> 野菊のかんざし > 晩餐会の夜

晩餐会の夜

     一

 千鶴はミハイルたちと一緒に、母が勤める病院を訪ねた。そこは一番町停車場の近くにある小さな個人病院だが、待合室には患者が何人もいて、診察に呼ばれるのを待っていた。
 ミハイルたちが現れたことで、そこにいたみんなが驚いたが、呼び出された幸子は驚きながらも少し嬉しげだった。
 しかし千鶴から事情を聞くと、予想どおりに幸子は戸惑いと困惑のいろを見せた。
 多分無理だと言いながら、一応幸子が院長に話をしてみると、やはり急に看護婦が一人いなくなるのは困ると、院長は幸子がいなくなることに否定的だった。
 だが、一緒に話を聞いてくれた院長の妻は理解があった。
 院長の妻は普段は事務仕事をしているが、若い頃は看護婦として働いていた。そのため急な事情がある時には、事務もしながら看護婦の仕事もこなしていた。そして今回のことを急な事情だと、院長の妻は認めてくれた。
 庶民が萬翠荘に招かれるということは、とても光栄なことであると院長の妻はわかっていた。また、これを邪魔することは久松伯爵の顔に泥を塗ることになると、夫の院長に忠告した。
 その忠告は院長をとても不安にさせたようだった。
 院長の妻は病室担当の若い看護婦を呼ぶと、入院患者の様子はどうかと訊ねた。若い看護婦は今はどの患者も落ち着いていて問題がないと言った。
 院長の妻は幸子の事情を説明し、午後から少し外来を手伝うことはできるかと訊いた。
 うなずいた若い看護婦は、幸子が萬翠荘へ招かれたという話に興奮し、外来の仕事は何とかするから絶対に行くべきだと言ってくれた。
 それで院長も渋々ながら、午後の診療から幸子が外れることを了承してくれた。
 院長の妻は久松伯爵夫妻に会えたなら、ここの病院のことをよく言っといて欲しいと幸子に頼んだ。
 幸子がわかりましたと応えると、絶対にお伝えしますけん――と千鶴も言った。
 無理だろうと思っていた晩餐会に、母と一緒に行けることになった千鶴は、気分がかなり高揚していた。
 スタニスラフのことで進之丞に気を遣ったり、反発したりもしていたが、萬翠荘に招かれること自体には胸が弾んでいた。しかも自分たちが主役の晩餐会である。
 この喜びは進之丞のことを忘れさせてくれる効果もあり、それがさらに喜びを強めていた。

 千鶴たちは午前の診療が終わるまで、近くをぶらぶらして待つことにした。
 昨日歩いたのとは違う道を歩いていると、提灯屋が目に入った。そこは歩行町で、店先に掲げられた大きな提灯には、重見提灯と書かれてあった。
 もしかしてここが祖父の実家だろうかと思った時、千鶴は甚右衛門が話してくれたことを思い出した。
 前世の自分はここの家の養女になり、それから進之丞と夫婦になるはずだったのだ。
「コレヴァ、提灯チヨチンデズゥネ」
 軒先に掛けられた提灯を見ながら、スタニスラフが言った。
 千鶴がうなずくと、横浜や神戸でも見たとスタニスラフは言い、店の中をのぞこうとした。
 千鶴は慌ててスタニスラフを引き留めると、あとで他の提灯屋に行こうと言った。
 スタニスラフは素直に従い、あとで土産に小さな提灯を買いたいとミハイルに話した。エレーナへの土産のようだが、今のミハイルは妻のことは考えたくないらしい。ボソボソと答えたロシア語は、否定したわけではなさそうだが、賛成したのでもないみたいだ。
 提灯屋から二人を引き離して安堵あんどしたものの、進之丞と自分の関係を思い出した千鶴は、萬翠荘へ行く興奮が少し冷めてしまった。
 本当ならば一緒にいられることを幸せに思うはずなのに、今は悲しみと惨めさばかりが浮かんで来る。
千鶴チヅゥサン、ドシマシタカ」
 スタニスラフが心配そうに声をかけて来た。隣でミハイルも怪訝けげんそうにしている。
 千鶴はすぐに笑顔を見せると、何でもないと言った。
 それでもスタニスラフが心配するので、少し緊張していると言ってごまかした。
大丈夫ダイジヨブゾナモシ。ボクゥ一緒イシヨーケン、大丈夫ゾナモシ」
 スタニスラフは覚えた伊予弁を交ぜながら、千鶴を励まそうとした。そのたどたどしい言い方の伊予弁が面白く、千鶴が笑うとスタニスラフとミハイルも笑った。
 もしこの二人がいなければ、今の自分はどうなっていただろう。そう思った千鶴は、二人と会えたことを嬉しく思い、心の中で二人に深く感謝した。

 病院の午前の診療が終わると、千鶴たちは幸子と一緒に電車で道後温泉へ向かった。
 晩餐会は夕方からなので、その前に温泉で体をきれいにしておくようにと、祖父母から言われていた。
 道後へ向かう電車の中で、千鶴も幸子もそわそわしていた。提灯屋で千鶴がミハイルたちに緊張していると言ったのは嘘だったが、今は本当に緊張していた。萬翠荘へ行ける興奮よりも、とんでもないことだという緊張の方が強くなっていた。
