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紙屋町と伊予絣

紙屋町かみやちょうは現在はありませんが、お城のお堀の西北端にある札ノ辻から、西へ延びた通りの家並みを言います。

※札ノ辻と大林寺を結ぶ道沿いが、紙屋町。

城下町全体に拡大すると、紙屋町の位置は下の地図のとおりです。
真ん中の山の上にあるのが、松山城です。

お堀に囲まれているのは三ノ丸で、江戸時代は武家屋敷でしたが、大正時代には松山歩兵第22連隊の駐屯地でした。

※札ノ辻から西が紙屋町。札ノ辻から北は本町。

城山の西から北西部にかけては、古町三十町こまちさんじゅっちょうと呼ばれて、江戸時代の松山の中心的な商人町の地域でした。

当時、紙は伊予縞いよしまに次ぐ松山の特産品で、紙屋町には多くの紙問屋や紙仲買が、暮らしていたと思われます。

しかし、明治になって製紙業の機械化が進むと、松山の紙漉かみすき業者はついて行けず、次第に姿を消して行きました。

それに伴い、紙を扱う店も減って行ったと思われます。

一方で、伊予縞も明治10年頃から、売れ行きが悪くなりました。

しかし、こちらには伊予絣いよかすりという、新しい高級織物が登場したため、松山の織物産業は衰退することなく、逆に発展することができました。

伊予絣というのは、鍵谷かぎやカナという女性が発案したものです。

織った反物に、あとから絵を描くのではなく、あらかじめ描く絵柄に合わせて、織り込む糸を部分的に染め上げておくのです。

その糸を使った反物は、織り上がった時に、すでに絵が描かれているというわけです。

それだけ手間がかかるのですが、その分高く売れるため、機織りの織子にも人気の商品でした。

各地の農家も副業として、伊予絣を作る家が増えたそうで、風早かざはや北条ほうじょう周辺でも、多くの農家が伊予絣に携わっていました。

※伊予絣を織る織子たち。

松山の商家も、伊予絣を扱う店が増えたようです。

札ノ辻から北へ延びる通りは、本町ほんまちと呼ばれていますが、本町から紙屋町にかけて、伊予絣問屋や小売店が、軒を連ねていたそうです。

※大正時代の紙屋町

紙屋町には明治20年に、伊予絣の商品の質の安定化を狙った、伊予織物改良同業組合(大正6年には、伊予織物同業組合に改称)が作られました。

そのことから、紙屋町が伊予織物業の、中心的な場所であったことが窺えます。

※紙屋町に明治11年に建てられた、第五十二国立銀行。
※紙屋町に明治31年に建てられた、伊予農業銀行。

紙屋町の突き当たりには、久松家の菩提寺である大林寺があります。

そのためお殿さまたちが、ご先祖の墓に参拝する時には、この紙屋町通りを通りました。

お殿さまが二ノ丸から三ノ丸の北のお堀に出て、札の辻を通って真っ直ぐ西へ行けば大林寺です。

大林寺は久松家の前の城主が創建したものですので、元々紙屋町通りはその参拝のための道でした。

そういうこともあって、紙屋町は古町三十町の中心だったと言えるでしょう。

※久松家の菩提寺である大林寺