立ちはだかる壁
一
千鶴は忠之を客馬車乗り場の辺りまで送って行った。本当はもっと一緒に行きたかったが、忠之がここまででいいと言うので、渋々そこで別れることにした。
別れ際、何とか山﨑機織へ来てほしいと、千鶴は念を押してお願いした。忠之はわかったと応じたものの、今ひとつ自信がない様子だった。
一人息子の忠之が外へ出ることを家族に了承してもらうのは、確かに容易ではない。だが忠之がはっきりしないのは、自分は山陰の者だという不安もあるに違いない。
そのことについて千鶴は敢えて触れなかった。忠之が自分から話してもいないのに、それを口にするのは失礼になるからだ。だけど、ここまで親しい仲になれた忠之と離れたくない。そのためにも忠之にはもっと自信を持ってもらいたかった。
もし松山に来られないなら、自分の方が風寄へ行くと千鶴が言うと、何とかやってみると忠之は約束した。忠之にしても、千鶴を山﨑機織から離れさせるような真似はしたくないのだろう。でも、やはり自信はなさそうだった。
姿が見えなくなるまで忠之を見送ると、千鶴はとぼとぼと家路に就いた。さっきまでは幸せいっぱいだったのに、忠之がいなくなると一気に寂しくなった。それに絶対に忠之が来てくれる保証はなく、何とも心許なかった。
けれども二度と逢えないと思っていた忠之と再会し、心を通わせることができた。それで、どんな形であれ自分はあの人とともに生きるのだと思えるようになった。また自分が鬼娘ではなく、鬼を恐れる必要がないとわかったのは思いがけない収穫だった。
鬼から事実を確かめたわけではない。でも忠之を絶対的に信じているので、千鶴の不安は一掃されていた。
それにしても、忠之と二人きりでこんなにゆっくりできるとは思っていなかった。本来ならば学校にいるところだ。それを家にいたのは祖母の世話をするためだった。なのに祖母の世話も家の手伝いもしないで、忠之と二人で過ごさせてもらえたのである。忠之を見送らせてくれた祖父母には感謝の気持ちしかなかった。
これはまさに天の恵みであり、自分たちの願いをお不動さまが聞き届けてくれたのだろう。山﨑機織だけでなく自分にも運が向いてきた気がして、千鶴の足取りは次第に軽やかになった。
千鶴が家に戻ると、花江が亀吉と新吉に昼飯の準備を手伝ってもらっていた。
茶の間には甚右衛門がいたが、その表情は明るかった。新たな大八車を手に入れたり、注文電報が東京から届いたからだろうが、理由は他にもあった。
甚右衛門は忠之からもらった膏薬を体の傷にすり込んでいた。それが早くも効き目があったらしい。痛みががずいぶん和らいだ気がすると上機嫌だ。
トミも忠之に教えてもらったツボにお灸を据えたそうだが、体がとても楽になり、病が治ったみたいだと言った。
「千鶴ちゃんのいい人は、ほんとに福を運んで来てくれたんだねぇ」
花江がにこにこしながら言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。しかし、あからさまにいい人と言われて返事ができず、千鶴は照れ隠しに花江を手伝おうとした。
「団子は食うたんか?」
甚右衛門に声をかけられると、千鶴は慌てて姿勢を正し、お陰さまで美味しいお団子をいただきましたと報告をした。忠之に想いを伝えたあとだったので、二人で食べた団子は格別だった。
「どこまで見送ってきたんね?」
今度はトミが訊ねた。山越までと千鶴が答えると、ほうじゃろと思いよったとトミはにやりと笑った。
「ように時間がかかっとるけん、遠い所まで見送りに行ったんじゃなて思いよった」
「一緒に風寄まで行ったんやないかて心配したぞな」
甚右衛門にも言われて、千鶴は二人に詫びた。だけど、忠之がここまででいいと言わなければ、本当に風寄までついて行ったかもしれなかった。
それはともかく、祖父母からこんな言葉をかけてもらえたことには違和感があった。鬼が祖父母を操っていたのでなければ、この変わり様は何なのかと千鶴は訝しんだ。
恐らく跡継ぎ問題が理由と思われるが、厳しく冷たい祖父母よりも、今の温かく優しい祖父母の方がいい。それに忠之と一緒になれるのであれば、千鶴としても不満はない。
「足の痛みがだいぶ楽になったけん、これじゃったら直に帳場に座れよう。そがぁなったら辰蔵を東京へ遣れらい」
花江は亀吉たちが持って来た茶碗にお櫃のご飯を入れていたが、動きを止めて甚右衛門を見た。東京という言葉に過敏になっているのか、花江は少し表情が硬くなったが、すぐにまた次の茶碗にご飯を入れ始めた。
