時を越えて
一
千鶴と忠之は野菊の群生の前にいた。
ここは若侍が夢に出て来た場所であり、前世の千鶴が覚えている想い出の場所である。
「うちは、ここに倒れよったんですか?」
千鶴が訊ねると、忠之は黙ってうなずき、花が終わった群生の中にかがみ込んだ。立ち上がった忠之の手には、一輪の野菊の花があった。
「まだ一つぎり残っとった」
忠之は千鶴の髪にその花を挿してくれた。
「うん、きれいぞな。やっぱし千鶴さんには、この花が一番似合うぞな」
忠之は満足げに微笑んだ。
夢の若侍と同じだ。間違いなく忠之はあの若侍、つまり進之丞だと千鶴は確信した。
今こそこの人に前世の話をしよう。そう思った千鶴の視界に気になる物が入った。
すぐ傍にある松原の中に、木が折れて倒れている所があった。その近くには何かの残骸が散らばっている。
「あれは何ぞなもし?」
千鶴が指差すと、忠之はその残骸を振り返った。
「あぁ、あれは古い祠みたいな物ぞな」
「みたいな物? 祠やないいうこと?」
「そがぁにちゃんとこさえた物やないんよ。中には御神体らしきこんまい石があったけんど、ほれが何なんかはようわからん」
「ひょっとして台風でめげたいう鬼よけの祠やないんかなもし?」
「さぁな。ほんでも、あげな物が鬼よけになるとは思えんな」
忠之はまったく関心がないのか、喋り方もそれまでと違って素っ気なかった。
それでも祠が気になった千鶴は、松原の中へ入って行った。そのあとを忠之がゆっくりとついて来る。
近くで見ると、祠は原型をとどめないほどばらばらに壊れていた。それは忠之が言うように立派な祠というものではなく、御神体の雨よけ程度の造りだ。
これが壊れたとされる台風では、松山もかなりの風雨に曝されはした。だが、さほど大きな被害は出ていない。ここは余程の強風が吹いたのだろうか。それにしても妙な感じだ。
周囲の松には折れた木はない。折れているのはここだけだ。すぐそこの丘の上にある法生寺にも被害はなかった。木が折れるほどの風が吹いたのなら、法生寺にも何らかの被害があってもよさそうなのに、そんな話は聞かされていない。
また、風で吹き飛ばされて壊れたにしては、祠はあまりにもばらばらだ。いくら粗末でも、風でここまで壊れるものなのか。倒れた松の木に押し潰されたのだとすれば、潰れた祠は木の下にあるはずだが、祠の残骸と折れた木は別々の所にある。
それについて忠之は、わからないと言うので、千鶴は念を押して訊いた。
「これが鬼よけの祠じゃったとしても、鬼さんはこれがめげたけん地獄から出て来られたんやないんよね?」
「こげな物で鬼が封じられるんなら、誰も苦労すまい」
鬼が木をへし折ったような気がしたが、祠が鬼と関係ないなら、やはり風なのか。
「千鶴さんは鬼のことを心配しよるんかな」
訊ねる忠之に千鶴がうなずくと、忠之は祠の残骸を見て言った。
「こがぁなもん、いくつこさえたとこで鬼を封じたりはできんけん」
ほうじゃねと千鶴は微笑むと、忠之を誘って松原の向こうにある浜辺へ向かった。今は祠のことより前世を確かめるのが先だ。心臓の動きが速くなっている。
二
ひたひたと静かな波が、砂浜に打ち寄せている。
左手に見える丸い鹿島を見ると、千鶴は切ない気持ちになった。ここで進之丞は千鶴を護るために死んだのだ。
「どがぁしんさった?」
泣きそうになっていた千鶴に、忠之が声をかけた。千鶴は無理に笑顔を見せると、佐伯さん――と言った。
「前に話してくんさった、うちと真っ対のロシアの娘さん、今はどこでどがぁしておいでるんか知っとりんさるん?」
忠之はぎょっとした顔になると、千鶴から顔を逸らして海を見た。
「さぁなぁ。どこでどがぁしとるんやら」
「そげなこと言うて。ほんまは知っておいでるんでしょ?」
惚ける忠之の顔を、千鶴はのぞき込んだ。忠之は困惑気味に千鶴を見返すと、どうしてそんなことを訊くのかと言った。
「佐伯さんの心ん中には、今でもその娘さんがおいでるんじゃろなて思たんよ」
忠之は寂しげに微笑むと、ほうじゃなと言った。
「確かに、おらの心ん中にはその娘がおる。忘れろ言われても、忘れられるもんやないんよ。ほれが気ぃに障る言われても、こればっかしはどがいもしようがないんぞな」
