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忍び寄る狂気

      一

 野菊の群生の前で、千鶴ちづは進之丞と しんのじょう 言い争っていた。
「千鶴、あしを信じてくれ! あしにはおまいしかおらん!」
「いっつもかっつもそがぁ言うて、おらをだまくらかしてばっかし。おらにはしんさんしかおらんかったのに……」
「ほじゃけん、ほれはあしかてついぞな。あしが嫁にしよて思とるんは、おまいぎりぞな」
 進之丞は懸命に弁解していたが、千鶴はまったく進之丞を信じていなかった。
「前にそがぁ言うてから、今日までどんだけ経ったて思とるん? おら、進さんの言葉信じて、ずっとずっと待ちよったんよ? ほれやのに、ちっともいに来てくれんかったやんか」
「ほれは父上について村まわりをしよったけんよ。おまいのことを忘れよったんやない。ほれに、お前を嫁にするためにいろいろ準備があったんよ」
 進之丞の言い訳に腹が立った千鶴は、進之丞の秘密に言及した。
「進さん、お武家の娘がええんじゃろ? おら、知っとるんで」
「お武家の娘? ほれは何の話ぞな?」
「またとぼけてからに。ほれじゃったら言うちゃろわい。進さんとこの女中さんが、おらに教えてくれたんよ。おらとちごて、きれいで芸事もできる娘さんやて言いよったぞな」
 千鶴には進之丞が動揺しているように見えた。
「ちぃと待ってくれ。女中て誰のことを言いよんぞ?」
「そがぁなこと言われんぞな。言うたら、その女中さん、首斬られてしまうけん」
「千鶴、おまいはあしより、その女中の方を信じるんか?」
「その女中さんが、おらにうそ言うたて言うん?」
「ほうよ。そいつは嘘を言うとらい」
「なして? なしておらにそがぁな嘘、わざに言いに来る必要があるん?」
「そいつはたぶん、おまいにやきもち焼きよるんぞ。ほじゃけん、嫌がらせ言うとるぎりぞな」
 千鶴――と言って、進之丞は強引に千鶴を抱き寄せようとした。だが、千鶴は反射的に進之丞の胸を押しのけた。すると、その拍子に乱れた進之丞の懐か ふところらぽとりと落ちた物があった。
 進之丞は慌ててそれを拾おうとしたが、千鶴の方が速かった。
「千鶴、ほれを見たらいけん」
「何ね、これは?」
 それは手紙だった。しかも、千鶴に宛てた手紙だった。
「これ、おらへの手紙やんか」
 千鶴ににらまれると、進之丞はうろたえた。
 千鶴は進之丞を見えながら手紙を読んだ。しかし、読むうちに驚き動揺した。それは死んだと思っていた父からの手紙だった。
 進之丞に裏切られたと思った千鶴は、父親が恋しかった。生きているなら自分を迎えに来て欲しかった。
 それははかない望みであり、叶うはずがない願いだった。ところが、それが現実のものとなったのである。
 手紙には、今日の夕暮れに風寄かぜよせの浜辺へ船で行くとある。夕暮れまであまり時間は残されていない。
 千鶴は顔を上げると、進之丞をにらんだ。
「なして、この手紙を進さんが持っとるんね?」
「ほやかて、おまいはあしの嫁になるけん」
「そがぁなことはいとらん。なして、この手紙を進さんが持ちよるんかて訊いとるんよ」
「ほれは……、その手紙を届けに来たもんが、おまいに直接渡したら差し障りがある思て、あしによこしたんよ」
「じゃったら、すぐにおらに見せんといけんじゃろが。進さん、おらを慰みもんにするぎりやのうて、おらから何もかも奪うつもり?」
「何を言うんぞ?」
 その時、慌てふためいた様子の男が走って来て、進之丞さま――と声をかけた。男は代官屋敷の者らしい。進之丞が振り返ると、今にも泣きそうな顔で、一大事にございますると言った。
「お代官さまが――」
 男はそこで絶句したように口をつぐむと、口元をわなわなと震わせた。
 進之丞が男のそばへ寄ると、男は耳打ちをするように進之丞に何かを伝えた。途端とたんに進之丞の顔色が変わり、何かが代官の身に起こったらしいと千鶴は悟った。だが、代官は進之丞に他の娘を会わせた張本人だ。代官に何があろうと千鶴にはどうでもいいことだった。
 進之丞は千鶴を振り返って言った。
「千鶴、あしは行かねばならん」
「どこまり好きなとこへ行ったらええ。おら、父ちゃんと行く! もう、こがぁな悲しい所にはおりとない」
 千鶴は進之丞に背を向けた。
「待て、千鶴! 千鶴!」
 呼び止める進之丞の声を無視して千鶴は走った。拭いても拭いても涙が止まらない。

 千鶴は目が覚めた。部屋の中はまだ暗い。夢の中で千鶴は泣いていたが、目覚めた今も涙は流れ続けていた。だが、それは夢とは別の涙だった。
 今見た夢は前世の記憶であり、本当にあったことだ。千鶴は進之丞を疑い、父の元へ行こうとしたのである。
 あの時、進之丞を信じてさえいれば、鬼につけ込まれることはなかっただろう。そうしていれば、慈命和尚がじめいおしょう 死ぬこともなかったかもしれないし、進之丞が鬼になることもなかったに違いない。
 千鶴はあの女中こそがつや子だと確信していた。前世の自分はつや子にだまされ、進之丞を疑うように仕向けられたのである。
 しかし、それは進之丞を信じる気持ちに揺らぎがあったということだ。進之丞を本当に信じていれば、いくら疑うよう唆さ そそのか れたとしても、進之丞を疑うことなどなかったはずである。
 結局は自分のせいだと己を責めながら、千鶴は闇の中で泣き続けた。

