鬼と福の神
一
山﨑機織ではこれまで東京に手代の一人を送り込み、安宿に住まわせながら店廻りをさせていた。
一方、東京よりも近い大阪には月に一度、松山の手代に得意先廻りをさせて注文を取っていた。しかし松山から通いの注文取りでは廻る先が限られてしまう。そのため大阪の取引先は、東京ほどは増やせなかった。
そんな折、明治末に大阪で大火が起こり、山﨑機織が取引していた太物問屋にも、焼けて廃業に追い込まれた所があった。
行き場を失ったそこの使用人たちの中に、もう若くなく身寄りもないが、太物をよく知る仕事熱心な男がいた。作五郎というその男に、甚右衛門は自分たちの力になってほしいと頼み込んだ。そして、大阪の仕事を一手に引き受けてもらうことになった。
作五郎が動き始めると、松山にいる手代が大阪へ通い詰める必要がなくなった。また、手代が廻っていた時より多くの店を作五郎が廻ってくれたので、大阪での売り上げは以前よりも倍増した。
関東大地震で多くの伊予絣問屋が潰れる中、山﨑機織が何とか持ちこたえているのは、作五郎の力によるところが大きい。たまたまではあるが関東大地震の少し前に、作五郎は大阪で大口の契約をいくつか取ってくれた。そのお陰で山﨑機織は東京の被害を和らげることができたのだ。
少し気むずかしい男ではあるが、商いに対する作五郎の姿勢を甚右衛門は深く信頼していた。その作五郎の元に孝平を送る話が、甚右衛門とトミの間で持ち上がっていた。
甚右衛門は孝平をいったんは家から追い出した。けれども、トミが孝平を呼び戻せと言って聞かないため、仕方なく作五郎に孝平を試してもらおうと考えたのだ。
店の跡継ぎの話はともかくとして、山﨑機織に使用人が足らないのは事実であり、丁稚が少ないことにも甚右衛門たちは頭を悩ませていた。
もっと丁稚を取っていればよかったが、景気が悪くて毎年は丁稚を取れなかった。せっかく入っても続かずに辞めさせられる者もいた。そもそも山﨑機織の丁稚にという話が、他の店ほどは入ってこなかった。
それでも手代や番頭が続けざまに死ぬという不幸がなければ、それなりにやって来られたはずだった。特に東京の手代を大地震で失ったのは大きな痛手であり、東京への足がかりを断たれたも同然だった。
東京もいずれは復興する。その時には誰かを店廻りにやらねばならないが、今の状態では東京へ送れる者がいない。これまでの手代不足の時には、茂七などのように経験のある丁稚を、少し早めに手代に昇格させて穴埋めをした。しかし亀吉はまだ経験が足らないし、新吉に至っては春に入って来たばかりだ。
そんな苦しい状況の中で、甚右衛門が千鶴と鬼山喜兵衛を夫婦にしようと考えたのは無理もなかった。
喜兵衛が来れば後継者としての修行も兼ねて、手代の仕事を務めてもらう手筈のようで、そうすれば茂七を東京へ送り出せると甚右衛門は考えていた。
手代の不足を埋めるだけならば、必ずしも千鶴の婿である必要はない。けれどいきなり手代として雇い入れるには、相応の信頼と力量が求められる。それに千鶴を受け入れられる者でなければならない。もし千鶴の婿となる者が見つかれば、後継者も手代不足も解決できる一石二鳥となるのだ。
店を継げる者ならば、仕事も熱心にするだろうし信頼もおける。取り敢えずは婿を取って急場をしのぎながら、どんどん丁稚を育てていくというのが、甚右衛門が思い描いている構想だ。
一方、万が一にも作五郎が孝平を認めるのであれば、孝平を松山へ戻して茂七を東京へ行かせる道もある。期待はできないが、可能性がないわけではない。
いずれにしても東京の復興がすぐにでも始まるならば、まずは東京の勝手がわかっている辰蔵を送り込むつもりだと、千鶴は甚右衛門から聞かされている。その間の帳場は甚右衛門が守り、時期を見て茂七と辰蔵を交代させる寸法なのだそうだ。
ただ孝平を手代にするのは、当てにできる話ではなかった。
幸子が甚右衛門たちから聞いた話によれば、孝平は松山を出たあと、あちこちを転々と渡り歩きながら、その日暮らしをして何とか食いつないでいたようだ。
孝平が伊予絣問屋で丁稚奉公をしていた頃、甚右衛門はそこの主から、孝平は物覚えが悪く動きも鈍い上に愚痴をこぼしてばかりと聞かされて大いに恥じ入ったという。つまり、孝平が手代にしてもらえなかった話に千鶴は関係なく、辰蔵が言ったとおり、孝平自身にその力がなかったのだ。
にも拘わらず、その主は甚右衛門の顔を立てて孝平の面倒を見続けくれた。その店を孝平は黙って逃げ出したのである。甚右衛門の顔は丸潰れとなった。
その言い訳として孝平は、兵役が嫌で逃げたと言った。
男子は二十歳になると徴兵検査を受けなければならない。そこで健康に問題がなければ、三年間の兵役義務を負わされる。といっても、検査の合格者全員が徴兵されるわけではなく、実際に徴兵されるのは全体の二割ほどだけだ。それでも兄を日露戦争で失った孝平は徴兵を恐れ、二十歳になる直前に消息を絶った。それが事の真相だった。
孝平が松山へ戻って来たのは、近頃はその日暮らしも大変になったからだ。でもそこには、自分が逃げ出したこともほとぼりが冷めているだろうとの打算があったようだ。
実際、孝平が松山へ戻ってみると、かつて丁稚をしていた店は潰れてなくなっていた。しかも、山﨑機織では未だに跡継ぎが決まっていなかった。自分にも運が向いてきたと考えた孝平は、意気揚々と店に乗り込んだが、その結果があの騒ぎだ。
店の主を気取っていた孝平は、辰蔵の代わりの番頭は簡単に雇い入れられると本気で信じていたらしい。また店の主は仕事をしなくてもいいとも考えていたようだ。
店の采配を振るったり、使用人を育て上げる主の苦労など、孝平は一つも理解しておらず、甚右衛門もトミも開いた口がふさがらなかったという。
そんな孝平には跡継ぎどころか、店の仕事など任せられない。本来ならば甚右衛門がやろうとしたように、さっさと店から追い出しているところだ。しかし、トミが孝平に最後の情けをかけてやってほしいと懇願するので、甚右衛門は渋々ながら孝平を呼び戻し、大阪へ送り出すことにしたのである。
もちろんこれは作五郎の了承を取ってからの話だ。嫌だと言われればそれまでであり、孝平に居場所はない。作五郎が引き受けてくれたとしても、途中で放り出されればおしまいだ。
