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鬼の定め


     一

 作さく五ご郎ろうから錦絵にしきえ新聞が送られて以来、何か困ったことになるのではないかと、千鶴ちづはずっと不安だった。甚右衛門じんえもんも落ち着かなかったと思われるが、実際は何事も起こらなかった。
 結局は松山まつやまの人間があの錦絵新聞を目にすることはなかったのかもしれない。あるいは目にしていたとしても、千鶴と鬼の関係を疑ったりはしなかったのだろう。そもそも大阪おおさかの人間にしても、錦絵新聞を本気で読んではいないに違いない。所詮しょせんは素人が作った娯楽新聞なのだ。
 少し安心した千鶴の頭には、錦絵新聞のことは次第に上のぼらなくなった。

 やがて三月に入ると、ついに進之丞しんのじょうが手て代だいに昇格した。それに合わせて呼び名も忠吉ただきちから忠七ただしちになった。
 千鶴は進之丞の昇格祝いに、手作りの羽は織おりを贈った。
 手代になった者には羽織を着ることが許されたが、それまでの羽織はトミや幸子が作っていた。進之丞に贈られた羽織は千鶴が初めて作ったものだ。
 羽織を着せてもらった進之丞は、飛び跳ねたり回ったりして全身で喜びを表したが、すぐに泣きそうになった。前世の頃と比べると、どうも進之丞は涙もろくなったようだ。
 しかし進之丞の涙は千鶴を感激させ、二人の新たな暮らしが順調に進んでいるという感慨に浸らせてくれた。
 進之丞が昇格する一方で、とうとう茂も七しちは東とう京きょうへ向かった。辰蔵たつぞうは向こうで茂七への引き継ぎを終えたあと、四月には松山へ戻って来る予定だ。
 何となく遠慮がちだった弥や七しちも、気合いが入ったようにきびきび動きだした。進之丞の昇格が刺激になったのか、あるいは茂七がいなくなったことが手代の自覚を持たせたのかもしれない。甚右衛門やトミは喜んでいるが、千鶴は複雑な気持ちだ。
 そんなある日の午後、春はる子こが山やま﨑さき機織きしょくを訪ねて来た。

 亀吉かめきちに呼ばれて千鶴が店に出て行くと、春子が帳場ちょうばの脇で神妙な顔をして立っていた。
 進之丞も弥七も外廻まわりに出ており、孝平こうへいは勉強のために弥七について出ていた。帳場には甚右衛門がいたが、春子とは喋しゃべらずに黙ってお金の計算をしている。
 店の表には新吉しんきちが一人でいた。春子がいるので遠慮したらしい。
「久へえさしぶりじゃね。今日はどがぁしたん?」
 もう春子へのわだかまりがない千鶴は、明るく声をかけた。
「おら、山﨑さんやお家の人にお詫わびに来たんよ」
 春子は伏し目がちに言うと、甚右衛門の方へ体を向けて深々と頭を下げた。
「おらが余計なこと喋ったばっかしに、山﨑さんに学校やめさせてしまいました。もっと早はようにお詫びに来んといけんかったのに、怖こわぁて来れんかったんです。謝って済むことやないですけんど、どうか堪忍かんにんしてやってつかぁさい」
 甚右衛門はじろりと春子を見ると、口は災いの元ぞなと言った。すんませんと春子が詫びると、もう済んだ話よと甚右衛門は少しだけ笑みを見せた。
「千鶴にはこの店を継がせるつもりじゃったけん、どちゃみち学校はやめとった。積もる話もあろ? 奥で二人でゆっくり喋ったらええ」
 思いがけない言葉だったのだろう。春子は大泣きをした。千鶴は春子を慰め、抱きかかえながら奥へ連れて行った。
 トミが茶の間にいたので、春子は涙を拭くともう一度頭を下げて詫びた。
 笑顔を見せたトミは、よう来きんさったなと春子をねぎらい、花はな江えにお茶とお茶菓子を出すよう頼んだ。
 千鶴は花江に声をかけると、また泣きそうになっている春子を離れに連れて行った。

     二

 春子と向かい合って座った千鶴は、明るく訊たずねた。
「今日は学校やなかったん?」
「今日は土曜日なけん半ドンぞな」
 春子が目を伏せたまま言うと、ほうやったかねと千鶴は苦笑した。店の仕事をしていると、今日が何曜日なのかと考えなくなっていた。
「今月で卒業やけん。山﨑さんにお詫わびするんは今日しかない思て来たんよ。卒業したら、どこの学校行かされるかわからんけん」
「ほうなん。ほら、だんだんありがとう」
 お礼を述べたものの、あとの言葉が出て来ない。
 少しの沈黙を挟んで、千鶴は学校のことを訊ねた。学校をやめる手続きは全部祖母にしてもらったので、あの騒ぎのあとがどうなったのか千鶴は何も知らなかった。
 春子は暗い顔で、静しず子こ一人が退学になったと告げた。
「ほんまやったら、みんな退学になるとこやったんよ。山﨑さん何なんちゃしとらんのに、みんなで山﨑さん傷つけて追い出してしもたんやけん。ほやけど山﨑さんがみんなのこと許したて言うてくれたけん、みんなが退学なるんは免れたんよ」
「ほうなん。ほんでも高橋たかはしさんは退学になったんじゃね」
「山﨑さんが学校やめたのに、一人も責任取らんいうわけにいかんけん。ほれで高橋さんが退学になったんよ。他のみんなはな、山﨑さんのお陰で退学ならんで済んだてわかったら、やっと目めぇ覚めたみたいでな。山﨑さんにひどいことしたて泣きよった」
 みんな千鶴を恐れはしたが、それを煽動したのは静子だ。静子が責任を取らされたのは当然だった。しかし、春子は事の発端は自分にあると自らを責めた。
 しょんぼりする春子を見ながら、千鶴は静子のことを考えた。
 千鶴が寮で暮らした時には静子とも仲がよかった。だからあの時の静子の言動は未だに信じられないし、できれば思い出したくない。春子には悪いが、静子が退学になったと聞かされても気の毒にとは思わなかった。
「ほれで……、今は高橋さんはどがぁしとるん?」
「おらにもわからん。たぶん家の手伝いしとると思うけんど」
 祖母は何も言わないが、学校へ退学の手続きをしに行った時に、この始末をどうつけるのかと校長に迫ったのかもしれない。祖母のことだから、静子の家にも怒鳴り込んだ可能性はある。静子が学校をやめた背景には、きっと祖母の存在があるのだろう。
 しかし先ほどの祖父母の春子への態度を見ると、二人は春子のことは許しているみたいだ。この差は何なのだろうか。
「あの騒ぎのこと、村上むらかみさんのお家にも伝わったん?」
 千鶴に訊きかれると、春子は項うな垂だれるようにうなずいた。
「おら、しこたま怒られた。ほれでおとっつぁん、ここ来てお詫びするて言いよったけんど、山﨑さん、おとっつぁんに会おうてないん?」
 会おうとらんよと千鶴が答えると、ほうなんかと春子は言った。
「たぶん会わせてもらえんかったんじゃろな。ほんでも、ここのおじいちゃんにはお詫びしに来たと思う」
 それでなのかと千鶴は思った。向こうの方から先に詫びに来たから、祖父母は春子を許したのだ。しかも春子の父は名な波村なみむらの村長だ。村長がわざわざ詫びに来れば、それだけで祖父母の怒りは鎮しずまっただろう。そこで本当の問題は鬼にあるという話になり、鬼よけの祠ほこらを再建するお金を祖父が寄付することになったのだ。
 その祠は結局どうなったのか。千鶴は気になった。進之丞はこんな物では鬼は封じられないと言ったが、実際どうなのかはわからない。もし鬼が封じられたらと考えると心配になる。千鶴は春子に確かめてみようと思った。

