> 野菊のかんざし > 奇妙な老婆

奇妙な老婆


     一

 波村なみむらを訪ねてから一週間が経った日曜日、千鶴ちづは母と二人で奥庭にしゃがんで洗濯をしていた。
 さちが働いているのは個人経営の小さな病院だが、入院部屋があるため看護婦には夜勤がある。しかし、幸子は若くない上に家事を手伝うこともあり、仕事は日勤だけにしてもらっていた。また日曜日は病院は休診なので、入院患者の看護などは住み込みで働く若い看護婦がにない、幸子は休みとなっていた。
 千鶴はいろいろ鬼のことを心配したが、この一週間は祖父母が妙に優しくなった以外は、特に変わりはなかった。まだ不安がなくなったわけではないが、今は少し落ち着きを取り戻していた。
 そうなると忠之ただゆきのことが無性に気になってしまい、あのあと無事に風寄かぜよせに戻れたのだろうかとか、あれから何をしているのかなと、洗濯の手を動かしながら忠之のことばかりを考えていた。
 母から話しかけられてもうわの空で、返事も頓珍漢とんちんかんなものばかりだ。それでも母親だけあって、幸子は娘の心の内がわかるらしい。怒りもせずにあきれたように笑っている。

「千鶴さん、お友だちがおいでたぞなもし」
 勝手口で新吉しんきちの声がした。千鶴が振り向くと、新吉は珍しいお客に興奮している様子だ。そわそわした感じで落ち着きがない。
 訪ねて来たのははるだろう。この日、千鶴は祖父に許しをもらって、春子と遊ぶ約束をしていた。名波村の祭りへ招いてもらったお返しだ。
「だんだん。今行くけん」
 千鶴が声をかけると、新吉は蔵へ行った。残りの洗濯物を母に頼んで、千鶴が急いで店へ向かうと、帳場ちょうば辰蔵たつぞうと談笑している春子がいた。
「お待たせ。ようおいでたね」
 千鶴が声をかけると、春子はうれしそうに手を振った。
「ここは初めてやけん、どきどきしよったけんど、ばんとうさんが優しいけんよかった」
 いえいえと辰蔵は照れ笑いをしたが、この番頭さんはほんまに優しいんよと、千鶴は辰蔵を持ち上げた。辰蔵は当惑の笑みを見せながら、あとは奥でごゆっくりと言った。
 辰蔵の向こうではしちが街の太物ふともの屋からの注文書を確かめている。千鶴が来ても顔も上げないし声もかけない。これがしちであれば、忙しい中であっても愛想よく声をかけてくれる。
「ほれじゃあ、お邪魔します」
 春子は辰蔵に頭を下げ、弥七にも声をかけた。辰蔵は笑顔で応じたが、弥七は注文書をにらんだまま返事もしない。辰蔵に注意されて、ようやく申し訳程度に頭を下げたが、すぐにまた注文書へ目を戻した。
 弥七は昔から素っ気ないのだが、それでも千鶴は面白くなかった。春にだいに昇格したばかりだが、もう半年は経っているのだ。手代として周囲への気配りは必要だろう。
 とはいえ、いずれとうきょうの仕事が再開して茂七が向こうへ出されれば、松山まつやまの手代は弥七一人になる。新たな手代を祖父がどうするつもりかはわからないが、弥七はまだ一人ですべてを背負う自信がないのだろう。千鶴たちに構ってなどいられないのである。

 蔵から戻った新吉が、抱えていた木箱を弥七のそばに置いた。これから町の太物屋へ届ける品だ。大八車は一台しかないので、午前中に茂七と弥七が交代で、それぞれが受け持つ太物屋へ注文の品を届ける。今は茂七が亀吉かめきちを連れて出ているところだ。
 弥七に次の品を命じられた新吉は、またぱたぱたと蔵へ走って行った。
 学校は日曜日が休みだが、商家しょうかに日曜日は関係ない。使用人が仕事を休めるのは盆と正月のやぶ入りと、給金がもらえる毎月の一日ついたちだけだ。といっても新吉たちでっには給与は出ず、一日ついたちであっても雑用などの仕事がある。その話を千鶴から聞かされていた春子は、まだ幼さの残る新吉の働きぶりに感心しきりだった。

