婿になる男
一
春子が風太すなわち忠之に自慢したとおり、紙屋町の入口である札ノ辻の北側の角には、木造四階建ての大丸百貨店がある。千鶴が高等小学校に入った大正六年に建てられたものだ。
紙屋町を含む城山の西側の区域は古町三十町と呼ばれている。明治になるまでこの区域は松山の商いの中心地で、租税も免除される特別地域だった。ところが明治になると租税免除の特権がなくなり、古町三十町の勢いは衰えた。
一方で、城山の南に位置する外側と呼ばれる地域にも、商人が暮らす町があった。こちらは伊予鉄道の起点となる松山駅ができたため、大いに活気づいた。
古町の商人たちは、このまま商いの中心が外側へ移ることを恐れた。それで古町の呉服屋が逆転を狙って建てたのがこの大丸百貨店だ。
当時、とても珍しくハイカラな大丸百貨店は、たちまち松山名所として人気を博した。東京の三越百貨店を知る花江も、地方の街にこんな百貨店があることに驚いたという。
当然、春子もここに憧れており、大丸百貨店へ行きたいと千鶴にせがんだ。だけどそれは半分が本当の気持ちで、あとの半分は千鶴を元気づけるためのものに違いない。
見知らぬ老婆からいきなり鬼が憑いていると言われた時、千鶴はあまりのことに呆然とするほかなかった。
春子は老婆に悪態をつき、何も気にすることはないと千鶴を慰めた。しかし、千鶴が平穏な気持ちになれるわけがない。そんな千鶴の気持ちを察して、春子は百貨店行きを明るくはしゃいでいるようだ。
表に回ると、店の前に空になった大八車が置かれていた。山﨑機織のとは別のものだ。これを運んで来た仲買人は、特別に奥でお茶を出してもらっているのだろう。帳場にいるのは辰蔵と亀吉だけだ。やはり茂七の姿はない。
いつもの千鶴であれば、大八車や茂七のことを確かめたところだが、今は何も考えられない。黙って店の前を通り過ぎようとしたところを、亀吉に声をかけられてようやく我に返った。それでもぎこちない笑みを返すしかできず、代わりに春子が、行てくるけんと返事をしてくれた。
「電車降りた時にな、おら、今日は絶対ここに来よて思いよったんよ」
百貨店の前に立った春子は、嬉しそうに千鶴を振り返った。けれど、千鶴を気遣っているからか、その笑顔は少し大袈裟に見える。
千鶴も春子が訪ねて来たら、ここへ連れて来るつもりだった。
学校の寮は門限が厳しいし、生徒たちはそれほどお金を持っていない。そのため、休みに外へ出るにしても三津ヶ浜ばかりで、松山まで遊びに出ることはほとんどなかった。
だから春子が大丸百貨店を訪れたのは去年の一度きりで、今回百貨店をのぞくのは楽しみにしていたはずだ。とはいっても、百貨店のすぐ近くに暮らす千鶴でさえも、ここへ来ることはない。
基本的に百貨店で取り扱っているのは高級品ばかりだ。山﨑機織の誰もが一度はこの百貨店を訪れたが、そのあとは本当に用事がない限り来ていない。仕事が忙しくて来る暇などなかったが、不要な高級品を買うだけの余裕がないのが一番の理由だ。
建物の中に入ると、まずそこで履物を脱いでスリッパに履き替える。脱いだ履物は下足番が預かって、裏口に回される仕組みになっている。もうこれだけで春子は大興奮だ。
通常の店では番頭が帳場に座り、客の注文に応じていちいち品を出して来る。ところが、百貨店ではすでに商品が陳列されているのだ。つまり、客は自分の頭になかった品を見られるのである。それは思いがけない品との出会いであり、商品を眺めているだけでも愉快で楽しかった。
また、百貨店の店員は全員が着物姿の女性だ。女性が客に商品の説明をして販売するのである。それも千鶴や春子には新鮮だった。
番頭や手代は男の仕事と決まっている。女には女中の仕事ぐらいしかない。女が働ける場所は限られており、千鶴たちが師範を目指している背景には、そんな事情もあった。そのため百貨店で働く女性店員の姿は、千鶴には輝いて見えた。
しかし、それは以前にここを訪れた時のことであり、今は老婆に言われたことで、何にも感動できなくなっていた。さらに、じろじろと目を向ける他の客たちの視線も、千鶴を憂鬱な気分にさせた。だけどせっかく来てくれた春子に嫌な想いをさせるわけにはいかないので、千鶴は心の内は隠したまま楽しいふりをしていた。
百貨店の一階は、ハンカチや靴下などの洋品が置かれている。二階は呉服売り場で、三階には文具と化粧品がある。
各売り場に陳列された商品はいずれも高級で、春子は眺めるしかないのを残念がった。けれども、百貨店には商品以外にも目玉になるものがあった。えれべぇたぁだ。
えれべぇたぁとは、案内の女性がいる小部屋だ。この小部屋はとても面白い。案内の女性が扉を閉め、次に開けた時には外は別の売り場になっているのだ。
去年来た時にも使ったはずなのに、春子は初めてみたいに大はしゃぎだった。
三階までは商品売り場だが、最上階の四階は食堂になっている。ここでの食事には憧れがあるが、祖母からもらった小遣いでは足が出る。それに食堂を埋める年配の女性たちに気後れしたので、二人は食堂はやめて外へ出た。
百貨店を出ると、すぐそこに師範学校がある。
師範学校があるのは西堀の北端で、建物の手前を電車が走り、その向こう側を札ノ辻を起点とした今治街道が通る。先日、忠之に人力車で運んで来てもらったのはこの道で、春子が人力車を降りたのが師範学校の前だ。
あの時は街灯ぐらいしか明かりがなかったので、師範学校はよく見えなかったが、今は太陽の下でその華麗な姿を見ることができる。遥か昔、中国の秦の始皇帝が建てた宮殿は阿房宮と呼ばれたが、それにちなんで師範学校は伊予の阿房宮という呼び名がつけられている。
「こっちが女子師範学校で、三津ヶ浜にあるんが師範学校やったらよかったのになぁ」
伊予の阿房宮を眺めながら、春子が残念そうに言った。
「ほれじゃったら、学校が休みん時は松山で遊べるし、この百貨店もちょくちょくのぞけるのに」