正直に喋る忠之の言葉は、千鶴に好意を示しながらも、二人の間に線を引いたつもりだろう。しかし千鶴には同じ言葉が、胸の中にいるのはお前だけだと聞こえている。
そこまで自分のことを想い続けてくれているのかと、千鶴が思わず涙を見せると、忠之は慌てて千鶴を慰めた。
「千鶴さん、泣かんでおくんなもし。おら、千鶴さんに泣かれるんが何よりつらいけん」
「ほやかて、佐伯さん……、そがぁにその娘さんのこと……好いておいでるんやもん」
「いや、ほやけん、ほれはどがぁも……、いやいや、ちぃと待っておくんなもし。泣いたらいけん。泣かんでおくんなもし」
おろおろする忠之が気の毒になり、千鶴は涙を拭いた。忠之は疲れたように安堵したが、千鶴に真っ直ぐ見つめられるとうろたえた。
「佐伯さん」
「何かな? もう、さっきみたいな話は――」
「うち、その娘さんのことわかったんよ」
え?――と忠之は不意打ちを食らったような顔になった。
「な、何がわかったんぞな?」
「その娘さんは法生寺におりんさったんでしょ?」
忠之は口を半分開けたまま言葉に詰まったが、すぐに平静を装って言った。
「なして、そがぁ思うんぞな?」
「和尚さんがな、言うとりんさったよ。和尚さんが知る限り、うちみたいな異国の血ぃ引く娘は風寄にはおらなんだて」
「ほ、ほうなんか」
忠之は明らかに動揺している。千鶴は続けて言った。
「この辺りでうちと対のロシアの娘いうたら、昔、法生寺で暮らしよった、鬼娘て呼ばれよった娘しかおらんぞな。その娘は風寄のお代官の一人息子と夫婦約束をしよったんやて。しかもな、その娘はうちと同し千鶴ていう名なんよ」
忠之は喋ろうとしたが言葉が出て来ない。千鶴は忠之を見据えながら言った。
「この話、どこぞで聞いた話に似ぃとると思いませんか?」
「お、おら、何のこと言われとるんか……」
尚もわからないふりをする忠之に千鶴は言った。
「もう惚けんでもええんよ、進さん。おら、思い出したんよ。進さんと同しように、昔のことを思い出したんよ」
見開かれた忠之の目は千鶴を凝視して動かない。それでも忠之はすぐにまたしらばくれようとしたので、進さんと千鶴は呼びかけた。
「まだ信じてくんさらんみたいなけん、言うてあげましょわい。進さんはおらを護るために、ここでようけのお侍らと斬り合うたんよ。たった一人でおらを護ろとして、おらのためにお命を……」
その先を言えないまま千鶴は嗚咽した。千鶴の心は前世の千鶴が占拠していた。
千鶴の涙に弱いはずなのに、忠之は慰めようともしない。明らかに平静さを失っており、どう応ずるべきか測りかねている表情だ。
「進さん、黙っとらんで何とか言うておくんなもし」
千鶴が泣きながら促しても、忠之は黙ったままだ。認めたくないというより、認めてしまったあとのことを恐れているのだろうか。
進さんてば!――千鶴が語気を強めると、忠之は恐る恐る口を開いた。
「千鶴さんが進さんと呼びんさる男とおらが対じゃと、なしてわかるんぞな? ロシアの娘の話ぎりでそがぁ思とりんさるんなら、ほれは千鶴さんの思い違いぞな」
説得力のない弁解を続ける忠之に、千鶴は言った。
「進さんのまことの名は佐伯進之丞忠之ぞな。進之丞は呼び名で、忠之が諱じゃて、おらに教えてくんさったろ? 諱は誰にでも教えるもんやないけんどて言いながら、おらには教えんさったやんか。ほれに、今の進さんの名が佐伯忠之ていいんさるんは、おらの名が千鶴なんと対で、ほれこそ神さまがお示しくんさった、進さんである証ぞな!」
興奮して肩で息をする千鶴に、忠之の顔が綻んだ。
「ほんまに……、ほんまに思い出したんじゃな、千鶴」
「やっぱし進さんなんじゃね!」
千鶴は忠之、いや進之丞に飛びついた。進之丞は千鶴を抱きしめると、逢いたかったぞと言ってむせび泣いた。千鶴は涙で喋ることができず、ただ進之丞の胸の中でうなずくばかりだった。
三
師走に入っているが、柔らかな陽射しがぽかぽか暖かく、静かな波音が心地よい。
千鶴と進之丞は砂浜に座り、遥か昔を思い出している。
「おら、まだ全部を思い出したわけやないけんど、こがぁして進さんと喋っとると、どんどんいろんなこと思い出してくるぞな」