     二

 千鶴は春子を家の中へいざなうと、茶の間にいる祖父母に会わせた。
 甚右衛門じんえもんとトミは頭を寄せ合いながら算盤そろばんはじいていた。関東かんとうの大地震で受けた打撃の穴埋めをどうするかで、二人はよく言い争いをした。この時も口論が始まりそうだったが、春子に気づくと慌てて笑顔を見せ、祭りで千鶴が世話になったことを感謝した。
 実際は風寄かぜよせでいろいろあったわけで、春子は甚右衛門たちの応対に少しまどっていた。それでも千鶴に祭りへ出向く許しを出してもらえた礼はきちんと述べた。
 トミは千鶴を招き寄せると素早く銭を持たせ、あとで二人で何か食べるように言った。
 祖母がづかいをくれるなどめっにないことだ。有り難くいただきはしたものの、千鶴は少し薄気味悪い気がした。
 上がりかまちを拭いていたはなが微笑んでいる。千鶴がトミに優しくしてもらったのが嬉しいみたいだ。
 新たな木箱を抱えた新吉が蔵から戻って来て、そのまま帳場ちょうばへ行った。新吉がいなくなると、千鶴は花江に春子を紹介した。花江は手を休め、笑顔で春子に話しかけた。
「千鶴ちゃんから風寄のお祭りの話、聞かせてもらったよ。あたしも風寄のお祭りにいつか行ってみたいな」
「ぜひおいでてつかぁさい。ところで、花江さんはどこからおいでたんですか?」
 春子は花江の言葉が気になったようだ。花江はにこやかに、とうきょうだよと言った。
「先月初めの大地震でさ。家もお店も壊れるし、そのあと大火事になっちゃって、きれいさっぱりなくなっちまった」
 花江は笑ったが涙ぐんでしまい、悲しみをこらえるように唇をみしめた。けれど、すぐに笑顔に戻ると話を続けた。
「うちはここと取引があった太物ふともの問屋だったんだ。ばんとうさんは去年まで東京にいたんだけどさ。今年から交代で東京をまわってた人と連絡が取れなくなったから、東京まで様子を見に来たんだよ。それで、あたしらみたいな取引先の所も一軒一軒廻ってくれたんだ」
「さっき、おらがしゃべっとった番頭さん?」
 帳場を振り返った春子に、そうだよと花江は言った。
「番頭さん、路頭に迷ってたあたしを見つけてくれてさ。まつやまにおいでって言ってくれたんだ。他にも困った人はいっぱいいたのに、そんなこと言ってもらえたあたしは恵まれてたんだね。あたしを働かせてくれただんさんやおかみさんにも感謝しかないよ」
 花江が甚右衛門とトミを見ると、春子も二人に顔を向けた。甚右衛門は当惑しながら、事情を聞いたら放っておけなかったと言った。トミも横でうなずいている。
 そんな祖父母を見ると、千鶴は少し胸がうずいた。本当は二人とも情が深いのだろう。それだけに、自分が冷たくされてきたことが千鶴は悲しかった。
 しかし、花江に嫉妬しているわけではない。千鶴にしても花江は本当に気の毒だと思っている。それに鬼のわざではあっても、ここのところの祖父母は比較的優しく見える。そのせいか祖父母が他人に優しくするのを見ても、さほど悲しくはならなかった。

 千鶴たちが喋っている間、新吉は帳場と蔵の間を行ったり来たりしていた。それで少し疲れたのか、蔵から戻って来た新吉は抱えた木箱が重そうだ。入った頃と比べるとだいぶたくましくなったが、それでもまだ子供のでっが一人で荷物を運ぶのは難儀なことだ。せめて、もう一人丁稚がいればいいのにと千鶴は思うのだが、今はどうにもならない。
 新吉が帳場へ姿を消すと、その時に東京廻りをしていた人はどうなったのかと、春子がたずねた。
 千鶴は甚右衛門たちを気にしながら小声で言った。
「亡くなったんよ。ほじゃけん、あっちで荼毘だびしておこつになってんて来たんよ。そげなことも全部番頭さんがやってくんさったんよ」
「ほうなん。とわとこのことやけんど、大事おおごとやったんじゃね。ほんでも番頭さん、今年こっちへんておいでんかったら、番頭さんが亡くなっとったかもしれんのじゃね」
 それは春子の言うとおりで、誰が助かって誰が死ぬかは運としか言いようがない。

 以前はだいが四人いた。一人は東京を廻り、三人が松山にいた。ところが七年前、手代の一人がやぶ入りに戻った故郷でコレラにかかって死んだ。翌年には、東京廻りの手代が結核にかんしているのがわかり、静養するために仕事を離れて松山の病院に入院した。
 そこで当時手代だった辰蔵が東京へ送られ、松山は勇七ゆうしちという手代一人だけになった。仕方がないので、甚右衛門はまだ丁稚だった茂七を使って、なんとか手代不足を補った。
 その次の年には、少し早めに茂七を手代に昇格させたが、今度はスペイン風邪で先代の頃からいた番頭が死んだ。山﨑機織のかなめである番頭の死は、かなりの痛手となった。
 たび重なる不幸に心折れそうになりながら、甚右衛門は神社で厄払いをしてもらい、番頭になれる者が出て来るまでと帳場に座った。結核で静養となった手代が戻ることが期待されたが、結局はこの手代も亡くなった。
 急いで人員をそろえる必要に迫られた甚右衛門は、今年弥七を手代に昇格させ、東京から辰蔵を呼び戻して番頭にえた。代わりに勇七を東京へ送り込んだが、厄払いのもなく勇七は大地震の犠牲となった。弥七が手代になっていなければ、辰蔵はそのまま東京に残っていたはずで、地震の犠牲になったのは辰蔵だったかもしれなかったのだ。

