晩餐会の夜
一
昨夜は千鶴はあまり眠れなかった。うとうとはしたが、その時に見た夢が悲しかった。
夢の中で、千鶴は店や家の中を行ったり来たりしながら、進之丞を探しまわっていた。だけど、いくら探しても進之丞はどこにも見つからない。
帳場に座る辰蔵に忠さんはどこかと訊ねると、花江さんと一緒になって風寄に戻んたろが――と言われた。
その物言いが少し偉そうなので、千鶴がむっとしていると、お前はもうあたしの女房なんじゃけん、好え加減あの男のことは忘れんさいやと、辰蔵は怒った顔で言った。
千鶴が店を飛び出すと、風寄にある進之丞の実家があった。そこで目にしたのは、二人で履物作りの仕事をする進之丞と花江の姿だった。
仲睦まじく働く二人の傍にはにこにこ顔の為蔵とタネがいて、忠之は本当にいい嫁を連れて来たと喜んでいる。
為蔵とタネは何故か花江を千鶴ちゃんと呼び、花江も嬉しそうに返事をした。
その人は花江で自分が千鶴だと、千鶴は必死に叫んだ。しかし、誰にも千鶴の声は聞こえないし、千鶴の姿も見えていない。
それでも進之丞だけは千鶴に気づいて微笑んでくれた。だがすぐに花江との作業に戻り、そのあとは千鶴の方を見てくれることはなかった。
目が覚めたあと、千鶴はしばらく声を出さずに泣いていた。
この夢が今の千鶴の気持ちの表れなのは明らかで、心の中は花江に進之丞を奪われた悔やみと悲しみしかなかった。
離れを出て台所へ向かうと、迎えてくれたのは花江だ。
ミハイルたちが来てから、花江は少し元気を取り戻したみたいだ。いや、絶対に取り戻している。他の者には珍しいロシアの客が刺激になったと見えるだろうが、本当はそうではない。進之丞と気持ちが通じ合えたからだ。だけど千鶴は文句が言えない。進之丞にそうさせたのは他ならぬ自分なのだ。
泥沼に沈んだ気分の千鶴に、何だか元気がないねと花江は言った。心配そうなその声が、千鶴には勝ち誇った皮肉に聞こえる。
笑顔を繕う余裕もなく千鶴が黙っていると、お父さんたちは明日帰るんだねと、花江は同情の声をかけた。でもこれも、離れるのが嫌なら一緒に神戸へ行けばいいじゃないか、と言われている気がする。千鶴は何も言わないまま花江に背中を向けた。
この日の朝、ミハイルたちは思っていたより遅い時間にやって来た。千鶴はスタニスラフに抱かれないよう、祖父母たちの後ろの方で二人を迎えた。
道に迷ったのかと甚右衛門が訊ねると、首を振ったミハイルは興奮気味に喋った。
「ズゥズゥキセンセ、アイデマシタ。カンバン、バンサンカイ、ヒラァクゥ、イイマシタ」
軍医の鈴木医師がミハイルたちを訪ねたのはわかったが、「かんばん」と「ばんさんかい」がよくわからない。甚右衛門とトミは顔を見交わした。
「看板に晩餐会?」
「開く言うとるけん、鞄のことじゃろか?」
「じゃったら、ばんさんかいは?」
「晩げに三回開くんよ」
何じゃい、ほれは――と甚右衛門が眉根を寄せると、後ろで話を聞いていた花江が、もしかしてと言った。
「かんばんってぇのは、お店の看板じゃなくて今晩ってことじゃないでしょうか? 晩餐会って晩に開くものでしょ?」
今晩かとうなずいた甚右衛門は、今日の夜のことかとミハイルたちに確かめた。二人は大きくうなずき、スタニスラフが嬉しそうに言った。
「鈴木先生、アトォサン、会エタ、タテモォ、喜ンダ。サレェデ、今晩、ア祝イズゥル、言ィマシタ」
どうやら鈴木医師がミハイルたちのために、今晩一席設けてくれるらしい。それは有り難いことだと甚右衛門もトミも喜んだ。
だが晩餐会というものは、庶民の宴会とは違って、もっと高貴な人々の祝宴だ。そこが今ひとつしっくりこないまま、晩餐会はどこでするのかとトミが訊いた。ミハイルは目を輝かせながら、アソォコと言って千鶴を見た。
落ち込んでいる千鶴には晩餐会などどうでもよかった。だから話も半分聞き流していたが、そこへ急に話を振られたので戸惑った。
「あそこて、どこ?」
千鶴がうろたえながら訊ねると、昨日千鶴に見せてもらった美しい家だとミハイルは言った。けれど思考が進まない千鶴は、どこのことか思い浮かばない。すると、城山を登りに行く時に見せてくれた家だとスタニスラフが言った。
それは萬翠荘しかない。千鶴はまさかと思いながら、どうも萬翠荘らしいと話したが、甚右衛門たちも何かの間違いだろうと口を揃えた。
萬翠荘は久松定謨伯爵の別宅であり、あそこへ招かれるのは皇族や政治家など特別な者だけだ。一般人でありロシア人でもあるミハイルたちが招かれるはずがないし、一介の軍医に過ぎない鈴木医師に、萬翠荘で晩餐会を開く権限などあるわけがない。
どういうことかと事情を確かめると、鈴木医師がミハイルの歓迎会をしようと、当時を知る者たちに声をかけて廻ったとミハイルが説明した。続いてスタニスラフが、その話が偉い人の耳に届いて、萬翠荘で晩餐会を開いてくれる話になったと言った。偉い人というのは久松伯爵のことらしい。それにしても、何故伯爵がそこまでしてくれるのか。伯爵はミハイルに関わりがないはずだ。
同じ疑問はミハイルも抱いたそうで、鈴木医師に訊ねたところ、一度は戦争を起こした両国が、今後は親しい隣国になることを伯爵は願われているのだという。だから捕虜兵だったミハイルが再び松山を訪ねてくれたことを、伯爵も歓迎してねぎらいたいということのようだ。
話としては筋が通っている。信じられない話だけれど、二人の言うとおりならとても光栄なことだ。落ち込んでいる千鶴でさえ、二人が羨ましく思えた。
とはいえ、そうなると父たちと最後の夜を一緒に過ごせなくなってしまう。それは千鶴と幸子には残念なことだった。
花江に進之丞を奪われた千鶴にとって、父やスタニスラフの存在は大きかった。特に父にはずっと傍にいてほしかったし、アメリカへ行くのであれば自分も連れて行ってもらいたかった。なのにアメリカへ行くどころか、最後の晩も一緒にいられないのである。
千鶴はさらに気持ちが沈んだが、話には続きがあった。晩餐会は千鶴と幸子も行くとミハイルが言うのだ。
伯爵はミハイルと幸子の再会を、両国の友好の象徴と見ているらしい。それで、幸子と二人の娘である千鶴にも、ぜひとも出席してもらいたいというのが、伯爵のご意向なのだそうだ。
これには一同が驚いた。甚右衛門は慌てふためき、トミは倒れそうになった。
凄いじゃないかと花江が千鶴の肩を叩いたが、花江へのわだかまりがある千鶴は、横目で花江を見るしかできなかった。
