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ロシアの家族


     一

 甚右衛門じんえもん進之丞しんのじょう帳場ちょうばを任せると、ミハイルたちを奥の部屋へ通した。でっの三人は千鶴ちづたちに遠慮して帳場に残った。家にいるのは身内の者だけだ。
 ミハイルもスタニスラフも物珍しげに家の中を眺め、勝手口から奥庭をのぞいた。先に茶の間に上がった甚右衛門が声をかけると、二人は上がりかまちに腰を下ろして靴を脱いだ。
 さちはミハイルからもらった花を生けようとしたが、千鶴は花を受け取って、みんなと一緒に座るよう母にうながした。動揺している千鶴は、花のことやお茶の準備をしながら気持ちを落ち着けたかった。
 千鶴に申し訳なさそうにしながら幸子はミハイルたちに続いたが、甚右衛門たちの前では気まずいのか、いささかまどっているようだ。それでもミハイルたちが慣れない正座をしようとすると我に返り、足を崩してと言った。特にミハイルは足が悪いので、正座はむずかしいし苦痛に違いなかった。
 しかし、足を崩すという意味が二人にはわからない。甚右衛門は正座をやめて、胡座あぐらをかいたり足を伸ばしたまま座ったりしてみせ、好きなように座ればいいと言った。
 ミハイルたちはあんの笑みを浮かべると、それぞれ好きな座り方をした。
「ほれで、二人はここをどがぁして知ったんぞな?」
 幸子がトミの隣に座るのを待って、甚右衛門がたずねた。ミハイルが少し困った顔をすると、ここを誰に教えてもらったのかと幸子が言い直した。ミハイルはうなずき説明した。
「ヴァタァシ、ドガオセン、イクゥ。チカァクゥ、コォエン、ズゥズゥキセンセ、オタネ。ズゥズゥキセンセ、サチカサン、カミヤチヨ、イルゥ、アシエタ」
すず先生? ほんまに?」
 幸子が懐かしさに顔をほころばせると、ソゥソゥとミハイルはうれしそうにうなずいた。
 ミハイルたちはどう温泉で宿を取っていた。
 ミハイルが捕虜兵として松山まつやまにいた頃、この宿の近くの公園でロシア兵による自転車競争が行われた。その思い出の公園で、ミハイルは当時世話になった鈴木という軍医に出会い、かみ町にちょう 幸子がいると教えてもらったらしい。
 ただ実際は、鈴木医師はその後の幸子の状況を知らないはずだ。鈴木医師は幸子の家が紙屋町にあると教えただけで、今も幸子がここにいるとまでは言わなかったと思われる。
 そのことを補足した上で、鈴木医師は敵や味方の区別なく患者をる人間味のある先生だと、幸子はみんなに説明した。
 それをスタニスラフがロシア語に直して伝えると、ミハイルは大きくうなずき、伸ばした右足をでながら言った。
「ズゥズゥキセンセ、タテモォ、エェヒタネ。ヴァタァシ、アシ、ナオシタ」
「鈴木先生はとてもええお人で、ミハイルの足を治してくれたて」
 幸子の言葉に甚右衛門たちがうなずくと、ミハイルは言った。
「サチカサン、タテモォ、ヤサシカタ。ヴァタァシ、アルゥクゥ。サチカサン、ズゥト、イシヨ」
 ミハイルが歩く練習をする時は、いつも一緒にいて励ましてあげたと、幸子は恥ずかしそうに説明した。千鶴は両親が出会った頃の様子が頭に浮かび、温かい気持ちになった。けれど、すぐに切なくなった。
 二人ののろけ話を聞かされていると思ったのか、甚右衛門はけんしわを寄せた。
「その話はわかったけん。ところで、おまいさん方はいつ日本へおいでたんかな? 日本とソ連は国交を始めたばっかしやのに、ちぃと早過ぎろ?」
 日本にはいつ来たのかと幸子がき直すと、ミハイルは片手の三本指を立てて、三年前と言った。でも、くわしい説明はミハイルにはむずかしいようなので、代わってスタニスラフがしゃべった。
ボクゥタチ、ウラジヴァストクデ、ズゥンデマシタ。ダケドォ、ロォシアヴァ、共産キヨサン、支配ズゥルゥ。ツゥカマァレェバ、カロォサレェマズゥ。サレェデ、日本ニホォンヘ、逃ゲマシタ」
 甚右衛門たちは顔をしかめ、口々に二人にねぎらいの言葉をかけた。
 千鶴も父たちの苦労に胸を痛めながら、みんなにお茶を配った。ミハイルはお茶を受け取るとにこやかに頭を下げ、スタニスラフははにかんだ笑みを浮かべた。
 お茶を配り終えたあと、千鶴が幸子の隣に座ろうとすると、お父さんの隣に座りんさいと幸子は言った。
 千鶴はちらりと祖父母を見たが、二人とも表情は変わらない。仕方なく、千鶴はスタニスラフとは反対側の父の隣に座った。向かいは祖父なので、何とも居心地が悪い。
 ミハイルは千鶴の肩を抱くと、自分の喜びを表現した。スタニスラフも父親越しに千鶴を見て、目が合うと嬉しそうに微笑んだ。
 しかし、千鶴は二人に愛想を振りくわけにいかない。祖父母にはあまり歓迎したくない相手である。それに頭の中には悲しげな進之丞の顔が浮かんでいる。

     二

「ところで、ウラジバストクいうとこは、どこにあるんぞな?」
 トミが幸子にたずねた。
「ウラジオのことぞなもし」
 幸子が説明すると、ほうかなとトミは言った。
「ロシアではウラジオのことをウラジバストクいうんかな」
「お母さん、逆やし。ウラジバストクが正しい名前で、ほれを日本人がウラジオていうとるんよ」
 幸子に教えられると、ほうかなとトミは照れ笑いを見せた。しかし、ミハイルたちにはトミが何を笑っているのかわからない。
 両親は町の正しい名前をウラジオだと思っていたと、幸子は二人に説明してやった。すると、それぐらいのことは知っていると甚右衛門が文句を言った。だが甚右衛門の表情を見ると、本当に知っていたかどうかは定かでない。
 幸子は笑いながら甚右衛門に謝り、誤解をしていたのは母だけで、父はちゃんとわかっていたと、ミハイルたちに言い直した。

