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婿になる男


     一

 はるふうすなわち忠之ただゆきに自慢したとおり、かみ町のちょう 入口であるふだつじの北側の角には、木造四階建ての大丸だいまる百貨店ひゃっかてんがある。千鶴ちづが高等小学校に入ったたい正六しょう 年に建てられたものだ。
 紙屋町を含む城山の西側の区域はまち 三十町 さんじゅっちょうと呼ばれている。めいになるまでこの区域は松山まつやまの商いの中心地で、ぜいも免除される特別地域だった。ところが明治になると租税免除の特権がなくなり、古町三十町の勢いは衰えた。
 一方で、城山の南に位置するがわと呼ばれる地域にも、商人が暮らす町があった。こちらは伊予鉄道の起点となる松山駅ができたため、大いに活気づいた。
 古町の商人たちは、このまま商いの中心が外側へ移ることを恐れた。それで古町のふく屋が逆転を狙って建てたのが、この大丸百貨店だ。 
 当時、とても珍しくハイカラな大丸百貨店は、たちまち松山名所として人気をはくした。東京の三越みつこし百貨店を知るはなも、地方の街にこんな百貨店があることに驚いたという。
 当然、春子もここに憧れており、大丸百貨店へ行きたいと千鶴にせがんだ。だけどそれは半分が本当の気持ちで、あとの半分は千鶴を元気づけるためのものに違いない。
 見知らぬ老婆からいきなり鬼がいていると言われた時、千鶴はあまりのことにぼうぜんとするほかなかった。
 春子は老婆に悪態をつき、何も気にすることはないと千鶴を慰めた。しかし、千鶴が平穏な気持ちになれるわけがない。そんな千鶴の気持ちを察して、春子は百貨店行きを明るくはしゃいでいた。
 表の道に回ると、店の前に空になった大八だいはち車がぐるま 置かれていた。山﨑やまさき機織きしょくのとは別の大八車だ。これを運んで来た人のい仲買人は、奥でお茶を出してもらっているのか、帳場ちょうばには辰蔵たつぞう亀吉かめきちしかいない。しちはどこにいるのか姿が見えない。
 いつもの千鶴であれば、大八車や茂七のことを確かめたところだが、今は何も考えられない。黙って店の前を通り過ぎようとすると、亀吉に声をかけられて我に返った。それでもぎこちない笑みを返すしかできず、代わりに春子が、てくるけんと返事をしてくれた。

「電車降りた時にな、おら、今日は絶対ここに来よて思いよったんよ」
 百貨店の前に立った春子は、うれしそうに千鶴を振り返った。けれど、千鶴をづかっているからか、その笑顔は少しおおに見える。
 千鶴も春子が訪ねて来たら、ここへ連れて来るつもりだった。
 学校の寮は門限が厳しいし、生徒たちはそれほどお金を持っていない。そのため、休みに外へ出るにしても三津ヶみつがはまばかりで、松山まで遊びに出ることはほとんどなかった。
 だから春子が大丸百貨店を訪れたのは去年の一度きりで、今回百貨店をのぞくのは楽しみにしていたはずだ。とはいっても、百貨店のすぐ近くに暮らす千鶴でさえも、ここへ来ることはない。
 基本的に百貨店で取り扱っているのは高級品ばかりだ。山﨑機織の誰もが一度はこの百貨店を訪れたが、そのあとは本当に用事がない限り来ていない。仕事が忙しくて来る暇などなかったが、不要な高級品を買うだけの余裕がないのが一番の理由だ。

 建物の中に入ると、まずそこで履物を脱いでスリッパに履き替える。脱いだ履物はそくばんが預かって、裏口に回される仕組みになっている。もうこれだけで春子は大興奮だ。
 通常の店では番頭ばんとうが帳場に座り、客の注文に応じていちいち品を出して来る。ところが、百貨店ではすでに商品が陳列されているのだ。
 つまり、客は自分の頭になかった品を見られるのである。それは思いがけない品との出会いであり、商品を眺めているだけでも愉快で楽しかった。
 また、百貨店の店員は全員が着物姿の女性で、女性が客に商品の説明をして販売する。それも千鶴や春子には新鮮だった。
 通常の店の番頭やだいは男の仕事と決まっていた。女には女中の仕事ぐらいしかない。とにかく女が働ける場所は限られており、千鶴たちがはんを目指している背景には、そんな事情もあった。そのため百貨店で働く女性店員の姿は、千鶴には輝いて見えた。
 しかし、それは以前にここを訪れた時のことであり、今の千鶴は老婆に言われたことで、何にも感動できなくなっていた。さらに、じろじろと目を向ける他の客たちの視線も、千鶴を憂鬱ゆううつな気分にさせていた。
 だけどせっかく来てくれた春子に、嫌な想いをさせるわけにはいかない。千鶴は心の内は隠したまま楽しいふりをしていた。

 百貨店の一階は、ハンカチや靴下などの洋品が置かれている。二階はふく売り場で、三階には文具・化粧品がある。
 各売り場に陳列された商品はいずれも高級で、春子は眺めるしかないのを残念がった。けれども、百貨店には商品以外にも目玉になるものがあった。えれべぇたぁだ。
 えれべぇたぁとは、案内の女性がいる小部屋だ。この小部屋はとても面白い。案内の女性が扉を閉め、次に開けた時には、外は別の売り場になっているのだ。
 去年来た時にも使ったはずなのに、春子は初めてみたいに大はしゃぎだった。
 三階までは商品売り場だが、最上階の四階は食堂になっている。
 ここでの食事には憧れがあるが、祖母からもらったづかいでは少し足が出る。それに食堂を埋める年配の女性たちにおくれしたので、二人は食堂はやめて外へ出た。

 百貨店を出ると、すぐそこにはん学校がある。
 師範学校は西堀の北端にあり、その向こう側を札ノ辻を起点としたいまばりかいどうが通っている。
 先日、忠之に人力車で運んで来てもらったのはこの道で、春子が人力車を降りたのが師範学校の前だ。あの時は街灯ぐらいしか明かりがなかったので、師範学校はよく見えなかった。だが今は太陽の下で、その華麗な姿を見ることができる。
 はるか昔、中国のしん皇帝こうていが建てた宮殿をぼう宮ときゅう 呼ぶが、それにちなんでひめけん師範学校は伊予いよの阿房宮と呼ばれている。
「こっちがじょ師範学校で、三津ヶ浜にあるんが師範学校やったらよかったのになぁ」
 伊予の阿房宮を眺めながら、春子が残念そうに言った。
「ほれじゃったら、学校が休みん時は松山で遊べるし、この百貨店もちょくちょくのぞけるのに」
 千鶴が女子師範学校に入った頃は寮生活だったので、松山から離れられたと千鶴は喜んだ。しかし寮を出て自宅から通い始めてからは、こちらが女子師範学校でないことを恨めしく思うことがあった。
 女はいつもあと回しで、何かのついででなければ目を向けてもらえないと、二人は文句を言いながら札ノ辻を南へ進んだ。
 少し行くと、右手に勧商場かんしょうばがある。
 勧商場とは一つの建物の中にいくつもの小売店が集まったもので、ここには化粧品や衣類、日用雑貨などの店が並んでいる。
 春子はここも初めてではない。なのに北城町きたしろまちの勧商場よりこちらの方が規模が大きいと、初めて訪れたみたいなことを言いながら、並べられた商品を見てまわった。
 こちらも百貨店同様に品物が陳列されている。高級品ではないので、高くて手が出せないわけではないが、二人は女学生の身分なので、やはり見るだけにした。
 それでも春子は十分楽しんでいる様子だった。千鶴をづかうのも忘れているが、それがかえって千鶴の気分をやわらげてくれていた。

