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鬼の真実

     一

此度こたびはおまいさんにはまことに世話になった。お前さんがおらなんだら、どがぁなっとったかと思うと感謝の言葉もないぞな。このとおり、改めて礼を言わせてもらうぞなもし」
 茶の間に通された忠之に、甚右衛門は手を突いて頭を下げた。
 トミは茶の間とは障子で隔てられた部屋にいたが、その障子を開けて甚右衛門同様に頭を下げていた。
 着ている物が普段の着物ではなく寝巻ねまきである上に、トミの後ろには敷きっ放しの蒲団が見えている。トミの体調がよくないことは一目でわかる。甚右衛門ばかりか、そのトミまでもが蒲団から出て来て頭を下げていることに、忠之は大いにうろたえた様子だった。
「やめておくんなもし、旦那さんもおかみさんも、どうか頭を上げてつかぁさい。おら、そがぁにされるようなもんないですけん」
 甚右衛門は頭を下げたまま言った。
「お前さんには、千鶴がえらい世話になったとも聞いとるぞな。ほんことも含め、お前さんにはなんぼ感謝しても感謝しきれまい」
「ほれにしたかて、そこまでしてもらわいでもかまんですけん。どうぞ、お二人とも頭をお上げになっておくんなもし」
 ようやく甚右衛門たちが体を起こすと、忠之は居心地が悪そうにそわそわした。
「どがぁしんさった?」
「おら、体汚れとるけん、こがぁなとこに通してもらうんは気が引けるぞなもし」
 甚右衛門は呆れた顔になり、トミは面白そうに微笑んでいる。
「何を言うか思たら、お前さんはまっこと謙虚な御仁ごじんじゃな。そがぁな心配はせいでも構んけん、膝を崩してゆっくりしたらええ」
 はぁとうなずきながらも、忠之は正座の姿勢を崩さなかった。そわそわしてはいても背筋が伸びたその姿勢は、田舎の男とは思えないような品のよさがある。その姿に千鶴は改めて心が惹かれたが、甚右衛門とトミも感ずるところがあるようだった。
 お茶を淹れた花江は、どうぞと言って忠之の前に湯飲みと茶菓子を配った。
 両手を太腿ふとももの上に置いたまま、これはどうもと、背筋を伸ばして軽く会釈する忠之を見て、花江は思わずという感じで、ほんとにいい男だねぇ――と言った。
 それから花江は慌てたように手で口を押さえると、甚右衛門とトミに頭を下げたが、千鶴を見た花江の顔には、何か言いたげな笑みが浮かんでいた。
 千鶴が恥ずかしくて下を向くと、甚右衛門は忠之に茶菓子を食べるよう促した。
 忠之は静かに茶菓子を食べ、それからお茶を飲んだ。その一つ一つの仕草は、千鶴が見ていても気品を感じさせるものだった。
 忠之の様子を観察しながら自分も茶菓子を食べ、お茶を飲んだ甚右衛門は、湯飲みを置いて忠之に話しかけた。
「ほれにしても、今日は随分早ように着いたんじゃな。お陰でわしらは助かったけんど、前ん時は、もうちぃと遅かったろ?」
「前ので慣れましたけん、お天道てんとさんが顔出すちぃと前から走って来たんぞなもし」
「お天道さんが顔出す前から走って来た? 風寄からかな?」
 忠之がうなずくと、甚右衛門もトミも驚いた。
「あんた、ほんまにそげなことしんさったんか?」
 トミが目を丸くしたまま訊ねると、忠之は少し当惑気味にうなずいた。
「じゃあ佐伯さんは、まだ朝ご飯を食べてないのかい?」
 台所に下がっていた花江までもが、思わず話に混じった。
「朝飯前て言うやないですか」
 忠之は笑って答えたが、みんなは驚くばかりだった。
「そがぁに早くじゃったら、兵頭ひょうどうがうるさかったろうに」
 驚いた顔のまま訊ねる甚右衛門に、忠之は微笑みながらうなずいた。
「まぁ、ほうですね。ほんでも前の日から言うときましたけん、荷物の準備はしてくれよりました」
 千鶴は兵頭というのが誰のことかわからなかった。だがそれよりも、忠之が前にもここを訪れていたということが気になった。
「あの、前ん時ていつのことぞな?」
 千鶴が遠慮がちに訊ねると、トミが言った。
「あんたのお友だちが遊びにおいでたじゃろがね。あん時ぞな」
「え、ほんまに? そげなこと、うち、聞いとらんぞなもし。あの日、佐伯さん、ここにおいでてたん?」
 千鶴が顔を向けると、忠之は戸惑いを見せた。それで甚右衛門が代わりに言った。
「風寄の仲買人で兵頭いう男がおるんやが、その男の牛が病気になってな。絣を運べんなったんよ。ほれをこの佐伯くんが一人で大八車で運んでくんさってな。兵頭もわしらも大助かりじゃった」
 兵頭は名波村やその周辺の村の織元から伊予絣を買い集め、それを山﨑機織まで運んで来る仲買人である。
