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祖父母の想い


     一

 夕飯を済ませたあと、男衆は おとこしゅう 銭湯へ行った。
 はなはアイロン掛けを始めるところだったが、トミに銭湯へ行くようにうながされた。
 昼前に学校から戻ったことについて、病み上がりで具合が悪かったからと千鶴ちづは花江に話した。しかし、それが本当の理由でないのは、花江はわかっていたはずだ。千鶴をねぎらって、それ以上突っ込みはしなかったが、やはり千鶴のことは気になるみたいだ。
 使用人がみんな外に出されることにも何かを思ったらしく、花江は家を出るまで心配そうな目を千鶴に向けていた。
 花江がいなくなると、トミは茶の間の障子しょうじを閉め切った。部屋の中にいるのは甚右衛門じんえもんとトミ、そしてさちと千鶴の四人だけだ。
 甚右衛門は腕組みをしながら千鶴に言った。
「改めてくが、千鶴、おまいは学校をやめるんか?」
 千鶴がうなずくと、わかった――と甚右衛門は言った。
「おまいがやめる言うんを、無理さっちには行かせられまい。学校の方には、明日あひたにでも連絡を入れようわい」
「すんません」
 頭を下げる千鶴に甚右衛門は言った。
「別に気にせいでええ。おまいに婿取るんなら、学校はやめさすつもりじゃったけんおんなしよ」
 穏やかに話す甚右衛門に、横から幸子が口を挟んだ。
「ほんでも婿の話はのうなったし、この子は教師になろ思て、これまでがんばりよったのに、なしてこげな形で学校をやめないけんのよ」
 幸子は憤っ いきどお ていた。忠之ただゆき山﨑機織やまさききしょくに来なくなった今、忠之と一緒になるために一人前のはんになるようにと、千鶴を促したのは幸子である。なのにそれがだめになった腹立ちが、幸子の言葉に表れていた。
 千鶴に何があったのかを幸子が知ったのは、病院の仕事から戻ったあとだった。つまり、夕飯の少し前に事情を聞かされたばかりで、幸子は食事中からずっと腹を立てていた。
 そんな幸子とは対照的に、トミは落ち着いた様子で言った。
「世間はな、いっつもかっつも踏みつける相手を探しよるんよ。どがぁな形であれ、目立つもんは目のかたきにされるもんぞな。やけんいうて、踏みつけられたままでおることはない。そげな連中を見返してやるぐらい、立派な人間になったらええんぞな」
「学校ではこの件について、どがぁするつもりなんぞ?」
 甚右衛門の問いに、千鶴は首を振った。
「うちにはわからんぞなもし。ただ先生には、うちは誰のことも怒っとらんし、みんなのことは許したて言いました」
「あんた、こがぁな目にわされたのに、怒っとらんて先生に言うたんか」
 幸子があきれた顔で言った。落ち着けと幸子をいさめると、甚右衛門は言った。
「もう済んだ話ぞな。文句言うてもせんないことよ。ほれより千鶴は立派じゃったな。ほんだけ悔しい思いをしたのに相手を許すなんぞ、誰にでもでけることやない」
「ほうよほうよ。おじいちゃんの言うとおりぞな。千鶴は立派じゃったと、うちも思わい」
 トミも千鶴を褒めた。
 何故、祖父母が自分に優しい言葉をかけるのか、千鶴にはわからなかった。特に祖母は千鶴のために泣いてくれた。千鶴は今こそ理由をはっきり知りたいと思った。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、なして、うちに優しい言葉をかけてくんさるん? うち、お婿さんもらう話も断ったし、せっかく行かせてもろた学校も、こげなことになってしもた。ほんまじゃったら怒鳴られるとこやのに、なしてそがぁな優しい言葉をかけてくんさるんぞな?」
 千鶴がたずねると、甚右衛門とトミはまどった顔を見交わした。
「うち、お父さんがロシアの兵隊じゃけん、みんなから白い目で見られよるし、おじいちゃんらにも嫌われとるて思いよりました。ほれやのに、ここんとこ二人ともうちに優しゅうしてくんさるし、今日かて怒りもせん。なしてぞなもし?」
 二人はまだ返事をしない。それでも千鶴が待っていると、トミが甚右衛門に目で何かを促した。覚悟を決めた様子の甚右衛門は、ようやく口を開いた。
「おまいがそがぁ言うんはもっともぞな。わしらはお前にずっと冷たい態度を取ってきたけんな」