     二

 伊予いよ鉄道の松山まつやま停車場の北向かいに善勝寺ぜんしょうじというお寺がある。
 本尊ほんぞんぎり地蔵と呼ばれ、何日にとか何日までにと期日を決めて願掛けをすると願いがかなうといわれている。
 この善勝寺へ千鶴は春子を連れて来た。けれど目的は日切地蔵ではない。境内けいだいで売られているまんじゅうだ。その名も日切饅頭というが、饅頭というより柔らかい焼菓子だ。中には熱々のあんこがたっぷりと入っていて三個五せんである。
 千鶴と春子は買った饅頭を一つずつ手に取った。残りはあとで半分こだ。
「熱いけん、ぃつけや」
 春子の食べっぷりを知っている千鶴は、春子に忠告をした。春子は笑うと、わかっとるけんと言って、がぶりと饅頭にかぶりついた。たんに熱い熱いと大慌てだ。
 千鶴は急いで春子を手水ちょうずへ連れて行き、柄杓ひしゃくで水を口に含ませた。
「ああ、熱かった。口に入れたもんは出せんし、さりとてみ込めんけん、どがぁなるかと思いよった」
「ほじゃけん、ぃつけやて言うたのに。村上むらかみさん、前来た時もついのことしよったよ」
 ほうじゃったかねと春子は苦笑した。
「今度からぃつけるけん。ほれにしても、これ、まっこと美味うまいで。なみむらのみんなにも食べさせてやりたいなぁ」
「ほれも前に言いよったね」
 千鶴は笑いながら、自分も日切饅頭をあの人に食べさせてあげたいと思った。もちろん、あの人とは忠之のことだ。
 春子は照れ笑いをすると、今度は慎重に少しずつ食べながら言った。
「おらな、こっちんてから家に手紙書いたんよ」
「何の手紙?」
「おらたちを運んでくれた風太さんのことぞな」
 千鶴は胸がどきんとした。
 老婆に鬼のことを言われてすっかり忘れていたが、春子は忠之に気があるらしいのだ。もしかしたら村長である父親に、風太と一緒になりたいと手紙を書いたのだろうかと、千鶴は大いにあせった。
 もう勘弁してほしいと願う千鶴に、春子は話を続けた。
「風太さん、おらたちを運んだ銭を、あとで家に請求するて言うておいでたろ? ほじゃけん、ほれをおとっつぁんに謝っとかないけん思て手紙書いたんやけんど、その返事が昨日届いたんよ」
 何じゃ、その話かな――と千鶴は胸をで下ろした。それに、春子が知らないことを自分は知っているという気持ちの余裕も出て来た。
「おとっつぁんからの手紙、何て書いとった思う? そげな請求なんぞ来とらんし、しゃぁ引くもん風太いうやとなんぞおらん言うんで。山﨑さん、どがぁ思う?」
 春子は千鶴の予想どおりにしゃべった。千鶴は笑いそうになるのをこらえながらとぼけて言った。
「また、お不動さまが助けてくんさったんやないん?」
 やっぱし?――と春子は真顔で言った。
「おらもな、ほうやないかて思いよったんよ。ほやなかったら他に説明できまい? 今更いまさらなけんど、よう考えたら初めてしゃぁ引くもんが二人も乗せて、北城町きたしろまちから松山まで走るやなんてでけるわけないもんな。ほれに風太さんがお不動さまじゃったら、おらが子供ん頃に法正寺ほうしょうじで顔合わせとるいうんも説明つこう?」
 噴き出しそうになった千鶴は、横を向いてごまかした。
 風太の正体がお不動さまなら、風太と一緒になりたいとは春子も考えないだろう。そのことも千鶴に笑みをこぼさせた。
「どがぁしたん?」
 春子がげんな顔で言った。千鶴は慌てて笑みを消してごまかした。
「ちぃと小バエが顔に寄って来よるんよ」
 いない小バエを手で追ってから千鶴が顔を戻すと、春子はため息交じりに言った。
「知らん男が引くしゃぁで松山にんたいうんで、おら、おとっつぁんにがいにしかられてしもた」
「ほやけど、こがぁして無事にんて来られたんじゃけん、よかったやんか。お不動さまに感謝せんと」
 笑いをこらえながら千鶴が励ますと、ほんまよ――と春子は少し元気を取り戻した。
「まっことお不動さまのしゃぁに乗せてもらえなんだら、おらたち、今頃退学になっとったで。おとっつぁんには叱られてしもたけんど、お不動さまには感謝ぞな」
 本当に春子の言うとおりだった。あの時、えきさんがいなかったらどうなっていたかと思うと、佐伯さんには感謝しきれない。
「今頃、どがぁしんさっておいでようか」
 千鶴が忠之を思い浮かべながら、つい独り言をつぶやくと、春子はけらけらと笑った。
「ほら、決まっとらい。法生寺ほうしょうじ本堂ほんどうでこがぁして座っておいでらい」
 春子は不動明王の真似をしてみせた。その様子があまりに面白かったし、不動明王が助けてくれたと春子が真剣に信じていたので、千鶴は不安も忘れて笑い転げた。