「思い出すんは楽しいことぎりにしとかんとな。思い出さいでもええことまで思い出したら、つろならい」
進之丞は微笑みながらも、その笑顔にはどこか翳りがある。
「進さん、おらのことどがぁしてわかったん?」
「どがぁしてて……」
「いくら今のおらが前世のおらと真っ対でも、ほれぎりじゃったら他人の空似かもしれんやんか」
「お前が何も申さんでも、あしにはお前のことがわかるんよ。たとえお前の姿が今と違たとしても、あしにはわかるんぞな」
「ほれは、おらを感じとるてこと?」
ほうよと言って進之丞はにっこり笑った。
千鶴は嬉しくなった。千鶴が進之丞を感じたように、進之丞もまた千鶴を感じてくれていたのだ。こうして互いの温もりを感じられるのは、やはり時を越えたつながりで結ばれているからだろう。
「おらもな、進さんがわからんうちから、進さんのこと感じよった。ほやけん、ずっと進さんのことが忘れられんかったんよ」
千鶴は進之丞に体を寄せた。あの温もりに包まれ、進之丞と一つになったみたいだ。
「進さんも、今おらを感じておいでる?」
進之丞がうなずくと、千鶴は喜びでいっぱいになり、進之丞の肩に頭を載せた。
「おらたち、こがぁしてお互いのこと思い出したけんど、もし思い出さんままじゃったとしても、この感じがあったらお互いに引き合うて一緒になれらいね」
ほうじゃなと微笑む進之丞の顔は、やはりどこか寂しげだ。たとえ互いの温もりを感じたとしても、生まれ育ちが壁となって一緒になれないこともあると言いたいのだろう。
前世で二人の身分は違い過ぎていたので、進之丞は千鶴を嫁にするために苦労をした。
しかし今世では立場が逆で、千鶴はロシア人の娘ながら伊予絣問屋の跡継ぎ娘だ。一方、進之丞は山陰の者として生きており、それがために一度は甚右衛門に見捨てられそうになった。時代が変わっても、生まれの違いを超えるのが容易でないのは変わらない。
「進さん、重見善二郎てお人、知っておいでる?」
千鶴が話題を変えると、進之丞は目を瞠った。
「重見善二郎? 知らいでか。そのお方はお前が武家に嫁入りする膳立てに、お前を養女に迎えてくんさることになっとったお人よ。じゃが、なしてお前があのお方を知っておるんぞ? まだお前には話しておらなんだはずじゃが」
「あのな、今のおらのじいちゃんは、重見善二郎いうお人の孫なんよ」
進之丞はさらに目を丸くして、何と――と言った。
「ほれは、まことの話か?」
「じいちゃんがそがぁ言うとりんさった。じいちゃんの実家は歩行町にある重見家で、じいちゃんのおとっつぁんは重見甚三郎ていいんさるそうな」
「甚三郎か、覚えておるぞ。一度手合わせをしたことがあるが、剣の腕前はなかなかじゃった。ほうか、千鶴は重見家の血筋の家に生まれて来たんじゃな。やっぱし、これはお不動さまのお導きに相違ない」
法生寺の方を向いた進之丞は、両手を合わせて不動明王に礼を述べた。
進之丞が祈り終えると、ほれにしたかてと千鶴は言った。
「進さん、おらのことがわかっとったんなら、なしてもっと早ように言うてくんさらんかったん?」
「ほやかて、お前が何も思い出しとらんのに、お前と夫婦約束しよった進之丞ぞな――とは申せまい。そげなこと申せば、頭おかしいんやないかて思われようが」
「まぁ、ほやないかて思いよった。ほんでも、おら、ずっと昔の自分にやきもち焼きよったんよ?」
千鶴が拗ねたふりをすると、進之丞は笑って言った。
「あしも、うっかり申さんでもええことを喋ってしもたけんな」
「ほやけど、あん時、進さんに助けてもらえなんだら、おら、死んどった。ほれが、こがぁして逢えたんは神さまのお引き合わせじゃね」
「確かにほうじゃな。やが、あしらを引き合わせてくんさったんはお不動さまじゃて、あしは思いよる」
「なして、お不動さまなん?」
進之丞は法生寺を振り返りながら言った。
「お不動さまは、昔からあしらを見守ってくんさっとるけんな」
「ほやけど、おらたちは死に別れてしもたぞな」
「ほじゃけん、こがぁして逢わせてくんさったんやないか」
進之丞は千鶴を諭すように言った。
