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再び風寄へ

     一

 筆無精ふでぶしょうを詫びる幸子に、事情はわかっているからと知念和尚は言った。
 安子は千鶴を褒め、素敵な娘さんだと幸子を祝福した。
 久しぶりの再会を喜び合ったあと、幸子は笑みを消すと、風寄に来た理由を和尚夫婦に伝えた。
 千鶴が鬼に魅入られているかもしれないと不安がる幸子に、和尚たちは心配しないように言った。
 イノシシが死んだのも兵頭の家が壊れたのも、鬼がやったという証拠はないと言うのが、和尚夫婦の言い分だった。
がんごが暴れたんなら、他に被害があってもよさそうなもんぞな。そもそも、なして兵頭家が襲われるんか理由がわかるまい。あの家ぎりが鬼に襲われたとなると、あの家は鬼に目ぇつけられるようなことをしたいうことになるけんな。ほじゃけん今は、化け物がめがしたんやのうて突風でめげたんじゃて、本人らが言うとるぞな」
 兵頭が言い分を撤回したとなると、表面的には鬼の存在は否定される。しかし、それは事実とは言えない。
「イノシシのことはようわからんが、がんごが千鶴ちゃんを護ったんやとすれば、鬼が千鶴ちゃんに危害を加えることはない言うことにならいな。千鶴ちゃんをここへ運んだんが鬼やったとすれば、鬼は千鶴ちゃんをさらうつもりはなかったいうことになろ?」
「ほれは、ほうですけんど……」
 まだ不安げな幸子を、安子が励ました。
「大丈夫ぞな。今日かて何も起こっちゃせんじゃろ? ほれに、うちらも一緒におるんじゃけん。何も心配することないぞな」
「ほれにしても、がんごが千鶴ちゃんをここまで運んだとしてやな、なして千鶴ちゃんの頭に花を飾ったりしたんか、そこがせんわな」
 知念和尚は腕組みをしながら首をかしげた。
「あの、ほのことですけんど……」
 千鶴は遠慮がちに言った。
「実は、うちに花飾ってくれたんは、佐伯さんやったんぞなもし」
 和尚と安子は驚いた顔を見交わした。幸子は嬉しそうに微笑んでいる。
 安子は驚いた様子のまま言った。
「ほれは、あの子が自分で言うたん?」
「最初はとぼけておいでたけんど、うちが問い詰めたら白状しんさったんです」
 安子と一緒に笑いながら和尚は言った。
「千鶴ちゃんが問い詰めたら白状したんかな。あの子がなんぼ喧嘩が強うても、千鶴ちゃんには勝てんいうわけぞな。ほれで、あの子は千鶴ちゃんをどこで見つけた言うとった?」
「ここの石段を下りた辺りに、野菊の花が咲きよるとこがあって、そこにうちが倒れよったそうです」
「あぁ、あそこかいな」
 知念和尚がうなずくと、安子は言った。
「あそこは昔から野菊が群生しよるとこじゃけんね。ところで、なしてあの子は千鶴ちゃん一人残しておらんなったん?」
「ほれは、ほとんど裸じゃったけんて言うておいでました」
「裸?」
「いえ、裸やのうて、ほとんど裸ぞなもし」
 千鶴は忠之から聞いた説明を、和尚たちにも聞かせた。
 和尚も安子も大笑いをすると、全くあの子らしいわいなぁ――と言った。
「何や、楽しいお人のようじゃね。お母さん、あの日は仕事に出てしもてお話もできんかったけん、早ようて話がしとなったぞな」
 和尚たちと一緒に笑いながら幸子が言った。
「ほんでも、その前にうちが佐伯さんと二人で話したいんよ」
 千鶴の言葉に幸子は笑みを消した。
「二人ぎり言うんは、ちぃと危ないんやないん?」
「佐伯さんはそがぁなお人やないぞな」
 千鶴が憤ると、そういう意味ではないと幸子は言った。
「ほうやのうて、がんごのことぞな。和尚さんらと一緒やないと危ないじゃろ?」
