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待ちわびた日

     一

 やぶ入りが終わると、千鶴は店に誰かが来るたびに、進之丞かと思って飛び出した。勢いよく出て来る千鶴を見ると、来客たちは一様に驚いた。
 同業組合の組合長が顔を出した時には、千鶴は大根と包丁を持っていた。組合長が驚くと、帳場にいた甚右衛門は眉間みけんしわを寄せ、呼ぶまで出て来るなと千鶴を叱った。
 この日、弥七と亀吉は太物屋へ品納めに出ており、甚右衛門の向こうでは茂七が座って、県外へ送る注文書を確かめている。
 茂七の目は注文書を見ているが、千鶴の様子に笑いを噛み殺しているようだ。肩が小さく震えている。
 孝平はトミのつかいで雲祥寺うんしょうじへ出かけていた。また、新吉も甚右衛門の煙草を買いに出ている。
 包丁を持って何をしに出て来たのかと組合長にたずねられ、千鶴は返事ができずに下を向いた。すると、惚れた男が来るのよ――と甚右衛門が言った。
 千鶴は恥ずかしくなって店の奥へ逃げ戻ったが、後ろから組合長の大きな笑い声が追いかけて来た。
「また人違いかい?」
 すごすごと戻って来た千鶴に、七輪に火をおこしていた花江が笑いながら言った。
「呼ぶまで出て来んなて、おじいちゃんに叱られてしもたし、組合長さんに笑われた」
 千鶴が口を尖らせると、当たり前ぞな――と茶の間で繕い物をしているトミが言った。
「ちぃと、ここへ座りんさい」
 トミは千鶴を呼んだ。お説教である。
 千鶴は台所の板の間に大根と包丁を置くと、茶の間に上がってトミのそばへ座った。
「あのな、おまいの気持ちはわかるけんど、もうちぃと落ち着かんかな。めんどしい」
 トミに叱られ、すんませんと千鶴は小さくなった。後ろは見えないが、絶対に花江が笑っている。
「うちらはお前を跡継ぎにとは思とるけんど、あの子をお前の婿にするとは決めとらんけんな」
「え? ほやけど、おじいちゃんが――」
 焦って顔を上げた千鶴に、トミは言った。
「あの人は勢いで喋ることがあるけんな。ほれはお前かてわかっとろ? あの子を雇うとか雇わんとか、全部勢いで喋っとるけん、話半分で聞かんといけん」
 確かに、祖父にはそのようなところがある。それでも、祖父は千鶴の気持ちをわかった上で、進之丞を雇うと決めたのである。
 それに祖母だって忠之がいなければ千鶴は死んでしまうと、祖父に言ってくれたのだ。それなのに、今更婿にしないとはどういうことだと、千鶴は不満げに黙っていた。
 トミは構わず喋り続けた。
「あの子のことは、うちかてええ子やとは思とる。ほれに、お前の恩人でもあるわいな。ほやけど、男には甲斐性かいしょうが必要ぞな。甲斐性のない男に、お前をやるわけにいくまい」
「あの人は大丈夫やし」
 むくれる千鶴に、さらにトミは言った。
「やってみんことにはわからんぞな。人には向き不向きいうもんがあるけんな。とにかく先走ったことは――」
 トミの言葉が終わらないうちに、千鶴さん――と叫びながら、新吉が駆け込んで来た。買い物から戻ったようだ。
「千鶴さん、にいやんがおいでたぞな」
 千鶴は立ち上がると、ちらりとトミを見た。
 トミは苦笑すると、行ておいで――と言った。
 千鶴は土間へ飛び降りると、新吉のあとに続いて店に出た。すると、帳場の脇に進之丞が立っていた。背中には風呂敷を背負い、両手にも風呂敷包みを持っている。
 着ている半纏はんこの下は、いつもの継ぎはぎだらけの着物だ。だが、あんまり継ぎ当てをしているせいか、あるいは半纏を着ているせいなのか、何だか懐がごわごわと膨れた感じだ。
