> 野菊のかんざし > 思いがけない訪問者

思いがけない訪問者


     一

 年の暮れ、かみ町にちょう ある伊予いよ絣問がすり 屋のあるじ脳溢血のういっけつで死んだ。
 甚右衛門じんえもんより三つ歳が若い店主だったが、甚右衛門と同じで後継者が決まっていなかった。そのため誰にあとを継がせるかで、葬儀のあとで一悶ひともん着がちゃく あった。
 それがきっかけになったのか、甚右衛門は再び胃の痛みを感じるようになった。
 甚右衛門は千鶴ちづに店を継がせると決めている。だが実質は千鶴の婿になる者が店の主となる。
 千鶴は進之丞しんのじょうが婿になり、山﨑機織やまさききしょくの主になると信じているが、二人が夫婦になれるのはまだ先のことである。
 千鶴がぎり地蔵に願ったとおりになったとしても、それまでまだ二年ある。実際はさらに数年かかるかもしれない。
 それまでの間、何事もなくすべてが順調に行けばいいのだが、甚右衛門の身に何かがあれば大事おおごとである。そうなれば後継者が決まらないまま店を動かすことになるが、責任者不在の状況が続けば、いずれ店はばらばらになるだろう。それが現実になる恐れをひしひしと感じたために、甚右衛門は胃痛に苦しんでいるのに違いなかった。
 以前に進之丞が採って来た薬草を乾燥させた物が残っていたので、それを煎じて飲むことで甚右衛門は腹の痛みを抑えていた。だが後継者の問題が解決するまで、その煎じ薬が持つかどうかはわからなかった。

 年が明けても甚右衛門の不調は続いた。
 ある晩、おとこしゅうが寝る時間になったあと、甚右衛門は辰蔵たつぞうを茶の間へ呼んだ。
 千鶴やさちはなは縫い物仕事やアイロン掛けがあったが、この日の作業は中断となり、それぞれ部屋へ引き取るようにとトミから言われた。
 そのあとで甚右衛門とトミと辰蔵の三人は、茶の間で何やら話し合ったようなのだが、何の話をしていたのかは誰にも知らされなかった。そんなことが幾晩かあった。
 千鶴はそれを、恐らく後継者のことに違いないと考えていた。年末からの祖父の様子を見ていると、このような密会を開く理由が他には思いつかなかった。
 もし今、甚右衛門が倒れたら、すぐにでも店を任せられるのは、辰蔵をおいて他にはいない。しかし辰蔵は山﨑家の人間ではない。辰蔵にあとを継がせるためには、山﨑家の女を妻にする必要がある。千鶴はそのことが気がかりだった。
 確かに甚右衛門は進之丞を山﨑機織で雇ってくれた。千鶴と進之丞が好き合っていることも承知の上だ。
 また甚右衛門とトミが進之丞を気に入っているのは事実である。二人が進之丞を婿にと考えていたのは間違いないだろう。
 だがそれは千鶴たちが夫婦になるまでの間、甚右衛門が元気でいればの話である。自分の体に不安を覚えた甚右衛門が、初めの予定を変更することは有り得ることだ
 それに甚右衛門は千鶴に店を継がせるとは言ったが、忠七ただしちを婿にするとまでは言っていない。つまり、千鶴たちが夫婦になる話は約束されたものではないのである。
 もしものことがあって、今すぐ後継者を決めるとすれば辰蔵しかいない。であれば結論は一つだ。辰蔵を千鶴の婿にするのである。
 甚右衛門とトミが辰蔵だけと話をするのは、そのむねを打診していたのに違いない。
 辰蔵にすれば、店の後継者になれるのは願ってもない話だろう。だが辰蔵は千鶴と進之丞の仲を知っている。進之丞のこともとても高く評価してくれている。しかも辰蔵は情に厚い男だ。進之丞を押しのけて婿になるという話に、簡単に首を縦に振るとは思えない。
 しかし店の状況を考えると、いつまでもは拒めないだろう。もしかしたら今すぐとは言わなくても、甚右衛門に危険が迫った時には婿になるという約束が、取り交わされたのかもしれなかった。
 それであれば自分にも一言話があってもよさそうなものだと千鶴は思った。しかし今そのことを言えば、千鶴に猛反発されるのは目に見えているはずだ。だから今は余計なことは言わないと、甚右衛門は決め込んでいるのかもしれない。
 それでも、お前の婿は辰蔵に決めたと言われたら、千鶴には逆らう権利はない。どこの家でも娘の相手は一家の主が決める。相談など必要はなく、娘はそれに従うしかない。
 鬼山おにやま喜兵衛きへえを連れて来た時は、甚右衛門は千鶴にづかいを見せてくれた。だが、店の危機が目前に迫っていると感じたら、あの時のようにしてくれるとは限らない。有無を言わせず命令されれば、千鶴にはどうすることもできないのだ。
 それに逆らうとなれば、この家を出るしかない。そうなると山﨑機織は山﨑家の手を離れることになるだろう。 
 何があっても進之丞と夫婦になると千鶴は決めている。たとえこの家を出ることがあったとしてもだ。しかし、実際にそんなことを決断するのはとても恐ろしいことだ。
 進之丞が山﨑機織に来てちょうど一年になると言うのに、まさかこんなことを心配する羽目はめうとは思いもしなかった。
 とは言っても、これは千鶴の勝手な憶測である。何も言われていない以上、祖父たちはまったく関係のない話をしていたのかもしれなかった。
 千鶴は自分の心配を母に相談した。だが母は千鶴たちの気持ちを知っているおじいちゃんが、そんなことをするはずがないと取り合ってくれなかった。
 それで千鶴は進之丞にも相談しようと思った。しかし進之丞は相変わらず忙しくて、なかなか二人で話をする暇がなかった。

