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鬼と福の神

     一

 山﨑機織で やまさききしょく は東京に とうきょう 手代てだいの一人を送り込み、安宿に住まわせながら店まわりをさせていた。
 一方、東京よりも近い大阪おおさかには十日に一度、別の手代に得意先廻りをさせて注文を取っていた。
 しかし松山まつやまから通いの注文取りでは、廻る先が限られてしまう。そのため大阪の取引先は、東京ほど増やすことができなかった。
 そんな折、明治めいじ末に大阪で大火が起こり、山﨑機織の取引先だった太物問屋のふとものどんや 多くが焼けてしまった。
 行き場を失った太物問屋の使用人たちの中に、もう若くなく身寄りもないが、太物をよく知る仕事熱心な男がいた。
 作五郎さくごろうというその男に、自分たちの力になって欲しいと甚右衛門じんえもんは頼み込んだ。そして、大阪の仕事を一手に引き受けてもらうことになった。
 そのお陰で手代が大阪へ通い詰める必要がなくなった。また手代が廻っていた以上の店を、作五郎が廻ってくれたので、大阪での売り上げは以前よりも倍増した。
 少し気むずかしいところがある男だが、甚右衛門は商いに対する作五郎の姿勢を深く信頼していた。
 その作五郎の元に孝平こうへいを送るという話が、甚右衛門とトミの間で持ち上がっていた。
 甚右衛門は孝平を家から追い出したが、トミが孝平を呼び戻せと言って聞かないため、仕方なく作五郎に孝平を試してもらおうと考えたのである。
 店の跡継ぎの話はともかくとして、山﨑機織に使用人が足らないのは事実だった。
 もっと丁稚でっちを取っていればよかったのだが、景気が悪くて毎年のようには丁稚を取ることはできなかった。入っても続かずに辞めさせられる者もいた。それに山﨑機織の丁稚になりたがる者が、他の店ほどはいなかった。
 それは千鶴ちづのせいかもしれなかったが、甚右衛門もトミもそこには触れていない。ただ二人とも後継者問題だけでなく、丁稚が少ないことにも頭を悩ませていた。
 東京もいずれは復興する。その時には、誰かを店廻りにやらねばならない。だが、今の状態では東京へ送れる者がいなかった。
 そんな苦しい状況の中で、甚右衛門が千鶴と鬼山おにやま喜兵衛きへえを夫婦にしようと考えたのは無理もないことだった。
 喜兵衛が来れば後継者としての修行も兼ねて、手代の仕事を務めてもらう。そうすれば茂七もしちを東京へ送り出すことができる。
 手代の不足を埋めるだけならば、必ずしも千鶴の婿である必要はない。しかし、いきなり手代として雇い入れるには、それなりの信頼と力量が求められる。それに千鶴を受け入れられる者でなければならない。
 そう考えると、千鶴の婿となる者が見つかれば、後継者も手代不足も解決できる一石二鳥となるわけだ。
 店を継げる者ならば、仕事も熱心にするだろうし信頼もおける。取りえずはそれで急場をしのぎながら、どんどん丁稚を育てて行くというのが、甚右衛門が思い描いている構想だった。
 また千鶴と喜兵衛のことは別にしても、万が一にも作五郎が孝平を認めるのであれば、孝平を松山へ戻して茂七を東京へ行かせることができる。期待はできないが、可能性がないわけではない。
 いずれにしても、東京の復興がすぐに始まるようならば、まずは東京の勝手がわかっている辰蔵たつぞうを送り込むつもりだと、千鶴は甚右衛門から聞かされている。
 その間の帳場ちょうばは甚右衛門が守り、時期を見て茂七と辰蔵を交代させる寸法なのだそうだ。
 ただ孝平を手代にするのは、当てにできる話ではなかった。
 松山を飛び出したあと、どこでどうしていたのかと甚右衛門からただされても、孝平からは曖昧あいまいな返答しか戻って来なかったと言う。
 要するに孝平は松山を出たあとは、あちこちを転々と渡り歩きながら、その日暮らしのようなことをして、何とか食いつないでいたということらしかった。
 孝平が松山へ戻ったのは、その日暮らしにも困ったからで、山﨑機織の跡継ぎになるためではなかった。跡継ぎの話は松山に戻ってから耳にしたことで、今なら家に戻れるだろうし、跡継ぎの権利は自分にあると信じたらしい。
 また、店のあるじは仕事をしなくてもいいと思っていたし、辰蔵を辞めさせても、外から新たな番頭を雇い入れればいいと考えていた。
 使用人を育て上げる苦労など一つも理解しておらず、甚右衛門もトミも開いた口がふさがらなかったと言う。
 そんな孝平には跡継ぎどころか、まともな仕事すら任せられるはずもない。本来ならば甚右衛門がそうしようとしたように、さっさと店から追い出しているところである。
 それでもトミが孝平に最後の情けをかけてやって欲しいと言うので、甚右衛門は渋々ながら孝平を大阪へ送り出すことにしたのだ。
 もちろん、これは作五郎の了承を取ってからの話だ。嫌だと言われればそれまでである。孝平に居場所はない。
 作五郎が引き受けてくれたとしても、途中で放り出されれば、やはりおしまいだ。そして、そうなるであろうと甚右衛門もトミも予測しているようだった。
 そんな感じなので、甚右衛門が孝平よりも千鶴に期待をかけているのは間違いなかった。もはやロシア兵の子供などとは言っていられない状況らしい。
 千鶴に婿を迎えてあとを継がせる話は、トミも以前から甚右衛門から聞かされており、そのことには賛成していたと言う。
 とは言え、喜兵衛を婿にする話は甚右衛門の思いつきであり、何も聞かされていなかったトミは懐疑的だった。また、正清まさきよの命を奪った国との取引についても、トミは声を荒げて反対した。
 しかし、孝平は役に立ちそうにないし、正清を奪ったのはソ連ではなくロシアだと甚右衛門から言われると、トミも気が変わったようだった。それで、喜兵衛にソ連との取引を任せることで、山﨑機織は勢いを取り戻せると、トミも期待を寄せるようになった。
 だがそれは、それだけ店の経営が逼迫ひっぱくしているということだ。そうでなければ、トミはソ連との取引など受け入れなかったに違いない。
 千鶴は断ったつもりの婿話を、祖父にうまく言いくるめられたことが面白くなかった。しかし、このような店の状況を見せつけられると、自分ばかりがままは言えないとあきらめ気分になった。
 また、違うことでも千鶴は気持ちが沈んでいた。
 喜兵衛と付き合っても、絶対に結婚はしないと心に決めたはずだった。しかし、よくよく考えてみれば、いずれ自分はがんごめの本性を出すようになる。そうなれば忠之ただゆきと一緒になるなどできるはずもない。一緒にいられるのは同じ鬼の仲間だけなのだ。
 そんなことを考えると、結局は定めから逃れることはできないのだと、千鶴の心は失意でいっぱいになっていた。

