広がる噂
一
正月になると、茶の間と隣の板の間を仕切る襖は取り払われ、広くなった座敷に山﨑機織の者全員が集まった。
普段は使用人と家人は別の場所で食事をするが、祝い事の時には一緒に食べる。この日はもちろん一緒だ。
茶の間に甚右衛門が座ると、そこを基点として家人と使用人が向かい合う形で、板の間の方へ向かって並んだ。家人は部屋の奥、使用人は土間側だ。
甚右衛門のすぐ傍の家人側には、大阪の作五郎の下で修行をしていた孝平が座り、使用人側には東京廻りから戻った辰蔵が座っている。孝平の隣にはトミが座り、さらにその隣に幸子、千鶴と続く。一方で、辰蔵の隣には手代、丁稚が順に並んでいる。
花江は使用人ではあるが、千鶴の隣に座らされた。家人側と使用人側の人数合わせのためだが、花江が特別な使用人ということでもあった。
それぞれの箱膳には白飯と雑煮、黒豆や数の子、昆布に大根やごぼう、里芋などの煮物、赤蕪の酢の物などが所狭しと並べられている。箱膳の脇には、箱膳に載せきれない焼き魚の皿が置かれ、亀吉と新吉はもちろん、無口な弥七さえもが笑みを見せていた。
前年は関東の大地震で手代を亡くし、花江も家族を失った。ほんの四ヶ月前のことである。本来であれば祝い事などできないが、正月は特別だ。残った者たちをねぎらい励ます必要もある。今回の正月にはそんな意味も含まれていた。
祝う言葉を用いずに一同に新年の挨拶をした甚右衛門は、昨今の絣業界の情勢について喋り、こうして正月を迎えられたのはみんなのお陰だと述べた。そのあと、千鶴が学校をやめて家や店の仕事を手伝うことになったと、さらりと言った。
千鶴は花江にだけは学校をやめたことを話していた。詳しい説明はしなかったが、ひどい差別を受けたからとだけ言った。千鶴が深く傷ついていたのはわかっているので、花江も余計なことは聞かなかった。
甚右衛門は辰蔵には千鶴のことを伝えていた。しかし、他の使用人には何も話していなかったので、千鶴が学校をやめた話には、少なからぬざわめきがあった。驚きではなく、やはりそうかという雰囲気だ。
みんな、十二月に入ってから千鶴が学校へ行かずに家にいたのは知っている。特に茂七と亀吉の二人は、千鶴が学校へ行った最後の日に悲壮な顔で昼前に戻って来たのを、その目で見ている。
何があったのかを知らされなくても、甚右衛門が忠之の雇用をやめたことが絡んでいると、茂七たちは見ていた。ただ千鶴を気遣ってか、誰もそのことで千鶴に声をかけたりはしなかった。
千鶴が花江から聞かされた話によれば、その後の千鶴が何故か機嫌よくなったので、茂七たちは訝しく思っていたらしい。そこへ年末近くになってから、忠之がまた大八車で風寄の絣を運んで来たので、そういうことかと勝手に納得したという。
つまり忠之を雇う話が復活したので、千鶴も家の仕事に入ったのだと、茂七たちは理解したわけだ。だから千鶴が学校をやめたと聞かされても、茂七たちが驚かなかったのは当然だった。
しかしながら、大阪にいた孝平だけは事情を知らない。思いがけず千鶴が学校をやめて、家にいるのが面白くないようだ。
「なして学校をやめたんぞ?」
孝平は身を乗り出して不満げに千鶴に言った。けれど、千鶴は返事をしなかった。代わりに説明をする者は誰もいない。
甚右衛門が黙って盃を手にしたので、みんなも盃を持った。孝平は千鶴を一にらみすると、仕方なさげに盃を手に取った。
甚右衛門が黙ったまま盃を掲げて、みんなのお屠蘇が酌み交わされた。次はいよいよお待ちかねのご馳走だ。
甚右衛門が雑煮に手をつけると、みんなは一斉に料理を食べ始めた。
新吉はいきなり大きな口で餅にかぶりつき、喉を詰めそうになって亀吉に背中を叩かれた。みんな笑いながらも、箸の動きはいつもより速い。滅多に食べられないご馳走は、それぞれの口へ次々に運ばれた。
ひとしきり食べたあと、甚右衛門は辰蔵に東京の状況を報告させた。
辰蔵は東京の復興が驚くべき速さで進んでいると話し、絣の需要は今後も増える見込みだと説明した。
ただ、今回の大地震で潰れた店も数多く、山﨑機織の取引先も以前と比べると半減したという。その中には花江の実家の太物問屋も入っており、花江はしんみりしながら話を聞いていた。
辰蔵は花江に声をかけると、花江の家族の墓参りもしてきたと伝えた。花江は笑顔で辰蔵に感謝したが、すぐに涙ぐんでしまい、めでたい日を湿っぽくしてしまったと、みんなに詫びた。
辰蔵が花江の気を引く真似をしたと見たのだろう。孝平は辰蔵をにらんだが、辰蔵はまったく相手にしなかった。
甚右衛門は花江を気遣いながら辰蔵をねぎらうと、減った取引先を早急に増やさねばならないと言った。
辰蔵はうなずきはしたが、事情は他の同業者も同じなので、事は簡単ではないと語った。
祝いの席に着く前に、甚右衛門は辰蔵から東京の事情は聞いていたはずだ。それを改めて辰蔵に喋らせたのは、山﨑機織全員に話を聞かせて、士気を高めるつもりに違いない。
これから東京の仕事を強化していくつもりだと甚右衛門は語ったが、そのためにも松山の人員も増やす必要がある。亀吉や新吉にも早く手代になってもらいたいと、甚右衛門は二人を鼓舞した。