 それに対して、ミハイルとスタニスラフは次第に興奮が強くなって行くようだった。
 他の乗客の視線など全く気にしない様子で、ずっと二人でロシア語で楽しげに喋っている。何を喋っているのかと幸子がたずねると、ミハイルがにこにこしながら言った。
「バンサンカイ、エレーナ、ナイシヨネ。スタニスラフ、ヤクゥソクゥシタ」
「あら、スタニスラフはお母さんよりお父さんの味方なんじゃね」
 幸子がからかい気味に言うと、スタニスラフも笑顔でこたえた。
「オトォサン、ボクゥヲ、松山、ツゥレェテ来マァシタ。僕、タテモ、幸セ。ダカァラ、僕ヴァ、オトォサン、味方ネ」
 ミハイルは得意げな笑みを見せ、スタニスラフの肩を抱いた。
 電車に乗った時には、千鶴とスタニスラフは幸子とミハイルを間に挟んで座っていた。しかし、千鶴の隣にいた男が途中の停車場で降りると、スタニスラフは千鶴の隣へ移動して来た。
 千鶴はどきりとしたが、初めのような抵抗感はなかった。
 スタニスラフは千鶴の緊張をほぐすつもりなのか、ずっと喋り続けて、千鶴から笑顔を引き出そうとしていた。
 また、お互いをさん付けで呼ぶのをやめようと、スタニスラフは提案した。スタニスラフは千鶴のことを千鶴と呼び、自分のことはスタニスラフと呼ばせた。
 敬称をつけずに名前を呼ぶのは、上の者が下の者に対して呼ぶ時だけだ。いきなり名前だけで呼べと言われても、自分が偉そうになったみたいで、千鶴にはなかなかできなかった。
 それでも何度か「スタニスラフ」と、さん付けなしで呼ぶ練習をしているうちに、少しずつ馴染んで来た。また、それによってスタニスラフとの距離が近くなった気がした。
 そんなスタニスラフの優しさは、千鶴の心の傷に染み渡った。しかしスタニスラフは父とともに、明日神戸へ戻るのだ。
 そのあとはヨーロッパへ行くそうだから、今後、千鶴と顔を合わせることはないだろう。
 これが最初で最後の出会いだと思うと、千鶴は切なくなった。できれば自分も一緒に連れて行って欲しいと思ったが、そんなことはできるはずがない。
 それに、スタニスラフには心に想う人がいるわけで、結局、自分の居場所はどこにもないということだ。
 それでも今だけはスタニスラフは自分のすぐ隣にいる。
 千鶴は知らず知らずのうちに、スタニスラフに体を預けていた。

     二

 道後温泉で体を清めたあと、四人は再び電車で一番町停車場まで戻って来た。
 温泉へ向かう時と違って、電車の中の千鶴たちは、今度はみんな言葉少なだった。千鶴や幸子はもちろんだが、さすがにミハイルとスタニスラフも緊張しているようだ。
 一番町停車場へ着くと、千鶴はこのまま家に帰りたくなった。
 その気持ちを母に伝えると、幸子は自分も同じだと言った。
 しかし、ここまで来て晩餐会に出ないのは、ミハイルたちを落胆させるばかりでなく、晩餐会を主催してくれた久松伯爵や、関係者の人々に対して失礼になると幸子は言った。
 また、それは山﨑機織の恥でもあり、店の者たちみんなが恥ずかしい思いをすることになると、幸子は付け加えた。
 千鶴は言い返すことができず、晩餐会へ出る覚悟を決めた。
 電車を降りた千鶴たちは、お堀の方へ向かう電車を右手に見送りながら、電車のあとについて行くように西へ向かった。
 やがて右手に裁判所が現れたが、萬翠荘はその裏手にある。そこに萬翠荘があるのは知っていても、そこへ行く道がどこなのかを千鶴たちは知らなかった。
 裁判所の手前に細い道があり、その突き当たりに門と建物がちらりと見えた。その奥にあるのは城山だ。
 裁判所の前では洋装の男四人がたむろしていて、煙草を吸いながら胡散臭うさんくさげにこちらを見ている。
 裁判所の向こう側にも道があるのかもしれなかったが、何だか男たちの雰囲気が悪い。男たちを避けるためもあり、千鶴たちは手前の道を入って行った。
 道の突き当たりには門があった。ちらりと見えていた建物は洋風の立派なもので、その家から出て来た男が、何のご用かと訊ねた。
 スタニスラフが男に説明しようとしたが、スタニスラフの日本語は男にはわかりにくいようだった。それで幸子が代わって説明すると、男はにっこり笑って、お待ちしておりましたと言った。
 やはりここが萬翠荘へ向かう道で、男は門番役のようだ。
 男は門を開けて丁重に千鶴たちを中へ迎え入れ、萬翠荘へはこちらの道を進んで下さいと、森を抜ける坂道を指し示した。
 男の丁寧な対応に、千鶴は自分たちが特別な客として扱われているのだと胸が高鳴った。
 木々に囲まれた道を歩いていると、とてもここが街中だとは思えない。小鳥のさえずりが耳に心地よく、森の香りが胸にみる。
