送られて来た錦絵新聞
一
進之丞は亀吉たちと同じ丁稚扱いで仕事を始めた。
丁稚の仕事は荷物運びばかりではない。朝に井戸から汲んだ水を台所の水瓶に貯めるのも仕事だ。これまで亀吉と新吉が二人で水汲みをしてきた。今月から孝平が丁稚に加わっているが、孝平は水汲みが終わった頃に起きて来るので、亀吉たちはいつものように二人で動いていた。
しかし進之丞は亀吉たちに指導を仰ぎ、二人と一緒に起き出して水汲みをした。いつもなら亀吉たちが水桶を一つずつ繰り返し運んだのだが、進之丞は一人で二つ持って運ぶので水汲み作業はすぐに終わった。早速の進之丞の働きぶりに花江も幸子も喜び、千鶴は鼻高々だ。
わざと遅れて起きて来た孝平は、花江にじろりと見られると朝寝坊をしたと言い訳をして、水汲みが終わったことを残念がった。
次に何をするのかと進之丞が教えを請うと、亀吉が茶の間の横にある廊下の雨戸を開けることや、帳場の窓を開けて拭き掃除をすることなどを教えた。続いて新吉が、それが終われば配膳の手伝いをすると言った。
進之丞は早速廊下の雨戸を開けると、雑巾を用意した亀吉たちと一緒に帳場へ向かった。その後ろを花江の目を気にする孝平が面倒臭そうについて行った。
板の間の賑やかな朝飯が終わると、亀吉たちは店を開けた。進之丞はそれを手伝いながら、同じように店の準備を始めている近所の者たちに明るく挨拶をした。
あとで亀吉たちから聞いた話では、今日から仕事が始まることについて不安がないかと問われた進之丞は、亀さんと新さんに教えてもらっているので大丈夫と答えたという。自分たちのことをそんな風に言ってくれたと亀吉も新吉も大はしゃぎだ。
一方、孝平はなかなか表には出ようとせず、表に出ても近所の者たちと目を合わせたり挨拶を交わしたりはしないそうだ。それもあってか愛想のいい進之丞はみんなに気に入られたようだが、千鶴のことを訊かれると返事に困って大笑いをされたらしい。それは千鶴にしても同じなのだが、からかわれるのは祝福されているということだろう。
土間の大八車を表に出すと、県外へ送る品を蔵から運び出す作業だ。前の日に用意した木箱を亀吉たちは一つずつ運んだが、進之丞は一度に三箱を軽々と運ぶので、運び出し作業も時間がかからなかった。
その品を載せた大八車を引くのも進之丞だ。進之丞一人でも十分な仕事だったが、亀吉と新吉が後ろを押した。これをしないとすることがなくなるし、とにかく二人は進之丞の傍にいたがった。三人は千鶴に見送られながら古町停車場へ向かった。
店に残った孝平は、街の太物屋へ届ける品を蔵から運び始めた。花江にいい所を見せたかったのか、孝平は一度に木箱を二つ抱えて運ぼうとした。渾身の力を込めた顔で一歩ずつよたよた進んだが、勝手口の敷居に足を取られて危うく転びかけた。近くにいた千鶴が咄嗟に支えたので事なきを得たが、転べば反物の箱が壊れたかもしれなかった。
孝平一人で二つの木箱を運ぶのは無理のようなので、一つは千鶴と花江が引き受けて帳場まで運んだ。忙しい女二人に手伝わせたと甚右衛門は孝平を叱りつけたが、運んで来たのが別の箱だったので孝平はさらに強く怒られた。
進之丞たちが古町停車場から戻っても、孝平の仕事はまだ終わっていなかった。そこで進之丞が手伝うと、作業はあっという間に終わってしまった。
いつもより仕事が早く終わると余裕ができる。少し他愛のない話ができて亀吉たちは楽しそうだ。孝平は隅の方でしょぼくれていたが進之丞がうまく話を振ったので、偉そうにしながらもみんなの会話に交ざることができた。
こうした気配りができる進之丞を見て、さすがだと千鶴は思った。前世でも進之丞は千鶴が村の子供たちと一緒に遊べるように取りなしてくれた。あの頃と変わらない進之丞の姿は千鶴をほっとさせた。
しばしの休息のあと、進之丞は茂七と一緒に太物屋へ注文の品を届けに行くことになった。茂七の手伝いというより、茂七の仕事を見て覚えるためらしい。
進之丞が外廻りに出ると聞いた千鶴は掃除の手を止めて、雑巾を持ったまま見送りに出た。さっきも見送りをしたのにと茂七に笑われると、進之丞は一々出て来なくてもいいと千鶴に言った。けれど、太物屋へ行くのと古町停車場へ行くのとは違うと千鶴は言い張った。
とにかく今日進之丞がすることは全部が初めてなのだから、何をやっても進之丞の晴れ舞台である。千鶴としては祝福と期待の気持ちで送り出したかった。ただ近所の者に冷やかされると、少々恥じ入る気持ちにはなった。
付き合いのある太物屋には前もって注文を取り、あとでその品を届けて廻る。しかし予想外に絣が売れて、次の納入まで待てずに品を注文しに来る店もある。また普段の付き合いがない店が、いつもと違う品を求めてのぞきに来ることもあった。
手代になると、そんな来客の注文に応じた品を即座に選んで出せなければならない。そのためには数多くある仕入れ先の絣の品質を事細かに覚えておく必要がある。丁稚は長い時間をかけて少しずついろんな知識を頭に入れるが、進之丞はできるだけ早くすべてを覚えることが求められた。
進之丞が太物屋から戻ると、甚右衛門は取り敢えずのことを教えた。進之丞は少しでも手が空くと、教えられたことを覚えるのに時間を費やした。
懸命に学ぶ進之丞の姿に触発されて、亀吉や新吉が必死になって勉強を始めると、物臭の孝平も少しはやる気を出した。けれど物覚えが得意でない孝平は、年下の亀吉たちが自分より知識があるのが癪に障るようで、すぐに腹を立ててはトミに叱られた。
一方、進之丞の手代昇格に不服がある弥七は、亀吉たちまでもが追い迫って来ると思ったのか、妙に焦った感じで仕事に精を出した。
