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送られて来た錦絵新聞

     一

 進之丞は亀吉たちと同じ丁稚扱いで仕事を始めた。
 それでも、甚右衛門やトミを驚かせるほど読み書き算盤ができたので、中身としては亀吉たちと同格ではない。
 それに進之丞は物覚えはいいし、疲れ知らずの力持ちである。いつも気持ちよく仕事をこなし、どんな相手にも笑顔を絶やさない。また、人によって態度を変えたりもしなかった。
 真面目で謙虚で、誰も見ていないからと言ってずるいことなど絶対にしない。人の陰口も言わないし、人を思いやる気持ちを持っている。
 甚右衛門やトミにすれば何も言うことはなく、仕事さえ覚えてくれれば、すぐにでも手代に昇格させるつもりのようだった。
 亀吉と新吉はそんな進之丞を兄のように慕い、東京行きが決まっている茂七も、進之丞が早く手代になるのを待ち望んでいた。
 しかし、孝平は予想どおり進之丞が気に入らず、何かにつけてけちをつけたり、進之丞の邪魔をしようとした。
 弥七は孝平のように、進之丞をおとしめようとはしなかったが、歓迎しているわけではなさそうだった。進之丞が声をかけても無視することが多いし、進之丞に仕事を教える時も、面倒臭そうにい加減な態度を見せていた。
 そんな二人の存在を、進之丞は全く気にしていないようだった。それがまた進之丞の人柄を表していると、甚右衛門やトミはもちろん、花江も進之丞をべた褒めした。
「こんな男がいただなんて、あたしゃ信じられないよ。辰蔵さんだって、鶏冠とさかに来て喧嘩になることがあるのにさ。たださんは腹を立てるってことを知らないからね。別に我慢してるって感じでもないしさ。ほんとに強い男って、あんな感じなのかしらねぇ」
 花江は千鶴と進之丞が前世で夫婦めおと約束をしていたことや、死に別れてしまったことを知らない。
 進之丞は他の者とは気持ちが全然違うのだ。千鶴と夫婦になるために、どうでもいいことに気持ちを向けたりせず、懸命にやるべきことをしているだけなのである。
 それにしても花江が言うように、孝平や弥七の態度に少しも腹が立たない、ということはないだろうにと千鶴は思っていた。
 食事も使用人は同じ板の間でとるし、寝る部屋も同じだ。四六時中、嫌な相手と一緒にいるのだから、本当のところは、進之丞もいらだちをつのらせているはずだ。
 そのことを千鶴がたずねてみると、いらだつことなどないと進之丞は言った。
「ほんまじゃったら、あしがお前と一緒におられるやなんて有り得んことぞな。ほれがこがぁしておれるんじゃけん、感謝こそすれ、いらだちや腹立ちなんぞ、これっぽっちも覚えたりはせん」
 進之丞の言葉に千鶴は胸が打たれた。そして、自分もトミのあとを引き継ぐ立場として、もっと学ばねばと気持ちを新たにした。