手代になるというのは、一人前だと認めてもらうことである。
丁稚で働いていても、仕事が向かないと判断されれば家に帰されることもある。実際、これまでにも帰された者は何人もいた。
亀吉も新吉も主の期待を聞いて、自分たちの出世が保証されたと受け止めたらしい。二人で喜び合い、がんばろうと誓い合った。
さて――と甚右衛門は孝平に顔を向けると、大阪の話を聞かせてもらおうと言った。ところが、ちらちらと花江を見ていた孝平は、甚右衛門の声が聞こえていない。
トミに叱られた孝平は、慌てて甚右衛門を見た。使用人たちは何も言わないが、孝平を見る目には侮蔑のいろが浮かんでいる。
甚右衛門は苦虫を噛み潰した顔で、大阪の報告をしろと繰り返し言った。
孝平は姿勢を正すと、作五郎から褒めてもらったと胸を張った。だけど、そんなことは訊いていないと甚右衛門に言われると、うろたえてトミを見た。
トミはため息を一つつくと、大阪の商いの話だと言った。
ほうかとうなずいた孝平は、大阪は町も大きく商いも盛んで、松山とは店の規模も違うし、とにかく店がいくらでもあると話した。
花江が話を聞いていると思ったのだろう。調子に乗った孝平は、大阪には通天閣という立派な塔や、松山城よりも大きな大阪城があると自慢げに喋った。
甚右衛門は咳払いをして、伊予絣の評判を訊ねた。途端に孝平は口籠もり、そこそこ売れていると答えた。
甚右衛門は顔をしかめ、もうええと言った。
「作五郎さんから聞いた話やが、大阪には東京から移り住む人間が増えとるそうな。ほれが結構な数で、今後は大阪での需要がこれまで以上伸びるみたいなけん、今年はみんな忙しならい」
自ら喋った甚右衛門は、話を終えると孝平を見た。今の話を孝平の口から聞きたかったのだろうが、孝平は甚右衛門に目を合わせようとせず、雑煮の餅を食っていた。
二
独り者の作五郎は、年末年始を道後温泉で過ごすために松山を訪れていた。そのための旅費は作五郎への手当の一部であり、作五郎を雇う時に甚右衛門が提示した条件だ。孝平はその作五郎に連れられて、松山へ戻っていた。
作五郎も道後温泉へ向かう前に山﨑機織に立ち寄り、甚右衛門と会って話をしていた。話の中身は大阪の近況報告と、孝平の仕事ぶりについてだ。
孝平は大阪へ行く前は周囲に対して下手に出ていたが、今は元に戻って偉ぶった態度を見せている。恐らく作五郎に褒めてもらったことで自信がついたのだろうが、甚右衛門に伝えた作五郎の評価は真逆のものだった。
「そがぁなわけで、今後は東京に加えて、大阪からの注文も増えてくるけん、かなり忙しなろ。さっきも言うたとおり、亀吉と新吉には早よ手代になれるよう、がんばってもらいたい。ほれと、東京には近々茂七を遣るつもりなけんど、そがぁなるとここの手が足らんなる。ほじゃけん、急いで人を増やさにゃならん」
甚右衛門の話に孝平は目を輝かせた。
孝平は松山に残ることが決まっていた。本人は自分が一人前と認められたと受け止めており、甚右衛門がその話を出すと期待しているらしい。だが孝平が大阪へ戻らないのは、作五郎がさじを投げたからだった。
作五郎は孝平が役に立たないと甚右衛門に告げていた。二ヶ月ほどの間、途中で孝平を放り出さなかったのは、甚右衛門に申し訳ないと思ったのが理由だ。
孝平が作五郎に褒められたのは、花江を嫁にしたいという熱意だけだ。そこまで女のためにがんばるのは大したものだと言われただけで、仕事を褒められたわけではなかった。
正月以降は仕事の邪魔になるから、孝平は松山へ置いて行くと、作五郎はきっぱりと言った。甚右衛門は正月早々から、悩みの種を抱えることになったのである。
孝平は新たに増える人物は自分だとばかりに、亀吉たちに自分を指差しながら得意げに笑った。甚右衛門はそんな孝平を無視して喋った。
「ほれで取り敢えずは、外から一人雇うことにした」
孝平は驚いた顔で甚右衛門を見た。しかし、甚右衛門はちらりとも孝平を見なかった。
甚右衛門が雇うと言うのは忠之のことだ。千鶴は嬉しくて仕方がなかった。忠之はついに為蔵から了承をもらい、山﨑機織で働くことになったのだ。
ただし、それには条件があった。
もし山﨑機織の仕事がうまくいかなければ、風寄に戻って履物作りの仕事を引き継ぐ。また為蔵かタネのどちらかが、病に倒れるなどして動けなくなったら風寄に戻る。さらには、出世したら為蔵とタネの世話をする、この三つが条件だ。
孝平は口をぱくぱくさせたが何も言えない。笑いをこらえている亀吉や新吉をじろりと見たが、二人とも平気な顔だ。
新吉は孝平には構わず甚右衛門に訊ねた。その目には期待のいろが浮かんでいる。
「旦那さん、ほれは、あの風寄の兄やんかなもし?」
ほうよほうよと甚右衛門は上機嫌で言った。
「あの男は読み書き算盤が申し分ないそうな。商いの仕事がでけるようなら、すぐに手代にするつもりよ。ほれで、あの男に手代が務まると判断でけたら、茂七を東京へ送る。ほれで向こうの引き継ぎが終わり次第、辰蔵を番頭に戻す。これが今の方針ぞな」
「やっぱし、ほうなんか。ほれで千鶴さん、学校をやめんさったんじゃね」
新吉が楽しげに千鶴を見た。もう訊いても構わないと思ったのだろう。新吉の隣で亀吉もにこにこしながら千鶴を見ている。
