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立ちはだかる壁

     一

 千鶴は忠之を客馬車乗り場の辺りまで送って行った。
 本当はもっと一緒に行きたかったが、忠之がここまででいいと言うので、渋々そこで別れることにした。
 別れ際、何とか山﨑機織へ来てくれるようにと、千鶴は念を押してお願いした。忠之はわかったと応じたものの、今ひとつ自信がない様子だった。
 一人息子の忠之が外へ出ることを、家族に了承してもらうのは、確かに簡単なことではないだろう。
 だが、忠之がはっきりしないのは、自分が山陰やまかげの者であるということへの不安もあるに違いない。
 それについては千鶴はえて触れなかった。忠之が自分の口からそのことを話してもいないのに、それを口にするのは失礼であると思っていた。
 それでも、ここまでちかしい仲になれた忠之と離れてしまうのは、絶対に嫌だった。忠之にも、もっと自信を持ってもらいたかった。
 もし松山に来られないなら、自分の方が風寄へ行くと千鶴が言うと、何とかやってみると忠之は約束した。
 忠之にしても、千鶴を山﨑機織から離れさせるようなことはしたくないのだろう。それでもやはり自信はなさそうだった。

 姿が見えなくなるまで忠之を見送ったあと、千鶴はとぼとぼと家路いえじいた。
 絶対に忠之が来てくれるという保証はなく、何とも心もとない気持ちだった。どうなるかはわからないが、忠之と心を通わせることができたのである。どんな形であれ、自分はあの人とともに生きるのだという覚悟が千鶴にはあった。
 また不安はあっても、気分を明るくしてくれる要素もある。それは、自分ががんごめではないとわかったことと、鬼を恐れる必要がないということだ。
 鬼から事実を確かめたわけではない。それでも忠之を絶対的に信じていることで、千鶴の不安は一掃されていた。
 それにしても、忠之と二人きりでこんなにゆっくりできるとは思っていなかった。本来ならば、今頃は学校にいるはずである。それを家にいるのは、祖母の世話をするためだ。
 それなのに祖母の世話をせず、家の手伝いもしないで忠之と二人で過ごさせてもらえたことは、天の恵みのようでもあったが、やはり後ろめたさはあった。
 それでも祖父母が忠之を見送れと言ってくれたのだ。山﨑機織だけでなく、自分にも運が向いて来たような気がして、千鶴の足取りは軽やかになった。

 千鶴が家に戻ると、花江が台所で昼飯の準備を始めていた。
 隣の茶の間には甚右衛門がいたが、その表情は明るかった。大八車や東京からの電報が明るくさせていたのは間違いないが、理由はそれだけではなかった。
 甚右衛門は忠之からもらった膏薬を膝にすり込んだようだが、それが早くも効き目があったらしい。痛みが随分和らいだ気がすると上機嫌だ。
 トミも忠之に教えてもらったツボにお灸をえたそうだが、体がとても楽になり、胸のつかえが下りたようだと言った。
「千鶴ちゃんのいい人は、福を運んで来てくれたみたいだね」
 花江がにこにこしながら言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。だが千鶴は、あからさまにいい人と言われて返事ができなかった。
 そんな千鶴の様子に花江はケラケラ笑いながら、味噌汁に入れる菜っ葉を土間の隅から拾い上げた。
「団子は食うたんか?」
 花江を手伝おうとした千鶴に甚右衛門が訊ねた。千鶴は慌てて姿勢を正し、お陰さまで美味しい団子を食べましたと報告をした。
「どこまで見送って来たんね?」
 今度はトミが訊ねた。山越までと千鶴が言うと、ほうじゃろと思いよった――とトミはにやりと笑った。
「ように時間がかかっとるけん、とわとこまで見送りに行ったんじゃなて思いよった」
「一緒に風寄まで行ったんやないかて心配したぞな」
 甚右衛門にも言われて、千鶴は二人に頭を下げて詫びた。だが、こんな言葉をかけてもらえるのは、やはり違和感があった。
 鬼が祖父母を操っていたのでなければ、この変わり様は何なのかと千鶴はいぶかしんだ。
