江戸時代、三津浜は殿さまが参勤交代をする時の、海の玄関口であると同時に、物流の拠点でもありました。
明治時代になると、参勤交代はなくなりましたが、三津浜が人や物の移動の拠点であることには、変わりありませんでした。
松山と三津浜を結ぶ道は三津街道と呼ばれ、松山から三津浜へ品を運ぶ時は、三津街道を牛車で運びました。
運ぶ物によっては、運搬賃が高くついたようです。
伊予鉄道の創業者である小林信近氏は、桧材を松山から大阪へ運んだ時に、三津~大阪の約100里(約400㎞)の船賃より、三津街道の1里半(約6Km)の輸送費の方が、高くついたと言います。
この経験によって、小林氏は松山~三津の鉄道を建設することを考えたそうです。
こうして明治21年に松山~三津に伊予鉄道が開設され、6.4キロの営業区間には、松山・三津口・三津の三駅が設けられました。
ちなみに、三津口というのは三津街道の起点の呼び名です。
伊予鉄道は軌間(レール幅)が762mmしかない軽便鉄道なので、車両は小さな箱のようです。
そのため、1車両の定員は12名とされました。
松山~三津の所要時間は28分で、1時間半ごとに運行し、1日10往復でした。
運賃は上等12銭、中等7銭、下等3銭5厘です。
別に1銭を支払えば、座布団も貸してもらえたそうです。
のちに夏目漱石の小説「坊ちゃん」で紹介されてから、坊ちゃん列車と呼ばれるようになった蒸気機関車は、運行開始当時は陸蒸気と呼ばれていました。
この頃は、全国的に見ても鉄道は極めて珍しく、陸蒸気の試乗に近郷から出かけてくる者も、多かったと言います。
明治22年には、三津口停車場が古町停車場に改称され、松山停車場は一度、外側停車場に改称されました。
その後、明治35年に外側停車場は、再び松山停車場に戻されています。
昭和になると、停車場という呼び方よりも、駅という呼び方が一般的になります。
それで、松山停車場は松山駅と呼ばれていたのですが、昭和2年に国鉄が松山まで伸びて来ると、松山駅が二つになるため、伊予鉄の方の松山駅は、現在と同じ松山市駅となりました。
伊予鉄道の開業に触発されて、明治28年には三津口と道後、そして明治になってから発展した商業地区の一番町と道後を結ぶ、道後鉄道が開業しました。
道後鉄道は道後温泉に客を呼び込むためのもので、三津口駅は伊予鉄道の古町駅に隣接して造られました。
三津口駅は県外客、一番町駅は街中の客のためにあったわけですね。
また、翌年の明治29年には、松山の南部にある伊予郡郡中町と松山を結ぶ、南予鉄道が開通しました。
明治33年には、道後鉄道と南予鉄道は経営難のため、伊予鉄道に吸収されます。
その際、外側駅と藤原駅は一つになって、松山駅と名称が変わりました。
また、三津口駅は古町駅に吸収され、今治街道と交差する所に、新たに木屋町駅が設けられました。
千鶴と春子を人力車で運んでいた忠之が、初めて電車を目にしたのが、この木屋町駅です。
話を少し戻ますが、松山と三津を結ぶ路線は、明治25年に高浜まで延長されました。
三津は砂浜のある浅い海だったので、大きな船が接岸できませんでした。
それで、 県外から来た人や物を沖で小舟に移して、それから陸へ運ぶという手間がかかっていました。
これでは貿易の発展を見込めないということで、大きな船が接岸できる港を、高浜に建設する計画が持ち上がり、三津までだった線路を、高浜まで延長することになったのです。
また高浜には、もう一つの長所がありました。
それは台風に強いということです。
三津浜は台風の被害をもろに受けますが、高浜は目の前にある興居島が護ってくれます。
台風時の船の安全という点からも、高浜港が望まれたのでした。
これに猛反発したのが、三津に暮らす人々です。
三津は江戸時代から、松山の海の玄関口として発展した町であり、人々にはそのプライドがありました。
しかし、人や物資の拠点が高浜に取られてしまうと、三津の町は廃れてしまうかもしれません。
そんな危機感を抱いた人々は、高浜まで路線を延ばす計画に猛反対をしました。
しかし結局、伊予鉄道は計画通り、高浜まで線路を延長しました。
明治39年、高浜港が開港されると、広島と松山を結ぶ航路の拠点が、三津浜から高浜へと移されました。
怒り狂った三津浜の人々は、伊予鉄道に対抗すべく、お金を出し合って自分たちの鉄道会社を立ち上げました。
それが松山電気軌道です。