学校をやめた本当の理由はそうではないが、忠之が来るなら学校はやめたいと思っていた。だから、新吉が言うことは間違いとは言えない。学校での騒ぎがなかったとしても、やはり学校はやめていただろう。
千鶴はうなずきはしなかったが、黙ったまま微笑んだ。新吉は図星だと思ったらしく、亀吉と顔を見交わしながら、よかったなぁ――と改めて二人で千鶴を祝福した。
「何ぞ何ぞ? 風寄の兄やんいうんは誰のことぞ?」
事情を知らない孝平がいらだたしげに口を開くと、新吉が即座に答えた。
「あのな、千鶴さんが好いておいでる兄やんぞな」
千鶴は慌て、亀吉が新吉の頭を叩いたが、もう遅い。何やと?――と孝平は身を乗り出すと、亀吉の向かいに座る千鶴をじろりとにらんだ。
これ!――とトミに叱られて、孝平は渋々体を元に戻したが、自分がいない間に、山﨑機織に動きがあったと感づいたらしい。腹立たしげに里芋を口に放り込んだ。
一度は流れた忠之の雇い話が復活したことを、茂七も千鶴を祝福しながら大いに喜んだ。その喜びには自分の東京行きも含まれているのだろう。
東京を一人に任されるというのは、とても名誉なことだ。辰蔵が番頭に抜擢されたみたいに、茂七は将来の出世が約束されたようなものだ。
東京行きが楽しみだと、茂七が隣に座る辰蔵に話すと、辰蔵の方も茂七の肩を叩き、頼りにしとるぞと言った。
楽しげな茂七と丁稚たちの間で、弥七だけは何だか不満げだ。
忠之が大八車を残していった時には弥七も喜んだ。弥七も忠之に対して恩義を感じたはずだ。けれども忠之が飛び入りで手代になるのは、弥七には面白くないらしい。自分は丁稚から下積みを重ねてやっと手代になれたのにと、思っているのかもしれない。
弥七の様子を見て、千鶴は少し心配になった。
「外から人を雇うやなんて、わしは一言も聞かされとらんがな」
誰に聞かせるでなく、孝平が独り言のように愚痴をこぼした。しかし、すぐ隣は甚右衛門だ。お前に聞かせる必要はない話だと、甚右衛門はぴしゃりと言った。
「ほんでも、もうじき仲間入りするんじゃけん、簡単に話しとこわい。その男は佐伯忠之いうてな、千鶴が風寄で大変世話になった男よ。ほれに、風寄の仲買人の兵頭の牛がいかんなった時には、この男が一人で大八車を引いて、風寄の絣を運んで来てくれた。あの男がおらなんだら、今頃この店はどがぁなっとったかわからん」
甚右衛門は自分が一度雇い話を反故にしたことには触れず、初めから忠之を雇うつもりだったという顔で喋った。
「風寄から一人で大八車を? そがぁなことできるわけなかろ」
店の主の話なのに、孝平は小馬鹿にして笑った。だがみんながしらっとしているので、ほんまなんかと茂七に訊ねた。
茂七が黙ったままうなずくと、孝平は目を丸くしてうろたえた。
「そもそも、なして千鶴が風寄へ行くんぞ」
負け惜しみのごとくつぶやく孝平に、勉強のために行かせたと甚右衛門は言った。それで孝平は何も言えなくなった。
「あの男なら、あたしも太鼓判を押しましょうわい」
辰蔵が力強く言った。
自分が東京へ行っている間に、忠之と山﨑機織の間で何があったのかを辰蔵は知っていた。甚右衛門から恩を仇で返されても、それを恨もうとしない忠之を辰蔵は大きく買っていた。
「大八車も置いて行ってくれたもんな」
亀吉と新吉が嬉しそうにうなずき合った。
店の大八車が壊れた時に、二人は甚右衛門から怒鳴られて泣き合った仲だ。代わりの大八車を置いて帰った忠之のことは、亀吉も新吉も大いに慕っている。
ちなみに忠之が残した大八車は、元の大八車の修理が終わったあとに、牛車で絣を運んで来た兵頭に戻された。
忠之が使った大八車は壊れたことになっていたので、甚右衛門は大八車を修理しておいたと兵頭に言った。
兵頭は修理代を気にしたが、甚右衛門が修理代などいらないと言うと、大喜びで牛車の後ろに大八車を結びつけて戻って行った。兵頭が甚右衛門に、忠之の陰口を聞かせた日のことだ。
年末前に、忠之がもう一度牛の代わりに、風寄の絣を運んで来たのはこの大八車だ。
この時、忠之は何事もなかったように荷物を届けた。そして、千鶴と幸子に風寄まで来てもらったことへの感謝をし、家族が松山で働くことを許してくれたという報告を、甚右衛門に伝えた。
甚右衛門は忠之に両手を突いて己の愚行を詫び、両者の関係は修復された。こうして忠之が山﨑機織で働くことが正式に決まったのである。
「千鶴さん。こんで毎日、あの兄やんと一緒におれるね」
調子に乗って千鶴を冷やかす新吉の頭に、亀吉の手が飛んだ。頭を押さえて怒る新吉と、怒り返す亀吉に千鶴は言った。
「ほらほら、お正月早々怒ったらいけんよ。ほれより二人とも、佐伯さんがおいでたら、いろいろ教えてあげてな」
新吉と亀吉は争うのを止めると声を揃えて、はいと言った。
孝平はまだ納得がいかないらしく、その男はどんな恩人なのかと、身を乗り出して千鶴に質した。
いろいろぞな――と千鶴が言葉を濁すと、はっきり言えと孝平は千鶴に迫った。すると、新吉が言った。
「あのな、千鶴さんが風寄で大けな男四人に絡まれたんよ。ほん時にな、あの兄やんはたった一人で、その男らをやっつけてしもたんやて」