 続けて甚右衛門は、幸子にも目をりながら話し始めた。
正清まさきよの戦死の知らせが来た時、わしらは目の前が真っ暗になった。これから何を目標に生きていったらええんか、わからんなってしもた。戦争に勝ったとしても、息子が死んでしもたら意味ないけんな。ほじゃけん、正直なとこ、日本が捕虜にしたロシア兵に手厚くしよるんを、わしらは腹立たしいに思いよった。そこへ追い打ちをかけるようにな、幸子がロシア兵の血を引くお前をはらんだんよ」
 当時の話は、千鶴は母からおおよそのことを聞いている。どこにも居場所がなくなった母は、大きく膨らみだしたおなかを抱えて家を飛び出し、当てもなく彷徨さまよっているところをねん和尚に助けられたのである。
 母が世話を受けた法生寺ほうしょうじがあるのは風寄かぜよせだ。家のごたごたがかすりおりたちに知れるのを恐れた祖父は、母が子供を産むのを認めて家に呼び戻したという。それは母から聞かされていた話と同じだ。
 おまいには悪いけんど――と甚右衛門は千鶴に前置きをしてから、あの時は幸子が千鶴を産んだことが恥ずかしく、針のむしろに座らされているみたいだったと言った。実際に陰口を言われたり笑われたりしたそうで、面と向かって恥知らずとののしられもしたらしい。
 そんな話を聞かされるのは、千鶴にはつらかった。つい下を向くと、ほやけどな――と甚右衛門は言った。
「わしは思い出したんよ。昔、わしの祖父上、つまり、わしのじいさんが話してくんさったことをな」
 顔を上げた千鶴に、甚右衛門はにこやかに言った。
「こないだおまいにも言うたように、わしはこの家に婿として入ったんやが、元は武家の生まれでな。祖父上はお前からすれば、ひぃひぃじいさんじゃな。ひぃひぃじいさんはお侍じゃったんよ」

     二

 甚右衛門の父親は下級武士で、名をしげ甚三郎じんざぶろうという。
 めいになって、苦しい家計がますます苦しくなると、甚右衛門は十二歳の時に山﨑家へ養子に出されることになった。
 甚右衛門は家を出る前に、寝たきりになっていた祖父ぜんろうに別れの挨拶をした。
 善二郎はしゃべるのが不自由だった。それでも甚右衛門が養子に出されることを惜しみ、自分もかつて養女をもらうはずだったと、れつが回らない舌で甚右衛門に話を聞かせた。
 明治になる少し前、親友から相談を受けたのだと善二郎は言った。身分違いの娘を一人息子の嫁にしたいので、その娘を養女にしてもらいたいと親友に頼まれたそうだ。
 身分をおもんじる侍は、身分の低い者とはそのままでは夫婦になれない。そのため身分の低い娘を嫁に迎える時には、その娘を一旦いったん武家の養女にすることで、身分の体裁を整えたのだ。
「祖父上の親友の名前は、誰じゃったか忘れてしもたが、風寄かぜよせの代官じゃったそうな。その息子の嫁になるんは、法生寺ほうしょうじにおった身寄りのない娘でな。おまいついで、異国のぃが流れておったんじゃと」
 何ということだろう。前世の自分が法生寺で暮らしたあかしを、祖父が語ってくれている。千鶴は鳥肌が立つ思いだった。
「おまいが聞いた話では、法生寺におった娘はがんごじゃいうことやが、事実はさにあらずよ。ほの娘はな、異国のぃを引いとったんよ。ほじゃけん、お前がその娘にぃとったとしても、何の不思議もないわけよ」
 千鶴を慰めるように喋ったあと、甚右衛門は話を戻した。
「祖父上がほの娘を養女にすることに、周りはみんな反対じゃった。けんど親友の頼みじゃけんな。祖父上はほれをすんなり引き受けんさったんよ」
 だが実際にその娘を養女に迎えようとしていた矢先、親友の代官とその息子は殺され、その娘も行方知れずになったと甚右衛門は言った。
「親友から娘の話を聞かされておいでた祖父上は、ほの娘をびんに思いんさってな。せめてその娘の面倒だけでも見てやりたかったと言うとりんさった。その話をわしは思い出したんよ」
 甚右衛門が語ったことを、トミはわかっていたらしい。黙って横でうなずいていた。しかし、初めの話だった幸子は驚いた顔を見せた。
「祖父上の話を思い出したわしは、おまいと祖父上が言いんさった娘に縁があるように感じてな。ほれでお前が産まれたことを、実家に報告しに行ったんよ」
「ほれはいつの話ぞなもし?」
 幸子がたずねると、千鶴が生まれて間もない頃だと甚右衛門は言った。
