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丁稚・手代・番頭

※昔の商家(大店)。

江戸時代から日本の商家には、奉公人を入れて商いをする習慣がありました。

行商から始めたような小さな店は、夫婦だけで商いをしていたと思われますが、店の規模が大きくなり、人手が必要になって来ると、外から人を入れる必要が出て来ます。

今であれば、正社員あるいはパートやバイトなどの形で、人を雇うことになりますが、昔は店に対して奉公するという者を入れていました。

※大店の伊予絣卸商。

店は奉公人に対して、仕事を覚えさせる他に、衣食住の面倒をみます。

とは言っても、今のような衣食住を保証するものではありません。

住むのは店の主の家に同居で、ほとんどの者は一つ部屋を一緒に使います。

食べ物も質素で、育ち盛りの者が食べるには貧弱な食事です。

※大正10年頃の薬商の朝と昼の食事。夜はここに煮物などが付きます。

休日は盆と正月の年二回で、藪入りと呼ばれました。

この時に、奉公人たちは新しい着物と、小遣いを店の主から受け取るのです。

今の人からすれば、そんなのやってらんないよ、というものですが、真面目に仕事を頑張る者で、才能があると認められた者は、店の主から暖簾分けをしてもらい、自分の店を持たせてもらうことができるのです。

そのためにかかる費用は、一切を店の主が持ってくれます。

奉公人たちは、そんなご褒美を夢見ながら、つらい奉公仕事を続けていたのですね。

それでもつらさに耐えきれずに、途中で辞める者も少なくなかったようです。

※呉服屋の丁稚たち。真ん中にいるのが、店の主と息子。

奉公人にもランクがあり、一番下の見習いを丁稚でっちと言いました。
関東では小僧と呼ばれていたようです。

丁稚は10歳ぐらいからで、主人のお供・子守・掃除・使い走り・読み・書き・そろばんの練習・行儀見習いなどが日課です。

また、蔵への品物の出し入れや、力仕事が多いようです。

丁稚の上が手代で、17歳ぐらいから番頭の指図で出納・記帳・接客・売買など、商いの本筋に携われるようになります。

昔でしたら、17歳頃に元服という成人になる儀式を行い、それから手代に昇格でした。

番頭となるのは、おおむね30歳前後。

番頭に昇格すると、店の経営を任されます。

他に住まいを構えて通いで働くこともできますし、結婚も許されます。

また、いずれは暖簾分けをしてもらい、自分の店を持たせてもらえます。

この経営手法は江戸時代のもので、明治時代以降、徐々に変わって来ました。

元服の代わりに羽織を着用させ、結婚して通いができる年齢も早くなりました。

しかし、もっと大きな変化もあります。

それは、住み込みではなく、家から仕事場に通わせ、給料を支払うというものです。

休日も祭日と日曜日か、もしくは月に2度か3度の定休日を設けました。
2週間程度の夏期休暇もありました。

その代わり、店員は生活費を含めた、一切の支払いを自分ですることになります。

退職金をもらえますので、暖簾分けの世話はありません。

また、住込み制度と通勤給料制度を、折衷せっちゅうしたやり方もありました。

丁稚はこれまでどおりの住み込みで、衣食住の世話をするけれど、給金は出さないというものです。

手代に昇格した者や、途中から雇い入れた大人に対しては、通勤給料制にします。

仕事を続けるのもやめるのも本人の自由で、独立する時には積立金を用意します。

これは雇い主からすれば、暖簾分けにかかる費用の負担を、軽減できるものでした。

実際は店によって、これらのやり方をいろいろ混ぜていたようです。

丁稚奉公から給料制に変わった所は、大きな商店や会社、百貨店などで、小さな店や老舗では、しばらく丁稚奉公が続いたそうです。


使用人と家人の区別はきちんと分けられていたそうで、下の写真は薬商の家族と使用人の食事風景です。

基本的に同じ物を食べているようですが、ご飯は家人が白米であるのに対して、使用人は麦飯でした。

また、女中は台所の片付けなどを終えてから、最後に一人で食べていたようです。

※手前にいるのが使用人。実際はもっと多くの使用人がいたと思われます。
※使用人は家人と同じ畳の上には上がらせてもらえず、土間に座っての食事です。

建物の造りや店の主の考え方は、店によって違っていたでしょう。

どこの店も使用人が土間で食べていたとは限らないと思います。

山﨑機織では、家人と使用人の線引きは為されていますが、使用人の食事は土間ではなく、別の部屋を使っています。

また、女中の花江は特別扱いということもあって、一人きりで食事をすることはありません。

ちなみに、丁稚の名前は最後が「松」で終わり、手代の名前は最後が「吉」や「七」、番頭は「助」で終わるという話がありあります。

たとえば、仙太さんであれば、仙松、仙吉、仙七と、出世に伴い呼び名が変わるわけです。

でも、これは日本中のどこの店も同じなのかと言うと、そうではないと思います。

東京や大阪の大きな店の習わしが、伝えられているだけで、地方の小さな店では、そんな習わしはなかったという話もあります。

また、店によっては丁稚の名前の終わりが、「松」ではなく「吉」のこともあります。

あの有名な松下幸之助は、丁稚の時に幸松ではなく、幸吉と呼ばれていたそうです。

山﨑機織での使用人の名前の呼び方は、丁稚を「吉」付け、手代を「七」付けで呼んでいますが、番頭の辰蔵は本名です。
本人の希望でそう呼ぶことになりました。

また、 山﨑機織 の丁稚に給料はありませんが、手代と番頭には給料が出ますし、番頭には報奨金も出ます。

手代は住み込みですが、番頭は通いを希望すれば通いもできます。

辰蔵は住み込みを希望しているので、住み込みになっています。

給料制ですが、月々の給金は将来のために、ほとんどを店で積み立てています。本人たちが自由に使えるお金は、積立金を差し引いたわずかな分だけです。

山﨑機織は人手不足のため、丁稚が力仕事、手代が接客と、きっちり分かれているわけではなく、必要に応じて手代が品を蔵に出し入れすることもありました。

※薬商の蔵の中。手前が手代で、向こうが丁稚。山﨑機織の荷車は、もっと大きな物でした。