      二

 朝になり、看護婦がのぞきに来ると、みんなそれぞれの寝台の上に体を起こした。
 この時にはトミも目覚めていたが、昨夜の正清まさきよの夢のことは何も覚えていなかった。また、何故自分がここにいるのかもわかっておらず、みんなを見ながら怪訝けげんそうにしていた。
 看護婦はトミの状態を確かめたあと、千鶴を見ながら、この娘さん?――と幸子さちこに声をかけた。
「ほうなんよ。この子が千鶴ぞな」
 幸子は少し笑みを浮かべて言った。だが、千鶴は何のことかわからない。甚右衛門じんえもんもトミもいぶかしげに幸子と看護婦を見比べた。
「この人が昨夜ゆんべ話した、うちの昔の同僚の山岡やまおか八重子やえこさんぞな」
昨夜ゆんべ?」
 トミは眠っていたので、昨夜の幸子の話を聞いていない。幸子は構わずみんなに八重子を紹介した。
 初めましてと八重子が挨拶をすると、千鶴は慌てて寝台から降りて頭を下げた。
「その節は、母がお世話になりました。ほれから、今回は祖母がお世話になります」
 甚右衛門とトミも言葉少なに挨拶をした。八重子は二人に笑顔を返したあと千鶴を見て、ええ娘さんじゃね――と幸子に言った。
「あん時は、こがぁな娘さんが産まれるとは、誰っちゃ思いもせんかったけんなぁ。まっこと山﨑やまさきさんには気の毒じゃった」
 どうやら自分が母のおなかの中にいた頃の話だと、千鶴は思った。それは自分を身籠もったせいで、母が病院を辞めさせられることになった時の話であり、千鶴は気まずい気持ちになった。
「ええんよ。ほんまのことがわかったけん、ここで山岡さんに会えてよかったぞな」
 幸子が微笑んだまま応じると、朝食が終わったら院長がに来るからと言って、八重子は病室を出て行った。
「おかあさん、ほんまのことて何なん?」
 千鶴がたずねると、幸子は笑みを消して息を一つ吐いた。
「さっきの山岡さんや他の看護婦さんらはな、お母さんがあんたを身籠もったてわかったら、仕事以外のことでは口利いてくれんなったんよ。病院辞める時も、何ちゃ挨拶してくれんかった。ほじゃけん、お母さん、みんなに憎まれとるて思いよった。けんど、ほんまはほうやなかったんじゃて、山岡さんが教えてくれたんよ」
「ほうやなかったって?」
「初めはな、何てことしたんやて、お母さんのこと、みんな腹立てよったそうな。ほやけど、お母さんのあとのこと考えたら心配になったんやて。ほんでも、うちと口利いたもんは同罪じゃて婦長さんの指示があったんで、声の一つもかけられんままになってしもたて、山岡さんは言いんさった。ほれで、ほん時のことを申し訳なかったて謝ってくれたんよ」
「ここでおまいと顔会わせることになったけん、言い訳しよったぎりじゃろがな」
 甚右衛門が不信感をあらわにしたが、幸子は淡々としゃべった。
「ほうかもしらんけんど、あん時の婦長さんは、がいにきびしいお方じゃったけん、ほれは有り得る話じゃなて、うちは思たんよ。ほれにもう昔のことやし、別に言い訳でもかまんかった。ほんでも山岡さん、自分らはだまされよったんじゃて言いんさった」
「騙されよった?」
 トミが眉をひそめた。甚右衛門も眉間みけんしわを寄せている。
「うちと口利くないうんは、婦長さんが直接みんなに言うたんやないんやて」
「どがぁなことぞ?」
 甚右衛門が不審げに言った。
「婦長さんがこがぁ言いんさったて、みんなに伝えた人がおったんよ」
「誰ぞ、ほれは?」
 甚右衛門の問いかけに、ほれがな――と幸子はためらったように言った。
三津子みつこさんじゃて言うんよ」
「三津子? 三津子て、あの三津子かな?」
 トミがくと、幸子は戸惑い気味にうなずいた。甚右衛門はあごに手を当てると、ふーむとうなった。
「三津子さん、目立たん人じゃったけんど、婦長さんには気に入られとったんよ。ほじゃけん、婦長さんがこがぁ言うとったて三津子さんが言うたら、みんなほれを信じたみたいなんよ」
「三津子がうそ言うたて、なしてわかったんぞ?」
 店を畳むことになった甚右衛門たちを見舞い、つや子を捕まえてみせると言った三津子を、千鶴同様に甚右衛門も見直していたようだ。その三津子へ再び不信感が湧き起こったのか、甚右衛門は難しい顔をしている。
「あとで誰かが婦長さんに、うちに最後の挨拶ぐらいしたかったて文句言うたんやて。ほしたら婦長さんの方もな、みんながうちのことを腹立てとるて思とりんさったそうで、みんながうちに口利かんことに何も言えなんだそうな」
「じゃあ、婦長はおまいと口利くなとは言うてなかったんか?」
「ほうらしいぞな。ほんまのことは知らんけんど、うちが病院辞める時、婦長さんぎりは最後に声をかけてくんさった。ほんでも、ほれぎりのことじゃったけん、立場上声をかけんさったんじゃて思いよった。ほやけど、山岡さんが言いんさったとおりやとしたら、婦長さんはうちを不憫ふびんに思てくんさったんかもしらんね」
 甚右衛門は腕組みをすると、ふんと言った。
「どこまで信用できるか、わかったもんやないわい」
「うちかて、急にそがぁなこと言われても、全部信じたわけやないよ。ただ、もう昔の話やけんねぇ。ほんでも、山岡さん、うちらが萬翠荘に ばんすいそう 招かれた記事を見んさったそうでな。ずっと悪いことしたて思いよった気持ちが、あれでだいぶ楽になったんやて」
 幸子も八重子の言葉をどう受け止めたらいいのか決めかねているらしい。顔に浮かべた笑みには当惑のいろが混ざっている。
「ほんで、嘘がばれた三津子はどがぁなったんね?」
 トミが眉根を寄せながら言った。見た目はすっかり元気を取り戻したようだ。
「山岡さんの話では、みんなから嘘つき呼ばわりされて、居たたまれんなって辞めたらしいんよ」
 幸子は困った顔で言った。だが、それは三津子から聞かされた話とは違う。三津子は幸子を追い出した病院が嫌になり、自分から辞めたと言っていたはずだ。
 千鶴も話に交じって母に訊ねた。
「お母さんは、どっちの話信じるん?」
「わからん。ただな、山岡さん、こがぁにも言いんさったんよ。お母さんがおまいを身籠もったんを、院長先生に告げ口したんは三津子さんじゃて」
 千鶴は驚いた。甚右衛門もトミも目を見開いている。
「ほんまに? ほやかて、三津子さんはお母さんの味方になってくれたんやないん?」
「ほうなんよ。ほやけん、わけがわからんなってしもた」
 幸子は混乱したように首を横に振った。
「まぁ、おなかがちぃとずつ大きなったら、他の人らもぃつくけんど、あん時はまたそがぁには目立っとらんかったんよ。ほじゃけん、院長先生に知れた時には、なしてわかったんじゃろかて思いよった。しかも、父親のことまで知っておいでたけんね」
 病院を辞める時まで、幸子はまだ三津子とは親しくなかった。だから、お腹の子供の父親のことはもちろん、身籠もっていることさえ幸子は喋ってはいない。三津子は何も知らないはずなので、幸子は八重子の話に当惑しきっている様子だ。
 いずれにしても、誰かが院長に密告したのは確かだろう。ただ、それが誰なのかはわからない。
「とにかく誰も知らんはずの話やけん、誰が院長先生に喋ったんかなんて、今の今まで考えもせんかった。ほじゃけん、山岡さんにそがぁ言われた時は、まっことびっくりじゃった」
 それはそうだろう。幸子にとって三津子は唯一信じられる友だったはずだ。その三津子が幸子を病院から追い出した張本人だったとは、簡単に信じられる話ではない。それでも三津子をどう見たらいいのか、幸子も含めてみんなが困惑を覚えていた。
 いずれにしても、幸子が病院にいられなくなったのは昔のことであり、済んだ話である。それに千鶴たちへの三津子の慰めや励ましが本気でなかったとしても、それもどうでもいいことだ。
 今の千鶴たちにはすることがあり、三津子の心の内を詮索している暇などない。
 今後は本気で三津子の相手をしなければいいと、甚右衛門が締めくくり、幸子がうなずいてこの話は終わった。