 牛の調子が悪かったにもかかわらず、兵頭は牛を酷使した。そのためにとうとう牛が動かなくなってしまい、兵頭は困り切っていたらしい。
 織元の所へ絣を仕入れに行くこともできず、兵頭が弱っているところに、たまたま出会でくわした忠之が手伝いを申し出たのだと言う。
 忠之は兵頭と一緒に織元を訪ね、牛の代わりに大八車で絣を運んだ。遠方にある織元の所へも、忠之は平気な顔で大八車を引いたので、その働きぶりが兵頭に認められたらしい。
 本来であれば風寄から松山まで荷物を運ぶのに、人力の大八車は使わない。だが、忠之であれば行けるだろうと踏んだ兵頭は、山﨑機織までの絣の運搬を忠之に任せたのである。
 それにしても兵頭も一緒に来るべきだろうにと千鶴は思ったが、最初に忠之が松山まで絣を運んで来た時、兵頭は腹を壊して長い道を歩くことができなかった。それで荷物の運搬から代金の受け取りまで、忠之一人に任せてみたのだそうだ。
 忠之は兵頭の期待どおりに仕事をきっちりこなし、お金も一銭の間違いもなく受け取って戻ったので、兵頭はすっかり忠之を信頼したようだった。
 それで今回は自分の体調が悪いわけでもないのに、またもや忠之一人に任せることにしたらしい。要するに兵頭は楽をしたわけである。
 とは言っても、朝早くに風寄から松山まで走る忠之に、ついて来ることはできなかったに違いない。
「ほうやったんですか。ほれにしても、こないだ佐伯さんがおいでてたてわかっとったら、うち……」
「どちゃみち友だちがおったんじゃけん、どがぁもなるまい」
 それはそうなのだが、あの時の大八車を引いて来たのが忠之だったのに、何も知らずに出かけてしまったことが、やはり千鶴には悔しかった。
 甚右衛門は忠之に握り飯を作ってやるよう花江に頼むと、忠之に向き直った。
「兵頭んとこの牛は、もういけんみたいかな?」
「いけんみたいぞなもし。もう、だいぶ歳ですけん寿命やなかろか思とります」
 忠之が答えると、ふむと甚右衛門は思案気な声を出した。
「ほれにしても、兵頭は余程よっぽどお前さんを信用しとると見えらい」
「有り難いことぞなもし」
 忠之は頭を下げるようにうなずいた。
 兵頭は忠之が山陰やまかげの者であると知っているはずだ。それなのにここまで仕事を任せるのは、忠之を余程信頼しているのに違いない。それは忠之が言うように、有り難いことだと千鶴も思った。
「ほれで、お前さん、牛の代わりはいつまで続けるつもりぞな?」
 祖父が何を考えているのかピンと来た千鶴は、期待を込めて忠之を見た。
 忠之は頭を掻きながら、ほれが――と言った。
「おらが絣を運んで来るんは、これが最後ぞなもし」
「これが最後? 兵頭は新しい牛を手に入れた言うんかな?」
 忠之はうなずくと、ほういうわけぞなもし――と言った。
 千鶴は半分喜び、半分不安になった。あとは祖父と忠之のやり取りを見守るだけだ。
「この仕事辞めたら、あとはどがぁするつもりぞな?」
 探るような口調で甚右衛門が訊ねると、忠之の方はさらりと答えた。
「これは別に仕事やないんぞなもし」
「仕事やない? 風寄からここまで大八車を引いて来て、また向こうへ戻るんぞ? ほれが仕事やないて言うんかな?」
「これは、おらの好意でしよるぎりのことですけん」
 忠之は笑みを見せたが、甚右衛門は眉間に皺を寄せた。
「お前さん、ひょっとして兵頭から銭をもろとらんのか?」
 忠之がうなずくと、甚右衛門は憤ったように横を向いた。トミも呆れたように口を半分開いている。
 どうして兵頭が山陰の者である忠之に、この仕事を任せたのか。
 それは忠之を信用していたからではない。忠之がただで牛の代わりをしてくれるからだったようである。
 しかも、代金をごまかしたりしないお人好しだ。利用しない手はないと兵頭は考えたのだろう。だが、こんな人を馬鹿にした話があるだろうか。
 千鶴は思わず忠之に言った。
「佐伯さん、なしてぞな? なして、ただでこがぁなことを?」
「正直言おわい。おらな、松山へ来る口実が欲しかったんよ」
「松山へ来る口実?」
「千鶴さんがおる松山に来てみたかったんよ。別に千鶴さんに会うつもりはなかったけんど、千鶴さんが暮らしておいでる松山に来てみとうて、この役目を引き受けたんよ」
 千鶴が暮らす松山へ来てみたい。その言葉は間違いなく千鶴への好意の表れである。千鶴に会いたかったとは言わない忠之に、もどかしさを覚えながらも千鶴は喜びに胸が詰まった。

     二

 お待たせ――と言って、花江が大きめの握り飯二つと、漬け物の小皿を忠之の前に置いた。
 おぉと感激する忠之に、花江は小声で言った。