「あしはな、わかったんよ。人は死んでも、ほれでおしまいやないてな。死んでもまた生まれ変わり、大切な者と再び出逢うんよ。そがぁな生き死にの繰り返しの中で、お不動さまはあしらを見守っておいでるんよ」
「進さん、相変わらず頭がええねぇ。おら、そげな深い考えはようせん」
「ほんでも、今は師範になる学校へ行きよるんじゃろ?」
進之丞の言葉で前世の千鶴は、後ろに隠れていた今世の千鶴に席を譲った。つまり、千鶴は我に返って困惑した。
「いや、あの、学校はな、その……」
「どがぁした?」
「ほやけんな、あの……、やめたんよ」
「やめた?」
進之丞は驚き、眉をひそめた。
「なして、やめたんぞな?」
「なしてて言われても……」
鬼のせいでやめたとは言いたくなかった。だけど、適当な説明が思いつかない。
「ひょっとして、あしがお店で働く思てやめたんか?」
弁解を探していた千鶴は、進之丞の言葉に飛びついた。
「おじいちゃんがな、うちらを夫婦にしてお店を継がせるおつもりじゃけん……」
そう言われたわけではないが、そうに決まっている。
小さいながらも山﨑機織は立派な絣問屋だ。そこの跡継ぎになるというのは、使用人にとっては大出世だ。千鶴は祖父が心から進之丞に詫びていると伝えたかったし、進之丞が喜んでくれると思った。しかし千鶴の期待に反して、進之丞は笑みを見せなかった。
「そげなことはでけん」
「でけんことないし。おじいちゃん、進さんにしんさったこと、ほんまに悪かったて思ておいでるんよ。ほれに、まっこと進さんに惚れ込んでおいでたんやけん」
山陰の者として生まれ変わったことを、進之丞は気にしているのだと千鶴は思った。だとすれば、やはり祖父の仕打ちは進之丞の心を深く傷つけたに違いなかった。
進之丞が黙っているので、千鶴は不安になった。
「進さん、おじいちゃんのこと怒っておいでるん?」
「いや、怒っとらん」
「じゃったら、なしてそがぁな顔するん?」
「そがぁな顔?」
「何や、むすっとしとるぞな」
進之丞は両手で顔をごしごしこすると、にっこり笑った。
「これでええかな?」
「ほれじゃったらええけんど、進さん、もううちの店にはおいでてくれんの?」
「いや、あしかてお前と一緒におれるなら、そがぁしたいと思いよる」
「ほんなら、何がいけんの?」
進之丞は千鶴の方に体を向けて言った。
「あしにはな、そがぁにうまくいくとは思えんのよ」
「なして? お不動さまが引き合わせてくんさったんよ? 進さんが自分でそがぁ言うたやんか」
進之丞は口を噤んで何も言わない。ひたひたという波音だけが聞こえている。
「あしは人殺しぞな」
進之丞はぽそりと言った。
「人殺し?」
千鶴はぎょっとしながら言った。
「進さん、誰ぞ殺めんさったん?」
「殺めたいうても今の話やない。前の話ぞな」
「ほれじゃったら――」
「人を殺めた者に幸せをつかむことはできん。人殺しのあしがおったら、お前は幸せにはなれまい」
「何言うん?」
馬鹿げた話に千鶴は反論した。
「ほんなん前世の話やんか。ほれに、ほれはわざにやのうて、おらを護ってしんさったことじゃろ? 仕方なしにやったことやのに、なしてそがぁに言うん?」
「ほやかて、人殺しは人殺しぞな」
「ほんでも、ほれは前世の話で、今の進さんには関係ないぞな」
「あしが何も覚えとらんのなら、ほうかもしれん。やがこのとおり、あしは全部覚えとる。己の罪は己が知っとるんじゃけん、ほの罪から逃れることはできまい」
「進さん一人が不幸になって、おらぎり幸せになれるわけないやんか。おらの幸せは進さんと一緒になることなんよ? ほれがでけんのなら、おら、幸せになんぞなれん」
千鶴が泣きだすと、進之丞はうろたえた。何とかなだめて慰めようとしたが、千鶴は泣き止まない。
「わかった。わかったけん、泣かんでくれ。もう余計なことは申さぬ。何でもお前が申すとおりにする故、泣かんでくれ」
千鶴は涙の目で進之丞を見た。
「ほんまに?」
「嘘は申さぬ」
「約束やで?」
「あぁ、約束する」
千鶴は進之丞に抱きついた。進之丞も千鶴を抱き返したが、その胸には過去の苦しみが残ったままだ。襲って来た方が悪いのに、その相手の命を奪ったことで、生まれ変わってからも苦しむなんて実に理不尽だ。だが実際に苦しんでいる者には、そんな理屈は通用しない。千鶴が進之丞にしてやれるのは、黙って抱きしめてやることだけだ。
