つや子の影
一
「まずはお詫びします」
畑山はみんなに深々と頭を下げた。それから前の錦絵新聞の記事について、萬翠荘の話と城山の事件が関係があるかのような形になったことを、そういうつもりではなかったと弁解した。
「たまたま同じ晩に起こったことなんで、あんな書き方になってしもたわけなんですわ。城山の萬翠荘の絵もね、仲間の絵師が勝手に描きよったんです。別に千鶴さんの話にけちつけよ思たわけやおまへんよって、そこんとこはご理解のほどよろしゅう頼んます」
ぽかんと話を聞いている甚右衛門たちに、畑山はもう一度頭を下げた。
「あんた、ほれを言いに、わざにおいでたんかな?」
訊ねるトミに畑山は手を振り、そうやおまへんと言った。
すかさず甚右衛門は、また記事のネタ探しに来たのかと畑山をにらみつけた。
「違いまんがな。そうやおまへんのや。わてな、実は作五郎はんと知り合いでんねん。そんで作五郎はんがわてとこの錦絵新聞を、こちらへ送ったて聞かされましてね。これはまずいと思たんです」
「まずいと思たんは、まずいこと書いたいう自覚があったけんじゃろがな」
「それはそうなんでっけど、まさかこっちであの錦絵新聞が見られるとは思とりまへんで。あ、いや、せやから千鶴さんには迷惑にならんと考えたからこそ、あれを出させてもろたんですけどね」
そうだったのかと、千鶴は作五郎が畑山の錦絵新聞を送って来た理由を理解した。作五郎はたまたまあの錦絵新聞を見つけたのではなく、畑山がこちらで取材したものだと知っていたのだ。
だが、今はそんなことはどうでもいいことだ。千鶴たちは進之丞のことで頭がいっぱいだった。
それでも幸子は大阪から訪れた畑山を気遣ったのか、あるいは今の危機を知られたくなかったのか、あの記事は売れたのかと、普段の顔で訊ねた。
畑山はにんまりすると、それはもうと言った。
「あれがね、どっちか一つだけやったら、それほど売れんかったかもしれまへん。せやけど、同じ晩のことや言うとこがみそでんな。天国と地獄が一所にあったみたいな感じなんが、読者の心をつかんだんですわ。しかも、前に出した風寄の記事の復刻版を出せ言う声が多くてね。そらもう、てんやわんやでした」
自慢げに喋る畑山に、甚右衛門は皮肉を込めて言った。
「とにかく、お前さんはあることないこと書き立てて、こっちが迷惑しよるのを尻目に、向こうで大儲けしたわけよ。血ぃ吐いたお前さんのために医者まで呼んで、素直に千鶴に話をさせた結果があれやけんな」
「いや、せやからそれはですね」
「もう言い訳は聞きとうないけん去んでくれ。ほれに、もうわしらにはそがぁなことは、どがぁでもええことやけんな」
背を向ける甚右衛門に、畑山は焦ったように言った。
「旦さん、そう言わんで、わての話を聞いておくれやす」
「今更何を聞けと言うんかな。もう新聞は出てしもた。ええも悪いもなかろ? ほれにな、もうわしらはこの店を畳んだんよ。明日にでもここの全部が差し押さえられてな、わしらはここを追わい出されることになっとるんよ」
力なく甚右衛門が話すと、それでんがな――と畑山は言った。
「最前からわてが言いたかったことは、それですわ」
「ほれとは?」
甚右衛門が振り返ると、畑山は真面目な顔で言った。
「せやからですね、作五郎はんからこちらの状況を耳にして、わては居ても立ってもいられんようになったんです。別に何かできるわけやおまへんけど、とにかくみなさんのお顔を見に行かないかんて思て、馳せ参じたわけでおます」
畑山はきりりと顔を引きしめて、千鶴たちの顔を見渡した。しかし、甚右衛門もトミも幸子もきょとんとしている。いきなりそんなことを言われても、自分たちが知っている畑山の姿に合わないことに戸惑っているようだ。
それでも千鶴だけは畑山の気持ちが理解できた。好い加減なように見えるけれど、畑山は本当は心の温かい人物なのである。
千鶴たちの前で血を吐いた時と比べると、畑山はさらに痩せたように見える。肌の色も悪くなったようで、恐らく体調は悪化していると思われた。それなのにこんな所まで励ましに来てくれたと思うと、千鶴は涙がこぼれた。
だんだん、畑山さん――と千鶴は涙を拭きながらお礼を言った。いいえと畑山が微笑むと、ようやく甚右衛門たちにも畑山の本意がわかったようだった。
ほういうことじゃったかと甚右衛門が頭を下げると、トミと幸子も目に涙を浮かべ、畑山に頭を下げて感謝した。
畑山は慌てたようにみんなの頭を上げさせると、千鶴と花江が襲われた事件について喋った。
「作五郎はんから聞いた話やけど、こないだ千鶴さんらが襲われた話、あれ、裏に黒幕がおるんでっしゃろ? 横嶋つや子ちゅう悪い女が」
畑山の登場で殺伐とした雰囲気が少し変わったのだが、つや子という名前がみんなを現実に引き戻した。
「そもそも、あがぁことがなかったら、今みたいなことにはならんかったんよ」
トミが両手で顔を覆って泣いた。甚右衛門も幸子も目を伏せ、千鶴も悲しみが込み上げて来た。
畑山はトミを慰めながら言った。
「わてな、その横嶋つや子いう女、知っとりまんねん」
二
何じゃと?――と甚右衛門が目を見開いた。千鶴も驚いて母と顔を見交わし、トミも涙に濡れた顔を上げて畑山をじっと見た。
みんなから注目された畑山は気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「情けない話でっけど、わて、あの女に騙されて、有り金全部持って行かれたんですわ」
