送られて来た錦絵新聞
一
進之丞は亀吉たちと同じ丁稚扱いで仕事を始めた。
丁稚の仕事は荷物運びばかりではない。朝に井戸から汲んだ水を台所の水瓶に貯めるのも仕事だ。
これまで亀吉と新吉が二人で水汲みをして来たが、孝平はそれをいいことに水汲みが終わった頃に起きて来る。亀吉たちも孝平など当てにしていないから、孝平が加わったあとも二人でいつもどおりにしていた。
しかし進之丞は亀吉たちに指導を仰ぎ、二人と一緒に起き出して水汲みをした。いつもなら二人が一つずつ運んだ水桶も、一人で二つ持って運んだ。
早速の進之丞の働きぶりに花江も幸子も喜んだ。千鶴も嬉しいし鼻高々だ。
わざと遅れて起きて来た孝平は、花江にじろりと見られると、朝寝坊をしたと言い訳をして、水汲みが終わったことを残念がった。
進之丞は次に何をするのかと、亀吉たちに教えを請うた。亀吉も新吉も威張ることなく、嬉しそうに進之丞を表と帳場の掃除へ誘った。その後ろを、花江の目を気にする孝平がついて行った。
朝は近所の者たちも店を開ける準備を始める。それで亀吉たちが表に出ると、同じように掃除をする者たちと顔を合わせることになる。
あとで亀吉と新吉が千鶴に話してくれたが、孝平は帳場の掃除ばかりをして表には出ようとしないと言う。表に出ても近所の者たちと目を合わせようとせず、自分の方からは挨拶をしないらしい。
しかし、進之丞は誰に対しても笑顔で明るく挨拶をするので、近所の者たちから褒められたそうだ。
また、始めたばかりの仕事はどうかと訊ねられた進之丞は、亀さんと新さんに教えてもらっているので大丈夫と答えたと言う。自分たちのことをそのように言ってくれたことが、亀吉も新吉も嬉しかったようで、二人は進之丞が来たことを心から喜んでいた。
ただ千鶴とのことを訊かれると、進之丞は返事に困ったようだった。その様子にみんなは大笑いをしたらしいが、それは近所の者たちが進之丞を好意的に受け入れたということで悪い話ではない。
板の間の賑やかな朝飯が終わると、すぐに県外へ送る品を蔵から運び出す作業だ。この時も亀吉たちが木箱を一つずつ運ぶのに対し、進之丞は一度に三箱を軽々と運んだ。それでいつもよりかなり早く運び出し作業が終わった。
その品を載せた大八車を古町停車場まで引くのも進之丞だ。進之丞一人でも十分な仕事だったが、亀吉と新吉が後ろを押した。これをしないとすることがなくなるし、二人は進之丞の傍にいたいようだった。
一方、孝平は店に残って、街の太物屋へ届ける品を蔵から運び出した。その時、花江にいい所を見せようとしたのか、一度に木箱を二つ抱えて運ぼうとして転びそうになった。
それで千鶴と花江で木箱を一つ引き受けたが、忙しい女二人に手伝わせたということで、孝平は甚右衛門からこっぴどく叱られた。
古町停車場から戻った進之丞は、亀吉たちと一緒に孝平の仕事を手伝った。だが、やはり進之丞が加わると仕事はすぐに終わってしまった。
いつもより作業が早く終わると余裕ができる。少し他愛のない話ができて亀吉たちは楽しそうだ。
そのあと進之丞は茂七と一緒に大八車を引いて、太物屋へ注文の品を届けに出た。それは茂七の手伝いというより、茂七の仕事を見て覚えるというものらしい。
進之丞が外廻りに出ると聞いた千鶴は、掃除をしていた雑巾を持ったまま見送りに出た。
茂七に笑われて、進之丞は一々出て来なくてもいいと言ったが、今日が初めてだから見送りたいと千鶴は言い張った。
遠くへ行くわけではないので、別にどうということはない。それでも今日は進之丞の晴れ舞台なので、千鶴としてはどうしても見送りたかった。ただ、近所の者に冷やかされると、少々恥じ入る気持ちにはなった。
付き合いのある太物屋には前もって注文を取り、あとでその品を届けて廻る。しかし予想外に絣が売れて、次の納入まで待てずに品を注文しに来る店もあった。また、普段の付き合いがない店が、いつもと違う品を求めてのぞきに来ることもある。
手代になると、そんな来客の注文に応じた品を、即座に選んで出せなければならない。そのためには数多くある仕入れ先の絣の品質を、事細かに覚えておく必要がある。
丁稚は長い時間をかけて、少しずつそれらのことを頭に入れるようになる。しかし、進之丞はできるだけ早くすべてを覚えなければならない。それで甚右衛門は太物屋から戻った進之丞に、覚えるべきことを説明して取り敢えずのことを教えた。
進之丞は少しでも手が空くと、それらのことを覚えるのに時間を費やした。
早く手代になりたい孝平は、自分も同じことを覚えようと躍起になった。しかし物覚えはあまり得意ではないらしい。また遙かに年下の亀吉たちの方が、いろいろ知っているのが癪に障るようで、すぐに投げ出してしまった。
亀吉も新吉も孝平よりは知識があっても、手代になるためにはまだまだ覚えることはたくさんあった。それで進之丞が懸命に勉強する姿を見ると、二人ともこれまで以上に必死になって勉強を始めた。
進之丞の手代昇格に不服がある様子の弥七は、亀吉たちまでもが追い迫って来ると思ったのか、妙に焦った感じで仕事に精を出した。
孝平への不満はあっただろうが、店の活気づいた雰囲気に、甚右衛門もトミも大いに満足しているようだ。
二
昼飯が終わると、茂七と弥七は注文取りに出かけた。進之丞も仕事を覚えるために、茂七について出た。
帳場では甚右衛門が他の丁稚たちに、商いについて講義をしていた。その中には孝平も入っている。