孝平は目を丸くして、ほんまか?――と千鶴に確かめた。
千鶴が小さくうなずくと、孝平は目を泳がせながら黙って箸を動かし始めた。その情けない姿に、花江が声を出さずに笑った。
「旦那さん、あの兄やんはいつおいでるんぞなもし?」
新吉は孝平に構わず、甚右衛門に訊ねた。甚右衛門は藪入りが終わってからだと言った。
藪入りとは盆と正月の年に二回、商家に住み込みの使用人が実家へ戻れる休みだ。旧暦では一月と七月の十六日だったが、明治に新暦になってからは、一月と八月の十六日を藪入りとしている。
正月の今来てもすぐに藪入りになるので、忠之が来るのは藪入り後になったのだ。
藪入りは使用人たちには待ち遠しいものだ。だが今回は千鶴にも待ち遠しい藪入りだった。
三
正月祝いが終わると辰蔵は東京へ戻り、孝平は松山へ残った。
作五郎は大阪へ戻る前に山﨑機織へ立ち寄り、しっかりなと孝平に声をかけた。何をしっかりなのかはわからないが、孝平は花江のことだと受け取ったらしい。満面の笑みを浮かべてちらりと花江を見ると、わかりましたぞなもし――と上機嫌で答えた。
もちろん花江は嫁になる約束などしていないと、言い寄る孝平を突き放していた。それでも嫌い嫌いも好きのうちだと、孝平は意に介していなかった。
いずれ山﨑機織の主になれば、花江が拒むはずがないと信じているのだろう。でも現実には丁稚として扱われ、呼び名も孝吉となった。孝平はそれが大いに不満だった。
途中から加わる者が手代になれるのだから、年齢的にも自分が丁稚なのは絶対におかしいと、孝平は周囲に愚痴った。しかし、孝平を相手にする者は誰もいなかった。
向きになった孝平は、手代の二人に威張って指図をした。それで、甚右衛門やトミから何度も叱りを受け、周りからさらに白い目を向けられた。
こんな状態が続くのかと、千鶴は先が思いやられたが、甚右衛門もトミも頭を悩ませているに違いなかった。
藪入りの前日、風寄の兵頭が牛車で絣を運んで来た。
甚右衛門が新吉と孝平に品物を蔵へ仕舞わせている間、千鶴は兵頭にお茶を運ぼうとした。そこへ木箱を抱えて蔵へ向かう孝平が、邪魔じゃいと怒鳴りながらわざとぶつかった。その拍子に盆に載せた湯飲みがひっくり返り、お茶が盆を持つ千鶴の手を濡らした。
千鶴は思わず盆を落としそうになったが、危ういところで何とか持ちこたえた。そのまま盆を台所の板の間へ置くと、台所にいた花江がすぐに水で千鶴の手を冷やしてくれた。
孝平に続いて箱を運んでいた新吉は、箱を抱えたまま千鶴の傍へ来ると、手ぇ大丈夫?――と心配そうに声をかけた。大丈夫やけんと千鶴は微笑み、新吉を蔵へ行かせたが、そこへ孝平が蔵から戻って来た。
花江は孝平を捕まえると、ひどいことをするなと文句を言った。だが、孝平は作業の邪魔をした千鶴が悪いと言って、取り合おうとしなかった。すると、茶の間で繕い物をしていたトミが、大概にしや!――と孝平を叱った。
「この際やけん、はっきり言うとこわい。うちらは千鶴にこの店を継がせるつもりぞな。千鶴はお前の主になるんぞ。その主に失礼な態度取るんなら、お前をここへ置くわけにはいかん」
驚いた千鶴は、孝平をにらみつける祖母を見た。花江も目を丸くしている。
孝平は茫然と立ち尽くしていた。後ろを通る新吉にぶつかられても反応しない。
トミが再び繕い物を始めると、孝平はうろたえながら言った。
「じゃったら、わしは何のために大阪へ行ったんぞな?」
「ほれは、こっちが訊きたいことじゃろがね」
トミは孝平に顔を向けないまま言った。
孝平はちらりと花江を見た。けれども、花江が味方をするはずもない。
千鶴と目が合った孝平は慌てて顔を背けると、わかったわい――と鼻息荒く言った。
「わしのことをそがぁ見よんなら、こっちかて考えがあらい」
孝平に顔を向けたトミは、どんな考えかと訊ねた。孝平は答えることができなかった。
トミは鼻をふんと鳴らすと、また繕い物を始めた。
「なぁんも考えとらんくせに。ここを出て行くんなら、誰も引き留めんけん勝手にしたらええ。なして作五郎さんがお前を置いて行きんさったんか、考えもせんかったんか、この抜け作!」
孝平はわなわなと体を震わせると、荒々しく店の方へ出て行こうとした。しかし甚右衛門が怖いのか、途中でくるりと向きを変えると奥庭へ出て行った。
そのまま家を出るかに見えたが、裏木戸が開く音が聞こえない。恐らく出て行くふりをして、トミの様子を窺っているのだろう。
千鶴は淹れ直したお茶を帳場へ運んだ。帳場に積まれた箱の傍には、腰を下ろした兵頭が煙管を吹かせながら、弥七が箱の中身を確かめるのを眺めている。茂七と亀吉は太物屋へ注文の品を届けに行ったので、ここにはいない。
「すんません。遅なってしまいました」
千鶴がお詫びしながらお茶を配ると、兵頭はにやにやしながら言った。
「何ぞ、奥で揉めとったみたいやな」
千鶴は笑みを浮かべてみせたが返事はしなかった。代わりに、相変わらず性格の悪い男だと、心の中で兵頭を罵った。
「牛、また新しいの買いんさったん?」
千鶴が訊ねると、兵頭は口をへの字に曲げながら首を振った。
