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奇妙な老婆


     一

 波村なみむらを訪ねてから一週間が経った日曜日、千鶴ちづは母と二人で奥庭にしゃがんで洗濯をしていた。
 さちが働いているのは個人経営の小さな病院だが、入院部屋があるため看護婦には夜勤がある。しかし、幸子は若くない上に家事を手伝うこともあり、仕事は日勤だけにしてもらっていた。
 また日曜日は病院は休診なので、入院患者の看護などは住み込みで働く若い看護婦がにない、幸子は休みとなっていた。それで、この日は千鶴と一緒に洗濯をしている。
 いろいろと鬼のことを心配していた千鶴だったが、この一週間は祖父母が妙に優しくなった以外は、特に変わったこともなかった。そのせいか、まだ不安がなくなったわけではないが、少し落ち着きを取り戻していた。
 そうなると忠之ただゆきのことが無性に気になってしまうわけで、あのあと無事に風寄かぜよせに戻れたのだろうかとか、あれから何をしているのだろうと、洗濯の手を動かしながら忠之のことばかりを考えていた。
 母から話しかけられてもうわの空で、返事も頓珍漢とんちんかんなものばかりだ。それでも母親だけあって、幸子は娘の心の内がわかるようだ。怒りもせずにあきれたように笑っている。

「千鶴さん、お友だちがおいでたぞなもし」
 勝手口で新吉しんきちの声がした。千鶴が振り向くと、新吉は珍しいお客に興奮している様子だ。そわそわした感じで落ち着きがない。
「だんだん。今行くけん」
 残りの洗濯物を母に頼むと、千鶴は急いで店へ向かった。
 訪ねて来たのははるだろう。この日、千鶴は祖父に許しをもらって、春子と遊ぶ約束をしていた。
 本当はしずも呼びたかったが、実家が菓子屋の静子は、学校が休みの日は店番を手伝わねばならなかった。それに今回は、名波村の祭りへ招いてもらったお返しの意味もある。それでこの日は春子一人だけの招待となった。
 千鶴が帳場ちょうばへ行くと、春子は辰蔵たつぞうと談笑していた。千鶴に気がつくと、春子はうれしそうに手を振った。
 学校は日曜日が休みだが、商家しょうかに日曜日は関係ない。使用人が仕事を休めるのは盆と正月のやぶ入りと、給金がもらえる毎月の一日ついたちだけである。
 とは言っても丁稚でっちには給与は出ず、一日ついたちであっても雑用などの仕事がある。給与と休みがもらえる身分になるには、がんばってだいに昇格するしかない。
 春子がしゃべっていた辰蔵の向こうで、しちが町の太物ふともの屋からの注文書を確かめている。これから大八車でだいはちぐるま 品を届けるのだ。
 大八車は一台しかないので、午前中に茂七と弥七で交代で、それぞれの受け持つ太物屋へ品を運ぶことになっている。それで今は茂七もしちが先に亀吉かめきちを連れて、得意先へ注文の品を届けに出ていた。
 茂七が戻れば、今度は弥七が新吉と二人で外へ出る。そのため、あらかじめ大八車に載せる品を用意しておくのだが、仕入れの品も運ばれて来るので、それの確認や蔵への仕舞い込みもしなければならない。ぼんやりしている暇はないのである。
 千鶴が来たのがわかっても、弥七はちらりと見ただけで声もかけようとしない。これが茂七だったら忙しい中であっても、千鶴が来れば愛想よく声をかけてくれる。
 弥七は昔から千鶴に対して素っ気ない。嫌な態度を見せるわけではないが、できれば関わりたくないような雰囲気がある。
 しかし、弥七を責めるわけにはいかない。弥七は千鶴と歳が同じで、今年手代に昇格したばかりだ。それに対して、茂七は弥七よりも四つ年上で、手代の経験年数も長い。仕事に余裕があるのは当たり前だった。
 いずれとうきょうの仕事が再開すれば、茂七は東京へ出されるだろう。そうなると松山まつやまの手代は弥七一人になってしまう。新たに手代を増やす必要があるのは千鶴でもわかるが、祖父がどうするつもりなのかはわからない。
 何にしても、まだ半人前の弥七は早く一人前にならねばならず、必死のはずである。千鶴に構ってなどいられないのだ。
 
 千鶴は春子を家の中へいざなうと、茶の間にいる祖父母に会わせた。
 二人は角を突き合わせるようにしながら、算盤そろばんはじいていた。関東の大地震で受けた打撃の穴埋めをどうするかで、甚右衛門じんえもんとトミはよく言い争いをしていた。
