> 野菊のかんざし > 鬼の定め

鬼の定め


     一

 さくろうから錦絵にしきえ新聞が送られて以来、何か困ったことになるのではないかと、千鶴ちづはずっと不安だった。
 恐らく甚右衛門じんえもんも同じ気持ちだっただろうが、実際は何事も起こらなかった。
 結局は松山まつやまの人間があの錦絵新聞を目にすることはなかったのかもしれない。あるいは目にしていたとしても、それは千鶴と鬼の関係を疑うような者ではなかったのだろう。
 また大阪おおさかの人間にしても、そもそも錦絵新聞というものを、誰もそれほど本気で読んでいないに違いない。所詮しょせんは素人が作った娯楽新聞なのである。
 そう思うと千鶴は少し安心し、錦絵新聞のことは次第に頭にのぼらなくなった。
 やがて三月に入ると、ついに進之丞しんのじょうだいに昇格した。昇格に合わせ、呼び名も忠吉ただきちから忠七ただしちになった。
 千鶴は進之丞の昇格祝いに、手作りのおりを贈った。
 手代になった者には羽織を着ることが許されたが、それまでの羽織はトミや幸子が作っていた。進之丞に贈られた羽織は千鶴が初めて作ったものだった。
 羽織を着せてもらった進之丞は、本当にうれしそうな顔をしたが、すぐに泣きそうになった。前世の頃と比べると、どうも進之丞は涙もろくなったようである。
 しかし、進之丞の涙は千鶴を感激させ、間違いなく二人の新たな暮らしが始まったのだという感慨に浸らせてくれた。
 進之丞が昇格する一方で、とうとうしちとうきょうへ向かった。辰蔵たつぞうは向こうで茂七への引き継ぎを終えたあと、四月には松山へ戻って来る予定である。
 進之丞の昇格が刺激になったのか、あるいは茂七がいなくなったことが手代の自覚を持たせたのか、頼りない感じだったしちも、気合いが入ったようにきびきび動くようになった。そのことは甚右衛門やトミを喜ばせ、ようやく山﨑機織やまさききしょくにも春が訪れたようだった。
 そんなある日の午後、はるが山﨑機織を訪ねて来た。

 亀吉かめきちに呼ばれて千鶴が店に出て行くと、春子が帳場ちょうばの脇で神妙な顔をして立っていた。
 進之丞も弥七も外まわりに出ており、孝平こうへいは勉強のためという理由で、弥七について出ていた。帳場には甚右衛門がいたが、春子とはしゃべらずに黙ってお金の計算をしている。
 店の表には新吉しんきちが一人でいた。春子がいるので遠慮したようだ。
へえさしぶりじゃね。今日はどがぁしたん?」
 もう春子へのわだかまりがない千鶴は、明るく声をかけた。
「おら、山﨑さんやお家の人におびに来たんよ」
 春子は伏し目がちに言うと、甚右衛門の方へ体を向け、深々と頭を下げた。
「おらが余計なこと喋ったばっかしに、山﨑さんに学校やめさせてしまいました。もっとようにお詫びに来んといけんかったのに、こわぁて来れんかったんです。謝って済むことやないですけんど、どうか、堪忍かんにんしてやってつかぁさい」
 甚右衛門はじろりと春子を見ると、口は災いの元ぞな――と言った。それに対して、すんませんと春子が詫びると、もう済んだことよと甚右衛門は少しだけ笑みを見せた。
「千鶴にはいずれこの店を継がせるつもりなけん、どちゃみち学校はやめとった。積もる話もあろ? 奥で二人でゆっくり喋ったらええぞな」
 思いがけない言葉だったのだろう。春子は大泣きをした。千鶴は春子を慰め、抱きかかえるようにして奥へ連れて行った。
 トミが茶の間にいたので、春子は涙を拭くと、さっきと同じように頭を下げて詫びた。するとトミも笑顔を見せ、ようんさったな――と言った。それから、はなにお茶とお茶菓子を出すよう頼んだ。
 千鶴は花江に声をかけると、また泣きそうになっている春子を離れに連れて行った。

     二

「今日は学校はどがぁしたん?」
「今日は土曜日なけん、授業は午前ぎりぞな」
 千鶴と向かい合って座った春子は、目を伏せたまま言った。
 千鶴は苦笑すると、ほうやったかねと言った。店の仕事をしていると、今日が何曜日なのかと考えなくなっていた。
「今月で卒業やけん。山﨑さんにおびするんは今日しかない思て来たんよ。卒業したら、どこの学校行かされるかわからんけん」
「ほうなん。ほら、だんだんありがとう」
 お礼を述べたものの、あとの言葉が出て来ない。
 少しの沈黙を挟んで、千鶴は学校のことをたずねた。春子は暗い顔で、しず一人が退学になったと告げた。
 学校をやめる手続きは全部祖母にしてもらったので、あの騒ぎのあとがどうなったのか、千鶴は何も知らなかった。
「おらが余計なこと言わなんだら、あがぁなことにはならんかったじゃろ……。ほんまやったら、おらも退学でもおかしないのに……」
 しょんぼりする春子を見ながら、千鶴は静子のことを考えた。
 千鶴が寮で暮らした時には、静子とも仲がよかった。だから、あの時の静子の様子は今でも信じられないし、できれば思い出したくない。春子には悪いが、静子が退学になったと聞かされても、気の毒にという気持ちは起こらなかった。
「ほれで……、今は高橋たかはしさんはどがぁしとるん?」
「おらにもわからん。たぶん家家の手伝いしとると思うけんど」
「あの騒ぎのこと、村上むらかみさんの家にも伝わったん?」
 春子はうなれるようにうなずいた。
「おら、しこたま怒られた。ほれで、おとっつぁん、ここ来てお詫びするて言いよった。山﨑さん、おとっつぁんにうてないん?」
 千鶴が首を振ると、ほうなんかと春子は言った。
「たぶん会わせてもらえんかったんじゃろな。ほんでも、ここのおじいちゃんには、お詫びしに来たと思う」
 それでなのかと千鶴は思った。畑山はたやまが口にしていた鬼よけのほこらを再建するお金の話は、その時に祖父がしたのだろう。
 結局、祠はどうなったのかと千鶴は気になった。進之丞はこんな物では鬼は封じられないと言っていたが、実際はどうなのかはわからない。もし鬼が封じられたらと思うと千鶴は心配になった。

