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立ちはだかる壁


     一

 千鶴ちづ忠之ただゆきを客馬車乗り場の辺りまで送って行った。本当はもっと一緒に行きたかったが、忠之がここまででいいと言うので、渋々そこで別れることにした。
 別れぎわ、何とか山﨑機織やまさききしょくへ来てほしいと、千鶴は念を押してお願いした。忠之はわかったと応じたものの、今ひとつ自信がない様子だった。
 一人息子の忠之が外へ出ることを家族に了承してもらうのは、確かに容易ではない。だが忠之がはっきりしないのは、自分は山陰やまかげの者だという不安もあるに違いない。
 そのことについて千鶴はえて触れなかった。忠之が自分から話してもいないのに、それを口にするのは失礼になるからだ。だけど、ここまでちかしい仲になれた忠之と離れたくない。そのためにも忠之にはもっと自信を持ってもらいたかった。
 もし松山まつやまに来られないなら自分の方が風寄かぜよせへ行くと千鶴が言うと、とにかくやってみると忠之は約束した。忠之にしても千鶴を山﨑機織から離れさせるような真似はしたくないのだろう。でも、やはり自信はなさそうだった。

 姿が見えなくなるまで忠之を見送ると、千鶴はとぼとぼといえいた。さっきまでは幸せいっぱいだったのに、忠之がいなくなると一気に寂しくなった。それに絶対に忠之が来てくれる保証はなく、何とも心もとなかった。
 けれども二度とえないと思っていた忠之と再会し、心を通わせることができたのだ。それで、どんな形であれ自分はあの人とともに生きるのだと思えるようになった。また、自分は鬼娘がんごめではなく鬼を恐れる必要もないとわかったのは思いがけない収穫だった。
 鬼から事実を確かめたわけではない。でも忠之を絶対的に信じているので、千鶴の不安は一掃されていた。
 それにしても忠之と二人きりでこんなにゆっくりできるとは思っていなかった。本来ならば学校にいるところだ。それを家にいたのは祖母の世話をするためだった。なのに祖母の世話も家の手伝いもしないで、忠之と二人で過ごさせてもらえたのである。忠之を見送らせてくれた祖父母には感謝の気持ちしかなかった。
 これはまさに天の恵みであり、自分たちの願いをお不動さまが聞き届けてくれたのだろう。山﨑機織だけでなく自分にも運が向いてきた気がして、千鶴の足取りは次第に軽やかになった。

