ロシアの家族
一
甚右衛門は進之丞に帳場を任せると、ミハイルたちを奥の部屋へ通した。丁稚の三人は千鶴たちに遠慮して帳場に残った。家にいるのは身内の者だけだ。
先に茶の間に上がった甚右衛門とトミは、ミハイルたちにも上がるよう促した。すると、スタニスラフが土足のまま部屋に上がろうとした。それを見たミハイルは注意をし、上がり框に座って靴を脱いでみせた。
スタニスラフは千鶴に向かって恥ずかしそうに笑うと、ミハイルに倣って靴を脱いだ。
千鶴は母にも座るよう促すと、お茶の用意を始めた。
幸子はトミの隣に座ったが、ミハイルたちが慣れない正座をしようしていたので、足を崩すように言った。特にミハイルは足が悪いので、正座のような座り方はむずかしいし、苦痛に違いなかった。
しかし足を崩すという意味が、二人にはわからないようだった。そこで甚右衛門が正座をやめて、胡座をかいたり足を伸ばしたまま座ったりしてみせた。
ミハイルたちは安堵したように微笑むと、それぞれ好きなような座り方をした。
「ほれで、二人はここをどがぁして知ったんぞな?」
甚右衛門が訊ねると、ここを誰に教えてもらったのかと幸子が言い直した。それにはミハイルが答えた。
「ヴァタァシ、ドガオセン、イクゥ。チカクゥ、コエン、ズゥズゥキセンセ、オタネ。ズゥズゥキセンセ、サチカサン、カミヤチヨ、イルゥ、アシエタ」
「鈴木先生?」
幸子が懐かしそうに言うと、ソゥソゥとミハイルは嬉しそうにうなずいた。
幸子はミハイルが道後公園で、捕虜だった時に世話になった鈴木という軍医に出会い、紙屋町に自分がいることを教えてもらったらしいと、甚右衛門たちに説明した。
ただ実際は、鈴木医師はその後の幸子の状況を知らない。幸子の家が紙屋町にあると教えただけで、今も幸子がここにいるとまでは言わなかったと思われる。
そのことを補足したあとで、鈴木医師は敵や味方の区別なく患者を診る、人間味のある先生だったと幸子は話した。
それをスタニスラフがロシア語に直してミハイルに伝えると、ミハイルは大きくうなずき、伸ばした右足を撫でながら言った。
「ズゥズゥキセンセ、タテモ、エェヒタネ。ヴァタァシ、アシ、ナオシタネ」
「鈴木先生はとてもえぇ人で、ミハイルの足を治してくれたて」
幸子が言い直した言葉に甚右衛門たちがうなずくと、ミハイルは言った。
「サチカサン、タテモ、ヤサァシカタ。ヴァタァシ、アルゥクゥ。サチカサン、ズゥト、イシヨーネ」
ミハイルが歩く練習をする時は、いつも一緒にいて励ましてあげたと、幸子は恥ずかしそうに説明した。
二人ののろけ話を聞かされていると思ったのか、甚右衛門は眉間に皺を寄せた。
「その話はわかったけん。ところで、お前さん方はいつ日本へおいでたんかな? 日本とソ連は国交を始めたばっかしやのに、ちぃと早過ぎろ?」
甚右衛門の問いかけを幸子が簡単に言い直し、それをスタニスラフがロシア語に直してミハイルに伝えた。
ミハイルはうなずくと片手の三本指を立てて、日本に来たのは三年前だと言った。
しかし、詳しい説明はミハイルには難しいようだったので、代わってスタニスラフが喋った。
「僕タチ、ウラジヴァストクニ、住ンデマァシタ。ダケド、ロォシアヴァ、共産党、支配シテマズゥ。共産党ニ、ツカマァルト、僕タチ、殺サァレマズゥ。サレェデ、日本ヘ、逃ゲテ来マァシタ」
千鶴がみんなにお茶を配ると、ミハイルは嬉しそうに微笑み、スタニスラフは恥ずかしそうに笑った。
お茶を配り終えたあと、千鶴が幸子の隣に座ろうとすると、お父さんの隣に座りんさいと幸子は言った。
ちらりと千鶴が祖父母を見ると、二人とも構わない様子だ。千鶴は仕方なく、スタニスラフとは反対側の父の隣に座った。
向かいにいるのは祖父なので、千鶴は何とも居心地が悪い。それには構わずミハイルは千鶴の肩を抱き、自分の喜びを表現した。
また、スタニスラフも父親越しに千鶴を見て、千鶴と目が合うと嬉しそうに微笑んだ。
だが、千鶴は二人に対して愛想を振り撒くわけにいかない。祖父母にとっては、あまり歓迎したくない相手のはずだ。祖父母に態度を見据えられているようで、千鶴は小さくなっていた。
二
「ところで、ウラジバストクいう所は、どこにあるんぞな?」
首を傾げるトミに、ウラジオのことだと幸子が言った。
ウラジヴァストクは日本海に面したロシアの港町で、日本ではウラジオストクあるいは、ウラジオと呼ばれている。
日露戦争前には多くの日本人が暮らしていたが、戦争が始まるとほとんどが日本に引き揚げて来た。しかし、戦争が終わると再びウラジオストクへ移り住む者が増えていた。
一方、大正三年に始まった世界大戦の最中に、ロシアでは革命が起こり、共産主義を掲げる勢力が国中に広がった。逆らう者は容赦なく粛正されるので、多くのロシア人がハルピンやウラジオストクへ逃げていた。
ミハイルたちも共産主義から逃れてウラジオストクに避難したそうだ。ところが、そこにも革命軍である赤軍が迫って来たので、日本ヘ逃げて来たと言う。
多くのロシア人は中国へ逃げたが、ミハイルは幸子がいる日本を選んだのだと言った。
ウラジオストクと福井県の敦賀の間には、明治三十五年以来、定期航路が設けられている。ミハイルたちはその船で敦賀に渡ったあと、他のロシア人たちと一緒に横浜へ向かったそうだ。
何故、松山へ来なかったのかと言うと、松山へ来る道がわからなかったことと、妻が怯えきっていてそれどころでなかったのが理由らしい。
ミハイルには二度目の日本でも、妻にとっては初めての国だ。しかも母国を追われての来日なので、ずっと不安だったようだ。それで他のロシア人たちと共に行動し、アメリカへ渡る船が出る横浜へ行ったのだと言う。
しかし横浜へ移動したあとも、ミハイルはすぐにはアメリカへ行こうとはしなかった。せっかく日本へ来たのに、幸子の様子を確かめることなく、アメリカへ向かう気にはなれなかったそうだ。