千鶴が女子師範学校に入った頃は寮生活だったので、松山から離れられたと千鶴は喜んだ。しかし寮を出て自宅から通い始めてからは、こちらが女子師範学校でないことを恨めしく思うことがあった。
女はいつも後回しで、何かのついででなければ目を向けてもらえないと、二人は文句を言いながら札ノ辻を南へ進んだ。
少し行くと、右手に勧商場がある。勧商場とは一つの建物の中にいくつもの小売店が集まったもので、ここには化粧品や衣類、日用雑貨などの店が並んでいる。
春子はここも初めてではない。なのに北城町の勧商場よりこちらの方が規模が大きいと、初めて訪れたみたいなことを言いながら、並べられた商品を見てまわった。高級品ではないので、高くて手が出せないわけではないが、二人は女学生の身分なので、やはり見るだけにした。
それでも春子は十分楽しんでいる様子だった。千鶴を気遣うのも忘れているが、それが却って千鶴の気分を和らげてくれていた。
二
伊予鉄道の松山停車場の北向かいに善勝寺というお寺がある。
御本尊は日切地蔵と呼ばれ、何日にとか何日までにと期日を決めて願掛けをすると願いが叶うといわれている。
この善勝寺へ千鶴は春子を連れて来た。けれど目的は日切地蔵ではない。境内で売られている饅頭だ。その名も日切饅頭というが、饅頭というより柔らかい焼菓子だ。中には熱々のあんこがたっぷりと入っていて三個五銭である。
千鶴と春子は買った饅頭を一つずつ手に取った。残りはあとで半分こだ。
「熱いけん、気ぃつけや」
春子の食べっぷりを知っている千鶴は、春子に忠告をした。春子は笑うと、わかっとるけんと言って、がぶりと饅頭にかぶりついた。途端に熱い熱いと大慌てだ。
千鶴は急いで春子を手水舎へ連れて行き、柄杓で水を口に含ませた。
「ああ、熱かった。口に入れた物は出せんし、さりとて呑み込めんけん、どがぁなるかと思いよった」
「ほじゃけん、気ぃつけやて言うたのに。村上さん、前来た時も対のことしよったよ」
ほうじゃったかねと春子は苦笑した。
「今度から気ぃつけるけん。ほれにしても、これ、まっこと美味いで。名波村のみんなにも食べさせてやりたいなぁ」
「ほれも前に言いよったね」
千鶴は笑いながら、自分も日切饅頭をあの人に食べさせてあげたいと思った。もちろん、あの人とは忠之のことだ。
春子は照れ笑いをすると、今度は慎重に少しずつ食べながら言った。
「おらな、こっち戻んてから家に手紙書いたんよ」
「何の手紙?」
「おらたちを運んでくれた風太さんのことぞな」
千鶴は胸がどきんとした。
老婆に鬼のことを言われてすっかり忘れていたが、春子は忠之に気があるらしいのだ。もしかしたら村長である父親に、風太と一緒になりたいと手紙を書いたのだろうかと、千鶴は大いに焦った。
もう勘弁してほしいと願う千鶴に、春子は話を続けた。
「風太さん、おらたちを運んだ銭を、あとで家に請求するて言うておいでたろ? ほじゃけん、ほれをおとっつぁんに謝っとかないけん思て手紙書いたんやけんど、その返事が昨日届いたんよ」
その話かと千鶴は胸を撫で下ろした。それに、春子が知らないことを自分は知っているという気持ちの余裕も出て来た。
「おとっつぁんからの手紙、何て書いとった思う? そげな請求なんぞ来とらんし、俥ぁ引く者に風太いう奴なんぞおらん言うんで。山﨑さん、どがぁ思う?」
春子は千鶴の予想どおりに喋った。千鶴は笑いを堪えながら惚けて言った。
「また、お不動さまが助けてくんさったんやないん?」
やっぱし?――と春子は真顔で言った。
「おらもな、ほうやないかて思いよったんよ。ほやなかったら他に説明できまい? 今更なけんど、よう考えたら初めて俥ぁ引く者が二人も乗せて、北城町から松山まで走るやなんてでけるわけないもんな。ほれに風太さんがお不動さまじゃったら、おらが子供ん頃に法生寺で顔合わせとるいうんも説明つこう?」
噴き出しそうになった千鶴は、横を向いてごまかした。
風太の正体がお不動さまなら、風太と一緒になりたいとは春子も考えないだろう。そのことも千鶴に笑みをこぼさせた。
「どがぁしたん?」
春子が怪訝な顔で言った。千鶴は慌てて笑みを消してごまかした。
「ちぃと小バエが顔に寄って来よるんよ」
いない小バエを手で追ってから千鶴が顔を戻すと、春子はため息交じりに言った。
「知らん男が引く俥ぁで松山に戻んたいうんで、おら、おとっつぁんにがいに叱られてしもた」
「ほやけど、こがぁして無事に戻んて来られたんじゃけん、よかったやんか。お不動さまに感謝せんと」
笑いを抑えながら千鶴が励ますと、ほんまよと春子は少し元気を取り戻した。
「まっことお不動さまの俥ぁに乗せてもらえなんだら、おらたち、今頃退学になっとったで。おとっつぁんには叱られてしもたけんど、お不動さまには感謝ぞな」
本当に春子の言うとおりだった。あの時、あの人がいなかったらどうなっていたかと思うと、改めて感謝の気持ちでいっぱいになる。
「今頃、どがぁしんさっておいでようか」
千鶴が忠之を思い浮かべながら、つい独り言をつぶやくと、春子はけらけらと笑った。
「ほら、決まっとらい。法生寺の本堂でこがぁして座っておいでらい」
春子は怖い顔をした不動明王の真似をした。その様子があまりに面白かったし、不動明王が助けてくれたと春子が真剣に信じていたので、千鶴は不安も忘れて笑い転げた。
三
善勝寺を出た千鶴たちは、そこから東へ延びる湊町商店街を歩いた。
湊町商店街の長さは約五町で、そこから今度は大街道商店街が北へ延びる。これも五町ほどの長さであり、全部合わせると十町になる商店街だ。春子にすれば歩くだけでも楽しい所だが、千鶴にしても滅多に出歩く所ではない。春子のお陰で鬼への不安が和らいだ今、とても楽しみな散策だ。
湊町商店街は呉服屋や洋品店、履物屋、眼鏡屋、仏具屋など日用品の店が多い。
日露戦争で松山へ連れて来られたロシア捕虜兵は、街へ出歩くことが許されていた。そのため、この商店街はロシア人たちの買い物で大いに賑わい、当時は露西亜町とも呼ばれていたらしい。洋菓子や洋食を出す店には、その頃の面影が残っている。