「人の運命なんてわかんないもんさね。番頭さん、亡くなった人は自分の身代わりになって死んだんだって、大泣きしてたよ」
 花江がしんみり言った。でもすぐに、ごめんよと笑顔を見せた。
「せっかく遊びに来てもらったのにさ。暗い話になっちまったね。あとでお茶をれてあげるからさ。もうちょっと待ってておくんなね」
 だんだん、花江さん――と言い、千鶴は春子を奥庭へ連れて行った。すると、新吉が蔵から反物の箱を抱えて出て来た。
 基本的に蔵の品の出し入れは丁稚の仕事だが、茂七は手がいていれば一緒に運ぶ。けれど、弥七は急ぎでなければ手伝わない。自分もそうやって来たという思いがあるのだろうが、人手が足らないのだから少しぐらい手伝ってやればいいのにと千鶴は思う。
 それでも新吉にしても亀吉にしても、文句を言わずに働いてくれる。そのけなな姿がいじらしい。偉いねぇと春子に褒められ、新吉は嬉しそうにしながら家の中へ入った。

 千鶴たちに気がついた幸子は洗濯の手を止め、春子をにこやかに迎えてくれた。
「先日は千鶴がえらいお世話になりました。狭いとこなけんど、今日はゆっくりしておいでなさいね」
 恥ずかしげにうなずく春子を、千鶴は蔵へ案内した。中の棚にはずらりと反物の木箱が積み上げられており、仕入れ先ともんようごとに分けられてある。
「うわぁ、がいじゃねぇ。これ、全部かすりが入っとるん?」
 目を丸くした春子は名波村の絣を探し始めた。しばらく薄暗い中で順番に生産地を確かめ、あった!――と春子が喜びの声を上げると、新吉が木箱を抱えて戻って来た。
「あれ? 箱間違えたん?」
 千鶴が訊ねると、新吉は箱を棚の上に載せて口早に言った。
「仕入れの品が届いたんよ。ほじゃけん、届けの品はあとやし」
 新吉は急いで蔵を出て行ったが、本当に忙しくて大変そうだ。邪魔になるので千鶴たちも蔵から出た。

 ゆっくりできるのは離れの部屋だけなので、千鶴は春子と一緒に再びおもに戻った。
 千鶴が祖父母に声をかけて茶の間に上がろうとすると、帳場から箱を抱えて来た新吉が奥庭へ行った。
 千鶴がひょいと帳場の方を見ると、店と中を仕切る暖簾のれんの下から表の通りが見えた。店の前には牛車ぎっしゃがあり、牛の尻尾がゆらゆら揺れている。
 暖簾で顔は見えないが、仲買人と思われる男が牛車から木箱を帳場へ運び込んでいる。その中身を弥七が確かめ、確かめ終わった木箱を新吉がせっせと蔵へ運ぶのだ。
 忙しい新吉の姿は、千鶴に後ろめたさを感じさせた。しかし、この日は特別だと自分に言い聞かせて、春子を離れの部屋へ案内した。