「貸本屋がだめになったていうんは、そのせいなんですか?」
千鶴が訊ねると、そのとおりと畑山は言った。
「まぁ、騙されたわても悪いんやけどね。この胸の病に効く薬があるて言われましてん。それで有り金はたいて、その薬手に入れたんです。そしたらね、それ、東京で売りよった、ただの風邪薬やったんですわ。もう腹は立つわ、悲しいやらで、わて、あの女見つけて絞め殺したろかて思いました。えぇ、それぐらい腹立ちました」
しかし、畑山が騙されたと気づいた時には、つや子は行方を眩ましていたと言う。調べてみると、他にもつや子に騙されたという者が何人もいて、中には絶望して首を吊った者もいたらしい。
千鶴と花江が襲われた事件に、つや子が関わっていると知ったのも、畑山がここへ来た理由の一つだった。
「ほやけど、畑山さんを騙した女と、こっちで言うとる横嶋つや子が、同姓同名の別人いうこともあるんやないですか?」
幸子が訊ねると、恐らく同一人物だと思うと畑山は言った。
「正月明けにお邪魔した時、わて、ここであの女、見かけたんですわ。ほれで、急いで追いかけたんやけど、うまい具合にまかれてしもて捕まえれんかったんです」
「ひょっとして、うちと会いんさったあの時?」
千鶴は三津子から逃げようとして、畑山に見つかった時のことを思い出していた。
「そうそう。あん時ですわ。あん時は、千鶴さんに会えて話まで聞かせてもらえたから、まぁええわて思たんでっけど、今考えたら、あん時にあの女を捕まえとったら、今みたいなことにはなってなかった思てね。申し訳ないし悔しいし情けないし、とにかく汚名返上言うか、何かお役に立てたら思て駆けつけたんです」
甚右衛門は畑山を見直したような顔で言った。
「話はわかったし、まっこと有り難いとは思うけんど、ほんでも、そこまでしてわしらのことを考えてくんさるんは、なしてぞな?」
甚右衛門が訊ねると、畑山は照れ臭そうに笑い、千鶴さんですわ――と言った。
「うち?」
驚く千鶴に、畑山は自分にも千鶴と同じくらいの娘がいると言った。
「わてはこんな男でっけど、実は目の中入れても痛ない娘がおるんですわ。いや、ほんまは目に入れたりしたら痛いんやけどね。と言うか、目に入るわけないわなぁ」
ふざけているのか、普通に喋っているのかよくわからないが、畑山の話を聞いていると、自然に千鶴たちの顔が綻んだ。
「その娘にも苦労かけたけど、そんでも真っ当に育ってくれて、何とか嫁にもろてくれる相手も見つかったんです。たった一人の娘ですさかい、ほんまにほっとしましたわ」
感慨深くうなずく畑山に、ちぃと待てと甚右衛門が言った。
「お前さん、こないだ来た時、確か小学校に通とる子供が三人おるて言わんかったかな?」
「え? いや、それはその……、お隣の子供ですわ。しょっちゅう遊びに来とるから、もうすっかりうちの子供になってしもて……」
はははと畑山は笑ったが、甚右衛門が黙っていると、すんまへんと頭を下げた。
トミは呆れながら、さっきの話を続けるようにと言った。
畑山は頭を掻きながら、それでですねと話を続けた。
「うちの娘と歳も変わらん千鶴さんが、昔からえらい苦労して来たはるてわかって、わて、千鶴さんのこと軽うに考えとった自分が恥ずかしなったんです。しかもね、わてみたいなことしよったら、どこ行ってもうるさがられるのに、千鶴さん、わてみたいな人間にも優しゅうしてくれて……。わて、あん時、泣きそうなりました」
「畑山さん……」
しんみり話す畑山に、千鶴は心が打たれた。
畑山は千鶴を見ると、きっぱり言った。
「せやからね、わては千鶴さんに絶対幸せになって欲しいんです。千鶴さんに鬼が憑いていようと狸が憑いていようと、わては千鶴さんを応援しよて決めたんです」
さっと甚右衛門たちの顔色が変わった。
甚右衛門は探りを入れるような目で畑山に言った。
「お前さん、鬼のことは誰から聞いたんぞな?」
畑山は胸を張ると平然と言った。
「こんでも新聞記者ですよって、いろいろ情報は集めとります。そんで、それを千鶴さんにも確かめさせてもらいました」
甚右衛門たちは驚いたように千鶴を見た。千鶴は構わず畑山に訊ねた。
「畑山さんは鬼が怖ないんですか?」
「わてが思うところ、鬼が害を為すんは千鶴さんを苦しめるやつだけでしょ? せやから、わてが鬼に襲われる心配はおまへん。恐らくでっけど、鬼でさえも千鶴さんの優しさに惚れてしもとるんやおまへんか」
千鶴は畑山が大好きになった。思わず畑山の両手を握ると、だんだん――と何度も言いながら泣いた。
畑山は少し恥ずかしそうに笑いながら、胸ポケットから封筒を取り出した。
「これね、ほんの気持ちです。全然大した額やないけど、どうぞ、受け取ってやってくれませんか」
畑山が差し出した封筒を受け取った甚右衛門は、改めて深々と頭を下げた。トミと幸子も頭を下げて感謝した。
「こがぁな時こそ、人の思いやりが身に染みるぞなもし。お前さんのお気持ち、この甚右衛門、一生忘れんぞなもし」
甚右衛門の言葉を合図に、トミは畑山を家の奥へ誘うと、千鶴にお茶の用意をするよう言った。
いやいや、お気遣いなく――と言いながら、畑山はさっさと中へ入って行った。しかし、使用人もいなくなってがらんとなった家の中を見ると、立ち止まったまま何も喋らなくなった。
「みんな一昨日暇を出したけんな。今おるんは、わしらぎりぞな」
甚右衛門の言葉に畑山は涙ぐんだ。
「わてもね、いっぺん貸本屋だめにしてもたから、みなさんがどんだけつらいかわかります」