 善勝寺を出た千鶴たちは、そこから東へ延びるみなとまち商店街を歩いた。
 湊町商店街の長さは約五ちょうで、そこから今度は大街道おおかいどう商店街が北へ延びる。これも五町ほどの長さであり、全部合わせると十町になる商店街だ。
 春子にすれば歩くだけでも楽しい所だが、千鶴にしてもめっに出歩く所ではない。春子のお陰で鬼への不安がやわらいだ今、とても楽しみな散策だ。
 湊町商店街はふく屋や洋品店、履物屋、眼鏡屋、仏具屋など、日常の暮らしに関係する店が多い。
 にち戦争で松山へ連れてこられたロシア捕虜兵は、街へ出歩くことが許されていた。そのため、この商店街はロシア人たちの買い物で大いににぎわい、当時は露西亜ろしあまちとも呼ばれていたらしい。洋菓子や洋食を出す店には、その頃の面影が残っている。
 また大丸百貨店や勧商場の影響を受けたのか、呉服屋にも自慢の品が表から眺められるように、あらかじめ展示している所もあり、春子を喜ばせた。
 湊町商店街と大街道商店街の接点になる辺りは、うおたなと呼ばれている。名前のとおりかつては多くの魚屋が集まっていた所だ。今は魚屋の他にてん屋や菓子屋、八百屋、蒲鉾かまぼこ屋、乾物かんぶつ屋など、庶民の食料を扱う店が並んでいる。
 ここから大街道へ向かうと、すぐ右手に木造三階建ての立派なうどん屋がある。かめという有名な店で、松山を訪れた者は必ず立ち寄るといわれている所だ。千鶴はここで春子にうどんをごそうすることにした。
 店の中は客で賑わっており、多くの視線が千鶴に集まった。だけど、千鶴は気にしないと決めていた。いずれ鬼になる自分がこんなことができるのも今しかないと思うと、人の目など気にしていられなかった。
 春子はうどんを食べながら、大丸百貨店に始まるここまでの楽しかったことを、ずっと喋り続けた。早く食べないとうどんが伸びると千鶴に言われると、慌ててうどんをすするのだが、すぐに箸を止めて喋った。今回の街歩きがほど楽しかったのだろう。
 でも、その分だけ千鶴は切なさを感じていた。こんな風に春子と街で遊ぶのは、きっとこれが最後なのだ。もうすぐ卒業だからではない。がんごめだからだ。
 春子に合わせて笑っていても、つい悲しみが込み上げると、千鶴は下を向いてうどんを一本だけすすった。

 うどんを食べ終わると、二人は大街道商店街を見て歩いた。
 大街道商店街にも呉服屋や履物屋、菓子屋などはあるが、湊町商店街との大きな違いは活動写真館が三つもあることだ。
 活動写真とは、舞台に用意された大きな幕に、無数の写真を物凄ものすごい速さで映し出すものだ。すると幕の上で写真の人間や動物や景色が動きだし、物語が展開されるのである。
 幕の横には活動弁士と呼ばれる人が声を張り上げながら、物語を面白おかしく語ってくれる。活動写真の作品の善し悪しは、この活動弁士の腕にかかっているといっても過言でない。
 また大街道商店街には、亀屋の他にもおふくという、同じく三階建ての大きなうどん屋があるし、しんえいという芝居小屋まである。湊町商店街と比べると、こちらは娯楽向けの雰囲気だ。
 芝居も見てみたいが、お金も時間もかかる。春子が門限までに戻れないと困るので、千鶴たちは活動写真館の一つ、かいかんに入った。
 千鶴は子供の頃、辰蔵に何度か活動写真に連れて来てもらった。でも、自分ではお金がないので入ったことはない。三津ヶみつがはまにも活動写真館はあるが、そんなお金は持たせてもらえなかったし、以前に春子が松山へ遊びに来た時も事情は同じだった。
 けれど、今日は祖母にもらったお金がある。千鶴は自分で活動写真を観ることに、少し興奮を覚えていた。一方、春子も初めて千鶴と一緒に活動写真を観られると大はしゃぎだ。
 ちょうど上演していたのは喜劇作品で、千鶴も春子も大いに笑った。この日のお楽しみはこれが最後であり、もしかしたら千鶴にとっての最後の楽しさかもしれなかった。そんなことを考えると悲しみが込み上げて、笑いの半分は見せかけとなった。

 活動写真を見終わって外へ出ると、そろそろ春子が帰らねばならない時間になった。門限の五時までには、春子は寮に戻っていなければならないが、札ノ辻ふだのつじまで歩いて戻ると、恐らくは間に合わない。
 大街道を北に抜け出た所に、三津ヶ浜へ向かう電車のいちばん町停ちょう 車場がある。春子はそこから電車に乗ることにした。
「今日はだんだんありがとう。おら、まっこと楽しかった」
「うちも楽しかった。ほんじゃあ、また明日あひた学校でな」
 春子は喜びいっぱいの顔で電車に乗った。
 千鶴は手を振りながら春子を乗せた電車を見送り、その電車のあとを追うようにお堀に向かって歩いた。
 春子は電車の後部の窓越しに、ずっと千鶴に手を振り続けた。千鶴も何度も手を振り返した。やがて電車はお堀に突き当たると、南へ曲がって行ってしまった。
 電車を見送ったあと、千鶴は立ち止まって右手を見た。すぐそこは城山で、そのふもとばんすいそうと呼ばれる美しい洋館がたたずんでいる。殿さまの血筋である久松ひさまつ定謨さだこと伯爵がはくしゃく 、去年の十一月に別邸として建てられたものだ。
 千鶴はこの洋館に憧れていた。だけど、萬翠荘の手前には裁判所がある。電車の通りからでは、萬翠荘は裁判所の建物が邪魔になって見えづらかった。
 千鶴は裁判所から南へ向かう道に入り、離れた所から城山を振り返った。すると樹木に囲まれた萬翠荘が、裁判所の上から顔を出していた。
 その美しさに千鶴はため息をついた。暇が許せば、春子にも見せてやりたかった。
 ここは各界の名士と呼ばれる人々のつどう場であり、皇族がらいしょうした時に立ち寄る所だ。その記念すべき一番初めの宿泊客となったのは、体調がすぐれぬ大正天たいしょう の摂政宮と せっしょうのみや して、松山を訪れた裕仁ひろひと親王しんのうだった。
 親王はひめ各地を視察されたが、じょはん学校もその一つとなった。
 千鶴たち生徒は親王の前で薙刀なぎなたの演武を披露し、合唱曲を歌った。それは一生のうちに一度あるかないかというものであり、あの時ばかりは千鶴が女子師範学校に通っていることを、祖父母は知人たちに自慢してまわったそうだ。
 そんなこともあって、千鶴は裕仁親王に親しみを感じていた。その親王が泊まられた屋敷が目の前にある。
 いずれ人として暮らせなくなる日が訪れるのだとしたら、その時までに一度でいいから屋敷の中を見てみたい。そんな思いで千鶴は洋館を眺めた。
 頭の中では、再びあのおはらいのばばの言葉が繰り返されている。