そんな感じなので、甚右衛門が孝平よりも千鶴に期待をかけているのは間違いない。鬼の意向には関係なく、もはやロシア兵の子供などとは言っていられない状況なのだ。
千鶴に婿を迎えて後を継がせるという甚右衛門の考えは、トミも以前から聞かされており、そのことには賛成していたそうだ。
ところが喜兵衛を婿にする話は、甚右衛門のまったくの思いつきであり、何も聞かされていなかったトミは懐疑的だった。正清の命を奪った国との取引についても、トミは声を荒らげて反対した。
とはいえ孝平は役に立ちそうにないし、正清を奪ったのはソ連ではなくロシアだと甚右衛門から諭されると、トミも気が変わった。そして、喜兵衛にソ連との取引を任せれば山﨑機織は勢いを取り戻せるかもしれないと、期待を寄せるようになった。それは裏を返せば、店の経営がかなり逼迫しているということだ。
千鶴にしても今の店の状況を見せられると当惑する。断ったつもりの婿話を祖父に言いくるめられても、自分ばかりが我が儘は言えないと再びあきらめ気分になっていた。
風寄の祭りを見に行くまでは、千鶴は店のことは他人事のように見ていた。しかし店のことを知り、山﨑機織に来る丁稚が少ない理由を考えると、それは自分のせいかもしれないと思うようになった。
我が子をどの店の奉公に出すかは親が決めるが、同じ丁稚にするならば、多くの親がロシア兵の娘がいない店を選ぶに違いない。
祖父母は千鶴を疎んではいるが、これまで丁稚不足で千鶴に嫌みを言うことはなかった。その祖父母の困り切った姿を見ると、千鶴は自分の責任と罪悪感を感じてしまう。
結婚を拒んで独り身を貫けば、山﨑機織は立ち行かなくなるだろうし、いずれ鬼娘の本性が現れれば、教師として暮らすことも敵わなくなる。結局は同じ鬼仲間を婿に迎えるしか店を守れないし、自身の居場所もない。
やはり定めから逃れる術はないのかと、千鶴は失意でいっぱいだった。
二
翌週の日曜日、喜兵衛は再び千鶴に会いにやって来た。
千鶴は喜兵衛に会うことに気乗りがしなかった。でも甚右衛門が喜兵衛に千鶴を連れ出す許可を出したので、喜兵衛の誘いを拒めなかった。それで渋々喜兵衛について外へ出たものの一つも楽しくない。
喜兵衛は歩きながら喋るばかりで、どこかの店に入ったり、芝居や活動写真を楽しんだりはしなかった。喜兵衛の話も面白さはなく、その話しぶりから喜兵衛は芝居などの庶民の楽しみを軽蔑していると千鶴は理解した。
一方で前回とは打って変わり、喜兵衛は千鶴の父親には一切触れなかった。代わりにこれまでの千鶴の暮らしを聞きたがった。特につらい話に興味があるらしい。
千鶴は過去の嫌なことなど思い出したくなかったし、他人に喋ることもしたくない。それでもしつこく訊かれるので、仕方なくぽつりぽつりと話した。喜兵衛は憤慨したりうなずいたりしていたが、どこか他人事みたいに聞いている感じだった。
千鶴に楽しい思い出はあまり多くないが、まったくないわけではない。しかし千鶴が楽しい話をしても、喜兵衛は軽く聞き流して別の話題に変えた。喜兵衛は千鶴の夢や望みにも関心がないようで、千鶴にどんな師範になりたいかなどとは訊かなかった。どうせ自分の妻になれば、そんなことは関係ないと思っているのだろう。
喜兵衛は千鶴を気の毒な娘にしたいようだった。哀れな千鶴に同情することで自分をよく見せたいのだろう。弱い女は強い男に従うのが幸せだと思っているらしく、自分はその強い男なのだとしきりに示そうとした。
「自慢するわけやないけんど、今通いよる剣道の道場で、あしに勝てる者はおりません。恐らくやが、今のあしなら師匠にも勝てると思とります」
明らかに自慢話であり、喜兵衛は剣道を知らない千鶴に己の強さを誇示した。
「段位でいうたら、もちろんあしより上の者はおるんですが、段位は力量ぎりで決まるもんやないですけん、あしはあんまし興味ないんです。人が注目するんはほんまに強い者ぎりですけん、あしは力こそがすべてやと思とるんぞなもし」
世の中も力がある者が動かし、力がない者は言われたままに動くだけだと喜兵衛は言った。だから、今の世の中を変えるには、強い力が必要だというのが喜兵衛の考えだった。
「女子にはもっと働ける場所をこさえにゃならん。男が偉そなことが言えるんは、家で女子が支えてくれとるけんぞな。ほれと同じで、社会を支えるんは女子の仕事ぞなもし。ほれやなのに女子の働ける場所がないいうんは、お上の連中が抜け作いうことぞな」
喜兵衛は自分が女の味方であることを強調したが、実際に女の権利を訴える婦人たちのことは、何もわかっていない目立ちたがり屋だと決めつけた。
そんな喜兵衛から世の中の女子の立場をどう思うかと問われ、千鶴は返事に困った。
世の中が弱い者にとって理不尽だとは思っている。喜兵衛が言うように、もっと女が働ける場所があればいいとも思う。でも、どんな仕事が女にも与えられるべきなのかは思いつかない。それに女が強くなることを喜兵衛は本当には望んでいないみたいだ。
喜兵衛が千鶴の答えを待っている。千鶴は困惑しながら口を開いた。
「女子の立場いうより、男も女も弱い立場の人はようけおりますけん、みんなが助け合うて仲よく楽しゅう過ごせたらええなて思とります」
自分だけでなく、山陰の者として差別を受けている忠之のことも考えての言葉だった。けれど、千鶴の答えに喜兵衛は顔をゆがめた。
「あしが訊いとるんは女子の立場ぞな。男のことは聞いとらん」
「男も女もいろいろぞなもし。強いお人もおれば、弱いお人もおるんは対ぞなもし」
「ほれはほうやが、今あしが訊いとるんは女子の話ぞな。わからんかな?」
喜兵衛の顔に明らかな侮蔑のいろが浮かんでいる。千鶴を頭の悪い女と見たようだ。
千鶴が返事をしなくなると、喜兵衛は慌てて微笑んだ。だけど、千鶴は喜兵衛の本当の顔を忘れなかった。
この男は口では女子のためにと言っているけれど、自分の評価を高めるために、弱い女子を利用しようとしているだけに過ぎない。心の内では女子を見下している。
鬼に選ばれた男はこんなものなのかと千鶴は落胆した。だが、そもそも鬼に人間らしさを求める方が間違いなのだ。
「いろいろ言いんさっておいでるけんど、うちにはちゃんとわかっとりますけん。鬼山さんはお名前どおりの鬼でしょ? ご自分の正体隠して、弱い者を喰いものにするおつもりなんはわかっとりますけん」