孝平はともかく店の活気づいた雰囲気に、甚右衛門もトミも大いに満足している様子だ。そんな祖父母を見ると、千鶴も誇らしく満ち足りた気分になれた。
二
昼飯が終わると、茂七と弥七は注文取りに出かけた。進之丞も仕事を覚えるために、茂七について出た。当然、千鶴はこれも見送りに出て茂七に笑われた。
帳場では甚右衛門が他の丁稚たちに商いについて講義をした。その中には孝平も入っている。
亀吉と新吉は主の話を真剣な眼差しで聞いた。孝平も一応は真面目に話を聞いていたが、その表情を見るとどこまで話が理解できているかはわからない。
作五郎がさじを投げた以上、今更ではあるが甚右衛門は自分で孝平を育てるしかない。話しかけながら甚右衛門が孝平に向ける目には、何とか育ってほしいという切ない期待のいろがある。だが孝平はそれすら気がつかないようだ。
進之丞がいない間、千鶴は厠の掃除をした。厠の掃除は好きではないが、進之丞も将来に向けてがんばっているし、自分はおかみになるんだと思うと、汚れを拭く手に気合いが入った。
きれいになった厠に我ながら満足した千鶴は、使った雑巾を奥庭で洗った。冷たい水に手がかじかむが、今日はそんなことも気にならない。
すると、店の方から聞き覚えのある甲高い声が聞こえた。
「もうし、こちら山﨑機織さん?」
千鶴は思わずぞわりとした。坂本三津子だ。
勝手口へ行って中をのぞいてみると、茶の間で縫い物をしていたトミも、板の間の拭き掃除をしていた花江も、聞き慣れない女の声に店の方へ顔を向けている。
店と家の間には暖簾が掛けられているので、帳場に立つ者の顔は見えないが体は見える。丁稚たちの向こうに例の変わった衣装姿を見つけると、千鶴は全身に鳥肌が立った。
甚右衛門が何の用かと訊いた。三津子の風体から客ではないと判断したようだ。しかし三津子は甚右衛門の言葉を聞き流して、坊らにお土産があるんよと言った。
「うわぁ、だんだんぞなもし」
新吉の嬉しげな声が聞こえた。坊というのは新吉たちのことらしく、新吉は三津子から何かをもらったようだ。続けて亀吉も明るく礼を述べた。
「あらぁ、ごめんなさいね。日切饅頭、確か三つあるて思いよったのに二つしかなかったわ。あのお店、一つごまかしたんじゃね。まっことひどい店ぞな」
意地汚い三津子のことだ。どうせ一つはここへ来る途中で自分で食べたに違いない。
貧乏くじを引かされたのは孝平らしい。えぇ?――と孝平の悲痛な叫びが聞こえた。
「ええ歳してそがぁな物欲しがるな。そげじゃけん手代になれんのぞ」
甚右衛門のいらだった声が聞こえた。自分だけ饅頭をもらえず目をきょときょとさせている孝平の様子が目に浮かぶ。
「さっきも訊いたけんど、何の御用かな? うちは小売りはしとらんのやが」
甚右衛門の声だ。続けてすぐに三津子の声。
「幸ちゃん、おいでます? うちは幸ちゃんと同し病院で看護婦しよった坂本三津子ていうんぞなもし」
「幸ちゃん? 幸子じゃったら今はおらん。また病院で看護婦しよるけんな」
甚右衛門は素っ気なく言った。その口調にはさっさと帰れという響きがある。だけど三津子にそんなのは通じない。
「あらぁ、ほうなんですか。ほれは残念やわぁ。昨日善勝寺で千鶴ちゃんにお会いしましてね。幸ちゃんの話で盛り上がったもんじゃけん、幸ちゃんに会いとうて辛抱でけんなったんぞなもし」
三津子との話なんか一つも盛り上がってはいない。よくもまぁこんな出鱈目を平気で喋れるものだと、千鶴は呆れて聞いていた。
トミと花江は作業を再開しているが、二人とも聞き耳は立てている。きっと変なのが来たと思っているはずだ。甚右衛門もうんざりしたような声で言った。
「言うたように、あいつはここにはおらん。戻んて来るんも日暮らめぞな。会いたいんなら日曜日に来るがええ。日曜じゃったら病院も休みじゃけんな」
「ほうですか。おらんもんは仕方ないわいねぇ。ほれじゃったら、千鶴ちゃんはおいでます?」
千鶴はどきりとしたが、甚右衛門は千鶴もいないと言った。それでほっとしたのも束の間、三津子の声が千鶴を慌てさせた。
「ほんじゃあ、中で待たせてもらおうかしら」
こちらを向いた三津子の体が丁稚たちを押しのけようとするのが、暖簾の下から見えた。千鶴は持っていた雑巾を放り出すと、ばたばたと裏木戸から外へ逃げ出した。だけど外へ逃げただけで行く当てはない。かといってしばらく家には戻れないし、ここにいたら外に出て来た三津子に見つかってしまう。
店の方には行けないので、千鶴は店とは反対側の北へ向かおうとした。とにかく、ここから離れなくてはならなかった。すると、すぐ先の辻を外套を羽織った洋服姿の男があたふたと横切るのが見えた。
ぎくりとして千鶴が立ち止まると、男はすぐに戻って来て辻の真ん中で疲れたように立ち尽くした。やがて男は白いため息をつきながら千鶴の方を振り返った。やはり男は畑山孝次郎だった。
畑山は千鶴に気がつくと満面の笑みを見せた。前門のトラ、後門のオオカミである。
「これはこれは。こんな所で千鶴さんにお会いできるやなんて、これは絶対神さまのお引き合わせやな」
畑山が近づいて来たので、千鶴は店の方へ逃げようとした。畑山は慌てて追いかけながら大きな声で千鶴を呼んだ。
「ちょっと千鶴さん、待ってぇな。千鶴さんてば!」
大声で名前を呼ばれては三津子に聞こえてしまう。千鶴は立ち止まると、くるりと向きを変えて畑山の所へ駆け戻った。
「あら、戻って来てくれはったん。やっぱり千鶴さん――」
千鶴は喋る畑山の手をつかむと、そのまま走って先の辻を左へ曲がった。そこなら家から見えることはない。
「待って……。ちょっと待って……。わて……、あんまり走るんは……、得意やないよって……」
