広がる噂
一
正月になると、茶の間と隣の板の間を仕切る襖は取り払われ、広くなった座敷に山﨑機織の者全員が集まった。
いつもは使用人たちの食事は、家人とは別である。だが祝い事の時には一緒の食事が許されていた。
茶の間に座る甚右衛門を基点として、家人と使用人が向かい合う形で板の間の方へ向かって並ぶ。
甚右衛門のすぐ傍の家人側には、大阪の作五郎の下で修行をしていた孝平が座り、使用人側には東京廻りから戻った辰蔵が座っている。
孝平の隣にはトミが座り、さらにその隣に幸子、千鶴と続く。一方で、辰蔵の隣には手代、丁稚が順に並んでいる。
花江は使用人だが、千鶴の隣に座らされた。それは家人側と使用人側の人数を合わせるためでもあるが、花江が特別な使用人ということでもあった。
それぞれの箱膳には白飯と雑煮、黒豆や数の子、昆布に大根やごぼう、里芋などの煮物、赤蕪の酢の物などが所狭しと並べられている。
箱膳の脇には、箱膳に載せきれない焼き魚の皿が置かれ、亀吉と新吉はもちろん、無口な弥七さえもが笑みを見せていた。
一同に新年の挨拶をした甚右衛門は、昨今の絣業界の情勢について喋り、こうして正月を迎えられたのはみんなのお陰だと述べた。
それから甚右衛門は、千鶴が学校をやめて家や店の仕事を手伝うことになったと、さらりと言った。
千鶴は花江にだけは学校をやめたことを話していた。詳しい説明はしなかったが、ひどい差別を受けたからとだけ言った。千鶴が深く傷ついていたことはわかっているので、花江もそれ以上のことは聞かなかった。
また、千鶴のことは辰蔵にも甚右衛門が伝えていた。しかし、それ以外の使用人には何も話していなかったので、千鶴が学校をやめたという話には、少なからぬざわめきがあった。ただ、それは驚きというより、やはりそうかという感じのものだった。
みんな、十二月に入ってから千鶴が学校へ行かずに家にいたことは知っている。また茂七と亀吉は千鶴が学校へ行った最後の日に、悲壮な顔で昼前に戻って来たところを目撃している。それでも事情を聞かされないので、何があったのかはわかっていなかった。
それはちょうど甚右衛門が忠之の雇用をやめた騒ぎと重なった頃なので、それが絡んだことに違いないと、茂七たちは考えていたようだ。ただ千鶴を気遣ってだろうが、そのことで千鶴に声をかけたりはしなかった。
千鶴が花江から聞かされた話によれば、その後の千鶴が何故か機嫌よくなったので、茂七たちは訝しく思っていたそうだ。そこへ年末近くになってから、忠之がまた大八車で風寄の絣を運んで来たので、そういうことかと茂七たちは勝手に納得したらしい。
何を納得したのかと言うと、忠之を雇う話が復活し、それに合わせて千鶴も家の仕事に入ったのだろうというものだ。それは、いずれは忠之が千鶴の婿になるという意味でもある。
茂七たちはそんな感じだったので、千鶴が学校をやめたと聞かされても、驚かなかったのは当然だった。
しかしながら、大阪にいた孝平だけは事情を知らない。思いがけず千鶴が学校をやめて、家にいるということが面白くないようだ。
「なして学校をやめたんぞ?」
孝平が身を乗り出して不満げに千鶴に言った。しかし、千鶴は返事をしなかった。また、それについて説明をする者は誰もいない。甚右衛門も何も言わず黙って盃を手にした。
それを見てみんなも盃を持ったので、孝平も仕方なさげに盃を手に取った。
甚右衛門が改めて新年を祝う言葉を口にして、みんなのお屠蘇が酌み交わされた。お屠蘇が終わると、いよいよお待ちかねのご馳走である。
甚右衛門が雑煮に手をつけると、みんなは一斉に料理を食べ始めた。
新吉はいきなり大きな口で餅にかぶりつき、喉を詰めそうになって亀吉に背中を叩かれた。
他の者たちも笑いながら、箸の動きはいつもより速い。滅多に食べることができないご馳走を、次々に口へ運んで行く。
ひとしきり食べたあと、甚右衛門は辰蔵に東京の様子を報告させた。
辰蔵は東京の復興が驚くべき速さで進んでいると話し、絣の需要は今後も増える見込みだと説明した。
ただ、今回の大地震で潰れた店も数多く、山﨑機織の取引先も以前と比べると半減したと言う。その中には花江の実家の太物問屋も入っており、花江はしんみりした様子で話を聞いていた。
辰蔵は花江に声をかけると、花江の家族の墓参りもして来たと伝えた。花江は笑顔で辰蔵に感謝したが、すぐに涙ぐんでしまい、めでたい日を湿っぽくしてしまったと、みんなに詫びた。
辰蔵が花江の気を引くようなことをしたと見たのだろう。孝平は辰蔵をにらんだが、辰蔵はまったく相手にしなかった。
甚右衛門は花江を気遣いながら辰蔵をねぎらった。それから、減った取引先を早急に増やさねばならないと言った。
辰蔵はうなずきはしたが、事情は他の同業者も同じなので、事は簡単ではないと語った。
祝いの席に着く前に、甚右衛門は辰蔵から東京の事情は聞いていたはずである。それを改めて辰蔵に喋らせたのは、山﨑機織全員に話を聞かせて、士気を高めるつもりなのだろうと千鶴は思った。