また旅費にも余裕がなかったため、ミハイルはどんな安賃金の仕事でも引き受けて、横浜でお金を稼いでいたらしい。片言でも日本語が話せたのが、仕事を見つける上で幸いしたようだ。
ところが一昨年の秋、関東が大地震で壊滅し、横浜も甚大なる被害を受けた。多くの建物が倒壊し、生じた火災で街は一昼夜にして焼き尽くされた。多くの者が亡くなる中、ミハイルたちが無事だったのは、近くにあった公園へ逃げ込むことができたからだと言う。
そんな命からがらの状況の中、ミハイルたちは神戸まで逃げて来た。度重なる不運にミハイルの妻はすっかり参ってしまい、ずっとふさぎ込んでいるらしい。
神戸からはヨーロッパへ向かう船が出ている。それで妻が日本を出てヨーロッパへ行くことを望んだので、その前に松山を訪ねることにしたとミハイルは言った。もちろんミハイルの言葉はスタニスラフが補足して説明してくれた。
「戦争のあと、国では革命で住めんなって、こっちへ来たら今度は大地震かな。踏んだり蹴ったりとはこのことじゃな。ほら、難儀なことじゃったろ」
甚右衛門がねぎらうと、トミも気の毒そうにうなずいた。
幸子とスタニスラフの仲介で、甚右衛門たちの話を理解したミハイルは、神妙な面持ちで頭を下げた。それから、にっこり笑って言った。
「マツゥヤマ、カヴァラナァイ。マツゥヤマ、エェトカネ」
だんだん――と微笑む幸子に、ミハイルは言った。
「サチカサン、マダ、カンガフゥサン」
「ほうなんよ。今も、病院で働きよるんよ」
ミハイルは喋るのは片言だが、幸子の言葉はわかるのか、にこにこしてうなずいた。
今度はスタニスラフが身を乗り出し、ミハイル越しに千鶴に話しかけた。
「千鶴サンヴァ、誰デズゥカ」
「誰?」
言われていることの意味がわからず、千鶴は戸惑った。
すると幸子が笑いながら、仕事は何かと訊いとるんよと言った。
幸子の話では、ロシア語では仕事を聞く時にも、「誰」という言葉を用いるらしい。
また日本語のように質問する時に言葉尻を上げないので、訊かれている方は質問されているとはわかりにくいそうだ。
日本語とロシア語の違いに甚右衛門もトミも苦笑した。二人は言葉の違いに面白さも感じていただろうが、互いを理解することのむずさしさに困惑しているようでもあった。
自分の訊ね方が悪かったと悟ったのだろう。スタニスラフは訊ね直した。
「千鶴サンヴァ、看護婦サンデズゥカ」
やはり言葉尻が下がってしまうと、訊ねられているようには聞こえない。妙な感じと思いながら、いいえと千鶴は首を振った。
「うちは家の仕事をしとります」
「家ナ、仕事?」
スタニスラフが困ったように幸子を見ると、幸子が説明した。
「ここはね、伊予絣いう反物を売りよるんよ」
「イヨ……ガズゥ?」
「物を見せた方が早かろ」
そう言うと甚右衛門は帳場の進之丞を呼び、蔵から上等の反物を持って来るよう命じた。
現れた進之丞はちらりと千鶴やミハイルたちに目を向けたが、何の表情も見せずに奥庭へ向かった。
進之丞が蔵へ反物を取りに行っている間に、幸子はミハイルに結婚相手のことを訊ねた。
ミハイルはためらいがちに、胸ポケットから取り出した妻の写真を見せた。エレーナというその女性は美しく聡明そうで、スタニスラフは母似のように見えた。
写真を眺める幸子に、ロシアに戻ってからも幸子を忘れたことはなかったと、ミハイルは言いにくそうに弁解した。
自分は戦争や革命などの争い事に疲れていたと、ミハイルは話した。それで誰かに傍にいて欲しいと思った時に、エレーナと出逢ったと言った。
スタニスラフの前でそんな話をして欲しくなかったのだろう。幸子はミハイルの話には触れないで、お母さんは優しいのかとスタニスラフに訊ねた。
スタニスラフはにこにこしながらうなずき、優しいけれど怒ると怖いと言った。それにみんなが笑うと、今度はミハイルが千鶴に、幸子は優しいかと訊いた。
千鶴は母を見ながら、母も優しいけれど怒ると怖いと答えると、もう一度みんなが笑った。
「ところでお母さん、一人で大丈夫?」
神戸に一人残されたエレーナを幸子が気遣うと、スタニスラフはうなずいて、ダイジヨブネ――と言った。
日本を発つ前に夫が思い出の街を訪れることに、エレーナは反対しなかったと言う。また、スタニスラフが松山に興味を持っていたので、自分は一人でも大丈夫だからと、スタニスラフの松山行きも認めてくれたそうだ。
スタニスラフはエレーナも誘ったそうだが、移動ばかりに疲れたエレーナは、他のロシア人たちがいる神戸に残ると言ったらしい。
「これで、どがぁぞなもし?」
進之丞が戻って来て、反物の箱を甚右衛門に手渡した。
甚右衛門は中身を確かめると、うむとうなずいた。
進之丞は甚右衛門とトミに頭を下げ、ミハイルたちにも頭を下げると、帳場へ戻って行った。と思ったら、すぐに戻って来て真っ直ぐに奥庭へ出て行った。その後ろを新吉と豊吉がついて行ったので、何かを蔵から運び出すのかと千鶴は思った。
新吉と豊吉は千鶴たちの様子を眺めながら出て行ったが、進之丞は一度も千鶴を見ようとしなかった。まるで千鶴がそこにいないかのように振る舞うのは、進之丞がスタニスラフのことで気分を害しているのかもしれないと千鶴は焦っていた。
自分たちの関係について煮え切らない進之丞を、千鶴は頭ごなしに怒った。その自分が人前で他の男に抱かれたのである。
無理やり抱かれたわけではあるが、拒むことはできたはずだと言われても仕方がない。それをしなかったのは、千鶴だって進之丞の気持ちを大事に思っていなかったということになる。
千鶴は進之丞にスタニスラフは腹違いの弟だと言い訳をしたかった。だが、今はできないので歯痒かった。
落ち着かない千鶴の横で、甚右衛門に伊予絣を見せられたミハイルとスタニスラフは、感心したようにうなずき合った。