畑山が気の毒そうに言うと、甚右衛門は畑山を茶の間へ上げた。
腰を下ろした畑山は、みんなを見ながら今後の予定を訊ねた。しかし、それには誰も答えられなかった。
四人の様子がおかしいことに気づいた畑山は、何かあったのかと言った。
甚右衛門は黙ったままで、トミは泣き出した。お茶を淹れる千鶴も涙ぐんで何も話せない。代わりに幸子が何度も涙を拭きながら、巡査が来たことや、巡査に言われた話を畑山に聞かせた。
畑山は誰が聞いてもそれはおかしいと憤り、これは誰かが仕組んだことだと思うと言った。
忠七が姿を隠したりしなければとトミが嘆くと、畑山は千鶴を見た。
「忠七さん言うんは、ただの使用人の方でっか?」
「いえ、うちの許婚ぞなもし」
千鶴が遠慮がちに答えると、そうでっか――と畑山は大きくうなずいた。畑山は見た目と違って頭が鋭い。畑山の目が進之丞の正体を見破ったように見えて、千鶴は少しうろたえた。
「ほれは心配と言うか……、心配やなんてもんやおまへんな。まずは、その忠七さんを見つけることが先決でっしゃろ」
「ほうなんですけど、どがぁしたら……」
「わてが何とかしますわ。でも、その前に千鶴さんに一つ訊かせて欲しいんでっけど、その忠七さんは千鶴さんにとって守り神みたいな人でっか?」
はいと千鶴が答えると、畑山はにっこり笑い、今の答でよくわかりましたと言った。
「よくわかったとは?」
甚右衛門が訊ねると、畑山は笑顔のまま答えた。
「忠七さんが千鶴さんにとって、掛け替えのないぐらい大切な人いうことですわ」
畑山の答えに甚右衛門は納得したようだった。しかし、千鶴は畑山が進之丞の正体に気づいていると思っていた。
千鶴と進之丞、つまり千鶴と鬼との本当の関係を知った畑山は、そのことを新聞の記事に書くのだろうか。
ちらりとそんな考えが頭を過ったが、千鶴はすぐにその考えを打ち消した。畑山はそんな人間ではないと、千鶴は畑山を信じることを選んだ。それに、今の千鶴が頼れるのは畑山しかいなかった。
よろしいにお願いします――と千鶴が頭を下げると、甚右衛門たちも頭を下げた。
畑山は照れながら、英雄になったみたいやなと言った。
「とにかく親切にしてくれた千鶴さんのためや。どうか、わてに任せといておくれやす」
畑山はにっこり笑って胸を叩くと、げほげほと咳き込んだ。
三
畑山を見送りがてら、千鶴は畑山と少し歩きながら、これからどこへおいでるおつもりですか――と訊ねた。
「お祓いの婆て呼ばれとる、ばあちゃんがおるでしょ? あの人ん所へ行ってみよ思てまんねん」
千鶴はどきりとした。お祓いの婆とは、千鶴に鬼が憑いていると言い当てた老婆である。その老婆に会いに行くというのは、やはり畑山は進之丞の正体を見破っているということに違いない。
千鶴の困惑に気づいたのか、畑山は付け足して言った。
「あのばあちゃん、結構占いが当たるて評判らしいんですわ。ただ気難しい人やから、前に来た時は門前払いされました。でも今度は何が何でもあのばあちゃんに会うて、忠七さんの居場所を訊いてみますわ。それと、あのつや子の居場所もね」
最後の言葉を口にした時の畑山の表情は、笑みが消えて怖い顔になっていた。個人的なことも含めて、つや子に対する相当の怒りがあるのだろう。
本町停車場辺りまで来ると、畑山はここまででいいと言った。
畑山は千鶴の見送りへの感謝を告げると、ほんじゃあと手を上げて背を向けた。しかし、その背中を見た千鶴は、また嫌な予感がした。
千鶴は畑山を呼び止めると、やっぱり行かなくていいと言った。
どうしてなのかと訝る畑山に、胸騒ぎがすると千鶴は告げた。また、進之丞を罠にはめたのはつや子に違いないという、自分の確信も伝えた。
畑山は微笑むと、自分もそう思うと言った。
「あの女は警察では捕まりまへん。せやから、お祓いのばあちゃんの力が必要なんです」
「ほやけど、畑山さんに何ぞあったら、うち……」
「こんな時やのに、ほんま、千鶴さん優しいわぁ。せやけど、わてやったら大丈夫や。ご心配には及びまへん。それにね、これでまた新しい記事が書けるでしょ?」
え?――と千鶴が驚くと、違いまんがなと畑山は笑いながら手を振った。
「わても大阪の人間や。千鶴さんらの力になりたいいうんはほんまやし、あのつや子を追い詰めたろ思うんもほんまです。でも、それだけで終わったら仕方ないですやん。大阪の人間はね、どんな時にも得することを考えるんですわ」
まだよくわからない千鶴に、畑山は続けて言った。
「あの女を追い詰めて、最後に警察に捕まえてもらうんです。そしたら、それで記事が書けるやないですか。これまでのことは全部つや子がやったて、世の中に伝えるんですわ。そしたらあの女は恥かくし、千鶴さんらの名誉が護れるし、わてかてまた儲かると、一石三鳥でしょ?」
せやからね――と畑山は強調するように言った。
「これは千鶴さんのためだけやのうて、わて自身のためでもあるんですわ。千鶴さんがわてのこと心配してくれるんは嬉しいんでっけど、千鶴さんが責任感じんでもええんです。わては自分の意思で自分の道を行くんですよって。男一匹畑山孝次郎、正義のために今日も行く――や。どないだ? かっこええでっしゃろ?」
胸を張って喋ったあとの、間が抜けたような笑顔が畑山らしい。鼻を突く煙草の臭いも愛おしく思えてしまう。
畑山が千鶴を心配させまいと、わざと大阪の人間であることを強調していることは、千鶴にはわかっていた。
