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伊予鉄道と松山電気軌道 その2

※県庁横にある愛媛県商品陳列所と松山電気軌道の電車。

伊予鉄道が高浜まで線路を延長したのが、明治25年です。

その後、高浜港の建設が始まり、明治39年に高浜港は完成します。

高浜港が完成すると、三津の人々が危惧したとおり、ほとんどの船が三津浜港ではなく、高浜港を利用するようになりました。

伊予鉄道へ反発する三津の人たちは、伊予鉄道への乗車を拒否し、松山と三津浜の間に乗合馬車を走らせました。

乗合馬車と共に、人力車も出ていたそうですが、その料金は馬車が松山まで五銭、人力車が三銭五厘でした。

そうやって伊予鉄道の陸蒸気おかじょうきと張り合ったのですが、馬車が蒸気機関車に勝てるわけがありません。

それで、三津の人たちはとうとう明治44年に、松山電気軌道まつやまでんききどうを開業させたのです。

目的は伊予鉄道への反発と対抗です。

松山電気軌道は線路の幅が1,435mmで、伊予鉄道の線路幅の約2倍の広さです。

しかも、伊予鉄道の松山~高浜を走るのは蒸気機関車ですが、松山電気軌道の車両はその名の通り、電車でした。

絶対に伊予鉄道を陵駕りょうがしてやるぞという、三津浜の人々の意気込みが表れていますね。

※黒白が伊予鉄道の路線。赤白が松山電気軌道の路線。

松山電気軌道の路線は、伊予鉄道と併走するように、三津浜港の江ノ口から萱町までを結び、さらには松山市街を通り抜けて、道後温泉まで至るルートです。

伊予鉄道では高浜から道後温泉へ行くには、古町で乗り換えなければなりません。
三津浜から道後温泉まで直行で行けるいうのが、松山電気軌道のセールスポイントでした。

また、上の地図に全てを載せたわけではないのですが、松山電気軌道の停車場は、伊予鉄道と比べると、あちらこちらに小まめに造られているのが特徴です。

利用する人の便利さを考慮したものでしょうね。

既に道後鉄道を吸収し、道後温泉への路線を持っていた伊予鉄道は、松山電気軌道に対抗すべく、元道後鉄道の路線を電化し、陸蒸気をやめて電車を走らせるようにしました。

線路幅も1,067mmに拡張されましたが、松山電気軌道の線路幅には及びませんでした。

こうして二つの鉄道会社の間で、乗客を奪い合う熾烈しれつな競争が展開されたのです。

※古町駅の北側で、立体交差する伊予鉄道(下)と松山電気軌道(上)。

この時の伊予鉄道は、30分ごとの発車でしたが、松山電気軌道は15分ごとの発車でした。
松山電気軌道は、運行時間も午前5時から夜の12時までという、信じられないような時間帯でした。

一番町駅と道後駅では、伊予鉄道と松山電気軌道の駅舎が、競り合うように隣接していました。

両社従業員が鈴を鳴らしながら、乗客を奪い合う様子は、全国に知れ渡るほどだったと言います。

※二つの道後駅。左が松山電気軌道で、右が伊予鉄道。
※隣接した伊予鉄道(左)と松山電気軌道(右)の一番町駅。

伊予鉄道は高浜の手前に、臨時駅として梅津寺駅を作り、そこに梅津寺海水浴場を設置していました。

松山電気軌道はそれにも対抗して、三津浜に三津ヶ浜海水浴場を作ります。

※梅津寺海水浴場
※三津ヶ浜海水浴場

また、さらに松山電気軌道は、三津と古町の間にある衣山きぬやまに、知新園ちしんえんという遊園地を作って、集客を図りました。
知新園には、四国唯一の動物園まであったそうです。

両者共倒れになりそうな争いは、松山電気軌道の方が若干有利だったようです。
しかし、結局は資金力の問題で、大正10年に松山電気軌道は、伊予鉄道に合併されることになります。

合併後も、松山電気軌道の路線は、しばらくは伊予鉄道の路線として存続していました。

しかし、昭和年に国鉄が松山まで延びて来たのをきっかけに、江ノ口から萱町かやまちまでの路線が廃線となりました。

千鶴が愛媛県女子師範学校へ通っていた頃には、松山電気軌道はすでに伊予鉄道に吸収されていましたが、その路線はまだ残っていました。

※千鶴が歩いた三津街道
※大正13年の松山の地図。黒い鉄道が陸蒸気で、赤い鉄道が電車。