「エレーナ、キモォノ、カゴ、ニンギヨ、カサエルゥネ」
ミハイルの話に幸子はうなずき、確かめるように言った。
「エレーナさん、ご自分で着る物とか、籠とか、人形をこさえるんじゃね。伊予絣、気に入るじゃろか?」
「キニイルゥ?」
「エレーナさん、これ、喜ぶじゃろかね?」
幸子が反物を手で示しながら言い直すと、ミハイルは大きくうなずいた。
「エレーナ、ヨロコォブゥネ。ヴァタァシ、コレェ、カウ」
「構ん構ん。あとで、ええの持たせるけん」
甚右衛門が片手を前で振りながら言ったが、ミハイルには意味がわからない。
「おじいちゃんが、あなたにあげるって」
幸子が甚右衛門や反物を指差し、次にミハイルを指差して、反物を差し出すと、ミハイルはようやく理解できたようだった。スタニスラフと顔を見交わし、とても驚いた様子だったが、すぐに素直に喜んだ。
「ところで、息子さんは日本語がお上手じゃねぇ。誰に教わったんぞな?」
ミハイルに話しかけた幸子は、スタニスラフに顔を向けた。ミハイルが説明を促すと、スタニスラフは少し照れた様子で言った。
「ウラジヴァストクナ、日本人、教エテクゥレェマァシタ」
「へぇ、ほうなんじゃ。けんど、なして日本語を習う気になったんぞな?」
「ナシテ?」
伊予弁を知るミハイルがロシア語で説明をすると、スタニスラフはなるほどとうなずいた。
「松山ナ人、ロォシア人、タテモ、親切ネ。オトォサン、言ィマァシタ。日本、ロォシア、戦争シタ。デモ、松山ナ人、親切。信ジラァレェナァイネ。ダカァラァ、イツゥカ、松山、行キタイ、思イマァシタ。サレェデ、日本語、教エテモラァイマァシタ」
「ほやけど、松山の言葉は他所とは違うけん、わかりにくかろ?」
トミは面白そうに言った。
スタニスラフは右手の親指と人差し指を少し広げてみせると、チヨト、ムズカシィネ――と笑って言った。
実際に日本へ来てみたら、スタニスラフたちは松山に限らず親切にされたそうだ。それで、何故この国と戦争になったのか理解できないと思ったと言う。
父親が幸子と再会することを何とも思わなかったのかと、甚右衛門に訊かれたスタニスラフは、母のことを考えると少し胸が痛いと言った。
「ダケド、コレェヴァ、計画シタ、違イマズゥ。神サマ、二人、逢ヴァセマァシタ。コレェヴァ、運命デズゥ」
スタニスラフはそう言いながら、身を乗り出して千鶴を見た。何だか千鶴に話しかけているようだ。
トミは感心したように言った。
「あんたは、まだ若いのにしっかりしとるな。歳はなんぼぞな?」
「ナンボ……?」
きょとんとするスタニスラフに、またミハイルが説明した。
スタニスラフはうなずくと、二十歳だと答えた。その答えに千鶴は、え?――と思った。
千鶴も二十歳である。スタニスラフが腹違いの弟であれば、千鶴より年下のはずだ。これでは計算が合わないと、千鶴は父に説明を求めた。しかし、ミハイルはうまく説明できないので、代わりにスタニスラフが笑顔で説明した。
「僕ナ、オカァサン、オトォサント、一緒ナルゥ前、結婚シタ。僕ヴァ、オトォサン、二人ネ」
なるほどと甚右衛門たちはうなずいたが、千鶴は顔が強張った。
スタニスラフの話によれば、自分たちには血のつながりがないということになる。それなのに進之丞の目の前で抱かれたのだ。これは今の千鶴には最悪の状況と言えた。
スタニスラフは話を続けた。
「僕ナ、初メナ、オトォサン、日本ナ、戦争デ、死ンダネ。僕ト、オカァサン、泣キマァシタ。ドシテ生キルゥ、ヴァカラナァイ。新シィ、オトォサン、僕ト、オカァサン、助ケテクゥレェマァシタ」
戦争で父親が死んだと聞かされ、甚右衛門たちは当惑のいろを浮かべた。
それを見たスタニスラフは、ダイジヨブネ――と言った。
「僕ヴァ、日本人、恨マナァイ。僕ヴァ、日本人、大好キネ」
スタニスラフの言葉に、甚右衛門もトミも黙って頭を下げた。
すると、幸子がミハイルとスタニスラフに、自分の兄もあの戦争で死んだと言った。
ミハイルが松山にいた時には、幸子はそんな話はしていなかったようだ。今度はミハイルたちが顔色を変えて、甚右衛門たちに頭を下げた。
甚右衛門は二人に頭を上げさせ、お互いさまだと言った。
言葉の意味がわからないミハイルたちに、どちらも同じと幸子が説明した。二人は安心したように笑みを浮かべたが、やはりぎこちなさは残った。それでもスタニスラフは千鶴に顔を向けると、微笑みながら言った。
「ダカァラァ、僕タチ、血ガ、ツゥナガラァナァイネ」
千鶴はうろたえて目を逸らした。
何故、今それを強調するのか。悪意はないのだろうが、無神経過ぎる。これがロシア人というものなのか。
不愉快な気持ちが顔に出ないよう、千鶴は感情を抑えた。だが、心に浮かんだ進之丞の悲しげな目がつらかった。
三
ミハイルたちと昼飯を食べることになり、母と一緒に食事の準備を始めた時、千鶴は洗濯が途中だったことを思い出した。慌てて奥庭に出ると、洗うはずだった着物は全部物干しに干されている。
「忠さんらがやってくれたみたいなね」
幸子が嬉しそうに言うと、千鶴は帳場へ走って行った。
進之丞は甚右衛門に代わって帳場に座っていたが、この日は客が来る様子もなく、亀吉たちとお喋りを楽しんでいた。
「あ、あの……」
千鶴が緊張しながら声をかけると、進之丞はにこやかな顔を千鶴に向けた。少しも怒っている様子がないので、千鶴は胸を撫で下ろした。
「洗濯、だんだんありがとう」
「あし一人がしたわけやないぞな。新さんも豊さんも手伝てくれたし、亀さんはあしの代わりに帳場を守ってくれたんよ」
進之丞は喋りながら三人の頭を撫でた。
「みんなもありがとう」
千鶴が礼を言うと、亀吉たちは嬉しそうに笑った。
本当は他にも進之丞と話がしたいが、今は無理だった。千鶴は詫びる気持ちを目で伝えると、台所へ戻った。