 千鶴が家に戻ると、はな亀吉かめきち新吉しんきちに昼飯の準備を手伝ってもらっていた。
 茶の間には甚右衛門じんえもんがいたが、その表情は明るかった。新たな大八車だいはちぐるまを手に入れたり注文電報がとうきょうから届いたからだろうが、理由は他にもあった。
 甚右衛門は忠之からもらった膏薬こうやくを体の傷にすり込んでいた。それが早くも効き目があったらしい。痛みががずいぶんやわらいだ気がすると上機嫌だ。
 トミも忠之に教えてもらったツボにおきゅうえたそうだが、体がとても楽になり病が治ったみたいだと言った。
「千鶴ちゃんのいい人は、ほんとに福を運んで来てくれたんだねぇ」
 花江がにこにこしながら言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。しかしあからさまにいい人と言われて返事ができず、千鶴は照れ隠しに花江を手伝おうとした。
「団子は食うたんか?」
 甚右衛門に声をかけられると千鶴は慌てて姿勢を正し、お陰さまで美味おいしいお団子をいただきましたと報告をした。忠之に想いを伝えたあとだったので、二人で食べた団子は格別だった。
「どこまで見送ってきたんね?」
 今度はトミがたずねた。山越やまごえまでと千鶴が答えると、ほうじゃろと思いよったとトミはにやりと笑った。
「ように時間がかかっとるけん、とわとこまで見送りに行ったんじゃなて思いよった」
「一緒に風寄まで行ったんやないかて心配したぞな」
 甚右衛門にも言われて、千鶴は二人にびた。だけど忠之がここまででいいと言わなければ、本当に風寄までついて行ったかもしれなかった。
 それはともかく、祖父母からこんな言葉をかけてもらえたことには違和感があった。鬼が祖父母を操っていたのでなければ、この変わり様は何なのかと千鶴はいぶかしんだ。
 恐らく跡継ぎ問題が理由と思われるが、きびしく冷たい祖父母よりも今の温かく優しい祖父母の方がいい。それに忠之と一緒になれるのであれば千鶴としても不満はない。
「傷の痛みがだいぶ楽になったけん、これじゃったらじき帳場ちょうばに座れよう。そがぁなったら辰蔵たつぞうを東京へれらい」
 亀吉たちが持って来た茶碗におひつの飯を入れていた花江は、動きを止めて甚右衛門に顔を向けた。東京という言葉に過敏になっているのだろう。花江は少し表情が硬くなったが、すぐにまた次の茶碗に飯を入れ始めた。
 当初の甚右衛門の予定では、鬼山おにやま喜兵衛きへえを婿に迎えてだいを補強したのちに辰蔵を東京へ送り出し、そのあとしちを辰蔵と入れ替えるはずだった。ところが喜兵衛の話はついえてしまった。
 あと残されるのは孝平こうへいだが、その孝平は大阪おおさかへ出たばかりだし期待はできない。一人前になって戻るどころか、さくろうに見捨てられる可能性が高いといえよう。それなのにこのまま辰蔵を東京へ送り出したのでは辰蔵を呼び戻せなくなる。
番頭ばんとうさん、東京行ったら、もうこっちへは戻らんのかなもし?」
 千鶴が訊ねると、花江がまた動きを止めた。話に耳を傾けているようだ。
 甚右衛門はいんやと言うと、自分の思惑を説明した。
「今ぎりよ。今は向こうもごたごたしよるけん、行き慣れたもんやないと仕事にならん。ほじゃけん辰蔵を行かせるんやが、落ち着いたごろに茂七をるつもりぞな」
「茂七さんを? ほんでも、そがぁなったらこっちの人が足らんなるんや――」
「そがぁ思うか?」
 甚右衛門にき返され、そうかと千鶴は思った。
えきさんがおいでるんじゃね?」
「ほういうことよ。あの男は必ず来るとわしは踏んどる」
「おじいちゃん、ほんまにそがぁ思いんさるん?」
「間違いない。絶対に来るな」
 甚右衛門は忠之が来ると確信しているようだ。忠之に来てほしい千鶴は、祖父の確信の根拠が知りたかった。
「なして絶対て言えるんぞなもし?」
 千鶴が問いかけると甚右衛門はじろりと目を向け、わからんのかと言った。
 少しうろたえながら千鶴がうなずくと、トミが笑いながら言った。
「あんたがおるけんじゃろがね」
 かぁっと顔が熱くなった千鶴は思わず下を向いた。
「ほやけど、家族が反対したら来られんて言うておいでたぞな」
 小さな声で千鶴が反論すると、甚右衛門は自信ありげに言った。
「確かに家族が反対したままじゃったら来られんじゃろ。けんど、あの男はどうにか家族を説得すらい」
「あんたがおるけんな」
 トミはもう一度同じ言葉を付け足すと、甚右衛門と二人で大笑いをした。
 千鶴が恥ずかしくて横を向くと、花江と目が合った。花江はにっこり微笑むと、亀吉たちと一緒にはこぜんを座敷に運んだ。
「わしの目に狂いがなかったら、あの男はぐんぐん伸びらい。茂七の代わりぐらいじきにでけるようになろ」
「そがぁなってもらわんと困らい。このお店の将来がかかっとるんじゃけんね」
 祖父母の言葉に千鶴は胸が弾んだ。忠之を婿にすると言ってくれたわけではないが、祖父母の頭の中にはそんな景色が見えているのに違いない。千鶴の目にはしっかりとその景色が映っている。

     二

じんさん、おるかな」
 店の方で声がした。
 奥においでますと辰蔵の声。すぐに茂七に案内されて組合長が入って来た。
「甚さん、傷のわいはどがぁかな?」
 そう言いながらトミの姿を認めた組合長は、おぉと声を上げた。
「おトミさん、もうええんかな?」
「お陰さんで、このとおりぞなもし」
 トミは両腕を曲げ伸ばししてみせた。
「ほうかな。ほれはよかったよかった。次から次にようないことが起こるけん心配しよったんぞな」
「ほれは、どうもありがとさんでござんした」
 トミが少しおどけると、えらい上機嫌じゃなぁと組合長は笑った。
「甚さんの方はどがいぞな? ちぃとはようなったかな?」
 組合長が改めてたずねると、だいぶええぞなと甚右衛門は笑顔で言った。
「ほれにな、ようやっととうきょうから注文が入ったんよ」
「ほんまかな。ほれはほれは。向こうの様子はさっぱりわからんけん、ほんまに心配しよったんで」
 組合長は板の間に顔を向け、花江と一緒に洗濯物を畳んでいた千鶴にも声をかけた。
「千鶴ちゃんも学校休んで大事おおごとやったな。ほんでも、これでまた学校へ行けらい」
 組合長は千鶴が子供の頃からよく声をかけてくれた、千鶴には数少ない理解者だ。だけど学校と言われても、千鶴はぴんとこなかった。学校のことはすっかり忘れて、この店で忠之と二人で働くことばかりを考えていた。まどいながら組合長に笑顔で応じたものの、本当のところ学校はどうなるのだろうと千鶴は思った。
 祖母の看病で休むことは、まつやまから通う級友に頼んで学校へ伝えてもらっている。しかし細かな話は伝えられないままだし、基本的に休みは認められない。今のところ学校からの連絡はないが、もう一週間は休んでいるので退学の可能性は十分にあった。
「けんど婿さんもろてこの店継ぐんじゃったら、学校なんぞ行かいでもええか」
 組合長がのんに言った。
 千鶴が喜兵衛と見合いをしたのは組合長も知っている。もちろんその話が壊れたことも知っているはずだが、千鶴が婿を取って店を継ぐのは変わらないと考えているらしい。
 婿取りの話をされると、千鶴の頭には忠之と夫婦になって暮らす姿が浮かぶ。ここは神妙な顔を見せたいが、ついうれしさで顔がほころんでしまう。
「何、にやにやしてんのさ」
 隣にいた花江が小声でからかった。花江には心のうちをすっかり見透かされている。すると、ほれがなと甚右衛門が言った。
「千鶴に婿取ろかて思いよったけんど、本人がどがぁしても学校の教師になるんじゃ言うて聞かんのよ」
 千鶴は驚いて甚右衛門を振り返った。ふざけているのかと思ったが祖父は真顔だ。
「結局あの男との話は流れてしもたし、まぁ流れてよかったんやが、ほれじゃったら本人が望むとおりにしてやるかと、トミと二人で言いよったとこよ」
「ほうなんか。さすがは千鶴ちゃんぞな。今どきのおなと違わい。わしは千鶴ちゃんが婿もろてこの店継ぐんはおもいなて思いよったんやが、学校の先生もええか」
「いや、あの……」
 うろたえる千鶴に甚右衛門が言った。
「どがぁした?」
「あの、学校だいぶ休んでしもたけんね。ほやけん、たぶん退学やないかて……」
 いつもの調子に戻ったトミが即座に言った。
「そげなことあるかいね。まだ今じゃったら大丈夫ぞな。万が一、校長がなんぞ言いよったら、うちがおね込みに行こわい」
「いやぁ、おトミさん、まっこと元気になったなぁ。ほんだけ元気じゃったら、もう心配いらんな」
 感心する組合長に、トミはまた元気よく腕を曲げ伸ばししてみせた。
 花江は千鶴が何を慌てているのかわかっているみたいで、笑いをこらえながら仕事をしている。
「ほやけど跡継ぎの方はどがぁするんぞ? 千鶴ちゃんに婿さんもらわんのなら、やっぱしさっちゃんかいな」
「あんまし期待はできんけんど、孝平もおるけんね」
 トミがため息交じりに言うと、組合長はあごに手を当て孝平かとつぶやいた。
「まぁ、いろいろやってみたらええわい。ところでな、今日は甚さんに知らせることがあったんよ」
「わしに知らせること? なんぞな」
「鬼山喜兵衛ぞな」