      三

「不整脈は ふせいみゃく 落ち着いたみたいじゃな」
 トミを診察した院長は笑顔で言った。
「ほんじゃあ、もう退院できるんかなもし?」
 トミがうれしそうにたずねると、院長は笑顔を崩さないまま、今日一日はここで様子を見た方がいいと言った。
「ここ出たとこで、すぐには行く当てもないんじゃろ? じゃったら、もうちぃとここにおったらええ」
 ただ――と言いながら、院長は幸子に顔を向けた。
「全員にずっとここにおられるんは困るけんな。おトミさんの付き添い一人ぎりじゃったら、おってもろてもかまんけんど、あとの二人は他の居場所を探してもらおわい」
「ほれじゃったら大丈夫ぞなもし。知り合いが当面の部屋を用意してくれるて言うてくれとりますけん」
 甚右衛門が話すと、ほれじゃったらと院長はにっこり笑った。
「まぁ、ほれにしても、おトミさんは今日はここにおりんさいや」
 トミは不満そうに、わかりましたと言った。
 院長が部屋を出て行くと、幸子は改めてトミに昨日の夢のことを訊ねた。しかし、トミはそんな夢など見た覚えはないと言い、今日は何日かとき返した。
 今日は九月三日だと甚右衛門が言うと、今日は正清の月命日じゃと、トミは慌てた様子で正清の位牌いはいを探し始めた。
 手荷物はほとんどないので、位牌はすぐに見つかった。
 トミは位牌を立てると、両手を合わせて念仏を唱えた。その間、千鶴も位牌に手を合わせながら、正清伯父の忠告についてもう一度考えた。そして、やはり今晩、鬼になった進之丞が城山に現れるに違いないと確信すると、今日は何曜日かと甚右衛門に訊ねた。
「そがぁなこと、わからん。もう新聞も読んどらんけんな」
 甚右衛門が素っ気なく答えると、幸子が木曜日だと言った。
「曜日なんぞ訊いてどがぁするんね?」
「いや、別に。ただ何となく訊いてみたぎりぞな」
 いぶかしげな母をごまかすと、千鶴は井上いのうえ教諭に会いに行くのは夕方しかないと思った。
 月が出るのは夜の七時頃。それまでに進之丞を救う方法を見つけ出さねばならない。時間は限られているから、少々強引なやり方であっても、井上教諭の所へ行って催眠術をかけてもらうのだ。
「ほんまじゃったら墓参りもするとこなけんど、やっぱし無理かいねぇ」
 トミが残念そうに位牌を見つめると、甚右衛門が怒ったように言った。
「おまい、わしらがどがぁな目にうとるんか忘れとるんか? 今は墓参りなんぞしよる暇はなかろがな」
「ほやかて、毎月行きよったのに」
「わしらが土佐とさへ行ってしもたら、墓参りなんぞできんなろが」
「ほんでも、ここにおる間は行けるぞな」
 話が通じないトミに、甚右衛門は疲れたように息を吐いた。
 外へ出る理由が欲しい千鶴は、甚右衛門に声をかけた。
「おじいちゃん、うちがお墓参りうわい」
「あんたがてくれるんか?」
 甚右衛門が口を開く前に、トミが嬉しそうに言った。トミはつや子の脅威を忘れているらしい。
 いかん!――とトミをしかった甚右衛門は、外へ出ることは許さんと千鶴に言った。
 自分が一緒だったらと、幸子が助け船を出してくれたが、それもだめだと甚右衛門は言った。
「女二人ぎりで、またごろつきに襲われたら、どがぁもできんじゃろが。もう――」
 怒った口調でしゃべりながら、甚右衛門は口をつぐんだ。もう助けてくれる忠七ただしちはいないと言いそうになったのだろう。
 うろたえたように目を動かした甚右衛門は、わかったけんと言ってトミに顔を向けた。
「正清の墓参りは、あとでわしが行くけん。ほんならよかろ?」
「ほれじゃったらな」
 トミはうなずいた。だが、今度はすることがなくて退屈だと言い出した。
「こがぁなとこにおったら、ほんまに病気になってしまうぞな」
「病気になってしまうんやのうて、もうなってしもたんよ、お母さん」
 幸子が文句を言うトミをなだめると、甚右衛門は警察へ行って来ると言って腰を上げた。すると、トミは甚右衛門を呼び止めた。
「警察行って、忠七の無実を訴えんさるんか?」
「今度のことは横嶋よこしまつや子の仕業しわざやけん、つや子をつらまえて調べるように言うてうわい」
「ほれじゃったら、孝平こうへいがどがぁしよるんかも訊いて来てつかぁさいや」
「孝平? あがぁなやつ、どがぁしよっても関係あるかい!」
「そがぁ言わんで、訊いて来てつかぁさいや。あがぁな子でも、うちらの子には違いないんやけん」
 甚右衛門はむすっとした。
 孝平を死罪にしても構わないと警察でわめいたのはトミである。その言葉を忘れたかのようなトミの態度に、甚右衛門はいらだっているようだった。
「おじいちゃん、訊くやったら弥七やしちさんのこともね」
 千鶴は付け足すように言った。
 弥七をかばうつもりはないが、孝平のことだけ訊いて、弥七のことを訊かないのは不公平である。
 お前もかというような顔を千鶴に見せると、甚右衛門は部屋を出て行った。
 甚右衛門がいなくなると、トミは昔を懐かしむ話を始めた。しかし、そこに進之丞は登場しない。トミが喋るのは正清が生きていた頃の話ばかりで、千鶴や幸子の話も出て来なかった。
 それは今の現実から逃れたい気持ちの表れなのかもしれない。でも、千鶴は聞いていてもよくわからない。それで祖母の話を聞きながら、どうやって井上教諭に会うかと考え続けていた。
 祖母の相手をする母も、祖母に話を合わせながらも、どこかうわそらのようだ。つや子の恐怖におびえる中で、三津子までもが信用できなくなり、頭の中が混乱したままなのだろう。
 トミが喋り疲れて静かになると、千鶴は母に少し一人になりたいと言った。幸子はうなずき、少し気分を変えるのがいいと言った。
「ほんでも建物の外へ出たらいけんよ。あの女がつらまるまでは油断したらいけんけんね」
 外には出ないと約束すると、千鶴は一人で廊下へ出た。