甚右衛門は即座にこの話を断ろうとした。ところが、伯爵の招待を断るのは失礼に当たらないかと、トミに言われて甚右衛門は唸った。
「ほれにしたかて幸子は仕事じゃし、二人ともそげな所で着る物がなかろがな」
トミが言うと、千鶴が言い換えてミハイルたちに説明した。すると、その言葉を待っていたかのようにスタニスラフが喋った。
「幸子サン、呼ブゥネ。着物、アリマズゥ。千鶴サン、幸子サン、何モ、イラナイ」
「着物があるて、どこにあるん?」
千鶴が訊ねると、晩餐会の人が貸してくれるとスタニスラフは言った。伯爵夫妻が用意してくれると言いたいらしい。
だけど、そんな都合のいい話があるわけがない。スタニスラフの話は誰も信じなかったが、ミハイルは今すぐ幸子を迎えに行くと言った。スタニスラフも千鶴の手を取って、一緒に来てほしいと訴えた。
思いも寄らない話に千鶴は狼狽し、自分には決められないと言った。ミハイルは甚右衛門たちに許可を求めたが、甚右衛門もトミも困惑して返事ができない。
花江は焦れったそうにしながら、行くと言いなと千鶴に口の動きで伝えていた。だが千鶴には、花江が邪魔な千鶴を進之丞から引き離そうとしているみたいに思えた。
千鶴は花江から顔を背けたが、スタニスラフに強く両手を引かれて、顔は自然にスタニスラフの方を向いた。
「アネガイシマズゥ。千鶴サン、来テサイ」
「ほやけど、今日は正清伯父さんの月命日やし」
千鶴は逃げる口実を探して祖母を見た。
曾祖父母と正清伯父の命日には、都合の悪い者がいない限り家族で墓参りに行く。でも、月命日はみんな仏前で手を合わせるだけで済ませていた。ただ、祖母は正清伯父の月命日も墓参りに行く。その時には誰かが付き添うのだが、以前は母が同行していた。
母が病院で働き始めてからは亀吉か新吉がお供をしていたが、今は千鶴の役目になっている。だからいつもの予定では、この日は祖母と一緒に正清伯父の墓参りだ。けれど父たちの話が正しければ、これは伯爵からのお招きである。断るなど畏れ多いことだ。
トミは今回の墓参りには甚右衛門に一緒に行ってもらうと言った。千鶴の邪魔はしないという意味だ。トミに顔を向けられた甚右衛門は、あぁとうろたえ気味にうなずいた。
これで千鶴は断る理由がなくなったが、まだ迷っていた。
憧れの萬翠荘での晩餐会に招かれるなんて、一生に一度もない話である。これは特別中の特別であり感激の極みだ。しかも両親とスタニスラフが一緒なので安心感もあるし、喜びを分かち合える。行けるものなら行きたいというのが、千鶴の素直な気持ちだ。
でも晩餐会に行けば、きっと花江と進之丞の仲を深めることになる。そう思うと、行く気持ちが失せてしまう。今の千鶴には萬翠荘へ行くことよりも、進之丞を取り戻すことの方が願いだった。
進之丞が土間を通りがかった。蔵へ向かうのだろうか。進之丞はスタニスラフに手を握られた千鶴を見たあと、ちらりと花江に顔を向けた。それはほんのわずかな間ではあったが、千鶴には二人が目で何かを語り合ったみたいに見えた。
かっと頭に血が昇った千鶴はスタニスラフに言った。
「わかりましたぞなもし。うちでよければ行かせてもらいますけん」
不安げな祖父母にも千鶴は言った。
「お二人が望んでおいでることですけん、行くぎり行てくるぞなもし。お二人の話に間違いがあったとしても、恥かくんはうちですけん」
「幸子はどがぁするんね?」
トミが心配そうに訊ねた。
「ほれも行てみて外へ出られんようなら、残念なけんどお母さんのことはあきらめてもらうぞなもし。ほんでもひょっと出られるようじゃったら、一緒に行てみよて思とります」
甚右衛門はわかったと言い、誤解があるようならさっさと戻って来いと、千鶴が晩餐会に出るのを認めた。トミは千鶴たちが行くしかないと覚悟を決めていたのだろう。くれぐれも伯爵に失礼のないようにと力を込めて言った。
「そがぁなわけで、うちも行くぞなもし」
改めて千鶴がスタニスラフに告げると、スタニスラフは喜んで千鶴を抱きしめた。
甚右衛門もトミも当惑を隠さず、花江は目を丸くして口を押さえている。
千鶴は顔が熱くなるのを感じながらも抵抗はしなかった。昨日は抗う余裕がなかったが、今回は敢えてスタニスラフに身を任せた。進之丞はすでに蔵へ行ったし、見られたって構うものかという気持ちだ。
けれど、心のどこかに後ろめたさがあった。また、進之丞が陰から見ていてやきもちを焼いてくれればという想いもあった。そのせいか、千鶴は背中に視線を感じていた。それは深い哀しみの視線だった。
スタニスラフから離れると、千鶴は急いで後ろを振り返った。しかし、そこにはただ勝手口がぽかりと口を開けているだけだった。
二
千鶴は父たちと一緒に母が勤める病院を訪ねた。そこは一番町停車場の近くにある小さな個人病院だ。待合室に入ると、何人もの患者が診察に呼ばれるのを待っていたが、ミハイルたちを見て一斉に驚いた。
呼び出された幸子は当惑していたが、少し嬉しげだ。だけど千鶴から事情を聞くと、予想どおりに戸惑いと困惑のいろを見せた。
たぶん無理ぞなと言いながら、幸子は院長に話をしに行った。だが、やはり院長は急に看護婦が足らなくなるのは困ると、幸子がいなくなることに難色を示した。
ところが、一緒に話を聞いてくれた院長の妻は理解があった。
院長の妻は普段は事務仕事をしているが、若い頃は看護婦として働いていた。そのため急な事情がある時には、事務もしながら看護婦の仕事もこなしていた。そして今回の話を急な事情だと認めてくれた。
庶民が萬翠荘に招かれるのはこの上なく光栄なことだと、院長の妻はわかっていた。それで、これを邪魔すれば久松伯爵の顔に泥を塗ることになると、夫の院長に忠告した。
その忠告は院長を不安にさせたみたいで、院長はどうするかを妻に任せることにした。
院長の妻は病室担当の若い看護婦を呼ぶと、入院患者の状態を確かめた。若い看護婦は今はどの患者も落ち着いていて問題がないと言った。
幸子の事情を説明した院長の妻は、午後から少し外来を手伝えるかと訊いた。
うなずいた若い看護婦は、幸子が萬翠荘へ招かれたという話に興奮し、外来の仕事は何とかするから絶対に行くべきだと言ってくれた。それで院長も渋々ながら、午後の診療から幸子が外れることを了承してくれた。
