再び風寄へ
一
筆無精を詫びる幸子に、事情はわかっているからと知念和尚は言った。
安子は千鶴を褒め、素敵な娘さんだと幸子を祝福した。
久しぶりの再会を喜び合ったあと、笑みを消した幸子は風寄に来た理由を和尚夫婦に伝えた。
千鶴たちが忠之を迎えに来たことには、知念和尚も安子も我が事のように喜び、そのことを二人に感謝した。
しかし、千鶴が鬼に魅入られているかもしれないと幸子が不安がると、和尚たちは心配しないようにと言った。
「千鶴ちゃんはイノシシから助けてくれたんは、鬼じゃて思とるみたいなけんど、鬼を見たわけやないけんな。ほんまに鬼やったかどうかは定かやないぞな」
知念和尚が言うと、安子もそれに続いた。
「兵頭さんの家かてな、ほんまは何が原因であがぁなったんかはわからんのよ。ほんまに鬼が暴れたんなら、他の家も壊されそうなもんやんか。ほれで、あの人も初めは化け物がやったて言いよったけんど、やっぱし突風でめげたんじゃて言い分変えとるみたいなで」
兵頭が言い分を撤回したことに、千鶴は少し安堵した。自分が兵頭を恨んだことで、鬼が兵頭を襲ったという責任を回避できるからだ。しかし事実はわからない。和尚夫婦は母の不安を和らげようとして喋っているだけなのだ。
知念和尚が再び口を開いた。
「実際のとこ、イノシシのことはようわからんが、鬼が千鶴ちゃんを護ったんやとすれば、鬼が千鶴ちゃんに危害を加えることはない言うことにならいな。千鶴ちゃんをここへ運んだんが鬼やったとすれば、鬼は千鶴ちゃんを攫うつもりはなかったいうことになろ?」
「ほれは、ほうですけんど……」
まだ不安げな幸子を、安子が励ました。
「大丈夫ぞな。今日かて何も起こっちゃせんじゃろ? ほれに、うちらも一緒におるんじゃけん。何も心配することないぞな」
「ほれにしても、鬼が千鶴ちゃんをここまで運んだとしてやな、なして千鶴ちゃんの頭に花を飾ったりしたんか、そこが解せんわな。鬼がそがぁなことするかいな」
知念和尚は腕組みをしながら首を傾げた。
「花? 花て、あの花のことなん?」
幸子が千鶴を見た。千鶴は戸惑いながら、あのぅ――と和尚たちに言った。
「ほのことですけんど……、うちに花飾りんさったんは佐伯さんやったんぞなもし」
和尚と安子は驚いた顔を見交わした。
「ほれは、あの子が自分で言うたん?」
安子が驚いた様子のまま言った。
「最初は惚けておいでたけんど、うちが問い詰めたら白状しんさったんです」
「ほんまに?」
大きな笑い声が部屋に広がった。安子と一緒に笑いながら和尚は言った。
「千鶴ちゃんが問い詰めたら白状したんかな。あの子がなんぼ喧嘩が強うても、千鶴ちゃんには勝てんいうわけぞな。ほれで、あの子は千鶴ちゃんをどこで見つけた言うとった?」
「ここの石段を下りた辺りに、野菊の花が咲きよる所があって、そこにうちが倒れよったそうです」
「あぁ、あそこかいな」
知念和尚がうなずくと、安子は言った。
「あそこは昔から野菊が群生しよるとこじゃけんね。ところで、なしてあの子は千鶴ちゃん一人残しておらんなったん?」
「ほれは、ほとんど裸じゃったけんて言うておいでました」
「裸?」
「いえ、裸やのうて、ほとんど裸ぞなもし」
少し顔の火照りを感じながら千鶴は言った。
事情を説明すると和尚も安子も大笑いをし、まったくあの子らしいわいなぁ――と言った。
「何や、楽しいお人のようじゃね。お母さん、あの日は仕事に出てしもてお話もできんかったけん、早よ会うて話がしとなったぞな」
和尚たちと一緒に笑いながら幸子が言った。
「ほんでも、その前にうちが佐伯さんと二人で話したいんよ」
千鶴の言葉に幸子は眉根を寄せた。
「二人ぎり言うんは、ちぃと危ないんやないん?」
「佐伯さんはそがぁなお人やないぞな」
千鶴が憤ると、そういう意味ではないと幸子は言った。
「ほうやのうて、鬼のことぞな。和尚さんらと一緒やないと危なかろ?」
「大丈夫。鬼は襲て来んけん」
幸子が渋っていると、安子が言った。
「幸子さん、さっきも言うたように、鬼は千鶴ちゃんを襲たりせんけん。ほれに千鶴ちゃんにはお不動さまがついておいでるけん、何も心配はいらんぞな」
「佐伯さんもな、お不動さまにうちの幸せ願てくんさったんよ。ほじゃけん大丈夫ぞな」
思わず千鶴が喋ると、幸子はきょとんとした顔で千鶴を見た。
「佐伯さん、そげなことしんさったん?」
恥ずかしくなった千鶴は、うろたえながらうなずいた。
知念和尚は安子と一緒に、また大笑いをした。
「これじゃあ、鬼が付け入る隙もないわいな」
「まこと、鬼が何ぞ言うても、二人の耳には聞こえまい」
「ちぃと二人とも笑い過ぎぞなもし」
千鶴が膨れて文句を言うと、和尚たちは笑いながら悪かったと言った。
「とにかくな、千鶴ちゃんらのことは心配せいでもええぞな、幸子さん」