 ただ、厳しく冷たい祖父母よりも、今のように温かく優しい祖父母の方がいい。跡継ぎの問題がそうさせているのかもしれないが、忠之と一緒になれるのであれば、千鶴としても不満はない。
「膝の具合もええみたいじゃし、これじゃったら、じきに帳場に座ることができよう。そがぁなったら辰蔵を東京へれるわい」
 とんとんと菜っ葉を刻む花江の手が止まった。何か考え事をしているように見えたが、すぐに元のように動き始めた。やはり東京という言葉は、花江には刺激が強いに違いない。
 当初の甚右衛門の予定では、喜兵衛を婿に迎えて手代を補強した上で、辰蔵を東京へやることになっていた。そして、あとで茂七を辰蔵と入れ替えるという話だったはずだ。
 しかし喜兵衛の話はついえたし、孝平だって大阪へ出たばかりだ。その孝平も一人前になって戻る保証はなく、このまま辰蔵を東京へ送ったのでは、辰蔵を呼び戻すことができなくなる。
「番頭さん、東京行ったら、こっちへは戻らんのかなもし?」
 千鶴が訊ねると、甚右衛門は、いんや――と言った。
「今ぎりぞな。今は向こうもごたごたしよるけん、行き慣れたもんやないと仕事にならん。ほじゃけん、辰蔵を行かせるけんど、落ち着いた頃に茂七をやるつもりぞな」
「茂七さんを? でも、そがぁなったら、こっちの人が足らんなるんや――」
「そがぁ思うか?」
 甚右衛門にき返され、そうかと千鶴は思った。
「佐伯さんがおいでるんじゃね?」
「ほういうことぞな。あの男は必ず来るとわしは踏んどる」
「おじいちゃん、ほんまにそがぁ思いんさるん?」
「間違いない。絶対に来るな」
 千鶴は嬉しかった。祖父がそこまで確信しているのであれば、きっと忠之は来るだろう。それに、そこまで忠之を認めてくれているのが、何よりだった。
 それでも千鶴は祖父の確信の根拠が知りたかった。
「けんど、なして絶対て言えるんぞなもし?」
 甚右衛門はじろりと千鶴を見ると、わからんのかと言った。
 千鶴がうなずくと、トミが笑いながら言った。
「あんたがおるけんじゃろがね」
 かぁっと顔が熱くなった千鶴は、思わず下を向いた。
「ほやけど、家族が反対したら来られんて言うておいでたぞな」
 小さな声で千鶴が言うと、甚右衛門は自信ありげに言った。
「家族が反対したままじゃったら来られんじゃろ。けんど、あの男は何とか家族を説得すらい」
「あんたがおるけんな」
 トミがもう一度同じ言葉を付け足すと、甚右衛門と二人で大笑いをした。
 千鶴は恥ずかしくて横を向いたが、何故か花江は笑わないで、刻み終わった菜っ葉をぼんやり眺めていた。
「わしの目に狂いがなかったら、あの男はぐんぐん伸びるぞな。茂七の代わりぐらい、じきにでけるようになろ」
「そがぁなってもらわんと困るぞな。このお店の将来がかかっとるんじゃけんね」
 祖父母の言葉に千鶴は胸が弾んだ。忠之を婿にすると言ってくれたわけではないが、祖父母の頭の中には、そんな景色が見えているのに違いない。そして、それは千鶴の目に浮かんだ景色でもある。

     二

「甚さん、おるかな」
 店の方で声がした。
 奥においでます――と辰蔵の声。すぐに茂七に案内されて組合長が入って来た。
「甚さん、膝の具合はどうかな?」
 そう言いながらトミの姿を認めた組合長は、おぉと声を上げた。
「おトミさん、もうええんかな?」
「お陰さんで、このとおりぞなもし」
 トミは両腕を曲げ伸ばししてみせた。
「ほうかな。ほれは、よかったよかった。次から次にようないことが起こるけん、心配しよったんぞな」
「ほれはどうも、ありがとさんでございます」

 トミが少しおどけたように言うと、えらい上機嫌じゃなぁと組合長は笑った。
「甚さんの方はどがいぞな? 膝はちぃとはようなったかな?」
 組合長が改めて甚右衛門に訊ねると、甚右衛門はだいぶええぞなと笑顔で言った。
「ほれにな、ようやっと東京から注文が入ったんよ」
「ほんまかな。ほれはほれは。向こうの様子はさっぱりわからんけん、ほんまに心配しよったんで」
 千鶴は花江と一緒に台所仕事をしていたが、組合長は今度は千鶴に声をかけた。
「千鶴ちゃんも学校休んで大事おおごとやったな。ほんでも、これでまた学校へ行けらい」
