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婿になる男

     一

 紙屋町の入口、札ノ辻の北側の角には、木造四階建ての大丸百貨店がある。大正六年、千鶴が高等小学校に入った年に建てられたものだ。
 紙屋町を含む城山の西側の区域は、古町三十町こまちさんじゅっちょうと呼ばれている。ここは明治以前の松山の商いの中心地で、租税も免除される特別地域だった。
 ところが明治になると租税免除の特権がなくなり、古町三十町の勢いは衰えた。
 一方で、城山の南に位置する外側とがわと呼ばれる地域にも、商人が暮らす町があった。こちらは伊予鉄道の起点となる松山駅ができたため、大いに活気づくこととなった。
 古町の商人たちは、このまま商いの中心が外側へ移ることを恐れた。それで古町の呉服屋が逆転を狙って建てたのが、この大丸百貨店だった。 
 当時、とても珍しくハイカラな大丸百貨店は、たちまち松山名所として人気を博した。
 東京の三越百貨店を知る花江は、地方の町である松山に、こんな百貨店があることに驚いていた。
 当然、春子にとっても憧れの場所であり、春子は大丸百貨店へ行きたいとせがんだ。それは、半分は本当の気持ちであっただろう。しかしあとの半分は、千鶴を元気づけるためのものに違いない。
 見知らぬ老婆から、いきなり鬼が憑いていると言われた千鶴は、あまりのことに呆然とする他なかった。
 春子は老婆に悪態をつき、何も気にすることはないと千鶴を慰めた。だが、そんなことで千鶴が平穏な気持ちになれるはずがなかった。そんな千鶴の気持ちを察して、春子は百貨店行きを明るくはしゃいでいるように見えた。
 山﨑機織の前を通った時、大きな大八車が置かれていたが、千鶴はそれについて考える気持ちすら起こらなかった。
 大八車の上に積荷はなく、これを運んで来た人物は奥でお茶でも出してもらっているらしい。帳場には辰蔵と亀吉だけがいた。しかし、千鶴は帳場の様子になど頭が回らず、二人が声をかけてくれなければ黙って通り過ぎるところだった。

「さっきここ通った時にな、今日は絶対ここに来よて思いよったんよ」
 百貨店の前に立った春子は、嬉しそうに千鶴を振り返った。
 千鶴も春子が訪ねて来たら、ここへ連れて来ようと考えていた。
 学校の寮は門限が厳しいし、生徒たちは多くのお金を持っていない。そのため、休みに外へ出るにしても三津の町のことが多く、松山まで遊びに出ることはそれほど多くはない。
 春子と阿沼美神社の祭りを楽しんだ時も、先生に頼み込んで門限に遅れる許可をもらった。そうでなければ、ちょうど祭りのいい所で三津浜に戻ることになっていた。
 寮生活はそんな感じなので、これまで春子が大丸百貨店へ来たのは、去年に一度来ただけだった。
 とは言っても、百貨店のすぐ近くに暮らす千鶴でさえも、ここへ来ることは滅多になかった。
 基本的に百貨店で取り扱っているのは高級品ばかりである。甚右衛門を初め、山﨑機織の誰もが一度はこの百貨店を訪れたが、そのあとは本当に用事がない限り、ここを訪れることはなかった。
 仕事が忙しくて暇がないこともあったが、不要な高級品を買うだけの余裕などないのが一番の理由だった。

 建物の中に入ると、まずそこで履物を脱いでスリッパに履き替える。脱いだ履物は下足番が預かって、裏口に回される仕組みになっている。もうこれだけで春子は大興奮の様子だ。
 通常の店では番頭が帳場に坐り、客の注文に応じていちいち品を出して来る。だが、百貨店ではすでに商品が陳列されている。
 つまり、自分の頭にない品を見られるのである。それは思いがけない品と出会うことでもあり、商品を眺めているだけでも愉快で楽しいことだった。
 百貨店の店員は全員が着物姿の女性だ。女性が客に商品の説明をし、販売するのである。そのことも千鶴や春子には新鮮だった。
 通常の店の番頭や手代は男の仕事と決まっていた。女には女中の仕事ぐらいしかない。
 とにかく女が働ける場所は限られている。千鶴たちが師範を目指している背景には、そういった事情もあった。
 そのため百貨店で働く女性店員の姿は、千鶴には輝いて見えた。だが、それは去年にここを訪れた時のことである。
 今の千鶴は老婆に言われたことで、何かに感動することもできなくなっていた。それに、じろじろと千鶴に目を向ける他の客たちの視線は、千鶴をさらに憂鬱にさせた。
 百貨店の一階は、ハンカチや靴下などの洋品が置かれている。二階は呉服売り場で、三階には文具・化粧品がある。
 各売り場に陳列された商品はいずれも高級で、春子は眺めるしかないことを残念がった。
 しかし、百貨店には商品以外にも目玉になるものがあった。それは、えれべぇたぁだ。
 えれべぇたぁとは、案内の女性がいる小部屋だ。この小部屋はとても面白い。案内の女性が扉を閉め、次に開けた時には、外は違う売り場になっているのだ。
 去年来た時にも使ったことがあるはずなのに、春子は初めてみたいに大はしゃぎだった。
 三階までは商品売り場だが、最上階の四階は食堂になっている。
 ここでの食事には憧れがあるが、祖母からもらった小遣いでは少し足が出る金額だ。それに年配の女性ばかりで埋まっていることに気後れしたので、二人は食堂はやめて外へ出ることにした。