     二

 翌週の日曜日、喜兵衛は再び千鶴に会いにやって来た。
 千鶴は喜兵衛に会うことに気乗りがしなかった。しかし、甚右衛門が喜兵衛に千鶴を連れ出す許可を出したので、喜兵衛の誘いを拒むことはできなかった。
 渋々喜兵衛について外へ出たものの、一つも楽しいことはない。
 喜兵衛は歩きながらしゃべるばかりで、どこかの店に入るとか、お芝居や活動写真を楽しむということはしなかった。
 喜兵衛の話の感じでは、そういう庶民の楽しみを喜兵衛は軽蔑しているようにも思われた。
 また前回とは打って変わり、喜兵衛は千鶴の父親のことには一切いっさい触れなかった。代わりにこれまでの千鶴の暮らしを聞きたがった。中でも、千鶴がどんなつらい想いをして来たのか、という点に興味があるようだった。
 千鶴は過去の嫌なことを思い出したくなかったし、それを他人に喋ることも、できればしたくなかった。それでもしつこくかれるので、仕方なくぽつりぽつりと話した。
 喜兵衛は千鶴の話に憤慨したり、うなずいたりした。だが、どこか他人事みたいに聞いているようでもあった。
 千鶴に楽しい思い出はあまり多くないが、それでもまったくないわけではない。嫌な話よりも楽しい話の方がいいので、千鶴はその話をした。すると喜兵衛は軽く聞き流して、すぐに別の話題に変えた。
 喜兵衛は千鶴を気の毒な娘と見たがっているようだった。また、その気の毒な娘に同情することで、自分をよく見せたがっているようにも思われた。
 千鶴が何を望み、どうしたいのかということについては、喜兵衛は関心を示さなかった。弱い女は強い男に従うことが幸せだと思っているようで、自分はその強い男なのだと、喜兵衛がしきりに示そうとしているように千鶴には見えた。
 喜兵衛から出る話題は、政治の話が多かった。
 弱い者がしいたげられる今の世の中を変えねばならないとか、もっと女性が活躍できる場を増やさなくてはいけないなどと、喜兵衛は喋り続けた。だが、そのために活動している女性のことは、何もわかっていない目立ちたがり屋だと決めつけた。
 そんな喜兵衛から世の中の女性の立場をどう思うかと問われ、千鶴は返事に困った。
 世の中が弱い者にとって理不尽であるとは思っている。しかし、そんなことを言えば、生意気な女だと思われそうな気がしていた。
 それでも喜兵衛は千鶴の答えを待っている。千鶴は仕方なく喋った。
「男とか女とか、そがぁなことには関係なく、みんなが仲よく楽しいに過ごせたらええなて思とります」
 それは自分のことだけでなく、山陰やまかげものとして差別を受けている忠之のことも考えての言葉だった。
 しかし、千鶴の答えに喜兵衛は顔をゆがめた。
「あしが訊いとるんは女子おなごの立場ぞな。男のことは聞いとらん」
「男も女もいろいろぞなもし。強いお人もおれば、弱いお人もおるんは男も女もついぞなもし」
「ほれはほうやが、今あしが訊いとるんは女子おなごの話ぞな。わからんかな?」
 喜兵衛の顔に明らかな侮蔑のいろが浮かんでいる。千鶴を頭の悪い女だと見たに違いない。
 千鶴が返事をしなくなると、喜兵衛は慌てたように微笑んだ。しかし、千鶴は喜兵衛の本当の顔を忘れなかった。 
 この男は口では女子おなごのためにと言っているが、自分の評価を高めるために、弱い女子を利用としているだけに違いない。心の内では女子を見下している。
 鬼に選ばれた男はこんなものなのかと千鶴は落胆した。だが、そもそも鬼に人間らしさを求める方が間違いなのだろう。それが鬼というものなのだ。それなりに納得をした千鶴は単刀直入に言った。
「いろいろ言いんさっておいでるけんど、うちにはちゃんとわかっとりますけん。鬼山さんはお名前のとおりのがんごでしょ?」
 喜兵衛はきょとんとしたあと、声を出して笑った。
「千鶴さんは面白おもろいことを言う女子おなごじゃな」
「違うと言いんさるんか?」
 真顔の千鶴を見て、喜兵衛は笑うのを止めた。
「こがい言うたら失礼なけんど、千鶴さんは見た目よりも、ずっと頭がええお人じゃな。いや、頭が切れる言うんがええかいの」
「はぐらかさんで答えておくんなもし。鬼山さんのほんまの狙いは弱いもんを助けることやのうて、ご自分とついの仲間を増やして行くことやないんですか?」
 喜兵衛は千鶴を感心したように見たあと、ふっと笑った。
「さすがじゃな。千鶴さんがご指摘のとおり、あしはただの男やない。情け知らずのがんごの喜兵衛とはあしのことぞな」
「やっぱし……」
 千鶴は覚悟ができていたので驚きはしなかった。ただ、悲しみが込み上げて来て横を向いた。そんな千鶴を見ながら、喜兵衛は話を続けた。
「世の中に虐げられるもんがおるんは、はっきし言うたら、そいつが弱いけんよ。言い換えたら、頭が悪いわけぞな。そがぁな連中は利用されるぎりで、世の中ひっくりかやす力にはならん。あしが求めよるんは、あしとついの力を持つもんぞな」
「ほれと、銭じゃろ?」
 千鶴の吐き捨てるような言い方に、喜兵衛はくっくっと笑った。
「千鶴さんは、まこと頭がええ。ほれに、ほのぃの強さも気に入ったで。そのとおりぞな。やっぱし世の中は銭よ。何でかんで力尽くいうんは下作げさくやけんな。なんぼがんごでも頭は使わんといけん」
 千鶴が返事をしないでいると、喜兵衛は続けて言った。
「さっきも言うたように、あしは今の世の中ぁひっくりかやしたいんよ。千鶴さんがあしと組んでくれたら、ほれがでける。どがいぞな、千鶴さん、あしと一緒に世の中ぁひっくり返さんか? 二人で仲間増やして、あしらの世界をこさえるんじゃ」
 千鶴は喜兵衛に顔を向けると、れた目でにらみつけた。
「あなたはご自分のご野望のために、うちや、うちの店を利用するおつもり?」
「まぁ、野望いうたら野望なけんど、ほれは千鶴さんのためにもなることぞな。今の世の中ぁ千鶴さんには住みにくかろ? もちろん商いはちゃんとするけん、甚右衛門さんに損はさせんつもりぞな」
「うちは今の世の中でええですけん。鬼山さんをお手伝いする気はありません」
 千鶴がまた横を向くと、喜兵衛は困惑のいろを見せた。
「まだ、話を全部聞いたわけやないのに、そがぁなことは言わんでくれんかなもし。あしがどがぁな世界を思い描きよるんか、聞いてからにしてつかぁさいや。きっと千鶴さんも、ほれはええて思うけん」
「全部を聞く必要はありません。うちは自分を見下すお人と、一緒になるつもりはないですけん」
 喜兵衛は慌てた様子で、千鶴の前に回った。
「ちぃと待ってくれんかな。いつ、あしが千鶴さんを見下したと言うんぞな?」
「最初からずっとぞなもし。ご自分やなかったら、うちみたいなもんの婿になる男子おのこなんぞおるわけないて、たかくくっておいでるんじゃろけんど、うちは一生独りでも平気ですけん」
「ほれじゃったら、甚右衛門さんが困ろ?」
 この言葉に鬼山の本音が表れている。鬼の中でも男尊女卑は人間と同じということだろう。
「おじいちゃんは――」
 千鶴はそこで口をつぐんだ。今の祖父は鬼に操られている。それは祖母も同じであり、自分に見せる今の優しさも鬼に操られているからだ。
 それでも辰蔵たちが仕事をする様子を見ると、辰蔵たちがどんな気持ちで働いているかがよくわかる。それを教え込んだのは祖父母であり、祖父母がそうしているのは鬼が現れるより前からだ。
 千鶴は口を開くと、自分なりに理解した祖父母の姿を語った。
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、伊予絣いよがすりを誇りに思とるんよ。ほじゃけん、お店で働く人らも、みんなそがぁ思て仕事をしとりんさる。遠くにおいでる顔見ることもないようなお人らが、うちらが売った絣を喜んでくんさるんを思い浮かべて商いしよるんよ。銭もうけのためぎりで商いしよるんやないですけん」
 喜兵衛は、ほぉと感心したような声を出した。
「千鶴さん、店の仕事しとらんのに、よう店のことをわかっておいでるんじゃの。千鶴さんには、物事を的確に見る力があるいうことよ。やっぱし、あしには千鶴さんがぴったしじゃ。千鶴さんには、あしとついの匂いがするぞな」
 千鶴はぎくりとなった。やはりお前も鬼の仲間だと、喜兵衛は言っているに違いない。しかし、千鶴の決意は変わらなかった。
「うち、あなたとは一緒になりません。あなたとのお付き合いも、これぎりぞなもし」
 千鶴が背を向けて歩き出すと、喜兵衛はあせったようだ。千鶴を呼び止め、自分の何がいけないのかとたずねた。
 千鶴は喜兵衛を振り返ると、きっぱりと言った。
「たとえあなたと一緒になるのが定めじゃったとしても、うちはその定めに従うつもりはありません。あなたが望む世の中は、うちが望むもんとは違います。うちがねごとるんは、誰にも優しい世の中ぞな。がんごが考えるような世の中とは違うんぞなもし」
 言うだけ言うと、千鶴は再び喜兵衛に背中を向けて歩き出した。
 後ろで喜兵衛が千鶴を呼び、誤解だと叫んでいたが、千鶴は耳を貸さずに歩き続けた。
 やがて喜兵衛の声が聞こえなくなったが、こんなはずではと喜兵衛は途方に暮れているに違いない。
 しかし、鬼の喜兵衛がこのままおとなしく引き下がるとは思えない。千鶴が鬼の定めに逆らったことを、力尽くで後悔させようとするはずだ。
 それがどのようなものかはわからないが、どんな目にわされても構わないという覚悟はあった。だが、家族や使用人たちにも禍が わざわい 降りかかるのではと思うと、千鶴の心は大きく動揺した。