「千鶴ちゃん、お茶とおまんじゅうを持って来たよ」
 障子しょうじの向こうで、花江の声が聞こえた。
 千鶴が障子を開けると、花江は二人にお茶と饅頭を配った。今日は自分の分は持って来ていない。
 花江には学校をやめた理由を、ひどい差別を受けたからだと言ったが、くわしい話はしていない。それでも春子が詫びに来たのを聞けば、そのことに春子が関わっていたことは、花江にもわかったはずだった。
 これは自分が立ち入る話ではないと思っているのだろう。花江は余計なことは何も言わず、お茶と饅頭を配り終えると、二人に微笑みかけて戻って行った。
 花江がいなくなったあと、二人は沈黙したまま座っていた。どちらもお茶にも饅頭にも手をつけない。
「村上さん、お饅頭食べてや。うちも食べるけん」
 千鶴が饅頭を取って口に入れると、春子もようやく饅頭に手を伸ばした。しかし、春子にいつものような元気はなく、饅頭は小さくかじるだけだった。
 お茶を飲み、湯飲みを下へ置いた春子は、静子のことを悪く思わないでやって欲しいと、目を伏せたまま言った。
「高橋さんな、やきもち焼きよったんよ」
「やきもち? 誰に?」
 春子は少しだけ顔を上げて言った。
「山﨑さんによ」
「うちに? なして?」
「山﨑さん、おらと一緒に波村なみむらの祭り見に行ったじゃろ?」
 何だか言いがかりをつけられているみたいで、千鶴は春子に反論した。
「あれは村上さんに誘われたからやし。ほれに、高橋さんかて誘われたんじゃろ?」
「違うんよ」
「違う? ひょっとして高橋さんのこと誘わんかったん?」
「誘たよ。ほやのうてな、高橋さんは自分も山﨑さんと二人ぎりで遊びたかったんよ」
 千鶴は絶句した。そんな子供じみたことは思いもしなかった。
「高橋さん、ほんまは自分も山﨑さんを家に呼んだり、一緒にお祭り楽しんだりしたかったんよ。ほれやのに、おら、何もわからんでな、山﨑さんと街で遊んだこと自慢してしもたんよ」
 春子の話を聞いた静子は、春子をうらやんで泣いたと言う。
 千鶴はうろたえた。どうして静子がそこまで自分と遊びたがるのか理解ができなかった。
「なして、うちなんか……」
「山﨑さんは自分のことそがぁ言うけんど、おらたちから見たら、山﨑さんは憧れやったんよ」
 春子は大真面目な顔で言った。だが、千鶴は春子の言葉を受け入れられない。
「うちに憧れ? うそ言わんでや」
「嘘なんぞ言わん。前にも言うたけんど、山﨑さんは他の人とは違う特別な存在じゃったけん」
「うちがロシア人の娘やけん?」
「ロシア言うんやのうてな、日本と異国の両方の血が流れとるいうんが、おらたちにはがいなことなんよ」
 やはり千鶴には春子たちの思考が理解できない。それでも春子は自分の気持ちを話し続けた。
「日本は外国に憧れてしん起こしたけんど、どがぁ足掻あがいたとこで外国人にはなれんぞな。ほやけど、山﨑さんは産まれた時から、半分は外国人じゃろ? ほれを山﨑さんが重荷に感じとるんはわかるけんど、おらや高橋さんにはな、山﨑さんは憧れやったし、同級生いうんは誇りやったんよ」
 春子の話は千鶴を混乱させた。こんな自分をそんな風に見てくれていたなんて、とても信じられなかった。
「高橋さん、山﨑さんに自分の気持ちをわかって欲しいて、あがぁな態度を取ってしもたんやけんど、ほんまに悪いんはこのおらなんよ。おらがいろいろしゃべって、高橋さんも山﨑さんも傷つけてしもたけん、何もかんも全部おらが悪いんよ」
 静子の気持ちはともかく、静子はどうしてあんな言動を取ったのか。静子がやったことは駄々だだと同じである。子供たちに教える立場になる者が取るべき態度ではない。
 とは言っても、もう済んだことである。静子を責める気などないし、静子を理解する必要もない。今の自分は山﨑機織やまさききしょくの跡取りとしての道を歩み出しているし、春子も静子もそれぞれの道を行くだけだ。
「村上さんの話はわかったぞな。高橋さんのこともわかったけん。とにかく、もう終わったことやし、うちはこがぁしてちゃんと暮らしよるけん。二人とも何も気にせいでええんよ。ほんでも、二人がうちのことをそがぁ想てくれとったことは感謝せんといけんね」
 千鶴の言葉に、春子は首を横に振った。
「感謝してもらお思て言うとるんやないけん。ただ、おらも高橋さんも山﨑さんのこと傷つけてしもたんを、ずっと悔やんどるいうことを、山﨑さんに知ってもらいたかったぎりぞな。ほんまは、もっとよに来るべきやったけんど、ここへ来るんは勇気がいったけん……」
「わざわざおいでてくれて、だんだんありがとう。ほんでも村上さん、もうがんごは怖ないん?」
 千鶴の言葉に春子は困惑こんわくしたように下を向き、あれは自分が阿呆あほやった――と言った。
「確かに、あのおはらいのお婆さんが、村上さんにがんごいとるて言うた時は、ぞっとしたぞな。ほんでも、おらより村上さんの方が、どんだけぞっとしたんかて思たら、そがぁなことは思われんて自分に言い聞かせたんよ。ほやけど、高橋さんに問い詰められた時に、鬼が平気やったんか、平気やとしたら村上さんにも鬼が憑いとるんやないんかて言われてな。おら……」
 涙ぐむ春子に、もうええよと千鶴は言った。
「もう、ほれ以上は言わいでもええけん。うちは村上さんががんごを怖がっとるんか知りたかったぎりなんよ」
がんごは怖いけんど、山﨑さんに鬼が憑いとるとは思とらん」
「なして、そがぁ思うん?」
「ほやかて、山﨑さんにはお不動さまがついておいでるけん」
「お不動さま?」
「お不動さま、おらたちを風寄かぜよせから松山まつやままで運んでくんさったやんか」
 春子が言っていることが、初め千鶴はよくわからなかった。しかし、すぐに進之丞のことだとわかると、笑顔で大きくうなずいた。
ふうさんのことじゃね?」
「ほうよほうよ。あの風太さんはお不動さまの化身ぞな。そのお不動さまが護ってくんさっとる村上さんに、がんごが憑くわけないけん」
 千鶴はおかしかったが、鬼がそばにいるのは事実である。だが、それは春子に話せることではない。千鶴の笑みはすぐに消えた。
 春子は千鶴を見つめて訴えるように言った。
「おら、山﨑さんと一緒に街に遊びに行ったこと一生忘れんよ。山﨑さんと二人で遊びよった時、おら、がんごのことも忘れて、まっこと楽しかった」
 千鶴は春子の言葉を疑わなかった。あの時は、自分も本当に楽しかった。
「ほうじゃね。村上さん、ぎり饅頭、熱いでて注意したのに、がぶってかぶりついておうじょうしたわいねぇ」
「まっこと、ほうじゃったほうじゃった」
 春子と千鶴は笑い合ったが、いつしか笑いは涙となった。
「ほんじゃあ、おら、そろそろぬろうわい。もう会うこともないかもしれんけんど、山﨑さん、立派なおかみさんになりや」
「だんだん。村上さんも子供らに尊敬される先生になってや」
 春子と微笑み合いながら、千鶴は春子を部屋の外へいざなった。

