鬼の真実
一
「此度はお前さんにはまことに世話になった。お前さんがおらなんだら、どがぁなっとったかと思うと感謝の言葉もない。このとおり改めて礼を言わせてもらうぞなもし」
茶の間に通されて正座をする忠之に、甚右衛門も正座の姿勢で手を突いて頭を下げた。足も手も痛いだろうが、甚右衛門は顔をゆがめたりはしなかった。
トミは茶の間とは隔てられた寝間にいたが、そこの襖を開けて甚右衛門同様に頭を下げていた。
トミの着物が寝巻である上に、後ろには敷いたままの布団が見える。トミの体調がよくないのは、忠之には一目でわかったはずだ。怪我をしている甚右衛門ばかりか、トミまで布団から出て来て頭を下げたので、忠之は大いにうろたえた様子だった。
「やめておくんなもし、旦那さんもおかみさんも、どうか頭を上げてつかぁさい。おら、そがぁにされる者やないですけん」
甚右衛門は頭を下げたまま言った。
「お前さんには、千鶴がえらい世話になったとも聞いとるぞな。ほんことも含め、お前さんにはなんぼ感謝しても感謝しきれまい」
「ほれにしたかて、そこまでしてもらわいでも構んですけん。どうぞ、お二人とも頭をお上げになっておくんなもし」
甚右衛門たちが体を起こすと、忠之は居心地が悪そうにそわそわした。
「どがぁしんさった?」
「おら、体汚れとるけん、こがぁな所に通してもらうんは気ぃが引けるんぞなもし。こないだみたいに上がり框で十分ですけん」
こないだという言葉が千鶴は歯痒かった。自分が知らない間に忠之がこの家を訪れ、ここの上がり框に座っていたのだ。
そのことを千鶴が訊こうとしたら、先に甚右衛門が喋った。
「お前さんはまっこと謙虚な御仁じゃな。そがぁな心配はせいでも構んけん、膝を崩してゆっくりしたらええ」
はぁとうなずきながらも、忠之は正座の姿勢を崩さなかった。そわそわしてはいても背筋が伸びたその姿勢は、田舎の男とは思えない品のよさがある。その姿に千鶴は改めて心が惹かれたが、甚右衛門とトミも感ずるところがあるようだ。
その甚右衛門は足を痛めているため、長く正座はできない。申し訳ないがと言うと、顔をゆがめて左足を伸ばした。忠之は両手を振りながら、どうぞどうぞと言った。
「足を痛めんさったんですか?」
「ちぃと左の太腿と右腕をな。郵便屋の自転車にぶつかられてしもたんよ」
ほれはお気の毒にと忠之が甚右衛門を案じていると、お茶を淹れた花江が、どうぞと言って忠之の前に湯飲みと茶菓子を配った。忠之は両手を太腿の上に置いたまま、これはどうもと花江に軽く会釈した。花江は思わずという感じで、ほんとにいい男だねぇと言ったが、すぐに慌てて口を押さえた。うろたえながら甚右衛門とトミに頭を下げた花江は、ちらりと千鶴を見た。その顔には何か言いたげな笑みが浮かんでいる。
千鶴が恥ずかしくて下を向くと、甚右衛門は忠之に茶菓子を食べるよう促した。
忠之は静かに茶菓子を食べ、お茶を飲んだ。その一つ一つの所作は、やはり気品を感じさせる。
「ほれにしても、今日はえらい早かったな。お陰でわしらは助かったけんど、どがぁしたらこがぁに早よう来れるんぞな? 昨夜はどこぞに泊めてもろたんかな?」
改めて驚いた様子で甚右衛門が訊ねると、忠之は笑顔で言った。
「前ので慣れましたけん、お天道さんが顔出すちぃと前から走って来たんぞなもし」
え?――と千鶴は声を出した。甚右衛門もトミも目を丸くしている。
「お天道さんが顔出す前から走って来た? 風寄からかな?」
忠之がうなずくと、甚右衛門とトミは顔を見交わした。台所の土間にいる花江も、口を半分開けたまま忠之を見ている。
「風寄から来るぎりでも大儀ぃじゃのに、なしてそがぁに早よ来んさったんね?」
トミに問われると忠之は頭を掻いて、つい来てしもたんぞなもし――と言った。
「前に運んで来たんが結構楽しかったんで、待ちきれんかったんぞなもし。ほれに、向こうに戻んてからすることがありますけん」
「じゃあ佐伯さんは、まだ朝ご飯を食べてないのかい?」
びっくりしている花江を振り返り、忠之は笑って言った。
「朝飯前ていうやないですか」
「そりゃそうだけどさ。何も食べずに遠い所から一人であんな荷物を運んで来るなんて、普通じゃできないよ。しかも走ってだろ?」
みんなが驚くばかりなので、忠之は少し困ったようだ。甚右衛門はも唖然として言った。
「そがぁに早くじゃったら兵頭がうるさかったろうに」
「ほんでも、前の日から言うときましたけん、荷物の準備はしてくれよりました」
千鶴は兵頭が誰なのかわからなかった。だが、それより忠之がいつここを訪れたかだ。
「あの、前ん時ていつのことぞなもし?」
ようやく千鶴が遠慮がちに訊ねると、トミが言った。
「あんたのお友だちが遊びにおいでたじゃろがね。あん時ぞな」
「え、ほんまに? うち、何も聞いとらんぞなもし。あの日、佐伯さん、ここにおいでてたん?」
千鶴は思わず無念の声を上げて忠之を見た。
春子が遊びに来た時、表で大八車の荷物を亀吉に渡していたのは忠之だったのだ。あの時に裏木戸ではなく店から出ていれば、あるいはもう少し家にいれば忠之に会えたのである。裏木戸を出た所で聞こえた声の主も忠之で、戸板一枚隔てた所にこの人がいたのかと思うと、悔しくて仕方がない。
戸惑う忠之を見て、もう済んだことぞなとトミは笑い、甚右衛門が忠之が絣を運んで来た事情を説明した。
「風寄の仲買人で兵頭いう男がおるんやが、その男の牛が病気になってしもてな。絣を運べんなったんよ。ほれをこの佐伯くんが一人で大八車で運んでくんさって、兵頭もわしらも大助かりじゃった」
風寄には何人かの仲買人がいて、農作業の傍ら織元から買い求めた伊予絣を絣問屋へ売りに来る。兵頭はその中の一人で、馬酒村と名波村で作られた伊予絣を松山まで運んでいた。馬酒村は北城町の東にあり、名波村とは川を挟んで隣り合っている村だ。