     三

「へぇ、こげな自分らの部屋があるんや」
 春子は珍しげに部屋の中を見まわした。
 風寄かぜよせの実家には、春子だけが使える部屋はない。寝る時は他の者と同じ部屋で寝る。千鶴が泊めてもらっていたならば、やはり春子たちと同じ部屋で寝ることになっていた。
 だから千鶴と幸子に自分たちの部屋があることが、春子にはうらやましく見えるのだろう。だが実態はロシア人の娘である千鶴と、千鶴を産んだ幸子がけがらわしいということで、おもとは離れたこの部屋に置かれているのだ。ただ、離れ自体は千鶴たちのために建てたものではない。ずっと昔に建てられたものだ。
 甚右衛門は元々は山﨑家の者ではなく、外から婿入りをした。そうして甚右衛門がこの家を継いだ時に、この離れはトミの両親の隠居部屋として使われた。つまり千鶴のそう祖父母の部屋だったのだが、その前はこう祖父母が使い、曾祖父母が亡くなったあとは、幸子の兄正清まさきよが使っていた。
 これまで千鶴は春子を祭りに誘ったり、春子と街へ出かけることはあった。だけど自分の部屋へ入れたのは、これが初めてだった。
 家と店は一体となっているので、すべては商いが中心だ。気軽に誰かを家に呼び入れるなど許されない。それに、千鶴も家の中を他人に見せたくなかった。今回春子を家の中へ招いたのは特別なことだ。
番頭ばんとうさんらは、どこに寝泊まりするん?」
「お店の上に部屋が三つあるけん、番頭さん、花江さん、ほれからだいでっの人らで使つことるんよ」
「ええなぁ。おらんとこひらじゃけん、二階には憧れとるんよ。自分の部屋はあるし、二階はあるし、やっぱし町の暮らしは違わいねぇ」
 いくら羨ましがられても、千鶴は一つもうれしくない。それに春子の家の方がここよりはるかに広いし、蔵だって大きい。曾祖母が使っている離れもあるし、電話だってある。春子の言葉は半分以上お世辞のように聞こえてしまう。
 千鶴は適当に愛想を振りきながら、井上いのうえ教諭の話に話題を変えた。というのは、井上教諭に思いがけないことが起こったからだ。
「ほれにしても、井上先生、お気の毒じゃったね」
 千鶴の言葉に、春子は大きくうなずいた。
「ほんまじゃねぇ。まっことお気の毒じゃった」

 先週の火曜日、警察から井上教諭に連絡が来た。風寄で宿代を踏み倒そうとした男の身元引受人として呼ばれたのである。
 警察に捕まった男は井上教諭の叔父ということだった。それで教諭はその日の午後の授業を休ませてもらって、きゅうきょ風寄へ向かった。
 もちろんそんな内輪の、しかも恥になる話を、井上教諭が生徒たちにしゃべったりはしない。この話は寮の食事を作ってくれる食堂のおばさんたちから春子が聞いたものだ。
 その話によれば、井上教諭の叔父だというその男は、風寄の祭りを夫婦で見に行っていたらしい。その間、二人は北城町きたしろまちの宿屋に泊まっていたが、祭りが終わった翌朝に、まず女房が姿を消した。そのあと亭主すなわち教諭の叔父が逃げ遅れたところを捕まったのである。
 しかし、教諭の叔父は一緒にいたのは女房などではなく、自分は女にだまされたのだと訴えたそうだ。言い分としては、仕事でとうきょうから高松たかまつに移って来たので、はまにいるおいに面会に行ったのだという。女とはまつやまから乗った客馬車で知り合ったらしい。
 この話を聞いた千鶴は、もしやと思った。客馬車で一緒になったやまたかぼうの男の話によく似ていたからだ。祭りの夜にもあの男が二百三高にひゃくさんこうの女と一緒にいるところを、春子と目撃している。春子も自信を持って、絶対にあの山高帽の男だと断言した。
 あの時、千鶴たちは月曜日の授業があるので、日曜日のうちに松山へ戻って来た。だが風寄の祭りは、輿こしの投げ落としが終わりではなかった。翌日には鹿しまから海を渡って来た二体の神輿が北城町や浜辺の村を練り歩き、港では前夜遅くまでだんじりが集結してにぎやかに神輿を迎えていた。
 神輿はぎょが終わると、みそぎといってけがれを落とすために川や海に何度も豪快に投げ入れられる。そのあと神輿は船に乗せられて、迎え火がかれた鹿島へ帰って行くのだが、神輿の船を先導する船の上では、男たちが夕日を浴びながら勇壮な舞を披露する。
 この二人はこの鹿島の神輿までも楽しんだようだ。そして翌朝、女は教諭の叔父の財布を持って姿をくらました。教諭の叔父は呼ばれた警官に無実を訴えたが、結局は宿代の踏み倒しということでしょっ引かれ、おいである井上教諭が呼ばれたのだった。
 井上教諭は風寄へ向かう前に、叔父が泊まった宿代や、叔父が高松へ戻る費用などを工面する必要があった。それで教諭は給料を前借りしたという話だ。
 井上教諭にしてみれば、自分にはまったく関係のないことで、とんだ身内の恥をさらになったわけだ。しかも警察や宿屋の主人に下げなくていい頭を下げ、学校にも迷惑をかけたことをび、給料の前借りまでしたのである。
 千鶴たちは水曜日に井上教諭の姿を見かけたが、教諭はげんなりしてがなかった。給料を前借りしたら来月はどうやって暮らすのだろうと、千鶴たちは教諭の暮らしを心配した。だが女に騙された教諭の叔父のことは、少しも気の毒だとは思わなかった。あんな見るからに怪しい女に騙されるのは、男が悪いというのが二人の出した結論だ。
 千鶴たちはこの話を知らないことになっているので、井上教諭に慰めの言葉もかけられない。こうして二人で気の毒がるのがせめてものことだった。