「借ったんよ。家はめげるし、牛買う銭もないけんな。しばらくは借った牛で仕事するしかないわいな。ほんでも、暖こなって種蒔きやら始まったら貸してもらえんし、おらん所も野良仕事で牛を使うけんな、ほれまでには何とかせにゃなるまい」
兵頭は煙管を吸うと、ため息交じりに煙を吐いた。
牛を借りたといっても、ただではあるまい。その金も惜しい兵頭は、本当ならば新しい牛が買えるまで、忠之にただ働きをしてもらいたいはずだ。だけど忠之は藪入りのあと、松山へ来ることが決まっている。それに対する愚痴も含んでの言葉なのだ。
千鶴が弥七にもお茶を配ると、弥七は手を止めて千鶴を見た。いつもなら顔も上げずにいるのに、この日は珍しく顔を上げ、だんだん――と言った。
千鶴は少し面食らったが、何だか嬉しくなったので弥七に微笑んだ。弥七は慌てたように下を向くと、また確認作業を続けた。
そこへ新吉が木箱を取りに来た。
「新吉さんにも、ほれが終わったらお茶を淹れたげよわいね」
千鶴が声をかけると、新吉は元気よく、うんと言い、また木箱を抱えて行った。
「あんたは優しいのぉ」
見ていた兵頭がお茶をすすりながら言った。兵頭に褒められても嬉しくないが、千鶴は愛想の笑みを見せた。
「めげた家はどがぁなったんぞ?」
甚右衛門が兵頭に訊ねた。兵頭は不機嫌そうに言った。
「何とか直してもろたけんどよ、なしておらん所ぎり、あげな目に遭わにゃいけんかったんじゃろな」
「一生懸命働いておいでるのにねぇ」
千鶴が笑顔で皮肉を言うと、まったくよ――と兵頭は言った。
「今年になって、ようやく他からの注文も入って来たけん、ほっとはしたけんど、このまんま牛が使えんかったら、どがぁしたもんかと悩みよらい」
兵頭は目を細めて煙管を吸うと、煙草盆に灰を落とした。
「あれから他に変わったことはないんかな?」
甚右衛門がまた訊ねた。兵頭というより鬼の様子を確かめたいらしい。
「腹が立つぐらい、なぁんもないわい。どうせなら、他の家の二、三軒もめげてくれたらよかったのによ」
何てことを言うのだろうと、千鶴は心の中で憤った。しかし、兵頭は少しも悪びれていない。その後も自分がどれだけ大変かを喋り続けたが、さすがに忠之を貶めることは言わなかった。
「ほしたら、ぼちぼち去んでこうわい」
兵頭は湯飲みに残っていたお茶を一気に飲み干すと、よっこらしょと疲れたように立ち上がった。
この日は冷え込み、雪でも降りそうな気配だ。やれやれと言いながら表に出た兵頭は、ぶるっと身震いをすると、空の牛車を牛に引かせて帰って行った。
千鶴が奥へ戻ろうと暖簾を持ち上げると、甚右衛門が煙管を吹かせながら呼び止めた。
「さっき、孝平は何を騒ぎよったんぞ? 新吉ぎり荷物を運びよったみたいやが」
「ほれが――」
千鶴が説明しようとしたら、菓子折を手に提げた男が、いきなり外から飛び込んで来た。
四
「お邪魔しまっせ! ここ、山﨑機織さんでんな?」
喋り方や落ち着きのなさから見て、松山の人間ではない。言葉の訛りは大阪のものだろうか。
甚右衛門が訝しがっているのも構わず、男は馴れ馴れしく声をかけた。
「あんたはんが、ここの御主人?」
お前は誰ぞと甚右衛門がじろりとにらむと、これは失礼しました――と男は慌てて姿勢を正した。
「えっと、わてはですね。わては、こういう……あれ?」
男は菓子折を何度も持ち替えながら、外套の下に着ているよれよれの洋服のポケットを、あちこちひっくり返し始めた。
しばらくして、やっと折れ曲がった名刺を見つけると、男はそれを丁寧に真っ直ぐ伸ばした。それから、わてはこういう者ですわ――と言って甚右衛門に手渡した。
男の赤黒く痩せこけた笑顔は、抜け目がなさそうに見える。男の目がぎょろりと自分の方に向くと、千鶴はぎくりとなった。
「大阪錦絵新報 記者畑山孝次郎? 何ぞな、これは?」
名刺に目を通した甚右衛門は畑山を見上げた。その畑山は甚右衛門ではなく、奥の入り口に立つ千鶴を嬉しげに見ている。
「もしかして、あんたはん、千鶴さんでっしゃろ? うわぁ、ほんまに噂どおりの外人さんやな!」
千鶴が何も言わないのに、畑山は勝手に一人で盛り上がった。
「失礼なことを言うな、千鶴は日本人ぞ!」
甚右衛門は握り潰した名刺を、畑山の顔にぶつけた。
畑山は顔を押さえると、ひどいことやらはるなぁ――と言いながら、落ちた名刺を拾い上げた。そのあと、もう一度名刺の皺を何とか真っ直ぐに伸ばすと、大事そうにポケットに仕舞った。
甚右衛門は千鶴に奥へ行くよう命じたが、畑山は慌てて千鶴を呼び止めた。
「ちょっと待ってぇな。わては千鶴さんの話が聞きとうて、ここへお邪魔したんですよって」
蔵から戻った新吉が物珍しげに畑山を見た。にっこり笑った畑山の口から茶色い歯がこぼれた。
「なして千鶴なんぞ? お前はいったい何者ぞ?」
眉間に皺を寄せている甚右衛門に、畑山は不服そうに言った。
「さっき、名刺をお見せしたでしょ?」
「あげな物でわかるかい」
「わてはな、大阪錦絵新報の記事を書いとるんですわ」
「ほれは何ぞ?」
畑山はやれやれといった感じで、今度は懐から名刺よりも大きな紙を取り出した。
「これですわ」