 甚右衛門は目をぱちくりさせた。
「鬼山喜兵衛?」
「千鶴ちゃんの見合い相手ぞな」
「そげなことわかっとらい。あの男がどがぁしたんぞ?」
 ぶっちょうづらになった甚右衛門に組合長は言った。
「警察に引っ張って行かれよった」
「警察に?」
 甚右衛門は目を見開いた。トミも驚き、千鶴と花江も組合長を振り返った。
「なしてつらまったんぞ?」
「何でも社会運動に関わっとったみたいでな。前から警察にぇつけられとったらしいんよ。ほれで、こないだ集会しよるとこをつらまったそうな」
「集会したぎりでつらまるんですか?」
 千鶴が訊ねると、組合長は首を振った。
「集会の中身ぞな。民衆をたぶらかし世を乱そうとしたらちもんとしてつらまったんよ。ほんまにええ話するならともかく、見合い断られた相手の悪口言い触らすやとの話なんぞ、誰が信用でけるかい」
 喜兵衛には組合長もいきどおっていた。それに調子を合わせて、トミは甚右衛門を見ながら嫌味を言った。
「この人も元お武家いうぎりで信用するんじゃけん」
 甚右衛門はむっとした顔で言い返した。
「つかましいわ。どこの家にもろくでもないもんはおるもんぞ」
「孝平のことを言うておいでるん? あの子じゃったら大阪おおさかでがんばりよろがね」
「そげなことわかるかい」
「作五郎さんがなんも言うておいでんのは、あの子がうまいことやっとるあかしぞな」
 二人が言い争うので、まぁまぁと組合長が止めた。
「そげなことしよったら、おトミさん、またぶっ倒れてしまわい。ほれより甚さん、東京へは誰をるんぞ?」
「取りえずは辰蔵をるつもりよ。ほれで時期見て茂七と交代させようわい」
「茂七かな。ほやけど茂七を向こうへ遣ってしもたら、こっちはどがいするんぞ? 辰さんに外まわりさすわけにはいくまい。かというて、しち一人じゃ心もとないぞな」
「そげなことは言われいでもわかっとらい」
「当てはあるんかな?」
「何とかならい」
 甚右衛門は千鶴を見てにやりと笑った。あの男がいると言いたいのだろう。
 さっきは婿の話はなくなったようなことを言ってたくせに、おじいちゃんは何を考えているのだろうと千鶴はいぶかしんだ。
 まさかあの人を雇いながら、自分のことは小学校教師として外へ出すつもりなのか。そんな考えが頭をよぎって千鶴がぷいっと横を向くと、また花江が笑っていた。

