ロシア帝国は東方へ進出するために、モスクワとウラジオストクを結ぶシベリア鉄道を建設しました。
しかし難工事区間が多く、本線完成前に、当時の中国である清国の領土内を通るシベリア鉄道の短絡線を造りました。
ロシア国領内を通るよりも、清国の中を抜けた方が、平坦かつ短い距離でウラジオストクへ連絡できたのですね。
これは東清鉄道と呼ばれます。
東清鉄道が完成したのは、明治36年(1903年)です。
一方、シベリア鉄道本線が全線開通したのは、大正5年(1916年)です。
ところで、どうしてロシアが中国領土内に、鉄道を建設できたのかと言うと、当時の中国である清国の力が弱まっていたからです。
そして、そのきっかけを作ったのは日本でした。
明治27年(1894年)に始まった日清戦争で、清国は小さな日本に負けたために、その弱さが露呈してしまったのです。
あちこちで権益を奪うことに夢中になっていたヨーロッパの列強国は、清国は大した国ではないと判断し、次々にその領土を奪って行きました。
ロシアが東清鉄道を清国内に建設できたのも、その権利を清国から奪い取ったからです。
そして、この東清鉄道の駅および町として、ハルピンが建設されました。
こうして清国内のハルピンには、多くのロシア人が住むことになったのです。
明治37年(1904年)に始まった日露戦争で勝利を収めた日本は、この東清鉄道の経営権を取得します。
それに伴い、ハルピンには日本領事館が設置されました。
ハルピンは明治42年(1909年)に、伊藤博文が暗殺された町としても知られています。
大正10年(1921年)には、約4000人の日本人がハルピンに暮らしていたそうです。
日露戦争の後、ロシアで革命が起こると、共産党から逃れる多くのロシア人が、ハルピンに避難して来ました。
しかし、ソビエト連邦が成立すると、ソ連の市民がハルピンに流入し、元いたロシア人たちは無国籍者となりました。
大正2年(1913年)には中華民国が成立し、大正15年(1926年)には、ロシア人によるハルピン統治は終わりを迎えます。
ウラジオストクはロシア極東部の港町で、その名前は「東方を支配する町」という意味だそうです。
シベリア鉄道の東の終着駅がある町で、日露戦争前には3000人以上の日本人が暮らし、日本人商店街もあったと言います。
日露戦争によって多くの日本人が引き揚げたものの、戦争が終わると再びウラジオストクへ移住する者が増え、大正10年頃には6000近くに増えたそうです。
ウラジオストクは、日本ではウラジオと呼ばれて、親しまれていました。
ロシアでは第一次世界大戦中に革命が起こり、共産党が勢力を拡大しました。
その革命騒動が自国へ波及することを恐れた、欧米各国と日本はシベリアへ出兵し、ソビエト体制を打倒しようとします。
しかし、その目論見は失敗し、次々とウラジオストクから撤兵します。
日本は最後まで残っていましたが、大正11年(1922年)に撤収し、その後、ウラジオストクはソ連の赤軍に支配されました。
ウラジオストクにも、ハルピンと同じように、多くの反ソ連ロシア人が集まっていましたが、赤軍の侵攻により30万人以上のロシア人が逃亡しました。
その多くは中国へ脱出し、一部は日本を経由して、第三国へ亡命しました。
明治35年(1902年)以来、福井県の敦賀とウラジオストクとの間には、定期船が運行されており、日本へ来るロシア人は、まずは敦賀へ上陸したようです。
そのまま日本に残るロシア人は、あまりいなかったようですが、その理由は当時の日本の物価が、世界一高かったからだそうです。
とは言うものの、1923年に関東大震災が起こるまでは、横浜には700~800のロシア人が滞留していたと言います。
横浜からはアメリカへ向かう船が出ていましたが、アメリカへの亡命を考えながら、亡命できずにいたロシア人が多くいたということかもしれません。
千鶴の父ミハイルとその家族は、ウラジオストクが赤軍に占領される前に、敦賀へ逃げて来ました。
ちなみに、第二次世界大戦中にリトアニア領事代理であった、杉原千畝が発給した「命のビザ」で救われたユダヤ人難民は、この定期船に乗って敦賀へ上陸したそうです。