「わしは向こうの家を出る時に、山﨑家に入ったら重見家のことは忘れて、山﨑家のために生涯を尽くせと言われてな。ほれまで、ほのとおりに生きてきた。ほじゃけん、ほれが家を出てから初めての里帰りじゃった」

 甚右衛門が重見家を訪ねると、兄のぜん兵衛べえが顔を出した。善兵衛は県庁勤めをしていたが、この日は休みで家にいた。
 久しぶりの弟との再会に善兵衛はたいそう喜んだという。ところが甚右衛門の用向きを知ると、態度をひょうへんさせて甚右衛門を追い返そうとした。甚右衛門同様、善兵衛もにち戦争で息子を失っていたのだ。
 そこへ善兵衛の妻が来て、甚右衛門を奥へ通すようにという、父甚三郎の言葉を善兵衛に伝えた。それで善兵衛は渋々甚右衛門を中へ入れ、甚三郎に会わせた。
 祖父の善二郎はすでに亡くなっており、甚右衛門が家を出た時の善二郎のように、甚三郎は寝たきりになっていた。
 甚右衛門と二人きりにするよう善兵衛に申しつけた甚三郎は、異国の血を引く女の赤ん坊が産まれたという報告を、甚右衛門から聞いた。
 甚三郎は善二郎が語った娘の話を知っており、産まれた赤ん坊が女の子で名前が千鶴だとわかると、大変驚いて半身はんしんを起こしたそうだ。
「父上はの、わしにこがぁおっしゃ た。祖父上が養女にするおつもりじゃた娘も、千に鶴と書いた千鶴という名じゃったとな」
 もう間違いない。自分は法生寺にいた娘の生まれ変わりで、忠之は進之丞しんのじょうの生まれ変わりなのだ。
 興奮を抑えきれない千鶴と、驚きを隠せない幸子に甚右衛門は言った。
「これも何かの縁じゃけん、産まれた子供は必ず大切にせよと、父上は言いんさった。ほれは父上の言葉じゃったが、わしには祖父上が言うておいでるようにも聞こえた。ほれにわし自身、千鶴とその娘には深い縁があると思たけん、父上の言葉どおりにしよと決めたんよ」
 甚右衛門は千鶴を大切に育てると約束し、実家をあとにした。
 家に戻った甚右衛門がそのむねをトミに告げると、トミもその指示に従うことに同意した。それは話を聞いたトミ自身が、千鶴と法正寺にいたという娘に縁があると感じたからだった。
「ほれまでのわしらは、おまいのことを敵兵の娘じゃいう目で見よった。じゃが、ほん時からお前は敵兵の娘やのうて、祖父上が養女に迎えようとしんさった娘の生まれ変わりとなった。わしは祖父上の想いを引き継ぎ、お前を大切にすることにしたんよ」
 甚右衛門の言葉を引き取って、今度はトミが言った。
「不思議なもんで、おまいを受け入れるて決めたら、憎らしかったはずのお前が何とも愛らしゅう思えてなぁ。つい顔が綻び ほころ そうになったり、優しい声をかけとなってしもたもんよ。こげなことじゃったら、最初からお前を認めてやったらよかったて、この人と言うたもんじゃった」
「ほんでも、手のひらかやしたみたいなことは、わしらにはできなんだ。ほれまで幸子やおまいを邪険にしよったけん、おんなしにするしかなかったんよ」
 甚右衛門は悔やんだように言った。
「ほれに、おまいが法生寺におった娘の生まれ変わりやなんて言うたら、かえって気味悪がられるけんの。表向きにはロシア兵の娘として扱わざるを得んかったんよ」
 続けてトミが言った。
「ほんまはおまいを、どんだけ抱いてやりたいて思たことか。幸子にも冷たい仕打ちをしよったけん、今更いまさらほんまのことも言えんしな。お前にきついこと言うて、お前が悲しそうにしよった時は、胸が張り裂けそうじゃった。ほんでも今度のことは、あまりにもお前が不憫でな。つい、ほんまの気持ちを隠せなんだんよ」
 祖母の涙の理由をやっと理解できて、千鶴が胸がいっぱいになると、甚右衛門がまた喋り始めた。
「おまいに優しゅうしてやれんでも、お前を立派に育ててみせると、わしらは心にちこた。お前が外へ出る時に表から出させたんは、お前はわしらの孫娘なんじゃて、世間に認めさせるためじゃった。お前が学校でいじめられたて聞いた時は、あとで学校へ怒鳴り込んだもんよ」
 トミも負けていない。
「おまいが買いもん先で馬鹿にされた時はな、うちが行って店のあるじおおげんしたもんじゃった。ほれで店のもんを壊したりもしてな。あとできっちり弁償させられた」
 トミの話に、幸子は思わずという感じで笑った。
