松山城の三の丸を囲むお堀のうち、南堀と東堀の角の辺りに、小さな祠が祀られています。
ちょうど松山市役所の真向かい辺りです。
これはお袖だぬきという、たぬきを祀ったもので、祠の近くには大きな榎があります。
これが八股榎と呼ばれる木で、幾重にも枝分かれした様から、このような名前がつけられたようです。
何故ここに榎が生えているのかというと、松山藩の初代藩主である加藤嘉明が、築城の際の目印に植えたのだそうです。
昔は榎が多く茂っていたそうで、現在の市役所前から南へ伸びる道は、かつては榎町通りと呼ばれていたと言います。
元々お袖だぬきは松山城の城山の森に棲んでいたそうで、それが弘化年間(1844~1847年)頃に、八股榎に移り棲んだと言われています。
そして神通力によって、商売繁盛や病回復、縁談などの人々の願いを聞き届け、みんなから崇められ大切にされて来ました。
ところが明治の初め、県知事(当時は参事と言いました)が、たぬきが棲み着くような木は伐ってしまえと命じ、八股榎は伐られてしまいました。
人々は祟りを恐れたものの、この時には何も起こらず、住処を奪われたお袖だぬきは、松山の南方にある郡中という所へ、仲間のたぬきを頼って移り棲んだと言われています。
その後、明治29年には新たに伸びた榎の下に、たぬきの祠は復活しました。
お袖だぬきが戻って来たのですね。
しかし、松山電気軌道という鉄道会社が、お堀に沿って電車を走らせる計画を立ち上げます。
そうすると八股榎が電線架設の邪魔になるので、明治43年頃に八股榎は再び切られてしまいました。
松山東警察署の近くに、六角堂というお堂があり、ここにも教力という雄だぬきが祀られていました。
八股榎が伐られた時、お袖だぬきの祠はこの六角堂へ移されて、無理やり教力だぬきと夫婦にさせられたのです。
それでも大正7年、八股榎のお袖だぬきは復活します。
六角堂の教力だぬきに離縁されたのかはわかりませんが、とにかくお袖だぬきは、大きく育った新たな八股榎の元へ戻って来たのです。
この年、産婦人科医であり松山市長でもあった安井氏が、お袖だぬきに迎えられて、お袖だぬきのお産を取り上げたという有名な話があります。
それから安産祈願もお、袖だぬきが叶えてくれる、願い事の一つとなったそうです。
また、この産婦人科もそのお陰で繁盛したようです。
しかし、またもやお袖だぬきと八股榎に危機が訪れます。
大正末頃から、道路の拡張整備のため、お堀の一部を埋め立てて道路を広げる動きが出て来ました。
そうなると、お堀の土手に植わっていたはずの八股榎は、道路の真ん中に立つことになります。
それでは邪魔なので、伐採しないといけません。
昭和5年、伊予鉄道が榎通りを通る電車の複線化工事のために、お堀の一部を埋め立て、八股榎を伐ることになりました。
これまで八股榎は伐られても、何の祟りもありませんでした。
でも、この時は違いました。
いい加減にしろということなのでしょうか。
榎を伐ろうとした人夫たちが、次々に怪我をしたり病気になったりということが続いたのです。
それを見ていた憲兵隊が手を貸したところ、今度はその者たちが木から落ちたり、お腹が痛くなったりで、伊予鉄道も複線化をあきらめそうになりました。
しかし、ご神木を伐るのがいけないのだという話になり、伐採ではなく根っこごと掘り出して、他の場所へ植え替えるということになりました。
その結果、今度は祟りもなく植え替えに成功したのですが、このご神木は残念ながら、植え替え先で枯れてしまったそうです。
こうして居場所を失った、お袖だぬきはどうなったのか。
昭和9年、越智郡大井村の国鉄大井駅に、女学生に化けたお袖だぬきが現れ、隣の小西村にある明堂に鎮座したという話が広まりました。
それからこの村には、お袖だぬきを拝む者たちが、群がるように集まって来ました。
しかし数年後、大西駅にまたもや不思議な女学生が現れると、それからお袖だぬきの御利益がなくなり、大西村のお袖だぬき信仰は廃れてしまいます。
お袖だぬきが去ってしまったと思われたそうですが、その後のお袖だぬきの行方は、誰にもわかりません。
そして昭和22年頃に、新たに大きく育った榎の下に、お袖だぬきは戻って来ました。
榎の下には祠が建てられ、現在に至っています。