     四

「ずいぶん盛り上がってるじゃないの」
 お茶とお菓子を運んで来てくれた花江が楽しげに言った。
 花江は千鶴たちの分だけでなく、自分の分まで持って来ていた。二人の話に交ざって少し一服しようというのだろう。
 春子はここだけの話と言いながら、花江に井上教諭と山高帽やまたかぼうの男の話をした。すると、やはり花江は井上教諭を気の毒がり、教諭の叔父には毒づいた。
「ほんっと男って馬鹿なんだから。そんなのを自業自得っていうんだよ。だけどさ、その先生もほんとにお気の毒だねぇ」
 花江は千鶴たちがお菓子を食べていないのに気づくと、早く食べるよううながし、話は違うけどさと言った。
風寄かぜよせじゃあ、お祭りの最中にあっちこっちで空き巣が入ったらしいね。新聞に書いてあったよ」
「へぇ、花江さん、新聞を読みんさるんじゃね。おらなんか全然読まんけん、尊敬するぞなもし」
 春子に褒められて、花江は照れた。
「そんな大層たいそうなものじゃないよ。だんさんが読み終わったのを、あとでこっそり読ませてもらってるんだ」
 花江に感心しながら、春子は千鶴に言った。
「覚えとる? あの二百三高にひゃくさんこうの女の隣に、鳥打帽とりうちぼうかぶった若い男がおったろ? あれ、なんか怪しいことない?」
「怪しいて?」
「ほやけん、花江さんが言いんさったじゃろ? 祭りん時にあちこち空き巣が入ったて」
 千鶴が鳥打ち帽の男のことで覚えているのは、ちらちらと自分を盗み見していたことぐらいだ。しかし、男が客馬車を降りる時のことが頭に浮かぶと、あ――と言った。
「あの人、あの女の人と目で合図しよったみたいに見えたで」
「じゃろげ? あいつら絶対にぐるぞな」
 花江が千鶴と春子の顔を見比べながら言った。
なんだいなんだい、二人とも空き巣を見たっていうのかい?」
 ほういうわけやないけんどと、千鶴は少し口を濁した。
「ほうかもしれん人と、おんなし馬車に乗り合わせたんよ」
「そいつが鳥打帽をかぶった若い男なんだね? 二人ともすごいじゃないか。警察に教えてあげなよ」
「ほやけど、鳥打帽かぶった人なんか、なんぼでもおるけん」
 千鶴が自信なく言うと、花江は素直にうなずいた。
「まぁ、それもそうだけどさ。あたしゃ鳥打帽の男には気をつけとくよ。それと二百三高地の女だね」
 花江は自分の茶菓子を食べると、急ぐようにお茶を飲んだ。