 千鶴は進之丞に飛びつきたかったが、必死に我慢した。甚右衛門の前だし、組合長もいる。ここは気持ちを抑えるしかない。
「千鶴さん、今日からお世話になりますぞなもし」
 進之丞は頭を下げて、千鶴に挨拶をした。それで、進之丞が今は忠之であることを千鶴は思い出した。慌ててお辞儀を返して、こちらこそと言った。
「お前さんが噂の色男か」
 組合長がにやにやしながら進之丞に言った。
「もう恥ずかしいけん、やめておくんなもし」
 顔の熱さを感じながら千鶴が言うと、わははと組合長は笑った。
「噂の色男?」
 きょとんとする進之丞に甚右衛門は苦笑しながら、組合長を紹介した。それから、この日の千鶴の様子を説明した。
 驚いたように目を向ける進之丞に、千鶴は目を合わせられず、下を向いて、さらに横を向いた。
「ほな、わしはお邪魔なけんんでうわい」
 笑いながら出て行く組合長を見送った進之丞は、右手の風呂敷包みを甚右衛門に手渡した。
「これはおらんとこのじいさまが、旦那さんとおかみさんにこさえたもんぞなもし」
 甚右衛門が広げてみると、男物と女物の下駄が出て来た。どちらも桐でできた立派な下駄だ。
「鼻緒はばあさまがこさえました。あとでおらがお二人の足に合わせますけん」
 進之丞が説明すると、甚右衛門は急いでトミを呼んだ。
「はいはい、何ぞなもし?」
 少しもったいをつけて現れたトミは、甚右衛門に下駄を見せられると、あらまぁと言った。
「これは佐伯くんが持っておいでてくれたもんぞな。佐伯くんとこのじいさまが、わしらにこさえてくんさったんよ」
「え? ほんまかな?」
 甚右衛門に手渡された下駄を、トミは嬉しそうに眺め、進之丞に礼を言った。
 そこへ後ろから、花江が様子を見に顔を出した。トミは自分の下駄と甚右衛門の下駄を、花江に自慢げに見せた。
 花江が感動したようにしげしげと下駄を眺めていると、進之丞は左手の風呂敷包みを花江に手渡した。
「何だい、これは?」
「こっちはばあさまがこさえた草履ぞうりぞなもし。二つあるけん、花江さんと千鶴さんのお母さんで使つこてやってつかぁさい」
「え? あたしにまでくれるのかい?」
 花江は嬉嬉ききとして風呂敷を広げると、取り出した草履を胸に抱いて小躍りした。
 進之丞が幸子を探している様子だったので、幸子さんは外に出ているけれど、あとで戻った時に渡しておくよと、花江は言った。
 ほうですかと安心する進之丞の脇で、新吉がうらやましそうに、ええなぁとつぶやいた。すると、進之丞は背中の風呂敷包みを外して、新吉に持たせてやった。
「これはな、おらがこさえた草鞋わらじぞな。ようけこさえて来たけん、みんなで使つこてやっておくんなもし」
 新吉がいそいそと風呂敷を広げると、中からたくさんの草鞋が出て来た。大きいのやら小さいのやらがあって賑やかだ。
 新吉は大喜びして、風呂敷包みごと草鞋を茂七にも見せた。
「これはまた丁寧にこさえとるなぁ」
 茂七が大きいのを手にして言うと、新吉も小さいのを手に取り、丁寧にこさえとらい――と言って、みんなを笑わせた。
 これで進之丞が持っていた風呂敷は全て広げられたわけだが、千鶴にだけ土産物がなかった。
 為蔵が千鶴の履物を作ることを嫌ったのかもしれないと、ふと思った千鶴は悲しくなった。それでも、そんなことを口にできるわけもなく、千鶴は何でもないふりをして微笑んでいた。
 すると、花江が進之丞に言った。
「ねぇ、千鶴ちゃんには何もないのかい?」
「ええんよ、花江さん。うちは何もいらんけん。うちは佐伯さんがおいでてくれたら、他には何もいらんぞな」
 笑顔を繕いはしたものの、やはり寂しさは隠せない。思わず目を伏せた千鶴に、進之丞は膨れた懐に手を入れながら言った。