知念和尚が言うと、幸子は仕方なさそうに、わかりましたと言った。
「ほしたら、千鶴が佐伯さんに会うとる間に、うちは兵頭さん所にお見舞いに行きましょわい」
「家の屋根が全部やないけんど、結構剥ぎ取られとるけんな。修理に村の者がようけ集まっとろうが、幸子さんは兵頭さんの顔はわかるんかな?」
いいえと幸子が当惑気味に答えると、わかったと和尚は言った。
「ほれじゃったら、わしが一緒に行こわい。千鶴ちゃんの方は安子が案内したらええ」
「ほうじゃね。そがぁしよわい」
安子も同意し、千鶴と幸子は別々に動くことになった。
二
「昔はな、偉い人ぎりが苗字を持てたんよ。ほやけど、明治になったら法律で誰もが苗字を持つようにて決められたんよ」
寺の石段を下りながら安子は言った。
先に階段を下りて行く知念和尚と母を眺めながら、そう言われればと千鶴は思った。
今の自分は山﨑千鶴だが、前世では千鶴という名前しかなかったようだと、千鶴は前世の記憶を振り返って考えた。
知念和尚と母も何かを喋っている。花の話をしているらしい。だが、二人の話に耳を傾ける暇もなく、安子が苗字の話を続けた。
「佐伯は為蔵さん所の苗字なけんど、ほれに決めたんは為蔵さんのお父さんなんよ。為蔵さんのお父さんは、昔ここにおいでたお代官を尊敬しておいでたそうでな。ほれで、お代官の苗字を頂戴しんさったそうな」
「へぇ。じゃあ、忠之いう名前は誰がつけんさったんぞな?」
「ほれはね、うちの人よ。お代官の名前が忠之助いうたそうじゃけん、そこからつけた名前なんよ」
千鶴は夢で進之丞が諱を教えてくれたことを思い出した。その諱は今と同じ忠之という名だったが、それはきっと父親の名前にちなんでつけてもらったものに違いない。
今の自分が前世と同じ千鶴という名前になったように、忠之もまた前世と同じ名前をもらったのは偶然とは思えない。これは前世と今世のつながりを深く感じさせるものであり、前世で死に別れた二人が、今世でめぐり逢うことが定められていたかのようだ。
抑えきれない興奮で、千鶴の体中を血が駆けめぐった。
千鶴たちが下まで下りると、知念和尚が千鶴に言った。
「忠之に会いに行く前にな、千鶴ちゃんが倒れよった所を見せてあげようわい」
「お母さんも知っとるけんど、きれいな所なで」
幸子がにこやかに言った。母も以前にここのお世話になっていたので、その場所を知っているようだ。
「ほんでも、今はもうお花は終わってしもとるぞな」
安子が言うと、ほうですねと幸子はうなずいた。
知念和尚について海の方へ歩いて行くと、野菊の群生があった。だが、安子が言ったように花は終わっており、葉もしおれて枯れ始めている。
しかし、千鶴はここのことを覚えていた。倒れていた時のことではない。前世でもここには野菊の花がいっぱい咲いていたのだ。
進之丞もこの場所が好きで、よく二人で花を眺めていたものだ。夢で進之丞が花を飾ってくれたのも、ここなのである。きっと忠之も前世のことを思い出しながら、花を飾ってくれたのに違いない。
「佐伯さんはここであんたを見つけて、この花を飾ってくんさったんじゃね」
そう言いながら、幸子は怪訝そうな顔をした。
「ほやけど、普通そげなことしようか? 和尚さん、安子さんはどがぁ思いんさる?」
「普通はせんわな。ほんでも、あんまし千鶴ちゃんがきれいやったけん、つい飾ってみとなったんやないんかな」
「あの子は優しい子じゃけん、千鶴ちゃん見て、千鶴ちゃんが苦労して来たてわかったんよ。ほれで、千鶴ちゃんねぎらうつもりで飾ったんやなかろか」
二人の意見にうなずきはしたが、幸子はまだ納得してはいないようだった。
「千鶴は佐伯さんから理由を訊いとるん?」
母に訊ねられ、千鶴はうろたえた。自分たちが前世からの関係だと説明できればいいのだが、今はその時ではないような気がしていた。
「うちが花の神さまに見えたんやて」
前世で柊吉が言った言葉だ。だから嘘ではない。
「花の神さま?」
きょとんとしたあと、知念和尚はまた大笑いをした。安子も口を押さえて笑ったが、二人とも笑いが止まらない。幸子も釣られたように笑っている。
千鶴がむくれると、和尚は笑いを抑えきれないまま弁解した。
「いや、すまんすまん。別に千鶴ちゃんのことを笑たんやないで。ほやけん、気ぃ悪せんといてや。わしらが笑たんは、あの子の発想が面白い思たけんよ」
「まこと、あの子は他の者とは目線が違う言うか、あの子のそがぁな所がええわいねぇ。ほれにあの子は物事の芯の部分を、真っ直ぐに見る目を持っとるけんね。表現は奇抜かしらんけんど、言うとることは間違とらんぞな」
「安子の言うとおりぞな。あの子は千鶴ちゃんの純粋な心をちゃんと見抜いとらい」
