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現れた鬼


     一

 月曜日、千鶴ちづは部屋で食事をしたあと、学校へ行く準備をした。
 昨日のうちに体調を戻すつもりだったが、まだ完全とは言えなかった。それでもはるに会って、法生寺ほうしょうじの住所を教えてもらわねばならない。それに、また学校を休むと退学になると言われている。
 忠之ただゆき山﨑機織やまさききしょくで働けない以上、忠之と一緒になるためには、はんの資格はどうしても必要だ。たとえ熱があったとしても、休むわけにはいかなかった。
 髪を整え、着物の上にはかまを着けると、千鶴は茶の間へ挨拶をしに行った。病院の仕事へ向かう母も一緒だ。
 祖父は新聞を読んでいる。その横で祖母がお茶をれていた。
 千鶴と幸子さちこは、まず茶の間にある仏壇の前で手を合わせた。この日は千鶴の伯父正清まさきよの命日だった。
 本来ならば家族そろって墓参りに行くところだが、千鶴は学校を休めないし、幸子も病院の仕事があった。
「おじいちゃん、おばあちゃん、てまいります」
 祈り終わった千鶴が祖父母に声をかけると、甚右衛門じんえもんは目だけを向け、あぁ――と素っ気ない返事をした。
 辰蔵たつぞうがいないので早く帳場ちょうばに行こうとしているのか、甚右衛門はせわしげに新聞をめくっている。
 トミは千鶴に待つように言うと、お茶を淹れた湯飲みを甚右衛門に渡し、千鶴のそばへ来た。
「今日は電車でお行き」
 トミは懐か ふところ ら財布を出すと、千鶴に銭を持たせた。
 昨日は冷たい顔を見せたトミだったが、今朝は優しげな祖母に戻っていた。
 幸子ははなから用意していた弁当を受け取ると、一つを千鶴に持たせた。
 花江は千鶴に何か言いたげに見えた。しかし、言葉が見つからなかったのか、黙って微笑んだだけだった。
「花江さん、て来ます」
 千鶴が花江に声をかけて表へ出ようとすると、何じゃと?――と甚右衛門が声を上げた。
 千鶴と幸子が驚いて振り返ると、甚右衛門は新聞に顔を突っ込むようにしている。
「どがいしたんね? 急にそげなおおけな声出しんさって」
 トミがげんそうに声をかけたが、甚右衛門は返事をしない。記事にくぎづけになっているようだ。
 トミは甚右衛門のそばへ行き、横から新聞をのぞき込んだ。
 恐らく伊予いよ絣のがすり 値が暴落したのだろうと思い、千鶴は再び祖父たちに背を向けた。すると、また甚右衛門の声が聞こえた。
「兵頭よ ひょうどう 。兵頭のことが出とる。ほれ、ここ見てみぃ」
「誰ぞな、兵頭て?」
 き返したのは祖母の声だ。
風寄かぜよせの仲買人の兵頭よ。金曜日にここへ来たろがな」
「あぁ、あの兵頭さんかな。あのお人が、なして新聞に載っておいでるん?」
 千鶴は二人を振り返った。幸子も同じように二人を見ている。
 花江は洗濯の準備をしているが、耳は甚右衛門たちの言葉をしっかり聞いているはずだ。
 甚右衛門は説明しようとした。だが面倒に思ったのか、自分で読めと、新聞をトミに突きつけるように手渡した。
 新聞を受け取ったトミは、どれどれと両腕を真っぐ伸ばすと、新聞を読み始めた。
「豪雨が降る土曜日の真夜中、風寄のさけむらに住む兵頭勘助かんすけさんの家が、突然ばりばりと音を立てて屋根が壊れた。その時に兵頭さんたちは、化け物がえる恐ろしげな声を聞いたと言う。じんに怪我人はいるものの命に別状はなし。ただし、購入したばかりの牛は驚いて死んだ模様。なお、風寄では先日、山のぬしのイノシシが何者かに頭を潰されて死ぬという事件が起こっており、村人たちはすっかりおびえている様子である」
 トミは新聞を下ろすと、甚右衛門にたずねた。
「これ、何やと思いんさる?」
「そげなこと、わしがわかるわけなかろ!」
 甚右衛門は怒鳴った。
 幸子は不安げに千鶴を見た。
 花江も動きが止まって、千鶴を見ている。イノシシ事件を千鶴と春子から聞いていたからか、花江の顔はこわっていた。
 だが、一番怖い顔になっていたのは千鶴かもしれなかった。
 千鶴は直感で、これは鬼のわざだと思った。自分が兵頭を呪ったために、その願いをかなえようと鬼がお仕置きをしたのに違いない。