「最後になってしもたけんど、これが千鶴さんの分ぞなもし」
 進之丞が取り出したのは、油紙の包みだった。
「こがぁなとこに入れとったけん、ちぃと汗くそなっとるけんど、包みの中は大丈夫ぞな」
 みんなが見守る中、千鶴は丁寧に油紙を広げた。中から出て来たのは桐の下駄だった。鼻緒の柄はトミの物よりも明るくて、若いにぴったりだ。
「こないだのお詫びに言うて、じいさまがこさえよとしたんをな、無理やりこ、おらにこさえさせてもろたんよ。鼻緒はばあさまが選んでくれたんぞな。気に入ってもらえたらええけんど」
「気に入らんわけないやんか!」
 千鶴は下駄を持ったまま進之丞に抱きついた。
 進之丞は慌てて千鶴をなだめ、うろたえたように甚右衛門とトミに頭を下げた。
 甚右衛門はトミと顔を見交わして笑っていた。
 新吉は目を丸くして二人に見入り、花江が口を押さえながら、あらまと言うと、茂七は声を出して笑った。
 千鶴が我に返って進之丞から離れると、甚右衛門は進之丞に言った。
「ここではみんな名前で呼んどるけん、佐伯くんのことも、初めは忠吉ただきち言うて呼ばせてもらうが、ほんでかまんかな?」
 はいと進之丞が答えると、うむと甚右衛門はうなずいた。
「もうちぃとしたら、外へ出とる連中もんて来るけん、みんなで昼飯にしよわい」
 その前に――と下駄を抱いたトミが、笑みを消した顔で言った。
「ちぃと確かめさせてもらいたいことがあるんやけんど、かまんかなもし?」
 千鶴はどきりとしたが、進之丞は平然とうなずいた。

     二

 奥の部屋へ進之丞を呼び入れたトミは、甚右衛門立ち会いのもと、進之丞に新聞の記事や書物を読み上げさせた。
 進之丞は少しも詰まる事なく、すらすらと読んだ。甚右衛門はうなずいたが、今度は字を書いてもらうとトミは言った。
 すずりと墨を受け取った進之丞は、丁寧に墨をった。その姿勢のよさには、甚右衛門もトミも感服した様子だった。
 墨を擦り終わると、進之丞は二人に代わる代わる言われた文字や言葉をさらさらと書いた。
 それはまた達筆で、無学な者が書いたとは思えないような美しさだった。
 甚右衛門とトミは驚きを隠せない様子だったが、千鶴はこっそりほくそ笑みながら当然だと思っていた。
 進之丞は武芸だけでなく、教養もひいでていた。読書もたしなんでいたし、字を書かせれば達筆だった。
 だが、次は算盤だとトミが言うと、千鶴は少し心配になった。
 前世で進之丞が算盤が得意だったとは記憶していない。しかし、千鶴の心配は杞憂きゆうに終わった。
 トミが次々に読み上げる数字を、進之丞は算盤を使わず、暗算で正解を出した。
 信じられない顔をしている甚右衛門とトミに、自分は学校を出ていないので、知念和尚夫婦に徹底的に仕込まれたと、進之丞は説明をした。
 甚右衛門とトミは満足げにうなずき合った。まずは文句なしの合格というところだろう。
 しかし、トミはすぐに厳しい顔になり、進之丞に言った。
「商いするもんが読み書き算盤はできて当たり前。商人にとってほんまに大切なんは、知恵と心構えと物事を決める覚悟ぞな」
 甚右衛門も続けて言った
「商いしよったら、時には理不尽なことを言われ、足下を見られもする。どがぁにがんばっても、うもう行かんこともあるが、ほれに耐えにゃならん。ほれは履物作りでもついじゃろ? ほじゃけん、忠吉には十分そがぁな力があると、わしは見とる。ここでも是非ぜひがんばってもらいたい」
 進之丞は両手を突くと、どがぁなことでもやらせていただきますと言った。千鶴にはそれが、自分と一緒になるための覚悟であるように思えて胸が熱くなった。

 昼飯のあと、甚右衛門は忠吉に町を案内するようにと千鶴に言った。