 ふだつじ停車場で電車を待っていると、お堀の南の角を電車が曲がって来るのが見えた。あの電車が来れば、春子ともお別れである。
「山﨑さん、元気でな」
「村上さんもな」
 二人がごり惜しそうにしていると、大丸だいまる百貨店の方から、外まわりに出ていた進之丞が戻って来た。
 千鶴が一人でないので、進之丞は忠七として声をかけて来た。
「おや、千鶴さん。こがぁなとこで何を――」
 千鶴に声をかけた進之丞を見て、春子が驚きの声を上げた。
「風太さん? 風太さんじゃろ?」
 千鶴と一緒にいたのが春子だとわかった進之丞は、ありゃりゃと罰の悪そうな声を出した。
「これはこれは、村長さんとこのおじょんかな。こげなとこでお会いするとは思いもしよらんかったぞな」
「ほれはこっちの台詞せりふぞな。風太さん、なしてここにおるんね? あれ? そのおりと着物、山﨑機織のやないの」
 春子は問い詰めるような目を千鶴に向けた。
 困った千鶴は、実はな――と言い、人手不足の店を助けてもらうことになったと説明した。だが、春子はその説明だけでは納得が行かないようだ。何故なら、風太は不動明王の化身なのである。
 停車場まで来た進之丞に春子は言った。
「風太さん、おらの家にお金請求せんかったんじゃろ?」
「まぁ、いろいろ事情があって……」
 進之丞は困ったように頭をくと、ちらりと千鶴を見た。しかし千鶴も言い訳が思いつかない。
「おとっつぁん、しゃに風太いう奴はおらんて言うておいでたよ。風太さんて、ほんまは誰なん?」
「おら、村の嫌われもんやけん、ほんまのことは言えなんだんよ」
「嫌われもん? ひょっとして……」
 眉をひそめる春子に、ほういうことぞな――と進之丞は微笑んでみせた。春子はうろたえた様子で、千鶴と進之丞を見比べた。
「ほやけど、なして――」
 そこへ、ふぁんと音を鳴らして電車がやって来た。
 停まった電車が扉を開けた。春子は電車に乗り込みながらも、千鶴たちに答を求める目を向けている。
「あのな、うちら夫婦めおとになるんよ」
 千鶴は思い切って言った。
「いや、ほれはまだ――」
 慌てる様子の進之丞の腕を抱いて千鶴は言った。
「ほやけんな、うちのことは何も心配せんで。高橋さんにも会うことがあったら、うちのことは気にせんように言うといてな」
 扉が閉まり、春子は扉の窓の向こうでうなずいた。本当はもっといろいろきたいのだろう。でも、春子は笑顔で千鶴たちに手を振った。千鶴も春子に手を振り返した。
 学校をやめた時のまま別れ別れになるのではなく、こうして春子と話ができたことは、千鶴には思いがけなくうれしいことだった。
「わざに顔見せに来てくれたんか」
 電車を見送りながら進之丞は言った。
 千鶴がうなずくと、進之丞はいぶかしげに千鶴を振り返った。
「ところで、高橋さんとは誰ぞ?」
「え? うちの級友じゃった子よ」
「その子と何ぞあったんか?」
「別に何もないよ。うちのこと心配してくれよるみたいなけん」
 千鶴がはぐらかすと、ほうなんかと進之丞は言って、見えなくなった電車に顔を戻した。
 千鶴も電車が去った方へ目をると、あ――と言った。春子に祠のことを訊くのを忘れていた。
「どがぁした?」
「いや、何でもないけん」
 祠を気にしていると知られたくない千鶴は、笑ってごまかした。
「ほんじゃあ、ぬろうか」
 進之丞に言われて、千鶴は一緒に歩き出した。歩きながら静子のことを考えた。
 あの時の静子の言動が、やきもちから来たもので本気でないのならと思うと、千鶴は静子が気の毒になった。だが、今は静子に会うことはかなわない。静子も心の痛みを乗り越えて、新たな人生を歩んでくれるようにと祈るばかりである。

     三

 四月初日、進之丞は初めての給金と休みをもらった。
 弥七は給金をもらうと、活動写真を見に出かけるのが常だった。だが、進之丞は給金をもらってもそれを使うことはせず、全部を千鶴に預けてくれた。それは進之丞の誠実さを示すものであり、千鶴を二人が夫婦になったような気分にさせてくれた。
 世の中は、夫婦になっても自分ばかりが好きなことをする男が多い。それを考えると、千鶴は自分が誰よりも恵まれているように思えた。
 先月初めと同じように、進之丞は外には出ないで千鶴を手伝ってくれた。亀吉と新吉も手伝ってくれたので、見かけは先月と変わらない。しかし進之丞はだいなので、丁稚でっちの仕事で呼ばれることはない。それはずっと千鶴のそばにいられるということだ。
 とは言っても、亀吉や新吉が忙しくなるようなことがあれば、進之丞は放っておかない。手代になった今でも、荷物運びなどの仕事は亀吉たちと一緒に動いている。
 そんな感じなので、亀吉たちの方でも進之丞の仕事を喜んで手伝ってくれる。千鶴は進之丞と遠慮なく一緒にいられることもうれしいが、進之丞が亀吉たちから慕われているのも嬉しかった。