「朝飯も食べずに風寄から走って来るなんて、本当は千鶴ちゃんに会いたかったんだろ?」
「いや、そがぁなことは……」
 惚けようとする忠之に、花江はにっこり笑って言った。
「別にいいけどさ。千鶴ちゃん、あの花をずっと大事に持ってるんだよ」
 忠之は驚いたように千鶴を見た。それは千鶴に花を飾ったのは、自分だと白状したようなものだ。
 何となくうろたえた感じの忠之に、甚右衛門は先に飯を食うように言った。
 忠之は両手を合わせると、がつがつと握り飯に食らいついた。やはり腹が空いていたようだ。
 途中、忠之が喉を詰まらせると、千鶴が背中を叩いてお茶を飲ませてやった。その光景を甚右衛門もトミも微笑ましく眺めていた。
 忠之が握り飯も漬け物も平らげると、甚右衛門は言った。
「さっきの話やが、お前さんがただで絣を運んでくれるんなら、兵頭は新しい牛を手に入れるより、お前さんに運んでもらい続けた方が得やし、楽なんやないんか? お前さんのことを信頼しとるようじゃし」
 ほうなんですけんど――と、また忠之は頭を掻いた。
「おらんとこのじいさまが、おらが銭もろとらんのを知って怒ったんぞなもし。ほれでまぁ、こがぁなことになってしもたわけでして」
 忠之は千鶴の方に体を向けて言った。
「ほんでも、最後にこがぁして千鶴さんに会えたんも、お不動さまのお陰ぞな。大八車引くんも楽しかったし、みなさんのお役にも立てたし、おら、十分満足できたぞなもし」
 千鶴は何とかするよう甚右衛門に目で訴えた。甚右衛門は咳払いをすると、実はな――と言った。
「うちは今、人手が足らんで困っとるんよ。ほやけど、誰でもええ言うわけにもいかんけん、どがぁしたもんじゃろかと思いよったとこに、お前さんが現れたわけよ。わしが言いたいこと、わかろ?」
 千鶴が忠之を見ると、忠之は小首をかしげている。れったくなった千鶴は忠之に言った。
「佐伯さん、うちで働きませんか?」
 千鶴の言葉を後押しするように甚右衛門も言った。
「本来なら、もっとこんまいうちに丁稚で入れて、じっくり育ててから手代にするんぞな。ほじゃけど、お前さんは子供やないけん、すぐに手代になれるようなら、きちんと給金を出そうわい」
「ほやけど、おら、こがぁなとこで働いたことないですけん」
「おさん、読み書き算盤そろばんはできるんかな?」
「はぁ、一応は」
「ほれじゃったら、すぐに手代になろ。この仕事で一番大事なんはお客からの信頼ぞな。そのためには知識はもちろんなけんど、何より人柄が大切ぞな。その人柄がお前さんは言うことなしじゃ。うちとしてはが非でもお前さんに来てもらいたいと思とるが、どがいじゃ? ちぃと考えてみてはもらえまいか?」
 忠之は腕組みをして考えている。千鶴はなりふり構わず、忠之の着物の袖を引っ張った。
「佐伯さん、お願いじゃけん、うんて言うておくんなもし! うんて言うてくれんのなら、うち、佐伯さんを帰さんぞな」
「どがぁする? 千鶴もこがぁ言うとるぞな」
 甚右衛門がにやにやしながら言った。
 忠之は目を閉じたまま、腕組みをして何やら考えていた。やがてぱちりと目を開けると、わかりましたぞなもし――と言った。
「おらの気持ちとしては、お言葉に甘えさせてもらう方に傾いとります。けんど、おらの家族が反対したら、この話はなかったことにさせてつかぁさい」
「お前さんは一人息子なんかな?」
「はい。ほじゃけん、おら、勝手なことはできんのです」
「ほら、確かにほうじゃな。ところで、お前さんの家では、何をしておいでるんかな?」
「履物をこさえとります」
「履物か。お前さんが跡を継がんと、だめんなるわけじゃな」
 忠之がうなずくと、甚右衛門の勢いがなくなった。自分と同じ境遇を忠之の親に見たのだろう。無理なことは言えないと悟ったようだ。
「もう一つぎり聞かせてもろて構んかな?」
 甚右衛門が遠慮がちに言った。
「お前さん、なして千鶴にいろいろ親切にしてくんさった? 見てのとおり、千鶴には異人の血が混じっとる。邪険にするもんが多いのに、なしてお前さんは千鶴を大事にしてくんさるんぞな?」
 忠之は姿勢を正すと、きっぱり言った。
「千鶴さんは素敵な娘さんぞなもし。ほれに、千鶴さんはまっこと優しいお方ぞなもし」
「優しい? 千鶴の方が、お前さんの世話になったんじゃろ?」
「おら、力ぎり自慢の何の取り柄もない男ぞなもし。誰っちゃ見向いてくれん男ぞな。けんど、千鶴さんはこげなおらに優しい言葉をかけてくれました。ほじゃけん、おら、千鶴さんの力になりたい思たんぞなもし」
 自分が山陰の者であることを、忠之は暗に話しているのだと、千鶴は思った。