「そがぁいうたら、ほんなことがあったわいねぇ。あん時は、なしてお母さんがお店のもん壊しんさったんか、さっぱりわからんかったけんど、そげな理由わけじゃったんじゃね」
 千鶴をじょはん学校へ行かせたのは、千鶴の賢さを伸ばしたかったのと、異国の血を引く娘でもこれだけ立派なことができるのだと、世間に見せてやりたかったからだと甚右衛門は言った。トミは横でうなずいている。
「ほんでも、いずれはおまいに店を持たせたろと思いよった。師範の免許を持つおかみいうんもはくがつくけんな」
「ほじゃけん、そろそろお前にほんまのことを言わんといけんと、この人と言いよったとこなんよ。ていさい気にするんも疲れてしもたし、お前や幸子に申し訳のうてな」
 トミが涙ぐむと、甚右衛門は言った。
「使用人にはおまいを大切にするよう言うてきたんやが、わしら自身がおまいや幸子にこれまで嫌な想いをさせてきた。そのことはほんまに悪かった思とる。いまさらやが、このとおりぞな。勘弁したってくれ」
 甚右衛門が千鶴たちに向かって両手を突くと、トミもそれにならった。
 千鶴は母と一緒に慌てて二人に頭を上げさせたが、祖父母の気持ちがうれしかった。また、祖父母もつらかったのだと知って涙がこぼれた。
 千鶴と同じ想いなのだろう。幸子も泣きながら笑っている。

     三

 今度は千鶴が、甚右衛門とトミに向かって両手を突いた。
「おじいちゃんとおばあちゃんのお気持ち、ようわかりました。うち、自分がどんだけ恵まれとったんか、ちっとも知らなんだ。今までのこと、ほんまにありがとうございました」
 千鶴が二人に頭を下げると、幸子も娘を認めてもらえた礼を述べた。甚右衛門とトミは本当の想いを伝えられたからか、あんしたように微笑み合った。
 頭を上げた千鶴は、ほんでも――と甚右衛門に言った。
「うち、おじいちゃんに言わないけんことがあるぞなもし」
「あの男のことか?」
 甚右衛門は少し当惑した様子だ。千鶴がうなずくと、言うてみぃと甚右衛門は言った。
「うちは、おじいちゃんが情の厚いお人やと知りました。ほれに、人から受けた恩を忘れんお人やと思とります。ほやけど、えきさんに対して見せんさった態度は、おじいちゃんのまことの姿やありません。佐伯さんのこと、福の神やて言うておいでたのに、恩をあだで返すようなことしんさるんはひょうどういうお人とついぞなもし」
「おまいが言うことはわかる。わしにしてもつらい判断じゃった」
 甚右衛門は千鶴に理解を示してうなずいた。けれど、千鶴は祖父を容赦しなかった。
「失礼なけんど、おじいちゃんはちごとるぞなもし。うちがみんなに白い目で見られてつらい想いしよったん、おじいちゃん、わかっておいでたんでしょ? うちにひどいことした人のこと怒ってくんさったのに、なしてほの人らとついのことを、おじいちゃんがしんさるんぞな?」
 甚右衛門は黙っている。幸子は千鶴をたしなめようとしたが、千鶴は構わず続けた。
「おじいちゃん、佐伯さんが山陰やまかげもんやて兵頭さんから聞きんさったんでしょ? 山陰の者て呼ばれよる人らが、どがぁな人なんか聞きんさったけん、佐伯さんのことを遠ざけんさったんでしょ?」
「ほうよ。山陰のもんを入れたら、この家に傷がつく」
 甚右衛門は当然という顔で言った。平気で差別をする祖父に千鶴は悲しくなった。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。いくら風寄かぜよせにおった娘の生まれ変わりでも、うちがロシア兵の娘なんは変わらんぞなもし。山陰のもんが入ったらこの家に傷がつく言いんさるんなら、うちこそここにはおられんぞなもし」
「ほれは……」
 甚右衛門の顔にあせりが見えた。
「ロシア兵の娘であるうちを励ましてくんさるんなら、山陰のもんて言われて苦労ぎりしておいでる佐伯さんのことも、励ましてあげるんがほんまやないんですか? おじいちゃん、佐伯さんがどがぁなお人なんか、ご自分の目で見てわかっておいでるでしょ?」
 甚右衛門はむぅとうめいたが、まだ忠之を認めるとは言わない。
「佐伯さんが小学校出とらんけん読み書き算盤そろばんできんて、おじいちゃんは言いんさったけんど、法生寺ほうしょうじの和尚さんが、奥さんと一緒に佐伯さんに読み書き算盤を教えんさったて、うちに言いんさった。和尚さん、佐伯さんは物覚えがはようて、がいに頭のええ子じゃったて言うとりんさったんよ。学校へ行かせてもらえとったら、もっともっといろんなことを学べたはずやのにて、和尚さんはおっしゃ んさったぞな」