 この日は豊吉とよきちという新しい丁稚が加わった。
 千鶴と初めて顔を合わせた時、豊吉は少し驚いた顔を見せた。しかし変わった様子はそれだけで、あとはぺこりと頭を下げて、どうぞよろしゅうにと挨拶をした。
 千鶴がしゃがんで豊吉の手を握り、こちらこそよろしゅうにと挨拶を返すと、豊吉はほおを赤らめて下を向いた。それから小さな声で、はいと返事をした。
 進之丞も豊吉に丁寧に挨拶をし、みんなが期待していると豊吉の頭をでた。豊吉はまた頬を赤らめて、小さな声ではいと言った。
 この小柄で少し不安げな新参者は、いつも亀吉にしかられている新吉を兄貴気分にさせたようだった。わからないことは何でも聞くようにと、新吉は胸を張ってみせた。だが、この新参者はとても頭がよかった。
 豊吉は甚右衛門の話をよく理解したし、読み書き算盤そろばんも亀吉以上によくできた。亀吉も新吉も面目めんぼく丸潰れである。
 亀吉たちより実力が劣る孝平は、みんなよりも年上だけに、潰れる面目すらない始末だ。読み書き算盤はかつて覚え込まされたはずなのに、奉公ほうこう先を飛び出して以来、ろくな暮らしをして来なかったことで、すっかり忘れているようだ。
 それなら覚え直せばいいことなのだが、孝平は頭を使うのが嫌いな上に、少しでも楽をしようする。だから、いつまで経っても何も覚えられないままだった。
 それでも気位だけは高いので、孝平は豊吉をかくするような態度を見せた。しかし、すぐに甚右衛門やトミに叱られ、亀吉たちも豊吉をかばったので、孝平は立つ瀬がなかった。

 夕方になって戻って来た花江は、進之丞が先月同様に千鶴を手伝っているのを見て、へぇと感心した。
「手代になったってぇのに、外にも出ないで千鶴ちゃんのお手伝いなんて、さすがはたださんだねぇ。だけど忠さん、絶対に千鶴ちゃんの尻に敷かれるね。でも、こういうのって何かいいよね」
 二人を祝福するような笑顔を向けていた花江に、亀吉が豊吉を連れて来て紹介した。甚右衛門は帳場ちょうばにいたので、亀吉が甚右衛門の代わりだ。
 豊吉を見た花江の第一声は、あら可愛い――だ。
 豊吉はまた顔を赤くして下を向きながら、花江に挨拶をした。花江も挨拶を返すと、茶の間にいたトミが、豊吉はとても頭のいい子だと褒めた。
 豊吉は照れているのか緊張しているのか、ずっと下を向きっ放しだった。
 しばらくすると弥七が戻って来た。
 いつも弥七は街から戻ると、夕食ができるまでの間は二階の部屋でごろりとしている。この日も弥七は二階へ上がろうとした。しかし台所にいる千鶴たちが目に入ると、たんあせったような顔になった。
 恐らく進之丞が千鶴を手伝っているのを見たからだろう。亀吉が豊吉を紹介しようとしたが、弥七は振り向きもしないで二階へ上がって行った。
 その様子を見た花江はちらりと千鶴に目を向けた。その目は、困ったもんだねと言っているようだった。

 夕飯時の話題は花見である。
 松山まつやまでは三月末頃から花見の季節だ。この頃になると、あちこちの店が臨時で店を休んで花見に出かける。
 山﨑機織やまさききしょくでも辰蔵がとうきょうから戻るのを待って、みんなで花見に出かけることになっている。
 東京での売り上げは、銀行で為替かわせがたにしてもらい、それを松山へ郵送する。辰蔵が戻って来るのは、三月分の売り上げを松山へ送金する手順を茂七に伝えてからだ。
 東京から松山までは二十八時間かかる。辰蔵はくたくたのはずなので、今回の花見は辰蔵の慰労も兼ねている。
 花江は今日、一足先に一人で桜を見物に行ったらしい。しかし、今年の開花は少し遅れているようで、まだ咲き始めたばかりだったようだ。
 たつさんが戻って来る頃には、もっとたくさん花が咲いてるよと、板の間から花江の期待を込めた声が、茶の間にいる千鶴たちに聞こえた。
 続いて、豊吉の歓迎会だと言う進之丞の声がして、ほんまじゃほんまじゃと亀吉と新吉が声をそろえた。
 やったと叫ぶ豊吉の嬉しそうな声が聞こえると、茶の間の甚右衛門とトミはふっと笑った。
 千鶴や幸子に本当の想いを伝えて以来、二人とも笑うことが増えた。鬼のこともほとんど気にしていないようだ。また、食事の時に千鶴や幸子とも、よくしゃべるようになった。今もみんなで花見の話をしているところだ。
 そんな祖父母の様子が千鶴は嬉しかったが、やはり今は花見が待ち遠しい想いでいっぱいだ。
 花見の席は礼講れいこうで、じんと使用人が隔てられることはない。それぞれが好きな場所で好きなように花をでたり、食事をして構わないのだ。
 普段は食事が別々の進之丞の世話を、この日は存分に焼けるわけで、千鶴にとってはそれが何より楽しみなことだった。