 組合長は千鶴が子供の頃から、よく声をかけてくれた。千鶴には数少ない理解者である。
 だが今の千鶴は学校と言われてもピンと来なかった。この店で忠之と二人で働く姿がずっと頭の中に浮かんでいる。組合長に学校と言われて、ああそうだったと思ったほどだ。
 何とか笑顔で体裁を整えたが、本当のところ学校はどうなるのだろうと千鶴は思った。
 基本的には休みは認められない。今回、祖母の看病で休むことになったと、千鶴と同じように松山から通う同級生に頼んで、学校へ伝えてもらってはいる。
 だが、何日休むのかという細かな話は伝えられないままだ。もう一週間は休んでいるはずなので、もしかしたら退学にされるかもしれなかった。
「ほんでも婿さんもろてこの店継ぐんじゃったら、学校なんぞ行かんでもええか」
 千鶴が喜兵衛と見合いをしたのは組合長も知っている。もちろんその話が壊れたことも知っているはずだが、千鶴が婿を取って店を継ぐというのは変わらないと考えているようだ。
 こんなことを言われると、千鶴はすぐに忠之と夫婦になっているところを想像してしまう。
「何、にやにやしてるのさ」
 隣にいた花江が小声でからかったが、それがまた今の千鶴には心地よい。すると、ほれがな――と甚右衛門が言った。
「千鶴に婿取ろかて思いよったけんど、本人がどがぁしても学校の教師になるんじゃ言うけんな」
 千鶴は驚いて甚右衛門を振り返った。ふざけているのかとも思ったが、甚右衛門は真面目な顔だ。
「ほうなんか。さすがは千鶴ちゃんぞな。今どきの女子おなごと違わい。わしは千鶴ちゃんが婿もろて、ここを継ぐんは面白おもろいなて思いよったんやが、学校の先生もええか」
「いや、あの……」
 うろたえる千鶴に甚右衛門が言った。
「どがぁした?」
「あの、学校だいぶ休んでしもたけん、多分退学やないかて……」
 いつもの調子に戻ったトミが即座に言った。
「そがぁなことがあるかいね。まだ今なら大丈夫ぞな。万が一、校長が何ぞ言いよったら、うちがねじ込みに行こわい」
「いやぁ、おトミさん、まっこと元気になったなぁ。ほんだけ元気じゃったら、もう心配いらんな」
 感心する組合長に、トミはまた元気よく腕を曲げ伸ばししてみせた。
 花江は千鶴が何を慌てているのかわかっているようで、笑いをこらえながら仕事をしている。
「ほやけど跡継ぎの方はどがぁするんぞ? 千鶴ちゃんに婿さんもらわんのなら、やっぱしさっちゃんかいな」
「あんまし期待はできんけんど、孝平もおるけんね」
 トミがため息交じりに言うと、組合長は顎に手を当て、孝平かと言った。
「まぁ、いろいろやってみたらええわい。ところでな、今日は甚さんに知らせることがあったんよ」
「わしに知らせること? 何ぞな」
「鬼山喜兵衛ぞな」
「鬼山喜兵衛?」
 目をぱちくりさせる甚右衛門に、組合長は続けて言った。
「千鶴ちゃんの見合い相手ぞな」
「そげなこと、わかっとらい。あの男がどがぁしたんぞ?」
 結局とっちめることができずにいた喜兵衛の名前に、甚右衛門は仏頂面になった。
「警察に引っ張って行かれよったぞな」
「警察に?」
 甚右衛門は目を見開いた。トミも驚き、千鶴と花江も組合長を振り返った。
「なして、つらまったんぞ?」
「何でも、社会運動に関わっとったみたいでな。前から警察に目ぇつけられとったらしいんよ。ほれで、こないだ集会しよるとこをつらまったそうな」
「集会したぎりでつらまるんですか?」
 千鶴が訊ねると、組合長は首を振った。
「集会の中身ぞな。民衆をたぶらかし世を乱そうとした不埒者ふらちもんとしてつらまったんよ。ほんまにええ話するならともかくやな。見合い断られた相手の悪口言い触らす奴の話なんぞ、誰が信用でけるかい」
 トミは甚右衛門を見ながら嫌味を言った。
「この人も、元お武家言うぎりで信用するんじゃけん」
「つかましいわ。どこの家にもろくでもないもんはおるもんぞ」
 甚右衛門はむっとした顔で言い返した。
「孝平のことを言うておいでるん? あの子じゃったら大阪でがんばりよろがね」
「そげなこと、わかるかい」
「作五郎さんが何も言うておいでんのは、あの子がうまいことやっとる証ぞな」