 家に戻ると、千鶴は待ち構えていた甚右衛門に、どうだったかと訊かれた。その隣でトミも千鶴の言葉を待っている。
 台所にいる花江も、仕事をしながら話を聞いている。だが母の姿は見えない。
 一週間前に腰を痛めた幸子は、勤務する病院に無理を言って翌日だけ休みをもらった。その連絡は前日のうちに、亀吉が事情を書いた手紙を病院へ届けてくれた。
 しかし休めたのは一日だけで、その次の日からは腰の痛みを抱えながら、病院の仕事に復帰した。
 それでも病院では湿布をしてくれたので、大変ではあったが幸子の腰は少しずつ回復していた。それで病院が休みの今日も、幸子は家事を手伝っていたのだが、今はどこへ行ったのか、台所にも奥庭にもいなかった。
 喜兵衛とのことは、本当なら母にも聞いてもらいたいが、いないものは仕方がない。また、花江には聞かせることではないので、千鶴は祖父母がいるちゃに上がると、部屋の障子しょうじを閉めた。それから驚いた様子の二人の前に座り、両手を突いて頭を下げた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、申し訳ありません。やっぱし、うちはあのお人とは一緒になれんぞなもし」
 何?――と甚右衛門が叫ぶような声を出した。
「な、何がいかんのぞ?」
 千鶴は頭を伏せたまま答えた。
「あのお方はご自分のご野望のために、うちやこの店を利用しんさるおつもりぞなもし。あのお方にはおじいちゃんやおばあちゃん、辰蔵さんらのお気持ちなんぞ、これっぽっちもわかっとりません。ほじゃけん、うちはあの人と一緒になるんは絶対に嫌ぞなもし」
「わしらの気持ちて、何ぞな?」
 千鶴は頭を上げると、喜兵衛に伝えたことや、喜兵衛が山﨑機織を利用して、世の中をひっくり返すつもりであることを二人に説明した。
 甚右衛門はうなったまま黙り込んでしまったが、トミは千鶴の言うとおりだと言った。
「この子はうちらのことを、ようわかっとる。ほれに比べて、何ぞな、あの鬼山いう男は。ここの仕事を真剣に受け継いでくれるかて思たけん、千鶴の婿にと言いよんのに、世の中ひっくりかやすてどがぁなことね。そがぁな仕事に集中するつもりがないもんを、この子の婿になんぞできんがね」
 甚右衛門は黙り続けているが、その顔はいかにも苦しげだ。千鶴の言い分を否定はできないが、ならば店はどうなるのかという想いで、困りきっているようである。
「ほじゃけん、うちはこの見合いには反対やったんよ。どうも話がうま過ぎる思いよった。ほれを、あんたがやいのやいの言うけん、反対するんをやめたんよ。だいたいな、正清殺したロシアと商売する言う時点で、おかしいてぃつかんといけんかったんよ」
 つかましいわ――と甚右衛門はトミをにらんだ。だが、喜兵衛との付き合いを断った千鶴をしかりはしなかった。
「話はわかった。嫌がるもん無理さっちなことはできんけんな」
「申し訳ありません」
 千鶴が項垂うなだれると、甚右衛門は感情を押し殺したような顔で、部屋へ戻れと言った。本来は家事をさせるところだが、千鶴の気分を少し落ち着かせる必要があると見たのだろう。
 千鶴が離れの部屋へ行くと、幸子が横になっていた。どうしたのかと訊ねると、さっきから腰が痛くなって動けないと言う。ずっとよくなっていたはずなのに、急にずきんと痛くなってどうしようもなくなったので、花江に仕事を任せて休んでいるそうだ。
 千鶴はざわっとなった。これは鬼の仕業しわざに違いなかった。
 しかし、鬼の怒りがこんなものであるはずがない。喜兵衛との結婚を千鶴が受け入れるまで、さらなる禍が続くのだ。