しかし、ここのところ兵頭の牛は調子が悪かったらしい。にも拘わらず兵頭は牛を酷使したため、とうとう牛が動かなくなってしまったそうだ。それで兵頭が困り切っているところに忠之がたまたま出くわし、見かねて牛代わりの手伝いを申し出たという。
初め兵頭は本気にしなかったが、試しに忠之に大八車を引かせてみたところ、忠之は空の大八車はもちろんのこと、反物の箱を積んだ大八車を坂道でも一人で平気な顔で引いた。その働きぶりを兵頭は認め、忠之は松山への絣の運搬を任されることになった。これが忠之が山﨑機織へ来ることになった経緯だ。
千鶴は幸運を呼んだ忠之の人の好さを喜び、敬意を抱いた。一方で、大切な品の運搬や集金を、兵頭が忠之一人に任せるものなのかという疑問を持った。
それについては前回忠之の話し相手をしたトミが説明してくれたが、前に忠之が絣を運んで来た時は、本当なら兵頭も同行するはずだったそうだ。ところが、兵頭は腹を壊して長い道が歩けなかったので、忠之が一人で来たらしい。
兵頭に不安がなかったわけではないだろうが、忠之は仕事をきっちりこなし、お金も一銭の狂いもなく受け取って戻った。兵頭はすっかり忠之を信頼したらしく、今回は体調が悪くもないのに、忠之一人に絣を運ばせて自分は楽をしたようだ。
とはいっても、朝早くに風寄から松山まで走る忠之に、兵頭はついて来れなかったに違いない。
「こないだも一人で絣を運んで来んさったけん、えらい驚いたことじゃったけんど、こがぁな早くに大八車を引いて走って来るやなんて、あんたみたいなお人は見たことないぞな」
トミが改めて感心すると、甚右衛門も大きくうなずいた。
「ほうはいうても、松山に不慣れな佐伯さん一人で全部の届け先がわかるんですか?」
千鶴が訊ねると、ほれがなと忠之は照れたような笑みを見せて答えた。
「兵頭さんが荷物を届ける先の半分が、東京の大地震の煽りで潰えてしもたんよ。ほんで、もう半分は仕入れをやめてしもとったけん、届けるんは山﨑機織さんぎりじゃったんよ。ここじゃったらわかりやすい所にあるし、おらも知っとる所じゃったけんな」
忠之の説明に、トミが片眉を上げた。
「知っとる所じゃったいうんは、どがぁなことね?」
忠之ははっとした顔で千鶴を見た。余計なことを喋ったと思ったらしい。
ほれはなと甚右衛門は笑いながら、千鶴が風寄の祭りから戻った時に、忠之が人力車で千鶴と春子の二人をここまで運んで来た話をした。
トミは呆れた顔で忠之を見たが、台所の花江もまたもや開いた口がふさがらない。
「佐伯さん、向こうで千鶴ちゃんを護っただけじゃなかったんだ」
思わず口走った花江に、何のことかとトミが言った。花江が口を押さえて甚右衛門を見ると、甚右衛門は忠之が千鶴を暴漢から護ってくれたという話をトミにしてやった。
トミは驚きと当惑の顔で忠之に言った。
「この子が世話になったとは聞いたけんど、そがぁなことまでしてもろたんかな。もう何言うたらええんかわからんけんど、とにかくだんだんありがとうございました」
もう一度両手を突いて頭を下げたトミに、忠之は頭を上げるよう手を合わせて頼んだ。
「おらには全然大したことないですけん、そがぁに言わいでつかぁさい」
「ほやかて、あんたがおらなんだら、この子もこの店もどがぁなっとったことか」
涙ぐんで喋る祖母を見て、千鶴は混乱した。
店よりも千鶴が大事だと祖母は言ってくれた。理由はわからないが、その言葉はこれまで祖母が見せてきた態度とは、まったく真逆なものだった。それは嬉しくはあるものの、千鶴を戸惑わせた。そして今また祖母は同じ姿を見せている。
うろたえを隠したい千鶴は、話を戻す形で忠之に話しかけた。
「けんど、ほんなうまい具合に、うちぎりが届け先になったやなんて」
「兵頭さん所ぎりやのうて、他の仲買人らもみんな仕入れが止まってしもとったけんな。言うたら、ここぎりが仕入れを注文してくれたんよ。しかもな、旦那さんは他が仕入れを止めとる分、いつもの倍仕入れてくれたて、兵頭さん、えらい感激しよったかい」
忠之は名波村の女たちと同じ話をした。しかし、山﨑機織だって関東大地震の被害は少なくない。なのに仕入れを増やせたのは、大阪の作五郎のお陰だと甚右衛門は言った。
「ちょうど大阪で大口の契約がようけ取れたんやが、みんな風寄の絣がええ言うてくれたけん、仕入れを増やせたんよ。まぁ、風寄の織子の腕がよかったお陰でもあらいな」
忠之が絣を運んで来た背景にはいろんなことが重なっていたようで、そのことを千鶴は有難いと思った。けれど、忠之が訪ねて来たことに気づかなかったのはやはり悔しい。
「ほれにしても、こないだ佐伯さんがおいでてたてわかっとったら、うち……」
「どちゃみち友だちがおったんじゃけん、どがぁもなるまい」
甚右衛門は笑うと、佐伯くんににぎり飯を作ってやってくれと花江に頼んだ。花江は明るく返事をすると、お櫃の所へ行った。
「ほれで兵頭ん所の牛は、もういけんかな?」
忠之に向き直った甚右衛門は、笑みを消して言った。
「いけんみたいぞなもし。もう、だいぶ歳ですけん寿命やなかろか思とります」
「ほうかな。ほれで、お前さん、牛の代わりはいつまで続けるつもりぞな?」
祖父が何を考えているのか、ぴんときた千鶴は期待を込めて忠之を見た。忠之は横目で千鶴を見ながら、ほれが――と言った。
「おらが絣を持て来るんは、これが最後なんぞなもし」
「これが最後? 兵頭は新しい牛を手に入れた言うんかな?」
忠之はうなずくと、ほういうわけぞなもしと言った。千鶴は半分喜び、半分不安になった。あとは祖父と忠之のやり取りを見守るだけだ。
「この仕事辞めたら、あとはどがぁするつもりぞな?」
探るような口調で甚右衛門が訊ねると、忠之の方はさらりと答えた。
「これは別に仕事やないんぞなもし」
「仕事やない? 風寄からここまで大八車を引いて来て、また向こうへ戻るんぞ? ほれが仕事やないんかな」
「これは、おらの好意でしよるぎりですけん」