 さてと――と腰を上げた花江は、気合いの入った顔を見せた。
「そろそろ仕事に戻んなきゃね。千鶴ちゃんたちはこのあとはどうすんだい?」
「ちぃと街に出てみよかて思いよるんよ」
「そりゃいいや。ゆっくり楽しんでおいでよ」
 花江はお盆を持つと部屋から出ようとした。ところが障子しょうじを開けたところで、千鶴たちを振り返った。
「そうそう。いい機会だから教えとくれよ。風寄の祭りの晩にでっかいイノシシの死骸が見つかったって、新聞に出てたんだけどさ。あれ、本当かい?」
 千鶴はぎくりとしたが、春子は満面に笑みを広げ、ほんまぞなもしと声を弾ませた。
 花江は目を輝かせると、千鶴たちの所へ戻って来た。
「見たのかい?」
「おらたちは見とらんけんど、男の人が両腕広げても、まだ足らんぐらいおおけなイノシシじゃったと」
 花江は自分で両手を広げながら、へぇと言った。
 春子は静子の伯父の話も、花江に聞かせてやった。その話も新聞に載っていたみたいで、あの話かいと花江は驚いていた。
 同じ話でも、記事で読むのと関係者から聞かされるのとでは、やはり迫力が違うらしい。花江はずっと眉をひそめながら、春子の話を聞いていた。静子の伯父の仲間が殺された様子には、花江は小さく身震いをしながら、くわばらくわばらと言った。
「二人とも、そのイノシシに出くわさなくてよかったねぇ。もし出くわしてたらさ、今頃あの世行きだよ」
 何も言えない千鶴の横で、ほんまほんまと春子はうなずいた。花江はもう一度眉を寄せると、でもさと言った。
「そのイノシシは死んでたんだろ? 新聞には何かに頭をやられたってあったけどさ。あれ、どういうことなんだい?」
 千鶴はそんな話はしたくなかったが、春子は得意げにイノシシの死にざまなどを説明した。学校でもそうだったが、春子はあそこで千鶴がどうなったかなど忘れているらしい。
「本当にそんなことがあるのかい?」
 花江は信じられないという顔で千鶴たちを見た。
「そんな大きなイノシシの頭を潰したのが、岩でも木でもないとしたら、そりゃ、とんでもない化け物じゃないか! 風寄には昔からそんな化け物がんでるのかい?」
「いや、そげな話は聞いたことが――」
 言葉を切った春子が口を半分開いたまま千鶴を見たので、花江も千鶴に目を向けた。
なんだい? 千鶴ちゃんが何か知ってるのかい?」
「うち、なんも――」
 千鶴はとぼけようとしたが、がんごかもと春子が言った。花江は動転したように目をいた。
「がんご? がんごってしんちゃんが言ってたね。確か、鬼のことだろ?」
 千鶴が渋々うなずくと、花江は興奮した様子で、風寄には鬼がいるのかと言った。
 答えられない千鶴は黙っていたが、春子がひぃばあやんから聞いた話だとしゃべり始めた。
「だいぶ昔のことなけんど、おらのひぃばあやんのおとっつぁんが……、えっと、ほじゃけん、おらのひぃひぃじいやんがな、浜辺でおおけながんごを見たらしいんぞなもし」
 人間よりずっと大きな鬼が、浜辺で大勢の侍と戦って皆殺しにしたあと、大きな黒い船に乗って海へ逃げたと、春子はまことしやかに語った。
 知念和尚の話では、侍たちと戦ったのは代官の息子なのだが、春子はそのことには触れなかった。また千鶴をづかってか、鬼娘がんごめの話もしなかった。
 花江は驚きのあまりすぐには言葉が出せず、うろたえながら言った。
「そ、それはほんとかい? 風寄にはそんな鬼が今もいるってことかい?」
「今まではおらんかったんやけんど……」
「いるんだね?」
 春子はちらりと千鶴を見てから、今年の八月の台風で鬼よけのほこらが壊れたと言った。
がんごよけの祠?」
がんごが二度と村にんて来んように、おらのひぃひぃじいやんがこさえたんぞなもし」
「その祠が壊れたって言うのかい? それは一大事じゃないか。イノシシを殺したのは絶対に封じられてた鬼さ。早く祠を造り直さないと大変なことになるよ!」
「ほやけど、がんごの話するんはひぃばあやんぎりやし、妙なうわさ立てられても困るけん、おとっつぁんも祠を直すぃはないみたいな」
 自信なさげな春子に、花江は言った。
「イノシシの話がなかったら、鬼の話はひいおばあちゃんの妄想っていえるかもしんないけどさ。実際、イノシシが頭潰されて死んだんだろ? 鬼でなかったら、他に何がイノシシの頭を潰せるっていうんだい?」
「そがぁ言われたかて……」
 春子は助けを求める目で千鶴を見た。話を打ち切りたい千鶴は、動揺を隠して花江を落ち着かせようとした。
「風寄ではがんごのことも鬼よけの祠のことも、むらかみさんのひぃおばあちゃんの他は誰っちゃ知らんのよ。ほじゃけん、イノシシのこともこっちで思うほどは、みんな気にしとらんみたいなんよ」
「だって、大変なことじゃないか」
「ほんでも向こうの人がなんとも思とらんうちは、どがぁもしようがないけん。ほれにがんごがイノシシを殺す理由もわからんし」
 本当はわかっているが、それは言えない。
「そりゃ、そうだけどさ」
 花江は納得がいかない様子だった。しかし、ここであれこれ騒いだところで仕方がないので話をやめた。

 花江さん――奥庭で花江を呼ぶ声が聞こえた。亀吉だ。品納めから戻ったらしい。
「また誰かが来たみたいだね。今日は忙しいよ」
 花江はお盆を持って部屋を出て行った。
 ようやく鬼の話が終わり、千鶴がほっとしていると春子が言った。
「花江さんて元気なお方じゃねぇ。先月、家族やお店をさした人とは思えんぞな」
「あがぁしとらんと、悲しいてめげそうになるんよ。東京とうきょうの話した時に泣きそうな顔しておいでたろ? まっことつらい思いをしたお人じゃけん、うちなんかのこともよう励ましてくれるんよ」
 春子はおもの方へ顔を向けながら言った。
「ええお人なんじゃねぇ」
「ほうよほうよ。花江さんはまっことええお人ぞな」
「ええお人いうたら、あのふうさんはどがいしておいでようか」
 風寄から戻って来た翌日に、春子は風太への感謝の気持ちを千鶴には喋った。でも静子には風太の話はしなかったし、級友たちの前で風太を話題にすることはなかった。なのにここで突然風太の話を出したので、千鶴は鬼のことも忘れるほど慌てた。
 もちろん忠之がどうしているのかは気にはなっている。けれど、それは春子と一緒に考えることではない。
「さぁ、どがいしとろうか」
 千鶴は無関心を装ったが、春子はまた風太さんに会いたいと言い続けた。忠之のことがかなり気に入ったのだろう。でも、千鶴はそんな話は聞きたくなかった。それで、そろそろ街に出かけようかと持ちかけると、行く行くと春子は満面の笑みになり、いそいそと腰を上げた。やれやれと思った千鶴は、春子に背を向けて小さくため息をついた。

