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つや子の影


      一

「まずはおびします」
 畑山はたやまはみんなに深々と頭を下げた。それから前の錦絵にしきえ新聞の記事について、ばんすいそうの話と城山の事件が関係があるかのような形になったが、そういうつもりではなかったと弁解した。
「たまたまおんなじ晩に起こったことなんで、あんな書き方になってしもたんですわ。城山の萬翠荘の絵もね、仲間の絵師が勝手にきよったんです。別に千鶴ちづさんの話にけちつけよ思たわけやおまへんよって、そこんとこはご理解のほどよろしゅう頼んます」
 ぽかんと話を聞いている甚右衛門じんえもんたちに、畑山はもう一度頭を下げた。
「あんた、ほれを言いに、わざにおいでたんかな?」
 たずねるトミに畑山は手を振り、そうやおまへんと言った。
 すかさず甚右衛門は、また記事のネタ探しに来たのかと畑山をにらみつけた。
ちゃいまんがな。そうやおまへんのや。わてな、実はさくはんと知り合いでんねん。そんで作五郎はんがわてとこの錦絵新聞を、こちらへ送ったて聞かされましてね。これはまずいと思たんです」
「まずいと思たんは、まずいこと書いたいう自覚があったけんじゃろがな」
「それはそうなんでっけど、まさかこっちであの錦絵新聞が見られるとは思とりまへんで。あ、いや、せやから大阪で売る分には千鶴さんには迷惑にならんと考えたからこそ、あれを出させてもろたんです」
 そうだったのかと、千鶴はさくろうが畑山の錦絵新聞を送って来た理由を理解した。作五郎は偶然あの錦絵新聞を見つけたのではなく、畑山がこちらで取材したものだと知っていたのだ。
 また、畑山がスタニスラフとの結婚についてい加減なことを書いたのは、やはり記事が千鶴の目に留まるとは考えなかったのだろう。
 だが、もはやそんな話はどうでもいいことだ。もうやまさき機織きしょくは潰れてしまったし、今は進之丞のことで頭がいっぱいだ。
 さち大阪おおさかから訪れた畑山をづかったのか、あるいは今の危機を知られたくなかったのか、あの記事は売れたのかと普段の顔で訊ねた。
 畑山はにんまりすると、それはもうと言った。
「あれがね、どっちか一つだけやったら、そんなには売れんかったかもしれまへん。せやけど、同じ晩の話いうとこがみそでんな。天国と地獄が一所にあったみたいな感じなんが、読者の心をつかんだんですわ。しかも、前に出した風寄かぜよせの記事の復刻版を出せ言う声が多くてね。そらもう、てんやわんやでした」
 自慢げにしゃべる畑山に、甚右衛門は皮肉を込めて言った。
「とにかく、おまいさんはあることないこと書き立てて、こっちが迷惑しよるんを尻目に、向こうで大儲おおもうけしたわけよ。ぃ吐いたお前さんのために医者まで呼んで、素直に千鶴に話をさせた結果があれやけんな」
「いや、せやからそれはですね」
「もう言い訳は聞きとうないけんんでくれ。ほれに、もうわしらにはそがぁな話は、どがぁでもええことなけんな」
 背を向ける甚右衛門に、畑山はあせったように言った。
だんさん、そう言わんで、わての話を聞いておくれやす」
今更いまさら何を聞けと言うんかな。もう新聞は出てしもた。ええも悪いもなかろ? ほれにな、もうわしらはこの店を畳んだんよ。明日あひたにでもここの全部が差し押さえられてな、わしらはここをわい出されらい」
 力なく話した甚右衛門に、それでんがな――と畑山は言った。
最前さいぜんからわてが言いたかったんは、それですわ」
「ほれとは?」
 甚右衛門が振り返ると、畑山は真面目な顔で言った。
「せやからですね、さくはんからこちらの状況を耳にして、わては居ても立ってもいられんようになったんです。別に何かできるわけやおまへんけど、とにかくみなさんのお顔を見に行かないかんて思て、せ参じたんでおます」
 畑山はきりりと顔を引きしめて、千鶴たちの顔を見渡した。しかし、甚右衛門もトミも幸子もきょとんとしている。いきなりそんなことを言われても、自分たちが知っている畑山の姿に合わないとまどっているようだ。
 だけど、千鶴だけは畑山の気持ちが理解できた。い加減に見えるけれど、畑山は本当は心の温かい人物なのである。
 千鶴たちの前で血を吐いた時と比べると、畑山はさらに痩せたみたいだ。肌の色もよくないので、恐らく体調は悪化していると思われた。なのに、こんな所まで励ましに来てくれたと思うと、千鶴の目は涙にれた。
 だんだん、畑山さん――と千鶴は涙を拭きながらお礼を言った。いいえと畑山が微笑むと、ようやく甚右衛門たちにも畑山の本意がわかったらしい。
 ほういうことじゃったかいと甚右衛門が頭を下げると、トミと幸子も目に涙を浮かべ、畑山に頭を下げて感謝した。
 畑山は慌ててみんなの頭を上げさせると、千鶴と花江が襲われた事件について喋った。
さくはんから聞いた話やけど、こないだ千鶴さんらが襲われた話、あれ、裏に黒幕がおるんでっしゃろ? 横嶋よこしまつや子ちゅう悪い女が」
 畑山の登場で殺伐とした雰囲気が少し変わったのだが、つや子という名前がみんなを現実に引き戻した。
 トミが両手で顔を覆い、泣きながら言った。
「そもそも、あがぁなことがなかったら、今みたいにはならんかったんよ」
 甚右衛門も幸子も目を伏せ、千鶴も悲しみが込み上げてきた。祖母の言うとおり、つや子がへいに千鶴たちを襲わせたりしなければ、山﨑機織も潰れていないし、進之丞が家族殺しの汚名を着せられることもなかったのだ。
 畑山はトミを慰めながら言った。
「わてな、その横嶋つや子いう女、知っとりまんねん」

