蘇った記憶
一
「ほんじゃあ、こっから先は一人で行けるかな?」
知念和尚は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。
千鶴はうなずき、襟巻きを和尚に返そうとした。しかし和尚はそれを制し、もう一度その襟巻きを千鶴の首に巻き直してくれた。
「ほれは千鶴ちゃんがしよりなさい。ほうじゃ、ちぃと待っとりなさいや。傘を借りて来てあげようわい」
ここは木屋町の電停を過ぎた辺りで、お寺が多い所だ。この近くのお寺に用があって来たという知念和尚は、そこへ傘を借りに行こうとした。いよいよ雨が降りだしそうな黒い雲が広がっている。
けれど、千鶴は大丈夫ぞなもしと言って傘を断った。それから和尚に世話になった礼を述べると、一人歩き始めた。
本当は傘を借りればよかったのかもしれない。だけど千鶴は忠之のこと以外、何も考えられなくなっていた。
この道を歩いていると、忠之に風寄から人力車で運んでもらったことを思い出す。風寄へ帰る忠之を見送りがてら、二人で歩いたのもこの道だ。
あの時、千鶴には希望が見えていた。きっと同じ希望を忠之も見ていただろう。自信のない顔を見せながらも、忠之の目には期待のいろが浮かんでいた。千鶴と同じ屋根の下で暮らせると、忠之は喜びを噛みしめていたはずなのだ。
そんなことを考えると、千鶴はまた泣きたくなった。あの時には知らなかったが、今は忠之が本当は誰なのかがわかっているから、余計に悲しい気持ちになる。
千鶴は悲しみを堪えながら、自分と忠之のつながりに思いをめぐらせた。
前世の自分は法生寺で暮らした娘だったと思われる。そして前世の忠之は風寄の代官の一人息子に違いない。二人は夫婦約束を交わしていた。ところが襲って来た攘夷侍たちによって、二人の間は引き裂かれた。
襲いかかる侍たちを迎え撃つ忠之の姿が目に浮かぶ。あの時、忠之は千鶴をロシアの黒船に託して攘夷侍たちと戦い、その命を散らしたのだろう。そうして死に別れた二人が今ここに生まれ変わり、奇跡の再会を果たしたのである。
これが真実だという裏付けはない。だがそう考えなければ頭に浮かんだ幻影や、忠之の言葉を説明することはできなかった。
千鶴の考えが正しければ、忠之は明らかに前世の記憶があるし、千鶴が法生寺にいた娘の生まれ変わりだとわかっている。だからこそ、あそこまで親切にしてくれたのだ。
鬼のことを知っていたのも、忠之は前世で直接鬼と対峙したことがあるのだろう。それがいつなのかはわからないが、両者は力を合わせて千鶴を護ってくれた。風寄で化け物イノシシに襲われた時も、忠之は鬼が千鶴をイノシシから救ったあとを引き受けたのだと思われる。
千鶴は興奮を覚えながらも、忠之の気持ちを思いやると胸が潰れそうになった。
本来であれば感動すべき再会なのに、千鶴は前世を覚えていないし、忠之が置かれた境遇は、胸を張って名乗り出られるものではなかった。
生まれ変わった千鶴を見つけた時、忠之はどれだけ驚き、どれだけ喜んだことか。けれど本当のことが伝えられず、代わりにしたせめてものことがあの野菊の花だった。あの花は前世での二人の関係と、千鶴への想いを示していたに違いない。
そのあとも忠之は正体を明かさずに見守ってくれていた。
拒まれるのがわかっているのに祭りの人垣へ入ったのは、千鶴を心配してのことだろう。千鶴が源次たちに襲われた時にすぐに助けに現れたのも、ずっと様子を見てくれていたからだ。松山まで人力車で運んでくれたのもそうなのだ。
けれど忠之は千鶴を助けたあとはすっと離れ、それ以上は千鶴に関わらないようにしている。きっと山陰の者であることを気にしているのだ。あるいは親に捨てられたことも理由かもしれない。いずれにしても、自分と千鶴では身分が違うという遠慮が忠之にはあるようだ。