院長の妻は物わかりもいいが抜け目もない。久松伯爵夫妻に会ったら、ここの病院のことをよろしく伝えてほしいと幸子に頼んだ。
幸子がわかりましたと答えると、絶対にお伝えしますけん、と近くで話を聞いていた千鶴も力強く言った。
無理だろうと思っていた晩餐会に母と一緒に行けることになったので、千鶴は気分がかなり高揚していた。その喜びは一時的ではあったとしても、つらい進之丞とのことを忘れさせてくれた。
病院の午前の診療が終わるのを待って、千鶴たちは幸子と一緒に電車で道後温泉へ向かった。晩餐会は夕方からなので、その前に温泉で体を清めておくようにと、甚右衛門たちから言われていた。
道後へ向かう電車の中で、千鶴も幸子もそわそわしていた。萬翠荘へ行ける喜びよりも、とんでもないことだという緊張の方が強くなっていた。
一方、ミハイルとスタニスラフは嬉しさを隠せない。他の乗客の視線などまったく気にせずに、ずっと二人でロシア語で楽しげに喋っている。何を喋っているのかと幸子が訊ねると、ミハイルがにこにこしながら言った。
「バンサンカイ、エレーナ、ナイシヨ。スタニスラフ、ヤクゥソクゥシタ」
「あら、スタニスラフはお母さんよりお父さんの味方なんじゃね」
幸子がからかい気味に言うと、スタニスラフも笑顔で応えた。
「アトォサン、僕、松山、一緒、来タ。僕ヴァ、タテモォ、幸セ。ダカラァ、僕ヴァ、アトォサン、味方ネ」
ミハイルは得意げな笑みを見せ、スタニスラフの肩を抱いた。
電車に乗った時には、千鶴とスタニスラフは幸子とミハイルを間に挟んで座っていた。しかし、千鶴の隣にいた男が途中の停車場で降りると、スタニスラフはその空いた席へ移動して来た。千鶴はどきりとしたが、初めのような抵抗感はなかった。
スタニスラフは千鶴の緊張を解すつもりなのか、ずっと喋り続けて千鶴から笑顔を引き出そうとした。またお互いをさん付けで呼ぶのをやめようと、スタニスラフは提案した。スタニスラフは千鶴のことを千鶴と呼び、自分のことはスタニスラフと呼ばせた。
敬称をつけずに名前を呼ぶのは、上の者が下の者に対して呼ぶ時だけだ。だから、いきなり名前だけで呼べと言われても、自分が偉そうになったみたいで千鶴にはなかなかできなかった。それでも何度か「スタニスラフ」と、さん付けなしで呼ぶ練習をしているうちに少しずつ馴染んできて、千鶴はスタニスラフとの距離が近くなった気がした。
そんなスタニスラフの優しさは、千鶴の心の傷に沁み入った。けれど、スタニスラフは父とともに明日神戸へ戻るのだ。そのあとはアメリカへ行くというから、今後、千鶴と顔を合わせることはないだろう。
これが最初で最後の出逢いだと思うと、千鶴は切なくなった。できれば一緒に連れて行ってほしいと願ったが、スタニスラフの相手は自分ではない。スタニスラフには神戸に惚れた娘がいるのだ。
だけど、今だけはスタニスラフはすぐ隣にいる。千鶴は知らず知らずのうちに、スタニスラフに体を預けていた。
三
道後温泉で体を清めた千鶴たちは、電車で再び街まで戻って来た。四人とも温泉へ向かった時と違って言葉少なだ。千鶴や幸子はもちろん、さすがにミハイルとスタニスラフも緊張している。
電車が一番町停車場に着くと、このまま札ノ辻まで帰りたくなったと千鶴は言った。幸子は自分も同じ気持ちだと緊張した様子でうなずいた。
だけどここまで来て晩餐会に出ないのは、ミハイルたちを落胆させるばかりでなく、晩餐会を主催してくれる久松伯爵や関係者の人々に対して失礼になると、幸子は千鶴を諭した。またそれは山﨑機織の恥でもあり、店の者みんなが恥ずかしい思いをすることになると付け加えた。
千鶴は言い返すことができず、改めて晩餐会へ出る覚悟を決めた。
次の裁判所前停車場で電車を降りると、そこに山高帽をかぶった洋装の男四人がいた。男たちは電車に乗るわけでもなく、煙草を吸いながら千鶴たちに胡散臭げな顔を向けた。どうやら異国人がお気に召さないらしい。何だか雰囲気が悪いので、千鶴たちは男たちから逃げるように一番町の方へ戻った。
裁判所の東側には細い道があり、その突き当たりに門と建物がちらりと見えた。その奥にあるのは城山だ。千鶴も幸子も萬翠荘への道など知らないが、とにかくそこへ入って行くことにした。まだ千鶴たちを見ている男たちの目が嫌だった。
突き当たりまで行くと、建物の全体が見えた。洋風の立派なもので、庶民の家とは違う。その建物から男が一人出て来て、何のご用かと訊ねた。
スタニスラフが男に説明したが、スタニスラフの日本語は男にはわかりにくいようだ。代わって幸子が説明すると、男はにっこり笑って、お待ちしておりましたと言った。やはりここが萬翠荘へ向かう道で、男は門番役だ。
父たちの話が本当だったとわかった千鶴は、母と驚きと興奮の顔を見交わした。
門を開けて丁重に千鶴たちを中へ迎え入れた男は、萬翠荘へはこちらの道をお進みくださいと、森を抜ける緩やかな坂道を指し示した。
自分たちを特別客として扱う男の丁寧な対応に、千鶴の胸は高鳴った。
木々に囲まれた道を歩いていると、とてもここが街中だとは思えない。小鳥のさえずりが耳に心地よく、森の香りが胸に沁み渡る。辺りを眺めながら少し歩くと、右手の木々の向こうに西洋風の建築物が見えてきた。萬翠荘だ。
いつも目にする萬翠荘は裁判所の後ろに隠れているが、この日の萬翠荘は堂々とした姿で建っている。しかも自分たちのすぐそこだ。
一歩一歩近づくにつれて千鶴の胸はどきどきし、足取りは重くなった。母も同じらしく表情は硬いし無口になった。
千鶴たちに比べると、ロシアの二人の足取りは軽い。さっきまで緊張していたくせに、今は浮き浮きした感じだ。坂道なのにミハイルは杖を突いてどんどん進んで行く。自分は顔はロシア人でもやはり心は日本人なのだと、千鶴は二人を見ながらつくづく思った。
坂道は先の方で右へぐるりと回っている。そこを登って行くと、目の前に萬翠荘がその全貌を現した。
萬翠荘はどっしりした石造りの建物で、壁面は白い煉瓦を積み上げたみたいだ。至る所に大きなガラス窓があり、玄関と思われる所には観音開きの大きな扉があった。その扉の上は、広い見晴らし台が庇になって伸びている。
館は二階建てに見えるが、屋根にも小窓がたくさんある。屋根裏にも部屋があるのだろうか。その屋根は急勾配でうろこのような瓦で覆われている。