これから東京の仕事を強化していくつもりだと甚右衛門は語ったが、そのためにも松山の人員も増やす必要がある。亀吉や新吉にも早く手代になってもらいたいと、甚右衛門は二人を鼓舞した。
手代になると言うのは、一人前だと認めてもらうことである。
丁稚で働いていても、仕事が向かないと判断されれば家に帰されることもある。実際、これまでにも帰された者は何人もいた。
亀吉も新吉も主の期待を聞いて、自分たちの出世が保証されたと受け止めたらしい。二人で喜び合い、がんばろうと誓い合った。
さて――と甚右衛門は孝平に顔を向けると、大阪の話をするように言った。しかし、ちらちらと花江を見ていた孝平は、甚右衛門の声が聞こえていない。
トミに叱られた孝平は、慌てて甚右衛門を見た。使用人たちは何も言わないが、孝平を見る目には侮蔑のいろが浮かんでいる。
甚右衛門は苦虫を噛み潰した顔で、大阪の様子を話すようにと繰り返し言った。
孝平は姿勢を正すと、作五郎から褒めてもらったと胸を張った。だが、そんなことは訊いていないと甚右衛門に言われると、うろたえてトミを見た。
トミはため息を一つつくと、大阪の商いの話だと言った。
ほうかとうなずいた孝平は、大阪は町も大きく商いも盛んで、松山とは店の規模も違うし、とにかく店がいくらでもあると話した。
花江が話を聞いていると思ったのだろう。調子に乗った孝平は、通天閣という立派な塔や、松山城よりも大きな大阪城が、大阪にはあると自慢げに言った。
甚右衛門は咳払いをすると、伊予絣の評判を訊ねた。すると途端に孝平は口籠もり、そこそこ売れていると答えた。
甚右衛門は顔をしかめ、もうええと言った。それから作五郎から聞いた話として、東京から大阪へ移り住む者が増えたため、大阪の人口が増えて来ているらしいと言った。
それは普段着としての伊予絣の需要が伸びるという意味だ。甚右衛門はそのことを孝平の口から聞きたかったようだった。
独り者の作五郎は、年末年始を道後温泉で過ごすために松山を訪れていた。そのための旅費は作五郎への手当の一部であり、作五郎を雇う時に甚右衛門が提示した条件だった。孝平はその作五郎に連れられて、松山へ戻って来たのである。
作五郎は山﨑機織の仕事を手伝ってくれてはいるが、山﨑機織の使用人ではない。手間賃をもらっていても、辰蔵たちとは立場が違うため、甚右衛門たちと一緒に正月を過ごすわけではない。
だが道後温泉へ向かう前に、作五郎は山﨑機織に立ち寄り、甚右衛門といろいろ話をしていた。大阪の状況はもちろんだが、孝平の仕事ぶりについても、甚右衛門は報告を受けていた。
「ほういうわけで、今後は東京に加えて、大阪からの注文も増えて来るけん、かなり忙しなろ。さっきも言うたとおり、亀吉と新吉には早よ手代になれるよう、がんばってもらいたい。ほれと、東京には近々茂七を遣るつもりなけんど、そがぁなるとここの手が足らんなる。ほじゃけん、急いで人を増やさにゃならん」
大阪から戻った孝平は、松山に残ることが決まっていた。それで甚右衛門が自分のことを言っていると思ったらしい。孝平は亀吉たちに自分を指差しながら胸を張ってみせた。
ところが、孝平が松山に残ることになったのは、作五郎がさじを投げたからだった。
作五郎は孝平が役に立たないと甚右衛門に告げていた。
二ヶ月ほどの間、途中で孝平を放り出さなかったのは、甚右衛門に申し訳ないと思ったからで、正月以降は仕事の邪魔になるから、孝平は松山へ置いて行くと、作五郎はきっぱりと言ったのだった。
孝平が作五郎に褒められたのは、花江を嫁にしたいという熱意だけだった。そこまで女のためにがんばるのは大したものだと言われただけのことで、仕事を褒められたわけではなかった。
孝平は得意顔だったが、甚右衛門は孝平を無視して言った。
「ほれで取り敢えずは、外から一人雇うことにした」
孝平は驚いたような顔で甚右衛門を見た。しかし、甚右衛門はちらりとも孝平を見なかった。
甚右衛門が雇うと言うのは忠之のことだ。
千鶴は嬉しくて仕方がなかった。忠之はついに為蔵から了承をもらい、山﨑機織で働くことになったのである。
ただし、それには条件があった。
もし山﨑機織の仕事がうまく行かないようであれば、風寄に戻って履物作りの仕事を引き継ぐということだ。
また、為蔵かタネのどちらかが病に倒れるなどして動けなくなったら、やはり風寄に戻るということも条件である。
さらには、出世してお金儲けができるようになれば、為蔵とタネの世話をするということも、条件に加えられていた。
千鶴は忠之つまり進之丞と夫婦になって、山﨑機織を引き継ぐつもりになっていた。だが万が一、忠之が風寄へ戻ることになったなら、自分も嫁として同行すると決めていた。
もちろん、そうなると店の跡取りがいなくなる。だから、絶対にそうならないよう願うばかりでもあった。
「旦那さん、ほれは、あの風寄の兄やんかなもし?」
新吉が訊ねた。新吉の目には期待のいろが浮かんでいる。
ほうよほうよと甚右衛門は上機嫌で言った。
「あの男は読み書き算盤が申し分ないそうな。商いの仕事がでけるようなら、すぐに手代にするつもりよ。ほれで、あの男に手代が務まると判断でけたら、茂七を東京へ送る。ほれで向こうの引き継ぎが終わり次第、辰蔵を番頭に戻す。これが今の方針ぞな」