      二

 何じゃと?――と甚右衛門が目を見開いた。千鶴も驚いて母と顔を見交わし、トミも涙にれた顔を上げて畑山を見た。
 みんなから注目された畑山は気恥ずかしそうに頭をいた。
「情けない話でっけど、わて、あの女にだまされて、有り金全部持って行かれたんですわ」
「貸本屋がだめになったていうんは、そのせいなんですか?」
 千鶴がたずねると、そのとおりと畑山は言った。
「まぁ、だまされたわても悪いんやけどね。この胸の病に効く薬があるて言われましてん。それで有り金はたいて、その薬手に入れたんです。そしたらね、それ、東京とうきょうで売りよった、ただの風邪薬やったんですわ。もう腹は立つわ、悲しいやらで、わて、あの女見つけて絞め殺したろかて思いました。えぇ、それぐらい腹立ちました」
 畑山が騙されたと気づいた時には、つや子は行方をくらましていたという。調べてみると、他にもつや子に騙されたという者が何人もいて、中には絶望して首をった者もいたらしい。そのつや子が千鶴と花江が襲われた事件に関わっていると知ったのも、畑山がここへ来た理由の一つだった。
「ほやけど、畑山さんを騙したひとと、こっちでいうとる横嶋つや子は、同姓同名の別人かもしれんやないですか?」
 半信半疑の幸子に、恐らく同一人物だと思うと畑山は言った。
「正月明けにお邪魔した時、わて、ここであの女、見かけたんですわ。ほれで、急いで追いかけたんやけど、うまい具合にまかれてしもて捕まえれんかったんです」
「ひょっとして、うちと会いんさったあの時?」
 千鶴は三津子みつこから逃げようとして、畑山に見つかった時のことを思い出していた。
「そうそう。あん時ですわ。あん時は、千鶴さんに会えて話まで聞かせてもらえたから、まぁええわて思たんでっけど、今考えたら、あん時にあの女を捕まえとったらて思てね。申し訳ないし悔しいし情けないし、とにかく汚名返上いうか、何かお役に立てたら思て駆けつけたんです」
 甚右衛門は畑山を見直したらしい。素直にうなずいた。
「話はわかったし、まっこと有り難いとは思うけんど、おまいさんがそこまでしてわしらのことを考えてくんさるんは、なしてぞな?」
 甚右衛門が訊ねると、畑山は照れ臭そうに笑い、千鶴さんですわ――と言った。
「うち?」
 驚く千鶴に、畑山は自分にも千鶴と同じくらいの娘がいると言った。
「わてはこんな男でっけど、実は目の中入れてもいたない娘がおるんですわ。いや、ほんまは目に入れたりしたら痛いんやけどね。というか、目に入るわけないわなぁ」
 ふざけているのか、普通にしゃべっているのかよくわからないが、畑山の話を聞いていると、自然に千鶴たちの顔がほころんだ。
「その娘にも苦労かけたけど、そんでも真っ当に育ってくれて、何とか嫁にもろてくれる相手も見つかったんです。たった一人の娘ですさかい、ほんまにほっとしましたわ」
 感慨深くうなずく畑山に、ちぃと待てと甚右衛門が言った。
「おまいさん、こないだ来た時、確か小学校に通とる子供が三人おるて言わんかったかな?」
「え? いや、それはその……、お隣の子供ですわ。しょっちゅう遊びに来とるから、もうすっかりうちの子供になってしもて……」
 はははと畑山は笑ったが、甚右衛門が黙っていると、すんまへんと頭を下げた。
 トミはあきれ顔で、さっきの話の続きを求めた。
 畑山は頭を掻きながら、それでですねと話を続けた。
「うちの娘と歳も変わらん千鶴さんが、昔からえらい苦労して来たはるてわかって、わて、千鶴さんのこと軽うに考えとった自分が恥ずかしなったんです。しかもね、わてみたいなことしよったら、どこ行ってもうるさがられるのに、千鶴さん、こんなわてにも優しゅうしてくれて……。わて、あん時、泣きそうなりました」
「畑山さん……」
 しんみり話す畑山に、千鶴は心が打たれた。
 畑山は千鶴を見ると、きっぱり言った。
「せやからね、わては千鶴さんに絶対幸せになってほしいんです。千鶴さんにおにいていようとたぬきが憑いていようと、わては千鶴さんを応援しよて決めたんです」
 さっと甚右衛門たちの顔色が変わった。千鶴は構わず畑山に訊ねた。
「畑山さんはがんごこわないんですか?」
「わてが思うところ、鬼が害を為すんは千鶴さんを苦しめる奴だけでしょ? せやから、わてが鬼に襲われる心配はおまへん。恐らくでっけど、鬼でさえも千鶴さんの優しさにれてしもとるんやおまへんか」
 千鶴は畑山が大好きになった。思わず畑山の両手を握ると、だんだん――と何度も言いながら泣いた。
 畑山は少し恥ずかしそうに笑いながら、胸ポケットから封筒を取り出した。
「これね、ほんの気持ちです。全然大した額やないけど、どうぞ、受け取ってやってくれませんか」
 畑山が差し出した封筒を受け取った甚右衛門は、改めて深々と頭を下げた。トミと幸子も頭を下げて感謝した。
「こがぁな時こそ、人の思いやりが身に染みるぞなもし。おまいさんのお気持ち、この甚右衛門、一生忘れんぞなもし」
 甚右衛門の言葉を合図に、トミは畑山を家の奥へいざなうと、千鶴にお茶の用意をするよう言った。
 いやいや、おづかいなく――と言いながら、畑山はさっさと中へ入って行った。そこで使用人もいなくなってがらんとなった家の中を見ると、畑山は立ち止まったまま何も喋らなくなった。
「みんな一昨日おとうい暇を出したけんな。今おるんは、わしらぎりぞな」
 甚右衛門の言葉に畑山は涙ぐんだ。
「わてもね、いっぺん貸本屋だめにしてもたから、みなさんがどんだけつらいかわかります」
 畑山が気の毒そうに言うと、甚右衛門は畑山を茶の間へ上げた。
 腰を下ろした畑山は今後の予定を訊ねたが、それには誰も答えられなかった。畑山はまずいことをいたと思ったらしく、すんまへんと言った。
「お店が潰れたとこやのに、これからの予定なんか立てられまへんわな。わても貸本屋潰した時は、あとの方針なんて考えられんほど放心状態でした」
 自分の話に自分でうなずきながら、畑山はちらりと千鶴たちを見た。しかし、誰もしょんぼりしたまま畑山のじゃに気づいてもいない。畑山は気まずそうに笑うと、元気を出すようみんなにうながした。
「落ち込む気持ちはわかりまっけど、これで人生終わったわけやおまへん。わてを見たってください。貸本屋だめにしても、こうして次の仕事をがんばっておます。お手本ていえるほどのもんやないけど、こんな時こそ顔を上げて前を向かんとあきまへん」
 畑山の力説にもかかわらず、みんなは黙り続けている。畑山は落ち着きなさげに両膝を手でこすりながら、お茶を配る千鶴に救いを求める目を向けた。
「何や、みなさん、さっきよりも元気なくなったみたいでっけど、もしかして、ここ出たあとに行くとこがないんや……」
「おじいちゃんらは土佐とさの親戚のお世話になって、うちは風寄かぜよせで暮らすことになっとりました」
「なっとりましたて……、暮らせんようになったんでっか?」
 千鶴が何も答えずに涙をこぼすと畑山はうろたえて、何があったのかと甚右衛門たちを見た。
 甚右衛門は黙ったままで、トミは泣きだした。やはり涙をこぼした幸子は何度も涙を拭きながら、さっき巡査じゅんさが来たことや、巡査に言われた話を畑山に聞かせた。
 顔を険しくした畑山は、それは誰が聞いてもおかしい話だと憤り いきどお 、これは誰かが仕組んだことだと思うと言った。
 忠七ただしちが姿を隠したりしなければとトミが嘆くと、畑山は千鶴を見た。
「忠七さんいうんは、ただの使用人の方でっか?」
「いえ、うちの許婚ぞなもし」
 千鶴が遠慮がちに答えると、そうでっか――と畑山は大きくうなずいた。
 畑山は見た目と違って頭が鋭い。畑山の目が進之丞の正体を見破ったように見えて、千鶴は少しうろたえた。
「それは心配というか……、心配やなんてもんやおまへんな。まずは、その忠七さんを見つけるんが先決でっしゃろ」
「ほうなんですけど、どがぁしたら……」
「わてが何とかしますわ。その前に千鶴さんに一つ訊かせてほしいんでっけど、その忠七さんは千鶴さんにとって守り神みたいな人でっか?」
 はいと千鶴が答えると、畑山はにっこり笑い、今の答でよくわかりましたと言った。
「よくわかったとは?」
 甚右衛門が訊ねると、畑山は笑顔のまま答えた。
「忠七さんが千鶴さんにとって、掛け替えのないぐらい大切な人いうことですわ」
 畑山の答えに甚右衛門は納得したようだ。しかし、千鶴は畑山が進之丞の正体に気づいていると思っていた。
 畑山は千鶴と進之丞、つまり千鶴と鬼との本当の関係を新聞の記事にするのだろうか。
 ちらりとそんな考えが頭をよぎったが、千鶴はすぐにその考えを打ち消した。畑山はそんな人間ではないと、千鶴は畑山を信じる方を選んだ。今の千鶴が頼れるのは畑山しかいないのだ。
 よろしゅうお願いします――と千鶴が頭を下げると、甚右衛門たちも頭を下げた。
 畑山は照れながら、英雄になったみたいやなと言った。
「とにかく親切にしてくれた千鶴さんのためや。どうか、わてに任せといておくれやす」
 畑山はにっこり笑って胸をたたくと、げほげほとき込んだ。