「大丈夫。がんごは襲て来んけん」
 幸子が渋っていると、安子が言った。
「幸子さん、さっきも言うたように、がんごは千鶴ちゃんを襲たりせんぞな。ほれに千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるけん、何も心配はいらんぞな」
「佐伯さんもな、お不動さまにうちの幸せねごてくれたんよ。ほじゃけん大丈夫ぞな」
 思わず千鶴が喋ると、幸子はきょとんとした顔で千鶴を見た。
「佐伯さん、そげなことしんさったん?」
 恥ずかしくなった千鶴は、うろたえながらうなずいた。
 知念和尚は安子と一緒に、また大笑いをした。
「これじゃあ、がんごが付け入る隙もないわいな」
「まこと、がんごが何ぞ言うても、二人の耳には聞こえまい」
「ちぃと二人とも、笑い過ぎぞなもし」
 千鶴が膨れて文句を言うと、和尚たちは笑いながら悪かったと言った。
「とにかくな、千鶴ちゃんらのことは心配せいでもええぞな、幸子さん」
 知念和尚が言うと、幸子は仕方なさそうに、わかりましたと言った。
「ほしたら、千鶴が佐伯さんにうとる間に、うちは兵頭さんにお見舞いに行きましょわい」
「家の屋根が全部やないけんど、結構剥ぎ取られとるけんな。修理に村のもんがようけ集まっとるけんど、幸子さんは兵頭さんの顔はわかるんかな?」
 いいえと幸子が当惑気味に答えると、わかったと和尚は言った。
「ほれじゃったら、わしが一緒に行こわい。千鶴ちゃんの方は安子が案内したらええ」
「ほうじゃね。そがぁしよわい」
 安子も同意し、千鶴と幸子は別々に動くことになった。

     二

「昔はな、偉い人ぎりが苗字を持てたんよ。ほやけど、明治になったら法律で誰もが苗字を持つようにて決められたんよ」
 寺の石段を下りながら安子は言った。
 そう言われれば、今の自分は山崎千鶴だが、前世では千鶴という名前しかなかったなと、千鶴は思った。
「佐伯は為蔵さんとこの苗字なけんど、ほれに決めたんは為蔵さんのお父さんなんよ。為蔵さんのお父さんは、昔ここにおいでたお代官を尊敬しておいでたそうでな。ほれで、お代官の苗字を頂戴しんさったそうな」
「へぇ。じゃあ、忠之いう名前は誰がつけんさったんぞな?」
「ほれはね、うちの人よ。お代官の名前が忠之助いうたそうじゃけん、そこからつけた名前なんよ」
 千鶴は代官の名前まで知らない。しかし、前世でも進之丞は父親の名前にちなんで、忠之という名前をもらったのだなと思った。それは前世と今世のつながりを、深く感じさせることだった。
 知念和尚と幸子は先に下まで下りていた。知念和尚は二人が下りて来るのを待ち、千鶴が倒れていたであろう場所を千鶴と幸子に見せた。
 そこには、もう花が終わった野菊の群生があった。葉もしおれて枯れ始めている。
「佐伯さんはここであんたを見つけて、この花を飾ってくんさったんじゃね」
 そう言いながら、幸子は怪訝けげんそうな顔をした。
「ほやけど、そげなこと普通するじゃろか? 和尚さん、安子さんはどがぁ思いんさる?」
「普通はせんわな。ほんでも、あんまし千鶴ちゃんがきれいやったけん、つい飾ってみとなったんやないんかな」
「あの子は優しい子じゃけん、千鶴ちゃん見て、千鶴ちゃんが苦労して来たてわかったんよ。ほれで、千鶴ちゃんねぎらうつもりで飾ったんやなかろか」
 二人の意見にうなずきはしたが、幸子はまだ納得してはいないようだった。
「千鶴は佐伯さんから理由をいとるん?」
 幸子にたずねられ、千鶴はうろたえた。自分たちが前世からの関係だと説明できればいいのだが、今はその時ではないような気がしていた。