 畑山から連絡がないことが千鶴は気になっていた。
 トミが倒れてこの病院へ運ばれたことは、紙屋町のかみやちょう 者なら誰でも知っているはずだ。昨日のうちに畑山が紙屋町へ戻っていたなら、病院の消灯時間までには顔を出してもよさそうなものだった。
 それでも畑山はトミが倒れたことを気遣きづかって、昨日は遠慮したのかもしれなかった。だとすれば、今日の午前中に訪ねて来ると思われる。それが待ちきれない気持ちもあって、千鶴は病室を出たのである。
 建物は二階建てだが、トミがいる病室は一階にあった。狭い廊下を少し行くと、すぐに外来の待合所だ。
 表へ出られないのであれば、病室の中であろうと外であろうと、たいして変わらないような閉塞感がある。しかも待合所には多くの患者が座って診察の順番を待っている。その様子を見ていると、余計に窮屈な感じがして気が滅入めいった。
 待合所には畑山の姿はなく、玄関を見ても畑山が現れる気配はない。しばらくそこに立って待っていたが、やはり畑山は現れない。
 壁に掛けられた柱時計を見ると、もう昼が近い。もしかしたら畑山はおはらいのばばには会えなかったのだろうかと思ったが、千鶴は昨日の嫌な予感が気になっていた。
「先生! えらいこっちゃ! 先生!」
 外から泡った様子の男が、勢いよく待合室へ飛び込んで来た。
 男は同じ言葉を叫びながら、勝手に診察室へ入ろうとした。しかし、戸の向こうに看護婦が立ちはだかったので、男は中へ入れなかった。
「先生、すぐに来てやってつかぁさい!」
 男は看護婦の肩越しに、奥にいる院長に声をかけた。
「どがぁしたんぞな? 今、こっちも忙しいんやが」
 院長が迷惑そうに出て来ると、男は言った。
「うちの隣のお祓いのばあさまが死んどるみたいなけん」
「何? 死んどる? どがぁな具合ぐわいぞな?」
「包丁でな、めった刺しにされたみたいぞな」

      四

「めった刺しやて?」
 話を聞いていた患者たちは騒然としたが、めった刺しという言葉を聞いて、千鶴は鳥肌が立った。それは為蔵とタネが殺された様子と同じであり、二つの事件は同じ人物によって引き起こされているように思えた。
 また同時に、千鶴は畑山のことが心配になった。殺された老婆はあのおはらいのばばなのかと千鶴が気にしていると、すぐに出かける準備を始めた院長に男は続けて言った。
「先生、もう一人な、妙な男がおるんよ」
「妙な男?」
 看護婦に診察鞄の指示をすると、院長は男の所へ来た。
「妙な男て、そいつが犯人なんか?」
「わからん。そいつはあしの知らんやつなけんど、その男がな、ばあさまの家で首って死んどるんよ」
「何やて? ところで、おまいさん、警察は呼んだんか?」
「警察? いや、まだぞな。先に先生にてもらお思て、ぐここへ走って来たんよ」
 阿呆あほ!――と怒鳴ると、院長は男に老婆の家がどこにあるのかを聞き出し、受付にいた自分の妻に、すぐに駐在所へ連絡をするようにと言った。
 院長の妻は別の看護婦を呼びに病棟へ走り、院長は鞄は用意できたかと言いながら診察室へ戻った。
 千鶴は膝ががくがく震えた。涙があふれそうになり、息が上手うまく吸えなくなった。それでも院長たちがばたばたする中、千鶴は待っている男のそばへ行き、もうしと声をかけた。
 振り向いた男は千鶴の顔を見てぎょっとした。千鶴は構わず死んでいた男の容貌をたずねた。
「何ぞな、あんたは? あの男の知り合いか?」
「ほれがわからんけん、教えてつかぁさい。そのお人はせておいでましたか?」
 男は千鶴をいぶかしんだ。それでも、千鶴が繰り返しお願いすると、男は警戒しながらもしゃべり始めた。
「あしもおとろしいけん、ちらっとしか見とらんけんど、確かに痩せとったな。ほれと、えらい煙草たばこ臭い男やったぞな」
 男の言葉に千鶴は絶望を感じた。死んでいた男が着ていた物を確かめたが、やはり畑山の衣服と同じようだ。
 千鶴がしゃがみ込んで号泣したので、男は驚いてあとずさりをし、自分が泣かせたのではないと周りの患者たちに訴えた。
「どがぁした? ん、山﨑さんの娘さんやないか。なしてここで泣きよるんかな?」
 千鶴の泣き声を聞いて出て来た院長が、千鶴に声をかけた。千鶴は泣きながら、殺された男は自分の知り合いだと言った。
 どういうことかと訊ねる院長に、千鶴は自分の許婚がいる場所を教えてもらうために、畑山がお祓いの婆を訪ねたことを説明した。
「あんたの許婚? ほれはもしかして……」
「ほうです。うちの許婚は無実の罪を着せられて、行方知れずになりました。畑山さんはうちのために、おばあさんのとこへおいでてくんさったんです。ほれやのに、その畑山さんまで……」
 患者たちが妙なものを見る目で千鶴を見つめていた。
 みんな風寄かぜよせの事件のことは知っているらしく、その事件が身近に拡大しているととらえたみたいだった。千鶴を見る患者たちの視線は冷たく、また千鶴を恐れているようでもあった。
 だが、院長は冷静だった。慰めるような穏やかな声で、院長は千鶴に話しかけた。
「ほれじゃったら、あんたも一緒に来たらええ。ほんで、死んだ男の顔確かめて、確かにあんたの知り合いじゃと言うんなら、そのことを警察に話すんぞな」
 先生、用意がでけました――と看護婦が診察鞄を持って来た。
 千鶴は畑山の死にざまなど確かめたくなかった。それでも自分が確かめなければ、畑山がお祓いの婆殺しの犯人にされてしまう。千鶴は恐ろしさと悲しさと自分の責任で動けなくなっていた。
 しかし、患者たちにしばらく待つように言った院長は、千鶴を外へ連れ出した。