 前世を知る忠之は、鬼は千鶴の幸せを願い、千鶴を見守ってくれていると言った。あの話は恐らく事実であり、鬼は今世でも千鶴のために動いてくれた。それがイノシシ事件であり、また今回の兵頭の事件だ。
 千鶴は兵頭を一つも気の毒だとは思わなかった。兵頭は忠之の恩をあだで返した。鬼に襲われても自業自得である。命が助かっただけでも有り難いと思うべきなのだ。
 鬼が味方になってくれていることは、千鶴を安心させ慰めてくれた。しかし、よく考えてみれば、これは怖いことだった。
 自分の怒りに鬼が反応したのだとすると、これは自分のせいということになる。
 兵頭を恨んで呪った時、忠之の顔を思い出して途中で呪うのをやめた。もしあのまま呪い続けていれば、どうなっていたのかと考えると、千鶴は背筋が寒くなった。
 今回は牛が死んだだけで済んだが、この次は人の命が失われるかも知れない。それは避けねばならないことである。
 それに、千鶴は鬼の手を血でけがさせたくなかった。鬼には優しい鬼のままでいて欲しかった。
 今後はやみに怒りを覚えてはならないと、千鶴は自分を戒めた。
 また、祖父に対しても腹を立てないことに決めた。自分のちょっとした怒りが、大変なことにつながりかねないという思いが、千鶴を慎重にさせた。
 とにかく何があっても、するべきことを淡々とするだけで、決して腹を立ててはいけないと、千鶴は自分に言い聞かせた。
「ほやけど、どがぁするんぞな? 兵頭さんとこの牛が死んでしもたて書いてあるけんど、今度はどがぁしてかすりを持ってんさるんじゃろか?」
 トミは兵頭の家が壊れたことよりも、絣の納入が滞る とどこお ことを心配していた。甚右衛門はトミを見たが、返事ができないようだった。それはそうだろう。もう、忠之が大八だいはち車でぐるま 絣を運んでくれることはないのである。
 兵頭も困るだろうが、祖父も再び頭を抱えねばならなくなったようだ。千鶴は少し鬱憤うっぷんを晴らした気分になった。

     二

 ふだつじから電車に乗った千鶴は、歩かずに済んだことを有り難く思いながら、電車に憧れていた忠之を思い出して悲しくなった。
 松山まつやまで暮らしたなら、いつかは乗れたであろう電車やおか蒸気じょうきに、忠之が乗ることはもうない。その電車に自分が乗っていることが切なかった。
 電車ははん学校の脇を通り抜けたあと、西に向きを変えた。しばらくすると電車は傾斜を登り始めて、南北に走る二つの線路の上を越えた。その時、すぐ左にまち停車場が見えた。
 そこにはもう何台かの大八車が集まって、遠方へ送る品が降ろされている。その様子を眺めていると、風寄かぜよせから引いて来た大八だいはち車にぐるま 載せたかすりの箱を、しちと一緒に停車場へ運び込む忠之の姿が目に浮かぶ。
 車内には他の乗客もいたが、千鶴のほおは涙にれた。
 いつも通学で歩く三津みつ街道に沿って、電車は進んで行く。誰も座っていない隣の席で、うれしそうな忠之がとびきりの笑顔を千鶴に見せている。
 千鶴はこらえきれなくなって、両手で顔を覆った。
 ゴトンゴトンという電車の揺れ動きを感じながら、千鶴は心の中で忠之に、必ずそばに行くから待っていて欲しいと、ずっと声をかけ続けた。

新立しんだて、新立です」
 しゃしょうの声が聞こえ、千鶴は顔を上げて涙を拭いた。そこはもう学校のすぐ近くだ。
 電車を降りると、千鶴はじょ師範学校へ向かった。
 普段よりかなり早い時間の到着になったので、何だかいつもと調子が違う。それでも校門の前に立った千鶴は、とにかく将来のためにがんばろうと、校舎を見上げながら気持ちを新たにした。
 校舎に入り教室へ向かうと、騒々しい声が教室から廊下にあふれ出ている。今日もしずが今朝の新聞記事のことで、みんなにしゃべっているのに違いない。
「おはようござんした」
 教室に入った千鶴が声をかけると、級友たちはぴたりを喋るのをやめて千鶴を見た。
 一斉いっせいに振り返られた様子が異様な感じだった。千鶴はまどいを覚えたが、それでも笑顔を見せた。だが千鶴に笑顔を返す者はなく、みんな怖い物でも見るような目を千鶴に向け続けている。
 集まりの中心には、やはり静子がいた。その隣には春子がいる。しかし、二人の顔にも笑顔はない。静子はおびえたような顔をし、春子は泣きそうな顔だ。
「山﨑さん、がんごいとるんやて?」