「千鶴ちゃん、お茶とお饅まん頭じゅうを持って来たよ」
 障子しょうじの向こうで花江の声が聞こえた。千鶴が障子を開けると、花江は二人にお茶と饅頭を配った。今日は自分の分は持って来ていない。
 花江には学校をやめた理由をひどい差別を受けたからだと言ったが、詳くわしい話はしていない。それでも春子が詫びに来たのを聞けば、そこに春子が関わっていたのは花江にもわかったはずだ。
 これは自分が立ち入る話ではないと思っているのだろう。花江は余計なことは何も言わず、二人に微笑みかけて戻って行った。
 花江がいなくなったあと、二人は沈黙したまま座っていた。どちらもお茶にも饅頭にも手をつけない。
「村上さん、お饅頭食べてや。うちも食べるけん」
 千鶴が饅頭を取って口に入れると、春子もようやく饅頭に手を伸ばした。しかし春子にいつもの元気はなく、饅頭は小さくかじるだけだった。
 お茶を飲み、湯飲みを下へ置いた春子は、静子を悪く思わないでやってほしいと目を伏せたまま言った。
「高橋さんな、やきもち焼きよったんよ」
「やきもち? 誰に?」
 春子は少しだけ顔を上げて言った。
「山﨑さんによ」
「うちに? なして?」
「山﨑さん、おらと一緒に名な波村なみむらの祭り見に行ったじゃろ?」
 何だか言いがかりをつけられているみたいで、千鶴は気分が悪くなった。
「あれは村上さんに誘われたからやし。ほれに高橋さんかて誘われたんじゃろ?」
「違うんよ」
「違う? ひょっとして高橋さんは誘わんかったん?」
「誘たよ。ほやのうてな、高橋さんは自分も山﨑さんと二人ぎりで遊びたかったんよ」
 千鶴は絶句した。静子がそんな子供じみたことを考えるとは思いもしなかった。
「高橋さん、ほんまは自分も山﨑さんを家に呼んだり、一緒にお祭り楽しんだりしたかったんよ。ほれやのに、おら何なんもわからんでな。山﨑さんと街で遊んだて自慢してしもたんよ」
 春子の話を聞いた静子は、春子を羨うらやんで泣いたという。
 千鶴はうろたえた。何故静子がそこまで自分と遊びたがるのか理解ができなかった。
「なして、うちなんか……」
「山﨑さんは自分のことそがぁ言うけんど、おらたちから見たら山﨑さんは憧れやったんよ」
 春子は大真面目な顔で言った。けれど、千鶴は春子の言葉を受け入れられない。
「うちに憧れ? 嘘うそ言わんでや」
「嘘なんぞ言わん。前にも言うたけんど、山﨑さんはおらたちには特別なんよ」
「うちがロシア人の娘やけん?」
「ロシアいうんやのうてな、日本と異国の両方の血ちぃが流れとるんが、おらたちにはがいなことなんよ」
 千鶴には春子たちの思考が理解できないが、春子は自分の気持ちを話し続けた。
「日本は外国に憧れて維い新しん起こしたけんど、どがぁ足掻あがいたとこで外国人にはなれんぞな。ほやけど山﨑さんは産まれた時から半分は外国人じゃろ? ほれを山﨑さんが重荷に感じとるんはわかるけんど、おらや高橋さんにはな、山﨑さんは憧れやったし、同級生いうんは誇りやったんよ」
 春子の話は千鶴を混乱させた。自分なんかをそんな風に見てくれていたなんて、とても信じられなかった。
「高橋さん、山﨑さんに自分の気持ちをわかってほしいて、あげな態度を取ってしもたんやけんど、ほんまに悪いんはこのおらなんよ。おらがいろいろ喋しゃべって、高橋さんも山﨑さんも傷つけてしもたけん、何なんもかんも全部おらが悪いんよ」
 話し終わって春子は項垂れた。千鶴は気持ちを整理して静子のことを考えた。
 言い分が何であれ、静子がやったことは駄々だだっ子と同じである。相手を傷つけてでも自分の気持ちをぶつけるのは、己のことしか考えない愚かな行為だ。子供たちに教える立場になる者が取るべき態度ではない。
 とはいっても、もう済んだ話だ。静子を責める気などないし、静子を理解する必要もない。今の自分は山﨑機織やまさききしょくの跡取りとしての道を歩みだしているし、春子も静子もそれぞれの道を行くだけだ。

     三

「村上さんの話はわかったぞな。高橋さんのこともわかったけん。とにかくもう終わったことやし、うちはこがぁしてちゃんと暮らしよるけん、二人とも何なんも気にせいでええんよ。ほんでも、二人がうちをそがぁに想てくれとったことには感謝せんといけんね」
 千鶴の言葉に、春子は首を横に振った。
「感謝してもらお思て言うとるんやないけん。おらも高橋さんも山﨑さんのこと傷つけてしもたんをずっと悔やんどるて、山﨑さんに知ってもらいたかったぎりぞな。ほんまはもっと早はよに来るべきやったけんど、ここへ来るんは勇気がいったけん……」
「わざにおいでてくれてだんだんありがとう。ほんでも村上さん、鬼がんごは怖こわないん?」
 千鶴の言葉に春子は困惑こんわくして下を向き、あれは自分が阿呆あほやったと言った。
「確かにな、あのお祓はらいのお婆さんが、村上さんに鬼がんごが憑ついとるて言うた時はぞっとしたよ。ほんでもおらより村上さんの方が、どんだけぞっとしたんかて考えたら、そげなことは言われんけん……。ほやけど高橋さんに問い詰められた時にな。鬼が平気やったんか、平気なんは村上さんにも鬼が憑いとるんやないんかて言われてな。おら……」
 涙ぐむ春子に、もうええよと千鶴は言った。
「もう、ほれ以上は言わいでもええけん。うちは村上さんが鬼がんごを怖がっとるんか知りたかったぎりなんよ」
 春子は顔を上げると、きっぱり言った。
「鬼がんごは怖いけんど、山﨑さんに鬼が憑いとるとは思とらん」
「なして、そがぁ思うん?」
「ほやかて、山﨑さんにはお不動さまがついておいでるけん」
「お不動さま?」
「お不動さま、おらたちを風寄かぜよせから松山まつやままで運んでくんさったやんか」
 春子の話が、初め千鶴はよくわからなかった。でも、すぐに進之丞のことだとわかると笑顔で大きくうなずいた。
「風ふう太たさんのことじゃね?」
「ほうよほうよ。あの風太さんはお不動さまの化身ぞな。ほのお不動さまが護ってくんさっとる村上さんに、鬼がんごが憑くわけないけん」
 千鶴はおかしかったが、鬼が傍そばにいるのは事実である。千鶴の笑みはすぐに消えた。
 春子は千鶴を見つめながら訴えるように言った。
「おら、山﨑さんと一緒に街に遊びに行ったこと一生忘れんよ。山﨑さんと二人で遊びよった時、おら、鬼がんごのことも忘れてまっこと楽しかった」
 千鶴は春子の言葉を疑わなかった。あの時は自分も本当に楽しかった。
「村上さん、日ひ切ぎり饅頭熱いでて言うたのに、がぶってかぶりついて往おう生じょうしたわいねぇ」
「まっこと、ほうじゃったほうじゃった」
「大丸だいまる百貨店のえれべぇたぁも何べん乗ったろうか」
 春子と千鶴は笑い合ったが、いつしか笑いは涙となった。
「ほんじゃあ、そろそろ去いぬろうわい。もう会うこともないかもしれんけんど、山﨑さん、立派なおかみさんになりや」
「だんだん。村上さんも子供らに尊敬される先生になってや」
 もう二人が同じ道を歩むことはない。そのことに切なさを感じながら、千鶴は春子と微笑みを交わした。