千鶴が山﨑機織の主の孫娘だとわかると、尚更忠之は千鶴には近づきがたくなったと思われる。それでも忠之は千鶴に逢いたくて松山ヘやって来た。そして、甚右衛門から働かないかと声をかけられた。これは忠之にとってまさに奇跡であり、思いがけない幸運のはずだった。
ところが忠之が山陰の者だと知った祖父は、手のひらを返して忠之を拒んだ。それを知らされた時の忠之が思い浮かぶと、千鶴の目から涙があふれ出た。
祖父は忠之を福の神だと持ち上げ、山﨑機織で働いてほしいと頼み込み、忠之をその気にさせた。なのに、お前は山陰の者だからいらないと切り捨てたのである。忠之がどれほど傷ついたのかと考えると、千鶴は涙が止まらなかった。
涙に濡れる千鶴の頬に、ぽつりぽつりと雨粒が当たった。雨は次第に強くなり、あっという間に土砂降りになった。辺りは真っ暗になり、足下がよく見えない。所々に洩れ見える家の明かりや、街灯だけが頼りだ。
ずぶ濡れになって歩きながら、千鶴は仲買人の兵頭を恨んだ。
兵頭が余計な話さえしなければ、祖父が忠之を雇わないと言いだしたりはしなかったのだ。言う必要がない忠之の素性をわざわざ喋ったのは、悪意があったとしか思えない。
兵頭の牛が動かなくなった時、忠之は善意で牛の代わりを申し出た。そして一人で絣を松山まで運び、その代金もきちんと兵頭に届けた。何の報酬もなしにだ。そんな恩義のある人間に不利になることを口にしたのは、忠之をただ働きさせられなくなった腹いせに決まっている。恩を仇で返すとはこのことだ。
兵頭の仕打ちを考えるほどに怒りは募り、濡れた体は小さく震える。人でなしの兵頭を呪った千鶴は、あれほど鬼娘であることを恐れていたのに、鬼になって兵頭に罰を加える自分を思い浮かべた。
忠之がどれほど傷つくかなどお構いなく、家の中でぬくぬく暮らす兵頭を、鬼になった千鶴は家の屋根を壊して捕まえようとした。しかし、千鶴の妄想はそこで終わった。
――千鶴さんは鬼娘やない。千鶴さんは人間の娘ぞな。千鶴さんは誰より優しい、誰よりきれいな娘ぞな。
心の中で忠之が千鶴に語りかける。忠之の言葉を聞けば、悪いことなど考えられるはずがない。それに忠之から受けた恩を仇で返したことでは、祖父だって同罪だ。兵頭を呪うのは、祖父を呪うということでもある。千鶴は項垂れた。
何とか怒りは鎮めたものの、悲しみだけはどうしても消えない。大切な忠之が踏みにじられているのに、それをどうにもできないことが悲しかった。千鶴は己の無力さに涙を流しながら雨の中を歩き続けた。
二
裏木戸から家に入ると、幸子と花江が手拭いを持って駆け寄って来た。
幸子は仕事から戻った時に、初めて千鶴のことを聞かされたのだろう。唇を噛みしめながら泣きそうな顔をしていた。
びしょ濡れになった千鶴の体を二人は懸命に拭いた。
首に巻いていた襟巻きはどうしたのかと訊かれ、山越の向こうで出会った知念和尚に貸してもらったと、千鶴は力なく話した。
幸子たちは千鶴が何をするつもりだったのかを理解したようだ。それ以上は何も訊かず、黙って千鶴を拭き続けた。けれど濡れた羽織や着物は水がしたたり落ちている。
幸子は千鶴に離れで着物を着替えるようにと言った。
座敷にいた甚右衛門とトミは、千鶴を見て戸惑っている様子だ。それでも千鶴に声をかけたり傍へ来ることはなく、黙って千鶴を眺めていた。
板の間にいる手代や丁稚たちも、やはり千鶴を眺めるばかりで黙ったままだ。
幸子は千鶴を離れの部屋へ連れて行った。そこで濡れた着物を脱がせ、改めて体を拭こうとしたが、千鶴の体に触れて驚きの声を上げた。
「千鶴、あんた、えらい熱があるぞな」
