思いがけない訪問者
一
年の暮れ、紙屋町にある伊予絣問屋の主が脳溢血で死んだ。
この店主は甚右衛門より三つ歳が若かったが、甚右衛門と同じで後継者が決まっていなかった。そのため誰に後を継がせるかで、葬儀のあとで一悶着があった。それがきっかけになって、甚右衛門は再び胃の痛みを感じるようになった。
自分よりも若い店主が突然死んだのである。しかも後継者が決まらないまま主が死ねば、店がどうなるかを見せられたのだ。甚右衛門が不安にならないはずがなかった。
甚右衛門は千鶴に店を継がせると決めている。といっても、実質は千鶴の婿になる者が店の主となるわけだ。
千鶴は進之丞が婿になり、いずれは山﨑機織の主になると信じているが、二人が夫婦になれるのはまだ先の話だ。千鶴が日切地蔵に願ったとおりになったとしても、それまでまだ二年ある。だが実際はさらに数年かかるかもしれないのだ。
単なる婿ではなく後継者になるためには、それだけ多くの経験が求められる。少なくとも辰蔵の代わりができねばならないが、それにはまだまだ時間がかかる。それまでの間、何事もなくすべてが順調にいけばいいが、甚右衛門の身に何かがあれば大事だ。
後継者が決まらないまま店を動かせば、責任者不在でいずれ店はばらばらになってしまう。その危機感をひしひしと感じたために、甚右衛門は胃痛に苦しんでいるのだ。
以前に胃が痛くなった時には、進之丞が薬草を採って来てくれた。その薬草を干した物が残っていたので、それを煎じて飲むことで甚右衛門は腹の痛みを抑えていた。だが後継者の問題が解決するまで、煎じ薬が持つかどうかはわからなかった。
年が明けたある晩、男衆が二階へ上がったあと、千鶴や幸子、花江はいつものごとく縫い物仕事やアイロン掛けを始めようとした。すると、トミが今日はいいから部屋へ引き取るようにと言った。
甚右衛門は女が夜の仕事を始める頃には先に寝間へ行く。しかし、この日は茶の間に残って千鶴たちがいなくなるのを待っていた。
怪訝そうにしながら花江が二階へ上がり、千鶴と幸子が離れへ向かうと、甚右衛門は茶の間の障子を閉めて外から見えなくした。そんなことが幾晩かあった。
この日もトミに言われて、千鶴は母と一緒に部屋へ下がろうとした。その時、障子を閉める祖父の向こうに、階段を降りて来た辰蔵の姿が見えた。どうやら祖父母と辰蔵の三人で何かの話し合いをするようだ。これまで千鶴たちが茶の間から閉め出された時も、きっとそうだったに違いない。それで千鶴はぴんときた。
祖父たちがこっそり話をしているのは、恐らく後継者問題だ。祖父の不調は未だに続いているが、それは後継ぎについて思い悩み続けているからだ。
もし今、祖父が倒れたら、すぐにでも店を任せられるのは、辰蔵をおいて他にはいない。けれども辰蔵は山﨑家の人間ではない。辰蔵に後を継がせるためには、山﨑家の女を妻にする必要がある。千鶴はそのことが気がかりだった。
確かに甚右衛門は進之丞を山﨑機織で雇ってくれた。千鶴と進之丞が惚れ合っているのも承知している。甚右衛門もトミも進之丞を気に入っており、恐らく二人は進之丞を婿にと考えていたと思われる。
だがそれは千鶴たちが夫婦になるまでの間、甚右衛門が元気でいればの話だ。自分の体に不安を覚えた甚右衛門が、初めの考えを変えるというのは十分有り得ることだ。
それに甚右衛門たちは千鶴に店を継がせるとは言ったが、忠七を婿にするとまでは言っていない。つまり、千鶴たちが夫婦になる話は約束されたものではないのだ。
もしものことがあって、今すぐ後継者を決めるとすれば辰蔵しかいない。であれば結論は一つだ。辰蔵を千鶴の婿にするのである。
動揺した千鶴は、祖父母が辰蔵だけと話をしたのは、千鶴の婿になる旨を打診していたのだと考えた。
辰蔵にすれば、店の後継者になれるのは願ってもない話だ。だけど、辰蔵は千鶴と進之丞の仲を知っているし、進之丞をとても高く買ってくれている。しかも辰蔵は情に厚い男だ。進之丞を押しのけて婿になるという話に、簡単に首を縦に振るとは思えない。
だからといって、店の状況を考えると辰蔵もいつまでもは拒めないだろう。もしかしたら今すぐとは言わなくても、主に危険が迫った時には婿になるという約束が、取り交わされたのかもしれなかった。
ならば、千鶴にも一言話があってもよさそうだが、今その話をすれば千鶴が猛反発するのは目に見えている。甚右衛門はそれを嫌っているのだろう。それでも、お前の婿は辰蔵に決めたと言われたら、千鶴には逆らう権利はない。どこの家も娘の相手は一家の主が決める。相談など必要はなく、娘は決定に従うしかない。
鬼山喜兵衛を連れて来た時は、甚右衛門は千鶴に気遣いを見せてくれた。けれど、店の危機が目前に迫っていると感じたらそんな余裕はない。有無を言わせず命令されれば、千鶴にはどうにもできないのだ。逆らうとなればこの家を出るしかないが、そうなると、山﨑機織は山﨑家の手を離れて他人のものになるだろう。
何があっても進之丞と夫婦になると千鶴は決めている。たとえこの家を出ることになったとしてもだ。だけど、実際にそんな決断をするのは恐ろしい。自分のせいで店がだめになるなんて、思い浮かべるのも嫌だった。
進之丞が山﨑機織に来てちょうど一年になるというのに、まさかこんな心配をする羽目に遭うとは思いもしなかった。とはいっても、これは千鶴の勝手な憶測だ。何も言われていない以上、祖父たちはまったく関係のない話をしていたのかもしれないのだ。
千鶴は自分の心配を母に相談した。しかし母は千鶴たちの気持ちを知っているおじいちゃんが、そんなことをするはずがないと取り合ってくれなかった。
進之丞に相談しようとも思ったが、進之丞は相変わらず忙しくて、なかなか二人で話をする暇がなかった。
そうこうするうちに祖父母たちの密会は行われなくなり、千鶴は不安が募った。