 ウラジヴァストクは日本海に面したロシアの港町で、日本ではウラジオストクあるいは、ウラジオと呼ばれている。
 にち戦争前には多くの日本人が暮らしていたが、戦争が始まるとほとんどが日本に引き揚げて来た。その後、戦争が終わると再びウラジオストクへ移り住む者が増えていた。
 一方、たいしょう三年に始まった世界大戦のなかにロシアでは革命が起こり、共産主義を掲げる勢力が国中に広がった。逆らう者は容赦なくしゅくせいされるので、多くのロシア人がハルピンやウラジオストクへ逃げていた。
 ミハイルたちも共産主義から逃れてウラジオストクに避難した。ところが、そこにも革命軍である赤軍せきぐんが迫って来たので逃げねばならなかったという。
 多くのロシア人は中国へ逃げたが、ミハイルは幸子がいる日本を選んだ。もちろん妻には内緒だ。
 ウラジオストクと日本の間には、こうおおさかなど複数の航路がある。地図を見ると神戸がまつやまに近いし、この航路の船は神戸よりもさらに松山に近い下関しものせきに寄港する。
 しかし、ふくけんつるへの航路は距離が短く船賃も安い。ミハイルは悩んだ末に敦賀を選んだと言った。そうして日本に着きはしたものの、そのあとどうすればいいかがわからない。それでミハイルたちは、他のロシア人たちと一緒によこはまへ向かったそうだ。
 ミハイルには二度目の日本でも、妻にとっては初めての国だ。しかも母国を追われての来日なので、妻はずっと不安だった。それでミハイルたちは他のロシア人たちと共に行動し、時期を見てアメリカへ移ることにしたという。
 すぐにアメリカへ移住しなかったのは、お金を稼ぐ必要があったからだが、幸子の様子を確かめずに日本を離れたくなかったと、ミハイルはスタニスラフを気にしながら話した。
 横浜ではどんな安賃金の仕事でも引き受けてお金を稼いでいたというが、ミハイルが片言とはいえ日本語が話せたのが、仕事を見つける上で幸いしたようだ。またスタニスラフも日本語がわかるので、ミハイルと一緒に一生懸命働いたそうだ。
 ところが一昨年の秋、関東かんとうが大地震で壊滅し、横浜も甚大じんだいなる被害を受けた。多くの建物が倒壊し、生じた火災で街は一昼夜にして焼き尽くされた。数え切れない人々が亡くなる中、ミハイルたちが助かったのは、近くにあった公園へ逃げ込めたからで、公園がなければ危なかったという。
 関東に居場所を失ったミハイルたちは神戸へ移動した。松山の近くへ来たことで、ミハイルは内心喜んでいたが、妻はたび重なる不運にすっかり参ってしまい、ずっとふさぎ込んでいるらしい。
 神戸からもアメリカ行きの船が出ていたので、妻は早くアメリカへ行きたがった。だけどまだお金が足らないので、ミハイルとスタニスラフは引き続き神戸で働いた。
 一方、神戸からは松山へ向かう船もあったので、ミハイルはお金を稼ぎながら、いつか松山へ行こうと考えていたそうだ。そして、ようやくアメリカ行きの船賃にがついたので、念願の松山へ来ることができたとミハイルは興奮気味にしゃべった。

「戦争のあと、国では革命で住めんなって、こっちへ来たら今度は大地震かな。踏んだり蹴ったりとはこのことじゃな。ほら、なんなことじゃったろ」
 甚右衛門がミハイルたちの苦労をねぎらうと、トミも気の毒そうにうなずいた。
 幸子とスタニスラフの仲介で、甚右衛門たちの話を理解したミハイルは、神妙なおもちで頭を下げた。しかし、顔を上げると笑顔を見せた。
「マツゥヤマ、カヴァラナイ。マツゥヤマ、エエトカネ」
 だんだん――と微笑む幸子に、ミハイルは訊ねた。
「サチカサン、マダ、カンガフゥサン」
「ほうなんよ。今も、病院で働きよるんよ」
 ミハイルは喋るのは片言でも、幸子の言葉はわかるのか、にこにこしてうなずいた。
 今度はスタニスラフが身を乗り出し、ミハイル越しに千鶴に話しかけた。
ヅゥサンヴァ、ダレェデズゥカ」
「誰?」
 言われていることの意味がわからず、千鶴はまどった。幸子は笑いながら、仕事は何かといとるんよと言った。
 幸子の話では、ロシア語では仕事を聞く時にも「誰」という言葉を用いるという。どんなことをする人なのかという意味のようだ。また、質問する時には日本語みたいに言葉尻を上げないので、訊かれている方は質問されているとはわかりにくいらしい。
 甚右衛門もトミも苦笑している。二人は日本語とロシア語の違いに面白さも感じただろうが、互いを理解することのむずさしさに困惑気味だ。
 自分の訊ね方が悪かったと悟ったのか、スタニスラフは訊ね直した。
ヅゥサンヴァ、カンフゥデズゥカ」
 やはり言葉尻が下がってしまうと、訊ねられているようには聞こえない。妙な感じと思いながら、いいえと千鶴は首を振った。
「うちは家の仕事をしとります」
「家ナ、仕事?」
 スタニスラフが困った目を幸子に向けると、幸子が説明した。
「ここはね、伊予いよ絣いがすり う反物を売りよるんよ」
「イヨ……ガズゥ?」
「物を見せた方が早かろ」
 そう言うと甚右衛門は帳場ちょうばの進之丞を呼び、蔵から上等の反物を持って来るよう命じた。
 現れた進之丞はちらりと千鶴やミハイルたちに目を向けたが、何の表情も見せずに奥庭へ向かった。言い訳の一つもできない千鶴はうろたえるばかりだ。
 進之丞が蔵へ反物を取りに行っている間に、幸子はミハイルに結婚相手のことを訊ねた。
 ミハイルはためらいがちに、胸ポケットから取り出した妻の写真を見せた。エレーナというその女性は美しく聡明そうめいな顔立ちで、スタニスラフは母似のように見えた。
 写真を眺める幸子に、ロシアに戻ってからもいつも幸子のことを考えていたと、ミハイルは言いにくそうに弁解した。
 戦争や革命などの争い事に疲れきったミハイルが、誰かにそばにいてほしいと思った時に出ったのがエレーナだったそうだ。それでエレーナと一緒になったものの、幸子を忘れたことはないとミハイルは必死に訴えた。
 幸子はスタニスラフの前でそんな話をしてほしくなかったのだろう。ミハイルには何も言わず、お母さんは優しいのかとスタニスラフに訊ねた。
 スタニスラフはにこにこしながらうなずき、優しいけど怒ると怖いと言った。みんなが笑うと、今度はミハイルが千鶴に、幸子は優しいかと訊いた。
 千鶴は母を見ながら、母も優しいけど怒ると怖いと答え、もう一度みんなが笑った。
「ところでお母さん、一人で大丈夫?」
 神戸に一人残されたエレーナを幸子がづかうと、スタニスラフはうなずいて、ダイジヨブネ――と言った。
 日本をつ前に夫が思い出の街を訪れることに、エレーナは反対しなかったという。
 エレーナは松山に興味があった息子が同行することも認めたが、エレーナ自身は移動ばかりに疲れたので、神戸に残ることにしたそうだ。だが、まさか夫が松山でかつての恋人とその娘に会うとは思いもしなかっただろう。