忠之は笑みを見せたが、甚右衛門は眉間に皺を寄せた。
「お前さん、ひょっとして兵頭から銭をもろとらんのか?」
忠之がうなずくと、甚右衛門は憤って横を向いた。トミも信じられない顔をしている。
どうして兵頭が山陰の者である忠之に、この仕事を任せたのか。それは忠之がただで牛の代わりをしてくれたからだ。しかも、代金をごまかしたりしないお人好しだ。利用しない手はないと考えたのだろう。だけど、これほど人を馬鹿にした話があろうか。
千鶴は思わず忠之に言った。
「佐伯さん、なしてぞな? なして、ただでこがぁなことを?」
忠之は少し迷ったあと言った。
「正直言おわい。おらな、松山へ来る口実が欲しかったんよ」
「松山へ来る口実?」
「千鶴さんがおる松山に来てみたかったんよ。別に千鶴さんに会うつもりはなかったけんど、千鶴さんが暮らしておいでる松山に来てみとうて、この役目を引き受けたんよ」
千鶴が暮らす松山へ来てみたかった。その言葉は間違いなく千鶴への好意の表れだ。忠之は千鶴に会いたかったとは言わなかった。そのことにもどかしさを覚えながらも、千鶴は喜びに胸が詰まった。
二
「お待たせ」
花江が大きめのにぎり飯二つと、漬け物の小皿を忠之の前に置いた。おぉと感激する忠之に、花江は小声で言った。
「朝飯も食べないで風寄から走って来たのは、ほんとは千鶴ちゃんに会いたかったからだろ?」
「いや、そがぁなことは……」
惚ける忠之に、花江はにっこり笑って言った。
「別にいいけどさ。千鶴ちゃん、あの花、今も大事に持ってるんだよ」
忠之は驚いた顔で千鶴を見た。それは、千鶴に花を飾ったのは自分だと白状したようなものだ。
何となくうろたえた感じの忠之に、甚右衛門は先に飯を食えと言った。
にぎり飯の匂いに引かれたように、帳場から新吉がそっと顔を出した。新吉はにぎり飯を羨ましげに眺めていたが、すぐに亀吉に引っ張って行かれた。丁稚たちを見て花江は笑っていたが、誰かに呼ばれたのか、花江も帳場の方へ行ってしまった。
忠之は両手を合わせるとにぎり飯に食らいついた。やはり腹が空いていたらしい。
喉を詰めるといけないので、千鶴は忠之にお茶を飲ませながらにぎり飯を食べさせた。忠之も素直にお茶を飲みながら、美味そうににぎり飯を食べた。そんな二人の様子を、甚右衛門もトミも微笑ましく眺めていた。
忠之がにぎり飯も漬け物も平らげると、甚右衛門は言った。
「さっきの話やが、お前さんがただで絣を届けてくれるんなら、兵頭は新しい牛を手に入れるより、このままお前さんにやってもろた方が得やし楽なんやないんか? お前さんを信頼しとるみたいなし」
ほうなんですけんどと、また忠之は頭を掻いた。
「おらのおとっつぁんが、おらが銭もろとらんのを知ってぶち切れたんぞなもし。ほれでまぁ、こがぁなことになってしもたわけでして」
忠之は千鶴の方に体を向けて言った。
「ほんでも、最後にこがぁして千鶴さんに会えたんは、お不動さまのお導きぞな。ここまで絣運ぶんも楽しかったし、みなさんのお役にも立てたし、おらは満足しとるんよ」
千鶴は何とかするよう祖父に目で訴えた。甚右衛門は咳払いをすると、実はな――と言った。
「うちは今、人手が足らんで困っとるんよ。ほやけど、誰でもええいうわけにもいかんけん、どがぁしたもんじゃろかと思いよったとこに、お前さんが現れたんよ。わしが何が言いたいか、わかろ?」
甚右衛門はのぞきこむように忠之を見た。忠之は小首を傾げている。焦れったくなった千鶴は忠之に言った。
「佐伯さん、うちで働きませんか?」
千鶴の言葉を後押しして甚右衛門も言った。
「本来ならもっとこんまいうちに丁稚で入れて、じっくり育てて手代にするんやが、お前さんは子供やないけん、すぐに手代になれるようなら、きちんと給金を出そうわい」
「ほやけど、おら、こがぁな所で働いたことないですけん」
「お前さん、読み書き算盤はできるんかな?」
「はぁ、一応は」
「ほれじゃったら、すぐに手代になろ。どの仕事でもいえることやが、商いするにはお客から信頼されにゃならん。そのためには知識はもちろんなけんど、何より人柄が大切ぞな。その人柄がお前さんは言うことなしよ。うちとしては是が非でもお前さんに来てもらいたいと思とるが、どがいじゃ? ちぃと考えてみてはもらえまいか?」
忠之は腕組みをして思案した。千鶴はなりふり構わず、忠之の着物の袖を引っ張った。
「佐伯さん、お願いじゃけん、うんて言うておくんなもし! 言うてくれんのなら、うち、佐伯さんを去ぬらせんぞな」
「どがぁする? 千鶴もこがぁ言うとらい」
甚右衛門がにやにやしながら言った。トミも楽しげに眺めている。
忠之は目を閉じたまま、腕組みをして考え続けていた。やがてぱちりと目を開けると、わかりましたぞなもしと忠之は言った。
「おらの気持ちとしては、お言葉に甘えさせてもらう方に傾いとります。けんど、おらの家族が反対したら、この話はなかったことにさせてつかぁさい」
「お前さんは一人息子なんかな?」
「はい。ほじゃけん、おら、勝手はできんのです」
甚右衛門は少し顔をゆがめて言った。
「ほら、確かにほうじゃな。ところで、お前さんの家では何をしておいでるんかな?」
「履物をこさえとります」
「履物か。お前さんが後を継がんと潰えるんじゃな」
忠之がうなずくと、甚右衛門の勢いがなくなった。自分と同じ境遇を忠之の親に見たのだろう。無理は言えないと悟ったようだ。
千鶴もがっかりしたが、あきらめきれない。せっかくまた会えたのに、このまま別れてしまうなんて、あまりに酷な話だ。
帳場から困惑した様子の花江が戻って来た。ちらちらと帳場を振り返りながら、こちらに何かを言いたそうにしているが、甚右衛門の話に割り込めずにいる。
「もう一つぎり聞かせてもろても構んかな?」
甚右衛門が遠慮がちに言った。
「お前さん、なして千鶴にいろいろ親切にしてくんさった? 見てのとおり、この子には異人の血ぃが混じっとる。邪険にする者が多いのに、なしてお前さんは千鶴を大事にしてくんさるんぞな?」