     三

 翌日、作五郎からの手紙が届いた。甚右衛門の希望どおり、孝平の世話を引き受けるという内容だった。
 ただ、その分の手当を甚右衛門が提示した額よりも、もう少し上げて欲しいという要望も書かれてあった。
 甚右衛門はただちに孝平に大阪おおさか行きを申しつけた。
 もし作五郎を怒らせたなら、そのままどこにでも行って、二度と松山まつやまには戻って来るなと、甚右衛門は厳しく言い添えた。
 孝平はすっかりおとなしくなり、素直に頭を下げた。
 店に呼び戻されて以来、辰蔵たち使用人に対しても、孝平は偉そうな態度は見せず、何でも言われたとおりに動いていた。
 花江にも口を利いてもらえるようになり、拍子抜けした様子の辰蔵とも、めることなくにこやかに過ごしていた。
 孝平のそんな姿は、トミに期待を抱かせたようだ。トミは孝平を優しく励まし、必ず作五郎さんに認めてもらうようにと言った。

 大阪へ向かう日の朝、店の前でみんなに見送られながら、孝平は甚右衛門とトミに言った。
とうさん、かあさん。これまで心配ぎりかけよったけんど、絶対に大阪で一人前になってんて来るけんな」
 どこまで本気で聞いていたのかはわからないが、甚右衛門は黙ってうなずいた。千鶴の縁談が壊れた以上、孝平に望みをたくす以外になくなったのだが、甚右衛門の表情を見ると、やはり期待は薄いと見ているようだ。
 しかしトミは涙ぐみながら、しっかりがんばるようにと言った。
 孝平は見送りに出ていた千鶴にも幸子にも挨拶はしなかったし、辰蔵たちにも声をかけなかった。おとなしくなったとは言っても、そうそう本音は変わらないというわけだ。
 それでも孝平は花江にだけは声をかけて、いきなり手を握った。
「ちょっと何を――」
「わしが一人前になってんて来たら、ほん時は、わしの嫁になってくれ」
 えぇ?――花江は驚いたが、他の者たちも驚いた。
「こら、孝平! こがぁな時に、何言いよんぞ」
 甚右衛門に怒られると、孝平は慌てて花江から手を離して姿勢を正した。
「ほんじゃあ、て来るぞな」
 孝平は甚右衛門とトミに声をかけると、ちらりと花江を見た。
「花江さん。約束ぞな」
「ちょっと待って。あたし、約束なんか――」
 花江の返事を聞かず、孝平はそのまま古町こまち停車場へ向かった。
 花江は困ったように顔を伏せると、店の中へ逃げた。
「あんた、この手があったぞな」
 トミがうれしそうに甚右衛門に言った。それは、孝平と花江に店を継がせるというものだろう。
「そげなことは、あいつが一人前になれたら考えようわい」
 甚右衛門は素っ気なく答えると、使用人たちに仕事に戻るよう命じた。

 数日後の日曜日、喜兵衛が訪ねて来た。しかし、千鶴は喜兵衛に会おうとしなかった。
 甚右衛門は千鶴に離れで控えているよう命じると、座敷に喜兵衛を招き入れて話し相手になった。
 千鶴はその時の様子を、あとで祖母に聞かせてもらったが、喜兵衛は終始居丈高いたけだかな態度を見せていたと言う。頭を下げ続ける祖父に対し、喜兵衛はずっと不機嫌な顔でふんぞり返っていたらしい。そこには年上の者に対する敬意など、一欠片ひとかけらもなかったようだ。
 見合いの話は甚右衛門から持ちかけて来たものであり、恥をかかされた責任はどう取るつもりなのかと、喜兵衛は平謝りの祖父を責め続けたそうだ。
 しかし、見合いを断るにはそれなりの理由がある。喜兵衛が商い以外に怪しげなくわだてを持っていたことについて、祖父にも文句を言う権利はあったはずだ。ところが祖父はそのことには触れようとしなかったらしい。
 それについて千鶴がたずねると、我が夫ながら情けないと、トミは首を振りながら言った。
 祖母が言うには、祖父の実家の重見家と喜兵衛の実家の鬼山家では、どちらも元下級武士ながら鬼山家の方がわずかに格上だったそうだ。それで祖父は相手の非をとがめることができなかったらしい。
「商家に婿入りして何十年にもなるのに、何が侍ぞな。だいたい侍やなんてどこにもおるまい? 相手に非があるのに、なしてこっちが頭を下げるんね。こがぁなおかしな理屈があるもんかな」
 千鶴を相手に夫への愚痴をこぼしたトミは、今回のことが余程よほど腹にえかねたようだ。
 夫が喜兵衛から言われっ放しなので、代わりに言ってやったとトミは鼻息荒くしゃべった。
「千鶴の婿になれるんは、ほれにふさわしい男ぎりであって、今度のことは、あんたが千鶴にはふさわしなかったいうぎりのことじゃろがねて言うたったんよ。ほしたら、あの男。何も言い返せんで、顔を真っ赤にしてによったわい」
 千鶴は祖母に女の強さを見た。しかし、すぐにいぶかしんだ。
 祖父母は鬼に操られていたはずだ。それなのに、祖母が喜兵衛を撃退するような態度を見せたのは矛盾している。もしかしたら鬼が操っていたのは、祖父だけだったのだろうかと千鶴は考えた。
 だが祖父にしても、考えてみればおかしいのである。
 喜兵衛に頭が上がらないのは、鬼である喜兵衛の方が立場が上だからのように見える。しかし、祖父が本当に喜兵衛に操られているのであれば、自分が何と言おうと無理やり喜兵衛と夫婦にすればいいことだ。祖父にはその権限がある。
 それなのに、頭を下げてこの縁談をなかったことにするというのは、やはり妙である。
 考えられるのは、祖父母を操る鬼の力が弱かったということだろう。祖父母はそれなりには操られたものの、完全に鬼の手に落ちていたわけではなかったということに違いない。
 祖父母を支配しているのは、今の山﨑機織が やまさききしょく 置かれた状況を、どうすれば乗り越えられるかという想いなのだろう。実際、山﨑機織には危機が迫っていた。