      三

 畑山を見送りがてら、千鶴は畑山と少し歩きながら、これからどこへおいでるおつもりですか――とたずねた。
「おはらいのばばて呼ばれとる、ばあちゃんがおるでしょ? あの人んとこへ行ってみよ思てまんねん」
 千鶴はどきりとした。お祓いの婆とは、千鶴に鬼がいていると言い当てた老婆だ。その老婆に会いに行くというのは、やはり畑山は進之丞の正体を見破っている。
 千鶴の困惑に気づいたのか、畑山は付け足して言った。
「あのばあちゃん、結構占いが当たるて評判らしいんですわ。ただ気難しい人やから、前に来た時は門前払いされました。けど、今度は何が何でもあのばあちゃんにうて、忠七さんの居場所をいてみますわ。それと、あのつや子の居場所もね」
 最後の言葉を口にした時の畑山の表情は、笑みが消えて怖い顔になっていた。個人的なことも含めて、つや子に対する相当の怒りがあるのだろう。
 本町ほんまち停車場辺りまで来ると、畑山はここまででいいと言った。
 畑山は千鶴の見送りへの感謝を告げると、ほんじゃあと手を上げて背を向けた。その背中を見た千鶴はまた嫌な予感がした。
 千鶴は畑山を呼び止めると、やっぱり行かなくていいと言った。
 どうしてなのかといぶかる畑山に、胸騒ぎがすると千鶴は告げ、進之丞をわなにはめたのはつや子だという自分の確信も伝えた。
 畑山は微笑むと、わてもそう思うと言った。
「あの女は警察では捕まりまへん。せやから、お祓いのばあちゃんの力が必要なんです」
「ほやけど、畑山さんに何ぞあったら、うち……」
「こんな時やのに、ほんま、千鶴さん優しいわぁ。せやけど、わてやったら大丈夫や。ご心配には及びまへん。それにね、これでまた新しい記事が書けるでしょ?」
 え?――と千鶴が驚くと、ちゃいまんがなと畑山は笑いながら手を振った。
「わても大阪おおさかの人間や。千鶴さんらの力になりたいいうんはほんまやし、あのつや子を追い詰めたろ思うんもほんまです。けど、そこで終わったら仕方しゃあないですやん。大阪の人間はね、どんな時にも得を考えるんですわ」
 まだよくわからない千鶴に、畑山は続けて言った。
「あの女を追い詰めて、最後に警察に捕まえてもらうんです。そしたら、それで記事が書けるやないですか。これまでのことは全部つや子がやったて、世の中に伝えるんですわ。そしたらあの女は恥かくし、千鶴さんらの名誉が護れるし、わてかてまたもうかると、一石三鳥でしょ?」
 せやからね――と畑山は強調した。
「これは千鶴さんのためだけやのうて、わて自身のためでもあるんですわ。千鶴さんがわてのこと心配してくれるんはうれしいんでっけど、千鶴さんが責任感じんかてええんです。わては自分の意思で自分の道を行くんですよって。男一匹畑山孝次郎、正義のために今日も行く――や。どないだ? かっこええでっしゃろ?」
 胸を張ってしゃべったあとの、間が抜けた笑顔が畑山らしい。鼻を突く煙草たばこの臭いもいとおしく思えてしまう。
 畑山が千鶴を心配させまいと、わざと大阪の人間であることを強調しているのは、千鶴にはわかっていた。
「ほんでも、やっぱし行くんはやめておくんなもし。うちは畑山さんに危ないことはしてほしないんです」
 これから嫁入りする娘がいる畑山に、進之丞の二の舞には絶対になってほしくない。千鶴が行くなと畑山に懇願すると、畑山は微笑みながらも涙ぐみ、千鶴さん――と言った。
「千鶴さんは今どんだけつらかろうに。せやのに、こんなわてのこと心配してくださり、ほんまに感謝します。けど、ほんまに大丈夫ですよって。どうぞご心配なく」
 ほな――と畑山は手を上げると、さっと行ってしまった。
 千鶴は不安な気持ちを抱いたまま、人混みに消える畑山を見送るしかできなかった。