喜兵衛はきょとんとしたあと、声を出して笑った。
「千鶴さんは面白いことを言う女子じゃな」
「違うと言いんさるんか?」
真顔の千鶴を見て、喜兵衛は笑うのを止めた。
「こがい言うたら失礼なけんど、千鶴さんは見た目よりも、ずっと頭がええお人じゃな。いや、頭が切れるいうんがええかいの。そこらの弱虫連中とは違わい」
「はぐらかさんで答えておくんなもし。鬼山さんのほんまの狙いは弱い者を助けることやのうて、ご自分と対のお仲間を増やすことやないんですか?」
喜兵衛は千鶴に感心した目を向け、ふっと笑った。
「さすがじゃな。お察しのとおり、あしは情け知らずの鬼の喜兵衛よ。弱い奴にかける情けなんぞ持ち合わせとらんし、戦う相手は誰であれ完膚なきまで叩きのめすんが、あしの流儀ぞな。もちろん、普段は穏やかな人物を装っとるがな」
「やっぱし……」
千鶴は覚悟ができていたので驚きはしなかった。ただ悲しみが込み上げ横を向いた。
本性を見せた喜兵衛は、喋り方も馴れ馴れしくなった。
「世の中に虐げられる者がおるんは、はっきし言うたらそいつが弱いけんよ。言い換えたら頭が悪いわけぞな。そがぁな連中は利用されるぎりで、何人集まったとこで世の中ひっくり返す力にはならん。あしが求めよるんは、あしと対の力を持つ者ぞな」
「ほれと、銭じゃろ?」
千鶴の吐き捨てるような言い方に、喜兵衛はくっくっと笑った。
「ほのとおりぞな。やっぱし世の中は銭よ。何でかんで力尽くいうんは下作やけんな。なんぼ鬼でも頭は使わんといけん。千鶴さんはまこと頭がええ。ほれにほの気ぃの強さも気に入ったで」
千鶴が返事をしないでいると、喜兵衛は続けて言った。
「あしはな、今の世の中ぁひっくり返したいんよ。千鶴さんがあしと組んでくれたら、ほれがでける。どがいぞな。千鶴さん、あしと一緒に世の中ぁひっくり返さんか? 二人で仲間増やして、あしらの世界をこさえるんじゃ」
千鶴は喜兵衛に顔を向けると、濡れた目でにらみつけた。
「あなたはご自分のご野望のために、うちや、うちの店を利用するおつもり?」
「まぁ野望いうたら野望なけんど、ほれは千鶴さんのためにもならい。今の世は千鶴さんには住みにくかろ? もちろん商いはちゃんとするけん、甚右衛門さんに損はさせん」
「今の世の中が暮らしにくうても、うちは鬼山さんをお手伝いする気はありません」
千鶴がまた横を向くと、喜兵衛は困惑のいろを見せた。
「まだ話を全部聞いたわけやないのに、そげなことは言わんでくれんかなもし。あしがどげな世界を思い描きよるんか聞いてからにしてつかぁさいや。きっと千鶴さんもほれはええて思うけん」
「全部を聞く必要はありません。うちは自分を見下すお人とは一緒にならんけん」
喜兵衛への嫌悪感で、千鶴は鬼娘の定めのことを忘れていた。千鶴の返事が思いがけなかったのだろう。喜兵衛は慌てて千鶴の前に回った。
「ちぃと待ってくれんかな。いつあしが千鶴さんを見下したと言うんぞな?」
「最初からずっとぞなもし。ご自分やなかったらうちみたいな者の婿になる男子なんぞおらんて、高括っておいでるんじゃろけんど、うちは一生独りでも平気ですけん」
「ほれじゃったら、甚右衛門さんが困ろ?」
この言葉に鬼山の本音が表れている。男尊女卑は鬼も人間も同じなのだろう。
「おじいちゃんは――」
千鶴はそこで口を噤んだ。今の祖父母は鬼に操られている。だけど辰蔵たちが仕事をする様子を見ると、辰蔵たちがどんな気持ちで働いているかがよくわかる。それは祖父母が教え込んだものあり、鬼が現れる以前からの祖父母の商いの姿勢だった。
千鶴は口を開くと、自分なりに理解した祖父母の姿を語った。
「おじいちゃんもおばあちゃんも伊予絣を誇りに思とるんよ。ほじゃけんお店で働く人らも、みんなそがぁ思て仕事をしとりんさる。遠くにおいでる顔も知らんお人らが、うちらが売った絣を喜んでくんさるんを思い浮かべて商いしよるんよ。銭儲けのためぎりで商いしよるんやないですけん」
喜兵衛は、ほぉと感心した声を出した。
「千鶴さん、店の仕事しとらんのに、よう店のことをわかっておいでるんじゃの。千鶴さんには物事を的確に見る力があるいうことよ。やっぱしあしには千鶴さんがぴったしじゃ。千鶴さんにはあしと対の匂いがすらい」
千鶴はぎくりとなった。やはりお前も鬼の仲間だと喜兵衛は言っているのだ。しかし千鶴の決意は変わらなかった。定めのことを思い出したが、口が勝手に動いている。
「うちはあなたとは一緒になりません。あなたとのお付き合いもこれぎりぞなもし」
千鶴が背を向けて歩き出すと、喜兵衛は焦ったみたいだ。千鶴を呼び止め、自分の何がいけないのかと訊ねた。
千鶴は喜兵衛を振り返ると、きっぱりと言った。
「たとえあなたと一緒になるのが定めじゃったとしても、うちはその定めに従うつもりはありません。あなたが望む世の中はうちが望むもんとは違います。うちが願とるんは誰にも優しい世界ぞな。鬼が考える世界やないんぞなもし」
言うだけ言うと、千鶴は再び喜兵衛に背中を向けた。後ろで喜兵衛が千鶴を呼び、誤解だと叫んでいたが、千鶴は耳を貸さずに歩いた。やがて喜兵衛の声は聞こえなくなり静かになった。きっと喜兵衛はこんなはずではと途方に暮れているに違いない。
千鶴も自分が取った行動に、今更ながら不安になっていた。頭に血が昇って喜兵衛を拒んでしまったが、これは定めに反することだ。鬼の喜兵衛がこのままおとなしく引き下がるわけがなく、千鶴が逆らったことを力尽くで後悔させようとするだろう。
どうせあの人と夫婦になれないのなら、死んでも構わないと千鶴は考えていた。それでも家族や使用人たちに禍が降りかかるかもと思うと、千鶴の心は大きく動揺した。
三
家に戻ると、千鶴は待ち構えていた甚右衛門に、どうだったかと訊かれた。その隣でトミも千鶴の言葉を待っている。
台所で花江が仕事をしながら話を聞いているが、母の姿は見えない。
一週間前に腰を痛めた幸子は、勤務する病院に無理をいって翌日だけ休みをもらった。その連絡は前日のうちに、亀吉が事情を書いた手紙を病院へ届けてくれた。