屋根の中心と右側の角は上に突き出し威厳を示しているが、特に右の屋根は尖塔になっている。屋根の棟と小窓の縁、それに尖塔の先端は緑色だ。黒っぽい屋根が緑で縁取られた色合いが、何ともお洒落で気品がある。西洋のお城はこんな感じなのかと思わせる、美しくかつ荘厳なる形状の館だ。間近で見る萬翠荘は、まさに異国そのものだ。
千鶴たちが建物の壮麗さに見とれていると、玄関から伯爵夫妻が現れた。千鶴と幸子が思わず平伏すると、お気軽にと言って伯爵は二人を立ち上がらせた。
左右に伸ばした伯爵の口髭は、両端が上を向いてぴんと跳ね上がっている。それだけでも千鶴は身分の違いを感じざるを得なかった。
どう挨拶をすればいいものやらと、千鶴と幸子がうろたえていると、ようこそおいでくださいましたと、優しげな夫人が千鶴たちをねぎらってくれた。反射的に夫妻に深々と頭を下げたので、千鶴たちは何とか挨拶をすることができた。
ミハイルとスタニスラフも伯爵夫妻を前にしては再び緊張したらしい。表情も口調も硬く何度も挨拶を間違えていた。
伯爵は笑いながらミハイルたちと握手を交わし、みんなを館の中へ誘った。
四
どきどきしながら大きな玄関をくぐって中へ入ると、石造りの広い床の先に三段の階段があり、その上にさらに大きな扉があった。これも観音開きで、どちらの扉にも大きなガラスがはめてある。
伯爵が扉の前に立つと、中にいる者が扉を開けた。視界に広がったのは、床一面に赤い絨毯を敷き詰めた広い空間と、正面にある広くて立派な造りの階段だ。
階段にも赤い絨毯が敷かれており、その先の踊り場にはとても大きなガラス窓があった。そのガラスは色のついたもので、海を行く帆船が描かれている。千鶴と幸子は思わずうわぁと声を上げた。
入り口の両脇には巨大な石の柱がそびえ、左手の柱の近くには、使用人と思われる人たちがずらりと並んでいた。
先に中へ入った伯爵夫妻が、どうぞと千鶴たちを招いた。
ミハイルとスタニスラフは千鶴たちを先に行かせようと、それぞれの手を前に差し伸ばした。とんでもないと千鶴たちは拒んだが、ロシアでは男はあとで女が先だとミハイルが説明した。
千鶴たちは仕方なく先に進み、階段の手前で履物を脱ごうとした。すると伯爵は、そのままお入りくださいと言った。見ると、伯爵も夫人も履物を履いたままだ。千鶴は熱くなった顔を伏せながら、顔を赤らめた母と一緒に中へ入った。その途端、横に並んでいた人たちが次々に頭を下げて歓迎してくれた。
すっかり恐縮した千鶴と幸子は、一人一人にお辞儀を返すと、ミハイルとスタニスラフも千鶴たちに倣って使用人たちに挨拶をした。その様子を見ながら伯爵夫妻はにこやかに笑っていた。
玄関の広間は両側に大きな扉が並んでいた。千鶴たちがきょろきょろしていると、夫妻はみんなを二階へ招いた。
どきどきというより、びくびくした感じで階段を上がると、正面の踊り場にある帆船の色ガラスを間近で眺めることができた。
描かれているのは海原に浮かぶ帆船と、空に浮かぶ白い雲、それに数羽のカモメだ。波の描き具合で、船が遠くにあるように見える。全体的に美しく、落ち着きのある色合いの絵だ。絵だけでも素敵なのに、これをガラスで表現しているところが尋常ではない。
そもそもガラス自体が貴重で珍しいものである。なのに色ガラスを組み合わせて絵を描くなど、千鶴たち庶民には考えが及ぶことではなかった。
千鶴たちが足を止めてガラスの絵に見入っていると、階段を上がりかけていた伯爵が、これはすてんどぐらすというものだと話してくれた。この帆船は伯爵が船で西洋へ渡った想い出を描いたものなのだという。
そう言われて、改めて帆船を眺めた千鶴ははっとなった。そこに描かれた黒っぽい帆船が、前世で自分を迎えに来た黒船に思えたのだ。
刹那、黒い船の絵は沖に浮かぶ本物の黒船となった。夕日を背景にした黒船は不気味なほど黒々としている。
千鶴は異国人が漕ぐ小舟の上にいた。小舟は黒船に向かっていた。後ろから誰かに抑えられて無理やり座らせられているが、耳に聞こえる舌を巻く喋り声は異国の言葉だ。
浜辺の方に顔を向けると、そこには千鶴に背を向けた進之丞が、刀を手に走って来る侍たちを迎え撃とうとしていた。
千鶴は小舟から飛び降りて進之丞の元へ行こうとしたが、押さえられているから動けない。千鶴が藻掻くと小舟が大きく揺れた。押さえていた手が離れると、千鶴は海へ飛び込もうとした。しかし、後ろから再び両肩をつかまれた。千鶴はその手を振り払って後ろを振り返った。すると、そこに父ミハイルの顔があった。
「ドカ、シマシタカ」
千鶴の両肩に手を載せていたミハイルは驚いた顔で言った。横にいたスタニスラフも何事かと目を見開いている。
興奮して肩を上下させながら涙ぐむ千鶴は、一瞬ここがどこなのかがわからなかった。
辺りを見まわすと、そこは赤い絨毯が敷かれた広い階段の踊り場で、黒っぽい船の絵を描いた大きなガラスの窓がある。それで萬翠荘へ来ていることを思い出しはしたが、今この瞬間にも進之丞が死んでしまうような気がして、千鶴の動揺は続いた。
「どがぁしたんね? 大丈夫か?」
母までもが心配し、先に階段を登っていた伯爵夫妻も怪訝そうにしている。頭の中は混乱し、気持ちも高ぶっていたが、千鶴は涙を堪えながら何とか言い訳をした。
「ごめんなさい……。ほんでも大丈夫……。ちぃと昔のことを……思い出してしもたぎりやけん」
そう、今のは前世の記憶であり、もう過去のことだ。あのあと進之丞は命を落とすのだが、それはどうにもできないのだ。
「大丈夫かな?」
伯爵が声をかけると、千鶴は夫妻に詫びて、もう大丈夫ぞなもしと言った。だけど、心の中は悲しみでいっぱいで涙がこぼれそうだ。
夫人がまだ心配そうにしているので、娘は昔の嫌なことを思い出したみたいだと幸子が話した。夫妻はうなずき、それなら尚のこと、今宵は存分に楽しんで嫌なことを忘れていただきたいと伯爵は言った。
改めて夫妻に誘われ、千鶴たちは二階へと階段を登った。
千鶴は悲しみを抑えながら進之丞のことを考えた。
前世で進之丞は命を捨てて、千鶴を護ろうとしてくれた。今世でも鬼娘のことで悩む千鶴を慰めてくれたし、たとえ命を失おうとも死ぬまで慰め続けると言ってくれた。また、前世で死に別れた千鶴のことを、決して忘れられないと言ってくれたのだ。
なのに今、進之丞は花江と心を通わせている。そんなのは有り得ないし、二人の会話を聞いてしまった今でも信じられない。
――なしてなん? なぁ、進さん、なしてよ?