 この時も言い争いが始まりそうだったが、春子が来たことで二人は慌てたように笑顔を見せた。そして、祭りの時に千鶴が世話になったことを春子に感謝した。
 実際は風寄でいろいろあったわけで、春子は甚右衛門たちの応対に少し困ったようだった。それでも千鶴に祭りへ出向く許しを出してもらえた礼をきちんと述べた。
 トミは千鶴を招き寄せると素早く銭を持たせ、あとで二人で何か食べるように言った。
 祖母がづかいをくれるなど、千鶴には生まれて初めてのことだ。有り難くいただきはしたものの、少し薄気味悪い気持ちもあった。
 上がりかまちを拭いていたはなは、その様子をにこにこしながら見ている。千鶴がトミに優しくしてもらったのが嬉しいようだ。
 帳場から新吉が走って来ると、そのまま奥庭の蔵の方へ行った。弥七に言われて、太物屋へ納める品を取りに行ったのだろう。
 新吉がいなくなると、千鶴は花江にも春子を紹介した。花江は手を休めると、笑顔で春子に話しかけた。
「千鶴ちゃんから風寄のお祭りの話、聞かせてもらったよ。あたしもさぁ、ほんとはお祭りに行きたかったんだよ」
「あの、花江さんはどこからおいでたんですか?」
 花江の言葉が気になったのだろう。春子がたずねると、東京から来たと花江は答えた。
「先月初めの大地震でさ。家もお店も壊れるし、そのあと大火事になっちゃって、きれいさっぱりなくなっちまった」
 花江は笑ったが涙ぐんでしまい、悲しみをこらえるように唇をみしめた。しかし、すぐに笑顔に戻ると話を続けた。
「うちはここと取引があった太物問屋だったんだよ。去年まで今の番頭ばんとうさんが東京のお店まわりをしてたんだけどさ。あたしが地震と火事で路頭に迷っているところに、あの番頭さんが来てくれたんだよ」
「さっき、おらが喋っとった番頭さん?」
「そうだよ。今年から東京を廻ってた人と連絡が取れなくなったからって、様子を見に来たんだけどさ。あたしらみたいな取引先のこともね、一軒一軒廻ってくれたんだ。そうは言っても、すべての人を助けるなんてできないからね。だから、ここで暮らすよう言ってもらえた、あたしは恵まれてたのさ」
 花江が甚右衛門とトミを見ると、春子も二人に顔を向けた。甚右衛門は困ったように笑い、事情を聞いたら放っておけなかったと言った。トミも横でうなずいている。
 そんな祖父母を見ると、千鶴は少し胸がうずいた。
 本当は二人とも情が深いのだろうと千鶴は考えている。それだけに、自分が冷たくされて来たことは悲しかった。
 しかし、花江に嫉妬しているわけではない。千鶴にしても花江は本当に気の毒だと思っている。それに鬼のわざではあるだろうが、ここのところの祖父母は比較的優しく見える。だから、祖父母が他人に優しい様子を見ても、今日はそれほど悲しくはならなかった。
 そこへ反物の箱を重そうに抱えた新吉が、奥庭から戻って来た。
 毎日のことではあるけれど、まだ子供の丁稚が一人で荷物を運ぶのは難儀なことだ。せめて、もう一人丁稚がいればいいのにと千鶴は思うのだが、今はどうにもならない。
 新吉が帳場へ行くのを見送ったあと、その時に東京廻りをしていた人はどうなったのかと、春子が訊ねた。
 千鶴は甚右衛門たちを気にしながら小声で言った。
「亡くなったんよ。ほじゃけん、あっちで荼毘だびしておこつになってんて来たんよ。そげなことも全部番頭さんがやってくんさったんよ」
「ほうなん。とわとこのことやけんど、大事おおごとやったんじゃね。ほんでも番頭さん、今年こっちへんておいでんかったら、番頭さんが亡くなっとったかもしれんのじゃね」
 それは春子の言うとおりだった。
 以前は手代が四人いた。一人は東京を廻り、三人が松山にいた。
 ところが七年前、やぶ入りで故郷に戻った手代が、そこでコレラにかかって死んだ。また翌年には、東京を廻っていた手代が結核にかんしているのがわかり、静養するために仕事を離れて田舎へ戻った。
 そこで当時手代だった辰蔵が東京へ送られ、松山は勇七ゆうしちという手代一人だけになった。仕方がないので、甚右衛門はまだ丁稚だった茂七を使って、何とか手代不足を補った。
 その次の年には、少し早めに茂七を手代に昇格させたのだが、今度はスペイン風邪で番頭が死んだ。古くからいる番頭だったので、その死はかなりの痛手となった。
