴がいる所は三津口と呼ばれるが、三津口から三津浜までの間には、千三百ほどの松や杉が日除け目的に植えられている。
 お殿さまがいなくなった今も、千鶴たちのように街道を歩く者たちに、松や杉は木陰を与えてくれる。この並木がなかったなら、暑い夏場は歩くのが嫌になっていただろう。
 街道の周辺は田畑ばかりでとても長閑のどかだ。いつもと同じ長閑さを感じていると、風寄での体験や家の中の異変などが、本当のことだとは思えなくなってしまう。
 少し歩くと、二本の線路が道を横切る。どちらも古町停車場から出たもので、手前の線路は道後へ向かう電車が走る。もう一方は陸蒸気が走る線路で、もうそろそろやって来そうだ。
 三津口を出たばかりの所では陸蒸気は街道の右を走り、三津浜へ向かう電車は左を走る。
 両者が街道に絡み合うようにして走る様は、未だに三津浜の人たちの怨念が生きているかのようだ。
 ただ、街道自体は鉄道会社の争いごとなど関係ないかのように、のんびりした雰囲気だ。
 所々で牛車ぎっしゃが荷物を運び、千鶴と同じような着物に袴を着けた若い娘たちが三々五々歩いている。いずれも女子師範学校の生徒だ。二年生までは寮にいるので、歩いているのは三年生か四年生である。
 千鶴たち四年生は四十名弱であり、松山や三津浜から通う者は二十五名ほどだ。三年生と合わせると五十名ほどになる。
 互いに家が近いわけでもなく、家を出る時間もまちまちなので、千鶴は大概一人である。本当は別の理由があるのかもしれないが、いずれにしても学校の行き帰りは、千鶴は一人のことが多かった。
 春子のように仲のいい友だちもいるが、特に仲がいいわけではない生徒の方がほとんどだ。
 もう慣れてしまったとは言うものの、やはり孤独を味わうのは寂しいものだ。だから、千鶴は孤独について何も考えないようにしていた。
 今、頭に浮かぶのは忠之のことばかりだ。だが、その忠之への想いも、孤独な気持ちが余計につのらせているのかもしれなかった。
 切ない気持ちで歩いていると、前方から電車がやって来るのが見えた。歩きながらその電車を眺めていると、ピーッと甲高い汽笛が聞こえた。
 振り返ると、後ろからやって来た陸蒸気が、白い煙をもくもくと吐きながら千鶴を追い抜いて行った。
 陸蒸気の後ろには客車と貨物車がつながれている。貨物車の中には山﨑機織の品も載せられているだろう。
 すれ違う電車と陸蒸気を見ながら、あの人がこの光景を眺めたなら、きっと喜ぶだろうなと千鶴は思った。
 そして、どんどん遠ざかる陸蒸気を見つめながら、自分もあの人と二人、あの客車に乗って港へ行き、そこから一緒に遠くへ逃げられたらと考えていた。

     三

 女子師範学校の校舎は、モダンな二階建てだ。
 毎週月曜日にこの校舎を目にすると、今週もがんばろうと引き締まった気持ちになったものだ。
 しかし、今日はそんな気持ちにはなれなかった。
 目に見える光景は同じなのに、千鶴は先週と今週で違う世界にいるような気がしていた。
 他の生徒たちと顔を合わせると、いつもどおりに挨拶を交わす。だが千鶴には、他の生徒たちが自分とは別の生き物のように思えてしまう。そんな違和感を覚えながら教室の前まで来ると、中から大きな声が聞こえた。
 そっと中へ入ってみると、教室の真ん中で高橋静子たかはししずこが級友たちを集めて喋っている。
 春子と同じく、静子は千鶴が寮にいた時の同部屋仲間だ。三津浜の菓子屋の娘で、少しぷっくらした明るい性格の娘だ。千鶴とも仲がいい。
 本当は静子も名波村の祭りに誘われていた。だが静子は親の許可が下りず、一緒に行くことはかなわなかった。
 しかしそれが普通であり、どの級友たちにしても許されることではない。千鶴だけが特別に認められただけのことである。
 それでも静子は落胆していないようで、身振りを交えながら元気に喋っている。
「ほれがな、これよりもっとおおけなイノシシやったそうな。こらもう絶対、山の主ぞな。その山の主がな、いきなり襲て来たんよ」
 イノシシと聞いて、千鶴はぎくりとした。
 春子を探すと、春子は静子の近くに座っていた。
 静子は春子から話を聞いたのだなと思っていると、千鶴に気がついた静子が嬉しそうに手招きをした。