 辺りを眺めながら少し歩くと、右手に森に抱かれた西洋風の建築物が見えて来た。萬翠荘だ。
 いつも目にする萬翠荘は、裁判所の後ろに隠れるようにしているが、この日の萬翠荘は何物にも遮られない堂々とした姿で建っている。しかも自分たちのすぐそこだ。
 一歩一歩近づくにつれて千鶴の胸はどきどきし、足取りは重くなった。それは母も同じらしく、表情が硬くなっている。
 それに対して、ミハイルとスタニスラフは足取りも軽い。さっきは緊張していたのに、今は浮き浮きした気分の方が強いようだ。
 坂道は先の方で右へぐるりと回っている。そこを登って行くと、目の前に萬翠荘がその全貌を現した。
 萬翠荘はどっしりした石造りの建物で、壁面は白い煉瓦れんがを積み上げたようだ。
 至る所に大きなガラス窓があり、玄関と思われる所には観音開きの大きな扉がある。また、その上には広い見晴らし台が、ひさしのように伸びている。
 二階建てのように見えるが、屋根にも小窓がたくさんある。屋根裏にも部屋があるみたいだ。
 その屋根は急勾配で、うろこのような瓦で覆われている。
 また、見晴らし台の上方と建物の右側の角の屋根は、尖塔のように上に突き出している。西洋のお城はこんな感じなのだろうかと思わせる、美しくかつ威厳がある形だ。
 間近で見る萬翠荘は、まさに異国そのものだった。
 千鶴たちが建物の壮麗さに見とれていると、玄関から伯爵夫妻が現れた。
 千鶴と幸子が思わず平伏しようとすると、お気軽にと言って、伯爵は二人を立ち上がらせた。
 左右に伸ばした伯爵の口髭は、両端が上を向いてぴんと跳ね上がっている。それだけでも、千鶴は身分の違いを感じざるを得なかった。
 どう挨拶をすればいいものやらと、千鶴と幸子がうろたえていると、ようこそおいで下さいましたと、優しげな夫人が千鶴たちをねぎらってくれた。それで千鶴たちも反射的に、夫妻に深々と頭を下げて、何とか挨拶をすることができた。
 ミハイルとスタニスラフも伯爵夫妻を前にしては、再び緊張していたようだ。さっきまでとは違って表情も口調も硬く、何度も挨拶を間違えた。
 伯爵は笑いながらミハイルたちと握手を交わし、みんなを屋敷の中へいざなった。
 大きな玄関を潜って中へ入ると、石造りの広い床の先に三段の階段があり、その上にさらに大きな扉があった。これも観音開きの扉で、どちらの扉にも大きなガラスがはめてある。
 伯爵が扉の前に立つと、中にいる者が扉を開けた。見えたのは、床一面に敷き詰めた赤い絨毯と、広く立派な造りの階段だ。
 階段にも赤い絨毯が敷かれており、その先の踊り場にはとても大きなガラス窓があった。そのガラスは色のついたもので、海を行く帆船が描かれている。
 入り口の両脇には巨大な石の柱がそびえ、左手の柱の近くには、使用人と思われる人たちがずらりと並んでいた。
 先に中へ入った伯爵夫妻が、どうぞと千鶴たちを招いた。
 ミハイルとスタニスラフは千鶴と幸子を先に行かせようと、それぞれの手を前に差し伸ばした。
 とんでもないと千鶴たちがそれを拒むと、ロシアでは男はあとで女が先だとミハイルが説明した。
 千鶴と幸子は仕方なく先に足を踏み入れ、階段の手前で履物を脱ごうとした。すると、伯爵にそのまま入るようにと言われた。
 確かに、伯爵も夫人も履物を履いたままだった。千鶴は熱くなった顔を伏せながら、顔を赤らめた母と一緒に中へ入った。
 その途端とたん、並んでいる使用人たちが次々に頭を下げて歓迎してくれた。すっかり恐縮した千鶴と幸子は、一人一人にお辞儀を返して進んだ。
 ミハイルとスタニスラフも千鶴たちにならって使用人たちに挨拶をした。その様子を見た伯爵夫妻はにこやかに笑っていた。
 玄関の広間は両側に大きな扉が並んでいた。千鶴たちがきょろきょろしていると、夫妻はみんなを二階へ招いた。
 どきどきと言うより、びくびくした感じで階段を上がると、正面の踊り場にある、帆船の色ガラスを間近で眺めることができた。
 描かれているのは海原うなばらに浮かぶ帆船と、空に浮かぶ白い雲、それに数羽のカモメだ。海の波の描き具合で、船が遠くにあるように見える。全体的に美しく、また落ち着きのある色合いの絵だ。
 絵だけでも素敵なのに、これをガラスで表現しているところが尋常ではない。
 そもそもガラス自体が貴重で珍しいものである。それなのに、色ガラスを組み合わせて絵を描くなど、千鶴たちには考えが及ぶことではなかった。
 千鶴たちが足を止めてガラスの絵に見入っていると、階段を上がりかけていた伯爵が、これはすてんどぐらすというものだと話してくれた。この帆船は伯爵が船で西洋へ渡った思い出を描いたものなのだと言う。
