待ちわびた日
一
藪入りが終わると、千鶴は店に誰かが来るたびに、進之丞かと思って飛び出した。勢いよく出て来る千鶴を見ると、来客たちは一様に驚いた。
同業組合の組合長が顔を出した時、千鶴は味噌汁の具に大根を切ろうとしていたところだった。つい包丁を持ったまま飛び出すと、組合長は驚いて腰を抜かしそうになった。帳場にいた甚右衛門は眉間に皺を寄せ、呼ぶまで出て来るなと千鶴を叱った。
弥七と亀吉は太物屋へ品納めに出ており、孝平は雲祥寺へトミの遣いに出ていた。また、新吉も甚右衛門の煙草を買いに出ている。
残っているのは茂七だけだが、甚右衛門の向こうに座る茂七は、県外からの注文書を確かめながら肩を小さく震わせている。千鶴の様子に笑いを噛み殺しているようだ。
包丁を持って何をしに出て来たのかと組合長に訊ねられ、千鶴は返事ができずに下を向いた。すると、惚れた男が来るのよ――と甚右衛門が言った。
千鶴は恥ずかしくなって店の奥へ逃げ戻ったが、後ろから組合長の大きな笑い声が追いかけて来た。
「また人違いかい?」
すごすごと戻って来た千鶴に、七輪に火を熾していた花江が笑いながら言った。
「呼ぶまで出て来んなて、おじいちゃんに叱られてしもたし、組合長さんに笑われた」
千鶴が口を尖らせると、当たり前ぞな――と茶の間で繕い物をしているトミが言った。
「ちぃと、ここへ座りんさい」
トミは千鶴を呼んだ。お説教である。
千鶴はため息をつくと、板の間にあるまな板に包丁を置き、茶の間に上がってトミの傍へ座った。
「あのな、お前の気持ちはわかるけんど、もうちぃと落ち着かんかな。めんどしい」
トミにも叱られ、すんませんと千鶴は小さくなった。後ろは見えないが、絶対に花江が笑っている。
「うちらはお前を跡継ぎにとは思とるけんど、あの子をお前の婿にするとは決めとらんけんな」
「え? ほやけど、おじいちゃんが――」
焦って顔を上げた千鶴に、トミは言った。
「あの人は勢いで喋ることがあるけんな。ほれはお前かてわかっとろ? あの子を雇うとか雇わんとか、全部勢いで喋っとるけん、話半分で聞かんといけん」
確かに、祖父にはそのようなところがある。それでも、祖父は千鶴の気持ちをわかった上で、進之丞を雇うと決めたのである。
それに祖母だって、あの人がいなければ千鶴は死んでしまうと、祖父に言ってくれたのだ。それなのに、今更婿にしないとはどういうことだと、千鶴は不満げに黙っていた。
トミは構わず喋り続けた。
「あの子のことは、うちかてええ子やとは思とる。ほれに、お前の恩人でもあるわいな。ほやけど、男には甲斐性が必要ぞな。甲斐性のない男に、お前をやるわけにはいくまい」
「あの人は大丈夫やし」
むくれる千鶴に、さらにトミは言った。
「やってみんことにはわからんぞな。人には向き不向きいうもんがあるけんな。とにかく先走ったことは――」
トミの言葉が終わらないうちに、千鶴さん――と叫びながら、新吉が駆け込んで来た。買い物から戻ったようだ。
「千鶴さん、兄やんがおいでたよ」
千鶴は立ち上がると、ちらりとトミを見た。
トミは苦笑すると、行ておいで――と言った。
千鶴は土間へ飛び降りると、草履も履かないまま新吉のあとに続いて店に出た。すると、帳場の脇に進之丞が立っていた。背中には風呂敷を背負い、両手にも風呂敷包みを持っている。
着ている半纏の下は、いつもの継ぎはぎだらけの着物だ。だが、あんまり継ぎ当てをしているせいか、あるいは半纏を着ているせいなのか、何だか懐がごわごわと膨れた感じだ。
千鶴は進之丞に飛びつきたかったが、必死に我慢した。甚右衛門の前だし、組合長もいる。ここは気持ちを抑えるしかない。
「千鶴さん、今日からお世話になりますぞなもし」
進之丞は頭を下げて、千鶴に挨拶をした。それで、進之丞が今は忠之であることを千鶴は思い出した。慌ててお辞儀を返して、こちらこそと言った。
「お前さんが噂の色男か」
組合長がにやにやしながら進之丞に言った。
「もう恥ずかしいけん、やめておくんなもし」
顔の熱さを感じながら千鶴が言うと、わははと組合長は笑った。
「噂の色男?」
きょとんとする進之丞に、甚右衛門は苦笑しながら組合長を紹介した。それから、この日の千鶴の様子を説明した。
戸惑ったような顔を向ける進之丞に、千鶴は目を合わせられず下を向いた。それで自分が裸足なのに気がつくと慌てて横を向いた。
「千鶴ちゃん、裸足なんか。余程嬉しかったんやな」
組合長に見つかって笑われると、千鶴は恥ずかしくて両手で顔を隠した。進之丞もどんな顔をしたらいいのかわからず当惑した様子だ。それがまた組合長の笑いを誘った。
「ほな、わしはお邪魔なけん去んで来うわい」
組合長が笑いながら出て行くと、進之丞は照れたように微笑みながら、右手の風呂敷包みを甚右衛門に手渡した。
「これはおらのおとっつぁんが、旦那さんとおかみさんにこさえた物ぞなもし」
甚右衛門が包みを広げてみると、男物と女物の下駄が出て来た。どちらも桐でできた立派な下駄だ。
「鼻緒はおっかさんがこさえました。あとで、おらがお二人の足に合わせますけん」
進之丞が説明すると、甚右衛門は急いでトミを呼んだ。
「はいはい、何ぞなもし?」
少しもったいをつけて現れたトミは、甚右衛門に下駄を見せられると、あらまぁと言った。
