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城山への登城道

※文久の頃の松山城

松山城への登城道は、かつては三つでした。

一つは城主の館があった二ノ丸から登る道です。

もう一つは城山の東にある東雲神社の脇から登る道です。

正規の道は城主が利用する二ノ丸からの登り道で、東雲神社から登る道は、城の建築の際に物資を運搬するためのものだったそうです。

三つ目は城山の北を護る北曲輪から登る道です。
この道は本丸西の乾門へつながりますが、現在はありません。

※松山城北曲輪。中央の門が入り口です。

北曲輪は明治になると獄舎として使われていました。
その後、監獄で感染症が生じた時の、隔離施設などに利用されていましたが、大正10年にここに第六尋常小学校を設置することになり、櫓は解体されました。

昭和3年に第六尋常小学校が移転すると、石垣も徐々に解体されて、現在は北曲輪の面影はなく、ここからの登城道もわからなくなっています。

第六尋常小学校があった頃は、ここから城山を登る道は、まだ残っていたかもしれません。
しかし、監獄などが設置されていた間、この道が使われていなかったならば、草木が伸びて、どこが道だったのかが、よくわからなくなっていたことでしょう。

仮に道が判別できたとしても、監獄や小学校が設置されていたのでは、一般の人間が使える登城道ではなかったと思われます。

※現在の松山城と登城道

現在は四つの登城道があります。

元々あった二ノ丸から登る道は、黒門口登城道と呼ばれています。

また、東雲神社の脇から登る道は、東雲口登城道と呼ばれています。

本来の登り道は黒門口登城道なのですが、今では東雲口登城道が城山の玄関のようになっていて、ロープウェイやリフトも作られています。

これら二本の登城道の他に、県庁裏登城道と古町口登城道がありますが、この二つの登城道は、明治43年に本丸が松山公園として開園する時に造られたものです。

県庁裏登城道は、その名前のとおり愛媛県庁の裏手から登る道です。

今はそこから城山の西側の縁にそって、北へ抜ける道路がありますが、大正時代にはそんな道はありませんでした。

三の丸の東の堀が二ノ丸に突き当たるように伸びていて、お堀から西へは行けなかったのです。

つまり、県庁の西側と東の堀の間にある道は、県庁裏登城道へ向かうためだけの道だったと言えます。

※大正時代の城山と登城道

千鶴たちが特高警察に捕まって、引き込まれたのはこの道です。

夜に城山へ登る者はいませんから、誰にも見られることのない袋小路のような道だったのですね。

※東堀と城山。左方に松山歩兵第22連隊駐屯地東門があり、堀を渡る橋が見えます。
※東堀に沿って走る電車。電車の向こうに、城山へ上る道があります。
※松山歩兵第22連隊駐屯地正門(南門)。東門も似たようなものでしょう。
※松山歩兵第22連隊駐屯地。手前の建物は衛戍病院。
※大正時代の愛媛県庁。この左に日赤病院松山支部があり、その左脇に城山へ向かう道があります。
※現在の県庁裏登城道へ向かう道です。

上の写真は現在のものですが、大正時代はこの道はお堀でした。
この道はお堀を埋め立てて造られたのですね。

当時の道は歩道ぐらいのものだったのではないでしょうか。
人力車が通るには、少し窮屈だったかもしれません。

※お堀の外からの登城道なので、後から造ったことがわかります。

古町口登城道は、札の辻から城山へ突き当たった所の、少し北側から始まります。

大正時代は城山の西の麓にあった、愛媛県師範学校の附属小学校と、第二尋常小学校に挟まれるようにして、この登城道の入り口がありました。

紙屋町から城山に登るには、この登城道が一番近い道です。

※古町口登城道の入り口
※古町口登城道の入り口
※大正時代、ここに附属小学校があり、そのすぐ北側に第二尋常小学校がありました。