進之丞が来たことで気合いが入っている亀吉と新吉は、主の話を真剣な眼差しで聞いていた。
孝平も一応は真面目に話を聞いていたが、その表情を見ると、どこまで話が理解できているかはわからない。
作五郎がさじを投げた以上、今更ながら甚右衛門は自分で孝平を育てるしかない。話しかけながら甚右衛門が孝平に向ける目には、何とか育って欲しいという、淡いながらも期待のいろがある。だが孝平はそれすら気がつかないようだ。
千鶴は厠の掃除をしていた。祖父母からおかみの心構えを教えられたし、進之丞もがんばっているのでいつもより気合いが入る。厠の掃除は好きではないが、自分はおかみになるんだと思うと、余計なことは考えなくなった。
掃除が終わって、きれいな仕上がりに我ながら満足した千鶴は、使った雑巾を奥庭で洗っていた。すると、店の方から聞き覚えのある甲高い声が聞こえた。
「もうし、こちら山﨑機織さん?」
千鶴は思わずぞわりとした。坂本三津子だ。
勝手口へ行って中をのぞいてみると、茶の間で縫い物をしていたトミも、板の間で洗濯物を畳もうとしていた花江も、聞き慣れない女の声に店の方へ顔を向けている。
店と家の間には暖簾が掛けられているので、帳場に立つ者の顔は見えないが体は見える。丁稚たちの向こうに例の変わった衣装姿を見つけると、千鶴は全身に鳥肌が立った。
甚右衛門が何か言ったが、三津子はそれを聞き流したように、坊らにお土産があるんよ――と言った。
「うわぁ、だんだんぞなもし」
新吉の嬉しそうな声が聞こえた。坊というのは新吉たちのことらしく、新吉は三津子から何かをもらったようだ。続けて亀吉も何かをもらって嬉しそうに礼を述べた。
「あらぁ、ごめんなさいね。日切饅頭、確か三つあるて思いよったのに二つしかなかったわ。あのお店、一つごまかしたんじゃね。ほんまにひどい店ぞな」
意地汚い三津子のことだ。どうせ、一つはここへ来る途中で、自分で食べたに違いない。
貧乏くじを引かされたのは孝平のようだ。えぇ?――と孝平の叫ぶような声が聞こえた。きっと日切饅頭をもらった二人をにらんでいるに違いない。
「ええ歳してそがぁな物欲しがるな。そげじゃけん、手代になれんのぞ」
いらだったような甚右衛門の声が聞こえた。自分だけ饅頭をもらえず、目をきょときょとさせている孝平の様子が、千鶴の目に浮かんでいる。
「さっきも訊いたけんど、何の御用かな? うちは小売りはしとらんのやが」
また甚右衛門の声がした。続けてすぐに三津子の声。
「幸ちゃん、おいでます? うちは幸ちゃんと同し病院で看護婦しよった、坂本三津子て言うんぞなもし」
「幸ちゃん? 幸子のことじゃったら、今はおらんぞな。また病院で看護婦しよるけんな」
甚右衛門は素っ気なく言った。その口調には、さっさと帰れという響きがある。だが、三津子にそんなことは通じない。
「あらぁ、ほうなんですか。ほれは残念やわぁ。こないだ善勝寺で千鶴ちゃんにお会いしましてね。幸ちゃんの話で盛り上がったもんじゃけん、幸ちゃんに会いとうて辛抱できんなったんぞなもし」
三津子との話など全然盛り上がってはいない。よくもまぁ、こんな適当なことを平気で喋れるものだと、千鶴は呆れて聞いていた。
トミと花江は作業を再開しているが、二人とも聞き耳は立てているようだ。
「とにかく、あいつはここにはおらん。戻んて来るんも日暮らめぞな。会いたいんなら日曜日に来るがええ。日曜じゃったら病院も休みじゃけんな」
「ほうですか。おらんもんは仕方ないわいねぇ。ほれじゃったら、千鶴ちゃんはおいでます?」
千鶴はどきりとしたが、甚右衛門は千鶴もいないと言った。それでほっとしたのも束の間、三津子の声が千鶴を慌てさせた。
「ほんじゃあ、中で待たせてもらおうかしら」
暖簾の下で、こちらを向いた三津子の体が、丁稚たちを押しのけようとするのが見えた。
千鶴は持っていた雑巾を放り出すと、ばたばたと裏木戸から外へ逃げ出した。だが、外へ逃げただけで行く当てはない。それでも、しばらく家には戻れそうにないし、ここにいたら外に出て来た三津子に見つかってしまうだろう。
店の前の道には行けないので、千鶴は北の方へ向かおうとした。とにかく、ここから離れなくてはならなかった。
すると、すぐ先の辻を外套を羽織った洋服姿の男が、あたふたと横切るのが見えた。
ぎくりとして千鶴が立ち止まると、男はすぐに戻って来て、辻の真ん中で疲れたように立ち尽くした。それから男はため息をつきながら千鶴の方を振り返った。やはり男は畑山孝次郎だった。
畑山は千鶴に気がつくと、嬉しそうに満面の笑みを見せた。前門のトラ、後門のオオカミである。
「これはこれは。こんな所で千鶴さんにお会いできるやなんて、これは絶対、神さまのお引き合わせやな」
畑山が近づいて来たので、千鶴は店の方へ逃げようとした。畑山は慌てて追いかけながら、大きな声で千鶴を呼んだ。
「ちょっと、千鶴さん、待ってぇな。千鶴さんてば!」
大声で名前を呼ばれては、三津子に聞こえてしまう。千鶴は立ち止まると、くるりと向きを変えて畑山の所へ駆け戻った。
「あら、戻って来てくれはったん。やっぱり千鶴さん――」
千鶴は喋る畑山の手をつかむと、そのまま走って先の辻を左へ曲がった。そこなら家から見えることはない。
「待って。ちょっと待って……。わては、あんまり走るんは……、得意やないよって……」
はぁはぁと苦しそうにしながら畑山が言った。
千鶴は走るのをやめると、畑山から手を離した。