昼飯のあと、千鶴と幸子はミハイルたちと外へ出かけた。
千鶴たちが外へ出ると家事をする者がいなくなる。そこで洗濯物の取り込みや掃除などは、進之丞と亀吉たちがしてくれることになった。また、夕飯の準備はトミがすると言ってくれた。
幸子は幸せそうにミハイルと並んで歩いた。後ろ髪が引かれる千鶴の隣には、楽しげなスタニスラフがいる。四人が向かっているのは大林寺だ。
大林寺はミハイルが松山へ連れて来られた時に、捕虜兵として収容されていた所だ。また、ここはミハイルと幸子が初めて出逢った場所でもあった。
大林寺に入るとミハイルは感動したように立ち尽くした。それから幸子と代わる代わるに、大林寺にいた時のことを千鶴とスタニスラフに話して聞かせた。
幸子は初めてロシア兵が大林寺へ連れて来られた時から、看護婦として捕虜兵たちの世話をしていたと言う。
明るく優しい幸子は捕虜兵たちに人気があり、多くのロシア兵たちが幸子に会うのを楽しみにしていたと、ミハイルは自慢げに言った。
当然、ミハイルもその一人であり、いつも笑顔を絶やさない幸子に、ぼろぼろだった心が救われたと言った。
城山の北には、松山歩兵第二十二連隊の演習場がある。そこに通称バラックと呼ばれる仮設病院が建てられると、足を負傷していたミハイルはそちらへ移された。
バラックへ移ることが決まった時、ミハイルは傷の治療のことよりも、幸子と離れたくないと思っていたそうだ。
ところが幸子もまた看護婦として、一緒にバラックへ移動することになったので、とても嬉しかったとミハイルは言った。
一方の幸子は、この時はまだミハイルに対して、それほどの気持ちは抱いていなかったらしい。それを聞かされたミハイルは苦笑いをしながら、少しがっかりした様子だ。
幸子は笑うと、バラックでミハイルの世話を続けているうちに、次第にミハイルに気持ちが惹かれるようになったと言った。
それを聞いたミハイルは、今度は胸を張って明るくなった。
日本とロシアの間でポーツマス講和条約が結ばれると、日露戦争は終結し、ロシア兵たちは捕虜の身から解放されて自由になった。それでロシアへ帰国するまでの間を、みんな好きなように過ごせたのだと言う。
その時にミハイルは幸子に自分の想いを伝え、幸子もまたミハイルに好意を抱いていたことを、ミハイルに話したのだそうだ。
二人が昔を懐かしむことは、スタニスラフにとってはあまりいいものではないはずだ。にこやかにしてはいるが、聞いているのはつらいに違いない。そう思った千鶴はスタニスラフを誘い、他の場所で両親とは全然関係のない話をした。
千鶴の気遣いが嬉しいのか、スタニスラフは楽しげにいろいろ喋り、千鶴のこともいろいろと訊いた。
千鶴が戸惑うほどスタニスラフは話に夢中になり、幸子が次へ行くと声をかけた時も、まだ千鶴と喋り続けたい様子だった。
次に向かうのは城山の北にあるロシア人墓地だ。
千鶴たちは古町停車場から道後へ向かう電車に乗って、途中の千秋寺停車場で降りた。
そこは木屋町停車場の次の停車場で、松山歩兵第二十二連隊が演習に使う城北練兵場の傍だった。
今は解体されてなくなってしまったが、両親が恋を育んだ思い出のバラックは、この城北練兵場の西側半分に建てられていた。そこは千鶴たちが立つ場所の目の前だ。
幸子はここがバラックがあった場所だと、ミハイルたちに説明をし、それから後ろの丘へとみんなを誘った。ロシア人墓地があるのはその丘の上だ。
丘を登る坂道は、杖で歩くミハイルには少し大変そうだ。それでも幸子に背中に手を回して支えてもらいながら、ミハイルは坂道を登り切った。
二人の様子を見ていた千鶴は、両親はこんな風にしながら心を通わせるようになったのかと、感慨を覚えながらも羨ましく思った。
本当ならば自分と進之丞も、両親のように仲睦まじくしているはずだった。しかし、今の二人はすれ違ったまま元に戻れずにいる。
それでも進之丞は黙って洗濯をしてくれた。意地を張っているのは自分の方だと、千鶴は深く反省した。
「ダイジヨブ? 疲レェマァシタカ?」
千鶴の沈んだ顔に気づいたのだろう。スタニスラフが心配そうに声をかけて来た。
千鶴は慌てて笑顔を見せると、大丈夫ぞなと言った。
ロシア人墓地に到着すると、ミハイルは神妙な顔になった。ここに眠る者たちの中には、ミハイルが知っている兵士もいるらしい。
また幸子も墓に眠る者が誰なのかが、わかっているようだ。
二人はゆっくりと一つ一つの墓に手を合わせて回った。
千鶴がロシア人墓地へ来たのは、これが初めてだった。しかし、ここは自分がつながる国の人たちの墓だと思うと、自然と厳かな気持ちになる。
戦争は嫌いだが、日露戦争がなければ自分は生まれていない。そう考えると、ここに眠る者たちに申し訳ない気がして、千鶴はそれぞれの墓に向かって手を合わせた。
スタニスラフは墓石や景色を眺めて歩いていた。しかし、千鶴が墓石に手を合わせているのに気がつくと、千鶴の横に並んで同じように手を合わせた。
幸子とミハイルはすべての墓に手を合わせ終わると、一緒に墓地の端から城北練兵場を見下ろした。
下から見るよりも全体が見渡せるので、バラックの建物がどこにどのようにあったのかを、頭に浮かべることができるようだ。二人は何もない広場を指差し、ああだこうだと言いながら笑っていた。
スタニスラフにとっては退屈だろうからと、千鶴は城山の上に見える松山城について、スタニスラフに説明してやった。
スタニスラフは面白そうに話を聞いていたが、話が一区切りつくと、スタニスラフは千鶴を見つめた。
どきりとした千鶴がどうかしたのかと訊ねると、スタニスラフは言った。
「千鶴サンヴァ、好キナ人、イマズゥカ?」
「え?」
唐突にそんなことを訊かれ、千鶴は当惑した。
自分が惚れている相手のことなど、簡単に他人に喋るものではないし、訊くものでもない。返事ができない千鶴の顔を、スタニスラフはのぞき込んだ。