千鶴は心の中でつぶやいたが、答えが得られるはずもない。切なさに嘆いている間もなく二階へ上がると、伯爵はミハイルとスタニスラフを正面の部屋へ招いた。
千鶴と幸子は伯爵夫人に別の部屋へ案内された。夫人はそこで侍女に手伝わせながら、自ら二人に着せる衣装や履物、飾り物を選んでくれた。すべて夫人の若い頃の物で、二人に貸してくれるということだ。
恐縮しきりの千鶴と幸子は、侍女たちに手伝ってもらいながら着替えをした。髪も洋風に整えられ、化粧や飾りもしてもらった。そのあと仕上がった姿を互いに見た二人は、一緒に驚きの声を上げた。
母は華族のごとくに気品あふれる美しさに包まれていた。その母がしきりに褒めてくれるので、千鶴はどきどきしながら大鏡の前に立った。
そこにいたのは息を呑むほど美しい女性で、とても自分だとは思えなかった。
今の自分を見てもらえたなら、進之丞が戻って来てくれるだろうかと、千鶴は胸が高鳴った。でも、千鶴が知る進之丞は人の外見で態度を変えたりはしない。せっかくきれいにしてもらったが、その感動はすぐに色褪せた。
千鶴たちが応接室へ通されると、すでに着替えて待っていたミハイルとスタニスラフは目を丸くして立ち上がり、ハラショー ポルチーラシ(素晴らしい!)!――と連発して叫んだ。
スタニスラフは千鶴に駆け寄り、手を取ると口早に言った。
「千鶴、ティ オーチン クラシーヴァヤ!」
言葉の意味はわからないが、褒めてくれているのは見てわかる。父やスタニスラフの喜ぶ様子が千鶴は嬉しかった。
「あの、何て言うたん?」
上気しながら千鶴が訊ねると、スタニスラフは感激した顔で言った。
「千鶴、アナァタヴァ、タテモォ、美シィ」
同じ言葉で幸子を褒め称えていたミハイルは、千鶴の傍へ来ると感無量といった感じで首を振った。
伯爵夫妻も笑みを取り戻した千鶴を見ると、安心したように微笑み合った。
五
千鶴たちは再び一階に下りた。着慣れない洋装なので、千鶴も幸子も階段を下りにくかったが、侍女たちが手伝ってくれた。
階段を下りると、左手に扉が二つある。その手前の扉を使用人の一人が開けてくれた。
伯爵夫妻に続いて部屋に入ると、見たこともない美しい輝きが目に飛び込んで来た。見ると、きらきらと煌めく光の房が天井に二カ所吊り下げられている。電球の光だろうが、見た目には電球に見えない。
二階の部屋の天井にも、たくさんの電球が集まったものが吊り下げられていた。けれど、どの電球も普通の家にあるものとは違って美しい形をしていた。千鶴たちが物珍しがると、これはしゃんでりあと呼ばれる西洋の照明ですと、伯爵夫人が教えてくれた。
二階で見たしゃんでりあも素敵だったが、この部屋のしゃんでりあは格別だ。電球が見えないほどに飾られた多くのガラスの棒や粒が、光を帯びて輝いていた。いつの間にか窓の外に迫った夕闇が、さらに光の華やかさを引き出している。
庶民の家では、みんなが集まる部屋に一つの電球があるだけだ。千鶴たちの家にしても、電球は茶の間にしかない。電球がない家も珍しくないのに、ここでは電球がふんだんに使われている上に、豪勢な装飾が施されている。まさにしゃんでりあは、ここが千鶴たちが暮らす所とは別の世界であることの象徴だった。
「千鶴、早クゥ、前ニ、行テサイ」
光の房に見入っていた千鶴と幸子は、後ろからスタニスラフに声をかけられて、部屋の入り口をふさいでいるのに気がついた。ごめんなさいと言いながら二人が慌てて前に進むと、多くの拍手が迎えてくれた。
部屋の中には白い布がかけられた丸い机がいくつかあり、そこには多くの人たちが座って拍手をしてくれている。男性は鈴木医師や仲間の医師、収容所の元所員、当時の通訳などでみんな夫人同伴だ。
誰かに拍手をすることはあっても、自分が拍手されることなどない。挨拶代わりの笑みを浮かべながらも、千鶴は緊張でがちがちだった。歩き方もぎこちなく見えただろう。幸子も微笑んだまま顔が固まっている。
部屋は黒茶色を基調としており、床に敷き詰められた絨毯も黒地に花が描かれている。その絨毯の上を歩きながら、千鶴たちは伯爵夫妻が待っている机の所へ行った。その机にはまだ誰も座っておらず、ここがあなたたちの席ですと伯爵が言った。
千鶴たちが席に着くと、伯爵夫妻は千鶴たちとは少し離れた別の席に座った。そこにはすでに一組の年配の夫婦と思われる人たちが座っていた。
拍手が鳴り止んだあとも、どうにも落ち着かない。緊張を解すつもりで、千鶴は部屋の中を見まわした。
部屋の入り口から見て正面と左側の壁には、戸口ぐらいの大きなガラスの窓がいくつもある。それぞれの窓には白っぽい厚手の窓掛けの布が、左右に押し広げて飾られているが、その間にある窓は装飾模様のある白く薄い窓掛けが覆っている。この白い布は向こうが透けて見えるので、外が暗くなっているのがわかる。
右側の壁の真ん中には竈らしきものがあり、その両脇に大きな扉がある。この竈のようなものには奥行きがなく、たくさんの小さな青白い炎が、中でちろちろと蠢いている。
あれは何かと千鶴が小声で訊ねると、暖炉みたいだとスタニスラフは言った。しかし、千鶴が暖炉を知らないとわかると、部屋を暖めるものだとスタニスラフは説明した。
するとミハイルが、あれはガスの火だと言った。言われて見ると、確かにガス燈の火のように見える。
ロシアの暖炉は薪を燃やすそうで、ガスの暖炉は珍しいとミハイルは言った。
上を見上げると、黒茶色の天井はお寺で見られるような格子状になっていて、細かい煌めきが散りばめられている。何が煌めいているのはわからないが、しゃんでりあの光を反射しているらしい。
伯爵は同席している年配の男性と何やら喋っていたが、すぐに立ち上がって、お待たせしましたと来賓たちに声をかけた。
伯爵は晩餐会を開くことになった経緯を簡単に説明し、千鶴たちの紹介を始めた。
初めは主役のミハイルだ。男性客たちはほとんどがミハイルを知っているらしい。ミハイルが立ち上がって簡単な挨拶と感謝を述べると、みんなが拍手をした。また声をかける者が何人もいた。
続いて幸子が紹介されると、やはり声をかける者がいた。幸子のこともみんながわかっているみたいだ。幸子はひどく緊張していたが、感激で涙をこぼした。それでまた多くの拍手が幸子を包んだ。