     三

 かみ町へちょう 戻ると、山﨑機織やまさききしょくの前には店で使う大八だいはち車がぐるま 置かれているが、仲買人がかすりを運ぶ牛車ぎっしゃや大八車はなかった。お客もいないので、千鶴は店に入った。
んたぞな、番頭ばんとうさん」
 千鶴は帳場ちょうばにいる辰蔵に声をかけた。
 午後はしちしちは注文取りにまわっている。丁稚でっちの二人はいるはずだが、奥にいるのか、ここには姿がない。代わりに貧相な男が辰蔵の横で胡座あぐらをかいて座っている。
 ぎょっとした千鶴を、男はじろりとにらんだ。
「おまい、千鶴か」
「え? は、はい」
 不躾ぶしつけに名前を呼ばれ、千鶴は当惑しながら返事をした。
「わしが誰かわかるか? わかるまい」
 いきなりかれても知らない相手である。千鶴が返事に困っていると、男は山﨑孝平こうへいと名乗り、おまいの叔父よ――と言った。
「叔父さん? すんません、うち、初めて聞く話ですけん」
「ほら、ほうじゃろ。おまいがまだこんまいごろに、わしは松山まつやまを出たんじゃけんな」
 何だかけんを売っているみたいなしゃべり方に、千鶴は困惑して辰蔵を見た。辰蔵は無礼な男に当惑のいろを隠せないまま言った。
「あたしもこのお方に直接お会いするんは、今日が初めてなんぞなもし。ほんでもこのお方の話は、あたしが丁稚じゃった頃に耳にしたことはあるんです」
「ほんじゃあ、ほんまにうちの叔父さん?」
 孝平は顔をしかめると、へっと息を吐いた。
「わしの言うことが信用でけんのかい。人に散々迷惑かけくさっといて、何じゃい。まっこと異人の娘は礼儀知らずやの!」
 千鶴はむっとする気持ちを抑えながら、孝平にたずねた。
「うちがどげな迷惑をおかけしたんぞなもし?」
 孝平は嫌な顔のまま丈高たけだかに言った。
「わしはな、ここと同業の店の丁稚をしよったんよ。もうちぃとでだいになれたのに、おまいのせいで馬鹿にされて、わしよりあとから入ったやとが手代になったんぞ。やけん、阿呆あほらしなって松山から出たんじゃい」
 何かをして文句を言われるのであれば、素直に謝ることができる。だけど、何もしていないのにお前のせいでと言われては、どうにもしようがない。それは存在そのものが迷惑だという意味であり、困惑と狼狽ろうばいをするばかりだ。
「ほれは……申し訳ございませんでした」
 悲しみと屈辱に耐えながら千鶴は頭を下げた。すると、辰蔵が言った。
「千鶴さん、謝らいでもええぞなもし。千鶴さんは何もわるないですけん」
 何やと?――といきり立つ孝平に、辰蔵は堂々と言った。
「千鶴さんはだんさんとおかみさんの大切なお孫さんぞなもし。おまいさまに何があったんかは存じませんけんど、ほれと千鶴さんは何の関係もございません」
「関係ないことあるかい! わしが手代になれなんだんはな――」
 孝平は声を荒らげたが、その声をさえぎって辰蔵は言葉を続けた。
「おまいさまが手代になれなんだんはご自身の実力でしょう。商いと関係のない理由で手代に昇格させんのなら、そこのあるじは初めからお前さまを丁稚に取ったりしません。ほれを千鶴さんのせいにしんさるんは、とんだおかど違いいうもんぞなもし。いくら旦那さんのご子息やいうても、これ以上、千鶴さんを侮辱しんさるんは、このあたしが許しません」
 千鶴はうれしかった。しかし、当然面白くない孝平は辰蔵をにらみつけた。
「おまい、使用人のくせに偉そなこと言うてからに。わしはここの跡取り息子やぞ? わしがこの店継いだら、お前なんぞ、こいつと一緒に真っ先に放り出してやるけんな!」
 辰蔵も負けていない。赤らんだ顔で孝平をにらみ返して言った。
「おまいさまが旦那さんのあとを継ぐいう話は、あたしはこれぽっちも耳にしとりません。万が一、お前さまが後を継がれるのでしたら、こちらの方から出て行かせてもらいまさい!」
「ほぉ、よう言うた。その言葉、忘れんなや!」
 孝平が片膝を立てて息巻いたところに、花江がお茶を運んで来た。孝平も辰蔵も口をつぐんだが、二人とも興奮が冷めやらない。
 しかし、花江をじろりと見た孝平は目をみはった。一度は立てた片膝を元に戻した孝平は、ほうけたように口を半分開いたままだ。その目は花江にくぎづけになっている。
「お茶なんぞ出さいでもよかったのに」
 淡々と二人の前にお茶を置く花江に辰蔵は言った。どうやら花江は頼まれてお茶をれたのではないらしい。恐らく、孝平の顔を一目見てやろうと思ったのだろう。
 辰蔵の言葉に、何を!――と孝平は逆上した。ところが、にらんだ目を花江に向けられると、うろたえて口籠もった。
 花江はすぐに千鶴に顔を向け、にっこり微笑んだ。
「お帰んなさい。楽しかったかい?」
「え? えぇ、お陰さまで十分楽しませてもらいました。いろいろつこていただいて、だんだんありがとうございました」
 まるで孝平などいないかのごとく振る舞う花江に、千鶴はまどいながら返事をした。
 花江は孝平を横目で見ながら明るく言った。
「千鶴ちゃんはここの跡取り娘、じゃない、跡取り孫娘だもんね。街で楽しむぐらい当然だよ」
 何やて?――と孝平がまた憤っ いきどお た。
「何じゃい、今の話は。なしてこいつが跡取りなんぞ。この店の跡取りは――」
 真っぐ顔を向けた花江ににらまれると、孝平は再び勢いを失った。
「跡取りは……、このわし……、なんやが……」
 孝平の言葉は次第にもごもごとなり、あとの方はよく聞こえない。孝平の様子がおかしいことには構わず、花江は腰に手を当てながら孝平に強い口調で言った。
「あんたさ、いきなり来といて何言ってんのさ。ここの跡取りは千鶴ちゃんだよ。どこの誰だか知んないけどさ。勝手なことを言うもんじゃないよ!」
「いや、ほじゃけん、わしはやな、その……」
 花江が女中なのは見てわかるだろうに、孝平は花江に言われ放題でしどろもどろになっている。そこへ、さっきから何を言っているのかとさちが顔を出した。
 孝平を見た幸子はけんしわを寄せた。それからじっと孝平を見つめたあと、驚いたように目を見開いた。
「あんた、こうちゃん? 孝ちゃんなん?」
「な、何じゃい。れ馴れしゅうすんな」
 うろたえた孝平が横を向くと、幸子は駆け寄って孝平の手を取った。
「孝ちゃん、あんた、今までどこ行きよったんね。お父さんもお母さんも心配しよったんよ!」
けがらわしい。わしにまがるな!」
 孝平が幸子の手を振り払うと、花江が当惑顔で幸子に訊ねた。
「幸子さん、この人、幸子さんの何なの?」
「この子はね、うちの弟なんよ。正兄まさにいが亡くなったあと、ほんまじゃったら、この子がここの跡取りになるはずやったんよ。ほれやのに、この子はみんなに黙って奉公ほうこう先逃げ出して、行方知れずになっとったんよ」
「そういうわけだったんだ」
 花江がうなずくと、わかったかと言わんばかりに孝平は胸を張った。
「聞いてのとおり、わしがここの正式な跡取りぞな。わかったら、みんな、ほれなりの礼儀いうもんを見せるんやな」
「孝ちゃん。あんた、お父さんにはうたんか?」
 幸子が訊ねても、孝平は無視をした。怒った花江が、どうして無視をするのかとただすと、穢れた者とは話をしないと孝平は言った。穢れとはロシア兵の子供を身籠もり産んだという意味だ。
 花江は孝平に軽蔑の眼差しを向けると、きっぱりと言った。
「じゃあ、あたしもあんたとは喋らない。あたしゃ心の穢れた人間が大っ嫌いなのさ」
「何やと? わしはここの跡取りぞ?」
 孝平が威張いばっても花江には通じない。花江は早速さっそく無視して、孝平に出したお茶をお盆に戻した。
「おい、ほれはわしのちゃぁぞ。勝手なことすんな」
 孝平は文句を言ったが、まったく迫力がない。花江は聞こえないふりをして奥へ引っ込んだ。
 気まずい顔の孝平を、辰蔵がふっと笑った。怒った孝平は辰蔵に手を出そうとしたが、幸子にきつくしかられた。姉に貫禄かんろく負けした孝平はむくれて横を向いた。
 こんな男が自分の叔父なのかと、千鶴はあきれた。
 万が一にも、この叔父が店を継いだりすれば、大事おおごとになるのは必至だ。そうはならないだろうが、この叔父がこのままここに居座れば、それも問題に違いない。
 千鶴は不安になったが、幸子も困惑のいろを浮かべている。