     四

 辰蔵が戻って来たのは、とうきょうからの為替かわせが届いた翌日だった。
 その二日後の日曜日、いよいよ花見へ行くことになった。日曜日にしたのは、幸子が病院の仕事が休みになるからだ。
 天気もいいし、桜もようやく見頃を迎えていた。みんな朝から浮き浮き気分だ。
 朝飯が終わると、掃除や洗濯などはだい丁稚でっちが引き受けて、千鶴たち女子衆おなごしゅうは花見で食べるごそうを作り始めた。
 亀吉たちは作業をしながら何度も台所へやって来て、料理の進み具合を見て喜んだ。
 準備を終えると、甚右衛門が店の鍵をかけたのを合図に、みんなはにぎやかに桜の花を求めて動き出した。
 弁当とお茶だけでなく、酒や団子もあるので手荷物が多い。手代と丁稚で手分けして運ぶのだが、ぶつぶつ言うのは孝平だけで、亀吉たちは少しも苦にしていない。小柄な豊吉までもが荷物を抱えながら、ずっとはしゃいでしゃべりっ放しだ。
 かみ町のちょう 他の店でも、やはり花見へ向かう人々が楽しげに出て来て、甚右衛門たちと挨拶を交わした。
 そんな中に怪しい男が一人いることに、進之丞は気がついた。
 鳥打帽とりうちぼうをかぶったながし姿のその男は、まだ若いのにつえを突いて右足を少し引きずっていた。この辺りの者ではないが、みんなに交ざって挨拶をしながら、何かを探しているのか辺りをきょろきょろと見回していた。
 この辺りに不案内な者だろうと、誰もが怪しまなかったこの男のことが進之丞は気になった。それで少し歩いたところで、戻って様子を確かめると言った。
 千鶴は進之丞の心配を甚右衛門に伝え、自分も一緒に店を見て来ると言った。
 甚右衛門は進之丞の荷物を孝平に持たせると、進之丞に店の鍵を渡した。千鶴も手荷物を母に預け、進之丞と急いで店に戻った。
 ところが、さっき見かけたはずの男の姿はどこにも見られない。足を引きずる男が、そう遠くへ行けるはずがない。休まずに商いをしている店の中に入ったのかもしれないが、千鶴たちは一応家の様子を見てみることにした。
 店に戻って表の戸を確かめると、鍵がかけられたままだった。うら木戸きども内から閂が かんぬき かけられているので、外からは開かない。
 中には誰も入れないはずだが、進之丞はべい越しにじっと中の様子をうかがった。それから千鶴にここで待っているようにと言って店の鍵を預けると、ひょいと土塀を跳び越えた。
 その身軽さは千鶴を驚かせたが、しばらくすると家の中から、知らない男の慌てたような叫び声が聞こえた。
 そのあと奥庭に人の動く音が聞こえて、裏木戸が中から開けられた。顔を出したのは進之丞で、その腕には気を失った男が抱えられていた。この男は空き巣だと進之丞は言った。
 鳥打帽を見た千鶴は、男の顔を見せてもらった。はっきり覚えているわけではないが、風寄かぜよせへ行く客馬車に一緒に乗り合わせた、あの鳥打帽の男に似ているような気がした。
 そのことを話すと、ついの男かもしれんなと進之丞は言った。
 進之丞は巡査じゅんさを呼ぶよう千鶴に頼んだが、自分が土塀を跳び越えたことは黙っておくようにと言った。そんなことを言えば、今度は自分がどこかの空き巣を疑われるというのが理由だった。
 千鶴はうなずくと急いで駐在所へ行き、巡査二人を連れ戻った。すると、裏木戸周辺には近所の者たちが集まっていて、みんなが進之丞の手柄に感心していた。
 巡査たちは男を引き取ると、進之丞におおいに感謝した。巡査の話によれば、やはり花見の留守に空き巣に入られた家があちこちにあったらしい。
 裏木戸の中にはひもを縛りつけた杖が落ちていて、もう反対側の紐の先には、手のひらほどの長さの枝が結びつけられていた。
 恐らく男はこの杖を土塀に立てかけて、紐で結んだ小枝を土塀の向こうへ投げ込んだあとに、杖を踏み台にして土塀を乗り越えたと思われた。中へ入ったあと、紐を引っ張れば杖を中へ引き込めるので、誰にも怪しまれることなく空き巣ができるということだ。
 鍵をかけていたはずの家がやられていたので、どうやって空き巣が中へ入ったのかが、警察でもわからなかったそうだが、これでやっと謎が解けたと巡査たちは喜んでいた。
 千鶴はその話を聞きながら、確かに進之丞の身軽さを喋ると、進之丞にあらぬ疑いがかけられるかもしれないと思った。

 進之丞が空き巣を捕まえた話は新聞にも載った。
 記事によると、空き巣の男には横嶋よこしまつや子と言う仲間の女がいるそうで、警察ではつや子の行方を追っているようだ。
 普通であれば、悪事を働いた者は仲間のことをそんなに簡単には喋らないものだ。それなのに男が早々と仲間の名前を白状したのは、自分だけ捕まったのは割に合わないと思ったのかもしれない。そうでなければ、警察の取り調べがほどきびしいものだったのだろう。
 いずれにしても、まだ空き巣の仲間が残っているというのは、注意しなければならないことだ。ただ、女が空き巣仲間だというのは珍しいというか、何だか千鶴には引っかかっていた。
 朝飯を済ませて、みんながいつものように動き出した頃、新聞を読んだ近所の者たちが次々に山﨑機織やまさききしょくを訪れると、改めて進之丞を褒めた。また、空き巣を捕まえたことに誰もが感謝した。
 同業組合の組合長もやって来ると、進之丞をべた褒めした。それから組合長は、女にだまされたという越智おちがすりあるじの話を持ち出し、騙した女の名前が横嶋つや子だったと思うと、甚右衛門に言った。
 ほうなんかと甚右衛門は驚いたが、お茶を配っていた千鶴はもしやと思った。
 千鶴が風寄の祭りを訪ねたあと、風寄でも空き巣が頻発ひんぱつし、井上いのうえ教諭の叔父が二百三高にひゃくさんこうの女に騙された。
 今回捕まった空き巣があの鳥打帽の男だとすれば、横嶋つや子というのは、あの二百三高地の女だったのかもしれない。
 その話を花江にすると、絶対にそうだと花江は言った。
 花江は警察で話したらどうかと言ったが、半年も前のことだ。間違いないという証拠もないので、千鶴は黙っていることにした。
 しかし、もし考えたとおりであるならば、鳥打帽の男に狙われたというめぐり合わせは、偶然と言うにはでき過ぎているように思える。そこに一抹の不安を感じた千鶴は胸騒ぎを覚えた。

     五

 進之丞が仕事に慣れる一方で、弥七も進之丞に張り合っているのか、てきぱきと動くようになって甚右衛門たちを喜ばせた。
 ところが孝平は少しも伸びず、甚右衛門やトミをがっかりさせていた。
 仕事に対する熱意がないので、覚えるべきこともなかなか覚えられず、人に見られていなければすぐに手を抜こうとする。そのくせ他の者にけちをつけて、自分の方が上だと示そうとするので、孝平は使用人たちからうとまれていた。
 孝平は弥七と一緒に太物ふともの屋をまわることがあったが、客からの印象がかんばしくなかった。それで弥七が孝平とは廻りたくないと甚右衛門に訴えたので、近頃は外廻りにも出してもらっていない。
 そんな感じなのに、孝平はだいにして欲しいとしきりに甚右衛門に懇願した。
 だが、甚右衛門が孝平を手代にするわけがない。丁稚でっちとしても使えないし、店の雰囲気が悪くなるので、孝平を店に置くのもそろそろ潮時と考えているようだった。
 あせった孝平は花江の前で、自分はこのままでは終わらないと虚勢を張った。だが花江ははなから相手にしていない。二人でここを出て一緒に店を持とうと、逃げる話を持ちかけたりもしたが、勝手に一人で行けと言われる始末で、孝平は次第に陰鬱いんうつになって行った。
 そうして季節は移り変わり、梅雨が明けて夏が訪れた頃、事件が起きた。