一方、千鶴とスタニスラフは一人も知っている者がいない。けれど伯爵が二人を紹介すると、温かい拍手が惜しみなく送られた。
スタニスラフがミハイルの結婚相手の息子だということは、男性客たちには伝わっていたようだ。千鶴とスタニスラフの関係を訊ねる男性客はいなかった。
ところが、女性客たちにはそこの事情は知らされていなかったらしい。拍手をしたあとになって、女性客の一人が二人は異母姉弟なのかと訊ねた。
伯爵はミハイルがロシアで結婚したことと、スタニスラフがその相手の息子であることを説明したが、女性客たちの間にざわめきが広がった。ミハイルには妻がいるのに、ここで幸子と一緒にいるのは不貞ではないのかというわけだ。
幸子と千鶴が戸惑いを見せると、伯爵夫人がすかさず立ち上がった。
「日露戦争、世界大戦、ロシア革命と、カリンスキーさんは運命に翻弄されてきました。命からがら逃れた日本でも、あの関東大震災に襲われました。でも、それらのすべてをはねのけて、ここでこうしてかつて愛を育んだ人との再会を果たしたのです。また、生まれたことも知らなかった娘さんにも会えました。これが神のお導きでなくて何でしょうか。私はこの奇跡に関われたことを心より光栄に存じ、今後の日ソの平和を願います」
威厳を持って話す夫人の言葉に女性客たちが静かになると、伯爵は来賓たちを順番に千鶴たちに紹介した。
ミハイルは鈴木医師以外はあまりよくわからなかったようだ。しかし伯爵から説明を受けて、本人からも挨拶をされると、やっと思い出したという笑顔で応えていた。
幸子はミハイルよりは覚えていた。だけど年月が経ってみんな歳を取っているので、すぐには相手を思い出せなかった。
伯爵夫妻と同じ所にいる年配の夫婦のことは、ミハイルも幸子もわからなかった。でもそれもそのはずで、伯爵が最後に紹介したその夫婦は伯爵の知人であり、ロシア人墓地の管理をしているとのことだった。
全員の紹介が終わり、ガラスの器に入れられた飲み物がみんなに配られると、鈴木医師が挨拶を兼ねた短い演説をした。
みんなが乾杯をすると、千鶴は出された飲み物を水のように飲み干した。緊張で喉が渇いていたのだが、その飲み物は甘くて美味しかったので、つい一気に飲んでしまった。
飲み終えてから、千鶴は他の人々が飲み物を全部は飲んでいないことに気がついた。思わず下を向いたが、恥ずかしくて顔は火照るし胸はどきどきしている。
それでも、千鶴は初めて飲んだこの飲み物が大いに気に入った。お代わりが欲しいと思っていると、給仕の者が来て千鶴の器に飲み物を注ぎ足してくれた。
よく見ると、水のように透明ではあるが、ほんのり淡い色がついている。いい香りに誘われると、千鶴はまたその飲み物を飲み干した。
次々に運ばれて来るご馳走も、今まで見たことがないものばかりだ。添えられた小さな包丁のような物や、小さな鋤みたいな物も、どう扱っていいのかわからない。
困っていると、スタニスラフが丁寧に教えてくれた。母を見ると、やはり父に助けてもらっている。とにかく緊張の連続で料理の味もよくわからないまま、千鶴はしきりに飲み物を口へ運び、そこへは新たな物が注ぎ足された。
「千鶴、あんた大丈夫なんか? これ、西洋のお酒やで」
千鶴の様子に気づいた幸子が、心配そうに声をかけた。
「お酒? こがぁな美味しい飲み物がお酒なん?」
自分でも口調が軽くなっているのがわかるのに、千鶴は何とも思わない。
「千鶴、モウ、終ヴァリィネ」
スタニスラフに言われると、千鶴は却って強気になってさらにぐびぐび飲んだ。
千鶴はいつも酒を飲むのかとミハイルが訊ねると、幸子は首を横に振った。ミハイルは身を乗り出して千鶴から器を取り上げると、アシマイネと父親らしく言った。
千鶴は文句を言ったが取り合ってもらえなかった。それで、今までずっと放って置かれたことを父に愚痴った。
「うちがどんだけ寂しかったか、お父さんにはわからんじゃろ」
千鶴はミハイルをにらんだが、幸子に叱られると泣きそうな顔になって下を向いた。
ミハイルは席を立つと、傍へ来て千鶴を抱きしめた。千鶴は父の胸でわぁわぁ泣いた。伯爵夫妻が大丈夫かと心配したが、父親と離ればなれになるのが悲しいんぞなもしと、幸子は夫妻や周囲の人たちに理解を求めた。
千鶴たちを見つめる人々の目には涙が浮かんでいた。ミハイルと幸子の関係に納得していなかった夫人たちも、懐から取り出した懐紙で目頭を押さえている。
確かに、せっかく会えた父親とすぐに別れる悲しみが千鶴にはあった。だけど千鶴が泣いたのは、それだけが理由ではない。進之丞の心変わりが悲しくつらかったのだ。
誰にも相談できないし、どうしていいかわからない。そこへ父親との別離が重なり、押さえていた感情が爆発したのである。
千鶴が泣きやむと、ダイジヨブデズゥカとミハイルは心配そうに千鶴の顔をのぞき込んだ。こくりと千鶴はうなずいたが、今度はスタニスラフが千鶴を抱きしめた。
「千鶴、アナァタニヴァ、僕ガ、イルゥ。ダカラァ、泣カナイデ」
頭の中がぐらんぐらんと回り、千鶴は考える力が落ちていた。スタニスラフの言葉の意味がよくわからないまま素直にうなずくと、千鶴はスタニスラフの腕に身を任せた。進之丞みたいな温もりはないが、他に縋れる者はいなかった。
六
食事が終わると、ガスの暖炉の両脇にある大きな扉が開け放たれた。そこは隣の部屋に通じているようだ。
伯爵の指示に従い、来賓たちは近くの扉から隣の部屋へ移動した。千鶴たちもみんなの後について移ったが、さっきとは異なる部屋の様子に感嘆の声を上げた。
そこは白を基調とした部屋で、絨毯は赤地に花が描かれている。この部屋の壁にもガスの暖炉があり、窓掛けが飾られた大きなガラス窓がいくつもあった。窓の向こうは真っ暗だ。
白い天井には、電球が花の形に装飾されたしゃんでりあが吊り下げられている。また壁のあちらこちらには大きなろうそくが灯されていた。けれど、よく見るとそれらはろうそくではなく、ろうそくの形をした電球だった。
部屋の隅には来賓とは別の人たちが集まっている。携えているのは西洋の楽器のようだ。これからここで演奏をするのだろうか。