 千鶴が春子の家を訪ねたことは、みんなが知っている。春子の近くに座っていた級友は、千鶴のために席を空けてくれた。
 仕方なく千鶴は空けてもらった椅子に座ったが、本当はイノシシの話になど交じりたくなかった。
「お戻りたか、山﨑さん。名波村のお祭りは楽しかった?」
「お陰さんで楽しませてもろたぞな。だんだんな、村上さん」
 千鶴が春子に声をかけると、春子は小さくうなずいて微笑んだ。しかし、何だかその笑みがぎこちない。何かあったのだろうかと思ったが、それには構わず静子は言った。
「今な、化け物イノシシの話をしよったんやけんど、山﨑さん、村上さんと一緒にイノシシの死骸見に行ったんやて?」
「死骸? そげなもん見とらんよ。うちらが見たんは、イノシシが死んどった場所ぎりぞな」
 やっぱり春子が喋ったのかと思いながら答えると、そがい言うたやんか――と、春子は静子に口を尖らせた。
 何だか春子は不機嫌そうだ。それでも静子は気に留める様子はないようだ。ほうじゃったかね――と言って笑うと、さっきの話の続きを喋り出した。
「今の話やけんど、ほら、もうびっくりじゃろ? イノシシはあっちじゃ思て待ち構えよんのに、でっかいのが横から出て来よったんじゃけんな。しかも、そんじょそこらのイノシシやないで。伯父さんが両腕一杯広げても、まだ足りんぐらいおおけなイノシシぞな」
「なぁ、高橋さんは何の話しよるん?」
 千鶴は小声で春子にたずねた。すると春子が答える前に、静子が自慢げに言った。
「あんな、風寄で見つかった化け物イノシシはな、うちの伯父さんが高縄山たかなわさんで仕留め損のうたイノシシなんよ」

     四

 高縄山は風寄の南東にそびえる山だ。
 聞けば、静子の伯父たちは金曜日から風寄の柳原へ行き、土曜日の朝早いうちから高縄山へ入ったのだと言う。
 春子は静子に何か言いたげだったが、千鶴が先に喋った。
「雨でお祭りが後ろにずれはしたけんど、ほんまなら金曜日はお祭りやったんやないん?」
 静子は他人事のような顔で、ほうよなぁ――と言った。
「自分とこの祭りじゃったら別やろけんど、他所よその祭りのことは、あんまし神聖なもんじゃとは思わんのじゃろね」
「ほやけど、地元の人がよう許したもんじゃね」
「多分、銭をつかませたんじゃろなぁ」
「銭?」
 嫌な言葉だ。
 確かに、世の中は銭で動いている。銭がなければ飯も食えない。だからと言って、銭に物を言わせて黒を白と言わせるようなやり方は、千鶴は好きじゃなかった。
「どっちにしたかて祭りが後ろへずれたんじゃけん、伯父さんらも向こうの人も、あんまし気にせんかったんやないん?」
 通学組の他の生徒が二人、教室へ入って来た。静子は彼女たちも手招きして呼び、今がいな話をしよるんよ――と得意げに言った。
 二人が来ると静子は話を戻し、伯父が仕留め損なったイノシシが風寄の里へ逃げ、死骸となって見つかったのだと主張した。その理由は、イノシシの大きさだと言う。
 静子の伯父の話では、今まで見たことがないほど大きなイノシシだったそうだ。
 風寄で見つかったイノシシもとても大きいので、恐らく同じイノシシに違いないと静子は言うのである。
 千鶴は静子の言うとおりかもしれないと思った。
 あの時のイノシシからは殺気が感じられた。あれは千鶴というより、人間を憎む殺気だったのだろう。
 イノシシ狩りについては、千鶴は祖父の話でどんなものかを大体知っている。
 数名の勢子せこと呼ばれる人夫を雇い、イノシシの居場所を調べさせて、射手しゃしゅがいる所まで追い込ませるのだ。
 静子の伯父たちも、同様の狩りをしていたらしい。
 元々射手は四人だったが、一人が都合が悪くなったため、静子の伯父を含めた三人だけで狩りを行ったそうだ。
 三人はそれぞれ離れた持ち場に潜んで、勢子が追い込んで来るイノシシを待っていた。
 そこへ突然、狙いのイノシシとは別のイノシシが現れて、伯父たちを襲ったのだと静子は言った。
 静子の伯父は三カ所の持ち場のうち、端を担当していた。
 初めに襲われたのは、静子の伯父とは反対側の、もう一方の端を担当していた射手だった。
 三人とも追われたイノシシがいつ現れるかと、前方に意識を集中していた。それで、横から巨大なイノシシが近づいて来ていたことに、誰も気づかなかったらしい。