「これは佐伯くんが持っておいでてくれた物ぞな。佐伯くんのおとっつぁんが、わしらにこさえてくんさったんよ。鼻緒はおっかさんがこさえてくんさったそうな」
「え? ほんまかな?」
甚右衛門に手渡された下駄を、トミは嬉しそうに眺め、進之丞に礼を言った。
そこへ後ろから、花江が様子を見に顔を出した。トミは自分の下駄と甚右衛門の下駄を、花江に自慢げに見せた。
花江が感動したようにしげしげと下駄を眺めていると、進之丞は左手の風呂敷包みを花江に手渡した。
「何だい、これは?」
「こっちはおっかさんがこさえた草履ぞなもし。二つは花江さんと千鶴さんのお母さんで使てやってつかぁさい。もう一つは、番頭さんが戻んたら渡してつかぁさい」
「え? あたしにまでくれるのかい?」
花江は嬉嬉として風呂敷を広げると、取り出した女物の草履を胸に抱いて小躍りした。
「幸子さんは今いないから、あとで戻った時に渡しておくよ。番頭さんのも、あたしがちゃんと預かっとくから」
こぼれる笑顔で花江が話すと、お願いしますぞなもしと進之丞は頭を下げた。
その横で新吉が羨ましそうに、ええなぁとつぶやいた。すると、進之丞は背中の風呂敷包みを外して、新吉に持たせてやった。
「これはな、おらがこさえた草鞋ぞな。ようけこさえて来たけん、みんなで使てやっておくんなもし」
新吉がいそいそと風呂敷を広げると、中からたくさんの草鞋が出て来た。大きいのやら小さいのやらがあって賑やかだ。
新吉は大喜びして、風呂敷包みごと草鞋を茂七にも見せた。
「こらまた丁寧にこさえとるなぁ」
茂七が大きいのを手にして感心すると、新吉も小さいのを手に取り、丁寧にこさえとらい――と言って、みんなを笑わせた。
これで進之丞が持っていた風呂敷はすべて広げられたわけだが、千鶴にだけ土産物がなかった。
自分の履物を作ることを為蔵さんが嫌ったのかもしれないと、ふと思った千鶴は悲しくなった。それでも、そんなことを口にできるわけもなく、千鶴は何でもないふりをして微笑んでいた。しかし、土間に立つ裸足の足が悄気ている。
すると千鶴の足下をちらりと見た花江が、進之丞に言った。
「ねぇ、千鶴ちゃんには何もないのかい?」
「ええんよ、花江さん。うちは何もいらんけん。うちは佐伯さんがおいでてくれたら、ほれで十分なけん」
笑顔を繕いはしたものの、やはり寂しさは隠せない。思わず目を伏せた千鶴に、進之丞は膨れた懐に手を入れながら言った。
「最後になってしもたけんど、これが千鶴さんの分ぞなもし」
進之丞が取り出したのは、油紙の包みだった。
「こがぁな所に入れとったけん、ちぃと汗臭なっとるけんど、包みの中は大丈夫ぞな」
みんなが見守る中、千鶴は受け取った包みをどきどきしながら広げた。中から出て来たのは桐の下駄だった。鼻緒の柄はトミの物よりも明るくて、若い娘にぴったりだ。
「こないだのお詫びに言うて、おとっつぁんがこさえよとしたんをな、無理やりこ、おらにこさえさせてもろたんよ。鼻緒はおっかさんが選んでくれたんぞな。気に入ってもらえたらええけんど」
「気に入らんわけないやんか!」
千鶴は下駄を持ったまま進之丞に抱きついた。
進之丞は慌てて千鶴をなだめ、うろたえたように甚右衛門とトミに頭を下げた。
甚右衛門はトミと顔を見交わして笑っていた。
新吉は目を丸くして二人に見入り、花江が口を押さえながら、あらまと言うと、茂七は声を出して笑った。
千鶴が我に返って進之丞から離れると、甚右衛門は進之丞に言った。
「ここではみんな名前で呼んどるけん、佐伯くんのことも、初めは忠吉言うて呼ばせてもらうが、ほんで構んかな?」
はいと進之丞が答えると、うむと甚右衛門はうなずいた。
「もうちぃとしたら、外へ出とる連中も戻んて来るけん、みんなで昼飯にしよわい」
その前に――と下駄を抱いたトミが、笑みを消した顔で言った。
「ちぃと確かめさせてもらいたいことがあるんやけんど、構んかなもし?」
千鶴はどきりとしたが、進之丞は平然とうなずいた。
二
奥の部屋へ進之丞を呼び入れたトミは、甚右衛門立ち会いの下、進之丞に新聞の記事や書物を読み上げさせた。
進之丞は少しも詰まることなく、すらすらと読んだ。甚右衛門はうなずいたが、今度は字を書いてもらうとトミは言った。
硯と墨を受け取った進之丞は丁寧に墨をすった。その姿勢のよさには、甚右衛門もトミも感服した様子だった。
墨をすり終わると、進之丞は二人に代わる代わる言われた文字や言葉をさらさらと書いた。それは無学な者が書いたとは思えないような美しさだった。
甚右衛門とトミは驚きを隠せない様子だったが、千鶴はこっそりほくそ笑みながら当然だと思っていた。
進之丞は武芸だけでなく、教養も秀でていた。読書もたしなんでいたし、字を書かせれば達筆だった。
だが、次は算盤ぞなとトミが言うと、千鶴は少し心配になった。
前世で進之丞が算盤が得意だったとは記憶していない。しかし、千鶴の心配は杞憂に終わった。
トミが次々に読み上げる数字を、進之丞は算盤を使わず、暗算で正解を出した。
信じられない顔をしている甚右衛門とトミに、自分は学校を出ていないので、知念和尚夫婦に徹底的に仕込まれたと、進之丞は説明をした。
甚右衛門とトミは満足げにうなずき合った。まずは文句なしの合格というところだろう。
しかしトミはすぐに厳しい顔になって、進之丞に言った。