「うちが花の神さまに見えたんやて」
 前世で柊吉が言った言葉だ。だから嘘ではない。
「花の神さま?」
 きょとんとしたあと、知念和尚は大笑いをした。安子も口を押さえて笑っている。
「いや、すまんすまん。別に千鶴ちゃんのことをわろたんやないで。ほやけん、気ぃ悪せんといてや。わしらが笑たんは、あの子の発想が面白おもろい思たけんよ」
「まこと、あの子は他のもんとは目線が違う言うか、あの子のそがぁなとこがええわいねぇ。ほれにな、あの子は物事の芯の部分を、真っ直ぐに見る目を持っとるけんね。表現は奇抜かしらんけんど、言うとることは間違まちごとらんぞな」
「安子の言うとおりぞな。あの子は千鶴ちゃんの純粋な心をちゃんと見抜いとらい」
「やめとくんなもし。うちはそがぁな上等の女子おなごやないですけん」
 千鶴が当惑すると、幸子はようやく納得したように微笑んだ。
「この子が佐伯さんに心惹かれたんが、わかったような気がするぞなもし」
「もう、お母さんまで」
 文句を言いながら千鶴は嬉しかった。忠之とのことを、みんなに祝福されているような気分だった。
「そもそも千鶴ちゃんが、ここに倒れよったいう話も怪しいぞな」
 知念和尚は笑いながら言った。どういうことかと千鶴が訊くと、忠之は他の場所で千鶴を見つけて、ここまで運んで来たのかもしれないということだった。
「花を飾ったんも、玄関の前に千鶴ちゃん寝かせたんも、あの子がしたことじゃったら、ここまで千鶴ちゃんを運んで来たんも、あの子と考えるのが自然じゃろ?」
「ほんでも、佐伯さんがイノシシを殺したわけやないでしょうに」
 幸子が疑問を示すと、そこはわからんがと和尚は口を濁した。
「いずれにせよ、がんごが千鶴ちゃんをここまで運んだわけやない言うことぞな」
 安子がうなずきながら言った。
「ひょっとしたら鬼はイノシシを殺したぎりで、千鶴ちゃんにはかまんかったんかもしれんぞな。ほれで、イノシシのねきに倒れよった千鶴ちゃんを、あの子がここまで運んだとも考えられますわいね」
「ほやけど、佐伯さんはほうは言わんかったぞな」
 千鶴が言うと、安子は笑った。
「そがぁなこと言うかいな。頭つやされたイノシシの横に倒れよったやなんて言うたら、千鶴ちゃん、嫌じゃろ? ほれに、他の人らの耳にそがぁな話が入ったら、何言われるかわからんけんね。ほじゃけん、千鶴ちゃんはここで倒れとったって言うたんよ」
 なるほどと千鶴は思った。
 イノシシから助けてくれたのは鬼かもしれないが、法生寺まで運んでくれたのは、忠之だという可能性は十分にある。
 また、それは忠之が鬼を目撃しているかもしれない、ということでもあった。そうであるなら、忠之が鬼のことをよく知っているというのも、そのことと関係がありそうだ。
 真実はどうなのか。それは本人の口に確かめればわかることである。

     三

「ほんじゃあ、わしらはこっちへ行くけん、千鶴ちゃんらはそっちぞな」
 分かれ道で知念和尚が言った。
 幸子は千鶴に決して一人になるなと言い、松山から持って来た手土産を持たせた。
 忠之の家は山裾やますそにあるが、兵頭の家は山から離れた所にある。
 千鶴たちは寺から来た道を、そのまま山沿いに進んだ。振り返ると、田んぼの中の道を歩いて行く知念和尚と幸子の姿が見えた。
 しばらく進むと、左手に上り坂が現れた。
 安子にいざなわれてその坂を上って行くと、やがて掘っ立て小屋のような家の集落が見えて来た。
 安子はその一つに千鶴を案内した。建物の裏手からのこぎりくような音が聞こえて来る。