「人は変わるが、海は昔と変わらんな」
海を眺めながら進之丞が言った。千鶴もうなずいて海を見つめた。
二人の傍まで波が静かに打ち寄せている。前世で二人に何が起こったのかを、波は覚えているだろう。それでも波は二人に対して何の判断も批判もせず、ただ寄せては引くを繰り返している。それは無関心のようでもあるが、思いやりにも見える。あるいはすべてを知った上で、昔のごとくに二人を受け入れてくれているみたいでもあった。
波は静かに砂を運ぶ。同じように時の流れが進之丞の苦しみを、静かに運び去ってくれればと願いながら、千鶴は進之丞の肩に頭を載せた。
四
「そろそろ寺へ行くか。みんなが待ちよろ」
立ち上がろうとする進之丞に、一つだけ聞かせてほしいと千鶴は言った。
「進さん、前に鬼の話をしてくんさったろ? あん時に言いんさった和尚さんて誰?」
「慈命和尚ぞな」
「え? あの和尚さま?」
「ほうよ。お前が世話になっておった慈命和尚ぞな」
慈命和尚は、前世の千鶴が法生寺で暮らしていた時の住職だ。千鶴が異国の血を引く娘だと知った上で寺に引き取り、村人たちにも千鶴を理解させようとしてくれた千鶴の大恩人である。
懐かしい想いに浸りながら千鶴は言った。
「おら、まだ思い出しとらんけんど、やっぱし、おらは前世で鬼と関わりがあったん?」
進之丞は迷ったように少し間を置いてから、うむとうなずいた。
「あしは鬼がお前を護っとると申したが、昔の鬼は今とは違てな、物分かりの悪い狼藉者じゃった」
「ほうなん?」
千鶴は驚いた。優しい鬼が狼藉者だったとは意外な話だ。
「お前がまだ風寄に来る前の話やが、鬼は山ん中の寺でお前に優しゅうされたんよ。ほれで、お前の優しさに憧れた鬼はお前が欲しなって、ずっとお前を探しよったんよ」
「ほれを慈命和尚さまから聞きんさったん?」
「いや、あん時はそがぁ申したが、ほんまはほうやない」
「じゃあ、誰から聞きんさったん?」
進之丞は少しためらってから、鬼ぞなと言った。
「こげな話をしたら、鬼へのお前の気持ちが変わるやもしれんが、嘘を申すわけにもいかぬ故、まことの話をしようわい。法生寺の庫裏が焼け、ほん時に慈命和尚が亡くなった話は、お前も知っとろう?」
千鶴がうなずくと、和尚は鬼に殺されたのだと進之丞は言った。
千鶴は全身がざわついた。進之丞の話を心が拒絶していた。
「嘘じゃろ?」
「嘘やない。お前の居場所を見つけた鬼は、村の者らを使て和尚とお前を捕まえたんよ。和尚は法力で鬼と戦うたが、村の者には無力じゃった。男らに散々殴られて瀕死の状態になった和尚を、鬼は庫裏ごと焼き殺そうとしたんよ」
そんな話は聞きたくなかった。村の者たちはみんな慈命和尚を尊敬していた。その者たちの手で和尚の命を奪うなんて、卑劣極まりない鬼の行いに千鶴は心が震えた。
「異変に気づいて駆けつけたあしの前で、鬼は庫裏に火を放ちおった。庫裏はすぐに火の海になり、あしはお前と和尚を助けようと炎の中へ飛び込んだんやが、鬼はお前を攫って逃げたあとでな。あしが見つけられたんは虫の息になった和尚ぎりじゃった」
見慣れた庫裏が燃え上がる様子が目に浮かび、千鶴は動揺した。もはや事実を否定することができず、体中の毛穴から何かが噴き出すみたいだ。
「和尚は死に際にこがぁ申された。鬼は力尽くで従わせよとしても無理じゃとな。鬼がお前を狙う理由も和尚は知っておいでての。そこから鬼を説き伏せるしか、千鶴を護ることは敵わぬと申された」
慈命和尚は千鶴の親代わりになってくれた人だ。読み書きも教えてくれたし、お不動さまのことも教えてくれた。厳しさもあったが、とても優しい人だった。その和尚の死に様が目に浮かび、千鶴は涙を抑えられなかった。
千鶴は鼻をすすりながら言った。
「ほれで進さん、どがぁしんさったん……? 鬼を説き伏せんさったん……?」
「そがぁするより他に手はなかったぞな。あしは海に逃げた鬼を追いかけ、必死で説得した。千鶴を己の物にしたとこで優しさは手に入らんのじゃと」
「鬼は進さんの話……わかってくれたん?」