苦しそうにしながら畑山が言った。千鶴は走るのをやめると畑山から手を離した。
畑山は腰を曲げ、両手を両膝に突いた格好でしばらく息をついていた。はぁはぁと白い息が尽きることなく吐き出される。これぐらいでこんなに息が切れるなんて余程体力がないと見える。
本当なら千鶴は畑山にも近づきたくはなかった。畑山が大声を出さなければ紙屋町の通りを越えて逃げるつもりだった。今からでも逃げればいいのだが、畑山があんまり苦しげなので心配になっていた。
「畑山さん、大丈夫ぞな? うち、そがぁなるほど走ったつもりはないけんど」
畑山ははぁはぁしながら斜めに上げた顔で千鶴を見ると、にやりと笑った。
「千鶴さん、わての名前覚えててくれはったんや。嬉しいわぁ」
畑山は煙草のヤニだらけの歯を見せて笑った。吐き出す息が煙草の煙のように臭い。
千鶴が背中をさすってやると畑山は気持ちよさそうにしていたが、やがて体を起こすとぺこりと頭を下げた。
「まずはありがとさんでおます。こないだは旦さんに撃ち殺されるとこを助けてもろたのに、今日もまたえらい気ぃを遣てもらいました」
仕事は何だか怪しいが、畑山の人柄は悪くはなさそうだ。少し気を許した千鶴は、さっきは何をしていたのかと畑山に訊ねた。
「さっきというと?」
「この道を行ったり来たりしておいでたでしょ?」
見てはったん?――と畑山は恥ずかしそうに右手で頭をぽんと叩いた。
「いや、えらいとこ見られてしもたな。わて、怖い顔してましたやろ?」
「いえ、そこまでは……。ほんでも、何か慌てておいでたみたいには見えたぞなもし」
「こないだも言うたけど、千鶴さんの言葉、柔らこうてええだんなぁ。もう、言葉に人柄が滲み出てるわ」
褒められているのか、ごまかされているのかよくわからない。できれば話したくないのだろうかと千鶴が黙っていると、少しして畑山は言った。
「さっきはね、ちょっと探しとった奴を見かけたんで追いかけよったんだすわ。せやけどうまいこと撒かれてしもて、くそって思とったら千鶴さんが現れたというわけや。せやからね、きっと神さんがわてを千鶴さんに引き合わせるために仕組んだことやて、今はこない思とりまんねん」
畑山が探していたという相手は大阪の知り合いらしい。そんな相手をこんな所で見つけるなんて俄には信じられない話だが、畑山の話しぶりでは人違いだったようだ。
「お話、聞かせてもろてもよろしいやろか?」
改めて逃げることもできないので、千鶴は黙って歩いた。畑山も千鶴のあとをついて来る。千鶴が喋ってくれるのを根気よく待つつもりらしい。
道の突き当たりは阿沼美神社で、境内には幼稚園がある。入れるのは裕福な家の子供だけだ。境内にはたくさんの幼子たちがいたが、その中の一人が外へ抜け出して来た。先生は気がついていない。
千鶴は子供に近寄ってしゃがむと、境内に戻るよう話しかけた。すると子供は見慣れない千鶴に怯えたのか、固まったあと泣きだした。泣き声を聞いて他の子供たちが駆け寄って来たが、千鶴を見るとみんな驚いた顔になった。
中には千鶴を知っている子供もいて、そのことを他の子供たちに伝えたが、その言葉が千鶴を深く傷つけた。
「このひとね、にっぽんのてきなんよ」
きっと親がそんな風に子供に教えているのだろう。子供にこんなことを言われて悲しくないわけがない。千鶴が何も言えずにいるのを見て、畑山は子供に注意をしようとした。すると、その子たちをどうするつもりかと叫びながら女の先生がやって来た。先生は千鶴を見るなり、ぎょっとした顔になって声を荒らげた。
「さっさと子供たちから離れんさい! 離れんのなら警察呼びますよ!」
「ちょっと、あんた。いきなり何言うてまんねん。千鶴さんは、この子を――」
たまらず畑山が文句を言ったが、ええんですと千鶴は遮って言った。
「この子が外へ出て来たもんで、中へ戻るように言うてたぎりですけん。ほんでもご迷惑おかけしてしもたみたいですんません」
千鶴が頭を下げると、女の先生はつんと横を向いた。それから、変な人に近づいてはいけないと注意しながら子供たちを連れて行った。
ぽつりと残された千鶴に、畑山が遠慮がちに声をかけた。
「大丈夫だっか、千鶴さん」
千鶴はにっこり微笑んでみせると、いつものことぞなもしと言った。
「いつものことて――」
畑山は向こうへ行った子供たちを見遣り、悲しそうに千鶴を振り返った。
三
日曜日に三津子が再び訪ねて来ると、幸子は喜んで外へ出て行った。
先日はやはり三津子は強引に家の中へ入って来たらしい。しかしトミが一喝したので、渋々退散したということだった。それで三津子を一歩も中へ入れてはならないとトミの厳命が下されて、幸子は外で三津子と会うことになったのである。
どうして母が三津子と親しくなったのか、その理由を千鶴は聞いている。
千鶴を身籠もった時、そのことが周囲に知れて母は病院を辞めざるを得なくなった。誰もが責めるような眼差しを向ける中、三津子だけが母をかばって母の味方になってくれたそうだ。
言われてみると、あの型破りな性格だからこそ、敵兵の子供を身籠もった母をかばえたのかもしれない。関係のない者には嫌な人間に思えても、落ち込んでいた母からは地獄に仏のごとく見えたのだろう。
母の話を聞き、千鶴は母と三津子の仲を理解した。だけど自分が三津子と親しくするのは無理だと思った。
千鶴は進之丞と話がしたかった。せっかく同じ屋根の下で暮らすことになったのに、二人だけで喋る機会がない。家族に内緒で畑山の取材に応じたことや、三津子と母の関係を進之丞に聞いてほしいのに、なかなか敵わない状況だ。