 百貨店を出ると、師範学校が目に入った。
 師範学校は西堀の北端にあり、その向こう側を札ノ辻を起点とした今治街道が通っている。
 先日、忠之に人力車で運んで来てもらったのはこの道で、春子が人力車を降りたのが師範学校の前だった。
 あの時は街灯ぐらいしか明かりがなかったので、師範学校はよく見えなかった。だが今は太陽の下で、その華麗な姿を見ることができる。
 遥か昔、中国のしんの始皇帝が建てた宮殿を阿房宮あぼうきゅうと呼ぶが、それにちなんで愛媛師範学校は伊予の阿房宮と呼ばれている。
「こっちが女子師範学校で、三津浜にあるんが師範学校やったらよかったのになぁ」
 伊予の阿房宮を眺めながら、春子が残念そうに言った。
「ほれじゃったら、学校が休みの時は松山で遊べるし、この百貨店もちょくちょくのぞけるのに」
 千鶴が女子師範学校に入った頃は寮生活だったので、松山から離れられることを千鶴は喜んだ。
 しかし寮を出て自宅から通うようになってからは、春子と同じように、こっちが女子師範学校であればよかったのにと思うことは何度もあった。
 女はいつも後回しで、何かのついででなければ目を向けてもらえないと、二人は文句を言いながら札ノ辻を南へ進んだ。
 少し行くと、右手に勧商場かんしょうばがある。
 勧商場というのは、一つの建物の中にいくつもの小売店が集まったもので、ここでは化粧品や衣類、日用雑貨などの店があった。
 春子はここも初めてのぞいたわけではない。なのに初めて訪れたかのように、北城町の勧商場よりこちらの方が規模が大きいと、前と同じことを言いながら、並べられた商品を見て回った。
 こちらも百貨店同様に品物が陳列されている。百貨店のような高級品ではないので、高くて手が出せないというものではない。
 しかし二人は学生の身分なので、やはり見るだけだった。それでも春子は十分楽しんでいる様子だった。千鶴を気遣うことも忘れているようなので、それがかえって千鶴の気分を和らげてくれていた。

     二

 伊予鉄道の松山停車場の向かいに善勝寺ぜんしょうじというお寺がある。
 ご本尊は日切地蔵ひぎりじぞうと呼ばれ、何日にとか、何日までにという感じで、期日を決めて願掛けをすると願いが叶うと言われている。
 この善勝寺へ千鶴は春子を連れて来た。だが、目的は日切地蔵ではない。境内で売られている饅頭だ。その名も日切饅頭と言うが、饅頭と言うより焼菓子だ。中には熱々のあんこがたっぷりと入っていて三個五銭である。
 千鶴と春子は買った饅頭を一つずつ手に取った。残りはあとで半分こだ。
「熱いけん、気ぃつけや」
 春子の食べっぷりを知っている千鶴は、春子に忠告をした。春子はわかってると言いながらがぶりとかじり、熱い熱いと大慌てだ。
 千鶴は急いで春子を手水舎ちょうずやへ連れて行き、柄杓ひしゃくで水を口に含ませた。
「ああ、熱かった。口に入れたもんは出せんし、さりとて呑み込めんけん、どがぁなるかと思いよった」
「ほじゃけん、気ぃつけやて言うたのに。村上さん、前来た時もついのことしよったよ」
「今度から気ぃつけるけん。ほれにしても、これ、まっこと美味うまいぞな。名波村のみんなにも食べさせてやりたいなぁ」
「ほれも前に言いよったね」
 そう言いながら、千鶴もこれをあの人に食べさせてあげたいと思った。もちろん、あの人とは忠之のことである。
 ほうじゃったかねと春子は笑うと、今度は慎重に少しずつ食べながら言った。
「おらな、こっちんてから家に手紙書いたんよ」
「何の手紙?」
「おらたちを運んでくれた風太さんのことぞな」
 千鶴は胸がどきんとした。
 老婆に鬼のことを言われてすっかり忘れていたが、春子は忠之に気があるようだったのだ。もしかしたら村長である父親に、風太と一緒になりたいという手紙を書いたのだろうかと、千鶴は大いに焦った。
 もう勘弁して欲しいと願う千鶴に、春子は話を続けた。
「風太さん、おらたちを運んだ銭を、あとで家に請求するて言うておいでたじゃろ? ほじゃけん、ほんことをお父ちゃんに謝っとかないけん思て、家に手紙書いたんやけんど、その返事が昨日届いたんよ」
 何だ、その話か――と千鶴は胸を撫で下ろした。また、春子が知らないことを自分は知っている、という気持ちの余裕も出た。
「お父ちゃんからの手紙、何て書いとったて思う? そげな請求なんぞ来とらんし、しゃぁ引くもん風太いう奴なんぞおらん言うんで。山﨑さん、どがぁ思う?」
 春子は千鶴が予想したとおりのことを喋った。千鶴は笑いそうになるのをこらえながらとぼけて言った。
「また、お不動さまが助けてくんさったんやないん?」
 やっぱし?――と春子は真顔で言った。
「おらもな、ほうやないかて思いよったんよ。ほやなかったら、他に説明でけんじゃろ?」
 噴き出しそうになった千鶴は、横を向いてごまかした。
 風太の正体がお不動さまなら、風太と一緒になるとは春子も考えないはずだ。そのことも千鶴に笑みをこぼさせた。
「どがぁしたん?」
「ちぃと小バエが顔に寄って来よるんよ」
 いない小バエを手で追ってから千鶴が顔を戻すと、春子はため息交じりに言った。
「おら、知らん男が引く俥ぁで松山にんたいうんで、お父ちゃんにがいに叱られてしもたぞな」
「ほんでも、こがぁして無事にんて来られたんじゃけん、よかったやんか。お不動さまに感謝せんと」
 千鶴が励ますと、ほんまよ――と春子は少し元気を取り戻した。
「まっことお不動さまの俥ぁに乗せてもらえなんだら、おらたち、今頃退学になっとったで。お父ちゃんには叱られてしもたけんど、お不動さまには感謝ぞな」
 本当に春子の言うとおりだった。あの時、忠之がいなかったらどうなっていたかと思うと、忠之には感謝しきれない。
「今頃、どがぁしんさっておいでるんじゃろか」
 千鶴が忠之を思い浮かべながら、つい独り言をつぶやくと、春子はけらけらと笑った。
「ほら、決まっとらい。法生寺の本堂でこがぁして座っておいでるぞな」
 春子は不動明王の真似をしてみせた。その顔と真似の様子があまりに面白かったのと、不動明王が助けてくれたと、春子が真剣に信じていることで、千鶴は不安も忘れて笑い転げた。