     二

じんさん、おるかな」
 同業組合の組合長が暖簾のれんをくぐって茶の間の所まで入って来た。
「どしたんぞ? そがぁな顔して。まだ胃のわいが悪いんかな」
 ぶっちょうづら白湯さゆを飲んでいる甚右衛門を見て、組合長は心配そうな顔をした。
 せんじ薬がなくなり、甚右衛門は調子が悪い。進之丞が新しい薬草を煎じてくれればいいのだが、この季節には欲しい草が手に入らないらしい。かと言って、薬屋で薬草を買うのは銭を使うことになるので、甚右衛門は嫌なようだった。
 トミは豊吉とよきちを連れて雲祥寺うんしょうじへ出かけており、甚右衛門は一人きりだった。
 トミがいる時は、組合長は上がりかまちに腰を下ろすが、今はトミがいないからか、自分から茶の間へ上がり込んだ。
「今朝の新聞は読んだんか?」
「新聞? 今日は読む気になれんで、まだ読んどらん」
 甚右衛門はしゃべるのも億劫おっくうそうだが、組合長は構わず話を続けた。
「ほうかな。ほれじゃったら、ちょうどええわい。実はな、日本がソ連と国交を結んだらしいぞな」
「ソ連と? ほんまかな」
「ほんまほんま。新聞に書いとるけん、自分の目で確かめとうみ」
 組合長に言われ、甚右衛門は部屋の隅に置いていた今朝の新聞を引き寄せた。
 甚右衛門が新聞を読んでいる間、組合長は台所を振り返り、花江と一緒に昼飯の準備をしていた千鶴に声をかけた。
「今の話は、千鶴ちゃんにも関係あることで」
「ソ連の話ですか?」
 千鶴がちらりと組合長の方を見て応じると、ほうよほうよと組合長はうなずいた。
「ソ連と国交結んだら、向こうと行き来でけるようになろ? ほしたら千鶴ちゃんもおとっつぁんと会えるやもしれまい」
「ほやけど、お父さんはうちが産まれたこと知らんですけん」
「ほんでも、ぶらっと松山まつやまを訪ねて来るかもしれまい。何せ、ここには千鶴ちゃんのおっかさんがおるけんな」
「そがぁなこと……」
 まだ見ぬ父が突然訪ねて来る光景が、千鶴の頭に浮かんだ。その想像をあと押しするように、組合長は言った。
「有り得ん話やないで。さっちゃんはまだ独り身やけん、りを戻して、正式に夫婦めおとになるいうことかてあろ?」
「人の家のこと勝手に決めんでくれんかな」
 新聞を広げながらじろりとうわづかいににらむ甚右衛門に、よもだ言うとるぎりぞな――と組合長は笑った。
「お茶をどうぞ」
 花江が湯飲みを差し出すと、組合長は喜んで受け取った。
 いつもならこんな話を聞いた花江は興味津々の顔を見せる。だが何故かこの日は無表情だ。今日の花江は今朝からずっとこんな感じである。
 しかし、組合長はそんなことなど気にする様子もなく、お茶を一口飲むと甚右衛門に言った。
「読んだか?」
「読んだ」
 甚右衛門は面倒臭そうに答えた。
「どがぁ思う?」
「どがぁとは?」
「ほやけん、ソ連に伊予いよ絣をがすり 売り込めるじゃろがと言うとるんやろがな。甚さん、前にもそがぁな話をしよったろ?」
 甚右衛門は口を開けたまま組合長を見た。
 以前に鬼山喜兵衛が提案していた、ソ連への伊予絣の売り込みの話を、甚右衛門はずっと忘れていたようだった。それを今改めて思い出したらしい。もう一度新聞に目を落としたあと、甚右衛門は興奮した様子で顔を上げた。
「ええやないか。ええ話ぞな」
「ほうじゃろ? そがぁなしかめつらしよる場合やないんで。わしは他の店の連中にもこの話をしよるんやが、みんなその気になっとらい。やまさき機織きしょくさんぎり遅れ取るわけにはいくまいが」
「ほらほうよ。よう言うてくれた。早速さっそく向こうの情報を集めにゃならんが、誰ぞわかるやとはおるんかな」
「ほれよ。幸ちゃん、ロシア人の好みとか、ちぃとでも知っとることあったら教えて欲しいんよ」
「なるほど。ほうじゃな。んて来たら確かめてみよわい」
 甚右衛門は胃の痛みを忘れた顔で、白湯を飲み干した。