「やめとくんなもし。うちはそがぁな上等の女子やないですけん」
千鶴が当惑すると、幸子はようやく納得したように微笑んだ。
「この子が佐伯さんに心惹かれたんが、わかったような気がするぞなもし」
「もう、お母さんまで」
文句を言いながら千鶴は嬉しかった。忠之とのことをみんなに祝福されているような気分だった。
「そもそも千鶴ちゃんが、ここに倒れよったいう話も怪しいぞな」
知念和尚は笑いながら言った。どういうことかと訊ねると、忠之は他の場所で千鶴を見つけて、ここまで運んで来たのかもしれないということだった。
「花を飾ったんも、玄関の前に千鶴ちゃん寝かせたんも、あの子がしたことじゃったら、ここまで千鶴ちゃんを運んで来たんも、あの子と考えるのが自然じゃろ?」
「ほんでも、佐伯さんがイノシシを殺したわけやないでしょうに」
幸子が疑問を示すと、そこはわからんがと和尚は口を濁した。
「いずれにせよ、鬼が千鶴ちゃんをここまで運んだわけやない言うことぞな」
安子がうなずきながら言った。
「ひょっとしたら鬼はイノシシを殺したぎりで、千鶴ちゃんには構んかったんかもしれんぞな。ほれで、イノシシの傍に倒れよった千鶴ちゃんを、あの子がここまで運んだとも考えられますわいね」
「ほやけど、佐伯さんはほうは言わんかったぞな」
千鶴が言うと、安子は笑った。
「そがぁなこと言うかいな。頭潰されたイノシシの横に倒れよったやなんて言うたら、千鶴ちゃん、嫌じゃろ? ほれに、他の人らの耳にそがぁな話が入ったら、何言われるかわからんけんね。ほじゃけん、千鶴ちゃんはここで倒れとったって言うたんよ」
なるほどと千鶴は思った。
イノシシから助けてくれたのは鬼かもしれないが、法生寺まで運んでくれたのは忠之だという可能性は十分にある。またそれは、忠之が鬼を目撃しているかもしれないということでもあった。
前世での千鶴と鬼との関係を、忠之は知っていると思われる。また、あれほど鬼の気持ちを代弁していた忠之だから、鬼といい関係を結んでいることも考えられる。であるなら、今世でも忠之は恐れることなく、鬼から千鶴を受け取ったのかもしれない。
もちろん本当のことはわからない。しかし、それは本人の口に確かめればわかることである。そして、その時が迫っている。
もう間もなく、すべての真実が明らかになるはずだ。自分と忠之の前世からのつながりだけでなく、鬼のことも知ることになるだろう。
千鶴は自分が異界へ足を踏み入れようとしているみたいに感じていた。それは気分を高揚させたが、少し怖い気もしていた。
三
「ほんじゃあ、わしらはこっちへ行くけん、千鶴ちゃんらはそっちぞな」
分かれ道で知念和尚が言った。
幸子は千鶴に決して一人になるなと言い、松山から持って来た手土産を持たせた。
忠之の家は山裾にあるが、兵頭の家は山から離れた川向こうにある。
千鶴たちは寺から来た道を、そのまま山沿いに進んだ。振り返ると、川の方へ歩いて行く知念和尚と母の姿が見えた。
千鶴は顔を前に戻したが、胸の中では心臓が暴れている。これから忠之に逢うということもあるが、忠之の家族と顔を合わせることに、千鶴は極度に緊張していた。
今からやろうとしていることは、千鶴にとって単なるお詫びではない。自分たちの将来を見極める重大な局面でもあるのだ。
もし謝っても忠之の家族の許しが得られず、自分を受け入れてもらえなければ、それは忠之と夫婦にはなれないということだ。
自分は山﨑機織の娘であり、ロシア人の娘でもある。そのどちらも忠之の家族からすれば、怒りどころか憎しみさえ覚える要因だ。温かく迎え入れてもらえないのは覚悟しているが、完全に拒絶されれば絶望しかない。千鶴の体はがちがちになっていた。
しばらく進むと、左手に上り坂が現れた。
安子に誘われてその坂を上って行くと、やがて掘っ立て小屋のような家の集落が見えて来た。
安子はそこの小屋の一つに千鶴を案内した。建物の裏手から鋸を挽くような音が聞こえて来る。千鶴の胸の中でも、その音に負けないぐらい心臓が激しく鼓動の音を打ち鳴らしている。
家の裏手をのぞいた安子は、もうし、為蔵さん――と言った。すると音が止んだ。千鶴の心臓は爆発しそうだ。
間もなくして背中が少し曲がった小柄な老人が現れた。
「誰か思たら、安子さんかな」
為蔵は相好を崩したが、千鶴に気づくと目を細めた。
「そちらさんは、どなたかな?」
うまく出ない声を何とか出し、舌を噛みそうになりながら千鶴は挨拶をした。
「あの、山﨑千鶴と申します。こちらが佐伯忠之さんのお宅と伺いまして、あの、安子さんに連れて来ていただいたんぞなもし」
「忠之の知り合いかな」
珍しげに千鶴を眺める為蔵に、あの子はおいでる?――と安子は訊ねた。
為蔵は顔をしかめると、兵頭ん所ぞなと言った。
「あの子はお人好しなけん、ええようにされとんよ」