 本当ならば、すぐにでも仕事を覚えさせるところだろう。千鶴の気持ちを知っている甚右衛門のいきな取り計らいである。トミも多めの小遣いを持たせてくれた。
 以前に春子を案内したように、千鶴は進之丞をまずは大丸百貨店へ連れて行った。
 普通の店とは異なる様子に進之丞は驚いていたが、目玉のえれべぇたぁには、千鶴の期待どおり子供のように喜んだ。
 そのあと千鶴は陸蒸気おかじょうきの起点である松山停車場へ向かった。
 松山停車場は二階建ての大きく立派な建物で、進之丞は感心した様子で眺めていた。
 その時、威勢のいい汽笛が聞こえた。進之丞は目を輝かせて千鶴を見た。
 千鶴は進之丞を停車場の中が見える所へいざなった。
 蒸気を吐き出す陸蒸気を見た進之丞はとても興奮し、いつかこれに乗ってみたいと言った。
 次に進之丞を連れて行ったのは、やはり春子と行った善勝寺だ。目的は前と同じ日切饅頭である。
 だが春子と違って進之丞は日切地蔵を知っており、饅頭を食べる前に日切地蔵に手を合わせると言った。
 日切地蔵に祈る時は、願いを叶えてもらう日を決めておく。それで千鶴は三年後の今日、進之丞と自分が夫婦めおとになっていますようにと祈った。
 何故三年後なのかと言うと、進之丞が三年働き通せば、きっと祖父母が進之丞を婿として認めてくれると考えたからだ。
「千鶴は何をねごたんぞ?」
 進之丞にかれた千鶴は喋りたくて仕方がなかった。しかし、その気持ちをぐっと抑え、内緒ぞな――と言った。
「進さんこそ、何をお願いしたん?」
「決まっとらい」
「ほじゃけん、何?」
「千鶴の幸せよ」
 不動明王にも願ってくれたのに、ここでもまた願ってくれたのかと千鶴は嬉しくなった。
「進さんと出て、こがぁして一緒におられるんじゃもん。おら、何も言うことないぞな」
「ほうか」
 進之丞は嬉しそうに笑ったが、その笑顔が千鶴には何だか寂しげに見えた。
「ほやけどな、ここでは日を切ってお願いするんよ? おらの幸せねごてくれた言うんは、いつのこと?」
 にやりと笑った進之丞は、千鶴と同じように答えた。
「ほれは、内緒ぞな」
「いや、気になるやんか。言うてや。いつなん?」
「ほやけん、内緒ぞな」
 もう――とむくれながら、進之丞も自分と同じことを願ってくれたに違いないと、千鶴は一人で納得した。
 祈り終えると、いよいよ目的の日切饅頭だ。
 千鶴に茶店へ連れて行かれた進之丞は、目の前で焼かれる日切饅頭を見て、これは饅頭ではないなと言って笑った。
 茶店の腰掛けは混み合っている。千鶴は店から借りたお盆に、お茶と日切饅頭を載せ、人が少ない境内の隅の方へ移動した。
 熱いからねと注意をしたのに、進之丞は渡された饅頭にかぶりついた。そして、あの時の春子のように目を白黒させながら、口をはふはふさせた。
 それでも進之丞は慌てて水を飲んだりはせず、口の中でゆっくりあんを冷ました。そうしながら手に残った饅頭の中に、餡がぎっしり詰まっているのを確かめると、これで三個五銭は安いと言った。
 千鶴が為蔵たちへの土産に持っていた日切饅頭も、進之丞は食べている。焼き立ても美味いし冷めても美味いと進之丞が絶賛するので、千鶴は嬉しさで胸が一杯になった。
 思わず口にした饅頭の餡が熱くて慌てると、進之丞が笑った。

     三

「あらぁ?」
 甲高い女の声が聞こえた。千鶴が振り返ると、見慣れない女が感激した様子でこちらを見ている。
 釣り鐘のような帽子に、耳を隠した短い髪。上の服と下のスカートがつながった水玉模様の衣装に、前開きの上着を羽織っている。この辺りでは見かけない格好だ。