 この日、喜兵衛が出て行くのと入れ替わりに、いよいよ東京の とうきょう 問屋が商いを再開したという情報が届いた。しかし、山﨑機織と取引のある所がどうなったのかまではわからない。
 大地震のあと、辰蔵が東京の様子を確かめに行った時には、多くの取引先は店が潰れたり、人が亡くなったりで、商いの再開など考えられない状態だった。
 それでも、商いを始める時には電報で知らせて欲しいと、辰蔵は無事が確かめられた相手に頼んでおいた。ところが東京からの連絡は入って来なかった。
 それから何日か経つと、他の店は東京向けの仕事を再開した。だが、山﨑機織には取引先からの連絡が届かないままだった。

 ある日、伊予織物いよおりもの同業組合の組合長が、ひょっこりと訪ねて来た。もうずいぶん涼しくなったのに、太めの組合長は暑そうに扇子せんすで顔を扇いでいる。
 組合長は甚右衛門を見つけるなり大丈夫なのかと訊ねた。
 何が大丈夫なのかと甚右衛門がき返すと、山﨑機織がもうすぐ潰れるといううわさを耳にしたと組合長は言った。
 驚いた甚右衛門は、すぐに噂の出所を確かめに行った。しかし戻って来た時には、左手で右腕を押さえながら左足をひきずるという姿だった。着物は土に汚れ、右手の甲からは出血もしていた。
 何があったのかとみんなから問われた甚右衛門は、噂の元を辿たどって行くと、噂を広めていたのが鬼山喜兵衛だとわかったと言った。
 恐らく千鶴の婿になる話が流れた腹いせに違いなく、喜兵衛を捕まえてとっちめてやろうと、甚右衛門は湊町へ みなとまち 向かったそうだ。だが頭に血が昇っていて、左から来た自転車に気がつかず、ぶつかられて転倒したと言う。
 トミは病院へ行くよううながしたが、この程度のことでは病院へは行かないと、甚右衛門は言い張った。
 それでも自転車がぶつかった所は赤黒いあざができているし、転んで打ちつけた右肘と右肩は腫れていて、トミが触れると痛がった。
 これではとても喜兵衛をとっちめるどころではない。こんな姿で行ったところで迫力もなく、しらを切られて終わるに違いなかった。
 トミが代わりに喜兵衛の所へ行くと言ったが、甚右衛門はそれをやめさせた。女が行っても相手にされないだろうし、トミが行くことで自分の今の状態が、向こうに知れるのを甚右衛門は嫌がった。
 トミは悔しがったが、それは山﨑機織全員の気持ちでもあった。
 甚右衛門自身、己が情けないようで、痛みというより腹立たしさで顔をゆがめているようだ。
 いよいよ鬼の呪いが始まったと、千鶴は考えていた。東京からの連絡が来ないのも、祖父が怪我をしたのも、鬼がしたことに違いない。喜兵衛がみずから山﨑機織の悪い評判を広めているのがそのあかしである。
 千鶴は喜兵衛との縁談を拒んだことを、甚右衛門にびた。
 だが、甚右衛門は千鶴を責めなかった。あんな男を婿にしなくてよかったと言い、今回のことも自分に人を見る目がなかっただけだと、自らの責任を認めた。
 また、喜兵衛が山﨑機織を悪く触れ回ったところで、しっかりとした商いができていれば、誰も喜兵衛を相手にしないと甚右衛門は言った。問題は山﨑機織の人員不足と、東京の状況がわからないことだった。
 祖父の姿勢を千鶴は立派だと思った。また有り難いとも思った。しかし、不思議でもあった。
 今の祖父には鬼の支配が及んでいないと言える。それなのに祖父が自分をいたわるのは妙なことだ。祖父はロシア人の血を引く自分をうとましく思っているはずである。
 これはどういうことなのかと、ついに始まった禍に わざわい 恐れを抱きながらも、千鶴は祖父の様子に当惑した。