 札ふだノの辻つじ停車場で電車を待っていると、お堀の南の角を電車が曲がって来るのが見えた。あの電車が来れば春子ともお別れだ。
「山﨑さん、元気でな」
「村上さんもな」
 二人が名な残ごり惜しそうにしていると、大丸だいまる百貨店の方から外廻まわりに出ていた進之丞が戻って来た。千鶴が一人でないので、進之丞は忠七として声をかけてきた。
「おや、千鶴さん。こがぁな所とこで何を――」
 千鶴に声をかけた進之丞を見て、春子が驚きの声を上げた。
「風太さん? 風太さんじゃろ?」
 千鶴と一緒にいたのが春子だとわかった進之丞は、ありゃりゃとばつの悪そうな声を出した。
「村長さんとこのお嬢じょんかな。こげな所とこでお会いするとは思いもしよらんかったかい」
「ほれはこっちの台詞せりふぞな。風太さん、なしてここにおるんね? あれ? ほの羽は織おりと着物、山﨑機織やまさききしょくのやないの」
 春子は問い詰めるような目を千鶴に向けた。千鶴は困惑を隠せないまま弁解した。
「実はな、うちの店、人手不足なんで、風太さんに手て伝つどてもろとるんよ」
 春子は納得しなかった。何故なら風太は不動明王の化身なのである。
 停車場まで来た進之丞に春子は言った。
「風太さん、おらの家にお金請求せんかったろ?」
「まぁ、いろいろ事情があって……」
 返事に困った進之丞は、頭を掻かくとちらりと千鶴を見た。しかし千鶴も言い訳が思いつかない。
「おとっつぁん、俥しゃ夫ふに風太いう奴やとはおらんて言うておいでたよ。風太さんて、ほんまは誰なん?」
「おら村の嫌われ者もんやけん、ほんまのことは言えなんだんよ」
「嫌われ者もん? ひょっとして……」
 眉をひそめる春子に、ほういうことぞなと進之丞は微笑んでみせた。春子は戸と惑まどった様子で、千鶴と進之丞を見比べた。
「ほやけど、なして――」
 そこへふぁんと音を鳴らして電車がやって来た。
 停まった電車が扉を開けた。電車に乗り込んだ春子は、車掌しゃしょうから切符を買いながら千鶴たちに答を求める目を向けた。
「あのな、うちら夫婦めおとになるんよ」
 千鶴は思い切って言った。春子の目が大きく見開き、進之丞はうろたえた。
「いや、ほれはまだ――」
 慌てる進之丞の腕を抱いて千鶴は言った。
「ほやけんな、何なんも心配せんで。もし高橋さんに会おうたら、うちのことは気にせんように言うといてな」
 扉が閉まり、春子は扉の窓の向こうでうなずいた。本当はもっといろいろ訊ききたいのだろう。でも、春子は笑顔で千鶴たちに手を振った。千鶴も春子に手を振り返した。
 学校をやめた時のまま別れ別れになるのではなく、こうして春子と話ができたのは、千鶴には思いがけなく嬉うれしいことだった。
「わざに顔見せに来てくれたんか」
 電車を見送りながら進之丞は言った。千鶴がうなずくと、進之丞は訝いぶかしげに訊たずねた。
「ところで、高橋さんとは誰ぞ?」
「え? うちの級友じゃった子よ」
「ほの子と何なんぞあったんか?」
「別に何なんもないよ。うちのこと心配してくれよるみたいなけん」
 千鶴がはぐらかすと、ほうなんかと進之丞は見えなくなった電車に顔を戻した。
 千鶴も電車が去った方へ目を遣やると、あ――と言った。春子に祠のことを訊くのを忘れていた。
「どがぁした?」
「いや、何でもないけん」
 祠を気にしていると進之丞には知られたくない。千鶴は笑ってごまかした。
「ほんじゃあ、去いぬろうか」
 進之丞が歩き出すと、千鶴は後あとに従いながら改めて静子のことを考えた。
 春子の話では、あの時の静子の言動はやきもちから来たもので本当の気持ちでない。そのことにほっとさせられた千鶴は、静子を気の毒に思えるようになった。けれど今は静子に会うことは敵かなわないから、慰めの言葉もかけられない。だから静子も心の痛みを乗り越えて、新たな人生を歩んでくれるようにと祈るしかなかった。

     四

 四月初日、進之丞は初めての給金と休みをもらった。
 弥七は給金をもらうと、活動写真を見に出かけるのが常だった。一方、進之丞は初めての給金を少しも使わず全部を千鶴に預けた。それは進之丞の誠実さを示すものであり、千鶴を女房気分にしてくれた。
 世の中は夫婦になっても自分ばかりが好きなことをする男が多い。千鶴は自分が誰よりも恵まれていると思った。
 進之丞は先月同様に外には出ないで千鶴を手伝ってくれた。亀吉と新吉も手伝ってくれたので、見かけは前の時と変わらない。しかし進之丞は手て代だいなので、丁でっ稚ちの仕事では呼ばれない。つまり、ずっと千鶴の傍そばにいられるのだ。
 とはいっても、亀吉や新吉が忙しくなれば進之丞は放っておかない。手代になってからも、水汲くみや荷物運びなどの仕事は亀吉たちと一緒に動いている。そんな感じなので亀吉たちも進之丞の仕事を喜んで手伝ってくれる。
 進之丞と一緒にいられるだけでも嬉うれしいのに、進之丞が亀吉たちから慕われるのは千鶴にとって何よりだった。