 たび重なる不幸に心折れそうになりながら、甚右衛門は番頭になれる者が出て来るまでと再び帳場に座った。
 結核で静養となった手代が戻ることが期待されたが、結局はこの手代も亡くなった。
 それで今年、甚右衛門は弥七を手代に昇格させ、東京から辰蔵を呼び戻して番頭にえた。代わりに勇七を東京へ送り込んだのだが、勇七は大地震の犠牲となった。
 弥七が手代になっていなければ、辰蔵はそのまま東京に残っていたはずだった。そうなっていたら、地震の犠牲になったのは辰蔵だったかもしれなかったのだ。

 また新吉が奥庭へ走って行った。運ぶ箱はいくつもあるから大変である。
「人の運命なんてわかんないもんさね。番頭さん、亡くなった人は自分の身代わりになって死んだんだって、大泣きしてたよ」
 花江がしんみり言った。しかしすぐに、ごめんよ――と笑顔を見せた。
「せっかく遊びに来てもらったのにさ。暗い話になっちまったね。あとでお茶をれてあげるからさ。もうちょっと待ってておくんなね」
 だんだん、花江さん――と言い、千鶴は春子を奥庭へ連れて行った。すると、新吉が蔵から反物の箱を抱えて出て来た。
 基本的に蔵の荷物の出し入れは丁稚の仕事だが、茂七は手がいていれば、自分も一緒に荷物を運ぶ。しかし、弥七はまだそんな余裕がないのか、急ぎでなければ丁稚を手伝うことはしない。自分もそうやって来たという想いがあるのかもしれないが、人手が足らないのだから少しぐらい手伝ってやればいいのにと千鶴は思う。
 それでも新吉にしても亀吉にしても、文句を言わずに働いてくれる。そのけなな姿がいじらしい。
「偉いねぇ」
 春子に褒められると、新吉は嬉しそうにしながら走って行った。
 千鶴たちに気がついた幸子は洗濯の手を止め、春子をにこやかに迎えてくれた。
「先日は千鶴がえらいお世話になりました。狭いとこなけんど、今日はゆっくりしておいでなさいね」
 恥ずかしそうにうなずく春子を、千鶴は蔵へ案内した。
 蔵の中には反物の木箱がたくさん積まれてある。どれが名波村から届いたかすりだろうかと、春子は楽しげにそれらの箱を眺めた。
 そこへ新吉がやって来たのだが、木箱を抱えている。
「あれ? 箱間違えたん?」
 千鶴が訊ねると、新吉は箱をたなの上に載せて口早に言った。
「仕入れの品が届いたんよ。ほじゃけん、届けの品はあとやし」
 それだけ言うと、新吉は急いだ様子で蔵を出て行った。本当に忙しくて大変そうだ。邪魔になるので千鶴たちも蔵から出た。
 ゆっくりできるのは離れの部屋だけなので、千鶴は春子と一緒に再びおもに戻った。それから甚右衛門たちに声をかけ、茶の間に上がろうとすると、帳場から箱を抱えて来た新吉が奥庭へ行った。
 千鶴がひょいと帳場の方を見ると、店と中を仕切る暖簾のれんの下から表の通りが見えた。店の前には牛車ぎっしゃがあり、牛の尻尾がゆらゆら揺れている。
 暖簾で顔は見えないが、仲買人と思われる男が牛車から木箱を帳場へ運び込んでいる。その中身を弥七が確かめ、確かめ終わった木箱を新吉がせっせと蔵へ運ぶのだ。
 忙しい新吉の姿は、千鶴に後ろめたさを感じさせた。しかし、この日は特別だと自分に言い聞かせ、千鶴は春子を離れの部屋へ案内した。

     二

「へぇ、こげな自分らの部屋があるんや」
 春子は珍しそうに部屋の中を見回した。
 風寄かぜよせの実家には、春子だけが使える部屋はない。寝る時も家族みんなが同じ部屋で寝る。千鶴が泊めてもらっていたならば、やはり春子たちと同じ部屋で寝ることになっていた。
 だから千鶴と幸子に自分たちの部屋があることが、春子にはうらやましく見えるのだろう。だが実態はロシア人の娘である千鶴と、千鶴を産んだ幸子がけがらわしいということで、おもとは離れたこの部屋に置かれているのである。
 ただ、離れ自体は千鶴たちのために建てたものではない。祖父の甚右衛門は元は山﨑家の者ではなく、外から婿入りしていた。離れは甚右衛門がこの家を継いだ時に、トミの両親の隠居部屋として使われていたものだ。つまり、千鶴のそう祖父母の部屋である。
 曾祖父母が亡くなってからは、この部屋は幸子の兄正清まさきよが使っていた。その頃の幸子は病院の看護婦寮暮らしで、休みに家へ顔を出しても夜には寮に戻っていたそうだ。