 警察で事情を聴取されたあと、千鶴は一人で警察をあとにした。太陽が西に傾いており、日が暮れようとしている。
 やはり殺されたのは、あのお祓いの婆と畑山だった。
 畑山の上着からは、名刺も錦絵新聞も にしきえしんぶん 抜き取られていて、身元はわからなくされていた。代わりに上着の内ポケットから、遺書と思われる紙が見つかった。
 そこには大変なことをしでかしたので、死んでおびをしますとだけ書かれてあった。
 畑山の両手や衣服は血だらけで、千鶴の証言がなければ、畑山が老婆を惨殺ざんさつしたと見られるところだった。
 畑山が殺人のぎぬを着せられるのは防げたが、畑山の命は戻って来ない。
 大阪おおさかでは何も知らない畑山の家族が、畑山が無事に戻って来るのを待っているはずだ。それを思うと、千鶴は涙が止まらなかった。
 警察には午前中に甚右衛門が訪れて、本当の犯人は横嶋つや子だと訴えていた。しかし、甚右衛門に言われずとも、すでにつや子は視野に入れていると、千鶴は警察から説明された。
 ただ、忠七の行方がわからない以上、忠七についても捜査は続けるそうだ。また甚右衛門が言ったように、警察でも忠七が殺されている可能性も見ているようだった。
 そんな中で起きた今回の事件で、警察ではつや子への疑いを強めており、風寄の事件もくわしく見直すと千鶴に約束してくれた。
 一方で、畑山の上着のポケットにはマッチと煙草の箱が入っていた。その煙草の箱の中に折り畳まれた紙片が差し込まれていたことがわかり、警察ではその紙片を一つの手掛かりと見ていた。
 その紙片には高縄山と たかなわさん 書かれてあり、そこから引かれた矢印の先には松山まつやまと書いてあった。また、松山という文字の下には、小さな文字で明晩と書き添えられていた。
 畑山は忠七の居場所を占ってもらうために、お祓いの婆を訪ねたと千鶴は証言した。その占いの結果がこの紙片であり、高縄山にいる忠七が松山へ戻るという意味かもしれないと、警察では見たようだった。
 しかし、そうだとしてもそれは占いの結果であり、警察が占いを信じて動くわけにはいかない。警察ではこの紙片を、畑山が忠七の居場所を占ってもらうために、お祓いの婆を訪ねた証拠として考えていた。
 警察ではただの占いと受け止めているようだが、千鶴は違った。お祓いの婆は鬼の存在に気づいた人物である。その霊能力は本物であり、進之丞が高縄山に潜んでいるのは間違いないと思われた。そして間もなく松山へ戻って来るのである。
 畑山がこれを書いたのが昨日であるなら、明晩というのは今晩のことになる。つまり、進之丞は今晩高縄山から松山へ戻って来るということだ。それは正清伯父の忠告と一致する。
 何故夜なのか。それは人目を避けるために違いない。だが、誰にも見られないという保証はどこにもない。それでも進之丞が戻って来るのは、きっと自分に最後の別れを告げに来るつもりなのだ。
 進之丞の家族が殺され、お祓いの婆と畑山まで殺された。そして夫婦めおとになるはずだった進之丞は、鬼となって消えようとしている。
 これでは何もかもが前世に起こったことと同じだ。それは前世のあの事件も、つや子が引き起こしたことだと示されているようだった。
 すべてを無茶苦茶むちゃくちゃにされ、千鶴は泣き叫びたくなった。だが、どこかで今の自分の姿を見て笑う女の影が頭に浮かぶと、千鶴は必死に自分の感情を抑えた。あんなやつの望みどおりになるものかと、懸命に歯を食いしばった。
 それでも千鶴は母たちに会いたくなった。今の気持ちを共有できるのは母たちだけだ。
 病院を出る時に、千鶴は母や祖母に話をする暇がなかった。そのため急に千鶴がいなくなったことで、母たちが心配していると思われた。
 それでも千鶴が警察にいることを、院長が知らせてくれたはずなので、祖父か母が警察へ迎えに来ると千鶴は思っていた。だが、千鶴が警察を出る時になっても誰も来なかった。
 恐らく祖父は午前中に警察に来たあと、正清伯父の墓参りをしたり、組合長の所へ行ったりしていたと思われる。祖母の付き添い以外は病室を出なければならないので、今晩の宿を確かめる必要があるからだ。
 祖父が病院に戻っていないのだとすれば、代わりに母が来るはずである。畑山が殺されたことを知れば、さらなる危険が迫っていると考えるからだ。
 しかし、母も迎えに来ていない。もしかしたら院長は自分が警察で事情聴取を受けたことを、伝えてくれていないのだろうかと千鶴は訝った。
 だが、いずれにしても今は自分は一人で外にいて、自由に動ける状況にある。こんな形ではあるが、これは自分が望んでいたことだった。井上教諭の所へ行くなら今しかない。
 千鶴は庚申庵の こうしんあん 方へ向かって歩き始めた。
 ただ、あの白いもやをどうすればいいのかはわからない。このままでは井上教諭に会えたとしても、あの時と同じ結果になるだけだ。
 月が昇る時刻が刻一刻と迫っている。しかし、千鶴の前にはあの靄が立ちはだかっていた。あたかも千鶴が記憶を探りに来るのがわかっていたかのように、靄は一番肝心な部分を隠しているのだ。
 千鶴は、はっとして立ち止まった。
 ――隠す? 靄が記憶を隠しとる?
 隠すということは、誰かが意図的にしているということだ。しかし、記憶を隠すなど誰にでもできることではない。それができるのは――。
しんさんや」
 千鶴は悟った。あの白い靄で記憶のあの部分を消したのは、進之丞に違いない。そうだとすれば、それは自分には絶対に見せたくないものが、あそこにあるに違いない。
 それは余程よほどのものなのだろう。千鶴は靄の向こうを探ることが怖くなった。とは言っても、そもそも靄の向こうは探れない。それでも靄を作ったのが進之丞だとわかれば、井上教諭が何とかしてくれるような気がした。
 わずかながら希望が見えた。千鶴の足は次第に速まった。