畑山は四つ折りにされた紙を、甚右衛門に手渡そうとした。ところが甚右衛門が手を伸ばすと、さっとその手を引っ込めた。
「言うときまっけど、さっきみたいにぐしゃぐしゃにしたり、破いたりしたらあきまへんで。これは大事な商売道具ですよって」
甚右衛門は返事もせずに畑山をにらんでいたが、畑山は紙を手渡した。
甚右衛門が紙を広げると、そこにはきれいな色彩の錦絵が描かれていた。だが、それは人が刃物で殺められたところを描いたもので、きれいな赤い色は殺められた者から流れ出る血の色だった。
絵の上方に事件の内容を説明した文章が細々と書かれてある。
畑山はこれが錦絵新聞だと言った。
「何ぞ、この絵は。大阪の人間はこげな趣味の悪い物を好むんか」
「旦さん、錦絵新聞ご存知おまへんか。明治の最初頃に、あちこちで流行ったんでっけど……。あ、そうか、こんな田舎には錦絵新聞はなかったんか。なるほど。そういうことでっか」
甚右衛門が何も答えていないのに、畑山はまた一人で納得しながら喋り続けた。
「お前はこれを破いてほしいと見えるな」
甚右衛門が錦絵新聞を破る真似をすると、畑山は慌てて新聞を奪い取った。
「いかんて言うとるでしょ? ほんまに冗談やおまへんで」
「お前はわざわざ大阪から、わしらを馬鹿にしに来たんか?」
「せやから違いますってば。わては千鶴さんにお話を聞かせてもらいたいだけなんです」
「何の話ぞ?」
畑山はにやりと笑って言った。
「風寄でんがな」
五
甚右衛門はぎくりとした顔になり、千鶴も思わずうろたえた。二人の様子に畑山が気づかないはずがないのだが、畑山は素知らぬ顔で喋り続けた。
「わてな、世の中に変わったことないか、いつも耳澄ませて、目ぇ光らせてまんねん。そしたら去年の秋や。風寄のお祭りの時に、でっかいイノシシが頭潰されて死んどったいう話が、飛び込んで来たんですわ。それもぺちゃんこでっせ。あの硬いイノシシの頭がぺちゃんこになるやなんて、尋常なことやおまへんでっしゃろ?」
やはり、その話かと千鶴は下を向いた。弥七がいる所でそんな話はしてほしくない。
「しかも、その話は大阪の者は誰も知らんのやから、これは記事にするしかおまへんやん。せやから千鶴さんにお話聞かせてもらいたいて言うとりまんねん」
「なして千鶴なんぞ?」
「誰から話聞いたかは明かせまへんけど、千鶴さん、風寄のお祭り見に行って、そこでけったいな経験したんでっしゃろ? その話を聞かせてもらいたいんですわ」
「なして、お前にそがぁな話をする義理があるんぞ?」
甚右衛門が怒りをこらえているのが、千鶴にはわかった。けれども、畑山にはわからないらしい。
「別に義理はおまへんのでっけど、まぁ、聞いてくれまへんか。わてな、元は貸本屋やっとったんです。貸本屋はわかります? 本を売るんやのうて貸す店ですわ」
「わかっとらい、そげなこと」
甚右衛門が怒った口調で言っても、畑山は少しも堪えない。
いつの間にか、新吉が千鶴の傍で話を聞いている。甚右衛門は新吉に早く残っている木箱を運べと言った。
新吉が木箱を抱えていなくなると、畑山は話を続けた。
「話戻しまっけど、わて、大阪で貸本屋しよったんです。商売としてはまぁまぁ、いや、そこそこかな? いや、やっぱりまぁまぁか」
「どっちゃでも対じゃろが」
「ついとは何です?」
「同しいうことぞなもし」
千鶴の説明に、なるほどと畑山はうなずいた。
「田舎の言葉は面白いでんな。さよか、同じをついて言うんでっか。つい、忘れてしまいそうな……」
畑山はにやっとしながら甚右衛門と千鶴を見た。ところが、二人とも駄洒落に応じてくれないので、しょんぼりしながら、すんまへんと言った。
「それでその貸本屋でっけど、去年の秋頃にちょっとヘマをやらかしてしもて、店が傾いてしもたんですわ。まぁいうたら、ついこないだの話です。ついいうても、同じいう意味やおまへんで。そこでいろいろ考えて、昔からの知り合いとこの新聞を始めましたんや。全部仲間内の手作りでっけど、やってみたらこれがまぁ結構人気出ましてね」
甚右衛門は黙っている。畑山は構わず喋り続けた。
「元々錦絵新聞は普通の新聞と違て、絵ぇがあってわかりやすいし、字も読みやすうてえらい人気があったんです。せやけど新聞の方も絵ぇ載せたり、漢字にふりがなつけたりし始めたんで廃れてしもたんですわ」
甚右衛門は自分は忙しいと言って、話をやめさせようとした。畑山は甚右衛門をなだめ、もう少しだけと言って話を続けた。
「とにかくでんな、いったんは廃れた錦絵新聞を、わてらは復活させよ思て始めたんでっけど、やっぱり大事なんは載せる記事や。新聞記事の真似事しよったら、すぐに廃れるんは目に見えとりますよって、記事は自分で探さなあきまへん。せやから、わてがあちこち走りまわって記事になる話を拾て来るんですわ」
「ほれで、こげな遠くまで来たんかな」
「何ぞええ記事はないかいなて思てたら、さっきのイノシシの話を思い出したんです。あの話聞いた時はまだ貸本屋しよったから、錦絵新聞は始めてなかったんでっけど、これは絶対記事にせないかんなとなってね。ほんでここへ来たいうわけですわ。せやけど銭はないから、道後温泉に入る余裕もおまへん。汚いぼろ宿で辛抱しながら、汗かき恥かきあちこちで話を聞いて廻っとるんでおます」