二
「甚さん、おるかな」
同業組合の組合長が暖簾をくぐって茶の間の所まで入って来た。
「どしたんぞ? そがぁな顔して。まだ胃の具合が悪いんかな」
仏頂面で白湯を飲んでいる甚右衛門を見て、組合長は心配そうな顔をした。
とうとう煎じ薬がなくなり、甚右衛門は調子が悪い。進之丞が新しい薬草を煎じてくれればいいのだが、この季節には欲しい草が手に入らないらしい。かといって、銭を使いたくない甚右衛門は、薬屋へも行かずに我慢をしている。
この日、トミは豊吉を連れて雲祥寺へ出かけており、甚右衛門は一人きりだった。
トミがいる時は、組合長は上がり框に腰を下ろすが、今はトミがいないからか、自分から茶の間へ上がり込んだ。
「今朝の新聞は読んだんか?」
「新聞? 今日は読む気になれんで、まだ読んどらん」
甚右衛門は喋るのも億劫なようだが、組合長は構わず話を続けた。
「ほうかな。ほれじゃったら、ちょうどええわい。実はな、日本がソ連と国交を結んだそうな」
「ソ連と? ほんまかな」
「ほんまほんま。新聞に書いとるけん、自分の目で確かめとうみ」
組合長に言われ、甚右衛門は部屋の隅に置いていた今朝の新聞を引き寄せた。
甚右衛門が新聞を読んでいる間、組合長は台所を振り返り、花江と一緒に昼飯の準備をしていた千鶴に声をかけた。
「今の話は、千鶴ちゃんにも関係あることで」
「ソ連の話ですか?」
千鶴がちらりと組合長の方を見て応じると、ほうよほうよと組合長はうなずいた。
「ソ連と国交結んだら、向こうと行き来でけるようになろ? ほしたら千鶴ちゃんもおとっつぁんと会えるやもしれまい」
「ほやけど、お父さんはうちが産まれたんは知らんですけん」
「ほんでも、ぶらっと松山を訪ねて来るかもしれんで。何せ、ここには千鶴ちゃんのおっかさんがおるけんな」
「そがぁなこと……」
まだ見ぬ父が突然訪ねて来る光景が、千鶴の頭に浮かんだ。その想像を後押しするように、組合長は言った。
「有り得ん話やないで。幸ちゃんはまだ独り身やけん、縒りを戻して、正式に夫婦になるいうんかてあろ?」
「人の家のこと勝手に決めんでくれんかな」
新聞を広げながらじろりと上目遣いでにらむ甚右衛門に、よもだ言うとるぎりぞなと組合長は笑った。
「お茶をどうぞ」
花江が湯飲みを差し出すと、組合長は喜んで受け取った。
いつもならこんな話を聞いた花江は興味津々の顔を見せる。なのに何故かこの日は無表情だ。今日の花江は今朝からずっとこんな感じだ。
組合長は花江の態度などまったく気にせず、お茶を一口飲むと甚右衛門に言った。
「読んだか?」
「読んだ」
甚右衛門は面倒臭そうに答えた。
「どがぁ思う?」
「どがぁとは?」
「ほやけん、ソ連に伊予絣を売り込めようと言うとるんやろがな。甚さん、前にもそがぁな話しよったろ? 条約の批准は来月なけんど、ほれまでに準備をせにゃなるまい」
甚右衛門は口を開けたまま組合長を見た。
以前に鬼山喜兵衛が提案したソ連への伊予絣の売り込み話を、甚右衛門はすっかり忘れていたらしい。もう一度新聞に目を落とすと、甚右衛門は興奮した様子で顔を上げた。
「ええやないか。ええ話ぞな」
「ほうじゃろ? そげなしかめ面しよる暇はないんで。わしは他の店にもこの話をしよるんやが、みんなその気になっとらい。山﨑機織さんぎり遅れ取るわけにはいくまいが」
「ほらほうよ。よう言うてくれた。早速向こうのことを調べにゃな。誰ぞわかる奴はおるんかな」
「ほれよ。幸ちゃん、ロシア人の好みとか、ちぃとでも知っとることあったら教えてほしいんよ」
「なるほど。ほうじゃな。戻んて来たら確かめてみよわい」
甚右衛門は胃の痛みを忘れた顔で、白湯を飲み干した。
三
二月の初日、千鶴はたらいの前に進之丞と並んでしゃがみながら洗濯をしていた。
この日は日曜日で、いつもなら幸子が千鶴を手伝うので、せっかくなのに進之丞の出番はない。ところが、去年の春から姿を見せていなかった三津子が久しぶりに現れたため、幸子は外へ出かけて行った。三津子は嫌な女だが、千鶴は心の中で三津子を拝んだ。
亀吉たちは家の中の掃除をしてくれている。進之丞と二人きりになれた千鶴は浮き浮き気分だ。
千鶴は着物を洗いながら、日本がソ連と国交を結んだ話をした。
進之丞はその話を辰蔵から聞いており、千鶴の父親の国と関係がよくなるのはいいことだと喜んだ。また、前世では会えないと思っていた父親が千鶴を探しに来たのだから、今世でも同じことがあるかもしれないと言った。
進之丞も組合長と同じようなことを言うので、千鶴は動揺した。
前世で攘夷侍に襲われた時、ロシアから千鶴に会いに来た父親に、千鶴を託したと進之丞は言った。しかし、千鶴にはその時の記憶がない。だから前世のように父親に会えるかもと言われてもぴんとこない。たとえ覚えていたとしても、進之丞が死ぬ時のことだ。親子の対面を喜ぶどころではなかっただろう。
でも今であれば、父が訪ねて来ても落ち着いて会えるし、初対面を喜び合える。そうなれば嬉しいし、そうなってほしい気持ちはある。だけど、そもそも父親が生きているかどうかもわからない。
ロシアでは革命という大きな混乱が起きて、多くの人が死んだと聞いている。その中に父がいた可能性はあるわけで、そうであれば会えるはずがない。
けれど、もし父が生きていたなら、組合長や進之丞が言ったことがないとはいえない。ひょっとして父親が訪ねて来たらと考えると、千鶴はそわそわした気分になった。
黙ったまま父親のことを考える千鶴を、横目で見ながら進之丞は言った。
「お前が父親に会えようが会えまいが、今のお前には護ってくれる人がようけおる。そこが前とは違て安心ぞな」
「進さんもおるもんね」
千鶴は父親の想像をやめて進之丞に微笑みかけた。しかし今度は進之丞が黙っている。
「進さん、どがぁしたん?」
千鶴が声をかけると、進之丞は千鶴に顔を向けた。
