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蘇った記憶

     一

「ほんじゃあ、こっから先は一人で行けるかな?」
 知念和尚は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。
 千鶴はうなずき、えり巻きを和尚に返そうとした。だが和尚はそれを制し、もう一度襟巻きを千鶴の首に巻き直してくれた。
「ほれは千鶴ちゃんがしよりなさい。ほうじゃ、ちぃと待っとりなさいや。傘を借りて来てあげようわい」
 ここは木屋町の電停を過ぎた辺りで、お寺が多い所だ。
 知念和尚はここにあるお寺の一つに用があって来たそうで、そこへ傘を借りに行こうとした。いよいよ雨が降り出しそうな黒い雲が広がっている。
 しかし千鶴は大丈夫ぞなもしと言って、それを断った。それから和尚に世話になった礼を述べると、一人歩き始めた。
 本当は傘を借りればよかったのかもしれない。だが、千鶴の頭は忠之のこと以外、何も考えられなくなっていた。
 この道を歩いていると、忠之に風寄から人力車で運んでもらったことを思い出す。それに風寄へ帰る忠之を見送りがてら二人で歩いたのもこの道だ。
 あの時、千鶴には希望が見えていた。きっと同じ希望を忠之も見ていたに違いない。千鶴と同じ屋根の下で暮らすことができると、喜びを噛みしめていたはずなのだ。
 そんなことを考えると、千鶴はまた泣きたくなった。あの時には知らなかった忠之の正体がわかっているから、余計に悲しい気持ちになる。
 千鶴は悲しみをこらえながら、自分と忠之のつながりを考えた。
 まず前世の自分は法生寺で暮らした娘だったと思われる。そして前世の忠之は風寄の代官の一人息子だったに違いない。
 二人は夫婦めおと約束を交わしていた。ところが襲って来た攘夷じょうい侍たちによって、二人の間は引き裂かれた。忠之は千鶴をロシアの黒船に託して攘夷侍たちと戦い、その命を散らしたのである。
 そうして死に別れたはずの二人が今ここに生まれ変わり、奇跡の再会を果たしたのだ。
 それが真実だという証拠はない。だが、千鶴はそれをまぎれもない真実だと確信していた。そう考えなければ頭に浮かんだ幻影や、忠之の言葉を説明することはできなかった。
 千鶴の考えが正しいのだとすれば、忠之は明らかに前世の記憶を持っている。それだけでなく、千鶴が法生寺にいた娘の生まれ変わりだと、忠之はわかっていると思われる。
 だからこそ他の者なら絶対に見せないような親切を、忠之は千鶴のために示してくれたのである。
 生まれ変わった千鶴を見つけた時、忠之はどれほど驚き、どれほど喜んだことだろう。
 本当であれば、二人は前世で夫婦約束を交わしていたのだと言いたかっただろうに、そう言わなかったのは何故なのか。
 その理由の一つは、千鶴が前世の記憶を持っていないということだろう。覚えていない相手に前世の話をしても、頭がおかしいと思われるだけである。
 しかし、それとは別にもう一つ理由があると千鶴は思っていた。
 それは忠之が山陰やまかげの者であるということだ。あるいは孤児であるということなのかもしれない。
 そんな自分が千鶴と一緒になるなど無理だと、忠之は考えたに違いない。また、今の千鶴が山﨑機織の主の孫娘だとわかると、尚更あきらめの気持ちになったのだろう。
 それでも千鶴に会いたくて、忠之は松山ヘやって来た。そして、甚右衛門から働かないかと声をかけられた。
 あの時、忠之がどれほど胸を弾ませたことか。そして、忠之が山陰の者だと知った甚右衛門が、手のひらを返したように忠之を拒んだ時、どれほど傷ついたことだろう。
 悔しさに涙ぐむ千鶴の頬に、ぽつりぽつりと雨粒が当たった。
 雨は次第に強くなり、あっと言う間に土砂降りになった。
 辺りは真っ暗になり、足下がよく見えない。所々にれ見える家の明かりや、街灯だけが頼りだった。
 ずぶ濡れになって歩きながら、千鶴は頭の中で仲買人の兵頭を呪っていた。
 兵頭が祖父に余計なことさえ言わなければ、忠之が山﨑機織へ来る話が、ふいになることはなかったのだ。
 しかも、兵頭は牛が動かなくなった時、忠之に絣を松山までただで運んでもらったのである。
 絣の代金だってきちんと届けてもらったのに、そんな恩がある者にこんな仇を返すのは人間のすることではない。
 千鶴は自分が鬼になったような気持ちで、兵頭を罰するところを想像した。しかし、すぐに忠之の顔が思い浮かび、そんなことを考えるのをやめた。
 ――千鶴さんはがんごめやない。千鶴さんは人間の娘ぞな。千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞな。
 心の中の忠之が千鶴に語りかけて来る。忠之の言葉を聞けば、悪いことなど考えられるはずがない。
 それで何とか怒りは鎮めることができたが、悲しみだけはどうしても消すことができない。
 自分の無力さに涙を流しながら、千鶴は雨の中を歩き続けた。