 家の裏手をのぞいた安子は、もうし、為蔵さん――と言った。
 すると音が止んで、背中が少し曲がった小柄な老人が現れた。
「誰か思たら、安子さんかな」
 為蔵は相好そうごうを崩したが、千鶴に気づくと目を細めた。
「そちらさんは、どなたかな?」
「あの、山崎千鶴と申します。こちらが佐伯忠之さんのお宅とうかごうて、安子さんに連れて来ていただいたんぞなもし」
「忠之の知り合いかな」
 珍しげに千鶴を眺める為蔵に、あの子はおいでる?――と安子は訊ねた。
 為蔵は顔をしかめると、兵頭んとこぞなと言った。
「あの子はお人好しなけん、ええようにされとんよ」
 為蔵は悲しそうに安子に訴えた。
「兵頭んとこの牛がいごかんなって、あの男がよいよ困りよった時に、あの子は牛の代わりをうて出たんよ。ほれもな、ただよ。この辺りの織元廻るぎりやないで。こっから松山まで大八車で絣の箱をいくつも載せて運ぶんよ。ほれがどんだけ大事おおごとか、安子さんならわかろ?」
 わかるぞなと安子がうなずくと、為蔵は話を続けた。
「なんぼあの子がただでかまん言うたとしても、言われたとおり一銭も出さん言うんは、あくどいとしか言いようがなかろ? ほじゃけんな、おら、あの男んとこへ怒鳴り込んだったんよ。ほしたら慌てて牛を持って来よったかい。ほれで、やれやれ思いよったら、今度は忠之が松山で働きたいて言い出したんよ」
 安子はちらりと千鶴を見た。
 安子の視線を追うように、為蔵も千鶴を見ると、ねえやんがおるんを忘れよった――と言った。
 安子は為蔵に千鶴のことを説明した。すると、為蔵は不機嫌になった。
「山﨑機織言うたら、忠之が働きたい言いよったとこじゃろがな。聞いた話じゃ、そちらの方から忠之にぜひ働いて欲しいて言うたそうじゃな。ほれをあの子は真に受けて、すっかりその気になっとったんぞ。おらたちはな、騙されるけんやめとけ言うたんよ。ほしたら、あの人らはそがぁな人やないて、あの子は言うたんじゃ。ほれが何じゃい。今頃んなって、身分が違うけんこの話はなかったことにやと? こがぁなふざけた話がどこにあるんぞ!」
 安子は興奮する為蔵をなだめて言った。
「あのな、為蔵さん。ほやけん、ほのことを千鶴ちゃんが、こがぁしてお詫びにおいでてくれたんよ」
「お詫び?」
 ふんと言うと、為蔵は千鶴に悪態をついた。
「何がお詫びぞ。あんたらにはあの子がどんだけ傷ついたんか、ちっともわからんじゃろがな。申し訳ありませんでした言うたら、ほれで済む思とるんじゃろ。どいつもこいつも、おらたちのことを見下しおってからに」
 千鶴はその場に膝を突くと、為蔵に土下座をして詫びた。
「何と言われようと、うちにはお詫びするしかできんぞなもし。このたびはまことに申し訳ございませんでした」
 千鶴の土下座が思いがけなかったのか、為蔵は少し勢いをくしたようだ。怒りの矛先を千鶴から山﨑機織へ変え、山﨑機織は何でこんな小娘を寄越すのかと文句を言った。
「大体、何ぞ。山﨑機織言うんは外人さんの店なんか? 外人さんは責任者の代わりに、こがぁな小娘を寄越すんか」
 千鶴が土下座をしながら泣いているので、安子が答えた。
「山﨑機織は日本人のお店ぞな。今はほんまに人がおらんで、ご主人がいごけんそうな。ほじゃけん、忠之にも早よ来て欲しいて言うておいでたし、今回も千鶴ちゃんがご主人の代わりにお詫びにおいでたんよ。別に千鶴ちゃんが忠之に嘘言うたわけやないけん。千鶴ちゃんはな、ご主人がしんさったこと間違まちごとる言うて考え直させたんよ。この子はな、あの子のために一生懸命に動いてくれとるんよ」
 為蔵は千鶴を見下ろしながらいぶかしげに言った。