     三

 久しぶりに学校へ行くと、千鶴は校長室へ呼び出された。
 校長は千鶴が休んでいた事情を知っている。それでも決まりだからと前置きをし、今度欠席になれば、卒業間近であっても退学になるから気をつけるようにと忠告した。
 また、このあと欠席がなくても成績が悪ければやはり退学になるから、遅れた勉学を死に物狂いで取り戻すようにとも言った。
 わかりましたと神妙な顔で答えたものの、千鶴は退学になっても構わない気持ちになっていた。ただ祖父母が組合長に話したのが本当の考えならば、簡単に退学になるわけにはいかなかった。
 一方で、忠之が山﨑機織やまさききしょくに来るのであれば、毎日学校に通ってなんかいられないという気持ちもあった。だいたい佐伯さんを雇うことにしたのに、自分には学校へ行けと言うのは矛盾していると、千鶴は祖父母に少し腹立ちを覚えていた。
 とはいうものの、確かに喜兵衛との縁談を断るのに、自分は教師になるつもりだったと見得を切ったのは事実である。他に断りようがあったろうにと、今更いまさらながら悔やんだところで仕方がない。
 とにかく今はまだ忠之は来ていない。だから、あの人が来るまでの間だけでもがんばろうと千鶴は思った。それに自分からやめるならともかく、退学させられたとなると体裁が悪い。そんな恥ずかしいところは忠之には見せられない。
 結局がんばると決めた千鶴は、休憩時間も惜しんで必死に勉強した。はるたちがおしゃべりに誘っても、今はだめと断って勉強を続けた。
 けれど、時折幸せな夢想に手が止まる。忠之と二人で店を切り盛りしているところや、二人の間に生まれた赤ん坊をあやしているところなど、次から次に思い浮かんで気持ちの集中が切れてしまうのだ。
 気がつけばぼんやりしている千鶴に、何をうれしそうにしているのかと春子たちがたずねてくる。何でもないと言うと、何か隠していると問い詰められるが、それがまた嬉しい。だけど勉強は続けねばならず、とにかく千鶴は忙しい日々を送り続けた。

 千鶴が再び学校へ行きだしてから一週間が過ぎた。その間に辰蔵は東京へった。だが忠之はやって来なかったし、何の連絡もなかった。
 恐らく家族が反対しているのだろうが、だめならだめだったと手紙ぐらいよこすはずだ。そう思いながら、千鶴は忠之に自分の家の住所を教えてなかったことに気がついた。これでは手紙が届くはずがない。千鶴は急に不安になった。
 さらに数日が経っても全然音沙汰はなく、もう師走しわすに入るのも千鶴をあせらせた。
 土曜日になり、午前の授業が終わると千鶴は昼飯も食べずに大急ぎで家に向かった。もしかしたらあの人が来ているかもしれないという期待があった。

 息を弾ませながら紙屋町かみやちょうへ戻った千鶴は、恐る恐る店をのぞいてみた。しかし、中にいるのは帳場ちょうばに座る祖父ばかりで忠之の姿はない。この日は十二月初日で使用人は休みなので、茂七と弥七は外へ出かけたようだ。
「佐伯さんは? 佐伯さんはおいでた?」
 中に入るなり、千鶴は開口一番に祖父に訊ねた。
「いんや、来とらん」
 甚右衛門は煙管きせるを吹かしながら素っ気なく言った。何故か千鶴の方を向こうとしないで膝をそわそわと動かしている。
兵頭ひょうどうさんもおいでてないの?」
 千鶴ががっかりしながらくと、甚右衛門は千鶴と目を合わせないまま、来た――と言った。何だか様子がおかしい。
大八車だいはちぐるまを修理したけん取りに来るよう手紙を書いたんよ」
 甚右衛門は千鶴を見ないままぽそりと言った。
 恐らく忠之から連絡がないので、どうなっているのかを確かめる意図もあったのだろう。もちろん修理したのは山﨑機織の大八車だが、兵頭にはそうは伝わっていない。それで昨日、兵頭が新しい牛を引いて大八車を受け取りに来たというのだが、そんな話は千鶴は聞かされていなかった。千鶴は祖父に不信感を抱いたが嫌な予感もしていた。
「兵頭さんは佐伯さんから手紙を預かっとらんの?」
「預かっとらん」
「じゃあ兵頭さん、佐伯さんのことなんぞ言いんさった?」
 甚右衛門は煙管の灰をぽんと煙草たばこぼんに落とすと、ほうじゃなと無表情に言った。忠之は家族を説得できなかったということなのか。だけど、そうにしたって話を聞いたのなら昨日のうちに教えてくれるべきである。こちらはずっと待っているのだ。
 千鶴は顔のこわりを感じながら、兵頭さんは何と言いんさったのかと祖父を問い詰めた。すると甚右衛門はようやく千鶴に顔を向け、そこに座れと言った。
 何だか怖い気がしながら千鶴が帳場の端に腰を下ろすと、甚右衛門は煙草盆を脇へ寄せて千鶴の方に向き直った。千鶴の心は緊張でざわついている。