 これまで千鶴は春子を祭りに誘ったり、たまに春子と町へ出かけることはあった。だが自分の部屋へ入れたのは、これが初めてだった。
 家と店は一体となっているので、すべては商いが中心である。気軽に誰かを家に呼び入れることなど許されない。それに、千鶴も家の中の様子を他人に見せたくなかった。今回春子を家の中へ招いたのは特別なことだった。
番頭ばんとうさんらは、どこに寝泊まりするん?」
「お店の上に部屋が三つあるけん、番頭さん、花江さん、ほれからだい丁稚でっちの人らで使つことるんよ」
「ええなぁ。おらんとこひらじゃけん、二階には憧れとるんよ。自分の部屋はあるし、二階はあるし、やっぱし町の暮らしは違わいねぇ」
 いくら羨ましがられても、千鶴は一つもうれしくない。適当に愛想を振り撒きながら、井上いのうえ教諭の話に話題を変えた。
 と言うのは、井上教諭に思いがけないことが起こったからだ。
「ほれにしても、井上先生、お気の毒じゃったね」
 千鶴の言葉に、春子は大きくうなずいた。
「ほんまじゃねぇ。まっことお気の毒じゃった」

 先週の水曜日、警察から井上教諭に連絡が来た。風寄で宿代を踏み倒そうとした男の、身元保証人として呼ばれたのである。
 警察に捕まった男は井上教諭の叔父ということだった。それで教諭はその日の午後の授業を休ませてもらって、きゅうきょ風寄へ向かうことになった。
 もちろんそんな内輪の、しかも恥になるような話を、井上教諭が生徒たちにしゃべったりはしない。この話は寮の食事を作ってくれる食堂のおばさんたちから春子が聞いたものだ。
 その話によれば、井上教諭の叔父だと言うその男は、風寄の祭りを夫婦で見に行っていたらしい。その間、二人は北城町きたしろまちの宿屋に泊まっていたが、祭りが終わった翌朝に、まず女房が姿を消した。そのあと亭主の方が逃げ遅れたところを捕まったのだと言う。
 しかし亭主と思われたこの男は、自分は女にだまされたのだと訴えたそうだ。
 仕事でとうきょうから高松たかまつに移って来たので、三津ヶみつがはまにいるおいに面会に行った帰りだ、というのが男の主張だった。
 この話を聞いた春子は、もしやと思った。それは客馬車で一緒になった山高帽やまたかぼうの男の話によく似ていたからだ。祭りの夜にも、あの男が二百三高にひゃくさんこうの女と一緒にいるところを、千鶴と二人で目撃している。話を聞かされた千鶴も、恐らく山高帽の男だと思った。
 食堂のおばさんたちによれば、この二人は夫婦として宿に泊まっていたらしい。
 あの時、千鶴たちは月曜日の授業があるので、日曜日のうちに松山まつやまへ戻って来た。だが風寄の祭りは、輿こしの投げ落としが終わりではなかった。
 翌日には鹿しまから海を渡って来た二体の神輿が、だんじりとともに北城町や浜辺の村を練り歩くことになっていた。
 そのあとみそぎと言ってけがれを落とすために、神輿は川や海に何度も投げ入れられる。それから神輿は船に乗せられて鹿島へ帰って行くのだが、神輿の船を先導する船の上では、男たちが勇壮な舞を披露するのだ。それで風寄の祭りは終了となる。
 この二人はこの鹿島の神輿までも楽しんだようだ。そして翌朝、女は姿をくらまし、残された男が捕まったのである。その時、男は持っていたはずの財布がなく、呼ばれた警官に無実を訴えた。だが結局は宿代の踏み倒しということで、警察の世話になったらしい。
 井上教諭は風寄へ向かう前に、叔父が泊まった宿代や、叔父が高松へ戻る費用などを工面するのに、給料を前借りしたみたいだと、調理のおばさんたちは言っていたそうだ。
 井上教諭にしてみれば、自分にはまったく関係のないことで、とんだ身内の恥をさらすことになったわけである。しかも、警察や宿屋の主人に下げなくていいはずの頭を下げ、学校にも迷惑をかけたことをび、給料の前借りまでしたのだ。
 千鶴たちは木曜日に井上教諭の姿を見かけたが、教諭はげんなりした様子で覇気はきがなかった。給料を前借りしたら、来月はどうやって暮らすのだろうと、千鶴も春子も教諭の暮らしを心配していた。
 だが女に騙された教諭の叔父のことは、少しも気の毒だとは思わなかった。あんな見るからに怪しい女に騙されるのは、男の方が悪いというのが二人の出した結論だ。
 千鶴たちはこの話を知らないことになっているので、井上教諭に慰めの言葉もかけられない。こうして二人で気の毒がるのがせめてものことだった。