 その日の朝、千鶴と幸子が台所へ向かうと、板の間でトミが一人で待っていた。
 トミは千鶴たちに、今日は花江が手伝えないから、二人で朝飯の準備をするようにと告げると、脇にある階段を上がって行った。
 下にいるのは亀吉、新吉、豊吉の三人だけで、他の者は全員が二階にいるらしかった。
 亀吉たちは井戸からんだ水を、台所の水瓶に入れているところだった。何があったのかと千鶴がたずねても、三人とも知らないと言うばかりだ。
 三人がわかっているのは、朝起きた時に部屋の外で、孝平が自分の帯で縛られていたことと、それを忠七が見張っていたということだった。どうしたのかと忠七に訊ねても説明してもらえず、井戸の水汲みを頼むとだけ言われたらしい。
 それから辰蔵が下に降りて来て、甚右衛門とトミに声をかけて起こしたと言う。
 それだけ聞いて、千鶴はぴんと来た。
 昨夜、孝平は縛られるような真似をしたわけだが、それに花江が関わっているのであれば、答えは決まっている。孝平が花江を襲ったのに違いない。 
 進之丞たちがいる部屋と花江がいる部屋は、向かい合った所にある。しかも花江は一人だけだ。
 うだつが上がらず、花江にも相手にしてもらえない孝平が、力尽くで花江を物にしようとしたとしても不思議ではない。だが騒ぎでみんなが目を覚まし、縛られることになったのだろう。
 幸子も同じように考えていたようだが、とにかく食事の用意をしなくてはならない。二人で動き回っていると、辰蔵が階段を降りて来た。続いて進之丞と花江が姿を見せたが、甚右衛門とトミ、それに孝平は降りて来ない。
「迷惑かけちまったね。ごめんよ」
 口早に千鶴たちに声をかけると、花江は急いで土間に降りて仕事を手伝い始めた。
 辰蔵と進之丞は朝の挨拶をしただけで、それ以上は何も言わなかった。二人とも朝から疲れたような顔をしている。
「孝平の分はいらんけんな」
 遅れて降りて来たトミは、それだけ言うと茶の間へ移った。
 しばらくすると甚右衛門と孝平が降りて来た。甚右衛門は不機嫌そうにむすっとしており、孝平はしょうすいしきった様子でうなれている。
 甚右衛門は茶の間にいるトミの傍へ座ったが、孝平はそのまま土間へ降りた。
 千鶴も幸子も何も知らないふりをして、いつものように動いた。花江も忙しくしていたが、ずっと孝平に背中を向けていた。
 その背中に向かって、孝平は深々と一礼すると、甚右衛門とトミにも同じように頭を下げた。それから黙って奥庭へ出ると、うら木戸きどから外へ出て行った。
 食事が始まっても、孝平は戻って来なかった。
 使用人たちが食事をする板の間も、いつもなら誰かの声が聞こえるのだが、この日は一言も聞こえない。みんな黙々と食べている。

 食事のあと、幸子が病院の仕事に向かい、千鶴が一人で奥庭で洗濯をしていると、手伝うよ――と言って花江が隣に来た。
「朝から妙な感じで驚いたろ?」
 花江は明るく言ったが、表情は暗かった。
 千鶴は返事に迷い、黙ってうなずいた。
昨夜ゆうべさ、嫌なことがあったんだよ」
 やっぱりと思った千鶴に、花は説明を始めた。
「あいつがさ、あたしが寝てる部屋に忍び込んで来て、あたしに襲いかかったんだ」
 花江を自分の物にする方法は、これしかないと思ったのだろう。孝平は花江の寝込みを襲い、目を覚ました花江に、騒いだら殺すと言ったらしい。
 真っ暗闇の中、とにかく花江はあらがい、のし掛かる孝平を押しのけようとしたと言う。すると――。
「ふわっとね、あいつの体が持ち上がったんだ。そんな時だったけど、あたし、自分はえらい力持ちだったんだって驚いちまったよ」
 花江は少し笑ったあと、自分が手を引っ込めても、孝平は宙に浮かんだまま藻掻もがいていたが、下には落ちて来なかったと言った。
 まさか――と千鶴は思った。脳裏に浮かんだのは、鬼が孝平をつかみ上げている光景だ。闇から大きな手が伸びていたと、花江が言うのではないかと千鶴はびくびくした。
「それで、とにかくあいつの下から逃げたんだけどさ。そしたら声が聞こえたんだよ」
「声? どがぁな声が聞こえたん?」
 千鶴は顔から血の気が引く感じがしていた。化け物の声がしたと言われるのではないかと緊張していると、たださんだよ――と花江は楽しげに言った。
「闇の中から忠さんの声で、孝平さん、こがぁなとこで何しよんぞなもし――て聞こえたんだよ。それで、急いで行灯あんどんに火を灯したら、忠さんがあいつの腰ひもを片手でつかんで持ち上げてたんだ」
 そうだったのかと千鶴はほっとした。それにしても進之丞は怪力である。前世でそこまで力持ちだったとは記憶していない。だが、いずれにしても頼もしい限りだ。
とよちゃんみたいな子供を持ち上げるんならさ、あたしだって驚きゃしないよ。だけど、いくら痩せてたって三十を過ぎた男だよ? 上に乗られたあたしは身動きが取れなかったんだ。それをさ、ひょいって持ち上げてさ、あいつが暴れてても全然平気なんだよ」
 花江は興奮したようにしゃべった。孝平に襲われたことより、進之丞の力への驚きがまさっていたようだ。
 進之丞は花江に迷惑をかけたと、孝平に代わってびを入れたそうだが、少しも息が切れた感じがしなかったと言う。
「そこへたつさんが来てくれてさ。あたしが襲われたって言ったら、あいつのこと殴ろうとしたんだよ。そしたら忠さんが、手を出したらだめだって辰さんを止めてね。今晩は自分が見張ってるから、朝になったらだんさんにどうするかを決めてもらおうって言ったんだよ」
 進之丞の判断は正しかっただろう。辰蔵が孝平を傷つけたなら、辰蔵もまた何かのとがめを受けた可能性があった。
 そして、甚右衛門に判断をあおいだ結果が、孝平の放逐ほうちくだった。
 それで花江はあんはしたものの、旦那さんやおかみさんに申し訳ないと思っていると言った。あんな男でも甚右衛門たちにすれば息子である。その息子を追い出すのは、やはり親としてはつらかろうと言うのだ。
「花江さんは何もわるないんじゃけん、何も気にすることないよ。うちは花江さんが無事じゃったことが、何よりうれしいけん」
 千鶴が慰めると、花江はにっこり笑って、ありがとうと言った。それから進之丞の力の強さに改めて感心した。
「見かけじゃ絶対に辰さんの方が強そうなんだけどさ。男ってわかんないもんだよねぇ。しかもさ、あんなに強いのに、忠さんってちっともぶらないしさ。ほんとに優しいんだもん。千鶴ちゃんでなくたって、女だったら絶対れちまうよ」
 進之丞を褒めてもらえるのは嬉しいが、最後の言葉はいただけない。花江も本気で言ったわけではないだろうが、千鶴の胸は一瞬ざわついた。