      五

 庚申庵に こうしんあん 着くと、千鶴はおとないを入れながら門を開けた。
 西の空に浮かぶ太陽はかなり低くなり、辺りには夕闇が迫りつつある。もう時間がないが、教諭の返事がないので千鶴は心配になった。まだ学校の仕事が終わらないのだろうか。
 庭にまわってみると雨戸が開いている。障子しょうじは閉められているが、中に誰かがいるようだ。井上教諭に違いない。
 安堵あんどした千鶴は遠慮がちに、井上先生――と声をかけた。だが返事がない。障子に近づいて行くと、中から教諭がむせび泣く声が聞こえて来た。
 教諭が一人なのか、客が来ているのかわからないが、千鶴はもう一度外から教諭を呼んだ。
 すると泣き声がやみ、人が動く気配がした。しかし、すぐには障子は開かず、中でふすまが閉まる音がした。それから少しして、ようやく教諭が顔を出した。
「山﨑さんじゃないか。どうしたのかな、こんな時刻に?」
 教諭は少しうろたえているようだった。それはそうだろう。元生徒とは言え、若い娘が独り身の男の家を訪ねる時刻ではない。
 それに今の泣いている声を聞かれたと、教諭は恥じ入っているのに違いなかった。山﨑機織がやまさききしょく 潰れたことは教諭も知っているだろうに、それについての慰めもないのが動揺しているあかしだ。
 だが、千鶴にも教諭を気遣きづかっている余裕などない。千鶴はすぐに用件を伝えた。
「先生、お願いです。また、うちに催眠術をかけてつかぁさい」
「え? またかい?」
 教諭は明らかな困惑を見せた。
「こんな時刻だと、親御さんたちが心配するんじゃないのかい? 何たって僕は独り身の男だからね。と言うか、君の家は大変なことになってしまったんだったね。言うのが遅くなってしまったけど、声もかけてあげられず、ずっと申し訳なく思ってたんだ」
 ようやく慰めの言葉を口にした教諭に、だからこそ先生の助けが必要なんですと千鶴は訴えた。
「それが催眠術なのかい?」
「ほうなんです。お願いします。うち、もう暇がないんぞなもし」
 千鶴の様子に、井上教諭は教師の顔になった。
「何だか深刻なようだね。だけど、あの白いもやが出て来たらお手上げだよ。僕にはどうすることもできないのは、君だってわかってるだろ?」
「あの靄をこさえたんはしんさんぞなもし」
「え? 進さんて――」
「お願いします。今すぐ、うちに催眠術をかけてつかぁさい」
 必死に訴え続ける千鶴を教諭はじっと見つめた。そのあと教諭は部屋の右手の方をちらりと見て、それから千鶴に言った。
「わかった。まずは話を聞くから、部屋に上がっておいで」
 井上教諭は障子を大きく開くと、千鶴を部屋へいざなった。

 部屋へ上がると、千鶴はおこうの匂いに気がついた。さっきまで誰かがいたのだろうか。
 以前に来た時には、隣の三畳間と さんじょうま の間の襖が開けられていて広々した感じがあった。だが、今は襖が閉まって三畳間は見えない。
 千鶴と井上教諭がいるのは四畳半の よじょうはん 部屋だが、襖が閉められているせいか少し窮屈に感じられる。
 千鶴が部屋の中を見回していると、何を見ているんだいと井上教諭は微笑みながら言った。しかし、その笑みは少し強張こわばっているように見える。
「先生、ひょっとして誰ぞおいでてたんですか?」
「え? どうしてそう思うんだい?」
「お香の匂いがするけん」
 お香?――と言って、教諭は鼻をひくひくさせた。
「そう言えば、ちょっと匂うかな。さっき、お客が来たんだけど、その人の匂いが残っているのかもしれないね」
 ほうですかと言いながら、千鶴は井上教諭がむせび泣いていたことを思い出した。
「先生、うち、自分のことぎり言うてしもて、すんません」
「何、いいんだよ。こないだは僕も残念に思ってたんだ。本当のところを言うと、また来てくれてうれしいよ」
 にこやかに話す教諭に、千鶴は遠慮がちにたずねた。
「先生、何ぞお嫌なことがおありんさったんですか?」
「何で、そう思うんだい?」
「こがぁなこと言うたら失礼なけんど、さっき先生が泣いておいでる声が聞こえたんぞなもし」
「あ、そうなのか。やっぱり聞かれてしまったのか」
 教諭は深く恥じ入ると、実は――と涙の理由わけを話してくれた。
 それは前に千鶴に話した、道後どうごの花街にいる妹に似た娘のことだった。その娘がごろつきたちに乱暴されて死んだという話を、その娘に会わせてくれた人から聞かされたのだと教諭は言った。
「前には言わなかったけど、僕の妹もね、僕の目の前でごろつきどもに玩具おもちゃにされてね。そのあと首をって死んだんだ。僕は妹を助けたかったけど、このとおり非力だから何もできなかった。そんな自分が情けなくて、僕はずっと死ぬことばかり考えてたんだ」
 さっきも花街の娘の死に妹の死を重ねてしまい、つい泣いてしまったと教諭は言った。
 かける言葉が見つからず千鶴は黙っていたが、教諭はそのまま話を続けた。
「世の中ってうまく行かないもんだね。戦争もそうだけどさ。死ななくてもいい者が死んで、何でこんなやつがって思う者がのうのうと生きてるんだ。僕は信心深くはないけれど、何で自分にもっと力を与えてくれなかったのかって、時々神を呪うことがあるんだよ」
 しんみりしたあと、井上教諭は我に返ったように、ごめんごめんと言った。
「こんな話を聞きに来たんじゃなかったよね。暗い話を聞かせてしまって申し訳ない」
「いいえ、そがぁなことありませんけん」
「ところで、さっきも少し言ったけど、君の家は気の毒なことになってしまったんだね。今日、新聞で知ったんだけど、君の所にいた佐伯さえきくんって言うのかな。実家の家族を殺してしまったってあったけど、あれは本当なのかい?」
 千鶴は小さく首を横に振ると、涙ぐんで言った。
「あの人はそがぁなことはしません。風寄かぜよせへはうちをお嫁に迎えるために、先に家族に会いに戻ったんです」
「え? そうなのかい? だけど、どうして――」
「あの人の家族を殺したんは別の人間……、いえ、人間やのうて化けもんぞな。あの人はその化け物に家族殺しの罪を着せられてしもたんです」
 ちょっと待ってくれよと井上教諭は戸惑いを見せた。
「化け物って……、まぁ、鬼が本当にいるってことはわかったから否定はしないけど、でも化け物って言われてもなぁ。何か化け物がやったっていう証拠でもあるのかい?」
「証拠は……、ありません」
「だったら、化け物だって決めつけられないだろう?」
「ほんでも、うちが前世で生きとった頃から、ずっと生き続けとるんやとしたら、化けもん以外に有り得ません」
 井上教諭は困惑していた。ただでも千鶴の話について来るのは大変なところに、新たに化け物の話が出て来たのである。困惑するのは当然だった。
 教諭が返答に困っている様子を見て、千鶴は下を向いた。
「すんません。こがぁなこと言われても困りますよね」
「いや、いいんだ。気にしないでくれ。君には驚かされっ放しだからさ。でも、君がうそをついていないことはわかってるよ。ただ驚いたって言うか、理解できないことが続くから頭が混乱してるんだ」
「前世でうちとしんさんが死に別れたんも、進さんががんごになってしもたんも、元はと言えば、全部その化けもんのせいなんです。その化け物が今世でうちと進さんが夫婦めおとになるんを知って、またおんなしことをしよるんです」
「何だって? 進さんっていうのは前世の話だけじゃなくて、今もここにいるって言うのかい?」
 驚く教諭に、千鶴は覚悟を決めて言った。
「先生には何もかもお話します。家族殺しの罪を着せられたあの人こそが、うちが言うてる進さんぞなもし」