「商いする者が読み書き算盤はできて当たり前。商人にとってほんまに大切なんは、知恵と心構えと物事を決める覚悟ぞな」
甚右衛門も続けて言った
「商いしよったら、時には理不尽なことを言われ、足下を見られもする。どがぁにがんばっても、うもう行かんこともあるが、ほれに耐えにゃならん。ほれは履物作りでも対じゃろけん、忠吉には十分そがぁな力があると、わしは見とる。ここでも是非がんばってもらいたい」
進之丞は両手を突くと、どがぁなことでもやらせていただきますと言った。千鶴にはそれが、自分と一緒になるための覚悟であるように思えて胸が熱くなった。
太物屋へ注文の品を納めて戻った弥七は、いつもの素っ気ない様子で進之丞に挨拶をし、草鞋をもらったことに一応の礼を述べた。
一方、弥七と一緒に戻った亀吉は、進之丞が来たことを飛び上がって喜んだ。また、新吉に見せられた草鞋にも大喜びで、進之丞に何度も礼を言った。
雲祥寺から戻った孝平は、自分が知らない間にやって来た進之丞を見て、ぎょっとした様子だった。
進之丞が単なる丁稚として来たのであれば、孝平は威張って自分が上だと強調したはずだった。だが、進之丞が大男四人をぶちのめしたと聞いているからか、孝平はいつもと様子が違っていた。
甚右衛門に紹介されて礼儀正しく頭を下げる進之丞に対し、おうと言うのが孝平の精いっぱいの虚勢のようだった。ちゃんとした挨拶の言葉もなく、じろじろと進之丞を観察したのは、その見かけの姿からは喧嘩が強そうには見えないからに違いない。
みんな履物をもらったと新吉が嬉しそうに言い、自分の草鞋を孝平に見せると、店の主にも草鞋かいと、孝平は吐き捨てるように言った。どうあっても進之丞が気に入らないらしい。
ところが甚右衛門とトミには桐の下駄、幸子と花江には草履が贈られたと知ると、自分の分は何かと孝平は進之丞に訊ねた。
しかし、進之丞は孝平の存在を知らなかったので、孝平の分までは作っていない。そのことを進之丞が詫びると、甚右衛門は丁稚は裸足の者もいるのだから、草鞋で十分だと言った。
傍を通りかかった茂七は早速履いた草鞋を見せて、これはなかなか上等の草鞋だと孝平に言った。
手代の茂七が喜んで草鞋を履いているので、孝平は文句を言えなくなった。それでも千鶴までもが桐の下駄をもらったと知ると、孝平は進之丞をにらみつけた。だが、何も口に出しては言えなかった。
みんなが揃ったところで昼飯となった。千鶴は何の疑いもなく、進之丞と一緒に食事ができると思っていた。だが実際に昼飯になると、千鶴の期待は裏切られた。
いくら千鶴と好き合っていても、進之丞は使用人である。婿になってもいないのに、千鶴たちと飯を一緒に食べることはできない。進之丞が飯を食べるのは、他の使用人たちと同じ板の間だった。
襖の向こうから、使用人たちの話し声が茶の間に聞こえて来る。
弥七は黙ったままの様子だが、茂七と亀吉、新吉はずっと進之丞相手に喋り続けている。花江もそこに交ざって、板の間はとても賑やかだった。
孝平は甚右衛門の身内ではあるが丁稚扱いだ。そのため他の使用人たちと寝食をともにしている。孝平はそのことを不満に思ったようだったが、三食を花江と一緒に食べられるので、仕方がないという顔で丁稚扱いを受け入れている。
もちろん、いずれは手代に昇格できると信じているはずで、他の使用人たちに対して少しも遠慮を見せようとはしない。
花江にすれば食事の時間が苦痛のようで、何かと理由をつけては食事を始める時間をあとにずらし、できるだけ孝平と一緒に食べないようにしていた。
しかし、この日は違った。花江は初めから食事に交ざり、茂七たちと一緒に進之丞の話を聞きたがった。
それは孝平には面白くない状況であり、孝平はみんなの話に交ざっては、進之丞の話の揚げ足を取ろうとした。しかし、孝平の言葉はすぐに他の者たちに否定された。それで進之丞が孝平の相手をすることはないようだった。
ほとんどの者は進之丞の味方なので、進之丞の居心地はまずまずというところだろう。
そのことは千鶴を安心させたが、千鶴は花江が羨ましかった。できれば自分もみんなと一緒になって、進之丞の傍にいたかった。
千鶴が食事をしている茶の間の方は、板の間とは違って静かである。
祖父母は無駄話をしないため、食事をする時はいつも静かなのだが、今は母がいないので余計にひっそりした感じがする。
聞こえるのは三人の食事の音ばかりで、そこへ板の間から賑やかな声が割り込んで来る。甚右衛門もトミもそれを注意せず、じっと耳を傾けて話を聞いているようだ。
千鶴もみんなの話を聞いていたが、自分もそこに交ざりたくて仕方がなかった。せっかく進之丞が来てくれたのに、一緒に食事ができないことはとても悔しかった。
そんな千鶴の気持ちが祖父母はわかっているようで、二人は千鶴に代わる代わるに今後の話をした。これからの進之丞の扱いのことや、千鶴の心構えなどについてである。
女の仕事は家事ではあるが、店を継ぐ以上は商いのことをわかっている必要がある。それを知ることで、同じ仕事をするにしても、そこに込める気持ちが変わるということだ。
男は外に顔を向けて仕事をするが、そのためには中がうまくまとまっていなければならない。それが女の仕事であり、特におかみと呼ばれる者の責任となる。