     五

 離れを出て渡り廊下から奥庭を眺めると、物干しに洗濯物が掛けられていた。洗濯を母一人に押しつけてしまったことを、申し訳ないと思いながら千鶴はおもへ入った。
 幸子は台所にいて、昼飯の準備を始めていた。
 甚右衛門はどこかへ出かけたらしい。茶の間ではトミが一人で新聞を眺めている。そのそばでは、花江がばちのお湯でお茶をれていた。やはり表に誰かが来ているようだ。
「おばあちゃん、村上さんと街に出かけて来ます」
 千鶴が声をかけるとトミは顔を上げ、ゆっくりしておいでと笑顔で言った。その笑顔にどきりとした千鶴に、振り返った幸子が言った。
「お昼はどがぁするんね? お友だちの分もこさえよ思いよったけんど」
 千鶴はちらりとトミを見て言った。
「おばあちゃんからおづかいもろたんよ。ほじゃけん、なんぞ食べて来るけん」
「おばあちゃんがお小遣い?」
 幸子はいぶかしげにトミを見たが、トミは何も聞こえていないふりをして新聞を読んでいる。ふっと笑った幸子は、ておいでと言った。
 千鶴が花江にも声をかけて土間へ降りると、春子もみんなに挨拶をしながら続いた。
 何気なくちらりと店の方に目をった千鶴は、あれ?――と思った。暖簾のれんの下から表の荷車が見える。しかし荷車を引く牛がいない。ということは、荷車は大八車だいはちぐるまのようだ。
 遠方から反物を運ぶには牛車ぎっしゃを用いる。大八車は人が引くので、近場でしか使わない。
 松山まつやまの町中にも伊予いよがすりを作っている所はある。そんな近い所であれば大八車を使うだろうが、山﨑機織やまさききしょくが仕入れているのは、遠方の百姓や漁師の女たちが作ったかすりばかりだ。荷物を運んで来るのは牛車に決まっていた。
 弥七たちが注文の品を届けに行くのかと思ったら、木箱を抱えて入って来たのは亀吉だ。弥七たちはすでに外へ出たようだ。それに花江がお茶を淹れているのだから、やはり仲買人の大八車だろう。祖父は近場からも絣を仕入れることにしたのかもしれない。
 外で亀吉に木箱を手渡しているのは仲買人のようだが、運ばれた木箱を確かめているのは辰蔵だ。茂七はどこにいるのか姿が見えない。

「どがぁしたんね? お友だちが待ちよるよ」
 帳場ちょうばを眺めている千鶴に、幸子が声をかけた。
 千鶴は店の前にある大八車のことを話そうとしたが、勝手口の前に立つ春子を見て話すのをやめた。
「お待たせ。ほんじゃ、行こか」
 春子に声をかけると、千鶴は春子と奥庭に出た。学校へ行くわけではないし、今は帳場は混み合っている。だから今日はうら木戸きどから出ることにした。
 来た時に入った所と出る所が違うので、春子は面白がりながら千鶴に従った。
 裏木戸をくぐって脇の道に出ると、春子は辺りを見まわして、自分がどこにいるのかを確かめた。それから千鶴の家を見上げ、二階に上がってみたかったと言った。
 春子はほど二階に憧れているらしく、いつか自分が嫁入りする時は、二階のある家が条件だと言った。
はんを続けるんが条件やないん?」
 千鶴がたずねると、あははと春子は笑った。
「言うてみたぎりぞな。師範になるんも嫁入りするんも、全部おとっつぁんが決めるけんな。おらはただほれに従うぎりやし。山﨑さんとこかてほうじゃろげ?」
「ほうじゃね。うちは全部おじいちゃんが決めんさるけん、おじいちゃんが決めたとおりになるんよ」
 まだ具体的には何も言われていない。だが、千鶴は祖父母が本気で自分の婿取りを考えていると思っていた。たとえその婿が鬼であろうと、祖父に命じられれば拒めない。千鶴は喋りながら己の無力さを感じていた。
「ほれにしても、こないだのふうさんはええ男やったわいねぇ」
 またもや春子が忠之の話をし始めたので、千鶴は慌てた。
 忠之の素性を知れば春子も気が変わるかもしれないが、そんなことは忠之をおとしめることになるのでできない。だけど、このまま春子が忠之への気持ちを膨らませるのは困る。どうせ鬼娘がんごめである自分は忠之に想いを伝えることはできないが、それでも春子に忠之を取られるのは嫌だった。
「そがぁにええ男やったかいねぇ」
 千鶴は素っ気なくしながら、春子の忠之への興味をごうと思った。しかし、そんなことは春子には通じない。
「風太さんは山﨑さんの好みやなかったみたいなね。山﨑さん、あんましおらみたいには風太さんとしゃべらんかったし」
 ほれはあなたがおったけんじゃろがねと、千鶴は言葉が喉元まで出かかった。
 何も知らない春子は、あんな男は他にはいないと、忠之のいい所を並べ立ててべた褒めした。いかにも忠之にれてしまったと言わんばかりだ。
 このままではまずいと思った千鶴が、何か言わねばと考えていると、裏木戸の向こうから辰蔵の声が聞こえた。