      六

「彼がしんさんって……、君と再会した朝に、僕に挨拶をしてくれた……彼が進さん?」
「ほうです」
「え? じゃあ、彼は君が前世の君だってことを……」
「わかっとります」
「そ、それじゃあもしかして、彼はその……」
がんごぞなもし」
 ええっ?――と井上教諭は驚きの声を上げた。それから慌てたように三畳間の さんじょうま 方をちらりと見ると、潜めた声で言った。
「信じられないよ。彼が鬼だって? 彼はどう見たって人間じゃないか。それも感じがよくて、そこら辺の胡散臭うさんくさい連中の方が、よっぽど鬼みたいだよ」
「普段は人の姿でおりますけんど、怒りを抑えきれんなったらがんご変化へんげしてしまうんぞなもし。ほじゃけん、風寄かぜよせの家族を殺されたんを知って、鬼に変化してしもたんやと思います」
「それで行方をくらましたってことなのか……」
「何べんもがんご変化へんげしよったら人間の姿に戻れんなるて、進さんは言うとりました。ほじゃけん、たぶん今は元に戻れんで鬼の姿のまんま……」
 千鶴が項垂うなだれて涙をこぼすと、そういうことだったのかと井上教諭は言った。
「君が進さんを助けたいって言う理由が、ようやくわかったよ。だけど、彼が鬼だとしたら、風寄かぜよせの家族も鬼ってことなのかい?」
「いえ、あの人たちは普通の人間ぞなもし。進さんは――」
 佐伯忠之と さえきただゆき いう人物の心をって、この世に蘇っ よみがえ たとはとても言えなかった。それで千鶴は進之丞は法生寺に ほうしょうじ 置き去りにされた捨て子だったと説明した。
「なるほど。それじゃあ、化け物っていうのは……」
「進さんががんごなんがわかっとるんです。ほじゃけん、わざに進さんを怒らせて、みんなの前で鬼に変化へんげさせよとしたんです」
「君はその化け物のことがわかってるんだね?」
 千鶴はうなずくと、その化け物は二百三高地のにひゃくさんこうち まげった三十過ぎの女の姿をしていて、横嶋よこしまつや子と名乗っていると言った。
「横嶋つや子? 君たちをひどい目にわせたあの女が化け物?」
「恐らくほうやと思います。あの女は人の不幸が楽しいみたいで、あちこちでいろんな人を不幸な目に遭わせたらしいぞなもし」
「じゃあ、先に君が大林寺だいりんじでごろつきたちに襲われた事件も、彼を鬼に変化へんげさせるために、その化け物が引き起こしたってことなのかい?」
「ほうです。うちらを絶望のどん底に突き落とすんが、あの女の目的ぞなもし」
 そういうことだったのかと、井上教諭は納得したようにうなずいた。
「前にも言ったと思うけど、東京でとうきょう 僕と妹が世話になった人がいてね。その人も横嶋つや子っていうんだ。とってもいい人でさ。君が言う化け物のつや子とは大違いだよ。同じ名前なのに、どうしてこうも違うんだろうね」
「確か、先生がお世話になったそのお人は……」
「一昨年の東京の震災の時に亡くなったんだ。だけど、震災で亡くなったんじゃないんだよ。せっかく助かったのに、暴漢に命を奪われてしまったんだ」
 少ししんみりしたあと、そうそう進之丞くんのことだったね――と教諭は言った。それから教諭は、進之丞くんが白いもやを作ったとは、どういうことだいと千鶴にたずねた。
 千鶴は進之丞が人の記憶を操る力を持っていると説明し、自分も風寄でイノシシに襲われた時の記憶を消されたことがあったと話した。
「進さんがうちの記憶を消しんさったんは、うちが悲しまんようにという配慮からです。ほじゃけん、あの白い靄の向こうには、うちが見たら悲しなるようなもんが隠されとるんです。ほれは多分、進さんががんごになってしまうとこやないかと思とるんぞなもし」
 千鶴の考えに井上教諭はうなずいた。
「確かにそれは見たら悲しくなるだろうね。つまり、あの白い靄は前世の進之丞くんが、自分が鬼になってしまった経緯けいいを、君の記憶から消すためにやったってことなのか」
「ほんでも人間やった進さんが、どがぁして鬼になったんかがわかったら、進さんを鬼から人間に戻すための手掛かりも、わかるんやないかと思うんぞなもし」
「なるほど。やってみないとわからないけど、それは確かめてみる価値はありそうだね。だけど、進之丞くんがわざわざ消した記憶だよ? 君が思っている以上につらいものがあるんじゃないかと思うんだけど、それでも確かめる覚悟が本当にあるのかい?」
 千鶴はこくりとうなずいた。進之丞を救うためなら、自分がどんなにつらい目に遭ったって構わないと思っていた。
 ところが、やる気になってくれたと思った井上教諭が、腕組みをして黙り込んでいる。千鶴は心配になって声をかけた。
「先生、あの靄を進さんがこさえたてわかっても、どがぁもなりませんか?」
「今考えてるところなんだ。あの靄は進之丞くんが作ったものだから、恐らく進之丞くんじゃないと消すことはできないだろう。それを素人の催眠術師の僕が消そうっていうんだからね。だけど、そうだな。どうすれば……」
 井上教諭はまた黙り込んだ。
 教諭はやろうとしてくれている。それでも、やはり無理かもしれない。時間がどんどん過ぎて行く。肩を落とした千鶴は悔しさにつぶやいた。
「先生が進さんじゃったら靄を晴らせるのに……」
「僕が進之丞くんだったら?」
 教諭は顔を上げると、それだと言った。
「そうだよ。山﨑さん、君の言うとおりだ」
 え?――と千鶴も顔を上げた。
「方法がわかったよ。と言っても、本当にうまく行くかどうか、やってみないとわからないけどね。でも、もしかしたらこれで靄を晴らせるかもしれないよ」
「ほんまですか?」
 うなずいた教諭は、だけど――と言いながら、ふすまが閉められた三畳間の方をちらりと見た。
「今じゃないとだめかい? 明日ってわけにはいかないのかな?」
「今すぐやないといけんのです。ほやないと間に合わんぞなもし」
「間に合わないって?」
「今晩、進さんがここへんて来るんです。うちにお別れしに戻んて来るんです。ほじゃけん、ほれまでに何とか進さんを人間に戻してあげる方法を見つけんといけんのです」
「どうして進之丞くんが今晩戻って来るってわかるんだい?」
「おはらいのおばあさんが教えてくれました」
「お祓いのおばあさん?」
 お祓いのばばと畑山の死が頭に浮かび、涙があふれた千鶴は説明することができなかった。千鶴は涙をきながら教諭に言った。
「お願いします。先生にご無理を言うとるんはわかっとります。ほやけど、うちは先生しかお願いできる人がおりません。ほやけん、どうかすぐにうちに催眠術をかけてつかぁさい。ほれで、あの白い靄の向こうにあるもんを、うちに見せてつかぁさい」
 井上教諭は横目で三畳間の方を見ながら咳払いを二回繰り返した。それから、わかったと覚悟を決めたようにうなずいた。
「それじゃあ、どうなるかわからないけど、とにかくやってみるとしよう」
 教諭は立ち上がると、部屋の隅にあった小机を真ん中へ移した。それから教諭が障子しょうじを閉めに縁側えんがわへ向かうと、千鶴の目は教諭を追うように庭の方へ向いた。
 日がもうすぐ沈むのだろう。庭に残る明るさは、かなり弱々しくなっている。急がないと月が昇ってしまう。
 あせる千鶴の想いを断つように、教諭は障子を閉めた。庭の様子は見えなくなり、部屋の中は薄暗くなった。
 井上教諭は小机の上に置いたろうそくに火を灯そうとした。しかし、マッチに火をつけようとした手が小さく震えてうまくつけられない。これから行おうとしていることに興奮しているのか、あるいは緊張しているのに違いない。 
 見かねた千鶴がマッチを受け取り、ろうそくに火を灯した。すると、ろうそくの明かりがぼわんと広がった。そこへ、まだ部屋に残るお香の匂いが加わって、部屋にはあやしい雰囲気が漂った。
「だけど、どうやったら人間が鬼になるんだろうね。僕も興味が湧いて来たよ。でも面白半分の興味じゃないからね。それに、君にとっては決して楽しいことでないのもわかってるよ」
 井上教諭は学者として、この催眠術をり行おうとしているようだった。言ってみれば、教諭はこの催眠術を一種の実験のようなものととらえているのだろう。しかし、千鶴にそんなことを気にしている余裕はない。一刻も早くあの靄に隠された記憶を探るだけだ。
 井上教諭は、もう一度だけくよと言い、靄の向こうを見ても絶対に後悔しないという覚悟があるかと千鶴に訊ねた。
 千鶴がうなずくと、では始めようと教諭は言った。