為蔵は悲しそうに安子に訴えた。
「兵頭ん所の牛が動かんなって、あの男がよいよ困りよった時に、あの子は牛の代わりを買うて出たんよ。ほれもな、ただよ。この辺りの織元廻るぎりやないで。こっから松山まで絣の箱を大八車にいくつも載せて運ぶんよ。ほれがどんだけ大事か、安子さんならわかろ?」
わかるぞなと安子がうなずくと、為蔵は話を続けた。
「なんぼあの子がただで構ん言うたとしても、言われたとおり一銭も出さん言うんは、あくどいとしか言いようがなかろ? ほじゃけんな、おら、あの男ん所へ怒鳴り込んだったんよ。ほしたら慌てて牛を持って来よったかい。ほれで、やれやれ思いよったら、今度は忠之が松山で働きたいて言い出したんよ」
安子はちらりと千鶴を見た。その視線を追うように為蔵も千鶴を見ると、姉やんがおるんを忘れよった――と言った。
「今の話やけんど、千鶴ちゃんはな、あの子が松山で働きたいて言いよった山﨑機織さんのご主人に代わって、あの子に会いにおいでたんよ」
安子の説明を聞いた途端、為蔵はたちまち険しい顔になり、何やて?――と大きな声を上げた。
「聞いた話じゃ、そちらの方から忠之にぜひ働いて欲しいて言うたそうじゃな。ほれをあの子は真に受けて、すっかりその気になっとったんぞ。おらたちはな、騙されるけんやめとけ言うたんよ。ほしたら、あの人らはそがぁな人やないて、あの子は言うたんぞ。ほれが何じゃい。今頃んなって、身分が違うけんこの話はなかったことにやと? こがぁなふざけた話がどこにあるんぞ!」
為蔵は顔を真っ赤にしながら体を震わせた。安子は興奮する為蔵をなだめて言った。
「あのな、為蔵さん。ほやけん、ほのことを千鶴ちゃんが、こがぁしてお詫びにおいでてくれたんよ」
「お詫び?」
ふんと言うと、為蔵は千鶴に悪態をついた。
「何がお詫びぞ。あんたらにはあの子がどんだけ傷ついたんか、ちっともわからんじゃろがな。申し訳ありませんでした言うたら、ほれで済む思とるんじゃろ。どいつもこいつも、おらたちのことを見下しおってからに」
千鶴はその場に膝を突くと手土産を脇に置き、為蔵に土下座をして詫びた。
「何と言われようと、うちにはお詫びするしかできんぞなもし。この度は、まことに申し訳ございませんでした」
千鶴の土下座が思いがけなかったのか、為蔵は少し勢いを失くしたようだ。怒りの矛先を千鶴から山﨑機織へ変え、山﨑機織は何でこんな小娘をよこすのかと文句を言った。
千鶴は地面に頭をつけながら、主が店を離れられないことや、主からのお詫びの文を預かってはいるが、手紙だけでは失礼になると考えたことを説明した。
しかし、為蔵の怒りは収まらない。
「主が店を離れられん言う時点で、本気で詫びる気なんぞないいうことじゃろが! ほれとも何か? 今にも潰える店やのに、あの子を雇うやなんて言うたんか!」
店の状態がよくないのは事実である。しかし、店を潰さないために忠之に来てもらおうとしたのだ。それを千鶴は言いたかったが、言い訳になるので黙っていた。
千鶴が弁解をしないので、為蔵は横目で安子を見ながら、さらに言った。
「だいたい何ぞ。山﨑機織いうんは外人さんの店なんか? 責任者が詫びに来る代わりに、こがぁな小娘をよこすんが外人さんのやり方かい!」
異人の顔をしていることを言われるのは、千鶴にはつらかった。しかも為蔵は忠之の育ての親である。覚悟はしていたが、実際にこのような態度を見せられると、悲しみが抑えられなかった。
千鶴が土下座をしながら泣いているので、安子が為蔵に話した。
「山﨑機織は日本人のお店ぞな。今はほんまに人がおらんで、ご主人が動けんそうな。ほれで千鶴ちゃんが動けんご主人の代わりに、お詫びにおいでたんよ。ご主人はほんまに申し訳ないことしたて言うとりんさって、あの子に早よ来て欲しいて、改めてお願いしておいでるんよ」
「やけん言うて、なしてこがぁな外人の小娘をよこすんぞ。いくら人がおらん言うたかて、他にやりようがあろうがな」
為蔵の態度に少しいらだった様子の安子は、一呼吸置いてからきっぱりと言った。
「千鶴ちゃんはご主人のお孫さんぞな」
「孫? この娘がか?」
為蔵は驚いたように千鶴を見下ろした。安子は為蔵を諭すように話を続けた。
「山﨑機織のご主人がしんさったことは、確かに間違とるぞな。ほれを間違とる言うて考え直させたんは、この千鶴ちゃんぞな。千鶴ちゃんはあの子が苦労して来たことをわかってくれとるし、励ましてくれとったんよ。今かて自分が嘘言うたわけやないのに、こがぁして怒鳴られるんを覚悟してお詫びにおいでてくれたんよ」
打ち伏せたまま泣く千鶴を見ながら、少しうろたえた様子の為蔵は話を変えた。
「山﨑機織の主が日本人やのに、なしてその孫娘が外人なんぞ?」