「これで、どがぁぞなもし?」
 戻って来た進之丞が、抱えていた反物の箱を茶の間に置いた。甚右衛門は中身を確かめると、うむとうなずいた。
 進之丞は甚右衛門とトミに頭を下げ、ミハイルたちにも頭を下げると、千鶴には見向きもせずに帳場へ戻って行った。
 千鶴が不安になっていると、進之丞はすぐに戻って来て真っぐ奥庭へ出て行った。その後ろを新吉しんきち豊吉とよきちがついて行ったが、何かを蔵から運び出すのだろうか。
 新吉と豊吉は千鶴たちを眺めながら出て行ったが、進之丞は一度も千鶴を見ようとしなかった。まるで千鶴がそこにいないかのごとく振る舞うのは、進之丞がスタニスラフのことで気分を害しているのだと千鶴はあせっていた。
 自分たちの関係について煮え切らない態度を見せた進之丞を、千鶴は頭ごなしに怒った。その自分が進之丞の目の前で、他の男に抱かれたのである。いや、進之丞が見ていないはずの所で抱かれたのだ。
 無理やりのことではあったのだが、拒めただろうと責められても仕方がない。なのにあらがいもしなかったのは、そこまで進之丞を大事には思っていないということになる。きっと他の男に抱かれても気づかれなければ構わないと考える、身勝手な女に見えただろう。
 スタニスラフは腹違いの弟だと、千鶴は言い訳をしたかった。心の中では、ずっとそう叫んでいた。だけど、その声は進之丞には届かない。
 落ち着かない千鶴の横で、ミハイルとスタニスラフは甚右衛門から渡された伊予絣を、手に取って感心しながら眺めた。
「エレーナ、キモォノ、カゴ、ニンギヨ、カサエルゥネ」
 ミハイルの話に、幸子はうなずいて言った。
「エレーナさん、ご自分で着るもんとか、かごとか、人形をこさえるんじゃね。伊予絣、気に入るじゃろか?」
「キニイルゥ?」
「エレーナさん、これ、喜ぶじゃろかね?」
 幸子が反物を手で示しながら言い直すと、ミハイルは大きくうなずいた。
「エレーナ、ヨロォコブゥ。ヴァタァシ、カレェ、カウ」
かま構ん。あとで、ええの持たせるけん」
 甚右衛門が片手を前で振りながら言ったが、ミハイルには意味がわからない。
「おじいちゃんが、あなたにあげるって」
 幸子が甚右衛門や反物を指差し、次にミハイルを指差して、反物を差し出すと、ミハイルはやっと理解できたようだ。スタニスラフと驚いた顔を見交わすと、すぐに素直に喜んだ。
「ところで、息子さんは日本語がお上手じょうずじゃねぇ。誰に教わったんぞな?」
 ミハイルに話しかけた幸子は、スタニスラフに顔を向けた。ミハイルが説明をうながすと、スタニスラフは少し照れながら言った。
「ウラジヴァストクナ、日本人ニホォンジンアシエテクゥレェマシタ」
「へぇ、ほうなんじゃ。けんど、なして日本語を習う気になったんぞな?」
「ナシテ?」
 伊予弁を知るミハイルがロシア語で説明をすると、スタニスラフはなるほどとうなずいた。
マツゥヤマナ人、ロォシア人、タテモォ、親切。アトォサン、言ィマシタ。日本ニホォン、ロォシア、戦争シタ。デモォ、松山ナ人、親切。信ジラァレェナイネ。ダカラァ、イツゥカ、松山、行キタイ、思イマシタ。サレェデ、日本語、アシエテモラァイマシタ」
「ほやけど、松山の言葉は他所よそとは違うけん、わかりにくかろ?」
 トミが面白そうに言った。
 幸子に言い直してもらったスタニスラフは、右手の親指と人差し指を少し広げてみせ、チヨト、ムズゥカシィ――と言って笑った。
 実際に日本へ来てみたら、スタニスラフたちは松山に限らず親切にされたらしい。スタニスラフは何故この国と戦争になったのか理解できなかったという。
「父親が幸子と再会するんを、何とも思わなんだんか?」
 甚右衛門が少し気遣うように訊ね、幸子がわかりやすく訊き直すと、スタニスラフは母のことを考えると少し胸が痛いと言った。
「ダケドォ、コレェヴァ、ケイカクゥジャナイ。神サマ、二人、逢ヴァセマシタ。コレェヴァ、運命デズゥ」
 スタニスラフはそう言いながら、身を乗り出して千鶴を見た。何だか千鶴に話しかけているみたいだ。
 トミは感心顔で言った。
「あんたは、まだ若いのにしっかりしとるな。歳はなんぼぞな?」
「ナンボ……?」
 きょとんとするスタニスラフに、またミハイルが説明した。
 スタニスラフはうなずくと、二十歳だと答えた。その答えに千鶴は、え?――と思った。
 千鶴も二十歳だ。スタニスラフが腹違いの弟であれば、千鶴より年下のはずだ。これでは計算が合わないと、千鶴は父に説明を求めた。けれどミハイルはうまく言えないので、代わりにスタニスラフが笑顔で話した。
ボクゥナ、アカァサン、アトォサント、シヨナルゥ前、コンシタ。僕ヴァ、アトォサン、二人フゥタリィネ」
 なるほどと甚右衛門たちはうなずいたが、千鶴は顔がこわった。
 スタニスラフの話によれば、自分たちには血のつながりがない。なのに進之丞の目の前で抱かれたのだ。これは今の千鶴には最悪の状況と言えた。
ボクゥナ、初メナ、アトォサン、日本ニホォンナ、戦争デ、死ンダ。僕ト、アカァサン、泣イタ。ドォシテ生キルゥ、ヴァカラナイ。サナトォキ、カノォ、アトォサン、アカァサン、知リィタネ。アトォサン、僕ト、アカァサン、助ケタ」
 スタニスラフの実の父親が戦争で死んだと聞かされ、甚右衛門たちは当惑のいろを浮かべた。すぐにスタニスラフは、ダイジヨブ――と言った。
ボクゥヴァ、日本人ニホォンジンウラァマナァイ。僕ヴァ、日本人、大ズゥキネ」
 スタニスラフの言葉に、甚右衛門もトミも黙って頭を下げた。
 すると幸子がミハイルたちに、自分の兄もあの戦争で死んだと言った。
 ミハイルが松山にいた時には、幸子はそんな話はしていなかったようだ。今度はミハイルたちが顔色を変えて、甚右衛門たちに頭を下げた。
 甚右衛門は二人に頭を上げさせ、お互いさまだと言った。
 言葉の意味がわからないミハイルたちに、どちらも同じと幸子が説明した。二人は安心した笑みを浮かべ、千鶴に顔を向けたスタニスラフは微笑みながら言った。
「ダカラァ、ボクゥタチ、血ガ、ツゥナガラァナイネ」
 千鶴はうろたえて目をらした。
 何故、今それを強調するのか。悪意はないのだろうが、勝手に抱いておいて無神経過ぎると千鶴はいきどおった。しかし不愉快な気持ちを顔に出すわけにはいかない。千鶴は感情を抑えたが、心に浮かんだ進之丞の悲しげな目がつらかった。