進之丞は毎日動きまわっているし、動いていない時には商いの勉強をしていた。ちょっとした会話ならできても、二人でゆっくり話をする暇はない。一休みしていると思っても必ず他の者が近くにいる。とても二人だけの話などできそうにない。
丁稚扱いのうちは、進之丞に休みはない。手代になれば月初めに休みがもらえるが、使用人でない千鶴には逆に休みがない。使用人が休みの日は女中の花江もいなくなるので、千鶴はいつも以上に忙しくなる。トミが手伝ってくれても、食事の用意、洗濯、掃除、買い物などを、基本的には千鶴一人でやらねばならないのだ。
要するに進之丞が手代であろうとなかろうと、二人で落ち着いて喋る暇など夫婦になるまでは作れないのである。今にして思えば、進之丞が来た日に祖父が二人で街へ出してくれたのは、こうなることがわかっていたからに違いない。
進之丞と夫婦になれるよう日切地蔵にお願いしたのは三年後だ。つまり三年は今みたいな状態が続くのだ。お願いは一年後にしておけばよかったと、千鶴は深く悔やんだ。
それはともかく進之丞はまずまずの滑り出しである。その人柄と働きぶりは日を追うごとに周囲から認められ、そのことは千鶴を喜ばせた。
尤もすべての人間が進之丞を認めているわけではない。孝平は何かと進之丞のやることにけちをつけるし、弥七は進之丞に対して不親切だった。
けれど進之丞は二人のことをまったく意に介さず、明るく仕事に励んだ。そんな進之丞を花江はべた褒めするし、甚右衛門とトミも大きく評価していた。また、町の太物屋でも進之丞の評判はよかった。
ある朝、進之丞が亀吉たちと県外へ送る品を古町停車場まで運んでいる間に、茂七が奥庭にひょっこり顔を出した。
奥庭では千鶴と花江が洗濯の準備をしていた。茂七は二人を見つけると近くへ来て、出先での進之丞の受け具合を二人に聞かせた。
「行く店行く店でな、忠吉は独り身なんか、うちに可愛い娘がおるんやがて言われるんよ。あしなんかいっぺんもそげなこと言うてもろたことないのにな」
花江は当然という感じでうなずいた。
「そりゃあ言われるだろうねぇ。忠さん、男前で優しいしいろいろ気配りもできる人だもん。もちろん茂さんもいい男だけどさ。やっぱり若いってぇのがいいんだろうね。あれで喧嘩も強いってわかったら、廻る先々でそこの娘とお見合いさせられちまうよ」
二人にすれば進之丞を褒めているつもりでも、千鶴は喜んで聞いていられない。
「ほれで茂七さん、お店の人らに何て言うたん?」
真顔で訊ねる千鶴に、茂七はさらりと言った。
「ほら、ちゃんと正直に言うたがな。この男は独り身ぞなもして」
えぇ?――と千鶴が悲鳴のような叫びを上げると、ほやかて仕方ないやないかと茂七は楽しげに言った。
「あしらは忠吉が千鶴ちゃんの婿さんになるとは聞かされとらんのやけん」
「ほんでも、もうちぃとうまいこと言うてくれたらええやんか」
「たとえば、どがぁに言うんぞな?」
「たとえば、えっと……、この人にはもう心に決めた女子がおるらしいで――とか」
「そげなこと、本人から何も聞いとらんのじゃけん、よう言わんで」
「ほんなん聞かいでもわかるやんか!」
まぁまぁと花江は千鶴をなだめると、茂七に訊ねた。
「それで、忠さんは何て言ったんだい?」
「今は仕事を覚えるのに必死やけん、他のことには目ぇが向かんて言いよった。ほんでも、ほれがまた向こうの旦那の気持ちをくすぐるみたいでな。仕事覚えたらいつでも娘に合わせるけん待っとるでて言うんよ」
茂七は喋りながら千鶴を横目で見た。
「うち、今度から一緒に外廻りについて行くけん!」
千鶴が半分本気で言うと、花江は驚いた顔で千鶴を見た。
「千鶴ちゃん、忠さんについて行って、お店の人たちに何て言うのさ? この人はあたしが見つけた男なんですって言うのかい?」
茂七がくっくっと笑っている。思ったとおりの千鶴の様子に笑いが止まらないようだ。
「そげなことはあしが東京へ行ってからにしてくれな。ほんでも案外人気が出るかもしれんで」
面白くてたまらない様子の茂七に、ところでさと花江は言った。
「茂さんはそんな話をわざわざ聞かせにここへ来たのかい?」
茂七は笑いを止めると、ほうじゃったほうじゃったと言った。
「ちぃと厠へ行こ思て来たぎりよ。ほしたら千鶴ちゃんがおったけん、言うてあげよて思たんやけんど、いけんいけん。早よ行かんとちびてしまわい」
茂七は慌てて厠へ向かった。
花江は茂七が千鶴をからかっただけだと言い、進之丞を心配する千鶴をなだめた。
「だけどさ、それだけ忠さんがみんなから気に入られたってことなんだから、いいことじゃないか。それに忠さんは浮気するような人じゃないだろ?」
千鶴がうなずくと、だったら何も心配いらないよと花江は笑った。それでもまだ千鶴がそわそわしていると、忠さんが信じられないのかいと花江に活を入れられた。
「忠さん、一生懸命仕事を覚えてるんだからさ。千鶴ちゃんも自分がやるべきことをやんないと」
花江の言うとおりだと反省した千鶴は、たらいの水に手を入れた。冷たい水が目を覚ましてくれるようだ。
「でもいいよね、好きな人と一緒にいられるってさ」
隣にしゃがんだ花江は千鶴に微笑みかけると、たらいの水の冷たさに身震いした。
四
忙しい日々を送っているうちに、月が変わって二月になった。
月初めは使用人が休みの日なので、花江は街へ出かけた。この日は金曜日なので病院勤務の母もいない。家事は千鶴が一人でこなさなければならなかったが、嬉しいことに進之丞が亀吉や新吉と一緒に千鶴を手伝ってくれた。もちろん孝平は知らんぷりだ。