 静子が唐突に言った。
 え?――一瞬、頭の中が白くなった千鶴は、すぐに春子を見た。
 春子は慌てた様子で目を伏せた。静子は続けて言った。
「おはらいのばばさまに、がんごが憑いとるて言われたんじゃろ? その婆さまでも手に負えんような、おとろしい鬼が憑いとるて聞いたで」
 千鶴は返事をしなかった。顔を上げようとしない春子に怒りを覚えたが、怒ってはいけないと必死で自分を抑えていた。
 静子は名探偵にでもなったつもりなのだろうか。かつての仲よしだった千鶴を容赦なく責め立てた。
「今朝の新聞に出よったけんど、風寄で化けもんに襲われた家があったそうなね。山﨑さんも知っとろ?」
「し、知らんぞな、そげな話」
 知っているとは言えなかった。
「風寄で死んだイノシシ、頭つやされて死によったじゃろ? あれかてほの化けもんわざに違いないで」
「そげなこと、うちに言われたかて困らい」
「山﨑さん、イノシシの死骸が見つかった頃、うしのうてお寺で倒れよったんやて? お寺に行ったはずないのに、お寺で見つかったやなんてじんじょうなことやないで。山﨑さん、ほん時にがんごに憑かれたんやないん?」
 千鶴はもう一度春子を見た。春子は下を向いたまま顔を上げようとしない。
「そのお寺、昔、がんごめいう鬼の娘がみよったんじゃろ?」
村上むらかみさん、高橋たかはしさんに全部喋ったん?」
 千鶴は顔を伏せたままの春子を責めた。だが、それは静子の言い分を認めたのと同じことだった。
 級友たちがざわめいた。近くにいる者同士で身を寄せ合い、泣きそうな声で怖いと言う者もいた。
「うち、がんごめやないけん」
 千鶴が訴えながら一歩前に出ると、みんなは慌てて立ち上がり、転びそうになりながらあとずさった。静子は下がらなかったが、必死で恐怖に耐えているような顔だ。
「山﨑さんがそがぁ言うても、がんごはそがぁ思とらんのやないん? 山﨑さん、村上さんのひぃばあちゃんに、がんごめて言われたそうやんか。村上さんかて山﨑さんの家遊びに行ってから、ずっと体調悪い言うとるで」
「ほんな……」
 春子はあれだけ喜んで帰って行ったのに、あれは全部うそだったと言うことなのか。その後も春子は千鶴の前では何も言わなかった。言えば鬼を怒らせると思ったのだろうか。
 春子は慌てたように静子のそでをつかんで引っ張った。だが、静子はその袖を引き離した。
 千鶴と目が合った春子は、泣きそうな顔で首を横に振った。その横にいた級友の一人が、怯えた様子で言った。
「うちがここんとこ頭痛かったんは、がんごのせいじゃったんか」
 すると、他の者たちも同じようなことを口にした。中には家族の怪我や病気、遠方の親戚の不幸までも千鶴のせいにする者がいた。それに合わせて静子が言った。
「ひょっとして、うちの伯父さんらが化け物イノシシに襲われたんも、がんごが関わっとったんかも」
 完全なる言いがかりだった。鬼がイノシシをけしかけたのなら、何故そのイノシシを殺す必要があったのか。理屈もへったくれもない。ちゃちゃである。
 みんな千鶴を恐れるがあまり、すべての不幸の原因に仕立て上げようとしていた。千鶴が何を言おうと誰も聞く耳を持とうとしない。
 おはようござんしたと、何も知らない別の級友が入って来た。だが、教室の異様な雰囲気に気づいたようで、入り口近くに立ったまま、どうしたのかとみんなに声をかけた。
がんごぞな。鬼がおるんよ」
 誰かが言った。
「え? がんご?」
 入って来た級友が顔をこわらせると、千鶴はうろたえる春子を一睨ひとにらみして教室を飛び出した。すると、すぐに春子も教室を出て追いかけて来た。
 外へ出て校舎の裏に回った所で千鶴が立ち止まると、春子もそこで足を止めた。二人は黙って互いを見ながら、肩で大きく息をしている。
「山﨑さん、ごめん」
 春子が先に口を開いた。
 千鶴が黙っていると、春子はもう一度、ごめんと言った。
 何がごめんかと思いながら、千鶴は冷たく言い放った。
がんごこわぁて謝りよるんじゃろ?」
 春子は黙っている。図星なのだろう。
「自分ぎり助けてもらお思て謝るやなんてみっともない」
がんごが怖いんは嘘やないけんど、ほれが理由で謝っとるんやないけん」
「他にどがぁな理由があるん?」
「おら、山﨑さんを傷つけてしもたけん」