「話は違うが、お前が学校をやめたまことの理由は何ぞな?」
突然、学校の話をされて千鶴は戸惑った。
「ほじゃけん、お店を継ぐことになって――」
千鶴が言い訳をしている途中で、進之丞は喋り始めた。
「昨日外廻り先でな、そこに来た客にお前のことを訊かれたんよ」
「おらのこと?」
「その客は若い娘でな。女子師範学校の卒業生じゃった。あしが山﨑機織の者やと知って声かけてきたんよ」
「ほうなん。いったい誰じゃろか?」
千鶴は平静を装ったが、胸の中はどきどきしている。春子とは仲直りをしたものの、女子師範学校のことは思い出したくなかった。
「名前までは聞いとらん。やが、お前の同級生じゃと申した」
「ほれで、その子は進さんに何ぞ言うたん?」
進之丞に話しかけたのが元級友となると、嫌な予感がする。
「しきりにお前の様子を気にするんでな。理由を訊ねたら、みんながお前に鬼が憑いとると騒いだために、お前が学校をやめることになってしもて、申し訳ないことしたと申しておった。この話はまことか?」
千鶴は即答ができなかった。弁解しようとしたが、うろたえて言葉が出ない。
「いや、ほれはな、ほの……」
「まことなんじゃな?」
観念した千鶴は小さくうなずいた。ほうかと力なく言った進之丞の表情は暗かった。
「お前と仲がよかった者らとの間にも、ほれが元でひびが入ったそうじゃな」
「ほれかて、村上さんがお詫びに来てくれたし。ほら、去年の三月やったかな。進さんも札ノ辻で一緒に見送ってくれたやんか」
「あのお嬢ともおかしなってしもたんか。あがぁに仲がよかったのに……」
「ほやけん、もう仲直りしたんやてば。進さんかて見たじゃろ?」
千鶴の弁解は進之丞の耳には入っていない。進之丞はしょんぼりと下を向いた。
「お前はどがぁな子にも優しい師範になりたいと申しておった。あとちぃとで学校を終え、その夢が叶うとこじゃったのに……」
「もう言わんで。そがぁなこと言いよったら、鬼さんが傷つくやんか。鬼さんのせいやのうて、おらが辛抱足らんかったぎりやし」
進之丞は黙ったまま着物をごしごししている。鬼に腹を立てているらしい。何だか思い詰めた顔で目に涙まで浮かべている。
「おら、師範になるより、こがぁして進さんと一緒にお店の仕事する方がええんよ。こっちの方がほんまの夢なんじゃけん」
千鶴が明るく話しかけても、進之丞の悲しげな顔は変わらない。
「まだ定かなことやないけんど……」
進之丞の気持ちを変えようと、千鶴は気になっていた後継者問題に話題を変えた。年明けから繰り返される祖父母と辰蔵の話し合いや、それに対する懸念をようやく進之丞に話せたのだが、学校の話が尾を引いているのか、進之丞は暗い顔のままだ。
どう思うかと千鶴が繰り返し訊ねると、進之丞はようやく返事をした。だけど、あまり興味がなさそうだ。
「そがぁなると決まったわけでもないのに、勝手に不安を膨らませるんは、賢いやり方ではないな」
「ほら、ほうかも知らんけんど、もしそがぁなったら困るやんか。ほじゃけん、ほん時にはどがぁしよかて悩みよるんよ」
「悩む?」
進之丞は手を止めて千鶴を見た。学校の話題をうまく切り替えられたという想いもあり、千鶴は勢いに乗って喋った。
「もし、おじいちゃんに何ぞあって、ほん時におらが辰蔵さんと一緒になるんは嫌じゃて言うたら、このお店はどがぁなるんじゃろかて考えてしまうんよ」
「お前にとって、ここは生まれ育った家であり、大事な家族が住まう所である故、お前がそがぁ思うんは当然ぞな」
「じゃろ?」
「であるなら、その気持ちに従うまでぞな」
え?――驚く千鶴に、進之丞はきっぱりと言った。
「お前は、お前が思うとおりに生きるべきぞな」
「何言うとるん? おらが望みよるんは、進さんと一緒になることやで」
「ほんでも、お前は迷とるんじゃろ?」
「別に迷とるわけや……」
言葉を濁した千鶴に進之丞は言った。
「実際どがぁなるかはわからんが、もしお前が思たとおり、旦那さんが辰さんをお前の婿にしよと思とりんさるんなら、ほれは仕方ないことぞな」
「仕方ないて……。進さん、ほれで構んの?」
「構うも何も、旦那さんが決めんさること故、あしにはどがぁもできまい。あとはお前がどがぁするかぞな」
進之丞と夫婦になるのに迷いはない。迷っているのは、この店の行く末についてだ。だけど、それは進之丞とのことを迷っているのと同じ意味になる。進之丞はそこを指摘しているのであり、わかっている千鶴はうろたえていた。
「おらが訊いとるんは、進さんの気持ちぞな」
「あしの気持ち? ほれを確かめてどがぁするんぞ?」
「ほやけん、進さんがそがぁなことは嫌じゃて言うてくれたら、おらかて――」
進之丞は千鶴の言葉を遮って言った。
「あしがそがぁ申さねば、辰さんと夫婦になると申すのか?」
「誰もそげなこと言うとらんがね。ほやのうて、悩みよるおらを引っ張ってほしいんよ」
「お前を引っ張って、この店を潰せと申すか。お前が大事な家族を見捨てさせろと?」
「ほういうことやないんやてば」
「ほんでも、ほういうことじゃろ?」
言葉を返せない千鶴に、進之丞は言った。
「千鶴、あしはお不動さまにお前の幸せを願た。もし、お前が辰さんと夫婦になるんであれば、ほれがお前にとっての幸せぞな」
千鶴は目を見開いて進之丞を見た。
「進さん、本気でそがぁ思いよるん?」
「本気ぞな。あしが望んどるんは、お前の幸せぞ。あしがお前と夫婦になることやない」
思いも寄らない進之丞の言葉に、千鶴は愕然とした。
「ほれは、おらのことをそんぐらいにしか想とらんてこと?」
「あしはお前のことしか考えとらん」
「じゃったら、なしてそげなこと言うんね? おらがどがぁな気持ちになるんかわからんの?」
いらだちを隠さない千鶴に、進之丞は淡々と言った。