「日本人の店で、なして外人の娘がおるんぞな?」
「ほれは、なして言われても……」
 安子が言葉を濁すと、千鶴は体を起こし、涙を拭いて言った。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。母は日本人の看護婦で、ロシア兵のお世話をしとりました」
 ロシア兵じゃと?――為蔵の顔が鬼のようになった。
「おまいらが……、お前らが……」
 為蔵はわなわなと体を震わせた。
「お前らがおらんとこの息子を殺したんじゃ! おらたちの一人息子を、お前らが殺したんじゃ!」
「為蔵さん、千鶴ちゃんは戦争とは関係ないぞな」
 安子が千鶴をかばったが、興奮する為蔵は聞く耳を持たない。
 その為蔵の言葉に千鶴は返事ができなかった。そこへ追い打ちをかけるように為蔵は言った。
「お前らはおらたちから一人息子奪っといて、今度は忠之まで奪お言うんか。この人でなしめが!」
 これだけ罵倒されても、千鶴は言葉を返すことができなかった。
「為蔵さん、ほれは言い過ぎぞな。千鶴ちゃんはあんたにも、あんたの息子さんにも何もしとらんでしょうが!」
 安子がきつい口調で言っても、為蔵は千鶴に向かって、何とか言わんかな――と怒鳴った。
 為蔵の怒鳴り声が聞こえたらしく、家の中から為蔵の女房タネが現れた。
「どしたんね? 何おらびよるんな」
 為蔵以上に腰が曲がったタネは、安子に気づいて挨拶をした。だが、地面に座って項垂うなだれる千鶴を見ると、怪訝そうな顔をした。
「こいつはロシア兵の娘ぞな!」
 為蔵は吐き捨てるように言い残すと、家の裏へ姿を消した。
 安子から話を聞いたタネは、千鶴を少し気の毒に思ったようだ。
とわとこ、せっかくおいでててもろたのに悪かったね」
 タネは千鶴の手を取って立たせると、別嬪べっぴんさんじゃなぁ――と言って微笑んだ。
 千鶴が涙を拭いて頭を下げると、タネは言った。
「戦争言うたら殺し合いぞな。こっちも殺されるけんど、向こうかて殺されとる。向こうは向こうで、日本人に殺された言うとんじゃろな。大体戦争やなんて、おらたちにゃ何も関係ないことぞな。ほれやのに戦争に引っ張り出されて殺されて。恨まんでええ相手を恨んで、一生悲しみを背負て暮らすんぞな。おらはむずかしいことはわからんけんど、こげなことは間違まちごとらい。おらたちも姉やんもロシアの兵隊さんも、みんな戦争の被害者ぞな」
 千鶴がぼろぼろ涙をこぼすと、姉やんも苦労したんじゃな――とタネは言った。
「姉やんは忠之を迎えにおいでてくれたそうなけんど、うちの人は忠之が松山へ行くことは、ロシアに関係なく最初から大反対やったんよ」
「おタネさんも、やっぱし反対なん?」
 安子が訊ねると、ほうじゃなぁ――とタネは思案げに言った。
「おら、半分半分じゃな」
「半分半分?」
「おらもな、忠之は可愛いけん、ずっとねきに置いときたい気持ちはあるんよ。ほんでもな、あの子のこと考えたら、ずっとこげなとこに閉じ込めるんやのうて、もっとええ思いさえてやりたいなぁて思う気持ちもあるんよ」
「おタネさん、優しいんじゃね」
 安子が嬉しそうに言うと、タネは照れながら話を続けた。
「あの子はな、おらたちにまっこと優しいんよ。ほじゃけん、ついその優しさに甘えとなるけんど、優しいからこそあの子を自由にさせてやりたいて、おら、前々から思いよった」
「おタネさんらしいぞな」