 東京からの連絡が入らないことで、甚右衛門は東京の取引先の様子を、すぐにでも辰蔵に見に行かせるつもりだった。だが、こんな状態では辰蔵に代わって帳場ちょうばの仕事はできない。正座などできないし、帳簿をつけることも無理である。
 甚右衛門は辰蔵の代わりに茂七をることも考えた。しかし、東京に不慣れな茂七では、行ったところでどうにもならないのは目に見えていた。
 そんな状態のところに、銀行の行員こういんが山﨑機織の経営状況を確かめに来た。山﨑機織は銀行に借金があるので、店が潰れるという噂を耳にした銀行が、真偽を確かめに来たのである。
 甚右衛門は噂はでっち上げで、経営は順調だと訴えた。しかし、怪我だらけの甚右衛門の姿は、説得力がなかったに違いない。
 東京の大地震のあと、山﨑機織がぎりぎりの所で踏ん張っていることは行員も知っている。それでも、このまま東京への出荷が再開できなければ、いずれは経営は破綻はたんする。それは甚右衛門もわかっていることだが、行員がそこを見逃すはずがない。
 甚右衛門たちが不安のいろを浮かべる中で、行員は帳簿を調べて仕入れ状況や出荷状況を確かめた。それで東京への出荷が止まったままなのを知ると、噂は本当だと判断したらしい。
 これにどう対処するつもりかと行員は問うたが、それに甚右衛門はうまく答えられなかった。自分の傷が治ったら辰蔵を東京へ送るつもりだというのが、甚右衛門にできる精いっぱいの答えだった。
 だが、その答えに行員は満足しなかった。甚右衛門に十日だけの猶予を与え、十日以内に出荷が再開できなければ、借金を取り立てると言った。そうなると山﨑機織は本当に潰れてしまう。
 トミは行員にすがるようにしながら、もう少し待って欲しいと懇願した。それでも行員が無視して帰ろうとすると、トミは胸を押さえて苦悶くもんの表情で倒れた。
 甚右衛門は急いで亀吉を医者を呼びに走らせた。行員はうろたえながらも、自分は関係ないと言いながら帰って行った。
 駆けつけた医者の見立てでは、トミは心臓が弱っているとのことだった。
 医者は入院を勧めたが、トミはがんとして拒んだ。どうせ死ぬのであれば、家で死にたいとトミは言った。
 そうなると、誰がトミの世話をするかという問題が出て来た。
 幸子は病院の仕事に復帰していたが、腰を傷めた時に急な休みを取って、これまで二度病院に迷惑をかけている。再び休みを取ると言えば首にされてしまうだろうし、完全に腰が治ったわけではないので、トミに十分な看護ができる状態ではなかった。
 花江は家事で手がいっぱいだ。となると、千鶴しかいない。
 千鶴にしても簡単に学校を休むわけにはいかないが、甚右衛門は千鶴に婿をもらって店を継がせるつもりだった。それは学校を退学になっても構わないということでもあるので、学校を理由に祖母の世話ができないとは言えなかった。
 それに千鶴自身、学校よりも祖母のことが心配だった。ずっと冷たくされていた祖母ではあったが、やはり肉親であるわけだし、鬼に操られていたとは言え、最近の祖母は千鶴に優しかった。
 ばあさんの世話をしてもらえないかと甚右衛門に頼まれると、千鶴は素直にうなずいた。
 千鶴は自分の布団を離れの部屋からちゃに運び、夜でもすぐに祖母の世話ができるよう、茶の間で寝ることになった。
 千鶴の仕事は祖母の世話だけでない。手がいていれば花江の手伝いをし、丁稚でっちたちに読み書き算盤そろばんを教えたりもした。
 それは忙しく大変ではあったが、自分の役割があることで、千鶴は居心地のよさを感じてもいた。
 これまで千鶴は自分のことを、祖父母にとって単なるお荷物に過ぎないと思っていた。しかし、こうして頼られていると、家族の一員として扱われているように思えるのだ。
 学校のことは気になったが、このまま学校をやめて家の仕事をするのも、悪くないかもしれないと考えるようにもなった。
 ただ、鬼の計画に従わなかった以上、この先に安定した暮らしが待っているはずがなかった。
 十日以内に東京との取引が再開できなければ、山﨑機織は倒産に追い込まれるのである。それなのに東京からの連絡は来ないし、祖父も祖母も身動きが取れない。誰が見ても山﨑機織は瀕死ひんしの状態だった。
 これが鬼の仕組んだことである以上、千鶴が喜兵衛との結婚を承諾しない限り、東京からの連絡は来ないに違いなかった。
 日を追うごとに、千鶴は責任を深く感じた。
 銀行との約束の期限まであと三日に迫った日の朝、祖母の食事の世話をしながら千鶴は涙をこぼした。
 何を泣くのかとトミに問われた千鶴は、畳に両手を突いた。
「うちのせいで、お店がかたぶいてしまいました。うちが鬼山さんとの縁談を断らんかったら、こがぁなことにはならんかったし、おばあちゃんかてこげな病気にならんかったのに……」
 トミは弱々しく微笑むと、ええんよ――と言った。
「これで店が潰れるんなら、ほれがこの店の定めじゃったぎりのことぞな。前も言うたけんど、あがぁな男のことは気にせいでええ。もういつ死ぬるかわからんけん、言うとこうわいね。うちらにとってはこの店よりも、おまいの方が大事なんよ。ほじゃけん、お前は何も気にすることないけんな」
 千鶴は祖母の言葉が信じられなかった。祖父と同じく千鶴をうとむ祖母が、こんなことを言うわけがない。
 鬼に言わされているのかと思ったが、そうであるなら喜兵衛と一緒になって欲しかったと言うはずだ。
 トミは食事をやめると横になって目を閉じた。千鶴は何も言えないまま呆然ぼうぜんとしていたが、目には涙が勝手にあふれていた。