     四

「親父は中か?」
 けがれた者とは話をしないと言ったくせに、話せる相手がいないからか、孝平は幸子にたずねた。
 った態度を見せ続ける弟に、幸子はぜんとしながら言った。
「やっぱし、まだうとらんのじゃね。お父さんはどこ行きんさったんか知らんけんど、昼から出かけておいでるんよ。お母さんも雲祥寺うんしょうじへ出かけておらんぞな」
 雲祥寺とは山﨑家のだいで、大林だいりんの近くにある。
「何じゃい、どっちもおらんのか。こがぁな腐れ番頭ばんとう一人置いておらんなるとは、二人とも無責任やの」
 孝平が吐き捨てるように言うと、すぐさま幸子がしかった。
「あんた、何失礼なこと言うんね。辰蔵さんは立派な番頭さんで。辰蔵さんがおらなんだら、この店はうにえとるがね。無責任いうんなら、勝手に姿くらましよったあんたこそ無責任じゃろが!」
「勝手に敵兵の子供産んだおまいが言うな!」
 孝平がみついて千鶴をにらむと、幸子も険しい顔で言い返した。
「あんた、そげなこと言うためにんて来たんね? そげじゃったら戻んて来んでええけん、さっさとどこまりになさいや!」
「つかましいわ。わしが用があるんは親父じゃ。おまいやないわい」
「自分の姉に向かって、おまいいう言い方はないんやないですか?」
 辰蔵が参戦して幸子をかばった。孝平は辰蔵をにらむと、使用人は黙ってろと言った。
「さっきから使用人の分際ぶんざいで偉そうに。親父にうて話つけたら、すぐに辞めさすけん覚悟しとれよ」
「偉そうなんはおまいさまの方ぞなもし。いくらだんさんのぃをお引きでも、いきなしんて来て、姉をお前呼ばわり、父親を親父呼ばわりするんは、偉そやないと言いんさるんか?」
「父親やけん親父やろが。ほれに、わしはこの女を姉やとは思とらん」
 怒りを抑えた様子の辰蔵は、大きく息をしてから言った。
「おまいさまが幸子さんを姉と認めんのは勝手でしょうが、ほれにしたかてお前いう言い方は失礼極まりないぞなもし。父親をどがぁ呼ぶかも、そこがどげな家かによりましょう。ほんでも、この家では親父という言葉を使うもんはおりません。本来の跡取りでありんさった正清まさきよさんも、旦那さんを親父と呼びんさったことは一度もありませんでした」
「死んだ人間のことなんぞ知るかい」
 孝平のあまりの言い草に、幸子は声を荒らげた。
「何てひどいこと言うんね! あんたのお兄さんじゃろがね」
「人間、死んだらおしまいぞな。人間の価値は生きてこそよ」
 少しも悪びれない孝平に、ついに腹にえかねた辰蔵が怒りをあらわにした。
「その言葉、旦那さんの前で言いんさい」
「何やと?」
「今言いんさったこと、もういっぺん旦那さんの前で言うてみぃと言うとるんぞなもし」
「おまい阿呆あほか。親父の前でこがぁなこと言うわけなかろがな」
「つまりは旦那さんをだまくらかすおつもりか」
「騙くらかすんやないわ。余計なことを言わんぎりじゃい」
 辰蔵はため息をつくと、孝平を哀れむ目で見た。
「おまいさまは、ほんまに情けないお方ぞなもし。旦那さんやおかみさんのぃを引いておいでるとは信じられんぞなもし」
「何? この腐れ使用人が何をほざくか!」
「あたしは山﨑機織やまさききしょくの使用人であって、おまいさまの使用人ではございません。ほじゃけん、この店を守るためには、言うべきことは言わせてもらいまさい。お前さまは山﨑家のくずぞなもし」
 何を!――と孝平が辰蔵につかみかかったので、千鶴と幸子は孝平を押さえようとした。しかし幸子は孝平に突き飛ばされ、土間に転んで腰を打った。
「お母さん!」
 千鶴が叫ぶと、怒った辰蔵が立ち上がり、孝平とみ合いになった。帳場ちょうば机は蹴飛ばされ、帳場ごうはひっくり返った。花江が置いて行った辰蔵のお茶が床にこぼれ、湯飲みは土間へ落ちて割れた。
 いつの間にか表には、近所の者たちが面白そうに集まっている。
「ほれ、たつさん、しっかりせんかい!」
「辰蔵さん、あたしがついとるぞな!」
 みんなは辰蔵の味方をするが、誰も手を貸さないしけんも止めない。わいわいと楽しげに眺めているだけだ。
 騒ぎを聞いて飛び出して来た花江は、倒れている幸子を千鶴と一緒に介抱した。
 帳場では孝平と辰蔵が互いのえりをつかんで、相手を引きずり倒そうとしている。孝平は全力で辰蔵をねじ伏せようとするが、力は辰蔵の方が明らかに上だ。それでもやはり甚右衛門に対する遠慮があるのか、辰蔵は本気で孝平を組み伏せるつもりはないみたいだ。
 そこへ店の前の人だかりをかき分けて甚右衛門じんえもんが現れた。その後ろには新吉がいる。新吉は甚右衛門が連れて出ていたらしい。