「やっぱしほうなんか。ほれで千鶴さん、学校をやめんさったんじゃね」
新吉が楽しげに千鶴を見た。もう訊いても構わないと思ったのだろう。新吉の隣で亀吉も嬉しそうに千鶴を見ている。
学校をやめた本当の理由はそうではないが、忠之が来るなら学校はやめたいと思っていた。だから、新吉が言うことは間違いとは言えない。学校での騒ぎがなかったとしても、やはり学校はやめていただろう。
千鶴はうなずきはしなかったが、黙ったまま微笑んだ。それを新吉は図星だったと思ったようだ。亀吉と顔を見交わしながら、よかったなぁ――と改めて二人で千鶴を祝福した。
茂七も忠之を気に入っている。一度は流れたはずの忠之の雇い話の復活を、茂七も千鶴を祝福しながら大いに喜んだ。だが、その喜びには自分の東京行きも含まれているようだ。
東京を一人に任されるというのは、とても名誉なことである。辰蔵が番頭に抜擢されたように、茂七は将来の出世が約束されたようなものだ。
東京行きが楽しみだと、茂七が隣に座る辰蔵に話すと、辰蔵の方も茂七の肩を叩き、頼りにしているぞと言った。
楽しげな茂七と丁稚たちの間で、弥七だけは何だか不満げだ。
忠之が大八車を残して行った時には弥七も喜んだ。弥七も忠之に対して恩義を感じたはずである。
それでも忠之が飛び入りで手代になることは、弥七には面白くないようだ。自分は丁稚から下積みを重ねてやっと手代になれたのにと、弥七は思っているのかもしれない。弥七の様子を見て千鶴は少し心配になった。
「何ぞ何ぞ? 風寄の兄やんいうんは誰のことぞ?」
事情を知らない孝平がいらだたしく言った。すると、新吉が即座に答えた。
「あのな、千鶴さんが好いておいでる兄やんぞな」
千鶴は慌てたが、もう遅い。何やと?――と孝平は身を乗り出すと、亀吉の向かいに座る千鶴をじろりとにらんだ。
これ!――とトミに叱られて、孝平は渋々体を元に戻した。だが自分がいない間に、山﨑機織に動きがあったと感づいたようで、孝平は腹立ちを隠さなかった。
「わしは、そがぁなこと一言も聞かされとらんがな」
孝平が愚痴をこぼすと、お前に聞かせる必要はない話だと、甚右衛門がぴしゃりと言った。
「ほんでも、もうじき仲間入りするんじゃけん、簡単に話しとこわい。その男は佐伯忠之言うてな、千鶴が風寄で大変世話になった男ぞな。ほれに、風寄の仲買人の兵頭の牛がいかんなった時には、この男が一人で大八車を引いて、風寄の絣を運んで来てくれた。あの男がおらなんだら、今頃この店はどがぁなっとったかわからん」
甚右衛門は自分が一度雇い話を反故にしたことには触れず、初めから忠之を雇うつもりだったという顔で喋った。
「風寄から一人で大八車を? そがぁなことできるわけなかろ」
孝平は小馬鹿にするように笑ったが、みんながしらっとしているので、ほんまなんかと茂七に訊ねた。
茂七が黙ったままうなずくと、孝平は目を丸くしてうろたえた。
「そもそも、なして千鶴が風寄へ行くんぞ」
負け惜しみのようにつぶやく孝平に、甚右衛門が勉強のために行かせたと言った。それで孝平は何も言えなくなった。
「あの男なら、あたしも太鼓判を押しましょうわい」
辰蔵が力強く言った。
自分が東京へ行っている間に、忠之と山﨑機織の間で何があったのかを辰蔵は知っていた。甚右衛門から恩を仇で返されても、それを恨もうとしない忠之を辰蔵は大きく買っていた。
「大八車も置いて行ってくれたもんな」
亀吉と新吉が嬉しそうにうなずき合った。
店の大八車が壊れた時に、二人は甚右衛門から怒鳴られて泣き合った仲だ。代わりの大八車を置いて行ってくれた忠之のことは、亀吉も新吉も大いに慕っている。
ちなみに忠之が残した大八車は、元の大八車の修理が終わったあとに、牛車で絣を運んで来た兵頭に戻された。
忠之が使った大八車は壊れたことになっていたので、甚右衛門は大八車を修理しておいたと兵頭に言った。
兵頭は修理代を気にしたが、甚右衛門が修理代などいらないと言うと、大喜びで牛車の後ろに大八車を結びつけて戻って行った。それは兵頭が甚右衛門に、忠之の陰口を言った日のことだ。
年末前に、忠之がもう一度牛の代わりに、風寄の絣を運んで来たのはこの大八車だ。
この時、忠之は何事もなかったように荷物を届けた。そして、千鶴と幸子に風寄まで来てもらったことへの感謝と、家族が松山で働くことを許してくれたという報告を、甚右衛門に伝えた。
甚右衛門は忠之に両手を突いて己がしたことを詫び、両者の関係は修復された。こうして忠之が山﨑機織で働くことが正式に決まったのである。
「千鶴さん。こんで毎日、あの兄やんと一緒におれるね」
調子に乗って千鶴を冷やかす新吉の頭に、亀吉の手が飛んだ。頭を押さえて怒る新吉と、怒り返す亀吉に千鶴は言った。
「ほらほら、お正月早々怒ったらいけんよ。ほれより二人とも、佐伯さんがおいでたら、いろいろ教えてあげてな」
新吉と亀吉は争うのを止めると声を揃えて、はいと言った。