 善勝寺を出た千鶴たちは、そこから東へ延びる湊町みなとまち商店街を歩いた。
 湊町商店街の長さは約五町で、そこから今度は大街道おおかいどう商店街が北へ延びる。これがまた五町ほどの長さであり、全部合わせると十町になる商店街だ。
 春子にすれば歩くだけでも楽しい所だが、千鶴にしても滅多に出歩く所ではない。春子のお陰で鬼への不安が和らいだ今、とても楽しみな散策だ。
 湊町商店街は呉服屋や洋品店、履物屋、眼鏡屋、仏具屋など、日常の暮らしに関係する店が多い。
 日露戦争で多くのロシア捕虜兵が松山へ連れて来られた頃、この商店街はロシア人たちの買い物で大いに賑わった。そのため当時は露西亜ろしあ町とも呼ばれていた。それで洋菓子や洋食を出す店が未だに残っている。
 また大丸百貨店や勧商場の影響を受けたのか、呉服屋にも自慢の品をあらかじめ展示している所もあり、春子を喜ばせた。
 湊町商店街と大街道商店街の接点になる辺りは、うおたなと呼ばれている。名前のとおりかつては多くの魚屋が集まっていた所だ。今は魚屋の他に天麩羅屋や菓子屋、八百屋、蒲鉾屋、乾物屋など、庶民の食料を扱う店が並んでいる。
 ここから大街道へ向かうと、すぐ右手に木造三階建ての立派なうどん屋がある。亀屋かめやという有名な店で、松山を訪れた者は必ず立ち寄ると言われている所だ。
 千鶴はそこで春子にうどんをご馳走することにした。
 店の中は客で賑わっており、多くの視線が千鶴に集まった。しかし、千鶴は気にしないことにしていた。いずれ鬼になる自分が、こんなことができるのも今しかないと思うと、人の目など気にしていられなかった。
 春子はうどんを食べながら、大丸百貨店に始まるここまでの楽しかったことを、ずっと喋り続けた。早く食べないとうどんが伸びると千鶴に言われると、慌ててうどんをすするのだが、すぐに箸を止めて喋った。今回の町歩きがよほど楽しかったようだ。
 うどんを食べ終わったあと、千鶴たちは大街道の店をのぞいて歩いた。
 大街道商店街にも呉服屋や履物屋、菓子屋などはあるが、湊町商店街との大きな違いは活動写真館が三つもあることだろう。
 また大街道商店街には、亀屋の他にもおふくという、やはり三階建ての大きなうどん屋があるし、新栄座しんえいざという芝居小屋まである。湊町商店街と比べると、こちらは娯楽向けという雰囲気だ。
 芝居も見てみたいが、お金も時間もかかるので、千鶴たちは活動写真館の一つ、世界館に入った。そこで活動写真を一つ楽しんだところで、そろそろ春子が帰らねばならない時間になった。
 門限である五時までには、春子は寮に戻っていなければならないが、札ノ辻まで歩いて戻ると間に合いそうにない。
 それで春子は大街道を出た所にある一番町いちばんちょう停車場から電車に乗ることにした。

「今日はだんだんありがとう。おら、まっこと楽しかった」
「うちも楽しかった。ほんじゃあ、また明日学校でな」
 春子は喜び一杯の顔で電車に乗った。
 千鶴は手を振りながら春子を乗せた電車を見送り、自分はその線路に沿ってお堀に向かって歩いた。
 右手には城山があり、山頂には松山城がそびえている。
 城山のふもとには、萬翠荘ばんすいそうと呼ばれる美しい洋館がたたずんでいる。殿さまの血筋である久松定謨ひさまつさだこと伯爵が、去年の十一月に別邸として建てたものだ。千鶴はこの洋館に憧れていた。
 だが、萬翠荘の手前には裁判所がある。電車の通りからでは、萬翠荘は裁判所の建物が邪魔になって見えづらい。
 千鶴は裁判所から南へ向かう道に入り、離れた所から城山を振り返った。すると、裁判所の上から顔を出すように、樹木に埋もれたような萬翠荘が見えた。
 その美しさに千鶴はため息をついた。
 ここは各界の名士と呼ばれる人々のつどう場であり、皇族が来松した時に立ち寄る所である。
 記念すべき萬翠荘の一番初めの宿泊客は、体調が優れぬ大正天皇の摂政宮せっしょうのみやとして、松山を訪れた裕仁親王ひろひとしんのうだった。
 親王は松山各地を視察されたが、女子師範学校もその一つとなった。
 千鶴たち生徒は親王の前で薙刀なぎなたの演武を披露し、また合唱曲を歌った。そんなことは一生のうちに一度あるかないかというものであり、あの時ばかりは千鶴が女子師範学校に通っていることを、祖父母は知人たちに自慢したそうだ。
 そんなこともあって、千鶴は裕仁親王に親しみを感じていた。その親王が泊まられた屋敷が目の前にある。
 いずれ人として暮らせなくなる日が訪れるのだとしたら、その時までに一度でいいから屋敷の中を見てみたい。洋館を眺めながら千鶴はそう思った。
 千鶴の頭の中では、再びあのお祓いの婆の言葉が繰り返されていた。