 二人が言い争うので、まぁまぁと組合長が止めた。
「そげなことしよったら、おトミさん、またぶっ倒れてしまわい。ほれより、甚さん。東京へは誰をるんぞ?」
「取りえずは辰蔵を遣るつもりよ。ほれで時期見て、茂七と交代させようわい」
「茂七かな。ほやけど茂七を遣ってしもたら、こっちはどがいするんぞ? 辰さんが番頭しながら、外廻りするわけにはいかまい。かと言うて、弥七一人じゃ心許こころもとないぞな」
「そげなことは言われいでも、わかっとらい」
「当てはあるんかな?」
「何とかならい」
 甚右衛門は千鶴を見て、にやりと笑った。
 さっきは婿の話はなくなったようなことを言ってたくせに、祖父はどういうつもりなのだろうと千鶴はいぶかしんだ。
 まさか忠之を使用人として雇いながら、自分のことは小学校教師として、外へ出そうとしているのだろうか。
 そんな考えが頭をよぎって、千鶴がぷいっと横を向くと、また花江が笑っていた。

     三

 久しぶりに学校へ行くと、千鶴は校長室へ呼び出された。
 校長は千鶴が休んでいた事情を知っている。それでも決まりだからと前置きをし、今度欠席になるようであれば、卒業間近であっても退学になるから気をつけるようにと忠告した。
 また、このあと欠席がなくても成績が悪ければ、やはり退学になるから、遅れた勉学を死に物狂いで取り戻すようにとも言った。
 わかりましたと神妙な顔で答えたものの、千鶴は退学になっても構わない気持ちになっていた。
 ただ、祖父母が組合長に話したことが、祖父母の本当の考えであるなら、簡単に退学になるわけにはいかなかった。
 だが、忠之が山﨑機織に来るのであれば、毎日学校に通ってなんかいられないという気持ちもあった。
 大体、忠之を雇うというのに、自分には学校へ行けと言うのは矛盾していると、千鶴は少し腹立ちを覚えていた。
 とは言うものの、確かに喜兵衛との縁談を断るのに、自分は教師になるつもりだったと見得みえを切ったのは事実である。他に断りようもあったろうにと、今更ながら悔やんだところで仕方がない。
 とにかく今は、まだ忠之は来ていない。それで、あの人が来るまでの間だけでもがんばろうと千鶴は思った。
 それに自分からやめるならともかく、退学させられたとなると体裁が悪い。そんな恥ずかしいところを、忠之に見せるわけにはいかなかった。
 結局、がんばると心に決めた千鶴は、休憩時間も惜しんで必死に勉強した。春子たちがお喋りに誘っても、今はだめだと断って勉強を続けた。
 しかし、時折幸せな夢想に手が止まってしまう。忠之と二人で店を切り盛りしているところや、二人の間に生まれた赤ん坊をあやしているところなど、次から次に思い浮かんで気持ちの集中が切れてしまうのだ。
 気がつけばぼんやりしている千鶴に、春子たちは何を嬉しそうにしているのかと訊ねるのだが、忠之のことは内緒である。
 何でもないと言うと、何を隠しているのかと問い詰められるが、それがまた嬉しい。
 それでも勉強は続けねばならず、とにかく千鶴は忙しい日々を送り続けた。

 千鶴が再び学校へ行き出してから一週間が過ぎた。その間に辰蔵は東京へった。だが、忠之はやって来なかったし、何の連絡もなかった。
 家族が反対しているのかもしれないが、だめならだめだったと、手紙ぐらい寄越すはずである。手紙が来ないのは、忠之が家族の説得をしてくれているのに違いないと千鶴は考えた。
 それでも、さらに数日が経っても全然音沙汰がないと、さすがに不安になって来る。
 土曜日の午前の授業が終わると、千鶴は昼飯も食べずに大急ぎで家に帰った。もしかしたら、忠之が来ているかもしれないという期待があった。
 山﨑機織へ戻ると、帳場に座る祖父の姿が見えた。
 茂七と弥七は外廻りに出たのだろう。帳場にいるのは祖父一人のようだ。
 店の中に入った千鶴は、忠之が来たか甚右衛門に訊ねた。
「いいや、来とらん」
 甚右衛門は煙管きせるを吹かしながら、素っ気ない様子で言った。
 千鶴ががっかりしながら、あれから風寄の絣は届いたのかと訊くと、甚右衛門は千鶴と目を合わせず、来た――とだけ言った。