また大丸百貨店や勧商場の影響を受けたのか、呉服屋にも自慢の品が表から眺められるように、あらかじめ展示している所があり、春子を喜ばせた。
湊町商店街と大街道商店街の接点になる辺りは、魚の棚と呼ばれている。その名のとおりかつては多くの魚屋が集まっていた所だ。今は魚屋の他に天麩羅屋や菓子屋、八百屋、蒲鉾屋、乾物屋など庶民の食べ物を扱う店が並んでいる。
ここから大街道へ向かうと、すぐ右手に木造三階建ての立派なうどん屋がある。亀屋という有名な店で、松山を訪れた者は必ず立ち寄るといわれている所だ。千鶴はここで春子にうどんをご馳走することにした。
店の中は客で賑わっており、多くの視線が千鶴に集まった。だけど、千鶴は気にしないと決めていた。いずれ鬼になる自分がこんなことができるのも今しかないと思うと、人の目など気にしていられなかった。
春子はうどんを食べながら、大丸百貨店からここまでの楽しかったことを、ずっと喋り続けた。早く食べないとうどんが伸びると千鶴に言われると、慌ててうどんをすするのだが、すぐに箸を止めて喋った。今回の街歩きが余程楽しかったのだろう。
でも、その分だけ千鶴は切なさを感じていた。こんな風に春子と街で遊ぶのは、きっとこれが最後なのだ。もうすぐ卒業だからではない。鬼娘だからである。
春子に合わせて笑っていても、つい悲しみが込み上げると、千鶴は下を向いてうどんを一本だけすすった。
うどんを食べ終わると、二人は大街道商店街を見て歩いた。
大街道商店街にも呉服屋や履物屋、菓子屋などはあるが、湊町商店街との大きな違いは活動写真館が三つもあることだ。
活動写真とは舞台に用意された大きな幕に、無数の写真を物凄い速さで映し出すものだ。すると幕の上で写真の人物や動物や景色が動きだし、物語が展開されるのである。
幕の横には活動弁士と呼ばれる人が声を張り上げながら、物語を面白おかしく語ってくれる。活動写真の作品の善し悪しは、この活動弁士の腕にかかっているといっても過言でない。
他にも大街道商店街には亀屋の他にもおふくという、同じく三階建ての大きなうどん屋があるし、新栄座という芝居小屋まである。湊町商店街と比べると、こちらは娯楽向けの雰囲気だ。
芝居も見てみたいが、お金も時間もかかる。春子が門限までに戻れないと困るので、千鶴たちは活動写真館の一つ、世界館に入った。
千鶴は子供の頃、辰蔵に何度か活動写真に連れて来てもらった。でも自分ではお金がないので入ったことはない。三津ヶ浜にも活動写真館はあるが、そんなお金は持たせてもらえなかったし、以前に春子が松山へ遊びに来た時も事情は同じだった。
だけど、今日は祖母にもらったお金がある。千鶴は自分で活動写真を観ることに、少し興奮を覚えていた。一方、春子も千鶴と一緒に活動写真を観られると大はしゃぎだ。
ちょうど上演していたのは喜劇作品で、千鶴も春子も大いに笑った。この日のお楽しみはこれが最後であり、もしかしたら千鶴にとっての最後の楽しさかもしれなかった。そんなことを考えると悲しくなって、笑いの半分は見せかけとなった。
活動写真を見終わって外へ出ると、そろそろ春子が帰らねばならない時刻になった。門限の五時までには、春子は寮に戻っていなければならないが、札ノ辻まで歩いて戻ると、恐らくは間に合わない。
大街道を北に抜け出た所に、三津ヶ浜へ向かう電車の一番町停車場がある。春子はそこから電車に乗ることにした。
「今日はだんだんありがとう。おら、まっこと楽しかった」
「うちも楽しかった。ほんじゃあ、また明日学校でな」
春子は喜びいっぱいの顔で電車に乗った。千鶴は手を振りながら春子を乗せた電車を見送り、その電車の後を追うようにお堀に向かって歩いた。
春子は電車の後部の窓越しに、ずっと千鶴に手を振り続けた。千鶴も何度も手を振り返した。やがて電車はお堀に突き当たると、南へ曲がって行ってしまった。
電車を見送ったあと、千鶴は立ち止まって右手を見た。そこは裁判所で、そのすぐ向こうは城山だ。城山の麓には萬翠荘と呼ばれる美しい洋館が、裁判所に隠れるようにしてひっそり佇んでいる。殿さまの血筋である久松定謨伯爵が、去年の十一月に別邸として建てられたものだ。
千鶴はこの洋館に憧れていた。だけど電車の通りからでは、萬翠荘は裁判所の建物が邪魔になって見えづらかった。そこから南へ向かう道に入った千鶴は、裁判所から離れた所で城山を振り返った。すると樹木に囲まれた萬翠荘が、裁判所の上から顔を出していた。その美しさに千鶴はため息をついた。
ここは各界の名士と呼ばれる人々の集う場であり、皇族が来松した時に立ち寄る所だ。その記念すべき一番初めの宿泊客となったのは、体調が優れぬ大正天皇の摂政宮として、松山を訪れた裕仁親王だった。
親王は愛媛各地を視察されたが、女子師範学校もその一つとなった。千鶴たち生徒は親王の前で薙刀の演武を披露し、合唱曲を歌った。それは一生のうちに一度あるかないかという栄誉であり、あの時ばかりは千鶴が女子師範学校に通っていることを、祖父母は知人たちに自慢して廻ったそうだ。
そんなこともあって、千鶴は裕仁親王に親しみを感じていた。その親王が泊まられた屋敷が目の前にある。庶民には近づくことさえ敵わない館だ。
いずれ人として暮らせなくなる日が訪れるのだとしたら、その時までに一度でいいから屋敷の中を見てみたい。そんな想いで千鶴は憧れの洋館を眺めた。
頭の中では、再びあのお祓いの婆の言葉が繰り返されている。
四
紙屋町へ戻ると、山﨑機織の前には店で使う大八車が置かれていたが、仲買人が絣を運ぶ牛車や大八車はなかった。お客もいないので千鶴は店に入った。
「戻んたぞな、番頭さん」
千鶴は帳場にいる辰蔵に声をかけた。
午後は茂七と弥七は注文取りに廻っている。丁稚の二人は奥にいるのか、ここには姿がない。代わりに貧相な男が辰蔵の横で胡座をかいて座っている。