     三

 紙屋町へ戻って来ると、山﨑機織の前には牛車も大八車もなかった。お客も来ている様子がないので、千鶴は店に入った。
んたぞな、辰蔵さん」
 千鶴は帳場にいる辰蔵に声をかけた。
 午後は茂七と弥七は注文取りに廻っている。丁稚の二人はいるはずだが、奥にいるのか、ここには姿がない。代わりにずんぐりした男が、辰蔵の横で胡座あぐらをかいて座っている。
 男はじろりと千鶴を見ると、にらむような顔になった。
「おまい、千鶴か」
「え? は、はい」
 不躾ぶしつけに名前を呼ばれ、千鶴は戸惑いながら返事をした。
「わしが誰かわかるか? わからんじゃろな」
 いきなりかれても知らない相手である。千鶴が返事に困っていると、男は山﨑孝平こうへいと名乗り、お前の叔父だと言った。
「叔父さん? すんません、うち、初めて聞く話ですけん」
「ほら、ほうじゃろな。お前がまだこんまい頃に、わしは松山を出たんじゃけんな」
 何だか喧嘩けんかを売っているような喋り方に、千鶴は困惑して辰蔵を見た。辰蔵も少し困った様子で千鶴に言った。
「あたしも直接お会いするんは、今日が初めてなんぞなもし。ほんでもこの方のことは、あたしが丁稚じゃった頃に耳にしたことはあるんです」
「ほんじゃあ、ほんまにうちの叔父さん?」
「何じゃい、わしの言うことが信用できんかったんかい。人に散々迷惑かけといて偉そうに」
 孝平は顔をしかめると、へっと息を吐いた。
 千鶴はむっとする気持ちを抑えながら、孝平にたずねた。
「うちがどげな迷惑をおかけしたんぞなもし?」
 孝平は嫌な顔のまま居丈高いたけだかに言った。
「わしはな、ここと同業の店の丁稚をしよったんぞな。もうちぃとで手代になれたのに、お前のせいで馬鹿にされて、わしよりあとから入った奴が手代になったんぞ。ほじゃけん、あほらしなって松山から出たんぞな」
 孝平の話で、自分がどれだけ世間から邪険にされていたのか、千鶴は思い知らされた。何もしていなくとも、自分は存在そのものが迷惑なのだ。
「ほれは……申し訳ございませんでした」
 悲しみと屈辱に耐えながら千鶴は頭を下げた。すると、辰蔵が言った。
「千鶴さんが悪いんやありません。何も謝ることないぞなもし」
 何やと?――といきり立つ孝平に、辰蔵は堂々と言った。
「千鶴さんは旦那さんとおかみさんの大切なお孫さんぞなもし。あなたさまに何があったんかは存じませんけんど、ほれと千鶴さんは何の関係もございません。あなたさまが手代になれなんだんは、あなたさまご自身の実力でしょうに、ほれを千鶴さんのせいにしんさるんは、とんだおかど違い言うもんぞなもし。いくら旦那さんのご子息や言うても、これ以上、千鶴さんを侮辱しんさるんは、あたしが許しません」
 千鶴は嬉しかった。しかし、孝平は当然面白くない。
「お前、使用人のくせに偉そなこと言うてからに。わしはここの跡取り息子やぞ? わしがこの店継いだら、お前なんぞ、こいつと一緒に真っ先に放り出してやるけんな!」
「あなたさまが旦那さんの跡を継ぐいう話は、これぽっちも耳にしとりません。万が一、あなたさまが跡を継がれるのでしたら、こちらの方から出て行かせてもらいまさい」
「ほぉ、よう言うた。その言葉、忘れんなや!」
 そこへ花江がお茶を運んで来た。孝平も辰蔵も口をつぐんだが、辰蔵は興奮冷めやらない様子だ。
 一方の孝平は花江をじろりと見たあと驚いたような顔をした。
 二人の言い争いが聞こえていただろうが、花江は淡々とお茶を二人の前に置いた。それから千鶴に顔を向け、にっこり微笑んだ。
「お帰んなさい。楽しかったかい?」
「え? ええ、お陰さまで十分楽しませてもらいました。いろいろ気ぃつこていただいて、だんだんありがとうございました」
 まるで孝平などいないかのように振る舞う花江に、千鶴は戸惑いながら返事をした。花江は尚も明るく言った。
「千鶴ちゃんはここの跡取り娘、いや、跡取り孫娘だもんね。町で楽しむぐらい当然だよ」
 何やて?――と孝平がまた憤った。
「何じゃい、今の話は。なしてこいつが跡取りなんぞ。この店の跡取りは――」
 くるりと振り向いた花江ににらまれると、何故か孝平は勢いを失った。
「跡取りは……、このわし……、なんやが……」
 やはり孝平の話は花江にも聞こえていたのだろう。花江は腰に手を当てながら、孝平をにらみつけて言った。
「あんた、いきなり来て、何言ってんのさ。ここの跡取りは千鶴ちゃんだよ。どこの誰だか知らないけどさ。勝手なことを言うもんじゃないよ!」
「いや、ほじゃけん、わしはやな、その……」
 何だか孝平の様子がおかしい。女中の花江に言われ放題でしどろもどろになっている。そこへ、さっきから何を言っているのかと幸子が顔を出した。
 孝平を見た幸子は眉間にしわを寄せた。それからしばらく孝平を見つめたあと、幸子は驚いたように目を見開いた。
「あんた、こうちゃん? 孝ちゃんなん?」
「な、何じゃい。馴れ馴れしいにすんな」
 うろたえた孝平が横を向くと、幸子は駆け寄って孝平の手を取った。
「あんた、今までどこ行きよったんね。お父さんもお母さんも心配しよったんよ!」
「穢らわしい。わしにまがるな!」
 孝平が幸子の手を振り払うと、花江が当惑顔で幸子にたずねた。
「幸子さん、この人、幸子さんの何なの?」
「この子はね、うちの弟なんよ。正兄まさにいが亡くなったあと、ほんまじゃったら、この子がここの跡取りになるはずやったんよ。ほれやのに、この子はみんなに黙って奉公先逃げ出して、行方知れずになっとったんよ」
「そういうわけだったんだ」
 花江がうなずくと、わかったかと言わんばかりに孝平は胸を張った。
「聞いてのとおり、わしがここの正式な跡取りぞな。わかったら、みんな、ほれなりの礼儀いうもんを見せるんやな」
「孝ちゃん。あんた、お父さんにはうたんか?」
 幸子が訊ねても、孝平は無視をした。
 怒った花江が、どうして無視をするのかとただすと、穢れた者とは話をしないと孝平は言った。
 花江は孝平に軽蔑の眼差しを向けて言った。
「それじゃあ、あたしもあんたとは喋らない。あたしゃ心の穢れた人間が大っ嫌いなのさ」
「何やと? わしはここの跡取りぞ?」
 花江は早速さっそく孝平を無視して、孝平に出したお茶をお盆に戻した。
「おい、ほれはわしの茶ぁぞ。勝手なことすんな」
 孝平は文句を言ったが、花江は聞こえないふりをして奥へ引っ込んだ。
 気まずそうな孝平を、辰蔵がふっと笑った。それで孝平が辰蔵に手を出そうとしたので、幸子がきつく叱った。
 姉に貫禄負けした孝平は、不機嫌そうに横を向いた。
 こんな男が自分の叔父なのかと、千鶴は呆れた。
 万が一にも、この叔父が店を継ぐようなことがあれば、大事おおごとになるのは必至である。それは有り得ないことだろうが、この叔父がこのままここに居座ることになると、それも問題に違いない。
 千鶴は母を見たが、母も困惑のいろを浮かべている。