 この日は豊吉とよきちという新しい丁稚が加わった。小柄でまだまだ子供である。
 千鶴と初めて顔を合わせた時、豊吉は少し驚いた顔を見せた。それでもあとは変わった様子もなくぺこりと頭を下げて、どうぞよろしゅうにと挨拶をした。
 千鶴はしゃがんで豊吉の手を握り、こちらこそよろしゅうにと挨拶を返した。豊吉は頬ほおを赤らめて下を向き、小さな声ではいと返事をした。
 進之丞も豊吉に丁寧に挨拶をし、みんなが期待していると豊吉の頭を撫なでた。豊吉はまた頬を赤らめてはいと小声で言った。
 この少し不安げな新参者は、いつも亀吉に叱しかられている新吉を兄貴気分にさせたようだ。わからないことは何でも聞けと新吉は胸を張ってみせたが、この新参者はとても頭がよかった。
 豊吉は甚右衛門の話をよく理解したし、読み書き算盤そろばんも亀吉以上によくできた。亀吉も新吉も面目めんぼく丸潰れだ。
 亀吉たちより実力が劣る孝平は潰れる面目すらない始末だ。それでも気位だけは高いので、頭のいい豊吉を威い嚇かくする態度を見せた。しかしすぐに甚右衛門やトミに叱られ、亀吉たちも豊吉をかばったので、孝平は立つ瀬がなかった。

 夕方になって戻って来た花江は、進之丞が先月と同じように千鶴を手伝っているのを見て、へぇと感心した。
「手代になったってぇのに、外にも出ないで千鶴ちゃんのお手伝いなんて、さすがは忠たださんだねぇ。だけど忠さん、絶対に千鶴ちゃんの尻に敷かれるね。でも、こういうのって何なんかいいよね」
 花江が二人に祝福の笑顔を向けていると、亀吉が豊吉を連れて来て紹介した。甚右衛門は帳場ちょうばにいたので、亀吉が甚右衛門の代わりだ。
 豊吉を見た花江の第一声は、あら可愛い――だ。
 豊吉はまた顔を赤くして下を向きながら、花江に挨拶をした。花江も挨拶を返すと、茶の間にいたトミが、豊吉は本当に頭のいい子だと褒めた。豊吉は照れているのか緊張しているのか、ずっと下を向きっ放しだ。
 しばらくすると弥七が戻って来た。
 いつも弥七は街から戻ると、夕飯ゆうめしができるまで二階の部屋でごろりとしている。この日も二階へ上がろうとしたが、台所の千鶴たちが目に入ると途と端たんに焦あせった顔になった。
 恐らく進之丞が千鶴を手伝っているのを見たからだろう。亀吉が豊吉を紹介しようとしたが、弥七は振り向きもしないで二階へ上がって行った。
 花江はちらりと千鶴を見たが、その目は困ったもんだねと言っていた。

 夕飯時の話題は花見である。
 松山まつやまでは三月末頃から花見の季節だ。この頃になると、あちこちの店が臨時で店を休んで花見に出かける。山﨑機織やまさききしょくでも辰蔵が東とう京きょうから戻るのを待って、みんなで花見に行くことになっている。
 東京での売り上げは、銀行で小切手にしてもらって松山へ郵送する。辰蔵が戻って来るのは、三月分の売り上げを松山へ送金する手順を茂七に伝えてからだ。
 東京から松山までは二十八時間かかる。辰蔵はくたくたのはずなので、今回の花見は辰蔵の慰労も兼ねている。
 花江は今日一足先に一人で桜を見物に行ったらしい。しかし今年の開花は少し遅れていて、まだ咲き始めたばかりのようだ。
 辰たつさんが戻って来る頃にはもっとたくさん花が咲いてるよと、板の間から花江の期待を込めた声が聞こえた。続いて豊吉の歓迎会だと言う進之丞の声がして、ほんまじゃほんまじゃと亀吉と新吉が声を揃そろえた。やったと叫ぶ豊吉の嬉しそうな声が聞こえると、甚右衛門とトミはふっと笑った。
 千鶴たちもみんなで花見の話をしていたが、祖父母は笑うことが増えたし、鬼についてもほとんど気にしていないみたいだ。千鶴にはすべてが喜びに満ちあふれて見える。今までの花見はそんなに楽しみではなかったが、今年は待ち遠しくて仕方がない。
 花見の席は無ぶ礼れい講こうで家か人じんと使用人の分け隔てがない。銘々めいめいが好きな場所で好きなように花を愛めでられるし、誰と食事をしても構わないのだ。普段は食事が別々の進之丞の世話をこの日は存分に焼けるわけで、千鶴にとってはそれが何より楽しみだった。

     五

 東とう京きょうから小切手が届いた翌日に辰蔵が戻って来た。それで花見は二日後の日曜日に行くことになった。日曜日にしたのは幸子が病院の仕事が休みになるからでもあった。
 そうして迎えた花見の日は天気もよく、桜も満開だった。まさに花見日和である。
 朝飯を終えたあとは、掃除や洗濯などは手て代だいや丁でっ稚ちが引き受けて、千鶴たち女子衆おなごしゅうは花見で食べるご馳ち走そうを作り始めた。
 亀吉たちは作業をしながら何度も台所へやって来て、料理の進み具合を見て喜んだ。
 支し度たくができると、甚右衛門が店の鍵をかけたのを合図に、みんなは賑にぎやかに桜の花を求めて動きだした。
 弁当とお茶だけでなく、酒や団子もあるので手荷物が多い。手代と丁稚で手分けして運ぶのだが、ぶつぶつ言うのは孝平だけで亀吉たちは少しも苦にしていない。小柄な豊吉までもが荷物を抱えながら、ずっとはしゃいで喋しゃべりっ放しだ。
 紙屋町かみやちょうの他の店もやはり花見へ向かう人々が楽しげに出て来て、甚右衛門たちと挨拶を交わした。その賑にぎわいの中に怪しい男がいることに進之丞は気がついた。
 鳥打帽とりうちぼうをかぶった着き流ながし姿のその男は、まだ若いのに杖つえを突いて右足を少し引きずっていた。この辺りの者ではないがみんなに交ざって挨拶をしながら、何かを探しているように周辺をきょろきょろと見まわしている。
 紙屋町に不案内な者だろうと、誰もが怪しまなかったこの男が進之丞は気になった。少し歩いたところで、進之丞は戻って男がどうするかを確かめると言った。
 千鶴は進之丞の心配を甚右衛門に伝え、自分も一緒に店を見てくると言った。
 甚右衛門は進之丞の荷物を孝平に持たせると、進之丞に店の鍵を渡した。千鶴も手荷物を母に預け、進之丞と急いで店に戻った。
 ところが、さっき見かけた男の姿はどこにもなかった。足を引きずる男がそんな遠くへ行けるとは思えない。休まずに商いをしている店の中に入ったのかもしれないが、千鶴たちは一応家の様子を見てみることにした。