      四

 千鶴が家に戻ると、待ち構えていたように三津子が訪ねて来た。
 三津子は昨日来たばかりだが、差し入れだと言ってぎり饅頭まんじゅうを六つ持って来た。
 三津子にしては珍しく饅頭に一つも手をつけていない。一昨日もそうだったが、あまりにも三津子らしくないので、有り難く思いながらも違和感もあった。
 みんなで食べましょうと言って、三津子は一人一人に饅頭を配った。
 千鶴は饅頭なんか食べたいとは思っていなかった。みんなも同じ気持ちだろうが、せっかく持って来てくれたからと、甚右衛門たちも黙って受け取った。
 みんなに配り終えたあと、三津子が自分の分を取ると、饅頭が一つ残った。三津子は、あら?――と辺りを見まわした。
「あの人はおらんの?」
「あの人て?」
 幸子がたずねると、あの人やんかと三津子は言った。
「千鶴ちゃんのお気に入りの、あの若いにいやんぞな」
 一気に暗い雰囲気が広がり、幸子が困惑した顔で、たださんは昨日きにょう――と言いかけた。すると幸子の言葉をさえぎって、ほうよほうよと三津子は大きくうなずいた。
「ほうじゃったわいねぇ。すっかり忘れよったぞな。あのにいやん、おらんのよねぇ。どうせなら今日までここにおったらよかったのに。ほしたら、あの兄やんもみんなでこのお饅頭食べられたのに、残念やわぁ」
 三津子は手に持った饅頭にかぶりつこうとした。しかし千鶴が泣きだしたので、かぶりつくのをやめた。
「千鶴ちゃん、どがぁしたん? あのにいやんがおらんなったけん寂しいん?」
 千鶴がしゃべらないので、三津子は幸子を見た。幸子は少し迷っていたが、覚悟を決めたように言った。
「忠さんにな、殺人の疑いがかけられとるんよ」
「殺人?」
 三津子は目をいた。
「何やのん、ほれは? 何があったん?」
 三津子は千鶴たちの顔を見まわしたが、誰も喋ろうとしない。そこでもう一度幸子に訊ねると、幸子は巡査じゅんさの話をした。
 三津子は言葉を失ったみたいに口を半分開けたまま、食べようとしていた饅頭をぽとりと落とした。
「なして? なしてそがぁなことぎり続くわけ?」
 三津子はみんなの顔を順に見ながら言った。
「千鶴ちゃんがごろつきに襲われて、お店がえて、今度は人殺しの疑い? これ、おかしいぞな。絶対おかしいわ! 全部、この店に恨みがあるもんが仕組んどるんよ」
 誰か心当たりはないのかと三津子が憤り いきどお ながら問いかけると、一人おる――と甚右衛門が言った。
「ほれは誰ぞなもし?」
「横嶋つや子ぞな」
「横嶋つや子? ごろつきに千鶴ちゃんを襲わせた女?」
 だいりんでの事件の黒幕は横嶋つや子という女だと、その後の新聞に発表されていた。三津子はその記事を読んでいたらしい。
 ほうよとうなずいて甚右衛門は言った。
「あの女とつるんどった空き巣を忠七がつらまえたけんな。ほん時にあの女の名前も出たけん、ほれを逆恨みしよるんじゃろ」
「犯人がその女であろうがなかろうが、ほんまの犯人は正気やないぞな。ぃ狂とる」
 トミが怒りを込めて喋ると、三津子が言った。
「ちぃと待っておくんなもしね。横嶋つや子て、ひょっとしてうちが知っとる女かもしれんぞな」
 え?――と千鶴たち全員が三津子を見た。畑山に続いて三津子までもが、つや子を知っているのは驚きだった。
 三津子はみんなが見ている中、進之丞に食べさせるはずの饅頭をぱくぱくと食べた。食べながら考えているのか、三津子の目は空中の一点を見えている。
 饅頭を食べ終わって指をしゃぶった三津子は、眉根を寄せて言った。
「今の今まで忘れよったけんど、ほうよほうよ、確かあの女の名前は横嶋つや子じゃった」
「あんた、あの女と知り合いなんか?」
 トミが驚いて訊ねると、知り合いなどではないと三津子はしきばんだ。
「横嶋つや子いう女は、自分が生きるためじゃったら何でもする女なんよ。ほれに、人が泣いたり苦しんだりするんが楽しいんよ。ほじゃけん、今度のことは全部あの女が仕組んだんよ」
 甚右衛門は肩をいからせる三津子をなだめ、つや子に何かされたのかといた。
 三津子はじろりと甚右衛門を見ると、何かやて?――と言った。
東京とうきょうが大地震に襲われた時、あの女が倒れよったんを、うちは助けよとしたんよ。ほれやのに、あの女はうちから何もかも奪いよった。何もかもぞな。恩をあだで返すとは、このことぞな!」
「三津子さん、落ち着いてつかぁさい。おんなし名前の別人かもしれんけん」
 千鶴が声をかけても、三津子の勢いは止まらなかった。
「こがぁなこぎな真似するやとがほかにおるわけないけん。ほうよ、思い出した。どうの飲み屋におった女、自分のこと、横嶋つや子て言いよった」
「え? ほんまに?」
「ほん時はついの名前じゃなとは思たけんど、前とは違う格好しよったけん、あの女やとはわからんかった。ほやけど絶対あの女が、あの横嶋つや子なんよ」
「そのひとはどがぁな格好しよるん?」
 驚いて訊ねる幸子に、三津子は鼻息荒く言った。
二百三高にひゃくさんこうまげった女ぞな。ほんでも東京では、うちみたいな格好しよったんよ。くそっ、まったく腹の立つ。あの女、知らん間にうちに引っついて松山まつやまへ来よったんやわ」
 何と三津子はつや子を知っていた。三津子が口にした女の姿は、まさにつや子だ。
「千鶴ちゃん、約束するけん。絶対つや子に今度のこと、千鶴ちゃんにびさせるけんな。ほれで、あのにいやんの無実を晴らしてあげよわい。見よってちょうだいや」
 三津子は息巻くと、そのまま外へ飛び出して行った。
 甚右衛門とトミはあっに取られていたが、我に返ると互いに顔を見交わした。
「あんた、やっぱし、つや子ぞな」
「ほうよ、あの女ぞ。間違いない。これは警察へ言わんといかん」
 甚右衛門がうなずくと、トミは顔を曇らせた。
「ほやけど、忠七が出て来なんだら、やっぱし忠七が疑われるで」
「ほれよ。けんど、ひょっとしたら忠七は犯人の姿を見たんかもしれまい」
「犯人を見た?」
「ほじゃけん、そいつを追わったんじゃろ」
「ほうやとしたら、あの子はその犯人をつらまえたんじゃろか?」
「ほれはわからん。もしかしたら……」
 甚右衛門はそこで口をつぐんだ。その険しい表情から、祖父が何が言いたいのかが千鶴にはわかった。祖父は犯人を追った進之丞が、返り討ちにったと考えている。それは、進之丞がもうこの世にはいないという意味だ。
 トミも幸子も甚右衛門の沈黙を、千鶴と同じように受け取ったのだろう。二人の目から涙があふれ落ちた。