     四

「親父は中か?」
 穢れた者とは話をしないと言ったくせに、訊ねられる相手がいないからか、孝平は幸子に訊ねた。
 偉そうな態度を見せ続ける弟に、幸子は憮然ぶぜんとしながら言った。
「やっぱし、まだうとらんのじゃね。お父さんはどこ行ったんか知らんけんど、昼から出かけとる。お母さんも雲祥寺うんしょうじへ出かけておらんぞな」
 雲祥寺とは山﨑家の菩提寺ぼだいじで、大林寺の近くにある。
「何じゃい、どっちもおらんのか。こがぁな番頭一人置いておらんなるとは、二人とも無責任やの」
 孝平が吐き捨てるように言うと、すぐさま幸子が叱った。
「あんた、何失礼なこと言うんね。辰蔵さんは立派な番頭さんで。辰蔵さんがおらなんだら、この店はうにえとるがね。無責任言うんなら、勝手に姿くらましよった、あんたの方が余程よっぽど無責任じゃろがね」
「勝手に敵兵の子供身籠もったお前が言うな!」
 孝平が噛みつくように言って千鶴に目を向けると、幸子も険しい顔で言い返した。
「あんた、そげなこと言うためにんて来たんね? そげじゃったら戻んて来ることないけん、さっさとどこなりとになさいや!」
「やかましいわ。わしが用があるんは親父じゃ。お前やないわい」
「自分の姉に向かって、お前いう言い方はないんやないですか?」
 辰蔵が参戦して幸子をかばった。孝平は辰蔵をにらむと、使用人は黙ってろと言った。
「さっきから使用人の分際で偉そうに。親父にうて話つけたら、すぐにでも辞めさすけん覚悟しとれよ」
「偉そうなんはあなたさまの方ぞなもし。いくら旦那さんの血ぃをお引きでも、いきなりんて来て、姉をお前、父親である旦那さんを親父呼ばわりするんは、偉そうやないと言いんさるんか?」
「父親やけん親父やろが。ほれに、わしはこの女を姉やとは思とらん」
 辰蔵は怒りを抑えるように、大きく息をしてから言った。
「おまえさまが幸子さんを姉と認めんにしても、お前いう言い方は失礼極まりないぞなもし。また父親をどがぁ呼ぶかは、そこがどげな家かによりましょう。この家ではそがぁな言葉を使う者は誰っちゃおりません。本来の跡取りでありんさった正清さんも、旦那さんのことを親父と呼びんさったことは、一度もありませんでした」
「死んだ人間のことなんぞ知るかい」
 孝平のあまりの言い草に、幸子は声を荒げた。
「何てひどいこと言うんね! あんたのお兄さんじゃろがね」
「人間、死んだらおしまいぞな。人間の価値は生きてこそよ」
 孝平は少しも悪びれる様子がない。ついに腹にえかねたのか、辰蔵は怒りをあらわにした。
「その言葉、旦那さんの前で言いんさい」
「何やと?」
「今言いんさったことを、もういっぺん旦那さんの前で言うてみぃと言うとるんぞなもし」
「お前は阿呆か。親父の前で、こがぁなこと言うわけなかろがな」
「つまりは旦那さんを騙すおつもりか」
「騙すんやないわ。余計なこと言わんぎりじゃろが」
 辰蔵はため息をつくと、孝平を哀れむ目で見た。
「あなたさまは、ほんまに情けないお方ぞなもし。旦那さんやおかみさんの血ぃを引いておいでるとは信じられんぞなもし」
「何? この腐れ使用人が何偉そうにほざくか!」
「あたしは山﨑機織の使用人であって、あなたさまの使用人ではありません。ほじゃけん、この店を守るためには、言うべきことは言わせてもらいまさい。あなたさまは山﨑家のくずぞなもし」
 何を!――と孝平が辰蔵につかみかかったので、千鶴と幸子は孝平を押さえようとした。しかし、孝平に突き飛ばされた幸子は、土間に転んで腰を打った。
「お母さん!」
 千鶴が叫ぶと同時に、怒った辰蔵が立ち上がり、孝平と揉み合いになった。帳場机は蹴飛ばされ、帳場格子はひっくり返った。花江が置いて行った辰蔵のお茶が床にこぼれ、湯飲みは土間へ落ちて割れた。
 いつの間にか表には、近所の者たちが面白そうに集まっている。
「ほれ、辰さん、しっかりせんかい!」
「辰蔵さん、あたしがついとるぞな!」
 みんなは辰蔵の味方をするが、誰も手を貸そうとも喧嘩を止めようともしない。わいわいと楽しそうに眺めているだけだ。
 騒ぎを聞いて飛び出して来た花江は、倒れている幸子を千鶴と一緒に介抱した。
 帳場では孝平と辰蔵が互いの襟をつかんで、相手を引きずり倒そうとしている。力では辰蔵の方が上のようだが、やはり店の主の息子に対して遠慮があるようだ。
 一方で孝平は手加減などする気はなさそうで、全力で辰蔵をねじ伏せようとしている。
 そこへ店の前の人だかりをかき分けて甚右衛門が現れた。その後ろには新吉がいる。甚右衛門は新吉を連れて出ていたようだ。
 新吉は争いに驚いて立ちすくんだ。しかし、さすがに甚右衛門は主である。店に入ると、やめんか!――と二人を一喝した。
 その声で動きを止めた辰蔵に、孝平はびんたを食らわした。
 すると、花江がすっくと立ち上って帳場に上がると、孝平の頬をぴしゃりと叩いた。
 表から、おぉっ!――と言う歓声が上がる。
 孝平は叩かれた頬を手で押さえ、驚いたように花江を見た。花江は黙ったまま顎をしゃくって、横の土間を見るよう孝平に伝えた。
 顔を横に向けた孝平は、そこに甚右衛門の姿を見つけてうろたえた。だが、すぐに笑顔になって土間へ降りた。
「親父、わしぞな。孝平ぞな」
 甚右衛門は孝平に背を向けると表に出て、野次馬たちに見世物ではないから自分の店に戻れと言った。
 もうおしまいかと、野次馬が残念がりながらぞろぞろといなくなると、甚右衛門は孝平に顔を戻した。孝平は笑顔を見せながら甚右衛門のそばへ行った。
「親父、わしな、んて来たんよ。店の跡継ぎがおらんで困っとんじゃろ? ほじゃけんな、わし、んて来たんよ」
 孝平は誇らしげに言った。すると、甚右衛門はいきなり孝平の胸ぐらをつかむと、力一杯張り倒した。
「今更、何言うとんぞ? あん時、お前はわしにどんだけ恥かかせたんか、わかっとらんのか! その上、今日はこげな騒ぎを起こして、また恥かかせよってからに!」
 体を起こした孝平は、孝平は道の上に正座して甚右衛門に言った。
「ほのことじゃったら、このとおり謝るけん。ほれよりな、店の跡継ぎで困っとんじゃろ? わし、親父には迷惑ぎりかけてしもたけん、今度こそ親父の力になりたい思てんて来たんよ」
 甚右衛門は孝平をじっと見据えながら言った。
「ほうか、ようやっと心を入れ替えたんか」
 孝平は嬉しそうにうなずくと、いそいそと甚右衛門のそばへ行こうとした。だが甚右衛門は素っ気なく、遅いわ――と言った。
「遅いて、跡継ぎはまだ決まっとらんのじゃろ?」
「いいや、決まった」
「決まった? 決まったて、誰に?」
 甚右衛門は横を向くと、離れた所に立っていた男を呼んだ。
 男が近くに来ると、甚右衛門は孝平に言った。
「この男が千鶴の婿になる。千鶴と夫婦めおとになって、二人でこの店を継ぐんぞな」
 え?――と思って、千鶴はその男を見た。
 小さな目に大きな口。お世辞にも素敵な顔とは言えない。だが、風貌は堂々としており、少し威張っているようにも見える。歳は二十四、五だろうか。
「ほら、あたしの言ったとおりだろ? 旦那さんは千鶴ちゃんを跡継ぎにって考えてたんだよ」
 幸子に肩を貸しながら、花江が得意げに言った。しかし、花江の言葉は千鶴の耳には入っていない。
 千鶴はじっと男の頭を見つめた。角が生えていないかを確かめるためだ。だが、いくら見ても角らしきものは見えない。
 男は孝平をちらりと見たが、その目にはあざけりのいろが浮かんでいるようだ。
 孝平も男をにらんだが、その顔は焦りでゆがんでいる。
「親父、わしいうもんおるのに、なしてこがぁな男を連れて来るんぞ?」
「黙っとれ! これまで行方眩ましよったくせに、何言うんぞ。今更お前には、何も言う資格はないわ!」
 親父――と泣きそうな顔の孝平を無視して、甚右衛門は男を店の中へいざなった。それから千鶴に嬉しそうな笑顔を見せた。
「千鶴、聞いてのとおりぞな。お前の見合い相手を連れて来たぞ」
 店の入り口に立った男は、千鶴に軽く会釈をした。しかし男には笑顔がなく、何を考えているのかがわからない。
「おじいちゃん、うち、お見合いするん?」
 千鶴がうろたえながら訊ねると、甚右衛門はうなずいた。
「いろいろ考えた末、そがぁするんがええと思たんよ。ほういうことじゃけん、奥の座敷へ行け。花江さん、すまんけんど、お茶を淹れてくれんかな。ん? 幸子はどがぁしたんぞな?」
 幸子は花江に付き添われながら、腰に手を当てて帳場の端に腰を下ろしていた。その顔はかなり腰が痛そうだ。
 花江から事情を聞いた甚右衛門は、外に立ったままの孝平をじろりと見た。それから花江に、幸子を離れで休ませてからお茶を淹れるよう頼み直した。
「親父ぃ」
 店に入れない孝平が、表から情けない声で甚右衛門を呼んだ。
 そこへ茂七が外の仕事から戻った。その後ろについて、新吉がこそこそと店に入って来た。
 甚右衛門は辰蔵と茂七に、孝平を店の中へ入れないよう命じた。
 茂七は何のことかわからず、甚右衛門と孝平を見比べたが、辰蔵はうなずき、お任せを――と言った。