     二

 昼飯が終わったあと、千鶴が部屋の掃除をしていると、店の方から坂本三津子の声が聞こえた。思わず逃げたくなったが、そういうわけにもいかない。
 繕い物をしているトミも、台所にいる花江も聞き慣れない声に手を止めた。
「うわぁ、だんだんぞなもし」
 新吉の嬉しそうな声が聞こえた。三津子から何かをもらったらしい。続けて亀吉が礼を述べる声がした。
「あらぁ、ごめんなさいね。日切り饅頭、三つあるて思いよったのに、二つしかなかったわ。あのお店、一つごまかしたんじゃね。ほんまにひどい店ぞな」
 どうせ、一つはここへ来る途中で、自分で食べたに違いない。
 今日は茂七が進之丞を連れて外廻りをしている。進之丞にいろいろ教えるためだ。
 また弥七も一人で、進之丞たちとは別の店を廻っている。
 孝平は同業組合の組合長に言伝ことづてを届けるよう、さっき甚右衛門に命じられていた。孝平もいないとなると、三津子は誰に話しかけているのだろうと千鶴は考えた。するといらだったような祖父の声が聞こえた。
「ええ歳してそがぁなもん欲しがるな。ほれより早よ行かんかな」
 言われた相手の声は聞こえない。だが、恐らく孝平だろう。言われたことをまだ済ませていなかったようだ。そして、饅頭をもらい損ねたのは孝平に違いない。自分だけ饅頭をもらえず、目をきょときょとさせている孝平の様子が見えるようだ。
「ところで、何の御用かな? うちは小売りはしとらんのやが」
 また甚右衛門の声がした。続けてすぐに三津子の声が聞こえた。
さっちゃん、おいでます? うちは幸ちゃんとおんなし病院で看護婦しよった、坂本三津子言います」
「幸ちゃん? 幸子のことじゃったら、今はおらんぞな。また病院で看護婦しよるけんな」
 甚右衛門は素っ気なく言った。その口調には、さっさと帰れという響きがある。だが、三津子にそんなことは通じない。
「あらぁ、ほうなんですか。ほれは残念やわぁ。こないだ善勝寺で千鶴ちゃんにお会いしましてね。幸ちゃんの話で盛り上がったもんじゃけん、幸ちゃんに会いとうて辛抱できんなったんぞなもし」
 三津子との話など全然盛り上がってはいない。よくもまぁ、こんな適当なことを平気で喋れるものだと、千鶴は呆れて聞いていた。
 トミと花江は作業を再開しているが、二人とも聞き耳は立てているようだ。
「とにかく、あいつはここにはおらん。んて来るんも日暮らめぞな。会いたいんなら日曜日に来るがええ。日曜じゃったら病院も休みじゃけんな」
「ほうですか。おらんもんは仕方しゃあないわいねぇ。ほれじゃったら、千鶴ちゃんはおいでます?」
 千鶴はどきりとしたが、甚右衛門は千鶴もいないと言った。すると、ほんじゃあ中で待たせてもらおうかしら――と三津子の声。
 千鶴は持っていた雑巾ぞうきんを放り出すと、ちぃと出て来るけん――とトミに声をかけ、大急ぎで土間へ降りた。
 花江が驚いた顔で見ていたが、事情など説明している暇はない。
 ちらりと店の方を見ると、例の変わった衣装姿の三津子がいた。三津子は甚右衛門と押し問答をしているが、こちらを向かれたら、中にいることが知れてしまう。
 千鶴は慌てて奥庭へ出ると、裏木戸から外へ逃げ出した。
 だが、外へ逃げただけで行く当てはない。それでも、しばらく家には戻れそうにないし、ここにいたら外に出て来た三津子に見つかってしまうだろう。
 店の前の道には行けないので、千鶴は北の方へ向かおうとした。とにかく、ここから離れなくてはならなかった。
 すると、すぐ先の辻を洋服姿の男が、あたふたと横切るのが見えた。
 ぎくりとして千鶴が立ち止まると、男はすぐに戻って来て、辻の真ん中で疲れたように立ち尽くした。それから男はため息をつきながら千鶴の方を振り返った。やはり男は畑山孝次郎だった。
 畑山は千鶴に気がつくと、嬉しそうに満面の笑みを見せた。前門ぜんもんのトラ、後門こうもんのオオカミである。
「これはこれは。こんなとこで千鶴さんにお会いできるやなんて、これは絶対、神さまのお引き合わせやな」
 畑山が近づいて来たので、千鶴は店の方へ逃げようとした。畑山は慌てて追いかけながら、大きな声で千鶴を呼んだ。
「ちょっと、千鶴さん、待ってぇな。千鶴さんてば!」
 大声で名前を呼ばれては、三津子に聞こえてしまう。千鶴は立ち止まると、畑山の所へ駆け戻った。
「あら、戻って来てくれはったん。やっぱり千鶴さん――」