当初の甚右衛門の予定では、鬼山喜兵衛を婿に迎えて手代を補強したのちに辰蔵を東京へ送り出し、そのあとで茂七を辰蔵と入れ替えるはずだった。ところが、喜兵衛の話は潰えてしまった。
あと残されるのは孝平だが、その孝平は大阪へ出たばかりだし期待はできない。一人前になって戻るどころか、作五郎に見捨てられる可能性が高いといえよう。それなのにこのまま辰蔵を東京へ送り出したのでは、辰蔵を呼び戻せなくなる。
「番頭さん、東京行ったら、もうこっちへは戻らんのかなもし?」
千鶴が訊ねると、花江がまた動きを止めた。話に耳を傾けているのだろう。
甚右衛門は、いんやと言って自分の思惑を説明した。
「今ぎりぞな。今は向こうもごたごたしよるけん、行き慣れた者やないと仕事にならん。ほじゃけん辰蔵を行かせるんやが、落ち着いた頃に茂七をやるつもりぞな」
「茂七さんを? ほんでも、そがぁなったら、こっちの人が足らんなるんや――」
「そがぁ思うか?」
甚右衛門に訊き返され、そうかと千鶴は思った。
「佐伯さんがおいでるんじゃね?」
「ほういうことよ。あの男は必ず来るとわしは踏んどる」
「おじいちゃん、ほんまにそがぁ思いんさるん?」
「間違いない。絶対に来るな」
祖父は本気で忠之が来ると確信していた。忠之を認められたのは嬉しいが、千鶴は祖父の確信の根拠が知りたかった。忠之は一人息子であり、簡単には家を出られないのだ。
「なして絶対て言えるんぞなもし?」
千鶴が問いかけると、甚右衛門はじろりと目を向け、わからんのかと言った。
少しうろたえながら千鶴がうなずくと、トミが笑いながら言った。
「あんたがおるけんじゃろがね」
かぁっと顔が熱くなった千鶴は、思わず下を向いた。
「ほやけど、家族が反対したら来られんて言うておいでたぞな」
小さな声で千鶴が反論すると、甚右衛門は自信ありげに言った。
「確かに家族が反対したままじゃったら来られんじゃろ。けんど、あの男は何とか家族を説得すらい」
「あんたがおるけんな」
トミはもう一度同じ言葉を付け足すと、甚右衛門と二人で大笑いをした。
千鶴が恥ずかしくて横を向くと、花江と目が合った。花江はにっこり微笑むと、亀吉たちと一緒に箱膳を座敷に運んだ。
「わしの目に狂いがなかったら、あの男はぐんぐん伸びらい。茂七の代わりぐらい、直にでけるようになろ」
「そがぁなってもらわんと困らい。このお店の将来がかかっとるんじゃけんね」
祖父母の言葉に千鶴は胸が弾んだ。忠之を婿にすると言ってくれたわけではないが、祖父母の頭の中には、そんな景色が見えているのに違いない。千鶴の目には、しっかりとその景色が映っている。
二
「甚さん、おるかな」
店の方で声がした。
奥においでますと辰蔵の声。すぐに茂七に案内されて組合長が入って来た。
「甚さん、傷の具合はどがぁかな?」
そう言いながらトミの姿を認めた組合長は、おぉと声を上げた。
「おトミさん、もうええんかな?」
「お陰さんで、このとおりぞなもし」
トミは両腕を曲げ伸ばししてみせた。
「ほうかな。ほれは、よかったよかった。次から次にようないことが起こるけん、心配しよったんぞな」
「ほれはどうも、ありがとさんでございます」
トミが少し戯けると、えらい上機嫌じゃなぁと組合長は笑った。
「甚さんの方はどがいぞな? ちぃとはようなったかな?」
組合長が改めて訊ねると、だいぶええぞなと甚右衛門は笑顔で言った。
「ほれにな、ようやっと東京から注文が入ったんよ」
「ほんまかな。ほれはほれは。向こうの様子はさっぱりわからんけん、ほんまに心配しよったんで」
千鶴は花江と一緒に台所仕事をしていたが、組合長は今度は千鶴に声をかけた。
「千鶴ちゃんも学校休んで大事やったな。ほんでも、これでまた学校へ行けらい」
組合長は千鶴が子供の頃から、よく声をかけてくれた。千鶴には数少ない理解者だ。だけど学校と言われても、千鶴はぴんとこなかった。学校のことはすっかり忘れて、この店で忠之と二人で働く姿が、ずっと頭の中に浮かんでいる。何とか笑顔で体裁を整えたが、本当のところ学校はどうなるのだろうと千鶴は思った。
祖母の看病で休むことは、松山から通う級友に頼んで学校へ伝えてもらっている。しかし細かな話は伝えられないままだし、基本的に休みは認められない。今のところ学校からの連絡はないが、もう一週間は休んでいるので退学の可能性は十分にあった。
「けんど、婿さんもろてこの店継ぐんじゃったら、学校なんぞ行かいでもええか」
組合長が呑気に言った。
千鶴が喜兵衛と見合いをしたのは組合長も知っている。もちろんその話が壊れたことも知っているはずだが、千鶴が婿を取って店を継ぐのは変わらないと考えているらしい。