「ほんでも、やっぱし行くんはやめておくんなもし。うちは畑山さんに危ないことはして欲しないんです」
これから嫁入りする娘がいる畑山に、進之丞の二の舞には絶対になって欲しくない。千鶴が行くなと畑山に懇願すると、畑山は微笑みながらも涙ぐみ、千鶴さん――と言った。
「千鶴さんは今どんだけつらかろうに。せやのに、こんなわてのこと心配して下さり、ほんまに感謝します。そんでも、ほんまに大丈夫ですよって。どうぞご心配なく」
ほな――と畑山は手を上げると、さっと行ってしまった。
不安な気持ちを抱いたままの千鶴は、人混みに消える畑山をただ見送るしかできなかった。
四
千鶴が家に戻ると、待ち構えていたように三津子が訪ねて来た。
三津子は昨日来たばかりだが、差し入れだと言って日切饅頭を六つ持って来た。
三津子にしては珍しく饅頭に一つも手をつけていない。一昨日もそうだったが、あまりにも三津子らしくないので、有り難く思いながらも違和感もあった。
みんなで食べましょうと言って、三津子は一人一人に饅頭を配った。
千鶴は饅頭なんか食べたいとは思っていなかった。それはみんなも同じだろうが、せっかく持って来てくれたからと、甚右衛門たちも黙って受け取った。
みんなに配り終えて、三津子が自分の分を取ると饅頭は一つ残った。あら?――と言って、三津子は辺りを見回した。
「あの人はおらんの?」
「あの人て?」
幸子が訊ねると、あの人やんかと三津子は言った。
「千鶴ちゃんのお気に入りの、あの若い兄やんぞな」
一気に暗い雰囲気が広がり、幸子が困惑した顔で、忠さんは昨日――と言いかけた。すると幸子の言葉を遮るように、ほうよほうよと三津子は大きくうなずいた。
「ほうじゃったわいねぇ。すっかり忘れよったぞな。ほうなん、あの兄やん、おらんの。どうせなら今日までここにおったらよかったのにねぇ。ほしたらこのお饅頭食べられたのに残念やわぁ」
三津子は進之丞に渡すはずの饅頭にかぶりつこうとした。しかし千鶴が泣き出したので、かぶりつくのをやめた。
「千鶴ちゃん、どがぁしたん? あの兄やんがおらんなったけん寂しいん?」
千鶴が喋らないので、三津子は幸子を見た。
幸子は少し迷ったようだが、覚悟を決めたように言った。
「忠さんにな、殺人の疑いがかけられとるんよ」
「殺人?」
三津子は目を剥いた。
「何やのん、ほれは? 何があったん?」
三津子は千鶴たちの顔を見回したが、誰も喋ろうとしない。そこでもう一度幸子に訊ねると、幸子は巡査の話をした。
三津子は言葉を失ったように口を半分開けたまま、食べようとしていた饅頭をぽとりと落とした。
「なして? なしてそがぁなことぎり続くわけ?」
三津子はみんなの顔を順に見ながら言った。
「千鶴ちゃんがごろつきに襲われて、お店が潰えて、今度は人殺しの疑い? これ、おかしいぞな。絶対おかしいわ! 全部、この店に恨みがある者が仕組んだことに決まっとらい」
誰か心当たりはないのかと三津子が憤りながら問いかけると、一人おる――と甚右衛門が言った。
「ほれは誰ぞなもし?」
「横嶋つや子ぞな」
「横嶋つや子? ごろつきに千鶴ちゃんを襲わせた女?」
大林寺での事件の黒幕が横嶋つや子という女であることは、その後の新聞でも発表されていた。三津子はその記事を読んでいたらしい。
ほうよとうなずいて甚右衛門は言った。
「あの女と連んどった空き巣を忠七が捕まえたけんな。ほん時にあの女の名前も出たけん、ほれを逆恨みしよるんじゃろ」
「犯人がその女であろうがなかろうが、ほんまの犯人は正気やないぞな。気ぃ狂とる」
トミが怒りを込めて喋ると、三津子が言った。
「ちぃと待っておくんなもしね。横嶋つや子て、ひょっとしてうちが知っとる女かもしれんぞな」
え?――と千鶴たち全員が三津子を見た。畑山に続いて三津子までもが、つや子を知っているのは驚きだった。
三津子はみんなが見ている中、もう一つ手に持っていた饅頭をぱくぱくと食べた。
饅頭を食べ終わると、三津子は眉根を寄せながら言った。
「今の今まで忘れよったけんど、ほうよほうよ、確かあの女の名前は横嶋つや子じゃった」
「あんた、あの女と知り合いなんか?」
トミが驚いて訊ねると、知り合いなどではないと三津子は気色ばんだ。
「横嶋つや子いう女は、自分が生きるためじゃったら何でもする女ぞな。ほれに、人が泣いたり苦しんだりするんが楽しいんよ。ほじゃけん、今度のことは全部あの女が仕組んだことに違いないぞな」
甚右衛門は肩を怒らせる三津子をなだめ、つや子に何かされたのかと訊ねた。
三津子はじろりと甚右衛門を見ると、何かやて?――と言った。
「東京が大地震に襲われた時、あの女が倒れよったんを、うちは助けよとしたんよ。ほれやのに、あの女はうちから何もかも奪いよった。何もかもぞな。恩を仇で返すとは、このことぞな!」
「三津子さん、落ち着いてつかぁさい。同し名前の別人かもしれんけん」
千鶴が声をかけても、三津子の勢いは止まらなかった。
「こがぁな阿漕な真似するんは、絶対同しやつに決まっとらいね。ほうよほうよ、思い出したぞな。道後の飲み屋で横嶋つや子いう名前を言いよった女がおったわいね」
「ほんまに?」
驚く幸子に三津子は鼻息荒く言った。
「二百三高地の髷結った女ぞな。対の名前じゃなとは思たけんど、前とは違う格好しよったけん、あの女やとはわからんかったわね。くそっ、まったく腹の立つ。あの女、知らん間にうちに引っついて松山へ来よったんやわ」
何と三津子はつや子を知っていた。三津子が口にした女の姿は、つや子に間違いないと思われた。