孝平はまだ納得が行かないようで、佐伯忠之という男はどういう恩人なのかと、身を乗り出して千鶴に質した。
いろいろぞな――と千鶴が言葉を濁すと、はっきり言えと孝平は千鶴に迫った。すると、新吉が言った。
「あのな、千鶴さんが風寄で大けな男四人に絡まれたんよ。ほん時にな、あの兄やんはたった一人で、その男らをやっつけてしもたんやて」
孝平は目を丸くして、ほんまか?――と千鶴に確かめた。
千鶴が小さくうなずくと、孝平は目を泳がせながら黙って箸を動かし始めた。その情けない姿に、花江が声を出さずに笑った。
「旦那さん、あの兄やんはいつおいでるんぞなもし?」
新吉は孝平に構わず、甚右衛門に訊ねた。甚右衛門は藪入りが終わってからだと言った。
藪入りとは盆と正月の年に二回、商家に住み込みの使用人が実家へ戻れる休みだ。旧暦では一月と七月の十六日だったが、明治に新暦になってからは、一月と八月の十六日を藪入りとしている。
正月の今来てもすぐに藪入りになるので、忠之が来るのは藪入りが終わってからとなったということだ。
藪入りは使用人たちには待ち遠しいものである。だが今回は千鶴にも待ち遠しい藪入りだった。
二
正月祝いが終わると辰蔵は東京へ戻り、孝平は松山へ残った。
作五郎は大阪へ戻る前に山﨑機織へ立ち寄り、しっかりなと孝平に声をかけた。
何をしっかりなのかはわからないが、孝平は花江のことだと受け取ったらしい。満面の笑みを浮かべてちらりと花江を見ると、わかりましたぞなもし――と上機嫌で答えた。
もちろん花江は嫁になる約束などしていないと、言い寄る孝平を突き放していた。だが、嫌い嫌いも好きのうちだと、孝平は意に介していないようだった。
いずれは自分が山﨑機織の主になると信じているのだろう。そうなれば、花江が自分を拒むはずがないと思っているらしい。
そんな感じなので、大阪に出る前と比べると、孝平の態度は大きくなっていた。だが仕事上の扱いは丁稚と同じだったので、孝平はそれが不満なようだった。
途中から加わる者が手代になれるのだから、自分も手代にしてもらえると、孝平は考えていたらしい。年齢的にも、自分が丁稚なのは絶対におかしいと周囲に愚痴るのだが、誰も孝平を相手にしなかった。
それでも孝平は自分が上だと示そうと、手代の茂七や弥七に偉そうに指示しようとした。それで、甚右衛門やトミから何度も叱りを受けていた。
こんな状態が続くのかと思うと、千鶴は先が思いやられたが、それは山﨑機織のみんなが思っていることに違いなかった。
藪入りの前日、風寄の兵頭が牛車で絣を運んで来た。
甚右衛門が新吉と孝平に品物を蔵へ仕舞わせている間、千鶴は兵頭にお茶を出そうとした。
その途中、反物の箱を抱えて蔵へ向かう孝平が、邪魔じゃいと怒鳴りながらわざと千鶴にぶつかった。それで盆に載せた湯飲みがひっくり返り、中のお茶が盆を持った千鶴の手を濡らした。
千鶴は思わず盆を落としそうになったが、危ういところで何とか持ちこたえた。そのまま盆を台所の板の間へ置くと、台所にいた花江がすぐに水で千鶴の手を冷やしてくれた。
孝平に続いて箱を運んでいた新吉は、箱を抱えたまま千鶴の傍へ来ると、手ぇ大丈夫?――と心配そうに声をかけた。
千鶴は大丈夫だからと微笑み、新吉を蔵へ行かせた。
孝平が蔵から戻って来ると、花江は孝平を捕まえて、ひどいことをするなと文句を言った。
だが、孝平は作業の邪魔をした千鶴が悪いと言って、取り合おうとしなかった。すると、茶の間で繕い物をしていたトミが、好ぇ加減にしやと孝平を叱った。
「この際やけん、はっきり言うとこわい。うちらはこの店を千鶴に継がせるつもりぞな。千鶴はお前の主になるんぞ。その主に失礼な態度取るんなら、お前をここへ置くわけにはいかん」
千鶴は驚いてトミを見た。花江も目を丸くしている。しかし、トミは千鶴には顔を合わせず仏頂面のまま孝平をにらんでいる。
孝平は茫然と立ち尽くしていた。後ろを通る新吉にぶつかられても反応しない。
トミが再び繕い物を始めると、孝平はうろたえたように言った。
「ほれじゃったら、わしは何のために大阪へ行ったんぞな?」
「ほれは、こっちが訊きたいことじゃろがね」
トミは孝平に顔を向けないまま言った。
孝平はちらりと花江を見た。しかし、花江が味方をするはずもない。
千鶴と目が合った孝平は、慌てたように顔を背けると、わかったわい――と声を荒げた。
「わしのことをそがぁ見よんなら、こっちかて考えがあらい」
孝平に顔を向けたトミは、どんな考えかと訊ねた。しかし、孝平は答えることができなかった。
トミは鼻をふんと鳴らすと、また繕い物を始めた。
「なぁんも考えとらんくせに。ここを出て行くんなら、誰も引き留めんけん勝手にしたらええ。なして作五郎さんがお前を置いて行きんさったんか、考えもせんかったんか、この抜け作!」
孝平はわなわなと体を震わせると、荒々しく店の方へ出て行こうとした。しかし甚右衛門が怖いのか、途中でくるりと向きを変えると奥庭へ出て行った。
そのまま家を出るかのように見えたが、裏木戸が開く音が聞こえない。恐らく出て行くふりをして、トミの様子を窺っているのに違いなかった。