 濃いめの化粧でわかりにくいが、歳は三十半ばぐらいだろうか。少し寒そうに見えるが、本人は平気らしい。
「ひょっとして、ひょっとして」
 女はそう言いながら、小走りに千鶴のそばへやって来た。
「あなた、山崎幸子さんの娘さんやないん? 違う?」
「母をご存知なんですか?」
 千鶴が驚くと、よーく知っとるぞなもし――と女は嬉しそうに言った。
「うちは坂本三津子さかもとみつこ言うてね、あなたのお母さんがおった病院で看護婦しよったんよ。お母さんには随分お世話になってねぇ」
 ほうなんですか――と言ってから、千鶴は慌てて挨拶をした。
「山崎千鶴と申します」
「ちづちゃん? どがぁな字書くん?」
「数字の千に鶴ぞなもし」
「千に鶴で千鶴ちゃんか。ええお名前じゃねぇ。うちが思たとおりの名前ぞな。ほれにしても、あなた、雪みたいに真っ白じゃねぇ。ほれに、よう似ておいでるぞなもし。まっこと真っついやわぁ」
 三津子の言葉に、千鶴の胸は弾んだ。
「父のこともご存知なんですか?」
「あなたのお父さん? ほら、知っとるわいね。あなたのお父さんはね、うちら看護婦仲間の間でも評判のええ男やったけんね」
 三津子はにっこり笑うと、千鶴が持つ盆の上に一つだけ残っていた、日切饅頭をひょいと手に取った。それは千鶴が進之丞に食べさせるつもりだった物だ。
 あっと千鶴が声を出す間もなく、三津子は美味そうに饅頭にかぶりつき、熱い熱いと騒ぎ立てた。
 三津子は進之丞の湯飲みを取ると、急いでお茶を口に流し込み、またもや、あちちと慌てふためいた。
「水、水!」
 千鶴が手水舎ちょうずやを指さすと、三津子はばたばたと走って行き、柄杓ひしゃくの水をがぶがぶ飲んだ。せっかくお洒落しゃれな格好をしているのに台無しである。
 ようやく落ち着いた様子の三津子は、手に残った饅頭を少しずつ囓りながら戻って来た。
「みっともないとこを、お見せしてしもたわいね」
 いいえと言いながら、早くどこかへ行ってくれないかと千鶴は考えていた。
 恐らく硬い表情になっていただろう。何せ、この女は進之丞が食べるはずの日切饅頭を、勝手に食べてしまったのだ。
 しかし、三津子は少しも悪びれた様子がない。口をもぐもぐさせながら千鶴に訊ねた。
「お母さんは元気にしておいでるん?」
「お陰さまで」
 千鶴は三津子の顔も見ずに、ぽそりと言葉を返した。
 この雰囲気で相手が不愉快になっていると気づいてもよさそうなのに、三津子は話をやめない。
「ところで、こちらさんはどなた?」
 進之丞に顔を向けながら三津子が言った。千鶴は渋々、今日から山﨑機織で働くことになった人だと説明した。
 進之丞がぺこりと頭を下げると、三津子はまた千鶴に訊ねた。
「松山のお人?」
「いえ、風寄から出ておいでたんです」
「風寄……」
 三津子は興味深げに進之丞に目を向けた。
「あなた、風寄はどちらからおいでたの?」
「ご存知か知らんけんど、名波村ぞなもし」
 春子には名波村ではないと言った進之丞だが、こう答えるところをみると、やはり山陰やまかげは名波村の一部のようだ。
「名波村、知っとるぞなもし。確か法生寺とかいうお寺があったとこやった思うけんど、ちごたかしら?」
「いんや、うとります。名波村には、おいでたことがおありなんかなもし?」
「ずっと昔に、ちょろっとおったことはあるんよ。ほやけど、そがぁになごにはおらんかったけん、ほとんど忘れてしもたわいね」
 せっかく進之丞と二人きりだったのに、無神経な三津子に割り込まれた千鶴は、いらいらがつのった。
「ほれにしても、あなた、えぇ男じゃねぇ。さぞかし女子おなごにもてるじゃろねぇ」
「いや、そがぁなことは……」
 困惑する進之丞を見て、千鶴は三津子に声をかけた。