 裏木戸から家に入ると、幸子と花江が手拭いを持って駆け寄って来た。
 幸子は仕事から戻った時に、初めて千鶴のことを聞かされたのだろう。唇を噛みしめながら泣きそうな顔をしていた。
 びしょ濡れになった千鶴の体を二人は懸命に拭いた。
 首に巻いていた襟巻きはどうしたのかとかれ、堀江の向こうで出会った知念和尚に貸してもらったと、千鶴は力なく話した。
 それで幸子たちは、千鶴が何をしようとしていたのかを理解したようだった。二人はそれ以上は何も訊かず、黙って千鶴を拭き続けた。
 だが、水がしたたり落ちるほど濡れた着物はどうしようもない。
 幸子は千鶴に早く着物を着替えるようにと言った。
 座敷にいた甚右衛門とトミは、千鶴の様子を見て戸惑っている様子だった。それでも千鶴に声をかけたりそばへ来ることはなく、黙って千鶴を眺めていた。
 板の間にいる手代や丁稚たちも、やはり千鶴を眺めるばかりで黙っている。
 幸子は千鶴を離れの部屋へ連れて行くと、着物を着替えさせながら、改めて体を拭こうとした。その時、千鶴の体に触れて驚きの声を上げた。
「千鶴、あんた、えらい熱があるぞな」
 確かに悪寒がしていた。立っているのもつらい。
 幸子は急いで千鶴に寝巻を着せると、布団を敷いて寝かせた。
「今、お薬持って来るけんな」
 母が部屋を出て行ったあと、悲しみと疲れでぼーっとしていた千鶴は、すぐに夢の世界へ入った。
 だが夢の中でも、千鶴は熱を出して寝ていた。
 千鶴の枕元には、前髪が残る男の子が座っている。前世の子供の頃の忠之だ。名前は柊吉とうきちと言う。
 柊吉は千鶴の額に手を当てながら、苦しいかとたずねた。
 千鶴がうなずくと、柊吉は自分の額を千鶴の額に重ねて祈った。
「千鶴の病があしに移りますように。千鶴が笑顔でいられますように」
 そげなことは願わんといてと、千鶴は柊吉に言った。
 だが柊吉は祈り続け、これで大丈夫ぞな――と言った。柊吉が顔を上げると、そこには醜い鬼の顔があった。
 千鶴――母の声が聞こえると、柊吉はいなくなった。
 母が薬の準備をしている横で、千鶴は声を出して泣いた。泣きながら、自分にも前世の記憶があるのだと知った。
 幸子は千鶴に薬を飲ませても、部屋を出て行かなかった。千鶴の隣で自分も横になると、余計なことは何も言わず、千鶴の手を握り続けてくれた。
 千鶴は母を感じながら、再び眠りに落ちて行った。