確かに悪寒がしていた。立っているのもつらい。
幸子は急いで千鶴に寝巻を着せると、布団を敷いて寝かせた。
「今、お薬持て来るけんな」
母が部屋を出て行ったあと、悲しみと疲れでぼーっとしていた千鶴は、すぐに夢の世界へ入った。
だが夢の中でも、千鶴は熱を出して寝ていた。
千鶴の枕元には、前髪が残る男の子が座っている。前世の子供の頃の忠之だ。名前は柊吉という。柊吉は千鶴の額に手を当てながら、苦しいかと訊ねた。
千鶴がうなずくと、柊吉は自分の額を千鶴の額に重ねて祈った。
――千鶴の病があしに移りますように。千鶴が笑顔になれますように。
そげなことは願わんといてと、千鶴は柊吉に言った。しかし柊吉は祈り続け、これで大丈夫ぞなと言った。柊吉が顔を上げると、そこには醜い鬼の顔があった。
「千鶴」
母の声が聞こえると、柊吉はいなくなった。
目を開けると、枕元に幸子がいた。額には濡らした手拭いが載せられている。
「お薬持て来たで。今、茂七さんが氷買いに行てくれとるけんな」
母に優しく声をかけられると、千鶴は声を出して泣いた。泣きながら、自分にも確かに前世の記憶があるのだと知った。また鬼も心配してくれているのだと思った。
幸子は千鶴を慰めながら薬を飲ませると、千鶴と一緒に横になって手を握ってくれた。千鶴は母を感じながら、再び眠りに落ちた。
千鶴は小さな杖を突きながら、険しい山道を歩いていた。ずいぶん前から歩き続けているが、いつまで歩くのかはわからない。
すぐ前を母が同じように杖を突きながら歩いている。母は頭に菅笠をかぶり、首にはたくさんのお札を束ねたものをぶら下げている。千鶴も子供ながら同じ格好だ。
大人でも大変な道を子供が歩くのはつらいことだ。だけど歩くしかないので、千鶴は懸命に歩いた。
千鶴が遅れると母は立ち止まって、千鶴が来るのを待っている。しかし、千鶴が追いつくと母はまた歩き始めるので、千鶴は休む暇がない。
体が熱く、噴き出る汗は手拭いで何度拭いても止まらない。
「かっか、暑い。おら、お水、飲みたい」
「えいよ、ちくと休もかね」
母は足を止めて、にっこり笑った。
千鶴は腰に提げた竹筒の水を飲もうとした。ところが水を入れたはずの竹筒は空っぽだった。
「かっか、これ、お水入っとらん」
「じゃったら、かっかのをお飲みや」
母は自分の竹筒を千鶴に渡そうとしたが、急に咽せ込んだようにひどい咳をし始めた。
咳は止まらず、母は崩れるようにしゃがみ込んだ。持っていた竹筒は地面に転がり、口を押さえた母の手は、指の間から赤い血が流れていた。
「かっか!」
千鶴は母の背中をさすりながら助けを呼んだ。
「誰か来て! かっかが、かっかが……」
いくら叫んでも、周りには誰もいない。千鶴は泣きそうなのを堪えながら、母に声をかけ続けた。
三
「千鶴、大丈夫か? しっかりせんね。ああ、えらい汗かきよらい」
手拭いで千鶴の寝汗を拭きながら、幸子は千鶴を起こした。
うっすら目を開けた千鶴は、薄暗さの中に母の顔を見つけた。
「かっか!」
千鶴は跳ね起きると、幸子に抱きついた。
「かっか、かっか、かっか……」
「ちょっと、どがぁしたんね? 何ぞ悪い夢でも見たんか?」
千鶴には慌てる母の言葉が聞こえていない。
「かっか、死なんといて。死んだら嫌や。おらを独りぼっちにせんで」
「おら? 千鶴、あんた、何言うとるんね?」
幸子は千鶴を押し離すと、千鶴!――と強く言った。
正気に戻った千鶴は、周りを見まわした。
そこは自分と母が使っている離れの部屋で、行灯の明かりがぼんやりと部屋を照らしている。いつもなら寝る時には消すのだが、母がつけておいたようだ。
「お母さん? うち、どがぁしたん?」