また、普段は中の仕事をしていても、当主が何かを決断しようとする時には、誰より信頼できる相談相手となるのがおかみである。
時には男に代わって外の仕事ができるぐらいの逞しさや、状況に応じた気の利いた機転、迷う夫の背中を後押しできる心強さが、おかみには求められるのだ。
祖父母の話は、いよいよ店を継ぐということが現実のものになろうとしていると、千鶴に教えているようだった。
二人の話を聞くほどに千鶴の気持ちは引き締まった。目先の仕事をこなすのではなく、先を見据えた仕事をしなければならないと、千鶴は胸に刻み込んだ。
それは山﨑機織の当主となった進之丞と二人で、この店を守りながら商いを繁盛させるということである。進之丞と一緒に食事ができない寂しさも、将来の自分たちの姿を思い浮かべることでやり過ごせそうだ。
ただ、祖父母は進之丞がすぐに手代になるという話はしても、千鶴の婿にするとまでは言ってくれなかった。やってみなければわからないと思っているのかもしれないが、そういう方向で考えているぐらいのことは言って欲しいものである。
そこが千鶴としては不満が残るところではあった。しかし、とにかく念願の新しい暮らしが始まったのだ。ここは小さな不満は呑み込んで、早く店を切り盛りできるようにならねばと、千鶴は自分を奮い立たせた。
とは言っても、相変わらず聞こえて来る楽しげな声は、話に交ざれない千鶴の心をわざと撫でて行くようだ。
ようやく食事が終わると、甚右衛門は忠吉に街を案内するようにと千鶴に命じた。
本当ならば、進之丞にはすぐにでも仕事を覚えさせるところだろう。千鶴の気持ちを知っている甚右衛門の粋な取り計らいである。
思わず声を上げそうになった千鶴に、トミが多めの小遣いを持たせてくれた。正月が終わったばかりだが、千鶴の胸には早くも春が訪れたようだった。
三
以前に春子を案内したように、千鶴は進之丞をまずは大丸百貨店へ連れて行った。
普通の店とは異なる様子に進之丞は驚いていたが、目玉のえれべぇたぁには、千鶴の期待どおり子供のように喜んだ。
そのあと千鶴は陸蒸気の起点である松山停車場へ向かった。
松山停車場は二階建ての大きく立派な建物で、進之丞は感心した様子で眺めていた。
その時、威勢のいい汽笛が聞こえた。進之丞は目を輝かせて千鶴を見た。
千鶴は進之丞を停車場の中が見える所へ誘った。蒸気を吐き出す陸蒸気を見た進之丞はとても興奮し、いつかこれに乗ってみたいと言った。
必ず一緒に乗ると約束したあと、千鶴は松山停車場の向かいにある善勝寺へ進之丞を連れて行った。目的は前と同じ日切饅頭である。
だが春子と違って進之丞は日切地蔵を知っており、饅頭を食べる前に日切地蔵に手を合わせると言った。
日切地蔵に祈る時は、願いを叶えてもらう日を決めておく。それで千鶴は三年後の今日、進之丞と自分が夫婦になっていますようにと祈った。
何故三年後なのかと言うと、進之丞が三年働き通せば、きっと祖父母が進之丞を婿として認めてくれると考えたからだ。
「千鶴は何を願たんぞ?」
進之丞に訊かれた千鶴は喋りたくて仕方がなかった。しかし、その気持ちをぐっと抑え、内緒ぞな――と言った。
「進さんこそ、何をお願いしたん?」
「決まっとらい」
「ほじゃけん、何?」
「お前の幸せよ」
不動明王にも願ってくれたのに、ここでもまた願ってくれたのかと千鶴は嬉しくなった。
「進さんと出逢て、こがぁして一緒におられるんじゃもん。おら、何も言うことないぞな」
ほうかと進之丞は嬉しそうに笑ったが、その笑顔が千鶴には何だか寂しげに見えた。
「ほやけどな、ここでは日を切ってお願いするんよ? おらの幸せ願てくれた言うんは、いつのこと?」
にやりと笑った進之丞は、千鶴と同じように答えた。
「ほれは、内緒ぞな」
「いや、気になるやんか。言うてや。いつなん?」
「ほやけん、内緒ぞな」
もう――とむくれながら、進之丞も自分と同じことを願ってくれたに違いないと、千鶴は一人で納得した。
日切地蔵に祈り終えたあとは、いよいよ目的の日切饅頭だ。
千鶴に茶店へ連れて行かれた進之丞は、目の前で焼かれる日切饅頭を見て、これは饅頭ではないなと言って笑った。
茶店の腰掛けは混み合っている。店から借りたお盆にお茶と日切饅頭を載せると、千鶴は人が少ない境内の隅の方へ移動した。
熱いからねと注意をしたのに、進之丞は渡された饅頭にかぶりついた。そして、あの時の春子のように目を白黒させながら、口をはふはふさせた。
それでも進之丞は慌てて水を飲んだりはせず、口の中でゆっくり餡を冷ました。そうしながら手に残った饅頭の中に、餡がぎっしり詰まっているのを確かめると、これで三個五銭は安いと言った。
千鶴が為蔵たちへの土産に持っていた日切饅頭も、進之丞は食べている。焼き立ても美味いし冷めても美味いと進之丞が絶賛するので、千鶴は嬉しさで胸がいっぱいになった。
思わず口にした饅頭の餡が熱くて慌てると、進之丞が笑った。
「あらぁ?」
甲高い女の声が聞こえた。千鶴が声の方に顔を向けると、見慣れない女が感激した様子でこちらを見ている。
釣り鐘のような帽子に、耳を隠した短い髪。上と下が一つにつながった、水玉模様の妙な衣装は着物ではない。
その衣装の上に羽織った上着は前開きだが、水玉模様の衣装には開く所がない。どうやって着るのかが不思議だが、とにかくこの辺りでは見かけない洒落た格好だ。