「あしらがどがぁに考えたとこで、すべては定めどおりに動くぎりぞな。お前が辰さんと夫婦になるんであれば、ほれがお前の定めじゃったということよ」
「前世で死に別れたおらたちが、今世でこがぁして一緒になれたていうのに、ほれをまた引き裂かれるんが定めじゃて言うん?」
「前に申したように、あしは血ぃで穢れとる。お前と一緒になれんとすれば、あしにはその資格がなかったいうことぞな」
千鶴は立ち上がって声を荒らげた。
「何が資格ね! 人が誰ぞを好きになるんに、何の資格がいる言うんね?」
進之丞は何かを言おうとした。だが何も言えずに口を噤んだ。言葉に出せない何かが悲しげな目に映っていたが、頭に血が昇った千鶴にはそれがわからない。
「前世では、おらを嫁にしようと奔走しんさったのに! おらのために命まで投げ出してくんさったのに! あん時の進さんはどこ行てしもたんよ!」
「千鶴、あしはな……」
立ち上がった進之丞は悲しげに言った。
「あしはな、もう昔のあしやないんよ」
「そがぁなことわかっとるがね。わかった上で一緒になろて言いよんのに」
怒りが収まらない千鶴は、もう手伝わなくていいと言った。
進之丞は叱られた子供のように、しょんぼり立っていた。千鶴は涙の目で進之丞をにらむと、さっさとどこまり行きんさいと言い放った。
寂しそうに進之丞が行ってしまうと、千鶴はしゃがんで泣いた。
四
千鶴は進之丞の気持ちを確かめたいだけだった。もしもの時にはどうするかを、一緒に考えてほしかった。なのに進之丞はあまりにも弱気で、困難に抗う姿勢が見られない。
進之丞は山陰の者であることを理由に、一度は甚右衛門から見捨てられた。だから甚右衛門の顔色の方を気にしてしまうのだろうが、それにしても他人事みたいな態度が千鶴は許せなかった。
昔の進さんであれば、絶対にあきらめたりはしなかったし、今回のことでも、何とかしようと知恵を絞っていたと、千鶴は泣きながら憤った。
前世で攘夷侍たちの命を奪ったために、今の自分が穢れていると信じているのも馬鹿げた話だ。いくら前世の記憶があるといっても、前世と今世の区別はするべきだ。
それに進之丞がいなければ、山﨑機織は一年前に潰れている。今の山﨑機織があるのは進之丞のお陰なのだ。
甚右衛門からあれほどひどい仕打ちをされたのに、進之丞はめげずにここで働き始めた。あれからもう一年が過ぎるが、その間に手代に昇格したし、取引先からの評判もいい。空き巣から店を護ったし、丁稚たちからも慕われている。甚右衛門もトミも絶対に手放さないとまで言っているのだ。
進之丞はもっと胸を張ればいいし、自信を持つべきである。千鶴と一緒になれないのであれば、辞めさせてもらいますぐらい言っても罰は当たらないはずだ。なのに、進之丞は辰蔵が千鶴の婿になるなら仕方がないと言う。主である甚右衛門やトミに対する遠慮なのだろうが、言い換えれば、千鶴を想う気持ちがその程度のものだということだ。
千鶴はどうしても進之丞と夫婦になりたいのに、進之丞はそうは思っていない。そのことが、千鶴の心を深く傷つけていた。
お前のことしか考えていないと進之丞は言ったが、想いの強さは明らかに以前と違う。今の自分は昔の自分ではないという弁解がその証だ。
進之丞の変わりようが情けなくて、千鶴は泣き続けた。
しばらく泣いたあと、千鶴は泣いている場合ではないと気がついた。進之丞が千鶴と辰蔵の結婚を認めるのなら、千鶴には辰蔵を拒む理由がなくなってしまう。このままでは辰蔵が婿になるのは必至だ。
千鶴は泣くのをやめて、どうすれば進之丞が以前の気持ちに戻ってくれるだろうかと頭を捻った。けれどなかなか名案は浮かばず、どうして進さんはここまで弱気になってしまうのかと腹立ちを覚えるばかりだった。だがその理由を考えるうちに、千鶴は自分が進之丞を思いやる気持ちを失っていたことに思い至った。
千鶴は自分の気持ちをわかってもらうことばかり考えて、進之丞の気持ちをわかろうとしていなかった。進之丞が弱気になるには理由がある。千鶴は進之丞に前世と同じものを求めたが、前世と今世では事情が違うのだ。進之丞はそのことを口にしていたのに、千鶴は一方的に進之丞を責めてしまった。
進之丞が多くの差別で苦しんできたことはわかっている。なのに、進之丞ならそれを乗り越えられると決めてかかり、進之丞を励ますというより自分の期待をぶつけていた。
その千鶴の期待に応えようと進之丞はがんばってくれた。それでも一度は甚右衛門に裏切られた進之丞が、自分に引け目を感じてしまうことを誰が責められるだろう。
千鶴も風寄で為蔵からロシア兵の娘だと罵倒された時には、深く傷ついた。今は為蔵は千鶴を認めてくれているみたいだが、本当に受け入れてもらえているのかという不安はある。もし為蔵が気が変わり、別の娘を忠之の嫁に決めたとしても、千鶴は何も言えない。ただ進之丞を想いながら泣くばかりだろう。
そうなれば進之丞に期待するしかないが、進之丞が親には逆らえないと言ったり、千鶴と家を飛び出すべきか悩んだらどうなのか。
千鶴は唇を噛んで項垂れた。今、自分が進之丞にやったのは、まさにそれだった。
もし辰蔵を千鶴の婿に決めたと甚右衛門が宣言したところで、進之丞は何も言えない。物が言えるのは千鶴であり、そうするのが千鶴の責任なのだ。なのに、進之丞に相談して意見を伺おうとするのは、まったくもって無責任かつ無思慮な態度だ。
千鶴が悩んでいると言った時、進之丞はどんな気持ちになったのか。千鶴は進之丞を思いやらずに、自分のことをそのぐらいにしか想っていないのかと罵った。だが、それは進之丞が言うべき台詞なのだ。なのに千鶴は進之丞の言葉に耳を貸さず、進之丞が悪いと決めつけて怒鳴ったのである。
情けなさと申し訳なさで、千鶴は自分が嫌になった。