「佐伯さんこそ素敵なお人ぞな。取り柄がないやなんて、そげなことありません。うちみたいなもんのために、ここまでしてくれるお人なんて、佐伯さん以外にはおらんぞなもし」
 千鶴が忠之を持ち上げると、忠之は甚右衛門やトミがいるのを忘れたように言葉を返した。
「千鶴さんこそ、千鶴さんほどええ人は、どこっちゃおらんのじゃけん、自分のことをそがぁに言うもんやないぞな」
「ほれは佐伯さんのことぞなもし。佐伯さんこそ、まっことええお人なんじゃけん、もっと胸張ってええと思います」
 台所で花江が背中を向けたままくすくす笑っている。トミも具合が悪いのを忘れたように笑いながら、まぁまぁと声をかけた。
 甚右衛門もにやりと笑い、どっちもどっちじゃの――と言った。

 忠之は万が一のためにと、懐に油紙の包みを忍ばせていた。自分で薬草から作った膏薬だ。傷によく効くというその膏薬の包みを、傷めた膝にどうぞと、忠之は甚右衛門に手渡した。
 忠之はトミにも胸の病に効くツボを教え、そこにお灸を据えるといいと教えてくれた。また、自分の本当の想いを隠さないのが、胸には一番いいと言った。
 トミがはっとしたような顔になって涙ぐむと、医者でもないのに余計なことを言ったと、忠之はすぐに詫びた。だがトミは怒ることはせず、そのとおりだと思うとうなずいた。
 感心した甚右衛門に、どうしてそんなにいろいろ知っているのかと問われると、田舎では自分のことは自分でするしかないからと、忠之は答えた。
 しばらく忠之にツボを指圧してもらっていたトミは、気分がよくなったと忠之に感謝した。また千鶴には忠之を見送るようにと言った。
 甚右衛門もトミに同意し、二人で団子でも食えと千鶴に銭を渡してくれた。
 そこへ茂七が遠慮がちにやって来て、甚右衛門に太物屋への注文の品はどうすればいいのかと言った。大八車がなければ運べないということだ。
 甚右衛門が顔を曇らせると、茂七は忠之に風寄にはいつ戻るのかと訊いた。すぐに戻らないのであれば、その間だけでも大八車を貸して欲しいと思ったのだろう。
 忠之は軽い感じで、大八車はここへ置いて行くから好きに使ってくれればいいと言った。
 それはいけんと甚右衛門が言ったが、忠之は大丈夫ぞなと微笑んだ。兵頭にはここへ荷物を運んだところで、大八車が壊れてしまったと伝えておくつもりらしい。
 それでも甚右衛門は躊躇ちゅうちょしたが、とにかく大八車は置いて行くと忠之は言った。
 甚右衛門とトミは深々と頭を下げた。茂七は忠之の両手をしっかり握ると、嬉嬉ききとして辰蔵に報告に行った。
 忠之が帳場へ行くと、みんなが忠之に感謝した。そこへ電報が届いたのだが、何とそれは東京の取引先からの絣の注文電報だった。
 みんなは踊り出すほど大喜びをし、忠之を福の神だと言った。
 何度も感謝されることに戸惑いながら、忠之は山﨑機織をあとにした。その横には嬉しさ一杯の千鶴がいる。

     三

「何から何まで、ほんまにありがとうございます」
 千鶴は改めて忠之に礼を述べた。忠之は笑いながら、もうやめてつかぁさい――と言った。
「そげなことより、千鶴さんのご家族も、お店の人らもええ人ぎりじゃな。おら、まっこと安心した」
「まぁ、番頭さんらも花江さんもええ人なけんど、おじいちゃんはほんまはうちのことなんぞ、どがぁでもよかったんぞな。ただ、お店を継ぐもんがおらんけん、うちにお見合いさせて――」
 そこまで言ってから、千鶴ははっとして手で口を押さえた。しかしすでに遅く、へぇと言う顔で忠之は千鶴を見た。
「千鶴さん、お見合いしたんかな」
「いえ、お見合い言うか、おじいちゃんが無理やり男の人連れて来て、顔合わせさせられたぎりぞな。ほやけど、うち、ちゃんとお断りしたんです。何や偉そうな感じのお人で、絶対嫌じゃ思たけん断ったんぞなもし。ほしたら、ほの人、山﨑機織は潰れる言うて、嘘の噂を広めよったんぞな」
 憤る千鶴をなだめると、忠之はにっこりしながら言った。
「自分でこれはいけん思たら、その心にしたごうたらええぞな。お不動さまは千鶴さんの心の中においでてな、どがぁしたらええんか、千鶴さんの心を通して教えてくんさるんよ。そがぁしよったら、きっとええ人に巡り会えるけん」
「その話がまことなら、うち、もうええ人に巡りうたぞなもし」
「へぇ、ほうなんか。ほれは、どがぁなお人ぞな?」
 何てれったい人なんだろうと千鶴は思った。だが、やはり心の内を打ち明けるのは気が引けた。
「前にも言うたけんど、うち、誰かを好いたり好かれたりできんのです」
「前にも言うたけんど、そげなことは絶対ないけん。千鶴さんは幸せになれるけん」