婿取りの話をされると、千鶴の頭には忠之と夫婦になって暮らす姿が浮かぶ。ここは神妙な顔を見せたいが、つい嬉しさで顔が綻んでしまう。
「何、にやにやしてんのさ」
隣にいた花江が小声でからかった。花江には心のうちをすっかり見透かされている。すると、ほれがなと甚右衛門が言った。
「千鶴に婿取ろかて思いよったけんど、本人がどがぁしても学校の教師になるんじゃ言うて聞かんのよ」
千鶴は驚いて甚右衛門を振り返った。ふざけているのかとも思ったが、祖父は真顔だ。
「結局、あの男との話は流れてしもたし、流れてよかったんやが、ほれじゃったら本人が望むとおりにしてやるかと、トミと二人で言いよったとこよ」
「ほうなんか。さすがは千鶴ちゃんぞな。今どきの女子と違わい。わしは千鶴ちゃんが婿もろて、この店継ぐんは面白いなて思いよったんやが、学校の先生もええか」
「いや、あの……」
うろたえる千鶴に甚右衛門が言った。
「どがぁした?」
「あの、学校だいぶ休んでしもたけんね。ほやけん、たぶん退学やないかて……」
いつもの調子に戻ったトミが即座に言った。
「そげなことあるかいね。まだ今じゃったら大丈夫ぞな。万が一、校長が何ぞ言いよったら、うちが捻込みに行こわい」
「いやぁ、おトミさん、まっこと元気になったなぁ。ほんだけ元気じゃったら、もう心配いらんな」
感心する組合長に、トミはまた元気よく腕を曲げ伸ばししてみせた。
花江は千鶴が何を慌てているのかわかっているみたいで、笑いを堪えながら仕事をしている。
「ほやけど跡継ぎの方はどがぁするんぞ? 千鶴ちゃんに婿さんもらわんのなら、やっぱし幸ちゃんかいな」
「あんまし期待はできんけんど、孝平もおるけんね」
トミがため息交じりに言うと、組合長は顎に手を当て、孝平かとつぶやいた。
「まぁ、いろいろやってみたらええわい。ところでな、今日は甚さんに知らせることがあったんよ」
「わしに知らせること? 何ぞな」
「鬼山喜兵衛ぞな」
甚右衛門は目をぱちくりさせた。
「鬼山喜兵衛?」
「千鶴ちゃんの見合い相手ぞな」
「そげなこと、わかっとらい。あの男がどがぁしたんぞ?」
仏頂面になった甚右衛門に組合長は言った。
「警察に引っ張って行かれよった」
「警察に?」
甚右衛門は目を見開いた。トミも驚き、千鶴と花江も組合長を振り返った。
「なして、捕まったんぞ?」
「何でも社会運動に関わっとったみたいでな。前から警察に目ぇつけられとったらしいんよ。ほれで、こないだ集会しよるとこを捕まったそうな」
「集会したぎりで捕まるんですか?」
千鶴が訊ねると、組合長は首を振った。
「集会の中身ぞな。民衆を誑かし世を乱そうとした不埒者として捕まったんよ。ほんまにええ話するならともかく、見合い断られた相手の悪口言い触らす奴の話なんぞ、誰が信用でけるかい」
喜兵衛には組合長も憤っていた。それに調子を合わせて、トミは甚右衛門を見ながら嫌味を言った。
「この人も、元お武家いうぎりで信用するんじゃけん」
甚右衛門はむっとした顔で言い返した。
「つかましいわ。どこの家にもろくでもない者はおるもんぞ」
「孝平のことを言うておいでるん? あの子じゃったら大阪でがんばりよろがね」
「そげなこと、わかるかい」
「作五郎さんが何も言うておいでんのは、あの子がうまいことやっとる証ぞな」
二人が言い争うので、まぁまぁと組合長が止めた。
「そげなことしよったら、おトミさん、またぶっ倒れてしまわい。ほれより甚さん。東京へは誰を遣るんぞ?」
「取り敢えずは辰蔵を遣るつもりよ。ほれで時期見て、茂七と交代させようわい」
「茂七かな。ほやけど茂七を向こうへ遣ってしもたら、こっちはどがいするんぞ? 辰さんに外廻りさすわけにはいくまい。かというて、弥七一人じゃ心許ないぞな」
「そげなことは言われいでも、わかっとらい」
「当てはあるんかな?」
「何とかならい」
甚右衛門は千鶴を見て、にやりと笑った。あの男がいると言いたいのだろう。
さっきは婿の話はなくなったようなことを言ってたくせに、おじいちゃんは何を考えているのだろうと千鶴は訝しんだ。
まさかあの人を雇いながら、自分のことは小学校教師として外へ出すつもりなのか。そんな考えが頭を過って千鶴がぷいっと横を向くと、また花江が笑っていた。
三
久しぶりに学校へ行くと、千鶴は校長室へ呼び出された。
校長は千鶴が休んでいた事情を知っている。それでも決まりだからと前置きをし、今度欠席になれば、卒業間近であっても退学になるから気をつけるようにと忠告した。