ここには机はないが、部屋の端にはいくつかの椅子が用意されている。人々は立ったまま、あるいは椅子に座ってお喋りを楽しみ、給仕の者たちが所望する者たちに飲み物を配っていた。
給仕は千鶴たちにも飲み物はいかがですかと訊きに来た。千鶴はさっきのお酒を頼もうとしたが、この子にはお水をと幸子が先に言った。
給仕から渡された水の器を受け取ると、千鶴は不満げに母をにらんでから一口飲んだ。
ミハイルや幸子の周りには、すぐに人が集まって来た。千鶴やスタニスラフの所にも代わる代わるに人が来て、同じような質問を繰り返した。
頭はぼーっとしていたが、恥をかかないように、相手に失礼にならないようにと、千鶴はそのことばかりを考えていた。何を言われても笑顔を絶やさず、はいはいと返事をした。
鈴木医師がやって来て、スタニスラフくんのことをどう思うかと千鶴に訊ねた。千鶴はスタニスラフを見ると、優しくて素敵な人だと答えた。
鈴木医師がスタニスラフに千鶴のことを訊ねると、スタニスラフは千鶴を見て微笑んだあと、はっきりと言った。
「千鶴ヴァ、世界デ一番、大好キナ人デズゥ」
千鶴はスタニスラフの言葉をただの褒め言葉、あるいは励ましだと受け止めた。
「だんだん。うちもスタニスラフを世界で一番好いとります」
お返しのつもりでにこやかに応じると、スタニスラフは思わずという感じで胸で十字を切り、感激して千鶴を抱きしめた。
ここには進之丞はいない。周りにいるのは知らない人たちばかりだ。そのせいか、千鶴はスタニスラフに抱かれることに、あまり抵抗を感じなかった。むしろ、今の自分に優しくしてくれるスタニスラフの腕の中に、ずっといたい気分だった。
二人を見て驚いた鈴木医師は、目を丸くして言った。
「何と何と、二人はもうそがぁな仲になっとるんかな」
周囲にいた他の者たちも、二人の言葉を聞いて集まって来た。その中にはミハイルと幸子の姿もあった。
幸子は焦った様子で千鶴に呼びかけたが、その声は千鶴には聞こえていない。千鶴の耳は鈴木医師とは別の医師の言葉に向けられていた。
「ほやけど、スタニスラフくんはすぐに去んでしまうんじゃろ? 千鶴さんはどがぁするんな? スタニスラフくんについて行くんかな?」
スタニスラフには世話になった。いくら感謝してもしきれないくらいだ。千鶴はお世辞のつもりで、スタニスラフにはずっと傍にいてほしいと言った。しかし、スタニスラフは松山にはいられない。そこを訊かれると千鶴は口を噤んだ。
自分は辰蔵と夫婦にさせられる。だけど、進之丞は山﨑機織に残るだろう。進之丞がいなくなれば、山﨑機織が立ち行かなくなるのは明白だ。それをわかって辞める進之丞ではないが、その状況は千鶴にはつらいものだ。
スタニスラフに好きな人がいるのはわかっているが、このまま一緒に連れて行ってほしいという気持ちがあった。もちろん店が潰れるからそんなことはできないが、進之丞がいる所から消えてしまいたかった。けれど、そう思うのは進之丞への未練の裏返しだ。
――おらの心ん中にはその娘がおる。忘れろ言われても、忘れられるもんやないんよ。
進之丞は己の正体を隠しながら、こう言ってくれた。なのに今は忘れてしまったのだ。
千鶴は項垂れて涙をこぼした。人々はその涙を、スタニスラフとの別れを悲しむ涙と受け止めたらしい。まだ出逢って間もない二人がそこまで惹かれ合ったのかと、来賓たちはみんな心を打たれた様子だ。スタニスラフも感銘を受けたようで、絶対に千鶴から離れないと言って千鶴を慰めた。
「これは何と言うべきか。ともかく二人を祝福しましょう」
久松伯爵は千鶴たちに拍手をした。他の客たちも伯爵に応じて拍手をしたが、千鶴は何故みんなが拍手をするのかわからなかった。しかし、とにかく失礼にならないようにと、涙を拭いて会釈を続けた。
慌てて千鶴の傍へ来た幸子は、困惑しながらみんなに頭を下げると、潜めた声で千鶴に言った。
「あんた、自分が何言いよんのかわかっとるんか?」
せっかくみんなが祝福してくれているのに、水を差すようなことを言う母を、千鶴はじろりと見た。返事をしない千鶴に、幸子は繰り返し言った。
「さっき自分が何言うたか、ほれを聞いてみんながどがぁ思たんか、あんた、ほんまにわかっとるんか?」
「わかっとるよ」
口を尖らす娘を、幸子は信じていない。
「ほんまにわかっとるんか?」
「わかっとるてば」
千鶴は横を向きながら、何かまずいことを言ったのだろうかと考えた。だけど、自分が何を言ったのかが思い出せない。
伯爵が手で何かの合図をすると、音楽が聞こえ始めた。西洋の音楽だ。演奏しているのは、部屋の隅で待機していた人たちだ。
舞踏会の始まりが伯爵から告げられると、客たちは夫婦で一緒に踊り始めた。伯爵夫妻も千鶴たちに声をかけると、誘うようにして踊りだした。見たこともない踊りだが、男女が手を取り合って楽しげに踊る姿は、見ている者を浮き浮きさせる。
ミハイルは幸子の手を取ると、アドリマシヨと誘った。幸子は踊りを知らないと言ったが、ミハイルは自分が教えると言った。
幸子は千鶴を気にしていたが、結局はミハイルに手を引かれて踊り始めた。
足が悪いミハイルもこの時ばかりは杖なしだ。そのため幸子に教えると言っておきながら、ミハイルは転びそうになるのを幸子に支えてもらっていた。それでも一応は幸子に指示を出し、幸子はぎこちなくではあるが言われたとおりに体を動かしていた。本当は恥ずかしいだろうが、とても幸せそうな顔をしている。
千鶴が両親の踊りを眺めていると、スタニスラフが声をかけてきた。
「千鶴、僕ト、踊テサイ」
「ほやかて、うち、踊り方知らんし」
千鶴は逃げようとしたが、スタニスラフは千鶴の手をつかまえ、幸子だって踊っていると言った。
「僕ガ、教エマズゥ。ダカラァ、心配ナイ」
スタニスラフは千鶴が持っていた水を奪い取ると、椅子の上に置いて、千鶴を踊りの場へ引っ張り出した。
千鶴は覚悟を決めた。笑うなら笑えである。
普段の千鶴ならスタニスラフが何と言おうと、こんなことは拒んでいる。だけど、今は気持ちが大胆になっていた。
千鶴はさっぱりわからない踊りをスタニスラフに教えられながら、周りの人たちを見様見真似で踊った。でもよく見ると、他の人たちも踊り慣れていないようだ。みんな、今日覚え立てなのかもしれない。人と違う動きをしては恥ずかしそうに笑っている。