 道を行き交う人たちが、いぶかしげに二人を振り返った。それで、千鶴たちはしばらく黙ったまま歩いた。途中に寺が現れると、千鶴は寺の境内に忠之を引き込んだ。
 誰もいない境内で、千鶴は忠之を見つめた。その目に忠之への想いを込めたのだが、忠之はどこまで鈍いのか、あるいはわかって無視しているのか、辺りをきょろきょろと見回している。
「千鶴さん、ここは何の寺ぞな?」
「そげなことは、どがぁでもええんです。うち、佐伯さんにどがぁしてもきたいことがあるんぞなもし」
 ようやく覚悟を決めたような顔になった忠之に、千鶴は言った。
「佐伯さん、風寄でお祭りの夜、おおけなイノシシの死骸が見つかった話、ほんまは知っておいでるでしょ?」
「ほの話かな。確かに知っとるよ。ほれが、どがぁしたんぞな」
「うち、あのイノシシに襲われたんぞな」
 忠之の顔が一瞬ゆがんだ。
「ど、どこで襲われたんぞな? あげなイノシシに襲われたら、無事では済まんじゃろに」
「あのイノシシの死骸が見つかった所ぞなもし。死骸があったあの場所で、うちは襲われたんぞな」
「じゃったら、どがぁして無事でおれたんかな?」
「うち、気ぃうしのうてしもたけん、何も覚えとらんのです。目ぇ覚めたら、何でか法生寺におったんぞなもし。和尚さんに訊いたら、誰ぞが庫裏くりの玄関叩くんで外へ出てみたら、そこにうちが寝かされよったて言われたんぞな」
「ほれは、いったいどがぁなことぞな?」
「ほれを、佐伯さんに訊いとるんぞなもし」
「おらに?」
「ほやかて、佐伯さんでしょ? うちの頭に野菊の花飾ってくれたんは」
「いや、おらは何のことやら……」
 忠之はとぼけようとしたが、明らかにうろたえている。
 千鶴は畳みかけるように言った。
「うちが佐伯さんに助けてもろた時、佐伯さん、言いんさったでしょ? お不動さまにうちの幸せをねごてくれたて。初めてうたはずやのに、どがぁしてそげなことができるんぞなもし?」
「ほれは……」
「あん時以外にうちを見たとしたら、うちが気ぃ失いよった時しかないぞなもし。ほれに法生寺のご本尊さまはお不動さまやし、佐伯さんがうちの幸せを、お不動さまにお願いしんさったとしたら、あん時しかないですけん」
 忠之は罰が悪そうに、頭を掻いた。
「千鶴さんは、まっこと頭のええお人ぞな」
「なして黙っておいでたんです?」
「ほやかて、気ぃうしのうとる女子おなごの頭に勝手に花飾ったら、何て思われるかわかるまい? ほじゃけん、黙っとったんよ」
「庫裏の戸叩いたんも、佐伯さんでしょ?」
 忠之は素直に認めた。
「なして姿消しんさったん?」
「おらが千鶴さんにぞ悪さした思われたら困るけん。ほれに頭に花飾ったんも、和尚さんらに知られとないじゃろ?」
「まぁ、ほれはほうじゃね」
 うなずく千鶴に、忠之は付け足して言った。
「ほれにな、あん時、おら、ほとんど素っ裸やったんよ」
「素っ裸?」
 思わず顔が熱くなった千鶴に、忠之は慌てたように言い直した。
「素っ裸やのうて、ほとんど素っ裸ぞな。一応、腰には破れた着物巻きよったけん」
「なして、そげな格好やったんぞな?」
「ちぃと村の連中と喧嘩けんかしたんで、着物破かれてしもたんよ。お陰さんで、ばぁさまにしこたま怒られたぞな。縫い直すんはいっつもばぁさまじゃけんな」
「佐伯さんて喧嘩好きなんですか?」
「別に好きいうわけやない。おら、争い事は好まんけん」
 恐らく山陰の者というだけで、一方的に喧嘩を売られたに違いない。千鶴は喧嘩のことには触れるのをやめた。
「あの晩、佐伯さんはうちをどこで見つけんさったん?」
「石段下りたとこねきに、花がようけ咲きよる所があるんよ。そこにな、千鶴さんが倒れよったんぞな」
「ロシアへ行かせた娘さんと見間違えたん?」
「あんまし似よるけん、本人か思いよったぞな」
 その娘は野菊の花が大好きで、また野菊の花がよく似合ったと言う。それで、つい千鶴に花を飾ってしまったと忠之は弁解した。
 やはり千鶴が思ったとおりのようだ。照れ笑いをしている忠之の心の中には別れた娘が住んでいる。
 千鶴は切ない気持ちになった。しかし気を取り直して、佐伯さん――と言った。
「うちを見つけた時、妙なもん目にせんかったですか?」
 忠之は眉をひそめると怪訝けげんそうに言った。
「妙なもんとはぞな?」
 千鶴は少し迷ってから思い切って言った。
がんごぞなもし」
 忠之の顔が明らかにゆがんだ。それは、忠之が鬼のことを知っているという証に見える。だが、妙なことを言うと思ったのかもしれなかった。
 忠之は動揺した様子で言った。
「なして、そげなこと言うんぞな?」