     二

 千鶴は小さな杖を突きながら、険しい山道を歩いていた。随分ずいぶん前から歩き続けているが、いつまで続けるのかはわからない。
 すぐ前を、母が同じように杖を突きながら歩いている。母は白い衣装を身にまとい、菅笠をかぶっている。千鶴も同じ格好だ。
 大人でも大変な道を、子供の千鶴が歩くのはつらいことだ。それでも歩くしかないので、千鶴は懸命に歩いた。
 千鶴が遅れると母は立ち止まって、千鶴が来るのを待っている。だが千鶴が追いつくと母はまた歩き始めるので、千鶴は休む暇がない。
 体が熱く、噴き出る汗は手拭いで何度拭いても止まらない。
「お母ちゃん、暑い。おら、お水、飲みたい」
「ええよ、ちくと休もかね」
 母は足を止めて、にっこり笑った。
 千鶴は腰にげた竹筒の水を飲もうとした。しかし、水を入れたはずの竹筒は空っぽだった。
「お母ちゃん、これ、水入っとらん」
「ほれやったら、お母ちゃんのを飲みや」
 母は自分の竹筒を千鶴に渡そうとした。
 その時、母は急にせ込んだようにひどい咳をし始めた。
 咳は止まらず、母は崩れるようにしゃがみ込んだ。持っていた竹筒は地面に転がり、口を押さえた母の手は、指の間から赤い血が流れていた。
「お母ちゃん!」
 千鶴は母の背中をさすりながら助けを呼んだ。
「誰か来て! お母ちゃんが、お母ちゃんが」
 ところが周りには誰もおらず、千鶴は泣きそうなのをこらえながら、母に声をかけ続けた。

「千鶴、大丈夫か? しっかりせんね。ああ、えらい汗かきよらい」
 手拭いで千鶴の寝汗を拭きながら、幸子は千鶴を起こした。
 うっすら目を開けた千鶴は、薄暗さの中に母の顔を見つけた。
「お母ちゃん!」
 千鶴は跳ね起きると、幸子に抱きついた。
「お母ちゃん、お母ちゃん、お母ちゃん……」
「ちょっと、どがぁしたんね? 千鶴、悪い夢でも見たんか?」
 千鶴には慌てる母の言葉が聞こえていない。
「お母ちゃん、死なんといて。死んだら嫌や。おらを独りぼっちにせんで」
「おら? ちょっと千鶴。あんた、何言うとるんね?」
 幸子は千鶴を押し離すと、千鶴!――と強く言った。
 千鶴はようやく正気に戻り、周りを見回した。
 そこは自分と母が使っている離れの部屋で、行灯あんどんの明かりがぼんやりと部屋を照らしている。いつもなら寝る時には消すのだが、母がつけておいたのだろう。
「お母さん? うち、どがぁしたん?」
「どがぁしたんやないぞな。何ぞ悪い夢でも見たみたいで、お母ちゃん、お母ちゃん言うて、うなされよったんよ。ほじゃけん、大丈夫かて声かけたら、いきなりがばって起き上がって抱きついてな。また、お母ちゃん、お母ちゃん言うたり、死んだら嫌や、おらを独りぼっちにせんでて言うたんぞな」
「うちがそげなこと言うたん?」
「言うた言うた。いったい何の夢を見たんやら。ほれより、また着替えんとな。汗で寝巻がびちょびちょやで」
 そう言われて、自分が汗をびっしょりかいていることに、千鶴はようやく気がついた。
「こんだけ汗かいたんじゃけん、のど渇いたろ? 今、お水持て来てあげるけん、ちぃと待ちよりや」
 千鶴を着替えさせたあと、幸子が部屋を出て障子を閉めると、千鶴は一人きりになった。
 さっきは何の夢を見たのだろうと、横になりながらぼんやりしていると、いつの間にか、千鶴はお坊さまに手を引かれて石段を登っていた。