 牛車で来たのかと問うと、祖父は同じ姿勢のまま、ほうよと言った。何だか様子がおかしい。忠之が連絡を寄越さないので、腹を立てているのだろうか。
 いつ牛車が来たのかとただすと、昨日だと言う。しかし、昨夜は祖父は何も言ってくれなかった。千鶴は祖父に不信感を抱いた。
 牛車で絣を運んで来たのは、忠之に荷物を運ばせていた仲買人の兵頭という男だ。
 兵頭は忠之の手紙を持って来なかったのかと、千鶴は訊ねた。だが甚右衛門は、持って来ていないと言い、やはり千鶴と目を合わせようとしない。
 どういうわけか、甚右衛門は忠之への関心を失ってしまったようだった。千鶴は焦りながら、兵頭から忠之のことを何か聞かなかったかと訊ねた。
 甚右衛門は煙草盆に煙管の灰を落とすと、聞いた――と言った。
 千鶴は愕然がくぜんとなった。話を聞いたのであれば、昨日のうちに教えてくれるべきである。
 腹立ちを抑えながら、兵頭は何と言ったのかと問い詰めると、甚右衛門はようやく千鶴に顔を向け、そこに座れと言った。
 何となく妙な雰囲気をいぶかしみながら、千鶴は帳場の端に腰を下ろした。
 甚右衛門は煙草盆を脇へ寄せると、千鶴の方に体を向けた。
「千鶴、実はおまいに話がある」
「話?」
 千鶴は嫌な予感がした。
「すまんが、あの男のことは忘れるんぞ。おには気の毒じゃと思うけんど、あの男とうちとは縁がなかったわい」
「おじいちゃん、何を言いんさるん? ほれは、佐伯さんがここへはおいでんてこと?」
「ほういうことよ。わしとしても残念やが仕方しゃあないわい。あの男のことはあきらめて、他を当たるとしよわい。急がんと辰蔵をこっちへ戻せんなってしまうけんな」
 話はそれだけだと言って、甚右衛門は体を元の向きに戻した。
「ちぃと待ってや。がほういうことなん? があったんか、きちんと説明しておくんなもし」
 甚右衛門はすぐには返事をしなかった。しかし、千鶴が強く説明を催促すると、仕方なさげに千鶴に顔を向けた。
「ここでは働けんて、佐伯さんが言うておいでるん? ほれとも、ぞ来られん事情ができたん?」
 甚右衛門は再び千鶴の方に体を向けた。
「産まれぞな。あの男とうちとでは、あまりにも身分がちごとらい。おがあの男に心を寄せとるんはわかっとる。わしにしたかて、あの男にはまっこと惚れ込んどった。ほんでも、あの男をうちへ入れることはできん。申し訳ないけんど、こらえてくれ」
 千鶴が納得しないと、かつて忠之の家が生臭物なまぐさものを扱っていたことや、忠之が尋常小学校も出ていないこと、忠之が乱暴者として村で嫌われていることなどを、甚右衛門は挙げ連ねた。
「あの男は読み書き算盤ができると、わしに言うた。ほやけど、尋常小学校も出とらんが、読み書き算盤ができるとは思えん。つまり、あの男はわしに嘘を言うたことになろ」
「佐伯さんは嘘なんぞつかん!」
「ほれじゃったら、どがぁして読み書き算盤ができるんぞ? あの男の家族も字が読めんそうやないか」
 断りの話は兵頭が忠之に伝えることになっていると、甚右衛門は言った。
 千鶴は立ち上がると、店の奥へ駆け込んだ。
 中では花江が乾いた洗濯物を抱えて、板の間へ運んでいるところで、茶の間ではトミが亀吉と新吉に算盤を教えていた。
「おじいちゃんが、佐伯さんを雇わんて言うとる」
 千鶴はトミたちに向かって訴えたが、トミは以前の冷たい顔で、家の主に逆らうなと言った。
 一緒にいる亀吉と新吉は、事情がわからず動揺している様子だ。
 花江は同情の眼差しを向けたものの、何も言ってくれなかった。
 千鶴は持っていた荷物を土間へ落とすと、裏木戸から外へ飛び出した。千鶴の足は風寄の方を向いていた。
 このまま忠之の所まで行くつもりだった。だが風寄は遠く、行く手を阻むような北風は冷たかった。
 兵頭が来たのは昨日の話だ。もうすでに甚右衛門の言葉を忠之に伝えたに違いない。忠之の気持ちを思うと、千鶴は涙が止まらなかった。
 忠之と一緒に歩いた道を一人でとぼとぼ歩き、山越の客馬車乗り場までやって来ると、別れ際の忠之の顔が思い出された。