日本人ではないのかと思ったが、そうではないらしい。濃いめの化粧でわかりにくいが、歳は三十半ばぐらいだろうか。衣装の生地は薄くて少し寒そうに見えるが、本人は平気なようだ。
「ひょっとして、ひょっとして、ひょっとして」
女はそう言いながら、小走りに千鶴の傍へやって来た。
「あなた、山﨑幸子さんの娘さんやないん? 違う?」
「母をご存知なんですか?」
千鶴が驚くと、よーく知っとるぞなもし――と女は嬉しそうに言った。
「うちは坂本三津子言うてね、あなたのお母さんがおった病院で看護婦しよったんよ。お母さんにはずいぶんお世話になってねぇ」
ほうなんですか――と言ってから、千鶴は慌てて挨拶をした。
「山﨑千鶴と申します」
「ちづちゃん? どがぁな字書くん?」
「数字の千に鶴ぞなもし」
「千に鶴で千鶴ちゃんか。ええお名前じゃねぇ。うちが思たとおりの名前ぞな。ほれにしても、あなた、雪みたいに真っ白じゃねぇ。ほれに、よう似ぃておいでるぞなもし。まっこと真っ対やわぁ」
三津子の言葉に、千鶴の胸は弾んだ。
「父のこともご存知なんですか?」
「あなたのお父さん? ほら、知っとるわいね。あなたのお父さんはね、うちら看護婦仲間の間でも評判のええ男やったけんね」
三津子はにっこり笑うと、千鶴が持つ盆の上に一つだけ残っていた、日切饅頭をひょいと手に取った。それは千鶴が進之丞に食べさせるつもりだった物だ。
あっと千鶴が声を出す間もなく、三津子は美味そうに饅頭にかぶりつき、熱い熱いと騒ぎ立てた。
三津子は進之丞の湯飲みを取ると、急いでお茶を口に流し込み、またもや、あちちと慌てふためいた。
「水、水!」
千鶴が手水舎を指差すと、三津子はばたばたと走って行き、柄杓の水をがぶがぶ飲んだ。せっかくのお洒落な格好が台無しである。
ようやく落ち着いた様子の三津子は、手に残った饅頭を少しずつかじりながら戻って来た。
「みっともない所を、お見せしてしもたわいね」
いいえと言いながら、早くどこかへ行ってくれないかと千鶴は考えていた。
恐らく硬い表情になっていただろう。何せ、この女は進之丞が食べるはずの日切饅頭を、勝手に食べてしまったのだ。
しかし、三津子は少しも悪びれた様子がない。口をもぐもぐさせながら千鶴に訊ねた。
「お母さんは元気にしておいでるん?」
「お陰さまで」
千鶴は三津子の顔も見ずに、ぽそりと言葉を返した。
この雰囲気で相手が不愉快になっていると気づいてもよさそうなのに、三津子は話をやめない。
「ところで、こちらさんはどなた?」
進之丞に顔を向けながら三津子が言った。千鶴は渋々、今日から自分の所の店で働くことになった人だと説明した。
進之丞がぺこりと頭を下げると、三津子はまた千鶴に訊ねた。
「松山のお人?」
「いえ、風寄から出ておいでたんです」
「風寄……」
三津子は興味深げな目を進之丞に向けた。
「あなた、風寄はどちらからおいでたの?」
「ご存知か知らんけんど、名波村ぞなもし」
春子には名波村ではないと言った進之丞だが、こう答えるところをみると、やはり山陰は名波村の一部のようだ。
「あぁ、名波村ね。知っとるぞなもし。確か法生寺とかいうお寺があった所やった思うけんど、違たかしら?」
「いんや、合うとります。名波村にはおいでたことがおありなんかなもし?」
「ずっと昔に、ちょろっとおったことはあるんよ。ほやけど、そがぁに長にはおらんかったけん、ほとんど忘れてしもたわいね」
せっかく進之丞と二人きりだったのに、無神経な三津子に割り込まれた千鶴は、いらいらが募った。
「ほれにしても、あなた、えぇ男じゃねぇ。さぞかし女子にもてるじゃろに」
「いや、そがぁなことは……」
困惑する進之丞を見て、千鶴は三津子に声をかけた。
「あの、三津子さんは今も看護婦をしておいでるんですか?」
千鶴がいたのを思い出したように、三津子は千鶴を振り返った。
「今はね、しとらんの。病院の仕事が嫌になってしもたんよ。お母さんが千鶴ちゃん身籠もって病院辞めたあと、うちもすぐに病院辞めて東京へ出たんよ。お母さんのこと気にはしよったんじゃけんど、何も連絡でけんで申し訳ないて、ずっと思いよったんよ」
自分から訊ねた話だが、千鶴は何も言わなかった。三津子の気を進之丞から逸らさせるために話しかけただけであり、三津子の身の上話になど興味はない。それでも三津子は話を続けた。
「東京は賑やかじゃったけんど苦労も多かったわいねぇ。その締めくくりが、あの大地震ぞな。うちは、もうちぃとで命を落とすとこやったんよ。ほんで、やっぱし生まれ育った土地がええ思て戻んて来たんやけんど、まさかここで幸ちゃんの娘さんに会えるやなんてねぇ。今度はお母さんにも会いたいわぁ」
「母に伝えときますけん」
いらだちを抑えながら、千鶴は素っ気なく言った。
「お願いね。えっと、確かあなたのお家は紙屋町の――」
「山﨑機織いう伊予絣問屋ぞなもし」
「ほうよほうよ。絣問屋じゃった。いや、懐かしいわいねぇ」
三津子は指についた餡をしゃぶりながら言った。
三津子が全然離れる様子がないので、千鶴は自分たちの方がこの場を離れることにした。千鶴も進之丞もまだ食べかけの饅頭が手に残っていたが、歩きながら食べるしかない。
「ほんじゃあ、うちら、そろそろ去ぬりますけん」