千鶴が淹れ直したお茶を帳場へ運ぶと、兵頭は帳場に積まれた箱の傍に腰を下ろして、煙管を吹かせていた。箱の一部は、弥七が中身を確かめている。茂七と亀吉は太物屋へ注文の品を届けに行ったので、ここにはいない。
「すんません。遅なってしまいました」
千鶴がお詫びしながらお茶を配ると、兵頭はにやにやしながら言った。
「何ぞ、奥で揉めとったみたいやな」
千鶴は笑みを浮かべてみせたが返事はしなかった。代わりに、相変わらず性格の悪い男だと、心の中で罵った。
「牛、また新しいの買いんさったん?」
千鶴が訊ねると、兵頭は口をへの字に曲げながら首を振った。
「借ったんよ。家はめげるし、牛買う銭もないけんな。しばらくは借った牛で仕事するしかないわいな。ほんでも、暖こなって種蒔きやら始まったら貸してもらえんけん、ほれまでには何とかせにゃなるまい」
兵頭は煙管をすぱすぱ吸うと、煙草盆に灰を落とした。
牛を借りたと言っても、ただではあるまい。その金も惜しい兵頭は、本当ならば新しい牛が買えるまで、進之丞にただ働きをしてもらいたいはずだ。だが進之丞は藪入りのあと、松山へ来ることが決まっている。それに対する愚痴も含んでの言葉なのだろう。
千鶴が弥七にもお茶を配ると、弥七は手を止めて千鶴を見た。いつもなら顔も上げずにいるのだが、この日は珍しく顔を上げ、だんだん――と言った。
千鶴は少し面食らったが、何だか嬉しくなったので弥七に微笑んだ。すると、弥七は慌てたように下を向いて確認作業を続けた。
そこへ新吉が木箱を取りに来た。
「新吉さんにも、ほれが終わったらお茶を淹れたげようわいね」
千鶴が声をかけると、新吉は嬉しそうに、うんと言い、また木箱を抱えて行った。
「あんたは優しいのぉ」
見ていた兵頭がお茶をすすりながら言った。兵頭に褒められても嬉しくないが、千鶴は愛想の笑みを見せた。
「めげた家はどがぁなったんぞ?」
甚右衛門が兵頭に訊ねた。
「何とか直してもろた」
兵頭は不機嫌そうに言った。
「ほれにしたかて、なしておらん所ぎり、あげな目に遭わにゃいけんかったんじゃろな」
「一生懸命に働いておいでるのにねぇ」
千鶴が笑顔で皮肉を言うと、まったくよ――と兵頭は言った。
「あれから他に変わったことはないんかな?」
また甚右衛門が訊ねたが、兵頭というより鬼の様子を確かめたいように、千鶴には聞こえた。
「いんや、何もないわい。どうせなら、他の家の二、三軒もめげてくれたらよかったのによ」
何てことを言うのだろうと、千鶴は心の中で憤った。しかし、兵頭は少しも悪びれた様子がない。
「ほしたら、ぼちぼち去んで来うわい」
兵頭は湯飲みに残っていたお茶を一気に飲み干すと、よっこらしょと疲れたように立ち上がった。それから、やれやれと言いながら表に出ると、空の牛車を牛に引かせて帰って行った。
千鶴が奥へ戻ろうとすると、甚右衛門が煙管を吹かせながら千鶴を呼び止めた。
「さっき、孝平は何を騒ぎよったんぞ? 新吉ぎり荷物を運びよったみたいやが」
「ほれが――」
千鶴が説明しようとすると、菓子折を手にぶら下げた男が、いきなり外から飛び込んで来た。
三
「お邪魔しまっせ! ここ、山﨑機織さんでんな?」
喋り方や落ち着きのなさから見て、松山の人間ではない。言葉の訛りは大阪のものだろうか。
甚右衛門が訝しがっているのも構わず、男は馴れ馴れしく声をかけた。
「あんたはんが、ここの御主人?」
お前は誰かと甚右衛門が怪訝そうにすると、男は慌てた様子で、これは失礼しました――と姿勢を正した。
「えっと、わてはですね。わては、こういう……あれ?」
男菓子折を何度も持ち替えながら、外套の下に着ているよれよれの洋服のポケットを、あちこちひっくり返し始めた。
しばらくして、折れ曲がった名刺をようやく見つけると、男はそれを丁寧に真っ直ぐ伸ばした。それから、わてはこういう者ですわ――と言って甚右衛門に手渡した。
男の赤黒く痩せこけた笑顔は、抜け目がなさそうに見える。
「大阪錦絵新報 記者畑山孝次郎? 何ぞな、これは?」
名刺に目を通した甚右衛門は畑山を見上げた。
だが、畑山の目は甚右衛門ではなく、奥の入り口に立っていた千鶴に向けられていた。
「もしかして、あんたはん、千鶴さんでっしゃろ? うわぁ、ほんまに噂どおりの外人さんやな!」
千鶴が何も言わないのに、畑山は勝手に一人で盛り上がった。
「失礼なことを言うな、千鶴は日本人ぞ!」
甚右衛門は握り潰した名刺を、畑山の顔にぶつけた。
畑山は顔を押さえると、ひどいことやらはるなぁ――と言いながら、落ちた名刺を拾い上げた。それから、もう一度名刺の皺を何とか真っ直ぐに伸ばすと、大事そうにポケットに仕舞った。
甚右衛門は千鶴に奥へ行くよう命じたが、畑山は慌てて千鶴を呼び止めた。
「ちょっと待ってぇな。わては千鶴さんの話が聞きとうて、ここへお邪魔したんですよって」
蔵から戻った新吉が物珍しそうに畑山を見た。にっこり笑った畑山の口から茶色い歯がこぼれた。
「なして千鶴なんぞ? お前はいったい何者ぞ?」
眉間に皺を寄せている甚右衛門に、畑山は不服そうに言った。