 忠之は自分が山陰の者であることを不安に思っていたはずだ。それでも山﨑機織へ来るようがんばってみると言ってくれたのは、千鶴のためではあったが、甚右衛門を信じてのことに違いなかった。それなのにその甚右衛門に裏切られたのである。
 千鶴は悔しくて悲しくて申し訳なくて、拭いても拭いても涙がこぼれた。
 客馬車乗り場を越えてさらに歩き続けると、やがて家並みが見えなくなり、周囲は田畑ばかりになった。それでも、まだ一里も歩いていないだろう。風寄までは、まだ三里以上ある。
 西を見ると、どんよりした雲が広がって、まだ明るい空を呑み込もうとしている。風寄に着くまでに日は沈んで雨が降るだろう。
 項垂うなだれて歩いていると、ラッパの音が聞こえた。
 顔を上げると、前方から客馬車がやって来る。千鶴が道の脇に避けると、客車から坊主頭の男が顔を出した。
「千鶴ちゃんやないか! どがいしたんな、こがぁなで?」
 それは法生寺の知念和尚だった。
 和尚はここで降りると御者に告げた。馬車が停まり、客車を降りた和尚は御者に銭を払うと、千鶴のそばへ駆け寄って来た。
 千鶴がへなへなと倒れそうになると、間一髪、和尚は抱き留めてくれた。


     四

「ほうなんか。ほれは困ったの」
 事情を聞いた知念和尚は、顔を曇らせた。
 辺りは次第に薄暗くなり、冷たい北風が絶え間なく吹きつける。
 千鶴が小さく体を震わせると、和尚は自分のえり巻きを外し、冷え切った千鶴の首元に巻いてくれた。
「歩きながら話そうかの。真っ暗になったらいごけんなるぞな」
 千鶴が黙っていると、和尚はさとすように言った。
「家を飛び出すんは簡単ぞな。ほやけど、問題はそのあとぞな。二人でどこぞで暮らして行けるんならええけんど、銭が稼げんかったら悲惨ぞな。幸せ夢見て一緒になったはずが、些細ささいなことで喧嘩になったり、銭のために嫌なことをせんといけんようになったりで、何のために一緒になったんかわからんなるけんの」
 和尚の言うことはもっともだった。だが、納得が行くわけではない。
 うながされて歩き出した千鶴は、和尚に言った。
「和尚さん。なして、みんな生まれや育ちで人を差別したりするんぞな? そのお人には、何の罪もないのに……」
「ほれが人の弱さいうもんぞな」
 和尚はため息混じりに言った。
「忠之にはな、わしと安子とで読み書き算盤を教えたんよ。ほじゃけん、あの子が言うたんは嘘やない。しかもな、あの子はまっことできのええ子じゃった。何をやらせても、すらすらでけた。学校へ入れてもろとったら、もっといろいろでけたじゃろに、しょうもないことで差別しよってからに……」
 和尚は袖で目を押さえた。
「こげなことになるんなら、あの子を為蔵ためぞうさんにやるんやなかったかて思てしまうけんど、そげなこと言うんも、これまた差別になるけんな」
 知念和尚は昔を思い出すように遠くを眺めた。
「為蔵さんにやるんやなかったて、何の話ぞなもし?」
 千鶴に問われた和尚は、はっとしたような顔になると、余計なこと言うてしもたわい――とうろたえた。だが、千鶴が説明を求めると、観念したように喋った。
「今の忠之の家族はな、為蔵さんとおタネさんという年寄り二人ぞな。この二人はあの子の育ての親ではあるけんど、産みの親やないんよ」
「お父さんとお母さんは亡くなったんですか?」
「いや、ほうやない。と言うか、わからんのよ」
「わからんて……」
 和尚は悲しそうな目で、じっと千鶴を見つめた。
「あの子はな、捨て子なんよ」
 千鶴は心臓が止まったような気がした。
 知念和尚は忠之が生後まもない頃に、法生寺の本堂に捨てられていたと語った。
 近くの村の者たちに、子供を腹に宿していながら、その子供がいなくなったという女はいなかった。
 それで、遍路旅をしながら身籠もった女が、産み落とした赤子を寺に託したのだろうと、和尚夫婦は考えたそうだ。
 和尚と安子はその女の願いどおり、寺で赤ん坊を育てようとしたのだが、大切に育てるからその子が欲しいと、為蔵夫婦が願い出たと言う。為蔵夫婦は日露戦争で一人息子を失っており、その息子の代わりにと思ったらしい。
 結局、和尚たちは為蔵の遠い親戚の子供ということにして、忠之を二人に預けることにしたそうだ。