 井上教諭の指示に従い、千鶴はぼんやりとした意識になった。あらゆることへの関心が薄れ、ただ教諭の声に従うだけである。他に何かが聞こえても、それが何だろうとは思わない。耳に入った音はただ千鶴の頭の中を通り抜けて行くだけだ。
 千鶴が催眠状態になった時、隣の三畳間の襖がすっと開いた。誰かが三畳間にいたらしい。静かに畳の上を歩いて、井上教諭の近くに座ったようだ。辺りにお香の匂いが広がった。
 音や気配、匂いを感じていても、千鶴はそれを何とも思わない。何かが聞こえても、聞こえていないのと同じ状態だ。
「聞いてたわよ。鬼がいるんですって?」
 女の声が聞こえた。
「ちょっと困りますよ。そっちにいて下さい。と言うか、もうお引き取り下さい。これはこの子の問題であって、あなたには関係のないことですから」
「いいじゃないのよ。何を言ったって、今のこの子は何も聞こえてないんでしょ?」
「それはそうですけど、僕の気が散ります。それに、これは僕とこの子だけの秘密なんです。本当だったらさっきの話もあなたに聞かせるべきではなかったし、催眠術も別の日にするところです。時間がないから始めることにしましたが、あなたはもう帰って下さい」
「あらまぁ、さっきは慰めてもらってたくせに、そんなことを言うわけ? あなたって案外ひどい人なのね」
「それとこれとは話が別です。あなたにはお世話になったし感謝もしています。だけど、僕はこの子を助けなきゃいけないんです。ですから、どうか邪魔をしないで下さい」
 やれやれ、わかりましたよ――と言いながら、女は元の三畳間に戻った。そこから玄関へ向かうのかと思いきや、女はそのままそこへ腰を下ろしたようだ。しかも襖を開けたまま、千鶴たちのことを眺めていたらしい。
 教諭は立ち上がると女のそばへ行き、ぴしゃりと襖を閉めた。
 一連の声や音を千鶴は何とも思っていない。千鶴はただぼんやりした意識の中で、教諭の指示を待っていた。
 ――山﨑さん。それじゃあ、いいかい。僕が三つ手をたたいたら、君はあの白い靄の所まで飛ぶからね。
 井上教諭の声が聞こえた。時空の隧道ずいどうを感じながら千鶴は小さくうなずいた。それからゆっくり手を叩く音が聞こえた。
 音が三回鳴ると、千鶴の意識はぐるぐると渦になって時空の隧道に吸い込まれた。やがて渦が止まると、千鶴は白い靄の中にいた。