丁稚の仕事には家事の手伝いもある。だから進之丞たちが千鶴を手伝うのは当然なのだが、商いの仕事があればそちらが優先だ。この日は外廻りの仕事はないし仕入れの絣も届かないが、直接店に注文をしに客が来るかもしれなかった。甚右衛門やトミが用事を言いつけることもあり、丁稚たちがいつでも千鶴を手伝えるわけではない。
そうはいっても、普段と比べると丁稚の仕事は限られており、やることといえば家のことが中心だ。思いがけず進之丞と一緒にいられることになった千鶴は大喜びだ。
甚右衛門やトミも何か用事があれば亀吉たちを呼び、進之丞には声をかけなかった。それで千鶴は進之丞と二人きりになれたので、やっと畑山や三津子の話を進之丞に聞いてもらうことができた。
畑山については、千鶴が考えて決めたのであればそれでいいと進之丞は言った。また千鶴が畑山を信用したのなら、きっと畑山はそういう人間なのだろうと言ってくれた。
三津子については幸子との関係は理解しながらも、あまり関わらない方がいいというのが進之丞の考えだった。千鶴もまったく同意見なので、旧友との再会を喜ぶ母には言えないが、とにかく三津子とはできるだけ距離を置くことにした。
それにしても進之丞と一緒に過ごせる日が来るとは思いも寄らず、千鶴にとっては実に嬉しい日となった。ただ、外廻りで太物屋の主が娘を引き合わせようとしても絶対に断ってと、進之丞に釘を刺すことは忘れなかった。
進之丞は笑い、あしの心に住まう娘はお前ぎりぞと言った。千鶴はやっと安心したが、それでも他の娘には近づかないでと念を押した。
相わかったと素直にうなずいた進之丞は、微笑みながら千鶴を見つめた。その目は千鶴を面白がっているみたいだったが、何だか悲しそうにも見えた。うろたえた千鶴はこの話はおしまいと言い、お昼の支度の手伝いを進之丞に頼んだ。
進之丞が働くようになってから、店の雰囲気は大きく変わった。店が大変な状況にあるのは同じだが、必死さが薄まり明るさが増した感じだ。
不真面目な孝平も自分だけが置いてけぼりになるのが嫌なのか、少しは働く姿勢を見せるようになった。また弥助もここのところ以前とは様子が違うようだ。
お茶を淹れてもらうと誰もが喜び、孝平でさえ偉そうにしながら笑みを見せる。しかし弥助は表情に乏しく、一応の会釈はするものの、喜んでいるのかどうかがわからなかった。それが近頃は千鶴がお茶を持って行くと、ちゃんと顔を上げてねぎらいの言葉をかけるのである。また千鶴が近くにいると、ちらちらと千鶴の様子を窺うのだ。
そんな弥七について、千鶴は花江が洗濯物の取り込みを手伝ってくれた時に話してみた。すると、花江も弥七の変化には気づいていて、やっぱりねぇと言った。何がやっぱりなのかと訊ねると、言ってもいいのかねぇと花江は迷った顔を見せた。
そこまで言うなら言ってほしいとせがむと、勘違いかもしれないからねと花江は前置きをしてから喋った。
「前からね、何となくそうなんじゃないかって思ってたんだけどさ。弥さんは千鶴ちゃんのことが好きなんだよ。でも忠さんが来たもんだから、張り合う気になったんじゃないのかな」
そんなはずはないと、千鶴は即座に花江の言葉を否定した。そして、弥七が自分に対してどれだけ素っ気ない態度を取り続けていたのか説明した。すると花江は、弥七が千鶴を嫌っているのであれば、今みたいな態度は見せたりしないと言った。
「旦那さんたちのことだってそうだったろ? 千鶴ちゃんは自分が大事にこなかったって信じてたけど、実際は旦那さんもおかみさんも千鶴ちゃんのことを大事に思ってくれてたんじゃないか」
そう言われると返す言葉がない。
人は時々本音とは真逆の態度を見せることがあるものだと、花江は言った。
「ただね、千鶴ちゃんは忠さんを好いてんだろ? こんな話聞かされたって困るじゃないか。だから言おうか言うまいか迷ったんだよ。でもさ、喋っといてこんなこと言うのは何だけどさ。あたしの思い違いってこともあるから気にしないでおくれよ」
気にするなと言われても手遅れだ。言われてみると、確かに弥七がそんな気になっているように思えてくる。甚右衛門に撃ち殺されそうになった畑山を、外へ逃がすよう頼んだ時の弥七の様子はそれまでとは違っていた。
千鶴は困ってしまった。こんなことなら花江に話すのではなかったと後悔したが、もうあとの祭りである。
「ほらほら、さっさと洗濯物を畳んじまわないと、次の仕事が待ってるよ」
花江に促され、千鶴はもやもやしながら両手に抱えた洗濯物を家の中へ運んだ。
五
数日後、大阪から一通の封筒が送られて来た。勧商場へ鉛筆を買いに出ていた千鶴が戻った時に、ちょうど郵便屋が来たので千鶴が受け取ってそのまま帳場に入った。
午後だったので茂七と弥七は外廻りに出ているが、進之丞は帳場の奥で注文書を見ていた。まだ丁稚扱いではあるが、実質的には手代の仕事もさせてもらっているわけだ。恐らく近いうちに手代として認められるのだろう。千鶴は胸が弾んだ。
「おじいちゃん、大阪の作五郎さんからぞなもし」
千鶴は甚右衛門に封筒を渡した。続けて買って来た鉛筆の一本を手渡そうとしたが、甚右衛門は先に封筒を開け、中身を確かめて顔をゆがめた。
甚右衛門が手にした紙には鮮やかな色の絵が描かれていた。ちらりと見えたのは獣を踏み潰した大きな足だ。足の下に真っ赤な血が広がっている。もしや畑山が書いた錦絵新聞ではと千鶴は焦ったが、のぞき込むわけにはいかない。
不安な気持ちで進之丞の傍へ行った千鶴は、進之丞にねぎらいの言葉をかけた。千鶴は家事が仕事なので、用事がなければ帳場には出て来ない。だから仕事に打ち込む進之丞の姿が見られるのは嬉しいことだ。進之丞に微笑まれると胸に喜びが広がるが、それでも錦絵新聞のもやもやは残っている。