「千鶴ちゃん、うちは約束するけん。絶対つや子に今度のこと、千鶴ちゃんに詫びさせるぞな。ほれで、あの兄やんの無実を晴らしてあげよわい。見よってちょうだいや」
三津子は息巻くと、そのまま外へ飛び出して行った。
甚右衛門とトミは呆気に取られていたが、我に返ると互いに顔を見交わした。
「あんた、やっぱし、つや子ぞな」
「ほうよ、あの女ぞ。間違いない。これは警察へ言わんといかん」
「ほやけど、忠七が出て来なんだら、やっぱし忠七が疑われるで」
「ほれよ。けんど、ひょっとしたら忠七は犯人の姿を見たんかもしれんぞな」
「犯人を見た?」
「ほじゃけん、そいつを追いかけたんじゃろ。ほうに違いない」
「ほうやとしたら、あの子はその犯人を捕まえたんじゃろか?」
「ほれはわからん。もしかしたら……」
甚右衛門はそこで口を噤んだ。だが、その険しい表情から甚右衛門が何が言いたいのか、千鶴にはわかった。
甚右衛門は犯人を追った進之丞が、返り討ちに遭ったのかもしれないと考えたに違いない。それは、進之丞がもうこの世にはいないという意味でもあった。
トミも幸子も甚右衛門の沈黙を、千鶴と同じように受け取ったのだろう。二人の目から涙があふれ落ちた。
だが、進之丞がそんなに簡単にやられるわけがない。姿を見せないのは、鬼に変化しているからに違いないのだ。
そう考えた時、千鶴はつや子も進之丞の正体を知っていたのかもしれないと思った。
山﨑機織に恨みを晴らすためだけであれば、進之丞を家族殺しの殺人鬼に仕立て上げなくても、他に方法があるだろう。
そもそも本当に山﨑機織に恨みがあるのなら、山﨑機織が倒産したことで、その恨みは晴れたはずだ。あるいは、山﨑機織の人間に恨みがあるのなら、直接襲ってくればいいことである。
実際、千鶴と花江はごろつきたちに襲われたが、あれも進之丞を怒らせて、町中で鬼に変化させようとしたのかもしれない。
千鶴が恨みの対象であるならば、進之丞がいない今こそ襲えばいいことである。それなのに進之丞の家族を殺したのは、現場を見た進之丞が怒り狂って、鬼に変化することを期待したと考えられる。
再建された鬼よけの祠が燃えてしまったのも、まだ進之丞を封じさせまいと考えたつや子の仕業に違いない。
風寄の家に戻った進之丞が戸を開けた時に見た光景が、千鶴の目に浮かぶ。自分ががんごめであったなら、咆哮を上げて鬼に変化していたに違いない。そして、それこそがつや子の狙いだったのだ。
千鶴は怒りと興奮に肩を震わせた。
進之丞は怒りが収まらなければ、変化を解くことは敵わないだろう。あるいは、もう人間の姿に戻ることはできなくなったのかもしれない。
怒りにまみれながらもどうすることもできず、人前に姿を見せられない進之丞が、山に潜みながら苦しむ姿が思い浮かぶ。千鶴は手に持っていた饅頭を土間に投げつけた。
甚右衛門たちが振り返った。幸子は千鶴の傍へ来ると、千鶴を抱きしめた。甚右衛門の言葉で千鶴が感情を爆発させたと思ったようだ。忠さんは大丈夫じゃけんと、幸子は千鶴を慰めようとした。しかし、千鶴は怒りで母の声が聞こえていない。
何故つや子はそんなことをするのか。何故そんなことをする必要があるのか。
三津子はつや子のことを、人が泣いたり苦しんだりするのが楽しいと言った。畑山の話でも、つや子は相手の希望が絶望に変わることを楽しんでいるようだ。
千鶴は客馬車で乗り合わせたつや子の姿を思い出そうとした。
二百三高地の髷の女。冷ややかで男を手玉に取る天邪鬼。そのつや子が自分に話しかけて来た。そうだ、つや子は自分に話しかけたのである。確かそれは、ずっと昔に自分によく似た異国の娘を見たというものだった。
その娘をどこで見たとはつや子は言わなかった。それは東京での話かもしれないが、千鶴は気になった。つや子の言葉が、正体を隠していた頃の進之丞の言葉に似ているように思えたのだ。
もし風寄のことだとすれば、かつてあそこにいた異国の娘というのは前世の自分しかいない。
千鶴は背筋が寒くなった。
今の推測が正しいのだとすれば、つや子にも前世の記憶があるということになる。しかし、前世の記憶ではないとすれば――。
千鶴は祖父母に目を遣った。二人はつや子のことを警察へ伝えようと話し合っている。だが恐らく、つや子はみんなが考えているようなものではない。
千鶴は震えていた。まさかという思いは、そうに違いないという気持ちに呑み込まれた。
「……お母さん」
千鶴は自分を抱く母を見た。
幸子は千鶴に微笑みかけるが、その笑顔は見せかけだ。その後ろには不安と恐怖が隠れている。そんな母につや子が人間ではないとは言えない。そんなことを言えば、母が恐怖で混乱するのは目に見えている。
「大丈夫やけん。あんたは余計なことは考えんでええ」
幸子は千鶴を抱きながら言った。しかし、千鶴は前世のことを改めて考えた。
前世の自分と進之丞は幸せを目前にしながら、それをつかむことなく死んだ。これまでそれは鬼のせいだと思っていたが、実は鬼の背後につや子がいたのではなかったか。
つや子の正体が、千鶴たちの前世の頃から生き続けている魔物だとすると、客馬車で見つけた千鶴が法生寺にいた娘の生まれ変わりだと、すぐに気づいたに違いない。
そして千鶴に目を向けることで、つや子は進之丞の存在をも知ったのだ。
鬼を使って幸せをぶち壊し、あの世へ送り込んだはずの二人が、再び今世で夫婦になろうとしているのを知ったら、つや子はどうしようと思うだろう?