     五

 茶の間で千鶴と向かい合わせに座った男は、名前を名乗った。
鬼山おにやま喜兵衛きへえと申します」
「鬼山?」
「喜兵衛ぞなもし」
 微笑む男の顔を見つめながら、やっぱし――と千鶴は思った。
「こら、お前も挨拶をせんか」
 甚右衛門に言われて我に返った千鶴は、山﨑千鶴と申しますと言って頭を下げた。
「鬼山くんの家は元武家でな。わしの家とは知り合い同士ぞな」
「おじいちゃんの家?」
「お前には言うとらんかったかな。わしはこの家に婿入りしたんぞな。わしの実家は武家でな。子供の頃は歩行かちまちにおったんよ。ほんでも明治になると、武士じゃあ暮らして行けんようなってな。ほれで、この家の跡取りとして婿に入らせてもろたんぞな」
 千鶴は初めて聞いた話だった。そもそも祖父がこんなにいろいろ喋ってくれること自体が、これまでなかったことだった。
「ほういうわけで、似たような形で鬼山くんをうちへ迎え入れようと、こがぁなことぞな」
 千鶴が黙っていると、甚右衛門は少し焦ったように付け加えた。
「鬼山くんは剣道四段の腕前でな。道場でも、さすが武家の血筋とうなずかされる猛者もさやそうな」
 どうやら甚右衛門は武家の出であることに、かなりの重きを置いているようだ。元々は自分も武士の家柄であったことを、誇りに思っているのだろう。
「剣道四段て、がいなことなんですか?」
 千鶴は剣道のことなどわからない。喜兵衛が苦笑するのを見て、甚右衛門は少し機嫌を悪くしたようで、いつもの仏頂面に戻った。
「がいなことに決まっとろが。四段いうんは、この若さでそうそう取れるもんやないんぞ」
 千鶴は慌てて喜兵衛に頭を下げると、何も知りませんもんで失礼致しました――と詫びた。
 いやいやと喜兵衛は貫禄を見せるように笑い、女子おなごにはわからんことですけん――と言った。
 喜兵衛から下に見られていると感じながらも、これ以上祖父に恥をかかせるわけにもいかないと、千鶴は我慢しながら話しかけた。
「鬼山さんは、昔から歩行町に住まわれておいでたんですか?」
「あしが住みよるんは湊町ぞなもし。歩行町におるんはあしの祖父母と伯父貴の家族で、あしの親は歩行町から湊町へ移ったんぞな」
 歩行町というのは、城山の南東に位置する下級武士が暮らした町で、春子が電車に乗った一番町の電停より北にある。
 千鶴と春子が歩いた湊町商店街は魚の棚までだが、湊町自体は魚の棚からさらに東へ延びている。魚の棚より東側には伊予絣を作る家が数多く並んでおり、喜兵衛の家はその中の一軒だった。
 鬼山という家が昔からあるのであれば、鬼山という名は鬼とは関係がないのかもしれない。それでも喜兵衛という人物が本当に鬼山家の一員であるかは定かでない。
「あの、おじいちゃんはこの方を、いつからご存知やったんぞなもし?」
「今日知ったんよ」
「今日?」
 千鶴が部屋で春子と喋っている間に、甚右衛門は伊予織物同業組合へ仕事の話をしに行ったのだと言う。その時に喜兵衛の話を耳にしたので、午後から早速喜兵衛に会いに行ったそうだ。それにしても、今日知ったばかりというのはやはり怪しい。
「鬼山さんは普段は何をされておいでるんぞなもし?」
「普段ですか? 普段はほうじゃなぁ。家の仕事を手伝てつどうたりもしよりますが、三男坊ですけん、比較的自由にさせてもろとります」
「ご次男の方はどがぁされておいでるんぞなもし?」
「二番目の兄貴は陸軍の士官になりました。あしも士官学校に入るよう勧められたんですが、あしのしょうに合わんので断りました」
「性に合わんとは?」
 甚右衛門が訊ねると、自分は人に使われるのが嫌なのだと喜兵衛は言った。
「将校は兵士に指示を出すけんど、上の指示には従わにゃなりません。あしは何もかんも己の意思を貫いて生きたいんぞなもし。ほじゃけん、陸軍より商いの方が自分には向いとると思とるんです」
「なるほど。確かに己の道は己で切り開かんとな」
「そげです。その点、旦那さんはご自身の判断で山﨑機織を切り盛りし、せんだっての東京の大地震のあとも乗り切っておいでる。いけんなった店も多い中、さすがは旦那さんじゃと思いよりました」
 いやいやと甚右衛門は謙遜したが、悪い気はしないようだ。口元に隠し切れない笑みがこぼれている。
「そげなわけで、旦那さんのとこじゃったら、あしは思い切った商いができるんやなかろかと、こがぁ思たわけです」
 喜兵衛の言葉に甚右衛門は何度もうなずいている。千鶴の目にその様子は、鬼に祖父が操られているようにしか見えない。
 甚右衛門と喜兵衛は話が弾み、千鶴は蚊帳かやの外になっていた。
 お待たせしましたと、花江がお茶を出してくれた。言われたわけではないが、茶菓子までついている。千鶴の見合いだと思って、気を遣ってくれたのだろう。