進之丞と少し喋っていると、後ろで紙をびりびり破く音がした。驚いて振り返ると、甚右衛門が破いた紙を捻って封筒に詰め込んでいた。さらに封筒を絞るように捻った甚右衛門は、それを手元の火鉢で燃やそうとした。すると、甚さんおるかな――と同業組合の組合長がひょっこり顔を出した。
甚右衛門は捻った封筒を慌てて引っ込めると、後ろに隠して組合長に顔を向けた。
「しばらく顔見とらんが、元気にしよったかい」
声をかけた組合長に、甚右衛門は引きつった笑顔で応じた。
「元気、元気。このとおりぞな」
「辰さんは、まだ戻らんのかな」
「まだやが、春頃には戻すつもりよ。忠吉もほとんど一人前やけん、もう直ぞな」
組合長が顔を向けた時に、進之丞も千鶴も頭を下げた。それが同時だったので組合長は楽しげに笑った。
「もう、すっかり夫婦やな」
こんな嬉しい言葉はない。照れる千鶴に組合長は言った。
「千鶴ちゃん、足踏み式の織機、知っとるかな」
「足踏み式ですか? 最近、新しい織機を使うことになったて耳にはしましたけんど」
「ほれよ。あれはな、なかなかええぞな。あれじゃったら素人でもほいほいできらい」
進之丞が千鶴に顔を向けたが、何の話かを説明できないまま千鶴は組合長に言った。
「そがぁにええもんなんですか」
「これまで一日一反こさえよったんが、あれ使たら二反でける」
「へぇ、ほれはがいですねぇ」
「ほうじゃろ? こさえた分、ばんばん売れたら儲からい」
「そがぁなったら、ええですね」
笑顔で応えた千鶴は進之丞を振り返り、これまでの織機は手で織っていたけれど、今度の足を使う織機は作業効率が二倍になると説明してやった。進之丞は感心してうなずき、ほれはがいじゃなと言った。
千鶴は甚右衛門にお茶を淹れて来ますと声をかけると、店の奥へ行こうとした。すると、甚右衛門がえへんと咳払いをした。見ると、後ろ手に持った捻り封筒を千鶴に向けてゆらゆら動かしている。
千鶴が傍に寄ると甚右衛門は顔を近づけて、わかっとるなと小声で言った。何の話かと思ったが、さっきこれをどうしようとしていたのか見ていたな、という意味だと千鶴は受け止めた。同時に、してはいけないことが咄嗟に頭に浮かんだ。
「甚さん、何ぞな、ほれは?」
千鶴が捻った封筒を受け取るのを見て組合長が言った。
「いやいや、何でもない。ほれより何ぞ話があるんかな?」
甚右衛門は話を逸らしながら、千鶴には早く行けと手を動かした。
組合長は怪訝な顔をしながら、ほれがなと言った。
「湊町の絣問屋の越智絣を知っとろ?」
「あぁ、老舗やな」
「そこの親爺が女に騙されたそうでな。店の金を持て行かれたらしいぞな」
「女に金を?」
「ほれで店が潰えることになったんよ」
「何ぞ、ほれは? どがぁしたら、そげなことになるんぞ」
進之丞は話が聞こえているだろうに、全然興味なさげに注文書をめくっている。
一方、千鶴は封筒の中身が気になりながらも、祖父たちの話にも耳が向いてしまう。暖簾をくぐった所で立ち止まったまま、つい話を盗み聞いていた。
「あそこの親爺は真面目で評判やったと思うがな」
「ほれが禍して、女に夢中になってしもたかい。真面目な奴ほどいったん崩れたら歯止めが効かんけんな」
「ほらまた気の毒いうか、愚かないうか――」
立ち聞きしている千鶴に気づいた甚右衛門は土間へ身を乗り出して、早よ行かんかなと追い払うかのごとくに言った。顔は暖簾で隠れていても、体は帳場から丸見えだ。組合長が笑いながら、忠吉が笑いよるぞと暖簾越しに千鶴に言った。
千鶴は何も言えずに恥じ入りながら奥へ下がったが、また組合長が大笑いをした。
「今度は何を笑われたんだい?」
台所にいた花江が面白そうに言った。
「組合長さんは何しても笑うんよ」
千鶴が口を尖らせると、おや?――と花江は千鶴の手元を見て言った。
「それは何だい?」
千鶴は捻った封筒を掲げて見せた。
「おじいちゃんが読み終わった手紙ぞな。もういらんけん燃やすようにて」
そう言われたわけではないが、絶対にそういう意味だ。もちろん千鶴は中身を燃やすつもりはない。
「ふーん、手紙をすぐに燃やすなんて何だろね」
花江は興味津々だが、店の主の手紙だ。中身を確かめることはできない。少し残念そうにしながら、茶の間の火鉢で燃やせばいいよと言った。
茶の間にトミの姿はない。孝平を連れて雲祥寺へ出かけている。亀吉と新吉は奥庭で干していた洗濯物の取り込み最中だ。
「うち、ほの前にちぃと厠へ行てくるけん」
厠へ行くふりをして千鶴が離れへ向かうと、亀吉たちが洗濯物をつかんで口喧嘩をしていた。見かねた千鶴は渡り廊下から二人に声をかけ、厠を通り過ぎるとその向こうにある離れの部屋に滑り込んだ。
静かに入り口の障子を閉めると、千鶴は急いで捻られた封筒を広げた。
祖父への手紙を盗み見るなど断じてやってはいけないことだ。それでも千鶴は確かめてみたかった。けれど手がぶるぶる震えて中の紙がうまく出せない。封筒を逆さまにして勢いよく上下に振ると、落ちるように紙片が出て来た。拾い上げてみると、紙片には色鮮やかな絵や細かい文字が書かれている。やはり錦絵新聞のようだ。
畑山に捕まったあの日、いや、正確には千鶴が畑山を捕まえたのだが、千鶴は畑山に訊かれたことに素直に答えた。覚悟を決めた上でのことだったが、旅費が底をついて大阪へ戻るしかない畑山が気の毒に思えたというのもあった。
畑山は誰から話を聞いたとは明かさなかった。けれども話の出所を考えると、女子師範学校の生徒に取材したとしか思えなかった。そこまで知っている相手に白を切っても仕方がないので、畑山が知っていそうなことには、そのとおりだと言い、知らなさそうなことには、わからないと答えた。
