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大林寺

※山門辺りから見た大林寺

大林寺は、札ノ辻から西へ延びる紙屋町の、突き当たりにあるお寺です。

元々は松山城の二代目城主、蒲生忠知がもうただちか寛永かんえい四年(1627年)に、前年に亡くなった兄の忠郷たださとの霊を弔うために、建立こんりゅうされました。

当時は見樹院と呼ばれていましたが、寛永十二年(1635年)に、三代目城主、松平定行まつだいらさだゆき(旧姓久松ひさまつ)が、大林寺として同家の菩提寺としました。

そのため、代々の城主は紙屋町を通って、大林寺へお参りをしたと言います。

と言うより、三ノ丸から北のお堀を渡ると、大林寺までは一直線ですから、元々参拝のためだった道が紙屋町になったのでしょうね。

※札ノ辻から西へ延びる通りが紙屋町で、その突き当たりが大林寺
※右は大正13年の地図。大林寺の右の神社が、阿沼美神社。左は現在の地図

大林寺の本堂の南に、松平家の墓所と廟がありましたが、戦災で全て焼けてしまいました。

現在の大林寺は、敷地も狭くなってしまいましたが、戦争で焼けるまでは、松平家の菩提寺として、広大な敷地を有していました。

※かつての大林寺。現在の大林寺は赤い枠内に縮小
※久松家御廟所。代々の当主が、複数の墓に眠っている。
※現在の地図と昔の大林寺。その敷地がかなり広大であったことがわかる。
※西側から見た御廟所

明治時代に県庁が建設される時には、県庁が完成するまでの間、大林寺が仮庁舎として利用されました。

また、日露戦争が起こると、ロシア兵捕虜の第一号収容所となりました。

※ロシア兵捕虜収容所だった時の大林寺。右は中門。
※大林寺の看護婦たちと、ロシア兵捕虜たち

ちなみに、松山には「水あめを買いに来たゆうれい」という昔話があります。

出産を控えて亡くなった女性が、棺桶の中で生んだ子供のために、毎夜飴屋に水飴を買いに来るという話です。

詳しくは、調べて読んでもらえばと思いますが、この女性が葬られていたお寺が、大林寺ということです。