「さっき、名刺をお見せしたでしょ?」
「あげな物でわかるかい」
「わてはな、大阪錦絵新報の記事を書いとるんですわ」
「ほれは何ぞ?」
畑山はやれやれと言った感じで、今度は懐から名刺よりも大きな紙を取り出した。
「これですわ」
畑山は四つ折りにされた紙を、甚右衛門に手渡そうとした。しかし甚右衛門が手を伸ばすと、さっとその手を引っ込めた。
「言うときまっけど、さっきみたいにぐしゃぐしゃにしたり、破いたりしたらあきまへんで。これは大事な商売道具ですよって」
甚右衛門は返事もせずに畑山をにらんだままだったが、畑山は紙を手渡した。
甚右衛門が紙を広げると、そこにはきれいな色彩の錦絵が描かれていた。だが、それは人が刃物で殺められた様子を描いたものだった。きれいな赤い色は、殺められた者から流れ出る血の色だ。
絵の上方に事件の内容を説明した文章が、細々と書かれてある。
畑山はこれが錦絵新聞だと言った。
「何ぞ、この絵は。大阪の人間はこげな趣味の悪い物を好むんか」
「旦さん、錦絵新聞ご存知おまへんか。明治の最初頃にあちこちで流行ったんでっけど……。あ、そうか、こんな田舎には錦絵新聞はなかったんか。なるほど。そういうことでっか」
甚右衛門が何も答えていないのに、畑山はまた一人で納得しながら喋り続けた。
「お前はこれを破いて欲しいと見えるな」
甚右衛門が錦絵新聞を破る真似をすると、畑山は慌てて新聞を奪い取った。
「いかんて言うとるでしょ? ほんまに冗談やおまへんで」
「お前はわざわざ大阪から、わしらを馬鹿にしに来たんか?」
「せやから違いますってば。最前から言うとるでしょ? わては千鶴さんにお話を聞かせてもらいたいんですわ」
「何の話ぞ?」
畑山はにやりと笑って言った。
「風寄でんがな」
四
甚右衛門はぎくりとした顔になった。それは千鶴も同じである。その様子に畑山が気づかないはずがないのだが、畑山は素知らぬ顔で喋り続けた。
「わてな、世の中に変わったことないか、いつも耳澄ませて、目ぇ光らせとるんです。そしたら去年の秋や。風寄のお祭りの時に、でっかいイノシシが頭潰されて死んどったいう話が、飛び込んで来たんですわ。それもぺちゃんこでっせ。あの硬いイノシシの頭がぺちゃんこになるやなんて、尋常なことやないでっしゃろ?」
やはり、その話かと千鶴は下を向いた。弥七がいる所でそんな話はして欲しくない。
「しかも、その話は大阪の者は誰も知らんのやから、これは記事にするしかおまへんやん。せやから千鶴さんにお話聞かせてもらいたいて言うとりまんねん」
「なして千鶴なんぞ?」
「誰から話聞いたかは明かせまへんけど、千鶴さん、風寄のお祭り見に行って、そこでけったいな経験したんでっしゃろ? その話を聞かせてもらいたいんですわ」
「なして、お前にそがぁな話をする義理があるんぞ?」
甚右衛門が怒りをこらえているのが、千鶴にはわかった。ところが、畑山にはわからないらしい。
「別に義理はおまへんのでっけど、まぁ、聞いてくれまへんか。わてな、元は貸本屋やっとったんです。貸本屋はわかります? 本を売るんやのうて貸す店ですわ」
「わかっとらい、そげなこと」
甚右衛門が声を荒げても、畑山は少しも堪えない。
いつの間にか、新吉が千鶴の傍で話を聞いている。甚右衛門は新吉に早く残っている木箱を運ぶよう命じた。
新吉が木箱を抱えていなくなると、畑山は話を続けた。
「それやったら話戻しまっけど、わて、大阪で貸本屋しよったんです。商売としてはまぁまぁ、いや、そこそこかな? いや、やっぱりまぁまぁか」
「どっちゃでも対じゃろが」
「ついとは何です?」
「同しいうことぞなもし」
千鶴が説明すると、なるほどと畑山はうなずいた。
「田舎の言葉いうんは面白いでんな。さよか、同じ言うんを、ついて言うんでっか。つい、忘れてしまいそうな……」
畑山はにやっとしながら甚右衛門と千鶴を見た。しかし、二人とも駄洒落に反応してくれないので、しょんぼりしながら、すんまへんと言った。
「それでその貸本屋でっけど、去年の秋頃にちょっとヘマをやらかしてしもて、それで店が傾いてしもたんですわ。まぁ言うたら、ついこないだの話です。つい言うても、同じいう意味やおまへんで。そこでいろいろ考えて、昔からの知り合いとこの新聞を始めましたんや。全部仲間内の手作りでっけど、やってみたらこれがまぁ結構人気出ましてね」
甚右衛門は黙っている。畑山は構わず喋り続けた。
「元々錦絵新聞いうんは普通の新聞と違て、絵があってわかりやすいし、字も読みやすうてえらい人気があったんです。せやけど新聞の方も絵ぇ載せたり、漢字にふりがなつけたりするようなったんで廃れてしもたんですわ」
甚右衛門は自分は忙しいと言って、話をやめさせようとした。畑山は甚右衛門をなだめ、もう少しだけと言って話を続けた。
「とにかくでんな、いったんは廃れた錦絵新聞を、わてらは復活させよ思て始めたんでっけど、やっぱり大事なんは載せる記事や。新聞記事の真似事しよったら、すぐに廃れるんは目に見えとりますよって、記事は自分で探さなあきまへん。それで、わてがあちこち走り回って、記事になるような話を拾て来るんですわ」