 初めに襲われた仲間は、銃を撃つ暇もなくやられてしまった。また、仲間がやられたことが残りの二人はわからなかった。
 二人目が襲われた時、その悲鳴で静子の伯父は何が起こっているのかを初めて知った。
 二人目の仲間もすぐにはイノシシに気づかなかったようで、銃を発砲する間もなくイノシシの犠牲になった。
 静子の伯父はイノシシに銃を向けたが、仲間に当たると思って引き金を引けなかったらしい。
 しかし、イノシシがすごい速さで迫って来ると、慌てて引き金を引いた。するとイノシシは向きを変えて、山のふもとの方へ逃げたと言う。
「伯父さんは弾が当たったかどうかわからんて言うておいでたけんど、今朝の新聞では、イノシシは何かに頭やられて死んどったて書いとったけん、多分、伯父さんの弾が頭に当たったんよ」
「新聞にそげな記事があったん?」
 千鶴が驚くと、ほうよほうよと静子は楽しげに言った。自分の伯父が誇らしいのだろう。
 一方で千鶴は、それでなのかと思った。
 今朝、祖父が自分を呼び止めた時、同じ記事を読んでいたのに違いない。それで事実を確かめようとしたのだろうが、気味の悪い話だからやめたに違いない。
 記事に「頭を潰された」と書かずに、「頭をやられて」とあるのは、記者が村人たちの話を半信半疑で聞いたということなのかもしれない。何しろ証拠は残されていないのである。
 神輿の投げ落としを見る時に、春子が村人から聞いた話では、イノシシの骨と毛皮は、山陰の者たちが河原で燃やしたということだった。燃やした理由は気味が悪いからということらしい。
 そのことを春子は相当残念がっていたが、新聞などの記事を書く者たちも、恐らく事実を知って口惜しがったに違いない。
 静子の話をうんざりした様子で聞いていた春子は、静子の隙を突いたように口を開いた。
「高橋さん、新聞にはイノシシが猟銃で頭撃たれて死んだて書いてあったん?」
 静子はきょとんとした顔で春子を見ると、書いてなかったと言った。
「ほやけど、イノシシは伯父さんに向かって来たんで。そこへ鉄砲向けて撃ったんじゃけん、当たるとしたら頭じゃろ?」
「もし、高橋さんが言うたとおりやとしてな、頭撃たれたイノシシが、高縄山から辰輪村まで来られる思う?」
「辰輪村てどこ?」
 春子はため息をつくと、高縄山と辰輪村の場所、それに双方の距離を説明した。
「高橋さんの伯父さんが高縄山のどこにおったか知らんけんど、風寄側におったんなら、辰輪村まで半里から一里あるぞな。その距離を頭撃たれたイノシシが移動でけるとは思えんけんど」
「大した傷やなかったんやない?」
「ほれじゃったら、死んだりせんじゃろに」
「じゃあ、何で死ぬるんよ?」
 いらだった口調の静子に、春子は疲れたように言った。
「ほれをさっきから説明しよ思いよったのに、高橋さんがずっと喋りよるけん、何も言えんかったんやんか」
「じゃあ、村上さんはイノシシが死んだ理由を知っとるん?」
 春子はにやっと笑うと、得意げにうなずいた。
「もちろん知っとるぞな。少なくとも猟銃で撃たれて死んだんやないで」
 何だ、そういうことかと千鶴は納得した。
 春子が不機嫌そうだったのは、いろいろ喋りたいのに静子ばかりが喋って、自分は喋らせてもらえなかったからだ。
 早く理由を知りたい級友たちが、声を揃えて説明を求めると、春子はいかにも嬉しそうな顔をした。
 まぁまぁと春子はみんなを落ち着かせると、聞いて驚かないようにと、級友たちの顔をゆっくりと見回した。
 主役を奪われた静子は面白くなさそうだったが、春子と目が合うと、どきりとしたような顔になった。
 春子は静子の目をのぞくようにしながら言った。
「イノシシはな、頭つやされて死んだんよ」
「頭を? つやされた?」
「ほうよ。つやされたんよ。ぺしゃんこにな」
 級友たちの顔が引きつった。静子も顔が強張っている。
「村上さん、イノシシの死骸、見とらんのじゃろ?」
 静子が精一杯あらがうように言った。
「見とらんよ。ほんでも、見た人がそがぁ言いんさったけん」
「その死骸はどがぁなったん?」
 級友の一人が訊ねた。
 春子は残念そうに、村のみんなが食べてしまったし、骨と毛皮も燃やされてしまったと言った。