 そう言われて、改めて帆船を眺めた千鶴は、はっとなった。そこに描かれた黒っぽい帆船が、前世で自分を迎えに来た黒船のように思えたのである。
 千鶴に背を向け、迫って来る侍たちを迎え撃とうとしている進之丞の姿が見えた。
 千鶴は思わず進之丞の元へ行こうとした。その時、後ろから誰かに押さえられた。振り返ると、そこに父ミハイルの顔があった。
「ドカ、シマシタカ」
 千鶴の両肩に手を載せていたミハイルは、驚いた顔をしている。
 一瞬、千鶴は自分がどの時代にいるのかわからなくなった。
 あの時に振り返って見た人物は、当時の自分の父だったのだろうか。混乱していてよく覚えていないが、もしかしたら今の父は、当時も自分の父だったのかもしれない。
「何でもないけん」
 千鶴はミハイルから顔を背けると、ご夫妻が待っておいでると、絵を眺めている母を促した。
 千鶴は階段を登りながら、自分を護ろうとしてくれた進之丞のことを考えた。
 命を捨ててまで自分を護ろうとしてくれた人なのに、どうして心変わりをしたのだろう。生まれ変わるとは、そういうことなのだろうか。
 千鶴は切なくなったが、嘆いている暇もなく二階へ上がると、伯爵はミハイルとスタニスラフを正面の部屋へ招いた。
 伯爵夫人は千鶴と幸子を別の部屋へ案内し、そこで侍女に手伝わせながら、自分で二人に着せる衣装や履き物を選んでくれた。
 それは夫人の若い頃の物で、二人に貸してくれるということだった。
 千鶴も幸子も恐縮したが、夫人はてきぱきと衣装を選ぶと、千鶴たちに着替えさせた。
 それぞれ髪も洋風に整えられ、化粧もしてもらったあと、全て仕上がった姿を互いに見て、二人一緒に驚きの声を上げた。
 母は華族の一人であるかのように、気品あふれる美しさに包まれていた。
 その母がしきりに褒めてくれるのだが、自分の姿はどうなのだろうと、千鶴はどきどきしながら大鏡の前に立った。
 そこにいたのは息を呑むほど美しい女性で、すぐにはそれが自分だとは思えなかった。
 千鶴たちが応接室へ通されると、すでに着替えて待っていたミハイルとスタニスラフは、目を丸くして立ち上がり、ハラショー ポルチーラシ(素晴らしい!)!――と連発して叫んだ。
 スタニスラフは千鶴に駆け寄り、手を取ると口早に言った。
千鶴チヅゥ、ティ オーチン クラシーヴァヤ!」
「あの、何て言うたん?」
 上気じょうきしながら千鶴が訊ねると、スタニスラフは感激した様子で言った。
千鶴チヅゥ、ヴァナタヴァ、タテモ、美シィ」
 同じ言葉で幸子を褒めていたミハイルは、千鶴のそばへ来ると、感無量と言った感じで首を振った。

     三

 千鶴たちは再び一階に下りた。着慣れない洋装なので、千鶴も幸子も階段を下りにくかったが、侍女たちが手伝ってくれた。
 階段を下りると左手には扉が二つある。使用人の一人が手前の扉を開けてくれた。
 伯爵夫妻に続いて部屋に入ると、見たこともない美しい輝きが目に飛び込んで来た。見ると、きらきらときらめく光の房が、天井に二カ所吊り下げられている。電球の光に違いないが、見た目には電球に見えない。
 二階の部屋の天井にも、たくさんの電球が集まったものが吊り下げられていた。だが、どの電球もどこの家にでもある物とは違い、とても美しい形をしていた。
 伯爵夫人に訊ねたところ、それはしゃんでりあと呼ばれる西洋の照明だそうだ。
 二階で見たしゃんでりあも素敵だったが、この部屋のしゃんでりあは格別だ。電球が見えないほど、多くのガラスの棒や粒で装飾されており、それぞれが光を帯びて煌めいている。
 いつの間にか窓の外は夕闇が迫っていたので、それが余計に光の華やかさを引き出しているようだ。
 普通の家では、みんなが集まる部屋に一つの電球があるだけだ。電球がない家も珍しくない。千鶴たちの家にしても、電球があるのは茶の間だけである。
 それなのに、ここでは電球がふんだんに使われている上に、豪勢な装飾が施されている。それはまさに、ここが自分たちが暮らす所とは別の世界であることの象徴のようだ。
 千鶴と幸子が部屋の入り口にたたずんで、しばらく光の房に見入っていると、後ろからスタニスラフに声をかけられた。
千鶴チヅゥ、早クゥ、前ニ、行テクゥダサァイ」
 自分たちが部屋の入り口をふさいでいることに気づいた千鶴たちは、ごめんなさいと言いながら慌てて前に進んだ。
 部屋は黒茶色を基調として造られており、床に敷き詰められた絨毯も、黒地に花が描かれている。
 白い布がかけられた丸い机がいくつかあり、そこには多くの人たちが座っていた。鈴木医師や仲間の医師、収容所の元所員、当時の通訳などのようで、それぞれ夫人同伴だった。
 みんなの拍手の中、千鶴たちはまだ誰も座っていない机の席に着いた。