「イナァイデズゥカ?」
「日本人はそがぁなことは、人には言わんのよ」
千鶴はうやむやに答えてごまかそうとした。しかし、スタニスラフは執拗に訊いて来る。
「イルデズゥカ?」
いると言えばいいのだが、言えなかった。それは気恥ずかしいからでもあったが、今の進之丞との関係を考えると、胸を張って言えることでもなかった。自分が進之丞に見せている態度は、好きな人に見せる態度ではない。何だかそのことを責められているようだ。
千鶴が困って黙っていると、イナァイデズゥネとスタニスラフはにこやかに言った。しかし、勝手に決めつけたように言われることに、千鶴は反発を覚えた。
「うちのこと訊く前に、ご自分のことを言いんさい」
「ガジブゥン?」
「スタニスラフさんには、好いたお人はおるんかなもし?」
「ズゥイタ?」
「好きな人ぞな」
スタニスラフはにっこり笑ってうなずいた。
「僕ヴァ、好キナ人、イマズゥ」
へぇと千鶴は思った。日本人だったら、そんなことは恥ずかしくて言えない。やはりスタニスラフは異国人なのだと、千鶴は改めて感心した。
「ほれは、どがぁなお人ぞなもし?」
「ドガナ?」
「スタニスラフさんが好いとるお人て、きれいなん?」
スタニスラフはにこにこしながら言った。
「世界デ、一番、美シィデズゥ」
よく恥ずかしげもなく人前でそんなことが言えるものである。聞いている方が恥ずかしくなると千鶴は思った。
その人に自分の想いを伝えたのかと訊ねると、スタニスラフは微笑みながら首を振り、マダネ――と言った。
「ヴァタァシ、サレェ、ハジメテ、キクゥネ」
いつの間にか近くに来ていたミハイルが、驚いた様子で話に交ざって来た。幸子も興味深げに見ている。
「サレェヴァ、ダレェ?」
「内緒ネ」
「オカァサン、シテマズゥカ?」
「知ラァナァイ」
スタニスラフのはにかむ顔が愛らしく、この人に好かれた女は幸せだろうなと千鶴は思った。
それに比べて、今の自分がとても憐れに思えた千鶴は、スタニスラフが好いているという娘が羨ましかった。
四
宿では夕食が用意されているので、墓参りが終わったあとは、ミハイルたちは道後の宿へ戻ることになっている。
翌日に再び会うことを約束し、ミハイルとスタニスラフは千秋寺停車場から電車で道後へ向かった。二人を見送ったあと、千鶴と幸子はやはり電車で古町停車場まで戻った。
家に着くともう店仕舞いで、進之丞が丁稚たちと表の掃除をしていた。
進之丞たちに声をかけたあと、幸子は裏木戸から中へ入った。千鶴も幸子の後ろに続いていたが、中には入らずに表に戻った。それから進之丞の袖をつかむと、裏木戸の方へ引っ張って来た。
新吉が何だろうと言う顔で見ていたが、すぐに亀吉に叱られて、千鶴たちから見えない所へ連れて行かれた。
「何ぞな? あしはまた何ぞお前の気ぃに障ることをしてしもたんか?」
進之丞がうろたえ気味に言うと、千鶴は首を振り、スタニスラフに抱かれたことを詫びた。
進之丞は安堵したように笑い、そがぁなことは気にすんな――と言った。
それでも千鶴は小さくなりながら、ミハイルが父親で、スタニスラフは父親の再婚相手の息子だと説明した。
「最初は腹違いの弟やて思いよったんよ。ほんでも、あとで話聞いたら、ほうやなかったて言われたんよ」
弁解する千鶴に、構ん構んと進之丞は明るく応じて、スタニスラフをいい男だと褒めた。さらに、もし千鶴があの男に心惹かれても自分は文句を言わないと、冗談めかしたように言った。千鶴を悄気させまいとの気遣いかもしれないが、またかと千鶴は落胆した。
進之丞が怒っていないかと心配してはいたが、笑って済ませるぐらいなら怒って欲しかった。怒らないまでも、せめて文句の一つも言ってもらいたかった。
辰蔵が婿になるという話も仕方がないと言うし、スタニスラフのことにも動じない。これではまるで千鶴を受け入れてくれる男がいるのなら、喜んで任せようと言われているようだ。
もちろん本音を隠してのことだろう。だが、何も気にしていないふりをすることが気遣いだと考えているなら、とんだお門違いだ。ましてや冗談めかすなど、前に辰蔵の話をした時よりも質が悪いというものである。
千鶴はこれまでの自分の態度を詫びようと思っていた。そして、祖父に逆らえない進之丞の立場を理解した上で、進之丞と夫婦になりたいという自分の気持ちを改めて伝えるつもりだった。
しかし今の進之丞の態度を見て、千鶴は肩透かしを食らったような気分になった。進之丞の自分への関心が薄れているような気がして、それ以上の話ができなくなった。
「とにかく、そがぁなことやけん」
それだけ言うと、千鶴はがっかりしながら裏木戸をくぐった。
奥庭に入って裏木戸を閉めた千鶴は、進之丞がすでに心変わりをしたように思えて不安になった。
スタニスラフに抱かれた自分を見た時の進之丞の様子と、今の進之丞は全然違う。
千鶴は進之丞の想いが褪せたと嘆いていたが、進之丞の目には、千鶴の方こそ気持ちが変わったと映っていたのかもしれない。
この一月の間、千鶴は意地を張って進之丞を無視し続けた。きっと進之丞はつらい想いをしていたに違いない。同じことをされたらと思えば、自分がどれほどひどいことをしていたのかがよくわかる。
進之丞は怒りもせずに、いつもどおりに仕事をこなし、千鶴にも嫌な態度一つ見せなかった。それでも、自分に対する千鶴の気持ちが冷めたのかもしれないと思っていただろう。
そんなところで自分はスタニスラフに抱かれたのである。進之丞の目の前でだ。これが逆の立場であったなら、自分は進之丞をどう見ただろう。その答えが、今の進之丞の気持ちを教えてくれる。
あの時の進之丞の悲しげな目は、今も千鶴の頭から離れない。自分のことなど、どうでもよくなったのだと進之丞は受け止めたに違いない。