ぎょっとした千鶴を、男はじろりとにらんだ。
「お前、千鶴か」
「え? は、はい」
不躾に名前を呼ばれ、千鶴は戸惑いながら返事をした。
「わしが誰かわかるか? わかるまい」
いきなり訊かれても知らない相手である。千鶴が返事に困っていると、男は山﨑孝平と名乗り、お前の叔父よと言った。
「叔父さん? すんません、うち、初めて聞く話ですけん」
「ほら、ほうじゃろ。お前がまだこんまい頃に、わしは松山を出たんじゃけんな」
何だか喧嘩を売っているみたいな喋り方に、千鶴は困惑して辰蔵を見た。辰蔵もこの無礼な男に当惑のいろを隠せないようだ。
「あたしもこのお方に直接お会いするんは、今日が初めてなんぞなもし。ほんでもこのお方の話は、あたしが丁稚じゃった頃に耳にしたことはあるんです」
「ほんじゃあ、ほんまにうちの叔父さん?」
孝平は顔をしかめると、へっと息を吐いた。
「わしの言うことが信用でけんのかい。人に散々迷惑かけくさっといて、何じゃい。まっこと異人の娘は礼儀知らずやの!」
千鶴はむっとする気持ちを抑えながら、孝平に訊ねた。
「うちがどげな迷惑をおかけしたんぞなもし?」
孝平は嫌な顔のまま居丈高に言った。
「わしはな、ここと同業の店の丁稚をしよったんよ。もうちぃとで手代になれたのに、お前のせいで馬鹿にされて、わしよりあとから入った奴が手代になったんぞ。やけん、阿呆らしなって松山から出たんじゃい」
何かをして文句を言われるのであれば、素直に謝ることができる。だけど、何もしていないのにお前のせいでと言われては、どうにもしようがない。それは存在そのものが迷惑だという意味であり、困惑と狼狽をするばかりだ。
「ほれは……申し訳ございませんでした」
屈辱に耐えながら千鶴は頭を下げた。すると辰蔵が言った。
「千鶴さん、謝らいでもええぞなもし。千鶴さんは何も悪ないですけん」
「何やと?」
いきり立つ孝平に、辰蔵は堂々と言った。
「千鶴さんは旦那さんとおかみさんの大切なお孫さんぞなもし。お前さまに何があったんかは存じませんが、ほれと千鶴さんは何の関係もございません」
「関係ないことあるかい! わしが手代になれなんだんはな――」
孝平は声を荒らげたが、その声を遮って辰蔵は言葉を続けた。
「お前さまが手代になれなんだんはご自身の実力でしょう。商いと関係ないことで手代に昇格させんのなら、そこの主は初めからお前さまを丁稚に取ったりしません。ほれを千鶴さんのせいにしんさるんは、とんだお門違いいうもんぞなもし。いくら旦那さんのご子息やいうても、これ以上、千鶴さんを侮辱しんさるんは、このあたしが許しません」
千鶴は嬉しかった。だが、当然面白くない孝平は辰蔵をにらみつけた。
「お前、使用人のくせに偉そなこと言うてからに。わしはここの跡取り息子やぞ? わしがこの店継いだら、お前なんぞ、こいつと一緒に真っ先に放り出してやるけんな!」
辰蔵も負けていない。赤らんだ顔で孝平をにらみ返して言った。
「お前さまが旦那さんの後を継ぐいう話は、あたしはこれっぽっちも耳にしとりません。万が一、お前さまが後を継がれるのでしたら、こちらの方から出て行かせてもらいまさい!」
「ほぉ、よう言うた。その言葉、忘れんなや!」
孝平は片膝を立てて息巻いた。辰蔵も怒りを隠さず一触即発の雰囲気だ。
「お茶をどうぞ」
花江がお茶を載せたお盆を運んで来た。孝平も辰蔵も口を噤んだが、二人とも興奮が冷めやらない。
孝平は花江をじろりと見たが、すぐに驚いたように目を瞠った。一度は立てた片膝を急いで元に戻した孝平は、呆けたように口を半分開いたまま花江に目が釘づけになっている。
「こげな男に、お茶なんぞ出さいでもよかったのに」
淡々と二人の前にお茶を置く花江に辰蔵は言った。どうやら花江は頼まれてお茶を淹れたのではないらしい。恐らく孝平の顔を一目見てやろうと思ったのだろう。
辰蔵の言葉に孝平は逆上したが、花江にじろりと見られるとうろたえて口籠もった。
花江はすぐに千鶴に顔を向け、にっこり微笑んだ。
「お帰んなさい。楽しかったかい?」
「え? えぇ、お陰さまで十分楽しませてもらいました。いろいろ気ぃ遣ていただいて、だんだんありがとうございました」
まるで孝平などいないかのごとく振る舞う花江に、千鶴は戸惑いながら返事をした。花江は孝平を横目で見ると明るく言った。
「千鶴ちゃんはここの跡取り娘、じゃない、跡取り孫娘だもんね。街で楽しむぐらい当然だよ」
何やて?――と孝平がまた憤った。
「何じゃい、今の話は。なしてこいつが跡取りなんぞ。この店の跡取りは――」
真っ直ぐ顔を向けた花江ににらまれると、孝平は再び勢いを失った。
「跡取りは……、このわし……、なんやが……」
孝平の言葉は次第にもごもごとなり、後の方はよく聞こえない。孝平の様子がおかしいことには構わず、花江は腰に手を当てながら強い口調で言った。
「あんたさ、いきなり来といて何言ってんのさ。ここの跡取りは千鶴ちゃんだよ。どこの誰だか知んないけどさ。勝手なことを言うもんじゃないよ!」
「いや、ほじゃけん、わしはやな、その……」
花江が女中なのは見てわかるだろうに、何故か孝平は花江に言われ放題でしどろもどろになっている。
「さっきから何を言いよるんね?」
騒ぎが収まらないからだろう。台所から幸子が顔を出した。
幸子は孝平を見ると眉間に皺を寄せ、驚いたように目を見開いた。
「あんた、孝ちゃんか? 孝ちゃんなん?」
「な、何じゃい。馴れ馴れしゅうすんな」
うろたえた孝平が横を向くと、幸子は駆け寄って孝平の手を取った。
「やっぱし孝ちゃんやないの。あんた、今までどこ行きよったんね。お父さんもお母さんも心配しよったんよ!」
「穢らわしい。わしに触るな!」
孝平が幸子の手を振り払うと、花江が訝しそうな顔で幸子に訊ねた。
「幸子さん、この人、幸子さんの何なの?」