 最初、拍手はミハイルたちに向けられたものだと、千鶴は思っていた。しかし、千鶴が部屋に入った時のどよめきから、自分にも向けられているのは間違いようだった。
 自分は華族でもなければ著名人でもない。ただの小娘に過ぎないのにこれほど注目されるなんてと、千鶴はすっかり舞い上がっていた。
 恐らく母も同じ気分なのだろう。客たちに微笑む顔が強張っているように見える。
 緊張を解すつもりで、千鶴は部屋の中を見回した。
 部屋の入り口から見て正面と左側の壁には、出入り口のように大きなガラスの窓がいくつもある。それぞれの窓には芝居の幕のような布が、左右に押し広げるように飾られている。
 その幕のような布の間には、装飾模様のある白く薄い布があり、窓を覆っている。だが、この白い布は向こうが透けて見えるので、外が暗くなっているのがわかる。
 右側の壁の真ん中にはおくどようなものがある。しかし竈のような奥行きはなく、たくさんの小さな青白い炎が、中でちろちろとうごめいている。
 あれは何かと千鶴が小声で訊ねると、暖炉のようだとスタニスラフは言った。しかし、千鶴が暖炉を知らないとわかると、部屋を暖めるものだとスタニスラフは説明した。
 するとミハイルが、あれはガスの火のようだと言った。言われて見ると、確かにガス燈の火のように見える。
 ロシアの暖炉は薪を燃やすそうで、ガスの暖炉は二人にも珍しいようだった。
 上を見上げると、黒茶色の天井は格子状になっている。木で造られているようだが、細かい煌めきが散りばめられている。それが何かはわからないが、しゃんでりあの光を反射しているみたいだ。
 伯爵夫妻は千鶴たちとは少し離れた別の席に座った。そこにはすでに一組の年配の夫婦と思われる人たちが座っていた。
 席に着いたあと、間もなくして伯爵はすぐに立ち上がると、お待たせしました――と来客たちに声をかけた。
 伯爵は晩餐会を開くことになった経緯を簡単に説明し、千鶴たちを一人一人紹介した。
 男性客たちはほとんどがミハイルを知っているようで、ミハイルが立ち上がってお辞儀をすると、声をかける者が何人かいた。
 幸子が紹介された時も声をかける者がいたが、千鶴とスタニスラフは一人も知っている者がいない。しかし二人が紹介されると、温かい拍手が二人を包んでくれた。
 伯爵は先にスタニスラフを紹介し、ミハイルの息子だと言った。続けて千鶴を紹介し、ミハイルと幸子の間に産まれた娘だと説明した。
 誰かが二人は姉弟なのかと訊ねると、伯爵はスタニスラフについて、ミハイルがロシアで結婚した女性の息子だと言った。
 それを聞いた女性客たちは、妻がいるミハイルが幸子と一緒にいることに、納得できない様子を見せた。
 伯爵夫人はすかさず、間もなく日本を離れるミハイルが、こうして親子の対面ができたのは神のお導きでしょうと言った。
 その奇跡に自分たちが関われたことは、とても素晴らしいことだと思います――と話す夫人の言葉は、女性客たちを静かにさせた。
 続いて伯爵は先に席に着いていた来賓たちを、順番に千鶴たちに紹介した。
 ミハイルは鈴木医師以外は、あまりよくわからなかったようだ。しかし伯爵から説明を受けて、本人からも挨拶をされると、ようやく思い出したように笑顔で応えていた。
 幸子はミハイルよりは覚えていた。だが、年月が経ってそれぞれが歳を取っているので、やはりすぐには相手のことを思い出すのはむずかしいようだった。
 伯爵夫妻と同じ所にいる年配の夫婦は、幸子はわからないようだった。だがそれもそのはずで、伯爵が最後に紹介したその夫婦は伯爵の知人であり、ロシア人墓地の管理をしているとのことだった。
 それぞれの紹介が終わり、ガラスの器に入れられた飲み物がみんなに配られると、鈴木医師が挨拶を兼ねた短い演説をした。
 それからみんなで乾杯をしたが、千鶴は出された飲み物を水のように飲み干した。緊張で喉が渇いていたからだが、その飲み物は甘くて美味しかったので、つい一気に飲んでしまった。
 飲み終えてから、他の人々が飲み物を全部は飲んでいないことに千鶴は気がついた。思わず下を向いたが、恥ずかしくて顔は火照ほてるし、胸はどきどきしている。
 それでも初めて飲んだこの飲み物はとても美味しかった。お代わりが欲しいと思っていると、給仕の者が来て千鶴の器に飲み物をぎ足してくれた。
 よく見ると、水のように透明ではあるが、ほんのり淡い色がついている。いい香りに誘われると、千鶴はまたその飲み物を飲み干した。
 次々に運ばれて来るご馳走も、今まで見たことがないような物ばかりだった。添えられた小さな包丁のような物や、小さなすきのような物も、どう扱っていいのかわからない。
 困っていると、スタニスラフが丁寧に教えてくれた。
 母を見ると、同じように父に助けてもらっている。