千鶴が頭を下げると、もう行くのかと三津子は残念がった。
「もう店に戻って、仕事をせんといかんですけん」
「ほうなん。ほれは忙しいとこをお邪魔してしもて悪かったわいねぇ。ほんでも、うちには二人が逢い引きしよるように見えたけん、声かけてしもたんよ。堪忍してね」
逢い引きと言われて、千鶴は顔が熱くなった。顔を見られたくないので、返事もそこそこに茶店に盆と湯飲みを返しに行った。
あとは後ろを振り返りもせず、さっさと境内の外へ出た。
千鶴に遅れて出てきた進之丞は、そんなに怒るなと千鶴をなだめた。だが、千鶴は腹の虫が治まらない。
饅頭を食われたことにも腹が立ったが、逢い引きだと思いながら邪魔をしたというのが、余計に気に障っていた。
「何やのん、あの女! 進さんに思て残しよった日切饅頭、勝手に食うてしまうし、ちっとも気ぃ利かん!」
「饅頭なら、ちょうど一個ずつ食うたんじゃけん構ん構ん。ほれより、あの女子、妙に気になるぞな」
進之丞が振り返ると、それに気がついた三津子が嬉しそうに手を振った。仕方なく会釈をした進之丞は訝しげにしながら、気のせいかとつぶやいた。
四
三津子には店に戻って仕事をすると言ったが、進之丞への街案内は始まったばかりだ。それに三津子に害された気分を元に戻さなければならない。
千鶴は進之丞を湊町商店街へ連れて行き、あちこちの店をめぐりながら亀屋のうどんを食べたあと、大街道で活動写真を見た。
それは春子と歩いたのと同じ道のりだった。あの時の春子は本当に楽しそうだった。しかし、実際は喜んでくれていなかったのだと思うと、千鶴は少し悲しくなった。
それでも何でも珍しがる進之丞を見ていると、春子との悲しい思い出が癒やされて行くようだった。
大街道の商店街を抜けたあと、千鶴は進之丞を歩行町へ連れて行き、祖父の実家を探した。かつて自分が養女として迎えられるはずだった家を、見てみたいと思ったのである。
重見家を訪ねてみたいというのは、進之丞も同じだった。
前世に生きた時、千鶴を養女にしてもらうということで、進之丞は父忠之助と一緒に重見家へ挨拶に訪れていた。その時の記憶を頼りに歩行町を行ったり来たりしているうちに、進之丞は重見と書かれた門札を見つけた。
商家と違って士族の家は門があり、家はその奥の敷地にある。そのため家に近寄ることはできないが、土塀越しに見える小さな屋敷が、重見家に違いないと進之丞は言った。
千鶴は屋敷を眺めながら、ここが自分が養女になるはずだった家なのかと、感慨深い気持ちになった。
千鶴がここの養女になって武家の作法を教わったあと、自分たちは夫婦になるという手筈だったと進之丞は話した。
「重見殿はまこと懐の広いお方でな、あしのような若輩者にも丁寧に応じてくんさり、お前を養女にする話を快く引き受けてくんさった。まことにええお方じゃった」
昔を思い出しているのか、進之丞はじっと屋敷を見つめていた。
武家のしきたりのことはよく知らないが、進之丞が自分を嫁にするために、こんな遠い所まで来て骨折ってくれていたことに、千鶴は有り難さと申し訳なさを感じていた。また、そのために動いてくれていた進之丞の父に対しても、感謝の気持ちしか浮かばなかった。
進之丞は千鶴を見ると口惜しそうに言った。
「あしはお前がここの養女になれることを、すぐにでもお前に知らせとうてたまらなんだ。ほんでも、その前に父上と一緒に風寄の村々を廻らねばならず、すぐには戻れんかったんよ」
代官は村々の様子を見て廻るのも仕事である。
善二郎への挨拶を終えたあと、進之丞は父の仕事を覚えるため、父とともに風寄の村々を廻ったと言う。
そのため、進之丞が千鶴の元を訪ねることができたのは、重見家を離れてから一月ほどが過ぎた頃だった。そして、ようやく千鶴に逢えると思ったその日に、鬼が風寄を襲ったのである。
「もう一日早ように戻んておれたなら……」
進之丞は悔しげにつぶやくと唇を噛んだ。
だが、一日早く戻ったところで鬼の襲来は防げない。結局は同じことになっただろう。それでも進之丞にすれば、養女の話を千鶴にできなかったことが残念で仕方がないようだった。
千鶴はしょんぼりする進之丞の腕に自分の腕を絡めて言った。
「おらのために、そこまでのことをしてくんさって、おら、感謝しとります。進さん、だんだんありがとう。おら、嬉しい」
進之丞は黙ったままだった。千鶴は尚も進之丞を慰め励ました。
「前はうまく行かんかったけんど、今度こそおらたち夫婦になるんじゃけん、元気出しておくんなもし」
進之丞はようやく踏ん切りがついたのか、屋敷に向かって両手を合わせると、そろそろ行くかの――と笑顔を見せた。
進之丞は歩きながら、何だか妙な気分だと言った。
もし前世で千鶴と夫婦になって何事もなく暮らしていたら、自分たちはどうなっていたのだろうと言うのである。
明治になれば代官という職はなくなり、身分を失った他の侍たち同様に、何か他の職を得て暮らすしかなかったはずだ。恐らく何かの商売を始めたに違いないが、それがうまく行ったとは限らない。
また、同じような歳であった甚三郎が、今の自分たちが生まれた頃には寝たきりになり、今は生きているかどうかもわからない。それは前世で何も起こらなかった場合の、自分たちの姿のようだと進之丞は言った。