また、このあと欠席がなくても成績が悪ければ、やはり退学になるから、遅れた勉学を死に物狂いで取り戻すようにとも言った。
わかりましたと神妙な顔で答えたものの、千鶴は退学になっても構わない気持ちになっていた。ただ、祖父母が組合長に話したのが本当の考えならば、簡単に退学になるわけにはいかなかった。
一方で、忠之が山﨑機織に来るのであれば、毎日学校に通ってなんかいられないという気持ちもあった。だいたい佐伯さんを雇うことにしたのに、自分には学校へ行けと言うのは矛盾していると、千鶴は祖父母に少し腹立ちを覚えていた。
とはいうものの、確かに喜兵衛との縁談を断るのに、自分は教師になるつもりだったと見得を切ったのは事実である。他に断りようがあったろうにと、今更ながら悔やんだところで仕方がない。
とにかく今はまだ忠之は来ていない。だから、あの人が来るまでの間だけでもがんばろうと千鶴は思った。それに自分からやめるならともかく、退学させられたとなると体裁が悪い。そんな恥ずかしいところは、忠之には見せられない。
結局がんばると決めた千鶴は、休憩時間も惜しんで必死に勉強した。春子たちがお喋りに誘っても、今はだめと断って勉強を続けた。
けれど、時折幸せな夢想に手が止まってしまう。忠之と二人で店を切り盛りしているところや、二人の間に生まれた赤ん坊をあやしているところなど、次から次に思い浮かんで気持ちの集中が切れてしまうのだ。
気がつけばぼんやりしている千鶴に、何を嬉しそうにしているのかと春子たちが訊ねてくる。何でもないと言うと、何か隠していると問い詰められるが、それがまた嬉しい。だけど勉強は続けねばならず、とにかく千鶴は忙しい日々を送り続けた。
千鶴が再び学校へ行きだしてから一週間が過ぎた。その間に辰蔵は東京へ発った。だが忠之はやって来なかったし、何の連絡もなかった。
恐らく家族が反対しているのだろうが、だめならだめだったと手紙ぐらいよこすはずだ。そう思いながら、千鶴は忠之に自分の家の住所を教えてなかったことに気がついた。これでは手紙が届くはずがない。千鶴は急に不安になった。
さらに数日が経っても全然音沙汰はなく、もう師走に入るのも千鶴を焦らせた。
土曜日になり、午前の授業が終わると千鶴は昼飯も食べずに大急ぎで家に向かった。もしかしたらあの人が来ているかもしれないという期待があった。
息を弾ませながら紙屋町へ戻った千鶴は、恐る恐る店をのぞいてみた。しかし、中にいるのは帳場に座る祖父ばかりで忠之の姿はない。茂七と弥七は外廻りに出たみたいだ。来客もなく、丁稚もいない。
「佐伯さんは? 佐伯さんはおいでた?」
中に入るなり、千鶴は開口一番に祖父に訊ねた。
「いいや、来とらん」
甚右衛門は煙管を吹かしながら素っ気なく言った。何故か千鶴の方を向こうとしない甚右衛門は、膝をそわそわと動かしている。
千鶴ががっかりしながら、あれから風寄の絣は届いたのか訊ねると、甚右衛門は千鶴と目を合わせないまま、来た――とだけ言った。
牛車で来たのかと問うと、甚右衛門は同じ姿勢で、ほうよと言った。何だか様子がおかしい。忠之が連絡をよこさないので腹を立てているのだろうか。
いつ牛車が来たのかと質すと、昨日だと言う。しかし、昨夜は千鶴は何も聞かされていない。千鶴は祖父に不信感を抱いたが、何だか嫌な予感もしていた。
牛車で絣を運んで来たのは、忠之に大八車で荷物を運ばせていた仲買人の兵頭だ。
「兵頭さんは佐伯さんから手紙を預かっとらんの?」
千鶴が訊ねると、やはり甚右衛門は他を向いたまま、あぁとだけ言った。どういうわけか、甚右衛門は忠之への関心を失ってしまったみたいだ。兵頭は絣と一緒に悪い知らせも届けたのかと千鶴は焦った。
「兵頭さん、佐伯さんのこと、何ぞ言いんさった?」
甚右衛門は千鶴を横目に煙管の灰をぽんと煙草盆に落とし、ほうじゃなと言った。
千鶴は愕然となった。話を聞いたのであれば、昨日のうちに教えてくれるべきである。仮に話しにくいことだったにせよ、こちらはずっと待っているのだ。
千鶴は腹立ちを抑えながら、兵頭さんは何と言いんさったのかと祖父を問い詰めた。すると甚右衛門はようやく千鶴に顔を向け、そこに座れと言った。
何だか怖い気がしながら、千鶴は帳場の端に腰を下ろした。甚右衛門は煙草盆を脇へ寄せると、千鶴の方に向き直った。千鶴の心は緊張でざわついている。
「こがぁな話、ほんまはしとないけんど、ずっと黙っとるわけにもいかんけんな」
千鶴の心臓が暴れ始めた。甚右衛門は悲しげに千鶴を見つめながら言った。
「言いぬくいことやが、千鶴……。すまんが、あの男のことは忘れるんぞ。お前にはまっこと気の毒じゃと思うが、あの男とうちとは縁がなかったわい」