     三

 ミハイルたちと昼飯を食べることになり、母と一緒に食事の準備を始めた千鶴は、洗濯が途中だったと思い出した。慌てて奥庭に出ると、洗い忘れていた着物は全部物干しに干されていた。
たださんらがやってくれたみたいなね」
 幸子がうれしそうに言うと、千鶴は帳場ちょうばへ走って行った。
 進之丞は甚右衛門に代わって帳場に座っていたが、この日は客が来る様子もなく、亀吉かめきちたちとおしゃべりを楽しんでいた。
「あ、あの……」
 千鶴が緊張しながら声をかけると、進之丞はにこやかな顔を千鶴に向けた。少しも怒っていないようなので、千鶴は胸をで下ろした。
「洗濯、だんだんありがとう」
「あし一人がしたんやないぞな。しんさんもとよさんもつどてくれたし、かめさんはあしの代わりに帳場を守ってくれたんよ」
 進之丞は喋りながら三人の頭を撫でた。
「みんなもありがとう」
 千鶴が礼を言うと、亀吉たちは笑顔を返した。
 本当は他にも進之丞と話がしたいが、今はできない。千鶴はびる気持ちを目で伝えると、台所へ戻った。

 昼飯のあと、千鶴と幸子はミハイルたちと外へ出かけることが許可された。
 千鶴たちが外へ出ると家事をする者がいなくなる。そこで洗濯物の取り込みや掃除などは、進之丞と亀吉たちがしてくれることになった。また、夕飯の準備はトミがすると言ってくれた。ロシア人を憎んでいたはずの祖父母たちが、ここまでしてくれるのは意外だったし有難かった。それでも進之丞のことを思うと、千鶴は素直には喜べなかった。
 表に出ると、幸子は幸せそうにミハイルと並んで歩いた。当然ながらかみ町のちょう 人たちの目が集まったが、全然気にせず二人で挨拶を交わす姿は夫婦そのものだ。
 両親のあとに続く千鶴も、顔を合わせた人たちに会釈えしゃくをしたが、気持ちはずっと後ろ髪を引かれていた。隣では何も知らないスタニスラフが子犬のようにはしゃいでいる。
 四人が向かっているのはだいりんだ。大林寺はミハイルが捕虜兵として収容されていた所で、ミハイルと幸子が初めて出った場所でもあった。
 大林寺に入ると、ミハイルは感動して立ち尽くした。しばらく感激した様子であちらこちらを眺めたあと、ミハイルは大林寺にいた時のことを、幸子と一緒に千鶴とスタニスラフに話して聞かせた。
 幸子は初めてロシア兵が大林寺へ連れて来られた時から、看護婦として捕虜兵たちの世話をしていたという。
 明るく優しい幸子は捕虜兵たちに人気があり、多くのロシア兵たちが幸子に会うのを楽しみにしていたと、ミハイルは自慢げに言った。
 当然ミハイルもその一人であり、いつも笑顔を絶やさない幸子に、ぼろぼろだった心が救われたと言った。
 城山の北には、松山まつやまへい第二十二連隊の演習場がある。そこに通称バラックと呼ばれる仮設病院が建てられると、足を負傷していたミハイルは大林寺からそちらへ移された。
 バラックへ移ることが決まった時、ミハイルは傷の治療のことよりも、幸子と一緒にいたいと願っていたという。すると、幸子も看護婦として一緒にバラックへ移動することになったので、神さまが願いを叶えてくれたとミハイルは大喜びをしたそうだ。
 一方の幸子は、この時はまだミハイルに対して、それほどの気持ちは抱いていなかったらしい。ミハイルは苦笑いをしながら、少しがっかりしていた。
 幸子は笑うと、バラックでミハイルの世話を続けているうちに、次第にミハイルに気持ちがかれたと言った。ミハイルは今度は胸を張って明るくなった。
 日本とロシアの間でポーツマス講和条約が結ばれて、にち戦争が終結すると、ロシア兵たちは捕虜の身から解放されて自由になった。ロシアへ帰国するまでの間を、ロシア兵たちは好きなように過ごせたが、その時にミハイルは幸子に自分の想いを伝えたという。また幸子もミハイルに好意を抱いていたと話したそうだ。
 二人が昔を懐かしむことは、スタニスラフにとってはあまりいいものではないはずだ。にこやかにしてはいるが、聞いているのはつらいだろう。
 千鶴はスタニスラフをいざない、他の場所で両親とは全然関係のない話をした。進之丞の顔が浮かんだが、気の毒なスタニスラフを放ってはおけなかった。
 千鶴のづかいが嬉しいのか、スタニスラフは楽しげにいろいろ喋り、千鶴のこともいろいろといた。千鶴がまどうほどスタニスラフは話に夢中になり、幸子が次へ行くと声をかけても、スタニスラフの話は終わらなかった。

 次に向かったのは、城山の北にあるロシア人墓地だ。
 千鶴たちはまち停車場からどうへ向かう電車に乗って、途中の千秋寺せんしゅうじ停車場で降りた。そこは木屋きや町停ちょう 車場の次の停車場で、松山歩兵第二十二連隊が演習に使う城 じょうほくれんぺい場のじょう すぐそばだ。
 今は解体されてなくなってしまったが、両親が恋をはぐくんだ思い出のバラックは、この城北練兵場の西側半分に建てられていた。そこは千鶴たちが立つ場所の目の前だ。
 幸子はここがバラックがあった場所だとミハイルたちに説明すると、後ろの丘へとみんなをいざなった。ロシア人墓地があるのはその丘の上だ。
 丘を登る坂道は、つえで歩くミハイルには少し大変だ。それでも幸子に背中に手を回して支えてもらいながら、ミハイルは坂道を登り切った。
 二人の様子を見ていた千鶴は、両親はこんな風にしながら心を通わせたのかと、感慨を覚えながらもうらやましく思った。
 本当ならば自分と進之丞も、両親みたいに仲睦なかむつまじくしていただろうに、今はすれ違ったまま元に戻れない。
 だけど、進之丞は黙って洗濯をしてくれた。父たちと別れたら、今度こそ進之丞ときちんと話をしようと千鶴は思った。本当は今すぐ戻って進之丞に謝りたかった。
「ダイジヨブ? ツゥカレェマシタカ?」
 千鶴の沈んだ顔に気づいたのだろう。スタニスラフが心配そうに声をかけて来た。
 千鶴は慌てて笑顔を見せると、大丈夫ぞなと言った。