 とにかく緊張の連続で、料理の味もよくわからないまま、千鶴はしきりに飲み物を口へ運び、そこへは新たな物が注ぎ足された。
「千鶴、あんた大丈夫なんか? これ、西洋のお酒やで」
 千鶴の様子に気づいた幸子が、心配そうに声をかけた。
「お酒? こがぁな美味しい飲みもんがお酒なん?」
 自分でも口調が軽くなっているのがわかるのに、それを千鶴は何とも思わなくなっていた。
千鶴チヅゥ、モウ、終ワリィネ」
 スタニスラフに言われると、千鶴はかえって強気になり、さらにぐびぐび飲んだ。
 千鶴はいつも酒を飲むのかとミハイルが訊ねると、幸子は首を横に振った。ミハイルは身を乗り出して千鶴から器を取り上げると、オシマァイネ――と父親らしく言った。
 千鶴は文句を言ったが取り合ってもらえず、今までずっと放って置かれたことをミハイルに愚痴った。
「うちがどんだけ寂しかったか、お父さんにはわからんじゃろ」
 幸子は周囲を気にしながら千鶴を叱った。
 ミハイルは席を立つと千鶴のそばへ行き、千鶴を抱きしめた。千鶴は父の胸でわぁわぁ泣いた。
 伯爵夫妻が大丈夫かと心配したが、父親と離ればなれになるのが悲しいだけですと、幸子は夫妻や周囲の人たちに理解を求めた。
 せっかく会えた父親とすぐに別れることへの悲しみが、確かに千鶴にはあった。
 だが千鶴が泣いたのは、それだけが理由ではない。進之丞の心変わりが悲しくつらかったのである。
 誰にも相談できないし、どうしていいかわからない。そこへ父親との別離が重なり、押さえていた感情が爆発したのだった。
 千鶴が泣くのをやめると、ダイジヨブ?――とミハイルは千鶴に確かめた。
 千鶴がうなずくと、今度はスタニスラフが千鶴を抱きしめた。
千鶴チヅゥ、ヴァナタニヴァ、ボクゥガ、イルゥ。ダカァラ、泣カナイデ」
 頭の中がぐらんぐらんと回っているようで、千鶴は考える力が落ちていた。スタニスラフの言葉の意味が、よくわからないまま素直にうなずき、スタニスラフの腕に身を任せた。

     四

 食事が終わると、みんなで隣の部屋に移った。
 そこは白を基調とした部屋で、絨毯は赤地に花が描かれている。
 ここにも隣の部屋と同じようにガスの炎の暖炉があり、大きなガラスの窓がいくつもあった。窓の向こうは真っ暗だ。
 白い天井には、電球が花の形に装飾されたしゃんでりあが吊り下げられている。壁のあちらこちらには、ろうそくが灯されていると千鶴は思ったが、これもよく見ると、ろうそくの形をした電球だった。
 部屋の隅には大きなピアノが置かれている。千鶴は学校で見て知っているが、幸子はピアノがわからない様子だ。
 ピアノの脇には来賓とは違う人たちが、いろんな楽器を携えて集まっている。これからここで演奏をするのだろうか。
 ここには食事をした部屋のような机はないが、部屋の端にはいくつかの椅子が用意されている。
 人々は立ったまま、あるいは椅子に座ってお喋りを楽しみ、給仕の者たちが所望する者たちに飲み物を配っていた。
 給仕は千鶴たちにも飲み物はいかがですかと訊きに来た。
 千鶴はさっきのお酒を頼もうとしたが、幸子が先に、この子には水をと言った。給仕から渡された水の器を受け取ると、千鶴は不満げに母をにらんでから一口飲んだ。
 ミハイルや幸子の周りには、すぐに人が集まって来たが、千鶴やスタニスラフの所にも、代わる代わるに人が来て同じような質問を繰り返した。
 頭はぼーっとしていたが、恥をかかないように、相手に失礼にならないようにと、千鶴はそれだけを考えていた。
 何を言われても笑顔を絶やさず、はいはいと返事をしていた。
 鈴木医師がやって来て、スタニスラフのことをどう思うかと訊ねて来た。千鶴はスタニスラフを見ると、優しくて素敵な人だと答えた。
 鈴木医師がスタニスラフに千鶴のことを訊ねると、スタニスラフは千鶴を見て微笑んだあと、はっきりと言った。
千鶴チヅゥヴァ、世界デ一番、大ズゥキナ人デズゥ」
 千鶴はスタニスラフの言葉を、ただの褒め言葉あるいは励ましの言葉だと受け止めた。
「だんだん。うちもスタニスラフを世界で一番好いとるぞな」
 お返しのつもりでにこやかに応じると、スタニスラフは思わず胸で十字を切り、感激したように千鶴を抱きしめた。
 ここには進之丞はいない。周りにいる人たちも、知らない人たちばかりだ。それで千鶴はスタニスラフに抱かれることに抵抗を感じなかった。むしろ、今の自分に優しくしてくれるスタニスラフの腕の中に、ずっといたい気分だった。
 二人の様子を見て驚いた鈴木医師は、目を丸くして言った。
「何と何と、二人はもうそがぁな関係になっとるんかな」
 周囲にいた他の者たちも、二人の言葉を聞いて集まって来た。