畑山は腰を曲げ、両手を両膝に突いた格好で、しばらく息をついていた。これぐらいでこんなに息が切れるなんて、余程体力がないと見える。
本当なら千鶴は畑山にも近づきたくはなかった。畑山が大声を出さなければ、紙屋町の通りを大林寺の方へ逃げるつもりだった。
今からでも逃げればいいのだが、畑山があんまり苦しそうにしているので、千鶴は心配になっていた。
「畑山さん、大丈夫ぞな? うち、そがぁなるほど走ったつもりはないけんど」
はぁはぁしながら畑山は、斜めに上げた顔で千鶴を見ると、にやりと笑った。
「千鶴さん、わての名前、覚えててくれはったんや。嬉しいわぁ」
笑った歯が煙草のヤニで茶色くなっている。それに、吐き出す息が煙草の煙のように臭い。
千鶴が背中をさすってやると、畑山は気持ちよさそうにしていたが、やがて体を起こすとぺこりと頭を下げた。
「まずは、ありがとさんにおます。こないだは旦さんに撃ち殺されそうになったとこを助けてもろて、今日もまたえらい気を遣てもらいました」
仕事は何だか怪しそうだが、畑山の人柄はそれほど悪くはなさそうだ。少し気を許した千鶴は、さっきは何をしていたのかと畑山に訊ねた。
「さっきと言うと?」
「この道を行ったり来たりしておいでたでしょ?」
あぁと言いながら、畑山は右手で頭をぽんと叩いた。
「見てはったん? いや、えらいとこ見られてしもたな。わて、怖い顔してましたやろ?」
「いえ、そこまでは……。ほんでも、何か慌てておいでたみたいには見えたぞなもし」
「こないだも言うたけど、千鶴さんの言葉、柔らこうてええでんなぁ。もう、言葉に人柄が滲み出てるみたいやわ」
褒められているのか、ごまかされているのかよくわからない。できれば話したくないのかもしれないと思い、千鶴が黙っていると、少しして畑山は言った。
「さっきはね、ちょっと探しとった奴を見かけたんで追いかけよったんですわ。せやけど、うまいことまかれてしもて、くそって思とったら千鶴さんが現れたというわけや。せやからね、きっと神さんが、わてを千鶴さんに引き合わせようと仕組んだことやて、今はこない思とりまんねん」
大阪から遠く離れたここで、誰を見つけたと言うのだろう。千鶴は少し気になったが、畑山の話しぶりでは人違いだったようだ。
「お話、聞かせてもろてもよろしいやろか?」
改めて逃げることもできないので、千鶴は黙って歩いた。畑山も千鶴のあとをついて来る。千鶴が喋ってくれるのを根気よく待つつもりらしい。
道の突き当たりは阿沼美神社で、境内には幼稚園がある。幼稚園には誰もが入れるわけではない。裕福な家の子供だけだ。
境内にはたくさんの幼子たちがいたが、その中の一人が外へ抜け出して来た。先生は気がついていないらしい。
千鶴は子供に近寄ると、しゃがんで境内に戻るよう話しかけた。すると、子供は見慣れない千鶴に怯えたようで、固まったあと泣き出した。その泣き声を聞いて、他の子供たちが駆け寄って来たが、やはり千鶴を見て、みんな驚いた顔をした。
中には千鶴を知っている子供もいて、そのことを他の子供たちに伝えたが、その言葉が千鶴を深く傷つけた。
「このひとね、にっぽんのてきなんよ」
きっと親がそういう風に、子供に教えているのだろう。
さらにそこへ現れた女の先生が、子供をどうするつもりかと、千鶴の話も聞かないで、いきなり決めつけたように言った。その目は人攫いでも見るようだ。
「ちょっと、あんた。いきなり何言うてまんねん。千鶴さんは、この子を――」
たまらず畑山が文句を言おうとしたが、ええんです――と千鶴はそれを遮った。
「この子が外へ出て来たもんで、中へ戻るように言うてたぎりですけん。ほんでも、ご迷惑おかけしてしもたみたいで、すんません」
千鶴が頭を下げると、女の先生は何も言わず、子供たちを連れて行ってしまった。
ぽつりと残された千鶴に、畑山が遠慮がちに声をかけた。
「大丈夫でっか、千鶴さん」
千鶴はにっこり微笑んでみせると、いつものことぞなもし――と言った。
「いつものことて――」
畑山は言葉が続かず、向こうへ行った子供たちを見遣ると、悲しそうに千鶴を見た。
三
日曜日に三津子が再び訪ねて来ると、幸子は喜んで外へ出て行った。
先日は、やはり三津子は強引に家の中へ入って来たらしい。しかしトミが一喝したので、渋々退散したと言うことだった。
それでこの日は三津子を一歩も中へ入れてはならないと、トミの厳命が下されて、幸子は外で三津子と会うことになったのである。
どうして母が三津子と親しくなったのか、その理由を千鶴は聞いている。
母が身籠もった時、それが周囲に知れると、母は病院を辞めざるを得なくなった。誰もが責めるような眼差しを向けるので、母は居たたまれなかったと言う。そんな時に三津子だけが母をかばい、母の味方になってくれたそうだ。
言われてみると、あの型破りな性格だからこそ、敵兵の子供を身籠もった母をかばうことができたのかもしれない。関係のない者から見たら嫌な人間に思えても、落ち込んでいた母から見れば、地獄に仏のように思えたのだろう。
母の話を聞き、千鶴は母と三津子の仲を理解した。だが、自分が三津子と親しくするのは、やはり無理だと思った。
千鶴は進之丞と話がしたかった。せっかく一緒に暮らすことになったのに、二人だけで喋る機会がない。家族に内緒で畑山の取材に応じたことや、三津子と母の関係を進之丞に聞いて欲しいのに、それもなかなか敵わない状況だ。