答えは決まっている。もう一度幸せをぶち壊し、二人を絶望のどん底へ追いやろうとするはずだ。何のために? それが楽しいからである。
千鶴は全身に鳥肌が立つのを感じながら、はっとなった。
進之丞を疑う気持ちを自分に吹き込んだ、あの代官屋敷から来たというあの女中。あの女中こそがつや子に違いない。
村人たちが狂ったのも、つや子が絡んでいたのかもしれない。すべてはつや子のお膳立てであり、鬼も含めてみんながつや子に踊らされていたのか。
再び千鶴の心に怒りの火が灯った。二度とあんな女の思いどおりにさせるものかと、千鶴は拳を握りしめた。だが、どうすればいいのかわからない。相手は人の命など何とも思わない化け物だ。
人間に戻れずに苦しむ進之丞を想うと、千鶴の頬を悔し涙が伝い落ちた。
「大丈夫ぞな。忠さんは必ず戻んて来るけん」
幸子が目に涙を浮かべながら明るく言った。だが、進之丞は戻って来ないだろう。戻って来られるはずがないのだ。
五
翌日、銀行の行員が山﨑機織を差し押さえに来た。
行員の指示により、家の中にある家財道具が、雇われた男たちに次々に運び出されて行く。その様子を近所の者たちが取り囲むようにして眺めている。その中には組合長の姿もあった。
すべての荷物が運び出されると、風呂敷包みを持った甚右衛門たちは、追い立てられるように表に出された。行員は店の表の戸を閉めて鍵をかけると、差し押さえの紙を貼った。ついに千鶴たちは居場所を失ったわけである。
行員は黙って立っている甚右衛門をじろりと一瞥した。それから連れて来た男たちに指図をして、家財道具を積み上げた荷車と一緒に行ってしまった。
行員がいなくなると、組合長や近所の男たちが甚右衛門の傍へ来て声をかけた。だが、それは気の毒がる言葉ではなく、励ます言葉でもなかった。みんなが口にしたのは、忠七がどうしたのかということだった。
倒産することが決まってから、甚右衛門は新聞をやめた。だから今朝の新聞にどんな記事が出ていたのかはわからない。しかし、風寄の惨殺事件について書き立てられているのは間違いない。近所の者たちが忠七のことを問い質そうとするのがその証だ。
忠七は無実ぞな――と甚右衛門は憮然とした顔で応じた。トミは忠七が千鶴を嫁に迎える準備で一足先に風寄へ戻ったと説明し、千鶴も幸子もそのとおりだと言った。
しかし、それなら何故あのような記事が出るのかと問われると、甚右衛門は言葉に窮した。つや子がやったと言いたいところだが、証拠は何もない。
千鶴ちゃんはこれからどうするのかと、隣の紙屋の女房が心配そうに訊ねた。だが、それには誰も答えることができなかった。
千鶴が風寄で暮らすことはできなくなった。甚右衛門たちも土佐へ行くどころではない。今は進之丞の行方を捜さねばならないが、今晩寝る場所もない。行く当てもなく、四人とも店の前で立ち尽くすばかりだ。
組合長だけは甚右衛門から事件の話を聞かされていた。甚右衛門たちに代わって、組合長がみんなを落ち着かせようとしていると、突然トミが崩れるように倒れた。
甚右衛門は慌てたようにトミを抱きかかえ、声をかけたが意識がない。組合長が医者を呼べと叫び、何人かが走って行った。
大勢に囲まれる中、トミを呼ぶ千鶴たちの悲痛な声が紙屋町に響き続けている。
「不整脈じゃな。心労が祟ったんじゃろ。ちぃと質が悪い不整脈じゃけん、今日はこのまま入院して安静にせにゃならんぞな。意識が戻んたら一安心なけんど、目ぇ覚まさんかったら危ないぞな」
トミを診察したのは、昨日まで幸子が働いていた病院の院長だ。院長は神妙な面持ちで甚右衛門に告げると、トミに注射をした。
紙屋町の近くの医者たちは、トミに金もなければ家もないと知ると、今は手が離せないと言って診に来てくれなかった。
仕方なく甚右衛門がトミを背負ってこの病院まで走ったのだが、ここは事情を知った上でトミを診てくれた。
幸子が元いた看護婦ということもあるのだろうが、萬翠荘の晩餐会に幸子が誘われた時にも、それを認めてくれた所である。気さくな雰囲気があり、それが患者たちにも好評な病院だった。
トミは眠ったままだったが、脈は未だに乱れ続けているそうで、油断は禁物とのことだった。
トミが入れられたのは四人部屋だが、幸い他には誰も入院しておらず、部屋は貸し切り状態だった。
行き場所がない千鶴たちに、どうせ空いている部屋だから、今晩はこの部屋に泊まればいいと院長は言ってくれた。
地獄に仏とはこのことだと、千鶴たちは院長に感謝した。だが、他の病人が担ぎ込まれて来たり、トミの意識が戻れば、トミの付き添い以外は部屋を出なければならなかった。
トミの傍に座った甚右衛門は、すっかり落ち込んで自信を失っているみたいだった。項垂れ気味にずっとトミの手を擦り続けている姿は、山﨑機織の主ではなく、ただの老人のようだ。
何もすることがなく、黙って座っている千鶴の頭に浮かぶのは、鬼に変化した進之丞のことばかりだった。
祖母は倒れても、こうやってみんなに心配してもらい、世話をしてもらえる。しかし、鬼になった進之丞は独りぼっちで身を隠しながら、育ての親を殺された怒りと悲しみに耐えなければならない。
恐ろしいはずの鬼が、人に見つかるのを恐れて小さくなっている姿は、哀れ以外の何物でもない。
「おじいちゃん、お母さん、うち、風寄に行きたい」
思わず千鶴が訴えても、甚右衛門はトミを見つめたまま、いかんと一言だけ言った。千鶴は母を見たが、母も頭を横に振り、無理ぞなと言った。
「今、向こうへ行くんは危険ぞな。ほれに、もう客馬車に乗る銭もないけんな」
「歩いて行けるけん」
「いかんて言うとろ? あんたにまで何ぞあったら、お母さんらどがぁして生きていったらいいんね?」
千鶴は肩を落とした。母の言うことは尤もであり、言葉が返せない。それに進之丞を見つけたところで、人間に戻してやれなければ仕方がない。
「甚さん、ええかな?」
病室の扉が少し開き、組合長が顔を出した。
甚右衛門が招き入れると、組合長は風呂敷包みを差し出した。中には大きなにぎり飯がいくつも入っている。
「腹減ったろ。こがぁなもんしかないけんど、腹の足しにしてやってや」
甚右衛門は両手を合わせ、拝むようにして感謝した。幸子と千鶴も礼を述べると、組合長は眠っているトミの顔をのぞき込んだ。