「ご苦労なことやが、お前に聞かせる話はないぞな」
甚右衛門は千鶴に奥へ入るよう命じ、畑山にはさっさと帰れと言った。
「ちょ、ちょっと待ってぇな。千鶴さん、ちょっとでええから、話聞かせてくれまへんか。わて、風寄で何があったんか知りたいんです。ほらこれ、そこで買うた饅頭。千鶴さんのために買うて来たんでっせ」
畑山が笑みを浮かべながら菓子折を掲げると、甚右衛門は顔をしかめた。
「そげな物で喋らそうとは、えらい見下されようじゃな」
「何言うとりまんねん。わては見下したりしとりまへん。ただ、銭がないんです」
「銭よこされても喋るかい」
再び甚右衛門に促されて、千鶴が土間の暖簾を持ち上げると、ちょうど蔵から戻って来た新吉と対面する形になった。
「千鶴さん、この人誰なん?」
新吉が小声で訊ねると、大阪の新聞記者だと千鶴は言った。その声が聞こえたらしく、新吉を見た畑山は得意げに胸を張った。
それから畑山は千鶴に待つよう頼むと、機嫌を窺いながら甚右衛門に話しかけた。
「ほな、千鶴さんの前に、旦さんにお話伺うことにしますわ。こないだも風寄で大事件があったんでっしゃろ?」
「大事件て何ぞ?」
「また惚けてから。ここの仲買人しよる人の家が化け物に壊された事件ですやん。ご存知ないんでっか?」
「あれは突風で屋根が飛ばされたぎりぞな」
「ぎりて?」
甚右衛門がむっつりしているので、畑山は千鶴を見た。千鶴は甚右衛門を気にしながら説明した。
「だけっていう意味ぞなもし」
「だけ? だけがぎり? やっぱり面白いわぁ」
畑山は感心しながらうなずいた。
「ぎりいうたらね、義理深いわては時間も銭もぎりぎりなんです。ぎりぎり歯ぎしりしとうなるほど焦っとるんですわ。せやから千鶴さんぎりでも協力したってや」
畑山はどこまで真面目に喋っているのかわからない。千鶴は畑山の駄洒落を聞き流したが、新吉はぷっと噴き出した。
「千鶴がお前に喋ることなんぞ何もない」
新吉の様子に笑みをこぼした畑山に、甚右衛門は冷たく言った。
畑山は慌てて笑みを消すと話に戻った。
「今言うた事件の化け物が鬼やいう話もあるみたいでっけど、旦さん、風寄の村長はんに鬼よけの祠を造る銭を寄付したそうでんな。あれはやっぱり鬼を恐れてのことでっか?」
そんな話は千鶴は初耳だった。名波村の村長といえば、春子の父親だ。知らないところで、祖父は春子の実家へ連絡を取っていたのだろうか。
甚右衛門はうろたえながら、つかましいと怒鳴った。
「つかましい?」
「うるさいってことぞなもし」
千鶴が説明すると、早く向こうへ戻れと甚右衛門は叱りつけ、新吉にもしゃんしゃん運べと声を荒らげた。
新吉は急いで木箱を抱えると、蔵の方へ走って行った。続いて中へ入ろうとする千鶴を、畑山は焦った様子で呼び止めた。
「一つだけ教えてもらえまへんか? えっと、一つだけいうたら、一つぎりかいな」
ほうぞなもしと千鶴が言うと、ええでんなぁと畑山は茶色い歯を見せて笑った。
「千鶴さんの言葉、ほんま柔らこうてええわ。まぁ、それはともかく一つぎり聞きまっけど、千鶴さん、お祓いの婆さんに鬼が憑いとるて言われたんは、ほんまでっか?」
千鶴の顔から血の気が引くと、甚右衛門は真っ赤な憤怒の形相になって立ち上がった。
畑山は咄嗟に甚右衛門に菓子折を差し出したが、甚右衛門はその菓子折を叩き落として土間へ飛び降りた。
殴られると思ったのだろう。畑山は両手を上げて身構えた。ところが、甚右衛門は畑山に背を向けて、店の奥へ入って行った。
弥七は見開いた目で畑山と千鶴を見ていた。知らない話と主の怒りように、何があったのかと驚き当惑している。
聞かせたくない話を弥七に聞かれた千鶴も、困惑を隠せなかった。だけど、無神経な畑山に対して腹を立てると鬼が暴れると思い、千鶴は気持ちを落ち着けようとした。
その畑山は安堵の笑みを浮かべると、もったいないなぁと言いながら、潰れた菓子折を拾い上げた。
そっと菓子折の蓋を開けた畑山は、中から形が崩れた饅頭を一つ取り出して口に入れた。
「うん、大丈夫や。まだいけるで。ほら、千鶴さんも食べてみ」
畑山は饅頭をもう一つ菓子折から取り出して、千鶴に渡そうとした。ちょうどそこへ戻って来た新吉は目を見開き、口を開けながら畑山の饅頭を羨ましそうに眺めた。その時、店の奥から尋常ならぬトミの叫び声が聞こえた。
六
「そげなことしたらいけん!」
驚いた千鶴が暖簾をのけて奥をのぞくと、猟銃を手にした甚右衛門が、部屋から土間へ飛び降りたのが見えた。その後ろで、トミが慌てて甚右衛門を止めようとしたが、甚右衛門は裸足のままこちらへ向かって来た。
仰天した千鶴は、いけんよ!――と叫び、甚右衛門の前に両手を広げて立ちはだかった。同じく驚いた新吉は一目散に店の表へ逃げ出した。
「いけんよ、おじいちゃん。そげな物持て来たらいけん!」
畑山は目を剥くと、千鶴の背中に隠れた。余程の煙草好きみたいで、後ろから煙草の臭いが千鶴の鼻を突いた。
甚右衛門は千鶴を押しけようとするが、ここで押しのけられたら山﨑機織はおしまいである。