 いつも一緒だった母はいない。母は亡くなったのだ。
 石段の上には寺の山門がある。その門を潜って境内に入ると、寺男と思われる男が一人、境内の掃除をしていた。
 男は千鶴を見ると、驚いて腰を抜かしそうになった。
 お坊さまは男に驚くことはないと言い、千鶴が異人と日本人の間に産まれた気の毒な娘だと説明をした。
 場面が変わり、千鶴は寺男と一緒に寺の仕事を手伝っていた。
 仕事が終わると、千鶴はお坊さまに呼ばれて習字を教わった。千鶴が教えてもらったのは「千鶴」という自分の名前の字だった。
 村の者たちは千鶴を見ると気味悪がり、鬼の娘と言ったり、がんごめと呼んだりした。
 村の子供たちはわざわざ寺まで来て、千鶴を見つけると石を投げつけたり、追い回したりしていじめた。
 お坊さまや寺男がそれを見つけると、子供たちに雷を落として千鶴を護ってくれた。それでも千鶴は悲しかった。亡くなった母に会いたくて、ずっと一人で泣いていた。

「千鶴、また寝たんか? お水、持て来たで」
 母の声が聞こえ、千鶴は目を覚ました。だが、夢の記憶は残っている。
 今の自分の中には山﨑千鶴と、がんごめと呼ばれた千鶴という二人の千鶴がいた。
「だんだん」
 水を受け取りながら、千鶴は母の顔を見つめた。
 がんごめと呼ばれた千鶴が心の中で泣いている。前世で死に別れた母が、今、目の前にいる。
 ――お母ちゃん。
 心の中で、前世の千鶴が母を呼ぶ。しかし、その言葉を口に出せば、母が困惑するのは目に見えている。
 今の自分は前世の自分ではないし、今の母は前世の母ではない。だが母の顔は前世の母の顔によく似ている。
 母は前世のことなど覚えていないが、自分と同じように、母も生まれ変わって来たのに違いない。それも前世と同じ自分の母親として、生まれて来てくれたのだ。
 母の有り難さはわかっていたつもりだった。だが、今ほど有り難く思ったことはない。
「お母さん、これからもずっとうちのねきにおってな」
 母を見上げて千鶴は言った。
 幸子は微笑むと、あんたが嫌と言うまでおるぞな――と言った。