「どがぁしたんやないぞな。何ぞ悪い夢でも見たみたいで、かっか、かっかて、うなされよったんよ。ほじゃけん、大丈夫かて声かけたら、いきなしがばって起き上がって抱きついてな。また、かっか、かっか言うたり、死んだら嫌や、おらを独りぼっちにせんでて言うたんで」
「うちがそげなこと言うたん?」
「言うた言うた。いったい何の夢を見たんやら。ほれより、また着替えんとな。汗で寝巻がびちょびちょやで」
言われて千鶴は、自分が汗をびっしょりかいているのに気がついた。
「こんだけ汗かいたんじゃけん、喉渇いたろ? 着替えたら、お水持て来てあげるけん」
千鶴を着替えさせたあと、幸子が部屋を出て行くと、千鶴は一人きりになった。
さっきは何の夢を見たのだろうと、横になりながらぼんやり考えていると、いつの間にか、千鶴はお坊さまに手を引かれて石段を登っていた。
いつも一緒だった母はいない。母は亡くなったのだ。
石段の上には寺の山門がある。その門をくぐって境内に入ると、男が一人境内の掃除をしていた。男は寺で働く寺男で、千鶴を見ると驚いて腰を抜かしそうになった。
何も驚くことはないとお坊さまは男に言い、千鶴が異人と日本人の間に生まれた気の毒な娘だと説明をした。
場面が変わり、千鶴は寺男と一緒に寺の仕事を手伝っていた。
仕事が終わると、千鶴はお坊さまに呼ばれて習字を教わった。千鶴が教えてもらったのは「千鶴」という自分の名前の字だ。
村の者たちは千鶴を見ると気味悪がり、鬼の娘とか鬼娘と言って千鶴を深く傷つけた。村の子供たちはわざわざ寺まで来て、千鶴に石を投げつけたり、追いまわしたりしていじめた。
お坊さまや寺男が気がつくと、子供たちに雷を落として千鶴を護ってくれた。それでも千鶴は悲しかった。亡くなった母に逢いたくて、ずっと一人で泣いていた。
「また寝たんか? お水、持て来たで」
母の声が聞こえ、千鶴は目を覚ました。夢の記憶は残っている。今の自分の中には山﨑千鶴と、鬼娘と呼ばれた千鶴の、二人の千鶴がいた。
「だんだん」
水を受け取りながら、千鶴は母の顔を見つめた。
鬼娘と呼ばれた千鶴が心の中で泣いている。前世で死に別れた母が目の前にいる。
――かっか。
心の中で前世の千鶴が母を呼ぶ。けれど、その言葉を口に出せば母が困惑するのは目に見えている。
今の自分は前世の自分ではないし、今の母は前世の母ではない。でも、母の顔は前世の母の顔によく似ている。
母は前世のことなど覚えていないが、きっと母もまた生まれ変わって来たのに違いない。それも前世と同じ自分の母親として、生まれて来てくれたのだ。
母の有り難さはわかっていたつもりだった。でも今ほど有り難く思ったことはない。
「お母さん、これからもずっとうちの傍におってな」
母を見上げて千鶴は言った。
幸子は微笑むと、あんたが嫌と言うまでおらいと言った。
四
花江が氷を入れた氷嚢と氷枕を持って来てくれた。
心配する花江をねぎらうと、幸子は千鶴の頭の下に氷枕を入れ、千鶴の額に氷嚢を載せた。頭がひやりとして気持ちがいい。隣に母がいてくれるのも心強い。
一方で、親に捨てられた忠之を想うと、千鶴は胸が締めつけられた。その忠之を、事もあろうに自分の祖父が傷つけたのだ。そのことはさらに千鶴をつらくさせた。
忠之は何も悪くない。しかも、祖父は忠之から多大なる恩を受けていた。それを山陰の者というだけで、その恩を裏切る仕打ちを祖父は見せたのだ。
なのに自分は何もできない。無力感は千鶴から気力ばかりか思考力も奪っていた。
頭はぼんやりしているが、全然眠れない。隣から母の寝息が聞こえてきても、千鶴はまだ目が覚めていた。何となく目に浮かぶのは、大きな楠だ。
――あれは確か、法生寺の本堂の脇に生えとる楠爺ぞな。ずっと昔からある立派な楠じゃと、和尚さまが仰っておいでたわい。誰ぞが来ると、おら、よくこの楠爺の後ろに隠れたわいなぁ。