 ロシア人墓地に到着すると、ミハイルは神妙な顔になった。ここに眠る者たちの中には、ミハイルが知っている兵士もいる。また幸子も墓に眠る者が誰なのかがわかっていた。
 二人はゆっくりと一つ一つの墓に手を合わせて回った。
 千鶴がロシア人墓地へ来たのは、これが初めてだ。けれど、ここは自分がつながる国の人たちの墓だと思うと、自然とおごそかな気持ちになる。
 戦争は嫌いだが、日露戦争がなければ自分は生まれていない。そう考えると、ここに眠る者たちに申し訳ない気がして、千鶴もそれぞれの墓に向かって手を合わせた。
 スタニスラフは墓石や景色を眺めて歩いていた。しかし、千鶴が墓石に手を合わせているのに気がつくと、千鶴の横に並んで同じように手を合わせた。
 幸子とミハイルはすべての墓に手を合わせ終わると、一緒に墓地の端から城北練兵場を見下ろした。
 練兵場全体が見渡せるので、バラックの建物がどこにどのようにあったのかを、二人は頭に浮かべているのだろう。何もない広場を指差して、ああだこうだと言いながら笑っていた。
 千鶴はスタニスラフを気遣って、城山の上に見えるまつやまじょうについて説明してやった。スタニスラフは面白そうに話を聞いていたが、話が一区切りつくと、じっと千鶴を見つめた。
 どきりとした千鶴がどうかしたのかとたずねると、スタニスラフは言った。
ヅゥサンヴァ、ズゥキナヒタ、イマズゥカ?」
「え?」
 唐突にそんなことを訊かれ、千鶴は当惑した。
 れている相手のことなど、簡単に他人に喋るものではない。返事ができない千鶴の顔をスタニスラフはのぞき込んだ。
「イナイデズゥカ?」
「日本人は、そがぁなことは人には言わんのよ」
 千鶴はうやむやに答えてごまかそうとした。だけど、スタニスラフは執拗しつように訊いて来る。
「イルデズゥカ?」
 いると言えばいいのに、言えなかった。気恥ずかしいし、今の進之丞との関係を考えると、胸を張って言えることではなかった。
 自分が進之丞に見せている態度は、好きな人に見せる態度ではない。何だかそのことを責められているみたいだ。
 千鶴が困って黙っていると、イナァイデズゥネとスタニスラフはにこやかに言った。しかし、勝手に決めつけられることに、千鶴は反発を覚えた。
「うちのこと訊く前に、ご自分のことを言いんさい」
「ガジブゥン?」
「スタニスラフさんには、いたお人はおるんかなもし?」
「ズゥイタ?」
「好きな人ぞな」
 スタニスラフはにっこり笑ってうなずいた。
ボクゥヴァ、ズゥキナヒタ、イマズゥ」
 へぇと千鶴は思った。日本人はそんなことは恥ずかしくて言えない。やはりスタニスラフは異国人なのだと改めて感心した。
「ほれは、どがぁなお人ぞなもし?」
「ドガナ?」
「スタニスラフさんが好いとるお人て、きれいなん?」
 スタニスラフはにこにこしながら言った。
「世界デ、一番、美シ ウツゥクゥ ィデズゥ」
 よく恥ずかしげもなく人前でそんなことが言えるものである。聞いている方が恥ずかしくなる。
「そのお人には、スタニスラフさんの気持ちは伝えんさったん?」
 スタニスラフは微笑みながら首を振り、マダネ――と言った。
「ヴァタァシ、サレェ、ハジメテ、キクゥネ」
 いつの間にか近くに来ていたミハイルが、驚いた顔で話に交ざって来た。幸子も興味津々の様子だ。
「サレェヴァ、ダレェ?」
内緒ナイシヨネ」
「アカァサン、シテマズゥカ?」
「知ラァナイ」
 はにかんだスタニスラフの笑顔はとても愛らしい。きっと告白された相手はスタニスラフを好きになるだろう。千鶴はその娘が羨ましかった。
 進之丞とぎくしゃくするようになった事の始まりは、辰蔵を婿にすると言われたら、という話だ。定かなことではないものの、そうなった時にどうするかは未だに決めかねている。これではもう一度進之丞と話し合っても結果は同じだ。
 千鶴は覚悟を決めた。選ぶのは進之丞以外にない。あとは家族や使用人たちが路頭に迷わないことを祈るだけである。