 甚右衛門はまだ口を開かない。隣のトミはおろおろしている。
「どがぁしてもおじいちゃんが佐伯さんを認めてくんさらんのなら、うちが佐伯さんとこへ行くしかありません」
 甚右衛門はじろりと千鶴を見ると、ようやく口を開いた。
「ほれは、わしを脅しとるんか?」
「脅しとるんやありません。うちのほんまの気持ちを口にしたぎりぞなもし。うちはあのお人と離れたままでは生きていかれません。あのお人がここへおいでんのなら、こちらから行くしかないですけん」
「あんた……」
 トミが不安げに甚右衛門を見た。甚右衛門は落ち着きなく両膝をこすっていたが、やがてトミを一瞥いちべつすると千鶴に言った。
「わかった。おまいの言うとおりぞな。わしがちごとった」
 意外にも甚右衛門は素直に千鶴の言い分を認め、気まずそうに頭をいた。
「本音言うたら、ほんまにこれでええんかいう想いが、わしにもあったんよ。ほじゃけん、お前に言われてぇ覚めたかい」
「おじいちゃん……」
 ほっとしたのとうれしいのとで千鶴は泣きそうになった。トミや幸子にも驚いた顔をされて、甚右衛門は照れ笑いを見せた。
「おまいにしても佐伯くんにしても、何や、わしは自分が試されとる気がすらい」
「試されとるて?」
 トミがたずねると、甚右衛門は言った。
「何がほんまに大切なんかを見極めるいうことよ。わしは武家じゃった実家を出て、商家しょうかであるここの婿になった。己の家が武家じゃったことは、ほん時に全部てたつもりじゃった。じゃが実際は、自分はほんまは侍なんじゃいう未練が残っとったかい。人に上も下もないのにくだらんことよ。佐伯くんには、まっこと申し訳ないことをしてしもたわい」
 甚右衛門は千鶴に顔を向けて話を続けた。
「おまいがそこまで心かれるとこ見ると、ひょっとして佐伯くんは、風寄の代官の息子の生まれ変わりなんかもしれんな」
 千鶴はどきっとした。まるで祖父の言葉は、千鶴の考えに太鼓判を押してくれたみたいだ。
 千鶴は自分が本当に法生寺にいた娘の生まれ変わりなのだと、告白したい想いに駆られていた。でも、まずは忠之に会って直接前世のことを確かめるのが先だ。
 気持ちを抑える千鶴に、甚右衛門は言った。
「佐伯くんには早速さっそく手紙でびを入れて、またここへ来てもらおわい。千鶴、佐伯くんの住所を知っとるか?」
 千鶴は首を振った。すると甚右衛門は、法生寺の和尚に頼んで手紙を届けてもらおうと言った。しかし、それにはトミが反対した。
「手紙で詫びるぎりじゃったら相手に失礼ぞな。こっちで頼んだ話を一方的になしにしたんじゃけんね」
「そがぁなこと言うても、誰が風寄まで行くんぞ? わしはここを離れられんし、わし以外のもんが詫びに行ったとこで、詫びになるまい」
 けんしわを寄せる甚右衛門に、千鶴は言った。
「うちが行くぞなもし」
「おまいが?」
 甚右衛門は驚いた顔で千鶴を見た。千鶴がうなずくと、即座にいかんと言った。
「おまいを行かせるわけにはいかん」
「なしてぞな? おじいちゃんやなかったら、うち以外にこのお役目を果たせるもんはおらんぞなもし」
「ほんでも、いかんもんはいかん」
「なしていかんの? ちゃんと説明しておくんなもし。おじいちゃん、風寄のお祭りには行かせてくんさったのに、なして今度はいかんの?」
 甚右衛門は困ったように、トミと顔を見交わした。
「ねぇ、なしてなん?」
 千鶴が強い口調で繰り返すと、甚右衛門は言った。
がんごぞな」
がんご? やっぱしおじいちゃんも鬼のこと気にしておいでるん?」
 鬼がいるのは事実だが、鬼が悪者扱いされるのには反発したくなる。
 憤る いきどお 千鶴にトミが言った。
「落ち着きなさいや。おじいちゃんは何もあんたのことを、悪う思て言うておいでるんやないけん。おじいちゃんががんごを気にするんは理由わけがあるんよ」
理由わけて?」
 千鶴はトミと甚右衛門の顔を見比べた。
 幸子も知らないことらしく、黙って二人の話を待っている。
「さっき、法生寺の娘を養女にする話をしたろ?」
 気乗りしない様子で甚右衛門が言った。千鶴がうなずくと、甚右衛門は話を続けた。