     四

 千鶴がトミに朝食をらせている間、先に食べ終わった使用人たちは、それぞれが自分の仕事を始めていた。
 隣のちゃでは、仏頂面の ぶっちょうづら 甚右衛門が一人で新聞を読んでいる。しかし、右手がまだうまく使えず、左手で紙面をめくっている。
 食事をするにも不自由しており、そのいらだたしげな様子を見ると、記事の内容などほとんど頭に入っていないようだ。
 そこへ帳場ちょうばから困惑顔の弥七やしちがやって来た。
旦那だんなさん、大八車が だいはちぐるま めげてしもたぞなもし」
 何ぃ?――とうなるように叫んだ甚右衛門は、急いで立ち上がろうとしたが、足の痛みに動きを止めた。
 それでも大八車が壊れたのが本当であれば一大事である。甚右衛門は苦痛をこらえながら立ち上がると、ゆっくりと土間に降りた。
 弥七はあるじの様子をうかがいながら、また帳場の方へ戻った。その後ろを甚右衛門が足を引きずりながら続いた。
 しばらくすると、何をしとるんじゃい!――と甚右衛門の怒鳴り声が聞こえた。
 千鶴と顔を見交わしたトミは、様子を見て来るようにと言った。
 台所にいた花江は、すぐさま帳場の方へ向かった。それに続くように千鶴が土間へ降りると、仕事へ行く身支度みじたくを終えた幸子が離れから出て来た。
 異様な雰囲気に気づいた幸子は、どうしたのかと千鶴にたずねた。千鶴が説明しようとすると、怒りで興奮した様子の甚右衛門が足を引きずりながら戻って来た。
 何も言わずに茶の間へい上がった甚右衛門は、肩で大きく息をしながらほうけたように黙っている。
 祖父を刺激しないために、千鶴は説明をやめて母と帳場へ向かった。だが帳場には誰もおらず、みんなが店の外に出ていた。
 千鶴たちも外へ出ると、辰蔵と茂七、弥七の三人が大八車を押さえながら何かをしている。
 そのそばでは亀吉と新吉が立ったまま泣いていた。
 近所の者たちが朝の忙しい中、仕事の手を止めて様子を見に来ている。
 花江が辰蔵たちの後ろに立っていたので、千鶴は花江に声をかけて、どうしたのかと訊ねた。花江は振り返ると、車輪がはずれてしまったようだと言った。
 見ると、確かに左の車輪が外れており、それを何とか本体に引っつけようと、辰蔵たちが苦闘していた。しかし、いくら押さえつけたところで、壊れた物が直るはずもない。
 無理ぞな無理ぞな――と野次馬たちは無慈悲に口をそろえるが、誰も代わりの大八車を貸してやろうとは言わない。
 どうして壊れたのかと幸子が訊ねると、わからないと花江は言った。
 修理をあきらめた辰蔵が立ち上がると、千鶴たちの所へ来て、もう古い物なので、ここのところ調子がよくなかったと言った。
 夜の間、大八車は店の土間に仕舞われている。朝になると丁稚でっちたちが表に出して荷物を運ぶ準備をするのだが、今回外へ出す時に車輪が店の敷居を超えたところで、がくんと外れてしまったらしい。
 予備の物はないので修理に出そうにも出せずにいたのだが、それがとうとう壊れてしまったというのが真相だった。
 それは甚右衛門もわかっていたはずだが、今の追い詰められた状況の中、大八車が壊れたことは店にとどめを刺されたのと同じ意味だった。
 思わず甚右衛門が丁稚たちを怒鳴りつけたのも、無理ないことではあったが、気の毒なのは丁稚たちである。何も悪いことをしていないのに頭から怒鳴りつけられ、弁明さえも許されなかったのだ。
 困惑した辰蔵に目を向けられると、野次馬たちはこそこそと自分たちの仕事に戻った。どこも遠方へ送る品を古町こまち停車場まで運ぶ準備をしているところだ。大八車を貸してくれと言われても困るのだろう。
 辰蔵の話では、この日は作五郎からの指示に合わせて、かすり大阪おおさかへ送り出すことになっており、その品を大八車に積み込もうとしていたところだったそうだ。
 しかし、大八車が使えないとなると約束の品を送れない。陸蒸気のおかじょうき 時刻は決まっているので、あとから運んだのでは期日に間に合わなくなってしまう。
 それに、町中の太物屋へ注文の品を納めることもできなくなる。そうなると、客からの信用をなくすばかりか、銀行からもきびしくとがめられるに違いない。
 辰蔵はさっきの野次馬たちに、大八車を貸してもらえないかと掛け合ってみた。だが予想したとおり、どこの店もいい返事をしてくれず、途方に暮れるしかなかった。
 いよいよ山﨑機織は やまさききしょく おしまいだと、千鶴は自分の責任を感じていた。泣いている亀吉と新吉を抱き寄せて慰めながら、千鶴も一緒に泣いた。
 その時、札ノ辻ふだのつじの方から、がらがらという音が聞こえて来た。
 音の方を見ると、札ノ辻から男が一人、大八車を引いてやって来る。後ろの荷台には、どっさりと荷物がしばりつけられてある。
 近づいて来る男の着物は継ぎはぎだらけだ。
 ――まさか?
 男も千鶴に気づいたらしい。目を見開くとうれしそうに笑った。
「これはこれは、千鶴さんやないですか。おはようござんした」
 嬉しさでいっぱいになった千鶴は、何も言葉を出すことができなかった。体が勝手に駆け寄ると、千鶴は忠之に抱きつき泣いた。
 優しいぬくもりが、体ばかりか心までも包んでくれる。
「おっと、どがぁしんさった? 何ぞ、あったんかなもし?」
 亀吉と新吉が泣くのも忘れ、驚いたように見ている。辰蔵たちも同じように千鶴たちに顔を向けている。
 忠之は優しく千鶴の背中をたたきながら、お店の子供らが見とるぞな――と千鶴の耳元で言った。
 我に返った千鶴は慌てて忠之から離れ、後ろを振り返った。
 亀吉と新吉はぽかんとしたまま千鶴たちを見ているし、辰蔵たちも何が起こったのかわからない様子だ。
 近くの店の者たちも、思いがけないことに目がくぎづけになっていたようだ。千鶴と目が合うと慌てたように動き出した。
 忠之は何事もなかったように、亀吉たちの所へ大八車を引いて行くと、どがいしたんぞ?――と訊ねた。
 しかし二人とも、どう言えばいいのか困惑したようにもじもじしている。
「これぞな」
 辰蔵が壊れた大八車を指で差すと、ははぁと忠之はうなずき事情を察したようだ。
「ほんじゃあ、この荷物を急いで降ろして、ほれから、こいつでこっちの荷物を運びましょうわい」
「え? そがぁしてもらえるんかな?」
 驚く辰蔵に忠之は笑顔で言った。
「大したことやないぞなもし。困った時はお互いさまですけん。ほれに、おらは人さまのお役に立てるんが嬉しいんぞなもし」
「そがぁしてもらえたら、まっこと助かるぞなもし。おまいさまには先日も親切にしてもろて、ほんまに恩に着るぞなもし」
 辰蔵は頭を下げると、茂七と弥七に命じて急いで積み荷を中へ運ばせた。
 忠之は亀吉たちにも声をかけ、自分と一緒に荷物運びを手伝わせた。亀吉たちに笑顔が戻り、二人は張り切って荷物を運び入れた。
 荷物は中身を確認してからでないと蔵へは運べない。それで帳場は運ばれて来た木箱が山積みされた。
 荷物が全部降ろされると、今度は大阪へ送る荷物を載せる番だ。手代てだいと丁稚の四人が急いで蔵から木箱を運んで来て、辰蔵がその中身を確かめた。確かめ終わった木箱は忠之が大八車に積んだが、蔵から品を運び終えた手代たちもそれを手伝った。
 花江から聞いたのだろう。荷物を運べると知った甚右衛門が表に出て来て、大八車に荷物が積まれる様子を眺めている。その後ろには、花江が嬉しそうに立っている。
 忠之たちが忙しく動き回るのを、自分も手伝いたいと思いながら千鶴が眺めていると、知り合いなのかと幸子が声をかけて来た。
 千鶴は少しうろたえたが、黙ってこくりとうなずいた。
 幸子は千鶴と忠之の顔を見比べると、そういうことかと言う感じで、微笑みながらうなずいた。
 荷物を全部積み終わると、甚右衛門は忠之に感謝した。
 忠之は照れ笑いをしながら、まだ終わっていないと言い、大八車を引いて行こうとした。
 千鶴は忠之を呼び止め、運ぶ先がわかっているのか確かめた。
 忠之は頭をいて笑うと、どこじゃろか?――と言った。みんなが笑い、いい雰囲気が広がった。
 辰蔵は茂七に後ろから押しながら道案内をするよう言った。
 茂七は大八車の後ろにつくと、正面の突き当たりを右へ曲がるのだと忠之に教えた。
 忠之は大八車を引きながら言った。
「すまんね、茂七さん」
「何言うんぞな。ほれはこっちが言うことぞな。こないだもあしの戻りが遅なった時に、荷物運びを手伝てつどてもろたみたいなし。おまいさんはあしらの福の神ぞな」
「おらが福の神? そげなこと言われたんは初めてぞなもし」
「ほれにしても、今日はずいぶん早いんやな。お陰さんで助かったけんど、びっくりしたぞな」
「何、朝はように目が覚めてしもたぎりぞなもし」
 二人がしゃべりながら大八車を動かして行くのを、千鶴はみんなと一緒に見送っていた。
 どんどん離れて行くので、二人が喋っていることはよく聞き取れない。それでも、こないだも忠之がここの仕事を手伝ったようなことを、茂七が言っていたのは聞こえた。
 それはどういうことなのかと千鶴は考えたが、何故忠之が大八車で荷物を運んで来たのかもわからない。いつの間にか忠之は山﨑機織と関係を持っていたようだが、それを自分が知らないことが千鶴にはもどかしかった。そんな千鶴のそでを新吉が引っ張った。
「なぁなぁ、千鶴さん。あのにいやんと千鶴さんて、どがぁな仲なんぞなもし?」
「こら、新吉。余計なこと言うな!」
 亀吉が慌てたように新吉をしかると、何の話ぞな?――と甚右衛門が二人を見た。
「いや、あの、えっと……」
 亀吉が口籠もると、新吉が言った。
「あの、さっき千鶴さんがあのにいやんに抱きつきんさって、泣いておいでたんぞなもし。ほれで、あの兄やんが千鶴さんのこと、こがぁして慰めよったけん」
 新吉は亀吉を抱き寄せると、背中をぽんぽんと叩いた。
「何しよんぞ!」
 亀吉が真っ赤になって新吉を突き放すと、新吉は怒って、旦那さんに説明しよんじゃが!――と言い返した。
「千鶴、今の話はまことか?」
 甚右衛門が千鶴をただすと、みんなの目が千鶴に集まった。
 千鶴は下を向くと、蚊の鳴くような声で、はい――と言った。顔が熱く火照ほてっている。きっと真っ赤になっているに違いない。
 そがぁ言うたらと、辰蔵が思い出したように言った。
「二人とも互いの名前を知っておいでましたな。つまり、お二人は元々知り合いじゃったいうことかなもし」
 千鶴が黙っていると、あのにいやんは誰かと、新吉が千鶴の顔をのぞき込んだ。
 千鶴は顔を上げると、甚右衛門に言った。
名波村ななみむらの祭りを見に行った時に、うちを助けてくんさったお人のことを、おじいちゃんにお話しましたけんど、あのお方がそのお人なんぞなもし」
 何?――と甚右衛門が大きな声を出した。
 幸子と花江は顔を見交わしてうなずき合った。
「旦那さん、これはどがぁな話ぞなもし?」
 辰蔵が訊ねると、甚右衛門は言葉をにごしながら、千鶴が村の男に絡まれたが、それをあの男が助けてくれたらしいと言った。
 祭りの報告の時、千鶴は楽しい話しかしなかったので、辰蔵たちは意外そうに驚いた。この話が初耳の幸子と花江の顔にも、少し不安が走ったようだ。
「ほれで千鶴さんは、ひどいことはされんかったんですか?」
「あの男に助けてもろたけん、無事じゃったそうな」
 辰蔵は安堵あんどしたように千鶴を見た。幸子と花江もほっとしたようだ。
 旦那さん――と、また新吉が甚右衛門に声をかけた。
 甚右衛門に叱られて泣いていたくせに、新吉は甚右衛門がそれほどこわくはないらしい。亀吉が泡食ったような顔をしているのに、新吉は平気な顔で甚右衛門に訊ねた。
「千鶴さんに絡んだやつらて、どがぁなやつやったんぞなもし?」
 甚右衛門は新吉のれしさを叱りもせずに、楽しげな顔で言った。
「でかい男が四人じゃったと」
「でかいのが四人?」
 新吉は目を丸くして亀吉を見た。亀吉も驚いた顔をしている。幸子と花江の顔にも、再び不安のいろが浮かんだ。
「なぁなぁ、千鶴さん。旦那さんが言うたんはほんまなん?」
 今度は新吉は、千鶴に訊ねた。
 もう隠しておけないと悟った千鶴は、うん――とうなずいた。
 新吉はまた目を丸くして、亀吉と顔を見交わした。
「ほれにしても奇遇な話ぞな。千鶴さんを助けた男が、ここでこがぁな形で千鶴さんと再会するやなんて、まっこと人生とはわからんもんぞなもし」
 辰蔵が感慨深げにうなずくと、新吉がまた千鶴に言った。
「千鶴さん、あのにいやんのこといとるん?」
 阿呆あほ!――と亀吉が新吉の頭を叩いた。
「何するんぞ! 痛いやないか」
「余計なこと言うなて、言うとろうが」
 これ!――と辰蔵が叱ると、二人はおとなしくなった。
 千鶴は恥ずかしくて、何も聞こえていないふりをした。幸子と花江がくすくすと笑っている。
「なるほどな」
 甚右衛門はにやりと笑うと、あの男が戻って来たら奥へ通すようにと辰蔵に言った。
 辰蔵はわかりましたと言い、黙って突っ立ったままの弥七を振り返った。辰蔵に声をかけられた弥七は、驚いたように返事をした。
 辰蔵は弥七に忠之が運んで来た品の確認と、蔵への移動を命じて帳場へ戻った。
「茂七が言うたように、あの男は福の神かもしれんな」
 甚右衛門は独り言のようにつぶやきながら、ちらりと千鶴を見ると店の中へ入った。