忠之は姿勢を正すと、きっぱり言った。
「千鶴さんは素敵な娘さんぞなもし。ほれに、まっこと優しいお方ぞなもし」
「優しい? 千鶴の方がお前さんの世話になったんじゃろ?」
「おら、力ぎり自慢の何の取り柄もない男ぞなもし。誰っちゃ見向いてくれん男ぞな。けんど、千鶴さんはこげなおらに優しい言葉をかけてくんさったんです。ほじゃけん、おら、千鶴さんの力になりたい思たんぞなもし」
自分は山陰の者なのだと、忠之は暗に話しているのだろう。だからといって、自分を卑下するのは間違いだ。千鶴は黙っていられなくなった。
「佐伯さんこそ素敵なお人ぞな。取り柄がないやなんて、そげなことありません。うちみたいな者のためにここまでしてくんさるお人なんて、佐伯さん以外にはおりません」
千鶴が忠之を持ち上げると、忠之は甚右衛門やトミがいるのも忘れたかのごとくに言葉を返した。
「千鶴さんこそ、千鶴さんほどええお人はどこっちゃおらんのじゃけん、自分のことをそがぁに言うもんやないぞな」
「ほれは佐伯さんぞなもし。佐伯さんこそ、まっことええお人なんじゃけん、もっと胸張ってええと思います」
台所で困惑顔だった花江がくすくす笑っている。トミも笑いながら、まぁまぁと声をかけた。甚右衛門もにやりと笑い、どっちもどっちじゃのと言った。
あの――とようやく花江が甚右衛門に声をかけた。
何ぞなと機嫌よく顔を向けた甚右衛門に、花江は辰蔵が呼んでいるとだけ伝えた。
ちぃと席を外すと言い置いて、甚右衛門は土間へ降りて帳場へ向かった。
まだ体が痛々しげな甚右衛門を見た忠之は、懐から油紙の包みを取り出して、これをあとで旦那さんにと言ってトミに手渡した。それは忠之が自分で薬草から作った膏薬で、万が一のためにと持っていたものらしい。
これは傷によく効くと請け合ったあと、忠之は失礼ながらと前置きをして、おかみさんはどこの具合が悪いのかとトミに訊ねた。
トミは笑ってごまかしたが、心臓が弱っていると医者に言われたと千鶴が話した。
忠之はうなずくとトミに胸の病に効くツボを教え、そこにお灸を据えるといいと言った。また自分の本当の想いを隠さないのが、胸には一番いいと言った。
トミがはっとした顔になって涙ぐむと、医者でもないのに余計なことを言ったと、忠之はすぐに詫びた。けれどトミは首を振ると、そのとおりだと思うと言った。
よろしければ少し指圧をしましょうと、忠之は遠慮するトミのツボを指で押した。それが気持ちよかったのか、トミは素直に忠之に身を任せた。
「あんたは上手じゃなぁ。胸に詰まっとった物が、すっと抜けていくみたいぞな」
トミが心地よさげに喋っていると、甚右衛門が顔を曇らせて戻って来た。
「どがぁしんさった?」
忠之に指圧をしてもらいながらトミが訊ねたが、甚右衛門は何でもないとしか言わなかった。だが何か問題があるに違いなく、千鶴と忠之は顔を見交わした。
台所にいる花江が、忠之を見ながら何かを言いたげだ。だけど、口を半分開くばかりで何も言わない。そこへ新吉がやって来て、兄やん――と忠之に声をかけた。
「兄やんは、すぐ向こうに戻んてしまうんかなもし?」
「ほうじゃな。用が済めば戻らんとな」
「じゃあ、用事があったら戻らいでもええん?」
すんませんとトミに声をかけると、忠之は新吉の傍へ行った。
「何ぞあったんかな?」
「あのな、兄やんの大八車――」
こら!――と甚右衛門が新吉を叱った。
「いらんこと言わんで、あっちへ行っとれ!」
「ほやけど……」
新吉は口を尖らせたが、甚右衛門はもう一度、向こうへ行ってろと言った。すると亀吉が走って来て、新吉を帳場へ連れて行った。
「旦那さん、ひょっとして大八車のことでお困りなんかなもし」
忠之が訊ねると、甚右衛門は言いにくそうに、ちぃとなとうなずいた。
「あのね、お店の大八車が壊れちまったから、町の太物屋に注文の品を運べないんだよ」
甚右衛門に代わって花江が言った。それは、できれば大八車を貸してもらえないかという、甚右衛門たちの頼みだった。
忠之は大きくうなずくと、気がつかずに申し訳ないと言った。
「おら、あの大八車はここへ置いて行きますけん、どうぞ使てやっておくんなもし」
「何? そがぁなことしたら兵頭が文句を言おう?」
「大丈夫ぞなもし。兵頭さんには、ここに着いた時にめげてしもたて言うときますけん」
「いや、ほやけど、ほれじゃったら兵頭が困ろ?」
「もう新しい牛が来ますけん、今度は牛車を使たらええんぞな。ほじゃけん、ご心配には及ばんぞなもし」
「いや、しかし……」
甚右衛門は当惑しているが、大八車が欲しいのは欲しいのだ。それがわかっている忠之は、甚右衛門を気遣って言った。
「こちらのがめげとるんを目にした時から、おらの大八車は置いて行くつもりでおりました。ほれをもっと早よに言うたらよかったんですけんど、言うんが遅なってしもて申し訳ありません」
甚右衛門は感激して涙ぐみ、忠之の両手を握ると黙って頭を下げた。トミも両手を合わせて、忠之を拝みながら頭を下げている。
花江は帳場へ走って行った。そして、すぐに辰蔵たちと一緒に戻って来ると、みんなで忠之に感謝した。
忠之はうろたえながら、そろそろお暇しましょうわいと甚右衛門とトミに言った。それから千鶴にも挨拶をすると土間へ降りた。
帳場の方で人の声がした。辰蔵が見に行ったが、すぐに興奮しながら戻って来た。その手には何枚かの紙がある。
「旦那さん、来た! 来たぞなもし!」
「何が来たんぞな?」
訝しげな甚右衛門に、辰蔵は弾んだ声で言った。
「電報ぞなもし! 東京からの注文の電報が来たんぞなもし!」
何?――と言うなり、甚右衛門は辰蔵の手から電報を奪い取った。そして、その内容を確かめると他の者たちにも見せてやった。
何のことかわからない忠之に、大地震で壊滅した東京から待ち望んでいた絣の注文が入ったことを、千鶴が喜びを隠さず教えてやった。