     三

「ずいぶん盛り上がってるじゃないの」
 お茶とお菓子を運んで来てくれた、花江が楽しげに言った。
 花江は千鶴たちの分だけでなく、自分の分まで持って来ていた。自分も千鶴たちの話に交ざって少し一服しようと言うのだろう。
 春子はここだけの話と言いながら、花江に井上教諭と山高帽やまたかぼうの男の話をした。すると、やはり花江は井上教諭を気の毒がり、教諭の叔父には毒づいた。
「ほんっと男って馬鹿なんだから。そんなのを自業自得って言うんだよ。だけどさ、その先生もほんとにお気の毒だねぇ」
 花江は千鶴たちがお菓子を食べていないことに気づくと、早く食べるよううながし、話は違うけどさ――と言った。
風寄かぜよせじゃあ、お祭りの最中にあっちこっちで空き巣が入ったらしいね。新聞に書いてあったよ」
「へぇ、花江さん、新聞を読みんさるんじゃね。おらなんか全然読まんけん、尊敬するぞなもし」
 春子に褒められて、花江は照れた。
「そんな大層たいそうなものじゃないよ。だんさんが読み終わったのを、あとでこっそり読ませてもらってるんだ」
 花江に感心しながら、春子は千鶴に言った。
「覚えとる? あの二百三高にひゃくさんこうの女の隣に、鳥打帽とりうちぼうかぶった若い男がおったろ? あれ、なんか怪しいことない?」
「怪しいて?」
「ほやけん、花江さんが言いんさったじゃろ? 祭りん時にあちこち空き巣が入ったて」
 千鶴は鳥打ち帽の男の様子を思い出そうとした。男のことで覚えているのは、ちらちらと自分を盗み見していたことぐらいだ。しかし、男が客馬車を降りる時のことを思い出すと、あ――と言った。
「あの人、あの女の人と目で合図しよったみたいに見えたで」
「じゃろげ? あいつら絶対にぐるぞな」
 花江が千鶴と春子の顔を見比べながら言った。
「何だい何だい、二人とも空き巣を見たって言うのかい?」
 ほういうわけやないけんど――と千鶴は言った。
「ほうかもしれんような人と、おんなし馬車に乗り合わせたんよ」
「そいつが鳥打帽をかぶった若い男なんだね? 二人ともすごいじゃないか。警察に教えてあげなよ」
「ほやけど、鳥打帽かぶった人なんか、なんぼでもおるけん」
 千鶴が自信なく言うと、花江は素直にうなずいた。
「まぁ、それもそうだねぇ。でも、あたしは鳥打帽の男には気をつけておくよ。それと二百三高地の女だね」
 さてと――と花江は腰を上げようとした。
「そろそろ仕事に戻んなきゃね。千鶴ちゃんたちは、このあとはどうすんだい?」
「ちぃと町に出てみよかて思いよるんよ」
「そりゃいいや。ゆっくり楽しんでおいでよ」
 花江はお盆を持つと部屋から出ようとした。ところが障子しょうじを開けたところで、千鶴たちを振り返った。
「そうそう。いい機会だから教えとくれよ。風寄の祭りの晩にでっかいイノシシの死骸が見つかったって、新聞に出てたんだけどさ。あれ、本当かい?」
 千鶴はぎくりとしたが、春子はうれしそうに、ほんまぞなもし――と声を弾ませた。
 花江は目を輝かせると、千鶴たちの所へ戻って来た。
「見たのかい?」
「おらたちは見とらんけんど、男の人が両腕広げても、まだ足らんぐらいおおけなイノシシじゃったらしいぞなもし」
 花江は自分で両手を広げながら、へぇと言った。
 春子は静子の伯父の話も、花江に聞かせてやった。その話も新聞に載っていたようで、あの話かいと花江は驚いていた。
 同じ話でも、記事で読むのと関係者から聞かされるのとでは、やはり迫力が違うようだ。花江はずっと眉をひそめながら、春子の話を聞いていた。
 静子の伯父の仲間が殺された様子には、花江は小さく身震いをしながら、くわばらくわばら――と言った。
「二人とも、そのイノシシに出くわさなくてよかったねぇ。もし出くわしてたらさ、今頃あの世行きだよ」
 何も言えない千鶴の横で、ほんまほんまと春子がうなずくと、だけどさ――と花江は再び眉を寄せた。
「そのイノシシは死んでたんだろ? 新聞には何かに頭をやられたってあったけどさ。あれ、どういうことなんだい?」
 千鶴はそんな話はしたくなかったが、春子は得意げにイノシシの死にざまなどを説明した。学校でもそうだったが、あの場所で千鶴が具合が悪くなったことなど忘れているようだ。