 店に戻って表の戸を確かめると、鍵はかけられたままだ。裏うら木戸きども内から閂かんぬきがかけられているので、外からは開かない。中には誰も入れないはずだ。
 土ど塀べい越しにじっと中の様子を窺うかがっていた進之丞は、千鶴にここで待つようにと言って店の鍵を預けると、ひょいと土塀を跳び越えた。その身軽さは千鶴を驚かせたが、しばらくすると中から知らない男の驚き慌てた声が聞こえた。そのあと奥庭に人の動く音が聞こえ、裏木戸が中から開けられた。
 顔を出したのは進之丞で、その腕には気を失ったさっきの鳥打帽の男が抱えられていた。この男は空き巣だと進之丞は言った。
 千鶴は男の顔を見せてもらった。はっきり覚えているわけではないが、風寄かぜよせへ行く客馬車に一緒に乗り合わせた、あの鳥打帽の男に似ている気がした。
 その話をすると、対ついの男かもしれんなと進之丞は言った。
 進之丞は巡査じゅんさを呼ぶよう千鶴に頼んだが、自分が土塀を跳び越えたことは黙っているようにと言った。喋れば今度は自分が空き巣を疑われるというのが理由だ。
 千鶴はうなずくと急いで駐在所へ行き、巡査二人を連れ戻った。裏木戸周辺には近所の者たちが集まっていて、みんなが進之丞の手柄に感心している。
 巡査たちは男を引き取ると、進之丞に大おおいに感謝した。巡査の話によれば、他にも花見の留守に空き巣に入られた家があちこちにあったらしい。
 裏木戸の中には紐ひもを縛りつけた杖が落ちていて、もう反対側の紐の先には手のひらほどの長さの小枝が結びつけられていた。
 恐らく男はこの杖を土塀に立てかけて、紐で結んだ小枝を土塀の向こうへ投げ込んだあとに、杖を踏み台にして土塀を乗り越えたと思われた。中へ入ったあと、紐を引っ張れば杖を中へ引き込めるので、誰にも怪しまれずに空き巣ができたのだ。
 鍵をかけていたはずの家がやられていたので、どうやって空き巣が中へ入ったのかが、警察でもわからなかったそうだが、これでやっと謎が解けたと巡査たちは喜んだが、軽業かるわざ師しのような男の身のこなしに驚いてもいた。
 千鶴はその話を聞きながら、確かに進之丞の身軽さを喋るとあらぬ疑いをかけられるなと思った。

 進之丞が空き巣を捕まえた話は新聞にも載った。記事によると、空き巣の男には横嶋よこしまつや子という仲間の女がいるそうで、警察はつや子の行方を追っていた。
 悪事を働いた者が仲間のことをそんな簡単に喋るとは思えないが、それでも男が早々と仲間の名前を白状したのは、自分だけ捕まったのは割に合わないと思ったのかもしれない。さもなければ警察の取り調べが余よ程ほど厳きびしかったのだろう。
 いずれにしても、まだ空き巣の仲間が残っているのは注意せねばならないが、女の空き巣仲間は珍しい。そこが何だか千鶴には引っかかっていた。

 朝飯を済ませてみんながいつものように動きだした頃、新聞を読んだ近所の者たちが次々に山﨑機織やまさききしょくを訪れた。用件はみんな同じで誰もが進之丞を褒め、空き巣を捕まえたことを感謝した。進之丞が空き巣を取り押さえた現場にいた者も改めて進之丞を賞賛し、紙屋町の誇りだとまで言った。
 進之丞は戸と惑まどっていたが、甚右衛門たちは嬉うれしさが隠せないし千鶴も鼻が高い。
「これじゃあ太物ふともの屋のご主人たちが、ますます忠さんを放っておかないね」
 花江が千鶴をからかったが、千鶴の笑みが消えると笑いながら冗談だよと言った。
 そこへ同業組合の組合長もやって来て、進之丞を褒めちぎった。そのあと女に騙だまされたという越智おち絣がすりの主あるじの話を持ち出した組合長は、騙した女の名前が横嶋つや子だったと思うと甚右衛門に言った。
 ほうなんかと甚右衛門は驚いたが、千鶴はもしやと思った。
 千鶴が風寄の祭りを訪ねたあと、風寄でも空き巣が頻発ひんぱつした。そして井上いのうえ教諭の叔父が二百三高にひゃくさんこう地ちの女に騙された。今回捕まった空き巣があの鳥打帽の男だとすれば、横嶋つや子はあの二百三高地の女なのかもしれない。
 その話を花江にすると、絶対にそうだと花江はうなずいた。花江は警察に教えたらどうかと言ったが、半年も前の話だ。証拠もないので黙っていることにした。
 それでもこの推測が正しければ、鳥打帽の男に狙われたというめぐり合わせは、偶然というにはでき過ぎている。千鶴は妙な胸騒ぎを覚えた。

     六

 進之丞が仕事に慣れる一方で、弥七も手て代だいとしての貫禄がついてきたようだ。丁でっ稚ちの亀吉と新吉も元気が漲みなぎり、何をするにもてきぱきと動いている。
 豊吉は入りたてだし小柄なので、仕事は家事の手伝いが中心だ。それでもいずれは荷物運びをやらねばならないので、試しに木箱を一つ持たせてもらったが、必死に歯を食いしばっても長くは持っていられなかった。
 初めは自分だって同じだったのに、豊吉から木箱を受け取った新吉は得意げにそれを帳場まで運んだ。ようやく兄貴風を吹かすことができた新吉を見て亀吉が笑っている。
 そんな中で孝平だけは少しも伸びず、甚右衛門やトミをがっかりさせた。
 そもそも孝平は仕事に対する熱意がない。だから覚えるべきこともなかなか覚えられず、人に見られていなければすぐに手を抜こうとする。そのくせ他の者にけちをつけて偉ぶるので、みんなから疎うとまれていた。
 孝平は弥七と一緒に太物ふともの屋を廻まわることがあったが、客からの印象が芳かんばしくなかった。それで弥七が孝平とは廻りたくないと甚右衛門に訴えたので、近頃は外廻りにも出してもらっていない。それなのに孝平は手代にしてほしいとしきりに懇願して甚右衛門を困らせた。
 だが、丁稚としても使えない孝平が手代にしてもらえるはずもない。口先ばかりで仕事ができず他の使用人の足を引っ張る孝平は、置いておくだけで店の雰囲気が悪くなる。甚右衛門もトミも孝平はそろそろ潮時と考えているようだった。
 甚右衛門たちの様子に焦あせった孝平は、自分はこのままでは終わらないと花江に虚勢を張った。だけど花江は端はなから相手にしていない。二人でここを出て一緒に店を持とうと持ちかけても、勝手に一人で行けと言われる始末で、孝平は次第に陰鬱いんうつになった。
 そうして季節は移り変わり、梅雨が明けて夏が訪れると事件が起きた。