「この子はね、うちの弟なんよ。正兄が亡くなったあと、ほんまじゃったら、この子がここの跡取りになるはずやったんよ。ほれやのに、この子はみんなに黙って奉公先逃げ出して、行方知れずになっとったんよ」
「そういうわけだったんだ」
花江がうなずくと、わかったかと言わんばかりに孝平は胸を張った。
「聞いてのとおり、わしがここの正式な跡取りぞな。わかったら、みんな、ほれなりの礼儀いうもんを見せるんやな」
「孝ちゃん。あんた、お父さんには会うたんか?」
幸子が訊ねても、孝平は無視をした。怒った花江がどうして無視をするのかと質すと、穢れた者とは話をしないと孝平は言った。穢れとはロシア兵の子供を身籠もり産んだという意味だ。
花江は孝平に軽蔑の眼差しを向けると、きっぱりと言った。
「じゃあ、あたしもあんたとは喋らない。あたしゃ心の穢れた人間が大っ嫌いなのさ」
「何やと? わしはここの跡取りぞ?」
孝平が威張っても花江には通じない。花江は早速無視して、孝平に出したお茶をお盆に戻した。
「おい、ほれはわしの茶ぁぞ。勝手なことすんな」
孝平は文句を言ったが、まったく迫力がない。花江は聞こえないふりをして奥へ引っ込んだ。
気まずい顔の孝平を、辰蔵がふっと笑った。怒った孝平は辰蔵に手を出そうとしたが、幸子にきつく叱られた。姉に貫禄負けした孝平はむくれて横を向いた。
こんな男が自分の叔父なのかと、千鶴は呆れた。
万が一にも、この叔父が店を継いだりすれば、大事になるのは必至だ。そうはならないだろうが、この叔父がこのままここに居座れば、それも問題に違いない。
千鶴は不安になったが、幸子も困りきっているようだ。
五
「親父は中か?」
穢れた者とは話をしないと言ったくせに、話せる相手がいないからか、孝平は幸子に偉そうに訊ねた。幸子は憮然としながら言った。
「やっぱし、まだ会うとらんのじゃね。お父さんはどこ行きんさったんか知らんけんど、昼から出かけておいでるんよ。お母さんも雲祥寺へ出かけておらんぞな」
雲祥寺とは山﨑家の菩提寺で、大林寺の近くにある。
「何じゃい、どっちもおらんのか。こがぁな腐れ番頭一人置いておらんなるとは、二人とも無責任やの」
孝平が吐き捨てるように言うと、すぐさま幸子が叱った。
「あんた、何失礼なこと言うんね。辰蔵さんは立派な番頭さんで。辰蔵さんがおらなんだら、この店は疾うに潰えとるがね。無責任いうんなら、勝手に姿眩ましよったあんたこそ無責任じゃろが!」
「勝手に敵兵の子供産んだお前が言うな!」
孝平が噛みついて千鶴をにらむと、幸子も険しい顔で言い返した。
「あんた、そげなこと言うために戻んて来たんね? そげじゃったら戻んて来んでええけん、さっさとどこまり去になさいや!」
「つかましいわ。わしが用があるんは親父じゃ。お前やないわい」
どこまでも態度の悪い弟に幸子は閉口した。そこへ辰蔵が参戦して幸子をかばった。
「自分の姉に向かって、お前いう言い方はないんやないですか?」
孝平は辰蔵をにらむと、使用人は黙ってろと言った。
「さっきから使用人の分際で偉そうに。親父に会うて話つけたら、すぐに辞めさすけん覚悟しとれよ」
「偉そうなんはお前さまの方ぞなもし。いくら旦那さんの血ぃをお引きでも、いきなし戻んて来て、姉をお前呼ばわり、父親を親父呼ばわりするんは、偉そやないと言いんさるんか?」
「父親やけん親父やろが。ほれに、わしはこの女を姉やとは思とらん。親父はこげな恥知らずを、なしてここへ置いとるんぞ」
怒りを抑えた様子の辰蔵は、大きく息をしてから言った。
「お前さまが幸子さんを姉と認めんのは勝手でしょうが、ほれにしたかてお前いう言い草は失礼極まりないぞなもし。ほれにお前さまは幸子さんばかりか、旦那さんのことも下に見とるりんさる。本来の跡取りでありんさった正清さんは、旦那さんを親父と呼びんさったことはありませんでしたし、旦那さんに敬意を払っておいでました」
「死んだ人間のことなんぞ知るかい。わしにはわしのやり方いうんがあらい」
孝平のあまりの態度に、幸子は声を荒らげた。
「何てひどいこと言うんね! あんたのお兄さんじゃろがね」
「人間、死んだらおしまいぞな。人間の価値は生きてこそよ」
少しも悪びれない孝平に、ついに腹に据えかねた辰蔵が怒りを露わにした。
「その言葉、旦那さんの前で言いんさい」
「何やと?」
「今言いんさったこと、もういっぺん旦那さんの前で言うてみぃと言うとるんぞな」
「お前は阿呆か。親父の前でこがぁなこと言うわけなかろがな」
「つまりは旦那さんを騙くらかすおつもりか」
「騙くらかすんやないわ。余計なことを言わんぎりじゃい」
辰蔵はため息をつくと、孝平を哀れむ目で見た。
「お前さまは、ほんまに情けないお方ぞなもし。旦那さんやおかみさんの血ぃを引いておいでるとは信じられんぞなもし」
「何? この腐れ番頭が何をほざくか!」
「あたしは山﨑機織の使用人であって、お前さまの使用人ではございません。ほじゃけん、この店を守るためには、言うべきことは言わせてもらいまさい。お前さまは山﨑家の屑ぞなもし」
「何を!」
孝平が辰蔵につかみかかったので、千鶴と幸子は孝平を押さえようとした。しかし幸子は孝平に突き飛ばされ、土間に転んで腰を打った。
「お母さん!」
千鶴が叫ぶと、怒った辰蔵が立ち上がり、孝平と揉み合いになった。帳場机は蹴飛ばされ、帳場格子はひっくり返った。花江が置いて行った辰蔵のお茶が畳にこぼれ、湯飲みは土間へ落ちて割れた。
いつの間にか表には、近所の者たちが面白そうに集まっていた。
「ほれ、辰さん、しっかりせんかい!」
「辰蔵さん、あたしがついとるぞな!」
みんなは辰蔵の味方をするが、誰も手を貸さないし喧嘩も止めない。わいわいと楽しげに眺めているだけだ。
騒ぎを聞いて飛び出して来た花江は、倒れている幸子を千鶴と一緒に介抱した。花江の後ろには亀吉が呆然と立ち尽くしている。亀吉は奥で家事を手伝っていたようだ。