「そがぁに簡単にはいくまい。ほんでも、あしはあきらめなんだ。優しさは奪うもんやのうて与えるもんであり、己の中にあるんじゃと、とにかく説き続けたんよ。ほれでしまいには鬼もあしの言葉に耳を貸してくれてな。ついにはお前を戻してくれたんよ」
千鶴は肩を落とした。進之丞の話はあまりにもつらかった。いくら自分を手放してくれたとはいえ、鬼にいい印象が浮かばない。
「おら、ほん時のこと、何も覚えとらん」
「ほれでええ。さっきも申したように、余計なことは思い出さん方がええ」
「ほれは、ほうじゃけんど……」
慈命和尚を殺した鬼に攫われておきながら、何一つ覚えていないのは釈然としない。
「あのお侍らが襲て来たんは、そのあとのこと?」
「ほうじゃ。連中は攘夷を掲げた屑どもぞな。鬼は優しさ求めて悪さをしたが、連中はゆがんだ虚栄心のために人を殺めよる。まっこと鬼より始末の悪い連中よ」
憤る進之丞に、自分はロシアへ行ったのかと千鶴は訊ねた。
「ほうじゃと思うが……」
進之丞は口を濁した。それが何を意味するのか悟った千鶴は慌てて話を変えた。
「ほれにしても、なして進さんはおらのおとっつぁんのことがわかっておいでたん?」
進之丞は顔を上げると言った。
「ちょうどその頃、三津ヶ浜にな、ロシアの黒船が来よったんよ」
五
黒船が三津ヶ浜に現れたのは、複雑な瀬戸内海の潮流を見極めるためだという。
突然黒船が現れた三津ヶ浜は大騒ぎになったと思われるが、その中で小舟で黒船に近づいた者がいた。異国人相手に商売ができるかもと考えた三津ヶ浜の商人だ。
商人に気づいたロシア人は、別のロシア人を呼んでその商人に話をさせた。商人と喋ったロシア人は通訳のようで、初めのロシア人の言葉を日本語にして商人に伝えた。それはこの辺りにロシア人の娘はいないかというものだった。
それに対して商人は、ロシアかどうかはわからないが、異人の娘なら噂を聞いていると答えた。異人の娘とは千鶴のことだ。
「なして、おらのことを三津ヶ浜のお人が知っておいでるん?」
「あしがお前を嫁にするいう話が、松山や三津ヶ浜まで広がっとったんよ」
「おらが異人の娘やけん?」
進之丞はうなずいた。進之丞によれば、二人が夫婦になる話は侍だけでなく庶民にまで聞こえていたそうだ。
通訳を介して訊ねたロシア人は、千鶴を自分の娘だと確信したらしい。商人に手紙と金子を持たせ、その娘に手紙を届けるように頼んだ。黒船には日本の船頭が案内人として乗り込んでおり、手紙はその案内人に書いてもらったようだ。
商人は手紙を引き受けたが、直接手紙を娘に届けると、あとでお仕置きを受ける恐れがあると考えた。それで手紙は娘ではなく、娘を嫁に迎える進之丞に届けられた。進之丞はちょうど父と遠方の村の見廻りから戻ったところで、商人から直接話も聞いた。
黒船が風寄へ向かうことが攘夷侍たちの耳に伝わったのは、たぶんこの商人からだろうと進之丞は言った。
三津ヶ浜には異国船を警戒する砲台が設置されたお台場があった。その真ん前に黒船が現れたので、現地にいた侍たちは大いに慌てたことだろう。一触即発の状況に肝を冷やしながらも、何事もないことを願っていたと思われる。
そんな状況に攘夷侍たちはいらだったに違いない。やられる前に先に大砲をぶっ放せばいいと思っていたはずだ。だが、砲台は船奉行たちが護っているので手が出せない。
ところが、風寄であれば邪魔者はほとんどいない。しかも風寄には武家の嫁になろうとしている異人の娘がいた。攘夷侍たちが動くべき時が来たのだ。
この時には、まだ進之丞は攘夷侍たちの動きを知る由もなかったが、それを抜きにしても進之丞には迷惑な手紙だった。
異人が勝手に上陸すれば大問題であり、その異人と接触したとなると、お咎めは免れない。下手をすれば、千鶴と夫婦になる話も許されなくなるかもしれなかった。
そうはいっても、自分の父親が会いに来ると千鶴が知れば、一目会いたいと思うのが人情である。また、一目会わせてやりたいと進之丞が思うのも人情だ。けれども、二人を会わせればどうなるかと考えると、進之丞は手紙の話を千鶴にできなかった。
手紙には一方的かつ簡略に、千鶴に会いに行く日時と場所が書かれていた。それがちょうど攘夷侍たちが襲って来た、あの時であり、あの場所だったと進之丞は語った。