次の日からは腰の痛みを抱えながら仕事に復帰したが、病院では湿布をしてくれたので、幸子の腰は少しずつ回復していた。それで病院が休みの今日も家事を手伝っていたのだが、今は台所にも奥庭にもいなかった。喜兵衛のことは母にも聞いてもらいたかったが、厠へでも行っているのだろうか。
千鶴は祖父母がいる茶の間に上がると、花江には悪いが部屋の障子を閉めた。驚いた様子の二人の前に座った千鶴は、両手を突いて頭を下げた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、申し訳ありません。やっぱし、うちはあのお人とは一緒になれんぞなもし」
何ぃ?――と甚右衛門が裏返った声を出した。
「な、何がいかんのぞ?」
動揺する甚右衛門に、千鶴は頭を伏せたまま答えた。
「あのお方はご自分のご野望のために、うちやこの店を利用しんさるおつもりぞなもし。あのお方にはおじいちゃんやおばあちゃん、番頭さんらのお気持ちなんぞ、これっぽっちもわかっとりません」
「わしらの気持ちて、何ぞな?」
千鶴は顔を上げると、喜兵衛に伝えたことや、喜兵衛が山﨑機織を利用して世の中をひっくり返すつもりであることを二人に説明した。
甚右衛門は唸ったまま黙り込んでしまったが、トミは千鶴の言うとおりだと言った。
「この子はうちらのことを、ようわかっとる。ほれに比べて何ぞな、あの鬼山いう男は。ここの仕事を真剣に受け継いでくれるて思たけん、千鶴の婿にと言いよんのに、世の中ひっくり返すてどがぁなことね。そげな男をこの子の婿になんぞできんがね」
甚右衛門は黙り続けているが、その顔はいかにも苦しげだ。千鶴の言い分を否定はできないが、ならば店はどうなるのかと困りきっているのだろう。
「あの男は誰にも指図されとないて言いよったんじゃろ? ほれはあとからうちらが文句言うたとこで聞く耳持たんいうことやないの。冷静に考えたら、どんだけ危ない男かがわかろうに、あんたがどんどん話を進めてしまうけん。だいたいな、正清殺したロシアと商売するいう時点で、おかしいて気ぃつかんといけんかったんよ」
つかましいわ――と甚右衛門はトミをにらんだが、千鶴を叱りはしなかった。
「話はわかった。嫌がる者に無理なことはできんけんな」
「申し訳ありません」
千鶴が下を向くと、甚右衛門はむずかしい顔で、部屋へ戻って少し休めと言った。
千鶴が離れの部屋へ行くと、幸子が横になっていた。どうしたのかと訊ねると、さっきから腰が痛くなって動けないという。ずっとよくなっていたのに、急にずきんと痛くなってどうしようもなくなったので、花江に仕事を任せて休んでいるそうだ。
千鶴はざわっとなった。これは鬼の仕業に違いなかった。しかし、鬼の怒りはこんなものではないだろう。喜兵衛との結婚を千鶴が受け入れるまで、さらなる禍が続くのだ。
四
翌日、作五郎からの手紙が届いた。甚右衛門の希望どおり、孝平の世話を引き受ける内容だった。ただ、その分の手当を甚右衛門が提示した額よりも、もう少し上げてほしいという要望も書かれてあった。
甚右衛門は直ちに孝平に大阪行きを申しつけた。また、もし作五郎を怒らせたなら、そのままどこにでも行って二度と松山には戻って来るなと厳しく言い渡した。
すっかりおとなしくなった孝平は素直に頭を下げた。
店に呼び戻されて以来、孝平は辰蔵たち使用人に対しても偉ぶった態度は見せず、言われたとおりに動いていた。花江にも口を利いてもらえるようになり、拍子抜けした辰蔵とも揉めることなくにこやかに過ごしていた。
孝平のそんな姿は、トミに期待を抱かせたらしい。トミは孝平を優しく励まし、必ず作五郎さんに認めてもらうようにと言った。孝平は嬉しそうに大きくうなずいた。
大阪へ向かう日の朝、店先で孝平は甚右衛門とトミに挨拶をした。
「父さん、母さん。これまで心配ぎりかけよったけんど、絶対に一人前になって戻んて来るけんな」
どこまで本気で聞いていたのかはわからないが、甚右衛門は黙ってうなずいた。千鶴の縁談が壊れた以上、孝平に望みを託す以外にない。しかし甚右衛門の表情を見ると、やはり期待は薄いと見ているようだ。
トミは涙ぐみながら、しっかりがんばりんさいと言った。
孝平は見送りに出ていた千鶴にも幸子にも挨拶はしなかったし、辰蔵たちにも声をかけなかった。おとなしくなったとはいっても、そうそう本音は変わらないわけだ。
けれども孝平は花江にだけは声をかけて、いきなり手を握った。
「ちょっと何を――」
「わしが一人前になって戻んて来たら、ほん時はわしの嫁になってくれ」
えぇ?――花江は驚いたが、他の者たちも驚いた。
「こら、孝平! こがぁな時に何言いよんぞ」
甚右衛門に怒られると、孝平は慌てて花江から手を離して姿勢を正した。
「ほんじゃあ、行てくるぞな」
孝平は甚右衛門とトミに声をかけると、ちらりと花江を見た。
「花江さん。約束ぞな」
「ちょっと待って。あたし、約束なんか――」
花江の返事を聞かず、孝平はそのまま古町停車場へ足早に向かった。花江は困惑して顔を伏せると、店の中へ逃げた。
「あんた、この手があったぞな」
トミが目を輝かせた。孝平と花江に店を継がせればと思ったのだろう。
「そげなことは、あいつが一人前になれたら考えようわい」
甚右衛門は素っ気なく答えると、使用人たちに仕事に戻るよう命じた。
数日後の日曜日、またもや喜兵衛が訪ねて来た。甚右衛門は千鶴を離れで控えさせると、喜兵衛を座敷に招き入れた。
千鶴はその時の様子をあとでトミに聞かせてもらったが、喜兵衛は終始居丈高な態度を見せていたという。頭を下げ続ける甚右衛門に対し、喜兵衛はずっと不機嫌な顔でふんぞり返っていたらしい。そこには目上の者に対する敬意など一欠片もなかったようだ。
見合いの話はそちらから持ちかけてきたものであり、恥をかかされた責任はどう取るつもりなのかと、喜兵衛は平謝りの甚右衛門を責め続けたそうだ。
それでも見合いを断るには理由がある。喜兵衛が商い以外に怪しげな企てを持っていたことについて、甚右衛門にも文句を言う権利はあるのだ。ところが甚右衛門はそのことに触れようとしなかったそうで、我が夫ながら情けないとトミは首を振った。
トミが言うには、甚右衛門の実家の重見家と喜兵衛の実家の鬼山家では、どちらも元下級武士ながら鬼山家の方がわずかに格上だったそうだ。それで甚右衛門は相手の非を咎めることができなかったのだという。