 千鶴は花江にお礼を言い、甚右衛門も花江をねぎらった。だが、喜兵衛はちろりと配られたお茶と茶菓子を見ただけで、花江には声をかけるどころか目もくれなかった。
 それで千鶴がむっとしていると、甚右衛門は千鶴の気を引かせようと話題を変えた。
「鬼山くんは剣道の他にもな、ようけええとこがあるんぞ。まず、三年の徴兵義務は終わっとるけん、兵隊に取られることはない。ほれに頭もようて弁が立つ。ほんまなら政治家にでもなれるぐらいの人物ぞな。しかもこのとおりの男前よ。鬼山くんに憧れる女子は、何人もおるそうじゃ。鬼山くんが独身いうんが信じられまい」
 喜兵衛は少し恥ずかしそうな笑みを浮かべながらも、甚右衛門の言葉を否定はしない。そのとおりですと言っているようで嫌みったらしい。それに喜兵衛の笑みはわざとらしく見える。
 喜兵衛を男前と褒め称えたことで、祖父が喜兵衛に操られていると千鶴は確信した。結局、喜兵衛は山﨑機織を利用して、鬼の仲間を増やすつもりに違いない。
「千鶴さんはお父さんのことは、何ぞご存知かなもし?」
 喜兵衛に問いかけられた千鶴は、はっとなった。
「いえ、うちが産まれた時には、もう、おりませんでしたけん」
「お父さんにうたことはないんかなもし?」
 はい――と千鶴がうなずくと、父親に会ってみたいかと喜兵衛は訊ねた。
 千鶴はちらりと甚右衛門を見てから、いいえと言った。
「ほやけど、いっぺんうてみたいて思うことはあるじゃろに」
 次第に体が前のめりになる喜兵衛の言葉は、少し決めつけたと言うか強引さがある。
 そこまで父に関心があるというのは、やはり父もこの男と同じ鬼だということなのか。千鶴は喜兵衛の正体を見たような気がした。
「なして鬼山さんは、そがぁに父のことぎり訊ねられるんぞな?」
 怪しんだ千鶴が問いかけると、喜兵衛は頭の後ろに手を当てて笑った。その仕草は伸びて来た角を隠そうとしたように見える。
「いや、申し訳ない。実は、いずれ伊予絣をソ連にも売り込んだろと思いよったんぞな。ほじゃけん、千鶴さんのお父さんと連絡が取れるんなら、これは行けると思たぎりぞなもし」
 甚右衛門は喜兵衛の発想に大きくうなずいている。
「さすがじゃな、鬼山くん。まだ若いのに大したもんぞな。ソ連に伊予絣を売り込むやなんて、わしには思いつかんぞな」
「いやいや、今のとこはソ連とはまだ国交がありませんけん、捕らぬたのきの皮算用ぞなもし」
 喜兵衛は照れたように笑った。甚右衛門も喜兵衛も意気投合している様子だ。また、二人とも千鶴が婿取りを了承するものと決め込んでいるようだ。
 がんごめである以上、鬼と夫婦になるのは定めかもしれない。しかし鬼山を見ていて、千鶴は定めにあらがうことに決めた。
「おじいちゃん、鬼山さん」
 千鶴は二人に声をかけた。
「うち、これまでずっと小学校教師になるために、女子師範学校で勉学に励んで来ました。ほれやのに、今日いきなしお見合いさせられても、うちとしては困るんぞなもし。ここのお店の事情はわかっとりますけんど、ほれにしたかて困るんぞなもし」
 千鶴はきっぱり言った。これだけのことが言えたのは、忠之への想いがあったからだ。
 これまでは、忠之ことはあきらめねばならないと考えていた。しかし、己の定めを突きつけられた今、千鶴は自分の本当の気持ちに気づかされた。
 自分が夫婦になるのはあの人だけだと、千鶴は心に決めていた。夫婦になれないのであれば、一生独り身でいる覚悟があった。
 毅然きぜんとした千鶴の言葉に、甚右衛門も喜兵衛も少なからず動揺したようだった。だが甚右衛門は千鶴の言い分を聞き、確かに性急過ぎたと反省の姿勢を見せた。
 喜兵衛も同様に、もう少し個人的な話をするべきだったと言い、千鶴に自分の無神経さを詫びた。その上で、千鶴とは結婚を前提としたお付き合いがしたいと申し出た。もちろん、それは千鶴の婿になるということだ。
 甚右衛門は千鶴をなだめるように言った。
「結婚については、今すぐ返事はせんでええ。どうしても教師になりたい言うんなら、ほれもかまん。その上でいっぺん鬼山くんと付きうてみてはもえまいか。付き合うてみて、やっぱしいけんと言うんなら、ほれはしゃあないことよ。どがぁぞな?」
 祖父にここまで言われたら、千鶴も拒絶ができなかった。
「結婚を前提とせんのであれば」
 これが千鶴としては精一杯の返事だった。
 甚右衛門は笑みを見せると、これでいいかと喜兵衛に訊ねた。喜兵衛は千鶴と一緒になる自信があるのか、結構ですと言った。
 祖父の顔を立てて付き合いはしても、絶対に結婚はしない。それが千鶴の考えだった。