 その日の朝、千鶴と幸子が台所へ向かうとすでにトミが起きていて、板の間で一人で千鶴たちを待っていた。
 トミは千鶴たちに、今日は花江さんは手伝えないから二人で朝飯の準備をするようにと告げると、脇にある階段を上がって行った。
 亀吉たち丁稚の三人も先に起きていて、井戸から汲くんだ水を水瓶みずがめに入れていた。他の者たちも起きているみたいだが、全員が二階にいるらしい。何があったのかと千鶴が訊たずねても、三人とも知らないと言うばかりだ。
 亀吉によれば、いつもより早く目が覚めたら忠七と孝吉こうきちがおらず、部屋の外へ出てみると自分の帯で縛られた孝吉を忠七が見張っていたという。どうしたのかと訊きいても説明してもらえず、代わりに水汲みを頼まれたそうだ。それで新吉と豊吉を起こして水汲みを始めると、辰蔵が降りて来て甚右衛門とトミを呼び起こしたという話だ。
 それだけ聞いて、千鶴はぴんときた。
 昨夜、孝平は縛られるような真似をしたのだが、そこに花江が関わっているのであれば答えは決まっている。孝平が花江を襲ったのだ。 
 進之丞たちがいる部屋と花江がいる部屋は向かい合った所にある。しかも花江は一人だけだ。うだつが上がらず花江にも相手にしてもらえない孝平が、力尽くで花江を物にしようとしたのに違いない。ところが騒ぎで他の者が目を覚まし、縛られることになったのだろう。
 幸子も同じ考えだったが、とにかく食事の用意をしなくてはならない。二人で動きまわっていると、辰蔵と進之丞が階段を降りて来た。続いて弥七と花江が姿を見せた。
「迷惑かけちまったね。ごめんよ」
 口早に千鶴たちに声をかけると、花江は急いで土間に降りて仕事を手伝い始めた。
 男たちは朝の挨拶をしただけで何も喋しゃべらなかった。辰蔵と進之丞は疲れた顔をしており、弥七は当惑している様子だ。
「孝平の分はいらんけんな」
 遅れて降りて来たトミは、それだけ言うと茶の間へ移った。
 しばらくすると甚右衛門と孝平が降りて来た。甚右衛門は不機嫌そうにむすっとしており、孝平は憔しょう悴すいしきって項うな垂だれている。
 甚右衛門は茶の間にいるトミの傍そばへ座ったが、孝平はそのまま土間へ降りた。
 千鶴も幸子も何も知らないふりをして、いつものごとくに動いた。花江も忙せわしくしながら、ずっと孝平に背中を向けていた。その背中に向かって、孝平は深々と一礼した。そのあと甚右衛門とトミにも頭を下げると、黙って奥庭へ行き裏うら木戸きどから出て行った。
 食事が始まっても、孝平は戻って来なかった。
 使用人たちが食事をする板の間は、いつもなら誰かの声が聞こえるのにこの日は一言も聞こえない。みんな黙々と食べている。

 食事のあと、幸子が病院の仕事に向かい、千鶴が一人で奥庭で洗濯をしていると、手伝うよと言って花江が隣に来た。
「朝から妙な感じで驚いたろ?」
 花江は明るく言ったが、表情は暗かった。
 千鶴は返事に迷い、黙ってうなずいた。
「昨夜ゆうべさ、嫌なことがあったんだよ」
 やっぱりと思った千鶴に、花江は説明を始めた。
「あいつがさ、あたしが寝てる部屋に忍び込んで来て、あたしに襲いかかったんだ」
 花江を自分の物にする方法はこれしかないと思ったのだろう。孝平は花江の寝込みを襲い、目を覚ました花江に騒いだら殺すと言ったらしい。
 真っ暗闇の中、とにかく花江は抗あらがってのし掛かる孝平を押しのけようとしたという。すると――。
「ふわっとね、あいつの体が持ち上がったんだ。あたし思わずさ、自分はえらい力持ちだったんだって驚いちまったよ」
 花江は少し笑ったあと、自分が手を引っ込めても孝平は宙に浮かんだまま藻掻もがいていたが、下には落ちて来なかったと言った。
 まさかと千鶴は思った。脳裏に浮かんだのは、鬼が孝平をつかみ上げている光景だ。闇から大きな手が伸びていたと、花江が言うのではないかと千鶴はびくびくした。
「何だかわかんないままあいつの下から逃げたらさ、声が聞こえたんだよ」
「声? どがぁな声が聞こえたん?」
 訊ねながら、千鶴は顔から血の気が引くのを感じた。化け物の声がしたと言われるのではないかと緊張していると、忠たださんだよと花江は楽しげに言った。
「暗がりの中から忠さんの声で、孝吉さん、こげな所とこで何なんしよんぞなもし――て聞こえたんだよ。それで急いで行灯あんどんに火を灯したら、忠さんがこんな風にさ、あいつの腰ひもを片手でつかんで持ち上げてたんだ」
 花江は右手で荷物を持ち上げる格好をしてみせた。へぇと言いながら、鬼でなかったことに千鶴はほっとした。それにしても進之丞は怪力である。前世でそこまで力持ちだったとは記憶していないが、いずれにしても頼もしい限りだ。
「豊とよちゃんみたいな子供を持ち上げるんならさ、あたしだって驚きゃしないよ。だけど、いくら痩せてたって三十過ぎの男だよ? 上に乗られたあたしは身動きが取れなかったんだ。それをさ、ひょいって片手で持ち上げてさ、あいつが暴れても全然平気なんだよ」
 花江は興奮気味に喋しゃべった。孝平に襲われたことより、進之丞の力への驚きが勝まさったのだろう。進之丞は花江に迷惑をかけたと孝平に代わって詫わびを入れたというが、少しも息が切れた感じがしなかったそうだ。
「そこへ辰たつさんが来てくれてさ。あたしが襲われたって言ったら、あいつを殴ろうとしたんだよ。そしたら忠さんが手を出したらだめだって止めてね。今晩は自分が見張ってるから、朝になったら旦だん那なさんにどうするかを決めてもらおうって言ったんだよ」
 進之丞の判断は正しかったと思われる。辰蔵が孝平を傷つけたなら、辰蔵も何かの咎とがめを受けた可能性があった。そして、甚右衛門に判断を仰あおいだ結果が孝平の放逐ほうちくだった。
 花江は安あん堵どはしたものの、旦那さんやおかみさんに申し訳ないと思っていると言った。あんな男でも甚右衛門たちにすれば血を分けた息子だ。その息子を追い出すのは、やはり親としては忍びないだろうと言うのだ。
「花江さんは悪わるないんじゃけん、何なんも気にすることないよ。うちは花江さんが無事じゃったんが何よりやけん」
 千鶴が慰めると、花江はにっこり笑ってありがとうと言った。それから進之丞の力の強さに改めて感心した。
「見かけじゃ絶対に辰さんの方が強そうなんだけどさ。男ってほんとわかんないもんだよねぇ。しかもさ、あんなに強いのに忠さんってちっともぶらないしさ。ほんとに優しいんだもん。千鶴ちゃんでなくたって、女だったら絶対惚ほれちまうよ」
 進之丞を褒めてもらえるのは嬉うれしいが、最後の言葉はいただけない。花江も本気で言ったわけではないだろうが、千鶴の胸は一瞬ざわついた。