「佐伯さん、イノシシの死骸がどがぁなっとったか、ご存知ですよね?」
 忠之は黙ったままだったが、千鶴は言葉を続けた。
「あのイノシシの頭をぺしゃんこにつやせる生き物はおりません。ほやけん、イノシシあやめたんはがんごやと、うちは思とるんです」
「化けは他にもおろうに、なしてがんごや思んぞな?」
「ほれは――」
 千鶴は唇を噛んだ。
 この人にだけは知られたくない。しかし、言わねばならないと千鶴は思った。
 言わねば、この人を不幸に巻き込んでしまう。それだけは死んでも避けたいことだった。
「佐伯さん」
 千鶴は顔を上げた。頬を涙がぽろりと流れ落ちた。
「うち、がんごめなんぞな」

     四

 泣きじゃくる千鶴を、忠之は黙って抱きしめてくれた。
 がんごめという言葉の意味を確かめようとしないのは、その意味を知っているということだ。それなのに逃げないで抱きしめてくれる忠之の優しさが、千鶴の涙をさらにさそった。
 気持ちが少し落ち着くと、千鶴は忠之から離れ、夢で見た地獄のことや、おヨネの話、それにお祓いの婆のことを話した。
 また、鬼にイノシシから救ってもらったのも、自分ががんごめだからだし、法生寺へ運ばれたのも、法生寺がかつてがんごめが暮らした所だからだと言った。
 忠之は千鶴の話を否定することなく、また嫌な顔を見せることもなく、最後まで聞いてくれた。
 本当は困惑しているかもしれなかったが、そんな様子は少しも見せず、ただ千鶴の苦しみや悲しみを受け止めてくれているようでもあった。
 そんな忠之の姿に安心しながらも、自分が忠之と同じ人間ではないことが千鶴を悲しくさせた。
 千鶴は忠之と目を合わせることができず、目を伏せて言った。
「きっと、うちは法生寺におったがんごめの生まれ変わりぞな。ほじゃけん、がんごはうちを見つけて、うちが風寄へ行くよう仕向けたんよ」
「千鶴さんがここにおるんがわかっとんのに、なしてがんごはわざに千鶴さんを風寄へ呼び寄せる必要があるんぞな?」
「うちのことをよう確かめるためぞな。ほれで、やっぱしがんごめじゃてわかったけん、うちに取り憑いて松山まで来たんよ」
 鬼に何か悪さをされたのかと忠之は訊ねた。千鶴の話を聞いてはくれたが、千鶴に鬼が憑いているということには、忠之は懐疑的のように見えた。
 千鶴は忠之に顔を向けると、仲間の鬼と夫婦めおとにさせられそうになったと言った。
「ほれが、さっき言うたお見合いなんか」
 千鶴はうなずき、見合い相手の名前が鬼山で、本人が自分のことを鬼だと言ったと説明した。
「うちがお見合い断ったら、その人、えらい怒りんさって、ほれから、次から次に悪いことが起こったんぞな」
 千鶴は具体的に何があったのか忠之に話し、そのうち、みんな鬼に殺されると言って涙ぐんだ。
 ほうじゃったかと、忠之は悲しそうに下を向いた。
 千鶴は鬼の報復も怖いが、自分のことも怖いと言った。
「お見合い断ったとこで、うちはがんごめじゃけん。そのうち鬼の本性出して、みんなとは一緒にはおられんようになるんぞな」
「そげなこと――」
 顔を上げた忠之の言葉を遮るように、千鶴は首を振った。
「うち、今はまだ人の心持ちよりますけんど、今におとろしいがんごめになって、人を殺して食べるようになるんぞな。ほれが怖ぁて怖ぁて、ほやけど誰にも相談できんけん、うち……、うち……」
 項垂うなだれる千鶴に、忠之は静かだが力の籠もった声で言った。
「大丈夫ぞな。千鶴さんはがんごめなんぞになったりせんけん」
「そげなことない。うち、いつかきっとがんごめになって、佐伯さんのことも平気で命を奪うようになるんよ」
 千鶴がまた泣き出したので、忠之はもう一度千鶴を抱きしめた。
「大丈夫ぞな。ほん時は、おらがこがぁして千鶴さんのこと、ぎゅっと抱いて言うてあげようわい。千鶴さんはがんごめやない、千鶴さんは人間の娘ぞな、千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞな――て言うてあげるけん」
 千鶴は、涙に濡れた顔を上げた。
「ほやけど、うち、佐伯さんを傷つけるかも知れんのに?」
「ほんでも言うてあげるぞな。おら、この命が尽きようと、死ぬるまでずっと言い続けてあげるけん」
 こんなことを言ってもらえるとは思いもしなかった。
 千鶴はまた泣いた。忠之は黙って千鶴を抱き続けてくれた。
 忠之から伝わる温もりが、千鶴の心も優しく抱き続けてくれる。その優しさに包まれていると、不安も恐怖も悲しみも全てが癒やされていくようだ。