 どの口が言うのかと言ってやりたかったが、千鶴はこらえた。とにかく腹を立ててはいけないのである。
 千鶴は何度も息を大きく吸って、気持ちを落ち着けようとした。しかし、悔し涙が止まらない。
「うち、子供の頃から、ずっと白い目で見られよった……。ほんでもな、ここへ来て初めて友だちできたて思いよったんよ。うちがどんだけ嬉しかったか、村上さんにはわからんじゃろ」
「こげなこと言うても信じてもらえんかもしれんけんど、おら、山﨑さんのこと憧れよったんよ」
「うちみたいなもんの何に憧れるんよ?」
「ほやかて、山﨑さん、きれいやし優しいし、立派なお店の娘さんやし、おらたちとは違う人やけん」
 春子の言葉には空しい響きしかない。そのことは千鶴を余計にいらだたせた。
「ほうよほうよ。うちはみんなとは違うんよ。ほじゃけん、いっつもかっつも邪険にされて、見下されて来たんよ」
「おら、見下したりしとらん」
「見下しとるけん、うちの知らんとこで、みんなにうちの陰口言いよったんじゃろ?」
「陰口言うたんやない」
「ほな、何やのん?」
「つい、口が滑ってしもたんよ……」
 春子の弁解によれば、静子が新聞記事を話の種に、今朝早くに寮まで来たらしい。その時に、春子はうっかりお祓いの婆の話をしてしまい、そこからずるずると他のことも聞き出されたと言う。
 だが、そんな言い訳をされたところで納得できるわけがない。すべては風寄を訪れたことで始まったのである。
「風寄には村上さんが誘てくれたけん行ったんで。ほんまじゃったら、うちが風寄へ行くことはなかったんよ」
 春子は黙ってうなれている。
「村上さんがうちを誘てくれたこと、うちは嬉しかった。村上さんがうちのこと大事に思てくれとるんじゃて、勝手に思いよった」
「おら、ほんまに村上さんのこと大事に思いよったんよ」
「じゃったら、なしてよ! なして、こがぁなことになるん? いくら高橋さんに言われたにしても、あれこれ喋る必要なかろがね」
 春子が何も言わないので、千鶴は続けて言った。
「うち、村上さんに嫌な思いさせとない思て、今までずっと黙っとったけんど、教えてあげよわい。うちな、村上さんの従兄らに手籠めにされそうになったんよ」
 え?――と春子は驚いた顔を上げた。
「ほれ、いつのこと?」
輿こし投げ落とそとしよった時、村上さん、うちを残して一人で人垣ん中へ入ってったろ? あのあとぞな。うちはあの人らにみんなから見えんとこへ連れて行かれて、手籠めにされそうになったんよ」
「ほんな……」
「あの人ら、うちをつらまえて、へらへら笑いながら言うたんよ。ロシア兵の娘なんぞ、手籠めにしたとこで誰っちゃ文句は言わん、みんな喜んでくれるて言いよったわいね。村上さんのお父さんもお兄さんも、みんな、うちを歓迎するふりしよったぎりじゃて言いよったんよ!」
 喋りながら悔しくなった千鶴の頬を、新たな涙が濡らした。春子は弁解をしようとしたが、千鶴が先に言った。
「ほんでも、あるお人に助けてもろたけん、手籠めにされんで済んだけんど、そのお人がおらなんだら、うちは今頃この世におらんけん」
「おら、何も知らなんだ。ごめん……」
 また下を向いた春子に、千鶴は言った。
「ほん時に、うちは思たんよ。みんな、うちの前でにこにこしよるけんど、ほんまはうちのことを見下しよったんやなて」
「ほんなこと――」
 顔を上げた春子をさえぎるように、千鶴は言った。
「ほんでも、うちは村上さんのことは信じとったんよ。一緒に松山の街をまわった時も、村上さん、ほんまに喜んでくれとるて思いよったんよ」
「おら、ほんまに楽しかった」
「ほうよな。あんまし楽し過ぎて体調わるなってしもたんじゃろ?」
「ほれは……」
「村上さん、うちのことみんなに喋りたかったんじゃろ? ほんまはうちのことが気味悪いて、みんなに言いたかったんじゃろ?」
「そがぁなこと思とらん」
「じゃったら、村上さん、さっき一言でもうちをかぼてくれた?」
 春子は黙ったまま首を横に振った。
 千鶴は目を閉じると、怒ってはいけないと自分を戒め、春子のことは怒っていないからと鬼に訴えた。
 それでも、もう学校に残ることはできない。自分を化け物と見なす者たちと過ごすことなどできなかった。だがそれは、忠之と一緒になるための唯一の道を断たれたということでもあった。そのことも悔しくて悲しくて、千鶴は子供のように泣いた。