また取材よりも体を大事にと畑山を気遣うと、畑山はしんみりした様子で千鶴に礼を述べ、この親切は忘れないと言った。その言葉は千鶴には迷惑をかけないという意味に聞こえたが、畑山が実際にどんな記事を書いたのか、千鶴は知りたかった。もしかしたら自分は浅はかなことをしたのかもしれず、そこをどうしても確かめたかった。
千鶴は紙片を部屋の隅に畳んだ布団の下へ突っ込むと、空になった封筒を改めて捻り直して茶の間へ戻った。
胸の中は走ったあとみたいにどきどきしている。体はがちがちに強張って、捻った封筒を持つ手が震えてしまう。心臓の拍動が耳の中で聞こえ頭が痛くなりそうだ。
千鶴が戻ったのを見て、花江が茶の間に上がって来た。封筒を燃やすところを眺めるつもりだろう。来てほしくはないが、来るなとは言えない。
千鶴が火鉢の横に屈むと、花江もすぐ傍に座った。
火鉢の上では、鉄瓶が湯気を立てている。千鶴は鉄瓶の下へ捻った封筒を差し入れた。封筒を持つ手が震えている。花江に気づかれないかと気になったので、すぐに封筒を離して手を引っ込めた。端に火がついた封筒は、鉄瓶の下でゆっくりめらめらと燃えていく。その様子を眺めながら、花江がぽそりと言った。
「ずいぶん薄っぺらい封筒だね。さっきはもうちょっと厚みがあったように見えたんだけどさ」
千鶴はぎくりとした。花江の観察力は大したものだ。確かに封筒は中身が抜かれた分、さっきよりも貧弱に見える。ほうかなと答えたものの、花江に目は合わせられない。
封筒の火はどんどん大きくなったが、すぐに小さくなりやがて消えた。中身があればもっと燃えるはずだし、燃える中身がちらりと見えただろう。けれど封筒は空っぽなので、炎はわずかな灰を残してあっけなく消えてしまった。
花江はその小さな炎をじっと見ていたが、封筒が燃え尽きるとその目を千鶴に向けた。微笑むわけでなく、ただ観察するように千鶴を見つめている。
「な、何? 何ぞ顔についとるん?」
千鶴がうろたえて顔を両手で押さえると、花江はにっこり笑い、なぁんもと言った。
洗濯物を抱えた亀吉と新吉が、互いを押し合いながら騒々しく入って来た。
「ほらほら、喧嘩したらだめだよ」
花江は腰を上げると、亀吉たちに注意しながら台所へ戻った。
花江に気づかれたのではないかと不安になった千鶴は、どきどきしながら燃やした封筒の灰を眺めていた。しかし帳場から組合長の声が聞こえると、組合長へお茶を淹れることを思い出して立ち上がった。
六
夕飯の支度を始める前に、千鶴はこっそり離れの部屋へ行った。
周りに誰もいないのを確かめた千鶴は、するりと離れに入って布団の下に隠していた紙片をかき出した。あまり暇がないので急がねばならないが、緊張で手が震えるのでなかなかうまく破れ目を合わせられない。焦りながら何とかつなぎ合わせた四枚の紙は、一枚の手紙と三枚の錦絵新聞だった。大阪錦絵新報とあるので畑山が書いたものだ。
どきどきする胸を押さえながら、千鶴はまず手紙を読んだ。作五郎の名で風寄のことが書かれた錦絵新聞を見つけたので送ると、簡略な文だけが書かれている。
日付から一枚目と思われる新聞は、甚右衛門の手にあるのがちらりと見えたものだ。大きな毛むくじゃらの足にイノシシが頭を踏み潰され、その脇に神輿やだんじりを担ぐ人々の姿が描かれている。
記事には伊予国の風寄で祭りの最中に、山の主のイノシシが村の外れで頭を潰されて死んでいたとある。目撃した者の証言として死骸の大きさや様子が説明され、近くにはイノシシの頭を踏み潰したと思われる化け物の足跡らしきものもあったと書いていた。
あの血溜まりの傍にあった窪みのことなのか。あるいは川向こうの丘陵や畑の崩れた所のことを言っているのか。春子は気にしなかったが、村人たちの中にはあれを怪しいと見た者もいるようだ。そのことは千鶴を動揺させた。
記事は最後に、村人たちから忘れ去られた鬼よけの祠が、この事件が起こる少し前に台風で壊れたことを伝え、果たしてそれが事件と関係があるのだろうかと括っていた。
二枚目には、墓を掘り起こして死骸を貪る女の鬼の姿が描かれていた。
記事にはヨネが喋っていた鬼娘の説明があり、鬼娘は法生寺という寺にいたとまで書かれてあった。また、仲間の鬼を呼んだ鬼娘は住職を殺した上に寺に火をつけたが、結局は侍たちに殺されて鬼よけの祠に封印されたと出鱈目な記述がされている。だが記事を読んだ者に真偽はわからない。
その鬼よけの祠が台風で壊れたあと、イノシシの事件が起こったと記事は訴え、同じ日にヨネが再び鬼娘を目撃したと伝えていた。これはもちろん千鶴のことだ。
三枚目には、嵐の中で恐ろしげな顔をした鬼が家の屋根を壊す絵が描かれていた。これは兵頭の家の話だ。
兵頭のことは風寄に暮らす伊予絣の仲買人と説明され、兵頭と家人数名が怪我をした他、牛が死んだと書かれてある。また、兵頭は壊れた屋根越しに巨大な鬼の姿を見たとあるが、これは完全な作り話だ。兵頭は化け物の声は聞いたが姿は見ていない。
絵に描かれた鬼の口には牛がくわえられている。牛は驚いて死んだらしいが、錦絵新聞には牛がどうして死んだとは書いていない。この絵を見た者は鬼が牛を喰い殺したと思うはずだ。
鬼に家を壊されたのは兵頭だけで、何故兵頭の家だけが襲われたのかと記事は疑問を投げかけていた。また、続く化け物事件に村中が恐怖に戦いているが、鬼や鬼娘が再び封じられるまで同様の事件は繰り返されるだろうと述べて記事は終わった。
記事を読み終えた千鶴は、やはり畑山に話すべきではなかったかと後悔していた。
恐らく千鶴が喋らなくても畑山は記事を書いただろうが、そこにわざわざ加担した形になったことが千鶴はつらかった。