ほれはよかったと忠之が微笑むと、あんたのお陰だよと花江が嬉しそうに言った。とんでもないと忠之が手を振ると、甚右衛門が言った。
「花江さんの言うとおりぞな。お前さんは、まさにわしらの福の神ぞな」
呆然と見つめる甚右衛門に、忠之はうろたえた。
「やめてつかぁさい。電報とおらは関係ないですけん」
「いいや、お前さんは間違いのうわしらの福の神ぞな。まこと、お前さんは……」
感極まった様子の甚右衛門は、言葉に詰まって涙ぐんだ。トミも両手で口を押さえながら泣きだした。
忠之はますますうろたえ、ほんじゃあと逃げるように表に出た。千鶴は慌てて忠之について外へ出たが、すぐに甚右衛門も追いかけて出て来た。
甚右衛門は千鶴に銭を持たせると、二人で団子でも食ってこいと言った。それから忠之に改めて礼を述べると、待っとるぞなと期待を込めた笑みを見せた。
忠之は当惑気味に頭を下げると、山﨑機織を後にした。その横には喜びいっぱいの千鶴がいる。このあと忠之がどうなるかはわからないが、二度と会えないはずの人と奇跡の再会を果たしたのだ。千鶴の胸は期待に膨らんでいる。
三
「何から何まで、ほんまにありがとうございました」
千鶴は改めて忠之に礼を述べた。忠之は笑いながら、もうやめてつかぁさいと言った。
「そげなことより、千鶴さんのご家族も、お店の人らもええ人ぎりじゃな。おら、まっこと安心した」
「まぁ、番頭さんらも花江さんもええ人なけんど……」
千鶴が言葉を濁すと、他はそうではないのかと忠之は眉根を寄せた。けれど、身内の陰口になる話などしにくいし、最近の祖父母は千鶴に優しい。千鶴は戸惑いながら口を尖らせてみせた。
「おじいちゃん、お店を継げる者がおらんけん、うちに無理こやりこお見合いさせたんぞなもし」
今の祖父につける悪態といえばこれぐらいなのだが、そこまで言ってから、千鶴ははっとして口を押さえた。しかしすでに遅く、忠之はへぇという顔で千鶴を見ている。
「千鶴さん、お見合いしたんかな」
「いえ、お見合いいうか、おじいちゃんがいきなし男の人連れて来て、顔合わせさせられたぎりぞな。ほやけど、うち、ちゃんとお断りしたんです。何や偉そな感じのお人で、絶対嫌じゃ思たけん断ったんぞなもし」
喋っているうちに千鶴は喜兵衛のことを思い出して腹が立ってきた。
「ほしたら、ひどいんぞなもし。ほの人、山﨑機織が潰えるて嘘の噂を広めよったんぞな。お陰で銀行の人が来て借金取り立てられそうになったし、おじいちゃんやおばあちゃんがあがぁになったんも、あの人のせいなんぞな」
憤る千鶴をなだめると、忠之はにっこりしながら言った。
「自分でこれはいけん思たら、その心に従うたらええ。お不動さまは千鶴さんの心の中においでてな、どがぁしたらええんか、千鶴さんの心を通して教えてくんさるんよ。そがぁしよったら、きっとええ人にめぐり逢えるけん」
「ほれじゃったら、うちはもうすでにええ人にめぐり逢うとりますけん」
「へぇ、ほうなんか。ほれは、どがぁなお人ぞな?」
何て焦れったい人なんだろうと千鶴は思った。だけど、心の内を打ち明けるのは気が引けた。
「前にも言うたけんど、うち、誰かを好いたり好かれたりできんのです」
「前にも言うたけんど、そげなことは絶対ないけん。千鶴さんは幸せになれるけん」
道を行き交う人たちが訝しげに二人を振り返った。千鶴たちはしばらく黙ったまま歩いたが、途中に寺が現れると、千鶴は寺の境内に忠之を引き込んだ。
誰もいない境内で、千鶴は忠之を見つめた。その目に忠之への想いを込めたのだが、忠之はどこまで鈍いのか、あるいはわかって無視しているのか、辺りをきょろきょろと見まわしている。
「千鶴さん、ここは何の寺ぞな?」
「お寺はどがぁでもええんです。うち、佐伯さんにどがぁしても訊きたいことがあるんぞなもし」
やっと覚悟を決めた顔になった忠之に、千鶴は言った。
「佐伯さん、風寄でお祭りの晩げに大けなイノシシの死骸が見つかった話、ほんまは知っておいでるでしょ?」
「ほの話かな。確かに知っとるよ。ほれが、どがぁしたんぞな」
「うち、あのイノシシに襲われたんぞな」
忠之の顔が一瞬ゆがんだ。
「どこで襲われたんぞな? あげなイノシシに襲われたら、ただでは済まんじゃろに」
「あのイノシシの死骸が見つかった所ぞなもし。死骸があったあの場所で、うちは襲われたんぞな」
「じゃったら、どがぁして無事でおれたんかな?」
落ち着かない様子の忠之に、千鶴は話を続けた。
「うち、気ぃ失うてしもたけん、何も覚えとらんのです。目ぇ覚めたら、何でか法生寺におったんぞなもし。和尚さんに訊いたら、誰ぞが庫裏の玄関叩くんで外へ出てみたら、そこにうちが寝かされよったて言いんさったんです」
「ほれは、いったいどがぁな話ぞな?」
「ほれを、佐伯さんに訊いとるんぞなもし」
「おらに?」
「ほやかて、佐伯さんでしょ? うちの頭に野菊の花飾りんさったんは」
忠之は口を開けたまま固まった。どこかでジョウビタキが鳴いている。
「佐伯さんでしょ?」
「いや、あの、おらは何のことやら……」
忠之は惚けたが、明らかにうろたえている。千鶴は畳みかけて言った。
「うちが佐伯さんに助けてもろた時、佐伯さん、言いんさったでしょ? お不動さまにうちの幸せを願てくれたて。初めて会うたはずやのに、どがぁしたらそげなことができるんぞなもし?」
「ほれは……」
「あん時以外佐伯さんがうちを見んさったとしたら、うちが気ぃ失いよった時しかありません。ほれに法生寺の御本尊さまはお不動さまやし、佐伯さんがうちの幸せをお不動さまにお願いしんさったとしたら、ほん時しかないですけん」
忠之は惚けるのをやめて、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「千鶴さんは、まっこと頭のええお人ぞな」
「なして黙っておいでたんです?」