     三

「それは、みんなが間違ってるよ」
 千鶴たちと向かい合って座る井上いのうえ教諭は憤っ いきどお たように言った。
 一時限目は井上教諭の授業のはずだった。しかし教諭は授業を自習にし、千鶴と春子を応接室へ連れて来て話を聞いていた。
「これから小学校の教師になろうという者たちが、そんなことをしていたんじゃ、いくらはんの資格を取ったところで、立派な教師になんかなれないじゃないか」
 春子は消え入りそうなほど小さくなっている。その春子に教諭は言った。
「村上さん。君は山﨑さんに悪かったと謝っている。だけど、物事には謝って済むことと、そうじゃないことがあるんだ。あとで謝るぐらいだったら、最初からやるべきじゃない。自分の行動の結果がどうなるのかぐらい、わかってないとだめだろ?」
 春子は項垂うなだれて泣いているが、教諭にいつもの優しさはなく容赦なかった。
「たった一人を大勢でいたぶるのは、僕の一番嫌いなことなんだ。相手が抵抗できず逆らえないのがわかった上で、みんなでいたぶるなんて最低だよ」
 井上教諭はいらだった様子で懐か ふところ 煙草たばこを取り出した。煙草に火をつける手が小さく震えている。教諭は本気で怒っているようだ。
 また、自分の教え子たちがこのような騒ぎを起こしたことに、教諭は打ちのめされているようでもあった。
 ふぅっと煙を吐き出した教諭は、肩を落として言った。
「前に異界生物なんて分類をしたことで、君たちに本気でものたぐいを信じさせてしまったのだとしたら、この僕にも責任の一端はある。教師として、僕は自分が情けないよ」
 教諭はすぐに顔を上げると、だけどさ――と言った。
「山﨑くんはみんなと同じ人間じゃないか。しかも、ずっとみんなと一緒に過ごして来た仲間だろ? おはらいのお婆さんや、村上さんのひいおばあちゃんが何を言ったとこで、まともに考えたら何が本当なのかわかるはずだよ」
 僕は悲しいよと言うと、井上教諭はまた煙草を吸った。
「取りえずの話は聞かせてもらったけど、このあと改めて担任の先生や校長先生を交えて、事の経緯いきさつを聞かせてもらうことになるからね。いじめは厳禁だから、下手へたをすれば全員が退学ってことも有り得るよ」
 教諭の言葉に、春子は声を上げて泣いた。
「先生、もう、ええんぞなもし」
 千鶴は静かに言った。
「うち、もう誰のことも怒っとりません。ほやけん、もう、ええんぞなもし」
「山﨑さん、君は怒っていいんだ。悪いのはみんなの方だから」
「先生、ほんまにええんぞなもし。うち、もう怒るんはやめたんぞなもし」
 井上教諭は指で眼鏡を押し上げて千鶴を見た。
「君は強い子だな。これだけのことをされながら、みんなのことを許すと言うのかい?」
 千鶴がうなずくと、春子は泣きながら、また千鶴に謝った。千鶴は春子にも、もう怒ってないし、春子のことも許したと言った。
 よかったなと教諭は春子に声をかけた。だが、千鶴は間髪入れずに言った。
「ほやけど、学校はやめるぞなもし。うちは、ここにはおれんですけん」
 春子は涙でれた顔を上げると、慌てたように言った。
「山﨑さん、そげなこと言わんでや。このとおり、おら、何べんでも謝るけん、やめるやなんて言わんで」
 春子は千鶴の手を取って頭を下げた。その手をそっと自分の手から離して千鶴は言った。
「村上さん。自分が今のうちの立場やったら、このまま平気な顔して学校へ来られる?」
 春子は下を向いたまま黙って首を振った。
 千鶴は井上教諭に言った。
「みんなはうちのこと化けもんやて思とります。先生に言われて謝ったとしても、みんなの心の内は変わらんですけん。そげなとこにおるんは、うちには耐えられんぞなもし」
 井上教諭は千鶴をなだめるように言った。
「君の気持ちは理解できるよ。だけど、傷つけられた君が学校をやめるなんて、道理に合わないよ」
「先生にはわからんことぞなもし」
 困ったなと井上教諭は腕組みをすると、ふーむとうなった。
「先生方には、ほんまにお世話になりました。ほんまじゃったら、先生方お一人お一人にご挨拶せんといかんのじゃろけんど、今日はようしません。ほじゃけん、井上先生の方からよろしゅうお伝えいただけませんか」