「商家に婿入りして何十年にもなるのに、何が侍ぞな。だいたい今時、侍がどこにおるんね。相手に非ぃがあるのにこっちが頭を下げるやなんて、こげなおかしな理屈があるもんかな」
千鶴に夫への愚痴をこぼしたトミは、今回のことが余程腹に据えかねたと見える。甚右衛門が喜兵衛から言われっ放しなので、代わりに言ってやったと鼻息荒く喋った。
「千鶴の婿になれるんは、ほれにふさわしい男ぎりであって、今度のことは、あんたが千鶴にはふさわしなかったぎりの話じゃろがね!――て言うたったんよ。ほしたらな、あの男、何も言い返せんで、顔を真っ赤にして去によったわい」
千鶴は祖母に女の強さを見たが、すぐに訝しんだ。
祖父母は鬼に操られていたはずだ。なのに祖母が喜兵衛を撃退したのは矛盾している。もしかしたら鬼が操っていたのは祖父だけなのだろうか。
だが祖父にしても、考えてみればおかしいのだ。
祖父が喜兵衛に頭が上がらないのは、鬼である喜兵衛の方が立場が上だからだ。だけど、祖父が本当に喜兵衛に操られているのであれば、自分が何と言おうと無理やり喜兵衛と夫婦にすればいいことだ。祖父にはその権限がある。それを祖父は頭を下げてこの縁談をなかったことにした。やはり妙だ。
恐らくは祖父母を操る鬼の力が弱かったのか。祖父母は鬼に操られはしたものの、完全に鬼の手に落ちていたわけではなかったと思われる。
今の祖父母を支配しているのは、山﨑機織が置かれたこの苦境を何としても乗りきろうとする切実な想いなのだろう。実際、山﨑機織には危機が迫っていた。
五
この日、喜兵衛が出て行くのと入れ替わりに、いよいよ東京の問屋が商いを再開したという話が舞い込んだ。しかし、山﨑機織の取引先がどうなったのかまではわからない。
大地震のあと辰蔵が東京の状況を確かめに行った時には、取引先はどこも店が潰れたり人が亡くなったりで、商いなど考えられない状態だった。
それでも商いを始める時には電報で知らせてほしいと、辰蔵は無事が確かめられた相手に頼んでおいた。だが東京からの連絡は入って来なかった。
何日か経つと、他の店は東京向けの仕事を再開した。なのに、山﨑機織には取引先からの連絡が届かなかった。
伊予織物同業組合の組合長が、ひょっこりと訪ねて来た。もうずいぶん涼しくなったのに、太めの組合長は暑そうに扇子で顔を扇いでいる。
組合長は甚右衛門を見つけるなり大丈夫なのかと訊ねた。何が大丈夫なのかと甚右衛門が訊き返すと、山﨑機織がもうすぐ潰れるという噂を耳にしたと組合長は言った。
驚いた甚右衛門は、すぐに噂の出所を確かめに行った。それが戻って来た時には、左手で右腕を押さえながら左足をひきずるという姿だった。着物は土に汚れ、右手の甲からは出血もしていた。
何があったのかとみんなから問われた甚右衛門は、噂の元を辿って行くと、噂を広めていたのが鬼山喜兵衛だとわかったと言った。
恐らく千鶴の婿になる話が流れた腹いせに違いなく、甚右衛門は喜兵衛を捕まえてとっちめてやろうと、湊町へ向かったそうだ。ところが頭に血が昇っていて左から来た自転車に気がつかず、ぶつかられて転倒したという。
トミは病院へ行くよう促したが、この程度のことでは行かないと甚右衛門は言い張った。けれども自転車がぶつかった所は赤黒い痣ができているし、転んで打ちつけた右腕もトミが触れると痛がった。
これではとても喜兵衛をとっちめるどころではない。こんな姿で行ったところで迫力もなく、白を切られて終わりになる。
代わりに自分が喜兵衛の所へ行くとトミが言ったが、甚右衛門は許さなかった。女が行っても相手にされないだろうし、今の状態が向こうに知れるのを甚右衛門は嫌がった。
トミは悔しがったが、山﨑機織全員がトミと同じ想いを抱いていた。甚右衛門自身、己が情けないらしく、痛みより腹立たしさで顔をゆがめているみたいだ。
とうとう鬼の呪いが始まったと千鶴は思った。東京から連絡がないのも、祖父が怪我をしたのも鬼の仕業だ。喜兵衛が自ら山﨑機織の悪い評判を広めているのがその証だ。
千鶴は喜兵衛との縁談を拒んだことを甚右衛門に詫びた。だが甚右衛門は千鶴を責めず、あんな男を婿にしなくてよかったと言った。また今回のことも自分に人を見る目がなかっただけだと、己の責任を認めた。
「わしらがきちんと商いができとったら、いくらあの男が悪い噂を立てたとこで誰も相手にすまい。ほんまの問題は人手が足らんのと、東京の様子がわからんいうことぞな」
甚右衛門は感情を抑えて冷静に喋った。そんな祖父の姿勢を千鶴は立派だと思った。また有り難いとも思った。だけど不思議でもあった。今の祖父は鬼の支配が及んでいるように見えない。なのに祖父が自分をいたわってくれるのは妙である。祖父はロシア人の血を引く孫が疎ましいはずなのだ。
ついに始まった禍に恐れを抱きながら千鶴は当惑した。
東京からの連絡がないので、甚右衛門は東京の取引先の様子を、急いで辰蔵に見に行かせようとしていた。ところがこんな状態では辰蔵に代わって帳場の仕事はできない。正座などできないし、帳簿をつけるのも困難だ。
甚右衛門は辰蔵の代わりに茂七を遣ることも考えた。けれど東京に不慣れな茂七では、行ったところでどうにもならないのは目に見えていた。
そんなところに銀行の行員が訪ねて来た。山﨑機織は銀行に借金があるので、倒産の噂を耳にした銀行が真偽を確かめに来たのだ。
甚右衛門は噂はでっち上げで経営は順調だと訴えた。しかし、怪我だらけの甚右衛門の姿は説得力がなかっただろう。
関東大地震のあと、山﨑機織がぎりぎりの所で踏ん張っているのは行員も知っている。とはいえこのまま東京への出荷が再開できなければ借金返済の目途が立たなくなり、いずれ経営は破綻すると見ているはずだ。
甚右衛門たちが不安のいろを浮かべる中、行員は帳簿を調べて確かめた。それで東京への出荷が止まったままなのを知ると、噂は本当だと判断したらしい。
これにどう対処するつもりかと行員は問うたが、甚右衛門はうまく答えられなかった。自分の傷が治ったら辰蔵を東京へ送るつもりだというのが、甚右衛門にできる精いっぱいの答えだった。
当然ながら、その答えに行員は満足しなかった。甚右衛門に十日だけの猶予を与え、十日以内に出荷が再開できなければ借金を取り立てると言った。そうなると山﨑機織は本当に潰れてしまう。