 千鶴は喋る畑山の手をつかむと、そのまま走って、先の辻を左へ曲がった。そこなら家から見えることはない。
「待って。ちょっと待って……。わては、あんまり走るんは……、得意やないよって……」
 はぁはぁと苦しそうにしながら畑山が言った。
 千鶴は走るのをやめると、畑山から手を離した。
 畑山は腰を曲げ、両手を両膝に突いた格好で、しばらく息をついていた。これぐらいでこんなに息が切れるなんて、余程体力がないと見える。
 本当なら、千鶴は畑山にも近づきたくはなかった。畑山が大声を出さなければ、紙屋町の通りを大林寺の方へ逃げるつもりだった。
 今からでも逃げればいいのだが、畑山があんまり苦しそうにしているので、千鶴は心配になっていた。
「畑山さん、大丈夫ぞな? うち、そがぁなるほど走ったつもりはないけんど」
 はぁはぁしながら畑山は、斜めに上げた顔で千鶴を見ると、にやりと笑った。
「千鶴さん、わての名前、覚えててくれはったんや。嬉しいわぁ」
 笑った歯が、煙草のヤニで茶色くなっている。それに吐き出す息が煙草の煙のように臭い。
 千鶴が背中をさすってやると、畑山は気持ちよさそうにしていたが、やがて体を起こすとぺこりと頭を下げた。
「まずは、ありがとさんにおます。こないだは旦さんに撃ち殺されそうになったとこを助けてもろて、今日もまた、えらい気をつこてもらいました」
 仕事は何だか怪しそうだが、畑山の人柄はそれほど悪くはなさそうだ。少し気を許した千鶴は、さっきは何をしていたのかと畑山に訊ねた。
「さっきと言うと?」
「この道を行ったり来たりしておいでたでしょ?」
 あぁと言いながら、畑山は右手で頭をぽんと叩いた。
「見てはったん? いや、えらいとこ見られてしもたな。わて、怖い顔してましたやろ?」
「いえ、そこまでは……。ほんでも、何か慌てておいでたみたいには見えたぞなもし」
「千鶴さんの言葉、柔らこうてええでんなぁ。もう、言葉に人柄がにじみ出てるみたいやわ」
 褒められているのか、ごまかされているのかよくわからない。できれば話したくないのかもしれないと思い、千鶴が黙っていると、少しして畑山は言った。
「さっきはね、ちょっと探しとった奴を見かけたんで、追いかけよったんですわ。せやけど、うまいことまかれてしもて、くそって思とったら千鶴さんが現れたというわけや。せやからね、きっと神さんが、わてを千鶴さんに引き合わせようと仕組んだことやったんかて、今はこない思とりまんねん」
 畑山が誰を探していたのか、千鶴は少し気になった。だがこの話しぶりでは、どうやら畑山は人違いをしていたのだろう。
「お話、聞かせてもろてもよろしやろか?」
 改めて逃げることもできないので、千鶴は黙って歩いた。畑山も千鶴のあとをついて来る。千鶴が喋ってくれるのを根気よく待つつもりらしい。
 道の突き当たりは阿沼美神社で、境内には幼稚園がある。幼稚園には誰もが入れるわけではない。裕福な家の子供だけだ。
 境内にはたくさんの幼子たちがいたが、その中の一人が外へ抜け出して来た。先生は気がついていないらしい。
 千鶴は子供に近寄ると、しゃがんで境内に戻るよう話しかけた。すると、子供は見慣れない千鶴におびえたようで、固まったあと泣き出した。その泣き声を聞いて、他の子供たちが駆け寄って来たが、やはり千鶴を見て、みんな驚いた顔をした。
 中には千鶴を知っている子供もいて、そのことを他の子供たちに伝えたが、その言葉が千鶴を深く傷つけた。
「このひとね、にっぽんのてきなんよ」
 きっと親がそういう風に、子供に教えているのだろう。
 さらにそこへ現れた女の先生が、子供をどうするつもりかと、千鶴の話も聞かないで、いきなり決めつけたように言った。その目は人さらいでも見るようだ。
「ちょっと、あんた。いきなり何言うてまんねん。千鶴さんは、この子を――」
 たまらず畑山が文句を言おうとしたが、ええんです――と千鶴はそれを遮った。
「この子が外へ出て来たもんで、中へ戻るように言うてたぎりですけん。ほんでも、ご迷惑おかけしてしもたみたいで、すんません」
 千鶴が頭を下げると、女の先生は何も言わず、子供たちを連れて行ってしまった。
 ぽつりと残された千鶴に、畑山が遠慮がちに声をかけた。
「大丈夫でっか、千鶴さん」
 千鶴はにっこり微笑んでみせると、いつものことぞなもし――と言った。
「いつものことて――」
 畑山は言葉が続かず、向こうへ行った子供たちを見ると、悲しそうに千鶴を見た。