進之丞と一緒に暮らせる喜びが、進之丞への気遣いを忘れさせていたようだ。進之丞を大切にしていたつもりだったが、進之丞が傍にいてくれるのを当たり前に思い、有り難さが見えなくなっていた。進之丞が時折見せる寂しげな顔も、いずれはいなくなる鬼を想ってのことだと思い、それ以上深くは考えようとしなかった。
すぐに進さんに謝らねばと千鶴は立ち上がった。一方で、進さんには一言励ましの言葉が欲しかったという甘えた気持ちもあった。そんな意地を張りたくなるのは、それを許してくれるほど進之丞が優しいからだ。このままでいても、そのうち進さんの方から声をかけてくれるという勝手な期待が、千鶴を再びしゃがませた。
結局、千鶴は進之丞に詫びないまま洗濯を再開した。けれど隣にいるはずの進之丞がいないのは、やはり寂しい。せっかくの二人で過ごせる時だったのだ。
横にぽつんと置かれたたらいには、まだ洗う途中の着物が入ったままだ。それを見ていると、たらいの主が二度と戻って来ない気がして、千鶴は着物を洗う手を止めた。
千鶴は腰を上げてそっと勝手口の中をのぞいた。帳場へ行ってしまったのか、進之丞の姿はどこにも見えない。代わりに土間の掃除をしていた亀吉と新吉が、千鶴に顔を向けた。二人とも奥庭で千鶴が声を荒らげたのが聞こえていただろう。進之丞が千鶴から離れたのを、ただならぬことと捉えたに違いない。
千鶴は居たたまれなくなって洗濯に戻った。進之丞に戻って来てほしかったが、どこにでも行けと追いやったのだから戻るわけがない。
喜びあふれる日曜日のはずだった。頭の中は落胆と後悔でいっぱいだ。一人で洗わねばならない洗濯物はたくさんある。千鶴はため息をつきながら洗濯を再開したが、荒々しく動く手はいつまで経っても同じ着物ばかりをごしごし洗い続けている。
五
二月二十五日、日ソ基本条約が批准された。
大正六年のロシア革命でソビエト政権が成立して以来、日本とロシアの間にあった国交は途絶えていた。それに代わる日本とソ連の国交が、今回新たに樹立したのだ。
伊予織物同業組合の組合長たちの働きかけもあり、愛媛県では両国の国交樹立に先駆けて、ソ連への特産品の輸出を計画していた。そのために、まずハルピンへ有力商品を送ることになった。
ハルピンはソ連との国境近くにある中国の街で、多くのロシア系住民が暮らしている。ソ連との国交が樹立したとはいえ、すぐにはソ連へ商品を売りには行けない。そこでハルピンを介して、ソ連の住民に愛媛の商品を知ってもらおうという寸法だ。
組合長は各絣問屋にその話を伝えて、どの商品を送るか選別をしていた。また組合長は風寄の絣を高く評価しており、ハルピンへ送る商品を山﨑機織からも用意してほしいと、甚右衛門は頼まれていた。それで揃えた品が予定どおりハルピンへ送られることになり、甚右衛門はすっかりご満悦だ。
しかしその機嫌のよさは、ハルピンへの売り込みの話だけでなく、後継者問題が解決したからかもしれなかった。けれど、誰もそれについて本当のことを千鶴に教えてくれないし、千鶴も怖くて訊けなかった。
辰蔵のことがわからず落ち着かない千鶴は、進之丞とも仲直りができずにいた。あのあと進之丞がすぐに声をかけてくれると期待したが、進之丞は話しかけてくれなかった。
だからといって、進之丞が不機嫌というわけではない。いつもどおりに仕事をこなし、千鶴にも何もなかったかのごとくに明るく挨拶をしてくれる。ただ、わざわざ時間を取って千鶴と二人きりになろうとはしなかったし、気にするなとも言わなかった。
進之丞が不満を示さないから、詫びるつもりがあった千鶴は肩透かしを食らったみたいだった。それでつい千鶴も明るく接してしまい、二人の間にわだかまりがあるとは誰も気がつかなかった。亀吉たちも、あの時のことは何だったのかと訝しんでいるだろう。
とはいえ、進之丞に理不尽な怒りをぶつけておきながら、千鶴は未だに詫びていないのだから、この一件にけりがついたわけではない。辰蔵の話も結論を出しておらず、このままでいいはずがない。なのに話の取っ掛かりがないまま毎日が忙しく過ぎていく。
進之丞が腹立ちを見せてくれれば、まだ応じようがあった。しかし進之丞はいつもと変わらない様子なので、その心の内は推察するほかない。
思えば、これまでも進之丞は嫌な顔を見せたことがない。しかしすべてがうまく流れていると思ううちに、そのことを当たり前と捉えて進之丞の気持ちを思いやることを忘れていた。だけど進之丞も人間だ。こないだの一件もそうだが嫌な気持ちになることだってあるだろう。なのに近頃の自分は進之丞に対していささか偉そうになっていた。
千鶴は自分が情けなかった。きっとこれまでだって顔に出さないだけで、進之丞が千鶴の態度を面白くないと思うことはあったはずだ。そんな不満が溜まっていたところに、辰蔵と夫婦になる話が出たら悩むと言われ、自分の立場を説明したら罵られたのである。普通であれば怒りを爆発させるところだろうが、進之丞はその怒りを呑み込んだ。
しかし、だからこそ千鶴は不安になっていた。怒りを抑え続けていれば、いずれは気持ちが冷めてしまうはずで、そうなることは必至のように千鶴には思えていた。
あのあとすぐに千鶴が迷いを捨て、絶対に辰蔵とは一緒にならないと宣言していれば、まだよかった。だが実際は散々進之丞を責めただけで、そのことを詫びもしないのだ。これでは進之丞の気持ちが冷めたとしても不思議ではない。いや、もしかしたらすでに冷めてしまったのかもしれない。
千鶴は焦った。進之丞に本心を確かめたいが、そんな暇は見つからない。何とか進之丞を捕まえても、進之丞は少し言葉を交わすだけで、するりと千鶴から離れてしまう。見ようによっては、千鶴を避けているみたいだ。
やはり進さんの気持ちは冷めてしまったのかと不安になると、進之丞に対する千鶴の態度は硬くなった。挨拶もよそよそしくなるし、ちょっとした会話すらできなくなった。