帳場では孝平と辰蔵が互いの襟をつかんで、相手を引きずり倒そうとしている。孝平は全力で辰蔵をねじ伏せようとしているが、力は明らかに辰蔵の方が上だ。それでもやはり主に対する遠慮があるのか、辰蔵は本気で孝平を組み伏せるつもりはないみたいだ。
そこへ店の前の人だかりをかき分けて甚右衛門が現れた。甚右衛門は店に入ると、やめんか!――と二人を一喝した。
その声で動きを止めた辰蔵に、孝平はびんたを食らわした。すると、花江がすっくと立ち上って帳場に上がり、孝平の頬をぴしゃりと叩いた。おぉっと表で歓声が上がる。
孝平は叩かれた頬を手で押さえ、驚いた顔で花江を見た。花江は黙ったまま顎をしゃくって、横の土間を見るよう孝平に促した。
顔を横に向けた孝平は、そこに甚右衛門の姿を見つけてうろたえた。だが、すぐに笑顔になって土間へ降りた。
「親父、わしぞな。孝平ぞな」
甚右衛門は孝平に背を向けると表に出た。孝平もそのあとについて行った。
「見世物やないけん、店に戻んて仕事せい!」
不機嫌そうに甚右衛門が手を振ると、もうおしまいかと残念がりながら野次馬たちはいなくなった。甚右衛門が振り返ると、孝平は笑顔を見せながら歩み寄った。
「親父、わしな、戻んて来たんよ。店の跡継ぎがおらんで困っとんじゃろ? ほじゃけんな、わし、戻んて来たんよ」
孝平は誇らしげに言った。甚右衛門はいきなり孝平の胸ぐらをつかむと、力いっぱい張り倒した。
無様に地面に転げた孝平を見下ろしながら、甚右衛門は言った。
「今更、何言うとんぞ? あん時、お前はわしにどんだけ恥かかせたんかわかっとらんのか! その上、今日はこげな騒ぎを起こして、また恥かかせよってからに!」
体を起こした孝平は、道の上に正座して両手を突きながら甚右衛門に言った。
「ほのことはこのとおり謝るけん。わしな、親父には迷惑ぎりかけてしもたけん、今度こそ親父の力になりたい思て戻んて来たんよ」
甚右衛門は孝平をじっと見据えながら言った。
「ほうか、お前もようやっと心を入れ替えたんか」
孝平は笑顔でうなずくと、いそいそと立ち上がって甚右衛門の傍へ行こうとした。しかし甚右衛門は素っ気なく、遅いわと言った。
「遅いて、跡継ぎはまだ決まっとらんのじゃろ?」
「いいや、決まった」
甚右衛門の言葉に辰蔵は思わず花江と顔を見交わした。千鶴も幸子を見たが、痛みに顔をしかめていた幸子も驚いた様子だ。
蒼ざめた孝平は動揺を隠せない。
「決まった? 決まったて、誰に?」
甚右衛門は横を向くと、離れた所に立っていた男を呼んだ。男が近くに来ると、甚右衛門は孝平に言った。
「この男が千鶴の婿になる。千鶴と夫婦になって二人でこの店を継ぐんぞな」
え?――と思って、千鶴はその男を見た。
小さな目に大きな口。お世辞にも素敵な顔とはいえない。それでも風貌は堂々としており、少し威張っているみたいにも見える。歳は二十四、五だろうか。
「ほら、あたしの言ったとおりだろ? 旦那さんは千鶴ちゃんを跡継ぎにって考えてたんだよ」
帳場から降りた花江は、幸子に肩を貸しながら得意げに言った。けれど、花江の言葉は千鶴の耳には聞こえていない。
千鶴はじっと男の頭を見つめた。角が生えていないかを確かめるためだ。だけど、いくら見ても角らしきものは見えない。
男は孝平をちらりと見たが、その目には嘲りのいろが浮かんでいる。孝平も男をにらんだが、その顔は焦りでゆがんでいる。
「親父、わしいう者がおるのに、なしてこがぁな男を連れて来るんぞ?」
「黙っとれ! これまで行方眩ましよったくせに、今頃何言うとんぞ。お前なんぞ何も言う資格はないわ! だいたい何が親父ぞ、偉そうに。お前は誰に物言うとるんぞ」
甚右衛門は泣きつく孝平を無視して男を店の中へ誘い、千鶴に笑顔で言った。
「千鶴、聞こえとったろ。お前の見合い相手を連れて来たぞ」
店の入り口に立った男は、千鶴に軽く会釈をした。わずかに微笑みながら男が向けた目は、千鶴を値踏みしているようだ。
「おじいちゃん、うち、お見合いするん?」
千鶴がうろたえながら訊ねると、ほうよと甚右衛門はうなずいた。
「いろいろ考えた末、そがぁすることにした。ほういうことじゃけん、奥の座敷へ行け。花江さん、すまんけんど、お茶を淹れてくれんかな。ん? 幸子はどがぁしたんぞな?」
幸子は花江に付き添われながら、腰に手を当てて帳場の端に座っていた。花江から事情を聞いた甚右衛門は、外に立ったままの孝平をじろりと見た。それから花江に、幸子を離れで休ませてからお茶を淹れるよう頼み直した。
「親父ぃ」
中に入れない孝平が、表から情けない声で甚右衛門を呼んだ。そこへ茂七が外の仕事から戻って来た。甚右衛門は怪訝そうに孝平を見る茂七と辰蔵に、孝平を店の中へ入れぬよう命じた。
茂七は何のことかわからない様子だったが、辰蔵は大きくうなずくと、お任せを――と言った。
六
障子を閉めた茶の間で、千鶴と向かい合わせに座った男は名前を名乗った。
「鬼山喜兵衛と申します」
「鬼山?」
「喜兵衛ぞなもし」
微笑む男の顔を見つめながら、やっぱしと千鶴は思った。
「こら、お前も挨拶をせんか」
甚右衛門に叱られて我に返った千鶴は、山﨑千鶴と申しますと言って頭を下げた。千鶴が顔を上げると、甚右衛門は得意げに言った。
「鬼山くんの家は元武家でな。わしの家とは知り合い同士よ」
「おじいちゃんの家?」
甚右衛門は意外そうな顔をしたあと、ほうかと照れた笑みを見せた。
「幸子から聞いとらんか。わしの実家は武家でな。子供の頃は歩行町におったんよ。ほんでも明治になると、武士じゃあ暮らしていけんなってな。ほれで、この家の跡取りとして婿入りさせてもろたんよ」
祖父の婿入り話は千鶴も知っていたが、武家の生まれだったなんて初めて聞いた話である。そもそも祖父がこんなにいろいろ喋ってくれたことは、これまで一度もなかった。
「ほういうわけで、似ぃた形で鬼山くんをうちへ迎え入れようと、こがぁなことぞな」
千鶴が黙っているので、甚右衛門は少し焦ったのか、慌てて説明を付け加えた。