「ほん時に、代官とその息子が殺されたて言うたわいな」
 千鶴はもう一度うなずいた。甚右衛門はすぐには続きを話さず、少し間を置いてから言った。
「伝えられとる話では、風寄の代官は異人の娘を息子の嫁にしようとして、攘夷じょうい侍に殺されたことになっとる。やが、ほんまはほうやないんよ」
「じゃあ、ほんまは?」
 幸子が待ちきれずに訊ねた。
 甚右衛門は一つ呼吸をしてから言った。
がんごに殺されたんよ」

     四

 目を見開いた幸子の顔には、驚きと恐怖が入り混じっている。
 もちろん千鶴も驚いた。だけど、あの鬼がそんなことをするはずがない。
「なして、そがぁ言えるんぞなもし?」
 千鶴の責めるような問いに、甚右衛門は淡々と答えた。
「祖父上が代官の遺骸をご自分の目で確かめんさって、そがぁ言いんさったんよ。代官と代官に従いよった何名かのもんらがな、文字通り八つ裂きにされておったと、祖父上は言うとりんさった。あれは人間にでけることやないてな」
 人間が八つ裂きにされた姿など想像できないし、したくない。ましてや代官は進之丞の父親だ。そんな恐ろしく理不尽なことを鬼がしたとは信じられない。
 千鶴は少しあせって言った。
「じゃあ、なして伝わっとる話では攘夷じょうい侍に殺されて言われとるんぞな?」
「代官らががんごに殺されるんを見たもんはおらんけんな。いかにじんじょうやない殺され方でも、目撃した者がおらん以上、鬼が殺したとは言えまい?」
「ほれじゃったら、ひぃひぃじいちゃんは、なしてがんごやて言いんさったん?」
「村にがんごを見たもんがおったけんよ。その鬼は身のたけじょうはあろうかというでかさで、浜辺で侍連中と争うとったそうな」
 それはヨネの父親に違いない。浜辺の鬼を見たのは、ヨネの父親だけだ。
 忠之の話では、鬼は千鶴を護る存在だ。侍たちが千鶴を襲ったのであれば、鬼と侍が戦ったのは理解できる。
 しかし、代官までもが鬼に殺されたというのは受け入れられない。代官は千鶴に敵対したのではなく、千鶴を嫁に迎えるべく動いてくれていたのだ。
「侍連中って?」
 初めてこの話を聞く幸子がたずねた。
「攘夷侍よ。あの辺りにロシアの黒船が来るいう話があったそうでな。ほれで、ようけ集まって来よったんじゃと」
 ロシアの黒船を狙った攘夷侍たち。千鶴が考えたとおりだ。だけど鬼の話は受け入れられない。
 幸子がげんな顔で再び訊ねた。
「ほやけど、なしてがんごがそげな侍らと争うんです?」
「ほれはわからん。がんごを見たんはたった一人ぎりで、他の者は誰っちゃ見とらんかったそうな。寺も代官屋敷も燃えて、ほれどころやなかったみたいなけん、そこの経緯いきさつはようわからん」
「寺て、法正寺ほうしょうじですか?」
 驚く幸子にうなずくと、甚右衛門は話を続けた。
「そがぁなことじゃけん、鬼の話が真実かはわからんし、代官が鬼に殺される理由もないけんな。ほれで、鬼の話は代官殺しをごまかすために、攘夷侍らがこさえた作り話いうことになったらしい」
「ほんでも、ひぃひぃじいちゃんのお見立てでは、お代官をあやめたんは人やないと?」
 改めて訊ねた千鶴に、ほうよと甚右衛門は言った。
「代官らの死骸を確かめた他のもんらも、人間のわざとは思えんと言うとったそうな。ほんでも、これは攘夷侍の連中がやったことじゃと上から言われたら、誰も何も言えまい。風寄かぜよせの村でも、攘夷侍らに加担することになるいうんで、がんごの話は厳禁されたという話ぞな」
 ヨネ以外の村人たちが鬼の話を知らなかったのは、そういうことだったのかと千鶴は納得した。けれど、それでは鬼が代官を殺したと認めることになってしまう。千鶴の心は大きく動揺していた。
「祖父上は子供をからかうお人やなかったけんな。この話を聞かされた時は、わしも心底しんそこ怖いと思た。というても、山﨑家に入ってからはこの話は忘れよった。実家へ千鶴の話をしに行った時、がんごに気をつけよと父上に言われたが、ほれからも何事もなかったけんな。ほれでまた、鬼のことは頭から消えとった」
 トミが横目で甚右衛門を見ながら、千鶴に言った。
「うちがこの話を聞かされたんは、おまいが風寄の祭りからんたあとじゃった。あのイノシシの話が新聞に載った時ぞな。ほれまで何も聞かされとらんかったけん、初めに知っとったら、絶対お前を風寄には行かせなんだ」