「それは、校長先生や担任の先生とも話をしないといけないことだし……。でもね、明日になれば少し気持ちが落ち着くよ。学校をやめるかどうかは、それから考えても遅くはないと思うけど」
「うちは今度学校を休んだら退学になるて、校長先生から言われとります。ほじゃけん、どちゃみち学校にはおられんぞなもし」
 井上教諭は春子に教室へ戻るようにと言った。
 春子が泣きながら応接室を出て行くと、教諭は千鶴に言った。
「要は、君の気持ちの問題だよ。今回のことを君が気にしないでいられるなら、学校をやめないで済むだろ?」
「ほんなん無理やし」
「僕はね、少し催眠術をかじったことがあるんだ。催眠術では昔の記憶を探ったりできるんだけど、嫌な記憶を消すことだって不可能じゃないんだよ。だからね、これで君の傷ついた――」
「もう、ええんです。かまんでつかぁさい」
 千鶴は立ち上がると声を荒らげた。
「うちの記憶を消したとこで、みんなの気持ちは変わらんぞな。みんながうちを見下しよんのに、うちはみんなを友だちじゃて思わされるやなんて、ほれは、うちに阿呆あほになれ言うことぞなもし」
「すまない。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。僕が悪かったよ」
 うろたえる教諭に、千鶴は言った。
「すんません。先生が、うちのこと思て言いんさったんはわかっとります。ほやけど、もうどがいもならんぞなもし」
 千鶴は頭を下げると、井上教諭を残して応接室を出て行った。

     四

 千鶴がまだ十一時にもならないうちに戻って来たので、帳場ちょうばにいた甚右衛門は驚いた。
 千鶴の悲壮な顔を見たからでもあるのだろう。一緒にいた茂七と亀吉かめきちも、何事があったのかという顔をしていたが、千鶴に声をかけることはなかった。
 甚右衛門は茂七に帳場にいるよう命じると、千鶴を奥へ連れて行った。
 茶の間ではトミが縫い物をし、台所では花江が昼飯の準備をしていた。トミは正清の墓参りには午後から出かけるようだ。
 二人とも千鶴を見ると、やはり驚いたように目を見開いた。
 甚右衛門はトミを呼ぶと、離れの部屋へ向かった。千鶴は黙ってそのあとに続き、さらに後ろをトミがついて来た。
 台所に残った花江は、心配そうに千鶴を見送っていた。
 部屋に入ると、甚右衛門は千鶴とトミを座らせ、どうしてこんな時刻に戻って来たのかと千鶴にたずねた。
わいが悪うてんたようには見えんが、なして戻んた?」
 千鶴は黙って下を向いていたが、もう一度かれると、二人に頭を下げて言った。
「おじいちゃん、おばあちゃん、うち、学校をやめることにしました。もう、学校には行きません」
 甚右衛門もトミも目をみはって互いを見た。
「学校をやめるとは、どがぁな了見ぞな? 理由わけを言え」
 千鶴が黙っていると、トミが心配そうに声をかけた。
「千鶴、何があったんぞな? 怒ったりせんけん、言うとうみ」
「うち……」
 千鶴はうなれると、小さな声で言った。
「うち、化けもんじゃけん……」
 家に戻って来るまでの間に、千鶴は気持ちが変わっていた。化け物扱いされたことで傷ついた自分を、情けないと思うようになったのだ。
 鬼の仲間と思われたことで傷ついたのを、鬼はどう思っただろうかと千鶴は考えた。そして、自分もまた鬼を傷つけてしまったと気がついたのである。
 ずっと自分のそばにいて欲しいと言っておきながら、鬼が傍にいることを言われて傷つくのは矛盾している。
 そのことを千鶴は家に戻るまで鬼にび続け、もう鬼の仲間と言われても傷つかないと約束した。だから、学校をやめる理由を訊かれても、鬼を理由にしたくはなかった。
 しかし何もしゃべらないわけにはいかず、化け物だからと小声で言ったのだが、それでも喋りながら心の中で鬼に詫びていた。
「化けもん? 何じゃい、ほれは。そげなことを誰が言うた?」
「……みんな」
 甚右衛門は憤り いきどお を隠さなかったが、千鶴には静かに話しかけ、どうして化け物と言われたのか、その理由を訊ねた。
 千鶴は風寄かぜよせで我が身に起こったことや、おはらいのばばに言われたことなど、これまで二人に打ち明けていなかった話をした。
 また兵頭の家を壊したり、イノシシを殺したのは、自分にいている鬼だと級友たちが決めつけ、自分のこともがんごめだと言って怖がったということも喋った。