 新吉は争いに驚いて立ちすくんだ。しかし、さすがに甚右衛門はあるじである。店に入ると、やめんか!――と二人を一喝いっかつした。
 その声で動きを止めた辰蔵に、孝平はびんたを食らわした。
 すると、花江がすっくと立ち上って帳場に上がり、孝平のほおをぴしゃりとたたいた。表から、おぉっ!――と歓声が上がる。
 孝平は叩かれた頬を手で押さえ、驚いた顔で花江を見た。花江は黙ったままあごをしゃくって、横の土間を見るよう孝平に伝えた。
 顔を横に向けた孝平は、そこに甚右衛門の姿を見つけてうろたえた。だが、すぐに笑顔になって土間へ降りた。
「親父、わしぞな。孝平ぞな」
 甚右衛門は孝平に背を向けると表に出た。孝平もそのあとについて行く。
 甚右衛門は野次馬たちに手を振りながら、見世物ではないから自分の店に戻れと言った。
 もうおしまいかと、野次馬が残念がりながらぞろぞろといなくなると、甚右衛門は孝平を振り返った。孝平は笑顔を見せながら甚右衛門のそばへ歩み寄った。
「親父、わしな、んて来たんよ。店の跡継ぎがおらんで困っとんじゃろ? ほじゃけんな、わし、戻んて来たんよ」
 孝平は誇らしげに言った。甚右衛門はいきなり孝平の胸ぐらをつかむと、力いっぱい張り倒した。
 ざまに地面に転げた孝平を見下ろしながら、甚右衛門は言った。
今更いまさら、何言うとんぞ? あん時、おまいはわしにどんだけ恥かかせたんか、わかっとらんのか! その上、今日はこげな騒ぎを起こして、また恥かかせよってからに!」
 体を起こした孝平は、道の上に正座して両手を突きながら甚右衛門に言った。
「ほのことじゃったら、このとおり謝るけん。ほれより店の跡継ぎで困っとんじゃろ? わし、親父には迷惑ぎりかけてしもたけん、今度こそ親父の力になりたい思てんて来たんよ」
 甚右衛門は孝平をじっと見えながら言った。
「ほうか、おまいもようやっと心を入れ替えたんか」
 孝平は笑顔でうなずくと、いそいそと甚右衛門のそばへ行こうとした。しかし甚右衛門は素っ気なく、遅いわ――と言った。
「遅いて、跡継ぎはまだ決まっとらんのじゃろ?」
「いいや、決まった」
「決まった? 決まったて、誰に?」
 孝平の顔が青ざめた。甚右衛門は横を向くと、離れた所に立っていた男を呼んだ。
 男が近くに来ると、甚右衛門は孝平に言った。
「この男が千鶴の婿になる。千鶴と夫婦めおとになって、二人でこの店を継ぐんぞな」
 え?――と思って、千鶴はその男を見た。
 小さな目に大きな口。お世辞にも素敵な顔とはいえない。それでも風貌は堂々としており、少し威張いばっているみたいにも見える。歳は二十四、五だろうか。
「ほら、あたしの言ったとおりだろ? 旦那さんは千鶴ちゃんを跡継ぎにって考えてたんだよ」
 幸子に肩を貸しながら、花江が得意げに言った。けれど、花江の言葉は千鶴の耳には入っていない。
 千鶴はじっと男の頭を見つめた。角が生えていないかを確かめるためだ。ところが、いくら見ても角らしきものは見えない。
 男は孝平をちらりと見たが、その目にはあざけりのいろが浮かんでいる。孝平も男をにらんだが、その顔はあせりでゆがんでいる。
「親父、わしいうもんおるのに、なしてこがぁな男を連れて来るんぞ?」
「黙っとれ! これまで行方くらましよったくせに、今頃何言うとんぞ。おまいなんぞ何も言う資格はないわ!」
 親父――と孝平は甚右衛門に泣きついた。甚右衛門は無視して男を店の中へいざない、千鶴に笑顔で言った。
「千鶴、聞こえとったろ。おまいの見合い相手を連れて来たぞ」
 店の入り口に立った男は、千鶴に軽く会釈えしゃくをした。わずかに微笑みながら千鶴を見る目は、商品を見定めているようだ。
「おじいちゃん、うち、お見合いするん?」
 千鶴がうろたえながら訊ねると、ほうよと甚右衛門はうなずいた。
「いろいろ考えた末、そがぁすることにした。ほういうことじゃけん、奥の座敷へ行け。花江さん、すまんけんど、お茶をれてくれんかな。ん? 幸子はどがぁしたんぞな?」
 幸子は花江に付き添われながら、腰に手を当てて帳場の端に座っていた。腰はかなり痛そうだ。
 花江から事情を聞いた甚右衛門は、外に立ったままの孝平をじろりと見た。それから花江に、幸子を離れで休ませてからお茶を淹れるよう頼み直した。
「親父ぃ」
 店に入れない孝平が、表から情けない声で甚右衛門を呼んだ。そこへ茂七が外の仕事から戻った。その後ろについて新吉がこそこそと店に入って来た。
 甚右衛門は辰蔵と茂七に、孝平を店の中へ入れないよう命じた。けれども、茂七は何のことかわからない。甚右衛門と孝平を見比べたが、辰蔵はうなずき、お任せを――と言った。

