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三津街道

※松山藩の参勤交代

江戸時代、松山藩の参勤交代は、瀬戸内海を船で移動しました。

その海の玄関口となったのが、三津浜です。

※松山藩の参勤交代のルート。青線が航路。赤線が陸路。大阪から京都までは淀川を利用。

松山から三津浜まで参勤交代で通る道は、三津街道と呼ばれて、他の街道よりも広くて立派だったと言います。

街道の両脇には、松や杉が1300本植えられていたそうで、この街道は別名を松縄手と言いました。

松や杉を植えたのは、街道を通る人や馬などを日差しから守るためだそうです。

※三津街道と松山城
※三津街道を自転車で散歩するロシア捕虜兵
※大正2年の地図。青が三津街道。赤の鉄道が松山電気軌道。黒の鉄道が伊予鉄道。

三津街道出発点は三津口と呼ばれ、番所と牢屋が設置されていました。

現在の伊予鉄道市内電車の、萱町六丁目駅辺りが三津口だったそうです。

三津街道は三津口から西へ延び、三本柳で北へ向きを変えます。

そのまま真っ直ぐ北へ進むと三津港に出ますが、お殿さまが参勤交代で海に出る所は、途中で西に曲がります。

下の地図の三津街道の終点の所に、「文」という学校を示す記号が見えますよね。

ここは現在の三津浜小学校で、ここには潮流の関係などで、お殿さまが乗船するまで休憩に使っていた、三階建ての御茶屋がありました。

今でも、この小学校の校庭には、当時の御茶屋で使った井戸が残っています。

すぐ目の前が海だったので、良質の真水が出るこの井戸は、とても重宝されたと言います。

※赤線が三津街道。三津口は現在の萱町六丁目駅の辺り。
※明治時代の電車が走る前の三津街道。手前が三本柳。向こう側が三津港。
※明治40年に三津街道に沿って電車が開業。千鶴が歩いた三津街道の風景も、これと同じ。

上の二枚の写真は、同じ場所で撮られたものです。

場所は三本柳から北へ向かう道で、途中で左の宮前川(祓川)を渡る橋があり、そこから川の対岸に松並木が続きます。

恐らく、ここが三津浜の御茶屋へ向かう道だったのでしょう。

※文政六年(1823年)の三津浜
※宮前川を渡ったあとの三津街道か。向こうに興居島がかすかに見える。

明治21年に松山と三津を結ぶ伊予鉄道が開業してから、松山では次々に鉄道会社ができました。

それらは最後には伊予鉄道に吸収合併されてしまうのですが、明治44年には、三津浜と松山、道後を結ぶ松山電気軌道が開業します。

これは伊予鉄道に対抗して造られたものなので、伊予鉄道と競合する路線を走ります。

当時、三津浜方面へ走る伊予鉄道は、陸蒸気おかじょうきと呼ばれた蒸気機関車(のちの坊ちゃん列車)でしたが、松山電気軌道の方は、その名前のとおり電車を走らせました。

伊予鉄道も対抗して、道後へ向かう路線は蒸気機関車から電車に変更したのですが、三津浜方面へ向かう列車は蒸気機関車のままでした。

※三津街道と坊ちゃん列車
※古町停車場を出た伊予鉄道の陸蒸気と電車に、松山電気軌道の電車が交差しているところ。

結局、松山電気軌道は大正10年に伊予鉄道に合併されますが、その路線は昭和10年まで、伊予鉄道が継続して運営していました。

そのため、千鶴が女子師範学校に通っていた頃は、まだ三津街道に沿って陸蒸気と電車が併走していたのです。

※大正5年の三津浜。手前が港で、向こうは砂浜。丸い建物は魚市場。

現在の三津浜には、フェリーターミナルがありますが、それは海を埋め立てて造ったものです。

元々、三津浜は砂浜で、殿さまは砂浜から船を出していました。

※三津浜の砂浜から興居島を望む。大型船は浅い三津港には着港できないので、人も荷物も小舟で運んだ。

お殿さまの御茶屋は、現在の三津浜小学校にありましたが、その三津浜小学校のすぐ南に 松山西警察署があります。

千鶴が通っていた愛媛県女子師範学校は、この西警察署の所にありました。

つまり千鶴は、昔のお殿さまが通った道を、歩いていたわけですね。

※愛媛県女子師範学校が見えて来ました。
※愛媛県女子師範学校に到着です。