「ほれは、なして言われても……」
安子が言葉を濁すと、千鶴は体を起こして涙を拭いた。
「うちはロシア兵の娘ぞなもし。母は日本人の看護婦で、ロシア兵のお世話をしとりました」
ロシア兵じゃと?――為蔵の顔がみるみる鬼のようになった。
「お前らが……、お前らが……」
為蔵はわなわなと体を震わせた。
「お前らがおらん所の息子を殺したんじゃ! おらたちの一人息子を、お前らが殺したんじゃ!」
「為蔵さん、落ち着きんさい。千鶴ちゃんは戦争と関係ないぞな」
安子が千鶴をが、興奮する為蔵は聞く耳を持たない。その為蔵の言葉に千鶴は返事ができなかった。そこへ追い打ちをかけるように為蔵は言った。
「お前らはおらたちから一人息子奪っといて、今度は忠之まで奪お言うんか。この人でなしめが!」
これだけ罵倒されても、千鶴は言葉を返すことができなかった。
「為蔵さん、ほれは言い過ぎぞな。千鶴ちゃんはあんたにも、あんたの息子さんにも何もしとらんでしょうが!」
安子がきつい口調で言っても、為蔵は千鶴に向かって、何とか言わんかな――と声を荒らげた。
為蔵の怒鳴り声が聞こえたらしく、家の中から為蔵の女房タネが姿を見せた。
「どしたんね? 何叫びよるんな」
為蔵以上に腰が曲がったタネは、安子に気づいて挨拶をした。だが、地面に座って項垂れる千鶴を見ると、怪訝そうな顔をした。
「こいつはロシア兵の娘ぞな!」
為蔵は吐き捨てるように言い残すと、家の裏へ姿を消した。
安子から話を聞いたタネは、千鶴を少し気の毒に思ったようだ。
「遠い所、せっかくおいでててもろたのに悪かったね」
タネは千鶴の手を取って立たせると、着物の裾に着いた土を払ってくれた。それから改めて千鶴を眺めると、別嬪さんじゃなぁ――と言って微笑んだ。
千鶴が涙を拭き頭を下げて詫びると、タネは言った。
「戦争言うたら殺し合いぞな。こっちも殺されるけんど、向こうかて殺されとる。向こうは向こうで日本人に殺された言うとんじゃろな」
「おタネさんの言うとおりぞな」
安子がうなずくと、タネはさらに続けた。
「だいたい戦争やなんて、おらたちにゃ何の関係もないことぞな。ほれやのに戦争に引っ張り出されて殺し合いさせられて、恨まんでええ相手を恨んで一生悲しみを背負て暮らすんよ。おらはむずかしいことはわからんけんど、こげなことは間違とらい。おらたちも千鶴ちゃんもロシアの兵隊さんも、みんな戦争の被害者ぞな」
タネの優しい言葉は思いがけないものだった。千鶴がぼろぼろ涙をこぼすと、千鶴ちゃんもいろいろつらかったろうな――とタネは言った。その言葉はさらに千鶴を泣かせた。
タネは千鶴を慰めて言った。
「千鶴ちゃんは忠之を迎えにおいでてくれたそうなけんど、うちの人は忠之が松山へ行くことは、ロシアに関係なく最初から大反対やったんよ」
「おタネさんも、やっぱし反対なん?」
安子が訊ねると、ほうじゃなぁ――とタネは思案げに言った。
「おら、半分半分じゃな」
「半分半分?」
「おらもな、忠之は可愛いけん、ずっと傍に置いときたい気持ちはあるんよ。ほんでもな、あの子のこと考えたら、ずっとこげな所に閉じ込めるんやのうて、もっとええ思いさえてやりたいなぁて思う気持ちもあるんよ」
「おタネさん、優しいんじゃね」
安子が嬉しそうに言うと、タネは照れながら話を続けた。
「あの子はな、おらたちにまっこと優しいんよ。ほじゃけん、ついその優しさに甘えとなるけんど、優しいけんこそあの子を自由にさせてやりたいて、おら、前々から思いよった」
「おタネさんらしいぞな」
「そこへな、今回の松山の話が出て来たけん、おら、ちょうどええ機会かもしれんて思たんよ。ほんでもな、あの人があげな感じじゃけんな」
タネは自分の家を振り返り、千鶴たちに苦笑した。
「あの子はな、おらたちを捨ててまでやりたいことする子やないけんな。あの人がうんて言わんうちは、どがぁもでけんかったんよ。そがぁしよるうちに、こげなことになってしもたけん、おらもな、何があの子にええんかわからんなっとったんよ」
申し訳ございませんでした――と千鶴は改めて頭を下げた。
タネは微笑むと安子に言った。
「ほんにええ娘さんやないの。うちの人からぼろくそ言われても、まだ頭下げてくれるんじゃけん。本気やなかったらでけることやないぞな」
「千鶴ちゃんは、ほんまにあの子のこと大切に思てくれとるんよ。自分もつらい思いして来た分、あの子のつらさもようわかってくれておいでるんぞな」
「ほうなんかな。ほれは忠之にとっては何よりぞな」
タネは千鶴の方を向くと、千鶴ちゃん――と言い、両手で千鶴の手を握った。
「忠之のことよろしゅうに頼まいね。ほれと、うちの人がひどいこと言うて堪忍な。あげな人やけんど寂しいぎりなんよ。ほんでも、忠之のことを大切に思とるんはおらと対じゃし、今頃、千鶴ちゃんにひどいこと言うてしもたて、一人で反省しとらい」