「こげな話ほんまはしとないけんど、ずっと黙っとるわけにもいかんけんな」
 千鶴の心臓が暴れ始めた。甚右衛門は悲しげに千鶴を見つめながら言った。
「言いぬくいことやが、千鶴……。すまんがあの男のことは忘れるんぞ。おまいにはまっこと気の毒じゃと思うが、あの男とうちとは縁がなかったわい」
 何の説明もないままいきなり乱暴なことを言われ、千鶴は思わず言い返した。
「おじいちゃん、何を言いんさるん? ほれは、佐伯さんがここへはおいでんてこと?」
「ほういうことよ。わしとしてもまっこと残念からげるが仕方しゃあないわい。あの男のことはあきらめて他を当たることにした。急がんと辰蔵をこっちへ戻せんなるけんな」
 話はほれぎりぞなと言って、甚右衛門は体を元の向きに戻した。だがそれで納得できるはずがない。
「ちぃと待っておくんなもし。何がほういうことなんぞな? があったんか、きちんと説明しておくんなもし」
 甚右衛門はすぐには返事をしなかった。しかし千鶴が強く説明を求めると、仕方なさげに千鶴に顔を戻した。
「ここでは働けんて佐伯さんが言うておいでるん? ほれとも、なんぞおいでになれん事情ができんさったんかなもし?」
 甚右衛門は再び千鶴の方に体を向けた。
「生まれぞな。あの男とうちとでは、あまりにも身分がちごとらい。おがあの男に心を寄せとるんはわかっとる。わしにしたかてあの男にはまっことれ込んどった。ほんでもあの男をうちへ入れることはでけん。申し訳ないけんどこらえてくれ」
 わかりましたと言えるわけがない。千鶴が猛抗議をすると、かつて忠之の家がなまぐさものを扱っていたことや、忠之がじんじょう小学校も出ていないこと、忠之が乱暴者として村で嫌われていることなどを甚右衛門は挙げつらねた。
「あの男は読み書き算盤そろばんがでけるとわしに言うた。やが尋常小学校も出とらんもんが、読み書き算盤がでけるとは思えん。つまりあの男はわしにうそを言うたことになろ」
「佐伯さんは嘘なんぞつかん!」
「じゃったら、どがぁして読み書き算盤がでけるんぞ? あの男の家族も字が読めんそうやないか」
 断りの話は兵頭が伝えることになっていると言い、甚右衛門は体を前に向けた。
 千鶴は立ち上がると声を荒らげた。
「こないだは佐伯さんのこと福の神じゃて言いんさったのに! 佐伯さんがおいでてくれんかったら、今頃この店を畳むことになっとったのに! 佐伯さんにここで働いてほしいて言うたんはおじいちゃんやんか!」
 甚右衛門は黙ったまま顔も向けない。千鶴は体を震わせると店の奥へ駆け込んだ。
 この日は花江も休みなので、トミが台所で昼飯の片付けをしていた。奥庭で洗濯物の乾き具合を確かめていた亀吉と新吉は、千鶴に気づくとお戻りたかと声をかけた。
「おじいちゃんが、佐伯さんを雇わんて言うとる」
 千鶴が訴えると、トミは以前の冷たい顔で家のあるじの言葉には逆らえないと言った。亀吉と新吉は事情がわからず当惑顔で立っている。母も花江もおらず、千鶴の味方になってくれる者は誰もいなかった。

 千鶴は持っていた荷物を土間へ落とすと亀吉たちの脇を走り抜け、うら木戸きどから外へ飛び出した。足は風寄かぜよせの方を向いていた。このまま忠之の所まで行くつもりだった。けれども風寄は遠く、行く手をはばむような北風は冷たかった。
 兵頭が来たのは昨日の話だ。兵頭はすでに甚右衛門の言葉を忠之に伝えたに違いない。忠之の気持ちを想うと、千鶴は涙が止まらなかった。
 忠之と一緒に歩いた道を、千鶴は一人でとぼとぼ歩いた。山越やまごえの客馬車乗り場までやって来ると、別れぎわの忠之の顔が思い出された。
 忠之は自分が山陰やまかげの者であることを不安に思っていたはずだ。それでも山﨑機織へ来られるようがんばってみると言ってくれた。それは千鶴のためではあったが、甚右衛門を信じていたからだ。なのにその甚右衛門に裏切られたのである。
 千鶴は悔しくて悲しくて申し訳なくて、ぬぐっても拭っても涙がこぼれた。
 客馬車乗り場を越えてさらに歩き続けると、やがて家並みが見えなくなり、周囲は田畑ばかりになった。けれど、まだ一も歩いていない。風寄までまだ三以上ある。
 西を見るとどんよりした雲が広がって、まだ明るい空をみ込もうとしている。風寄に着くまでに日は沈んで雨が降るだろう。
 うなれて歩いていると、ラッパの音が聞こえた。顔を上げると、前方から客馬車がやって来る。道の脇に避けると、客車から坊主頭の男が顔を出した。
「千鶴ちゃんやないか! どがいしたんな、こがぁなとこで?」
 それは法生寺ほうしょうじねん和尚だった。
 ここで降りると知念和尚が大声で御者ぎょしゃに告げると、馬車が停まった。馬車を降りた和尚は急いで御者に切符を手渡し、千鶴のそばへ駆け寄って来た。
 張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、千鶴はへなへなと倒れそうになった。間一髪、和尚は千鶴を抱き留めると何があったのかと声をかけた。しかし、千鶴は和尚に身を任せながら泣くしかできなかった。