 千鶴――と幸子が千鶴に声をかけた。その隣で花江がにやにやしている。
「あんた、あの花、あの人からもろたんじゃろ?」
 銭湯で見られた野菊の花のことだ。
 もう隠しても仕方がない。本人に確かめてはいないが、忠之が飾ってくれたのは間違いないだろう。
 千鶴が素直にうなずくと、花江の笑顔がさらに明るさを増した。
「あの人は喧嘩けんかも強いんだね?」
 黙っていられない様子で花江が訊ねた。
 恐ろしいくらいに強いと千鶴が言うと、信じられないねと花江は言った。自分の目で見た忠之の人柄や様子と、喧嘩の強さが結びつかないようだ。
 そばで話を聞いていた亀吉と新吉が、どうやって四人も倒せるのかと話に交ざった。
 千鶴が説明しようとすると、仕事を手伝えと言う弥七の怒鳴り声が飛んで来た。
 亀吉たちは慌てて店に戻り、花江もいそいそとお茶の用意をしに行った。
「あんたが鬼山さんとのお見合い断ったんは、あの人がおるけんじゃね?」
 幸子が訊ねると、千鶴はこくりとうなずいた。
「さっき、おじいちゃん、何ぞ考えておいでたみたいなね」
 幸子は微笑むと、家の中に弁当を取りに戻った。もう行かねばならない時刻だ。
 一人残った千鶴は大林寺だいりんじの方を眺めていた。古町停車場で荷物を降ろした忠之たちが、そこに姿を現すはずだ。
 本当はそこまで迎えに行きたいが、それははしたないことだ。もどかしいが、ここで待っているしかない。
 近くの店の者たちが興味深げに顔をのぞかせていた。しかし、千鶴はそんなことは少しも気にならない。二度とえないと思っていた忠之が来てくれたのだ。他のことなどどうでもよかった。
 この奇跡のような再会で、胸の中は感激でいっぱいだ。話したいことはいくらでもあるが、どうして山﨑機織へ大八車で反物を運んで来たのかも、かなければならない。
 大林寺の方へ向かって行く多くの大八車を見送りながら、千鶴は戻って来る忠之の姿を待ち続けた。