「ほやかて気ぃ失うとる女子の頭に勝手に花飾ったら、何て思われるかわかるまい? ほじゃけん、黙っとったんよ」
「庫裏の戸叩いたんも、佐伯さんでしょ?」
忠之は素直に認めた。
「なして姿消しんさったん?」
「おらが千鶴さんに何ぞ悪さした思われたら困るけん。ほれに頭に花飾ったんも、和尚さんらに知られとないじゃろ?」
「まぁ、ほれはほうじゃね」
うなずく千鶴に、忠之は付け足して言った。
「ほれにな、あん時、おら、ほとんど素っ裸やったんよ」
「素っ裸?」
思わず顔が熱くなった千鶴に、忠之は慌てて繰り返した。
「素っ裸やのうて、ほとんど素っ裸ぞな。一応、腰には破れた着物巻きよったけん」
「なして、そげな格好やったんぞな?」
「ちぃと村の連中と喧嘩したんで、着物破かれてしもたんよ。お陰さんで、おっかさんにしこたま怒られたかい。縫い直すんはいっつもおっかさんじゃけんな。ほんでもな、おっかさん、一晩で直してくれた。やけん、おら、おっかさんには頭が上がらんのよ」
忠之はいくつもある大きな継ぎ当てを千鶴に見せて笑った。千鶴は少し呆れて言った。
「佐伯さんて喧嘩好きなんですか?」
「別に好きいうわけやない。おら、争い事は好まんけん」
恐らく山陰の者というだけで、一方的に喧嘩を売られたのだ。けれど普段の忠之は、あの鬼神のごとき強さを隠していると思われる。あの強さを知った上で喧嘩を売る者などいるはずがない。千鶴は喧嘩の話はやめた。
「あの晩、佐伯さんはうちをどこで見つけんさったん?」
「法生寺の石段下りた所の傍にな、花がようけ咲きよる所があるんよ。そこにな、千鶴さんが倒れよったんよ」
「ほうなんですか。ほやけど佐伯さんには、うちがロシアへ行かせんさった娘さんに見えたんやないんですか?」
忠之は恥ずかしそうにうなずいた。
「あんまし似よるけん、本人か思いよった」
その娘は野菊の花が大好きで、野菊の花がよく似合ったという。それで、つい千鶴に花を飾ってしまったと忠之は弁解した。
やっぱり千鶴が思ったとおりだ。忠之の心の中には、今も別れた娘が住んでいる。照れ笑いをしているが、花を飾った時の忠之は泣きたい気持ちだったに違いない。
千鶴は切なくなった。しかし気を取り直して、佐伯さんと言った。
「うちを見つけた時、妙なもん目にせんかったですか?」
「妙なもん? 妙なもんとは何ぞな?」
訝しげな忠之に、千鶴は少し迷ってから思い切って言った。
「鬼ぞなもし」
忠之の顔が明らかにゆがんだ。やはり鬼を見たのかと思えたが、何を言うのかと千鶴を不審に思ったのかもしれなかった。
「なして、そげなこと言うんぞな?」
「佐伯さん、イノシシの死骸がどがぁなっとったか、ご存知ですよね?」
忠之は黙っていたが、千鶴は言葉を続けた。
「あそこには大けな岩も木も落ちとりませんでした。ほれに、あのイノシシの頭をぺしゃんこに潰せる生き物はおりません。ほやけん、イノシシ殺めたんは鬼やと思たんです」
「化け物じゃったら他にもおろうに、なして鬼や思たんぞな?」
「ほれは――」
千鶴は唇を噛んで目を伏せた。
この人にだけは知られたくない。だけど、言わねばならないと千鶴は思った。言わねば、この人を不幸に巻き込んでしまう。それだけは死んでも避けたいことだった。
「佐伯さん」
千鶴は顔を上げた。頬を涙がぽろりと流れ落ちた。
「うち、鬼娘なんぞな」
四
泣きじゃくる千鶴を、忠之は黙って抱きしめてくれた。
鬼娘という言葉の意味を確かめないのは、その意味を知っているからだ。なのに逃げないで抱きしめてくれる忠之の優しさが、千鶴の涙をさらに誘った。
気持ちが少し落ち着くと千鶴は忠之から離れ、夢で見た地獄やおヨネの話、それにお祓いの婆の話をした。
また、イノシシに襲われた時に鬼が助けてくれたのは自分が鬼娘だからだし、そのあと法生寺へ運ばれたのは、法生寺がかつて鬼娘が暮らした所だからだと言った。
忠之は千鶴の話を否定せず、嫌な顔も見せずに最後まで聞いてくれた。本当は困惑しているのかもしれなかったが、そんな様子は少しも見せなかった。それより千鶴の苦しみや悲しみを受け止めてくれていたのだろう。話を聞く忠之はずっと悲しげだった。
そんな忠之の姿に安心しながらも、自分が忠之と同じ人間ではないと思うと、千鶴は悲しくなった。忠之と目を合わせられない千鶴は、目を伏せながら言った。
「うちは法生寺におった鬼娘の生まれ変わりぞな。ほじゃけん、鬼はうちを見つけて、うちが風寄へ行くよう仕向けたんです」
「千鶴さんがここにおるんがわかっとんのに、なして鬼はわざに千鶴さんを風寄へ呼び寄せる必要があるんぞな?」
「うちのことをよう確かめるためぞな。ほれで、やっぱし鬼娘じゃてわかったけん、うちに取り憑いて松山まで来たんよ」
「ほれじゃったら、実際に鬼に何ぞ悪さをされたんかなもし?」
「鬼と夫婦にさせられそうになりました」
「ほれが、さっき言うたお見合いなんか」
千鶴はうなずき、見合い相手の名前が鬼山で、自分のことを鬼だと言ったと説明した。
「うちがお見合い断ったら、その人、えらい怒りんさって、ほれから次から次に悪いことが起こったんぞな」
千鶴は具体的に何があったのかを話し、そのうちみんな殺されると言って涙ぐんだ。
ほうじゃったかと、忠之は悲しそうに下を向いた。千鶴は鬼の報復も怖いが、自分のことも怖いと言った。
「お見合い断ったとこで、うちは鬼娘じゃけん。そのうち本性出して鬼になるんぞな」
「そげなこと――」
顔を上げた忠之の言葉を遮って、千鶴は首を振った。
「うち、今はまだ人の心持ちよりますけんど、今に恐ろしい鬼娘になって人を殺して食べるんよ。ほれが怖ぁて怖ぁて……。ほやけど誰にも相談できんけん、うち……」
項垂れる千鶴に、忠之は静かだが力の籠もった声で言った。
「大丈夫。千鶴さんは鬼娘なんぞになったりせんけん」
「そげなことない。うち、いつかきっと鬼娘になって、佐伯さんのことも平気で命を奪てしまうんよ」