トミは行員に縋りながら、もう少し待ってほしいと懇願した。行員がトミの手を振り払って帰ろうとすると、トミは胸を押さえて苦悶の表情で倒れた。
甚右衛門は急いで亀吉を医者を呼びに走らせた。行員はうろたえながらも、自分は関係ないと言いながら帰って行った。
駆けつけた医者の見立てでは、トミは心臓が弱っているらしい。医者は入院を勧めたが、トミは頑として拒んだ。どうせ死ぬのであれば家で死にたいとトミは言った。
入院しないのであれば、誰かがトミの世話をしなければならない。
幸子は病院の仕事に復帰していたが、腰を痛めた時に急な休みを取って、これまで二度病院に迷惑をかけている。再び休みを取ると言えばクビにされてしまうし、完全に腰が治ったわけではないので、トミに十分な看護ができる状態ではなかった。
花江は家事で手がいっぱいだ。となると千鶴しかいない。
千鶴にしても簡単には学校を休めないが、甚右衛門は千鶴に婿をもらって店を継がせるつもりだった。その時は千鶴を退学させたはずなので、甚右衛門に学校は重要ではない。学校を理由に祖母の世話ができないとは言えなかった。
それに千鶴自身学校より祖母が心配だった。ずっと冷たくされていた祖母ではあったがやはり肉親だし、鬼に操られていたとはいえ最近の祖母は千鶴に優しかった。
ばあさんの世話をしてもらえないかと祖父に頼まれると、千鶴は素直にうなずいた。
トミの世話を始めた千鶴は、夜でもすぐに祖母の世話ができるように茶の間に自分の布団を運んだ。これまでの暮らしで初めてのことで少なからず気が張っている。
しかし、千鶴の仕事は祖母の世話だけでない。手が空いていれば花江の手伝いをし、祖母に代わって、丁稚たちに読み書き算盤を教えたりもした。忙しく大変ではあったが、千鶴は自分の役割があることで居心地のよさを覚えてもいた。
これまで千鶴は自分を家族のお荷物だと受け止めていた。だけどこうして頼られていると、家族の一員として扱われているみたいに思えるのだ。
学校が気にならなかったわけではない。でもこのまま学校をやめて家の仕事をするのも悪くないかもしれないと考えることもあった。ただ鬼の計画に従わなかった以上、この先に安定した暮らしなどないだろう。
行員が指定した期日までに東京との取引が再開できなければ、山﨑機織は倒産に追い込まれる。ところが東京からの連絡は来ないし、甚右衛門もトミも身動きが取れない。誰が見ても山﨑機織は瀕死の状態だった。
鬼の仕組んだことである以上、千鶴が喜兵衛との結婚を承諾しない限り東京からの注文は入らない。日を追う毎に千鶴に責任が深くのしかかった。
銀行との約束の期限まであと三日に迫った日の朝、祖母の食事の世話をしながら千鶴は涙をこぼした。
何を泣くのかとトミに問われた千鶴は、畳に両手を突いた。
「うちのせいでお店が傾いてしまいました。うちが鬼山さんとの縁談を断らんかったらこげなことにはならんかったし、おばあちゃんかて病気にならんかったのに……」
トミは弱々しく微笑むと、ええんよと言った。
「これで店が潰れるんなら、ほれがこの店の定めじゃったぎりのことぞな。前も言うたけんど、あげな男のことは気にせいでええ。もういつ死ぬるかわからんけん言うとこわいね。うちらにとっては、この店よりもあんたの方が大事なんよ。ほじゃけん、あんたは何も気にすることないけんな」
千鶴は祖母の言葉が信じられなかった。祖父と同じく自分を疎む祖母が、こんなことを言うわけがない。しかし鬼に操られての言葉なら、喜兵衛と一緒になってほしかったと言っただろう。
トミは食事をやめると横になって目を閉じた。千鶴は何も言えないまま呆然としていたが、頬は勝手にあふれる涙で濡れていた。
六
朝食を先に食べ終わった使用人たちは、それぞれ自分の仕事を始めていた。
甚右衛門は茶の間に左足を投げ出して座り、仏頂面で新聞を読んでいる。右腕はまだ痛いようで新聞は左手で捲っているが、食事も厠も難儀をしているようだ。
銀行の期限を考えると、辰蔵に東京の様子を見に行かせるにはぎりぎりだ。しかし、行かせたところで注文が取れなければ山﨑機織はおしまいである。甚右衛門は不安と迷いといらだちで記事の内容などほとんど頭に入っていないだろう。
いつもであればトミがお茶を淹れるところだが、花江が湯飲みを甚右衛門の傍にそっと置いた。そこへ帳場から困惑顔の弥七がやって来た。
「旦那さん、大八車がめげてしもたぞなもし」
何ぃ?――唸るがごとき甚右衛門の叫びに、トミは目を開けた。
甚右衛門は急いで立ち上がろうとしたが、足の痛みに動きを止めた。けれども大八車が壊れたのが本当であれば一大事だ。甚右衛門は苦痛を堪えながら立ち上がると、土間に降りた。弥七は甚右衛門を誘うように帳場へ戻り、甚右衛門は足を引きずりながらそのあとに続いた。
しばらくすると、何をしとるんじゃい!――と甚右衛門の怒鳴り声が聞こえた。
千鶴と顔を見交わしたトミは、様子を見て来るようにと言った。
台所にいた花江は、すぐさま帳場の方へ向かった。千鶴も急いで土間へ降りたが、そこへ仕事へ行く身支度を終えた幸子が現れた。
異様な雰囲気に気づいた幸子は、何かあったのかと千鶴に訊ねた。母を振り返った千鶴が口を開くと、怒りで興奮した甚右衛門が足を引きずりながら戻って来た。
何も言わずに茶の間へ這い上がった甚右衛門は、肩で大きく息をしながら呆けたように黙っている。祖父を刺激しないために、千鶴は説明をやめて母と帳場へ向かった。
だが帳場には誰もおらず、みんなが店の外に出ていた。千鶴たちも表へ出ると、辰蔵と茂七、弥七の三人が大八車を押さえながら何かをしている。その傍では亀吉と新吉が突っ立ったまま泣いていた。近所の者たちも朝の忙しい中、仕事の手を止めて集まっている。
花江が辰蔵たちの後ろに立っていたので、千鶴は花江に声をかけて、どうしたのかと訊ねた。花江は振り返ると、車輪が外れてしまったみたいだと言った。
見ると、確かに左の車輪が外れている。辰蔵たちは車輪を何とか本体に引っつけるべく苦闘していた。だけど、いくら押さえつけたところで壊れた物が直るわけがない。
無理ぞな無理ぞなと野次馬たちは無慈悲に口を揃えるが、誰も代わりの大八車を貸してやろうとは言わない。