     六

 孝平がいなくなったあと、甚右衛門は苦虫をみ潰したような顔のことが多くなった。また時折、鳩尾みぞおち辺りに手を当てながら顔をしかめ、目を閉じたままじっとしていることがあった。
 伊予いよ絣はがすり 足踏み式のおりを導入してから、生産能力は向上したものの、その分、おりの賃金は下がった。織子の士気は低下し、粗悪品が広く出回るようになったため、伊予絣の評判は落ちて行った。
 評判が下がると売値を下げねばならず、それが伊予絣は安物だという評価を余計に引き出すことになった。
 同業組合では粗悪品の流通を防ぐため、組合で決めた基準以下の商品の売買を禁じていた。しかし、基準をぎりぎりで通過した高級品とは言えない商品が多く、とても評判を取り戻すまでには至らなかった。
 どれほど多くの絣を生産したところで、利益は以前よりも落ちてしまい、それがさらに織子の賃金を下げる要因となっていた。そんな悪循環に陥った伊予絣を泥沼から引き上げる策を、伊予絣業界は見出せずにいた。
 そのような苦境に加え、今回の息子の不祥事である。甚右衛門の胃が痛くなるのは当然だった。
 トミは心配して医者にてもらうようにうながした。だが甚右衛門は無駄な金は使わないと拒み、こんなものは時が経てばすぐに治ると言い張った。
 幸い帳場ちょうばは辰蔵が仕切ってくれるので、甚右衛門はゆっくりすることができた。
 甚右衛門が不調なので、トミは気丈に振る舞っているが、本当は気落ちしているのに違いなかった。
 千鶴はトミをづかい、手がいた時にはトミの肩をんだり、背中をさすったりしてやった。
 初めの頃はトミは涙ぐんだりしていたが、そのうち涙は見せなくなり、いつものトミらしくなった。
 一方、甚右衛門の腹痛には、進之丞がどこからか薬草を採って来て、甚右衛門に煎じて飲ませた。
 本当は一度干した方がいいのだけれどと進之丞は言ったが、薬草の効果はてきめんだった。薬を飲むと、甚右衛門の腹痛はけろりとよくなった。
 その効果に甚右衛門は驚き、進之丞に感心した辰蔵は、忠七は薬屋になれるなと言った。
 すると、甚右衛門もトミも忠七は手放さないと言い、ずっとここにいてもらうと宣言した。それは明らかに進之丞を千鶴の婿にするという意味である。
 千鶴はうれしさに胸が弾んだが、進之丞は謙虚に微笑むばかりだった。

 とうきょうを任された茂七は思った以上にがんばっているらしく、東京からの注文は徐々に伸びて来ていた。
 また大阪おおさかからの注文も、甚右衛門の読みどおりに伸びていた。
 みんなが汗だくになりながら懸命に働いた。
 孝平がいなくなったことは次第に忘れ去られ、以前の山﨑機織やまさききしょくに戻って行くようだった。
 以前に戻ったと言えば、あの鬱陶うっとうしい三津子みつこも春以降は姿を見せなくなっていた。
 幸子は少し寂しがっていたが、いつまでも三津子に付き合っている暇はないので、半分はほっとしているようにも見えた。
 幸子の話では、三津子はどうで飲食の仕事をしているらしい。三津子が来なくなったのは、きっと仕事が忙しくなったのだろうと幸子は言った。
 しかし千鶴には、他人を思いやれない三津子が、まともな仕事をしているとは思えなかった。恐らく何か怪しい仕事をしていて、姿を見せないのもそのせいに違いないと考えていた。

 八月のやぶ入りになると、弥七や丁稚でっちたちは新しい着物を着せてもらい、土産みやげの反物を手にそれぞれの実家へ戻って行った。
 辰蔵もいなくなり、花江は自分で作った新しい着物を着て、一人で街へ出かけて行った。
 進之丞も千鶴が作った新しい着物を着せてもらい、上等のかすりの反物をいくつも土産に持たされて、風寄かぜよせの実家へ顔を見せに戻った。
 藪入りは一日だけなので、朝出かけても夜には戻って来なければならない。そのため風寄のような遠くから来ている者は、藪入りでも家に帰らず街で遊ぶことが多い。しかし、進之丞は客馬車代まで持たされて実家へ帰らせてもらった。まさに特別待遇である。
 夕方戻って来た進之丞は、だいになったことや、客馬車に乗せてもらえるほど店で大事にされているということを、為蔵ためぞうとタネが喜んでくれたと甚右衛門たちに報告した。
 しかし、あとで千鶴にはこっそりと、風寄までの行き帰りを走ったことや、客馬車代としてもらった銭を、為蔵たちに渡して来たことを話してくれた。
 また、二人が千鶴に会いたがっていると言われ、千鶴は涙が出るほど嬉しくなった。