何の説明もないままいきなり乱暴なことを言われ、千鶴は思わず言い返した。
「おじいちゃん、何を言いんさるん? ほれは、佐伯さんがここへはおいでんてこと?」
「ほういうことよ。わしとしてもまっこと残念からげるが仕方ないわい。あの男のことはあきらめて他を当たることにした。急がんと辰蔵をこっちへ戻せんなるけんな」
話はほれぎりぞなと言って、甚右衛門は体を元の向きに戻した。だが、それで納得できるはずがない。
「ちぃと待っておくんなもし。何がほういうことなんぞな? 何があったんか、きちんと説明しておくんなもし」
甚右衛門はすぐには返事をしなかった。しかし千鶴が強く説明を求めると、仕方なさげに千鶴に顔を戻した。
「ここでは働けんて、佐伯さんが言うておいでるん? ほれとも、何ぞおいでになれん事情ができんさったんかなもし?」
甚右衛門は再び千鶴の方に体を向けた。
「生まれぞな。あの男とうちとでは、あまりにも身分が違とらい。お前があの男に心を寄せとるんはわかっとる。わしにしたかて、あの男にはまっこと惚れ込んどった。ほんでも、あの男をうちへ入れることはでけん。申し訳ないけんど堪えてくれ」
わかりましたと言えるわけがない。千鶴が猛抗議をすると、かつて忠之の家が生臭物を扱っていたことや、忠之が尋常小学校も出ていないこと、忠之が乱暴者として村で嫌われていることなどを、甚右衛門は挙げ連ねた。
「あの男は読み書き算盤ができると、わしに言うた。ほやけど尋常小学校も出とらん者が、読み書き算盤ができるとは思えん。つまり、あの男はわしに嘘を言うたことになろ」
「佐伯さんは嘘なんぞつかん!」
「ほれじゃったら、どがぁして読み書き算盤ができるんぞ? あの男の家族も字が読めんそうやないか」
断りの話は兵頭が伝えることになっていると言い、甚右衛門は体を前に向けた。
千鶴は立ち上がると、声を荒らげた。
「こないだは佐伯さんのこと、福の神じゃて言いんさったのに! 佐伯さんがおいでてくれんかったら、今頃この店を畳むことになっとったのに! 佐伯さんにここで働いてほしいて言うたんは、おじいちゃんやんか!」
甚右衛門は無表情のまま何も言わない。千鶴は体を震わせると、店の奥へ駆け込んだ。中では花江が乾いた洗濯物を抱えて板の間へ運んでいるところだった。茶の間ではトミが亀吉と新吉に算盤を教えている。
「おじいちゃんが、佐伯さんを雇わんて言うとる」
千鶴はトミたちに向かって訴えた。しかしトミは以前の冷たい顔で、家の主に逆らうなと言った。一緒にいる亀吉と新吉は事情がわからず動揺している様子だ。花江は同情の眼差しを向けたものの、何も言ってくれなかった。
千鶴は持っていた荷物を土間へ落とすと奥庭へ走り、裏木戸から外へ飛び出した。足は風寄の方を向いていた。
このまま忠之の所まで行くつもりだった。だが風寄は遠く、行く手を阻むような北風は冷たかった。
兵頭が来たのは昨日の話だ。兵頭はすでに甚右衛門の言葉を忠之に伝えたに違いない。忠之の気持ちを想うと、千鶴は涙が止まらなかった。
忠之と一緒に歩いた道を一人でとぼとぼ歩き、山越の客馬車乗り場までやって来ると、別れ際の忠之の顔が思い出された。
忠之は自分が山陰の者であることを不安に思っていたはずだ。それでも山﨑機織へ来られるようがんばってみると言ってくれた。それは千鶴のためではあったが、甚右衛門を信じていたからだ。なのに、その甚右衛門に裏切られたのである。
千鶴は悔しくて悲しくて申し訳なくて、拭っても拭っても涙がこぼれた。
客馬車乗り場を越えてさらに歩き続けると、やがて家並みが見えなくなり、周囲は田畑ばかりになった。けれど、まだ一里も歩いていない。風寄までまだ三里以上ある。
西を見ると、どんよりした雲が広がって、まだ明るい空を呑み込もうとしている。風寄に着くまでに日は沈んで雨が降るだろう。
項垂れて歩いていると、ラッパの音が聞こえた。顔を上げると、前方から客馬車がやって来る。道の脇に避けると、客車から坊主頭の男が顔を出した。
「千鶴ちゃんやないか! どがいしたんな、こがぁな所で?」
それは法生寺の知念和尚だった。
ここで降りると知念和尚が大声で御者に告げると、馬車が停まった。馬車を降りた和尚は急いで御者に銭を払い、千鶴の傍へ駆け寄って来た。
張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、千鶴はへなへなと倒れそうになった。間一髪、和尚は千鶴を抱き留め、何があったのかと声をかけた。しかし千鶴は和尚に身を任せながら、あふれる悲しみで泣くしかできなかった。