     三

 次の日曜日、三津子が再び訪ねて来ると、幸子は喜んで外へ出て行った。
 先日は、やはり三津子は強引に家の中へ入って来たらしい。しかしトミが一喝したので、渋々退散したと言うことだった。
 それでこの日は三津子を一歩も中へ入れてはならないと、トミの厳命が下されて、幸子は外で三津子と会うことになったのである。
 三津子と初めて会った日に、千鶴は母に三津子の話をした。幸子はとても喜び、三津子が同じ病院で働いた仲間だったと言った。
 三津子の言ったのは本当だったのかと、千鶴は驚くと同時に、あんな女のどこがいいのだろうと、喜ぶ母をいぶかしんだ。
 あの人は他の人の饅頭を勝手に食べてしまう図々しい人間だと、千鶴は訴えた。だが、幸子はその話を笑って聞き流した。
 それでも千鶴が納得が行かないと言うと、幸子は自分が三津子を信頼している理由を説明した。
 幸子が千鶴を身籠もった時、それが周囲に知れると、幸子は病院を辞めざるを得なくなった。誰もが幸子を責め、幸子は居たたまれなくなったと言う。
 そんな時に三津子だけが幸子をかばい、幸子の味方になってくれたそうだ。
 言われてみると、あの型破りな性格だからこそ、敵兵の子供を身籠もった母をかばうことができたのかもしれない。
 関係のない者から見たら嫌な人間に思えても、落ち込んでいた母から見れば、地獄に仏のように思えたのだろう。
 母の話を聞き、千鶴は母と三津子の仲を理解した。だが、自分が三津子と親しくするのは、やはり無理だと思った。
 千鶴は進之丞に三津子や畑山のことを話したかった。しかし進之丞は毎日動き回っていて、千鶴とゆっくり話をする暇がなかった。
 一休みしている時も、必ず他の者たちが近くにいるので、二人だけで話をする機会を持つことはできない状況だった。
 丁稚扱いのうちは、進之丞に休みはない。
 手代になれば、給金をもらえる月初めに休みがもらえるが、使用人でない千鶴には、逆に休みがない。その時には、女中の花江も休みになるので、千鶴はいつも以上に忙しくなる。
 トミが手伝ってくれても、食事の用意、洗濯、掃除、買い物などを、基本的には千鶴一人でやらねばならない。
 どっちにしても進之丞と二人で喋る暇など、夫婦になるまでは作れそうになかった。
 今にして思えば、進之丞が来た日に祖父が二人で町へ出してくれたのは、こうなることがわかっていたからに違いなかった。
 二人が夫婦になれる日まで、こんな感じが続くのだろう。
 進之丞と夫婦になれるよう、日切り地蔵にお願いしたのは三年後である。つまり、三年間はこのような状態が続くわけで、お願いは一年後にしておけばよかったと、千鶴は深く悔やんだ。

     四

 二月の初め頃、千鶴がお茶を帳場に運んだ時、帳場の向こうで弥七が注文書をめくっていた。
 千鶴が来たのに気がつくと、弥七は顔を上げて千鶴を見た。そのあとすぐに注文書をめくったが、またちらりと千鶴を見る。それで千鶴を目が合うと、慌てたように注文書に目を戻した。
 甚右衛門にお茶を配ったあと、千鶴は弥七にもお茶を配った。それに対して弥七はちゃんと顔を上げ、素っ気ないものの、千鶴にねぎらいの声をかけた。最近の弥七はいつもこんな感じだ。
 そんな弥七の様子を、千鶴は洗濯物の取り込みを手伝ってくれた花江に話した。
 弥七の変化には花江も気がついていたようで、やっぱりねぇと花江は言った。
 何がやっぱりなのかと訊ねると、花江は千鶴の顔を見ながら、言ってもいいのかねぇ――と言った。
 そこまで言うなら言って欲しいと千鶴がせがむと、勘違いかもしれないからね、と花江は前置きをしてから言った。
やっさんはね、千鶴ちゃんのことが好きなんだよ。前からね、何となくそうなんじゃないかって思ってたんだけどさ。たださんが来たもんだから、張り合う気になったんじゃないの」
 そんなはずはないと、千鶴は即座に花江の言葉を否定した。続いて、弥七が自分に対して、どれだけ素っ気ない態度を取り続けていたのか説明した。
 しかし、弥七が千鶴を嫌っているのであれば、今のような態度を見せるはずがないと花江は言った。
「旦那さんたちのことだって、そうだったろ? 千鶴ちゃんは、ずっと自分が大事にされていないって信じてたみたいだけどさ。実際は旦那さんもおかみさんも、千鶴ちゃんのことを大事に思ってくれてたんじゃないのかい?」
 そう言われると返す言葉がない。
 人は時々本音とは真逆の態度を見せることがあるものだと、花江は言った。
「ただね、千鶴ちゃんは忠さんを好いてんだろ? こんな話聞かされたって困るじゃないか。だから、あたしゃどうしようかなって迷ったんだよ。でもさ、喋っといてこんなこと言うのは何だけどさ。あたしの勘違いってこともあるから、気にしないでおくれよ」
 気にするなと言われても手遅れである。言われてみると、確かに弥七がそんな気になっているように思えて来る。しかし、だからと言って、どうすることもできない。千鶴の心は決まっている。
 それでも千鶴は困ってしまった。こんなことなら花江に話すのではなかったと後悔したが、もうあとの祭りである。
「ほらほら、さっさと洗濯物を畳んじまわないと、次の仕事が待ってるよ」
 花江にうながされ、千鶴は両手に抱えた洗濯物を、急いで家の中へ運んだ。