 鈴木医師とは別の医師が言った。
「ほやけど、スタニスラフくんはすぐにんでしまうんじゃろ? 千鶴ちゃんはどがぁするんな? スタニスラフくんについて行くんかな?」
 スタニスラフには世話になった。いくら感謝してもしきれないくらいだ。それで千鶴はスタニスラフへのお世辞のつもりで、スタニスラフにはずっとそばにいて欲しいと言った。
 しかし、スタニスラフが松山にはいられないとなると、どうするのかと訊かれると、千鶴は口をつぐんだ。
 自分は辰蔵と夫婦になることになっている。自分が松山を離れれば山﨑機織は潰れるだろう。辰蔵と一緒になることは本意ではないが、店が潰れて祖父母が泣く顔は見たくない。
 ただ、進之丞がいる所からは逃げたい気持ちがあった。このまま進之丞と一緒にいるのはつらかった。
 それでも進之丞のことを考えたことで、心の奥に隠れていた悲しみが込み上げて来た。
 千鶴が黙って涙をこぼすと、人々はその涙をスタニスラフとの別れを悲しむ涙と受け止めたようだった。
 まだ出会って間もないはずの二人が、それほどまでに惹かれ合ったのかと、来賓たちはみんな心を打たれた様子だ。
「これは何と言うべきか。ともかく二人を祝福しましょう」
 久松伯爵が拍手をすると、みんなも千鶴とスタニスラフに拍手をした。
 千鶴は何故みんなが拍手をするのか、よくわからなかった。しかし、とにかく失礼にならないようにと、涙を拭いて会釈を続けた。
 慌てたように千鶴のそばへ来た幸子は、困惑しながらみんなに頭を下げると、潜めた声で千鶴に言った。
「あんた、自分が何言いよんのかわかっとるんか?」
 せっかくみんなが祝福してくれているのに、水を差すようなことを言う母を、千鶴はじろりと見た。
「今自分が何言うたか、わかっとるんか?」
「わかっとるよ」
 口を尖らす千鶴を、幸子は信じていないようだ。
「ほんまにわかっとるんか?」
「わかっとるてば」
 千鶴はそう言いながら、何かまずいことを言ったのだろうかと考えた。だが、何を言ったのかさえ正確には思い出せない。
 すると、音楽が聞こえ始めた。西洋の音楽のようだ。演奏しているのは、部屋の隅で待機していた楽器を携えた人たちだ。
 伯爵は舞踏会の始まりを伝え、男の客たちは自分の妻と一緒に踊り始めた。伯爵夫妻も千鶴たちに声をかけると、いざなうようにして踊った。
 ミハイルは幸子の手を取り、アドリマシヨ――と誘った。幸子は踊りを知らないと言ったが、ミハイルは自分が教えると言った。
 幸子は千鶴を気にしているようだったが、結局、ミハイルに手を引かれて踊り始めた。
 ミハイルは足が悪くて杖を突いていたが、この時ばかりは杖なしだった。そのため、ミハイルは幸子に教えると言っておきながら、転びそうになるのを幸子に支えてもらっていた。
 それでも一応は幸子に指示を出し、幸子はぎこちなくだが言われたとおりに体を動かしていた。本当は恥ずかしいだろうが、とても幸せそうな顔をしている。
 千鶴が幸子を眺めていると、スタニスラフが声をかけた。
千鶴チヅゥボクゥト、アドテクゥダサァイ」
「ほやかて、うち、踊り方知らんし」
 千鶴が逃げようとすると、スタニスラフは千鶴の手をつかまえ、幸子だって踊っていると言った。
ボクゥガ、アシエマズゥ。ダカァラ、心配ナァイ」
 スタニスラフは千鶴が持っていた水を奪い取ると、椅子の上に置いて、千鶴を踊りの場へ引っ張り出した。
 千鶴は覚悟を決めた。笑うなら笑えである。
 普段の千鶴ならスタニスラフが何と言おうと、こんなことは拒んだはずだった。しかしこの時は、気持ちが大胆になっていた。
 さっぱりわからない踊りをスタニスラフに教えられながら、千鶴は周りの人たちを見様見真似で踊った。
 そのうち踊り方が呑み込めて来ると、次第に踊ることが楽しくなった。スタニスラフに身を任せるのが心地よく、スタニスラフに抱かれると体の芯が熱くなった。
 気がつけば他の者たちは踊るのをやめ、スタニスラフと千鶴だけが、みんなの視線を集めながら踊っていた。
 初めて踊ったとは思えないと、伯爵夫妻が千鶴を褒めると、人々も大きくうなずいた。
 踊り終わったあと、千鶴はスタニスラフに言われたように、軽く膝を曲げてみんなに会釈をした。
 拍手喝采を受けた千鶴に、恥ずかしいという気持ちはなく、気分はさらに高揚した。

     五

 夢のような時間が過ぎ、会がお開きになったのは、とっぷり日が暮れてからのことだった。
 着物に着替えた千鶴たちは、伯爵夫妻に何度も礼を述べて外へ出た。そこには二人掛け人力車が二台用意されていた。一台は千鶴たちで、もう一台はミハイルとスタニスラフのだろう。
 明日になれば二人は神戸へ戻り、それっきりになるのである。そう考えると千鶴は寂しくなった。それで人力車の脇に立ち続けていると、スタニスラフに早く乗るよう促された。