しかし今の進之丞の態度は、吹っ切れたように見える。ひょっとしたら、スタニスラフに抱かれたあの時に、進之丞の中にあった糸が切れてしまったのかもしれない。いやきっと、前世から続いた二人の関係は、もう終わってしまったと考えたのだ。
全身がざわついた千鶴は裏木戸を出ようとした。今からでも、もう一度進さんと話をしなくてはと思っていた。しかし裏木戸に手をかけたまま、千鶴は戸を開けることができなかった。恐らく、もう手遅れなのだ。
進之丞の態度の変化は、すでに千鶴から心が離れたことを示しているようだ。だが、千鶴には進之丞の心が離れただけでなく、自分とは別の方を向いているようにも思えていた。
千鶴が夢で見た前世の進之丞は、他の娘に心が揺れた。それが事実であるのなら、今の状況下の進之丞が心優しい娘と知り合って、その娘に気持ちが向くのは有り得ることだ。
あちこちの太物屋の主が進之丞を狙っていると、かつて茂七が言っていた。それが未だに続いていて、進之丞は素敵な娘と知り合う機会があったのかもしれない。以前ならともかく、今の険悪な二人の関係では、優しい娘の心遣いは進之丞の心をくすぐるだろう。
それでも進之丞はまだ千鶴を信じて、千鶴に心を残してくれていたと思われる。千鶴から冷たい態度を見せられ続けていた間も、千鶴の笑顔を待っていたのに違いない。それなのに進之丞を待っていたのは、異人の男に抱かれる千鶴の姿だった。
裏木戸に手をかけたまま千鶴は項垂れた。
悪いのは意地を張っていた自分である。進之丞の気持ちや言い分にもっと耳を傾けて、改めて自分の気持ちをきちんと伝えるべきだったのである。
それを一方的に責め立てて、謝りもしなければ声もかけないという毎日を送れば、誰だって嫌になるに違いない。
進之丞が他の娘に心惹かれたとしても、進之丞を責めるわけにはいかない。それでも進之丞の気を惹いたその相手が誰なのかが、千鶴は気になった。その娘さえいなければ、二人の関係は修復できたかもしれないのだ。
笑顔に隠れた進之丞の心のうちを見抜き、進之丞を慰めて寄り添うような者は、そうはいないだろう。そんなことができる者は誰なのかと考えた時、ふと花江の顔が千鶴の目に浮かんだ。
進之丞のすぐ傍にいて、いつも進之丞の様子に気を払い、進之丞を気遣えるような優しさと気配りを持ち合わせているのは、花江をおいて他にはいない。
そんなのは有り得ないと、千鶴は即座に自分の考えを否定した。
自分と進之丞の仲を知っている花江である。その花江が進之丞にちょっかいを出すはずがない。
それでも進之丞の様子を見た花江が、千鶴との間に何かがあったのかと心配し、進之丞の話を聞くということは有り得るだろう。
初めは話を聞くだけのつもりだったのが、次第に進之丞に気持ちが惹かれても不思議ではない。花江は進之丞に惚れない娘はいないと言ったのである。
そんなことは考えるべきでないと、震える体を押さえながら、千鶴はすぐに自分を戒めた。しかし、喋り出した疑いの気持ちは黙ろうとしない。
そう言えば、近頃の花江はどんよりしていることが多い。ちょうど千鶴と進之丞が諍いを起こした頃か、あるいはそれより少し前からだ。
もしかしたら、その頃から花江は進之丞に心を寄せるようになっていたのかもしれない。千鶴にあまり声をかけなくなったのは、そのことで後ろめたさがあったと考えられる。
思い返せば、花江は進之丞と喋る時には、明るさを取り戻していた。それは進之丞といることが嬉しいからに違いない。
その花江が傷心の進之丞に気づき、その悩みを打ち明けられたならどうなるか。
千鶴は胸が潰れそうだった。
花江はもう二十五ではあるが、きれいな娘だ。面倒見もいいし、仕事もできる。それに東京から来ただけあって華がある。あの孝平が一目惚れして、頭が上がらなくなったぐらいだ。
それでも花江は関東の大地震で何もかも失った天涯孤独の身の上だ。どんなに明るく振る舞っていても、その顔の下には悲しさが隠れている。そんな花江の姿は、千鶴から見てもいじらしい。心優しい進之丞が心を動かされても不思議ではない。
そうだったのかという気持ちと、そんなことあるものかという想いが、心の中でぶつかり合っている。しかし、形勢は次第に前者に傾いて行くようだ。
それでも千鶴は湧き起こって来そうな怒りを必死に押さえた。自分が怒れば鬼が黙っていないだろう。大好きな花江にもしものことがあったら、一生悔やみ続けることになる。だが、花江に進之丞を奪われたのかもという想いはなくならない。
千鶴は大きく息をして気持ちを落ち着けようとした。それでも勝手にこぼれ落ちる涙を止めることはできなかった。
五
翌日は幸子は仕事だったため、千鶴が一人でミハイルたちに松山の街案内をすることになった。
家のことは花江に任せることになり、そのことを頼みながらも、千鶴は花江の顔をまともに見ることができなかった。
昨日、千鶴たちが戻った時、花江は先に帰っていて食事の準備をするトミを手伝っていた。千鶴の父親が訪ねて来たことをトミから聞かされていた花江は、千鶴と幸子を笑顔で祝福してくれた。
だが、千鶴はその笑顔を素直に受け止められなかった。その笑顔の裏で、花江がどんな顔をしているのかと考えてしまい悶々としていた。
花江が進之丞を奪った証拠などどこにもない。それなのに千鶴の頭の中には妄想が広がり、それが今朝になっても続いていた。
ミハイルたちがやって来たと豊吉に知らされ、千鶴は帳場へ二人を迎えに出た。花江も二人の顔を拝ませてもらおうと、仕事の手を止めて千鶴について来た。
するとスタニスラフが千鶴に呼びかけ、いきなり千鶴を抱きしめた。それを見て花江は目を丸くし、昨日同じことを見たはずの丁稚たちは思わず声を上げた。
帳場には辰蔵と一緒に進之丞と弥七もいた。