四
「話はわかったが……、困ったの」
千鶴から事情を聞いた知念和尚は、顔を曇らせた。
和尚は忠之のことを知っていた。子供の頃からよく寺へ遊びに来ていたそうで、とても優しく頭のいい子だったと和尚は言った。
辺りは次第に薄暗くなり、冷たい北風が絶え間なく吹きつける。
千鶴が小さく体を震わせると、和尚は自分の襟巻きを外し、冷え切った千鶴の首元に巻いてくれた。
「歩きながら話そうかの。真っ暗になったら動けんなるけんな」
千鶴が黙っていると、和尚は諭すように言った。
「家を飛び出すんは簡単ぞな。ほやけど、問題はそのあとでな。二人でどこぞで暮らして行けるんならええが、銭が稼げんかったら悲惨ぞな。幸せ夢見て一緒になったはずが、些細なことで喧嘩になったり、銭のために嫌なことをせんといけんようになったりで、何のために一緒になったんかわからんなるけんの」
和尚の話は尤もだった。だが、納得がいくわけではない。
促されて歩きだした千鶴は、和尚に言った。
「和尚さん。なして、みんな生まれや育ちで人を差別したりするんぞな? そのお人には、何の罪もないのに……」
「ほれが人の弱さいうもんぞな。差別することで、己の立場をよく見せよとするんよ」
和尚はため息混じりに言った。
「あの子にはな、わしと安子とで読み書き算盤を教えたんよ。ほじゃけん、あの子が言うたんは嘘やない。しかもな、あの子はまっことできのええ子じゃった。何をやらせても、すらすらでけた。学校へ入れてもろとったら、もっといろいろでけたじゃろに、しょうもないことで差別しよってからに……」
和尚は袖で目を押さえた。
「こげなことになるんなら、あの子を為蔵さんにやるんやなかったかて思てしまうけんど、そげなこと言うんも、これまた差別になるけんな」
昔を思い出しているのか、知念和尚は遠くを眺めた。
「為蔵さんにやるんやなかったて、何の話ぞなもし?」
千鶴に問われた和尚は、はっとした顔で、余計なこと言うてしもたわいとうろたえた。けれど千鶴が説明を求めると、観念したように喋った。
「あの子の家族は為蔵さんとおタネさんという年寄り二人でな。この二人はあの子の育ての親なんやが、産みの親やないんよ」
「お父さんとお母さんは亡くなったんですか?」
「いや、ほうやない。というか、わからんのよ」
「わからんて……」
和尚は立ち止まると、悲しげな目でじっと千鶴を見つめた。
「あの子はな、捨て子なんよ」
千鶴は心臓が止まった気がした。
知念和尚は忠之が産まれて間もない頃に、法生寺の本堂に捨てられていたと語った。
近くの村の者たちには、子供を腹に宿していながら、その子供がいなくなったという女はいなかった。それで、身籠もった女が遍路旅の途中で赤子を産み落とし、その子を寺に託したのだろうと和尚たちは考えたそうだ。
和尚夫婦は子宝には恵まれなかった。そこでその女の願いどおり、寺でその赤ん坊を育てることにしたと知念和尚は言った。
ちょうど山陰に子供を産んだ女がいたので、和尚たちは女に頼んで赤ん坊の乳を分けてもらった。すると赤ん坊の話を耳にした為蔵夫婦が訪れて、大切に育てるからその子が欲しいと願い出たという。為蔵夫婦は日露戦争で一人息子を失っており、その息子の代わりにと思ったようだ。
結局、和尚たちは為蔵の遠い親戚の子供ということにして、忠之を二人に預けた。そうして忠之は為蔵夫婦の子供として育ったが、どういうわけか自分が捨て子だと知っているという。ただ、為蔵夫婦の前では何も知らないふりをしているらしい。それがあの子の優しさだと和尚は言った。
千鶴の目はみるみる涙でいっぱいになった。
これまで数え切れないぐらい、千鶴もつらい思いをしてきた。けれども千鶴には母がいた。母が千鶴を慰め力になってくれた。なのに、忠之はその母親に捨てられたのだ。
あんなに優しい人に、神さまはどうしてここまでつらい想いをさせるのか。祖父は大きな恩のあるあの人の苦労を知ったのに、どうしてこんな仕打ちができたのだろう。
知念和尚は着物の袖で千鶴の涙を拭いてくれたが、涙は次から次にこぼれ落ちた。
しばらく黙って歩いたあと、千鶴は知念和尚に言った。
「うち、自分は鬼娘やないんかて、ずっと悩みよったんぞなもし」
驚いた顔の和尚に千鶴は話を続けた。
「うち、風寄に行ってから、鬼に取り憑かれたて思いよりました。ほれで、自分は法生寺におった鬼娘の生まれ変わりに違いないて、そがぁ思いよったんです。ほじゃけん、いつか鬼の本性が出て来るて、ずっと悩んどりました」