いつもであれば、花江が心配して何かを言ってくるのだが、ここのところ花江も様子がおかしい。何だかぼんやりしていることが多く、心ここにあらずという感じだ。声をかけても何でもないと言うけれど、とても話を聞いてもらう雰囲気ではなかった。
そもそも揺るぎないはずの進之丞との関係が危うくなっているなど、誰にも言いたくはない。だから千鶴は母にも相談できずにいた。
そうはいっても、本当に進之丞の気持ちが離れたならば、もはや辰蔵の話どころではない。人生が終わったも同然だ。そんな不安が原因なのか、千鶴は妙な夢を見た。
六
楠爺の陰で千鶴は女と会っていた。女は代官屋敷の女中で、進之丞の母親の世話をしていた。この女中は進之丞たちに不審を抱き、そのことを千鶴に伝えに訪れていた。
女中は潜めた声で、あんたは進之丞さまに騙されとるんよと言った。
千鶴はそんな話など信用しないが、進之丞はここのところ何日も逢いに来ていない。嫁になってほしいと言ってくれはしたものの、その後、その話の進展はないままだ。
千鶴は女中に、どうしてそんな嘘をつくのかと質した。すると女中は、進之丞が千鶴とは別の嫁をもらうことになったと言った。
愕然とする千鶴に、嫁を誰にするかは親が決めるけんねぇ、と女中は気の毒そうに千鶴を見た。
嘘じゃ嘘じゃと否定したものの、子供の結婚相手は親が決めるということぐらい、千鶴だって知っている。ただ、進之丞があれほど熱心に嫁になってほしいと言うので、その言葉を信じただけなのだ。
ほんでも進之丞さまはあんたを嫁にしようとはしんさったんよ、と女中は千鶴を慰めて、進之丞が千鶴を嫁にしたいと両親に申し出たが認められなかったと言った。
進之丞の父親も母親も千鶴は面識があり、どちらもとても優しい人だと認識していた。だから二人が反対するとは思いもしなかったが、遊び相手と嫁を一緒にするなと、進之丞は二人から諭されたそうだ。
嫁にするのは千鶴だけだとがんばりはしたが、進之丞は代官の一人息子だ。嫁をもらわねば家系が途絶えてしまう。そこで代官は息子に縁談話を持って来たと女中は話した。
進之丞は見合いを嫌がったが、親の命令には逆らえない。会うだけだと言って引き合わされた武家の娘はあまりにも美しく、芸事にも秀でていた。進之丞はその娘に心が惹かれ、ついにはその娘を嫁にする話を承諾したのだという。
千鶴はそんな話など信じたくなかった。だけど、言われてみれば有り得ることだ。自分が代官の息子の嫁になるという話の方が、遙かに作り事みたいに思われる。
親がおらず、村人から鬼娘と呼ばれて蔑まれる娘が、侍の嫁になれるはずもない。少し考えてみれば、誰にだってわかることだ。
なのに進之丞に請われてその気になって、有頂天になってしまった。まったく愚かなことであり、今思えば情けなく恥じ入るばかりだ。
そこへ女中がとどめの話をした。進之丞の出世話である。
進之丞の嫁になる娘は老中とつながりがあると女中は言った。しかし、千鶴は老中がわからない。女中は、老中は城を動かせる権力者なのだと説明した。
進之丞が見合いの娘と一緒になるというのは、老中に近づけるという意味で、進之丞の出世が保証されるということらしい。
普通に考えれば進之丞が誰を選ぶかは一目瞭然だし、千鶴は文句が言える立場にない。自分がとても惨めに思えた千鶴は下を向いた。
今日も進之丞さまはお屋敷で、その娘と仲睦まじくしておいでるぞなもし――と女中は千鶴の顔をのぞき込んで言った。
千鶴は進之丞が屋敷を留守にしていると信じていた。その進之丞が実は屋敷で美しい娘と肩寄せ合っていたと思うと、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
所詮男なんてみんな同しよ、と女中は言った。そして、本当はこんな話を伝えに来る義理ではないが、あんまりひどい話なので伝えに来たのだと千鶴に同情を寄せた。
言うだけ言った女中は、自分がここに来たことは誰にも言わないでほしいと千鶴に頼んだ。この話を千鶴に喋ったと知れれば、自分は打ち首になると言うのだ。
そこまでして来たのであれば、やはりこの話は間違いないのだろう。千鶴は項垂れたまま、いつまでも泣き続けた。
夢から目覚めたあとも、千鶴は動揺が収まらずに肩で息をしていた。騙されたという悲しみの余韻が、胸の中で渦巻いている。
夢の話なんか本気にする必要はないが、千鶴は何度か前世の記憶を夢で見ている。そして、この夢も本当にあったことだと、前世の自分が告げていた。
一方で、進之丞が騙すはずがないと、千鶴は自分に言い聞かせていた。
風寄の代官は千鶴を嫁に迎えるために、親友の養女にする手筈を整えてくれた。また、進之丞も千鶴のために重見家まで挨拶に出向いてくれた。夢の話とは真逆である。
千鶴は困惑した。何が本当なのか判断ができなかった。どちらも正しいのだとすれば、進之丞は結局は自分を選んでくれたのだろうが、一時的に他の娘に心を奪われたのだ。
魔が差したのか、状況に流されてしまったのかはわからない。いずれにしても、いかに進之丞でも他の娘に心が揺れることがあるわけだ。
どうしてこんな嫌な夢を見てしまったのか。きっと今の状況がこの夢を見せたのだと千鶴は思った。
進之丞は自分が置かれた状況に逆らおうとはしない。千鶴と夫婦になるかどうかは状況次第だ。しかも今は千鶴との関係が悪くなっている。そんなところへ夢と同じく魅力的な娘が現れたなら、進之丞がその娘に気を許すことは十分に考えられる。もしかしたら、すでにそんな娘が外廻り先にいるのかもしれない。
千鶴はうろたえた。早く進之丞との関係を修復しなければならないが、進之丞の方からの働きかけは期待できない。二人でゆっくり喋るには、次の月初めまでは辛抱するしかないが、その間に進之丞の気持ちがどんどん離れていく気がする。
どうしようという焦りばかりが、胸の中を駆けめぐる。それでも次の話し合いの機会を待つ以外、千鶴にはどうすることもできなかった。