     三

 二月の初日、千鶴はたらいの前に進之丞と並んでしゃがみながら洗濯をしていた。
 この日は日曜日で、いつもであれば幸子が千鶴を手伝うので、せっかくだが進之丞の出番はない。だが去年の春以降、姿を見せていなかった三津子みつこが久しぶりに現れたため、幸子は外へ出かけて行った。三津子は嫌な女だが、千鶴は心の中で三津子を拝んだ。
 亀吉かめきちたちは家の中の掃除をしてくれている。進之丞と二人きりの千鶴は浮き浮き気分だ。
 千鶴は着物を洗いながら、日本がソ連と国交を結んだ話を進之丞にした。
 進之丞はその話を辰蔵から聞いていたようで、千鶴の父親の国と関係がよくなるのはいいことだと言った。
 前世では、会えないと思っていた父親が千鶴を探しに来たのだから、今世でも同じことがあるかもしれないと言われると、千鶴は動揺した。
 千鶴は前世で自分の父親ときちんと会った覚えがない。と言うより、その時のことは、まだ思い出せていなかった。だが、当時のことを話してくれた進之丞の様子では、進之丞の命が尽きた時に、自分も一緒に命を絶ったらしい。
 だから前世では、親子の対面は果たされていないはずだった。それが今度は会えるかもしれないと、淡い期待のようなものが千鶴の頭をよぎった。
 しかし、そもそも父親が生きているかどうかもわからないのだ。期待以前の話である。
 ロシアでは革命という大きな混乱が起きて、多くの人が死んだと聞いている。その中に父がいた可能性はあるわけで、そうであれば会えるわけがない。
 それでももし父が生きていたならば、組合長や進之丞が言うようなことがないとは言えない。ひょっとしてそんなことになったらと考えると、千鶴の気持ちにさざ波が立った。
 黙ったまま父親のことを考える千鶴を、横目で見ながら進之丞は言った。
「おまいが父親に会えても会えんでも、今のお前には護ってくれる人がようけおる。そこが前とはちごて安心ぞな」
しんさんもおるもんね」
 父親の想像をやめて、千鶴は進之丞に微笑みかけた。だが今度は進之丞が黙っていた。
「進さん、どがぁしたん?」
 千鶴が声をかけると、進之丞は千鶴に顔を向けた。
「話は違うが、おまいが学校をやめたまことの理由は何ぞな?」
 突然、学校の話をされて千鶴はまどった。
「ほじゃけん、お店を継ぐことになって――」
 千鶴が言い訳をしている途中で、進之丞はしゃべり始めた。
昨日きにょうまわり先でな、そこに来た客におまいのことをかれたんよ」
「おらのこと?」
「その客は若い娘でな。じょはん学校の卒業生じゃった。あしがやまさき機織きしょくもんやと知って声かけて来たんよ」
「ほうなん。いったい誰じゃろか?」
 千鶴は平静を装ったが、胸の中はどきどきしている。はるとは仲直りをしたものの、女子師範学校のことは思い出したくなかった。
「名前までは聞いとらん。やが、おまいの同級生じゃと言うとった」
「ほれで、その子は進さんに何ぞ言うたん?」
 進之丞に話しかけたのが元級友となると、嫌な予感がする。
「しきりにお前の様子を気にするんでな。理由をたずねたら、みんながおまいがんごいとると騒いだために、お前が学校をやめることになってしもて、申し訳ないことしたと言いよった。この話はまことか?」
 千鶴は即答ができなかった。弁解しようとしたが、うろたえて言葉が出ない。
「いや、ほれはな、ほの……」
「まことなんじゃな?」
 観念した千鶴は小さくうなずいた。ほうか――と力なく言った進之丞の表情は暗かった。
「おまいと仲がよかったはずのもんらとの間にも、ほれが元でひびが入ったそうじゃな」
「ほれかて、村上むらかみさんがおびに来てくれたし。ほら、去年の三月やったかな。進さんも札ノ辻ふだのつじで一緒に見送ってくれたやんか」
「あのおじょんともおかしなってしもたんか。あがぁに仲がよかったのに……」
「ほやけん、もう仲直りしたんやてば。進さんかて見たじゃろ?」
 千鶴は弁解したが、進之丞の耳には入っていないようだ。進之丞はしょんぼりした様子で下を向いて言った。
「おまいはどがぁな子にも優しい師範になりたいと言うとった。あとちぃとで学校を終え、その夢がかなうとこじゃったのに……」
「もう言わんで。そがぁなこと言いよったら、がんごさんが傷つくやんか。鬼さんのせいやのうて、おらが辛抱しんぼう足らんかったぎりやし」
 進之丞は黙ったまま着物をごしごししている。鬼に腹を立てているらしい。何だか思い詰めたような顔で目に涙まで浮かべている。
「おら、師範になるより、こがぁして進さんと一緒にお店の仕事する方がええんよ。こっちの方がほんまの夢なんじゃけん」
 千鶴が明るく話しかけても、進之丞の悲しげな顔は変わらない。それで千鶴は話題を変え、ずっと気になっていた後継者問題を、進之丞に相談することにした。
 まずは、定かなことではないけれどとした上で、年が明けてから祖父母が辰蔵と何やら話し合いを繰り返しているという話をした。それから自分の心配を伝えたのだが、進之丞はまだ学校の話が尾を引いているのか、暗い顔のまま反応が鈍い。
 どう思うのかと千鶴が繰り返し訊ねると、進之丞はようやく返事をした。だが、やはり興味があまりなさそうだった。
「そがぁなると決まったわけでもないのに、勝手に不安を膨らませるんは、賢いやり方とは言えんな」
「ほら、ほうかも知れんけんど、もしそがぁなったら困るやんか。ほじゃけん、ほん時にはどがぁしよかて悩みよるんよ」
「悩む?」
 進之丞は手を止めて千鶴を見た。学校の話題をうまく切り替えられたという想いもあり、千鶴は勢いに乗って喋った。
「もし、おじいちゃんに何ぞあって、ほん時におらが辰蔵さんと一緒になるんは嫌じゃて言うたら、このお店がどがぁなるんかて考えてしまうんよ」
「おまいにとって、ここは生まれ育った家であり、大事な家族が住まうとこやけんな。そがぁ思うんは当然ぞな」
「じゃろ?」
「であるなら、その気持ちに従うまでぞな」
 え?――驚く千鶴に、進之丞はきっぱりと言った。
「おまいは、お前が思うとおりに生きるべきぞな」
「何言うとるん? おらが望みよるんは、進さんと一緒になることぞな」
「ほんでも、おまいは迷とるんじゃろ?」
「別に迷とるわけや……」
 言葉を濁した千鶴に進之丞は言った。
「実際どがぁなるかはわからんが、もしおまいが思たとおり、だんさんがたつさんをお前の婿にしよと思とりんさるんなら、ほれは仕方しゃあないことぞな」
仕方しゃあないて……。進さん、ほれでかまんの?」
「構うも何も、旦那さんが決めんさることやけん、あしにはどがぁもできまい。あとはおまいがどがぁするかぞな」
 進之丞と夫婦になることに迷いはない。迷っているのは、この店の行く末についてである。しかし、それは進之丞とのことを迷っているのと同じになるわけだ。進之丞はそのことを指摘しているのであり、それがわかっている千鶴はうろたえていた。
「おらが訊いとるんは、進さんの気持ちぞな」
「あしの気持ち? ほれを確かめてどがぁするんぞ?」
「ほやけん、進さんがそがぁなことは嫌じゃて言うてくれたら、おらかて――」
 進之丞は千鶴の言葉をさえぎって言った。
「あしがそがぁ言わねば、辰さんと夫婦めおとになるいうことか?」
「誰もそがぁなこと言うとらんじゃろがね。ほやのうて、悩みよるおらを引っ張って欲しいんよ」
「おまいを引っ張って、この店をつやせと言うんかな。お前が大事に思いよる家族を見捨てさせろと?」
「ほういうことやないんやてば」
「ほんでも、ほういうことじゃろ?」
 言葉を返せない千鶴に、進之丞は言った。
「千鶴、あしはお不動さまにおまいの幸せをねごた。もし、お前が辰さんと夫婦めおとになるんであれば、ほれがお前にとっての幸せぞな」
 千鶴は目を見開いて進之丞を見た。
「進さん、本気でそがぁ思いよるん?」
「本気ぞな。あしの望みは、あしがおまい夫婦めおとになることやない。お前が幸せになることぎりぞ」
 思いも寄らない進之丞の言葉に、千鶴は愕然がくぜんとした。
「ほれは、おらのことをそんぐらいにしか想とらんてこと?」
「あしはおまいのことしか考えとらん」
「じゃったら、なしてそげなこと言うんね? そげなこと言うたら、おらがどがぁな気持ちになるんかわからんの?」
 いらだちを隠さない千鶴に、進之丞は淡々と言った。
「あしらがどがぁに考えたとこで、すべては定めどおりに動くぎりぞな。おまいが辰さんと夫婦めおとになるんであれば、ほれがお前の定めじゃったということよ」
「前世で死に別れたおらたちが、今世でこがぁして一緒になれたて言うのに、ほれをまた引き裂かれるんが定めじゃて言うん?」
「前に申したように、あしはぃでけがれとる。おまいと一緒になれんとすれば、あしにはその資格がなかったいうことぞな」
 千鶴は立ち上がって声を荒らげた。
「何が資格ね! 人が誰ぞを好きになるんに、何の資格がいる言うんね?」
 進之丞は何かを言おうとした。だが何も言えずに口をつぐんだ。言葉に出せない何かが悲しげな目に映っていたが、頭に血が昇った千鶴にはそれがわからない。
「前世では、おらを嫁にしようと奔走ほんそうしんさったのに! おらのために命まで投げ出してくんさったのに! あん時の進さんはどこてしもたんよ!」
「千鶴、あしはな……」
 立ち上がった進之丞は悲しげに言った。
「あしはな、もう昔のあしやないんよ」
「そがぁなことわかっとるがね。わかった上で一緒になろて言いよんのに」
 怒りが収まらない千鶴は、もう手伝わなくていいと言った。それでも進之丞がしょんぼり立っているので、さっさとどこにでも行ってと、涙を浮かべた目でにらみつけた。
 寂しそうにしながら進之丞が行ってしまうと、千鶴はしゃがんで泣いた。