 だけど、進之丞がそんなに簡単にやられるわけがない。姿を見せないのは鬼にへんしているからだ。
 そう考えた時、ひょっとしてつや子も進之丞の正体を知っているのではと、千鶴はふと思った。
 山﨑機織やまさききしょくに恨みを晴らすためだけであれば、進之丞を家族殺しの殺人鬼に仕立て上げなくても、他に方法はある。そもそも本当に山﨑機織に恨みがあるのなら、山﨑機織が倒産して恨みは晴れたはずだ。あるいは、山﨑機織の人間に恨みがあるのなら、直接襲ってくればいいことである。
 実際、千鶴と花江はごろつきたちに襲われたが、あれも進之丞を怒らせて、町中で鬼にへんさせるのが目的だったのではないのか。
 千鶴が恨みの対象ならば、進之丞がいない今こそ襲えばいいのだ。なのに進之丞の家族を殺したのは、現場を見た進之丞が怒り狂って、鬼にへんすることを期待したと考えられる。
 再建された鬼よけのほこらが燃えてしまったのも、まだ進之丞を封じさせまいと考えたつや子のわざだ。同時に鬼の恐ろしさを人々の心に植え込み、進之丞が鬼に変化した時の騒ぎを大きくしようと思ったのだろう。
 風寄かぜよせの家に戻った進之丞が戸を開けた時に見た光景が、千鶴の目に浮かぶ。自分ががんごめであったなら、絶対に咆哮ほうこうを上げて鬼にへんしていた。そして、それこそがつや子の狙いだったのだ。
 千鶴は怒りと興奮に肩を震わせた。
 進之丞は怒りが収まらなければ、へんを解くことはかなわない。あるいは、もう人間の姿に戻れなくなってしまったのか。
 怒りにまみれながらもどうにもできず、人前に姿を見せられない進之丞が、山に潜みながら悲しみ苦しんでいる。千鶴は手に持っていた饅頭を土間に投げつけた。
 甚右衛門たちが振り返った。幸子は千鶴のそばへ来ると、千鶴を抱きしめた。甚右衛門の言葉で千鶴が感情を爆発させたと思ったらしい。忠さんは大丈夫じゃけんと、幸子は千鶴を慰めた。けれど、千鶴は怒りで母の声が聞こえていない。
 何故つや子はそんなことをするのか。どうして進之丞の正体を知っているのか。
 三津子はつや子のことを、人が泣いたり苦しんだりするのが楽しいと言った。畑山の話でも、つや子は相手の希望が絶望に変わるのを楽しんでいるようだ。とてもまともな人間とは思えない。
 千鶴は客馬車で乗り合わせたつや子の姿を思い出そうとした。
 二百三高地のまげの女。冷ややかで男を手玉に取る天邪鬼あまのじゃく。そのつや子が自分に話しかけてきた。そう、つや子は自分に話しかけたのだ。確かそれは、ずっと昔に自分によく似た異国の娘を見たというものだった。
 その娘をどこで見たとはつや子は言わなかった。東京での話かもしれないが、千鶴は気になった。つや子の言葉が、正体を隠していた頃の進之丞の言葉に似ているからだ。
 もし風寄の話だとすれば、つや子が知る異国の娘というのは前世の自分しかいない。それはつや子にも前世の記憶があるということだ。そんなのは有り得ないと思いたくなるが、実際に自分や進之丞には前世の記憶がある。
 しかし、前世の記憶など誰にでもあるものではない。自分たちが前世を覚えているのは奇跡であり、お不動さまのご慈悲によるものだ。そんな神仏の力が、あんな狂った女にも働いたというのか。
 いや、そんなはずがない。つや子にこんなことをさせるために、神仏がつや子に前世の記憶を与えるわけがない。やはりつや子が口にした娘は、風寄とは別の所にいたのか。
 けれど、つや子は進之丞の正体を知っている。今世で進之丞が鬼にへんするところを、どこかで見たのかもしれないが、そうではないと千鶴は思った。では、いつ知ったのか。前世しかない。
 それが前世の記憶ではないというのなら、つや子はあの頃からずっと生き続けていることになる。まさかと思ったが、鬼が存在しているのである。他に魔物がいても不思議ではない。
 千鶴は全身に鳥肌が立つのを感じた。
 進之丞が鬼になったのは、前世で死ぬ間際のことだ。その時、つや子はそこにいたのか。
 普通の人間が進之丞の正体を知ったなら、進之丞を恐れて近づかないだろうし、わざわざ進之丞を怒らせるような真似などしない。たとえ狂っていても、人間であれば鬼から逃げる。なのに、つや子は鬼を恐れるどころかおとしめようとする。やはり、つや子は……。
 千鶴は震えながら祖父母に目をった。二人はつや子のことを警察へ伝えようと話し合っている。だが恐らく、つや子はみんなが考えているようなものではない。魔物なのだ。
「……お母さん」
 千鶴は自分を抱く母を見た。
 幸子は千鶴に微笑みかけるが、その笑顔は見せかけだ。その後ろには不安と恐怖が隠れている。そんな母につや子が人間ではないとは言えない。言えば、母が恐怖で混乱するのは目に見えている。
「大丈夫なけん。あんたは余計なことは考えんでええ」
 幸子は千鶴を抱きながら言った。しかし千鶴の頭の中では、次々に考えがめぐっている。
 異人の娘で孤児でもあった千鶴は、代官の一人息子の嫁になる寸前だった。その幸せは鬼によって絶望に変えられたが、あれもすべてはつや子が仕組んだことではなかったのか。
 つや子が人をだまして絶望へ追いやるのを楽しむ魔物ならば、あの出来事もつや子が後ろで糸を引いていたとは十分考えられる。
 千鶴は代官屋敷の女中を思い出した。あの女中は善意を装って、千鶴に進之丞を疑うように仕向けた。そう、恐らくあの女中こそがつや子だったのだ。あの女中のせいで千鶴は進之丞が信じられなくなり、鬼の手中に落ちたのである。
 幸せを目前にしていた千鶴と進之丞が、悲しみの中で海に消えるのを眺めながら、つや子は笑っていたに違いない。
 それから長い年月をて、つや子はあの客馬車で今世に生まれ変わった千鶴を見つけた。さらには進之丞の存在にも気がついた。
 かつて絶望のどん底へ沈めたはずの二人が蘇り よみがえ 、再び幸せを手にしようとしているのを知ったら、つや子はどうするか。決まっている。もう一度二人を絶望に追いやるのだ。
 恐怖を感じながらも、千鶴は怒りも覚えていた。二度とあんな女の思いどおりにさせるものかと、心の中に怒りの炎が立ちのぼる。だが、どうすればいいのかはわからない。相手は人の命など何とも思わない化け物だ。
 人間に戻れずに苦しむ進之丞の姿が浮かび、千鶴のほおを悔し涙が伝い落ちた。
「大丈夫ぞな。忠さんは必ずんて来るけん」
 幸子が目に涙を浮かべながら明るく言った。だけど進之丞は戻って来ない。戻れないのである。つや子の思惑どおり、進之丞は鬼になったのだ。