「本当にそんなことがあるのかい?」
 花江は信じられないという顔で千鶴たちを見た。
「そんな大きなイノシシの頭を潰したのが、岩でも木でもないとしたら、そりゃ、とんでもない化け物じゃないか! 風寄には昔からそんな化け物がんでるのかい?」
「いや、そげな話は聞いたことが――」
 春子はそこで言葉を切ると、口を半分開いたまま千鶴を見た。それで花江も千鶴に目を向けた。
「何だい? 千鶴ちゃんが何か知ってるのかい?」
「うち、も――」
 千鶴はとぼけようとしたが、がんごかも――と春子が言った。
「がんご? がんごってしんちゃんが言ってたね。確か、鬼のことだろ?」
 花江にかれて千鶴は渋々うなずいた。すると花江は風寄には鬼がいるのかとたずねた。
 千鶴が答えられず黙っていると、春子がひぃばあちゃんから聞いた話だと言ってしゃべった。
「だいぶ昔のことなけんど、おらのひぃばあちゃんのおとっつぁんが……、えっと、ほじゃけん、おらのひぃひぃじいちゃんがな、浜辺でおおけながんごを見たらしいんぞなもし」
 その鬼は人間よりもずっと大きかったようだと春子は言った。
 花江は驚いたように口を開けたが、すぐには言葉が出なかった。
「そ、それはほんとかい? 風寄にはそんな鬼が今もいるってことかい?」
 春子は千鶴を気にしながら、浜辺で鬼が侍たちと戦っていたという話をした。ただ、がんごめについては千鶴をづかってだろうが、一言も触れなかった。
 知念和尚の話では、鬼ではなく代官の息子が侍たちと戦ったということだったが、それについても春子はしゃべらなかった。鬼がいたという話を花江に信じさせたいらしい。
 曾々そうそう祖父が村人を連れて浜辺に戻った時には鬼の姿はなく、多くの侍の死骸だけが残されていたと、春子がまことしやかに話すと、花江は心底おびえたようだった。
 どうして侍たちが鬼と戦うことになったのかと訊かれると、春子は困ったように千鶴を見た。がんごめの話はしたくなかったのだろう。
 千鶴も何も言えないので、そこのところはよくわからないと春子は言った。それで花江は鬼を見つけた侍たちが、鬼を退治しようとしたのだろうと勝手に解釈をした。そして、その勝負は鬼の勝ちだったと花江は見たようだ。
 花江が一人で納得すると、それから鬼が戻って来ないように浜辺に鬼よけのほこらが造られたと春子は言った。
「ほれからがんごは現れんなったそうなけんど、こないだの八月に台風が来てな。ほれでその祠がめげてしもたんぞなもし」
「めげたって、壊れたってことかい?」
 ほうですと春子が言うと、花江はうろたえた。
「それは一大事じゃないか。イノシシを殺したのは絶対に封じられてた鬼さ。早く祠を造り直さないと大変なことになるよ!」
「ほやけど、がんごの話するんはひぃばあちゃんぎりじゃけん」
 自信なさげな春子に、花江は言った。
「イノシシの話がなかったら、鬼の話はひいおばあちゃんの妄想って言えるかもしんないけどさ。実際、イノシシが頭潰されて死んだんだろ? 鬼でなかったら、他に何がイノシシの頭を潰せるって言うんだい?」
「そがぁ言われたかて……」
 春子は助けを求めるように千鶴を見た。恐れていた話にうろたえていた千鶴は、話を打ち切りたかった。そこで動揺を隠して、花江を落ち着かせようとした。
「今の風寄では、がんごのことも鬼よけの祠のことも、村上むらかみさんのひぃおばあちゃんぎり覚えておいでて、他の人は誰っちゃ知らんのよ。ほじゃけん、イノシシのことも向こうの人らは、こっちで思うほどは気にしとらんみたいなんよ」
「だって、大変なことじゃないか」
「ほんでも、向こうの人が何とも思とらんうちは、どがぁもしようがないけん」
「そりゃ、そうだけどさ」
 花江さん――奥庭で花江を呼ぶ声が聞こえた。亀吉のようだ。太物ふともの屋に品を納め終わって戻ったようだ。
「また誰かが来たみたいだね。今日は忙しいよ」
 花江はお盆を持って部屋を出て行った。
 ようやく鬼の話が終わり、千鶴がほっとしていると春子が言った。
「花江さんて元気なお方じゃねぇ。先月、家族やお店をさした人とは思えんぞな」
「あがぁしとらんと、悲しいてめげそうになるんよ。まっことつらい思いをしたお人じゃけん、うちなんかのこともよう励ましてくれるんよ」
 へぇと春子は感心した様子で、おもの方へ顔を向けた。