 仕方なく千鶴が人力車に乗り込むと、隣の席にスタニスラフが乗った。
 見ると、もう一方の人力車には幸子とミハイルが乗っている。見送りに出てくれていた伯爵夫妻は、それぞれ別に帰るのではないのかと確かめた。
 するとスタニスラフが、まず千鶴たちを家まで送り届けてから道後の宿へ戻ると説明した。夫妻が納得してうなずくと、スタニスラフは車夫に紙屋町へ向かうよう伝えた。
 車夫は三人いた。一人が前で引き、もう一人が後ろから押すようだ。残りの一人は提灯を持っての先導役である。
 進さんなら暗くても一人で引いたのにと、千鶴はふと思った。だが、進之丞のことを思い出すと悲しくなる。
 千鶴は考えるのをやめて、スタニスラフと微笑み合った。

 やや膨らんだ半月が、西の空に傾いている。
 空は月明かりと星明かりで薄明るいが、人力車が走る街は、街灯がなければほとんど真っ暗だ。こんな時刻に外にいるなど、祭りの時以外ではないことだ。
 誰もいない道を人力車はがらがらと走る。ミハイルと幸子を乗せた人力車が先で、千鶴たちの人力車はそのあとに続く。
 自分たちを乗せる人力車が、後ろであることに千鶴は安堵していた。それはスタニスラフと一緒にいることへの、後ろめたさかもしれなかった。
 それでも明日スタニスラフがいなくなることが、千鶴は切なかったし、こうして一緒に人力車に乗れたことが嬉しかった。
 スタニスラフなら自分を幸せにしてくれるのだろうかと、そんなことを考えた時、不意に進之丞の姿が頭に浮かんだ。
 それは、まだ自分の正体を明かしていなかった頃の進之丞だ。
 ――おらな、お不動さまにお願いしたんよ。千鶴さんが幸せになれますようにて。ほじゃけん、千鶴さん、絶対に幸せになれるぞな。
 千鶴は泣き出した。
 あの時の進之丞は、どういうつもりであんなことを言ったのか。いや、進之丞は間違いなく法生寺の不動明王に千鶴の幸せを願ったはずだ。なのに、どうして心変わりなどするのだろう。そんなのは辻褄つじつまが合わない。無茶苦茶な話である。
 スタニスラフは千鶴を慰め、千鶴の手を握った。
千鶴チヅゥボクゥヴァ、千鶴カラ、離レタクゥナァイ。ドカ、僕ト、結婚ケコンシテクゥダサァイ」
 まだ頭はぼーっとしてはいたが、思考力が戻っていた千鶴は、スタニスラフが何を言っているのかを理解した。
「スタニスラフが言うておいでた大好きなお人て、うちのことやったん?」
「ハイ。サキモ、ミンナイルゥ、トコォロ、同ジィコト、言ィマァシタ。千鶴チヅゥモ、同ジィコト、言ィマァシタ」
「さっき? うちがみんなの前で?」
 何も覚えていない千鶴はうろたえた。そんなことを自分はみんなの前で言ってしまったのか。
 思わずスタニスラフから手を引くと、スタニスラフはすぐに千鶴の手を握り直した。
ボクゥヴァ、千鶴チヅゥガ、大ズゥキ。ドカ、僕ト、結婚ケコンシテクゥダサァイ」
「ほ、ほんなん無理やし」
 千鶴は手を握られたまま、顔を背けるようにして前を向いた。前方では、こちらの提灯の明かりに照らされながら、両親が乗る人力車ががらがらと走っている。
 ふわんと音が鳴ったと思うと、突然辺りが明るくなった。すぐに後ろから来た電車が人力車の右脇を通って、千鶴たちを追い抜いて行った。乗客はほとんどいない。
 貴重な明かりが去って行くと、辺りは再び闇に包まれた。
 スタニスラフは千鶴の顔を自分の方へ向けた。
千鶴チヅゥ、ヴァナタガ、誰ヨリ、大ズゥキデズゥ」
 暗がりの中だが、淡い月明かりに照らされてスタニスラフの顔が見える。スタニスラフはじっと千鶴の目を見つめ続けている。
 その顔がゆっくりと千鶴に近づいて来た。千鶴の胸の中で心臓が暴れている。
 次にどうなるのかを千鶴はわかっていた。そして、それを期待している自分がいた。だが一方では、こんな事は恥知らずだと訴える自分もいた。
「いけんよ」
 千鶴はスタニスラフから顔をらした。しかし、スタニスラフは再び千鶴の顔を自分の方へ向けた。吸い込まれるような目に見つめられ、千鶴はもう抵抗できなくなった。
「ヤー・ティビャー・リュブリュー(君を愛してる)」
 スタニスラフはつぶやくと、千鶴の唇に自分の唇を重ねようとした。千鶴はあきらめて目を閉じた。暗闇の中で進之丞が悲しそうに見つめている。
 突然、人力車が動きを止め、千鶴たちは前へつんのめった。
 我に返った千鶴はスタニスラフから体を離すと、何事が起こったのかと前を見た。すると、前をふさぐように男が二人立っていた。
 そのうち一人は千鶴たちのそばへ来て、暗がりなのも構わずに、手帳らしき物を見せながら言った。
「兵庫から来た特高とっこうや。ちょっと来てもらおか」