何で壊れたのかと幸子が訊いたが、花江は黙って首を振った。
修理をあきらめた辰蔵が立ち上がって千鶴たちの所へ来ると、もう古い物なのでここのところ調子がよくなかったと言った。そろそろ新しい物を買わねばと話していたが、関東の大地震が起こってしまい買い替えることができなかったそうだ。
夜の間、大八車は店の土間に仕舞われている。朝になると丁稚たちが表に出して荷物を運ぶ準備をするのだが、今回外へ出す時に車輪が店の敷居を超えたところで、がくんと外れてしまったらしい。予備の物はないので修理に出そうにも出せずにいたのが、とうとう壊れてしまったというのが真相だ。
そのことは甚右衛門もわかっていたはずだ。けれど今の追い詰められた状況の中、大八車が壊れたことは店にとどめを刺されたのと同じ意味だった。
思わず甚右衛門が丁稚たちを怒鳴りつけたのも無理ないことではあったが、気の毒なのは丁稚たちだ。何も悪いことをしていないのに頭ごなしに怒鳴りつけられ、弁明さえも許されなかったのだ。
困惑した辰蔵に目を向けられると、野次馬たちはこそこそと自分たちの仕事に戻った。どこも遠方へ送る品を古町停車場まで運ぶ準備をしているところだ。大八車を貸してくれと言われても困るのだろう。
辰蔵の話では、この日は作五郎からの指示に合わせて絣を大阪へ送り出すことになっている。しかし、大八車が使えないとなると約束の品を送れない。陸蒸気の時刻は決まっているので、あとから運んだのでは期日に間に合わなくなってしまう。
また町中の太物屋へ注文の品も納められないと客からの信用がなくなるし、銀行からも厳しく咎められる。
辰蔵はさっきの野次馬たちに大八車を貸してもらえないかと掛け合ってみた。だが予想したとおり、どこの店もいい返事をしてくれず途方に暮れるしかなかった。
いよいよ山﨑機織はおしまいのようだ。深く責任を感じた千鶴は、泣いている亀吉と新吉を抱き寄せて慰めながら一緒に泣いた。
札ノ辻の方から、がらがらという音が聞こえてきた。音の方を振り返ると、札ノ辻から男が一人、大八車を引いてやって来る。後ろの荷台には、どっさりと荷物が縛りつけられてある。近づいて来る男の着物は継ぎはぎだらけだ。
まさか?――信じられない光景に千鶴は胸が詰まった。千鶴に気づいた男は、目を見開くと嬉しそうに笑った。
「これはこれは、千鶴さんやないですか。おはようござんした」
胸がいっぱいになった千鶴は、言葉が出て来なかった。体が勝手に駆け寄ると、忠之に抱きつき泣いた。優しい温もりが体ばかりか心までも包んでくれる。
「おっと、どがぁしんさった? 何ぞ、あったんかなもし?」
問われても千鶴は泣くしかできなかった。忠之は優しく千鶴の背中を叩きながら、子供らが見よるぞなと千鶴の耳元で言った。我に返った千鶴は慌てて忠之から離れ、後ろを振り返った。
亀吉と新吉が泣くのも忘れて、ぽかんとしたまま千鶴たちを見ている。辰蔵たちも何が起こったのかわからない様子で怪訝な顔を向けている。近所の店の者たちも、思いがけない場面に目が釘づけになっていたが、千鶴と目が合うと慌てて動きだした。
忠之は亀吉たちの所へ大八車を引いて行くと、どがいしたんぞと訊ねた。二人とも困惑しながらもじもじしている。見てはいけないものを見てしまった感じだ。
「これぞな」
辰蔵が壊れた大八車を指で差すと、ははぁと忠之はうなずき事情を察したようだ。
「ほんじゃあこの荷物を急いで降ろして、ほれからこいつでこっちの荷物を運びましょうわい」
「え? そがぁしてもらえるんかな?」
驚く辰蔵に忠之は笑顔で言った。
「大したことやないぞなもし。困った時はお互いさまですけん。ほれに、おらは人さまのお役に立てるんが嬉しいんぞなもし」
「そがぁしてもらえたらまっこと助かるぞなもし。お前さまには先日も親切にしてもろて、ほんまに恩に着るぞなもし」
辰蔵は頭を下げると、茂七と弥七に命じて急いで積み荷を中へ運ばせた。
忠之は亀吉たちにも声をかけ、自分と一緒に荷物運びを手伝わせた。亀吉たちに笑顔が戻り、二人は張り切って荷物を運び入れた。
荷物は中身を確認してからでないと蔵へは運べない。帳場は運ばれて来た木箱が山積みされた。
荷物が全部降ろされると、今度は大阪へ送る荷物を載せる番だ。注文品の箱は昨日のうちに用意してある。手代と丁稚の四人が急いで蔵から木箱を運ぶと、辰蔵が送り先を確かめた。その木箱は忠之が大八車に積み、品を運び終えた手代たちも手伝った。
花江から聞いたのだろう。甚右衛門が表に出て来て大八車に荷物が積まれるところを眺めている。その後ろには花江が笑顔で立っていた。
忠之たちが忙しく動きまわるのを、自分も手伝いたいと思いながら千鶴が見ていると、知り合いなのかと幸子が声をかけてきた。
千鶴は少しうろたえたが、黙ってこくりとうなずいた。千鶴と忠之の顔を見比べた幸子は、納得したように微笑んだ。
七
荷物を全部積み終わると、甚右衛門は忠之に感謝した。
忠之は照れ笑いをしながら、まだ終わっていないと言い、大八車を引いて行こうとした。千鶴は忠之を呼び止め、運ぶ先がわかっているのか確かめた。
忠之は頭を掻いて笑うと、どこじゃろかと言った。みんなが笑い、いい雰囲気が広がった。
辰蔵は茂七に後ろから押しながら道案内をするよう言った。
茂七は大八車の後ろにつくと、正面の寺の山門を右へ曲がるのだと忠之に教えた。
「すまんね、茂七さん」
忠之は大八車を引きながら言った。
「何言うんぞ。ほれはこっちの台詞ぞな。こないだもあしの戻りが遅なった時に、荷物運びを手伝てもろたみたいなし。お前さんはあしらの福の神ぞな」
「おらが福の神? そげなこと言われたんは初めてぞなもし」
「ほれにしても、今日はずいぶん早いんやな。お陰さんで助かったけんど、なしてこがぁに早よにおいでたんぞな?」
「何、朝早ように目が覚めてしもたぎりぞなもし」
二人が喋りながら大八車を動かして行くのを、千鶴はみんなと一緒に見送っていた。
どんどん離れて行くので、二人の話はよく聞き取れない。でも、こないだも忠之がここの仕事を手伝ってくれたと、茂七が言ったのは聞こえた。