     七

 孝平がいなくなったあと、甚右衛門は苦虫を噛かみ潰したような顔のことが多くなった。また時折鳩尾みぞおち辺りに手を当てながら顔をしかめ、目を閉じたままじっとしていた。
 伊予いよ絣がすりは足踏み式の織おり機きを導入してから生産能力は向上したものの、その分、織おり子この賃金は下がった。織子の士気は低下し、粗悪品が広く出まわりだしたため、伊予絣の評判は落ちていった。評判が落ちると売値を下げねばならず、それが伊予絣は安物だという評価を余計に引き出した。
 同業組合では粗悪品の流通を防ぐため、組合で決めた基準以下の商品の売買を禁じていた。しかし基準をぎりぎりで通過した高級品とはいえない商品が多く、組合の規制だけでは評判を取り戻すことはできなかった。
 どれほど多くの絣を生産したところで、利益が以前よりも減れば織子の賃金はさらに少なくなる。すると、もっと織子の士気が下がって絣の質がどんどん落ちていく。そんな悪循環に陥った伊予絣を泥沼から引き上げる策を、伊予絣業界は見出せずにいた。
 そこに加えて今回の息子の不祥事だ。甚右衛門の胃が痛くなるのは当然だった。
 トミは心配して医者に診みてもらうように促うながした。だが甚右衛門は無駄な金は使わないと拒み、こんなものは時が経てばすぐに治ると言い張った。
 幸い帳場ちょうばは辰蔵が仕切ってくれるが、甚右衛門が不調なのは変わらない。気丈に振る舞っているトミだって、本当は気落ちしているのに違いなかった。
 千鶴はトミを気き遣づかい、手が空すいた時にはトミの肩を揉もんだり背中をさすったりしてやった。初めの頃はトミは涙ぐんだりしていたが、そのうち涙は見せなくなり、いつものトミらしくなった。
 一方、甚右衛門の腹痛には進之丞がどこからか薬草を採って来て、甚右衛門に煎じて飲ませた。その効果はてきめんで、甚右衛門の腹痛はけろりとよくなった。それには甚右衛門はもちろん千鶴もトミも驚いた。
 辰蔵が忠七は薬屋になれるなと感心すると、甚右衛門もトミも忠七にはずっとここにいてもらうと言った。それは明らかに進之丞を千鶴の婿にするという意味だ。
 千鶴は喜びに胸が弾んだが、進之丞は謙虚に微笑むばかりだった。

 東とう京きょうを任された茂七は思った以上にがんばっているらしく、東京からの注文は徐々に増えていった。
 また大阪おおさかからの注文も甚右衛門の読みどおりに伸びていた。
 みんなが汗だくになりながら懸命に働いた。孝平がいなくなったことは次第に忘れ去られ、以前の山﨑機織やまさききしょくに戻って行くようだ。
 以前に戻ったといえば、あの鬱陶うっとうしい三津子みつこも春以降は姿を見せなくなっていた。幸子は少し寂しがっていたが、いつまでも三津子に付き合っている暇はないので、半分はほっとしているみたいだ。
 幸子の話では、三津子は道どう後ごで飲食の仕事をしているらしい。三津子が来なくなったのは、きっと仕事が忙しくなったからだと幸子は言った。
 だけど千鶴には他人を思いやれない三津子がまともな仕事をしているとは思えなかった。それに唐突に現れるほど暇がある者が、普通に働いているはずがない。恐らく何か怪しい仕事をしているのに違いないのだ。姿を見せないのもそのせいに決まっている。
 いずれにしても何かと波風を立てる者たちはいなくなり、山﨑機織もようやく本来の姿に戻ったのだと千鶴は思った。また、それは進之丞とともに甚右衛門たちの後あとを継ぐ夢が、現実のものになりつつあると感じさせるものでもあった。

 八月に入り、盆を迎えたあと藪やぶ入りになった。弥七や丁でっ稚ちたちは新しい着物を着せてもらい、土産みやげの反物を手に実家へ戻って行った。
 辰蔵もいなくなり、花江は自分で作った新しい着物を着て、一人で街へ出かけて行った。
 進之丞も千鶴が作った新しい着物を着せてもらい、上等の絣かすりの反物をいくつも土産に持たされて風寄かぜよせの実家へ顔を見せに戻った。
 藪入りは一日だけなので、朝出かけても夜には戻って来なければならない。そのため風寄のような遠くから来ている者は、藪入りでも家に帰らず街で遊ぶ。けれども、進之丞は客馬車代まで持たされて実家へ帰らせてもらった。まさに特別待遇だ。
 夕方戻って来た進之丞は、手て代だいになったことや客馬車に乗せてもらえるほど店で大事にされていることを、為蔵ためぞうとタネが喜んでくれたと甚右衛門たちに報告した。
 しかしあとで千鶴にはこっそりと、風寄までの行き帰りを走って客馬車代としてもらった銭を為蔵たちに渡して来たと話してくれた。また二人が千鶴に会いたがっていると言われ、千鶴は涙が出るほど嬉うれしくなった。

     八

 秋になり阿沼美あぬみ神社の祭りが始まると、どこの店も仕事を休んで祭り見物をした。山﨑機織やまさききしょくも例外ではなく、店の者みんなで祭りを見に行った。
 去年は風寄かぜよせの祭りで千鶴も進之丞も孤独な思いをした。だけど、今は二人とも孤独ではない。他人の目など気にすることなく勇壮な神輿みこしを見物できた。
 阿沼美神社には三体の神輿がある。一つは雷らい神じんの千ち木ぎ神輿でチキと呼ばれる。残り二つは黒くて四角い水神みずがみの神輿、それに金色こんじきで八角の大山祇大明神おおやまづみだいみょうじんの神輿だ。こちらはそれぞれ「四角しかくさん」「八角はっかくさん」と親しみを込めて呼ばれている。
 一番初めに宮出しされるのは千木神輿だが、これは町内巡行はせずに宮入りする。
 一方、四角さんと八角さんは町を練り歩くのだが、四角さんは町方まちかたの神輿で八角さんは村方むらかたの神輿だ。町人と百姓の力比べである二つの神輿の鉢合わせは有名で、四角さんが勝てば商売繁盛、八角さんが勝てば五穀豊穣といわれている。どちらが勝ってもいいことがあるわけだ。今も続くその習わしは多くの人々を興奮させる。
 神輿の鉢合わせには風寄の祭りとはまた違う迫力があり、二つの神輿を取り囲む人々は声を上げて祭りを盛り上げる。鉢合わせをすると双方の神輿の上に乗った男たちが落ちそうになるが、どちらも意地でも落ちられない。そこは男たちの持つ勇ましさの見せ所で、その真剣勝負を進之丞も興奮気味に眺めていた。