「鬼娘の話は終わったと思いよったが……、ほうやったんか。ほれは気の毒じゃったな。ちぃとも気ぃがつかんで申し訳ないことをした。ほれにしても、なして鬼に取り憑かれたて思たんぞな?」
千鶴は自分が法生寺で見つかる前に、イノシシに襲われた話をした。初めて聞く話に、知念和尚は口を開いたまま言葉を出せなかった。
「ほんまなら、あそこで死んどったんはうちぞなもし。ほれやのにうちは助かって法生寺まで運ばれて、イノシシはあげな風に殺されました。和尚さんはうちを助けたんはお不動さまじゃて仰ったけんど、お不動さまじゃったらイノシシを殺めたりせんと思うんぞなもし」
「ほら確かに千鶴ちゃんの言うとおりぞな。やが、なして鬼なんぞな?」
千鶴は地獄の夢の話をし、自分には鬼を慕う気持ちがあったと言った。本当はぎょっとしたと思われるが、和尚は落ち着いた様子で千鶴を慰めるように言った。
「ほうはいうても、所詮は夢ぞな。そがぁに真剣に悩まいでもええとわしは思うがな」
「まだあるんぞなもし。松山に戻んてから、今度はお祓いの婆さまに、鬼に取り憑かれとるて言われました。ほれから次から次に悪いことが起こって……。うち、自分のせいでみんなに迷惑かけとるて思とりました」
「ほうじゃったか。そがぁにいろいろあったら、確かに悩むわな……」
慰めの言葉が見つからない知念和尚に、千鶴は続けて言った。
「うち、鬼娘やけん、いずれは鬼の本性が出て来て、人を殺して食べるようになるんじゃて……。そがぁなこと考えよったら、怖ぁて怖ぁてたまらんかったんです。ほんでも誰にも相談できんけん、ずっと一人で悩んどりました」
ほれは、まっこと気の毒じゃった――と和尚はつらそうな顔で言った。
「ほれで、千鶴ちゃんは今もそのことで悩んどるんかな?」
千鶴が首を振ると、忠之の話をした。
「佐伯さんがこないだおいでてくれた時に、うちの話を聞いてくんさったんです」
「ほうなんか。ほんで、あの子は何と言うたんぞな?」
「佐伯さん、うちは鬼娘やないて言うてくんさりました」
「ほうかほうか。あの子は喧嘩もするけんど、根は優しい子じゃけんな」
知念和尚は嬉しそうにうなずいた。
「鬼のことも、鬼は前世でうちに優しゅうされたけん、そのお返しに今もうちのことを護ってくれとんじゃて言うてくんさったんです。ほれに佐伯さん、鬼の気持ちを教えてくんさりました」
「鬼の気持ち?」
千鶴はうなずき、忠之に聞かされた鬼の話をした。和尚は感心すると、あの子もなかなか大したもんぞなと言った。和尚の褒め言葉はわずかながら千鶴への慰めとなった。
「ほれにしても、あの子はそがぁな話を誰から教わったんじゃろな」
「和尚さんの前に、法生寺においでた和尚さんらしいぞなもし」
知念和尚は、はてと首を傾げた。
「わしがあの寺を引き継いでからは、そのご住職は風寄へは来とらんがな。用事がある時は手紙を書くか、こっちから出向くけん、あちらからこっちへ来ることはないんよ」
「ほやけど、佐伯さんはそがぁ言うておいでました」
「ほれは妙じゃの。最前も言うたが、あの子はわしらがあの寺に来てから置いて行かれたんぞな。ほじゃけん、あの子が前のご住職に顔合わすことは有り得んがな」
和尚の言葉に困惑しながら、千鶴は喋った。
「佐伯さん、法生寺におった鬼娘も、うちみたいな異国の血ぃ引いとるぎりの娘さんで、ほんまの鬼娘やないんじゃて言うておいでました。ほじゃけん、うちがその娘さんの生まれ変わりじゃったとしても、うちが鬼娘とは言えんのじゃて」
「ほれも前のご住職から聞いたと言うんかな」
千鶴がうなずくと、知念和尚はまた首を傾げた。
「鬼娘の話は、わしらかておヨネさんから聞かされて初めて知ったんやけんな。ましてや、その娘が異国の血ぃ引いとるやなんて全然知らんことぞな。ほれをなしてあの子が知っとるんかな」
「どっかで前の和尚さんに会いんさったんやないんでしょうか?」
「言うたように、わしが風寄に来てから前のご住職がおいでたことはないんよ。ほじゃけん、あの子がそのご住職に会うことはないはずやが……。仮にどこぞで会うたにしても、前の和尚は鬼娘の話は知るまいに」
「じゃあ、誰から――」
言いかけて千鶴は、はっとなった。
忠之が夫婦約束をしていたのも、異国の血を引く娘だった。千鶴と同じロシア人の娘だと忠之は言っていた。だけど風寄にそんな娘がいたとしたら、誰も千鶴を見て珍しがったりはしないだろう。それに春子がそのことを知らないわけがない。
「あの子はまっこと優しいし頭がええ。やけん、千鶴ちゃんの悩みを聞いた時に、何とか千鶴ちゃんを慰めよ思て、即興で考えたんじゃろな」