千鶴が泣きだすと、忠之はもう一度千鶴を抱きしめた。
「ほん時は、おら、こがぁして千鶴さんのこと、ぎゅっと抱いて言うてあげよわい。千鶴さんは鬼娘やない、千鶴さんは人間の娘ぞな、千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞなて言うてあげるけん」
千鶴は涙に濡れた顔を上げた。
「ほやけど、うち、佐伯さんを傷つけるかも知れんのに?」
「ほんでも言うてあげらい。おら、この命が尽きようと、死ぬるまでずっと言い続けてあげるけん」
こんなことを言ってもらえるとは思いもしなかった。千鶴はまた泣いた。忠之は黙って千鶴を抱き続けてくれた。
忠之から伝わる温もりが、千鶴の心と体を優しく抱いてくれる。その優しさに包まれていると、不安も恐怖も悲しみもすべてが癒やされていく。
しばらくして千鶴が泣き止むと、忠之は手拭いで千鶴の涙を拭いてくれた。その忠之の目も泣いたみたいに赤くなっている。
「おら、千鶴さんがどがぁに苦しんでおいでたんか、ようにわかった。今の千鶴さんの気持ち、おらにはようわかる。ほやけどな、千鶴さんは勘違いしとらい。ほじゃけん、ほんまの話をおらが教えてあげよわい」
「ほんまの話?」
「あぁ、まことのほんまの話ぞな」
忠之は微笑みながらうなずいた。だが、その目は哀しげだった。
五
明治が始まるより前の話だと、忠之は言った。
「おヨネさんが言うたとおり、ほん頃の法生寺には、鬼娘て呼ばれた娘がおったんよ。けんどな、ほれはそがぁ呼ばれよったぎりの話で、ほんまに鬼娘やったわけやないんよ」
「ほれは、どがぁなこと?」
「ほの娘はな、千鶴さんと対で異国の血ぃ引いとったんよ。今かて異人は珍しがられるけんど、ほん頃は誰も異人なんぞ見たことないけんな。これは人やない、鬼娘じゃとなったんぞな」
その話を誰から聞いたと訊ねると、法生寺にいた和尚から聞いたと忠之は言った。ただ、それは知念和尚より前の和尚だそうだ。知念和尚は前の和尚からの引き継ぎで、鬼娘について何も教えてもらえなかったが、忠之はうまく話を聞き出したらしい。
「ほじゃけんな、仮に千鶴さんがその娘の生まれ変わりじゃったとしても、千鶴さんが鬼娘とは言えんのよ。ほうじゃろげ?」
千鶴は素直にうなずいた。忠之の言葉は千鶴の不安を和らげてくれた。
これも前の和尚から聞いたと、前置きをしてから忠之は言った。
「みんな、鬼は恐ろしいもん、穢らわしいもんやて思いよる。ほじゃけん、誰も鬼に優しい言葉なんぞかけたりせん。けんど、鬼かてな、好きで鬼しよるわけやないし、みんなが思とるみたいに、いっつもかっつも悪いことぎりしよるんやないんよ」
ほんでもなと言うと、忠之は横を向いた。
「所詮、鬼は嫌われ者ぞな。ほれは鬼かてわかっとる。もう、あきらめとるんよ。そげな鬼がな、もし誰ぞに優しゅうされたら、どげな気持ちになる思う?」
忠之に見つめられた千鶴は、首を小さく振った。ほんじゃあ教えてあげよわい、と忠之は話を続けた。
「まずは、たまげるんよ。ほれから、何ぞの間違いやないかて思うんよ。ほれで、ほうやないてわかるとな、ほれまでなかったほっこりしたもんが、胸ん中に湧いてくるんよ。ほれがまた鬼には嬉しいいうか、涙出るほど感激するんぞな」
和尚から聞いた話だというのに、忠之は自分が鬼であるかのごとくに喋っていた。その話しぶりは、千鶴が抱いていた鬼の印象を変えていった。千鶴の心にあった鬼への恐怖はほとんど消えかけていた。
「和尚さんの話では、鬼娘と呼ばれよった娘はまっこと心の優しい娘でな。鬼にも優しゅうしてやったらしいんよ」
千鶴は驚いた。これはまさに自分と鬼の関係を示す話だ。
「じゃあ、おヨネさんのお父さんが見た鬼ていうんは――」
「たぶん、その鬼を見たんじゃろな」
「あの鬼は鬼娘て呼ばれよった娘を護ろとしたん?」
「恐らく」
「そのあと、その娘と鬼がどがぁなったんかはわからんのですか?」
「……おらには、わからんな」
忠之は千鶴から顔を逸らすと、境内の釣り鐘に目を遣った。鬼娘や鬼のことなど、忠之がわかるはずもないが、何だか喋りたくないみたいにも見えた。
「じゃったら地獄の夢も、ほんまにあったことなんじゃろか?」
千鶴が話題を変えると、忠之は振り返って言った。
「千鶴さんがその娘の生まれ変わりやったとしたら、ほうかもしれまい」
「うちがほんまの鬼娘やのうても、結局は地獄に堕ちてしもたてこと?」
「千鶴さんが地獄へなんぞ堕ちるかいな。千鶴さんは地獄へ堕ちたんやのうて、わざに地獄を訪ねたんよ」
「その鬼に逢うために?」
「千鶴さん、まっこと優しいけんな。他の者じゃったら絶対せんのに、千鶴さんは鬼のことを心配しんさったんよ。生きとる間にも優しゅうしてもろたのに、地獄へ堕ちたあとにも逢いに来てもらえた鬼は、どんだけ感激したことか」
しんみり話す忠之は、まるで鬼の気持ちがわかるみたいだ。
それにしても、本当に自分は鬼に逢うために、わざわざ地獄を訪れたのかと千鶴は訝った。自分がそこまで鬼に優しかったなんて、我ながら信じられない話だ。
しかし、地獄で鬼を見つけた時に嬉しくなったのは事実だ。地獄へ堕ちたのでないのなら、忠之が言うように自分から鬼に逢いに行ったのだろう。
「うちをイノシシから護ってくれたんが対の鬼じゃとしたら、鬼は地獄からこの世へ抜け出せたいうことよね?」
「ほうじゃな。そがぁなるな」
「ほれは、風寄にあった鬼よけの祠がめげてしもたけん?」
「いや、ほうやないな」
「なして、そがぁ思いんさるん?」
「鬼は千鶴さんを助けたぎりで、村の者に何も悪さはしとらんじゃろ?」
祠がなくなったことで出て来たのなら、鬼は村に禍をもたらしただろうと忠之は言った。確かに祠が鬼を封じていたなら、鬼はその恨みを晴らそうとするはずだ。
「じゃあ、鬼はどがぁして地獄から出て来られたろうか?」