進之丞は毎日動き回っているし、動いていない時には商いの勉強をしていた。ちょっとした会話ならできても、二人でゆっくり話をする暇はない。一休みしていると思っても、必ず他の者が近くにいる。とても二人だけの話などできそうにない。
丁稚扱いのうちは、進之丞に休みはない。それでも手代になれば、給金をもらえる月初めに休みがもらえる。
だが使用人でない千鶴には、逆に休みがない。使用人が休みの日には、女中の花江も休みになる。それで千鶴はいつも以上に忙しくなるのだ。
トミが手伝ってくれても、食事の用意、洗濯、掃除、買い物などを、基本的には千鶴一人でやらねばならない。
要するに進之丞が手代であろうとなかろうと、二人で落ち着いて喋る暇など、夫婦になるまでは作れそうにないのである。
今にして思えば、進之丞が来た日に祖父が二人で街へ出してくれたのは、こうなることがわかっていたからに違いなかった。二人が夫婦になれる日まで、こんな感じが続くのだろう。
進之丞と夫婦になれるよう、日切地蔵にお願いしたのは三年後である。つまり三年間はこのような状態が続くわけで、お願いは一年後にしておけばよかったと、千鶴は深く悔やんだ。
千鶴とゆっくりすることはできないが、進之丞はまずまずの滑り出しである。その人柄と働きぶりは、日を追うごとに周囲から認められ、そのことは千鶴を喜ばせた。
尤も、すべての人間が進之丞を認めているわけではない。孝平は何かと進之丞のやることにけちをつけようとするし、弥七は進之丞に対して不親切だった。
それでも進之丞は二人のことをまったく意に介さず、明るく仕事に励んだ。それを見ていた花江は進之丞をべた褒めするし、甚右衛門とトミも進之丞を大きく評価しているようだった。
祖父たちの様子を見ると、進之丞が自分の婿として認められたようで、千鶴はとても誇りに思ったし嬉しかった。
そんなある朝、進之丞が亀吉たちと県外へ送る品を古町停車場まで運んでいる間に、茂七が奥庭にひょっこり顔を出した。
奥庭では、千鶴と花江が洗濯の準備をしているところだった。茂七は二人を見つけると近くへ来て、出先での進之丞の受け具合を二人に聞かせた。
「行く店、行く店でな、忠吉は独り身なんか、うちに可愛い娘がおるんやけんど――て言われるんよ。あしなんか、いっぺんもそがぁなこと言うてもろたことないのにな」
花江は当然という感じでうなずいた。
「そりゃあ、言われるだろうねぇ。忠さん、男前で優しいし、いろいろ気配りもできる人だもん。そう言われないほうが不思議さね。あれで喧嘩も強いってわかったら、廻る先々で無理やりそこの娘とお見合いさせられちまうよ」
二人にすれば進之丞を褒めているのだろうが、千鶴がそれを喜んで聞けるわけがない。
「ほれで茂七さん、お店の人らに何て言うたん?」
真顔で訊ねる千鶴に、茂七はさらりと言った。
「ほら、ちゃんと正直に言うたがな。この男は独り身ぞなもして」
えぇ?――と千鶴が悲痛な叫びを上げると、ほやかて仕方ないやないかと茂七は楽しげに言った。
「あしらは忠吉が千鶴ちゃんの婿さんになるとは、聞かされとらんのやけん」
「ほんでも、もうちぃとうまいこと言うてくれたらええやんか」
「たとえば、どがぁに言うんぞな?」
「たとえば、えっと……、この人には心に決めた女子がおるみたいぞな――とか」
「そがぁなこと、本人から何も聞いとらんのじゃけん、よう言わんで」
「ほんなん聞かいでもわかるやんか!」
まぁまぁと花江は千鶴をなだめると、茂七に訊ねた。
「それで、忠さんは何て言ったんだい?」
「自分は今は仕事を覚えるのに必死やけん、他のことには目が向かんて言いよった。けんど、ほれがまた向こうの旦那の気持ちをくすぐるみたいでな。仕事覚えたらいつでも娘に合わせるけん待っとるで――て言うんよ」
茂七は喋りながら千鶴を横目で見た。
「うち、今度から一緒に外廻りについて行くけん!」
千鶴が半分本気で言うと、花江は驚いた顔で千鶴を見た。
「千鶴ちゃん、忠さんについて行って、お店の人たちに何て言うのさ? この人はあたしが見つけた男なんですって言うのかい?」
茂七がくっくっと笑っている。思ったとおりの千鶴の様子に、笑いが止まらないようだ。
「そがぁなことは、あしが東京へ行ってからにしてくれな。ほんでも、案外人気が出るかもしれんで」
喋りながら笑っている茂七に、ところでさ――と花江は言った。
「茂さんはそんな話をわざわざ聞かせに、ここへ来たのかい?」
茂七は思い出したように笑いを止めると、ほうじゃったほうじゃったと言った。
「ちぃと厠へ行こ思て来たぎりよ。ほしたら千鶴ちゃんがおったけん、言うてあげよて思たんやけんど、いけんいけん。早よ行かんとちびてしまわい」
茂七は慌てた様子で厠へ向かった。
花江は茂七が千鶴をからかっただけだと言い、進之丞を心配する千鶴をなだめた。
「だけどさ、それだけ忠さんがみんなから気に入られたってことなんだから、いいことじゃないか。それに忠さんは浮気するような人じゃないだろ?」
千鶴がうなずくと、だったら何も心配いらないよ――と花江は笑った。確かにそれはそうなのだが、やはり千鶴は気持ちが落ち着かない。そんな千鶴を見て、花江はまた笑った。
忙しい日々を送っているうちに、月が変わって二月になった。
月初めは使用人が休みの日だ。それで、茂七と弥七と花江は街へ出かけて行った。日曜日であれば幸子がいるのだが、生憎この日は金曜日だ。家事は千鶴が一人でこなさなければならない。
ところが進之丞と亀吉と新吉の三人が、いろいろと千鶴を手伝ってくれた。