「ええお人なんじゃねぇ」
「ほうよほうよ。花江さんはまっことええお人ぞな」
「ええお人言うたら、あのふうさんはどがいしよるんじゃろねぇ」
 突然の忠之の話に、千鶴は鬼のことも忘れるほど慌てた。もちろん忠之がどうしているのかは気にはなっている。しかし春子と一緒に考えることではない。
「さぁ、どがいしとろうか」
 千鶴は無関心を装ったが、春子はまた風太さんに会いたいと言って話を続けようとした。だが、千鶴がそろそろ町に出かけようと言うと、行く行くと満面の笑みになり、いそいそと腰を上げた。

     四

 離れを出て渡り廊下から奥庭を眺めると、物干しに洗濯物が掛けられていた。洗濯を母一人に押しつけてしまったことを、申し訳ないと思いながら千鶴はおもへ入った。
 幸子は台所にいて、昼飯の準備を始めていた。
 甚右衛門はどこかへ出かけたようだ。茶の間ではトミが一人で新聞を眺めている。そのそばでは、花江がばちで沸かしたお湯でお茶をれていた。やはり表に誰かが来ているらしい。
「おばあちゃん、村上さんと町に出かけて来ます」
 千鶴が声をかけるとトミは顔を上げ、ゆっくりしておいでと笑顔で言った。その笑顔にどきりとし千鶴に、振り返った幸子が言った。
「お昼はどがぁするんね? お友だちの分もこさえよ思いよったけんど」
 千鶴はちらりとトミを見て言った。
「おばあちゃんからおづかいもろたんよ。ほじゃけん、何ぞ食べて来るけん」
「おばあちゃんがお小遣い?」
 幸子はげんそうにトミを見たが、トミは何も聞こえていないように新聞を読んでいる。
 幸子はふっと笑うと、ておいで――と言った。
 千鶴は花江にも声をかけて土間へ降りた。春子もみんなに挨拶をしながら千鶴に続いた。
 何気なくちらりと店の方に目をった千鶴は、あれ?――と思った。
 暖簾のれんの下に見える表の道に荷車が置かれている。しかし、それを引く牛の姿がない。と言うことは、荷車は大八だいはち車のぐるま ようだ。
 遠方から反物を運ぶには牛車ぎっしゃを用いる。大八車は人が引くので、近場でしか使わない。
 松山まつやまの町中でも伊予いよ絣をがすり 作っている所はある。そういう所であれば、牛車ではなく大八車を使うだろう。しかし山﨑機織やまさききしょくが契約している所は、遠方の百姓や漁師の女たちが作ったかすりばかりだ。だから仕入れの品を運んで来るのは牛車に決まっていた。
 弥七と新吉が注文の品を届けに行くのかと眺めていると、亀吉が木箱を抱えて入って来た。箱を積み間違えたのかと思ったが、帳場ちょうばへ箱を置いて再び外へ出た亀吉は、別の木箱を運んで来た。外でもう一人から荷物を受け取っているようだが、茂七だろうか。
 それにしても新吉の姿が見えないし、弥七もいない。亀吉が運び入れた木箱を確かめているのは辰蔵のようだ。
「どがぁしたんね? お友だちが待ちよるよ」
 帳場を眺めている千鶴に、幸子が声をかけた。
 千鶴は店の前にある大八車のことを話そうとしたが、勝手口の前に立つ春子を見て話すのをやめた。
「お待たせ。ほんじゃ、行こか」
 春子に声をかけると、千鶴は春子と奥庭に出た。学校へ行くわけではないし、今は帳場は混み合っている。だから今日はうら木戸きどから出ることにした。
 来た時に入った所と出る所が違うので、春子は面白がりながら千鶴に従った。
 裏木戸をくぐって脇の道に出ると、春子は辺りを見回して、自分がどこにいるのかを確かめた。それから千鶴の家を見上げ、二階に上がってみたかったと言った。
 春子はほど二階に憧れているらしく、いつか自分が嫁入りする時は、二階のある家が条件だと言った。
はんを続けることが条件やないん?」
 千鶴がたずねると、あははと春子は笑った。
「言うてみたぎりぞな。師範になるんも嫁入りするんも、全部おとっつぁんが決めるけんな。おらはただほれに従うぎりやし。山﨑さんとこかてほうじゃろげ?」
「ほうじゃね。うちは何でもおじいちゃんが決めんさるけん、おじいちゃんが決めたとおりになるんよ」
 まだ具体的には何も言われていない。だが、千鶴は祖父母が本気で自分の婿取りを考えていると思っていた。たとえそれが鬼であろうと、祖父に命じられれば拒むことができない。千鶴は己の無力さを感じずにはいられなかった。
「ほんでも、こないだのふうさんはええ男やったわいねぇ」