     七

 秋になり、阿沼美あぬみ神社の祭りが始まると、どこの店も仕事を休んで祭り見物をした。
 山﨑機織やまさききしょくも例外ではなく、店の者みんなで祭りを見に行った。
 去年は風寄かぜよせの祭りで千鶴も進之丞も孤独な思いをした。だが今は二人とも孤独ではない。誰に遠慮することなく勇壮な神輿みこしを見物できた。
 阿沼美神社には二つの神輿がある。一つは黒くて四角い水神みずがみの神輿で、もう一つは金色こんじきで八角の大山祇大明神のおおやまづみだいみょうじん 神輿だ。それぞれの神輿は「四角しかくさん」「八角はっかくさん」と親しみを込めて呼ばれている。
 この二つの神輿を鉢合わせするのだが、元々「四角さん」は町方まちかたの神輿で、「八角さん」は村方むらかたの神輿だった。二つの神輿を鉢合わせるのは町人と百姓の力比べで、そのならわしは今でも続いている。
 四角さんが勝てば商売繁盛、八角さんが勝てばこくほう穣とじょう 言われており、どちらが勝ってもいいことがあるわけだ。
 神輿の鉢合わせには、風寄の祭りとはまた違う迫力があり、二つの神輿を取り囲む人々は声を上げて祭りを盛り上げる。
 鉢合わせをするたびに、それぞれの神輿の上に乗った男たちが落ちそうになるが、どちらも落ちるわけにはいかない。そこは男たちの持つ勇ましさの見せ所で、双方の勝負を進之丞も興奮気味に眺めていた。
 周りには多くの観客が押し寄せており、千鶴たちは他の者たちに押されながら、いつの間にかみんなとはぐれて二人きりになってしまった。
「あれから一年か」
 進之丞は周囲の喧噪けんそうに負けないような声で言うと、千鶴を見た。
 あれから一年というのは、二人が出った風寄の祭りから一年が経ったという意味だ。
 千鶴が微笑みながらうなずくと、進之丞はうれしそうに千鶴の肩を抱き寄せた。周りは人でいっぱいだが、誰も千鶴たちには目を向けていない。それでも千鶴の胸はどきどきしている。
 進之丞はしばらく神輿を眺めていたが、やがて千鶴の肩を抱きながら人垣を離れた。
「こがぁしておまいと二人で祭りを見られるやなんて、あしには夢のようぞな。またそがぁなことを言いよるんかと思われようが、あしは今の自分が怖い気がしとる」
「何が怖いん?」
「あしにはな、幸せ過ぎるんよ。おまいと再び出逢えた上に、こがぁして一緒におれるやなんて……。ほんまじゃったら、これは有り得んことぞな。ほれがあしには怖いんよ」
 進之丞は未だに前世の罪に悩んでいるようだ。
 千鶴は無理に進之丞の言葉を否定せず、諭すように言った。
「ほやかて、これがおらたちの定めぞな。しんさん、おらの幸せをお不動さまにねごてくれたんじゃろ?」
「ほうやが、己の幸せなんぞねごとらん。あしが願たんはおまいの幸せぎりぞな」
「ほやけんよ」
「ほやけん?」
「進さんと一緒になれることが、おらの幸せじゃいうことやんか。そこんとこをお不動さまは、ちゃんとわかっておいでたいうことぞな」
「ほやけど、あしは――」
 進之丞はしゃべりかけた口をつぐんだ。
「ほやけど、何よ?」
「……あしはな、もう昔のあしやないんよ」
 祭りのにぎわいが二人の間を流れて行く。その喧噪が進之丞を連れ去りそうな気がした千鶴は、慌てて言い返した。
「何言うんよ。進さんは進さんやんか。ほれに、前の世と今の世で違う言うんなら、ほれはおらかてついぞな。どこでどがぁな風に産まれようと、進さんは進さんぞな」
 進之丞は何も言わず、黙って千鶴に微笑んだ。何だか憂いのある微笑みが気になった千鶴は、進之丞の腕を抱いて言った。
「とにかくな、お不動さまがこがぁしてくんさっとるんじゃけん、余計なこと考えんの。おらは進さんと一緒におれて幸せぞな」
 そう言ってから、千鶴は慌てて手で口を押さえた。
「今の間違い。おら、幸せやけんど、幸せやないんよ」
 ぷっと進之丞は小さく噴き出した。
「また、そがぁなこと言いよんかな」
 前に同じことを言った時、進之丞は涙を見せたが、今回は笑っている。少し慣れたようだ。
「案ずるな。おまいがまことの幸せをつかむまで、がんごはおまいねきにおるけん」
「まことの幸せて、今よりもっと幸せいうこと?」
 進之丞がうなずくと、千鶴は胸が高鳴った。それはきっと、晴れて進之丞と夫婦になる時のことだろう。だがその時には、鬼は千鶴の元を離れるのである。それを考えると、千鶴は悲しくなった。
「ほんでも、おら、がんごさんには離れて欲しない」
がんご所詮しょせん、鬼ぞな。前にも申したが、おまいのような優しいおなねきには、鬼はずっとはおれんのよ」
「今、一緒におれるんなら、ずっと一緒におれるんやないん?」
「今おれるんは、お不動さまのご慈悲ぞな。おまいの幸せを見届ける間ぎり、お前のねきにおることが許されとるんよ。ほじゃけん、お前がまことの幸せになったなら、鬼はお前から離れるんが定めぞな」
「ほんなん……」
「これまでがんごはほれなりのことをして来たんぞな。おまいへの優しさぎりで、ほの罪が許されるわけやないんよ」
 うなれる千鶴に、進之丞は続けて言った。
「おまいがんごを大事に思てくれるんなら、誰に遠慮することなく幸せになるんぞ。ほれが鬼への供養になるけん」
がんごへの供養?」
 顔を上げた千鶴に、進之丞は微笑んだ。
「おまいが幸せなったんがわかったら、がんごは安心して消えることがでける。ほやけん――」
 千鶴は泣き出した。周りの者たちが目を向ける中、進之丞はうろたえた様子で千鶴を違う所へいざなった。
たださん、いかんやんか。おな泣かすんはいかんことぞな」
 振り返ると新吉がいた。亀吉と豊吉も一緒だ。
「忠さんが悪いんやないんよ。うちが勝手に泣いたぎりじゃけん」
 千鶴は急いで涙をぬぐって笑顔で言った。
「なして泣きよったん?」
 たずねる新吉に、余計なことを言うなと亀吉が怒った。
「世の中、理不尽なことばっかしやけん、つい泣いてしもたんよ」
「りふじんて?」
 新吉がき返すと、亀吉が鼻息荒く言った。
「おまい、そがぁなこともわからんのか。りふじん言うたらな、りふじん言うたら、えっと――」
「道理に合わんことぞな」
 豊吉がぽそりと言った。
 亀吉は驚いて豊吉を見た。新吉も口を半分開けたまま、豊吉を見つめている。
「豊吉さん、賢いんじゃね」
 千鶴に言われて、豊吉は恥ずかしそうに下を向いた。
「学校の成績、よかったんじゃろ?」
 うん、まぁ――と豊吉は下を向いたままうなずいた。
「じゃ、じゃあ、道理って何ぞ?」
 新吉が向きになると、物事の正しい筋道だと豊吉は答えた。
 目を丸くする新吉を押しのけて、亀吉が言った。
「ほれじゃったら、因果応報はわかるか?」
 ぎくりとした千鶴の横で、豊吉は言った。
「やったことに応じた報いがあるいうことぞな」
とよさん、大したもんぞな。かめさんもしんさんも負けられんぞな」
 豊吉の頭をでながら進之丞は言った。
 豊吉は照れ笑いをし、亀吉と新吉はもっと勉強すると誓った。その横で千鶴は動揺していた。
 何故、ここで因果応報という言葉が出たのか。今、進之丞が鬼の罪の話をしたところだ。そこにこの言葉が出て来たのは、鬼には鬼の定めがあると言われているようだ。
 進之丞が小柄な豊吉に肩車をして、神輿を見せてやっている。その隣では亀吉と新吉がうらやましがり、次は自分の番だと言い合っている。
 この賑やかさのかたわらで、鬼は姿を隠して見守ってくれている。そんな鬼がどうして地獄へ戻されてしまうのか。
 何とかならないのかと、千鶴は心の中で不動明王に訴えた。だが何も答えは返って来ない。ただ定めを受け入れよということなのだろう。
 鬼が消えることが定めであるのなら、それに逆らうことはできない。それでも悲しみが込み上げて、千鶴はそっとそでで目を押さえた。