      五

 翌日、銀行の行員が山﨑機織やまさききしょくを差し押さえに来た。
 行員の指示により、家の中にある家財道具が、雇われた男たちに次々に運び出されて行く。その様子を近所の者たちが取り囲んで眺めている。その中には組合長の姿もあった。
 すべての荷物が運び出されると、風呂敷包みを持った甚右衛門たちは、追い立てられるように表に出された。行員は店の表の戸を閉めて鍵をかけると、差し押さえの紙を貼った。ついに千鶴たちは居場所を失ったのだ。
 呆然としている甚右衛門をじろりと一瞥いちべつした行員は、男たちに指図をすると、家財道具を積み上げた荷車と一緒に行ってしまった。
 行員がいなくなると、組合長や近所の男たちが甚右衛門のそばへ来て声をかけた。だが、それは慰めでも励ましでもなかった。みんなが口にしたのは、忠七はどうなったのかということだった。
 倒産が決まってから、甚右衛門は新聞をやめた。だから今朝の新聞にどんな記事が出ていたのかはわからない。しかし、風寄かぜよせ惨殺ざんさつ事件について書き立てられているのは間違いない。近所の者たちが忠七のことを問いただそうとするのがそのあかしだ。
 忠七は無実ぞな――と甚右衛門はぜんとした顔で応じた。トミは忠七が千鶴を嫁に迎える準備で一足先に風寄へ戻ったと説明し、千鶴も幸子もそのとおりだと言った。
 だが、何故あんな記事が出るのかと問われると、甚右衛門は言葉にきゅうした。つや子がやったと言いたいが、証拠は何もない。
 千鶴ちゃんはこれからどうするのかと、隣の紙屋の女房が心配そうにたずねた。けれど、それにも誰も答えられなかった。
 千鶴が風寄で暮らす話はなくなった。甚右衛門たちも土佐とさへ行くどころではない。今は進之丞の行方を捜さねばならないが、今晩寝る場所もない。行く当てもなく、四人とも店の前で立ち尽くすばかりだ。
 組合長だけは甚右衛門から事件の話を聞かされていた。甚右衛門たちに代わって、組合長がみんなを落ち着かせていると、突然トミが崩れるように倒れた。
 甚右衛門は慌ててトミを抱きかかえ、声をかけたが意識がない。組合長が医者を呼べと叫び、何人かが走って行った。
 大勢に囲まれる中、トミを呼ぶ千鶴たちの悲痛な声がかみ町にちょう 響き続けている。

「不整脈じゃな。心労がたたったんじゃろ。ちぃとたちが悪い不整脈じゃけん、今日はこのまま入院して安静にせにゃなるまい。意識がんたら一安心なけんど、ぇ覚まさんかったら危ないぞな」
 トミを診察したのは、昨日まで幸子が働いていた病院の院長だ。院長は神妙な面持ちで甚右衛門に告げると、トミに注射をした。
 紙屋町の近くの医者たちは、トミに金もなければ家もないと知ると、今は手が離せないと言ってに来てくれなかった。仕方なく甚右衛門がトミを背負ってこの病院まで走ったが、ここは事情を知った上でトミを診てくれた。
 幸子が元いた看護婦というのもあるだろうが、ばんすいそうばんさんかいへの幸子の出席を認めてくれた所だ。気さくな雰囲気があり、患者たちにも好評な病院だ。
 診てもらえたのはよかったが、トミは意識がないままだ。脈は未だに乱れ続けているそうで、油断は禁物とのことだった。
 トミが入れられたのは四人部屋だが、幸い他には誰も入院しておらず、部屋は貸し切り状態だ。
 行き場所がない千鶴たちに、どうせ空いている部屋だから、今晩はこの部屋に泊まればいいと院長は言ってくれた。とはいえ、他の病人がかつぎ込まれて来たり、トミの意識が戻れば、トミの付き添い以外は部屋を出なければならなかった。
 トミのかたわに座った甚右衛門は、すっかり落ち込んで自信を失っている様子だ。うなれ気味にずっとトミの手をさすり続けている姿は、山﨑機織のあるじではなく、ただの老人のようだ。
 何もすることがなく、黙って座っている千鶴の頭に浮かぶのは、鬼にへんした進之丞のことばかりだ。
 祖母は倒れても、こうやってみんなに心配してもらい、世話をしてもらえる。しかし、鬼になった進之丞は独りぼっちで身を隠しながら、育ての親を殺された怒りと悲しみに耐えなければならない。恐ろしいはずの鬼が、人に見つかるのを恐れて小さくなっている姿は、哀れ以外の何物でもない。
「おじいちゃん、お母さん、うち、風寄に行きたい」
 思わず千鶴が訴えても、甚右衛門はトミを見つめたまま、いかんと一言だけ言った。千鶴は母を見たが、母も頭を横に振り、無理ぞなと言った。
「今、向こうへ行くんは危険ぞな。ほれに、もう客馬車に乗るぜにもないけんな」
「歩いて行けるけん」
「いかんて言うとろ? あんたにまで何ぞあったら、お母さんらどがぁして生きていったらいいんね?」
 千鶴は肩を落とした。母の言うことはもっともであり、言葉が返せない。それに進之丞を見つけたところで、人間に戻してやれなければ仕方がない。だけど、せめて自分だけでも進之丞の傍にいてやりたかった。