七
三月が訪れた。
ちょうど一年前、進之丞は手代に昇格した。千鶴は祝いの羽織を贈り、羽織に袖を通した進之丞は感激して泣いた。その一年後に、二人の間に今みたいな危機が訪れるとは、誰が想像しただろう。
一月前、千鶴は進之丞と言い争った。実際は千鶴の方が一方的に腹を立てたのではあるが、互いの気持ちにずれが生じて意見が噛み合わなかったのは事実だ。
そのことで進之丞を深く傷つけたのに、千鶴は詫びられずにいた。しかし、ようやく二人きりで話ができる機会が訪れた。千鶴は緊張してこの日の朝を迎えた。今日こそは進之丞にきちんと詫び、自分には進さんしかいないと改めて訴えるつもりでいた。
ところが、この日は二月初日に続いて日曜日だった。そのことを千鶴は母に言われて知った。母が家事を手伝うので、千鶴が期待した進之丞の出番はなくなった。
せっかくの休みじゃけん街に出かけておいでなさいと、幸子は進之丞を促した。自分が千鶴と進之丞の邪魔をしているとは気づいていない。逆に前回の進之丞の休みに三津子と出かけてしまったことを、幸子は申し訳なく思っているようだ。
千鶴の母親から言われて、拒む進之丞ではない。もう手伝わなくていいと先月に千鶴から言われたままでもある。進之丞の方から千鶴を手伝うとは言えない状況だ。
千鶴にしても母を押しのけて、進之丞に残ってほしいとは言えない。結局、進之丞は幸子に言われたとおり、ほんではお言葉に甘えてと、一人で出かけてしまった。
何も言えずに進之丞を見送った千鶴は、母を恨みたくなった。また、いつも思いがけなく訪ねて来る三津子が、何故今日は来ないのかと心の中で文句を言った。
進之丞を追いかけるように花江が出て行くと、千鶴は自分が使用人でないのを嘆いた。
明るい顔で洗濯仕事に誘う母を横目で見ながら、進さんが戻れば必ず話をしようと、千鶴は思った。近くに誰がいても、とにかく進之丞を捕まえて話をするつもりだった。
今日話さなければ、次にいつ話ができるかわからない。早くしないと手遅れになってしまう。そう思う一方で、進之丞がさっさと街へ出て行ったのは、どこかの娘に逢いに行ったのではないかと不安になる。気もそぞろで洗濯に集中ができず、千鶴はたらいの中でぼんやりと手を動かしていた。
「あんた、忠さんと喧嘩でもしたんか?」
隣で着物を洗う幸子が手を止めて話しかけてきた。いきなりそんな風に言われた千鶴はうろたえた。けれど、進之丞とのことを母に相談できるいい機会ではある。なのに、口から出たのは惚ける言葉だった。
「別に喧嘩なんぞしとらんけんど、なして?」
「何かここんとこ、あんたらがよそよそしいみたいなけん」
よそよそしくしているのは千鶴である。ただ、千鶴に対して進之丞が普段どおりに応じていることに、幸子は違和感を覚えたのかもしれない。
「別に、いつもどおりにしよるつもりなけんど」
「ほうなんか。ほんでも、お母さんにはそがぁには見えんぞな」
幸子が進之丞を街に出したのは、近頃の二人の関係について千鶴と話をしたかったのだろう。幸子は二人の様子に気を揉みながらも、千鶴が相談して来るのを待っていたのに違いない。
千鶴が黙っていると、幸子は言った。
「何があったんか知らんけんど、忠さんはあんたの恩人じゃろ? ほれに、あんたの求めに応じて、ここへおいでてくれたんやなかったんか。ほんまじゃったら、風寄で履物の仕事を受け継ぐはずやったんを、忠さんは――」
「そがぁなことはわかっとるけん、ほれ以上、言わんで」
千鶴は母の言葉を遮って言った。
「お母さんが言うとるんは、うちかて全部わかっとる。ほやけどな……」
そこで千鶴は口を噤んだ。
「ほやけど、何?」
続きを促されたが、言葉が出て来ない。母に言うべきなのかがわからないし、何から話せばいいのかもわからない。話したところで、結局はだめかもしれないのだ。
言葉の代わりに、涙が千鶴の頬を伝い落ちた。
「えらいことぞな! 幸子さん、千鶴さん、えらいことぞなもし!」
新吉が叫びながら走って来た。すぐ後ろに豊吉がついて来ている。丁稚たちはトミに字を教わっていたはずだ。トミに何かあったのかと千鶴たちは立ち上がった。
「幸子さん、千鶴さん、えらいことぞな」
二人の前に来た新吉は、驚いた顔で同じ言葉を繰り返した。
「えらいことて、何がえらいことなん?」
幸子が訊ねる間に、千鶴は急いで涙を拭いた。
「あのな、おいでたんよ!」
「おいでた? 誰が?」
「ほやけん、おいでたんよ。組合長さんが連れておいでた」
「ほやけん、誰がおいでたん?」
幸子は穏やかに繰り返し訊ねた。しかし新吉はうまく説明ができないので、後ろにいた豊吉が代わりに言った。
「外国の人がおいでたんぞな」
「外国の人? はて、誰じゃろか」
首を傾げる幸子に豊吉は言った。
「さちかさん、おいでますか――て言うとりんさった」
「さちかさん?」
「お母さんのことやないん?」
千鶴の言葉に、幸子ははっとした顔になった。
「嘘! まさか……」
幸子は手を拭きながら、そわそわしながら店の方を見た。
「ひょっとして、お父さん?」
千鶴の胸の中がざわめいた。
千鶴を見たあと、幸子は小走りに家の中へ入って行った。千鶴もその後を追い、新吉と豊吉が続いた。
八
茶の間にも台所にも誰もおらず、帳場の方から大勢の人の声が聞こえてくる。見ると、暖簾の向こうに何人もの人影が見える。
千鶴と幸子がそっと暖簾をめくって店をのぞくと、帳場に甚右衛門が座り、その脇にトミと亀吉が立っていた。
店の入り口には同業組合の組合長と、杖を突いた異国の大男がいる。男の右手には小さな花束が携えられている。外は黒山の人だかりで、この辺りの人間が全員集まったのではないかと思われるほどの野次馬だ。
組合長はずんぐりした体つきをしているが、異国の男は細身でかなり背が高い。その対比が、ただでも目立つ異国の男を尚更際立たせていた。