「あの、三津子さんは今も看護婦をしておいでるんですか?」
 千鶴がいたのを思い出したように、三津子は千鶴を振り返った。
「今はね、しとらんの。病院の仕事が嫌になってしもたんよ。お母さんが千鶴ちゃん身籠もって病院辞めたあと、うちもすぐに病院辞めて東京へ出たんよ。お母さんのこと気にはしよったんじゃけんど、何も連絡でけんで申し訳ないて、ずっと思いよった」
 自分から訊ねた話だが、千鶴は返事をしなかった。三津子の気を進之丞かららさせるために話しかけただけであり、三津子の身の上話になど興味はない。それでも三津子は話を続けた。
「東京は賑やかじゃったけんど苦労も多かったわいねぇ。。その締めくくりが、あの大地震ぞな。うちは、もうちぃとで命を落とすとこやったんよ。ほんで、やっぱし生まれ育った土地がええ思てんて来たんやけんど、まさかここでさっちゃんの娘さんに会えるとはねぇ。今度はお母さんに会いたいわぁ」
「母に伝えときますけん」
 いらだちを抑えながら、千鶴は素っ気なく言った。
「お願いね。えっと、確か、あなたの家は紙屋町の――」
「山崎機織いう伊予絣問屋ぞなもし」
「ほうよほうよ。絣問屋じゃった。いや、懐かしいわいねぇ」
 三津子は指についた餡をしゃぶりながら言った。
 三津子が全然離れる様子がないので、千鶴は自分たちの方がこの場を離れることにした。
 千鶴も進之丞もまだ食べかけの饅頭が手に残っていたが、歩きながら食べるしかない。
「ほんじゃあ、うちら、そろそろ去ぬりますけん」
 千鶴が頭を下げると、もう行くのかと三津子は残念がった。
「もう店に戻って、仕事をせんといかんですけん」
「ほうなん。ほれは忙しいとこをお邪魔してしもて悪かったわいねぇ。ほんでも、うちには二人が逢い引きしよるように見えたけん、声かけてしもたんよ。堪忍してね」
 逢い引きと言われて、千鶴は顔が熱くなった。顔を見られたくないので、返事もそこそこに茶店に盆と湯飲みを返しに行った。
 あとは後ろを振り返りもせず、さっさと境内の外へ出た。
 千鶴に遅れて出てきた進之丞は、そんなに怒るなと千鶴をなだめた。だが、千鶴は腹の虫が治まらない。
 饅頭を食われたことにも腹が立ったが、逢い引きだと思いながら邪魔をしたというのが、余計に気に障っていた。
「何やのん、あのひと! 進さんに思て残しよった日切饅頭、勝手に食うてしまうし、ちっとも気が利かん!」
「ちょうど一個ずつ食うたんじゃけん構ん構ん。ほれより、あの女子おなご、妙に気になるぞな」
 進之丞が振り返ると、それに気がついた三津子が嬉しそうに手を振った。仕方なく会釈をした進之丞は、気のせいかとつぶやいた。

     四

 店に戻ると、千鶴は進之丞を離れの部屋へ連れて行き、作っておいた着物を着せてやった。
 進之丞は言葉が出ないほど感激したようだった。嬉しそうな顔で何かを言おうとするのだが、結局は何も言えず、ついには涙を流し始めた。
 嬉しいやら当惑するやらの千鶴は、とにかく進之丞が喜んでくれたことに、お礼を言った。
 すると進之丞はいきなり千鶴を抱きしめた。千鶴は眼を閉じて顔を突き出したが、期待するようなことは起こらなかった。
 進之丞は千鶴を離すと涙を拭きながら、男のくせに泣いてしまったと笑顔を見せた。
 そういうことではないでしょうにと、千鶴は心の中で文句を言った。それから改めて進之丞にすり寄ったが、進之丞は着物を喜ぶばかりだった。
 れったくなった千鶴は、進さん――と呼びかけ、目を閉じて唇を突き出した。
 何かが唇に触れたので目を開けてみると、それは進之丞の指だった。千鶴の口を指で押さえながら、進之丞はにっこり笑った。