スタニスラフたちを初めて見る辰蔵と弥七は、それだけでも驚きだったと思われるが、目の前でいきなり主の孫娘を抱きしめる男の姿には、開いた口がふさがらない様子だった。
表には何人かの近所の者たちがいて店の中をのぞいていたが、スタニスラフが千鶴を抱くのを見て、興奮したような声を出した。
そんな中、進之丞だけは無表情のまま千鶴を見つめていた。もう昨日のような悲しげな顔はしていない。
スタニスラフの意表を突くような行動に、千鶴は抗うことができなかった。スタニスラフに抱かれたまま、今の自分の姿が進之丞の目にどう映っているのかと千鶴は焦っていた。
スタニスラフから離れた千鶴は、ちらりと進之丞に目を遣った。
みんながまだ驚いた顔をしているのに、進之丞は注文書に目を戻して確認作業をしている。それは無関心を装っているのかもしれないが、千鶴には進之丞が本当に関心を失っているように見えた。
千鶴は非常識なスタニスラフに腹立ちを覚えていた。それでもそんな気持ちは表に出さず、スタニスラフに明るく声をかけた。
自分を抱いた男に笑顔を向けることで、進之丞の反応を確かめるつもりだった。進之丞が少しでもやきもちを焼いてくれればと期待したのだが、進之丞は何も変わらない様子で注文書を捲っている。
同じように注文書を確かめていた弥七は、ずっと手が止まったまま、何が起こっているのかという顔を千鶴たちに向け続けていた。
やはり進之丞の気持ちは離れてしまったのかと、千鶴は気持ちが沈んだ。それでも笑顔を繕い、続く父の抱擁を受けた。
父に抱きしめられることは、今の千鶴には大きな慰めだった。千鶴は父の腕の中で、思わず泣きそうになった。
千鶴が初めにミハイルたちを連れて行ったのは、やはりすぐ近くにある大丸百貨店だった。
中の客たちは、展示品よりも千鶴たちの方に顔を向けていた。
自分も含めて異国人の顔が三つも並んでいれば、嫌でもみんなが振り返る。千鶴はみんなの視線が気になったが、ミハイルもスタニスラフも慣れているのか平気な様子だ。時には自分を見つめる人たちに、愛想を振り撒いたりしている。
二人は展示されている日本の着物などに、興味深げな目を向けていた。しかし、一番喜んだのはえれべぇたぁだ。
二人がとても面白がる様子が千鶴は嬉しかったが、進之丞が同じように喜んだことを思い出すと悲しくなった。
大丸百貨店を出ると、千鶴は二人を勧商場へ連れて行き、それから善勝寺でお得意の日切饅頭を二人に振る舞った。
一応はあんこが熱いからと注意はしたものの、二人はお決まりのように頬張ったあんこの熱さに慌てふためいた。
千鶴は二人の様子に笑ったが、進之丞と日切饅頭を食べた時のことが思い出されて切なくなった。
そのあとは湊町商店街へ向かったが、かつて露西亜町と呼ばれたほどロシア兵で潤ったこの商店街を、ミハイルは何度か訪れたことがあると言う。
今ではかなり様変わりをしているようだが、当時から洋菓子を売る菓子屋があったので、その店を千鶴たちはのぞいた。
すると、当時を覚えている年老いた店主が、相好を崩して千鶴たちを迎えてくれた。
店主は昔を懐かしみ、戦争は嫌だけれど、ロシア人がたくさん来てくれたのはとてもよかったと言った。
また、店主は千鶴が伊予の言葉を喋るのに驚いた。
千鶴は滅多にここの商店街には来ないし、来た時にもこの菓子屋には入ったことがなかった。それで店主は千鶴のこともロシアから訪れた娘だと思ったようだ。
千鶴たちの事情を聞いた店主は、千鶴たち親子の再会を喜んでくれた。そして、祝いだと言ってお菓子をくれた。
ミハイルもスタニスラフも松山の人はやっぱり親切だと嬉しそうだった。実際は千鶴は差別を受けて来たのだが、二人が楽しそうにしているので、それについて話すことは気が引けた。
露西亜町ではないが、大街道にもロシア捕虜兵に食べさせるパンを焼いていた菓子屋があった。その店もまだ残っていて、そこでも歓迎されたミハイルたちは、パンをただで分けてもらった。
昼飯には大街道で牛鍋を食べた。醤油と砂糖で味付けをした牛肉の鍋である。
ミハイルもスタニスラフも絶賛したが、実は千鶴は牛鍋を食べたのは初めてだった。とても美味しいので進之丞にも食べさせたいと思ったが、それはもう無理かもしれないと気持ちが沈んだ。
食事のあとは松山城を見に行くことになった。
しかし、城山の山頂までは急な坂道を登らなければならない。ロシア人墓地がある丘を登るのも大変だったミハイルが、城山を登るのは困難だと思われた。
それでもスタニスラフは城の近くへ行ってみたいと言った。ミハイルも捕虜兵として松山にいた時には、城山を登ることはできなかったので、登れるものなら登ってみたいと言った。
それで、千鶴は県庁裏から城山へ登る道へ二人を案内した。
県庁は城山の麓で東のお堀のすぐ手前にある。裁判所の前を真っ直ぐ進むと、東のお堀に突き当たる。そこで右に曲がると、県庁の裏を回るように作られた登城道があるのだ。
裁判所の近くへ来た時、千鶴はミハイルたちに萬翠荘の説明をした。だが裁判所近くからでは、その後ろにある萬翠荘はよく見えない。それで千鶴は裁判所から少し離れた所まで、二人を連れて行った。
それでも全部が見えたわけではないが、裁判所の後ろから顔を出している萬翠荘を見て、ミハイルたちは美しいと口を揃えた。二人はもっと近くで見たがったが、それはできないのでとても残念そうだった。
東のお堀までやって来た千鶴たちは、お堀に沿って城山の方へ道を曲がった。お堀は城山に突き当たると、そこの高い石垣に沿って左へ曲がる。その石垣の上には陸軍の衛戍病院があるが、千鶴たちがいる道から入ることはできない。
千鶴たちの道もお堀同様に城山に突き当たるが、そこでお堀と別れるように右へ向かって城山を登るようになる。これがまたかなり急な坂道で、やはり杖を突くミハイルには登り続けるのは困難なようだった。