「確かにほうかもしれんね」
安子が笑いながらうなずいた。
「千鶴ちゃん、おタネさんがこがぁ言うておいでるんじゃけん、もう心配せいでもええんよ」
ありがとうございますと、千鶴はタネに手を握られたまま、もう一度頭を下げた。
「千鶴ちゃんがあの子のお嫁になってくれたら、おら、嬉しいけんど、どがぁじゃろね」
タネは笑いながら言った。千鶴は驚いて顔を上げた。タネの言葉は一瞬で千鶴の悲しみを吹き飛ばした。
「あ、あの……」
信じられない想いの千鶴は、喜ぶのも忘れてうろたえた。顔が熱くなるばかりで言葉が出て来ない。
「おタネさん、ちぃと気ぃが早過ぎるぞな」
千鶴の様子を見た安子が笑いながら言った。
「ほうかな。善は急げ言うじゃろがな」
タネは微笑んではいるが大真面目のようだ。
「あ、ありがとうございます」
ようやく声に出してタネに感謝した千鶴の心に、感激の波が広がった。千鶴が嬉し涙をこぼすと、タネも涙ぐんだ。
「千鶴ちゃん、ほんまにあの子のこと好いてくれとんじゃな。ありがとな」
少ししんみりすると、安子が涙を拭きながら嬉しげに言った。
「まずは千鶴ちゃんをあの子に会わせんとな」
ほれはほうじゃとタネはうなずき、ようやく千鶴の手を離した。
「あの子はな、兵頭ん所の家の修理を手伝いに行きよるんよ」
為蔵も言っていたが、あの兵頭の家の修理を手伝うだなんて、確かにお人好しである。
その兵頭の家を知念和尚と母が訪ねている。千鶴は二人が忠之に会ったのだろうかと思ったが、タネから忠之の嫁にと言われた感激で、それ以上は何も考えられなかった。
タネは呆れた顔で話を続けた。
「あの子はまっことお人好しなけんど、人が好えんも程があらい。あんだけええようにされて馬鹿にされた言うのに、その家直しに行ってやるんじゃけん」
「ほれが、あの子のええ所ぞな」
安子が微笑むと、まぁなとタネも笑みを浮かべた。
ほれじゃあ、行こか――と安子が千鶴に声をかけた。
千鶴は持って来た手土産をタネに渡した。手土産は千鶴のお気に入りの日切饅頭だ。
ずっしり重みのある饅頭の包みに、タネは顔を綻ばせた。
「ほんじゃあ、安子さん。あの子のことよろしゅうに。千鶴ちゃんもよろしゅうにな」
微笑むタネの手を、千鶴は両手でしっかり握ると、ありがとうございました――と言って頭を下げた。
千鶴たちが離れる時も、タネはずっとそこに立ったまま見送ってくれた。そして、千鶴が振り返ると手を振ってくれた。
千鶴は忠之を松山へ呼ぶことが、とても申し訳なく思えた。そのことを安子に話すと、忠之に幸せになって欲しいと願う、おタネさんの気持ちを酌んであげるべきだと安子は言った。
四
兵頭の家は離れた所からでもすぐにわかった。建物の真ん中の部分で屋根がなくなっていたし、大勢の村人たちが集まっていた。
その中に、千鶴は知念和尚と母の姿を見つけた。二人は継ぎはぎの着物を着た若者と喋っている。忠之だ。
幸子は千鶴たちに気づいたようで、手を振ったあと千鶴たちを指差しながら、和尚と忠之の二人に声をかけていた。
和尚は千鶴に手を振ったが、忠之は黙って千鶴を見ているだけだった。もしかして怒っているのだろうかと不安になったが、近づいて行くと忠之は泣いていた。
「千鶴さん、なしてこがぁな所まで……」
あとの言葉が出て来ない忠之に千鶴は言った。
「うちと母は、お店を出られんおじいちゃんに代わって、佐伯さんにお詫びに来ました。ここにおじいちゃんからのお詫びの手紙も預かっとります」
千鶴は甚右衛門の詫び状を懐から取り出すと、涙を流す忠之に手渡した。
「この度はおじいちゃんが佐伯さんを傷つけてしもたこと、まことに申し訳ありませんでした。謝って済むことやないですけんど、このとおりお詫びしますけん、どうか堪忍してやってつかぁさい」
千鶴が頭を下げると、忠之は千鶴の手を握り、そんなことはするなと言った。
「おら、何も怒っとらんけん。ほやけど、まさか千鶴さんがおいでてくれるとは思わんかった……。おらのことなんぞ、忘れたかてよかったのに……」
「忘れるわけないぞなもし。佐伯さんと一緒になれんのなら、うちは死ぬるつもりでおりました」
忠之の温もりに包まれながら千鶴は言った。この温もりに包まれるのなら何もいらなかった。
「そげなこと言うたらいけん。死んでしもたら、何のために産まれて来たんかわからんなるぞな」
「うちが産まれて来たんは、佐伯さんと一緒になるためぞなもし」
こほんと知念和尚が咳払いをした。見ると、近くにいる村の者たちが面白そうに千鶴たちを眺めている。
慌てる千鶴に幸子がにこやかに言った。
「二人で話がしたいんなら、場所を変えた方がええぞな。けんど、その前に兵頭さんにご挨拶しなさいや」