「そがぁ言うな。わしも忘れよった言いよろが」
 むすっとする甚右衛門を、トミはさらに責めた。
「そげな肝心なこと忘れてどがぁするんね。千鶴が連れ去られとったら、忘れよったじゃ済まんかったぞな」
「忘れよったもん仕方しゃあなかろが」
仕方しゃあなかろがやないわね」
 まぁまぁと幸子になだめられて、二人は言い争いをやめた。
 甚右衛門はせき払いをすると、千鶴の方を向いて話を続けた。
「新聞でイノシシの記事見つけた時、わしは嫌な予感がしよった。そこへ今度の兵頭の家の話よ。ほれで、もしや思いよったとこに、おまいからさっきの話を聞かされたんよ」
 甚右衛門はちらりとトミを見た。トミが黙ってうなずくと、甚右衛門は話を続けた。
「そがぁなこと全部合わせよったら、がんごよけのほこらがめげたために、封じられよった鬼が現れたと見るんが筋じゃろ。しかも、その鬼はお前にぇつけたんやもしれんのぞ。ほじゃけん、お前を風寄に行かせるわけにはいくまいが」
 鬼はすでに自分のそばにいる。だけど、鬼は自分の幸せを見守ってくれているだけなのだ。
 その話を千鶴は伝えたかったが、話したところで信じてもらえるとは思えなかった。逆に、やはり鬼に取りかれていると見られるのが落ちだろう。
「なして、この子ががんごぇつけられないけんのです?」
 不安と腹立ちが入り混じった顔で、幸子が訊ねた。
 甚右衛門は片眉を上げると、幸子に言った。
「ほれは法生寺ほうしょうじにおった娘が、がんごに狙われたけんよ」
「そげなこと、なしてわかるんぞな?」
 甚右衛門はちらりと千鶴を見てから言った。
「千鶴の話じゃ、その娘は村のもんがんごの娘じゃと思われとったらしいけんな。事実は異国のぃを引く娘であっても、鬼がその娘を仲間と思い込んだ可能性はあろ?」
「ほやない可能性かてあるぞなもし」
 反発を続ける幸子に、甚右衛門は静かに問いかけた。
「なしてがんごが代官をあやめたんか。鬼が娘を連れ去ろうとしたら、代官はどがぁする? その娘は大切な一人息子の嫁になるおなぞ?」
 幸子は口を開けたが言葉が出せなかった。甚右衛門は構わず話を続けた。
がんごが攘夷侍らと戦うたんも、その理由はわかろ?」
 気を取り直した幸子は、不安そうに言った。
「じゃあ、その娘が行方知れずになったんは……」
 甚右衛門はあごに手を当てると、思案げに言った。
がんごに連れ去られたんか、鬼から逃れようとして死んでしもたんか……。いずれにせよ、鬼は祠によって遠ざけられ、娘は今の千鶴として生まれ変わった。そがぁ考えたら全部辻褄つじつまが合おう?」
「つまり、その祠がめげたんでがんごがまた風寄に現れて、そこで千鶴を見つけたと、こがぁなことなん?」
 甚右衛門がうなずくと、幸子は顔をこわらせた。
「ほじゃけん、千鶴を風寄へ行かせるわけにはいかん。おはらいの婆さんが言うたとおりじゃったら、がんごはすでに千鶴にぇをつけ、千鶴を手に入れる隙をねろとるはずぞ。千鶴が学校におられんなったんも、千鶴を一人にするために鬼が仕組んだんかもしれまい」
がんごはそがぁなことはせんけん!」
 こらえきれず千鶴は叫んだ。甚右衛門もトミも幸子も、みんなが驚いた目を千鶴に向けている。
 千鶴は慌てて声の調子を下げると、もう一度同じことを言った。
がんごはそがぁなことはせんけん」
「なして、そげに言えるんぞ?」
「ほやかて、がんごは何も悪さしとらんぞな。鬼がうちをさらうつもりじゃったら、うの昔にさろとるけん」
「前ん時は、まだおまいが誰なんか、ようわからんかったんかもしれまいが」
 鬼はすでに自分のことを知っているし、知った上でイノシシから助けてくれたと、喉元まで出かかっていた。だが、千鶴はそれを必死でみ込んだ。
「何もしよらんがんごを、鬼いうぎりで悪さするて決めつけるんは、ロシア人の娘とか山陰やまかげもんけがれとるて決めつけるんとついぞな」
 無理な言い草であるのはわかっているが、千鶴は黙っていられなかった。しかし、忠之をかばったようにはいかない。鬼は禍の わざわい 象徴であり、人間にとって悪そのものだ。
 話にならないと想ったのか、甚右衛門がいらだった様子で口をつぐむと、幸子が甚右衛門をかばった。
「おじいちゃんは、あんたを心配しておいでるぎりじゃろがね。そがぁな屁理屈言うたらいかんぞな」