「あしはその手紙を見んかったことにするつもりじゃった……。じゃが、あげなことが起こり、慈命和尚も父上も亡くなった。そこに加えて、あしも生きられぬ身になれば、お前を護れる者はおらんなる。ほれであしはお前を、お前の父上に託そと思たんよ」
「……ほうじゃったん」
過去の話ではあるが、千鶴は暗い気持ちになった。
「村上さん所のおヨネばあちゃんのおとっつぁんが、浜辺でお侍と戦う鬼を見たて聞いたけんど、鬼もお侍と戦うたん?」
「戦うた。心を入れ替えた鬼は、動けんなったあしの代わりにお前を護ってくれた。ほれから行くべき所へ行ったんよ」
「地獄てこと?」
進之丞はうなずいた。千鶴は自分が見た夢に納得がいった。地獄へは自分を護ってくれた鬼に会いに行ったのだ。
しかし鬼が慈命和尚の命を奪ったことは、その時の自分は知らなかったに違いない。もし知っていたなら、地獄まで鬼に会いに行ったりはしなかっただろう。また鬼が慈命和尚を殺めたのだとすれば、祖父が言っていた、風寄の代官が鬼に殺されたという話も事実と思われる。
「鬼が嫌いになったか?」
訊ねる進之丞に千鶴は訊き返した。
「進さんこそ、ほんまはどがぁ思ておいでるん? 鬼のことわかったみたいに喋っとりんさるけんど、おとっつぁん殺されても平気でおられるん?」
進之丞の顔が強張った。はっとなった千鶴は慌てて自分の無神経さを詫びた。
進之丞は硬い表情のまま言った。
「父上が鬼に殺められたこと、なして知っておるんぞ?」
「さっき話したじいちゃんのじいちゃんがな……、亡くなった進さんのおとっつぁんのお姿見んさって……、鬼にやられたらしいて言いんさったて……」
ほうかと進之丞は項垂れた。そして自分の両方の手のひらを見つめると、その手を握りしめて泣いた。
千鶴は進之丞の肩を抱くと、ごめんと詫びた。進之丞は尚も体を震わせて泣き続けたが、やがて涙を拭うと千鶴に向き直った。
「千鶴、お前も鬼が憎かろ。やが、あしから頼む。どうか、鬼を憎まんでやってくれ。許してやれとは申さぬが、憎むんはやめてくれ。ほやないと、せっかく新たな命をもろて生まれ変わったのに、これからのお前の暮らしがすべて台無しになってしまわい」
「進さん……」
「本来なら思い出すはずのないことで、苦しみ悲しむのは正しいことやない。お前の幸せのため、どうか、憎しみは捨ててくれ。ほの代わり、鬼はじきにお前から離れよう。鬼が望んどるんはお前の幸せぎりじゃけんな」
千鶴は黙ったまま、進之丞の言葉を噛みしめた。
何とか気持ちの整理がつくと、千鶴は進之丞を見てにっこり笑ってみせた。
「わかったわい。おら、もう忘れた」
「ほうか、ほれがええ。鬼のことも案ずるな」
「案じたりしとらんよ。鬼さんはおらの守り神じゃけん」
驚いた顔の進之丞に、千鶴は微笑んで言った。
「人それぞれぞな。おらも進さんもこがぁして生まれ変わったんじゃけん、きっと他の人らも生まれ変わっとらい。和尚さまも進さんのおとっつぁんも、みんなどっかに生まれ変わっとると、おらは思う。ほれやのに、昔のこと取り上げて恨みつらみ言うたかて詮ないことやし」
「千鶴……」
「ほれにな、おら、思たんよ。きっと、鬼さんかて昔のこと思い出したらつらかろうなて。人は前の世のことなんぞ、みんな忘れとんのに、鬼さんぎり覚えとるんは気の毒ぞな。ほじゃけんな、おら、鬼さんの力になってあげたいんよ。鬼さんにはこの先もずっと傍におってもろて、おらたちと一緒に……、進さん?」
進之丞は両手で顔を覆ってすすり泣いていた。
「進さん、何泣きよん?」
「千鶴……、なしてお前は……、そがぁに優しいんぞ?」
「なしてって……、鬼さん、気の毒やし。おらのこと陰で助けてくれとるんじゃけん」
「ほやけど、鬼ぞ?」
「おら、自分が鬼娘や思て悩みよったろ? あん時に、ようわかったんよ。自分が鬼になってしまう恐ろしさを。実際は鬼娘やなかったてわかったけん、ほっとはしたけんど、ほんまの鬼さんはどんだけつろうて悲しかろて思たんよ。鬼さん、好きで鬼になっとるわけやないもんね」
進之丞はますます泣きだした。千鶴は進之丞を抱きしめて慰めようとしたが、進之丞が泣く理由がわからない。進之丞は千鶴に抱かれながら泣き続けた。