     三

 母と共に再び床に就いた千鶴は、少し気持ちが落ち着いた。母が隣にいると思うだけで心強く感じられる。
 一方で、親に捨てられた忠之を想うと、千鶴は胸が締めつけられた。
 その忠之を、事もあろうに自分の祖父がさらに傷つけたのだ。
 忠之は何も悪くない。しかも、祖父は忠之から多大なる恩を受けていた。それなのに山陰やまかげの者というだけで、手のひらを返したような仕打ちを祖父は見せたのである。
 だが、それに対して自分は何もできない。無力感は千鶴から気力ばかりか思考力も奪っていた。
 頭はぼんやりしているが、全然眠れない。隣から母の寝息が聞こえて来ても、千鶴はまだ目が覚めていた。
 何となく目に浮かぶのは、大きなくすのきだ。
 ――あれは確か、法生寺の本堂の脇に生えとる楠爺くすじいぞな。ずっと昔から生えとる立派な楠じゃと、和尚さまが仰っておいでたわい。誰ぞが来ると、おら、よく楠爺の後ろに隠れたわいなぁ。
 頭の中で独り言をつぶやきながら、千鶴はいつの間にか楠爺の陰から境内を眺めていた。
 山門を潜って境内に入って来たのは、お侍と男の子の二人だ。男の子はお侍の子供なのだろう。村の子供たちとは違う身なりをしている。見ていると、二人は庫裏くりの中へ入って行った。
 千鶴は楠爺の陰から出ると、小石で地面に絵を描いて遊んだ。すると、間もなくして男の子だけが外へ出て来た。
 驚いた千鶴は小石を捨てると、慌てて楠爺の後ろに隠れたが、男の子は千鶴に向かって走って来た。
 千鶴は本堂の裏へ逃げたが、男の子は足が速かった。千鶴はすぐに追いつかれ、境内の隅へ追い詰められた。
 逃げられなくなって千鶴が泣きそうになると、泣くなと男の子は言った。それから男の子は懐に手を入れ、中から花を取り出した。それは野菊の花だった。
「おまいのことは聞いておったけん、下でこの花を摘んで来たんぞ」
 千鶴は男の子の言っていることが理解できなかった。
 男の子は構わず千鶴に近寄ると、千鶴の頭に花を飾ってくれた。
 自分で花を飾っておきながら、男の子は目を丸くした。
「うわぁ、きれいな。花の神さまみたいぞな」
 千鶴は頭の花を手で触れると、男の子に言った。
「おらが、花の神さま?」
 男の子は嬉しそうにうなずいた。
「花がそがぁ申しておらい」
「お花の言葉がわかるん?」
「わからんけんど、わかるんよ。お前は花の神さまぞな。ほれにお前を見て、あしはわかった」
「わかったて、何がわかったん?」
 怪訝けげんに感じる千鶴に、男の子は真面目な顔で言った。
「あしはな、お前に会うためにここへ来たんぞな」
「おらに会うために? なして?」
「わからん。ほやけど、そがぁな気がするんよ」
 村の子供たちは千鶴を馬鹿にする。千鶴は男の子の言葉が信じられなかった。
「おらを、からかいよるんじゃろ?」
「からこうたりなんぞするもんかな。あしは嘘は嫌いぞな」
「ほやけど、おら、がんごめぞな。ほんでもかまんの?」
「がんごめとは何ぞ?」
がんごの娘のことぞな」
 千鶴は男の子を見返すつもりで、少し胸を張った。
 だが男の子は顔をしかめて、意外な言葉で応じた。
がんごの娘? 何言いよんぞ。お前は花の神さまぞな。花の神さまはな、誰より優しいて、誰よりきれいなんぞ」
 男の子が大真面目なのがわかると、千鶴は途端とたんに恥ずかしくなった。
 困って目を伏せる千鶴に、男の子は自分は柊吉とうきちだと名乗った。それから拾った小枝で、地面に名前を漢字で書いて見せた。
 男の子に名前を訊ねられた千鶴は自分も名乗った。
 字が書けるかと柊吉に訊かれ、千鶴はうなずいた。では書いてみろと、柊吉は持っていた小枝を千鶴に渡そうとした。千鶴はそれを受け取ろうとしたが、緊張していたのか、受け損なってぽろりと落としてしまった。
 慌てて拾おうとしゃがんで千鶴が手を伸ばした時、同じように柊吉が伸ばした手と千鶴の手が重なった。
 重なった手を通して、とても懐かしい温もりが伝わって来た。千鶴は驚いて柊吉と見ると、柊吉も同じように驚いた顔で千鶴を見ている。
 千鶴は嬉しいような恥ずかしいような気持ちになって、拾った小枝で地面に名前を書いた。
 それを見た柊吉は、千鶴がむずかしい字が書けると感心し、千鶴に尊敬の眼差しを向けた。
 千鶴は嬉しかった。また少しだけ誇らしい気持ちになった。それから千鶴は柊吉と友だちになった。

 場面が変わり、前髪が残る柊吉が息を切らせてやって来た。
 柊吉は油紙の包みを懐から取り出し、千鶴の前で開けて見せた。包みの中には、とげとげのある色とりどりのきれいな小さな粒が、沢山入っている。
「これは金平糖こんぺいとうというお菓子でな、父上の知人の土産みやげぞな」
 柊吉は得意げに言った。
 柊吉に勧められ、千鶴は金平糖を一粒口の中へ入れた。舌の上に甘さが広がり、千鶴は幸せのうめき声を上げた。
 柊吉にも食べるようにうながすと、柊吉は家で腹一杯食ったから、これは全部千鶴の物だと言った。
 だが、千鶴が金平糖を食べるたびに、柊吉は横で唾を飲み込むので、千鶴は口の中を見せて欲しいと言った。
 柊吉が言われるまま大きく口を開けると、千鶴はその中に金平糖を放り込んだ。
 驚いて口を閉じた柊吉は幸せそうな笑顔になって、まこと千鶴は優しいの――と言った。