     五

 障子しょうじを閉めた茶の間で、千鶴と向かい合わせに座った男は名前を名乗った。
鬼山おにやま喜兵衛きへえと申します」
「鬼山?」
「喜兵衛ぞなもし」
 微笑む男の顔を見つめながら、やっぱし――と千鶴は思った。
「こら、おまいも挨拶をせんか」
 甚右衛門に言われて我に返った千鶴は、山﨑千鶴と申しますと言って頭を下げた。千鶴が顔を上げると、甚右衛門は得意げに言った。
「鬼山くんの家は元武家でな。わしの家とは知り合い同士よ」
「おじいちゃんの家?」
 甚右衛門は意外そうな顔をしたあと、ほうかと照れた笑みを見せた。
「幸子から聞いとらんか。わしの実家は武家でな。子供の頃は歩行かちまちにおったんよ。ほんでもめいになると、武士じゃあ暮らしていけんなってな。ほれで、この家の跡取りとして婿入りさせてもろたんよ」
 祖父が武家の生まれだったなんて、千鶴は初めて聞いた話である。そもそも祖父がこんなにいろいろしゃべってくれるなんて、これまで一度もなかった。
「ほういうわけで、ぃた形で鬼山くんをうちへ迎え入れようと、こがぁなことぞな」
 千鶴が黙っているので、甚右衛門は少しあせったのか、慌てて説明を付け加えた。
「鬼山くんは剣道四段の腕前でな。道場でも、さすが武家の血筋とうなずかされる猛者もさやそうな」
 どうやら甚右衛門は武家の出であることに、かなりの重きを置いているみたいだ。元々は自分も武士の家柄であったことを誇りに思っているのだろう。
「剣道四段て、がいなことなんですか?」
 千鶴は剣道などわからない。喜兵衛が苦笑するのを見て、甚右衛門は少し機嫌を悪くしたらしい。いつものぶっちょうづらに戻って言った。
「がいに決まっとろが。四段いうんは、この若さでそうそう取れるもんやないんぞ」
 千鶴は慌てて喜兵衛に頭を下げると、何も知りませんもんで失礼致しました――とびた。
 いやいやと喜兵衛は貫禄かんろくを見せて笑った。
「気にせんでつかぁさい。おなにはわからんことですけん」
 喜兵衛は千鶴を下に見ている。だけど、これ以上祖父に恥をかかせるわけにはいかない。千鶴は我慢しながら話しかけた。
「鬼山さんは、昔から歩行町に住まわれておいでたんですか?」
「あしが住みよるんはみなとまちぞなもし。歩行町におるんはあしの祖父母と伯父貴の家族で、あしの親は歩行町から湊町へ移ったんぞなもし」
 歩行町は城山の南東に位置する下級武士が暮らした町で、春子が電車に乗った一番町の いちばんちょう 電停の北にある。
 千鶴と春子が歩いた湊町商店街はうおたなまでだが、湊町自体は魚の棚からさらに東へ延びている。魚の棚より東側には伊予いよ絣をがすり 作る家が数多く並んでいるが、喜兵衛の家はその中の一軒ということだ。
 鬼山家が昔からあるのであれば、鬼山という名は鬼とは関係がないのかもしれない。それでも喜兵衛が本当に鬼山家の一員なのかは定かでない。
「あの、おじいちゃんはこの方を、いつからご存知やったんぞなもし?」
「今日知ったんよ」
「今日?」
「隣の組合事務所で鬼山くんの話を耳にしたんで、早速さっそく会いに行ったんよ」
 伊予絣を織る者は数え切れないほどいる。中には伊予絣の品位を汚す品を、伊予絣として出す者も少なからずいた。その対策として、織元おりもとに対して織物の検品や指導を行う伊予織物同業組合が設けられている。
 組合事務所には伊予絣に関する話が、いろいろと集まって来る。その組合事務所はやまさき機織きしょくのすぐ隣にあった。
 山﨑機織は四つつじの北東の一角にある。組合事務所は同じ辻の北西の一角だ。山﨑機織のうら木戸きどを出ると、目の前に組合事務所があるわけだ。この近さもあって、組合長と甚右衛門は長く親しい間柄だった。
 千鶴が部屋で春子と喋っている間、甚右衛門は仕事のことで組合事務所を訪ね、喜兵衛の話を耳にしたらしい。そこで善は急げと、午後から喜兵衛に会いに行ったそうだ。
 それにしても、今日知ったばかりというのはやはり怪しい。何だか話が仕組まれているみたいに思える。
 千鶴は喜兵衛の様子を観察しながらたずねてみた。
「鬼山さんは普段は何をされておいでるんぞなもし?」
「普段かな? 普段はほうじゃなぁ。家の仕事をつどうたりもしよりますが、三男坊ですけん、比較的自由にさせてもろとります」
「ご次男の方はどがぁされておいでるんぞなもし?」
「二番目の兄貴は陸軍の士官になりました。あしも士官学校に入るよう勧められたんですが、あしのしょうに合わんので断りました」
「性に合わんとは?」
 甚右衛門が訊ねると、自分は人に使われるのが嫌なのだと喜兵衛は言った。
「将校は兵士に指示を出すけんど、上の指示には従わにゃなりません。あしは何もかんも己の意思を貫いて生きたいんぞなもし。ほじゃけん、陸軍より商いの方が自分には向いとると思とるんです」
「なるほど。確かに己の道は己で切り開かんとな」
「そげです。その点、だんさんはご自身の判断で山﨑機織を切り盛りし、せんだってのとうきょうの大地震のあとも乗り切っておいでる。いけんなった店も多い中、さすがは旦那さんじゃと思いよりました」
 いやいやと甚右衛門は謙遜したが、悪い気はしないらしい。口元に隠し切れない笑みがこぼれている。
「そげなことで、旦那さんのとこじゃったら思い切った商いができるんやなかろかと、こがぁ思たわけです」
 喜兵衛の言葉に甚右衛門は何度もうなずいている。千鶴には祖父の姿が鬼に操られているとしか思えない。
 話は甚右衛門と喜兵衛の間ばかりで弾み、いつしか千鶴は蚊帳かやの外になっていた。