じんさん、ええかな?」
 病室の扉が少し開き、組合長が顔を出した。
 甚右衛門が招き入れると、組合長は風呂敷包みを差し出した。中には大きなにぎり飯がいくつも入っている。
「腹減ったろ。こがぁなもんしかないけんど、腹のしにしたってや」
 甚右衛門は両手を合わせ、拝むようにして感謝した。幸子と千鶴も礼を述べると、組合長は眠っているトミの顔をのぞき込んだ。
「おトミさん、まだぇ覚まさんかな」
「まだぞな」
 甚右衛門が不安げに言った。ほうかなと組合長も力なく言った。
「忠七のこと、夕刊にも出とった。あがぁな話有り得んが、なしてあげなことになってしもたんじゃろな」
 ほれよ――と甚右衛門は険しい顔になった。
「何もかんも横嶋つや子いう女のわざぞな」
「横嶋つや子? 新聞にも載っとった、あの横嶋つや子かな」
「ほうよ、全部あの女が仕組んだんに決まっとらい」
 組合長はてんがいったようにうなずいた。
「なるほど。確かにほうじゃな。あの女が一番怪しいわい。ほれにしても、あの女はなしてあげなことを……」
「狂とんよ。ほじゃけん、何考えよるんか想像もつかん。ほんでも、あの女を知っとるいうもんがおってな。今わしらのためにいごいてくれよるんよ」
「ほうかな。ほれは誰ぞ?」
「一人は新聞記者で、一人は幸子の知り合いよ。二人ともあの女にひどい目にわされとってな。絶対にあの女をつらまえるて言うてくれたんよ」
 祖父の話を聞きながら、千鶴は畑山と三津子のことを考えた。
 おはらいのばばに会って進之丞の居場所がわかったならば、畑山はきっと知らせに来てくれる。
 だけど、千鶴たちがここにいるのを畑山は知らない。
 トミが倒れるとは誰も思わなかったし、そもそも店を差し押さえられたあと、どこで連絡を取り合うかを決めていなかった。
 それでも畑山は新聞記者だ。見た目と違って話を集めることにけているようだから、無事でいるならいずれこの病院を訪ねて来るだろう。訪ねて来なければ、何かがあったということだ。
 畑山に感じた悪い予感がはずれて、畑山には無事でいてほしいと千鶴は願っていた。畑山が姿を見せないのは、自分たちがこの病院にいるのを知らないからだと信じたかった。
 また、同じようにつや子を追った三津子も、この件に深入りしないことを祈った。普段は怖い物知らずの三津子だが、今回ばかりはいつもの調子で動くのは危険だった。
「ほれは頼もしいことなけんど、あの女が怪しいいう話は警察に言わにゃいくまい」
 組合長の言葉に甚右衛門はうなずいた。
「ほうじゃな。トミのわい見ながら、明日あひたにでもうわい」
「ほれがええ。ほやないと忠七が気の毒ぞな。あがぁなええ男が人殺しの汚名を着せられてしもて……。ほれにしたかて、なして忠七は姿を隠しよるんぞ?」
「ほれはな……」
 甚右衛門は千鶴を横目で見てから、組合長を部屋の外へ連れ出した。恐らく忠七は殺されていると話すのだろう。組合長の驚く声が戸の向こうから聞こえた。
 千鶴も幸子も黙って座っていたが、千鶴の胸には人殺しの汚名という言葉が突き刺さっている。
 千鶴を護るため、進之丞は特高とっこう警察の男四人の命を奪った。そのことは誰も知らないが、進之丞自身は自分を人殺しだと言った。
 もちろん状況的には相手が悪いのだが、進之丞が人の命を奪ったのは事実である。千鶴はそのことを隠しながら、進之丞との幸せな暮らしを手に入れようとした。しかし人の目はだませても、神や仏の目は騙せなかったということか。
 因果応報と言う亀吉かめきちの声が頭の中で聞こえた。続けて、因果応報の意味を説明する豊吉とよきちの声が響く。
 ――ほやけどしんさんはお不動さまにおらの幸せねごてくれたんよ。おらもおぎりさんに進さんと夫婦めおとになれるよう願たんよ……。
 心の中でつぶやく千鶴のほおを涙が静かに流れ落ちた。幸子は黙って千鶴の肩を抱いて慰めてくれた。
 戸が開いて甚右衛門が入って来た。そのあとに続きながら組合長は言った。
「とにかくな、わしにできることじゃったら何でもするけん。土佐に行けるようなるまで、わしが借家を世話しよわい。もちろん、家賃もわしが出すけん心配いらんぞな」
 甚右衛門は組合長に頭を下げ、幸子も千鶴も感謝した。
 組合長は千鶴たちを明るく励まし、もう一度トミの顔をのぞき込むと、手を上げて帰って行った。

      六

「うち、お茶もろて来るけん。おにぎり食べよ」
 幸子は明るい声で言った。少しでも明るくしていなければ、どんどん気持ちが沈むと思っているのだろう。
 それに、この病院はかつて知ったる職場だ。お茶をもらいに行くぐらい、幸子には造作ないことのようだ。
 幸子が部屋を出て行くと、すまん――と甚右衛門は言った。
 何を謝るのかと千鶴がたずねると、己の不甲斐ふがいなさだと甚右衛門は言った。
「おまいに店をやる言うたのに、わしはその店をつやしてしもた……。先代から受け継いだ店を、わしが潰してしもた……」
 しょんぼりしながら涙を浮かべる祖父を千鶴は慰めた。
「おじいちゃんが悪いんやないよ。悪いんは全部、あのつや子いう女やし。おじいちゃんは一生懸命しんさった。うちも、お母さんも、おばあちゃんも、みんなわかっとるけん」
「わしが孝平こうへいをちゃんと育てられとったら、こがぁなことにはならんかったろ」
「ほれを言うんなら、正清まさきよ伯父さんが戦争で亡くならんかったら、こがぁにはならんかったんよ。おじいちゃんが悪いんやない。戦争が悪いんよ」
「ほやけど戦争がなかったら、おまいは産まれて来んかった……。戦争は嫌やが、お前がおらんのは困る」
「おじいちゃん……」
 祖父の言葉に千鶴は胸が詰まった。絶望しかないこの時に、祖父の気持ちは何にも代えがたいほど有り難かった。
「おまいに何もしてやれんのなら、最初からお前を大事にしてやったらよかった……。世間のぇ気にして、お前を大事にせんかったけん、ばちが当たったんよ……」
「ほんなことない。おじいちゃんもおばあちゃんも、うちの知らんとこで、うちを支え続けてくれたやんか」
「わしの人生は、いったい何やったんじゃろな……」
 千鶴は甚右衛門のそばへ行って抱きしめた。甚右衛門は千鶴の腕の中で泣いた。