 ただ、イノシシに襲われたことは黙っていた。それを話して、本当に鬼が憑いていると祖父母に思われるのが怖かった。
 それでも、実際に鬼が何かをしたわけではないと鬼をかばい、がんごめと呼ばれることも気にしないことにしたと、千鶴は言い足した。また、それでも学校をやめるのは、自分を仲間と認めない級友たちとは一緒にいられないからだと説明した。
 がんごめと呼ばれることを気にしないのであれば、何も学校をやめなくてもよかったではないかと、二人から言われると千鶴は思っていた。しかし、それについて祖父母は何も言わなかった。
 明らかに顔色が変わった祖父母は、千鶴が学校をやめる理由について考える余裕もないほど、うろたえているみたいだった。
 祖父母の態度は、二人もまた千鶴に鬼が憑いていると信じ、それを恐れているように見えた。それは級友たちの姿と同じであり、千鶴を落胆させた。
「やっぱしおじいちゃんもおばあちゃんも、がんごが心配なん?」
 千鶴の問いかけに、二人は返事をしなかった。
 祖母は祖父をおびえたような目で見るばかりだし、祖父もまた動揺したように目を動かすだけだった。

だんさん」
 外で亀吉の声がした。
 甚右衛門が顔を出すと、亀吉が言った。
「仕入れの荷物が届いたけん、旦那さん呼んで来てくれて、茂七さんが言うとりんさるぞなもし」
 わかったと言うと、甚右衛門は千鶴を振り返った。
「今は仕事が忙しい。ばあさんも昼から墓参りに行かにゃならんけんな。話の続きは夕飯を済ませてからにしよわい。ええな?」
 千鶴がうなずくと、甚右衛門は急ぎ足で帳場へ向かった。
 一方、トミは座ったまま動こうとしなかった。どうしたのだろうと思ったら、トミは泣いていた。トミは何度も涙を拭きながら、可哀想にな――と言った。
 千鶴は聞き間違いかと思ったが、可哀想に――とトミは繰り返して言った。
「おばあちゃん……」
「あんたは何もしとらんのにな……。なしてそげなことを言われないけんのぞ。どいつもこいつも人でなしばっかしぞな」
 トミは千鶴を想って泣いていた。
「ほんでも、うちらかて人のことは言われん。うちらもまた人でなしぞな」
 トミは甚右衛門が忠之を雇わなくなったことに対して腹を立てていた。だが、甚右衛門を止めることができない自分も、同罪だと考えているらしかった。
「あの子はまっことええ子ぞな。今もまだうちの店があるんはあの子のお陰やのに、その恩を忘れて何が身分ね。人でなしに身分も糞もあるまいに」
 千鶴はすがる想いで祖母に言った。
「おばあちゃん、今からでもえきさんをここへ呼び戻すことはできんの?」
 そがぁなこと――とトミは涙を拭きながら言った。
「あの人はいったん言い出したら聞かんけんな。うちが何言うたところで、どがぁにもならんぞな。ほれに今更いまさらどがぁ言うて、あの子にお詫びしたらええんね?」
「佐伯さんじゃったら、きっとわかってくれるぞな」
「仮にあの子が勘弁してくれたとこで、あの子の家族が黙っとらんわね。うちがついの立場じゃったら、絶対に勘弁せんけん」
 それは確かにそうだ。忠之をただ働きさせていた兵頭も、忠之の家族の怒りを買って、新たな牛を購入せざるを得なかったのである。
 今回の祖父がしたことは、兵頭よりもたちが悪いと言える。忠之の家族が許してくれるはずがない。
「とにかくな、学校のこともあの子のことも、今は辛抱しんぼうするしかないぞな。ほんでも、あんたは下を向くんやのうて、前を向いとりんさい。誰が何を言おうと、あんたはうちらの自慢の孫娘ぞな。何があっても胸張っとるんよ。ええな?」
 トミは千鶴を励ますと、部屋を出て行った。
 思わず祖母と喋ってしまったが、我に返った千鶴は何が起こったのかわからなかった。
 何故祖母が自分のために泣いてくれたのか。何故祖母が自分に優しい言葉をかけてくれたのか。前にも思ったことだが、千鶴は自分が異界に迷い込んでいるように感じていた。忠之のことや鬼のことも含め、何もかもがじんじょうじゃない。
 それでも祖母の涙と言葉は千鶴の胸を打った。理由はわからないが、今の祖母は自分の味方だと、千鶴は受け止めていた。
 状況がよくないことは同じでも、祖母が味方してくれるのは、とても心強いことだった。また、これまでの寂しさが解消されるほどのうれしさが、千鶴の胸に広がっていた。