それが何の話なのかは知らないし、忠之が大八車で荷物を運んで来た理由もわからない。いずれにせよ、忠之は千鶴が知らぬ間に山﨑機織と関係を持ったらしい。これは興奮すべきことではあるが、事情がわからない千鶴は歯痒い気持ちの方が大きい。
「なぁなぁ、千鶴さん。あの兄やんと千鶴さんてどがぁな仲なんぞなもし?」
新吉が無邪気に千鶴の袖を引っ張った。
「こら、新吉。余計なこと言うな!」
亀吉が慌てて新吉を叱ると、何の話ぞなと甚右衛門が二人を見た。
「いや、あの、えっと……」
亀吉が口籠もると、新吉が言った。
「あの、さっき千鶴さんがあの兄やんに抱きつきんさって、泣いておいでたんぞなもし。ほれであの兄やんが千鶴さんのこと、こがぁして慰めよったけん」
新吉は亀吉を抱き寄せると、背中をぽんぽんと叩いた。
「何しよんぞ!」
亀吉が真っ赤になって新吉を突き放した。だが新吉も負けていない。旦那さんに説明しよんじゃが!――と怒って言い返した。
「千鶴、今の話はまことか?」
甚右衛門が千鶴を質すと、みんなの目が千鶴に集まった。
千鶴は下を向くと蚊が鳴くみたいな声で、はいと言った。顔が熱く火照っている。きっと真っ赤になっているはずだ。
そがぁいうたらと、辰蔵が思い出したように言った。
「二人とも互いを知っておいでましたな。つまり、お二人は元々知り合いじゃったいうことかなもし」
千鶴は顔を上げると、甚右衛門に言った。
「名波村の祭りを見に行った時に、うちを助けてくんさったお人のことをおじいちゃんにお話しましたけんど、あのお方がそのお人なんぞなもし」
何?――と甚右衛門が大きな声を出した。
幸子と花江は顔を見交わしてうなずき合った。
「旦那さん、これはどがぁな話ぞなもし?」
辰蔵が訊ねると、甚右衛門は言葉を濁しながら、千鶴が村の男に絡まれたのをあの男が助けてくれたらしいと言った。
千鶴の祭りの報告は楽しい話ばかりだったので、辰蔵たちは意外そうに驚いた。幸子と花江の顔にも少し不安のいろが浮かんでいる。
「ほれで千鶴さんは、ひどいことはされんかったんですか?」
「あの男に助けてもろたけん、無事じゃったと」
甚右衛門が笑うと、辰蔵は安堵して千鶴を見た。幸子と花江もほっとしたようだ。
「旦那さん」
新吉が甚右衛門に声をかけた。さっきは甚右衛門に叱られて泣いていたくせに、新吉は甚右衛門がそれほど怖くはないみたいだ。亀吉が泡食った顔をしているのに、新吉は平気な顔で甚右衛門に訊ねた。
「千鶴さんに絡んだ奴らて、どがぁな奴やったんぞなもし?」
甚右衛門は新吉の馴れ馴れしさを気にすることなく、楽しげに右手の指を四本立てた。
「でっかい男が四人じゃったと」
「でっかいのが四人?」
新吉は目を丸くして亀吉を見た。亀吉も驚いた顔をしている。幸子と花江の顔にも再び不安のいろが浮かんだ。
新吉は千鶴を振り返ると、興奮した様子で訊ねた。
「千鶴さん、旦那さんが言うたんはほんまなん?」
千鶴は素直にうんとうなずいた。新吉は再び目を丸くして亀吉と顔を見交わした。
「ほれにしても奇遇な話ぞな。風寄で千鶴さんを助けた男が、ここでこがぁな形で千鶴さんと再会するとは、まっこと人生とはわからんもんぞなもし」
辰蔵が感慨深げにうなずくと、新吉がまた千鶴に言った。
「千鶴さん、あの兄やんのこと好いとるん?」
「阿呆!」
亀吉が新吉の頭を叩いた。
「何するんぞ! 痛いやないか」
「余計なこと言うなて、言うとろうが」
これ!――と辰蔵が叱ると、二人はおとなしくなった。千鶴は恥ずかしくて、何も聞こえていないふりをした。幸子と花江がくすくす笑っている。
「なるほどな」
甚右衛門はにやりと笑うと、あの男が戻って来たら奥へ通すようにと辰蔵に言った。
辰蔵はわかりましたとうなずいて、後ろで黙って突っ立っていた弥七に声をかけた。弥七が驚いた声で返事をすると、辰蔵は忠之が運んで来た品の確認と、蔵への移動を命じて帳場へ戻った。
「確かに、あの男は福の神かもしれんな」
忠之たちが見えなくなった大林寺の方を眺めながら、甚右衛門は独り言をつぶやいた。そのあと思惑ありげな目でちらりと千鶴を見ると、黙って店の中へ入った。
幸子が千鶴に声をかけた。その隣で花江がにやにやしている。
「あんた、あの花、あの人からもろたんじゃろ?」
銭湯で見られた野菊の花のことだ。もう隠しても仕方がない。本人に確かめてはいないが、あの人が飾ってくれたに決まっている。
千鶴がうなずくと、花江の笑顔がさらに明るさを増した。
「あの人は喧嘩も強いんだね?」
黙っていられない様子で花江が訊ねた。
恐ろしいくらいに強いと千鶴が言うと、信じられないねと花江は幸子を見た。自分の目で見た忠之の人柄や雰囲気と、喧嘩の強さが結びつかないらしい。
傍で話を聞いていた亀吉と新吉が、どうやって四人も倒せるのかと話に交ざった。あのねと千鶴が言うと、仕事を手伝え!――と弥七の怒鳴り声が飛んで来た。
亀吉たちは慌てて店に戻り、花江もいそいそとお茶の用意をしに行った。
「あんたが鬼山さんとのお見合い断ったんは、あの人がおるけんじゃね?」
幸子に訊かれて、千鶴はこくりとうなずいた。
「さっき、おじいちゃん、何ぞ考えておいでたみたいなね」
幸子は微笑むと、家の中に弁当を取りに戻った。もう行かねばならない時刻だ。
一人残った千鶴は大林寺の前の辻を眺めていた。古町停車場で荷物を降ろした忠之たちが、もう少しすれば姿を見せるだろう。
本当はそこまで迎えに行きたいが、それははしたないことだ。もどかしいが、ここで待っているしかない。
近くの店の者たちが興味深げに顔をのぞかせたが、千鶴は少しも気にならない。二度と逢えないと思っていたあの人が来てくれたのだ。
この奇跡の再会で胸の中は感激でいっぱいだ。話したいことはたくさんあるが、まずはどうして山﨑機織へ大八車で絣を運んで来たのかを訊かねばならない。
大林寺の方へ他の店の大八車が向かって行く。また大林寺の辻から荷物を運び終えた大八車が戻って来る。それらを眺めながら、千鶴の目は忠之が引く大八車を探し続けた。
待ちきれない気持ちを抑えながら、千鶴はじっと店の前に立っていた。しかし気がつけば、千鶴の足は大林寺に向かって歩きだしていた。
歩調は次第に速くなり、ついには小走りになった。誰かが声をかけても、その声は耳に入らない。喜びでいっぱいの千鶴の耳には、忠之が呼びかける優しい声が幾度も繰り返されている。