頭の中で独り言をつぶやきながら、千鶴はいつの間にか楠爺の陰から境内を眺めていた。
山門をくぐって境内に入って来たのは、お侍と男の子、それにお付きの者と思われる男の三人だ。男の子はお侍の子供なのだろう。村の子供たちとは異なる身なりをしている。見ていると、三人は庫裏の中へ入って行った。
千鶴は楠爺の陰から出ると、小石で地面に絵を描いて遊んだ。すると、間もなくして男の子だけが外へ出て来た。
驚いた千鶴は小石を捨てると、慌てて楠爺の後ろに隠れたが、男の子は千鶴に向かって走って来た。千鶴は本堂の裏へ逃げたが、男の子は足が速かった。千鶴はすぐに追いつかれ、境内の隅へ追い詰められた。
逃げられなくなって千鶴が泣きそうになると、泣くなと男の子は言った。男の子は懐に手を入れると、中から花を取り出した。それは野菊の花だった。
「お前のことは聞いておったけん、下でこの花を摘んで来たんぞ」
千鶴は男の子の言っていることが理解できなかった。男の子は構わず千鶴に近寄ると、千鶴の頭に花を飾ってくれた。
「うわぁ、きれいな。花の神さまみたいぞな」
自分で花を飾っておきながら、男の子は目を丸くした。千鶴は頭の花を手で触れると、男の子に言った。
「おらが、花の神さま?」
男の子は嬉しそうにうなずいた。
「花がそがぁ申しておらい」
「お花の言葉がわかるん?」
「わからんけんど、わかるんよ。お前は花の神さまぞな。ほれにお前を見て、あしはわかった」
「わかったて、何がわかったん?」
訝しむ千鶴に、男の子は真面目な顔で言った。
「あしはな、お前に会うためにここへ来たんぞな」
「おらに会うために? なして?」
「わからん。ほやけど、そがぁな気ぃがするんよ」
村の子供たちは千鶴を馬鹿にする。千鶴は男の子の言葉が信じられなかった。
「おらを、からかいよるんじゃろ?」
「からこうたりなんぞするもんかな。あしは嘘は嫌いぞな」
「ほやけど、おら、鬼娘やで」
「がんごめとは何ぞ?」
「鬼の娘のことぞな」
千鶴は男の子を見返すつもりで、少し胸を張った。すると男の子は顔をしかめて、何を申すんぞと言った。
「お前は花の神さまぞな。花の神さまはな、誰より優しいて、誰よりきれいなんぞ」
男の子が大真面目なのがわかると、千鶴は途端に恥ずかしくなった。
困って目を伏せる千鶴に、男の子は自分は柊吉だと名乗った。それから拾った小枝で、地面に名前を漢字で書いて見せた。
男の子に名前を訊ねられた千鶴は自分も名乗った。
字が書けるかと柊吉に訊かれ、千鶴はうなずいた。では書いてみろと、柊吉は持っていた小枝を千鶴に渡そうとした。でも千鶴は緊張していたのか、小枝を受け損なってぽろりと落としてしまった。
千鶴がしゃがんで拾おうとすると、同じく柊吉が伸ばした手と千鶴の手が重なった。
重なった手を通して、とても懐かしい感じがする温もりが伝わってきた。千鶴は驚いて柊吉を見た。柊吉も驚いた顔で千鶴を見ていたが、すぐににっこり微笑んだ。
千鶴は嬉しくも恥ずかしい気持ちになって、拾った小枝で地面に名前を書いた。柊吉はむずかしい字が書けると感心し、千鶴に尊敬の眼差しを向けた。千鶴は照れ笑いをしたが、胸には喜びが広がっている。また少しだけ誇らしい気持ちになった。
それから千鶴は柊吉と友だちになった。
場面が変わり、前髪が残る柊吉が息を切らせてやって来た。さっきよりも大きくなっている。お付きの者はいないので、柊吉は一人で来たようだ。
柊吉は油紙の包みを懐から取り出し、千鶴の前で開けて見せた。包みの中には、とげとげのある色とりどりのきれいな小さな粒が、たくさん入っている。
「これは金平糖というお菓子でな、父上の知人の土産ぞな」