 お待たせしましたと、障子の向こうで花江の声がした。甚右衛門が声をかけると、花江は障子を開けてお茶を出してくれた。
 甚右衛門から言われたわけではないが、茶菓子までついている。千鶴の見合いだと思って、気をつかってくれたのだろう。
 千鶴は花江にお礼を言い、甚右衛門も花江をねぎらった。だが、喜兵衛はちろりと配られたお茶と茶菓子を見ただけで、花江には声をかけるどころか目もくれなかった。
 千鶴がむっとしていると、甚右衛門は千鶴の気を引こうと話題を変えた。
「鬼山くんは剣道の他にもな、ええとこがようけあるんぞ。まず、三年の徴兵義務は終わっとるけん、兵隊に取られることはない。ほれに頭もようて弁が立つ。ほんまなら政治家にでもなれるぐらいの人物ぞな。しかもこのとおりの男前よ。鬼山くんに憧れるおなは数え切れんそうな。鬼山くんが独り身いうんが信じられまい」
 喜兵衛は少し恥ずかしげな笑みを浮かべながらも、甚右衛門の言葉を否定はしない。そのとおりですと言っているみたいで嫌味ったらしい。それに喜兵衛の笑みはわざとらしく見える。すべて思惑どおりと考えているに違いない。
 喜兵衛を男前と褒め称えたことで、祖父は絶対に喜兵衛に操られていると、千鶴は確信した。結局、喜兵衛は山﨑機織を利用して鬼の仲間を増やすつもりなのだ。
「千鶴さんはお父さんのことは、何ぞご存知かなもし?」
 喜兵衛に問いかけられた千鶴は、はっとなった。
「いえ、うちが産まれた時には、もう、おりませんでしたけん」
「じゃあ、お父さんにはまだうとらんのかなもし?」
 はい――と千鶴がうなずくと、父親に会いたいかと喜兵衛は畳みかけるように訊ねた。
 千鶴はちらりと甚右衛門を見てから、いいえと言った。
「ほやけど、いっぺんうてみたいて思うことはあろに」
 次第に体が前のめりになる喜兵衛の言葉は、少し決めつけたというか強引さがある。そこまで父に関心があるのは、やはり父もこの男と同じ鬼なのか。
「なして鬼山さんは、そがぁに父のことぎり訊ねられるんぞなもし?」
 怪しんだ千鶴が問いかけると、喜兵衛は姿勢を戻し、頭の後ろに手を当てて笑った。その仕草は伸びて来た角を隠そうとしたみたいだ。
「いや、申し訳ない。実は、いずれ伊予絣をソ連にも売り込んだろと思いよったんぞな。やけん、千鶴さんのお父さんと連絡が取れるんなら、これはいけると思たぎりぞなもし」
 甚右衛門は喜兵衛の発想に大きくうなずいている。
「さすがじゃな、鬼山くん。まだ若いのにたいしたもんぞな。ソ連に伊予絣を売り込むやなんて、わしには思いつくまい」
「いやいや、今んとこソ連とはまだ国交がありませんけん、らぬたのきの皮算用ぞなもし」
 喜兵衛は照れ笑いをした。甚右衛門も喜兵衛もすっかり意気投合している。二人とも千鶴が婿取りを了承するものと決め込んでいるようだ。
 がんごめが鬼と夫婦になるのは定めかもしれない。けれども喜兵衛を見ていて、千鶴は定めにあらがうことに決めた。
 おじいちゃん、鬼山さん――と千鶴は二人に声をかけた。
「うちはこれまでずっと小学校教師になるために、じょはん学校で勉学に励んで参りました。ほれやのに、今日いきなしお見合いさせられても、うちとしては困るんぞなもし。ここのお店の事情はわかっとりますけんど、ほれにしたかて困るんぞなもし」
 千鶴はきっぱり言った。これだけのことが言えたのは、忠之への想いがあったからだ。
 これまでは、忠之ことはあきらめねばならないと考えていた。しかし、己の定めを突きつけられた今、千鶴は自分の本当の気持ちに気づかされた。
 自分の夫になるのはあの人以外いない。あの人と夫婦になれないのであれば、一生独り身でいよう。千鶴はそう心に決めていた。
 ぜんとした千鶴の言葉に、甚右衛門も喜兵衛も少なからず動揺したらしい。甚右衛門は千鶴の言い分を聞き、確かに性急過ぎたと反省の姿勢を見せた。
 喜兵衛も神妙な顔で、もうちぃと個人的な話をするべきでしたと、千鶴に自分の無神経さを詫びた。その上で、千鶴とは結婚を前提としたお付き合いがしたいと申し出た。もちろん、千鶴の婿になるという意味だ。
 甚右衛門は千鶴をなだめるように言った。
「結婚については、今すぐ返事はせんでええ。どがぁでも師範になりたいいうんなら、ほれもかまん。その上でいっぺん鬼山くんと付きうてみてはもらえまいか。付き合うてみて、やっぱしいけんかったら、ほれは仕方しゃあないことよ。どがぁぞな?」
 祖父にここまで言われたら、千鶴も拒絶ができなかった。
「結婚を前提とせんのであれば」
 これが千鶴としては精いっぱいの返事だった。
 甚右衛門は笑みを見せると、これでいいかと喜兵衛に訊ねた。喜兵衛は千鶴と一緒になる自信があるのか、結構ぞなもしとうなずき千鶴を見た。
 喜兵衛を一瞥いちべつしたあと、千鶴は目を伏せた。目をらしたのではなく無視したつもりだ。祖父の顔を立てて付き合いはしても、絶対に結婚はしない。答えは決まっていた。

「あんた」
 トミの声がした。甚右衛門が障子を開けると、土間にトミが立っている。その横で、新吉が不安げな顔で千鶴たちを見ていた。新吉の後ろには、やはり不安げな亀吉がいる。亀吉はトミと一緒にいたらしい。
 トミは何か言おうとしたが、喜兵衛に気づいていぶかしげな顔をした。
「このお人は?」
「千鶴の婿になる男ぞな」
 まだ婿になるとは決まっていないのにと、千鶴は腹が立った。しかし、これが祖父の本音というか、鬼の本音なのだ。
 鬼山喜兵衛と申します――と喜兵衛はトミに頭を下げた。
 トミも喜兵衛に挨拶を返すと、すぐに甚右衛門に顔を戻した。
「あんた、表に孝平がおるぞな」
「わかっとらい」
 甚右衛門は不機嫌そうに返事をした。
「わかっとるんなら、なしてあげなとこに立たせとるんね? よ中へ入れてやらんね」
「ずっと行方くらましよったくせに、いきなしんて来て跡継ぎづらするやとなんぞ勘当かんどうぞ」
「勘当て……ぃのつながった息子やないの。やっとんて来たのに勘当はなかろがね」
「つかましいわ! あいつがわしのこと、何て言うた思う? 親父やぞ。己を何様や思とるんじゃい、偉そうに」
 甚右衛門は怒り心頭だったが、トミはひるまなかった。
「ほやけど、勘当せいでもよかろ? そげなことは言うて聞かせたらええことぞな」
「ここにあいつの居場所はない」
「何でもさせたらええじゃろがね」
「そげなわけにいくかい」
 二人のやり取りを聞いている喜兵衛は、素知らぬ顔をしているが目が笑っている。甚右衛門の馬鹿息子を嘲笑あざわらっているのかもしれないが、山﨑機織の実情を見てほくそ笑んでいるみたいでもある。
 千鶴にはますます喜兵衛の正体が鬼に見えた。この店に入り込む余地があるとわかって喜んでいるに違いない。
「とにかく、客人の前でそげな話はすんな。客人に失礼なろが」
 甚右衛門にしかられ、トミが横目で喜兵衛を見ながら口をつぐむと、急に店の方が騒がしくなった。と思うと、孝平が飛び込んで来た。慌てて追いかけて来たのは茂七と辰蔵だ。
 孝平は土間にいつくばって甚右衛門に詫びた。
「親父、いや、父さん。わしが悪かった。こがぁして謝るけん、どうか、わしをここへ置いてつかぁさい」
 甚右衛門はトミを気にしながら孝平を叱りつけた。
「千鶴が見合いしよるんがわかった上で、そげな芝居がかったことをするんは、己のことしか考えとらんあかしじゃろがな。母親が味方してくれるて思とんじゃろが、とんでもないわ。おまいなんぞ、もう息子でも何でもないけん、どこまり行くがええ」
 甚右衛門が辰蔵と茂七にあごをしゃくると、二人は暴れる孝平を抱えながら表へ連れて行った。
 トミは憤慨したが、黙って孝平を追った。
 亀吉はトミのあとに続いたが、新吉はぼーっと突っ立っていた。すると戻って来た亀吉が、新吉を店の方へ引っ張って行った。
 甚右衛門は喜兵衛に詫びると、また別の日に千鶴と会ってやってほしいと頼んだ。千鶴にすれば余計なお世話だったが、祖父には逆らえない。とにかく結婚は前提ではないのだからと、心の中で何度も自分に言い聞かせた。
 喜兵衛はにこやかにうなずき、承知いたしました――と言った。鬼の思惑どおりにされそうで気分が悪かったが、千鶴は黙って聞くしかなかった。