兵頭になんか会いたくないと思ったが、そういうわけにはいかなかった。千鶴が婿を取って山﨑機織の後継者となるならば、取引先である兵頭とは、これからも付き合って行かねばならない。
幸子に案内された千鶴は、壊れた家の前にいた兵頭とその家族に挨拶をした。みんな顔に傷があったり、手や足に包帯を巻いたりしている。命に別状はないとは言え、その姿は痛々しい。
ここは名波村ではないからだろう。祭りの夜に春子の家で食事を呼ばれた時には、兵頭も兵頭の家族もいなかった。兵頭の家族が千鶴と会うのはこれが初めてであり、千鶴が声をかけると、みんなぎょっとしたように固まった。
それでも幸子が自分の娘だと説明すると、兵頭が慌てた様子で、山﨑機織さん所のお孫さんだと、強い口調で家族に言った。それでみんなは動揺しながら、千鶴に頭を下げた。
兵頭自身、千鶴とまともに顔を合わせるのは初めてだろう。千鶴も兵頭とは面識がない。痩せこけた貧相な顔の兵頭は戸惑いを隠せない様子で、小さな目をきょときょと動かしている。
人手が足らないため甚右衛門が店を離れられないことを、兵頭は知っている。だが、甚右衛門の代わりに幸子と千鶴が来るとは、予想していなかったらしい。
幸子と顔を合わせた時にもどぎまぎしたらしいが、千鶴を見た兵頭は完全にうろたえているようだった。それは異人の顔をした千鶴を見て驚いたのかもしれないが、甚右衛門に忠之の陰口を言った後ろめたさがあるようにも見える。
「ほ、ほれにしても、なしてお孫さんまで、わざにおいでてくれたんかなもし?」
兵頭は強張った笑みを浮かべながら言った。千鶴は気持ちを隠して、兵頭に丁寧に応じた。
「こちらには先日のお祭りの時にお招きいただいて、みなさんにはずいぶんお世話になりました。そこで絣の仲買いされておいでるお人のお家が大事になったんですけん、お見舞いは当然ぞなもし」
「ほ、ほうなんかな。そがぁ思てもろとるやなんて、こがぁな時には何よりの慰めぞな」
兵頭は少し安堵したように笑みを浮かべた。それでもまだ千鶴と目を合わせないようにしている。
この人は自分のことを見下しているのだろうかと、千鶴は訝しんだ。忠之のことを見下している男だから、その可能性はある。それでも千鶴は見舞いに来てくれた絣問屋の孫娘だ。失礼な態度を取らないよう、兵頭は緊張しているに違いない。
とにかく兵頭は千鶴を甚右衛門の代理として認めたようで、自分の家を見せると、このとおりひどいものだと恨めしそうに喋った。
兵頭の家は離れた所から見てもひどい有様だったが、近くから改めて眺めると、無残の一言に尽きるほどの壊れ具合だ。茅葺きの屋根が剥ぎ取られただけでなく、その下にある木材や板もへし折られて、家は崩壊寸前のように見える。
とても突風で屋根が飛んだとは思えない。何か巨大な力が加えられたのは間違いないようだ。
「なしておらの家ぎり、こげな目に遭わないけんのじゃて、おら、神さま仏さまを恨みよったかい」
見てみぃと兵頭は周囲の家を指さした。
「どっこも何ともないじゃろげ? じゃのに、おらん所ぎりがやられてしもたんよ。いったい、おらが何した言うんじゃろか」
何を寝惚けたことを言っているのかと、千鶴は腹が立った。鬼が壊したのでなかったとしても、天罰が下ったのは間違いないのだ。
しかし、そんな気持ちを顔に出すわけにはいかない。千鶴は兵頭に同情するふりをしながら、家が壊れた時の様子を訊ねた。
兵頭は辺りを見回し、家を修理してくれている村人たちから千鶴を遠ざけると、ここだけの話だと言った。
「あんたやけん言うけんどよ。化け物が出たんよ」
千鶴はぎくりとなった。やはり鬼だったのかと、少し焦りを感じたが、平静を装って言った。
「新聞にそがぁなことが書いてあったぞなもし」
「ほんまかな?」
千鶴がうなずくと兵頭は額に手を当てて、ほれはまずいな――と言った。
「あん時は何が何やらわからんでよ。腹が立つやら悔しいやらで、会う奴会う奴に化け物のこと言うてしもたんよ。ほん中に新聞記者がおったんやが、ほうか、やっぱし記事になってしもたかい」
兵頭は新聞を読んでいないようで、どんな風に書かれていたのかと訊いた。それで千鶴は、化け物の声が聞こえて牛が死んだと書かれてあったと説明した。
兵頭は困ったように首を横に振り、ほうなんよ――と言った。
「せっかく手に入れた牛が死んでしもたけんな。これから絣をどがぁして松山まで運んだもんかて悩みよらい」
また忠之に頼むと言わないのは、言えないからだろう。今はそんなことは考えなくていいと千鶴が慰めると、有り難いと言って兵頭は千鶴に頭を下げた。
「さすが甚右衛門さんのお孫さんぞな。人を思いやる心を持っておいでらい」
兵頭に言われても一つも嬉しくない。千鶴は話を戻して、化け物のことを訊ねた。