スタニスラフが後ろから背中を押して登ろうとしたが、ミハイルは途中で登ることを断念し、城は下から眺めることにした。
スタニスラフはあきらめきれない様子だったが、千鶴が父を気遣って下りることに決めると、仕方なく後ろについて来た。
千鶴たちは南のお堀近くまで移動した。そこから後ろを振り返ると、山の上の城がよく見える。
ミハイルはしばらく城を眺めたあと、千鶴に話しかけた。
「ヴァタァシナ、オジサン、ムゥカァシ、ニホン、アイデタネ」
「おじさん?」
「ヴァタァシナ、オトォサンナ、オトォサンナ、オトォサンネ」
ミハイルは自分を差した指を、順繰りに上下させながら言った。
それで曾祖父のことかと千鶴は納得したが、すぐに驚いた。千鶴から言えば、高祖父になるわけだ。
「お父さんが言うておいでるおじいさんて、お父さんのひぃおじいさんのことじゃね?」
「ヒ?」
きょとんとするミハイルに、千鶴は微笑みながら手を振った。
「ええのええの、気にせんで。ほれで、おじいさんは日本へ、何しにおいでたん?」
「オトォサン、イィマァシタ。オジサン、フゥネ、シズゥンダ。ニホンジン、オジサン、タズゥケタネ」
どうやら、この話をミハイルは父親から聞いたらしい。それによれば、高祖父は乗っていた船が日本近くで沈没し、日本人に助けてもらったということのようだ。
自分の高祖父が日本に縁があっただなんて、不思議なことだと千鶴は思った。
「ソノ話、ホントデズゥカ? 僕ヴァ、初メテ、聞キマァシタ」
スタニスラフも初耳だったらしい。とても驚いた様子だ。
ミハイルは言った。
「オジサン、イィマァシタ。ニホン、ヤサシィ、ダケド、コヴァイ、カナシィ」
日本は優しくて怖くて悲しいというのは、どういうことだろうと千鶴は思った。
そもそも高祖父が日本へ来たというのは、いつのことだろうと考えた時、千鶴の頭に浮かんだのは、歩行町に暮らしていたという祖父の祖父だ。こちらの高祖父は進之丞の父親の親友であり、前世の千鶴を養女に迎えようとしてくれた恩人である。
恐らく父方の高祖父もその頃の人物だろう。と言うことは、前世の自分の親ぐらいの年代になるということなのか。
当時の父親が自分を探しに黒船に乗ってやって来たのだから、ロシアの人間は思ったよりも頻繁に、日本を訪れていたのかもしれないと千鶴は思った。
しかし、その頃の日本は異国人に対して排他的であり、異国人と見ると襲いかかる攘夷侍がいた。高祖父を助けてくれた人々は優しかったのかもしれないが、高祖父を敵視した者もいたと思われる。
日本人と心を通わせたであろう高祖父は、命の危険を感じて日本から逃げ出したのだろう。きっとそれが日本は優しく怖く悲しい理由に違いない。
高祖父が言ったという言葉に、スタニスラフは首を傾げていた。それで千鶴は当時の日本の状況を説明した。その話にスタニスラフは納得したが、ミハイルはちょっと違うと言いたげな顔だった。
ミハイルは何かを言おうとしたものの、結局それ以上は何も言わなかった。
この日は、ミハイルたちは千鶴の家で夕飯を食べることになっていた。夕方であれば幸子も戻って来る。限られた時間を親子が共に過ごせるようにという、甚右衛門の配慮でもあった。
店に戻ると帳場に来客がいたので、千鶴たちは裏に回った。
千鶴が裏木戸へ近づくと、押し殺したような泣き声が聞こえた。
千鶴は後ろにいたミハイルたちに、声を出さないようにと口の前に指を立てて見せた。それから二人にそこで待つよう両手で示したあと、そっと裏木戸の傍へ行った。すると、女の泣き声と男の声が聞こえた。やはり戸の向こうに誰かがいるようだ。
耳を澄ませて声の主を確かめた千鶴はぎょっとなった。泣いていたのは花江で、慰めているのは進之丞だ。
「忠さん、あたし、もう堪えられないよ」
「そげなこと言われんぞな。互いの気持ちはわかっとろ?」
「互いの気持ちがわかってたって、何の解決にもなりゃしないじゃないか! ねぇ、忠さんから旦那さんに言っておくれよ。あたしたち惚れ合ってるんですって。お願いだよ。あたしたちが一緒になれるよう頼んでおくれよ」
千鶴は息が止まりそうになった。まさかと思ったことが本当だったのだ。千鶴はこれまでにないほど打ちのめされ惨めな気持ちになった。
千鶴さんらが戻んて来たみたいと、中の二人に呼びかける豊吉の声が聞こえた。
花江は明るい声で、今行くよと返事をした。だが、すぐには動かなかったようだ。時折、鼻をすする音が聞こえたが、あとは何も聞こえない。それが千鶴に余計な妄想をさせた。
千鶴は泣きそうになるのをこらえながら、ここは通れないから表から入れてもらおうと、ミハイルたちに言った。
千鶴の様子がおかしいことは、ミハイルもスタニスラフも気がついたようだ。何があったのかとスタニスラフが訊いて来たが、説明できるはずがない。
何でもないと微笑んで、千鶴は二人を連れて店に戻った。
中にいた客はちょうど帰るところで、弥七と亀吉が見送りに出ていた。
帳場の辰蔵はにこやかにミハイルたちを迎え入れた。
辰蔵が婿になると疑って以来、千鶴は辰蔵にもどんな顔を見せればいいのかわからずにいた。素っ気なく会釈をして中へ入ると、奥から進之丞が現れた。
進之丞が千鶴に声をかけたのに、千鶴は思わず顔を背けると、返事も返さずに進之丞の脇をすり抜けた。
台所には花江が戻っていた。新吉と豊吉も夕食の手伝いをしている。客が一緒の食事なので、いつもより準備が大変のようだ。
お帰んなさいと花江は明るく千鶴たちに声をかけた。さらにいつもの調子で、楽しかったかい?――と千鶴に訊ねた。
何を空々しいと思いながら、楽しかったと千鶴は笑顔を見せた。それでも笑顔は続かず、千鶴は横を向いた。
千鶴は泣き伏したい気持ちを必死にこらえていた。こんなことになるのなら、進さんをここへ呼ぶのではなかったと、千鶴の胸の中は後悔でいっぱいだった。