畑山は千鶴にお祓いの婆の話を確かめた。しかし、そのことはどこにも書かれていない。甚右衛門が鬼よけの祠の再建にお金を寄付したという話も載っていない。風寄で意識を失った千鶴が法生寺で発見された話も畑山は書かなかった。
記事にするには話がまとまらなかったのかもしれないが、畑山は自分たちを気遣ってくれたのだと思いたかった。だがいずれにせよ畑山は鬼の存在を確信し、自信を持ってこれらの記事を書いたに違いない。
大阪の人間にとっては、ここに書かれたことはただの面白い話かもしれない。けれど、現地に暮らす者にとっては他人事ではない。
千鶴は鬼娘と疑われて女子師範学校をやめることになった。学校での騒動がどう決着したのかは知らないが、級友だった者たちは騒動の説明として、千鶴のことを親に話していると思われる。その親がこの錦絵新聞を目にしたならどうなるのだろう。忘れ去られたはずの話が、大きな噂となって街中に広がるのではと思うと千鶴は体が震えた。
畑山はこの錦絵新聞を松山の人間が目にするとは考えていなかったのかもしれない。だが現に千鶴も甚右衛門もこうして読んでいるわけで、松山の他の誰かがこれを読むことは有り得るのだ。兵頭と山﨑機織の関係を知る者がこれを読めば、山﨑機織を巻き込んだ騒ぎになりかねない。甚右衛門が怒るのは当然だった。
七
「千鶴ちゃん、中にいるんだろ? あたしも入ってもいいかい?」
障子の外で花江の声がした。千鶴は跳び上がるほど驚き、すぐに返事ができなかった。
「ち、ちぃと待って」
千鶴は慌てて錦絵新聞を布団の下に突っ込むと言い訳を考えた。だけど何も思いつかず、どうしようとうろたえたがどうしようもない。あきらめた千鶴は胸に手を当てると、一呼吸してから障子を開けた。
「千鶴ちゃん、ここで何をしてたのさ」
部屋をのぞき込んだ花江は中を見まわしながら言った。やはり千鶴の様子に何かを疑ったようだ。だけど掃除をしていたとは言えないし、着替えをしていたとも言えない。
千鶴が答えに迷っていると、目線を落とした花江が、おや?――と言った。花江の視線を追うと、布団の下から錦絵新聞の紙片の一部が顔をのぞかせている。千鶴の顔から血の気が引いた。
「これは何だい?」
花江はしゃがみ込んで、その紙片を摘まみ上げた。そこには錦絵の一部が描かれている。千鶴は覚悟を決めるしかなかった。
「花江さんには教えるけん、誰にも言わんでつかぁさい」
千鶴が懇願すると、花江はわくわくした様子で何度もうなずいた。千鶴は布団の下から紙片を全部かき出して、目を丸くしている花江に言った。
「これな、さっきの封筒に入っとった錦絵新聞なんよ」
「錦絵新聞? そういやぁ、あの猟銃騒ぎの時に千鶴ちゃんがかばってた人が、そんなこと言ってたよね?」
あんな騒ぎの中で畑山が口にした言葉を、花江はちゃんと覚えていた。どうしたって花江はごまかせないと改めて思った千鶴は、これはその人が作った錦絵新聞だと説明した。千鶴が破れた錦絵新聞をつなぎ合わせると、花江も目を輝かせながら手伝った。
つなぎ合わせが完成すると、花江は興奮した。しかし記事の内容が以前に千鶴と春子から聞かされた話だとわかると、驚いた顔で千鶴を見た。
「これ、あの話じゃないか」
千鶴はうなずくと、大阪の作五郎さんがこんな物が出まわっていると、祖父に送ってよこしたと説明した。
「兵頭さんの家が壊れた話はこっちの新聞にも載ってたけど、やっぱりあれも鬼だったんだね。これは早く何とかしないと、本当に大変なことになるよ」
錦絵新聞に目を落としながら花江は言った。でも顔を上げると、だけどさと笑みを見せた。
「千鶴ちゃんと鬼が関係あるようには書かれてなかったね。旦那さんの早とちりだね」
「ほんまよ。猟銃なんぞ持ち出して、まっこと大事になるとこじゃった」
二人で少し笑ったあと、どうしてこれを燃やさなかったのかと花江は訊ねた。
「おじいちゃんが見よるんが目に入ったけん、燃やす前に見てみたかったんよ」
「そうかい。わかるよ、その気持ち」
にこりと笑った花江はもう一度錦絵を見て、これさと言った。
「法生寺って、千鶴ちゃんや幸子さんがお世話になったお寺じゃないのかい?」
うなずく千鶴に、お寺で鬼娘の話は聞かなかったのかと花江は訊ねた。
千鶴が首を振ると花江は錦絵新聞に目を戻し、ヨネが見たという鬼娘はどうなったんだろうと首を傾げた。
これは自分のことだとは話せず、千鶴はわからないと言った。それ以上は胸の中で心臓が暴れてうまく喋れない。
「それにしてもさ、何だってうちにつながりがある人が、化け物に襲われたりしたんだろうね。何か気味が悪いよ。千鶴ちゃんだって、お世話になったお寺の名前が出されたらさ、いい気持ちはしないだろ?」
千鶴は花江の言葉に動揺しながらうなずくと、この錦絵新聞をどうしようと相談した。
花江は考える素振りも見せずにさらりと言った。
「朝、竈に火を入れる時に燃やしなよ」
「でもお母さんが一緒やけん、見つかってしまう」
「じゃあさ、あたしが預かっといて燃やしとくよ。だったらいいだろ? あたしゃ一人だから誰にも見られやしないさ」
千鶴は少し悩んだ末、かき集めた錦絵新聞と作五郎の手紙の切れ端を風呂敷に包んで花江に手渡した。花江はそれを懐に仕舞ってにやりと笑うと、任せときなと言った。
「それよりさ、そろそろ夕飯のことをしないといけないからさ。あたしがこれを自分の部屋へ隠してる間、千鶴ちゃん、台所のことをやっといておくんなね」
わかりましたと千鶴はうなずいた。若干の不安は残ったものの、花江が同じ秘密の仲間になったと思うと少し気が楽になった。
それでもこれからどうなるのかと考えると、やはり心配が膨らんだ。