     四

 千鶴は進之丞の気持ちを確かめたいだけだった。そして、もしもの時にはどうするのかを、一緒に考えて欲しかった。それなのに進之丞はあまりにも弱気で、困難にあらがう姿勢が見られない。
 進之丞は山陰やまかげものであることを理由に、一度は甚右衛門から見捨てられそうになった。だから自分の気持ちよりも甚右衛門の顔色の方を気にしてしまうのだろうが、それにしても他人ひとごとのような態度は許せない。
 昔の進さんであれば、絶対に自分をあきらめるようなことはしなかったし、今回のことでも、何とかしようと知恵を絞ったはずだと、千鶴は泣きながら憤っ いきどお た。
 前世で攘夷じょうい侍たちの命を奪ったことで、今の自分がけがれていると信じているのも馬鹿げたことだ。いくら前世の記憶があると言っても、前世と今世の区別はするべきなのだ。
 進之丞がいなければ、山﨑機織やまさききしょくは一年前に潰れていた。今の山﨑機織があるのは進之丞のお陰である。
 また、甚右衛門からあれほどひどい仕打ちをされたのに、進之丞はそれにもめげずにここで働き始めた。あれからもう一年が過ぎるが、その間にだいに昇格したし、取引先からの評判もいい。空き巣から店を護ったこともあるし、でったちからも慕われている。甚右衛門もトミも絶対に手放さないとまで言っているのだ。
 進之丞はもっと胸を張ればいいし、自信を持つべきである。千鶴と一緒になれないのであれば、辞めさせてもらいますぐらい言ってもばちは当たらないはずだ。
 だが、進之丞は辰蔵が千鶴の婿になるなら、それは仕方がないと言う。それはあるじである甚右衛門やトミに対する遠慮なのだろうが、言い換えれば、千鶴を想う気持ちがそれだけのものだということである。
 千鶴はどうしても進之丞と夫婦になりたいのに、進之丞はそうは思っていない。そのことが、千鶴の心を深く傷つけていた。
 お前のことしか考えていないと進之丞は言ったが、想いの強さは明らかに以前と違う。自分は昔の自分ではないという弁解がそのあかしだ。
 進之丞の変わりようが情けなくて、千鶴は泣き続けた。しかし、しばらくすると泣いている場合ではないことに気がついた。進之丞が千鶴と辰蔵の結婚を認めるのなら、千鶴には辰蔵を拒む理由がなくなってしまう。このままでは辰蔵が婿になることは必至だ。
 千鶴は泣くのをやめて、どうすればと考えた。
 今は山陰の者であっても、かつての進之丞は風寄かぜよせの代官の息子だった。その時の自信と誇りを取り戻せたなら、今みたいな弱気になったりはしないだろう。
 千鶴はどうすれば進之丞が以前の心に戻ってくれるだろうかと頭をひねった。だが、なかなか名案は浮かんで来ない。代わりに進之丞が今世で受けた差別が、ふと頭をよぎった。
 千鶴も多くの差別に苦しんだが、進之丞も差別によって理不尽な扱いを受け続けて来た。挙げ句の果てには信じていた甚右衛門にまで裏切られ、心は深く傷ついたはずだった。
 結局は進之丞は山﨑機織で働くことになったが、心の傷は癒えていないに違いない。山陰の者であることがずっと引け目になっていて、それがために進之丞があるじに従順になってしまうのは、仕方がないことかもしれないと千鶴は思った。
 千鶴も風寄で為蔵からロシア兵の娘だととうされた時には、深く傷ついた。今は為蔵は千鶴を認めてくれているようだが、それでも本当に受け入れてもらえているのかという不安はある。その為蔵がやはり忠之には別の娘を嫁にすると言ったとしても、千鶴は何も言えない。ただ進之丞を想いながら泣くばかりだろう。
 そうなれば進之丞に期待するしかないが、進之丞が親には逆らえないと言ったり、このままでいいのか悩んでいると困惑したらどうなのか。
 千鶴は唇をんでうなれた。今、自分が進之丞にやったことは、まさにそれだった。
 もし辰蔵を千鶴の婿に決めたと甚右衛門が宣言したところで、進之丞がそれに何かを言えるはずがない。物が言えるのは千鶴であり、またそれが千鶴の責任なのだ。
 それなのに、それを進之丞に相談して意見を伺おうとするのは、まったくもって無責任かつ無思慮なことだった。
 千鶴が悩んでいると言った時、進之丞はどんな気持ちになったのか。千鶴はそんなことなど考えもせずに、自分のことをそれぐらいにしか想っていないのかと進之丞をののしった。だが、それは進之丞が言うべき台詞せりふなのだ。それなのに千鶴は進之丞の言葉に耳を貸さず、進之丞が悪いと一方的に決めつけて怒鳴ったのである。
 情けなさと申し訳なさで、千鶴は自分が嫌になった。
 進之丞と一緒に暮らせる喜びが、進之丞へのづかいを忘れさせていたようだ。進之丞がそばにいてくれることを当たり前に思い、有り難さが見えなくなっていた。
 千鶴はすぐに進さんに謝らねばと思った。だが一方で、進さんは男なのだから一言励ましの言葉が欲しかったと、進之丞に注文をつけたい気持ちもあった。
 そんな意地を張りたくなるのは、それを許してくれるほど進之丞が優しいからだ。だから、今すぐ謝らなくても、そのうち進さんの方から声をかけてくれるだろうという甘い期待も抱いてしまう。
 結局、千鶴は進之丞にびないまま洗濯を再開した。それでも隣にいるはずの進之丞がいないのは、やはり寂しい。
 横にぽつんと置かれたたらいには、まだ洗う途中の着物が入ったままだ。そのたらいを見ていると、たらいのあるじはこれから先も戻って来ないような気がして、千鶴は着物を洗う手を止めた。
 不安になって立ち上がった千鶴は、勝手口の中をのぞいた。だが、進之丞の姿はどこにも見えない。帳場の向こうへ行ってしまったようだ。それで余計に不安がつのったが、どこにでも行けと追いやった手前、いまさら進之丞を呼び戻すことなどできない。
 千鶴は仕方なくしゃがみ直して着物を洗い始めた。それでも頭の中は、落胆と後悔でいっぱいだった。荒々しく動く手は、いつまで経っても同じ着物ばかりをごしごし洗っている。千鶴はそのことに気づかず洗い続けた。