柊吉は得意げに喋ると、千鶴に食べるよう促した。それで金平糖を一粒口の中へ入れてみると、千鶴の舌の上に甘さが広がった。千鶴が幸せの呻き声を上げると、柊吉は嬉しそうに笑った。
千鶴は柊吉も食べるよう勧めたが、柊吉は家で腹いっぱい食ったから、これは全部千鶴の物だと言った。しかし千鶴が金平糖を食べるたびに横で唾を飲み込むので、千鶴は口の中を見せてほしいと言った。
柊吉が言われるまま大きく口を開けると、千鶴はその中に金平糖を放り込んだ。驚いて口を閉じた柊吉は幸せそうな笑顔になって、まこと千鶴は優しいのと言った。
再び場面が変わると、柊吉は元服して佐伯進之丞となっていた。
晴れ姿を見せに来た進之丞を千鶴が褒めると、進之丞は千鶴の手を取って、自分の嫁になってほしいと言った。
期待はしていたが、本当に請われて千鶴はうろたえた。自分は親なし子だし、鬼娘だからと遠慮すると、進之丞はそんなことはどうでもいいと言った。
どうしても嫁になってほしいと繰り返し懇願され、千鶴は嫁になることを承諾した。
進之丞は大喜びで千鶴を抱きしめた。優しい温もりに包まれた千鶴は、自分みたいな娘が幸せになれるなんて信じられなかった。
進之丞は千鶴を抱きながら、千鶴には諱を教えよわいと言った。諱というのは侍の本当の名前だそうで、滅多に口にしてはいけないし、誰にでも告げる名前ではないらしい。
進之丞は呼び名であって、本当の名前ではないのだと進之丞は言ったが、千鶴には少しむずかしい。
「とにかくな、あしのほんまの名前は忠之ぞな。忠義の忠に之と書いて忠之て読むんよ。名前を全部言うなら佐伯進之丞忠之ぞな」
五
朝になると、千鶴の熱は下がっていた。
目が覚めた時、千鶴は今の自分が置かれた状況を理解していた。その一方で、夢によって蘇った前世の自分が、心の半分を占めている感じだった。
前世の自分が今世の自分の邪魔をすることはない。今の自分の中心は今世の自分だ。前世の自分は後ろからそっと今の状況を眺めている。
「目ぇ覚めたか? 具合はどがいなん?」
先に起きていた幸子が声をかけ、千鶴の額に手を載せた。
つい前世の自分が飛び出しそうになるのを抑えながら、千鶴は言った。
「昨日よりはええけんど、まだちぃと頭がぼーっとする」
「熱は下がったみたいなね。ほんでも、今日は一日おとなしゅうしとりんさいや。ご飯は食べられるんか?」
千鶴がうなずくと、幸子は嬉しそうに笑った。
「じゃったら、あとでご飯を持て来てあげよわいね。昨日も食べとらんのじゃけん、たんとお食べや。けんど、ほの前にまずはお水や」
幸子は千鶴を起こすと、用意していた水を飲ませた。
「あんな、かっか」
母に声をかけてから、千鶴はすぐに言い直した。
「間違うた。あんな、お母さん」
幸子は笑いながら、おかしな子じゃねぇと言った。
「どがいした? 何ぞ欲しいもんがあるんか?」
「おらを――やのうて、うちを産んでくれてだんだんな」
「何やのん、そがぁ改まったこと言うて」
幸子は笑っていいものかどうかわからない顔をしている。
「お母さん、体大事にしてや。うちより先に死んだら嫌やけんな」
「昨夜も妙なこと言いよったけんど、何ぞ怖い夢でも見たんか?」
「怖い夢なんぞ見とらんよ」
怖い夢ではない。悲しい夢だったのである。だけど、千鶴は夢の内容を話すのはやめておいた。喋ったところで信じてもらえないに決まっているし、熱のために悪い夢を見たのだろう、と言われるのが目に見えている。
「佐伯さんのこと、あんたにも佐伯さんにも気の毒じゃったね」
幸子は千鶴の様子を窺いながら話しかけた。千鶴が黙っていると、幸子は話を続けた。
「お母さん、仕事から戻んてから、何があったんか聞かされてな。あんたが家飛び出した言うけん、ほんまに心配しよったんよ」