「あんた」
 トミの声がした。見ると、土間にトミが立っている。その横で、新吉が不安げな顔で千鶴たちを見ていた。新吉の後ろには、やはり不安げな亀吉がいる。亀吉はトミと一緒にいたようだ。
 トミは何か言おうとしたようだが、喜兵衛に気づいていぶかしげな顔をした。
「このお人は?」
「千鶴の婿になる男ぞな」
 まだ婿になるとは決まっていないはずなのにと、千鶴は腹が立った。しかし、これが祖父の本音と言うか、鬼の本音なのである。
 鬼山喜兵衛と申します――と喜兵衛はトミに頭を下げた。
 トミも喜兵衛に挨拶を返すと、すぐに甚右衛門に顔を戻した。
「あんた、表に孝平がおるぞな」
「わかっとらい」
 甚右衛門は不機嫌そうに返事をした。
「わかっとるんなら、なしてあげなとこに立たせとるんね? 早よ中へ入れてやらんね」
「ずっと行方眩ましよったくせに、いきなしんて来て跡継ぎづらする奴なんぞ勘当ぞ」
「勘当て……。血ぃのつながった息子やないの。やっとんて来たのに勘当はなかろがね」
「つかましいわ! あいつがわしのこと、何て言うた思う? 親父やぞ。己を何様や思とるんじゃい、偉そうに」
 甚右衛門は怒りをあらわにしたが、トミはひるまなかった。
「ほやけど、勘当することないじゃろがね。そげなことは言うて聞かせたらええことぞな」
「ここにあいつの居場所はない」
「何でもさせたらええじゃろがね」
「そげなわけに行くかい」
 店の方が騒がしくなったと思うと、孝平が飛び込んで来た。慌てて追いかけて来たのは茂七と辰蔵だ。
 孝平は土間に這いつくばって甚右衛門に詫びた。
「親父、いや、父さん。わしが悪かった。こがぁしてお詫びするけん、どうか、わしをここへ置いてつかぁさい」
 甚右衛門はトミを気にしながら孝平を叱りつけた。
「千鶴が見合いしよるんがわかった上で、そげな芝居がかったことをするんは、己のことしか考えとらん証じゃろがな。母親が味方してくれるて思とんじゃろが、とんでもないわ。お前なんぞ、もう息子でも何でもないけん、どこまり行くがええ」
 甚右衛門が、辰蔵と茂七に顎をしゃくると、二人は暴れる孝平を抱えるようにして表へ連れて行った。
 トミは憤慨した様子だったが、黙って孝平のあとを追った。
 亀吉はトミのあとに続いたが、新吉はぼーっと突っ立っていた。すると戻って来た亀吉が、新吉を店の方へ引っ張って行った。
 甚右衛門は喜兵衛に詫びると、また別の日に千鶴と会ってやって欲しいと頼んだ。
 千鶴にすれば余計なお世話だったが、祖父には逆らえない。喜兵衛がにこやかにうなずいて、またご連絡しますぞなもし――と言うのを、黙って聞くしかなかった。