「ほやかて……」
 千鶴も黙ってしまうと、トミが助け船を出してくれた。
「この子はほんだけあの子にいたいんよ。いずれにしても、誰ぞが向こうへ行っておびをせにゃいくまい? というても、誰でもええわけやない。確かにがんごは気になるけんど、あんたが行かれんのなら、この子に行ってもらうしかないぞな」
「何よもだ言うんぞ。おまいかてがんごのことがわかっとったら、千鶴を風寄には行かせなんだと言うたろが」
 声を荒らげる甚右衛門に、トミは穏やかに言った。
「ほれはほうじゃけんど、このまんまにはできまい? ほれに、風寄のかすりがどがぁなるんか確かめにゃならんし、兵頭さんとこかてお見舞いを届けにゃいくまい?」
 甚右衛門は返事をしなかった。トミは困った目を千鶴に向けて、もう一度甚右衛門に言った。
「あんたが何と言おうと、この子は行く言うたら行くぞな。こないだは法生寺の和尚さんが引き止めてくんさったけんど、今度は誰も止めてくれんで。どうせ行くじゃったら、勝手に行かせるんやのうて、できる限りのことをした上で、行かせてやった方がええとうちは思うけんど、どがぁね?」
 甚右衛門は仏頂面のまま何も言わない。根比べのごとくに他の者も黙っている。部屋には重苦しい沈黙が漂うばかりだ。
「できる限りのこととは何ぞ?」
 ついに甚右衛門が不機嫌そうに口を開いた。すると、待ってましたとばかりにトミが喋った。
「まず阿沼美あぬみ神社でお祓いしてもろて、御守りもらうんよ。ほれと幸子を同伴させるんよ。この子一人で行かせたら、また誰ぞに襲われるかもしれんけんな。悪い人間はがんごより怖いけん。ほれで向こうに着いたら、法生寺の和尚さんにお願いして、ずっと一緒におってもらおわい。ほれじゃったら、鬼も簡単にはこの子に手出しできまい?」
 さらに幸子が言葉を添えた。
「ほれに真っ昼間じゃったら、がんごも出て来にくいんやなかろか。イノシシが殺されたんも、兵頭さんのお家がめがされたんも、日が暮れてからの話やけんね」 
 甚右衛門がまた黙りこんだので、トミは涙ぐみながら語気を強めた。
「まだわからんのかな、この人は。学校に行けんなったこの子の唯一生きる力になってくれるんが、あの佐伯いう子じゃろがね。あの子をこのまま呼び戻せなんだら、千鶴はほんまに死ぬるぞな」
 自分のためにここまで言ってくれる祖母に、千鶴は涙が出た。
「おじいちゃん、お願いぞなもし。うちを行かせておくんなもし」
 千鶴が懇願すると、幸子も言った。
「お父さん、うちからもお願いします。うちもこの子をしっかり護ってみせるけん」
 甚右衛門はしばらく黙って下を向いていたが、わかったわい――と力なく言った。
「わしの代わりに千鶴を行かせようわい。ただし、ほれには条件がある」
「条件?」
 いぶかしがるトミに、甚右衛門は千鶴を見ながら言った。
「阿沼美神社ぎりやのうて、雲祥寺うんしょうじでもとうしてもろて、御守りをもらうこと」
 トミはあんした様子で千鶴や幸子と微笑み合った。
「まだあらい」
 甚右衛門の言葉に、千鶴たちは姿勢を正した。
「千鶴。万が一、がんごがおまいを連れ去ろうとしたなら、じいさんの許しがないと行かれんと言うんぞ」
「おじいちゃん……」
 甚右衛門は優しげに千鶴を見つめて言った。
「そがぁ言うたら、がんごはここへ現れよう。ほん時は、わしが鬼を退治しちゃる」
「あんた……」
 甚右衛門の覚悟に、トミは涙ぐんだ。
「大丈夫ぞな。絶対にそげなことにはならんけん」
 幸子が泣きそうな笑顔で言った。
「おじいちゃん、だんだん」
 鬼と戦われては困るが、千鶴は祖父の気持ちがうれしかった。
 千鶴は立ち上がると、甚右衛門のそばへ行って抱きついた。甚右衛門は慌てたが、すぐに千鶴を抱き返した。
「必ず無事にんて来るんぞ」
 うんとうなずいた千鶴は、今度はトミに抱きついた。
「おばあちゃんも、だんだん」
 初めて千鶴と抱き合ったことに感激したのか、トミはわんわん泣いた。横で幸子も泣いている。
 その時、うら木戸きどの辺りが騒々しくなった。茂七たちが銭湯から戻って来たようだ。
 トミは声を殺したが、それでも涙は止まらない。甚右衛門も黙ったまま涙を浮かべている。千鶴も幸子も泣いていた。しかし、ようやく家族が素直に一つになれた喜びで、部屋の中は満たされていた。