「おトミさん、まだ目ぇ覚まさんかな」
「まだぞな」
甚右衛門が不安げに言った。ほうかなと組合長も力なく言った。
「忠七のこと、夕刊に書いとったぞな。あがぁなこと有り得んが、なしてあがぁなことになってしもたんじゃろな」
ほれよ――と甚右衛門は険しい顔になった。
「何もかんも横嶋つや子いう女の仕業ぞな」
「横嶋つや子? 新聞にも載っとった、あの横嶋つや子かな」
「ほうよ、全部あの女が仕組んだことに違いないぞな」
組合長は合点が行ったようにうなずいた。
「ほんでも、なしてそがぁなことを……」
「狂とんよ。ほじゃけん、まともな話が通じる相手やない。ほんでも、あの女を知っとるいう者がおってな。今わしらのために動いてくれよるんよ」
「ほうかな。ほれは誰ぞ?」
「一人は新聞記者で、一人は幸子の知り合いよ。二人ともあの女にひどい目に遭わされたことがあるそうでな。絶対にあの女を捕まえるて言うてくれたんよ」
祖父の話を聞きながら、畑山と三津子はどうしているのだろうと千鶴は思った。
お祓いの婆に会って、進之丞の居場所がわかったならば、畑山はきっと知らせに来てくれるだろう。
だが、自分たちがここにいることを畑山は知らない。祖母が倒れることは予想外のことだったし、店を差し押さえられたあと、どこで連絡を取り合うかも決めていなかった。
それでも畑山は新聞記者だ。見た目以上に情報集めに長けているようだから、無事であるならいずれこの病院を訪ねて来るだろう。訪ねて来なければ、それは何かがあったということになる。
畑山に感じた悪い予感が外れて、畑山には無事でいて欲しいと千鶴は願っていた。畑山が姿を見せないのは、自分たちがこの病院にいることを知らないからだと信じたかった。
また、同じようにつや子を追った三津子も、このことに深入りしないことを祈った。普段は怖い物知らずの三津子だが、今回ばかりはいつもの調子で動くことは危険だった。
「ほれは頼もしいことなけんど、あの女が怪しいいうことは、警察にも言うとかんといけんぞな」
組合長の言葉に甚右衛門はうなずいた。
「ほうじゃな。トミの様子見ながら、明日にでも行て来うわい」
「ほれがええ。ほやないと忠七が気の毒ぞな。あがぁなええ男が人殺しの汚名を着せられてしもて……。ほれにしたかて、なして忠七は姿を隠しよるんぞ?」
「ほれは恐らく……」
甚右衛門は千鶴を横目で見てから、組合長を部屋の外へ連れ出した。恐らく忠七は殺されていると話しているのだろう。組合長の驚く声が戸の向こうから聞こえた。
千鶴も幸子も黙って座っていたが、千鶴の胸には人殺しの汚名という言葉が突き刺さっている。
千鶴を護るため、進之丞は特高警察の男四人の命を奪った。そのことを誰も知らないが、進之丞自身は自分を人殺しだと言った。
もちろん状況的には相手が悪いのだが、進之丞が人の命を奪ったのは事実である。千鶴はそのことを隠しながら、進之丞との幸せな暮らしを手に入れようとした。しかし人の目は騙せても、神や仏の目は騙せなかったのかもしれない。
因果応報と言う亀吉の声が頭の中で聞こえた。続けて、因果応報の意味を説明する豊吉の声が響く。
――ほやけど進さんはお不動さまにおらの幸せ願てくれたんよ。おらもお日切さんに進さんと夫婦になれるよう願たんよ……。
心の中でつぶやく千鶴の頬を涙が静かに流れ落ちた。幸子は黙って千鶴の肩を抱いて慰めてくれた。
戸が開いて甚右衛門が入って来た。そのあとに続きながら組合長は甚右衛門に話しかけた。
「とにかくな、わしにできることじゃったら何でもするけん。土佐に行けるようなるまで、わしが借家を世話しよわい。もちろん、家賃もわしが出すけん心配いらんぞな」
その言葉を聞いた幸子は組合長に感謝した。千鶴も母に倣って頭を下げた。
組合長は千鶴と幸子を明るく励まし、もう一度トミの顔をのぞき込むと、甚右衛門に手を上げて帰って行った。
六
「うち、お茶もろて来るけん。おにぎり食べよ」
幸子は明るい声で言った。少しでも明るくしていなければ、どんどん気持ちが落ち込んでしまうと思っているのだろう。
それに、この病院はかつて知ったる職場である。お茶をもらいに行くぐらい、幸子には造作ないことのようだ。
幸子が部屋を出て行くと、すまん――と甚右衛門は言った。
何を謝るのかと千鶴が訊ねると、己の不甲斐なさだと甚右衛門は言った。
「お前に店をやる言うたのに、わしはその店を潰してしもた……。先代から受け継いだ店を、わしが潰してしもた……」
しょんぼりしながら涙を浮かべる祖父を千鶴は慰めた。
「おじいちゃんが悪いんやないぞな。悪いんは全部、あのつや子いう女やし。おじいちゃんは一生懸命しんさった。うちも、お母さんも、おばあちゃんも、みんなわかっとるけん」
「わしが孝平をちゃんと育てられとったら、こがぁなことにはならんかったろ」
「ほれを言うんなら、正清伯父さんが戦争で亡くならんかったら、こがぁなことにはならんかったはずぞな。おじいちゃんが悪いんやない。戦争が悪いんよ」
「ほやけど、戦争がなかったら、お前は産まれて来んかった……。戦争は嫌やが、お前がおらんのは困る」
「おじいちゃん……」
祖父の言葉に千鶴は胸が詰まった。絶望しかないこの時に、祖父の気持ちは何にも代えがたいほど有り難かった。
「お前に何もしてやれんのなら、最初からお前を大事にしてやったらよかった……。世間の目ぇ気にして、お前を大事にせんかったけん、罰が当たったんよ……」
「ほんなことない。おじいちゃんもおばあちゃんも、うちの知らんとこで、うちを支え続けてくれたやんか」
「わしの人生は、いったい何やったんじゃろな……」
千鶴は甚右衛門の傍へ行くと、甚右衛門を抱きしめた。甚右衛門は千鶴の腕の中で泣いた。
しばらくして甚右衛門は千鶴から体を離し、みっともないところを見せたと恥じ入った。
ほんなことないよと言いながら、祖父の本当の姿を見せてもらえたことが千鶴は嬉しかった。
気恥ずかしいのか、甚右衛門は千鶴から顔を逸らすように廊下の方を見た。
「ほれにしても幸子は遅いな。お茶がもらえんで揉めとろか」
確かに遅いと千鶴も思った。母はいったいどこまで行ったのだろうと、少し不安になり始めた時、幸子がお盆に急須と湯飲みを載せて戻って来た。
「ごめんごめん。すっかり遅なってしもた」