 数日後、大阪から一通の封筒が送られて来た。
 帳場にいた甚右衛門は、封筒の中身を確かめると顔をゆがめた
 午後だったので、茂七も弥七も外廻りに出ている。
 帳場の向こうで進之丞が注文書を見ているが、これは手代の仕事である。進之丞はまだ手代にはなっていないが、実質的には手代の仕事もさせてもらっているわけだ。恐らく、近いうちに手代として認められるのだろう。
「おじいちゃん、お茶をどうぞ」
 千鶴がお茶を配っても、甚右衛門は見向きもしなければ、声もかけない。封筒に入っていた数枚の紙に、目が釘付けになっている。
 甚右衛門は他の者には見えないようにしながら、その紙を見ていた。しかし、千鶴にはきれいな絵がちらりと見えた。それがどんな絵なのかはわからないが、畑山に見せられた錦絵新聞に似ている。
 もしやと思って千鶴がどきどきしていると、案の定、紙をめくる甚右衛門の顔は、みるみる赤くかつ険しくなった。
 どうしようと思いながら千鶴が進之丞にお茶を配ると、甚右衛門は読んでいた紙をびりびりと破って、封筒の中に詰め込んだ。そして、その封筒を絞るようにねじると、手元の火鉢で燃やそうとした。
「甚さん、おるかな」
 同業組合の組合長がひょっこり顔を出した。甚右衛門は捻った封筒を慌てて後ろに隠した。
「しばらく顔見とらんが、元気にしよったかい」
「元気、元気。このとおりぞな」
 甚右衛門は引きつった笑顔で応じた。
「辰さんは、まだ戻らんのかな」
「まだやけんど、春頃には戻すつもりよ。忠吉もほとんど一人前やけん、もうじきぞな」
 進之丞と千鶴が頭を下げるのが同時だったので、組合長は楽しげに笑った。
「もう、すっかり夫婦やな」
 こんな嬉しい言葉はない。照れる千鶴に組合長は言った。
「千鶴ちゃん、足踏み式の織機おりき、知っとるかな」
「足踏み式ですか? 最近、新しい織機を使うことになったて、耳にはしましたけんど」
「ほれよ。あれはな、なかなかええぞな。あれじゃったら素人でもほいほいできらい」
「そがぁにええもんなんですか」
「これまで一日一反こさえよったんが、あれ使つこたら二反でける」
「へぇ、ほれはがいですねぇ」
「ほうじゃろ? こさえた分、ばんばん売れたら儲かるぞな」
「そがぁなったら、ええですね」
 進之丞は何の話なのか、よくわからない様子だった。
 千鶴はこれからは新しい織機で、これまでの倍の伊予絣を作ることができるようになると、進之丞に説明してやった。
 それから織機の話をする甚右衛門と組合長に、またお茶をれて来ますと声をかけた。胸の中では、祖父に送られて来た錦絵新聞が気になっている。
 千鶴が甚右衛門の脇を通ろうとした時、甚右衛門がえへんと咳払いをした。見ると、後ろ手に持った捻り封筒を、千鶴に向けてゆらゆらと動かしている。
 千鶴がそばに寄ると甚右衛門は顔を近づけて、わかっとるな――と小声で言った。
 何の話かと思ったが、さっき自分がこれをどうしようとしていたのか見てわかっているだろう、という意味かと千鶴は考えた。
 同時に、してはいけないことが咄嗟とっさに頭に浮かんだ。
「甚さん、何ぞな、ほれは?」
 千鶴が捻った封筒を受け取るのを見て、組合長が言った。
「いやいや、何でもない。ほれより、何ぞ話があるんかな?」
 甚右衛門は話をらそうとしながら、千鶴には早く行けと手を動かした。
 組合長は怪訝けげんそうにしながらも、ほれがな――と言った。
「湊町の絣問屋の越智おち絣を知っとろ?」
「ああ、老舗やな」
「そこの親爺が女にだまされたそうでな。店の金を持って行かれたそうな」
「女に金を?」
「ほれで、店が潰れることになったんよ」
「何ぞ、ほれは? どがぁしたら、そげなことになるんぞ」
 進之丞は話が聞こえているだろうに、全然興味がなさそうに仕事をしている。
 一方、千鶴は封筒の中身が気になりながらも、祖父たちの話にも耳が向いてしまう。店の奥に入った所で立ち止まった千鶴は、そこで話を聞いていた。
「あそこの親爺は真面目で評判やったと思うがな」
「ほの真面目がわざわいして、女に夢中になってしもたんじゃろ。真面目な奴ほど、いったん崩れたら歯止めが効かんけんな」
「ほらまた気の毒言うか、愚かな言うか――」
 立ち聞きしている千鶴に気づいた甚右衛門は、土間へ身を乗り出して、さっさと行けと追い払うように言った。
 進之丞がふっと笑うのが見えて、千鶴は恥じ入りながら奥へ下がった。