 再び場面が変わると、柊吉は元服して佐伯進之丞しんのじょうとなっていた。
 晴れ姿を見せに来た進之丞を千鶴が褒めると、進之丞は千鶴の手を取って、自分の嫁になって欲しいと言った。
 期待はしていたが、本当に請われて千鶴はうろたえた。
 自分は親なし子だし、がんごめだからと遠慮すると、進之丞はそんなことはどうでもいいと言った。
 どうしても嫁になって欲しいと繰り返し懇願され、千鶴は嫁になることを承諾した。
 進之丞は大喜びで千鶴を抱きしめた。
 優しい温もりに包まれた千鶴は、自分のような娘が幸せになれることが信じられなかった。
 進之丞は千鶴を抱きながら、千鶴にはいみなを教えよわいと言った。
 諱というのは侍の本当の名前だそうで、滅多に口にしてはいけないし、誰にでも告げる名前ではないらしい。
 進之丞というのは呼び名であって、本当の名前ではないのだと進之丞は言ったが、千鶴には少しむずかしい。
「とにかくな、あしのほんまの名前は忠之ただゆきぞな。忠義ちゅうぎの忠にこれと書いて忠之て読むんよ。名前を全部言うなら佐伯進之丞忠之ぞな」

     四

 朝になると、千鶴の熱は下がっていた。
 目が覚めた時、千鶴は今の自分が置かれた状況を理解していた。
 その一方で、夢によって蘇った前世の自分が、心の半分を占めているような感じだった。
 前世の自分が現世の自分の邪魔をすることはない。今の自分の中心は現世の自分だ。前世の自分は現世の自分の後ろから、そっと今の状況を眺めている。
「目ぇ覚めたか? 具合ぐわいはどがいなん?」
 母が優しく声をかけ、千鶴の額に手を載せた。
 つい、前世の自分が飛び出しそうになるのを抑えながら、千鶴は言った。
「昨日よりはええけんど、まだちぃと頭がぼーっとする」
「熱は下がったみたいなけんど、今日は一日おとなしいにしとかないかんぞな。あとでご飯を持て来よわいね」
 幸子は千鶴を起こすと、用意していた水を飲ませた。
「あのな、お母ちゃん」
 母に声をかけてから、千鶴はすぐに言い直した。
間違まちごうた。あのな、お母さん」
 幸子は笑いながら、おかしな子じゃねぇと言った。
「どがいした? 何ぞ欲しいもんがあるんか?」
「おらを――やのうて、うちを産んでくれてだんだんな」
「何やのん、そがぁ改まったこと言うて」
 幸子は笑っていいものかどうかわからない様子だった。
「お母さん、体大事にしてや。うちより先に死んだら嫌やけんな」
昨夜ゆんべも妙なこと言いよったけんど、何ぞ怖い夢でも見たんか?」
「怖い夢なんぞ見とらんよ」
 怖い夢ではない。悲しい夢だったのである。
 だが、千鶴は夢の内容を話すのはやめておいた。
 喋ったところで信じてもらえないに違いない。熱のために悪い夢を見たのだろう、と言われるのが目に見えている。
「佐伯さんのこと、あんたにも佐伯さんにも気の毒じゃったね」
 幸子は改まった様子で、千鶴に話しかけた。
 千鶴が黙っていると、幸子は話を続けた。
「お母さん、仕事からんてから、何があったんか聞かされてな。あんたが家飛び出した言うけん、ほんまに心配しよったんよ」
「……ごめんなさい」
 幸子は考えるように少し間を置いてから言った。
「みんな、おじいちゃんのお世話になって暮らしよるけん、おじいちゃんには逆らえん。ほやけどな、お母さん、あんたの気持ちはようわかる。ほんでも、今はぐっとこらえんとな。一人前の師範になったら、あんたは自由になれるけん、ほれまでは辛抱するんよ」