「どこで油売っとったんかな」
仏頂面に戻った甚右衛門が言った。
「うちの代わりに今日から新しく入った看護婦さんがおるんやけんど、その人がな、昔うちが働きよった病院で一緒やった人なんよ。ほんで、つい喋りよって遅なってしもた」
幸子が昔働いた病院というのは、ロシア兵を収容していたバラックと呼ばれる仮設病棟のあとに、勤めていた病院だった。
その病院は幸子が千鶴を身籠もったことで、みんなから白い目を向けられたという所である。そこで働いていた看護婦と、ここで再会したということらしい。
その看護婦も母に白い目を向けた一人ではないかと、千鶴は訝しく思った。しかし、母は特に不愉快な想いをしたわけではないようで、お盆を置くと機嫌よくみんなにお茶を配った。
それから組合長にもらったにぎり飯を、それぞれが一つずつ手にしたが、にぎり飯は明日の朝食べる分まであった。
みんなは改めて組合長への感謝を述べると、にぎり飯を食べようとした。その時、眠っていたトミが目をぱちりと開けた。
初めに気がついた幸子が、お父さん――と甚右衛門を呼んだ。甚右衛門はトミを見て、おぉと喜びの声を上げた。
「目ぇ覚めたんか。よかったよかった。トミ、わしがわかるか?」
トミは横になったままじろりと甚右衛門を見ると、黙って小さくうなずいた。
「お母さん、気分はどがぁなん? どっか具合悪いとこある?」
幸子が訊ねると、トミはまたじろりと幸子を見て、小さく首を横に振った。
「おばあちゃん、大丈夫なんじゃね。よかった」
千鶴も声をかけると、トミは千鶴に目を向け、千鶴――とつぶやくような声を出した。
「何?」
千鶴が顔を近づけるとトミは弱々しい声で、お城には近づいたらいけん――と言った。だが、それでは何のことやらわからない。
甚右衛門は怪訝そうにトミに訊ねた。
「トミ、なして千鶴がお城に近づいたらいけんのぞ?」
「正清が……、そがぁ言いよった」
トミは蚊の鳴くような声で、自分が見た夢の話をした。
夢の中で正清は、気をつけろとトミに告げたらしい。何に気をつけるのかとトミが訊ねると、千鶴だと正清は答えたそうだ。
その時に、トミは満月が浮かぶ城の傍にいたと言う。トミがきれいな月を見上げた隙に、正清は姿が見えなくなった。
ただ頭の中で、千鶴を城に近づけるなと言う正清の声が聞こえ、そこで目が覚めたということだった。
小さな声でそれだけ喋ると、トミはまた眠ってしまった。
甚右衛門と幸子は顔を見交わした。城と言うと、鬼が特高警察の男たちを捨てた所であり、二人にとっては不吉な場所だ。
「いよいよ鬼が動き出したに違いない。正清はそのことをわしらに伝えようとしたんぞな」
甚右衛門が言うと、幸子もうなずいた。
すべてはつや子が引き起こしていると思っていたはずなのに、正清の話を聞くと、二人には鬼が裏で糸を引いているように思えたようだ。
以前に幸子は鬼は千鶴に惚れていると言い、千鶴と惚れ合っている忠七のことを心配していた。
今回の事件は、まさにそれが現実のものとなったと、幸子は考えているだろう。また甚右衛門も同じ気持ちに違いなかった。
千鶴と花江が大林寺で男たちに襲われたのも、本当は鬼が千鶴を自分の所へ連れて来させるところだったのではないかと、甚右衛門は言った。だから、鬼は千鶴を助けに現れなかったというわけだ。
ところが男たちが鬼の意に反して、千鶴を手籠めにしようとしたために、進之丞が千鶴を助けるのを鬼は邪魔をしなかったというのが、甚右衛門の今の考えだった。
幸子は納得したようにうなずき、忠七が千鶴と夫婦になろうとしたから、忠七の家族が殺されたに違いないと言った。それは行方知れずの忠七は、すでに鬼に殺されていると言っているようなものだった。
二人のとんでもない考えに怒りと悲しみを隠せず、千鶴は忠さんは生きているし、鬼はそんなことはしないと噛みついた。
幸子は慌てたように千鶴に詫びたが、甚右衛門は考えを曲げなかった。
とにかく城山へは絶対に近づいてはならんと、甚右衛門は千鶴にきつく命じたが、それには幸子も同意見だった。
だが正清伯父が亡くなったのは、千鶴が産まれる前である。
伯父は自分のことを知らないはずだから、祖母の夢はただの夢だと千鶴は訴えた。
自分が城山へ行くことはないけれど、鬼が自分を狙うことはないと千鶴は必死に鬼をかばった。しかし、甚右衛門たちは鬼への疑いを捨てなかった。
安心できない甚右衛門は、組合長に預けている猟銃を取って来ると言って病室を出ようとした。千鶴と幸子は甚右衛門を引き留めたが、甚右衛門は強引に出て行こうとした。
そんなことをすれば気が狂ったと思われるだろうし、無意味に猟銃を持ち歩いていれば警察に捕まってしまう。それこそ鬼の思う壺だと幸子が説得すると、甚右衛門はようやくおとなしくなった。
鬼の思う壺だと言う母の言葉が悲しくて、千鶴は泣きそうになった。その鬼がこれまでどれだけ自分たちを助けてくれたのか、大声で教えてやりたかった。
しかし、それは進之丞を余計にまずい立場へ追い込むだけになってしまう。今は黙ってこらえるしかない。
千鶴は二人から離れると、窓辺から外を眺めた。辺りは夕闇が広がってすっかり暗くなっている。東の空を見ると、ほとんどまん丸の月がぽっかりと浮かんでいた。明日は満月のようだ。
夢の中で祖母は満月の城にいた。つまり、それは明日の夜の城ということだ。
そんな時間に城山へ登るなど、明日でなくてもすることはない。行くはずのない所へ行くなとは、どういうことなのか。
もしかしたら鬼に変化した進之丞が、お城に現れるのかもしれないと千鶴は思った。
そんな所へ自分が行けば、どうなるかは火を見るより明らかである。伯父はそのことを危惧しているに違いない。
だが何にせよ、伯父の夢が示しているのは、明日の夜、進之丞が城山へ戻って来るということだろう。
千鶴の胸の中で期待と戸惑いがぶつかり合った。
進之丞に会えるのは嬉しいが、鬼に化身した進之丞を救う手立てがない。いずれつや子の悪事が暴かれても、進之丞が鬼のままでは悲惨な結末が待つばかりだ。
空の月を見上げながら、もう暇がないと千鶴は焦った。何とか明日の夜までに、進之丞を人間に戻す方法を見つけるのだ。どうすればいいのかはわからない。それでも進之丞を救うためには、やるしかない。