 静子は春子の話を信じていないようだったが、また別の級友が春子に訊ねた。
「そのイノシシ、何に頭つやされたん?」
「ほれがな、わからんのよ。ねきにはおおけな岩も落ちとらんし、木がかやっとったわけでもないんよ。おらと山﨑さんが見に行った時には、血溜まりがあったぎりぞな」
 みんな言葉を失ったように押し黙ってしまった。誰もが青い顔になっている。
 やはり青い顔になった静子が、千鶴に声をかけた。
「山﨑さんも見たんじゃろ? 何ぞ気ぃつかんかったん?」
「村上さんが言うたとおりぞな。うちには何もわからん。そげなことより、伯父さんと一緒やったお人らはご無事じゃったん?」
 話をらそうとして、千鶴は静子に訊ねた。
 静子は少し元気を取り戻したように、ほれがな――と言った。
「二人とも、亡くなったんよ」
「亡くなった?」
 静子はうなずくと、二人とも牙でずたずただったらしいと、さらりと言った。
 千鶴はざわっとなった。鬼に助けてもらえていなければ、それは自分の姿だったのだ。
 話を逸らしたつもりが、余計なことを聞いてしまったと、千鶴は後悔した。
 しかし、この話はみんなの恐怖心をさらに煽ったようだ。春子も二人が死んだとは思っていなかったらしく、驚いたように眉を寄せている。
 もうやめてと言う者が出て来たので、静子は話を変えて伯父の話をした。山から戻って来た伯父は、生きた屍みたいにげっそりしていたらしい。
 イノシシに襲われたあと、静子の伯父は勢子が戻って来るのを待って、里に助けを求めたと言う。
 その里は祭りの準備で大忙しだった。祭りは村人たちにとって神聖な行事である。そこへ助けを求めたので、静子の伯父は村人たちから散々文句を言われたらしい。
 そもそもこの時期は、まだ狩猟が解禁されていなかったそうだ。そんな時期にイノシシ狩りを行ったから、ばちが当たったのだと罵る者もいたと言う。
 それでも村の者たちは死人を三津浜まで運ぶのに、大八車とそれを引く者数名を用意してくれた。それは、千鶴たちが名波村に着いてからのことだったらしい。
 村では死人を置いておくわけにもいかなかったので、日が暮れた道を提灯ちょうちんを掲げて、松山まで遺体を運んだと言うことだった。
 もちろん静子の伯父も、交代で大八車を引いたり押したりしながら、疲れた体で三津まで歩いたそうだ。そうして三津に着いたのは真夜中だった。それでも、それで終わりではない。
 静子の伯父は三津で宿を経営していると言う。亡くなった二人もそれぞれ旅館の主人だった。 
 順番にそれぞれの旅館を訪ねた静子の伯父は、出て来た家人たちに事情を説明し、主の命を救えなかったお詫びをした。
 突然の主の死に家人たちが慌てふためき、嘆き悲しむ様子は想像に難くない。静子の話では、泊まり客までもが起きて来る騒ぎになったそうだ。
 二つの旅館を廻ったあと、静子の伯父は死人を運んでくれた風寄の村の者たちにも、お礼と泊まる部屋の用意をしなければならなかった。
 翌日は亡くなった者たちの通夜の準備を手伝い、警察にも事情を説明した。そして、もう二度と狩猟はしないと、みんなに誓わされた。
 静子の伯父は寝込んでしまうほどくたくただったはずである。しかし、誰も味方になってくれないからなのか、日曜日の夜に弟である静子の父を訪ね、何があったのかを涙ながらに語ったと言う。
 そんな感じで、一昨日の夜から三津は大騒ぎだったらしい。
 女子師範学校は町外れにあるので、昨日の夕方に寮へ戻った春子は、町の騒ぎを知らなかった。しかし、静子のように三津に暮らす級友たちは、二つの旅館で同時に通夜が行われるのをいぶかしんでいたと言う。
 静子の話が終わると、春子は呆れた様子で言った。
「高橋さん、伯父さんがそがぁなことになっとったのに、ようあがぁに楽しげに喋ったもんじゃねぇ」
 ほやかて――と静子は頬を膨らませた。
「うちはお祭りに行かせてもらえんかったんじゃもん。代わりの楽しみ見つけたぎりぞな」
 やっぱり静子も風寄の祭りに行きたかったのだ。
 春子があれほどはしゃいだように見えたのは、伯父を誇りにしていると言うより、祭りに行けなかった寂しさをごまかしていたようだ。

     五

 廊下で始業の鐘が、からんからんと鳴り響いた。