「ほれで、こげな遠くまで来たんかな」
「何ぞええ記事はないかいなて思てたら、さっきのイノシシの話を思い出したんです。あの話聞いた時はまだ貸本屋しよったから、錦絵新聞は始めてなかったんでっけど、これは絶対記事にせないかんなとなってね。ほんでここへ来たいうわけですわ。せやけど銭はないから、道後温泉に入る余裕もおまへん。汚いぼろ宿で辛抱しながら、情報を集めて廻っとるんです」
「ご苦労なことやが、お前に聞かせる話はないぞな」
甚右衛門は千鶴に奥へ入るよう命じ、畑山にはさっさと帰るように言った。
「ちょ、ちょっと待ってぇな。千鶴さん、ちょっとでええから、話聞かせてくれまへんか。わて、風寄で何があったんか知りたいんです。ほらこれ、そこで買うた饅頭。千鶴さんのために買うて来たんでっせ」
畑山が笑みを浮かべながら菓子折を掲げると、甚右衛門は顔をしかめた。
「そげな物で喋らそうとは、えらい見下されようじゃな」
「何言うとりまんねん。わては見下したりしとりません。ただ、銭がないんです」
「銭よこされても喋るかい」
再び甚右衛門に促されて、千鶴が土間の暖簾を持ち上げると、ちょうど蔵から戻って来た新吉と対面する形になった。
「千鶴さん、この人誰なん?」
新吉が小声で訊ねると、大阪の新聞記者だと千鶴は言った。その声が聞こえたようで、畑山は新吉を見て胸を張った。
それから畑山は千鶴に待つよう頼むと、機嫌を窺うように甚右衛門に話しかけた。
「ほな、千鶴さんの前に、旦さんにお話伺うことにしますわ。こないだも風寄で大事件があったんでっしゃろ?」
「大事件て何ぞ?」
「また惚けてから。ここの仲買人しよる人の家が化け物に壊された事件ですやん。ご存知ないんでっか?」
「あれは突風で屋根が飛ばされたぎりぞな」
「ぎりて?」
「だけって言う意味ぞなもし」
千鶴が説明すると、やっぱり面白いなぁと畑山はうなずいた。
「ぎり言うたら、義理深いわては時間も銭もぎりぎりなんです。ぎりぎり歯ぎしりしとうなるほど焦っとるんですわ。せやから千鶴さんも協力したってや」
畑山はどこまで真面目に喋っているのかわからない。千鶴は畑山の駄洒落に反応しなかったが、新吉はぷっと噴き出した。
「千鶴がお前に喋ることなんぞ何もない」
新吉の様子に笑みをこぼした畑山に、甚右衛門が冷たく言った。
畑山はまた甚右衛門の方を向くと、笑みを消して話に戻った。
「今言うた事件の化け物が鬼やいう話もあるみたいでっけど、旦さん、風寄の村長はんに鬼よけの祠を造る銭を寄付したそうでんな。あれはやっぱり鬼を恐れてのことでっか?」
そんな話は千鶴は初耳だった。名波村の村長と言えば、春子の父親である。千鶴の知らないところで、祖父は春子の実家へ連絡を取ったということなのか。
甚右衛門はうろたえたように、つかましいと怒鳴った。
「つかましい?」
「うるさいってことぞなもし」
説明する千鶴に、早く向こうへ戻れと甚右衛門は声を荒げ、新吉にもさっさと仕事を済ませろと言った。
千鶴が再び中へ入ろうとすると、畑山は千鶴を呼び止めた。
「一つだけ教えてもらえまへんか? えっと、一つだけ言うたら、一つぎりかいな」
ほうぞなもしと千鶴が言うと、畑山は嬉しそうに笑った。
「ほんなら一つぎり聞きまっけど、千鶴さん、お祓いの婆さんに鬼が憑いとるて言われたんは、ほんまでっか?」
千鶴の顔から血の気が引くと、甚右衛門は真っ赤な憤怒の形相になって立ち上がった。
帳場の木箱を抱えた新吉は、驚いてその場に固まった。
畑山は慌てて甚右衛門に菓子折を差し出したが、甚右衛門はその菓子折を叩き落として土間へ飛び降りた。
殴られると思ったのだろう。畑山は両手を上げて身構えた。しかし、甚右衛門は畑山に背を向けて、店の奥へ入って行った。
弥七は見開いた目で畑山と千鶴を見ている。知らない話と主の怒りように、何があったのかと弥七は驚き当惑しているようだ。
聞かせたくない話を弥七や新吉に聞かれた千鶴も、困惑を隠せなかった。しかし、無神経な畑山に対して腹を立てると鬼が暴れると思い、千鶴は気持ちを落ち着けようとした。
その畑山はほっとしたように笑みを浮かべると、もったいないなぁと言いながら、潰れた菓子折を拾い上げた。
そっと菓子折の蓋を開けた畑山は、中から形が崩れた饅頭を一つ取り出して口に入れた。
「うん、大丈夫や。まだいけるで。ほら、千鶴さんも食べてみ」
畑山は饅頭をもう一つ菓子折から取り出して、千鶴に渡そうとした。それを新吉が口を開けながら羨ましそうに見ていると、店の奥から、そげなことしたらいけん!――と尋常ならぬトミの叫び声が聞こえた。
千鶴が暖簾をのけて奥をのぞくと、猟銃を手にした甚右衛門が、部屋から土間へ飛び降りたのが見えた。
その後ろで、トミが慌てて甚右衛門を止めようとしたが、甚右衛門は裸足のままこちらへ向かって来た。
仰天した千鶴は、現れた甚右衛門の前に両手を広げて立ちはだかった。同じく驚いた新吉は木箱を抱えたまま、一目散に店の表へ逃げ出した。
「いけんよ、おじいちゃん。そげな物持って来たらいけん!」