「そこへな、今回の松山の話が出て来たけん、おら、ちょうどええ機会かもしれんて思たんよ。ほんでもな、あの人があげな感じじゃけんな。忠之はおらたちを捨ててまで、やりたいことする子やないけん。せっかくええ話もろたのに、これまで返事もでけんかった。そがぁしよるうちに、こげなことになってしもたけん、おらもな、何があの子にええんかわからんなっとったんよ」
 申し訳ございませんでした――と千鶴はタネに頭を下げた。
 タネは微笑むと安子に言った。
「ほんにええ娘さんやないの。うちの人からぼろくそ言われても、まだ頭下げてくれるんじゃけん。本気やなかったら、できることやないぞな」
「千鶴ちゃんは、ほんまに忠之のこと大切に思てくれとるけんな。自分もつらい思いして来た分、忠之のつらさもようわかってくれておいでるんよ」
「ほうなんかな。ほれはあの子にとって何よりぞな」
 タネは千鶴の方を向くと、千鶴の両手を握って言った。
「千鶴ちゃん、忠之のことよろしゅう頼んます。ほれと、うちの人がひどいこと言うて堪忍な。あげな人やけんど寂しいぎりなんよ。ほんでも、忠之のことを大切に思とるんはおらとついじゃし、今頃、千鶴ちゃんにひどいこと言うてしもたて、一人で反省しとるはずぞな」
「確かにほうかもしれんね」
 安子が笑いながらうなずいた。
「千鶴ちゃん、おタネさんがこがぁ言うておいでるんじゃけん、もう心配せいでもええんよ」
 ありがとうございますと、千鶴はタネに手を握られたまま、また頭を下げた。
「千鶴ちゃんがあの子のお嫁になってくれたら、おら、嬉しいけんど、どがぁじゃろね」
 タネは笑いながら言った。その言葉は一瞬で千鶴の悲しみを吹き飛ばした。
 熱くなった顔を隠したいが、片手をタネに握られ、もう片方は手土産を抱えているので、千鶴はどうにも動けない。
 項垂れるように顔を伏せた千鶴を見て、安子が笑った。
「おタネさん、ちぃと気が早過ぎるぞな」
「ほうかな。善は急げ言うじゃろがな」
「その前に、まずはあの子に会わせんと」
 ほれはほうじゃとタネはうなずき、ようやく千鶴の手を離した。
「あの子はな、兵頭んとこの家の修理を手伝いに行きよるんよ」
 為蔵も言っていたが、あの兵頭の家の修理を手伝うだなんて、確かにお人好しである。
 ところで兵頭の家と言えば、知念和尚と幸子が向かった先だ。千鶴は二人が忠之に会ったのだろうかと考えた。
 タネは呆れた顔で話を続けた。
「あの子はまっことお人好しなけんど、人がえんも程があらい。あんだけええようにされて馬鹿にされた言うのに、その家直しに行ってやるんじゃけん」
「ほれが、あの子のええとこぞな」
 安子が微笑むと、タネも笑みを浮かべた。
 ほれじゃあ、行こか――と安子が千鶴に声をかけた。
 千鶴は持って来た手土産をタネに渡した。手土産は千鶴のお気に入りの日切り饅頭だ。
 ずっしり重みのある饅頭の包みに、タネは顔をほころばせた。
「ほんじゃあ、安子さん。あの子のことよろしゅうに。千鶴ちゃんもよろしゅうにな」
 微笑むタネの手を、千鶴は両手でしっかり握ると、ありがとうございました――と言って頭を下げた。
 千鶴たちが離れる時も、タネはずっとそこに立ったまま見送ってくれた。そして、千鶴が振り返ると手を振ってくれた。
 千鶴は忠之を松山へ呼ぶことが、とても申し訳なく思えた。そのことを安子に話すと、忠之に幸せになって欲しいと願う、おタネさんの気持ちをんであげるべきだと安子は言った。

     四

 兵頭の家は、離れた所からでもすぐにわかった。建物の真ん中の部分で屋根がなくなっていたし、たくさんの村人たちが集まっていた。
 その中に、千鶴は知念和尚と幸子の姿を見つけた。二人は継ぎはぎの着物を着た若者と喋っている。忠之だ。