 ところが何でわかったのか、忠之は本当のことを知っているのだと言う。ただ、為蔵夫婦の前では何も知らないふりをしているらしい。それがあの子の優しさだと和尚は言った。
 千鶴の目はみるみる涙で一杯になった。和尚は着物の袖で涙を拭いてくれたが、涙は次から次にこぼれ落ちた。
 これまで数え切れないぐらい、千鶴もつらい思いをして来た。
 それでも千鶴には母がいた。母が千鶴を慰め力になってくれた。だが忠之はその母親に捨てられたのだ。
 そのことを知った時、忠之はどんな気持ちだっただろう。それだけでもつらいことなのに、周りから差別され、甚右衛門からも見捨てられたのである。

 しばらく黙って歩いたあと、千鶴は知念和尚に言った。
「うち、自分はがんごめやないんかて、ずっと悩みよったんぞなもし」
 和尚は驚いたように千鶴を見た。
「ほうやったんか。ほれは気の毒じゃったな。ちぃとも気がつかんで申し訳ない」
 千鶴は首を振ると、話を続けた。
「佐伯さん、うちの話聞いてくれて、うちのこと、がんごめやないて言うてくれました」
「ほうかほうか。あの子は喧嘩もするけんど、根は優しい子じゃけんな」
「うち、風寄に行ってから、自分にがんごが取り憑いとるて思とりました」
「ほう、ほらまた何でぞな?」
 千鶴は自分が法生寺で見つかる前に、イノシシに襲われた話をした。
「ほんまなら、あそこで死んどったんはうちぞなもし。ほれやのにうちは助かって法生寺まで運ばれて、イノシシはあげな風に殺されました。和尚さんはうちを助けたんは、お不動さまじゃて仰ったけんど、お不動さまじゃったら、イノシシをあやめたりせんと思うんぞなもし」
「ほら言われてみたら、ほうじゃなぁ」
「ほれに、うち、松山でお祓いのばばさまに、がんごに取り憑かれとるて言われました。ほんで、次から次に悪いことが起こって、うち、自分のせいでみんなに迷惑かけとるて思とりました。ほん時に、佐伯さんがおいでてくれて、うちの話を聞いてくんさったんです」
「ほうなんか。ほんで、あの子は何と言うたんぞな?」
がんごは前世でうちに優しいにされたけん、そのお返しに今もうちのことを護ってくれとんじゃて言うてくんさったんです。ほれに佐伯さん、の気持ちを教えてくんさりました」
がんごの気持ち?」
 千鶴はうなずき、忠之に聞かされた鬼の話をした。和尚は感心すると、あの子もなかなか大したもんぞな――と言った。
「ほれにしても、あの子はそがぁなことを誰から教わったんじゃろな」
「和尚さんの前に、法生寺においでた和尚さんらしいぞなもし」
 知念和尚は、はて――と首をかしげた。
「わしがあの寺を引き継いでからは、そのご住職は風寄へは来とらんがな。用事がある時は手紙を書くか、こっちから向こうへ出向くけん、あちらからこっちへ来ることはないぞな」
「ほやけど、佐伯さんはそがぁ言いんさったぞな」
「ほれは妙じゃの。最前も言うたように、あの子はわしらがあの寺に来てから、置いて行かれたんぞな。ほじゃけん、あの子が前のご住職に顔合わすことは有り得んがな」
 和尚の言葉に困惑しながら、千鶴は話を続けた。
「佐伯さん、こがぁも言いんさったんぞな。おヨネさんが言うておいでたがんごめいうんは、うちみたいな異国の血ぃ引いとるぎりの娘さんで、ほんまのがんごめやないんじゃて」
「ほれも前のご住職から聞いたと言うんかな」
 千鶴はうなずき、自分はその娘の生まれ変わりではないかと思っていたと話した。
「佐伯さん、うちがその娘さんの生まれ変わりじゃったとしても、その娘さんががんごめやないのじゃけん、うちががんごめいうんは有り得んのじゃて言うてくんさったんです」
「がんごめの話は、わしらかておヨネさんから聞かされて初めて知った話ぞな。ましてや、その娘が異国の血ぃ引いとるやなんて全然知らんことぞな。ほれをなしてあの子が知っとるんじゃろか?」
「さっきとついぞなもし。前においでた和尚さんじゃて言うとりんさった」
「ほれはますます妙じゃの。今も言うたとおり、前の和尚とあの子が出たことはないんよ。前の和尚がどこにおいでるんかも、あの子は知らんはずぞな」
「じゃあ、誰から――」
 言いかけて千鶴は、はっとなった。