     五

「おや、それは何だい?」
 台所へ戻った千鶴の手元を見て、花江が言った。
「おじいちゃんが読み終わった手紙ぞな。もういらんけん、燃やすようにて」
 直接そう言われたわけではないが、そういう意味に違いない。もちろん千鶴は、中身を燃やすつもりはない。
「ふーん、手紙をすぐに燃やすなんて、何だろね」
 花江は興味津々の様子だが、中身を確かめるわけにはいかず、茶の間の火鉢で燃やせばいいよと言った。
 茶の間にトミの姿はない。孝平を連れて雲祥寺へ出かけている。
 亀吉と新吉はと言うと、奥庭で干していた洗濯物を取り込んでくれている。
「うち、その前にちぃとかわやへ行て来るけん」
 千鶴は厠へ行くふりをして離れへ向かった。
 喧嘩をしながら洗濯物を取り込む亀吉たちに、渡り廊下から声をかけると、千鶴は離れの部屋に滑り込むように入った。
 静かに入り口の障子を閉めると、千鶴は急いで捻られた封筒を広げた。それから中の破られた紙を全部出して、部屋の隅に畳んである布団の下へ突っ込んだ。
 祖父への手紙を盗み見るなど、絶対にしてはいけないことだ。それでも千鶴は確かめてみたかった。あれは絶対に畑山が書いた錦絵新聞に違いないと思っていた。
 畑山に捕まったあの日、いや、正確には千鶴が畑山を捕まえたのだが、千鶴は畑山に訊かれたことに素直に答えた。
 覚悟を決めたからだが、旅費が底をついてしまって大阪へ戻るしかないという畑山が、気の毒に思えたからでもあった。
 誰から話を聞いたとは畑山は明かさなかったが、畑山が女子師範学校の生徒から、いろいろ話を聞いたのは間違いないようだった。
 そこまで知っている相手にしらを切っても仕方がないので、畑山が知っていそうなことには、そのとおりだと言い、知らなさそうなことには、わからないと答えた。
 畑山は千鶴に礼を述べ、千鶴の親切は忘れないと言ってくれた。それは千鶴に迷惑をかけないと言っているようにも聞こえたが、畑山が実際にどんな記事を書いたのか、千鶴は知りたかった。
 もしかしたら、自分は浅はかなことをしてしまったのかもしれないのである。そこをどうしても確かめたかった。
 からになった封筒には、大阪の作五郎の名前が書かれていた。千鶴は封筒を改めて捻り直すと台所へ戻った。
 胸の中は走ったあとのようにどきどきしている。心臓の拍動は全身に伝わり、頭が痛くなりそうだ。
 千鶴が茶の間へ上がると、花江も一緒に上がって来た。封筒を燃やすところを眺めようと言うのだろう。
 火鉢の上では、鉄瓶が湯気を立てている。千鶴は鉄瓶の下へ捻った封筒を差し入れた。
 封筒の端に火がついて、ゆっくりめらめらと燃えて行く。
「随分、薄っぺらい封筒だね。さっきはもうちょっと厚みがあったように見えたんだけどさ」
 花江の言葉に千鶴はぎくりとした。花江の観察力は大したものだ。確かに封筒は中身が抜かれた分、さっきよりも貧弱に見える。
 封筒の火はどんどん大きくなったが、すぐに小さくなり、やがて消えた。中身があれば、もっと燃えるだろうし、燃える中身がちらりと見えただろう。だが封筒は空っぽなので、炎はわずかな灰を残してあっけなく消えてしまった。
 花江はその様子をじっと見ていたが、封筒が燃え尽きると、その目を千鶴に向けた。微笑むわけでなく、ただ観察するように千鶴を見つめている。
「な、何? 何ぞ、顔についとるん?」
 千鶴がうろたえると、花江はにっこり笑い、何も――と言った。
 洗濯物を抱えた亀吉と新吉が、互いを押し合いながら騒々しく入って来た。
「ほらほら、喧嘩したらだめだよ」
 花江は腰を上げると、亀吉たちに注意しながら台所へ戻った。
 千鶴は少しの間、燃やした封筒の灰を眺めていたが、すぐに組合長へお茶を淹れることを思い出して立ち上がった。