安心した千鶴は何度も間違えながらも踊り続け、次第に踊り方が呑み込めてくると踊ることが楽しくて夢中になった。スタニスラフに身を任せるのが心地よく、スタニスラフに抱かれると体の芯が熱くなった。
気がつけば他の者たちは踊るのをやめ、スタニスラフと千鶴だけがみんなの視線を集めながら踊っていた。初めて踊ったとは思えないと、伯爵夫妻が千鶴を褒めると、人々も大きくうなずいた。
踊り終わったあと、千鶴はスタニスラフに言われたとおりに、軽く膝を曲げてみんなに会釈をした。拍手喝采を受けても恥ずかしいという気持ちはなく、千鶴は気分がさらに高揚した。
七
夢のような時間が過ぎ、会がお開きになったのはとっぷり日が暮れてからだった。
着物に着替えた千鶴たちは、伯爵夫妻に何度も礼を述べて外へ出た。そこには二人掛け人力車が二台用意されていた。一台は千鶴たち用で、もう一台はミハイルたちのだ。
明日になれば二人は神戸へ戻って、もう会えない。寂しくなった千鶴が人力車に乗らずに佇んでいると、スタニスラフに早く乗るよう促された。仕方なく乗り込むと、隣の席にスタニスラフが乗った。見ると、もう一方の人力車には母と父が乗っている。
見送りに出てくれていた伯爵夫妻は怪訝に思ったらしく、それぞれ別に帰るのではないのかと声をかけて来た。するとスタニスラフが、まず千鶴たちを家まで送り届けて、そのあと道後の宿へ戻ると説明した。
夫妻が納得してうなずくと、スタニスラフは車夫に紙屋町へ向かうよう伝えた。
車夫は一台に三人いた。一人が前で引いて、もう一人が後ろから押すのだろう。残りの一人は提灯を持っての先導役だ。
進さんなら暗くても一人で引いたのにと、千鶴はふと思った。だが、進之丞のことを思い出すと悲しくなる。千鶴は考えるのをやめてスタニスラフと微笑み合った。
やや膨らんだ半月が、南の空に浮かんでいる。
伯爵夫妻に見送られながら、千鶴たちを乗せた人力車は暗い坂道を下って行った。先を進む両親の人力車を眺めながら、自分たちの人力車が後ろであることに千鶴は安堵していた。それはスタニスラフと一緒にいることへの後ろめたさかもしれなかった。
ここで別れ別れになると思っていたスタニスラフと、こうして一緒に人力車に乗れたことが嬉しかった。スタニスラフは千鶴にとって慰めだった。スタニスラフが好きだという娘が羨ましく、自分がその娘であったならと未練がましいことを考えもした。
しかし、たとえそうであってもどうにもならない。スタニスラフに好かれたところで、何の解決にもならないのだ。結局は進之丞を花江に取られた悲しさから逃れたいだけであり、本当の未練は進之丞だった。
――おらな、お不動さまにお願いしたんよ。千鶴さんが幸せになれますようにて。ほじゃけん、千鶴さん、絶対に幸せになれるぞな。
自分の正体を明かしていなかった頃の進之丞が、頭の中で千鶴を励ますと、千鶴は泣きだした。
あの時の進之丞は、どういうつもりであんなことを言ったのか。あれは思いつきで言っただけなのか。いや、そうではない。進之丞は本当に法生寺の不動明王に幸せを願ってくれた。前世で死に別れた千鶴のために願ってくれたのだ。
なのに、どうして心変わりなどするのだろう。進之丞は千鶴のことはどうしたって忘れられないと言ったのである。たとえ千鶴が嫌な態度を見せたにしても、それで花江に心を移すだなんて、そんなのは辻褄が合わない。無茶苦茶だ。
車夫たちは門番の男に声をかけると、表の道に出た。昼間は歩く人が多いこの道も、今はほとんど人気がない。こんな時刻に外にいるなど祭り以外にはないことだ。
月明かりに照らされた道を、二台の人力車はがらがら進む。
スタニスラフは泣き続ける千鶴を慰め、千鶴の手を握った。
「千鶴、僕ヴァ、千鶴カラァ、離レェタクゥナイ。ドカ、僕ト、結婚シテサイ」
まだ頭はぼーっとしてはいたが、千鶴は思考力が戻っていた。何を言われているのかを理解した千鶴は、驚いてスタニスラフを見た。
「スタニスラフが言うておいでた大好きなお人て、うちのことやったん?」
「ハイ。サキモ、ミンナナ、前デ、言ィマシタ。千鶴モ、同ジコトォ、言ィマシタ」
「さっき? うちがみんなの前で?」
何も覚えていない千鶴はうろたえた。そんなことを自分はみんなの前で言ってしまったのか。
思わずスタニスラフから手を引くと、スタニスラフはすぐに千鶴の手を握り直した。
「僕ヴァ、千鶴ガ、大好キ。ドカ、僕ト、結婚シテサイ」
「ほ、ほんなん無理やし」
千鶴は手を握られたまま、顔を背けて前を向いた。前方を進む両親の人力車を、こちらの提灯の明かりがほんのり照らしている。と思ったら、突然ふわんと音が鳴り、前の人力車に明るい光が当てられた。
間もなく後ろから来た電車が、千鶴たちの右脇を通って追い抜いて行った。乗客はほとんどいない。
貴重な明かりが去って行くと、辺りは再び薄明るい闇に包まれた。
スタニスラフは千鶴の顔を自分の方へ向けた。
「千鶴、アナタガ、誰ヨリィ、大好キデズゥ」
月明かりに照らされてスタニスラフの顔が見える。スタニスラフはじっと千鶴の目を見つめ続けている。
その顔がゆっくりと千鶴に近づいて来た。千鶴の胸の中で心臓が暴れている。
次にどうなるのかを千鶴はわかっていた。そして、それを期待している自分がいた。一方で、こんな事は恥知らずだと訴える自分もいた。
「いけんよ」
千鶴はスタニスラフから顔を逸らした。スタニスラフは千鶴の顔を押さえると、再び自分の方へ向けた。吸い込まれるような目に見つめられ、もう千鶴は抗えなくなった。
「ヤー・ティビャー・リュブリュー(君を愛してる)」
スタニスラフはつぶやくと、千鶴の唇に自分の唇を重ねようとした。千鶴はあきらめて目を閉じた。闇の中で進之丞が悲しそうに見つめている。
突然、人力車が動きを止め、千鶴たちは前へつんのめった。
我に返った千鶴はスタニスラフから体を離すと、何事が起こったのかと前を見た。すると、前をふさぐように山高帽をかぶった男が二人立っていた。
そのうち一人は千鶴たちの傍へ来て、暗がりなのも構わずに、懐から取り出した手帳らしき物を見せながら言った。
「兵庫から来た特高や。ちょっと来てもらおか」