「鬼山くんは剣道四段の腕前でな。道場でも、さすが武家の血筋とうなずかされる猛者やそうな」
どうやら甚右衛門は武家の出であることに、かなりの重きを置いているみたいだ。元々は自分も武士の家柄であったことを誇りに思っているのだろう。
「剣道四段て、がいなことなんですか?」
千鶴は剣道などわからない。喜兵衛が苦笑するのを見て、甚右衛門は少し機嫌を悪くしたらしい。いつもの仏頂面に戻って言った。
「がいに決まっとろが。四段いうんは、この若さでそうそう取れるもんやないんぞ」
千鶴は慌てて頭を下げ己の無知を詫びた。いやいやと喜兵衛は貫禄を見せて笑った。
「気にせんでつかぁさい。女子にはわからんことですけん」
喜兵衛は千鶴を下に見ている。というより、女を下に見ている。だけど、これ以上祖父に恥をかかせるわけにはいかない。千鶴は我慢しながら話しかけた。
「鬼山さんは、昔から歩行町に住まわれておいでたんですか?」
「あしが住みよるんは湊町ぞなもし。歩行町におるんはあしのじいさまばあさまと伯父貴の家族で、あしの親は歩行町から湊町へ移ったんぞなもし」
歩行町は城山の南東に位置する下級武士が暮らした町で、春子が電車に乗った一番町の電停の北にある。
千鶴と春子が歩いた湊町商店街は魚の棚までだが、湊町自体は魚の棚からさらに東へ延びている。魚の棚より東側には伊予絣を作る家が数多く並んでいるが、喜兵衛の家はその中の一軒ということだ。
鬼山家が昔からあるのであれば、鬼山という名は鬼とは関係がないのかもしれない。それでも喜兵衛が本当に鬼山家の一員なのかは定かでない。
「あの、おじいちゃんは鬼山さんを、いつからご存知やったんぞなもし?」
「今日知ったんよ」
「今日?」
「組合事務所で鬼山くんの話を耳にしたんで、早速会いに行ったんよ」
組合事務所とは、織元に対して織物の検品や指導を行う伊予織物同業組合の事務所だ。
山﨑機織は四つ辻の北東の一角にあるが、同じ辻の北西の一角に組合事務所はあった。山﨑機織の裏木戸を出ると、目の前に組合事務所があるわけだ。この近さもあって、組合長と甚右衛門は長く親しい間柄だった。
組合事務所には伊予絣に関する話が、いろいろと集まって来る。千鶴が部屋で春子と喋っている間、仕事のことで組合事務所を訪ねた甚右衛門は、そこで喜兵衛の話を耳にしたらしい。そこで善は急げと、午後から喜兵衛に会いに行ったのである。
それにしても、今日知ったばかりというのはやはり怪しい。何だか話が仕組まれているみたいに思える。千鶴は喜兵衛の様子を観察しながら訊ねてみた。
「鬼山さんは普段は何をされておいでるんぞなもし?」
「普段かな? 普段はほうじゃなぁ。家の仕事を手伝うたりもしよりますが、三男坊ですけん、比較的自由にさせてもろとります」
「ご次男の方はどがぁされておいでるんぞなもし?」
「二番目の兄貴は陸軍の士官になりました。あしも士官学校に入るよう勧められたんですが、あしの性に合わんので断りました」
「性に合わんとは?」
甚右衛門が訊ねると、自分は人に使われるのが嫌なのだと喜兵衛は言った。
「将校は兵士に指示を出すけんど、上の指示には従わにゃなりません。あしは何もかんも己の意思を貫いて生きたいんぞなもし。ほじゃけん、陸軍より商いの方が自分には向いとると思とるんです」
「なるほど。確かに己の道は己で切り開かんとな」
「そげです。その点、旦那さんはご自身の判断で山﨑機織を切り盛りし、先だっての東京の大地震のあとも乗り切っておいでる。いけんなった店も多い中、さすがは旦那さんじゃと思いよりました」
いやいやと甚右衛門は謙遜したが、悪い気はしないらしい。口元に隠し切れない笑みがこぼれている。
「そげなことで、旦那さんの所じゃったら思い切った商いができるんやなかろかと、こがぁ思たわけぞなもし」
喜兵衛の言葉に甚右衛門は何度もうなずいている。千鶴には祖父の姿が鬼に操られているとしか思えない。話は甚右衛門と喜兵衛の間ばかりで弾み、いつしか千鶴は蚊帳の外になっていた。
お待たせしましたと、障子の向こうで花江の声がした。甚右衛門が声をかけると、花江は障子を開けてお茶を出してくれた。
甚右衛門から言われたわけではないが、茶菓子までついている。千鶴の見合いだと思って、気を遣ってくれたのだろう。
千鶴は花江にお礼を言い、甚右衛門も花江をねぎらった。だが、喜兵衛はちろりと配られたお茶と茶菓子を見ただけで、花江には声をかけるどころか目もくれなかった。
千鶴がむっとしていると、甚右衛門は千鶴の気を引こうと話題を変えた。
「鬼山くんは剣道の他にもな、ええとこがようけあるんぞ。まず、三年の徴兵義務は終わっとるけん、兵隊に取られることはない。ほれに頭もようて弁が立つ。ほんまなら政治家にでもなれるぐらいの人物ぞな。しかもこのとおりの男前よ。鬼山くんに憧れる女子は数え切れんそうな。鬼山くんが独り身いうんが信じられまい」
喜兵衛は少し恥ずかしげな笑みを浮かべながらも、甚右衛門の言葉を否定はしない。そのとおりですと言っているみたいで嫌味ったらしい。それに喜兵衛の笑みはわざとらしく見える。すべて思惑どおりと考えているに違いない。
喜兵衛を男前と褒め称えたことで、祖父は絶対に喜兵衛に操られていると、千鶴は確信した。やはり喜兵衛は山﨑機織を利用して、鬼の仲間を増やすつもりなのだ。
「千鶴さんはお父さんのことは、何ぞご存知かなもし?」
喜兵衛に問いかけられた千鶴は、はっとなった。
「いえ、うちが産まれた時には、もう、おりませんでしたけん」
「じゃあ、お父さんにはまだ会うとらんのかなもし?」
はいと千鶴がうなずくと、父親に会いたいかと喜兵衛は畳みかけるように訊ねた。
千鶴はちらりと甚右衛門を見てから、いいえと言った。
「ほやけど、いっぺん会うてみたいて思うことはあろに」
次第に体が前のめりになる喜兵衛の言葉は、少し決めつけたというか強引さがある。そこまで父に関心があるのは、やはり父もこの男と同じ鬼なのか。