     四

「話はわかったが……、困ったの」
 千鶴から事情を聞いた知念和尚は顔を曇らせた。
 和尚は忠之のことを知っていた。子供の頃からよく寺へ遊びに来ていたそうで、とても優しく頭のいい子だったと和尚は言った。
 辺りは次第に薄暗くなり、冷たい北風が絶え間なく吹きつける。
 千鶴が小さく体を震わせると、和尚は自分のえり巻きをはずし、冷え切った千鶴の首元に巻いてくれた。
「歩きながら話そうかの。真っ暗になったらいごけんなるけんな」
 千鶴が黙っていると、和尚は諭すように言った。
「家を飛び出すんは簡単ぞな。ほやけど問題はほのあとでな。二人でどこぞで暮らして行けるんならええが、銭が稼げんかったら悲惨ぞな。幸せ夢見て一緒になったはずが、さいなことでけんになったり、銭のために嫌なことをせんといけんようになったりで、何のために一緒になったんかわからんなるけんの」
 和尚の話はもっともだった。だが納得がいくわけではない。
 うながされて歩きだした千鶴は和尚に言った。
「和尚さん。なして、みんな生まれや育ちで人を差別したりするんぞな? ほのお人には何の罪もないのに……」
「ほれが人の弱さいうもんぞな。差別することで己の立場をよく見せよとするんよ」
 和尚はため息混じりに言った。
「あの子にはな、わしと安子とで読み書き算盤そろばんを教えたんよ。ほじゃけん、あの子が言うたんはうそやない。しかもな、あの子はまっこと出来のええ子じゃった。何をやらせてもすらすらでけた。学校へ入れてもろとったら、もっといろいろでけたじゃろに、しょうもないことで差別しよってからに……」
 和尚はそでで目を押さえた。
「こげなことになるんなら、あの子を為蔵ためぞうさんにやるんやなかったかて思てしまうが、そげなこと言うんもこれまた差別になるけんな」
 昔を思い出しているのか、知念和尚は遠くを眺めた。
「為蔵さんにやるんやなかったて、何の話ぞなもし?」
 千鶴に問われた和尚ははっとした顔になり、余計なこと言うてしもたわいとうろたえた。けれど千鶴が説明を求めると観念したようにしゃべった。
「あの子の家族は為蔵さんとおタネさんという年寄り二人でな。この二人はあの子の育ての親なんやが、産みの親やないんよ」
「お父さんとお母さんは亡くなったんですか?」
「いや、ほうやない。というか、わからんのよ」
「わからんて……」
 和尚は立ち止まると、悲しげな目でじっと千鶴を見つめた。
「あの子はな、捨て子なんよ」

 千鶴は心臓が止まった気がした。
 知念和尚は忠之が産まれて間もない頃に、ほう生寺しょうじ本堂ほんどうに捨てられていたと語った。
 近くの村では、生まれたはずの子供がいなくなったという話はなかった。それでもった女がへん旅の途中で赤子を産み落とし、その子を寺にたくしたのだろうと和尚たちは考えたそうだ。
 和尚夫婦は子宝には恵まれなかった。そこで女の願いどおり、赤ん坊は寺で育てることにしたと知念和尚は言った。
 ちょうど山陰やまかげに子供を産んだ女がいたので、和尚たちは女に頼んで赤ん坊の乳を分けてもらった。すると赤ん坊の話を耳にした為蔵夫婦が訪れて、大切に育てるからその子が欲しいと願い出たという。為蔵夫婦はにち戦争で一人息子を失っており、その息子の代わりにと思ったようだ。
 結局、和尚たちは為蔵の遠い親戚の子供ということにして、忠之を二人に預けた。そうして忠之は為蔵夫婦の子供として育ったが、どういうわけか自分が捨て子だと知っているという。ただ為蔵夫婦の前では何も知らないふりをしているらしい。それがあの子の優しさだと和尚は言った。
 千鶴の目はみるみる涙でいっぱいになった。
 これまで数え切れないぐらい千鶴もつらい思いをしてきた。けれども千鶴には母がいた。母が千鶴を慰め力になってくれた。なのに忠之はその母親に捨てられたのだ。
 あんなに優しい人に、神さまはどうしてここまでつらい想いをさせるのか。祖父は大きな恩のあるあの人の苦労を知ったのに、どうしてこんな仕打ちができたのだろう。
 知念和尚は着物の袖で千鶴の涙を拭いてくれたが、涙は次から次にこぼれ落ちた。