六
しばらくして涙を拭った進之丞は、すまぬと言った。
「また取り乱して、見苦しい所見せてしもた」
「進さん、何をそがぁに泣きよったん?」
「あしはな、鬼の心がわかるんよ」
「鬼の心?」
進之丞はうなずくと、前の世で鬼を説得した時に、鬼と気持ちが通じるようになったと言った。
「鬼はな、千鶴の言葉を聞いて泣きよったんよ。その気持ちがあしにも伝わって、ほれで涙をこぼしてしもたんぞな」
「ほういうことやったん」
何だかとても感動した千鶴は、進之丞と鬼のことを確かめたくなった。
「鬼さんがおらをイノシシから救ってくれた時、ほんまは進さんも傍においでたんじゃろ?」
千鶴が問いかけると、進之丞は少し困った顔を見せ、それから小さくうなずいた。
「あの日、お前が泣きもって走って行くんが見えたんよ。ほん時はお前がおるとは思とらなんだ故、まさかと思いもって後を追わいよったら、あのイノシシが出て来てな……」
「鬼さんが現れて、おらを助けてくれたんじゃね」
千鶴の言葉に、進之丞は黙ってうなずいた。
「進さんは鬼さん見ても驚かなんだん?」
「互いを知った間柄故、驚きはせぬ。ほれに、あしはお前のことしか考えよらんかった」
「じゃあ、鬼さんも進さんがわかったん?」
「わかっとる。ほじゃけん、あとはあしが動いたんよ」
千鶴は納得した。思ったとおり進之丞と鬼は力を合わせる仲だったのだ。
かつて鬼と進之丞は争った仲であり、鬼は進之丞の父を八つ裂きにした。なのに今は互いに心を通わせている。それは何とも不思議であり、胸を打つものがあった。
「進さん、鬼さんに言うてくれる?」
「何をぞな?」
「絶対におらから離れんといてなって」
進之丞は困惑気味に、そげなことはでけんと即答した。
「なして?」
「鬼が現れたんはお前が幸せになるんを確かめるためぞ。ほじゃけん、お前が幸せなんがわかったら、鬼はおらんなるんよ」
「ほんなんいかんで。じゃったら、おら、幸せになれんやんか」
「なしてぞ?」
「鬼さんがおらんなったら、おら、悲しなるもん。幸せになれたとしても、幸せやなくなってしまわい」
「千鶴、お前はなして……」
進之丞がまた泣きだしたので、千鶴は慌てて進之丞をなだめた。
「進さん、泣いてんと、もう一つ鬼さんに伝えてくれん?」
「何を……ぞな?」
鼻をすすり上げる進之丞に千鶴は言った。
「あのな、おらが誰かに腹立てたら、鬼さんが仕返しするかもしれんのよ。ほやけん、そげなことはせいでも構んけんて言うといてほしいんよ」
「何ぞ、そがぁなことがあったんか?」
近くには誰もいないが、千鶴は声を潜めて言った。
「あのな、実は兵頭さんの家がめげたんは、おらのせいなんよ」
「なして、お前のせいなんぞ?」
「あのな、おら……、あの人のこと恨んでしもたんよ」
「恨んだ?」
「ほやかて、あの人がおじいちゃんに余計なこと言うたけん、おじいちゃんが進さんを雇うのをためろうてしもたじゃろ? おら、進さんがおいでてくれるて楽しみにしよったけん、ほれでつい……、恨んでしもたんよ。ほしたら、ほれが鬼さんに伝わってしもたみたいでな。ほれで、あげなことになってしもて……」
進之丞はふっと笑った。
「お前は、まっこと正直で可愛い女子よなぁ」
「何言うとるんよ。ほんまじゃったら、おら、兵頭さんにお詫びせんといけんのよ。ほやけど、そげなこと言えんやんか。やけん、こがぁなことが起こらんように気ぃつけんといけんのよ。ほやけどな、鬼さんのこと責めよるんやないんよ。そこん所はちゃんと伝えといてや」
進之丞は声を出して笑うと、相わかったと言った。
「もうお前の気持ちは伝わっとる故、何も案ずることはない。鬼もお前に迷惑かけたて謝っとらい」
「謝らいでもええんよ。おらな、おらのために鬼さんの手ぇ汚すような真似させとないけん言うとるんよ。せっかく優しい気持ちになったんじゃけんな。鬼さんには、いつまでも優しい鬼さんでおってほしいんよ。ほれじゃったら鬼さん、もう地獄に行くことないもんな」
進之丞がまたもや泣きだした。
千鶴は慌てて進之丞をなだめた。そうしながら、これから進之丞に鬼の話をする時には、気をつけねばならないと自分を強く戒めた。