千鶴は横目で弥七を見たが、弥七は固まったまま動かない。代わりに、トミが出て来て千鶴に加勢した。その後ろには花江がおろおろしながら立っている。
前後から押さえられて身動きが取れない甚右衛門を、千鶴は必死に説得した。その一方で、畑山には早く逃げるよう促した。なのに畑山は逃げないで、千鶴の肩越しに甚右衛門を刺激した。
「ちょっと鬼の話を聞きに来ただけやなのに、旦さん、何でそこまで怒らはるんでっか?」
やかんしい!――甚右衛門がまた興奮して暴れるが、千鶴とトミに押さえられて動けない。
トミは藻掻く甚右衛門を捕まえながら、何の話かと訊ねた。甚右衛門は畑山をにらみながら怒鳴るように言った。
「こいつは新聞記者で、千鶴が鬼と関係ある記事を書くつもりなんぞ!」
「新聞やのうて、錦絵新聞ですわ」
黙っていればいいのに、畑山は甚右衛門の言葉を訂正した。
「ほうかな。ほんなら、あんたの好きにしたらええぞな」
トミが甚右衛門を捕まえていた手を離した。
花江は口を開けたまま目を大きく見開いた。甚右衛門も驚いた顔でトミを見た。そしてすぐに、ここぞとばかりに千鶴を押しのけようとした。
驚き慌てた畑山は、千鶴の動きに合わせて千鶴の背中に身を隠そうとしている。
「ち、ちぃと、おばあちゃん! 見よらんで助けて!」
千鶴の声が聞こえても、トミは惚けた様子で立ったままだ。
花江さんと叫ぶと、花江は慌てて甚右衛門を押さえようとした。しかし相手はここの主だし、歳は取っても男である。遠慮がちな花江では役に立たなかった。
焦った千鶴は弥七に助けを求めた。
弥七は呪縛が解けたみたいに動きだすと、千鶴の傍へ来た。だけど、どうすればいいのかがわからないらしい。おろおろしながら立つばかりだ。
甚右衛門が畑山を殴りつけろと弥七に命じると、トミは噛みついてやれと弥七に言った。千鶴は畑山を外へ逃がすよう弥七に頼んだが、弥七は誰の指示を聞くべきか迷っていた。しかし甚右衛門に怒鳴られると、弥七は畑山の腕をつかんだ。
「お願い、弥七さん。その人を逃がしてあげて!」
千鶴が懇願すると、弥七はわかったとうなずいた。
「こがぁな感じじゃけん、今日のとこはお引き取りを」
弥七はぼそぼそと畑山に声をかけると、畑山を外へ連れ出そうとした。
「その方がよろしいみたいでんな」
畑山も素直に従い、弥七と一緒に外へ出て行った。甚右衛門は興奮しながらもようやく奥へ戻ろうとした。トミもふんと鼻から息を吐くと背中を向けた。
千鶴と花江がほっとしていると、畑山がすぐに戻って来て千鶴に声をかけた。
「千鶴さん、また来ますよって。饅頭、ここ置いときますさかい」
畑山は潰れた饅頭の箱を帳場に置くと、千鶴に笑顔を見せた。
二度と来んな!――と叫ぶ甚右衛門を再び押さえながら、千鶴は弥七を呼んだ。後ろで弥七が畑山を追い払う声が聞こえ、甚右衛門は今度こそおとなしくなった。
新吉が恐る恐る店の中に入って来ると、トミは表に塩を撒いておくようにと命じて、奥へ戻って行った。
甚右衛門も奥へ引っ込むと、花江もそのあとに続いた。
千鶴は弥七の手を取って感謝した。
「弥七さん、だんだんありがとう。弥七さんがおらなんだら、この店はおしまいじゃった。助かったんは弥七さんのお陰ぞな」
弥七は千鶴に手を握られたまま目を伏せて、ええんよ――と言った。うろたえてはいるが、千鶴を拒みはしない。同じ姿勢のままじっとしている。
千鶴はそんな弥七を見たのは初めてだった。少しまごついた千鶴は、手を離したあともその場を動けなかった。
弥七の方も動かないので、二人は向かい合ったまま立っていた。
ちらりと千鶴を見た弥七が恥ずかしそうに笑ったので、千鶴も思わず微笑んだ。まったくこんな弥七は初めてで、これまでの弥七は何だったのだろうと思われるほどだ。
新吉が塩の皿を持って戻って来た。気恥ずかしくなった千鶴は、少しうろたえて言った。
「ほんじゃあ、うち、お昼の準備があるけん」
あぁと弥七は小さくうなずいたが、何だか残念そうに見えた。
「うわぁ、雪や! 雪が降りよる!」
表に出た新吉が大きな声で叫んだ。表に目を遣ると、雪がちらついていた。近くの店の者たちも表に出て来て、初雪じゃと楽しげに空を見上げている。
新吉は塩を撒くのも忘れて、落ちてくる雪を追いかけた。その無邪気な姿は、とんだ騒動で気疲れした千鶴の心を、ちょっぴり癒やしてくれた。
千鶴が奥へ戻ると、トミが茶の間で何もせずに黙ったまま座っていた。甚右衛門もトミの横でこちらに背を向けたまま肩を上下させている。その脇には猟銃が転がったままだ。
花江は二人にお茶を淹れているところだったが、何があったのかを誰にも訊けず当惑しているようだ。
何とか畑山を逃がしたものの、畑山が何をしに来たのかを考えると、千鶴は暗い気持ちになった。せっかく新吉に癒やしてもらった気分もしぼんでしまった。
ふと勝手口へ目を向けると、孝平が顔を出して中をのぞいていた。
トミに対して啖呵を切って家を出るふりをしたものの、行く当てなどないのだろう。けれど中へ入ることもできず、誰かが声をかけてくれるのを待っていた。
恐らく孝平にも店の騒ぎは伝わったはずだ。何があったか今わからなくても、いずれは知れる。千鶴はますます暗い気分になった。