「いや、こげなことまでしてもろて、まっこと申し訳ない」
 いやいやと応じる男の遠慮がちな声もしたが、声が小さくてよく聞こえない。
にいやん、こっちぞな」
 亀吉の元気な声がした。やはり表の大八車は近場の織元おりもとからのもののようだ。男は絣を運んで来た仲買人だろう。思ったとおり、祖父は売り上げを伸ばすため新たな品を仕入れることにしたみたいだ。
 どうしてだか茂七がいないようだが、代わりにこの仲買人が反物を蔵へ運ぶのを手伝ってくれているらしい。思いがけない助っ人に亀吉がはしゃいでいる。
 今はどこの織元や仲買人も新たな商売相手を求めている。この仲買人は新たな顧客を得たことが余程うれしかったに違いない。だから亀吉を手伝ってくれたのだろうが、ずいぶんと人がい。ここまでしてくれる仲買人の話は聞いたことがない。
 春子の気持ちを忠之かららすため、どこの誰かは知らないけれど、ここまでしてくれる人はなかなかいないと、千鶴はこの仲買人を褒め上げた。すると、風太さんみたいなお人じゃねと春子は笑い、千鶴はがっくりした。

「そこのおまい!」
 突然後ろからしわがれた声が叫んだ。驚いて振り返ると、杖を突いた老婆が立っていた。真っ白な髪を束ねることもせず、ぼぉぼぉと伸ばしたままの不気味な老婆だ。
「おまいはこの家のもんか?」
 唐突で不躾ぶしつけな物言いに、千鶴はむっとした。しかし、見知らぬ者からべつの眼差しを向けられるのは珍しいことではない。言い争うのも嫌なので、ほうですと千鶴は答えた。
 なんぞご用ですかと訊ねても、老婆は何も言わずに千鶴の後ろにある裏木戸をじっとにらんだ。
なんぞな? いきなり失礼じゃろがね!」
 春子が文句を言ったが、老婆の耳に春子の声は少しも届いていない。
 老婆は千鶴に顔を戻したが、その顔はなんだか緊張でこわっているみたいだ。
「おまいにはがんごいておるの。この家にはが入り込んでおるぞ」
 老婆の言葉に千鶴は固まってしまった。それが図星であったことと、春子の前で告げられたことで声も出なかった。
「何言うんね! あんた、頭おかしいんやないん?」
 春子が声を荒らげても、老婆は一向いっこうこたえる様子がない。千鶴をじっと見つめていた目を細めると、おや?――と言った。
「どうやらおまいにも原因があるようじゃな。がんごはお前が呼び寄せたともいえるの……。ふーむ、なるほど。元々、お前と鬼は――」
 喋りながら裏木戸に目をった老婆は、急に血相を変えた。そして、そのまま黙って立ち去ろうとした。
 千鶴は反射的に老婆を呼び止めた。
「あなたは誰ぞなもし?」
 老婆は立ち止まると、千鶴を振り返った。
「わしはな、おはらいのばばぞな。この先に用があって行くとこなけんど、がんごが見えたゆえ、おまいに声をかけたまでよ」
「じゃあ、うちはどがぁしたらええんぞなもし?」
「気の毒やがな、わしはおまいの力になってやれん。お前に憑いとるがんごは一筋縄でいくやないでな。わしごときの力じゃ、どがぁもできまい。ほれに、はお前を――」
 ふと千鶴の後ろに視線を向けた老婆はぎょっとなり、慌てた様子で口をつぐんだ。まるで余計なことを言うなと、何者かにおどしをかけられたみたいだ。
 老婆は何も言わず、千鶴に背を向けると逃げるように行ってしまった。千鶴はもう一度声をかけたが、老婆は振り返りも立ち止まりもしなかった。