「こがぁして見れば、人とはいったい何なのかと考えたくならい。生まれて死に、また生まれて死に……。ほれを繰り返しながら、人の世は大きく変わって行く。これは何なのであろうな」
しみじみと話す進之丞が、千鶴にはとても大きく見えた。前世でも聡明だったが、さらに聡明さが増したようだ。
「おらにはわからんな。おらにわかっとるんは、世の中がどがぁに変わろうと、おらと進さんのつながりが変わることはないいうことぎりぞな」
進之丞は千鶴を見た。その目が何故か悲しげだ。
「どがぁしたん? 進さん、何ぞ悲しいことでも思い出したん?」
「いや、何でもない」
進之丞は笑ってごまかした。しかし千鶴は気になった。
進之丞はよく寂しそうに微笑むが、今のは明らかに悲しい目だった。何が悲しいのか話してくれればいいのだが、心配させまいと思っているのか何も言ってくれない。
「なぁ、こっから札ノ辻まで電車で戻る?」
千鶴は進之丞を笑顔にしたくて提案してみた。すると千鶴の思惑どおり、進之丞はぱっと明るくなった。
「乗っても構んのか?」
「ほれぐらいの銭は、おばあちゃんからもろとるけん」
「まことか」
進之丞は山﨑機織に向かって両手を合わせると、千鶴に満面の笑みを見せて、では乗るか――と言った。
生まれて初めて電車に乗った進之丞は、子供のように大はしゃぎだった。窓から見える景色を見ながら、おぉとか、うわぁと声を上げ、こっちに座ったかと思えばあっちに座り直すという感じで、千鶴は少々恥ずかしい気分だった。
それでも進之丞が喜んでくれればと、進之丞に代わって他の乗客や車掌にこっそり頭を下げて騒々しさを詫びた。
札ノ辻で電車を降りた時、大満足の進之丞はまだ子供のようにはしゃいでいた。しかし電車が行ってしまうと、ようやく落ち着きを取り戻した。
「いやいや、実に愉快じゃった。千鶴、感謝するぞ」
急に大人に戻った進之丞を見て、千鶴はぷっと噴き出した。進之丞は眉根を寄せて、何がおかしいと言った。
「ほやかて、進さん、電車の中ではこんまい子供みたいじゃったのに、今は落ち着き払て、『いやいや、実に愉快じゃった。千鶴、感謝するぞ』て言うんじゃもん」
進之丞は困ったように首筋を掻くと、ええではないかと恥ずかしそうに言った。
「楽しいことに大人も子供もあるまい。楽しいもんは素直に楽しむんが一番ぞな」
「ほうじゃね。おらも楽しかった」
「じゃろ? あれは誰が乗っても楽しいもんぞ」
「ほやのうて、おらが楽しかった言うとるんは、大はしゃぎしよる進さんのことぞな」
進之丞は少し言葉に詰まったあと、もうよい――と横を向いた。それから電車が去ったあとの線路を眺めて、真面目な顔で言った。
「あの電車は三津ヶ浜へ向かうようやが、人はこの先、どこへ向こうて行くんじゃろな」
「ほれ、電車に乗る前に言いんさった話の続き?」
千鶴が笑いながら訊ねると、進之丞は少し憮然とした顔で、もう笑うなと言った。千鶴はごめんと謝ったが、笑いが止まらない。
先に去ぬるぞ――と言って進之丞が逃げるので、千鶴は笑いながら追いかけた。
五
紙屋町に並ぶ店は、どこも店仕舞いを始めていた。
表の掃除をしていた亀吉と新吉は声を揃えて、お戻りたかと千鶴たちに声をかけた。
二人に返事をしたあと、千鶴は隣の紙屋や近所の店の者たちに進之丞を会わせ、今日から働いてもらうことになったと話した。
進之丞はみんなに頭を下げて挨拶をしたが、多くの者たちが以前に大八車を引いて来た進之丞に、千鶴が泣きながら抱きついた場面を目撃している。
にやにやしながら挨拶を返す者もいれば、よかったなぁと千鶴を祝福してくれる者もいて、千鶴は嬉しいやら恥ずかしいやらだ。
逃げるようにして店の中に入ると、仕事から戻った幸子が花江と夕飯の準備をしていた。
進之丞が挨拶をすると、幸子は花江から受け取った草履のお礼を伝え、今日からよろしくお願いしますと頭を下げた。
進之丞は戸惑った様子で、あとで草履の鼻緒を合わせますと言ったが、幸子と目が合うと恐縮したように下を向いた。
夕飯になると、また板の間は賑やかになり、みんなは千鶴とどこへ行って来たのかと、進之丞を質問攻めにした。
一方、千鶴も祖父母や母から、進之丞をどこへ連れて行ったのか聞かれた。それで昼間とは違って、茶の間の方も賑やかになった。
千鶴が三津子のことを話すと、幸子はとても驚いた様子で、三津子に会いたがった。しかし、三津子の衣装のことを聞くと首を傾げて、そんな格好をする人ではなかったと言った。
東京の大地震で死にかけたそうだから、性格が変わったのかもしれないと千鶴が言うと、幸子は少し心配そうだった。
そんな母の姿が癪に障った千鶴は、三津子が進之丞に残しておいた日切饅頭を食べてしまったと愚痴った。すると、そんな人ではなかったのにと幸子は繰り返し、さらに心配したようだった。
続いて千鶴は重見家の前まで行ったことを祖父母に伝えた。甚右衛門は驚き、よくわかったなと言った。進之丞が覚えていたと言いそうになった千鶴は、その言葉を呑み込んで、門札に重見と書かれてあったと説明した。
それで納得した甚右衛門は、家の者には会ったのかと言った。会わなかったと答えると、甚右衛門はほっとした様子だった。
祖父の兄である大伯父はロシア人を憎んでいると前に聞かされたが、その大伯父が今も健在なのかはわからない。それに大伯父がいなかったとしても、ロシア人への嫌悪を家族が受け継いでいるかもしれなかった。祖父はそれを心配したようだ。