手代がいないので外廻りの仕事はないが、それでも直接店に注文をしに来る客もいる。また、甚右衛門やトミが出かける時のお供をするのも丁稚の役目だ。
そうは言っても、普段と比べると丁稚の仕事は限られており、やることと言えば家のことが中心だ。それで千鶴は思いがけず進之丞と、ずっと一緒にいることができた。
甚右衛門やトミもわかっているようで、何か用事があれば亀吉か新吉を呼び、進之丞が千鶴の傍にいられるようにしてくれていた。
それで千鶴は進之丞と二人きりになれた時に、ようやく畑山や三津子の話を進之丞に聞いてもらうことができた。
畑山については、進之丞は千鶴がやったことに批判めいたことは言わなかった。千鶴が考えて決めたことであれば、それが何であっても受け入れると進之丞は言った。
三津子については、幸子との関係はわかったが、あまり関わらない方がいいと思うと言った。それには千鶴も同意見だが、旧友との再会を喜ぶ母にそうは言えない。とにかく自分たちは三津子とは距離を置き、しばらく様子を見ようということになった。
それにしても、進之丞と一緒に過ごせる日が来るとは思いも寄らず、千鶴にとっては実に嬉しい日となった。
ただ、外廻りで太物屋の主が娘を引き合わせようとしても絶対に断るようにと、進之丞に釘を刺すことは忘れていなかった。
進之丞は笑い、あしの心に住まう娘はお前ぎりぞ――と言った。それでようやく千鶴は安心したが、それでも他の娘には近づかないようにと念を押した。
相わかったと素直にうなずき、進之丞は千鶴をじっと見つめた。その目は千鶴を面白がっているようでもあったが、何だか悲しそうにも見えた。うろたえた千鶴はこの話はおしまいと言い、お昼の用意の手伝いを進之丞に頼んだ。
翌日、千鶴が帳場へお茶を運ぶと、帳場の向こうで弥七が注文書をめくっていた。進之丞は茂七と外に出たのでいない。
亀吉たちは弥七から指示された品を蔵から運び出している。もちろん孝平も一緒だが、その足取りは遅い。
弥七は千鶴が来たのに気がつくと、顔を上げて千鶴を見た。そのあとすぐに注文書をめくったが、またちらりと千鶴を見る。それで千鶴を目が合うと、慌てたように注文書に目を戻した。
甚右衛門にお茶を配ったあと、千鶴は弥七にもお茶を配った。それに対して弥七はちゃんと顔を上げ、素っ気ないものの、千鶴にねぎらいの声をかけた。最近の弥七はいつもこんな感じだ。
そんな弥七の様子を、千鶴は洗濯物の取り込みを手伝ってくれた花江に話してみた。
弥七の変化には花江も気づいていたようで、やっぱりねぇと花江は言った。何がやっぱりなのかと訊ねると、花江は千鶴の顔を見ながら、言ってもいいのかねぇ――と言った。
そこまで言うなら言って欲しいと千鶴がせがむと、勘違いかもしれないからね、と花江は前置きをしてから言った。
「弥さんはね、千鶴ちゃんのことが好きなんだよ。前からね、何となくそうなんじゃないかって思ってたんだけどさ。忠さんが来たもんだから、張り合う気になったんじゃないの?」
そんなはずはないと、千鶴は即座に花江の言葉を否定した。続いて、弥七が自分に対して、どれだけ素っ気ない態度を取り続けていたのか説明した。
しかし、弥七が千鶴を嫌っているのであれば、今のような態度を見せるはずがないと花江は言った。
「旦那さんたちのことだって、そうだったろ? 千鶴ちゃんは、ずっと自分が大事にされていないって信じてたみたいだけどさ。実際は旦那さんもおかみさんも、千鶴ちゃんのことを大事に思ってくれてたんじゃないか」
そう言われると返す言葉がない。
人は時々本音とは真逆の態度を見せることがあるものだと、花江は言った。
「ただね、千鶴ちゃんは忠さんを好いてんだろ? こんな話聞かされたって困るじゃないか。だから、あたしゃどうしようかなって迷ったんだよ。でもさ、喋っといてこんなこと言うのは何だけどさ。あたしの勘違いってこともあるから、気にしないでおくれよ」
気にするなと言われても手遅れである。言われてみると、確かに弥七がそんな気になっているように思えて来る。しかし、だからと言って、どうすることもできない。千鶴の心は決まっている。
それでも千鶴は困ってしまった。こんなことなら花江に話すのではなかったと後悔したが、もうあとの祭りである。
「ほらほら、さっさと洗濯物を畳んじまわないと、次の仕事が待ってるよ」
花江に促され、千鶴は両手に抱えた洗濯物を、急いで家の中へ運んだ。
四
数日後、大阪から一通の封筒が送られて来た。
帳場にいた甚右衛門は、封筒の中身を確かめると顔をゆがめた。
午後だったので、茂七も弥七も外廻りに出ている。
帳場の向こうで進之丞が注文書を見ているが、これは手代の仕事である。進之丞はまだ手代にはなっていないが、実質的には手代の仕事もさせてもらっているわけだ。恐らく近いうちに手代として認められるのだろう。
「おじいちゃん、お茶をどうぞ」
千鶴がお茶を配っても、甚右衛門は見向きもしなければ、声もかけない。封筒に入っていた数枚の紙に、目が釘づけになっている。
甚右衛門は他の者には見えないようにしながら、その紙を見ていた。しかし、千鶴にはきれいな絵がちらりと見えた。それがどんな絵なのかはわからないが、畑山に見せられた錦絵新聞に似ている。
もしやと思ってどきどきしていると、案の定、紙をめくる甚右衛門の顔は、みるみる赤くかつ険しくなった。
どうしようと思いながら千鶴が進之丞にお茶を配ると、甚右衛門は読んでいた紙をびりびりと破って、封筒の中に詰め込んだ。そして、その封筒を絞るように捻ると、手元の火鉢で燃やそうとした。