     四

 宿では夕食が用意されているので、墓参りが終わったあとは、ミハイルたちはどうの宿へ戻ることになっている。
 翌日に再び会う約束をし、ミハイルとスタニスラフは千秋寺せんしゅうじ停車場から電車で道後へ向かった。電車の後部から手を振る二人を見つめる幸子はごり惜しそうだったが、千鶴の頭は進之丞と話をすることでいっぱいだった。
 二人を見送ったあと、千鶴と幸子は同じく電車でまち停車場まで戻った。電車の中で二人は黙りこくり、古町に着いてからもほとんどしゃべらなかった。
 家に着くともう店仕舞いで、進之丞がでったちと表の掃除をしていた。
 進之丞たちに声をかけたあと、幸子はうら木戸きどから中へ入った。母がいなくなると千鶴は表に戻り、進之丞のそでをつかんで裏木戸の方へ引っ張って来た。 
 新吉が何だろうという顔で見ていたが、すぐに亀吉にしかられて、千鶴たちから見えない所へ連れて行かれた。
「何ぞな? あしはまた何ぞおまいぃにさわることをしてしもたんか?」
 うろたえ気味の進之丞に千鶴は首を振り、スタニスラフに抱かれたことをびた。
 進之丞はあんして笑い、そがぁなことは気にすんな――と言った。
 千鶴は小さくなりながら、ミハイルが父親で、スタニスラフは父親の再婚相手の息子だと説明した。
「最初は腹違いの弟やて思いよったんよ。ほんでも、あとで話聞いたら、ほうやなかったてわかってな……」
 弁解する千鶴に、かま構んと進之丞は明るく応じて、スタニスラフをいい男だと褒めた。さらに、もし千鶴があの男に心かれても自分は文句を言わないと、冗談めかして言った。千鶴をしょさせまいとのづかいかもしれないが、進之丞の態度に千鶴は落胆した。
 進之丞が怒っていないかと心配してはいたが、笑って済ませるぐらいなら怒ってほしかった。怒らないまでも、せめて文句の一つも言ってもらいたかった。
 スタニスラフに抱かれるのを目撃した時の進之丞は、とても悲しげな目をしていた。その悲しみを隠してのことだろうが、辰蔵たつぞうであれスタニスラフであれ望むのであれば喜んで千鶴を任せよう、と言わんばかりの言動は思慮に欠けている。特に今は二人の関係がよくないのだから考えるべきだ。
 そんな腹立ちを覚えながらも、千鶴は進之丞が自分をあきらめてしまったのではないかという不安も抱いていた。進之丞の他人ひとごとみたいな態度は、すでに心が離れたかのようにも見えた。
 千鶴はこれまでの自分の態度を詫びて、店を捨ててでも進之丞と夫婦になりたいという気持ちを伝えるつもりだった。けれど、今の進之丞を見て肩透かしを食らった気分になった。また、進之丞への腹立ちと不安で言うべきことが言えなくなった。
「とにかく、そがぁなことやけん」
 それだけ言うと、千鶴はがっかりしながら裏木戸をくぐった。今日こそは絶対に進之丞と話をしようと決めていたのに、千鶴の思惑は不発に終わってしまった。
 奥庭に入って裏木戸を閉めた千鶴は、進之丞の様子を思い返し、進之丞の本心を探ろうとした。だけど不安な気持ちで考えると、悪いことしか浮かばない。
 この一月ひとつきの間、千鶴は自分の態度を進之丞に詫びずにいた。初めは普段どおりに明るく接していたが、進之丞は千鶴がまったく反省していないと思っただろう。
 途中から不安になって進之丞に明るく振る舞えなくなってしまったが、進之丞には千鶴の想いが冷めたように映ったに違いない。
 そこへとどめのスタニスラフだ。あの悲しげな目は、今も千鶴の頭から離れない。
 千鶴はもう一度裏木戸を開けようとした。やっぱり進さんと話をしなくてはと思っていた。しかし、裏木戸に手をかけたまま開けることができなかった。進之丞の気持ちを確かめるのが怖かった。 
 けば進之丞は千鶴の幸せを考えていると言うに決まっている。でも、千鶴と夫婦になろうという想いは失せたかもしれなかった。今の吹っ切れた感じの進之丞は、千鶴が誰を好きになろうが構わないと開き直っているみたいだ。
 しちはあちこちの太物ふともの屋のあるじが進之丞を狙っていると言っていた。今の状況で進之丞が心優しい娘に出会えば、気持ちがそちらに向いてもおかしくない。その娘が心優しいだけでなく、容姿も美しい上に思いがけない苦労をしていたならば、進之丞はその娘を放っておけないだろう。
 すべては千鶴の妄想である。だが進之丞に思いもしない態度を見せられると、どんどん進之丞が離れて行くようで、最悪のことばかりが頭に浮かぶ。
 もし進之丞のそばにそんな娘がいたとしても、進之丞は千鶴を信じて、千鶴に心を残してくれていたと思われる。だが、それも千鶴がスタニスラフに抱かれるまでのことだ。あの時に進之丞の心の糸は切れてしまったのだ。
 千鶴はうなれて後悔した。悪いのは自分だ。すぐに詫びずに、進之丞が声をかけてくれるのを待っていたのも、進之丞の気持ちを軽く見ていたからだ。
 千鶴を完全にあきらめた進之丞が、自分を想う他の娘に心を寄せたなら、千鶴との関係が元に戻ることはない。
 進之丞にそんな娘がいるとは決まっていないのに、落ち込んで自信を失った千鶴には、それが事実に思えていた。
 とはいえ、いくら太物屋の娘が進之丞にれたとしても、笑顔に隠れた進之丞の心の内を見抜き、進之丞を慰めて寄り添える娘などいるとは思えない。いたとしても、そこまでの関係になるだけの時間は、進之丞にも相手の娘にもないはずだ。
 そんなことができるのは、自分のようにいつでも進之丞のそばにいる娘だけだと思った千鶴の頭に、ふとはなの顔が浮かんだ。
 花江はいつも進之丞の近くにいる。花江はいつも進之丞の様子に気を払っているし、進之丞を気遣える優しさと気配りを持ち合わせている。
 千鶴は凍りついた。そんなのは有り得ないと、即座に自分の考えを否定したが、まさかという思いはなくならない。
 花江は千鶴と進之丞の仲を知っているし、ずっと応援してくれていた。その花江が進之丞にちょっかいを出すわけがない。千鶴は必死に自分に言い聞かせたが、頭は勝手にいろいろ考えだした。
 近頃の進之丞の落ち込みに気づいた花江が、千鶴との間に何かがあったのかと心配し、進之丞の話を聞くというのはあるだろう。
 初めは話を聞くだけのつもりが、進之丞に同情するうち、次第に気持ちが惹かれるようになったのか。花江は進之丞に惚れない娘はいないと言ったのだ。
 こんなことは考えるべきでないと、震える体を押さえながら、千鶴はすぐに自分を戒めた。けれども喋りだした疑いの気持ちは黙ろうとしない。
 そういえば、近頃の花江はどんよりしていることが多い。ちょうど千鶴と進之丞がいさかいを起こした頃か、あるいはそれより少し前からだ。
 もしかしたら、その頃から花江は進之丞に心を寄せていたのかもしれない。千鶴にあまり声をかけなくなったのは、後ろめたさがあったからと考えられる。
 思い返せば、花江は進之丞と喋る時には明るさを取り戻していた。進之丞といるのがうれしいからだ。
 その花江が傷心の進之丞に気づき、その悩みを打ち明けられたならどうなるか。
 千鶴は胸が潰れそうになった。
 花江はもう二十五ではあるが、きれいな娘だ。面倒見もいいし、仕事もできる。それにとうきょうから来ただけあってはながある。あの孝平が一目惚れして、頭が上がらなくなったぐらいだ。
 一方、花江は関東の大地震で何もかも失った天涯孤独の身の上だ。どんなに明るく振る舞っていても、その顔の下には悲しさが隠れている。そんな花江の姿は、千鶴から見てもいじらしい。心優しい進之丞が心を動かされた可能性は否定できない。
 そうだったのかという気持ちと、そんなことあるものかという想いが、心の中でぶつかり合っているが、形勢は次第に前者に傾いて行く。
 千鶴は湧き起こりそうな怒りを必死に押さえた。自分が怒れば鬼が黙っていない。大好きな花江にもしものことがあったら、一生悔やみ続けるだろう。だけど、花江に進之丞を奪われたのかもという想いはなくならない。
 千鶴は大きく息をして気持ちを落ち着けようとした。けれども、勝手にこぼれ落ちる涙を止めることはできなかった。