 しかし、先ほどの鬼を恐れたような祖母の様子を思い出すと、千鶴は悲しくなった。祖母が自分を励ましてくれただけに、鬼がいるかもしれないと怖がられるのはつらかった。
 だが、自分に起こっていることを聞けば、鬼との関わりを疑うのは当たり前なのだろう。そして、その鬼を恐れるのも人間であれば当然のことなのだ。
 自分だって忠之からいろいろ話を聞かせてもらうまで、鬼を恐れて悩んでいたわけである。鬼を怖がる者たちに文句を言える立場ではない。
 それはともかくとして、はんの道が閉ざされたために、自立して忠之と夫婦めおとになるという望みが断たれてしまった。また、春子とこんなことになってしまったから、忠之へ手紙を出すこともかなわなくなった。
 しかし、手紙を出したところで解決にはつながらない。祖母が言ったように、忠之の家族が怒り狂っているはずで、忠之をこちらへ呼ぶことは、祖父が考えを改めたとしてもむずかしいに違いない。
 かと言って、自分が家を出て風寄へ行ったとしても、やはり忠之の家族には受け入れてもらえないだろう。
 忠之の育ての親は、実の子供をにち戦争で失っている。それだけでもロシア兵の娘である自分が認めてもらうのは困難なのに、そこへ今回のことが重なったのだ。
 どう考えても、自分は拒絶されるに決まっている。そんな家族に逆らってまでして、忠之は一緒になってはくれないだろう。
がんごさん、うちはどがぁしたらええと思いんさる?」
 千鶴は自分に憑いている鬼に声をかけた。鬼がどこにいるのかはわからないが、この部屋のどこかにいるはずだ。だが、鬼からの返事はない。
がんごさん、何とか言うておくんなもし」
 いくら訊ねても、部屋の中は物音一つしない。きっと鬼は見守るばかりで、余計なことはしないのだろう。
 あきらめた千鶴は、級友たちのことは怒っていないから、何もしないようにと鬼に頼んだ。
 病み上がりで学校へ行った上に、とても嫌な想いをさせられたことで、千鶴は疲労を感じていた。ごろりと仰向けになると、目を閉じて不動明王に祈った。
 他にも神仏はいるが、前世で法生寺ほうしょうじにいた千鶴には、やはり不動明王が一番身近に感じられた。それに忠之が一番信心しているのも不動明王だ。何もできない今、頼れるのは不動明王だけだった。
「お不動さま、おらをしんさんと夫婦めおとにしてつかぁさい。どうか、おらたちの力になってつかぁさい」
 千鶴は祈った。必死に祈り続けた。祈るしかなかった。
 祈りながらいつしか眠りに落ちた千鶴は、進之丞しんのじょうの夢を見た。夢の中で、千鶴は子供になったり大人になったりしながら進之丞と遊んだ。
 前に見た時と同じように、嫁にしたいと進之丞から言われた千鶴は幸せを感じていた。しかし、自分たちが死に別れる定めであることを、わかっている自分がいた。幸せに喜ぶ自分を眺めるもう一つの自分は、切なく悲しい気持ちに沈んでいた。

「千鶴ちゃん」
 千鶴を呼ぶ声がした。はっと目を覚ました千鶴は体を起こした。
「千鶴ちゃん、寝てるのかい? お昼ができたんだけど、こっちへ持って来ようか?」
 障子しょうじの向こうで声をかけているのは花江だ。
 千鶴が障子を開けると、花江が心配そうな顔で立っている。
「だんだん。ほれじゃあ、こっちへお願いします」
「やっぱり、まだ具合が悪いのかい?」
「ちぃとね。ほんでも、ご飯食べたら家のこと手伝うけん」
 いいよいいよと花江は手を振り、今日はゆっくり休むようにと言った。
 花江がいなくなると、千鶴は今見た夢を思い返した。
 前世の記憶をたどるような夢だったが、前世の結末を自分は知っている。そのために前世で幸せを感じていた自分を切なく思ったのだが、それは今の自分にも言えることだ。
 来ると思っていた忠之が、思いがけない形で来なくなった。この先どうなるかを自分は知らないが、今の夢のように、どんな結末が待っているのかは決まっているのだろう。
 いい結末なのか、悲しい結末なのか。考えてもわからないが、考えれば考えるほど後者のような気になってしまう。
 千鶴は両手を合わせると、改めて不動明王に自分と忠之の幸せを願った。自分たちを引き合わせたのが不動明王であるならば、きっといい結末へ導いてくれるはずである。そう期待を込めて、千鶴は願い続けた。