「……ごめんなさい」
千鶴が下を向くと、幸子は考えるように少し間を置いてから言った。
「みんな、おじいちゃんのお世話になって暮らしよるけん、おじいちゃんには逆らえん。ほやけどな、お母さん、あんたの気持ちはようわかる。ほんでも今はぐっと堪えんとな。一人前の師範になったら、あんたは自由になれるけん、ほれまでは辛抱するんよ」
「ほやけど、おじいちゃん、うちに別のお婿さんを連れて来るんやないん?」
「そげなもん、あんたが断ればええことじゃろ? あんたが絶対に嫌じゃ言うたら、おじいちゃんも無理なことはできまい?」
千鶴はうなずいた。確かに母の言うとおりだと思うし、他にどうしようもない。
母が部屋を出て行こうとすると、母を引き留めたい前世の千鶴が顔を出した。しかし母が行ってしまうと、前世の千鶴は進之丞のことを考え始めた。
前世の千鶴は忠之を進之丞として認識しており、法生寺に捨てられた孤児とは見ていない。そんなのはどうでもいいことであり、死に別れた二人が再び出逢えたことを喜ぶばかりだ。またすべては定めであり、二人が夫婦になるのも定めだと信じている。
それでも千鶴は前世の記憶全部を思い出したわけではないので、前世の千鶴の存在感は希薄だった。千鶴が現在の忠之に思いを馳せると、前世の千鶴はたちまち後ろへ引っ込んでしまう。しかし忠之を進之丞の生まれ変わりだと見ると、途端に前世の千鶴は姿を見せて、何が何でも進さんの所へ行かねばと主張し始める。
前世の千鶴は自分の存在を進之丞に示したがっていた。今世の千鶴も前世を思い出したことを忠之に知らせたかった。そこのところでは、二人の千鶴の考えは一致していた。
きっと、それはあの人の悲しみを癒やすことになる。今度こそ自分たちは夫婦になるという決心を、あの人に抱かせるはずだ。そんな同じ想いで二人の千鶴はうなずき合った。
とにかくあの人と連絡を取らねばと思ったが、今は自由に動ける状態ではない。無鉄砲なことをすれば、却って状況は悪くなるかもしれなかった。
ここは知念和尚や母の忠告どおり、落ち着いて構える必要があると、千鶴は自分に言い聞かせた。前世の千鶴も黙ってその言葉を聞いている。
まずは手紙を書こうと思ったが、千鶴は忠之の住所を確かめていなかったと気がついた。忠之に自分の住所を教えていなかったこともそうだが、まさか、こんなことになるとは思いもしなかったのだ。
考え悩んだ末、千鶴は知念和尚に頼んで手紙を届けてもらうことを思いついた。知念和尚は自分たちの味方だし、今の状況も伝えてある。絶対に力になってくれるはずだ。
ところが、やはり法生寺の住所がわからない。宛先に法生寺とだけ書いても届くかもしれないが、届かない可能性もある。手紙を確実に届けるためには、あやふやなことは避けた方がいい。
どうしたものかと考えていると、幸子が千鶴の箱膳を運んで来てくれた。千鶴は和尚さんに佐伯さんへの手紙を頼みたいので、法生寺の住所を教えてほしいと頼んだ。幸子は困惑すると、うーんと言った。
「法生寺の住所なぁ。確かあったはずなけんど、ばたばたしよるうちに失さしてしもたで。ほやけん、お前を産んだあとに手紙を書こ思いながら出せんかったんよ」
またあとで探してみると言われたが、探す所などほとんどない。当てにはできないが、お願いしますと頼んでおいた。
母が再び部屋を出て行くと、千鶴は箱膳の前に座った。食欲はないけれど、明日は学校なので食べねばならなかった。
学校のことを考えた千鶴は、そうだと思った。春子に訊けばいいのだ。春子が知らなければ、実家に訊ねてもらえばいい。そのためにも明日は必ず学校へ行こう。
少し元気が出た千鶴は、飯を口に入れた。