日本人と異なる容貌なので、男の年齢はよくわからない。顎髭があるので実際より歳が上に見えると思われるが、顎髭を勘定に入れなければ四十は過ぎていないだろうか。
「サチカサン、ドカ イマズゥカ? サチカサン、アイタイネ」
男はしきりに甚右衛門に訴えていた。甚右衛門は驚いているのか、事情がつかめないからか、目を丸くしたまま黙っている。
「甚さん、幸ちゃんのこと言うとるんじゃけん、会わせてやれや」
組合長が取りなして言った時、幸子が両手で口を押さえて悲鳴のような声を出した。その声を聞いて幸子に顔を向けた男は、喜びの笑みを浮かべた。
「サチカサン? サチカサンネ? アイタカタ!」
男は杖を落とすと両手を広げ、右足を少し引きずりながら幸子の方へ行こうとした。だがその前に、幸子の方が男の胸に飛び込んだ。
幸子は男に抱かれながら号泣し、男は身をかがめて愛おしげに幸子に頬ずりをしたり、頬や首筋に口づけをした。
男は千鶴の父親に違いない。初めて見る父親に千鶴は圧倒されていた。心の準備ができていないので、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
ひとしきり幸子を愛おしみ、花束を幸子に手渡したあと、男は千鶴に気がついた。
「サチカサン、カノォ、ムゥズゥメサン――」
「あなたの娘ぞな。千鶴て言うんよ」
涙を拭いた幸子は幸せそうな顔で千鶴を振り返り、お父さんやでと言った。
千鶴はうろたえていた。間近で見る男は、髭をのければ自分とよく似ている。やはり父親なのは間違いない。一生会えないと思っていた父が訪ねて来たのだ。素直に喜べばいいのだろうが、あまりにも突然のことなので、頭の中が混乱して喜ぶどころではない。
一方、男の方は自分の娘がいたというので、感極まった顔をしている。じわりと涙ぐむと、手を広げながら千鶴に近づいて来た。
「アナァタ、ヴァタァシナ、ムズゥメ。ヴァタァシ、アナァタナ、アトォサン」
どうしようどうしようと思っているうちに、千鶴は男に抱きしめられていた。抗いもできず頬に口づけをされ、何度も頬をこすりつけられた。
幸子と千鶴が男に抱かれている間、甚右衛門もトミも呆気に取られた顔で眺めていた。
亀吉と新吉は口をあんぐり開けたまま、大きく見開いた目で千鶴たちを見ていた。豊吉は両手で目を隠している。
「幸ちゃん、その人な、まだ甚さんらに挨拶済んどらんのよ」
組合長が言うと、幸子は慌てて男に自分の両親を紹介した。
男も甚右衛門やトミが幸子の親だとはわかっていなかったらしい。戸惑った様子で様子で二人に自分の非礼を詫びた。
「ヴァタァシヴァ、ミハイル・カリンスキー。ニホォン、ロォシア、タタカウ。ヴァタァシ、ホリヨネ。ホォンデ、マツゥヤマ、キタ。サチカサン、ヤサシカタ」
辿々しい言葉で話しかけながら、ミハイルは甚右衛門に握手を求めた。甚右衛門はミハイルをにらみながら、渋々手を出してミハイルと握手をした。
続いてミハイルはトミにも挨拶をして握手をすると、身をかがめてトミを抱きしめた。トミは慌てたが、甚右衛門も大慌てだ。
立ち上がった甚右衛門は、人の女房に何をするかとミハイルに怒鳴った。
ミハイルは甚右衛門よりかなり背が高いので、甚右衛門が帳場に立つとミハイルと釣り合いがとれた。しかし甚右衛門が何を怒っているのかは、ミハイルにはうまく伝わらなかったみたいだ。
自分とは挨拶の仕方が違うと、甚右衛門が文句を言っていると思ったのか、ミハイルは甚右衛門の傍へ戻ってぎゅっと抱きしめた。
甚右衛門は目を白黒させて藻掻いたが、大男のミハイルに抱かれては身動きが取れない。ミハイルに頬擦りをされて死にそうな顔になると、組合長が大笑いをし、トミまでもが笑いだした。千鶴たちも笑うと、笑いは店の外まで広がった。
甚右衛門は真っ赤になりながら組合長に怒鳴った。
「見世物やない。表の連中を何とかせぃ!」
組合長は尚も笑いながら、外にいた者たちに自分の店に戻るよう促した。野次馬たちは名残惜しそうに散って行ったが、少し離れた所に若い男が一人残っていた。組合長はその若い男を手招きして呼んだ。
恥ずかしそうにしながら入って来た若い男は、ミハイルと同じく異国人だ。
「カレェ、ヴァタァシナ、ムゥズゥカ」
ミハイルはこの若い男を息子だと言っているらしい。紹介された若い男は、ミハイルよりはわかりやすい日本語で挨拶をした。
「初メマァシテ。ヴァタァシヴァ、スタニスラフ、デズゥ」
スタニスラフは甚右衛門と握手をし、幸子やトミを抱いた。
余計なことを言うと、また抱きつかれると思ったのだろう。トミがスタニスラフに抱かれるのを見ても、甚右衛門は苦々しげな顔をするだけで怒鳴ったりはしなかった。
息子がいるのは、ミハイルがロシアで結婚をしたという意味だ。そのことを悟った幸子はスタニスラフを拒まず、素直にミハイルの結婚を祝福した。ミハイルは少し困惑顔で、ダンダンと言った。
トミから離れたスタニスラフは、嬉しそうな顔を千鶴に向けた。
スタニスラフに見つめられた千鶴は、次にスタニスラフがどうするのか、すぐにわかった。父親と同じことをするつもりなのだ。
父親の息子ということは、スタニスラフは千鶴とは腹違いの弟になるわけだ。姉弟で抱き合うのは、別に悪いことではないだろう。だけど、日本人は人前でそんなことはしないし、千鶴にとってスタニスラフはただの初対面の若い男だ。
千鶴は逃げようと思ったが足が動かない。蛇ににらまれた蛙みたいに固まっていると、いつの間にかスタニスラフの腕の中にいた。
こんな所を進さんに見られたらと焦りながら、千鶴は頬を合わせるスタニスラフの肩越しに店の外へ目を遣った。すると、そこに進之丞が立っていた。
じっと見つめる進之丞の目がとても悲しげで、千鶴は泣きたくなった。