     五

 二月二十五日に、日ソ基本条約がじゅんされた。
 たいしょう六年のロシア革命でソビエト政権が成立して以来、日本とロシアの間にあった国交は途絶えていた。それに代わる日本とソ連の国交が、今回新たに樹立したのである。
 これにさきけて、ひめけんではソ連への特産品の輸出を計画していた。そのために、まずハルピンへ有力商品を送ることになった。
 ハルピンはソ連との国境近くにある中国の街で、多くのロシア系住民が暮らしている。
 ソ連との国交が樹立したとは言え、すぐにソ連へ商品を売りに行くことはできない。そこでハルピンを介して、ソ連の住民に愛媛の商品を知ってもらおうと言うわけである。
 県の意向を聞いた伊予いよ織物おりもの同業組合の組合長は、各かすり問屋にその話を伝えて、どの商品を送るか選別をしていた。
 組合長は風寄かぜよせの絣を高く評価しており、ハルピンへ送る商品をやまさき機織きしょくからも用意して欲しいと、甚右衛門は頼まれていた。それでそろえた品が予定どおりハルピンへ送られることになり、甚右衛門はすっかり上機嫌だった。
 だが、その機嫌のよさの理由はハルピンへの売り込みのことだけでなく、後継者問題が解決したからかもしれなかった。何故なら、近頃は甚右衛門とトミと辰蔵の話し合いは行われていないからだ。
 それについて、誰も本当のことを千鶴に教えてくれないし、千鶴も怖くてくことができなかった。事実がわからないから、千鶴はずっと気持ちが落ち着かなかった。
 また、千鶴は進之丞とも仲直りができずにいた。あのあと進之丞がすぐにでも声をかけてくれると考えていたが、進之丞の方から話しかけて来ることはなかった。
 だからと言って、進之丞が不機嫌ということではない。いつもどおりに仕事をこなし、千鶴にも何もなかったかのように明るく挨拶をしてくれる。ただ、わざわざ時間を取って千鶴と二人きりになろうとはしなかったし、実際二人とも忙しくてそんな暇はなかった。
 進之丞の方が不満を言葉や態度に見せないから、びるつもりがあった千鶴にすれば、肩透かしを食らったみたいだった。それでつい同じように明るく接してしまい、見た目には二人の間で言い争いがあったとは、誰も気がつかないと思われるほどだ。
 それでも千鶴が進之丞に理不尽な怒りをぶつけたのは事実であり、それに対して未だに詫びられずにいるのは、この一件にけりがついたわけではないということだ。
 千鶴が何をしても進之丞が怒ることはない。だから、こちらから思いやらなければ進之丞の本当の気持ちを知ることはできない。笑顔でいても悲しんでいるかもしれないのだ。
 このままでいいはずがないのだが、話の取っ掛かりがないまま毎日がせわしく過ぎて行く。そんな日々を送りながら、ひょっとしたらこれまでにも自分では気づかずに進さんを傷つけていたのではないかと、千鶴は不安になった。
 もしかしたらあの時はどうだったのだろう、あれは違う言い方がよかったのではないかと、思い返せばいろいろ思い当たる節があり、千鶴の不安は次第に膨らんで行った。
 いくら辛抱強いと言っても限度があるはずで、進之丞はこれまでいろんなことで、千鶴への不満をこらえていたと思われる。それを顔に出さないからわからないが、先日の一件でついに腹立ちが限界を超えたかもしれないのだ。ところが、千鶴がそれを詫びようとしないから、さすがに愛想を尽かされたかもしれないと千鶴はうろたえた。
 千鶴が辰蔵のことで迷っていると言った時、進之丞の中で何かが壊れたのだとすれば、進之丞が投げりにあきらめたようなことばかり口にしたのもてんが行く。千鶴を励ます言葉を添えることをしなかったのは、そんな気分にならなかったということに違いない。
 それでも千鶴がすぐに自分の非を認め、絶対に辰蔵とは一緒にならないと宣言していれば、まだ救いがあった。それなのに千鶴は聞く耳を持たずに進之丞をののしったのである。これでは進之丞の気持ちが冷めたとしても不思議ではない。
 進之丞に本心を確かめたいが、やはりそんな暇は見つからない。何とか進之丞を捕まえようとしても、少し言葉を交わすだけで、進之丞はするりと千鶴から離れてしまう。それは見ようによっては、千鶴を避けているみたいだった。
 あせれば焦るほどに、進之丞に対する千鶴の態度は硬くなった。挨拶もよそよそしくなるし、ちょっとした会話すらできなくなった。
 いつもであれば、花江が心配して何かを言って来るところだった。しかし、ここのところ花江も様子がおかしい。何だかぼんやりしていることが多く、心ここにあらずという感じだった。それで千鶴の方から花江に話を聞いてもらうということができなかった。
 そもそも揺るぎないはずの進之丞との関係が危うくなっているなど、誰にも言いたくはない。だから母にも相談できずにいた。
 それでも本当に進之丞の気持ちが離れたならば、もはや辰蔵の話どころではない。人生が終わったも同然である。そんな不安が原因なのか、千鶴は妙な夢を見た。