「甚さん、おるかな」
同業組合の組合長がひょっこり顔を出した。甚右衛門は捻った封筒を慌てて後ろに隠した。
「しばらく顔見とらんが、元気にしよったかい」
「元気、元気。このとおりぞな」
甚右衛門は引きつった笑顔で応じた。
「辰さんは、まだ戻らんのかな」
「まだやけんど、春頃には戻すつもりよ。忠吉もほとんど一人前やけん、もうじきぞな」
組合長が顔を向けた時に、進之丞も千鶴も頭を下げた。それが同時だったので組合長は楽しげに笑った。
「もう、すっかり夫婦やな」
こんな嬉しい言葉はない。照れる千鶴に組合長は言った。
「千鶴ちゃん、足踏み式の織機、知っとるかな」
「足踏み式ですか? 最近、新しい織機を使うことになったて、耳にはしましたけんど」
「ほれよ。あれはな、なかなかええぞな。あれじゃったら素人でもほいほいできらい」
「そがぁにええもんなんですか」
「これまで一日一反こさえよったんが、あれ使たら二反でける」
「へぇ、ほれはがいですねぇ」
「ほうじゃろ? こさえた分、ばんばん売れたら儲かるぞな」
「そがぁなったら、ええですね」
進之丞は何の話なのか、よくわからない様子だった。それで千鶴はこれまでの織機が手だけで織るのに対し、新しい織機は足踏み式で作業効率が二倍になることを説明してやった。
進之丞は感心したようにうなずき、ほれはがいじゃなと言った。
千鶴は織機の話をする甚右衛門と組合長に、またお茶を淹れて来ますと声をかけた。
送られて来た錦絵新聞を気にしながら、甚右衛門の脇を通ろうとすると、甚右衛門がえへんと咳払いをした。見ると、後ろ手に持った捻り封筒を、千鶴に向けてゆらゆらと動かしている。
千鶴が傍に寄ると甚右衛門は顔を近づけて、わかっとるな――と小声で言った。
何の話かと思ったが、さっき自分がこれをどうしようとしていたのか見ていただろう、という意味かと千鶴は考えた。同時に、してはいけないことが咄嗟に頭に浮かんだ。
「甚さん、何ぞな、ほれは?」
千鶴が捻った封筒を受け取るのを見て、組合長が言った。
「いやいや、何でもない。ほれより、何ぞ話があるんかな?」
甚右衛門は話を逸らそうとしながら、千鶴には早く行けと手を動かした。
組合長は怪訝そうにしながらも、ほれがな――と言った。
「湊町の絣問屋の越智絣を知っとろ?」
「あぁ、老舗やな」
「そこの親爺が女に騙されたそうでな。店の金を持って行かれたそうな」
「女に金を?」
「ほれで、店が潰えることになったんよ」
「何ぞ、ほれは? どがぁしたら、そげなことになるんぞ」
進之丞は話が聞こえているだろうに、全然興味がなさそうに注文書をめくっている。
一方、千鶴は封筒の中身が気になりながらも、祖父たちの話にも耳が向いてしまう。暖簾をくぐった所で立ち止まったまま、つい話を盗み聞いていた。
「あそこの親爺は真面目で評判やったと思うがな」
「ほれが禍して、女に夢中になってしもたんじゃろ。真面目な奴ほど、いったん崩れたら歯止めが効かんけんな」
「ほらまた気の毒言うか、愚かな言うか――」
立ち聞きしている千鶴に気づいた甚右衛門は、土間へ身を乗り出して、さっさと行けと追い払うように言った。
顔は暖簾で隠れていても、体は帳場から丸見えである。組合長が笑いながら、忠吉が笑いよるぞ――と暖簾越しに千鶴に言った。
千鶴は何も言えずに恥じ入りながら奥へ下がったが、それでまた組合長が大笑いをした。
「また何を笑われたんだい?」
台所にいた花江が面白そうに言った。組合長は何をしても笑うと千鶴が口を尖らせると、おや?――と花江は千鶴の手元を見て言った。
「それは何だい?」
千鶴は捻った封筒を掲げて見せた。
「おじいちゃんが読み終わった手紙ぞな。もういらんけん、燃やすようにて」
直接そう言われたわけではないが、そういう意味に違いない。もちろん千鶴は中身を燃やすつもりはない。
「ふーん、手紙をすぐに燃やすなんて、何だろね」
花江は興味津々の様子だが、店の主の手紙である。中身を確かめるわけにはいかない。少し残念そうにしながら、茶の間の火鉢で燃やせばいいよと言った。
茶の間にトミの姿はない。孝平を連れて雲祥寺へ出かけている。
亀吉と新吉はと言うと、奥庭で干していた洗濯物を取り込んでくれている。
「うち、その前にちぃと厠へ行て来るけん」
千鶴は厠へ行くふりをして離れへ向かった。
喧嘩をしながら洗濯物を取り込む亀吉たちに、渡り廊下から声をかけると、千鶴は離れの部屋に滑り込むように入った。
静かに入り口の障子を閉めると、千鶴は急いで捻られた封筒を広げた。それから中の破られた紙を全部出して、部屋の隅に畳んである布団の下へ突っ込んだ。
祖父への手紙を盗み見るなど、絶対にしてはいけないことだ。それでも千鶴は確かめてみたかった。あれは絶対に畑山が書いた錦絵新聞に違いない。
畑山に捕まったあの日、いや、正確には千鶴が畑山を捕まえたのだが、千鶴は畑山に訊かれたことに素直に答えた。
覚悟を決めたからだが、旅費が底をついてしまって大阪へ戻るしかないという畑山が、気の毒に思えたからでもあった。
畑山は誰から話を聞いたとは明かさなかった。だが女子師範学校の生徒から、いろいろ話を聞いたのは間違いないようだった。
そこまで知っている相手に白を切っても仕方がないので、畑山が知っていそうなことには、そのとおりだと言い、知らなさそうなことには、わからないと答えた。