忠之は少し間を置いて言った。
「お不動さまのご慈悲ぞな」
六
不動明王は前世の千鶴が世話になっていた法生寺の御本尊だ。だから鬼にとっても特別であり、その不動明王の慈悲によって、鬼は地獄から出たと思うと忠之は言った。
「千鶴さんを法生寺まで運んだんが、その証ぞな。鬼は自分が助けた千鶴さんを、お不動さまに託そとしたんよ。千鶴さんが欲しいんなら、そがぁなことすまい?」
なるほどと思いながら、千鶴は不動明王が地獄の鬼に慈悲をかける理由を訊いた。
忠之は千鶴の疑問にすらすら答えていたが、ここに来て一瞬口籠もった。だけど、すぐにまた喋り始めた。
「お不動さまがご慈悲をかけんさるには、ほれなりの理由があるんよ」
「ほれは、どがぁな?」
「鬼はな、ずっと神仏に背中を向けてきたんよ。ほの鬼がお不動さまに何ぞ願たんじゃろな。鬼が神仏に願うんじゃけん、ほれは余程のことで、お不動さまもご納得しんさるもんやったんよ」
「ほじゃけん、ほれは、どがぁな願いぞなもし?」
忠之が答えを知るわけがないのだが、忠之は自分が鬼だったらと言った。
「おらがほの鬼じゃったら、まずは千鶴さんを地獄から出すことを願うな。ほれと千鶴さんの幸せぞな。うん、たぶんほうなんよ。ほれで、ほの願いが聞き届けられたんで、千鶴さんはこの世に生まれ変わり、鬼は千鶴さんの幸せを見届ける許しがもらえたんよ」
誰がこんな説明を思いつくだろう。千鶴は泣きそうになった。それでも、まだ訊いていないことがある。
「お祓いの婆さまに、鬼が取り憑いとるて言われたんは?」
「千鶴さんの後ろには鬼がおるやもしれん。ほやけど、ほれは悪い意味で取り憑いとるんやないで。取り憑くいうより、見守っとるいう方がええんやないかな。鬼は己と似ぃた者にしか取り憑けんのよ。ほじゃけん、優しい千鶴さんには取り憑けまい」
「けんど、お見合い断ってから、悪いことぎり起こりよるんよ?」
「不安な気持ちは悪い気ぃを呼ぶもんぞな。悪いことがあったにしても、ほれが鬼のせいとは限らんのよ。そもそも鬼が本気で千鶴さんに悪さしよて思たんなら、今言うたようなもんじゃ済まんぞな」
「じゃあ、お見合いの人は? 名前は鬼山いうて、自分のこと、鬼やて言うたんよ?」
「名前に鬼がついとるんはたまたまじゃろ。ほれに、もしそいつがまことの鬼じゃったら、鬼娘やない千鶴さんに己の正体を明かしたりはすまい。さらにいうたら、千鶴さんの店の悪口言いふらすような姑息な真似もせんけん。恐らく、そいつは己が鬼になったつもりでおるぎりなんよ」
「じゃったら、鬼のことは――」
「なぁんも心配いらんぞな。千鶴さんは鬼娘やないし、鬼が悪さすることもないけん。鬼は千鶴さんの幸せ願とるぎりぞな」
忠之が優しく微笑むと、千鶴の目から涙がこぼれ落ちた。その場にしゃがみ込んだ千鶴は、両手で顔を覆って泣いた。
「うちはひどい女子ぞな……。鬼は何も悪いことしとらんのに……、うちの命、助けてくれたぎりやのに……、うちは鬼じゃいうぎりで感謝もせんで勝手に怖がりよった……」
「仕方ないぞな。相手は鬼なんじゃけん」
忠之は横にしゃがんで慰めたが、千鶴は首を振った。
「うちな、何もしとらんのに、悪いことあったら、全部うちのせいにされたりな……、助けたつもりが、この顔見られて悲鳴上げられたりしたんよ……。ほれが、どんだけつらいかわかっとんのに、うち、対のこと鬼にしてしもた……。うちは最低の女子ぞな……」
「千鶴さんのその言葉、鬼はちゃんと聞いとるけん。姿見せられんけんど、きっと千鶴さん拝んで泣きよらい」
千鶴を慰める忠之の声は、何故だか震えていた。
千鶴は涙を拭いて立ち上がると、両手を合わせて目を閉じた。
「鬼さん、うちを助けてくんさり、だんだんありがとうございました。今まで鬼さんを悪思たこと、どうか堪忍してつかぁさい。うちは自分勝手な女子じゃった。もう怖がったりせんけん、どこにも行ったりせんで、ずっと傍におってつかぁさい」
頭を下げてから千鶴が目を開けると、忠之は背中を向けて空を仰いでいた。その肩は何故か震えている。
千鶴が声をかけると、忠之は両手で顔をこすってから笑顔で振り向いた。
「まこと……、千鶴さんは優しいお人じゃな。きっと鬼は感激しよらい」
「じゃあ、うちが誰ぞ好いても、鬼は怒ったりせん?」
「せんせん。千鶴さんが幸せじゃったら、鬼も嬉しいけん」
「ほな、うち、佐伯さんを好いても構んのですか?」
「構ん構ん」
言ってから、え?――と忠之は驚いた。千鶴は大喜びをしたが、忠之は慌てている。
千鶴は上目遣いで忠之を見ながら言った。
「佐伯さん、鬼が一緒の女子は、お嫌かなもし?」
「いや、そげなことは……」
忠之がぎこちなく笑うと、よかったと千鶴は笑顔になった。
「これで、うち、幸せになれるけん。鬼さんも安心じゃね!」
千鶴ははしゃいだが、忠之は当惑顔で北の方を向き、お不動さまとつぶやいている。
「佐伯さん、お不動さまに何言うておいでるん?」
「あの、ほやけん、お礼を――」
千鶴は忠之に抱きついた。忠之は大いにうろたえた様子だったが、千鶴はお構いなしに喜びに浸った。
自分が慕っている人を祖父が気に入って山﨑機織で雇うのは、いずれは自分の婿にと考えているのに違いない。夫婦になった自分たちの姿が思い浮かぶと、千鶴は叫びたくなった。
一方、忠之の方はというと、千鶴と目を合わせると微笑むが、横を向いた顔は何だか困っているみたいだ。
忠之の心には夫婦約束をした娘への想いが残っている。そのことが忠之を戸惑わせるのだろう。だけど、その娘はもういない。
この人を笑顔にできるのは自分だけだと、千鶴は自らを励まし、絶対にこの人を真っ直ぐ自分の方に向かせてみせると、強く心に誓った。
これまでずっと恐れていた鬼が、後ろから支えてくれている気がする。敵に回せば怖い鬼も、味方になってくれれば百人力だ。
きっとうまくいく。困惑気味に微笑む忠之を見ながら、千鶴はそう確信していた。