     六

 楠爺くすじいの陰で、千鶴は女と会っていた。女は代官屋敷の女中で、進之丞の母親の世話をしていた。
 この女中は進之丞たちに不審を抱き、そのことを千鶴に伝えに訪れていた。
 女中は潜めた声で、あんたは進之丞さまにだまされとるんよ――と言った。
 千鶴はそんな話など信用しないが、進之丞はここのところ何日もいに来ていない。千鶴を嫁にすると言ってくれはしたものの、その後、その話の進展はないままだった。
 千鶴は女中に、どうしてそんなうそをつくのかとただした。すると女中は、進之丞が千鶴とは別の嫁をもらうことになったと言った。
 愕然がくぜんとする千鶴に、嫁を誰にするかは親が決めるけんねぇ――と女中は気の毒そうに言った。
 嘘じゃ嘘じゃと否定したものの、子供の結婚相手は親が決めるということぐらい、千鶴でも知っていることだった。ただ、進之丞があれほど熱心に嫁になって欲しいと言うので、その言葉を信じただけのことである。
 ほんでも進之丞さまはあんたを嫁にしようとはしんさったんよ――と女中は言葉を失った千鶴を慰めるように言った。
 女中の話によれば、進之丞は千鶴を嫁にしたいと両親に申し出たらしい。
 進之丞の父親も母親も千鶴は面識があり、どちらもとても優しい人だと認識していた。だから、二人が反対するとは思いもしなかったのだが、遊び相手と嫁を一緒にするなと、進之丞は二人から諭されたそうだ。
 それでも進之丞は、千鶴以外の娘を嫁にはしないとがんばったらしい。だが進之丞は代官の一人息子だ。嫁をもらわねば家系が途絶えてしまう。そこで代官は息子のために縁談話を持って来たと女中は話した。
 進之丞は見合いを嫌がっていたが、親の命令には逆らえない。会うだけだと言って引き合わされた武家の娘はあまりにも美しく、芸事にも秀でていた。
 進之丞はその娘に心がかれ、ついにはその娘を嫁にする話を承諾したのだと言う。
 千鶴はそんな話など信じたくなかった。だが、言われてみれば有り得ることだ。自分が代官の息子の嫁になるという話の方が、はるかに現実味がないように思われた。
 自分には親がおらず、村人からはがんごめと呼ばれてさげすまれている。そんな娘が侍の嫁になれるはずもない。少し考えてみれば、誰にでもわかることだ。
 それを進之丞にわれてその気になって、有頂天になってしまったのだ。まったく愚かなことであり、情けなく恥じ入るばかりだった。
 そこへ女中のとどめの言葉が突き刺さった。それは進之丞の出世話である。
 進之丞の嫁になる娘はろうじゅうとつながりがあるらしい。
 老中というのは城を動かすことができる権力者で、その娘と一緒になるというのは、老中に近づけるということだった。それは進之丞の出世を保証するものなのである。
 普通に考えれば、進之丞が誰を選ぶかは一目瞭然だ。それに、千鶴はそのことで文句が言える立場にない。
 千鶴は自分がとてもみじめに思えた。
 今日も進之丞さまはお屋敷で、その娘と仲睦なかむつまじくしんさっとったぞなもし――と女中は千鶴の顔をのぞき込むようにして言った。
 千鶴は進之丞が屋敷を留守にしていると信じていた。その進之丞が実は屋敷で美しい娘と肩寄せ合っていたと思うと、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
 所詮しょせん男なんてみんなおんなしよ――と女中は言った。そして、本当はこんな話を伝えに来る義理ではないが、あんまりひどい話なので伝えに来たのだと千鶴に同情を寄せた。
 言うだけ言った女中は、自分がここに来たことは誰にも言わないで欲しいと千鶴に頼んだ。この話を千鶴にしゃべったことが知れたら、自分は打ち首になると言うのだ。
 そこまでして来たのであれば、やはりこの話は間違いないのだろう。千鶴はうなれたまま、いつまでも泣き続けた。

 夢から目覚めたあとも、千鶴は動揺が収まらずに肩で息をしていた。騙されたという悲しみの余韻が、胸の中で渦巻いている。
 夢の話なのだから本気にすることはないのだが、千鶴はこれまでも何度か前世の記憶を夢で見ている。そして、この夢も本当にあったことだと、前世の自分が告げていた。
 一方で、進之丞が騙すわけがないと、千鶴は自分に言い聞かせていた。
 祖父の話では、風寄かぜよせの代官は千鶴を嫁に迎えるために、親友の養女にするはずを整えてくれていた。また、進之丞も千鶴のためにしげまで挨拶に出向いてくれたのだ。それは夢の話とは真逆のことである。
 千鶴は困惑した。何が本当のことなのか判断ができなかった。
 どちらも正しいのだとすれば、進之丞は結局は自分を選んでくれたのだろうが、一時的に他の娘に心を奪われたということになる。
 魔が差したのか、状況に流されてしまったのかはわからない。いずれにしても、いかに進之丞でもそういうことは有り得るということなのだろう。
 どうしてこんな嫌な夢を見てしまったのか。きっと今の状況がこの夢を見せたのに違いないと千鶴は思った。
 進之丞は自分が置かれた状況に逆らおうとはしない。千鶴と夫婦になるかどうかは状況次第なのである。しかも今は千鶴との関係が悪くなっている。そんなところへ夢の話みたいに魅力的な娘が現れたなら、進之丞がその娘に気を許すということは十分に考えられる。もしかしたら、すでにそんな娘が外まわり先にできたのかもしれない。
 千鶴はうろたえた。
 早く進之丞との関係を修復しなければならないが、進之丞の方からの働きかけは期待できない。それに二人でゆっくり喋る暇ができるのは、次の月初めだけだ。それまでは辛抱するしかないが、その間に進之丞の気持ちがどんどん離れて行くかもと思うと、千鶴は気が気でなかった。
 どうしようというあせりばかりが、胸の中を駆けめぐる。それでも千鶴にできることは、次の話し合いの機会を待つだけだった。