 しばらくして千鶴から離れた甚右衛門は、みっともないとこを見せたと恥じ入った。祖父の本当の姿を見せてもらえてうれしい千鶴は、ほんなことないよと微笑んだ。
 気恥ずかしいのか、甚右衛門は千鶴から顔をらして廊下の方を見た。
「ほれにしても幸子は遅いな。お茶がもらえんでめとろか」
 確かに遅いと千鶴も思った。母はいったいどこまで行ったのだろうと、少し不安になり始めた時、幸子がお盆に急須きゅうすと湯飲みを載せて戻って来た。
「ごめんごめん。すっかり遅なってしもた」
「どこで油売っとったんかな」
 仏頂面ぶっちょうづらに戻った甚右衛門が言った。
「うちの代わりに今日から新しく入った看護婦さんがおるんやけんど、その人がな、昔うちが働きよった病院で一緒やった人なんよ。ほんで、ついしゃべりよって遅なってしもた」
 幸子が昔働いた病院というのは、ロシア兵を収容していたバラックと呼ばれる仮設病棟のあとに、勤めていた病院だ。
 その病院は幸子が千鶴を身籠もって、みんなから白い目を向けられたという所だ。そこで働いていた看護婦と、ここで再会したということらしい。
 その看護婦も母に白い目を向けた一人ではないかと、千鶴はいぶかしんだ。けれど、母は特に不愉快な想いをしたわけではないようで、お盆を置くと機嫌よくみんなにお茶を配った。
 組合長にもらったにぎり飯を、千鶴たちは一つずつ手に取った。にぎり飯は明日の朝食べる分まであった。
 みんなは改めて組合長への感謝を述べると、にぎり飯を食べようとした。その時、眠っていたトミが目をぱちりと開けた。
 初めに気がついた幸子が、お父さん――と甚右衛門を呼んだ。甚右衛門はトミを見て、おぉと喜びの声を上げた。
ぇ覚めたんか。よかったよかった。トミ、わしがわかるか?」
 トミは横になったままじろりと甚右衛門を見ると、黙って小さくうなずいた。
「お母さん、気分はどがぁなん? どっかわい悪いとこある?」
 幸子が訊ねると、トミはまたじろりと幸子を見て、小さく首を横に振った。
「おばあちゃん、大丈夫なんじゃね。よかった」
 千鶴も声をかけると、トミは千鶴に目を向け、千鶴――とつぶやくような声を出した。
「何?」
 千鶴が顔を近づけるとトミは弱々しい声で、お城には近づいたらいけん――と言った。千鶴には、何の話やらわからない。
 甚右衛門はげんそうにトミに訊ねた。
「トミ、なして千鶴がお城に近づいたらいけんのぞ?」
「正清が……、そがぁ言いよった」
 トミは蚊の鳴くような声で、自分が見た夢の話をした。
 夢の中で正清は、気をつけろとトミに告げたらしい。何に気をつけるのかとトミが訊ねると、千鶴だと正清は答えたそうだ。
 その時に、トミは満月が浮かぶ城のそばにいたという。トミがきれいな月を見上げた隙に、正清は姿が見えなくなった。
 ただ頭の中で、千鶴を城に近づけるなと言う正清の声が聞こえ、そこで目が覚めたということだ。
 小さな声でそれだけ喋ると、トミはまた眠ってしまった。

 甚右衛門と幸子は顔を見交わした。城といえば、鬼が特高とっこう警察の男たちを捨てた所であり、二人にとっては不吉な場所だ。
「いよいよがんごいごきだしたんぞ。正清はほれをわしらに伝えようとしたんぞな」
 甚右衛門が言うと、幸子もうなずいた。
 すべてはつや子が引き起こしていると考えていたのに、正清の話を聞くと、二人には鬼が裏で糸を引いていると思えたようだ。 
「千鶴らがだいりんで襲われたんも、ほんまはがんごが千鶴を連中に連れて来させるはずやったんぞ。ほれをあいつらが千鶴にぇ出そとしよったけん、忠七が助けに来たときに鬼は連中を護らんかったんじゃ」
 甚右衛門が真顔で喋ると、幸子は納得した顔で言った。
たださんの家族があげな目にうたんも、忠さんが千鶴を嫁にしよとしたけんやわ。心配しよったとおり、鬼が怒ったんよ」
 以前に幸子は鬼は千鶴にれていると言い、千鶴と惚れ合っている忠七を心配していた。今回の事件は、まさにそれが現実のものとなったと幸子は見ていた。だけど幸子の言葉は、行方知れずの忠七はすでに鬼に殺されているという意味になる。
 二人のとんでもない考えに怒りと悲しみを隠せず、千鶴は忠さんは生きているし、がんごはそんなことはしないとみついた。
 幸子は慌てて千鶴にびたが、甚右衛門は考えを曲げなかった。とにかく城山へは絶対に近づいてはならんと、甚右衛門は千鶴にきつく命じた。幸子も同意見だ。
 正清が亡くなったのは、幸子が千鶴を身籠もるより前である。千鶴は、伯父は自分のことを知らないのだから、祖母の夢はただの夢だと訴えた。
 用事もないから城山へは行かないし、鬼が自分を狙うことはないと、千鶴は必死に鬼をかばった。しかし、甚右衛門も幸子も鬼への疑いを捨てなかった。
 安心できない甚右衛門は、組合長に預けている猟銃を取って来ると言って病室を出ようとした。千鶴と幸子は甚右衛門を引き留めたが、甚右衛門は強引に出て行こうとした。
 猟でもないのに猟銃を持ち歩いたりすれば気が狂ったと思われるし、警察に捕まってしまう。それこそ鬼の思うつぼだと幸子が説得すると、甚右衛門はやっとおとなしくなった。
 鬼の思う壺だと言う母の言葉が悲しくて、千鶴は泣きそうになった。その鬼がこれまでどれだけ自分たちを助けてくれたのか、大声で教えてやりたかった。
 だけどそんなことをすれば、進之丞を余計にまずい立場へ追い込むことになる。今は黙ってこらえるしかない。
 千鶴は二人から離れると、窓辺から外を眺めた。辺りは夕闇が広がってすっかり暗くなっている。東の空を見ると、ほとんどまん丸の月がぽっかりと浮かんでいた。明日は満月らしい。
 夢の中で祖母は満月の城にいた。つまり、それは明日の夜の城だろう。
 そんな時間に城山へ登るなど、明日でなくてもするわけがない。行くはずのない所へ行くなとは、どういうことなのか。
 もしかしたら鬼にへんした進之丞が、お城に現れるのかもしれないと千鶴は思った。
 そこへ自分が行けばどうなるのか。伯父はそのことを危惧しているのだろう。何にせよ、伯父の夢が示しているのは、明日の夜、進之丞が城山へ戻って来るということに違いない。
 千鶴の胸の中で期待とまどいがぶつかり合った。
 進之丞に会えるのは嬉しいが、鬼に化身した進之丞を救う手立てがない。いずれつや子の悪事が暴かれても、進之丞が鬼のままでは悲惨な結末が待つばかりだ。
 空の月を見上げながら、もう暇がないと千鶴はあせった。何としても明日の夜までに、進之丞を人間に戻す方法を見つけねばならない。
 どうすればいいのかはわからない。けれど進之丞を救うためには、やるしかないのだ。