     五

 翌日は幸子は仕事なので、千鶴が一人でミハイルたちに松山まつやまの街案内をすることになった。
 家の仕事は花江一人に任せるので、そのことを頼みながらも、千鶴は花江の顔がまともに見られなかった。
 昨日、千鶴たちが戻った時、花江は先に帰っていて、台所にいるトミを手伝っていた。千鶴の父親が訪ねて来たことをトミから聞かされていた花江は、千鶴と幸子を笑顔で祝福してくれた。
 だが、千鶴はその笑顔を素直に受け止められなかった。その笑顔の裏で、花江がどんな顔をしているのかと考えてしまい悶々もんもんとしていた。
 花江が進之丞を奪った証拠などどこにもない。なのに千鶴の頭の中には妄想が広がり、それが今朝になっても続いていた。

 ミハイルたちがやって来たと豊吉に知らされ、千鶴は帳場ちょうばへ二人を迎えに出た。花江も二人の顔を拝ませてもらおうと、仕事の手を休めて千鶴について来た。
 するとスタニスラフが千鶴に呼びかけ、いきなり千鶴を抱きしめた。花江は目を丸くし、昨日同じ場面を見たはずのでったちは思わず声を上げた。
 帳場には辰蔵と一緒に進之丞としちもいた。
 スタニスラフたちを初めて見る辰蔵と弥七は、それだけでも驚いただろうが、目の前でいきなりあるじの孫娘を抱きしめる男の姿には、開いた口がふさがらなかった。
 表には何人かの近所の者たちがいて店の中をのぞいていたが、スタニスラフが千鶴を抱くのを見て、興奮した声を出した。
 そんな中、進之丞だけは無表情のまま千鶴を見つめていた。もう昨日みたいな悲しげな顔はしていない。
 スタニスラフの意表を突く行動に、千鶴はあらがえなかった。スタニスラフに抱かれたまま、今の自分の姿が進之丞の目にどう映っているのかと千鶴はあせっていた。
 スタニスラフから離れた千鶴は、ちらりと進之丞に目をった。みんながまだ驚いた顔をしているのに、進之丞は注文書に目を戻して確認作業をしている。無関心を装っているのかもしれないが、本当に千鶴への関心を失っているようにも見えた。
 千鶴は非常識なスタニスラフに腹立ちを覚えた。だけどそんな気持ちは表に出さず、スタニスラフに明るく声をかけた。
 自分を抱いた男に笑顔を向ければ、進之丞がどんな顔をするかを確かめたかった。進之丞が少しでもやきもちを焼いてくれればという期待があったのだが、進之丞は淡々と注文書をめくっている。
 同じく注文書を確かめていた弥七は、ずっと手が止まったまま、何が起こっているのかという顔を千鶴たちに向け続けていた。
 やっぱし進さんの気持ちは離れてしまったのかと、千鶴は気持ちが沈んだ。それでも笑顔を繕い、続く父の抱擁ほうようを受けた。
 父に抱きしめられたのは、今の千鶴には大きな慰めだった。千鶴は父の腕の中で、思わず泣きそうになった。

 千鶴が初めにミハイルたちを連れて行ったのは、例の大丸だいまる百貨店だ。中に入ると、客たちは展示品よりも千鶴たちの方に顔を向けた。
 千鶴も含めて異国人の顔が三つも並んでいれば、嫌でもみんなが振り返る。千鶴はみんなの視線が気になったが、ミハイルもスタニスラフも慣れているのか平気なようだ。時には自分を見つめる人たちに、愛想を振りいている。
 二人は展示されている日本の着物などに、興味深げな目を向けていた。けれど、一番喜んだのはえれべぇたぁだ。
 二人が面白がる様子が千鶴はうれしかったが、進之丞がこれで喜んだと思い出すと悲しくなった。
 続いて千鶴は二人を勧商場かんしょうばへ連れて行き、そのあと善勝寺ぜんしょうじでお得意のぎり饅頭をまんじゅう 二人に振る舞った。
 一応はあんこが熱いからと注意はしたものの、二人はお決まりのようにほおったあんこの熱さに慌てふためいた。千鶴は笑ったが、進之丞と日切饅頭を食べた時のことが思い出されて切なくなった。
 そのあとはみなとまち商店街へ向かったが、かつて露西亜ろしあまちと呼ばれたほどロシア兵で潤ったこの商店街を、ミハイルは何度か訪れたことがあるという。
 今ではかなりさまわりをしているが、当時から洋菓子を売る菓子屋があった。千鶴たちがその店をのぞくと、年老いた店主が相好そうごうを崩して千鶴たちを迎えてくれた。
 店主は昔を懐かしみ、戦争は嫌だけれど、ロシア人がたくさん来てくれたのはよかったと言った。また、店主は千鶴が伊予いよの言葉をしゃべるのに驚いた。
 千鶴はめっにここの商店街には来ないし、来た時にもこの菓子屋には入ったことがなかった。それで店主は千鶴のこともロシアから訪れた娘だと思ったようだ。
 千鶴たちの事情を聞いた店主は、千鶴たち親子の再会を喜んでくれた。そして、祝いだと言ってお菓子をくれた。
 ミハイルもスタニスラフも松山まつやまの人はやっぱり親切だとうなずき合った。実際は千鶴は差別をされていたのだが、二人が楽しそうにしているのでそのことは黙っていた。
 露西亜町ではないが、大街道おおかいどうにもロシア捕虜兵に食べさせるパンを焼いていた菓子屋があった。その店もまだ残っていて、そこでも歓迎されたミハイルたちは、パンをただで分けてもらった。
 昼飯には大街道でぎゅうなべを食べた。醤油しょうゆと砂糖で味付けをした牛肉の鍋だ。
 ミハイルもスタニスラフも絶賛したが、実は千鶴も牛鍋を食べたのは初めてだ。とても美味おいしいので進之丞にも食べさせたいと思ったが、もう無理かもしれないと気持ちが沈んだ。

 食事のあとは松山まつやまじょうを見に行くことになった。
 けれど、城山の山頂までは急な坂道を登らなければならない。ロシア人墓地がある丘を登るのも大変なミハイルが、城山を登るのは困難だと思われた。
 その話をしても、スタニスラフは城の近くへ行ってみたいと言った。ミハイルも捕虜兵として松山にいた時には城山を登れなかったので、登れるものなら登りたいと言った。千鶴は仕方なく県庁裏から城山へ登る道へ二人を案内した。
 県庁は城山のふもとで東のお堀のすぐ手前にある。裁判所の前を真っぐ進むと、東のお堀に突き当たる。そこで右に曲がると、県庁の裏を回るように作られた登城道とじょうどうがあるのだ。
 裁判所の近くへ来た時、千鶴はミハイルたちに萬翠荘ばんすいそうの説明をした。しかし裁判所近くからでは、その後ろにある萬翠荘はよく見えない。
 千鶴は裁判所から少し離れた所まで二人を連れて行って萬翠荘を見せた。全部が見えたわけではないが、裁判所の後ろから顔を見せた萬翠荘を、美しいとミハイルたちは口をそろえた。
 二人はもっと近くで見たがったが、それはできないと知るととても残念がった。