 しばらくして千鶴がようやく泣き止むと、忠之は手拭いで千鶴の涙を拭いてくれた。その忠之の目も、何故か泣いたように赤くなっている。
「おら、千鶴さんがどがぁに苦しんでおいでたんか、ようわかったぞな。今の千鶴さんの気持ち、おらにはようわかる。ほやけどな、千鶴さんは誤解しとるぞな。ほじゃけん、ほんまの話をおらが教えてあげようわい」
「ほんまの話?」
「あぁ、まことのほんまの話ぞな」
 忠之は微笑みながらうなずいた。だが、その目は何だか哀しげだった。

     五

 明治が始まるより前の話だと、忠之は言った。
「おヨネさんが言うたとおり、ほん頃の法生寺には、がんごめて呼ばれた娘がおったんよ。ほやけどな、ほれはそがぁ呼ばれよったぎりのことで、ほんまにがんごめやったわけやないんよ」
「ほれは、どがぁなこと?」
「ほの娘はな、異国の血ぃ引いとったんよ。ちょうど千鶴さんみたいにな。今でも異人は珍しがられるけんど、ほん頃は誰も異人なんぞ見たことないけんな。これは人やない、がんごめに違いないとなったんぞな」
 その話を誰から聞いたと訊ねると、法生寺にいた和尚から聞いたと忠之は言った。ただ、それは知念和尚より前の和尚らしい。
 知念和尚は前の和尚からの引き継ぎで、何も教えてもらえなかったが、忠之はうまく話を聞き出したようだ。
「ほじゃけんな、仮に千鶴さんがその娘の生まれ変わりじゃったとしても、千鶴さんががんごめとは言えんのよ。ほうじゃろげ?」
 忠之の言葉は千鶴の不安を和らげてくれた。
 これも前の和尚から聞いたと、前置きをしてから忠之は言った。
「みんな、がんごおとろしいもん、穢らわしいもんやて思いよる。ほじゃけん、誰も鬼に優しい言葉なんぞかけたりせん。けんど、かてな、好きでしよるわけやないし、みんなが思とるように、いっつもかっつも悪いことぎりしよるんやないんよ」
 ほんでもな――と言うと、忠之は横を向いた。
所詮しょせんがんごは嫌われもんぞな。ほれはかてわかっとる。もう、あきらめとるんよ。そげながな、もし誰ぞに優しいにされたら、どげな気持ちになる思う? まずは、たまげるじゃろ? かの間違いやないかて思うんよ。ほんでも間違いやないてわかるとな、ほれまでなかったほっこりしたもんが、胸の中に湧いて来るんよ。ほれがまたには嬉しい言うか、涙出るほど感激するんぞな」
 忠之の話を聞いていると、鬼というものの印象が全く違ったものになって来る。千鶴の心にあった恐怖はほとんど消えかけていた。
「うち、もしかして前世でがんごに優しいにしたんじゃろか?」
がんごは普段は人の姿に化けとるけん、ぱっと見た目には、ほれ鬼かどうかはわからんそうな。ほじゃけん、千鶴さんはと知らんで、優しいにしてやったんかもしれんな。ほんでもはほれを忘れんで、今も大切な千鶴さんを護ろうとしたんじゃろ」
「じゃあ、うちが地獄へ行ったんは? 亡者にがんごめて言われたし、うちはがんごに会いたかったんよ? あれは、なして?」
「亡者の言うことなんぞ、何も気にせいでええ。悪いことはでもかんでも人のせいにして、罪のないおとしめようとした連中ぞな。地獄に堕ちるんは当たり前ぞな」
 忠之は吐き捨てるように言った。
「ほやけど、うちかて地獄へ堕ちたんでしょ?」
「千鶴さんは違うぞな。きっとな、千鶴さんはがんごの正体知ったあとも、その鬼のこと心配して自分で会いに行ったんよ。ほんまじゃったら、もっとええとこへ行くはずじゃったのに……」
 忠之は千鶴から顔を隠すように、ふと顔を横に向けた。
「千鶴さんはな、まっこと優しいお人ぞな。地獄まで会いにおいでてくんさった千鶴さん見つけた時に、がんごがどんだけ感激したか、おらにはわかる」
「うち、そがぁに優しい女子おなごやったやなんて信じられんぞな」
 忠之は笑顔で千鶴を振り返って言った。
「ほやけど、多分ほういうことぞな。ほじゃけん、千鶴さんがイノシシに襲われた時、がんごが現れて助けてくれたんよ」
「うち、地獄へがんごに会いに行ったのに、なして、ここにおるん?」
「大切な千鶴さんを、地獄へおらすわけにいくまい? がんごはな、己が滅してでも千鶴さんの幸せねごて、元の明るいとこへ戻そとしたはずよ。そのためには、ほれまで逆ろうてぎりじゃった、神さま仏さまにも頭下げたに違いないぞな」
「じゃあ、うちがこがぁしてこっちに産まれて来れたんは、がんごのお陰なんじゃね?」
「ほやない。がんごねごたぎりよ。ほの願いを叶えてくんさったんは、お不動さまぞな。ほじゃけん、は千鶴さんを法生寺まで運んだんよ。お不動さまに助け求めてな」
 疑問が次々に解決して行く。
 千鶴は答が戻って来るのを期待して訊ねた。