 しばらく黙って歩いたあと、千鶴は知念和尚に言った。
「うち、自分は鬼娘がんごめやないんかて、ずっと悩みよったんぞなもし」
 驚いた顔の和尚に千鶴は話を続けた。
「うち、風寄かぜよせに行ってからがんごに取りかれたて思いよりました。ほれで、自分は法生寺におった鬼娘がんごめの生まれ変わりに違いないて、そがぁ思いよったんです。ほじゃけん、いつか鬼の本性が出てくるんじゃてずっと悩んどりました」
鬼娘がんごめの話は終わったと思いよったが……、ほうやったんか。ほれは気の毒じゃったな。ちぃともぃがつかんで申し訳ないことをした。ほれにしても、なしてがんごに取り憑かれたて思たんぞな?」
 千鶴は自分が法生寺で見つかる前にイノシシに襲われた話をした。初めて聞く話に、知念和尚は口を開いたまま言葉を出せなかった。
「ほんまなら、あそこで死んどったんはうちぞなもし。ほれやのにうちは助かって法生寺まで運ばれて、イノシシはあげな風に殺されました。和尚さんはうちを助けたんはお不動さまじゃておっしゃったけんど、お不動さまじゃったらイノシシをあやめたりせんと思うんぞなもし」
「ほら確かに千鶴ちゃんの言うとおりぞな。やが、なしてがんごなんぞな?」
 千鶴は地獄の夢の話をし、自分には鬼を慕う気持ちがあったと言った。本当はぎょっとしたと思われるが、和尚は落ち着いた様子で千鶴を慰めるように言った。
「ほうはいうても、所詮しょせんは夢ぞな。そがぁに真剣に悩まいでもええとわしは思うがな」
「まだあるんぞなもし。松山にんてから、今度はおはらいのばばさまにがんごに取り憑かれとるて言われました。ほれから次から次に悪いことが起こって……。うち、自分のせいでみんなに迷惑かけとるて思とりました」
「ほうじゃったか。そがぁにいろいろあったら、確かに悩むわな……」
 慰めの言葉が見つからない知念和尚に、千鶴は続けて言った。
「うち鬼娘がんごめやけん、いつか人を殺して食べるようになるんじゃて……。そげなこと考えよったらこわぁてこわぁてたまらんかったんです。ほんでも誰にも相談できんけん、ずっと一人で悩んどりました」
 ほれはまっこと気の毒じゃった――と和尚はつらそうな顔で言った。
「ほれで、千鶴ちゃんは今もほのことで悩んどるんかな?」
 千鶴が首を振ると、忠之の話をした。
「佐伯さんがこないだおいでてくれた時に、うちの話を聞いてくんさったんです」
「ほうなんか。ほんで、あの子は何と言うたんぞな?」
「佐伯さん、うちは鬼娘がんごめやないて言うてくんさりました」
「ほうかほうか。あの子は喧嘩もするが根は優しい子じゃけんな」
 知念和尚はうれしそうにうなずいた。
がんごのことも、鬼は前世でうちに優しゅうされたけん、ほのお返しに今もうちのことを護ってくれとんじゃて言うてくんさったんです。ほれに佐伯さんはの気持ちを教えてくんさりました」
がんごの気持ち?」
 千鶴はうなずき、忠之に聞かされた鬼の話をした。和尚は感心すると、あの子もなかなか大したもんぞなと言った。和尚の褒め言葉はわずかながら千鶴への慰めとなった。

「ほれにしても、あの子はそげな話を誰から教わったんじゃろな」
「和尚さんの前に法生寺においでた和尚さんらしいぞなもし」
 はてと知念和尚は首をかしげた。
「わしがあの寺を引き継いでからは、ほのご住職は風寄へは来とらんがな。用事がある時は手紙を書くかこっちから出向くけん、あちらからこっちへ来ることはないんよ」
「ほやけど佐伯さんはそがぁ言うておいでました」
「ほれは妙じゃの。最前さいぜんも言うたが、あの子はわしらがあの寺に来てから置いて行かれたんぞな。ほじゃけん、あの子が前のご住職に顔合わすことは有り得んがな」
 和尚の言葉に困惑しながら千鶴は喋った。
「佐伯さん、法生寺におった鬼娘がんごめもうちみたいな異国のぃ引いとるぎりの娘さんで、ほんまの鬼娘やないんじゃて言うておいでました。ほじゃけんうちがほの娘さんの生まれ変わりじゃったとしても、うちが鬼娘とは言えんのじゃて」
「ほれも前のご住職から聞いたと言うんかな」
 千鶴がうなずくと、知念和尚はまた首を傾げた。
鬼娘がんごめの話は、わしらかておヨネさんから聞かされて初めて知ったんやけんな。ましてやほの娘が異国のぃ引いとるやなんて全然知らんことぞな。ほれをなしてあの子が知っとるんかな」
「どっかで前の和尚さんに会いんさったんやないんでしょうか?」
「言うたように、わしが風寄に来てから前のご住職がおいでたことはないんよ。ほじゃけん、あの子がほのご住職に会うことはないはずやが……。仮にどこぞでうたにしても、前の和尚は鬼娘がんごめの話は知るまいに」
「じゃあ、誰から――」
 言いかけて千鶴ははっとなった。
 忠之が夫婦めおと約束をしていたのも異国の血を引く娘だった。千鶴と同じロシア人の娘だと忠之は言っていた。だけど風寄にそんな娘がいたとしたら、誰も千鶴を見て珍しがったりはしないだろう。それに春子がそのことを知らないわけがない。
「あの子はまっこと優しいし頭がええ。やけん千鶴ちゃんの悩みを聞いた時に、何とか千鶴ちゃんを慰めよ思て即興で考えたんじゃろな」
 知念和尚は忠之についての自分の考えを述べた。しかし、その声は千鶴の耳には残らなかった。