 幸子は千鶴たちに気づいたようで、手を振ったあと、千鶴たちを指さしながら、和尚と忠之の二人に声をかけていた。
 和尚は千鶴に手を振ったが、忠之は黙って千鶴を見ているだけだった。もしかして怒っているのだろうかと不安になったが、近づいて行くと忠之は泣いていた。
「千鶴さん、なしてこがぁなとこまで……」
 あとの言葉が出て来ない忠之に千鶴は言った。
「うち、佐伯さんにお詫びしに来たんぞな。おじいちゃんが佐伯さんを傷つけてしもたこと、このとおりお詫びしますけん、堪忍してやってつかぁさい」
 千鶴が頭を下げると、忠之は千鶴の手を握り、そんなことはするなと言った。
「おらのことなんぞ、忘れたかてよかったのに……」
「忘れるわけないぞな。うち、佐伯さんと一緒になれんのなら、死ぬるつもりでおりました」
「そげなこと言うたらいけん。死んでしもたら、何のために産まれて来たんかわからんなるぞな」
「うちが産まれて来たんは、佐伯さんと一緒になるためぞな」
 こほんと知念和尚が咳払いをした。見ると、近くにいる村の者たちが面白そうに千鶴たちを眺めている。
 慌てる千鶴に幸子が言った。
「二人で話がしたいんなら、場所を変えた方がええぞな。けんど、その前に兵頭さんにご挨拶しなさいや」
 兵頭になんか会いたくないと思ったが、そういうわけにはいかなかった。千鶴が婿を取って山﨑機織の後継者となるならば、取引先である兵頭とは、これからも付き合って行かねばならない。
 幸子に案内された千鶴は、壊れた家の前にいた兵頭と家族に挨拶をした。
 兵頭は痩せこけた貧相な顔の男で、小さな目は小心者のようにきょときょと動いている。
 人手が足らないため甚右衛門が店を離れられないことを、兵頭は知っている。だが、甚右衛門の代わりに幸子と千鶴が来るとは予想していなかったらしい。
 幸子と顔を合わせた時にもどぎまぎしたようだが、千鶴を見た兵頭は完全にうろたえているように見えた。千鶴にはそれが兵頭の後ろめたさの表れのように思えた。
「な、なしてお孫さんまでおいでてくれたんかなもし?」
 千鶴は気持ちを隠して丁寧に応じた。
「こちらには先日のお祭りの時に、随分お世話になりました。そこで仲買されておいでるお人の家が大事おおごとになったんですけん、お見舞いは当然ぞなもし」
「ほ、ほうなんかな。そがぁ思てもろとるやなんて、こがぁな時には何よりの慰めぞな」
 兵頭は少し安堵あんどしたように笑みを浮かべた。それでもまだ千鶴と目を合わせないようにしている。
 もしかしたら自分のことを見下していたのだろうかと、千鶴は訝しんだ。忠之のことを見下していたのであれば、千鶴のことも同じ目で見ていた可能性は大いにあることだ。
 それでも表向きは、見舞いに来てくれた絣問屋の孫娘である。
 兵頭は千鶴を見下していないと示すためか、千鶴に自分の家を見せながら、ひどいものだと恨めしそうに言った。
「なしておらの家ぎり、こげな目に遭わないけんのじゃて、おら、神さま仏さまを恨みよったかい」
 見てみぃと兵頭は周囲の家を指さした。
「どこも何ともないじゃろげ? じゃのに、おらんとこぎりがやられてしもたんよ。いったい、おらが何した言うんじゃろか」
 何を寝惚けたことを言っているのかと、千鶴は腹が立った。しかし、そんな気持ちを顔に出すわけにはいかない。
 千鶴は兵頭に同情するふりをしながら、家が壊れた時の様子を訊ねた。
 兵頭は辺りを見回し、家を修理してくれている村人たちから千鶴を遠ざけると、ここだけの話だと言った。
「あんたやけん言うけんどよ。化け物が出たんよ」
「新聞にそがぁなことが書いてあったぞなもし」
「ほんまかな?」