     六

 みんなが昼飯を食べ終わったあと、千鶴はこっそり離れの部屋へ行った。
 周りに誰もいないのを確かめた千鶴は、するりと離れに入った。それから布団の下に隠していた破れた紙を急いでかき出すと、破れ目をつなぎ合わせて元の四枚の紙に戻した。
 四枚の紙は、一枚の手紙と三枚の錦絵新聞だった。
 どきどきする胸を押さえながら、千鶴はまず手紙を読んだ。
 手紙は作五郎から甚右衛門に宛てたもので、風寄のことが書かれた錦絵新聞を見つけたので送るとあった。
 錦絵新聞には大阪錦絵新報と書かれてある。間違いない。畑山が書いた記事だ。
 日付から一枚目と思われる新聞には、イノシシが大きな毛むくじゃらの足に、頭を踏み潰される絵が描かれていた。その脇には、神輿やだんじりを担ぐ人々の絵も描かれている。
 記事には、伊予国の風寄で祭りの最中に、山の主のイノシシが村の近くで頭を潰されて死んでいたのが見つかったとある。
 死骸の様子が目撃した者の証言として細かく書かれ、近くにはイノシシの頭を踏み潰したと思われる、化け物の足跡らしきものもあったとされていた。
 千鶴は現場を流れる川の向こうに、丘陵の崩れた所があったことを思い出した。記事にある足跡というのは、あれのことなのかと思ったが、血溜まりがあった所が、少し窪んでいたような気もしていた。だが、今となっては確かめようがない。
 二枚目には、墓を掘り起こして死骸をむさぼる、女の鬼の姿が描かれていた。
 記事にはヨネが喋っていたがんごめの説明があり、鬼娘がんごめは法生寺という寺にいたとまで書かれていた。
 鬼娘は仲間の鬼を呼び、住職を殺した上に寺に火をつけたが、結局は侍たちに殺されて、鬼除けの祠に封印されたと出鱈目でたらめな説明があった。だが、記事を読んだ者に真偽はわからない。
 その鬼除けの祠が台風で壊れ、その後にイノシシの事件が起こったと記事は伝えていた。そして、鬼娘を知る唯一の人間ヨネが、再び鬼娘を目撃したそうだと締めくくられていた。
 三枚目には、嵐の中、恐ろしげな顔をした鬼が、家を壊す絵が描かれていた。これは兵頭の家の話で、化け物に壊されたことになっている。
 兵頭のことは、風寄に暮らす伊予絣の仲買人と説明され、兵頭がそれまで聞いたこともない恐ろしい獣の声を聞いたという話や、家人数名が怪我をした他、牛が死んだと書かれてある。
 兵頭は鬼を見たわけではないが、絵には鬼の姿が描かれていた。その鬼の口には牛がくわえられている。
 他の家は無事であり、何故兵頭の家だけが襲われたのかと、記事は疑問を投げかけていた。
 兵藤は鬼との関わりを否定しているが、何か秘密があるに違いなく、村の者たちはみんな恐怖におののいているが、鬼や鬼娘が再び封じられるまで事件は続くであろうとくくっていた。

 記事を読み終えた千鶴は、やはり畑山に喋るべきではなかったかと少し後悔していた。
 恐らく千鶴が喋らなくても、畑山のことだから記事は書いただろう。それでも、そこに自分が荷担した形になったことが、千鶴はつらかった。
 畑山は千鶴にお祓いの婆の話を確かめた。しかし、そのことはどこにも書かれていない。甚右衛門が鬼除けの祠の再建に、お金を寄付したという話も載っていない。風寄で意識を失った千鶴が法生寺で発見されたということも、畑山は書かなかった。
 記事にするほどには、話がまとまらなかったのかもしれないが、これは畑山が自分たちを気遣ってくれたのだと、千鶴は思いたかった。
 それでも祖父があれほど怒ったのは、畑山が鬼の話を世間に広めたことへの反発だろう。
 もし大阪の人たちがこの続きを知りたがったら、どうなるかはわからない。その結果、自分と鬼とのつながりが知れたなら、ここにいられなくなるし、山﨑機織も潰れるに違いない。
 祖父はそのことに怒りを覚えたのだろうと千鶴は思った。