知念和尚は忠之についての自分の考えを述べた。しかし、その声は千鶴の耳には残らなかった。
五
千鶴は和尚に顔を向けた。
「和尚さん、お訊ねしたいことがあるぞなもし」
「何かな?」
「和尚さんは佐伯さんが生まれるより前から、法生寺においでるんですよね?」
「ほうじゃが、ほれがどうかしたかな?」
「和尚さんが法生寺においでてから今日までの間に、風寄にロシア人の血ぃを引いた娘さんがおったいう話を、耳にしんさったことはおありですか?」
知念和尚は怪訝な顔で言った。
「いいや、そげな話は聞いたことないな」
「うちとそっくりで、うちと対の名前の娘さんは、ご存知ないんかなもし?」
「ロシア人の血ぃ引く娘いうたら、わしら、千鶴ちゃんしか知らんぞな」
千鶴は愕然とした。
忠之が出任せを言ったとは思えない。別れた娘の話をした時、忠之は涙ぐんでいた。
「和尚さん、もう一つ教えてつかぁさい。和尚さんがこちらへおいでてから、ロシアの船が風寄に来たことはあったんかなもし?」
「ロシアの船? そげなもん見たことないな。日露戦争が終わったあと、捕虜兵を引き取りに来た船はあろうが、ほれが風寄へ来ることもなかったわい。ここには捕虜収容所はなかったけんな」
日露戦争は明治の話で、千鶴も忠之もまだ生まれていない。忠之が夫婦約束をした娘と別れたのは、つい最近のはずだ。だけど知念和尚が知る限り、風寄に千鶴という名のロシアの娘はいないし、ロシアの船も来ていない。これはどういうことなのか。
普通は忠之が作り話をしたと考えるだろう。しかし、千鶴の頭には一つの可能性が浮かんでいた。とても有り得ないことだが、千鶴にはそれが真実のような気がしていた。
「ほれじゃったら、昔は来たことがあるんかなもし?」
「ロシアの船かな?」
千鶴がうなずくと、さぁなぁと和尚は言った。
「言うたように、わしらは土地の者やないけんな。ここの昔のことはよう知らんのよ。ほんでも瀬戸内海は黒船の航路やったけんな。徳川の時代が終わる頃に、ここら辺をロシアの黒船が通ったかもしれまい」
「確かおヨネさんのお父さんが鬼を見んさった時に、沖の方に見たこともない大けな黒い船があったて言うとりんさったんや……」
「ほうよほうよ。そがぁなこと言うとったな。おヨネさんが子供の頃いうたら、ちょうど徳川の終わり頃になるけんな。あれも、ひょっとしたら西洋の黒船かもしれまい」
「ロシアの船かもしれませんよね?」
「ほやないとは言えんけんど、ほれがどがぁかしたんかな?」
千鶴は興奮で体が震えていた。もしやの想いが確信へと近づいている。けれど、まだ信じられない気持ちではあった。
「学校で習いましたけんど、黒船が日本に来よった頃は、異国人を殺そとするお侍もおったんですよね?」
「攘夷いうてな、異国人は日本を利用するぎりの悪い連中じゃて考える輩がおったな」
「鬼娘て呼ばれよった娘が異国の娘じゃて知れたら、狙われるんやありませんか?」
知念和尚は、ふーむとうなずいた。
「ほれはまぁ考えられるわな。なるほど、法生寺に集まっとった侍連中は、そげな目的があったんかもしれんな。ほんでも娘一人を殺めるんに大勢は必要なかろに」
「ここにロシアの船が来るてわかっとったら?」
知念和尚は驚いた顔で千鶴を見た。
「どがぁしたんぞな、千鶴ちゃん。何考えとるんぞな?」
浜辺で大勢の侍たちを迎え撃つ若侍の姿が、千鶴の目に浮かぶ。侍たちの狙いは千鶴だ。若侍は千鶴を海に逃がそうとしていた。後ろの海にはロシアの黒船が浮かんでいたはずだ。
――おらはな、どがぁに望んでも、その娘と一緒にはなれんなったんよ。
海を見つめる悲しげな忠之の顔が目に浮かぶ。
涙があふれそうになりながら千鶴は考えた。あの若侍が護ろうとしていたのが前世の自分だとしたら、あの人は恐らく……。
――千鶴。やっぱしお前には、この花が一番似合うぞな。
千鶴の髪に花を飾ってくれた若侍が微笑んでいる。その顔は、今でははっきり見えている。
千鶴は胸が苦しくなった。自分が見た夢や幻影は、やはり前世の記憶だった。胸の中で感情が爆発しそうだ。涙で目がよく見えない。
千鶴は立ち止まって泣いた。知念和尚はうろたえたように千鶴を慰めながら、何を泣くのかと訊ねたが、千鶴は答えられなかった。
説明してわかってもらえるものではない。考えていることが事実だという証もない。けれど、千鶴にはそれが真実だった。やはり忠之はあの若侍の生まれ変わりなのだ。
何故忠之の温もりを感じるのか。そのことを千鶴は不思議に思っていた。でも、今ならその理由がわかる。二人は時を超えて結ばれているのだ。