 みんなが急いで自分たちの席に戻ると、先生が入って来た。縮れ髪に丸眼鏡の井上辰眞いのうえたつま教諭である。専門は博物学で、青白く痩せた姿はいかにも学者だ。
「おはようございます」
 井上教諭が挨拶をすると、みんな立ち上がって挨拶を返した。
 教諭はみんなを座らせると、丸眼鏡を指で押し上げて言った。
「さて、今日は動物の分類についてお話しましょう。動物には背骨があるものと、背骨がないものがありますが、前者を脊椎動物、後者を無脊椎動物と言います」
 教諭は黒板にカッカッと音を立てながら、チョークで「脊椎動物」「無脊椎動物」と書いた。
 それから順番に生徒に動物の名前を挙げさせ、その名前を脊椎動物と無脊椎動物に分けて、黒板に書き加えて言った。
「では、次は山﨑さん。他にどんな動物がいますか?」
 人間――と千鶴が答えると、教諭はにっこり笑ってうなずいた。
「そうですね。人間も動物ですね。では、脊椎動物ですか? 無脊椎動物ですか?」
「脊椎動物です」
 そのとおりと言って、教諭は脊椎動物の所に「人間」と書き加えた。
 教諭は書き並べた動物の名前を、色違いのチョークで書き分けていた。
「赤で書いたのは哺乳類、青で書いたのは爬虫類です。それから、黄色は両生類で、緑は魚類、だいだい色は鳥類です」
 そう言って、教諭は黒板にそれぞれの色で「哺乳類」「爬虫類」「両生類」「魚類」「鳥類」と書いた。
 すると、先生――と静子が手を挙げた。
「はい、高橋さん」
 教諭が顔を向けると、静子は立ち上がって言った。
「えんこは何色になるんぞなもし?」
 えんこ?――井上教諭は苦笑したが丁寧に説明した。
「えんこと言うのは俗に言う河童のことだね? ここで分類してるのは、実際に存在が確かめられている動物だけが対象なんです。残念ながらえんこは存在が不確かだから、対象にはなりません」
「ほやけど、うちの叔母さん、こんまい頃にえんこ見たて言うとりましたよ?」
 静子が言うと、他の生徒たちも口々に似たようなことを言った。井上教諭は両手を挙げて、生徒たちを静かにさせた。
「それはわかりますけど、実際に誰かが捕まえてみせない限り、存在していたとしても、存在していないのと同じ扱いになるんです」
「じゃあ、もし存在しよったら、どこに分類されるんぞなもし?」
 食い下がる静子にいらだつこともせず、井上教諭は顎に手を当てながら真面目に応じた。
「うーん、それはむずかしい質問だな。えんこか……。哺乳類のようでもあり、両生類のようでもあるけれど、恐らく新たな項目に分類されるだろうな」
 教諭の説明に生徒たちは喜び、争うように魔物や化け物の名前を挙げた。ついさっきイノシシの死に様におびえていたのに、そんなことなど忘れたかのようだ。
 井上教諭は優しい人で、みんなに合わせて黒板の隅に、茶色のチョークで化け物たちの名前を書き並べた。
「これは次の試験に出すかもしれませんからね」
 教諭が冗談を言うと、みんなが笑った。
「もう、ありませんか? 締め切りますよ」
 誰かが、がんご――と言った。
「がんご?」
 教諭が首をかしげると、春子が鬼のことだと教諭に教えた。春子の顔は何だか強張っているようだ。
 イノシシの話をしていた時には、そのことに夢中だったので忘れていたのだろうが、今はイノシシを殺したのが鬼かもしれないと、思い出したのに違いない。
 それに、お祓いの婆が千鶴に投げかけた言葉も、きっと春子の頭にあるはずだ。
 イノシシのことも鬼の話も知らない井上教諭は、なるほどと言いながら黒板に「がんご」と書き加えた。それから、茶色のチョークで「異界生物」と書いた。
 みんなは井上教諭の分類に満足した様子だった。
 しかし千鶴は黒板から目を逸らして下を向いた。教諭の分類は、自分が異界生物に分類されたような気分だった。
 もしがんごめであることが知れたなら、もし鬼が憑いていることがわかったなら、自分はみんなから異界生物として扱われるに違いない。
 今以上に世間の好奇の目に曝されることになり、自分の居場所はなくなるだろう。下手をすれば、家族もまた今いる所を追われることになる。
 そんな千鶴の気持ちなど知る由もなく、級友たちは楽しげな声を上げ、それを制しながら井上教諭は授業を進めて行った。