 忠之が夫婦めおと約束をしていたのも、異国の血を引く娘だった。千鶴と同じロシア人の娘だと忠之は言っていた。
 しかし、風寄にそんな娘がいたとしたら、誰も千鶴を見て珍しがったりはしないだろう。それに春子がそのことを知らないわけがない。
「あの子はまっこと優しいし頭がええ。やけん、千鶴ちゃんの悩みを聞いた時に、何とか千鶴ちゃんを慰めよ思て、即興で考えたんじゃろな」
 知念和尚は忠之についての自分の考えを述べた。しかし、それは千鶴の耳を取り過ぎて行った。
 千鶴は和尚に顔を向けた。
「和尚さん、お訊ねしたいことがあるぞなもし」
かな?」
「和尚さんは佐伯さんが産まれるより前から、法生寺においでるんですよね?」
「ほうじゃが、ほれがどうかしたかな?」
「和尚さんが法生寺においでてから今日までの間に、風寄にロシア人の血ぃ引く娘さんがどこぞにおったいう話を、耳にしんさったことはおありですか?」
 知念和尚は怪訝けげんそうに言った。
「いいや、そげな話は聞いたことがないぞな」
「うちとそっくりで、うちとついの名前の娘さんは、ご存知ないんかなもし?」
「ロシア人の血ぃ引く娘言うたら、わしら、千鶴ちゃんしか知らんぞな」
 千鶴は愕然がくぜんとした。
 忠之が出任せを言ったとは思えない。別れた娘の話をした時、忠之は涙ぐんでいた。
「和尚さん、もう一つ教えてつかぁさい。和尚さんがこちらへおいでてから、ロシアの船が風寄に来たことはあるんですか?」
「ロシアの船? そがぁなもん見たことないぞな」
「ほれじゃったら、昔は来たことがあるんかなもし?」
「ロシアの船かな?」
 千鶴がうなずくと、さぁなぁと和尚は言った。
「わしらは土地の者やないけんな。ここの昔のことはよう知らんのよ。ほんでも瀬戸内海は黒船の航路やったけんな。徳川の時代が終わる頃、ここら辺をロシアの船が通ったかも知れまい」
「確か、おヨネさんのお父さんががんごを見た時に、沖の方に見たこともない大けな黒い船があったて言うとりんさったんや……」
「ほうよほうよ。そがぁなこと言うとったな。あれも、ひょっとしたら西洋の黒船やったんかもしれんぞな」
「ロシアの船かもしれませんよね?」
「ほやないとは言えんけんど、ほれがどがぁかしたんかな?」
 千鶴は興奮していた。それでも、まだ信じられない気持ちではあった。
「学校で習いましたけんど、黒船が日本に来よった頃は、異国人を殺そうとするお侍もおったんですよね?」
攘夷じょういいうてな、異国人は日本を利用するぎりの、悪い連中じゃて考えるやからがおったんぞな」
「がんごめて呼ばれよった娘が異国の娘じゃて知れたら、狙われるんやありませんか?」
「ほれはまぁ考えられるわな。なるほど、法生寺に集まっとった侍連中いうんは、そげな目的があったんかもしれんな。ほんでも娘一人をあやめるんに大勢は必要なかろ」
「ここにロシアの船が来るてわかっとったら?」
 知念和尚は驚いたような顔で千鶴を見た。
「どがぁしたんぞな、千鶴ちゃん。何考えとるんぞな?」
 浜辺で大勢の侍たちを迎え撃つ若侍の姿が千鶴に見えた。侍たちの狙いは千鶴だ。それで若侍は千鶴を海に逃がそうとしていたのに違いない。
 ――おらはな、どがぁに望んでも、そのと一緒にはなれんなったんよ。
 海を見つめる悲しげな忠之の顔が目に浮かぶ。
 涙があふれそうになりながら千鶴は考えた。
 あの若侍が護ろうとしていたのが前世の自分であるならば、あの人は……。
 ――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
 千鶴の髪に花を飾ってくれた若侍が微笑んでいる。その顔は、今でははっきり見えている。
 千鶴は胸が苦しくなった。胸の中で感情が爆発しそうだ。涙で目がよく見えない。
 千鶴は立ち止まって泣いた。
 何故千鶴が泣くのかわからない知念和尚は、うろたえたように千鶴を慰め、涙の理由を訊ねた。しかし、その理由を千鶴は説明できなかった。
 説明してわかってもらえるものではない。それでも、千鶴の中ではそれが真実だった。
 何故忠之の温もりを感じるのか。それは二人が時を超えて結ばれているからに違いなかった。