     七

 三月が訪れた。
 ちょうど一年前、進之丞はだいに昇格した。千鶴は祝いのおりを贈り、羽織にそでを通した進之丞は感激して泣いた。
 その一年後に、二人の間に今のような危機が訪れるとは、誰が想像しただろう。
 一月ひとつき前の今日、千鶴は進之丞と言い争った。実際は千鶴の方が一方的に腹を立てたのではあるが、互いの気持ちにずれが生じて意見がみ合わなかったのは事実だ。
 そのことで進之丞を深く傷つけたのに、千鶴はびることができずにいた。しかし、ようやく二人きりで話ができる機会が訪れ、千鶴は緊張してこの日の朝を迎えた。今日こそは進之丞にきちんと詫び、自分には進之丞しかいないと改めて訴えるつもりだった。
 ところがこの日は二月初日に続いて日曜日だった。病院の仕事がない幸子が千鶴を手伝うので、千鶴が期待した進之丞の出番はなかった。
 せっかくの休みなのだから街に出かけて来るようにと、幸子は進之丞をうながした。自分が千鶴と進之丞の邪魔をしているとは気づいていないらしい。また先月初日に三津子と出かけてしまったことを、幸子は申し訳なく思っているようだった。
 千鶴の母親から言われて、それを拒む進之丞ではない。それに先月にもう手伝わなくていいと千鶴から言われたままになっている。進之丞の方から千鶴を手伝うとは言えない状況だ。また、千鶴にしても母を押しのけて、進之丞に残って欲しいとは言えない。
 結局、進之丞は幸子に言われたとおり、それではお言葉に甘えてと、一人で出かけてしまった。それを何も言えずに見送ることになった千鶴は、母を恨みたくなった。また、いつも思いがけなく訪ねて来る三津子が、何故今日は来ないのかと心の中で文句を言った。
 進之丞を追いかけるように花江までもが外へ出て行くと、千鶴は自分が使用人でないことを嘆いた。
 明るい顔で洗濯仕事にいざなう母を横目で見ながら、千鶴は進之丞が戻って来たら、必ず話をしようと思った。近くに誰がいようとも、とにかく進之丞を捕まえて話をする決意だ。
 今日話さなければ、次にいつ話ができるかわからない。早くしないと手遅れになってしまうと思う一方、進之丞がさっさと街へ出て行ったのは、どこかの娘にいに行ったのではないかと不安になっていた。
 千鶴が気もそぞろで洗濯に集中できず、たらいの中でぼんやりと手を動かしていると、隣で着物を洗う幸子が手を止めて話しかけて来た。
「あんた、たださんと喧嘩でもしたんか?」
 いきなりそんなことを言われて、千鶴はうろたえた。それでも進之丞のことを母に相談できるいい機会ではある。ところが、口から出たのはとぼける言葉だった。
「別に喧嘩なんぞしとらんけんど、なして?」
「何かここんとこ、あんたらがよそよそしいみたいなけん」
 よそよそしくしているのは千鶴である。ただ、千鶴の態度に進之丞が反応を示さないことも、母にはよそよそしく見えたのかもしれない。
「別に、いつもどおりにしよるつもりなけんど」
「ほうなんか。ほんでも、お母さんにはそがぁには見えんぞな」
 幸子が進之丞を街に出したのは、近頃の二人の関係について千鶴と話をしようと思ったのだろう。この一月ひとつきの間、幸子は気をみながらも、千鶴が相談して来るのを待っていたに違いない。
 千鶴が黙っていると、幸子は言った。
「何があったんか知らんけんど、忠さんはあんたの恩人じゃろ? ほれに、あんたの求めに応じて、ここへおいでてくれたんやなかったんか。ほんまじゃったら、風寄かぜよせで履物の仕事を受け継ぐはずやったんを、忠さんは――」
「そがぁなことはわかっとるけん、ほれ以上、言わんで」
 千鶴は母の言葉をさえぎって言った。
「お母さんが言うとることは、うちかて全部わかっとる。ほやけどな……」
 そこで千鶴は口をつぐんだ。
「ほやけど、何?」
 続きを促されたが、言葉が出て来ない。母に言うべきことなのかもわからないし、何から話せばいいのかもわからない。それに話したところで、結局はだめなのかもしれない。
 言葉の代わりに涙がこぼれた時、えらいことぞな!――と叫びながら新吉しんきちが走って来た。すぐ後ろに豊吉がついて来ている。
 でったちはトミに字を教わっていたはずだ。トミに何かがあったのだろうかと、千鶴と幸子は立ち上がった。
「幸子さん、千鶴さん、えらいことぞな」
 二人の前に来た新吉は、驚いたような顔で同じことを言った。
「えらいことて、何がえらいことなん?」
 幸子がたずねる間に、千鶴は急いで涙を拭いた。
「あのな、おいでたんよ!」
「おいでた? 誰が?」
「ほやけん、おいでたんよ。組合長さんが連れておいでた」
「ほやけん、誰がおいでたん?」
 幸子は落ち着いた様子で繰り返し訊ねた。しかし新吉はうまく説明ができないようで、後ろにいた豊吉が代わりに言った。
「外国の人がおいでたんぞな」
「外国の人? はて、誰じゃろか」
 首をかしげる幸子に豊吉は言った。
「さちかさん、おいでますか――て言うとりんさった」
「さちかさん?」
「お母さんのことやないん?」
 千鶴の言葉に、幸子ははっとした顔になった。
うそ! まさか……」
 幸子は手を拭きながら、そわそわした様子で店の方を見た。
「ひょっとして、お父さん?」
 千鶴の胸の中がざわめいた。
 千鶴を見たあと、幸子は小走りに家の中へ入って行った。千鶴もそのあとを追い、新吉と豊吉が続いた。
 茶の間にも台所にも誰もいない。だが帳場ちょうばの方から大勢の人の声が聞こえて来る。また暖簾のれんの向こうに何人もの人影が見える。
 暖簾をくぐって店へ出ると、帳場に甚右衛門が座り、その脇にトミと亀吉が立っていた。店の入り口には同業組合の組合長と、つえを突いた異国の大男がいる。外は黒山の人だかりで、この辺りの人間が全員集まったのではないかと思われるほどの野次馬だ。
 組合長はずんぐりした体つきだが、異国の男は細身でかなり背が高い。その対比が、ただでも目立つ異国の男を尚更なおさら際立たせていた。