兵頭はまた周囲を見回して声を潜めると、ここだけの話だと再度念を押すように言った。
「初めは化け物が出たて言いよったけんど、今は突風で屋根が飛んだことにしとるんよ」
「なしてぞなもし?」
「今も言うたとおり、やられたんはおらん所ぎりじゃけんな。おらが呪われとるみたいに見えるけんまずかろ? ほじゃけん、化け物言うたんは勘違いで突風じゃったて言うとるんやが、ほんまは化け物なんよ」
千鶴は兵頭の家のことよりも、家を壊した化け物の様子が知りたかった。それで兵頭を気遣うふりをしながら話を続けた。
「兵頭さんは化け物を見んさったん?」
「いんや、夜じゃったし、ちょうど寝よったとこじゃけん見はしとらん。いきなし屋根が壊れて、土砂降りの雨が降って来たけん、真っ暗闇ん中で何が何やらわからんままおったんやが、ほん時に聞いたんよ。がいに恐ろしい化け物の声をな」
その時のことを思い出したように、兵頭は両手で自分を抱くようにして震えた。
「おら、絶対に化け物に喰われるて思いよった。めげた屋根から化け物が来る思てぶるぶる震えよったんやが、結局は化け物は姿見せんままおらんなったんよ」
兵頭の話を聞きながら千鶴は背筋が寒くなった。もしあのまま自分が兵頭を呪い続けていたら、きっと兵頭とその家族は鬼に喰い殺されていたに違いない。いくら自分を護ってくれているとしても、やはり鬼は鬼なのだ。
千鶴は動揺を隠しながら訊ねた。
「化け物の声を聞きんさったんは、兵頭さんぎり?」
「いんや、おらの家族も聞いとるし、近所の者らにもほの声で目ぇ覚ましたんがおるんよ。ほれに近くにでっかい足跡もあったんよ」
「でっかい足跡?」
兵頭は両手をいっぱい広げて、これより大きな足跡だと言った。その足跡が家の近くで見つかったが、他では見つかっていないらしい。そのため、化け物がどこから来てどこへ行ったのかはわからないようだ。
そうなると、やはり化け物は兵頭を襲うために現れたということになる。それが嫌で兵頭は見つけた足跡はすべて埋めたと言った。
「前に辰輪村の近くで、でっかいイノシシが頭潰されて死んだことがあったけんど、あのイノシシ殺したんもこの化け物じゃて、みんなが言うんよ」
千鶴は胸がどきどきしていた。みんなが鬼の存在に気づき始めている。そこに自分が関わっていたと知れたらどうなるのだろう。
千鶴の不安をよそに兵頭は話を続けた。
「みんなよ、その化け物をおらが怒らせるようなことしたて思とるみたいでな。家がこがぁなっとんのをわかっとんのに、怖がってなかなか手伝てくれんかったんよ。一番先に助けてくれたんは山陰の忠之じゃった。あいつが一人で動いてくれて、ほれで他の者も助けてくれ出したんよ」
千鶴は思わず泣きそうになった。あれだけの仕打ちを受けた相手を、いったい誰が助けに行くだろう。
千鶴の表情にまずいと思ったようで、兵頭はすぐに話を変えた。
「とにかくよ、おら、死ぬか思うほど恐ろしい目に遭うたわけなんよ。ほんでも、この話は内緒にしといてくれよ。言うたように、おらの家は突風でめげてしもたんやけんな」
わかりましたと言うと、千鶴は母の元へ戻った。それから母と一緒に兵頭に頭を下げると、知念和尚の傍にいる忠之の所へ行った。
ちらりと振り返ると、まだ兵頭がこちらを見ている。何を言われるのかと心配しているのだろう。しかし、千鶴は兵頭を無視して忠之に言った。
「うち、佐伯さんと二人きりでお話がしたいぞなもし」
「おらと?」
忠之は知念和尚たちの顔を見た。
「行ってやりんさい。千鶴ちゃんはほのためにここまでおいでたんじゃけんな」
和尚が促すと、安子も言った。
「あんた、千鶴ちゃんの頭に花飾ったんじゃけん、きちんとその責任取らんといかんぞな」
「え? え?」
忠之はうろたえたように千鶴を見た。
「ごめんなさい。つい、喋ってしもたんよ」
千鶴が笑いながら謝ると、今度は和尚が言った。
「千鶴ちゃんを寺へ運んだんは、お前やそうじゃな。わしらは何も知らんけん、お不動さまが連れておいでたて思いよったぞな、まったく」
「そげなことまで……」
横目で千鶴を見る忠之に、また安子が言った。
「ほうよほうよ、言い忘れとった。おタネさんがな、千鶴ちゃんにあんたのお嫁になって欲しいて言うておいでたぞな」
「え? おっかさんが?」
「為蔵さんはちぃと機嫌が悪かったけんど、二人ともあんたの思たとおりにさせるつもりみたいぞな」
「ほんまに?」
「ほんまほんま。ほじゃけん、千鶴ちゃんと二人でように話をしておいでんさい」
忠之は黙って頭を下げた。少し戸惑った様子だったが、千鶴と目が合うと、忠之は照れたように微笑んだ。その笑顔が嬉しくて、千鶴も微笑み返した。
だが胸の中では緊張を感じていた。いよいよ前世の記憶を、忠之に確かめる時が来たのである。