「そがぁなことは、旦那さんやおかみさんに認められてからぞな」
「え? ほやかて――」
「どこで誰に見られとるかわからんけんな。不真面目な奴じゃて思われたら、何もかんもおしまいぞな」
 そんなことを言うのなら、この離れの部屋に二人きりでいること自体が不真面目だ。だが、進之丞は言った。
「他の使用人らから見て、示しがつかんようなことはやったらいかんじゃろ? 今日は二人で町に行かせてもろたんじゃけん、それ以上のことは辛抱せんとな」
 言われることはもっともだ。しかし、今は誰もいないし、ちょっと唇を重ねるだけである。
「進さん、真面目過ぎるぞな。前はそこまで真面目やなかったやんか」
「前は前。今は今ぞな。旦那さんやおかみさんの期待にこたえにゃならんけんな」
 そこまで言われては返す言葉がない。千鶴はあきらめて進之丞に従うことにした。それに、これは進之丞が真剣である証だと受け止めた。そう思うと、千鶴は自分の態度が恥ずかしくなった。
 千鶴は気持ちを入れ替えて進之丞に言った。
「進さん、いよいよじゃね」
「ん? あぁ、いよいよじゃな」
 何だか気のない返事に千鶴は力が抜けた。進之丞が真剣だと思ったから自分の態度を反省したのに、進之丞は他のことでも考えていたようだ。
「進さん、何を考えておいでるん?」
「いや、別に何も」
「嘘や。何か考えよったぞな」
 進之丞は苦笑すると、やっぱし信じられんのよ――と言った。
「信じられんて、おらと夫婦になることが? ほれとも、このお店を継ぐこと?」
「どっちもぞな。あしにはほのどちらも受ける資格がない」
「また、そがぁなこと言うて。進さん、おらに泣いて欲しいん?」
 千鶴が泣く真似をすると、進之丞は慌てた。
「やめてくれ。お前に泣かれるんは死ぬよりつらいけん」
「ほれじゃったら、もう悪あがきせんで、素直に自分の定めを受け入れてや」
「定めなら受け入れるけんど、これが定めやとは……。いや、待て待て。泣くな。泣いたらいけん」
「ほやかて、進さん、おらと夫婦になれるて喜んでくれんのじゃもん……」
 べそをかく千鶴に詫びながら、進之丞は千鶴と夫婦になれるのであれば、他に何も望むものはないと言った。
「ほれやったら、もう余計なことは考えんで、おらと夫婦になることが定めなんじゃて、素直に受け入れてや」
「わかった、あいわかった。もう言わんし、お前が言うことに逆ろうたりせん」
「ほんまに?」
「ほんまほんま」
 わざとらしくうなずく進之丞に、ほんじゃあと千鶴は目を閉じ、唇を突き出した。しかし、進之丞が何もしないので、千鶴は片目を開けて、逆らわんのじゃろ?――と言った。
 再び千鶴が目を閉じると、進之丞はこほんと咳払いをしてから、千鶴を抱きしめた。心も体も温もりに包まれる中、千鶴の唇に進之丞の唇が重なった。千鶴は幸せで溶けてしまいそうな気分だった。
 しばらくして進之丞が離れると、千鶴は辺りを見回しながらつぶやいた。
「おら、幸せやけんど、幸せやないけん。おら、幸せやけんど、幸せやないけん」
「何を言うとるんぞ?」
 進之丞が怪訝けげんそうに声をかけると、千鶴は照れ笑いをした。
がんごさんにな、言うとるんよ。こがぁ言うとかんと、鬼さん、おらから離れてしまうけん」
「お前という奴は……」
 進之丞は言葉に詰まると、涙をぼろぼろこぼした。それを見て、千鶴はしまったと思った。
 進之丞の前で鬼の話をする時は、気をつけねばならないと決めていたはずなのに、幸せ過ぎてうっかりしてしまった。
 千鶴は慌てて進之丞を慰め、みんなに晴れ姿を見せようと、進之丞を部屋の外へいざなった。そうしながら、千鶴はどこかで泣いている鬼を思いやり、これは思った以上に大変だと気を引きしめた。