 東のお堀までやって来た千鶴たちは、お堀に沿って城山の方へ道を曲がった。お堀は城山に突き当たると、そこの高い石垣に沿って左へ曲がる。その石垣の上には陸軍の衛戍えいじゅ病院があるが、千鶴たちがいる道から入ることはできない。
 千鶴たちの道も城山に突き当たるが、そこでお堀と別れて右へ曲がり城山を登る。これがまたかなり急な坂道で、杖を突くミハイルが登るのはやはり困難だ。
 スタニスラフが後ろから背中を押して登ろうとしたが、ミハイルは途中で登るのを断念し、城は下から眺めることにした。
 スタニスラフはあきらめきれない様子だったが、父をづかって千鶴が下りると決めると、仕方なく後ろについて来た。

 千鶴たちは南のお堀近くまで移動した。そこから後ろを振り返ると、山の上の城がよく見える。
 ミハイルはしばらく城を眺めたあと、千鶴に話しかけた。
「ヴァタァシナ、アジサン、ムゥカシ、ニホォン、アイデタネ」
「おじさん?」
「ヴァタァシナ、アトォサンナ、アトォサンナ、アトォサンネ」
 ミハイルは自分を差した指を、順繰りに上下させながら言った。それでそう祖父のことかと千鶴は理解したが、すぐに驚いた。千鶴からいえばこう祖父である。
「お父さんが言うておいでるおじいさんて、お父さんのひぃおじいさんのことじゃね?」
「ヒ?」
 きょとんとするミハイルに、千鶴は微笑みながら手を振った。
「ええのええの、気にせんで。ほれで、おじいさんは日本へ、何しにおいでたん?」
「アトォサン、イィマシタ。アジサン、フゥネ、シズゥンダ。ニホォンジン、アジサン、タズゥケタ」
 どうやら、この話をミハイルは父親から聞いたらしい。高祖父は乗っていた船が日本近くで沈没し、日本人に助けてもらったようだ。
 自分の高祖父が日本にゆかりがあっただなんて、不思議なことだと千鶴は思った。
「サレェ、ホントデズゥカ? ボクゥヴァ、初メテ、聞キマシタ」
 驚くスタニスラフに少し肩をすくめてから、ミハイルは言った。
「アジサン、イィマシタ。ニホォン、ヤサシィ、ダケドォ、コヴァイ、カナシィ」
 日本は優しくて怖くて悲しいというのは、どういうことだろうと千鶴は思った。
 そもそも高祖父が日本へ来たのはいつなのか。千鶴の頭に浮かんだのは、歩行かちまちに暮らしていたという祖父の祖父だ。こちらの高祖父は進之丞の父親の親友であり、前世の千鶴を養女に迎えようとしてくれた恩人である。
 恐らく父方の高祖父もその頃の人物だ。ということは、前世の自分の親ぐらいの歳なのか。
 当時の父親が自分を探しに黒船に乗ってやって来たのだから、ロシアの人間は思ったよりも頻繁ひんぱんに、日本を訪れていたのかもしれないと千鶴は思った。
 しかし、その頃の日本は異国人に対して排他的であり、異国人に襲いかかる攘夷じょうい侍がいた。高祖父を助けてくれた人々は優しくても、高祖父を敵視した者もいたと思われる。
 日本人と心を通わせたであろう高祖父は、命の危険を感じて日本から逃げ出したのだ。きっとそれが日本は優しく怖く悲しい理由だろう。
 高祖父が言ったという言葉に、スタニスラフは首をかしげていた。千鶴が当時の日本の状況を説明してやると、スタニスラフは納得した。ミハイルはちょっと違うと言いたげだったが、結局は何も言わなかった。

 この日、ミハイルたちは千鶴の家で夕飯を食べることになっていた。夕方であれば幸子も戻って来る。限られた時間を親子が共に過ごせるようにという甚右衛門の取り計らいだ。
 店に戻ると帳場に来客がいたので、千鶴たちは裏に回った。うら木戸きどへ近づくと、押し殺した泣き声が聞こえた。
 千鶴は後ろにいたミハイルたちに、静かにと口の前に指を立てて見せた。それから二人にそこで待つよう両手で示すと、そっと裏木戸のそばへ行った。すると、女の泣き声と男の声が聞こえた。やはり戸の向こうには誰かがいる。
 耳を澄ませて声のぬしを確かめた千鶴はぎょっとなった。泣いていたのは花江で、慰めているのは進之丞だ。
たださん、あたし、もうえられないよ」
「そげなこと言われんぞな。互いの気持ちはわかっとろ?」
「互いの気持ちがわかってたって、何の解決にもなりゃしないじゃないか! ねぇ、忠さんからだんさんに言っておくれよ。あたしたちれ合ってるんですって。お願いだよ。あたしたちが一緒になれるよう頼んでおくれよ」
 千鶴は息が止まりそうになった。まさかと思ったことが本当だったのだ。千鶴はこれまでにないほど打ちのめされみじめな気持ちになった。
 千鶴さんらがんて来たみたいと、中の二人に呼びかける豊吉の声が聞こえた。
 花江は明るい声で、今行くよと返事をした。だが、すぐには動かなかったようだ。時折、鼻をすする音が聞こえたが、あとは何も聞こえない。それが千鶴に余計な妄想をさせた。
 千鶴は泣きそうになるのをこらえながら、ここは通れないから表から入れてもらおうと、ミハイルたちに言った。
 千鶴の様子がおかしいのに気がついたミハイルたちは、何があったのかといて来た。だけど説明できるはずがない。何でもないと微笑んで、千鶴は二人を連れて店に戻った。中にいた客はちょうど帰るところで、弥七と亀吉が見送りに出ていた。
 帳場の辰蔵はにこやかにミハイルたちを迎え入れた。
 辰蔵が婿になると疑って以来、千鶴は辰蔵にもどんな顔を見せればいいのかわからずにいた。素っ気なく会釈えしゃくをして中へ入ると、奥から進之丞が現れた。
 進之丞が千鶴に声をかけたのに、千鶴は思わず顔をそむけると、返事も返さずに進之丞の脇をすり抜けた。
 台所には花江が戻っていた。新吉と豊吉も夕食の手伝いをしている。客が一緒の食事なので、いつもより準備が大変なのだろう。
 お帰んなさいと花江は明るく千鶴たちに声をかけた。さらにいつもの調子で、楽しかったかい?――とたずねた。
 何を空々そらぞらしいと思いながら、楽しかったと千鶴は笑顔を見せた。それでも笑顔は続かず、千鶴は横を向いた。
 千鶴は泣き伏したい気持ちを必死にこらえていた。こんなことになるのなら、進さんをここへ呼ぶのではなかったと、胸の中は後悔があふれていた。