 またもや春子が忠之のことを言い出したので、千鶴は慌てた。どうやら春子は忠之のことが気に入った様子である。
 がんごめである千鶴は、忠之に気持ちを伝えることはできない。それでも春子に忠之を取られるのは嫌だった。
「そがぁにええ男やったかいねぇ」
 千鶴は素っ気なくしながら、春子の忠之への興味をごうと思った。しかし、そんなことは春子には通じない。
「風太さんは山﨑さんの好みやなかったみたいなね。山﨑さん、あんましおらみたいには風太さんとしゃべらんかったし」
 ほれはあなたがおったけんじゃろがねと、千鶴は言葉が喉元まで出かかった。
 何も知らない春子は、あんな男は他にはいないと、忠之のいい所を並べ立ててべた褒めした。それは、いかにも忠之にれてしまったと言わんばかりに見える。
 このままではまずいと思った千鶴が、何か言わねばと考えていると、裏木戸の向こうから辰蔵の声が聞こえた。
「いや、こげなことまでしてもろて、まっこと申し訳ない」
 いやいやと応じる男の遠慮がちな声もしたが、声が小さくてよく聞こえない。
にいやん、こっちぞな」
 亀吉の元気な声がした。どうやら男は反物を蔵へ運ぶのを手伝ってくれているようだ。
 恐らく表の大八車は近場の織元おりもとからのもので、男は絣を運んで来た仲買人だ。売り上げを伸ばすために、祖父が新たな品を仕入れることに決めたのだろうと千鶴は思った。茂七がどうしていないのかはわからないが、思いがけない助っ人に、亀吉もうれしそうだ。
 今はどこの織元や仲買人も新たな商売相手を求めている。この仲買人は新たな顧客を得たことが余程嬉しかったのだろう。それで亀吉を手伝ってくれたのだろうが、それにしても人がい。ここまでしてくれる仲買人の話は聞いたことがない。
 春子の気持ちを忠之かららすため、どこの誰かは知らないけれど、ここまでしてくれる人はなかなかいないと、千鶴はこの仲買人を褒め上げた。すると、風太さんみたいなお人じゃねと春子は笑った。
 がっくりしながら千鶴がなおも話を変えようとすると、突然後ろからしわがれた声が叫んだ。
「そこのおまい!」
 驚いて振り返ると、杖を突いた老婆が立っていた。真っ白な髪を束ねることもせず、ぼぉぼぉと伸ばしたままの不気味な老婆だ。
「おまいはこの家のもんか?」
 唐突で不躾ぶしつけな物言いに、千鶴はむっとした。しかし、見知らぬ者からべつの眼差しを向けられるのは珍しいことではない。言い争うのも嫌なので、ほうですと千鶴は答えた。それに対して老婆は何も言わず、千鶴の後ろにある裏木戸をじっとにらんだ。
ぞな? いきなり失礼じゃろがね!」
 春子が文句を言ったが、老婆の耳に春子の声は少しも届いていないみたいだった。
 老婆は千鶴に顔を戻したが、その顔は何だか緊張でこわっているように見える。
「おまいにはがんごいておるの。この家にはが入り込んでおるぞ」
 老婆の言葉に、千鶴は固まってしまった。それが図星であったことと、春子の前で告げられたことで、声も出て来なかった。
「何言うんね! あんた、頭おかしいんやないん?」
 春子が声を荒らげても、老婆は一向いっこうに平気だった。千鶴をじっと見つめながら目を細めた老婆は、おや?――と言った。
「どうやら、おまいにも原因があるようじゃな。がんごはお前が呼び寄せたとも言えるの。ふーむ。元々、お前と鬼は――」
 喋りながら裏木戸に目を遣った老婆は、急に血相を変えた。そして、そのまま黙って立ち去ろうとした。
 千鶴は反射的に老婆を呼び止めた。
「あなたは誰ぞなもし?」
 老婆は立ち止まると、千鶴を振り返った。
「わしはな、おはらいのばばぞな。この先に用があって行くとこなけんど、がんごが見えたゆえ、おまいに声をかけたまでよ」
「じゃあ、うちはどがぁしたらええんぞなもし?」
「気の毒やがな、わしはおまいの力になってやれん。お前に憑いとるがんごは一筋縄で行くようなやないでな。わしごときの力じゃ、どがぁもできまい。ほれに、はお前を――」
 ふと千鶴の後ろに視線を向けた老婆はぎょっとなり、慌てたように口をつぐんだ。それはまるで余計なことを言うなと、何者かに脅しをかけられたように見えた。
 老婆はそれ以上は何も言わず、千鶴に背を向けると逃げるように行ってしまった。千鶴はもう一度声をかけたが、老婆は振り返りも立ち止まりもしなかった。