「なして鬼山さんは、そがぁに父のことぎり訊ねられるんぞなもし?」
怪しんだ千鶴が問いかけると、喜兵衛は姿勢を戻し、頭の後ろに手を当てて笑った。その仕草は伸びて来た角を隠そうとしたみたいだ。
「いや、申し訳ない。実は、いずれ伊予絣をソ連にも売り込んだろと思いよったんぞな。やけん、千鶴さんのお父さんと連絡が取れるんなら、これはいけると思たぎりぞなもし」
甚右衛門は喜兵衛の発想に大きくうなずいている。
「さすがじゃな、鬼山くん。まだ若いのに大したもんぞな。ソ連に伊予絣を売り込むやなんて、わしには思いつくまい」
「いやいや、今んとこソ連とはまだ国交がありませんけん、捕らぬ狸の皮算用ぞなもし」
喜兵衛は照れ笑いをした。甚右衛門も喜兵衛もすっかり意気投合している。二人とも千鶴が婿取りを了承するものと決め込んでいるようだ。
鬼娘が鬼と夫婦になるのは定めかもしれない。けれども喜兵衛を見ていて、千鶴は定めに抗うことに決めた。
おじいちゃん、鬼山さん――と千鶴は二人に声をかけた。
「うちはこれまでずっと小学校教師になるために、女子師範学校で勉学に励んで参りました。ほれやのに、今日いきなしお見合いさせられても、うちとしては困るんぞなもし。ここのお店の事情はわかっとりますけんど、ほれにしたかて困るんぞなもし」
千鶴はきっぱり言った。これだけのことが言えたのは、忠之への想いがあったからだ。
これまで千鶴は忠之ことはあきらめねばならないと考えていた。しかし、己の定めを突きつけられた今、絶対にあきらめたくないという自分の想いに気づかされた。
自分の夫になるのはあの人以外いない。あの人と夫婦になれないのであれば、一生独り身でいよう。千鶴はそう心に決めていた。
毅然とした千鶴の言葉に、甚右衛門も喜兵衛も少なからず動揺したらしい。甚右衛門は千鶴の言い分を聞き、確かに性急過ぎたと反省の姿勢を見せた。
喜兵衛も神妙な顔で、もうちぃと個人的な話をするべきでしたと、千鶴に自分の無神経さを詫びた。その上で、千鶴とは結婚を前提としたお付き合いがしたいと申し出た。もちろん、千鶴の婿になるという意味だ。
甚右衛門は千鶴をなだめるように言った。
「結婚については、今すぐ返事はせんでええ。どがぁでも師範になりたいいうんなら、ほれも構ん。その上でいっぺん鬼山くんと付き合うてみてはもらえまいか。付き合うてみて、やっぱしいけんかったら、ほれは仕方ないことよ。どがぁぞな?」
祖父にここまで言われたら、千鶴も拒絶ができなかった。
「結婚を前提とせんのであれば」
これが千鶴としては精いっぱいの返事だった。
甚右衛門は笑みを見せると、こんで構んかと喜兵衛に訊ねた。喜兵衛は千鶴と一緒になる自信があるのか、結構ぞなもしとうなずき千鶴を見た。
喜兵衛を一瞥したあと、千鶴は目を伏せた。目を逸らしたのではなく無視したつもりだ。祖父の顔を立てて付き合いはしても、絶対に結婚はしない。答えは決まっていた。
七
「あんた」
トミの声がした。甚右衛門が障子を開けると、土間にトミが立っている。その後ろで新吉が不安げな顔で千鶴たちを見ていた。新吉はトミに連れ出されていたらしい。
トミは何か言おうとしたが、喜兵衛に気づいて訝しげな顔をした。
「このお人は?」
「千鶴の婿になる男ぞな」
まだ婿になるとは決まっていないのにと、千鶴は腹が立った。しかし、これが祖父の本音というか、鬼の本音なのだ。
「鬼山喜兵衛と申します」
喜兵衛はトミに頭を下げた。トミも挨拶を返すと、すぐに甚右衛門に顔を戻した。
「あんた、表に孝平がおるぞな」
「わかっとらい」
甚右衛門は不機嫌そうに返事をした。
「わかっとるんなら、なしてあげな所に立たせとるんね? 早よ中へ入れてやらんね」
「ずっと行方眩ましよったくせに、いきなし戻んて来て跡継ぎ面する奴なんぞ勘当ぞ」
「勘当て……血ぃのつながった息子じゃろ。やっと戻んて来たのに勘当はなかろがね」
「つかましいわ! あいつがわしのこと、何て言うた思う? 親父ぞ。偉そうに!」
甚右衛門は怒り心頭だったが、トミは怯まなかった。
「ほやけど、勘当せいでもよかろ? そげなことは言うて聞かせたらええことぞな」
「ここにあいつの居場所はない」
「何でもさせたらええじゃろがね」
「そげなわけにいくかい」
二人のやり取りを聞いている喜兵衛は、素知らぬ顔をしているが目が笑っている。甚右衛門の馬鹿息子を嘲笑っているのかもしれないが、山﨑機織の実情を見てほくそ笑んでいるみたいでもある。
千鶴にはますます喜兵衛の正体が鬼に見えた。この店に入り込む余地があるとわかって喜んでいるに違いない。
「とにかく、客人の前でそげな話はすんな。客人に失礼なろが」
甚右衛門に叱られ、トミが横目で喜兵衛を見ながら口を噤むと、急に店の方が騒がしくなった。と思うと、孝平が飛び込んで来た。慌てて追いかけて来たのは茂七と辰蔵だ。
辰蔵たちに押さえられながら、孝平は土間に這いつくばって甚右衛門に詫びた。
「親父、いや、父さん。わしが悪かった。こがぁして謝るけん、どうか、わしをここへ置いてつかぁさい」
甚右衛門はトミを気にしながら孝平を叱りつけた。
「千鶴が見合いしよるんがわかった上で、こげな芝居がかったことをしくさって。お前なんぞ、もう息子でも何でもないけん、どこまり行くがええ」
甚右衛門が顎をしゃくると、辰蔵と茂七は暴れる孝平を抱えながら表へ連れて行った。
トミは憤慨したが、黙って孝平を追った。新吉はぼーっと突っ立っていたが、亀吉が奥庭へ引っ張って行った。勝手口から花江が遠慮がちに中をのぞいている。
甚右衛門は喜兵衛に詫びると、また別の日に千鶴と会ってやってほしいと頼んだ。千鶴にすれば余計なお世話だったが、祖父には逆らえない。とにかく結婚は前提ではないのだからと、心の中で何度も自分に言い聞かせた。
喜兵衛はにこやかにうなずき、承知いたしましたと言った。鬼の思惑どおりにされそうで気分が悪かったが、千鶴は黙って聞くしかなかった。