「千鶴ちゃん、中にいるんだろ? あたしも入ってもいいかい?」
 障子の外で花江の声がした。千鶴は跳び上がるほど驚き、すぐに返事ができなかった。
「ち、ちぃと待って」
 千鶴は慌てて錦絵新聞を布団の下に突っ込んだ。それから障子を開けて、花江を中に入れた。
「千鶴ちゃん、ここで何をしてたのさ」
 花江は部屋の中を見回しながら言った。掃除をしてたとは言えないし、着替えをしていたとも言えない。何と答えようかと迷っていると、目線を落とした花江が、おや?――と言った。
 千鶴が花江の視線を追うと、布団の下から錦絵新聞の一部がはみ出ている。
「これは何だい?」
 花江はしゃがみ込んで、錦絵新聞の切れ端を摘まみ上げた。
 千鶴は目を閉じて気持ちを落ち着けると、誰にも言わないで欲しいと花江に言った。
 花江がわくわくした様子でうなずくと、千鶴は布団の下から、錦絵新聞の切れ端を全部かき出した。
「これな、さっきの封筒に入っとった錦絵新聞なんよ」
「錦絵新聞? そう言やぁ、あの猟銃騒ぎの時に、千鶴ちゃんがかばってた人がそんなこと言ってたよね?」
 花江の記憶力は大したものだった。あんな騒ぎの中で、畑山が口にした言葉を覚えていた。
 これはその人が作った錦絵新聞だと言って、千鶴は破れた錦絵新聞をつなぎ合わせた。
 花江は興奮したように読んだが、以前に千鶴と春子から聞かされた話だとわかると、驚いた顔で千鶴を見た。
「これ、あの話じゃないか」
 千鶴はうなずくと、こんな物が出回っていると、大阪の作五郎が甚右衛門に送って寄越したものだと説明した。
「だけどさ、別に千鶴ちゃんと鬼が関係あるみたいには書かれてなかったね。旦那さんの早とちりだね」
「ほんまよ。猟銃なんか持ち出して来て、まっこと大事おおごとになるとこじゃった」
 二人で少し笑ったあと、どうしてこれを燃やさなかったのかと花江は訊ねた。
「おじいちゃんが見よるんがちらっと目に入ったけん、燃やす前に見てみたかったんよ」
「そうかい。わかるよ、その気持ち」
 花江はにこりと笑うと、もう一度錦絵に目を落とし、これさ――と言った。
「法生寺って、千鶴ちゃんや幸子さんがお世話になったお寺じゃないのかい?」
 うなずく千鶴に、お寺で鬼娘の話は聞かなかったのかと、花江は訊ねた。
 千鶴が首を振ると、花江は錦絵新聞に目を戻し、ヨネが見たという鬼娘は、また法生寺に隠れているのだろうかと言った。
 わからないとだけ千鶴は言った。胸の中で心臓が暴れて、それ以上は喋れなかった。
「それにしてもさ、何だって、うちにつながりがある人が、化け物に襲われたりしたんだろうね。何か、気味が悪いよ」
「花江さん、やっぱしがんごは怖いん?」
 花江はきょとんとしたあと、何言ってんのさ――と言った。
「鬼が怖くない人なんているわけないじゃないか。千鶴ちゃんだって鬼は怖いだろ?」
 怖いと言えば鬼が傷つく。千鶴は曖昧に返事をしてごまかすと、この錦絵新聞をどうしようと花江に相談した。
 花江は考える素振りも見せずに、さらりと言った。
「朝、かまどに火を入れる時に、一緒に燃やしなよ」
「でも、お母さんが一緒やけん、見つかってしまう」
「じゃあさ、あたしが預かっといて燃やしとくよ。だったら、いいだろ? あたしゃ一人だから、誰にも見られやしないさ」
 千鶴は少し悩んだ末、かき集めた錦絵新聞と作五郎の手紙の切れ端を、風呂敷に包んで花江に手渡した。花江はそれを懐に仕舞ってにやりと笑うと、任せときな――と言った。
 若干の不安は残ったものの、花江が同じ秘密の仲間になったと思うと、千鶴は少し気が楽になった。
 それでも、これからどうなるのだろうと考えると、やはり心配が膨らんだ。