「あれから一年になるんじゃな」
 進之丞が周囲の喧噪けんそうに負けない声で言った。あれから一年というのは、二人が出逢あった風寄の祭りから一年が経ったという意味だ。
 千鶴が微笑みながらうなずくと、進之丞は嬉うれしそうに千鶴の肩を抱き寄せた。周りは人でいっぱいだが、誰も千鶴たちには目を向けていない。千鶴にとって存在しているのは進之丞だけだ。進之丞の温もりに包まれながら千鶴は幸せに浸っていた。
 進之丞はしばらく神輿を眺めていたが、やがて千鶴の肩を抱きながら人垣を離れた。人々の叫び声は続いているが、二人が喋る邪魔にはならない。
 進之丞はそこから神輿を振り返って言った。
「こがぁしてお前まいと二人で祭りを見られるやなんて、あしには夢みたいぞな。またそげなことを申すんかと思われようが、あしは今の自分が怖い気きぃがしとる」
「何が怖いん?」
「あしにはな、幸せ過ぎるんよ。お前まいと再び出逢えた上に、こがぁして一緒におれるやなんて……。ほんまじゃったら、これは有り得んことぞな。ほれがあしには怖いんよ」
 進之丞は未だに前世の罪に悩んでいるらしい。千鶴は無理に進之丞の言葉を否定せず、諭すように言った。
「ほやかて、これがおらたちの定めぞな。進しんさん、おらの幸せをお不動さまに願ねごてくれたんじゃろ?」
「ほうやが、己の幸せなんぞ願ねごとらん。あしが願たんはお前まいの幸せぎりぞな」
「ほやけんよ」
「ほやけん?」
「進さんと一緒になるんが、おらの幸せじゃいうことやんか。そこんとこをお不動さまは、ちゃんとわかっておいでたんよ」
「ほやけど、あしは――」
 進之丞は喋しゃべりかけた口を噤つぐんだ。
「ほやけど、何なんよ?」
「……あしはな、もう昔のあしやないんよ」
 祭りの賑にぎわいが二人の間を流れて行く。喧噪が進之丞を連れ去りそうな気がした千鶴は、進之丞の腕をしっかりつかんで言い返した。
「何言うんよ。進さんは進さんやんか。前の世と今の世で違う言うんなら、ほれはおらかて対ついぞな。どこでどがぁな風に産まれようと、進さんは進さんぞな」
 進之丞は何も言わず黙って千鶴に微笑んだが、何だか憂いがある笑みだ。千鶴は少しうろたえながら言った。
「とにかくな、お不動さまがこがぁしてくんさっとるんじゃけん余計なこと考えんの。おらは進さんと一緒におれて幸せぞな」
 言ってしまってから千鶴は慌てて手で口を押さえた。
「今の間違い。おら幸せやけんど、幸せやないんよ」
 ぷっと進之丞は小さく噴き出した。
「また、そげなことを申しとるんかな」
 前の時には進之丞は涙を見せた。だけど今回は笑っている。少し慣れたみたいだ。
「案ずるな。お前まいがまことの幸せをつかむまで、鬼がんごはお前まいの傍ねきにおる」
「まことの幸せて、今よりもっと幸せいうこと?」
 進之丞がうなずくと、千鶴は胸が高鳴った。今よりも幸せといえば、晴れて進之丞と夫婦になるのだろう。だけど、その時には鬼は千鶴の元を去ることになる。それを考えると千鶴は悲しくなった。
「ほんでも、おら鬼がんごさんには離れてほしない」
「鬼がんごは所詮しょせん、鬼ぞな。前にも申したが、お前まいのような優しい女おな子ごの傍ねきには、鬼はずっとはおれんのよ」
「今一緒におれるんなら、ずっと一緒におれるんやないん?」
「今おれるんはお不動さまのご慈悲ぞな。お前まいの幸せを見届ける間ぎり、お前の傍ねきにおるんを許されとるんよ。ほじゃけんお前がまことの幸せになったなら、鬼はお前から離れるんが定めぞな」
「ほんなん……」
「これまで鬼がんごはほれなりのことをしてきたんぞな。お前まいへの優しさぎりで、ほの罪が許されるわけやないんよ」
 項うな垂だれる千鶴に進之丞は続けて言った。
「お前まいが鬼がんごを大事に思てくれるんなら、誰にも遠慮せんで幸せになるんぞ。ほれが鬼への供養になる故ゆえ」
「鬼がんごへの供養?」
 顔を上げた千鶴に進之丞は微笑んだ。
「お前まいがまことの幸せをつかんだとわかったら、鬼がんごは安心して消えることがでける。ほやけん――」
 千鶴は泣きだした。周りの者たちが目を向ける中、進之丞はうろたえながら千鶴を別の所へ誘いざなった。

「忠たださん、いけんやんか。女おな子ご泣かしたらいけんので」
 振り返ると新吉がいた。亀吉と豊吉も一緒だ。
「忠さんが悪いんやないんよ。うちが勝手に泣いたぎりじゃけん」
 千鶴は急いで涙を拭ぬぐい笑顔を見せた。
「何を泣きよったん?」
 訊たずねる新吉に、余計なことを訊きくなと亀吉が怒った。ええんよと亀吉をなだめて、千鶴は言った。
「世の中、理不尽なことばっかしやけん、つい泣いてしもたんよ」
「りふじんて?」
 新吉が訊き返すと、亀吉が鼻息荒く言った。
「お前まい、そがぁなこともわからんのか。りふじんいうたらな……、りふじんいうたら、えっと――」
「道理に合わんことぞな」
 豊吉がぽそりと言った。
 亀吉は驚いて豊吉を見た。新吉も口を半分開けたまま豊吉を見つめている。
「豊吉さん、賢いんじゃね」
 千鶴に言われて、豊吉は恥ずかしそうに下を向いた。
「学校の成績よかったんじゃろ?」
 うん、まぁ――と豊吉は下を向いたままうなずいた。
「じゃ、じゃあ、道理って何なんぞ?」
 新吉が向きになると、物事の正しい筋道だと豊吉は答えた。
 目を丸くする新吉を押しのけて亀吉が言った。
「ほれじゃったら、因果応報はわかるか?」
 ぎくりとした千鶴の横で、豊吉は言った。
「やったことに応じた報いがあるんよ」
「豊とよさん、大したもんぞな。亀かめさんも新しんさんも負けられんぞな」
 豊吉の頭を撫なでながら進之丞は言った。
 豊吉は照れ笑いをし、亀吉と新吉はもっと勉強すると誓った。その横で千鶴は動揺していた。
 何故ここで因果応報という言葉が出たのか。今進之丞が鬼の罪の話をしたところだ。そこにこの言葉が出てきたのは、鬼には鬼の定めがあると言われているみたいだ。
 進之丞は小柄な豊吉に肩車をして神輿を見せてやった。その隣では亀吉と新吉が羨うらやましがり、次は自分の番だと言い合っている。
 この賑やかさの傍かたわらで、鬼は姿を隠して見守ってくれている。そんな鬼がどうして地獄へ戻されてしまうのか。
 何とかならないのかと、千鶴は心の中で不動明王に訴えた。けれど、何も答えは返って来ない。ただ定めを受け入れよということだろう。
 鬼が消えるのが定めであるなら、それに逆らうことはできない。だけど、やっぱり理不尽だ。きっと進之丞もそう感じているに違いない。進之丞が時折見せる寂しげな表情は、鬼を不ふ憫びんに思っているのだろう。
 いつかは訪れる鬼との別れを思うと、再び悲しみが込み上げる。丁でっ稚ちたちと遊ぶ進之丞を後ろから見ながら、千鶴はそっと袖そでで目を押さえた。