帰りに乗った電車の中での進之丞の様子には、みんなが笑った。笑いが終わったあとも、みんなの顔には笑みが残っていた。
一時はどうなることかと思われた進之丞だった。だが、こうしてみんなに温かく迎えられ、千鶴もまた祝福されているようだ。そのことは千鶴の胸を安堵と喜びでいっぱいにしたが、自分たちの将来が約束されたみたいでもあった。
夕飯のあと、銭湯で汗を流した進之丞を、千鶴は離れの部屋へ連れて行った。
行灯に火を入れた千鶴は、この日のために作っておいた着物を進之丞に着せてやった。このあと、茶の間で待っているみんなの前でお披露目だ。
帯を締めた進之丞を眺めて千鶴がうなずくと、進之丞は奴凧のように両手でそれぞれの袖の端をつかみ、嬉しそうに何度かくるくる回ってみせた。
千鶴と向き合った進之丞は、千鶴を抱きしめて感謝を伝えた。笑っていたはずの進之丞は、感激のあまり泣いていた。
千鶴は進之丞をなだめながら抱き合ったあと、進之丞から顔だけ少し離すと、目を閉じて唇を突き出した。ところが千鶴が期待するようなことは起こらなかった。
進之丞は千鶴から離れると、男のくせにまた泣いてしまったと、涙を拭いながら笑顔を見せた。
そういうことではないでしょうにと、千鶴は心の中で文句を言った。それから改めて進之丞にすり寄ったが、進之丞は着物を喜ぶばかりだった。
焦れったくなった千鶴は、進さん――と呼びかけ、もう一度目を閉じて唇を突き出した。
何かが唇に触れたので目を開けてみると、それは進之丞の指だった。千鶴の口を指で押さえながら、進之丞はにっこり笑った。
「そがぁなことは、旦那さんやおかみさんに認められてからぞな」
「え? ほやかて――」
「どこで誰に見られとるかわからんけんな。不真面目な奴じゃて思われたら、何もかんもおしまいぞな」
そんなことを言うのなら、この離れの部屋に二人きりでいること自体が不真面目だ。だが、進之丞は言った。
「他の使用人らから見て、示しがつかんようなことはやったらいけんじゃろ? 今日は二人で街に行かせてもろたんじゃけん、それ以上のことは辛抱せんとな」
言われることは尤もだ。しかし今は誰もいないし、ちょっと唇を重ねるだけである。
「進さん、真面目過ぎるぞな。前はそこまで真面目やなかったやんか」
「前は前。今は今ぞな。旦那さんやおかみさんの期待に応えにゃならんけんな」
そこまで言われては返す言葉がない。千鶴はあきらめて進之丞に従うことにした。それに、これは進之丞が真剣である証だと受け止めた。そう思うと、千鶴は自分の態度が恥ずかしくなった。
千鶴は気持ちを入れ替えて進之丞に言った。
「進さん、いよいよじゃね」
「ん? あぁ、いよいよじゃな」
何だか気のない返事に千鶴は力が抜けた。進之丞が真剣だと思ったから自分の態度を反省したのに、進之丞は他のことでも考えていたようだ。
「進さん、何を考えておいでるん?」
「いや、別に何も」
「嘘や。何か考えよったぞな」
進之丞は苦笑すると、やっぱし信じられんのよ――と言った。
「信じられんて、おらと夫婦になることが? ほれとも、このお店を継ぐこと?」
「どっちもぞな。あしにはほのどちらも受ける資格がない」
「また、そがぁなこと言うて。進さん、おらに泣いて欲しいん?」
千鶴が泣く真似をすると、進之丞は慌てた。
「やめてくれ。お前に泣かれるんは死ぬるよりつらいけん」
「ほれじゃったら、もう悪あがきせんで、素直に自分の定めを受け入れてや」
「定めなら受け入れるが、これが定めやとは……。いや、待て待て。泣くな。泣いたらいけん」
「ほやかて、進さん、おらと夫婦になれるて喜んでくれんのじゃもん……」
べそをかく千鶴に詫びながら、進之丞は千鶴と夫婦になれるのであれば、他に何も望むものはないと言った。
「ほれやったら、もう余計なことは考えんで、おらと夫婦になることが定めなんじゃて、素直に受け入れてや」
「わかった、相わかった。もう何も言わんし、お前が言うことに逆ろうたりせん」
「ほんまに?」
「ほんまほんま」
わざとらしくうなずく進之丞に、ほんじゃあと千鶴は目を閉じ、唇を突き出した。しかし進之丞が何もしないので、千鶴は片目を開けて、逆らわんのじゃろ?――と言った。
再び千鶴が目を閉じると、進之丞はこほんと咳払いをしてから、千鶴を抱きしめた。心も体も温もりに包まれる中、千鶴の唇に進之丞の唇が重なった。千鶴は幸せで溶けてしまいそうな気分だった。
しばらくして進之丞から離れると、千鶴は辺りを見回しながらつぶやいた。
「おら、幸せやけんど、幸せやないけん。おら、幸せやけんど、幸せやないけん」
「何を言うとるんぞ?」
進之丞が怪訝そうに声をかけると、千鶴は照れ笑いをした。
「鬼さんに言うとるんよ。こがぁ言うとかんと、鬼さん、おらから離れてしまうけん」
「お前という奴は……」
進之丞は言葉に詰まると、涙をぼろぼろこぼした。それを見て、千鶴はしまったと思った。進之丞の前で鬼の話をする時は、気をつけると決めていたはずなのに、幸せ過ぎてうっかりしてしまった。
千鶴は慌てて進之丞を慰め、みんなに晴れ姿を見せようと、進之丞を部屋の外へ誘った。そうしながら、千鶴はどこかで泣いている鬼を思いやったが、これは思った以上に大変かもしれないと考えていた。