「お祓いの婆さまに、がんごが取り憑いとるて言われたんは?」
「千鶴さんの後ろには、がんごがおるやもしれん。ほやけど、ほれは悪い意味で取り憑いとるんやないぞな。取り憑く言うより、見守っとる言う方がええんやないかな。鬼は己と似たようなもんにしか取り憑けんのよ。ほじゃけん、優しい千鶴さんには取り憑けまい」
「けんど、お見合い断ってから、悪いことぎり起こりよるんよ?」
「不安な気持ちは悪い気を呼ぶもんぞな。悪いことがあったにしても、ほれががんごのせいとは限らんのよ。そもそも鬼が本気で千鶴さんに悪さしよて思たんなら、今言うたようなもんじゃ済まんぞな」
 それは確かにそうかも知れないと千鶴も思った。
「じゃあ、お見合いの人は? 名前は鬼山言うて、自分のこと、がんごやて言うたんよ?」
「名前に鬼がついとるんは、たまたまじゃろ。ほれに、そいつがまことのがんごじゃったら、がんごめやない千鶴さんに、己の正体明かすような真似はせんぞな。さらに言うたら、千鶴さんの店の悪口を言いふらすような姑息こそくな真似もせんけん」
「じゃったら、がんごのことは――」
「何も心配いらんぞな。千鶴さんはがんごめやないし、がんごが悪さすることもないけん。鬼は千鶴さんの幸せねごとるぎりぞな」
 千鶴の目から涙がぼろぼろこぼれ落ちた。千鶴はしゃがみ込むと、両手で顔を覆って泣いた。
「うちはひどい女子おなごぞな……。がんご何も悪いことしとらんのに……、うちの命、助けてくれたのに……、うちは、じゃ言うぎりで感謝もせんで、勝手に怖がりよった……」
仕方しゃあないぞな。相手はがんごなんじゃけん」
 忠之は横にしゃがんで慰めたが、千鶴は首を振った。
「うちな、もしとらんのに、悪いことあったら、何でもうちのせいにされたりな……、助けたつもりが、この顔見られて悲鳴上げられたりしたんよ……。ほれが、どんだけつらいことかわかっとんのに、うち、ついのことがんごにしてしもた……。うちは最低の女子おなごぞな」
「千鶴さんのその言葉、がんごはちゃんと聞いとるけん。姿見せられんけんど、きっと、千鶴さん拝んで泣きよるぞな」
 千鶴を慰める忠之の声は、今にも泣きそうだった。
 千鶴は涙を拭いて立ち上がると、両手を合わせて目を閉じた。
がんごさん、うちを助けてくんさり、だんだんありがとうございました。今までさんのことわる思たこと、どうか堪忍してつかぁさい。うちは自分勝手な女子おなごじゃった。もう怖がったりせんけん、どこにも行ったりせんで、いつまでもねきにおってつかぁさい」
 頭を下げてから千鶴が目を開けると、忠之は背中を向けて空を仰いでいた。何故か、忠之の肩は震えているように見える。
 千鶴が声をかけると、忠之は両手で顔をこすり笑顔で振り向いた。
「まこと、千鶴さんは優しいお人じゃな。がんごは感激しよるぞな」
「じゃあ、うちが誰ぞ好いても、がんごは怒ったりせん?」
「せんせん。千鶴さんが幸せじゃったら、がんごも嬉しいけん」
「ほな、うち、佐伯さんを好いてもんのですか?」
ん」
 言ってから、え?――と忠之は驚いた。千鶴は大喜びをしたが、忠之が慌てていたので、千鶴は上目遣いで忠之を見た。
がんごが一緒の女子おなごは、おいやですか?」
「いや、そげなことは……」
 うろたえる忠之に、よかった――と千鶴は笑顔で言った。
「これで、うち、幸せになれるけん。がんごさんも安心じゃね!」
 千鶴ははしゃいだが、忠之は当惑顔で北の方を向き、お不動さま――とつぶやいている。
「佐伯さん、お不動さんに何言うておいでるん?」
「いや、ほやけん、お礼を――」
 千鶴に抱きつかれ、忠之は大いにうろたえたようだった。
 自分が好意を寄せている人を、祖父が気に入って山﨑機織で雇うのは、いずれは自分の婿にと考えているのに違いない。
 夫婦めおとになった自分たちの姿が思い浮かび、千鶴は嬉しくて叫びたくなった。
 一方、忠之の方はと言うと、千鶴と目を合わせると微笑むが、横を向いた顔は、何だか困っているようにも見える。
 忠之も自分に好意を抱いてくれていると、千鶴は確信していた。
 しかし忠之の心には、まだ夫婦めおと約束をした娘への想いが残っているに違いなかった。
 だが、その娘はもういない。この人を笑顔にできるのは自分しかいないのだと、千鶴は自分に言い聞かせた。そして、絶対にこの人の心を、真っ直ぐ自分の方に向かせてみせると心に誓った。
 これまでずっと恐れていた鬼が、自分を後ろから支えてくれているような気がしている。敵に回せば怖い鬼も、味方になってくれれば百人力だ。
 きっとうまく行く。困ったように微笑む忠之を見ながら、千鶴はそう思っていた。