     五

 千鶴は和尚に顔を向けた。
「和尚さん、おたずねしたいことがあるぞなもし」
かな?」
「和尚さんは佐伯さんが生まれるより前から、法生寺ほうしょうじにおいでるんですよね?」
「ほうじゃが、ほれがどうかしたかな?」
「和尚さんが法生寺においでてから今日までの間に、かぜよせにロシア人のぃを引いた娘さんがおったいう話を耳にしんさったことはおありですか?」
 知念和尚はげんな顔で言った。
「いいや、そげな話は聞いたことないな」
「うちとそっくりで、うちとついの名前の娘さんはご存知ないんかなもし?」
「ロシア人のぃ引く娘いうたら、わしら千鶴ちゃんしか知らんぞな」
 千鶴は愕然がくぜんとした。だが忠之が出任せを言ったとは思えない。別れた娘の話をした時の忠之は涙ぐんでいた。
「和尚さん、もう一つぎり教えてつかぁさい。昔ここにロシアの船が来たことはあったんかなもし?」
「ロシアの船? そげなもん見たことないな。にち戦争が終わったあとなら捕虜兵を引き取りに来た船はあろうが、ほれが風寄へ来ることもなかったわい。ここには捕虜収容所はなかったけんな」
 日露戦争はめいの話で、その時には千鶴も忠之もまだ生まれていない。忠之が夫婦めおと約束をした娘と別れたのはつい最近のはずだ。だけど知念和尚が知る限り、風寄に千鶴という名のロシアの娘はいないしロシアの船も来ていない。これはどういうことなのか。
 普通は忠之が作り話をしたと考えるだろう。しかし千鶴の頭には一つの可能性が浮かんでいた。とても有り得ないことだが、千鶴にはそれが真実のような気がしていた。
「ほれじゃったら、昔は来たことがあるんかなもし?」
「ロシアの船かな?」
 千鶴がうなずくと、さぁなぁと和尚は言った。
「ここの昔のことはわからんが、ほんでもないかいは黒船の航路やったけんな。徳川とくがわの時代が終わるごろに、ここら辺をロシアの黒船が通ったかもしれまい」
「確かおヨネさんのお父さんががんごを見んさった時に、沖の方に見たこともないおおけな黒い船があったて言うとりんさったんや……」
「ほうよほうよ。そげなこと言うとったな。おヨネさんが子供のごろいうたら、ちょうど徳川の終わり頃になるけん、あれもひょっとしたら西洋の黒船かもしれまい」
「ロシアの船かもしれませんよね?」
「ほやないとは言えんけんど、ほれがどがぁかしたんかな?」
 千鶴は興奮で体が震えていた。もしやの想いが確信へと近づいている。けれど、まだ信じられない気持ちではあった。
「学校で習いましたけんど、黒船が日本に来よったごろは、異国人を殺そとするお侍もおったんですよね?」
攘夷じょういいうてな、異国人は日本を利用するぎりの悪い連中じゃて考えるやからがおったな」
鬼娘がんごめて呼ばれよった娘が異国の娘じゃて知れたら、狙われるんやありませんか?」
 知念和尚は、ふーむとうなずいた。
「ほれはまぁ考えられるわな。なるほど、法生寺に集まっとった侍連中はそげな目的があったんかもしれんな。ほんでも娘一人をあやめるんに大勢は必要なかろに」
「ここにロシアの船が来るてわかっとったら?」
 知念和尚は驚いた顔で千鶴を見た。
「どがぁしたんぞな、千鶴ちゃん。何考えとるんぞな?」

 浜辺で多くの侍たちを迎え撃つ若侍の姿が見える。侍たちの狙いは千鶴だ。若侍は千鶴を海に逃がそうとしていた。後ろの海にはロシアの黒船が浮かんでいたはずだ。
 ――おらはな、どがぁに望んでも、そのと一緒にはなれんなってしもたんよ。
 海を見つめる悲しげな忠之の顔が目に浮かぶ。
 涙があふれそうになりながら千鶴は考えた。あの若侍が護ろうとしていたのが前世の自分だとしたら、あの人は恐らく……。
 ――千鶴。やっぱしおまいには、この花が一番似合うぞな。
 千鶴の髪に花を飾ってくれた若侍が微笑んでいる。その顔は今でははっきり見えている。
 千鶴は胸が苦しくなった。自分が見た夢や幻影はやはり前世の記憶だった。胸の中で感情が爆発しそうだ。涙で目がよく見えない。
 立ち止まって泣く千鶴を、知念和尚はうろたえながら慰めた。何を泣くのかと和尚は訊ねたが、千鶴は答えられなかった。
 説明してわかってもらえるものではない。考えていることが事実だというあかしもない。けれど、千鶴にはそれが真実だった。やはり忠之はあの若侍の生まれ変わりなのだ。
 何故忠之のぬくもりを感じるのか。そのことを千鶴は不思議に思っていた。でも、今ならその理由がわかる。二人は時を超えて結ばれているのだ。