畑山は千鶴に礼を述べ、千鶴の親切は忘れないと言ってくれた。それは千鶴に迷惑をかけないと言っているようにも聞こえたが、畑山が実際にどんな記事を書いたのか、千鶴は知りたかった。もしかしたら、自分は浅はかなことをしてしまったのかもしれないのである。そこをどうしても確かめたかった。
空になった封筒には、大阪の作五郎の名前が書かれていた。千鶴は封筒を改めて捻り直すと茶の間へ戻った。
胸の中は走ったあとのようにどきどきしている。体はがちがちに強張って、捻った封筒を持つ手が震えてしまう。心臓の拍動が耳の中で聞こえ、頭が痛くなりそうだ。
千鶴が戻ったのを見て、花江が茶の間に上がって来た。封筒を燃やすところを眺めようと言うのだろう。来て欲しくはないが、来るなとは言えない。
火鉢の上では、鉄瓶が湯気を立てている。千鶴は鉄瓶の下へ捻った封筒を差し入れた。封筒を持つ手が震えている。花江に気づかれないかと気になったので、すぐに封筒を離すと手を引っ込めた。
端に火がついた封筒は、鉄瓶の下でゆっくりめらめらと燃えて行く。その様子を眺めながら、花江がぽそりと言った。
「ずいぶん薄っぺらい封筒だね。さっきはもうちょっと厚みがあったように見えたんだけどさ」
千鶴はぎくりとした。花江の観察力は大したものだ。確かに封筒は中身が抜かれた分、さっきよりも貧弱に見える。
封筒の火はどんどん大きくなったが、すぐに小さくなり、やがて消えた。中身があれば、もっと燃えるだろうし、燃える中身がちらりと見えただろう。だが封筒は空っぽなので、炎はわずかな灰を残してあっけなく消えてしまった。
花江はその様子をじっと見ていたが、封筒が燃え尽きると、その目を千鶴に向けた。微笑むわけでなく、ただ観察するように千鶴を見つめている。
「な、何? 何ぞ、顔についとるん?」
千鶴がうろたえて顔を両手で押さえると、花江はにっこり笑い、なぁんも――と言った。
洗濯物を抱えた亀吉と新吉が、互いを押し合いながら騒々しく入って来た。
「ほらほら、喧嘩したらだめだよ」
花江は腰を上げると、亀吉たちに注意しながら台所へ戻った。
千鶴は少しの間、燃やした封筒の灰を眺めていたが、すぐに組合長へお茶を淹れることを思い出して立ち上がった。
五
みんなが昼飯を食べ終わったあと、千鶴はこっそり離れの部屋へ行った。
周りに誰もいないのを確かめた千鶴は、するりと離れに入った。それから布団の下に隠していた紙片を急いでかき出すと、破れ目をつなぎ合わせ始めた。
緊張で手が震えてしまい、なかなかうまく合わせられない。それでも何とかつなぎ合わせた四枚の紙は、一枚の手紙と三枚の錦絵新聞だった。
どきどきする胸を押さえながら、千鶴はまず手紙を読んだ。
手紙は作五郎から甚右衛門に宛てたもので、風寄のことが書かれた錦絵新聞を見つけたので送るとあった。
錦絵新聞には大阪錦絵新報と書かれてある。間違いない。畑山が書いた記事だ。
日付から一枚目と思われる新聞には、イノシシが大きな毛むくじゃらの足に、頭を踏み潰される絵が描かれていた。その脇には神輿やだんじりを担ぐ人々の姿も描かれている。
記事には、伊予国の風寄で祭りの最中に、山の主のイノシシが村の近くで頭を潰されて死んでいたのが見つかったとある。
目撃した者の証言として死骸の大きさや様子が細かく書かれ、近くにはイノシシの頭を踏み潰したと思われる、化け物の足跡らしきものもあったとされていた。
あの血溜まりの近くにあった窪みのことだろうか。あるいは川向こうの丘陵や畑の崩れた所のことを言っているのか。春子は気にしなかったが、村人たちの中にはそれを怪しいと見た者もいるようだ。そのことは千鶴を動揺させた。
記事の終わりには、この事件が起こる少し前に、村外れにある鬼よけの祠が台風で壊れていたと、意味ありげに書かれていた。これも村人に知れただろうかと千鶴は不安になった。
二枚目には、墓を掘り起こして死骸を貪る女の鬼の姿が描かれていた。
記事にはヨネが喋っていた鬼娘の説明があり、鬼娘は法生寺という寺にいたとまで書かれていた。
鬼娘は仲間の鬼を呼び、住職を殺した上に寺に火をつけたが、結局は侍たちに殺されて、鬼よけの祠に封印されたと出鱈目な説明があった。だが、記事を読んだ者に真偽はわからない。
その鬼よけの祠が台風で壊れたあと、イノシシの事件が起こったと記事は伝えていた。またその同じ日に、ヨネが再び鬼娘を目撃していたと締めくくられていた。
三枚目には、嵐の中、恐ろしげな顔をした鬼が家を壊す絵が描かれていた。これは兵頭の家の話だ。
兵頭のことは、風寄に暮らす伊予絣の仲買人と説明され、兵頭がそれまで聞いたこともない、恐ろしい化け物の声を聞いたという話と、家人数名が怪我をした他、牛が死んだことが書かれてある。
また、兵頭は壊れた屋根越しに巨大な鬼の姿を見たとあった。これは完全な作り話だ。兵頭は化け物の姿を見てはいない。
絵に描かれた鬼の口には牛がくわえられている。牛は驚いて死んだらしいが、この錦絵新聞には牛がどうして死んだとは書いていない。だから、この絵を見た人は鬼が牛を喰い殺したと思うだろう。
鬼に家を壊されたのは兵頭の所だけであり、鬼の足跡が見つかったのも兵頭の家の周辺だけだと記事は説明しつつ、何故兵頭の家だけが襲われたのかという疑問を投げかけていた。それは兵頭と鬼に何らかの因果関係があるという示唆だ。
続く化け物事件に村中が恐怖に戦いているが、鬼や鬼娘が再び封じられるまで同様の事件は続くだろうと、記事はくくっていた。