「ほやけど、おじいちゃん、うちに別のお婿さんを連れて来るんやないん?」
「そげなもん、あんたが断ればええことじゃろ? あんたが絶対に嫌じゃ言うたら、おじいちゃんも無理さっちなことはできんぞな」
 千鶴はうなずいた。確かに母の言うとおりだと思うし、他にどうすることもできそうにない。
 母が部屋を出て行くと、前世の千鶴が顔を現した。考えるのは忠之のことだ。
 前世の千鶴は忠之を進之丞として認識しており、法生寺に捨てられていた孤児とは見ていない。そんなことはどうでもいいことであり、死に別れたはずの二人が再び出会えたことを喜ぶばかりだ。また全ては定めであり、二人が夫婦になるのも定めだと信じている。
 それでも千鶴が思い出した前世の記憶は、全体の一部に過ぎなかった。全てを思い出したわけではないので、前世の千鶴の存在感は希薄でもあった。
 千鶴が現在の忠之に思いをせると、前世の千鶴はすぐさま後ろへ引っ込んでしまう。
 現世の千鶴には、できるだけ物事を客観的に見ようという気持ちがあった。そのため前世の自分の記憶が、果たして本物なのかと疑う気持ちもあった。
 もしかしたら自分は頭がおかしくなったのではないかと、不安になったりもする。しかし、忠之が言ったことを信じるならば、やはり忠之は進之丞の生まれ変わりであり、前世の記憶があると考えざるを得ない。
 すると、途端に前世の千鶴が顔を出し、何が何でも進之丞の所へ行かねばと主張し始める。
 前世の千鶴は、自分の存在を進之丞に示したがっていた。現世の千鶴も、自分が前世を思い出したことを忠之に知らせたかった。そこのところでは、二人の千鶴の考えは一致していた。
 きっとそれは忠之の悲しみを癒やすことになるだろうし、今度こそ二人が夫婦になるという決心を忠之に抱かせるはずだと、二人の千鶴はうなずき合った。
 とにかく忠之と連絡を取らねばならないと思ったが、今は自由に動ける状態ではない。それに無鉄砲なことをすると、かえって状況は悪くなるかもしれなかった。
 ここは知念和尚や母の忠告どおり、落ち着いて構える必要があると、千鶴は自分に言い聞かせた。前世の千鶴も黙ってその言葉を聞いている。
 まずは手紙を書こうかと思ったが、千鶴は忠之の住所を確かめていなかったことに気がついた。まさか、こんなことになるとは思いもしなかったのだ。
 迂闊うかつだったと自分を責めながら、千鶴は再び横になった。
 どうしようかと思い悩んだが、いい考えは浮かばない。
 知念和尚宛に手紙を出して、忠之に届けてもらおうかとも思ったが、やはり法生寺の住所がわからない。法生寺とだけ書いても届くかもしれないが、届かないかもしれない。手紙を確実に届けるためには、あやふやなことは避けた方がいいだろう。
 少し考え、そうだと千鶴は思った。春子に訊けばいいのである。春子が知らなければ、実家に訊ねてもらえばいい。そうすれば法生寺の住所がわかるし、知念和尚なら絶対に二人のために動いてくれるはずだ。
 明日は必ず学校へ行き、春子に会おうと千鶴は思った。そのためには、今日中に体調を戻す必要がある。
 千鶴がようやく安堵あんどして気持ちを整理できた頃、幸子が千鶴の箱膳を運んで来てくれた。
 幸子がまた部屋を出て行ったあと、千鶴は一人でしっかり食べた。食欲があるわけではない。それでも明日のために、とにかく食べねばならなかった。