畑山は目を剥くと、千鶴の背中に隠れた。余程の煙草好きのようで、後ろから煙草の臭いが千鶴の鼻を突いた。
甚右衛門は千鶴を押しけようとするが、ここで押しのけられたら山﨑機織はおしまいである。
千鶴は横目で弥七を見たが、弥七は固まったまま動かない。
だが、トミが出て来て千鶴に加勢した。その後ろには花江がおろおろした様子で立っている。
前後から押さえられて身動きが取れない甚右衛門を、千鶴は必死に説得した。その一方で、畑山には早く逃げるよう促した。
しかし畑山は逃げず、千鶴の肩越しに甚右衛門を刺激した。
「ちょっと鬼の話を聞きに来ただけやなのに、旦さん、何でそこまで怒らはるんでっか?」
やかんしい!――甚右衛門がまた興奮して暴れるが、千鶴とトミに押さえられて動けない。
トミは藻掻く甚右衛門を捕まえながら、何の話かと訊ねた。
「こいつは新聞記者で、千鶴が鬼と関係ある記事を書くつもりなんぞ!」
「新聞やのうて、錦絵新聞ですわ」
黙っていればいいのに、畑山が甚右衛門の言葉を訂正した。
「ほうかな。ほんなら、あんたの好きにしたらええぞな」
トミが甚右衛門を捕まえていた手を離した。
花江は口を開けたまま目を大きく見開いた。甚右衛門も驚いたようにトミを見た。そしてすぐに、ここぞとばかりに千鶴を押しのけようとした。
慌てた様子の畑山は、千鶴の動きに合わせて千鶴の背中に身を隠そうとしている。
「ち、ちぃと、おばあちゃん! 見よらんで助けて!」
千鶴の声が聞こえても、トミは惚けた様子で立ったままだ。
花江さんと叫ぶと、花江は慌てたように甚右衛門を押さえようとした。しかし相手はここの主だし、歳は取っても男である。遠慮がちな花江では役に立たなかった。
焦った千鶴は弥七に助けを求めた。
弥七は呪縛が解けたように動くと、千鶴の傍へ来た。しかし、どうすればいいのかがわからないらしい。おろおろしながら立つばかりだ。
甚右衛門が畑山を殴りつけるよう弥七に命じると、トミは噛みついてやれと弥七に言った。
しかし、千鶴は畑山を外へ逃がすよう弥七に頼んだ。
弥七は誰の指示を聞くべきか迷っているようだった。甚右衛門に怒鳴られると、弥七は畑山の腕をつかんだ。
「お願い、弥七さん。その人を逃がしてあげて!」
千鶴が懇願するように頼むと、弥七はわかったとうなずいた。
「こがぁな感じじゃけん、今日のとこはお引き取りを」
弥七はぼそぼそと畑山に声をかけると、畑山を外へ連れ出そうとした。
「その方がよろしいみたいでんな」
畑山も素直に従い、弥七と一緒に外へ出て行った。それでようやく甚右衛門は、興奮しながらも奥へ戻ろうとした。トミもふんと鼻から息を吐くと背中を向けた。
千鶴と花江がほっとしていると、畑山がすぐに戻って来て千鶴に声をかけた。
「千鶴さん、また来ますよって。饅頭、ここ置いときますさかい」
畑山は潰れた饅頭の箱を帳場に置くと、千鶴に笑顔を見せた。
二度と来るな!――と叫ぶ甚右衛門を再び押さえながら、千鶴は弥七を呼んだ。後ろで弥七が畑山を追い払う声が聞こえ、甚右衛門は今度こそおとなしくなった。
新吉が恐る恐る店の中に入って来ると、トミは表に塩を撒いておくようにと命じて、奥へ戻って行った。
甚右衛門も奥へ引っ込むと、花江もそのあとに続いた。
千鶴は弥七の手を取って感謝した。
「弥七さん、だんだんありがとう。弥七さんがおらなんだら、この店はおしまいじゃった。助かったんは弥七さんのお陰ぞな」
弥七は千鶴に手を握られたまま目を伏せて、ええんよ――と言った。うろたえているようだが、千鶴を拒む様子はない。同じ姿勢のままじっとしている。
千鶴はそんな弥七を見たのは初めてだった。それで少しまごついてしまい、手を離したあとも、千鶴はその場を動けなかった。
弥七の方も動かないので、二人は向かい合ったまま立っていた。
ちらりと千鶴を見た弥七が恥ずかしそうに笑ったので、千鶴も思わず微笑んだ。まったくこんな弥七は初めてで、これまでの弥七は何だったのだろうと思われるほどだ。
「ほんじゃあ、うち、お昼の準備があるけん」
千鶴がそう言うと、あぁと弥七は小さくうなずいた。だが、何だか残念そうに見えた。
塩を撒きに来た新吉と入れ違いに千鶴が奥へ入ると、トミは茶の間で何もせずに黙ったまま座っていた。
甚右衛門も帳場には戻らず、こちらに背を向けたまま肩を上下させて、トミの横で胡座をかいていた。その脇には猟銃が仕舞われないまま転がっている。
花江は二人にお茶を淹れようとしていたが、何があったのかを誰にも訊けず当惑しているようだった。
何とか畑山を逃がしたものの、畑山が何をしに来たのかを考えると、千鶴も暗い気持ちになった。
ふと勝手口へ目を遣ると、孝平が顔を出して中をのぞいていた。
トミに対して啖呵を切って家を出るふりをしたものの、行く当てなどないのだろう。しかし中へ入ることもできず、誰かが声をかけてくれるのを待っているようだ。
恐らく孝平にも店で騒ぎがあったことは伝わったはずだ。それが何かが今わからなくても、いずれ知れることだろう。それを考えると、千鶴はますます暗い気分になった。