 千鶴がうなずくと兵頭は額に手を当て、まずいな――と言った。
「あん時は何が何やらわからんで、腹が立つやら悔しいやらで、会う奴会う奴に化け物のこと言うてしもたんよ。ほん中に新聞記者がおったんやが、ほうか、やっぱし記事になってしもたかい」
 兵頭は新聞を読んでいないようで、どんな風に書かれていたのかと訊いた。それで千鶴は、化け物の声が聞こえて牛が死んだと書かれてあったと説明した。
 兵頭は困ったように首を横に振り、ほうなんよ――と言った。
「せっかく手に入れた牛が死んでしもたけんな。これから絣をどがぁして松山まで運んだもんかて悩みよらい」
 また忠之に頼むと言わないのは、言えないからだろう。今はそんなことは考えなくていいと千鶴が慰めると、有り難いと言って兵頭は千鶴に頭を下げた。
「さすが甚右衛門さんのお孫さんぞな。人を思いやる心を持っておいでらい」
 兵頭に言われても一つも嬉しくない。千鶴は話を戻して、化け物のことを訊ねた。
 兵頭はまた周囲を見回して声を潜めると、ここだけの話だと再度念を押すように言った。
「初めは化け物が出たて言いよったけんど、今は突風で屋根が飛んだことにしとるんよ」
「なしてぞなもし?」
「今も言うたとおり、やられたんはおらんとこぎりじゃけんな。おらが呪われとるみたいに見えるけんまずかろ? ほじゃけん、化け物言うたんは勘違いで突風じゃったて言うとるんやが、ほんまは化け物なんよ」
「化け物を見んさったん?」
「いんや、夜じゃったし寝よったとこじゃけん、見はしとらんけんど聞いたんよ。がいにおとろしいけだものみたいな声をな。あんまし恐ろしいて、おら、小便しょんべんちびってしもたかい。あ、いやいや、余計なこと言うてしもた。この話は誰にも言うたらいけんぞな」
「この話て、化け物の話?」
「ほれもやが、小便の話もよ。ええか、誰にも言わいでくれよ」
 何だか、まともに取り合って腹を立てるのも、馬鹿馬鹿しく思えるような男である。
 誰にも言わないことを約束して、千鶴は幸子の所へ戻った。
 千鶴は幸子と一緒にもう一度兵頭に頭を下げると、知念和尚たちと一緒にいる忠之のそばへ行った。
 ちらりと振り返ると、兵頭が心配そうにこちらを見ている。しかし、千鶴は兵頭を無視して忠之に言った。
「うち、佐伯さんと二人きりでお話がしたいぞなもし」
「おらと?」
 忠之は知念和尚たちの顔を見た。
「行ってやんなさい。千鶴ちゃんはほのためにここまでおいでたんじゃけんな」
 和尚がうながすと、安子も言った。
「あんた、千鶴ちゃんの頭に花飾ったんじゃけん、きちんとその責任取らんといかんぞな」
「え? え?」
 忠之はうろたえたように千鶴を見た。
「ごめんなさい。つい、喋ってしもたんよ」
 千鶴が笑いながら謝ると、今度は和尚が言った。
「千鶴ちゃんを寺へ連れて来たんは、お前やそうじゃな。わしら、お不動さまが連れておいでたて思いよったぞな、全く」
「そげなことまで……」
 横目で千鶴を見る忠之に、また安子が言った。
「おタネさんが千鶴ちゃんに、あんたのお嫁になって欲しいて言うておいでたぞな」
「え? ばあさまが?」
「為蔵さんはちぃと機嫌が悪かったけんど、二人ともあんたの思たとおりにさせるつもりみたいぞな」
「ほんまに?」
「ほんまほんま。ほじゃけん、千鶴ちゃんと二人でように話をしておいでなさいな」
 忠之は黙って頭を下げた。少し戸惑った様子だったが、千鶴と目が合うと、忠之は照れたように微笑んだ。その笑顔が嬉しくて、千鶴も微笑み返した。
 だが胸の中では緊張を感じていた。いよいよ前世の記憶を、忠之に確かめる時が来たのである。