 日本人と異なる容貌なので、男の年齢はよくわからない。顎髭あごひげを生やしているので、歳を取っているようにも見える。しかし顎髭をかんじょうに入れなければ、四十は過ぎていないかもしれない。
「サチカサン、ドカ イマズゥカ? サチカサン、アイタイネ」
 男はしきりに甚右衛門にうったえていた。だが甚右衛門は驚いているのか、事情がつかめないからか、目を丸くしたまま黙っている。
じんさん、さっちゃんのこと言うとるんじゃけん、会わせてやれや」
 組合長が取りなすように言うと、、男をじっと見ていた甚右衛門の顔が険しくなった。この男が幸子をはらませたのかと考えているのだろう。
 トミの後ろから男を見た幸子は、両手で口を押さえて悲鳴のような声を出した。その声を聞いて幸子に顔を向けた男は、喜びの笑みを浮かべた。
「サチカサン? サチカサンネ? アイタカタ!」
 男は杖を落とすと両手を広げ、右足を少し引きずりながら、幸子の方へ来ようとした。だがその前に、幸子の方が男の胸に飛び込んだ。
 幸子は男に抱かれながら号泣し、男は身をかがめていとおしげに幸子にほおずりをしたり、頬や首筋に口づけをした。
 男は千鶴の父親に違いない。初めて見る父親に千鶴は圧倒されていた。心の準備ができていないので、どう反応していいのかわからなかった。
 ひとしきり幸子を愛おしんだ男は、千鶴に気がついた。
「サチカサン、コノ、ムズゥメサン――」
「あなたの娘ぞな。千鶴て言うんよ」
 幸子は千鶴を振り返ると、お父さんやで――と言った。
 間近で見る男は、髭をのければ自分とよく似ている。やはり父親なのは間違いないようだ。
 それでも千鶴はうろたえていた。喜べばいいのだろうが、あまりにも突然のことなので、頭の中が混乱して喜ぶどころではない。
 一方、男の方は自分の娘がいたということで、感極まったような顔をしている。じわりと涙ぐむと、手を広げながら千鶴に近づいて来た。
「アナァタ、ヴァタァシナ、ムズゥメ。ヴァタァシ、アナァタナ、オトォサン」
 どうしようどうしようと思っているうちに、千鶴は男に抱きしめられていた。あらがうこともできず頬に口づけをされ、何度も頬をこすりつけられた。
 幸子と千鶴が男に抱かれている間、甚右衛門もトミもあっに取られたように、その様子を眺めていた。
 亀吉と新吉は口をあんぐり開けたまま、大きく見開いた目で千鶴たちを見ていた。豊吉は両手で目を隠している。
「幸ちゃん、その人な、まだ甚さんらに挨拶済んどらんのよ」
 組合長が言うと、幸子は慌てて男に自分の両親を紹介した。
 男も甚右衛門やトミが幸子の親だとはわかっていなかったらしい。うろたえた様子で二人に自分の非礼をびた。
「ヴァタァシヴァ、ミハイル・カリンスキー。ニホン、ロォシア、タタカウ。ヴァタァシ、ホリヨネ。ホンデ、マツゥヤマ、キタ。サチカサン、ヤサシカタ」
 辿々たどたどしい言葉で話しかけながら、ミハイルは甚右衛門に握手を求めた。甚右衛門はミハイルをにらみながら、渋々手を出してミハイルと握手をした。
 続いてミハイルはトミにも名を名乗って握手をしたあと、身をかがめてトミを抱きしめた。
 トミは慌てたが、甚右衛門も大慌てだ。立ち上がった甚右衛門は、人の女房に何をするかとミハイルに怒鳴った。
 ミハイルは甚右衛門よりかなり背が高いので、甚右衛門は帳場に立って、ようやくミハイルと釣り合いがとれた。しかし何を怒っているのかは、ミハイルにはうまく伝わらなかったようだ。
 自分とは挨拶の仕方が違うと、甚右衛門が文句を言っているように思ったのだろうか。ミハイルは甚右衛門のそばへ戻ると、甚右衛門をぎゅっと抱きしめた。
 甚右衛門は目を白黒させて藻掻もがいたが、大男のミハイルに抱かれては身動きが取れない。ミハイルに頬擦りをされて死にそうな顔になると、組合長が大笑いをし、トミまでもが笑い出した。千鶴たちも笑うと、笑いは店の外まで広がった。
 甚右衛門は真っ赤になりながら組合長に怒鳴った。
見世みせもんやない。表の連中を何とかせぃ!」
 組合長はなおも笑いながら、外にいた者たちに自分の店に戻るよう促した。
 野次馬たちはごり惜しそうに散って行ったが、少し離れた所に若い男が一人残っていた。組合長はその若い男を手招きして呼んだ。
 恥ずかしそうにしながら入って来た若い男は、ミハイルと同じく異国人だった。
「コレェ、ヴァタァシナ、ムズゥカ」
 ミハイルはこの若い男を息子だと言っているらしい。紹介された若い男は、ミハイルよりはわかりやすい日本語で挨拶をした。
「初メマァシテ。ヴァタァシヴァ、スタニスラフ、デズゥ」
 スタニスラフは甚右衛門と握手をし、幸子やトミと抱き合った。
 余計なことを言うと、また抱きつかれると思ったのだろう。トミがスタニスラフに抱かれるのを見ても、甚右衛門は苦々しそうな顔をするだけで怒鳴ったりはしなかった。
 息子がいるということは、ミハイルはロシアで結婚をしたということだ。そのことを悟った幸子はスタニスラフを嫌がらず、素直にミハイルの結婚を祝福した。
 ミハイルは少し困惑した様子で、ダンダン――と言った。
 トミから離れたスタニスラフは、うれしそうな顔を千鶴に向けた。
 スタニスラフに見つめられた千鶴は、次にスタニスラフが何をしようとしているのか、すぐにわかった。父親と同じことをするつもりに違いない。
 父親の息子ということは、スタニスラフは千鶴とは腹違いの弟になるわけだ。姉弟で抱き合うことは、別に悪いことではないかもしれない。しかし、日本人は人前でそんなことはしないし、千鶴にとってスタニスラフはただの初対面の若い男である。
 千鶴は逃げようと思ったが足が動かない。蛇ににらまれたかえるのように固まっていると、いつの間にかスタニスラフの腕の中にいた。
 こんな所を進さんに見られたらとあせりながら、千鶴は頬を合わせるスタニスラフの肩越しに店の外へ目をった。すると、そこに進之丞が立っていた。
 じっと見つめる進之丞の目がとても悲しげで、千鶴は泣きたくなった。