大阪の人間にとっては、これらの記事はただの面白い話かもしれない。だが、現地に暮らす者にとっては他人事ではない。
千鶴はこの事件をきっかけに、女子師範学校をやめることになった。学校での騒動がどのように決着したのかは知らないが、級友だった者たちは騒動の説明として、千鶴のことを家人に話していると思われる。
その家人たちがこの錦絵新聞を目にすることがあったなら、やはりそうだったのかと思うに違いない。その話が他の者たちに伝われば、千鶴と鬼の噂が街中に広がるということになる。
兵頭と山﨑機織の関係を知る者であれば、尚更その噂を事実だと受け止めるだろう。そうなると千鶴だけの問題ではなく、山﨑機織を巻き込んだ騒ぎになってしまう。
記事を読み終えた千鶴は、やはり畑山に喋るべきではなかったかと後悔していた。
恐らく千鶴が喋らなくても、畑山のことだから記事は書いただろう。それでも、そこに自分が加担した形になったことが、千鶴はつらかった。
畑山は千鶴にお祓いの婆の話を確かめた。しかし、そのことはどこにも書かれていない。甚右衛門が鬼よけの祠の再建に、お金を寄付したという話も載っていない。風寄で意識を失った千鶴が法生寺で発見されたということも、畑山は書かなかった。
記事にするほどには、話がまとまらなかったのかもしれない。だが、これは畑山が自分たちを気遣ってくれたのだと、千鶴は思いたかった。
また、この錦絵新聞を松山の人間が目にするとは、畑山は思っていないに違いない。少なくとも千鶴はそう信じたかった。
だが、たとえそうだとしても、現に祖父も自分もこうして錦絵新聞を読んでいる。松山の誰かがこれを読まないという保証はない。その結果、忘れられたはずの話が蒸し返されて、店の存亡に関わることになるかもしれないのだ。祖父が怒るのは当然だった。
「千鶴ちゃん、中にいるんだろ? あたしも入ってもいいかい?」
障子の外で花江の声がした。千鶴は跳び上がるほど驚き、すぐに返事ができなかった。
「ち、ちぃと待って」
千鶴は慌てて錦絵新聞を布団の下に突っ込んだ。それから障子を開け、花江を中に入れた。
「千鶴ちゃん、ここで何をしてたのさ」
花江は部屋の中を見回しながら言った。掃除をしていたとは言えないし、着替えをしていたとも言えない。何と答えようかと迷っていると、目線を落とした花江が、おや?――と言った。
千鶴が花江の視線を追うと、布団の下から錦絵新聞の紙片の一部が顔をのぞかせている。千鶴の顔から血の気が引いた。
「これは何だい?」
花江はしゃがみ込んで、その紙片を摘まみ上げた。
千鶴は目を閉じて気持ちを落ち着けると、誰にも言わないで欲しいと花江に懇願した。
花江は千鶴が何かを隠していると感づいていたようだ。わくわくした様子で何度もうなずいた。
千鶴は布団の下から紙片を全部かき出し、目を丸くしている花江に言った。
「これな、さっきの封筒に入っとった錦絵新聞なんよ」
「錦絵新聞? そう言やぁ、あの猟銃騒ぎの時に千鶴ちゃんがかばってた人が、そんなこと言ってたよね?」
花江の記憶力は大したものだった。あんな騒ぎの中で、畑山が口にした言葉を覚えていた。
これはその人が作った錦絵新聞だと言って、千鶴は破れた錦絵新聞をつなぎ合わせた。花江も目を輝かせながら千鶴を手伝った。
そうしてつながった錦絵新聞を花江は興奮したように読んだ。しかし記事の内容が、以前に千鶴と春子から聞かされた話だとわかると、驚いた顔で千鶴を見た。
「これ、あの話じゃないか」
千鶴はうなずくと、大阪の作五郎さんがこんな物が出回っていると、祖父に送ってよこしたものだと説明した。
「だけどさ、別に千鶴ちゃんと鬼が関係あるみたいには書かれてなかったね。旦那さんの早とちりだね」
「ほんまよ。猟銃なんか持ち出して来て、まっこと大事になるとこじゃった」
二人で少し笑ったあと、どうしてこれを燃やさなかったのかと花江は訊ねた。
「おじいちゃんが見よるんがちらっと目に入ったけん、燃やす前に見てみたかったんよ」
「そうかい。わかるよ、その気持ち」
花江はにこりと笑うと、もう一度錦絵に目を落とし、これさ――と言った。
「法生寺って、千鶴ちゃんや幸子さんがお世話になったお寺じゃないのかい?」
うなずく千鶴に、お寺で鬼娘の話は聞かなかったのかと、花江は訊ねた。
千鶴が首を振ると、花江は錦絵新聞に目を戻し、ヨネが見たという鬼娘は、また法生寺に隠れているのだろうかと首を傾げた。
わからないとだけ千鶴は言った。胸の中で心臓が暴れて、それ以上は喋れなかった。
「それにしてもさ、何だって、うちにつながりがある人が、化け物に襲われたりしたんだろうね。何か気味が悪いよ」
花江の言葉に動揺しながら、この錦絵新聞をどうしようと、千鶴は花江に相談した。
花江は考える素振りも見せずに、さらりと言った。
「朝、竈に火を入れる時に、一緒に燃やしなよ」
「でも、お母さんが一緒やけん、見つかってしまう」
「じゃあさ、あたしが預かっといて燃やしとくよ。だったら、いいだろ? あたしゃ一人だから、誰にも見られやしないさ」
千鶴は少し悩んだ末、かき集めた錦絵新聞と作五郎の手紙の切れ端を、風呂敷に包んで花江に手渡した。花江はそれを懐に仕舞ってにやりと笑うと、任せときな――と言った。
若干の不安は残ったものの、花江が同じ秘密の仲間になったと思うと、千鶴は少し気が楽になった。
それでも、これからどうなるのだろうと考えると、やはり心配が膨らんだ。